あずさ「天使と女」 (328)


アイドルを引退して一年半ほどしたあずささんが、
残念なPや765プロの仲間達と共に、厳しい芸能界を走り抜けた日々を
彼女の視点で振り返ったり、思い出迷子になったりするお話です。


【お話について】

ほんのちょっと厳しい程度ですので、うつ展開とかは一切ありませんし、考えていません。
お母さんもぜひお子様にすすめてあげて下さい。甘味はきいてもシュガーレスです。

9割方あずささんの視点で進みますが、他のアイドルや事務方サイドのお話が多いです。
また、回想という形式を取る為、地の文が多めです。


【世界設定について】

箱マス1→アイマス2の流れにSPの設定をブレンドしつつ、改変を加えています。

例として

・作者の土地勘的な問題でたるき亭ビルの場所を大田区から、モデルとなったビルがある渋谷に変えてます。

・お話の都合上、オリジナルのユニット名と、原作にいないモブキャラが数名が出てきます。

・IA大賞発表会を年度末の三月に設定。

等です。予めご了承ください


また、現在の時間軸を2013年に、Pが765プロに来た時期を2010年の四月に設定してます。
箱マス1を2010年の四月から始めたと考えるとわかりやすいかもしれません。


削りに削ったのですが、それでもやたら長いので三日程に分けて、二分〜間隔で投下していきます。
途中で気軽に合いの手とか入れてくれると嬉しいです。


では始めます




SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1373970532



グラスの触れ合う音。人々の笑い声。週末の喧騒。

日常からの解放。束の間の祝祭。


A馬「結局、内々の話という事で向こうも折れて、その場は収まったんですけどね」

目の前の男性が笑う。


あずさ「大きな会社だと、総務のお仕事も結構ハードなんですね〜」

この人と食事する度、一度は言う台詞だ。


A馬「いわゆる、内助の功ってやつですよ」

グラスを口に運び、目を細めて、また笑った。


———2013年7月5日、東京都新宿区内のレストランバー『 BravoMan 』 PM07:45




新宿駅に近い雑居ビルの二階にある、いつもの店。指定席のように通される窓際のテーブル。


A馬「総務は会社の女房役っていいますからね。ハハハ」

自分の仕事を楽しんでいる男性の笑顔。



でも、私のよく知っていたものとは違う




一杯目はいつものすっきりとした味わいのスイスビール。
次に頼んだバローロのボトルはすでに空いている。安かったけど美味しかった。

この人から自慢話が出たら酔いがまわってきた証拠だ。今ならお互いにいい気持ちで帰れるだろう。


A馬「ここは俺が」

あずさ「いえ私もお払いします」

いつものやりとり。


A馬「いや、誘ったのは俺ですし、楽しい時間を過ごさせてもらったので」

あずさ「いいえ〜、それなら私も同じですよ。私にも払わせてください」

まただ。少し傷付いたような、控えめな笑顔。


正直な人




A馬「ふう…呑んだな。今日は少し風がありますね。気持ちいいな」

そうかもしれない。夜風にくすぐられた髪が、火照った顔に当たる。


A馬「駅まで、送りますよ」

軽く礼を言って、並んで雑踏の中を歩き出す。

自分を抑制できるのが、この人のいいところだ。
今日も楽しい、いいお酒だった。


七月にしては滅多にないくらい過ごしやすい、東京の夜。アルコールの熱も気にならない。

もっとも、私はそう呑んだわけでもないのだが




駅まで他愛の無い話をしながら、背の高いA馬さんに歩調を合わせて歩く。
実際は向こうが私に合わせてくれているのだろうけど。

こうして歩いている時は顔を見られないので気が楽だ。


どうか、何も言い出しませんように

どうか、二人ともこのまま楽しい気持ちで帰れますように




A馬「あれ?何だ、何かあったのか?」

新宿駅前の交差点でA馬さんが歩みを止める。
横断歩道の向こうでは大勢の警官と、少し離れてもっと多くの人達が、
工場にでもありそうな大型のトラックを囲んでいた。

あずさ「あら、何かしら〜。あれは…トラック?事故でもあったのかしら…」


そう言ったものの、事故でないことはわかっていた。

根拠は二つ。
そのトラックが歩道のあつらえたように広い場所に収まっていたこと、
ボディに一切社名も広告も入っていないこと。

予感がした



???「あー、あー、本日は晴天なり、本日は晴天なり」

交差点を渡り終えた瞬間、頭上の街頭ビジョンに三人の少女が映る




美希「みんなー!今日もお疲れ様なのー!」

考える前に、目を背けた。

A馬「なんだなんだ?何かの宣伝か?」


通行人の反応は様々だ。

足を止めて何事かを待ち受ける人。
ふと見上げた後に手元の端末の操作に戻る人。自慢げな顔で電話をかけ始める人。
煩わしそうに、または何も聞こえないような顔で駅へと吸い込まれていく人。


響「美希ーー!それはリーダーの自分が言う筈だったのにーーーーー!」

私も立ち去ってもいいはずだ




響「それに貴音!何だよ晴天って!もう夜の八時だぞー!」

懐かしい声。騒々しいけど人を惹きつけてやまない、あの子


貴音「ええ、響。まこと、良きたそかれです」

ミステリアスで儚げで、だけど逞しい、あの子


美希「ねえリーダー、つっこみはもういいから、ちゃんと仕事してほしいって思うな」

気持ちとは裏腹に、口の中で小さく笑ってしまった。


マイペースでわがままで、キラキラしていた、あの子



A馬「ああ、『 Lucinda (ルシンダ) 』ですね」

私に言ったの?聞こえないふりをする。


響「え、えーと!今度、自分達『 Lucinda 』の三枚目のアルバムが出ることになったんだ!」

この人はアイドルには興味が無いはず。
テレビもあまり見ないと言っていたし、私の事も知らなかった。


貴音「これもひとえに皆様方のおかげと我々一同感謝しております」

美希「今度のアルバムにはね!ミキ達の代表曲の『 relations 』やおなじみ『 THE IDOLM@STER 』の!
   え〜と…、ちょっとアレなアレンジの他にも、ねえ、リーダー、何だっけ?」


A馬「ははは、この子達面白いですね」

私は答えない。それより早く歩き出して欲しい




響「うぎゃ〜!何なんだよ〜!アレなアレンジってーー!」

貴音「此度の『 THE IDOLM@STER 』はぴあの伴奏による、ばぁ・そんぐ風あれんじを加えた、
   大変 あだるてぃ で、都会的な ぶるぅす を感じられるものとなっております」

響「そうそう!大人になった自分達を、これでもか〜ってくらい感じてもらえると思うぞ!」

美希「今日の24時に765プロのホームページに新アルバムの特設コーナーがオープンするの!
   すこーしだけだけど、収録曲の試聴ができるから是非聞いてみて欲しいな♪」


大人?記憶の中の響ちゃんが胸を張っている姿を想像すると可笑しくなった。
貴音ちゃんはともかく、他の二人はまだ二十歳にもなっていないというのに




響「発売日は夏真っ盛りの8月X日!!」

引退したばかりの頃は、様々なメディアで彼女達を見る度誇らしい気持ちがしたものだ。


貴音「あるばむ本体に加え、あれんじ曲用に撮り下ろした
   みゅうじっく・びでおを収めたでぃいぶいでぃいを同梱いたします」

今でも思い出す。私の後輩達、共に歌い、競い合った仲間。


美希「DVDには撮影シーンや、まだ言えないけどいろんな映像が入ってるの!楽しみにしててね!」

艶やかな衣装を纏い、光の中を駆け抜けた、あの頃。


響「詳しい情報は特設ページで公開されるぞ!さらに!初回特典として————」


そう、確かに私もそこにいたのだ。

世界が色付きはじめた、あの日にも



————

——




——

———2010年、4月7日 東京都渋谷区、たるき亭ビル1号館3F、芸能事務所「765プロダクション」


P「今日から皆さんをプロデュースさせていただくことになりました、————といいます。
  当面はスケジュール管理、送迎等のマネージャー業務も兼任させていただきます」

5年前の夏、11人しかいない765プロの所属アイドルに初めてプロデューサーがついた。

私はまだハタチ、美希ちゃんは中学生、真美ちゃんと亜美ちゃんはまだ小学生だった。

P「何分この業界のことは右も左も知らぬ未熟者ゆえ、至らない点も多々あると思いますが、
  精一杯、努めさせていただきます」

あの人は笑顔のまま喋り続けた。
皆、突然やってきた少し正直すぎる知らせにポカーンとなってたっけ。



「正直そうな人」 

それがプロデューサーさんの第一印象だった





あの人が高木社長に連れられ挨拶周りに向かった途端、
事務所は蜂の巣をつついたような騒ぎになった。


春香「ふわー、びっくりしたねー」

伊織「何よ!何よ!急に『ニュースだョ!全員集合!』とか言うから来たのに、
   出てきたのはただの使いっぱしりじゃないの!」

律子「はぁ……事務所の経営状態を考えれば、敏腕プロデューサーなんて来るわけないと思ったけど」

真「まあ、ボク達あまり売れてないからね。律子、ひょっとして知ってたの?」

律子「まあ、ね。どんな人かまでは知らなかったけど」

雪歩「うぅ…、新しい男の人……どうしよぅ……」

亜美「んー、おっちゃん?ぴーちゃん?それとも、あんちゅぁ〜ん あんちゅぁ〜ん?」

真美「そりは悩みどこだねい。うーん、ゲームとかしてくれるかなー」

やよい「プロデューサーかあ、えへへ」


春香「これから楽しみだね!千早ちゃん!」

千早「そう?正直なところ、私は期待できないわ。音楽の知識も無いような口ぶりだったし」

春香「うーん。確かにそうかもしれないけど、でも、お仕事として私達をサポートしてくれるわけだし!
   何かのきっかけにはなるんじゃないかな!」

美希「ミキ、あんまり忙しくなるのはヤだなぁ」




当時の765プロは小さな弱小事務所で資金力も無く、
高木社長はアイドルを大事にしてくれるものの、
彼のやり方は時代に即していなかった。

私達の受けていたレッスンは今から考えてもそう悪いものではなかったけれど、
社長の持ってくる仕事は「地道な、身の丈に合った」ものばかりで、
悪く言えば「誰でもよくて、代わりのきく」ものだった。

それでも私達は漠然と社長を信頼していた
プロデューサーとしてではなかったが、その暖かな人柄に皆好感を持っていた。

日常生活の傍らレッスンを積み、小さな仕事をこなして、
いつかやってくるチャンスを待っていた。


『何かのきっかけにはなるんじゃないかな!』


いつか、きっと————


————

——




——


美希「————実はね、アルバムの他にもみんなにお知らせがあるの!」

意識が今へ帰ってくると同時に、
視線が頭上の街頭ビジョンに引き寄せられた。

———2013年7月5日、東京都新宿区新宿駅東口前 PM08:18


貴音「さあど・あるばむ発売に先立つ7月2X日!」

久しぶりに見る。


響「なんと、ニューシングルを二枚同時リリース!」

彼女達の笑顔。


美希「今日はその内の一曲を初公開しちゃうの!」

光の中の、少し成長したアイドル達。


貴音「今日、この良き夜に皆様にお披露目できること、真、嬉しく思います」

私もそこにいたのだ。


響「まさに!今の季節にぴったりのナンバーさー!」

今はもう手の届かない。


美希「ミキたち『 Lucinda 』がおおくりする…」


響 貴音 美希「 Honey Heartbeat !!」





真っ暗だった画面に私達のいる新宿駅前の広場が映し出される。

先ほどのトラックはロープと警官、そしてスタッフ達で囲まれ、
周りにはすでに黒山の人だかりができていた。


街頭ビジョンがその光景に三人のシルエットをかぶせ、カウントダウンを開始する。

『10、9』


トラックを囲んだ群集がそのカウントに呼応して、さらに多くの人が集まってきた。

『8、7』


あずさ「もう少し離れた方がいいかもしれません」

A馬さんに告げて先ほど渡った交差点の方へ歩き出す



『6、5』

人ごみに揉まれるのも嫌だったが



『4、3』

あの子達に今の自分を見られたくなかった




『2、1』


『0!』

トラックのボディがスモークと共に展開されステージが、

2年連続でIA(アイドルアカデミー)大賞、部門賞を全制覇したトップアイドル、

『 Lucinda 』が現れる。


月明かりの下、影絵の貴音ちゃんが手をかざす。
一瞬の静寂、そして

響 貴音 美希『 空は まさに Starry  』


特設ステージのライトが閃き、爆音のような大歓声がアイドル達を迎えた


————

——




——

———2013年7月9日、都内武蔵野市、株式会社バラデューク、経理課 AM11:40


あずさ「あら〜、計算が合わないわ〜」

まただ、宣伝部からくる仕事が一度で終わったためしがない。

課長「先ほどの宣伝部の経費かね?困ったもんだねえ」

念のため、隣の席の先輩にチェックしてもらう。


女性社員B「まったくあの連中と来たら!あずさちゃん、あなたはいいわ、私が行ってくる」

あずさ「すみません。本当は私が行けばいいんですが」

女性社員B「あなたが行ったら向こうの思うつぼでしょ。私が行きます」

女性社員B「……あなたも大変ね」

もう一度頭を下げて先輩を送り出す。

課長「三浦君、気にしないことだよ」


宣伝部の人達は苦手だ。
気安く接してきて、下心を隠すどころか露骨に押し付けて、笑っている。

アイドルをしていたからって、あんな目で見られる筋合いはない




お昼にしていいと言われたので、仕事を中断して近くのカフェまで来た。
ここは男の人が来ないので気が楽だ。

竜宮には女性のファンも(真ちゃんほどではないが)そこそこいたけど、
今の響ちゃん達の様なメジャーな存在でもなかった。


誰も今の私には気付かないだろう。
髪も伸ばしたし、昼間は眼鏡をかけている。

それに、伊織ちゃんも亜美ちゃんもいない。


それでも誰かと目が合うといまだにドキッとする




携帯を見れば新着メールが二つ。

A馬さんと…、噂をすれば真ちゃんだった。


====

From: 菊地 真

Sub : 今日って空いてますか?

本文:あずささん、お仕事お疲れ様です!
   ボク今日、講義終わったらレポートで読む本買いにそちらに行くんで、
   よかったらお茶しませんか?時間合わせますので ノシ

   あ!モチロンお酒でもいいですよ (`・ω・´)


====


嫌なことがあれば、いいこともあるものだ。

嬉しくなってその場でOKのメールを返す。


よし、午後もがんばろう。

A馬さんのお食事の誘いは友達と先約があると断った


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——




——

———都内武蔵野市吉祥寺駅近くのコーヒーショップ、PM06:30


あずさ「ごめんなさい、待たせちゃったかしら〜」

注文したショートサイズのアイスコーヒーを持って真ちゃんの向かいに座る。

真「いえいえ、ボクも今来たところですよっ」

読んでいたファッション雑誌を閉じて、満面の笑顔。


まるでデートの待ち合わせみたいなやりとりだ。

真ちゃんと約束をするといつも私より早く来ているし、数十分待たせても嫌な顔ひとつしない。
もちろん私だって連絡はするけど。


女が二人揃えばたちまちお喋りが始まる。

服の話、大学の話、ダイエット

二人の時の真ちゃんは本当に良くしゃべる。
アイドル時代も決して無口というわけではなかったが、
こんなに自分から話題をふってくる子ではなかった。

それとも、私の会話のテンポが遅いだけ?




真「それでですね、ボク、迷ったんで、買う前にあずささんの意見を聞こうと思って」

楽しい会話。

でも、それを遮るものがある。

真「やっぱりあずささんもそう思います?へへっ、ボクもオシャレのこと、結構わかってきたかも」

両隣のカップルが物珍しそうな視線を彼女に投げる。


細めのプリーツをあしらった、淡いライトグリーンのパフスリーブシャツ。
長く綺麗な脚に良く映える、コンパクトなシルエットの黒のキュロットと純白のキャンバスシューズ。
細くてしなやか指先を飾る、小さなパールをあしらったパステルグリーンのネイル。
ハートを模したシンプルなシルバーのネックレスと、形のいい胸にかかる少し明るめの黒髪。
薄めの化粧が真ちゃんの整った目鼻立ちを際立たせていた。


私だって彼女のことを知らなければ、
こんなに綺麗な女の子が僕言葉で話しているのを見たら奇異に思うだろう。
幾ばくかの、女らしい反感を抱いて。

真ちゃんが気付かないうちにお店を変えることにした。


真ちゃんは綺麗になった。

いや、ただ綺麗というだけでは足りない。とても女らしくなったのだ




私の引退から少しして、真ちゃんはアイドルを辞めた。


当時の業界の話題は『 Lucinda 』と『 ジュピター 』に集中していた為、
彼女の引退は芸能ニュースでも報じられることは無かった。

すでに部外者になっていた私は、真ちゃんから送られてきた、
『ボクもやめました』と一言だけ書かれたメールで引退を知った。


『 Lucinda 』がデビューする以前、アイドル『 菊地真 』は
『 竜宮小町 』や『 如月千早 』『 天海春香 』に並ぶ765プロの稼ぎ頭だった。

私達はそれぞれに異なるファン層を持っていたけど、
765プロのアイドルが皆そうだったように、時にはユニットの垣根を超えて競演した。
互いに刺激しあい、切磋琢磨する関係だった。


律子さんに誘われて竜宮になる前、まだ『 765エンジェルス 』だった頃、
よく真ちゃんと千早ちゃんの三人で歌わされたっけ




何となく、責任を感じた。

頻繁に真ちゃんと連絡を取り、一緒の時間を過ごした。

彼女は気落ちした様子もなく、これで好きな格好ができると喜んでいた。
進学祝に服を買ってあげたことがきっかけで、一緒に買い物に行くようになった。


『ボク、あずささんみたいな素敵な女の人になりたいんです』

かつての王子様は、ロングヘアーの似合う、素敵な、とても女らしい美人になった。



髪を伸ばした真ちゃんはもう踊らなくなっていた


————

——



——

———都内武蔵野市内の創作居酒屋 『裂鬼丸』、PM08:00


真「この焼酎、美味しいですねー。香りも強くて、甘いんですけどお料理にすごく合いますよ!」

あずさ「うふふふ、そうでしょ〜。でも真ちゃん、あんまり呑みすぎちゃだめよ」

大学二年生とはいえ、彼女はまだ二十歳になってない。
私は短大時代はお酒は呑まなかったけど、彼女は違うらしい。
結構強い方だし、呑み方も自分で管理できるので、友達と呑むと大抵損な役回りになるそうだ。


真「へへっ、まだ全然大丈夫ですよ!でもこのお店、すごくいいですね。
  お魚もお料理もちゃんとしてるし、個室になってて雰囲気も良いし」

あずさ「気に入ってもらえて嬉しいわ〜。ここは私のお気に入りなの」

真「やっぱり、あずささんってすごいなあ。大学のコ達と食事行くと、大抵ガッカリしますもん」


それはそうだろう———あの人はどこに行ったって美味しいものを見つけてきた。

そこらのチェーン店ですませるなんて考えたことも無いだろう。
まだ私達が売れてない頃だって、自分が食べたくないものは絶対に食べさせない人だった。

『大事なアイドル達に変なものは食べさせられませんよ』


この言葉が本心だったのか、心から出たウソだったのか。今でもわからない




真「あずささん?」

あずさ「あ、あら〜、ごめんなさい。ちょっと、昔のことを思い出していて…」

意識が現実に戻ってくる。目の前に心配そうな顔の真ちゃんがいた。


真「……何かあったんですか?」

あずさ「あっ…、違うの。そういうのじゃなくて、仕事の知り合いとちょっと、ね?」


馬鹿だ。

何が『そういうのじゃなくて』なんだろう。現役時代はアドリブにも自信を持っていたのに。
勘のいい真ちゃん相手に、よりにもよってこんなごまかし方をするなんて。

響ちゃん達の笑顔が脳裏によみがえる。真ちゃんも彼女達のステージを何かで見たのだろうか。


あの夜、A馬さんと気まずい別れ方をしたのは事実だけど




あれこれと愚にもつかない言い訳を繰り返しているうちに、
次第に冷静さが戻ってくる。


何でこんなに現実が遠いのだろう。


真ちゃんはお酒の入ったグラスを手にうつむいていた。

彼女には彼女の悩みがあったようだ。
その視線は何を見るでもなく、自身の内面に向けられているのが一目でわかった。
さっきの私もこんな感じだったのだろうか。


あずさ「真ちゃん?」

真「小鳥さんから電話があったんです」




あずさ「……音無さんから?」

真「はい、昨日家の方に。ボク、メアドも電話番号も変えていたので」

耳の奥で、何かがはじけた。

私より年上の、人懐っこくて可愛らしい765プロの事務員さん。
引退してからは見ることのなかった顔が、記憶のままに鮮明に浮かんでくる。
動悸が激しくなるのがわかる一方で、自分がまた遠くなる。



真「久しぶりに会いたい、って…。もし知ってたら、あずささんの連絡先も教えてほしい、って……」

真「『真ちゃんも、もうお酒が呑める年でしょう?私、大人になった皆と
  お酒を呑んで朝までガールズトークするのが夢だったの!』って……」

真「ハハ、小鳥さんはああ言ったけど、ボク、まだギリギリ未成年なんですよね……。
  まあ学校の皆も呑んでますし、それが普通なんですけどね…へへっ」


そういって真ちゃんは力なく笑っている。

こんな笑い方をする子じゃなかったのに




真「ボク、とりあえず自分の連絡先だけ伝えて、だって教えないのも変ですから」

真「あずささんのは知らない、って言えれば良かったんでしょうけど、
  ウソをつくのも嫌だし、あずささんと連絡とってないって思われるのも嫌で」

真「だから、あずささんに聞いてみます、って言って、それで終わったんですけど」

あずさ「………」

真「あずささん……、ボク、どうしたらいいんでしょう」


お酒で神経が高ぶっているせいもあったのだろう。
真ちゃんは少し震えていた




空調のせいで連れが寒がっていると店員さんに言って、
お茶を持ってきてもらった


あずさ「真ちゃん、それを少し飲んで。それで今日はもう、帰りましょう」

真「あずささん、たぶん、断れないと思うんです。都合が合わないって言っても、
  きっと、また連絡してくると思います」

あずさ「……ええ、そうね」


あの人の息がかかっていてもいなくても、音無さんならそうするだろう。
曖昧に断っても、おそらく本心から、心配してまた接触してくるに違いない。

ハッキリと拒絶の意思を示すか、そうでなければ——


————

——



——

———都内武蔵野市内のあずさのアパート、PM10:25


あずさ「ふうっ」

帰宅して、疲れた体をベッドに投げ出す。

真ちゃんを家の近くまでタクシーで送って、帰りは電車を乗り継いできた。
お店を出た時には彼女も落ち着いていたので、一人で帰れるからと断ったけど、
無理を言って車に乗せた。


何となく、一人にするのが怖かった




あずさ「お化粧落とさなきゃ……」


疲れている。

仕事が忙しかったわけでも、呑みすぎたわけでもない。
ここ数日、色々な事がありすぎた。


ちょっと前までは、何もかも上手くいってたのに。

A馬さんとは礼儀を外さずいい関係を築けていた。
真ちゃんと会えば、いつも楽しかった。

『 Lucinda 』に千早ちゃん、他の今も活動している子達のことを、
偶然見たり聞いたりしても、すぐに忘れられたのに。


変わらないのは仕事だけ。

あずさ「明日も、お仕事で〜す」


とにかく、やらなきゃならないことを片付けよう。

簡単に着替えて洗面所に向かう




お風呂からあがり、就寝前のケアをおこなう。

化粧水を塗って、乳液を塗って、ボディクリームを塗って、美容液を塗って

髪を乾かして、マッサージして、ストレッチして、今日もお疲れ様でした


鏡に映る、23歳の自分の顔。

あずさ「あとちょっとで24になるのよね」


少し疲れた感じがするけど、今日は特別行ったり来たりしたから。

うん、大丈夫。何てことはない。


おやすみなさい。明日は何も起きませんように


————

——



——

———2010年4月8日 都内のレッスンスタジオ AM09:00

例の挨拶のすぐ翌日から、プロデューサーさんは精力的に動き出した。

私達は早くから自主練習用のスタジオに集められた。

P「皆さん、おはようございます。今日より本格的なプロデュースを始めたいと思います。

  皆さんの経歴と宣材、天海さんと双海さん、失礼、真美さんが出演していたコント、
  それと、全員分はありませんでしたがステージ映像に目を通させてもらいました。
  今何ができるか知りたいので、急な話で恐縮ですが、皆さんのやれることをここで見せてください」

伊織「はぁ!?いきなり呼びつけて何かやれってアンタ何様のつもり?」

やよい「い、伊織ちゃん、そんな言い方したらダメだよう」


P「はい、真に申し訳ないのですが、私はこの業界については素人同然でして。

  準備期間中にネット上の皆さんの少ない評判を洗い出して、事務所の資料と照らし合わせたところ、
  皆さん一様に認知度は低かったのですが、パフォーマンスで一定の評価を得ている方もおられました」

あくまで、笑顔。


P「なので、この場で皆さんのパフォーマンスを見せてもらい、社長に説明をいただくことで

  私自身の知識不足を補い、同時に皆さんの実力を認識し、今後の方針を決めたいと思います」
 
P「説明は以上です。では秋月さん、恐縮ですが準備運動と発声の指示をお願いします。

  それと何を演るかも貴女が決めてくださって結構です。今日はこれに一日使いますので」

律子「……はい」


プロデューサーさんは笑顔を崩さなかったが、慇懃無礼とはまさにこのことだった。
対照的な高木社長の困った様な笑顔と一緒に今でも記憶に残っている





伊織「もー!何っ!なのよあの態度!ホンッと頭にくる!」

真「うん、なんかボク達のこと、馬鹿にしてるよね」


イチ、ニ、サン、イチ、ニ、サン、イチ、ニ

やよい「言葉使いは丁寧なんですけどー……、伊織ちゃんが怒るのも無理ないかなーって」

亜美「うん、ちかたないね。恐縮、恐縮ってアトラスかっつーの→!」 ア、アミ、コエオオキイヨ


イチ、ニ、サン、シ、ゴッ イチ、ニ、サン、シ、ゴッ

春香「よりによってあのコントを見られるなんて…。ローカル局の台本も無いムチャ振りだったのに…」

真美「あのアヒル口コントは亜美名義だったから、世間的にはダメージは少ないけどー……、
   うあうあ→!いきなり黒歴史からなんてサイテイだよーー!」


ニ、ニ、サン、シ、ゴッ、 サン、ニ、サン、シ、ゴッ

律子「そこー!ストレッチはまじめに!!怪我するわよ!」

亜美「そうだそうだー!亜美チョ→恥ずかしかったんだかんねー!」 アンタモウルサイ!




\フットワークー!/  \ ウィー / 

あずさ「上手に、よっ、歌えるといいんですけど〜、ほっ」 キュッ キュッ 

雪歩「いきなり歌えなんて…私無理だよぉ……上手くなんて歌えないよぉ……」 キュッ キュッ

千早「大丈夫よ、萩原さんはソロの曲ないから、ふっ、皆に合わせて音程だけ気をつけていれば。
   それより、ふっ、私がダンスで足を引っ張るんじゃないかしら。」 キュッ キュッ

千早「ふう、律子、振りの激しい曲から私を外してくれない?ダンスの評価は私、必要ないもの」


\バックー!/  \ ウイー /

律子「……何言ってるの、何時間かけても全部やるわよ」 キュッ キュッ

美希「めんどくさいのー。律子、さん、なんかやる気だね?あのオジサンに指名されたから?」 キュッ キュッ

春香「み、うわっ、と、美希!律子さんは、とわっ、そんなんじゃないよ!うわっ」 ドンガラガッシャーン

美希「春香はしゃべる時は、じっとしてた方がいいって思うな」 ハルルーン!ナニヤッテンノー モウ、ミットモナイワネ!





律子「……だって悔しいじゃない」

千早「律子?」

律子「私達だって一生懸命やってきたのに!」


律子「プロデューサーだって言うから期待すれば、どこの馬の骨ともつかない素人に上に付かれて!
   ネットの評判なんか当てにするような素人が!そんなのが売り出してやるから歌って踊れ、よ!?」

春香「律子さん…」

真美「律っちゃん…」


律子「そりゃ、私にやらせて欲しかったって想いもあるわよ。実際そう申し出た事もある。
   でも、ウチのアイドルが舐められるのは何より我慢ならない!」

律子「だからできることは全部、短所を隠せて長所を大きく見せれる、私が思う最高の組み合わせでやるわ。
   重複する曲もあるけど飽きさせない自身はある。安心なさい。できないことはやらせないから」

律子「あんな奴に見せるのはもったいないけど、今の私達ができる最高のステージをして
   あいつと社長の鼻を明かしてやるの!!わかった?!わかったら返事っ!!」


アイドル達「「「「 ハイッ!!! 」」」」




春香「律子さん……。よーしっ!不肖、天海春香!はりきって歌っちゃいますよー!」

真「気合入ってきたーーー!ボクも全開バリバリでとばしていくよっ!!」

雪歩「わ、私も!できることあまりないけど、お手伝いさせていただきますぅ」

あずさ「練習以外でみんなで歌えるなんて楽しみだわ〜」


亜美「んっふっふ→。真美ドノ、キアイ、いれてきますぞ→」

真美「合点承知の助ッ!」

伊織「いい?やよい。失敗は許されないけど、私達ならできるわ」

やよい「うっうー!モチロンだよ!伊織ちゃん!」


千早「………」

美希「………」




イチ、ニ、サン、シ、 ニ、ニ、サン、シ、

美希(なんだかみんな熱くなってるけど、だいじょうぶかな?)

美希(ミキだって人前で歌ったこと三回しかないの)

美希(それもミキが別にいてもいなくてもいいようカンジだったし)

美希(ミキは765に来たばかりだけど、みんな、人前で歌った経験なんて数える位しかないんじゃないかな)

美希(小さい仕事でも、オファーが来て歌ってるのは、あずさと千早さんと真クンくらいなの) キャー!ドシーン

美希(みんな、ガッカリするようなことにならなきゃいいけどな) コラー!ハルカー!

美希(………) ハルカ、ココハコウスルトイイヨ アリガトー、マコトー




イチ、ニ、サン、シ、 ゴー、ロク、シチ、ハチ

美希(律子は怒ってたけど、舐められるのはしかたないの)

美希(売れてないミキたちのかわりなんてどこにでもいるんだし)

美希(それにあのオジサン、きっと、誰にでもああいう態度とるヒトなんだと思うな) アミ!ミギテ!シュウチュウ!

美希(律子、本気で怒ってたんじゃないんじゃないかなあ?) アイアイサー!リッチャン!

美希(………) 


美希(これからずっとこの調子なのかなあ、めんどくさいの) ヨーシ!クールダウン!スグハッセイヤルワヨー!

美希(あ〜あ、765プロは楽しいところだったのに) ハイッ! ヴァイッ! オスッ! ウッウー!

