・はたらく魔王様! 真奥×恵美
・恵美「もしも魔王の正体に気づかなかったら」
恵美「もしも魔王の正体に気づかなかったら」 - SSまとめ速報
(http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1369382669/)
恵美「もしも魔王の正体に気づかなかったら」2巻
恵美「もしも魔王の正体に気づかなかったら」2巻 - SSまとめ速報
(http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1372422504/)
の続きです。
・原作三巻分(非アニメ化範囲)のIFのため、原作三巻の既読推奨。
ただしネタバレ上等で恵美好きのアニメ組の方も
良ければどんなイベントが起きるか参考にどうぞ
・原作でも明言されていない部分の独自解釈あり
SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1373106667
恵美「あっつぅ……」
燦々と照る太陽の下を歩きながら独りごちた。
頭がぼうっとする中、手に持った紙袋の重みがずしりと感じられる。
目的の魔王城は笹塚駅から徒歩五分と近いのだが、冷房の効いた電車から降りると、この暑さは殊更厳しい。
日傘は差しているがアスファルトの照り返しの熱はどうしようもない。
魔王城……もといヴィラ・ローザ笹塚に着いてみれば、門のところにたむろしている人影が三人。
恵美「あれ、千穂ちゃん? 来てたんだ、こんにちは」
千穂「あ、こんにちは、遊佐さん」
鈴乃「おお、エミリア、そうか、もうそんな時間か」
この世界の友人である佐々木千穂ちゃんに、建前上今も敵である鎌月鈴乃——クレスティア・ベル。
そして。
真奥「よ」
恵美「うん」
片手をあげて笑いかけてくる彼に、私も微笑みで返した。
過去の敵にして未来の上司、かつ私の想い人。
魔王サタン——真奥貞夫だ。
恵美「とりあえず、はいこれ」
ベルに持っていた紙袋を手渡した。
鈴乃「あ、ああ……これが、例の?」
恵美「そうよ。一日二瓶ね。貴重な物だから、大切に扱ってね」
中身は聖法気を補充できるホーリービタンβだ。
彼女も私同様、この世界では聖法気を自然回復できない。
真奥「魔王軍の財産を分けてやるんだ、ありがたく思えよ」
にやりとして言った貞夫に、ベルは微妙に悔しそうな顔をした。
鈴乃「……敵に塩を送られるとは」
恵美「まあまあ、これは友人の私からの贈り物ってことで」
彼女は立場上、魔王と、そして魔王に与した私の敵だ。
だが紆余曲折あって、私個人とは友好な関係を築いているし、今もこうして魔王である貞夫と同じアパートにいる。
なので一応貞夫に一言告げた上で、ホーリービタンβを進呈するため持ってきた次第だ。
今の彼女は、少なくとも私に何も言わず貞夫を討伐するようなことはない、と信じている。
千穂「遊佐さん、今日はそれを渡すために?」
恵美「ええ、あとベルの買い物に付き合いにね。家電とか、携帯とか」
彼女は元々この世界に長く留まるつもりがなかったため、最低限の私物しかない。
この世界の知識に疎い彼女一人では心許ないため、私も行くことにしたのだ。
真奥「行く前にちょっと待ってろ、ちーちゃんから貰ったアイス持ってきてやる。いいよな、ちーちゃん」
千穂「勿論ですよ」
嬉しい申し出だった。さっきから暑さにうんざりしていたところだ。
ふと見ると、ベルが少々疲れたような目でこちらを見ていた。
鈴乃「今更だが……魔王にアイスを貰って喜ぶ勇者、か」
恵美「そんな勇者もたまにはいるでしょうよ」
本当に今更だったので、あっさり返す。
彼女は諦観の表情で一つため息をついた。
恵美「……それにしても、皆で何やってたの? この暑いのに焚き火?」
彼らの足下には、まだ微妙に燃えている何かの燃え殻らしきものがあった。
単純な疑問だったのだが、意外にも彼らは顔を見合わせてから言ってきた。
真奥「お前さぁ……お前はそれじゃダメだろ。そんなんだから今時の若者はとか言われるんだぞ?」
千穂「……すいません遊佐さん……かばいきれません」
鈴乃「仕方ない。これは後で私が教えよう」
恵美「えっ? ……えぇっ?」
思わぬ集中攻撃をくらい、慌てる。
一体これがなんだと言うのか。
貞夫はアイスを取りに、鈴乃は紙袋を置きに階段に向かい、残った千穂ちゃんに問いかけようとすると——
突然、燃え殻の上空に光が発生した。
目を開けていられないほどの、まるで光の爆発。
真奥「やべぇっ!」
貞夫がいち早く動き、光に近かった千穂ちゃんを抱きしめて、光から遠い庭の木に貼りつく。
む。
……とか言ってる場合じゃなかった。
真奥「何かに掴まれ! ゲートだ!」
咄嗟に私もベルも階段の手すりにしがみつく。
このゲートが"入り口"なら、触れれば問答無用でどこかに飛ばされてしまう。
だが、
鈴乃「何か出てきてるぞっ!」
つまり、"出口"だ。
何かがゲートから出現する。
やがてゲートが閉じると、"それ"は真下にあった燃え殻の上に落ちた。
とりあえず、全員の頭に共通したのは「火事になっちゃまずい」だった。
私と貞夫とベルが咄嗟に動き、"それ"をどかし、燃え殻を端に寄せる。
幸い燃え殻は既に燃え尽きていたようだった。
ドアが開く音がした。
二○一号室から、芦屋と漆原が呑気な顔を出している。
芦屋「魔王様? どうされたのですか、その巨大な果物は」
貞夫が抱えている"それ"は、リンゴのような形の果物。
ただし黄色で、貞夫が両手で抱えるほどの巨大さだ。
恵美「……魔界にこういうリンゴとか、ある?」
真奥「……ねえよ。つーかさっきの光のゲート見たろ、悪魔が開けるもんじゃない」
そう。これは、何者かによって送られてきたのだ。
ただの果物でもなければ、偶然ここに現れたはずもなかった。
恵美「ってことは……」
真奥「人間か、また天使絡みかもな」
変態セクハラ犯罪者こと大天使サリエルに散々な目に遭わされたのはほんの一週間ほど前の話だ。
思わず天を仰ぐ。
恵美「……私がこう言うのもなんだけど……天使ってホント、うざったい……」
真奥「うざったいなぁ……」
二人して嘆息した。
サリエルと共に行動していたベルは若干気まずそうな顔だ。
芦屋と漆原は変わらず呑気そうな顔で首を傾げていた。
真奥「どうするよ、これ」
恵美「もう面倒だから、生ゴミで出しちゃいましょうよ。芦屋ー、ゴミ袋ちょうだい」
真奥「つってもこれゴミ袋には入らないだろ。分けるにしても包丁で切るにはでかすぎ……っておい!」
恵美「そのまま持っててね」
貞夫が、顕現させた聖剣を見て慌てた。
私も聖剣を果物を切るのに使う日が来るとは思わなかったが実際面倒だし、
仮にこれが敵性の何かならどちらにしろ斬るのだから話は早い。
貞夫に当たらず、かつ果物を両断させる勢いで剣を振るう。
恵美「……な」
私だけじゃなく、全員が絶句した。
リンゴから赤ん坊ほどの人間の手が生えて、聖剣の一撃を受け止めていた。
真奥「うぉっ!?」
その異形に、思わずといった風に貞夫がリンゴを手放す。
私も地面に落ちたそれから離れるように後ずさると、
恵美「いやあああ!? ちょっと何よ何よこれっ!?」
リンゴは手を振り回しながら、私めがけて転がってきた。
庭の端のブロック塀まで慌てて逃げ出すと、リンゴは庭の真ん中辺りで止まったが、まだこちらに両手を差し出し振っている。
息を切らせながら考える。
聖剣を受け止めたこいつは、どうも私が目当てのようだ。
……前回のサリエル同様、聖剣を狙いにでも来たのだろうか?
試しに聖剣をしまってみた。
すると再びの変化。
それこそリンゴの皮を剥くように、黄色の皮が帯状に解けていく。
どうやら中は空洞だったようで、そこに入っていたのは、
「……ぷひっ」
くしゃみをする、女の子の赤ん坊だった。
赤ん坊「……ぷひっ」
二度目のくしゃみ。解けた皮が再び集まり、黄色いワンピースとなり赤ん坊の身を包んだ。
真奥「……ん?」
誰もが口を開けない中、貞夫が疑念の声を出す。
何かあったのか、と問うよりも赤ん坊に目が行く。
彼女は気だるげに目をこすり、ぼんやりしていたかと思うと地面に横たわって、
赤ん坊「……すひゅー……」
……寝た。
真奥「って、おいっ!?」
ツッコミだけを入れるが、混乱しているらしく言葉が続かない。
他の皆も同様だ。
いや、声を上げる男が一人。
漆原「……まずい、人が来るよ!」
階段の上にいた漆原の目は笹塚駅方面への道路に向いていた。
その一言で全員がはっとする。
さっきのゲートの光も誰に見られていたか分からないのに、これ以上人目につくわけにはいかない。
鈴乃「おい、アルシエル! とりあえず魔王城に運ぶ! 布団を出せ布団を!」
芦屋「わ、私に命令するなクレスティア!」
動いたのは赤ん坊の扱いに慣れているらしいベルだった。
言われて芦屋が部屋に引っ込み、赤ん坊を抱きかかえたベルが階段に向かう。
混乱しながらも、私も行かないととベルに渡した紙袋を拾う。
そこで気づいた。
恵美「あれ、貞夫……千穂ちゃんは?」
貞夫「そういやさっきから姿が……ああ?」
辺りを見渡すと、彼女は先ほど貞夫にかばわれた位置のまま動いていない。
もしやゲートの光が、普通の人間である彼女に悪影響を及ぼしたのか——そう焦りながら二人で近寄ると、
千穂「……ちゃった」
真奥「ん?」
千穂「……ぎゅって、真奥さんに、ぎゅって、されちゃった、えへへ、ぎゅって……」
実に幸せそうな笑顔だった。
……無言のまま貞夫を振り向く。
真奥「……あー……」
こちらに目を合わせずうめき声をあげる彼には構わず、
恵美「ていっ!」
千穂「きゃっ!」
千穂ちゃんの目の前で柏手を打つ。その音で彼女は我に返ったようだ。
恵美「千穂ちゃん、今それどころじゃないから、とりあえず魔王城行くわよ。貞夫も、ね?」
未だ混乱している千穂ちゃんと微妙な顔の貞夫に言って、階段へ向かった。
……そうよ、それどころじゃないんだってば!
タオルケットの上ですやすやと眠る赤ん坊。
その周りで、私達はアイスクリームを黙々と食べていた。
楽しみにしていたというのに味がしない。
すぐに食べ終えてしまい、否応なしに現実逃避の時間が終わる。
仕方なく口を開いた。
恵美「……この子、何?」
それは全員共通の疑問だったのだろう、答えられる者はいなかった。
真奥「どう見てもお前目当てだったけど、心当たりはないのか?」
恵美「あったら困ってないわよ……」
小声で言い合う。
仮にこれが敵だとしたら、斬らなければならないのだろうか?
……ぞっとしない想像だ。
赤ん坊「うー……あふっ」
全員の時が止まる。
赤ん坊があくびをして、起き上がった。
……貞夫と目が合ったようだ。
真奥「よ……よう」
赤ん坊「うー? ……おぁよ」
……日本語、らしき言葉を拙いながらも喋っている。
概念送受を使用したものではない、純粋な日本語だ。
真奥「に、日本語喋れるのか?」
赤ん坊「んと、すこし」
真奥「すこし、か、うん、そうか」
彼が助けを求めるように後ろを振り向いたが、全員無言だった。
とりあえず無責任にがんばれーと心中で応援する。
再び彼が赤ん坊に向き合った。
真奥「その、お前は、なんだ?」
赤ん坊「ふ?」
真奥「ああいや、その、名前、そうだ、お、お名前は?」
多分バイトで子供連れに話しかける要領なのだろう、若干柔らかくなった口調で貞夫が尋ねる。
今度は返答があった。
赤ん坊「アラス・ラムス」
貞夫「アラス・ラムス?」
アラス・ラムス「う、アラス・ラムス。……ぷひっ」
そう名乗った赤ん坊は、くしゃみと共に目が覚めたようで辺りをきょろきょろと見回している。
漆原がビビって身をのけぞらせたがどうでもいい。
見たところ一歳か二歳くらい、銀髪だが一房だけ紫色の髪に、紫色の瞳の少女だ。
真奥「アラス・ラムスは、どこから来たんだ?」
アラス・ラムス「ん、いえ……ほど?」
人間で言えば見た目の年齢よりも言葉は達者なほうだと思うが、
さすがに赤ん坊だ、今ひとつ要領を得ない。
真奥「いえほ……? あ、家? まぁそりゃ家から来たんだろうが……家……あ、おうちはどこだ?」
アラス・ラムス「おうち……おうち? おうちしらないよ」
真奥「そ、そうか……」
貞夫も困っている様子で、伝わりやすいよう言葉を選んでいる。
真奥「……お父さんやお母さんは、いるのか?」
アラス・ラムス「おと、おか?」
真奥「つまりその、アラス・ラムスの、パパとママのことを教えてほしいんだ」
アラス・ラムス「ぱぱは……サタン」
リンゴから生まれたこの身元不明の少女にも、父親はいるらしい。
なるほど父親の名前はサタ……
……ん?
