モバP「8:01am 海を見た」 (30)

こんなことを言うのは少し恥ずかしいが、プロデューサーとしての俺の毎日は充実している。

アイドル達との関係は良好だし、時々仕事につまずくことはあってもちひろさんや周りの人達の手を借りつつなんとかこなしていけている。

やりがいに満ちているというか、はっきり言って仕事が楽しくて仕方ない。

何人かには「働きすぎです」とか「もっと休んでください」と注意されているけれど、仕事が息抜きになっているのだから仕方ない。

だから、毎朝事務所に行くのだって喜びこそすれ、嫌がる理由なんてない。

はずなのに。

「…………」

どうして俺は、事務所とは反対方向の電車に乗っているのだろうか。


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異常は今朝、目が覚めた時からだった。

事務所に行きたくない。

そんな気持ちが胸いっぱいにあって、締め付けられるようだった。

嫌なことがあるからとか、他にしたいことあるからとか、そんな理由は皆無なのに。

むしろ今日は来月やるイベントの打ち合わせや他にも進めている企画の進行を確認したりと、やることはいっぱいあって、どれも昨日までは楽しみにしていたのに。

心か体か、ともかく何かが全身で仕事に行きたくないと拒否している。

まるで学校に行きたくないと駄々をこねる子供みたいに。

それでも俺は子供じゃないのだから、行きたくなくても行かなくてはいけない。

理由がないのならなおさらだ。

いつも通りに準備をして、いつもより遅い足取りで駅へ向かったら、いつも乗る電車がギリギリ発車するところだったので慌てて。

「…………」

でも足は動かなくて、そのままドアが閉まるのを眺めていた。

わからない、どうしてしまったんだ俺は。

どこか体の調子がおかしいのかもしれない。

今日はもう仕事を休んで病院へ行くべきじゃないのか。

ああ、ダメだ。まるでこれじゃあ仕事を休むために今理由を作っているみたいだ。

情けなさに涙が出そうになる。

いったん深呼吸をして、気持ちを整える。

何故か今日はおかしいけれど、それも事務所につけば治るはずだ。

だから次の電車に乗ろう。

そう決めてホームで待っていたら、すぐに電車はきた。

ただし来たのは、並んでいる列の反対側、事務所とは反対方向の電車だ。

行き先には名前しか知らない駅名が表示されている。

都市部から離れる方向なので車両内はまばらに人が座っている程度だ。

「……はっ」

自嘲気味な笑いが出てしまう。

たしかに次の電車に乗ると決めたけれど、ここであの反対方向の電車に乗ったら、それこそお笑いじゃないか。

事務所の彼女たちならこういうのもネタになるのだろうけども。

俺が同じことをしたところで馬鹿馬鹿しいだけだ。

ドアが閉まり、電車は動き出す。

「本当に、何をしてるんだ俺は」

次第に離れていくホームを眺めながら、俺はどこか安堵している自分が嫌になった。

すぐに電車を降りて、逆方向の電車に乗るべきなのだろう。

するべきことは頭ではわかっているけれど、もう俺にはそんな気力はなかった。

葛藤することに疲れてしまった。

座って窓の外を眺める。

知らない景色が流れて、変わって、でもそれだけだ。

心が安らぐとか、そういうものはない。

次第に顔を上げているのにも疲れてきたので、寝ているように自分の足元だけをただ眺め続けるようになった。

眠りたいわけでもないのに。

電車がスピードを落としていく。

また知らない駅に止まるようだ。

ドアが開いて、人が数人降りていく。

だんだん人が減っていく車両に、どこか取り残されているような焦りを感じつつ、それでも足は動かない。

「あ……」

声がした。少女の声だ。

顔をあげると、今乗ってきたらしい中学生ぐらいの少女がこっちを見て、俺と目があった瞬間視線を外した。

おおかた、スーツ姿の大人がくたびれた様子でガラガラの電車に乗っているのを見て、反応してしまったのだろう。

失礼だ、と怒る気にもならない。

おかしいのはこっちなのだから。

少女は俺の正面の席に座った。

「……!」

改めて少女を見て、俺は内心驚いた。

服装は制服。赤みがかった髪を肩にかかるぐらい。

窓の外を無表情で眺めるその少女は、間違いなく美少女と呼べる顔つきをしていた。

少し近寄りがたいクールさを感じさせるけれど、うちのアイドルたちにも勝るとも劣らない、いつもの俺なら間違いなくここでスカウトをしている逸材だ。

もっとも、今の俺にそんな気力も資格もない。

声をかけることを一瞬考えたが、事務所から逃げている現状を思い出して何もできなかった。

あまり少女の顔を見るのもよくないので、また眠るように足元を眺めることにした。

