ほむら「告別」 (190)

改編後の小話です

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 時間が止まればいいと。
 そう思った昔は、はるかに遠い。

 誰だって一度は、そんなことを願うはずだ。
 終わってほしくない幸せがあって。
 それを誰にも奪われたくない、だから時間を止めて下さいと。
 とても素直な、願いのかたち。

 そんな願いの結末は、ろくでもないものだ。
 自分の時間は凍って動かなくても、世界の時間はどんどん流れていく。
 いつの間にか自分一人が置いていかれて、周りにあるのは黒く黒く伸びた影だけ。
 欲しかったはずのものは、もうどこにも残っていない。

 だから、そんなことを願うな、なんて。
 そう言えるかはまた、別の話なのだけど。


「……ふう」ぼんやりと空を見上げる私は、今日もまた同じようにため息をついた。

 嘆息の想いは何に向けてのものだろう。
 あまり頭を使いたくなかったので、さっさとその疑問を頭から追いやった。

 首が痛い。
 どれくらいここに立ち尽くしていただろう。
 およそ真っ暗だったはずのあたりはもう、朝靄がさしてほの明るい。
 数十分で済まないことは確かだろうか。

 もう一度、空を見上げた。
 天蓋を細く照らしていた月は薄れて、主役の座を太陽に明け渡す準備をしている。
 肝心のそれはまだ地平線の向こう側に隠れているが、すぐにでもその輪郭を現すだろう。

 考えている暇もなく、その時はやってくる。
 うっすらと覗いた光の淵が、あたり一面に光線を振りまいて。
 夜と朝を切り分けて、世界中に熱を与える。


 私はそっと、目元に手をやる。
 眩しすぎて直視できないから。
 その輝きはまだ、私には刺激が強すぎるから。

 だから瞼を細めながら、慎重に視界を覆いながら、それでも目をしっかりと凝らす。
 きっとこの光の彼方に、あの子がいるのだと信じて。
 すがるように。
 細い吐息といっしょに、声を絞り出す。


「おはよう、まどか。今日も頑張るよ」


 しんと静まり返った世界に、音と光がこぼれて跳ね返る。
 返事を待たずに私は、踵を返した。



 ◆


 私?
 平気だよ。
 あなたのかわりに、やることがあるから。
 
 大ウソだ。
 初めてそれを口にした時、胸に走った痛みをまだ憶えている。

 それでも表情だけは決して変えなかった。
 浮かべた笑いをどうしても崩したくなかった。
 どこかで見ているあなたに向けて、無様な私を見せたくなかった。

 それからは、もう意地だ。
 無表情の鉄仮面の上に、笑顔のピエロマスクを張り付けて。
 ずいぶんと愛想笑いは上手くなったと思う。
 それ以外の顔は、できなくなってしまったけれど。


「ほむら、なんか印象変わったよな」いつだったか、佐倉杏子がそう言った。

 あなたほどじゃないわと言おうとしてどうにか堪えた記憶がある。
 ……まあ、今は逆にあっちが塞ぎこんでいるけれど。

 そんな物思いにふけりながら、目的地に辿り着く。
 住宅街の一角に位置する人気のない公園。
 遊具も何もなくて、ただ古ぼけたベンチが置いてあるだけ。

 ベンチは雨風にさらされて、ところどころ塗装がはげている。
 軽く手で撫でて、濡れていたり汚れていたりしてないことを確認して、静かに座った。
 ギィと音を立てて軋み、すぐに収まった。


 待ち人はすぐに来た。

「ごめんなさい、待たせちゃって」声を投げかけてきたのは、巴マミ。
 
「別に。今来た所だから」

 数分も経ってはいない。
 立ち上がりつつ、そう返した。
 ベンチはもう一度、ギイという悲鳴をあげた。

「そう。ならよかった」

 目線を下に落としながら、巴マミはそう呟いた。
 とても良かったと思っているような声色ではないけれど。
 
 少し、風が出てきた。
 ざわざわと街路樹を賑わせて、いくつかの葉を散らせていく。
 公園の入り口で動かない巴マミと、ベンチの前で同じく立ち尽くす私。
 近くも遠くもない微妙な距離の中に、何枚かのそれが舞って落ちた。


「何か、用があるのよね」埒が明かないと思って、口を開く。

 ただ、なんとなく何かは把握していたから。
 それがどういう意味を持っているのかも理解していたから。
 あまりきつい口調には、ならないように注意した。

「……ええ。
  隣、いいかしら?」

 断る理由はなくて。
 彼女が座るところを軽くはたいてから、脇に詰めて座る。
 ほどなく二人目がオンボロベンチに腰掛けて、少しだけ前よりも大きな音を立てた。


「佐倉さんのことなの」予想通りの言葉を皮切りに、巴マミは話し始めた。
 
「その……最初は、意外と気にしてる風でもなかったんだけど。
  カラ元気だったって言うのかな。
  少しずつ暗い表情を浮かべることが多くなってきて。
  外にも出なくなったりして、どうしていいのか分からなくて……」

 声は弱々しい。
 聞きながら私も、佐倉杏子をここ数日見ていないことを確認する。
 きっと、そうなんだろうとは思っていた。 

 続く言葉は、やってこない。
 当たり前かもしれない。
 彼女が零した言葉の通り、どうしていいのかわからないのだろうから。

「あ、ご、ごめんなさい……これじゃ、ただの愚痴よね」

 思い出したように、巴マミは私への謝罪を述べた。


 改めて思う。
 ああ、お人好しだった。この人は。

 自分だって少なからず堪えているのだろうに。
 美樹さやかが斃れたことに、一番責任を感じているのは自分だろうに。

「それがあなたの用なら、大人しく聞いているわ」

 巴マミの視線を感じながら、そう返した。
 私の視線は地面に落としている。

「……ううん。そうじゃなくて」巴マミはすぐに答えた。

 でも、それ以上の言葉はついてこない。
 黙る私と黙る彼女。
 似ているようでまるで違って。
 いつか見た二人と、どこか似ていて。
 
 整理できるまで待っているわ。
 そう伝えて、背もたれに体重を預けて空を見た。
 ひんやりとした木材に熱を奪われながら。
 分厚い雲に覆われた、鈍色の空を眺めていた。


「ひと雨来そうね」

 ふと、そんな言葉が口をついた。
 匂いがしたのだ。
 雨の日に特有の、湿気と油分が混じった微妙な匂い。

 私の声につられて、巴マミも空を見上げる。
 私は空に向けて手をかざす。
 ぽつり、ぽつり。雨粒がそこに届くのに、時間はかからなかった。

「ご、ごめんなさい……私のせいで。
  ちゃんと言うこと整理してから来ればよかったのに」

 多分そう言うだろうな、と思った通りのことを巴マミは口にする。
 雨足は少しずつ強まってきている。
 確かにこのままここに留まっていては、濡れ鼠二匹の出来あがりだろう。


「そう長くは降らないと思う」

「夕立みたいだから、それはそうかもしれないけれど」

 地面に点が少しずつ増えていく。
 点と点が重なって、繋がって、色を少しずつ変えていく。
 ぽつぽつ、さあさあと音を変えて、あたりを少しずつ濡らしていく。

「このまま家に帰るのも億劫だから、雨宿りをしたい」

「そ、そうね……この辺りで、屋根のある所だと」巴マミはやや混乱したように考え込む。

 この公園から私の家まで戻るには、やや遠い。
 だから代わりに、もう少し近い所。

「迷惑じゃなければ、あなたの家の軒下を貸してくれないかしら」

 驚いたように巴マミの顔が上がった。
 雨はもう線になって、私たちの身体を叩いている。

 あの子もきっと、そう言っただろう。
 そこにはきっと、巴マミの同居人がいるのだから。



 ◆


「ちょっと待ってね。すぐタオル持ってくるから」巴マミがぱたぱたと駆けていく。

「お邪魔します」

 私は玄関で待つことにした。
 それなりに濡れた身体で、床を汚してしまうのも躊躇われたし。
 もっとも巴マミが派手に水滴を残していったから、今更の話ではあるのだが。

 後ろ手にドアを閉めて、少しだけそちらにもたれかかる。
 ぽたぽたと髪から雫が滴って、足元に水溜りを作ってしまう。
 外で少しでも絞ってきた方がいいだろうか、なんて。
 そう思った矢先に、玄関とリビングを繋ぐドアが開いた。

「ごめんなさい、これタオルと着替え。よかったら使って」

 そう巴マミから差し出されたのはやたら大きいバスタオルと、彼女のものらしい上下の着替え。
 正直、ハンドタオル一枚程度でいいと思っていたので、面喰らった。


「……そんなに気を遣わなくても。部屋を汚さない程度に拭ければ私はそれで」

「ダメよ。風邪引いちゃうでしょ」

「魔法少女だし風邪はひかないと思うのだけれど」

「う……ま、まあ、迷惑だっていうのなら、小さなタオルも持ってくるけど……」

 小さくなりながら巴マミが言う。
 これじゃまるで、私が悪者みたい。

「……ありがたくお借りするわ」言うや否や、巴マミの表情が明るくなった。

 ちょっと待っててね。お風呂も沸かすから。
 そう言ってまた引っ込もうとする巴マミの首根っこを掴んで言った。
 さすがにそれはいいから、まずは自分の身体を拭きなさい。
 雨粒まみれになった床と彼女の身体を交互に指差して、やっと気付いてくれた。


 何回か咳払いをして、ちゃんと声が出せそうなことを確認して。
 そっと、呼び掛けた。
 
「入っていい?」

 ノックをした先の部屋は、巴マミに案内された、佐倉杏子の寝床。
 返事がないことを了承の合図と受け取って、私は躊躇なくドアを開けた。

「なんだよ。珍しいな」佐倉杏子の声が響く。

 佐倉杏子は部屋の真ん中で、あぐらをかいて座っていた。
 電気は付いているしカーテンも開いている。
 何より彼女の声はいつもと、そう変わらないように聞こえた。

「雨宿りに来たの」

 ドアを閉めながら、そう返事をする。
 答えになっていない気はしたけれど。


「ふーん。それマミの服?」

「ええ。借りた……というか、半ば強引に借りさせられたというか」

「マミは?」

「あれこれ世話を焼こうとしてくるからお風呂に押しこんできたわ」

「なんだそりゃ」ここで初めて、佐倉杏子が笑った。

 端的に言えば、意外だった。
 なんというか、普通なのだ。
 あの巴マミの様子からすると、もっと沈みこんでいるのかと思ったけれど。


「おおかたアンタが来たのも、アイツのお節介の一環だろ」

「私が勝手に来ただけよ」

 この感じだと本当に早とちりだったのではないかと思うくらいだ。
 着慣れないふわふわした服に足を取られないよう、丹念に気を払いつつ。
 ドアをふさぐように、そのまま腰を下ろした。

