【魔王勇者ファンタジー】 青年 「世界を囲う外壁と」 才女 「私達の選択」 (376)



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【魔王勇者ファンタジー】 青年 「智を求め、勇む者」 才女 「?」
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エルツァンク(elltzanck)
http://i.imgur.com/HciWQpM.jpg


注意等々は無く、前スレの続きです






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まだ薄暗い早朝

勇者は眠る二人を背に、洞窟の入り口で太陽が昇るのを待つ


勇者 (良い朝だ。俺はどれだけの時間、寝ていたんだろうか)


気持ち良さげに伸びをしていると、太陽の光が一筋洞窟の奥まで進入した

それによってか、洞窟内にいる女エルフが起床する


女エルフ 「くはぁぁ……」

勇者 「おはようございます。女エルフ」

女エルフ 「ああ、おはよう」

女エルフ 「随分早起きじゃないか」

勇者 「そうですね。ところで、俺はどれだけの間眠っていましたか?」

女エルフ 「ほんの半日だ。通常の睡眠と変わらない」

勇者 (あっちだと数日分くらい活動していたはずなんだけどな)


勇者 (やっぱり、あの世界とこっちとじゃ流れている時間が違うのか)

勇者 (その違いは一定では無いみたいだ)

勇者 「そうですか。有り難うございます」

女エルフ 「怪我の具合はどうだ?」

勇者 「見ての通り、もう普通に歩けますよ」

女エルフ 「頃合いだな」

勇者 「ええ、少年を起こして出発しましょうか」

勇者 「獣王をぶっ倒しに」












獣王 「あれから、一ヶ月と少しか」

獣王 「良くもまぁ、ここまで生きてるもんだなぁ!」


風が吹き抜けるハ―ピーの崖

そこに鎮座する獣王とその他のシュピーゲル達は、一ヶ月経った今でもその場所から移動しない

全ては獣王の命令だった

助ける事も、介錯も許さず、ただ弱り切ったシュピーゲルが悶え死ぬ様子を見せしめていたのだ

その状況から発せられる無言の圧力

倒れ伏した者に、決して手など差し伸べられない

足蹴にされ、惨めにその生涯を閉じるだけだ、と

誰もが獣王に反発心を抱き、しかし怯えて従う事以外許されない

それこそ、獣王が最も得意とする心理の拘束だった

人徳で民衆をまとめ上げる商業王、不可思議さで魔を統べる現魔王

それらとは全く異なる、直接的で効果的な恐怖による支配

それを決定的なものとするために、獣王はこの一ヶ月を費やした

ハ―ピーの崖を占拠し、死に行く仲間を嘲る

一見残虐さのみが感じられるこの行為の裏側には、高度で繊細な獣王の心理操作が隠れていた




獣王 「さっさと死ねれば楽だったのになぁ!」

獣王 「てめぇが弱ぇばっかりに、肢体が腐り落ちてもまだ死ねずに悶えなきゃならねぇ」

獣王 「弱いってのは、やっぱ最悪だわ」

獣王 「なぁ、お前達もそう思うよなぁ!」


獣王以外のシュピーゲルは、崖の隅で死に際の同胞から目を必死に背けていた

本来、シュピーゲルは高い知性で仲間を重んずる種族である

仲間の死には特に敏感で、墳墓などを作り、死者を悼む事も珍しくない

獣王は意地悪く、その仲間思いのシュピーゲル達に返答を求めた


シュピーゲル1 「……酷過ぎるぜい、獣王のダンナ」


あるシュピーゲルは、この惨事を小声で嘆じる


シュピーゲル2 「…………」


また、あるシュピーゲルはただひたすらに沈黙を守った


獣王 「なんだ、お前等。死に掛けてるアイツ等を助けてぇのか?」

獣王 「自分が代わりに自害出来るってなら別に俺は構わねぇぜ」

獣王 「死ぬ運命にある奴を助けるってのはそう言うことだ」

獣王 「俺がいる限り、その掟は変わらねぇよ」


癖なのか、ケラケラと獣王は声を上げて笑った

そしてその、不謹慎で軽薄な態度に反発するシュピーゲルは誰もいない


獣王 「あとどれだけ生きるんだろうな、コイツ等は」

獣王 「ああ、安心しろ。死に損ない共」

獣王 「何ヶ月だろうと、きっちり死ぬまで見守っててやるぜ」






獣王の次の目的地は人間界

ここが言わば、魔界の最終ラインであった

偶然にも、獣王の残忍な性情のために、人間の軍とシュピーゲルの衝突は先延ばされる

魔族と人間の衝突は数十年ぶり

本格的な戦争は、未だ双方にとって経験のない事態であった

獣王は魔と人にとって、闘争のきっかけとなる撃鉄

争乱は、人や魔を飛び越えて避けるべきものであったが、

ただ世界に一人、獣王のみがそれを望んだ

そして獣王の願望を阻止すべく立ち塞がる勇者一向

商業の国で軍を構える傭兵隊長

三つ巴の戦いが目前に迫る―――










商業の国 王城の一室


傭兵隊長は一枚の紙を見つめていた

それは今回の魔族討伐に向かう兵士の構成が記されたものだった


傭兵隊長 「一種族の魔族、その頭を討伐するってだけで旅団規模か……」

傭兵隊長 「そういや、俺が以前参加したのも確か旅団規模の混成軍だったな」

傭兵隊長 「こりゃ、嫌な予感がするぜ」

傭兵隊長 「だが、相手は比較的凶暴性の低いハ―ピー」

傭兵隊長 「さて、どうやって攻略しようかね」



上から下、左から右まで隈なく目を通し、内容を完璧に把握する

実地で書類を眺めている暇などなく、現場での指示は自分の記憶を頼りに発信する事になるからだ

それに加え、各隊の配置などに戦術的不備がないか確認する為でもあった

戦地と兵装

その他、様々な条件を考慮すると、あまり兵に重装備はさせたくないと傭兵隊長は考えた

重装歩兵は機動力に欠け、素早いハ―ピーに対応する事は難しい上、戦場は恐らく荒れ地になると踏んでいためだった


迅速な陣形の切り替えによる、弓兵での射撃が主要な攻撃法になる

ならば比較的軽い片手剣と楯を持たせ、彼らに弓兵部隊を守らせるなんてどうだ

槍で空を駆けるハ―ピーの動きに対応するのは困難

となれば、いっその事、空中のハ―ピーへの攻撃は諦め、守りに徹しよう

直接地上でハ―ピーと乱戦になった場合にのみ、刀剣を使わせる

こうすれば、兵装も軽くなり機動力も確保できるはずだ

そういや、ハ―ピーの羽は上等で燃えやすいと聞く

火矢も効果的かも知れないな

空を飛んでいるなら、閃光瓶で目を眩ませ地に落とすのも有効だ

なんだ、結構やりようなんてあるじゃねぇか

取り敢えず、ここにある重装歩兵の部隊を外させよう

コイツ等はいるだけ無駄だ

その代わりに、弓兵を増やすか、魔法兵を増やすか

商業王に掛け合ってみるか








同 城内 謁見の間


傭兵隊長 「商業王」

商業王 「何の用だい?」

傭兵隊長 「俺が指揮する軍隊の事なんですが……」

傭兵隊長 「この隊の構成では、あまりに無駄が多すぎます」

傭兵隊長 「どうにか、今から変更する事は出来ませんか?」

商業王 「どれどれ……」


商業王は、傭兵隊長からその紙を受け取り、数分かけて熟読する


商業王 「うん、確かにこれは非効率的だね」

傭兵隊長 「分かっていただけますか」

商業王 「これ、元は魔導の国が発案したんだ」

商業王 「それを目も通さず君に回したんだけど、これじゃ駄目だ」

傭兵隊長 「魔導の国……」

傭兵隊長 「人間界で最も安全な国ですか」

商業王 「なんだ、君も皮肉を言うのか」


傭兵隊長 「現場を見ていない奴に限って、兵のバランスばかりを気にするんですよ」

傭兵隊長 「これ、各隊の兵士が全て同じ数になっています」

傭兵隊長 「魔導の国は、魔族の討伐を何かの式典と間違えているんじゃないんですか」

商業王 「おお、憤っているねぇ。全くその通り、あっぱれ!」

商業王 「僕も日々、そういう憤りを感じているよ」

商業王 「君が考える最も適切な構成にすれば良い」

商業王 「僕から魔導の国に取り図るからさ」

傭兵隊長 「ありがとうございます」








数日後 傭兵隊長の部屋



傭兵隊長 「さて、俺の意見は平和ボケした魔導の国のお眼鏡に適ったかな」

傭兵隊長 「商業王は今日、魔導の国からの遣いが来ると言っていたが……」


小声でぼやいていると、部屋の入り口に人影が現れる

鋭く傭兵隊長はそれを察知した


傭兵隊長 (噂をすれば影が差すってか)

傭兵隊長 (良い気配の消し方だ)

??? 「傭兵隊長殿とお見受けする」

傭兵隊長 「アンタが魔導の国からの遣いだな」

??? 「如何にもその通り」

??? 「名乗らせてもらおう」

??? 「我は連合国軍特殊作戦部隊傘下、『黒蜥蜴』が長」

傭兵隊長 (黒蜥蜴(くろとかげ)……?)

傭兵隊長 (ヤバい噂が絶えねぇ、存在するかも分からない組織だと聞いていたが……)

??? 「貴様は、一介の傭役兵からコンドッティエーレにまで成りあがった傭兵隊長で間違いないな」


傭兵隊長 (あ、敬称が無くなった)

傭兵隊長 「そうだが、何故黒蜥蜴が商業の国まで出向くんだ?」

傭兵隊長 「ずっと魔導の国の裏で暗躍し続けるもんだと思っていたぜ」

黒蜥蜴 「貴様に話す義理は無い」

黒蜥蜴 「ただ一つ。魔導の国が、ある兵器を完成させたとだけ言っておこう」

傭兵隊長 「ほぉ、それを今回の魔族討伐で試したいと」

黒蜥蜴 「理解が早いな」

黒蜥蜴 「我が国が発案した部隊構成を変更しろとの申し出が、商業王直々にあった」

黒蜥蜴 「我が王は兵法に疎いのだ。そこで我等黒蜥蜴が出向く事になった」

黒蜥蜴 「商業王直々では、そう容易く無碍には出来ないからな」

傭兵隊長 「それだけじゃないだろうがよ。どこにてめぇ等を置けば良いんだ?」

黒蜥蜴 「ほう、やはり物分かりが良い」

黒蜥蜴 「前方に傭役兵の部隊を配置し、そのすぐ後ろに我等の部隊を置け」


傭兵隊長 (出会い頭の攻撃は、傭兵に受けさせろって事か)

傭兵隊長 (それでいて、その後ハ―ピーに即反撃が出来るポジション)

傭兵隊長 (コイツの言う兵器ってのは、恐らくは強力な矛)

傭兵隊長 (それもハ―ピー相手に完封出来る見通しが付くレベルのもの……)

傭兵隊長 「分かった。要望はそれだけか?」

黒蜥蜴 「あぁそれと、我等の左右に魔導部隊を置け」

黒蜥蜴 「いいか、弓兵部隊では無く、魔道部隊だ」

傭兵隊長 「はいはい。魔道部隊ですねっと」

黒蜥蜴 「それ以外は貴様の好きにするが良い」

黒蜥蜴 「では、我等はまた当日に現れる」

傭兵隊長 「承知した」


傭兵隊長から目を離さず、後ろにゆっくり歩き出す黒蜥蜴

彼はやがて暗くなっている部屋の片隅へ辿り着き、そのまま違和感無く暗闇に同化した

傭兵隊長はその様子を、目を凝らして見つめたが、黒蜥蜴が消える瞬間をとらえる事は出来なかった

まるでイリュージョンのような芸当に、傭兵隊長は首をかしげる




傭兵隊長 「一体、どんな魔法だ?」

傭兵隊長 「黒蜥蜴……」


その言葉は傭兵隊長に不吉な予感を呼び起させる

魔導の国が抱える最強の組織、「黒の部隊」

その一角、黒蜥蜴

自分でさえ掴めぬその全貌に、傭兵隊長は幾分かの不信感と些かの頼もしさを覚えた


傭兵隊長 (奴等を上手く使えれば、きっと戦況は有利になる)

傭兵隊長 (だが、魔導の国の思い通りにゃさせねぁがな)

傭兵隊長 (駒はコントロール出来ないくらいが丁度良いんだよ)

傭兵隊長 (正直、軍の指揮を執る事は乗り気じゃなかったが、今回ばかりは気合いが入っちまうぜ)









魔界 森



勇者 「獣王と再戦するにあたって、役割を決めませんか?」

女エルフ 「役割か。確かに前回は個で戦うことを強いられたからな」

女エルフ 「一考する必要は当然あるだろう」

少年 「役割を決めるなら、このパーティは少しバランスが悪いね」

勇者 「はい、遠距離から攻撃できるのは女エルフだけですが、しかし……」

女エルフ 「私は根っからの剣士だ、ということだな」

勇者 「その通りです。少年も武器はリーチの短いナイフです。当然俺も接近戦しかできません」

勇者 「けど、考えてみればそれはあまり大した問題ではないように思えます」

女エルフ 「どういうことだ?」

勇者 「いかに弓や中長距離の魔法を使える人材がこのパーティにいようと、獣王の前では意味を為しません」


勇者 「覚えてますか? 女エルフの一撃を」

女エルフ 「右肩へのあれか」

勇者 「そうです。あれは確実に、獣王の生身を捉えていました」

勇者 「しかし結果は、全く切れず流血どころか、一切のダメージもありませんでした」

女エルフ 「面目ない」

少年 「弓や魔法でもきっと同じ事になりそうだね」

勇者 「目や気道を狙えるのならともかく、奴のスピードにその隙はありません」

勇者 「従って、威力の低い遠隔攻撃は逆に味方の攻撃を阻害するだけです」

勇者 「ですから、パーティの構成は対した問題ではないと思います」

少年 「じゃあ、何が問題なの?」

勇者 「それは決定力です」

女エルフ 「一撃必殺という事だな」

勇者 「はい。問題は、獣王の爪や皮膚を斬り抜けない事」

勇者 「それによって攻め手を欠いた事は、俺や女エルフで十分な程証明されています」

勇者 「いくらスピードやコンビネーションで勝ろうとも、」

勇者 「最後の最後、奴の盾である爪やその先の皮膚を破壊できなければ、全く無意味」

勇者 「俺達が推し計るべき、奴との距離はそこです」

勇者 「奴の取り巻きを如何に押さえつけ、如何に奴の爪を避け、如何に奴の皮膚を斬り抜くか」

勇者 「俺達はそこへ達するまでの算段を立てれた良いんです」


女エルフ 「驚くほどに困難な道のりだな」

女エルフ 「第一、相手は人間やエルフの二倍以上の大きさ」

女エルフ 「それも一匹じゃない」

少年 「獣王だけが問題じゃないって事だね」

少年 「でも、それは僕に任せて欲しいな」

勇者 「そうですね。少年のグリモワールで足止め、あわよくば一体ずつ討伐」

勇者 「そして、三対一で獣王との再戦に持ち込みたいところです」

少年 「というか、戦闘の軸は僕に任せてよ」

少年 「今度こそ二人を支えたいんだ」

女エルフ 「ポテンシャルは十分だが、私達はまだグリモワールとの連携をした事が無いからな」

女エルフ 「戦っている最中にどれだけ合わせられるかが重要だ」

勇者 「話は少し戻りますけど、さっきの決定力はきっと俺にあります」

女エルフ 「爪を避け、皮膚を斬り抜く力の事か?」

勇者 「はい。爪を避けられる自身はありませんが、皮膚を斬る事なら出来ると思います」

勇者 「ただ、その為にはカウンターを狙う必要が……」

少年 「獣王の咆哮を刀に纏うんだね」

勇者 「そうです。しかし前回は全く纏えなかったので、今度はカウンターに専念したいんです」

女エルフ 「実質的に、獣王と交戦するのは私と少年になると言うことだな」


勇者 「そうなりますね」

女エルフ 「うーん、二人では少し厳しいようにも思えるが……」

少年 「僕は賛成だよ。というより、それ以外に方法は無いと思うな」

勇者 「自分で言っておいて何ですが、これが正解だと断定はできませんよ」

少年 「僕はレゾンだって話、前にしたよね」

女エルフ 「魔の根源を身体に宿す者とか何とか……だったか?」

少年 「うん。二人が獣王と交戦してた所を見て気付いたんだけど、多分奴も僕と同じレゾンだ」

勇者 「レゾンにはどんな特徴があるんですか。主に戦闘に関わる事で」

少年 「一番は運動機能の向上だよ。でも獣王はレゾンの力をほとんど使ってなかった」

少年 「ただ一度、あの咆哮の時だけ使ってたんだ」

少年 「あの黒い光こそ獣王の身体に宿っていた魔の根源なんだ」

勇者 「あれが……」

勇者 「魔の根源には、とんでもない熱量があるんですね」

少年 「どうだろう。獣王の身体を通したために生まれた性質かもしれない」

女エルフ 「それは分かったが、でもそれを……勇者のカウンターで決めるという方法を」

女エルフ 「これしかないと、断定するには不足があるのではないか?」

少年 「実は、最後に咆哮を撃った後、獣王は動作が鈍くなっていたんだ」

少年 「だから僕は少しも臆せず奴の前に出る事が出来た」


少年 「隙と言えるほどはっきりした物じゃないけど、奴を超えられるならここしかないと思う」

勇者 「そこを俺がカウンター……」

女エルフ 「確かにそれしかないように思えるな」

少年 「決まりだね!」

勇者 「段々見えてきましたね。獣王攻略までの道のりが」








少年 (今度は絶対に僕が二人を守る)


決戦の日が近づくのを感じ、少年の覚悟は確固たるものに変わっていく

まだ全力で戦った事のない少年にとって、本気を出すという事は恐怖でもあった

コントロール出来なかったらどうしよう

もしかして、それで二人を傷つけてしまったら……?

考えれば考えるだけ不安が募っていく

しかし、それさえも超克する程に少年は勇ましかった


少年 (不安はこの森に置いていこう)

少年 (この森が途切れて、ハ―ピーの崖が見えたら僕はもう動じない)

少年 (例えどんな事があっても)




元々、レゾンの習得は不完全だった

青年と才女の下で、最低限の扱いは会得したものの、特訓では全力を自分の意思では出せない

レゾンとはそういう能力

実際、少年は今までに、激昂して黒橡(くろつるばみ)を屠った「あの時」以上の力を出せずにいた

その分をグリモワールで補っていたが、困った事にグリモワールさえ未だ不完全

魔術文字を理解できないために、黒魔術を行使するのにグリモワール開き、内容を確認する必要があった

しかしそれは魔術文字を覚えれば、本を見なくても使えるという事


少年 (僕が現在覚えている「十惡」は『殺生』と『邪見』の二つだけ……)

少年 (これじゃ、全然足りない……)

少年 (どうにか後二つぐらいは覚えたいなぁ)


不満に思っている少年は自分の天賦の才を自覚しない

本来であれば、グリモワールを覚える事など、素人が魔法を使う以上に困難な事であった

一般に、魔法使いを志し、実際に魔法を使えるようになるまで、十年もの歳月が必要とされている

黒魔術をこの範疇と考えるならば、少年はたった一年足らずで魔法を行使できるようになった事になる

これは全く異常なスピードであり、通常ならば実現し得ない

それを二つ終えているという意味で、少年は魔導士として現段階でも高い素養を有していた

誰にも計られる事無き天才

しかしそれは頭脳において

肉体にも鬼才が宿る事を、この後しかと知る事になる









獣王 「やっと死にやがったか」

獣王 「結局、2ヶ月もの間、俺様の足を止めやがった」

獣王 「おい! てめぇ等、用意は出来てるだろうな」


崖に残響する獣王の声

それに反応するシュピーゲル達の中に、もう故人を悼む者はいなかった


シュピーゲル1 「待ちくたびれたぜい」

シュピーゲル2 「この臭い。不愉快な人間どもめが」


人の軍の臭いを嗅ぎつけ、獣王を含むシュピーゲル達は既に臨戦態勢に入っていた


獣王 「次にブチ殺すのは……まぁ言わなくても分かんだろ」

獣王 「皆殺しだ。一人たりとも逃すんじゃねぇ」


獣王はそう言って、勢いよく崖を飛び降りた

それを追うかのように十数匹のシュピーゲルも崖を降りる

狙いは傭兵隊長が指揮する連合国軍

予断を許さぬ戦いが今始まる











場所は商業の国以西に存在する草原

そこは密林が茂る一帯の中で、唯一開けた場所にあり、さらにハ―ピーの崖を頂く事が出来た

先頭には百人前後の傭兵達が位置取り、その後ろには真っ黒な外套に身を包んだ黒蜥蜴の面々

黒蜥蜴の左右には魔道部隊が展開し、また後ろには弓兵部隊が控えていた

鳥瞰すれば、それは黒蜥蜴を中心とした十字の陣

まるで予期せぬ事態から、黒蜥蜴を護衛しているかのような陣形だった

傭兵部隊で全体を指揮する傭兵隊長は馬に騎乗し、進撃の合図のタイミングを計る



傭兵隊長 「さて、と……」


全体へ指示を出す前の一息

その瞬息の間に、傭兵隊長は鬼神を見た



獣王 「くはははっ!!」


距離にして百メートル

木々の間を通り抜け、瞬く間にこちらへ向かってくる

地面を蹴る高圧的な音に、多くの兵士は前方へ注意を傾けた

しかし時すでに遅し




獣王 「全く、トロいねぇ!!」


兵士が戦闘態勢に入るよりも速く、獣王の獰猛な爪が煌めく

その時点において、最も獣王と接近していたのは、先頭で全体を指揮する傭兵隊長

必然的に、獣王の初撃を受けるのも彼だった


傭兵隊長 「くっ……」


とっさの大英断

傭兵隊長は獣王を視認してからの数秒で、自分の馬を捨てる決心をした

馬上から身を投げ出したのだ

そして飛び退いてから地面につくまでの一瞬で、彼の愛馬は頭から真っ二つになった

反転した視界で、スローモーションのようにゆっくりと裂かれる馬

それはまるで現実感のない夢のようだった

臓物が飛び散る

獣王の初撃はそれでも終わらない

爪は傭兵隊長の馬を皮切りに、後続の傭役兵たちをいとも容易く切り裂いていった

突如来襲した「死」は、猛烈なスピードで傭兵部隊の中程まで、ほんの一息で侵攻した

おおよそ部隊全体の3割

戦闘要員において6割の数

それがこの世界における部隊の全滅の定義

役が割り振られていないため、傭役兵の場合は多少基準が異なったが、

それでも、その初撃の間に致命傷を負った傭兵は既に、部隊をそれと判断できる数に達していた




獣王 「ははっ、今のでどんだけ殺せたんだ?」

獣王 「面白いぐらいに弱ぇなぁ」


迎撃の態勢に入った傭兵達に囲まれても獣王は一切警戒しなかった

それが種族の差

数では覆らない絶対的な世界の序列


傭兵隊長 (なんてこった……)

傭兵隊長 (何だあの巨大な化け物は……!?)


傭兵部隊に混じる身体一つはみ出てた獣王を見た傭兵隊長は、抵抗する意思を迷わず投げ捨てた

その知略の全てを、自分のみを生存させるという目的へシフトさせたのである

それは長年の傭兵としての経験則から来る、ほぼ確信に近い判断

彼の行動を決定付ける最も優先的な要素

時として仲間を捨て、地位を捨て、それでも保身に走る

それが彼にとって傭兵として生きるという事だった


獣王 「良い気分だぜ。世にのさばるこの糞共にようやく制裁を加えられる」

獣王 「くっくっく……」


白刃を向けられながらも、不敵に笑う獣王




獣王 「やれ、テメェ等」


獣王の一声と共に、後方にいたシュピーゲル達が躍り出る

その内の一匹が剛腕を一振り

三人の傭兵が盾ごと吹き飛んだ


傭兵隊長 (嘘……だろ)


傭兵隊長が身を隠したのは、愛馬だった物の下

切り裂かれた上体は傭兵隊長の目と鼻の先

不吉にも、絶命した虚ろな目が傭兵隊長を力なく眺めていた

血と異臭を発す内容物

一般的な人間ならばとても耐えられる状態ではない

しかし彼は歴戦の傭兵

視覚、嗅覚から身を隠せる馬の死骸の下敷きになれば、当分は相手にされないはず

彼はそう考え、敢えて獣王からの一撃を凌いだその場所から動こうとしなかった

身動きを一切取っていなかったため、実際は馬の体重で動きたくても容易には動けなかった事に彼は気付いていない




傭兵隊長 (俺の馬を真っ二つにしたあの化け物がどれだけいるんだ……!?)

傭兵隊長 (数にして十数匹……)

傭兵隊長 (俺達はハ―ピーの首領を討伐しに来たはずだ)

傭兵隊長 (だが間違いない……)

傭兵隊長 (奴等、一匹ずつがハ―ピーなんかよりずっと強い)


傭兵隊長の脳裏では、現状は既に勝敗では無く、生死を賭けた戦いとなっていた

戦闘要員を全て失う「潰滅」

誰一人生存しない「殲滅」

壊滅は当然

せめて殲滅にはならないように立ち回ろう

それが彼の思考

人間の脅威となるシュピーゲルの存在を、商業王に伝達出来ない事こそ最も忌避すべき事態

つまりは伝達する人間が一人でもいれば良い


傭兵隊長 (こりゃあ、死ねねぇぞ……)




傭兵隊長は武力における抵抗をとうに諦めていたが、一つだけ抵抗出来る可能性を知っていた

魔導の国の影で暗躍する「黒の部隊」


傭兵隊長 (そうか……! 奴らなら或いは……!)




