夜更かしが続き、生活リズムが乱れ、明け方を迎えた時に思った。
『最良なもの』を生み出せるのは、肉体においても、精神においても、最良な時か。
あるいは、最悪の時であると。
だからこそ、想い人と付き合えて幸せの絶頂にいた、学生時代の僕も。
マスクの下に、壮絶な痛みを隠した同期の女の子も。
この世に『最良なもの』を残すことができた。
やがて、それらは、渺茫たるネットの海原の。
地下深くに埋もれることになった。
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女「今いい?」
男「駄目」
女「パソコンの梱包をするから、はやくその作業を終えて。あなたもテレワーク対象者でしょ?」
男「クライアントに送付しないといけない資料があるから」
女「納期はいつ?」
男「10分前に送っていなければならなかった」
女「だから焦ってるのね」
男「俺の分は自分でなんとかするから。放っておいてくれ」
女「一生放っておきたいけど、まだ業務連絡があるの」
男「後にして」
女「はいはい。それじゃあまた一ヶ月後」
男「お疲れ様」
女「あなたと話すから疲れるのよ。鬼みたいな表情で仕事してさ」
男「仕事人間なんだよ」
女「仕事に依存しているだけでしょ」
男「……はあ?」
女「お先に失礼しまーす」
糞みたいな日々が始まる予感がしていた。
テレワークに移行する一ヶ月間、僕はまともに働きはしないだろう。
孤独に埋もれていた高校時代を思い出す。
僕は、学校が一番嫌いで、その次に、長期休暇が嫌いだった。
それは、通学と休暇の二つのみで学生生活が構築されているからではなくて。
文字通り、学校でも、家でも、自己嫌悪に苦しんでいた。
怠惰な人間だから。
膨大な時間が与えられると、ベッドに寝転びながらパソコンや携帯電話を1日10時間くらいいじって、その日が終わってしまう。
0時くらいになって、そろそろ寝なくちゃいけないと思っても。
今日何もせずに終えてしまったことに焦燥感を覚えて。
このまま寝てはいけないという気持ちに駆られて。
そのまま携帯をいじって、寝るのを先延ばしにしていた。
無限に広がるネットの海原をいくら泳いでも。
自分を救ってくれるものなんて、見つからなかった。
きっと、人は、太陽の下でしか幸せになれないんだ。
prrr……
男「もしもし、男ですが。どちら様ですか」
女「同期の電話番号も登録していないの?まあ私もしてないからお互い様か」
男「女か。月曜の朝からどうしたんだよ」
女「この前言いかけた業務連絡のことでね」
男「ああ。休日明けるまで待ってくれたのか」
女「休日にあなたに電話する気も起きなかっただけ」
男「そうかよ。で、要件は?」
女「会社の方針で、同じグループのテレワーク対象者は、毎朝テレビ電話で朝礼することになったでしょ」
男「そうだったっけ?」
女「メールでも通達来てたわよ」
男「コロナの対応に追われて総務のメールチェックする余裕なかったんだよ。最近出先での作業も多くて社内の話を聞く時間もなかったし」
女「あらそう。とにかく、これから毎朝始業時間は、朝礼をすることにします」
男「俺たちのグループは……」
女「5人ね。あなたと私。他は退職準備中の先輩と、うつ病で休職中の先輩と、先週から行方をくらました新人ちゃんの3人」
男「ということは、俺とお前しかいないじゃん」
女「そういうこと。それで、私も毎朝画面を通してあなたの顔を見るのも億劫ですので、無駄なことはやめませんかという話」
男「なるほど……」
女「お互い監視をしなくても、自己責任で仕事を進めればいいでしょう?」
男「うーん」
女「会社がいけないのよ。スマホで打刻とか、メールを上長に送るとか、効率を考えればいいのに」
男「上長に提案しろよ」
女「嫌よ。面倒」
男「その結果が今だ」
女「偉そうに言わないでよ」
男「会社の決まりだし従った方がいいと思うけどな。後で通話履歴の提出とか求められたら面倒だし」
女「それはそうだけど」
男「簡単に電話で済ませないか?今やってるみたいに」
女「電話か……」
男「俺も寝癖いちいち直さなくて済むしさ」
女「まあ、あなたがそれでいいなら、別にいいけど」
男「じゃあ、毎朝電話で朝礼な」
女「わかったわよ。じゃあ、よろしくお願いします」
男「こちらこそよろしく」
女「本日の朝礼は以上です。それではまた明日」
プツ……
男「……切れた」
女「もしもし。お疲れ様です」
男「お疲れ様です」
女「昨日はちゃんと業務こなした?」
男「したよ。業務量も通常時よりははるかに減ってるから家でもなんとかなるかな」
女「暇になっても外出しないでよね」
男「最低限の買い物はあるだろ」
女「今一人暮らしだっけ?」
男「いいや、実家暮らしだけど。親の代わりに行くこともあるよ」
女「実家か。アラサーなのに珍しいね」
