P「光射す日常――」 (121)

【昼、事務所】

P「これで完成だな……」

エンターキーを押し、作業を終える。
事務所に居るのは俺だけだった。
律子は竜宮の営業で今日一日出払っているし、音無さんの姿も見えない。
ただ、今はそれを気にするよりも。

P「社長に報告しないと」

数日前から進めていた資料作成がようやく終わったのだ。
早く社長に報告しなければと思い、印刷された企画書を持って社長室へ向かう。
扉をノック――しようとして、慌てて自分の身なりを整える。

P「ジャケットよし。襟元よし――」

一つ一つ口に出し、着崩れている箇所を直していく。
だらしない格好で入室する訳にはいかない。それが報告ともなれば尚更だ。
いくら765プロが家族のような関係を築いているとは言っても、これから会うのは上司なのだ。

P「最後にネクタイよし……と」

いつも着用している青いネクタイを締め直し、今度こそ扉をノックする。
しばし待つと。

高木「入りたまえ」

という社長の声が聞こえてきた。
ノブを握って回し、開けた室内へ足を踏み入れようとする。

P「失礼します――あれ?」

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社長だけかと思っていたが、中にはソファに座っている音無さんが居た。
出かけたのではなく、社長室に用事があったのだろうか。
彼女の前のテーブルには、コーヒーの注がれたカップが置いてある。
向かい側に社長が座っているところを見るに、何か話をしていたようだ。
間が悪かったかもしれない。そう思って、社長に確認を取る。

P「あの……出直しましょうか?」

高木「いや、気にする事はないよ。音無君もいいかね?」

小鳥「はい。大丈夫ですよ」

その言葉に安心して、社長室へ足を踏み入れる。
音無さんの隣のソファに腰を下ろすと、その手に白い紙があるのが見えた。

P「それは……」

俺の視線に気づいてか、音無さんが説明してくれる。

小鳥「日めくりカレンダーです。社長ったら、まためくるの忘れてるんですよ」

音無さんの視線を追うと、社長の机に寂しく佇む日めくりカレンダーが見えた。
日付は9月23日。特に何があるという訳でもない日だ。
ただ、気温の変化の激しさに悩まされる時期ではあるけれど。
今日も若干、肌寒い。

高木「いや、ははは……忙しいものだから、ついね」

音無さんの言葉を受けて、社長は照れくさそうに笑う。
そして、気を取り直すように咳払いをした。

高木「コホン……それはさておき、報告を聞かせて貰えるかね?」

社長が真剣な顔になり、場の空気が緊張する。
俺は企画書を持ち直して立ち上がり、説明を始めた。

P「はい。まずは曲の選定ですが――」

選曲の理由。
アイドルの組み合わせ。
照明の動かし方。
音響演出。
MCの時間。
予想される客数と、必要な会場の規模。その他諸々。
全ての報告を終え、書類に落としていた目線を上げる。

P「――以上がライブの企画案になります」

高木「うむ……」

社長は頷いて顎に手を添えると、少し考え込むように押し黙る。
しばらくして、僅かに下を向いていた視線が再びこちらを捉え、息の詰まる静寂が場を支配する。
そして、時計の秒針が幾度目かの音を室内に響かせた後。

高木「よし。それでいってみよう!」

P「あ、ありがとうございます!」

採用の決定が下された。
安心した所為だろうか。『ありがとうございます』という言葉と共に、ふと溜息が漏れた。

小鳥「私も楽しみです!プロデューサーさん、ファイトですよ?」

P「ええ、勿論です!」

音無さんも企画書に賛成してくれた。
励ましの言葉が嬉しい。

高木「では、これから私もそれに向けて動くとしよう。二日ばかり留守にするが、大丈夫かね?」

P「二日ですか……」

音無さんと顔を見合わせる。
律子も明日と明後日は事務所に居る筈だし、恐らく大丈夫だろう。

P「大丈夫だと思います。それでは、俺は業務に戻ります」

小鳥「あ、私も戻りますね」

そうして、音無さんと共に社長室を辞そうと扉に向かった――ところで、社長から引きとめられた。

高木「待ちたまえ。キミは昼であがりだよ」

P「え?」

これから業務をこなすつもりだった俺は、その言葉の意味を瞬時に理解できなかった。
どうするべきか分からずに固まっていると、柔らかな声で社長が説明をしてくれた。

高木「これからまた、キミには頑張って貰う事になるからね。丸一日休みにできなくて心苦しいが、せめて英気を養ってくれ」

その気遣いは嬉しかったが、反射的に『断ろう』と思った。
律子が出払っている今、音無さん一人に負担をかけてしまうからだ。
けれど、そんな俺の考えはお見通しだったらしく。

小鳥「ここのところずっと働き詰めだったじゃないですか。私の事は気にしないで休んでください」

P「……そう、ですね。分かりました。お言葉に甘えさせて頂きます」

結局、音無さんからも後押しされて、提案を受ける事にした。
仕事を進めたくはあったけれど、休まずに無理をして、肝心な場面でミスをしては目も当てられない。

P(まあ、休息も仕事のうちって言うもんな)

そう自分に言い聞かせ、逸る気持ちを落ち着かせる。

P「では、これで失礼します。本日はお疲れ様でした」

改めて社長に一礼し、扉を開けて外に出る。
扉を閉めようとしたところで、社長から一言。

高木「期待しているよ」

と、激励の言葉を頂いた。
『自分が役に立てている』という事が証明されたようで、凄く嬉しい。
返す言葉は。

P「お任せください!必ず成功させてみせます!」

という、自分でも驚くほど自信に満ちたものだった。
その後にもう一度、部屋を出て一礼してから社長室の扉を閉める。
そして、隣を見ると。

小鳥「ふふ、楽しそうですね。プロデューサーさん」

微笑む音無さんが、そう言ってきた。
少しの気恥ずかしさを覚えながら、言葉を返す。

P「皆を活躍させてやれるって考えたら、自然と……なんて、ちょっとはしゃぎ過ぎでしたね」

小鳥「そんな事ありませんよ。頑張ってるプロデューサーさんを見てると、私も『やるぞ―!』って気分になりますし」

笑顔のまま『おー!』と握りこぶしを突き上げる音無さん。
それから、一つ思い出したというように『あ』と呟くと。

小鳥「でも、無理はしないでくださいね?」

そう釘を刺してきた。
心配してくれるのが嬉しくて。

P「ありがとうございます。明日からもよろしくお願いします、音無さん」

深々と、頭を下げてお礼を言う。
ちょっとやり過ぎな気もしたが、音無さんは笑ってお辞儀をして。

小鳥「こちらこそお願いします。それじゃあ、お疲れ様です。プロデューサーさん、また明日」

手を振ってくれた。
少し恥ずかしかったけれど、こちらも手を振り返して。

P「お疲れ様です。また明日」

事務所を出る。
『また明日』なんて、ちょっとフランクな別れの挨拶が心を軽くする。
そんな気遣いに感謝しながら、家路に就いた。

【翌日の朝、事務所】

P「眠れなかった……」

早めに帰して貰ったというのに、全く眠れなかった。
理由は『どうやって進めようかな』とか『あれは改善できるな』なんて考えていたからだ。
完全にアレだ。

P「遠足前の子供かよ……」

企画書を眺めては修正を繰り返し、気がつけば12時を回っていた。
流石に『このままでは明日に響くだろう』と思って布団に入ったのだが。

P「あんなに早く目が覚めるとは……」

今日の5時に目が覚めて、それきり眠ろうと思っても眠れなかったので事務所に出てきたのだ。
しかし、早く出社するにも限度があるというもので。

P「誰も居ないな……」

無人の事務所を見回して、思わず溜息を吐く。
ふと時計を見れば、まだ6時30分だった。
本来、事務所が開くのは7時からなのだが、今日は音無さんも早めに来てしまったらしい。
今ここに居ないのは、備品の買い足しに行ったからだろうか。
ともあれ、『扉の前で所在なさげに佇む男』なんて間抜けな姿を晒さずに済んでよかった。

P「やる事ないし、予定の確認でもするか……」

そう思い、手帳を取り出してスケジュールに目を通す。

P「千早と春香のグラビア撮影があるけど……」

事務所に集合するのは8時だ。
撮影に至っては9時から始まる。
だというのに、どうして俺はこんな時間に出社してしまったのだろう。

P「どうするかな……」

最低でも1時間は余裕があるのだし、ここは仮眠を取っておくべきだろうか。
睡魔に寄り添われたままのぼやけた思考では、まともな指示は出せないだろう。
そう考えて、自分のデスクに向かう。

P「今日は暑いな……」

夏の名残と秋の訪れが同居するこの時期は、体温調整がしづらくて困る。
羽織っていたジャケットを脱ぎ、机に置いた。
椅子に座って、目を閉じる。

P(それにしたって、最初から寝とけよって話だよな……)

早くに出社して仮眠を取るという、何がしたいのか分からない行動を取っている。

P(ま、こんな事もあるか……)

そんな益体もない事を考えている間に、意識は落ちていった。

【暗い空間】

P「ん……?」

瞼を開くと、そこは見慣れない場所だった。
深い闇に支配された不思議な空間。
目には何も映らない筈なのに、『この場所には果てがない』と認識できる事実が頭を混乱させる。

P「何だ……ここは……」

見回しても同じ景色。
光が無いのに地平線が見えるような、筆舌に尽くしがたい場所。
それに、とても静かだ。耳が痛いほどに。

P「俺は……一体……?」

さっきまで事務所に居た筈だ。

P「夢……?」

こんな夢を見るのは初めてだ。

P「こんなにはっきり、夢と分かるものなのか……?」

明晰夢なのだろうか。
しかし、夢と言えば『無秩序で、意味のない映像の連続』というイメージなのだが。

P「ここはやけに落ち着いてるな……」

そんな思考に埋没していると、唐突に水の滴る音がした。
音の方向へ目を向ける。

P「あれは……」

同じく果てのない天井から、水滴が断続的に落ちてきている。
自分の立ち位置からおよそ3メートルほど先だろうか。
波紋が起こり、そこにぼやけた輪郭が浮かび上がった。

P「ん?」

輪郭は一定の形を取らず、ふよふよと揺らめいている。
じっと見ていると、何かに似ているような気がしてきた。
雲を見ていると『あれはアイスクリームだ』と思うような感覚とでも言おうか。
そんな錯覚と同じように、俺が不安定な像に幻視したのは。

P「千早……か?」

長い髪に華奢な体躯、直立不動の姿勢が彼女だと思わせる。
伸ばした右腕を左手が押さえていて、拒絶の意思が垣間見えるのも彼女らしさに拍車を掛けている。
『千早なのだろうな』と意識した瞬間、幾重もの線になっていた輪郭が、急速に収斂されてゆく。
そしてそこには。

千早「…………」

千早が居た。

P「……千早?」

恐る恐る声を掛けてみたが、反応はない。
ただ無表情に、こちらを見つめるだけ。

P(いや、無表情と言うよりは……)

あまりに冷たすぎる瞳。
まるで人形のように虚ろで、おぞましさすら感じてしまう。
不気味に思って一歩距離を置こうとするも、足は動かない。

P「全く……何なんだここは……」

不可解な空間。何がどうなっているのか、さっぱり分からない。
そんな事を考えて、この状況にうんざりしてきたところで、劇的な変化が起こった。

P「線が……増えていく?」

千早を認識してしばらくすると、空間の縦横にいくつもの線が走りだした。
遥かな先にある地面に。果てがないと思っていた空に。
無数の線ができ、交差し、際限なく伸びてゆく。
それはまるで、コンピューターにおける都市モデリングのようで。
何も無い空間に、床が、壁が、天井が生まれる。

P「くっ――!?」

突如、まばゆい光が眼孔を刺す。
目を開けていられないほどの白。
同時に雑多な音が生まれ、浮上する感覚が身体を襲って……

【朝、事務所】

P(ここは……事務所か)

さっきの空間から抜け出した先は、見慣れた事務所だった。

P(あの夢は一体……?)

考えても答えは出ないので、一旦思考を止める。
すると、視界の端に少し不機嫌そうな千早が見えた。
その後ろには、千早と俺を見守るように春香が佇んでいる。
上着を羽織っているのは、気温の変化が大きいからだろう。
自分達で体温調整に気を配って貰えるのはありがたい事だ。

P(それにしても……時間が経つのは早いな)

もう彼女達が来る時間になっていたとは。
二人が来る前には思考をクリアにしておきたかったのだが、どうやら思っている以上に寝不足だったらしい。
まさか、こんなにギリギリまで寝てしまうとは予想外だった。
まあ、二人が来ているのに眠り続けるという醜態は回避できたので良しとしよう。

P(千早がこんな顔をしてるのは、多分あの事だろうな)

これからするやり取りは、恐らくいつも通りだろう。
春香もそれを分かっているからか、ノータッチの姿勢でいるつもりらしい。
そんな事を思っていると、件の千早が問い掛けてきた。

千早「プロデューサー」

P「何だ?」

短い呼び掛けに対し、こちらも簡潔に返事をする。

千早「『何だ?』じゃありません。どうして私にこの仕事を持ってきたんですか?」

ほら来た。
グラビア撮影の仕事を入れると、挨拶代わりにこのやり取りが始まるのだ。
何度もやるものだから、もはや通過儀礼と化している気さえする。

P「どうしてって……何か不味かったか?」

千早「不味いも何も……私にこういった仕事が合わないのは分かっているでしょう?」

いつも通りの千早。
さっきの不気味な千早は、もう居ない。
そう分かると、少しだけ安心した。

P「そうかな……?俺は好きなんだけどな、千早の水着姿」

千早「なっ――!?そ、そんな事を言っても騙されません!」

これもいつも通り。
照れた所為か、頬が少しだけ赤く染まっている。
以前よりも感情を露わにする事が多くなって、千早はとても魅力的になったと思う。
惜しむらくは、本人にその自覚がないという事だろうか。

P「本音なんだけど……千早こそ、どうして似合わないなんて思うんだ?」

千早「それは……私は他の皆のように、愛想もスタイルもよくありませんから……」

胸の辺りを気にしつつ、千早は細い声でそう言う。
こうして自信なさげにするのはいつもの事。
そして、それを諭すのもいつもの事だ。

P「そんな事はないぞ。千早だって笑顔は可愛いし、それに、胸の大きさだけがスタイルの良さじゃないしな」

千早「笑顔、ですか……それが難しいんですけれど……」

P「最近、春香達と一緒に笑う事も多くなっただろ?そんな感じでいいんだよ」

P「俺は、千早ならできるって信じてる。だから、ちょっと頑張ってみてくれないか?」

視線を合わせて、ゆっくりと説得する。
すると、千早は目を瞑ってから。

千早「……分かりました。プロデューサーがそこまで言うのなら、やります」

決意するように、応えてくれた。

P「そうか、ありがとな。今度、歌の仕事も取ってこれるように俺も頑張るよ」

千早「いえ、本当は分かっているんです。これも仕事のうち……そうですよね?」

P「ああ。でも、もし本当に嫌だったら遠慮なく言ってくれ。千早に嫌な思いはさせたくないからさ」

千早「ありがとうございます。でも、私は大丈夫です。春香も一緒ですし。ね?春香」

そう言って、千早は後ろを振り向く。
事の行く末を見守っていた春香は。

春香「もちろん!プロデューサーさんも心配しないでいいですよ?私に任せてください!」

満面の笑みで、そう言ってくれる。
春香の笑顔には助けられてばかりだ。

P「ああ!頼りにしてるぞ、春香!」

春香に応えて、俺も元気よく返事をする。
ふと、春香は柔らかな声で疑問を口にした。

春香「それにしても、このやり取りって何回目なのかな?プロデューサーさんは憶えてます?」

春香の言う通り、このやり取りはいつもの事で。
最終的に千早が折れるまでが、一連の流れなのだ。

P「さあ……?千早は憶えてるか?」

千早「ふふ……私も忘れてしまいました」

千早が笑って、ここで終わり。
説得自体はごく短時間で済むし、千早も本気で嫌がっているのではない……と思う。
実際、千早は以前よりもグラビア撮影に肯定的だし、それを歌の糧とするようにもなってきている。
しかし、歌以外の仕事を受けようとしなかった過去の自分と、『少しぐらいならいいかな』と思う現在の自分の差に戸惑う事もあるのだろう。
こうしてポーズだけでも嫌がるのは、そういった複雑な気持ちが根底に存在するからなのだと思う。
……まあ、俺が調子に乗ってグラビアの仕事ばかり取ってこないように牽制する意味もあるのだろうけれど。

