「いよいよ明日だな、ドラ子よ」
「はい、お父様!」
マルフォイ家の一人娘、ドラ子・マルフォイはホグワーツ入学を明日に控え、不安と期待が入り混じった複雑な心境で父から訓示を頂いた。
「今更言うまでもないが、マルフォイ家の名に恥じぬよう、勉学に励むように」
「はい! しかと心得ました!」
「魔法薬学を担当しているセブルス・スネイプと私は旧知の仲だ。何か困ったら頼るように」
「はい! わかりました!」
ホグワーツへの入学が決まってから今日に至るまで、ドラ子の父、ルシウス・マルフォイは一言一句全く同じ訓示を何度も繰り返していた。
隣で聞いていたドラ子の母、ナルシッサ・マルフォイはそんな夫に苦笑しつつ口を挟んだ。
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「あなた、ドラ子なら大丈夫ですよ」
「ええい! お前は黙っておれ!」
「そんなに我が子が信用出来ませんか?」
「お前は自分の娘が心配ではないのか!?」
「私達の娘ならきっと上手くやれますよ」
「し、しかし、もし虐められでもしたら……」
これまで何度も繰り返されたマルフォイ夫妻のこのやり取りからもわかる通り、目に入れても痛くないほどに可愛い愛娘を溺愛しているルシウスはかなりの子煩悩であり、娘が学校で上手くやっていけるのか、心配で堪らなかった。
無論、ナルシッサとて心配していないわけではないが、男親と違い女親は肝が座っていた。
「とにかく、私からあなたに言いたいことは、明日のお見送りは駅までということだけです」
「そ、そんなことはわかっておるわ……」
「では、どうして朝から馬車の手配を?」
「え、駅まで娘を送る為に決まっておろう!」
「それなら構いませんが、あなた、よもや学校まで乗り込むつもりではありませんよね?」
「な、何をわけのわからないことを……」
「初めてホグワーツに向かう新入生達の輪に入り、汽車の旅の中で出会う友人は娘の一生を左右する大切なものとなる筈です。あなただって、そのくらいはわかっているでしょうに」
「わ、わかっておるわ! そのくらい!」
「ならば、話はこれでおしまいです。ドラ子、良き友人と巡り会えるよう、母は祈ってます」
「はい、お母様! 汽車の旅を楽しみます!」
「待て待て! 勝手に話を終わらせるでない! 最後に私から、もっとも重要な話があるのだ」
妻に痛いところ突かれ、企みを看破され、上手いこと話を締めくくられて、すっかり蚊帳の外に追いやられたルシウスは慌てて母子の間に割って入り、これまで触れてこなかったとある懸案事項について、娘に伝えておくことにした。
「もっとも重要な話とは何ですか、お父様?」
キョトンと首を傾げるドラ子の肩から、父親譲りの美しいプラチナブロンドの髪が、まるで銀糸のような輝きを放ってサラサラと流れた。
母親譲りの青白く尖った顎が特徴的な顔立ちは一見すると冷たい印象を見るものに与えるが、好奇心に輝く瞳は年相応な愛くるしさを放っており、そんな魔法界随一の美少女である愛娘に対して忠告めいたことを口にするのは父としては大変心苦しかったが、何よりも娘の為にこれだけは言っておかなければならなかった。
ルシウスは貴族然とした高貴な威厳を放ち、情けない父親の素顔を隠して、重苦しく告げた。
「かつて、魔法界には闇の帝王が君臨しておったことは、まだ若いお前とて知っておろう」
「はい……存じております」
「あなた、そのお話は……」
「黙っておれ」
先程とは違い、真剣な声音で口を挟んだ妻を黙らせると、表情を強張らせた娘に尋ねた。
「では、その闇の帝王の手から逃れた、生き残った男の子についてはどこまで知っておる?」
「たしか私と同い歳であったと記憶してます」
「そうだ。そして私が集めた情報によると、その子供も明日、ホグワーツに入学するらしい」
「そ、それは真ですか、お父様!」
生き残った男の子。
闇の帝王が放った死の呪文を跳ね除けた際に、額に稲妻の傷を負ったと言われている。
魔法界においては伝説のような存在だった。
そんな男の子と同じ学校に入学して共に机を並べられることにドラ子は興奮を隠し切れない。
「これドラ子、浮き足立つではない」
「あぅ……も、申し訳ありません」
急にそわそわし始めた娘に嘆息して窘めつつ、ルシウスはその子供の危険性に言及した。
「長い魔法史において死の呪文を跳ね除けた者はその小僧しかおらん。極めて危険な存在だ」
「そうでしょうか……?」
「用心するに越したことはない。とはいえ、悪戯に刺激するのは悪手だ。さあ、どうする?」
マルフォイ家の一人娘であるドラ子は貴族としてのやり方を教え込まれており、父からの問いかけに対して、すぐに答えを導き出した。
「味方に引き込むのが上策、でしょうか?」
「そうだ。もし敵対するようなら排除しろ」
「はい、お父様。マルフォイ家の名にかけて」
味方となれば良し。でなければ、即刻排除。
それが貴族のやり方でありそれしか知らない。
恭しく父に一礼してドラ子は気を引き締めた。
あくる日、ホグワーツに向かう汽車の中にて。
「お前がハリー・ポッターか?」
号泣して暫しの別れを惜しむ父と、そんな情けない夫の背を撫でつつ車窓から身を乗り出して手を振る娘に手を振り返す母との別れを終えて、ドラ子は列車を隈なく見て回った。
そして赤毛の男の子と癖っ毛の女の子と座席を共にする黒い髪の男の子を見つけ、父より伺っていた外見的特徴に一致していたので尋ねた。
ドラ子としては普通に声をかけたつもりだったが、教え込まれた貴族としての尊大な振る舞いと冷たい印象を与える雰囲気から、ハリー・ポッターと思しき少年は警戒したらしく。
「だったら、なんだよ」
そんな好戦的な返事をされてドラ子は焦った。
最初から印象が最悪だ。敵対は避けたいのに。
しかしあまりにも無礼な態度ではなかろうか。
互いに子供とはいえ、女から声をかけたのに。
いやいや、ここはひとまず冷静に。
そう、まずは相手の油断を誘おう。
親切心を装い、懐に入るのが貴族。
「ポッター、友達は選んだ方がいい」
「どういう意味だい?」
「いいから、私のコンパートメントに来い」
これならそう簡単には断れない筈だ。
何せ女から誘われたのだ。受けるのが当然。
しかし当然ながら貴族の常識は通じなかった。
「悪いけど、友達は自分で選べるから」
ポッターが返したのは、冷たい一言だった。
ドラ子は耳を疑った。そして言葉を失った。
女の自分から勇気を出して声をかけたのに。
そしてあまつさえ、個室にお誘いしたのに。
なにがなんだかわからなくて、ただ悲しくて。
「ど、どうして、そんなに冷たくするの……?」
わけもわからずに、ドラ子は泣いてしまった。
「ハリー! 君ね、いくらいけ好かない奴だからって、女の子を泣かせるのはよくないよ!」
「そうよ! 謝りなさい!」
「ええっ!? ご、ごめん! ほんとごめん!」
それまでの高飛車な雰囲気は消え失せて年相応な少女のように泣きじゃくるドラ子を見て、ロナルド・ウィーズリーとハーマイオニー・グレンジャー双方から非難の声があがり、ハリーは慌ててドラ子に謝罪するも一向に泣き止まず。
「ほら、蛙チョコあげるから泣かないで」
「ふぇええええんっ!」
「ハリー、君ってやつは罪な男だね」
「とにかく、その子のコンパートメントに行ってみたら? あなたに用があるみたいだし」
車内販売で購入した蛙チョコで機嫌を伺うも効果は見られず、途方に暮れたハリーにロンは呆れ、ハーマイオニーが解決策を提示した。
「でも、僕は君たちと一緒に……」
「なぁに、すぐにまた学校で会えるさ」
「そうよ。だからその子の話を聞いてあげて」
難色を示すと常日頃から能天気なロンは気さくに再会を約束して、世話焼き気質のハーマイオニーに再び促されたので、仕方なくハリーは座席を立ち、泣きじゃくる少女に声をかけた。
「えっと、君のコンパートメントはどこ?」
「……こっち」
「わかった。僕も行くよ。ちなみに名前は?」
「ドラ子……ドラ子・マルフォイ」
「ドラ子か。これからよろしくね」
「……うん」
そんな一悶着がありつつもなんとかハリー・ポッターと接触することに成功したドラ子は、ひゃっくりをしつつ鼻をぐずらせながら、彼のローブの端を摘み、自らのコンパートメントに連れ込んだ。ちなみに残された2人はというと。
「おいおい、嘘だろ。今のがマルフォイ家のお姫様なんて! 信じられない! パパの嘘つき!」
「あらあなた、あの子と知り合いだったの?」
「マルフォイの父親はパパの職場の同僚なんだよ。とんでもないブスだって聞いてたのに!」
「それがあんな美少女だと知った途端に目の色を変えるなんて……男の子って、ほんと単純ね」
ドラ子のあまりの可愛らしさに打ちひしがれたロンを見てハーマイオニーは深々と嘆息した。
「ひっく……えっく……」
「あのさそろそろ泣き止んでくれないかな?」
場面は変わりドラ子のコンパートメントにて。
未だひゃっくりを繰り返すドラ子にどう接していいのかわからず、ハリーは困っていた。
非魔法使い族であるマグルの叔父と叔母に育てられたハリーはその身に宿る魔法使いとしての潜在能力を気味悪がられ、世間体を気にした措置として家の外にあまり出して貰えず、それが理由でこれまで友人を作れずにいた。
もちろん同い年の女の子と接するのもほとんど初めての経験であり、当然泣かせた経験もなく、どうすればいいか見当もつかなかった。
そして奇しくも、そんな彼の心境はドラ子にも当て嵌まっており、箱入り娘として大事に育てられたマルフォイ家の姫君も同い年の友人がおらず、父の友人の子供であるクラッブとゴイルが家にやってきた際にも媚びを売る彼らを冷たくあしらい出禁にした経緯があった。クラッブとゴイルはドラ子のタイプではなかったのだ。
とはいえ、ハリー・ポッターは別だ。
