鷺沢文香「偽アッシェンプッテルの日記帳」 (22)
アイドルマスターシンデレラガールズ 鷺沢文香 のSSです
失恋展開がありますのでご注意ください
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20〇×年10月27日
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今日は会う人みんながお祝いの言葉を送ってくれます。
今こうして日記を書いている最中にも、次々と同僚の方がおめでとうと言いに来てくれて、なかなか筆が進められません。
こういうのを嬉しい悲鳴というのですね。
この後、誕生日会も開いてもらえますし…感謝しかありません。
今日という日を本当に楽しみにしてきました。
何故なら!
鷺沢文香、飲酒解禁です!(わーい☆)
これまで想像するだけだったお酒の味を遂に味わうことができるのです!
アルコールの味とはどんなものなのでしょう?
酔うとはどういう感覚なのでしょう?
私にはどんなお酒が合うのでしょう?
私はお酒に強いのでしょうか?
期待が際限なく膨らみます!
お酒の味を知ることで書の楽しみもきっと増すでしょうし!
お酒を知ってから読み返したい本がいくつもあるのですよね。
しかも人生の先輩方に飲酒のイロハを手ほどきして頂けるというのですから、夢のような気分です。
二十歳の誕生日をこのような形で迎えられるなんて、一年前には想像さえしませんでした。
Pさんと出会ってからというもの、本当に素敵な毎日です。
初めてのPさんのお宅も…楽しみです(キャー♡)
明日も良き日でありますように。
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20〇×年11月24日
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前回から随分と間が空いてしまいました。
頁を戻ってみると、最後に書いたのはやはりひと月前の10月27日。
あの日から今日まで、殆ど半狂乱の状態で過ごしてきました。
ここ最近、何を食べたのか、どこへ行ったのか、誰と会ったのか、どんな講義を聞いたのか、どんなお仕事をしたのか、いつ寝たのか、何もかもが曖昧です。
あの二人に関わること以外は、一握の真砂のように記憶から零れ落ちていってしまうようなのです。
いつまでもこんな状態ではいけません。
頭がおかしくなりそうなほどに、悲しくて苦しくて悔しくて情けなくて恥ずかしくて…。
それでも私は三島にも太宰にもなれないので、どこかで気持ちに区切りを付けなければいけないのです。
その助けになるか、始めてみるまでさして期待はしていなかったのですが、なかなかどうして、この一か月のことを日記帳に書いてみるというのは妙案だったかもしれません。
今の段階ですら、狂奔していた意識が落ち着いてゆきそうな予感があります。
書き終える頃には平静を取り戻せているのでしょうか? そうであることをただ祈るばかりですね。
なにはともあれ、とてもとても長い日記になりそうです。
(最早日記と呼ぶべきではない?)