P(でも、楽しいからいいか)

千早は面と向かって褒めさせてくれる事が少ない。
他人にも厳しいが、自分にはもっと厳しいのだ。
それは自分の容姿についても例外ではなく、いい写真が取れても全く誇ろうとしない。
褒めようと思って『可愛い』なんて言った日には、『冗談はやめてください』と切り捨てられるのが常だ。
だから、こうした機会に千早を褒められるのは、俺の数少ない楽しみなのだ。

P(最近、忙しくてあんまり会えないしな)

皆と会える時間が減りつつある今、『少しでもコミュニケ―ションを取りたい』と思ってしまうのは仕方ない事だろう。
いい歳をした大人が寂しがり屋なようで、少し情けなくはあるのだが。

P「さて、そろそろ時間だし――」

『スタジオに行こうか』と言おうとしたところで、春香が口を挟んだ。

春香「あ、私達だけで行ってきます。プロデューサーさんもお仕事あるんでしょう?」

P「それはそうだが……いいのか?」

千早の方にも確認を取る。
千早は頷いて。

千早「ええ。大丈夫です。あまり迷惑を掛けるわけにはいきませんから」

と、言ってくれた。

P「そうか……よし!それじゃあ二人とも、今度の雑誌に期待してるぞ!」

激励の言葉と共に、二人を送り出す。
そこで春香が。

春香「あ、プロデューサーさん。これ、ドーナツです。もしよかったら休憩中にでも食べてください」

と、小さな箱を渡してくる。
ずしり、とまではいかなくとも、確かな重み。
中に入ったドーナツを思うと、胃が少しだけ動いた気がした。

P「ありがとな。春香のは美味しいから、嬉しいよ」

春香「えへへ……ありがとうございます。プロデューサさんも、お仕事頑張ってください!」

千早「私からは何も渡せませんが……身体には気をつけてくださいね?」

P「ありがとう。それじゃ、また後でな!」

二人に手を振って、事務所の扉が閉まる音を聞く。
別れ際に元気づけられたお陰か、今なら何でもできそうな気がした。

P「ふぅ……俺も頑張るとするか!」

一度深呼吸をし、気合いを入れる。

P(うん?)

ふと、自分の姿が視界に入る。
いつの間にか、脱いだ筈のジャケットを羽織っていたらしい。

P(脱ぐと寒かったのかな?)

もしかしたら、事務所に帰ってきた音無さんがクーラーをつけたのかもしれない。
僅かな肌寒さを感じて、そう思う。
そんな事を考えていると、突然、身体が沈むような感覚に襲われた。

P(やっぱり寝不足か……?)

今日はおかしな事ばかり起こっている。
仕事に支障が出なければいいが。

P(そういえば、さっきの夢は何だったんだ……?)

暗く不思議な空間。
あそこは一体何なのだろう。
そんな事を考えていると、不意に意識が途切れ……

【暗い空間】

P「またか……」

目を開けると、さっきの空間に立っていた。
前回は時間が無かったし、目まぐるしく変化する事態に置いてけぼりを食らったが。

P「今回は余裕があるな……」

二度同じ夢を見るなんて事はそうそうないだろうし、何か理由があるのかもしれない。
その答えを見つける糸口を探すのもいいだろう。他にやる事もないのだし。
そう思って遠くを見ると、『どうして光が無いのに先まで見通せるのか』という疑問が解けた。

P「あれは……霧か?それとも靄……?」

地面――と言うより、これは水面と言うべきだろう――から、10センチばかり上までだろうか。
仄暗い緑色に光る煙のようなものが漂っていた。

P「ステージで焚くスモークみたいだな……」

それが深緑色に淡く光っている。
道理でさっきは気づかない訳だ。
空間は真っ黒。
そこに深緑では、まるで闇が光っているように見えてもおかしくない。

P「これで一つの謎は解けたか?」

いや、空間を見通せる理由が分かったところで、何が解決する訳でもないか。

P「他には……」

そういえば、さっきの水面が気になる。

P「凪……って言うのかな、これは」

波一つない水面。
俺が立っているというのに、少しも揺らぐ気配がない。
ずっと遠くまで静かな平面が続いているのが見える。
これが揺らいだのは……

P「あの水滴が落ちた時か」

天を仰ぎ見る。
今はただ、暗い闇が無限に続いているだけだ。
あれは一体何だったのだろう。
それを確かめる手段は、もう一度見てみる他にない。

P「……っと、落ちてきたか」

前回と同じように、果てのない空から落ちる水。
雨と違って一滴ずつしか落ちてこないのは、その存在を強調する為だろうか。

P「出てきたな……」

次の現象も前回と同じく、ぼやけた輪郭が浮かび上がるというもの。
不安定に揺れる輪郭が想起させるのは。

P「雪歩、か……?」

ふわりとした白いワンピースに、身体の正面を隠すような立ち方。
ショートカットの髪が揺れて、どこか儚い印象を受ける少女。
それは、自分のイメージする彼女を的確に表しているものだった。

P「それで、またこれか……」

雪歩「…………」

できればこれだけは前回とは違っていて欲しかったが、そうもいかないらしい。
臆病だが優しい雪歩とは似ても似つかない、虚ろな瞳。
それが、微動だにせず俺を見つめている。

P「居心地の悪い……」

こちらの様子を窺うような姿勢とはミスマッチな、無遠慮な視線。
態度と視線の温度差が、千早の時よりも不気味さを一層際立たせている。

P「早く次に行ってくれ……」

その願いが届いたのかどうかは分からないが、前と同じように空間に線が走り始めた。
少しの安堵。重く凝った息を吐き出す。
どうやら、線が現れると身体の拘束は解かれるらしい。
そんな事を考えている間にも立体ができ、構造物としての形を明確にしてゆく。
そして、目を開けていられない程の光が溢れ……

【昼、事務所】

P(ここは……)

視界に映るのは、ソファに間仕切り、テーブル、デスクといった、見慣れた物だ。
デスクには、既に目を通したと思われる書類が山積みになっている。
窓から射してくる日差しが眩しい。

P(事務所か……なら、俺は今……)

何をしていたのかを思い出す。
確か――そうだ。雪歩を慰めていたんだった。

雪歩「うぅ……私なんてダメダメで……」

という、いつもと変わりないセリフを言いながら落ち込んでいる雪歩を視界に収める。
あの無感情な雪歩ではない事を知って安心した。
よくよく見れば、雪歩は薄手のワンピースを着ていた。
時刻は昼。気温も上がってきたという事だろうか。

P(それより、今は雪歩を元気づけてやらないと)

そう思って、うずくまる雪歩の正面にしゃがみ込んで、目の高さを合わせた。

P「雪歩。失敗は誰にでもあるんだ。俺だって、失敗しない訳じゃない……」

P「それでも、ずっと落ち込んだままじゃいられないだろ?俺も手伝うから、また頑張ってみないか?」

雪歩「プロデューサー……でも、私……」

オーディションに落ちて、自信を喪失している雪歩に励ましの言葉を掛ける。
最近は皆も売れてきている所為か、久しぶりに落選したのが余計に辛いようだ。

P「雪歩なら大丈夫だ。俺が保証するよ」

こうして雪歩を元気づけるのは何度目だろうか。
能力はあるものの、自信をなくしやすいのが玉に瑕だな、と思う事はある。
しかし。

P(ちょっと背中を押してやれば、そこからは早いんだよな)

触れれば壊れてしまいそうな印象を与える雪歩だが、実のところ、その芯は強い。
一度こうと決めてしまえば、その行動力は事務所内で一番かもしれない。
そんな事を考えていると、雪歩のか細い声が聞こえた。

雪歩「でも……あんなに練習したのに、本番でダンスを失敗するなんて……」

雪歩「私……アイドル向いてないんでしょうか……?」

そんな弱音を吐く雪歩に、言い聞かせるようにゆっくりと話す。
最近は俺を信用してくれているのか、近くに居ても怯えないようになってくれた。
雪歩は確実に、いい方向に変われている。後は、もう少し自信を持つだけでいい。

P「そんなことはないよ。今回はたまたま、運が悪かっただけさ」

雪歩「でも……」

P「雪歩。『でも』とか『私なんて』みたいに、否定的に考える必要はないよ」

P「雪歩は頑張れる子だ。それは間違いないって、俺は知ってる」

雪歩「プロデューサー……」

P「な?だから、顔を上げてくれないか?」

雪歩「……ありがとう、ございます。私、もう一度頑張ってみます!」

そう言って、決意に満ちた瞳で俺を見る。
小さな拳を胸の前で握りしめているのは、雪歩が本気になった証拠だ。

P「ああ!それに、雪歩は一人じゃないだろ?」

後ろから雪歩を見守っていた響に視線を向ける。
今回のオーディションを一緒に受けていたのだ。
その響が、雪歩に向かっていつもの調子で話し掛ける。

響「そうだぞ!ダンスで苦手なところがあったら自分が教えてあげられるし」

響「自分も、雪歩の演技力は参考にしてるんだからさ。落ち込んでる暇があったらレッスンしようよ。ね?」

雪歩「響ちゃん……ありがとう……」

いつも自信満々な響には助けられる事が多い。
男の俺にはできないケアも、知らず知らずしてくれていたりする。

P「響。雪歩を頼むぞ」

響「任せといて!自分が居れば、何があってもなんくるないさー!」

P「頼もしいな」

響「まあね!それじゃ、自分達はレッスン行ってくるね!雪歩もほら!」

雪歩「う、うんっ!あ、プロデューサー!」

P「なんだ?」

外に出た響を追いかけようとした直前に、雪歩が振り返る。
どうしたのかと思っていると。

雪歩「私、頑張りますから……だから、プロデューサも頑張ってください!」

決意表明の言葉。
これでもう、雪歩は立ち止まらないだろう。
その手助けをできたのが、プロデューサーとして凄く嬉しくて。

P「ああ!もちろんだ!それじゃ、行ってこい!」

雪歩「はいっ!」

激励の言葉を掛ける。
心地よく響く返事を残して、雪歩が事務所を出ていった。

P「さて……」

書類仕事に移ろうと思い、デスクに向かって歩き出す。
すると。

P(またか……)

俺という意識が乖離し、沼に飲まれるような感覚に陥る。

P(本当に、これは何なんだろうな……)

来るだろうと予想はしていたから、一回目のような驚きはない。
不意に視線が下を向いて、白いカッターシャツに映える赤色のネクタイが見えた。
今日締めてきた物だ。ちょっと派手かもしれないな。
そんな風に、自分の意識が落ちてゆく様を、他人事のように眺めながら……

【暗い空間】

P「それで、ここか……」

目を開けると、やはりあの空間に居た。

P「そういえば……」

空間を眺めていて、ふと思い至る事があった。

P「あの水滴が落ちてくるまでは自由なんだよな」

水滴が落ちてからは身動きが取れなくなってしまうが、それまではかなり開放的だ。

P「ん……?」

開放的、という言葉に引っかかりを覚える。
何か大切な事を忘れているような……

P「何だろうな……って――!?」

違和感の発生源を探ろうと視線を巡らせていると、肌色の何かが見えた。
いや、『何か』ではなく、完全に。

P「肌色って言うか、肌そのものじゃないか……」

俺の裸だった。
全裸であった。
それはもう、一糸纏わぬ姿であった。

P「ってことは何か?皆の視線が冷たかったのはこれが原因なのか?」

今までの無機質な瞳を思い出す。
雪歩まであんな目をしていたのは、これを見たからなのだろうか。
そもそも、俺はどうして最初に自分の身体を改めなかったのだろう。
普通は真っ先にするべき行為なのに、そうしなかったのはこの空間があまりに奇異な所為かもしれない。

P「しかし、この不思議な空間で裸か……」

そう思っていると、左腕に僅かな重みを感じた。

P「あれ?」

全裸なのに、何故か腕時計をしていた。
変態も真っ青である。

P「いやいやいや……腕時計つけるぐらいならズボン履けよ……」

自分の自由さに呆れて、露出狂も顔負けの下半身を見る。
腰、太腿、脛ときて、その先に視線が移動する。
そこには不思議な物が落ちていた。

P「これは……」

形の分からない奇怪な物ではない。
ただ、ここに存在する意味が分からない物だった。

P「俺の手帳と……携帯か」

どうしてそんな物がここにあるのだろうか。

P「本当に、訳が分からないな……」

思わず前髪を掻き上げてしまう。
悩んだり行き詰まったりした時の癖だった。

P「うん?」

やけにあっさりと前髪に櫛が通るのがおかしくて、もう一度顔を触る。
すると、その理由はすぐに判明した。

P「眼鏡が無いな」

全裸だけど腕時計。
眼鏡は無くて、手帳と携帯はある。
これの意味するところは一体何なのだろう。
皆目見当もつかない。

P「『なーやんでもしーかたない♪』ってか?……はぁ……」

明るく歌を口ずさむものの、溜息が漏れてしまう。
できれば、もう少し情報が欲しいところだ。

P「っと……落ちてきたか」

色々考えていた所為か、結構な時間が経っていたようだ。
水滴が落ちてくるのを見て、思考を中断する。

P「さて……次は誰かな」

身体が動かなくなって、3メートル先の光景に注視する以外はできなくなる。
俺の考えは当たっていたようだ。

P「出てきたな」

水面に波紋が生まれ、陽炎のように立ち昇る像が見える。
あやふやな輪郭。
今回、それが大まかに取った姿は。

P「伊織か」

伊織「…………」

右手の甲で後ろ髪を持ち上げ、左腕を胸の少し下で折り曲げている。
小柄な体躯に長い髪。左腕にしがみついている白い物体。
紛れもなく伊織だろう。

P「なんだろう……凄く落ち着かないな……」

全裸を見られている、という認識が羞恥心を煽り立てる。
隠す事すらできないのが余計に恥ずかしい。

P「まるでゴミを見るような目だな……」

無機質な――人形のような瞳は、今までと同じ。
人を見下す事をしない伊織には似合わない表情だ、と思う。
思うのだが……

P「……伊織だとあんまり違和感ないな」

基本的に、伊織は相手を見下したりしない。むしろ、ちゃんと相手の内面を見て、敬意を払う事の方が多いと言える。
けれど、プライドの高さがそうさせるのか、時には言動が刺々しくなる事もある。
そんな印象も手伝っているのか、この視線にも妙な説得力を感じてしまうのだ。

P「そりゃ、全裸の変態にはそういう視線を向けるよな……」

とはいえ、実際に全裸の変態に遭遇したら、流石に目を逸らすだろうけれど。
耳年増ではあるものの、まだまだ子供っぽさが抜けないところがあるのも事実なのだ。

P「まあ、伊織の魅力はそういうところにあるんだけど」

そんな下らない事を考えていると、お馴染みとなった現象が起こる。

P「次も事務所かな?」

一度目、二度目と事務所続きだ。
確かに、今日の予定に外回りはなかったけれど。
今回はどうなるのだろうか。

P「そろそろか」

空間に線が走り、物体が生成されていく。
まばゆい光に備えて瞼を閉じると……

【夕方、事務所】

P(ふむ……やはり事務所か)

