高森藍子「加蓮ちゃんと」北条加蓮「お互いを待つカフェで」 (27)

――おしゃれなカフェ――

高森藍子『ごめんなさい、30分くらい遅れますっ』


北条加蓮(……珍しいことに私が先にカフェについて、スマフォをチェックしたらそんなメッセージが届いてた)

加蓮(送信時間は今から5分前。ってことは、藍子が来るまであと25分ってところかな)


さて、どうしようかな?

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レンアイカフェテラスシリーズ第93話です。

<過去作一覧>
・北条加蓮「藍子と」高森藍子「カフェテラスで」
・高森藍子「加蓮ちゃんと」北条加蓮「カフェテラスで」
・高森藍子「加蓮ちゃんと」北条加蓮「膝の上で」
・北条加蓮「藍子と」高森藍子「最初にカフェで会った時のこと」

~中略~

・北条加蓮「藍子と」高森藍子「膝の上で ななかいめ」
・北条加蓮「藍子と」高森藍子「じいっと見つめるカフェで」
・北条加蓮「藍子と」高森藍子「思い浮かべるカフェで」
・北条加蓮「藍子と」高森藍子「冬の始まりのカフェテラスで」

加蓮『なにかあったの?』


藍子から返信が来る前に、店員さんが抹茶ラテを持ってきた。1人分をお皿に載せて、私の顔をちらりと見て、それから私の正面、誰も座っていない空席を目の端で捉える。
私は苦笑する。遅刻、って言おうとして、遅刻って言うのはあんまりよくない言葉だなって気付く。けど代わりになる言葉がなくてぱちくりと瞬きをしていたら、店員さんは一瞬だけ目を瞑って一礼した。
去っていく店員さんの背中を目で追う。テーブルの真ん中手前側に置かれた抹茶ラテから渋い香りが漂ってくる。


藍子『すぐに向かいます!』


おや、と首を傾げて、たぶんスマフォを3回くらい見返した。
何か焦ってるっぽい?
それに、私は何があったのか聞いたのに藍子は答えてくれない。会話が成り立っていない。
そのことにちょっとムッとなって、指先に力を込めてメッセージを送ろうと思った。

薪が燃えて弾けるような音がする。
実際に薪を燃やしている訳ではなくて。そういう音楽が流れてる。
いわゆるヒーリングってヤツ。本能が落ち着く音とか映像が収録されたもの、ときどきCDショップでも見かけるよね。
耳を澄ませば聞こえるかどうか、ってくらいの音が、耳ではなく肩から胸の辺りから入ってくる。胸中に生まれていた小さなイライラを鎮めてくれる。

加蓮『慌てなくていいよ?』


なんだかブラックなガムを噛んだ後のよう。想像だけどね。藍子にメッセージを送って、もうちょっと気の利いた言葉はないかなと思い返した。前に無愛想とか可愛くないとか言われたことあるし。
でも、ここでまた送信したら、藍子はスマフォに目を落とすよね。
歩きスマフォをする子じゃないし(実際、この前歩きスマフォ防止のキャンペーンに出てた)、もしかしたら急ぐ足取りを止めて、返信しちゃうかもしれない。
慌てながらもぴたりと立ち止まって律儀に返信する藍子。……うんうん。簡単に想像できちゃう。

軽くニヤニヤしていると返信が来た。急いで向かいます、という内容だった。

……うーん?
藍子が焦っていると、なんだか私まで左足のつま先で床を叩いてしまう。といっても、今やることなんて何もないんだけど。
誰も口をつけない抹茶ラテに目を落とした。左手でティースプーンを掴んで、大雑把に混ぜてみた。
わ。……これ、なんかいいかも。落ち着く。

音を立てないよう、ゆっくり、ゆっくり、ラテをかき混ぜて。右手ではテーブルにおいたスマフォを操作していく。
藍子の足を止めるのは気が引けるし、もしそれで藍子が30分よりも遅れてしまったらすごく申し訳ない顔をされるだろうけど、それでも何かメッセージを送ってみたかった。

そうだね……。でも、何を送ろうか。
伝えたい言葉も、話したい話題も、藍子の顔を見てからにしたい。スマフォのメッセージのやりとりってちょっと機械的過ぎて、嫌いじゃないけど好きでもないんだよね。当然使うことは使うけどさ。
当たり障りのない十数文字を入力して送信、メッセージアプリごと落として、だけど少しして、いつものカフェに1人ってことに落ち着かなくなって、またアプリを開いて、
――寂しくなった口元を誤魔化すように、ちょっと冷えた抹茶ラテを一気に飲み干した。途端にお腹の中に異物感が広がっていって、思わず咽そうになった。口を手で抑えて、唇の端から息を吐くように軽く咳を出す。うん、大丈夫。

