※短編です
※このSSは、
タイトルを書くと誰かがストーリーを書いてくれるスレ part6
タイトルを書くと誰かがストーリーを書いてくれるスレ part6 - SSまとめ速報
(http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1522054323/)
の>>400に投稿されたタイトル『世界で一番美しい生き物』から着想を得ましたが、思ったより長くなったのでスレ立てしました
よろしくお願いします
SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1529421907
「――いや、今日は良く来てくださった。心より歓迎いたしますぞ」
「お招きにあずかり光栄ですわ。【倶楽部】に入会して7年――ご自慢の【彼女】にようやく会わせていただけると聞いて、心待ちにしておりましたの」
私は目の前の、柔らかな微笑みを浮かべた老人に笑い返し、恭しく頭を下げる。
黒社会にも顔が利く世界有数の大富豪にして、【倶楽部】の大先輩。
礼儀はいくら尽くしても尽くし過ぎるということは無いはずだった。
供された紅茶と茶菓子を楽しみながら、まずは当たり障りのない、社交的な会話に興じる。
しばしの歓談の後、会話がひと段落し、部屋の中に沈黙が落ちた。
2杯目の紅茶を飲み干し、ほう、と息を吐く。
「……さて」
精緻な青の模様に彩られた白磁のカップをソーサーに戻し、老人と視線を合わせたと同時――不意に、目の前の老人のまとう空気が変わった。
「【彼女】を紹介する前に、一応念を押させてもらうのだがね……」
好々爺然とした笑みも声音も一切変わらないのに――こちらをねめつける視線の圧が違う。
こちらを腹の底まで見通し、値踏みするかのような、ぞっとするほどに冷酷な視線。
「……重々承知しております。ここで見るものについては、一切の他言無用。万が一にも秘密が漏れた場合には、速やかに【除名処分】が下される――でしたわよね?」
背中に走る冷たい汗の感触を意識の外に追い出しながら、何食わぬ顔で答えを返す。
――【倶楽部】というのは、上流階級の中でもごくごく一握りの人間しか知る者もない、秘密の動物愛好家たちの集まりだ。
希少動物、絶滅危惧種、、外来危険種、天然記念物……そういった動物たちを秘密裏に、非合法にペットとして愛でる愛好会。
当然ながら秘密はこれ以上ない程に厳守されている。
必要とあらば――【除名処分】を用いてでも。
「ならば問題ない。……いや、年をとると繰り言が多くなっていかんな」
一瞬覗いた雰囲気はどこへやら、老人はまた元の柔らかな笑みを浮かべ、ゆっくりと立ち上がった。
「あまり焦らしても申し訳がない。……では、そろそろご案内するとしようか。儂(わし)の宝、世界で一番美しい生き物――【イヴ】の元へ」
隠し扉の奥の曲がりくねった通路を抜け、秘密の螺旋階段を下り。
私たちは分厚い扉の前に立っていた。
私が持っているのは、小さなハンドバッグのみ。
老人は、左手で杖をつき、右手には不似合いな紙袋を下げている。
使用人たちにも、ここに足を踏み入れる事は許していないのだろう。薄暗い通路は、空気を淀ませ、ひっそりと静まり返っている。
扉の脇のシステムに老人が暗証番号を打ち込み、1枚目の扉を開けた。
小部屋の中へ入り、ドアにしっかりとロックがかかったのを確認してから、反対側、奥の扉に向かう。
今入ってきた扉に施錠してからでないと、奥の扉の開錠は出来ない仕組みだ。
防犯というよりも、中にいる「彼女」を絶対に外に出さないための配慮なのだろう。
私は、ぞくぞくとした興奮を身の内に覚えていた。
――【倶楽部】の中でも極めつけの好事家として名高い老人。
これまで彼が手に入れ、世話をしてきた動物(ペット)は、ライオンなどの大型哺乳類から蛇やイグアナなどの爬虫類、インコなどの鳥類、希少な昆虫や熱帯魚にいたるまで、実に多岐に渡る。
さらに、彼が動物たちに向き合うその姿勢は、単に希少・高価な動物だけを珍重しアクセサリーとして見せびらかすだけの成金コレクターの類とは、完全に一線を画していた。
