阿良々木暦「ありすリコリス」 (30)

・化物語×アイドルマスターシンデレラガールズのクロスです
・化物語の設定は続終物語まで
・続終物語より約五年後、という設定です

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001



仕事には、言わずもがなやり甲斐というものが必要不可欠だ。
人生の大半を占める仕事が誇りも矜恃も持てないものであれば、モチベーションの維持はもちろん、毎日が苦痛と化してしまう。

とは言え働くことを美徳とする日本だ。
仕事は仕事、と割り切ることも可能だが、それではあまりにも自動的で人間味に欠ける。
人間は社会の歯車に違いはないが、意志を持たない無機質な道具ではないのだ。
必要不可欠なものではないとは言え、日々を過ごす上で自らの仕事にやり甲斐を持つことは人生を彩るという意味でも非常に重要ではないかと思うのだ。

「次の仕事はこのメンバーで決定した。何か質問はあるか?」

小さめの机を四方から四人で囲みながらのミーティングだ。
メンバーは櫻井、結城、橘、そして僕を含めた四人である。

「別にメンバーに文句はねえけどよ……なんか、頭良くねえオレでも嫌な予感がするぞ……」

上着のポケットに手を突っ込みながら椅子を傾け足を組み、フーセンガムを膨らませるという不遜とも取れる態度を取る彼女は結城晴、十二歳。
男勝りの態度に反して外見には素質が見え隠れし、数年後が非常に楽しみなアイドルである。加え、僕の生涯において初の俺っ子である。

猫も一応、羽川の身体を借りているとは言え俺っ子だが、猫はオスなので本質的な所で異なるのだ。
ここは非常に大事だよ。

「人選にプロデューサーの良からぬ意図を感じますわ……」

紅茶のカップで両手を温めながら漏らす彼女は櫻井桃華、十二歳。
彼女も僕の人生において接する機会のなかった、お嬢様である。

フィクションにおけるお嬢様のテンプレートのように高飛車で上から目線、ということもなく、自らの実力でのし上がって行こうとしているとてもいい子だ。
出来ることならば彼女の執事となって一生を彼女に尽くしたいと思う程である。
美少女の執事。
まさに男の夢だ。
彼女の為ならば高所からの紅茶の淹れ方もマスターしよう。

「プロデューサー、まさかとは思いますが個人的な趣味ではありませんよね?」

猜疑の視線と共にこちらを上目遣いで睨んでくるマフラーを身に着けた彼女は橘ありす、十二歳。
年齢にそぐわないそのストイックさと冷静さは、彼女がいかにしっかり者であるかを物語っている。

早く大人になりたい、という想いを持つ子供は多数いるが、橘はその傾向がかなり強い。
その上、何の考えもなく大人への憧憬を抱く子供とは違い、彼女は彼女なりに自分の大人像を持っている。
それらを考慮した上で、橘は早く大人になりたい、と言う権利があると言えよう。

……個人的には橘だけと言わず全員、安部さんのように永遠の十二歳でいて欲しいところだが、そこは時間を操る術を持つ訳でもない僕には叶わぬ願いだろう。

三人の紹介も終え話は冒頭に戻るが、仕事にはやはりやり甲斐が必要なのだ。
ロリ組に囲まれてのミーティング。
アイドルのプロデューサーをやって一番良かったと思える瞬間だ。


「……おい、聞いてんのか暦。アンタの趣味で集まったんならオレはいち抜けるぞ」

「何を言うんだ結城。確かに素晴らしい面子だが僕は仕事に私情を挟むなんてことはしないし、相手が誰でも嬉しいぞ」

これは紛うことなき本音だ。
確かに嬉しいことに変わりはないが、僕は世間で忌避されつつある少女しか愛せない罪深き英雄ではない。
何よりまだそこまでの徳は積んでいない。
僕がそんな愛の伝道師を名乗るなんておこがましいにも程があるじゃないか。

「まあ、疑っても仕方がありませんわ。プロデューサーも大人ですから、そんなお間抜けな理由で私達を選んだりはしないでしょう」

ここはひとつ、プロデューサーのお眼鏡に適ったと前向きに考えましょう、と櫻井。
僕としては非常に嬉しい一言だが、言い方に少々棘があるのは櫻井なりのご愛嬌だ。

「何だよその桃華の信頼は……まぁ、オレもそこまでグチグチ言うつもりはねえけどよ」

「わたくしはプロデューサーをそれなりに信頼してましてよ?」

「ま、いいか……お前はどうなんだ、ありす」

「橘、と呼んでください」

「なんでだよ、いいじゃねーかありすで」

「橘、です」

「あーりーすー」

「た、ち、ば、な、です」

「お、お二人とも……」

いかん、これはいかんぞ。アイドル同士の仲が険悪だなんてそんな悲しいことはやめてくれ。

ここは僕が身を挺して防ぐ他ない!

「うおおおおおおおおお!」

「っ!?」

突然奇声をあげる僕。当然ながら、不穏な空気など何処へやらで皆の視線が僕に集まった。

「ぷ、プロデューサー、急にどうしたんですの!?」

「大好きだお前ら! 僕と結婚を前提としない清いお付き合いをしてください!」

両腕を広げて一番近くにいた橘にハグしようと試みる。
丁度いい、この際だ。
大人の恐ろしさを橘の身に思い知らせてやる!
具体的には尻や胸を撫で回すという形でな!

