【咲-Saki-】照「春期限定マンゴーパフェ事件」菫「白糸台・春の陣」 (35)


-プロローグ-


 魔が差したのだ。

 そんな言い方をするのは卑怯だと理解しているし、照に悪いとも思う。だとしても、この状況を一言で説明するとしたらこの言葉が適任になってしまう。
 いま、ここの寮の一室には私と照しかいない。鍵は掛けられカーテンも閉ざされている。つまり今後他者の介入はない、ということだ。これまでにも二人きりになることは多々あった。しかし、今までは照に手を出そうだなんて頭の隅に過ることさえなかった。

 照の身体を汗が滴る。照の頬が紅潮しているのがわかる。ああ、自分の心音がドクンドクンと煩い。外に漏れ出ていないといいのだが。
 私は照に信用されて、少し自惚れるなら信頼されていると思う。だからこそ今日ここにいる。そう自負していた。けれどそれも今日までかもしれない。動揺か緊張か、上手く回らない頭でそんなことを考える。いや、今さらそんなことを考えるのも不毛だな。
 思考を切り換えて照の白い体躯に触れんとすると、

「ん……っ」

 と声を漏らして照が目を瞑る。
 もう後戻りは出来ない。私は宮永照という女性に、その女性というものを形容するような根幹に手を出した。超えるのを憚るべき一線を超え、禁断の果実に手を出したのだ。誰に言い訳するでもなく、自分に言い聞かせるように反芻する。
 ああそうだ。単にこれは、魔が差したのだ。

 こんなことになっている訳を一からふり返るなら、それは一昨日のことになる。


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 高校三年の一学期初週。その金曜日に私と照は、練習を終えて二人だけとなった麻雀部室でちょっとした話し合いをしていた。主題は「麻雀部の財政難」について。

「駄目。いくら菫の言うことでもそれは認められない」

「わからず屋め。私たちはもう三年だ、見本になるべき最上級生だろ」

 陽も沈む頃合いだろうか、生憎雨のためその様は見えない。会話のトーンも天候と同じく沈重なものだった。

「わからず屋は菫でしょ。これは先代の三年も良しとしてきたこと。三年が見本になるべきものなら、私たちは前の代を見てその伝統を守るべき」

「節度の話をしてるんだ。伝統は守るべきだが、先々代まで遡ってもお前ほどの輩はいなかった」

「……ふぅん、そう。でもそれを菫が言うのはおかしくない?」

 部の未来を憂いた、部長とエースによる口論と表せば聞こえはいいだろう。その内容が、

「私を『お菓子食べ放題』って勧誘したのは菫でしょ」

 こんなものでさえなければ。
 麻雀部の練習室に、脳の糖分補給という大義名分で置かれていた数々の甘味。これそのものは私が入学する前の白糸台高校にもあったのだが、なんと私の入学した年からその消費量が激増し麻雀部の財政に多大な圧をかけるほどになった。原因は明白、我が同胞宮永照だ。

 健康面が心配になるほどの照の過食はそれ単一でも脅威だが、その様子は周りの胃袋まで唆したらしい。結果、麻雀部のエンゲル係数と部員諸君の体重を押し上げることとなり、そこかしこから悲鳴が聞こえることとなった。ちなみに当の本人は、曰く「太らない体質」だとか。胸元を見れば一応の説得力はある。


「食べ放題と表した記憶はないがな。ここに菓子が備えられているのは麻雀に必要な糖分接種だ。それを超える消費量が部費を圧迫するなら削るしかあるまい」

「部費を増やせばいい。後援会の支援も増えてるでしょ」

「簡単に言うな。インハイ優勝した分部員も必要経費も増えてるんだ」

「……」

 照が黙りこくる。納得はしていないという面持ちだがもう一押し。お菓子のことでヒートアップしてはいるが、照は理屈で話せば筋は通してくれる性格だ。
 そう思い口を開こうとすると、部室の扉がキィと小さな音を立てて開いた。そちらに目を向けると、緑がかったショートヘアが視界に入る。

「あれ?先輩方、残ってたんですね」

 そう発しながら入ってきたのは亦野ともう一人、尭深だった。

「ああ、ちょっと話し込んでてな。どうしたんだ?」

「今日使った卓の片付けがまだだったので、折角だから麻雀卓を扱ったことがない一年生に簡単に説明しようかと思いまして」

 若干かしこまった様子で尭深が言葉を継ぐ。

「いいでしょうか……?」

「ん、構わないが」

「ありがとうございます」

 尭深は一礼し、どうやら部屋の外にいるらしい新一年に一声かけに向かった。


 流石に人前でさっきまでの話をするわけにもいかない。照のほうをちらりと見ると同じ考えのようで、不服そうな顔は消えて素の表情になっていた。そのことに少しの安堵を覚えながら亦野に提言する。

「そういうことなら私達も手伝おうか」

「いえ、そんなに人数はいませんし私と尭深で事足りると思います」

「そうか、なら任せよう。戸締まりだけ頼んだ」

 後輩の言葉に甘えて荷物をまとめ通学鞄を肩にかけ、尭深に続いて部室に入ってきた一年達とも簡単に挨拶を交わして部室を後にする。テルーもう帰っちゃうのー、などと軽快に言い放つ輩にはどう反応したものかと思ったがそこは亦野が何やら指摘していたので今は任せることにした。

 通用口までの道のりを歩きだしてからは、私も照もだんまりだった。間が悪く横槍が入った部費の話はなんとなく切り出しづらく、かといって他の話をするのは不自然になる。おそらく照の方も似たようなものだろう。さあどうしたものか。
などと考えていたら、部室と通用口の中間辺で意外にも向こうの方から口を開いてきた。

「別に……顧問の先生から頼まれたわけじゃないんでしょ?」

 主語がないので何の話かと一瞬戸惑ったが、すぐに経費の話だと察して言う。

「ああ言われていない。だから部員が自らやるべきなんだろ」

「……そう」

 なにか言葉が続くのかと待ってみるも、それだけ聞いて照は再び沈黙に入った。なんだというのだ。
 照の言うとおり、たしかに顧問は現状を容認している。しかし良しとしているわけではない。曰く「他にも部費を使いたい事柄はあるが、日頃の部員の満足度が菓子で上がるならそれを削るわけにはいかない」とか。
 ありがたいことだがその好意に私達が甘えていい理由にはならない。これは実際に部室にいる私だからわかること、今の過剰接種状態から多少菓子を減らしても便益はさして変わりはしないんだ。
 結局会話は再開せず、そのまま通用口で上履きから学校指定の靴に履き替えた。雨は未だ止んではおらず、私は鞄の中から折り畳み傘を引っ張り出す。

