【デレマス】佐藤心「世界征服☆」 (190)

デレマス二次創作です。
色々よろしくお願いします

 その日は最悪な一日だった。

 それをなんとなく肉体が察したのか、それとも運命を知っていたのか――やけに青ざめた俺の表情を察して、千川さんが話しかけてきた。

「なんだか顔色悪いですね、塩崎さん。そんなに嫌なんですか?」

「うーん、ま、嫌ってわけじゃないんですけど……なんだか苦手ですね」

「それ、嫌ってのと違うんですか?」

「若干ですけど、違いますね」

「へぇ?」

「ともかく、行ってきます」

「はい。頑張ってくださいね。はいこれ、今日の資料です」

 その日は、俺の二回目のオーディション担当の日だった。

 我らが美城プロダクションには二種類のアイドルスカウト方法があり、直接プロデューサーがアイドルを探しに行くスカウト形式か、もしくはアイドルが受けに来るカタチのオーディション形式の二通りであった。

 オーディションでは主に書類審査や面接などが行われ、現状美城プロダクションに足りない属性を持ったアイドルの原石を探すことがメインとされる。スカウトではプロデューサー自身の直感が試されることに対し、オーディションではプロデューサーの審美眼が試される。

 実際のところ、俺は審美眼を有しているとは言い難いのだが……しかし、わざわざ女一人探すために他県に出張したり、口説き落としたりすることを苦手に感じているため、自ら辞退させてもらっていた。が、だったらオーディションを担当してもらおう、という部長の指令により、俺はオーディションを担当させられてしまっていた。

 曰く、「やらなかった後悔はやった後悔よりも重く、そして後悔そのものは人生における最重量の重りだ」という。

 そもそも俺は女性が苦手である。

 無論同性愛者の類ではない。ただ、なんとなく若い女子に対しての後ろめたさにも似た苦手意識のようなものが、染みついているのである。あのなんとも言えない女性特有の雰囲気というのがどうにも苦手で、敬遠しているわけだ。

 オーディション部屋に入れば、そこには予め一つの長椅子と二つの椅子、それに対するように小さなパイプ椅子がちょこんと置かれている。扉は今入ってきた一か所しかなく、どこか密閉された空間のように感じる。窓は左手に大きなものが一枚あるが、あいにくと本日は曇天。なんとも言えない雰囲気である。

 まさに“如何にも”という感じだ。

「はぁ……」

 とため息を零す。

「あらま、そんなに落ち込んでいたんじゃ大変ですよ」

「ぅおあ、千川さん!?」

 俺の後ろを陣取るように、音もなく千川さんが現れた。

「今回のオーディションは私も手伝えということでしてね。塩崎さん、この前全員落としちゃったでしょ。部長も困ってましたよ」

「はぁ、だったら、他の人にやらせればいいのに……そもそも、アイドルの発掘なんて、俺には無理なんですよ」

「まあまあそう言わず。部長だって、考えなしにあなたを起用したわけではないでしょうからね」

「そうなんですかね?」

「まあそういうことにしてみたら、いかがでしょうか?」

「精神論……」

 二人して椅子に座ると、少しだけ緊張してしまう。

 体の中心から、冷気が昇ってくるような感覚。だというのに、やけに胸のあたりは熱っぽくて、思考がまとまらない。末端から少しずつ冷えていくのに対し、熱が中心から分散していくイメージ。そのせめぎあいの中央で、体が震えている。

 空調は、ついているのだろうけれど。

「緊張してます?」

「はい、もちろん」

「安心してください。彼女たちの方が、よっぽど緊張してますから」

「……千川さんは、やけに飄々としてますね」

「慣れてますから」

「……こういうのに?」

「厄介ごとに、です」

 しばらくすると、他の指導員が連れてきたアイドルの吐息が、壁の向こうから聞こえてきた。用意されている履歴書は五枚であり、実際オーディションを受けるのも五人なのであろう。

 五人か。この前より少ないな。

 少しだけ心が軽くなった気分である。

「……じき時間です。ノックされたら、「どうぞ」って言ってくださいね」

「就職を思い出しますね」

「でも、結局全部落ちたんでしょう?」

「……なんでそんなこと言うんですか?」

「あはは、少しでも緊張をほぐせたらって」

「いらぬ世話です」

 ノックの音。ついで、「どうぞ」と発音。少し震えていた声は、千川さんの肘でつつかれたことにより、平坦なものになった。

「失礼しまーす!」

 元気そうな女性の声。事実そうなのだろう、活発そうに髪を後ろで束ねた少女は、満面の笑顔で部屋に入ってきた。髪の色は、クリームのような亜麻色で、かなり長い。

「座ってください」

「はい」

 用意した椅子に座った彼女を観察すると――スカートを握る手が、震えていた。いや、そういえば……「失礼します」の声も、震えていたように思えた。

 彼女だって緊張しているんだろう。ハキハキと喋る彼女でさえ、怖いのだ。落ちるのが、落とされるのが。

 だってそれは、それだけ本気だということだから。そんなことは、もちろん俺にだってわかっていた。

「ではまず、自己紹介の方を……」

 一人目の少女が自己紹介から自己PRを終え、特技を披露してから、部屋から出ていくのをじっと眺めていると、千川さんのため息が聞こえてきた。

「で、どうでした?」

「えっと、すごく緊張しました。あと、大体やってくれて、ありがとうございます」

「ええまあ、そういう役割ですから」

 オーディションの途中、俺はほとんど喋らなかった。千川さんが質問して、それに答えて、最後の自己PRをして終わり。彼女の場合、得意だというダンスを披露してくれた。それはダンスというよりも、彼女の柔軟性を活かしたパフォーマンスであったが、これもダンスの一環なのだろう。十分に洗練された技術だった。

「彼女、うちで使えそうですか?」

「……どうでしょう」

「と、いうと?」

「やる気はあるように思えます。元気だってあります。顔だって可愛いし、スタイルも良いのでしょう。けれど、なんていえばいいのか……何かが足りないような、気がするのです」

「何かって、何ですか?」

「ちょっと上手く言葉に出来ないんですけど……熱意、みたいな? いや、若い子ってそういうもんなんでしょうかね? 意思というか……真意?」

「はぁ……そうですか」

「……はい」

「ま、塩崎さんがそういうのでしたら、そうなのでしょう。私は信じますよ」

 二人目の少女は、一人目に比べておとなしい少女だった。髪はショートで、染めていない。服装も落ち着いたもので、語りも流麗。ちゃんと練習してきたのであろうことを想像すると、それは遺憾なく発揮されていたのであろうことは、確かであった。

「では、自己PRをどうぞ」

「はい。今日は私の好きなアイドル、高垣楓さんの「こいかぜ」の音源を持ってきたので、歌わせてもらおうかと思います」

「歌唱力と演技力をパフォーマンスということで良いですか?」

「はい」

 ポケットからスマホを取り出し、操作する少女。

「あっ」

 と滑り落ちたスマホ。床は一面マットであり、傷が入るようなことはなかった。

 だが、その手が震えていたのは、確かに確認できた。

「……」

「すいません。すぐに準備しますので……」

「……ありがとうございました。自己PRは以上です」

「ありがとうございました。退室してください」

「失礼します」

 パフォーマンスは中々のものであった。無論高垣楓には遠く及ばないものの、彼女なりの演技や技術が感じられ、思わず大きめに拍手してしまうほどだった。

「で、どうだったんです? 足りてました、真意ってやつ?」

「うーん……」

「足りてなかったんですね」

「いや、真意だとか、熱意っていうか……なんていえばいいんでしょうかね。ピンと来ないっていうか」

「ふーん……厳しいことを言いますね」

「ごめんなさい」

「いや、いいんですよ。むしろ、なんでもかんでもOKではこちらも困りますし。選りすぐり、判断するのはとても良いことです」

「それならばいいんですけど」

 三人目の少女の自己PRが終わると、またすぐに千川さんが話しかけてきた。

「ピンときました?」

「来ませんでした」

「ま、そうでしょうね。今の子は私の目で見てもどこか抜けていたというか、足りていないものが多すぎましたからね。言っちゃアレですが、アイドル向いてませんよ、さっきの子」

「……ずいぶん強烈な言い方をしますね」

「そりゃそうですよ。夢見せる存在が何も夢見てなかったら、ファンに何を見せるっていうんですか。それなら結局、何も魅せられませんよ」

「……!」

 ピースがハマる感覚がした。

 そうか、夢か。

 さっきまでの少女達には、夢がないのだろう。

 アイドルになりたい。それは良い。それで、アイドルになって何をしたいのだろうか。

 曲があって、デビューすればそれはもうアイドルだ。だけど、アイドルになって、それからどうしたいのか。展望が見えない。それが、浅はかな熱意らしきものでしか、見えていないのだろう。

「千川さん……少しだけ、緊張がほぐれてきた気がしました」

「そうですか。それは重畳……ほら、次の人が来ますよ」

 指針は決まった。であれば、その展望に何を懸けているかを見定めるだけだ。

 ノックに次いで「どうぞ」の声。淀みなく発された自分の声に、どこか聞き覚えのある声が帰った。

「失礼します☆」

「ん?」

「え?」

 ドアが開き、入ってきたのは脳みそメルヘンなおかしいやつだった。全身黄色のコスチュームに身を包み、背中には羽が生えている。髪は金色で、ツインテール。やけにテンション高い笑顔で入ってきたその女を、俺は知っていた。

「あ、はぁと!?」

「おー、塩崎!? 何これ、運命!?」

「……お知り合いで?」

「腐れ縁で……」

「あ、そ……」

 ひとまず彼女を椅子に座らせ、オーディションを続ける。

「おほん。えっと、ではまず自己紹介を」

「あ、はい。私は佐藤心と言います☆ しゅがーはぁとって呼んでくださいね♡」

「げほっ!」

「塩崎さん!?」

「な……なんでも、ないです。蒸せただけ。続けて……」

 なんというか、昔から変わってないな。

「年齢は26、血液型はAB、出身は長野で、身長166センチで、体重は……ひ・み・つ☆」

「げほっ!」

「塩崎さん!?」

「な……なんでもないです。ほら、続けて……」

 っていうか、昔のままのキャラクターで行くのかよ!

 そうか……はぁとは“そういう人間”だったな。

「で、では……何か自己PRなどあれば……」

「裁縫とか、衣装作るのが得意なことと、踊りです☆」

「では、その衣装は?」

「手作りです☆」

「お前幾つだよ……」

「26」

「ああそうだった……」

「えっと、塩崎さん? 彼女とはどんな関係なんですか?」

「あー、ま、気になりますよね。小中高と同じ学校でした。大学で離れたんですけど、まさかこうなるとは」

「……心中お察しします」

「おーい、憐れんでんじゃねーぞ塩崎ぃ!」

「うるさいぞ佐藤。仮にも俺は面接官だ」

「すいませんでした☆」

「変わり身はやっ」

「まあとにかく……もう一つの踊り、ダンスやろうと思います☆」

「あー、なるほど。どうぞ」

 先刻と同じように、ポケットからスマホを取り出すはぁと。

「……かなり気まずい感じですか?」

「かなり気まずい感じですね。なんで18年間一緒にいたやつがこんなところに……」

「18年ってやばいですね……」

 二人、資料に顔を隠して内緒話。

「もう始めていいっすか?」

「あ、どうぞ」

 音楽がかかり、はぁとが踊り始める。

「……普通に上手い」

「ま、年齢を考えるとかなり卓越した技術ですね。相当な練習もうかがえます。ただその、痛々しいキャラクター性が難儀なのですが……逆に利点にもなりますか」

 スマホをポケットにしまい、椅子に座りなおすのを見ながら、俺たちはぼそぼそとそんなことを呟いていた。

「パフォーマンスは以上です、ありがとうございました☆」

「ありがとうございました。では退室して――」

「あ、ちょっと待った」

 思わずストップをかけてしまう。

 それは、絶対に聞かなくてはならないことだった。

「えっと、佐藤……さん。おそらくあなたの技術とやる気があれば、アイドルデビューは可能でしょう」

 それは事実だった。確かに年齢の欠点こそあるが、そのキャラクター性と高いスキルがあれば、芸能界でもやっていけるだろう。やる気も十分、性格こそ昔と変わらず飄々としたものだが、それもバラエティ番組などでは効果的に作用するはずだ。

「ですが、ひとつだけ質問があります」

「……」

「あなたは、アイドルになったら、何がしたいですか?」

「……」

「そんなもん、昔から変わってねぇよ」

「……」

「世界征服☆」

「……」

「……」

「ありがとうございました。退室してください」

「……失礼しました☆」

 ガチャリ、と扉の音。

「……」

「……」

「わかりましたか?」

「ええ、なんとなく。見えていなかったものが、見えてきた感じです」

「なるほど。それは――よかった」

 結局はそういうところだ。

 根底は昔から変わっていない。俺は、彼女のそういうところが好きだったから、18年間を共に過ごせたのだろう。あまりにも強い信念と目標。それが明確に存在しているからこそ、俺はそれが見えた気がした。

 大きすぎる野望だが、それがちょうど良い。

 ああ――それに、いろいろ思い出した。

 思えば、そんな約束もあったな。

 忘れていた自分が恥ずかしいよ。

「じゃ、歌いまーす」

 五人目のオーディション。彼女は自己PRに歌を選んだ。

 活発そうな少女である。思ったことはなんでも口に出してしまうタイプらしく、なんだかやりにくい。

「……!」

 しかし、それは圧巻のパフォーマンス。

 たかが歌だが、されど歌。

 まるで芸術作品の一端であるかのように、聞くものを引きこませるセンス、技術、身のこなし。うちのアイドルでも、ここまで華麗に歌えるのは数少ない。それだけの技量と確かなものが、彼女にはあった。

 加えて、時折軽いダンスも交えてくる。あれだけ動きながら息も切らさずに歌えるというのは、やはり彼女の並外れた耐久性故か。間奏では特に激しいダンスが入っていたというのに、歌いだしは流麗である。

「……これは掘り出し物ですよ」

「ですね」

「……ありがとうございました、自己PRは以上です!」

「ありがとうございました。ところで、オーディションはうち以外で受けたことはありますか?」

「ないですね。ここが初めてです」

 これは途方もない原石のようである。そのままデビューさせても、一線で動けるだろう。

 あとは、アレを聞くだけだ。

「では最後に、あなたはアイドルになったら、何がしたいですか?」

「アイドルになったら、ですか?」

 きょとんとしてしまう少女。彼女はあくまでも、ここにアイドルになるために来たのだろう。だが、俺の質問はその先。もしアイドルになったら。

「……いっぱいのお客さんを、楽しませてあげたいですかね」

「……そうですか。ありがとうございました」

「っていうか、私からも聞いていいですか?」

「……はぁ、なんでもどうぞ」

「さっきの四人目、あなたとお知り合いなんですか?」

「……はい。それは、そうです」

 思わぬ質問に、つい変な声が出てしまった。

 はぁととの関係を聞かれるなんて、思うはずもあるまい。

「彼女、とるんですか?」

「……さあ、まだ選考は終わっていませんので」

「彼女より私の方が良いですよ。私の方が若いし」

「……」

「塩崎さん」

 ぴしゃり、と静止が入った。

 何か言おうとした。けど、声が出なかった。

「私を選んだ方がいいです。あんな年増よりも、他の子よりも。ずっと壁一枚隔てて聞いてましたけど、みんな私より下手です。ダンスだって、あれは体が柔らかいだけ。根本的なリズム感なら私の方が……」

「塩崎さん!」

「……」

 立っていた。

 思わず、席を立っていた。

「座ってください。落ち着いて」

「……」

 ゆっくり、席に座る。

「嘘でしょ? まさか、本当に私を落として彼女を取る気ですか?」

「……」

「後悔しますよ」

「……」

「では」

 それだけ言うと、その少女は出て行った。髪を靡かせながら、俺をあざ笑うように。

「珈琲、飲みますか?」

「どうも」

 翌日、事務所で書類を見ていると、千川さんが俺の机にコップを置いてきた。

「この前の書類、まだ見てたんですか? それ、シュレッダー行きだったんじゃないんですか?」

「もうしばらくすれば紙屑です」

「……まだ、考えてるんですか?」

 結局のところ、俺は結論を先送りにしてしまった。部長に頭を下げ、理由を述べ、時間を求めた。

 部長は笑って許してくれたが、あんまり悩んでいる時間はない。早急に結論を出さなくてはならないことは、確かだった。

「あれは、正論ですよ」

 と、千川さんは言った。

「実際のところ、若い子の方が売れますからね。会社としても長く使えますし。26でアイドルを始めても、10年使えるか。それに売れなかったら、利益はほぼ出ない。彼女に変に夢を見せて、潰すことだってあり得ます」

「千川さん、それは……」

「あくまで一般論ですよ。あなたと佐藤さんに何があったのかは知りませんけれど、何かあったのでしょう?」

「……流石千川さん」

「私の方が先輩ですからね」

「……」

「けれど個人的な意見を言わせてもらえれば――身内をあれだけ罵倒されて、黙ってじっと見ている方がダメな人間であるはずです」

 千川さんが淹れてくれた珈琲を見る。いつもと変わらないカタチ。アツアツではなく、適度に冷ましてあって飲みやすい温度になっている。

「塩崎さん、佐藤さんに何か見えたんでしょう? 言葉に出来ない、真意みたいなやつが」

「はい」

「それは身内だからですか? あなたが知っている人間だから、温情でそう思ったんですか?」

「いいえ……けれど、俺はあいつのことが詳しいからこそ、あいつの真意が見えました」

「……」

「懸けようと思えました。あいつの未来に懸けたいと思ったんです。連れていって、一緒にあいつの未来が見たいと思いました」

「……まるでプロポーズですね」

「千川さん」



「いいじゃありませんか。どうせ、王子様なんてどこの世界でも身勝手なんですから」

「くそ、アイツ……落としやがって……」

 折角上京してきたっていうのに、容赦ないなぁ、アイツ。

 流石そるてぃー。変わってないじゃん。やっぱ、今の私の実力じゃ無理があったか。

 と、着信音が聞こえた。ぶるぶるとポケットの中で震えている。ガラケーを開けると、知らない番号からの着信だった。

「あ、はい。もしもしー佐藤ですけど☆」

『あ、はぁと? 塩崎だけど』

「あってめぇ、よくもオーディション落としたな! どういう腹積もりだこら☆」

『まあその話はあとでするさ』

「ってかお前なんで私の番号……」

『履歴書』

「あー」

『……今から会えるか?』

「へ? 今から? えっと、まあ……うん、はぁとは? 忙しいから? もう毎日てんてこまいなんだよ☆」

『そっか。じゃあそれ全部断ってくれ』

「はぁ?」

『久しぶりに腹を割って話そうぜ』

 先に待ち合わせの喫茶店でお茶していると、遅れてはぁとの姿が見えた。

 走ってきたのだろう、髪が少しほつれて見える。額には汗が伝い、若干化粧が落ちているようにも見えた。なんだか、目元も腫れているように思えた。

「ようはぁと。昨日ぶり」

「うるさいぞ塩崎……お前、ふつー30分かかる場所に呼ぶのに、20分しか猶予与えないってマジでおかしいからな☆」

「元気そうで良かった。その分じゃ体力も結構あるな」

「げーソルティー……」

「で、用件はなんだよ☆」

「簡単だよ。俺とアイドルやらないか?」

「……ふぅん?」

 訝しむように、俺を凝視するはぁと。なんだか懐かしい光景だった。

 置いてあるコップを手に取ると、お冷を一気飲み。豪快なやつだ。

「どういう了見なんだよ、お前は昨日、確かに私を落としただろーが☆」

「だから、それを前提で言ってるんだよ。俺がお前をスカウトしに来たんだよ」

「はぁ? 自分勝手すぎだろ、それは……」

「ああそうだよ。自分勝手なことだ。結局、他のアイドルも落としたしね」

「勿体ないことするねー……五人目の子なんて……」

「はぁとよりも素質があったよ」

「……」

「はぁともわかってたか」

「じゃあ、なんで落としたんだよ。で、私なんだよ。哀れみか?」

「違う」

「じゃあなんの理由だ? 体が目当てなわけ?」

「……」

「……おい?」

「あのさぁ、俺とお前が何年付き合ってると思うわけ?」

「……長いよな」

「じゃ、俺がそんなことするタイプだと思うか?」

「ま、お前ヘタレだしな」

「やめろ……そういうストレートな意見……」

「ともかくだ。お前をスカウトしに来た。もちろん、嫌なら俺は引き下がるよ」

「質問が幾つか」

「どうぞどうぞ」

「なんで私を選んだ?」

「お前には夢がある。大きな展望がある。若干スケールが広すぎるけどな」

「……覚えてたのか」

「うん。っていうか、思い出した。お前と会うまで忘れてたよ」

 それは、俺たち二人の夢だった。

 昔、誓い合った夢。幼いながらの約束は、今になって楔を果たそうとしている。

 それが世界征服だった。

「あとピンときたってのもあるかな。お前ならいける気がした」

「……そ、そっか……」

 少し照れたように、顔をそむけるはぁと。

「じゃ、じゃあ次の質問ね。私の理由はわかったけど、五番目の子じゃなかった理由は? 私、壁越しに色々聞いてたけど、確かにアイツの方が歌上手いし、言ってたことも正論だったろ」