それが琴線に触れさえすれば――それこそ痩せこけた雑種の野良犬だろうが、窓から飛び込んで来たカブトムシだろうが――彼は分け隔てなく、惜しみない愛情を注いだ。
また彼は、可能な限り動物たちの世話は手ずから行い、決して使用人任せのまま放置したりはしなかった。
適切な世話をするためとあらば自ら進んで専門家や獣医に教えを請い、必要な知識と技術を身につける努力をも厭わなかった。
逆に、彼は、自分が責任を持って世話する自信が持てない動物については、決して手を出そうとはしなかった。
彼が善人かどうかは別にして――その、動物に対する愛情と献身ぶりに関してだけは、私はこの老人に、同好の士としての紛れもない尊敬の念を抱き続けていたのである。
その彼が「究極の宝」「この世で最も美しい生き物」と賛美する愛玩動物――それを、初めて目にする栄誉にあずかる事ができるのだ。
私が期待と興奮に震えたのも、無理はないだろう。
ごぐん、と重々しい音とともにロックが外れ、ゆっくりと扉が開く。奥からは微かに甘い香りの混じった暖かい空気が流れ出してきた。
こちらに振り返った老人に軽く頷きを返し、後に続く。
足を踏み入れると――そこには、小さめの体育館程の、一見して植物園のようにも思える緑の生い茂る空間が広がっていた。
天井からは太陽光に似せた照明が灯り、やや強めの光を辺りに投げかけている。
どうやって運び込んだものか、地下にあるはずの場所にも関わらず足元には黒い土が敷き詰められ、いたるところに南国系のフルーツの木が植えられている。
水撒きを自動的に行えるようにするためにだろう、木の根元には目立たないように透明な細いチューブが張り巡らされ、奥の方からは水の流れる音も聞こえていた。
部屋の中の温度と気温は、初夏程度の状態に保たれているようだ。
老人に一言断って上着を脱ぎ、左腕にかける。
「……ここからは極力、大きな声を出さぬようにな。【彼女】を驚かせたくはない」
囁くような声でこちらに告げる老人に頷き、足を進める。それにつれて、水の流れる音が次第に大きく近づいてきた。
色鮮やかな果実たちに彩られた、曲がりくねった緑の通路を進む。
不意に、目の前に大きく空間が開けた。
私たちが入ってきた入り口から見て、最奥にあたる場所だ。
そこには、3メートル程の高さだろうか、なだらかな築山が設けられている。
築山の正面に当たる部分には表面を滑らかに削られた石が緩やかな階段状に配置され、中腹にある洞窟のような窪みに続いていた。
窪みの前にはやや平坦な場所があり、そこから窪みの入り口付近、窪みの奥にかけては、色とりどりの布や毛皮、クッションなどが無造作に敷き詰められているようだ。
形状も色合いもまるで違うのに、その様子はどこか、岩山の高所に猛禽類が作る巣のような何かを連想させる。
そして、その築山の麓にあたる場所には人工的に作られた浅い池があり、これもまた人工的に作られた小さな滝から、だぱだぱと澄んだ水が流れ込んでいた。
池から溢れ出た水は、池の周囲の地面に目立たぬように掘られた細い溝に流れ込んでいるようだ。恐らく水はそこから回収され、濾過や浄化を経た上で循環しているのだろう。
その滝の傍ら、池のほとりに鎮座する、大きな平べったい岩の上に――――【彼女】はいた。
「あれが――彼女が、【イヴ】」
それは――およそこの世のものとは思えぬ程に美しい、1人の少女だった。
年の頃は13歳から16歳程度だろうか。
その身には、一切の衣服も装飾品もまとっていない。
染みひとつない、褐色の肌。背中まで伸びる、軽くウェーブのかかった艶やかな黒髪。
猫科の獣を思わせる、大きな、やや吊り目がちなアーモンド型の目と琥珀色の虹彩を、長い睫毛が彩っている。
手足は、ほっそりと長い。
右膝を抱え込むようにして池のほとりに腰掛け、気だるげに水面を見つめている。
垂らされた彼女の左の足先が、水面に微かに触れていた。
足先は戯れるように水面をゆらゆらとなぞり、小さな波紋を作り出しては、またすぐにその波紋をかき消すように水面を撫でる。