10月27日。全てが変わってしまった日。
前頁の日記は就寝前ではなく、夕方の事務所で書きました。
きっと就寝前に文字を書く余裕はないだろうと予想して、事前に書いておいたのです。
その時の私は、これから途轍もない悲劇が起こるなどとは露程も考えず呑気に、初めて飲酒する期待などを綴って…。
読み返すだけでも自己嫌悪に陥ります。
そんなどうでもよいことを考えているから、私は駄目なのです。
Pさんのお宅へ行けるという好機を前にして、一体何を考えていたのでしょう。
Pさんのお宅で開いてもらった私の20歳の誕生日会…。
過去にも何人かPさんのお宅で誕生日をお祝いしてもらっていたのですが、私はその方たちを内心羨ましく思っていたのをよく覚えています。
そういった誕生日会ではお酒を存分に飲むということで、まだ19歳だった私は誘われることすらなかったですからね。
頁を何か月分か戻ってみるとやはり、誕生日会の参加者の皆さんがPさんのお宅へ向かう後ろ姿を、切ない気持ちで眺めていたのを記していました。
そして10月20日の日記で、私の誕生日会がPさん宅で開かれることになったことを、密かに小躍りして喜んだと書いているのですから…目も当てられません。
私の誕生日会のメンバーは私、Pさん、早苗さん、川島さん、友紀さん、楓さん、そして、美波さん。
ローテーブルを囲んだ皆さんによる、有難くも温かいお祝いの歌の合唱で誕生日会が幕を開けました。
ですが、穏やかに過ぎたのは最初の十分ほどだけ。
それからは真の目的である、先輩方による飲酒講座…という名の飲み会の幕が上がりました。
開幕の宣言と同時に私の眼前に並んだのは、お酒好きな4人の年上の先輩方がめいめいにお酒を注いでくださったグラスが4つ。
お酒の種類もグラスの造形も正に四者四様。
お酒とグラスはそれぞれの方からの誕生日プレゼントという体でした。
聞けば、どの銘柄も上戸にとっては垂涎モノの逸品なのだとか。
そして流石はお酒に関して一家言お持ちの方々。その御酒が注がれるグラスもまた特別にして素敵。
舌だけでなく、目でも愉しませていただけるとは…と、その粋な計らいには感謝はもとより、尊敬の念を禁じ得ませんでした。
先鋒は満場一致で友紀さんのビールと決まりました。
友紀さんの故郷である宮崎から取り寄せたという地ビールは、有田焼のグラスの中でシュワシュワと小気味良い音を立てていて…。
未知の体験への、一の不安と九十九の期待。
しかし…。これは本当に残念極まりないことだったのですが、最初の二、三口で期待は落胆へと変わっていました。
ビールはただひたすら苦かったのです。
それに『のど越し』というのも私には一体何のことか分からず…。
キラキラとした瞳で感想を待つ友紀さんに正直な感想を言えるはずもなく、曖昧にうなずくことしかできませんでした。
他のお酒も似たようなものでした。
ワインは渋く、日本酒と焼酎は喉が焼けるよう。
飲酒の経験を積んでゆけば、感じ方もまた変わるのかもしれませんが、当時の私にはどれも毒薬としか思えなかったのです。
愉しそうに語られるお酒についての口上は右耳から左耳へ抜けてゆき。
私は皆さんの善意に対して失礼のないよう、四つのグラスに代わる代わるちびちびと口を付けるのが精一杯。
こんなものをどうすれば笑顔で嚥下できるのか。
グラスの中身は減っては増えるを繰り返し、いつになっても終わりが見えません。
寧ろ更に4つ追加されたところで完全に途方に暮れてしまい、Pさんに助けを求める視線を送ることになりました。
おそらくPさんは、私の様子がおかしいことに気付いていてくれたのでしょう。言葉は必要ありませんでした。
やおら私の前の8つのグラスに手を伸ばし、先輩方の制止を振り切って、あっという間にすべて飲み干してくれたのです。
その瞬間にターゲットが私からPさんへと移り、私はようやく安息の時を得ることができました。
(皆さんは結局のところ騒ぐことが出来れば満足なのでしょう)
私の防波堤となるために、お酒で顔を赤くしながらも、4人のお酒の妖精に果敢に立ち向かうPさんはいつも以上に頼もしく、彼の横顔から視線を外すことができず…。
時折私を気遣うようにこちらへと視線を送ってくれたときには、お酒の力もあってか、じぃと見つめ返してしまいました。
書庫に閉じこもっていた時からすれば、大きな進歩だという見方もできますね。(虫けらの一歩にも劣る進みですが。)
そのように、当時の私としては、愉しいひと時を噛みしめているところで声を掛けられました。
美波さんでした。
どうやら美波さんも私がお酒に苦戦していたことに気付いたらしく“これなら飲みやすいかも”と、別のグラスを差し出してきてくれたのです。
丸みのある透明のグラスに注がれたそれは、一見するとコーヒー牛乳のようでした。
ですが甘い香りの中には仄かなアルコール感があり、やはりそれもれっきとしたお酒と分かります。