 なんか、変なんだよ。
 佐倉杏子は、そうつぶやいた。

 私は、特に何も返さず。
 その言葉の意味を、考えていた。


 部屋の中心に居る彼女とドアを塞ぐように座る私。
 それなりの距離はあるが、彼女の表情はよく見える。

 どう話をしたものだろう。
 そう悩んでいたら、佐倉杏子が口火を切ってくれた。

「……アンタさ」すぐに話しだした割に、そこで少し言葉を濁された。

 顔を向けて、拝聴の姿勢を示す。
 観念したように、言葉を継いだ。


「あいつの最期の顔、見てた?」


 誰を、とは聞かない。
 代わりに、首を振ることで答えた。

 あいつ、笑ってたんだよ。
 佐倉杏子は、そう言った。


「驚かないんだな」

「ええ」

「想像つくのか?」

「あの子らしいわ」

「そっか」

 ずっとそれが気になってたんだけど。
 あたしにはわかんないや、と佐倉杏子はひとりごちた。

 そこに異論を挟むほど野暮ではないつもりだけど。
 心の中で、記憶の中の彼女を追想する。
 かつての最期の刻、笑っていたその顔を。


「マミの奴にはそういや話してなかったな」

 思い出したように、そう言う彼女。
 どうして、と聞き返した。

「なんでだろ。格好悪い所見せたくなかったのかな」

「知らないわよ。随分心配してるみたいだったのに」

「そりゃどうも」

 あの子が笑っていた理由、聞かないの?
 そう問うてみたら、佐倉杏子はあっさりとこう返した。
 聞いてもしょうがないだろ。
 それもそうね、と納得した。


「まあ、誰かが分かっててやればいいと思うんだ。
  それがあたしじゃないのは残念だけど、アンタなら理解できる」

 あたしはあたしなりに、あいつのことを忘れないようにするよ。
 とんでもないバカ野郎だってね。
 そう言い切った佐倉杏子の顔は、私が良く知っているそれだった。

「幼馴染にゃ勝てね―な」

 そして、そう、付け加えられた。
 私は何も言わず、ただ手元で指をこねくりまわした。

 そう呼ばれるべきは、私じゃない。
 そう言い返すことは、できなかった。

次はまた明日で
お暇な方お付き合い頂ければ幸いです

ほう?
これは期待

>>23
くっさ

見てます


 夢を見た。
 どんな夢だったのかは、もう覚えていない。

「……暑い……」最初に口をついて出たのは、そんな程度のことだった。

 全身にじっとりと汗をかいていた。
 ここのところ寝苦しくなってきて、そのせいだろう。

 湿って重くなったタオルケットを放り投げて、体を起こす。
 ぼやける視界を整えつつ時計を見てみたら、まだ四時を少し回ったかどうかというところ。
 寝直すにも起きてしまうにも、どうにも中途半端な時間。

 ただまあ、二者択一の問題である以上、仕方ない。
 少なくともあの蒸しベッドに戻る気にはなれず、嫌々ながら立ち上がってカーテンを開けた。
 まだ外は暗い。
 夜が明けるには幾分か早いようだった。


 少し迷って。
 椅子を引いて、机に向かった。
 卓上ライトに光をともして、ペンを持つ。
 取り出したのは一冊の日記帳。

 柄じゃないとは思うけど。
 誰に言い訳をしているのだろう。
 
 くるくると指の上でペンを回して、それからゆっくりと握り直す。
 まっ白な一ページに黒を落とす。

 お世辞にもあまり、字がうまいとは言えない。
 これといって書きたいことがあるというわけでもない。
 だけど私は、暇潰しでしかないはずのこの時間が、嫌いではなかった。
 ただの、暇潰しだから。


 昨日何があったっけ。
 昨日誰と話したっけ。
 昨日何を感じたっけ。
 そんなことを思うがままに、気ままに、書き連ねていく。

 こうしている今も、私は仮面を外していない。
 無表情の能面を張り付けたまま、すました顔をしている。

 でも、白いキャンバスの上で踊る黒い文字たちは、自由だった。
 私の意志の届かない所で、好き放題に何かを主張していく。
 生み出しているのは私ではないのだろうと思うほどに。

 とても人には見せられないな。
 もっとも、日記ってそういうものでしょう。
 だからいいかと、自己完結。
 今日もまた支離滅裂で自由奔放な、日記もどきのできあがり。
 半ば放り出すようにペンを置いて、それを閉じた。


 
 ◆


 そのまま二度寝してしまったらしい。
 朦朧とした意識に、カーテンの隙間から光が刺激を与えて。
 私はどうにか目を覚ました。

「……ん、う」

 机に突っ伏していた姿勢のせいもあり、節々が痛い。
 さしあたりの眠気飛ばしも兼ねて体を伸ばす。
 関節から響く鈍い音をつとめて無視しながら、一息ついた。

 伸ばすために入れた力を抜いて、椅子へと再びもたれかかる。
 頭の動きはどうにものろい。
 何の意味があるでなく、とりあえずの行動として時計を見た。


 十時半。

 なるほど、大遅刻だ。
 それを認識しても焦りを覚えることはない。
 面倒だしもういいか、と思えるくらいには寝過ごしていた。

「……どうしようかしら」

 サボリを決めた所で、もっとも、やることがあるわけではない。
 自分の部屋の中を見回してみても、今日一日を有意義に過ごせそうなものは特に見当たらない。
 いっそのこと三度寝を決行しようとすら思ったが、シーツの剥がされたベッドを見て諦めた。
 肝心のシーツは汗まみれになって洗濯機に突っ込まれている。
 見なかったことにした。

 とりあえずシャワーでも浴びて、汗を流そう。
 あとのことは、それから考えよう。
 そう考えたのは、汗まみれになった自分の身体にやっと気付いたからだった。
 


 適当に汗を流して、適当に朝昼兼用の軽食を取って。
 早々にやることをなくした私は、手持無沙汰のまま外を歩いていた。
 
 正午少し前の見滝原の街中は、さすがに人通りもまばら。
 通学中の学生はもちろんのこと、通勤中の社会人もいるはずもなく。
 昼の買い物だろうか、主婦と思しき人をたまに見かけるくらい。

 私はと言うと、一応の保険として私服を着ていた。
 制服を着てこんな時間にうろついていたら補導されかねないから。
 とはいえ、見た目から学生だとバレはするだろうし、そもそもバレても逃げればいいだけなのだが。
 まあ要するに。
 そんな気分、だった。


 適当に自動販売機で缶コーヒーを買って、それを空けつつ路地を練り歩く。
 一応、知らない道ではない。
 かつて何度も走りまわったうちの、その中のいくつかの道。
 変わってしまったのは、私と世界のほんの少しだけ。
 いや、変わってはいないのかもしれない。
 きっとこの世界で生きるほとんどの人たちからしたら、そうなのだろう。 

 ふと、足を止めた。
 視界の中にひとつ、見慣れないモノが映っていた。

「……」

 少しだけ見つめて、すぐに視線を落とした。
 時間をかけるでもなく、それが何かは否応なしにわかってしまう。 


 それは尋ね人の便りだった。
 古ぼけた電信柱の中ほどの高さ、ちょうど顔の高さが一致するくらいの所に。
 名前と顔写真と、それから連絡先と。

『探しています 見かけたら連絡をお願いします』なんて、どこにでもある文章と一緒に。 

 私は彼女の消息を知っている。
 より正確に言えば、消息が途絶えたわけを知っている。
 だけど、それを伝えることはできなくて。
 そのチラシを直視していることはできなかった。


 
 ◆


 逃げるようにその場を離れて。
 知っているはずの道を、しばらく歩いていた。
 
 そう、知っている道。
 そのはずだったのだけど。
 いつのまにか、そうではなくなっていた。
 私の進む速度も、歩くそれではもはや、なくなっていた。

 異様な胸騒ぎを掻き消すように。
 ずっとずっと続いていく一本道を、走っている。
 進んでも進んでも。
 おかしな胸騒ぎは、収まることを知らなかった。


 異変に気付いたのは、どれくらい経った頃だろう。
 最初の兆候は、臭いだった。

「……雨?」そう口走ったけれど、すぐに違うことに気付いた。

 湿った臭いが鼻をついた。
 それは雨の日によくある、ついこの間も嗅いだ匂い、ではなくて。
 思わず顔をしかめてしまう、異臭だった。

 水が流れずに腐った臭い。
 あたり一面に立ち込める腐臭は、それに近いものがあった。

 ふと周りを見渡してみる。
 風景は一見して特段の変化もないようにも見えた。
 そしてすぐに、それがおかしいと気付いた。


「何、これ」

 そう、何の変化もなかった。
 全く同じ家と、全く同じ電柱と、全く同じ街路樹とが、延々と道の両脇に伸びている。
 当然のように脇道など存在しない。
 交差点も信号もなく、ただただどこまでも今の道が続いていた。

「結界だろうね。しかし、こんなものは見たことがないけれど」

 びくんと、背筋が跳ねそうになった。
 何とかそれを堪えて、後ろから私の疑問に答えたそいつに返事をする。
 つとめて無表情を心がけながら。

「キュゥべえ。あなたも居たのね」

「魔獣の気配がしたからね」

「ここはやっぱり、魔獣の結界なの?」

「そうとしか考えられない、っていうのが僕の答えかな」

 特に価値のなさそうな会話を無言で切り上げて、また視線を前に戻した。
 


 進んでも進んでも、何も変わらない。
 私はそれに疲れて、歩き始めていた。
 湿気を含んで身体にまとわりつくような大気の中を、のろのろと。

 インキュベーターは何も気にしない風に少し後ろからついてくる。
 それがなんだか気に障っていたけど、できるだけ意識の外に追いやるようにした。

 動かす足が、とても重い。
 地面を足で蹴る感覚が、どこか遠い。
 前に進んでいると分かる手掛かりは、鼻に感じる臭いが少しずつ強くなっていくことくらい。
 いつの間にかそれは、吐き気を催すまでになっていた。