獣王 「あとはテメェ等だけで片付けろ」


獣王は草原から森へ移り、この様子を傍観する姿勢を取った

あまりに一方的な事態

殺される以外に道を失った兵士達はそれでも尚足掻く

そこにいた傭兵の誰もが生に執着し、また誰もが目の前の敵に絶望した

そこへ差す黒の色


黒蜥蜴 「退け、雑兵共が」


立ち並ぶは数十人で構成された少人数の部隊

黒い外套によってその表情は知れず

構える凶刃は猟奇的

ただその声音だけが朗々と戦場に響き渡る


黒蜥蜴 「貴様等、一匹たりとも生きては返さんぞ」












黒蜥蜴 「貴様等、一匹たりとも生きては返さんぞ……」


黒蜥蜴に相対する数匹のシュピーゲル

その二つの勢力を丸ごと挟み込むように、左右には魔法部隊が展開される


「人ってのはぁ、チビで非力で頭も無い」

「ああ、そのくせ中にはこんな風に向かってくる馬鹿もいやがるから面白ぇ」


黒蜥蜴 「デカければそれだけで強者か?」

黒蜥蜴 「いいだろう。この我が貴様等を屠ってやる」

黒蜥蜴 「チビで非力で無能な我に勝てると自負する害獣は、一歩前に出ろ」


黒蜥蜴の長は、刃をちらつかせシュピーゲルを挑発する

言葉とは裏腹に、外套の奥に潜む眼はどこまでも敵の力量を見定め、慢心は一片も無い


「ははっ、じゃあ俺がやってやるぜ!!」




一匹のシュピーゲルが、言うが早いか黒蜥蜴の長に肉迫した

獣王より一回り小さいとはいえ、シュピーゲルという種族の体躯、筋力は魔族随一

人間ならば数秒は掛かる間合いを、ほんの一瞬で無くすその脚力はやはり獣の頂点

刃物のように突き出された爪は、外套の中ほどへ向かう


黒蜥蜴 「さぁ、目に焼き付けろ」


相手へは決して届かない小さな囁き


黒蜥蜴 「ようやく日の目を見る、魔導の国最強の兵器を」


どす、と音を立てて、躍り出たシュピーゲルの指先が黒蜥蜴の長の腹で止まった

それは正しく、死んだと判断できる一撃


「なんでぇ、てんで相手になりゃしねぇ」


シュピーゲルが嘲笑った瞬間、外套の中からキラリと刃物が光る


キィィンッ


人を圧倒する獣、その皮膚を尖鋭な金属が駆けた

後を追うように、噴出するどす黒い血潮

そこに、先程までの勢力図は適応されない


「ガ……」




断末魔の叫びとしては、あまり適さない声

それは声というより、ただ一つの音と言った方が正確だった


黒蜥蜴 「貴様の爪がいくら鋭く、我等の皮膚が如何に柔らかろうと、我が白刃を握れば関係などない」

黒蜥蜴 「最初の一撃で我が死んだとでも思ったのか? おめでたい奴だ」




「……いや、確かにアイツの攻撃は当たっていたはず」


あっさりと殺されてしまった同胞を尻目に、残ったシュピーゲルは冷静に分析を始めていた

それこそ、ただの獣とシュピーゲルを隔てる決定的な要因

オーガとシュピーゲルとの差だった


「魔法と決めつけるには材料が足りない。なら、ここは一時保留」

「慎重に戦況を観察するまで」


勇むシュピーゲルはもういない

一歩下がり、相手の出方を見る

しかしそれが、彼らにとっての悪手だった


黒蜥蜴 「魔法部隊、放て」




シュピーゲルと黒蜥蜴の一団を挟みこんでいた魔法部隊

その総数は数百人にも上る

その全員が同時に、同じ方向へ全く同じ魔法を放った

五大元素魔法・炎(ファイア)

魔導の国で最も一般的な魔法、五大元素魔法の一つ

威力は然程あるわけではないが、それを踏まえても数は数百

数匹のシュピーゲルが耐えきれる火力ではなかった


バンバンバンバンバンッ!!!


大量の火柱が降り注ぐ


「ぐあっ……熱ぃ!!」


身を焦がす火炎は止まない

しかし炎が及ぶ範囲には、シュピーゲル以外にも黒蜥蜴の一団がいた

この一斉砲火は彼らをも飲み込む

バシュウゥ……

一撃、一人の放った魔法が黒蜥蜴の特徴的な外套に命中した

通常ならば、激しく全身を高熱の火が包み込むはずだったが、結果はボヤにも至らず

赤を打ち消す黒

あらゆる色を黒へ塗り潰す

それが、魔導の国、黒の部隊に課せられた宿命

彼等の根底に眠る行動原理だった




黒蜥蜴 「いざ……殲滅の時」


いまだ止まぬ火の雨の中、黒い獣が駆け出す


「くっ…逃げられねぇ……っ。逃げ場所もわかりゃしねぇっ」


ダッダッ


「足音!? 一体どこからっ!!?」

「右…いや左……。どの方向も火以外見えねぇぞッ」


黒蜥蜴 「死ね」


「火の中から!?」


シュピーゲルが黒蜥蜴を火中から視認して転瞬

猟奇的な刃物が凶刃へ変貌する


「ぎゃあぁぁっ!?」


初撃は眼球へ

次は心臓

最後はのべつ幕なし皮膚を切りまくる

それが彼等の戦術

目を潰された時点で、シュピーゲルといえども抵抗の隙は無かった


「見たッ。俺は見たぜ!!」

「奴等に魔法は効かねぇ。火が痛ぇのは俺らだけってわけだ!!」





黒蜥蜴 「次は貴様だ」



「だが火は数秒ならば耐えられる!」

「その間に倒せばいいんだよぉ!!」


黒蜥蜴の刃は目には届かず

シュピーゲルの薙ぎ払いによって弾け飛ぶ


「ははあっ手ごたえあったぜぇ!!!」


黒蜥蜴 「ちっ…もう使ってしまったか」


「なんで……てめぇは立ってられるんだ!?」


黒蜥蜴 「黙れ」


バシュゥッ


「ぎゃっ!?」


その時、流れてきた一発の火球がシュピーゲルの顔へ直撃した


それを逃さずに、黒蜥蜴は刃をかざす


「あっ……甘ぇよ!! 目なんぞ見えなくても人間を殺すのに難しいこたぁねぇ!!」


ザシュッザシュッ


皮膚を切られながらも、シュピーゲルは腕や足を振るった


ドンッ!!


その中、一撃が黒蜥蜴へ




黒蜥蜴 「ぐはっ……」


「……もう立つんじゃ…ねぇ……。俺も…限界だぁ」


巨体がゆっくりと地面へ倒れ込む

互いに優劣はない

火が包む中、人とシュピーゲルが一体ずつ息を引き取った

魔法部隊と黒蜥蜴、シュピーゲルが拮抗した一瞬であった










獣王 「へぇ、人間もやるじゃねぇか」


木の影、巨躯が蠢く


獣王 「もう半数はこっちも死んだか?」

獣王 「そろそろ俺もやる気、出そうかねぇ」









魔法兵 「もう……いいだろう」

魔法兵 「全体、打ち方やめ!!」


獣王 「あぁん? もうやめちまっていいのか?」

魔法兵 「は……?」


グチャッ

獣王 「ははあ!!もっときっちり抵抗してクダサイよぉ!!」


またも一方的な虐殺

基礎的な魔法しか使えぬ魔法兵に、一瞬でも獣王に抵抗する術は存在しなかった

ものの数秒で辺りは、人体から漏れ出た赤黒いもので染まる





そして場面は移り……




獣王 「テメェ等のそれ、魔術って奴だろ?」


黒蜥蜴 「何故それを……!?」


獣王 「テメェ等なんかよりやべェ魔術を見たからに決まってんだろうが」

獣王 「ありゃ凄かったぜ。この俺がほんの一瞬、動けなかったぐらいだからな」


黒蜥蜴 「一体何を言っているんだ?」


獣王 「てめぇのは黒。あいつのは影」

獣王 「もう一回見てみたいもんだぜ。今度は確実に喰ってヤル……」


日の下

一匹のシュピーゲルが涎を垂らす

欲望が垣間見せる本能

その異様さは、数多の魔物を屠った黒蜥蜴でさえも容易く威圧した


黒蜥蜴 (コイツ……っ。他の奴等とは格が違う……っ)


獣王 「まぁ、それまでは、このチンケな魔術で我慢するか」

獣王 「といっても、もう見切っちまってるんだがなぁ」


黒蜥蜴 (魔法部隊の支援はない。となれば、我等の独力でコイツを殺るしかない……)

黒蜥蜴 (いや、この魔装束があれば十分いけるはずだ……っ)




獣王 「物理攻撃を一度だけ無力化。魔法なんかは常時無効にするってところだな」

獣王 「感じるぜ。それ一着を造るのに、一体どれだけの人間を使ったんだ?」

獣王 「あのガキの影と比べると、あまりに幼稚だな。相手になりゃしねぇや」

獣王 「だが敢えて付き合ってやる。クズ相手に引くのも億劫だからな」



まるで獣が、空へ遠く遠吠えをするかのように、

すぅ、と獣王は大きく息を吸い込んだ

魔術の黒をも塗り潰す、獣王の「黒」

それが紛れもない、魔王の片鱗だった

そして少年と同じレゾンの証左でもあった


獣王 「ガアアァアァァアッッ!!!!」



黒蜥蜴 (よし! 魔法ならば我等には効かぬ!!)


獣王の攻撃は一見魔法のように見えた

実際、それは魔法に似た性質を持っていたため、彼の考えは間違えでは無い

しかし規模や魔法の質は全くの別問題なのである

異質な音を立てて、土を抉る漆黒の光が自身に迫り、そこでやっと気付く


ああ、自分は死ぬのだと













少年 「そういえば、勇者はどうやって獣王の動きに合わせてたの?」

勇者 「へっ?」

少年 「誰かに動きを合わせる時って、何かを基準に自分の動きを決めるでしょ?」

少年 「例えば、歩幅とタイミングを合わせるとその人と一緒に走れるたりするよね」

女エルフ 「確かに、あの時の勇者は尋常じゃなかった」

女エルフ 「自分より遥かに巨大で素早い相手に、同等までは行かないが十分張り合っていたからな」

女エルフ 「情けないが、私は早い段階で退場してしまったよ。それほどに奴は手強い」

勇者 「そっ、そうですか? 特に意識しないで戦ってただけなんですけど……」

少年 「無意識で合わせてたって事かな?」

勇者 「あ、いえ、心当たりがないわけでもないですね。そういえば」

勇者 「何となくですけど、相手の呼吸のリズムは手に取るように分かります」

少年 「呼吸かぁ。確かにそれなら初動を読む事も出来るかもね」

女エルフ 「それだけじゃないぞ。呼吸のリズムが分かれば、心臓の大まかな拍動数も分かる」

女エルフ 「そしてそれは相手の気を把握することでもある」


勇者 「そう言い換えれば、確かに理に適ってたんですね」

勇者 「少年は何か基準にしている物はあるんですか?」

少年 「僕は筋肉の力み具合かな。血管がどれだけ浮き出ているとか、僅かな違和感のある動きとか」

少年 「動作の直前にそれが分かりやすくなるんだ」

少年 「でも獣王相手じゃ見極める自信無いかな。見た限りだと、一切力みが無いから」

少年 「女エルフは?」

女エルフ 「私は目線だな。目は口ほどに物を言うというやつだ」

女エルフ 「相手の感情を読めれば、動きも自ずと読めてくるはずだ」

女エルフ 「……といいたい所だが、獣王の眼には全く感情なんて無かった」

女エルフ 「言い訳がましくなるが、私の戦法は役立たずという事だろう」

勇者 「戦い方にも色々あるんですね。全然知りませんでした」

女エルフ 「それはお前に才があるからだろうな」

女エルフ 「私には長年、戦闘については磨き上げて来た物があった」

女エルフ 「しかし、いざ倒せないほどの強敵と対してみれば、私はあっさり破れ、」

女エルフ 「そして戦闘経験の少ないはずのお前が善戦をした」

女エルフ 「だがな……。今回ばかりは違うぞ」

女エルフ 「私にもちっぽけな自尊心がある」

女エルフ 「獣王は勿論だが、何より私は勇者に負けたくない。少年に負けたくないんだ」

女エルフ 「エルフの名に賭けても、もう二度と遅れは取らんぞ」


少年 「それは僕も同じだよ。自分の信じた力を最後まで貫く。誰にも負けない」

少年 「勇者もだよね?」

勇者 「俺は……」

勇者 「俺は、どうでしょう……」

女エルフ 「分からないのか? 自分のことなのに」

勇者 「いえ。負けたくないとも思うんですけど……」

勇者 「そんな事より、俺は皆を救いたいです」

勇者 「ある日、俺は何百人もの観衆からの歓声を浴びました」

勇者 「俺がこの勇者という名を受けた日です」

勇者 「それが、その……なんと言うか、嬉しくて」

勇者 「ああ、俺はこの為に生きて行けると思ったんです」

勇者 「もう一度この歓声を貰う為に、俺は命を張れると思ったんです」

勇者 「名誉欲って言うんですよね。でも、俺の中にある生きる意味なんてそんなものなんですよ」

勇者 「何かすいません。俺、勇者なのに小さな事にこだわっちゃって」

少年 「ううん、それが勇者にとっての生きる意味なら、それ以上の事はないよ」

少年 「僕にもあるんだ。生きる意味ってやつが」

少年 「でもそれはとても身勝手で、独り善がりだ」

少年 「僕だけが満足できるような、そういう理由なんだよ」

少年 「誰かのために生きられる勇者が、僕には眩しいや」


勇者 「少年 ……」

女エルフ 「私も似たようなものだ。私が勇者一向に加わった理由を知っているだろう?」

女エルフ 「自分の種族を守るため。人間のことなんて、これっぽっちも考えてなんかいない」

女エルフ 「どんな大義を掲げようと、心の底で思っている事に嘘は付けない」

女エルフ 「偽らずに生きて行けよ。民衆の光明さん」

勇者 「はい、気張らず行こうと思います」

勇者 「最終決戦も近いみたいですしね」

女エルフ 「ああ!」

少年 「うん!」









そこは死地へと変わった戦場

生存し、立っている者は数体のみ

その全員が獰猛な獣、シュピーゲル

既にシュピーゲルへ抵抗する人間はみな地に伏して、己の無力を知る間も無く絶命へ至っていた

この場に、誰も彼等を止められる人間はいない

しかしただ一人、馬の死骸の下敷きになって生き延びていた何ともしぶとい男がいた

名を傭兵隊長

役職はコンドッティエーレ

皆殺しにあった部隊の長である





傭兵隊長 (黒蜥蜴が殲滅されるまで、ほんの数分か)

傭兵隊長 (単なる獣ならまだしも、あの一匹だけデカイ奴はヤバすぎる)

傭兵隊長 (口から出した破壊光線で、何人黒蜥蜴の連中が死んだんだ?)

傭兵隊長 (抵抗すらままならずに、ただ順番に殺されていっただけじゃねぇか)

傭兵隊長 (アイツらは決して弱くねぇ。それどころか、俺の知っている兵士の中じゃ突出して強いはずだ)

傭兵隊長 (それがものの数分で全滅……)

傭兵隊長 (なら、俺が逃亡してそれが成功する確率はどれくらいだろうな)

傭兵隊長 (……ちっ。恐らくちっともありゃしねぇ)

傭兵隊長 (あのヤベェ化け物じゃなくても、アイツの取り巻きにだって殺される自信があるぜ。畜生ッ)

傭兵隊長 (あー。すまねぇな、商業王)

傭兵隊長 (初任務で殉職するかもしれねぇわ)

傭兵隊長 (ならせめて、死に際に一矢報いるか……?)

傭兵隊長 (取り巻きを一匹くらいなら、もしかしたらいけるかもしれねぇ)




彼は迷った

命惜しさにこのまま隠れていようとも思ったが、商業王への忠誠に偽りは無い

それ故、ただ死ぬくらいなら……。という考えが頭を離れなかったのである

その考えは、彼の傭兵としてのポリシーに甚だしく乖離していた

思考を鈍らせるのは、商業王への忠誠心だけではない

馬の死骸から流れ出た臓物が、いよいよ耐えがたい異臭を放ち、蠅やら何やらを呼び寄せているのである

鼻をつまみたい衝動に何度も駆られたが、ピクリとも動けば奴等に見つかる恐れがあるため絶対にそれはできなかった

衝動と忠誠心、そして傭兵としての様々な経験則

それらが彼の中で渦巻いているのだ

命を天秤に賭けている以上、安易な行動は出来ない

かといって、このまま馬の下で犬死するわけにもいかない

ジレンマ、二者択一

賤しく生にしがみ付くか、いっそ潔く兵士として最期を迎えるか

いやいや、もしや奴等がこの場をあっさり去る可能性も……

そういった考えが無かったわけではない

しかしそれは有り得なかった

彼の傭兵としての経験則が、それを易々否定するのである

そして同時に、けたたましい警鐘を鳴らしているのだ

アイツはヤバい。一刻も早く逃げ出せと






傭兵隊長 (あれ、絶対俺じゃないよな……?)

傭兵隊長 (絶対違うよな? いやいや、有り得ないって……)



見当違いに焦燥する傭兵隊長の後方から、満を持して獣王を打倒せんとする一団が現れる


勇者 「何騒いでんだ? てめぇ」


獣王 「おめぇじゃねぇよォォォ!! あの糞餓鬼はどこだァァ!!」


勇者 「まぁ落ちつけよ。まるで知性のない獣みたいだぜ?」

勇者 「よっこいしょっと……」


勇者は何を思ったか、突然その場にドシンと座り込んだ

怨敵を前にしての大胆、傲然な態度

とても常人に出来る事ではない

そしてゆっくりと言った




勇者 「んじゃ、頼んだぜ。少年、女エルフ」


眼を瞑り、手を身体の前で軽く組む

それは座禅

いつも勇者が精神統一の際に行うスタイルだった


少年 「まかせてよ、民衆の光明さん」

女エルフ 「ふふ、エルフ流の戦いを見せてやる」


勇者の両脇から、臨戦態勢の二人が歩みだす

一度は大敗を喫した相手でありながら、醸し出す余裕は何ゆえか

今度ばかりは、面を食らったのは獣王の方だった


獣王 「ハハハハハ、いい余裕じゃねぇかよぉ」

獣王 「この数ヶ月で一体何がありやがったんだぁっ?」

獣王 「ちゃっちゃとブッ殺して、テメェ等の脳漿を啜り喰ってやるぜぇ……」









獣王と対する少し前



勇者 「奴は本当に魔王なんでしょうかね。獣の王である事に間違いは無いでしょうけど」

女エルフ 「獣王は母喰父殺のシュピーゲル。魔王になる素質も資格もある」

女エルフ 「それは私達エルフが見守って来た長年の歴史が証明している」

女エルフ 「だがな、現状において奴はただの獣」

女エルフ 「仲間にデカイ顔をしている、お前に言わせればお山の大将というやつだ」

少年 「どっちにしろ、獣王は魔王になるかもしれない危険因子なんだね」

女エルフ 「ああ、因子どころか、人間にとっては脅威そのものだ」

勇者 「魔王と勇者の構図。まさか自分が体現する事になるとは思いもしませんでした」

女エルフ 「中々ロマンがあるじゃないか」

女エルフ 「人の脅威を誅する一団、そこにはそう短くない時を隔てたエルフがいる」

勇者 「そうですね」

勇者 「っ!?」




常時勇者が気を感知できる範囲からかけ離れた遠方、まるで捻じ込まれるかのように現れた異物感

以前会った時より、さらにその気は荒れ狂う

また彼は、それ程に狂った相手を倒そうとしていた事に絶望した


勇者 (獣王……!)


恐れた訳ではない

しかしそんな事とは無関係に、理性的な判断として完璧な勝利は出来ないと確信した

何かを犠牲にしなければ

直感と同時の直観

最初から決まっていたのだ

彼がまだ一介の人間だった頃、ふと立ち寄った古物商から「幻怪」を偶然買い取ったあの瞬間から

放棄するモノなんて決まっている

そして自分がまだそんなモノを手放せないでいた事を思わず嘲笑った

階段を踏み外すあの感覚のように、彼の思考は瞬発的に心理の奥深くへ沈み、複雑な回路を辿りながらも一弾指の中に答えを得た




勇者 「……任せました」

少年 「獣王だね」

勇者 「…………」

女エルフ 「最初から任せろと言ってあっただろう」

少年 「そうだよ。だから僕達も勇者に任せる」

少年 「最後は君だ」

勇者 「……はい」

女エルフ 「腹は決まった」

女エルフ 「ならばここからは、いつもより少しだけ大きく出てみないか?」

勇者 「それも良いですね……」


勇者は静かに笑った

誰かに向けた笑みではない

さらに言えば、それは気味の悪い薄ら笑いに近かった

大事なモノを失うだろう己に向けてのものだったのか、それとも単にそれの拘束から逃れた解放感からだったのか

どちらにせよ、勇者の精神は悟りより先に存在する、人が踏み入れるべきではない境地へ達してた事は確かだった

終着すれば、酔生夢死

執着すれば、艱難辛苦

そんな領域

一度達してしまえば、もう後戻りは出来ない

また、踏み込めばどんな困難だって笑える

斬り崩し、突き進めると思った




狂気の渦の真ん中、待ち受ける獣王

俺の手には愛刀「幻怪」

なんにしろ、その渦の真ん中に突っ込まなければならないんだ

ならば酔おう

今この時

頭を使っても仕方がない

死ぬときゃ死ぬ

人間万事塞翁が馬

へらへら行こうじゃないか

なぁ、師匠?

その軽薄な顔で俺をからかい、おどけて見せてくれよ

それが駄目ならせめて見ていてくれ

俺はもう一度あの到達点へ行って、神速ノ剣を手にする










逆立つように生える獣王の体毛は、ありとあらゆる攻撃を殺す。

ハ―ピーのかぎ爪、バジリスクのクチバシ、ケルベロスの牙。

魔界における鋭利なものの筆頭であるこれらを以ってしても、獣王の体毛を破ることは出来なかった。

それ程に硬質で、夥しい。

そのため、獣王は多くの攻撃を敢えて防ごうとはしない。

女エルフの剣を前にしても、考えは変わらず。

しかしそれは前回の戦闘。

今回の獣王にそのような慢心は無かった。

そしてそれはつまり、もう以前のような余裕も消えたという事。


獣王 「待っていたぜ。魔術の糞ガキ」

獣王 「今度は、お前も戦うんだよなぁ?」




紅の空に鎮座する夕月を背に、獣の王が一人の小さな少年を半ば狂気じみた眼で睨みつける。

絵に描くのならば、そこは絶望の場景。

死に行く子供の儚さを表現した、悲劇的な一枚となっていただろう。

その子供が、まさか黒魔術などという強大な力を持つ禁忌の秘術を使わず、且つ魔の根源なる不可視の超越的エネルギーを身に宿していなければ、だが。


少年 「もちろん。お前はそんなに僕の魔術が気に入ったのか?」


少年は手に黒表紙の魔本、グリモワール(屹立する魔導書)を持ち、堂々と獣王と向かい合う。

魔界の旅でさえ、一切の傷、汚れも許さない黒の革表紙。

少年にとってそれは、最愛の女性が残した唯一の形見だった。

彼の存在理由(レゾンデートル)。

それこそグリモワール。

彼の言う、身勝手で独り善がりな生きる理由。


獣王 「ふっふっふ……。たぎって来たぜぇ……」


女エルフ 「私も忘れるなよ、野獣」


獣王 「は? 誰だおめぇ」




女エルフ 「そうか。雑魚は顔さえ覚えないのだな」

女エルフ 「正に野獣。知性無き獣じゃないか」


女エルフは相手を嘲るような笑みを浮かべ、そして腰の剣へ手を伸ばす。

柄に触れ、ゆっくりと撫でるように握ると、躊躇なく抜き身を獣王へかざした。

滞りなく行われたその動作は、獣王への宣戦布告。

エルフという種族から獣王への敵対宣言だった。


獣王 「ほぉ、エルフは人間側に付くって事かい」


女エルフ 「勘違いするな、下郎」

女エルフ 「私は貴様と敵対すると言っているのだ。さらさら人と同和するつもりなど無い」

女エルフ 「我が種族を侮辱した罪、後悔すら許さん」


獣王 「てめぇなんぞ、俺が戦う必要もねぇよ」

獣王 「おい、シュピーゲル共。コイツを片付けとけ」


獣王の背後、ゆらりと動くシュピーゲル。

しかし彼等は、意外な形で戦線を離脱する事になる。


少年 「屹立スル魔導書 記されし十惡(とあく)が一つ」

少年 「『悪口』 悔悟の念に悪罵の聖譚曲(オラトリオ)を」


少年の茶色の眼球が、漆黒に染まる。

彼の背後、日に照らされ長く伸びた影から夕陽を遮る暗幕がシュピーゲル達を覆った。


l



シュピーゲル1 「な……なんだっ!?」


退避は出来ない。

防御も不能。

ただ少年の術中に落ち行く他無かった。




何故……何故、助けてくれなかった
目の前で仲間が倒れているんだぞ……?
俺達は共に戦う仲間じゃなかったのか……



数匹のシュピーゲルが、その暗幕の中で見たもの。

それは悔恨の記憶だった。

さらに正確に言うのならば、ハ―ピーの崖で見捨てた仲間達。

肩が抉れ悶える者、目が腐り眼球が落ち窪む者、全身の切り傷から膿を滲ませる者。

あの時、必死に目を背けた光景がそこにあった。

死者の血塗られた手が頬を滑る。



苦しい……。
なんでお前は楽に生きて、俺は死ななきゃならねぇんだ……。
もうてめぇなんか、仲間…じゃ、ねぇ……
死ね。
死ね。
死ね。
死ね死ね死ね死ね死ね死ね。