美希(残念、なの)





発声の途中で律子さんが二人のところに音源を確認に行くと、
レッスンでしか使わない昔の人の曲を除いた765プロの所有曲が総て揃っていた。

律子「これで言い訳はできないわよ」

私のデビュー曲の『 9:02pm 』 千早ちゃんの『 蒼い鳥 』 律子さんの『 魔法をかけて! 』

真ちゃんの『 エージェント、夜を往く 』 春香ちゃんの『 太陽のジェラシー 』

その他デビュー曲を持たない子が歌う『 おはよう!!朝ご飯 』 『 GO MY WAY!! 』

社長が765プロの看板にしたいと作った『 THE IDOLM@STER 』

これらをローテーションさせて歌うこととなる。



律子さんが中心となって演目を決める「作戦会議」が始まった。

一人が必ず一回はソロで一曲歌うことを第一条件として、
練習で効果的だった組み合わせ、振り付けや曲の難易度を考慮し、
律子さんが意見を出して皆が自分の能力を見極めそれに答える。


プロデューサーさんへの怒りは共通のモチベーションとしてあるものの、
律子さんはそれを巧みに「いいステージをして感動させる」という方向へとすりかえていった。

観客に敵意を向けたステージが成功する筈がない。

アイドルならばなおさらだ




発声の途中で律子さんが二人のところに音源を確認に行くと、
レッスンでしか使わない昔の人の曲を除いた765プロの所有曲が総て揃っていた。

律子「これで言い訳はできないわよ」

私のデビュー曲の『 9:02pm 』 千早ちゃんの『 蒼い鳥 』 律子さんの『 魔法をかけて! 』

真ちゃんの『 エージェント、夜を往く 』 春香ちゃんの『 太陽のジェラシー 』

その他デビュー曲を持たない子が歌う『 おはよう!!朝ご飯 』 『 GO MY WAY!! 』

社長が765プロの看板にしたいと作った『 THE IDOLM@STER 』

これらをローテーションさせて歌うこととなる。



律子さんが中心となって演目を決める「作戦会議」が始まった。

一人が必ず一回はソロで一曲歌うことを第一条件として、
練習で効果的だった組み合わせ、振り付けや曲の難易度を考慮し、
律子さんが意見を出して皆が自分の能力を見極めそれに答える。


プロデューサーさんへの怒りは共通のモチベーションとしてあるものの、
律子さんはそれを巧みに「いいステージをして感動させる」という方向へとすりかえていった。

観客に敵意を向けたステージが成功する筈がない。

アイドルならばなおさらだ




短い時間だったが色んな意見が出た活発な会議だった。


あの引っ込み思案な雪歩ちゃんが、普段の謙遜を抑え
実際的な組み合わせを出し、それがいくつも採用された。

千早ちゃんも声の質という観点から意見し、自説を譲らなかった。

美希ちゃんは一度も意見を出さず、
何を聞かれても首をかしげ、少し考えた後で、
「うん、ミキもその意見に賛成なの」と笑っていた。


私はというと、初めて見る皆の気迫に驚いていただけだった。



最終確認として律子さんと春香ちゃん、真ちゃんと私の二組に別れて
年少組と千早ちゃん、雪歩ちゃんの振りを今一度見直す。

それが終わると律子さんの提案で円陣を組み、意識を高めた。
ライブの前に円陣を組むようになったのは、これがきっかけだったっけ。


律子「 765プロー!ファイトー! 」

アイドル達「「「「 オーーー!! 」」」」

両手に一杯の資料を持ったあの人と社長が、話をしながらその様子を眺めていた




春香「みんなー、今日は私達に歌える場をくれて、ありがとーー!」

高木「いいぞー天海くん!」

P「………」パチパチパチパチ

どうせなら本当のライブの様にやりたいと、春香ちゃんがオープニングのMCを務めた。


律子「この位の皮肉は許容範囲でしょ」

カーテンで仕切っただけの舞台裏で、律子さんが悪そうに笑った。

真「春香って度胸あるね」

真美「全然イヤミっぽくないのが、逆にすごいね」


プロデューサーさんは何も言わなかったが、笑顔のまま、面白そうに拍手していた。


春香「さあ!会場も大いにもりあがったところでまずはこのナンバーから!」

春香「私、天海春香、水瀬伊織、星井美希で 『 GO MY WAY!! 』」


————

——



——

———2013年7月10日、都内武蔵野市、株式会社バラデューク、経理課 AM12:10


あずさ「じゃあ、お昼いってきます」

女性社員B「はい、いってらっしゃい」

先輩に見送られて経理課を出る。

うちの課の人は皆いい人だ。二人の人柄だろうか、
年が離れてる分、若干子供扱いされてるけど嫌な気がしない。


沈んでいた気持ちも、仕事をしている内に大分回復してきた。
意外と会社勤めも向いてるのかもしれない。

あずさ「お茶を汲むのも、コピーも嫌じゃない〜♪」

誰もいないのを確認して久しぶりに歌ってみた




昨日のお昼と同じカフェに入って、携帯を確認する。


友美から一通、A馬さんから一通。
真ちゃんからのメールは無かった。

今夜にでも電話しよう。真ちゃんも今は落ち着いてるといいんだけど。


A馬さんのメールは土曜日の食事のお誘いだった。

わかっている。この人は先週の事を謝りたいのだ。
それも、本心から。

この人は何も悪くないのに。悪いのは私なのに。


『お誘いは嬉しいのですが、以前のお仕事の知り合いと会うことになるかも知れないので、
 今すぐにはお返事できません。はっきり決まり次第、なるべく早くご連絡します』と返す。

『あの日の事は何でもありませんので、どうか気になさらないでください』とも




友美からのメールには、おもちゃのピアノで遊ぶ二歳の娘さんの可愛らしい写真が添付され
『ひょっとして天才?』と書かれていた。

彼女は順調に親バカへの道を歩んでるらしい。
自分の親友が人の子の親になってると思うと、何だか可笑しくなる。


友美が結婚したのは2011年の3月の終わり。
『 765エンジェルス 』として活動していた最後の時期。

結婚式は、765プロの皆がブレイクするきっかけとなった
大きいライブの、直前の一番忙しい時期と重なっていた。

その日も挨拶回りにイベントにレッスンと朝から大忙しで、
エンジェルスの中心だった私が穴を開けるわけにいかなかった



式の二ヶ月前に友美から婚約を告げられ、披露宴で歌ってほしいと
招待状を貰ったので、駄目元でプロデューサーさんに相談した。

あの人は招待状を物珍しそうにじろじろと眺めて、自分の手帳を開くと
「挨拶して一曲歌うくらいなら何とかなりそうです」と言った。

一番の親友の結婚式だ。きちんと最初から出席したかった。
せめて、スケジュールを調整するふりくらいしてくれてもいいのに。


あずさ「私、何を歌えばいいんでしょうか」

あずさ「『 9:02pm 』や『 思い出をありがとう 』は絶対ダメですし。
    かといって『 My Best Friend 』も『 まっすぐ 』も違う気がします〜」


その頃の私は、もうプロデューサーさんに期待するのはやめていた。


P「ノーギャラですので765プロは関知しません。事務所の曲は使わないでください」

P「記者も呼びませんし、事務所側は映像を撮りません」

P「好きな曲を歌ってあげてください」


あの人はそう言うと、私の招待状を持ったまま別の仕事に行ってしまった




二週間たってもプロデューサーさんは何も言ってくれず、私は途方にくれていた。


そうこうして出欠の返事を出さなきゃならない時期になってようやく、

P「先方の新郎さんと式場サイドと連絡を取って、打ち合せをしてきました」

P「ライト等、細かい演出は一週間前なら完璧に対応できるそうです。ピアノの伴奏も同様です」

P「あずささんには披露宴の終盤で、サプライズゲストと言う形で登場して歌ってもらいます」


人を馬鹿にしたやり方で、自分がそういう演出をやりたいだけだったのはわかっていた。

それでも、あの人が仕事抜きでプロデュースしてくれたことに驚いた。

私は嬉しかった。


当日、移動時間の合間を縫って、あの人の車で式場に駆けつけた。
友美と学生時代によく歌った、Kiroroさんの『 Best Friend 』を歌ったんだ。

私も彼女も、涙でお化粧が崩れてしまった。

あの時はアイドルになって本当に良かったと思ったっけ


————

——



——

———2010年4月8日 都内のレッスンスタジオ PM01:40


クールダウンの内に買い物に行った二人が帰ってきた。

高木「皆、本当にお疲れ様!最期までよくぞ頑張り抜いたね。
   さあさあ、新しい飲み物と軽いお菓子を買ってきたよ。
   おなかも空いてるだろうが、ひとまず今はこれを食べて一息いれてくれたまえ」


正直助かった。

朝の内にプロデューサーさんが用意していた飲み物とチョコレートは、
私と千早ちゃんと真ちゃんが最後の二曲を歌っている時点で、無くなっていた。

アイドル達の年齢を考えれば仕方ないが、これはさすがにきつかった。


観客二人だけの、初めての765プロオールスターライブ。
私達は三時間半かけて三十六曲を歌いあげた。

一番小さな双海姉妹でも六曲、ある程度歌いなれてる、私を含めたトリの三人が九曲。
それも全曲、本番通りの振りで踊ったのだ。

自分達の出番が無くなって、一気に緊張が解けたのだろう。
むしろ、それまでよく気持ちを保ち続けたものだと思う




亜美「もうダメなのらー」グデー

真美「右に同じー」 グデー

律子「さ、さすがに疲れたわね」 ハア、ハア

やよい「もううごけませんー」 ウッウー…

社長が楽にしていいと言った途端、誰もがその場にへたり込んだ。


プロデューサーさんへの反感からか、それとも最後までやり遂げたという高揚感か、

春香『すぐ来るって言ってたし、クールダウンが終わっても社長が戻るまで立って待っていよう』

という春香ちゃんの意見に誰も反対しなかったのだ。


春香「はー、ひー、ふー、はー、ひー、ふー」 シヌー

要所要所でMCをかって時間を稼いでくれた春香ちゃんに、誰も文句が言えなかった



亜美「ねーねー、シャチョー、何かおごって→」

真美「可愛い自慢のアイドルがこんなにがんばったんだよー。ねー、いいっしょ→」

高木「う、うむ。本当のライブではないんだが、全員が力を合わせてこれだけ頑張ったのだからね。
   いいだろう、落ち着いたらお昼を食べに行こうじゃないか。何か希望はあるかね?」


律子「私はお寿司が食べたいかなー。あ、回るのでもいいですよ」

美希「ミキはもう、おにぎりとお水があれば何もいらないの…」

雪歩「あ、あの、焼肉とか」

千早「それはちょっと……」

伊織「今焼肉とか勘弁して……」


社長にステージの出来を尋ねる子。互いのパフォーマンスの気付いた点を伝え合う子。
その場に突っ伏して少しでも体を休めようとする子。

どのアイドルも初めて味わう一体感と高揚感に浸っていた。

そんな彼女達を、あの人は遠くから笑って眺めているだけだった




皆、プロデューサーさんの一言を待っていたが、誰も話かけようとはしなかった。


『これだけのものを見せたのだから、何かあっても一言いいはずだ』

誰もがそう思っていたが、自分から感想を求めるのは癪だったのだろう。
彼など存在しないように振る舞い、アイドル達のジリジリとした我慢比べが続いた。


律子「社長?私達はもう退室してもよろしいのですか?汗の始末もしなければなりません。
   いい加減気持ち悪いので、着替えたいのですが」

高木「う、うむ。私も君達に不快な思いなど、させたくはないのだが…」

流石の律子さんも段々と苛立ちを隠せなくなり、
社長が困ったようにあの人に何度も目配せをした。


美希ちゃんは首をかしげ、それでもなかなか喋ろうとしないプロデューサーさんを
不思議そうな面持ちでずっと眺めていた




その後、あの人が言ったことは断片的にしか覚えていない。


「こんなに心を動かされるものとは知らなかった」とか、

「皆さんがアイドルとして非常に素晴らしい人材と確信した」とか、

「皆さんのステージがより良きものになるよう、精一杯、お手伝いさせてもらう」とか、

「プロデュースの方向は見えたので、大枠が形にでき次第開始する」とか。


そんなガラス玉の様な無味乾燥な言葉を一通り並べ終えると、
4月分の新しいレッスン予定表が配られた。

その日の翌日こそ空いていたものの、
以降の日付欄には以前の倍以上の練習量が所狭しと詰め込まれていた。


P「明日から出勤しますので、予定を変更される場合や何かあった時は
  事務所かそこに書いてある番号にいつでも連絡してください」

そう告げて一度も笑顔を崩すことなく、レッスンスタジオを去っていった。


その日のお昼が、プロデューサーさんの悪口大会だったのは言うまでもない。
社長が回らないお寿司屋さんの個室を取ったのは英断だと思った





それから目の回るような忙しさが待っていた。


P「まずはアイドル業界とアイドルファンの間での認知度を手っ取り早く上げましょう。
  皆さんは今日から『 765エンジェルス 』です」

P「これはユニットではありません。765プロ所属アイドルを言い換えただけです。
  現在の菊地さん、如月さん、三浦さんの認知度を利用しスタート地点を引き上げます」

P「皆さんはソロですが、仕事はこの中の複数人で行うことが多くなるでしょう。
  そしてプロモーションは予算の大部分を、エンジェルス単位で行います」

P「よって、誰かに突如、爆発的な人気でも発生しない限り、
  ウチは2010年度のIA(アイドルアカデミー)大賞は狙いません」


当然反対意見が出たが、アイドル達が年端も行かぬ子供なら、
プロデューサーさんは性格に難あれど、立場も年も違う大人の男性。

アイドル達の仲の良さが最大限活かせるという論調と、
何を言われても崩れない、仮面のような笑顔と態度に、結局根負けした。

私はといえば、IA大賞という雲の上の存在を現実的に語るこの人に驚いていた





竜宮よりも、765エンジェルス時代の方が忙しかった。


大幅に増えたレッスン代を捻出する為に大量の仕事をこなす必要があったし、
その大量の仕事は、後でわかったのだが、一人当たりのギャラを減らして得たものだったからだ。

歌う仕事は声の相性がより高まるように、イベントはトークがより弾むように、
プロデューサーさんは色々な組み合わせを試し、
相手方の機嫌と懐具合を見ながら一人でも多くのアイドルを送り込んだ。


同時に、765プロ以外はどの事務所も配信していたネットコンテンツに手をつけた。

春香「わー!何かすっごくカッコよくなってるよー!」

律子「これで今までの古臭いレイアウトともおさらばね。
   アイドルの公式サイトだもの、常に時代に追いつかなきゃ」

真「凝ってるわりに動作が軽いのがいいね。ほら、やよいの紹介もあるよ」

やよい「えへへ、ちょっと恥ずかしいけど、すっごく嬉しいですー!」


新たに立ち上げられた765エンジェルスの公式ページには、毎日更新を行い、
どんな瑣末なものだろうと、常に新しいコンテンツが用意されているようにした。

始めの内こそ作成にお金のかからない、練習風景やプライベート風ショット、
ブログ形式のアイドルの日替わり日記(文章を纏めるのはプロデューサーさん)だったが、
一定のアクセスが見られるとアイドル達に企画を任せた短い動画を無料で配信するようになった。


プロデューサーさんはこういった試みを全てひっくるめて「先行投資」と呼んでいた。
投資する物は、事務所のお金だったり、自身やアイドルの時間だったりした



亜美「えーっと、『アイドルだけで三日間無人島生活』?」

伊織「これはダメね。パクリになっちゃうし、スケジュール的にも無理だわ」

雪歩「『アイドル三人で東京の下町を、ノープランでぶらぶらする』?」

あずさ「あら〜、楽しそうです〜。それに、これなら数時間で一本撮れますね」

千早「いえ、その、難しいかと」


ホームページでは定期的に、
「 聴きたい歌とアイドルの組み合わせ 」や「 アイドルにチャレンジして欲しいこと 」など、
テーマを決めてファンの声を集め、実現するという企画を行った。

この試みには潜在的なファンの趣向を調べると同時に、一定の注目と話題を確保する狙いがあった。

テーマは私達のスケジュールにそった答えが出るように用意され、当たり前の話だが
私達がどれを選んでもいいような答えがプロデューサーさんによって選別されていた。


元々プロデューサー志望だった律子さんは
エンジェルスのプレイング・マネージャーという架空の地位を与えられ、
これらのファン投票によるイベントや、他にも単発的な企画の立案者の役を巧みに演じた




他にも、考えられる限りの手段が講じられ、
私達は短期間に多くの新しい事柄への適応を迫られたが、もう覚えていない。


私達は活動の最初から、レッスンにイベント、ミーティングに遠征、取材と
次々に埋められるスケジュールに日常生活を大いに圧迫されることとなった。

殆どのメンバーが、週に一度のお休みも次の仕事の準備に使わなければならず、
本当に自由なのは眠っている時だけだった。

加えて私と律子さん、そして比較的融通の利く高校生組は、
義務教育組の出席日数を確保する為、東京近郊を中心に、
時には北海道、仙台、新潟、大阪、広島、福岡と日本各地を飛び回る必要があった。
(こういった遠征や外部のイベントには、必ずプロデューサーさんか社長が同行した)


仕事はこなすほどに増えてゆき、終わりが見えなかった。

雪歩「この半年で、一生分の新幹線に乗った気がしますぅ」

大阪でのイベントの帰り道、真っ暗なトンネルの壁を見つめて雪歩ちゃんがそう呟いた




人間はどんな環境にも慣れるのかもしれない。

九月も中頃を過ぎる頃には、誰一人として弱音を吐く者はなかった。


春香「次は新潟かー。ねえねえ、新潟って何が美味しいんだっけ」

律子「地酒とお米とか?うーん、あんまりイメージが湧かないわねー。お酒は飲めないし」

千早「この前行った時は、地元のお魚と枝豆をいただいたわ。けど、もう枝豆って時期でもないないわね」


不満の矛先は、表向きプロデューサーさんに向けられていたけれど、
私達の人気が上がるにつれて、本気で批判するようなことは少なくなった。
仕事先の待遇や業界内の評判も段々と良くなってきていた。


それまでは遠征先で泣き出す子を、大抵、私と真ちゃんで慰めていたものだ。
皆、三日と同じ土地で寝ない様な忙しい生活を、もう特別なものと思わなくなっていた




人間はどんな環境にも慣れるのかもしれない。

九月も中頃を過ぎる頃には、誰一人として弱音を吐く者はなかった。


春香「次は新潟かー。新潟って何が美味しいんでしたっけ?」

律子「地酒とお米とか?うーん、あんまりイメージが湧かないわねー。お酒は飲めないし」

千早「この前行った時は、地元のお魚と枝豆をいただいたわ。けど、もう枝豆って時期でもないわね」


不満の矛先は、表向きプロデューサーさんに向けられていたけれど、
私達の人気が上がるにつれて、本気で批判するようなことは少なくなった。
仕事先の待遇や業界内の評判も段々と良くなってきていた


それまでは遠征先で泣き出す子を、大抵、私と真ちゃんで慰めていたものだ。
皆、三日と同じ土地で寝ない様な忙しい生活を、もう特別なものと思わなくなっていた。




あくまでも比較の上での話だが、十一月になると仕事を選べるようになり、
スケジュールにも余裕が出てくるようになった。


961プロ等の大手芸能事務所に資金面で対抗できないエンジェルスは、
早い段階で広告戦略から主要テレビ局を外していたが、
悪夢の様な半年間を走り抜けた私達は、アイドルファンや音楽関係者の間で高い評価を得ていた。


私達は優先的にステージの仕事を行ってはテレビ以外のあらゆる場で配信し、
時には熱心なファンによるPR活動を黙認する事で、
エンジェルスは最大限お金をかけずに次のような評判を構築した。

『テレビには出てこないが、どんなステージでもこなせる連中がいる』


私達のそんな評判に彩られて発信される多種多様なイメージは、
個性の違う11人が集ったエンジェルスという大雑把な括りの中に吸収され、
互いに打ち消しあうことなく増幅されていった




P「やあ、律子。ちょっといいかな。次のネット投票企画のことで意見を聞きたいんだ」

律子「……はあ、何でしょうか」


この頃になると、プロデューサーさんは誰に言われたのか、
伊織ちゃんや律子さんをよく怒らせた慇懃な言葉遣いをやめて、
敬語を使わないごく普通の話し方に切りかえはじめていた(何故か私には敬語のままだったけど。)


それでも、四月に765プロにやってきたあの日から顔に貼りついていた、例の笑顔だけは変わらなかった


すみません。ちょっとやる事ができたので、一度中断します。

深夜一時近くには、再開できると思います。



クリスマスに予定されていた765エンジェルスの初単独ライブの企画が動き出し、
レッスンも営業も、私達は11人全員で活動することが増えた。

4月のあのスタジオライブからそんな機会は数えるくらいしかなかったので
空いた時間は自然とおしゃべりの花が咲いた。


———2010年、11月20日 渋谷区、たるき亭ビル1号館3F、芸能事務所「765プロダクション」 PM4:00


小鳥「プロデューサーさん、予定通り帰ってこれるそうだから、皆そのままいい子で待機しててね」

アイドル達「「「「 はーい 」」」」


小鳥「じゃあ、買い物だけ済ませたら超特急!で帰ってきますので、あずささん電話番お願いします」

あずさ「は〜い。よろしくお願いします。お気をつけて〜」

バタン! フン、フフーン クーリスマスガ コトシハ ヨテイアルー イエイ!




春香「ねえ、最近のプロデューサーさん、変だよね?急に言葉遣いを変えたりして」

真美「うん、あのミョーにイラッとする喋り方やめたよね」

亜美「例のインギー・プレイってやつだね」

伊織「それもいうなら慇懃無礼でしょ、どこのギタリストよ…」


伊織「ま、馴れ馴れしくて気持ち悪いけど、無駄なところでイライラしなくなったし、まだマシね」

やよい「あのー、ひょっとして、私たちと仲直りしたいのかなーって…」

真「それならもうちょっと、段階とか、何らかの言葉なりあってもいいんじゃないの?」




真「売れてきた途端、態度を変えたみたいで不愉快だよ」

雪歩「で、でも、少しだけ距離が…縮まったのかな?」


雪歩「それにね、私ずっと考えてたんだけど」

雪歩「エンジェルスを始めた頃から、いつもお食事やホテルには気をつかってくれてたし」

雪歩「レッスンやお仕事で遅くなった時とか、社長と分担して車で送ってくれるし」

雪歩「その、最初から私たちのこと、馬鹿になんてしてなかったんじゃないかな、って…」

律子「ハア…、雪歩は優しいけど、いいところばっかり見るのも相手によりけりよ」


亜美「だめだよー、ゆきぴょん。そんなこといってっとー、そのうちツボとか
   イルカの絵とか買わされちゃうでごじゃりますよ〜 オロロン オロロン」

真美「ゆきぴょんが心配でごじゃりますよ〜 オロロン オロロン」

伊織「また変なアニメ見たのね…。それにしても、一体どういう風の吹き回しかしら」




春香「ねえねえ、千早ちゃん!千早ちゃんはどう思う?」

千早「私は別に気にならないわ。失礼な話し方でも気持ち悪い話し方でも、
   良いステージをすれば評価してくれるし」

千早「今は種蒔きの時期だって言うけど、お金のかからない要望なら通してくれるもの」


千早「プロデューサーならそれで十分じゃないかしら?」

春香「千早ちゃんは大人だなあ」


美希「ミキ、あんまりあのオジサンのこと、深く考えないほうがいいって思うな」

ソファーに寝そべって、つまらなそうにしていた美希ちゃんが、
誰にというわけでもなく話しだすと、全員いっせいに彼女の方へ注目を向けた




今では考えられないが、この頃の美希ちゃんはアイドル活動に関心が持てなかったようで、
ステージこそ高いレベルでこなすものの、いつも誰かの後ろで歌っている存在だった。

たまに事務所で見かけても定位置のソファーで寝てばかりで、
話しかけられればとても気さくに対応する反面、自分から輪の中に入ろうとはしなかった。


エンジェルスが本格的な注目を受けるようになってもその姿勢は変わらず、
皆も悪感情こそないが、どう扱っていいかわからずにもてあましていた。


伊織「何よそれ、アンタから『深く考える』なんて言葉、よく出てきたわね」

美希「ミキは、でこちゃんが変に深読みして、可愛いおでこにシワを作るのを防ぎたいの」




めったな事では自分を出さなかった彼女の意見に、私は興味を持った。


あずさ「美希ちゃん、それって〜どういう意味かしら〜?」 キーッ ドイウイミヨー イ、イオリチャン、オチツイテ、ネ

美希「?たぶん、あずさの考えてることといっしょだよ?」

真「ええっ!そうなんですか?あずささん!」

あずさ「え、え〜と、その〜。あ、あら〜、私もよくわかってないんだけど〜」

私の慌てぶりが余程滑稽だったのか、美希ちゃんは大きな目を細めてクスクスと笑う。


美希「あずさが思っている通り、たぶん、あのオジサンは正直なヒトなの」

その笑いを境に、全員の視線が美希ちゃんに引きつけられた。

音無さんが掛けてくれた毛布に体を丸め、細かく編まれた広首のカーディガンから
あらわになった小さな肩を震わせる彼女の姿には——何かしら得体の知れない、
こんな子供にこのような表現を使っていいのか、原始的な、蠱惑的な力があった。


——— 猫だ。


この子は猫に似ている。

そんなことを考えた




ちょっと前まで怒っていた伊織ちゃんも、すぐ横槍を入れる双海姉妹も、黙って美希ちゃんを見ていた。
何ヶ月も共に過ごした同僚の初めて見るような姿に、皆驚いて何も言うことができなかった。

美希ちゃんは笑いながら話を続けた。自分でも笑いを止められないようだった。


美希「えっとね、ウソをつかないって意味じゃないよ?むしろオオウソツキなの」

美希「自分のやりたいことの為なら何でも言うし、それは四月のウソライブの時もきっとそうだったの」


美希「でもね、おっかしいのはね!どんどんウソをついてる内に、自分のウソを信じちゃうの!」

美希「もう今のあのヒトの頭ではあずさたちは大事なアイドルだし、
   エンジェルスのステージは本当にいいものなの」


美希「だからね、話しかたを変えたのも、理由はわからないけど、きっとみんなのためなんだよ」

美希「うん、ミキが考えるなって言ったのは、きっと、そういうことなの!」

美希「あのオジサンの頭の中はね、自分のやりたいことと、自分で本当にしたウソでいっぱいなの」


美希「それしかないの、あはっ」




美希「だからね、みんな、やりたいことがあったら千早さんみたいにあのヒトに教えてあげるの」

美希「それがプロデューサーのやりたいことになるの」

美希「たぶん来年には、エンジェルスはもうなくなってるの」

美希「口に出さないだけで、本格的にソロでやりたいってヒトも何人かいるし」


言葉を切って、美希ちゃんは咳き込んだように笑っていた。
耳を聾するような静寂の中、美希ちゃんの笑い声と衣擦れの音だけが生々しく聞こえる。


美希「えっとね、えーっと、つまりミキが言いたいのは、
   あの正直でウソツキなオジサンはもうみんなのプロデューサーなの」

美希「だから、もうみんな、信頼してもいいんだよ。みんなのやりたいことをどんどん言うの!」

伊織「……偉そうにいうけど、アンタはどうなのよ?
   エンジェルスになってソロもセンターも殆どやってないじゃない!?」


伊織ちゃんの声は、かすかに震えていた




美希「んー、ミキはめんどくさいなーって思うときもあるけど、みんなのお手伝いできてうれしいよ?」

伊織「は!?」 律子「なッ!?」


美希「ミキね、四月のウソライブの後ね、暑苦しくて、ヤだな、やめちゃおうかなーって思ってたの」

美希「でも、あずさや真クンや千早さんが自分達の活動をギセイにして、
   売れてないミキたちのために頑張ったの」

真「………」 ポカーン 千早「………」 ポカーン


美希「自信なんてゼンゼンない雪歩が、泣きそうになって頑張ってたの。
   春香も律子、さんもいつもみんなを元気づけてたの」

雪歩「え、えへへ」 春香「ぽかーん」


美希「でこちゃんはミキたち年少組を引っぱってくれたし。やよいも亜美も真美も
   こんな小さいのに、おうちから離れて頑張っててすごいなーって思ったの」

やよい「うっうー!美希さんだって私と一つしか違わないのにすごいですー!」 ピョンピョン

亜美「お、おう…」 真美「何これェ…」




美希「やよいー!ありがとなのー!えっとね、でこちゃん、なんだったっけ?」

伊織「もうい『あっ!そうそう』

美希「ミキ、765プロやめちゃおうと思ってたの、ほんとだよ?」


美希「アイドルに、今もあんまり興味ないしね。でもみんなが頑張ってるのを見て思ったの」

美希「765プロのみんながキラキラしてるのがみたいなーって、あはっ」


美希「だから、765エンジェルスがあるうちに、みんな、どんなアイドルになりたいか考えて」

美希「プロデューサーに話すの。もう時間あんまりないの」

美希「ミキは、みんなに立派なアイドルに…あふぅ」

美希「ミキばっかりいっぱいしゃべったから疲れたちゃったの…、おやすみなさいなのー」


言いたいことを言って、美希ちゃんは眠ってしまった




あの後ステージの仕事が無くて本当によかったと思う。

美希ちゃんが眠りについてすぐ音無さんが帰ってきたので、
誰も今聞いた話を話題に出せず、自分だけで処理しなくてはならなかった。
やよいちゃんだけは無邪気に喜んでいたけど。


プロデューサーさんが帰ってくると、律子さんが今日はレッスンにならないので
別の日に延期して欲しいと告げた。

あの人が笑顔を崩したのはこれが初めてだった。
大げさと言っていい位に心配そうなその表情は、CG映画のキャラクターを思わせた。

音無さんに起こされた美希ちゃんは、レッスンが無いと聞いて二度寝を始め、
私達はそのまま家に帰った。

次の日には、皆気持ちを立て直していたけど、
昨日の話は誰が言うでもなく、聞かなかった事になっていた




この日を境にアイドル全員が『765エンジェルス』の
その先の未来を、現実的に考え始めたのだと思う。


アイドル達は、あくまでエンジェルスの一員としてだが、
ステージや演出や企画に衣装、その他自分達の活動に関係する
あらゆる事柄についての意見をプロデューサーさんに話すようになった。

それまで千早ちゃんや律子さん以外のメンバーは、それこそ伊織ちゃんですら、
文句を言いつつも与えられた仕事を絶対のものとしてこなしていたのだ。


プロデューサーさんは、彼女達の意見を例の笑顔で
嬉しそうに聞き、実現可能なものは積極的に採用した。

気持ちの問題はともかく、これは彼女達にとっていい変化だった




当の私はというと、正直迷っていた。


私はエンジェルスを必死に支えてきたつもりだった。
事実、活動の最初から先頭に立って、誰よりも各地を飛び回ってきたのだ。

一番融通が利く身分というだけの理由だったかもしれないが、不満など無かった。
その事に誇りを持っていた。


『 765エンジェルス 』は事務所全体の総合的な知名度を上げて、
『その先』に繋げる為の一時的な枠組みに過ぎないとわかっていたのに。

いつのまにか、エンジェルスという『手段』が、私の『目的』に変わってしまっていた。


そうなるのが当たり前ではないのか?

私は自分の生活を捧げてきたのだ。愛着を持つのが普通だ




嬉しそうに意見を交換するアイドルとプロデューサーさんを見ている内に、
私には、行きたい『その先』が無いのだと気付いてしまった。

どんなアイドルになりたいのか。どんな歌を歌いたいのか。
私には何も思いつかなかった。

アイドルになる前の漠然とした憧れも、日々の活動に忙殺され、消えてしまった。

もともと、そんな程度のものだったのかもしれない。


美希ちゃんは言った。
どんなアイドルになりたいか考えてプロデューサーさんに話せと。

皆、『その先』に行けると信じている。どこでも、行きたいところに行けると。

でも、もし『その先』に行き着けなかったら?『その先』へと渡る橋が落ちてしまったら?

そもそも、『その先』なんて存在しなくて、今この場所が終着点だとしたら?