そしてまたスマフォに目を落とす。藍子から返信が来ている。


藍子『時間を忘れて』


……?
高森藍子さん。これはどういう意味なのでしょうか?
30分待つ為の時間を忘れて何かに夢中になれ、ってこと……じゃ、ないよね。
でも、何を忘れてほしいんだろう……?
あぁ。もしかして、時間を忘れて何かをしていたから遅刻をしたっていう弁明……なのかな。これ。

何してたんだろ、という好奇心と、藍子の心境を読み取ることができた、という満足心が同時に浮かぶ。そしてよく考えればそれは私の勝手な想像で、私は藍子のことなんてなんにも分かってないのかもしれないけど、いつも2人でいる空間で、1人で後ろ向きになるのが嫌で首を振った。
わざとティースプーンで音を立ててみたりして。だけど一度開けた心の扉から、じわりじわりと疑念がせりがって来る。

私は藍子のことを分かってる。私は高森藍子のことを理解している。
本当に?

……うん。自信、ないんだよね。

加蓮『夢中になってた? 何かしてたの?』


藍子と一緒に長い時間を過ごした。これからもきっと、ずっと一緒にいられる。いたいって思ってる。
だけど私は藍子のことについてあまり自信がない。知っていることは知っている。知識があるのに不安――まるで学校の定期テストみたい。赤点を回避できればそれで十分。そんなことに悩まなくても私は楽しく過ごせているし、藍子だって笑っているんだから全然オッケー。もしかしたらその隣では80点とか90点とか取っている人がいるかもしれないけど、人と比べるなんて馬鹿馬鹿しいもんね。
テストなんて面倒なことを憂慮するより、他のことをしてる方が楽しいじゃん? ほらさ、カフェに行ったり、たまに家に遊びに行ったりさ。

……そうやって表では笑って、だけどこうして1人になるだけで、馬鹿じゃないの、と侮蔑の心が浮き上がってくる。
藍子とのことはそれじゃ駄目なの。どうでもいい学校のテストなんかじゃない。100点じゃないと駄目。
そして今の私が何点か気付くことはできない。だから私は不安になる。
藍子は私のことを分かってくれてる。私は、藍子のことを分かってあげれてるの?
この世界で高森藍子という人間のことを一番理解しているのは私だって、一番好きなのは私だって、胸を張って言える?

カップを傾けようとして、抹茶ラテはさっき一気飲みしたことを思い出した。ちょっとくらい残しとけばよかった。
店員さんを目で追うけど、こういう時に限って店内にいない。たぶん他のお客さんの注文に対応する為にキッチンにいるんだと思う。
誰かに縋ろうとしたけど、今一番いてほしくて、そしていてほしくない人はここにいない。最近増えたお客さん2人も、今日はいない。
いっそ顔も名前も知らない人に話しかけてやろうか。……なんてね。さすがにそこまで人に飢えてない。

目の前の問題から遠ざかって、私って馬鹿みたい、と嘲笑を浮かべた。たった1つのこと、藍子の遅刻理由だけで、なんで変な汗をかいてるんだか。
藍子はきっと笑ってくれる。例え不安に思ったとしても、私がいますから――そう言ってくれる。
藍子を信じることはできる。喧嘩しても、意見が違っても、私が間違った道を行ったとしても、藍子は私の真正面にいてくれる。
それを確信できてるのに、私はとっても不安なの――

私って、最後に藍子の為に何かしてあげたの、いつだっけ?

カフェでのLIVE――ううん、例の2人組を呼び出す作戦を考えて、実行する時にもサポートしてあげて。いやいや、それよりも後だって。藍子の話を聞いてあげて。色々やってる。色々やってるじゃん、私。
でも話してるのは私の方ばっかり。

テーブルに突っ伏せてしまいそうになったけど、今視界を閉ざすのは危ないと思ったから、左手で頬杖を作って顔を支えた。
心地いい薪の音が聞こえてくる。……ちょっと落ち着こっか、私。
だってここは素敵な場所。心に浮かんだ不安も、疲れも、時間をかけて取り除ける場所。藍子の大好きなカフェ。