真奥「……え、俺?」
それまで黙っていた千穂ちゃんが突然声を荒げた。
千穂「ま、ま、真奥さん、子供がいたんですか!?」
真奥「ちょ、ちょ、ちょっと待てちーちゃん!」
千穂「あれですか、魔王だった頃に、実は奥さんとか子供とかいたんですか!?」
魔王「いねぇ! いねぇからちょっと落ち着け! そんなものはいたことねぇ!」
芦屋「そ、それは真でしょうね魔王様!」
千穂ちゃんと、主の隠し子疑惑に驚いた芦屋が詰問し、貞夫が慌てて弁解している。
貞夫に限ってそのようなことはない。
ここは二人を諌めないと。
恵美「さっささささささ貞夫、嘘よね? そんなことないわよね? わ、私、私……」
真奥「だから違うってのに!」
……いけない。平常心を保たなければ。
アラス・ラムス「んしょ、しょ」
そんな私達をよそに、アラス・ラムスは覚束ない足取りで立ち上がった。
どうやらもう立てる年齢のようだ。
彼女はゆっくりと貞夫への少しの距離を歩き、辿り着いた彼の手の匂いを嗅ぐと、
アラス・ラムス「……ぱぱ」
満面の笑みで彼に抱きついた。
千穂ちゃんと芦屋は顔面蒼白、鈴乃は目を丸くし、漆原は部屋の隅に逃げ出していた。
私は、
恵美「さ、さだ……」
真奥「ま、待てっ! 一体今、何を以ってお前は俺を親父だと断定したんだ!?」
アラス・ラムス「ぱぱー」
真奥「そ、そうだっ! ママは誰だママは!」
身の潔白を証明するためか、母親について彼が問う。
アラス・ラムス「まま」
それは子供のよくやる、ただの単語の繰り返しではなかった。
アラス・ラムスはその言葉と共に、人差し指を向けていた。
恵美「……えっ?」
私に向かって。
アラス・ラムス「ぱぱ。まま」
そう繰り返しながら、貞夫と私をはっきり指差す。
ぐしゃ、と音がした。
千穂ちゃんの手の中で、食べかけのアイスの容器が握り潰されていた。
千穂「ゆ、ゆ、ゆ、ゆさ、ゆさささ、遊佐さん?」
恵美「ち、ちがっ! 違う、私じゃなくて!」
全身を震わせる彼女の様子に、反射的に慌てて否定する。
恵美「だって、そんな、まだ子供なんてできるわけないわよ! そんなことしてもいないのに!」
言葉の選択を間違ったということが分かったのは、
男達の微妙な顔と、女性陣の赤く染まった顔を見てからだった。
恵美「で……どうするのよ、これから」
真奥「どうするのったって、どうすりゃいいんだ」
その視線は、私の腕の中のアラス・ラムスに向いている。
大変だった。
何しろ私達二人とも身に覚えがないのでアラス・ラムスの発言を否定すると、彼女は赤ん坊らしく泣き喚いた。
そのまま私に突撃してきて、仕方なく抱っこしているとだんだん落ち着いてきたのだ。
正直、可愛い。
この子が本当に私達の子供で、聖剣絡みの懸念さえなければ頭を悩ますことはなかったのだが。
アラス・ラムスは私のことはともかく、「ぱぱはサタン」とはっきり言った。
この場の誰も口にしていない貞夫の本名をだ。
しかもリンゴの姿でゲートから、明らかに何者かの意思で送られてきており、聖剣の一撃を受け止めている。
聖剣といえば前回奪おうとしたサリエル、あれがまだ聖剣を狙ってるのなら問題だが、
奴はマグロナルド幡ヶ谷駅前店の木崎店長に一目惚れして、
十分な力を残しているのに普通に働きこの世界に居座っている始末だ。
どうでもいいがマグロナルドの通いすぎで太ったらしい。
鈴乃「『アラス・ラムス』というのは、天界の言葉ではない。れっきとした、エンテ・イスラで使われている、人間の言葉だ」
サリエル黒幕説の更なる否定材料をベルが語る。
エンテ・イスラの中央交易言語において、『アラス』は『翼』、『ラムス』は『枝』の意だ。
一体誰がその名をこの子につけて、送ってきたのか、さっぱり分からない。
真奥「リンゴの前段階が無ければ、普通の赤ん坊なんだがなぁ。うりうり」
恵美「ちょっとやめなさいよ。折角寝ついたのに」
いつの間にやら寝息を立てていたアラス・ラムスのほっぺたを突く貞夫。
……止めつつも、若干の幸せを感じてたりする。
結局、今決めなければいけない現実的な問題は、この子の世話を当面どうするかということだった。
一人暮らしで仕事のある私には難しく、六畳一間に男三人の魔王城も赤ん坊の養育環境としては望ましくない。
家族と暮らす千穂ちゃんの家に預けるのは、危険に巻き込む可能性も含めて論外だ。
鈴乃「私は別に仕事があるわけでもないし、引き受けても構わないぞ。これでも大勢の子供の面倒を見た経験はある」
その言葉に、他の全員が——漆原すら——安堵の顔を見せる。
……いや、違った。
とりあえず今決められることは決まったという雰囲気の中、貞夫だけが難しい顔をしている。
千穂「……あの、真奥さん? 何かあるんですか?」
真奥「ああ、一つ、いや、二つだけ腑に落ちないことがあってな」
横目で覗うと、彼はアラス・ラムスと、そして私を見ているようだった。
真奥「……どうして『ママはエミリア』じゃないんだろうな……」
おそらく聞かせるでもなく呟いたその言葉は、妙に耳に残った。
サタンと名指しで指定された彼。指差しで"まま"とだけ呼ばれた私。
何か、……胸の奥にしこりが残る。
それが私の中で具体化される前に、彼が言った。
真奥「決めた。アラス・ラムスは、魔王城が保護する」
やはり仕事は休むべきだった、そう思った。
アラス・ラムスが現れた翌日のこと、色々と思い悩みながら仕事をしていたら梨香に目をつけられ、
口を滑らせて"まま"になったことを漏らしてしまったのだ。
無論エンテ・イスラのことは伏せて、貞夫の知り合いの子供にそう呼ばれている、ということで誤魔化したが。
彼女は事情を聞くと、真剣な声色で言った。
梨香「ちょっち暗い想像しちゃうけどさ。その子、生まれてすぐにお母さんを亡くしたとかない?」
梨香「お母さんが日頃身近にいるなら、二、三日離れたくらいでよその女と母親間違えるなんて絶対有り得ないもん」
梨香「そうでなきゃ、恵美と実のお母さんが双子レベルで瓜二つなのか、そもそもお母さんの記憶自体がないか」
あの子の母親。
それはそもそも存在するのかどうかからして怪しいのだが——昨日のことを思い出す。
***
アラス・ラムスの引き取り先は、目覚めた本人の「ぱぱと一緒がいい」の一言で、貞夫の宣言通り魔王城となった。
話が一段落し、ひとまず当初の目的だったベルの買い物に行くときのあの子の言葉。
アラス・ラムス「まま、またあたしをおいてくの?」
その目には涙が浮かんでいた。
あの子には母親がいて——そして、捨てられたのだろうか。
その場は宥めて買い物に行った。何しろベルに携帯を買ってもらわないと、
貞夫がいないとき魔王城に連絡を取れる相手がいないのだ。
正確には漆原のスカイフォンと通話ができるが、芦屋は機械に弱いし漆原の子育てについての信用度は敵のベルより下である。
ちなみに彼女は老人が購買層であるドコデモのらくちんフォンを買った。
……まあ、本人がいいならいいけども。
買い物を済ませ、一緒におむつなど最低限必要そうなものを買ってから
再び魔王城に戻ったときのアラス・ラムスの喜びようときたらなかった。
その顔を見たときには、もう私はすっかり母親気分になっていたのだ。
恵美「私、明日は会社休むわ。有給……は正直厳しいけど、何とかねじこんで」
恵美「この子を置いて行けないもの。今夜はこの子が眠るまでいて、明日また朝来るから」
真奥「おいおい、そこまでせんでも。大体、明後日以降もずっとそうするわけにもいかねぇだろ」
恵美「だからせめて今日明日、一緒に過ごすのよ。ね、アラス・ラムス、一緒に遊ぼうね」
その言葉に目を輝かせるアラス・ラムスの返答はしかし、
アラス・ラムス「うん! ぱぱとままといっしょにねる!」
私の想定を超えていた。
夕飯も近い時間なので千穂ちゃんが家に帰っていて良かった、と一瞬思ってから、貞夫と顔を見合わせる。
……ぶっちゃけた話、この子の言葉どおり貞夫と三人でというのなら望むところだ。
が、以前芦屋もいる部屋に泊まったこともあるとはいえ、更に漆原までいる今となってはさすがに抵抗がある。
というか、この六畳一間で大人四人と子供一人が寝るのは物理的に難しい。
恵美「……あーと……私はベルの部屋に泊めてもらうってわけには……」
鈴乃「私は構わないが……この子が求めているのは"両親"だろう」
一つため息をついてから貞夫が言った。
真奥「……恵美、やっぱお前は普通に帰って普通に会社行け」
真奥「魔王城で保護すると言った以上、こいつについては俺らで責任持つ。芦屋、いいな」
芦屋「は……魔王様がそう仰るのなら」
芦屋が応える。漆原は我関せずと言った風にパソコンに向かっているが、まあ誰も戦力としては見ていない。
しかしその言葉は、私には聞き捨てならないものだった。
恵美「……何よそれ。私は、"俺ら"には入っていないの?」
真奥「そういう意味じゃねぇよ、家が違うんだし仕事もあるんだから無理しなくていいってことだ」
真奥「勿論、仕事のあとや休みの日に助けに来てくれるのはありがたいし大歓迎だ」
恵美「でも、だって……」
アラス・ラムスにとってあなたが"ぱぱ"で私が"まま"なら、二人で協力してこの子を育ててあげたい。
そう思うのはいけないことなの?
その言葉は、口には出せなかった。
この子は私達の本当の子供でもないし、いつどんな理由でいなくなるとも知れない。
私の母親気分は文字どおり、ただの気分だけなのだ。
貞夫と私の子供、その状況に浮かれているだけ。
結局その日は家に帰った。
また戻ってくるね、その言葉を無邪気に受け取ったアラス・ラムスと別れて。
きっと今夜は戻らないとは分かっていないんだろうな、と胸に痛みを感じながら。
仕事も終わり魔王城へ急ぐと、そこには昨日の面子全員と、
顔を輝かせて私を待ち受けていてくれたアラス・ラムスの姿があった。
貞夫と芦屋、それに隣室のベルの顔に少々疲れが見える。
恵美「やっぱり、大変だったみたいね」
鈴乃「アルシエルが昼食を作る気力がなく、オリオン弁当で済ませたと言えば分かるか」
絶句した。あの節約の鬼にそうさせるとは。
赤ん坊の夜泣きというのは想像を絶するものがあったようだ。
まま、まま、と泣いていたというのだから私としてもたまらない。
己の不甲斐なさを悔いているのか、苦い顔で芦屋が言う。
芦屋「佐々木さんの助けがなければどうなっていたことか……やはり新生魔王軍の筆頭大元帥は佐々木さんに」
千穂「や、それはいいですってば」
苦笑して言う千穂ちゃんは、今は学校がテスト後の短縮授業だそうで、
その空いた時間に手伝いに来てくれていたらしい。
親戚の子供の世話をしたことがあるというその手際は芦屋を感服させるものだったようだ。
……それで大元帥になれる魔王軍というのもどうかと思うが。
彼女にしてみれば、実の子供ではないとはいえ私と貞夫の子を名乗るアラス・ラムスに思うところもあるだろうが、
それよりもアラス・ラムスのことを一番に考えて動いてくれていることに感謝と申し訳なさがある。
恵美「……愚問だと思うけど、漆原は何か手伝いとかしたの?」
そういえば奴の姿とパソコンがないな、と思いながら聞くと、全員が無表情で押し入れに視線を向ける。
耳をすましてみれば、押入れからは人の気配とパソコンのキーボードを叩く音がした。
芦屋「……察しろ」
察した。やはり愚問だったようだ。
アラス・ラムス「るしふぇる、やくたたず!」
無邪気な声でアラス・ラムスが言うと、押入れからはさすがに動揺の気配。
ちなみにこの子はもう皆の名前を理解しているらしい。
難しい発音はできないようで、千穂ちゃんとベルはちーねーちゃ、すずねーちゃと呼ばれているが、
その呼び名に顔を赤くし照れている二人の姿は微笑ましいものがあった。
真奥「で、だ。恵美。相談があるんだが」
言いながら彼が取り出したのは、文京区の複合型アミューズメントパーク、
東京ビッグエッグタウン——まあ要するに遊園地のチケット。
無料招待券が一枚に割引券が二枚という組み合わせだった。
今日マグロナルドで貰ってきたらしい。
恵美「あれ、それなら私も……」
懐から、同じく東京ビッグエッグタウンのチケットを三枚取り出す。
アラス・ラムスの話を聞いた梨香にたまたま渡されたもので、ドコデモの社員割引が適用されるものだ。
無料ではないが、割引率は貞夫の出したものより大きかった。
千穂「偶然にしても、集まりましたね」
梨香は親子で楽しんでこいとでも言いたかったのかもしれないが、せっかく枚数があるのだ。
漆原除く全員で遊びに行ってみてもいいのだが……
真奥「いや、アラス・ラムスがな」
アラス・ラムス「ぱぱとままとおでかけ!」
……なるほど。
この子は"家族"で遊びに行くつもりらしい。
真奥「俺としてはこいつの希望を叶えてやりたいんだが、時間が合えばどうだ?」
その物言いは、仕事もある私への配慮が混じったもので、何もおかしいところはない。
が、どうしてか私の胸に引っかかるものがあった。
理由は分からないが突然魔王城でこの子を引き取ると言ったことといい、
まるで——そう、一人でこの子の"親"をやろうとしているような。
その態度は他の皆に対するものと同じく子育ての協力者へのもので、
仮にも"まま"である私と負担を分担しようという気配はなかった。
そのことと、もう一つ気になることのせいで頼りない返答になる。
恵美「私は、勿論いいんだけど……」
漆原「佐々木千穂はそれでいうわああっ!」
言いづらいことをあっさり言ってのけた押入れの主を、ベルがふすまを叩いて黙らせる。
そう、千穂ちゃんにしてみれば、私と貞夫が正式に付き合ったのならともかく、
否応なしにそういう扱いになっている現状には認めがたいものがあるかと思うのだが……
千穂「私もそれがいいと思います」
そう言った彼女は、思いの外、曇りのない笑顔だった。
千穂「アラス・ラムスちゃんの件がどうなるか分からないですけど……」
千穂「とりあえず今は、全部終わったときに納得できるように頑張りましょうよ」
貞夫が彼女を見る。
……何か、二人の中で話し合いでもあったのだろうか?