正直なところ早くもお酒に辟易していたのですが、礼儀として一口も飲まないわけにはいかず、書を投げ捨てる心持で口を付けたところ…。
意外や意外、それは見た目と香りの通り甘く、とても飲みやすかったのです。
甘いだけでなくアルコールらしさもある大人の味、喉を通った後に残る心地の良い火照り…これこそが私がイメージしていたお酒でした。
これまでの鬱憤もあってか、グラスを呷る手が止められません。
グラスが空になると美波さんもすぐに次を注いでくれます。
そのようにして矢継ぎ早に3杯飲んだところまでは覚えています。
気付けば、私は床に敷かれたラグマットにへたり込んでいました。
上体を上げようとしても体が言うことを聞かず、どうにか視線だけを上に向けると心配そうな皆さんの顔…がグルグル回っています。
自分の許容量を知らないくせに、お酒の美味しさに溺れてしまった愚か者の末路でした。
回っているのは視界だけで、頭はちっとも回りません。
美波さんが私の肩を支え、ソファに寝かせようとしてくれているのが分かりました。
そのときの私は兎にも角にも瞼が重く、どこでもよいから寝たい気持ちで一杯だったのですが、柔らかい場所で寝られるなら拒む理由はありません。
美波さんを支えにして立ち上がってソファまで歩かせてもらい、しかし、いざ倒れ込もうとするところで、早苗さんから“待った”の声がかかりました。
私が酔っているのか、それとも早苗さんが酔っているのか。
早苗さんのおっしゃることはどうにも支離滅裂に聞こえて論理が理解できないものの、結論だけははっきりと伝わりました。
私が寝る場所はソファではなく、早苗さんの指差す方向…壁際に配置されたPさんのベッドだというのです。
心臓を掴まれたように、胸がきゅうと痛みました。
思えばそのときから私の酔いは急激に冷め始めたのですが、反駁できるまでにはもうしばらくの休息が必要でした。
私の代わりに美波さんが、Pさんのベッドで眠ることの微妙さを説いていました。
しかし、いくら美波さんでも酔っ払い4人を相手取るには難しく…それなのに、頼みの綱のPさんは私の身代わりにかなり酔わされていて、俯きながら“文香が嫌でないなら”と言うのがやっとの状態。
そうして結局、私は普段Pさんが眠っているベッドに寝かされることになりました。
人一人が寝るにしては随分と広いベッドだったので、セミダブルの大きさだったのだと思います。
言われるままにベッドに入り込んだ私でしたが、決して不承不承ではなかったことは認めなくてはいけません。
降って湧いた異常な状況に、困惑だけでなく不思議な高翌揚感を覚えていたのですから。
毛布に包まれると、毛布とマットレスに滲み込んだPさんの体臭のせいで、まるで前後からPさんに抱きしめられているかのような心地でした。
薄く残った洗剤の香りの他に、汗と皮脂と、そして、男臭さとしか説明不可能な匂いが混在していて…。
変態的だとは自覚しながら、気持ちの高ぶりを抑えることが出来なかったのです。
総体としてはやはり臭くて…でもそれがPさんの体の匂いが滲み付いた結果であるという一点だけで、その臭さこそが身震いするほどに芳しく感じられました。
彼の匂いをこれでもかと体内に取り入れて、冷静でいられるわけがありません。
寒がりを装って毛布を鼻を覆うまで引き寄せ、深呼吸を繰り返しました。
毛布で見えないのをいいことに、マットレスをまるでPさんの胸板であるかのように両手でまさぐりました。
スカートの裾を膝までたくし上げて、脛で感じる毛布の肌触りに、Pさんの手を重ね合わせました。
挙句、寝返りを打つフリをして枕に唇を付けてしまいました。
自分の浅ましさ、いやらしさにはほとほと呆れてしまいますね。
それが私の本性だというのに、そのときはお酒の所為にしていたのだからもう手の施しようがありません。
鼻がPさんの匂いに慣れてくる頃には、体の感覚にはまだ靄がかかっていたものの、頭の動きは素面同然に回復していました。
そこで歓声が響いたのです。
毛布から目だけを覗かせてみると、部屋の中央ではローテーブルを囲んで相変わらず大盛り上がり。
立ち上がった状態で大きなジョッキグラスを呷るPさんを、皆さんが囃し立てています。
黄金色に輝くお酒がものすごい勢いで減ってゆき、そして一滴残らずPさんの喉へと消えてしまいました。
Pさんがグラスを空にした証としてこれ見よがしにひっくり返すと、また一際大きな歓声。
しかしながら、Pさんの栄光はすぐに終わりを迎えました。
グラスをテーブルに置くと、崩れるようにその場で突っ伏してしまったのです。
それを見てまた大笑いをする4人の先輩方…。
笑い声に紛れて“もう無理です、これで勘弁してください”と、愛しい人の降伏宣言がか細く聞こえました。
にもかかわらず、無慈悲な魔手が追い打ちをかけようとしていて…。(無邪気な魔酒?)