藍子から返信が来た。


藍子『行ったらお話します』


加蓮「なーるほど?」

あっ。つい声に出ちゃった。あと今の私、すっごい悪い笑みを浮かべてる。カップに映る水面はもうないけど、分かる。
そーいうことするんだ。藍子ちゃん。そういうことするんだ? 焦らして待たせるなんて悪い子だねー?
まっ、加蓮ちゃんには効果てきめんだよ。お陰で訳の分からない不安がお腹の下の辺りからせり上がってきて、頬杖の為の左手、薬指と小指の先が震えちゃってるんだから。

何に不安を抱いているのか分からなくなっちゃった。
藍子のことが理解できているかどうか? 藍子の為に何かしてあげられるかどうか? ……思ったんだけど、どっちもなんていうか、馬鹿馬鹿しいよね。
藍子のことが分からないなら、今みたいに藍子から聞けばいい。藍子が何かしてほしいって言ってもないのに、余計なお節介を焼く必要もない。点数が足りないなら一緒に解答欄を直せばいいだけだよね。
藍子のことが好きだって胸を張って言えないのなら、たとえ真心じゃなくてもいい。「好き」って言い続ければいいだけのこと。点数の桁なんて私が勝手に増やしてしまえばいいんだ。

空のカップからティースプーンを取り出し、テーブルの隅のナプキンを軽く折りたたんで、濡れた側の枕にして置く。浮かべた笑みがちょっと歪んでいたので、自分で右頬を軽くつねった。


加蓮『じゃあ楽しみにしとくね?』


私が送るべき返事はこれだ。既読がついて、それから藍子が返信してくることはなかった。
店員さんが、空のカップを下げにやってくる。私と目が合って、不思議そうに首を傾げられる。藍子がいないのに楽しそうな私に疑問を持ったのかな?


加蓮「好きな子のことを好きだって改めて思う時間って、すっごく幸せにならない?」


店員さんは緩やかに頷いた。彼女が手を伸ばす前に私から空のカップを渡し、それから私は顔を窓の外へと向けた。
最近、店員さんとはそこそこ仲良くなったつもりだ。でも今の私の顔を見せていいのは、この世界に1人しかいないから。

やがてカフェの出入り口が開く。早歩き気味でちょっと息を荒くした、私の大好きな子がやってくる。


藍子「お待たせしましたっ……ごめんなさい、加蓮ちゃんっ!」

加蓮「ふふっ。いいよ。楽しく待てたから」

藍子「楽しく、ですか?」

加蓮「だけどちょっと不安になりながら待ってたかも」

藍子「どっち~っ? ええと、その……」

加蓮「いいから。ね? 教えてよ。なんで遅れちゃったの?」

藍子「うぅ。怒らないで聞いて――……? あれっ?」


藍子は私の目を見て、一瞬だけ首を傾げてから私が怒ってないことを即座に見抜いた。そして、私も藍子のそんな心境変化が分かった。
そのことが嬉しかったし、なんとなくがっかりもした。分かっていないのなら聞けばいいけど、分かっているなら聞かなくてもいいから。

100点満点を取るより、80点くらいを取ってあとから直していく方が楽しいのかもしれない。
おっかしー。昔の私なら絶対こんなこと考えてないよ。

加蓮「はぁ? 怒りまくってるけど。目の前でポテトの最後の1本を取られた時の100倍くらいは怒ってるけど」

藍子「ぜんぜんそう見えないけれど……でも、はい。分かりました。お話しますねっ。私、お仕事の関係で雑貨屋さんに行っていたんですけれど――」


代わりに藍子の話に耳を傾けることにした。雑貨屋で可愛い小物を見つけたこと、お仕事用に使う物を3択まで絞ったけど決めきれなかったこと。悩んでいる間の気持ちまで、藍子はすごく細かく解説してくれて、まるでリアルタイムの映像を見せてもらっているみたいだった。

話し終わった時には藍子が来てから1時間半も経過していて、未だ藍子が何も注文していないことに気付いて、私と藍子は申し訳ないと思いつつも、顔を合わせて微笑んだ。


……。

…………。

――おしゃれなカフェ(別の日)――

加蓮『ごめん少し遅れる すぐ行くね』


藍子(急がなくても大丈夫ですよ、と書いて、ゆっくり来てくださいね、と付け加えました。加蓮ちゃんが転んでしまうと、いけないから)

藍子(なにか、あったのかな? 今日は加蓮ちゃん、少しだけ遅れて来るようですね)


さて、どうしようかな?

