「ほ、ホントっスか? ホントに、アタシなんかで、プロデューサー、じゃなかった、あの……や、ちょっとまってください」荒木比奈は俯き、片手で額を覆う。「ちょ、ちょっと状況について行けてないっス」
比奈はそれから、うーうーうなったり、ぶつぶつよく聞こえない声でなにか呻いて、あるところで足元を見てぴったり止まった。
「あー、あー」比奈は足元を見たまま首を左右に振る。「すっごくよくない予感するっス。あとできっと、信じられないくらいだらしないことに……なると思うっス」
声は途中から小さくなった。
それから長い時間が経って。ようやく比奈は顔をあげた。
ほんのすこし濡れた目じりと、紅潮した頬と、笑っているのか泣いているのかわからない口角。
比奈はそのまま、両手を身体の前で揃えて、ゆっくりと頭を下げた。
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「比奈ちゃん、誕生日おめでとーう!」
グラスを合わせる音が小気味よく響く。
平日昼間のイタリアンレストラン、予約客専用の個室には三人のメンバーが集まっていた。
「あ、はは……お祝いいただきまして、ありがとうっス、へへへ……」
荒木比奈。本日で二十九歳の誕生日を迎えた。
「ぶっちゃけ、祝うって数字でもねーよな☆ でもおめでと!」
佐藤心。平日をリクエストしたのは心の都合に合わせたためだ。
「なにいってるの! いくつだって全力で祝うわよ! イェーイ!」
川島瑞樹。夜は仕事があると言っていたが、ワインを控えるわけではないようだ。
「で、どう? 比奈ちゃん、二十九歳を迎えた感想は? あと一年で大台ね!」
「おおう、瑞樹さぁん、いきなりエゲツねーっす……」
心が苦笑いしている。
「うーん……そっスねぇ……」比奈はグラスを置いて頭を掻く。「……えーと……その……」
普段の比奈とは違う、曖昧な態度に、瑞樹と心は顔を見合わせた。
「ちょっと、比奈ちゃん、……ほんとに気にしてる?」
「いやいやいや、違うっス!」
心配するような瑞樹に、比奈は顔の前で手をぶんぶん振って否定した。
「何かあった?」
心が尋ねると、比奈は二人の顔を見てから、はぁぁぁ、と長い溜息をついた。
「えーっと、何から説明していいやら……その、ずいぶん昔の話になるっスけど……」比奈は口をとがらせて、テーブルの角を見つめて続ける。「その、九年前に……プロデューサー……あ、『元』っスね……その、賭け、してまして。アタシが三十路になってもお互い独身だったら、その、け、結婚する、って」
しばし、沈黙がその場を支配した。
「ちょ、ちょっと、どーして二人とも黙るっスか! アタシはこんなに悩んでるっスよ!?」
やがて、沈黙に耐えなくなったのか、比奈が困ったような叫び声をあげる。
「なるほどね……」瑞樹はうんうんと頷いてから心の方を見て尋ねる。「どうしたものかしら?」
「いや、姐さん、ここはもう少し話を聞きだしてみましょうぜ」
「姐さんはやめてほしいわ……そういうわけよ、比奈ちゃん、くわしく教えて?」
瑞樹がにっこり笑うと、比奈は再び頭を掻いた。
「ええと……その、九年前の話なんスけど……からかわれたっス、男っ気が無さすぎるって。だから言い返したっス、彼女の一人もいないプロデューサーには言われたくないって、そこから軽く煽りあいになって、なんだかんだで、その……お互いに十年後相手がいなかったら、結婚しよう、それを絶対回避することを目的にお互いにいい相手を見つけて、早かった方が相手を大いにあざ笑おう……と、なったっス……で、期日の十年まで、あと一年っス」
「はぁ~」心は長い息をついた。「判定はどうですか、姐さん」
「そうね」瑞樹は空になったグラスを机に置きながら真面目な顔で言った。「早苗ちゃんならこう言うわね……『ギルティよ』」
「だぞ☆」
心が瑞樹に続く。
「いやいやいやいや、真面目に悩んでるっスよ、先輩方にアドバイスを頂きたいと思いまして」
「はーもう心ちゃん! もう一杯もらいましょう!」
「よいしょー☆」
心は注文用の端末を数回タップした。
「アドバイス……そうね、比奈ちゃん……その話……」瑞樹は神妙な顔で比奈を見る。「知ってたわ」
「マジっスか!?」
比奈は悲鳴のような声をあげる。
「はぁとも知ってるぞ☆」
「どこまで広まってるっスか!?」
「あと一年だな☆」
「うう……」
比奈は顔を真っ赤にして身じろいだ。
「そもそも、もっと早くくっつくもんだと思ってたわよ」
「へっ?」比奈は高い声をあげる。「いやいやいやいやいや、ないっスよ! 考えられないっス! だって、プロデューサーっスよ!?」
「『元』だろ? 今は社外で比奈ちゃんもアイドル引退してるし、頃合いだ! いっちゃえいっちゃえ♪」
「うう……あの人は、そーいうんじゃないっスよ……」
「あら」瑞樹は嬉しそうな顔をする。「じゃあ三つ質問するわ。彼はどーいうんなの? それから、どーいうんがいいの? それから、彼じゃダメなの?」
「あんまりイジメないでほしいっス……」
「はいはい」瑞樹は笑う。「回答は許してあげるわ。でも、ほんとに今までそういうチャンス、なかったの?」
「正直……アイドルになる前は人との関わりがほとんどありませんでしたし、アイドルになってから引退するまではお仕事でそんな暇もなかったっス。今も有難いことにお仕事は充実してますし、恋愛とか結婚とか……考える暇がなかったっス」
「仕事が恋人、ね。わかるわ。充実しているからこそ、よね」
瑞樹は溜息をつく。
「ま、悩め悩め☆ その年齢でマンガみたいな展開、ふつー味わえねーぞ♪」
「なんにも参考にならないっス……はあ、ちょっとお花を摘みにいってくるっス……」
比奈は肩を落として個室から出ていった。
残った二人はドアが閉まるのを確認してから、小声で話し始める。
「比奈ちゃんはああですけど、比奈ちゃんが気づいてないだけで男の影は両手で足りないほどありましたけどね」
「それで、敵さんはどんなご様子なのかしら?」
「マキノちゃんに調べてもらいまして、やっこさんも独身貫いてるようですぜ。おそらく期限待ちかと」
「律儀ねぇ……ブルーナポレオン担当してたときからそうだったけど、用意周到よね、社内で余計な波風立てないように余裕持って退社して、十分『一般人男性』になって、比奈ちゃんには待ってること黙ってるんでしょ?」
「正直、もうくっついてもいいんじゃないかって思いますけどね」
「比奈ちゃんならわからないままリミットに到達するかもしれないわね」
「おっと、それは……」
心が何か言いかけたとき、個室のドアノブが動く音がして、二人は同時に黙る。結局、入ってきたのはウェイターだった。
追加のワインと、あらかじめ店に予約を入れていた比奈のバースデーケーキがテーブルに置かれる。
ウェイターが去るのとほぼ同時に比奈が戻り、ケーキが運ばれたことをきっかけに、比奈のリミットの話はそのまま流れ、誕生パーティーが再開された。
一時間ほどの談笑のあと、三人は会計を済ませ店の前で別れた。心はタクシーを呼び自宅へ、瑞樹は仕事へ。比奈もイラストエッセイ原稿の締切りを控えているので、自宅へ戻ることにする。
ハンチングを深めに被り、比奈は春の街中を駅へと向かった。街中が新たな年度を迎えたあわただしさと、鮮やかさに溢れている。
そうしてまた季節が一周回ったら。比奈はそう考えて――そのまま、思考がストップした。
比奈には本当にわからなかった。
多くの物語を紡ぎ、自分自身がアイドルとして物語になった比奈は、恋愛も、結婚も、理解して表現しなくてはならない場面はなんどもあった。
しかし、それをどこかで自分の外のものとして見ていた。比奈はただ、あと一年で、自分になにか大きなことが起こってしまうという、漠然とした焦燥を感じていた。
駅の改札ゲートを越えながら、比奈はぼんやりと、瑞樹に問われた三つの質問を反芻していた。
『彼はどういうんなのか』。……判らない。一時は家族よりも繋がりが濃かった。でもそれは、ほかのユニットのメンバーや、プロダクションのアイドルたちも同じだった。
『どーいうんがいいのか』。……判らない。考えたこともなかった。アイドルになったときも、その先の仕事でも、常に選ばれる立場だった。人を選んだことがなかった。
『彼じゃだめなのか』。
「……」
その質問を頭に浮かべたとき、ホームに電車が進入してきた。強い風が吹いて、比奈は思考を中断し、帽子を押さえる。
停止した電車の扉が開き――比奈は目を見開いた。
電車から降りてきたのは、比奈の『元』プロデューサー。あと期限一年の約束の相手だった。
吹いた風に遅れて、どこからから飛ばされてきた花弁が、二人のあいだをひらひらと舞っていた。
つづく
昔、関わった人が本当にこういう約束をしてて「あいつとは結婚したくねぇ~」って言ってたのが面白かったので比奈にやってもらうことにしました。
続きは本当に考えてないので思いついたら続けます。
忘れたころに戻ります。
<2>
春。電車の窓の外に見える桜はもうだいぶ花が落ちている。カーブに差し掛かり、飛び込んできた西日に思わず目を細めた。
窓が背にくるよう体の向きを変え、手帳を拡げる。仕事とプライベートの予定がいっしょくたに書き込まれた見開きの月間スケジュールページ、今日の日付には小さく星のマークが書かれていた。
元・担当アイドル。荒木比奈、二十九歳の誕生日。手帳を見ても見なくても、今朝から頭の片隅にあって離れない日付だった。
「……あと、一年……」
誰にも聞こえない程度の声でつぶやく。鼓動がにわかに大きくなる原因は、期待よりもプレッシャーの方が大きいと自覚していた。
比奈は、当時担当していたアイドルの中ではもっとも気安く接することができるアイドルだった。だから、気のゆるみがあったのかもしれない。『十年経ってもお互いに独身だったら結婚する』。雑談から発展した不用意な約束。発言したという事実はもう消すことはできない。
それでも、最初はそこまで重くとらえていたわけではなかった。比奈なら適当なところで相手を見つけるだろうと思っていたからだ。
不用意な約束から五年が経った頃には、約束の重さは何倍にも膨れ上がっていた。比奈の芸能人としての人気は高まり、一方で比奈には相変わらず、男の影の欠片もなかった。というか、比奈が自覚していなかった。
さらに、二人のあいだだけで交わしたはずの約束はいつのまにか周知の事実になっていた。大方、比奈が酒の席ででもこぼしたのが広まったのだろう。悩んだ末、比奈より先には身を固めないと密かに決めたのは、仕事が充実していたのでさほど辛いとは思わなかったのが幸いだった。
それから一年かけて、少しずつ身の回りの準備をし、プロデューサー時代から打診のあった美城の関連会社に転職、現在に至る。
約束の十年まであと一年。いまだに比奈と男性の噂は聞こえてこない。
もう一度手帳に書いた星を見つめる。比奈をはじめとした、元担当アイドルたちのうち何人かとの私的なやりとりは不定期に続いている。比奈に祝いのメールを送るか否か。他のメンバーには気軽に送っているから、比奈にだけ送らないというのもどうにも気持ちが悪い。
まったく、どうにも複雑な関係性を作ってしまった。
幸いなのは、比奈自身がこの約束をそこまで重くとらえていないようであることだった。このままあと一年が過ぎ、約束の履行を申し出てみれば、笑い飛ばされて終わり、というのも十分にあり得る展開だ。
しかし――それで、いいのだろうか?