彼はクラッブやゴイルとは全然違った。
少し痩せすぎだけど、可愛い顔をしている。
そして何より、どことなく物憂げで儚い。
そんな表情に、自分と通ずるものを感じて。
ドラ子はこの子なら友達になりたいと思った。
そう、そのためにコンパートメント呼んだ。
そしてその企みは、今のところ順調である。
ドラ子はだんだん、自信を取り戻してきた。
そうだ。自分は成功したのだ。自信を持て。
自分はハリー・ポッターの身柄を押さえた。
思わず流した涙も、立派な手段だったのだ。
むしろ、わざと泣いたと言っても良かった。
ハリー・ポッターの気を引く為に嘘泣きしたのだと思い込むことにしてドラ子は自らの先程の醜態をなかったことにした。女の特権である。
鼻をかんで、涙を拭い、ドラ子は口を開いた。
「ハリー・ポッター」
「ハリーでいいよ」
「そ、そう? では、ハリー」
やや気恥ずかしいが、ドラ子は尊大な口調で。
「あなたをこの私の家来にしてあげるわ」
「遠慮しとく」
「ええっ!?」
調子に乗ると冷たくされるとドラ子は学んだ。
「ど、どうして家来になってくれないの?」
「僕には君に従う理由がないからね」
面食らって尋ねると、さらりと回答された。
「わ、私の家来になれば色々とお得よ?」
「たとえば?」
「実家がお金持ちだから色々融通が利くわ!」
「へーそりゃすごい。でも僕、お金には困ってないんだ。なんか両親が貯めててくれてさ」
お金で忠誠を買おうとするもハリーはポケットに無造作に突っ込んだガリオン金貨を出してみせて、その黄金の山に取りつく島もなかった。
「あなたの両親って、その……」
「うん。どっちも死んじゃってるから、だからこれは遺産ってことになるのかな。僕もつい最近知らされてあんまり実感がないんだけどね」
金貨を再びジャラジャラとローブのポケットに突っ込みつつ、またあの儚げな表情を浮かべるハリーを見て、ドラ子はなんだか胸を締め付けられるような、切ない奇妙な感覚を抱いた。
「あの噂って、本当なの?」
「噂? ああ、闇の帝王がどうのってやつ?」
「偉大な闇の帝王を本当に打ち負かしたの?」
「ヴォルデモートは偉大なんかじゃない」
貴族の仮面が剥がれ落ち、持ち前の好奇心が顔を覗かせたドラ子はついつい興味本位で噂の真偽を追求したのだが、唐突にその名を口にされてぎょっとして、大いに慌てふためいた。
「そ、その名前を口にしてはいけないわ!」
「なんで?」
なんでと尋ねられても困る。そういうものだ。
「とにかくあの人の名前は言っちゃダメ!」
「だから、なんで?」
「なんでもよ!」
「皆、その例のあの人に怯えているんだろ?」
それは当然だ。ドラ子だって怖い。
ドラ子の父や母ですら怯えている。
魔法界に住む者は亜人ですら恐れる存在だ。
「でも、僕は怖くない」
きっぱりと、微塵も揺らがずに彼は言った。
名前を恐れないと。不敬であり不遜そのもの。
けれど、何故だろう。不思議と胸が高鳴った。
この男の子ならば、あの人を破った彼ならば。
名前を言ってはいけないあの人を越えられるのではないかと、そんな馬鹿なことを思った。
「あなたは傲慢なのね」
「君ほどじゃないさ」
率直に所感を述べると、即座に言い返された。
「私は身の程をわきまえているわ」
当たり前だが、貴族には明確な序列がある。
マルフォイ家はその中でも上位ではある。
けれどあのお方には、逆らうことは出来ない。
どう足掻いても不可。絶対且つ圧倒的な支配。
ドラ子はそんな世界の端に存在していた。
「上位者には逆らえないの」
「上位者って、たとえば?」
「そうね、わかりやすく例えるなら学校の先生とでも言えば、あなたにもわかるかしら?」
すると、ハリーは納得しつつも、不満げに。
「でも、先生にも良い人と悪い人がいるよ」
「だとしても、逆らうことは許されないわ」
きっぱり反論を切り捨てるも、彼は納得せず。
「だけど僕らには自分の意思がある」
「だから、意思ではどうにもならないのよ」
「誰に従うかくらいは自分で決められる」
それはまるで子供の駄々。けれど至言だった。
「もちろん学校の先生に対して面と向かって反抗することはよくない。けれど、どの先生に本当の忠誠を誓うのかくらいは自分で選びたい」
「本当の、忠誠……?」
「それは僕らの自由だ」
思わず聞き入ってしまった。
政治にも携わっている父に聞かせたいくらい。
同い年の男の子の演説はドラ子の胸を打った。
「……あなたはやっぱり傲慢ね」
「君は思ったよりも素直みたいだね」
素直というか、単純というか。それでも。
はいそうですなんて、認められないけれど。
ドラ子が影響を受けやすいことは確かだった。
「ねえ、さっきの人たちだけど……」
「ロンとハーマイオニーのことかい?」
「あまり、親しくなるのはお勧めしないわ」
ドラ子は不思議だった。完全に無意識である。
自分の口が勝手に動いているみたいだった。
とにかく、彼を自分の傍に置きたかった。
その為には彼らが邪魔だった。故に排除する。
それが貴族のやり方でそれしか知らなかった。
「ドラ子、さっきも言っただろう? 僕は自分の友達は自分で選ぶって。忘れたのかい?」
「でも、片方は穢れた血だし……」
俄かにハリーの機嫌が悪くなったことに焦り、つい侮辱的な言葉を口にすると追求された。
「穢れた血? それって誰のことだい?」
「ハーマイオニー・グレンジャーのことよ」
ハリー・ポッターを含め同級生についてはルシウスが調べあげており、ドラ子に伝えていた。
その中でもマグルの両親の間に生まれたハーマイオニー・グレンジャーは特異であった。
穢れた血の癖に純血を凌駕する才覚を持ち合わせているらしく、ドラ子は気に入らなかった。
「穢れた血って、どういう意味だい?」
「両親がマグル生まれの魔法使いのことよ」
「どうして穢れた血と呼ばれるんだい?」
「純血の血を薄汚いマグルの血で汚すから」
今や、血統書付きの純血の魔法使いは少ない。
それは全て、グレンジャーのような穢れた血が魔法界で大手を振って歩いているからだ。
まだ隅で隠れるように生きているならばいい。
しかし、ハリー・ポッターと同席は許せない。
「だから穢れた血なんかと親しくしないで」
けれどハリーは全く興味なさそうな顔と声で。
「僕は血統なんかで友達を選んだりしない」
純血至上主義者ドラ子の価値観を、否定した。
「なんで血統の重要性を理解してくれないの」
「純血だったら魔法を上手く扱えるのかい?」
「そりゃあ、もちろん……」
「でもハーマイオニーは僕の眼鏡を直したよ」
どうやらグレンジャーはハリーに対して貸しを作っていたらしい。ドラ子の苛立ちが募る。
「私だって、そのくらい直せるわよ!」
「でも、僕には直せない」
「だってあなたはまだ教わってないから……」
「この先、僕がハーマイオニーよりも魔法が上手くなれるかはわからないけれど、現時点では彼女が僕よりも遥かに優秀なのは間違いない」
ハリーの言うことは、紛れもなく事実だった。
ドラ子は必死に反論を探したが見つからない。
グレンジャーへの憎しみが増すばかりだった。
「だから、僕にはハーマイオニーが必要だ」
「……っ!」
もう限界だった。杖を手に取り、立ち上がる。
「どこに行くんだ?」
「……グレンジャーに決闘を申し込む」
目障りだった。この上なく。だから排除する。
「私が勝ったら、あなたを私のものにする」
「君が負けたら?」
「私は負けないわ」
自分は純血だ。その上貴族だ。名家の生まれ。
貴族の中でも上位のマルフォイ家の末裔だ。
穢れた血なんかに負ける理由などない。
「君は負けるよ」
「負けない」
「君は弱い」
「私は強い」
諭すハリーと睨み合うと、彼は静かな口調で。
「やめろ、ドラ子」
まるで、父のような威厳に満ちた声で命じた。
「僕の言うことを聞け」
「……はい」
私は弱かった。弱くて情けなくてまた泣いた。
「なんでまた泣くかな……そんなに怖かった?」
先程の迫力が嘘のようになりを潜めたハリーは困った顔をして、ドラ子の背中を撫でている。
彼は別に顔が怖いわけではなくむしろ可愛い。
それでも、有無を言わさぬ何かを持っていた。
それは恐らくカリスマ性のようなものだろう。
ドラ子は、そんなものを持ち合わせていない。
もし自分にそれがあれば彼を所有物に出来た。
けれどドラ子にはそれがなく、だから泣いた。
とても悔しいけれど彼の支配は心地良かった。
「あ、ほら見て、ドラ子」
「ふぇっ……?」
「お城が見えてきたよ。あれが学校かい?」
「はい……あれがホグワーツ魔法魔術学校です」
汽車の車窓から差し込む夕陽に目を細め。
涙で潤む視界に目を凝らして、城を眺めた。
これから自分達は7年間、あそこで学ぶ。
「ドラ子」
「はい、なんですか?」
「なんで敬語なのさ?」
何故と聞かれても困る。支配の継続を望んだ。
「とにかく、改めて、これからよろしくね」
「はい、よろしくお願いします」
ドラ子は頭を下げた。主君に対して、深々と。
『うーむ。これは難しい……どうしたものか』
ホグワーツに着いて早々、儀式が始まった。
帽子が決定する、恒例の組み分けの時間だ。
ホグワーツのクラスは各学年ごとに4クラス。
新入生達は毎年、学校の創設者の名前を取って、グリフィンドール、レイブンクロー、ハッフルパフ、スリザリンにそれぞれ分けられる。
ドラ子はもう既にスリザリンに選ばれていた。
マルフォイ家は代々スリザリンの家系であり、そのクラスに選ばれるということは血統の証明とも呼べる、大変名誉なことだった。
ちなみにロンとハーマイオニーはグリフィンドールであり、そして現在はハリーの番だった。
『ああ、困った。困ったのう……実に悩ましい』
「あの、どこでもいいので早くしてください」
ハリーは衆目を集めるのが好きではなかった。
ただでさえ自分はなんだか有名人らしいのに。
組分け帽子が悩むことはとても珍しいらしく。
