【モバマス】クラリス「魔女・セイラム」 (73)
オリジナル設定のもと、ネームドのオリジナルキャラが登場します。
ご注意いただければ幸いです。
SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1531557609
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??懺悔を。
??天にまします主よ。
??私は、たった一度だけ、貴方を疑ったことがあります。
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私には姉がいました。
その洗礼名をセイラムといいます。
実姉ではなく、ただ先達としての存在であったことから、私が姉と思い慕っていた方です。彼女もまた私のことを、実の妹のように可愛がってくれていました。
セイラムは剛健なひとでした。庭仕事の際、清掃の際、たびたび修道服の袖をまくりあげていた姿を、よく覚えています。行儀が悪いと司祭様から叱られていた様子も、また同じく。
セイラムはオルガンの演奏に優れていました。彼女の気立てがよく表れた明朗な音色に沿って、聖歌をうたった日もあります。
セイラムは料理が得意でした。小斎のときなども、制限された食事さえ、彼女の作るものならば苦ではなくなりました。
少女だったころの私を思い返すと、ほとんど決まってと言っていいほど、セイラムと共に在った日の記憶が掬われます。それくらい、私は彼女の後をついて回っていたのでしょう。
セイラム。貴女の背中を追った私の日々は、幸せでした。私と過ごした貴女の日々は、幸せだったでしょうか。もう確かめるのは難しくなってしまいました。
朝の日差しや、夕の淡い月影にさえ、貴女の不在を強く感じます。
それでも、いままで私に添っていただいた事実はこの胸の底で鮮やかさを保ったまま。
貴女にいただいたものすべてが、この胸で輝いているようです。
私はクラリス。
いまだ未熟な身で、きっと誓願を経てもなお、セイラム、貴女のように強く在ることは到底できないのでしょう。
けれど、貴女が生きたこの場所を、貴女と同じく愛していたいと、心からそう願っています。
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「こら、セイラム!」
神父様の厳格な声色に、私の名が呼ばれたわけではないのに、私の肩が跳ねました。教会の廊下を先行くセイラムは足を止め、「はい?」と高く抜けたような声を返します。
「なんでしょう?」
目の前で黒く長い髪がスイングしました。首だけで振り向き、彼女はぞんざいに訊ねます。ここの最高責任者である司祭にこのような対応ができたのは、誰に対しても豪胆さを発揮できる特質を持つ彼女くらいのものでした。
「腕まくりをしてはいけないと、お前はいったい何度言えば……」
「ああ、はい。いや、そうはいいますけど神父様」
私とは違い、セイラム自身は神父様の注意などどこ吹く風かと、悪びれる様子もなくまくりあげた袖をつまみました。
「掃除なんてするときに長袖だとですね、擦ったりなんだりで超汚れるんですよ。ねえ?」
「はいっ?」
流れ弾は不意に来るものです。話を振られた焦りに妙な声を出してしまいましたが、私は借り物の修道服をきちんと着込んでいました。
「シスター・セイラム。私は着崩していません」
「うん。だからほら」
セイラムは私の手を取り掲げました。黒かった袖口にはホコリがこすれ、灰をかぶったような色になっています。
「すごい汚れてるでしょ。これじゃ生地がすぐダメになる。清貧なあたしたちが服、頻繁に買い替えちゃ問題じゃないですか?」
「買い替えなければいいだろう」
「ボロ着てろって言うんですか」
「そうじゃない。修繕すればいい、という話だ」
あくまで毅然とした神父様に、セイラムはひょいと顔を背けました。
「……アッタマ硬ぁーい……」
「聞こえてるぞセイラム!」
怒髪天を衝く。というと大げさになりますが、こぼれ落ちた彼女の本音に神父様のボルテージはひとつ上がったようです。
軽やかな笑い声を残して、セイラムは駆け出しました。廊下を走るのもまた聖職らしさに欠ける行為で、神父様は眉間のシワに中指を添えてため息をひとつ。
「……セイラムのことは、見習わないように」
私にそう言う彼を見るのは、何度めだったでしょう。私は苦笑だけでこたえました。
ご不興を買ってしまわないよう音を潜めた徒歩で廊下を渡り、表戸を開けて外庭に出ると、窓拭きのためにバケツと雑巾を準備したセイラムがいました。
「あ、来た来た」
「申し訳ありません。お待たせいたしました」
「先輩を待たせるなんて、いい度胸してるじゃない。走って来なきゃでしょ?」
「私まで叱られてしまいます」
袖をまくりあげたままのセイラムが、力強く雑巾の水を切りました。隣で同じようにすると、濡れ手に吹く北風が痺れるような刺激を連れて来ます。
青い空は冷たく遠く。秋は過ぎ、本格化する冬の凍てつきは日向にも霜を降りさせていました。
「頭でっかちなんだって、あのひとは。ここで仕えるなら覚悟しときなね?」
彼女の言い草はひどいものでしたが、その口調の中にはおどけたような優しさがありました。
「もう、すっかり。覚悟はできてしまいましたよ」
そう返すと、「それは重畳だ」とセイラムは肩をすくめました。
私は日本の兵庫にある活動修道会で、修道女としての日々を過ごしていました。
そう大きくはない教会が拠点でした。規模もそれに準じます。神父様に、シスター・セイラムを含めて修道女が三人と、聖歌隊の子供たちがいくらか。そこに私を加えた二十にも満たない頭数のコミュニティ。