そこまで考えると、頭が活動をやめる。ここしばらくはずっとこんな調子だった。
ぐるぐると考えているあいだに電車は降りるべき予定のホームに着いていた。営業先へのルートを頭の中で思い描き、開いたドアを降りる――
「――あ」
降りたホーム、目の前には、さっきまで頭の中で思い描いていた元・担当アイドル、荒木比奈の姿があった。
「え、ええっ!」比奈は驚いたような声を挙げる。「な、何してるっスか!? こんなところで」
「それはこっちのセリフ」乗降客の邪魔にならないように場所を移動する。「仕事だよ、これからつぎの取引先」
「あー、そーっスか、そーっスよね、へへ、へ……」
比奈は恥ずかしそうに笑う。
それからちらりとこちらを見て、すぐに目線を外した。顔が少し赤くなっているようだ。誰かと酒を呑んでいたのかもしれない。
「比奈こそなにしてたんだよ、オフだったのか?」
「そーっス、瑞樹さんと心さんに……と、えーっと、一緒にゴハンしてたっス」
「あー……」
その二人が何を話題にしたのかは想像に難くない。
「あっ」比奈ははっとしたような顔をする。「あー、行っちゃったっス……」
電車のドアが閉じ、発車していった。
「おっと、悪い」
「いえいえ、こっちこそ、仕事中に引き留めて申し訳ないっス」
「ああ、そうだった、すまない、また機会があればな」
また、と言ったのは社交辞令みたいなものだ。プロデューサーを辞めた一般人がプライベートで元アイドルの芸能人と会っていい道理はない。
時刻を確認する。そして同時に思いつく。偶然でも直接会ったならちょうどいい。いま、祝いを済ませてしまえばいい。
「そうだ、誕生日おめでとう、比奈」
そう、軽く口にしただけだったのだが。
「へ、ひぇっ!?」
比奈の声が裏返っていた。
「あ……」比奈はうつむく。ハンチングのつばで表情が隠れた。「そ、そうっスね……そういえば、アタシ、誕生日、だったっスね……ありがとう、ございます……っス」
「ああ。ばたばたしててわるいな、あとでプロダクションになんか送っとくよ、それじゃ」
妙に歯切れの悪い比奈の様子が気にかかったが、時間が差し迫っているのも事実だ。
「……また、っス」
言いながらも最後までこちらを見ようとしない比奈を尻目に、俺は改札へ向かう階段を降りた。
降りながら疑問に思う。比奈は誕生日だということを忘れていたような口ぶりだった。誕生日だというのに、瑞樹も心も比奈を祝わなかったのか? いまさら祝う歳でもないということだろうか。
考えても答えは出ないので、その疑問はそのまま自然と頭から消えた。
そうして、偶然の再開ののち、つつがなく仕事を終えて自宅に戻る。ジャケットを椅子にかけてネクタイをゆるめ、冷蔵庫から片桐早苗が商品イメージキャラクターを務ている缶チューハイを取り出して、プルタブを開け、テレビのスイッチを点けて、ソファーに身を沈めた。
と、携帯電話にメールの着信が入っているのを見つける。
送信者名を見る。どうも今日は、前の職場に縁がある日らしい。
メールの文面にはシンプルに『いま、ご自宅ですか?』とだけ書かれていた。簡単に『そうだけど?』と返信をする。
送信終了したのを確認し、缶チューハイをあおる――と、それを飲みこむより早く、携帯電話が震えた。メールではない、通話の着信だ。
俺はむせそうになりながらあわててチューハイを飲みこみ、電話に応答する。
----------
比奈たちと別れてテレビ局での仕事を終え、スタジオの楽屋に戻った川島瑞樹の携帯電話に、メールの着信を知らせる表示があった。
送信者は心だった。瑞樹は携帯電話を取ると、メールを表示する。
「さっきの誕生会で二人のときに言いそびれたんですけど、リミットまで波乱もなにもないってことはないですね。ライバルがいます。それは」
そのあとに続いた名前を見て、瑞樹は目を細める。
「そりゃ、そーよね……わかるわ。てか知ってたわ、それも。ふふ……ゲームやアニメならともかく、現実ってもっともっとたくさん人間関係があって、複雑なのよね。さあて、どうなっちゃうのかしら」
誰もいない楽屋のなか、瑞樹は携帯電話を見つめて、やれやれ、と呟いた。
----------
「――はい、もしもし」
「あの、突然電話して、ごめんなさい」
「いや、いいけど、どうした?」
元担当プロデューサーとはいえ、アイドルが一般人に電話をかけるのは、よほどの事態だ。
「その……」電話の向こうの声は一瞬だけ迷ったような声を出し、続ける。「再来月の七日……」
電話の声はそこで迷うように止まった。
頭の中で日付を検索する。六月七日。思い当たることがひとつある。
「私、オトナになるんですよ。お酒も呑めるようになります。……ずっとずっと前、約束したの、覚えてますか? オトナのお酒、教えてください!」
こんどは、はっきりとした意志と、それから勇気を感じる声だった。
六月七日は、佐々木千枝の二十歳の誕生日だ。
つづく
年内には完結できるよう頑張りたいけどさすがにちょっと無理かも、また後日。
<3>
「……芸能人として一番いい時期だから、心配は心配よ。正直に言って、本当は止めたい。でも……私も、千枝がずっと抱いてる想いは知ってる」電話の向こうで、千枝のプロデューサーは、低く、冷静な声で話す。「だから、マスコミに抜かれるようなことだけは避けて。できる限り協力するから」
「うん、ありがとう……それじゃあ」
千枝はそう言って、携帯電話をテーブルの上に置いた。
ひとつ深呼吸して、もう一度携帯電話を取る。次にかけるべき相手は、千枝の「元」プロデューサー。千枝が所属していたユニット、ブルーナポレオンを担当していた。今はプロダクションを離れ、別の会社で働いている。
――千枝ではない女性との約束のために。
千枝は緑色の通話マークを操作する。
数回目のコールで、電話がつながった。
「――はい、もしもし」
懐かしい声。千枝やほかの元ユニットメンバーになにかいいことや大きな仕事があるたびにメールでの連絡はもらっていたが、最後に直接話したのはもう一年以上前のことだった。
千枝は口角が上がっているのを自覚する。
「あの、突然電話して、ごめんなさい」
「いや、いいけど、どうした?」
優しい口調だった。あの頃のままだ。鼓動が早くなった。
「その……再来年の七日……」
ずっと前から用意していた言葉なのに、胸の奥でつっかえて戻ってしまいそうになる。千枝は電話を持っていないほうの拳を強く握って、自分を奮い立たせた。
「私、オトナになるんですよ。お酒も呑めるようになります。……ずっとずっと前、約束したの、覚えてますか? オトナのお酒、教えてください!」
声に出した瞬間、椅子に座っているのに足元が崩れるような感覚に陥る。
「……ああ……」
一瞬の間のあとの戸惑うような声。実際には二秒と経っていないだろうに、それを待つ時間は恐ろしく長く感じられた。
「そっか、約束……約束、な……」
曖昧な返事。無理もない。まだ子どもだった千枝がオトナぶってした発言に対する、その場を収めるための回答を今になって約束だからと言って持ち出すほうがどうかしてる。
でも。千枝にとっては、ずっと胸にしまってあった大事な大事な約束だった。
「……いくつか、条件をつけるよ?」
真摯な声が帰ってきた。
「はいっ」
最初の関門を突破できたことに、千枝の返事は安堵と嬉しさですこし震えた。