生徒や教師達は、興味深そうに見入っていた。
『ほう! どこでもいいとな! それは真かな?』
「僕に向いているならばどこでもいいです」
たしかに早く儀式を終わらせる為に、頭の上で悩み続けている組分け帽子に対してどこでもいいとは口にしたが、適当に選ばれては困るので一応、適正のあるクラスと念を押しておく。
『なんじゃ、不安なのかね?』
「それはまあ、少しは」
『案ずるな。君はどこででも成功するだろう』
果たしてそれは、気休めだろうか。
もし本当ならば、早く決めて貰いたい。
でも、両親を奪ったヴォルデモートは学生時代にスリザリンだったらしいと聞いていて、それはなんだかちょっと嫌だとハリーは思った。
『スリザリンは嫌かね?』
率直に言って、嫌だった。
出来れば避けたいのだけど。
ふと、広間で祈る銀色の女の子が目に留まる。
まるで神に祈るように、手を組み瞳を閉じて。
もしあの子が願うならば、構わないと思った。
『スリザリン!』
会場がどよめく。大方の予想を覆した。
闇の帝王を打ち負かした子供の行く末。
次代の王への恐れと期待が入り混じる。
そんな周囲の感情など気にも止めず、ハリーは呆然とした表情を浮かべてこちらを見つめる銀色の女の子の元へと、真っ直ぐに向かった。
「もし良ければ、隣に座ってもいいかな?」
「ふぇっ……は、はい。どうぞお掛けください」
ドラ子は目の前の光景が信じられない。
ハリーは両親をあのお方に奪われた。
それなのに今、彼は自分の目の前にいる。
「そんなに意外だった?」
「は、はい……何かの間違いかと」
「間違えて組分けされたらたまらないよ」
ハリーは冗談めかしてクスクス笑った。
ドラ子はそんな彼の笑顔に目を奪われた。
別段、ハンサムなわけではないけど惹かれる。
一番近くでもっとその笑顔が見たいと思った。
「さて、諸君! 宴を始めよう! 乾杯!」
その後のアルバス・パーシバル・ウルフリック・ブライアン・ダンブルドア校長の祝辞は全く耳に入らず、気づくと校長は語り終えていて、口調こそ朗らかではありつつも、話の最中
、終始全てを見透かすかのようなブルーの瞳が半月の眼鏡ごしに隣に座っているハリーを見つめ続けていたことだけはわかった。
そんな警戒しているのか観察しているのか判断がつかない視線を向けられていた当の本人であるハリーも校長に負けず劣らず、気づいていないのか、はたまた気づきながらも知らんぷりしているのか判断出来ない、とぼけた口調で。
「わあ! すごく美味しそうなご馳走だね!」
目の前に現れた豪勢な晩餐を見て喜んでいた。
「僕、こんなに満腹なの初めてだよ」
ハリーは少々テーブルマナーに疎いらしく。
ほとんど手づかみでガツガツ料理を頬張った。
注意するか迷ったけれど、出来なかった。
こんなにも嬉しそうな彼の機嫌を損ねたくはなくて、それでも頬についたソースが気になり。
「あの、もし良かったらナプキン使います?」
「ん? もしかしてほっぺについてる?」
「はい、これで拭いてください」
「ありがとう! これでキレイになったかな?」
ソースのついた方とは逆のほっぺを拭くハリーを見て、ドラ子はもどかしい気持ちとなり。
「こっちです」
「なんだそっちか。拭いてくれてありがとう」
思わず手を出して彼の頬を拭いてあげると、屈託のない笑顔で感謝を告げられて、ドラ子はもう別な意味で満腹になってしまった。嬉しい。
「吾輩がスリザリンの寮監のセブルス・スネイプである。授業は魔法薬学を担当している」
宴の後、新入生達はこれからの学校生活で家となる寮へと向かい寮監の教授の訓示を頂いた。
「本日より栄えあるスリザリンの寮生となった諸君らにわざわざ言う必要はないとは思うが、校則を破った者は速やかに実家へと送還する。さて、何故吾輩がそんな分かり切った説明をしているかと言えば、それはひとえに……」
スリザリンの寮監であるスネイプ教授はまだ幼い顔立ちの少年少女達を怯えさせるように脅し、嫌味たらしく嘲笑を浮かべて名指しした。
「ハリー・ポッター。諸君らもその名は聞いたことがあるだろう。我が寮に相応しくない者が紛れ込んだが故に、吾輩は訓示を述べている」
一斉に新入生達の視線がハリーに注がれる。
彼は真っ直ぐ、スネイプ教授を見ていた。
黙って、静かに、まるで観察するように。
その視線を受けて、スネイプ教授は苛立った。
「ポッター、吾輩に何か文句があるのかね?」
「いいえ、先生。ありません」
「ならば、吾輩を見るのをやめろ!」
ハリーが首を振ると、スネイプ教授が吠えた。
その剣幕に新入生達は怯え、何人かが泣いた。
しかし、ハリーは視線を逸らしただけだった。
「はい、先生。これでよろしいですか?」
まるで、興味を失ったかのような冷たい声。
「……話は以上だ。各自、荷解きを済ませたまえ。消灯は夜10時。それ以降の外出は罰則だ」
スネイプ教授は、逃げるように立ち去った。
「あの、ひとつ伺ってもよろしいですか……?」
荷解きを終えてから、ドラ子が寮の談話室に戻ると、ハリーはひとりで暖炉の前にソファに座っていたので、恐る恐る尋ねてみたのだけど。
「ドラ子」
「ご、ごめんなさい! お邪魔してしまって!」
ハリーが苛立っているのは、一目瞭然だった。
だから怒られる前にドラ子は謝罪したのだが。
彼はまるで傷が痛むように額の稲妻を揉んで。
「敬語はやめてくれ」
「で、でも……」
「どいつもこいつもそんなに僕が怖いのか?」
呆れたようにハリーは談話室を見渡した。
すると聞き耳を立てていた生徒は逃げ出した。
あっという間に2人きりになってしまった。
「僕が何をしたって言うんだよ……」
「あなたはその、特別ですから……」
「だからって教授まで怯えることはないだろう。ダンブルドア校長も含めて皆おかしいよ」
やはり、校長の視線には気づいていたらしい。
スネイプ教授も彼の視線に怯えたようだった。
ドラ子が聞きたいのはまさにそのことだった。
「スネイプ教授と何かあったのですか?」
「君が敬語をやめたら答えるよ」
疲れたように言われて、ドラ子は彼に嫌われたくない一心で、なんとか敬意を抑え込んだ。
「スネイプ教授と何があったの?」
「何がも何も、今日が初対面だよ」
「ほんと?」
「嘘をついてどうするのさ」
たしかに隠しだてをする意味は見当たらない。
彼は本当にスネイプ教授と初対面だった様子。
ならば、恐らく教授の方に何かあるのだろう。
「私の父とスネイプ教授は知己の間柄だから、気になるなら私から聞いてみましょうか?」
「別にいいよ。僕のこと嫌いみたいだし」
興味のなさそうな声。それが嫌で食い下がる。
「スネイプ教授は魔法薬学の権威よ」
「へぇ……それがどうかしたのかい?」
「だから、あなたの理屈から言えば必要な人」
彼が偉大な人物になる為に教授は必要だった。
「……わかった。積極的に関わってみるよ」
「ほ、ほんと!?」
「とりあえず、距離を測る。それからあの人に合った接し方を模索してみる。これでいい?」
「うん! それでいいと思う!」
ハリーはあっさりドラ子の言葉を受け入れた。
ドラ子はもう、天にも昇る気持ちだった。
上位者に、具申を聞き入れて貰える喜び。
言って良かったと思うし、とにかく嬉しい。
ドラ子に尻尾があれば大回転しているだろう。
「えへへ」
「なんでそんなに嬉しそうなの?」
「なんでだろ……わかんない」
「お互い、わからないことだらけだね」
わからなくても彼の傍に居られれば良かった。
「今日は長旅で疲れたからもう寝るよ」
「荷解き、手伝わなくても大丈夫?」
「同じ部屋の人が手伝ってくれたから平気」
私だけではない。彼は人を従える才能がある。
「今日は色々とありがとう、ドラ子」
「こ、こちらこそ、ありがとうございまふ!」
「だから敬語はやめてってば」
そんなことを言われても無理だし。噛んだし。
「それじゃあ、おやすみ」
「うん。おやすみ、ハリー」
欠伸をしながらこちらに挨拶して男子寮へと向かうハリーの背中に深々と頭を下げ見送った。
ドラ子の入学への不安は杞憂となって消え、期待を遥かに上回る楽しい学校生活が始まった。
「ポッター、集中しろ」
「はい、先生」
入学からまもなく、授業が始まった。
ドラ子は常に、ハリーの隣に座った。
壁際や窓際を好む彼を独占していた。
ハリーはそれほど成績優秀ではなく。
たまに教科書を忘れたり、寝てたり。
ドラ子はそんな彼の為に、頑張った。
忘れた教科書を見せたり、授業中、寝ていて疎かになっていた板書をあとで見せたりした。
けれど実技だけはドラ子にもどうにもならず。
「ポッター、この鍋の中身はなんだ?」
「えっと……かぼちゃジュースかな?」
魔法薬学の授業の際に鍋をかき混ぜている最中によそ見した彼の鍋には得体の知れないドロドロした粘度の高い橙色の個体とも液体とも呼べないアメーバ状の何かが産声をあげており、どう見てもそうは見えないかぼちゃジュースなどと言ったもんだから、周囲のスリザリン生だけでなく合同で授業を受けていたグリフィンドールの生徒からも笑い声が起こった。
「ハリー! それは傑作だよ!」
「黙れ、ロナルド・ウィーズリー。自分の席に戻りたまえ。グリフィンドール、10点減点」
「そんな! 作ったのはスリザリン生なのに!」
「黙れ、ハーマイオニー・グレンジャー。教師に口答えした罰として、グリフィンドール、更に10点減点。再度口答えをすれば罰則を課す」
クラスの垣根を越えてハリーと親交を深めるロンとハーマイオニーにスネイプは注意し、合計20点減点して黙らせたその時、彼が叫んだ。
「すごい! 本当にかぼちゃジュース味だ!」
「それは本当かい、ハリー?」
「うん、ロン。ちょっと舐めてみてよ」
「どれ……ハリー、君ってある意味天才かも」
「ほんとにかぼちゃジュース味だろ?」
「すごいよ! この見た目でこの味なんて!」