「きゃああああああぁぁぁぁぁぁ!?」

「このっ……変態野郎ッ!」

「はぐぉっ!?」

果たして僕の両腕が橘を覆い尽くすその前に、結城のサッカーで鍛えた黄金の左脚がめり込んだ。

チンだった。

直撃だ。

「ふっ……」

ニヒルな笑みを浮かべつつその場に崩れ落ち、僕は気を失った。
薄れゆく意識の中、三人の声が葬送曲のように耳朶を打つ。

「なんて幸せそうな死に顔なんですの……」

「……はぁ。どうしましょう、これ」

「自業自得だろ、どう見ても」

悔いはない。
僕は、この身を犠牲にしてでも、無為な争いを止めることが出来たのだから。




002



橘ありすはアイドルだ。

彼女な述懐した通り、年少組の中では特に群を抜いて子供としては自分の考えをしっかりと持っている。
下手をしたら僕よりもちゃんとしているくらいだ。

だがその性格は人によっては子供らしくない、とも取られるだろう。
それ程までに橘は一般的な十二歳とは一線を画している。
僕が思うに、彼女は子供であることをコンプレックスに思っているんじゃないか、と思う。

早く大人になりたい、と思う気持ちは僕にも良くわかる。
僕も子供の時分は力のない自分に切歯扼腕し、早く大人になりたいと思っていたものだ。

最もその結果、現在理想だった大人になれているかどうかは、怪しいところではあるが。

僕と橘は、二人で会議室の机を挟んで対峙していた。
少々時間に余裕もあったので、橘を宥め、嗜める為にも二人で話がしたい、と櫻井と結城には席を外してもらったのだ。

「橘、もう少し皆と仲良く出来ないか?」

「……意識して避けているつもりでは、ないんですが」

「わかってるよ、そんなこと」

橘は結城にも言い含めていたように、他のアイドルからも橘と呼ぶようにと言伝をしている。

子供にとんでもない名前をつける、いわゆるDQNネームが跋扈する現代においてはわからなくもないが、橘の下の名前はご存知の通りの『ありす』だ。
多少、日本人としては変わっているものの、眉を顰める程ではないだろうし、女の子らしいと僕は思う。
有栖川有栖もいるしね(あれはペンネームだが)。

それに僕の知り合いにはもっと珍しい名前の人間なんて化外の存在も含めればいくらでもいる。
唯一、普遍的と言える名前は羽川くらいのものではないだろうか。

「まあ、橘の言い分も多少はわかるよ。僕の名前もかなり珍しい方だしな」

「そうですね」

僕にしたって暦、という名前の人間には今まで往々にして会ったことがない。

ともかく、自分を呼ぶ際には苗字で呼んでくれ、というのが橘の主張だった。
理由としては、本人曰く日本人らしくないから、との事だったが……。
察するに、他人と違うのが嫌なのだろう。
自分の名前や立場を気にするのは、思春期には良くある事だ。

しかし苗字で呼ぶことを強制することが異常とまでは言わずとも、他人行儀であることには違いない。
アイドルである以上、同じ事務所所属であろうが他のアイドルがライバルなのは百も承知だ。
同じ事務所内で争うこともアイドルとしての成長は勿論、避け得ない事象だということは、聡明な橘のことだからわかっているだろう。

だが、だからと言って必要以上に対立する必要性なんて全くない。
ここは一度、やんわりと諭しておくべきか。


「いいか橘、名前というのはコミュニケーションにおいて非常に重要な要素の一つだ」

「はい、理解しているつもりです。名前が無ければ日常生活が不便になることは容易に予測できます」

橘の言う通り名前は人間の各個体を見分けるという重要な役割も持つのだが、僕が言いたいのはそんな商品のラベルのような話ではない。

「僕は皆のことを苗字で呼ぶ。それこそ誰だろうとごく一部を除き例外はない。何故だかわかるか?」

例外とは忍野メメと忍野忍と忍野扇、城ヶ崎美嘉ちゃんと城ヶ崎莉嘉ちゃん、そして家族だ。
美嘉ちゃんと莉嘉ちゃん、それに忍野と忍と扇ちゃんだけは同じ苗字、という確固とした理由がある。
他にはひたぎも名前で呼び捨てだが、彼女に関しては僕から説明するのも憚られるし、そもそも不要だろう。

「……いえ、残念ながら」

「アイドルとそのプロデューサーという関係において一定の距離を保つ為であり、それ以外の部分で僕との距離が縮まったことを実感して欲しいからだ」

「……」

自分で言っておいてなんだが、これは半分こじつけだ。
僕が人を苗字で呼ぶのは癖のようなものであって、元々そんな意図はないに等しい。
だが急造の理由としては悪くはないし、決して嘘でもない。

まだよく分からない、といった表情を浮かべる橘。
仕方ない、実践を以って思い知らせてやろう。

「例えば……そうだな、千川さーん」

「はぁい?」

僕に呼ばれてとことこと笑顔でやって来る千川さん。
ああ、いつでも百万ドルの笑顔の千川さんだ。
修羅場時、この笑顔に癒されたことが何度あったことか。

「どうだ橘、この通り千川さんは僕の呼びかけに応じてやって来た。これは僕と千川さんが呼び方以外の部分で親交が深まっているからに違いないだろう?」

「それは確かに……そうですけれど」

まだ何か納得が行かないのか、唇を尖らせる橘。
その時々うっかり見せる子供っぽい挙動はたまらなく似合うのだが、言ったら十中八九へそを曲げられるので言わないでおこう。

「プロデューサーさん、何か御用ですか?」

「あ、ごめんなさい。話の流れで呼んだだけです、失礼しました」

「わかりました。プロデューサーさんの給料から天引きしておきますね」

「はい、わかりました…………えっ?」

なんで名前呼んだだけで僕の給料が減るの?

「つまり、どういうことですか?」

「あ、ああ……他のみんなとの距離を縮める為にも、名前で呼び合うのはどうだ、という話だ」

「プロデューサー」

「……なんだ」

「プロデューサーの他の皆と仲良くしろ、という旨の言葉は最もですのでありがたく胸に留めておきます」

ですが、と鋭い視線を向ける橘。

「名前のことに関しては私個人の問題です。私にとって、名前は大事な譲れないことですから」

「…………」

そうやって意固地になるあたりまだ子供だな、と口には出さないが思う。

それは、早く大人になりたいと願う橘の想いの顕現なのだろう。

だけどな橘。
それは大人の持つ強さとはまた違うものなんだぜ。


「なあ、まだかよ暦」

いい加減痺れを切らしたのか、結城が扉からひょっこりと顔だけ出して呼んでいた。

「ああ、もう行くよ。さ、橘」

まだ難しい顔をしている橘を促す。
言いたいことは山程あるが、これ以上問い詰めたところでつまらない説教になるだけだ。
橘だって根はいい子だし、頭も人一倍いいんだ。
時間をかけて絡まった糸をほぐすように解決していくとしよう。