さっきと同じで、俺は事務所に居た。
窓から見える景色で分かったが、日は少し傾きつつあるようだ。
それから自分のデスクに視線が移ると、書類が整理されて置いてあるのが見えた。

P(仕事はできてるみたいだな)

『あの空間に居る間、もしかすると働いていないのでは?』と危惧したが、杞憂だったようだ。
夕日の射す事務所には、何の音も存在していなかった。

P(伊織が居ると思ったんだが……居ないな)

目覚めると、あの空間で見た人物が目の前に居るのが今までの流れだった。
だが、今回はそうではないらしい。

P(さて、どうしようか……)

書類仕事も終わっているし、まさに手持ち無沙汰な状態だ。
ふと事務所のドアの方を見ると、それが勢いよく開け放たれた。
そこから響く冷静な声と元気な声は。

伊織「ただいま……って、アンタだけなの?」

やよい「あ、プロデューサー!ただいまです!」

P「ああ、おかえり」

伊織とやよいのものだ。
日差しの所為だろうか。二人とも薄着ではあるのだが、額に汗が浮かんでいる。
元気よく振る舞ってはいるものの、声には少しだけ疲れが滲んでいるような気がした。
スケジュールにもっと余裕を持たせるべきだろうか。

P「二人ともお疲れ様。仕事はどうだった?」

労いの言葉と共に、今日の成果を訊く。
返ってくる答えは。

伊織「私がヘマすると思う?」

という、なんとも自信に満ちたものだった。そんな変わりない態度に安心する。
どこか人を小馬鹿にしたような口調も、照れ隠しなのは分かっている。
だから刺々しい態度も気にせず、伊織に笑いかけた。

P「流石は伊織だな」

伊織「と、当然の事よ……」

そっぽを向いて、呟くように返事をする。
やはり、いつも通りの伊織だ。

P「やよいはどうだった?」

伊織が話を打ち切ってしまったので、今度はやよいに話し掛ける。
疲れているだろうに、やよいは弾けるような笑顔で答えてくれた。

やよい「私も大丈夫でした!伊織ちゃんと一緒だったからかも!えへへ……」

P「そうか。よかったな」

やよい「はいっ!」

元気のいい返事が耳朶を打つ。
やよいの素直な言葉を恥ずかしく思ったのか、伊織が噛みつく。

伊織「ちょ、ちょっと!余計な事は言わなくていいの!恥ずかしいじゃない!」

やよい「そうかなー?私は伊織ちゃんと一緒にお仕事ができて嬉しかったけど?」

伊織「う……」

しかし、やよいには通用しなかった。
『仲良しだな』と思いつつ二人を見ていると。

伊織「ちょっとアンタ!そこで突っ立ってる暇があるなら、さっさとオレンジジュースの一つでも持ってきなさいよ!」

P「はいはい」

伊織がいつものようにオレンジジュースを要求してきた。
冷蔵庫に歩いてゆき、扉を開けて果汁100%のオレンジジュースを取り出す。

やよい「あ、駄目だよ伊織ちゃん。プロデューサーだって疲れてるんだから」

と、俺をパシリにした事をやよいが咎める。
その気遣いはありがたいけれど、俺はこれを苦だとは思っていない。
少し不器用だが、これは伊織なりの『構って欲しい』というサイン――なのだろうと思っている。
たとえそうではないとしても、俺にとっては貴重なコミュニケーションの機会なので、こうして接するのは嬉しい事なのだ。

P「心配してくれてありがとな。でも、あんまり気にしなくていいぞ」

二つのカップにオレンジジュースを注ぎ、二人が座っているソファへ持っていく。

伊織「ほら、こいつもこう言ってるんだし、気にしなくていいのよ。はい、やよい」

伊織が二つとも受け取り、片方をやよいに手渡す。
『持ってきて貰って当然』という風に見えるかもしれないが、小声で『ありがと……』と言ったのを聞き逃さなかった。

やよい「ありがとうございます、プロデューサー」

やよいからは、はっきりとしたお礼を言われる。
この差が何とも微笑ましい。

P「俺も何か飲むか……」

二人がジュースを飲んでいるのを見ていると、不意に喉が渇いてきた。
飲み物を取りに、もう一度給湯室へ向かう。

P(それにしても……伊織、大丈夫かな……)

弱みを見せたがらない性格の伊織は、悩みを抱え込みすぎるきらいがある。
今日の事だってそうだ。疲れているだろうに、それを隠すように振る舞っていた。
自分の不調を隠すのはやよいも同じだが、伊織はやよいの何倍もそれが上手い。
竜宮のリーダーを務めている事もあるし、もう少し注意して見ていた方がいいのかもしれない。
一応、俺にああした姿を見せてくれているから、気を抜ける相手として信頼されてはいるのだろうが……

P(やよいと同じぐらい信頼されてたり……っていうのは、流石に自惚れすぎか)

何にしても、伊織がリラックスできたのは嬉しい事だ。
ふとソファの方を見ると、伊織はオレンジジュースを美味しそうに飲んでいた。

P(よかった)

自分の役目をちゃんと果たせた事に喜びを感じつつ、電気ポットから急須にお湯を注ぐ。
『お茶受けも持っていこう』と思ったところで。

P(今回はここまでか)

目の前が徐々に暗くなってゆく。
『急須を落としては不味い』と思ったが、自分の手から力が抜ける事はなかった。
それに安堵して、意識が引きずられるのに身を任せ……

【暗い空間】

P「もう慣れたもんだな……」

四度目の経験ともなれば、流石に新鮮味も薄れてくる。

P「水滴が落ちるまで暇だし……」

この空間について、考察でもしてみよう。

P「そもそも、何で全裸なんだ?」

暑さも寒さも感じないが、衣類を着用していないというのは落ち着かない。
その割に腕時計や手帳は残っているし、謎は深まるばかりだ。

P「全裸から連想できるのは……」

無意識空間……なのかもしれない。
アニメやゲームの表現でも、一糸纏わぬ裸体が出てくる事は多い。

P「まあ、意識失ってるっぽいしな……」

ここに来る前にはいつも、眠いような、身体が重いような、そんな感覚に襲われる。
それを考慮すれば、ここを無意識の世界と考えても問題はないように思える。

P「……というか、無意識って認識できるのか?」

いや、否定しても始まらないか。
今は仮定を積み上げていこう。

P「ん?……時間か」

いつの間にか、3メートル先に波紋ができていた。
考察はまた次にしよう。

P「さて、今度は誰かな」

絶えず歪み続ける輪郭が浮かび上がる。
その中に見えるのは、頬に右手を当てながら小首を傾げる仕草をしている女性だ。
落ち着いた色調の服が、身体のラインを強調するように包んでいる。

P「これは……あずささんだな」

俺が呟くと、輪郭は明確になってゆく。
そして、いつもは穏やかに笑うあずささんの顔は。

あずさ「…………」

まるで、能面のようであった。

P「これだけは慣れないな……」

言うまでもない事かもしれないが、あずささんは美人だ。
その美人が、無表情で、しかも『目を剥いている』と言っても過言ではない眼差しで見つめてくればどう思うか。

P「怖すぎる……」

そもそも今は動けないのだが、この視線を受けていると『行動しよう』という意思そのものが削られるように感じる。
『早く次に行って欲しい』と切に願う。

P「あぁ……やっと解放される……」

空間に線が滲み、大小様々な四角形を形成してゆく。
骨格ができると色が付き、より詳細に描き込まれてゆく。

P「今度は……まあ、また事務所かな」

この空間から抜け出して以来、事務所以外の場所を見ていない。
だから『次も事務所なのだろうな』と呑気に構えていた。
しかし、そんな俺を嘲笑うかのように、自分の周りに線が集中し始めた。

P「え……!?ちょ――!?」

こんな至近距離に線が出た事はない。
初めての経験に戸惑っていると、またしてもまばゆい光が虹彩を塗り潰す。

P「せめて、何もありませんように――!」

そう祈りながら目を瞑る。
そして、何かに座るような感覚が……

【夜、車内】

浮上した直後の曇った意識を働かせ、現状の把握に努める。
視界がはっきりしてくると、ハンドルを握る自分の手が見えた。

P(そうか……あずささんを事務所まで送ってる途中だったな……)

それにしても、いきなり運転している状態に放り出されるとは。
心臓が止まるかと思った。

P(安全性とか考慮してくれよ……)

フロントガラスには、不満そうな自分の顔がうっすらと映っている。
ジャケットから覗く赤いネクタイも映っており、それが俺の怒りを代弁しているようにも思えた。
そんな益体もない事を考えていると、隣――つまり、助手席からあずささんの声がした。
申し訳なさそうな声色なのは、遠くまで足を運ばせた事に対する負い目があるからだろうか。

あずさ「ごめんなさい、プロデューサーさん……ご迷惑でしたよね……?」

P「いえ。あずささんを迷子のまま放っておくわけにもいきませんし、これも仕事ですから」

そう答えると、あずささんは一層すまなそうに。

あずさ「うぅ……本当にごめんなさい……」

ふと助手席に視線を流すと、縮こまっているあずささんが見えた。
自分の膝に乗せた上着を『ぎゅっ』と握り締めている。
怒ってはいないつもりだが、知らず冷たい口調になってしまったのかもしれない。
そう思って、少し迷ったが本音を言う事にした。

P「気にしなくてもいいですよ。実は俺も楽しんでますから」

あずさ「楽しい……ですか?」

P「ええ。こう言っては何ですが……あずささんみたいな綺麗な人と夜のドライブなんて、凄い役得ですよ」

無論、手間が掛かる事に変わりはない。

P(それでも……)

いつからだろうか。
何事にもポジティブな――天然なだけの部分も大いにあるだろうけれど――彼女を見ていると『小さな事でも楽しみたい』と感じるようになっていた。
そんな事を考えながら、言葉を続ける。

P「だから、あずささんも楽しんでください。そうして貰えると、俺も嬉しいです」

そう言うと、あずささんは言葉に詰まりながらも返事をして。

あずさ「そ、そんな……綺麗だなんて……もう……」

それっきり、窓の方を向いて黙ってしまう。
自分で言っておいて何だが、今更ながら恥ずかしくなってきた。
それを誤魔化したかったからか、口が勝手に別の話題を引き出していた。

P「……まあ、ドライブ云々を抜きにしても」

あずさ「……抜きにしても?」

P「アイドルの皆と一緒に居られる時間は、貴重ですから」

P「……俺は好きですよ。こういう時間」

すると、あずささんも思案顔になって。

あずさ「そう、ですね……皆も忙しくなっちゃって、前みたいにはいきませんものね……」

と、寂しそうに返事をする。
伊織や亜美と一緒に活動しているから寂しくはない、という訳にもいかないようだ。
恐らく伊織と亜美も、あずささんと同じような寂しさを感じているだろう。
『竜宮小町が成功すればするほど、皆と会える時間が減る』というのは、考えてみれば酷な事なのかもしれない。

P「ええ。ですから、迷子になったあずささんを迎えに行くのって、密かな楽しみでもあるんですよ」

あずさ「そう言って貰えるとありがたいですけど……いいんですか?」

P「はい。あ、でも、あんまり頻繁に迷子になるのはちょっとアレですけどね。あはは……」

あずさ「あぅ……ごめんなさい……直そうとは思っているんですけど、上手くいかなくて……」

しまった。
少し意地悪な言い方になってしまったかもしれない。
そう思って、取り繕うように口を開く。

P「いや、冗談ですよ。無理はしないでくださいね?」

あずさ「……ありがとうございます。プロデューサーさん」

P「いえいえ……あ、そろそろ事務所ですよ」

会話に交わしているうちに、事務所の前に到着していた。
あずささんを先に降ろし、駐車してから後を追う。
車内が暖かいから分からなかったが、外は予想以上に冷え込んでいた。
足を速めて事務所の扉を開く。
すると。

小鳥「あら、おかえりなさい。あずささん、プロデューサーさん」

音無さんが迎えてくれた。

あずさ「ただいまです、小鳥さん」

P「ただいま戻りました」

挨拶を返した後、荷物を手に持ったあずささんに向き直る。

P「駅まで送りましょうか?」

あずさ「いえ……流石にこれ以上は、お仕事の邪魔になっちゃいますから」

P「そうですか。では、今日はお疲れ様でした」

あずさ「はい。お疲れ様です。お二人とも、さようなら」

小鳥「はい。気をつけて帰ってくださいね」

あずさ「ええ。では、失礼します」

そう言うと、お辞儀をしてから踵を返した。
あずささんが去った後の事務所には、俺と音無さんの二人だけが残される。
音無さんは見送りを終えると、給湯室に歩いていった。
俺は書類整理の為に、自分のデスクに着席する。
それからしばらくして。

小鳥「プロデューサーさん」

P「はい?」

不意に声を掛けられ、後ろを振り向く。
そこには、両手でカップを持った音無さんが立っていた。

小鳥「どうぞ。コーヒーです」

P「すみません。ありがとうございます」

置かれたカップを手に取り、香りまで飲み込むように一口啜る。
仄かな苦みが舌を濡らし、温かな液体が胃袋に沁み渡るのを感じる。
寒さで緊張していた身体が解れていく。

P「ふぅ……美味しいです」

感想を言うと、音無さんは微笑んで。

小鳥「それはよかったです。プロデューサーさん、お疲れのようでしたから」

P「ばれてましたか……まあでも、こうして美味しいコーヒーを飲めるなら、疲れるのも悪くないですけどね」

小鳥「あら、お上手ですね」

P「本音ですよ」

小鳥「ふふ、ありがとうございます」

何気ないやり取りが心地よい。

P「それじゃあ、仕事を片付けるとしますね」

小鳥「ええ。お手伝いしましょうか?」

P「大丈夫ですよ」

申し出はありがたかったが、断っておく。
事務を一手に引き受ける音無さんの方が、俺よりずっと大変な筈だ。

小鳥「そうですか?じゃあ、お互い残業が無くなるように頑張りましょう!」

P「はい!」

そう励まし合った後、自分の書類に向き直る。
ふと音無さんを見れば、既に着席して書類片手に奮闘していた。
『俺も頑張らないと』と思った瞬間。

P(あ、眠くなってきた……)

恐らく、『あの場所』へと落ちる前触れだろう。
音無さんがキーボードを叩く音を聞きながら、俺は……

【無意識空間】

P「さてと……また続きを考えるか」

前回は、ここを『無意識』とする仮説を立てた。

P「という事は、あっちが『表層意識』だと考えられるな」

実際に行動しているのだから、まず間違いないだろう。

P「そういえば、起きるとかなりの時間が経ってるんだよな」

最初は朝。
二度目は昼。
三度目に夕方。
四度目に夜。
偶然かとも思ったが、起きる度に数時間――およそ4時間刻みだろうか――進んでいる。

P「まともに――とは言えないまでも、どうにか一日を過ごしているって事か……」

その証拠と言っていいのか分からないが、デスクワークは完遂されている。
片付けた書類の内容もはっきりと憶えている。生憎、どういう原理かは全く分からないけれど。
それでも仕事をこなしているなら、これは個人の問題と捉えていいだろう。

P「ちょっと安心だな……」

迷惑を掛けていない事に安心する。
そして心に余裕ができたところで、ふと思う。

P「なんか居心地いいんだよな、ここ」

自分の無意識だから当たり前なのかもしれないが、妙に落ち着く場所だ。
最初こそ、不可解な現象に恐れを抱きもしたけれど。
今では、ここに来る事への抵抗感は薄れつつあった。