「……聞いてたのか。なら話は早いな。確かにあの子は歌もうまいし踊りも上手だし、お前より可愛いかもしれない」

「……」

「けど、だから何だ?」

「……は?」

「アイツより歌がうまくて踊りが上手なやつはほかにもいるさ。探せばごまんといるだろう。確かにあの子はあの五人の中ではダントツだったさ」

「ちょっと待って塩崎? 聞きたいんだけど……お前、いつからあの子のこと落とそうと思ってた?」

「順番が若干変わるけど、最後の質問の時点で落とそうと思ってたよ。けど、そのあと色々言われて考えた。で、結果として判断は一番最初に考えたことだった」

「最後の質問……私にしたやつと、同じやつか?」

「うん。アイドルになったら何がしたいか」

「……そんな質問で?」

「ま、千川さんにも怒られたけど、これは俺が決めたことだからって言って押し切った。実はあの後、最初の三人にも同じことを聞いたんだよ」

「なんて答えたの?」

「全員、きょとんとしたよ。それから答えを探して、言った。けど、それじゃダメなんだよ。未来があって、それに一直線で進めるやつじゃないと。それが、お前からは感じられただけ」

「……ふぅん」

 と再び赤面。

「あとこれはほかの人には内緒なんだけど……あの五番目の子、多分他の事務所がとると思うんだよ。良い原石だからね」

「うん」

「アイツぼこぼこにしたくないか?」

「……は?」

「ライブバトルだよ。アイドル同士の戦いの場。そこで、アイツをけちょんけちょんにしてやりたくないか?」

「……」

「……思わない?」

「は、はは……――お前、マジで言ってるのか?」

「それは俺のセリフだよ。はぁと、あんなこと言われて悔しくなかったのか? 俺は悔しかったぞ。お前のことを知ってるからな。多分、世界で二番目に」

「……」

「目のもの見せてやる。俺はそう思ったよ。だから、なんとしても落としたかった。で、敵に回したかった」

「……お前も中々――」

「……」

「――面白いこと考えるじゃねーか☆ やっぱ諦めきれねーな、夢ってものは……」



「乗った! 任せたぞプロデューサー!」

 ライブバトルというのは、主に二種類のルールで構築されている。

 同じ会社内(この場合、わが社こと美城プロダクションに当たる)で行われるアイドルランクを上げるためのバトル、通称ランクアップバトル。そして他社との間で行われるワンオンワンバトルである。前者がアイドルとしてのランクを上げるために、ソロ、もしくはユニットに与えられるレベルを更新していくための、いわば経験値稼ぎとして使われるバトルに対し、後者は主にパフォーマンスを比べ合い、公に向けてのファン数稼ぎのようなことで使われることが多い。無論二つにはそれだけではない、もっと大きなファクターがあるのだが、ともかくこの二つが専ら使用される。

 基本はソロ対ソロ、ユニット対ユニットで同ランクのアイドルが戦うのが原則となっており、Aランクと戦いたければAランクに上り詰める他ない。その他様々な条件があり、そしてトップアイドルの登竜門とも言える格好の戦いの場である。

「で、そのライブバトルがいつだって?」

「一週間後」

「お前ー塩崎ー☆」

「なんすか」

「急すぎるだろ☆ もっと容赦しろ☆」

「いやさ、はぁとはまだ知名度も何もないし、とにかく表に出るところから始めるべきなんだよな。そういう意味ではライブバトルは鉄板で、一気にファンも増えるだろ」

「だからってまだ右も左もわかんねーんだよ☆ もっと丁寧に扱えよ☆」

「じゃ、一緒に行こうか。まずは一週間レッスン詰めだから、副業とかやってたら言ってな。スケジュール組めないし」

「バイトとかやってるけど、止めた方が良い?」

「いや、とりあえず初回のライブバトルで様子を見よう。逃げ道を作っておいて損はないし」

「……そか」

「じゃ、千川さん。はぁと送ってきますのでよろしくお願いします」

「あ、はい。どうぞ行ってらっしゃい」

「いってきー☆」

「で、そのライブバトルがいつだって?」

「一週間後」

「お前ー塩崎ー☆」

「なんすか」

「急すぎるだろ☆ もっと容赦しろ☆」

「いやさ、はぁとはまだ知名度も何もないし、とにかく表に出るところから始めるべきなんだよな。そういう意味ではライブバトルは鉄板で、一気にファンも増えるだろ」

「だからってまだ右も左もわかんねーんだよ☆ もっと丁寧に扱えよ☆」

「じゃ、一緒に行こうか。まずは一週間レッスン詰めだから、副業とかやってたら言ってな。スケジュール組めないし」

「バイトとかやってるけど、止めた方が良い?」

「いや、とりあえず初回のライブバトルで様子を見よう。逃げ道を作っておいて損はないし」

「……そか」

「じゃ、千川さん。はぁと送ってきますのでよろしくお願いします」

「あ、はい。どうぞ行ってらっしゃい」

「いってきー☆」

「ところで、はぁとってあだ名ですか?」

 戻ってくるなり、千川さんはそんなことを聞いた。

「そうですね。もうかれこれ、十年以上名乗ってますね、アイツ」

 椅子に座りながら、俺は答えた。

「しゅがーはぁとと呼べ、ってね。昔からそうでしたよ」

「……なるほど、佐藤心……昔からキツかったんですか?」

「……そうなりますね。昔は若さで補ってたんですが」

「昔はって」

 くすりと笑う千川さん。

「ところで、今日は来ないんですかね、アイドル」

「他の子ですか。今日はしばらくすれば来ると思いますよ、レッスン入ってますし。もしかしたら、直接レッスン行くかもしれませんけど」

「そうしたら、佐藤さんと鉢合わせですね」

「……うーん、大丈夫かなぁ……島村……」

「誰……?」

 扉の隙間からそっと、レッスン室を覗きます。中には金髪の女性が一人。

 トレーナーさんと二人で、何やらレッスンをしているようです。いやまあ、ここはレッスン室なので当然といえば当然なのでしょうけれど。

 確か今日は、塩崎さんの担当するアイドルのレッスン日のはずです。であれば、私の知らない人がいるのはおかしなこと。普通ではありません。

 というわけで、目下観察中なのでした。

「おい島村。いるのはわかってるんだぞ」

「ひぇっ!」

 思わず情けない声が出ました。

 だって、まさかトレーナーさんにバレてるなんて思わなくて……。

「何してる?」

「えっと、観察を……」

「観察?」

「ああ、私のことでしょ☆」

 私に気づいて、そう反応する女性。

 綺麗な人でした。どこか派手な格好をしているように見えて、その実中身は地味な感じ。それが、私が彼女に抱いたイメージでした。

「今日からアイドル候補生としてレッスンしてる、佐藤心だゾ☆ しゅがーはぁとって呼んでね☆」

「は、はい! よろしくお願いします、しゅがーはぁとさん!」

「……めっちゃ良い子☆ それに比べて、トレーナーさんは冷たいし……」

「いや、私にそのテンションは似合わないだろ……」

 ――熱意のある人だなぁ、と思いました。

 やる気にあふれていて、元気で、常に笑顔。いや、たまに疲れた顔をするときもありますが、私が話しかけたときはいつも笑顔です。

 レッスンだって真摯に取り組んで、失敗の数も回数を重ねるごとに着実に減らしていく。

 努力の人でした。

「ふぃ~……疲れた……」

「お疲れ様。では今日のレッスンは以上、特に佐藤の技術もわかったので、明日からはそれを基本にメニューを組んでいく。島村もお疲れ」

「ありがとう……ございました……」

 息も絶え絶え。だというのに、トレーナーさんは軽く汗をかいているだけで、決して息は切れていません。流石です。

「汗はきちんと拭けよ。風邪をひいてはいけないからな。じゃ、また明日」

 と言って、トレーナーさんは部屋から出ていきました。

「……ねぇ卯月ちゃん、毎日こんなレッスンやってんの?」

「は、はい……大体こんな感じ、ですね……」

「マジか……今日は湿布祭りだな☆」

「あ、そうだ。しゅがーはぁとさん」

「長いしはぁとでいいよ☆」

「はぁとさん。お幾つなんですか?」

「……26」

「えっ!?」

 私と十歳近く離れていました。

「なんだよー、がっかりした?」

「な……なんで、アイドル目指してるんですか?」

「え?」

 それはどこか、失礼な質問だったかと思います。

 もしかしたら、気を悪くさせてしまったかも。

 そう思いましたが、それに対して――はぁとさんは、当たり前のような顔をして、答えました。

「世界征服☆」

「……ほえ?」

「世界征服が目的なんだよ☆」

「えーっと……」

 魔王か何かですか?

「いや、支配したいってわけじゃないんだよ。ただ、世界中の全員が私を知ってて、それで心の片隅にでも私があれば、それは世界中の人間のハートを征服したってことになるだろ☆」

「……なるほど」

「だから、そういう意味での『世界征服』なの☆ みんなが考えるのは『世界支配』だもんな☆」

 途方もない夢のように思えました。

 私にはそれが、どうしても無理なような気がします。

 けれど。

 彼女なら、何故か出来てしまうような気がしました。

 なんというか、見てきた夢の数が違うというか――折れた心の数が、違うというか。

 レッスンが終わると、はぁとが戻ってきた。しかも、厄介な絡み方で。

「おい塩崎ぃ~、ごはん行こうよ~☆ 行くぞ☆」

「一人で行けよ佐藤」

「げーソルティー……ってか佐藤って呼ぶなよ☆」

「俺は忙しいんだよ。ライブバトルの取り付けに、その他諸々の作業もな」

「いーじゃん、お酒飲もうぜ☆」

「お前レッスンとか色々控えてるんだから、体に気をつけろよな」

「はー、もういい。怒った。帰って寝る」

「おーそうしてくれ」

「じゃあな塩崎、また明日」

「また明日」

「……今の会話は一体?」

「ああ、あの二人、幼馴染なんですって」

「あー、だから塩崎さん、いつもに増してあんなに口が軽くなっちゃってるんですね……」

「ええ。らしいです」

「……なるほど」

「ま、業務に支障がなければいいんですけどね、私としては」

 家路についたはぁとを見送ったあと、資料に目を通していると島村が声をかけてきた。

「ところでプロデューサーさん」

「何?」

「はぁとさん、昔から“ああ”なんですか?」

「……ま、そうだよ」

 なんだか含みのある言い方だった。

 確かに、はぁとのあの性格は慣れなくては厳しいものがあるだろう。

 実際、あいつも昔からアレで苦労しているのである。

 けれど、今更変える気もないのだろう。別に、俺だって変えてほしいわけじゃない。

「昔から“ああ”なのさ。それがはぁとの良いところ」

「仲良しさんなんですね」

「……そうかもね」

「ところで、はぁとさんは海外の方なんですか? しゅがーはぁとなんて、日本人じゃないですよね。髪色も薄いですし」

「……いや、本名は佐藤心だよ。「こころ」って書いて、「しん」って読むの」

「えっ、日本人だったんですか!?」

「……島村は純粋だなぁ。なんというか、汚れなき……」

「え、ええっ、恥ずかしいなぁ……」

 なんやかんやと日は流れ、ライブバトルを翌日に控えたその日。俺はふと気になって、レッスン室を訪ねてみることにした。本来、あまりアイドルのレッスンを見ることはしないのだが、その日はなんとなく気になって、ちら見することにした。

「……」

 こっそり扉のガラス越しに、室内を見る。

 そこでは島村とはぁとが、二人でレッスンをしていた。特におかしなことはない。トレーナーさんもいて、三人でリズムに合わせてダンスしている。

 明日の課題曲は『お願いシンデレラ』。美城プロダクションからデビューしたアイドルはこの曲から始まる。トップアイドルである高垣楓でさえも、デビュー時には『お願いシンデレラ』で観客を沸かせたという。

 当然室内から流れてくるのは、『お願いシンデレラ』である。

「……」

 淀みのないステップ。まあ、俺の視点から見ても及第点である。見てくれが悪いというわけではない。むしろ、よくぞ一週間でここまで鍛えたものである。

 だが。

 俺はノックをすると、返事を待たずに部屋に入った。当然、三人が驚いた顔で俺を見てくる。

「どうした塩ざ……――」

「はぁと、足見せて」

「なっ……!」

「見せて」

 逡巡する彼女をなんとか床に座らせ、靴を脱がせる。それからやけに長い靴下を脱がせてみれば、そこには赤く腫れた足が隠れていた。

「……これは」

「我慢するの、得意だもんな。けど、これは我慢しちゃいけない痛みだ。わかるだろ?」

「……っ、それは」

「いいんだよ。怪我したなら言ってくれれば。捻挫?」

「……うん。変な捻り方、したかも」

「いつ?」

「一昨日。そっから毎日冷感と温感の湿布を使い分けてる」

「処置は流石だな。だけど、こんな状態で練習したら、時間が無駄だろう」

「……ごめん」

「俺じゃなくてトレーナーさんに謝れ」

「ごめんなさい」

「……あ、いや、いいんだが……」

 狼狽えるように後ずさるトレーナーさん。

「それにしても、よくわかったな、プロデューサー。私も一週間とはいえ、よく見ていたつもりだったんだが……」

「はぁとにしては動きは弱かったですからね。それに、長い靴下履いてる時は大抵足のケガしてるんですよ、こいつ」

「……お前、いつからだと……」

「はぁとが初めてそれをやったのは、中学生の時の運動会前日だ。覚えてるからな」

「……」

「いつまでだって覚えてるよ」

「……そ、そっか」

「うん」

 ふと、はぁとを見る。

 と、手で顔を隠された。

「なんぞ」

「こっち見んな」

「……いや、別に患部が見れればそれでいいんだけど」

 はぁとの顔が見えないのは、別に問題ではなかった。

「おっけ。足だけ見てろ」

「おう。といっても、もう言うことはないけどな」

「……」

「……ふむ。佐藤、確かに処置こそ適切だが無理はいかんな。明日は本番だが、お前の練習量はもう十分だよ。実際、こうして不調が現れるくらいにはな。今日はもう帰って休め」

「……いや、それじゃ」

「……?」

「それじゃダメっしょ。まだ足りてないんだよ」

「……」

「確かに、明日のライブバトルで最低限のパフォーマンスをやる分には、これで十分だろうけどさ……今帰ったら、私絶対に妥協する。甘えちゃう。だろうから……喰らいついてでも、ここで練習する」

 汗が、ぽとりと落ちる。

 弾ける結晶に映ったのは、決して砕けない不屈の意思。

「プロデューサーからも何か言ってやってくれ」

「……いや、はぁとの言ってることも一理ありますよ」

「おい、プロデューサー……」

「正論が常に正答だとは限りません。ただ、確かにこのままレッスンをするのも危険ですから……明日のイメージトレーニングなんてどうでしょうか」

「さっすが塩崎☆ 話わかんじゃん☆」

「うるさいぞ佐藤。じゃ、そこにホワイトボード使って俺と作戦会議しよう。その間、島村はトレーナーさんとレッスンを……」

「あ、いや……」

「?」

「今重要なのは、きっと私よりもはぁとさんですから……はぁとさんのレッスンを、中心にできませんか?」

「島村……」

「卯月ちゃん……」

「島村……」

「あ、あは……なんて、少し高慢でしたかね」

「いや、ありがとな☆ 嬉しいぞ」

「いえ、どういたしまして。ただし、塩崎さん、一つ質問があるんですけど」

 じぃ、と俺を見る島村。

 その瞳に映っているのは、僅かな疑惑と、確信だった。少なくとも、俺にはそう感じられた。

「なんぞ?」

「あなたの夢って、なんですか?」

「……そりゃ決まってるだろ」

「……」

「世界征服だ!」

 翌日、ライブバトル当日である。

 無論形式はランクアップライブバトル。

 相手方のアイドル情報は基本的に当日に公開される仕組みになっているが、相手の顔を見て安心した。知らない顔である。知らないということは無名ということ。はぁとが相手するにしたとしても、互いに知名度なんて全くない新顔勝負。

 加えて、僅かだが観客も入る。熱心なアイドルファンから、各種雑誌のライターや時間を余らせた一般人がやってくるのである。無料でこそないが、ここでアイドルの原石を見つけることに魂をかけているファンも、一定数いるのである。いわば美城プロのアイドルオタク、である。

 これならばまあ五分五分といったところであろう。勝つにせよ負けるにせよ、大した心配はない。どちらかに観客の声援が偏ることもないだろう。

 が、勿論個人的には、はぁとに勝ってほしいところである。

「で、はぁと。足はどうよ?」

「んー、まあ不調かな☆」

 ライブバトル開始一時間前、控室にて。

 用意された(彼女の普段着から想像するに)控えめなコスチュームに身を包み、はぁとは足にテープを巻いていた。

「長い靴下あって助かったな。もしなかったら包帯って設定で行こうかと思ったけど」

「それははぁとのセンスじゃあねぇな☆」

「うん、お口は元気みたいだな。なら頑張れるか」

「おうともよ☆ 任せとけ♪」

「頑張るのは良いけれど、足を壊さないように。痛みを感じたら無理をしない。多分感じるだろうから、絶対に我慢はするな。無理だと思ったらライブを止めてもいい。ま、そんなことを言ってもお前は止めないだろうから、俺が止めに行くけど」

「……お前、ほんっとうに私を見る目が鋭いよな」

「何年来の付き合いだよ」

「……」

 照れるように、ペットボトルを開けるはぁと。水をくいっと口に入れて、あくまでも含む程度の給水。決して飲みすぎず、だが水分補給は欠かさず。

「にしてもこの服、派手さが足りないよなー」

「お前が十分派手なんだから、安心しろよ。そうだ、ライブの前の自己紹介する時間あるから、そこでぐっと観客を掴め」

「え、マジで? このキャラで行っていいの?」

「あったり前だ。変にかしこまると後々困るぞ」

「……へっへー☆」

 にやりと笑うはぁと。を見ながら、俺はほっと溜息をつく。

「私はさ」

「……」

「昔からアクセルばっか踏んできた。道も考えず、ただ真っすぐに。進めたよな」

「……」

「お前が……塩崎が、時折ブレーキかけたり、道を正してくれたりしたからな。そういう意味では、感謝してる。すごく。今だって、こんな舞台を用意してくれて。規模は小さいし、観客も少ないけど……」

「はぁと……」

「くっそー!」

「っつぇ!?」

 ばしん、と背中をたたくはぁと。もちろん、叩いたのは俺の背中。

「ありがとな、塩崎っ」

「……どういたしまして」

 びりびりと痺れる感覚が全身を伝う。懐かしい痺れだった。

 彼女の肩に、そっと手を添える。安心させるように――それは、彼女を安心させるつもりなのか、自分を安心させるつもりなのか――優しく、手をのせる。

「……?」

「ここがスタートだよ。俺とお前の……約束の。ここからは、アクセル踏みっぱなしだ。俺が道を整えて、お前が走るだけ。あの頃と同じだよ」

 そう言って、彼女の目を見る。

「お前、いつからそんな気障なこと言えるようになったんだよ……」

 目を逸らされた。

 はぁとが舞台に立つのを確認すると、俺はひっそりと舞台袖を離れた。

 なんとなく、見なくてもいいような気がしたのだった。不思議とハラハラしたりしない。不安でも緊張でもない。末端が冷えるような感覚も、中心が熱を分散させるような感覚も。

 ただ、胸の奥に、じんわりと確信のような温かいものが、熱を持っているかのようだった。

 俺は一足先にはぁとの控室に行って、椅子に座った。

 そこで数回、息を整えるように深呼吸。気にはならなかったけれど、高翌揚はしているようだった。

 しばらくすると部屋をノックする音が聞こえてきた。

「……塩崎さん。探しましたよ」

 千川さんだった。

「大方舞台の裏にでもいるかと思ったんですけどね。探して回ってみれば、なんでもふらふらと幽霊みたいに控室に入っていったって話じゃないですか」

「見ないんですか、初舞台」

「……少し、頭でも冷まそうかと思いまして」

「……確かにそうですね。言い方はアレですが……最近のあなたたちは、少し目に余りますから」

「……」

 目に余る、か。

 確かにそうなのだろう。事実、最近あまりにも情念に気をやりすぎている。感覚だけで動いているところは否定できない。

 千川さんはそう言うと、部屋にカギをかけた。

「へ?」

 カギ?