シュピーゲル1 「ギャアアアァァァアァアアッ」


一匹のシュピーゲルが狂った。

そして、その後を追うように他のシュピーゲルも発狂を告げる断末魔を上げる。

正気はもう存在しない。

人間に対する敵意など、どうして維持出来ようか。

彼等の敵意を損失させたその時、少年はこの戦闘における最初の勝利を手にした。




獣王 「ははっ、一発で全員狂っちまいやがった!」

獣王 「やっぱ面白ぇわ、お前」


味方の乱心など気にも留めず、獣王は少年だけを見つめる。

彼には後悔する過去などない。

故に少年の魔術の対象外だったのだ。


少年 「次はお前だ。獣王!」


少年 「『殺生』 生くべかざる者に影の報復を」


放射状に伸びた八つもの細長い影が、一斉に獣王へ襲いかかる。

詠唱から発動までのスピード、詠唱自体の短縮。

そして何より影の精度が、以前とは段違いに進歩していた。


獣王 「おおっと、速ぇ……」


急伸する影は、それぞれの角度から獣王を狙う。

右眼球、口腔、左肘、右肘、心臓、鳩尾、股座、右太腿、左足首。

迫りくる八つの危害を前に、敢えて獣王はその場から動こうとはしない。

そして瞬間、影が獣王の各部位を貫こうとしたその時。


獣王 「ははぁっ!!」




巨躯が宙を舞った。

超重量の巨体を物ともせず、曲芸のように、全ての影を一つの動作でかわしきる。

まるでそこだけ重力が消えてしまったかのように、目を奪われるほど鮮やかに。

ズドンと音を立てて、その獣は着地する。

影の攻撃は終わらない。

獣王を狙い空を裂いた八つの影は、獣王の後ろですぐに散開し、方向を転換させもう一度攻撃を仕掛けた。

今度は時間差。

まず一つの影が、獣王の頭へ向かう。

頭のみを傾け、あっさりと初撃はかわされるが、続けざまに二つの影が獣王の両足を狙った。

またも中空に飛ぶ獣王。

足を狙った二つの影は通り過ぎ、また別の影が中空に留まる獣王の胸部を貫かんと迫った。

そしてその影が口火を切ったかのように、残りの四つの影も刺突する。

転瞬、獣王の口から瘴気。


獣王 「ガアアアッッ」


放たれた漆黒のエネルギーは、少年の影を残らず焼き、さらに辺りの木やら土やらを抉り焦がした。

目にも止まらぬ攻防の決着。

獣王に傷一つなし。


獣王 「まだまだ俺にゃとどか…


少年 「『瞋恚』 怒れる者の足元に決して見通せぬ影を」


獣王の言葉を遮るように、少年の口から新たな魔術の発動が告げられる。




獣王 「あん? なんか起きたか?」


女エルフ 「こっちだ」


獣王の影より現れる女エルフ。

手には以前、獣王に折られたものと同型の剣。


獣王 「なっ…てめぇいつから!?」


女エルフ 「妖精魔法 『燧(火打ち)』! !」


振りかざす刀剣に、小さな火炎が纏わり付く。

意表を突いたため、獣王に防御の用意は無い。

あの時のように、女エルフの剣が獣王を捉えた。

剛毛を剣の炎が焼き、あらわになる素肌。

逡巡せずに、それを女エルフは斬り抜いた。

手応えは最悪。

まるで岩をなぞったかの様。


獣王 「くそがっ!!」


攻撃を終え、獣王に背を向けていた女エルフ。

獣王の爪が重い音を上げて迫った。


女エルフ 「残心を怠ったことなど一度たりとも無い……」


囁くような小声の後、もう一度女エルフが獣王の意表を突く。

ストンと頭を下げ、振られた剛腕を避けたのだ。

距離も測れず、猛烈な速度で迫る背後からの攻撃を。




獣王 「なっ……」


腕が空振り、獣王は生まれた初めて隙らしい隙を作った。

すかさず女エルフの追撃。


女エルフ 「魔魅獣人流……」

女エルフ 「狩る技巧(ハントフェステ)『初歩、末の千里』」


屈んだ上体から、獣王への逆袈裟斬り。

単純な斬撃ではなかった。

剣先は獣王ではなく女エルフの背後に向き、刃は獣王の皮膚に達するかという所。

針のような剛毛を切り裂き、さらに奥の皮膚をほんの少しだけ刃が滑る。

ただそれだけ。

実質的なダメージはほぼ無い。


獣王 「んなもん、効かねぇよ」

獣王 「毛が少し切れたくらいじゃねぇか」


女エルフ 「ああ、そうだな。ダメージなど与えてはいない」

女エルフ 「斬ったものと言えば、貴様のやたらに濃い体毛……」

女エルフ 「それと、馬鹿みたいに硬い貴様の皮膚だ」


獣王はその時に気付いた。

血が毛を縫い、皮膚を流れている事に。

感じた事もない不愉快な感覚が、内側から獣王の脳を叩く。

水とは異なるベトベトな血液。

獣王にとって、それは初めての経験だった。




獣王 「なっ……」


腕が空振り、獣王は生まれた初めて隙らしい隙を作った。

すかさず女エルフの追撃。


女エルフ 「魔魅獣人流……」

女エルフ 「狩る技巧(ハントフェステ)『初歩、末の千里』」


屈んだ上体から、獣王への逆袈裟斬り。

単純な斬撃ではなかった。

剣先は獣王ではなく女エルフの背後に向き、刃は獣王の皮膚に達するかという所。

針のような剛毛を切り裂き、さらに奥の皮膚をほんの少しだけ刃が滑る。

ただそれだけ。

実質的なダメージはほぼ無い。


獣王 「んなもん、効かねぇよ」

獣王 「毛が少し切れたくらいじゃねぇか」


女エルフ 「ああ、そうだな。ダメージなど与えてはいない」

女エルフ 「斬ったものと言えば、貴様のやたらに濃い体毛……」

女エルフ 「それと、馬鹿みたいに硬い貴様の皮膚だ」


獣王はその時に気付いた。

血が毛を縫い、皮膚を流れている事に。

感じた事もない不愉快な感覚が、内側から獣王の脳を叩く。

水とは異なるベトベトな血液。

獣王にとって、それは初めての経験だった。




女エルフ 「私がエルフだからと、女だからと見くびったのか?」

女エルフ 「エルフにだって、密々に受け継がれた戦闘技術がある」

女エルフ 「例え貴様のように、無駄に巨大な身体など無くとも十分戦えるのだ」

女エルフ 「魔魅獣人流……」

女エルフ 「貴様に血を流させた流派の名前だ」

女エルフ 「そのお粗末な頭に刻んでおけ!!!」


キラリと、獣王へ向けられた女エルフの剣が光る。

生半可な覚悟では無い。

彼女が獣王に刃を向けると言う事は、エルフという種族がシュピーゲルという歴代の魔王の種族を敵に回すと言う事。

それ程の重責を仲間の知らぬ場で、彼女は背負い戦っているのだ。

その使命感が彼女の剣にかつてない重さを与える。

ただ斬るだけじゃない。

それ以上の価値が、その一撃にはあった。


獣王 「てめぇ……」


全く苦痛ではない、小さな痛み。

しかしそれは尖鋭でいて不快。

無視できない嫌悪感が皮膚のすぐ下を駆け巡った。

女エルフへの憎悪もあったが、それよりも何より、相手を見くびって掛かった自分への苛立ち。

頂点にいるからと、慢心した自分が憎らしくて仕方がなかった。


最強だからなんだ?

それだけで俺はもう学ぶ必要も無いのか?

馬鹿らしいじゃねぇか。

足元をしっかり見ねぇから、ゴミ粒みてぇな蟻に噛まれんだよ。

俺は待つだけの王じゃねぇ。

全てを吸収し、全てを喰い尽くしてやる……!




獣王 「認めてやるよ……。魔魅獣人流」

獣王 「生まれた初めての賛美だ。有難く受け取っとけ」

獣王 「俺の失態。それは一度目を許した事」

獣王 「だが、二度目は無い」


狂ったような獣王の目が、見る間に正気を取り戻していく。

まるで獣が獲物に焦点を合わせるかのように、女エルフを視界の中心に据えた。


獣王 「選り好むのはやめだ。全てに学ぼうじゃねぇか」

獣王 「さぁ、第二回戦を始めようぜ」


少年 (あの目は不味い。慢心を捨てた戦士の目だ)

少年 (初めの急襲は成功したけど……)

少年 (出来たら、激昂してくれた方が楽なんだけどなぁ)


女エルフ (やっと私を見たか。ここがスタートだな)

女エルフ (奴はとうとう私と同じ土俵に立った)

女エルフ (姿勢は低く、頭は冷静な獣ほど怖い物は無い)

女エルフ (奴が正にそうだ)

女エルフ (もう同じ手は通用しなさそうだな)

女エルフ (ここからが本番だ)


夕陽も夜に追いやられ、空には満月が代わりに光輝を放つ。

獣王いわく、目のような月。

それが死闘の始まり、ほんの一幕を監視するかのように眺めていた。

夜は始まったばかり。

熾烈を極める獣王対勇者一向の戦いは続く。

そして、傭兵隊長。




傭兵隊長 (逃げるタイミングを見失った……)

傭兵隊長 (というかこれ……。馬が重くて動けねぇぇぇ)

傭兵隊長 (やべぇよ……。早く逃げねぇと……!!)


一人、死闘とは無関係に焦燥していた。








女エルフ 「ふぅっ……」


汗が頬を伝う。

開戦の激しさとは対照的な戦況。

一見して激情的な獣王は、女エルフの攻撃を受けて以後、冷たいまでに落ち着き払い守りに徹していた。

皮膚でさえあの強度。

爪牙であれば尚更。

いくら磨き直された女エルフの剣でも歯が立たない。

少年もファングナイフは抜かずに、グリモワールの一節『殺生』のみで獣王に攻撃を仕掛ける。

不気味なまでに静かで、決闘という劇を演じているかの様な攻防だった。


女エルフが獣王に斬り掛かり、獣王はそれを難なく防ぎ反撃を繰り出す。

その獣王を、少年が中距離から影で攻撃し、またそれも防がれる。

または獣王が少年へ迫り、影が応戦。

空かさず女エルフが獣王を牽制する。

そういった攻防の繰り返し。

しかし激しさが無くなった現状でも、傍から見れば、それは超人か或いは人外の戦いである事に違いは無い。

目では追い切れぬ剣閃の素早さと数。

それを遥かに超える膨大な量のフェイク。

八つの影が縦横無尽に飛び回る黒魔術。

一介の兵士では評する事さえ出来ない程の高度な戦いだった。

そして二人の攻撃を全て防ぎさらに反撃まで至らせる獣王は、やはり獣の王と呼ぶに相応しい。




女エルフ 「全く、なんて柔軟な戦い方だ……」

女エルフ 「全ての攻撃を見透かされているようじゃないかっ」


いつまで経っても通らない攻撃に、女エルフはいささかの苛立ちを覚えた。

そして想像以上に冗長な戦いに痺れを切らす。

晩夏の夜空。

ただ満月が光輝を放つのみ。

明るすぎる月のせいで、満天に散りばめられているであろう星々も姿を隠していた。

日中の蒸し暑さとは一転して、心地良い程度の気温。

こんな日ならば、満月を肴に人とエルフの未来について誰かと語らいたいものだ、と女エルフは辟易した。

それ程に長く、疲労が積み重なる戦いだった。




獣王 「ふぅぅ……」


獣王は緊張したような動作一つ見せない。

ただゆっくり息を整え、踊るような攻防が始まるのを待つ。

いつもの軽口はどこへやら。

まるで官職に就くべく刻苦勉励する学徒のような神妙さで、戦いを続けていた。


少年 「屹立スル魔導書 記されし十惡がひとつ」

少年 「『偸盗』 重なる略奪に思いがけないしっぺ返しを」


獣王 「!!」


少年が魔術を唱えるが早いか、獣王が少年との距離を潰しにかかった。

とても女エルフの反応できる速度ではない。

グリモワールのみを武器とする今の少年に、獣王が肉薄する。




少年 「『邪見』 不正の心に振りほどけぬ煙影を」


爪が眼前に迫り、獣王が口元を僅かに緩めたその瞬間、少年の体が冷気のような影になった霧散した。

そして少年だったその影は、獣王を覆う煙幕となり辺りを真っ黒に染める。


獣王 「ちっ……この速度でも駄目なのかい」

獣王 「ったく、とんでもねぇな。危うく心臓をぶん取られるところだったぜ」


目眩ましの煙幕の中、獣王は誰かに向けたということもなくぼやいた。

『偸盗』が物を盗む怪奇であることに一瞬で思い当たり、そして座標指定の前に回避する。

神懸かりと言って過言ではない。

危機察知に秀でた女エルフでさえ、初見では何が起きたのか把握できなかった魔術を、獣王は既に攻略しかけていたのだ。


獣王 「だがあと少しだ」

獣王 「もうすぐ影に手が届く」






獣王から少し距離を取った地点。

ひょこっと少年が顔を出す。


少年 「やぁ、女エルフ。気分はどう?」

女エルフ 「ぼちぼちといったところだ」


現状に不釣り合いな少年のおどけるような態度にも、自然と腹は立たなかった。

勇者がいるからなのか、少年がいるからなのか、自分にはまだまだ余力があるように思えた。

勿論、状況を一変させる手立てを隠しているわけではない。

それでも気の持ちようなのか、絶望的とは感じなかった。

きっと好機はある。

今はひたすら耐えるのみ。

その考えが、女エルフの身体から余計な力みを抜き、彼女の戦闘を尖鋭に磨いていった。

現在進行形で、彼女はさらに高度な戦士へと変わり続けていたのだ。


時は、もう日が変わるかといった具合。

戦い始めてから数時間が経過していた。

女エルフは単純な体力ならば自分に絶対の自信を持っていたが、緊迫する事態が連続する戦闘においては別。

肉体的な体力と共に、精神力もゴリゴリ削られていく実感があった。

どれだけ攻め立てようが、一切同様しない獣王を前にすればそれも仕方がない。

種として、シュピーゲルとエルフでは先天的な差違があるのだ。

まともにやりあっても勝てるわけがない。

それは黒魔術を操る少年も同じで、体外にその様子こそ現れていなかったが、明らかに疲弊しているのが分かった。

そして、少年は言う。


少年 「ここからはファングナイフを使う」

少年 「これを持ってて」




腰から荒ぶる野性的なデザインの大きなナイフを抜き、女エルフに黒表紙の本を手渡した。

最愛の人が閉じ込められた魔本を、他人の手に預けたのである。


女エルフ 「なっ…なぜ私に渡すんだ?」


少年 「Eloim, Essaim, frugativi et appelavi」

少年 「僕達を助けてくれる魔法の言葉だ」


ふふっ、と少年は朗らかに笑う。

不安なんてどこにもない。

怖いことなんてないんだと言わんばかりに。


女エルフ 「少年、なんでそんなにも笑っていられるんだ」


彼女も、思わず釣られて微笑んでしまった。

可笑しいことなんて何もないのに、顔の内側から溢れる喜びを抑えることができなかった。


女エルフ (なんて……。なんて頼もしいんだ……!)

女エルフ (少年はまだ幼い子供だというのに、何故こんなにも私に勇気をくれるのだ!)




獣王 「なーに、ヘラヘラしてやがる」


獣王もまた、笑った。

底の知れぬ相手を面白がり、同調する。

敵を嘲らず、尊ばず。

まだまだ戦いは続く事に、思いがけず心が躍った。


少年 「第三回戦、スタートだ!!」

ボウッ

少年の瞳が蝋燭に変わる。

闇夜に紅燭が零れ、そしてすぐ闇に同化する。

空は明るく、地は暗く。

されども、地に赤く輝く星があった。

切り裂かんと勇む太古の牙があった。

来たる、レゾンがその真価を見せる時――――





余談ですが、バイク事故で7月中旬から入院していた父が10月に入り、ようやく退院する事が出来ました





少年 「温かい……。それに闇の中も良く見える」

女エルフ 「そうか、人は暗闇が苦手だったか」

女エルフ 「レゾンはその性質さえ克服させてしまうのだな」

女エルフ 「ならばここからが、少年の本領発揮と言ったところか」

少年 「まずは地力を試そうかな……」


ダンッ


少年の足が地面を強く蹴りあげた。

相対的に身体は前方へ吹き飛ぶように進み、そして勢いに抗うこと無く獣王へ躍りかかった。

そのスピードは獣王の突進をも凌ぐほどで、闇夜においては、ただ紅い光が高速で動いているだけのようにも見える。

それ程に少年は闇に同化していた。

少年の暗所での明瞭な視力は、シュピーゲルやエルフの夜目にも決して劣らない。


メキィッ


太古の牙が獣の王の爪を抉る。

しかし斬り裂けず。


ファングナイフは、獣王の爪を数センチ斬り込んだところで停止した。

レゾン状態のファングナイフでさえ防ぐ爪は、少年や女エルフの予想を越えるほどにに堅固。

絶対防御という言葉を想起させた。


獣王 「マジかよっ……」


それでも獣王の眼には、爪に傷以上の切れ込みを入れた少年のファングナイフが脅威に映っていたことだろう。

爪でそれなら、素肌ならばひとたまりもない。

肉を大きく削ぎ落とされる予想が容易に出来る。

やや焦ったのか、爪に刃を立てている少年に始動の早い足蹴を入れた。

遠目で見ていた女エルフは、その蹴りが少年を直撃したように見えヒヤリとしたが、しかし結果はビュンと暗闇に風切り音が響くのみ。

重たい強打の音は聞こえない。


獣王 「くそ、速ぇなっ」


悪態に近いものを捨て台詞のように吐きながら、獣王は数メートル後方へ引いた。

それは獣王が取った初めての逃げ。

回避でも防御でもカウンターでもない、単純な恐れから来た自然の退避だった。

天性の獣の勘で、少年のレゾンが単なる強者の力でない事を察知したと言って良い。




獣王 「ったく、どこ行きやがった?」


辺りを見回すその姿に、もう余裕や落ち着きなどは霧散したように見えた。

そして、少年の猛攻が始まった。


闇から一筋。

獣王へ鋭い攻撃。


獣王 「っ!!」


辛うじて爪でガード。

しかし腕は弾かれ、胴はがら空き。

そこを狙われるのを恐れてか、獣王は地上からの攻撃を警戒する。


ド ン!!


獣王は頭部を垂れる。

全く予期していなかった中空からの一発。

ただ速いだけではない、重力も味方につけた痛撃が炸裂した。




獣王 「くっ……」


すぐさま上体を立て直し、蹴りを放ったあとの少年を引っ掻いたが、切れたものは糸を引いた紅い光だった。

またも少年は闇に紛れる。

獣王に反撃の兆しはない。


少年 「屹立スル魔導書 記されし十惡がひとつ」

少年 「『殺生』 行くべかざる者に影の報復を」


バシュンッ

少年の両脇から現れる二本のしなやかな影。

まるで彼の守るかのように、ゆらゆらと漂う。


獣王 「おいおい……。そりゃ魔本がないと使えねぇんじゃ……っ」




少年 「成長するのは何も君だけじゃないってことだね」


ダッ

二本の影と共に走り出す少年。

手には赤く光るファングナイフ。

今度は少年が狩る側だった。

影が先立ち、先制攻撃を仕掛ける。


獣王 「チッ……!!」


否応なく獣王は影の一つを右手の爪で弾き、もう一つを敢えて防がずに直撃のみを避けるように上体を揺らした。

防げなかったわけではない。

ただ、そのあとに少年の紅い刃が控えていたのだ。

真に恐れていたものはそちら。

獣王の頑強な皮膚でさえ易々斬り裂くことが目に見えているファングナイフの方だった。

振られた刃、発す淡い紅が爪越しに獣王の頬を染める。


少年 「残念」




急速に迫っていたナイフが突然止まり、それの代わりに少年が視界から姿を消す。

今回は目で追えていた。

膝を曲げ、屈んだのだ。

獣王の目の前、最も危険な領域で。

しかし反応できることと、対応できることは別物。

持ち主を失い、空間で留まり落下するのを待っていたファングナイフに獣王の意識は僅かに割かれた。


少年 「フェイクだ」


そのため、獣王は迅速の少年に反撃できるわけもなく、ただ動かぬ己の身体に少年の攻撃が襲い来るのを待つ以外なかった。

それはまるで、鎖で拘束されているかのような歯痒さ。

しかし獣王を拘束できる鎖など存在しない。

その点、少年のこの拘束は抗い難く、世界にあるどんな強固な鎖より頑丈であった。

全身で跳ねるように繰り出された少年の拳が、獣王のみぞおちへめり込む。

両者には体格差の大きなハンデが存在していたが、獣王の足は為す術無く地を離れてしまう。

同時に身体が後方へ。

速く、重く、的確。

それも単発ではない。

結果、獣王が殴り飛ばされるまでに、少年は計4発の蹴りやらパンチやらを繰り出していた。




獣王 「くふっ……」


むせたような声を上げて、獣王は立ちながら悶えた。

それでも地に膝をつかない耐久力は、そこらのシュピーゲルと一線を隔てていたことは言うまでもない。

うまく呼吸ができないのか、へんてこな声を出しながら四苦八苦していた。


獣王 「カひゅ…、く…そっ…ヒュがっ」

獣王 「これが……苦しいって、やつか」


すー、はー、と深呼吸したあとは、一転正常な呼吸のリズムに戻る。


獣王 「やってくれるじゃねぇかよ……。初めての痛苦を味あわせてくれてありがとよ」

獣王 「とんでもないのをまだ隠してやがったんだなぁ」

獣王 「なんだぁ、それ?」


怨敵を睨むような峻厳な表情も、すぐに万物が師であるかのような好奇の顔つきに変わっていく。。

己の中の激情をなだめて、すぐに冷静さを取り戻すことの出来るその知性。

それが獣王にとって、爪牙と双璧を成す武器でもあった。




少年 「レゾンって体質なんだ。多分君もそうだよ」


獣王 「へぇ、じゃあ俺もお前みたいなことができんのか?」


獣王の脳裏では、好奇心が敵意を押しのけて前面へ出ようとしていた。

決して慣れ合うつもりはない。

和解の道もない。

ただ知るという事に関して、獣王には敵味方の区別がなかったのである。


獣王 「確かに、あの光線も考えて使ったものじゃねぇしな」

獣王 「俺の中になんか面白ぇモンが眠ってんなら、それを覚まさせないワケにはいかねぇだろ」

獣王 「で、それどうやんの?」


邪悪なはずの獣王が持つ唯一の無邪気な一面。

分からないことがあれば、安直に相手へ問うてみる。

しかしそれは、聞いて分からなかったら殺すというのちの行動によって、邪悪さを取り戻すのだった。


少年 「僕だって分からないよ。ある程度練習したけど、結局思い通りに使えるわけじゃない」

少年 「どうしても手加減しちゃうんだ」




宿敵の浅慮な問いにも、とっさに少年は答えてしまう。

それ程に純朴な心を、命の賭け引きをしているこの場でも決して忘れない。

何故なら彼は人だから。

人の心を持っているからだった。

それ事こそ彼の信条。

言い換えれば、それがレゾンをも行使し得る屈強でしなやかな精神の核という事である。


獣王 「ふーん。ま、いいや」

獣王 「分からんねぇなら、てめぇを殺して頭をかち割るだけだ」


好奇心が消えた。

そしてまた、敵を刺すような強い殺気が獣王から放たれる。


少年 「そうだね。どうせ説明なんて無意味なんだ」

少年 「徹底的にやり合おうよ」







この時点で、戦場には獣王と少年だけの空間が出来上がり始めていた。

傭兵隊長はおろか、勇者や女エルフでも決して踏み込めない領域。

速く鋭く、野性的。

一匹の獣と一人の狩人が、他方を狩るべく力を振るっていた。

第三者が介入できる余地はない。


そんな事を知ってか知らずか、勇者は深くゆっくりと呼吸を繰り返す。

一定のリズムを何度も、何度も。

手には刀を握り、座禅の体勢も指先一つ変化はない。

死闘が目の前で繰り広げられているのだが、我関せずと言った具合に目を瞑っていた。

外界には存在しない、勇者と妖刀『幻怪』だけの世界がそこには存在していたのか。

はたまた、勇者には何か獣王を制す勝算があったのか。

女エルフにも少年にも、詳しいことは分からない。


しかし、二人が勇者を信じて戦っていた事に一分も疑う余地はなかった。

あまりに長い戦いに夜さえ、あきれて見切りを付けようとしていた。

吸い込まれるような真っ黒な空が、少しずつ色を変えてきたのだ。

満月も見下げるというよりは、遠くからチラリとこちらを見ている。

夜が開けるのが早いのか、この戦いが終着を迎えるのが早いのか。

いよいよどちらなのか分からなくなってきた。

戦闘の時間が伸びれば伸びるほど、有利になるのは底なしの体力を持つ獣王。

如何に体力自慢の少年や女エルフといえど、到底太刀打ち出来る相手ではない。

レゾンの力の不安定さも未だ未知数。

黒魔術の多用が少年に及ぼす影響も同様。

ここからは全てが手探りの戦いだった。






そんなこんな。

もう一度獣王を脅かすべく、女エルフは二人の戦いを見守る。

少しの間隙さえあれば、即刻獣王へ襲いかかろうと画策するが、当然そんな隙は見当たらない。

半ば唖然としながら、少年の力量に感嘆もしていた。

初めて見るレゾンの力。

紅の光が獣の王を圧倒する姿は、見ていて 不思議な気持ちになる。

もしかしたらこのままあっさり勝ててしまうのでは?

そう思った瞬間もあったが、獣王の余裕を目にしてそれはあり得ないだろうとすぐに結論が出た。

やはり決定力が足りない。

爪を避け、皮膚を軽々破壊する力が。


女エルフ 「魔魅獣人流……」


こんなものではない。

数千年という長きに渡って培われてきた戦闘技術。

己の技量。

どちらも全開には至っていない。

気高きエルフの誇りが剣の先までかよっていないのだ。

もう一度……。

恐らく、もう一度だけ攻撃のチャンスが来る。

そこに私の全てを込めよう。

エルフの誇りも、虐げられてきた憎しみも……。










獣王 (このガキは強ぇ)

獣王 (それはしっかり認めねぇとなぁ)

獣王 (だが、こいつさえ殺れれば、あとは手負いでも余裕で片付けられる)

獣王 (黒魔術とレゾンてやつもまぁ、慣れてきた)

獣王 (あとはあのやたら切れるナイフさえ警戒すれば)

獣王 (俺が負ける事はあり得ねぇ)


傾く満月を視界の隅に置きながら、獣王は勇者や女エルフを意識の外に追いやった。

全ては目の前に立ちふさがる小さな強者を倒すため。




少年 (獣王の呼吸、すごく落ち着いてる)

少年 (それに、身体も一切力みがない)

少年 (これだけの間戦って、少しも疲れてないんだ)

少年 (さすがに僕も辛くなってきたし、早く勝負を決めないと)


少年 「『邪見』 不正の心に振り解けぬ煙影を」


少年の身体から、真っ黒な煙が立ち上る。

次第にそれは拡散していき、あっという間に少年と獣王を包んだ。


獣王 (これは……触れられねぇ煙)

獣王 (逃げたらやられる。なら視覚を断って迎え撃ってやろうじゃねぇか)

獣王 (シュピーゲルの聴覚と嗅覚を舐めるなよ)




獣王は闇の中にいた。

決して光の届かない夜半。

しかし逃げない。

敵の領域だと理解して逃げようとする本能を、知性でなだめすかしてその場に留まった。

視界が無くなった事により、獣王の頭の中にはもう一つの小さな世界が形成される。

その場所は黒くて小さな空間。

真っ白な獣王がポツンと立つのみ。

風を切る音。聞き逃してしまいそうな小さな足跡。

確実に迫ってきていた。

短い時間の中、黒煙のその奥で、レゾンの少年が確実に自分を殺せるタイミングを計っていた。

殺気がひしひしと感じられる。

勝負を決めにかかりたいという焦りが分かった。

それでもどこから来るかは分からない。

この空間にはまだ獣王一人。

しかしやがて現れるだろう。

古の龍の牙を持った、自分と対等の化物が。

血統の奥へと沈んだ源を分かつ覇者が。




少年 「ッ!」


風だった。

少年の存在を獣王へ伝えたのは、気のせいとも取れる程小さな風の音。

風下だからこそ起きてしまったその極小な要素が、獣王の身体を数十センチだけずらす。

ファングナイフが毛を削いで、皮膚の上を通った。

その時、まるで清水に一滴の墨汁を垂らしたかのように、判然と少年の存在が獣王の世界に現れた。


獣王 (見えた)


獣王は目を瞑ったまま、少年に向けて爪を振るった。


少年 「!?」


当たらない。

しかしそれは完璧なタイミングの反撃。

少年の目眩ましは意味を為さなかったのだ。

思わず背進。

自らが作り出したはずの領域が、一瞬で獣王のものに変わった。




獣王 (逃さねぇ!)