P「さて、そろそろかな」

そう当たりをつけると、予想通りに水滴が落ちてきた。
波紋が生まれ、像が立ち上がる。
相変わらず、輪郭は曖昧なままだ。

P「お、これは分かりやすいな」

今まで像は一つきりだったが、今回は二つ。
背中合わせに立つ姿が見て取れる。
一方は右手で敬礼しており、真っ直ぐに立っている。
もう一方は『ロダンの考える人』のように、顎に左手を当てて猫背気味に立っていた。

P「亜美と真美だな」

俺の呟きを引き金に、輪郭の揺れが収まっていく。
そして、無表情な亜美と真美がそこに現れた。

亜美・真美「…………」

こんなところでも二人一緒に登場とは、よっぽど仲がいいのか。

P「それとも、俺の認識がそうなのかな?」

春香と千早のように、二人一緒な事が『多い』子は他にも居る。
しかし、亜美と真美は『ほぼ確実に』一緒に居るのだ。

P「……それにしても、やっぱり真美の方が大人っぽいイメージなのかなぁ……俺って」

『ロダンの考える人』は真美だ。
やや俯くような姿勢が、それらしさを演出している。
右肩が手前に来るように立っているのは、サイドテールが表情を隠さないようにする為だろうか。
そして、右手の甲は左肘を支える形になっていた。

P「で、敬礼が亜美か」

よく『○○隊員!』とか『○○警部!』と言い出すのは亜美の方だ。
真美は後から乗っかるパターンが多い気がする。
俺から見ると、左肩が前に来るように背筋を伸ばして立っている。
無論、髪飾りは向こう側だ。

P「髪飾り側の手が仕事をしてる――というか、利き腕でやってるのか」

そういえば、亜美が右利きで、真美が左利きだったか。
そんな事を思い出しつつ、二人を見つめる。
対比させてみると、二人の差が出ていて面白いとは思うものの。

P「やっぱり、この居心地の悪さったらないな……」

二人居るという事は『あの』視線も二つ――いや、計四つある訳で。
背中合わせで立ってはいるが、明後日の方向を見るのではなく、流し眼のように視線をぶつけてきている。
『いつもはしゃぎ回っている』という二人の印象を真っ向から否定する凍えた瞳は、身体を震えさせるには十分だった。

P「全く……この像が出るまではいい場所なんだけどなぁ……」

身動きも取れず、像を見つめるだけの時間が過ぎていく。
『その人から目を逸らすな』という意味でもあるのだろうか。

P「いや、確かに目は逸らせないけどさ……物理的に」

首が動かないのだから、逸らせる筈もない。
首どころか眼球の動きすら制限されている。許されているのは喋る事ぐらいだ。
まあ、別の意味でも目が離せない二人ではあるのだけれど。
そんな事を考えていると、空間は次のフェイズに移ったようだ。

P「次はこの二人が相手か」

さぞ賑やかなのだろうな、と思いつつ、光に備えて目を瞑る。
すると、増えてゆく雑多な音が耳に響いてきた。

P「ふむ……目を閉じるとこんな感じなのか」

視覚情報が無い分だけ、聴覚が研ぎ澄まされているのだろう。
聞き逃していた音が聞こえるのは、少し楽しくもあった。

P「すっかり慣れたな……」

いつの間にか、この空間を楽しみつつある。
確かに人間は『慣れていく』生き物だが、いざ自分で実感すると、その適応力には驚くばかりだ。

P「さて、そろそろだな」

黒く閉ざされていた視界が、次第に赤くなっていく。
そして雑音が溢れ、聴覚が飽和して……

【朝、事務所】

亜美「兄ちゃんおっはよー!」

真美「おはおはー!兄ちゃん元気ー?」

P「おわっ!?……っと、おはよう二人とも」

表層意識に移り変わった途端、二人の明るい声が聞こえた。
状況把握は可能だが、それには僅かな時間を要する。
その所為か、あまりに突然な出来事に対応しきれなかった。

亜美「ほれほれ兄ちゃん、キュートな亜美のお出ましだよ?」

真美「セクシーな真美の魅力はDo-Dai?」

いつもの調子で挨拶してくる亜美と真美。
その元気を朝から貰えると思えば嬉しい限りだが。

P「はいはい。二人とも可愛いぞ」

まともに取り合っていては、話が全く先に進まないのが悩みどころだ。
俺の適当な返事を受けて不満そうに頬を膨らませるのが、いかにも子供らしい。

真美「テキトー過ぎるよ!真美達もうオトナなんだから!ね、亜美?」

亜美「だよねー?ほれ、そこなお兄さん。ちょっとムラムラしてこない?」

そう言って、亜美は自分の太ももを指でなぞり上げる仕草をする。
が、それに反応したのは俺ではなく。

真美「わ、わ、わ……だ、駄目だよ亜美!そうゆーのはあの、その……」

セクシーだ何だと言っていた真美だった。
しかし、亜美は気にせず。

亜美「んー?どうして?」

と、小首を傾げている。
対する真美は、しどろもどろに。

真美「だってその……恥ずかしいじゃん……」

なんて言っている。

P(思春期かな?まあ、そういう年頃か)

『自分の方がお姉さんである』という事を意識し始めたのか、ここ最近の真美は一歩大人に近付いている気がする。
亜美は相変わらず、俺を見つけてはベタベタと抱きついてくるのだが。

P「ま、俺からすれば二人ともまだまだ子供だよ」

そう言うと、二人は口を揃えて。

亜美・真美「子供じゃないもん!」

と、返してくる。
早く大人になりたいと思うのは、この年齢特有の願いなのだろう。
子供なりに『大人らしさ』を探している……そんな、がむしゃらで自由な二人を見ていると、ふと思う。

P「子供っていいなぁ……」

自分が知らぬ間に失っていた、前向きな力を感じる。
恐れも、遠慮も、損得も、限界すらも……何も考えずに進んでいける力。
そんな、自分に無いものをくれる二人が大好きだった。
……なんて事を考えて感傷に浸っていたのだが、この二人がそれを許す筈もなく。

亜美「兄ちゃん……ロリコンなの……?」

真美「真美、それはちょっと駄目かなって思う……」

ドン引きしていた。
あまりにも酷い誤解に、慌てて弁解を試みる。

P「ち、違う!俺はただ、『お前達みたいになれたらな』って思ってだな……!」

亜美「え……?それって――」

真美「ロリコンで女装趣味って事……?おお神よ……兄ちゃんを救い給え――アーメン」

P「誤解だ!俺はもっと純粋な意味で――」

人の話を聞いてくれないどころか、より酷さが増している。
現状を打破するために、さっきの言葉の真意を言おうとしたところで。

春香「あの……おはよう、ございます……」

春香がやってきた。
これ以上ない、最悪のタイミングである。

亜美「あ、はるるんおはよー!」

真美「おはおはー!あれ?はるるんどうしたの?」

やけに歯切れの悪い春香を怪訝に思ったのか、真美がそんな質問をする。
想定される返事は一つ。

春香「いや、その……プロデューサーさんがロリコンで女装趣味って、本当なの……?」

P(まあ、そうなるよなぁ……)

あんな言葉を聞けば、歯切れが悪くなるのも無理はない。
こうなってしまった以上、何もできずにおもちゃにされる事は覚悟しなければならないだろう。
二人にからかわれるのはいつもの事だ。仕方ない、諦めよう。
……そう思っていたのだが、イタズラ好きなこの二人も、流石にそこまで鬼ではないらしく。

亜美「あーそれ?冗談冗談!」

真美「そーそー。ちょっと兄ちゃんと遊んでただけだよ?」

春香「あ、そうなんだ……よかったぁ……」

ちゃんと誤解を解いてくれた。
少し身を引き気味だった春香が、しっかりとこちらを向く。
その春香に。

P「そうだ、春香。そろそろレッスンなんだけど、この二人の面倒見るの頼めるか?」

この双子の付き添いをして貰うように頼む。
春香はあっさりと頷いて。

春香「あ、はい。いいですよ」

と、二つ返事で引き受けてくれた。
本来は俺が付き添うのが筋なのだが、残念ながら用事は一つだけではないのだ。
最近は仕事が増えているのもあって、手が回らない部分も出てきている。
だから、こうして年長組――あずささんを筆頭に、春香や千早など――に付き添いをお願いする事も多くなった。
頼み事をしても嫌な顔をせず引き受けてくれる春香には、本当に頭が下がる思いだ。

P「すまないな。ほら、亜美、真美。春香と一緒に行ってこい」

亜美「はいはーい!」

真美「はるるーん!早く―!」

俺がそう言うや否や、事務所を飛び出していく二人。
置いていかれた春香は。

春香「あ、待ってよ二人ともー!」

そう言いながら、急いで準備をしていた。
そして、準備が終わったかと思っていた時。

春香「あ、プロデューサーさん。これ、どうぞ」

と、何かの包み紙を差し出してくる。
咄嗟に受け取ってみると、中から『カサリ』という軽い音がした。

P「これは……」

春香「クッキーです。お仕事の合間に食べれたらいいかなーって思って、作ってきちゃいました」

『えへへ』と、少しはにかみながら笑う春香。
先日もドーナツをくれたし、世話になりっぱなしだ。

P「ありがとう。大切に食べさせて貰うよ」

春香「はいっ!あ、そうだ。後で感想も聞かせてくださいね?」

P「分かった。まあ、美味しいに違いないと思うけどな」

と言うと、春香は嬉しそうに笑って。

春香「ふふ、ありがとうございます。でも、ちゃんと食べてから感想が欲しいです。その方がもっと嬉しいですから」

P「そういうものか?」

春香「そういうものです。それじゃ、行ってきますね。プロデューサーさん」

P「ああ、行ってらっしゃい」

こちらに向かって軽く手を振ると、二人の後を追いかけていく。
薄手のスカートがひらひらと揺れて、階段を駆け降りる音が聞こえてきた。

P「ふぅ……」

嵐のような騒動が落ち着いて、一つ溜息を吐く。

P「全く、手の掛かる……」

悩みの種をまき散らす二人。
それでも、一緒に居るとその悩みが吹き飛んでいくようで。

P「さて……今日も一日頑張ろう!」

そんな風に思わせてくれるのだから、何とも不思議なものだ。
それに。

P(春香の手作りクッキーか……)

お菓子だって楽に作れる訳じゃないだろうに、こうして作って来てくれる。
いつも何気なく受け取っているが、感謝しなければならないだろう。

P(俺って恵まれてるな……)

あんなに元気な二人と、気を遣ってくれる春香が居て。
俺は、自分で思っている以上に幸せなのかもしれない。

P(……眠くなってきたな)

頭が重くなるような感覚に襲われる。
ふと自分の胸元が視界に映り、今日締めてきた緑のネクタイが見えた。
次第に強くなる眠気に抗う事なく身を委ねる。
そうして、三人が居なくなった事務所の静寂を聞きながら……

【無意識空間】

P「さて……」

お馴染みとなった無意識空間で目を覚ます。
こちらとあちらを何度も行き来しているうちに、ある一つの仮説ができていた。
その仮説を構成する情報を改めて確認する。

P「まず一つ目……時間はスケジュールに沿っている」

朝、昼、夕方、夜……そして、今回の覚醒では朝だった。夜は眠っているのだろうし、大きく時間が飛んでも驚きはない。
9月24日、25日のスケジュールとのズレも、ほぼ無いと言っていい。
予定と違っていたのはあずささんを迎えに行った事ぐらいだ。
伊織達が帰ってきたのも予想外――直帰すると思っていたのだ――ではあるものの、スケジュールと照らし合わせてみれば事務所に戻る時間に不自然さはなかった。

P「二つ目……俺の意識が途切れるのは、決まって一人の時である」

この空間に落ちるのは、誰かとの会話が終わってからだ。
一人になって数分経つと、眠気や倦怠感が襲ってくる。

P「三つ目に……俺はデスクワークを終えている。そして、その内容を憶えている」

こちらに居る間、あちらの俺が何もしていないという事はない。
書類仕事は終わっているし、家に帰ってもいるようだ。

P「……今日は昨日とネクタイが違ったしな」

さっき意識が落ちる寸前に見えたネクタイは、昨日の物とは違っていた。
これは帰宅した証拠と言えるだろう。

P「そして四つ目……この空間で見た人物は、あちらですぐに接触する事になる」

必ずしもそうとは言えないが、おおよそ合っている筈だ。
恐らく、状況が開始されるタイミングは僅かながら前後する事がある。
例えば、あずささんの時は運転中だったし、伊織の時は事務所のドアが開くまでに多少の猶予があったりした。
しかし。

P「……これは誤差の範囲ってところだろうな」

重要なのは『こちらで観測した人物と接触する』という事だ。
それ以外は気に留めなくてもいいだろう。

P「つまり……」

ほぼスケジュール通りである事。
ここで観測した人物と、あちらですぐに会うという事。
こちらに居てもデスクワークを終えているという事。
あちらで意識が途切れるのは、決まって一人の時だという事。
ならば、これらが導く結論は――

P「俺が二重人格である、という事……」

それ以外の可能性は思いつかない。
発想が飛躍しているのは分かっている。
けれど。

P「……これが一番しっくりくるのも確かだ」

いきなり『俺は二重人格だ』なんて言えば、『頭がおかしくなったのか?』と思われるかもしれない。
しかし、現実に二重人格者は存在するのだ。
それがどれだけ低い確率であろうとも、確実に。

P「その低い確率を引いたのが俺だった……って話だな」

有り得ないのでなければ、それが自分に降りかかっても何ら不思議ではない。
人間、実際に経験するまでは『まさか自分が』と思っているものだ。
加えて、自分が二重人格だと判断する一番の理由もある。

P「二重人格になった際、いわゆる『待合室』のようなものができる……らしい」

一人が表に出ている間、もう一人は無意識の中で待機するものだと聞いている。
『待合室』は人によって違うらしく、教会や草原、他にはアパートやマンションなど、その形態は様々だ。
俺の場合だと、この空間がそれに該当するのだろう。
そんな風に考えれば、立てた仮説はより真実味を帯びてくる。

P「まあ、闇雲に否定してもこの状況は変わらないしな……」

俺がこの状況にあるという事実は受け止めねばならない。
思えばあの時――伊織と接触した時――意識を失った筈の俺が急須を取り落とさなかったのも、もう一人の俺が出てきたからだろう。

P「それに――」

この二重人格……考え様によっては、案外悪くないのかもしれない。

P「何しろ、俺はいいとこ取りできてる訳だしな」

仮に、ここに居る俺を基準に『俺』と『彼』に分けて考えたとしよう。
『彼』は一人で仕事をするのが好きで、人との関わりが嫌いな自分なのだろう。
だから、いざ誰かと会話をしなければならない状況になった時には『俺』にバトンタッチするのだ。

P「……それにしたって、運転中とか勘弁して欲しいものだけどな」

車に乗る前に少しぐらい言葉を交わすだろう事を考慮すれば、どうやら軽いやり取り程度なら問題ないらしいと推察できる。
それでも『密室であずささんと二人きり』という状況は、予想以上に気まずかったようだ。
いきなり交代させられた時は心臓が止まるかと思った。