 なんで?

「塩崎さん。女性と付き合ったことってありますか?」

「……ないです、けど」

「女性経験は?」

「ないです」

「でしょうね。あなたはどこか、女性不信の気がありますから」

「……」

 何その言い方。

 というか、何この雰囲気。

「なぜです? 昔、嫌な目にでも合いましたか?」

「……そんなことはありませんよ。というか、逆です」

「逆?」

「約束があるんですよ。昔のね。幼い子供の、ちっぽけなものですが……俺にとってはあまりにもでかくて、重たすぎる約束が」

 幼いころ。具体的は小学生の時だったか。

 俺の知る“佐藤心”は、不登校児だった時期があった。

 理由は複雑なものではなく、単純に学校での排斥が原因だった。いじめにあっていたとか、家庭内暴力の犠牲だったとか、そういうことではないのだ。純粋に、学校に馴染めていない孤独感。そこからくる苦痛。

 それはもう、なるべくしてなったというか、多感で鈍感な幼児にはどうすることも出来ない、嫌悪感と自己中心感があったのだろう。クラスの人達にのけ者にされている佐藤心の背中が、そこにはあったのである。

 俺はその背中を見ていた。小さく丸まって、部屋でうずくまっていた彼女を。

 ある日、プリントを届けに行った。見慣れた彼女の部屋では、ベッドの中でうずくまっているはぁとが一人、それだけだった。いつもの光景に見えた。

 だが、いつも机の上にあったアイドル雑誌は無造作にゴミ箱に捨てられており、彼女のお気に入りだったノートは、無残に地面に散らばっていた。

「どうしたんだよ」

「……」

 最初は答えなかった。

 いつものことだった。

 昔のはぁとは、こうだった。

「別にはぁとのものをはぁとがどうしようとも、それははぁとの勝手だけどさ。そのノート、俺と一緒に買ったものだったよな」

「いらない」

「いれよ。何のために買ったんだよ」

「もう、アイドルなんて目指さない」

「……」

「世界征服なんて、しない」

 毛布にくるまり、くぐもった声が聞こえた。

「……」

「……」

「そっか」

 それだけ言うと、俺は机の上に持ってきたプリントを置いた。

 実際のところ、俺にははぁとの痛みなどわかるはずもなかった。そんな中で「つらかったね」とか「がんばれ」なんて無責任なこと、言うべきじゃないと思っていた。それは今から思っても正しかったし、思えばそのころから十分に俺はソルティーだったのだろう。

「やめるのか」

「うん」

「あきらめるのか」

「うん」

「アイドル、ならないのか」

「……うん」

「じゃあお前は今日からただの佐藤心だぞ」

「……」

「……」

「……」

「嫌?」

「……それは、嫌かも……」

「でもアイドル目指してないお前はしゅがーはぁとじゃないだろ。ただの佐藤心だ」

「……」

「別に説得しに来たわけじゃないし。好きにしてくれ」

「……うん」

「じゃあな、佐藤」

「……もう、呼んでくれないの?」

「二度と呼ばない。一生佐藤って呼んでやる」

「……それは」

「嫌か?」

「うん……」

「でもきらきらしてないお前はただの佐藤だよ」

 今思ってもひどい言い方だった。言いがかりにも近かった。けれど、その時俺が感じた失望を、無慈悲に投げつけるほど子供でもなかった。選んで吐き出した言葉だった。

「……はぁとって呼んで」

「嫌」

「はぁとって呼んでよ、しおざきぃ……」

「……」

 俺は彼女の気持ちを察せるほど、女性を理解しているわけではない。彼女が何を思ってそう言ったのかはわからなかったし、そのままの彼女をはぁとと呼ぶ気もなかった。

 意地を張っていたのだと思う。

「しおざき……」

「別に学校に来たくなきゃ来なけりゃいい。それでいいんだよ。けど、俺が……その……えっと、好きだったしゅがーはぁとは、こんなに弱いやつじゃ、なかったぞ」

「……」

 ずぼ、と毛布から顔だけを出すはぁと。顔は真っ赤で、涙と鼻水でずぶ濡れ。息も絶え絶えで、上手に呼吸出来ているようではない。

「やだぁ……」

「何泣いてんだよ……」

「……やだやだぁ……」

 泣きじゃくるはぁと。そんな弱々しいはぁとは、久しぶりだった。

「……俺だって嫌だよ」

「くぅ……っそ……ぉ、よ……」

「……」

「よくも、あいつらめ……!」

「……」

「私の夢は、世界征服だもん……クラスの子たちなんて、大嫌いだもん……」

「俺も、そんなに好きじゃねーよ」

 はぁとのことを、悪く言うやつは。

「許さないもん……絶対に、見返してやる……わたし、アイドル……なるもん……」

 支離滅裂なセリフ。だが、それがはぁとの思いだったのだろう。願いだったのだろう。

 ――絶対に許さない。絶対に報復してやる。目にもの見せてやる。

 ふつふつと湧き上がる情熱の怒りを、燃やしているようにも見える。

 別にクラスメイトからいじめられていたわけではない。ただ、彼女特有の濃いキャラが、段々クラスで浮き始めたというだけだ。そして、気づいたら居場所がなくなって……落ちるところまで、転がるように落ちてきた。

 見上げる場所には、クラスメイトがいる。もとは同じ場所に立ってた連中だ。勝手にはぁとが転がり落ちただけだということは明白――だが、彼女はそれを燃料に立ち上がる。

 見下しやがって。見下ろしやがって。よくもそんな目で見たな。絶対に引きずり落としてやる。将来トップアイドルになって、私をハブったことを後悔させてやる。

 逆恨み上等のルサンチマン。歪んだ怨念をエネルギーに変換して、前に進もうとする爆弾みたいな女。

 佐藤心は、昔からそんな女だった。

 毛布から這い出たはぁとは、地面に散らばったノートの破片を拾い集めた。

「ごめん塩崎……破っちゃった……」

「……」

 泣きながら、呼吸が崩れながら、彼女は紙切れを集める。

「いいよ、別に。もう一回描けばいいよ」

 破片をつなぎ合わせると、拙いタッチで描かれた衣装案が描かれた。頭の上には輪が乗っていて、砂糖菓子のように甘いロリータ。背中にはやけに大きな羽が描かれていて、ツインテールの女がそれを着ている。

「何回だって描けばいい。破るたびに、描けばいいよ」

「うん……ごめん……」

「いいって。もう泣くなよ」

 俺自身、はぁとが泣くという事態は正直かなりの驚きだったのである。

 どんなことが起きても飄々としていた彼女が泣くなんて、よっぽどのことだったのだろう。実際、いろいろ彼女にも溜まっていたところがあるようだった。

「ねぇ塩崎、約束してよ」

「何を?」

「私を、アイドルにして」

「……なんでそれを俺に言うんだよ」

「塩崎が私を“ぷろでゅーす”するんだよ。今までは横だったと思うけど、これからは後ろから」

「ぷろでゅーす……」

「アイドルにして、世界で一番有名になる。で、世界征服もする。そのぷろでゅーすを」

「……ふぅん」

「……やって」

「いいよ」

 即答した。その記憶は、やけに鮮明に覚えていた。

 彼女のその問いに、希望や志のような……暖かく明るい、展望が見えた気がしたからだった。

「俺がお前をぷろでゅーすする。で、お前がアイドル。いや……」

「……?」

「トップアイドル。に、なる。それで世界征服だ」

「――……うんっ」

「……とまあ、そんなことがありましてね。縁が長いとは言いましたが、言ってしまえば運命みたいなものですから」

「……ふぅん」

 と、怪訝そうな表情の千川さん。

「何やら、昔は結構ずかずか言う性格だったようですね。それとも、佐藤さんにだけ?」

「……色々あるんですよ」

「色々、ね」

 反芻して、かみ砕くように言い直す千川さん。

「ま、確かに誰にでも……色々、ありますね」

「そういうわけで、俺はほかの子に色目を使っていくわけにはいかないんですよ。それに、佐藤の件もあって……なんていうか、ミーハーな女の子が、若干苦手に思っているところもありますし」

「結局女性不信ではあるんですね」

「……」

「見栄張りましたね?」

「はい」

 見抜かれてしまった。

 いや実際、陰湿でこそなかったにせよ、あれほど徹底的に排斥しようとする幼女性陣の暗い恐怖のようなものは、今でも思い出せるほど鮮明だった。確かに俺自身、アレを怖いとは、今でも思っている。そういう意味では、女性不信というのは決して否定できない事実だった。

 言い訳するなら、差別とかしないで、ありのままを受け入れてくれる女性は好き。

「お互いラクじゃありませんね……まったく」

 吐き捨てるように言って、千川さんは扉の鍵を開けた。

「……なんで閉めたんですか?」

「色々あるんです」


「色々って……」

 そんな曖昧な。

「あなたが色々思うところがあるように、やはり私にも思うところがあるのです。考えて、困るようなことがわんさかね」

「……そうですか」


「それに――」

 ノブを持つ。くるりと捻る。

「――男女が密室ですることなんて、相場が決まっているでしょう?」

「……ちょっ」

 ――がちゃん。

 俺が初めて千川さんと出会ったのは、大学卒業後、美城プロに就職してすぐのことだった。俺より二歳年上だという彼女は事務員をしており、入社後即プロデューサーという地位を与えられた俺に、何かとよくしてくれた。

 美城プロダクションは、アイドル育成のための事務所が社内に幾つかあるという性質から、排他的なところがある。ようは、縦でこそつながっているが、横ではそれほど強固なつながりはない。無論、隣部屋の相手に蹴落とされる可能性があると考えれば、やはりそれもやむなしなのだろうが。

 ともかく、そういったやけに息苦しい空間で、千川さんは俺の面倒を見てくれたのだった。

 担当するアイドルも、昔から養成所でレッスンをしていたという島村卯月をこっそりオーディションに選んでくれ(しかも好ましい性格の女性である!)、俺のレベルに似合う仕事を持ってきてくれたりもした。

 頭を下げても下げたりない、尊敬すべき人間である。少なくとも、そう思っていた。

「……マジか」

 そういうことを考えたことがなかった――というわけではなかった。

 例えば、彼女との逢瀬を年甲斐もなく想像してみたこともあった。意味もなく、彼女を見ながら彼女が欲しいなぁ、なんてことを考えたこともあった。

 しかし、いざこういった好意を向けられて見ると、どうしたものか対応に困るところもあった。

「……ってか、アレは好意なのか?」

 わからなくなってきた。

 けれど確かな事実は、彼女の行為に残っていた。

(あーやばい。めっちゃ恥ずかしいしましたね)

 壁に背を預け、ずりずりと落ちていく。ぴたりと床にお尻がつくと、スカート越しでもひんやりして心地が良い。勢い上がってのぼせそうな体温を下げるのは、ちょうどよかった。

(っていうか逆レイプですよアレ……セクハラだ……)

 自分が嫌になる。嫉妬だとか、そういうこと。醜い気持ちの片鱗を、彼に見せてしまった自分が恥ずかしい。

 ようは怖かったのである。彼を取られることが。

 初めは、なんだか要領の悪い後輩だな、と思った。

 しかし、情報を与えるだけ吸収し、次の事象に備える律儀で高い能力も持っていた。自分が振った仕事は難なくこなしてきて、挙句こっちの心配までしてくるという仕事人間。気が付けば要領の悪いというより、どこか不器用な人間だと思っていた。どこか引っ込み思案で緊張しやすい体質なのに、大事なところは前のめり。目標が見えればまっすぐ進み、止まることはない。

 そんな彼を、上から見ているつもりだった。

 けど気が付けば、後ろから見ているようだった。

 そして、ふとした時に気が付いたらなんとなく好きになっていた。

 好きになることに理由なんてないのだろう。実際、彼のどこが好きかなんて、私自身よくわかっていない。なんとなく好きなのだろうけれど、確実に好きなのである。

 だからある日、ふと見た前方で、彼の横に女の影見えたとき、途方もない焦燥を感じてしまった。

 アレは、やばい。

 きっとアレが――彼の“目標”だ。

 アレに、彼を取られてしまう。それは嫌だ。言葉には出来ないけれど、なんとなくもやもやした感情が自分を覆っている。不安や不信といった諸症状が自分を襲ってくる。

 だから、あんなことをしてしまった。

(うぅぅ~……あんなはしたないこと……っていうか色々、失敗したぁ……)

 しかも結局行動はできなかった。

 それが、自分と佐藤心との間にある溝なのだろう。そしてそれは、自分と彼を分ける隙間。

「悔しいなぁ……」

 それが、今の感情だった。だってそうじゃないか。

 自分だって塩崎さんが好きだ。だっていうのに、あとから現れて過去の話とかし始めて正妻ぶりだすのは卑怯だ。ずるい。

 けれど、そう考えてしまう自分だって、ずるいはずだ。

 卑怯な女。ずるい女。それはどっち?

「何が悔しいの?」

「……えっと、それはですねぇ……」

「うんうん」

「――って、佐藤さん!?」

「何が佐藤だよ☆ しゅがーはぁとって呼べよ☆」

「ら、ライブバトルはどうなったんですか?」

「ん? もう終わったよ?」

「結果は?」

「勝ったよ。当然じゃん☆」

「……」

 そんな、なんでもなさそうな声音で。

「なんせ夢は世界征服だからな☆ こんなとこで躓くわけにはいかねーっしょ☆」

 にこりと笑う佐藤さん。その表情は、やけに晴れやかで――私は、とても嫌になった。

「で、何が悔しいのよ☆」

「……なんでもありません」

「なんでもないってこたーねーだろ☆ 思わず廊下で、隣に私がいるのにも気づかず、ついため息を吐いちまうなんて、何かあるにきまってるだろ☆」

「っ……」

 す、鋭い……。

「で、何用? それとも、私には言えないような悩み? それか――私についての悩み?」

「……」

「っぽいな……ごめん。やりすぎたか。じゃ、私先に控室に行ってくるから」

「いや……待ってください」

 思わず、彼女の手を取ってしまった。

 感じたのは、やけに冷たい彼女の手――よりも、更に冷たい、自分の手。

 緊張、していたのか。

 あの人みたいに。

「……」

「やっぱり、聞いてください」

 気が付いたらはぁとのライブバトルは終了している時間だった。

 だというのに、彼女が一向に控室に帰ってこないものだから、俺は自ら探しに行くことにした。

 探すのは大変ではなかった。むしろ、扉を出て、少し歩いて廊下を曲がった先に、二人はいた。人気のない廊下に、二人で床に座って、何やら話している。

 もうすぐ衣装の返却の時間だぞ。

 言おうとして、止めた。

 千川さんが、泣いていたからだった。

「……」

 初めて、彼女が泣いている光景を目にした。衝撃的な情景に、思えてしまった。

 だから思わず、角に隠れる選択をした。そこに、俺がいることが間違えだったように思えたからだ。

「……で、言いたいことは終わり?」

「……はい」

「そっか。じゃ、要求とかある? 私にしてほしいこと」

「それは……」

「なんかある?」

「特には、ないです。聞いてくれただけで、もう」

「……そっか。じゃ、私はもう行くから」

 立ち上がり、こっちに歩いてくるはぁと。

 やばい、バレる。急いで戻ろ……。

「おーい、塩崎☆」

「……げっ」

 バレてるし。

「バレてないとでも思ったか、オイ☆」

「……思った。で、どうしたんだよ」

「ちっひーから色々聞いたゾ☆」

「……おう」

「結論から言うと大したことじゃない。私は……はぁとは、淡々とアイドルをやるし、ちっひーは事務員。塩崎はプロデューサー。後のことは、世界征服やってから考えればいいんだよ」

「ま、そりゃ端的に言えばそうだが……千川さんは、それで納得するの?」

「納得させた。人間二人いりゃあ意見は割れるもんよ。必要なのは割れた意見のすり合わせ。異なるモノを合わせることより、寄らせることだゾ☆」

「確かにそれは正論だけど、正論が正答とは限らないだろ」

「いーんだよ。納得させれれば」

「……」

「なんか変な目だな☆」

「いや……どうしたもんかなって」

「だったら直接話せよ。その方がいいだろ」

「……それもそうだけど」

 ……いや、ここでじっとしていても何も始まらないか。

 前に出るしか、ないのだろう。

 俺は千川さんの隣まで歩いて、そっと足を止めた。音が、やけに大きく感じた。耳を澄ませば遠くからは帰ろうという観客の声が聞こえてくる。機材を扱っている人の声も聞こえる。音は、止むはずもない。

 この廊下はもとより人気もない。控室から、さらに一本離れた廊下。やけに入り組んだ作りをしているから、そもそも使う人もいない。

 つまり、好都合である。

「……塩崎さん」

「なんですか」

「私、あなたのことが好きかもしれません」

「……ありがとうございます」

 ぼろり、と大粒の涙が床に落ちた。ふと尾引いた線が、煌めいて映る。

「それで、どうしたんですか」

「私、あなたが佐藤さんにとられるの、嫌かもしれません」

「……それは」

「付き合ってください」

「……」

「だってそっちの方がいいはずです。佐藤さんはトップアイドルになるんですよね。だったら、プロデューサーとの恋愛なんてスキャンダルです。私なら、職場内恋愛で済みますし」

「打算的ですね」

「……ええ、そうです。私は、卑怯な女なのです」

「ありがとうございます、千川さん。交際ですが、まじめに検討させてください」

「はい……えっ?」

 俺を見上げる千川さん。まさにびっくりしました、みたいな顔である。

「オイ塩崎ちょっと待てやァ!!!!」

「落ち着けはぁと」

「お……おま、こんな時にはぁとって呼ぶな!」

「ただ、まだ結婚とかは全然考えていないので、あくまでもお互いを知るところから始めましょう」

「わ、私はどうするんだよ! 私の関係は!?」

「確かに俺ははぁとのこと好きだけど、別に付き合いたいとかそういうわけじゃないし」

「マジで!? 付き合いたくないの!?」

「いや付き合いたくないわけじゃないけど、なんていえばいいのか……もはやそういう話じゃないでしょ、俺たち」

「じゃあなんだよ!」

「熟年夫婦的な」

「っ……!」

「別に今さら付き合うとか……ねぇ?」

「ちょ、ちょっと待ってください。塩崎さん」

「なんですか」

 手を挙げて俺を制止する千川さん。

「……文通について、どう思います?」

「良い文化だと思いますよ。そうですね、恋愛の基本ですよね。まず文通から始まる恋もあって然りだと思いますけど

「佐藤さん、この人って昔からこんな感じなんですか?」

「……うん。そういえば、昔も知人に恋愛相談を受けて、ラブレター書くのを勧めてた」

「……」

「ってか塩崎……もしかして、文通→交際→結婚、みたいなこと考えてる?」

「いや、そこまでじゃないけど。流石にもっとイベントは多いでしょ」

「基本構造はそうなのかよ! お前いつの時代の人間だよ!」

「現代だけど……」

「精神構造の話だよ!」

「っていうか塩崎さん、なんというか……そういえば、恋愛経験もないんでしたね」

 呆れた表情の千川さんが、やけに強く視界に入る。っていうか、言い方ひどくない?