 ただ、足を動かす。
 カツ、コツ。
 ぺた、ぺた。
 私の靴音に、少し小さな足音が、遅れて続く。
 その繰り返し。
 
 風もない。
 空には赤黒い太陽が昇って、遮る雲も何もないのに、薄暗い。
 電柱の合間に立つ街灯が、淡白く光の泡を作っている。
 
 カツ、コツ。
 ぺた、ぺた。
 足音だけが、いやにうるさく響く。
 それ以外の何もない空間で、やたらとその存在を主張する。

 私はまた走り出した。
 じっとしていると、何かに呑まれてしまいそうだった。




 どれくらい、経っただろう。
 臭いがとうとう鼻を麻痺させて、音を除いた一切の感覚が消え失せて。
 耳すらも遠くなり始めたくらいのところで。
 私はやっと、足を止めた。

「……行き止まり……?」

 というよりは、止めさせられた。
 私の目の前にあったのは、塀。
 この先に道はないと、そう主張する、横にあるものと全く同じ塀。

「そのようだね」インキュベーターが何の感慨もないように、私の肩元から返事をした。
 


 行き止まり。
 これだけ労力を払って、これか。
 結局はここまで、あたりの風景に何の変化もないままだった。
 しまいにこれでは、頭がおかしくなってしまったのではないかと思うくらいだ。

 何も変わらない。
 闇と明の半ばほどの空間の中に、ずっとずっと続いてきた道と塀。
 行き止まりという明確な隔たりがあるのに、まるで違和感を憶えられない。

 もうここは見滝原ではない。
 見滝原を模した、良く似たレプリカ。


 私は立ち尽くして考える。
 つかれにつかれて、くたくたになった状態で。

 この異常な空間を放置して、引き返すべきか。
 そもそも塀があるからといって、進んではいけないと言う訳でもないだろうか。
 それなら最初から横に進むことに挑戦してみるべきだっただろうか。
 ここで引き返してしまったら、徒労になるのだろうか。
 肩に乗っていたインキュベーターはいいものの、私はそれなりに体力も持っていかれてしまったのに。

 そこまで考えて。
 ふと、思いが至る。

 
「キュゥべえ。

  あなた、いつから私の肩に乗っていたの?」


「合流してすぐだよ。

  こんなに長い距離を歩き続けるのは、さすがに遠慮しておきたいな」


 そうか。

 それじゃ。
 
 私の足音に続いていた、あの小さな足音は。

 一体、何?


 全身に凄まじいまでの汗が噴き出した。
 ぬるく湿った空気の中で、私の身体は急激に冷える。
 異臭はもう鼻を突き刺すまでだった。

 この臭いを、私は知っている。
 これは水の腐った臭い。
 腐ったからだがこぼす雫が、さらに腐って虫をたからせる臭い。
 いつかある子が、纏ったにおい。

 ぺた。

 いつも二つ聞こえていた音が、今度は一つになって耳朶を叩く。


 ぴちゃ。

 もう一つの音が、少しだけ違った形で聞こえる。

 それは水滴をこぼす音。

 たちまちあたりに新たな臭いが染み渡って、すぐに紛れて分からなくなる。

 頭が動かない。
 
 麻痺した五感の中で私は、金縛りに遭ったように動けない。

 臭いの主は、すぐそこにいる。

 私の背中の、すぐ後ろにいる。



 凍りついた私の視界に、何かが映った。
 見たことのあるような色だった。
 
 その色とこの臭いが、頭の中で一致して。
 私は今度こそ、声にならない悲鳴をあげて。

 振り返った。

ありがとうございます
また明日に

腐った魚の臭いで一杯なのか

ここで切るのかー!気になって仕方ないぞ

QBの足音って確か無かったよな
なにこのホラー

普通に面白い


「……以上よ。それが昨日のこと」

 私は一部始終を語り終えて、一息ついた。
 目の前には顔を青くした巴マミと、半信半疑の体を隠さない佐倉杏子。

 無理もないか。
 二者二様の反応を前にして、私はそう一人ごちた。

「ちょっと頭を整理してくるわ」と、巴マミがふらふらの様子で立ち上がった。
 佐倉杏子は呆れたような眼でそれを見送っていた。
 アイツ実は怖がりなんだよな、と静かにぼやいていた。

 ばた、と音を立てて佐倉杏子は寝転がった。
 私はそれを横目で見ながら、一日前のその出来事をもう一度、思い出す。



 ◆


 振り返った背後には、たくさんの人がいた。
 大小老若さまざまな人が。
 彼らはみな無言で、各々のペースで道を歩いていた。

「……え、え?」

 私は絶句するよりほかなかった。
 そこにはただただ、いつも通りの見滝原の風景が広がっていたから。


 違う所と言えば、いつの間にか日が落ちていた。
 私が歩いていたはずの路地をはるかに逸れて、大通りの交差点に私はいた。
 雑踏の中立ち止まる私を、邪魔そうにして避けていく人たち。
 彼ら彼女らはごく普通の人たちで、さっきまでの異常な空間の名残はどこにもない。

「結界を抜けたのかな。一体何だったんだろうね」インキュベーターはとぼけたように言う。

 私が聞きたいわ。
 そう返して、点滅する信号に急かされながらまた足を動かす。
 それだけの動作に溢れる疲労は、先ほどまでの時間が夢幻でないことを明らかに示していた。


 群衆に紛れて進みながら、摩耗した頭で考える。
 最後の一瞬に見えた色のことを。
 見間違いであってほしいと思うけれど。
 それは楽観的を通り越して、現実逃避になってしまうだろう。

 横断歩道を渡り終えて、私はまた立ち止まる。
 視線の先には一本の電柱。
 より正確に言えば、電柱に張り付けられた一枚のチラシ。

 その色は、



 ◆


 そして、一晩明けて。
 こうして巴マミと佐倉杏子に、状況の共有を試みていた。

 二人への説明から、最後に見えたそれだけは省いている。
 そんなに難しい理由じゃない。
 ただどう言ったものか分からなかったというだけ。 
 その感覚は、きっと私にしか通じないものだろう、と。
 


「実は、思い当たる節がないわけじゃないの」

 見て欲しいんだけど、と前置きをして、戻ってきた巴マミが何やら資料を取りだした。
 やたらと分厚いバインダーの中に収められたいくつかの書類を見せてくる。

「ここ一週間くらいの、見滝原での行方不明者のデータよ」

「多いのか少ないのか、判別がしかねるけれど」

「どう考えたって多いわよ。
  ここ十年くらいの合計数と比べても、ほとんど同じくらい」

 そう巴マミに言われて、考え込む。
 A4の用紙に印刷された数字は、そのまま、この世界から零れ落ちた命の数。
 その重みの一端が、少しだけ感じられた気がした。


「……結界に囚われて、そのまま帰れずに、ってことか」佐倉杏子が呟いた。

「ない、とは言い切れないね」

 どこから湧いたのか、インキュベーターが素知らぬ顔で返す。
 つい先日の恨みがあるため、私は少しだけ睨むような視線を向けてやった。
 気にしてる風はどこにも見えないけれど。

「暁美さんは魔法少女だし。
  もし閉じ込められたままだったとしても、魔獣を見つけて倒せば出られたと思うけど」

「一般人は当然、そうではないね」


「ただ、あいつらそんな面倒なことしてたっけか?
  あたしの記憶にある限り、もっと単純に襲いかかってくるだけだったけど」

「そもそも、どうやって暁美さんが脱出できたかもわからないのよね」

 二人の指摘は、もっともだ。
 同じ感想を三者三様に抱いたようで、腕を組んで黙り込む。
 議論のきっかけを探しながら。

 だけど私はひとりその中で、きっと違う理由で口を閉じている。
 特に、あの空間に良く似たものを、私はよく知っている。
 忘れようはずもなくて、他の誰も知らないはずのもの。


「……」

 この世界には無いはずのもの。
 そこに居た、同じくこの世界から消えてしまったはずの命と合わせて。
 分からないことだらけだった。

「わかんねーなぁ」

 佐倉杏子が、きっとその場の全ての思いを代弁した。
 確かにその通り。
 どれだけ考えてみても。
 分からないこと、ばかりだけれど。

 ゆっくりと口を開く。
 今自分が、すべきことを考えて。


「一つだけ、確かなことがあるわ。

  あれを処理しなければ、一般人に被害が出る」

 恐怖を覚えないと言ったら、それは嘘になるだろう。
 だけど、それはきっと、言い訳になんてなりはしない。

 その想いは、きっと皆同じようだった。
 同意を示す視線を向けられて、私は最後の一句を紡ぐ。


「潰す」


 あの子の願った世界を、荒らすつもりというのなら。
 たとえ何であろうとも、容赦はしない。



 ◆

 
「ぼちぼち日が暮れるな」佐倉杏子が何となしにそう言った。

「そうね」
 
 私も特に考えずそう返した。
 巴マミの家での会合を終えて、帰途につくころにはもう、結構いい時間になっていて。
 昼間はかなり暑かった日差しも随分と落ち付いて、風が適度に私たちの身体を冷やしていた。

 なんとなく口を開く。
 別に沈黙が気まずい訳ではなかったから、本当に、なんとなく。

「あなた、巴マミの家に住んでいるんじゃなかったの?」


「少し前まではそうだったんだけど。
  住み込みのバイト見つけてさ。
  いつまでも居候ってわけにもいかないだろ」

 そう返して、なんだかばつが悪そうに笑う彼女は、あまり見覚えにないものだった。
 照れ隠しなのか表情を見せたくないのか、少し歩幅を大きくして前に出る佐倉杏子。
 私はそんな彼女の背中を見て、少しだけ笑みをこぼした。