「そういや暦、今日の仕事はなんなんだ?」

「ええと……そうだな、確か……ジュニアブライド?」

「……ジューンブライドでしょう。なんですかその犯罪的な響きは」

特にプロデューサーが言うと冗談で済みませんよ、なんて言う橘。
この辛辣ロリめ。
先程は結城の手によって阻まれたが、また隙を見ては対八九寺用にと編み出したハラスメント奥義をお見舞いしてくれようか。

「じゅ、じゅん……? なんだそれ?」

「まあ! もしかしてドレスが着られるんですの?」

「ああ、純白の本物だぞ櫻井」

「それは素晴らしいですわ!」

なお、今更だがこの仕事は以前に橘が受けたことのあるものでもある。
前回、橘のウェディング姿が好評だったため、もう一度橘と近い年齢のアイドルを、とオファーが回って来たのだ。

何でもこの結婚自体が少なくなってきている時代、花嫁相手の商売だけでは狭いシェアの取り合いで息継ぎもままならないらしい。
その為、若い子相手のファッションやイベントとしての売り込みのため、小学生から高校生の間でモデルが欲しい、とのことだった。
そこで小学生組に選ばれたのがうちの事務所、という流れである。

確かに、小さい頃からウェディングに憧れさせる、というのも戦略として頷ける。
頷ける……が、やはり違和感は拭えないのは僕だけではないだろう。

だがまあ、その会社の決断も大概だが、僕としては嬉しい限りなので文句は無しとしておこう。

「ドレス……?」

「花嫁衣装だよ」

「ばっ、オレがそんなもん着てどうするんだよ!オレは絶対着ないからな!」

「もう遅い。それに僕の急所を狙い、消えないトラウマを植え付けた重罪を忘れたか」

「あれはアンタの自業自得だろうが!」

「女の子にはわからんかも知れないがな……あれは本当に……地獄の痛みなんだぞ……!」

「そ、そうか……そりゃ悪かったけどよ……」

ちなみに櫻井と結城を選んだのにも理由がある。
櫻井は言うまでもなく文句無しでウェディングドレスが似合うのは容易に予想できるし、結城は逆にミスマッチを狙っての人選だ。
ギャップ萌えは大切だよね。

それを狙って何度、向井と結城に殴られたか、両手では数えきれないほどだが。

「いやあ、結城と櫻井の花嫁姿は楽しみだなあ」

「うふ、わたくし楽しみですわ」

「オレは帰るからな!」

「ここに来た時点でお前の負けだ、諦めろ結城」

「ちょっ、は、放せこの野郎!はーなーせー!」

「はぁ……」

呆れているのか溜息をつく橘の横で暴れる結城をお姫様抱っこで捕獲すると、僕らは事務所を後にしたのだった。




003



「ったくよー……なんでオレがこんなヒラヒラした服……」

「あら、そうは言っても晴さん、嬉しそうじゃありませんこと?」

「んなっ……!」

「櫻井さんも、とても良く似合っていますよ」

「ありがとうございます。橘さんは大人っぽいですし、よくお似合いですわ」

ウェディングをその小さな身にまとった天使が三人、鈴のような声で愛らしく笑顔を浮かべていた。

ここは結論から簡潔に言わせてもらおう。

素晴らしい。

そもウェディングドレスとは、成人した女性に、しかも結婚という人生の一大イベントにおいてのみ許された文字通りの一生に一度の特別なものだ。
まあ、世の中には何度も結婚する人もいるが、それはここでは除外しておこう。

その特殊とも言える域まで昇華された着衣である花嫁衣装を、まだ年端も行かない小学生の三人が着ているのだ。
白無垢とはまた意趣が異なるが、文字通り人間における汚れを全く知らない少女たちがウェディングのコンセプトに相応しい純白のドレスを着る。
本来ならば親族や近しい者しか直に見ることが叶わない姿だ。
しかも今回に限っては本来あり得ない小学生の花嫁姿。
素晴らしすぎる。
こんなに素晴らしいことがこの世にあっていいものか。

ああ、本当に心の底から、アイドルのプロデューサーをやっていて良かった。

「おい暦、こんな所でスゲー顔してんじゃねーよ」

「おっと、僕としたことがレディの前ではしたない真似をしてしまったかな」

「今更だろ……くそっ、こんな姿オヤジやアニキに見られたら、なんてからかわれるかわかったもんじゃねえ……!」

「そう言うなよ。似合ってるぞ結城」

純白のドレスを着て結婚式、というのは男の僕ですら理解できる程にテンプレートのような女の子の夢だ。
何せあの結城ですらぶつぶつと文句を言いながらもその口の端は僅かに綻んでいる。
やはりウェディングは何だかんだ言っても女の子の憧れであることに変わりはないのだろう。


「どうですかプロデューサー、わたくしも似合ってまして?」

「ああ、ばっちりだ。僕のお嫁さんにしたいくらいだよ」

「プロデューサーがわたくしに相応しい殿方になったら、考えてあげますわ」

小悪魔的に笑う櫻井には年齢に不相応な余裕が感じられた。

櫻井に相応しい男か……家柄じゃ確実に無理だから、人間的に成長しろと言うことか。
いや待て、ここは本人に詳しく聞くべきだ。

「……ちなみに、その『相応しい』の詳細は?」

「……眼が怖ェよ、暦」

万に一つでもアイドルと結婚出来る可能性があるというのならば、追わなければ阿良々木暦ではない。

「そうですわね、まずはわたくしのお父様を裸一貫で説得してくださいまし」

「絶対に無理です!」

一体、どこのプロデューサーが担当アイドルの娘さんを僕にください、なんて言うんだ。
櫻井を見る限り櫻井家はかなりの良家のようだし、下手をしたら消されてしまうかも知れないじゃないか。

「あれ、橘は?」

そんなやり取りをしているうちに、橘の不在に気付く。

「あら? さっきまですぐそこにいらっしゃったのに……」

今から撮影だというのに、何処へ行ってるんだ橘のやつ。

「……いますよ、ちゃんと」

「うおっ!?」

いきなり背後から声を掛けられ、思わず飛び退く。

振り向くと、橘がブーケを手に少し不機嫌そうにしていた。

「お、脅かすなよ橘……」

「……私はずっとここにいましたけど?」

「えっ?」

そんな筈はない。
僕が橘を視界から洩らすなんてことはない。
花嫁姿ならば尚更だ。

……いや、まさかな。
いくら橘でもいきなり何もないところから現れる、なんて堀が全力で羨みそうな特技を持つわけがない。

ただ単に、僕らを驚かせようとしただけだろう。
後ろからいきなり驚かせる、なんて子供っぽいが、橘なりのお茶目なのかも知れないな。
そう思えば年齢相応に可愛いものだ。