ああ、ダメだ。

事務所に行っていないことに加えて、目の前の逸材をスカウトしていないことがさらなる重しになった気がする。

やるべきことをやらずに無駄な時間を過ごしていることが、心を摩耗させていく。

俺が何かに耐えている間にも電車は進み、止まり、また進む。

いったいどこまで来たのだろう。俺はどこまで行くのだろうか。

そんなずっと続きそうだった悩みはついに終わりを迎えた。

「終点だよ」

「え?」

少女の声で顔をあげる。

あたりを見渡すと電車は止まっていて、少女が目の前に立っていた。

「降りないの?」

少女の問いに答えようとして、固まる。

このまま電車に乗っていれば、電車は反対方向に、つまり事務所の方向へ再び走り出すだろう。

俺にとっていつも通りの方向に。

もともと、どこかに行きたくてこの電車に乗っていたわけじゃなかった。

だったらもう、充分なんじゃないか。いつも通りに戻るべきじゃないか。

俺にとって向かうべき場所は事務所以外ないのだから。

「あのね」

しかし俺の思考に割り込むように、少女の声がする。

「ここから海に歩いていけるんだよ」

「海……」

言われてみれば、潮の香りを感じる気がする。

「海は好き?」

「……わからない」

わからない。

仕事で何度も行っているけれど、そこで思うのは撮影のために晴天だったらいいとか日焼けに注意だとかそういうことばかりで、好き嫌いは考えたことはなかった。

「あたしも」

それだけ言って、少女は電車を降りた。

きっと、海へ行くのだろう。

俺も続けて電車を降りた。

今朝からずっと重かった足が、少し軽くなった気がした。

少女のすぐ後を追うように、知らない道を歩く。

自然と並んで歩くようになっていたが、互いに無言だった。

だんだん大きく聞こえてくる波音で充分だった。

そしてしばらく歩いて、最初に声を発したのは俺だった。

「海だ」

堤防の上に登って目の前に開けた海を見て、思わずそのままの声が出た。

「海だね」

少女も特に嬉しそうでもつまらなそうでもない声で同意する。

夏と呼ぶにはもう遅い時期、どんよりとした曇り空の下で見た海は、物寂しかった。

風は冷たいが、寒いというほどではない。

空は曇っているが、雨が降る様子はない。

波は寄せては返し、それだけ。

とても寂しい海だった。

俺と少女は適当な場所に座って、黙って寂しい海を眺めた。

水平線が見える。

波の音がする。

潮の香りがする。

風が頬を撫でる。

ただそれだけの時間が流れた。

何分か、何十分か、波音だけに包まれた静寂を破ったのはまたしても俺だった。

「毎日楽しいんだ」

「……」

少女はこちらに顔を向けない。

「楽しくて、充実してて、賑やかで、満ち足りてて。でも」

「……」

「でもなんか、今は駄目みたいだ」

「……」

これは会話じゃない。

ただの独り言で、愚痴で、少女もいきなり知らない大人にこんなこと言われても困惑するだけだろう。

だから少女が無反応なのも当然で、俺はそれでも語らずにはいられなかった。

「自分でもわからないけど、つらくて苦しくて仕方がないんだ。あんなに幸せなのに、喜びこそすれ嫌がる理由なんてないのに」

「……」

「俺、おかしくなったみたいだ」

「それはたぶん、違うよ」

「え……」

少女を見る。

少女は今もこちらを見ていない。

海を見つめながら、ぽつりぽつりと呟く。

「それはね、つらいじゃなくて、疲れたっていうんだよ」

「いつも通りの自分に疲れたんだよ」

「好きなことに全力を注げて、寂しいと思う暇がないくらいまわりにみんながいて」

「そんな幸せないつも通りの自分でいることも、たぶん疲れるの。それがどんなに楽しくても」

「むしろ毎日楽しい人こそ疲れていることに気付かなくて、急にスイッチが切れたみたいになっちゃうの。だからね」

少女は一呼吸を置いて、海から目を離さずに言った。

「そういう時は海を見るんだ」

海を見る少女の横顔を見ながら、俺は今さら気付いた。

制服を着た少女が、学校ではなく海にいるということが普通ではないことに。

ああ、きっと、この子は俺と同じだ。

彼女の言葉を借りるなら、いつもの充実した自分に疲れたから海に来た。

初めてではないのだろう。

だから電車で同じように疲れた俺がいたから、声をかけてくれたのか。

なんとも情けない話だ。

色々と今さらではあるけれど。

「海が好きなのか?」

「わからない」

ああ、そういえばそう言っていた。

「親は娘の名前につけるぐらい好きだけど、あたしはそんなにね」

「そうか」

「でも、だからかな。こういう時は見てると落ち着くんだ」

「そうか」

それからしばらく、また無言で海を眺めた。