学校で使っているものとは違う、最近、メモやお絵かきに使っているノートを取り出します。
白紙のページを開いて、かばんからシャープペンシルを探して。
それから、ちょっと気になったことがあったので、「加蓮」と書いてみました。むずかゆかったので、「ちゃん」と付け足しました。

最近、よく見るようになった2文字です。
「かれん」……「ちゃん」。
「かれんちゃん」という言葉はよく聞くけれど、最近は文字としてもよく見るようになりました。

かばんの別のポケットを開けて、この前いただいたファンレターをいくらか取り出します。……ああ。はしっこのところ、ちょっぴり折れちゃってる……。
入れておいたファンレターは、ぜんぶで3通。1通目は、ずっと前から私を応援してくださっている男性の方のもの。とても丁寧な文体でLIVEやロケの感想を細かく書いてくださる方で、じっくり読むとなんだか照れてしまいます。
2回3回くらい読み直した内容の文字だけに目を通していきます。最後から2行目、文頭を開けて始まる文章に加蓮ちゃんの名前が書いてあるのを見つけて、ちいさく息を吐きました。

藍子「……あっ、店員さん♪ こんにちは」


注文していたホットココアを、店員さんが持ってきてくださいました。受け取ると、店員さんは目だけを私の向かい側に向けます。


藍子「加蓮ちゃんは、もうちょっとしたら来ますよ」


苦笑いされてしまいました。
それから、お邪魔にならない程度に少しだけお話をします。最近、流行っているスイーツの話題や、クリスマスの限定メニューがまだ決まっていないこと。
他のカフェのお話をした時、なんだか少し寂しそうに目を落としていたのは、気のせいだったのかな……?

店内に流れる音楽が途切れるのと同時に、店員さんは一礼して去っていきました。
去っていく店員さんの背中を、目で追います。テーブルの真ん中手前側に置かれたココアから、甘い香りが漂ってきました。

しばらくすると、流れる音楽の種類が変化します。自然の音によるヒーリングソングから、オルゴールのアレンジソングへ。
これ、どこかで聞いたことがある――なんて耳を澄ませて、曲名を思い浮かべるのと同時に、時計の針が大きな音を立てました。
1時を示す穏やかな音楽は、オルゴールアレンジのポップとは少しズレてしまって、楽譜を知らない子どもが演奏する曲のようになってしまいました。
カウンターの向こうで、店員さんががっくりと項垂れています。新しい試みは失敗に終わってしまったようです。

店員さん、ドンマイです。次に来た時に、綺麗に合った音が聴くことができるといいな。

わずかに湯気がたちのぼるカップ。目を閉じると、鼻の少し下のところを香りが通っていくことがよく分かります。
少しだけ口から息を吐き出して、私はティースプーンを手に取りました。

左手でかき混ぜながら、右手で2通目のファンレターを取り出します。最近、よく握手会に来てくださる女性の方。アウトドアが趣味で、お散歩好きなところに共感して私を見つけてくださったそうです。
この方は1行目から加蓮ちゃんの名前を書いていました。ちょっと前に私と加蓮ちゃんで簡単な動画を撮った、私たちの日常のことについて綴られています。
藍子ちゃ――私の話す加蓮ちゃんのお話が楽しかったこと、もっと聞きたくなったこと。そして、次のLIVEにも絶対来てくださるそうです。楽しみっ。

あっ。加蓮ちゃんからのメッセージです。


加蓮『信号ウザい!』


……あはは……。右足で床をげしげし踏みながら、手をぐーぱーして、少しだけ歯噛みしながら荒く息を吐く加蓮ちゃんの姿が思い浮かべられますね。
ゆっくりでいいですよ、って、もう1回送りました。私のために急いでくれているのなら、それは嬉しいことですけれど、でも焦らなくてもいいのに。
それとも、もしかしたら加蓮ちゃん、すっごくお話したいことがあったりするのかな?
……もしかして、早く私に会いたい、って思ってくれているのかも。

シャープペンシルを握ります。さっき「加蓮ちゃん」とだけ書いたノートに何かを書こうと思って、けれども何も思いつかなかったので、なんとなくぐるぐる線を描いてみました。
それから、ノートの隣に3通目のファンレター……これは知らない方からです。握手会でお話できるかな? まだ顔を見たことのない方のファンレターを、並べて置いてみます。
「加蓮ちゃん」という文字が隣に並びました。文字の形はぜんぜん違うけれど、同じ意味の2文字。