「前言撤回です。交際については、先送りしてもらって構いません」

「……はぁ。千川さんがそういうのでしたら」

「なんというか、呆れました」

「……はぁ」

「っていうか塩崎、なんでずっと千川さんって呼んでるの?」

「千川さんは俺の先輩だから」

「嘘ォ!? 同期かと思ってたわ!」

「あー……もういいですよ、その口調で。なんか慣れてきましたし」

「あ、そう? よろしくなーちっひー☆」

「やっぱり前言撤回で」

 しばらくすると、はぁとの活動も落ち着いてきたのか少しずつ仕事が入ってくるようになってきた。

 そういう意味で、落ち着いたのである。前のように生き急いだようなレッスンを入れる必要はなくなったし、俺もプロデューサーとして島村さんをプロデュースする余裕が出てきた。

 それに、変わったこともある。

「珈琲飲みます?」

「あ、どうも。ちひろさんは紅茶ですか?」

「はい。最近ハマってまして」

 少しずつ、前に進んでいるような気がする。だからきっと、これは良いことだ。

 と思ったら部長に呼び出された。

「最近とあるプロデューサーが街に出てね。ある女の子をスカウトしたんだ。彼女が気が強く、若い割にはよくできた女の子だ。そして君は最近余裕も出てきただろう、波に乗っているというか、色々慣れてきたところもあるだろう。そこで……」

「……俺が、その子をプロデュースすればいいってことですか?」

「うん、そうだね。よろしく頼むよ」

「……ま、まあ多分大丈夫です」

 一応、最速で世界征服を考えていたわけだが……ま、こういったアクシデントや停滞はつきものだろう。むしろ良い障害になるはず。俺自身が成長出来るのは良いことだ。

「ところで、その子の名前はなんて言うんですか?」

「橘ありす。どうにも、ありすって名前が嫌いらしいから、橘と呼んであげてくれ」

 三人目のアイドルは少女というよりも童女であった。

 美しい黒髪にロリータの似合う雰囲気。理知的で、どこか大人っぽい彼女に見え隠れする子供っぽさが売りである。実際礼儀正しいところもあり、大人っぽいというよりも子供っぽくないという方がそぐうかもしれない。

 無論俺もプロデューサー。相手がどんな性格でも全力を出す人間だ。彼女との相談の中で、二人で折り合いをつけながらプロデュースの方向を定めていく。何よりも個性を伸ばすというのは大切なことである。まあ、俺の苦手なタイプではないこともあり、多少はやる気が出ていた。

「大人っぽい仕事をお願いします」

 と思ったらこれだった。

「……というと、例えばどんな仕事?」

「握手会とかそういうのじゃなくて、もっと歌の仕事やモデルとかです。バラエティ番組なんかはキャンセルしてください」

「……」

 マジで?

 きつすぎるでしょ。

「えーと、ありすちゃ……」

「橘です」

「……」

「……」

「橘さん」

「はい」

「流石に知名度のない君を、しょっぱなからモデルとして起用するのは無理がある」

「はい」

「そこで、下積みとしてもっと小さな仕事からだね」

「嫌です」

「……」

「私は歌とモデルをしに来たんです」

 ……そうか、彼女はスカウト組か。

 プロデューサーに直接スカウトされてやってくるアイドルは、たまにこういうのがいるらしい。ようは、言い方こそあれだが自惚れているタイプ。そもそも可愛い子しかスカウトされないのだから、こうしてスカウトされてくる子は大方が可愛いと言われなれた子たちなのである。故に自尊心も強く、いわゆるこういった子が来る可能性も高い。何より、美城プロダクションのプロデューサーに直接スカウトされたという事実が、それに拍車をかける。

 ようは、オーディションを受けてアイドルになろうとする者たちとは、根底から違うのである。加えて相手はまだ年端もいかない子供……いや、どうしたものか。

「……とにかく、俺の担当アイドルである以上、従ってもらうことには従ってもらうよ。まずしなくちゃいけないこともあるし」

「なんですか?」

「宣材写真。予約もしてあるから、もうすぐしたら撮りにいかなきゃいけない」

「そうですか。ともかく、なるべくバラエティなんかはキャンセルの方向でお願いします」

「……」

 うーん。

 なんというか。

 困ったことになったな。

 しばらくすると、はぁとが事務所にやってきた。抑え目ではあるが、いつもと同じ派手な服装に派手な格好。若干、橘さんが引いていた。

「おっす塩崎ぃ☆ 撮りに行くんだろー?」

「おはよう。そうだよ、はぁとは同じ場所で雑誌のモデル」

「いやー、はぁとのスウィーティーな体型がようやく世間様にお披露目ってわけだな☆」

「ま、あくまでもメインは服だから、そこまで気張らなくてもいいぞ。場合によってはツインテで行けるかもしれないけど、大方髪下ろせって言われるだろうよ」

「……ま、それも致し方ねぇよな☆ どうせ写真だし、変に目立ってこれから呼ばれなくなる方がまずいし」

 最近のはぁとは間違いなく成長していた。少なくとも、昔の猪突猛進で後先を考えなくなったころからは考えられないほどに、色々なものが見れるようになっていた。

「ところで、その子は?」

「ああ。今日から俺が担当することになった、橘ありすちゃん」

「橘と呼んでください」

「おっす、よろしくなありすちゃん☆」

「……」

「私は……しゅがーはぁとって呼んでね☆」

「プロデューサーさん、この人誰ですか」

「えっと……佐藤心。一応君の先輩。はぁとって呼んであげてね」

「佐藤さん」

「……」

 強いな、こいつ。

「えっとぉ~、ありすちゃん☆」

「橘です」

「……」

「……」

「塩崎」

「なんぞ」

「これマジ?」

「マジだ」

「……」

「なんですか」

「やばいな、なんか」

 時間になったので、二人を連れて社内を歩き回る。ここまで会社自体が大きなものだと、撮影から録音まで、何か何まで自社内で行えるのはかなり楽である。無論端から端まで歩けばかなりの距離になるが、エレベーターなんかを使えば、端にある事務所から撮影室まではすぐだ。

 だが、今はその短い時間さえつらい。

「……」

「……」

「……」

 気まずい。

 言葉にできない気まずさを抱えながら、俺たちは三人撮影室まで向かう。

 はぁとは雑誌の撮影。最近になって入るようになった仕事のひとつである。表紙でもメインでもなんでもないが、彼女の理想的なプロポーションはそれなりに人気であり、黙っていれば可愛いことも相まってモデルの仕事もじわじわ増えていた。

 このままいずれは表紙を飾ってもらいたいものだが、とにかく。

 無言のまま歩いて、撮影室についた。一旦顔を出して、それから衣装さんや化粧さんと化粧室でメイク、というのが流れである。また、同じ部屋の別の場所で橘さんの宣材写真の撮影も行うため、今回は二人とも同じ部屋である。

 無名であるため致し方ない。というより、むしろ部屋をくれるだけ好待遇なように思えた。

「じゃ、俺は挨拶に行ってくるから。二人とも、呼ばれたら元気よく愛想よくカメラさんに従ってな」

「あいよ☆」

「わかりました」

 二人をその場に残すのは若干の不安があったが、流石にアイドルを侍らせて挨拶周りというのも失礼だろう。俺は早足にその場から消え去ると、まずはやってきた雑誌の企画長のもとへ向かった。

「……」

「あー、えっと。アイドル事務所の塩崎です。今日はよろしくお願いします」

「ん? ああ、よろしくね。今日は」

「どうかしたんですか?」

「それが、困ったことになってね。今日撮影するはずだった子が、来てないんだよ」

「それは困りましたね。誰ですか?」

「城ケ崎莉嘉。なんでも、渋滞に巻き込まれちゃったとかで」

「それは……仕方ないですね。代役はいますか?」

「いや、呼んでないんだよ」

「……」

「どうかしたかい?」

「だったら、うちの橘はどうですか?」

「嫌です!」

「えー?」

「えー?」

 橘さんは、開口一番元気よくそう言い放った。

「衣装を見ましたが、なんでもちゃらちゃらした感じで……淑やかじゃありませんっ」

「淑やかって……」

「そこをなんとか頼むよ」

「嫌ですっ」

 どうしても首を縦に振る気はないらしい。改めてはぁとを見ると、とっくに撮影を終えた後で、メイク落としも終わっている。

「大体、ティーン向けの仕事なんてティーンにしか出来ないんだから、今のうちにやっておくべきだと思うけどな☆」

「まあ正確にはぎりぎりティーンじゃないけど」

「私はもう大人です」

「……塩崎」

「まだ橘さんは12歳だけどな」

「プロデューサーさん!」

「事実だし……」

「ま、結局のところ、ありすちゃんが受けたくないってんなら受けなくてもいいんじゃねぇの?」

「……っつっても、もう企画長に言っちゃったしな」

「だったら私がやってやんよ」

「……ティーン?」

「ぴっちぴちだろオラァ!」

「服入るのか?」

「……」

「答えろよ」

「とにかく、嫌です」

 むすっとした表情で言い放つ橘さん。

「……っていうか、なんでよ? なにが嫌なの?」

「子供っぽいからです」

「……」

 それに気を悪くしたのだろう。明らかに顔をしかめて、ため息をついてから、はぁとは言った。

「ナマ言ってんじゃねーぞガキ☆」

「ひっ」

「おいはぁと!」

「言わせろ塩崎! これじゃ今日はぐっすり眠れねぇ!」

 橘さんに掴みかかろうとするはぁと。これはまずい、と俺は急いではぁとの腕を掴んだ。

「ちょっ、暴れるな! 橘さん、一旦外に出てて!」

 急いで外に出ると、まだ中からは二人の喧騒が聞こえてきました。

 あんなことで感情出しちゃって。バカみたい。

 それに、あんなに怒るなんて。私はもう、子供じゃないのに。あの人、怖いなぁ。

 私は少しだけ部屋から離れようと思って、少し廊下を歩いてみることにしました。

「――あの佐藤って人、やばくない?」

 ふと、そんな声が聞こえてきました。悪意があるのか――抑え目なトーン。女性二人で会話しているようでした。

「あの年であの性格ってのもねぇ。すごいよね」

「すごいっていうか、うん。色々見えてないんじゃないかな」

「馬鹿みたいだよね」

 どうやら、私の評価は正しかったようでした。おそらく客観的に見ても、あんなにちゃらちゃらした人は好かれないのでしょう。私も苦手ですから。

 ――ただ、一つ気になったことは。

 さっきの撮影中、あの声が聞こえていたことでした。

 私と佐藤さんの撮影場所は薄い壁を隔てた同じスペースで、つまり一人の言葉は全員に聞こえます。そんな中で、あの二人の声は、さきほども聞こえていたのでした。

 内容は今ほど棘のあるようには思えませんでしたが、何やら持て余しているかのような発言。

 とにかくどうやら、佐藤さんはみんなが馬鹿にしているようでした。それもそのはず、あのような性格であれば、致し方ないことなのかもしれません。

 そしてタンス式に気になったもう一つのことがありました。

 彼女はその声が聞こえていたにも関わらず、なんで自ら撮影を代わりたい、なんて言ったのでしょうか。

 だって、そんなことする必要はないはずです。そこまでして、自分から叩かれに行く必要なんてないはずなのです。

 全く持って無意味だと思いました。撮影が終わったら、とっとと帰れば良いのに。

「おーい、橘さん。ここか」

 そんな考えを散らすように、プロデューサーさんが現れました。

「おいもう離せよ☆」

「んにゃ、いつ暴れるかわかんないしな」

「動物園じゃねぇんだぞ☆」

「動物園じゃなくてもお前は動物だろ」

「きしゃー☆」

 やけに高いテンション。年齢不相応の姿で、彼女はやってきました。

「――ねぇ、あの年であんなキャラ……」

「……」

 そこにばったり、あの声の主が現れたのです。最悪のタイミングでした。角を曲がった瞬間、最低の瞬間です。

「あっ」

 そんなこと言わずに、すぐに立ち去れば良いのに。とっととここから消えてしまえば、この雰囲気は消えてしまうはずなのに。

 だというのに、佐藤さんは動じませんでした。その場できちんと立って、真正面から声の主を見据えていたのです。

 意味はわかっているはずです。先ほどから自分を馬鹿にしていた二人が、今まさに目の前にいるのです。

 とっ捕まえて、殴り倒すのかと思っていました。しかし、動きません。ただ、タイミングを見計らっているだけのようでした。

「……ありすちゃん。私はさ」

「……」

 そんな中、唐突に話し始めます。

「別にこのキャラが万人受けするとはこれっぽちも思ってねぇんだわ。普通清純派の方が受けるだろ。でもなぁ、これが私なの。清純派なんかやったら数日でボロが出るだろうし、何より私が嫌いだ。自分のことはぁとなんて呼ぶやつはそんなもんなんだよ」

「……なんで」

「……」

「なんでそんなに飄々としてるんですか?」

「負けらんねーからな。私には夢がある。だから、そのためにこいつらなんかの嘲笑で止まるわけにはいかねぇんだよ」

 ぎらりと睨む。声もなく、その場にただ立っていることしか出来ない二人。まるで、蛇に睨まれたカエルです。

 怒ってはいるのでしょう。だけども、先ほどのように激しい怒りというわけではないよう。むしろ、冷静に事態を見た結果、自分を諫めているようにも見えます。

「別に怒っちゃいねぇからさっさと行っちまえ。けどそんな陰口みたいな言い方されると、胸が痛まないわけがないだろうがよ」

「す、すいませんでしたっ!」

 許しを乞えたと思ったのか、二人は頭を下げると急いでこの場を離れました。

「はぁと……お前これからどんな顔してあの人達に会えばいいんだよ。雑誌の企画担当だし、直接ではないかもだけど人選には偏るかもだぞ」

「マジで? やっちゃったな」

「……ま、いいんだけどさ。俺が頭を下げれば済む話だし。それに、言いたいこと言えたろ」

「……わかってんじゃん」

「佐藤さん!」

 二人の会話を遮るように、私は言いました。

「なんぞ」

「わかりません。あなたのことが……なんで怒ったのかも、なんで怒らなかったのかも」

「……私としては怒らないようにって思ったんだけど、個人的には今のは確かに怒ってたぞ」

「いや、昔に比べたらあんなの怒るうちにも入らないでしょ。ものが何も壊れてないし」

「信用は?」

「……ヒビくらいかな」

 佐藤さんは私のもとまで近づいて、乱暴に頭を撫でました。くしゃくしゃと弄るので、髪がばらついてしまいました。

「いーんだよ。別にさっきのことも、怒ってるっていうか失望しただけだから。気にしなくて」

「失望?」

「私は昔からアイドルやりたかったの。で、今やれてるだろ? だったら、藁にも縋る思いで今全力で行かなきゃ生き残れねぇの。少なくとも、はぁとはそんな世界にいる。だってぇのに、あんなチャンスを無下にするなんて勿体ないだろ? だから、そういう意味での失望だゾ☆」

「……」

「お前は生半可な覚悟で入ってきたかもしれない世界。だけど、そこに全力出してるやつもいるってこと」

「……すいませんでした」

「謝ってほしいわけじゃねぇよ」

 佐藤さんは、微かに笑いながら言いました。

「で、どうすんだ? はぁとがやる? それとも――」

「やらせてください、撮影。なんかやっぱり、あなたに負けるのは悔しいです。見返してやります」

「……」

「……」

「へへっ。言うじゃねぇの、ありすちゃん☆」

「橘ですっ!」

 橘さんの撮影が終わりに近づいたころ、俺はようやく下げた頭をもとの位置に戻す機会を得た。

「謝ってきたよ。うちのはぁと、情緒不安定なんです。女の子だからって」

「オイ塩崎☆」

「嘘だよ」

「オイ☆」

「……どう、橘さんは?」

「さあ? 知らねぇよ。はぁとだってこの業界、長いわけじゃないしな」

「違うよ。先輩として、どうよ」

「……ま、いいんじゃねぇの? 過程はどうあれ、やる気は出たみたいだし」

「……お前が言うと、少しだけ安心できるよ」

「そうだな。確かに、ああやって道があるのに燻ってるやつみると、イラつくんだよな」

「……流石はぁと。ぶれないね」

「はぁとははぁとだから」

「うん、いつまでもしゅがーはぁとでいてくれ」

「……うん」

 後日、事務所に届いた見本誌には、はぁとと橘さんの写真が載っていた。二人とも綺麗に撮られており、特に橘さんのものは異質なものがあった。いわば個性的。紫を基調としたカラーリングに、随所に散りばめられたシックなフリル。お嬢様っぽいというと、彼女は怒るだろうか。はぁともそれなりに綺麗で、大きな声では言えないけれど、抜群のプロポーションをこれでもかと発揮していた。