「一つ目。六月七日のその日はさすがにだめ。二十歳の誕生日は大事な記念日だから、家族と過ごすこと。過去とはいえ大切なお嬢さんを預からせてもらった身として、その日を奪ったらご両親にも顔向けができなくなるよ。二つ目。今のプロデューサーに必ず報告すること。元プロデューサーでも、いまは単なる一般人だからね。それから最後。二人きりじゃなくて、かならずほかに誰か人がいること」
「一つ目と二つ目は、わかりました。でも、最後の条件は、嫌です」緊張で飛び出しそうな自分の心臓を押さえるように、胸に手を当てる。「二人きりが、いいです」
「……」
間が空いた。顔を見なくても、困っているのがわかる。
千枝は次の言葉を続ける。
「大丈夫です。誰にも怪しまれたりしない場所があるんです」
これも、ずっと前から用意していたものだ。二人きりで会うのを断られるのは判っていた。あの人は優しいから、千枝の経歴に傷がつきそうなことは避ける。だからそれを満たすための手段をはじめから用意していた。
電話を終えて、千枝はそのままバスルームに向かった。
約束は取り付けた。誕生日から一週間あとのオフの日。『ほぼ』二人きりで過ごせる場所を提案して、ついに折れさせることができた。
熱いシャワーを頭から浴びて、千枝は項垂れて両手で顔を覆うと深く深く息をついた。
「オトナになるのと、ずるくなるのは、違うよね……」
つぶやいた声はシャワーの水滴に溶けて消えた。
わざわざ、今日のこの日を選んだ。大切な人達の運命を決める、最後の一年のカウントダウンが始まる、この日に。
みんながみんな、大切な人と結ばれるとは限らない。コドモの頃は判らなかった。大好きな人と結ばれることができるのは一人だけだということの意味が。
コドモの頃は考えもしなかった。大切な人と、大好きな人を争うようになるなんてことを。
千枝は鏡に映った自分の顔を見る。
そして、ぶんぶんと首を横に振った。
「うん、暗くなっちゃだめ! 千枝、がんばろう!」
自分が一番好きの気持ちが大きいと示す。ただ、それだけ。
千枝は自分を奮い立たせる。はやくオトナになりたいと言うたびに、あの人はたくさん食べて大きくなれよと言って、頭を撫でてくれた。
あの頃から背は伸びて、体つきは女らしく丸みを帯びた。
そうして、大人になった顔と身体と、そして心で、千枝は今を戦っている。
千枝はブルーナポレオンの当時メンバー、松本沙理奈に教わった『オトナのポーズ』をとってみる。
当時コドモだった千枝にとってオトナだった女性たちは言っていた。オトナは誘惑するものなのだと。
今の千枝なら、これで大切な人を誘惑することができるだろうか。
「オトナになった千枝を、見てもらうんだ!」
千枝はそう言って、鏡の向こうの自分に笑いかけた。
----------
「うう……」
比奈はひとり、自室の作業机に突っ伏して唸った。
「ぜんぜん進まないっス……」
パソコンのモニターには真っ白な画面が表示されている。締切が近いイラストエッセイの原稿だった。
集中して原稿を終わらせたい。なのに、頭の大部分を占めているものが邪魔で集中できない。
比奈は口をとがらせて、スタイラスペンを指ではじいて机に転がした。
「めちゃくちゃ意識してるっスね、アタシ……」
昼間の駅でのことを思い出し、比奈は自分の頬が熱くなるのを感じた。
「……でも、ほんとのほんとに、わかんないっス……」
力なくつぶやく。
恋愛とか結婚といったものは、特別なものだと考えていた。比奈自身と誰かの関係が大きく変わり、これまでの誰よりも近い距離を許すパートナーになること。そのことに現実感が伴ってこない。
瑞樹に問われた『彼じゃだめなのか』という質問の答えはずっと出ない。比奈は思う。恋愛や結婚は『彼じゃだめなのか』ではなくて『彼じゃないとだめだ』ではないのか。少なくとも、これまで芸能界でなにかを演じ、表現する仕事においては、恋や愛はそう表現されるものだった。
彼じゃないとだめなのかどうか。それを真剣に考えるには、ぬるま湯に浸かりすぎてしまった。九年のあいだに、約束のことをあまりにも大勢に知られてしまったし、約束を覆すほどの運命の出会いじみたものは、ついぞここまで起こりはしなかった。
あと一年で自動的に運命が決まるということを多くの人が知っているという事実は、比奈から運命を決めようという意欲を隠してしまったのかもしれない。
このままだと、比奈自身の気持ちすらよくわからないまま、結婚しなくてはならなくなる。
「こーいうのも、マリッジブルーって言うんでしょーか。ハハ……」
乾いた笑いが漏れる。流されるのは、自分のことを想っても、相手のことを想っても、居心地が悪かった。
「どーしたら、いいっスかね……ていうか、そもそもあっちはこの約束のこと、覚えてるんスかね……?」
比奈は呟き、机に突っ伏したまま目を伏せた。
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飲み干したチューハイの缶を置いて、深く息をついた。
千枝の想い知らなかったわけではなかった。しかし、ここまで積極的にアプローチしてくるとは思わなかった。子ども扱いしすぎていたかもしれないと反省する。
大人になろうとしている千枝との会話は、素直に嬉しいものだった。今をときめくトップアイドル、佐々木千枝。その成長の一端を担っていたということが誇らしい。
携帯電話で千枝の現在のプロフィールを見る。プロフィールの写真は髪を長く伸ばし、落ち着いた印象の青いワンピースにカーディガンを纏っている。すらりと伸びる細く白い手足。もともとの清楚さを活かすようなメイク。整った大人の容姿の中に少女のような鮮やかな若さを兼ね備え、強い魅力を感じさせる。成長した佐々木千枝の姿。もう立派な一人の女性だ。
けれども、その姿を見て思うのは、親類や仲間に抱くのと同じ、敬意や嬉しさといった感情だった。異性に惹かれるときのそれではない。
実際に千枝に会ったら、考えも変わるだろうか。目を細める。頭の中には昼間に出会った比奈の姿もちらついていた。
もういちど、深く息をつく。
「あと、一年……」
もしも、比奈との約束をしていなかったら、千枝に惹かれていただろうか?
無意味な仮定だった。
今更、比奈との約束を反故にできるような状況じゃない。
しかし――比奈が約束の履行を望んでいるかどうかも、また不明だ。
そんな状況で、千枝の想いにも応えないまま、比奈の結果待ち、という失礼極まりない理由で一年も待たせることができるか――?
「あー……」
髪の毛をぐしゃぐしゃと掻く。アルコールが回っているようだった。
「……今日は寝るか」
一度に多くのことが起こりすぎた。もっと落ち着いて考えるべきだと言い聞かせ、一時的に課題から目を背けることにする。
シャワーを浴びようと、ソファーから立ち上がったときだった。机に置いた携帯電話が振動する。メールを受信していた。
「……先輩?」
表示された名前は、美城プロダクションの先輩社員だった。当時はプロデューサーで、いまは異動と出世をして人事部長をしているはずだ。
メールを開く。そこには、予定の合うときに一度美城プロダクションに顔を出してほしい、という旨が書かれていた。
つづく
ちゃんと終えます終わらせます、あと長くとも3回で。また次回!