滝から跳ねる水の飛沫によってしっとりと潤った黒髪は、濡れた羽のように背中に貼りつき、肌の上を滑る水滴が、透明な真珠の粒のように身を飾り、光を反射して煌めいていた。
――私は呼吸することも忘れ、その場に立ち尽くした。
目の前にあるそれが、この世の光景とは思えなかった。
その時の私は――そう、馬鹿げたことだが、太古の密林の奥の聖域にでも迷い込んだかのような、畏敬にも似た錯覚にとらわれていた。
魅入られたようにふらふらと、1歩、2歩、足を前に踏み出す。
その気配に気付いたのか、彼女が顔を上げ、視線をこちらに向けた。
距離が離れているにも関わらず、はっきりと、目が合った、と感じた。
琥珀色の視線にまっすぐ射抜かれた心臓が、びくんと跳ねる。
視線が合ったのは数瞬のことだろうに、それが数分のことのようにも感じられた。
――これは、これは何だ。
――この生き物は、何なのだ。
……やがて、彼女は興味を無くしたように私から視線を外し、また水と戯れ始める。
私はそろそろと、止めていた息を吐き出した。
――ふと気づくと、それ以上近づくのを制止するかのように、老人の手が私の右肩に置かれていた。
「……儂(わし)はね。これまで、さまざまな動物を手に入れ、育て、愛してきた」
私に向かって言葉を発していながら、老人の目は私を映してはいない。
その視線はただひたすらに、水辺に佇む少女に注がれている。
「……動物というのは、すべからくシンプルなものだ。獣だろうと鳥だろうと、昆虫であってさえ、その姿には、必ずシンプルな美しさがある」
秘密の託宣を告げるかのように、老人が耳元で囁く。
「その中で、ペット――愛玩動物というのが、どだい不自然な存在だという事は、重々承知しておる。野生動物とも、家畜とも違う。……不自然、というより、不合理な在り方、と言うべきだろうか」
生暖かい息の感触が耳にかかる。
「……生きるため、生き抜くために、この上なく最適化されたはずの――その機能を全く活かすことなく、ただ奉仕され、愛されるためだけに存在する……ああ、確かに歪んでおるだろう。歪であるだろうとも」
肩に置かれた筋ばった指に力がこもり、肉に食い込む。
「……だが、それがどうした? 似非自然主義者や動物愛護団体の連中の戯言に、なぜ【我々】が耳を傾けなければならない?」
老人の声には、どろどろとねばつくような、熱さと力が籠もっていた。
「【我々】は美しいものが好きなだけだ。美しいものを愛したいだけだ。美しいものを手元に置き、育て、奉仕し、同じ時を共に過ごすことを望む。……その願いは純粋なものだ。恥じるべきなにものもない」
得体の知れぬ感覚に、ぷつぷつと肌が粟立つ。だが、身体は石になったように動かなかった。
「……儂(わし)は、この世で最も美しいものを手に入れたかった。育てたかった。愛したかった」
「だから、考え続けたのだよ。……この世で最も美しい生き物とは何だろうか、と」
狂熱に浮かされた声が、黒い泥のように耳に潜り込んでくる。
「……その答えが、あの【イヴ】……人間を、愛玩動物として飼うこと、という訳ですか?」
細い声を絞り出す。自分の声が震えていないのが不思議だった。
「人間?……いいや、まさか」
笑みを含んだ声に、微かな怒りとも苛立ちともつかないものが混じる。
「……人間など、儂(わし)も含めて、この世で最も醜い生き物だ。姿といい、在りようといい、自然からはみ出した奇形の異形種に過ぎん。そんな物を飼ってどうする?」
「儂(わし)が求めたのは、人間を超越したもの――いや、今の人間に堕する前の、【真の人間】の姿だよ」
肩に置かれた手が離れ、老人が前に進み出た。水辺に佇む【イヴ】の方に向けてゆっくりと歩き出す。
「……エデンの園で【蛇】に勧められた知恵の実を口にした事で、アダムとイヴは【人間】となった。【人間】に堕してしまった」
女神の祭壇の前に歩み出る聖職者のように、ゆっくりと老人は歩を進める。
「……ではもし、イヴが蛇に出会っていなかったとしたら? 知恵の実を口にせず、無垢なまま生きていたとしたら?」