「そういえば、プロデューサーさんって、佐藤さんのことはぁとって呼びますよね? なんでですか?」

「なんでって……はぁとははぁとだし」

 橘さんの無邪気な質問には、そう答えるしかなかった。

 俺はぬるくなった珈琲を口に含みながら、暇そうにしている橘さんの相手をしている。ちひろさんは気づいたらいなくなっていて、もはやそれはいつものことだった。

「昔からそう呼んでるから、今でもはぁとのまんまだよ。特に理由なんてないし」

「……ふぅん」

「橘さんだってそうでしょ。橘って呼んでほしいなら、ずっと橘って呼ぶよ」

「結構です。ありすって名前は、子供っぽいので」

「左様ですか」

「左様ですっ」

 俺はくるりと椅子を回転させ、意味もなく時間を潰していた。

「この後、会議があるんですよね?」

「うん。はぁとの進級と、常務からのありがたいお話」

 ここ数日で再びライブバトルに出たはぁとは、なんとランクアップに成功していたのである。今までのはぁとは初期のDランクだったのだが、先日二回目の勝利で晴れて事実上Cランクアイドルとなった。事実上、というのはまだ書類の上ではDランクであり、本日の昇進認定があって初めてCランクになるからである。とはいえCランク入りはほぼ確定事項であり、これもまた大きな一歩である。

「島村さんももうすぐBになれそうだし、橘さんも是非Cランク目指して頑張ってね」

「無論です」

 最近では橘さんのモチベーションにも火がついたようで、以前より多少は様々な仕事に出ることを前向きに検討してくれている。

「じゃ、時間だしそろそろ行ってくるね。レッスン室はわかる?」

「大丈夫です。何度か行ったことありますし」

「そっか。じゃあ頑張ってね」

「はい。プロデューサーさんも」

 最悪な日というのものは突然やってくる。

 あの日もそうだったし。たまたま、今日がその日だったわけだ。

「――というわけで、美城プロダクションのブランド化を図る。そういった意味で、そぐわないアイドルは基本的に排斥を考えている」

「……」

 美城常務のありがたいお言葉。

 それはマジでありがたいお言葉だった。

 要約すると、質の高いものへと変化させるため、色物は基本的に排斥していく、という考えなのであった。

「ちょ、ちょっと待ってください!」

「……塩崎プロデューサー。何か意見でも?」

「もちろんです!」

 思わず立ち上がっていた。他のプロデューサー達の視線が集まる。それだけでない、企画長達もいる。彼らが同様にアイドルと深くかかわっている人間だ。俺に、そう言えと言っていた。

「うちのアイドルはどうなるんですか? 今が彼女たちの成長期だというのに……」

「だったら成熟したものを使えば良い。ここ最近、アイドル業では平坦化が進んでいる。ようは、様々な企業間での個性が少ない、というわけだ。一般受けするものばかりが排出されている。そんな中、我々美城プロはアイドルのブランド化を目指し、頭一つ抜き出ることが必要であると考えた」

「……だったら、私の担当しているアイドルは? 夢半ばで、切り捨てるということですか……?」

「そうだ」

「納得しかねます」

「決定事項だ」

「解せません」

「私はした」

「ならば!」

「……」

「うちのアイドルだけでもやっていけることを、証明すれば良いのですね?」

「……塩崎プロデューサー。確か君は、佐藤心というアイドルを担当していたな」

「しゅがーはぁとです」

「……私の主義にそぐわない色物だ」

「だったらうちのはぁとがトップアイドルになったら、考え直してくれませんか?」

「確か……その佐藤心はまだDランクだろう。トップアイドルといえばAランクは必須。その中でも一握りだ」

「だったら一か月でAランクになったら? それが証明されれば、他のアイドル達でも可能なはずです」

 オマエ何言ってるの? そんなことできるわけないだろ。でも、それしかないんじゃないのか。うちの子たちを、どうにかしてやりたい。

 多くのプロデューサーの意見が、流れ込んでくるようだった。緊張で手が震える。のども、舌も、足も指も。

 けど、言わなきゃ気が済まなかった。

 だって常務が言っていることは、みんなの努力を否定することだからだ。

 アイドル業界は厳しい。全員が全員トップアイドルになれるわけがない。だからこそ誇り高い夢が、そこにはある。そして、俺たちはその夢を掴ませなくてはならない。

 だったら、俺たちが夢を掴むための努力を否定してはならないはずだ。ブランド化といっても、ようはクールなアイドルを取り揃えるだけだろう。確かにそれも良い判断ではある。だが、そのために排斥するというのは納得がいかなかった。

「言ったな?」

「言いました。ようは業績があれば良いのでしょう? だったら、うちのはぁと以外でも無理じゃない」

「……いいだろう。一か月だ。一か月でAランクになれなければ、君の部署は解体だ」

「……はい」

「一応言っておくが業績が全てではない。現在過去未来全てを視野に入れ、最も適した判断を下すことが全てだ。それに関し、今回が業績をメインにしただけだ」

「……はい」

 言うんじゃなかった。会議が終わって、すぐそう思った。

 けど、言わなければどちらにせよ解体だったのだろう。であれば、その期間が延びただけマシだろう。

「塩崎」

「塩崎さん」

「あ、はい?」

 同僚のプロデューサーたちだった。

「まさかあんなこと言いだすなんてな」

「あ、はは……」

「お前のおかげで首の皮一枚つながったよ」

「それは、よかったです……けど」

「ああ。実際に結果出さなきゃいけないからな。じゃなきゃただのほら吹きだ。常務だって、嫌がらせや自己満足でやってるわけじゃないんだよ。この会社を大きくしたいんだ」

「それは……わかってます」

「だから、やんなきゃいけない。そして――それは俺たち、他の部署でも同じだ。お前だけが孤独に戦う必要はないからな。俺が出来れば、お前でもできるはずだ」

「……確かに」

「けどまあ、あんだけ啖呵切ったんだから、実際にAランクになってもらわなくちゃな。今はDだったろ? 無理があるんじゃないか?」

「いや、今日付けでCです」

「……なるほど。二週間でランク一個上げればいけるか?」

「いえ」

「?」

「一週間でBランクになります」

「……というわけで、すまんがここから一か月忙しくなる。よろしく頼む」

「はぁ……なんだか突拍子もない話ですね」

 島村さんはというと、うまく事態を呑み込めていないようだった。橘さんも同様で、顔をしかめては状況をかみ砕こうとしていた。

「難しく考える必要はないゾ☆ ようは、ここ一か月全力で頑張れば良いってことだからな☆」

「ま、端的に言えばそうなる」

 最も状況を把握していたのは、はぁとだった。冷静に、事態を受け止めていた。

「そこで、ここからはレッスンも詰め込んで、ライブバトル漬けの日々になる。申し訳ないが、一か月だけ頑張ってくれ」

「……塩崎さん、私たちより大変ですよね。塩崎さんが頑張ってらっしゃるんなら、私たちも頑張らないとです」

「島村さん……」

「私も問題ないです。もとから、高みを目指していたのですから」

「うん。ありがとう」

「で……覚悟は決まったところで、方針はどうするの?」

「とりあえずは全員のランクアップをメインに据えていく。はぁとと島村さんはAランク、橘さんはBを目指していく」

「……正気か?」

「正直、狂気だよ。けどやらなきゃいけない。それに、世界征服までの時間が早まったと考えろよ」

「……ま、それもそっか」

「目下、はぁとは一週間でBランクになってもらう。一週間で二回ライブバトルだ。やれるか?」

「おうともよ。休憩時間はしっかり入れろよ☆」

「うん。考えとく」

「入れろよ!?」

「で、島村さんは今週一回ライブバトル。それでBになってもらう。余裕があると思うから、しっかりレッスン入れつつ残りでBの上位に食い込むか、あわよくばAまで」

「はいっ、島村卯月頑張ります!」

「橘さんもライブバトル。ガンガンやっていくよ。そのほかの仕事も隙間時間に入れていくから、地道に稼いでいこう」

「……よし、頑張るぞ☆」

「というわけで、頑張るぞーっ!」

「「「おーっ」」」

 冷静に考えると、その晩は無理があったな、なんて思った。

 いや、そんな一か月でトップアイドルになれるもんなら誰だってなれているはずなのだ。なれていないということは、その山が非常に険しく厳しいということ。それが証明されているはずなのだ。

 だからきっと、これは無理なことなのだ。難しいとかではなく、無理なこと。

 何なら一年かかっても――いや、一生かかっても。なれない者はAにはなれない。

 けれど、それが目標なのだ。いや、目指す先はもっと先か。もっと上。Aランクなんて比ではない、その先のトップアイドル。世界的アイドル。

 それにならなくてはならない。だってそれが、世界征服だから。

 だが俺の予想に反し、はぁとは一週間でランクをBに上げた。

「塩崎さん、最近どうですか? 寝てます?」

「ちひろさんこそ寝てるんですか?」

「床ってひんやりして気持ちいいんですよ~」

「俺より過酷ですよ、それ」

 ちひろさんのおかげ、というのが大きかった。常に大きくアドバンテージの多い仕事ばかりを選んで持ってきてくれる。もちろん失敗するわけにはいかないが、その仕事に出れるだけで知名度は爆発的に上がる。そういった穴場的な仕事を、たくさん持ってきてくれたのだった。極めつけは、ライブバトルの相手の選択。ギリギリはぁとが勝てる最高の相手を選び、実際戦績も僅差でのものだった。

 そういったぎりぎりを見分ける能力が、ちひろさんにはあった。

 そのおかげもあって、一週間と三日が過ぎることには、はぁとと島村さんはBランクアイドルになっていた。

 Cランクから一か月もしないでBランク入りというのは異例の事態で、他の部署のプロデューサーもこれにはびっくりしているようだった。それに加え、活気立っているようだった。

 多分、希望のようなものが見えていたのだろう。あるいは、はぁとにそれを見出したのか。プロダクション全体が、息を吹き返したように精力的な活動に乗り出したのである。

 他社間のライブバトルにも数多くのアイドルが参戦し、多くの勝利を収めてきた。そちらの方が知名度が上がりやすいということもあり、多数のアイドルのランクが右肩上がりで増加していった。

 いける。そういうタイミングだった。

 と思ったら、ある日立てなくなっていた。

(あれ……)

 なんだか思考がまとまらない。今どこで何時で、さっきまで何をしていたのかがわからない。

 頭には柔らかい鉛がのっかったような違和感があり、どこか不透明で異質な感覚がする。

 加えて、とにかく不愉快な悪寒があった。頭痛にも似た鈍い痛みが全身にあるようで、倦怠感と嫌悪感を合わせたような独特の濁りを感じた。

 これは、やばい。

 ぼやける思考でそう考えていた。けれど、そう考えたところで動く手足は重過ぎる。

「ぅ……ぉ、おお……」

 なんて声にもならない悲鳴が、絞り出すように出てきていた。

 意識が薄れていく。折角取り戻した意識が、まどろむように消えていく。

 まずい。多分、これ死ぬやつだ。

 過労死。孤独死? 死亡? 死?

 なんだかわからないけれど、多分そう。

 死ぬのか。いや、死にたくないけど。ぼうっとした思考では、何も考えられなかった。

 ゆっくりとまぶたが閉じていく感覚。世界が、狭まっていく感覚。

「塩崎さん!」

「……し、ま……むら、さん……」

「はい、何してるんですか!」

 視界に入ってきたのは、揺れる長い茶髪。真っ赤に染めた顔。今にも泣き出しそうな、島村さんだった。

 それはとても、心配しているような声で。思わず、何をそんなに慌てているのだろう、と思った。

「床で倒れてるなんて、普通じゃありません!」

「ゆか?」

 気づけば背中にはひんやりとしたタイルの冷気。気づかない間に、椅子から滑り落ちてしまっていたらしい。

「うぁ……床、だったのか」

「どこだと思ってたんですか?」

「天国」

「もうっ!」

 島村さんは俺を抱き起し、上半身を抱えた。太ももで体を、腕で頭を支えるように抱え上げている。彼女の体温が伝わってきて、少しだけ安心する。

「昨日は何時間寝たんですか?」

「寝てない」

「一昨日は?」

「覚えてない」

「……」

 ぺちり、と額に温かい感覚。島村さんが、俺の頭に手をのせていた。

「馬鹿です……」

 いや、やっぱり叩いたのかもしれなかった。

 わからなかった。

「……」



「最近、いつ見ても苦しそうな顔してます。心配でした」

「……ごめん」

「謝らなくていいです。ちゃんと休んで、休養をとってくれれば」

「……いや。明日は島村さんのライブバトルだし」

「塩崎さん!」

「……」

「私は一人でやれます。塩崎さんのために……いえ、私のためにも、私は頑張れます」

「……そっか」

「島村さん。君は何のためにライブバトルに……いや。君は何のためにアイドルをやってる?」

 ふいにそんな問いが出てきた。何故したのかはわからないけれど、なんとなく口から出た問いだった。答えはわかっている質問。まるで、問いただすように。

「自分のためです」

「……」

「自分と、自分を支えてくれる人。その人たちに恩返しするため――つまり、自分のため。そのためなら、私は頑張れます。あなたへの恩返し、でもあるんですよ……」

 島村さんは、努力家だ。

 昔は養成所にいた。アイドルを目指して、小さいころから頑張っていた。一向に上手くならないステップに、平凡な歌唱力。カラオケなら90点代は出るだろうが、その程度。

 よく言えば平凡。悪く言えば凡庸。そんな人間だった。

 だから俺は、そんな彼女を見たとき、素直にすごいな、と思えた。

 こんな普通な子が、よくもまあ、何年間もアイドルを目指せたな、と思った。

 俺だったら途中で折れてしまうだろう。友人が養成所をやめた途端、自分もやめてしまうだろう。他人は有名になり、自分はなれない。その劣等感から、俺はきっとすぐにやめてしまう。

 だというのに、彼女は折れなかった。レッスンを続けていた。

 ある意味――狂気めいたものを感じてはいた。ただただ寡黙にレッスンを続ける。それはもはや背水の陣だとか、負けられない戦いがあるだとか、そういう高尚なことは微塵もなかったのだろう。いや、むしろ彼女には何もなかったのだ。

 やめるという選択肢が、もとより存在していなかったのである。

 だから、俺は応援したくなった。幼い頃の誰かを重ねた。決して折れることのない、不屈の覚悟。そこに展望を感じた。

 実際、島村さんはオーディションに受かった後も平凡だった。決して一気に人気が出たわけでも、元から何かに秀でていたわけでもない。

 ただ、止めることをしなかっただけ。ひたすら前に。歩む足を止めることなく。ただただ、歩き続けただけだ。

 その結果、今がある。

 ひたすらに、がむしゃらに、止めることをせずに、止まることをせずに。ただ歩いてきた。

「……私は、感謝してるんです。塩崎さんに」

「……」

「あなたが倒れたら心配しちゃったりします。私たちのために働いてくれているのであればなおさらです。あなたには、感謝がありますから」

「……ごめん」

「明日は一人で出ます。塩崎さんは、休んでください」

「そういうわけにはいかない」

「……」

「今は忙しい時期なんだ。それに、二、三日寝なかったところで何さ。きっと大丈夫。まだ頑張れる……」

「本当ですか?」

「……」

「本当に、頑張れますか?」

 その声は。

 自分に、言い聞かせているようでもあり。

「疲れませんか? 歩き続けることは。苦しくはありませんか? 足を止めないということは。辛くはありませんか? 前に進むということは。私は――」

「――島村さん」

「……」

「それは、言っちゃいけないことだ」

「……はい」

「君のためにも……いや違うな。俺のためにも、はぁとのためにも。みんなのためにも。君が、一番言ってはいけないことだ」

 何よりも努力してきた君が。

 努力を否定してはならない。

 天性の能力もなく、天賦の才もなく、才能も技能も特質した異能もなく。ただただ普通だった女の子が、今アイドルをやれている。その事実の背後にあるものを、何よりも普通だった君が、否定してはならない。

「ありがとう。でも、立ち上がるよ。自分で立つ」

「……」

「今が正念場だ。人生擦り切れても、今立たなきゃ絶対に後悔する」

「私……」

「頑張れ、島村卯月。俺は、ずっと君を見てきた。君なら頑張れる。ま……確かに明日、ライブバトルに行くのは控えるかもしれないけどね」

「そうしてください」

「うん。余裕がなかったらね」

 島村さんの体温が離れていく感覚を惜しみつつ、俺は立ち上がる。

 視界は不良。体調も不調。足元はおぼつかず、どこに力を入れて立っているのかわからない。けれども立ち上がれた。こけても、立ち上がることさえできれば、それは失敗ではない。

「体調、少しはよくなりましたか?」

「瞼は重いし体は鈍い。さっき自分が何を喋ったかも覚えていない。口の中は乾いているし、お腹も減った」

「……つまり?」

「ベストコンディションだ」

 俺は椅子に座り、再びキーを叩き始めた。体が勝手に動いている。まるで、操り人形にでもなった気分だ。

「私、ごはん買ってきます」

「……ありがとう島村さん。恩に着るよ」

「……頑張らない程度に、頑張ってください」

「うん」

 島村さんが買ってきてくれたコンビニ弁当を食べ、飲み物を飲むと、まるで殴られたみたいに鈍重な眠気が襲ってきたので、流石にこれはやばいと事務所のソファで仮眠をとることにした。幸い、明日までに提出すれば問題ない資料ばかりである。ライブバトルに関しても、日付はとっくに決まっているし、それに関して今更提出すべき書類はない。しいて言えば、営業や撮影の仕事が数件入っているが、それもアポをとるところからなので、一日程度の遅れなら取り返せる。

 何より――やはり、体調管理が大切だった。

 島村さんの言うことは正しく、良い休憩は良い成果を生む。しっかり寝てから、しっかり働いた方が効率もあがるのだ(まあ、先日までは寝る暇がないほど時間を詰めた生活をしていたわけだが)。

 とにかくとして、俺はソファに毛布一枚持って寝ころび、三時間だけアラームをセットして仮眠に入った。

 はずだったのだが、目が覚めたら七時間経っていた。

「ぅお……やべ……やらかした」

 急いで毛布をはねのけ、時計を確認すれば時刻は19時を少し回ったところ。寝すぎたか。いや、それにしても完璧にスケジュールが崩れてしまった。15時には起きて、やりたい仕事があったのに。

「おや塩崎さん。おはようございます」

「ち、ちひろさん!? 今日は休みだったはずじゃ……」

「卯月ちゃんからメールがありましてね。塩崎さんが倒れたーって」

「……」

「ま、私は仕事人間ですからね。休日返上も何も痛くありません」

「ちひろさん……」

「それに、好きな人の寝顔が見れるというのも悪くありませんでしたよ」

「……」

「――すいません。今のは忘れてください……」

 そっと目を逸らすちひろさん。恥ずかしがるなら言うなよ……とは思ったが、口には出さない。

「すいません、助けてもらってばかりで」

「いえいえ。ところで、例の件のアポは来週に回しましたが、大丈夫ですか?」

「大丈夫です。レッスン室の件なんですが……」

「21日は無事取れましたよ。ただ、23日が怪しいですね。まだトレーナーさんの予定が曖昧で」

「ってことは、万が一取れなかった時のための時間を取っておく必要がありますね。翌日は休日でしたよね」

「はい。仕事はまだ入ってません」

「でしたらそこにレッスン(仮)を入れておきましょう。はぁとはソロ曲、個人的にも練習しているようなので安心できそうです」

「卯月ちゃん、ありすちゃんはソロ曲大丈夫ですかね?」

「島村さんはソロもらってそこそこ経ちますし、橘さんはダンスもそこまで多くありません。やはり、がんがん動くはぁとが心配です」

「……眠ってから、なんかキビキビしてますね?」

「そうですか? だとしたら……島村さんのおかげです」

「?」

 俺も椅子に座り、パソコンと向かいあう。

 まるで修羅場のような仕事量だが、決して往なせないほどではない。何より、この事務所の仲間と一緒なら、なんでもできるような気がしていた。

 仲間、か。

 思えば、ずっとはぁとと二人きりでやってきた。そこに、他者が入ってくることなんてなかった。

 甘かったのだろう。たかが二人で果たせる夢ではなかったのかもしれない。今になって思えば、もっと仲間は増やすべきだった。

 だが、こうして横には必要な仲間がいる。今は、これだけで充分すぎるほどだ。

 翌日、島村さんはライブバトルに勝利した。俺はやはり余裕があったので控室に行くと、島村さんは困ったように笑ってくれた。

「もう……なんで来たんですか?」

「色々あるんだよ。で、どう。行けそう?」

 見れば、島村さんの表情はどこか青い。緊張しているというのもあるだろう。相手はそこそこ知名度の高く、有名なアイドルだった。

「手は震えてますし、体は冷たいです。今にも逃げ出したい感じがします。格上の相手と戦うわけですから、負けるわけにもいきませんし。今すぐにでもこの場を離れて、一人空調の効いたお部屋でゆっくりしたいです」