<4>
五月の下旬。やや大きな仕事が片付き、肩の荷が下りたタイミングで美城プロダクションに赴いた。約束の時間に少し遅れるかもしれないので、プロダクション内のカフェで待っていてほしいと言われている。費用はプロダクション持ち。
カフェに到着すると、いくらかの客に混じって、ふたつの見知った顔があった。
一人は松本沙理奈。大きく肩を出したファッションが意識しなくても目に入る。カフェには社内の人間がほとんどとはいえ、芸能人としての自覚を疑うほどに目立っていた。
もう一人は荒木比奈。沙理奈とは対照的に比奈は群衆の中の一人に紛れているが、沙理奈と同じテーブルに着いている時点で、カモフラージュは意味をなさなくなる。
「あれっ? ナニやってんのこんなとこで! こっちおいでよ! ほらっ!」
沙理奈に見つけられ、テーブルに来るように促された。ざっとあたりをのテーブルを見渡して、待ち合わせの相手が到着していないことを確認してから、沙理奈たちのテーブルに着く。
「久しぶり。変わらないな、二人とも」
「座ってよ! ひっさしぶりー! 元気だった?」
「どもっス」
比奈とはなんともぎこちないアイコンタクトを交わした。
「どうして来たの?」
沙理奈はメニューを手渡してくる。
「なんか、先輩に呼び出されてさ……あ、ブレンドのレギュラーサイズお願いします」
俺は通りかかったウェイトレスにブレンドコーヒーを注文する。
スーツのジャケットを椅子にかけながら、こんどはカフェの全体を観察する。一部の内装が新しくなっているが、大部分は最後に訪れたときと同じだった。店内の何か所かに『ウサミンデーは毎月17、27日!』と貼りだされている。
「菜々さん、まだここでやってるんだ」
「イベントの日だけね。うさ耳つけてウェイトレスしてるって。ここでお世話になったからって、ほとんどボランティアらしいわ。あの人も変わらないよね」
沙理奈が話しているあいだに注文が運ばれてきた。カップを手元に寄せ、ひと口含む。プロデューサー時代に飽きるほど飲んだが、いまでは懐かしい味だった。
「菜々さん、いくつになったんだっけ?」
「今年、17歳っス」
「17歳かー」
「17歳よねー」
三人それぞれが、しみじみと言い、それぞれのカップに口をつける。
「あ、そういえば!」沙理奈がはっとしたような顔で言った。「二人さ、あと一年で結婚するんでしょ!? もうすぐじゃない!」
「ぶっ!」
「っ!」
比奈と二人して口に含んでいた飲み物を吹きだす。さすがにこれは予想していなかった。
「沙理奈がなんで知ってるんだ!?」
「え?」
沙理奈はきょとんとしている。
それで察した。沙理奈の顔はそもそもこの件を秘密だとは思っていない顔だ。この話を知っているのは恐らく少数ではない。
「えふっ、ふっ……あは、は……」むせていた比奈は呼吸を整え、困ったように笑う。「まあ、あと一年ありますから、そのあいだに先に相手を見つけたほうの勝ちっス」
「あ……」
思わず短い声が漏れ出た。比奈は何も間違ったことを言っていない。なのに、なんとなく胸が痛んだ。
「そうだな。ま、比奈にそれができるとも思えないけど」
負けじと比奈を煽りながら、比奈の言葉を頭の中で繰り返す。そう、これは賭け。先に相手を見つける勝負。
「ふふん、それはこっちのセリフっス。一般人に戻っても彼女の一人もできないプロデューサーがあと一年でどうにかできるとは思えないっス」
比奈も目を細めて不敵に笑う。
「もーいいから二人とも期限とか無視してくっついちゃえばいいんじゃない?」
「なんでそうなる!」
「そうっス! 飛躍しすぎっス!」
沙理奈の軽い物言いに二人して食って掛かった。その必死さが面白かったのか、沙理奈はけらけらと笑う。
「だってさ、仲いいし。もう二人とも、ほかに相手見つける気なんてないでしょ?」
「そんなこと……!」
身を乗り出して反論しようとしたとき、座っていたテーブルの上に、何者かの手が置かれた。
驚き、そちらを見る。――先輩が立っていた。
「先輩。……お久しぶりです」
「よっ」先輩は相変わらずの軽いノリだった。それから、沙理奈と比奈のほうを見る。「お話し中悪い、ボクと約束しててさ。ちょっと借りていい?」
「どうぞー、たまたま偶然会っただけですし、ヨタ話しかしてませんでしたから」
そう言って沙理奈はいたずらっぽく笑い、比奈は納得いかないといった表情で口を尖らせた。
「ま、そんなに時間がかかる話じゃないからこの場でいいや。手短に言うよ。アイドル事業部にちょっと人が足りなくてね。有能なプロデューサーを探してる。美城に戻っておいでよ」
先輩はこともなげにそう言った。
「は?」
「へ?」
「えっ?」
比奈と沙理奈を含め、三人して思わず訊き返す。事態が飲みこめず、一瞬、沈黙がその場を支配した。
「ちょ、ちょっとまってください先輩」左手でこめかみを押さえ、右の手のひらを先輩に向けて、窮状を示す。「そんないきなり戻って来いって言われても、今の勤め先にだって……」
「ああ、そのことなんだけどさ、実はキミ、転職じゃなくて、出向扱いなんだよね」
「……は?」
「当時の話だよ。いくら自由競争って言っても自社の関連会社の社員を引き抜くなんてカドが立つでしょ? だから、先方の人事担当が美城のほうに挨拶に来たの。で、こっちとしても優秀なプロデューサーを引き抜かれるのは痛い、だから間を取って転職じゃなく出向扱いにして、美城に戻ってきてほしい時の保険をかけたってわけ。ちょうどプロジェクトが一段落したところでしょ? 先方にも話は通してあるから」
「……」
先輩が何を言っているのかはわかる。けれど、頭がついていかない。口の中でもごもごと事態を反芻しているあいだに、沙理奈がテーブルに手をついて立ち上がった。
「ちょっと待ってよ! せっかくプロデューサーが比奈ちゃんと結婚できるように美城辞めたのに、戻ってくるんじゃ結婚できないじゃん!」
「ちょ、ちょっとなに言ってるっスか、沙理奈さん!?」
比奈が悲鳴みたいな声を挙げる。
先輩は沙理奈と比奈をそれぞれ一瞥したあと、こちらを見て続ける。
「……『知らないよ』。ああちょっと訂正、落ち着いてね、松本さん。十年どちらも独身だったら結婚するって話は知ってる」
「先輩まで知ってるんですか!?」
思わず、悲鳴みたいな声が出た。
比奈に至っては両手で顔を覆っている。耳まで赤い。
「知ってる。ま、それはそれとして、キミが荒木さんとの結婚を考えて美城を辞めたつもりだったとしても、それは個人の個人的なことなんだから、美城には関係ない。……判るよね?」
先輩はあくまで平坦に、そう告げてきた。
「……はい」
返事をしながら、頭の中でぐるぐると複数のことを同時に考えていた。
そもそも転職ではなく出向だったのだとすれば、ずっと、美城の社員のままだったということになる。そうだとすれば、前提が崩れる。
不用意な約束がその期限を迎え、比奈と結婚するような事態になったときに、比奈に恥をかかせないためにその準備をしてきた。それが成立しなくなる。プロダクションの人間が元とはいえ所属のアイドルと結婚するなんて、許されはしないだろう。
そのことを考えた瞬間に胸に去来したのは、残念、という想いだった。そういう想いだったことに驚いた。もしも状況が結婚することを許さないならば、晴れて不用意な約束の履行を免れるはずなのにも関わらず、である。
となりの比奈を見る。比奈はじっと、口を小さく開けて、テーブルを見ていた。
――比奈は、どう思っているんだろう?