プロデューサーさんの指示で、私は千早ちゃんと歌わされることが多かった。

彼女はエンジェルス発足当時から、
自分の売り出し方についてプロデューサーさんに意見を出していた。

あの人もそれにこたえ、千早ちゃんはエンジェルスの中にあっても
アイドルと言うより歌手としてのイメージを作っていった。


その千早ちゃんと歌わされるのは嬉しかったし、彼女もそれを好んでくれていた。
大事な仕事では、真ちゃんと三人で歌わされた。

それがあの人の、私の評価だと思っていた




私は待っていた。

エンジェルスのクリスマスライブでは、ソロでも歌ったし、
アンコールの前にやっぱり千早ちゃんと真ちゃんのトリオで歌った。


私は待っていた。

プロデューサーさんが私の役目を決めてくれるのを。

私が歌う曲を、私が入るユニットを、私のプロデュースの方向性を、

あの人に決めて欲しかった。


だって、千早ちゃんや真ちゃんや他の子同様に、私のプロデューサーでもあったんだから。

だって、あの人が考え出した765エンジェルスを必死で引っ張って来たんだから。

それがお仕事でしょう?


————

——




——

———2013年7月13日、都内武蔵野市吉祥寺駅近くのコーヒーショップ PM18:05


小鳥「あずささん!お久し振りです!お元気そうで何よりです!」

あずさ「あら〜、音無さん。ごぶさたです〜」

小鳥「うわー、あずささんだ!あずささんだー!
   もーー、連絡先くらい教えといてくださいよ〜寂しいじゃないですか〜」

あずさ「お、音無さん。声が大きいです〜」

もうすぐ30になるだろうに相変わらず可愛らしい人だ。
いや、もうすぐ31だったかしら?


小鳥「すみません、うれしくって、つい…(あー、あずささんですよ!あずささん!)」コショコショ

あずさ「春香ちゃんのモノマネですかー、なつかしいです〜」

音無さんは本当に変わってなかった。最後に会ったのがつい昨日のようだ。


あずさ「真ちゃんからさっきメールがありまして、二十分ほど遅れるそうです〜」

小鳥「あっ、そうなんですか。あれー、あずささんの方が先に来るなんてどうしたんだろう、
   って思っちゃいましたよ」

あずさ「もう、私だって職場の近くで迷子になったりなんかしませんよう」

小鳥「えー、昔は事務所の近くで迷子になって私がよく迎えに行ってたじゃないですかー」


『プロデューサーさんが来るまでは』って言ってもいいんですよ




真ちゃんと私は何度も電話して、結局は音無さんに会うことにした。

避けられない試練ならば、早いほうがいい。
明日から二連休なので、日常生活に引きずらないですむ。


真『まさか、プロデューサーも来たりはしないですよね?』

久しぶりにその言葉を聞いた。
二人ともアイドル時代の事を話題にするのは避けていたのだ。

止まっていた時計の針が、誰かによって進められてるような気がした。


私達はお互いに意見を出して、その不安を打ち消しあった。

音無さんは騙し討ちをするような人ではない。

プロデューサーさんは仕事が忙しくてそんな暇は無いはずだ。


真『そうですよね。美希達や千早のアルバムが出ますからね。今は特に忙しいでしょうね』

千早ちゃんはエンジェルスの初期から、あの人のお気に入りだった。
それなら今はなおのこと、彼女達で頭がいっぱいだろう。

それに、真ちゃんはともかく、もう私のことなんて忘れてるに違いない。
あの人は自分のやりたいことしか頭に無い人だ。

私はあの人のアイドルではなく、竜宮小町だったのだから




音無さんとの他愛の無いおしゃべりが始まった。

お互いの服や鞄について、伸びた私の髪について、化粧品について。

こうして音無さんと話していると、昔に帰ったような気になってくる。
竜宮になって非人間的なスケジュールから開放されてからは、
たまに音無さんとお酒を呑んでこんなおしゃべりをした。


少なくとも真ちゃんが来るまでは、向こうも手の内を見せないだろう。

それなら、たとえ一時の嘘でも、今は浸っていたい。



小鳥「そういえば、事務所が新しくなったんですよ」

たるき亭の話から音無さんが切りだした。


あずさ「まぁ!そうなんですか〜」

小鳥「去年の秋頃ですかねー。また社長が『ティン!ときた』とか言いだしたと思ったら、
   勝手に四階建てのビルを契約してきまして」

あずさ「あらあら、社長らしいですね」

小鳥「仕事も増えたし、新しい職員も雇う必要が出てきて手狭になっていましたから。
   ちょうど良かったと言えば、そうなんですけどねっ」

そうか、私の知っていた765プロの事務所は、もう、ないのか。


当たり前だ。『 Lucinda 』を筆頭に、ドル箱のアイドルが何人もいるのだ。
スタッフだって増やす必要がある。あんな小さな事務所では機能しないだろう。

それでも、ショックだった。

自分の知っていたものが、また一つ、思い出になってしまった




小鳥「あずささん?」

音無さんに声をかけられて我にかえる。
まただ、最近の私は本当にどうかしてる。こうなることはわかっていたのに。

笑顔を作って音無さんの方へ顔を向けると、
彼女はとても心配そうな顔をして私を覗き込んでいた。


———やめて。


貴女は、向こう側の人でしょう?




あずさ「真ちゃん、遅いですね〜。そろそろだと思うんですけど〜」

お店の入り口を見て、声を搾り出す。大丈夫、自然に言えた。


小鳥「そうですねー。あっ、真ちゃんって結構、イケる口だったりします?」

あずさ「はい〜、今から将来が楽しみです〜」

冗談めかして言葉を紡ぐ。この人、こんなに演技が上手だったの?

それとも何もかも全て、私の思い過ごしなのだろうか。


真「すみませんっ!遅くなりましたっ!」

小鳥「へっ?」


音無さんは最初、何で声をかけられたかわからない、といった様子で文字通り固まっていた。

無理も無い。王子様みたいだった真ちゃんが、
ここまで女らしい美人になるとは予想していなかったろう。

そう思って真ちゃんの方を見た私も、不快な驚きに打たれた




小鳥「ひょっとして、ま、真、ちゃん?」

真「いやだなぁ〜、小鳥さん。そんな大げさに驚いちゃって。
  一年そこらで、そんなに変わるわけ無いじゃないですかー」


確かに顔はそこまで変わっていない。だからこそ小鳥さんも驚いたのだと思う。

最近の真ちゃんは、淡い色合いの女性らしいアイテムに黒をきかせて、
あえて女らしさをうまく抑えた格好を好んでしていた。

思うに、長年憧れていた女性らしさと元アイドルという自分の立場を秤にかけ、
新しい環境の中で反感を持たれないように考えた結果なのだろう。

今日の格好は、ある意味で間逆だった。


大きく開いた胸元にフリルのついた、白のシフォンブラウス。
膝上で大きく膨れた、黒のレーススカート。
エナメル素材のベルトが付いた、黒のウェッジソールサンダル。
首にはピンクゴールドの小さなチャームの付いたネックレスが二本重ねられ、
ピアスのチェーンの先に模られたゴールドの四葉のクローバーが、
背中まで伸びた綺麗な黒髪の間で揺れていた。

女性らしいアイテムはそのままでも、媚を感じるまでに「女」を全面に押し出している。

そして何より、化粧が濃かった。

これは良くない兆候だ。


真「さあさあ、時間がもったいないですよ!
  お二人とも明日はお休みなんだし、今日は一つ、パーッと行きましょう!」

嬉しそうにはしゃぐ彼女に促されてお店を出る。
去り際に音無さんを盗み見ると沈んだ顔をしていた




真「あずささん、今日はどこに連れて行ってくれるんですか?」

夕刻の繁華街を歩く。通りには週末の気分が溢れていた。


あずさ「うふふ、この先の和風イタリアンの創作料理の個室を予約してあるの。
    お酒も、もちろんお料理だって美味しいし、その上結構、お安いのよ〜」

小鳥「さすが、あずささん!女性のツボを心得たニクいチョイスです!」

真「小鳥さん、あずささんって、いっつも美味しいお店に連れてってくれるんですよ。
  大人ですよね〜?」 ニヤニヤ

小鳥「あ、あたしだって、いいお店の、じゅ、百や二百、知ってますよ!
   伊達に呑み歩いてるわけじゃないんですからねっ!」

真「へぇ〜?」 ニヤニヤ


街の気分に合わせたのか、沈黙が怖いのか、二人とも口数が多くなっていた。
空元気でも、おしゃべりに集中すれば、余計なことは考えないですむかもしれない。

そう思ったところで


A馬「三浦さん?」

あずさ「はい?」

よりによって、今は一番会いたくない人に会ってしまった




小鳥「あずささん、お知り合いですか」

この人と会わないように、私の職場の近くで待ち合わせたのに。


男C「A馬さん、お知り合いですか?」

男D「うおっ、皆さんスゴイ美人っすね。紹介してくださいよ〜」


天罰だろうか。

A馬さんは私を心配してくれていたのに。
散々その優しさにすがっておきながら、身勝手な理由で彼を邪険に扱った私への。


小鳥「真ちゃん?」

真ちゃんは私の後ろに立っていた。

A馬さん達からわからない角度で私の服を掴んでいたその左手が、小刻みに震えていた




男D「あの、もしよかったらこれからお食事とか、どうですか?」

男C「僕達、いいお店知ってるんですよ。A馬さんには
   お世話になってますので、お知り合いなら是非奢らせてください」


彼女の様子に気が付かないのか、
A馬さんと同じ社員バッジを胸に刺した、部下と思しき二人が私の前に立って誘ってくる。

あずさ「すみません、私達、もう先約がありますので」

そう言ったものの、二人は引き下がらなかった

A馬「おい、やめなさい」

背の高いA馬さんが後ろから二人を諌めるが、あまり効果が無い。
困った顔をして私を見た直後、何かに気付いて、私の背後を覗き込んだ





真ちゃんの左手が、いや、今ではその身体全体が傍目にも分かる程に大きく震えていた。


理由は分からないが、今彼女まで失うわけにはいかない。

あずさ「いい加減にしてください!」

A馬「二人とも、いい加減にしないか!」

これはただ事ではないと思ったのだろう、A馬さんが二人の肩を掴んだ瞬間、



小鳥「ダ・メ・ですよ〜。だって私達これから、
   女の子だけの真夏の夜のガールズトーク大会!なんですから♪」 ピヨッ


音無さんは私とA馬さん達の間に割り込むと、例の可愛らしい声でそう言った




緊迫した空気は、一瞬で木っ端微塵に消し飛んでしまった。

A馬さん達はもちろんのこと、私も真ちゃんも、
いや、音無さんの半径十メートル内の通行人全員が、
口をぽかんと開けて、今耳にした発言の発信者を眺めていた。


小鳥「じゃあそういうことで〜♪」

音無さんが私達の手を取って歩き出す。


真「ふ、ふふ、ふっ、アハハハハハハ!こっ、こと、小鳥さ〜ん!流石にそれはないですよ〜!」

小鳥「ま、真ちゃん!いくらなんでも、そこまで笑うことないでしょーー!!」


真ちゃんは大きな声で笑った。少し涙声のまざった、とても懐かしい笑い声だった。

音無さんに手を引かれたまま振り返ると、A馬さんが私達に向かって深々と頭を下げていた。


今までごめんなさい




————

——

疲れたんで今はここまで。
続きは今日の21時には再開できると思います。

これ、誕生日に間に合うんか…

サーバーが落ちるの知らなくて、てきとうなこと>>93言ってすみません。

トラブルが無いようなら今日の21頃再開します



——


エンジェルスの在り方を決定的に変えてしまった、あの咳き込むような11月の笑いだけを残して、
美希ちゃんは以前の彼女に戻っていた。

私はあの日彼女から受けた衝撃的な印象をもう一度確かめたくて、
事務所でボーっとしてる美希ちゃんに何度も話しかけたが、
愛想は良いものの、その姿は普通の中学生とあまり変わらなかった。


アイドル達も、彼女に対して何かと思うところはあったようだけど、
個人的な感情を仕事に優先させるような事はしなかった。

皆、来年度からはそれぞれの道を歩むとはいえ、
一時の感情で今まで積み上げてきたものを壊すのは馬鹿らしいと思ったようだ。


エンジェルスのステージは来るべき終わりに向かって、輝きを増していった




765エンジェルスは、2010年度の活動の締めくくりとして、
3月に行われるIA大賞発表会の真裏の時間帯に、五千人規模のライブを行い、
その模様を動画サイトで生配信する事になっていた。


これは二つの意味で大きな賭けだった。

私達はそんな大きな規模のライブを単独で開くの初めてだったし、
何よりアイドル業界最大のイベントと同じ日、同じ時間帯で人を集めようと言うのだ。

話題性はあるが業界全体に喧嘩を売るようなものだ。

律子「こんなことして、本当に大丈夫かしら……」

千早「今さら何を言ってるの?私達は最高のパフォーマンスをするだけよ」


プロデューサーさんはかなり早い段階から
このライブの可能性を探っていたらしく、その根回しは周到なものだった




2010年度は961プロダクションの年だった。

不況の中、低迷に喘ぐ音楽業界で、所帯も大きく資金力のある961プロだけが一人気を吐いていた。

961プロは優れたユニットを次々に排出し、圧倒的な資金力と広報戦略でテレビの音楽番組を席巻した。
飽和したアイドル達は事務所の中で売り上げを奪い合ってる状態だった。

業界関係者もアイドルファンも
今年のIA大賞は961プロが総なめすると予想していたし、実際その通りになった。


高木「我々が売れてくれば黒井に目をつけられるよ、気をつけたまえ」

社長にそう言われていたプロデューサーさんは、
アイドル達からもここまでやるかと呆れられる程、961プロから徹底的に逃げ回った。


伊織「ああもう!男の癖に情けないったら!」

春香「そうだよね。プロデューサーさん、まだ私達を信用してくれてないのかな?」

私は最年長者という立場から、現場の不満を抑える役目を負わされた。

ステージでは絶対に負けてないという強い自負があるだけに、
彼女達を押さえるのは骨の折れる仕事だった




プロデューサーさんは高木社長に当然の疑問を投げつけた。

何故、961プロだけが短期間であれだけのアイドルを輩出できるのか?
何故、他の大手芸能事務所が一社の独占状態を止められないのか?

答えは単純なものだった。


高木「引き抜き、だよ。昔から黒井という男は、才能を見極める目は素晴らしいものがあったがね」

高木「長引く不況で、イケイケだった我々の業界が先細りし出したのを見て
   危機感を覚えたんだろうな。才能の囲い込みを始めたのさ」


961プロは目をつけた候補生や新人アイドルに接触し、
更なる高待遇とプロデュース計画を提示して自分達の懐に入れていた。

事務所が大きくなる程、末端のタレントの監視に目が行き届かなくなる。
大手事務所は更なる引き抜き合戦で対抗したが、
961プロから引き抜くには更なる好条件を用意しなけれならない。

そうして多大な犠牲を払って961プロからの引き抜きに成功しても、
何度も事務所をたらい回しされ、実力以上の報酬を得るようになったアイドル達は、
熱意か新鮮味のどちらか、或いは両方を失い、ファンに飽きられ、
理由は数あれど結果として芸能界を去る者が後を絶たなかった。

業界は何年も互いに喰い合い、体力を失っていた。


高木「こう言ってはなんだが、水ものだからね、この商売は。
   消えていくなら、それだけの者だったという評価になってしまうんだよ」




『 765エンジェルス 』はそれなりに成功を収めていたが、
私達の成功はアイドル達の犠牲的な献身と、
業界の古株であり顔の広い高木社長の手腕によるものと評価されていた。


実際の立役者であるプロデューサーさんは、
大半の同業者達とは違って、自分の名前を表に出す事を極力避けていた。

どうしても自分の名を連ねる必要があった時は、
律子さんや他のメンバーの名前を横に並べて、アイドルによるセルプロデュースを装い、
自分の存在を可能な限り小さく見せた。


やよい「わたしの名前がプロデューサーの隣に載ってますー…」

伊織「やよいは、このイベントの元になるアイデアを出したでしょ。サイトの配信動画のネタも
   よく考えてくれているし、それでいいの。アイツなんて、私達がいなきゃ何もできないんだから」

春香「うんうん。私なんて気が付いたらスーパーアドバイザーになってたことがあるよ」


春香「逃げるふりをしてそっと潜る!スーパーアドバイザー、天海春香!ただ今参上!
   どう、千早ちゃん?カッコイイかな?」

千早「そうね、春香がいいと思うなら、私は何も言うことは無いわ」



その効果を狙っていたのか、エンジェルスが業界である程度知られる存在になっても、
プロデューサーさん自身は、自己顕示欲の強い人間が多い業界人の間で、
「安い仕事を取ってくるだけの、ただの使いっぱしりの新人」と見なされていた。

一方で、961プロの黒井社長が、弱小765の高木社長に対して
偏執的なまでの競争心を持っていることは業界の常識だった。


あの人にしてみれば、
こんな状況は願っても無い位に好ましいものだったに違いない




挨拶回りには必ず私も同行した。


高木「しかしねえ、君。黒井のやり方は私も気に喰わないが、
   同業者の前で表立って批判するのは、得策じゃないよ」

P「そんなことを仰って頂く必要はありません。むしろ、961プロの話はおくびにも出さず、
  先方の面子以外は何も問題ではない、という体でいてください」


プロデューサーさんは高木社長を連れ出して、
芸能事務所の上役と主だったプロデューサーに引き合わせ三月のライブの話を通させ、
その隣であの人は、勉強熱心な新人プロデューサーの役を巧みに演じた。

相手の誘導には必ず乗り、五割の的外れな意見と同数の鋭い意見を、相手を見て巧妙にちりばめた。

お世辞が聞きそうな相手には担当アイドルを徹底的に褒め上げ、
用心深そうな相手には、不意にもらした何気ない表現で、彼等の自尊心を大いにくすぐった。


P「勉強させて頂きます!」


アイドル達に見せた不器用さとのあまりの違いに、私は傍で見ていて薄気味悪くなる思いがした。

高木社長はそんなプロデューサーさんを、「困った男だ」という風に見ていたが、
時々、私の見たことのないような顔で静かに笑っていた。

若い頃はきっとこんな笑い方をしていたのかもしれない





業界は私達の活動を黙認する事にした。


何と言っても私達の事務所は小さいのだ。勢力を伸ばしたところでたかが知れている。

IA大賞で一人勝ちする961プロの面子を潰してくれれば大歓迎だし、
この蛮行が衆目を集め、低迷していたアイドル業界が再び活気付けば自分達もその勢いに乗れる。
そんなところだろうか。


P「社長のおかげですよ」

高木「いや、君。我々は運が良かったのさ。こんな綱渡りは二度とごめんだよ」


こうして私達は外堀を徐々に、着実に埋めていくと同時に、
765プロが公式に声明を出すまで、この情報はオフレコ扱いにするという約束を取り付けた。
ギリギリのタイミングで発表しなければ妨害されるからだ。


この世界は広いようで狭い、情報源はすぐ知れ渡る。業界は記者を良い様に使う一方で、警戒していた。

逆説的だが、互いに腹の探り合いをしている日常の中で、
一般層が思ってるより事務所間の約束は尊重されていた




二月に入ると関係メディアがIA大賞の話題をぼつぼつと取り上げ始めた。


春香「ウチは関係ないって、顔してないといけないんですよね」

律子「そうね、でもノミネートされてる連中の方が大変かもよ」

律子「961プロが賞を独占するって分かってるのに、頑張ってるふりだけは続けないといけないもの」

千早「私には絶対無理ね」

真「千早は正直だからなあ」


765エンジェルスは、定期的にステージを行い、話題を提供して自分達のファンの注意を引き付けていた。

三月に入ると例年より盛り上がりに欠けるものの、業界はIA大賞の話題一色になった。

私達は、エンジェルスのファンの注目が徐々に他所に向かい始めた時期を見計らって、
ブログやトークの端々に大きなライブの雰囲気を漂わせた。


『 765エンジェルスが三月に大きいライブをやるらしい 』




会場、日程、そのどちらも特定されずにファンの期待を高めるのは大変な仕事だった。

プロデューサーさんは細心の注意を払って情報を選別し、
私達はインタビューやファンからの質問に、
嘘をつかずにどう答えるかを何度も頭に叩き込み、実践した。


やよい「うー…、何だか申し訳ないですー」

亜美「だねー。でもここまで来て邪魔されんのもやだもん」

真美「ウソは言わない、情報も守る。両方やらなくっちゃあならないってのが
   アイドルの辛いところだな。覚悟はいいか、やよいっち?真美はできてる」

雪歩(漫画か何かの台詞かな?)




そんな薄氷を踏むような日々が過ぎたIA大賞発表会の二週間前の土曜日。

ラジオのトーク番組にゲスト出演していた春香ちゃんが番組の最後で


—— ついうっかり ——


口を滑らせた




春香「はい!今度のIA大賞発表会の日にやる765エンジェルスのライブでも、——あっ!!」

その一言で、ありとあらゆるアイドルファンのコミュニティは大騒ぎとなった。


春香「あーっ!あーっ!今のナシ!ナシ!カットで!お願いします!」

春香「……えへへ、ダメ、ですよね?生放送、でしたね……うぅ、ごめんなさ〜い」


ラジオの前で固唾を呑んで待っていたエンジェルス全員と音無さんが、思わず歓声を上げた。


P「よく頑張ったな、春香」

プロデューサーさんはそう言って、事務所の受話器を外して机の上に置くと
すぐに指示を出した。

すでに荷造りしていた私達は
社長と音無さんの車に乗り込み、予約していた郊外の温泉へと避難した。


真美「んっふっふ〜、まるで映画みたいだねっ」

千早「明日から、また忙しくなるわよ」




春香ちゃんの発言の二日後に765プロが初めて声明を出すと、
焦らされていたファン達によって騒ぎはさらに大きくなった。


チケットは完売し、ネット上では何倍の値段で取引されたとか。

エンジェルスの動画が何十万回再生されたとか。

配信を任されていた動画サイトがこの騒ぎを見てサーバーを増強したとか。

各所で色々な反響を聞かされたが覚えていない。
加速度的に大きくなっていく数字に現実感がなくなっていった。


すでに『 竜宮小町 』になることが決まっていた私は
そんな数字よりも、最高のステージにすることだけしか考えてなかった。

『その先』へ渡るための、最後のステージ




結果から言うとライブは大成功だった。


アイドル達は五千人の観客を前にして、誰一人臆することなく、持ち味を存分に発揮した。

私はソロで『 9:02pm 』、伊織ちゃんと亜美ちゃんと、未来の竜宮の三人で『 My Best Friend 』、
トリで千早ちゃん、真ちゃんと三人で『 思い出をありがとう 』を歌った。


最初のアンコールは十一人で『 まっすぐ 』と『 THE IDOLM@STER 』を歌った。

もう一度呼び出されると、春香ちゃんが一人でMCを行い、
最後の曲と前置きをつけた後、再び全員が登場して『 いっしょ 』を歌いカーテンコールで幕を閉じた。

『 765エンジェルス 』としての活動は事実上の終わりを告げた。
辛い時期を必死に駆け抜けたメンバー全員が揃って歌ったのは、この日が最後だった。


生中継のユニーク視聴者数は20万人を超えたという。


ライブの後、アイドル達と音無さんは大泣きしていた。
皆もこの日ばかりは、プロデューサーさんの賛辞を目を潤ませて素直に受け取っていた。

アンコール以外の四曲でバックコーラスを務めた美希ちゃんが、そんな皆をニコニコして眺めていた。


一週間後、私は律子さんの許可を得て、長い間伸ばしていた髪を切った


————

——



——

———2013年7月13日、都内武蔵野市吉祥寺駅近くの繁華街 PM11:30


小鳥「いーやー美味しかったですね〜!一件目のお店も、今の!お店も!」

真「アハハハハ!小鳥さ〜ん!こ、え、おーきいでーすよー!」

小鳥「えーーー!真ちゃんもでーすーよー!えへへへ、まーことちゃーん」


二人は肩を組んでお互いに体を預けて、私の前を右に左に行き来しながら
すでに人通りもまばらな夜の繁華街を歩いていた。


楽しい、本当に楽しいお酒だった




真「あずささん!カラオケ行きましょう!ボク、今日は久しぶりに歌っちゃいますよ!」


真ちゃんはあの後、昔の彼女に戻っていた。

素直で、優しくて、お日様みたいな笑顔の、爽やかな女の子。

お店に着いた時は少し固さが残っていたけど、
音無さんが彼女の気持ちをほぐしてくれた。


髪が長くなっても、やっぱり真ちゃんは少しくらいボーイッシュな方が透明感が出て素敵だと思う。

こんなこと言ったら怒られちゃうかしら?




あずさ「あら〜、いいわね〜。でも真ちゃん、お家の方はいいの?もう、遅いわよ」

本当にそう思い始めていた。

歌いたい。こんな気持ちはひさしぶり。


真「大丈夫ですよ!今日は遅くなるって、ボク、ちゃんと言ってきましたから!」

小鳥「あ〜、でも、土曜のこの時間だと、どこもいっぱいなんじゃないですかねー」

そうかもしれない。
部屋が空いてれば呼び込みの人が声をかけてくるのに、
それらしき人も見当たらない。


あずさ「そうですね〜。無理かもしれません〜」

残念だけど、お店が空いてなければ仕方が無い。


それに、やっぱり、歌わない方がいいかもしれない




真「ちぇー、残念だなー」

真ちゃんは諦めきれないようだ。


真「 〜〜〜♪  〜〜〜♪」

手でリズムを取りながら、鼻歌を歌っていた。

私と音無さんはそんな彼女を楽しそうに眺めて
これからどうするか話していた。


この日も七月の夜にしては珍しいくらい、涼しくてすごしやすい日だった。
私はまだ今日を終わらせたくなかった。


もうこんなに楽しい日は、二度とやって来ないかもしれない。

星が見えない東京の空には、銀色のお月様が一人ぼっちで浮かんでいた




小鳥「真ちゃん?」

真ちゃんの希望を聞こうと視線を向けると、
彼女は鼻歌をやめ目を閉じて立っていた。


———集中しているのが一目で分かった


どれくらい時間が経ったのか、真ちゃんは迷っているように見えた。
私は音無さんの事も忘れて彼女を見つめていた。


不意に、真ちゃんが目を開き、体を私達の方に向けた。

勢いをつけて右腕を掲げ、前を、私達をまっすぐに見据えて、降ろしてゆく





両腕を水平に、指先に、神経を飛ばして、静止

まっすぐ前を見据えたまま、ゆっくり、降ろす

ステップが回り始め、背中まで伸びた髪が宙を舞う

目を、離さない



  『 後どれくらい進めばいいの? 』


『 迷走Mind 』
引退する前の、真ちゃんの最後のシングル


 『 この道を選んでひたすら突っ走ったよ 』


ステージも、スポットライトも、華やかな衣装もない


『 Tenderness 差しのべて 温もりにふれたい 』


誰一人、顧みない


 『 ヘンだね この気持ち 何か変わってる 』


でも、私達は知っている。彼女が、アイドル『 菊地真 』だったことを




『 Kindness 捧げたい その術がワカラナイ 』


真ちゃんは泣いていた


   『 ひたすら 堕ち続ける魂 』


泣きながら、踊っていた


    『 届かないメッセージ 』


それでも前を向いて


『 不可視なラビリンス 心の安らぎ導いてよ 』


私を見て


  『 突然の暗闇と 溢れ出す感情に 』


力強く


    『 ひるまぬチカラを 』


まっすぐ


    『 ボクに焼き付けて! 』


歌っていた





真「はあ、はあ、はあ」

最後まで踊りきった真ちゃんは、体をだらりと折り曲げて何分も息を整えていた。
月明かりに照らされた肌と乱れた髪に、玉の様な汗がキラキラ光っていた。


真「はぁ、はあ、はあ、あ、あず、あず、あずさ、は、はあ」

顔を上げて、声にならない声で私を呼ぶ。

あずさ「真ちゃん、喋らないで、ね。落ちついてからでいいから」

そう言っても真ちゃんは、私を見て、ずっと笑顔で見ていた。


真「はぁ、あず、はぁ、ボク、あずささん、ボク、踊れました」

真「キレも無かったし、声も、あまり、良くなかったけど」

真「ボク、踊れました、歌えました」


真ちゃんは笑っていた。汗と、涙を流して、嬉しそうに笑っていた




真「くぅッ!!」

あずさ「真ちゃん!?」

私が彼女を抱きかかえると、音無さんが真ちゃんの左足に跪いていた。


小鳥「もう…、こんなサンダルなんかで踊るからよ」

小鳥「あずささん、右側から支えてあげてください。あたしが、ぃよっと、こっちをやりますんで」

小鳥「途中にコンビニありましたよね、包帯と湿布ありますから、氷と水買って冷やしましょう」


私達は三人で肩を組んでコンビニへ向かった




———同日、都内武蔵野市の住宅街 PM12:10


真「すみません。迷惑かけちゃって」

小鳥「いやいやいや、全然、全然、ぜーんぜん。もー、そんな他人行儀なんだから〜」

真「いえ、なんかボク、今日はずっと迷惑かけちゃって」

コンビニで真ちゃんに応急手当を施した後、私達は三人で肩を組んだまま私のアパートへ向かっていた。


真「男の人達に絡まれた時だって、お二人に助けてもらって」

真「昔のボクだったら、ガツーンと言えてたんでしょうね。でも、ボク、急に怖くなっちゃって」

真「へへっ、雪歩が今のボクを見たら、きっとガッカリするでしょうね」

あずさ「真ちゃん、もういいのよ」


真ちゃんは謝り続けていたけど、三人で歩いてる内に、また笑うようになった。

嬉しかった。訳も分からず、私は嬉しかった




小鳥「いや〜、なんかアレですよね!青春ですよ!青春!」

真「へへっ、春香の真似ですか?懐かしいですね」

真「おかしいですよね、一年とちょっとなのに、すごく、懐かしい気がします」

私もだ。でも、もう悪い気がしない。


真ちゃんは、もう大丈夫だ。

引退してから初めて、自分に素直になれたのだろう。
もう、ここからは彼女の問題だ。

どんな道を選んでも、真ちゃんはもう一度歩き出せる。


それに彼女はまだ19だ。何を始めるにしても遅いということはない。
まだ、何にでもなれる。

私は何もできなかったけど、それでも、少しはお役に立てたかな?




