中央庭園には大きく場所を取り、美しく手入れされた花壇がある。
季節の花が色とりどりに彩られ、その姿は見る人に微笑みを与えている。
まだ築五年と新しいその病院には数々の科があり、勤めている医者の確かな腕により近隣の住民はもちろん、噂が噂を呼び遠方からも沢山の患者が来訪していた。
信頼、実績、外観。
それのどれに置いてもこの病院は日本最大規模を誇る病院として確立している。
その皮膚科に所属している医者、倉木草摩は今から入る患者のカルテを読んでいた。
こんなもの俺の診察の範囲外だ、なんて思っていても決して口には出さない。
例え患者が目の前にいなくてもそれを誰かに聞かれれば自分の信用や実績に泥を塗ることになると倉木は知っていた。
そのような事は病院内での総合ミーティングでも口うるさく院長から言われているし、またその徹底した職員の教育方針によりこの病院は実績を取ってきていた。
日々少なくなる医者や看護師の数を考えてもこの病院は有り余る人材を抱えている。
また、給料の面でも他の病院よりも遥かに優遇されているし、この病院で働いているという“ブランド”が欲しいが為に求人の数も後を得ないのだ。
そのようにして襲いくる入れ替えや、振い落される恐怖からこの病院では各々が日々スキルアップを目指し、またそれが病院の評価へと繋がっている。
倉木が考えにふけっていると、看護師が患者の診察の為の準備を終えたようで、忙しそうに患者の名前を呼びにいく。
「佐藤美鈴さん、2番の診察室へお入りください」
見慣れた完璧な笑顔を後ろにし、まだ19歳と若い女性の診察を始める。
今日は母親だけではなく、父親も同行していた。
看護師がすぐに椅子をふたつ用意し、着席を促している。
「先生、娘の容体はどうなんでしょうか」
焦っているのだろう。
父親は矢先に会話を始める。
「今から説明いたします。その前にもう一度美鈴さんの“花”を見せて頂けますか?」
倉木がそういうと美鈴という女性は恐る恐るシャツのボタンを開け、鎖骨の部分を倉木に見せた。
そこには紅に染まった、花が咲いていた。
姿形は野薔薇のように見える。
美鈴の両親は何度も見たであろうその花を不安気な顔で見ている。
倉木も今、自分の目で見ているが未だに信用ができないのであった。
「前回の診察から病院でも総力を上げて治療の方法を模索していますが、未だに完璧な治療法というものは見つけられていません。とても症例の少ない病気のようなので……申し訳ありません」
それを聞くと美鈴は顔を伏せるようにして、目に見えて落ち込んでしまった。
「病気、なんて名前なんですか?」
振り絞るように出した声で、美鈴は倉木に聞いた。
「現在、“進行性植物化性線維異形成症”と呼ばれています。200万人にひとりが発症と言われており、治療はおろか研究さえも確立されていません」
倉木の言葉に美鈴の母は体を震わしている。
「そんな、娘は、どうなるんですか!?」
「お母さん、落ち着いてください。治療には娘さんはもちろん、ご両親の協力が不可欠です。共に、病気と闘いましょう」
真紅に染まる野薔薇がゆらゆらと揺れていた。
その花はCT(コンピュ-ターによる断層撮影)によれば、血管や体の至る所に茎や根を伸ばしていた。
そして、その根の始まりは心臓に至っているのであった。
【1】
街中のざわめきにはいつだってうんざりする。
絶え間なく流れる人の波に押されては流れて、まるで瓦礫だらけの海を泳いでいるかのように慎重に、慎重に私は歩を進めていく。
鼻の中に残るようなどこかの飲食店の油の臭いや、存分にふったであろう派手な女性の香水の匂いがこのアウトレットモールには混じっている。
私は人混みが嫌いだ。
できるならたまの休日くらい家に引き籠って飼っている猫と昼寝をしていたい。
そんな願望に頭を占領されつつも、私は多数並ぶ店舗を見ては色々なものを品定めしていた。
理由は明日で出会って五か月になる彼氏、日向義則に渡すプレゼントを買う為だ。
出会いは自慢できることでもないが、このアウトレットモールだった。
たまには買い物をしようと珍しく気が向いたので、最近できたここにやってきたは見たもののあまりの人の多さに気分を悪くし、自動販売機の横で蹲ってしまったのだ。
その時に声をかけてくれたのが義則だった。
大勢の人が通り過ぎる中で唯一心配をしてくれた彼に救われたと共に、下から見上げた彼の優しそうな顔は今でも忘れられない。
少し休もうかと言った彼にふらふらと付いていき、安い飲食店で飲んだミルクティー。