「――儂(わし)はそれがどんなものだったかを夢想し……そしていつしか――自分の手で、その理想の【イヴ】を作り出す事を夢見るようになった」
――ああ。
――この老人は【蛇】だ。
――この老人こそが【蛇】だ。
老人は【イヴ】の傍らに立ち、手にした紙袋の中から白いタオルを取り出した。
体重を感じさせない動きで、【イヴ】がふわりと立ち上がる。
身をひるがえして老人の横を数歩ほど通り過ぎ、老人に背を向けたまま立ち止まった。
老人は無言のまま、慎重な手つきでその髪に柔らかな布を押し当てると、自分の服が水滴で濡れるのも構わず、ゆっくりと丁寧に、【イヴ】の髪を拭いはじめた。
ひと通り髪の毛を拭った後は、肩から腕、そして背中へと。
途中で何度か布を取り替えながら、少女の裸の肌から水滴を拭い取っていく。
【イヴ】はそれが当然の事であるかのように、何も反応しない。
奉仕され、尽くされることに完全に慣れきった者の態度だった。
……地下に設けられた、野外に見立てられた偽りの楽園。紛い物の陽光が降り注ぐその下で、全裸の少女の身体を丁寧に拭う老人。
それは――何やらひどくいかがわしく、背徳的な光景だった。
それでいて――そこに生々しい淫靡さや、性的な空気は全く感じられない。
そこにあるのは、老従僕が主に向けるような礼儀正しい敬愛の念と、それを当然のものとして無関心に受け流す女王の姿だけだった。
やがて――女王の全身を拭い終わると、老人は黙ったまま数歩下がる。
そちらには目もくれず、【イヴ】は池のほとりを通り抜け、優雅な足取りで築山の階段を上ると、中腹の窪みの中に敷き詰められた布とクッションの上で、猫のように丸く横たわった。
どうやらあの窪みが、彼女の寝所らしい。
――ほう、と溜めていた息を吐く。
「――どうかね、君? 彼女は……【イヴ】は、美しいだろう?」
ここに至っても【彼女】から目を離せずにいた私に対し、振り返った老人が誇らしげに語りかけてきた。
女王に拝謁する光栄を賜った臣下のように微かに上気した表情と、奇妙に熱っぽい、湿った声音が不快だった。
「……いったい、どのようにして、【彼女】を?」
視線を【イヴ】に固定したまま、老人に問う。
「……なに、基本的に特別な事は何もしておらんよ。エデンの園に倣っただけさ」
いかにも悦に入った様子で、老人はくつくつと喉の奥で笑い声をあげた。
「生まれて以来、外界から完全に隔離し、衣服や言葉、知識といったものを一切与えず……。生きるに不自由のない恵まれた環境と、愛情だけを与えて育てる。それだけだとも」
「そんなまさか! それだけであんな……あんなものが、生まれるはずが」
「……むろん、数多くの失敗があったさ。大部分の【イヴ】候補たちは、単なる人の形をした獣……いや、獣以下か。だらだらぶくぶくと肥え太り、与えられた安穏を貪るだけの肉の塊になるだけだった。最後まで残ったのは彼女だけ――まさに、奇跡の存在だよ」
その他の【イヴ】候補たち――あまたの【失敗例】たちがどんな運命を辿ったのかは、想像するまでもなかった。
「……ひとつ、お聞きしてもよろしいでしょうか?」
口の中が乾き、ねばつくのを感じながら、私は老人に向き直る。
「良いとも。何でも尋ねてくれたまえ」
老人は大仰に両腕を広げ、上機嫌そうな笑みを浮かべる。
「……なぜ、【彼女】を私に?」
「……ふむ。そうきたか」
老人は意外そうに眉を上げる。
「なに、単純なことだよ。……私はずっと、私の【イヴ】を、いつか誰かに見せびらかしたかった。それが理由さ」
――それは解る。理解できてしまう。
――解らないのは、なぜその『誰か』が、『他の誰か』ではなく、『私』だったのか、ということだ。
「……理由はいくつかある。そのひとつは、おそらく君も推察出来ているだろうが……君が女性だということだ。……儂(わし)の【イヴ】に対して、下衆な欲望にまみれた、邪(よこしま)な視線を向けられたくはない。……そしてもうひとつ」
老人はわざとらしく言葉をためた後――最大級の爆弾を落とした。
「君がそれを望むならば、という話ではあるが……儂(わし)はいずれ――近い将来――君に【イヴ】を譲っても良い、いや、譲りたいと……そう考えているからだ」