そこに割って入ったのはやはり美波さん。
先輩方にも物怖じせず、しっかりと諫めると同時に、Pさんへ水の入ったコップを差し出しました。
しばらくはPさんをめぐる美波さんと先輩方の攻防がありましたが、次第に彼らの争点はPさんをどこに寝かせるかという問題に移ったようでした。
先程の私の時と同様、いやそれ以上に、美波さんと他四人が論を戦わせていました。
詳しい内容は聞き取れなかったのですが、ソファとベッドが候補になっていることだけは分かりました。
ベッドには既に私が寝ているというのにです…。
当時の私は、ソファとベッドのどちらになることを望んでいたのでしょう…? 今ではもう忘れてしまいました。
数分で議論は決着したようでした。
一体どちらになったのか?
毛布から覗くと、両脇を美波さんと友紀さんに抱えられたPさんが、こちらへ近づいてくるのが見えました。
今回の心臓の痛みは、潰れるたかと疑う程に鋭いものでした。
心臓の激しい鼓動音がマットレスの中で反響して、枕を隔てているのに矢鱈と大きく聞こえていたのをよく覚えています。
それでも尚私はまだ酔っているフリをして、動向を静観するという極めて卑怯な選択をしたのです。
戦々恐々としながらも“ひゅーひゅー”や“青春だ”という賑やかしの声、所謂『ノリ』が場の空気を支配してゆくのを冷静に感じとっていました。
規範となるべき大人はどこにもいませんでした。
心臓の鼓動が最高潮に達したのを感じたところで、早苗さんに顔を覗き込まれているのに気付きました。
一かけらの良心なのか何なのか、この期に及んで“文香ちゃんが嫌ならやめるわよ?”と尋ねてくるのです。
無茶苦茶なことをしているくせに、最終的に私へ決定権を押し付ける手管の巧妙さには、率直に言って呆れてしまいました。
私に“嫌”などと言えるわけがないのに…。
私がPさんを拒むという形を採れるわけがないのに…。
そんなこと絶対にできない、したくないのです。
Pさんが傍にいて嫌なわけがなく、寧ろ嬉しいのですから…。
また、同衾とはいえども、このような状況ではそれ以上の『間違い』が起こる訳がないと、私だけでなく先輩方も思っていたという側面もあったのでしょう。
畢竟するに、そこまで見越しての誕生日プレゼントのつもりだったのかもしれません。
私はただひと言“嫌ではないです”と。
いやらしい気持ちを包み隠しながら、あくまで他責にしたいという魂胆が透けて見える答えでした。
今思い返してもやはり、反吐が出る答えです。
今思えばここが私の意思でどうにかできる分水嶺だったのに、見事に判断を誤ったわけですね。
私はベッドの縁ギリギリまで体をずらして毛布を捲り、Pさんのためのスペースを空けました。
そして本当に、ぐったりとしたPさんが私の隣に横たえられたのです。
仰向けに寝かされたPさんの呼吸は荒く、それでいて大層寒そうにしてらしたので、私は咄嗟に毛布を掛けました。
するとまた黄色い歓声が上がって、シャッター音が何度か響きました。
言い訳無用の同衾状態をカメラに収められる羞恥、私のために犠牲になってくれたPさんへの申し訳なさと感謝、そして、いつもよりも数段近くにあるPさんの体温と体臭…。
私の処理能力を大幅に超えた状況に、私は縛られたように側臥位のまま硬直し、ただひたすら彼の苦しそうな横顔を見つめていることしか出来ませんでした。
しばらくすればシャッター音は鳴り止み、皆さんはテーブルへと戻っていきました。
そして何事もなかったかのように再開される酒盛り。
酔っ払いの貴婦人たちはどこまでも移り気のようです。
外野からの視線がなくなることで、多少の落ち着きを取り戻すことが出来ました。
彼の呼吸も少しづつ穏やかになってゆきます。