正規の誓願を受け入れてもらえる――つまり正式に修道女となれるのは十八歳からと教会法で定められているため、当時その要件を満たせていなかった私の身分には、いまだ括弧書きで見習いという文言が付いていました。
共同生活と規律に整頓された日常はやや窮屈ではありましたが、決して不満の鬱積するようなものではなく、慎ましやかだとしても、それを厭う気持ちはカケラさえもありはしませんでした。
もともと聖歌隊にいた私は、ほとんど自然な流れのように修道に身を寄せました。主よりたまわった生をひとのために使えるなら、それはなんと幸せなことか。セイラムをはじめとした修道女のみなさんと接するうち、私はいつしかそう考えるようになっていたのです。
「よし。こんなものでしょ」
手にしていた雑巾をバケツに放り込んで、セイラムが言いました。隣の掃き出し窓を同じように拭いていた私は、まだ半分ほどが終わったところです。
私は彼女が担当した窓の、桟のあたりを指さしました。
「ちゃんと隅まで拭いてください」
「ええ? 姑みたいなこと言わないでよ」
「きちんとしませんか」
寒空の下でしたので、口を尖らせる彼女の気持ちはよくわかりました。とはいえ場合が場合です。
「明日は、聖誕祭なんですから」
「……はぁい」
渋めの返事とともに、セイラムはふたたび雑巾に手を伸ばしました。――表情はやはり、依然嫌そうなままでしたけれど。
明けた朝には、早くから近隣に住む子供達が教会の外庭に集まっていました。
私達は規模が規模ですので、そう大きな催しものができるわけではありません。それでも多くの参加者に集まっていただけるのは、ひとえにこの修道会が積んできた篤実さがゆえなのでしょう。
「はーい! プレゼントが欲しい子はこっち集まってね!」
平常とは違ってひとり赤いコスチュームを着込んだセイラムの号令に、子供達が誘われています。準備にはあまり乗り気でなかった割に、彼女が誰より楽しんでいるご様子。隣にいた神父様がため息を吐きました。
「……聖ニコラウス。どうぞお許しを」
「注意はされないのですね」
「ああ。それは」
私が訊ねると、神父様は不本意そうにしながらも頷きました。彼の視線の先には幸せそうな賑やかさがあり、それは私の目にもよく見えています。
「……子供達が喜んでいるしな。それに、こういう時に口を酸っぱくするのは、さすがに無粋が過ぎるだろう?」
――あはは! はーい、大事に食べてね。あたしたちが丹精込めて作ったクッキーなんだから!
童話上のサンタクロースさながらに大きな袋から小包を取り出し、セイラムは子供達に配っています。はじめはひとつひとつ手渡していましたが、おそらく面倒になったのでしょう。まるで絵本の描写をなぞるように、途中からの小包は宙を舞って子供達の元へ届けられました。要するに、セイラムは次第に投げ渡すようになっており。
「――まあ、あとで思い切り怒るよ」
その神父様の言い切りは断定でした。とはいえ、これは仕方がないことでしょう。私は心中でのみ彼女の無事を祈り、催しの運営としての役割を全うするため、教会の中へ入りました。
祭壇の横に安置されたオルガンは昨日のうちに調律を終えて、出番をいまかと待っていました。私はその上に開いてあった楽譜に目を滑らせます。
私は聖歌隊とともに、キャロルを披露することになっていました。
聖堂内にはちらほらと人影が見えていました。そのうちのひとり、ある馴染みの婦人からは、「歌、楽しみにしてるからね」というお声をいただきました。
「はい。精一杯、努めさせていただきます」
「頑張ってねえ。今年もセイラムちゃんが演奏?」
ええ、それはもちろん、と首肯を返そうとしたのですが、「あのねおばちゃん」とサンタクロース衣装のセイラムが割り込んできました。あらかたを配り終えたようで、彼女の抱える袋は張りを失ってしぼんでいます。
「いいかげんちゃんづけやめてよ。あたし成人過ぎて何年経ってると思ってるの」
「あら? ええと……五年くらいかしら」
「そうだよ。もういい大人なんだってば」
「あらあら。でも、わたしにとってはいつまでもセイラムちゃんだわぁ」
ふふふ、と上品そうに微笑まれると、もう返す言葉もなくなったようでした。
婦人が離れていくと、セイラムは脱力するままオルガン前の椅子に腰掛けます。
「……参るなあ、もう。いつまでも子ども扱いなんだから」
「ふふ。そんなにお嫌ですか?」
「嫌でしょお。むず痒いったら」
セイラムは私よりも時期早く、かつ年若くしてこの教会に身を委ねるようになったと聞いています。
先ほどの婦人は、そのセイラムの訪れよりもさらに以前からここに通い続ける熱心な方でした。この場所におけるセイラムの軌跡をすべて知っているひとりなのです。
「昔から変わっていない。という意味で、喜ばしいことなのでは?」
「悪いようにも取れるよ」
「そんな嫌味を言う方ではないでしょう」
訊ねるというよりは、確かめるように私は言いました。セイラムは「ま、そうなんだけど」と呟いて、座ったままオルガンに向き直ります。
おもむろに、鍵盤とスウェルペダルの上で、白い指と、黒い靴は踊るように。
音の箱にたくわえられた風は互いに混じり、溶け合って成長を経て、木管から華やかに旅立ってゆきます。聖堂の中、鮮やかに明るい音色が響きました。
賛美歌第二編129番――ひいらぎかざろう。
オルガンに置かれていた楽譜の、今日に披露を予定していたものではありません。弾くのはご無沙汰なはずですが、軽快な旋律はその空白を感じさせませんでした。
そばにただ佇む私に、セイラムは目配せをしました。
――ほら、うたえるでしょ?