「……あれ」

 照が怪訝そうな声を漏らす。そちらに目を向けるとなにやら鞄の中を手でかき乱していた。程無くしてその手が止まり、ぽつりと呟く。

「ない」

 ……なるほど。だいたい察する。

「傘を忘れたのなら私のに入るか?」

「いや、いい」

「えっ」

 妥当な行動だと思って言っただけに、予想だにしない返事に少し面食らう。


「いい……って、どうするんだ。実際に傘はないんだろ」

「走って帰る」

「なぜわざわざそんなことを、遠慮するな」

「いい。寄りたいところもあるし、菫は一人で帰って」

「あっ! おい、照!」

 制止に聞く耳を持たず、照が決して弱くはない雨の中を駆け抜けていく。
 ……まいった。流石は甘味中毒者、どうやら菓子を取り上げられてふて腐れたと見える。まあ、だからといって引く気はないのだが。一晩経てば機嫌も直るだろう。
 それに……今から一年前にも私は同じ件の解決を試み、失敗したんだ。同じ轍を踏むわけにはいかない。

 ところが翌日、そんな私の思惑は大きく外れることとなった。土曜の午前九時から正午まで行われた練習の中で、私と照の交わしたやり取りは朝一番での「おはよう」の一言だけだったのだ。さらに言うなら、私の呼び掛けに対する照の反応は心なしかいつもより鈍い気さえした。
 予想外だ。完全に読み違えた。こんなことならば昨日のうちにしっかりと話をつけておくべきだった。一晩経ってこれとなるとより一層気が引けてくる。

「はぁ……」

 しかしここで行動を先延ばしにしてもなにも何も好転はしない。個人間の問題なのでひとまずは練習に集中し、部活が終わったら直ぐにでも照を捕まえるとしよう。
 などという部長としての節度を守らんとする私の算段は、不本意ながらまたしても空振りとなる。

部活動が終わったときには既に照の姿は見当たらなかった。今はほぼ二、三年しかいないとはいえ、それでも百人近くの部員が部活だ。探すより聞いた方が早いだろう。そう思い近くの三年に適当に聞いて回るも目ぼしい情報は得られず、次で最後にしようと近くに尭深を見かけて訊ねる。

「お疲れ様、尭深。少し聞きたいんだが照のやつを見なかったか?」

「あ……お疲れ様です。宮永先輩、ですか? 一時間くらい前に部室を出るところは見かけましたけれどそれ以降は……」

「そうか。ありがとう」

 尭深も知らないか、こうも見当たらないとはさながら神隠しだ。

「なんだ弘世。宮永を探してるのか?」

 ふいに尭深の後ろから声が飛んでくる。私の正面、尭深が振り返ったそこには監督が立っていた。

「はい、まあ」

「あいつなら結構前に早退したよ」

 早退……? どういうことだ、聞いてないぞ私はそれ。

「えっと、なにか用事とかだったんですか?」

「いんや、風邪気味だったそうな」

 風邪……。なんだそういうことか。ならば声のトーンがいつもより低かったのも口数が少なかったのも頷ける。さては昨日の雨の後にちゃんと乾かさなかったな。
 監督に礼を告げて帰路につき、照に「大丈夫か?」とメールを送る。風邪気味ということらしいし早い段階で回復に向かえばいいが、そうならなかったときには見舞いにくらいは行くとしよう。


 さて、照にメールを送ってから十時間が過ぎた。過ぎたわけだが……返信は未だ来ていなかった。

 別に、メールというのはそんなに返事を急ぐものではない。急ぎの用なら電話でいいし、逆にメールのメリットは字として残ることでタイムラグを取り除き、またいつでも確認出来ることだろう。実際二時くらいまではなんとも思わなかったし、夕方六時になって返信が来なかったときはちゃんと寝ているんだろうと胸を撫で下ろした。しかし十時間。これだけあればそろそろ返事の一つくらい寄越してもいいはずだ。
 携帯電話を紛失したか、そうでなければやはり昨日のことでまだ……。
 まず風邪で早退するならば私にも一言かけてくれてもいいんじゃないだろうか。そうだ、これでも私は部長なのだから。そんなことを考えながらなかなか終わらない宿題をこなすと、気付けば時計の短針は頂点を指していた。
 ……やめだ。考えても仕方ないと断じてさっさと寝ることにする。

 そして翌朝。いつもよりも寝るのが遅かったからか毎日六時半にセットしているアラームの音は聞こえず、目が覚めたときには既に八時を回っていた。
 はっきりとしない意識を顔に水を浴びせて洗い流し、トースターにパンを二枚差し込む。ミルクを注ぎ温めようとするがブレーカーの都合でトーストを待つことにして、その間手持ち無沙汰となったので、まあ何の気なしにと携帯電話の画面を見る。するとメールが一通来ていた。届いたのは午前六時十一分、差し出し人は宮永照。件名は「Re:」のみ。

「なんだ、変な時間に」

 ぼやきながら本文を開く。

『風邪を引きました。悪いけど薬を買ってきてもらえないでしょうか』

 ……。中途半端に敬語なのは昨日の反省の色かわからないが、仕方ない。そういうことなら見舞いに行ってやろうじゃないか。まったく、世話の焼けるやつだ。

 朝食を簡単に済ませて薬局に寄る。ついでに近場のコンビニで500㎖のポカリスエットとヨーグルトを買って袋ごと鞄にしまう。ヨーグルトは普通に買うと250円ほどしそうなサイズのものを買ったが、パッケージによるとコンビニのPB商品らしく実際には150円ほどで済んだ。
 学生生活も三年目の春だ。寮生活にも慣れたのかようやく節約癖がついてきたなどとぼんやり考えながら歩みを進めて、照の寮に着いたのは九時頃だった。

 私の借りている寮とは間取りが違うが既に何度も来ているので勝手はわかる。照の住む寮は全室キッチン付きワンルームで、どちらかというとアパートに近い。希望すれば朝食夕食共に共有の食堂で用意されるため、寮と呼ぶならば確かに寮なのだが。
 部屋に着き、チャイムを鳴らす。聞き馴染んだピンポーンという音が微かにして十秒足らずで扉が開かれた。

「菫、おはよ……」

 中から現れた照の第一声は昨日以上に重いトーンだった。マスクも重なりそのボリュームはかなり小さい。

「おはよう、体調はどうだ」

「絶不調……頭が痛くてろくに寝れなかった」

「ふむ。頭痛薬を買ってきたから飲むといい」

「うん、ありがとう。……粉タイプ?」

「そうだが、そこ重要なのか?」

「よかった。とても重要」

 薬を箱ごと照に渡してから部屋に上がる。入って右手にある下駄箱のすぐ奥には簡易のキッチンと冷蔵庫が設置されており、その左にはバスルームがある。そこを抜けてすぐが広間で、正面に窓があり、左奥のベッド手前にクローゼットが、右奥の机の手前に本棚があるというシンプルな作りの部屋だ。
 水道水で薬を流し込み、照がベッドに潜り込む。