ともあれ、彼女が言い切ったことで結論は出た。
貞夫と予定を照らし合わせた結果、遊びに行けそうなのは五日後の日曜日。
私は午前に仕事があるが、昼から三人で待ち合わせることにした。
自宅に戻り、ソファに倒れこむ。
アラス・ラムスの今後、貞夫の態度、そして思いがけず決まった……
子供連れではあるが、初めての彼とのデートのことで、頭がパンクしそうだった。
恵美「……美容院とか行っとこう、うん」
髪を払ってそんなことを呟いていると、突然鳴り響くバッグの中の電話。
慌てて取り出す。
恵美「も、もしもしっ!」
エメラダ『あ〜、もしもし〜? エメラダです〜』
電話の主はエメラダだった。そういえば、刺客の件で忠告してくれたきりだ。
ベルやサリエルのことを掻い摘んで報告する。
最初は警戒の色を見せた彼女も、概ね納得してくれたようだ。
恵美「で、用はその話だったの?」
エメラダ『あ〜そうだ〜、それもありましたけど〜、ちょっと聞きたいことあったんです〜』
エメラダ『ライラ、そっちに行ってませんか〜?』
恵美「へ?」
それは、未だ顔も知らない、天使である母の名前だった。
その名を知ったのは、オルバの件でエメラダとアルバートが日本に来るとき、
異世界に渡れる天使の羽根を使った羽ペンを母が彼女達に預けた、ということを聞いたときだ。
正直、たとえ道ですれ違っても分からない。
恵美「ちょっと待って、あなたお母さんと一緒に暮らしてたの?」
エメラダ『暮らしてるというか……その、エミリアに言うのはちょっとアレなんですけど〜、ぶっちゃけタカられてたというか〜』
恵美「あ……そぅ」
一体どんな人なんだ、私の母は。
……お母さん、か。
ふと連想されて、アラス・ラムスについて何か分からないか聞いてみた。
だが芳しい答えはなく、通話を終えた。
翌日の仕事後、私は幡ヶ谷を訪れていた。
電話でも良かったが、一度貞夫と顔を合わせて聞いてみたいことがあったのだ。
マグロナルドの近くで待機し、客の列が途切れたタイミングを狙って店に入る。
千穂ちゃんはいないことを確認し、レジに立つ貞夫に向かって歩いた。
恵美「持ち帰りで、バニラシェイク一つ」
真奥「かしこまりました。……で、何だ? わざわざ」
私が単に寄っただけでもないことは分かっているだろう、怪訝な顔の貞夫が口調を崩す。
恵美「……大したことじゃないかもしれないけど、ちょっと聞きたくて」
恵美「どうしてアラス・ラムスを引き取ることにしたの?」
最初にベルが言い出したとおり、彼女に預けるのが自然だったはずだ。
どうしてその気になったのか。
恵美「千穂ちゃんに聞いたわ、あの子の養育費を稼ぐためにシフト増やしてるって」
言ってしまえば正体不明の謎の少女のために、何故そうまでするのか。
真奥「念のためさ。そこまで拘ってるわけじゃない。本当の親がもしいるならすぐ引き渡すよ」
真奥「ただ、確証はないんだが……ちょっと気になることがあってな、それでだ」
そう平然と言う彼に、何が気になるのか、とは聞けなかった。
それなりに彼と付き合ってきて分かったことだが、彼は基本的に、あまり人に相談というものをしない。
私が敵だったからかとも最初の頃は思ったが、どうやらそれは長年の部下である芦屋なども同じらしい。
ただ自分の決めたことを話し、余計なことは話さず、そして実行する。
なるほど、芦屋のように部下ならばそれで付いてくるのかもしれない。
だが私はそれだけではない……それで納まりたくはない、と思っているのだ。
真奥「まあ、お前の気にすることじゃねぇよ」
彼としては、私に負担を与えないよう言ったのだろうその一言は、しかし私には捨て置けない言葉だった。
恵美「……気にするわよ。だって」
恵美「あの子の親はあなただけじゃない、私だってそうなんだから」
恵美「母親なのよ!? 父親面するなら、一人で抱えないでもっと頼ってよ! ちゃんと話してよ!」
思わず叫ぶように言う。
自分でも驚いたその大声に、貞夫が目を見開いた。
私を傷つけたことに思い至ったのだろう、彼が神妙な顔をする。
貞夫「……悪かった」
恵美「……うん」
静かな声の謝罪に、私も落ち着いて返した。
そのとき、
木崎「お待たせしました、お持ち帰りのバニラシェイクです」
真奥「っ!?」
気づけば、持ち帰り用の袋を持った店長さんがいた。
その表情は店員として文句のつけようもない笑顔だ。とりあえず、表情は。
恵美「あ、ど、どうも……」
すっかり忘れていたが、ここは店内だ。
見れば後ろのほうで店員達がざわざわと話し合っている。
——三角関係——佐々木さんは——待てよ、認知は——やだ、鬼畜——
そんな穏当でない単語が漏れ聞こえた。
そういえば、昨日千穂ちゃんとベルがアラス・ラムスを連れてここに遊びに来たとか言ってたような。
……まずいことをしただろうか?
木崎「申し訳ありません遊佐さん、真奥を少々お借りしても?」
あくまで客の立場である私に店長さんが言う。
恵美「あ、はい、……あの、すみませんでした。もう私は帰りますので」
木崎「恐れ入ります。……まーくん。奥へ」
それだけ言って、彼女は歩き出す。
魔王の威厳などまるで感じさせない、青ざめた貞夫もその後を続く。
……あとで謝っておこう。
それだけ考えて、店員達の奇異の目から逃げるように店を出た。
***
その日を含めて四日間のうち、魔王城へ足を運んだのは二度だった。
貞夫やアラス・ラムスと何でもないような話をし、夜が深まる前に帰る。
行かない日はやはり電話で話をした。
残った時間は、日曜日の準備にあてた。
今度の遊園地はアラス・ラムスを楽しませるためという目的に加えて、
ついに訪れた貞夫とのデートらしいデートなのだ。
美容院に行き、服や装飾品を買い揃えた。
幸いアラス・ラムスも日曜を楽しみにしているらしく、毎日行かずとも夜泣きはしていなかったようだ。
そして、日曜日がやってきた。
仕事を終え、今は昼の十三時近く。
後楽園駅の改札前で貞夫達を待っている。
今日の私は余所行きの格好に髪も纏め、ネックレスを付けている。
一度会社から帰って着替える時間はないのでこの格好で会社に行ったが、梨香に随分からかわれたものだ。
……私だけ気合を入れて、彼がまさに休日のお父さん然とした普通の格好だったらどうしよう。
そんな不安を抱きながら待っていると、近づいてくる子連れの姿。
アラス・ラムス「まま!」
真奥「よ。待たせたか」
ワンピース姿のアラス・ラムスと、……いつかの千穂ちゃんとのデートのときのように、めかしこんだ貞夫だった。
恵美「元気だった、アラス・ラムス? ……そんな服、持ってたんだ?」
貞夫に言うと、彼は自慢げに応えた。
真奥「買った。芦屋は少し渋ったがな。デートに全身ユニシロは駄目だって前に言ったのはあいつだ」
その返答に、胸が熱くなるのを感じた。
恵美「デートだって、思ってくれたんだ?」
真奥「まあ、そりゃな」
アラス・ラムス「まま、あたしも! あたしもでぇと!」
意味も分かっていないだろう言葉を繰り返すアラス・ラムスの手を握る。
恵美「うん、そうね。それじゃあ、三人でデートしましょうか」
アラス・ラムス「うん!」
彼女のもう片方の手を貞夫が握った。
アラス・ラムスがご機嫌そうに満面の笑みを浮かべる。
釣られるように私達も笑いながら、三人で歩き出した。
東京ビッグエッグの外周を囲むような形の東京ビッグエッグタウン。
まずはその中のショッピングビル・ラグーンに向かった。
強い日差しへの対策として、アラス・ラムスに帽子を買ってあげるためだ。
真奥「……なあ、買うのはいいけど、帽子なんかユニシロでいいんじゃねぇのか?」
恵美「たまには他の店も見てみなさいよ。アラス・ラムスがあなたみたいな貧乏性に育ったらどうするの」
アラス・ラムス「ぱぱ、びんぼう?」
真奥「やめてくれ、なんか辛いからやめてくれ! 分かったから!」
ぶつくさ言う彼を宥めながら、帽子と、ついでに子供服を色々と合わせてみる。
子供はすぐ大きくなるし大きめのほうがいいのかしら……などと考え、
果たしてアラス・ラムスは成長するのか、そもそもそれまで彼が保護するのか気になった。
恵美「……ねえ、養育費稼いだりしてるけど、ずっと育てることに決めたわけ?」
真奥「さぁな。もしかしたら嫁に出す日まで世話しなきゃならねぇかもしれねぇ」
嫁って。
帽子を選びながら、どう考えても十数年は先の話をする彼の言葉に疑問が浮かぶ。
具体的に今後の話をしたことはないが、彼はいつエンテ・イスラに戻るつもりなのだろう。
恵美「残してきた部下とか心配にならないわけ? 今頃貞夫がいなくて大変なんじゃ……」
真奥「ああ、それに関しては、もう諦めてる」
彼は、あっさりと言ってのけた。変わらずアラス・ラムスと帽子を選びながら。
こちらを振り向いて、子供に諭すように続けた。
真奥「お前の仲間や鈴乃がほいほいこっちに来てるのがどういうことか考えたことないか?」
真奥「一年は、ちっと長すぎたな。エンテ・イスラに攻め込んだ魔王軍の残党なんざ、とっくに根絶やしにされてる」
真奥「そうでなきゃ人間世界の最重要戦力のあいつらが、呑気に異世界旅行してるはずがない」
……それは、言われてみれば当たり前のことだった。
エメラダに聞く近況も、国や教会の話ばかりで、悪魔の話など出なかった。
恵美「……でも、それじゃ、貞夫が帰っても……」
思わず口ごもる。
勿論私としては武力での世界征服など認めるつもりはなく、戦力不足の心配をしているのではないが、
向こうに帰ったとき貞夫を待つ者が誰もいないのなら、貞夫は何を思うのか。
彼はそんな私の頭を、コツンと軽く叩きながら言った。
真奥「お前はもうちょい想像力を働かせろ」
真奥「お前ら人間が戦争するとき、国民が一人残らず一つの戦場に出向くか?」
言って彼は、アラス・ラムスの選んだ麦わら帽子をレジに持っていった。
購入した帽子を満足気に被るアラス・ラムスを、笑って褒めている。
……魔界には、同胞が残っているということだろうか?