言外の意味は容易に伝わります。私は少しだけためらったものの、ついには彼女の行動に添いました。
音楽はひとを呼ぶものです。聖堂内に少しだけあった人影は、次第にその濃度を高めていきました。外にいた子どもたちや、その保護者の方々も続々と集まってきます。
第二編129番はどこかマドリガルの要素が感じられる、短い歌です。
ループする演奏が二度目の周期に入り、最後の囃子詞にさしかかったあたりで慌てた顔の神父様が聖堂に入ってきました。後ろからは聖歌隊の子どもたちが続きます。
彼らは、どうやら予定のキャロルが知らず始まったと勘違いしたようでした。
神父様の眉間にシワが寄り、私は素直に謝ったものの、セイラムは謝りつつも開き直って、聖歌隊と一般信徒たちがそのやりとりに笑いました。
やがて、あらかじめ組まれていたプログラムがセイラムに流されるように始まりました。
その場に居合わせなかったひとからは、もしかすると、やや粗放な進行に思われるのかもしれません。けれど、賑やかなあたたかみが確かにそこにはあったのでした。
その日の夜は、ごくささやかな慰労会が開かれました。
私たち修道会の今年の大きな活動も、この日が最後。教派によっては飲酒を固く禁ずるところもありますが、私たちはその限りではありません。軽度にアルコールの入った会は、ゆるやかに盛り上がりを得たあとに、なだらかに落ち着きました。
年齢の問題によってお酒を飲めなかった私は、食事を済ませたあとの時間を持て余していました。当てどのない足任せに運ばれていると、いつのまにか外庭の冷え切った大気に含まれていたことに気づきます。
私は外庭が好きでした。特段なにかがあるわけでもなく、ほんのわずかな植え込みが、かろうじて遊歩に楽しむ余地を残しているだけのような空間。
なにかを好きになるときというのは、往々にして理由があるものです。汝の隣人を無償に愛せと、その教えを忠実に守られる聖哲がまれであることからもわかるように。
特別さの見えないこの庭に、好ましく思う理由を見出すのは難しいことでしょう。それでも。
私は、ここが好きなのでした。
不意に、うしろから名を呼ばれて、振り向くと片手にグラスを持ったセイラムが立っていました。色白な肌には少し酒気を帯びて、ほの赤く染みた頬が艶やかでした。
「なにやってるの、こんなところで」と彼女は言いました。
「そちらこそ」
「あたしはちょっと。からだ火照ってきちゃって」
「私も、似たようなものです」
「お酒も飲んでないのに?」
「暖気にあてられたのかもしれませんね」
私の隣に並んで、彼女はふと微笑みます。解放感や高揚感からか、いつもよりたわんだ笑顔でした。
「もう今年も終わりだね」
「そうですね。早いもので」
「そういえば、いくつになったんだった?」
「私は今年で十七に」
「あら、もうそんなに。じゃあ来夏なんだ」
セイラムは古い日を懐かしむような口ぶりで言いました。
「――誓願。するの?」
「はい。もちろん」
「そっか」
問いに返す言葉には、ためらいのかけらもなく。
清貧・貞淑・従順の誓いを正式に立てる日。私の立場から、括弧書きの見習いが取れる日は、もうそう遠くはありませんでした。
私はもう十年近く、この教会と共に在ります。思い返せば長い道のりだったような、あっという間だったような。
その日を境に、はたして何かが変わるのでしょうか。
訊ねてみると、セイラムは曖昧に笑いました。
「ま、それはともかく」
彼女は手のグラスをひと息に干します。眼差しに、ふと哀愁めいた何かがよぎった気がしました。
「一緒に守っていこうね。この居場所を」
私は、はい、とこたえました。
少しだけ――本当に、少しだけ。このとき、違和を感じたように思います。
セイラムの態度に、その口ぶりに。それらは、彼女の本質との整合性にわずかばかりの不和を下ろしました。
しかし、ごくかすかな違和感は、時間と共に埋もれていくものです。手に刺さった、尖った微細な木片さえ、日ごと存在を忘れていくのとちょうど同じように。
小さな小さな棘。普段は気づかぬうち、自然に抜け落ちてしまっているような。けれど、深く深くに潜り込んだ夾雑物は、いつしか化膿し、消えない痛みを残すこともあるのです。
年は暮れるや明け、「行く」「逃げる」「去る」と言い表される年初の三ヶ月は慌ただしくも過ぎ去りました。
変わらないと思っていました。些細なことは日々変わりゆけども、大いなる根幹は小揺るぎもしないと。
そんな甘やかな希望に充たされた私の考えは、表出した違和の痛みによって一変してしまいました。
春先、まだ桜の咲く少し前のことです。
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私がそれを知ったのは、ほんの偶然でした。
午前の日曜礼拝を終えたのち、私は神父様を探していました。午後の礼拝に私が出席する必要があるかどうかを訊ねるためです。
聖堂内には姿が見えず、教会二階にある神父様の私室の扉を叩いても返事はなく、外庭を見下ろしても白い祭服は立っていません。
ふたたび一階に降りて、何とはなしに、裏口の方へ足を寄せました。
すると声が耳に届きます。セイラムの、珍しくも沈んだような声色でした。
「……参りましたね」
「……参ったな」続いて、神父様の低い声が聞こえました。
目的のひとは見つかった。
と、そこまではよかったのですが、その彼と、彼女の雰囲気は控えめに言ってもよろしくありませんでした。すぐに出て行くことはできず、意図の外側で私は息を潜めていました。
盗み聞きをするつもりはなかったと、その「つもり」はほとんど言い訳のようなものです。
「支払いはいつだったか」と神父様が訊ねました。
「一週間後ですね」とセイラムがこたえます。
何の話をしているのか、掴むのにやや時間がかかりました。
「足りるか?」
「厳しいです。今月をしのげても、来月のシワ寄せがどうにも」
「そうか。そうだよな」
神父様の声に滲む深刻さが、ひときわ濃度を増しました。
「……無駄な支出は?」
「ないですよ」即答でした。「失礼ですね。これ以上削ると生活面で無理が出ますって」
「いや、すまない。愚問だった。となると……」
「まあ、収入を増やすしかないですよね」
暗い気持ちの滲んだため息がふたつ、落ちました。