男「会社と家の距離が近いから家賃補助が出ないんだよ」
女「一人暮らししたくならない?」
男「全然。親と仲いいし。それに貯金も貯まりやすい」
女「ふーん」
男「尋ねた割には興味なさそうだな。そっちは一人暮らしなんだっけ?」
女「以前も2回同じ質問をされたわ。それじゃあ今日の朝礼はここまで。また明日」
男「ちょ……うわ、切れた」
女「もしもし。お疲れ様です」
男「お疲れ様です」
女「馬鹿みたいね」
男「いきなりなんだよ」
女「他の部署の人たちも、似たようなことをしているかと思うとさ」
男「テレビ会議で朝礼だっけ。うちなんてウェブサイト制作の仕事なんだから、そんなに全体で共有することもないのにな」
女「今さ、世間の化粧品の売り上げってどうなってるか知ってる?」
男「急に話変わるな。外出が減ってるから下がってるんじゃないか?」
女「外出の自粛が始まる前から下がってたの。なんでかわかる?」
男「えーと……もしかして。みんなマスクをつけはじめたからか?」
女「そう。例えばリップをつけちゃうと、マスクの内側について気持ち悪いし、そもそも唇を見られることもない。一方、目元の化粧品の売り上げはそれなりに維持していたのよ」
男「男性には気づかない観点だな」
女「テレビ会議ってなると、すっぴんは晒したくないし、誰とも会わないのに化粧なんて面倒だし、家の中にいるのにマスクつける訳にもいかないでしょ。女性の気持ちを会社が考えていない証拠よね」
男「ほお」
女「ということで、これからも電話でよろしく。今日の朝礼はここまで」
男「はやっ……切れてるし」
男「…………」
男「そもそもあいつ、入社以来ずっとマスクつけてるじゃん」
二人は、第二新卒としてこの会社に転職をしてきた。
4月に(第一)新卒として入社してきた他の数名の新人と同じように、研修からスタートした。
入社式の日からずっと、女はマスクをつけ続けていた。
社長もマネージャーも注意しない。総務も研修中に何も言わなかったことから、何か特別な事情があるのだろう。
口元に傷跡とか、火傷の跡などがあるのだろうと勝手に想像している。
昼食の時間になると、彼女はいつもどこかに姿を消した。
休日に新卒同士で出かけようという話になっても、彼女は一度も参加しなかった。きっと、どこに行くにしても食事を共にすることになるからだと思う。
僕は最初の頃、年下の子達に溶け込もうと頑張っていた。幸いにもやさしい子達が多くて、いくらか年齢が離れていても気軽に接してくれた。
だけど、日に日に、交流の機会も減っていった。
仕事が難しくて、みんな疲れてしまったのだ。
三年目になれば慣れるなんて言葉があるけれど。
慣れない仕事は、いつまで経っても慣れない。
そうやって僕も転職をした。
国内最大規模のメーカーで、総務の仕事をしていた僕が、畑違いの中小企業にどうして来たかとよく尋ねられるけど。
給料を下げてでも。
自分の能力でこなせる仕事に就きたかったからだ。
例えば、僕の国語の偏差値が70で、数学の偏差値が50だとする。
そして、「数学」の仕事をする一流企業(偏差値70)に就くとする。
こうなると地獄だ。自分が環境を20も下回っている。毎日怒られるし、努力が報われにくいし、報われにくいから努力も怠りたくなる。
現状を変えるための選択肢は二つ。
まず一つが「数学」の仕事をする一般企業(偏差値50)に就職することだ。
自分のレベルと企業のレベルが一致するので、怒られることは極端に少なくなる。平凡なサラリーマンの誕生だ。
そしてもう一つ。それは異業種への転職、つまり「国語」の仕事をする企業に就く。
しかし、第一新卒のチケットを失い、実績もろくにないのに一流企業への転職は難しい。
だから「国語」の仕事をする一般企業(偏差値50)に就職することになる。
こうなると天国だ。自分が環境を20も上回っている。毎日褒められるし、努力が報われやすいし、報われやすいからますます頑張れる。もしかしたら、一流企業で天才たちと戦うよりも幸せかもしれない。
たとえ年収が100万円以上減っても。昔の同級生や親に、アダルトサイトの制作をしていることを隠していても。
バイトや、前職で、毎日怒られていた僕にとって。
みんなから頼ってもらえる今の日常は、守りたい日常だった。
女「もしもし。お疲れ様です」
男「お疲れ様です」
女「会社辞めたりしない?」
男「いつも唐突だな。辞めないよ」
女「休みの期間に緊張の糸がプツンと切れて、辞めるって話聞くからさ」
男「前の会社に勤めたままだったら、正直このまま会社潰れちまえって願ってたかもしれない」
女「不謹慎な発言ね。この会社は?」
男「潰れないでほしいって思ってる。平日を好きにさせてくれた。そんな穏やかな気持ちだから、前の会社も潰れないでほしいとさえ思えるようになった」