「でも、そんなの乱暴だよ! アイドルとプロデューサーじゃ、せっかくの約束が……」
沙理奈が先輩を睨みつける。先輩は両手を沙理奈に向けて「待って待って」と沙理奈を落ち着かせようとした。
「落ち着いてよ。会社としては『知らないよ』ってのは、なにもそういう約束を壊そうってんじゃなくてさ。えーと……キミのほうに聞くよ?」先輩はこちらを見る。「覚えてたらでいいけどね。美城の所属アイドルは恋愛禁止。……これは社則にある?」
「……ないです」
「そう。じゃあ、アイドルとプロデューサーの結婚を禁止するような社則は?」
「……それも、ないです」
「でしょ?」
先輩は涼やかな顔で言った。
「え?」沙理奈は意外そうな声をあげる。「ないの?」
「ないよ」先輩は沙理奈に微笑みかけた。「ていうか、人の心のことを規則で縛れないでしょ。仲のいい二人のどこからが恋愛かなんて定義できないし、気持ちがなければ肉体関係オッケー? それも違うよね。入籍していない事実婚はどうする? 縛れっこないんだよ、そんなの」
「……そっか。そうよね」
沙理奈は真面目な顔で頷く。
「アイドルがそうそう自由に恋愛してちゃ、仕事にならないのはそうだけどね。お題目とか、不文律みたいなものだから、会社が縛ってるわけじゃないよ。他社だって、芸能人とスタッフのスキャンダル、たまにあるでしょ?」
「じゃあ……」
沙理奈はこちらを見る。
じゃあ。
「あとは、本人達の気持ち次第ってこと。呼び出しに応じてくれてありがとね。正式な辞令とかは先方と詰めてちゃんと送るから。二人とも、よーく考えてね。結婚って、やっぱり大事なことだからさ」
先輩はそう言うと、テーブルに置かれた伝票を取って、レジへと向かってしまった。
残された三人ともが、去り行く先輩の後ろ姿を見て黙っていた。
なにが起こったのかを、改めて考えてみる。
これまで作り上げてきた「状況」は、なかったことになった。先輩はああ言ったけど、それでもプロデューサーと元とはいえ担当アイドルの結婚なんて、大きな問題になる。
つまり、中途半端な気持ちでは、結婚すべきではない。同時に、結婚できないということを残念に思った、という事実にも向き合わなくてはならなかった。
先輩は「結婚するな」とは言ってくれなかった。
比奈はどう思っているのだろうと考えて、比奈のほうを見る。
比奈もまた、真剣な眼でなにかを考えながら、自分のカップをあおっていた。そしてゆっくりとテーブルに置くと、バッグを持って立ち上がる。
「なんだか、色々あったっスけど」比奈はこちらを見ずに言った。「……アタシ、次の仕事あるんで、これで失礼するっス、その……二人とも、また、っス」
「あ、ああ」
「はーい、比奈ちゃんまたねー」
比奈はそそくさとカフェから出ていった。
「恥ずかしがらなくてもいーのに、ねぇ?」
沙理奈はニヤニヤとこちらを眺めている。
「沙理奈さ、楽しんでるでしょ」
「もちろん」沙理奈は悪びれずに言った。「面白いにきまってるでしょ、自分たちの気持ちに気づいてないのが自分たちだけだなんて、マンガみたいで」
「……」
言われて、黙ってしまった。すぐに肯定できるほど、まだ整理はついていない。けれど、否定することができないのも事実だった。
「フフッ、なつかしいなぁ、あのころ、アタシの自慢の武器でいくら誘惑したって、ぜんぜんなびかなかった。プロデュースはちゃんとしてくれたから文句はないけど、ずっと、比奈ちゃんのほうばっかり見てたもんね」
「……」
そうかもしれないと、考えていた。
「だからね」沙理奈は急に、真面目な声になる。「ちゃんと、向き合ってあげて。それは比奈ちゃんもだけど……二人に後悔は、してほしくない。さっき、煽ったのは謝るわ。でも、心配なんだ……約束だけに頼ってほしくない」
「身に染みたよ」
降伏のサインとして、深く息をついた。
「でしょ?」沙理奈は今度は急に、にんまりと笑った。「それでね、来月の千枝ちゃんとのデート、千枝ちゃんのコーディネートはアタシが手掛けるから!」
「ちょっ? ちょっと」
「オトナになった千枝ちゃん、女のアタシから見ても相当ヤバいよ? カラダも成長して、あれで迫られて落ちない男なんてどうかしてるって思う」
「いや、いや待って」あわてて両手で沙理奈を制する。「そっちの約束も漏れてるの!?」
「フフ、モテモテよねー、せいぜい悩んでね! さあ、十年の約束と、いま最も注目のアイドル、どっちを選ぶのかしら!?」
「沙理奈やっぱり楽しんでるよね!?」
「もちろん!」
沙理奈は心底楽しそうに言った。ここまで言い切られてしまっては、なにか反論する気も起こらなかった。
カップを持ちあげる。中のぬるくなったコーヒーと一緒に、いまは全ての想いをのみ込むことにした。
----------
比奈はカフェから離れて、美城プロダクションのミーティングルームへ向かう。打ち合わせやインタビューに使用することができる部屋だ。
仕事がある、と言ったのは本当だったが、仕事の相手である雑誌のインタビュアーが来るまではまだ数十分の時間の余裕があった。カフェを出てきたのは、比奈自身がどんな表情をしているのかわからないくらいに動揺していたからだった。
まだ誰もいないミーティングルームに入ってバッグを置くと、比奈は机に突っ伏した。
「……こんな形でアタシ自身の気持ちに気づかされるとは、思ってなかったっスね……」
比奈は自分の頬に手の甲で触れた。燃えるように熱かった。
元の肩書が取れて、プロデューサーに戻るかもしれないときかされた時、比奈は無意識に、約束の条件が崩れたと思い、それを残念にも思った。
結婚できないかもしれない、と思ったときに、心がかき乱された。
「そりゃそうっス。眼を背けてただけで、フラグ管理は完璧だったっスね、ハハ……」
ブルーナポレオンの担当プロデューサーと気楽に話せる間柄になった。
結婚してもいいと思える相手でもなければ、はじめから「十年お互いに独身だったら結婚する」なんて約束を取り付けたりはしない。
うっかり人に話して、それが広まっていくことで、約束で比奈自身を縛っていったし、相手のことも縛った。
瑞樹たちに話した自分の気持ちに嘘偽りはない。本当に、相手として納得できるのか、比奈にはわからない。しかしそれをしっかり確かめようとしなかったのは、放っておいてもリミットが来るという事実があったからだった。
「たぶん、人事部長サンも、わかってああ言ったっスね……憎らしいやら、申し訳ないやら」
比奈も少しではあるが、プロデューサー時代の人事部長のことを知ってはいた。敏腕で、狙った仕事は外さないし、アクロバティックなスタンドプレイのようでいて、すべてを丸く収める。
「沢山巻き込んじゃいました。アタシも、ちゃんと向き合わないと、失礼っスね……」
比奈は自分で呟いて、さらに顔が熱くなるのを感じていた。
アイドルになるまでは“非リア充”だったし、アイドルになってからは仕事が恋人だった。この年になって、男性との関係をどうしたらいいのか、本当に判らないのだ。たとえそれが、比奈にとって一番気やすい男性であったとしても。
「……今ならラブソングとか、もうちょっとうまく歌える気がするっスね」
比奈は部屋の中で独り、困ったように笑った。
つづく
あと2回で終えます。
次は千枝ちゃんががんばる予定。また後日。
乙
残り2回は少ないと思うんですけど……
>>27
どもどもありがとうございます!
一回当たりの文字量は決めてませんが、多くてもあと一万字以内で終えたいなと思っております。
たしかにまだやれそうな感じはする題材だとは思いますが、決着はつけますので!
「ようこそおいでくださいましたわ」
「あ、おじゃまします……」
薄い桃色のドレス姿の櫻井桃華が優美に微笑み、使用人とともに深く頭を下げたので、雰囲気におされて思わずこちらも頭を下げてしまった。
六月の中旬、佐々木千枝との誕生会を約束していた日。訪れていたのは櫻井桃華の邸宅だった。
桃華を担当したことはないが、千枝が当時ブルーナポレオンとは別に活動していたユニットに桃華も所属していたため、桃華のことはそれなりに知っているし、面識もある。
桃華もまた、年月を経て立派なレディに変貌していた。財界やメディアでの活躍は目に耳に入ってくるが、実物を目にすると、子どもの頃にはなかった、身に纏う高貴な雰囲気を肌で感じられる。
千枝の言う怪しまれない場所とは、櫻井邸のことだった。千枝が同じアイドル仲間の櫻井邸を訪ねることは不自然ではない。そして時を別にして一般成人男性が櫻井邸を尋ねることもまた不自然ではない。そういうレベルの邸宅だ。怪しまれず、邪魔の入らない二人きりの空間は、櫻井桃華の協力によって達成される。
すなわち、桃華は千枝の約束も想いも知っている。
五月、プロダクションに戻れと言われたあの日の一件から今日までで、比奈や千枝との約束が第三者に漏れていることは、もはやあまり気にならなくなった。それでも、さすがにここまでお膳立てされていると、真綿で首を絞めつけられているような気分になる。
「千枝さんももうご準備がお済みですわ。さあ、奥へどうぞ」
廊下の奥を示されて、靴を脱ぎ、奥へと進む。
「櫻井さんは、千枝の誕生日は?」
「先日お祝いさせていただきましたわ」
桃華は目を細めて微笑む。『だから同席はしない、千枝とは二人きりで会え』と目が話していた。
「お料理だけ、順次運ばせていただきますけれど、ご容赦いただけるかしら」
「……恐縮です」
費用は要らないと聞いていたが、この邸宅では出てくる食材の値段も計り知れない。払えと言われても困るが、全部持つ、と言われるのも逆に恐ろしくなる。
「こちらのお部屋ですわ」