甘く、溜め息が出る程の安らぎ。
四か月と三十日前の事は今でも鮮明に私の心を躍らし、それがこの人混みでどうにか歩を進める糧となっていた。
時計はどうだろう、服はどうだろう、ピアスは先月にプレゼントした。
彼の喜ぶ姿を想像して、何が一番喜ぶかを考える。
この行為も5回目となるとなかなか難しく、前のプレゼントと似ないようにするのは少し難しい。
ふと、指輪が並べられているショーケースが目に入る。
私ももう26歳。
周りの友人が続々と結婚し、子供を産んでいく中で私はいつも取り残された気持ちになっていた。
しかし、付き合ってまだ半年も起っていない彼に結婚をにおわすのはなんだか嫌われそうで怖いのだ。
付き合ってから分かったことだが彼は定職を持っていない。
毎日フラフラと派遣される仕事は不安定。彼は自らそれを承知して、自分に合ったスタイルだと好んでその仕事をしているようだ。
だから、結婚したくても言えないんだろうな、なんて事も思ってしまう。
後ろ髪を引かれながらもその場を立ち去り、
違う店舗を探していると、遠くの方に義則の姿を見つけた。
私には気づいてないようだ、嬉しくなった私はこっそり近づいて驚かしてやろうと、隠れながら義則に近づいていく。
それにしても、今日は仕事だと三日前のメールで言っていたはず。
まぁ、義則のことだからまた仕事をバックレたんだろう。
ゆっくりと彼に近づくと、彼には“連れ”がいるのがわかった。
小柄で、金髪に近い茶髪、大きく開いたように見える瞼からは長い睫が揺れている。
私より年下のように見えるその“連れ”と共に義則はさっきまで私が見ていた指輪のショーケースを見ている。
足が小刻みに揺れ始めた。
まさか、とは思ってもあらぬ疑いが頭の中の隅々にまで張り巡らされていく。
まさか、そんな、優しい義則が、私がいるのに、まさか、まさか、まさか、
まさかまさかまさかまさかまさか、そんなわけないよね?
猛烈に襲い始めた吐き気が視界がぐにゃりと曲がる。
声をかける事は、できない。
崩れた足でどうにか家に着いた。
いつの間にか紺色に染まった空から本当に、微弱な光がカーテンの隙間から溢れている。
眩暈と共に訪れる体の気怠さに、そのままベッドに倒れる。
¥なんで、あんな女と義則は……。
その言葉ばかりが頭の中に巡り巡る。そのままいくつの時間が過ぎただろうか。気が付けば深夜、夜の淵。私は石になったかのように動けない。
その時、ガチャリと鍵を回す音が聞こえた。
その音に驚いた猫のパンジーが飛び起きている。
ああ、そうか。日を跨いたんだ。
「おい、凛。寝てんのか?」
大好きな人の声が聞こえる。
私に安らぎを与えるその声は、例えこんな状況でも変わらなかった。
あんな事を義則はしていたけど、それでも来てくれた事が嬉しい。
「ん……ごめん、なんだかうたた寝しちゃってたみたい」
寝ぼけた眼を擦るふりをして涙を拭った。
「そうか」
そう一言返すと義則は小さい二人用のソファに座り、煙草に火を付けた。
こうして彼の痕跡が部屋に増えていく。
吸ったことのない煙草のにおい。彼の香水。彼の歯ブラシ。彼の靴下。
今改めて思った。
私の心はこの部屋のように、知らぬ間に義則に埋められていたのだ。
だけど。
「ねぇ、私達今日で出会って五か月なんだよ!おめでとう!」
そんな思いを振り切るかのように、私は笑顔を彼に向けた。
「そうか、めでたいな」
義則の薄い反応で心に針が刺される。
「もう、先月も忘れてたのに。今月も忘れたとかひどいなぁ」
「……悪い」
彼は変わらない表情で煙草の煙を吐く。まるで溜め息のようだ。
この人、私のことが好きジャないノ?
私の中で、真実を知りたい欲求が大きく広がっていくのがわかった。
「……ねぇ、義則」
ゴクリ。自分の喉の音が聞こえる。
「今日、さ。昼間何してたの?」
私は勇気を出してあの事を聞いてみる。
声が震える。
「……仕事だよ」
「嘘だ」
「嘘じゃない」
「嘘」
「……しつこいなぁ」
「だって、女と一緒に居たじゃない」
煙草の灰がジリリと焦げる音だけがこの部屋を包んだ。
義則は表情を変えぬまま、また煙草の溜め息を吐く。
それに比べて私は手のひらに汗をかきだしていた。
スカートで拭っても、拭っても、冷たい汗が止まらない。
これではどっちが浮気を問い詰めているのか分かったものじゃない。
静寂が続く中で、やっと義則が口を開いた。
「……妹だよ」
妹? 妹と仲睦まじく手を握りながら買い物をする人っているの?