神父様とセイラムの普段の関係性を、私はまるであるカートゥーン・アニメに登場するネコとネズミのようだと、軽妙で調子の良いものだと考えていました。
けれど、そのときのふたりに横たわる空気はあまりにも重々しく、強張り、異常を響かせていたのです。
もう出会ってからずいぶん長いというのに、いまのいままで私が知らなかったふたりの顔。拍動する戸惑いと、静かに覚醒する恐怖に近い感情がありました。
私はそこにいるふたりに向けて足を踏み出すことができず、かといってその場を去ることもできず、ただ立ち尽くしてしまいました。
背筋に走る冷や汗に凍てついたような私とは違い、彼らは話を済ませば動き出します。教会に戻ろうとする彼らと、教会から出ようとしていた私と、鉢合わせるのは至極当然のことだったでしょう。
息詰まったような声が、セイラムののどから漏れました。
「お前、いつから」と言ったのは神父様です。
「……つい、さきほど。あの」
いったい何の話をと、形の上だけでも、私は訊ねようとしました。しかし、私の頭にそっと添えられたセイラムの手に言葉を遮られ、おそるおそる彼女の様子を伺うと、その顔が苦く笑っていました。
短い呼吸のあと、彼女は「ごめんね」と言いました。それだけですべてを察せたような気持ちになりました。
「隠してて、ごめん。あとでちゃんと説明するから、夜までは待ってくれる?」
「セイラム!」
「仕方ないでしょう。もうある程度察されてますって。それに」
いさめようとした神父様をいなして、彼女は私の髪を撫でました。
「――どのみち、じきに打ち明ける予定だったじゃないですか。ちょっとばかり早いか遅いかの違いですよ」
私は午後の礼拝に参加する必要がなく、私室で気もそぞろに日暮れを待ちました。木造りの寝台に腰掛け、何を見るわけでもなく何かを見ているうち、虹彩が闇の訪れに反応を始めます。電灯をつけることさえ忘れていました。
少しののち、ノック音が響いて、扉の奥からオレンジ色の明かりが差し込んできました。
「……電気くらい点けようよ」
入ってきた影は、昼間と同じ苦笑を顔に貼り付けたままのセイラムでした。
「ごめんね、お待たせ」
「いえ。お疲れ様でした」
「あはは、ありがと。じゃあ、――聞いてもらおうかな。さっそくだけど」
簡明、直裁な、向日性を持ったような性格の彼女です。私のとなりに腰を下ろすと、前置きもそれなりに、本題の端緒は速やかに手繰られました。
「実はね。ここ、結構前から資金繰りに困ってるんだよ。ちょっと……っていうか、だいぶ?」
話はごく単純なものでした。
もともと、規模の小さなこの教会の運営は余裕のあるものではなかったそうです。
加えて、決して楽であるとはいえない昨今の経済状況下、および高齢化の進む社会状況下、信徒たちからいただける献金の額は減衰の一途をたどっているのだと、セイラムは言いました。
活動の費用とて抑制に努めてはいるものの、下降線は前者がより急な傾斜を持ち、結局のところ追いついていない。つまりは財務上の赤字で、そう大きな額ではないまでも、借金もあると明かされました。
そういえばと、去年のクリスマスを思い返しました。子供たちに配ったのは手製のプレーン・クッキー。二年前は――どうだったでしょうか。たしか、覚えている限りでも、もう少し何か。
「本当はね」
思索に沈みかかった私を、セイラムの申し訳なさそうな声が呼び戻します。
「貴女が十八になったら……正規に誓願を立てて、正式にシスターになる段が来たら。そこでちゃんと話すつもりだったんだ。どうしたって愉快な話じゃないから。こう言っちゃうと気を悪くするかもしれないけど、貴女はまだ、やっぱり子供だったから」
不安を持たせるのは気が引けた。その荷の後ろめたさを見習いの若い身に背負わせてはならないと、その思いは、神父様と三名の修道女たちの総意であったそうです。
「あわよくば、貴女が十八になる前に、知られる前になんとかできたらよかったんだけどね」
「……そうだったんですか」
「うん。ごめんね」
ひとりのけ者にされていたという、そのことへの憤りは、ありませんでした。
秘密を隠したまま私を迎え入れ、重荷を共有させようとしていたのではないか。そんな疑いも持ちませんでした。
セイラムは言いました。シスターになったら、ではなく、私が「正式にシスターになる段が来たら」と。つまり、私が誓願を立てる前には、この事実を告げるつもりだったのでしょう。きっと、嫌ならば去って構わないと退路を残す算段で。
両の眼から一筋ずつだけ、涙が流れる感覚がありました。
「えっ。ちょ、ちょっと?」
慌てた声が聞こえて、私も慌てて目尻をぬぐいました。
「すみませんっ」
「いや、ええと……大丈夫? もし、もうこんなところ嫌だ、ってことだったら」
その先の言葉は、必要ありませんでした。まったくの誤解でしたから、私は首を左右に振って否定の意思を示します。
「大丈夫です」
「……本当に?」
「大丈夫です。本当に」
嫌なわけがありませんでした。いかなる苦難を抱えていようとも、この溢れそうな優しさに包まれる空間に嫌気が差すなど、私には考えてみることさえできません。
なお慮るように顔を覗き込むセイラムに、私は努めて笑みを向けました。
「あの日。去年の聖誕祭に。言ったでしょう」
「……聖誕祭?」
「この居場所を一緒に守ろうと、貴女が。私は、はいとこたえたじゃないですか」
セイラムは頭を抱えました。
「うわあたしそんなこと言った?」
「お、覚えていないのですかっ?」
「いやごめん! あのときはほらお酒入ってて」
私は、今日に知った事実を今日まで少しも悟ることができませんでした。それほど徹底して、彼女らは私に秘密が伝わらないよう努めていたのです。あの日違和感を生んだ台詞は、アルコールによって生まれたほんのわずかな隙だったのでしょう。
たとえそれが、酔いに任せて出た言葉だったのだとしても。セイラムがどういうつもりだったのかはわからなくとも。
「それでも、私のこたえはやはり変わりません」
「……そっか」
セイラムは、やっと笑いました。
心憂うような苦いものではなく、柔らかな抒情を感じる笑顔でした。
私が神父様に意思を伝えると、彼はきわめてかしこまったふうに、「あらためてよろしくお願いするよ」とおっしゃいました。ほかのシスターたちも、私の選択を喜んでくれました。
心新たに、人心のためにさらに努めよう。私はそのように考えるようになりました。