「しかし、ドレスというものは何度着ても慣れませんね……」

裾を引きずるのが気になるのか、思い通りに動けないらしい。

ちなみにウェディングドレスの裾の長さはそのまま身分の高さに比例しているそうだ。
長ければ長いほど、高貴な出身ということらしい。
それこそ権力を誇示するために裾が長すぎて歩けない程のドレスをしつらえる貴族までいたそうだ。
だが、現代においては邪魔なだけなので大体は歩ける程度に切るらしいが。

しかし、改めて二人を見ると壮観の一言に尽きた。

結城に櫻井。
愛くるしい僕の天使たちだ。
今でこそ小学生という身の上、多少は安心だが、二人ともいずれは結婚するだろう。
こんなに可愛い天使たちを男が放っておくわけがない。

いや、彼女たちだけではない。
僕の担当しているアイドルたちは皆、例外なく独り身か結婚可能な年齢に届いていないかのどちらかだ。
そういう意味では、皆いつか僕の手を離れて誰かのお嫁さんになってしまうのだ。

森久保も、星も、諸星も、双葉も、市原も、龍崎も、三村も、荒木も、安部さんも、鷺沢も……。

「うっ…………」

「っ!?」

思わず涙がこぼれる。
娘を嫁にやる親父の気持ちがちょっとばかりじゃないレベルでわかってしまったじゃないか。

「っく…………くそっ」

「ぷ、プロデューサー?いきなりどうしたんですの……?」

「いや……ついプロデューサー汁が……漏れて……」

「なんだよそりゃ」

心配そうに顔を覗かせる櫻井に、呆れ返る結城。

いつかお嫁さんになるその日までは、せめてプロデューサーとして、彼女たちがトップアイドルになるために尽力しようと、固く誓ったのであった。




004



「おはようございま……」

「プロデューサー!」

「うおおおぉぉっ!?」

翌日、出勤するなり僕は腹部にタックルを受ける運びとなった。
こんなアグレッシブなコミュニケーションを行使してくるのは日野か莉嘉ちゃんか火憐ちゃんくらいしかいない……筈なのだが。

「…………橘?」

僕の胸部に頭突きをした上でスーツの裾を掴んでいたのは、確かに橘だった。

「あ……よ、良かった……」

僕の姿を確認するように僕の全身に上下方向へと視線を転がすと、安堵したのか胸を撫で下ろす。

様子が、おかしかった。

まるで僕の身に何かあったと聞き及び、何事もなかったことを安心しているように見える。
呼吸も過呼吸気味で落ち着いていない。

「…………?」

「プロデューサー、私、私……!」

「落ち着けよ。どうしたんだ、」

「あら、おはようございますプロデューサーさん」

橘、と名前を言おうとしたところで千川さんに呼び止められる。

「おはようございます……千川さん」

「プロデューサーさん、ちょっとご相談があるんですけど、よろしいですか?」

明らかに尋常ではないと一目でわかる橘を前に、そんな事を言う千川さん。
ということは、事務所単位で何かあったと見るべきか。

「……はい」

それなりの心構えと共に返事をする。

だが、千川さんから発せられた言葉は、予想の遥か斜め上を行くものだった。


「ありすちゃん、知りませんか?」

「…………え?」

何を、言っているんだ。

返す言葉も見当たらず、その場で硬直してしまった。

「朝から連絡が取れなくて……ご両親も、もう事務所に向かったと仰ってましたし……」

とてもではないが、千川さんが演技をしているようには見えなかった。

僕のスーツの裾を掴む橘の頭を撫でてみる。
感触もあるし、温かい。
人の温度だ。
確かに橘はここにいる。

橘の僕を見据えるその負の感情に塗れた眼は、この状況を僕に訴えているように見えた。

僕にしか、橘が見えていない?

「おはよ……暦」

「おはようございます……」

と、結城と櫻井が姿を現す。今日も昨日と同じ仕事なので恐らくは橘を待っているのだろう。
二人とも、橘が心配なのだろう。
少なくとも僕の眼には、元気がないように映る。

「なあ暦……オレ、ちょっと言い過ぎたのかな……あり……橘、に」

「あの橘さんが連絡もしないなんて……何かあったに違いありませんわ」

間違いない。
この二人にも、目の前にいる筈の橘が『見えていない』。

アイドルへのドッキリ企画ならばまだしも、こんなたちの悪い冗談を理由もなく行う皆ではない。

ちょっと待て。
心当たりがあり、昨日のことを具に思い返す。

そうだ。確かに、僕は昨日『何度か橘を見失っている』。

いや、見失った、という表現は適切ではない。

『橘ありすという存在を認識出来ない』と言ったほうが正しいか。

橘は確かに昨日、あの撮影現場にずっといたのだろう。
だが僕を含め、何度かその存在を忘れかけていた。

まるで極端に影の薄い人間のように、そこにいるのに、誰にも気付いてもらえない。
今の橘は、その究極形だ。
今もこうして触れていないと、一秒後にも橘を見失ってしまう気がしてならない。

「私は他のアイドルの皆にも心当たりがないか聞いてきますね」

「わたくし、家の者に橘さんを探させます」

「オレも、近くを探してくるよ」

各々が橘の身を案じ行動に移る中、僕はただ一人胸元で不安そうに奥歯を噛みしめる橘を見下ろした。

「助けて……ください」

いつも気丈な彼女の瞳から、涙がこぼれ落ちる。

橘ありす、十二歳。

彼女は、彼岸花に成り代わられた。




005



心当たりがあるから安心してくれ、と事務所の皆に伝えた後、僕と橘は街中の喫茶店で手を握りながら隣合って座っていた。

普段ならば美少女とお手手つないでカフェタイム、なんて身体中の体液を流しながら喜ぶところだが、今はそんな場合でもない。
手を繋いでいるのは、離した瞬間に橘を見失う可能性が高いからだ。

