有栖川夏葉「選ばれて、ここに」 (16)
レッスンルームから一歩外に出ると、じめじめとした空気が私を襲う。レッスン後のため、汗だくであることも相まって肌にまとわりつくような不快感はいつにも増して、その猛威を振るっていた。
「ったく。どうにかなんねーのか、この暑さ」
私に続いてレッスンルームから出てきた、金色のショートカットの少女、西城樹里も同じくこの空気に嫌気がさしたようで、悪態をつく。
「もう。言ってもどうにもならないでしょう」
「それはそうだけどよー。暑いもんは暑いんだから仕方ないだろ」
はー、と深く深くため息を吐いたあとで「もう、夏が来るんだな」と言った。
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シャワールームで汗を流し終え、髪を乾かしていると、既に完全に着替えを済ませた樹里がやってきて、隣に腰掛ける。
「夏葉は髪長いから大変そうだよな」
「樹里は楽そうね」
「んー。あ、夏葉も食うか?」
差し出されたものを見やる。
アミノ酸のタブレットのようだった。
バスケットボールの経験があるらしい彼女は、流石とも言うべき程に、運動後のケアもしっかりとしている。
手渡されたそれを謝辞を述べつつ受け取り、口へと放り込んだ。
「そういえばさ、昨日のレッスンは果穂と一緒だったんだけど」
「ええ」
「たまたまアイドルになったばっかのときの話になってさ、そんで、ほら、あるだろ、あの果穂の」
「果穂の?」
「その、ほら。夏葉はすげー、みたいな話になってさ」
「ふふ、想像つくわね。それで? 私の何がすごいって話だったのかしら」
「だろ? んー、アタシも果穂も……あとは凛世もスカウトされてアイドルになったわけだろ?」
「そうね。後は智代子も、オーディションではあるけれど、担当のプロデューサーに選ばれたからだったかしら」
「じゃあ大きい括りではチョコもか」
「話が読めないわね」
「いや、どうでもいい話なんだけど、夏葉だけ自分の力で全部勝ち取ってんだよな、みたいなそういうことを果穂が言ってて、確かにな、って思ったんだよ」
「なるほどね。でも、それを言うなら、みんなの方がすごいと思うわよ。私は街で偶然アイドルにスカウトしてなんてもらえていないんだから」
「そう。夏葉ならそう言うぜ、って果穂にも言ったよ」
「それで、果穂は?」
「『でもでも、夏葉さんはすごいです!』だってよ」
「ふふ、果穂らしいわね」
ぱちん、とドライヤーの電源を落とし、熱気を振り払うようにして立ち上がる。
「樹里は午後からは収録だったわよね」
「ああ。それさえ終われば今日は上がりだから、今日の夏葉に比べたら余裕だな」
「あら。だったら収録後にレッスンを入れてもらうように掛け合ってあげてもいいわよ?」
「だー、もう! 明日は朝イチでアタシら現場入りだろ!」
「ふふ、冗談よ。それじゃあ、明日また」
「おー。頑張れよー」
更衣室のロッカーから荷物を引き抜いて、トレーニングウェアとタオルを詰め、肩にかける。
じゃあなー、と手を振る樹里に手を振り返し、午後からの現場へと向かうべくレッスンスタジオを後にした。
「夏葉さんはすごいです、……か」
燦々と降り注ぐ陽射しのなか、ぽつりと呟く。
果穂も樹里もおそらく本心でそう言ってくれていることは理解できている。
しかし、先程の褒め言葉を、どうしてか素直に受け取れずにいる私がいた。
私の所属しているユニットのメンバーである、果穂や樹里や凛世は、それぞれのプロデューサーと偶然の出会いからアイドルの道に進むことになったと聞いている。
初めからアイドルになるべく書類を用意し、選考を通過してアイドルとなった私と比して、経緯が大きく異なることを「すごい」と表現されるとは思っていなかった。
さらに付け加えて言えば、私を除く残る一人である智代子でさえも、選考を通過したことは共通しているが、厳密に言えば、違う。
なぜならば彼女は、選考を通過した後で、担当のプロデューサーと事務所で出会い、その際の会話がきっかけで担当されることが決まったという。
一方で私は、最初から担当するプロデューサーも所属するユニットも決まっていたようなのだ。
自分だけ経緯が異なることは当然、随分と前に知っていた。
ただ、その事実を他人の口から聞いた上に、「すごい」と言われてしまったことが、理由はわからないがこたえているらしかった。
しかし、いつまでもくだらないことを引き摺ってしまっていてはプロ失格だ。そう自分に言い聞かせる。
問題などない。
大丈夫、大丈夫、と胸の内で繰り返したのちに、タクシーを捕まえ、次のお仕事へと向かった。
そうして迎えた午後の現場だったが、正直なところ、あまり良い出来とはいなかった。
いつもであれば、反省点として捉えられる事柄も、今日は午前中のことがあったからか、単純に失敗に感じてしまう。
良くないループに陥ってしまっている。
明日はユニットでのお仕事があると言うのに、これでは迷惑をかけてしまう。
早く帰って、トレーニングでもして切り替えなくては。
スタッフの方々に挨拶をして回り、スタジオを出る。
外は既に夜の帳が降りていて、街灯の光が煌々としていた。
そんな景色の、スタジオ前のロータリーに並ぶタクシー群のなかに、見慣れた車があった。