「食欲は?」

「あんまり、食べたら戻しちゃうし……」

「そうか。……薬が効いてきたら一度寝るといい。そしたら食欲も出るかもしれない」

「うん……。菫は?」

「横で適当に小説でも読ませてもらってるよ」

「じゃあお言葉に甘える。……冷蔵庫にオレンジジュースとかあるから自由にしてほしい。あ、冷凍庫に水も入ってるけどあれは後で使うから飲まないでね」

「わかった、ありがとう」

 病気でうなされているときに一人というのは、この年になって何だが、やはり心細いものだと思う。薬を届けてはいさようならでは少しばかり薄情だろう。
 それ以降照はだんまりで、本棚から拝借した本を読み始めて十五分ほど経った頃には、気付けば寝息を立てていた。


 照が寝ている間、三人の来客があった。

 仮に晩までいたとしても小説一冊は読み終わらない、そう思って選んだのは全六編からなる海外の短編集。
 一編目を読み終えると、そういえばコンビニで買ったものを鞄に入れたままだったと思い出す。レジ袋をそのままに品だけ鞄から取り出して冷蔵庫に入れたその瞬間、チャイム音が来訪者の存在を告げた。
 家主の代わりに扉をあけると、そこには金色の長髪を毛先だけカールさせた少女が立っていた。

「テル―! 買ってきたよー……ってあれ?」

 素っ頓狂な声をその少女がこぼす。

「大星か」

「……? あ、部長の人だ。なんでここに?」

 大星淡。照が直々に部まで連れてきた一年生ということもあって私はその名前を鮮明に覚えていた。

「ここの家主の見舞いだよ」

「そうなんですかー。それじゃあ、えーっと……」

 大星が言い淀む。それで何となく察して言う。

「弘世だ。弘世菫」

「あー」

 思った通り名前を憶えていなかったらしく私のひと言で、大星が嬉々として言葉を続ける。

「そうだ、オリエンでそう言ってた! じゃあ弘世先輩、これお願いします」

これ、と言って大星が差し出してきたのは真っ白な紙製の箱だった。

「なんだこれ。見舞いの品か?」

「頼まれて買ったものなんで、ちょっと違うかもです。なんかこの季節限定のアイスパフェだとか」

 照が後輩にそんな私用を……。私に頼んでくれても良かったのだがな。

「アイスか……。まあ預かろう」

「はい。ではでは私はこれで」

「上がっていかないのか?」

「……? せっかくの日曜日ですよ、今日は街中ふらついてくるつもりですし」

 それだけ言うと大星は疾風のようにすぐに過ぎ去っていった。なんというか……、マイペースを地で行くような一年だった。類は友を呼ぶらしい。
 照宛の預かりものだが、これで起こすこともないだろうと受け取った箱を開ける。

 箱の中には円筒状のカップが二つ入っており、一つはメロン、一つはマンゴー。両者とも砕けたクッキーらしきものとバニラアイスをベースとした中にフルーツのジェルが螺旋状に混ざっており、その上に果肉がそのまま五切れほど乗っている。他に箱の中に入っているものと言えば透明のプラスチック製スプーンと何やら説明の書いてある紙切れで、曰くこれらは二週間限定、一日二十品限りの商品らしい。照がわざわざ代理まで頼んで買うわけだ。しかし……私はこれを認めていいのか。


 一応は生モノを使っているからだろう、パフェの蓋には消費期限が今日と指定されている。照は今、風邪を引いているんだ。「食べたら戻す」と言っていたので胃腸の調子も芳しくないように思える。冷たいものは体に毒かもしれない、そのことは照もわかっているはずだ。
だが諸々差し引いてもおそらく照はこれを欲する。わざわざ後輩に使いっ走りを頼むほどなのだし、それに照がこれを口にしないというのは買いに行ってくれた大星にも悪いだろう。どうしたものか。
……。

 数秒考えて、結論を出す。よし! 片方だけ食べて片づけることにしよう。
 両方食べたらまず間違いなく照の神経を逆撫でるだろうから止すにしても、病人である以上どのみち過量接種は良くない。これは照のためでもあるわけだし、ぶつくさ言うならカウンターをお見舞いしてやる。
 そうだ、仮にも私達は菓子のことで衝突中だったではないか。
 決意が定まればアイスの部分が溶ける前にと、私はメロンのほうを手に取る。もう片方を選ばなかったのは何となくマンゴーのほうが珍しいと思ったからだ。そちらは備え付けのスプーンと一緒に冷凍庫に立てておく。見かけの印象よりカップの高さがあって冷凍庫が閉まらず、即席のグラタンやら水の入った300㎖のペットボトルやらを横に寝かせて冷凍庫側面に押しやる形になった。
 食べた感想としては……まあ旨いが、限定と付くほどの何かは私には見出せなかった。食通ならわかるのだろうか。そんなことを考えながらさっさと平らげ、スプーンごとカップに蓋をして本棚横の屑籠に放り込む。

 私が小説を再度読み進めて、十五分ほど経った頃二人目の来訪者が訪れた。

「おはようございます。弘世先輩も来ていたんですね」

 扉を開けて第一声、少し驚きながらも律義にそう告げたのは渋谷尭深。肩からトートバッグをかけて、手には大きめの紙袋を持っている。

「二時間ほど前にな。尭深も見舞いか」

「はい、私も監督から聞いていましたから」

 私が照の一報を聞いた場には尭深もいた。それは覚えていたがわざわざ見舞いに来るとまでは考えていなかった。少しばかり感心を覚える。

「体調のほうはどうなんですか?」

「頭痛と吐き気があるそうだ。胃腸風邪かもしれないが……今はちゃんと寝てるし回復に向かってるとは思う。会っていくか?」

「いえ、眠りに付かれてるならお暇させてもらおうかと。騒がしくしても申し訳ないですからね。宮永先輩にお大事にと、宜しくお伝えください」

「そうか……。伝えておくよ」

「あと、これお見舞いの品です」

 尭深が紙袋を両手で差し出す。中を見ると複数のフルーツ、正確には林檎とメロン、その上に乗る形でバナナと葡萄が入っていた。

「林檎とデラウェアは家から持ってきました。メロンとバナナは来る途中に買ってきたんですが……チョイスが悪かったですね。熟すのが早くなってしまうので林檎とバナナは離しておいてもらえると嬉しいです」