――とはいったものの、私の生活が劇的に変わることはありませんでした。
収入を増やす以外に現状を打開するすべはない。そうだとすれば、聖職のほかに副業を求めるのが自然な流れです。
神父様は冠婚葬祭の式典などに出向いて収入を補っておられましたが、教会の運営のためには彼の存在は必須で、あまり留守にすることは許されません。
比較的自由が利いたのは私を含むシスターたちでした。
私への秘密がなくなった以上、潜めて行動する必要もありません。セイラムたちはそれぞれ副業への出勤を隠すことなく教会に出入りするようになりました。私に知らせていなかっただけで、彼女たちは以前からパート・タイムで働いていたそうです。
私も倣わなくてはと、そう考えました。
しかし、私が昼の休憩に求人のフリーペーパーをめくっていると、セイラムが有無を言ういとまもなくそれを取り上げたのです。
「貴女が働きに出る必要はないからね?」
彼女にはそう言い含められました。
私の年齢では労働に制限がかかることはわかっていましたが、それでも多少の力にはなれるはずです。
納得がいかず、食い下がると、彼女はぴしゃりと言い切りました。
「二十歳になるまではダメ。まだシスターとして未熟な貴女には修道に専念してもらいたいから」
「で、ですが……」
「ごめん、わかって。未成年の子をよそで働かせて運営を保つなんて格好悪いこと、あたしたちにさせないで。お願い」
私は返答に窮しました。その言い方はせめてもの反駁を、あまりにも無慈悲に封殺していました。
私の顔を見て、セイラムの眉尻が下がります。
「こんな言い分を聞き容れてくれて、ありがとうね」
「……ずるいですわ」
恨みがましくそう言うと、彼女は目を伏せて、私の髪を硝子細工を扱うような丁寧な手つきで撫でるのでした。
しばらくして手を離すと、セイラムは快活な笑顔を戻して言いました。
「まあまあ、たぶん大丈夫だから。あたしも払い良いところ見つけるし、ほかのみんなも、ね」
「無理だけは、なさらないでくださいね」
「任せといて」
力強いサムズアップに、救われた気がしました。
できることは限られました。ならば、限られた中で力を尽くすしかありません。私は、食事や清掃の当番を含め、教会の活動における役割を可能な範囲で最大限に請け負いました。
雇用に身を置くことはできないにしても、できることには励もう。直接の貢献はできずとも、間接的に支えることはできました。こういった分担までもを、あるいはセイラムたちは考えていたのかもしれません。
共同生活において、私はセイラムと同室でした。
彼女はほとんど毎日のように、日が暮れてから仕事に出かけていくようになりました。
「夜の方がお給料良くってね。こっちのこと、ちょっとだけおろそかになっちゃうんだけど」
ひどく肩身の狭そうにそう言っていましたが、ほかのシスターたちも神父様も、もちろん私も、そんな彼女を責めることはしませんでした。私などはむしろ、教会を想うからこそ外で尽力する彼女を、誇りに思うことさえありました。
「それにしても、眠いなあ……ね、今日の合わせ、CD使ってくれない?」
これは、聖歌隊との練習が午後にあった日のことです。冗談めかして言う彼女に、同じような調子でこたえました。
「心苦しいのですが、ダメです」
「あ、そうだ。貴女が自分で弾くのはどう?」
「私はまだまだ、ひとに聴かせられるような腕前ではありませんから」
「ちぇー」
実際のところ彼女の働きは相当なもので、もたらす黄白は神父様にも引けを取っていなかったそうです。
状況は好転しました。それはつまり私への気遣いが教会の枷になってしまっていたということで、多少の複雑さは心中ただよっていましたが、たしかに喜ばしいことだったはずでした。
一旦の落ち着きを得られました。以前よりは慌ただしくも、無事に過ぎゆく日常に、私はただ安堵していたのです。
――その時間が、このあとにやってくる、嵐の前の平穏であったことを知らずに。
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教会近くのバラ園で、昨日に最後の一輪が落ちたと聞きました。夏の初めのことでした。
「セイラムっ!!」
その日、私は怒声に目を覚ましました。神父様の声は、いつよりも大きかったように思います。
壁掛けの時計を見上げると、まだ朝の四時を回ったところでした。濃やかな性格の神父様が、みなの起床を待たずして声を荒げるなど平時ならありえないことです。
明らかな異常でした。だというのに、半醒半睡の中に彷徨っていた私は、仕事から帰ってきたセイラムが冷蔵庫の中を漁りでもしたのだろうと、暢気にもそんなあたりをつけて、自ら覚えた喉の渇きを満たすためだけに食堂へと向かいました。
扉を開けてすぐ、神父様とセイラムが食卓に向かい合って座っていることに気付きました。
何があったんですか――? 軽い気持ちでそう訊ねようとして、ふたりの顔にやっと目を惹かれ、半ばの眠気はひと息に消えて失くなりました。
悲痛と、虚無。
ふたりの顔は、それ以外の形容が見つからないほどに、まさしくそれそのものでした。
感情を全き零に失ったようなセイラムが、私に視線を向けました。初めて見る彼女の表情を、怖いとさえ思ってしまいました。
「ごめん」言葉は短く、独り言を呟くように。「いまは出てて。部屋戻って」
そして、ひたすらに痛そうな表情の神父様が言葉を重ねます。いまにも泣き出しそうな声が、私の胸を強く強く締め付けました。
「……大声を出した。起こしてすまない。すまないついでに、頼む。ほかのみんなが来てしまわないように、人払いを」
私はもう、頷いて、言いつけられた通りにすることしかできませんでした。
私は聖堂に身を移して、あとのふたりのシスターと、しめやかに時間の過ぎるのを待っていました。
やがていつもの起床時刻を過ぎ、定めている朝食の時間を過ぎても、セイラムたちは食堂から出て来ませんでした。
もうしばらくが経つと、仕事があるからと、一緒に待っていたおふたりが聖堂から出て行きました。
ひとり残された私は、ほとんど無意識のうちに、胸の前で手を組んでいました。
何が起きているのか、何か悪いことが起こっているということしか、私にはわかりません。
どうか、と祈りを捧げようにも、何をどう祈れば良いのかが定かでない。
それでも、どうか……万事が、よろしきを得られますように。