ほとんど音もなく、予備動作もなかった少年の退避を獣王はタイムラグなしに追った。

瞬発力は互角。

そして少年の動作は逃げ。

獣王は少年を攻撃するという明確な目的を持っていた。

その差が、同格であるはずの能力に差違を生む。

丸太のように太く、彫刻のような筋肉を纏った腕が少年を捉えた―――


獣王 (もらった!!)


はずだった。

獣王の攻撃は空を切ったのである。

上から潰すように振り下ろされた腕は、確かに決して避けられないタイミングで少年の背中に迫っていた。

獣王の目は未だ機能していない。

しかし十分。

少年の姿は見えずとも明瞭。

風、音、匂い。


実際、この内の匂いは少年が選んで風下を渡っていたために、獣王には届いていなかったが、

それでもしっかりと、少年を「見る」ことが出来た。

それは人並み外れた知性があるからこそ可能な芸当。

ただ視認するだけでは、一方向からしか対象を捉えることは出来ない。

しかし今の獣王は、多角的に、三次元的に少年の動きを把握していた。

二次元の視覚を捨てたからこそ、得ることの出来た境地。

ここに今、獣王はさらなる進化を遂げたのだ。

それでも、少年の影は捉えきれない。


獣王 (おいおい、地面に入り込んだのか!?)




腕が迫るその時、少年の身体は地面に沈んだ。

視覚を潰されていたため、獣王には何が起こったか理解出来なかったが、

そんな現象を引き起こせるものなど、ひとつしか知らなかった。

グリモワールと称される魔本から発生する予測不能の黒魔術。

容易に想像がついた。

沈みゆく少年の足元に広がる、まるで沼のような真っ黒な影が。


暫時、暗闇の中で待ち構える獣王と、外から牽制しようとする少年が互いに沈黙を守る。

漸々と、黒煙は地面へ沈み、獣王の姿があらわになった

二足歩行する生物にあるまじき姿勢の低さと、固く閉じられた目が、その体勢の異常さを際立たせる。

黒煙が消えても、二人の状況は変わらず。

既に視覚など、留意すべき問題ではない。




少年 「はぁ…はぁ……っ」


この戦いで初めて少年が息を切らせた。

それは、人間とシュペーゲルという種が隔てた身体能力のせい。

レゾンの補助を受けていようと、基礎となっている身体は発育途中の子供。

黒魔術の多用もあり、ここに来て溜まった疲労が露見してしまった。


獣王 「随分キツそうじゃねぇか」


閉じられていた目が重苦しく開き、奥に潜んでいた眼が狂気を以って少年を見据えた。


少年 「Eloim, Essaim, frugativi et appelavi!!!」
(エロイムエッサイム、我は求め訴えたり)

少年 「『殺生』!!!」


バシュンッ!!


影が跳ね上がった。

数は四。

先ほどの倍。


グリモワール無しでの魔術の使用は、少年の精神を蝕む。

強力な魔法を連続で使っている事に等しかった。

少年自身、それは百も承知。

しかし、『十惡』無しでは獣王に勝つことは絶対にできない。

身体への負担と、勝利への意志が脳裏でせめぎ合う。

ここで自分が倒れたらと考えるだけで、少年は抗いようのない喪失感を感じた。

魔女を亡くしたあの時のような絶望が、死の何倍も怖かった。

出るはずのない涙が、瞳の奥で疼くのだ。


少年 「『殺生』『殺生』『殺生』『殺生』!!!!」


四つの影が、二十に分裂する。

少年を覆う背の高い稲穂のように、穂先を獣王に向けて。




少年 「ハァ…ハァ……」


獣王 「二十かよ……っ」

獣王 「面白ぇぇぇ!!!!」

獣王 「上等だッ!!!」


ボワッ……

零れた。

いや、零れてしまった。

獣王の奥底に眠る、覚醒はまだずっと先だったはずのその力が。

狂気以外の感情を持たないはずの眼が、漆黒の涙を流した。


獣王 「アァァアアァアァァァッ!!!!!!」


少年 「ウオォォオォオオオッ!!!!」




二十にも及ぶ影が、一斉に獣王を穿つべく伸びる。

獣王は腕を、然程早くもない速度で振り下ろした。


ジュゥゥゥッ


影の内の半数が焼き消えた。

獣王の「黒」が「影」を潰したのだ。

とっさに散開していた残りの影は、上方、下方、前方、後方から同時に攻撃を仕掛ける。

目にも止まらぬ影の連携と早業は、もう評する言葉さえ無いほど優れたなものだった。

しかし覚醒した獣王を前にしてそれは最早、小細工に成り下がる。

少年の目から溢れるレゾンが蝋燭の灯火ならば、獣王の灯火は身体全体。

存在自体が、周囲を焼く巨大な黒い蝋燭だった。


獣王 「ッ!!!!」


辺り数メートルごと、残りの影も消滅。

残るは本体の少年のみ。

少年は迷わずに突っ込む。







違うだろ……。

何をやっているんだよ、僕は。

これじゃ魔女の時と同じだ。

どうせいなくなるなら、最後の最後まで信じたい。

答えてくれなくても良い。

ただ望んでいたいんだ……。



  少年!



呼ぶ声が聞こえた。

獣王を目前に、少年の耳は聞こえないし、目も鼻も効かない。

しかし、黒い蝋燭の向こうに、自分を信じて駆ける仲間を感じた。




少年 「…………『瞋恚』!!!!」


獣王のレゾンは、正に全てを否定する瞋恚(しんい)の炎だった。

そして少年の黒魔術における「瞋恚」とは、相手に絶対の死角を作り出す事。


魔術の行使を連続させたため、この時点で少年の気力は空になる。

到底、今の獣王に立ち向かえる状態ではなくなっていた。

獣王はこちらを向いている。

当然だった。

何故なら、獣王の意識にはもう女エルフはいなかったのだから。

少年を殺すことしか念頭にない。

長い時を経て、ようやくここに様々な布石が繋がった。

少年の仲間を頼るという無意識の決意。

獣王の少年を倒すという本能。

そして、全てを観察し、研ぎ澄まされた女エルフ。

魔魅獣人流の奥義。




女エルフ 「魔魅獣人流……」


攻撃範囲の遥か外側から、一気に獣王へ刃が届く位置まで女エルフは駆けた。

一度はあっさりと反撃を受けたルート。

しかし今回は絶対にたどり着くと確信していた。


女エルフ 「狩る技巧(ハントフェステ)……」


獣王の背後、大上段に剣を構え、


女エルフ 「『折角』!!!」


女エルフのみが使える奥義が


獣王 「っ!?」


発動する――――










群れを率いるリーダー格の角をへし折る。

そうすることで、一匹のみを倒し、群れ全体を引かせることが出来る。

狩る技巧『折角』。

最初に考案したのは医者の奴だったか。


医者 「これスゴくね? 群れという性質の弱点を突いた革新的な一手じゃね?」

女エルフ 「角といったら、獣の身体で最も硬質な部位だろう。それに強さの象徴でもある」

女エルフ 「お前は出来るのか?」

医者 「何寝ぼけた事を言っているんだ。それをやるのは君だろ」

医者 「僕が机上の空論を立て、君が実地に再現する」

医者 「いつも通りのルーティンじゃないか」


女エルフ 「はぁ、無茶を言うな。自分の武器さえ見つけられない私が、そんなことを出来るわけがないだろう」

医者 「逆さ。特定の武器を持たない君だからこそ出来る」

医者 「膨大な量の刀剣を見て、多くの野獣と戦って、君には見えているんだろ?」

医者 「武器や角、爪牙の『脆弱性』ってのがさ」

女エルフ 「半ば勘の上に、この上なく複雑だぞ。その『脆弱性』は」

女エルフ 「とても実践レベルには到達していない技術だ」

医者 「ならこれは奥義だ。君にしか使えない必殺技だな」

医者 「大丈夫。きっと出来るようになる」

医者 「僕が保証するよ!」










絶体絶命のこの状況。

心して使わせてもらおう。

お前が考案し、私が実現するエルフの奥義。

魔魅獣人流 狩る技巧(ハントフェステ)『折角』。









獣王 (また俺の死角から……)


飛びつくように剣を振りかざす女エルフを、獣王は視界の端で捉えた。

自分自身が発するレゾンのせいで、臭いや音は一切分からない。

それ故、獣王の目には何もない空間から突然女エルフが現れたように見えた。

しかし顔を少年から逸らすことは決してなかった。

それは、自分から少し離れた所でうずくまる少年から、何かしら計り知れない攻撃が来るのを想定しての行動。


獣王 (十中八九、あのガキはスタミナ切れ)

獣王 (もう動けやしねぇだろ)

獣王 (だが……)




脳裏で言葉にするまでも無く、獣王にとっての脅威は少年のみに終始した。

決死の攻撃を仕掛ける女エルフよりも、圧倒的に、自分の正面でうずくまる少年のほうが怖かったのである。

それもまた一つの布石。

侮るなかれ、と戦闘開始直後に息巻いておきながら、女エルフは自分が獣王から軽視されていることを逆手に取った。

それだけではない。

高速で動き回る獣王の、ほんの一瞬停止した隙を何度も見計らい、彼女は既に見つけていた。

どんな硬いものにも存在する、絶対の弱点。

ファングナイフでさえ切り抜けなかった獣王の爪、そこに潜む僅かな「脆弱性」を。


女エルフ 「『折角』!!」


獣王はまるで炎のような、黒いレゾンのエネルギーを纏っていた。

その熱量は身を焦がし、あらゆる存在を遠ざける。

しかし女エルフは敢えて突っ込んだ。




獣王 (こんな奴……。見るまでもねぇ)


獣王の防御は棒立ち。

剣閃が及ぶであろう位置に、ただ爪を置いただけ。

女エルフの評価などその程度であった。

だが、次の瞬間、獣王は自分の判断が間違っていた事を知る。






振り下ろす事、稲妻の如く、


角を斬る事、泥の如し────









獣王 (ッ!?)


目視しなくても簡単に分かった。

女エルフの剣の軌道上に置かれたはずの爪が、自分の支配下を離れたという事。

獣王の頭の中では、大音量の警笛が鳴り響いていた。

多くの魔族を屠ってきたその爪は、己にとって支配者としての象徴であった。

しかしここに、あっさりと壊されてしまったのだ。

よりにもよって、自分が一度軽んじて痛い目を見た相手に。

真正面から宣戦布告を受けた、取るにも足らないと思っていたはずのエルフに。


女エルフ 「ふふっ……」


女エルフの嘲笑が、耳から入り、全身に反響する。

許せるわけがなかった。

獣王は二度、自分より劣っている種族に辛酸を舐めさせれらたのだから。




獣王 「クソがァァアア!!!」


気炎万丈。

怒りが黒炎をさらに滾らせる。

瞬間的に、女エルフを吹き飛ばそうとしたが、腰をストンと落とす彼女は手ごわかった。

肌がまるで幾千の針に突き刺されているような、鋭い痛みを感じてはいたが、死んでも引くわけには行かない。

剣は地面を這うように構えられ、途轍もない覚悟を秘めた三白眼が獣王を射る。


獣王 「オラァァァァッ!!!!!」


斬られた爪とは逆の腕で、女エルフを攻撃する。

焦燥に駆られるその姿に、これまでの王者の威厳はない。


女エルフ (魔魅獣人流 狩る技巧………)

女エルフ 「『瑕に玉』」




襲いかかる獣王の爪に、女エルフは刀剣一つで立ち向かった。

結果は最初から明白。

あっさりと、剣は爪の前に屈してしまった。

しかし女エルフの真の狙いはそこから。

折れた剣の先は、一目散に獣王の目をめがけて飛んで行く。


獣王 (くそっ、剣先がっ……)


斬る角度を予め計算して、女エルフはわざと自分の剣を獣王に折らせ、見事それを攻撃に転換したのだ。

その攻撃は、一度獣王に武器を折られて着想を得たもの。

獣王は反応できない。

それもそのはず。

カウンター攻撃よりもずっと速く、獣王の意表を突いたのだから。

獣王はそれでも咄嗟に避けようとする。

剣先はギリギリ目の上。

まぶたを派手に切り裂いていった。

如何に硬質な皮膚や剛毛を持つ獣王でも、まぶたばかりはその限りではなかったである。

しかしそこは獣の王。

自分が反撃を受けようとも、全てをなぎ倒す腕は止まっていなかった。

剣を簡単に折って、さらに女エルフごと叩き飛ばしていた。




女エルフ 「がは……っ」


エルフといえど、体格は華奢。

獣王の攻撃をまともに受ければひとたまりもない。


女エルフ 「ふっ、ふふっ……」

女エルフ 「ふはははっ……」


痛みをこらえながら、女エルフは笑った。

それは、獣王のまぶたから流れる血を見て。




女エルフ 「痛いか!? 痛いだろう!?」

女エルフ 「私だって痛いさ!!」

女エルフ 「貴様は自分が見くびった軟弱なエルフなんぞに、二度もしてやれらたんだっ!」

女エルフ 「爪を折られ、まぶたを切られっ」

女エルフ 「恥ずかしくないのかっ。こんな人とつるむようなクズエルフなんかにやられたんだぞッ!?」

女エルフ 「私だったら恥じ入って死にたくなってるなっ」

女エルフ 「はははははっ!!!!」

女エルフ 「最高の気分だっ。もうここで死んでもいい!!!!」


たがが外れたかのように、女エルフは大声でまくし立てる。

いつの時代も様々な種族からの軋轢や確執に喘いだエルフの怒りが、溢れかえったかのようだった。








獣王 「フザケンナ……」

獣王 「フザケンジャネェ……」

獣王 「オレガ……コンナクズナンカニ……」


象徴を失うという事は、精神の核を抜き取られるという事。

自分が最強という自負がプライドを生み、そして爪に宿っていた。

それが失われた。




獣王 「アアァアァアァァアアァアァァァアァァァアアアッ!!!!!!」




獣王の心の安定は、根本から瓦解したのだ。


獣王 「シネシネシネシネシネシネシネ!!!!」

獣王 「死ネヨォォォォォォォォ!!!!!」




レゾンがさらに燃え上がる。

最初は身体を覆っていたのだが、もう今は結界のように獣王を包み込んでいた。

形が定まらず、燃え続ける獣王の身体は既にレゾンそのもの。

個人の能力というよりは、一つの自然現象に近かった。

火山の噴火と同じ、たまたまそこに発生し得る条件があったから。

ただそれだけで、破壊されるのだ。

今回は彼らだった。

商業王の命の下、魔界の現状を探る一団。

勇者一行。


女エルフ 「な…なんだこれは……っ?」


絶望。

女エルフに立ち向かう勇気はなかった。

逃げることも出来ない。

ただ地面に伏すことのみしか。







少年 「まだだ……」


少年が立った。

いや、立ったというよりは、傀儡のように吊り上げられたといったほうが正しいか。

目に見えない力が、彼を無理やり突き動かしていた。


少年 (分かっていたんだ……。僕達が獣王に敵わない事なんて)

少年 (一目見て、あいつが僕達よりもずっと高い所にいる存在だって……)

少年 (でも、僕はもう二度と逃げたくないんだ……っ)


少年 「ここで倒れたらみんな死んじゃうっ」

少年 「そんなの……嫌だっ」


レゾンなど、とうに尽きていた。

レゾンは、魔の根源という世界に満ち溢れるエネルギーであるから、尽きていたというのは誤りでもあったが、

行使する少年の精神力が尽きてしまえば同じことだった。

それでも立った。

かつての悔いを二度と繰り返さぬために。

仲間と共に歩むために。

そして、自分を見守っているはずの魔女のために。

絶対に倒れるわけにはいかなかった。







獣王 「アアアアアアアアアア……」


獣王の口元に、大量のエネルギーが集まる。

それは一度、勇者に大ダメージを与えた咆哮。

その数十倍の規模。

とても、今の少年に受けられるレベルではなかった。

しかし逃げるわけにはいかない。

少年の後ろには、無防備な勇者がいたのだ。

避ければ勇者が死ぬ。

避けなければ自分が。

究極の二者択一。

しかも正答は存在しない。

あまりに残酷な選択肢だった。








女エルフ 「くそ……ここまで来たというのにっ」


少年のもとへ行こうとするが、足が少しも動かなかった。

意志がもうないのだ。

抗うという意志が。


その時──


バチッ


女エルフ 「痛っ」


腹に鈍い痛みが走った。

思わず懐に手を突っ込むと、そこには黒表紙の本。

少年のグリモワールだった。

ぼんやりと眺めていると、もう一度痛み。

とっさに手放し、グリモワールが地面に落ちる。




女エルフ 「なんなんだっ」


奇妙な事に、グリモワールのページがひとりでにめくり上がっていく。

そして何も書かれていないページが開かれる。


『何をしている、エルフの女戦士』


垂れたインクがそのまま文字を模すかのように、スラスラと言葉が連なっていく。


『勇者とやらは、既に用意が済んでいるのだぞ』

『早く、仲間も見えなくなったあの少年を止めるんだ』

『今動けるのは、君しかいない』


女エルフ 「勇者っ……」


決死の戦いの中、一人虎視眈々と何かを狙う勇者が、まだ自分達の後ろに控えていた事を思い出す。

反射的に、少年の後ろで座っていたはずの勇者へ目をやった。








勇者 「…………」


そこには、泰然自若が屹立していた。

目の前の異常事態を気にもかけず、一人すっくと自立する侍がいた。

木地がむき出しの鞘に収められた、聖柄の刀が鞘走らないように、そっと手を当て。

そして目を自然に瞑り、背筋を伸ばして。


女エルフ 「……っ!?」


その容貌は、人智を超えた異様な佇まいで、遠くからでも武の極致へ到達している事を知らしめた。

確信などない。

根拠など度外視。

しかし、女エルフは何も考えず、ここからの全てを勇者に託すことを決めた。

そして自分が為すべき事を悟る。




女エルフ (少年を止めなければ……!)


女エルフの心に、ほんの僅かだけの勇気が注がれる。

それは限りなく透明で、そして心強かった。

駆け出す一歩を踏むために。

理不尽な選択の前に立ち竦む少年を救うために。

勇者がこの戦いに終止符を打つために。

湧き出たちっぽけな勇気が全てを動かす。



少年 「恐れなんてないよ……」

少年 「逃げもしない」

少年 「だからここから絶対に動いたりするもんか……ッ!」


虚ろに半分だけ開く瞳が、獣王を見ることはなかった。

見なかったのか、見れなかったのか、それは少年にしか分からない。

勝ち負けで決着する勝負ではなかった。

仲間を最後まで見捨てないという、ただの自己満足だけが少年をそこに立たせていたのだ。








獣王 「ァァ…ァ……」


球状に集約された魔の根源は一触即発の様相で、獣王の眼前に留まる。

しかしそこから数秒の間、獣王が何かしらのアクションを起こすことはなかった。

もちろん、獣王の意思ではない。

それは、女エルフが撒いていた布石の内の一つ。

彼女自身忘れていた要因だった。

剣に塗られていた猛毒は、二度の傷害によって全身に回り、そしてようやく効果を示したのだ。

致死性の猛毒が、少しの間だけ身体の動きを止めるという効果を。


女エルフ 「……少年ッ!!」


走りだした女エルフが、勢いそのままに少年へタックルをかました直後……。








獣王 「アアァァアアアァァァァァァアァァァッ!!!!!!」


地表へ猛烈な速度で、溶岩が噴出するかのように、漆黒のレゾンが大地に光の柱を横たえた。

その範囲は、ゆうに女エルフと少年、勇者を網羅し、夜明け間近の森に大穴を穿とうとしていた。

穿とうとしていた、とは奇妙な言い方だが、正に「穿とうとしていた」のである。

つまり、その時点において穿ってはいなかったのだ。

実際、少年や女エルフは、その巨大な光に包み込まれた。

目の前に壁が現れたと思ったら、次の瞬間には、もう光の中。

そのままなら、痛みもなく、一瞬で消し飛んでいたはずだ。

しかし彼らは生存した。

理由は彼ら自身にも不明。

獣王は正気をとうに失っている。

ならば、それを引き起こした者は一人しかいない。





女エルフ 「グ…ウゥ……ッ」


咆哮から少年を庇うために、一瞬女エルフはその身を盾にした。

背中を超高温のエネルギーが焼き、服と皮膚は爛れ、無残なまでの熱傷が全身に痛覚というサインを送る。

ところが、たった「それだけ」で済んだのは、女エルフと少年を襲った咆哮がたちまち消滅したため。


少年 「あ…ぁぁ……」


少年の意識は自分がどうのという所に留まってはいなかった。

自分を庇ったせいで、仲間が傷ついたのだ。

本来感じるべきではない罪の呵責が、干からびた少年の心に鞭を打つ。

そして、精神が壊れることを恐れ、脳が強制的に少年の意識を断った。

バチンと音が立ったかのように唐突。

しかしそれがまだ精神の成熟を果たしていない少年にとって、最善の逃避だった。







女エルフ 「勇者……ッ」


最後の最後。

女エルフはニタリと笑った。

痛覚が突如消え、全身の力が抜け落ちる直前。

凄絶な痛みに耐えるその瞳が向く先、全てを背負い立つは光明。

白刃を鞘から放ち、全身に獣王と全く同じ真っ黒なレゾンを纏う勇者だった────












勇者 「少年、女エルフ……」

勇者 「ありがとう」

勇者 「俺はまた、この境地に達することが出来た」

勇者 「見てますか、師匠……」


勇者 「貴方を葬った力が、今ここにあるんですよ」


ゴオオと音を立て、周囲を焼く黒いレゾンとは対照的に、勇者の精神は波紋一つ浮かばぬ湖面のように凪いでいた。

狂気で異常な精神状態に陥った獣王。

対し勇者は、精神が高次の水準へ至ったという意味で異常だった。

痛みや罪の念で意識を断った仲間たちを見るが、その心に思うところなし。

徹頭徹尾そのまま、瞳には偽りのない真実の世界が映る。




獣王 「…ァ……ァァ」


身体から吹き出す魔の根源は、獣王の無意識に従って、再び球状を形作ろうとしていた。


勇者 「もう……終わったんだ。獣王」


足元の地面から吹き出すように勇者を包む魔の根源によって、髪や服は逆立ち、『幻怪』からは一層強いレゾンが放たれる。

立つ者は、勇者と獣王のみ。


勇者 「全て……終わった」

勇者 「俺もお前も、全部だ」


喜怒哀楽が抜け落ちたような、抑揚のない声がレゾンの音にかき消される。

その声は一体誰の耳へ届いたのか。

誰に向けて言ったのか。

超然的な精神と相貌を有す勇者を前に、答え出せる者はいない。




勇者 「行こうか、『幻怪』」

勇者 「もう少しお前とは一緒に旅をしたかったよ」


『……私はお前の愛刀であった事を誇ろう』

『だから、貴様も私の主であった事を誇るが良い』


勇者 「……もちろんだ」


おもむろに刀が起きる。

その途端、放たれるレゾンがさらに勢いを増した。

本体の何倍もの規模となって、それ自身が刀身であるかのようにレゾンが地面を裂く。


勇者 「この世界に、ほんの一瞬煌めいた冒険譚」

勇者 「……これにて、完結」


言語に絶する、裂帛の音が轟き。

そしてレゾンが消えた。

見た目のみは普通の人間に戻ったが、やはり全身から醸す雰囲気は常軌を逸する。




獣王 「グァァオアォァオォァオァオォアオォッ!!!!!!」


言葉未満の断末魔の叫びがこだました。

伴い、レゾンも急速に吹き出す。

まるで死に直面し、必死に足掻く獣のようだった。


勇者が一歩、獣王に歩み寄る。

穏やかな動作にも見えたが、獣王の本能は、その一歩を見てこの場から逃げようと荒れ狂った。

しかしそれはかなわない。

正気を失っているからでもあったが、何より、自分が何を恐れているかも分からなかったのだ。

言葉通り、前後不覚。

ただレゾンだけが無為に溜まってゆく。

そこに勇者が、この技を『神速ノ剣』と呼称した理由があった。












勇者 「よう」



獣王 「なんで、てめぇが……」

勇者 「お前の精神世界に割り込んだってだけだ」

勇者 「早速で悪いが、覚悟はできてるだろうな?」

獣王 「は? 覚悟だ?」

獣王 「てめぇをブチ殺す覚悟の事か?」

勇者 「……この世界での出来事は、現実の世界にほとんど反映されない」

勇者 「例えこっちで、数十年数百年過ぎようが、あっちでは刹那の時も経っちゃいないだろう」

勇者 「といっても、不倶戴天の敵といつまでも一緒にいるのは気分が悪いものだ」

勇者 「互いに死を間近にしても、有益な話一つ出来ないなんて、どこまで駄目なんだろうな俺ら」

勇者 「勝負は終わった。最後に何か言い残すことはあるか?」

獣王 「……終わってねぇよ」


勇者 「お前が決して馬鹿じゃないことは良く知っている」

勇者 「だから、余計な言葉は口にしないつもりだ」


勇者 「人道を以って、修羅を征す」

勇者 「人に仇なす魔王の血を、ここで絶やそう」


獣王 「お前には、俺が修羅に見えるのか」

勇者 「まぁな」

獣王 「はははっ、気が変わった。最後の言葉でも残してやろうじゃねぇか」

勇者 「そうかい」

獣王 「一つ、話をしてやる」

獣王 「シュピーゲルって名前は元々、母喰父殺だけの名前だった」

獣王 「この時代なら、本来シュピーゲルと呼ばれるのは俺だけって事だなぁ」

獣王 「名の由来は、母喰父殺のシュピーゲルが殺した父親、つまりはその時代の魔王の死骸を喰って、ソイツそっくりに変貌する所から来ている」

獣王 「シュピーゲルという言葉は『鏡』を意味するらしい」

獣王 「俺の血には『鏡』の本能が刻まれてやがる」

獣王 「すぐに他の生物を喰らいたくなるのもこれが原因なんだろうぜ」

獣王 「種を喰い、模倣する」

獣王 「考えてみりゃ、生き様自体が『鏡』そのものだったのかもしれねぇ」


獣王 「だからこそ分かっちまう」

獣王 「てめぇは俺を修羅といったな?」

勇者 「ああ」

獣王 「それはただてめぇの中の修羅が反射して見えただけだ」

獣王 「なにせ俺は『鏡』なんだからなぁ」

獣王 「分かるか? 修羅は人道の上なんぞ歩いちゃいねぇ」

獣王 「てめぇは人道の遥か彼方、蛇の道、修羅の道にいるんだよォ」

勇者 「…………」

獣王 「図星か?」

勇者 「お前の言う通りだ」

勇者 「人道を外れた俺に、『勇者』を名乗る資格はないのかもしれない」

勇者 「それを存在意義にしていた俺にとっては、生きる意味を奪われたようなもんだな」

勇者 「だがもういいんだ」

勇者 「俺はとっくに覚悟を決めてっからよ」

獣王 「肯定すれば楽になれるとでも思ってるのか?」

獣王 「受け入れた死は近いぜェ」


勇者 「そうでもしないと、ただの人間の俺が、お前を倒せるわけも無いだろう」

獣王 「ははっ、精々俺の呪いに苦しんで死ぬんだな」

獣王 「俺ぁ先に行ってるわ」

獣王 「勝負は確かに俺の負けかもしれねぇが、対決はまだ終わっちゃいねぇぜ」

獣王 「この数ヶ月、こちとら遊んでいたわけじゃねぇ」

獣王 「シュピーゲルどもに掛かった首輪は絶対に取れねぇよ」

勇者 「そうか」

勇者 「でもそれは、これからも生きていく彼らに任せる事にしよう」

勇者 「さらば怨敵、『魔王』」










空の中心はいつから月から太陽へ変わるのだろうか?