P「そういえば、あの時は不思議に思わなかったけど……」

自分でも冷静に運転を続けていたのはどうしてだろう。
身体が操作を憶えていたからか、それとも……

P「いや、今となってはどうでもいい事か……考えに集中しないと……」

そう思い直して、湧き出した疑問に蓋をする。
今は『俺』の事を把握しなければ。

P「『俺』は……書類仕事が嫌い、なんだろうな……」

まあ『書類仕事が好きだ』という人間の方が珍しいかもしれないけれど。
多分、心のどこかで『面倒臭いなぁ……』とでも思っていたのだろう。
ともあれ、人とのコミュニケーションが一段落つくと『俺』の意識は沈む。
伊織の例を考えれば、他者と自分の距離は交代に関係ないらしいと推察できる。
ここからはただの憶測だが、『これ以上は話をしないだろう』と判断した時に交代するようだ。

P「とにかく、どちらの俺も得しかしてないwin-winの関係なんだよな」

強いて困っている事を挙げるとすれば、お互いの人格を認識できない事ぐらいだろうか。

P「そうそう。困っていると言えば、何故か存在する腕時計と手帳と携帯……これの意味も分からないままだな」

何となく腕時計を見てみる。
短針は正午に差し掛かっていた。
ちなみに、携帯で確認しないのは電源が入らないからだ。

P「……そろそろか」

そう呟いた途端、落ちてきた雫が水面を波立てる。
揺れは次第に大きくなり、ぼやけた立像が浮かび上がった。

P「この像も『彼』からの事前情報なんだろうな」

今から接触する人物を事前に見せてくれている、と言ったところか。
実際、これのお蔭でスムーズに状況を把握できている部分もある。

P「贅沢を言えば、もう少し柔らかい表現にして貰えると嬉しいんだけど」

何度もここに来ているとは言うものの、未だにあの眼差しには慣れない。
どうしてこうも攻撃的な伝え方なのだろうか。

P「……まぁいいか」

余計な事を考えるのはここまでだ。
今はこの像が誰なのかを認識しなければ。

P「ふむ……これは――」

陽炎の如き立像を見つめ、湧き起こるイメージを輪郭に重ねる。
すると、複数の線は一つに纏まり、全体像が安定してゆく。

P「……美希だな」

美希「…………」

輝く金髪に、身体のラインがくっきりと出た服。
左手を腰に当て、右手は身体に沿うように下げられている。
気だるそうでありながら、同時に貫禄を備えているような立ち方。
以前の眠そうなイメージは微塵もなかった。

P「美希も成長したよな……」

やる気も何もなかった、漠然とした夢しか持たなかった美希。
それが、俺のイメージすら塗り替える程に大きく、強くなった。

P「それにしても……やっぱり怖いな」

この空間には、あの前向きなエネルギーに満ちた美希の瞳は存在しない。
プレッシャーを放つような存在感と、それに反する空虚な視線が不気味さを加速させる。
そして。

P「……始まったか」

空間に線が刻まれ、灰色の構造体が生まれてくる。
『まるでコンピューターの中に居るようだ』と、錯覚させる景色。
不意に、何も無い宙の一点が幽かに明滅した。
それが引き金になったのか、直視できない程の白が弾けて……

【昼、テレビ局・楽屋】

光に塗り潰されていた意識が戻る。
左手には、重みのあるビニールの感触。
右手はドアノブを回そうとしているところだった。

P(そうか、差し入れに来たんだったな)

自分の情報を確認する。
この作業にも慣れたものだ。

P(美希か……)

またいつもの光景があるのだと思うと、少し楽しみな自分が居る。
意気揚々とドアノブを回し。

P「おーい、差し入れだぞー」

と、左手の袋を掲げながら足を踏み入れる。

美希「あ、ハニー!会いたかったのー!」

すると、俺の姿を認めた美希が抱きついてきた。

美希「はぁ……落ち着くの……」

俺に身体を預けたまま、美希が深呼吸をする。
リラックスしているのを見ると、このままにしておいてやりたくなる。
が、いつまでもこのままというわけにはいかない。

P(でも、俺も落ち着くんだよな……)

ここ最近、皆と会う時間は本当に少なくなってきている。
それは皆が売れているという証拠なのだし、嬉しくはあるのだが。

P(ちょっと寂しいというか……)

二十歳を超えた男が何を言っているんだ、と思わなくもない。
けれど、やっぱり寂しいものは寂しいのだ。

P(以前はもっと賑やかだったのにな……)

事務所に皆が居る時間が減って『ふと最後に会った日を思い出せば、一週間以上前だった』という事も多くなった。
それが嫌で、こうして楽屋に差し入れなんて持ってきてしまっている。

P(俺の付き添いも必要なくなってきたしな……)

まだまだ手が掛かると思っていた亜美や真美でさえ、『俺よりしっかりしているのでは?』と思うようになってきた。
そういう成長が喜ばしいのは確かだが、同時に複雑な気持ちもある。

P(……子離れできない親じゃあるまいし)

『誰か見られたら不味い』思いながらも、美希の抱擁を拒否しないのはその所為だろうか。
右手で抱きとめている美希の身体が温かくて、離れたくないと思ってしまう。
そんな感傷に浸っていると。

響「……何してるんだ?」

背後から軽蔑するような低い声が飛んでくる。
振り向いた先には、ジト目の響が立っていた。

P「……いや、違うんだ。ただちょっと間が悪かっただけというか……な?」

響「何が違うんだ?自分には、美希を抱き締めてるようにしか見えないけど」

『この変態』と言わんばかりに追求してくる。

P「誤解だ!いや、状況はそうとしか見えないかもしれないが、これには訳が――」

そう弁解していたところで。

響「――なんてね。大丈夫、ちゃんと分かってるぞ!」

響が微笑んでいるのが見えた。
それから、また真剣な表情になって。

響「美希。そろそろプロデューサーから離れなよ」

美希を窘める。
言われた美希は。

美希「はーい」

と、素直に従っていた。
からかわれただけだと分かり、心の中で胸を撫で下ろす。

P「さて……じゃあ、ここに差し入れ置いておくからな」

テーブルの上にビニール袋を置き、楽屋から出ようとする。
そこで。

美希「ねぇねぇハニー。今度のお休み、デートしよ?」

美希が突拍子もない事を言い出した。
アプローチを受けるのはいつもの事だ。
それ自体は嬉しいのだが、俺も美希も立場というものがある。

P「魅力的な提案だけど……遠慮しておくよ」

美希「えー?どうして?」

P「そりゃ、デート現場なんて押さえられたらアレだし……」

『星井美希、熱愛発覚!?』なんて記事が出るのは避けたい。
それに。

P(あんまり期待させてもな……)

美希の気持ちは知っている。
だが、アイドルとプロデューサーの関係にある限り、それに応える事はできない。

P「ごめんな?」

美希の目を見て謝る。
美希は『むー……』と不機嫌そうに唸ると。

美希「ハニーは、ミキと一緒なのは嫌?」

そう訊いてきた。

P「そういう訳じゃないよ」

そうだ。
嫌だと思っている訳ではない。
けれど、明確に好きだと言える訳でもなかった。

美希「じゃあ――」

恐らく、『ミキとデートして?』と続けるつもりだったのだろう。
しかし、それは響の声で遮られた。

響「美希」

という、短い言葉。
それだけで、さっきまで不満そうだった美希は諦めた。

美希「あ……ごめんなさいなの。迷惑だったよね……?」

P「いや……」

俺がはっきりと断ればよかっただけの話だ。美希に非はない。
むしろ、自分に懐いてくれるのが嬉しくて、いつまでも優柔不断なままの俺に非があると言える。
ただ、ここで『美希をそういう対象には見れない』と言ってしまえば、彼女のやる気を奪ってしまう。
恋心を利用しているようで、いつも居たたまれない気持ちになるが、仕方のない事だ。
そう、自分に言い聞かせた。

P「……代わりと言っては何だけど、ご飯ぐらいなら連れて行ってやれるぞ」

場を支配する沈黙に耐えきれず、そう提案する。
美希は食いつくように。

美希「ホント!?」

と言ってきた。
一応、釘を刺しておく。

P「ただし、二人きりは駄目だけどな」

美希「ちぇー……」

また口を尖らせたところで、響が美希に言葉を投げかけた。

響「約束できたんだからそれでいいでしょ。それよりも、そろそろ収録の時間だぞ」

美希「あ、そっか。それじゃあハニー、またね!」

携帯を取って時間を確認した美希が、楽屋を飛び出していく。
響はその素早い行動に置いていかれて。

響「ちょっ!?自分を置いていくな―!」

そう言って、美希の後を追いかけていった。
楽屋には、俺一人が残される。

P「はぁ……」

不意に溜息が漏れた。
響には助けられてばかりだ。
まあ、美希を迷惑に思っている訳ではないから、『助けられた』というのは少し違うかもしれないが。
それにしても、響の言う事をすんなりと聞く美希を見ると、ふと思う。

P(あの二人、いいコンビだよなぁ……)

美希が響を振り回しているように見えるし、実際そうなのだが、美希は響の意見を無視しない。
いや、『しない』と言うよりも『できない』と言うべきだろうか。
美希は今まで年上を振り回してきたし、それを受け入れられてきたのだろうが、響は違う。
あまり乱暴に扱うと、たまに涙目になってしまうのだ。
そんな『年上らしくない』響は、美希のストッパーになる。無論、年上らしく美希を窘める時もあるけれど。
そして、自身を『完璧』と称しながらも意外に打たれ弱い響を、美希が引っ張っていく。
共に助け合う、理想的な関係と言えるだろう。

P(羨ましいな……)

そんな風に羨んだところで、誰かが自分を引っ張ってくれる訳でもないし、怒ってくれる訳でもない。
俺は俺で、他人に頼らず、自分の力で問題を解決しなければならないのだ。

P(美希……か)

椅子に掛けられたコートを見ながら、彼女の事を思う。
いずれ、はっきりと返事をするべき時が来る。
その時には、逃げない自分になっていなければならないだろう。

P(でも、今は……)

掲げた目標を実現するために、精一杯の努力をしなければ。
二人に会えて、その力も湧いてきたのだし。
美希の温もりと、響の気遣いに感謝しよう。

P(さて……事務所に帰るか)

そう思って、足を出口に向ける。
すると。

P(時間、か……)

楽屋には誰も居ない。
そして、考え事をしている間に結構な時間が経過していた。
『彼』に交代する条件は満たされている。

P(書類仕事、よろしく……)

心の中でそう呟いて、迫りくる眠気に身を委ねる。
室内特有の空調の匂いに包まれて……

【無意識空間】

P「んー……っと」

両手を組んで上に伸ばし、筋肉の凝りをほぐしていく。
現実の肉体がリラックスする訳ではないと理解しているけれど、それでもストレッチは気持ちがいい。

P「とはいえ、ストレッチだけっていうのもアレだよなぁ……」

『では何故そんな事をしているのか』と問われれば、『別に好きでやっている訳ではない』と答えざるを得ない。
他に有意義な事ができればいいのだが、この空間における新たな発見もなくなったし、現在の状況も分かっている。
つまるところ、暇なのだ。

P「スケジュールの進行に狂いはないし……二重人格も悪くないな」

恐らくだが、次の交代時には真とやよいをスタジオに送っていく事になるだろう。
撮影の仕事が入っているが、徒歩で行くにはスタジオが遠い。
ならば車を使うしかないが、運転手である『彼』はコミュニケーションが苦手だ。
『沈黙に支配された密室の車内』という光景が、ありありと目に浮かんでくる。

P「というか、『彼』って本来は『俺』と同じ筈なんだけど……」

『随分はっきりと分離したものだ』と、他人事のように思う。
俺からしてみれば、車での移動なんて喜ぶべき交流の機会だ。嫌う道理がない。

P「まあ、運転中に交代するのは勘弁して欲しいけどな」

『目を開けたら運転中でした』という事態は、今後一切ないように努めて貰わねば。
そうでなければ寿命が縮む。いや、縮むどころか無くなってしまいかねない。

P「それにしても、勿体ないよなぁ……」

こんなに楽しみな事はそうそうないだろうに、『彼』は皆と会いたくないらしい。
『俺』には理解できない思考回路をしている。同じ人物というのは、もしや何かの間違いなのではなかろうか。

P「――なんて事を『彼』も思ってるんだろうし、お互い様か」

『彼』にしてみれば、成果をすぐに実感できる書類仕事を嫌うなど有り得ない事だろう。
互いに互いを愚かだと思っている――あくまで推測だが――という意味では、『俺』と『彼』は本当に同一人物なのだろうな、と思う。
まあ、別人格との会話が成立しない以上、相手の考えなど確かめるべくもないが。

P「そろそろか」

そんな益体もない事を考えているうちに、空から水滴が落ちてくる。
そして水面が揺れ、輪郭の不安定な像が立ち上がった。

P「ふむ……」

像を観察し、どんな特徴を持っているのか考える。
ショートカットの髪に、すらっとした体躯。
腰に左手を当てており、頭の後ろを右手で掻くような仕草をしている。

P「これは……真か」

やよいか真かの二択だと予想していたが、果たしてその姿は真のものだった。
俺がイメージを像に重ねると、揺れていた輪郭線は一つに纏まっていく。

真「…………」

P「うーん……予想通りなのは嬉しいけど、この目はどうにかならないかなぁ……」

色のない眼光が俺を貫いている。
これだけは予想に反して欲しかったが、そう上手くはいかないようだ。

P「この照れたような仕草とのミスマッチ具合が、何とも……」

不気味である。

P「頭を掻いてるのが、絶妙に悪く作用してるな……」

顔が少し俯いている所為で、真の視線は上目遣いだった。
虚ろな上目遣いがこれほど恐ろしいとは。

P「さて、そろそろ次へ進んでくれないかな……」

そう思うと同時に、白い線が空間を切り取りだした。
複数の線によって囲まれた部分から、徐々に色と質感を備えてゆく。

P「ふむ……地面を見るに、事務所の外みたいだな……」

アスファルトが生まれ、街路樹が並び立ち、ガードレールが形成されていく。
複雑な曲線も現れ、目の前には流線型の物体が浮かび上がってきた。

P「……車か」

そこまで認識したところで、空間を飲み込むような光が溢れだす。
圧倒的な白。塗り潰されてゆく視界。
瞳を閉じて意識の交代を待ち、身体から力を抜く。
そして、エレベーターで感じるような浮遊感が身体を襲って……

【夕方、事務所の外・駐車場】

P(ん……)

意識が覚醒し、自分の状況が頭に流れ込んでくる。
情報を把握した後、これからの行動を大まかに決定する……とは言っても、真とやよいをスタジオに送り届けるだけなのだが。
突発的な事態――あずささんの時や、亜美と真美の時の事だ――でなければ、それほど身構えなくとも大丈夫そうだ。

P(基本的にはスケジュールに忠実だしな)

二人には『先に車で待っている』と言ってある――という記憶が存在する。
これは、『彼』にも最低限のコミュニケーション能力は備わっていた、という証明になるだろう。

P(まあ、それがなかったらプロデューサーとか名乗れないよな……いや、そんな事よりも――)

スムーズに出発する為にも乗車しておくべきか。
そう思い、運転席の扉を開けて身を滑り込ませる。
キーを差し込み、エンジンをかけたところで、事務所から二つの影が駆け寄ってくるのが見えた。
車に到着した二人は、後部座席の扉を開けると。