騒ぎ立てる彼らに興味を惹かれた生徒達が鍋を取り囲みアメーバを匙ですくって食べ始めるともう収拾がつかず、怒ったスネイプは自習と黒板に殴り書きをして地下教室から出て行った。
「ハリー」
「なんだい、ドラ子」
「スネイプ教授に謝るべきよ」
騒乱に満ちた授業が終わったあと、ドラ子はハリーを呼び止めて、頬を膨らませて怒った。
「あんなの軽いジョークじゃないか」
「スネイプ教授はジョークがお嫌いなの」
かぼちゃジュース味のアメーバのタネは簡単であり、単純に教授の目を盗み、かぼちゃジュースを鍋に入れて片栗粉をまぶして煮ただけだ。
だから当然、かぼちゃジュース味なのだった。
だからそんなくだらないことで本気で怒られても困るのだが、へそを曲げたスネイプ教授は教室の隣の研究室に引きこもっているらしく、ドラ子はその扉を指差してハリーを説得した。
「教授は研究室にこもってらっしゃるわ」
「そこに行けって? 怒られるだけだよ」
「怒られに行くのよ」
怒られないようにしようと思うのがそもそも間違いであり、謝罪するならばひとまず思う存分に怒られるべきであるとドラ子は言っている。
「でもあの人、僕のこと嫌いだし……」
「私もついて行ってあげるから」
スネイプ教授のお気に入りのドラ子が同伴すれば、たしかに多少は怒りが和らぐと思われた。
「ありがとう、ドラ子。助かるよ」
「べ、別にいいわ……だって、その……」
「ん? なんだい?」
「お、お友達だからっ……!」
思えばハリーを友達と呼んだことはなかった。
ドラ子にとって彼は同級生だけど、上位者だ。
でも、一緒に先生に謝りに行く今なら言えた。
「うん。君は僕の最高の友達だよ」
「っ……こ、光栄でふ」
「君って、ときどきおかしくなるよね」
「お、おお、おかしくないもん!」
自分をおかしな存在に変えてしまうハリーこそがドラ子には不可思議で、おかしいと思った。
「スネイプ教授、ドラ子・マルフォイです」
「……入りたまえ」
ノックして名乗ると、扉がひとりでに開いた。
「ポッターを引き連れて、吾輩に何の用だ?」
「ハリーが謝罪をしたいそうです」
「謝罪だと? 随分と簡単に言うではないか」
ドラ子に続いて入ってきたハリーの姿を見て、スネイプはさも不機嫌そうに鼻を鳴らした。
要件は謝罪だと告げると、益々胡散臭そうに。
「ポッター、貴様は昔からそうだ。いい加減で目立ちたがり屋で、目障りな存在のままだな」
思わず漏れたスネイプ教授の怨嗟にハリーとドラ子は揃って首を傾げた。昔とはなんだろう。
「スネイプ教授、詳しく聞かせて頂いても?」
「ポッター、吾輩を見るな」
「何故ですか?」
「その目が……気に入らないからだ」
本当は、嫌いと言うつもりだったのだろう。
けれど、スネイプ教授には、言えなかった。
ハリーとドラ子はやはり何かあると思った。
「もしかして両親を知っているのですか?」
「トリカブトを口に突っ込まれたいのか?」
踏み込むとスネイプは露骨に嫌がり威嚇した。
どうやら図星らしいと踏み、じっと見つめる。
教授はその視線から逃れようと目を泳がせる。
「スネイプ先生、僕の目を見てください」
「やめろ……吾輩をその目で見るな!」
「先生、大丈夫ですよ。怯えないでください」
「黙れ! 吾輩は怯えてなどいない!」
「では、僕の瞳に何を思うのですか?」
「吾輩は……何も思わない……その資格がない」
スネイプ教授の言動は極めて不可解だった。
けれど、恐れや嫌悪ではない何かを感じた。
それが研究室で得た、唯一の収穫であった。
「どう思う、ドラ子?」
「ひとことでは言い表せないわね」
「僕も同感だ」
談話室に戻りハリーとドラ子は意見交換した。
「両親が関わっているのは間違いないと思う」
「世代的に同級生の可能性が高いわね」
「教授と僕の両親がかい?」
「恐らく、その線が濃厚よ」
ドラ子の推理に頷きつつ、思案を巡らせる。
「両親の死に関わっている可能性は?」
「断言は出来ないけどありえなくはないわね」
「ヴォルデモートの手下だったのかな?」
「私の父もその辺りのことを詳しくは話してくれないのよ。未だにあの人を恐れているから」
しかし例のあの人への恐れにしては妙だった。
「でもスネイプは僕の額の傷跡よりも、何故か目を避けていたよね? なんでだろう?」
「そこがよくわからないのよね」
知れず、ドラ子はハリーの目を見つめていた。
丸い眼鏡の奥に、グリーンの瞳が輝いている。
不意にそのアーモンドのような形をした目がこちらに向き、鮮やかなグリーンと目が合った。
「あぅ……」
「どうかした、ドラ子?」
「べ、別に、どうもしてないから!」
しばらく見惚れて、慌てて逸らして、俯いた。
なんとなくスネイプ教授の気持ちがわかった。
たしかにこの瞳は魅力的であると、認めよう。
しかし、教授は男で、彼も男の子で、つまり。
「ダ、ダメよ! そんなのいけないわ!!」
「わっ! びっくりした! いきなりなんだい?」
「い、いけないわ! ハリーは私のだもん!」
「ちょっとドラ子、落ち着きなよ」
突然取り乱したドラ子に驚いたハリーは、なにやら喚き散らす彼女の肩に手を置いて宥めた。
それで幾分か冷静さを取り戻して、忠告する。
「ハリー、スネイプ教授には気をつけて」
「やっぱり両親の死に関わっているのかな?」
「それは定かではないけどもっと危険かも」
「もっと危険ってそれ、どういう意味だい?」
「い、言えないわ。いけないことだもの」
その日の晩、ドラ子は一睡も出来なかった。
「ポッター、よそ見をするな」
「はい、先生」
かぼちゃジュースの一件以来、ハリーは見違えるように真面目になり、魔法薬学を始めとした授業に真剣に取り組むようになった。
スネイプ教授は時折注意はするものの、減点や罰則をする機会は格段に減っている。
とはいえ、グリフィンドールとの合同の授業の際は、ロナルド・ウィーズリーやハーマイオニー・グレンジャーが度々教授を苛立たせる。
その度にハリーは教授に質問して気を逸らすことで、彼らが怒られることを防いでいた。
「スネイプ先生、この薬品の調合のしかたがよくわからないのですが教えて頂けませんか?」
「わからないだと? そんなわけがなかろう。ポッター、よく考えるのだ。自分の頭を使え」
スネイプ教授は一見すると嫌みたらしくハリーに意地悪をしているようだが、たしかによく考えればわかる質問であることが多く、それでもわからない場合はドラ子が助け船を出した。
「先生、私もわかりません」
「ふん。よいか、ここはこうするのだ」
「なるほど、とてもわかりやすいです」
「ふむふむ」
懇切丁寧にドラ子に説明した内容を隣で聞き耳を立て、教科書には書かれていない教授独自の調合方法などを、ハリーは友人であるロンやハーマイオニーへ伝え、情報を共有していた。
「スネイプ教授は難しい方だけど、魔法薬学の権威だけあって素晴らしい知識をお持ちだわ」
「僕らには教えてくれないけどね」
ハリーから伝えられた教授の秘伝の調合方法にハーマイオニーはいたく感心して、ロンは面白くなさそうに鼻を鳴らした。ふと疑問を抱く。
「スネイプ先生」
「今度はなんだ、ポッター」
「それほど広範に及ぶ知識があるのに教授は何故、教科書をお書きになられないのですか?」
「吾輩には教科書は書けん」
短い返答は質問に対する答えになっておらず、何かしらの理由がある気がして、ドラ子に目配せしたハリーは授業の後、教室内に残った。
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「スネイプ先生」
「なんだ、ポッター。まだ居たのか」
うんざりした表情を浮かべているが、スネイプ教授はまるで待ち構えていたかのようだった。
「先程の質問の件なのですが」
「質問には既に答えた筈だが?」
「もう少し具体的にお聞かせください」
この時点で、ハリーはスネイプ教授について探ろうとはもはや思っておらず、純粋な好奇心で魔法薬学の権威が教科書を執筆しない理由が気になっており、ドラ子も同様であった。
「吾輩はお前に、物事の考え方を教えた筈だ」
「先生は僕に自分の頭で考えろと仰りました」
「左様。具体的に言うと、そういうことだ」
そう言われてもいまいちピンとこないハリーとは対照的に、ドラ子は何か気づいたらしく。
「だから教授には教科書が書けないのですね」
「ドラ子、それはどういう意味だい?」
「あらゆる魔法薬の調合法を網羅している教授には生徒を育てる為の教科書は書けないのよ」
「ごめん、やっぱりわからない」
ドラ子は非常にわかりやすく解説したのだが、ハリーは鈍いのでちんぷんかんぷんだった。
そんな不出来な生徒をスネイプ教授は叱った。
「ポッター、そうやってすぐに答えを求めるのがお前の愚かさだ。何度吾輩に同じことを言わせる。考えるのだ。時間をかけて自分の頭で」
時間をかけて、自分の頭で、考える。
スネイプ教授は事あるごとにそう口にする。
つまり生徒に考えさせるのが教育方針なのだ。
しばらく悩んでハリーはなんとなく理解した。
「……教科書は必ずしも正しい必要はない?」
「そんなものは教科書とは呼べん。馬鹿者め」
「うぐっ……」
自分なりの答えを即座に否定されたハリーは酷く落ち込み項垂れた。教授は機嫌良く続ける。
「教科書は足がかりだ。神秘に手を伸ばし、叡智を手にする為のきっかけに過ぎん。吾輩にはその匙加減がわからない故、教科書が書けん」
「なるほど。理解しました、スネイプ先生」
ハリーは目を丸くして、いたく感銘を受けた。
初めてまともに教授の講義を受けた気がする。
尊敬の眼差しを注ぐと、多くを語り過ぎたことに気づいた教授は咳払いをして、追い出した。
「理解したのならば、早く寮へ戻りたまえ」
「スネイプ先生、ありがとうございました」
ドラ子と揃って一礼して、教室を後にした。