「仕事じゃなかったんだ……?」
「今日の記念日に凛に渡すプレゼントを探してた」
なぜだか手首が痒くなってきた。
ぎゅっと自分の手首を握る。
「そうなんだ。ありがとう。いいものは見つかった?」
「いつも凛に貰ってばっかりだったからな。だけど俺金ないし、いいものは見つからなかった」
「指輪買ってたじゃないか!!」
頭が熱い。胸が熱い。心が痛い。
私の口が止まらない。
「妹と一緒に指輪のサイズ図って、どれがいいか店員にまで聞いて!銀だかプラチナだか知らないけど、私にはくれたことのないものあげて!なんで嘘をつくの?!なんで!!」
なんで……。
私の目が熱い。
涙が溢れて止まらない。
平気で嘘をつく義則は、あの日私に声をかけてくれた義則とは、違うの?
涙を拭い、義則を見る。
そこにはとても嫌そうな顔をした義則がいた。
嫌というより、拒絶。
拒絶というより、嫌悪。
嫌悪というより、軽蔑。
“嫌われた”その言葉が頭に浮かんだ時に、私の熱はまるで波のように引いた。
「ご、ごめんなさい。言い過ぎたね私、ごめん、ごめんなさい」
浮気は許せない。
でも義則が好き。別れたくない。
許せない。愛してる。嫌い。許せない。好き。
これ以上……問い詰められない。
義則が私の頬に触れる。
涙の跡を指でなぞり、そして私の頭を撫でた。
私の太ももを、今日あの女と繋いでいた手が弄る。
ああ、ああ、止められない。
もう、委ねるしかない、委ねたい。
義則の顔が近づく。
私は瞳を閉じた。
煙草の匂いが、ただ私を埋めていく。
中途半端に曇った空だ。月は隠れているのに、どこか晴れている。
どうせなら、雨でも降ればいいのに。
あの日は結局あれ以上のことは問い詰められなかったし、深く聞けなかった。
きっとあれ以上聞いたら義則は私にとって一番嫌な言葉を口にしたはずだから。
自分でもわかっている。
安易なセックスに騙されて、わかりやすい形を貰って、
そこで妥協するという愚かなことを。
義則は結局謝罪すらしなかった。浮気の非も認めなかった。
それでも彼を愛している私は馬鹿なのだろう。
こうやって都合良く夜から来る彼の為に料理を作って来訪を待ち続けることすら愚の極みなのだ。
頭では分かっていても、それでも好きという感情は潰せない。
“恋は闇”という言葉がある。
今の私にとってピッタリの言葉かもしれない。
恋は人の理性を失わせるということ。また、恋の逢瀬には闇夜が相応しいという意味でも使うことがある、慣用句。
義則にとって夜に私に合うのはきっと都合のいい時間なだけなんだろうけど。
私の恋と彼の恋、ふたりの恋なのに、どうしてこんなにも違うのか。
そんな事を考えていると、また左手首が痒くなってきた。
ガリガリと爪で掻き毟ると、
なにやらしこりのようなものが手首にできていた。
赤くなった爪の跡にぽつりと腫れるできものは、私を不快な気分にさせる。
その腫れを抓ったあと、
出来上がった料理にラップにかけていると、鍵を開く音がした。
義則だ。
「おかえり、お仕事お疲れ様。今丁度ご飯が出来た所だよ」
「ああ、サンキュ。けど先に風呂に入る」
ただいまは聞こえない。
まぁ、気分で家に来てくれる義則にとって、ここは家じゃないものね。
上着を脱いで風呂場に向かう義則を遠くから見つめる。
ゆっくりと脱衣所の傍に行き、隙間から義則を観察した。
ちょうど義則は靴下を脱いでいた。
そこで私は目を凝らす。
一日中仕事していたはずなのに、やけに靴下の跡が薄い。
本当に仕事をしてきた日なら、色濃く、強く、その跡は残っているはずだ。
と、いうことはどこかで靴下でも脱いだってことかな。
お風呂か、はたまたセックスか。
その行為が終わって、平然と私の所に食事の予約をしたっていうことね。
風呂場のドアが閉められたのを確認してから、
義則が乱雑にソファに置いた上着に私は顔を埋めた。
女物の香水の匂いがする。
フローラルなこの匂いは、たぶんラルフローレンの“ロマンス”。
義則はこの香水は使わない。