「つまり?」

「全力で頑張らなくちゃいけない。つまり、これが私のベストコンディションです」

「……うん」

 結局、島村さんはライブバトルに辛勝した。どれほど僅差であろうとも、勝利は勝利であった。

 彼女が歌った曲は「S(mile)ing!」。彼女の持ち曲であり――彼女を示す、意味は笑顔と歌。アイドルに必要不可欠な、だけれども、ただの普通の能力だった。

「島村さんはAランク。はぁともBまで来たな!」

「[ピーーー]気かオイ☆」

 事務所で二人、お昼の休憩をとる。

 はぁとはソロ曲の歌唱力のみならず、その独特なパフォーマンスで一躍有名になっていた。まあ、これほど濃いキャラクター、一度見たら忘れられるはずもないだろうけれど(忘れてたけど)。 

 また、初めてのライブバトルのころから応援しているという筋金入りのファンも多数存在し、はぁとに魅せられた人も数多く存在しているらしい。

 俺はお弁当の出汁巻き卵を口に放り込みながら、はぁとを見た。

「残り一週間。それだけでAランク、行けると思うか?」

「現実的な話、無理ではないだろうってのが正直なところだな☆」

 はぁとは焼き鯖弁当らしい。鯖をほぐしながら、俺に答えた。

「ま、確かにそんなところだな。あとは運否天賦によるところもあるだろうし。ちなみに俺が聞いたのは、やれそうかじゃなくて、やれるかなんだよね」

「それ、聞く必要ある?」

「……うん」

 嬉しくなった。その答えが、聞きたかったのだろう。俺は思わず頬を緩ませ、所在なく箸を空中で躍らせた。

「ところで、さっきの会議はどんな内容だったん? なんか嬉しそうにしてたけどさー☆」

「書類上での正しいランクアップが認められてね。島村さんがAで、はぁとがB。橘さんがCってな具合でね。常務にも一応とはいえ認められたっぽいし」

「……けど、解体の可能性は残ってるんだろ?」

「うん。約束は約束、業績は業績ってね。こんだけ頑張って短期間でランク上げまくってる敏腕プロデューサーに、もう少し優しくしてくれてもいいと思うんだけどね」

「そうかもな☆」

「ちなみにはぁと、疲れたりとかしてない? 最近、体の調子はどう?」

「んー、少し疲れてるなっては思うけど、そこまで重くて病的な感じじゃないかも☆ なんというか、純粋にハードスケジュールが少しずつ積み重なってきてる感じだな☆ っつっても、お前が適度に休み入れてくれてるから、そこまでじゃないぞ☆」

「そっか。ならいいんだ」

「で、塩崎は休めてるの?」

「うん、思ったよりね。自分でも、やっぱり休息は必要だなーとか思うわけで」

「ま、そりゃ確かにな☆」

「適度に休みを入れつつやってるよ。頑張れる程度に、頑張ることにしてる」

「……卯月ちゃんみたいなこと言うじゃん☆」

「かもね。移ったのかも」

「……へぇ?」

 最近活動がスムーズに行えているのは、他の部署との連携にもよるものがあった。先日常務に啖呵を切って以来、何故か俺を英雄視する人が増え、結果的に支援の数が一気に増えたのである。事実、常務のブランド化に関しては文句はないが、それによる色物部署の排斥というものは多くの者が嫌がっており、俺の行動を後押ししてくれる人がちらほら出てきてくれたのだ。

 例えばライブバトルの日取りを譲ってくれたり、むしろ自分のアイドルとやらないか、なんて聞いてくれたりもした。これは無名のうちでは中々わかりにくいことだが、いざなってみると実に喜ばしいことだった。

 ただ、それに対して俺は必ず一言付け加えていた。

「ありがとうございます。よろしくお願いします。でも、絶対に手は抜かないでください。八百長はダメです。必ずそっちも全力でぶつかってきてください。そのうえで、倒しますから」

 結果、ここ数週間でのはぁとのライブバトル数は異例の二桁に突入しており、一日に二回行われるということも多少あった。そのたびに休息は取らせているのだが、やはり心配ではある。急に倒れられたら――ああ、なるほど。島村さんの気持ちが、少しだけわかった気になった。

 勿論、はぁとも勝ちっぱなしではない。何度も負けている。というか、事情を知らない者からすれば、まるではぁとがアイドルたちの波状攻撃を受けているような状態なのだ。ありえないほど短い間隔で、幾度となくライブバトルに参戦している光景は、理由が見えなくては馬車馬のように働いているようにも見えるのだ。そこにネットでは「生き急いでいるのでは」といった意見も見られ、実際に否定できないところもあるのだった。

 生き急いでいる。確かにそうだ。

 今この刹那を、全力で生きている。そしてこの刹那に、人生を懸けている。

 馬鹿なことかもしれない。もっと長く見て、未来に懸けた戦いをすべきかもしれない。けど、俺は俺で、はぁとははぁとであるように、俺達にはこの手段しかなかった。きっと何度繰り返しても、またここにたどり着くだろう。そして、また同じ道を選ぶ。

 ならば簡単だ。千載一遇のチャンスが、向こうから来てくれている。あろうことか、そこで待ってくれている。であれば、それは逃がせない。ただではすませない。絶対に掴んで、一気に引っ張り上げてもらう。

 それが、俺たちの今だった。

「ところで、はぁとって後何回くらい勝てばAランクになれるの?」

「そうだなぁ。あと二回ってところかな。もちろん、撮影とか諸々の細かいところを切り詰めて、二回でぎりぎり滑りこめそう。もちろん完璧ってわけじゃないけれど、幸いにもライブバトルのチャンスはあと三回ある。一回までなら、負けても構わない」

「なんだよその言い方☆」

「……そうか。ごめん、変なこと言った」

「おう☆ 負けてもいいだとか、そんなことは言うんじゃねぇゾ☆ 勝つために、はぁとはここにいるんだからな☆」

「うん」

 確かにこれは、変な言い方だった。あらかじめ負けを見越していくなんて、自分らしくない。そう思った。

 しかし、そう思うのも当然――明日のライブバトルの相手が相手だったのである。

 それは神懸かり的歌姫。颯爽と美城プロダクションに現れては数多くのファンの視線をかっさらい、一躍有名になった女王。

 高垣楓。彼女の戦いが、明日に控えているからであった。

 翌日、俺と一緒に控室に入ったはぁとは、まるで呪詛のように持ち曲の歌詞を詠唱していた。

「……」

 喋りかけるのも憚られた。それだけ緊張しているのだろう。空調は効いているというのに、彼女の肩は震えていた。吐く息さえも苦しそうに、呼吸を戸惑っている。

「塩崎……」

「なんぞ」

「勝てると思う?」

「わかんない。何しろあっち、Aランクだし」

 ランクバトルは基本が同ランク帯のアイドルバトルとはいえ、それも必ずそうでなくてはならないというわけではない。むしろ、一ランク差のアイドル同士であれば、経験の差だけではなく実力の差にもよるため、かえって上位ランクのアイドルとのバトルを挑むことは少なくない。つまり、実力のみがものを言うこのライブバトル、ランクだけを見てはいけないのである。

 とはいえ、高垣楓はAランクの中でも更に上位の、まさしくトップアイドルである。世界の歌姫としても呼ばれており、海外人気も高い。近頃の日本でのアイドルブームの先端を走り続けている、一線級の女王なのだ。

「……わかんないか」

「うん、わかんない。もしかしたら勝てるかも、としか言えない」

「そっか」

 ふと、沈黙が訪れる。

 耳を澄ませば、入ってきた観客の喧騒が聞こえてくる。誰のために来たのだろうか。はぁとのためなら嬉しいけれど、高垣楓のためだろうか? 多分そうだろう。きっとそうだ。

「なあ、塩崎」

「なんぞ」

「今から弱音吐くから、聞き流して、背中を叩いてくれる?」

「……いいよ」

「もし、外に来てる観客がさ。全員高垣楓のファンで、私のことなんて知らない。コールも歓声も、何一つ上げる気なんてなかったら、どうしよう」

「……」

「私なんてただの前座。ミニサラダみたいなもんで、別になくってもいい、とか。思われてたら、どうしよう。私、どうしよう……」

「……」

「塩崎ぃ……」

 今にも泣きそうな顔で。

 俺を見た。

 プレッシャーは相当なものだろう。何しろ、相手はあの高垣楓だ。

 格下が勝手に挑んで、無残に敗北するならまだいい。けれど、そこには観客がいる。冷えた目線。自分のことなど、目もくれないような態度だったら?

 それはとても、惨めなことだ。惨めなことは悲しくて悔しくて、嫌になる。はぁとはそういう人間だ。少なくとも俺にだってそういう気持ちはわかるし、はぁとはそれよりも何倍も敏感に感じてしまうだろう。

 自分を見てくれるのだろうか。

「はぁと」

「……」

「多分、そうかもしれない」

「……」

「もしかしたら、観客は全員高垣楓を見に来てるのかもな。お前のことなんて知らない。佐藤心? しゅがーはぁと? 誰? みたいな」

「……」

「けど、それでいいんだよ。むしろ、そうじゃないとおかしいだろ」

「……え?」

「世界征服なんて言っても、まだ駆け出しだろう、俺たち。だったら、俺たちのことなんて知ってるやつはほぼいない。もしいたとしても、身内だったり俺たちをもとから知ってるやつらばかりだ。だからむしろ、この状況はただのスタートラインなんだよ」

 全世界の人間の、心の片隅に残ること。

 誰に聞いてもしゅがーはぁとを知っていて、そしてどんなカタチであれ、しゅがーはぁとが全世界に広まっている状態。すなわち、世界に知れ渡るビッグなトップアイドルになること。

 その結果があるならば、スタートラインは世界的に知られていないということ。

「どちらにせよ……いずれ戦わなくてはならない相手だしね。今のうちに戦っておくのも悪くはないでしょ」

「塩崎ぃ……今そういう話してるわけじゃなくない?」

「いや、そういう話だよ」

「……」

「失敗したことのないスターはいないよ。誰だって何度もこけて、そして立ち上がってる。それに、はぁとは普通の人よりもたくさん立ち上がってるしね」

「……それって、たくさんこけてるってことでもあるよな?」

「ま、ね」

「……ったく」

 はぁとはずぼりと髪の中に手を突っ込んで、強引にかき乱した。整えた髪が台無しだ。けど、それが俺には正しいことのように思えた。

 無法故に自由。無秩序故に軽快。

「くそ……!」

 がつん、と地団駄を踏む。地面に悪感情を吐き出して、彼女はさらに髪を振りほどいた。

 結んだツインテールをほぐす。髪はぱらぱらとわかれながら落ちて、虹色のカーテンのように瞬いた。

「立ち止まってる場合じゃない、ってこったな」

「そういうこと。下向いてる場合じゃないぞ」

「怖くて今すぐ逃げ出したい。あんな強大な相手とやるのなんて、私にはまだ早いと思う。敵地は四面楚歌だ。ここはホームじゃない」

「それがどうした? 一個でも多く、高垣楓に勝ってこい。お前が全敗するとでも思ってるのか? はぁとは確実に、勝ってるところがあるはずだ。それがはぁとの、大切なところ」

「……おう☆」

「よし、行くぞ」

 肩にそっと、手を添える。震える肩が、やがて収まる。

 結局、はぁとは高垣楓に敗北を喫した。点数差も僅差とはいえない、圧倒的な敗北だった。

 しかし、重要だったのは敗北よりも――高垣楓ではなく、はぁとに点を入れてくれた人もいた、ということ。一人一票しか投票出来ない形式上、基本的には好きなアイドルに投票することが多い。それに加え、今回のバトルではあの世界の高垣楓が相手だったのである。点数差は絶望的。ワンサイドゲームではあったものの――わずかでも、はぁとに入れてくれた人もいた、というわけだ。

 それが、なによりも重要な出来事。

 はぁとを見てくれる人がいる。昔からの、大きくて小さな進歩だった。

「やっぱり勝てないか……」

「そりゃな」

「オイ塩崎☆」

「でもいいだろ。立ち上がりやすいこけ方だ」

「それに……楓ちゃんに塩までもらっちまったしな☆」

「……塩?」

「うん。色々アドバイスもらっちゃった。歌い始めの声の出し方のコツとか。はぁとにも使えるかはわかんねーけど」

「……そっか」

 色んな人が、俺たちのことを応援してくれているみたいだった。

 それはとても、嬉しいことだ。全員が、俺たちの背中を押してくれている。気づかなくては、いつまでもわからなかったことだ。だから、気づけたことが嬉しかった。

「楓ちゃん、塩崎のこと応援してたぞ」

「マジで?」

「うん。楓ちゃんも、常務とやらの意向には反対なんだと」

「……」

 確か高垣楓はブランド化の際のトップアイドル筆頭。すなわち目玉として扱われ、今回の経営方向の転換でも変わらず前線に立ち続けていたはずである。そんな彼女にも、やはり何らかの思いがあったのだろう。俺たちを応援してくれているということは、すなわちそういうことである。

「……何はともあれ、あとは負けられない戦いしかない」

「おう。ま、最初っからそんなもんだったけどな」

「行こう、はぁと。風邪をひいてしまうからね」

 次なるライブバトルにて、はぁとは圧勝。高垣楓からのアドバイスを活かせたのか、彼女の不得意とするダンス中に歌う際の声のぶれが減り、全体的な完成度は一気に向上していた。もとより、彼女のソロ曲はアップテンポなところもあったため、いずれにせよ早期にそのテクニックの習得はせねばならなかった。

 そういう意味ではまさに鶴の一声。高垣楓のアドバイスは実に効果的に作用したわけである。

 おそらくこの調子でいけばAランクに昇格はできるだろう――というのが、現在の見通しだった。そもそも、Aランクになること自体は、一定のセンスか、もしくはある程度の芸歴さえあれば難しいことではないらしい。問題は、実際にAランクに昇格してから、どこまで行けるか。下位で燻るか、それとも昇っていくか。それはやはり、アイドルの素養の問題である。

 翌日に会議が開かれた。内容は他部署の猛進中アイドルのランクアップなどにまつわることであり、ここ数週間で一気に多くのアイドルが燃え始めていることは明らかだった。つまり、やればできるということが常務にも伝わったのである。

 これはかなりの僥倖であった。あの美城常務が、変な顔をしながら俺のことを見ているのである。

「……塩崎プロデューサー。君の言うことを……どうやら、認めなくてはならないようだな」

「ありがとうございます」

「だが、ブランド化の件については中止しない。これは決定事項だからな。ただ……若干、他の部署にも手を回そう。ひとまず、他アイドルたちの排斥に関しては見送ることとする」

 瞬間、その部屋から歓声が沸いた。

 これが、俺たちの求めていたことである。それが今この瞬間、果たされたのである。

 夢半ばで散ったもの。今も夢を追っているもの。みんなの努力が、切り捨てられることはなかったのである。

 猛烈な高翌揚感。あの常務に、認められたのだという、火柱のような熱が、俺の中をぐるぐると回りながらうねっている。

「だが、無論約束は約束だ。君の担当する……しゅがーはぁとがAランクにならなければ、君の部署は解体だ」

「はい!」

 それは事実上の認可とも言えた。俺たちの功績は全て常務が把握しており、現在のはぁとの状況もきっちり理解しているのである。それに加え、近頃の猛烈な追い上げもわかっていることだろう、常務は困ったように表情を緩め、俺を見た。

「結果が全てだ」

「……はい」

「他者の目に映るのは結果だけだ。過程はどうあれ、そこに残るのは結果だけだ。だから私たちは、何よりも結果を重要視しなくてはならない。そして、それと同じように……過程も、いや、もっと多くのものも重要である、というわけだ。今回、つくづく実感させられた」

 常務は目を閉じ、俺に言い放つ。冷たく――だが、認めてくれたかのように。

「では引き続き、気兼ねなく邁進を続けてくれ。以上、解散とする」

「余裕が出来たので、橘さんもライブバトルやろっか!」

 そう言った翌日には、本当にライブバトルが出来てしまっていたのだから、まったくびっくりである。

 とはいえ、今回の形式は他社間で行われるワンオンワンバトル。すなわち、アイドルランクには大して影響のないライブバトルである。とはいえ、全くの無関係というわけでもなく、実際はきちんと経験値としてポイントが加算される。ただ、同社間帯での頭一つ抜き出るライブバトルに比べれば、一歩ポイントの少ないバトルではある。

 故に、無意味とも言い切れない。加えて、他社アイドルの現状や自分の世界での立ち位置を知れるということもあり、得られることは表面下ではあまりにも多い。それ故、得られることも多いだろう。そういうことを見越しての選択だった。

 そして会場入りして、気がついた。俺の横で、余裕があったからといってどうしてもついてきたはぁとが、ぼそりと呟いた。

「おい塩崎。何の冗談だ?」

「さあね。そも、ライブバトルの相手は当日まで知らされないのがセオリーだろ……?」

 相手は見たことのある顔だった。というよりも、忘れたくても忘れられない顔。はぁとをこの世界に強く引きずり込んだ要因。

 対する相手の名前は、七見椒子。今日橘さんとバトルするのは、例の、五人目のオーディションの女の子だった。

「……激やば?」

「劇的にやばいと書いて、激やば」

「書いてないぞ☆」

 冗談でも言わなくては、やってられない。そんな状況下だった。今すぐにでもこの場から去りたい、そんな気分。

 何より、戦う相手が橘さんだというのが最高に分が悪い。これがはぁとであれば一泡吹かせることなど容易いだろう。今のはぁとは、昔とは違う。質の良い練習を、淡々と積んできたのだ。

「よし、準備はどう?」

「いつもと同じ感じです。少し寒気がして、空調だってついてるはずなのに何故か温かくない。それに、指先が震えて止まりません」

「つまり?」

「ベストコンディションです」

「うむ。平常通りだね」

 少しずつだが、橘さんは自分の感情を俺たちに教えてくれるようになっていた。弱みを教えてくれる、と言ってもいいのだろうか。ともかく、今自分の思っていることを、比較的ストレートに教えてくれるのである。