“ありがとうございます、ごめんなさい” という虫の羽音のような言葉は、それでも尚、Pさんの耳朶に届いたようでした。
“すまない、文香。せっかくの誕生日がこんなことになってしまって”
Pさんが庇ってくれなければ、おそらくはもっと酷いことになっていたのに。
この人はいつだって、自分を蔑ろにしてでも私のことを気にかけてくれていたのです。
そのことがいつになく腹立たしくて、悲しくて、そして狂おしいほどに愛おしく思えました。
言いたい、言ってしまいたい、すべてを、私の心の中のすべてを…。
そんな大それた考えは、しかし、いつものように胸の奥底へと押し込みました。
Pさんはお酒を飲み慣れているだけあって、自身の状態を正確に把握していたようです。
“限界の一歩手前で離脱できたから、戻してしまう心配はいらない”と冗談めかして言ってくれました。
思わずクスリと笑うと緊張もだいぶ解けてきて、同時にその状況をとても楽しく感じている自分に気が付きました。
ベッドの外ではいまだ騒がしいのに、こちらでは二人毛布に包まれながらコソコソと内緒話しているのです。
まるで、書庫の奥で見つけた秘密の書物の頁を、二人で一緒に捲っているような心地でした。
Pさんが初めてお酒を飲んだときのことを聞きました。
Pさんはリキュールがベースのカクテルが好きだと教えてくれました。
お酒で大失敗した経験談は、突拍子もない展開が盛りだくさんで驚きと笑いの声を抑えるのに苦労しました。
無理せずお酒と付き合っていけばいいと言ってくれました。
今美味しく感じなくても、いつか美味しいと思える日が来るらしいです。
そして“改めて誕生日おめでとう。文香の20歳の誕生日に立ち合えて俺は幸せだ”と。
胸の奥がチリチリとこそばゆくて、息苦しいのに、心地よくて…。
深呼吸を繰り返しても収まる気配はなく、それはきっと『ときめき』というものでした。
これまでに彼から何度もらっていて…それでも決して飽くことのない素敵なキモチ。ときめき。
しばらく何も言えないでいると“文香、じっと顔を見られていると、恥ずかしい”と言われてしまいました。
ひょっとしたら頭がぼーっとしていた所為で、不躾な視線を送っていたのかもしれません。
私は慌てて横向き寝の状態から、Pさんと同じように仰向きになりました。
そのときです。
毛布の中で身を捩ったそのときに、Pさんと私の左手の指先が触れ合ったのです。
ほんの少し、小指の先端同士の一瞬の接触。
すみませんと言って、急いで手を自分の体に沿わせ、Pさんの指から離れました。
ついさっきまでPさんの横顔を穴が開くほど見つめていたというのに、今ではもうPさんの顔を見る自信がなくて、天井に視線を走らせます。
指先の感覚はまだすぐ近くにPさんの手があることを教えてくれていました。
異様に研ぎ澄まされた指先の感覚が、Pさんの指先から発されるじんわりとした輻射熱を感じ取っていたのです。
そしてその熱は、毛布の中で存在感をゆっくりと増してゆき…遂には再び触れ合いました。
今度こそは偶然触れ合ったのではありません。
Pさんが私に触れんと手を寄せたのです。
小指をくすぐられたので、くすぐり返すと、自然と小指が絡み合いました。
すると、半身に身震いしてしまう程の甘い疼きが駆け巡って。
動かなかったはずの首は勝手にPさんへ向いてゆき、見つめ合いました。
とても真剣な表情で…彼も私も何も言えず…いえ、何も言う必要がなかったのです。
この小指同士の繋がりだけでお互い言わんとすることが伝わるような…もっと言えば、お互いの全ての気持ちを理解し合えたとさえ感じたのですから。
数分か、数十秒か、それとも僅か数秒のことだったのかもしれません。
それはもう今では判然としませんが、ただただ幸福な時間でした。