義則が今までつけてきた香水は全て買った私には断言できる。
ロマンス……なんてふざけるな。
お前がしているのは人の男と浮気とするという最低で最悪な泥棒の如き行為。
お前はドブ水でも塗ってりゃいいんだよ。
あの女の長い睫が脳裏をかすめる。許せない。
義則がお風呂から上がる音がしたので、さっと頭を切り替える。
パタパタとスリッパを鳴らせながら食事の準備をする。
「お風呂の温度あれで良かったよね?今ご飯よそうね!」
お風呂上りの彼に笑顔を私は振る舞う。
義則が好きな温度は41度。これ以上もこれ以下もない。
彼の満足した気持ちを想像していた私は
「なんだ、また肉じゃがかよ。凛ってそれ以外作れないのかよ」
義則のその返答を想像していなかった為、愕然としてしまった。
「……ごめん」
「別に食えりゃなんでもいいけど」
「す、すぐ違うものも作るね!」
急いで背中を向ける。涙が出てくる。
義則が……義則が肉じゃが好きって、うまいって言ってくれたから作ったのに。
同じ家にいるのに、同じ部屋にいるのに、なんだかとっても寂しくなる。
これが義則と私の心の距離なのかもしれない。
手首が痒い。疼くような感覚だ。
同じ部屋に居ても、背中を合わせても、体を重ねても。
襲いくるのは孤独。貴方が遠くに行く錯覚。
愛の行為、二人の密度。
そんな事さえ不安になるような、どうしようもないものは何?
キスの匂いと貴方の煙草。
ベッドの香りは煙に染まる。
貴方がいる、その全てを抱いて、
包み込んでもどこか遠く。
愛しさと寂しさが募る。
食事を済まし、一方的な快楽を求めたセックスは短い時間で終わった。
疲れたようにすぐ眠った義則を横目に、私は孤独を感じている。
手を伸ばせば届く距離にいる恋人に、今以上に愛してほしいというのは私の我儘なのだろうか。
私の愛の重さと同じように、彼に同じ重さを求めるのはおかしいのだろうか。
あんな女にうつつを抜かして、どうして私を見てくれないの?
ねぇ、義則。
悪い所があるなら直すから、浮気なんて悲しいことやめてよ。
心の中で義則に問いかけても、返事なんてあるはずもない。
実際に義則に言う勇気もない。どうせはぐらかされるだろうし、何より嫌われるのが怖い。
そんな事を考えているとまた手首が痒くなってきた。
今度は痒みと共に少しばかりの痛みを感じる。
感情のぶつける場所がない私は、ひたすらに手首を掻いた。
赤い線が何重にも重なる。
痛くて、少し気持ちが良かった。
痒みが増してきたのでもっと思い切り掻いてみる。
手首の腫れが増してきた気がする。
もっと、もっと。
ガリ
力強く掻きすぎたのか、紅い線ができてしまった。
湧き出る血を見て少しの恍惚感を感じる。
しかし、予想以上に血が出てきたので腫れに合わせてできた紅を拭おうとソファに座り、テーブルにあったティッシュを取る。
拭い、そして傷口を見ると、その中には“何か”が見えていた。
緑の。丸みを帯びた。所々紫の。
恐る恐る触れてみると激痛が走る。
痛みのあまりに思わず声が漏れてしまった。
その場所だけでなく、全身に電気が走るような痛みだ。
なによ、これ……。
自分の体の異変と、未だ襲いくる痛みの余韻に恐怖を覚える。
「凛、なにしてるんだ?」
私の声で義則を起こしてしまったのか。
痛みで少し冷静になった私はこんな姿を義則に見せられないと思い、焦った。
焦っているまま、打開策は見つからない。
私は無言で手首を隠しているだけだ。
しかし無常にも指の間から血は溢れてくる。
止まれ、止まれ、止まれ。
「お前リストカットなんてしてんのかよ」
「ち、違う!そんなのじゃない!」
義則の言葉を私は咄嗟に拒否する。
「いやいや、そんな状況でそれ以外何があるんだよ」
声のトーンが心なしか冷たい。
「ち、違うの!なんか痒くて、掻いてたら血が止まらなくて!違うの!」
嫌われたくなくて、必死に弁解する。
「なら、見せてみろよ」
……見せる?この緑の、自分でも理解不能なものを。
何かおかしい病気?気持ち悪い?