「了解した。確かに受けとったよ」

「はい、それでは」

 浅くお辞儀をして尭深が去っていく。少し話し相手が欲しい気分だったが、見舞いの相手が寝ているのだから仕方ないか。

 三人目の来訪者がチャイムを鳴らしたのは尭深が帰って一時間ほど後、そろそろ昼食時だろうという時間帯だった。ミントブルーのショートヘア―、亦野誠子だ。

「弘世先輩こんにちは」

「亦野?」

 どうしてここに? という安直な疑問は口には出さなかったが、亦野の背後からひょこりと現れた顔がその答えを物語る。

「弘世部長オヒサシブリです!」

「……大星、なぜまたお前がいる」

 私の問いに、大星は少しだけ考えるように左下を向く。

「なんで? うーん……退屈だったから?」

 返事になっていない。大星に代わり亦野が補足する。

「街中で会ったんですよ。大星から宮永先輩のことを聞いて何か差し入れようとコンビニに寄ってここに。そしたらなんか大星もついてきちゃいまして」

 だから『退屈だったから』か。合点がいった私はこれ見よがしに提案する。

「なるほど、そういうことなら少しあがっていくといい。ちょうど私も話相手が欲しかった」

「宮永先輩は寝ているんですか?」

「ああ。そろそろ起きる頃合いかもしれない」

「そういうことなら……お邪魔させてもらいます」

「お邪魔しまーす!」

「静かにな」

 亦野の後ろに立っていたはずの大星が、亦野と私の間をするりと抜けて勉強机前の椅子を陣取る。必然的に私と亦野にはフロアの上に座る権利が割り当てられた。

「これ宮永先輩に買ってきたんですがどうしましょう」

 亦野からコンビニ袋が差し出される。近隣にあるコンビニは二店舗くらいだがどちらも同じ看板の店だ。亦野のはロゴが違うので少し離れた場所で買ったんだろう。中にはぬるくなったポカリスエット、ウィダー、緑茶が入っていた。

「冷蔵庫に入れておくよ。しかし水気が多いな」

「あはは……ポカリは必須かと思いまして、それだけだと弘世先輩が既に買ってそうだったので」

 亦野の予想は的中してポカリスエットは私のと合わせて二本となったが、多い分には問題ないだろう。冷蔵庫の扉内側に緑茶を立てると、残りを立てるスペースがなくなったので冷蔵庫上段に横向きにして入れる。
……水分繋がりというわけではないが、照がいつ起きてもいいようにと三時間ほど横にいた私は、手水を使わしてもらうことにした。

 水で石鹸の泡を洗い流しハンカチで拭きながら三人の元に戻る。すると、開口一番に亦野が主旨の掴めない発言をした。

「あ、おかえりなさい。……ほら大星、だから言ったろ」

 この一室から出たわけではないので、ただいまと言うのはなんだかしっくり来ない。二言目の意味も図るべく私は何も返さず大星の反応を待つ。

「んー。弘世部長、意外と戻ってくるの遅かったですね」

「こら違うだろ。お前がもうちょっと待てば良かったんだ」

 どうやら二人の間での会話の続きらしい。トイレからでは二人の声は聞こえなかったので訊ねる。

「なんの話だ?」

「ああ、えっとですね。大星が宮永先輩に買ったアイスパフェがあるらしいじゃないですか? あれを一つ食べてもいいと言われてたみたいで、弘世先輩の分も少しは残しておけと言ったのに大星が全部食べちゃって」

 なるほど。私の分を残さずにか。アイスをな。照から食べていいと言われていたからということは、やはり照も二つは体に毒と理解していたわけだ。それは良かった。なるほどなるほど。アイスパフェを、な。
 ……は?

「だって溶けちゃうと思ったんだもん」

「そんなすぐに溶けるか。少しなら溶けても、」

「ちょっと待て。食べたのか、マンゴーのパフェを」

 亦野の言葉を遮り大星にずいと迫る。

「はい、そうなりますね」

「一個しか残ってなかっただろ」

「ですね。どちらを残すかとか迷わなくて済んでラッキーでした」

 そうか……。たしかにそう考えて当然か。思わず大きなため息が出てしまう。そしてぽつりと言う。

「照はな、三時間前から起きてないよ」

 ひと言では私の言わんとすることが伝わらなかったようで亦野と大星が首をかしげる。私は照をちらりと見やり、声を絞って言う。

「よく聞け。一つ目のパフェを食べたのは……私だ」

 時間が止まったように一瞬の間が空いた。大星は相も変わらず小首をかしげている。そして亦野が、ワンテンポ遅れて、顔を青ざめさせる。

「弘世先輩、それって……」

「話は後だ、亦野。私にもどうなるか読めない。大星を連れて今すぐここを出ろ」

「しかし先輩は、」

「私のことはいい。なんとかする」

「……ッ! わかりました」

「どうしたの二人とも」

 大星の素っ頓狂な声を無視して亦野が腕を引く。

「ちょっ、ナニ 亦野センパイ痛いって! どうしたの、たかだかテルのパフェ食べただけで」

「外で話すからとりあえず行くぞ。あと照先輩な」

「あとで連絡する。それまで、決して他言するなよ」

「はい。ご武運を……」

 そう言い残し、亦野と大星は部屋を去っていった。

 今から一年前、私は新学期を転機として宇野沢先輩に提案をした。

『照にパンケーキを作るのを控えませんか?』

 理由はもちろん今年と同じ、ただしその方法が異なっていた。部長という立場になく、照に直接言ってもその首が縦に振られることはないだろうと考えた私は、照に秘密でその提案を行ったのだ。部費やら健康面やらの話をしたら先輩はすんなりと承諾してくれた。
 これで問題は解決する。そんな私の算段は、今にして思えば浅はか極まりないものだった。

 パンケーキを封印して三日目にその現象は表れた。照が、卓を囲んだものを悉く飛ばしたのだ。一回ではない、全ての半荘で。部員だけでない、仮入部の一年まで。恐らく無意識だったんだと思う。照の目はどこか虚ろで隈をつくり、纏う雰囲気に一切の丸みは感じられなかった。
 腕に覚えのある一年も多かったろう、照の強さに憧れて訪れた者もいたかもしれない。それら全てが意気消沈させられていた。修羅の如き照のそれは翌日も続き、さらに翌日も止まることはなかった。
 このままでは新入部員の心を折りかねない。そう判断した私は宇野沢先輩に頭を下げて再度パンケーキを作ってもらう。かくしてこの一件はなんとか鎮火され、麻雀部には「照のお菓子に手を出してはならない」という暗黙の了解が広まった。

 もしあの感情が……照の日常が崩れたことで全方位に向いた狂気が、一点に向いてしまったらどうなるのか。……あまり考えたくはないな。

 さあ、それより今はこの場をどうするかだろう。亦野と大星を帰らせた今、この一室には私と照しかいない。
 目的は大星が照のアイスパフェを食べたのを隠すこと、そのためにまず部屋を見渡す。鍵は掛けられカーテンも閉ざされている。つまり今後他者の介入はない、ということだ。これまでにも二人きりになったことはあるが、こんな状況は初めてだ。今から私は、一人で隠蔽工作を行わなければならない。
 照はあれでいて切れ者だ、中途半端な隠蔽ではすぐさまバレるだろう。