間違いなく、これまでの人生の中で最も幸福な時間でした。
(そうでなのです! 私は確かに幸せを感じていました! 幸せというものを私だって知っているのです!)
しかし、幸せに終わりが来るのは世の常、世の習い。
そのときはいつも唐突にやって来るのです。
テーブルの方で響いたガラスの音が終わりの合図でした。
何事かとPさんと二人して首を上げて様子を伺います。
どうやら美波さんがテーブルの上でグラスを倒してしまったらしく、皆さんが酒宴そっちのけで処置のために慌てていました。
とはいえ、その慌ただしさはすぐに収まりました。グラスも割れませんでしたし、皆さん手慣れていましたから。
しかし、騒がしさが戻ろうとするところで美波さんが言いました。
“すみません。私も酔ってしまったみたいです。少し眠らせてもらっても良いですか?”
Pさんとの小指の繋がりは、いつからか切れていました。
頬を赤く染めた美波さんがベッドに近づいてきます。
先輩方はテーブルの周りに座ったまま美波さんを囃し立てるばかりで、彼女を止める者は誰もいませんでした。
こうしてPさんを真ん中にして、私とPさんと美波さんの三人が一つのベッド、一枚の毛布の中で共寝する状況が出来上がったのです。
なんとも心の落ち着かない川の字でした。
セミダブルのベッドとはいえ、三人で寝ればもう殆ど余裕はありません。
先ほど指先だけで融けてしまいそうな心地であったのに、今では左腕と左脚の側面全体で彼の体温を直に感じることになってしまいました。
あまりの緊張に全身の毛穴が開いていく感覚がありました。
呼吸が止まっているのかと思う程に息苦しく、それなのに胸には甘酸っぱい痺れが溢れて…。
“美波も仰向けになってくれないか? こんなに近くでこっちを向かれていると、恥ずかしい”
この状況にはPさんも相当困惑していたのでしょう、絞り出すようなそんな声。
私の左側の彼と美波さんの寝姿を想像すると胸底がツキンと痛み、次に聞こえてきた美波さんの言葉に、耐えられず目をギュッと瞑ることになりました。
“ごめんなさい。私、横向きじゃないと眠れないんです”
どうして私は横向きで寝る癖をつけていなかったのかと、そんな見当違いの馬鹿げた考えが浮かんだものです。
今思えば、一応私も競争心だとかいう類のモノを持っていたのかもしれませんね。
(表に出さなければ、持っていないのと同じですが)
否応なく彼の横顔に美波さんの甘い吐息がかかる光景を想像してしまいます。
それが辛くて辛くて。
私は意識を別のところへ遣ろうとして…その結果、眠りに落ちてしまったのです。
そして、次に目を覚ましたとき、世界は変わっていました。
寝入ったときの姿勢そのままに目を覚ましました。
寝入る前のどんちゃん騒ぎが嘘だったように静まり返り、天井の照明器具が仄かな橙を灯すばかりで、目先の毛布の色さえ判然としません。
聴覚が調子を取り戻してきたのか、エアコンの稼働音の他、部屋のそこここから小さな鼾と寝息が聞こえてきました。
おそらくは酒宴が終わった後、先輩方は雑魚寝することにしたのでしょう。
少しずつ覚醒してゆく意識。
そしてすぐ隣にPさんがいることを思い出し…しかし、左半身に何の熱も感じません。
不思議に思い首を左に曲げてみてもやはり、そこにあるはずの愛しい人の横顔はなく…代わりに、不自然に盛り上がっている毛布の輪郭に気付いたのです。
それは例えば一対の男女が上下に積み重なっていれば、丁度それくらいになるような、そんな盛り上がりでした。
私の体も包んでいるその毛布の盛り上がりは、ゆっくり動いていて…。
毛布とマットレスの間の数センチの隙間からは微かな声が漏れ出てきて…。
“こんなことはダメだ、美波。早くどくんだ”
“Pさんは美波のことが嫌いですか?”