見せた時の義則の感情を想像してみる。
……見せられない。
限りない点線が私達に流れる。
先に言葉をひらくのは義則だった。
「26歳にもなって何してんだよ。アホくさい」
その言葉にこと切れたかのように涙が流れる。
少しだけ、心配をしてくれる事に期待していた自分がいたのを感じた。
「だいたい、前から思ってたけど重いんだよ、凛は」
「結婚したいと思う歳なのもわかるけど、そんな事までするなんて俺へのあてつけか?」
義則は浮気の事を気にしている私を分かっていたのか。
そんなんじゃないのに、言葉が出ない。
「そうゆうのうざい」
そう言い放つと共に、ベッドから立ち上がり義則は車のキーを取った。
「待って、違うの!!違うんだよ!!」
返事は無言の溜め息だった。
ドアが閉まり、義則はマンションの廊下を歩きだす。
やだ、やだ、嫌われたくない。別れたくない。
どうすればいいの。わかんない、わかんないよ。
何の考えも浮かばないままに私は思わず裸足で義則を追いかけていた。
「待って!やだ!待ってよぉおおお!!」
車のエンジンが回る。
アクセルを踏む音が聞こえる。
涙がまた流れる。
血も未だに流れている。
廊下に立ち尽くしたまま手首を見ると、確実に緑の何かは大きくなっていた。
■
あれから一週間が起った。
仕事を終えた私は鳴らなくなった電話を見つめる。
あの日の義則を思い出すと未だに涙が出るのだ。
仕事をしていても、家に帰ってテレビを見ても、何をしていても、彼の事が頭から離れない。
結婚したいって、そう思ってた。数少ない友人や同僚のおめでたい報告を聞く度に心の何処かが痛んでいた。
しかし、今はそんなことはどうでもいいと気づいた。
彼が私に声をかけてくれた事、私の家に来てくれる事、私を抱いてくれる事、愛した人が例え浮気をしていようが私はそれで幸せだった。
もう浮気の事も忘れるから、もう一度会いたい。会いたいよ。会えないの?
義則……。
携帯のメール着信音が鳴る。
まさか、義則!?
時間的にも彼がご飯の連絡をしてくる時間だ。
私は飛びつくように携帯を手に取る。
メールマガジンだった。
くそ!くそ!期待させといて!!
怒りのあまり携帯を壁に投げつけると、液晶画面が罅割れたのか鈍い音が聞こえた。
その音に猫のパンジーが飛びながら驚いている。
「あ、ごめん!ごめんね、パンジー・・・。」
何も携帯にまであたることもないのに、パンジーまで驚かせて、私は馬鹿だ。
そんな気分を察したのかパンジーはゴロゴロと喉を鳴らしながら私に甘えてくる。
ふいに、また涙が溢れる。
「そっか、そっか。慰めてくれるの?ありがとね。大丈夫、姉ちゃんは大丈夫よ」
この子は義則と違って私を裏切らない。
ぎゅっとパンジーを抱きしめる。
すると途端にジタバタと暴れ私の腕から離れてしまった。
……なんで、嫌がるの?心配してくれたんじゃないの?
私が途方に暮れていると、パンジーは部屋の隅に置いてあるキャットフードをカリカリと食べだしていた。
そして「にゃあ」とだけ言った後すぐその場で寝転びだした。
「パンジー、おいで!もうちょっとお姉ちゃんを慰めてよ!」
聞こえてないのか無視しているのか、何も動かない。
「・・・なんだ、お前も義則と一緒かよ」
傍らにあった鋏を手に取る。
「こんなに好きなのに、こんなに大事にしてるのに」
「お前だけは私を裏切らないと思ったのに」
パンジーは私の好きな花から名前をとった。
花言葉は、“私をひとりにしないで”
なのに、なのに。
赤い血が手首から流れ出した。
緑の何かが大きくなってきているのだ。
ぐっと肉を広げられるような痛みが走る。
そこには、蕾のようなものが姿を現していた。
痛い、痛いよ。
パンジーの鳴き声はもう聞こえない。
連絡を取れないならもうこっちから会いに行くしかない。
涙を流しひたすら彼を待ち続けるなんて時間の無駄でしかない。
きっともう一度話し合えばうまくいくはず。
だってあんなに愛し合っていたんだもの。
この前は変な誤解が生まれてしまったけど、次はちゃんとできる。
そしたら優しい義則の事だからきっとわかってくれるはず。
私は初めて出会ったアウトレットモールでの彼の笑顔を思い出していた。
私に勇気をくれる、優しい微笑みを。
決意した私は義則が話していた現在レギュラーで入っているという工場まで来てみていた。
影からそっと会社を覗いてみると、リフトやトラックなどが所狭しと駆け回りとても忙しそうな職場だった。
中までは見えないのでその工場の近くにある駐車場の車を一台ずつ確認していく。
・・・あった。
黒いハイエース。番号も確かだ。
仕事は何時に終わるのだろう。さすがにそこまではわからない。
しかしそんな事は小さい事だ。いくらでも待ち続けよう。
会社もどうでもいい。家に居ても仕方ない、餌をやるペットもいないし。
私には、義則だけが必要なんだ。
どうすれば義則が私の元に戻ってくるのか、それだけを考えたらいい。
