【モバマス】琥珀色のモラトリアム (60)
※二宮飛鳥SSです
※このSSには独自設定・年数経過・ほぼオリキャラのプロデューサー・私情が多分に含まれます。苦手な方はブラウザバックを推奨します。
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酷く、恐ろしい悪夢を見ていた気がする。
掻き集めた何かが、砂のように手のひらから溢れ落ちていく、そんな喪失感。
「待ってくれ…!」
誰かを追いかけるように飛び起きると、いつもボクを煩わせる目覚まし時計はまだ眠りについたままで、短針と長針は寒さに耐えかねたかのように重なり合っている。現在時刻は6時27分。いつもよりも30分ほど早く起きてしまったようだ。
「夢、か……それにしても、寒いな……」
釈然としない安堵を抱えながら、突き出していた右手を布団へと自由落下させる。
今日が何もないただの土曜日であったのならばこのまま温もりの楽園へ身を委ねてしまいたかったが、生憎と今日も因果律の束縛…もとい、二次試験直前対策講座という苦役に服さなければならない。二度寝をしてしまえばもれなく遅刻だろう。
さて、どうしたものか……そう思いひとまずスマートフォンを起動すると、画面に浮かび上がった日付を見て思い出した。
「そういえば今日は、2月3日だったか…」
特に感慨もなく呟いてから、もぞもぞとベッドを降りる。杏や志希程では無いにせよ、ボクも朝は強い方ではない。まだ出発の時間には程遠いが、このまま横になっていては睡魔の誘惑に抗えなくなってしまうだろう。凍えないように素早く、パジャマを脱ぎ捨てて制服に着替える。不本意だが、エクステを付けて行く訳にはいかないのは自明だ。
まだ起きてから10分も経っていない。そしてふと、あることに丁度良いタイミングであることに気付く。
屋上の扉を開くと、そこは銀世界だった。
昨晩降った雪が積もり、アスファルトとコンクリートの街を等しく白に塗りつぶしている。
「間に合ったか……」
東の空が、微かに紫から白へのグラデーションを浮かび上がらせ始めていた。微睡みの中にいる全ての者達へ、暖かな静謐のモーニングコールが響き渡ってゆく。
普段は事務所かその隣のビルの屋上へ行くことが多く、この女子寮の屋上へと入ったのは久々のことだが、距離的にそう大きな差がある訳でもなく、代わり映えのしない朝の風景が夜を追いやって天を染める。
「『冬はつとめて』、といったところかな」
千の昔から、或いはそれ以上の古くから、連綿と続いてきた人類の営み。その新たな1ページの執筆が始まるこの瞬間は、嫌いではない。
「しかし今日のボクにとっては……その演出は落第点、かな。せめて曇天を用意しておいて欲しかったものだ」
ボクの身勝手な講評は、昨日の雪雲を忘れてしまったかのような穢れなき空に吸い込まれて消えていった。無論、心情に合わせて気候が変化してくれるなどと、小説のような奇跡を本気で信じてなどいないのだが。それでも世界の執筆者に愚痴を溢したくなる程度には、ボクの心は霞みがかっていた。
たっぷり10分ほど朝日を眺めた後、「今日は早いんだねぇ」と特徴的な愛嬌ある笑顔を浮かべる食堂のおばさんから朝食を頂いて、自室へと戻る。
そういえば、雪で電車が遅れているかもしれない。どちらにせよ、普段よりは混むだろう。そう思い、いくらか早い電車へ乗るために、いつか春菜に選んで貰った変装用の眼鏡を装着し、鞄を持って寮を出た。
案の定遅延していた満員の電車の中でも、ボクの存在が気付かれることはない。それはこの眼鏡の効果なのか、エクステを着けていないからなのか、それとも初めからボクを観測する者などいないからなのか……弾き出されるように目的地で降車しても、その答えを導くことは出来なかった。
ガラガラと音を立ててドアを開くと、先に来ていた数人の生徒達が此方をチラリと見る。音の主がボクであることを確認すると、何事もなかったかのように各々の勉強へと戻っていった。興味が無いのはボクも同じことで、窓際一番後ろの己の席へ速やかに腰を下ろした。シャープペンシルと紙をめくる音が単調な旋律を奏でる中で、ぽつりぽつりと教室の席が埋まっていく。張り詰めた面持ちでひたすら赤本を解いている者、青褪めた顔で何かを考え込んでいる者、余裕なのか諦念なのか机に伏して寝ている者など、様々な感情の浮島が空席の海に並んでいた。