このときのことは…やはり今でも、思い出すだけでも手が震えてきます。
心臓から出血しているのかと思う程に胸が痛みます。
私にとっては呪詛そのものである二人の言葉を思い返し、書き綴ることに本当に意味があるのか…?
ただ傷を大きくするだけなのではないかとも感じています。
いえ…今現在がもう既に地獄でしたね。
そうです、これ以上何を恐れることがあるのでしょう!
“嫌いなわけない。そういうことではない”
“じゃあ、好きですか? 美波はPさんのこと好きです”
“美波、待つんだ”
“しー。皆が起きてしまいますよ?”
Pさんがどれだけ諭しても美波さんは柳のように受け流し、一層熱っぽい言葉を口にするのです。
微かな声量にもかかわらず、次第に二人の呼吸が荒くなっていくのが手に取るように分かりました。
そして言葉は段々と途切れ途切れになり…その途切れた瞬間、どうしようもないほどに彼女の艶めいた唇のイメージが脳裡に明滅するのです。
“ダメだ、美波、ダメだ”
Pさんはしきりに“ダメ”と言うものの、その言葉に力が籠っているようには感じられません。
そも、あの美波さんに迫られて拒める男性はいるのでしょうか?
普段とは違う彼女の湿りのある声には、女である私でさえ鼓動を早めてしまった程なのですから。
“ダメだ、文香が起きてしまう”
“文香さんが起きたらやめにしますから”
そこでいきなり出てきた自分の名前には、突然後ろ指をさされた心地でした。
よくよく考えると身じろぎ一つすれば、二人は止まったのかもしれません。
だのに、私の体はグレイプニルに縛り付けられたように微動だに出来きなくて。
“Pさんの、とても苦しそうです。美波がしてもいいですか?”