最近、よく見るようになった2文字です。


加蓮『寒いー』

藍子『コーヒーとココア、どちらがいいですか?』

加蓮『ココアの気分』


どうやら加蓮ちゃんは私と同じ気持ちみたい。私と加蓮ちゃん、ときどき違う考えになっちゃって、そのたびにいっぱいお話することになりますけれど……こうしてたまに息が合うと、嬉しくなっちゃう。

できれば加蓮ちゃんを待ってあげたかったけれど、カップの湯気はもう見えなくなってしまいましたから。
半分くらいを一気に飲んでしまいます。甘くとろけた感触が全身に行き渡っていきます。少し内側に寄っていた両足を軽く伸ばして、そうしたら体がほかほかとしてきました。
弱暖房の風が首筋を流れていくので、ジャンパーを脱いでみました。途端に温かみがぜんぶ外へ逃げていってしまって、慌てて羽織り直します。ボタンを留めた後、手にほんの僅かに金属の感触が残ってしまいました。指先をこすり合わせて、静電気が少し怖いので、てのひらで長椅子に触れました。


藍子「……加蓮ちゃんを」


「加蓮ちゃん」という文字を、よく見るようになった意味。
私と加蓮ちゃんが、よく一緒にいること、ファンのみなさんも、それを知っているってこと――という意味も、あるかもしれませんね。モバP(以下「P」)さんも、それに合わせてお仕事を持ってきてくださいます。
お仕事の現場や、ラジオの収録、LIVE中のMC。それぞれの場所で、「加蓮ちゃん」と口にするのと、ここで「加蓮ちゃん」って呼ぶ違いに、もう慣れてしまうくらいに。

でも、きっとそれだけじゃない。


藍子「加蓮ちゃんを……」


誰も聞いてないよね? 1回だけでは足りなくて、2回、3回も確認します。スマートフォンは、着信を告げていません。


藍子「知ってる方も、見ている方も、……愛している方も」

ノートの「加蓮ちゃん」の文字の横に、「好きな」と書いて、そうしたら一瞬で体がすごく熱くなっちゃったので慌ててシャープペンシルで何度も横線を引きました。誰も見てないって知ってるけど思わず立ち上がってしまって、引き結んだ唇の両端から体温が漏れていくのを感じます。体は熱いんですけどジャンパーの服と体の間のスペースを埋めるように自分で自分を抱きしめる形になってしまいました。
おちつこう……。まずは落ち着いて、座ってから。手からは力を抜いて。少し乱れてしまった服は直して。最後にほっぺたを手で叩いて、息を大きく吸って、吐いて。ちいさく咳払い。

線がぐしゃぐしゃに引かれたページを勢いづけてめくり、また「加蓮ちゃん」と文字を書き、今度は先に「人」って置いて、それからその左隣に、「好きな」と付け加えました。

ほんの少しだけ、窓の外の日差しが陰りました。


藍子「見ている方は、こんなにたくさんいるのだから――」

ページをまた1枚めくります。逃げた先に自由の場所があった時のように、好きなことを書ける白紙が出迎えてくれます。
また加蓮ちゃんの名前を記して、それから「知っている人」と足して。唇の先に薬粒を押し当てたような苦さが生まれて、そうしたら、そのタイミングで加蓮ちゃんからのメッセージが来て……。
5秒だけ。間を置いてから。スマートフォンへと手を伸ばしました。


加蓮『あと5分!』

藍子『焦らなくても、大丈夫ですよ』


返信を送り終えると共に、なんだか何かをやり終えたような気持ちになりました。心の四隅に生まれた薄灰色の靄も、窓から外の日陰も、きれいさっぱり消えてしまっています。
荒く書いた「知っている人」に、力を抜いた手で二重線を引いて、「好きな人」と書き直します。
1.5文字分のスペースを空けてから「いっぱい」と書くことに、抵抗はありませんでした。

残り半分のココアの、さらに半分を口に運びます。ほのかな暖かさと甘さに、身を委ねます。

最近、加蓮ちゃんが可愛くなった、と色々な人が言います。アイドル仲間のみなさんとか、Pさんとか、ファンの方、あと、お母さんも。
お母さん、加蓮ちゃんがよく泊まりに来るようになってから、テレビやスマートフォンで加蓮ちゃんの番組を見ることが増えたんですよ。1度だけ拗ねたフリをして、「私は?」って言ってみたら、私の出ている番組を録画した画面を見せられました。あれはけっこう恥ずかしかったなあ。