半分程度が集まった辺りで、8時30分のチャイムが鳴った。グラウンドから運動部の声が遠く聞こえる中、一限の教諭が教室へと入って来る。
「よーしちゃんと来てるな、○○大の入試で人が少ないけどこういう日こそ集中してやるように。それじゃ始めるぞ、今日は××大の過去問からーー」
前席からプリントを受け取りながら、教室内を再度一瞥する。閑散とした教室には、見知った顔もいくつか欠けていた。ボクにとっては、それは実に好都合なことだった。
この事務所御用達の中高一貫校で己が孤立しつつあることに気付いたのは、高等部へ上がる頃だったか。それはボクが中三で突然編入して来たアイドルだから、ではなく、アイドルであることに周囲が慣れた時、そこに残るのは唯の"痛い"ボクだったからだ。輪をかけてボクを敵対視して来たのが、今年同じクラスになったとある女子生徒だった。蓋し事務所のアイドル達にも匹敵するかもしれないビジュアルを持っていた彼女は、学校という閉鎖空間におけるヒエラルキーの頂点に属していた。それ故に、ボクと言う存在が気に食わなかったのだろう。他の女子達を扇動し、独りになるように仕向けていった。元々孤独を善しとし、その上事務所という学校の外に既に居場所を手に入れていたボクにはあまり効果が無かったが、校内での途絶したままの友好関係を思えば彼女らの目論見は成功しているとも言えるだろう。或いは、事もなしと振る舞うボクの姿が彼女達の神経を逆撫でしていたのかもしれないが。
「えー、ここまで来ればもういつもの帰納法だな。n=1の時の命題Aの成立が証明出来たので、今度はn=kを代入した時にAが成立すると仮定してn=k+1を代入する時ーー」
カツカツと黒板を叩くチョークの音を聞き流しながら、ノートの数式を確認する。導かれる過程と論理が一致することを見比べてから、ふとある日のことを思い出した。
『それに、科学や数学みたいな、常に一定の解を求める世界を覗いてるとね。もっとファジーな化学変化を期待したくなるんだー』
放浪の中途でカラカラと笑った天才猫娘の言葉が、やけに脳内でリフレインする。
昨日と同じ今日、今日と同じ明日。世界が数学的帰納法のような連続性に定められているとしたら、ボク達の生(いま)に意味はあるのか、其処にイレギュラーは起こり得るのか……窓の外から覗く青空は、何も語らずにただ其処に在り続ける。
時計の針が3時半を回る頃、ボクは筆箱と古典の問題集を鞄へと仕舞い、未だ机に向かう生徒達を背に教室を後にした。スマートフォンのカレンダーには「16:30 インタビュー」と無機質なフォントで記されている。
ネックウォーマーに口許を埋めながら、雪解けで黒く濡れるアスファルトを進む。なんとなく駅前の自販機が目に付いて、ブラックの小さな缶珈琲のボタンを押した。凍える手には過ぎた熱さのそれを口に含むと、苦味と共に妙な違和感を覚えた。
「……やはり、プロデューサーの淹れた珈琲の方が好いな」
彼の淹れるカフェ・オ・レは、安らかなひと時を約束してくれる。……そういえば、最近はあまり席を共にする機会が無かった。そんな寂寥のような何かを白い息と共に吐いてから、空になった缶をゴミ箱へ放り込み、再び電車に揺られて事務所へと帰る。
自室の床に制服を無造作に放り出して手早く《アイドル"二宮飛鳥"》のペルソナを纏う頃には、現場へ向かうのに丁度いい時刻となっていた。白いエクステを靡かせて指定されている事務所の一室へ入ると、もはや顔馴染みともなった記者とその連れが既に待機していた。
「お久しぶりです、二宮さん」
「やぁ。すまない、待たせてしまったかな?」
「いえ、我々も今こちらへ到着したところですので」
初デートのカップルの待ち合わせのような定型句を挨拶として、ボクは彼女の対面へと座った。
始められたインタビューの内容は、概ねこの一年の活動を振り返るものだった。昨年興行されたダークイルミネイトやDimension-3などの単独ライブを軸に、CDの発売、TVへの出演など、様々な出来事へと質問が投げかけられ、ボクはひとつひとつコメントをしていった。
「ありがとうございます。それでは最後に、二宮さんは今年高校を卒業されますが、次の一年の目標や抱負などはございますか?」