「……っ!?」
絶句する私の反応を楽しむかのように、老人は笑みを浮かべ、軽く肩をすくめてみせた。
「……無理にとは言わんがな」
「なぜっ……! いや、あれを――【彼女】を、手放すというのですか!? あなたが!?」
信じ難い内容に混乱する私に向かって頷き、老人は気軽な口調で、さらに衝撃的な言葉を続ける。
「……望んで手放す訳ではないが、やむを得んのさ。……儂(わし)は末期の癌でな。……余命は、保って後半年、というところだそうだ」
「それ、は……」
「会社や財産はどうでもいいが……【イヴ】のことだけが心残りだった。……『向こう』に連れて行くことも考えたのだが、それはそれで、余りにも惜しい気がしてね」
言葉が出なかった。
「唐突に聞こえるかも知れんが……以前より儂(わし)は、君の事を、高く買っておった。【倶楽部】の他のどのメンバーよりも、君は儂(わし)に似ておる。……好みというか、美意識の点でな。そして今日、君の態度を見て――儂(わし)は確信したよ」
老人の唇が、にたりと、ひきつれたような笑みの形に歪む。
「――魅せられたのだろう、【イヴ】に? 美しいと、そう思ったのだろう? 触れてみたいと、そう感じたのだろう?」
黒い泥のような声がずるずると、耳から脳へと潜り込む。心臓へと絡みつく。
「君が望むなら……彼女を君に譲り、後を託そう。なんなら、この屋敷ごと、君に遺す事にしても構わない。君になら――彼女を、【イヴ】を任せられる。儂(わし)は、そう考えているのだがね?」
息が、苦しい。
「彼女を従えようとする者では駄目だ。――彼女に魅せられ、彼女に奉仕したいと、そう考える者にでなければ……【イヴ】は託せん」
胸の動悸が割れ鐘のように激しくなる。
「君自身、どう思ったね? 今日ここに来て、【彼女】を目にして……どう感じたのかね?」
目の前がちかちかと暗くなり、激しい目眩に襲われる。
「【彼女】を……【イヴ】を、欲しいとは思わなかったのかね?」
――――ああ、やはり。
――――やはり、この老人は、【蛇】だ。
――――太古の昔、エデンの園で最初の女に誘惑の果実を差し出した時の【蛇】も、きっとこんな笑みを浮かべていたに違いない。
私は息苦しさと、激しい動悸と、目眩の中、唇を開き。
そして、私は――――
「彼女を……彼女の姿を、もっと近くで見させていただいても?」
――口にした途端、頭がすっと冷えた。
これから自分がすべき事を思い浮かべる。
「構わないとも。……ただし、彼女の眠りを妨げないようにな。寝入りばなを起こされると、彼女はいささか機嫌が悪くなる」
老人は鷹揚に頷き、築山の方へと歩を進める。私も彼の後に続いて石段を上った。
築山中腹の窪みの入り口の手前、数歩の距離。
老人に制止されたその位置で、私はしゃがみ込み、食い入るように【イヴ】の寝所を覗き込んでいた。
土の床の上に幾重にも敷き詰められた、色とりどりの柔らかい布と大小さまざまなクッション。
その上で褐色の裸身を丸め、猫のようにまどろむ少女は――やはり、あまりにも美しかった。
先ほど見せていた、傲慢な女王のような凛とした様子は影も無く、その姿は年相応……いや、むしろ年よりも幼げにさえ見えた。
小さく開いた口から規則正しい呼吸が漏れるたびに、細い肩が上下し、睫毛か微かに震えている。
しばらく眺めていると、規則正しく続いていた呼吸がいったん止まり、引き結んだ唇がむにむにと動く。桜色の舌先がぺろりと自分の唇を舐め回し、また引っ込んだ。そしてまた規則正しい呼吸が始まる。
この閉ざされた世界に、彼女を傷つけるものなど何ひとつ無いと知っているが故の、あまりにも無垢で、無防備な寝姿。
こみ上げてくる庇護欲で心臓をかきむしられるような気がして、私は胸を押さえた。
いくら眺めても、見飽きるという事が無かった。
――これが、これが【イヴ】。
――これが、この美しい生き物が、私のものになる。
――それは、なんと甘美で、甘やかな生活だろう。
「さて……。夢中になる気持ちは解るが……そろそろ、返事は決まったかね?」
