北条加蓮「どうしようもない話」 (17)
椅子に座ったまま眠る彼の首を撫でると無精髭がちくちくと刺さった。その痛みが心地よくて、私はもう一度その首をゆっくりと撫で上げる。
と、彼はびくりと肩を震わせて目を覚ました。そんな彼の様子がおかしくて、私は声に出して笑ってしまう。
彼は私の方を見て安心したように肩を落とし、しかしすぐに眉を顰めてみせる。
「起こすのはいいが、起こし方はもう少し考えてくれ」
「今回のはお気に召さなかった?」
「召さなかった。というか、わかるだろ? 首を撫でられて起きるとか、想像するだけで嫌だろ」
「そうかな」
「そうだよ。経験してみるか?」
「つまり、次に私がプロデューサーの前で寝た時には首を撫でられる、と」
個人的には悪くない提案だ。しかし彼は違ったようで、
「それ、画的にまずいな」
「まずいかな」
「まずい」
他人の口から聞いたことによって想像してしまったらしい。冷静にならなくてもいいのに、と私は胸中で不満を漏らす。
ただ、自分から『首を撫でられたい』と言うのもおかしいと思うので口には出さない。代わりに他の言葉を口に出す。
「ちくちくした」
「ん?」
「それ」
指で示すと、彼は自分の首に触れる。あー、と納得したように声を上げて、そろそろ剃らなきゃダメか、と面倒くさそうに息を漏らす。
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「芸能界って、もっと身だしなみに気を遣わなきゃいけないところだと思ってた」
足先から頭のてっぺんまで、彼の姿を確認して、素直にそう口にした。彼は苦いものを口にした時のように表情を歪める。
「外に出る時は、もうちょっとちゃんとするから」
「してるかな?」
私はわざとらしく首を傾げた。しかしそんなわざとらしい振る舞いでも彼にとっては無視できないものだったらしい。恐る恐ると言った調子で「してませんか?」と彼が尋ねる。
「さあ、どうでしょう」
意味ありげに微笑むと、彼は困ったように眉を下げた。その表情を引き出せたなら満足だ。
「なんてね。そんなに心配しなくてもいいよ。良くはないけど、悪くもないから」
それは本音だった。良くはないけど、悪くもない。
「それは、安心していいのか?」
「ううん。もっと気をつけた方がいいんじゃない?」
「はい……」
「ふふっ。さっきも思ったけど、どうしたの?」
「下手に出ると優しくしてくれないかな、と」
「それ、口に出したら意味なくない?」
「承知しております」
今度はぴしっと背筋を伸ばして。プロデューサー、ふざけてるな? それとも……。
「そんなに優しくされたいの?」
彼の頬が微かに引きつる。お、図星。
「へぇ。されたいんだ?」
にやにやしながら尋ねると、彼は嫌そうに顔を歪める。
「ちょっとちょっと、自分から言ったんでしょ? そんな顔しないの」
「いや、今のは」
「じゃあ、されたくないの?」
「……」
固まる。うん、やっぱりされたいっぽい。
「それじゃあ、どうする? 優しい優しい加蓮ちゃんに、プロデューサーは何をしてほしいのかなー?」
「優しい優しい加蓮ちゃんって誰だよ」
「何か不満でも?」
「ございません」
ないらしい。それにしても……なさけないなぁ。本当に、まったくかっこよくない。
身だしなみに普段から気を遣うようなことはなくて、だらしなくて、なさけない。
本当に、まったくかっこいいとは思わないんだけど……どうしてなのかな。我ながら謎だ。
「加蓮?」
そんなことを考えていると、彼が不思議そうに私を呼ぶ。そこには心配するような調子も含まれていて、こういうところかも、と少し思う。
「ううん、なんでもないよ。ただ、何をしてあげよっかなーって考えてただけ」
嘘だ。でも、彼は「そうか」と騙されてくれる。
しかし、言ってしまったからには考えなければならない。優しく、優しく……うーん。
「『優しく』ってだけだと難しいね。具体的に何か、ないの?」
「具体的に、って言ってもな」
「口に出すのは恥ずかしい?」
彼の唇が少しだけ下を向く。恥ずかしいらしい。
「恥ずかしいことかー」
「なんでわかるんだよ」