とは言えほとんどの人間には橘が見えていない筈なので、傍から見たら僕が一人だけで寂しくお茶をしているように見えるだろう。
理由は後述するが、今は出来る限り人の多い場所にいる必要がある。

それと……後は名前だ。

「済まないが橘、今から事が終わるまでお前のことを下の名前で呼ばせてもらうが、気にしないように」

「え……はい?」

「ありす、突然だが彼岸花は知っているか?」

「……知っています。あの赤くて綺麗な花でしょう?」

彼岸花。
ユリ科の多年草で、日本においては一般的に縁起の悪い花とされている。
理由としては、墓場に咲くことが多く、その美しい外見に反して毒を持つ花だからだ。

だが実際、彼岸花は人間にとっては益花でもある。
墓場に良く咲いているのも理由がある。
その昔、火葬が出来ない程貧しい家は土葬にするしかなかったのだが、その死体を鼠や土竜に啄まれない為に茎に毒を持つ彼岸花を植えていたという。
それに、毒を持つが故に年貢の非対象であることから、食用としても植えられていたということだ。
味は食べたことがないのでどうか知らないが、水で洗えば毒はお手軽に抜けるらしい。

「それと何が関係あるんですか?」

「ありすは彼岸花の怪異に取り憑かれている」

「怪、異……?」

「今のありすの状況を作り出している存在だ……お化けや妖怪と言い換えてもいい」

「そんなこと――」

「ある訳ない、なんて事はない。まずは現実を受け入れるんだ。実際、ありすには異常が発生しているだろう」

「それは……」

現在、橘の頭ではそんなものがある訳ない、という常識と実際自分に起こっている理不尽とがせめぎ合っているのだろう。
どんなに驚いても滅多に感情を表に出すまいと尽力していた橘が、戦慄に染まった見たこともない表情をしていた。

僕と握る手にぎゅっと強く力が入り、手のひらが汗ばむのがわかる。
気を落ち着けるためか、僕が注文したレモンティーで唇を濡らす。


「……どうして、プロデューサーだけ私が見えているんですか……?」

落ち着いて思考を整理する余裕が出来たのか、橘は客観的に現状を把握しようとしていた。

「そうだな、話せば長くなるんだが……僕はこういう状況には過去、何度か立ち会っていて……まぁ、経験者だから、とでも思っておいてくれ」

「……そうですか」

本当のことは言っていないが、嘘も言っていない。
それは橘も何となくわかってはいるだろう。

僕がなり損ないの吸血鬼で、その影響で恐らくは見えている……なんて余計な知識は橘には必要ない。
いくら人間的にしっかりしていようが、橘はまだ子供だ。
必要以上の情報を与えて混乱させることもあるまい。

「廿楽花。つづらばな。彼岸花の怪異だ。廿楽とは日本における苗字のひとつで、雅楽の集団を二十人で組織したことが由縁となっているそうだ。その名前に準じて、死人花、地獄花、幽霊花、天蓋花、剃刀花、捨子花、狐の松明、曼珠沙華、葉見ず花見ず……彼岸花は非常に多くの名前を持つ」

表現と語彙の多さに関しては世界一とも言われている日本でのみ起こりうる現象でもある。

だが多くの名前を持つ、ということは存在を稀釈している、と言い換えてもいい。
ひとつの対象に多くの名前がついている場合、どれが本当の名前なのか、外部が教えない限りは知り得ない者には絶対に知り得ない。
彼岸花を知らない人間に彼岸花の別名をすべて並べ、どれが本当の名前か、と聞いたところでわかる筈もないのと同じだ。

「廿楽花に行き遭った者は、最終的に名前を奪われ、廿楽花の名前のひとつとして成り代わられる。その結果、いずれ存在を確立出来なくなる」

「名前を……?」

「いいかありす。どんなものでも名前がなければ存在が出来ないんだ」

そう、この世に存在するあらゆる事象全てには名前がついている。
生物や無機物、吉事や悪事、どんな現象、災厄や汚泥にすらも名前は必ずある。
産まれてすらいない、名前もつけられていない赤子にすら、『胎児』という名詞はついている。
人間が認識できる、という条件こそつくが、この世界にある全てのものには名前があると言っていい。

とは言え、先述した通り名前なんてものは所詮、人間がつけたものだ。
人間が認識出来ないものでも存在し、未だ名前のついていないものもきっとあるのだろう。
人間そのものだって、元々は名前なんてものありはしなかったのだから。

だが逆を言えば、名前が存在しないものにはこの人間の住む世界に存在する権利がない、とも言える。

「このまま放っておくと……存在こそ消えないが、世界中の誰もがありすを知覚できなくなる」

「…………!」


橘は紛れもなくここにいる。

そしてこれからも突然消える、なんてことはない。

だが、『橘ありす』という存在自体を消されることにより、橘を視界はおろか、記憶にすら留めることが出来る者は誰一人としていなくなる。
自分を認識する人間が皆無な世界。
それは死とほぼ同義だ。
今が原始時代のような自給自足だけが全ての時代ならば何とかなるかも知れないが、現代において誰とも接することなく生きていく事など、不可能に近い。