傍らに立つ老人が眼だけを動かして、こちらに問いかける。陶然としたその表情を見て――私も今、同じ顔をしているのだろうな、と思った。
「……ええ。気持ちは決まりましたわ。先ほどのお申し出ですが――」
【彼女】を起こさないように、ゆっくりと立ち上がる。
左腕にかけた上着の陰で、バッグに差し込んでいた右手を抜き出し、握っていたものを老人に向ける。
「――きっぱりとお断りいたします」
そう告げた私の右手には――黒光りする、小さな拳銃が握られていた。
「……なんのつもりだ?」
まるで理解できない、という表情で、老人はぽかんと口を開いていた。
「……ゆっくり下がって下さい」
拳銃を構えたままバッグと上着を地面に落とし、私は軽く手を振る。
私と、老人と、【イヴ】が正三角形を描くような位置まで、老人を下がらせた。
その間も、私たちの動きと声は、まるで【イヴ】の眠りを妨げまいとするかのようにひそやかなもののままだった。
食いしばった歯の隙間から、怒りに震える囁き声を老人が絞り出す。
「……何を考えている? こんな事をして、ただで済むとでも?」
「もちろん、ただで済むなどと思ってはいません。……ですが、私にはどうしても許すことが出来なかった。我慢することが出来なかったのです」
「……何……? 許せない、というのは……」
老人の眉根が何かに気付いたように歪み、次いでその顔に、ひどく失望したような表情が浮かんだ。
「……今さら君が、人間を愛玩動物(ペット)として飼うなど許せない、と言うのかね? ……あれ程に、あれ程までに【イヴ】に魅了されきった姿を晒しておいて。……これはずいぶんとまた、呆れた言い草じゃないかね」
老人の顔に冷笑が浮かぶ。
「土壇場で、人としての本来の倫理観に目覚めた、とでも主張するのかね? ……残念だ。本当に残念だよ。……君は、儂(わし)と似ている。儂(わし)と同じ美意識を持っている。そう信じていたのだがね」
吐き捨てるような口調からは既に一時の驚愕が薄れ、老人は次第に余裕を取り戻しつつあった。
――彼の考えは正しい。私の目的が【イヴ】を人間として保護することなのであれば、【イヴ】が害される事を恐れる必要はない。
「……それにしてもお粗末な話だな。一時の激情にかられ、こんな行動を取るとは……。こんな事をしたところで何になる? おそらくはまだ誰も異常に気付いてはおらんだろうが――儂(わし)を殺せば、出口のドアを開くことはできん。たとえ儂(わし)を脅してドアを開けさせたとしても、階上には使用人や守衛がひしめいておる。――どのみち【イヴ】を連れ出す事など不可能だ」
――老人の言うことは正しい。老人を撃てば私に未来はない。いや、既に状況は「詰んで」いる。ここから無事に出て行く方法は、私が行動を起こした時点で、完全に失われていた。
「全く馬鹿な事を……。こんな真似をせずとも、いや、何もしないまま数ヶ月もすれば、君は安全に【イヴ】を受け取る事が出来たのだ。そうすれば……お互い、幸せなままの関係で終われただろうに」
「そうですね。……おっしゃる通りです」
私は自嘲めいた笑みを浮かべる。
「あなたのおっしゃる事は全て正しい。……ですが――肝心なところで、全て間違っている」
――ああ。……今日この屋敷に、来るのではなかった。
「どういう意味かね?」
訝しげな老人の問いかけには答えず、私はすたすたと【イヴ】の方へと歩み寄る。
その気配に【イヴ】がぴくりと薄目を開け、ゆっくりと身体を起こして、気だるげにこちらを見上げた。
野生動物ならば有り得ない、警戒心や危機感の完全に欠如した、緩慢な動き。
――その姿は、どこまでも優雅で、気品にあふれていて、美しかった。
「待て! いったい何を――」
老人が驚愕の表情を浮かべ、制止するように右の掌を突き出した。
だが、もう手遅れだ。
「つまり――こういう事ですわ」
私は老人に向けていた拳銃の矛先を、身を起こした【イヴ】に素早く向け直し――――
――――躊躇なく引き金を引いた。
◆ ◆ ◆
「お、おお、あァ、お、ああ、うぁアあ」
呻きとも慟哭ともつかぬ、嗄れた声が、先ほどから延々と響き続けている。