しかしそれにしたって、エンテ・イスラにいる部下が大勢死んだのは変わらない事実だ。
こんなとき、どうしようもなく私は人間で、彼は悪魔だということを痛感させられる。
魔界や悪魔のことを、私は未だにほとんど知らない。
だから彼が何を考えているのかも分からず、彼と私の常識にどれほどの齟齬があるのかも分からないのだ。
いつか、彼の全てを知ることができるときが来るのだろうか。
昼食を食べたり、メリーゴーラウンドに乗ったりした——なお、娘と共に喜んでそれに乗る魔王がいた——末に、
私達は土日祝日に行われるヒーローショー会場の席に座っていた。
魔王城にテレビなどないためアラス・ラムスが戦隊ヒーローを好きかどうかも分からないが、
その手にした色とりどりの風船のように、カラフルなものを好む傾向かあるそうだ。
ステージに煙と花火が舞い散り、どうやら忍者がテーマらしい五人のなんたらジャー達が現れる。
真奥「へぇ、結構高いとこから降りるんだな!」
言ってはしゃぐ魔王である。
楽しそうなのは結構だけど、ことによると娘より父親のほうが楽しんでるんじゃないかしら……
そんなことを思い、ふと私達の間に座るアラス・ラムスに目を向けてみると、
恵美「……アラス・ラムス?」
それで貞夫も異常に気づいたようだ。アラス・ラムスを見る。
アラス・ラムスは普段の豊かな表情が嘘のように無表情で、何事かを呟いている。
アラス・ラムス「ぱぱ、あれ、せひおと」
真奥「なんだ、どうした?」
アラス・ラムス「きから、みんなおちちゃった。ままがあたしをつれて、にげた。まるくとももういない」
一体何の話なのか。
疑問に思ったとき、再びの変化。
アラス・ラムスの額に、瞳と同じ紫色の、三日月の紋様が浮かび上がった。
咄嗟に貞夫が帽子を深く被らせて、それを隠す。
恵美「……何、それ」
真奥「……お前気づかなかったのか。一番最初、こいつがアパートに現れたときも、同じ紋様が出てたんだよ」
何が起こっているのかは定かではないが、ひとまずここに居続けるのは良くないように思われた。
アラス・ラムスを抱きかかえ、人混みをかき分けて会場の外に出る。
冷房の効いたラグーンに入り、ベンチに座った。
恵美「貞夫、何か冷たいもの買ってきて!」
乳児用の経口補給液は持参しているが、冷やしてあげたほうがいいかもしれない。
貞夫が慌てて自動販売機を探して走り去る。
……この子に何が起きているのだろう。
名前を呼ぶが返事がない。
熱中症の類ではなさそうだが、熱に浮かされたように虚ろな目で未だぶつぶつと何事か呟いている。
「大丈夫?」
見上げると、白のワンピースに帽子の、見知らぬ女性がこちらを見ていた。
恵美「あ、はい、大丈夫です。ちょっと気分悪くなっちゃったんだと……」
アラス・ラムス「……まま?」
そのとき突然、アラス・ラムスが声を上げた。
瞳は未だ虚ろだ。
恵美「ここにいるわよ。大丈夫?」
アラス・ラムス「うん……」
アラス・ラムスの額を帽子で隠しながらも、一瞬思った。
——この子が今呼んだのは、私なの?
その僅かな思いはすぐに掻き消えた。
目の前の女性が、アラス・ラムスの頭の上に手をかざしたのだ。
恵美「な、何をするんですか」
女性「黙ってて、すぐ済むから」
その手——左手の薬指には、紫色の宝石がはまった指輪。
光るそれに気を取られた瞬間、
アラス・ラムス「……う……う!? ん? う? あれ? ぱぱ?」
アラス・ラムスが、何事もなかったかのように起き上がった。
その額に、紋様は既になかった。
アラス・ラムス「あ、ままわぶっ!」
彼女をかばうように抱える。
……何が起きたかはさて置き、この女性が常人ではないことは確かだ。
女性「そう警戒しなくて大丈夫よ。私はあなたの敵じゃないわ」
女性「そしてその子の敵でもない……。アラス・ラムス、よく無事に育ってくれたわね」
この女は、この場で一度も呼んでいないその名を呼んだ。
恵美「何故、その名を……」
女性「知ってるわ。大事な名前だもの」
言いながら彼女は微笑んだ。
このタイミングで、天使絡みと思しきアラス・ラムスの正体を知っているかのような女性。
エメラダとの電話で出た、天使の名前を思い出す。
それを問いただす前に、彼女はその顔を真剣なものに改めた。
女性「気をつけなさい。多分今ので、その子の額のイェソドの欠片の存在に気づかれてしまった」
女性「その子の敵は、きっとやってくる。ガブリエル麾下の天兵連隊が、動いているわ」
恵美「イェソドの、欠片? ガブリエルって……待って、まさかあなた……」
真奥「おーい、恵美! 買ってきたぞ!」
そのとき、飲み物を抱えた貞夫が駆けてきた。
そちらに反射的に目をやった瞬間、
アラス・ラムス「まま……」
恵美「!」
女性は、消えていた。
真奥「自販機がすぐ見つかって良かった。これ……ん? あれ、アラス・ラムス、気づいたのか」
アラス・ラムス「ぱぱ、おかえりー」
真奥「あ、お、おう、なんだぁ? 無駄足か。いや、良かったけど、でもどうしたんだよ」
アラス・ラムス「なにがー?」
怪訝な顔の貞夫と、何事もなかったかのようなアラス・ラムス。
さっきの女性の姿は見なかったのだろうか。
その光景を見ながら……最早、黙っているわけにはいかないと決心した。
私達は、一周約十五分という大観覧車に乗り込んでいた。
私と貞夫は向い合って座り、アラス・ラムスは窓に張り付いて外の風景に夢中だ。
恵美「……今度こそ、ちゃんと話してもらいましょうか。何でこの子を引き取ったの」
恵美「さっきのおでこの月の紋章、なんなのか知ってる風だったわね。隠さず教えてもらうわ」
真奥「あー、そのぉ……」
彼は言いづらそうに口をもごもごしているが、こちらも引く気はない。
アラス・ラムス「ままー、大きいの、あれなにー?」
恵美「ん……東京スカイツリーよ」
真奥「あんなもんがあるせいで、テレビ買うだけじゃ何も見られなくなっちまうんだよな」
恵美「ごまかさないで」
真奥「……はい」
冷たく言うと、彼が縮こまる。
ため息を一つついて、懇願した。
恵美「……お願い、話して。さっき私の前に現れた女は、この子の敵が来ると言ってた」
恵美「私は……仮にも、この子の母親よ」
恵美「この子と、それにあなたを守りたいの。除け者になんてしないで」
ゴンドラが登っていく。
貞夫は外を見るアラス・ラムスの背中に目をやってから、観念したように語り出した。
真奥「……昔、人から預かったんだよ。まだ俺が魔王どころか、ゴブリンに毛が生えた程度のクソガキだった頃にな」
それは、私が初めて聞く、彼の昔話だった。
かつての魔界は、違う種族同士で出会えば殺し合う、そんなところだったという。
その中で彼の一族は弱かった。
偶然出会った、たった一匹の悪魔に、彼の両親も含めて全滅させられるような。
彼自身も虫の息となった。
真奥「ところが、小汚い悪魔のクソガキの命を気まぐれに拾った奴がいたんだよ」
真奥「俺は、そのとき初めて天使って奴に会った。見たこともない真っ白な翼だった」
その天使は、虫の息ながら歯向かう貞夫を殺すでもなく、何度も会いに来て、色々な話をしたという。
傷が癒えるまでそうそう動けない貞夫はそれを否応なしに聞き続け、やがて一つの質問をした。
何故自分を助けたのか、と。
その理由は、
真奥「……泣いてたんだとさ、俺が。泣いてる悪魔なんて初めて見たから、ほっとけなかったんだと」
恵美「泣いてる理由は、なんだったの?」
貞夫が顔をしかめた。
どうも一連のこの話は、彼にとって苦い思い出のようだ。
視線をそらしながらぽつぽつと語る。
真奥「まあ、色々だ。別に親や係累の死が悲しかったとかじゃねぇ。強いて言えば……」
真奥「自分の弱さとか、自分があっさり死ぬ理不尽さとか、そんなもんに腹が立ってたからじゃねぇかな」
彼が外を見ているアラス・ラムスを抱きかかえた。
真奥「こいつは……こいつの元となったクリスタルは、その天使がいなくなった日に、残されてたもんだ」
真奥「三日月型をした、綺麗な紫色のクリスタルだった」
アラス・ラムス「やぁの、見てるのー」
さっきこの子の額に浮かんだ紋様が、それを想起させる形だったのだろうか。
真奥「『世界をもっと知りたいと思ったら、この種子を植えて育ててみて。がんばれ、大魔王サタン』」
真奥「……あいつが残した書き置きだ」
その"文字"という概念も、その天使から教わったものだという。
かくして天使から得た様々な知識をもとに、彼は魔界を統一した。
そして……これすらもその天使から教わったこと。
"人間が住む世界がある"、その話をもとに侵攻したエンテ・イスラに建てた魔王城で、
彼はそのクリスタルを鉢に植えた。
真奥「俺は生粋の魔王なんかじゃない」
サタン、とはもともと神話よりも昔の時代の、伝説上の大魔王の名だという。
それにあやかってか、サタンという名の悪魔などありふれていたそうだ。
ただのサタンだった彼の覇道は、その天使に魔王と呼ばれたことで始まったのだ。
真奥「ま、とにかくそういう理由でな」
真奥「確かに俺は、あの紫色のクリスタルがアラス・ラムスの姿になる片棒を担いだって意味では、親父なんだろうさ」
なるほど、アラス・ラムスが「ぱぱはサタン」と名指ししたのも納得がいく。
……ならば、"まま"は?