「さっきの話なんだけどさ」

 半歩ほど先の位置から、佐倉杏子が切り出した。
 彼女の声は反響しながら、私の耳へと届いてくる。

「どのへんで巻き込まれたんだ?」


「夜、巴マミと一緒に案内しようと思ってたのだけれど」

「まあそれでもいいんだけど。近いならと思って聞いてみただけだから」

「そう遠くはないわ。通り道」

 空を見上げながら、思い返す。
 ちょうどあの中は、これくらいの色だったか。

「んじゃ、ちょっと寄ってみない?」

 振り返って佐倉杏子はそう言った。
 反対する理由は、とくになかった。


 陽がほどよく沈んだくらいに、私たちはその路地に辿り着いていた。
 何の変哲もない。
 いつもと何も変わらない、人の往来のない隠れた脇道。

「ここ?」

「ええ」

「じゃ、ちょっと進んでみるか」佐倉杏子は言うより早く歩きだしていた。

「ちょっと待って」

 数歩を大きく、私は彼女の横に並んだ。
 慣れた動作として髪を払いながら、横顔に告げる。


「お互いが見えていたほうが、安全だと思うわ」

「びびりすぎだってーの」

「警戒してるだけ」

 そう言い訳しながらも、胸の内では。
 あの時の気持ちの悪さが渦巻いている。
 
 手に持っていたスマートフォンを、ポケットにしまった。
 ずしりと質量を感じさせるそれは、どこかいつもより重い気がした。

 建物の影が長く伸びた、薄暗い路地の中。
 自分の影を踏んで進んでいく私たちに、カラスが何か呼び掛けていた。


 私と佐倉杏子は、歩きながら、ぽつぽつと言葉を交わしていた。
 あまり声を張る必要はない。
 時間のこともあって、不気味なくらいに静かだった。

「何時くらいに連れてかれたの?」

「昼前。たぶん」

 その時の自分の行動を思い返してみても、そう時間が経っていた記憶はない。
 せいぜい正午というところだろう。

「平日だよね。サボリかよ、優等生」

「そんなんじゃないわ」


 言ってから、どちらを否定したように聞こえただろうと思って。
 あわてて付けたした。

「そういう言葉は、もっと適切な人がいるでしょう」憎まれ口になった。

「まあ、あいつはクソまじめだからな」

 特に名前も出してないのに、通じる辺りがさすがと言うべきか。
 きっとサボリなんて欠片も知らないだろう。

 今も多分、夜の再集合に向けてあれこれと情報を集めているのだろう。
 もしくは私たちを見送った後、先んじて辺りを見回っているのかもしれない。
 そういうところは、ずっと変わらない。


 あなたが一人暮らしをすると伝えた時、どんな反応だったの?と聞いてみた。

「慌てふためいて部屋にとじこもってたよ。忘れて欲しいみたいだけども」予想通りの答えが返ってきた。

 ふふ、と笑って、じゃあ聞かなかったことにするわ、と言って。
 目を瞑って、そんな巴マミの様子を想像してみて。
 佐倉杏子も自分と同じように、笑っているのだろうか、と横を見た。
 
 横には。
 
 先ほどまで声を交わしていた相手の影もどこにもなくて。

 その代わりに。

 美樹さやかが、いた。



 思考は、凍った。
 なんで。いつの間に。どうやって。
 瞬時に疑問が浮かんでは解決しないまま消しとんで。

「っ!?」

 ただ、反射として地面を蹴り、距離をあけた。
 それ、はもう、彼女であるはずがないのだから。
 
 そしてようやく、辺りを見渡した。
 遅れて全身の鳥肌が一気に立った。
 心臓を鷲掴みにされるような感覚とは、こういったものだろうか、なんて。
 そんな下らないことに一瞬、頭を持っていかれた。


 連れ込まれていた。
 そこはまた、あの空間だった。
 少しだけ違いがあった。
 塀も何もなくて、ただ一面に果てのない地平線が広がっていた。

 セピア色の空。
 灰色の地面。
 それだけの世界。

 目がおかしくなったかと思うけれど、どれだけ首を振ってもそれは変わらない。
 いや、一つだけ変わるものがある。
 視界の中心、ついさっきまでいたはずで、今はもういなくなって、代わりに居る人物――――


「っあ、え、ほむら!?」素っ頓狂な声が聞こえた。

 


 発したのは正面に立つ彼女から。
 それを言ったのは。

「……杏子!?
  あなた、どこへ、いやそれよりも、っ」

 一瞬だけ見えた美樹さやかは、また影も形もなくて。
 自分と同じように、距離を開けて、戦闘態勢として武器を構えて、佐倉杏子がそこに居た。
 その顔は、縁起でも何でもなく、大混乱に陥っているようだった。

「こ、こっちの台詞だっての!?
  いやだって、ついさっきまでお前がいたところに、あ、あいつが、っでも」


 混乱する佐倉杏子の様子は、私とほとんど同じだった。
 支離滅裂な言葉を交わすけれど、互いにまるで意志疎通ができそうな感じではない。

 それは私も同じ。
 ただのひと時のあいだ見てしまったもの。
 あの一瞬の衝撃が、今更ながら精神に襲いかかってきた。
 全身に嫌な汗と、動悸と、それらが今は失われているという安心感。
 
「……とりあえず」

 座りましょう。
 そう提案して、私たちはほとんど崩れ落ちるように、その場に腰を下ろした。
 まかり間違っても同じことが起きないよう、手を堅く握り交わして。



 ◆


「……整理しましょう」

 そう言った私の声は、驚くほど細々しいものだった。
 胡坐をかくように座り込んだ佐倉杏子もまた、驚きを顔に張り付けたまま、弱々しく首肯する。

「ここは、結界の中」

 互いに顔をあげて、相手の向こう側に広がる世界を見渡す。
 広がるのは無機質で余所余所しい無限の地平。
 本当は後ろまでを見渡したい所だったけど、もう視線を切る勇気はなかった。


「巻き込まれた瞬間、私たちはお互いの代わりに別のものを見た」

 反応からして、何かを見たことは間違いない。 
 問題は、何が見えたか。

 私は言い淀んだ。
 言葉を引き継いだのは、佐倉杏子だった。

「さやかだった」

 どこか放心したように。
 それでいて力強く、確信を持って彼女は言った。
 だけど私は、それを否定する。


「いいえ。違う」

「……なんか、別のが見えたのか?」

「同じだと思うわ」

「同じじゃねえだろ。あたしは見間違えてなんて」少しムっとしたような口調で、佐倉杏子が反論する。

 そう考えたくなる気持ちは痛いほど分かるけれど。
 そういうことが起きることはないと、それもまた、骨身に染みて分かっているから。
 だから、告げる。


「そうね、あれは確かに美樹さやかだった」

 見たものに間違いはない。
 私だって、そう確信はしている。

「だけど忘れないで。
  あれは美樹さやかだった『もの』でしかない」

 確信しているからこそ。
 ありえもしない希望には、縋れない。



 しばらく、反応はなかった。
 やがて、乾いた音がした。

 ぱしん。
 取っていた手を、佐倉杏子が叩いた音だった。

 そのまま手は離れていって。
 佐倉杏子は言った。

「お前、どうしてそんなこと言えるんだよ」

 声は少しだけ震えていた。



 ああ、やってしまった、と思う。


 口から出た言葉はもう、取り返せない。
 非難の声に二の矢はない。
 絞り出されるような声が、彼女の想いの全てを物語っていた。

 謝ろうと思った。
 でも、そんなことをして何になるだろう。

 だから代わりに。
 背を、向けた。


「どこ行くんだよ」佐倉杏子は苛立ちを隠さずに言う。

「行くべき所に」出来るだけ感情を抑えて、私は返す。

「何しに」

 私は答えなかった。
 どう答えても、きっと彼女を不快にさせてしまうだけだろうと思った。

 カツン。
 踏み出した私の靴音が、世界に響いた。
 それだけの音が、私の背筋を震わせる。



「……」


 足音は、すぐに重なった。


 カツン、カツン。

 スタ、スタ。

 カツン、カツン。

 スタ、スタ。


 臭いは、すぐに生じた。
 私の後ろから、湧き立つように。


 だけど今回は、違いがあった。
 そこに混ざる何かがあった。

 それは空から。
 雲も何もない、ただペンキを塗りたくったような不気味な空から降ってきた。

 ポツリ、ポツリ。

 ざあざあと激しく降るでもなく、かといって霧雨のように静かでもなく。
 ただ違和感として存在を認識できる程度に、それは降り始めた。

 冷たくは、なかった。
 ぬるかった。
 気持ち悪い、なまぬるさだった。


 カツン、カツン。

 スタ、スタ。

 ポツリ、ポツリ。

 靴音と、雨音が、決して混ざらずに響き合う。
 行進曲としてはきっと最悪だった。
 そして雨などまるで関係ないとばかりに、その腐臭はなお際立った。

 額を雨粒が叩いた。
 それは弾けて、すぐに消えた。


 足元にはいくつもの水溜りが出来ていた。
 それは何も映していなかった。
 赤黒く濁っているそれを見て、雨の色に初めて気付いた。
 水面に水滴が落ちて、いやな色の波紋を作っていた。

 べちゃ、と音が立った。
 足をそのうち一つに突っ込んでいたが、構わず引き抜いた。
 水飛沫が立って、あたりに飛び散った。

 私は全てを意識の外に追いやって、ただ歩く。
 臭いが最も強くなる場所まで。
 振り返りたくなる心を殺して、ただ歩く。
 

ちょっと体調が芳しくなくて、明日の更新は難しいかもしれないです
その場合は一日飛んで月曜夜にまた


雨の色自体が赤黒いのか……臭いがしないだけマシというべきか

改変後っていうから映画版の後の話かと思ったけど、アニメの後って意味なのね

体調崩される程怖い事考えてるんですか……続きが気になって具合が悪くなりそう



「……学校……?」

 私の声は返事もなく、ただ世界へと吸い込まれていく。
 そんなことに意を介している暇はなく、私の眼は正面へと釘付けになっていた。
 声を発した口は、開きっぱなしで閉じることを忘れていた。

 白い校舎が、ぽつんと空間の中に鎮座していた。
 違和感のかたまりのようなそれが。
 まるで私を待ち構えていたように。

 時計は止まっている。
 窓は閉め切られて、明かりもない。
 雨が降り注いでいるはずなのに、壁には濡れた様子もない。 
 フェンスも校庭もなくて、建物だけがそこにあった。