相変わらず空はどんよりと曇っていて、波はただ寄せて返すだけの寂しい海だった。

眺めていても、海を好きかどうかはわからなかったけれど。

でも寂しい海をただ眺めるだけの時間は、いつもの日常では考えられない時間で。

悪くないと、そう思えた。

水平線が見える。遠くで動いているのは船だろうか。

波の音がする。ぴちゃりと魚がはねた。

潮の香りがする。深呼吸したらむせそうだ。

風が頬を撫でる。砂が当たるけど今は気にならない。

ああ、そうだ。あとでこの辺のお店で何か食べよう。

もう少しして、お腹がすいたら。

ぼんやりとそんなことを考えていたら、少女がこちらを見ていた。

あんまりに俺が気の抜けた顔をしているのが面白かったのか、含み笑いをしながら少女は言う。

「事務所に連絡、しておいた方がいいよ」

「え?あ……」

すっかり忘れていた。

朝からあんなに心を締め付けていた事柄だというのに。

というか、ここ数年でこんなにも仕事のことを忘れていた時間もない。

本当に俺はずっと仕事のことばかり四六時中考えていたらしいと、苦笑してしまう。

仕方ない。今日は学生時代以来の仮病を使うとしよう。

さっそくスマホを取り出してちひろさんに連絡を。

「メールでね」

少女が波を指差して悪戯っぽく今度こそ笑う。

そうだった。波音をBGMに仮病もなにもない。

それにしても、美少女だとは思っていたが、笑ったらさらに魅力的な子だ。

本気でスカウトした方がいいかもしれない。

今の俺がスカウトして信頼してくれるかは別として。

そんな画策をしながら送ったメールに、ちひろさんの返信はすぐに来た。

『こちらは気にせず休んでください』や『仕事のことは考えずに休んでください』や『絶対に仕事はせずに休んでください』など、過剰なほどに休めと書かれていた。

どんなイメージを持たれているのだろうか。

働きすぎてちひろさんに逆に心配をかけていたのかもしれない、と反省しながらメールを読んでいたら気になる一文があった。

『そういえば先ほど、愛海ちゃんからも風邪でレッスンをお休みする連絡がありました。流行っているんですかね?プロデューサーさんも安静にしてくださいね』

「……」

少女を見る。

中学生ぐらいの、赤みがかった髪の少女。

髪型や雰囲気こそ違うが、そこにいる少女は。

「どうかした?」

少女が首をかしげる。

「……いや、なんでもない」

そうだ、なんでもない。

ここにいるのはいつも通りから休みにきた二人だけだ。

それ以上は野暮というものだろう。

しばらくして。

「そろそろ行くよ」

少女が立ち上がった。

「そうか。俺はもう少し眺めていくよ」

俺は座ったままだ。

「うん」

それだけ言って、少女は歩き出した。

「じゃあね」も「またね」もない。

俺たちは並んで海に来たけど、一緒に海に来たわけではないから。

あ、でもこれだけは言っておかなくては。

俺は立ち上がって、少女の後ろ姿に向かって。

「ありがとう」

とだけ言った。

少女は振り向かず、手を振って、そしてまた歩いていった。

翌日。

「こら愛海!お前は病み上がりなんだからジッとしてろ!登山は禁止だ!っていうか事務所来るな!」

「病み上がりだからお山で回復しにきてるんだよ。プロデューサーもそうでしょ?」

「俺は仕事があるから来てるの!」

「二人とも復帰早々に騒がないでください!」

いつも通りに事務所の日常が流れていく。

楽しくて、少し騒がしくて、やりがいがあって。

つまりとても充実した時間だ。

「どこからその元気が出てくるんですか二人とも。まさか、昨日のお休みは仮病なんてことないですよね」

ちひろさんがため息交じりに呟く。

「まあ、それは冗談にしても。二人とも病み上がりなのは事実なんですから、今日は大人しくしていてくださいね」

「わかってます。俺もこの案件に目を通したら、今日はあがりますから」

俺の手元には、秋服のファッションショーに関する企画書。

「もう夏も終わりですね。これからは秋の仕事ですか」

ちひろさんがしみじみと言うので、俺も同意する。

「ええ、秋もイベントが盛りだくさんですからね。今から企画が楽しみですよ」

「プロデューサーさんのそのやる気はちょっと同意しかねます」

「夏のお山の解放感もいいけど、秋のお山は実りが素晴らしいからね。わきわきが止まらないよ」

「愛海ちゃんのは本当に同意できません」

俺たちの秋に向ける熱意にちひろさんは苦笑気味だ。

「お二人はいつも元気ですね。疲れたりしないんですか?」

問われて、俺と愛海は顔を見合わせて。

「全然」

と言って笑った。

おしまい!

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