様々な感情が胸を駆け巡る。
貞夫が元は一人の弱小悪魔だったということや、アラス・ラムスの出生についても驚いたが……
このタイミングで姿を消した母、さっきの謎の女性、貞夫を救った天使。
その天使の持っていたクリスタルから生まれたアラス・ラムスが私を"まま"と呼ぶ意味。
恵美「その天使って、誰なの」
ごちゃ混ぜになった気持ちから出てきたその言葉は、
真奥「……お前の知らない奴さ。それよりさっき、アラス・ラムスはなんで元に戻ったんだ」
あからさまにごまかされた。
……まあいい。そこを今掘り下げる意味はない。ただの私個人の感傷に過ぎないのだから。
それよりもアラス・ラムスを守ることを最優先するため、話に乗った。
恵美「全身白い服を着た、女の人が治してくれたのよ。手をかざしただけでね」
恵美「こう、その人の指輪が光ったと思ったら急に……」
真奥「指輪ってどんなだ」
恵美「なんの変哲もない指輪よ。紫色の宝石が嵌まってた気がするけど……」
真奥「……それは思い切り、変哲があるだろうが。他に何かないのか」
あれ、何故だろう。貞夫が頭を抱えた。
恵美「あとは、ガブリエルの天兵連隊とか、イェソド? とかいうのの欠片がどうとか痛い!」
頭にチョップを食らった。
何を理不尽な、と顔を上げてみれば、彼はいつになく困惑した様子でうずくまっている。
恵美「な、何よ、いきなりどうしたのよ」
真奥「これだから最近の若いもんは……あのな、イェソドって言ったらお前……」
アラス・ラムス「ぱぱ、なぁに?」
それまでずっと外の風景に夢中だったアラス・ラムスが、その言葉に反応した。
真奥「なぁアラス・ラムス。これ、なんだ?」
言いながら彼が指さしたのは、アラス・ラムスの持っている沢山の風船の中の赤いもの。
アラス・ラムス「げぶら」
彼女は迷いなく答えた。
貞夫が次々と風船を指さし、アラス・ラムスはそのたび訳の分からない単語を口にする。
てぁれと、まるくと、けてる。
最後に貞夫が紫の風船を手に取る。
真奥「じゃ、これは」
アラス・ラムス「あたし、いえほど」
真奥「……そっか、偉いな、ちゃんと言えたな」
アラス・ラムス「えらい? えへへー」
恵美「あの……貞夫?」
呼びかけると、彼は少々疲れたような目をしていた。
真奥「……ゲブラー、ホド、マルクト、ケテル、そんでイェソド。全部、セフィロトの樹に生る世界組成の宝珠セフィラの名だ」
真奥「アラス・ラムスは、イェソドのセフィラの化身かもしれん」
貞夫「ふう、外はあちぃな」
アラス・ラムス「むふー」
二人に続いてゴンドラを降りた。
エアコンの効いたゴンドラから出ると、殊更暑く感じる。
あんな話をしておいて、地上に降りればそこは平和な遊園地なのだから、なかなか気持ちの切り替えも難しいものだ。
係の人が、台紙に挟まれた写真を見せてくれた。
ゴンドラに乗る前に三人で撮ったものだ。
アラス・ラムス「おおー!」
アラス・ラムスは初めて見る写真というものに感動しているようだが、
少し硬い笑顔になってしまっている自分が悲しい。
……でもまあ、いいか。
真奥「むむ……これで千円か……」
アラス・ラムス「ぱぱ、ぱぱ、これ、これ!」
結構な価格に唸る貞夫と、それをつゆ知らず欲しがるアラス・ラムスを横目に、二千円を取り出した。
恵美「二冊ください」
受け取った一つを自分のバッグにしまい、もう一つをアラス・ラムスに手渡した。
アラス・ラムス「わぁ!」
喜んでくれたようで何よりだ。
アラス・ラムスの分は払おうというのか、財布を取り出す貞夫を手で制した。
恵美「いいわよ、別に。初めての写真なんだし、母親が子供に物を買ってあげるのは当たり前でしょ」
そう、私は母親だ。
たとえ本当の"まま"がいたとしても、アラス・ラムスがどんな存在でも。
その意地が伝わったか、貞夫は私には何も言わなかった。
真奥「ほら、アラス・ラムス、ままにありがとうは」
アラス・ラムス「ありがとまま!」
笑って頷き、再び三人で手を繋いで歩き出す。
まだ夕方前だ。
甘いかもしれないが、せめて今日は、このまま幸せな一日を過ごせれば——
その思いを、私と貞夫にかかってきた電話が中断させた。
真奥「おいおい、客が来てるなんて聞いてねぇぞ?」
ガブリエル「やー、彼らを責めないでやってよー。君たちのことを考えて電話してくれたんだからー」
軽い口調で、話し合いをしようと持ちかけてきたその巨漢は、
貞夫のガブリエルかという問いに肯定した。
目の前には異様な光景。
ガブリエルの他に、ベルの喉元に剣を突きつけた男が一人と、漆原を囲む男が三人。
こいつらが天兵連隊とやらだろうか。
よくもまあこれで話し合いなどと言えたものだ。
鈴乃から私へ、漆原から貞夫へ来た電話は、東京のどこかでゲートが開いたというものだった。
その警告に慌てて帰ってみればこれだ。
どうやら私達より早くガブリエル達が魔王城に来たらしい。
芦屋の姿がないが、出かけているのだろうか。
ガブリエル……イェソドのセフィラの守護天使。
それが真実ならば最初から懸念していた、アラス・ラムスの"本当の保護者"にあたる存在だ。
だが、アラス・ラムスは奴を警戒するように貞夫の後ろにしがみついている。
ガブリエル「君の後ろに隠れてる子と、できたらエミリアの聖剣頂戴」
ガブリエル「あと、ルシフェルが注文したピザキャップのピザ、皆で食べちゃった。ごめん」
真奥「お前はこの期に及んで何してんだ!」
切れた貞夫に、敵に囲まれてもぼけっとしていた漆原が竦んだ。
……こいつといいサリエルといいガブリエルといい、本当、天使はふざけた奴しかいないのだろうか。
お母さんまでそうだったらどうしよう。
真奥「おい、アラス・ラムス。あのおじさん、知り合いか? お前を連れていきたいらしいんだが」
アラス・ラムス「いや! だいっきらい!!」
アラス・ラムス「まるくとも、けてるも、びなーも、こくまも、みんなつれてっちゃった! だいっきらい!」
ガブリエル「ああもぅ、余計なこと言わないでよー」
頭を抱えるガブリエルだが、これで私と貞夫の肚は決まった。
この子が嫌だと言うところに行かせるつもりなど、ない。
ガブリエル「えー……じゃあ聖剣……」
恵美「お断りよ。それとも、あなたもサリエルみたいにセクハラで何とかしてみる? 変態」
サリエルの具体的な所業は知らなかったのか、変態呼ばわりにガブリエルが眉をひそめる。
めんどいよーとぶつくさ言ってから奴は続けた。
ガブリエル「……聖剣は、まぁ、サリエルが手ぇ出せなかったくらいだから、在り処が確認できただけで今はいいよ」
ガブリエル「でも、その子はそういうわけにはいかないの。お願い、帰して」
真奥「却下だ」
ガブリエル「もともとうちの子だよ?」
真奥「今は俺が親だ」
不毛なやり取りの末、嘆息したガブリエルは、
ガブリエル「……めんどいなぁ、もう。本当は、嫌なんだからね?」
凄まじい聖法気を放射し、気づけば貞夫の目の前に立っていた。
思わず仰け反る。
ガブリエル「力ずくって、本当嫌いなんだよ。降参するなら認めるから、いつでも言って」
ガブリエル「君が魔王の力を取り戻しても、多分僕なら勝てちゃうよ? だから、頼む。その子帰して?」
つくづく有難いそのお言葉は、おそらく、本当だろう。
かつてエンテ・イスラで対峙した全盛期の貞夫。
奴の威圧感は、それを凌駕しているように感じた。
貞夫もそれに驚いた様子だが、恐れはしていないようだ。
不敵な顔で勝ち目のない喧嘩に乗ろうと、口を開こうとする。
だが、そこに口を挟んだ。
恵美「やめなさい。無意味よ」
この場の全員が、怪訝な顔でこちらを向いた。
自分の胸に手を当てている私を。
恵美「貞夫に傷一つ付けてみなさい。この場で"天銀"ごと私が死ぬわ」
真奥「……恵美! ふざけんな!」
口角泡を飛ばし叫ぶ貞夫と、呆気にとられたガブリエルの様子に少々溜飲が下がる。
いい加減、苛ついていたのだ。
たった一人で父親面する貞夫にも。
どんな理由か知らないが、アラス・ラムスを無責任に送って寄越しただろう"まま"にも。
くだらない横槍を出してくる天使どもにも。
そして、ここに至るまではっきりと覚悟を決められなかった自分にも。
ガブリエル「……ん? あれ? 君、勇者だよね? 魔王がどうにかなって何か困るの?」
恵美「あら、サリエルから聞いていない? 今の私は、アラス・ラムスの母親にして」
この言葉を使うには些かの躊躇いがあったが、一息ついて言い切った。
恵美「魔王サタン……貞夫に惹かれた女よ。彼がアラス・ラムスの父親なら、夫婦ということになるわね」
今度こそガブリエルは完全に戦う気概を削がれたようだ。
貞夫を含め、他の全員もぽかんとしている。
……いや、漆原はニヤついていた。後で制裁だ。
ハッタリではあった。
実際のところ私が死んだら体内の"天銀"がどうなるのか知らないし、
アラス・ラムスが手に入るなら聖剣などいらん、なんて言われたらどうしようと思っていたが、
どちらも奴らにとっては捨て置けないものなのだろう、ガブリエルは素直に苦い顔をしている。
アラス・ラムス「……まま?」
恵美「大丈夫よ、アラス・ラムス」
死ぬという言葉に不穏なものを感じたのだろう、不安げに私を見つめるアラス・ラムスを、膝をついて抱きしめた。
そしてガブリエルを睨む。
恵美「ふざけないでよ、あなた達。せっかく家族で楽しく遊んでたら、こんな……こんなことしてきて」
そう、家族なんだ。
お父さんを喪って以来、やっとできた大事な大事な二人の家族。
恵美「ずっと放っておいたくせにいきなり出てきてアラス・ラムスの嫌がることをして、貞夫も傷つけようとして」
威勢よく啖呵を切ってやるつもりだったのに、
腕の中の暖かい存在感がそうさせるのか、声が力を失っていく。
恵美「やめてよ……せっかくできた家族なのに、何でそっちの勝手な都合でかき回すの」
肩が落ちる。
その両肩に、同じく屈んだ貞夫が手を置いてくれてますます力が抜けていくのを感じる。
恵美「お願いだから、私の家族を傷つけないで……!」
俯いて視界に入る畳に雫が零れて、自分が泣いていることが分かった。
声が震えている。
アラス・ラムス「まま、まま! ないちゃやーの!」
釣られてか、こちらも涙目になっているアラス・ラムスに励まされて、逆に涙が止まらなくなった。
強く、強くこの子を抱きしめる。
泣いたことなんてほとんど記憶にないのに、貞夫に出会ってからは何度泣いただろう。
私は本当に、勇者なだけだった頃よりも弱くなったんだなぁ、とぼんやり思った。
結局戦いどころじゃなくなった私達三人の前に立っているガブリエルは、
ガブリエル「ちょ、ちょっとやめてよ! 勘弁してよ!」
何故か思い切り動揺していた。
ガブリエル「これ明らかに僕一人が完全悪者じゃん! お母さんを泣かせて娘を攫うとかどんだけ外道なの!」
実際その通りだろう、と睨みつけようとするが、泣いているままなので弱々しい視線になってしまったようだ。
それに晒されたガブリエルがうめき声を上げる。
ガブリエル「あああああもう! ……明日までだっ!」
取り巻きの天兵連隊が驚きの声を上げるがガブリエルは取り合わず、こちらに向けて言葉を続けた。
ガブリエル「言っとくけど、僕にだって事情はあるんだからね! だから、明日朝一番になったら絶対迎えに来るかんね!?」
ガブリエル「それまで記念撮影でもなんでもやってりゃいいさ! でも、逃げられるなんて思うなよ!」
そう宣言して、部屋を出る。天兵連隊も遅れて同様に。
少しして聞こえる悲鳴と落下の音。
どうやら五人揃ってあの錆びた階段から落ちたらしい。
そうしてとりあえず危機は去った。
……本当に、とりあえずだが。
出かけていた芦屋、それに今日も様子を見に来てくれた千穂ちゃんが揃い、魔王城にて対策会議が始まった。
天界にあるという"世界の全てを世界たらしめている樹"、セフィロトの樹。
それに生る十個の実、セフィラはそれぞれ、世界の様々な要素を司っているという。
そのうち第九のセフィラ"イェソド"の欠片が、今までの話からするとアラス・ラムスであるらしい。
つまりイェソドの守護天使であるガブリエルは、世界を支えるセフィラの一部である
アラス・ラムスを連れ帰る、言ってみれば世界の危機を救おうとしているということになるのだが、
鈴乃「アラス・ラムスがいなければ世界が危うくなるなどという事態は、私は無いと思っている」
主に千穂ちゃんに向けてその事情を解説したベルの結論はそれだった。
あくまで今の話は聖典や神話に基づくもので、本当に木の実一つが世界を揺るがすかどうかなど、人間は誰も知らないのだ。
……漆原辺りは堕天前に事情を知っていてもおかしくないのだが、頼りない様子で話を聞いているだけだった。
まあ、所詮漆原だ。
鈴乃「……だが、いずれにしろ、天界や天使が存在することだけは間違いないし」
鈴乃「向こうがイェソドの欠片を取り戻したがっているとなれば、今の我々に抗う術は無い。まったく、理不尽だ」
そう、現実的な問題はそこだった。
ガブリエルの実力は確かで、今の弱体化した私と、仮に漆原やベルが一斉にかかっても果たしてどうにかなるものか。
サリエルのときのように無理やり撃退したところでアラス・ラムスは察知されるのだから、また来るだけだ。
まさかあいつまで木崎店長に惚れて使命を放棄するほどの馬鹿でもあるまい。
勝ち目が見えないわけではない。
貞夫と芦屋に漆原が全盛期に近い力を取り戻した上で全員でかかれば、あるいは。
しかしそれは、大勢の人間に負の感情を与えるということだ。
そんな手段を貞夫は選ばないし、私も選ばせはしない。
真奥「恵美、とりあえずさっきの手はもうやめろよ。次は通じないし、……こっちが心配する」
恵美「……うん。ごめん」
聖剣とアラス・ラムスを天秤にかけさせたハッタリは、所詮不意打ちのようなものだ。
ガブリエルがその気になれば、一瞬で貞夫を殺して私達を連れ去ることも可能だろう。
真奥「おい、アラス・ラムス」
アラス・ラムス「なーにぱぱ」
真奥「さっきのおじさんは、お前をおうちに連れ帰りたいらしいが、行きたいか?」
アラス・ラムス「や!」
その短い、しかしはっきりとした否定で、貞夫の中で結論は出たらしい。
真奥「よし、話し合い終了。明日奴らが少しでもアラス・ラムスが嫌がることしたら徹底抗戦だ」
あっさりと言ってのける彼に突っかかる。
恵美「抗戦、の余地はほとんどないってことは分かってるわよね?」
真奥「ああ。だからいざとなったら俺一人でやるさ」
恵美「ふざけないで」
何か勝ち筋を考えているのかどうかも分からない平然としたその言い様に、またも腹が立った。
順当に行けば貞夫は死ぬか、良くても傷つけられ、アラス・ラムスは連れ去られる、それで終わりだ。