時刻が18時に迫ろうかという時、彼女から飛び出した問いはボクを大層困らせた。それは、受験自体がまだ終わっていないとか、活動方針がまだ決まっていないとか、そういった具体的なものではなく、もっと漠然とした、されどボクの視界を確かに覆う暗澹とした闇だった。
しかし、ボクはひとつの偶像として、それを表に出すことは出来ない。ファンの皆の夢を壊すのは、ボクとて本意ではない。
「……そうだな。まだ確定はしていないが、少なくともこのシンデレラ城の階段を降りるつもりはまだ無い、と言っておこうか」
「それでは、進学されても引退はなさらない、と」
「あぁ、そう取ってくれて構わないよ」
"いつも通り"のニヒルな笑みを見せると、彼女も何処か安心したように微笑んだ。始めは意思疎通も難しかったが、今ではすっかりボクの言葉に適応してしまっているのだから、記者というものも侮れない。
「それでは、本日のインタビューはここまでとさせて頂きます。二宮さん、お忙しい中ありがとうございました」
「どういたしまして、此方こそ」
最後に握手を交わし、去っていく彼女達の背を見送る。
さて、次の予定はなんだったか。もう一度カレンダーを確認すると、「終わり次第 打ち合わせ」と記されていた。彼と顔を合わせるのは数日ぶりか。あまり待たせては悪いので、少しばかり速い歩調で彼の待つルームへと向かう。
「おはよう、プロデューサー」
「お、終わったか。お疲れ様、飛鳥」
ボクが部屋に入ると彼はキーボードに向かっていた手を止めて、いくつかの書類をまとめボクをソファへ促した。
「さてと、業務連絡を先に済ませてしまおうか。まず、今月と来月は仕事は少なめにしてある。受験には専念してもらわないとな」
「御配慮痛み入るね」
「とりあえず大きなものは前にも言った事務所のバレンタインイベントと三月末のライブくらいだ。あとは雑誌の撮影が二回、CM出演のオファーがひとつ。詳細はこの書類を見てくれ。いけるか?」
「Alles in Ordnung、その程度なら影響は出さないよ」
「それは上々。それで、ここからが本題なんだが…」
彼はそこで言葉を一度切り、間をおいて真摯な声音で続ける。
「来年度の活動、お前はどうしたい?」
「……まだ、理解らない。まだ辞めるつもりは無いけれど、このまま惰性で続けていくことも善いとは思えないんだ」
「……そうか。俺としては、折角大学に行くんだから思い切って学業に専念するのも悪く無いと思うけど、急いては事を仕損じる。まぁ、受験が終わるまでにゆっくりと考えればいい」
「すまない、手間をかけさせて」
「気にするな、こんなの手間の内には入らないさ」
彼は朗らかな笑みを浮かべると、デスクへと戻り再びPCへ向かい始めた。ボクは手持ち無沙汰で、事務所の仲間達が出ている雑誌をなんとなく開いてみた。そこには最早お子様と笑えぬ程に成長したビートシューターの二人が大きく取り上げられていた。共に過ごしたオーストラリアでの日々が、遥か昔のように感じられる。
「なぁ、プロデューサー」
「どうした?」
「ボクは、ちゃんとキミのアイドルをやれているだろうか」
「……当たり前じゃないか。さっきの威勢はどうしたんだ?」
時計の針が、ボクを急かすようにうるさく時を刻む。読んでいた雑誌をテーブルに置くと、自分の手が僅かに震えていることに気づいた。ボクはそれを隠すように、エクステの端を指で弄ぶ。
「……虚勢(うそ)だよ、そんなものは」
「悩み事、か?」
「……プロデューサー、聞かせてほしい」
「何だ?」
「何故あの日、キミはボクを選んだんだい」
瞬間、彼の纏う空気が僅かに変化した気がした。まるで唐突に、月が地球の陰に隠れてしまったかのように。
沈黙。そして彼は言葉を選びながら話し始める。
「……前にも言っただろう。直観だよ。理由なんて無い。ティンと来たって奴だ」
「ただ黄昏の公園で口笛を吹いていただけの子供にかい」
「ああ」
「何故そんなにボクに入れ込む。何故キミはボクにそんなに優しくする」
「俺がお前の担当プロデューサーで、お前が俺の担当アイドルだからだ」
「……なら、どうしてボクから距離を取ろうとする」
気付いていた。気付かない振りをしていた。