小鳥「えへへへへ、今の真ちゃん。なんだかっ、すっごくエロくて、お姉さんドキドキしちゃうな〜」

真「ちょっ!小鳥さん!あの、その、ボク、汗!かいてますから!」

あずさ「あ、あらあら〜。揺れちゃいます〜」

音無さんがふざけて真ちゃんに擦り寄ると、
私達はバランスを崩してその場で右に、左に、行ったり来たり。
それでも、誰も組んだ肩を離さなかった。

今夜限りの運命共同体を自分のアパートへと導きながら、
道路に伸びた三人の影を見る。

あっちにゆらゆら。

こっちにゆらゆら。


小鳥「あずささん、あとどのくらいですか?ひょっとして、迷子になってたりしません?」

あずさ「うふふ、それも〜いいかもしれません〜」

真「あははは、そうですね。今日は、それでもいいですね」

毎日帰ってるアパートに帰るのだ、もちろん迷子になんかなってない。


ちょっとだけ、遠回りしてるけど




部屋に着いたら、本人が何と言おうと、真ちゃんは休ませてあげなきゃいけない。

音無さんと二人で呑むのもいいけれど、もう少し、
あと少しだけ、もう私には訪れないこの時間を味わっていたかった。


まだ終わらせたくなかった。

そんな想いが、メロディになって湧き出した





  『 こんなにつらい気持ち 初めて感じちゃった 』


二人が驚いて肩を組んだまま私を見る。


  『 映画やドラマみたいな キレイゴトと違う 』


『 思い出をありがとう 』だなんて、かっこつけすぎかしら。


   『 ホントにバカな私 後悔先に立たず 』


でも、これが今の私の、正直な気持ち。


  『 時間が戻せるなら 少しはマシになれる? 』


本当にそう思う。時間が戻せるなら。心からそう思う




真「 広い世界で一人 」


小鳥「 あなたが好きでよかった 」


   『 そ・れ・だ・け 』



 思い出をありがとう 勇気までもらえた


 悲しみやせつなさ 今日で全てサヨウナラ


 吹き抜ける秋風 涙腺も枯れたし


 行き慣れた通りを 胸を張って歩いてみる……




————

——


10分ほど離席します。



——

———2013年7月19日、株式会社バラデューク、経理課 AM14:50


パソコンの前に座り、キーを叩く。

私と先輩のキータッチの音。古い、変色した壁掛け時計の秒針の音。

時折、課長さんが書類を捲る音が加わる。

私の日常の音。


女性社員B「ふう、あずさちゃん、そっちはどうかしら?」

あずさ「はい。大体終わりました〜」

女性社員B「少し早いけど、お茶にしましょうか。課長、よろしいですか?」

課長「そうだね。頼むよ」


先輩がお茶を淹れる横で、お茶請けを用意して
仕切りの向こう側の来客用スペースへと持って行く。

一日だって欠かされた事のない、三人だけのお茶の時間。

これが私の日常




あずさ「ふぅー、落ち着きますね〜」

先輩が淹れてくれたお茶を飲むと、いつでも落ち着いた気持ちになれた。


女性社員B「ねえ?あずさちゃん」

そんな私を、向かいのソファーに座った年上の二人が嬉しそうな顔で眺める。
いつもと変わらない経理課の姿。

でも、今日は笑顔が二割増し。

あずさ「は〜い、なんでしょう〜?」

一応、とぼけてみせた。


女性社員B「お誕生日、おめでとう!」

少々年季の入った木製のセンターテーブルに、
丁寧に包装された20センチに満たない程度の細長い箱が置かれる。

促されて包みを開けると、シックな装いの化粧箱から
書き味の良さそうな、黒の真鍮のボールペンが現れ、
専用の携帯ケースと永久保証書が付属していた。


保証書付きのボールペンなんて初耳だ




課長「一本ぐらい、そういう物を持っていてもいいと思ってね」

女性社員B「気に入ってもらえたかしら?」

勿論だ。こんなに良いものを贈られて嬉しくない筈がない。
素直に感想を述べて、ご好意に甘える事にした。


女性社員B「まだ24歳でしょう?いいわねえ。課長、私にもこんな時代があったんですよ。信じられます?」

課長「ははは、コメントは差し控えさせてもらうよ」

頂いたペンを手に改めて御礼を言う私を、二人は揃って嬉しそうに眺めていた。


課長「少しは元気が出たかね?」

課長さんは、少しだけおどけた様な笑顔を見せると、
白いものの交ざった自分の頭を照れくさそうに、ポンポン、と二度叩いた。


課長「その、私的な事について私があれこれと口を挟めた義理ではないんだがね」

課長「どうも最近の三浦君は元気がないと、私も彼女も気にかけていたんだよ」

女性社員B「ダメよ、あずさちゃん。若いんだから、笑わなきゃ。後になって後悔するわよ」


その後、十分ほど談笑して仕事に戻った。

ペン自体も気に入ったけど、何より二人の気持ちが嬉しかった




———同日、あずさのアパート、PM07:50


あずさ「あらー、説明書まで付いてるのね」

早めのお風呂を済ませるとすることもなくなったので
職場で頂いたペンの試し書きをしてみようと考えた。

あずさ「普段使いにはもったいないけど、替芯も買っておいた方がいいかしら」


鞄から仕事用のメモ用紙を数枚取ってペンを走らせる。

あずさ「!!あらあら〜♪」




驚いた。高級品というのはここまで違うのか。

予想だにしなかった、未知の滑らかさに手が勝手に動く。
にじみの無い、黒くしなやかな線が、
まっさらな紙の上に次々と自分の名前を紡いでゆく。

あずさ「字が上手になったみたいだわ〜♪」

楷書体で、続け字で、丸文字で、ひらがなで。

幾つも幾つも自分の名前を書いて

そして最後に


『 三浦 あずさ 』


アイドル時代のサインを書いた。

あずさ「うふふ、ちゃーんと覚えてるものね」


そうして自分のサインを満足げに眺めていると、あの日の真ちゃんのことを思い出した




先週の土曜日の夜、真ちゃんと音無さんはこの部屋に泊まった。

真ちゃんはよっぽど疲れていたのだろう。
シャワーを浴びさせると、すぐに眠ってしまった。

次に音無さんにシャワーを貸して、最後に私が使って
手洗いした真ちゃんのブラウスを持って部屋に戻ると
音無さんはベッドの上の真ちゃんを優しそうな顔で眺め、頭を撫でていた。

私達はもうお酒を呑む気にもなれなくて、そのまま眠ることにした。

二人は始発前に起きると、泊めてもらった礼を言ってすぐに出て行った。


あずさ「真ちゃんにも、見せたかったわ〜」

久しぶりに書いたサインは思いのほか上出来だったので、


『  竜宮小町  』

と横に記して、小さなハートマークを添えた


————

——



——

律子「あずささん。私のプロデュースするユニットに入ってくれませんか?」

2011年の二月。
765エンジェルスの事実上のラストライブに向けて、夜遅く一人自主練習をしていた私に、
初めて目にするスーツ姿の律子さんが声をかけてきた。


この頃になってもプロデューサーさんは私の進退については話してくれなかった。

私はもう期待するのをやめて、空いた時間にできるだけ自主練習を積むようにして
先の事を考えないようにしていた。

そのせいか、何の話をしてるのかしばらく理解できずに黙っている私を見て律子さんは続けた。


律子「私、来年度から765プロの正式なプロデューサーになるんです。
   もう契約もすませてあるんですよ」




元々裏方志望だった彼女は、プロデューサーさんの細部まで妥協しない姿勢を高く評価してはいたが、
そのプロデュース能力にはずっと疑問を抱いていたらしい。


律子「確かにあの人は、一年前には考えられない位の高みまで、私達を押し上げてくれました」

律子「でもそれは、私やあずささんを含めた765プロの全員が、必死になって頑張ったからです。
   勿論、アイドルとして売れたいなら当然のことですけどね」

律子「あの人のやったことは、何も特別なものじゃありません」


律子「それに、知ってましたよね?ステージの演出に関するあの人の意見は、
   私や千早や、他のアイドルが言ったことを繰り返してるだけなんですよ」


律子「プロデューサーは、何も新しいものを生み出していません。あの人は、ただの広告屋ですよ」




律子さんは色々な事を話した。


エンジェルスは本当の実力に比べて、あまりに過剰な注目を集めてしまった、とか。

事務所内の競争も激しくなるのに、一人の人間だけが采配を振るうのは
アイドルにとって好ましい状況ではない、とか。

アイドルは人気商売だから何も生み出せない人間について行っても不幸になるだけだ、とか。

伊織ちゃんも彼女の意見に全面的に賛同していて、プロデュースを任されている、とか。


律子「何度も言いますが、私はプロデューサーの仕事に対する姿勢は評価しています」

律子「でも、あの人は、人間としての底が何も無い人です。危なっかしい人です」


律子「私は、皆の生殺与奪をあの人に任せている今の事態が、時々、すごく怖くなるんです」




律子さんは自分の感じている不安と、心に描いている未来の計画を、言葉を変えて何度も繰り返した。

理知的で、常に現実的な観点に立つ彼女の意見は、どれも正しく、本心からのものと思えたけれど、
比喩的で大げさな言葉の選択と、自分の意見の正当性に他人の名前を出したことに、
私はいつもの律子さんらしくない違和感を感じた。


律子「今すぐに返事をくれとは言いません。でも、あまり時間は残ってませんよ。
   この世界、スタートダッシュが大切ですからね」

彼女はそう言うと、練習の邪魔をしたことを詫びて出て行った。


足早にレッスンスタジオを去る後姿に、私はあの日の美希ちゃんの笑い声を聞く気がした




翌日、私は社長と二人きりで律子さんの提案を話し合った。
プロデューサーさんについての彼女の言葉は聞かなかったことにした。


高木社長はこの提案を全面的に支持していた。

三月のライブが成功すれば、アイドル達は波に乗り、人手が足りなくなるのは目に見えてる。
裏方として動ける、信頼できる人間が一人増えるのはこの上なく好ましいが、
ライブの成功は961プロの敵対工作の本格化を意味する。


高木「私はだね、三浦君。将来的には、律子君に
   765プロを背負って立つプロデューサーになって欲しいと思っている」

高木「だが悲しいかな、彼女は負けん気が強く、幼い。水瀬君も然りだ。リーダーの資質は抜群だがね」

高木「そこで、君は仲間として彼女達に同行し、支え、励まし、守ってあげてくれたまえ。
   二人とも、衝突はするだろうが、君の言うことなら耳を貸すからね」


高木「今、あの男に潰される様な事態だけは絶対に避けたいんだよ」


『あの男って、どっちですか?』とは、聞けなかった





私が律子さんに承諾の意思を伝え、その日の仕事が終わってから
伊織ちゃんと社長と四人で、三人目のメンバーを選んだ。

伊織ちゃんと私は、声の相性こそ悪くなかったが、
外見から性格にいたるまで両極とも言える個性を持っており、デュオではあまりバランスが良くない。
少なくとももう一人、さらに異なった個性を持つ人材を加える必要があった。


私は雪歩ちゃんを推薦した。
他の二人には好感触だったが、社長にそれは難しいだろうと却下された。

儚げで、常に控えめだった雪歩ちゃんはこの一年で、
態度こそ変わらないものの、自分の意見をしっかりと通す芯の強い女性に成長していた。

高木「彼女にはもう、自分なりの確固としたアイドル像があるようだよ。
   いやはや、あの萩原君がねえ。『男子三日会わざれば刮目して見よ』というが…」


社長が遠い目を始めたので、私達は会議を続けた




真ちゃんも千早ちゃんも強い個性と高い能力の持ち主だが、ソロ志向が強い。

伊織「この二人は、イメージも確立してるし固定ファンも多いわ。
   事務所全体の利益という点でも、ソロの方がいいと思う」

それは私達も同感だった。あの人の傘下から出るだけで、765プロを辞めるわけではない。


春香ちゃんはまだ荒削りだったが、誰よりも心が強く、リーダーとしての適性も高い。

律子「春香も、今は向こうの方がいいでしょう。どこでもやっていける子だし、面倒見もいいわ」

伊織「やよい達のことも気を付けてもらいたいしね」


どんな仕事でもある程度融通の利く高校生組は全滅だった。

万能さを捨てるなら、強い個性が欲しい




伊織「じゃあ、双海姉妹はどうかしら」

伊織ちゃんが切りだした。どうやら最初からその線を考えていたらしい。


伊織「やよいは誘えば来てくれるだろうけど、あまりバランスがいいとは言えないもの」

やよいちゃんは素直で聞き訳がいい分、伊織ちゃんの影に隠れてしまいかねない。
それに背が低すぎる。リーダーの伊織ちゃんをセンターにするなら、
彼女より10センチ以上高い私がいる分、背の高い子がいた方が何かと都合がいい。


律子「そうね、年少組ならそれしかないわね。二人とも、この一年で大分背が伸びたし」

伊織「亜美がいいわ。真美は、もうどんなアイドルになりたいかって希望があるみたいだし」

高木「うむ、決まりだね。では亜美君で行こう」


翌日、私達は亜美ちゃんを社長室に呼び出し、社長を交えて正式なオファーを出した。

亜美「やるやるー!んっふっふー、いおりん、あずさおねえちゃん、律っちゃん。亜美をヨロシクゥ!」


こうして私達は『 竜宮小町 』になった。私の進む、新しい『その先』ができた




その直後、プロデューサーさんが呼び出された。

亜美ちゃん以外の全員が緊張していた。
社長の隣に立っていた律子さんは、あの人に見えない様に両手でスラックスを掴んで立っていた。


社長決定という形で今回の件が伝えられると、
高木社長の長い前置きの間、ずっと顔に貼りついていた笑いが不意に消えた。



プロデューサーさんは、しばらくの間、不思議そうに、じっと社長と律子さんを見ていた。

そして、視線を亜美ちゃん、伊織ちゃん、最後に私へと移して、少しうつむいた後、
またいつもの笑顔に戻った。


P「律子、みんな、ユニット結成おめでとう、俺に手伝えることがあったら何でも言ってくれ」

そう言って、今はライブ前の大事な時期だから他の子に知らせるのは待つように、
という約束を取り付けて、一度も振り返らず社長室を後にした。

自分抜きで決められた事に対する怒りや、反対意見が出るのは当然だと身構えていただけに、
私達は不意を衝かれた思いだった




その後も正式に律子さんに引き継がれるまで、
プロデューサーさんは以前と変わらない態度で私達に接した。

律子さんの提案も、伊織ちゃんや亜美ちゃんの要望も、
実現可能な範囲で積極的に叶えてくれた。


友美の結婚式の日や個人レッスンの行き帰り、
何度か二人きりになる機会があったけど竜宮についての話は出なかった。


私は、『 765エンジェルス 』を、『 三浦 あずさ 』を
今の地位まで連れてきてくれた人に一度も相談しなかったことを後悔していたけど、
やっぱり、何も言えなかった




そして2010年度の最後のライブが終わり、アイドル達はそれぞれの道を歩き出した。


固定ファンの付いていた真ちゃんと千早ちゃんは、
前年度のイメージをそのまま踏襲し、実力派として売り出され
あらゆる音楽イベントに精力的に出演した。



春香ちゃんと雪歩ちゃんは手始めにテレビの教育番組の司会を任されると、
961プロの苦手としていた子供向けの仕事をいくつも取ってきた。

歌う事が大好きで、屈託のない『 春香おねえちゃん 』のキャラクターは、
小さな子供を持つ親世代を中心に幅広い層に支持された。

そんな彼女を横で支えていた雪歩ちゃんは、
テレビやイベント活動の傍ら、複数のラジオ番組でパーソナリティを務め、
普通はアイドルに興味のない中高年のリスナーに良く知られる存在となった。



この一年で背が伸び、均整の取れたスタイルになっていた真美ちゃんは
小中学生向けの雑誌でモデルを務め、同年代の女の子達のファッションリーダー的な存在となった。

また、バラエティ番組などで見せる持ち前の独特な言語感覚は、彼女達の話し言葉に強い影響を与えた。



明るく素直な性格で、誰からも好かれていたやよいちゃんは、
家庭の事情で本格的なアイドル活動を中止しなければならなかった。

プロデューサーさんの提案で、彼女は事務所の雑務を手伝いながら
765プロの公式ホームページにおいて告知や宣伝を行う『 広報部長 』となった。

インタビューや小さな企画をいくつも行い、その模様を動画で配信すると
「アイドル達の素の表情が見られる」とファンの間で好評を博し
やよいちゃんは765のファン全体からマスコット的な存在として愛された。

その裏でレッスンを続け、時にサプライズゲストとして仲間達のライブに出演した




こうしたアイドル達の活動には、できるだけプロデューサーさんか社長が付き添い、
特にテレビの仕事において二人は細心の注意を払っていた。
突発的に複数の仕事が重なり、二人の都合がつかない時には音無さんが同行する事もあった。


ライブや企業イベントでは仕事を選べたが、
一般層への影響が大きい地上波の音楽番組やバラエティでは、そうも言ってられない。

2011年度は、私達にとって勝負の年であり、
奇跡的に築きあげた不安定な知名度を無駄にしない為には、
たとえ961プロの縄張りの局でもテレビの仕事を蔑ろにはできなかった。



事務所の外でアイドル達だけになる時間を極力作らないよう、
プロデューサさんはギリギリのスケジュールを組んだ。

同時にアイドル達は、控え室等では言動に気をつけるよう、何度も何度も徹底的に叩きこまれた。


P「事務所の外では常に見られている、という意識を持つように。
  君達の言動は、全て、ノーカットでまるごと放送されると思いなさい」


またプロデューサーさんは、律子さんにタクシー会社を常に変えることを教え、
そばに事務所の人間がおらずアイドル達がタクシーを呼ぶ場合には、
決して人任せにせず、必ず非通知で電話し、偽名を使うように教育した。

アイドル達も少し大げさに感じたものの、その教えを忠実に守った





ここまでやっても、外部と関わらざるを得ないこの仕事では、
何度も妨害や嫌がらせを受けた。

誤った連絡を受けたり、予定してた演出が直前になって駄目になったり、出演時間を減らされたりした。
時には他の事務所のタレントから露骨な悪口や罵声を浴びせられた事もあった。


それでも、この程度で済んでいたのは、プロデューサーさんが細心の注意を払って私達を守り、
社長が現場に出て睨みを利かせてくれていたおかげだと思う。

765プロは被害を受けるたびに、相手側の責任を追及できる事例については厳重に抗議し、
そうでないものについては、高木社長が関係各社を回り、業界に周知し、やんわりと釘を刺し続けた。



業界は表向きは消極的な中立を守り続けたが、社長のもたらした情報はしっかりと共有した。
961プロの手駒と認識されたディレクターや制作会社は、他の事務所からも避けられる様になり
一時的にだが、765プロから手を引かざるを得なくなった。

この手の工作は、指示する側よりも、実際に行う側の方が格段にリスクが高いのだ。


とはいえ、961プロがこのまま手を引くとは誰も思っていなかった。
どの芸能事務所も来るべき衝突を、待ち続けていた




独立した権限を与えられた事でわだかまりが解けたのか、
それとも事務所全体が標的にされてる現状を肌で感じたのか、
律子さんも伊織ちゃんも、プロデューサーさんの指示に従い961プロとの接触をできるだけ避けた。


『 竜宮小町 』は、『 765エンジェルス 』発祥の唯一つのユニットとして
活動の開始から大きな注目を受けており、デビュー前からオファーは引く手数多だった。

三月から準備していた新曲『 SMOKEY THRILL 』が仕上がると
西に東に、私達は日本各地のライブイベントを駆けずり回った。


伊織「にひひっ。さっさと波に乗るわよっ」

キャッチーなサウンドと遊び心溢れた歌詞、『 SMOKEY THRILL 』は
伊織ちゃんの可愛らしくも挑発的な声にぴったりの曲だった。

私達のステージは出だしから観客の心を即座に掴み、いつも大盛況に終わった。


『 SMOKEY THRILL 』はリリース第一週で14万枚を売り上げ63位にランクインすると
その後も順調に売り上げを伸ばして三週目には43位まで記録を伸ばした。




「「「「 せーの…、TOP50入りおめでとーーーー!!! 」」」」


765プロが長年縁のなかったTOP50入りを、竜宮が果たした日、
事務所の皆がささやかなパーティを開いてくれた。

律子「もちろん、こんなところじゃ終わりませんからね!これからもビシビシ!いきますよ!」

亜美「あたぼーよ!亜美達はようやく登り始めたばかりだからな このはてしなく遠いアイドル坂をよ!」

伊織「ぶふぉっ!!ちょっと亜美!縁起でもないこと言うんじゃないわよ!」


961プロの嫌がらせがまだ続いていた頃で、アイドル達も気持ちが落ち込んでいただけに、
TOP50入りというはっきり見える形で
竜宮がスタートダッシュに成功したことは事務所全体を活気付けた。

律子「目標は、まずIA大賞ノミネート!それまでに何としてもTOP20入りを果たすわよ!」


『 竜宮小町 』はその後も精力的に活動し、
ライブにイベントに、忙しくも充実した日々を過ごした。


全てが、とは言わないが、多くの事が順調だった




———2011年6月 都内のレッスンスタジオ PM05:00


P「律子、ちょっといいかな」


六月に入ってすぐのある日、
『 竜宮小町 』初の単独ライブに向けて、律子さんの指導のもと、
ダンスレッスンを行っていた私達のところにプロデューサーさんがやってきた。


P「君達のレッスンを見学させたい連中がいるんだ。都合が悪いなら出直すが」


律子さんが別に構わないと言うと、外見も振舞いも、実に対照的な組み合わせの、
見覚えの無い二人組の女の子が入ってきた




???「おはようございまーす!うわー!竜宮小町だー!貴音ぇ!本物の竜宮小町だぞーー!」

???「響、失礼ですよ。立場をわきまえなさい」


妖艶な雰囲気を漂わせた、綺麗な銀髪を垂らした長身の女の子はそう嗜めたが、
もう一方の、背は低いが見るからに活発そうなポニーテールの女の子は興奮を抑えきれないようだった。

響と呼ばれた少女「で、でも!自分は、録画してあった765エンジェルスのライブを、
            ダンスを全部覚えるまで繰り返し見てたんだ!興奮するのが当たり前だろー!」


亜美「ねーねー、あのワンパクなチビちゃん、亜美達のファンなのかなー?」

遠巻きに見ていた亜美ちゃんが、彼女達に聞こえないように私に尋ねた。

私は曖昧な返事を返したが、ただの素人ではないだろうと直感していた




P「響。静かにしなさい。竜宮の邪魔をするようなら帰ってもらうぞ」

響と呼ばれた少女「うっ…、ごめんなさい。静かにします…」


場が収まったのを見て、私達は練習を再開した。

伊織ちゃん達は特別彼女達を意識してない様に見えたが、
私は異様な胸騒ぎを覚えていた。

なぜ、この子はあの人の言うことをこんなに素直に聞くのだろう。
なぜ、もう一人の背の高い子は、そんな二人をこうも嬉しそうに眺めているのだろう。


何かがおかしい。

私の、765エンジェルスの知ってるプロデューサーさんは、
年頃の女の子にこうも警戒心を抱かせず近寄れる人間ではない。

何かが、間違っている




伊織「ねえ、そこの貴女。さっき、嬉しいことを言ってくれてたわね?
   私達のライブを見てダンスを覚えたとか」

エンジェルス時代の振り付けを一通り復習し終り、休憩に入ると、
ファンサービスのつもりか、伊織ちゃんがポニーテールの少女に声をかけた。


響と呼ばれた少女「うん!…じゃなくて、はい!自分、見るなって言われてたけど
            765エンジェルスのライブの録画映像を見たら———」

銀髪の少女「響。立場を弁えなさい、と言った筈です。本来、私達はこの場にいてはいけないのですよ」

響と呼ばれた少女「ううぅ、貴音ぇ…。とにかく自分、エンジェルスが三月のライブでやった曲は
            全部!踊れるぞ…踊れます!センター、限定だけど」



伊織「ふうん…、ひょっとして、ウチの新人?」

P「いや、違う。ただのファンだ。そういうことにしておいてくれ」

亜美「にいちゃーん、それってひょっとして、聞いたらヤヴァイ話?亜美、UIされちゃう?」

律子「アンタはまた、滅多なこと言わないの…。ま、何考えてるのか知りませんけど面倒はごめんですよ」

P「すまない。こいつらにウチがどんな事務所か見せてやりたかったんだよ。
  個人練習よりも、ユニットの方が雰囲気が伝わると思ってね」


プロデューサーさんはそう言って、楽しそうに笑った。
これまで見たことが無いくらい楽しそうな、子供みたいな笑顔だった





伊織「ねえ、貴女。せっかく来たんだし一緒に踊っていかない?」

響と呼ばれた少女「え!!いいの!?」

伊織「ええ、これもファンサービス、かしらね?律子?」

律子「仕方ないわね…。ま、いいでしょう。でも残りのメニューは何があっても消化させるからね?」


律子さんは乗り気だった。
プロデューサーとして竜宮の実力に自信を持つのはともかく、
素性もわからない相手と安易に組ませるのは危険だ。



あずさ「でも律子さん、万一、あの子に怪我でもさせたら」

P「おい、響、今日はそんな準備してきてないだろ」


私とプロデューサーさんが動いたのは同時だった。
怪訝そうな律子さん達をよそに、その子は嬉しそうに笑った。

響と呼ばれた少女「へへーん!自分、ひょっとしたらって思って靴もウェアも持ってきたんだー!
            あ!自己紹介が遅れた!自分、我那覇響っていいます!で、こっちは自分の友達で」

銀髪の少女「四条貴音、と申します。宜しくお見知りおきを。響、三浦殿もこう仰られてます。
        私達だけ良ければいいというものではありません。相手方の事情も考えねばなりませんよ」


さっきの表情とは裏腹に、プロデューサーさんの顔は大げさなくらい心配そうに歪んでいた。

貴方は、どっちの味方なの?




響「あー…、ね、ねえ、765のお兄さん!今日は美希は来ないの?」

貴音「響っ!!」


これが引き鉄だった。
銀髪の少女が今までに無い厳しい態度で叱咤した途端、空気が変わった。


伊織「美希ですって?どうしてあの子の名前が出てくるのかしら?」

律子「そうですよ!美希は4月からほとんど事務所に出てきてないですよね?
   たまに顔を出しても寝てばっかりじゃないですか?」


美希ちゃんの名前が出た途端に破裂した、伊織ちゃん達のただならぬ剣幕を前に
二人の少女は、心底申し訳なさそうな顔でプロデューサーさんを見た。


P「美希は今、向こうに行ってるよ」

観念した様にあの人が答えた。


P「そうしないと、フェアじゃないからな」

考え無しに二人を連れてきた自分の愚かさを嘲笑っているように見えた。
この人は追い詰められると自嘲に逃げるのだとわかった。


貴音「……貴方という方は、つくづく、面白い考え方をなさるのですね」

貴音ちゃんが皮肉をこめて言った。
この子は、この時どれだけプロデューサーさんのことを知ってたのだろう?




響「あ、あの、ごめんなさい!自分、変なこと言ったみたいで」

伊織「いいわ、踊りましょう」


その場にいた全員が、伊織ちゃんを見た。
亜美ちゃんが私の腕にギュッと掴まった。


伊織「ただのファンサービスだもの、別に問題は無いわ」

そう言って伊織ちゃんはプロデューサーさんを見た。


伊織「気に入らないけど、アンタが何を考えていようと、
   ウチの事務所の為に動いてるってことは、ホント気に入らないけど、もうわかっているし」

伊織「あずさは踊らなくていいわ。私がアンタのポジションを踊る。
   何かあった場合の責任は私が持つ。アンタは亜美の踊りをチェックしてあげて」


手を変え言葉を変え説得を試みたが、伊織ちゃんは意見を変えなかった。
幼くても、彼女は『 竜宮小町 』の立派なリーダーだった




異様な雰囲気のまま、響ちゃんは準備を始めた。

自分が引き起こした事態に怯えてストレッチに身が入らないようだったが
彼女の不安を見て取ったプロデューサーさんと話してる内に、顔付きが変わった。
せめて失礼の無いよう、恥ずかしくないダンスをしようと心に決めた、そんな顔をしていた。


律子「我那覇さん、でしたね。歌詞はわかりますか?水瀬と双海には本番同様に歌ってもらいますが、
   貴女は歌えなければ、それでもいいですからね」

響「はい!自分、全部歌える…ます!振りを覚えるついでに歌詞も覚えました!」

律子「なるほど。勉強熱心な方ですね」


響ちゃんという子をよく知っていれば、この受け答えに嫌味など
全く含まれていないとわかっただろうけれど、私達は初対面だった。


律子さんも伊織ちゃんも顔にこそ出さなかったものの、きっと侮辱を感じたに違いない。
当たり前だ、自分の積み重ねてきた努力を軽く見られれば、誰だっていい気はしない。

それとも、響ちゃんを連れてきたのがプロデューサーさんだったから?


こうして『 竜宮小町 』と、未来の『 Lucinda 』による最初で最後のコラボステージが、
一年前の四月に765プロのアイドルが初めて全員で歌ったのと同じスタジオで行われた。

あの時は観客が二人で、今は四人。

プロデューサーさんは今回も微妙な立場に立たされたが、その顔は暗く、沈んでいた。
静かな、表情の読めない微笑を浮かべて、貴音ちゃんがその隣に立っていた




一曲目『 First Stage 』のAメロが終わる頃にはもう、
私と律子さんは小さな来訪者のパフォーマンスに釘付けだった。


歌唱自体の表現力には改善の余地が見られたものの、
歌うのが難しいこのナンバーを、音程もリズムも一切外すこと無くこなし、
タイミング、姿勢、表情はもちろん、手や指先の細かい角度にいたるまで、
響ちゃんは文句の付けようもないくらい、『 First Stage 』のダンスを自分のものにしていた。

そして誰よりも思い切りが良く、体がキレていた。


途方も無く大きな才能が、彼女の小さな身体を、解放を求めて縦横無尽に突き破らんとしている。
そんな印象を受けた。


『 First Stage 』が終わると、彼女のリクエストで『 太陽のジェラシー 』、『 GO MY WAY!! 』
最後に『 エージェント、夜を往く 』を同じ三人で踊った。

響ちゃんは曲調や歌詞に合わせて、まるで動物の擬態の様に次々と違う表情を見せた。
その全てが豊かで、人を惹きつけるものが備わっていた




響「ありがとうございましたー!自分、今日は皆さんと踊れて、すごく楽しかったです!」

四曲を踊り終えた響ちゃんが、その場で伊織ちゃんと亜美ちゃんに深々と頭を下げた。
自分のパフォーマンスを心の底から楽しんだような、晴れ晴れとした顔だった。



亜美「チビちゃん、スッゴイ上手なんだもん。亜美、メッチャビックリしたよー」

伊織「貴女、随分やるわね。まさか、独学というわけではないんでしょう?」

響「はい!自分、島のアクターズスクールに通ってて、それで——」

貴音「響。そろそろ、おいとまする時間です。皆様にもう一度お礼を申して帰る準備をなさい。
   休憩時間を貴女のわがままに使わせたのですよ。これ以上の長居は無作法というものです」


響ちゃんはもう一度二人に礼を言い、私と律子さんにも礼儀正しく感謝を述べると
あの人のもとへ飛んでいった。


響「ねえねえ!765のお兄さん!自分のダンスどうだった?カッコ良かった?」

P「ああ、良かったよ。正直、ここまでやるとは思ってなかった」

響「えへへへ、そうでしょー?何たって自分、完璧だからね!ねえ!もっと褒めて、褒めてー!」


プロデューサーさんは笑顔で彼女の頭をワシャワシャと撫で、
クールダウンして帰る準備をしなさいと伝えた。
響ちゃんは終始、とても嬉しそうにニコニコしていた。



一方、私は呆気に取られていた。
これではまるで、担当アイドルと信頼されるプロデューサーではないか。
物腰が柔らかくなってからだって、エンジェルスにそんな態度を取ってるのを見たことが無い。

それとも、私が知らなかっただけなのか?




スタジオを後にする三人を笑顔で見送ると、腕組みをした伊織ちゃんが話しだした。


伊織「アクターズスクール、ねえ。あれだけやれるんなら、デビューしてても良さそうなもんだけど」

亜美「だよねー。亜美、このギョーカイ長いけど、あんなに踊れるコ、初めてみたかも」

律子「つっこまないわよ。島ってことは、沖縄から?でも、あのプロデューサーに
   ダンスが分かるとは思えないわ」

伊織「どうかしら?いくら素人のアイツでも、一年間私達を見てきたわけだし」


伊織「それに、チビスケの隣にいた保護者っぽいのも気になるわ。
   いわゆるアイドルって感じじゃなかったけど」

亜美「えー、いおりんだってちっこいジャン。ポニテありなら、あっちの方g」 アミ、ナニカイッタ? サー!ノー、サー!