 部屋に入ったときも抱いた質素な景観という印象は変わらない。変わった点があるとすれば大星や尭深や亦野、加えて自分自身が訪れたことによるものだ。その中から特に、パフェの関わった部分に注意を向ける。
 大星から受け取った後のパフェの移動経路を考えても、主なポイントは三点だろう。一つは私がパフェを締まった冷凍庫。一つはパフェを食べるときに卓として使われた勉強机。そしてもう一つはパフェのカップと、それを入れていた紙の箱が捨てられている屑籠だ。


 手始めに私は屑籠に目を向ける。鼻をかんだとおぼしき大量のティッシュと亦野の持ってきたレジ袋、その上に堂々とカップと折り畳まれた紙箱が乗っている。
 これを照に見られたら一発でアウトだ。最優先で隠滅するべきそれらを、私の鞄の中にあるレジ袋に押し込む。箱のほうはそのままでは上手く入らなかったため、二つ折りの状態からさらに半分に折り畳んだ。

 よりいっそうの安全を求めるならば外のどこかに捨てに行ったほうがいいのだろう。探せば寮内にも屑籠はあるだろうし、マナー違反だがコンビニに行くという手もある。しかし寝ている家主を余所に鍵も掛けずに離れるわけにはいかないし、それにいつ照が起きるかわからないんだ。もし私が離れた数分に照が起きたとしたらその状況はあまりに危険だ。
余裕が出来れば後から試みるがひとまず後回しとして、次に私は机を見た。

 一時的にカップを置かれただけの机には、屑籠のようにパフェの存在を示すものは無いとは思うが念のためだ。それにどちらかと言うと、私はそれを示唆するものがあってほしいと考えていた。
 照の机は白色のプラスチック製で、椅子に座った場合の左奥に照明が設置されている以外は殺風景だ。そこにペン立てと、黒のブックエンドで支えられた教科書が数冊並んでいるが他には何も乗っていない。

 ……いや、ある。よく見なければ気付かないが机の中央手前に、微かに水滴の円がまばらにいくつか形成されている。大きさからして冷えたカップにより出来たものだ。照の枕元に置かれているティッシュを一枚引き出し、一応その水滴を拭き取った。

 見つかって良かった。照の目に止まる前に、というよりはそれがあって良かったという気持ちが強い。ここで " 大星がパフェを食べた " という証明になるからだ。私がそれを食べてから一時間半は経過している。それだけあれば水滴は消えているはずなのでこれは大星によるものだ。

 ついさっき「パフェの経路は三点」と断じたのは、あくまで私のわかる範囲の話。大星が別の場所でも食していた場合どこかに溶けたアイスの粒が垂れていることも有り得たわけだが、しかしこれでその線もまずないと思っていい。望みのものがあったことに胸を撫で下ろして、机の周りにアイスが垂れていないか一通り確認してから三つ目のポイントの前に足を運ぶ。

 冷凍庫、もしかしたらここが一番厄介かもしれない。机と同じくパフェの存在を直接示すものは残っていないが間接的にそれを示すものはある。配置の変わった冷凍の品々、これら全てが指し示すのは「冷凍庫が使用された」ということだ。照が元の配置を覚えているかはわからないが甘く見積もるのは危うい。照は普段からこの冷凍庫を使っているわけだし、中身が菓子ならなおさら覚えている可能性は高くなる。

 これに対して私の取るべき対応は至ってシンプルだろう、元の配置に戻してしまえばいい。幸い冷凍庫の中身は少ないため元の状態を覚えている。
 白のプラスチック容器にラップで包装された豚肉推定300g、冷凍食品のグラタン四人前、氷の詰まった300㎖のペットボトル、二つに折れるチューブ状のアイスキャンディー15本ほど、手のひらに収まるくらいの紙容器のラクトアイス(バニラが一つ、チョコが二つ)。

 パフェを入れるために冷凍庫中央のスペースを空けるように広げたそれらを、私は記憶を辿りながら元に戻した。

 これで元通りのはずだ。一度冷凍庫を閉じ数秒待って意識をリセットして、再度開いて確認する。うん、完璧だ。間違い探しをするならば一点だけ異なる点はあるがこれは問題にはならない。ペットボトルの中の水が凍っているという、起きて然るべき変化だからだ。完璧だ。私は満足して冷凍庫を閉じる。

 ……待て、本当にそうか? 拭えない違和感に逆らえず、三たび冷凍庫を開ける。そして、気付いた。……気付けてしまった。
ペットボトルの中の氷、その " 側面に空洞がある " ではないか!

 これはよくない。いや氷に空洞が出来るのはいい、容器内で氷を作るならばむしろ必要なものだ。なにがよくないってそれが側面にあること、つまりこのペットボトルが横に倒されていたと指し示すことだ。元々立っていたペットボトルが倒された、それは即ち誰かが冷凍庫を使ったということになる。

 照はこれに気付くだろうか。……妥協は良くない。先ほど照はこのボトルを「後で使う」と言った。恐らくは体を冷やすための、いわゆる氷枕のような使い方をするんだろう。なんにしても近いうちに手に取ることは充分に考えられるし、私が気付いたのなら照も気付く可能性は高い。お菓子の絡む内容ならなおさらだ。すぐさま思考のリソースを解決案の捻出に割く。

 まず思い付くのは一度溶かして、縦向きの状態で凍らせることだ。しかしこれは現実的ではない。時間がかかりすぎる。例えばコンロでお湯を沸かしてそこにつければ多少は時短して溶かせるかもしれないが……照が眠りについて約三時間、いつ目を覚ますかも定かではない。その状況で、湯を沸かし、氷をある程度溶かし、再度冷凍庫に入れて凍らせる。少なく見積もっても三十分はかかる。

 それを照に見られたら間違いなく何をしているのか訊ねられる。冷凍庫に入れた後でも凍っていないペットボトルを見れば不自然に思うだろう。そして私は、残念ながらそれに対する言い逃れは思い付かない。なのでこのやり口はあまり取りたくはない。
 仕方ないので私は別の手を使うことにする。多少強引で、ともすればちゃぶ台を返す行為だが時間は格段に短くて済む。

 そうと決まれば即実行、私は冷蔵庫を開けた。そして照が飲んでいいと言っていたオレンジジュース、1 ℓ のボトルに二割ほど残っていたそれをコップに注ぎ飲み干した。
 さらにそこに、水道水を九割目くらいまで注ぎ込んで冷凍庫に押し込む。これでよし、冷凍庫内部の配置を戻す行為は無駄に終わったが、これならば「大きめの氷枕を作ろうとした」という大義名分で冷凍庫内の配置は問題でなくなる。必然的に300㎖ボトルが縦だろうが横だろうがおかしくないわけだ。