 見るからに怪しかった。
 正直に言って近付きたくもない。
 しかし、入らなかったら、またあの空間をさまよい歩くだけ。

 どうするべきか。
 葛藤は、一瞬。

「……入るしか、ないわね」

 言い聞かせるように、そう呟いた。
 いつもより巨大に見える校舎は、当然のように何も答えない。
 
 小雨はなおも降りやまない。
 腐敗臭は、一層ひどくなっていた。 


 最初に足を踏み入れるのは、昇降口。
 私がここを利用するような時間には、いつも誰かがいた。
 当然、今は誰もいるわけもない。

 傘置きががらんと空洞を晒していた。
 金属棒で組まれたそれからは、どこか冷たい印象を受けた。
 いつもは上履きか外履きで一杯の下駄箱にも、何一つとして入っていない。

 私は靴も脱がず、土足のまま床に足を乗せた。
 雨に濡れた靴痕が、くっきりと残る様子が見て取れた。


 じゃり。
 泥を踏み潰す音が、足音になってあたりに響く。

 まだここには、外からの光が届いていた。
 しかし数歩進めば、その先には廊下がある。
 そこに光が届いているかどうかは、分からない。

 じゃり。
 泥と靴痕を残して、私は中へと進んでいく。

 じゃり。
 後ろからもう一つの足音が、聞こえたような気がした。


 窓も教室の扉も閉め切られた廊下は、当然のように灯りも落とされていた。
 スイッチを入れてみたけれど、無駄な抵抗だった。

 窓を通して外から明りが供給されているために、この辺りは真っ暗という訳ではなかった。
 ただ、その窓が、よくなかった。

「……勘弁してほしいわね」

 外は、バケツをひっくり返したような土砂降りになっていた。 
 さっきまでの小雨が嘘のよう。
 大粒の雨が窓をひっきりなしに打って、激しい音を立てていた。


 だんだん。だんだん。
 まるで見えない手が外から窓を叩いているようだった。
 どんどん。どんどん。
 弾けた赤黒い雨粒は窓の上に広がって、妙な図形を作って消える。
 私にはそれが、指のない子供の手のひらのようにしか見えなかった。

 さすがに気味が悪くなって、窓から距離を置いて教室側に立った。
 それでも容赦なく浴びせかけられる騒音に、頭がおかしくなりそうだった。
 
「……やめ、っ」

 無意識に吐いた弱音は、一際大きな音に掻き消される。
 思わず閉じてしまった目を、開けるのにも、ひと苦労だった。


 だんだんだんだんだん。

 どんどんどんどんどん。

 音が滑稽なくらいリズミカルに響く。
 もう窓のほうを直視する勇気は無かった。

 とにかくこの場を離れたいと。
 その一心で、視界の端に移ったどこかの教室のドアを開けた。
 もしかしたら開かないかとも思ったけれど。
 それは抵抗なく開いて、私を中へと滑り込ませた。


 引き戸の向こう側。
 何も考えずにそこをくぐった私は、自分の目を疑った。

「……病、院?」

 思わず口にしてしまった光景が、目の前には広がっていた。
 待合室と窓口と、それから病室に繋がる廊下も見える。
 非常灯の緑色の灯りがぼんやりと点いていて、あたりはうす暗くもほの明るい。

 慌てて後ろを振り返る。
 自分が来たはずの道、あったはずの見滝原中学の校舎を求めて。
 だけどそこには、窓のない、無機質な灰色の廊下があるだけだった。
 しばらく私は、そこで呆然と立ち尽くしていた。


 少し、温度が低いようだった。
 ようやく落ち着いた頭に浮かんだのは、そんなことだった。
 ひんやりとした空気を背筋に感じて、私は思わず身体を震わせる。

 風があった。
 ここまで、その兆候はなかったけれど。
 病院の中を空気が、対流しているようだった。

 なぜ病院に、とはもう考えなかった。
 ここが結界の中だというのなら、その程度のことで驚く方がおかしいのだろう。
 


 風の存在について、考えられることは二つ。
 どこかの通用口が外に通じているか。
 もしくは、誰かがどこかで派手に暴れているか。
 空気が掻き回される理由は、それしかない。

 前者だとしたら、何の手掛かりにもなりはしない。
 だけど後者ならば、そこが私の目的地になる。
 
 肌をなぞる粒子の流れが、いやに鼻につく。
 いつまで経っても慣れそうにないその腐臭には、どこか潮の匂いが混ざっているように感じた。


 カツ。
 泥も落ち、雨も乾いたのだろうか。
 足を踏み出すと同時に、いやに鮮やかな音があたりに響いた。

 足の先は、風の向こう。
 視線の先には、階段に通じるドア。

 暗い病院の中を、手探りで歩く。
 何かに触れて、それが無機質なただの物であることに安堵する。
 その繰り返し。


 コツン、コツンと、一段ずつ。
 私は階段を下りていた。

 風の流れは、下からだった。
 それに気付いた時、少しだけ身体に力を入れたと思う。

 私は縦の移動をしていないし、今居る病院のフロアも一階のそれ。
 その状態で下から吹き上げる風は、何を示しているのだろう。

 明確すぎるほどに、空気が濃くなっていた。
 湿り気と腐臭を帯びた風は、私の髪にまとわりついて、なかなか離れない。
 時折振り解くように身体を揺すってやらないと、不快さに耐えられそうになかった。


 階段を降り切った。
 半開きのドアの向こうは、もう地階だ。
 
 取っ手は妙に温かかった。
 構わずにそれを持って手前に引くと、ギギギと嫌な音を立てながら、開いていった。

「誰!?」

 耳をつんざく大声が、ほとんど物理的に私の心臓を叩いた。


 ふら、と、足元が揺れた。
 視界が斜めに傾いで、そのまま落ちていく。
 その隅っこに、なんとか、その声の主を捉える事が出来た。

「え、あ……暁美さん?」明らかに安心した様子の声が聞こえた。

 私は尻餅をついて、見上げるような姿勢から、声を返した。
 若干の恨み節を込めながら。

「驚かせないで欲しいわ。巴マミ」


 心臓が止まりかねないくらいには驚いた。
 ただでさえ異常に薄気味の悪いこの空間で、神経を張り詰めさせた状態で。
 風船に針を指すような一声を浴びたのだから、たまったものではない。

 平静を辛うじて声には保っていられたと思うけど。
 腰を抜かしたこの体勢では、格好もつかない。
 
「こ、こっちの台詞よ……もう。
  二人といきなり連絡が取れなくなって。
  慌てて探し回ってたら、こんな巨大な結界があって。
  キュゥべえがいてくれたおかげで、なんとか一人にはならずに済んだけど」

 やたらと早口に説明する様子からして、相当に心配していたのだろう。
 少しだけ申し訳ないと思った。


「君一人かい?
  佐倉杏子も一緒にいるかと思ったんだけれども」

「杏子は……その」

 インキュベーターの問いに、少しだけ言い淀む。
 その間をどう解釈したのか、巴マミの顔がたちまち真っ青になっていって。
 慌てて二の句を継いだ。

「……怒らせちゃって。
  今は、別行動してるだけ」

 佐倉杏子も、心配ではあるけれど。
 この臭いがここにあるなら、彼女に危険はそうないだろう。


 それで少しだけ安心してもらえたようだけど。
 しばらくして、何で怒らせたの、と聞かれた。
 答えづらくて黙っていたら、はあ、と溜息交じりに言われてしまう。

「まあ、今はやめましょう。
  とりあえず、現状をなんとかすることを考えないと」
 
 ごめんなさい、と一言謝って、立ち上がった。
 巴マミも同じタイミングで腰をあげた。

「現実の病院と、ほとんど同じみたいなのよね。
  上から一通り探索してきたけど、逆に不気味に思えるくらい」


 巴マミはあたりを改めて見渡しつつ、そう言った。
 この病院を全フロア見てきたと。
 下手をしたら魔女の結界よりもよほど不気味ではないかと思うくらいのこの空間を。
 ……お互い、麻痺しているな、と思う。

 学校のことは、言わないでおこうと思った。
 それを知らせた所で、ここの探索に有用なものはないだろう。
 それよりも、聞いておきたいことがあった。

「鼻、大丈夫?」

「……正直、キツイわ」

 そう返す顔は、正直に嗅覚の辛さを物語っていた。
 ドアを開けた瞬間から、それは明確に強くなっていた。
 同時に響いた声のせいで、意識がほとんどそちらに持ってかれていたけれど。


「最初は何ともなかったんだけど。
  少し前あたりから、いきなり臭い出して……もう、息をするのも辛いわ」

「どのくらい?」

「十分かそこらじゃないかしら」

 だいたい、私がここに飛ばされた時間と一致している。
 ということはつまり。
 そういうこと、なのだろうか。

 ふと、後ろを見た。
 地上へと繋がる階段は、闇の中。
 そこには誰も居ないし、私のつけた足跡以外は残っていない。


「……そう」

 会話を打ち切って、歩きだす。
 慌てて、巴マミが付いてくる。

「この臭いは、あなたが前に感じたというものと同じなの?」巴マミはそう言った。

「ええ」即答で返す。

 間違えるようなものではない。
 それが強く、近くなっていくことも含めて、同じだ。

 そして、この場所。
 はじめに学校、そして病院。
 これらの共通項として思い当たる節は、ありすぎるほどにある。


 上階とは違い、灯りらしい灯りがどこにもない地階。
 ほぼ真っ暗に近い世界。
 その中を私たち三人が歩いている。

「……巴マミ、あなた、一人で病院中を歩き回っていたの?」

 何となく、思っていた疑問をぶつけてみた。
 横を歩いていた彼女は、きょとんとしたように答える。

「ええ、そうよ。
  そもそも最初は、普段の結界と同じだと思ってたから。
  それに実際、ここまではおかしな感じもなかったし、キュゥべえもいたし……」


 あっけらかんと答える様子に、強がっている感じは見られない。
 やっぱりどこか、慣れというものがあるのだろうか。
 ただ、巴マミはそこで言葉を切らなかった。

「……だけど。
  今は、ちょっと違うわ。
  なんだか、気味が悪いし……正直言って、暁美さんが来てくれて、よかった」

 そう安堵を覗かせる声色に、むしろ私は緊張を纏う。
 巴マミの言う悪寒はきっと、私の持つ気色の悪さと同じだったから。

 病院の地下はさほど大きくない。
 いくつかの行き止まりを潰していって、やがて私たちの足はある部屋の前で止まった。


 霊安室。
 そう書かれたプレートが、ぼんやりと光っていた。

 ぽたり。
 水滴の落ちる音が聞こえた。
 ここは地下の屋内で、雨など入りこむはずもないけれど。
 今にも頭の上から大粒の水滴が、落ちてくるような錯覚を感じた。

 巴マミと顔を見合わせて。
 私は、そのドアノブをひねる。


 負圧になっていたのか、中から大気が噴き出してきた。
 風の源は間違いなくここだった。
 強烈な勢いに、足に力を入れて踏ん張らなければ、飛ばされてしまいそうだった。
  