律子「ふーむ、海外で活躍中のモデルとかかしら?それにしてはグラマーすぎるか」


私達はしばらくの間、練習も忘れてあれこれと推測し、色々な可能性を出しては消した。
先程受けた嵐の様な印象はもう過ぎ去っていたものの、奇妙な違和感だけが残っていた




律子「やめやめ!考えてても仕方ないわ!さ、もう十分休んだでしょ。練習再開!」

伊織「そうね。いずれ分かることだし、今は自分達の問題に集中しましょ。……亜美?」

亜美「ねえ、あずさおねえちゃん。兄ちゃん、亜美たちのこと嫌いになったりしてないよね?」


私は苛立たしい気持ちを押し隠して、亜美ちゃんの不安を和らげた。
伊織ちゃんも私に同調し、彼女の気分が落ち着いたのを見て練習を再開した。


彼女達が何者なのか、プロデューサーさんはあんな人材をどこから見つけてきたのか。
私達はその日以降も、機会のある度に話し合ったが、誰も美希ちゃんの名前を出さなかった。


今思えば、私達は既に『 Lucinda 』の影に捕らえられていたのかもしれない




それから二週間あまりが過ぎたある日の夕方。
私達の疑問は、怒号と共に氷解した。


———2011年6月 たるき亭ビル1号館3F、芸能事務所「765プロダクション」 PM06:10


黒井「高木を呼べっ!!いるのはわかってるぞ!!」

私達四人が音楽番組の収録を終え事務所に帰ってきた直後、
961プロダクションの黒井社長が怒りの声を上げて765プロへやってきた。


小鳥「失礼ですが、アポイントメントはお取りですか?」

黒井「ふんっ!貴様か!貴様なんぞに用は無いっ!!高木を出せっ!!」

音無さんは冷静な対応を続けたが、激昂した黒井社長は
今にも彼女を突き倒さんばかりの勢いだった




黒井「くそっ!くそっ!汚い、汚い手を使いやがって!」

黒井社長は私達が見ている事も忘れて、頭を掻き毟り、罵詈雑言を叫び続けた。


これ以前にも私達は幾度となく黒井社長に会う機会があり、皮肉と嫌味を散々浴びせられたが、
彼の調子には常に自分の毒舌を楽しむ、彼独特のユーモアと冷静さがあった。

その黒井社長が、弱小事務所とはいえ同業者の前で
ここまで恥も外聞もなく激昂しているという事実が、私達に事態の異常さを明確に知らしめた。


黒井「そこの小娘!高木だ!高木を連れて来い!今すぐ!今すぐだッ!!」

私達は一歩も動けなかった。
眼前で起こっている未知の事態にただ驚き立ちつくすしかなかった。

この時の黒井社長ほど余裕を失った人間というものを、誰も見たことがなかったのだ




高木「すまないな、電話中だったもので」

永遠にも思えた数分間が過ぎて、高木社長が出てきた。


黒井「高木!貴様、あれだけ綺麗事を並べておいて、よくもあんな真似ができたものだなッ!」

高木「はて、何の話をしてるか分からんよ。それより気をつけたまえ、
   そんな態度は決して事務所の為にならんぞ」

高木社長は、わざとらしいくらい冷静な態度で、社長室で話そうと持ちかけたが、
黒井社長はこの事務所の何もかもが癪に障るといった調子で斥けた。


音無さんは私達を別室に連れ出そうとしたが、
一人だけ落ち着きを取り戻していた伊織ちゃんは残ると主張した。
高木社長がいつになく厳しい態度で、退室を命じても聞かなかった。


伊織「何があったか知らないけど、私は残るわ。自分の事務所のことだもの、知る権利も必要もある」

黒井「フンッ!貴様も聞くが良い、いかに自分が愚かで世間知らずの小娘かわかるだろう!」

私と律子さんは、亜美ちゃんだけでも連れ出そうと手を取ったが
彼女も去る気はない様だった。結局、竜宮小町は四人ともその場に居残った




黒井社長は咳き込みながら、その都度罵り言葉を放って、響ちゃんと貴音ちゃんの話を始めた。


彼自ら、彼女達を見出し、その才能に惚れ込み、961プロにつれてきたこと。

二人のプロデュース計画をプロジェクト・フェアリーと名付け、
候補生としては異例の練習環境を与え、大きすぎる才能ゆえに
どこまでも伸びしろのある技術を時間をかけて磨き上げていたこと。

デュオでは、その強すぎる個性がぶつかりバランスが悪い為、
ソロで売り出すか同等の才能を持った人材を探し出すか、何時間も会議を重ねたこと。

そしてついに彼女達に負けない才能を持った人材を見つけ出し、二人に引き会わせたこと。


黒井「私が!私が!私が!あの二人を見出し育てたのだ!それを、それを!」

次第に声が震えだし、自制心を失っていくのが傍目にも分かった。

あまりの怒りに、話すべき事とそうでない事を選んでいる余裕など全くないようだった。
頭を抱えて地団駄を踏み、大声で怒鳴り散らす彼の姿は、涙こそ流さないものの泣いてる様にも見えた。


私は、いや、おそらくその場にいた誰もが、彼に憐れみを覚えていた。
765プロを悩ませてきた妨害工作の首謀者とわかっていても、
彼の言葉に偽りがないことは明らかだった。


大きな、あるいは特別な才能に惚れ込むということは、誰もが日々の競争に疲れきったこの業界で
唯一、現実的に巡り合える素晴らしい出来事の一つなのかもしれない




高木「だが、それがウチと何の関係があるというのだね?」

高木社長は黒井社長の言葉を真っ向から否定した。


黒井「高木!!この期に及んでシラを切るのか!」

高木「そちらの立場には同情するがね。まだウチがどうしたと言わないじゃないか?
   それとも、何か根拠があってのことかね?」

961プロに何が起こっていたか、私はこの時点では知らなかったが、
高木社長が極めて冷静に対処しようとしているのは分かった。


冷静に、それには自身と相手の言質の問題だけではなく、
プロデューサーさんの処遇も含まれているのだと直感した




高木社長の意図がわかったのか、それともただ相手の態度につられたのか、
黒井社長も冷静さを取り戻し、二人はそのまま無言で睨みあった。

音無さんは私達の前に立ち、やはり無言で、そのまま動かない二人の宿敵を見つめていた。
その後ろで伊織ちゃんが、ちいさな両拳を力強く握って立っていた。


『何も起こらず、このまま帰ってくれればいい』
私はそんな淡い期待を抱いて、ただただ、時間が経つのを待った。




そこに、


P「ただ今戻りましたー」


あの人が帰ってきた




千早「私は給湯室の方に行ってます。終わったら呼んでください」

P「うん」


事務所のただならぬ空気を感じたのか、千早ちゃんはそのまま一言も発さず給湯室に向かった。


プロデューサーさんは、彼女が出て行く姿を悠然と見送ると、
さもさも今気付いたとでも言いたげな態度で黒井社長へ近づき、
例のわざとらしい微笑を浮かべて


P「これはこれは、黒井社長。今日はまた、どうして私どもの事務所に?
  さあ、立ち話もなんですからどうぞこちらへ。音無さん、お茶をお持ちして」


一旦おさまりかけていた黒井社長の癇癪を破裂させるには、これで十分だった。





プロデューサーさんがそれだけ言い終わるよりも、
黒井社長が掴みかかる方が早かった。


黒井「お前!お前だな!星井を使ってウチの我那覇と四条を誑かしたのは!」

P「当事務所の星井美希が、何か御迷惑でも?」


黒井「どこだ!どこにいる!我那覇と四条は!どこに隠した!?」

P「その質問にはお答えできません」




黒井「全部!全部!全部!お前の差し金だったんだな!
   星井が散々ウチの訓練を受けておきながら我々を焦らしたのも!二人に会わせたのも!」

黒井「今日、二人の代理人とやらが退会届けを持ってきたぞ!お前だろ!あいつらを唆したのは!」

黒井「あいつらが弁護士など雇う筈ないんだ!候補生だったのをまんまと利用したな!」

黒井「どこだ!?どこにいるんだ!?私に話をさせろ!今すぐ!」

高木「黒井!いい加減にしないか!彼から手を離せ!」


激昂した黒井社長は両手でプロデューサーさんのシャツを掴み、
高木社長の静止も聞かず、問い詰め続けた。

あの人は一歩も動かずに黒井社長を無表情に見つめて、
彼の必死の訴えを、一切言質の取れない表現を使って抑揚のない声で斥けた。


そんな膠着したやり取りが数分続き、音無さんが駆け寄ろうとすると、
プロデューサーさんは黒井社長に見えないように、右手だけで彼女に来ないでいいと合図し、
続けて親指と小指だけを伸ばして、事務所で使われていた「電話」のサインを送った




警察か、それとも記者か、そのどちらかを呼べということだったのだろう。

音無さんも律子さんも、電話を掛けようとはしていなかったと思うが、定かではない。


そのサインを見てあの人の意図を理解した瞬間、私は揉み合う男達に走りよっていた。
「頭が真っ白になる」とはああいう状態を指すのだと思う。



短い、乾いた音が鳴り、男達の争う声も止まった。

人を本気で叩いたのは、これが初めてだった。


黒井社長に胸ぐらを掴まれたまま左頬を打たれたあの人は、
打たれたままの姿勢で首ごと横を向いてしばらく佇んでいたが、
そのうち私のほうを向いて、じっと私を見た。

黒井社長に殴られる事は予測していても、私に殴られるとは思ってもみなかったのだろう。


あの人の目には、怒りの感情はなかった。

ただ、じっと不思議そうに見てから、
例の、まるで拵えあげた様な心配そうな表情をその顔に貼り付けた。



ああ、この期に及んでもそんな顔をするのか




私は、誰かが口を開く前にロッカー室に逃げ込み、カギをかけた。


心配して後を追ってきた竜宮メンバーや音無さんが、
ドアを叩き続けたけど、返事を返さなかった。

誰の顔も見たくなかったし、誰にも見られたくなかった。


あの人が善良な人間なんかじゃないことくらい、わかっていたのに。

あの人にはもう期待しないと決めたのに。

それなのに、何であんな馬鹿な真似をしてしまったのか。


悔しかった。悔しくて悔しくてたまらなかった。

もう大人ではいられなかった、ここから消えてしまいたかった。


私は少しも考えを纏められず、そうする気もなかった。
ただひたすら、声を殺して泣いていた。

泣いていればここから逃げられる、そんな馬鹿げた、ちいさな子供みたいな気持ちで泣き続けた。



黒井社長がどうやって帰ったか知らないが、この日の一件が表沙汰になる事はなかった



それから二週間と経たない内に、
正式な所属アイドルとして響ちゃんと貴音ちゃんが765プロにやってくると、
プロデューサーさんは公式サイトで大型新人の登場を予告しファンの期待を煽った。


あの日の醜聞だけは守られたものの、765の人間か黒井社長か、
それとも彼等とは関係の無い所で、内部情報が他の芸能事務所に流れたのか。
弱小の765プロが961プロの秘蔵っ子を引き抜いた事は
すでに記事になって、大きなスキャンダルとして扱われていた。

961プロ側の匿名の証言を信じるなら、プロデューサーさんはお金を湯水の様に使い
合法ではあるものの相当に強引な手段を取って二人を獲得したらしい。


律子「ウチにそんなお金あったら苦労してないっつーの」

半分当たりで、半分外れだろうというのが律子さんの意見だった。


律子「連絡できないように隠れ家を用意するとか、引越しの面倒を見たとかそんな程度でしょうね」

律子「竜宮の見学に来た時には、響の方はかなり懐いてたみたいだし」

律子「一体、どんな魔法を使ったんですかね」




世に出た記事の多くは、765プロのなりふり構わないやり口を非難するのと同時に、
961プロの従来の引き抜きや囲い込み体質を糾弾するもので、
私達以外の芸能事務所の意向が色濃く反映されているのが分かった。

プロデューサーさんは、アイドルファンと世間の非難と注目が高まっていく様を見てほくそ笑んだ。

芸能記事の取材だけでなく、渦中の二人のスキャンダラスなデビューを取り扱いたいとばかりに、
テレビ局を筆頭に多くのオファーが彼のもとへと寄せられていた。


律子「この分じゃ、あの二人潰れちゃうわよ。全く、アイドルを何だと思ってるんだか」

伊織「響も貴音も、そんなヤワじゃないでしょ」

伊織「今回の騒動で、竜宮の注目度も高まってるわ。
   エンジェルス時代の曲が多かったとはいえ、単独ライブも大成功だったし」

伊織「私達は、私達のなすべきことに集中しましょう」


私がプロデューサーさんを叩いたことは、あの人の中では無かったことにしたらしく、
以前と何一つ変わらない態度で私に接した。

そのうち事務所で会うこともなくなり、私は引退するまで、謝罪のチャンスを与えられなかった




こうしてアイドルファンと業界の注目をさんざん煽った後、
響ちゃん、貴音ちゃん、美希ちゃんは『 Lucinda 』としてデビューした。


ユニット名が発表されると、ある芸能雑誌が

「気の強そうな外国の女性を思わせる『 Lucinda(ルシンダ)』というユニット名は、
 スキャンダラスな注目を上手く利用した彼女達にピッタリだ」

と揶揄した。他のメディアも大体同じだったと思う。



響ちゃんはこうした風評を物ともせず、テレビデビューの舞台となった
老舗音楽番組で大物司会者のタモソさんからユニット名の由来を問われると

響「えへへ、カッコいいでしょー!強そうで、セクシーで、危険な感じが
  自分達にはピッタリだって、事務所の人がつけてくれたんです!」

と、悪びれずに答えた。


美希「ミキ、響には危険な感じってまだ早いと思うな」

この美希ちゃんのつっこみを機に、今ではおなじみの、
掛け合い漫才の様なやりとりがタモソさんを交えて始まった




律子「もうちょっと立場ってもんがあるでしょうに…」

高木「音無君、すまんが、胃薬とお湯をもってきてくれ…」


律子さんの呆れ顔と高木社長の胃痛をよそに、
三人の新人アイドルは一切臆すること無く、番組の空気を自分達のものに変えていった。
視聴者は彼女達を、口の立つ、コミカルなユニットだと思っただろう。


その後のステージで『 Lucinda 』は、響ちゃんの言葉に偽りが無いことを証明した。

三人の披露した『 THE IDOLM@STER 2nd-mix 』は、
エンジェルスの面々がこれまでに見せたどの『 THE IDOLM@STER 』よりも
はるかに高いレベルの調和が取れていた。

挑発的でありながら同時に凛々しく、力強く、実に堂に入った圧倒的なパフォーマンスだった。


この日の模様はすぐに動画サイトに転載され、削除されるまでの数時間で50万再生を記録した。

765プロの看板曲だった『 THE IDOLM@STER 』は、たった一度のステージで『 Lucinda 』のものとなり、
三人は一夜の出演でスターダムに駆け上がった




私がアイドルだった最後の半年間、『 Lucinda 』をメディアで見ない日はなかった。


新聞のテレビ欄を見れば必ず彼女達の名前が見つかった。
多くの芸能誌やファッション雑誌、さらには経済紙で表紙を飾り、
常に複数ページの特集が組まれていた。


多数の超大型企業が彼女達を自社製品の広告塔に欲しがり、何十本ものコマーシャルが作られた。
街を歩けば、常に誰かのポスターが貼られていて、
飲料や栄養食品、化粧品に電化製品と、その品目は多岐に渡った。

後で知ったことだが、これらの宣伝ポスターは貼るたびに
監視の目をくぐって剥がされ、オークションで売買されていたらしい。


こうした状況下でも、プロデューサーさんは積極的に『 Lucinda 』を連れ出し、
地方の音楽イベントやCDショップでパフォーマンスやトークをさせ、彼女達を鍛えた。


美希「プロデューサーは人使いが荒過ぎるのー。訴えてやるのー」

響「だぞー。最高裁まで争う覚悟だぞー」

貴音「あなた様、わたくしとしてはらぁめんで示談という線もやぶさかではありません」


そんな不平を言いつつも、響ちゃん達は仕事となれば、水を得た魚の様に働き、
忙しさが増すほどに、その輝きを増していった




デビューからわずか二ヶ月足らずで『 Lucinda 』の活動は完全に軌道に乗り、
当初付きまとっていたスキャンダラスな風評が払拭されると、
顧客やプロデューサーさんの意向に合わせて三人は様々なイメージを発信した。


ユニットの中でイジられ役が定着していたリーダーの響ちゃんは、
芸人顔負けの無謀な課題に挑戦する「響チャレンジ」を公式サイトで配信する傍ら、
国営放送の編み物講座や動物番組に出演し、あっという間にお茶の間の人気者になった。


古風な雰囲気を漂わせ、口数の少なかった貴音ちゃんは、
料理番組や数多くのグルメ番組でメインキャストを務め、
持ち前の妖しげな容姿とは真逆の大食いキャラを定着させ、
そのギャップは多くの人々に親しみを感じさせた。


デビュー当初、引き抜き騒動のスパイ的役割を果たしたとして、
ユニットのおまけ扱いされていた美希ちゃんは、そんな二人をサポートしながらも、
モデルにドラマにと八面六臂の活躍を見せて、自身の実力がフロックでないことを証明した。


また三人は、これらの親しみやすさを感じさせる活動を行うと同時に、
765プロのアイドルとしては異例なほどグラビアに登場した。

それぞれに均整の取れた肢体を晒して世の男性達を悩ませたが、
それらは全て下品にならない様、つまり女性が反感を覚えない程度に細心の注意を払って線引きされていた。

水着着用のグラビアでも、そのデザインが下着を思わせるものなら即NGとなったらしい




こうして『 Lucinda 』は、決して安売りすること無しに、
顧客やファンの求める様々なイメージを巧みに演じ、それを完成度の高いステージで支えた。


いや、演じたという表現は適当ではない。

彼女達は求められるイメージを即座に吸収し、自分達を創りかえる稀有な才能を持っていたのだ。




三人のデビュー曲となった『 THE IDOLM@STER 2nd-mix 』は初登場3位を記録し、
2011年度の年間ランキングのTOP10に最後まで居座った。


続いてリリースされた2ndシングルの『 きゅんっ!ヴァンパイアガール 』は、
『 Lucinda 』の飛び抜けた実力を世に知らしめた『 THE IDOLM@STER 2nd-mix 』とは
180度違った方向性の、親しみやすさと妖しさを併せ持った彼女達にピッタリのナンバーだった。

昭和の歌謡曲を思わせるようなメロディーは、幅広い年齢層に支持され
発売初週に1位に踊り出ると2011年度の終わりまで、その座を譲らなかった




『 Lucinda 』が爆発的な人気を得たことで、事務所は大いに活気付き、
アイドル達は三人に続けとばかりに、各々の活動分野で数字を伸ばしたが、
それは一時的なものに過ぎなかった。


765プロのアイドルは常に『 Lucinda 』の誰かに比べられるようになった。



律子「いえ、私は『 Lucinda 』の担当ではなくて、いえ、『 如月千早 』も違うんです」

ダンサブルなステージを得意としてた真ちゃんや、
同じ三人ユニットだった『 竜宮小町 』は特にその傾向が顕著だった。

真ちゃんも私達も、スポットライトを浴びれば観客を満足させられる強い自信はあったが、
舞台に上がるチャンスがなければどうにもならない。
オファーは日に日に少なくなり、ファンの数は緩やかな減少を見せ始めた。



伊織「今は仕方ないわね。一から出直しましょう。オーディションよ」

伊織「仕事がないなら取りに行かなきゃ、ファンだって同じ」

伊織「『 七彩ボタン 』が仕上がればギリギリで巻きなおせる。ライバル関係を演出するの」

律子「もう『 Lucinda 』サイドと話はついてるわ。それまでに少しでも上に行かないと」


私達は初心に帰り、日本各地を駆け回ってオーディションを受けた。
また、一対一という形式から、他の事務所に禍根を残しやすいとして、
765プロ全体の方針として避けていたフェスにも多く出場した




プロデューサーさんは私達に、新曲が仕上がるまでは
固定ファン向けの活動を行い、外部への露出は控えるべきだと言った。


P「今出ても響達と比べられるだけだ。今は沈黙を装った方がいい。
  君達に僅かでも欠点が見えたら、そのイメージが定着してしまいかねない」

P「それに『 Lucinda 』が大きくなって、他所の仕事が減った分、
  理不尽な話だが、今勢いがない君達は標的にされやすい」

P「そんな危険を犯すより、資金と労力を蓄えて新曲後の活動に回したほうが懸命じゃないか?
  ライバル関係を演出するシナリオはもう用意してあるんだぞ」



プロデューサーさんの意見は、公平なものかもしれないが律子さんは従わなかった。

あの人のやり方に乗れば、竜宮は何もしなくても『 Lucinda 』の知名度を利用して、
ライバル関係に相応しい実力者というイメージを手に入れるだろう。

それだけでは駄目だ、本当の実力がつかない、というのが彼女の言い分だった。


それに、その公平さは、プロデューサーさんの視点で見たものだ。
あの人の見たいものだけ見た現実と、私達に見えてる現実にはどれだけ大きな隔たりがあることか。


『 Lucinda 』は短期間で大きくなりすぎた。
ここで離されたら二度と追いつけない。私達は必死だった





黒井社長が事務所に怒鳴り込んできたあの日以降、
765プロのアイドル達は、また妨害工作を受けるようになったが、そう長くは続かなかった。


765プロの機嫌を損ねれば、『 Lucinda 』の機嫌を損ねる事になる。

どこか上の方でそういう判断が働いたのだろう。
『 Lucinda 』がデビューして瞬く間に超売れっ子になると、
直接的にも間接的にも、現場の人間は、もう誰も私達にいやがらせをしなくなっていた。


加えて961プロは不利な状況に立たされていた。


それまで静観を決め込んでいた芸能事務所達は、
765プロの成功を目の当たりにして、再び引き抜き合戦を開始していた。

目の前にぶら下がっていた金脈を弱小事務所に取られたのだ。
961プロはまだ才能を囲い込んでいるに違いない。

第二、第三の『 Lucinda 』を求めて、その攻勢は壮絶さを増していった。
似たようなユニットが次々と作られては、互いに限られたシェアを奪い合い、消えていった。



皮肉な話だ。仕事を奪っていった『 Lucinda 』に私達は守られていた。


そこに、961プロの『 天ヶ瀬冬馬 』がデビューした



961プロダクション全体が、執拗なスパイ合戦を仕掛けてくる同業者達と
渡り合わなければいけない状況下で、
黒井社長は765プロに対して力と力の勝負を選択した。


響ちゃん達と同様に、時間をかけて育てられたのだろう。
『 天ヶ瀬冬馬 』は本物だった。

端整で甘いルックスと、新人とは思えないレベルのパフォーマンスで
デビュー早々に多くの女性ファンを獲得した。
1stシングルの『 Alice or Guilty 』は初週こそTOP20に届かなかったが、
その後も順調に売り上げを伸ばし、リリース4週目には年間販売ランキングで4位につけた。


冬馬「俺はコソコソと裏で動いたりなんかしません。やるべきことだけやって確実に勝ちます」


彼は名指しこそしないものの、事ある毎に765プロを挑発するような言動を繰り返した。

ワイドショーはかつてのスキャンダルと絡めて、二つの大型新人ユニットの競争は、
事務所間の代理戦争であると面白おかしく世論を挑発した。


そうしたメディアの誘導も手伝って、私達の新曲が仕上がる頃には
どのアイドルファンのコミュニティーでも、一般層を対象にした調査でも、
『 Lucinda 』のライバルは『 天ヶ瀬冬馬 』であるとの認識が定着していた。


そこに『 竜宮小町 』の付け入る隙など、どこにもなく、私達の逆転のシナリオは水泡に帰した




『 天ヶ瀬冬馬 』の出現で一番割を食ったのは『 菊地真 』だった。


激しいダンスと凛々しいルックスを武器に、
世の女の子の考える理想の王子様といった様なキャラクターで活動していた真ちゃんは、
女性ファンの多くを彼に取られていた。



一度、事務所で泣きじゃくる真ちゃんを、あの人と雪歩ちゃんが必死に慰めていたのを見たことがある。


真「ボクは、ファンの為にこんな男の子みたいな格好してたんじゃないんですか!?」

真「本当は可愛い格好だってしたかったのに、路線変更を許さなかったのは、あの子達なんですよ!?」

真「なのに、本物の男の子が出てきたらそっちを選ぶんですか?」

真「ファンの皆は、ボクの歌やダンスなんて、どうでもよかったって言うんですか!?」




プロデューサーさんは、一旦休養して今後について一緒に考えようと提案したが真ちゃんは聞かなかった。


真「嫌です!そんなのあの男に負けたみたいじゃないですか!?絶対に嫌です!嫌です!」


エンジェルス時代だって一度も弱音を吐かなかった彼女のこうした姿は、私の心に深く突き刺さった。


初めて目の前につきつけられた自分のファンの変節は、
誰よりもまっすぐだった真ちゃんにとって、何よりも受け入れ難いものだったのかもしれない




真ちゃんは休む間も惜しんでレッスンを積み
歌とダンスに更なる磨きをかけ、ステージに立ち続けた。


新曲『 迷走mind 』は予定通り発売され、、自身最高となる25位を記録した。

女性ファンの半数以上が『 天ヶ瀬冬馬 』に取られた上でのこの記録は、
大健闘と呼ぶに相応しいものだったが、これはIA大賞のノミネート基準には及ばない数字だった。


高木「気を落とすことはないよ、今はそういう時期なんだ。むしろ、この厳しい状況でよく頑張ったね」


高木社長は来年度の更なる売出しを約束したが、
彼女は辛そうな笑顔で社長の賞賛に頷くだけだった。


今でも思う。


もし私が踏みとどまっていれば、
真ちゃんも引退などしなかっただろうか、と




結局、2011年度は『 Lucinda 』と『 天ヶ瀬冬馬 』の年だった。


響ちゃん達がデビューした当初は、音楽ファンのみならず一般層の注目が集まったことで
アイドル業界全体が活気付きそうに思われた。

各芸能事務所の961プロへの過剰な引き抜き工作も、長引く不況の中に
突如舞い降りた三人のシンデレラに黄金の夢を見たからだろう。


しかし、夢は夢のままだった。


何も竜宮だけではない、画面に映る全ての女性ユニットが『 Lucinda 』と比べられ、
人気やイメージという、アイドルをアイドルたらしめていた衣を力ずくで剥ぎ取られ、
その影に今まで隠れていた地力の無さを露呈させられた。

次いで『 天ヶ瀬冬馬 』が現れると、今度は男性アイドル達に同様のことが起こり
彼や『 Lucinda 』の売り上げだけが伸び、業界は萎縮していった。



そしてIA大賞のノミネートが発表され、
765プロからは『 Lucinda 』が、961プロからは『 天ヶ瀬冬馬 』が名を連ねていた。


芸能メディアは、去年のIA大賞の沈滞ムードを繰り返すまいと、
『 Lucinda 』を2010年度のIA大賞をコケにした765プロから業界全体への刺客として扱い、
前年度受賞者の所属する961プロの『 天ヶ瀬冬馬 』を権威を守る善玉に祭り上げて
聴衆の注目を徹底的に煽った




千早「呆れたわね。まるでプロレスの悪役みたいに」

春香「美希はともかく、響と貴音さんは関係ないのにね。感じ悪いよね、コレ」

雪歩「765プロへの不満がここでぶつけられた感じがしますぅ」

やよい「響さん達やプロデューサー、報道見て嫌な思いしてないといいけど…」

真美「んん〜?それはないんじゃないかなー、やよいっち。
   きっと兄ちゃん、今頃わっるい顔でシナリオ考えてっと思うよー」


プロデューサーさんが何を考えていたかは知らないし、
その後『 Lucinda 』がIA大賞と部門賞を全て受賞するまでの展開も私は知らない。

私が知ってるのは、先に仕掛けたのは961プロの方で、
天ヶ瀬冬馬をリーダーとした三人ユニット『 ジュピター 』を
ノミネート発表会の場で電撃デビューさせたところまでだ。



私達の『 七彩ボタン 』は27位に留まり、『 竜宮小町 』はノミネート基準のTOP20入りを果たせなかった。

私はただの義務感から、竜宮が敗者復活枠に選ばれなかったのを確認して数日後、
高木社長に辞意を伝えた。


社長は私を引きとめようと、手を変え言葉を変えて様々な条件を提示したが、
私が高待遇など求めていないことがわかると、引退を認めてくれた。

がっくりと首をうなだれて、ねぎらいの言葉を搾り出す彼の姿は、いつもより小さく見えた。


私は、疲れていた




亜美「いやだー!いやだよー!亜美いい子にするから、もっともっとガンバって練習するから!
   あずさおねえちゃんやめないでよー!」

その翌日の終業後、誰もいない765プロの事務所で、
社長の口から竜宮メンバーに私の引退が伝えられると、亜美ちゃんは途端に泣き出した。


亜美「亜美たち、まだ何にもやってないよ?映画にだって出てないし、賞だってまだ取ってないよ?
   それなのに、あずさおねえちゃんがいなくなったらどうすればいいの?」

律子「そうですよ、あずささん!ノミネートはされなかったけど、売り上げは伸ばしたじゃないですか!
   まだやれます!まだ、まだ、私達にはあずささんが必要なんです!」


亜美ちゃんは私の胸で泣き続け、律子さんも目を潤ませながら説得を続けた。
二人とも、私の気持ちがもう戻らないと悟っていたのかもしれない。


律子さんは納得がいかないと、私を説得できなかった社長を激しく責めたてた。


高木「二人とも、気持ちはよく分かるよ。私も何十人となく、
   まだまだ活躍できたアイドルの引退を見てきたからね」

高木「しかし、我々が何を言おうと、これは三浦君の問題なのだ。
   彼女の人生を生きるのは我々ではないのだから」

高木「彼女はもう22歳だ。我々の世界は年齢などさほど問題ではないが、
   社会に出て新しい生活を始めるなら、大卒と同じ22歳という年齢はいい節目かもしれない」




高木「この業界に、希望も熱意も持てなくなったのならば、その決断は早い方がいい」

高木「責任を自分の背中に背負って生きる者に対する厳しさは、ここも向こうもそう変わらないのだから」

社長は常にない真面目な調子で、二人に語り続けた。


おそらく、私があまり喋らないでいいように配慮してくれたのだろう。
戦うことをあきらめた人間がかける言葉べきなど何もない、私は黙っていた。

リーダーの伊織ちゃんは、トレードマークの兎の人形を左腕に抱いて、じっと私を睨みつけていた。


高木「実を言うとだね、まだ独立させるには心許なかった君達を支えてくれるよう、
   私が三浦君に頼んでいたんだよ」

高木「エンジェルスを先頭に立って引っ張り、竜宮小町を支えてくれた彼女が、
   自分の役目は終わったと思っているのだ」

高木「走ることに疲れた自分が傍にいては、まだ若く、色々な可能性のある君達の未来に差し障るとね」

高木「ならば、笑顔で送り出してあげるのが、せめてもの恩返しではないかね」


そう、私は引退を考えはじめた頃からそう思っていた。
『その先』の見えなくなった自分が竜宮にいては足を引っ張るだけだ。

それに響ちゃん達がいる以上、竜宮はこの先ずっと比較され続ける。
二人はまだ若い、『 Lucinda 』のイメージの下から抜け出して新しくやり直すべきだ、と。

この時もそう思っていた。彼女達の為にも早い方がいい、と。


私の決断は間違ってないと信じていた




亜美「もーー!いおりんも何か言ってよー!リーダーっしょー!
   このままだとあずさおねえちゃん本当にいなくなっちゃうんだよー!」

高木社長の穏やかながら反論を許さないような喋り口に耐えられなくなったのか、
それまで頑なに沈黙を守ってきた伊織ちゃんに、亜美ちゃんが食ってかかった。


伊織「……フン、こんな時だけリーダー扱いして、ホント、調子いいわね」

律子「伊織!」

亜美「なんだよソレー!こんな時くらい、素直になってくれてもいいじゃんかー!」


伊織ちゃんは、二人の責めるような調子にも、一切動じた様子を見せずに続けた。

伊織「私は素直よ。敗者にかける言葉なんて持ち合わせてないもの」

律子「アンタ、こんな時に何言い出すの!?」

伊織「何って、本当の事じゃない、ねえあずさ?」



覚悟していた瞬間が来た、と私は心の中で身構えた。
伊織ちゃんとは、事実、何も問題なかったし、仲良くやってきた。

それでも、私は自分の都合で一緒に頑張ってきた仲間を捨てるのだ。何を言われても仕方がない




伊織「この業界に、希望も熱意も持てなくなった?アンタ、未練たらたらじゃない」

律子「伊織っ!!」

律子さんの声が一段高くなり、私はドキッとした。

未練?私のやれることなどもう何もないではないか?