静かな聖堂を、祈りで充たそうとしました。
咆哮のようなセイラムの声が、静寂を破りました。
「ふざっけんなッ!!」
次いで、激しく扉を開け放した音。待ちなさい、という神父様の叫びも届きます。
私は弾かれたように立ち上がって、食堂の方へ駆け出しました。
途上の廊下の角で、セイラムとぶつかりました。私は彼女の勢いに負け、尻もちをついてしまいます。彼女は私を見下ろし、少しだけ迷うような時間を持ったあと、目を逸らして、また強い足取りで床を蹴ろうとしました。
「待ってください!」
願いの声を投げると、彼女に少しのためらいが生まれたようでした。急いでその手を握ると、振り払われることはなく、彼女の体からはだらりと力が脱けました。
「いったい、どうしたんですか」
セイラムがこちらを向くことはありませんでした。その身体の震えに気付き、そっと彼女に手を添わせると、手の甲に雫が落ちました。
セイラムの涙を見るのは、これが初めてでした。
信じられないような気持ちで彼女の身体を抱くうちに、神父様が、事実を持って追いついてきます。
神父様とふたり食堂に戻り、明かされた事情に、言葉を失くしました。
「……そんな」
「信じたくないが、事実だ。本人も認めた」
神父様は、非常な渋面で言いました。
私は自身の手の甲に触れ、先の彼女の涙を冥捜します。セイラムは私室に戻っており、すでにこの場にはいません。その心情を想うと、やりきれなくなりました。
――貴方のところの修道女が、風俗店で働いているのを見た。
匿名での電話が、神父様にそう伝えたそうです。
はじめは、私だって歯牙にもかけていなかった、と神父様は言いました。いくら厳しい資金難だからといっても、あのセイラムが、そんなことをするわけがないと。
しかし、根も葉もない噂だったにしても、そんな風評が広まれば困る。一応の事実関係は本人に確かめておくべきだろうか。そう考えだしたあたりで、たまたま未明に帰ってきたセイラムと出くわした。
その彼女から、わずかな酒分の匂いと、付けるはずのないコロンの香りがしたのだ。――それは、アルコールが生んだ、彼女の隙でした。
急速に膨れ上がった疑いに神父様は密かな確認をせざるを得なくなり、そうして今日、とうとう真実が露見してしまった。
風俗店とはいっても、何も性風俗ではありません。カウンター越しに話をするだけの、いわゆるスナック・バー。
しかしそうだったとしても、聖職者の副業として相応しいと、大衆に受け容れられるものではありませんでした。
「破門……ということでしょうか」
「違う。破門じゃあない。信徒としての一切の権利を――主に祈る資格さえ剥奪するのが、破門だ。そんな心無いことをしてたまるものか」
あくまでこの修道会から除名するだけだと、神父様は言いました。
――除名する、「だけ」だなんて。その処分がどんなに惨いことか。
「セイラムは……彼女は、この教会のために、そこで働いていたんですよ?」
「わかってる」
「夜もまともに寝ないで……教会の仕事と、並行して」
「わかってる」
「ずっと、ここで過ごしてたから……あのひとは、ここが、大好きで、だからっ」
「わかってる」
「でしたら!」
「仕方ないだろうがっ!!」
神父様は椅子を倒す勢いで立ち上がり、吠えるように言いました。
「どんな事情があったにせよ、あいつが風俗店で働いていたという事実があって、それを顔の見えない何者かに知られてるんだぞ! ……もしも悪意の元に広まってしまったら、どうなると思う?」
それこそ、破門せざるを得なくなるかもしれない。
その言いようは、理解はできても、納得はできず、できるわけがなくて、私はくちびるを強く噛みました。
大丈夫だと、おっしゃっていたではないですか。
「……ここの帳簿は、セイラムに任せていたんだ」
神父様は、まるで懺悔するように言います。
「いまの調子で大丈夫だと、私たちには言っておいて……本当は大丈夫ではなかったのに。大丈夫じゃない分は、自分でなんとかするつもりで」
彼の目元を覆う手から、光るものがこぼれて落ちました。
「ばかものめ……」
私と神父様は、拭い得ぬ悲嘆に暮れました。
「……信頼できる私の友人が、関東の方で修道会の代表を務めている」
少しののち、神父様が静かに言いました。
「そこへの、紹介状を書くつもりだ」
私は、何と返事をしたでしょうか。覚えていません。あるいは、何の返事もできなかったのかもしれませんでした。
セイラムは、愛した教会を去りました。
セイラムは淡々と、謝罪と、感謝と、離別の挨拶を口にしました。
私はすがるように、謝罪と、感謝だけを伝えました。
別れ際に、私はいたたまれなさから彼女の目を見ることができませんでした。
その瞳がいま何を見ているのか、どんな色を宿しているのか。
確かめるのが、ひたすらに怖かったのです。
日常は、たとえ大切なものが失われてしまったとしても、絶えず回ってゆきます。
回り回る世界の、欠け落ちた部分が身に触れるたびに、私は痛みにうずくまりそうになりました。
欠落したものがあまりにも大きく、多かったことを、日々の中でたびたびに思い知りました。食事のとき、祈りのとき、うたうとき、掃除のとき、ほかにも、数え切れないほど。
セイラムが居なくなったことは、私たちにとってありとあらゆる面で好ましくありませんでした。
それでも、やっていかなければならないということはわかっていました。
夏の長い年でした。
八月も後半になりましたが、いまだ健在の暑気が寝起きから汗を滲ませます。
ひとり部屋となってしまった私室で、私は朝日の中に目を覚ましました。身体の芯に痛みを覚えましたが、気づかなかったふりをしました。
着替えを終え、朝食の支度をしようと部屋を出かかったところで、ふと思い出します。せめて今日くらいはと、当番を代わってもらえたのでした。
私は自身の寝台に腰掛けました。
そうしてやっと、少しホコリをかぶり始めた向かいの寝台の上に、無造作に置かれているものに気付きました。昨日まではたしかになかったはずで、私は自身の表情が訝しげに強張るのを感じました。
無地の白い包装紙をまとった小さな箱に、可愛らしい小花柄の便箋が重ねられています。
その便箋には、ただ一文が書かれていました。
――『ハッピー・バースデイ』
その手書きの字の特徴に心臓が跳ねました。
いったいどうして。どうやって?