その瞬間が恐らくは、夜と朝の境目なのであろう。

毎日訪れるが、誰も不思議には思わない。

勇者が至った境地は正にそれだった。

違和感など無いはずなのに、過程と結果のみが異常性を示す。








呆然としていた傭兵隊長をはっとさせたのは、一直線に差し込む太陽が彼の目を照らした時だった。

目が朝日の明るさに眩むその瞬間まで、彼は太陽の存在にさえ気づけなかった。

彼の目の前で起こった出来事はそれ程までに、彼の意識を釘付けにしていた。


傭兵隊長 「は……?」


文字通り息を殺していたはずの傭兵隊長であったが、驚きのあまり声が漏れていた事にさえ気づけない。

思い返せば、彼は日中からこうして馬の死骸の下で息を潜めているのである。

半日以上飲まず食わず、勿論気を緩めた瞬間など存在しなかった。


傭兵隊長 (今、何が起きたんだ……!?)




ふざけんなっ。

俺が見逃すわけはない。

だがしかし不可解ッ、気味悪ささえ覚える程にッ。

勇者がアイツに歩いて行ったと思ったら……。

迷わず斬り抜きやがった……ッ!?

アイツも狂ったような叫んでいたのに、一歩たりとも微動だにしなかった。

一体どういうことだ?

あいつらの間には一体何が見えていたってんだッ。

それに……勇者。

アイツを真っ二つに斬り裂いたまま動かねぇ。

二人のオーラみてぇなのはなくなったが……それでも近寄りがてぇ。

もう、動いてもいいか……?




シュピーゲル 「グ…ガゥァァ……」


傭兵隊長 「ッ!?」


彼の鼓膜を突如揺らしたうめき声。

それは彼の後方。

少年にやられたシュピーゲルが倒れているはずの場所から。


シュピーゲル 「マ…オウ……サマ」


一匹ではない。

通常ならば取り得ない姿勢で立つ数匹の獣は、皆同じ言葉をつぶやいていた。


シュピーゲル 「マオウ…サマ……」

シュピーゲル 「…マ…オ…ウサ……マ」


傭兵隊長 (まだ余力があったのか……?)




魔王という虚像への、従順な心。

それがシュピーゲル達にはめられた首輪の正体。

意図してか、獣王の断末魔の叫びは、死に恐怖したからではなかった。

獣王がシュピーゲル達の脳裏に深く刻んだ靡き従う意思を、呼び起こしたのである。

知性のさらに奥へ仕舞われたそれは、少年の十惡でさえ消すことは敵わない。

まるでスイッチをカチリと入れたかのように、シュピーゲル達にはある行動目的が発生した。


シュピーゲル 「コロ…ス……」

シュピーゲル 「マオウ…サマ…ノ…タメ」

シュピーゲル 「ヒト…コロ…ス……」




傭兵隊長 「…………」


再び、傭兵隊長の頭上に選択肢が現れた。


1、このまま身を隠す。

2、勇者たちを囮に逃亡。


3、勇気ある英雄達を、シュピーゲルから守る。








傭兵隊長 「……決まってるじゃねぇかッ!」


とうとう彼は隠れる事を止めた。

やたら重い馬の死骸を、下から思いっきり蹴りあげたのだ。


傭兵隊長 「掛かって来いよ、操り人形共ッ」

傭兵隊長 「人間に歯向かった事を後悔させてやるッ!!」






朝の訪れと同時に始まる、傭兵隊長の戦い。

そこに、先ほどまでの計算高い歴戦の傭兵の姿はない。

そしてもう一人、この場には忘れ去られた勇者一行の人間がいた。

彼女は生と死の狭間に居を構え、一人の男の子と共に歩む。


野原に放り出された黒表紙の本。

開かれる白紙のページ。









  Eloim, Essaim, frugativi et appelavi
 
 (エロイムエッサイム、我は求め訴えたり)










サラサラと、聞き心地のよい筆記音を立てて、白紙に文字が刻まれた。

直後、本から煙が上がり、そして中から一人の人間が現れる。

彼女は魔術を行使する悪魔。

魔女狩り、最後の生き残り。

そして、少年の最愛の女性。


魔女 『全く、故人の助力さえ受けるとはな……』


優しく微笑む顔は、魔術師のシンボルである黒い外套によって隠れている。

しかしその声音には、慈愛に満ちた優しさがあった。




魔女 『少年。君は本当に甘えん坊だ』






スレ立てから丁度1年
感慨深い…

次の投下は少し遅れます
すいません





傭兵隊長 (あの獣達は3匹……)

傭兵隊長 (こっちは剣一本の俺だけ)

傭兵隊長 「……多少劣勢だが、諦観する程じゃないな」


シュピーゲル 「グ…ゥゥ……」


真っ二つにされ死骸として倒れる獣王と、その傍らに両断した体勢そのままに俯く勇者。

獣王がぴくりともしないのは無論であったが、勇者さえ動かないことは妙であった。


傭兵隊長 「……よし」


覚悟を決め、シュピーゲルと交戦するために距離を詰める。

獣達も傭兵隊長を敵と認識したのか、全員が彼に向き合って威嚇を始めた。




傭兵隊長 「行くぞッ!」


鬨の声を上げて勇んだ矢先────


魔女 「ふふっ。まぁ待て」

魔女 「度胸だけで勝てる相手など、そうそういないものだ。傭兵」


傭兵隊長 「……誰だッ!?」


魔女 「君の味方だ。今はそれだけで十分だろう」


傭兵隊長 「…………」


ジリッ……


魔女の言葉を聞いても、傭兵隊長は敵意を解かなかった。

人の形である以上、シュピーゲルの仲間だろうという予測が立つことは無い。

しかし真っ黒なその外套は、魔導の国の『黒蜥蜴』を想起させ、底の見えぬ不安感を与える。




傭兵隊長 (顔も出さずに……信用ならねぇな)

傭兵隊長 「……奴らを倒すまでは、無条件に信用してやる」


魔女 「そうだ、それが正解だろう」


ケタケタと笑うように喋る魔女。

生死の境を越えたという経験が、彼女に超越的な感性をもたらしていた。


魔女 「黒魔術の残滓となった私に実像はない」

魔女 「あの傭兵に頼る他ないな」


魔女は黒かった。

先ほどまでの暗闇よりも、黒魔術の影よりも、人の悪意よりもずっと。

底知れぬ井戸のような姿は深淵。

異様なモノがより集まったこの空間の中で、最も異質な存在であった。

まるで太陽と対極であるように、朝焼けに一点の黒を差す。


傭兵隊長 (一体アイツは何なんだ……?)

傭兵隊長 (いきなり現れやがって……)








魔女 「Eloim, Essaim, frugativi et appelavi」


彼女の黒魔術における定型句を言い放った瞬間。

魔女を中心に、渦にも似た真っ黒な濃霧が発生する。

それはやがて魔女自身を覆い隠すほどに広く散っていった。


傭兵隊長 「黒い竜巻!?」


魔女 「あぁ……っ」


渦の只中。

自分の力に陶酔する狂戦士のように、彼女は恍惚の声をあげる。


魔女 「ついに…ついに、私は真に完成した黒魔術を行使できるのだ!」

魔女 「この生涯、全てを投げ打って執着した結果が、今この手中にあるのだ!」


シュピーゲル 「ガアアァァッ!!!!!」


一匹のシュピーゲルが魔女へと突如躍りかかった。




魔女 「邪魔をするなよ……」

魔女 「失うもの無き獣がッ!!」


彼女の目の前で、肉薄したシュピーゲルが散った。

黒い竜巻は刃となり、沼となり、波となり、闇となり、一瞬でシュピーゲルを消し去る。

今回は骨さえも残らない。


傭兵隊長 「は……!?」


何度も経験した度肝を抜かれる感覚。

分かっていても口を間抜けにあんぐりとしてしまう。

手に持った剣の意味も、魔女を前に見失ってしまいそうだった。


魔女 「ああ、やってしまった」

魔女 「残量不明の命なんだ。後先考えずに使うべきではなかったな」

魔女 「後は任せた、傭兵」


シュピーゲル 「グルゥゥゥッ……」


同胞が消えても動揺が無い事は、シュピーゲル達に知性すら無くなった証拠であった。

しかし知性がなくなるという事は、恐怖心さえ手放した事の裏返し。

当然、死へのためらいはない。




シュピーゲル 「アアアァァァッ!!!!」


考える間もなく、またもシュピーゲルの一匹が突撃する。

向かう先は、傭兵隊長。


傭兵隊長 「一体、何が起きてやがる……」


唖然とするあまり、自分がシュピーゲルの標的になっていることを察知できなかった。

危機察知能力の欠如は、傭兵として致命的。

この場がただの戦場や死地であったならば、この時点が彼の死は確定していたことだろう。

しかし現実は違う。


魔女 「呆けるな!」


そう。

ここはただの戦場ではない。

魔術飛び交う、異類の園。

魔界、人間界の中に存在する最も奇妙な死地であった。




傭兵隊長 「ッ!!!」


とっさに剣を構える。

しかし反射的に取った防御が、猪突猛進するシュピーゲルに対抗できるはずはなかった。


バチィィッ!!!


シュピーゲルが傭兵隊長の剣に触れた瞬間、影の障壁のようなものが両者を隔てる。

本来弾き飛ばされるはずの傭兵隊長は、そこへ何もなかったかのように残り、シュピーゲルだけが大きく怯んでいた。


傭兵隊長 「ッ!?」


今、目の前で起こった現象を、彼が理解することはない。

複雑怪奇の魔術は、一部の人間を除いて、魔法よりも不可思議なモノであったからだ。

前後不覚とも言える闇の中で、ただ一つ正常に機能した物は、幾度も自身を窮地から救った第六感だった。

眼前で怯む敵。

そして己の握る一本の剣。

たった二つの点が彼に答えを与える。




傭兵隊長 「うおぉぉっ!!!」


相手は自分よりも遥かに強大な体躯を持つシュピーゲル。

押し負けないように、がっちり剣を両手に握り、脇を締めて上段に構えた。


幹竹割り────


傭兵隊長の剣によって、一匹のシュピーゲルは脳天から真っ二つになる。

その異常な切れ味でさえ、不可解。

返り血に染まる刃がいつもよりずっと黒い。

魔術によるものなのか、シュピーゲルの血液が実際に黒かったのか。

結論はいざ知らず、傭兵隊長の中に長年埋没していた闘争本能がここにきて重い腰を上げた。


傭兵隊長 「血……ッ」


視界を鮮血が覆った瞬間、それは彼の頭まで電撃の如く昇っていった。

眼球の血走りも、どっと上がった体温も、震えの止まった手足も、

全てを敵意に変えて、傭兵隊長は自分からシュピーゲルへ躍りかかる。




傭兵隊長 「オラァァッ!!!」


シュピーゲル 「……ァ」


焚き火が爆ぜるように、尋常では無いスピードで傭兵隊長に迫られたシュピーゲルは為す術がなかった。

知性を失くしても、動物としての本能がある。

渾身の横一文字斬りをもろに受け、胴とそれより下が離される直後まで、

シュピーゲルの脳内には恐怖に慄き逃げ出そうとする意思と、獣王に掛けられた「人類を根絶やせ」という一種の催眠が対立していた。

結果、逃げもせず抵抗もせず、ただ敵の前に立ち尽くすしかなかったのである。


魔女 「……こんなものか」


傭兵隊長がシュピーゲルを打倒できたのは、その大半が魔女の助力によるものであった。

一度は歴史の闇に葬られかけた黒魔術が、傭兵隊長の人生始まって以来の窮地を救ったのだ。

そしてその窮地とは、人間と魔族を決定的に分断する一戦でもある。

絶対的な力を誇った魔王の系譜はこの場に散り、やがて勇者の英名が人間界全土に知れ渡るだろう。

そうしてやがて、魔族から今一度魔王の器が生まれる。

呼応するように人間界からは勇者が。

何にせよ、魔王と勇者の長い長い因縁の初戦は、勇者に軍配が上がったということは確かである。






傭兵隊長 「はぁ…はぁ……」

傭兵隊長 「アンタ……、何者なんだ?」


魔女 「良い朝だ。辺り一帯に血溜まりがなかったら、どれだけ清々しい気分になっていたか」


霧の立ち込める空、その先から自身を照らす太陽に言った。


魔女 「どうでもいいだろう。私が何者なのかなんて」

傭兵隊長 「いいや、良くねぇな」

傭兵隊長 「俺はこれから、商業の国へと帰還する」

傭兵隊長 「そして真っ先に商業王に会って、俺の見聞きした全てを伝えなくちゃならねぇんだ」

傭兵隊長 「勇者がぶっ殺したあの化け物も、無残に散った兵士の最期もな」

傭兵隊長 「勿論、てめぇの存在もだ」

傭兵隊長 「何か分からねぇ途轍もない力で、俺を支援してくれた事には感謝する」

傭兵隊長 「正直なところ、アンタがいなけりゃこの獣どもを無傷で一掃する事は出来なかっただろう」

魔女 「どうせすぐこの場から消えるわけだから、丁寧な説明など無意味なのだが……」

魔女 「お前、出身はどこだ?」

傭兵隊長 「武芸の国のド田舎さ」


魔女 「そうか。ならば知らぬか、魔導の国で起きた凄惨な大量虐殺の真実を」

傭兵隊長 「大量虐殺……。魔女狩りか」

魔女 「その通り。私はそれに関わって身を滅ぼした内の一人だ」

傭兵隊長 「黒魔術。魔導の国が抱える闇……」

傭兵隊長 「自分の身の上を明かしたくないなら、もうこれ以上は聞かねぇ」

傭兵隊長 「商業王にかけあえば、どうせすぐに割れる事だろうしな」

傭兵隊長 「一応、俺もそういう立場の人間だから、最後にきちんと礼を言っておく」

傭兵隊長 「人地の防衛及び、我らに仇なす魔の粛清」

傭兵隊長 「商業王の名のもと、コンドッティエーレとして協力に感謝する」

魔女 「感謝など照れくさい。だがその言葉ぐらいは受け取っておこう」

魔女 「君は中々見込みのある男だ。こちらこそ礼を言いたいぐらいだよ」

魔女 「少年……。いや、勇者たちを頼んだ」

傭兵隊長 「ああ、特にあのエルフは結構な重傷みたいだからな。早く治療しねぇと」

魔女 「やはり、この世に生きるというのはいいな……」




傭兵隊長 「お前……」


魔女 「ああ、そうだ。私は生者ではないのだ」


その言葉を最後に、魔女はゆっくりと朝霧に紛れて消えてしまった。


傭兵隊長 「ったく。出世すればするほど、とんでもねぇ真実が見えてきやがる」

傭兵隊長 「俺は……あとどれだけの間、井の中の蛙をやりゃいいんだろうなぁ」

傭兵隊長 「ま、考えても詮無いことか」


勇者 「……おい」


傭兵隊長 「!?」


傭兵隊長 (こいつ……いつの間に背後を取りやがったっ!?)


傭兵隊長 「アンタが勇者か」


勇者 「知った事か。ここから一番近い村落までの距離を教えろ」




傭兵隊長 (なんだコイツ。ずいぶん当たりが強いな)

傭兵隊長 「歩いて半日といったところだ」

傭兵隊長 「アンタだけでも自分で歩けるなら……

勇者 「少年はお前が運べ。俺は女エルフを背負っていく」

傭兵隊長 「あ、ああ。分かった」


徐ろに女エルフを抱き上げると、勇者はさっさと走り去ってしまった。

あれだけの死闘のあとに、エルフ一人を抱えて走れるほどの体力が残っているとは思えなかったが、

初めて会う勇者に辟易してしまっていた傭兵隊長に、彼を止める手段はなかった。

追うように、少年を背負い歩き出す。

壮絶な戦の跡の中から、少年が持っていた黒表紙の本と、そして女エルフが斬り落とした獣王の爪を持って。




これから何が始まるのか。

傭兵隊長の目には、これが戦いの終わりではなく「始まり」のように映っていた。

獣王の亡骸が誰もいなくなった草原で、風に煽られ揺れている。



長らく均衡状態を保っていた人間と魔との間に、亀裂の入る音がした────










グチャ…グチュ……

脳髄を啜る音が、気味悪く野原に響く。

そこは勇者と魔王が交わった場所。

商業の国の西方、ハーピーの住処だった崖を頂く森の中。

幾人の兵士が力尽き、数十匹のシュピーゲルが虚ろに倒れ伏す。

その中でも一際大きな死骸があった。

母喰父殺のシュピーゲル。

代々の魔王の系譜。

魔族の中でも異端中の異端。

獣王の骸がモゾモゾと動く。


戦場の跡に吹く寂しい風のせいではなかった。

確かに、その骸の下に「何か」がいる事を認められた。

誰もいなくなったはずの墓場。

弔いすら受けられぬ亡者の中で、それは卑しくも力無き骸を貪る。

血も肉も、喰えないところはない。

蛆や蝿よりも早く湧き、ハイエナよりもみすぼらしく摂食する。

本能むき出しの、その影に知性はなかった。

いや、ともすればそれを得ようと骸に手を伸ばしたのかもしれない。

相も変わらず世界を俯瞰する太陽が、嘲るように獣王の息絶えた肉体を照らした。










季節は問わず、いつも春の陽気な風が吹く魔王城。

深淵の図書館に、図々しくも居座る二人組がいた。


青年 「ふへっ……ふひひっ」

才女 「おうふ……っ」

青年・才女 「wwwwwww」

魔王 「飯時に、その品の無い笑い方はよしてくれないかね?」

魔王 「せっかくの味がさっぱり分からなくなる」

青年 「あ、悪い。でもあとちょっとなん……」

青年 「ふひっwwww」

才女 「……ゴメンナサイ」

才女 「…………」

才女 「おひょひょひょwwwwwww」

魔王 「うわ……」

青年 「俺の哄笑は気にしないでくれ」


青年 「で、魔王はまたキャラを変えたのか?」

青年 「今度は如何にも居丈高な公爵キャラだな」

魔王 「全く……。私のキャラ付けに口を挟むと何度も言っているはずだ」

魔王 「気に入ったものが無いのだからやむを得ないと思うがね」

才女 「童女にその話し方は似合わない」

才女 「話す前に、ふぇぇ……と付ければピッタリ」

魔王 「一体それは何の冗談だ?」

青年 「まぁまぁ、一回やってみろって」

魔王 「……はぁ。仕方がないな」

魔王 「ふぇぇ……。わたしにそんな低俗なキャラはにあわないよぉ」


青年 「…………」

才女 「…………」




魔王 「ふぇぇ……。いきなり静かにならないでよぉ……」

青年 「……うん、いいと思うぜ」

才女 「……似合っている」

魔王 「ふぇぇ……。それぜったいウソだよぉ」

青年 「うるさいな。耳障りな話し方するなよ。腹が立つ」

才女 「狙いすぎて気持ちが悪い」

魔王 「ふぇぇ……。いいだしっぺのクセにしんらつだよぉ」



青年 「…………」

才女 「…………」


魔王 「ふぇぇ……」










商業の国 僻地の村


傭兵隊長 「はぁはぁ……」

傭兵隊長 「どうにか辺りが暗くなる前に着けたか」

傭兵隊長 「子供とはいえ、人を一人おぶって移動するのは予想以上にキツい……」

傭兵隊長 「誰か村人は……」

傭兵隊長 「そこの男」


村人 「はい?」

傭兵隊長 「ここに、エルフを抱えた男が訪ねて来なかったか?」

村人 「ああ、来ましたね。エルフならあそこのお医者様の家に居るはずですよ」

傭兵隊長 「そうか」








村の診療所


お医者 「へぇ、このエルフはそのような境遇だったのですか」

お医者 「朝方、突然もの凄い剣幕の男が、この家へ来た時は私も驚きましたよ」

お医者 「私に彼女を預けると、何事か?と問う暇も与えずに彼はまた何処かへ走り去ってしまいました」

傭兵隊長 「ちょっと待ってくれ」

傭兵隊長 「その男が訪ねてきたのは昼ごろのはずではないのか?」

お医者 「いえいえ、朝方でしたよ。はっきり記憶しています」

傭兵隊長 「その馬鹿な……!?」

傭兵隊長 「それでは時間の辻褄が合わない……」




傭兵隊長 (勇者と別れたのは、どんだけ早く見積もっても5時だ)

傭兵隊長 (百姓でないこの医者が朝方というのだから、恐らく訪れてきたのは7時から9時の間)

傭兵隊長 「あり得ない……」

傭兵隊長 (アイツはたったの数時間でここに辿り着いたというのか!?)

傭兵隊長 (それも、大人のエルフを抱えた状態で……)


お医者 「ご不明な点があるようですが、とにかく私はこのエルフを全力で治療してよろしいのですね」

傭兵隊長 「ああ、彼女は人間界を救った英雄の一人だ」

傭兵隊長 「最善を尽くして欲しい」

お医者 「問題ありません。この診療所の設備なら、彼女を十二分に回復させることが出来ます」

お医者 「エルフを診た事はなかったので、少し心配しましたが、人もエルフもそう違いは無いのですね」

傭兵隊長 「確かに、この診療所は何故ここまで環境が整っているんだ?」

傭兵隊長 「勝手な想像だが、このような寂れた村には診療所などあろうとは思ってもいなかった」

お医者 「商業王様の計らいによるものです」


お医者 「以前……。といってもほんの半年前ですが」

お医者 「武芸の国で、人の軍と魔族が衝突しました」

傭兵隊長 「ああ、勿論知っている」

傭兵隊長 (というか、俺もそれに参加していた)

お医者 「その際、多くの兵士が負傷したのにも関わらず、武芸の国の僻地には兵を治療する施設がありませんでした」

お医者 「ごく短い遠征と見込んで、兵士達も特に軍事拠点などを設置しておりませんでしたから、」

お医者 「現地で治療出来なかった多くの兵士は、傷を背負いながら武芸の国まで自ら歩くしかなかったのです」

お医者 「道のりにして一日」

お医者 「その一日の間に傷が化膿して、手足を失った兵もいました」

お医者 「その劣悪な兵士を支援する環境に端を発したのが、私のような医者を過疎地域へ送る商業王様の政策であります」

お医者 「ここらは、魔族の支配地域に接近していますから、当然彼女のような負傷者が担ぎ込まれることも珍しくないのでしょうね」

お医者 「以前のこの村には、医療に精通した人間はいませんでした」

お医者 「ですから、彼女のような戦士を迅速に救えるのは、商業王様のお力添えあってのことなんです」


傭兵隊長 「へぇ、彼がこんな事までしているとは……」

傭兵隊長 (流石俺の仕える主君といったところか)

お医者 「あなたが運んできた男の子のほうも、順調に回復するでしょう」

傭兵隊長 「そうか。それは何より」

お医者 「そもそも彼には目立った外傷はないので、いつ目覚めてもおかしくありません」

お医者 「しかしそれは、いつ目覚めるか一切分からないという事の裏返しです」

お医者 「もし精神の奥深くに彼が深い傷を受けていたとしたら、私のようなしがない医者の手には負えません」

お医者 「あしからず」

傭兵隊長 「ああ、承知した」

お医者 「それにしても……」

お医者 「まさか私がエルフを治療することになるとは思いませんでした」

傭兵隊長 「それほど不思議なことだろうか?」


お医者 「いえね、私は見た目の通り、かなり年を食っております」

お医者 「だから、エルフと人間との対立が激しかった時期も経験しているのです」

お医者 「エルフなぞは人間の家畜に過ぎないと、堂々触れ回る貴族も多くいた時代でした」

お医者 「それにデマではあるでしょうが、エルフが人の里を襲ったなどと耳にしたこともあります」

お医者 「どちらが悪いということではなく、ただ人とエルフは当分の間、和解などできるわけ無いだろうと思っておりました」

お医者 「それがどうでしょう。私はまだ健康も健康」

お医者 「あれから数十年。あっという間にエルフは私達にとって身近な存在になりました」

傭兵隊長 「言われてみればそうかもれない」

傭兵隊長 「最初は使用する事に抵抗のあったエルフの調度品や薬も、今となっては商業の国の立派な特産となっているからなぁ」

お医者 「根深いと思われていたエルフ差別の思想も、彼が……商業王様が払拭してくださいました」

お医者 「怒涛の1年……とでもいいましょうか」

お医者 「私達の常識を商業王様は、いとも容易く崩して行きます」

お医者 「特に流通の進歩には下を巻くばかりです」

傭兵隊長 「おぉ、それは上流階級の国民以外でも実感できるほどなのか!」

お医者 「ええ、そりゃもちろん」


お医者 「ここのようなド田舎でも、毎日とはいきませんが、数日に一度は行商人が訪れます」

お医者 「行商人は私達に、農耕の国で採れた穀物や魔導の国の魚介類をもたらします」

お医者 「内陸部、それも王都からこれほど離れた村で、魚を食べることのできる時代が来るとは夢にも思っておりませんでしたよ」

お医者 「実は私、商業王様がまだ小さい頃は、王城の医務室で働いていた事があるんです」

傭兵隊長 「それは驚きだ。小さなころの商業王とはいかなるものだったんだ?」

お医者 「今とお変わりありませんよ」

お医者 「正義感が誰よりも強く、純粋で真っ直ぐなお人でした」

お医者 「ただその正義感が災いしてか、時折大怪我を負うこともありました」

お医者 「私が彼を治療している時、彼は傷に消毒液が染みる痛みに顔をしかめながら、いつも呟いていたのです」

お医者 「何故僕のような無能が満足に治療を受けて、真に保護されるべきか弱い人々は見捨てられるのだろう、と」

傭兵隊長 「それはまた、とんでも無いことを言うんだな」


お医者 「えぇ、正にその通りで、商業王様は幼少期から貧困や差別を無くしたと夢見ていたようです」

お医者 「ただ、その思いが先走ってしまっていたというか、当時の彼は私の目にはとても危うく映りました」

お医者 「常に、頭のどこかに自己犠牲の精神を持っていたのでしょう」

お医者 「救えないなら自分などどうでも良いと、自傷行為に走った時期もあります」

お医者 「好ましくない輩と頻繁につるむようになったこともあります」

お医者 「それでも、今では立派な商業の国の王となられました」

お医者 「きっと私は、人に避けがたい絶望が立ち塞がった時、彼のような器が「勇者」として人々を救うのだと思います」

お医者 「誰よりも勇敢で、誰よりも正義を追求し、誰よりも自己の犠牲を厭わない」

お医者 「痛々しいまでに偏った、その姿勢に私は真の勇気を見たのです」

傭兵隊長 「実際、人間界から「勇者」を輩出しようと働きかけたのは商業王だと聞く」

お医者 「彼女を抱え、ここを尋ねた男が今の勇者様なのですね」

傭兵隊長 「ああ」


お医者 「申し訳ありませんが、正直私は彼の目に怖れという感情を抱きました」

お医者 「勇者様は、残念ですが人の道を外れているのでしょう」

お医者 「あれほど洗練された眼は気の遠くなる壮絶な鍛錬の賜物」

お医者 「私如きでは計りようも無い程、彼は絶大の力を持っていました」

お医者 「ギラギラと蠢くあの眼は、決して民を導くという類のものではないはずです」

お医者 「もっとおぞましい……」

お医者 「いえ、これ以上は口にすべきではありませんね」

お医者 「彼がいたお陰で、私は明日の我が身を心配する必要が無いのですから」

傭兵隊長 「彼を間近に見たからこその感想だな」

傭兵隊長 「斯く言う俺も、初見で近寄り難いと思ってしまったよ」


傭兵隊長 「ところで、この村に調教された馬はいるか?」

お医者 「はい、確か百姓一家の主人が躾けた馬が一頭いますが……」

お医者 「まさか、このまま商業の国まで帰るおつもりですか?」

傭兵隊長 「ああ、今回の事件は一刻も早く商業王に伝えなくちゃならないんだ」

お医者 「無理はいけません。その顔付きで分かります」

お医者 「顔の筋肉が強張って、先程からほとんど表情が変わっていません」

お医者 「もう数日、寝るどころか食事や休憩もしていないのでしょう」

傭兵隊長 「さすが、商業王を診ていた医者だけあるな」

傭兵隊長 「だが、こんなもの、そこに寝ている二人や勇者に比べれば屁の河童だ」

傭兵隊長 「俺には仕える主君がいる。可能な限り、彼に尽くしたいんだ」

傭兵隊長 「忠誠心というやつだろうか。もう無頼の傭兵ではいられなくなったのかもれない」

お医者 「お止めしても無駄なようですね」

お医者 「分かりました。馬は私が手配しましょう」

お医者 「加えて、患者二名も準備が整い次第、商業の国へ私が責任を持ってお送りします」

傭兵隊長 「ああ、頼む」










勇者 「はぁ…はぁ……」

勇者 (視界が暗い……)

勇者 (今は昼じゃないのか……?)