亜美「もうヤダー!!」

そう叫ぶと同時に亜美ちゃんが、伊織ちゃんに掴みかかった。
伊織ちゃんは避けようともせず、彼女のさせるがままに任せていた。


私達がやっとの思いで泣き喚く亜美ちゃんを引き離すと、
伊織ちゃんは散々に振り回されてしわくちゃになったワンピースの衿を事もなげに直し、、
揉み合った際に床に落とした兎の人形を拾って、一言、「ごめんね」といって頭を撫でた。


違う。

私はこんな終わりを望んでいたわけじゃない。これは違う。


伊織「エンジェルスを引っ張ってくれたこと、短い間でも竜宮を支えてくれたことは感謝してるわ」

伊織「でも、今のアンタはただの腰抜けの弱虫よ。ワガママ一つ言えないで、殉教者気取り?
   それで敵いそうもない連中が出てきたから、立つ鳥跡を濁さず、私達の為に引退します?」

伊織「冗談じゃないわ。逃げたきゃ、一人でお逃げなさい。私達を理由にしないで」




伊織ちゃんはそう言って、私の返事も待たずに帰り支度を始めた。

律子さんも、亜美ちゃんも事務所の床に座りこんで、泣いていた。

高木社長は、昨日と同じ様に肩を落とし、首をうなだれて二人の傍に立っていた。


伊織「もしもし、新堂?あらそう、下まで来てるのね、じゃあ今から行くわ」


私は事務所の出口のドアの前に立って、混乱した頭で言葉を探し続けた。

伊織ちゃんが帰る前に、何かひと言、弁明でも謝罪でもいい、
とにかく言うべきことがあると言葉を探していたが、何も見つからなかった。


伊織「そこを、どいて」


そうだ、わかっていた筈ではないか。

私に言えることなど、もう、何もないのに




伊織「……私はいいリーダーじゃなかったかもしれないわ。アンタのことをよくわかっていなかった。
   アンタの抱えていた不安を、取り除いてあげられなかった」

伊織「運のいい時も悪い時も、いつだって一緒に必死になって頑張って舞台に立てば、
   それで何もかもが上手く行くと思っていた。仲間ってそういうものだと思っていた」

伊織「エンジェルスがそうだったから、それでいいと思っていた。でも違ったのよね。
   それだけじゃ駄目だったのよ、ごめんなさい」


伊織ちゃんはそれだけ言うと、何も言えないまま出口の前に立っていた私を押しのけてドアノブを掴んだ。


伊織「でも、私は逃げないわ。男だろうと女だろうと、どんな奴が相手でもね」

もう彼女は、私の顔を見てくれなかった。



伊織「それじゃあ」

伊織「さようなら、体に気をつけてね」



————

——

区切りが良いので今回はここまでです。

続きはトラブルが無ければ、金曜日、っていうか今日の20時から始めます。
次回で最後まで投稿したいと思います。


あずささあああああん、誕生日に間に合わなくてごめんよおおぉぉおおおぉぉぉ


——

———2013年7月19日、あずさのアパート、PM08:21


あずさ「結局、何も言い返せなかったわね」


私はあの時の亜美ちゃん達の様な姿勢で床の上に座り、先程書いた竜宮時代のサインを見ていた。

金曜の夜の喧騒もこのアパートまでは届かない。一人ぼっちの私の部屋に
どこかの階に住んでいるおばあさんの見るテレビの音だけが聞こえていた。


馬鹿だった。ああなることは少し考えれば、予測できただろうに。


あずさ「伊織ちゃんにしてみれば、ずいぶん馬鹿にした話だもの」

伊織ちゃんはずっと竜宮のメインを張ってきたのだ。
彼女だって必死になって頑張ってきたに違いないのに




エンジェルスの頃から、私は自分をアイドル達の保護者の様に考えていた。
実際、社長からはその役目を期待されていたのだ。

だから私は、忙しすぎる日々に不安になる子を慰め、自分の扱いへの不満を聞いてあげ、
注目が高まるにつれてプレッシャーに潰されそうになっている子を励まし、奮い立たせた。

時には勉強を見てあげ、少々個人的な相談にものってあげた。
自分の不安を押し隠して、先頭に立ってエンジェルスを引っ張ってきた。


あの子達の力になれるのは嬉しかったし、皆自分の姉の様に慕ってくれた。
竜宮でもその考えは抜けてなかったのだろう。


あずさ「本当は、みんな、もう自分の足で立っていたのに、ね」


伊織ちゃんだけじゃない。亜美ちゃんだって、律子さんだって立場の違いこそあれど、
私を平等な仲間として扱い、共にユニットの責任を分かち合っていたのに。

そんな彼女達を一言の相談もなく飛び越して、
突然社長の口を借りて、上から目線で迷惑になりたくないからやめるだなんて。


あずさ「嫌な女ね」




私の引退が、どの段階でアイドル達に伝えられたか知らない。
竜宮の三人を除けば、真美ちゃんだけは聞いていただろう。
あの日以来、765プロのドアを開ける事はなかった。

アイドル達に余計な不安を与えたくないという社長の配慮から、引退に必要な手続きは全て外部で行った。
それらが全て済んだ後で、音無さんが私物を前のアパートに送ってくれて、私は完全に部外者となった。


両親に引退した事を伝えると私は実家に呼び戻された。

アイドル業にあまり賛成していなかった父と母は、
今までにない位に心配し、身の回りの世話を焼いてくれた。
父は知り合いのやっている会社に私を紹介し、そこが私の勤め先となった。



『 竜宮小町 』か、もしくは765プロダクションが、いつ、どの様な声明を出したか知らない。
関係メディアはIA大賞の話題一色で、私の引退が報じられる事はなかった。


去年の夏、家電量販店の展示品のテレビに、偶然、歌っている伊織ちゃんを見つけた。
彼女は一人で歌い、トークの中でも竜宮の名が出ることはなかった。

これでよかったんだ、と思った。

私は間違ってなかった、と




引退の手続きを終えたその日から、現役時代はひっきりなしに着信が入っていた私の携帯に
765プロダクションの人間から連絡が来ることはなかった。


ただ一人、引退した真ちゃんを除いては。

二人で会うようになってしばらくして彼女が番号とアドレスを変えたので、
私もそれに倣った。


なぜその時まで変えようとしなかったのか。
連絡が来ないように祈りつつも、繋がりが切れるのが怖かったのか。
それとも、誰かが電話してくれるのを待っていたのか。

何度も変えようと思ったのに。着信がある度、心のどこかで期待して——


でも、その真ちゃんもあれから一言も言ってこない。

私はまた、一人ぼっちだ




『一人ぼっち?』

———違うとでも?





『あずさにはあの男の人がいるよ?』

———やめて



『なんでダメなの?あの人、すこし退屈だけど、きっといい人だよ?』

———そんなこと、あなたに言われなくても知ってる



『わかんないなあ、だったらなんで、大して楽しくないお食事やおしゃべりに付き合ったり』

———違う。A馬さんと過ごす時間は安心できる楽しいものだった



『何度も会って気を持たせるような真似したの?一人がヤだからじゃなかったの?』

———あなたに、何がわかるっていうの




『なんでも、知ってるよ。あずさの知ってることは全部』

———だったら、わかるはず。A馬さんは優しくて、礼儀正しくて、
     今時珍しい位、善良な人。まっとうな人



『でも、あずさがお金払わせてくれないって、お会計の時いつも拗ねてるよ?』

———だから、どうしたっていうの?彼に下心なんてない



『ふ〜ん。そんなに信頼してるんなら、素直に甘えたらいいって思うな』

———それは私が対等でいたいから



『あはっ、対等?下手なウソつかないで欲しいなあ』

———笑わないで!





あなたみたいに、ニコニコ笑ってさえいれば、
何でも与えられてきたような女に何が分かるっていうの!?


私だって、頑張ってきたのに!

頑張って、来る日も来る日もレッスンに明け暮れて
まだ頼りなかったエンジェルスを引っ張ってきたのに!

私には何も残らなかった!

私は黙ってあの人の言うことを聞いて必死に走ってきたのに!

あの人は、あの頃は、私に何も残してくれなかった!真ちゃんだって私を置いて行ってしまった!



『でこちゃんが言ってたよね?あずさは弱虫だって』

私は一人なのよ!あなたとは違うの!
一人で生きていかなければならないの!
いくらいい人だとわかっていても、簡単に弱い自分なんて見せられないの!

あなたは、あなた達は今でも守られてるじゃない!?
仲間達に、高木社長や音無さんに、あの人に!




『あずさだって、お父さんもお母さんもいるのに、ちょっとひどすぎるの』

———でも、いつかは行ってしまう



『じゃあ、やっぱり、あの優しくて退屈な人に頼るしかないよね』

———そんな言い方しないで



『さっ、今から電話するのー!一人は寂しいです〜、って言えば飛んでくるよ』

———うるさい!




『あはっ、そうだよね。怒るよね』


『だってあずさ、ミキ達のライブで、あのつまんない人じゃダメだってわかっちゃったもんね』


『ううん、本当はさ、もっとずーっとずーっと前からわかってたよね?』

『あの人、何も悪いことしてないのになあ、かわいそうなの』


脳裏に二週間前のあの夜がよみがえる


————

——




——


響「みんなー!今日は自分達、いきなりお邪魔しちゃってゴメンなー!」

新曲の初披露が終わり、地響きの様な歓声を受けて響ちゃんが新宿駅前の人々に語り始めた。
七月の夜に相応しい、ラップを織り交ぜた軽快なナンバーだった。

歌っている時は随分と大人っぽくなったと思ったが、こうして喋ってるとそこまで変わってない。
他の二人同様、背もあまり伸びてないようだ。


———2013年7月5日、新宿駅東口前 PM08:30


A馬「すごい歓声ですね。人気者なわけだ」

大勢の警官とスタッフを隔てて、さらに多くの聴衆が
大型トラックのボディを利用した特設ステージを黄色い声を上げて取り囲んでいる。
歌っている最中にも次々と人が集まってきた。駅前の広場は一杯だ。

私達は交差点を引き返してその様子を遠巻きに眺めていた。


貴音「皆様、本日もお勤め、大変御疲れ様でした」

街頭ビジョンの中の貴音ちゃんが深々と頭を下げる。
いや、頭上の街頭ビジョンだけじゃない。
ステージの後ろに一台、さらに左右にそれぞれ二台ずつ、
これだけ離れていてもはっきとり顔がわかるくらいの超大型の液晶ディスプレイが
三人を中心に曲線を描くように設置されている。

随分お金がかかっただろう。警備の数も尋常ではない。
道路も二つの車線で交通規制をかけている。

デビューして二年、『 Lucinda 』はここまで大きくなったのか




美希「これからお仕事がある人も、みんな頑張って欲しいのー!」

しばらく掛け合いが続き、三人が何か言う度に
怒号の様な歓声が応え、その声はますます巨大になってゆく。
彼女達は聴衆を煽る天性の才能を備えていた。


美希「んと、それじゃあ、最後の曲いくねっ!最後っていっても二曲目なんだけど」

まるで打ち合わせたかの様に、一様な哀願の叫びが上がった。
よかった、これで帰れる。



響「次の曲は皆も知ってるぞ!完璧な自分達が歌う、完璧な自分達への応援歌さー!」


貴音「今宵の出会い、そしてこの歌が、皆様の心に届きますよう」


美希「ミキたちのこと、これからも応援してねっ」


貴音「では、お聴きください。『 Lucinda 』より皆様へ……」




響 貴音 美希『 MEGARE! 』




響 貴音 美希『 私だけができるスマイル めちゃめちゃ魅力でしょ? 』


これも知らない曲だった。



響 貴音 美希『 私だけのとっておきポーズ ドッキリ&セクシー? 』


当たり前だ。私はある時からテレビも見なくなったし、音楽も聴かなくなった。



響 貴音 美希『 私だけが持っているボイス 届いているのかな? 』


お店や街で765プロの皆の歌声が聞こえてきても、無視するようにしていた。



響 貴音 美希『 私だけのパフォーマンス 感動させられるかな? 』


なのに、偶然とはいえこんな場所で聴かされるとは。



響 貴音 美希『 めざせアイドルNo.1 がんばるよ 』


私は逃げたいのに、どこまで追ってくるのか。



そう心の中で毒づいて、頭上の光溢れる画面に視線を向けると

———途端に、目が離せなくなった




そこに、あの人がいた。


にくらしい、私のあの人が。

ほんの数秒だけど、ステージの下手側でスタッフと一緒に映っていた。


液晶の光越しに目が合った。

そんなはずない。けど、あの人は私を見ていた。


お願い、もう一度映してください。

私は、見たいんです。確かめたいんです。

もう一度。

私のプロデューサーだった、あの人を。




A馬「三浦さん!危ないですよ!」




A馬さんの力強い手に掴まれて、車道から引き離された。

A馬「急にふらふら、あの子達の方に歩いて行くんですから。こっちの車線は車が来ますよ」

A馬「一体どうしたんですか?……三浦さん?」


私は答えられなかった。
泣いてる顔を見られたくなかった。

頭ではわかっていても、何でもないふりができなかった。
震える肩を、止められなかった。


A馬さんは、少しためらった後、私の肩を抱いて
何も言わず駅の方へ連れて行ってくれた


————

——




——

———2013年7月19日、あずさのアパート、PM08:35


さぞかし、バツの悪い思いをしたことだろう。

私はそのまま泣き続け、改札で頭を下げてあの日は別れた。
どうしても涙を止められず、声を出さないようにするだけで精一杯だった。

A馬さんはあれから何回か、遠慮がちな、真面目な人柄がうかがえる文面のメールを送ってきた。
直接的な事柄には触れずとも、心配してくれているのがよくわかるような、誠実な内容だった。


そのA馬さんも、真ちゃんと音無さんと会った先週の金曜から音沙汰がない




あずさ「嫌われちゃったかしら」

でも、その方がいいのだ。あの人が好きなのは、こんな嫌な女じゃない。

——嫌な女。自分でもそう思う



都合のいい時だけ、彼の優しさに甘えた。
その優しさに慰められたくせに、音無さんの問題が持ち上がった途端、
そんな場合じゃないとA馬さんを邪険に扱った。

散々気を持たせたあげく、弱みを見せてしまったことに耐えられなくなって逃げ出した。


——嫌な女




自分を碌に売り込みもしなかったくせに、
友美の結婚式に仕事抜きで動いてくれた事をせめてもの思い出にしよう、と
格好つけて、あの人から逃げた。


竜宮に入る時も引退する時も、
あの人にも仲間達にも自分の気持ちを明かさず、
ただ、絶対的な権威者の意見を求めて、高木社長の盾に隠れた。


自分で業界から逃げ出したくせに、誰も私に気付いてくれないと憤り、
引退報道がされないのを美希ちゃん達のせいにして逆恨みした。


真面目に働いてる経理課の人達を、二人の優しさに守られていたくせに
元アイドルの自分とは違う人間として線引きしていた。


私のアドバイスでどんどん女らしくなる真ちゃんを、アイドル『 菊地真 』と比べていた。
あんなに自分を慕ってくれていた彼女が、
普通の、物足りない、つまらない女になってゆく事に心のどこかで安心感を得ていた。


私を大事にしてくれた律子さんや、優しい、何も知らないA馬さんを、
事ある毎に心の中でプロデューサーさんと比較して、
その善良な性質すら『あの人とは違う』とケチをつけた。


——嫌な女




——ほら、また泣き出した

誰も傍にいないのに、涙なんて流してどうする気?


どうせ泣くなら、あの人の前で泣けばよかったのに




あの日、偶然見つけてしまった、街頭ビジョンの中の、あの人。

アイドル達は見かけても、あの人の顔を見る機会なんてもうないと思っていたのに。



なんで?

なんで私の前にまた現れたの?

たった一瞬、それだけで引退してから積み上げてきたものを全部奪っていった。

私はもう平気だと思っていたのに。未練なんて吹っ切ったと思えていたのに。

必死にそう、自分に言い聞かせてきたのに。



私はあなたのことなんて、好きじゃないのに。

最初は私の意思と生活を奪って。

その次は美希ちゃん達と一緒になって、私の手から
大事なものになりかけていた『 竜宮小町 』を取り上げた。

今度は突然待ち伏せて、私の自信と私に優しい言葉をくれる人を奪った。
そんなもの、私には一言だってくれなかったくせに




私は知ってしまった。


『 765エンジェルス 』として過ごした一年をどんなに恋しがっているか。


『 Lucinda 』がデビューする前、『 竜宮小町 』として
溢れんばかりの声援を受けてステージに立っていたあの頃に、どんなに未練を感じているか。


艶やかな衣装をまとって、光の中で歌っていた、
アイドル『 三浦あずさ 』にどれほど戻りたいと思っているか。


たるき亭の3階にあった、あの小さな芸能プロダクションが、
事務所の窓一面にテープで描かれた『 765 』の文字が、
共に走ってきた仲間達と楽しむ何気ない会話が、私にとってどれだけ大切なものだったか。


あの人が、この一年半目を背け、心の中で押し殺してきた感情を、たった一瞬で教えてくれた。

全てを失ってから、かつて手にしていた宝の価値を、知ってしまった




馬鹿だ。

これだけ後悔していながら、まだ自分を誤魔化している。



あの人でも、美希ちゃんでもない。



私に手を下したのは、私自身だ。



私を見てくれないと拗ねて、
思い通りにいかないと駄々をこねて、手を離してしまった。

卑小なプライドが傷付くのを恐れて、何も言わなかった。
どこかで聞いたような理由を拵えあげて、綺麗事を並べて自分を誤魔化して、戦うことをあきらめてしまった




馬鹿だ。

本当に馬鹿だ。


時間が戻せるなら、もっと早く気付いていれば。

何もかも失ってしまった。

全て思い出になってしまった。


『ねえ、本当はわかっていたんでしょう?』

『だったら、思い出だけで生きて行きなさいよ。選んだのは私なのよ』



涙が止まらなかった。
声を上げて、誰もいないアパートの床に突っ伏して、子供みたいに泣き喚いた。

時間は戻らない、そんな当たり前のことがいまさらになってわかるなんて。


私は子供だ。皆のお姉さんが聞いてあきれる。

ただ体だけ大きくなった、何もできない子供。
おもちゃを返してと泣き喚くしか能のない、嫌な、歳を取った、馬鹿な子供




どれくらい泣き続けただろう。

泣き疲れた私は、目を腫らして床に寝転び、涙に歪んだ天井を眺めていた。


七月も半ばを過ぎた金曜日の夜、武蔵野の住宅街はいつになく静かだった。

気を利かせたのか、それとも眠ってしまったのか、
さっきまで聞こえていたテレビの音も今はしない。
人の声はおろか、車の音一つ、私の部屋に届かない。



あずさ「今日は誕生日だったのよね」

テーブルの上に、貰ったペンが載っているはずだが、この体勢では見えない。


あんな高価そうな物まで頂いて、どうしたらいいんだろう。
明日、どんな顔をしてあの二人に会えばいいんだろう。

昼間見た、善良さを絵に描いたような、年取った経理課の二人の顔が浮かぶ。
A馬さんだけじゃない。私みたいな嫌な人間の周りに、どうしてあんなにいい人達がいるのか不思議だった。

あの二人が、もっと意地悪な人間だったら良かったのに。




あずさ「とりあえず、ペンは片付けましょう。明日、もう一度お礼を言わなきゃ」

散々泣いた、顔も洗わなきゃいけない。

そう思って身体を起こした時、テーブルの上の携帯電話がけたたましい音で着信を告げた。





音無さんからだった。


———2013年7月19日、東京都武蔵野市内のあずさのアパート、PM09:02——




小鳥「あ!あずささん!私です、小鳥です!今、ちょーっとお時間いいですか?」

とても話す気分ではなかったけど、強がって「大丈夫です」とだけ答えた。
泣いてる時にかかって来なくてよかった。音無さんには弱みを見せたくない。


小鳥「私、今も事務所なんですけど。あ、新しくなった方です」

小鳥「あずささん、私の愚痴、聞いてもらえませんか?」

あずさ「どうかなさったんですか?」

小鳥「いやー、ここ数ヶ月というもの、9時とか10時過ぎないと帰れない日ばっかりで」



でも、楽しいんでしょう?そっちの世界は




小鳥「何なんですかねー?事務所が大きくなって、仕事も増えたって言うのに人手が全然足りなくてー」


小鳥「もちろんスタッフの公募は出してるんですよ?
   でも、社長ってば『なかなか、ティン!と来る人材がいなくてね』とか言っちゃって」

小鳥「結局、経理ができる人を一人正規で雇って、後はパートの人に数人来てもらってる程度なんですよ」


小鳥「皆さん、会社勤めの経験があるので書類仕事はできるんですけど、
   最終的なチェックや重要な物はぜーんぶ私のとこに来ちゃって」

小鳥「しかも、その合間にアイドルの送迎もやらなきゃいけなくて、
   だから昼間は現場にいることが多いんです」

小鳥「こういう仕事なので、信頼できる人間が付き添い役をするってのは重々承知なんですけど!ど!」



小鳥「昼は売れっ子アイドルの敏腕エージェント!夜は会社の残務処理!
   二つの顔を持つ女!音無小鳥、夜を往く!これでギャラはおんなじ!」

小鳥「なんちゃって!なんちゃって!」

まさか、職場で呑んでないですよね?



小鳥「それに新しい人達、みーんな女性なんですよ〜!もうゼンッゼン出会いがなくて〜!
   うう…、田園調布に小さな白い家を建てるのはいつになるのかしら……」

だんだん不安になってきた




小鳥「律子さんだって、昼間は現場を駆け回ってるのに、人には任せられないって
   夜は夜で遅くまで仕事してて。今では一人前の、立派なプロデューサーです!」

律子さんは今も頑張ってるのね。良かった。



小鳥「アタシも文句言えないんです。いいって言ってるのに、アイドル達も手伝ってくれて。
   しかも、もう結構仕事覚えちゃって。…やっぱり若いと吸収が早いんですね〜」



『ピヨちゃーん、会議の資料と水泳大会の企画書、コピって閉じ終わったよーん。あ』ゴメン、デンワチュウダッタネ

『うっうー!小鳥さん、ファン投票企画のまとめ、終わりましたー!』ダメダヨ、ヤヨイッチ アッ、シツレイシマシタ



真美ちゃんにやよいちゃん。懐かしい声。二人とも元気そう




小鳥「別に大丈夫よ、真美ちゃん、やよいちゃん。楽にしてて」

小鳥「こんな風に遅くまで手伝ってくれるんですよー。…ファンや労働局に知られたらヤバイですけど」

私に事務員にならないかとでも言うつもりなのだろうか?


小鳥「社長も口じゃあ、そんなことしないでいいって言ってるんですけどねー」

『真美ー!亜美だけに運ばせないでよー!紙ってケッコー重いんだよー!』

『はっはっはー、これが人を統べる才というものだよ、亜美くん』


亜美ちゃん。わがまま言ってごめんなさい。



小鳥「実際のところ、人使いは荒いんですよねー。『我が事務所は少数精鋭だからね』とか言って」

あの人もそうだった。仕事は全部、自分で把握してないと気がすまない人だった。
いつも現場を走り回って、夜は遅くまで事務所に残っていた。



小鳥「プロデューサーさんもそうですけどね。あの人、仕事人間だから」

音無さんの口から初めてあの人の話が出た。
この前会った時は、おくびにも出さなかったのに




小鳥「ぶっちゃけ、プロデューサーさんも大概ですよねー。遠慮がないっていうか。
   たしか、ウチに来て二日目で、みんなを三時間も踊らせたんですよね」


小鳥「それからはもう、よくご存知だと思いますけど」

小鳥「私も、あの時は目の回るような思いでしたよ」

何かを感じたのか、それまで音無さんの声の向こうから
絶え間なく聞こえていた三人のお喋りがふいに途絶えた。



小鳥「どうなんですかねー。『 765エンジェルス 』の時代と、今と。
   あの頃は、私もみんなも必死だったけど、忙しさでいったらあんまり変わってないんですよねー」

小鳥「どの子も、安定していい仕事が取れるようになったんだし、もっと楽になっていい筈なんですけどね」



小鳥「結局この業界、走り続けるしかないんですかねー」

小鳥「……ひょっとしてウチが超絶ブラックなだけとか?」

私は何も言わず、音無さんだけが喋っていた。
彼女の可愛らしいおどけた声が、やけに澄んで聞こえた




小鳥「話を戻しますけどね、最近のプロデューサーさん、ひどいんですよ〜」


小鳥「あれしろこれしろって、もう私の上司みたいに。いや、言葉遣いも態度も丁寧なんですけどね」

あずさ「まあ、そうなんですか〜」


声を高めないよう、精一杯の無関心を装った。
この期に及んでこんな感情を持つなんて、呆れちゃうわね。





『ただ今戻りましたー。あ゛ー、疲れたー』 

『何よ、年寄りくさいわね。やよい、悪いけどコーヒーいれてくれる?』

『あっ、二人ともお帰りなさい。あの、今は…』


危うく出そうになった嗚咽を必死に堪えた。
早く電話を切らなければ。この二人には会わせる顔がない





『あ、電話中でしたね。失礼しました』

小鳥「律子さん、伊織ちゃん、お帰りなさい。いいわよ、普通に話してて」


『一体何だってのよ』

『いおりん、とにかく今は…』


小鳥「そう、そうなんですよ!あの人、他人の時間なんて、なーんとも思ってないんでしょうね」

それは否定できない。何もかも自分の思い通りにして、他人の思いなんか顧みないあの人。

あの人の優しさや思いやりなんて、他人を操る為の道具だ。
そのくせ、本人はその気持ちを信じているから性質が悪い。



小鳥「まあ、プロデューサーさんが一番働いてますし、響ちゃん達をここまでにした人ですから、
   文句なんか言えないんですけど、物には限度があるっていうか」

違う。

彼女達を育てあげたのは黒井社長だし、三人ともあれだけの才能の持ち主だ。
どこにいたって、遅かれ早かれ頭角を現していたはず。あの人は何もしてない。


あの人なんか




小鳥「最近はオフの時間も、あれこれやることが多くて、全然自分のものじゃないって感じで」

小鳥「アタシの自由は帰りに呑みに行くことと、寝ることと夢を見ることしか許されない!みたいな」

小鳥「あっ!この前はありがとうございました!また行きましょうね!」

あずさ「はい〜、是非、行きましょう」


自分を呪いたくなるくらい、不自然な声を出してしまった。
この先二人で会う事があっても、あの日の様な楽しい時間は訪れないだろう。


あの時間は、あの夜だけにかけられた魔法だったのだ。
引退してもまっすぐなままだった真ちゃんが見せてくれた、一夜限りの魔法。


私はもう、自分を誤魔化せない。




小鳥「そうそう、そういえば、あの時会った会社員の方。
   え〜っと、言い寄ってきた二人の上司っぽい人ですけど」

小鳥「 Lucinda のゲリラライブの時、一緒にいたのもあの人ですか?」




突然の不意打ちに頭が真っ白になった。



迂闊だった。
あんなに離れて、眼鏡までして髪も伸びていたのに、三人に見られてしまったのか


いや、私を見つけたのは美希ちゃんだ。美希ちゃんは私をよく知っている。
一生、あの子から逃げられないんだ。



惨めな気持ちで一杯だった。
今を時めく超人気アイドルと、既に自分のものでない艶やかな世界を
コソコソ隠れて未練がましく眺める、卑しい女。



あずさ「美希ちゃんが、私を見つけたんですね」


自嘲的な気分で訊ねた。今すぐ何もかも笑い飛ばしてしまいたかった。
笑って笑って、そうして返事を待たずに電話を切れればどんなにいいか。





小鳥「いいえ、美希ちゃんじゃありません」


小鳥「貴女を見つけたのはプロデューサーさんです」




小鳥「ライブの後でプロデューサーさんが事務所に戻ってきたと思ったら、
   『真とあずささんの様子を調べてきて下さい』って笑顔でいきなり言ってきまして」

『ちょっと!!誰と話してるの!?』

『伊織!今は静かに!』


小鳥「現在の容姿、体調、恋人の有無、大学や職場での様子、精神状態ってリストまで作りだして、
   私はスパイじゃありません!って言ったんですけど、ああいう人ですから」


小鳥「アタシも頭に来ちゃいまして。引退してから今まで何もしなかったのに、何言ってんだかって」

小鳥「だから、お二人にはお会いしたけど何も聞きませんでした。黙っててごめんなさい」




小鳥「えっと、深い関係の彼氏がいないってのは、女の勘でわかっちゃいましたけどね」

小鳥「お二人とも綺麗になってたけど、負のオーラ出ちゃってましたし」

小鳥「なーんて、本当は指輪してなかったなーってだけですけど」


小鳥「ほら、久し振りに女友達に会うのに、彼氏がいながら
   指輪してこないって有り得ないですよ……多分」

小鳥「それにアタシだったら、彼氏がそういうの買ってくれなくても、
   自分で買ってしていきます!それで自慢します!」




『黙って聞いてれば、何バカ言ってんのよ!携帯寄こしなさい!』

小鳥「ごめんなさい、伊織ちゃん。今だけは我慢してちょうだい」



小鳥「あの日会った真面目そうな男の人も違いますよね?
   答えなくていいです。違うってわかってますから」

小鳥「プロデューサーさん、あずささんが男性と一緒にいるのを見つけたそうです。
   声をかけようと思ったけど人ごみに紛れちゃって、ステージを離れるわけにもいかなくて」



小鳥「私、一応言ったんです、見間違いじゃないかって」

小鳥「そしたら、『俺があずささんを見間違うわけないでしょう』って…」


小鳥「こんなの、卑怯ですよね」




音無さんが、小さく深呼吸した。


小鳥「あずささん、実は私、もう一つ謝らなきゃいけないことがあるんです」


小鳥「私、あずささんの気持ち、気付いてました。アイドル業に対しても、もう一つに対しても」

小鳥「それまでも、何となくは感じてたんですけどね、ほら、あの時ですよ。
   あずささんがプロデューサーさんの横っ面を引っ叩いた、あの日です」



小鳥「あの後大変だったそうですよ。黒井社長はあずささんの迫力にびびって帰ったんですけど」

小鳥「私達が皆、あずささんの方に行っちゃったから、女の子が誰もいなくて
   鼻と口から、だっらだら血を流すあの人を、高木社長が慣れない手付きで手当てしたとか」



小鳥「まあ、悪い事した罰ですよね。二人でならいいですけど、美希ちゃんまで使って」


小鳥「とにかく、私気付いちゃったんです。こりゃダメダって」




小鳥「あずささん、あの時手を上げたのって、引き抜きや『電話』のサインに怒ったからじゃないですよね?
   あ、これも答えなくていいです。だから、そのまま切らずに聞いてください」