彼がボクの仕事へ同行することが減り始めたのはいつからだっただろうか。成人組に監督を任せることもあったが、一人で向かうことも増えていった。打ち合わせ以外での会話は稀になり、コーヒーブレイクを共にすることも無くなっていた。
まるで彼が、ボクを怖れて逃げているかのようにさえ、思えた。
キーボードを打つ手が止まる。
しかし彼は此方を見ることなく、酷く流暢に、まるで予め解を用意していたかのように。
「お前を信頼しているからだ。飛鳥なら、一人でも大丈夫だろう?」
そう、騙った。
あぁ、そうじゃない。そうじゃあないんだ。
ボクが欲しい言葉はーー
「……キミは、いつもそうだ……」
声が震える。
否、きっと震えていたのはボク自身の心なのだろう。
堰が、切れる。
「キミは……キミは!いつだってそうやって一歩退いて己を隠してしまう!傍観者のつもりか!?それとも愚か者に助言を与える賢者か!?どうして…どうしてボクの隣にいようとしてくれない!!」
決壊した心から溢れ出した感情が、怒鳴り声となって撒き散らされる。抑え込むことも出来ず、激情のままにテーブルを打ち叩き立ち上がる。デスクに積まれた書類の山を左手で叩き潰しながら、右の手で彼のネクタイを掴み、犬歯を剥き出しにしてただ只管に叫んだ。
「キミはあの時ボクに言ったじゃないか!『甘えるな』と!蘭子と心から向き合えと!!理解した心算になったままで終わるんじゃなく、真に理解り合わなければならないんだと!それなのにどうしてキミは決してボクの前でその仮面を外してくれない!『担当だから』!?キミはキミの意志ではなく、義務としてボクを導いているのか!?ボクには……ボクにはもうキミの言葉が理解らない!キミの心が理解らない!今はその優しささえ気に触る……!」
頬を伝う雫が妙に生暖かく感じる。
理解らない。どうしてこんなにもボクは喚いているのか。どうしてこんなにも、ボクは哀しいのか。
「教えてくれプロデューサー……ボクはキミにとって一体『何者』なんだい……?」
その先の言葉を紡ぐことが出来ず、支えを失ったように冷たい床へとへたり込む。
力無く両腕で頭を抱え、情けなく嗚咽を漏らしながら。
ほんの数十秒間ほどの沈黙が、永劫のように感じられた。
PCと空調の稼働音が嫌に大きく聞こえる。
「ごめんな、飛鳥」
静寂の帷を破ったのは小さな謝罪だった。
「……何故謝る。謝らなければならないのはボクの方なのに……」
「いや、俺にも……謝らなきゃいけない理由がある」
彼はそっと、躊躇うかのように臆病に、ボクの頭をその手で触れた。
伝わる熱からは彼の心中を推し量ることは出来なかった。
「一つ、聞いてもいいか」
「……質問に質問で返すのかい」
「揚げ足を取られると困ってしまうんだが…………なぁ、飛鳥。お前の目に、俺はどう写っている?」
質問の意図を理解りかねて目線を上げると、そこには先程よりも真剣な、しかし今まで見たこともないような、陰のかかった瞳があった。
「キミは……プロデューサーは……影絵を見せられて全てを知っているつもりになっていたボクを、洞窟から連れ出してくれたプラトンだ。閉じたセカイをこじ開けて、ボクに無知を教えてくれたソクラテスだ。キミは、ボクが欠かす事の出来ない片翼で、捻くれ者のボクを馬鹿にせずに語り合ってくれる友人で、少し抜けたところはあるけれど信頼できる大人で、ボクの……」
「飛鳥」
言葉を遮ったのは、間違いなく意図的なもので。
でもそれを指摘するには、その声は余りにも虚が満ちていた。
「俺はお前に、ずっと嘘をついていた。お前をお前自身の夢へ導くかのように騙った。お前の理想の大人であるように偽った。……飛鳥、俺はな。お前に俺のような大人になって欲しくないんだ」
「それは、どういう……」
「少し、昔話をしようか」
そう前置きをすると、彼は小説のページをめくるように滔々と、異国の書物を読むようにどこか遠いところを見るような目で語り始めた。
昔々あるところに、夢に燃える少年がいた。
別にそう高望みをしていた訳じゃなかった。それでも、自分には特別な力があるんだと、何かを成し遂げることが出来るんだと信じて、色々なことに挑戦していた。器用貧乏な自分でも誰かに認めて貰いたくて、懸命に懸命に努力した。
でも、ダメだった。
よく「努力は裏切らない」って言うだろう?