混乱する心中もそのままに、私は慎重にラッピングを解きました。包装紙の下には、メーカーのロゴも何も印字されていない、真っ白い箱。
おじおじとふたを開けると、緩衝材の中にうずまる朱い石が日の光を弾いてつやめきました。
「……ブローチ?」
その留め金には、メモ書きが挟まっていました。やはり、よく知っている癖の見える字が走るように。
『ごめん、誕生石間違えた……
でもせっかくだし、良かったら、付けてて』
好情が吹き出すように、思わず笑いがこぼれました。少し遅れて、涙がひとつふたつとこぼれました。引きつった、不恰好な泣き笑いになってしまい、誰に見られることもなくて、本当に良かったと思えます。
どうせメッセージを書くなら先の便箋に書いておけば良かったでしょうに、その奔放なやり方さえ愛しい。
こぼれる涙につられるようにして、抑え込んでいた痛みと感情が溢れました。笑う余裕なんてもうなくなって、私はただひたすらに、悲しさと寂しさを彼女の寝台に吐き出しました。
居なくなってもなお、私は貴女にいただいてばかりでした。
数え切れない恩が胸に浮かぶごと、私の中の貴女の領域が大きくなる。やめてほしかった。潰れてしまいそうでした。募る彼女への想いが、そのまま彼女を失ったことへの痛みに置き代えられます。
どうしていま、ここに、貴女はいないのでしょう。
主よ。貴方の定めたセイラムの運命は、
本当に、正しかったのですか?
私は、ブローチを胸元に付けました。手を添えると、安らぎを得られるように感じました。
鏡に映る私は、目元が赤くなっていました。それをからかい笑うようなひとは、もういません。
部屋を出ると、神父様が待っていました。
「……いいんだな」
「もちろんです」
ためらいなど、あるはずもありませんでした。
「洗礼名は、決めたか?」
「はい」
――私には姉がいました。
その洗礼名をセイラムといいます。
実姉ではなく、ただ先達としての存在であったことから、私が姉と思い慕っていた方です。彼女もまた私のことを、実の妹のように可愛がってくれていました。
セイラムは剛健なひとでした。庭仕事の際、清掃の際、たびたび修道服の袖をまくりあげていた姿を、よく覚えています。行儀が悪いと司祭様から叱られていた様子も、また同じく。
セイラムはオルガンの演奏に優れていました。彼女の気立てがよく表れた明朗な音色に沿って、聖歌をうたった日もあります。
セイラムは料理が得意でした。小斎のときなども、制限された食事さえ、彼女の作るものならば苦ではなくなりました。
少女だったころの私を思い返すと、ほとんど決まってと言っていいほど、セイラムと共に在った日の記憶が掬われます。それくらい、私は彼女の後をついて回っていたのでしょう。
セイラム。貴女の背中を追った私の日々は、幸せでした。私と過ごした貴女の日々は、幸せだったでしょうか。もう確かめるのは難しくなってしまいました。
朝の日差しや、夕の淡い月影にさえ、貴女の不在を強く感じます。
それでも、いままで私に添っていただいた事実はこの胸の底で鮮やかさを保ったまま。
貴女にいただいたものすべてが、この胸で輝いているようです。
私はクラリス。
いまだ未熟な身で、きっと誓願を経てもなお、セイラム、貴女のように在ることは到底できないのでしょう。
けれど、貴女が生きたこの場所を、貴女と同じく愛していたいと、心からそう願っています。
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あれから、二年という月日が過ぎました。
セイラムの脱離は教会の運営にきわめて大きな影響を残しました。収入の大きな部分を補っていた彼女がいなくなってしまったのですから、それも当然のこと。借り入れていた金額は日増しに大きくなり、返済は当然のように滞って――教会は物件として差し押さえられ、ついには使用を禁じられました。
かろうじて修道会という名前だけは保っているものの、有名無実と揶揄されても仕方ないような情況です。
青空の下、花の落ちて緑だけが美しいバラ園の中、私はCDプレイヤーの停止ボタンを押し込んで微笑みます。
「ふふ、素晴らしい合唱でしたね。きっと、神様にも届いたと思いますよ。今日はこれでおしまいにいたしましょう」
聖歌隊の子供たちは、邪気のない顔で私に別れと再会の約束を告げ、帰途に着きます。その彼らに、次の日曜日もまたこの場所でと、そう伝えなければならないのがただただ辛い。
私は、ベンチに腰掛けました。俯き加減な顔の角度はもう癖のようになってしまって、ため息は地面に向けてまっすぐ落下しました。
なんとかしなければなりません。
この夏、やっと私も二十歳になります。
間接的な支えだけでは、もう留められない。いまとなると、あのときの彼女の心情が痛いぐらいにわかるようでした。
なんだってしなければ、この愛する場所を失うかもしれない。その恐怖のなんと痛烈なことか。
私は口元を引き結び、胸元のブローチに手を添えました。
ふと、その私の頭上に影が差しました。
「――どうして悲しげなの?」
不意のことでしたが、質問が私に向いていることは明らかでした。表情をあらためて、私は目に入った黒革のパンプスにこたえます。
「……あら、 見られてしまいましたね。子供たちに悲しい思いをさせてしまっているのが心苦しくて、つい」
「へえ。悲しい思い?」
「はい。彼らは聖歌隊の子供たちです。私は教会のシスターなのですが、仕える教会が財政難に陥っていまいまして。現在、教会は使用できない状態なのです。聖歌の練習はもちろん、神に祈りを捧げることも叶わず……このままでは建物を売り払うしか道はありません」
「それは……大変ね」
きっと、あたたかな心を持つひとなのだろうと思いました。そうしてようやく、顔も見ずに話している無礼にはたと気付きます。
取り急ぎ、立ち上がって――目を合わせるや茫然として、自らを忘れました。
「でも、間に合ってよかった」と言うその顔は、慈しむように微笑んでいました。
よく知った、愛した、何度も想ったひとが、そこで笑っていました。