 空気はすべて、あの臭いを纏っていた。
 ほとんど質量を感じるくらいのそれ。
 それをどう呼ぶべきか、私たちは知っているはずだった。

「……瘴気」

「間違いないね」インキュベーターも、短く同意を返した。


 私と巴マミは、足を部屋の中へと進めた。
 お互いに言葉をかけることもなく。
 ただ直感的に、そうしなければならないと感じていた。

 思ったよりも広い部屋だった。
 それは縦にも横にも、そして高さにも。
 全貌はまだ、よくわからない。

 そして次第に、突風が晴れて。
 ゆっくりと闇の向こうが、闇に慣れた目によって、明かされていく。


「暁美さん」

 何かの塊が見えた。
 
「わかってる」

 横に長いようだった。

「辺りにも注意して」

 凹凸があった。

「わかってるから」

 部屋の中心に横たわっていたそれが。
 何であるのか、ようやく私たちは視認する。
 
 美樹さやかの、亡骸だった。


 言葉は無かった。
 ただ、重い空気とよどんだ臭いは、ここが終点であると雄弁に語っていた。
 
 私も巴マミも、動けない。
 凍りついた私たちの目の前で、さらに衝撃的な異常が始まった。

 ばき、ばき。
 嫌な音が、何かが生えてくるような音がして。
 部屋の中央に横たわる美樹さやかの遺体から、光と一緒に何かが覗く。

「……何!?」

 巴マミの声に、応える言葉はあるはずもない。
 私はただ、その冒涜的な光景を、見ていることしかできなかった。

 握る拳に、じっとりと汗が滲んでいた。
 それは何を表したものか。
 今の私に、それを考える余裕はない。


 小さな身体から、めきめきと何かが生えてくる。
 白と青の醜悪なモザイクアート。
 最初に見えたのは下半身。
 人魚の尾びれのあちこちから、魔獣が、まるで廃材にたかる茸のように生えてくる。
 その上に乗せられた上半身。
 甲冑の隙間に無機質な白色の何かが詰められて、ところどころから収まり切らず溢れ出ている。
 両腕に握られた片手剣は赤黒く錆びて、光沢もない。
 最後に、頭部。
 あの、何度も、何度も見ることになったそれは、もう面影をわずかに残すのみ。
 そのほとんどは腐り落ちて、かろうじて下顎だったらしい何かが見えた。
 


「……魔獣であることに、間違いはないね。
  おそらく、美樹さやかの骸の中に入り込んで、影響を受けたのかな」

 私も巴マミも、ただ目の前の光景を咀嚼することに必死で。
 吐瀉物を口の中に収めることにいっぱいいっぱいで。
 インキュベーターの言葉に、耳を貸している余裕がない。


「もちろん、美樹さやかの魂はあの中にはない。
  だけど、魂をなくしたあとの身体に、鋳型が残っていてもおかしくはない」

 頭の中で、ピースが少しずつ組み合わさっていく。
 この世界に漂っていたあの魔女の記憶。
 この世界を象っていたあの少女の記憶。
 そして、目の前にいるこの異形の魔獣。
 ここはきっと、彼女の想い描いたはずのコンサートホールの、なれのはて。


「彼女が力尽きたのが、魔獣の結界の中だったせいかな。
  それにしても、こんな例は過去にも見たことがないけれど」

 言葉は出せなかった。
 ただ、目の前に広がる現状が、現実であると理解して。
 私には、そこが限界だった。

 凍りつく私たちに向けて。
 その醜悪な合成獣は、ようやくやってきた獲物に向けて。
 手にした武器を、無造作に降りおろした。
 



「よけろバカ!」

 横から聞き覚えのある声と、力を受けて。
 私は巴マミともども弾き飛ばされて、なんとか魔獣の一撃を受けずに済んだ。

 混乱した頭は、その声の主を認めてからようやく。
 自分たちが死ぬ一歩寸前だったことを、理解した。

「佐倉、さん」まだ衝撃冷めやらない、といった様子の巴マミ。

「杏子、あなた、なんで」

 それは私もだった。
 全てを無視して、何の意味もない問いを投げ掛けてしまうほどに。


「後にしろ!
  それより、あいつだよ、何なんだ!?」

 さらに杏子は被せるように、私たちの声をかき消した。
 私はのろのろと、その声に引かれて、そちらを見る。

 目が合った。
 どこから出ているのだかもう分からない、無数の目と。

 美樹さやかの魂の鋳型に流し込まれた、魔獣の群れ。
 そいつらに感情などないだろう。
 あるわけもない。
 そのはず、なのに。


 すべての眼が、私を見て。
 嗤ったような気がした。

 次の瞬間。
 感じたのは、光。

 それから、怒り。


 避けられない、と思った。
 視界に映るそれらすべてが光を集めて、空間を突き破る音が聞こえた。

 でも、避けようなんて、もう頭に無かった。
 瞬時に沸騰した頭に、そんな悠長な選択肢は無かった。

 なんだろう。
 ほんの少しだけ残った冷静な私が、外から、激昂する私を見ていた。

 目の前のそれが。
 どうしても、許せなかったんだ。

 この世界に魔女はいないのに。
 この世界に、その死を弄ばれる魔法少女は、いないはずなのに。


 『それは』

 『あの子の骸を』

 『あの子の願いを』

 『あの子たちの想いを』

 『こんなにも、無残に、弄んで、侮辱して』

 『嗤っている』


 立て続けに、頭を殴り付けるように、フレーズが脳裏にフラッシュバックしては消えていく。
 衝撃に揺れる私の元に、光が届く。
 私の命を狩り取ろうと、迫っている。

 何か叫ぶ声が聞こえた。
 早く逃げろと、そんなことを言っているようだった。

 頭を殴られたような衝撃が、走り抜けた。
 視界は、真っ黒に染まっていった。



 ◆


 暗転した世界。
 やがて、そこに亀裂が走る。
 それは私の正面に、縦に、ゆっくりと。

 開けていく視界には、何も変わらず鎮座する異形。
 開いていくのは、闇を極彩色で継ぎ合せたような何か。
 それが私から生えていると気付くのに、しばらく時間がかかった。
 繭のように私を包み込んで、魔獣の攻撃から私を防いだとも。


 ただ一つさえ分かればよかった。
 それが自分の意のままに動いて、目の前のあれを倒す助けになるのであれば。
 今の私に、それ以上の情報は、必要無かった。

「暁美さん、大丈夫!?」巴マミの声が聞こえた。

「大丈夫」短く返して姿勢を落とすと、闇も追従して降りてくる。

 何だ、それ、という佐倉杏子の声も聞こえた。
 私はそれには答えず、代わりに二人へ頼みごとをする。

「援護して」

 返事は聞かず、足元の床を思い切り蹴った。
 滲み出るように広がる闇から爆発的な推進力を得て、私の身体は前方に吹き飛んでいく。
 敵の所へと、一直線に、地面すれすれの高度で。


 ぎりりと、鎧が嫌な音を立てた。
 それは緩慢ながらも巨大な右腕を、振り上げて、重力のままに振り降ろした。

「ちょ、ちょっと……もう!」

 慌てたような、少し怒ったような巴マミの声が、左から聞こえた。
 私はそれを確認すると、一切の回避行動を取らずに突き進んでいく。

 炸裂音がいくつか、立て続けに聞こえた。
 巨体の腕の付け根が弾けて、そこから先が吹き飛んでいた。
 明後日の方向に腕ごと剣が落ちて突き刺さって、強烈な音を立てた。


「……お前、後で一発殴らせろな」

 やたらとドスの利いた佐倉杏子の声も聞こえた。
 いつの間にか私の右を並走している彼女に、心の中で謝っておいた。

 少し遅れて振り降ろされた鎧のもう片腕は、床から生えた槍に突き刺さって止まった。
 佐倉杏子はその腕を駆け昇っていって、私の側方から消える。

 そして、私はそれの目前に迫る。
 もう一度と言わんばかりに、魔獣どもが光を放つけれど。


「返すわ」

 闇を広げて全てを吸いこんで、一本にまとめて返してやった。
 真っ黒に染まった極大の光が胴の中央を貫いて、向こう側の空間に消えていく。

 その中では蛆のように魔獣が蠢いていた。
 襤褸雑巾のようになった魔女の骸とは対照的に。
 とても元気そうにうじゃうじゃと。

 どうしよう。
 そんなこと、決まっていた。


「ちょっと、我慢してね」

 呼び掛けた声を聞く相手は、もうこの世に居ない。
 だからきっと、躊躇する理由はない。

 背から生える闇を伸ばして。
 鎧の内側へと挿し込んでいく。
 手当たり次第に魔獣をぶつりぶつりと千切りながら。
 その中が空洞になっていることに、寂しさを覚えずには居られなかった。