そうよ、浮気なんて許せば良かったんだ。最終的に義則が私のもとに居てくれたらそれで良かったんだ。
今更後悔しても遅いけど、諦める訳にはいかない。
待っているだけじゃ何も始まらない。
刻々と空は紺色に染まって、やがて闇になった。
薄暗い外灯の明かりから義則を待ち続けること七時間。
義則の姿をやっと見れた。
久し振りに彼の姿を見ただけでとてつもなく嬉しくなる。
今すぐに声をかけたいけど、仕事を終えた他の人もいるし、ここで話しかけたらきっと迷惑になるだろう。
仕事の邪魔はしちゃいけないよね。
彼が車に乗り込み、エンジンを掛ける。ゆっくりと走り出すのを確認してから、私も彼の後を追った。
今思えば私は義則がどこに住んでいるのかキチンとした場所は知らない。
実家とは聞いていたけど、どこなんだろう。
そんな事を考えていると雨がぽつぽつと降りだした。
彼の車を見失わないように気を付けなきゃ。
いつの間にか車三台分も彼から離れちゃっているし、神様は本当に意地悪だな。
車を走らせて37分、やっと彼の車が止まったのを確認した。
コーポ・ミルトニア。なにやら古めの三階建てのアパートだ。
これが、実家?
とりあえずカーナビにこの場所を登録してから道路の脇に入り、路肩に止めて義則の場所まで走る。
今話しをしなければ今日ここまで来た意味がなくなってしまう。
彼の姿を見ると階段を昇っている所だった。
早く、急がなきゃ、誤解を解かなきゃ。
アパートの敷地に入る頃には彼はもう二階の部屋でインターホンを押していた。
そこから、あの女が出てきた。
扉から漏れる明かりに照らされている金に近い茶髪の女が笑顔で義則を迎えている。
雌豚が、それは私の場所だろうが。
私は怒りのあまり拳を握りしめる。
せっかく義則と仲直りするチャンスだったのに、あの女が邪魔をする。
許せない。だいたいあの女さえいなければ
義則は私のもとから離れないんじゃないのか?
帰る場所はふたつもいらない。
あの女にわからせなければいけない。自分の立場というものを。
義則には私がいるっていうことを。
車を走らせて37分、やっと彼の車が止まったのを確認した。
コーポ・ミルトニア。なにやら古めの三階建てのアパートだ。
これが、実家?
とりあえずカーナビにこの場所を登録してから道路の脇に入り、路肩に止めて義則の場所まで走る。
今話しをしなければ今日ここまで来た意味がなくなってしまう。
彼の姿を見ると階段を昇っている所だった。
早く、急がなきゃ、誤解を解かなきゃ。
アパートの敷地に入る頃には彼はもう二階の部屋でインターホンを押していた。
そこから、あの女が出てきた。
扉から漏れる明かりに照らされている金に近い茶髪の女が笑顔で義則を迎えている。
雌豚が、それは私の場所だろうが。
私は怒りのあまり拳を握りしめる。
せっかく義則と仲直りするチャンスだったのに、あの女が邪魔をする。
許せない。だいたいあの女さえいなければ
義則は私のもとから離れないんじゃないのか?
帰る場所はふたつもいらない。
あの女にわからせなければいけない。自分の立場というものを。
義則には私がいるっていうことを。
ギリギリと爪が拳に食い込む。
それに反応したかのように、手首にあったツボミのようなものが開きだした。
紫色の花が、血に塗れながら咲いていく。
これはいったいなんなんだ……。
あの女が現れてから、私の何かは変わってしまった。
全てはあの女のせいなんだろう。
小雨が激しい雨となり私を濡らす。
こんな雨では私の心の激しさは治まりもしないのに。
誰もいない暗い部屋に戻る頃にはもう深夜になっていた。
雨の音は勢いよく窓を叩いている。
カーテンの隙間から激しく光る雷だけがずぶ濡れの私を照らした。
あの女をどうにかしなければならない。
そうでなければ私の幸せは帰ってこない。
待つだけでなく自分で動かなければ、何も変わりはしないのだ。
しかし、あの女は言った位では聞かないこともあるだろう。
私はキッチンの引き出しから果物包丁を取り出した。
暗闇の中で鈍く光る包丁を持つ。
左手に咲いた花を見つめながら。
なぜだか、一筋の涙が零れる。
自分の中の狂気に、自分でも気付いているから。
だけど、止まらない。止められない。
私は果物包丁を鞄に入れ、また家を出た。
「パンジー、行ってくるね」
部屋の隅に寄せられたぐちゃぐちゃの肉塊に別れを告げ、雨の中を歩きだした。
あの女とは一対一で話し合わなければならない。
あの女だけが部屋を出た時に話さなければ。
どのように話せばあの女は義則と別れてくれるのか、それだけを考えていた。
アパートの前に車を止める。アパートの駐車場に着くまでにここからなら呼び止められるだろう。
段々と空は明るくなってきている。
雨空の中、ゆっくりと灰色に近づく天。
私は息を潜めながら女を待った。
午前6時3分。部屋の明かりが付いた。
起きたのか?女の姿からは想像もできない程に早起きだ。
仕事なのだろうか?