真・やよい「遅くなりましたっ!」

と言ってきた。

P「いや、それほど待ってはいないよ。出発するからシートベルト締めてくれ」

真・やよい「はい!」

シートベルトの『カチリ』という音が聞こえたのを確認して、アクセルを踏み込む。
緩やかに発進した車は、スタジオに向かって車道を駆けた。

【車内】

僅かに赤く色づいた木々が車窓を流れていく。
走行音だけが聞こえる車内の沈黙を最初に破ったのは、真の声だった。

真「プロデューサー」

P「ん?どうした?」

真「その……今回もやっぱり男性役なんでしょうか……?」

快活な真には似合わない、沈んだ声で問い掛けてくる。
自分の売り方に納得しきれていないのだろう。
事実、こういう話をするのも初めてではない。

P「そうだな。先方からはそういう指定がきていたから真を選んだんだが……もしかして、嫌だったか?」

真「いえ、嫌と言うか、何と言うか……たまには女の子らしい格好もしてみたいかなー、なんて……」

P「その気持ちは分かるけど……今回は我慢してくれないか?」

P「俺も、今度はそういう仕事を取ってこれるように頑張るからさ」

真「……はい」

沈んだ返事をすると、それっきり黙り込んでしまった。
『女の子らしい仕事を取ってくる』と約束しても落ち込んだままという事は、もっと根本的な部分で悩んでいるのだろう。
どうにか元気づけてやりたいと思い、真に話し掛ける。

P「真」

真「何ですか……?」

P「その……だな。真にこういう仕事が来るのは、それが真に似合っているからと言うか――」

P「真らしさが一番よく分かるから……だと思う」

真「ボクらしさ……ですか?」

P「ああ、そうだ」

真「それって、ボクが男の子っぽいって事ですか……?」

P「いや……それはちょっと違う」

『元気づけよう』という意思だけが空回りして、上手い言葉が出てこない。
それでも、悩みを解決するのがプロデューサーの役目だ。

真「違うって……?」

P「『男みたい』とか『女らしくない』とか、そういう否定的な意味じゃなくて――ああ、なんて言えばいいのかな……」

言葉に詰まり、バックミラーから目を逸らす。
何を言うべきか迷っていると、やよいが会話に入ってきた。

やよい「あの……真さん」

真「やよい?どうしたの?」

やよい「あの、えっと……」

やよいもどんな言葉を掛ければいいのか迷っているみたいだ。
しかし、それも一瞬の事で。

やよい「私、真さんはカッコいいなって思います」

やよい「ダンスを間違えた時とか、ちゃんと教えてくれて……カッコいいなーって」

やよい「でもでも!そういう真さんはお姉さんみたいだなって、思うんです」

やよい「だから、その……私はそういう真さんが好きです!それじゃ、駄目ですか……?」

そう一息に言いきると、また誰も喋らなくなる。
それを聞いて、『そっか』とだけ呟いた真は。

真「ありがとう、やよい。そうだよね……ボクはボクなんだし、それでいいんだよね」

納得したような、吹っ切ったような、そんな調子でお礼を言った。
お礼を言われたやよいは。

やよい「よかったです!」

と、真に笑いかけていた。
対する真も。

真「うん!なんか元気出たし、今日も頑張るぞ―!」

なんて、いつものように前向きになっていた。
それからは、明るい声が車内を満たしていた。
楽しそうに会話を交わす二人を見て、ふと思う。

P(……やよいに感謝しないとな)

結局のところ、真に必要なのは慰めでも、耳触りのいい言葉でもなくて。
やよいのように、自分を理解してくれる存在だったという事だろう。

P(まだまだ、いい理解者にはなれないか……)

そう反省する。
プロデューサーとして、彼女達が不安を抱えなくて済むように、より精進しなければならない。

P(その為に『俺』が居るんだしな……)

書類仕事は『彼』に任せて、『俺』は『俺』の役目を果たそう。
そんな事を改めて心の中で誓っていると、目的地のスタジオが見えてきた。

P「着いたぞ」

到着を告げ、二人が車を降りる。
激励の言葉を掛ける為に、サイドガラスを下げた。

P「それじゃ、頑張ってこい」

真・やよい「はいっ!」

弾むような返事を受けて、今回の仕事は上手くいくだろうと安心する。
二人は入り口に向かって歩いていったが、ふと真が振り向いて。

真「プロデューサー!約束、忘れないでくださいねー!」

と、言ってきた。
歩道に車を横付けしていた事で気が急いていたのか、俺は約束を思い出す前に。

P「ああ!任せろ!」

そう叫んでいた。
真は満足そうな笑みを浮かべると。

真「絶対ですよー!それじゃ、行ってきます!」

手を振りつつ、スタジオに入っていった。
見送りを済ませると、俺は車を事務所に向けて再発進させた。
一人になった車内で、真との約束の事を考える。

P(咄嗟の事とはいえ、ああ言ったからには守らないとな……)

女の子らしい仕事か……
本人の美的センスがおかしい――と言うと、流石に失礼が過ぎるかもしれないが――ので、こちらで調節しないと酷い事になりかねない。
可愛い系の中でも、爽やかでシンプルなイメージであれば似合うだろうに……本当に、色々と惜しいやつだ。

P(後は事務所で考えるか……)

それとも、いっそ『彼』に丸投げしてしまおうか。
一人で考えるなら適役は『彼』だろうし。
そんな事を思っていると、不意に視界が暗くなり始めた。

P(あー……予想はしてたけど、これ大丈夫かな……?)

フロントガラスにぼんやりと映るグリーンのネクタイが見えなくなっていく。
脳を蝕む眠気と、瞼が閉じていないのに暗転してゆく世界。
もはや慣れ親しんだと言ってもいいぐらいに経験した、交代の時間。

P(事故だけは起こしてくれるなよ……)

ただそれだけを願い、抵抗せずに意識を沼に沈めてゆく。
そして、全身の感覚を手放して……

【無意識空間】

P「ただいま」

何もない暗闇に、自分の発した言葉が溶ける。
やはりこの空間は安心する。自分の無意識だからだろうか。

P「まあ、返事なんてある訳ないよな……」

むしろ返ってきたら怖い。
そんな下らない思考に没頭していると、不意にある事を思いついた。

P「さっきが夕方だから……」

後二回の覚醒で日付が変わる。
日付が変われば、社長に会えるようになるだろう。
状況が状況なので忘れていたが、修正案の報告は済ませておきたいと思っていたのだ。

P「その辺は『彼』が上手くやってくれるかな?」

『俺』も『彼』も、元は一人の『プロデューサー』だ。
ならば、同じ事を考えていてもおかしくはないだろう。
そう結論を出したところで、水滴が落ちてきた。

P「夜に仕事の予定はなかったから……」

誰と会う事になるのか、皆目見当がつかない。

P「この現象も、そういう事態に備えたものか……」

状況の把握ができなければ、咄嗟の判断に支障が出る。
そういう意味では、この二重人格もよくできていると言えるだろう。

P「ふむ……これは……」

考え事をしている間にも、不安定な像は揺らめいている。
銀色に輝く長い髪。落ち着いた服装。
そして、人差し指を立てた右手が唇の前に添えられていた。

P「貴音か」

そう言葉を発すると同時に、像は彼女の姿に近付いてゆく。
次第に輪郭がはっきりしてくると、やはり視線が固定された。

貴音「…………」

P「何と言うか、神秘的な感じがするな……」

貴音の纏うミステリアスな雰囲気がそう思わせるのだろうか。
他の皆が放っていた強烈な違和感はなく、むしろこの空間に溶け込んでいるような印象さえ受ける。

P「それでも怖いものは怖いけど……」

『似合っているから怖くない』という事もなく、心の中まで見通されているような居心地の悪さは相変わらずだ。
しかし、これは……

P「もしかして――というか、これって確実に『彼』の印象だよな……」

話し掛ける事を躊躇わせる無表情な顔。無遠慮で感情のない瞳。
そして、像を前にすると動かなくなる身体。
『彼』が誰かと対峙する時は、こういう不快感を覚えているのだろう。
以前は単なる事前情報だと思っていたが、実際は偏見まみれだったようだ。

P「まあ、こんな風に見えてれば代わって欲しくもなるか……」

皆との交流を楽しみにしている『俺』でも、これは少し厳しいものがある……
とはいうものの、所詮は『彼』のイメージなので全く気にしていないのだけど。
居心地が悪いのは一時的なものだし、この後すぐに皆と会えるのだから、むしろ歓迎すべき現象だ。

P「さて、そろそろ交代だな」

至るところに線が走り、空間に立体が出現し始める。
デスクや椅子らしき物が見えるので、場所は事務所で間違いないだろう。
真達を送った後の予定は特になかったし、恐らく書類仕事をしている筈だ。

P「という事は……貴音が傍に居るから気まずいとか、そんな理由か」

『彼』はどこまでヘタレなのだろうか。
……『無言の圧力に耐えられない』というのは、まあ分からないでもないが。

P「それにしても、貴音かぁ……」

思い返してみれば、彼女とは久しく会っていない。
しかし、それも仕方のない事だ。
仕事が忙しいのは勿論だが、貴音は全くと言っていいほど――多少、世間からズレてはいるものの――手が掛からない。
それはつまり、俺が送迎をしたり、現場で指示を出す必要がないという事だ。
一方で、俺は年少組のフォローに回っているという事もあり、一緒の仕事にでもならない限り顔を合わせないのだ。

P「楽しみだな」

素直にそう思う。
こんな貴重な機会を譲って貰って、『彼』に申し訳ないぐらいだ。
そんな事を考えていると、雑音が増え、光が周囲を照らし始めた。

P「ふー……」

一つ息を吐き、意識の覚醒に備える。
身体から力を抜くと、光と音の洪水に飲み込まれて……

【夜、事務所】

目を覚ました俺は、記憶を引き出して現在の状況を確認する。
判明したのは、書類仕事やデータの打ち込みが終わっているという事。
蒸し暑い所為なのか、クーラーが効いているという事。
そして、貴音が黙々とラーメンを啜っているという事だった。

P(成程、これは気まずいかもな……)

美味しそうにラーメンを食べるのではなく、ただ食事を胃に落とし込む作業のようにも見える。
初めて遭遇したのなら、確かに気まずいだろう。

P(……俺は初めてじゃないけどな)

物憂げな表情の貴音を見たのは、これで何度目だろうか。
どうにか力になりたくて、俺は貴音に話し掛ける。
まあ、自分の過去に関する話なので答えてはくれないだろうけれど。
……それはいつもの事だし、気にしない。

P「貴音」

貴音「……プロデューサーですか」

考え事をしていたのだろう。
どこか上の空だった意識がこちらを捉え、言葉が返ってくる。

P「悩みでもあるのか?」

貴音「いえ、特には……」

そんな答えは『悩んでいる』と言っているようなものだが、深入りはしない。
これもやはり、いつもの事なのだ。

P「そうか。何かあったら、いつでも言ってくれていいからな」

貴音「はい。ありがとうございます」

静かにやり取りを交わす声が、事務所に響いている。
ただの沈黙も、貴音と居れば不思議と心地よい。

P(……やっぱり、話してはくれないか)

『重大な使命を背負っていた』という話は聞いている。
今みたいな表情をしているのは、大抵その事を考えている時なのだ。
それが気になって、以前、もっと詳しく貴音の過去を訊こうとした事がある。
結局は『トップシークレット』の一言が返ってくるのみだったけれど。

P(それも当然か)

いつだっただろう。あれは確か、律子の躍進を見て焦っている時期だったか。
プロデューサーとして未熟だった俺は、皆に随分と迷惑をかけた。
ダブルブッキングという、致命的なミスも犯した。
もし、その時の事を他人に訊かれたとして、俺は素直に答えるだろうか。

P(答えないよなぁ……)

誰だって知られたくない事の一つや二つはあるものだ。貴音が言うには、一つどころか百個もあるそうだけど。
ともかく、自分に置き換えて考えれば、過去を聞き出すなんて事はできなくなった。
それに気づいてからは、『息抜きになればいいか』程度の世間話をするだけになったのだ。
そんな事をつらつらと考えていると、不意に給湯室の方から声が聞こえた。

響「あれ?二人とも何してるんだ?」

P「響か。いや、貴音が悩んでるみたいに見えたからさ」

貴音「おや。わたくしは『悩んでいる』などと言った覚えはありませんよ?」

貴音がそう答えると、響は『呆れた』と言わんばかりの口調で。

響「またか……何かあったら、まずは自分に相談するって事になったでしょ?」

P「そうだけど……やっぱり放っておけないというか……」

響「はぁ……プロデューサーは心配性だな」

貴音「ええ。本当に心配性です」

P「すまん……」

響が言った通り、貴音は俺に『何かあれば、まずは響に相談する』という約束をしてくれている。
俺も『同性の方が相談もしやすいだろう』と納得したのだが、それでも悩んでいる貴音を見過ごす事はできなくて。
結局、もう何度目か分からないぐらいに呆れられているのだった。

響「まあ、あんまり気にする事ないよ。約束はしてるけど、貴音は相談なんて滅多にしないし」

響「それに、プロデューサーを頼りにしてないって訳じゃないんだからさ。そうでしょ、貴音?」

貴音「はい。プロデューサーはとても頼りにしております」

P「そうか……ありがとう」

このやり取りをするのだって、いつもの事だった。
俺は貴音を心配している。だから、いつも話し掛けているけれど。
もしかしたら、それは嘘なのかもしれない。本当は、貴音に頼って貰いたいだけなのかもしれない。
そんな事を考えていると、ふと時間が気になった。

P(そういえば、もう遅いな……)

季節は秋。
気を抜いていると、あっという間に日が沈む。
その事に思い至って、二人に早く帰るよう促した。

P「……さて、二人もそろそろ帰った方がいい。何なら送ろうか?」

響「うーん……貴音と帰るから大丈夫!いいでしょ、貴音?」

貴音「はい。では、共に帰りましょうか」

P「そうか。気をつけてな」

響「うん!また明日ね、プロデューサー!」

貴音「本日はお疲れ様でした。それでは」

荷物を持った二人が事務所の扉を開け、階段を下りていく。
事務所に残ったのは俺一人。
音無さんの姿が見えないが、給湯室にでも居るのだろうか。

P(もう出番はないかな……?)