 やがて、鎧の中にいた全ての魔獣どもに翼が届いたと感じて。
 私は力を爆発させた。

 轟音と共に、何もかもが粉々に砕けた。
 痛々しい魔女の亡骸も。
 憎々しい魔獣たちも。
 何もかも。


 そして私は揚力を失い、下へと少しずつ落ちていく。
 魔女の骸と魔獣の巣を生やしていた根元へと。
 美樹さやかの遺体のところへと。

 それは少し、傷んでいた。
 臭いの本体は魔女もどきの下半身だったけれど。
 どうしても、相応の時間が経ってしまっていたから。

 地面に降りた私は、手を伸ばした。
 戦いの余波で、瞼が半開きになっていた。

 せめて、それを閉じようと。 
 


「まだよ!」

「結界消えてねえぞ、油断すんな!」

 巴マミと佐倉杏子の声が響いた。
 予期していなかったそれに私は驚いて、思わず身体を強張らせる。

 それと同時に、魔獣が一柱、美樹さやかの身体から生えた。

 もう力を溜めていたようで、口に光が集まっていた。
 
 ああ。

 まったく、本当に、こいつらは――――


 思いっきり、掌を開いた。
 その勢いで、私は魔獣の顎を鷲掴みにした。

「残念ね」

 あと少し彼女たちの声が遅れていれば、私を殺せたのかもしれないのに。
 口を閉じられた魔獣はエネルギーのやり場を失くして、何かを焼き焦がしたような音を立てた。

 そのまま、残りの力全てを五本の指に込めた。
 めきばき、ぼきん、と嫌な音を立てて、魔獣の頭を握りつぶした。

 今度こそ、結界が音もなく消えていく。
 揺らめく世界の中で、私は一つの手をしっかりと握っていた。



 ◆


「……そっか」

 そんな声が、駅のホームに響いた。
 巴マミが、キュゥべえと一緒に佐倉杏子へ説明を終えた所だったらしい。

 結界の解けた場所は、いつかと同じ駅のホーム。
 どうしてそこに放たれたのかは、なんとなく分かる気がした。

 私はずっと、座り込んでいた。
 どこか意識が散漫として、説明には加わらずにいた。
 物言わず横たわる手をとって、そのままでいた。


「じゃあやっぱり、あれは、さやかじゃなかったんだな」

 わかっちゃいたけどさ、という佐倉杏子の声。
 ええ、という巴マミの声も、どこか小さい。
 そうだね、と返すインキュベーターの声だけが、いつも通りだった。

 私はゆっくりと、そちらを見た。
 こちらを見ていた佐倉杏子と、目があった。

「殴りたければ、殴っていいわ」

 そんな言葉が、口から飛び出た。
 声を受けた佐倉杏子は、無表情のまま、こちらへ歩み寄ってきた。


 ちょっと、と言いながら慌てて巴マミも来る。
 私は座ったままの姿勢から、のろのろと佐倉杏子を見上げた。
 逆光のせいで、その表情は見えなかった。

「……殴んねえよ」

 そう言って佐倉杏子も座った。
 私の前にではなく、かつての魔法少女の、仲間の前に。

 人騒がせな奴だよな。
 死んじまっても、こんだけあたしたちを振りまわしてさ。
 そして、そう、ぽつりと言った。

 そうね、と私も返した。
 そこで会話は切れて、誰も何も言わなかった。


 少しの時間が経って。
 私は、ゆっくりと立ち上がった。
 美樹さやかの手を、とったまま。

 命をなくしたそれは、とても冷たくて、とても重い。
 だらりと片手に引きずられるように上半身が垂れ下がった。
 私は脇の下に肩を入れて、もう片腕も空いている手で引き上げる。
 そのまま身体を持ちあげて、膝に手を通して、重心を自分の腰の上に置いた。

「……お前」

 佐倉杏子が、どこか戸惑うように声をかけてきた。
 私は後ろを向いたまま、それに答える。

「連れていくわ」

 どこに、とは言わなかった。
 それできっと、通じると思った。


 しばらく、佐倉杏子は返事をしなかった。
 ちょっとしてから、わかった、とだけ返ってきた。

「ちょっと待って、暁美さん」代わりに、巴マミが引きとめてきた。

 巴マミは少し小走りに駆けてきて。
 私の背中で眠る美樹さやかに、軽く触れた。

「綺麗な顔で、届けてあげて」

 魔力が少しだけ、流れたようだった。
 その気遣いを、素直に有難いと思って。
 私は、ありがとう、と小さく言った。


「ずるいよな、あいつ」

「そうね、ずるいわね」

 そう言う二人の声が聞こえた。
 私も、そうだな、と思う。

 そして、歩きだした。

 二人分なのに、一人分の重さ。

 どうしてだろう、とても重い。

 からっぽのはずのそれが、とても重い。



「あなたとは、結局、喧嘩ばっかりだったわね」


 思い返せば、ただの一度も。


「嫌いだった訳じゃないのに」


 手を組んでも、組まなくても。


「私が手を下したのも、きっと両手の指じゃ足りないわ」


 その瞬間はやっぱり、痛かったのだろうか。



「謝りたくても、あなたはすぐに」


 思い込みと正義感が強くて、私とはまるきり反対で。


「この世界でさえ、あなたはこうしていなくなって」


 声を交わすことすらなくて。


「だけど」


 だけど。



「美樹さん、私、あなたのことが羨ましいです」


「こんなことを言ったら、罰が当たるかもしれないけど」


「思いに殉じて、願いを叶えたあなたが、羨ましいです」


「たとえ死んでしまうのだとしても」


「その意志を貫けるほど強かったあなたが、うらやましいです」



「だから、どうか」


「あっちの世界で、あの子のことを、護ってくれますか」


「その強さで、その手で、あなたのかけがえのない親友のことを」



 ◆


 いつの間にか、私の足は、私たちを目的地へと運んでいた。
 重さに息は切れて、足は震えて、腕も悲鳴をあげて。
 なんとか、私は美樹さやかの家に辿り着いていた。

 背に彼女を抱えたまま、私はインターホンに向き直る。
 その手が動いてボタンを押してくれたなら。
 そんな甘えた考えが脳裏を過ぎって。
 乾いた笑いすらも、漏れることは無かった。


 片手に何とか支えて、私は呼び鈴を鳴らす。
 しばらくの静寂の後、はーい、と声が返ってきた。

「暁美、です」

 ほむらちゃん、こんな時間にどうしたの?
 そう言う美樹さやかの母の声は、少しだけ眠そうだった。

「さやかさんを、連れて来ました」

 声は、震えた。
 背中の冷たい重みは、何も語らない。


 すぐにドアが破れるような勢いで開かれて。
 私と、私の背中に眠る娘とを見た彼女の両親は、喜びの余り破顔して。

 私は、目を伏せる。
 何も言えず、何も返せず、ただ沈黙して。
 心の中で、ひとつ。
 ごめんなさい、と。 

また明日に


厄介なことになる事を分かっていただろうにあえて名前を告げて届けたのはけじめなのだろうか

告別か……

よかったら完結後に過去作教えて


 ひどい自己満足だと思う。
 だけど、せめて。
 人としての死を、あげたかった。

 それが結果的に、きっと沢山の人を傷付けた。
 何が正しかったのかなんて分からない。
 ただ私は、自分の想いに従って、そうしただけ。
 もしも私を罵る人がいたとしたら、どんな誹りも甘んじて受けるのだろう。


 ただ。
 いなくなってしまったことすらも気付かれずに。
 その生をまるごと誰かに譲り渡してしまうような最期を迎えた子を、私は知っているから。

 そう、なってほしくはなかった。
 やっぱり、自己満足なのだろう。

 立ちぼうける私に、かけられる声があった。
 私は少しだけ顔を強張らせつつ、そちらを向く。


「ほむらちゃん、来てくれてありがとう」

「……」
 
 一つ、お辞儀をした。
 上下を黒の喪服に包んで。
 対面する相手は、美樹さやかの父親。

 ここは告別の式場。
 命なき人と、生ある人が、別れを告げる場所。



 ◆


 あの夜は、とても長かった。

 私は美樹さやかの遺体を抱えて、玄関口で、何も言えずにいた。
 何も言わなかった、というのが正しいかもしれない。
 何を言っても嘘になってしまうから。
 だから最初から、そう決めていた。

 私の様子がおかしいことに、美樹さやかの両親はすぐに気付いた。
 とりあえず重いだろうと、私から愛娘を引き取ろうとして。
 悲鳴が上がった。


 しばらくして、救急車が来て。
 全員でそのまま病院に行って、しばらくしたら病院に警察が来て。
 私は第一発見者、兼、容疑者として、連れていかれた。

 そこでも私は、ただの一言も喋らずに。
 時間の経過も忘れながら、じっと息を潜めていた。

 一晩明けたか、二晩明けたか。
 それくらいのところで、私は解放された。
 そこで何かしら言われたような気がしたけれど、何も聞いていなかった。


 家に帰って横になろう。
 それだけ考えていた私の目の前に、見慣れた影が現れた。

「暁美さん、おつかれさま」

 巴マミ。
 そう呼ぼうとして、言葉が出なかった。

 あんまりにも黙りこくっていたから、喉が声の出し方を忘れてしまったのだろうか。
 情けなさ過ぎて、顔が自嘲に歪んだ。
 
 そんな私を見て、何を思ったのだろう。
 巴マミは何も言わない。

 ただ、きっと待っていてくれたのだと思う。
 そうでなければこんなに都合よく、釈放早々に出くわすこともないだろう。
 


 頭を一つ下げて。
 だけど、それ以上に関わりを持ちたいと今は思えなくて。
 脇を通り過ぎた。

「今日が通夜で、明日が告別式」

 通り過ぎて。
 背中越しに、そう言われた。

「来て欲しいって。
  確かに、伝えたわよ」


 そのまま、巴マミの足音が少しずつ遠くなっていく。
 言い逃げなんて、ずるいことをする。
 私の答えも聞かぬままに、行ってしまった。

 もう日は沈んでしまっていて。
 ずいぶんと長い時間が経っていたような気がした。

 しばらく私は立ち止まって、また歩き始めた。
 自分の家に向かって。



 ドアを乱暴に開けた。
 込めたつもりの力の割に、それはゆっくりとしか動かない。
 
 靴を適当に脱いで、持ち物を適当に放り投げて。
 それらが勢いのまま転がるのに何の気も払わずに、私はベッドに倒れ込んだ。
 外を歩いていたせいで汗をかいていて、それが蒸して気持ち悪かった。

 カーテンも開けっ放しで、部屋には月明かりが薄く差し込んでいる。
 私は天井を見上げていた。
 五十センチ先がギリギリ分かるくらいの暗さの中で。
 ゆっくりと眼が慣れていくのを待っていた。