似た思いを抱いたのだろう、他の皆も抗議の声を上げる。
鈴乃「魔王! 貴様それでいいのか!」
千穂「真奥さん!」
芦屋「……魔王様、それではあまりにも……」
漆原「……僕は……まぁ、別に、どっちでもいいけど、最近押し入れも悪くないかなって思いはじめたところだから、調子狂うな」
千穂ちゃんや従順な部下である芦屋は勿論、あの漆原ですら、そして敵であり聖職者であるベルもこの言い様だ。
つまり、
恵美「皆、アラス・ラムスが好きなのよ」
この子が魔王城に来てほんの数日だが、その間に誰もがこの子を守りたいと思うようになったのだ。
恵美「あなたはもっと人に頼ることを覚えなさい。皆や……私を、馬鹿にしないで」
五つの視線に晒され、参ったという風に彼は手を上げた。
真奥「分かった、分かったよ。……悪かった」
そして彼は私を見て、言った。
真奥「じゃあ、今日は泊まってけ。恵美」
恵美「……まさか、諦めてアラス・ラムスの思い出作りしようなんて意味じゃないでしょうね」
真奥「それもあるが、それだけじゃねぇよ。どっちみち今日は鈴乃の部屋に泊まるつもりだったんだろ」
アラス・ラムスを抱っこしながら聞く。
魔王城には、私と貞夫、それにアラス・ラムスの三人だけだった。
危険に巻き込むわけにはいかない千穂ちゃんは帰宅させ、
芦屋と漆原はベルには悪いが彼女の部屋に泊めさせてもらった。
親子水入らずの状態だ。
真奥「明日ガブリエルがいつ来るか分かんねぇし、アラス・ラムスを守ってくれよ。頼む」
そこは言われるまでもない。
だが肝心の奴を撃退する方法は「何とかする」としか言わない彼だった。
真奥「親らしく子供のために命を賭けるだけだな。ま、あんま心配すんな」
恵美「……その自信はどこから湧いてくるのよ」
真奥「根拠なんかねぇよ。でも不思議なもんで、アラス・ラムスのためならなんだってできそうな気がしてくるんだ」
そう言う彼の顔は、確かに不思議なほど泰然としていた。
真奥「俺や魔王軍の侵攻で死んだ奴らだって、きっとテメェのガキを助けるためなら最後まで諦めずになんだってしただろうさ」
真奥「なら、魔王の俺に、命張ってガキ守るくらいのことができねぇはずがねぇ」
そんな自傷するようなことを言う。
恵美「……やめてよ、そんなこと言うの。まるで……」
死を覚悟したみたいじゃない。
不安が表に出ていたのだろう、アラス・ラムスが心配そうに見上げてくる。
真奥「大丈夫さ」
私達を向いて、彼はそう言った。
アラス・ラムス「まま、ままここ!」
恵美「はいはい」
アラス・ラムスが興奮した様子で畳をびしばしと叩く。
今思い出したけど、この部屋に敷き布団ってないのよね。
畳に寝るんじゃ乳児の身体に悪影響が出そうだし、今度子供用布団を買いに行かないと。
……今度があれば、だけど。
時刻は二十二時前と、大人が寝るには早い時間だが、アラス・ラムスはもう寝なくちゃいけない。
豆電球だけ残して電気を消し、三人並んで横になった。
アラス・ラムスは両側の私達の袖を掴んでご満悦だ。
アラス・ラムス「ねーぱぱー、おはなししてー」
真奥「ん? お話か。ままのじゃなくていいのか?」
アラス・ラムス「ん……ままのはあした……」
少し眠くなっているらしいアラス・ラムスがそんなことをせがむ。
明日、か。
明日も三人で寝られれば、それに優る幸せはない。
恵美「お話なんてしてあげてたの?」
真奥「寝付けなかったり、寂しがって泣くときに、仕方なくな」
貞夫が優しくアラス・ラムスのお腹をぽんぽんとしながら、語りだす。
"お話"を。
真奥「ええと、怪我をした貧乏な旅人が、天使様に助けられたところからだったな」
——天使様は、旅人が聞いたことのないお話を、いっぱいしてくれました。
——旅人は、わくわくしながらそのお話を聞きました。
——ある日、天使様は、旅人にお守りを一つプレゼントしてくれました。
——旅人は天使様にもらったお話とお守りを大事に大事にしながら、また旅に出ました。
——お話とお守りの力で、旅人はやがて王様になって幸せに暮らしましたとさ。
途中でアラス・ラムスは眠っていたかもしれない。
語り終えると貞夫は、こちらに背を向けて寝そべった。
恵美「……ねぇ」
真奥「……あ?」
恵美「その旅人は、王様になった後、どうなったの? 故郷に帰ったり、天使を探しに行ったりはしなかったの?」
真奥「別に、こんなの適当な作り話だぞ。幸せに暮らしました、めでたしめでたしでいいじゃねぇか」
彼はこちらを向かない。
恵美「……どうして旅人は、王様になったのに、よその国を欲しがったの? 幸せで、めでたしめでたしのはずだったのに」
真奥「……」
恵美「……ねぇ」
少しの間が空いて、彼は早口で呟いた。
真奥「王様になって、きっと欲張りになったんだろ」
それきり彼は喋らず、わざとらしい寝息を立て始めた。
アラス・ラムスごと抱きかかえるようにして、彼の背中に縋りつく。
彼は動かず、変わらずに寝息を立てていた。
その旅人は、欲張りになった報いに、城も大勢の部下も失ってしまったのかもしれない。
けれど、旅人とそのお守りのことだけは、通りすがりの勇者様が守ってくれる。
そんな話で終わればいいなと、微睡みながら思った。
恵美「……う……」
目が覚める。
横には未だ熟睡する貞夫とアラス・ラムス。
当然だ、時計を見ればまだ五時にもなっておらず、陽も出始めたばかりでまだ薄暗い。
早く目覚めたのは戦いに備えて気を張っていたのか、貞夫と密着しての睡眠に緊張でもあったのか。
ぼうっとした頭でバッグを引き寄せ、ホーリービタンβを一気飲みする。
恵美「えっと、トイレ行って、顔洗って……」
未だぼんやりしたままのそっと立ち上がり、トイレのドアを見る。
……明かりがついてる?
続いて聞こえる、トイレを流した音。
一気に意識が覚醒した。
聖剣を顕現させるのとトイレのドアが開くのは同時だった。
そこから現れたのは、気持ちよさそうに出てくるガブリエル。
目が合った。
恵美「きゃあああああ!?」
ガブリエル「うわあああああ!?」
貞夫「うおっ!?」
アラス・ラムス「……ぱぱぁ?」
お互い叫ぶ。
その拍子に貞夫がびくんと反応し起き上がるのが見えた。
続いてアラス・ラムスも。
何と言えば良いのか混乱しながら、ガブリエルに聖剣を突きつけた。
恵美「て、て、手を洗いなさいよ汚いわね! これだから天使は!」
真奥「……ガブリエル……お前いくらなんでもこんな早い時間に……」
ガブリエル「洗った! 洗ってあるからそれ突きつけないで! 怖い!」
結構本気で驚いたようで、向けられたままの聖剣にビクビクしているガブリエル。
テーブルには見覚えのないコンビニの袋とお弁当の容器が乗っている。
こいつ、信じられないことに勝手に上がり込んで朝食とトイレを済ませていたらしい。
ガブリエル「あーびっくりした……言っとくけど、君達や隣の部屋の人が起きなかったの、僕が術を使ったとかじゃないからね」
ガブリエル「寝込みを襲うようなマネはしたくないし、一応起きるまで待って相談しようと思ったらこれだよ」
あくまで穏便に話し合いに来たんだ、というその男は、やはりいけ好かなかった。
だったら礼儀正しく常識的な時間にチャイムを押せというのだ。
こちらから話し合うことなどないので黙っていると、やがて奴は根負けしたように語り出した。
ガブリエル「一応僕から譲歩するとね、僕は最悪、聖剣かその子かどっちか持って帰れれば、今はいいんだ」
ガブリエル「僕が管理してたイェソドのセフィラが、随分前に盗まれたのよ」
ガブリエル「犯人はバチ当たりなことに、それをいくつもの欠片に分けてあっちこっちにバラまいちゃったの」
ガブリエル「エミリア、君の"進化聖剣・片翼"もその子も、みんなイェソドの欠片から生まれたものなの」
初耳だった。
奴が指差す進化聖剣・片翼の柄には、確かに紫色のクリスタルが付いている。
教会には魔王を倒すための武器と言われていたし、かつてエンテ・イスラの魔王城で
この剣は光を放ち、魔王……貞夫の元へ私達を導いたのだ。
てっきり対悪魔・魔王用の武器かと思っていたが……
ガブリエル「多分、それ魔王のいる所じゃなくて、その子のいた所だよ」
あっさり言われる。それに驚いたのも束の間、
恵美「っ!」
ガブリエルは、突きつけられていた聖剣の刃を鷲掴みにした。
慌てて押しても引いても、剣は動かなかった。
ガブリエル「もう事情は分かったでしょ? 頼むから大人しく、僕のお願い聞いてよー」
分かっていたことだが、やはり、今の私ではこいつを倒せない。
これはその事実をはっきり突きつけるための行為だ。
……こいつは、今は聖剣かアラス・ラムスを持ち帰れればいい、と言った。
額面通りに受け取れば、聖剣を渡せば——体内の天銀の渡し方など私には分からないが——アラス・ラムスは見逃すということだ。
今の私にとって聖剣は単なる便利な武器で、必須のものではない。
だが今は、ということは、それで凌いでもまたいつアラス・ラムスを狙ってくるか分からない。
それ以前にこいつをそこまで信用もできない。
どうするか。思案していると——
真奥「頼む。……アラス・ラムスを、連れていかないでくれ」
——貞夫が、土下座した。
魔王が、大天使に。
驚く私とガブリエルを置いて、彼は更に続けた。
真奥「勿論タダでとは言わねぇ。俺の首と引き換えでどうだ。悪い話じゃないだろう」
その言葉に、悲しみと、それに倍する怒りが膨れ上がるのを感じた。
彼は……結局こいつの、私を必要としない最後の手段は、自己犠牲だったのだ。
ガブリエル「……一つ聞いていいかな。なんで魔王の君が、そんなにこの子にこだわるの」
ガブリエル「つい最近まで、存在も忘れてたんでしょ?」
真奥「『王』になって、『あの悪魔』と同じように目先の欲に目が眩んで」
真奥「大切にしなきゃいけなかったはずのこいつのことを忘れたからだ!」
彼は身体を起こし、アラス・ラムスを抱き寄せた。
真奥「俺は『古の大魔王サタン』の伝説を知っている」
瞬間、ガブリエルの表情が強張った。
昨日貞夫が言っていた伝説の大魔王……それが、一体なんだと言うのか。
真奥「……だから、行かせられない。行かせたくない。頼む。今はこいつを……っ!」
その台詞は最後まで言えなかった。
ガブリエル「悪いけど、予定変更ね」
奴が何をしたのか、貞夫が呼吸に苦しんでいるように足掻いている。
ガブリエル「や、正直ここまでする気なかったんだけどさ。ちょっと君、それは墓穴だったよ」
今度ははっきりと見える。
貞夫の首が、見えない手で握られているようにへこみ始め、彼が苦痛の悲鳴を上げる。
恵美「貞夫!」
外から、ようやく起きたらしいベルと芦屋の声が聞こえる。
部屋に入ろうとしているようだが……どうやら結界が張ってあるようだ、ドアが開くことはなかった。
ガブリエル「勇者エミリア。悪いけどさ、後顧の憂いなきように、魔王サタンは僕が処理するよ。さすがに見逃してあげられない」
特に悪びれもしない、そんな口調で奴は言った。
結局奴ら天使にとって、命の一つ、家庭の一つを消すことなど、大したことではないというのか。
恵美「……ふざけないでよ、夫婦だと言ったでしょう」
恵美「子供ができて数日で未亡人になる気はないし、子供を渡す気もないのよ……! 天光炎斬!!」
ガブリエル「え、ちょ……わ、わっちゃちゃちゃ!」
怒りに任せ、掴まれているままの聖剣に炎を纏わせる。
だがそれは奴に多少の熱さを感じさせても、燃やすことはできなかった。
ガブリエル「ったくもう、君に手荒なマネはしたくないのにさー、どうして分かってくれないかな? 元々僕が管理してたんだよ?」
アラス・ラムス「たのんでないもん!」
ガブリエル「や、頼まれちゃいないけどそれが僕の役目であって……」
そこで奴が真顔になり黙る。
……今の、声は。
アラス・ラムス「あたしたちはたのしくあそんでただけなのに」
普段より、心なしかはっきりしたその口調。
アラス・ラムス「まるくとがいってた。あなたたちは、うそつきだって。うそをついて、かみさまになったんだって!」
彼女が貞夫に触れる。
瞬間、ガブリエルのしていた何かは効力を失い、貞夫が呼吸を取り戻した。
アラス・ラムス「あたし、あなたのこと、だいっきらい!」
アラス・ラムス「あたしたちをひきはなしたこと、あたしたちをとじこめたこと、それに」
彼女の額に三日月の紋章が浮かび上がる。
ワンピースから黄金色の閃光が閃き、
アラス・ラムス「ぱぱとままをいじめるやつ、ぜったいゆるさない!!」
それはガブリエルを壁に叩きつける。
そのままアラス・ラムスは、奴に凄まじい速度で突撃した。
ガブリエル「ぐえええっ!」
壁を破り、二人は上昇していく。
その大穴と貞夫を一瞬見比べる。
……貞夫はまだ立ち上がれていないが、命に別状はなさそうだ。
今はアラス・ラムスのことが先決と、私も空を舞って彼女の後を追った。
思った以上の戦力差に舌打ちする。
手には半ばから斬り飛ばされた聖剣。
ガブリエルの剣、"何でも斬れる"というデュランダルの威力だ。
正体不明のアラス・ラムスの力に脅威を感じた奴は、ここにきて遂に"戦う"意思を見せた。
何でも斬れるそれを思わず肩に担ぎ、自分で肩を斬って痛がっている奴を尻目に、聖剣に再び力を注ぎ込む。
恵美「ねぇ、アラス・ラムス」
アラス・ラムス「なぁに、まま」
私には何が起きているのかさっぱりだが、彼女はごく普通にオーラを纏って空を飛んでいた。
恵美「ぱぱのこと、好き? ずっと一緒にいたい?」
アラス・ラムス「うん! ……あ、でもね、ままもすきなの。ままともはなれたくないの」
恵美「そう」
笑って頷いた。
そうだ、私達はそうなのだ。
なのにあいつときたら、自分勝手で、我侭で、独善的で……
その苛立ちをぶつけるように、眼前で余裕の表情を浮かべるガブリエルを睨みつける。
奴の攻撃は受けることもできない。
どうやって躱しきって仕留めるか、そもそも今の私の攻撃がどれほど効くか……
何にしろ、諦めるつもりは毛頭なかった。
そのとき、
真奥「どっせーい!」
恵美「さ、貞夫っ!?」
アラス・ラムス「ぱぱっ!」
ガブリエル「うげっ!」
高速で飛んできたベル。その大槌に同乗し、ガブリエルの背後から飛びつく貞夫の姿があった。
鈴乃「武光烈波!」
振りぬいた大槌から衝撃波が飛ぶ。
それは貞夫を背負ったガブリエルの尻に当たり、
真奥「うおおおおおお!?」
ガブリエル「うわああああああ!?」
魔王と大天使が組み付いたまま回転しすっ飛んでいくという珍妙な光景を生み出した。
真奥「恵ぇぇぇ美ぃぃぃ! 今のうちにいいい! 俺ごと斬れええええ!!」
回転しながらのその絶叫は、呆然としていた私に正気と、そして怒りを取り戻させた。
……あいつは、この期に及んで、まだそんなことを!