使用人が扉を開く。
「千枝さん、お見えになられましたわ」
「はい」
千枝の返事がきこえてきた。
「ごゆっくり」
桃華はこちらを見ながら言い、部屋の中へ入るように手の平で示した。
一歩進み、部屋の中へ入ると、ゆっくりとドアが閉められた。
ふう、とひとつ息をついて、できるだけ平静を装って、部屋を見渡す。
十八畳ほどの広さの絨毯敷きの部屋だった。壁には数点の絵画と、暖炉のようにデザインされた空調機器、全体的な印象は華美ではなく落ち着いている。部屋の奥には大きな窓があるようだが、外から撮られないようにするためだろう、カーテンは閉じられていた。
「いやー、初めて来たけど、すごい家だ……な……」
思わず足が止まった。
佐々木千枝が、部屋の中心に置かれたテーブルの向こう側に立って、こちらを見てはにかんでいた。
目を奪われた。いや、目だけでなく、全身を釘付けにされた。
セミロングに編み込みの髪、透明なマスカラと薄めのチーク。片側の肩を出すワンピースドレスは身体のラインを美しく描き出し、スリットの入った長いスカートから白く長い脚がのぞいている。
大きな瞳がこちらを見ていた。
見られて、身震いした。プロデューサーとしての経歴が心のなかで叫んでいる。これは一人で見て良いものじゃない。この独占は社会的損失に等しい。すぐにでもこの姿の佐々木千枝という存在を広く世に知らせるべきなのに、なんてことをするんだ、沙理奈。
誇らしかった。よくぞ、ここまで成長してくれた。
「えへへ……来てくれてありがとうございます。わがまま言って、ごめんなさい」
千枝は破顔して、ぺこりと頭を下げる。その声を聞いて、ようやく現実へと戻ってこれた。
「ああ……気にしないで。座ろうか」
「はい」
四人掛けのテーブルに二人で向かい合って座る。カップルシートのような席が用意されていたらどうしようかと思ったが、さすがにそれは千枝の趣味でも桃華の趣味でもなかったようだ。
「とりあえず飲み物を……これ、呑んでいいってことだよな」
ワインクーラーで冷やされている瓶を取り上げる。どうやらフルーツワインのようだった。成人したばかりの千枝にも呑みやすいものが選ばれたのだろう。
オープナーでコルクを抜く。ふわりとした桃の上品な匂いが漂ってきた。これは桃華の差し金か、それともまた別の誰かか。考えてもしかたがないが。
「ほら、グラス」
「あ、はい」
千枝のグラスにフルーツワインを注ぐ。それから交代して千枝に注いでもらった。担当し、成人したアイドルに酌をしてもらえるという無二の経験を噛みしめる。
「えへへ、お酌する夢、叶っちゃいました」
千枝は嬉しそうに言いながら、瓶をワインクーラーへと戻した。
「じゃあ、さっそく乾杯しよう。成人おめでとう、千枝」
「ありがとうございます。乾杯」
お互いにグラスを持ちあげ、ひと口。上品な甘さが口の中に広がった。
「んん、美味いね」
「甘くて、美味しいです」
千枝はグラスを片手に微笑む。その姿がまた絵になっていた。
「仕事、忙しいんじゃないの?」
「そうですね、だから私の誕生日の周りの日は、早くからいまのプロデューサーさんにお願いして、大事な人達と会えるようにお仕事を調整してもらったんです」
それから、千枝とはしばらくの間、運ばれてくる料理を楽しみながら会話を続けた。
お互いの今の仕事のこと。千枝の今のプロデューサーのこと。今度発売される新曲のこと。ほかのアイドルや、引退した元アイドルたちのこと。
千枝はほんとうに、嬉しそうに話をした。
話しながら、何度かお互いにワインをお代わりする。千枝は二杯目を空にしたころからほんのりと上気し頬を染め、その姿が強い色気を感じさせていた。
一時間程度が経過しただろうか。デザートとコーヒーが運ばれてきて、お料理は以上です、食器は退室後に片付けます、と使用人が説明してくれた。
「ごちそうさまでした」
「ごちそうさまでした。どのお料理もとっても美味しかったです」
二人で礼を言うと、使用人は微笑んで恭しく頭を垂れ、部屋から出ていった。
「ほんとに、レストランで食事してるみたいだったよ」
言いながら、千枝のほうを見ると、千枝はじっとカップを見つめて、真面目な顔をしていた。
思わず、姿勢を正した。
千枝はゆっくり顔をあげて、こちらを見て、表情を緩める。
「……いただきましょう」
「そうだね」
それからは、無言でコーヒーとデザートを口に運んでいた。
その場を緊張が支配していく。
やがて、二人の皿とカップは空になる。
「……今日は、ほんとうにありがとうございました」
千枝は穏やかに微笑んで言った。
「こちらこそ、ありがとう。もう千枝のプロデューサーでもないのに、呼んでくれて」
「でも、私にとっては大事な約束でしたから」
千枝は真面目な表情で言った。それから、右手を胸に置いて、自分を落ち着かせるようにひとつ呼吸する。
「……私、オトナになりました。……コドモの頃は、オトナになったら、いろんなことができるようになって、緊張するようなときも、ドキドキしないでちゃんとできるんだろうって思ってました。けど……やっぱり、オトナになっても、ドキドキするんですね。……はぁ」千枝は再び、胸に手を置いてひとつ呼吸する。「いまも、すごくドキドキしてるんです」
そういって千枝は困ったように笑う。
「……うん」
どういう表情で受け取っていいのか、わからなかった。大人になった千枝よりもさらに大人であるはずなのに。無力さが歯がゆかったが、せめて千枝の緊張を和らげるために、穏やかな表情を努める。
「すごくドキドキしてるんですけど、今日はほんとうに、すごく嬉しかったんです。……だから、これからも、また……えっと、会って、欲しいです。昔みたいに、ううん、昔よりもっと近い距離で、一緒に、歩いていきたい……です」
最後はぎゅっと目をつぶって、千枝はそう言った。
それから目を開けて、恥ずかしそうに目を細めて微笑んだ。
「……ありがとう」礼を言って、それから頭を下げた。「……ごめん」
放った言葉に圧し潰されそうになりながら、ゆっくりと顔をあげた。千枝は自分のカップをじっと見つめて、何も言わなかった。
おたがいに沈黙したまま、約一分。気の遠くなるような長さの一分だった。
あとはもう、このまま去るしかない。千枝の想いを断ってしまえば、なにもしてやれることはない。ゆっくりと、立ち上がる。
千枝に背を向けて、歩き出そうとしたときだった。
椅子の動く音がした。それからぱたぱたと走る音が聞こえ――着ていたシャツの後ろを、千枝に摘ままれた。
「……約束、だからですか?」
千枝は、絞り出すみたいな声でそう言った。
----------
優しそうな人で良かった。
最初にプロデューサーに会ったとき、千枝はそう思った。
それからは頼れるオトナとして信頼し、好きだと思うようになった。
その好きが、時間を経るにつれ、ほかの人に向けている好きとはすこし違うことに気づいた。
千枝がその気持ちに名前を付けたのとほぼ同じころ、千枝は比奈とプロデューサーの約束を知った。
だから、千枝は知っていた。千枝の気持ちはきっと受け入れてはもらえない。
それでも、千枝は進むことにした。
「……ごめん」
その言葉が耳に入って、千枝は息を止めた。
辛くて、痛くて、悲しかった。
でも、そうなるとわかっていて、千枝は今日のこの約束を取り付けたていた。
千枝自身の気持ちに折り合いをつけないと、前に進めないし、素直に二人を祝うこともできないと思っていた。
だから、辛くて痛くて悲しくても、後悔はなかった。
椅子の動く音が聞こえた。千枝を残して出ていくつもりなのだと思った。たしかにそうするしかない。
だから黙って送るしかない。理性では千枝はそう考えていた。
けれど。
気が付くと、千枝は立ち上がっていた。
きっと、今日が最後になってしまうから。
だから、もうすこしだけ、わがままを許してほしい。そう千枝は願った。
追いかけて、去ろうとする背中のシャツをつまむ。
「……約束、だからですか?」
言いながら、空いている方の手で顔を覆った。そんなことを聞いてどうするんだろう。自分を叱りたかった。でも、頭の中はぐちゃぐちゃで、自分自身を制御できなかった。
「そう、思ってた」穏やかな声が聞こえた。「でも、いまは違うよ。約束があるから守るんじゃなくて、自分の意志で約束を守りたいんだ。……そう気づけた。最近、ようやく」
「プロデューサーさん、千枝……オトナになって、オトナになってもプロデューサーさんといっしょがよくて、千枝のほうが、ずっとずっとプロデューサーさんのこと好きだって、自信、あります」
なにを言っているんだろう。みっともない。こんなの、オトナじゃない。そう思いながら、千枝は自分自身を止められない。
「それでも……プロデューサーさん……は……っ」
情けなくて、目から涙がこぼれて、千枝は背を丸めた。千枝の頭が、すぐ前にある大きな背中に軽く触れる。
こんなことを言いたいんじゃなかったのに。
そう思っていると、千枝の頭に触れていた背中が離れ、それから、大きくて暖かい手のひらが、そっと千枝の頭を撫でた。
「千枝、ごめんな」
その声を聞いて、名前を呼ばれて、千枝の心は、不思議と軽くなった。頭の中のもやもやが氷解して、消えていく。
やっぱり、優しい。そう思いながら、千枝は頭に乗せられた愛おしい手のひらに意識を集中させた。
コドモの頃は、よくこうして頭を撫でてもらった。
オトナは、簡単に相手に触れたりしないし、できない。
あんなにオトナになりたいと思っていたはずなのに。今は、もう一度コドモに戻って、あの頃みたいに頭を撫でてもらいたいと思っていた。