あれは嘘だよ。努力は裏切る。
無慈悲に、冷酷に、事務的に。
教科書に載るような偉人になりたかった訳じゃない。ただ、自分の目標くらいは叶えてみたかった。でも努力をする度に必ず、身体が壊れて、心は磨耗していった。
俺は、諦めた。
諦めたんだ。
誰かにお前は頑張ったと言われたかった。だからもうやらなくていいんだと言われたかった。そう自分に言い聞かせたかった。立ち止まってしまいたかった。
そしていつしか立ち止まった。
破れたイフの欠片を未練がましく持ちながら、何をするでもなく口だけは達者で。
何を為すでもなく、ただただ先へ行く仲間たちを眺めていた。
どうせ夢は叶わないのだと、分かったようなことを口遊みながら、ただただ怠惰に過ごしていた。
ここの社長に拾われてなきゃ、俺はそのまま無為に死んでいったんじゃないかと、今でも思うことがある。
理不尽が嫌いだった。
不平等が嫌いだった。
不公平が嫌いだった。
そして何よりも、それに負けた俺自身が誰よりも嫌いだった。
だから俺はきっと、お前が思うような大人なんかじゃ、なかった。
「……でも」
長い永い独白の後、彼は何かを振り払うように続けた。
「俺はここで、希望に出会った」
冷え切ったもう片方の手のひらで、彼はボクの右手を優しく包んだ。
「……本当は、これは言わないつもりだったんだけどな」
苦笑いを浮かべながらそう言うと、ボクの手を軽く握りしめる。
脆いガラス細工を触るかのように、恐る恐る。
「飛鳥。お前は、俺の理想なんだ。俺はお前に、かつて喪った夢を見た。青臭くて、痛々しくて、捻くれて、それでも尚、世界へ叛逆しようと抗う若い力を見た。自分の考えに固執しすぎることも、他人に全てを委ねてただ流されるようなこともない、立ち止まることを知らない一筋の月明りを見た。……俺はお前に、救われたんだ」
その言葉が、ボクにはとても信じられなかった。
プロデューサーはいつもボクを導いてくれた。壁を乗り越えるための翼をくれた。解を見つけ出すための材料をくれた。彼はいつだってボクの前に立つ、強い大人だと思っていた。
「ボクが……キミの、理想……?」
理解しかねるといったボクの顔を見て、プロデューサーは刹那瞳を伏せた。
「『双翼の独奏歌』の時だって、本当は俺も怖かった。お前たち二人の関係を一度土台から壊してしまうのが、逃げ出してしまいたいほど怖かった。誰よりも現状に甘えていたかったのは俺だった。……それでも俺は、お前達に俺の二の舞になって欲しくなかった」
頭の中で全てのピースが繋がっていくようだった。いつだってプロデューサーは、ボクの「痛さ」を受け止めて、前を向けてくれた。それはきっと、彼がかつての自分に伝えたかった悔悟(ことば)だったのだ。誰よりも強く見えた彼は、誰よりもその弱さをひた隠しにしてきていた。
「……そして何よりも、このことを告げるのが怖かった。俺の下らない贖罪(ゆめ)を、お前に背負わせたくなかった。お前の夢を俺のエゴイズムに利用していることを、お前に、知られたくなかった」
「……それが、キミの仮面の理由だったのかい」
「あぁ」
彼は静かに頷くと、そっと両手をボクから離した。触れていた手の冷たさが、今は彼の決意と覚悟を示していたのだと理解る。
少し落ち着こう、とプロデューサーに促されるままに、ボクはソファへと戻った。給湯室からは珈琲豆を挽く音が聞こえる。しばらくすると、彼は芳ばしい香りの立つ二人分のマグカップを持ち、ボクの向かい側へと座った。
差し出された珈琲は、一見すると単なるカフェ・オ・レのようで、恐る恐る口に含むと、苦味の中に仄かな甘味が広がるのを感じた。
「……美味しい」
「それはどうも。砂糖の代わりに蜂蜜を少し入れてある。俺が疲れた時にいつも飲んでる飲み方だよ」