“これ以上はダメだ…美波…”
“しますね。Pさん。Pさん。Pさん”
“待て、美波。文香が、文香が。文香”
毛布の盛り上がりが一際大きくなり、そして、また元の大きさに戻る。
そのときだけ大きく開いた隙間から、毛布の中の空気が一斉に溢れだしました。
雨上がりの畦道を想起させる、多くのモノが混ざり合った臭い。…男性と女性の臭い。
狭くなった隙間からは美波さんとPさんの、呻き声のような呼吸が漏れ出てきます。
そして二人の盛り上がりは周囲に配慮するかのように、ゆっくりと一定のリズムで上下に動き始めたのです。
一体何の冗談かと思いました。
つい先程まで私と想いを通じ合っていた彼が、私が隣にいることを知りながら、他の女性と繋がっているのですから。
業界によくあるドッキリというものだったならどんなに良かったか。
夢であったら、ただの悪夢であったらどんなに良かったか。
その段になってやっと、私は取り返しのつかないところまで来てしまったことに気付いたのです。
声を上げて皆を叩き起こし、二人の行為を糾弾することも出来たでしょう。
しかし、それが何になるのか。
結局のところ、Pさんが美波さんを受け入れたという厳然たる事実は揺らがないのです。
マットレス内部のスプリングが軋む音が頭蓋の中で反響していました。
響く毎に、まるで脳幹にナイフを突き立てられている気分です。
そのナイフが胸まで達して、乳房を内側から切開され胸骨をむしり取られ、露わになった心臓が微塵切りにされてゆくよう。
心臓がただの肉片に変わると、次は肺でした。
握りつぶされ、くちゃくちゃにされて、もう二度と呼吸ができないのだと錯覚するほどに息苦しかったです。
それからもずっと、全身が消し炭になるまで電流で焼かれているようでしたね。
“美波、美波、美波”と、愛しい人が私以外の女の人と繋がりながら、私以外の名前を荒々しく、そして優しく呼んでいます。
もう彼の頭の中に、私のことなど一片たりとも残されていないことは明白でした。
“Pさん、Pさん、Pさん”
“美波、美波、美波”
美波さんがPさんを求めれば、Pさんも美波さんを求め、やがてその呼び合う声すらしなくなり、代わりに苦しそうに水を啜るような音が聞こえてきて。
毛布の盛り上がりは暗闇の中でもはっきりと分かるくらいに動きを増していきました。
もしかすると、起きないでいる方が不自然なほどに激しい動きだったかもしれません。
何度か美波さんの足先が私の脛を掠めたぐらいでしたから。
だというのに石のように固まり、身動き一つしないままの私がいました。
ココロとカラダがバラバラになってしまいそうな程辛かったというのに、耳も目を塞がず全神経を二人に集中していたのです。
二人の呻き声が重なって聞こえてきて、しばらくすると動きも止まり、後に残ったのは二人の息切れの調べだけ。
それも収まると今度は水を啜り合う音が長く…とても長く…。
そして…
“美波はPさんのことが好きです。愛しています”
“俺も美波が好##。美波、愛####”
私の体内で何かが破け散る音が確かに聞こえ、それからすぐに猛烈な虚脱感が全身を覆いました。
私にはその気怠さに抗う術はなく…。
瞬きするつもりで目を閉じ…。
また目を開くと夜はすっかり明けていました。
上体を起こし辺りを見渡すと、慌ただしく出勤や帰宅の準備をしている皆さん。
ベッドに残っていたのは私だけ。
Pさんと美波さんは、毛布の中のことが嘘だったかのようにいつも通り。他の先輩方ともいつも通り。
ふと、本当に夢だったのかもしれないという考えが浮かびました。
確認するため、毛布から出ようとする際にわざとベッドを這うように動き、二人が重なっていた付近で密かに鼻を鳴らしてみました。
交わりの残り香を確かに感じました。
やはり、ドッキリでも悪夢でもなかったのです。
こうして私の平穏な日常は終焉を迎えました。
寝ても覚めても考えるのはあの夜のこと。
お仕事の時も、レッスンの時もそのことで頭が一杯で、色んな人に迷惑をかけたかもしれません。
読書しているときもそれは変わらず、三日も経たないうちに本を開くことさえしなくなりました。
どうせ一ページたりとも進まないのですからね。仕方ありません。
食事も全くとらぬまま十時間近くも書き続けていたようです。
一度にこれだけの文字を書くと、流石に指が痛くなりますね。
それに頭の疲れももう限界のようです。
今日はここまでにしておきましょう。
今夜はよく眠れそうです
【おわり】
何かしら感じてもらえましたら幸いです
ここで一旦切ります
html化依頼出してきます
この続きは↓です
鷺沢文香「アッシェンプッテルの日記帳」
鷺沢文香「アッシェンプッテルの日記帳」 - SSまとめ速報
(http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssr/1507387608/)
トリップが変わっていますが同じ作者です
R18ですのでご注意ください
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