この手が離れたら、きっともう、二度と、触れてはもらえない。
ああ、このまま時が止まってしまえばいいのに――
そう、千枝が思っているあいだに、暖かい手のひらは、そっと千枝の頭を離れた。
さようなら、と千枝は心のなかで呟いた。
そうして千枝は涙を拭かないまま、笑顔で言った。
「ありがとうございます、――お幸せに」
千枝は、大切な人の幸せを心から願うことができるのを、嬉しく思っていた。
二人きりの誕生日会の相手が去って数分後、千枝が残っていた部屋に入ってきたのは桃華だった。桃華は涙で濡れた千枝の顔を見ると、何も言わずに穏やかに笑って、千枝に向かって両手を広げた。
千枝はその腕の中に飛び込み、桃華と抱きしめ合った。桃華が優しく千枝の頭をぽんぽんと撫でると、千枝は再び涙を流した。
しばらくそうしたあと、二人は身体を離す。千枝はへへ、と笑って、椅子に置いていたハンドバッグから何かを取り出した。
「……あら、千枝さん、それは……」
千枝が取り出したのは、先割れスプーンにハンカチを巻いて、スプーンの先に顔を描いた人形だった。ひと昔前に流行ったおまじないで、持っていると悩みが解決し、解決したら人形を次の人に渡すのがその人形のルールだった。
「これ、次の人に渡さなきゃ」
「懐かしいですわね。……でも、千枝さん……?」
桃華は千枝の顔色をうかがう。千枝の悩みが、千枝の想いが届かないことだったとしたら、想いを受け取ってもらえなかった以上、千枝の悩みが解決したとは言えないためだ。
「ううん、桃華ちゃん。私の悩みはちゃんと解決したよ」千枝は首を横に振る。「私の悩みはね、大切な人が、自分の気持ちに素直になれないことだったから」
そう言って、千枝は精一杯微笑んだ。
桃華はまぁ、と言って、もう一度千枝を抱きしめた。
「桃華ちゃん」千枝は涙声で言う。「えへへ、オトナになるって、難しいね。私、オトナになれたかなって思ってたけど、まだまだコドモだったよ」
「千枝さん」桃華は千枝を抱く両手に少しだけ力を込める。「子供から大人に成長すると、自分と他人が違うものだときちんと区別できるようになるといいますわ。大好きな人がたとえ自分と交わらないとしても、その幸せを願える千枝さんは、立派な大人だと、わたくしは思いますの」
「うん、ありがとう、桃華ちゃん」
千枝は桃華に感謝した。
千枝は思いだす。はやくオトナになりたいと千枝が言うたびに、あの人はたくさん食べて大きくなれよと言ってくれた。
うれしいことも、かなしいことも、ぜんぶぜんぶ飲みこみ、吸収して、もっとオトナになるんだ。
千枝はそう、自分の心に刻み込んだ。
<つづく>
次回が最後です。
あと一万字以内って言ったのに前回と今回で一万字は超えそう。
「あ、うぅ……っ」
荒木比奈は苦しそうな声を挙げる。
目には涙がにじみ、荒く息を吐いていた。
比奈の背中を撫ぜてやる。できるだけ、優しく。
「大丈夫か?」
「……大丈夫じゃ、ない……っス」
比奈はふーーっと獣のように長く息を吐いた。
「申し訳ないっス、こんな……恥ずかしいところを……でも、あとは、一人で、大丈夫スから……」
「いや、さすがに放っておくわけには」
「……見られてる方が辛いっス」
「……わかった。戻ってこなかったら様子見に来るから」
手に持っていた水の入ったコップを比奈に渡して、居酒屋の男女兼用トイレの扉を閉じた。
比奈は完全に酔い潰れていた。
無理もない。原稿が近い締切りのためにほぼ徹夜状態で呑み会に参加し、呑み会中は川島瑞樹、片桐早苗、高垣楓に加えてその三人の酒に完全に流された三船美優に四方を固められていた。この布陣なら潰れないほうが逆に怖い。
「あら、おかえりなさーい、比奈ちゃん無事?」
川島瑞樹から声がかかる。赤い顔をしているがまだ意識はしっかりしてそうだ。
「無事じゃないです。見られていたくないって追い出されたので、戻ってこなかったら様子を見に行きます。ところでこれ、誰の歓迎会でしたっけね」
「帰ってきたプロデューサーくんの歓迎会よ!」
「なぜ主役が酔っ払いの介抱をするはめに……」
「あら、役得でしょ? もしくは、予行演習かしら!」
瑞樹がそういってウィンクする。思わずため息が出て、肩をすくめた。
歓迎会とはいえ、気安いメンバーの呑み会が始まって一時間半もすれば、こんなものだろう。歓迎というのは呑み会を開く口実に過ぎない。
介抱に立った時と比べて、それぞれが座っている席もばらばらになっていたので、適当に開いている席に座り、近くに居た松本沙理奈、水木聖來と談笑する。やがて、比奈はトイレから戻ってくると、座敷に倒れ込んだ。すぐに上条春菜が水を持って比奈の傍に向かった。とりあえず、任せておけば大丈夫そうだ。
ざっとあたりを見回す。比奈を潰した面々は、こんどは人事部長の先輩のところに大挙していた。あれだけのメンバーに囲まれれば、先輩もただでは済まないだろう。人のことを振り回したのだから、大いに振り回されてほしい、と心の底で密かに思った。
別の席では、千枝が小日向美穂と一緒にホッケをつついていた。千枝は会が始まる前、笑顔で話しかけてきた。きっと、これからはそういう距離感を保つという合図なのだろうと解することにしている。
「ふふっ」
座椅子の背もたれに体重を預ける。
七月の中旬。数年ぶりに復帰した職場は、今日も騒がしいが、明るく、夢と活気にあふれている。
「……で、つまり一人で送って行けと」
恨みがましい声色をわざと作って言うと、上条春菜は困ったように笑った。
「あはは、その、瑞樹さんたちが、介抱はプロデューサーさんに任せなさいって」
「はぁ……」
肩を落とす。歓迎会が散会となっても熟睡したままの比奈は、呼ばれたタクシーの座席に放り込まれていた。他のメンバーは帰宅と二次会に別れたが、どうやらほぼ全員が、比奈の介抱を押し付けることには同意したらしい。
「比奈の住所、変わってないよね?」
「大丈夫だと思います、他の皆さんも引っ越したとかは聞いてないって。そういうわけで、はい、眼鏡どうぞ」
春菜は眼鏡を差し出してくる。
意味が判らず、思わず首をかしげた。
「いや、比奈さんのですよ! 私のこと、ところかまわず眼鏡を薦める変な女だと思ってませんか? ……酔っぱらったままで、眼鏡が曲がったり割れちゃったりしたら、大変ですから。必ず守ってあげてください、大切な眼鏡!」
力強く言われ、眼鏡を握らされる。ひとまず胸ポケットに挿しておくことにした。
「じゃあ、私も皆さんと合流しますので! 今日はおつかれさまでした!」
「おつかれさま」
春菜はベレー帽をかぶると、手を振ってその場から去って行った。
「さて……運転手さん、お願いします」
助手席に乗り、比奈の自宅住所を伝え、シートベルトを締める。
車が走り出したとき、比奈がううん、と苦しそうに呻いた。
脱力した人間は本当に重い。
エレベーターを使っても、比奈を部屋まで運ぶのは一苦労だった。部屋の前で比奈の身体を揺すり、鍵を出させる。
比奈はぐずるような声を挙げて、自分のバッグをまさぐり、鍵を取り出した。おそらくは殆ど無意識の行動だろう。
ドアを開けて、部屋の電気を点けて、ほとんど引きずるようにして比奈を部屋の中に運ぶ。部屋の中は多少散らかっていた。徹夜するほどの締切前後ならこんなものだろう。あまり周りを見ないように気を遣いつつ、ソファーのところまで運び、床に丸まっていたタオルケットを拡げてかけてやる。
「……さて……」
時計を見る。終電まではまだ余裕があった。比奈の状態も案じつつ、これからどうするか考えていたときだった。
「う……」
比奈が声を挙げたので、そちらを見る。なにが起きているかわからないようだった。
「潰れてたから運んできた。大丈夫か?」
「頭……痛いっス」
「気持ち悪くない? 吐きたいとかは?」
「それは大丈夫っス……」
「なんか買ってこようか」
「水と……ウコンの……栄養ドリンクを……」
「了解。あ」胸元に入れていた比奈の眼鏡を思い出す。「これ、預かってた。眼鏡どうぞ」
「……それは春菜ちゃんのセリフっス……」
比奈は手を伸ばして眼鏡を受け取る。
「余裕ありそうだな。よかったよ。コンビニ行ってくる。鍵借りるよ」
「はい……」
比奈の部屋の鍵を取って、部屋を出た。
----------
自室の部屋の扉が閉まった。
「う、う、ううううう~~~なんで、なんで居るっスかぁぁ~~?」
言いながら記憶をたどる。
居酒屋で四杯目のチューハイのジョッキが運ばれてきたところまで覚えている。その次はトイレの記憶。その次が上条春菜にいろいろな眼鏡をかけられて遊ばれてる記憶。その次が一本締め。その次は、信頼する手に支えられてこの部屋へと歩いてきた記憶。
「……誰かほかに介抱しようって人はいなかったんスか」
恨みがましくこぼしてみるが、呑み会でもずっと、例の約束のことをいじられ続けていたような気がする。それならこの結果はむしろ必然か。呑まされすぎたところまでお膳立ての一部なのだろうと比奈は思った。
「借金が膨らんでどうしようもなくなるって、こういう気持ちっスかね……」
溜息をついて、はたと思い出し、部屋を見渡す。一角に、出発前に乱暴に取り込んだだけの洗濯物が散らばっている。上着も下着も区別なく。比奈はばたばたとそれらをランドリーバッグに詰め込んで、寝室へと放り込んだ。
ほかにも部屋の中に綺麗と言えない場所は多かったが、酔いと疲れで気力のほうが潰えた。あまりにも見苦しいと感じたところだけ簡単に整えておく。
まだ動くたびに頭が痛むので、比奈はそのままソファーに膝を抱えて座り込んだ。時刻は夜の十一時前。
もう一度部屋の扉が開いたとき、どんな顔をしていればいいのか。比奈はむー、と唸る。