 最初に定めた三点にひとまず目を通したことに満足して、念のため再度床を見ておくかと部屋をうろつき本棚辺りまで戻ったそのときだった。

「う……ん」

 あと二分早かったらまずかった、間一髪とでも言うべきか。この家の主のお目覚めだ。

「おはよ……菫」

おはよう。起きるのが遅くて助かったよ。

 まるで天から見られていたかのようなタイミングだ。なんて、誰に向けるでもないがこの偶然に感謝の意を抱く。
 もっともこの偶然があと数分早くても同じ言葉を浮かべていただろうし、その場合に抱くのは感謝とは異なるものだったと思うので我ながら人間らしい。

「今何時?」

 まだ眠気が残っているのか、照が眉間を押さえながら訊ねる。寝る前より声の通りがいい。

「十二時半くらいだな。体調はどうだ?」

「火照ってる感じはあるけどさっきよりはだいぶ楽かも。汗かいたからかな、喉がカラカラ」

 奇遇だな、私も汗が出そうだよ。こちらは主に冷たい汗だが。

「ポカリならあるぞ。亦野からの見舞いだ」

「来てくれてたんだ。お礼言わなくちゃね」

 照の顔がほころぶ。後輩に慕われているという感に嬉々としているんだろう、一言付け足す。

「尭深も来てたよ。それと大星も」

「へぇ……三人も」

 ひとしきり悦に入ったかと思うと、そういえばと切り出してきた。

「淡からなにか届いてない?」

 早速来た。口を滑らせないように気を引き締めて、しかし変に逡巡を見せて勘ぐられないようにと短く答える。

「なにか、というとアイスパフェのことか?」

「うん」

「ああ、話は聞いてるが売り切れていたそうだ」

「売り切れ、てた……?」

 エンジェルフォール並みの落差で、照が今度はガックリと肩を落とす。許せ照、知らぬが仏だ。
 そして今の一言で私の退路は絶たれた。今後すまん実は食べてしまったなどと謝罪を試みる道は完全に許されなくなったわけだ。

「そっか……まあ仕方ないよね。売り切れちゃってたんなら」

 長いため息が漏れた。言葉通り割りきれているようにはあまり見えない。

「淡はいつ頃来たの?」

 ジトリとした目線が絡み付く気分になる。まるで『鏡』で観られているような……。わかっている、これは錯覚だ。いかに照が鋭かろうとこの部屋を一目みてパフェの行方に気付くはずがない。鏡を使われる謂れは無いし、そもそも鏡は思考を読む効果まではないはずだ。
 ならば素直に「照が寝てすぐと、三十分ほど前」と答えるか? それは否だ。

 二回の訪問というのはイレギュラーだと思う。照が大星にパフェの一つ目を食べていいと言ったのなら、それを思い出した大星が戻ってきたように聞こえなくもない。余計な疑念を抱かれるのは当然避ける。

「いつ頃、だったかな」

 方針は決まったがまだ答えられない。より正確な時間を思い出すふりをして考える時間を確保する。次の選択肢は淡が来た二回のどちらを正史とするか、だ。
 売り切れていたという話に合わせるなら二度目の来訪だろう。日が上ればそれだけ売り切れの可能性は高くなる。反面、リスクもある。

 例えば照から大星への頼み事の際に「売り切れるかもしれないから早めに行ってほしい」などと伝わっていた場合、それに従わずみすみす変えなかった大星の印象はよくない。
朝のうちに売り切れるほどの人気商品なのかは不明だが、それは今日家から出ていない照も同じはずだ。そろそろタイムリミットだろうと結論を出す。

「たしか九時四十分ちょうどくらいだったな。見舞いのポカリとヨーグルトだけ押し付けて嵐のように去っていったのをよく覚えてる」

「早い……やっぱり人気商品なんだ」

 挙げた二品は私が買ったものだが大星が何も買わずただ訪問するというのもおかしいので差し替えた。記憶を遡るが、冷蔵庫に移したのは照が眠ってからだったはずだ。大星からということにしても問題はない。照の反応に安堵しながらも、話題は変える。

「それより、汗かいたんなら着替えたほうがいいんじゃないか」

「ああ、そうだね」

 照が着ているのは水色のコットン製寝巻きでボタンはついていない。両手をクロスさせて裾を掴み上に持ち上げようとする照だが、汗でへばりついて露骨に苦戦してみえる。

「手伝うよ」

 一言かけて照の腹部あたりで滞る裾に手を伸ばすと、

「ん……っ」

 と声を出して両手が天に向けられる。服を脱がしてクローゼットから上下の換えを取りだしてベッドに置く。下は照一人で事足りるようなので、別の役目に移ることにした。

「食欲ありそうならお粥でも作るがどうする?」

「うん、食べれそう。コンロの下に開けてないお米があるからそれ使って」

 寮生の大半がそうなのだろうが、やけに小綺麗なキッチン全体から普段あまり使われていないのが伺い知れる。
 言われたとおりにコンロ下を見ると、2kgの米袋が現れた。封を切り、きっかり0.5合を測ってざるで三回水洗いし、手ごろな片手鍋に移して水を足す。しばらくかき混ぜてから弱火にしたら隙間を残して蓋をする。後は二十分ほど待つのみだ。計量カップとざるでも洗って待っていよう。

 シンクのほうに目を向けると、米を洗ったときには気にしていなかったが銀色のスプーンがポツンとひとつ残っていた。ついでなので一緒に洗うことにする。
 ……スプーン?
 その存在に、私の意識が黄色信号を発する。これはいったい誰が使ったものだ。照は私が来たとき食欲がないと言っていた、私が来てからは何も食していない。とすれば、これは……。

「……大星か」

 照には聞こえない声量で、声を漏らす。

 いや、決めつけるのは早い。このスプーンは照が使ったという可能性はないだろうか。食欲がないと言ってもいっさい何も口にしていないとは限らない。
 しかしその楽観はすぐに自分の脳に否定されてしまう。見るからに使われていないキッチン、未開封だった米の袋、スプーン以外にお椀などが置かれていないシンク。到底照がなにか作って食べたとは思えない。

 調理を必要としない食べ物もあるがその場合は容器が存在するはずだ。屑籠の上層には大量のティッシュペーパーと亦野の残したコンビニ袋だけがあり、スプーンを使用して何かを食したようには思えなかった。
 このスプーンそのものは大した問題ではない。現在照が腰かけているベッドとキッチンは対角線上に位置するため私の行動は視界に入るだろうが、なにも凝視されているわけではない。ざるを洗うのに便乗すれば元の置き場に戻すのも容易いだろう。

 ただ問題は、ここに「照の家のスプーンがある」ということ、つまり「パフェに備えられていたスプーンは使われていない」ということだ。そして恐らくはまだ「あのスプーンは冷凍庫の中」にある。

 ぬかった。自分基準で大星も店のスプーンを使っていると勝手に思い込んでいた。
 そうでなければ冷凍庫の整理をしたときに気付けたはずだ、いかに透明と言えど普通は見落とすわけがない。

 照はペットボトルの水を凍らせていた。いつ冷凍庫を開けるために動き出してもおかしくはない。あのスプーンも照に見つかれば一発でアウトの代物だ。先手必勝。

「なあ照。お粥が出来るまでまだ時間がかかる、アイスでも食べないか」

「アイス? なんの?」

「冷凍庫にチョコとバニラのカップアイスがあったよな。あれ一個もらえないか」

「……菫がお菓子欲しがるって珍しいね」

「少し小腹が空いてな、頼む」

「んー……」

 渋ったような声が返ってくる。照が食べたくて買ったのだからまあ当然か。かくなる上は!