それに何より、そんな自分以外の人間が風景と同じ世界なんて、僕ならば一ヶ月もしないうちに気が狂う自信がある。

「そんな、私はどうすれば……」

「……ここからが大事な話だ、ありす。怪異は、理由もなしに取り憑いたりはしない」

そう。ただ僕が手を貸してこの場を収めることは簡単だ。

だが、それでは根本的な解決にならない。
橘自身が変わらなければ、またいずれ同じ事が起きる。

「廿楽花に名前を奪われる人間には共通点がある……自分の名前に少なからず違和感を覚えている者だ」

「そんな……っ、確かに私は自分の名前を極力呼ばないように言いましたが、名前自体は親から貰った大切なものだと思って……」

「『だから』だよ、ありす」

恐らくは橘もこの理不尽の中で、それなりに自分をこの状況に陥れた原因を理解しかけている。
そこまで分かっているのならば、今更僕が言うまでもないこと……なのだが。

橘に真実を言い渡すのが僕の役目だと言うのならば、喜んで請け負おう。

「言霊という考え方がある。言葉には力があるというものだが、これには僕も大いに賛成する」

言葉の力は強大だ。
言葉の意義の最深部にある意志の通達という大役は勿論のこと、何よりも名前で今まで曖昧だった存在の区分け整理をしたことによる功績が最も大きい。

「言葉……そして名前には不可視の大きな力がある。名前を呼ばれるということは、こちら側に存在を縫い留める行為でもあるんだ」

僕が先程から橘のことを名前で呼んでいるのも、そういう意図のあってのことだ。

勿論、橘には橘という立派な苗字がある。
が、存在を確立する上で苗字と名前、どちらが強い力を持つかと問われれば、文句なしで名前の方が強いだろう。

自分の名前に不満も持つことは、誰にだってある経験だと思う。
だが、戸籍のない、または名前を変えることが普遍的なことと捉えられていた時代ならばまだしも、現代においては世界共通で名前を変えることは容易ではない。

橘は、自分で自分の存在を薄めていたのだ。

「多くの人間に対して自分から名前を呼ばれることを忌避したのが、お前の失敗だったんだ、橘ありす」


「……私はきっと、変わりたかったんです」

長い話を一通り終えると、橘は状況を正確に理解したのか視線を伏せる。
そのまま、ぼそりと誰にでもなく呟いた。

「私は、早く大人になりたかった。小賢しいだけで他に取り柄もない自分から、抜け出したかったんです」

他人からどう見えていようとも、本人の評価だけは本人以外にはわからないし、変えられない。
橘がこれ程強く自分に劣等感を抱えていたなんて、言われるまで気が付かなかったろう。

だからか。
だからその小さな身体で、いつだって全力で壁を作っていたのか。

「アイドルをやることで、自分ではない誰かになりたかったんだと思います」

それはきっと、橘自身にすらわからない無意識の悲鳴だったのだろう。

子供だから助けを求めればいい、とは思うけれど。
気付いてやれなかった僕に、それを言う資格はない。

「ありす。人は、そう簡単には変われない。変われたとしても、それ相応の代償を求められる……そして変わっても、望まない結果になることだって、ある」

僕がそうであったように。

忍がそうであったように。

変質は、当たり前だがいい事ばかりではない。
自分を変えようと四苦八苦した結果、やり方を間違えて人生を踏み外す人だっている。
僕のように、良かれと思って行ったことが、誰も望まない終わりを迎えることだって、あるんだ。

……けれど。

「だけどお前は間違っていない。全くもって間違っていないぞ、ありす」

「え……?」

意外そうな表情を返す橘。
橘のことだ、自責の念に押し潰されそうになっている事だろう。

橘は何一つ間違ったことはしていない。

確かに名前のやり取りに関しては橘の責任だ。

だが、それでこそ橘だ。

「お前は僕の自慢のアイドルだ、橘。ただ、やり方を少し間違えただけだ」

誇り高く、孤高であることを美徳とし、誰に言われた訳でもないのに、ただひたすらにトップを目指す姿勢を崩さない。
それは貴く美しいものだ。

大人ですらひとつの目標へ向かって走り続けることは容易ではない。
途中で挫折し、諦め、妥協という逃げ道へ迷い込む人間なんて星の数ほど存在する。
それは決して悪い事ではないが、それでも最終的に悲願を遂げることが出来るのは、本物の意志を持った者だけだ。

小学生という身でありながら、それだけの志を固く持つこと自体、驚異に値するんだ。

「初心に返れ、ありす。お前は一体、アイドルになって何になりたかったんだ?」

橘ありす。

僕はお前を、誇りに思う。




006



個人を個人たらしめている要素の一つには、他人からの認識も含まれる。
人が永久に一人だけで生きていく生物でない以上、他の人間からの認識は必要不可欠だからだ。

名前を奪われると言うのならば。

『奪われそうな名前を、再び取り戻せばいい』。

橘ありすを、人々に刻めばいい。

「み、皆さん、私は橘ありすです! 僭越ながら歌わせていただきます!」

その辺にあったコンビニのドリンクケースを拝借し(無断借用とも言う)、橘の足元に事務所から引っ張ってきたジャンク同然のスピーカーを設置する。

衣装もないままに急造の簡易ステージにおけるゲリラライブ。
それが今の橘にと僕が考えた処方だった。

ほとんどの人はそこに橘がいることに気付いていない。
それでも何人かは見えているようで、足を止める人や視線を送り去って行く人もいる。

そう、何も世界中の僕以外に見えなくなっている訳じゃない。
橘が見えている僕を媒介に、どんどん人を増やせばいい。

「いいぞありすー! A!L!I!C!E!あ!り!す!」

「ちょっ、プロデューサー!」

「我慢しろ! 僕だって恥ずかしいんだ!」

これは嘘だ。
実は超楽しい。
プロデューサーの身として、ファンに混じって応援出来る機会はあまりないのだ。
少々はっちゃけすぎだが、今回に限ってはこれくらいが丁度いい。
ついでに言うと、恥ずかしがってる橘、超眼福。

「でっ、ではっ、行きます!」

スピーカーから音質の悪い音楽が流れ出す。それに相応し、名も知らない顔のない通りすがりの人々が何事かと意識を集める。

橘の姿が、声が、大多数に届かなくとも、機械音ならば誰にでも届く。
応援する僕と共に橘を誘導する一手としての道具だ。

上乗せして、もうひとつ。


「――――――――♪」

橘の歌声が街中に響く。

『機械を通した声ならば、橘の声も万人に届くのだ』。

廿楽花は古い怪異だ。
メディアに記録された人間を排除する程の力はない。
例えどんなに影の薄い人間だろうが、メディアに記録した姿は映るし、声は聞こえる。
近代の利器を使用することは、現代に適応出来ていない怪異に対する有効な手段の一つとなる。

そして、声が聞こえれば、その出処である人間の姿も見えるのが道理だ。

「――――――――♪」

「いいぞ、その調子だありす!」

次第に人が集まって来る。

周囲の人間も、遠巻きに眺める人もいれば僕のように身を乗り出して積極的な人もいた。
恐らくは元々の橘のファンの方だろう。

「――――――――♪」

「いけぇっ、ありす!」

「ありすさん、頑張って下さい!」

気付けば、いつの間にか両脇に結城と櫻井がいた。
二人とも、僕がいいと言ったにも関わらず橘を探し続けていたのだろう。
肩で息をし、笑顔ながらも疲労困憊の色が見え隠れする。