「わかりやすいから」
「そこまでか……」
気落ちした様子で彼は目を下げる。うん、たぶんそうだ。それ以外の理由はない、と思う。
「それで、その恥ずかしいことって何なのかな?」
「言いたくない」
「こんな機会そうそうないんだから言っちゃえば? 私みたいなかわいい子に優しくされるなんて、なかなかないよ?」
「だとしても、と言うか、だからこそだ」
「つまり、結構なさけない姿を見せるようなことか」
「なんでそこまでわかるんだよ……」
「私だからこそ、なんでしょ? プロデューサーって、あんまり私にそういう姿を見せたくないみたいだから。まあ、個人的には『今更何を』って感じだけど」
「そんなになさけないところ見せてるか?」
「傷付けたくないからノーコメントで」
「見せてるのか……」
見せてる。具体的に言えばついさっき見たくらい見せている。
「ほらほら、言っちゃいなよ。プロデューサーは、私に何してほしいのかなー?」
「なんでそんなに楽しそうなんだよ」
「プロデューサーが困ってるから」
「悪趣味だな」
「悪趣味かな」
「困っているのを見て楽しいとか、悪趣味以外の何でもないだろ」
かもしれない。でも、そこまで珍しいこととも思わない。
私に困っている彼の姿を見ていると、安心する。困らせてもいいと思えるということと、私に困ってくれているということが。
そう考えると、やっぱり珍しいことではないと思う。
私と同じ気持ちを抱いている人なら、きっとそう。
「プロデューサー、目、つぶって」
「なんでだよ」
「悪趣味って言葉を撤回させてあげようと思って」
「こわいんだが」
「いいから」
何がいいんだよ、とつぶやきながらも彼は目をつぶってくれる。そんな彼を見て、私は嬉しくなってしまう。
人が五感から得る情報のほとんどは視覚から得る情報だと言う。その視覚をあずけられるということは、それだけ心もあずけているということ、かもしれない。
少なくとも、私の場合はそうだ。家族以外には凛や奈緒、それから彼の前くらいしか、私は目を閉じられない、と思う。まあ、彼に目を閉じてなんて言われたら……ちょっと、他のことも考えちゃうかもしれないけど。
「じゃあ、プロデューサー。息を吸ってー」
「息?」
「そう。早く早く」
「……」
すぅ、と彼が息を吸う。「吐いてー」声に合わせて、はぁ、と彼が息を吐き出す。そうして彼が息を吐ききった瞬間、
「ぎゅー」
と彼の頭を抱きしめる。
「んぐ!?」
胸の中で彼が大きくびくりと跳ねて逃げようとする。もちろん逃がすつもりはない。彼は我慢できないと言うように、私の胸の中で息を吸う。
「ちょ、加蓮。いきなり何を」
「胸の中で話されるとくすぐったいなー」
「なら離し――んが」
「聞こえなーい」
ぎゅー、と彼の顔を胸に押し付けるようにして抱きしめる。腕の隙間から見える彼の耳がほんのりと赤みを帯びている。
「耳、赤いね」
「うるさい」
「お気に召さなかったかな? なんとなく、こういうことをされたいのかなー、と思ったんだけど、外れだった?」
「……」
当たりだったようだ。思わずくすくすと笑ってしまう。
「そっかー。これは確かに言えないね」
あと、確かになさけないかも。女子高生に抱きしめられている成人男性の姿というのは、あまり見せたいものではないだろう。
「だから言いたくなかったんだよ。こんな姿、誰かに見られたら……」
「今は二人きりだから大丈夫だよ。それに、今更こんな姿を見たくらいで失望なんかしないって」
「そんなに普段からなさけない姿見せてるのか……」
そう受け取るんだ。今のはそういう意味じゃなかったんだけど……まあ、訂正はしなくてもいいかな。恥ずかしいし。
「それはそれとして、今のお気持ちは? 念願叶って夢心地?」
「戸惑い半分」
「もう半分は?」
「わかってるだろ」
「わからないなー。ちゃんと口に出さないと伝わるものも伝わらないよ?」
「……」
抱きしめているから顔は見えないけれど、今どういう表情をしているのかはわかった。たぶん、苦虫を噛み潰したような顔してる。
「ほらほら。プロデューサー?」
「……気持ちいい、です」
「おっぱいが?」
「おっぱい言うな」