実も世もなく声をあげながら、老人が壊れた【イヴ】に――【イヴ】だったものに、とりすがって哭いている。
壊れてもなお、その姿は美しかったが……あの見る者全てを惹きつけ、圧倒するような魔性は、既にそこからは失われていた。
それはただの、美しい死体に過ぎなかった。
私は拳銃を彼らの傍の地面に適当に放り投げ、背を向けて歩き出した。
石造りの階段の前まで辿り着いて見下ろすと、この小さな【楽園】の全景が易々と視界におさまる。
ポケットから煙草を取り出して口にくわえ、火を点けた。
階段を二段降り、一番上の段に腰かけて紫煙をくゆらせる。
「あ、あぁあァ、なぜ、何故……」
背後からは未だに老人の泣き叫ぶ声が続いている。
彼には、私が引き金を引いた最後の瞬間……いや、今でも、なぜ【イヴ】が私に撃たれたのか解らないのだろう。
――無理もない。高みを飛ぶ者に、地を這う物の気持ちは永久に解らない。
――かの老人の言葉は、何ひとつ間違ってはいなかった。
――確かに私は、彼に、この上なく似ていた。彼と同じ価値観と美意識を持っていた。
……だからこそ、彼には私が【イヴ】を撃つとは想像も出来なかった。
――そうだ。彼と同様に、私は【イヴ】に魅せられた。魅入られてしまった。
……だが、だからこそ、私は【イヴ】の存在を許せなかった。彼女がこの世に存在することを許す訳にはいかなかった。
――老人は、最後の最後に、私が彼に……彼の作品に抱いた感情を、見誤ったのだ。
――それは、かつてモーツァルトに対し、サリエリが抱いた感情と同じもの。
――そしておそらくは、【神】とその作品に対し、【蛇】が抱いた感情と同じもの。
――その感情の名は、【嫉妬】。
――自分が生涯を傾け、心血を注いで作り上げた最高の作品を、軽々と飛び越える芸術品を作り上げた者に対する、煮えたぎるような羨望と憎悪。
……私は【イヴ】をひと目見て、理解してしまったのだ。
――これは、私には作り出せなかったものだと。
そして彼女に近付いてその寝顔を眺めた時、確信してしまったのだ。
――これは、どんなに足掻いても私には永遠に手の届かないものなのだと。
そして、それを譲っても良いと老人に告げられた時……私の心は、壊れたのだ。
想像してみればいい。
もしもモーツァルトがサリエリに対し「この曲をお前にくれてやる」と言ったとしたら――たとえそれが、どんな善意から出た言葉だったとしても、サリエリは、私と同じく壊れてしまっただろう。
老人が私に対してしようとしたのは……つまりそういう事だったのだ。
「きさっ、貴様っ、きっ、くかっ、ゆる、許さ、ゆるさ……」
憎悪と殺意にまみれた呪詛の言葉を呟きながら、背後で老人が立ち上がり、ふらふらと近付いてくる気配がした。
ようやく、手元に落ちていた拳銃に気付いたらしい。
――思ったより長くかかったものだ。
――出来れば、一発で終わらせて欲しい。痛いのも苦しいのも、好きではないのだから。
私はもう一本の……おそらくは最期の一服になるだろう煙草に火を点けながら、私自身の屋敷の事を思った。
私自身の屋敷の地下で、何も知らずに私の帰りを待っているだろう【彼】の事を思った。
……私が死ねば、【彼】の世話をする者は居なくなる。
いずれは誰かが地下の隠し部屋に気付くとしても……そこまでは、おそらく【彼】の命も保たないだろう。
……だがそれでいい。
結局【イヴ】のような高みには至れなかったにしても……【彼】は私にとって紛れもなく最高の作品であり、最高の宝物だったのだから。
(……さようなら、可哀相な【アダム】……貴方を【イヴ】のように育ててあげられなくてごめんなさい。……だけど貴方は、誇っていいわ。……【イヴ】はもうこの世にいない。【イヴ】がいなくなった今、これで初めて――――)
私は立ち上がると、煙草をくわえたまま振り返って、両手を広げた。
目を血走らせ、拳銃を握りしめてよろよろと近付いてくる老人を待ち受けながら、晴れやかな気持ちで微笑する。
(今、貴方こそが紛れもなく――――世界で一番美しい生き物なのだから)
『【イヴ】と【蛇】と【サリエリ】~世界で最も美しい生き物~』
fin.