その日から、ハリーとドラ子は魔法薬学の授業が終わると教室に居残り教授の講義を受けた。
「よいか、魔法薬とは結果を生み出す魔法だ」
「先生、意味がわかりません」
「ポッター、お前ならばわかる筈だ」
スネイプ教授はハリーになるべく自分の頭で考えさせるように言葉を選んでいるようだった。
隣でやりとりを聞いているドラ子にはわかる。
「ポッター、魔法薬を作る際に必要な物は?」
「材料と、調合方法のレシピです」
「レシピは必要ない。必要な材料を選定して、自分の望み通りの魔法薬を生み出すのだ。ロナルド・ウィーズリーやハーマイオニー・グレンジャーなどはそれがまるでわかっておらん」
スネイプ教授はことあるごとにハリーの友人であるロンやハーマイオニーを引き合いに出して、思わずむっとしてしまうが、堪えた。
「しかし先生、レシピがなければ困ります」
「ドラ子、お前はどう捉える?」
話を振られたドラ子は教授が言わんとしていることを、なるべく噛み砕いて言葉にした。
「私は魔法薬は料理に似ていると思います」
「ほう、料理とな? 続けたまえ」
「甘くしたければ砂糖を。味が薄ければ塩を。自分の望み通りの結果を生み出す魔法とは、そのような意味であると私は考えます」
ハリーは目から鱗が落ちた。思わず喝采する。
「すごいよ、ドラ子! 君は天才だ!」
「……あ、ありがとう」
本当はお役に立てて光栄ですと言いたかった。
けれど彼は、あくまで友人関係を望んでいる。
なので照れつつも褒め言葉甘んじて受けると。
「今度是非、君の手料理を食べさせてくれ!」
「こ、今度ね……」
「調子に乗るな、ポッター」
手料理などしたことがない貴族の箱入り娘のドラ子はその日以来、いつかハリーの胃袋を鷲掴む為に料理を勉強して何度も指先に切り傷を作る羽目となってしまったが、楽しみだった。
「ポッター、素材は厳選するのだ」
「はい、先生」
より良い魔法薬を作りたくば素材をケチらないことが何より重要である。納得の理屈である。
ハリーはその方式は自分に合っていると思う。
「素晴らしい素材が、素晴らしい結果を生むのだ。よいか、そのことを忘れるな、ポッター」
「はい、先生」
ハリーの脳裏に友人達の姿が浮かぶ。
ロンやハーマイオニー、そしてドラ子。
素晴らしい友人達を得たことで、ハリーの日常は素晴らしく充実していた。まさに魔法だ。
「ポッター、集中しろ」
「はい、先生」
スネイプ教授はしきりに集中せよと言った。
それが自分に足りないことはわかっている。
しかしハリーにだって言い分はあるもので。
「ん? ハリー、どうかした?」
「……別になんでもないよ」
ハリーが注意力散漫なのはお隣さんのせいだ。
隣の席にはいつも銀色の女の子が座っている。
銀糸のような長い銀髪を、耳にかける仕草や。
ふとした時に香る、甘い香りが集中力を削ぐ。
とどめに可愛らく首を傾げれば、あら不思議。
あっという間に、ハリーの鍋の中身は焦げた。
「また失敗しちゃったよ……」
「誰にでも失敗はあるわ。元気出して!」
その失敗がよもや自分のせいとはつゆ知らず、健気に励まされてしまっては文句のひとつも口にすることが出来ず、ハリーは黒こげになった鍋をたわしで洗おうとして教授に止められた。
「待て、ポッター」
「先生……失敗してごめんなさい」
またこっ酷く怒られるのだろうと身構えていると、スネイプ教授は何やら魔法薬を掲げて。
「ポッター、お前に魔法を見せてやろう」
ポタリと一雫、鍋にその薬液を垂らすとあれだけ真っ黒だった鍋の中身が透明に透き通った。
「……すごい」
まさに魔法だと思っていると、教授は告げた。
「結果を得る過程において、たとえどんなミスをしたとしても、それは必ずしも失敗であるとは限らない。全ては成功へと至る過程なのだ」
この頃にはもう、スネイプ教授への嫌悪感はなく、ハリーは心から尊敬の念を抱いていた。
「次の魔法薬学の授業が楽しみだなぁ」
「ハリー、私が前に言ったこと覚えてる?」
「へっ? なんのことだっけ?」
「スネイプ教授には気をつけてって言ったじゃない。それなのに、あなたときたら……」
すっかり魔法薬学が大好きになったハリーに、ドラ子は不安を募らせていた。危険である。
「近頃あなた、教授と仲が良すぎると思うわ」
「最初にスネイプ教授とは仲良くしておいた方が良いって勧めてくれたのは君じゃないか」
「それはそうだけど……限度があるわ」
彼が言う通り、この状況を願ったのは自分だ。
ドラ子の願いは叶い教授と彼は仲良くなった。
喜ばしいことの筈なのに、ドラ子は笑えない。
むしろ、腹立たしいというか、苛ついていた。
「ん? ドラ子、ほっぺが膨らんでいるよ?」
「気のせいよ」
「でもほら、まるでフグみたいだよ?」
ツンツンほっぺを突かれて、ドラ子はキレた。
「あなたなんて教授と結婚すればいいわ!」
「は、はあ? 突然どうしたのさ」
何やら急に怒り出した彼女に置き去りにされ。
ドラ子の癇癪の理由がわからずハリーが首を傾げていると、そのやりとりを見かねたロンが慰めるように肩を叩いてきて、ハーマイオニーがやれやれといった口調で尋ねてきた。
「ハリーあなた、やきもちって知ってる?」
「やきもち?」
「おっとハリー、食い物じゃないぞ」
「わ、わかってるよ、そのくらい……」
物語の舞台であるイギリスには餅文化がないので、ハリーにだってその意味くらいわかる。
「あれだろ? 隣の芝生は青いみたいな……」
「違うわ」
「ハリー、君って奴は……」
生き残った男の子の鈍感さは、まさに伝説と呼ぶに相応しいほどのポンコツぶりであった。
「要するに嫉妬よ、ハリー」
「ジェラシーってやつさ」
聡明なハーマイオニーはともかく馬鹿なロンにまで呆れられたのがハリーには堪らなかった。
「ちなみにロンは意味わかってるの?」
「僕は魔法界で一番嫉妬深い男だぜ?」
「それなんの自慢にもならない短所よ」
自らの嫉妬深さを誇る愚かなウィーズリーに冷ややかな視線を送りつつ、ハーマイオニーは脱線しかけた話題を強引に元に戻した。
「つまり、ドラ子は嫉妬してるのよ」
「嫉妬って、誰にだい?」
「そりゃあ君にだよ、ハリー。なにせ、ちょっと前までは自分がスネイプの一番のお気に入りだったのに、急に君と先生が仲良くなったもんだから、あのお姫様は拗ねてるってわけさ」
得意げに勘違いも甚だしい見当違いな自説をまくし立てたロンに、まるで信じられないものを見るかのような目をしたハーマイオニーを見て、ハリーはその見解が間違いだと察した。
「ロン。君、間違ってるらしいよ」
「ええ、空前絶後の大間違いよ」
「参ったな。これで僕もハリーと同類か」
「ごめん、ロン。それだけは絶対お断りだ」
「へへっ、そう照れるなよ、ハリー」
魔法史に残る大失態を晒したというのに、何故か誇らしげなロナルド・ウィーズリーに対して完全に見切りをつけたハーマイオニーは、その発言をなかったことにしてハリーに諭した。
「あのね、ハリー、よく聞いて。ドラ子はきっと、最近あなたと急に仲良くなったスネイプ教授に対して、やきもちを焼いているのよ」
「ええっ!? そうだったの!?」
「嘘だろ……信じられない」
ロンが呟いた嘘だろという台詞に対して、それはこっちの台詞だとハーマイオニーは思った。
「とにかく、ドラ子に優しくしてあげて」
解決策を提示してハーマイオニーは席を立つ。
「待ってよハーマイオニー、どこへ行くの?」
「ロンがこれほどまでの馬鹿だとは思わなかったから、ちょっとトイレで泣いてくるわ」
泣くほどガッカリしたらしいハーマイオニーを男2人はポカンとして見送り、意見を交わす。
「ロン。君、泣けてくるくらい馬鹿らしいよ」
「いや、あれはハーマイオニーの可愛い嘘さ」
「嘘? それってどういう意味だい?」
「きっと突然うんこがしたくなったんだよ」
「ロン……君って最高に冴えてる」
「うん。僕、名探偵になろうかな」
「フハッ!」
などと迷推理を披露したロンに対する心から賞賛を愉悦に変えて、ハリーは盛大に哄笑した。
「フハハハハハハハハハハハハハッ!!!!」
「フハハハハハハハハハハハハハッ!!!!」
下品で愚かな少年の哄笑が、重なった。
とはいえ、誰が彼らを責められようか。
まだ幼い少年だ。幼い少年は間違える。
結果として成功すればそれで良いのだ。
「さて、僕はドラ子に優しくしてくるよ」
「うん、僕は親友の健闘を祈ってる」
「君はハーマイオニーに優しくしてあげなよ」
「ハリー。うんこはね、ひとりでするもんだ」
違いないと頷いて、ハリーはハロウィンで混み合う宴席を見渡し、しょぼくれる銀髪の姫君をすぐに見つけて、彼女の隣に腰を下ろした。
「ここ、座ってもいいかな?」
「……どうぞ」
ドラ子の隣の席に腰を下ろす際に一応声をかけると、彼女はちらとハリーを見上げて頷いた。
ひとまず避けられなかったことに安堵したハリーは雰囲気を和ませるべく、話題を振った。
「さっきロンがとても冴えててさ」
「ハリー」
「突然席を外したハーマイオニーを見て……」
「ハリー、黙って。食事中よ」
「ご、ごめん……」
馬鹿な男の子の哄笑はドラ子の耳にも届いており、それ以上は言わせないと睨みつけた。
母譲りのキツイその視線はバジリスクをも霞ませる程の恐怖をハリーに与え、小動物程度ならば息の根を止められるのではないかと思った。
「あのさ、ドラ子」
「なに?」
「君は教授にやきもちを焼いているのかい?」
場を和ませることに失敗したハリーは、それでも望み通りの結果を得るべく、問いかけた。
図星をつかれたドラ子は頬を染めて、尋ねた。
「……もしそうだったら、どうする?」
「君に優しくする」
それはハリーにとっても、ドラ子にとっても素晴らしい結果であった。お互いに微笑んだ。
「それならやきもちを焼いた甲斐があったわ」
「ごめんね。君をほったらかしにして」