「子供扱いしないでくれ、などと言える空気ではなさそうだね」
「ははは、それもそうだ」
ひとときのコーヒーブレイク。
先程までの荒れていた心を、優しい蜂蜜の甘さが包み込んでゆく。彼もまた、この時間を味わっているようだった。
「そういえば結局、悩み事ってなんだったんだ?」
つい先程まであれほど空虚な目をしていたことが嘘だったかのように、穏やかな表情で彼は問うた。
「……今思えば、そう大したものではないさ。ただ少しだけ、世界の重みに膝を付きそうになっただけだよ」
「受験か?」
「ふふ、舐められたものだな。これでも模試はA判定、センターの自己採点も必要十分な数字だった。この事務所の無駄な人材力には感謝しなければね」
僅かに微笑み交わした後、仕切り直すようにボクはほうと一つ溜息をつく。
働き者の空調は、部屋の空気が冷え切らぬよう気を利かせてくれていた。
「……でも、全くの無関係という訳ではないかな。ボクたちは否応無しに大人になることを強いられているのだと、実感してしまっている。『二十歳過ぎればただの人』と言うけれど、これほどまでに実体を持つ感覚だとは思っていなかったよ」
「と、いうと?」
「今までは、疑うことなく進むことが出来た。ボクは特別な存在足り得るのだと。ヒトという枠すら超えた《偶像》にさえ、キミと共にボクはボク自身を昇華することが出来た……だが、時の流れというものは非情で、非常だ。ボクにはもう、『14歳』という特権は無い。生憎とボクは異星人ではないから、永遠に14歳で在り続けることなんてできない」
「時間の流れは止められない。それに若い頃っていうのは、不思議と恐れを知らずに無謀が出来る。『若気の至り』って奴だな」
「そう、だからきっとこれは現象としては『正気に戻った』と呼ぶのが正しいのだろうね。……そして、往々にして夢から醒めると待っているのは現実だ。それはボクを容赦なく押し潰して、日常に稀釈しようと襲いかかって来た。……無性に不安になったんだ。ボクは本当に此処に在るのか、此処に在るボクは何者なのか、と。キミならば、仮面の下の"ボク"を見てくれると、思った」
「……すまなかった」
「ああいや、いいんだ。咎めるつもりはないし、ボクの方こそすまなかった。感情の制御が出来ていなかったよ。……それに、今まで隠されてきたキミの言葉を聴くことができたからね」
彼がバツの悪そうな顔をしたので、慌てて否定する。
いくら荒れていたからといっても、あれほどまでに感情を露わにして声を荒げたのはいつ以来だろうか。不思議と、心の靄は薄れていた。
「大人と子供、か。いつかもそんな歌を歌ったね……あの頃からボクは、少しは大人になれただろうか」
独り言のように指向性を持たない呟きが、二人だけの部屋に霧散してゆく。
「……大人になるって、どういうことなんだろうな」
すると、半分ほどになったカップをテーブルに置き、ため息混じりに彼が呟いた。
大人になる。
成人する。子孫を残せるまで身体が成熟する。自分の行動に責任を持つ。働いて金を稼ぎ、自立して生活する。
これらはきっと、彼の求める答えとは異なる。
「俺もさ、考えてみたんだ。大人になるっていうのはきっと、自分の弱さに素直になれる事なんじゃないかな」
「己の無力さを受け入れるということかい?」
「いや、少し違うかな……自分が非力だと理解して、それでも捨てられない何かを抱いて前を向く、それが大人なんだと、俺は思う」
覗き込んだ黒い水面は何も語らない。ただ静かに、同心円の波紋を湛えていた。
「…………ボクにはまだ、理解らないな」
その感覚に心当たりがない訳ではない。雨に打たれ、己の愚かさを嘆いたあの日。世界はカッコつかないことばかりだと、失敗から学んだあの日。きっとボクと蘭子は、ひとつ大人の階段を登ることができたのだろう。