「アイドルのおっぱいが気持ちいい、なんて……いい趣味してるね」
「今の状態だと否定できない」
「だよねー」
ふっ、と微笑んで、抱きしめる力を強くする。そのまま彼の髪に鼻と頬を擦りつける。
くすぐったい。微かに汗のにおいがする。
いいにおい、ではないけれど、安心する。
胸の奥にある固い何かがすっとほぐれて、ずっとこうしていたいような気持ちになる。
「プロデューサー」
「ん?」
「……やっぱり、なんでもない」
「そうか」
なんでもないと言う時は、たいてい何かある時だ。
ちゃんと口に出さないと、伝わるものも伝わらない。
伝わっているものがあったとしても、それは言葉にするまで伝わらない。伝わらないことになっている。
「困ってる?」
「困ってるよ。加蓮は?」
「困ってる。おかしいね」
「おかしいな」
今、私から彼の顔を見ることはできない。彼から私の顔を見ることもできない。
人が五感から得る情報のほとんどは視覚から得る情報だと言う。なら、今の私たちは互いの気持ちがほとんどわからない状態だ。
体温や鼓動は伝わるけれど、それだけで相手の気持ちがわかることなんてきっとない。表情に比べたら、その情報量はとても少ないものだろう。
「好きになるなら、身だしなみくらいはちゃんとしてる人だと思ってた」
だから、普段は言えないことを口にしてしまったのかもしれない。
伝わり過ぎてはいけないから。でも、ずっと言葉にしたかったから。
「最低限のデリカシーはあって……それから、なさけないところを見せない人」
抱きしめた腕の中で、彼が固まる。何を考えているかはわからない。わからないことになっている。
「プロデューサーは……Pさんは、当てはまらないね」
それでもおかしくて、私は思わず笑ってしまう。彼はいくらか声を落として、「そうだな」とつぶやく。
「認めるんだ」
「認めるよ」
「プロデューサーがデリカシーないってどうなの?」
「それを言われると困るな」
「困るんだ」
「困る」
「そっか。じゃあ、もっと困って」
私に困って。私のことで、もっと困って。
「現在進行系で困ってるけどな」
「それは知ってる」
「そろそろ離れないか?」
「まだダメ」
「そうか」
「そうだよ」
まだ離さない。だって、大事なことを、まだ口に出せてない。
「私が体調を崩した時にさ」
「うん?」
「Pさん、お見舞いに来てくれたよね」
「そうだな」
「あの時、私は化粧をしてなくて、すっぴんだったけど……Pさん、なんて言ったっけ」
「ちゃんと覚えてないけど、加蓮がどういう顔をしていたのかは覚えてる。化粧をしなくてもいつもと同じくらいかわいかった、って」
「それ」
「それ?」
「デリカシー、ないよね」
「えっ」
彼が驚いたような声を出す。褒め言葉のつもりだったのだろう。あるいは、デリカシーがないという発言を撤回させるための言葉だったのかもしれない。
でも、それこそがデリカシーのない発言だということに、彼はきっと気付いていない。
「素顔を褒められて、嬉しくないって言ったら嘘になるけど、化粧をしている時と遜色ないとまで言われると……個人的には、複雑なんだよね」
素顔を褒められた方が嬉しいと感じる人もいるのかもしれない。でも、私はそうじゃない。
「だって、私が化粧をするのは、もっとかわいくなるためだから。もっと綺麗になるためだから。それなのに、化粧をしていない状態と同じくらいとか言われると……『お前の努力に意味はない』って言われるような気分かも」
「それは……ごめん」
「いいよ。私も、そこまで重く受け止めているわけじゃないし。そういうものだって、わかっているつもりだから」
ただ、好きになるならそういうところまで気を遣えるような、私のことをわかってくれるような人だと思ってた。そう言いたかっただけだから。
「なら、俺はとことん加蓮の好みからは離れているってことになるな」
「そうなるかもね。残念?」
「多少は」
「多少ね」
その言葉が強がりなのかどうか。推測することはできるけど、声の調子だけでは判別できない。私が何を考えているのか、今の彼にはわからないように。
「本当に、好きになるならそういう人って、思ってたんだけど」