恵美「バカっ! そんなことできるわけないでしょ!」
真奥「ばあかあああ! 今しかああチャンスはああああ!」
あいつの馬鹿もそこまでだった。
ガブリエルが貞夫を引き剥がし、放り出す。
飛んでいく彼を鈴乃が慌てて追っていった。
その光景を少し脱力しながら眺めていると、アラス・ラムスの問い。
アラス・ラムス「まま」
恵美「……なぁに、アラス・ラムス」
アラス・ラムス「ままは、ぱぱとずっといっしょ? ままも、ぱぱのこと、すき?」
問われるまでもないことだ。
私の答えは、彼と最初に共闘したときから何も変わらない。
恵美「勿論。私は貞夫が大好き」
恵美「ずっと一緒にいるわ」
それを聞いたアラス・ラムスは、心からの笑顔を浮かべた。
アラス・ラムス「わーい!!」
瞬間、彼女は私の目の前から姿を消した。
ガブリエルの顔が驚愕に歪む。
やがて、光が広がって——
ゆっくりと、地面に向かって降りていく。
鈴乃「え、エミリアっ!?」
その私に向かって飛んできたベルは、脱力した身体を支えてくれた。
鈴乃「エミリア! 無事か!?」
恵美「……うん、無事よ。私は。あと、ガブリエルもいなくなったわ」
彼女が驚いて空を見上げる。
ガブリエルの姿も、アラス・ラムスの姿も、既にそこにはなかった。
真奥「おい恵美っ!」
下を見れば、青い顔の貞夫がいた。
真奥「アラス・ラムスは、どうした」
地面に降りる。
彼は声を荒げて繰り返した。
真奥「アラス・ラムスはどうしたんだ!?」
疲れて引っ込んでいた苛立ちが顔を出す。
衝動に任せて、彼の頬を叩いた。
真奥「っ!」
見ていたベルと、打たれた本人の貞夫の表情が驚きに変わる。
恵美「……あなたが何も言わず、自分勝手に振る舞った結果がこれよ」
答えはなかった。
力をなくし崩れ落ちる貞夫を振り返ることなく、その場を去った。
千穂「遊佐さーん、お待たせしました!」
恵美「あ、千穂ちゃんごめんね、疲れてるところ呼び出して」
その日の夜、戦いの疲れをおして仕事を終えてから、バイト帰りの千穂ちゃんと待ち合わせた。
彼女の表情はやや暗いものだった。
……魔王城からアラス・ラムスがいなくなったことは既に聞いているのだろう。
彼女には、事の顛末をいち早く話しておきたかった。
***
話を聞き終えた彼女は、沈痛な表情を浮かべた。
千穂「……ひどいです」
恵美「でしょう」
同意する。彼女なら分かってくれると思っていた。
恵美「それで明日、貞夫のところに行こうと思ってるんだけど」
千穂「私も行っていいですか?」
恵美「それはいいんだけど、その……」
不愉快な場面を見せることになるかもしれない。
その思いから言葉を濁すが、彼女は笑っていた。
千穂「遊佐さん、前に電話で言ったこと忘れちゃいました?」
千穂「どんなことになっても、私達は友達です。……少なくとも私は、そう思ってます」
恵美「……うん。ありがとう」
こちらも感謝の意を、笑顔で表した。
真奥「……何しに来たんだよ」
愛想を尽かされたと思ったのか、千穂ちゃんと一緒にやってきた私の顔を見た彼は、少しの驚きと共にそう言った。
その表情は暗く、力を感じない。
手には、遊園地で三人で撮った写真。
彼はヴィラ・ローザ笹塚の階段下に座り、いつかのように焚き火を燃やしていた。
……千穂ちゃんに聞いて知ったが、日本には迎え火、送り火という慣習があるそうだ。
アラス・ラムスが来た日にやっていたのは迎え火。
今彼がやっているのは送り火の方だろう。
アラス・ラムスを送るための。
恵美「聞きたいことがあって。……旅人が天使からもらったお守りだけど、王様になった後、どうしたの?」
真奥「っ……」
皮肉にも程があるその質問に、彼は傷ついたようだ。
だが黙って答えを待つ私に観念したのか、やがて語り出した。
真奥「……旅人は、王様になってお守りの存在を忘れた」
真奥「色々あって昔と同じぼろぼろの旅人に戻ったある日、いきなり目の前に現れたから今度は大切にしようと思ったけど」
真奥「王様時代の行いが悪かったせいか、お守りは人に奪われてなくなっちまったよ、多分な」
恵美「ふぅん、なるほど。でも旅人は、それが大切なものだってことは、思い出したんだ」
真奥「……なんだってんだ」
彼と出会ってからほとんど見たことのない、険の篭った目でこちらを睨んでくる。
千穂ちゃんは黙って成り行きを見守っていた。
恵美「ねえ、考えたこともなかったでしょう? 旅人がお守りを大切に思ってたように」
恵美「お守りも旅人に大切にされることが何より嬉しかったこと」
恵美「そして、旅人を見守る他の人がいたこと。……旅人がいなくなったら悲しむ人がいたこと」
私が何を言いたいのか、彼は測りかねているようだ。
恵美「二度と軽々に自分を投げ打つようなふざけたことはしないで。でないとあなたを許さない」
恵美「私も、……この子も」
言いながら、右手をかざす。
そこに溢れる光。
アラス・ラムス「ぱぱー!!」
現れたアラス・ラムスの姿に、貞夫は心底驚いたように、目を丸くした。
真奥「アラス……ラムス……一体、おい、これは……」
私もあのときは驚いた。
アラス・ラムスは、突然聖剣をぐるぐる巻いて、文字どおり食べて一つになったのだ。
私もガブリエルも呆気にとられてその光景を見つめるだけだった。
そうしてイェソドの欠片同士で融合した聖剣は、デュランダルを斬り裂きガブリエルを撃退する程の力を得た。
その聖剣はアラス・ラムスでもあり、少女の姿での具現化もできる。
ある程度の距離は自立して動けるし、しまっているときは頭のなかでくっちゃべるのだ。
……おかげで今日の仕事中はぱぱに会いたい会いたいと騒がれ大変だった。
恵美「あのね、仮に昨日あなたが犠牲になってガブリエルを追い返してたら、私やこの子がどれだけ悲しんでたと思うの?」
私がずっと苛立っていたのはそこだ。
彼は恋愛に疎いとは知っていたが、そういうレベルではないと分かった。
"他人からの好意"、それ自体に疎いのだ。
だから彼は賭けが必要になったとき、躊躇わず真っ先に自分を賭ける。
相談もせず、結果周りが何を思うか想像もせず。
その気持ちを分からせるため一日距離を置いたが、いい薬になっただろうか。
恵美「今後は隠し事なんてしないで……って、ちょっと」
唖然とした。
初めて見る、彼の涙に。
真奥「……あ? え? あ?」
アラス・ラムス「ぱぱ、いたいの? いたいの!?」
真奥「や、これはあれだ、うん、なんかこう、事故みたいなもんで、その」
自分でも戸惑っているらしい貞夫に、千穂ちゃんが笑い掛けた。
千穂「流れるでしょ、涙。嬉しいときに」
千穂「また一つ、世の中のこと、分かりました?」
それは彼にとって初めてのことだったのだろう、呆然と千穂ちゃんを見た後——
彼はアラス・ラムスを強く抱きしめた。
アラス・ラムス「ぱぱ、だいじょうぶ?」
真奥「……ああ、大丈夫。お前に会えて嬉しいんだ」
真奥「ごめん、アラス・ラムス。……恵美」
恵美「……うん」
アラス・ラムスを抱きしめたまま言ってくる彼に、私も微笑みで返した。
千穂ちゃんは静かにその光景を見守っている。
——さて、本題に入ろう。
現状を解決する一つの提案。
それは最早、彼の意識改革をゆっくり待つ余裕などなかった。
恵美「家族の有り難みが分かった? 貞夫」
真奥「……ああ。悪かったよ」
恵美「そう。なら、正式に結婚しましょう」
一息に言ったその言葉に、しばらく反応はなかった。
数秒して、ぽかんとした顔で見上げる貞夫。
シンプルに言ったつもりだったが、分かりづらかっただろうか。
恵美「今のアラス・ラムスは私から離れられないから、私の家で三人で暮らしましょう」
恵美「大丈夫、芦屋よりも家事は上手くやってみせるわ。これからは真奥恵美として私も——」
千穂「遊っ佐さぁぁぁぁぁん!? 早い、早いです!」
千穂「そこまで飛ぶんですか!? このアパートに引っ越すとかそういう話じゃなくて!?」
どうもこの提案は彼女の想定を超えていたようで、腕を振り回し焦燥の顔で言ってくる。
恵美「や、だって人にも堂々とアラス・ラムスを紹介したいし、そしたらやっぱり正式な手続きした方がいいじゃない?」
千穂「だからってけ、けけけ結婚なんて! そんな、真奥さんは甲斐性なしのド貧乏フリーターですよ!」
恵美「私が稼ぐから大丈夫よ。もう子供もいるんだから事実婚みたいなものだし」
流れ弾が刺さったらしい貞夫が傷ついた顔でぐふっと呻く脇で、アラス・ラムスが言ってきた。
アラス・ラムス「ちーねーちゃ、けっこんてなに?」
千穂「え!? いや、それは、好き同士な男の人と女の人がパパとママになって、それで……」
アラス・ラムス「んぅ? ぱぱとままはもうぱぱとままなの」
恵美「そう、つまり私達は既に夫婦。そういうことよアラス・ラムス」
千穂「それ何か違いません!? いや論理的には合ってるかもですけど違いますよね!?」
騒ぐ千穂ちゃん、首を傾げるアラス・ラムス、事態の収集を諦めたように頭を抱える貞夫。
やがて声を聞きつけたベルや芦屋に漆原がこちらを覗ってくる。
その光景は、とりあえず当分の平和な生活を予感させた。
【おまけ】
鈴乃「……えー、ではアラス・ラムスの今後についての会議を始める。……って何で私が議長なんだ」
恵美「まあ、色んな意味で中立だし」
真奥「それっぽいしな」
敵なのに、とぶつくさ言うベル。
私達は全員で、ベルの部屋に集まっていた。
魔王城は大穴が空いていて落ち着かないのだ。
ちなみにアラス・ラムスは漆原の膝でお昼寝中である。
誰もが認める駄天使漆原ではあるが、何故か子供には結構懐かれるようだ。
アラス・ラムスの正体も判明し、私達が本腰を入れて彼女を守ることも決まり、
それにあたって具体的にどうして行くかを決めるための会議が始まった。
鈴乃「はぁ……まず、養育費についてだが」
先のことが分からなかったためアラス・ラムスには最低限のものしか買い与えていないが、
布団や服に玩具、勿論食費など、これから色々と出費が嵩むことは明白だった。
真奥「それについちゃ話し合いの余地はねぇ。恵美と魔王城で折半だ。いいな、芦屋」
芦屋「無論です。魔王様の娘ということは我らが王女でもあります」
芦屋「最悪、漆原にかかる経費諸々を削れば何とかなるでしょう」
漆原「ちょっとぉぉぉ!?」
悲痛な、しかしアラス・ラムスを起こさないよう小さい叫びを上げる漆原だが、誰も気にも留めなかった。
恵美「正直、私は大分お金には余裕あるし、その辺は私持ちでもいいんだけど」
真奥「そこは譲れねぇ。俺達の娘だって言ったのはお前だぞ、恵美」
彼が強い意志を秘めた声で言ってくるので、素直に頷く。
父親としての自覚を持ってくれたのは私としても嬉しい。
……視界の端で千穂ちゃんが「結婚してるわけじゃない」と引きつった笑顔で繰り返し呟いているのは気のせいとしておこう。
鈴乃「なら、その件はそれで良いとしよう。では次の議題……というかコレが本題なんだが」
鈴乃「エミリアとアラス・ラムス、そして魔王達の住居問題についてだ」
まず大前提として、聖剣——私の体内の"進化の天銀"と融合したアラス・ラムスは、私と長い距離を離れられない。
つまり私達二人はセットということだ。