加蓮ちゃんが、可愛くなった理由。……なんて、もっと前からとても可愛い女の子ですけれど。
それでも、もし、ここのところ変化があって、それに理由があるとするなら。
見られること、そして愛されることに、加蓮ちゃんが慣れてきたから。
みんなに好きだと言ってもらえる自分を、認めることができたから――私は、そうじゃないのかって思います。

>>23 最後の行の後半部分、一部だけ修正させてください。申し訳ございません。
誤:「――私は、そうじゃないのかって思います。」
正:「――私は、そうじゃないのかなって思います。」


色々な方が愛してくれて、それを加蓮ちゃんが受け止めて、そうしたらまた加蓮ちゃんを愛する方が増える。そうやってどんどん広がっていく幸せの中に、今、加蓮ちゃんはいるんだって思います。
……両腿が、ちょっと熱くなっちゃった。
こらえきれずに笑い声。舌で舐める下唇は、さっきよりもほんのり甘い。嬉しい、って言葉が頭の中を駆け回って、身体の外にまで飛び出ようとします。
でも、さすがに相手もいないのに1人で言い続けてしまったら変な人なので、がんばってこらえましょう。

幸せが増えた加蓮ちゃん。
笑顔が増えて、可愛くなった加蓮ちゃん。
前に向かって歩き続けている彼女の姿を、ずっとずっと見ていたい。
広がっていく世界の隅々まで見渡して、もっと笑っていてほしいな――

1つだけ。

ファンレターをしまってから、スマートフォンもかばんのポケットへ入れて。残ったココアを、口の中でたっぷり味わってから飲み干して。最後に、開きっぱなしだったノートを閉じようとして、またなんとなく思いつきました。
右下のはしっこのスペース。ちょっと前、学校の授業中なのに落書きをしてしまったのと、同じ場所に加蓮ちゃんの顔をさっと描きます。
ただし、笑顔の加蓮ちゃんではなく……目を細め、眉を少し垂らし、悲しげな笑顔を浮かべる加蓮ちゃんの顔を。

1つだけ、気になること……気になること? う~ん。というよりも、そうなのかな? って思うこと……疑問に思うことがあります。

今の加蓮ちゃん――愛されることにちょっとずつ慣れていく加蓮ちゃんは、それと比例して可愛くなっていっています。それは間違いありません。
でも、加蓮ちゃんはもっと前から可愛くて、そして1人の女の子なんです。
昔は……色々な気持ちを閉じ込めて、世界を恨んでいたかもしれない、灰をかぶった女の子。
だけど今の加蓮ちゃんは、最初からどこかにいたような気がします。

今なら。今の加蓮ちゃんなら……向かい合えるんじゃないかな。

あの子が灰色の牢獄と喩える、昔の――

加蓮「お待たせっ」

藍子「……あっ。加蓮ちゃん。こんにちは♪」

加蓮「ごめんね遅くなって? こんにちは、藍子。……って、なんか考え事?」

藍子「ふふ、ちょっとだけ。加蓮ちゃんを待っている間に、加蓮ちゃんのことを考えていました」

加蓮「えー私のこと? なになに――いやごめん、なんかそれ聞かない方がいいことな気が……。でも気になる……。藍子が私のどんな悪口を思い浮かべてたのか――」

藍子「悪口じゃないですっ。確かに、いつもはあまり考えないことかもしれませんけれど、悪口ではないです!」

加蓮「ふふっ。なんてね。店員さーんっ。こんにちは。ココア1つお願いー」


ひとかけらの雲は、加蓮ちゃんがやってくるのと同時に散っていきました。店員さんとのやり取りでもまた笑顔が増えた加蓮ちゃんを見て、思わず頬を緩めながら――
私は、ファンレターをまた取り出しながら、テーブルに広げていきました。


藍子「加蓮ちゃん。これ、ファンの方から頂いたファンレターなんですけれど。ほら、ここ。ここっ」

加蓮「おー、相変わらず順調じゃん……え、待って、なんか私の名前入ってんだけど。これ藍子宛てのだよね?」

藍子「そうなんですよ~。最近、私のファンレターによく、加蓮ちゃんの名前が入るようになって――」


心の奥底から生まれたちいさな思いつきは、石ころの下へ。

私がお話したり、加蓮ちゃんがお話したり、そんな時間がまた始まります。



【おしまい】

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