ドクンッドクンッ

勇者 「ぐッ……」

勇者 「くそ……時間がない」

勇者 「いそが…ないと……」


勇者は覚束ない足取りで、日に照らされた森の中を歩いて行く。

視線は足元をさまよい、一度乱れた呼吸は中々元には戻らない。




勇者 (やっと見つけた使命なんだ……)

勇者 (絶対に果たして見せる……)

勇者 (方角は分かる……)

勇者 (あとどれだけ歩けば、魔王城に着くんだ……?)

ドクンッドクンッ

勇者 「がぁ……っ」


バタッ


左胸を抑え、地面に倒れ込む勇者。

しかし顔だけは進む意志を体現するかのように、前方だけをしっかりと見つめていた。


勇者 「俺が……」

勇者 「俺がやるしかないんだ……!」


お伽話の勇者は、頼れる仲間と共に悪の魔王を倒す。

辛い旅の果てで、勇者は栄光と勝利を手にするのだった。

何度も何度も使い古された、勧善懲悪のストーリー。

それを勇者は実現させようとしていた。






仲間無き今、勇者が打倒魔王に執着する理由とは一体!?

そして彼を待ち受ける三つの影!



??? 「ふひっ……ふひひっwwwwww」

??? 「おひょっ、おひょひょひょっwwwwww」

??? 「ふぇぇ……」












魔王 「ふぇぇ……。そろそろヤツが来るよぉ」

青年 「もっと、機械みたいに喋ってくれ」

魔王 「ふぇぇ……。分かったよぉ……」

才女 「ヤツって誰のこと?」

魔王 「魔王ノ系譜。母喰父殺ノシュピーゲル」

魔王 「奴ハ魔王ノ玉座ヲ狙ッテイル」

魔王 「戦ッタラ、負ケル」

青年 「へぇ、シュピーゲルのジイさんを虐めた野郎が来るのか」

青年 「ジイさんにも戦うなって言われたな」

才女 「そのシュピーゲルの名前は獣王」

青年 「コイツの前の魔王が名乗っていた名前なんだっけ?」


魔王 「ソノ通リ。我ガ手ニ掛ケタ、シュピーゲルコソ獣王ダッタ……」

才女 「片言な喋り方が癇に障る。やめて」

魔王 「ヒド……イ」

魔王 「ふぇぇ……。ロボット幼女はお気に召さなかったみたいだよぉ……」

才女 「今度は大魔王風」

魔王 「フハハハハ、獣王は我が一撃で屠ってやったわ」

魔王 「所詮、我の足元にも及ばぬ小物よ!」

青年 「これはあれだな。結構良いな」

青年 「こう……。ちっちゃい子が必死に威張ってるみたいで」

魔王 「フハハハハ。我が威張っているだと?」

魔王 「フハハハハ。笑止千万。元から偉大な者が威張るわけないのだ」

魔王 「我は偉いのだ!」

才女 「笑い声ばかりのキャラ付けは安直」

才女 「すぐにボロが出る」

魔王 「フハハハハ。フハハハハ。フハハハハ……」

青年 「それ以外思いつかないんだな」


青年 「もういいから。早く話を進めろよ」

青年 「俺達も暇じゃないんだ」

魔王 「……はい」

魔王 「私からお伝えしたい事柄はですね」

魔王 「今、ここにある獣が向かっているんですね」

魔王 「それは母喰父殺のシュピーゲルと呼ばれるものでしてね」

魔王 「そいつが、明らかな敵意をもって向かっているわけですね」

青年 「何で分かるんだ?」

魔王 「それはですね。こういうことですね」

ファサッ

魔王の小さな服の中から、ファサッと8本の尻尾が現れる。


才女 「8本……。1本足りない」

青年 「魂を9つに分けた内の、1つを情報収集に向かわせているのか」

魔王 「はい~、そういうことになりますね」

青年 「その雑魚行商人みたいな口調も腹が立つな」


青年 「次はインテリ魔王風で」

魔王 「よかろう」

魔王 「なぜ私が世界侵略に思い至ったかというと、それは私の青年期にあったある事件に起因する」

才女 「魔王は世界侵略をしていない」

魔王 「そうだったか。つい若き頃の思い出を語ろうとしてしまったな」

魔王 「閑話休題だ」

魔王 「母喰父殺のシュピーゲル……つまりは獣王であるが」

魔王 「奴が現在、この城へ向かっている」

魔王 「目的は恐らくこの私」

魔王 「現魔王である私を仕留めるつもりだろう」

青年 「負けたら喰われちまうんだよな」

魔王 「そうだ。奴は屠った相手の死骸を貪る」

魔王 「万が一にも、前の獣王を殺した私が負けることはないだろうが、一つ懸念がある」

才女 「母喰父殺のシュピーゲルが背負う宿命?」

魔王 「その通りだ。母喰父殺の系譜は、魔王打倒の歴史」


魔王 「私にとってみれば、奴と一戦交えるということは、それまでの魔王打倒の歴史に抗うということだ」

魔王 「これは何とも縁起が悪い。つまりジンクスといえる」

魔王 「私は根からの完璧主義だ。万全でない戦いに臨むつもりなどさらさらない」

青年 「何だか、情けない魔王だな」

魔王 「好きに言うがいい」

魔王 「私が戦うよりも、さらに適した選択肢が目の前にあるのだ」

魔王 「利用しないほうが余程、私には無能で情けない魔王に思えるがな」

青年 「え、なに? 俺たちに戦わせる気か?」

魔王 「如何にも」

魔王 「貴様達、ここに来てからどれだけ時が過ぎたか分からないわけではあるまい」


才女 「2、3週間ぐらい?」

魔王 「呆けたか。外界の季節が一度変わるほどだ」

青年 「てことは4ヵ月ぐらいか」

青年 「ちょっと寄るだけつもりだったのに、思い返せば随分長居したもんだなぁ……」

魔王 「そうだ。加えて、今まで衣食住の面倒を見たのは私だ」

魔王 「さらに、魔王城の施設は全て解放してやった」

魔王 「これ以上のもてなしは、そうそうあるものではない」

青年 「確かになぁ。いやいや、世話になったなよ魔王」

青年 「じゃ、俺ら厄介な奴が来る前にここを出るから」

才女 「短い間だったけど、楽しかった」

才女 「バイバイ」ノシ


魔王 「待て!」

魔王 「ふざけるな! この世界は何にでも等価交換の法則が成り立つ」

魔王 「私のもてなしが無償なはずなかろう!」

青年 「だから礼を言ったんだろ」

青年 「アリガトウゴザイマシタ」

才女 「オセワニナリマシタ」

魔王 「冗談じゃない! 第一、貴様らはここを出てどこへ向かおうと言うのだ!」

魔王 「この魔王城こそ魔界の最奥の地」

魔王 「ここ以上のゴールは存在しない!」

青年 「はぁ? 未開の地があるだろ」

魔王 「何? 貴様ら、この世界を出ようというのか?」

青年 「未開の地だって、『この世界』の範疇だと思うぜ」


魔王 「つまらぬ冗談だ。ならば教えてやろう」

魔王 「私はこの玉座に腰を据えるまで、貴様らの言う『未開の地』に住んでいた」

魔王 「そこは、貴様らでは想像もつかぬ化け物の巣窟」

魔王 「とても人間の踏み入ること叶う場所ではないのだ!」

魔王 「少なくとも、シュピーゲルなんぞに恐れ逃げ出す小物ではな!」

才女 「……上等」

才女 「私が獣王を倒せばいいの?」

青年 「ちょっと待てって……!」

魔王 「おい、そこの男。貴様のような逃げ腰の小物には興味はない」

魔王 「今すぐここを出ていけ」

魔王 「残るのは才女だけで十分だ」

青年 「はぁ……。わかったよ」

青年 「俺がやる」

魔王 「そうだ。貴様が私の下僕となって、私に牙を剥く不敬の輩を排除しろ」

青年 (といいつつ、実は乗り気だったり……)

魔王 「この世は等価交換だからな。獣王を倒した暁には、私から価値ある褒美をやろう」

青年 「はいはい、そりゃどーも」









青年 (と、そんなことがあり、数日後)

青年 (ここ数ヵ月、ほとんど運動もしていない体に鞭を打って戦わなければいけなくなった)


才女 「ファイトー」

魔王 「ふぇぇ……。ふぁいとだよぉ」


青年 「はぁ……。仕方ないか」


??? 「魔王城に乗り込んで、ちゃっちゃと魔王のくそ野郎を殺してやろうと思ったが……」

??? 「なんだ。臨戦態勢じゃねぇか」


青年 「お前が獣王か」


獣王 「は? 誰だてめぇ」


青年 「ちっこいな」


青年の前に現れた獣。

それはシュピーゲルという種族ではなかった。

背は幼い体の魔王より少し大きい程度。

勇者によって倒された巨躯の獣王とは、まったく別の生き物のようだった。

表現するならば、四足歩行の動物を無理やり立たせたようとでも言おうか。

どんな生物から変化すればそこへ至るのか、全く見当がつかない程、デタラメな生き物。





??? 「ちっちぇってか?」

??? 「ハハハハハ! 確かになぁ!」

??? 「だがよぉ、チビだからって失望してくれるなよ」


??? 「俺は最強の『魔王』だぜ?」


ボウッ


滾る黒炎。

まさしくそれは覇者の力。

獣王のみが身体から発する事のできる黒きレゾンだった。


青年 「レゾン……!」


魔王 「ふぇぇ……。覚醒がはじまってたよぉ……」

才女 「…………」


??? 「獣王ってのは、本来俺の名前じゃねぇからな」

覇王獣 「とりあえずここは『覇王獣』とでも名乗っておこうかねぇ」

覇王獣 「ま、すぐ俺が魔王になるんだから、この名前にも大した意味はねぇがな」




青年 (レゾンを完璧に制御できている……!)

青年 (奴は既に、少年よりも上の次元の生物になっているということか)


青年 「驚いた。確かにコイツは厄介だな」


覇王獣 「かぁぁ、いいねぇっ。この力」

覇王獣 「俺が世界の覇者だと、改めて自覚しちまったぜェ」


青年 「覇者……?」


覇王獣 「おいおい、噛み付くなよ雑魚」

覇王獣 「今すぐ殺しやるからよ」


ダンッ!


チーターのような独特のしなりを持った脚が地面を叩いた。

大きさこそ変われど、爪牙のその鋭利さは健在。


青年 「ッ……」


刀を抜く暇もなく、青年は鞘で覇王獣の攻撃を受ける。


青年 「く……速いな」



覇王獣 「…………は?」

覇王獣 「てめぇ、人間の中でどれくらいの強さだ?」


青年 「上から10人の中に入っている自負はあるぜ……っ」


覇王獣 「へぇ、そうかい……」

覇王獣 「やはり……か。俺は、俺自身を越えたんだな」

覇王獣 「なんだよ……。たどり着いちまえば呆気ねぇ」

覇王獣 「くそ……」


青年 「何を思い悩んでんだ?」

青年 「そういえば、お前が次の魔王になったら、名前は『ティル・オイレンシュピーゲル』になるんだよな?」


覇王獣 「違ぇよ。そいつは偽物だ」

覇王獣 「俺が『ザクセンシュピーゲル』になるんだよ馬鹿がッ」



青年 「その理性のなさそうな姿で、『ザクセンシュピーゲル』(厳然たる秩序の守護者)を名乗るのか?」

青年 「滑稽だな。『ティル・オイレンシュピーゲル』(ひょうきんなホラ吹き野郎)がお似合いだろ」


覇王獣 「くだらねぇ。言葉遊びなんぞに興味はねぇよ」

覇王獣 「あとに二人つかえてんだ。てめぇ一人に時間かけていられっか」

覇王獣 「ハァァァァ……ッ」


胸部を大きく膨らませ、外気を体内にめいっぱい取り込む。

その予備動作からは、圧倒的な破壊の臭いがした。


青年 (なんかヤバイ……!)

青年 「突っ込んじまえ!!」


急発進。

溜め動作中の覇王獣との距離を高速で詰めにかかる。


青年 (五行魔法……)


覇王獣 「ガァァァアァァァアアァァッ!!!!!」



青年 「相克ッ!!!」


破壊するレゾンが、青年の魔法を抉っていく。

魔法を打ち消すことに特化した『五行魔法・相克』であったが、それも覇王獣のレゾンの前では本来の効力は発揮できない。

それほどに、並外れたエネルギーだった。


青年 (行ける……かッ!?)


魔法を発動させると同時に、覇王獣の右側へ体を反らしていた青年の目の前を黒い光が通り過ぎる。


覇王獣 「フ…シュゥゥゥ……」


覇王獣の口から、熱線が放たれたことを証明する煙が立ち上っていた。

牙は、その熱により赤みを帯びる。


青年 「あっ…ぶねぇ……」


覇王獣 「なんだ、てめぇ、それなりに強ぇんじゃねぇか」



才女 「あれはレゾンの放出?」

魔王 「ふぇぇ……。そうだよぉ……」

才女 「規格外……。というより想定外」




青年 「はぁ……」


覇王獣 「なんだ。戦意でも失くしちまったのか?」


青年 「いや、これは明日筋肉痛だなと思ってさ」

青年 「鈍った体を徐々に慣らすつもりだったのに、こうなったらもう知らないぞ」


覇王獣 「そうかい」


青年 「お前、自分の限界を見ただろ」

覇王獣 「俺の限界? ははっ、くだらねぇ」

青年 「ここに来るまでに、一体誰に負けたんだ?」

覇王獣 「ッ……」

青年 「ここ最近、ずっと使ってなかったからさ、読心の加減が効かないんだ」

青年 「心の表面じゃなくて、もしかしたら深層心理を見ているのかもしれない」

青年 「お前、もう芯が折れているよ」

青年 「いくら鋭くても良く切れても、芯が折れた刀はそこで終わりだ」

青年 「どれだけ研いでも、打ち直しても無駄」

青年 「まぁ、刀と違って俺たち動物は進化するからなぁ」

青年 「成長の頭打ちってところだろ」


覇王獣 「知ったようなこと、ほざいてんじゃねぇよ……!」



青年 「図星か。どうでもいいけど」

青年 「お前はこう思っている」

青年 「自分は大きな進化を遂げたのに、何だこのやるせなさは?」

青年 「力を求めてきたのに……そしてそれを手に入れたのに、まるでゴミになってしまったようだ」


覇王獣 「黙れ……」


青年 「最初見た時に思ったんだけどさ」

青年 「お前、確かに強いけど、別に怖くはないんだわ」

青年 「絶望感がちっともない。少なくとも、そっちの幼女魔王には感じたぜ」

青年 「自分にはない大きな力に対する恐怖心ってやつを」



才女 「…………」

魔王 「ふぇぇ……。あたし怖くないよぉ」

才女 「……少しだけ、怖い」

魔王 「ふぇぇ……」





覇王獣 「それはてめぇが、相手の力量も測れねぇ雑魚だからだろうがァ!!」


青年 『おいおい、噛み付くなよ雑魚が』


覇王獣 「なっ……。それはさっき俺が言った……」


青年 「怖いか? 感じるか?」

青年 「自分にはない力を相手が振りかざした恐怖を」

青年 「自分の手札がなくなった事にも気づかず、勝負を続けなくちゃいけない絶望を」


覇王獣 「…………」


(勇者 「さらば怨敵、『魔王』」)


覇王獣 「そうか……。これが恐怖か」


青年 「なんだ。恐怖を理解できるだけの知性はあるんだな」


覇王獣 「くそ……」


青年 「悪いが、これで終わらすぞ」

青年 (試作段階だけど……)


腰を落とし、抜刀の構えを取る。



青年 「失われた叡智(『ロストスフィア)』……」

バチッ……

鞘に閃電が這った。



魔王 「あれは!?」

才女 「あ、キャラが崩れた」



青年 「『神鳴ル紫電』……」


バチバチッ……


刀を収める鞘は、青年の魔法によって稲妻の社に変貌を遂げる。



覇王獣 (あぁ……抵抗する気にはなれねぇな)

覇王獣 (勇者の剣に殺されたあの瞬間に、俺の進化は終わっていた……)

覇王獣 (くそ……)









青年 「『一閃』」


ィィィンッ……


覇王獣の身体を、一本の紫電が駆けた。

そして……


バチバチバチバチバチバチバチバチバチッ!!!!!!


鞘に押さえつけられていた、幾億もの雷神が覇王獣に牙を剥く。

青年が夢見た遥か天空を総べる神がこの時、地上でさえその威光を見せていた。

到底、及ぶものなし。

無数の雷電の閃きは、刹那に覇王獣の身体を消滅させ、自らも姿を消す。


青年 「じゃあな、『ティル・オイレンシュピーゲル』(ひょうきんなホラ吹き野郎)」









青年 「あー、怠い」

才女 「お疲れ様」

魔王 「ふぇぇ……。青年つよかったよぉ……」

青年 「いやいや、ほとんど精神攻撃で決着ついていただろ」

青年 「俺の強さはほとんど関係ないと思うぜ」

才女 「それでも、あの魔法……」

青年 「ああ、そうだったそうだった」

青年 「悪いな才女。これまで二人三脚でここまで来たけど、とうとうお前とも差が出来ちまった」

青年 「使う魔法が一緒なんてつまらないもんな」

青年 「ま、気を落とすなよ。新魔法の開発なら、俺だって手伝ってやるから」

青年 「差が出来たって、お前は俺の相棒だよ!」


才女 「何を言っているの?」

青年 「強がんなって。悔しいのはわかるけど」

才女 「私も新しい魔法を開発している」

才女 「青年の魔法よりもずっと凄い」

青年 「ガーン……」

魔王 「ふぇぇ……。それは口でいうものじゃないよぉ……」

青年 「考えることは一緒ってことか」

青年 「ま、なんでもいいけどよ」

青年 「あと数週間はここに居座ることにしたぜ」

青年 「というか、今日無理したせいで身体が痛い」

青年 「文句ないよな?」

魔王 「ふぇぇ……。かまわないよぉ……」


才女 「あの程度で……。情けない」

青年 「仕方ないだろ。俺はお前みたいな体力オバケじゃないんだ」

青年 「それに魔力は、魔の根源に精神力だかなんだかを練り合わせたもの!」

青年 「健全な肉体じゃない今の俺に、健全な精神力が備わっているわけないだろ!」

青年 「それでも無理して頑張ったんだぞ。もっと労ってくれよ!」

才女 「はいはい。お疲れ様」

魔王 「ふぇぇ……。おつかれさまだよぉ……」

魔王 「でも、新しい敵がこっちに向かってきてるよぉ……」

青年 「知るか。俺は寝る」

才女 「今度は誰?」

魔王 「ふぇぇ……?」

魔王 「黒いレゾンをまとった勇者だよぉ……」

青年 「はぁ!? 黒いレゾン!?」

才女 「レゾンの色は使う者によって変わるはず」

才女 「同じ時代に、同色のレゾンは存在し得ない」

魔王 「ふぇぇ……。その通りだよぉ……」

青年 「あーあ」

青年 「こりゃ、また一波乱あるなぁ……」






2013年、どうもありがとうございました
SSの終わりは漠然と考えていますが、いつになるかは未定です
それまで、よければお付き合いください

どうでもいいすが、なんと!
初PCを自作しました!
昨日OSを再インストールしなければならない事態に陥り、2013年の投下は厳しいかとも思いましたが間に合って何よりです
スペックをしたり顔で書きたいところですが、もうあのような事は懲りているのでこれにて新年のあいさつにでもしましょう

2014年もこのまま変わらぬ調子で行きたいと思います



魔界のある場所




バジリスク 「クェーッ!!!」


ダチョウと鶏を混合させたような魔物が勇者の道を塞いでいた。

トサカに羽、奇妙な鳴き声。

大きさは勇者を見下ろすほど。

クチバシは尖り、眼はギョロギョロと定まらない。


勇者 「はぁっ…はぁっ」


バジリスク 「クエクェェッ!」


足を高く上げ、勇者に襲いかかる。



勇者 「ッ!!!」


ボォォッ!!


刀を抜くまでもなく、勇者の体から絶えず漏れる黒炎がバジリスクを焼いた。

一瞬、体を覆うその焔は天にみなぎり、魔界の森特有の背の高い樹木すら越すほどの大きさになっていた。


勇者 「っ……」


陽炎のようにユラユラと燃える獣王のレゾン。

バジリスクを丸焦げにするほどの火力は、勇者の体自体も蝕む。

自身の体から発しているため、皮膚は軽い熱傷程度で済んでいたが、絶えず皮膚が焼かれる痛みを堪えるなければならない。


勇者 「先に行かねぇと……ッ」


肉体の問題ではなかった。

痛覚など、所詮は肉体の悲鳴。

精神に生きる勇者にとって、表面上の痛みは苦ではない。

しかし獣王のレゾンは、超越的エネルギーであり獣王の意志でもある。

体の隙間を縫って、今にも勇者の心を壊そうと狙っていた。

宿主の弱さにつけ込んで、内側から全てを乗っ取ろうと勇者を脅かしてたのだ。



勇者 (いや……少しだけ休もう)


魔王のもとへと一刻も早く辿り着きたい気持ちと、獣王のレゾンを携えるということの危うさが対立する。

下手を打てば、彼は魔王に会うこともできずに死ぬかもしれない。

最悪なのは、獣王のレゾンに体を乗っ取られること。

標的を選ばない破壊衝動に支配されることだった。


勇者 (今は朝か夜か……)

勇者 (いい加減、この真っ黒な視界にも慣れたな)

勇者 (死に際の獣王も、こんな景色を見ていたのだろうか)


勇者 「はぁ……はぁっ」


勇者 (不思議なものだ。体はこの上ないほどに疲弊している)

勇者 (でも自然と焦りや不安はない)

勇者 (心の水面は澄み、そして凪いでいる)



勇者 (…………)


何気なく後ろを見た時、丸焦げのバジリスクが目に入った。

鳥に近い魔物というだけあってか、焦げた臭いは勇者の空腹感を誘う。


勇者 (……食うか)


人ならば決して思い至らない、魔物を食うという行為。

精神の余裕とは裏腹に、勇者の肉体はとっくに限界を迎えていた。

喫緊の原因は空腹。

レゾンによってか、耐え難いほどの空腹感が今の勇者にはあった。

それは本来、人間が感じるはずのないもの。

獣王が抱えていた底知れぬ欲望の一端が、すでに勇者を侵食し始めていた証だった。



グチャ……


皮を素手で無理やり剥ぎ、その奥の血肉に手を伸ばす。

バジリスクの死骸は、先程まで生きていたことを誇るように暖かかった。

もちろん表面は焼け焦げ、とても食べられる状態ではない。

そのため勇者は手を死骸の奥に突っ込み、心臓と思しき臓器を取り出した。

血管を引きちぎり、強く握る。

ピューッと血が心臓から抜けていった。


グチュ…グチャ……


犬歯を使い、心臓を噛み切って飲み込もうとした時。


勇者 「オエッ……」


ビチャァ……


咀嚼され、一度は喉を通ったバジリスクの心臓が、勢い良く勇者の口から飛び出した。

続いて、黄色がかってすえた臭いを放つ液体。

膝を付き、地面へ俯く勇者の眼前に、自分の吐瀉物によって小さな水たまりのようなものができていた。


勇者 「はぁ……はぁ……っ」



勇者 (体が受け付けない……)

勇者 (腹は減ったが、これじゃとても食うことはできないか)

勇者 (仕方ない。とりあえず、先へ進もう)



勇者の身体は、獣王を討ち倒した今でも極度の緊張状態にあった。

一瞬で生死が決定してしまう死闘の渦中にあるような。

睡眠はおろか、飲み食いでさえ困難。

身体は弥が上にも消耗する一方である。







バジリスクに襲われた森の中を抜け出し、幾度も他の魔物に襲われながらも勇者は魔王城へと続く大河に辿り着いた。

一度も休むことなく進み続けるその足取りに力強さはない。

例え魔物の襲撃にあっても、それに対処するのは彼の身体に取り憑いた黒色のレゾンであった。

魔族を敵としなかったのは、勇者の異様な気配を感じ、魔族側が彼を避けていたためである。

よって道を塞ぐ輩は知性の乏しい野獣ばかり。


勇者 (この大河の上流……)

勇者 (そこに魔王がいる……!)