小鳥「私、あずささんがあの日から引退を考えていたのを知っていながら、
   何もしませんでした。何も言いませんでした」


小鳥「疲れきるまで一生懸命に走ってきた人を無理やり立たせて、
   その上また走らせるなんて、そんな資格、特に私にはないですから」



小鳥「引退してからも、お二人のことがずっと気にかかっていたのに、
   忙しさにかまけて自分を誤魔化していました」

小鳥「そのくせ、ずっと心の中でプロデューサーさんを非難していました。
   あなたがちゃんとフォローしてあげてれば、こんな事にはならなかったんですよ、って」

小鳥「あずささんはちょっと事情が複雑ですけど、真ちゃんはずっと担当だったんだから、
   それがお仕事でしょう?って」




小鳥「詭弁ですよね。自分だって何もしなかったくせに」



小鳥「そう思うなら、引退してからだって自分で動けばよかったんです。でも、できなかった」


小鳥「律子さんに知らせることだってできたんです。お話を聞くだけでもよかったんです」


小鳥「何でもよかったんです。だって、私はアイドルじゃないんですから。
   私には弱みを見せてもいいんだって、言ってあげればよかったんです」


沈黙が続き、音無さんの気配の後ろから、女の子達のすすり泣く声が聞こえた




小鳥「私は後悔していました」


小鳥「お二人の話だけじゃありません。自分がとうの昔に走るのをあきらめ、
   何事につけ勇気を出すのをやめてしまったことを、ずっと、後悔しながら生きてきました」



小鳥「だめですよねー。こういうのは癖になるっていうか。
   自分を誤魔化すのに慣れて、見たいものしか見なくなっちゃうんですよ」

小鳥「だから私は、絶対に攻撃されない場所からプロデューサーさんを罵って、
   お二人の引退を全てあの人のせいにして、こんな人に担当されるなら引退したままの方がいい、って」




小鳥「それなのに平気な顔で、男と一緒にいるのを見たから調べて来い、って言うんですよー。
   あの人の辞書には、責任感って項目が印刷ミスかなんかで載ってないんですかねー」

何も言えなかったけど、音無さんの笑い声につられて、泣きながら笑ってしまった。



小鳥「私も安心したかったんです。自分の判断は間違ってなかったって、
   それを確かめようって。だからお二人に連絡を取りました」




小鳥「だけど、真ちゃんに会って、そんな甘い考えは見事に吹き飛んでしまいました」



小鳥「あの子はやっぱり真面目なんですね。最初はジュピターに鞍替えしたファンを
   責めていたんでしょうけど、そのうちに逃げ出した自分を責めるようになって」

小鳥「そうやって自分を責め続けて、何に対しても自信が無くなっていったんでしょう。
   なんてことない普通のナンパに怯えて何も言えなくなるくらい」



小鳥「あずささんにファッションを教わった、って言ってましたけど、
   あの女性らしい服装は自分への罰なんでしょうね」

小鳥「本来望んでいたアイドル像ではないにしても、ダンスに対して真っ向から向き合い、
   ステージに上がる度ファンの期待に答えてきた『 菊地真 』から逃げてしまった自分への」




小鳥「全部、推測ですけどね。でも、きっとトレーニングも一切やめていたと思います」

小鳥「気楽にふるまえるのは、きっと、あずささんの前だけだったんじゃないですかね」



小鳥「やっぱり王子様ですね。不器用で、どこまでもまっすぐで」




小鳥「だけど、真ちゃんに会って、そんな甘い考えは見事に吹き飛んでしまいました」



小鳥「あの子はやっぱり真面目なんですね。最初は冬馬くんに鞍替えしたファンを
   責めていたんでしょうけど、そのうちに逃げ出した自分を責めるようになって」

小鳥「そうやって自分を責め続けて、何に対しても自信が無くなっていったんでしょう。
   なんてことない普通のナンパに怯えて何も言えなくなるくらい」



小鳥「あずささんにファッションを教わった、って言ってましたけど、
   あの女性らしい服装は自分への罰なんでしょうね」

小鳥「本来望んでいたアイドル像ではないにしても、ダンスに対して真っ向から向き合い、
   ステージに上がる度ファンの期待に答えてきた『 菊地真 』から逃げてしまった自分への」




小鳥「全部、推測ですけどね。でも、きっとトレーニングも一切やめていたと思います」

小鳥「気楽にふるまえるのは、きっと、あずささんの前だけだったんじゃないですかね」



小鳥「やっぱり王子様ですね。不器用で、どこまでもまっすぐで」




小鳥「でもあの日、真ちゃんは彼女なりの勇気を出しました」


小鳥「もう踊れなかったかもしれないのに、足を挫くことよりも
   もっと惨めな結果に終わるかもしれなかったのに、一曲踊りきりました」



小鳥「私達とは違います」




小鳥「あれ以来、真ちゃんとは連絡を取っていません。
   彼女の気持ちも聞いてませんし、今何をしているかも知りません」

小鳥「でも、私達の前で踊ったこと、後悔してないと思います」



小鳥「あずささん、私も真ちゃんを見習いたいと思います」



小鳥「といっても、別に大したことじゃありません」

小鳥「765プロの内部情報を、外部の人間にもらしちゃおうかなーって、あはっ」




音無さんの一言で、今までの静寂が嘘のような騒ぎが起こった。


『ちょっ!?小鳥さん!いきなり何言い出すんですか!?』

『うー!そういうのは勇気って言いませーん!』


小鳥「まあまあ、いいじゃないですか。古人曰く『善は急げ』ですよっ」

『何都合のいい解釈してんのよ!古人に謝りなさいよ!』


小鳥「 もう あんまり時間ナーイ♪ 」

『 ならBまでオンザビーチ! 』

『真美まで何言ってんのさー!ズンズンしてる場合じゃないっしょー!』



携帯の向こうで、私のことなど忘れてしまったかのような、やり取りが続いた。
私は今までの会話を一時忘れて、懐かしい気持ちで聞き入っていた




小鳥「いやいや、冗談じゃなくてあんまり時間がないのよ」

音無さんが電話口に戻ってきた。


小鳥「あずささん、私、お二人と会ったこと、まだプロデューサーさんに報告していません。
   言われたことは調べてないし、何というか、シャクですから」

小鳥「最終的にはあの人の考える通りになるのかもしれません。でも、私達は
   生きた人間ですから、いつも思い通りにはならないって学習させてあげましょう」



小鳥「明日の雪歩ちゃんのラジオに春香ちゃんも出るんですけど、
   その収録が9時40分に終わります。後15分程ですね」

小鳥「予定では、その後であの人が二人をここに連れてくることになっています。
   今日は打合せがない日ですので、挨拶だけしてすぐラジオ局を出ると思います」

小鳥「それで事務所に着くのが、早くて10時20分過ぎ、ここを閉めるのが11時位ですかねー。
   社長はいないので、私と律子さんと三人で手分けして皆を送って、今日の仕事は終わりです」



小鳥「この電話を切ったら事務所の住所と地図をそちらの携帯に送ります。
   あ、これは公開してる情報ですからね!」

小鳥「あずささんのアパートからなら、渋滞に巻き込まれないでー、タクシーで40分程ですかね」



小鳥「以上で私の内部告発は終わりです。ご清聴ありがとうございました」


小鳥「あずささん、迷っている時間はそうありませんよ」




あずさ「私が今でも復帰したがっていると?」

声に棘を含ませ、心にもない強がりを言った。

さっきまであんなに泣き喚いて焦がれるように望んでいたチャンスが、
突然目の前に現実の物となって差し出された事が私の態度を硬化させた。

私は、ただ泣いてみたかっただけなのか?


小鳥「あずささん次第です」

音無さんは動じなかった。



あずさ「あの人が私を復帰させようとしてるなんて、本当にお思いなんですか?」

小鳥「はい。あの時はそうだったと信じています。そうでなければ調べて来いなんて言いませんよ」

あずさ「あんな、人の気持ちが分からないプロデューサーの下で、
    私がまた働きたいと思うなんて、どうしてそんな風に考えられるんですか?」

この弱虫。



小鳥「そうですね、私なら絶対に嫌です。ひょっとしたら私の言ったことは、
   何もかも間違ってるかもしれません」

そうです。大きなお世話です



小鳥「それでも、私は住所と地図をメールします。余計なお世話だと思われてもかまいません」

小鳥「勇気を出さなかったせいで後悔するのは、もう飽きましたから」




再び沈黙が続いた。壁掛け時計はすでに9時半を回っている。
時間がどんどん無くなっていくのに、私は電話を切れない。


早く、早く電話を切って考えなければいけないのに。
今このチャンスを逃したら、たとえプロデューサーさんの誘いでも受けるわけにはいかなくなる。
仲間達に軽蔑されて、あの場所で働けるはずがない。



小鳥「いいですか、切りますよ」

あずさ「待ってください!切らないで!私は決められません!」


涙と共に哀願の言葉がもれた。いつのまに私はこんなに弱くなってしまったの?




小鳥「駄目です!ご自分で決めてください!皆そうやってこの世界に踏みとどまったんですよ!」

小鳥「あずささん!お願いです!お願いですから切ってもいいと仰ってください!」


それまで余裕を保っていた音無さんの声が、急に震えを帯びてきた。
彼女も泣きたかったのかもしれない。




小鳥「いいですか?いいですね!?切りますよ!?あずささん、いいって言ってください!」

小鳥「何を怖がってるんです!?全部、貴女次第なんですよ!きゃあっ!!」

あずさ「音無さん!?待って!待ってください!お願い!まだ切らないで!」







伊織「いい加減にしなさいよ!!このバカ女!!」




あずさ「伊織ちゃん!あの、私、私」

伊織「そんなこと今いいわよ!言いたいことは山ほどあるけど、アンタは黙ってなさい!!」



伊織「引退している間、一体何考えてたの?あのバカが千早や響達を放りだして、
   自分を迎えに来てくれるとでも思ってたワケ!?」



伊織「そうね!確かに状況はそれにそっくりになってるわ!違いといえば、あのバカデューサーは
   『 Lucinda 』にも千早にも飽きてないし、そもそもアンタを見つけたのだって偶然の産物じゃない」

『伊織ちゃん!そんな言い方しちゃだめだよ!』



伊織「やよいは黙ってなさい!アンタ達、コイツに馬鹿にされてたのよ?
   エンジェルスでも竜宮でも仲間じゃなくて、保護者気取りで」

『伊織!そんなことあずささんは思ってないわ!私達はみんな仲間でしょう?』



伊織「私だってそう思いたかったわよ!でもコイツは違った!
   アイツや社長に言われた通りに、私達のお守りをしていただけ!」

『いおりん!』『いおりん!もうやめてよ!』




伊織「うっさいわね!私だって泣きたいわよ!でもそんな時間ないの!ああ!ややこしいったらないわね!」


伊織「いい?亜美も真美も泣いてるわ。やよいも律子もよ」

伊織「小鳥はさっきから顔を手で覆って、声を上げずに泣いてる。アンタのために動いたのにね!」

伊織「いきなり降って湧いたように現れたと思ったら、随分と私の仲間を泣かしてくれたわねえ」



伊織「この子達が、アンタや真のことでどんなに悲しんだか!二人の為にどれだけ辛い思いをしたか!」


伊織「連絡を取りたくても、アンタ達が好きだからなんて言っていいか分からなくて!」

伊織「いざ決心がついた時には、携帯もメールも通じなかった。その時のこの子達の気持ち、
   少しでも考えた事あるの?仲間だっていうなら残される方の気持ちくらい考えなさいよ!バカ!」



『そんなこといいよ!あずさお姉ちゃん!何でもいいから戻ってきて!もう会えないなんて嫌だよ!』

『あずささん!引退の責任は私にあります!竜宮じゃなくても、私の担当じゃなくてもいいから
 戻ってきてください!あずささんの歌がもう聴けないなんて嫌です!皆、貴女に会いたいんです!』


ごめんなさい。謝りたいのに言葉が出ない




伊織「聞いた?逃げだす以外、何一つ自分で決められなかった半端者が随分好かれてるわねえ?」

『いおりん!』『伊織ちゃん!やめてください!』



伊織「生活がかかっていなくたって、この子達は立派なアイドルよ!
   いくら比較されようが、売れない時期が続こうが自分の意思で踏みとどまってる!」

伊織「自分の時間をエンジェルスに捧げたのはアンタだけじゃない!勘違いしないで!!」



伊織ちゃんは一度言葉を切り、涙と怒りに乱れていた呼吸を整えた。



伊織「いい?時間が無いから要点だけ言うわ。これ以上話してるとまた脱線しちゃうし」


伊織「本当に私達の仲間になりたいなら、今日、今すぐここに来なさい」

伊織「もう9時40分ね。誰が何と言おうと私は11時にはここを出る。それがタイムリミット」

伊織「どんな事情があろうと、アンタがあのバカとどうなろうと、今日逃げたら私はアンタを一生軽蔑する」


伊織「ここに来て、初めてスタート。過去の話はそれから。覚悟があるなら来なさい」




伊織「それじゃあ、待ってるから」


電話が切れた




部屋着を脱いで、スーツに着替える。服を選ぶ時間も惜しい。
もうこんな思いはしたくない、とにかく急いで。


新しいストッキングの封を開け、脚を通す。伝線なんかしていたら目も当てられない。
早く、早く。



髪を整えているうちに音無さんからメールが届いた。
新しい事務所の所番地と地図が添えられている。

ここだ。たるき亭からそう遠くないビル街。
何度も迷子になったこの辺りのことなら、今でも手に取るようにわかる。



時計の針はもう50分近い所まで来ていた、時間がない。

私は携帯やら財布やら、机の上にある物を片っ端から仕事用の鞄に詰め込み、
化粧もせずに部屋を飛び出した




息が切れる、足が痛む。


何より身体が重い。

引退当初は続けていた基礎的なトレーニングもすぐにやめてしまった。
積み上げてきたものが崩れるのなんて、あっという間だ。


もっとヒールの低い靴を履くべきだった。いっそ、スニーカーでもよかったのに。

いまさら戻る時間はない。とにかく大通りまで出なければ。
そうすれば駅に向かう途中でタクシーが拾えるはずだ。


それまで、足を動かして




『ふーん、やっぱり行くんだ?』

———ええ、もう誰のことも嫌いになりたくないから



『一回逃げ出したくせに、よく行く気になったね?』

———そうね、我ながら厚かましいと思う



『プロデューサー、あずさを復帰させる気なんてないかもしれないの』

———音無さんがそう言ってくれたんだもの。甘えさせてもらうわ



『ねえ、もう間に合わないかもしれないよ?プロデューサーを待っていちゃだめなの?』

———それだけじゃ駄目なの。もう二度と伊織ちゃんや皆を失望させたくない



それに、あの人がどんな顔するか楽しみじゃない?



『あっ!タクシー来た!空車だよ!』




あずさ「渋谷駅ハチ公口の方に、急ぎでやってください。近くまで来たらまた説明します」

運転手「かしこまりました」


見るからに若そうな運転手さんは、私の顔をちらりと見ただけで何も言わずに車を出した。



こんな時間に、ほぼノーメイクの女が汗だくで乗り込んできたんだ。
変に思われても仕方ない。

運転席の時計を見ると、10時を回る寸前だった。
これで渋滞にさえ遭わなければ間に合うはず。



『すぐに拾えてよかったね』

———ええ、危ないところだった



『ほら、早くお化粧するの!大体の道具は鞄に入ってるよね?』

———そうね、あまりお行儀のいいことじゃないけど、そうも言ってられない



運転手さんに一言断って、化粧道具を取り出す。まずは汗を拭かないと




『プロデューサー、久しぶりにあずさに会ったらどんな顔するかな?』

———そうは言っても、この前私を見たそうよ?



『あの時はメガネだったし、あんなの本当のあずさじゃないの!』

———そうかしら?多分私は何も変わってないわ



『あんな身勝手な女、アイドルのあずさじゃないの!』

———いいえ、あれは私。馬鹿でわがままで、自分の事ばかりで、
    人の気持ちなんて考えもしない嫌な女



『また自虐?しつこいよ。もう飽きたの』

———本当よ。自分の見たいものだけ見て、何もかも自分の思い通りにならないと気がすまない



まるであの人みたいに




運転手「後5分程で渋谷駅です」


時計を見ると10時25分。余程急いでくれたらしい。
これなら間に合う。



『あずさとプロデューサーは、違う人間だと思うけどなあ』

———そうかもね。でも、私は765の皆みたいにいい人間じゃない。
     それなのに、プロデューサーさんが来た途端に格好つけて、自分を誤魔化した。


その姿を自分だと思い込んだ。だから苦しんだの。



『そんなかっこつけ女が、でこちゃんに会って大丈夫なの?』

———だから、やめるのよ。無駄に時間を過ごしただけで、私は何も変わらなかった。
     伊織ちゃんの目は誤魔化せないもの。


それに、ステージの外で格好つけたって、いいことないって学んだから





私が指示した道順に従って、タクシーが進む。
徐々に、見覚えのある景色が車窓を流れ始める。


今この大通りにいるなら、後5分もしないでたるき亭ビルの近くまで行けるだろう。
久しぶりに見た渋谷の街は金曜の夜らしく、人と車でいっぱいだった。

引退してからは、この近くに来ることすら避けていた。
一度決心してしまえば、こんなに簡単な事だったのに。




あずさ(この辺はあまり変わっていないのね)

現役の頃に何度か通った店を発見してそんな事を考えた時、違和感に気付いた。



さっきから景色が一向に流れていない。遅すぎる。


時計を見ると10時35分を回っていた




あずさ「すみません!さっきから車が進んでないみたいなんですけど」

運転手「事故があったようですね。交通規制がかかっています」

何故、こうなってしまうのか。ここまでトラブルなく来れたのに。


車を降りて走るべきか、私の足では11時に間に合わないかもしれない。


まただ、気が付くのが遅すぎた。
もっと早く気付いていれば間に合ったかもしれない。



携帯の液晶画面に映る地図と記憶の中の街を照らし合わせる。
新事務所の位置は大体分かっている。

でも、一度も行ったことがないのにちゃんと辿り着けるだろうか。
よりによってこの私が?




自嘲的な気分がこみ上げてくる。最後の最後で気を抜いた罰だと。



いけない、こんな事をしている場合ではない。
迷っている暇なんかない。

たとえ、間に合わなくても今は走るしかない。
待っている人が、こんな私でも待っていてくれる人がいるんだ。




今最善を尽くさなければ、私はここで終わってしまう。


あずさ「あの、私急いでるので、ここで降ります!」




運転手「ひょっとして、765プロダクションへ行かれるのですか?」




若い運転手さんの質問の、そのままの意味が理解できずに、
私は自分の置かれている立場も忘れてその顔を見つめてしまった。


運転手「失礼ですが『 三浦あずさ 』さんですよね?元『 765エンジェルス 』で元『 竜宮小町 』の」

あずさ「はい」


私はこの突然の状況についていけず、それだけ言うのが精一杯だった。




運転手「やっぱり!お乗せした時、そうじゃないかと思ったんです」



運転手「いやー、お会いできて光栄です!俺、いや、失礼しました。
    私、ネットで2010年のクリスマスライブを見てからずっとファンだったんです!」




運転手「それまでアイドルとか興味なかったんですけど、あずささんの歌声に、見事にハマっちゃって、
    あの伝説のライブも、竜宮になってからのも何度も見に行ったんですよ!」


運転手「だから、何のアナウンスもなく引退したと知った時は、超、いえ、とてもショックでした」

運転手「でも、こうして会えるなんてなーー!俺、この仕事やってて本当に良かったです!」



彼はそのまま、私の曲について、色々なことを話してくれた。
あのCDのこの曲が好き。あのライブはDVDを今でもよく観る。


運転手さんの、飾り気のない、とても嬉しそうな笑顔を見て、
一年半、いや、ひょっとしたら現役の頃から忘れていた感覚が、蘇った。


私はアイドルだったんだ




運転手「すみません。つい興奮してしまいました。お急ぎだったんですよね」


運転手さんの顔が不意に険しくなり、私も現実に帰った。
10時45分、でも、ひょっとして。


あずさ「はい、765プロに11時までに行かなければならないんです」

運転手「何ですって!?いえ、大丈夫です!やれます!間に合わせますよ!」



車は大通りを離れ、立ち並ぶビルの間を抜けて横道へ入った。


あずさ「あ、あの〜?場所、わかってます?新しい方ですよ」

運転手「大丈夫です!少しだけ歩きますけど、こういう時はこっちの方が近いんです!」

運転手「仕事柄、いつか役に立つかもって、行ってみたことがあるんです!」



運転手「今日がその日です!もちろん!安全運転ですよ!」


元アイドルとそのファンを乗せたタクシーは、
大通りとは対照的なくらい人通りのないビル街を飛ばしていった


————

——




——

———2013年7月19日、東京都渋谷区、PM10:48


運転手「あの一つだけ明かりが付いているビルが見えますか?あれが765プロです。
    ほら、窓に大きく、765の字があるでしょ?」


運転手「この細い道を抜けると道路を挟んで、別の会社の駐車場があります。
    そこを突っ切ったら、左に行くと公園があります」

運転手「中に入らずそのまま進み、外周を反対側の角まで回ってください。
    角まで来たら左折してしばらく歩くと、左に765プロの広い駐車場があります。ビルはその奥です」


運転手「女の人の足でも走れば3分とかからずに行けます。こんな場所で降ろしてすみません。
    車で行くと一通の道があって大回りする必要がある上に大通りに出なくてはいけないんです」


あずさ「ありがとうございます。何てお礼を言ったらいいか」

運転手「いいですよ。お礼なんてそんな!ただ、あの、良ければサインしていただけませんか?」


運転手さんはそう言って、ダッシュボードから一枚のCDを出してきた。


『 9:02pm 』私のデビュー曲だ




鞄の中を探すと、昼間貰ったあのペンが出てきた。


運転手「○○さんへって入れてくれると嬉しいです」

CDのライナーにサインを書く。
わからないものね、さっき何の気なしにした練習が役に立つなんて。


あずさ「はい、喜んで〜。あの、今日の事はしばらく内緒にしておいていただけませんか?」

運転手「はい!わかりました!サインありがとうございます!」

運転手「お急ぎのところをお引止めして申し訳ありません。あの、頑張ってください」


運転手「俺、今でも応援しています」


親切な運転手さんに一礼して、走り出した。
10時51分、まだ間に合う




『ノーメイクの顔、ファンに見られちゃったね』

———格好つけるのやめるって言った途端にこれだもの。いやになっちゃう



『別れる時はお化粧してたから、セーフ、かな?』

———そういうことにしておきましょう



『でこちゃんたち、待っててくれるかなあ?』

———11時までは、いてくれるはず



『帰っちゃってたらどうするの?』

———追いかければいいのよ



たくさんの、本当にたくさんの人達に助けてもらって
ここまで来れたんですもの、そう簡単に諦めないんだから




『そうだね』


『もう、大丈夫?』


———ええ、今までありがとう



『そっかあ、よかった』



『ばいばい、もう迷っちゃだめだよ?』



————

——



——


遡ること2X分前、東京都渋谷区、芸能事務所「765プロダクション」入り口前 PM10:30


律子「あずささん、来ませんね…」

伊織 亜美「………」

真美「兄ちゃん達も帰って来ないよ…。どうなってんのコレ…」


やよい「律子さーん」

律子「やよい、どうだった?」

やよい「だめです…、事務所の電話、着信も留守電もありませんでした」

律子「そう…、ありがとう」


真美「ピヨちゃん、ダイジョブ?震えてるよ?中に入ってなよ」

小鳥「ありがとう、真美ちゃん。私なら大丈夫よ」



気丈に振舞ったものの、私は自分の行いを激しく後悔していた。

私はあずささんを追い詰めてしまったのだろうか?
プロデューサーさんの先を越したりせずに、何もかも彼に任せていた方が良かったのではないか?




それでは駄目だ。声をかけられるのを待っていたのでは、引退する前と同じだ。


あずささんには、自分の意思で復帰の一歩を踏み出して欲しい。
あの夜の真ちゃんのように、彼女自身の力で。

本心からそう思っていた。あずささんは、私のようになって欲しくないと。


けど、こうして自分のやった事の結果を噛みしめていると、その確信が揺らいでくる。

静かに生きている彼女の人生に干渉する資格が、私にあったのか?
私は自分の姿を彼女に重ねていただけではないのか?



律子「全く!春香達だって、直帰するなら連絡くらい寄こせばいいのに!」

不安で口数が多くなっている律子さんとは対照的に、
伊織ちゃんは何も言わず、じっと目の前を睨んでいる。


亜美「だめだよ…、はるるんは出ないし、ゆきぴょんも圏外か電源が入ってないって」

真美「ねえ、まさか兄ちゃんの車が事故に遭ったとかじゃないよね?」




やよい「!!真美!縁起でもないこと言っちゃだめ!」

亜美「真美〜、お願いだから変なコト言わないでよー!」

真美「だって、兄ちゃんの携帯も繋がらないなんて変だよ!さっきサイレンっぽいのも聞こえたし!」

律子「そんなはずないでしょう……きっと、きっと何か事情があるのよ」

真美ちゃんの一言が、場の不安を増幅させる。
年齢のわりにしっかりしてるといっても、皆まだ子供、怖いのだ。



小鳥「大丈夫よ、真美ちゃん」

そう言って真美ちゃんを抱き寄せた。昔に比べて背が高くなったわね。



小鳥「この業界、ううん、それだけじゃなくて誰の人生にも色々なことがあるけどね。
   自分を粗末にしないで頑張って生きてる人に、そう悪いことはおきないものよ」

真美「ピヨちゃん…うん、ありがとう」




こんなのは詭弁もいいところだ。


それでも、いつ襲いかかるか分からない理不尽な不幸や暴力を恐れて
不安に負けてしまえば、何もできなくなる。

今夜の彼女達の不安を作り出したのは私だ。
ならば、どんな詭弁を弄しても取り払ってあげなければ。



伊織「ホント、世間知らずもいいとこね。765の人間が三人も乗っているのよ?
   事故があったらとっくに事務所に連絡が来てるわよ」

やよい「だったら、やっぱりわたし電話番してます!
    その、事故じゃなくても三人から連絡があるかもしれないし」

伊織「何言ってんの、やよいだってここで待っていたいんでしょう?…新堂」

伊織「もう仕事の電話は来ないだろうから、上に行って電話番をして頂戴。
   車は私達が見てる。11時になったら戻るわ」

新堂「かしこまりました」

小鳥「よろしいんですか?」

伊織「今はこれがベストでしょ」


新堂さんは伊織ちゃんの命に従って、
いかにも執事然とした足取りで何も言わずに事務所の中に消えていった。
私と律子さんは、その背中に深々と頭を下げた




やよい「えへへ、伊織ちゃん、ありがとねっ」

伊織「別にいいのよ。今アンタ達を一人にしたら変な方向にばっかり頭が行きそうだしね」

亜美「うん、そうだよね。亜美達がこんなヘコんでたら、
   あずさおねえちゃんだって帰って来れないで引き返しちゃうかも」


伊織ちゃんが一言発するだけで、場の空気が元に戻る。


彼女はエンジェルスの頃から年下のアイドル達を引っ張る存在だったけど、
あずささんがいなくなってから、そのリーダー志向はさらに強くなった気がする。
あの律子さんですら、気持ちの上で今の伊織ちゃんに相当頼っているようだ。



真美「ねえ、いおりん?ずっと考えてたんだけどさー。
   11時って時間を区切っちゃったのは、マズかったんでないの?」

伊織「何でよ?電話を切ったのが9時40分、あずさが吉祥寺の近くに住んでいるなら
   1時間と20分もあれば十分でしょ」




真美「え〜、だって今のあずさおねえちゃん、会社員っしょ?
   真美達と違って定時に帰れるなら、もうお化粧とか落としてるんじゃない?」

伊織「あ」



やよい「お洋服だって着替えなくちゃいけないし、そもそもー、タクシーが拾えないかもしれません」

真美「それに“あの”あずさおねえちゃんだよ?いくら土地勘があるったって、
   住所と地図だけで迷子にならないで、ここまで来れるかな〜?」

小鳥「あ」



しまった。


この前迷子にならずにすんだのは、あの一帯が彼女の生活圏だからだ。
もっと詳しい地図を送るか、いっそのこと電話誘導するべきだったか?