「……」
彼の喉が小さく音を鳴らす。私の胸が鳴らしているのと同じくらいに。
「どうしてなんだろうね。無精髭を生やしたままだったり、デリカシーのないことを言ったり、なさけないところもいっぱい見てるのに」
どれも当てはまらないのに。好きになると思っていた人と同じところなんてどこにもないのに。
「恋って、まるで事故みたい」
経験したことのように、私は言う。
「たまたま落ちた雷に当たるくらい予想できなくて、衝撃的なの。前と後とで、価値観がすっかり変わっちゃうの」
そして、それは自分の意志ではどうにもならない。落ちている最中に浮き上がることなんてできやしない。人は空を飛べないもの。
「だから、どうしようもないよね」
一度そうなってしまったら、どうしようもない。
だらしないところも、なさけないところも、ぜんぶ、ぜんぶが愛おしくて。
そう感じてしまうことは、きっと、どうしようもないことなのだろう。
好きになったら、どうしようもない。
「俺は、素直な子を好きになるって思ってた」
彼がつぶやく。
「うん」
彼のことを抱きしめたまま、私はそうやって先を促す。
「面倒くさい子なんて好きにならないって、そう思ってた」
「……うん」
「加蓮は正反対だな」
「素顔を褒めたら怒るような子だもんね」
少しだけ不機嫌に言うと、彼は困ったように苦笑する。面倒な子を相手にする時のように。
「本当に、どうしてだろうな。面倒で、いつもいつも困らせてくるような子なのに。今では、そうやって困らせてくることこそがかわいくて、愛おしいと感じてしまうんだから、不思議だよな」
「うん」
「どうしようもないな」
「どうしようもないね」
どうしようもない。本当に、どうしようもない話だ。
自分でもわけがわからなくて、でも、その気持ちだけははっきりしていて。
「やっぱり、悪趣味だね」
「何が?」
「面倒で、いつもいつも困らせてくるような子を好きになるなんて、悪趣味だな、って」
「それを言うなら、加蓮こそ。身だしなみはちゃんとしてなくて、デリカシーはなくて、なさけないところもいっぱい見せるような人を好きになるなんて悪趣味だ」
「どうしようもないよ。恋って事故に似てるもの」
私は彼を抱きしめたまま、その首をそっと撫でつける。無精髭がちくちくと刺さる。でも、その痛みこそが心地良い。
「そろそろ離れないか?」
「満足できた?」
「ああ。十分満足した。ありがとう、加蓮」
「どういたしまして。それじゃあ、ちょっと離れよっか」
名残惜しさを感じながらも彼から離れる。腕と胸にはまだ微かに熱が残っている。
「優しさ、感じた?」
「ん? まあ、感じたな。加蓮は優しいよ」
「感謝してる?」
「してるしてる。今なら何でも言うことを聞いてやりたいくらいだ」
「そっか。なら早速」
ぎゅー、と彼の胸へと飛び込む。「なっ」と声を上げて、彼はその身を固まらせる。
「さっきは私が優しくしたから、今度はPさんが優しくして?」
「優しく、って」
「ぎゅ、ってしてほしいの。あと、頭を撫でたりもしてほしい。とにかく甘やかしてほしいな」
「……加蓮って、来る時はぐいぐい来るよな」
「誰かさんとは違うもの。それより、ほら。早く」
「……」
ぎゅ、と彼が私を抱きしめる。彼の体温が私を包み、胸の奥にまで沁み込んでいく。お風呂に入った時みたいに全身から力が抜けて、気持ちいい。
「首……」
「首?」
「撫でて、みて。私がさっき、やったみたいに」
私のことを抱きしめたまま、彼の指が首にかかる。私のものよりも大きくて、ごつごつとしている指が首に触れる。
そのまま彼が猫にするみたいにして私の首をくすぐったから、私は「にゃあ」と鳴いてみせた。
「大きい猫だな」
「手のかかりそうな猫?」
「かかり過ぎて困るくらいに」
「そっか。じゃあ、もっともっと困らせてあげる」
今までよりも、もっともっと。
私のこと以外、考えられなくなっちゃうくらいに。
顔を上げて、私はそう口にした。
それは困るな、と彼は笑った。
終
終わりです。ありがとうございました。
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