それでもボクにはまだ、全ての弱さを認めてしまう勇気は無かった。
「無理に分かろうとする必要はないよ。俺だって、本当に理解出来ているのかは怪しい。きっと、ブラックの珈琲の、苦味の中に美味しさを見出すようなものさ」
「ふふっ、なんて理解り易い喩えだろう。ボクにはまだ早いと言いたい訳だね」
「そういうこと。無理せず蜂蜜なりミルクなりを入れて自分なりに楽しめばいいんだ。……この先、何度でも様々な悩みに苛まれることになるだろう。そんな時は、今日の話を思い出してくれればいい。そうでなくとも、お前はもう一人じゃない。遠慮無く周りの奴らに頼ればいいさ」
お前は甘えるのが下手だからな、などと言いながら、彼はわしわしとボクの頭を乱雑に撫でた。その手はもう、先刻ほど冷たくはなかった。
「……子供扱いは遠慮願うよ」
「おっと失礼……それで、お役には立てたかな?」
思い出したように、彼がとぼけた顔で言う。
解は既に、この胸の暖かさが示していた。
「……勿論。心配を掛けて本当にすまなかった。でも、お陰で解が見つかったよ」
「聞かせてもらっても?」
「あぁ」
今度はボクがカップを置き、震えそうになる唇を引き締めて、努めて、努めて平静を保ったまま、率直に、思いの丈を告げる。
ーー嗚呼、こんなにも、素直になるというのは難しくて、むず痒いことだったのか。
「ボクは……ボク自身の力で、『キミの特別』になりたいと思った」
再びカップに口を付けていたプロデューサーは、ボクの言葉を聞くと突然噎せ返った。そして、目を丸くしてこちらを見る。
「ええっと……それは、その……飛鳥さん?」
「ボクだってもう18歳だよ。いつまでも14歳の少女じゃあないんだ。それに……」
「それに?」
「キミがボクに『理想(ユメ)』を見ていてくれる限り、ボクは世界にとって特別な偶像(そんざい)で在り続けられるんだから」
理解り切っていたことだった。
長々と綴られた題目のような証明の、その結末は実に単純なもので。
ボクが定義するのを恐れていただけで、この感情は随分と昔から存在していたのだ。
ボクは彼と真に並び立つことを欲していたのだ。アイドルとプロデューサーという関係だけでなく、相棒として、パートナーとして。
退屈だったセカイに色を与えてくれた彼に、ボクが特別であると認めて欲しかったのだ。
「えーーっと…………」
「優柔不断だね。相変わらずそこはキミの……」
返答に窮して唸っている彼をボクが咎めようとした時、部屋のドアがバタンと大きな音を立てて開き、誰かが飛び込んできた。
「やっほープロデューサーと飛鳥チャン!お話は終わったー?こっちはねーもう準備万端だよー志希ちゃんお腹空いちゃった!」
闖入者、もとい志希は怪しい白衣ではなくらしくない可愛らしいエプロンを身に付けていた。その身体からは微かに甘い匂いが漂ってくる。
「志希か……全くキミは、狙ったかのようなタイミングで……それでプロデューサー、これは?」
「そういえばまだちゃんと言っていなかったな。志希や蘭子たちにパーティの準備を進めてもらっていたんだよ……誕生日おめでとう、飛鳥。これからもよろしくな」
「……ありがとう、プロデューサー。忘れられているのかと思っていたよ」
「そんなはずないだろう?大切なアイドルの誕生日なんだから」
泣き出しそうになるのを堪えながら、「あれ、そっけないにゃ~」などと理解っているくせにからかってくる志希に引っ張られてパーティへと向かう。
会場には響子や葵が指揮を執ったらしい料理の数々の中央に、立派なホールケーキが陣取っていた。
『ハッピーバースデー飛鳥(ちゃん)!』
大きな祝福の声とクラッカーに揉みくちゃにされながら、ボクは饗宴へ身を投じる。
昔なら疎んでいただろうこんな騒がしいひと時も、今は悪くはないと思える。