「今度ハーゲンダッツを買ってくると言ったら」

「食べていいよ」

 ようし。本末転倒な気もするが背に腹は変えられない。許可を得たので早速アイスを取り出す、という仕草を見せながら冷凍庫内部を見渡す。そしてお目当てのプラスプーンを発見し……。

 ない。
 ボトルを退けても、肉を退けても、アイスキャンディを退けても、透明のスプーンが存在しない!
そんなはずは……もう一度隅から隅まで目を走らせる。しかしやはり見つからない。なぜ……そうか、亦野!

「菫、どうしたの?」

「いや。なんだ……」

 長く冷気を漏らしすぎたのか照から訝しげな声がかかった。300㎖ボトルを取りだして誤魔化す。

「このボトル、使うと言っていたから気になってな。何に使うんだ?」

「ああそれ。タオルにくるんで首筋とか冷やそうかなって」

 だろうとも。照にアイスとボトルとタオル、それに金属スプーンを渡して脳をスプーンの在処のことに戻す。私がトイレから戻ったとき、亦野はこう言っていた。

『弘世先輩の分も少しは残しておけと言ったのに大星が全部食べちゃって』

 先輩の分も。ということはつまり亦野もパフェを食べたということではないか。もしその過程でもう一つのスプーンを使ったならば、その在処は……。
 屑籠と照のベッドを繋ぐ直線上に座り、横目で屑籠を覗く。見つけた。屑籠上部にあるレジ袋の陰、件の店のスプーンだ。

 今すぐにでも回収したいが、照の前で白昼堂々それは出来ない。なので一先ず手元のアイスを平らにすることを目指す。味わうという気持ちの余裕もなく完食し、なに味のものを食べているんだったかと手元を見るとバニラのほうのラクトアイスだった。
 空となったカップを屑籠に捨ててこう告げる。

「……ああすまん、既に籠がいっぱいいっぱいだな。ゴミは持ち帰るよ」

「え? いいよそんな」

「気にするな、今後も鼻を噛むならすぐ満たんになるだろう」

 返事を待たず、屑籠を照の視界から完全に遮断するように立膝をつく。最小限の動きでカップとスプーンを回収し、引き寄せた鞄に入れる。
 背後から視線を感じる気がするが、単なる視線だ。演技にも隠蔽工作にも明るくはないので多少固さはあったかもしれないが、変には思われない程度には手応えのある出来だと思う。


 照から言葉は発せられない。私より遅れてちまちまとアイスを食べ進めて、ベッドから立ち上がり籠に捨てる。

「ふぅ。おいしかった」

 スプーンもカップも回収した。ここを越えれば今度こそ、例のアイスパフェの存在を示すものはなくなるはずだ。ここさえ……ここさえ乗り切れば……。

「思ってた以上に食べ物が喉を通るかも」

 照が冷蔵庫を見回す。

「なんか色々ものが増えてる……。誰がどれを買ってきてくれたんだっけ?」

「大星からがポカリとヨーグルト、亦野がポカリと緑茶、それにウィダーだな。フルーツは尭深からだ」

「ウィダーもなんだね」

 話が切り替わった。照から訝しむ様子は見受けられない。……間違いない。
 やり切った! 私と大星の失態を、禁断の果実に触れたことを、隠し通した。

「折角だし尭深からの品をいただこうかな。菫は何が食べたい?」

「任せるよ、お前宛の品なんだ」

「じゃあ、メロンでもいい?」

「ああ、構わない」

「……本当に?」

 突如、照の目が鋭くなる。ぞくり、と背筋が凍る感覚に見舞われる。

「なんで……そんなに確認する」

「だって、」

 お粥の鍋から漏れるクツクツという音が、急に大きくなった気がした。
 照が、告げる。





「菫は既に今日、メロンのパフェを食べてるんじゃないかなって」







 対応が完璧だったとは思わない。しかし決定打は避けたはずた。見抜けるはずがない……。どういう意味だ、などとぼやかしてしらを切ればまだ乗り切れるかもしれない。

「……気づいてたのか」

 なんて、無理だ。照の細められた目は私に悪あがきが無駄だと知らしめた。余計な抵抗は傷口を広げるだけとなる、事実上の白旗宣言だ。

「認めるんだね」

 目を逸らしたくなる程に一直線にこちらを見てくる照だが、口調そのものはあっけらかんとしている。

「ああ。怒ってるよな……」

「そんなことない、っていったら嘘になるかもしれないけどね。菫が思ってるほど怒ってはいないと思うよ」

 怒ってない……? あの照が、自分の糖分を奪取されても冷静に、そこまで怒っていないと……そう言ったのか? ならば、私の艱難辛苦はいったい。
 動揺している私に構わず照が続ける。

「パフェは二つ頼んだんだけどさ、両方とも菫が食べたの?」

 一つは大星だが、むざむざと被害者を増やすこともない。首肯する。

「ふぅん……そうなんだ」

 そう呟く照の顔は、心なしか笑みが浮かんでいた。両の手のひらを合わせるようにしながら照は再び声量を戻す。

「それでさ、菫。私ね、部活のお菓子は減量しないほうがいいと思うんだよ」

「なんだ急に、話を蒸し返して……」

 そこまで言って私は察した。

「……何が言いたい」

「その感じだとわかってるんじゃない?」

「パフェの、埋め合わせって言いたいのか」

 照は何も答えない。が、沈黙そのものが肯定と受け取れる。
 曲解気味かもしれないが、つまり照はこう言っているんだ。今回の件は水に流してやるから私にもお菓子の件から手を引け、と。

「いや……ダメだろ。それは出来ない、部活の話じゃないか」

「そんなことないよ。だってお菓子の減量を言い出したのはあくまで部長の菫でしょ? だったら菫が認めれば丸く収まる」

「そういう話ではなく……。私がやらかしたことの代償に持ってきていいものじゃない。あれは部の抱えるれっきとした問題点だ」

「真面目だね」

 真面目ってのは悪いことじゃないだろうに、照のそれには明らかに呆れたような感情が入っている。

「でもさ、部の問題ならお菓子を減らしても発生するよ」

「……? なんのことだ」

「二年前の私と同じ。『お菓子食べ放題』に惹かれて麻雀部に足を運んだ新入生だよ。勧誘ポスターにも書いてあったからね、そういう子は間違いなくいる」

 勧誘ポスターの表面を思い出してみる。確かにあった。去年のインハイ優勝のときの写真を大々的に掲げたシンプルな絵面、その脇にポツリと書かれた場違いな文字。誰がそんな不埒なことを書いたのか。少なくとも照は参加していなかった。