「こちらこそ、わがまま言ってごめんなさい」
「そんな可愛いわがままなら大歓迎さ」
「そんなに優しくされたら私、困るわ」
ほんとに困ってしまう。好きすぎて、困る。
「ドラ子、何が食べたい? 取ってあげるよ」
「い、いいの……?」
「君をないがしろにした責任を取りたいんだ」
宣言通りに優しくしてくれるハリーに感動しつつ、ドラ子はかぼちゃパイを指差した。
「はい、どうぞ」
「あの、もし良ければ、その……」
魔女とは欲深い生き物で、少し優しくされるともっともっと甘やかして欲しくなってしまう。
そんな銀色の姫君の要望を察したハリーはかぼちゃパイを丁寧に切り分けて、彼女の小さなお口に収まるようにしてから、口元へと運んだ、
「はい、口を開けて。あーん」
「し、失礼します……あむっ」
かぼちゃパイは甘かった。もう蕩けるくらい。
「美味しいかい?」
「美味しくて幸せ」
たぶん今、自分は大層にやけているだろう。
その自覚はあるけれど、止まらなかった。
お返しとばかりに、ハリーにあーんした。
「はい、あーん」
「もがっ!? ……ちょっと大きすぎない?」
「ハリーったら、リスみたいよ」
巨大なパイをぶち込まれ、頬をパンパンに膨らませたハリーを見て、ドラ子はクスクス笑い。
そんな一部始終を見ていた彼女・彼氏居ない歴=年齢の上級生たちは盛大に舌打ちしていた。
「トロールが!!」
早く誰か脱糞でもしてこの糖分過多な雰囲気をぶち壊してくれという彼らの願いは、意外な登場人物が突如開け放った扉の音と、その驚愕の内容によって、思いがけぬ形で叶えられた。
「地下室に、侵入しました……」
生徒の悲鳴がこだまして甘い時間は終わった。
「静まれぇええええええええいっ!!!!」
恐慌状態に陥った生徒を鎮めたのはダンブルドア校長の一喝であり、事態の収束を図った。
「マダム・ポンフリー先生」
「は、はい、なんでしょう?」
「クィレル先生を診てやってくれんかの」
「わ、わかりました」
トロールが地下室に侵入したことを報せたのは、闇の魔術に対する防衛術の担当教師であるクィリナス・クィレル教授であり、取り乱した彼はあまりの恐怖にその場で失神していた。
校医であるマダム・ポンフリーに彼の介抱を任せ、ダンブルドアは次なる指示を出した。
「先生方はわしと共に地下室に。監督生は生徒達を安全に寮まで連れて行くように。よいか、事態が収まるまで、誰一人として例外なく……」
まるで彼ひとりに向けたかのように、校長はブルーの瞳でハリーを見つめて、釘を刺した。
「寮から出さんように」
「わかりました」
グリフィンドールの寮監で、また副校長でもあるミネルバ・マグゴナガル教授が先頭に立ち、地下室へと向かい、監督生は生徒を引率した。
「アーガス! アーガスはおるか!」
「は、はい、校長。ここに……」
「4階の様子を見に行ってはくれんかの?」
「はい……わかりました」
この非常事態に魔法の使えないスクイブである用務員のアーガス・フィルチにまでわざわざ指示出して、一体何を確認させる必要があるのか、ハリーとドラ子はわからず、首を傾げた。
「ハリー! 大変だよ! どうしよう!」
「どうしたんだ、ロン。そんなに慌てて」
「ハーマイオニーが戻って来ないんだ!」
フィルチの件は腑に落ちないものの、校長に睨まれたこともあり、監督生に連れられて大人しく寮へと戻る最中、酷く取り乱した様子のロンがハリーの元へと走ってきて、ハーマイオニーが未だにトイレから戻って来ないと訴えた。
「ロン。とりあえず落ち着こう。もしかしたらうんこが長引いてるだけかもしれないだろ?」
「いくらうんこにしても長すぎるよ!」
「それもそうか……僕も心配になってきた」
たしかに彼の言う通りだった。長すぎる。
もしかしたら、彼女に何かあったのかも。
俄かに不安が募るが、ドラ子は冷たい口調で。
「穢れた血なんてほっときなさいよ」
「なんだと!? もういっぺん言ってみろ!」
未だにハーマイオニーを嫌悪しているドラ子のあまりの言い草にロンは激怒して、掴みかかったが、そんな彼を抑えて、ハリーは尋ねた。
「ドラ子、スネイプ教授の言葉を覚えているかい? 教授は以前、こう言っていた。素晴らしい素材が、素晴らしい結果を生み出すのだと」
「ええ……覚えているわ」
ハリーはなるべく優しく、先程の話をした。
「さっきまで、僕はとても幸せだった」
「私だって……とても幸せだったわ」
「君と仲直りが出来て、本当に嬉しかった」
「私も……嬉しかったわ」
そこまで認識を共有していると確認してから。
「君と仲直り出来たのはハーマイオニーのおかげなんだ。だから素晴らしい結果が生まれた」
その事実を告げるとドラ子は激しく狼狽えた。
「そんな……嘘よ……」
「嘘じゃない。事実だ」
愕然とするドラ子に、ハリーはそれまでの優しい声音ではなく、恐ろしく冷たい声で問うた。
「ドラ子、君は穢れた血に借りを作ったんだ」
「き、貴族の私が、穢れた血に借りなど……」
「ドラ子・マルフォイ」
気づくと、ドラ子の眼前には上位者が居た。
「貴族の端くれならば、借りた恩は返せ」
「わかり……ました」
ドラ子は深々と頭を下げて、命令に従った。
「おまたせ、ロン。行こうか」
「ハリー……君は何者なんだい?」
上級貴族であるドラ子をあっさりと屈服させたハリーを間近で見てその隠された一面に怯えたロンが、恐る恐る尋ねると彼はにっこり笑い。
「僕は君達の親友さ」
「ハリー……」
「もちろん、ドラ子もね」
ほっと安堵のため息を漏らすロンとは違って、ドラ子はハリーの二面性に危うさを感じた。
どちらが本当の彼なのかわからず、怖かった。
けれど、気持ちは変わらない。どちらも好き。
ならば、どっちが本性でもドラ子は良かった。
「ハーマイオニーを助けに行こう」
ハリーの決定に、誰一人として異論はない。
「トロールは学校の地下室に現れたらしい」
「たしか、地下にはトイレがあった筈だよ」
「それならひとまず、そこを目指そう」
まるで近所へ散歩に行くかのように気楽な様子のハリーに、ドラ子は懸念を伝えた。
「でも、どうやってそこまで行くの?」
地下室にはダンブルドアを含む教授陣が既に向かっている。見つかれば即、捕まってしまう。
「父さんの形見を使う」
そんな懸念は杞憂だとばかりに、ハリーはローブのポケットからサラサラした布切れを取り出して、それを2人に広げて見せた。
「どうだい? 透明マントって言うらしいんだ」
「ハリーこれすごいよ。これなら行けるよ!」
名案に飛びつくロンとは裏腹にドラ子は注意深く透明マントを観察して、その性能が粗悪ではなく完璧であると認めてなら、こくりと頷く。
「たしかにこれなら教授陣の目を欺けるわね」
「よし! それじゃあ、出発だ!」
透明マントを被った3人は、密かに生徒の列から消えて、地下のトイレへと急ぎ、向かった。
「ハーマイオニー……?」
ドカンッ!
「ひぃっ!?」
「きゃああああっ!? 誰が助けてぇええ!!」
バキバキバキバキッ!
透明マントによって教授陣の目を掻い潜り、地下室へたどり着いた一行は恐る恐るトイレに入り、ハーマイオニーの名前を呼ぶも、返ってきたのは悲鳴であり、備え付けられた洗面台を叩き割る轟音や、トイレの個室を粉砕する爆音だった。そこには棍棒を振るうトロールが居た。
「僕が囮になって奴の注意を引く! ロンはその間に、ハーマイオニーを助けるんだ!」
「わ、わかった!」
「ハリー! お願いだから無茶はしないで!」
「ドラ子は魔法で援護を!」
透明マントを纏ったハリー達に間抜けなトロールは気付かず、子供でも簡単に背後を取れた。
意を決してマントを脱ぎ捨て、ハリーはトロールの背中に飛びつき、頭までよじ登った。
「ーーーーーーーーーーーーーッ!?」
襲撃に気づき、困惑も束の間、怒り狂ったトロールがハリーを振りほどこうと散々に暴れた。
その間にロンは破壊された個室に蹲って泣きじゃくるハーマイオニーを助け出し、ドラ子は様々な魔法をトロールの背中に放ったのだが。
しかし分厚い皮膚と脂肪に阻まれて効かない。
「ッ!?」
ひときわ大きく暴れた際、ハリーの杖がトロールの鼻の穴に深々と突き刺さった。好機だ。
「ウィーズリー! ハリーの代わりに囮を!」
「よし、わかった! やい、ウスノロ! よくも僕の大事なハーマイオニーを泣かせたな! 僕が相手になってやるからこっちを見ろ!!」
「……?」
「ひぇっ」
トロールが振り向く。ロンは怖くてちびった。
「やばい! 怖い! やばい! 漏れそう! やばい! 漏れた! やばい! お腹痛い! やばい!」
ブォンッ!
「ーーーーーーーーーーーーッ!!!!」
バキバキバキバキバキバキッ!
「うひゃあっ!? 死んじゃう! 死んじゃう!」
股間を濡らしたロンにトロールが迫り来る。
けれどウィーズリー家の末っ子は、悪運だけは強いらしく、奇跡的に棍棒を躱していた。
「マルフォイ! 早くなんとかして!?」
「うっさい! 黙れ! 気が散るでしょ!?」
「無理無理無理! 黙ったら死んじゃう!?」
お前は泳がないと死んでしまうマグロか何かと同じなのかと、あまりに情けないロンにうんざりして、こんな奴でも自分と同じ純血である事実に失望して、ドラ子の純血至上主義が多少緩和されたことは、今はひとまず置いておこう。
今この時、為すべきことは、トロールの頭部に必死にしがみついている主君を救うことだ。
「ウィンガーディアム・レビオーサ!」
善戦虚しく、ついにトロールに捕まったハリーめがけて棍棒を振り上げたまさにその瞬間。
ドラ子は浮遊魔法を放った。対象は、棍棒。
「……?」
今まさにハリーを肉塊に変えようとしていたトロールは、己の手から棍棒が消え失せていることに気づき、よもやその重たい鈍器が、自らの頭上に浮かんでいるとは思いもせずに、キョロキョロ辺りを見渡して間抜けを晒していた。
「落ちろ」
ガンッ!