女「模範者ね。サラリーマンの希少種よ。うちサラリー少ないからサラリーマンと言えるかわからないけど」
男「はっはっ」
女「乾いた笑いって笑わないことよりも笑ってないからね」
男「珍しく冗談なんて言うから」
女「冗談じゃないわよ。夏のボーナス完全カットって噂だよ」
男「嘘だろ?」
男「だって、動画掲載型のサイトに関わってるけど、PV数増えてるぞ」
女「自宅待機している男どもは、みんな絶賛自家発電中だろうからね。広告収入は増えるわね」
男「自家発電なんて表現してるの社内であんたくらいだぞ。新入社員の女の子も普通にシコシコとか言ってるぞ」
女「……個人の自由でしょ」
男「広告収入が増えてるのに、なんでボーナスカットなんだよ」
女「風俗店のポータルサイトの運営が全然駄目。自粛要請で誰も利用しなくなってる。デリヘルの待機人数がかつてないほど多いわよ」
男「へー、多いんだ」
女「それが?」
男「待機人数が多いってことは、働こうとしている風俗嬢は多いってことなんだな」
女「稼がないと生きていけないからね」
男「生きるために働きたいのか」
女「当たり前でしょ。気味悪いこと言うわね」
男「働いている人は、みんな生きたいってことだ」
女「過労死も電車への飛び込みも労働が原因になるけどね」
男「じゃあ労働って、何のためにあるんだ」
女「だからお金でしょ。サラリーマンよ。サラリー(給料)があるから働くの」
男「それって悲しいな」
女「あなただって今の会社が給料払わなくなったら、退職するでしょ」
男「それはそうだけど。何の仕事を通して稼いで生きたいかっていうことも大事で……」
女「はいはい。御託はいいから、一生懸命仕事に精を出しなさいよ」
男「ちゃんと働くよ。それに、どちらかというと他人の精を出させるんだろ」
女「今日の朝礼はここまで!!」
男「うわっ、切られた」
女「もしもし。お疲れ様です」
男「お疲れ様です」
女「ちゃんと外出自粛してる?」
男「してるよ。元からインドア派だし」
女「私もだけどさ。外に出られるのに家にいるのと、家にいなくちゃいけなくて家にいるのって違うじゃない」
男「仕事に集中することだな。空いた時間もお勉強したりさ」
女「やだやだ。花の20代なんだから、恋でもしていたいな」
男「出会い系アプリでもやるのか?」
女「この時期に会おうなんて言う男は全員ハズレよ。自粛している男性と会いたい」
男「それじゃあ会えないだろ」
女「そう。だから今独り身なの」
男「へー。じゃあちょっと前はいたのか?」
女「はい、セクハラ」
男「判定が厳しい。今のはセクハラへの誘導だよ。セクハラハラスメントだ」
女「あなたこそ相手はいるの?」
男「右手が恋人だよ」
女「くだらない表現。右手は恋人と繋ぐための手なのに」
男「……うるさい」
女「ふふ、そう落ち込まないでよ」
男「そういえば、ネットサーフィンしてる時に見つけたんだけど。あたかも化粧してるかのような画質でテレビ会議できるアプリがあるらしいぞ」
女「へー。世の中には先手を打ってサービスを提供している会社があるものね」
男「女性からしたら便利だよな」
女「……面倒くさそうだから私はどうせテレビ電話しないけど」
男「ただの情報として伝えただけだよ」
女「うちも新規事業を始めないとね。収益の柱を分散させないと」
男「シナジー効果がないと難しいぞ。アダルトサイトの制作がメインのうちの会社が、何を始めるんだ」
女「例えばさ、エロゲーと風俗をコラボさせるとか。ゲームをプレイして親密度を高めていくうちに、リアルな嬢との親密度もあがってくるとか。ゲーム内の思い出を話すと、嬢も同じ思い出を共有して話してくれるの」
男「簡単に思いつくようなことって、誰かが既に実行しているか、コストパフォーマンスが悪いから誰も採用していないかのどっちかだと思う」
女「そういう思考回路だと何も新しいことを始められないよ。あなたもアイデアを出してみてよ」
男「なんか朝のミーティングらしいな。こういうのってさ、掛け合わせるものがアダルトサイトのイメージと離れていれば離れているほど、面白いものが生まれると思うんだ」
女「例えば?」
男「うーん……アダルト×勉強。アダルト×職場。アダルト×部活。駄目だ、どれも同人とかイメクラで取り扱われている題材だ」
女「してはいけない環境でするから、エロく感じるのかしら。だとしたら、エロっていうのはファンタジーよね。現実でできないから、非現実でそれを叶えようとするところが」
男「小学生にとっての魔法、中学生にとっての超能力みたいなものかな」
女「明日までにいいアイデアが浮かんだら教えてちょうだい。それじゃあ今日の朝礼はここまで。またね、魔法使いさん」
男「はぁ!?」
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