午前6時21分。部屋のドアが開いた。
来た。私はすぐさま車から降りる。
大雨警報が出ている程の激しい雨は、車の中で少しだけ乾いた衣服をまたすぐに濡らしきってしまった。
階段をピンクの傘を刺しながら女が降りてきた。
その顔はあの時に見た顔とはまるで印象が違う程に薄い顔立ちだった。
私はその女の前に立ち塞がる。
その女は突然現れた私に驚いた顔をしていた。
「おはようございます。突然失礼致します。義則の彼女の長谷川という者です。義則がお世話になっているようで、こちらから挨拶に伺わせてもらいました」
冷静な言葉の中で私の感情は激しく燃えている。
「はぁ?あんた誰よ?私これから仕事なんですけど」
いくら朝でも初めて会う人間にこの態度。
なんなんだこの女は。
「忙しい時にごめんなさいね。だけど、どういう事かあなたにもわかるでしょう?」
「義則が浮気してんだろ?あいつも懲りない奴だな」
「そう、だから別れて欲しいのよ。あなたも浮気相手になるなんて嫌でしょう?」
「はぁ、何言ってんだよ。オバサンが浮気相手だろうが」
この女、救えないな。
「申し訳ないけど、私はちゃんと義則と付き合ってます。遊ばれてるのはあなたの方じゃなくて?」
さすがに苛ついてきてしまい、少しきつく言葉を返してしまった。
女は呆れた表情をしていた。
「馬鹿言ってんなよ。私はもう義則と二近く年付き合ってるんですけど?それともあんたもっと長く付き合ってるの?」
雷鳴が聴こえる。
雷光が薄暗い空を眩くする。
「ね、なんとか言ったら?だいたいアンタみたいなババァに義則が本気になるわけないじゃん」
何も言い返せない。悔しさと憎悪で身体が震える。
「じゃあ私仕事だから。バイバイ、オ、バ、サ、ン」
「待ちなさい!まだ話は終わってないでしょう!?」
「これ以上話すことなんてないでしょ?しつこいんだよ」
女は颯爽と私の横を通り抜けようとしていた。
「待ちなさいって言ってるでしょう!?」
女の肩をぐっと掴んで私の方を無理矢理向かせる。
「てめっ・・・気色わりぃなぁ!」
女は私の手を勢いよく叩き、続けざまに言葉を放つ。
「だいたい、どうして私の家まで来てんの?男に執着するのは勝手だけどさぁ、これってストーカーじゃないの?」
「いい歳したババァが身分弁えろっつーの!」
「だいたい、あんたみたいなブサイクに義則が本気になると思ってる訳?笑えるわ!」
女はベラベラと汚い口を開けながら未だ私に罵声を浴びせる。
頭が激情に包まれていく。憎しみは雨に濡れて、更に色濃く私の心を支配していくようだった。
しかし、私の反撃の第一声は自分でも驚く程に静かだった。
「黙れ。雌豚が。」
「……はぁ?今なんつった?」
「汚い豚がブヒブヒとウルサイって言ったんですよ。人の言葉わからないかな?豚は」
女の顔が雷鳴に照らされる。
その顔は目を見開き、とてもあの日義則と歩いてた女を思い出させるものではなかった。
「てめぇ、調子乗ってんじゃねぇぞ!!」
女は開いてたピンクの傘を思い切り私にぶつけてきた。
傘の先が私の額に当たり、少量の血が滲む感覚がする。
しかし、こんな痛みなど些細なものだ。
笑える、笑える、笑える笑える笑える。
「言葉で解らなかったら暴力?無様な女ね。そりゃあ義則も私の所に来るって訳だ!
アハハハハハハハハハハハハハハ!!!!
アハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!!!
義則もあんたと別れた方が幸せだよ!!