これから残業をするのだろうけれど、音無さんと二人きりでも特に問題はなさそうだ。
どうせ書類に意識が向いているのだし、気まずいという事もないだろう。

P(とりあえず、今日は終わりか……)

すぐに交代の時間が来る。
残業のある『彼』には悪いが、『俺』は一足先に休ませて貰おう。

P(おやすみ……)

眠気が強くなり、視界がぼやけてくる。
俺は、徐々に溶けていく意識を放棄して……

【無意識空間】

P「さて……」

『彼』は自宅で寛いでいる頃だろうか。
思えば、プライベートのほぼ全てを明け渡す状態になっているが……

P「正直、一人になっても仕事ぐらいしかやる事ないし……どうでもいいか」

家でやる事と言えば……持ち帰った書類の整理ぐらいだろうか。
好きな番組がある訳でもなく、料理に凝っている訳でもない。
『趣味は何ですか?』と訊かれたら、『読書と音楽鑑賞です』と答えるぐらい、何もない。
一応、仕事が趣味とは言えるかもしれないが。

P「まあ、どうせ帰って寝るだけの生活だしな」

睡眠、入浴、炊事、洗濯……そのあたりの雑事は、全部任せてしまって構わないだろう。
その代わりと言っては何だが、雑誌やTVを見る権利ぐらいは譲ろうではないか。
どの道、記憶は共有するのだから、自由時間に拘る必要はない。

P「そういえば……」

洗濯で思い出したが、俺はネクタイを3本しか持っていない。
いくらなんでも3本だけでローテーションを組むというのは、アイドルのプロデューサーとして――いや、それ以前に社会人として不味い気がする。
どうせ給料の使い道もないのだ。新しく2本ほど買い足しておくべきだろう。
問題はどう選ぶかだが……

P「アイドルの誰かに見立てて貰う――のは、流石に駄目か」

変な記事でも書かれたら、面倒臭い事この上ない。
美希やあずささん辺りのセンスに期待したかったが……仕方がない。自分で買いに行くとしよう。

P「っと、そんな事より……」

次の交代で、社長が帰ってくる日になる。
『彼』も分かっているといいのだが。

P「そこはまあ、自分を信じるか」

元は同じ存在なのだ。
あまり心配しなくとも大丈夫だろう。

P「ん……時間か」

天井から落ちる滴が水面を打ち、波紋が広がる。
その中心に現れた像の輪郭は、相変わらず不規則に揺らめいていた。

P「今度は誰だろう?」

像をしっかりと見つめ、輪郭が訴えてくるイメージを読み取る。
結われた髪に、シンプルな眼鏡。
小脇に資料を抱えるような立ち方をしているその女性は、タイトなスーツを着ていた。

P「ああ、律子か」

律子「…………」

眼鏡の奥にある無感情な瞳が俺を射抜いているが、もう慣れたものだ。
というか、本当の律子の怖さはこんなものではない。

P「それはさておき、律子と会うのは久し振りだな……」

変な懐かしさすら覚えるのは、ここ最近、アイドルの皆とばかり会っていたからだろうか。

P「お互い忙しいからな……」

忙しいというのは、悪い事ではない。
ただ、いい事ばかりではないというのも確かだ。
そんな事を思っているうちに、空間に線が滲んだ。
見慣れた風景が次々と構成されていく。

P「やっぱり事務所だよな」

一日の始まりは事務所にあり。
よくよく考えれば、昨日と一昨日の二日間、律子に会わなかった事の方がおかしかったのかもしれない。

P「さてと……」

もう目を開けていられないぐらい、空間は光に満ちていた。
雑音が鼓膜を叩いている。
俺は、それに溶け込むように身を委ねて……

【朝、事務所】

視界の焦点が噛み合い、ぼやけた景色が鮮明になってゆく。
今日は少し冷えるのか、俺はジャケットを羽織っていた。暖房の暖かさが心地よい。
机を挟んだ向こう側には、パソコンを見つめる律子の姿があった。
しかし、キーボードを叩く音は全く聞こえてこない。
それを不思議に思っていると、不意に律子が声を上げた。

律子「よし……これで完璧ね!」

P(これが交代の理由か……)

キーボードの音が鳴り止んだ時点で、こういう空気になる事が分かっていたのだろう。
『こういう空気』とは、いわゆる『話し掛けないと気まずい空気』の事だ。
音無さんが居ないのも、交代の一因になっているのかもしれない。

P(まあ、別にいいけど……)

『彼』の無駄に高い危機管理能力に呆れつつ、俺は律子に話し掛けた。

P「何が完璧なんだ?」

律子「気になりますか?それは……これの事です!」

そう言うと、数枚の書類を掲げて見せてきた。
遠目なので内容は判然としないが、恐らくは竜宮か何かの企画書だろう。

P「それは?」

律子「新しいイベントの企画書です。今、竜宮小町は波に乗ってますからね」

P「成程な。ここで一気に売り込みをかけようって事か」

律子「そういう事です。プロデューサーに負けてばっかりじゃいられませんので」

『ふふん!』と、律子が得意げに笑う。
そんな律子を見ていると、ふと思う。

P(そういえば、いつもこんな感じだな……)

企画が完成すると、律子は決まって俺に教えたがるというか。
そこまで対抗心を剥き出しにするほど、俺の業績が振るっているという訳でもないと思うのだが。
まあ、やる気があるのはいい事だ。余計な水は差さないでおこう。

律子「もたもたしてると、すぐに追い越しちゃいますからね?」

P「そうだな……俺も負けないようにしないとな」

律子「その意気ですよ、プロデューサー」

こんな律子を見ていると、俺も頑張らねばという思いが溢れてくる。
職場にライバルが居るというのは、意外と嬉しい事なのかもしれない。
そんな事を考えているうちに、律子は席に着いていた。
そして。

律子「さてと……もうひと頑張りしますか!」

パソコンに向き直ると、カタカタとキーボードを叩き始めた。
俺も仕事を再開しようと思い、視線をデスクに戻す。

P(律子も凄いよな……)

あの若さで、あれほどの人気ユニットを作り上げたのだ。
俺からすれば、律子の方が事務所に貢献していると思うのだが。

P(本人は認めないか……そんな事)

律子のライバル意識は、担当しているアイドルの人数に起因しているのだろう。
俺は9人。律子は3人。
その差が『プロデューサーとしての差』になっていると、律子は本気で思っているらしい。

P(買い被りすぎな気がするけどな……)

事務所の誰もが、律子の実力を認めている。
本当に負けないように頑張るのは、俺の方だ。

P(まあ、そこは心配ないか)

俺だって、今度のライブを成功させるつもりでいるのだ。
その為にも、今日は社長にもう一度報告しなければならない。
そんな事を考えていると、隣から声が掛かった。

春香「律子さん、プロデューサーさん。はい、お茶です」

P「ん……春香か。ありがとう」

そういえば、春香も事務所に居たんだった。
頭の中を探れば、給湯室に姿を消した記憶があった。

律子「ありがとう春香」

春香「いえいえ。どういたしまして」

差し出されたお茶を一口飲んで、春香に向き直る。
律子はお礼を言うと、また仕事に集中していた。

P「それにしても早いな。今日はどうした?」

春香「えと、レッスンしようかなって思いまして。早く来ちゃいました」

『えへへ』と、照れくさそうに春香は笑う。
自主レッスンの為に早く来るなんて、とても春香らしい。
春香はお茶の片づけをササッと終わらせると、鞄を掴んで事務所の扉を開いた。

春香「それじゃ、行ってきます。二人とも、頑張ってくださいね!」

律子「ええ、行ってらっしゃい」

P「行ってらっしゃい。気をつけてな」

『バタン』と扉が閉まり、再び律子と二人になる。
俺は律子に向かって。

P「『頑張って』だそうだ」

律子「プロデューサーこそ」

そう言うと、律子も冗談めかして返してくる。
春香のお陰で俺も頑張れそうだ。

P(律子に負けないようにしないとな)

『頑張れ』と言われて、頑張らない訳にはいかない。
それに。

P(律子もこんな気持ちだったのかな……)

ライバルが居れば、もっと頑張れる気がする。
律子が対抗心を剥き出しにするのも納得だ。

P(とはいえ、そろそろ時間だし……)

このまま律子と仕事をするのは『彼』の役目だ。
事務処理なら任せてしまった方がいいだろう。

P(頼んだぞ……)

眠気が頭に靄をかけて、思考が徐々に鈍っていく。
それでも、自分の手は止まらずに動いていた。
『彼』を信頼して、躊躇う事なく意識を手放し……

【無意識空間】

P「よし」

自分の状況を確認し、次の行動を考える。

P「俺と考えが同じなら、『彼』も次は……」

社長室へ向かい、そして『俺』に交代する筈だ。

P「社長は『二日ばかり留守にする』って言ってたから……」

23日に準備をして、24・25日と出かけたのなら、今日には帰ってくる予定だろう。
『彼』も報告に向けて動いてくれているといいが。

P「いや、余計な心配か」

『俺』が予定を組み立てているという事は、それが『彼』にも伝わっているという事だ。
それに、『俺』にしろ『彼』にしろ、より良いライブにしたいという気持ちは同じだろう。
自分や会社……それも大事だが、アイドルの皆の為に、俺は全力を尽くす。
たとえ人格が二人に別れても、それだけは変わらない筈だ。

P「さて……時間だな」

落ちてくる水が波紋を作り、立像が現れる。
揺れる輪郭が見せるイメージは、茶色い背広に、がっしりとした体躯。
そして、撫でつけられた黒髪だった。

P「よし……社長だな」

社長「…………」

俺の言葉と共に、社長の姿が固定されていく。
相変わらず無感情な瞳が俺を捉える。
能面のような無表情も、やはり相変わらずだ。
しかし、いくら慣れたとは言っても、老年の男性とここで相対するのは初めてなので。

P「リストラされる時とか、もしかしたらこんな感じなのかもな……」

なんて、暗い考えが脳裏を過ぎる程度には怖かった。
それから空間に線が浮かび、それぞれが交差し始める。
構造が次々と現れてゆき、徐々にその姿を明確にしていく。
そんな風景を見つめていると、目の前にも変化が現れた。

P「扉の前に居るのか」

自分の周りに構造物ができるのは初めてではない。
狼狽える事なく、むしろ覚醒した後の状況を予測していた。

P「楽しみだな……」

社長に会い、そして修正案を報告すれば。
きっと、今までで最高のライブになる予感がする。

P「もしかしたら、また修正案を思いつくかもしれないけど」

まあ、その時はその時だ。
何度でも報告すればいい。

P「ふー……」

一つ深呼吸をして、目を閉じる。
緩く閉じた瞼の隙間から、まばゆい光が侵入してくる。
そして、膨大な音が俺を包み込んだかと思うと……

【昼、事務所】

意識がはっきりして、視界に事務所の景色が映る。
予想通り、社長室の扉の前で交代したようだった。
物音一つしないのは、事務所に人が居ないからだろうか。
それにしても。

P(ここまで来ておいて交代するなんて……よっぽど人が苦手みたいだな、『彼』は)

こんな状態で、よく仕事に影響が出ないものだと感心する。
まあ、支障が出そうな時は『俺』にバトンタッチするから問題ないのだろう。

P(それはそれとして……入るとするか――)

いや、その前に身なりを整えた方がいいだろう。
そう思って、ノックしようとしていた手を自分の身体に持っていく。

P「ジャケットよし。襟元よし――」

一つずつ口に出しながら服装をチェックして、だらしない部分は整えていく。
我ながら几帳面だと思わないでもないが、気を遣いすぎているという事もないだろう。

P「最後にネクタイよし……と」

お気に入りの青い――細かく言えば、水色と紺色のストライプだが――ネクタイを締め直し、扉をノックする。
少しの静寂の後、中から。

社長「入りたまえ」

という声が返ってきた。
書類を持ち直してドアノブを回し、社長室の扉を開ける。

P「失礼します――あれ?」

室内には、社長の他に音無さんが居た。
テーブルの上には、黒い液体で満たされたカップが置いてある。
二人はそのテーブルを挟んで、向かい合うようにしてソファに座っていた。

P(音無さんはここに居たのか……)

どうやら音無さんも社長に用事があったらしい。
朝に姿を見なかったのはそういう訳か。

P(しかし、入室は許可されたけど……)

これは、邪魔になってしまったのではないだろうか。
そう思って、一応の確認を取る。

P「あの……出直しましょうか?」

これは修正案の報告なのだし――だからと言って、後回しにしていいという訳ではないが――他に重要な案件があるのなら、それよりも優先度は落ちる。
この二人が社長室に居るのだ。会社の経営に関する話をしていた可能性もあるだろう。
そんな事を考えていると。

高木「いや、気にする事はないよ。音無君もいいかね?」

小鳥「はい。大丈夫ですよ」

社長は音無さんにも確認を取り、入室を促してきた。
その言葉に安心して、社長室へ足を踏み入れる。
音無さんの隣に腰を下ろすと、その手に白い紙があるのに気がついた。

P「それは……」

恐らく、日めくりカレンダーを破った後の紙だろう。
社長が留守にしている間、音無さんがここの掃除をしていたのだろうか。
だとすれば、俺も手伝うべきだったかもしれない。
まあ、一社員が社長室に出入りするのは憚られるかもしれないが。
そんな風に思いながら、音無さんの手にある紙を見ていると。

小鳥「日めくりカレンダーです。社長ったら、まためくるの忘れてるんですよ」

音無さんが、社長の机に目を向けながら説明してくれる。
その視線を追うと、机の上に寂しく佇む日めくりカレンダーが視界に映った。
そこにあった日付は。











               9月23日









P(え――?)

おかしい。

P(どうして、前の日付が――!?)

この企画書が完成して、その報告をしたのが23日の筈だ。
そして、その翌日から二日間――24日と25日の二日間である――社長は事務所を留守にしていた。
だから、今日の日付は26日でないとおかしいのだ。

P(なら、音無さんが何かしたのか……?)

もしそうだとして、一体何のためにカレンダーの日付を弄るのだろうか。

P(俺にドッキリでも仕掛けているのか……?いや、まさかそんな筈は……)

亜美や真美じゃあるまいし、音無さんがそうする動機が分からない。
もし仮に、これが何らかの企画だったとしても、芸能人ですらない俺を標的にするだろうか。
もっと言えば、日付に細工しただけのドッキリなんて何も面白くないだろう。

P(ひとまず、社長か音無さんに確認を――)

そう思って、混乱した思考を一度中断する。
照れ笑いを浮かべていた社長が、気を取り直すように咳払いをしていた。
考えている間に、結構な時間が経っていたようだ。
そして、真剣な顔つきになった社長が。

社長「では、報告を聞かせて貰えるかね?」

と、威厳のある口調で問い掛けてくる。
そこで俺は、『すみません、今日は何日ですか?』と言おうとした。
言おうとしたのだ。
しかし、口から出たのは

P「はい。まずは曲の選定ですが――」

という、自分の意思に反したものだった。

P(なっ――!?)

俺は驚いて、思考が真っ白になる。
けれど、俺の口は報告の言葉を吐き出し続けている。
それで、自分の身体が自分の思い通りに動いていないのだと、初めて気づいた。

P(どうして――!?)

おかしい。
何かがおかしい。
何かが、決定的に間違っている。

P(どうなってるんだ……?まさか――)

今の状態は『彼』の意識なのだろうか。
だとすれば、『俺』の意思が行動を制御しないのは納得できる。
だが。

P(もし仮に、その予想が当たっていたとして……日付はどう説明するんだ……?)

知らない間に巻き戻っていた時間。
俺は確かに、24日と25日を過ごした筈だ。
忙しくて会えなかった、皆と一緒に。

P(もしかして、タイムスリップしたのか……?いや、そんな馬鹿な――!)

非現実的にも程がある。こんな仮定は全くの無意味だ。
それに、もしタイムスリップが正解だとすれば、あの時の俺はまだ二重人格ではなかった筈なのだ。
だというのに、今の『俺』――つまり、9月23日の俺である――は自分の意思で行動できていない。
何かが、おかしいのだ。

P(待てよ……ひょっとして、俺は――)

思考の沼に沈んでいる間に、『俺』――あるいは『彼』だろうか――は報告を終えていた。
黙っていた社長から企画案にGOサインが出され、部屋を辞そうとしている。
そこを不意に呼び止められて、『昼であがりだ』という言葉に困惑している自分が居る。
何もかもが、『俺』の意思を無視して進んでいく。

P(俺は、二重人格なんかじゃなくて――)

よくよく考えれば、おかしい事は何度もあった。
伊織の時に、急須を落とさなかったのも。
あずささんの時に、事故を起こさなかったのも。
真の時に、約束を思い出す前に返事をしたのも。
それに何より、書類の内容を憶えていたのも、全て……

P(ずっと、過去を繰り返していたからで――)

提案に反発していた自分が折れて、社長に一礼している。
退出した後の俺はドアノブを握り、静かに扉を閉めようとしていた。
何故か左手が温かくなる。
そして。

社長「期待しているよ」

社長から激励の言葉が聞こえてくる。
それを最後に、意識の糸は儚く切れて……

【入院病棟・個室】

病室は静寂に包まれている。
私の目の前には白いベッドがあった。

小鳥「プロデューサーさん……」

眠ったままのプロデューサーさんに話し掛ける。
青白い頬に、かさついた唇。
左腕には点滴の針が刺さっている。
普段の彼と違う姿が、辛かった。

小鳥「目を開けてくださいよ……」

いつもみたいに笑って欲しくて、そう呟く。
叶わないと分かっているけれど、言わずにはいられなかった。

小鳥「……ごめんなさい」

あの日。
倒れたプロデューサーさんを見つけた日。
私達はすぐに救急車を呼んで病院へ向かい、医師の診断を仰いだ。
対処が早かったお陰で、命に関わる事もなかった。
けれど。

小鳥(私がもっとしっかりしていれば……)

そもそも、こんな事態は回避できたかもしれない。
あれほど近くで接していながら、どうして彼の不調に気づけなかったのだろう。
情けなくて涙が出そうになる。

小鳥(もう一週間も経つのよね……)

診察した医師は『過労だ』と言っている。
しかし、ただの過労がこんなに長引くものだろうか。
『何も分からない』という事実が不安を募らせる。
そんな事を考えていると、扉の開く音がした。

高木「彼の具合はどうかね……?」

少しやつれた社長が顔を出す。

小鳥「いえ……まだ……」

それだけで、事情は伝わった。
社長は。

高木「……そうか」

とだけ呟いて、ベッドの近くの椅子に座る。

小鳥「あの……お医者様は何と……?」

医師の説明を受けてきた社長に問い掛ける。
社長はこちらを向くと。

高木「……驚かずに聞いて欲しい」

重々しい口調で答える。
空気が緊張し、手に汗が滲んだ。

高木「彼が過労で倒れたのは、音無君も知っているだろう?」

小鳥「ええ。そう聞いています」

高木「それで……これは、私も耳を疑ったんだが……」

高木「――彼は、もう何度か意識を取り戻しているらしい」

小鳥「え――?」

喜ぶべき事なのに、私は呆然としてしまった。
予想の斜め上を行く内容に、理解が追いつかない。

小鳥(意識が戻ってる?一週間も眠ったままなのに?)