宴のあと、ボクは例によって事務所の屋上の特等席に佇んでいた。空には微かに雲がかかり星の光を遮っているが、それでも構わないと言うように白の絵の具をひと雫落としたような月が己の存在を主張している。
「フフッ、やれば出来るじゃないか」
天上の演出家も時には空気を読むらしい。そんな傲慢な批評家を気取りたくなるくらいには、この朧月夜は美しく見えた。
「やっぱり此処にいたか」
うわ寒いな、と言いながら扉を開き寒空とボクの世界に入って来たのは、言うまでもなくプロデューサーだ。彼はまだ雪の残滓が僅かに残る凍り付いた屋上をしゃくしゃくと踏みしめながら、真っ直ぐにボクの隣へと並んだ。
「それで、どうしてキミは態々こんな所を訪ねてきたんだい」
「此処ならお前がいると思ってな。……まだ、返事をしていなかったから」
彼は珍しく照れ臭そうに頭を掻きながらはにかんだ。
「初心な中学生じゃあるまいに」
「笑うことないだろう」
瞬間視線が交わり、どちらからともなく笑みが零れる。不思議と、寒さは感じなかった。
「……俺もお前も、まだまだ子供だったみたいだな」
「あぁ、ブラックのコーヒーが飲めるようになるのはまだまだ先みたいだ」
月日が流れて、変わったものと、変わらないもの。代わり得るものと、代わり得ぬもの。
ボク達は今日、またひとつ代え難い変化を手にした。
「……いつか飲めるようになったなら、もう一度コーヒーブレイクに誘ってくれ。勿論、まだ冷めていなかったなら、な」
「……それが、キミの答えかい?」
「ああ」
「……成る程、それなら仕方がないな。折角の猶予だ、楽しませてもらうとするよ」
綻びそうになる頬をなんとか繋ぎ止めながら、ボクは真新しい蜂蜜色の月のペンダントを軽く握った。
「偶にはこんな夜も悪くないな」
「あぁ……月が、綺麗だ」
今はまだ、甘い夢の中だけれど。
約束はいつだって、ボク達のすぐ隣に在る。
疲れた時には少しだけ立ち止まって、思い出のアルバムを眺めればいい。
きっといつの日か、追憶は黒く澄んだ珈琲と共に。
以上です。以下は後記となります。
飛鳥、誕生日おめでとう
この一年間の生きる目的だった限定SSRも無事手に入りそして今日という日を迎えられたことで私は今年の目標の殆どが果たされてしまいました。
今回はかなり「プロデューサー」のキャラクターが濃くなっています。かなり迷いましたが、因果を繋げる上でどうしても必要だったので。
「こいつ担当悩ませんの好きだな」と思うかもしれませんが、私は愉悦部ではなくどちらかと言えばハッピーエンド至上主義者です。苦難の果てに何かを得る、そんな姿が大好きなのです。
私は彼女に出逢えたことで進みたい道へ一歩踏み出す勇気を貰いました。彼女がいなければ、今の私はどうなっていたのか、想像もつきません。私情込み込みの自己満足かもしれませんが、それでも私は彼女に感謝を伝えたい。
願わくば、年を経るごとに突き当たる悩みを彼女と共に乗り越え、成長していく彼女の隣にいたいものです。誰かモバマス世界への行き方を知っていたら教えて下さい。
それでは、次の一年での飛鳥の飛躍を祈り、生誕の祝福に代えさせていただきます。
関係があるかもしれない過去作
【モバマス】追憶は珈琲と共に。
【モバマス】追憶は珈琲と共に。 - SSまとめ速報
(https://ex14.vip2ch.com/i/read/news4ssnip/1504512248/)
>>2
長針と短針重なるの5時27分じゃね?(野暮なツッコミ
>>59
モバPじゃったか…
カッコつけて冗長な表現をし過ぎるもんじゃないですねやっぱり
あまり気にしないでもらえると幸いです
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