それから、ふっと肩の力を抜いた。
「……千枝ちゃんは、すごいっスね」
千枝が玉砕したという話は、たまたまプロダクション内で出会ったときに、千枝自身から聞かされていた。それにどういう意図があったのかはわからない。ただ、千枝はすごく落ち着いていて、憂いも悔いもないような表情をしていた。いつも比奈のことを大人だと評していた千枝に、追い抜かれたと比奈は感じた。
自ら行動した千枝に対し、比奈は九年経った約束に縛られて、身動きが取れずにいる。
外的要因でもなければ、結婚しないで許される状況ではなくなっている。
結婚したところで、そこに比奈や相手の気持ちがどれだけあるのか見えずにいる。
じゃあ、それを確かめる行動をすればいい。その勇気が出ずにいる。
「で、たくさんお膳立てされて、いまがそのチャンスっスか……?」
ぼやけた頭で玄関の扉を見つめていると、ドアノブが動いた。
「ただいま」
「おかえりっス……お金」
「いいから、ほら」
ペットボトルの水を手渡される。軽く指が触れた。
ああ、と比奈は思う。
家に入られても、指が触れても、嫌だというようには思わない。
続けて、ぱき、と音がして、比奈が開けやすいように半分だけ開栓された栄養ドリンクが渡される。それも受けとり、飲み干す。
「……あ」立たせたままだったことに気づいて、あわててソファーに置いていたクッションを渡す。「散らかってて申し訳ないっス、締切で掃除する暇もなくて」
「おかまいなく。気分は?」
「少し、落ち着いたっス」
二重の意味を込めて、比奈はそう返事をした。
そう。落ち着いていることができるんだ。
「散々だったな、さすがにあれだけ囲まれちゃ逃げ場もない」
「あはは……」比奈は俯く。「まぁ、逃げっぱなし、でしたし……」
言いながら、両手で握っているペットボトルの蓋を見つめた。
「……あの、約束のことだよな」
「そうっス」
比奈がそう言うと、二人の間に沈黙が流れた。
「あと、一年もないんだな。結局、二人ともここまでずっと独身だった」
「そっスね」
「……どうする? 約束、九年経って広まったけど、なしにしたっていいと思う。一生のことだから」
「……千枝ちゃんのこと、聴いたっス。よかったんすか?」
言いながら、比奈は自己嫌悪した。
「……比奈は、相手がこんなやつでもいいのか?」
質問には答えてもらえないまま、穏やかに微笑みながら言われて、比奈はゆっくりと、視線を落とした。
ふー、と息をつく。
……いいに決まっている。
何年、苦楽を共にしたと思っている。楽しい時も、辛い時も、嬉しい時も哀しい時も一緒だった。いつでも比奈や比奈達が輝けるように助力してくれたことを知っている。ありとあらゆる面倒なことを全部担って、あっちこっちに頭を下げて、嫌なクライアントにも笑顔で接して、感謝の言葉がいくつあったって足りやしない。この人がいたからここまでやってこれた。この人が信じてくれなきゃ今の比奈はいない。これで文句を言おうなんて罰当たりだ。半端な血よりも深い絆で結ばれている。そういう人と一生を誓い合うことができる、その相手に選んでもらえる、それのどこに文句がある。
いいに、決まっている。
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目の前の比奈は、うつむいたままで、ゆっくりと口を開いた。
「プロデューサーこそ、いいんスか、こんな、酔い潰れてどうしようもなくなってる、二十九で浮いた話もない干物女で」
その言葉を聞いて、思わず頬を掻いて、すこし上のどこでもないところを見つめた。
……いいに決まっている。
誰よりも比奈や比奈達の魅力について知っている。比奈の魅力を作ってきた。プロデューサーが自分の担当アイドルを一番に愛せなきゃ嘘だ。一番なんだと確信してここまできている。本人よりも。いまだって、これからだって、その気持ちが揺らぐことなんてない。干物女? 上等、干物だろうがオタクだろうが酔い潰れていようが、比奈に魅力があることに変わりはない。好きに評すればいい、プロデューサーとして愛すべき担当、愛すべきアイドルであることに一点の曇りもない。そして比奈は、比奈達はそれに答えてくれた。感謝を表す言葉が見つからないほどに感謝している。実りある毎日をくれたことを心から嬉しく思っている。そういう人間が人生の伴侶になることに、反対なんてするはずもない。
いいに、決まっている。
しかし、迷いが尽きるわけではない。
だから、口に出して言う。千枝がそうしてくれたように。
それができるくらいの信頼を築いていることは、自信がある。
「比奈、正直に言うよ。正直に言って、わからない」
比奈はこっちを見た。不安そうな目をしていた。
「比奈と結婚は、できると思う。でもそれが、好きとか恋なのかときかれたら、それは判らない。もうわからないくらい、家族と同じくらい深い時間を共有してきた。千枝の気持ちを断ったのは、比奈との約束があったからなのかといえば、そうだと言えると思う。もし比奈と千枝、二人とした約束が逆だったら? 瑞樹と、沙理奈と、春菜と約束していたら? ぜんぶもしもだけど、問われたら、わからない、その人と結婚するかもって言うと思う。でも人生ってそうなんだと思うんだよ。自分と相手の一対一じゃなくて、数え切れないほどのたくさんのことがあって、そういうのに影響されてできてる。過去は変えられない。それで」
一度呼吸を整える。
「……それで、いま、約束したことも、それから九年経ったことも、周りに約束を知られてどんどん状況が固まってることも、ぜんぶ、大切な人達との大切な関係でてきてるから、大事にしたい。いま、この状況にあって、約束を守りたいんだ。これまで生きた証だから。だから……その相手が比奈なら、嬉しいよ」
言い終わったとき、比奈の目からは不安の色が消えていた。
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言葉を聞いて、比奈は絡まっていた紐が解けたような気分になっていた。
結婚が現実味を帯びたころに、思わず比奈自身とプロデューサーのことだけを考え、そして周りのことを考え、躊躇した。プロデューサーと担当アイドルから、人生の伴侶に形を変えることは、プロデューサーやほかのアイドルたちとみんなで作った関係を、断ち切ってしまうものなのではないかと。
でも違った。結婚は二人だけのものではなかった。たくさんの仲間たちの中にも、比奈とプロデューサーがした不用意な約束が、もはやひとつの歴史として根付いている。その相手がプロデューサーであることに、何らの文句もない。
例えば、この約束をしたのが千枝とプロデューサーだったとして、瑞樹、沙理奈、春菜、ほかの誰かだったとして。比奈は全力で祝福しただろう。
「そうっスね」比奈は穏やかにプロデューサーを見つめた。「たまたま、アタシがプロデューサーと約束した。でも、その『たまたま』は、大事な『たまたま』になってたっス。それの相手がプロデューサーなら、……アタシも、嬉しい、っス」
さすがに、最後の言葉を発したときは、恥ずかしくてプロデューサーのことは見れなかった。
「だからさ」プロデューサーは、仕切りなおすように言う。「賭け、しよう」
「へっ」
「もし、二人とも、あの約束の日から十年経っても、独身だったら。そのときは、結婚しよう、比奈」
「は……」
言われて数秒、頭が真っ白になり、それから急に、両の頬が熱を持った。
唇が震えた。
この流れで、それをもう一度わざわざ言うということは、つまりそういうことだ。
心臓がバクバク鳴った。
「ほ、ホントっスか? ホントに、アタシなんかで、プロデューサー、じゃなかった、あの……や、ちょっとまってください」どうしていいかわからなくて、片手で額を覆う。「ちょ、ちょっと状況について行けてないっス」
比奈自身にもなんだかよくわからない言葉が口からぼろぼろこぼれた。
「あー、あー」もうわからなくなって、首を左右に振る。「すっごくよくない予感するっス。あとできっと、信じられないくらいだらしないことに……なると思うっス」
もうだらしないことにはなっている自信はあった。だからせめて、一矢報いてやりたいと思う。
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比奈は両手を身体の前で揃えて、ゆっくりと頭を下げ、それから、目じりに涙を溜めて、震える声で言う。
「あんなに女の子に囲まれて、九年間彼女の一人もいないプロデューサーっスもんね」
「九年間男っ気がなさすぎるやつに言われたくない」
笑って言い返してやると、比奈は口を尖らせた。最高に可愛いと思った。
「……帰るよ」
「……いろいろ、ありがとうっス」比奈は頭を下げて、それから恥ずかしそうに言う。「……その、今日のことは、ノーカンっていうか、……もうちょっと、アタシがちゃんとしてるときに、もう一回……一応、その、記念、っスから」
思わず吹き出すと、比奈は「なんなんスか」と腹を立てた。
そのとき、二人の携帯電話が同時に振動する。
画面を確認して、お互いに顔を見合わせて、それから二人で笑った。
携帯電話には、さっきまで呑んでいた、愛すべきプロダクションの面々の写真と、来年は呼べ、の文字が書かれていた。
これからも、ずっとずっと歩いていく。
二人だけではなく、仲間たちと、みんなで。
<おわり>
どもども。読み返したらちょっとミスも見つかりまして、不覚……! 精進いたしますです。
お読みいただき感謝。
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