……ちくしょう、いい奴らじゃないか、お前ら!
彼女たちに応えなきゃ嘘だぜ、橘。

橘の持ち曲ももうアウトロに差し掛かっている。

一際大きく腕を振り上げ、拳を橘に突き出す。

「お前は誰にも代わりの出来ない一人の人間、橘ありすだ!」

「はいっ、私は橘ありすです! これからも――橘ありすになる為に!」


その刹那。

橘を取り巻く空気が、一陣の風と共に一瞬にして変わった気がした。

歓声が湧き上がる。

熱が後頭部を叩く。

とてつもない圧力に後ろを振り向くと、想像以上の数の人間が橘を取り囲むように人の海を作っていた。

「はは……すげえな」

「ありがとうございました!」

橘の締めと共に、歓声は賛美の声へと彩りを変えた。

ああ、やっぱり凄いな、アイドルは。
いや、アイドルだからじゃない。
橘は、これだけの人を動かす力を持っているんだ。
そんな凄い一個の人間を、怪異なんかの都合で消えさせてたまるか。

と、いつまでもこの余韻に浸っていたいところだったが、人垣の向こう側に青色の帽子が二、三人分見えた。

「やばっ、逃げるぞ三人とも!」

「へっ?」

「許可取ってないんだよ! 千川さんと片桐さんにお尻を叩かれたくなかったら逃げろ!」

緊急で執り行ったゲリラライブだ。
もちろん許可なんて取っちゃいない。
職務質問されても間違いなく不利なのは僕だ。
まさか『怪異に取り憑かれていたので』なんて言う訳にも行くまい。
言ったところでイエローピーポーを呼ばれるのがオチだ。

「ちょ、ちょっと!?」

「それでいいんですの!?」

「ええい、四の五の言わずに顔を隠してついて来い!」

結城の帽子を奪い櫻井に被せ、結城には上条謹製の伊達眼鏡をかけさせる。
小手先ではあるがこういった小物での変装は案外ばれないものだ。

橘に関しては顔も名前も知られてしまったので、実質チェックメイトな訳だが……まあ、僕の減給くらいで済むなら御の字だろう。
警察官の方々が名前を聞いていないことを祈ろう。

「きゃあ!?」

簡易ステージ上の橘をお姫様だっこで誘拐する。

うわ軽っ。
結城や八九寺より軽いんじゃないか、橘。

「よし行くぞ橘! 安心しろ、僕は超常現象からも逃げ切った男だ!」

「訳がわかりません……」

惜しいな。
これが昨日の衣装のままだったら、そのままドラマのワンシーンに使えそうなものなのに。

ふと、走りながら視界に入った橘の表情が、鮮明に僕の記憶中枢に刻まれた。

ああ、そうだよ。
やっぱり橘くらいの年齢の女の子には、その表情が一番似合う。

逃避行を続ける僕の腕の中、首を抱く橘の顔は、齢相応に、楽しそうに笑っていたのだ。




007



後日談というか、今回のオチ。

結局、当たり前だが無断のゲリラライブは会社側にも伝わってしまったものの、無事、スタドリ三ヶ月分購入(と言う名の減給)程度の刑に処された僕だった。
恐るべきはその処置をした会社ではなく、上層部の財布の紐まで握っている千川さんであることを僕らは忘れてはならない。

そして出勤した次の日。
待ち構えていたように橘が入口に立っていた。

「おはよう、橘」

「おはようございます……少し、お時間いいですか?」

「いいけど、どうした?」

「昨日のお礼をしたいので……ちょっと待ってていただけますか」

僕の返答も聞かず、事務所の奥へと小走りに向かう橘。
可愛いなあ、おい。

お礼。
女子小学生兼現役アイドルからのお礼。
なんて魅力的で甘い響きなんだ。
橘からの『お礼』に想いを馳せる。

「おはよ……うわ」

「おはよう、渋谷」

たった今、出勤して来た渋谷をプロデューサースマイルに切り替えて迎える。
表情が緩んでいたかも知れないが、何事もなかったかのように振る舞うのがプロデューサーの嗜みである。

「……出勤して早々、変なもの見せないでよ」

「人の顔を変とは失礼な奴だな」

「あんまり不審なことしてると、事務所とは言っても捕まるよ」

「望むところだ」

「望むんだ……」


渋谷はシンデレラプロダクション所属のアイドルであると同時に、僕が一番初めに担当した記念すべきアイドルでもある。

事務所内で一番付き合いが長いのは、何を隠そう渋谷だ。

「何やってるの、こんな所で」

「ああ、橘が何かくれるらしくてな、待っててと言われた」

意外そうな表情を浮かべる渋谷。
とは言え、あまり表情の変化の幅が狭い渋谷なので、わかるようになるには少々時間がかかるが。

「へえ……ここに来たばかりの頃は、すごく刺々しかったのにね」

「いや……渋谷も相当だったぞ……」

「そうだっけ」

「僕にどんな対応をしたか、忘れたとは言わせないぞ」

「…………」

渋谷と橘は、出会ったばかりの頃の印象が似通っている、という共通点がある。
二人とも初対面ではものすごく冷たかったのだ。

特に渋谷は……いや、今となっては何も言うまい。

「あの頃に比べりゃ渋谷もだいぶ丸くなったよ」

「……やめてよ、昔話なんて。年寄りくさい」

渋谷はそのまま事務所内へと行ってしまった。
どうやら怒らせてしまったらしい。

まあ、僕にとっても渋谷にとってもいい思い出じゃあなかったのかも知れないが。

「お待たせしました」

と、そんな事をしている間に橘が戻って来た。見たところ、手には何も持っていない。

「なんだ、僕と結婚してくれるのか?」

「不可能です」

「『嫌です』じゃなくて不可能なの!?」

「こちらへどうぞ」

僕の突っ込みもさらりと流す辺り、末恐ろしいにも程がある橘だった。

橘に導かれるままにアイドルたちの休憩室へと向かう。
中にはまだ早いからか、誰もいなかった。
渋谷はきっと男子禁制の更衣室で着替えているのだろう。

後で何とかして渋谷の機嫌を取ろう、と思いまずは橘の『お礼』に心を弾ませる。
休憩室の中心、いつも皆がお茶を飲むのに使っている大きめの机にあったのは――。

「こ、これは……!」

「今回は原点回帰を主題としました。何事も初心に返って思い返すことは大事だ、とプロデューサーに教わりましたので」

いや、確かに言ったよ。
言いましたよ。
だからってそれとこれとは話が違うんじゃありませんか橘さん!?