「ッ!?」
呟き、浮遊魔法を解除してトロールの頭上に棍棒を落とすと、脳震盪を起こした巨体はスローモーションのようにゆっくりと傾ぎ、倒れた。
「ハリー!」
会心の一撃が決まり、トロールを昏倒せしめたドラ子は急いで自らの主君へと駆け寄った。
「痛てて……ドラ子、助かったよ」
「我が君! お怪我はありませんか!?」
「軽い打ち身程度かな。ていうか、我が君って恥ずかしいからやめてよもう。大袈裟だなぁ」
「バカ!」
ドラ子はもう、どうにも我慢ならなかった。
荒れ果てたトイレに、乾いた音が響き渡り。
頬から伝わるジンジンとした痛みによって。
ハリーは今、自分が叩かれたのだと知った。
「痛いよ、ドラ子……」
「死んじゃたら……どうするんですか?」
言われて気づく。
死んだら痛みすら感じないと。
ハリーの頭を膝に抱くドラ子の涙が滴った。
死んだら、その温もりすらも感じないのだ。
「心配かけて、ごめん」
「うわあああんっ! ばかぁああああっ!!」
ハリーが謝ると、ドラ子は泣いた。
本当は抱きしめて、慰めてやりたかった。
しかしハリーは、新たな敵を感知していた。
額の傷跡が、ジクジクと痛んでいた。
「ドラ子、僕から離れて」
「ハリー……?」
「何か、来る……!」
現れたのは、まるで影のような、何かだった。
「ロン! ハーマイオニー! 逃げろ!」
「ハリーはどうするのさ!?」
「一緒に逃げましょう!」
「あいつの狙いは僕らしい!」
影のような何かはハリーに関係した何者かであると、額の傷跡が告げていた。その証拠に。
「ーーーーーーーーッ!!!!」
耳をつんざく絶叫をあげて襲いかかってきた。
「ドラ子も逃げて!」
「嫌です!」
「いいから下がれ!」
ドラ子はまるで、ハリーを庇うかのように。
その得体の知れない影と正面から対峙した。
時間がゆっくりと流れているように感じた。
このままではいけない。
ドラ子が影に呑み込まれてしまう。
立ち上がりたくても出来ない。
まるで焼きごてを押し当てられたかのように、傷跡が痛み、ハリーは頭が割れた気がした。
「ーーーーッ!」
意味をなさない叫び声が喉をつく。
真っ黒な影が、目前へと迫っていた。
万事休すかに思われた、その時。
「エクスペクト・パトローナム」
何者かが呪文を唱え、銀色の雌鹿が現れた。
雌鹿が放つ銀光に怯んだ影は逃げ出した。
入り口の方を見やると、黒いローブが見えた。
「いったい、今のは……?」
頭痛が引いていく。
ようやく、立つことが出来た。
ふらつきながら、トイレから出る。
ハリーの肩を、ドラ子が支えていた。
「血……?」
「相当な深手を負っているようですね」
「追いかけよう」
床に残された血痕は、上の階へと続いていた。
「ねえ、ハリー……もう寮に戻ろうよ」
「君たちは先に戻ってていいよ」
「私達だけ帰れるわけないじゃない!」
ハリーと彼を支えるドラ子は点々と床に滴った血痕を辿り、校舎の4階まで辿り着いた。
ロンとハーマイオニーはそんな彼らが心配で放っておけず、帰れと言われても付いてきた。
既に他の生徒達は寮で待機しており、教授陣はハリー達がトイレを後にした直後、倒れ伏したトロールを発見したらしく、当分はここまで来ないだろうと思われた。静けさに満ちていた。
「この扉の前で、血痕が途切れていますね」
「中に入ってみよう」
重厚な扉の前で、血痕が途切れていた。
ハリーはドラ子と2人で、扉を開いた。
彼女は主君が言っても聞かない人だと理解していたので、せめて危険が迫ったら盾になろうと覚悟を決めていた。しかし、前言撤回しよう。
なんだ、あの首が3つもあるデカイ犬は。
「ご、ご主人様! 寮に戻りましょう!?」
「ご主人様はやめてくれ。ただの犬じゃないか。しかも、今はグッスリ寝ているようだ」
ドラ子はガタガタ震えながら意見具申したが聞き入れて貰えず、主人に促されて犬を観察すると、たしかにスヤスヤ寝息を立てていた。
「あれはきっとケルベロスね。本で見たわ」
読書家のハーマイオニーがデカイ犬の正体はケルベロスであると見抜いた。誰だってわかる。
他にあんな大きな3つの頭を持つ犬など居ない。
「あそこに扉があるね」
ハリーに言われてドラ子が目を凝らすと、たしかにケルベロスは床に設置された扉を守るように蹲り、いびきをかいて熟睡していた。
「オルゴールが鳴っているみたいだね。ケルベロスはオルゴールの音色が好きみたいだ」
「たしか、禁じられた森の番人のハグリッドが以前、そんなことを口走っていたわね」
ロンとハーマイオニーがそんな会話を交わす。
どうやらケルベロスが寝ているのはこの部屋に流れるオルゴールの音色のおかげらしく、つまりそれが終われば、目覚めると予想した矢先。
「あ、聞こえなくなった」
「皆、走れ!」
目覚めたケルベロスの足元へと、滑り込んだ。
「血痕はこの先に続いているみたいだ」
命からがらケルベロスから逃れた一同は、息を整えて、血痕を追って通路の先へと進んだ。
そこには様々な魔法を利用した罠があり。
チェスを模した仕掛けはロンが突破して。
難解な謎解きはハーマイオニーが解いた。
トロールの一件もあって疲弊した彼らはそれ以上進むことが出来ず、ハリーとドラ子は2人だけで通路の最奥まで辿り着き、目を見開いた。
「スネイプ教授!」
「ポッター、下がっておれ!」
そこでは一枚の鏡の前でスネイプ教授とあの影が対峙していて、教授は劣勢であった。
今にも消えそうな銀色の雌鹿は消耗していた。
「よくぞここまで来れたな、ポッター!」
黒い影は実体となり、その正体を現した。
頭に巻いた特徴的なターバンは紛れもなく闇の魔術に対する防衛術の教授である、クィリナス・クィレルのものであり、その下に隠された存在に、ハリーとドラ子は驚愕した。
「驚いたかね? 私の後頭部には闇の帝王の残滓が取り憑いているのだ! 因縁のご対面だな!」
クィレルの後頭部には、恐ろしい形相を浮かべた闇の帝王の顔が、浮かび上がっていた。
「これで役者は揃った。フィナーレだ!」
あのトロール騒動もクィレルの自作自演。
彼はとある目的の為、教師となっていた。
全ては、崇拝する闇の帝王の復活の為に。
「ポッター、こっちにこい」
「貴様の相手は吾輩だ!!」
「ええい、邪魔をするな! セブルス!」
最後の力を振り絞り、雌鹿が突進を仕掛けるも、実体化したクィレル本人には効果はなく、杖で払い除けるとあえなく霧散してしまった。
「さあ、ポッター! 早くこっちに来い!」
「嫌だと、言ったら……?」
「魔法薬学の教授の席が空くことになるな」
足に負った深手の傷が祟り、既に虫の息となっているスネイプ教授にクィレルは杖を突きつけて、ゆっくりと近づくハリーに命令した。
「その鏡の前に立て」
「……わかりました」
言われた通り、鏡の前に立つと、ハリーの背後に彼とよく似た2人の男女が映し出された。
「何が見える?」
「……僕によく似た、2人の男女です」
「これは傑作だ! それは『みぞの鏡』と言ってな。鏡の前に立った者の望みを映し出す魔法の鏡だ。そこまで両親に会いたいか! ならば、すぐに会わせてやろう。さて本題だ、ポッター。貴様は賢者の石というものを知っているか?」
「いえ、知りません」
「浅学な奴め。まあ、いい。石について詳しく知る必要はない。肝心なのは、賢者の石をその鏡から取り出すことが出来なければ、セブルスと……そして私の背後に回り、隙を伺っているそこの小娘もそあの世行きということだ!!」
「きゃあっ!?」
「ドラ子!?」
ハリーが敵の注意を引きつけている間に背後へと回ったドラ子であったが、そこにはヴォルデモートの顔が浮かんでいて、死角はなかった。
武装解除されて、彼女はセブルスと同じく杖を突きつけられて、人質となってしまった。
「ドラ子と先生を離せ!」
「ならば願え。賢者の石が欲しいとな」
そんなにその石ころが欲しけりゃくれてやる。
そう思って、鏡の前に立つと石が見えた。
まるで石榴のように赤い、賢者の石。
鏡の中の自分はこれ見よがしに見せつけた。
しかしそれを鏡の外に持ち出すことは不可能。
「くっ……どうすればいいんだ!」
必死に手を伸ばすもツルツルとした鏡の表面を撫でるだけで決して手が届くことはなかった。
「なんだ取れんのか。ちっ。使えない奴め。貴様なら或いはとは思ったが、無駄だったか」
ハリーでも石を鏡から取り出すことが出来ないと知ったクィレルは舌打ちをして、もはや用済みとばかりに杖の先を足元の人質へと向けた。
「石が手に入らんのなら、人質は不要だな」
「やめてくれ! 2人に手を出すな!!」
「ならばもっと必死に願え、ポッター!」
再び鏡に向き直り、ハリーは願った。
鏡に映る自分にその石を寄越せと。
しかし鏡の中のハリーは首を振った。
このままじゃいけない。またさっきと同じだ。
しかも今度はドラ子だけでなく、スネイプ教授まで失ってしまう。そんなの絶対に嫌だ。
『ポッター、考えるのだ。自分の頭を使って』
スネイプ教授の教えの通り、頭を使う。
必死に考えるも、その謎は解けない。
教科書に書いていないことは読み解けない。
『よいか、魔法薬とは結果を生み出す魔法だ』
スネイプ教授はそう言っていた。
結果を生み出す魔法。自分が望む結果。
そのためには素材を集める必要がある。
しかし、肝心の調合レシピがなかった。
『レシピは必要ない』
『魔法薬は料理に似ていると思います』
レシピは必要ない。魔法薬は料理である。
教授の問いかけに、ドラ子はそう答えた。
大切なのは望む結果に至る為に、素材を厳選すること。何が必要なのかを見極めることだ。
どうすればいいかではなく、何が必要か。
2人を助ける為にどうすればいいかではなく。
2人を助ける為に、何が必要か。賢者の石だ。
欲しいのは石ではなく、2人が助かる結果だ。
「お願いだ、鏡の僕。僕は2人を助けたい」
まるで正解を導き出したことを祝福するかのように、鏡の中のハリーはにっこり笑って手に持った賢者の石をポケットに仕舞い、その後ろに佇む両親も正しい望みを見つけた息子に向かって、優しく微笑んだ。そこでふと気づく。
鏡と同じように、ポケットが膨らんでいた。
「よくやった、ポッター!」
ハリーが賢者の石を鏡から取り出したのを見て、クィレルは狂喜した。念願の賢者の石。
それさえあれば、闇の帝王は復活を遂げる。
「ポッター、早くそれをこちらに寄越せ!」
ポケットから取り出した石をクィレルに見せると、彼はこちらに手を伸ばしつつも、杖先は油断なく足元で石化の呪文をかけられた人質に向けられており、解放される見込みはなかった。
「さあ! ポッター! 石を寄越すのだ!!」
恐らく、石を渡しても、人質は助からない。
助ける為に必要で、鏡の自分が託したのに。
その結果が悲劇では、まるで無意味だった。
ハリーは考える。自分の頭て。時間をかけて。
焦れたクィレルの隙を伺うも、見当たらない。
ならば、一か八かの賭けに出るしかなかった。
「石を渡す前に2人を解放してください」
「そうはいかん! 石が先だ!」
「それなら、ご自分で拾ってきてください」
ぽいと、世界に二つと無い賢者の石を投げた。