「だとすると、既に新入生が見学に来てるのに今からお菓子を減らすのは印象悪いんじゃないかな? だから、ね。部長としてそれはまずいでしょ。どっちにしてもまずいなら、副次的な利があるほうがいいんじゃない?」

 ……くそう。こんなときだけ急に饒舌になるな風邪引き。

「はぁ……、わかった。でも先生が部費の使い道に触れたら素直に従う、それは約束してくれ」

「もちろん。菫のそういう、話がわかるところ好きだよ」

「こんなシチュエーションで言われても悲しくなるだけだな」

「それは残念」

 残念なのはこちらのほうだ。まあ……反面、照の溜飲が下がったことに胸を撫でおろしている自分もいるのでそんなことを言う資格もないか。
 かくして、照と私の三日間に渡るお菓子論争は決着を迎えることになった。


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 煮詰まったお粥を二皿に分けて、片方を照に渡しつつ尋ねる。

「なあ照、気になるんだがどうして私がパフェを食べたとわかったんだ?」

 小さく一口食した照は、まだ熱いと判断したのか湯気の治まらない皿をかき混ぜる。

「そんなこと、知りたいの?」

「私としてはミスはなかったと思ってな。単に鎌をかけられただけではないかなんて思いたくもないし」

 若干考える素振りを見せ、照が告げる。

「……まあ、いいよ。菫の溢れでる厚意には応じないとね。なにから話そうか迷うけど……決め手になったのはコレかな」

 そう言って照が取り出してきたのは大星が、もとい私が買ったヨーグルトだった。

「これが関係あるのか?」

「メインではないけど。メインの、菫のミスって言うとしたらアイスのゴミを籠から移したとき」

 やはりそこか。私の動きが最も不自然だったところだ。ラクトアイスのカップともう一つ、大星と亦野が使ったスプーンの回収。綻びが出るとしたらそこだと思っていた。

「上手いこと体で隠したつもりだったんだが、やっぱりスプーンが見られていたか」

「スプーン?」

「パフェに付いてきたスプーンだよ」

「……いつにも増してお堅いことすると思ったらそういうことだったの。備え付けのスプーンを隠してたんだね。そっか、気付けなかったな」

 気付いてなかったとは。しかし不自然に思われていたなら照に感付かれる火種にはなっていたかもしれない。
 照はお碗とヨーグルトを机に置く、まるで今から核心に迫ると宣言するかのように。そしてこちらにしっかりと目を向けて言う。

「私が見てたのはね、鞄にゴミをそのまま突っ込む菫だよ。さらに言うとガサガサいう音も聞こえて、それで思ったんだ。菫の鞄のなかにはゴミ袋の代わりになる何かが口を拡げてるんだって」

 なるほどスプーンは本当に関係ないらしい。 しかし袋がどうしたと言うんだろう。

「もう一個。ゴミ箱の中にはコンビニの袋が一つしかなかったんだよ。で、気になったの。菫はわざわざゴミを入れる袋を持ち歩いてるのかなってのと、淡の袋はどこに行ったんだろうってね」


 私は顔をしかめた。なんとなく照の言わんとすることがわかったからだ。

「その二点が繋がったわけか」

「うん。菫が淡からお見舞いの品を丸々受け取ったって言うなら袋ごとだろうけど、それなら菫の鞄に入ってるのはおかしい。まず考えられるのは菫がアイスを屑籠から取り出すより前に淡の袋で他のゴミも持ち帰ろうとしてたこと。でも行動や言動からしてゴミの回収は初めての行動なのが見て取れたから」

 実際にはあのとき、私の鞄に入った袋の中には大星が持ち寄った紙の箱とパフェのカップがあった。なので照が途中に言ったように他のゴミを持ち帰ろうとしたというのは事実なのだが、照の話は私がでっち上げた「淡がコンビニで買った見舞いの品を持ってきた」という前提の話なので関係はない。
 照の言葉が続く。

「それじゃあ実際にはその袋は最初から菫の鞄に入ってたんじゃないかんじゃないかなって。そうなると今度は、菫が話した淡からの手土産と話が合わない」

 で、話が合わないならどこかに誤った情報がある、というわけか。まったく、余計な設定など盛るものじゃない。もう決着のついたことだが、せめてもの慰めに抵抗を計ってみる。

「屑籠に入っていた袋が大星の持ってきたものだった可能性もあったんじゃないのか」

 その上で亦野が袋を持ち帰っていたとすれば、さらに私はたまたま鞄に袋が入っていたとすれば、強引でも一応の筋は通る。

「もちろんそれも考えたよ。でも、冷蔵庫を開けたときにその線はなくなった」

 私が小首を傾げると、照が指先でトントンとヨーグルトの蓋を叩く。先ほど決め手と言われていたものだ。

「このヨーグルト、PB商品でしょ」

「だな」

「お店の系列名が書いてある」

 亦野、系列名、袋……。ああ、わかった。

「ロゴが違うからってことか」

 私の言を聞いて、照は充分だと言うように口を紡いだ。どうやら正しいらしい。つまりこうだ。
 照の手元のヨーグルトにはコンビニ名が入っている。そして屑籠に入っているコンビニ袋、こちらにもデカデカとロゴが入っている。それぞれ異なるロゴだ。大星がこのヨーグルトを買ったのなら、屑籠の袋は大星の物ではない。必然的に亦野のものになる。

「自分の証拠隠しの、詰めの甘さに呆れるよ。ミスはない筈だなんて言ったのが恥ずかしくなる。お前の言うとおり、せめて屑籠からカップを回収するくらいもっと慎重にやるべきだったな」

 隠したかったその相手にこんなことを言っているのも変な気分だが、例えば屑籠の中身をゴミ袋ごと回収してまとめればバレなかっただろう。

「そうだね。でも……さっきは菫のミスについてそう言ったけど違ったかも」

 ここにきてその発言を取り下げるとは。まだ他にも失策があったか。弱り目に祟り目だ、勘弁してほしい。そう思っているうちに、照が神妙な顔で言う。

「菫のミスはさ、私のお菓子を食べたことだよ」

……。ふふ。

 冗談のつもりは一切なかったんだろう。思わず吹いてしまった私を、照が不満げに見る。
 いやはやお説ごもっとも。笑ったことに悪気はない。今にして思えば、宮永照の菓子に手を出すなんて、大それたことだ。
 
本当に今日の私は、魔が差したのだ。


 カン!

以上です。
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