獣王戦の際、勇者は精神統一を行った。

それはただ獣王に勝つためだけのものではなかった。

身体の震えを止めるためでも、敵を屠る躊躇を消すためでもない。

ひとえに、武の道を駆け上がるため。

誰も到達し得なかったその場所へ、足を踏み入れるためだった。

結果として、彼はそこへ見事到達した。

現実世界とは時間の流れを異にする、獣王の精神世界にさえ侵入するほど深く。



勇者 「はぁ…はぁ……」


そしてその精神統一は様々なものを犠牲にしながら、彼にある副産物を与えた。


勇者 (魔王の近くに2体……)

勇者 (何かがいる……!)


感知能力。

気配を探る力といえば、呆気無いものである。

しかし勇者のそれは常軌を逸す。

その範囲が、大陸を内包しているのだ。

西は商業の国を越え、遥か農業の国の僻地まで。

北は魔界最奥の地、常春の魔王城まで。

その範疇にある生物。

人間や魔族、魔物。

虫や植物に至るまで。

彼は全ての存在を知覚していた。



勇者 (あとどれだけ歩けば、魔王のもとに辿り着けるんだろうか?)


ただ一つ、今の勇者が持つ超広範の感知能力にも欠点があった。

目標物までの距離は測れなかったのである。

原因はいざ知らず。

人の道を逸脱した勇者を前に、考察など無用の長物。

魔王の居場所が大まかに分かるというだけで、十二分である。







魔界を二分する大河をひたすら上流にのぼる。

その間、日が沈み月が昇ったりもしたが、勇者の眼に闇と光の区別はない。

昼夜を問わず、視界は薄暗い闇。

体温ですらレゾンによって保たれていたため、地肌で気温の変化を感じ取ることもできなくなっていた。

ノロノロと歩く姿は、まるで太陽に照らされ地面に映る影法師のようであった。

とても民衆の光明である勇者の姿には見えない。

人々が今の彼を見たとすれば、死神か或いは落武者の亡霊であると取り違えていただろう。

それほどに陰鬱で、常人の姿とはかけ離れていた。


勇者 「はぁ…はぁ……っ」



大河の激流に逆らう大きな魚を目の端に置きながら。

ああ、あれが食えたらと思いつつ。

刀とレゾン、そして空腹感を旅の道連れに。

勇者は進む。


幻怪 『勇者……』


勇者 (どうした? 俺はまだまだ元気だぜ)

幻怪 『その半分死んだような面で強がるな』

勇者 (問題ないさ。お前と話すこの精神は、どこまでも雄弁だからな)

幻怪 『その雄弁な言葉を聞くことができる唯一の存在が、生者ではない私とは皮肉だな』

勇者 (まぁそんな皮肉も、たまには楽しいもんだ)



幻怪 『私は……』

幻怪 『私は永い時を彷徨っていた』

勇者 (……ああ)

幻怪 『生前に残した刀への執着心が、この世の様々な怨嗟を呼び込み肥大化していった』

幻怪 『呪われた妖刀として、人間界を転々と移動した』

幻怪 『そして……お前に出会った』

勇者 (……そうだな)

幻怪 『お前が、名も無き妖刀に成り下がった私に名を授けた』

幻怪 『私の本懐を形にした』

幻怪 『全て、過去の話だ』



勇者 (過去……か)

幻怪 『もういいだろう』

幻怪 『今ならば、この世に未練はない』

幻怪 『留まる意味も……』

勇者 (俺と一緒に旅をするってのはダメなのか?)

幻怪 『主のことを理解できない私ではない』

幻怪 『ただ、この辺りで悠久の時の流れに終止符を打とうと言ったまで』

幻怪 『お前には最後までついていく』

幻怪 『私たちは、終末を共有するのだ』

勇者 (ありがとう……幻怪)

勇者 (もう少しだけ、俺の我儘に付き合ってくれるか?)

幻怪 『勿論だ。主の意向が私の進む道』

勇者 (ああ……)


勇者 (本当に……本当に、お前と出会えて良かった──)









魔界最奥、常春の地



勇者 「ここが……魔王の城……っ」


お伽話のような春の景色の中に、そびえ立つ魔王城。

本来そこにあってはならないと直感するほど、その建築物は威圧的で、見る者を尻込みさせる。


勇者 「いざ……っ」


城の内部へ。

彼を阻むものはない


進んだ先、魔王城の最上階に強烈な存在感を放つ扉があった。



勇者 「この奥……か」


一つの扉が、その奥にいる存在と勇者を隔てる。

確かな物理的距離がそこにはあった。

しかし両者は互いを認識し、来たる遭遇の時を測る。


ドクンドクンッ……


獣王のレゾンに侵されて以来、いつまでも強く脈打つ鼓動が一層早まるのを感じた。

緊張や不安からくるものではない。

それは待ち受けているであろう強大な敵を強襲するための、最初の準備だった。


勇者 「……ッ」


扉に手をかけ、中へ進入する間の数秒が何倍にも引き伸ばされたように、勇者は感じた。

意識のみが加速し、肉体はこの上なく緩やかに動き続ける。



??? 「お」


扉の向こう。

そこにいた姿は異形の魔王……、ではなかった。





勇者 「人間……ッ!?」


背は勇者より少し小さい程度。

腰に装飾のない日本刀を携え、その装いは旅人のようだった。


勇者 「誰だ……?」


青年 「魔導の国。王立魔導士専門機関アナムネーシス、元選抜魔導士」

青年 「奇跡の年、王仕えの重圧から逃げ出した腰抜け野郎だ」


勇者 「魔導の国…王仕え……?」


青年 「あー、うん。状況が飲み込めないのはよく分かる」

青年 「とりあえず、『俺たち』はアンタの敵じゃない事さえ分かってもらえればそれでいいよ」


状況が飲み込めず、混濁とする勇者の脳裏の中に一つ気にかかることがあった。


勇者 (この場には、俺を除いて3つの気配がある)

勇者 (一人は元王仕えというこの男)

勇者 (確かコイツと共に失踪した女の魔導師がいたはず……)

勇者 (魔界の最深部まで到達できるほどの人間はそういない)

勇者 (もう一人はその女の魔導師だと考えて間違いないだろう)

勇者 (ならあと一人は……?)


勇者 「もうひとりは……魔王か」



青年 「さすがは俺たち人間の希望」

青年 「おーい、隠れてるのバレバレだってさ」


男の呼びかけに応じて、玉座の裏側から一人の少女と、更に少女より幼い童女が現れる。

少女の背負う大剣は、自らの体躯を上回るほどの巨大さ。

到底、一人の少女に扱えるとは思えない。


魔王 「ふぇぇ……」


勇者 (銀髪碧眼の魔導師が元王仕えだろう……)

勇者 (なら、童女の姿をした方が……魔王!)


勇者 「俺はここに魔王を倒しに来た」

勇者 「人間が俺の敵でない事は自明」

勇者 「だが、俺の邪魔をするなら容赦はできねぇぞ」


青年 「おいおい、お前は幼女を迷わず斬り伏せる気か?」


勇者 「舐めるな。今の俺に情はない」

勇者 「それにあれがただの童女であるわけがねぇ」

勇者 「俺には恐ろしい化け物に見えるぜ」


青年 「お前みたいな人間がまだ人間の中にいたんだな」

青年 「こんな因縁の渦中でないなら、剣士として一度戦ってみたかったよ」


勇者 「答えろ。てめぇらは魔王を庇い立てるつもりか?」

勇者 「返答によってはてめぇらも斬る」


青年 「人の心情というのは実に不安定だな」

青年 「俺には分かるぞ」

青年 「勇者君は今、非常に焦燥している」

青年 「まるで明日には死んじまうみたいに」



勇者 「答えろ」


青年 「ああ、俺達は魔王の味方だ」

青年 「今、この場においてはな」


勇者 「充分────」


眼が漆黒に沈む。

鞘から放たれた白刃は、彼の身体の延長として敵意を体現するレゾンを纏う。


青年 「ちょっ…タンマタンマっ」


制止の呼びかけも聞かずに、勇者は両断の相手として青年を見据え、肉薄した。


青年 「……ったく」


勇者 「ッ!!」


青年 (シルフっ)


『あいあいさー』



破裂音。

咄嗟に場を退いた勇者が青年を睨む。





青年 「あのタイミングで引けるって、どんだけ速いんだよ」

青年 「カウンターの一発KOが狙えるチャンスをふいにしちまったな」


勇者 (何もない空間に、突然衝撃が生まれた……)

勇者 (リミッターが獣王のレゾンでぶっ壊れていなかったら直撃してたな)


勇者 「風の魔法……か」


青年 「精霊だよ。風の精霊シルフ」


『シルフちゃんだよー!』


勇者 (風が寄り集まって、人の形に……!)


魔王 「ふぇぇ……」


青年 「さて、話し合う準備はできたか?」


勇者 「殺し合う準備は万端だ、糞野郎」



青年 「はぁ……」

青年 「仕方ないか。俺達の意見は確かに身勝手なもんだからなぁ」

青年 「大義を背負って、ここまで来たお堅い勇者君には理解してもらえっこないよなぁ」


『あ、誰かと思ったら、あの時の強かった人かぁ』


青年 「勇者を知ってるのか」


『うん。前、医者エルフと戦った男の人だよー』


青年 「だとよ」


勇者 「風の魔法……。エルフ……」

勇者 「まさか……!」


青年 「心当たりあるのか」


勇者 「俺の師匠は高度な風の魔法を操ったが……」

勇者 「その魔法は師匠と同じ……!」


??? 『おぉ! 男じゃないか!!』



『ちょっ…勝手に出てこないでよ!?』


青年 「シルフ、どうした?」


??? 『生前の旧友だ! 僕が出ない方が可笑しい!』


『ああっ……もうっ!!』


風の集合体であるシルフが、一旦形を崩し、そしてもう一度人を造形する。


勇者 「あ……あなたは……っ」



青年 「お前は医者エルフか?」


医者 『ああ、久しいな。青年、才女』

医者 『そして男……。いや、今は勇者か』


勇者 「なぜ…何故っ師匠がこんな場所に……っ」

勇者 「それにその姿……っ」


医者 『あぁー、うん。なんでこうなったんだろうね』

医者 『ほんのちょーっとだけ生き急ぎすぎたのかな?』


青年 「お前、やっぱりシルフの一部になっていたのか」

青年 「行き過ぎた好奇心が身を滅ぼすことは分かっていただろ」


医者 『僕にだって譲れないモノがあるんだよ。これはそれを妥協しなかった結果だ』

医者 『何一つ後悔はない』

医者 『それに、最期にはようやく青年と才女を出し抜く事ができた』


青年 「出し抜く? 一体なん事だ?」


医者 『教えてやらないよ。いずれ分かるだろうからな』

医者 『ただ、僕は死に際にこの世界の秘密を知った』


魔王 「ふぇぇ……」



医者 『この魔王城が人間界と魔界の第一のゴールとするならば、僕が最初の意志を持った到達者といえる』

医者 『そして青年と才女が第二位。勇者が三位だな』

医者 『僕の愚かな好奇心は僕の身を滅ぼしたけど、その半面、非常に特殊なものを多く生み出した』

医者 『シルフという存在の本質に僕は組み込まれ、そして人間界には勇者という救世主をもたらした』

医者 『どちらも、誰にも真似できない偉業だ』

医者 『分かるかい? 青年』

医者 『そこの男。勇者がどれだけ脆く、どれだけ異質かということ』


青年 「ん。まぁ確かに武人としてはかなりのものだな」


医者 『彼が刀を握り、勇者を志したのはほんの一年前だ』


青年 「一年!?」


勇者 (そうか。俺がこの運命に身を投じてから一年経ったのか)

勇者 (幻怪との付き合いも、ちょうど一年ということだな)



青年 「たった一年で剣術を覚え、最終的に魔王の系譜を受け継ぐ獣王を倒したってのか」

青年 「確かに異質だ。その武勇は腕っ節の強さだけによるものじゃないんだな」


勇者 「待て。なんでてめぇは獣王を知っている?」


青年 「倒したから」


勇者 「……ホラ吹き野郎め」


青年 「おいおい。『ティル・オイレンシュピーゲル』(ひょうきんなホラ吹き野郎)は獣王の事だぞ」

青年 「それに俺が倒したのは、お前が仕留め損なった獣王の残りかすみたいなもんだ」

青年 「覚醒した奴はレゾンを自在に扱ったが、それでもお前とやりあった時ほど強くないだろう」


医者 『あんな獣がなんだってんだよ』

医者 『大事なのは理性さ。何者にも屈しない純潔の精神だ』

医者 『勇者。今の君は敵を抹殺することしか考えられないのかい?』

医者 『何故、今日初めて会った青年や魔王にそこまでの殺意を向けられる?』

医者 『君はもう僕の手を離れた立派な勇者のはずだろう』

医者 『真理を見失うな。それは己の本懐から目を逸らすことだ』




勇者 「師匠……」

勇者 「それでも俺がやらなければならないんですっ」

勇者 「使命や定めではなく、俺の意志でここに来ました」

勇者 「俺はもうじき死ぬでしょう」

勇者 「それでも、この無意味な人生の末に、ほんの少しの希望を残したい!」

勇者 「獣王の呪いに焼かれるこの身体がその痛苦から開放された時、俺は安心して瞳を閉じたい……!」

勇者 「そのために……魔王を道連れにする!」


魔王 「ふぇぇ……。自分勝手だよぉ」

魔王 「こっちの身にもなってよぉ……」

才女 「…………」

才女 (口は災いの門。勇者の敵意がこっちに向きませんように)


青年 「聞く耳持たず……と」

青年 「ま、いいや。どうせお前はすぐ死ぬんだろ?」

青年 「一週間くらいなら付き合ってやるよ」

青年 「シルフ……というか医者。弟子でもなんでも、今は俺に協力してくれるよな?」


医者 『そりゃ勿論。君と契りを結んだのは、いわば僕の本体だ』

医者 『従わなければ消されちゃうぜ』



勇者 「四面楚歌か。敵地に一人で乗り込んだんだから当たり前だよな」

『勇者。貴様を一人にはしない』

『例え終末に向かう運命であろうと、私を握り、迷うなかれ』


医者 『妖刀は健在か』


魔王 「あの刀……ッ!」

才女 「魔王。キャラ」

魔王 「ふぇぇ……」


勇者 「これが俺の最後の戦い……!」

勇者 「獣王。てめぇの力、存分に使わせてもらうぞッ!!」


ボワァッ!!


勇者の全身を、今一度獣王の漆黒が包む。

容貌魁偉なる立ち姿に、魔王城へ向かう道中のような柔弱さはない。



青年 「さ、来いよ」


懐の刀には触りもせず、青年は無防備に勇者を迎える。

自身の表れだった。

そして背後には風の精霊の姿を借りた医者が立つ。



ズキィィッ……ッ


神経を直接引っ掻かれるような痛みが、勇者の胸部を突然襲った。


勇者 「グゥッ……ッ」

勇者 (心臓が……裂けるみたいに痛ぇ……)


胸を押さえ、やや前傾に立ち竦む勇者の膝はガクガクと震える。

勇者に握られた『幻怪』の切っ先が小刻みに震動していることからも、勇者の肉体が極限を迎えていることが簡単に見て取れた。

それでも、瞳だけは獣王を討滅したあの時の尖鋭さを失わない。


勇者 「まだだ……。俺は絶対に倒れねぇぞ……ッ!」

勇者 「魔王をこの手に掛けるまでは……ッ!!」



医者 『君の肉体を越えた精神力だけは、僕と出会った日から何も変わらないな』

医者 『だからこそ残念だ。それが君の中に眠り続けるべきだった異常性を呼び覚ましてしまった』

医者 『今の君は紛うこと無き化け物……。修羅の鬼だ』


勇者 (人間なんて獣王を倒すと決めた時に辞めた)

勇者 (自分が阿修羅になりかけていることはよくわかっています。師匠)

勇者 (それが俺の支払った、獣王を倒すための対価だ……!)






勇者がかつて師事した医者エルフ。

彼女は誰の目も届かないところで、風の精霊シルフと一体になっていた。

対立する青年と勇者。

シルフの姿を借りた医者も加わり、勇者の冒険────終局へ。







(落ちていませんように…)





『シルフ。我が手を取り、風と成れ』




青年を守護するようにゆったりと吹いていた風が、一転勢力を増して竜巻に変わる。

医者の形を模した風の像はたちまち、竜巻の中に消えてしまった。


青年 「とりあえず、一発先制────」


流れるように抜き放たれた刀を、そのまま勇者に落とすように斬りかかる。

一連の動作に力みはない。


勇者 (遅ぇ……)



獣王との死闘を生き延びた勇者。

その眼は極限状態の中で、彼にスローモーションの世界を見せていた。


勇者の僅かな動作、まるで落下する木の葉が刀を避けるように、青年の刃が空を斬る。


青年 「さすが……!」


勇者 (もらった────)



バァァンッ!


破裂音と同時。

勇者が青年から吹き飛ぶように距離を取る。


勇者 (くっ……さっきと同じ突風。師匠か)

勇者 (どうにか避けたつもりだったが、少し遅かったみてぇだな……)

勇者 (攻撃の始点が見えない以上、回避不可の攻撃なのかもしれねぇ)

勇者 (厄介な魔法だ……)


青年 「後方へ退いて、衝撃をうまく殺したのか」

青年 「お前、とっくに人間やめてるだろ」



勇者 (大気の流動が奴の武器)

勇者 (風を全て読み切ることはできない)

勇者 (ならば、攻め立てるのみ)


ダッ


青年より数段速い加速。

二人の距離を空けるも無くすも、今の彼にとっては一瞬の動作だった。


ヒュンッ ヒュンッ


風切り音が青年の皮膚のすぐ上を掠める。

勇者とは違い、青年の回避はどれも余裕がない。

いつかわし損ねるかも分からない危ういものであった。


勇者 (コイツ……。速くはねぇが、攻撃の先を読んでやがる)

勇者 (誰もいない場所に刀を振っているみてぇだ……!)



勇者 「……ッ!」


ピシィィッ

勇者の腕を伝い、黒色のレゾンが『幻怪』に流れる。

刃紋なき妖刀に一線の黒。

たったそれだけの変化で、勇者の一太刀は音を置き去りにする。


青年 「っ!!」


あらかじめ振られる刀の軌跡が分かっていても、青年の身体機能ではそれをかわす事はできない。

その点において、青年は人の領域を出ないのである。


ィィンッ──


その時、青年が辛うじて見えていたもの。

大上段にて構えられた刀、眼前に散った己の前髪、そして次の瞬間には振り終えて停止していた『幻怪』。

青年の目には、勇者の一撃が過程を失っているように見えた。

そして見えないモノはないのと同じだということを痛感した。



勇者 「ぐ……ッ」


勇者 (身体が…保たねぇ……っ)



青年 「うわっ……」


全身を駆ける気味の悪い寒気。

彼の顔から血の気が引き、見る間に青ざめていく。

その生理現象は傷害から多量の出血を防ぐためのもの。

何故それが起こったのか。


医者 『はい、青年一回死亡』


青年 「悪い、本当に助かった……っ」


勇者が攻撃を終え、レゾンの副作用に苦しむ姿を見てようやく気づいたのだ。

自分は間違いなく、あの一振りの軌道上にいたこと。

本来ならば、あそこで己の一生が幕切れていたことに。



勇者 (かわされた……っ。)

勇者 (いや、アレは師匠が奴の頭を風で移動させたんだ……)

勇者 (俺のやることはお見通しってか……ッ)



医者 『慢心か? 青年らしくもない』

青年 「あれをかわせってほうが無茶だ」

医者 『直前に出た黒色のレゾンは見えていただろ?』

青年 「まぁ、な」


勇者 (思うように身体が動かねぇ……)

勇者 (クソッ、タイムリミットか……)


生死、苦痛を超克する精神。

高次の生物へと己を昇華させるレゾン。

そして手足と同様に操る事のできる妖刀。

あらゆる不可能を越えた勇者が、未だに人のままであるモノ。

それは肉体。

この世に生を受けた瞬間、その身体は彼を『ヒト』と繋ぎ止める鎖になった。

自分自身であるはずの肉体ですら、今の勇者にとっては精神を格納する器以上の意味を持たなかった。



道を極めんとする者に、ことごとく立ちはだかる障害がある。

女エルフならば、一心同体となる剣。

少年ならば、大切な人の死。

青年や才女ならば、この狭小な世界。

偶然、勇者の場合はそれが己の肉体だったのだ。


ギロッ…


青年 「……っ」


青年は思わず息を飲んだ。

自分を敵として睥睨する勇者の眼が如何に深奥であるかに。


医者 『あまり奴の目を見るな』

医者 『目は心の鏡という』

医者 『奴の精神は、常人では到底辿りつけない果てにある』

医者 『いわば狂気。とくに好奇心に歯止めの効かない君にとってはな』



勇者 「────!!」


青年 (なんて深く、そして純粋なんだ……)

青年 (あの眼は一体何を思っているんだろうか)

青年 (……知りたい)

青年 (勇者の全てを……知りたい!)


医者の忠告もどこ吹く風。

青年は勇者に対する敵意を失い、そして体全体を即座に駆け巡る好奇心を感じた。


激しい攻防がピタリと止み、寸秒。

両者、微動だにせず。



魔王 「青年の強きは、肉体にあらず」

魔王 「人だからこそ成せる精神の技術だ」

才女 「インテリ魔王風?」

魔王 「私が幼少期の彼をここへ招き、培ったものは極大の心の器を形成する力」

魔王 「そして今、先人のあらゆる粋をより集めた、本来ならば失われるはずだった術が完成した」

魔王 「世界を統べる一人である私ですら、形にできなかったモノだ」

魔王 「それを彼は、『失われた叡智』と呼んだ」

魔王 「分かるか?」

魔王 「時を遡り、幾千年。君たちを育むこの文明が生まれた」

魔王 「この世に存在した全ての文明は滅ぶ度に多くの優れた技術を失ってきた」

魔王 「それらの結晶が彼なのだ」

魔王 「数多の武人や研究者、求道者が道半ばに辿りつけず」

魔王 「それでも彼らの恐るべき執念が、巡り巡って青年の元に失われた技術を運んだ」


魔王 「初めてだよ、この私が達成感を感じてるのは」

魔王 「一つの作品を完成させた事によって、身体を満たしていく充足感……」

魔王 「人はこれを求めて生きているのかもしれない」

魔王 「何かを育てるという事の冗長さはもう御免だがね」

才女 「私たちはまだ何も完成してはいない」

才女 「あなたが青年を一つの作品として見ているのならば、気をつけなければならない」

才女 「画竜点睛を欠く」

才女 「その作品に眼を書き入れたその時、彼は天に羽ばたき、世界に牙を剥く」

才女 「飼い犬に手を噛まれるという事は珍しくない」

魔王 「そこまで来ることができればいいのだがな……」




激戦続く、魔王城。

戦いの様相は前人未到の領域へ────





 