「ま、気負うことなくやればいいよ。相手は確かに格上だ。同じCランクって言ったけど、おそらくあと数勝もすればBに上がるだろう。それだけの実力はある」

「ご存知なんですか?」

「ご存知もなにも、俺が捨てた石ころだからね」

「?」

「石ころとは言うじゃねーか、塩崎☆」

 ぬ、と控室にはぁとが入ってくる。少しお手洗いに行くとのことだったので、俺だけ先に控室に来ていたのである。

 はぁとはというと、なんでもないようないつもの表情で、柔らかな笑みを浮かべながら橘さんを見ていた。どこか勝気な笑み。いつも通りだった。

「さ、佐藤さん? いらっしゃったんですか?」

「おう、ありすちゃんおはよう。暇だったからな~♪ ってか、はぁとって呼べよ☆」

「佐藤さん」

「……」

 頭をかくはぁと。一応、こんなでもアイドルなんだよなぁ……。

「で、どうよ。励ましに来たつもりだったけど、いらないっぽい?」

「け、結構です。佐藤さんなんていなくても、私はやれます」

「ふーん? ま、それならいいんだけどな☆」

「……」

「頑張れよ☆ 応援してるからな☆」

「……あ、ありがとうございます。有難く頂戴しておきますっ」

 やがて時間になるということで橘さんは舞台袖で待機、まず先手で橘さんの演技からであった。俺は一人、舞台袖で腕を組んで彼女の舞台入り、挨拶、演技とみておくことにした。

 舞台袖はもはや、ほとんど舞台の一部でもある。生で観客の声が聞こえ、見ようと思えば観客の顔だって見れる。俺のような人間にだけ許された特別席でもある。

「おい塩崎☆」

「ぅわぁ!?」

 いきなり背後から声をかけられた。声の種類からして、間違いなくはぁとだった。

「お前、なんでここに?」

「いいだろ、暇だったんだから☆ ってか、お前はぁとのライブの時は全然見に来ないのに、ありすちゃんの時は見るのかよ☆ ぶっ飛ばすぞ☆」

「……いいだろ。はぁとはどうせ勝つんだし」

「……負ける時もあるよ」

「最後には勝つんだから。見る必要なし」

「……」

「で、やっぱりはぁとも気になる? 五番目の子」

「そりゃね。どれだけ成長したとか……どれくらい、強くなったかとか」

「……安心していいよ。きっと、はぁとの方が綺麗だし、可愛いよ」

「――っ、ちょ、おま」

「……はぁと?」

「い、今、なんて?」

「はぁとの方が可愛いって。あの子、素質も元からの可愛さも確かにあるけれど、まだまだ足りてないところが多すぎる」

 実際、過去俺の行った選択は間違いなく間違いだった。あの子を選んではぁとを切り捨て、会社のために彼女を育てるべきだったのだ。しかし、俺はこうしてはぁとを選び、彼女を切り捨てた。そのこと自体に、髪の毛一本ほどの後悔もない。ただ、少し考えてしまうときもある。もしあの時、そうしていたら、今頃そうなっていたのだろう――と。

 足りないところを補い、てっぺんに向かって駆け上がる。そんなことが出来ていただろうか。きっと、そんな俺に出会うことがあるならば、俺はそいつの頬を叩くだろうか。それとも、それはそういう選択だとして、認めてしまうだろうか。

 どうなのだろうか。わからない。そうなったときにしか、わからない。

 彼女は最高の原石だった。河原で最高の宝石を拾ったようなものだ。であれば、それを捨てたという事実は間違えようのない損失。

 だが、俺にはそうだとは思えなかった。

 この選択が例え間違ったものであったとしても、決して正しくなかったとは思わない。俺は自分の正直に、ありのままの自分で選択した。そうして決めた道が、正しくないわけがないのである。

「さ――ライブバトルの始まりだ」

 結論から言えば、橘さんのライブは完璧とはほど遠いものだった。

 やはりまだあの雰囲気になれていないのか、動きはどこかぎこちないし、歌だってまだ上手に歌えるはずだ。歌い始めを間違えたり、ステップを踏み損ねたり。だけど、これが今の橘さんの現状。これが彼女の限界なのだ。あとは回数を増やすなりで慣れていくしかない。往々にして、そういうものである。

 舞台袖に戻ってきた橘さんは、今にも泣きそうな顔だった。これから相手方のライブだってあるというのに、もう負けを認めたようなものだった。

「……ぷ、プロデューサー、さん」

「……どうだった、橘さん?」

「ダメダメ、でした。なんででしょう、私、前にやったときは上手くできたはずなのに……」

「前の時はよくできてた。でも、今回は出来てなかった。そう見えるかもしれないけど……本質的には、そうじゃないと思う」

「……?」

「トレーナーさんの練習、最近厳しくなってきたでしょ? あれ、橘さんが少しずつ上達してるから、それに合わせてレベルを上げてるからそう感じてるの。実際、この前のライブバトルと同じ構成でライブをやれば、前と同じようになっただろうね。だけど、今回はそうじゃなかった。高みを目指して、より複雑なものを詰め込んであった。だから間違えたし、結果前より下手になったかもしれない」

「……はい」

「けど、やっぱり努力してる人は素敵だ。努力は否定されてはならない。君がこうして行った失敗は、必ず君の血となりチカラとなる。今は失敗しても、いいんだよ」

「……はい。でも……やっぱり、悔しいものは悔しいんです」

「……」

 それは、とても嬉しいことだった。それだけ彼女が、アイドルという仕事に真摯に向き合っているから。上手くいかない自分を責めてしまうのも、そんな自分を真っ向から否定してしまうのも。どれもこれも、仕事に対してより深く関わろうとしているからだ。

 スカウト組の彼女が、そういった思考回路に落ち着いてくれるのは、プロデューサ-としても、年長者としてもうれしいものがある。

 おそらく、このライブバトルには負けてしまうだろう。だが、それで彼女が負けただけの大切なものを手に入れることが出来れば、このライブバトルでは勝利以上のものを手に入れたことになるだろう。

 それが、美城常務の言う結果に繋がるのならば、本望である。

 その場で泣きそうな橘さんのそばに立ちながら、俺は次なる少女のライブを見る。

 名前は忘れもしない。七見椒子。あの日から、一度だって忘れたことはない文字列だ。

 彼女のライブは、確かに天性のものがあったと思う。元来彼女特有の可愛さ、歌唱力、ダンスのセンスと一通り揃っており、確かなものはあった。

 だが、それだけだ。

 彼女には、それしかなかった。

 であればなるほど、彼女が未だCランクで燻っていることも納得できる。追い風があったとはいえ、今でははぁとはBランク常連のアイドルである。そこには明確な差のみが存在しており、それはつまり、はぁとは彼女の持ちえない何かを持っている、という事実の証明でもあった。

 ただ、彼女は橘さんよりも上手い。それだけは否定できない事実でもあった。

 とはいえ、越せない壁ではない。彼女がそこで燻っていれば、橘さんでも十分越せる程度であろう。むしろ、この波に乗ることが出来れば、数か月のうちに圧勝できるほどの力をつけることはできるはずだ。今の橘さんには、折れても元に戻れるチカラが備わっている。

 ライブが終わる。結果は、惨敗だった。僅かに橘さんに入れてくれた人もいたようだが、極小数。だが、つまりそれだけの人たちは、橘さんを見てくれた絶対数でもあるということだ。大切で、あまりにも大きすぎる一歩でもあった。

「さ……橘さん。帰ろう」

「……はい」

 涙を堪えたまま、彼女は七見椒子のライブを見届けた。事実、橘さんのライブに足りないものを彼女は持っていたわけで、少しでもそれを奪ってやろうという算段だったらしい。

「まず着替えからだ。控室に戻ろう」

 舞台袖を離れ、二人控室に向かう。途中で、やけに記憶に真新しい廊下を通ることになった。あの、人通りの少ない、冷たくて音のない廊下だ。

 だが、今回だけは少し違った。うるさかったわけでも、暖かったわけでもなかった。

 そこに、彼女がいた。

「……はっ」

 七見椒子がいた。

「あの時のプロデューサ-。お久しぶり」

「あ……ああ。久しぶり」

「……」

「そして、私に負けたアイドルさん」

 不敵に笑う彼女。何か目論んでいるのか?

 よくわからないが、とにかく今は邪魔だった。彼女をどかして、先に進もうとした瞬間。

「あんたね、下手だったよ。ライブ」

 ふと、そんなことを口にした。

「――……っ!」

「おい、君――」

「――――事実だよっ!」

「……っ」

 思わず、たじろいだ。ここで言い返さなくてはならないのに。

 つい、彼女の剣幕に一歩引いてしまった。

「ほんっとうに雑魚よあんた! まるで使い物にならないじゃない! 本当に練習したの? それとも、泣けば大人は助けてくれるとでも思ってる? 馬鹿ね!」

「……ぅうううっ」

「おい、何の真似だっ!」

 言い責められ、涙を零してしまう橘さん。俺は、彼女を抱きかかえるようにして、七見との間に割って入った。

「……何しに来たんだ?」

「別に? 忠告しに来ただけだけど?」

「だったらいらん世話だ。とっとと失せろ」

「失せろ? 私にそんな口聞くの?」

「お前が別の会社でどんな目にあっていようが、それは俺の知ったこっちゃないんだよ。橘さんに喧嘩を売りに来たんなら俺が買ってやるが、とにかく今は失せろ」

 思わず、口が汚くなってしまった。

 橘さんを貶されて、腹が立った。大人のすることではなかっただろう。だが、その衝動を引き留めることも、憚られた。

「ねぇ橘さんとやら? 自分でそうは思わなかったの? 自分っていらない子だって。思わなかった? 感じなかった?」

「おい、いい加減にしろ!」

「アイドルなんてやめたらいいわ。だってあんた、向いてないもの。あんな下手なステップや歌で、よくもまあライブに出ようと――この私に勝てると思ったわね。思いあがった? それとも、やっぱり大人が助けてくれると思ったんでしょ?」

 止まる気のしない罵倒。声ならば俺を通り抜けて、橘さんに届いてしまう。それは明らかにまずいことだった。

 その剣幕にやられてか、腕の中でひっそりと震える橘さん。

 俺は、すっかり縮こまって泣いてしまった橘さんを抱え上げ、その場を離れた。

 一刻も早く、この場を離れた方がいい。このままでは、彼女は崩れてしまう。壊れてしまう。

「やめてしまえばいいわよ! あんたなんか! プロデューサーもよ! そんな子育てるから! あんなヤツとるからよ! 私だって……!」

 去り際に聞こえたのは、そんな声。消え行く耳に木霊す罵倒は、いつまでも耳の中で揺らめいていた。

 ……すべてを聞いていた私は、そっと廊下に姿を現した。

「……佐藤心ね」

「誰だてめー。私はお前なんか知らねぇぞ」

「ふん。全部、あんたのせいなんだからね」

「…………え、はぁ?」

 思いもよらぬ言いがかりに、私は思わずそんな声を出していた。

「あんたのせいよ! あんたがあの時いたから! 私は美城を落ちて、こんなちっぽけなアイドル事務所に行く羽目になったの! 私はもっとビッグになるはずだったのに!」

「はぁ……」

 ため息をついた。

 それから。

「お前マジで阿呆じゃねぇんすか?」

 そんなセリフを吐いていた。

「いや、冷静に考えてみろよ。そもそも私は、お前の事情なんて微塵も気にならないし、気にしてもない。だっていうのに勝手に自分語りなんか始めやがってよ。聞かされる身にもなってみろってんだ」

「……っ」

「それに、うちを落ちた後、何個か会社受けたんだろ? で、全部落ちて今の事務所に転がり込んだんだろ? それってさぁ、つまりお前がダメだったからじゃねぇの? 私のせいじゃなくない? 勝手に責任逃れするのやめろよな。所在はあくまでお前だぞ」

「――う、うるさい!」

「うるさいのはお前だ。この廊下、あんまり声響かないからさ。外からの音も、外への音もあんまりでないんだ。前、ここで泣いたから覚えてる。けどさ……お前の悲鳴、うるさいんだよ」

 つらつらと言葉が出てくる。出てきてしまう。

 ああ――なんて……馬鹿な女。私は今まで、こんなやつへの復讐を糧に頑張ってたのか? 方向、完璧に間違えてるし。直進で世界征服狙いの方がよかったかも。

「それにさ。別に私がお前に説教みたいなことするつもりねぇんだわ。そういうキャラじゃないし、何しろお前のために何かするってのが虫唾が走るほど嫌だ。だから、とっとと失せろよ。塩崎も言ってたけど。邪魔なんだよね。ってかあいつ、私のこと気づかねぇでいちゃつきやがって……」

「うるさいわよ、年増!」

 年増ァ?

「私もこれでBランク! あんたもBランクでしょ! これで、あんたを引きずり下ろせるわ! 目にもの見せてやる! この雑魚どもが! 私の方が、凄いんだから!」

「おーおー。凄い凄い」

 適当に往なし、私は腕を振った。大げさな芸がかった仕草。マジで、こいつと本気で討論する気なんてなかった。というか、それが無駄になるのはわかっていたことだし、少なくとも――今爆発するわけにはいかなかった。

「あの雑魚アイドル諸共! あんたのようがゴミも! まとめてゴミ収集車に突っ込んでやる!」

「おーおー。ここら一体の燃えるゴミは火・金だから間違えないようにな」

 面倒になり、私はそれだけ言うと控室に向かった。正直に言えば、これ以上そいつと同じ空間にいることが耐えられなかった。今すぐにでも逃げ出すか、こいつを始末したかった。後者が不可能な以上、前者しかありえなかった。

 捨て台詞は、聞こえなかった。

 部屋で待っていると、遅れてはぁとが戻ってきた。橘さんは未だ泣き止んでおらず、俺は彼女のそばでそっと待っていることしか出来なかった。

 待っている間色々考えることもあったが――ひとまず、目下最優先で考えることが出来てしまった。

「いやー、すまんすまん☆ 遅れちゃった♪」

「全部聞こえてたよ」

「……マジか」

「うん。全部丸聞こえ。っていうか、壁に耳当てて聞いてた。ま、音が響きにくい分吸収してるってことかも? で、なんだけど――」

 喋る前にいったん大きく息を吐き、それから吸った。

「やっぱあいつぶっ倒そう」

「待てよ塩崎☆」

「……」

「お前が燃え上がってどうするんだよ☆ 前から決まってただろ――はぁとがアクセルで、お前がブレーキ。だから、塩崎が本当にしなくちゃいけないことは、アクセルべた踏みのはぁとを止めること♪ つまり、はぁとに“今お前がやることは次のライブバトルでちゃんとランクアップバトルやって、今月中にAランクなることだぞ”って言って、止めさせることだゾ☆」

「……そうか。そうだったな」

「おう。落ち着け」

「……」

 深呼吸。熱い息を吐きだして、冷たい空気を吸う。

 否。そんなことでは収まらない。

「……いや落ち着けるわけな」

「――おう、落ち着けるわけねぇよな、塩崎!」

「――――!」

 はぁとは叫ぶ。俺に向かって。いや、俺だけじゃなく。

 自分自身にも、向かって。

「仲間を馬鹿にされて! 落ち着いてられるか? いいや、無理だろ。むしろここで落ち着いちまった方が、馬鹿で阿呆なクソ野郎だ。つまり、私たちはどうしようもなく、それ以上の馬鹿だってことだ!」

「……はぁと」

「行くぞ! あのクソ野郎、生きてきたことを後悔させてやる!」

「は、はぁとさん!」

 そんなはぁとの熱に向かって、橘さんがそっと申し出る。顔は真っ赤、目元は何度も擦って、もう軽く腫れてしまっていた。

「……ありすちゃん」

「そんなこと……しなくていいです。私のことは、放っておいても構いません。だから……」

「ダメだろ。いいわけないぞ」

「……っ」

「ありすちゃんのこと、はぁとは仲間だと思ってる。生意気なちびっこだけど、好きだもん。それに、ありすちゃんが頑張ってることも知ってる。レッスンだって真面目に受けてる。出会った頃のいやいやっ子とは大違いだぜ☆」

 ぼろり、と橘さんが涙を零した。その涙は何の涙だったのか。俺にはわからない。俺には見えない。俺には、目の前の向かうべき敵しか、見えなかった。

「初めてはぁとって呼んでくれたな。じゃ、私はあいつをぶっ倒してくるから、ありすちゃんはそこで見ててくれよな♪」

「はぁとさ……た……橘です!」

「おう」

「ぷ、プロデューサーさん! プロデューサーさんも何か言ってください! はぁとさんを止めて……」

「ごめん橘さん。俺も馬鹿なんだ」

「……」

「そんなこと言うなら……あなたたちを止めきれない……私だって、馬鹿ですよ……」

 二人して部屋を出る。冷たい空気で体が急速に熱を失っていく。冷静になる。

「まだやれるか?」

「……うん」

「まだやれそうか?」

「……うんっ」

「こんな散々な状況だ。何もかもが最悪のタイミングで躓いてしまう。けど、こんな時でも、不思議と悪くないなって思えるんだ」

「実ははぁともそう思う。こんなクソみたいな状況だけど、な」

 拳を差し出す。はぁとがそっと、俺の手に拳を添えた。

 熱が籠っている。そこには確かに未だ燃え続ける、確かな炎が宿っていた。

「変な質問なんだけどさ、もし今過去に戻れたら、どうする? 昔の自分になんていう?」

 ふと、そんなことが気になった。はぁとを見れば、僅かに笑いながら、何かを確信していた。

「とっとと走れ! って言う。前だけ向いて、走り続けろ! 邪魔なもんはすっごく多いぞ、って」

「じゃあ、もし今別の世界に自分に会ったら、どうする? もしそいつは、自分よりもいっぱい成功していて。けど、アイドルじゃあないんだ」

「勿体ないことしたな、お前! って言う!」

「……へへへ」

「塩崎ならどうするの?」

「多分、同じこと言うね。もっとはぁとのこと、見てやれってね」

「……そっか」

「……覚悟が出来たよ。きっとこれが、正しい道だ。けど、間違ってはいるんだ。間違ってる。そんなことはわかってる。だから、それを通り越して尚、正しい道なんだ」

「……そうだよ」

「止めないんだな」

「止められるわけないだろ。だって、正しい道なんだし」

「……」

「はぁとは馬鹿だよ。昔から。いつも見てたからわかってる」

「……」

「だったら俺も馬鹿だ。はぁとの背中を押して、ここまで駆け上がってきた。プライドのために死ぬなら本望だ」

「……流石。お前は変わらないな、この馬鹿」

「はぁとこそ」

「よし、決まった。行くぞ。もう背は振り返らない」

「今まで何度も振り返ってきたもんな。もう、これ以上見る過去なんてないよ。それに、世界征服目指してるやつが仲間の涙一つ拾えないなんて、あるわけないもんな」

「……おう。しゅがーはぁと、一世一代の全力勝負。しかとその目に刻めよ☆」

「あーあ、俺たち大馬鹿ものだ」

「それも一級モンのな」

 そう言って、二人で笑った。後悔がないと言えば嘘になる。

 だけど、こうしなかったら、きっともっと後悔する。

 敵討ちといえるほど高尚なものではない。汚されたプライドを拾い集めるために、俺たちは戦うのだ。

 翌日、ライブバトルの日程とワンオンワンバトルの予定をとると、常務に呼び出されてしまった。

 二人きりで、常務の専用部屋で話す羽目になった。なんとなく気まずくて、呼吸がしにくい部屋だ。

「……君は、目が悪かったかな?」

「いえ、両目とも1.5です」

「……だったら算数が苦手とか?」

「理系です」

「……であれば、何故ワンオンワンバトルのライブバトルをとった? これでは、君のしゅがーはぁとはAランクになれないだろう」

「はい。知ってます」

「……」

 呆れた、という顔だろうか。それとも、他のことを考えているだろうか。何を考えているのだろう。俺にはわからないような、複雑な顔をしていた。

「……何故だ?」

「絶対に負けられない相手がいるからです。勝たなくてはならない相手がいるからです」

「……誰だ」

「七見椒子。他社のアイドルですが……」

「名前くらいは知っている。確か、君がオーディションで落としたこともな」

 常務が、じっと俺を見る。

「自殺願望でもあるのか? それとも、私に対する挑発か? わかっていないようだが、もう私は君に負けている」

「そういうことでは、ないんです」

「……」

「負けられない戦いと言ったな」

「はい」

「それは、君の抱えて、背負ってきた全てを捨てても勝たねばならない戦いなのか?」

「はい」

「この戦いに出た時点で、君に勝利はない。約束は約束……Aランクになれなかった君の部署は……」

「わかってます。もう、みんなと話し合って決めたことです」

「……」

「――そんなことが許されるわけ」

「――許されても、いいんじゃないかな」

「……!」

「今西部長!?」

 ふと常務室に入ってきたのは初老の男性。俺の上司に当たり、何かとよくしてくれる――今西部長だった。

 いつにも増してにこにこと笑ったまま、そっと扉を閉める。もしかしてこの人、俺たちの会話を聞いてて、タイミングよく入ってきたんじゃないのか?