嫌な汗が汗腺から噴き出す。

呼吸がままならない。

思わず固唾を飲んでしまった。

まるで今から親友か家族の仇と対峙するような、おぞましい程の緊張感が全身を襲う。


目の前には、山盛り一杯の苺パスタが鎮座なされていたのだった。

「その名も苺パスタ・零式です」

「無駄にかっこいいネーミング!」

マジか。
HDなのか。
3では出してくれないのか。

見るものの食欲をそそらない鮮やかな桃色のパスタに、ソースとして満遍なくかけられたお手製であろうイチゴジャム。
その更に上には生クリームに加え、苺に良く合うチョコレートアイスが色合いも良くお皿を彩る。

「おっ、美味そうなもん食うとるやないけ、暦」

「村上……」

僕が滝のような汗と共に苺パスタ零式を前にしていると、今から出勤であろう村上がやって来た。

村上巴、十三歳。
うちに所属するアイドルで、義理と仁義に生きる現代においては珍しい女の子だ。
聞いたところによるとお父さんが相当過保護で厳しい人らしい。

なお、村上はこの橘謹製苺パスタのファンらしく、時々作ってもらっているらしい。

「な、なぁ村上。良かったらこれ、食べ……」

「巴さんの分はちゃんと用意してありますから、どうぞ」

「ほんまか! こげな美味かもんを作れるんじゃ、うちの専属料理人にならんか、橘」

「嬉しいお誘いですけど……」

「それもそうじゃの。うちもじゃが、アイドルの道があるからのう」

「…………」

今更イモ引けんわな、と美味しそうに苺パスタにがっつく村上。
その食べっぷりは見ていて気持ちのいいくらいだ。

そうか。
もう退路はないということか。

いいだろう。
覚悟を決めろ、阿良々木暦。
ここが男の見せ所だ。

それに、不肖阿良々木暦、女子小学生に作ってもらった食事を食べないなんて選択肢はあり得ない。
それを曲げてしまったら、阿良々木暦は阿良々木暦でなくなってしまう。
そう、ひたぎが好きだと言ってくれた、阿良々木暦に――。

「何をぶつぶつ言うとるんじゃ。食うなら早よ食わんかい。美味かうちに食うんは料理人への敬意じゃろが」

「……いただきます!」

村上の声に後押しされ、猫騙しかと誤解される程に勢い良く両の手を合わせる。

フォークが鉛のように重い気がするが、気にせずに皿に穴を空ける勢いでパスタを巻き取る。
熱で軟度を増したジャムと生クリームが付随するのにも構わず、一口。


「…………」

「プロデューサー……どうですか?」

茹でられた温かいパスタ、その熱を移した生温かい生クリーム、冷たいチョコアイスが温度差のハーモニーを奏でる。
口内では主食である筈のパスタ(ちなみに僕は家でよくパスタを作って食べる。安くて楽だから。)が、未だかつて体験したことのない未知の食物として認識されていた。

果実独特の酸味に加え、それを包み込み覆う生クリームの甘味。
苺と相性抜群の筈のチョコレートアイスは、僕の味覚と嗅覚を更なる混沌へと導こうとしている。

橘が横で心配そうに見ている。
みっともない真似だけは出来ない。
咀嚼を続ける。

そういうコンセプトなのか、柔らかめに茹でられたパスタは噛んでいる、という食感すら与えない。

はっきり言おう。
決して不味くはない。
不味くはないのだが、あまりにも斬新なあらゆる要素が、総出で僕の脳髄に問いかけて来る。

味覚が、触覚が、嗅覚が、視覚が、これを『食事』として中々認識してくれないのだ。

個人的には好き嫌いはない方だと思うのだが、これは好き嫌いの範疇を遥かに超えている。

評価以前に評価すらさせてくれない――それが、正直な僕の感想だった。

……いや、これを主食として捉えるからおかしなことになるのだ。
あくまでスイーツだ。
なに、パスタは主食としてではなく、サラダや前菜にも使われているじゃないか。

「なに黙っとるんじゃ、男ならはっきりせぇよ」

村上に小突かれる。

ああ、わかってるさ。
僕が言うべき言葉なんて一つに決まってる。

「……う……うまいぜ」

「本当ですか!?」

「ああ……斬新すぎて思わず戸惑ってしまったが……こういうのも、悪くない」

どこぞの殺人鬼音楽家のように、遠くを見ながら決めてみせる。

僕だって子供じゃない。
橘が僕に、と作ってくれた料理を一蹴できる程に僕は堕ちちゃいない。

ただ、正体不明の身体の震えを止めるので精一杯なことを、皆さんにお伝えしたい。

「おかわりありますから、どんどん食べてくださいね」

ああ、橘スマイル、ゴールデンプライス。

そんな笑顔をされたならば、食べない訳には行かないじゃないか。

「た、橘……」

「あ、忘れてました。プロデューサー……ひとつだけ、提案が」

「……なんだ」

なんとか首をもたげ、橘を見る。

そのエプロンを身に着け微笑む姿は、皮肉ではないが、花のよう、と表現するのがとても似合っていて。

「名前で、呼んでもいいですよ」



阿良々木暦「ありすリコリス」END

拙文失礼いたしました。

ちなみに私も愛知出身。
登山は高校生の時分に済ませました。

あと今更すぎますがpixiv始めました。
このシリーズも今までの分、修正してアップしましたので暇だったら覗いてやって下さい。

次の候補は飛鳥、シュガーハート、たくみん……ですが書く時間がない……ないんや……。

読んでくれた方、ありがとうございました。

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