万物を黄金に変え、永遠の命を与えるとされる貴重な石を、そこらの石ころのように扱った。
それが出来なければ鏡から石を取り出すことは出来ず、ましてやその石を使おうとする者には鏡から取り出せる筈もない仕掛けであった。
無論、クィレルは闇の帝王の復活の為に喉から手が出るほど賢者の石が欲しかったので、放物線を描いて落下する石に向けて必死手を伸ばし、人質など置き去りに落下点に駆け寄った。
しかし、皮肉なことに。
みぞの鏡と同じように、石に手は届かず。
地面に叩きつけられた賢者の石は砕け散った。
「ーーーーーーーーーーーーーーッ!!!!」
身の毛もよだつ絶叫はクィレルのものか、それともその後頭部に取り付くヴォルデモートのものか、定かではないが、ハリーは割れそうなほどに痛む額の傷跡に吐き気を催しながらも、人質の2人に駆け寄って、運び出そうとした。
けれど、石化の呪文をかけられた2人は重くて、子供のハリーに運び出すことは不可能だった。
「ポッタァアアアアアアアアアッ!!!!」
ハリーは賭けに負け、ミスをして、失敗した。
スネイプ教授はミスはいずれ成功に結びつく過程と言っていたが、もはやこれまでだった。
命を失えば、挽回の機会は得られない。
頬を叩かれた痛みも、涙の温もりですらも。
何も感じることなく、骸を晒すだけである。
再び影となったクィレルがハリーに迫る。
「なっ!? な、なんだ! これは……!?」
もはやこれまでと固く目を閉じ、クィレルの指先がハリーの肩口に食い込んだ瞬間、まるでひび割れるように、彼の身体が崩壊していった。
「い、嫌だぁ! 死にたくない! ああああ!!」
ひび割れて、崩壊して、朽ち果てていく。
死の直前に、クィレルは生を願った。
その断末魔を聞きながら、ハリーは思う。
生き残ることが出来て、心から良かったと。
「ーーーーーーーーーーーーーーッ!!!!」
クィレルと共に闇の帝王の残滓も消え去った。
額の傷跡は断末魔に呼応して猛烈に痛んだ。
もはや意識を保って居られずに、霞む目で。
ドラ子の無事を確認してから意識を失った。
「うっ……ここは……?」
「医務室じゃよ、ハリー」
「ダンブルドア先生……」
ハリーが目を覚ますとそこは医務室だった。
傍らの椅子にはダンブルドア校長が腰掛けていて、何やら編み物をしている最中だった。
「先生は編み物がお好きなのですか?」
「毛糸のパンツと靴下が好きでのう」
痒くならないんだろうかと、ぼんやりと思いつつ、あれからどうなったかが気になった。
「ああ、ロナルド・ウィーズリーとハーマイオニー・グレンジャーのことなら心配は要らん。どちらも無事に保護した。セブルス・スネイプ先生についてはだいぶ無茶をされたようで、治療に暫く時間はかかるが、命には別状ない。今は別室で眠っておる」
ほっとしつつも、素直に喜べない。
皆大切だけど、その中でもハリーにとって特別な存在の容態について言及しないのは、アルバス・ダンブルドアの茶目っ気だろうか。
なんにせよ、悪い趣味だと思った。
「最後の1人についてはわしがわざわざ言うまでもないと思っただけじゃ。ほれ、そこにおる」
ついつい顔に出てしまったらしい不満にダンブルドア校長は目ざとく気づき、やはり揶揄うような調子で、自らが腰掛ける方とは反対側へと細くしなやかな長い指先を、ついと向けた。
見るとそこには、銀色のお姫様が居た。
「ドラ子……」
「むにゃむにゃ……ご主人ぁ」
会いたくて堪らなかったドラ子・マルフォイは、ベッドに突っ伏して、よだれを垂らしながら寝言を口にして、爆睡していた。
「今は淑女にあるまじき寝顔を見せておるが、ずっと君に付きっ切りで看病しておったので、疲れたのじゃろう。なんとも健気な娘じゃ」
「ドラ子はどんな時でも立派な淑女ですよ」
むっとして言い返すと、校長は高笑いをした。
「ほっほっほっ! 恋は盲目じゃな!」
「校長先生、揶揄うのはやめてください」
思いっ切り馬鹿にされて、ハリーは憤慨した。
それでも校長はひとしきり笑い、目尻を拭う。
何も泣くほど笑うことはないだろうにと憤る。
「校長先生は意地悪ですね」
「見ての通り、老い先の短い年寄りの数少ない楽しみじゃから、大目に見ては貰えんかの?」
「ロクな死に方しませんよ?」
「ほっほっ! それはたしかに違いないの」
嫌味を言っても、どこ吹く風で受け流された。
「先生、ひとつ伺ってもよろしいですか?」
「なんじゃね、ハリー」
「何故僕に触れたクィレルは滅びたのですか」
「ハリー、それはひとえに愛じゃ」
このじじい、また茶化しているのかと思ったけれど、どうやら真面目に答えているようだ。
「ご両親の愛が、君を守ったのじゃ」
「ならば、僕は無敵なのですか?」
「君が成人を迎えるその日まで、ヴォルデモートに対してのみ、有効な太古の魔法じゃ」
なんとも都合の良い魔法があったものだと思ったが、そのおかげで僕は生き残り、再びドラ子に会えたことは素直に両親に感謝しておこう。
「この1年、わしはずっと君を監視しておった」
ダンブルドアはそう言って、年端のいかない子供に深々と頭を下げて、心から謝罪をした。
「すまなかったのう」
「いえ、気にしていません」
たしかに度々視線は感じていたが、校長のそれはあくまでも教育者としてのものであり、監視というよりは、見守られていたに近かった。
「組分け帽子によってスリザリンに選ばれた君が、どのような少年なのか気になってのう」
「僕は普通の子供ですよ」
素っ気なく言うと、校長は見透かしたように。
「特別扱いは好かんか?」
「はい。目立つのは嫌いです」
「君は欲がないのじゃな」
どうだろう。それは違うとハリーは思った。
「僕はわりと欲張りですよ」
今回、何もかもを失いそうになって。
ハリーは最後まで諦めず、全てを守った。
それはある意味傲慢で、欲深いと思われた。
けれどダンブルドアは首を振って、否定する。
「君は優しいのじゃ。欲張りなどではない」
ちょっとだけこの老人を尊敬しようと思った。
「ハリー、正直に答えてくれんかの?」
「はい、なんですか?」
「君はヴォルデモートを恨んでおるか?」
そう言われると複雑だ。返答に困る。
その存在を知ったのはボクワーツに入学する際であり、それまでは知らなかった。
だからいざ両親の仇と言われても実感がない。
「好きではありません。すごく嫌いです」
「よろしい。極めて安心出来る回答じゃ」
最終的に好きか嫌いかの二択で選んでみた。
恨みとまでは言わずとも、大嫌いみたいな。
そんな僕の答えに、校長は満足げに頷いた。
「では、マグルについてはどう思う?」
「別に、なんとも」
「君の叔父さんと叔母さんについては?」
「嫌いですね。ついでに従兄弟も嫌いです」
すると校長は興味深そうにハリーを見つめた。
「君は不思議な価値観を持っておるな」
「別に、普通のことだと思いますけど」
「普通の考え方が何より難しいのじゃ」
そのように人は出来ておらぬと、ダンブルドアは酷く疲れたように嘆息をこぼした。
「この魔法界でも、そして人間界でも、全てを一概に一纏めにしようとする輩が多いのじゃ」
「先生、それはおかしいです。良い人も居れば、悪い人もいる。魔法使いやマグルだからといって一概に差別することは間違ってます」
「そうじゃ、間違っておる。君は正しい」
正しいけれど、そう考えられるものは少ない。
故にこの少年は特別であると周囲に見られる。
普通にするには世界を変えなくてはならない。
「君は将来、何かを成し遂げるじゃろう」
「先生は未来を予言出来るのですか?」
「残念ながら、シビルと違い、わしにはそのような才能はない。経験に裏打ちされた勘じゃ」
正直ハリーは占い学の教授であるシビル・トレローニを胡散臭いと思っていたので、校長の勘とらやの方が、まだ信憑性があると思った。
「何かを成し遂げる際にはくれぐれも注意するのじゃ。結果を出すことに執心するあまり、過程を疎かにしてはならん。失敗しても間違えても一向に構わんが、結果のみを追い求めてはいかん。あとで必ず後悔することになるからの」
ダンブルドア校長の話は難しい。
なのでハリーは眠くなってしまった。
それに気づいたダンブルドアが席を立った。
「ああ、ひとつ言い忘れておった」
さもたった今思い出したかのようにわざとらしく手を叩いて、ダンブルドアは伝言を伝えた。
「セブルス・スネイプ教授より伝言じゃ。何度も警告したにも関わらず、君が危険な行動をしたのでスリザリンは100点減点だそうじゃ」
「そんな……」
ハリーは青ざめた。冗談だと思いたかった。
しかし、スネイプ教授はジョークが嫌いだ。
そしてあの人なら、やりかねないと思った。
「ハリー、これも愛じゃよ」
そんな愛があってたまるかと思わず怒鳴りそうになったハリーに対して、ダンブルドア校長は口元に人差し指を立てて黙らせてから、すやすやと寝息を立てるドラ子を指差して。
「もちろん、それも愛じゃ」
「それは、まあ……見ればわかりますよ」
改めて言われると、非常に照れ臭かった。
「ドラ子・マルフォイのその可愛らしさに免じて、わしからスリザリンに200点加算しよう」
「……やはり愛とは都合が良すぎると思います」
愛の万能さに辟易としつつ悪くないと思えた。
「ただいま帰りました、お父様!」
「おお……よくぞ戻ってきた、我が娘よ」
ハリーと離れたくなくて、冬季休暇の際にも実家に帰省しなかったドラ子は、ほとんど丸々1年ぶりにマルフォイ家の屋敷へと帰ってきた。
それを首を長くして待っていたのは父のルシウスであった。1年ぶりの再会に目を潤ませる。
「見ろ、ナルシッサ。こんなに背が伸びて」
「大きくなったわね。おかえりなさい」
「はい! ただいま帰りました、お母様!」
ドラ子はすくすく成長していた。背が伸びた。
来年度にはローブを新調する必要がある程。
伸びた身長も相まって大人っぽくなった。
「もうすっかり立派なレディになったわね」
「本当ですか、お母様!?」
ナルシッサにレディと言われて、目を輝かせる娘を見て、母として何やら察したらしく。
「あらあら、もしかして恋をしたのかしら?」
「なぬっ!?」
全くの寝耳に水であり、完全に想定外の展開についていけず、ルシウスは激しく取り乱した。
「そ、そそ、それは本当か!?」
「恋だなんて……お母様ったら、もう……」
「なんだその反応は!? どういうことだ!?」
「お話は食事をしながらゆっくり聞かせてね」
「はい! いただきまーす!」
「そんな馬鹿な……私のドラ子が恋など……」
「あなた、お料理が冷めてしまいますよ」
ホグワーツに入学した愛娘が恋をして、その相手が例の生き残った男の子であると知ったルシウスは、かつての主君より賜った白紙の日記帳を用いて、娘を誑かした小僧に次代の王たる資格があるのかどうかを試してやろうと、密かに決意したのだった。
【ハリー・ポッターと白銀のプリンセス】
FIN
スリザリンではもしかして
君はまことの友を得る
どんな手段を使っても
目的を遂げる狡猾さ
ーー組分け帽子の歌から一部抜粋ーー
最後まで読んでくださり、ありがとうございました
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