いや、それでは駄目なんだ。彼女だけの意思でここまで来なければ




真美「今頃、タクシーの運ちゃん、頭ぐっるぐるになってんでないの?」

律子「あぁ…、あずささんの方向感覚って、すごいからね。素直に地図だけ渡していればいいけど」

亜美「竜宮やってた時、何度も道に迷ったかんね……」



小鳥「え゛、あずささんにナビやらせてたんですか!?」

やよい「さすがにそれはないかなーって」

亜美「ノンノン、基本いおりんで、たまーに亜美が担当してたんだけどさー」


伊織「後ろからあの声で『あっちじゃないですか〜、いえ、こっちかしら〜』ってうっさかったのよ」

律子「私も免許取りたてだったから、カーナビの声と合わさって頭ぐしゃぐしゃになっちゃって」




伊織「大抵、私か亜美が黙らせるんだけど、ここぞってタイミングでまた口出してきて」

亜美「コーセーの社会学者は、これを『 三浦さんエフェクト 』と呼んでいる」


伊織「で、注意すると今度は拗ね始めるのよ」

やよい「あはは、なんか想像つくかも」

真美「実にかーいらしいお姉ちゃんだったよね」

伊織「まったく、どっちが保護者だったか、わかったもんじゃないわ」


伊織ちゃんがそう言って、通りの方に目を向けると、全員がそれに倣う。


再び、沈黙が訪れた。


亜美「ねえ、いおりん。いおりんだって、ずっと後悔してたんだよね?」

伊織ちゃんは何も答えない。

律子「……何やってんのかしらね、私達も、春香達も」






春香「律子さん、今、私のこと呼びました?」ヒョコッ




律子「うにゃああああああああああ!!」

春香「うわあああああああああああ!!」

真美「わああああああああああああ!!」

雪歩「ひうううううううううううう!!」


その場にいた全員が、まるで幽霊にでも出くわしたような叫び声をあげた。



亜美「はーっ、はーっ!はるるん!変な登場しないでよー!心臓止まっちゃうじゃんかー!」

春香「それはこっちの台詞だよ!皆してあんな大きな声出して!近所迷惑にも程があるよ!」

やよい「うーっ!そういう春香さんが一番声大きかったですー!」

新堂「お嬢様!御無事ですか!?」

伊織「だい…じょう…ぶよ、すこし…おどろいた…だけだから…上に…戻りなさい」




律子「で、何であんな風にコソコソと裏から近寄ってきたわけ?」

春香「いや、はじめはちゃーんと正面から来たんですよ?そしたら、みんなして外で立ってるから」

春香「最初はてっきり、遅くなった私達を心配して出迎えてくれてるのかなー、
   仲間ってあったかいなー、って思ったんです」


雪歩「でも、何か様子が変で、皆さん揉めていたみたいで私達にも気付いてなくて」

雪歩「二人とも、これはただごとじゃない、って思ったんです」

春香「そうなんです!それで、裏手に回ってみんなに見えないように様子を探って、
   大丈夫っぽい空気だったら、いきなり声をかけて驚かそうって」



雪歩「春香ちゃんが」

春香「そう、私が」


律子「お前かよっ!」

春香「すみませんっ!!」




雪歩「それで、あの、一体どうしたんですか?あずささんのお名前が聞こえたんですけど」

伊織「それより先に、何でアンタ達二人で歩いてきたの?あのバカと一緒だったんでしょう?」

真美「そーだよ!携帯も繋がらないし、連絡もないからメッチャ心配したんだよ!」

雪歩「はうぅ、申し訳ないですぅ。渋谷駅を過ぎた辺りで渋滞に巻き込まれちゃったんです。
   トレーラーが横転したみたいで交通規制がかかってしまって」


春香「両側挟まれてたんで、プロデューサーさんのバンが身動き取れなくなっちゃって。
   車を置いてくわけにも行かないし、しばらく待っていたんだけど、ぜんぜん進まなくて」


春香「だから私達だけ変装して降りたんです。まだみんなが残っている様なら
   小鳥さんに指示を仰いで、事務所は鍵だけかけてみんなを帰してくれって」




やよい「どうして連絡がなかったんですかー?」

春香「うーん、プロデューサーさんの携帯、収録中に電話してたら充電切れちゃったみたいなんだ」

雪歩「私のは、車の中でお父さんから電話がきちゃって…それで切れなくて、同じことに…ごめんね」


小鳥「春香ちゃんのは?」

春香「私、さっき出た時に事務所に忘れてきちゃったみたいで」

亜美「はるるーん……」



伊織「はあ…、そっちの事情は分かったわ。まったく、タイミングが悪いったら」

雪歩「伊織ちゃん、聞いてもいいかな?あずささんのお話ししてたよね」

真美「ピヨちゃん、そういえば真美達もちゃんとは話してもらってないよ」

小鳥「実はね……」




雪歩「そうですか、真ちゃんとあずささんに会われたんですね」


私は、先程電話口で話したことに加えて、
二人と吉祥寺のコーヒーショップで会った時の様子をかいつまんで皆に伝えた。

つまり、あずささんも真ちゃんも、幸福そうではなかったが、一応は元気そうだった、と。
その後の詳しい話は伏せておいた。


小鳥「ごめんなさいね、話さなくて」

雪歩「いえ、あの、私が音無さんの立場でも、たぶんそうしたと思います」

雪歩「二人とも、元気だったんですね。それだけでも良かったです」



亜美「はるるん、さっきから黙ってどうしたの?」

真美「お腹でもイタイの?それとも減ったの」


私の説明を黙って聞いていた春香ちゃんは、皆から少し離れて、
三階の窓の『 765 』の印字を眺めていた。


春香「違うよ」


春香「エンジェルスだった頃のこと、思い出してたんだ」




春香「よっ、と」

春香ちゃんはスカートを翻して、その場で一回スピンした。
その動作は基本に忠実で無駄がなく、まさにお手本通りの完成度だった。


真美「おっ、今日はこけずにすんだねい」


思えば、春香ちゃんも雪歩ちゃんも歌の仕事はあっても、長らく人前で踊っていない。
765プロはいつのまにか合同ライブを開かなくなっていた。

『 Lucinda 』は言うに及ばず、規模こそ小さくなるが『 如月千早 』も
エンジェルス時代とは異なったファン層と、独自の世界観を既に確立して、
以前の様にライブにゲストを呼ぶことはなくなっていた。



春香「みんなも覚えてるよね」


春香「今でこそ、こんな夜遅くまで拘束される生活になれちゃったけど、
   プロデューサーさんが来てすぐの頃は、本当に辛かった」

春香「月曜はレッスンと営業、火曜は朝からレッスンした後で
   新幹線で地方入りして水曜はローカル番組とライブ」

春香「一日休んだら、金曜は夜までレッスン。土日はまた泊りがけで
   地方のライブハウスやデパートを行ったり来たり」

雪歩「うん、大変だったよね」




やよい「わたしはまだ中学生だったから、遠征は春香さん達ほど多くはなかったんですけど。
    それでも、最初はきつかったです」

伊織「私も、泣いてるやよいをなぐさめた覚えがあるわ」

やよい「うぅー、伊織ちゃんだって人のこと言えないかなーって」



律子「そうね、自分の甘さを思い知らされたわ」

律子「私達なりに頑張ってきた、なーんて思ってたけど、本気で売れたいなら
   今までの活動なんて、お遊びの延長に過ぎなかったんだって」

小鳥「社長は昔から、アイドルの私的な生活を尊重する人でしたから」



真美「だよねー。それまでチョー気楽にやってたのに、急にメチャ忙しくなってさ」

真美「遠征先のホテルで泣いてる亜美を、何度もなぐさめたなー」

亜美「なんだよー!真美だって、おうちに帰りたーい、ってベソかいてたくせにー!」



春香「私も泣いてたよ」




律子「春香が?あなたがメソメソしてるところなんて記憶にないけど」

春香「はい、私って実は泣き虫さんなんですよ」

真美「えぇー…」



春香「学校にも行けず、友達にも会えない。空いた時間があれば、次の、そのまた次のお仕事の準備をして」

春香「自分が今何をしているか、どこにいるのかさえ、わからなくなる時がありました」


春香「人一倍苦労して振り付けを覚えても、次々に新しい曲に対応を迫られる。
   本当は嬉しいことなんですけどね。でも、私は物覚えのいい方じゃないから必死で練習して」

春香「それで何とか踊れるようになっても、真や美希に比べたら全然出来が悪くて」


春香「ただでさえ上手だったのに、どんどん良くなっていく千早ちゃんや
   あずささんの歌を聞いていたら、大好きだった歌うことも嫌になって」



春香「『 765エンジェルス 』の話が決まった時は、あんなに頑張るぞー、って思ってたのに、
   みんなと仕事する機会が増えたら、急に自分に自信が持てなくなっちゃって」

春香「また失敗してみんなの足引っ張るんだから、もうアイドルなんてやめちゃいたい、って。
   ステージやレッスンの前とか、よく隠れて一人で泣いてました」


春香「でもそんな時、大抵あずささんが私を捜しだして、そばにいてくれたんです」

陰りのない、穏やかな笑顔だった



雪歩「私もそうだったなあ」

亜美「そういえば、ゆきぴょんはエンジェルスになってから、泣かなくなったよね」



雪歩「うん、私だって春香ちゃんと同じで、いつもみんなと何もできない自分を比較して落ちこんでたんだ」

雪歩「だけど、泣いてばかりいたってみんなに余計な気を使わせるだけだから、
   辛いことがあってもせめてメンバーの前では泣かないようにしよう、って決めたんです」


雪歩「でも、どうしようもなく疲れて、やりきれなくなる瞬間って、やっぱりあって」

雪歩「みんなが眠った後に、ホテルのロビーとかで一人で泣いてたんです」



雪歩「そうやってしばらく泣いてるとあずささんや真ちゃんが、私を迎えに来てくれて」

雪歩「一緒に頑張ろうとか、そういう大げさなことは何も言わないで、
   私の気持ちが落ち着くまでそばにいてくれたんです」


雪歩「そんな事が何回かあって、私も二人みたいに、疲れた人を
   優しく静かに励ましてあげられる人間になりたいって思ったんです」

雪歩「それからは、あまり泣かなくなりました。えへへ」




アイドル達は黙って頭上の『 765 』の印字を眺めていた。
たるき亭の上に事務所があった頃は窓にガムテープを貼っていたんだ。


皆が『 765エンジェルス 』だった頃からまだ三年とたっていないのに。

閉塞感が漂っていた業界に対して何か新しいことをしてやろうと、
忙しくても事務所全体が一丸となって走っていたあの日々が、
30を過ぎた私には、遠い、はるか昔のことのように感じられた。



律子「私、よく考えたらエンジェルスの頃の話、あずささんとしたことないかも」

亜美「亜美もそうかも。竜宮のことで頭イッパイだったかんね」


伊織「それが普通でしょ。後ろを振り返ってる余裕なんかなかったもの」

真美「今だって余裕なんかないよ。忙しいうちがハナだって社長もいってんじゃん」



やよい「わたしはちゃんと活動してない時期がありましたけど、
    それでも家の仕事や、ホームページの企画のことで頭がいっぱいでした」

やよい「エンジェルスのことが大好きだったのに」




春香「私、最近よくあの頃のことを考えるんだ」



春香「教育番組のナレーションとかバラエティの司会とか、いろんなお仕事をさせてもらえるのは嬉しいし、
   テレビで歌うのだって嫌じゃないよ」

春香「でも何か違うっていうか。私って本当にこういうことがしたかったんだっけ、って思うようになって」

春香「ひょっとして昔の方が楽しかったんじゃないか、って」



伊織「甘えね。過去を美化してるだけよ」

春香「うん、そうだと思う。さっきも言ったけど、あの頃はあの頃で辛かったからね」



春香「でも、真やあずささんがいて、皆で色んな土地に行った」

春香「最初は私達なんて見向きもされなかったけど、だんだんと声援をくれる人が出てきて。
   エンジェルスの名前が売れて、呼ばれる仕事が大きくなるごとに、プレッシャーも大きくなって」

春香「私達は一人ひとり別の方向を向いてたけど、それでもお客さんの前に出る時は
   必ずみんなで円陣を組んで、歌って、踊った」



春香「今とは違うよ」




律子「あの人、最初に言ってたわね。『 765エンジェルス 』は来年度を見据えて知名度を上げるための
   手段であってユニットじゃない。ソロの人間が集まっているだけだって」

律子「私もそう思っていた。あの人を疑っていたくせに、その言葉だけは鵜呑みにして、
   エンジェルスは効率よく売り込む為の名前に過ぎないって」

律子「でも、違ったのよね。あの頃が今の私達を作ったのに」



真美「兄ちゃん、そこんとこわかってんのかな?」

伊織「知らないわよ、そんなこと。………たぶん、一生わからないでしょ。
   私達だって当時はわかってなかったんだから」



春香「当たり前だけど、プロデューサーさんはステージに立つわけじゃないからね」

雪歩「でも、真ちゃんとあずささんはアイドルでした」

雪歩「だから私、あの頃のことを、思い出だけじゃなくて、ちゃんと二人と話したいです」



皆の視線が頭上の『 765 』から通りへと移り、
今にも消えてしまいそうな声で亜美ちゃんがたずねた。


亜美「ピヨちゃん、今、何時?」

小鳥「10時52分よ」




それからの数分間は誰も喋らなかった。
全員黙って、目の前の駐車場に面した暗い道路を見つめていた。

立ち並ぶ無人のビル群に挟まれたその通りは、
駐車場を挟んだ765プロダクションの照明とわずかばかりの月明かりを吸い込み、
何一つとして動くものもなく静まり返っている。



律子「後5分」

やよい「えーっ!もうそんなに経ったんですかー!?」

律子「残念だけど、この時計は正確なの」


真美「いおりん!やっぱ、あずさおねえちゃんに電話しなよ!」

やよい「そうだよ伊織ちゃん!渋滞に遭って動けないのかもしれないよ!」

二人は説得を続けたが、伊織ちゃんは前を見たまま何も言わない。


律子「後3分」

やはり、私は間違っていたのか?




亜美「あずさおねえちゃん、お願い!」

真美「お願い!」

亜美ちゃんが両手を握り合わせ祈るように叫び、
真美ちゃんがそれに倣う。


律子「後2分」

やよい「伊織ちゃん!今からでも考えなおそうよ!数分の違いで許す、許さないなんてそんなの変だよ!」

やよいちゃんは泣きながら、怒気を含んだ声で伊織ちゃんに頼み込んでいる。


私の、私のせいだ




律子「後1分」

やよい「伊織ちゃん!」

亜美「いおりん!」 真美「いおりん!お願い!考え直してよ!」



その時、遠くから車の近づいてくるかすかな音がした





伊織ちゃんを取り巻いていた三人が視線を身体ごと通りに向ける。
私は全身が聴覚になったような感覚で、わずかに高くなるエンジン音に聞き入る。


律子「後、30秒」



春香「来い、来い、来い、来い……」

春香ちゃんはまっすぐ前を向いて、普段なら聞き取れないような小さな声で呟いていた。
おそらく全員が、心の中で彼女に続いた。



ヘッドライトの光が目の前の暗闇を照らす。

律子「25、24、23」


次第にエンジン音が聞き取れる距離まで近づいてくる。

律子「22、21、20、19」




雪歩「ああ!」


雪歩ちゃんが絶望の叫びを上げた。

律子「18、17、16、15」


私もアイドル達もその意味がわかり、その場に座り込んでしまう。

律子「14、13、12、11」


もう誰も近づいてくる光を見ようともしない。

律子「10、9、8、7」


駐車場に入ってきた黒い絶望の正体は、

律子「6、5、4、3」



誰もが見慣れたプロデューサーさんのバンだった。


律子「2、1、ゼロ」

律子「11時です」




皆、駐車場のアスファルトに座り込んだまま誰とも目を合わせなかった。
誰一人泣くことも無く、無力感だけが漂っていた。



伊織「もしもし、新堂。降りてきて、家に帰るわ」

伊織ちゃんが最初に立ち上がり新堂さんを呼んでも、誰も引き止めなかった。



私は取り返しの付かないことをしてしまったのだ。
私さえ思い上がって余計な真似をしなければ、何もかも上手く行っていたのに。

伊織ちゃんの本心はともかく、彼女に軽蔑されたと思えば、
あずささんは戻って来れないだろう。


私が、私がいらない勇気を出したばかりに、彼女の復帰を閉ざしてしまったんだ。



あずささんは今年の誕生日を忘れないだろう。
間接的にとはいえ、かつての仲間から絶縁状をプレゼントされたのだから




エンジンを切ってプロデューサーさんが降りてくる。


それにしても憎らしいのはこの人だ。
ご丁寧に最後の最後で希望を持たせて、それを見事にへし折ってくれた。


いや、違う。この人は事情を知らないんだ。知らせなかったのは私だ。
そもそも、この人が偶然にあずささんを見つけるまで何もしなかったのは自分じゃないか。



それにしてもこの笑顔は何なんだ?目の前の光景が見えないのか?
私はともかく、自分のアイドル達が大切じゃないんですか?




P「やあ、まだ帰ってなかったんですか?」


前にも思ったことがあるけど、この人の笑顔を見てると、
人間らしい感情なんて何一つ持ち合わせていないんじゃないかと思えてくる。


小鳥「すみませんでした。約束があったものですから」

P「まあいいです。まだ仕事があったし、手間が省けました。
  やあ、伊織、お疲れ様。新堂さん、ご無沙汰しています」

伊織「お疲れ、お先に失礼するわ」



伊織ちゃんは悲しむ様子も落胆した様子も無く、冷静だった。


ごめんなさい、こんなことになってしまって











あずさ「———さ〜ん!あの〜、プロデューサーさ〜ん!手伝ってくださ〜い!
    スカートが、スカートがドアに挟まってロックされちゃったんです〜!」





伊織「はあーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!?」




————

——








——

———2013年8月29日、都内、某社のオフィス PM00:30


男D「———そろそろっスね」


『 Lucinda のー、スマイルティービィー!! 』


『 お仕事お疲れ様なの!ミキたちが、あなたのお昼に今日もスマイル!届けるね! 』


男D「A馬さん、始まりましたよ!」

男C「お、おい!もう少し音下げろよ!会社のパソコンで
   動画サイトなんて見てるの、課長に知られたら大目玉だぞ!」





『 はいさーい!今日のゲストは自分達の先輩だぞ!
 えへへ、すっごくキレイになって帰ってきてくれたんだ! 』


A馬「まあ、俺もいるし。何とかするさ」

男D「さっすが、A馬さん!いや〜しっかし、このコ達、ホント可愛いっスよね〜」


『 数ある中から、この番組を復帰の第一歩として選んでくださったこと、真、誇りに思います 』


男D「お、来るかな?」




『 みんな拍手で迎えてほしいな!765プロのお姉さんアイドル、三浦あずさです!どうぞなのー! 』


男D「キター!って、コメントで全然見えねーっ!」

男C「コメント消せ!早く!今すぐ!」

A馬「復帰おめでとう、か。結構人気あったんだな」



『 皆さん、お久しぶりです〜。恥ずかしながら、帰ってきちゃいました〜 』


男D「うわーーーー!超!可愛いーーーーーーーーー!」

男C「うるせえ!!って、すごいな。あずさコールが全然終わらない」

A馬「………やっぱり、可愛いらしいな」




———同日、都内武蔵野市、株式会社バラデューク、経理課 PM00:43


『 次の質問だぞ。えー、あずささん活動再開、本当に本当におめでとうございます。
  ずっとこの日を信じて待ってました——— 』

『 うふふ、本当に本当にありがとうございます〜。お待たせしちゃってごめんなさい 』


女性社員B「ほら、課長!あずさちゃんですよ!」

課長「しかし、最近のパソコンはテレビが見れるんだねえ」



『 ———活動を休止して得たものがあったら教えてください。
 神奈川県のおかえりあずささん!さんからの質問です 』


女性社員B「何言ってるんですか、テレビだったら経理課で見れなかったんですよ」

課長「う、うむ。そんなことより三浦君だ」





『 私自身、お仕事、仲間達、色々なことを考える時間を頂いたおかげで、、
  すでに知っていると思っていた身のまわりの世界について、たくさんの新しいことを学べました 』

『 今後の活動に、そのことを活かしたいと思っています。うーん、その中でも一番の収穫は〜 』

『 一番の収穫は? 』



『 いいペンには保証書がつく、ということでしょうか〜 』

『 へっ? 』


女性社員B「!」

課長「!」



『 あいかわらず、あずさはマイペースなの 』


『 では最後に私から、復帰第一号とあいなる、今日、このすてぇじを誰に捧げますか? 』





『 私を支えてくれた人達、友達、事務所の仲間達、私の様に道に迷い進めなくなった人達 』


課長「良い笑顔だね」

女性社員B「ええ、とっても」

課長「やはり、彼女にはこの世界の方が合ってる様だね」



『 そして私のワガママを許してくれたファンの皆さんの為に歌いたいと思います 』


課長「だが、彼女は本当に大丈夫だろうか?大変なのは、むしろこれからじゃないかね?」

女性社員B「課長、女性を見る目が無さ過ぎますよ」

課長「う、うぅむ」




『 あずさー!ファイトなのー!あずさの歌きくのひさしぶりなの!ワクワクしちゃうな! 』


女性社員B「はあ、あずさちゃんも忙しくなれば経理課の事なんて、忘れちゃうかも」

女性社員B「でも、その方が良いんでしょうね」



『 番組の最後に、あずささんにサインを書いてもらってプレゼントするぞ!
  欲しい人は今の内に専用フォームから応募してね! 』


課長「彼女は忘れないよ」

課長「そういう子だ」



『 それでは皆様、聴いていただきましょう。 三浦あずさで 』


         『 my song 』


女性社員B「頑張って、あずさちゃん!」

課長「頑張れ!三浦君!」



————

——





——

———同日、都内、スマイルスタジオ前、Pの車 PM01:15


P「すみません、あずささん。お待たせしました」

プロデューサーさんはそう言って車に乗り込むと、こっちも見ずにさっさと車を走らせた。
相変わらず忙しい人。


あずさ「プロデューサーさん、響ちゃん達を送らなくて本当にいいんですか〜?」

P「ええ、今のあいつらに手出しできる連中なんていませんから。
  あずささんを送ったら現場で合流しますけど」


今日の予定は、千早ちゃんとのボーカルレッスンに写真撮影、
夕方に雑誌の取材が二件で夜は雪歩ちゃんのラジオ。
帰るのは10時過ぎ、かな。


改めて今月のスケジュールを確認すると、レッスンで埋め尽くされている。
当たり前か。現役の頃の様に踊るにはまだまだ時間がかかる。

今日の仕事だって、ボーカルレッスンを重点的にやって
無理を言って叶えてもらったんだ。


無理を言ったかいは、今のところ半分だけ。
後の半分は、きっとこれから





あずさ「あの〜、プロデューサーさん、やっぱり、髪切った方がいいんでしょうか?」

車が信号に捕まったので、前を見て動かない横顔を覗き込んで意見を求める。



P「またその話ですか?」

プロデューサーさんはやっぱり前を見たまま、それ以上言わない。


いいじゃないですか、ちょっと意地悪したいんです。



あずさ「ええ、番組中に流れるコメントを見ていたら、
    髪が長くなったという意見が多かったのが気になったものですから」

別に評判が悪かったわけじゃないし、答えも分かってるんですけどね




P「この前も言いましたが、竜宮のイメージが根強く残ってるんでしょう。復活を望む声も多いです」

P「ただ現時点では、竜宮を本格的に再結成させる予定はありません。
  伊織も亜美も今はそれぞれの路線で売れてますからね。まだそのタイミングではないです」


P「それにあずささんの担当は律子じゃなくて、俺です」

できれば、その次まで。


P「俺は今位の長さの方が、良いと思いますよ」



信号が変わり、プロデューサーさんは車を走らせた。
依然として前を向いたままだけど、少し表情が柔らかくなっていた。


私の悪ふざけに、ちゃんと答えを返してくれてありがとうございます。


そんな顔も、出来るんですね





P「さっきの番組でサインに使ってたあのペンって、質問の答えの奴ですか?」

私達を乗せた車は、またもや赤信号に捕まった。


千早ちゃんを待たせちゃうかもしれないけど、今日は運が良いみたい。


あずさ「はい。引退中に勤めていた職場で頂きました」

課長達からもらったペンを鞄から出して、プロデューサーさんに見せる。


P「俺も、今日知りましたよ。この世界に入ってから知らないことばかりです」

それだけ言って、また黙る。


出会った頃はあんなに口数が多い人だったのに




ひょっとして欲しいんですか、と聞くと

P「はい」

と答えた。

この人は、本当は子供みたいな人なのかしら。


あずさ「ダメですよ。私の宝物ですから〜、自分で、買ってくださいね」



プロデューサーさんは少し驚いた顔をした後、反対側を向いてクックッと笑った。

私もおかしくなって、やっぱり反対側を向いて同じように肩を震わせた。


そうしてお互いに顔を見られない様にして二人でしばらく笑っていると、
信号が変わり再び車が走り出した。

隣車線の人と目が合ってしまい、私達を驚いたように見てたのがなおさら可笑しかった




道を見失い、立ち止まっていた私。

歩くべき道はいつも目の前にあったのだ。

『 765エンジェルス 』のその先が見えなかった時、『 竜宮小町 』が苦しんでいた時、
誰も私を見てくれないと拗ねて泣いていた時。

自分の見たいものだけを見て、歩き出す勇気を失くしていた。



時間はかかったけど、今は違う。

勇気を出せば、辛い思いも、嫌な思いも沢山するだろう。

それでも歯を食いしばって、必死に走り抜けるしかない。


誰の為でもない、自分自身の為に。



私にはそれしかできない。なら、信じ続ければいい。


いつかきっと、いいことがあるはずだから。

いつか、きっと





『 始まってゆく 果てなく続くひとつの道を 』



携帯を取り出して、収録中切っていた電源を入れると沢山のお祝いメールが届いた。



『 駆け出してゆく まっさらな名もない希望を抱いて 』



目を閉じ、深呼吸をして、一つ一つ発信元を確認する。



『 どんな行き先でも 喜びと悲しみは廻る 』



友美、友人達、経理課の先輩、765プロのアイドル達、そして———



『 辛くても進んでゆけるのは 大切な夢があるから 』




====

From: 菊地 真

Sub : おめでとうございます!

本文:あずささん、番組見ましたよ!
   アイドル活動再開、本当におめでとうございます!
   ひょっとして、今日を選んだのって、ボクの為だったりします?
   へへっ、そうでなくても、最高の誕生日プレゼントですよ!

   今まで連絡しなくてごめんなさい。あの日からこっちも
   予想外にバタバタしてたものですから。って、これは言い訳ですね。
   
   ボク、もう一度、頑張ろうって思ったのは良いんですけど、
   考えてみたら、あずささんにはいっぱい助けてもらったのに、
   自分のことばかりで、何もしてあげてないなって思ったら
   何て言ったらいいかわかんなくなっちゃいまして。

   でも、あずささんの歌を今聴いて正直な気持ちだけを伝えようと思いました。
   あずささん!本当に本当におめでとうございます!
   
   ボク、またあずささんと一緒に歌いたいです。
   まだまだ時間はかかりそうですけど、でも、もう立ち止まりません。
   一回失敗しちゃってるんです。もう走り続けるしかないですから!

   だから、また一緒のステージで歌ってください。
   ボク、必ず貴女のいる場所に、帰ってきますから。

                       菊地真より


   PS.時間かかるって書いたけど、そんなに遠くないかもしれませんよ!


====


———ほらね。やっぱりいいことだってあるんです





                             おしまい


ひとまずここでおわりです。


ここまで読んでくれた人ありがとうございます



P「———それじゃあ、俺はあずささんを送ってから現場に行くから、また後でな」

響「うん、遅れないでねー」

貴音「いってらっしゃいませ」

美希「いってらっしゃーい」


行っちゃった。



響「あー、やっぱりあずささん優先かー」

貴音「響?その様なことを軽々しく申してはいけませんよ。プロデューサーは公平な方です」

美希「あはっ、響はやきもちやさんなのー」


———2013年8月29日、都内、スマイルスタジオ、『 Lucinda 』の控え室 PM01:07




響「べ、別にそんなんじゃないぞ!」


響が首を振ると、大きなポニテも一緒に揺れるからカワイイの。


響「たださー、最近のプロデューサー、自分達のこと昔ほど気にしてくれなくなったというか…」

貴音「それは私達が、いまだ“あんたっちゃぶる”な存在だからです」

美希「あずさは今注目されてるし、一人だと変な記者とかに狙われやすいからね」


貴音「現場には必ず来てくださるではないですか。それで良しとしなさい」

貴音「貴女が何と言っても、あの方は一人しかいないのですよ?」

響「うん、それはわかってるけど…」


ふーん。納得いかないって顔だね。響って、実はミキよりワガママだもんね。


貴音「そうですね。三浦あずさにあのように付き添うことが、あの方なりの贖罪の方法かもしれませんよ」

響「うん…。でも貴音が言うと別の意味に聞こえるぞ」


さすがのツッコミ精神なの




響「あー!この話はいいや!やめやめ!」

貴音「それがいいでしょう。私達が口を出すことではありません」


そうだよ。それに、二人にはわかんないって思うな。


響「ねえ美希!久しぶりのあずささんの歌、すごいキレイだったね!仕事を忘れて聴き入っちゃったぞ!」

美希「ミキも同感なの。でもね、あずさは本当はもっともっと上手なんだよ」

響「自分達の番組に合わせて急いで仕上げてくれたってこと?だったら嬉しいなー!」

美希「んー、半分は正解、かな」


響って、ホントに無邪気さんなの。

プロデューサー、こういうところも好きなんだろうなあ




貴音「それにしても、美希。貴女の言った通りになりましたね」

響「だねー。あずささん、本当に戻ってきてくれたもんなー」

美希「響は、ずっと気にしてたもんね」


響「うん。こんなこと言うのってあんまり感じよくないけど、
  竜宮が解散したのって自分達のせいもあるのかな、って思ってたんだ」

貴音「響。もしそれが三浦あずさの引退の真相ならば、そんなことは気に病む必要は無いのですよ」


そうそう。そんなこと言うから、誤解されちゃうんだよ?

それに、どうせ一度はそうなる運命だったんだもん




響「でも真も竜宮も、961プロから来た自分達に仕事取られて、いい気持ちはしなかっただろうし」

響「加えて、真は冬馬に引退に追い込まれたようなもんだしさー」

美希「とうま?そんな人いたっけ?」

貴音「ええ、『 ジュピター 』の大将ですよ。2012年度のIA大賞後に活動休止となりましたが」


あれ、何で覚えてないんだろ?変なの。


響「あーあ。自分も貴音も『 765エンジェルス 』だったら良かったのになー」

美希「あずさも真クンも、そんなヤワな女じゃないの」




貴音「それでは美希、私達はすたっふの方々に挨拶してまいります」

響「戻ったらすぐ出るから、ちゃんと着替えて支度しといてねー」

美希「はいなのー」


行っちゃった。二人とも真面目だなあ。



美希「…………」

美希(ねえ、プロデューサー。あずさ、戻ってきてよかったね)




美希(二人が引退した時、プロデューサー、あんなに落ちこむんだもん。さすがのミキも心配しちゃった)

美希(でも、ミキ言ったよね?あずさも真クンもどうせ戻ってくるから心配しないでいいって)

美希(少し時間かかったけど、やっぱりミキの言った通りになったの)



美希(だから、真クンもそのうち戻ってくるよ)

美希(それともミキの話したことなんて、もう忘れちゃったかなあ)

美希(…………)




美希(ねえ、プロデューサー?)

美希(あずさ、もう何があってもプロデューサーから離れないよ)

美希(だって今のあずさ、プロデューサーにそっくりだもん)



美希(ミキ、プロデューサーがあずさのこと好きなのか、結局わかんなかったなあ)

美希(ミキでもわかんないことってあるんだね?ビックリしちゃった)



美希(それとも、やっぱりプロデューサーってミキとおんなじなのかな?)

美希(ミキ、765プロのみんなのことは大好きだけど、それって違うもんね)

美希(…………)




美希(不思議なの)



美希(あずさも、竜宮小町も、エンジェルスも、Lucindaも)

美希(ミキが考えたことって、何でもその通りになるの)

美希(誰のことでも、わからないことなんてなかったんだよ?)



美希(今まで、ずっとそうだったの)


美希(わからないのは誰かさんだけ)



美希(最初はただの単純なオジサンだと思ったんだけどなあ)

美希(…………)




美希(ねえ、プロデューサー?)

美希(プロデューサーって、響や貴音のこと、大好きだよね)



美希(紹介した瞬間、二人が欲しいって思ってたもんね。顔に書いてあったの)


美希(響達をその気にさせるのって結構大変だったんだよ?わかってるのかなあ)



美希(ううん、響や貴音だけじゃないの)

美希(千早さんや765プロの他の子だって、もちろんあずさや真クンだって)

美希(大好き、なんだよね?)

美希(…………)




美希(ねえ、プロデューサー?)

美希(もしだよ?もしミキが、響や貴音や、Lucindaに飽きちゃったら)

美希(765プロに飽きちゃったら)

美希(プロデューサーはどうするのかな?)

美希(…………)



美希(ううん、やっぱいいや)

美希(今はそういうの、めんどいの)



美希「そろそろ二人も帰ってくるかな?着替えないといけないの」


美希(ミキ、疲れてるのかなあ?なんかめんどいの、衣装買い上げちゃおうかなあ)

美希(…………)



美希「やっぱいいや。こんなダサい服、絶対着ないの。さっさと脱いじゃえ」




美希「あーあ」


美希「ミキも、もう16かあ……、ヤだなあ」



美希(小さな頃からみんな、ミキのこと、オトナっぽいってよく言ってたけど)

美希(もうすぐホントに大人になっちゃうんだなあ)



美希「こうして見てると、あんまり変わってないんだけどなあ」

美希(中学生の時に、お姉ちゃんに裸の写真でも撮ってもらえばよかったの)

美希(そうしたら、比べられたのになあ。失敗しちゃった)

美希(…………)



美希(今、このまま服を着ないで外に出たら、全部、終わっちゃうんだよね)




美希(ミキだけじゃなくて、プロデューサーの大好きな Lucinda も)

美希(必死になって守ってきたエンジェルスのみんなも巻き添えになって)



美希(ぜーんぶ)

美希(…………)




美希「アハッ、おっかしいの」




トントン。ノックの音がしたの。


響『美希ー、もう着替えたかー?あんまり時間ないぞー』

美希「アハッ、ごめんなさいなのー。まだ着替えてるからそこで待ってて欲しいのー」


貴音『美希、急ぎなさい。高待遇の上にあぐらをかいての遅刻は、恥ずべきことですよ』

美希「アハハッ、もう着たから入ってきていいのー。アハハハッ」


響 貴音『?』




二人が入ってきても、顔が笑っちゃうの。


貴音「美希?何を笑っているのです。荷物を纏めなさい、すぐに出ますよ」

響「自分、ちゃんと支度しといてって言ったろー?」


怒ってもだめだよ?ミキ、もっともっと笑っちゃうから。


さっ、お仕事行こ?



みんなが『 Lucinda 』を待ってるの




やっぱり765プロは楽しいところなの

次から次に面白いことが見つかるの

二人も あずさも みんなも プロデューサーも

変わりばんこでミキを楽しませてくれるの


笑いが止まんないの

タクシーに乗っても笑いが止まんないの

響と貴音の顔を見てもだめなの

もっともっと笑っちゃうの


だいじょうぶ お仕事はちゃんとするよ?

そうしないと ミキのこと 見てくれないからね

でも プロデューサーの顔を見たら自信がないの


だって すっごく面白そうなこと 思いついちゃったんだ




きっと楽しいの

考えただけで笑っちゃうの


ミキ きっと笑ったまま死んじゃうの


そしたら責任とってね?


ハニー?



                          『 天使と女 』 おわり

以上で書きため分は終わりです。


繰り返しになりますが、読んでくれた人ありがとうございました。


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