申し訳ございません、>>58はミスです。以下に訂正を。
他人事であるはずなのに、その声は私の内情に優しく添うようでした。
きっと、あたたかな心を持つひとなのだろうと思いました。そうしてようやく、顔も見ずに話している無礼にはたと気付きます。
取り急ぎ、立ち上がって――目を合わせるや茫然として、自らを忘れました。
「でも、間に合ってよかった」と言うその顔は、慈しむように微笑んでいました。
よく知った、愛した、何度も想ったひとが、そこで笑っていました。
「……セイラム?」
「うん。ひさしぶり」
「……本当に?」
「さすがに見たらわかってよ。いやまあ、見慣れないカッコしてるだろうけど……あ、そういえば付けてくれてるんだね、ブローチ。よく似合ってる」
伸ばしてあった髪は潔いくらいにばっさりと短くなり、黒衣であることは変わりませんでしたが、修道服ではなく、本来私たちと交わるはずのないビジネススーツを着込んでいました。
それでも変わることはない彼女の本質が、そこに立っていたのです。
「クラリス」と、彼女が初めて私の洗礼名を呼びました。たったそれだけのことで、驚きと戸惑いも抑えて、嬉しい気持ちは溢れそうなほど。ですが、続いた言葉に気を引き締めました。
「貴女は、これからどうするつもり?」
「……あの教会は、多くのひとの心のよりどころ。失うわけにはいきません。そのために、私も他のお仕事をしてお金を稼ぎます。多少の不安はありますが、神は……きっと、お救いくださるはずですから」
「そっか」彼女は苦笑いに近い笑みを浮かべて言いました。「貴女はそう言うと思ってた」
それから、彼女は私に一枚の名刺を差し出しました。そこには「セイラム」ではなく、彼女の俗名が綴られています。
肩書きは、
「シンデレラガールズ・プロダクション、アイドル部門、プロデューサー……?」
「うん。それがいまのあたし」
「シスターは……」
「やめたよ。悩んだけど……あたしが本当に大切にしたいものは何かって考えたらね。よその修道会でお世話になってる場合じゃないかなって」
急な訪問からめまぐるしい彼女に、私は心の落ち着く暇もありませんでした。
「いろいろあったんだ」と彼女は言いました。
私たちの教会を去ってから、彼女は紹介された修道会に一旦は身を寄せたそうです。しかし、そこで日を過ごすごとに、愛した場所との違いが目に入る。自分の本来の居場所がここではないと思い知る。決別は早かったそうです。
どうにかして帰りたかった。帰れないことだけは明らかだった。だったら、せめて外からでも力になろうと思った。
資金が必要だった。そのために思考を巡らせ、あらゆる可能性を調べて、ついに見つけたのは、皮肉にも彼女が居場所を去る原因となった、スナックで手に入れた伝手。
その店の常連で、彼女をいたく気に入っていたのが、ある有名な芸能事務所のお偉方だったのだと。
人当たりがよく、聡く、オルガンから音楽の造詣にも通じる彼女。採用に至るのがあっという間だったと、自慢げに言われたことも納得ができるようでした。
それから長めの研修期間を積んで、その間も愛した場所を決して忘れることはなく――そしてようやく、今日にこの地を踏んだ。
「昨日やっと、プロデューサーとしてひとり立ちを認められてね。したらすぐ、担当するアイドルをスカウトするのが最初の仕事だって言われて。スパルタでしょ。まあ、それは都合よかったし別にいいんだけど」
しばらくぶりの彼女との会話に、時間を忘れるようでした。なにものにも代えがたい喜びに浸っていたところ、ふと、気になる言葉に引っかかりました。
「……都合がいい?」
「うん」
訊ねると、彼女は頷いてから、私と視線を合わせました。
「クラリス。覚えてる? いつかあたしが言ったこと」
その質問は漠然としていて、すぐにこたえることはできませんでした。問いで返そうとする私を、しかし彼女の続く言葉が塞ぎます。
「あたしは、ひっどい間違いをしたよね。あたしがなんとかしなきゃって、ひとり思ってばっかりで、取り返しのつかないことして、結局余計に教会を追い込んだ」
「そんなことは……」
「それでも」
彼女の目は、強い意志の光を宿していました。二年前、別れるときの目を見ておくべきだったかもしれない。そう思いました。
「あたしはやっぱり、守りたいんだ。だからクラリス」
私はようやく、先の質問の意味を悟りました。
「貴女の歌声を、活かしてみるつもりはない? あたしと一緒に……大切な場所を守ってくれるつもりは、もうないかな」
一度は間違えた。だけど、だから、もう間違えない。間違えさせないから。
呟きと共に、差し出された手。
私は笑おうとしました。笑えませんでした。視界が歪むほど、心の底から湧き出すような感情が止まりませんでした。
「……いつか、忘れていたのは……貴女じゃないですか」
「もう、絶対忘れないよ」
私は、彼女の手を取りました。
神父様やほかのシスターたちに、相談はしました。しかし、ほとんどする必要もなかったと感じられるほど、彼らはすぐに私の背中を押してくれました。
「あいつめ。いま、そんなことになっているのか」
怒ったように言う神父様でしたが、その表情は反して朗らかでした。
「すまないな。頼むよ、クラリス」
「任せてください。私ももう、大人ですもの」
「そうか。いや、そうだな。……セイラムにも、よろしく」
「はいっ」
それから三日後、私は東京のオフィス街を訪れました。
駅のホームに出ると、怒涛のような人波に圧倒されました。そんな中に、凛と背筋を伸ばして立つ姿はすぐに見つかります。
彼女もまたこちらを見つけ、微笑みました。
歩み寄る彼女と、自らと、空に向けて、私は伝えます。
「アイドルの道を行く覚悟を決めてまいりました。貴方との再会を……心より、感謝します」
了。
終わりです。
色々と初めてのことだったため、拙いところもあり申し訳ありません。
最後まで読んでいただいた方が、もしもいらっしゃるのなら、本当にありがとうございました。至上の感謝を申し上げます。
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