病院に運び込まれてからというもの、彼は一度も目を覚ましていない。
これのどこが、意識を取り戻しているというのだろう。
信じる事ができず、つい反論してしまう。

小鳥「でも……プロデューサーさんはずっと眠ったままで……」

高木「それは……」

私が彼の状態を口にすると、社長は黙り込んでしまった。
もしかすると、ここから先が本題なのかもしれない。

小鳥「社長、教えてください。どうしてプロデューサーさんは目を覚まさないんですか?」

高木「……分かった。君には話しておくべき事かもしれないね」

社長は一つ息を吸うと、ゆっくりと話し始めた。

高木「さっき、彼が意識を取り戻していると言ったね」

小鳥「はい」

高木「それは、彼の脳波を測定した結果なのだよ」

小鳥「脳波を測定……ですか?」

私が質問を返すと、社長はプロデューサーさんの点滴を見ながら話し続ける。

高木「うむ。栄養点滴をしているのに意識が戻らないのを、医者も不思議に思っていたそうだ」

高木「そこで脳波の測定を行ったところ、彼が意識を取り戻している事が判明したらしい」

小鳥「でも、プロデューサーさんは目を覚ましていないんですよね……?」

そう言うと、社長の顔が僅かに歪む。
やはり、これは話しづらい事なのだろう。

高木「……確かにその通りだ。だから、意識を取り戻しているというのは、若干の語弊がある」

小鳥「語弊……?」

高木「そうだ。正確には、『意識を取り戻すと、すぐに意識を失う』と言うべきかな……」

高木「彼は完全に意識を取り戻せないのだよ。『夢を見る程度にしか回復しない』と言ってもいい」

社長の説明は、分かりやすいようで分かりにくかった。
どこか核心を避けて話しているように思える。
だから私は、またしても社長に問い掛けた。

小鳥「……それは、どうしてですか?」

どうして、そんな中途半端にしか回復しないのか。
問われた社長は、プロデューサーさんを見ながら答える。

高木「脳波を測定した結果、分かったのは……」

高木「意識が覚醒すると、数分後には言語野が活動し、その状態が最長で30分ほど続く事と――」

社長は一度言葉を切ると、視線を私に戻して。

高木「意識を失う直前に、強いストレス反応が見られる……という事だ」

はっきりと、そう告げた。
言いづらい部分を終えたからだろうか。
社長は止まる事なく話し続ける。

高木「……医者には『原因を解消しないと目を覚まさない』と言われたよ」

小鳥「……それは分かっているんですか?」

高木「分かっている――というより、これは私の憶測に過ぎないのだけど……」

小鳥「構いません。話してください」

高木「分かった。ただ、確証は持てないという事は理解して欲しい」

小鳥「……はい」

私が頷くのを確認すると、社長は憶測を話し始めた。

高木「さっき説明した通り、彼が夢を見ている時には、言語野が活動している状態になる」

高木「そして、強いストレス反応を示した後、意識が途切れる……」

高木「ここまではいいかね?」

小鳥「はい」

高木「ここからが憶測なのだが……私は、彼が夢の中で会話をしているんじゃないかと思うのだよ」

小鳥「それは、言語野が活動しているから……ですか?」

高木「そうだ……だが、私がそう思う根拠はそれだけではなくてね――」

社長が言葉に詰まり、沈黙が降りた。
一度目を伏せて、息を吐き出してから話を再開する。

高木「強いストレス反応を示してから意識が落ちると聞かされて、私が真っ先に思い浮かべたのは……」

高木「この事態の引き金を引いたのは、他ならぬ私なのではないか……という事だ」

小鳥「……どういう事ですか?」

高木「音無君も憶えているだろう?過労で倒れる前日に、私が彼に『期待している』と言った事を」

小鳥「ええ」

確かに憶えている。
あの日、社長から激励を受けたプロデューサーさんはとても嬉しそうだった。
けれど。

小鳥「あの……それとプロデューサーさんが夢で会話している事に、何の関係があるんですか?」

社長の話した内容は、何の説明にもなっていないような気がした。
『社長がプロデューサーさんを激励して、それがどうした?』と思ってしまう。
そんな私の考えを察したのか、社長は話を続けた。

高木「私の言葉でストレスの限界に達した彼は倒れ、そして今も眠り続けている」

高木「『夢で会話をしているのではないか』という予想は、ストレスによって意識が落ちる事を考えて辿りついた結論だよ」

高木「何しろ、私があの言葉を掛ける直前まで、彼と会話をしていたのだからね……」

一息に話すと、社長は俯いてしまった。
プロデューサーさんが倒れた責任を感じているのだろう。
しかし、責められるべきは社長一人ではない筈だ。

小鳥「社長。さっき『引き金を引いてしまった』と仰いましたよね?」

高木「ああ……」

小鳥「つまり、ストレスの原因は社長だけでなく『私達』にあると……そういう事ですね」

高木「やはり気づいてしまうか……」

覇気のない声で、私の言葉を肯定する。
それから、僅かに顔を上げて。

高木「音無君の言う通りだよ。けれど、この事を彼女達に言ってはならない。分かってくれるね?」

小鳥「……はい」

そう言われると頷くしかない。
事務所の皆の精神状態は、お世辞にもいいとは言えないのだ。
美希ちゃんを筆頭に、プロデューサーさんが倒れた事で全員が心を痛めている。
千早ちゃんに至っては、弟さんの事が思い起こされた所為か、数日塞ぎ込んだほどだ。
そこに『プロデューサーさんが倒れたのは私達の責任です』なんて、追い打ちを掛けるような真似ができる筈もない。

小鳥(せめて、もう少し落ち着いてから……)

真実を告げるのは、プロデューサーさんが復帰してからでも遅くはない。

小鳥(……嘘を吐くのは気が重いけど)

後から真実を教えるというのもそうだが、今はもっと酷い嘘を吐いている。
それは『プロデューサーさんはもう目を覚ましている』というものだ。
目的は二つある。一つは、あの子達の心に掛かる負担を減らす為。
もう一つは……嫌な言い方になるが、プロデューサーが入院した程度で活動できなくなる事を防ぐ為だ。

小鳥(お見舞いにも来たいでしょうけど……もうしばらく我慢して貰わないとね……)

あの子達には『静養中だから』という理由で、お見舞いには来ないように言ってある。
それが真実ならよかったものの――静養中である事に偽りはないが――嘘を隠す為の措置だというのだから救えない。

小鳥(でも……)

彼が短期間で目を覚まさなければ、騙していた事を謝らなくてはならない。
その時に彼女達が受けるショックは大きいだろう。場合によっては、また塞ぎ込んでしまう可能性もある。
しかし、活動休止期間を先延ばしにできたと思えば、そう悪い事ばかりではない。
そんな風に、事務所の経営を考えている自分に嫌気が差す。
本当に、大人という生き物は卑怯だと思う。卑怯で勝手で……おまけに無力だ。

小鳥(それにしても……)

社長の話を聞いて、疑問に思う事がある。
私達がストレスを蓄積させ、社長の言葉がきっかけとなって彼は倒れた。
ここまでは分かる。問題はこの先だ。

小鳥(どうしてプロデューサーさんが目を覚まさないのか――いや、『何度も意識を失っている』のか……)

先程の話では、その理由が見えてこない。
そう思って、私は社長に質問を投げかけた。

小鳥「社長、一つ分からない事があります」

高木「……何だね?」

小鳥「社長の話だと、プロデューサーさんの状態を説明するには不十分です」

小鳥「どうして今こうなっているのか……その理由を教えて頂けますか?」

高木「……そうだね。続きを話すとしようか」

私の問いを受けて、社長は顔を上げる。

高木「音無君が疑問に思っているのは、彼がどうして目を覚まさないか……だったね」

小鳥「はい。原因がさっき聞いた通りなら、時間の経過で回復が見込める筈です」

小鳥「目を覚ました後も、これからは気をつけてプロデューサーさんに接すればいい……でも」

それは、『私達が与えるストレス』だけが原因だった場合の話だ。
彼が目を覚まさない理由には、もっと別の……『私達』以外の要素があるように思えてならない。

小鳥「私には、それだけで解決するとは思えないんです」

小鳥「もしかしたら、他にも原因があるんじゃないですか?」

高木「その通りだよ。そして、私の考える原因だが……それは――」

社長が言い淀む。
きっと、これが事態の核心。
私は心を落ち着けて、話の続きを促した。

小鳥「……それは?」

高木「私達だけでなく、彼にも問題があるのではないか……と思っている」

小鳥「プロデューサーさんにも……ですか?」

困惑する。
何が問題なのだろうと思っていると、社長が話を再開する。

高木「うむ。彼の問題というのは……『私達をストレスとして認識していない』というものだ」

小鳥「あの、すみません。よく分からないんですけど……」

高木「ふむ……少し待ってくれたまえ。例を挙げて説明しよう」

そう言うと、社長は視線を彷徨わせ始めた。
やがて考えがまとまったのか、私に視線を戻す。

高木「例えば、音無君が荷物を持つ時……それを『重い』と認識して持つだろう?」

小鳥「ええ……そうしないと力が入りませんし」

高木「では、私が音無君に『中身は入ってないよ』と言って、10キロの荷物を渡したらどうなる?」

小鳥「それは……落としてしまうかもしれません」

高木「だろうね……そして、それと同じ事が彼にも起きているのだろう」

高木「負担を負担として認識しないが故に、それを受け止める準備ができない……」

高木「無論、一度や二度ならいきなり重い荷物を渡されても耐えられるだろうが……それが重なれば――」

小鳥「いずれは耐えられなくなって、潰れてしまう……という事ですか……」

高木「そうだ。彼がこうして眠っているのは、それを改善する為……だと考えている」

高木「何度も夢を繰り返して、私達と言葉を交わし……自分の意識が途切れる原因を探る」

高木「そうしなければ『目を覚ましても、いずれは同じように倒れる事になる』と……彼も無意識のうちに理解しているのだろうね」

小鳥「そういう事ですか……」

プロデューサーさんが目を覚まさないのは何故か。
その理由が判明して、陰鬱な気持ちになる。

小鳥(時間が経てば治る……なんて……)

楽観視はできない。
それどころか、最悪の事態になる可能性もある。
そう、もしかしたら……

小鳥「プロデューサーさんは、ずっとこのまま……?」

夢の中で、ストレスに苛まれ続けるのではないか。
そんな懸念が生まれてしまう。
しかし、社長は無理に明るい声を出して。

高木「……まあ、さっきは深刻そうに言ったが、それほど重く考える必要はないよ」

と、私を元気づけようとしてくる。

小鳥「でも……」

高木「今の彼は、『心の痛覚』とでも言うべきものを認識しようとしているだけだ」

高木「彼に頼るばかりで本当に申し訳ないが……聡明な彼の事だ。すぐに自分の問題に気づくだろう」

高木「そうすれば、何もかも元通りだ。勿論、業務体制は見直すがね」

『ハハハ』と笑って、社長は話を締めくくる。
それが空元気なのは明らかだったけれど。
それでも笑い飛ばさずにはいられなかったのだと思うと、私まで胸が痛くなった。

高木「おっと、もうこんな時間か……」

社長が腕時計を見て、椅子から立ち上がる。
仕事の合間を縫って来ていたのだろう。
プロデューサーさんの分の業務を引き受けている社長は、疲労が見え隠れしていた。

高木「では、私は失礼するよ。彼をよろしく頼む」

小鳥「はい。お任せください」

そうして、社長は病室の扉を静かに開けて退室した。

小鳥(社長はああ言っていたけれど……)

二人きりになった室内で、私は物思いに耽る。
考えるのは、社長の言った『すぐに自分の問題に気づく』という言葉だ。

小鳥(本当に、そうなるのかしら……)

あの優しいプロデューサーさんが、私達を『ストレスの元凶である』と認識できるのだろうか。
それができないから、こうして眠り続けているのではないか。
嫌な考えは加速してゆき、私は最悪の事態を想像する。

小鳥(プロデューサーさんは、きっと……)

いつまでも、夢の中で迷い続ける。
同じ記憶を繰り返して、傷付いてしまうだろう。

小鳥(それでも……)

また、彼の笑顔が見たいから。
皆の中心で、笑って欲しいから。
だから。

小鳥(たとえ目を覚まさなかったとしても、私だけは……)

この人の傍に居よう。
そう思って、彼の左手を握りしめる。

小鳥「私は、ずっと待っていますから……」

最後に小さく呟いて、私も席を立つ。
そして、夕日の射しこむ病室を後にした。

【無意識空間】

P「ん……」

途切れていた意識が覚醒し、ぼやけた景色が視界に映る。
自分はどうしてしまったのか……

P「さっきは、確か……」

社長と話をしていて、いきなり意識が断絶した。
あの時はまだ、交代の条件を満たしていなかった筈だ。

P「いや、二重人格じゃないんだったな……」

では何故、意識が急に途切れたのか。
その理由を探してみたけれど、心当たりは一つもなかった。

P「あれ……?」

視界がはっきりしてくると、いつものように不安定な像が見えた。
そんなに長い時間が経っていたのだろうか。

P「今度は誰だ……?」

目を凝らして、像を見つめようとする。
しかし、俺のイメージなど必要ないとでも言うように、像の輪郭は明瞭になって。

小鳥「…………」

そこには、虚ろな瞳の音無さんが立っていた。


光射す日常が落とす影……END

以上で完結となります。お楽しみ頂ければ幸いです

アイマスらしくない話ですが、それでも読んで頂けたのなら嬉しいです

正直、自分でもジャンルがいまいち分からないものになってしまいました
ほのぼのミステリーとかでしょうか

救いはないんですか!

作中で社長が言っていたように、聡明なプロデューサーはいつか復帰します
ちょっと人より打たれ弱いのが治れば、彼はいい環境に居ると思いますよ
……業務体制は別ですけど

安価忘れてました
>>115>>113宛てです

蛇足でもいいから復帰する話がみたい

>>118
流石に先の分かっている展開は上手く書けないので……

小鳥さんが夢に出てくる事で、原因を理解するヒントが一つ増えたと考えれば
未来は明るい……かもしれません

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