青年 「上下の睫毛が開いた世界……」

青年 「そこは、風の精霊が住まう地だった」


『何言ってんの?』


青年 「いや、目を閉じた一瞬で、自分が知らない場所に移動してたからさ」

青年 「少し旅人感を出そうと思って、ナレーション」


『温厚なボクでも、ブチ切れ寸前だよ』

『勇者の目を見るなって言ったじゃん』

『ここ、どこか分かる?』


青年 「あれだろ、シルフと初めて会ったエルフの秘境……風の丘だっけ?」


『残念、正解は勇者の精神世界でした』

『はい、今度こそ青年死亡。精神的に死亡確定だね』


青年 「あらま! 彼の土俵に引き込まれちゃったてことか」

青年 「やっちゃったな……」



『本当にやっちゃったね』

『勇者に剣士のいろはを叩き込んだのはボクだけど、何より重点的に鍛えたのは精神の方だ』

『いつの間にか自分の世界に、戦っている相手を引き込めるまでになっていたとは、予想外だけど』

『それでも青年、君の行為は軽率そのものだぞ!』

『今、君がエルフの秘境にいるのは、そこが君の心の原風景であるから』

『そして、勇者が心に描いた原風景が、あれだ』


中空に浮く医者が指で示したその先には、鬼哭啾啾の戦場跡。

以前、勇者が一本だたらを斬り伏せて、そして『幻怪』と心を通じさせた場所だった。


青年 「ちょうど、あの戦場跡と風の丘で、この世界を半分に分けているのか」

青年 「あっちが勇者の領域で、こっちが俺の領域。面白いね」


『徐々に侵食されていっている事には気づいているよな』


青年 「うん、境目がゴリゴリこっちに迫って来てるもん」

青年 「俺が向こうの領域に踏み込んだらどうなるかな?」


『またお得意の好奇心か? 試せよ。漏れ無く精神崩壊をプレゼントだ』

『身体なんて精神を格納する器でしかない』

『でも、器がなければ壊れてしまうほど脆いのもまた精神だ』



青年 「まいったね、こりゃ」

青年 「ここから俺が盛り返すのってほぼ不可能」

青年 「勇者の野郎、獣王のレゾン以上にとんでもないモノを身体の中に隠していたな」

青年 「自分の世界に相手を引きずり込むってズルすぎるだろ。ただ目を見ただけだぞ!?」


『概ねその通りだけど、一つだけ違う』

『ここは勇者の世界だが、勇者自身の中というわけじゃない』

『正確にいえば、アイツが自分の刀の中に創り出した空間だ』


青年 「自分の武器とも以心伝心かぁ。羨ましいばかりだね」

青年 「あーあ、誰か助けてくれないかなぁ」


『君の他力本願な姿は一見の価値ありだな』

『情けなくて、もはや滑稽だ』


青年 「いや、でも実際、俺も奴もこっちに精神があるってことは、肉体の方は静止状態だろ」

青年 「俺だって指先一つ動かせないんだから、その状態の勇者を殺すことなんて赤子の手を捻るより簡単だ」

青年 「外界には魔王と才女がいるし、俺の異変を感じ取ってくれれば、もしかしたらもしかするかも知れないだろ」


『もしかしたら、に、かも知れない、か』

『君は自信家を通り越して、自己陶酔のナルシシストなのだとばかり思っていた』



青年 「この劣勢を打開する方法なんて限られてるんだ」

青年 「手段は選んでいられない……って、そうだ」

青年 「医者さ、お前精霊だし、勇者を攻撃とかできないの?」


『無理だね。シルフの力を半ば分捕っているのも、ボクの強力な精神だ』

『今はその大部分が、君と一緒に勇者の世界へ引きずり込まれていしまっている』

『君同様、ボクもまた指先一つ動かせない状況さ』


青年 「一対一の勝負だからなぁ、才女の助太刀は望めない」

青年 「結局、自力で抜け出す他はないのか……」

青年 「あ、蝶々が飛んでる……」

青年 「俺、生まれ変わったら鳥か蝶になりたい」

青年 「そういえば、この前変な夢を見たんだよ」


『現実逃避するな。本当に死ぬぞ』




青年 「あれは、天気の良いある日の昼下がりだった……









数億年の昔、この世にとある種族がいた。

彼らは優れた文化水準を有しながらも、交わす言葉を持たなかった。

発達した感覚器官は、互いのあらゆる機微を感じ取り、それだけで既に意思疎通が成り立っていたからだ。

種族が僅かに少数であり、そして争いを極度に忌避した故、彼らがついに繁栄することはなかった。

しかし彼らの技術は生物進化の鍵になるはずだ。

彼らの技術を継承できる存在が現れることを願って、ここに彼らの全てを記す




「俺の読心のルーツはこんな所にあったのか……」

「ふわぁぁ、眠い……」







眠りに落ちた俺が、もう一度まぶたを開けた時、そこは魔王城の上空だった。

童話みたいな春の景色の中で、本を顔に乗せて熟睡してる自分がずっと下の方に見えた。

風が吹けば簡単に流されてしまうこの体は、きっと胡蝶だ。

俺は夢を見ていたのだろう。

胡蝶になって空を飛ぶ夢、人間になって世界を旅する夢。

どちらが現実でどちらが夢なんだろうか。

夢を見ている男か、夢を見ている昆虫。

考えてみれば大差はない。

世界なんて、それくらい儚いものさ。









青年 「はい、そうして俺は目を覚ましたわけです」


『あのさ青年。今日君ふざけすぎじゃないか!?』

『蝶の夢を見たからなんだよ! ボクだって生前は幾度となく精霊になる夢を見てたよ!』


青年 「落っこちてくんだよ、蝶。身体の自由が効かなくなって」

青年 「それで、ポトッと寝てる俺の近くに墜落して死んじゃった」

青年 「多分、魔王城の近くには動物が寄り付かないことと関係あるな」

青年 「ここ、魔の根源の噴出口にあたるんだと思う」

青年 「だから迷い込んだ蝶はすぐに死んじゃったんだよ」


『蝶の死因が分かったところ申し訳ないけど、君と勇者との境界が間近に迫ってることには気づいているかい?』

『君が死んだら、ボクの精神体までお陀仏だ』

『そうしたら、ボクの全てはシルフに吸収されるだろう』

『そろそろ焦ってくれよ』


青年 「分かってる。もう作戦は練ってあるから心配するなって」

青年 「精神は器を失うと壊れてしまう」

青年 「考えてみれば、俺はそれを克服した者を幾つか知ってる」

青年 「一人はお前。エルフから風の精霊シルフへと昇華した医者だ」


『ボクの場合はかなり特殊な方法だけどね』



青年 「だろうな。精霊との契約は依代を必要とする物理的なもの」

青年 「精神をどうの、という話じゃない」

青年 「次に黒魔術を使う魔女」


『彼女か、知ってるよ。君と才女が随分気にかけていたな』

『あと、少年だっけ。彼は勇者と我が友、女エルフの仲間だ』

『不思議なモノだね。勇者の仲間は皆、僕や君と関わりのある奴らじゃないか』


青年 「ああ、類は友を呼ぶという事かな」

青年 「魔女は己の肉体と精神を犠牲にする黒魔術の、いわば副作用によってグリモワールという魔本に宿っている」

青年 「精霊にエルフ一人分の精神を取り込む容量があったことは当然だろう」

青年 「でも、元はただの本であるグリモワールを精神を格納する器にするってのは違和感を感じないか」


『確かに。物体全てに霊魂が宿るというアニミズムが現実に無い限り、そんな事はあり得ない』


青年 「魔女の本懐はグリモワールの完成だったという」

青年 「彼女の生涯は、全て黒魔術とその集大成、グリモワールに費やされたと言って大仰じゃない」

青年 「もはや、その本は彼女の一部だったんじゃないだろうか」

青年 「肉体は、飽くまで精神を格納する器」

青年 「なら、意図的にその器の範囲を書き換える事はできないか?」

青年 「魔女のグリモワールも、勇者の刀も、どちらも肉体の延長という解釈なんだろう」


『ここは勇者の頭の中というわけか』

『やっぱり勝ち目は皆無だね。ドンマイ』



青年 「そうだ。やがてこの世界での俺は、器を失い崩壊する」

青年 「でも俺が、魔王城の上空にやってきた胡蝶に意識を飛ばしたあの時のように、」

青年 「再度、自分の肉体に精神を飛ばせたらどうだ?」

青年 「精神に距離という概念はない」

青年 「行雲流水の境地に至れれば、あとは何もしなくても勝手に俺は自分に身体に帰れるはずだ」

青年 「俺の精神が本来あるべき場所はそこなんだからな」


『正直、机上の空論という気はするが……』

『いや、自信満々な君らしさがようやく戻ってきたと言ったほうがいいのか』


青年 「向こうに戻って、勇者とケリをつけて来る」

青年 「それまで、お前は奴に飲まれないように頑張ってくれ」


『本当に出来るんだろうな?』


青年 「任せておけって」

青年 「んじゃ、行ってくる」


青年はゆっくりと瞳を閉じた。

エルフの秘境と、死地の草原が拮抗する世界はまぶたによって暗闇へと変わる。









「行雲流水……。明鏡止水……」

「邪念よ、さらば────」


広大して無辺なる脳裏の水面に、一切の波紋を許さぬほどの境地。

精神統一の果てへと至る道のり、青年はかつて無いほどの苦戦を強いられた。







「才女の健康的な脚……。控えめな胸……」

「考えるな、俺。煩悩を捨てるんだ……」


欲を禁じ損ねると人は深みに嵌ってしまう。

底なし沼のような悪循環の中で、必至に青年は足掻いた。


「肩甲骨……。鎖骨……。喉仏……」

「いやいや、だから考えるなって……」




色恋にさほど好奇心の向かなかった青年は、長い間、女性との縁を持たなかった。

それ故、ほぼ成人した今でさえ、親しい異性といえば才女以外に思いつかないのである。

共に歩んだ年月は長く、二人は互いを信頼して止まない。

しかし、青年は未だに多感な年頃の最中であった。

意識の底には、異性に対する性的な興味があったことは言を俟たない。


「膝頭、脇の下……。碧眼、銀髪……」










『大丈夫?』

『だいぶ時間が立ったけど……』


当然、青年に反応はない。

直立のまま動かない人間は、それだけで些か不気味であるが、青年の場合は呼吸一つないほどの不動ぶりであった。


『あーあ、かなり難航してそうだな……』

『即身成仏してるんじゃないかってぐらい、青年は悟ってると思ったんだけどなぁ』

『どんな感情が、彼の中に渦巻いているんだろうか。結構気になる……』









「薬指、うなじ────」




心の波紋に波風を立てる若き情動。

誰もが一度は通る性差という鬼門。

青年は如何にして乗り越えるのか……!












右に行けば心神喪失、左に傾けば色情狂。

精神の安定を保つことは至難といえる危うき闇の狭間で、青年は一条の光を見つけ出した。


 「……これが、答えか」


まぶたに閉ざされた暗闇は、巨大な地底湖だった。

そこに取り残された精神だけの己は儚く、逃げ出せない閉塞感があるはずもない鼓動を早める。


「それだけを、俺は欲しい────」


青年は、笑った。








青年 「もう一度目を開けたら、そこは人の世界……っと」

青年 「俺、日々に新たなり!」


才女 「あ、何か言っている」

魔王 「ふぇぇ、お帰りだよぉ……」


青年 「すぅーっ」

青年 「はぁーっ」

青年 「何年も別離していた親友と再開したような心持ちだな……」

青年 「馴染むぜ、体!」


才女 「青年、勝負の最中」


青年 「そうだったな。ところで、俺が静止して、医者が消えてから何分くらい経った?」

才女 「十秒も経っていない」

青年 「へぇ、やっぱりあっちの世界の時間は独立しているのか」

青年 「凄い発見だ!」

才女 「何のこと?」

青年 「さてな、何のことだと思う?」

青年 「ま、後で教えてやるよ。なにせ今は勝負の最中だからな」







青年は落ち着いた足取りで、不動の勇者へと近づく。

歩きながら 刀を鞘に収め、そして眼を閉じた状態の勇者と相対する。


青年 「お前はさ、多分途轍もない覚悟を決めてここに来たんだろう?」

青年 「決死とはまた違った、……こう、高度な理性があるからこそ為し得るような犠牲を払って」

青年 「聞こえているか分からないけど、俺は勇者を尊敬するよ」

青年 「きっと一生かけて研鑽を積んでも、普通に生きてちゃお前みたいにはなれない」

青年 「お前の強さは時間じゃないって、戦ってみて分かった」

青年 「お前がその刀と出会ってから今まで過ごした時間は、途方もなく濃い」

青年 「人生を何時終えてもいいみたいな思いだったんじゃないのか?」

青年 「楽しかったか? 悔いはあるか? 死への恐怖は?」

青年 「やり残したことはどうだ? 恋人はいるのか? あの世はあると思うか?」

青年 「その妖刀はどこで手に入れたんだ? 名前はあるか?」

青年 「後天的にレゾンを得た感想は? 獣王を斬り伏せた時、どんな気分だった?

青年 「新たな力を手に入れて高揚したか? それとも恐れたか?」

青年 「もし死んじまうのならさ、最期に俺の質問に全部答えてくれよ」


青年 「俺は、知りたくて堪らないんだ────」


無垢とも狂気とも取れる透徹した色が、青年の瞳に浮かぶ。









穴の開いた兜や鋸のような刀剣があちこちに転がる草原。

対になるように、風の精霊が鎮座する丘と空の世界。

境界線を押し合うように拮抗していた二つの空間、その勢力図は既に大きく傾いていた。

血の斑点を持った草原が、四方八方から風の精霊を追い詰めている。



『おい、待つんだ勇者!』

『もう青年は居ないぞ!? ここには僕しか残ってないんだ!』

『お前を勇者にしてやったのは、この僕だぞー!』

『僕に師事していた頃の素直な君はどこへ行った!?』

『恩を仇で返すきか!?こんにゃろーっ!』





「相変わらずですね、師匠」








『いきなり出てくるなよ! 心臓に悪い……』

『って僕、心臓ないんだった……』

『はっはっはっ』


勇者 「本当に相も変わらず、何よりです」

勇者 「俺と別れた後に、亡くなられたみたいですけど……」


『死んだわけじゃない。大いなる転身さ』

『エルフから精霊へ。これはある意味での進化だ』

『見方を変えれば、肉体はただの枷でしか無い』

『知性体がどこまでも発展して行けば、やがて肉体を捨てて、僕のような姿になるだろうね』



勇者 「俺は……人でいたかったです」

勇者 「いつか、戦いとは無縁の生活をしたいと、ずっと思ってきました」

勇者 「いえ、今でもそうですね」

勇者 「誰かを殺したり、殺されたり……。そういうのとはかけ離れた世界へ行きたいです」

勇者 「どんなことがあっても、俺は人を辞めたくなかった」

勇者 「修羅の道には堕ちたくない……」

勇者 「師匠は、エルフである事への誇りは捨てたんですか?」


『僕はもとから、自分がエルフであることに疑問を感じていたからね』

『身体が風に変わっていく最後の瞬間まで、エルフとして死ぬことに後腐れはなかった』

『ただ……』

『唯一の友の事だけは、どうしても気になったな』

『君にもいるだろう。そいつのためなら命だって懸けられる仲間が』


勇者 「ええ、勇者になったからこそ繋がれた人達です」


『そうか。君もようやく見つけられたのか』

『僕はアイツのためなら死ねるよ。きっとアイツも、僕のためなら迷わず命を投げ出すだろう』

『そういう関係だ。どうせアイツは悲しみはしないだろうが、もしかしたら一瞬、僕を憐れんじまうじゃないかと不安になった』

『笑っていてもらいたいんだよ。身勝手だろ?』



勇者 「確かに身勝手ですね。悲しんでほしくないなら、そばで守ってあげるべきだ」

勇者 「って……何言ってるんでしょうね俺」

勇者 「分かっているのに、俺は一人で背負い込み、ここで死ぬつもりだ」

勇者 「本当に、馬鹿だ」


『悲観するなよ、僕の弟子』

『僕の唯一の友は、女エルフのことだ』


勇者 「やはりそうでしたか」

勇者 「俺が守りたいのも、彼女です」

勇者 「正直、惚れてます」

勇者 「あれほど強く、気高く、美しい女性は見たことがありません」



『うん。全部見通しているさ。なにせ精霊だからな』

『そしてそんな勇者に朗報だ』

『女エルフもお前に好意を持っている』


勇者 「え!? そんなまさか……っ」


『まぁ、君はそういうのに鈍感な奴だと思っていたよ』

『獣王に一度敗れた後、なんだか知らないがお前、女エルフを口説いていただろ』

『髪が綺麗とか、気の波長が心安らぐとか言って』

『その時、アイツの顔が真っ赤になっていて面白かったぞ』

『あんまりに赤くなるものだから、僕が風を吹かせて冷ましてやったんだ』

『エルフとして、生まれてから戦いに明け暮れていた女だからな』

『異性との接し方が分からないうぶなんだ。それに君、人間だし』


勇者 「いや、まさかそんな……」

勇者 「でも、本当だったら嬉しいです……っ」

勇者 「本当、たまらなく……嬉しいですっ」



『君なら彼女を任せていいと思っていた』

『だからこそ、青年に刃を向けた時には心底失望したよ』

『特に、君が獣王のレゾンを得て、力に溺れているのだとしたらね』

『青年と才女は魔導師としても、剣士としても超一流だが、彼らの凄さはその混じりっけなく強靭な心だ』

『それは二人が精霊と深く繋がっていることからも伺える』

『正直、今の君でも勝てるか怪しい相手さ』


勇者 「はい、そんな気はしていました」

勇者 「彼らには、筆舌に尽くし難い可能性が垣間見えます」

勇者 「俺では到底太刀打ち出来ないような、凄みという奴でしょうか」

勇者 「女エルフや少年からも、二人の話は聞いていましたしね」

勇者 「知らぬことがないほど碩学な二人だと、女エルフが評価していましたよ」

勇者 「でも……俺は勝ちます」

勇者 「それが、少年と女エルフに唯一残せる置き土産なんです」

勇者 「ここで魔王を討てば、俺が望む平安がきっと二人を幸せにしてくれる……」








『はぁ……。本当にそう思っているのか?』


勇者 「え……」


『君は僕と同じ轍を踏むところだったというわけだ』

『ここへ来て、君と会っておいて正解だったよ』

『耳の穴かっぽじってよく聞けよ』




『これが最後の説教だ、馬鹿弟子』











『女エルフを任せたぞ、勇者───』




仏像の如く、微動だにしなかった勇者のまぶたが開く。

全身を迸る獣王のレゾンは鳴りを潜め、瞳には勇者本来の冷静さが戻っていた。


勇者 「……精神での攻防は、ただ一つ、俺が獣王に勝っていた技術です」

勇者 「だから俺は、それに絶対の自信を持っていました」

勇者 「でも、あなたには破られてしまいましたね」


青年 「お前……。レゾンをコントロールできるのか?」



勇者 「精神の御業でしょうね。俺自信、信じられません」

勇者 「師にキツイ説教を食らって、目が覚めました」


今までの勇者はどこか焦燥していた。

自分の生涯の終わりが間近に迫っていたから。

獣王のレゾンが身体を不自由にさせていたから。

魔王を目の前にしていたから。

理由は単一でない。

いずれにしろ、張り詰められた心が勇者の身体を強張らせ、剣士独特の立ち回りの柔軟性を殺していた事に違いはなかった。


勇者 「レゾンだなんてくだらない」

勇者 「こんなモノに頼ってしまうから、きっと俺は暗愚で蒙昧だったんでしょう」

勇者 「最後です。一人の剣士として、あなたに勝負を挑みます」


呼吸は穏やか。

脱力した姿には、付け入る隙がなかった。


青年 「ああ。正々堂々、受けて立つぜ」



青年 (これは……厄介な展開になったな)

青年 (相手が化け物なら、正攻法以外にも山ほどやり方はある)

青年 (だが、一人の剣士として勝負を挑まれたら、これほどやり辛いことはないぞ)


勇者 (レゾンを扱えても、俺の身体はじきに動けなくなるだろう……)

勇者 (正真正銘、最後の攻撃だ……!)



勇者 「命までは取りません」


青年 「こっちのセリフだ」



青年と勇者を断ち割る空間に、目には見えない強大な力が働いているようだった。

魔にまつわるものでなく、人の意志の強さを基にする力。

ビリビリと肌を刺すような緊張感が、魔王城を満たす。

"次はない"

双方の覚悟が現れていた。







勇者 「ふぅぅ……」


妖刀を下段、床に這わせる、『地の構え』



それを迎え撃つ……。


青年 「ハァァァ……」


白刃を大上段に据える、『天の構え』




青年 (今の俺の、全力……!)

勇者 (獣王、お前の力を借りる……)





青年 (失われた叡智。『一閃』)

勇者 (武の到達点。『神速ノ剣』)







『弾指』より更に速く。


『刹那』の時をも置き去り。


『六徳』の境地でさえ捉えられない。


『虚空』で足りるか。


いや、それは……




魔王 「『清浄』の相対───!」









二人の立ち位置が入れ替わっていた。

青年の背後に勇者。

勇者の背後に青年。




キィィィィィィィィン……




振り終えた両者の刀は、一撃の短さとは裏腹に、長く、長く、鳴いた───









才女 「……決着?」


大剣を背負う少女の目の前で起きた空前絶後の剣戟の衝突。

互いが未踏、互いが孤高の領域。

一瞬を無数に切り分けた内の一つに、二人の世界があった。


魔王 「人はついに……」


キィィィィィィィィィィ────


対決の終わりを告げる号砲のように、両者の刀は叫ぶことをやめない。









ィィィィィィィィィィィィィィ────






ィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィ────







そして、



ピキッ……


青年の刀に分け入った亀裂は瞬く間に枝分かれし、刀身を侵食していく。


青年 「くそ……」


あっけなく打ち壊れる白刃が地面に落下していく様を、彼はぼんやりと見つめることしか出来なかった。


今までの旅路を共にした刀。

自我として存在していた魔王の魂の九分の一はもう主の下へ戻った。

青年を魔王城へと先導する役目は終えた。

その刀は既に抜け殻だった。



青年 「これで終わり……?」

青年 「魔導の国に伝わるいくつもの身体操法に、古代の魔法」

青年 「シルフの力も借りた……」

青年 「勇者と戦ったのも、満身創痍の相手に勝機を見出したからだ」

青年 「情けない、こんな有り様で満足できるかよ……」

青年 「俺は俺の限界も知りてぇんだよ────」


粉々になった刀の破片は、一部が土となり、一部が水となり、そして風に変質していった。

青年の手から離れる鞘は忽ち粒子として、彼を中心に円を形成する。

円の内外に描かれた物は、3つ巴の人頭獅子身。

それは魔王城に訪れた時に、魔王が用いたものと酷似していた。


魔王 「略式の人頭獅子身……。表すものは本能と理性」

魔王 「青年、いつの間に……」


青年 「思い出したんだ。3つの獣は世界の縮図」

青年 「人と魔と、そして精霊」

青年 「ようやく人は2匹の獣と対等になれた」

青年 「本能と理性。魔と精霊」

青年 「来いよ、今度は俺自身が依代だ」

青年 「シルフ……。この手を奪い、風と成せ」



『君は、僕と同じ過ちを犯すのか?』

『これは契約ではなく、命を天壌に献上する一方的なものだぞ』

『君が今までに使ってきた、都合がいい便利な魔法とは別だ』


青年 「……日々に新たなり」


青年は誰にともなくつぶやいた。


『好奇の化け物め、勝手にしろ』


蒼天が青年の手に一筋の痕を残していく。

その意味合いは、青年の刀や才女の刀剣に刻まれた精霊の文様と等しい。

「それが形を失った時、全てを精霊に差し出す」契約。

「魂の一部を精霊に差し出す」契約。

青年の肉体と精神は、もう彼だけのものではなくなった。


『確かに受け取ったよ。大いなる愚者の魂の切れ端を』



青年 「『失われた叡智・昏冥の杣』」


ゴオオオオォォォォォォォォ……


広間の塵芥を巻き込み、青年に向かって大気が流動する。

勇ましき武人の姿とは程遠い、神怪の風格。

魔の根源と己の精神力によって練られた魔力が、精霊の力を媒介して、青年の内に眠る天与の才の、その片鱗を暴きはじめていた。


青年 「勇者、お前こそが武の最上だ」

青年 「だから、俺は魔導師としてお前の上を行く」


一歩。

倒れこむように踏み出したその一歩は、颶風(ぐふう)。

自然界に出現する事はない、創られた新たな風。

肉体の質量を無視するように、青年は軽々と勇者に接近する。


青年 「コイツ……」


微動だにしない勇者の顔を青年は訝しんでのぞき込んだ。

そして、驚く。

その表情は、この場で最も不適当なものだった

憤怒ではなく、冷徹でもない。

安らか、そう表す他ないほど安楽的な表情に、青年は攻撃を躊躇する。


青年 「まさか、寝てるのか……?」

青年 「あれだけの一撃を繰り出した後のこの寸暇で……?」



魔王 「ふぇぇ、もう終わりにしようよぉ……」

魔王 「もう戦わなくていいよぉ」


才女 「青年、終わり」

才女 「あなたの負け」


青年が放つ烈風に、魔王城の内部は滅茶苦茶な状態になりつつあった。

その空間でさえ、才女と魔王は何事も無いかのように平静を保つ。

内に秘めた潜在能力は青年に劣らない才女と、神仙たる魔王。

この二人より、青年と勇者の闘争を仲裁するのに適した人材がいるだろうか。


青年 「え……。まぁ、そうか」

青年 「剣士の生命線を壊されておいて、勝負も糞もないよなぁ」


才女 「勇者の持つ妖刀は自我を持つ」

才女 「それは、私たちのモノとは違って自然に形成されたもの」

才女 「人々の執念や怨念……色々なものが混ざり合って成立している、非常に稀有なテストケース」

才女 「動物の肉体と精神が、それぞれ独立して存在していることを学術的に証明できる日が来るかもしれない」

才女 「その日まで、妖刀として機能していてもらいたい」

才女 「と、魔王が言っていた」


魔王 「ふぇぇ。その通りだよぉ」



青年 「勝敗に関係なく、勇者の妖刀に危害が及ぶなら仲裁に入るつもりだったのか」

青年 「確かに、今の俺ならあっさり壊せるかも知れない」

青年 「あー、畜生。すごい悔しい」

青年 「生まれてから初めて勝負事に負けたかもしれん」

青年 「そうだ!」


青年 「腹立つから、胸触ってやろっと────」


ビュンッ!!


風の妖精シルフの力と風の魔法が融合した技を、さらに古代の魔法を用い高次元で制御している今の青年。

現在の彼は、レゾンを扱える者と同等かそれ以上の機動力を有していた。

よって今の状態ならば不意を突いて才女に必要以上に近づくことも、控えめなその右乳を服の上から按摩と称し、揉みしだくことさえ容易かった。


青年 「柔らかっ」

才女 「ッッ!?」


咄嗟の突きが、常人ならば目で追うことも出来ないほどの速度で青年に迫る。

才女の反射スピードは凄まじい。

動揺すれども、拳は的確に顎を打ち抜かんとしていた。

しかし、今の彼はすごいのだ。



ビュンッ!


青年 「危なっ。そんな突き、まともに食らったら気絶するわ!」

青年 「よーし、抵抗されると俄然やる気が出てくるぜ!」

青年 「勇者に負けた腹いせだ。今まで溜まりに溜まった欲望を発散させてもらおうか!」


青年の意気込みとは対照的に、無情のタイムリミットは訪れる。

彼を加護する風が止んだ。


青年 「あれっ……」


『もう君は限界だ。僕の判断で契約を一旦切らせてもらった』

『よく覚えておけ。精霊とはこの世界と同義』

『一人の人間が、その力を都合よく使役できるわけはないんだ』

『空になった魔力を貪られて、寿命を削られ、あっという間に君の精霊の仲間入りになるところだったんだぞ』

『僕に感謝しろ、この知りたがりのバカ野郎!』



風の精霊の一部である医者エルフの叱責が終わった時には、青年は強烈な虚脱感に襲われて床に膝を屈していた。

簡潔に言って魔力切れ。

特に魔の根源と、念じる力、つまり精神力の関係を理解する彼は膨大な魔力を扱える半面、精神力の消耗も甚だしかった。

『ティル・オイレンシュピーゲル』と勇者との連戦が、青年に与える疲労は彼が自覚する以上に多大だった。


青年 「うわ、すごい倦怠感」

青年 「立っていられねぇ……」


迫る復讐の影に、彼は抗えない。

つかつかと、青年に近寄り、才女は背負っていた大剣のベルトを緩めていく。


青年 「あー、うん。ごめんね、ちょっとやり過ぎた」

青年 「謝るから許して」


地に這う彼は愚者。

愚かだから痛い目を見るのだ。


才女 「安心して」

才女 「これは祭礼用の刀剣。刃は付けられていない」


青年 「えっ……


才女の背丈ほどある刀身が、青年の視界を覆った────






投下が遅れてごめんなさい

やる気はあります
エタらせる気はありません

明日から5日の自転車旅行です







ヒャッハー

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