「何の用ですか」

「中々面白い話してるじゃないか。で、なんだって? 塩崎君の負け試合かい?」

「負け試合って……」

「だって事実そうなんだろう? 君は勝っても負けても、死ぬんだろう?」

「……」

 確かに事実だった。あくまでもこれは、矮小なプライドのぶつかりあいでしかない。

「勝っても君のプロデューサー人生は終わる。負けても彼女のアイドル人生は終わる。だったら君は、何のために戦うんだ?」

「俺のためです」

「……へぇ」

 何かを含んだ笑い。まるで、俺なんか見透かしているかのような笑み。

「終わるとか終わらないとか、そういう話ではないんです。俺は、あいつに勝たなくちゃいけない。それが例えどんな馬鹿な行動であっても。やらなくちゃ、意味がないんです。でなくちゃ、これまでのすべてが無駄になってしまう。水泡と消えてしまう。努力も、苦労も、何もかも。あの日舐めた辛酸も。あの日流した涙さえも。そんなことが許されては、ならないんです。だから、これがどれだけ馬鹿なことであっても、俺はやります。きっとこの先、戦って後悔したことよりも――戦わなかった方が、後悔すると思うから」

「……なるほどね」

 今西部長はそれだけ言うと、常務に向き直った。

「だそうだ、常務。彼の決意は、もう決まっているらしい」

「だ、だが……」

「確かに、彼ほどの熱意ある若者を失うのは惜しいことかもしれない。それは、彼のプライドに依るところだろうけどね」

「もう、決めたことです」

「そうか」

 ふと部長は腕を組み、そこにあった椅子に腰をかけた。まるで過去を思い出すかのように、語りだす。

「私はね、馬鹿な子が本当に好きなんだよ」

 つらつらと、何かを思い出していく。

「馬鹿で真っ直ぐ。だからこそ、芯も熱く曲がったことはしない。ゴールに向かって一直線。それまでの過程での怪我なんて、痛くも痒くもないって感じでね。昔そんな子がいた」

「……」

「その子は、本当に真っ直ぐだったんだ。振り返らなかった。周りを見なかった。鑑みなかった。だからこそ真っ直ぐに目標に向かって、ただ走った。結果、その子は目的にたどり着くことが出来たんだ。けど……」

 ふいに、部長が常務を見た。

「取りこぼしたものが多すぎた。地面にはたくさんの後悔が散らばっていた。捨てるにはあまりにも惜しすぎるものたちが、溢れんばかりにね。けど、彼女は見ないふりをした。走り続けた。背中なんて振り返る気はなかったんだろう。怖かったのかもしれない。彼女はひたすらに走って――――今、ここにいる」

「……今西部長」

「あはは、なんて、根も葉もない昔話だよ」

「私はその子をずっと見ていたんだ。後悔の多い人生だっただろう。いまだに、その後悔は潰えていないことだろう。まだ、忘れられないんだ。だからこそ、走ることをやめられないんだ。走るのをやめたら、今度こそ振り返ってしまうかもしれない。もしそうなったら、きっと抱えきれない後悔に埋もれてしまう。そう思っているのだろう」

「部長。その話は、そこまでにしてくれないか」

「……いいよ」

 ふふふ、と部長は笑った。常務はぶすくれた表情で、睨むように部長を見ている。この二人も、昔何かあったのだろう。

「結論を言おう。私は君を応援する。もう、そんなボロボロになる子をみるのは嫌だからね」

「……ありがとうございます」

「やらなかった後悔はやった後悔よりも重く、そして後悔そのものは人生における最重量の重りだ。生きる上での失敗なんて、若いうちは考えるもんじゃない。考えなくちゃいけないのは、今、そして未来で――決して後悔しない選択をする、ということだ」

「で、どうするんだい、美城常務?」

「……」

「彼には彼の戦う理由があるらしい。それを、君がどうこう言えるのかい?」

「……」

「……もう行きなさい。塩崎君。ここは、私が受け持つよ」

「……部長」

「いいんだよ。こうなった彼女は、中々腰が重たくてね」

 追い出されるように、彼に椅子から立たされ、部屋から出された。

 ぽつねんと一人、廊下に立たされる。やけに冷たい空気。静かな世界。

「……」

 言葉が出なかった。とにかくやるしかないのだろうことは、わかった。

 それしかわからなかったけれど、それだけわかっていれば十分だった。

 来たるが月末31日。その日が、俺とはぁとの最終日だった。

 いつものように控室に入ると、そこにはみんなが集まっていた。俺とはぁとよりも早く、橘さんや島村さん、ちひろさんが沈痛な面持ちで座っていた。

「……ごめん」

「塩崎さん。そういう時は、ありがとうって言ってくれればいいんですよ」

 と島村さん。やけに明るい声だが、そこに暗い何かを隠しているようには見えなかった。きっと今、彼女は本心から笑っているのだろう。

 でも、何故?

 これは、あくまでも俺とはぁとの我儘だ。嫌々ではあれど、それに従ってくれたことには感謝しているが、それが彼女の本心に繋がる意味までは、わからなかった。

「私たちは、応援しに来たんです。あなたたち二人を」

「……」

「後悔は……不思議とないんです。この部署が解体されるってことは、私が終わってしまうってこと。なのに……」

 島村さんは、至って普通の、笑顔で。

「すべてを聞いたとき、思ったんです。きっと、今こうしなかったら、未来で後悔するだろうなって。ありすちゃんが馬鹿にされたこと。塩崎さんと、はぁとさんが立ち上がったこと。ちひろさんは、すべてを見届けるつもりだったこと。全部聞いて。そのうえで思ったんです。きっと、こうしなかったら後悔する。二人の背中を捕まえるより、押した方が、ずっとすっきりできるって」

「……そうか。ありがとう」

 謝ってはならない。謝ることは、彼女の覚悟に対する侮辱だ。

「不思議な高翌揚感があります。こういうの、麻痺してるって言うんですかね。それとも……なんでしょうか。よく、わかりませんけれど」

 島村さんは、それだけ言うと、黙ってしまった。

 はぁとは黙って控室の中の個室に入り、いそいそと着替えを始めた。一人でも悠々と着られる衣装。それさえ着てしまえば、あとはメイクさんが来るのを待つだけだ。

「塩崎さん。私、実はまだ後悔してるんですよ」

 ちひろさんも、そっと口を開いた。

「マジですか?」

「ええ。あの時、前言を撤回しなければよかったなって」

「……」

「あの時、強引に迫ってればよかったなーって。今でも思います。全く、おかしな後悔ですよ。あの時言わなかったせいで、今でも言うことが出来ないんです。その言葉は」

「……そうですか。お互い、ラクではありませんねェ……」

「全くです」

「じきに時間だ。はぁとは檀上へ。といっても、おそらく相手が先にライブをすることになるだろうから、はぁとは後攻」

「おう、任せとけ☆」

 個室から出てきたはぁとは、俺の方も見ずに、ただ前だけを見ていった。

 その視線はどこを見ているのか。きっと、どこも見ていないのだろう。

 未だ見えない、何かを見ているのだ。

「……なんだか今日、やけに静かだな、と思ったんだけど。どうかした?」

「はぁとにも色々あるわけよ☆ 考えなくちゃいけないこととかーね♪」

「そっか。俺も一緒に考えてもいいかな?」

「……当たり前だろ。私たち、今までずっと二人で考えてきただろ」

「……よし、じゃあ、そろそろ行くか。何もかも、考えるのは終わってからでいい。全部終わってから、じっくり考えよう。二人なら、いずれ考えつくさ」

「つーか、今までにそれで出なかった答えがねぇよな☆ いつも、それで答えを出してきたんだからさ☆」

「……そうだね。はぁと……しゅがーはぁと」

「おう☆」

「行くぞ」

「おう、もう今のはぁとにゃあ、敵なんて見えねぇ!」

 そう言って、扉から外に出る。そこに、みんなは置いていく。彼女たちには、俺の背中しか見えないだろう。俺とはぁとの背中だけ。それに加えて、俺たちは彼女たちを見ることは出来ない。

 それで良い。それが後悔のない道だ。



「――やっぱり、あの二人には勝てませんねぇ……」

「――あの二人、馬鹿ですからね」

「私たちも、ですよね」

 ――――やがて、ライブバトルが始まった。

 俺は檀上に立ち、初めてはぁとのそばに立つことを選んだ。きっといなくてもはぁとは勝利するだろう。だけれども、それでも俺は、そこにいることを選んだ。

 なぜ今まで、直接彼女のライブを見ることはしなかったのか。その答えは単純である。

 きっと俺は、アイドルをしているはぁと見たら、満足してしまうからだ。

 ステージに立ち、大勢の前で歌って踊り、楽しそうにしているはぁとを直接見てしまったら――きっと俺は、そこで満足して、終わってしまう。だから見ることをしなかった。いつも、そんなはぁとを見ないようにして、頑張ってきた。

 けど、もういいだろう。もういいんだろう。

 これが最後だ。最後のライブ――俺が見ずに、一体だれが、彼女を見届けることが出来るというのか。

 二人のアイドルがぶつかる。

 そこに残っているのは、純粋なるチカラとチカラの勝負。

 勝負の末に残るのは、よりチカラを持った更なる強者のみ。それが世界のルールであり、今この場に残留している思念めいた法則。

 ヴォーカルのチカラ。ダンスのチカラ。ヴィジュアルのチカラ。その総合値。それらすべてを統合した値に――更に努力や展望、流した汗の量、失った血の数、ちぎれた筋繊維の数を加える。決して目には見えない、隠された過去。

 だが俺は――俺たちは、それを知っている。

 この世界は――チカラのみが、全てを肯定する。

 肯定されたチカラのみが、その世界を支配する。

 勝者――佐藤心……否。

 勝者、しゅがーはぁと。

 勝ったのは、はぁとだった。

「やったな、はぁと!」

「あったりまえだろ、塩崎!」

「お前は最高だよ! 最高のアイドルだ……はぁと、こんなに綺麗になってたんだな、ライブで……お前は立派なアイドルだったんだ……」

「お、おい塩崎……」

 思わず、涙が零れていた。それほどまでに、はぁとのライブは完璧だった。

 元から彼女は歌が上手だったわけではない。ダンスもそこまで上手くなかった。

 だが、鍛え上げたのだ。練習し、特訓し、努力し、今の彼女がある。そこに、あった。壇上で歌って踊るしゅがーはぁとは、間違いなくアイドルだったのだ。

「……あんたたち」

 そこに、七見椒子がやってきた。

「何の真似? 私を嘲笑いに来て、何の真似? 私を馬鹿にしたかったの?」

 その声は、少しだけ震えていた。

「そうだよ」

 はぁとが答える。

「お前を完膚なきまでに徹底的に叩きのめして、ぶっ倒して、馬鹿にするつもりだったんだよ。それだけだ」

「はぁ……馬鹿じゃないの?」

「ああそうさ、大馬鹿者さ!」

「橘さんを……仲間を馬鹿にされて、黙っていられるほど馬鹿じゃないんだよ、俺たちはな」

「それに……はぁとは、あの時オーディションで言われた言葉を忘れたわけじゃないからな」

「オーディション……っ」

 言葉を詰まらせ、呑み込む。その行為は、まるで後悔している姿を、そのままに映しだしたようにも見えた。

「オーディションよ! あの時から、すべてが狂ったの! こんなボロ事務所に引き取られて……使えもしないアイドル未満と肩を並べる? この私が? 全部全部……っ、あんたたちのせいよ!」

「知らねぇよ。別にお前の境遇にどうとか、説教かますつもりはねぇの。落ちるなら勝手に一人で転がり落ちてろ」

「なん……っ! 私のことも知らないで!!!」

「繰り返すが、知らねぇよ。知る気もねぇし、お前も知らせる気はないんだろ? だったら、別にいいだろ。お前の事務所のやつらなら、悲劇のヒロイン気取ったお前を手厚くもてなしてくれるはずだぞ」

「……っ!」

「なんだか勿体ないことしたな。こんなやつを倒すために努力してたなんて」

「こ、こんなやつですって……!?」

「こんなやつだろう? だってお前、あれだけボロクソに言った相手に負けたんだぜ? 点数差、見た? アレが、今の私と……はぁとと、はぁとたちとお前の差だよ」

「差……そんなもの! 私の方が――」

「凄くないよ」

「……っ」

「君は凄くない。それが現実だ」

 確かに彼女は天性のものを持っていたのだろう。

 ただ、それに胡坐をかいた。その選択をした。傲慢で高慢で、あくまでも上に立つ者という自尊心を持った。それが、純粋な敗北と衰退の理由である。

 そう考えれば、なるほどどこの事務所も彼女を取らなかったことも、落ち目の事務所に転がり込んだことも納得がいくだろう。

「行こう、はぁと。風邪をひいてしまうからね」

 控室に戻ると、みんなが笑顔で出迎えてくれた。

 ただし、橘さんだけが、一人困った顔をしていた。

「おーす、ただいまありすちゃん☆」

「た、橘です……」

「はいはい」

「流石はぁとさん! 素晴らしいライブでしたよ!」

「おーう、ありがとな卯月ちゃん!」

「塩川さん、全部聞こえてましたよ」

「……マジですか?」

「ええ。だってあの廊下、声が響くんですよね?」

「……」

「ってことはですよ、塩崎さん。あなたは、私と佐藤さんの会話を、あの時聞いていましたね?」

「……」

「私の言葉は、全部聞こえていたんですよね。だから、あんなことを言ったのでしょう? ふふ……文通だなんて。あなたは手紙を書くような人では、ないでしょう?」

「流石ちひろさん。まさかそんな……このタイミングで言われるとは」

「いえ、いいんです。もう、諦めはついていましたし……それに、後悔することは多くても、私はあの告白自体をなかったことにしたいとは、思えないんです。きっと、何回やり直しても、また同じことをするんです。あなたたちみたいにね」

「……ありがとうございます、ちひろさん」

「こちらこそ。あなたの背中は、見ていてとても心地よいものでした。好きにさせてくれて、ありがとうございます」

「好きになってくれて、ありがとうございました」

「……ました、か」

「プロデューサー、さん」

「なんぞ」

「プロデューサーさんは、馬鹿です」

「うん」

「はぁとさんも、馬鹿です」

「うん」

「もう知りません」

「うん、ごめん……」

「けど」

「……」

「ありがとうございました」

「……うん」

 はぁとの着替えが終わると、自然と解散の流れになった。今日はもう仕事も残っていないので、俺とちひろさんも一緒に、五人で会社を後にした。

 駅に行く途中で島村さんと別れた。

 駅で橘さんを親御さんに送り届けた。

 駅のホームで、ちひろさんと別れた。

 そして、電車の乗り換えで、はぁとと別れた。

 それから一人家に帰って久しぶりにお風呂に入って、ビールを飲んだ。適当なものをつまみながら、俺は一人、テレビを見ていた。

  見る番組があらかた終わるまで、部屋の中でじっとしていた。とっくに、ビールは空になっている。つまみも消えていた。

「……寝るか」

 高翌揚感は、次第に薄れていった。同時に意識も少しずつ消えてしまい、気が付いたころには、眠ってしまっていた。

 翌朝、いつもと同じ時間に起きた。

 日付は変わっていて、月も替わっていた。今日は土曜日らしい。

 今日は一日だ。月の始まり、終わった後の新しい日付け。

 会社に向かう途中、乗り換えではぁとと会った。

 別れる理由もなし、二人で隣り合って、電車に座っていた。

 駅につくと、ばったりちひろさんに会った。土曜日だというのに、大層なことである。もしかしたら、仕事が恋人なのかもしれない。

 駅から出ると、橘さんがいた。親御さんが送ってきたばかりだったようだ。俺は少し彼女の親に挨拶すると、橘さんを連れて歩き出した。

 歩いていると、島村さんに出会った。彼女も、会社に向かう途中だったらしい。やはり別れる理由もなく、彼女を連れて歩いた。

 事務所に入ると、慣れた空気が出迎えてくれた。昨日のままの雰囲気で、昨日のままの配置。椅子や机は昨日のままだし、綺麗に整頓された流し台も昨日のままだ。

「塩崎プロデューサー。いるかね?」

 そんな中、静寂を切り裂くように、彼の声がした。

「え、今西部長? おはようございます」

「おはよう。うんうん、君のことだし、きっと出勤してくると思っていたよ」

 頷きながら、彼はいつもの笑顔で部屋に入ってきた。

「悪いニュースと良いニュース、どっちが聞きたい?」

「両方聞かせてください」

「……私の口は一つだからね。どっちかで頼むよ」

「なら、悪い方から聞かせろよ☆」

 ずい、とはぁとが割り込んできた。若干目上の人に対することもあり、ヒヤッとしたが今西部長は笑って流してくれた。

「悪いニュースはね、この部署の解体が決まったことだよ」

「……で、良いニュースってのは?」

「部署の再編成。いったん解体して、もう一度組みなおすつもりなんだよ、常務はね」

「……え」

「それは本当ですか!?」

「うん。本当だよ」

 その言葉は、天恵のように思えた。すっかり沈み切った俺たちを引き上げるように、その声は部屋に響いた。

「ちょっと俺、常務に会ってきます!」

「あっおい塩崎、はぁとも行くゾ☆」

 それだけ言って、二人で部屋を出た。

「常務!!!!」

 ばぁん、と扉を開けた。

「静かに入れ」

「あっすいません」

 閉めた。

 もう一度開けた。

「失礼します」

「うむ」

「ありがとうございます!」

 頭を下げた。

「礼を言われるようなことをした覚えはない。私は約束を守った。君たちが約束を果たせなかったからな。そのあとは、お互いに何をしようと自由なはずだ」

「常務……」

「ただし、ブランド化については進めさせてもらう。あの革新はわが社にとっても必要なことだ。ただ……君の意見も、否定してはならなかったというわけだ」

 常務は少しだけ嫌そうに、そう言った。

「すぐに部署の再編成を行う。その際、君には今以上に過酷な仕事を与えることになる。その……しゅがーはぁとにもだ。やれるか?」

「だってさ、はぁと」

「はぁ、普通今はぁとに振る?」

「一応確認だよ。で、出来る? やれる?」

「はー、塩崎お前。まさかそんなこと聞かれるとは思わなかったゾ☆」

「……」

「やるに決まってんだろ☆ なんたってまだ、世界征服は果たせてないからな☆」

終わりです。ありがとうございました

今気づきましたけどこれRの方っぽいですね。ごめんなさい、間違えてました

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