※以上、投下終了
お目汚し失礼しました
※過去作品
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【艦これ】ハイパーズ と こたつ。
【艦これ】ハイパーズ と こたつ。 - SSまとめ速報
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ええやん
あんたかw
いつものとは全然雰囲気違うけど良かった
ちょっと少女飼ってくる
ちょっと少女飼ってくる
素晴らしくて、嫉妬するレベル。腹立つわ。
どこか淡々としていて直接的な表現が多いにもかかわらず、文章に冷たさが感じられないのは、語彙力と表現の幅の広さ故なんだろう。
設定も凝っていて、特に老人の考え方や在り方は、その仕草からもアイデンティティが感じられるほどでモデルがいるんじゃないかと思ったほど。
敢えて指摘をするならば。
老人に対して「私」自身の描写が少なく、結末に至る動機が薄く感じられたこと。老人と似ているとは言及してあったし、嗜好が委細同じだからこその結末だというのは論理的にはわかるけど。
描写が少なかった分、そこに老人と同じだけのリアルさは感じられなかった。
それともう一つ。スレタイの「サリエリ」の一語で転じてからの展開が読めてしまったこと。前振りだったんだろうけど、もう少し間接的にストーリーに潜り込ませてもらいたかった。
最初はミスリードかとも思ったけど、結末が近づいていることは明らかだったのでメタ推理だけど結末に思い至ってしまった。
更にもう一つ、アダムとイブの差異を。老人と私で対にさせれば面白いんじゃないかと今思いついた。
総括するならば、面白い、悔しい。自身をサリエリに例えるのは烏滸がましいけど、あんたを縊り殺してやりたいほど。
※
>>18
コメント感謝です。そういう素朴な反応けっこう嬉しい。
>>19
そう、また、なんだ……。今回はちょっと挑戦しましたww
>>20>>21
大事なことなので(ry
>>22
えーと……なんか、色々と恐縮です、すいません……ww
貴重な意見感謝。確かにタイトル付け方とか「私」の描写とか、もう少し練ってもよかったかも。
というか今回は書いてる途中でストーリーがころころ変わりすぎた……。最初は5~6レス程度、【イヴ】に魅せられた【私】が、自分でも【アダム】を作り出す事を目指す決意をする、というだけのシンプルな話の予定だったのが……
やっぱ後付け感というか、そういうのって出るのね。怖い怖い。
>>23酉付け忘れ
総合スレから来ました~
「タイトルを書くと…」スレではいつも楽しくSSを拝見している
目に浮かぶ世界観・行を追うごとに止まらなくなるスピード感・いい意味で「やられた!」と思わされるラスト
そしてそれらを支える確かな文章力
自分も「タイトルを書くと~」スレでたまに駄文を書き散らしているけどその駄文をスレから消去したくなるほどレベルが違う
その上でお言葉に甘えて批評すると……
このSSにはそれらの良さがあまり感じられない
起承転結とか主人公の心理とかはとてもわかりやすい
とにかく丁寧に書かれているのは間違いない
でもその丁寧さが時折斜め読みしたくなる衝動を招き
ラストの展開を(拳銃を取り出した辺りから容易に)推測しやすくしている
会話主体にして敢えて心理描写を避けるか
情景描写のみにして心理は間接的に伝えるに留めるか
一人称視点にして主人公の心理描写をひたすら掘り下げるか
すべてを選択していいとこ取りをしようとするとスピード感というか物語の駆動力が落ちると思う
というわけであなたのSSは好きなのでまたSS書いてくださいな
俺もいつかは人に批評されるようなレベルのSSを書きたいな
>>25
どうも先ほどから身に余る大げさな言われようで居たたまれない……
確かにいつもの1~3レスのショートショートに比べるとちょっと冗長というか中途半端に語りすぎた部分はあったかも
参考にさせていただきます
ただ正直、普段からそこまでスピード感や意外性のあるオチを意識してる訳じゃないですよー
正直過大評価かと
むしろ、誰もが考えつくようなベタな展開やありがちなオチをベースに、どこかの部分を崩したり捻ったりできないか考える、というパターンが多めです
コメント感謝ですー
タイトルを投稿したものです
わざわざスレまで立てて素敵な話を書いていただいてありがとうございます!
気づくのが遅れてすいません!ありがとうございました!
>>27
タイトル提供ありがとうございました
また機会があったらよろしくお願いします
ぐぬぬ、タイトル採用羨ましい……
総合スレより来ました
・ストーリーの起承転結はどうか
★★★★☆4.5
めっちゃ面白かった 短編なのにストーリーに起伏があって拳銃構えたところドキドキした
・主人公の心理(行動の動機)がわかりやすく(納得できるものとして)書かれていたか
★★★☆3.5
わかりやすさは十分 ただ前の人も書いてたみたいに老人の描写が良すぎたから逆に辛めの評価
・【イヴ】の描写が魅力的に(美しく)書けているか
★★★★★☆5+α
初めて目にした時の女の衝撃と感動が凄く伝わってくる
身体拭かせるところと寝顔見せるところ(むにむにペロリ)の描写は特に神がかってた 実家の猫思い出した
他でも指摘されてたみたいに改善点はあるにせよ文句なく面白かったです
またこういうの書いて欲しい
>>29
高評価ありがとうございます
お察しの通り【イヴ】の性格というか振る舞いは人の形をした家猫のイメージで書きました
拭き拭きのところとむにむにペロリは自分でも気に入ってた場面なので嬉しいです
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