そして問題は、アラス・ラムスはぱぱとままと一緒にいることを望んでいる、ということ。
それを現実的にどこまで叶えてあげられるかが焦点だった。
……一気にそれを解決する私の案が結婚だったのだが。
千穂「ええと……たとえば、遊佐さんがここの空き部屋に越してくるとかはどうなんですか?」
手を挙げて千穂ちゃんが言う。
正直、それは私も考えた。
今のマンションから比べるとあらゆる条件が落ちるボロアパートだが、私の都合はこの際どうでも良い。
だが、
恵美「エアコンがないのだけがちょっとね……子供は熱中症とかが怖いし、冬は風邪を引いちゃいそう」
真奥「まぁな。うちに泊めてたとき、結構寝苦しそうにしてたことも多かったんだよ」
このアパートはエアコンがない、どころか設置すらできない。
設置用の穴がないため、工事に大家の許可が必要なのだが、その大家はずっと海外旅行で連絡が付かないのだ。
また風呂がなく銭湯に行くしかないことも、長い目で見れば育児で色々と困ることもあるだろう。
鈴乃「なら逆に魔王達がエミリアのマンションの空き部屋に引っ越すか? ……私も監視のためそうすることになるが」
真奥「恵美、なんか結構いいマンションに住んでるんじゃなかったか?」
恵美「私の部屋は事故物件で五万円だけど、他はそんなもんじゃないわよ。詳しく知らないけど、下手すると倍近くとか?」
芦屋「……却下だ」
魔王城の家計を握る芦屋が一瞬で諦めた。
家賃四万五千円のこのアパートでひぃひぃ言ってる彼らに、住めるマンションではないだろう。
漆原「ていうかさ、どっちにしろ一番の問題はそこじゃないよね」
漆原「こいつは真奥とエミリアと一緒に居たがるだろ? こいつ第一なら、結局同居って話になるんじゃないの?」
寝ているアラス・ラムスの髪をいじりながらのその無責任な一言に、場は静まった。
千穂「……あの、そ、それはさすがに……」
鈴乃「まあ待て千穂殿、検討はしてみよう。アラス・ラムスの希望をなるべく叶えたいのは皆同じだろう?」
特に貞夫に恋慕の情を抱かず、私とも千穂ちゃんとも友人である彼女は、確かに中立だ。
そのため彼女がこの場で最も優先するのはアラス・ラムスのことだった。
鈴乃「仮に魔王とエミリアが、このアパートでもエミリアの部屋でも、同居するとしよう」
鈴乃「すると問題はアルシエルとルシフェルだ。こいつらはどうなる」
恵美「私としては、まあお義母さんとの同居まではアリね。ニートを食わす気はないわ」
芦屋「……おいちょっと待て、それは誰のことを言っている」
同居を認めてやったというのに、何だか苦い顔で言ってくる姑だった。
真奥「俺としてはこいつらを見捨てるわけにはいかない。大事な部下だ」
恵美「……それは私との同居はなしってこと?」
真奥「……そうは言ってない。けど、もし同居するなら、養育費以外も折半でいきたい。これは俺の意地だ」
魔界の王にも、ヒモは嫌だという感情はあるらしい。
真奥「だが、たとえば二人をここに置いて俺がお前と一緒に住むのなら、俺は二人の生活費も持つつもりだ」
真奥「最初に俺が仕事、芦屋が家事って分担したのは俺だしな。そうなると、ちょっと俺の稼ぎじゃ辛い」
芦屋はこれでなかなか忙しい日々を送っている。
そんじょそこらの主婦を超える細かな家事と、図書館などでの魔力の調査。
人間の負の感情から魔力を得られると分かった今でも、その手段をよしとしない貞夫のためにそれは続けられていた。
たまに単発のバイトで家計を助けてはいるが、今の貞夫のようにバイト第一の生活を送るのは難しいだろう。
芦屋「お待ちください魔王様、もし魔王様が子育てを第一にお考えなら」
芦屋「我々がその障害になるなど、本意ではありません。我々の食い扶持くらいは自力で稼いでみせましょう」
あくまで貞夫第一の芦屋がそう言った。
部下の忠誠心に貞夫が黙る。
……漆原が家事を手伝えばそれほど難しくなくその生活はできるんじゃないかな、という意見は誰も出さなかった。
あの漆原に限ってそんな期待はできない。
漆原「あのさー、僕らの生活費が問題なら、案があるんだけど」
当のお荷物本人が発言した。
真奥「……期待してないが、言うだけ言ってみろ」
漆原「催眠魔術使って、生活保護もらうってのはどう?」
五つの冷たい視線が漆原を襲った。
貞夫が一瞬拳を握り、漆原にひっついているアラス・ラムスを見てからそれを降ろしたのが見えた。
あれは働けない人のための制度であり、堕天使の堕天ライフを助けるためのものではない。
漆原「いい案だと思うんだけどなー」
懲りずに言う漆原を無視して、五人が向かい合う。
さて、色々と意見は出たが、結局どうすべきか。
……私としては初期案の結婚を推したいが、それで芦屋の負担を増やすのも寝覚めが悪い。
誰もが考えこむ中で、やがて議長が発言した。
鈴乃「……ふむ、こうなれば、アラス・ラムスを含む皆が少しずつ我慢する折衷案でどうかな」
真奥「……というと?」
全員の視線を受けて議長が続ける。
鈴乃「まず基本は今と変えない。エミリアとアラス・ラムスは今の家に住み、魔王達は魔王城に住む」
鈴乃「エミリア、あなたはアラス・ラムスを連れて暇なときは魔王城に遊びに来るといい」
恵美「そうね、それは今までと変わらないし、問題ないわ」
頷いて、彼女は続けた。
鈴乃「問題の、アラス・ラムスが両親と居たがることだが、週に一度か二度ほど、家族で暮らす日を作ってはどうだろう」
鈴乃「その日は三人で遊びに行くなり、エミリアの家に泊まるなりして親睦を深めれば良い」
千穂「ちょっ……」
腰を上げかけた千穂ちゃんを、ベルが手で制す。
鈴乃「泊まるとしても、それだけだ。魔王も、まさかいたいけな子供のいる部屋で良からぬことを考えなどしまい?」
真奥「するか!」
鈴乃「定期的に両親と寝られるとなれば、聞き分けのいいアラス・ラムスだ、ぐずることも減るのではないか?」
……なるほど確かに、皆……正確には何人かが少しずつ我慢する案だ。
しばらくすればアパートのエアコン設置や貞夫の昇給など、また何か変化が起こるかもしれない。
それまではその体制でやっていく分には、私に不満はない。
恵美「私は構わないわ」
真奥「……まあ、俺もそれでいい」
芦屋「同じく。魔王様、出費が増える分は私がバイトで何とかしましょう」
漆原「僕は働かずに済めば何でも」
千穂「うー……し、信じてますからね真奥さんっ!? ……私も賛成です!」
鈴乃「よし、決まったな」
議長が手を叩き、結論は出た。
真奥「……で、何でこうなるんだ。あ、目ぇつぶっとけよアラス・ラムス」
恵美「し、仕方ないでしょ! アラス・ラムスが言うんだから、そう、仕方ないのよ!」
アラス・ラムス「んぅー」
じゃあ試しに今夜は私の家で過ごしましょうか、となったその夜。
タオルで身を隠しつつ、三人でお風呂に入る私達だった。
……アラス・ラムスが「いっしょにはいろ」って言うからよ。
私が推したわけじゃないわ、ええ。
恵美「……髪洗うの上手いわね」
さすがに三人で入るには狭く、湯船からその光景を眺める私に貞夫が言う。
真奥「まあ、銭湯連れてってやってたからな。俺が夜もバイトのときは芦屋や鈴乃に頼んでたけど」
真奥「……良し、もう目開けていいぞ」
ざばぁとお湯でシャンプーを流す。
目をぎゅっと閉じていたアラス・ラムスが満面の笑みでこちらを向いた。
アラス・ラムス「つぎ、まま!」
恵美「え?」
真奥「あ?」
アラス・ラムス「ままもかみあらってもらうの!」
言って、自分の座っていた——貞夫の前の床をぺちぺちと叩く。
……。
真奥「……どうする」
恵美「……お、お願いするわ」
彼の指は心地良かったということと、身体は自分で洗った、とだけ言っておく。
真奥「さすがに狭いな」
恵美「今度大きいベッド買おうかしら?」
言いつつも、密着した状態は嫌ではなかった。
夕食も済ませて、三人でベッドに横たわっている。
ソファで寝る、という貞夫をアラス・ラムスが許すはずもなく、私のベッドで寝ることになったのだ。
ちなみにその当人はさっきからはしゃぎっぱなしで疲れたせいか、ご満悦の表情で既に眠りに落ちている。
真奥「今度色々買いに行ってやらないとな、服とか、玩具とか」
言いながらアラス・ラムスの髪を撫でる彼の顔は、紛れもない父親のものだった。
恵美「……あと、そうね。ベッドの他に、子供用の布団もあったほうがいい、かも」
真奥「あ? 何でだよ。一緒に寝るんだろ?」
純粋に疑問の顔を浮かべる彼だった。
……言わないと分からないものだろうか。
恵美「や、勿論そうなんだけど。……ほら、アラス・ラムスは早い時間に寝かさなきゃでしょ?」
真奥「ああ」
恵美「……その後、その、良からぬことを考えてもらっても、いいんだけど」
彼は目を見開いて少し硬直した後——
真奥「……馬鹿言え」
こちらに背を向けてしまった。
……もう。
諦めて、私も目を閉じる。
すると少しして、彼は呟くように言ってきた。
真奥「お前が言ってた結婚云々って、本気か?」
恵美「そんなつまらない冗談言わないわよ」
また少しの間。
真奥「俺は甲斐性なしのフリーターだぞ」
恵美「……気にしてるの? あれこそほんの冗談みたいなもので、」
真奥「だから」
彼が語気を強める。
真奥「マクドナルドの正社員になれるまで待て」
真奥「それまでに、色々……ちーちゃんのこととかも、ちゃんとするから」
信じられない思いで彼を見る。
彼はそれ以上、口を開いてはくれなかったが、
恵美「……うん」
あの夜と同じように、アラス・ラムスごと抱きかかえるように、彼の背中を抱きしめた。
恵美「あのね、そしたら、そしたら」
真奥「……もう寝ろよ、明日仕事だろ」
恵美「やっぱりアラス・ラムスも弟か妹が居たほうが嬉しいと思うの。いいお姉ちゃんになってくれるんじゃないかなって」
真奥「寝ろよ頼むからぁぁぁ!」
彼が言うが、この喜びは抑えられそうになかった。
セフィラだの、逃げただけのガブリエルだの、色々とやっかいな話は尽きないが——
その先に待っているだろう未来を、私は信じる。
おしまい
どうしても夫婦までは行きたくて三巻分です。読んで下さった方ありがとうございます。
以下蛇足。
魔王様は察しはいいけどあんまり教えてくれないし、結構賭けや運任せの場に飛び込むことが多いんで
恵美がデレてたら心配でたまらないじゃないかなぁというお話でした。
元々は単発のつもりで、無理やり続けてきたこのSSも今回でとりあえず終わりになります。原作が
「真奥や、特に漆原は多くを知ってるけど敵の恵美に話さないので恵美(や読者)は色々な謎に驚く」という
絶妙なバランスで成り立ってるので、そろそろ恵美が味方だと成り立たせるのが無理めになるためです。
セフィラやライラや魔界の事情が出てくるとお手上げです。
そろそろ原作でも一度、漆原尋問会議でも開いてもらってもいいんじゃないかな。
ここまでお付き合い頂いた方に感謝です。
また、まだ購入されてない方はアニメBDや原作の方もどうでしょうか。
私はアニメ二期で動くアラス・ラムスが見たいんです。(←これが言いたかったです)
>>80
×マクドナルド
○マグロナルド
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