いくら若くてもこんな豚女を好んで付き合う男なんていないわ!!」
「ババァが、いい加減にしろよ!」
豚女は私に掴みかかってきた。
俄然激しく降る雨。階段の途中。
これ落されたら死ぬんじゃないの?
ゾクリとした悪寒が私の背中に走る。
でもそれで結構。結構よ。
私の大事なものを壊す奴なんて、どうでもいいわ。
もみくちゃになりながら女は傘で私を打ってくる。
「アハハハハ、アンタもずぶ濡れになったねぇ!ゴッテゴテのメイク、朝はしてなくて正解だったわねえ!」
豚女を階段の手すりまで押し飛ばして、私は言った。
「キチガイババァが、てめぇマジで痛い目見なきゃわかんねぇみたいだな」
笑える笑える笑える笑える笑えるよこいつ豚が豚女笑えるんだよ汚いんだよ小便臭い餓鬼の癖していいよ殺すよ殺そう殺そころソこロそころそころそコロソころそ、殺そうよ。
「痛い目見るのはお前だろ」
私は鞄から果物包丁を取り出す。
雨が降る。
雷が鳴る。
鼓動は止まることを知らないかのように、ひたすらに加速していく。
雌豚は果物包丁から目を離せなくなっていた。
「おい、本気かよ……やめろよ」
返事を返す意味なんてない。
激しい鼓動が私の心臓から、身体に、頭に、脳味噌にどんどんと強く熱く広がっていく。
「た、助けっ」
情けない声を無視して、私は息を思い切り吸って、足に力を込める。
体当たりのように、雌豚を刺した
逃げようとした雌豚の脇腹に果物包丁が突き刺さる。
骨か何かが当たっているのか、なかなか深く突き刺さらない。
私は包丁の柄に掌を置いて再度、力を込める。
ゴリゴリとした感触が包丁越しに感じた。
「あああああ!!やめ、やめてえええええ!!」
豚の汚い鳴き声が五月蠅い。
そうか。刺す場所が悪いから刺さらない。
包丁を一気に抜くと豚は再度鳴いた。
あたりに血なま臭い匂いが立ち込めていく。
「くっせぇな・・・手が汚れちゃったよ」
女はじたばたと死にかけた虫のように這いつくばって逃げようとしている。
下手な鉄砲数打ちゃ当たる。
私は何度も何度も女の色んな場所を刺してみた。
滑稽な鳴き声が響く。
鳴き声すらしなくなった頃には辺りは少し明るくなっていた。
依然、雨は降り続いている。
動かなくなった女を思い切り蹴り上げると、ごろごろと階段の下に転がっていった。
空を見上げると、雲の隙間に少しの光が出ていた。
雷鳴ではなく、暖かい光。
この私がいる場所とはとても似ても似つかない、綺麗な場所がそこにはあった。
その時、ドアが開く音が聞こえた。
忌々しい場所から解き放たれた私の大事な王子様。
彼が何か叫んでいるのか言っているのか、なんでかわからないけど聞こえない。
「さぁ、帰ろうよ。二人の家に。もう義則を責めたりはしないから」
私が笑顔でそう彼に言うと彼は私の元に駆け下りてきた。
涙が溢れてくる。やっと気付いてくれた。私の愛に、本当の愛に。
「おかえりなさい!」
微笑み、両手を広げる私の横を颯爽と義則は通り抜けた。
あの豚女の所に行き、涙を流している。
ねぇ、なんで。
義則騙されてるのよ。
あの性格が悪い女を心配する必要なんてないでしょ?
義則の為に私はやってあげたのよ。
ねぇ、ねぇ、ねぇ。
「裏切るの?」
――今日午前六時頃、男女二名が襲われる事件がありました。
二十歳の女性、奥田留美子さんの死亡が確認され、男性二十五歳の日向義則さんも重傷ということです。
……臨時ニュースが入りました。ただいま日向義則さんがお亡くなりになられたということです。ご冥福をお祈りいたします。
警察は現在二十六歳、長谷川凛容疑者に対して取り調べをしているとのことです。
続報はまたお知らせ致します。――
「うわぁ!柳さん、殺人ですって!しかも結構近いじゃないですかここと!」
同僚の女性がどこか嬉しそうに話しかけてくる。
「ほんとだ、怖い時代になったもんだなぁ……」
人がどんな惨殺な殺され方をしようと、結局は他人事なのだ。
上辺だけの可哀想が、勤務時間に至る所から聞こえた。
終わりです。読んでくれた方がいるなら、ありがとうございました。
というか色々と投げっぱなしのままの作品でした。ごめんなさい。
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