 静かだった。
 とても久し振りに、何の音も声も無かった。

 視力の矯正に使っている魔力を、解いてみた。
 とたんに視界は滲んで。
 自分の輪郭も分からなくなって、また私は私を見失う。

 立ち上がってみた。
 数歩歩こうとして、すぐに足元の何かに蹴躓いた。
 派手な音を立てて私は転んで、思い切り頭を打った。


 いたいなあ。
 そう言おうとして、言えなかった。

 じんじんと痛むおでこを抑えて、私は床の上で仰向けになった。
 頭を窓の方に向けて、少しだけ除く夜空を見ようとした。
 素の視力のままでは、見えているのが雲なのか空なのか、それすら分からない始末だった。
 
 声の出せない唇で、言葉を描いた。
 ずるいよ、と。
 
 私はそのまま、意識を無くした。



 ◆


 そうして、一夜を固い床の上で明かして。
 朝起きて、巴マミから携帯に送られていた地図に従って、ここに来ていた。

 美樹さやかの父親は、忙しそうにその場を離れていった。
 それを有難いと思ってしまった自分は、人でなしだと思う。
 
 まだ式までは時間があるようだった。
 会場の大きさの割に、結構な数の人が来ている。
 学校で目にしたような顔も、ちらほら見かけた。


 人の並ぶ列があった。
 私は少し悩んで、そのあとに続いた。

 列は式場の中央から、奥にかけて続いていた。
 それが何か。
 分からないほど、世間知らずではないつもりだった。

 少しずつ、列が進んで。
 だんだんと見えてきた。
 白地に花柄の刺繍を施された棺桶が。
 その中で眠る、一人の少女が。


「ほむらちゃん、来てくれたのね」

 そして列の最前に居たのは、美樹さやかの母親だった。
 私はびくんと身体を震わせて、頭を下げた。

「よかったら、触ってあげて」

 その声は、不思議と優しかった。
 何を言われても甘んじて受け入れるつもりだったから。
 少しだけ、意外だった。

 視線を上げて、そこには少しだけやつれた夫人の顔があった。
 促されるままに、私は棺桶の窓から手を差し込む。
 おそるおそる。


 美樹さやかの顔は、いつか見たままだった。
 少しだけ、目立たない程度の化粧を施されて。
 今すぐ起き上がっても不思議ではないくらいに、綺麗だった。

「ほむらちゃんが、すぐに見つけてくれたから。
  こうして、みなさんに最期の御別れを言えるんだって」

 そう声を受けるのと、私の指が肌に届くのは同時だった。
 触れたところに、体温は無かった。
 当たり前だった。

 私は、腕を引っ込めた。
 そしてもう一度、頭を下げた。
 今度は声はなくて、私はそのまま列を外れた。


「よ」

 列を外れた私に、かけられる声があった。
 そちらを見たら、佐倉杏子がいた。

 来たんだね、と言う杏子。
 返事の代わりに、首肯で返した。


「人、多いね」

 何となく私と杏子は、会場の外に。
 まだ時間があるというのもそうだけれど。
 どこか気まずくて、その場に居づらかったというのが本音かもしれない。

 そうね。
 同意をとりあえず、視線で示した。
 どう受け取ったのか杏子は、二の句を紡ぐことはしなかった。

 駐車場には種々の車。
 ひっきりなしに歩きで私たちの脇を通り過ぎていく人の群れ。
 みんなきっと、その子に別れを言いにここへ来ていた。


「マミの奴も、もうすぐ来るってさ」

 そう言って杏子も、懐から携帯を取り出した。
 ちょっと珍しいなと思う。
 巴マミの性格なら、ずっと早くから付いていてもおかしくはなさそうだけど。

「お前の家に寄ってたんだって。最悪引きずってでも連れてくるつもりだったらしいぞ」

 エスパーのように私の思考を読み取って、杏子はそう言う。
 それは勘弁してほしい、と思った。

「お、来た。時間もそろそろかな」

 私の視界にも、ぱたぱたと駆けてくる巴マミが見えた。
 苦労をかけて申し訳ない、と今更ながらに思った。


 告別式の作法は、あまり知らなかった。
 私はただ式の間、ずっと考えていた。

 壇に飾られた遺影と、横たわる遺体。
 棺を彩る献花に、故人を悼む人々。

 そこにあるのは、なんだろう。
 念仏も焼香も、悲しみの涙も、けして死んでしまった人に届くことはない。
 魔法少女として息絶えた美樹さやかへは、なおのこと。


 そうこうしている間に、どんどん式は進んでいって。
 お坊さんの読経は終わって、あとは出棺を残すのみとなっていた。

 献花が机の上に並べられて。
 それを棺の中に入れるよう、促された。

 私には、かなり早い番で回ってきた。
 広げられた花の中から。
 一輪の黄色いカーネーションを選んで、肩口より下、すこし脇に添えた。


 それから、色々な人が、色々な花を入れていった。
 たちまち棺は彩りに満ちて。
 顔だけを残して、美樹さやかは花の布団に包まれていた。

 綺麗だな。
 素直に、そう思った。

 これがご遺族以外の方には最期のお別れとなります。
 そんなアナウンスが流れた。
 それを聞いて、思わず泣き出してしまったらしい子がいた。


「……バカ野郎」

 そんな声が、近くから聞こえた。
 佐倉杏子が、声を押し殺して涙を堪えていた。
 その横では、巴マミがひどい泣き顔になっていた。

 たくさんの涙に包まれて。
 美樹さやかの眠る棺桶は、閉じられて。
 火葬場に向かう車へと、積み込まれた。

 タクシーにご両親が乗り込んで、出発して。
 それを見送る人はもう、みんな、泣いていた。


「……はい」

 横から、何かが声と一緒に差し出された。
 それは新品らしいハンカチだった。
 声の主は巴マミだった。

 しばらく、わけもわからず固まって。
 ようやく、気付いた。
 私の頬にも一筋、涙が流れていた。


 式を終わって、主をなくしたその場を離れて。
 どこへ行くでもなく外で黄昏れていた私に、佐倉杏子が言った。

「火葬場ってさ。
  この街、一つしかないんだ」

「……どういうこと?」巴マミがそう聞き返す。

「そりゃ、入る訳にはいかないけど。
  遠くから見送ってやるくらいなら、バチも当たんないかなって」

 断る理由は、特になかった。
 それは巴マミも、同じようだった。



 ◆


 見滝原の火葬場は、少し丘を登ったところにあった。
 車で三十分くらいだろうか。
 標高があるぶん、少しだけ肌寒かった。

「あれ」

 そう言って佐倉杏子が指差したのは、やたらと大きな建物と。
 建物の規模の割には小さく見えてしまう、煙突だった。


 それは煙を吐き出してはいなかった。
 もう終わってしまったのか、それともまだ中に居るのか。
 外からではそれを窺い知ることはできなかった。

 詳しいのね、と巴マミが言った。
 まあ、そりゃね。と佐倉杏子が軽く返した。

 私たちは、火葬場に隣接した送電塔を見つけて、そこに登った。
 高さとしては十分すぎるくらいで、風もかなり強く吹き付けていて。
 その音に掻き消されて、なんとなく会話はなくなっていた。
 


 私は、ついさっきまでの告別式を思い出していた。
 それは誰のためのもので、何のためのものだったのか。
 今なら何となく、分かる気がした。

 きっと、あれは儀式。
 生をうけた人が、その死を全うするためのもの。

 たくさんの人たちから何かを受け取って。
 たくさんの人たちへと何かを還す。
 その最期の形として、その人たちの心に傷を遺していくための。


 だけど死んでしまった人はもう何もできないから。
 残された人たちが、自分たちの意志でその心に刻み込む。
 忘れないようにと。
 その人から受け取ったものを、それぞれの中で生かしておけるようにと。

 ちくりと、胸が痛んだ。
 きっと、この傷が。
 きっと、あの子が生きて死んだ、その証なのだろう。

 あんなにも沢山の人に送られる死。
 あんなにも沢山の人に傷を刻み込んだ生。
 それはきっと価値のあるものだったんだろう。


「……煙」

 巴マミの声が、小さく聞こえた。
 微かに黒煙が、立ち上っていた。
 それがそうなのかは分からないけれど。
 私は目を閉じて、もう一度手を合わせた。

 さようなら。
 今度こそこれが、最期の御別れ。



 ◆


 じゃあ、また明日ね。
 そう言って、巴マミ、佐倉杏子は道を別れた。
 私も手を振って、それに応えた。

 もう空は夕暮れ。
 いつか見たようなセピア色が天蓋に広がっていた。

 それを見上げて、一人になって、ふと思う。
 自分もいつかは死ぬのだろう。
 その時、あんな最期を迎えられるのだろうかと。


 難しいだろうな、と思う。
 きっとろくでもない終わりなのだろう。
 死体も残らないか、あるいはズタボロで身元も分からないかの二択だろう。
 それでも、きっと行方不明くらいの扱いにはなるのだろう。
 美樹さやかがそうだったように。

 だけど私は、たった一人。
 それすらもない最期を迎えた子を知っている。
 彼女の十余年はなかったことになって、私の記憶と、私の人生の中だけに組み込まれた。

 もしも私が死んでしまったら。
 彼女の存在も一緒に、今度こそ、跡形もなく消えてしまうのだろうか。


 ぞくり、と。
 背筋に寒気が走って、後ろを振り向いた。
 そこには、誰も居ない。

 もう一度、いつか見たような空を見上げた。
 暗くなり始めた夜の向こうで。
 何かが私を見て、笑ったような気がした。


 すうと、息を深く吸い込んだ。
 そのまま息を止めてみて。
 苦しくなって、涙が出た。

 もう一度、息を深く吸い込んだ。
 ぬるい空気が肺を満たした。

おわりです
ありがとうございました

>>151
直近だと「想いの結晶」「欠片」あたりです
辿っていけば他のも多分…

ゾクゾクして面白かった
乙!


前半のホラー展開から最後の締めへの移り変わりが見事でした

密度の高い物悲しさを感じた。
お疲れ様です

乙でした。
改変後の話はもっと増えて欲しいな。
これはかなり好みだった。

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