見間違いではないか、とナンバープレートを確認すると、やはり私のよく知る車──私の担当プロデューサーが運転する社用車であるようだった。
駆け寄り、助手席の窓から車内を覗く。
すると、ロックが解除されたので、ドアに手をかけ、助手席へと乗り込んだ。
「お疲れ様。帰りに事務所に寄るって言ってたから」
「タクシーでよかったのに。でも嬉しいわ」
「それで、事務所でいいか」
「ええ。ありがとう」
「……気のせいならいいんだけど」
「?」
「元気ないな」
「気のせいじゃないかしら」
「んー。なら、いいんだけど」
胸をなでおろすような気持ちで、軽く息を吐く。
相変わらず目聡い。
しかしこればかりは彼に話したことで解決するはずもないのだから、相談しても詮無いことである。
ひとまずはそれ以上、追及されずに済んで良かったと思うことにしよう。
○
それから、他愛もない話を二、三繰り返し、車は事務所へと到着する。
明日の現場のために、と用意しておいた資料などを樹里と智代子からのメッセージを頼りに事務所の中を探し回る。
やがて目的のものが全て揃い、それらをプロデューサーのデスクを借りてまとめていった。
その様を眺めていたらしいプロデューサーは「なぁ」と私に向かって声を投げる。
「何かしら」
「本当に何もないんだよな」
「ええ…………いえ、嘘。でも本当に些細な事なのよ」
「それでも話して欲しいけどなぁ。そんなに信用ないか?」
「その言い方はずるくないかしら」
「ずるいことをわかってて言ってる」
「……はぁ、降参。本当に大したことではないのだけれど」
「ああ」
「樹里も凛是も果穂も、それぞれのプロデューサーにスカウトされてこの世界に……アイドルになったのでしょう?」
「そう聞いてる」
「智代子も、私と同じオーディションからではあるけれど、それでも私と違って担当のプロデューサーに選ばれているわけじゃない?」
「まぁ、そうだな」
「私だけ、なのよね。ユニットの中で」
「ああ、何もかもが決まってたのが、ってことか」
「そう。それがちょっと……ほんのちょっとよ? ……寂しくて」
「なるほどなぁ」
「他のみんなの始まりはそれぞれのプロデューサーから手渡された名刺が始まりで、私にはそういうものがないのよね、って気付いてしまって、それで、ね」
「……」
「言ってしまえば、アナタが私のプロデューサーでいてくれていることは、全てがアナタの意思というわけではないでしょう? アナタはこのプロダクションのプロデューサーで、私はこのプロダクションに応募して、そして採用されたアイドルで……私とアナタとの間にはそれだけの繋がりしかないのよ」
私が言い終わると、彼は「ふむ……」と腕を組んで、考え込んでしまう。
ああ、面倒くさいことを言っただろうか。面倒くさいと思われているだろうか。
ぐるぐると嫌な考えばかりが巡る。
そんなとき、彼が「よし」と口を開いた。
「スカウトさせてくれないか。いま、ここで」
「え」
「今から、君を、有栖川夏葉を俺にスカウトさせて欲しい」
私が何か口を挟む間もなく、彼はジャケットの内ポケットへと手を入れ、掌サイズの長方形を取り出す。
そこから重々しく、一枚の名刺を引き抜いて、入れ物を再びジャケットへと戻した。
ようやく、ここで私の理解が追い付いていく。
つまり、彼はスカウトを行うつもりなのだ。いま、ここで。
ごくり、という音が響いたが、その音の出所が私の喉からなのか、もしくは彼からなのか、それすら判別がつかなかった。
「……スカウトなんて経験がないから、ちょっと照れるな」
ごほんと咳を一つ前置いて、彼が一歩私の方へと進み出る。
「君なら絶対に世界一のトップアイドルになれる。君を俺にプロデュースさせて欲しい」
言葉と共に差し出された名刺を、両の手で受け取る。
「是非。お願いします」
そうして、しばらくの沈黙が流れ、プロデューサーがわざとらしく笑顔を作った。
「なに感極まってるの」
「……別に、いいでしょう? 私にとっては一大事だったのよ」
「……そうか、その、なんだろうな。申し訳ないことをしたなぁ、と思ってな」
「……?」
「もっと早くに伝えてたら、夏葉をこんなことで悩ませることもなかったんだけど」
「どういうこと? 話が読めないのだけれど」
「夏葉の選考な。通したの俺なんだ」
「…………え」
ということは。
「なら、さっきのスカウト、とんだ茶番じゃない!」
「ごめん、ごめん、ってば」
「もう、やられたわ。この借りは必ず返すわよ」
「あはは、気を付けよう」
「冗談じゃないわよ? 覚悟して頂戴」
「怖いなぁ。……さて、その名刺も戻しとくよ。はい、貸して」
「……いいえ。これはもらっておくわ」
「ん。いいのか」
「騙されていたとは言え、嬉しかったのは事実だもの」
「そうか」
自宅までの間に、名刺が折れ曲がってしまわないように財布の中にしまう。
依然としてにこにこ顔を崩さないプロデューサーに「帰るわよ」と声をかけた。
「なぁ、夏葉」
「何かしら」
「これからもよろしくな」
「ふふ。ええ、是非お願いするわ」
おわり
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