【艦これ】提督「風病」 2【SS】 (432)

バグで続きを投下できそうにないので新スレを立てました。
こちらは風病の続きとなっております。

・前スレ
【艦これ】提督「風病」【SS】
【艦これ】提督「風病」【SS】 - SSまとめ速報
(https://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1423330282/)

・twitter
https://mobile.twitter.com/hl_zikaki

新スレでもよろしくお願いします。



SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1501948834






第三章
「霹靂」






 罪を犯すということは、まっさらなキャンバスに絵を描いてしまうようなものである。

 元の、何も描かれていない状態に戻すことはできない。

 だが、消せないとしても薄めることは可能である。

 例えば時間。時間はすべての万能薬であるという表現はまさに的を射ており、それは罪に対してもあてはまってしまう。場合によっては、思い出にまで昇華されてしまうことだってある。少年時代の悪行は、大人になれば酒を進める題材として扱われるようになるのはよくある話だ。

 しかし、時間は遅効性である。緩く穏やかで、人間の良心に期待し依存する。全ての人間に平等に与えられる薬ではあるが、それで許される罪というのは実に軽い。

 だから、重い罪に対しては時間に合わせて、もう一つ劇薬が必要となってくる。

 それは、その罪に相応の罰を指す。

 だから俺は、浜風へ劇薬を与えることに決めた。不本意ではあるが、それが責任のある立場についた人間の果たすべき役割でもあるから。

 浜風は薬を受け入れた。不満など一つも漏らすことなく、穏やかに微笑みながら艤装を背負った。

榛名『――撃ち方、やめ! 両者元の位置に戻ってください』

 榛名のアナウンスが聞こえる。甲高い砲音が止み、海は静けさを取り戻す。

 二本の白波が引き合うように広がっていた。浜風と、対戦相手の深雪、両者の脚部ユニットのスクリューが作り出す人工的な波だ。両者はところどころペイント弾の粘っこい色味を体に浸み込ませて、ペンキを被ったかのごとき有様になっている。

 俺は双眼鏡の倍率を上げて、浜風を見た。

 一目見た瞬間、疲弊しきっていることが分かった。肩で息をして、航行が若干おぼつかなくなっている。疲労が足にきて震えているからだろう。無理もない。深雪との戦闘で三十一試合目だ。どれだけ屈強に鍛え上げた戦士であろうとも動けなくなってもおかしくはないくらいの対戦数である。

 苦し気に歪んだ浜風の表情をみていると、胸が締め付けられる。

 頑張れ。心の中でそう叫んでしまう。

 だが、声に出すことは許されない。喉から出そうになった声を、下唇を噛んで堪えた。

 この試合こそ、浜風に与えた罰なのだから。


 五十人組手。艦娘の演習試合において最も難易度の高い荒行の一つである。原則として一対一の決闘の形をとり、一試合の長さは三分であるが、大破判定が出ても続行不可能と判断されるまで試合は続く。その苦しさはまさに地獄と表現されるほどのものである。これに挑戦したものは過去十名ほどしかおらず、その中で達成したものは三名しかいないことからもそれは明らかだ。挑戦したもののほとんどは戦闘における負傷のみならず、脱水症状や肝機能不全などで演習終了後に入渠による治療を受けている。

 この荒行はあくまで『挑戦』の一種で、罰として実施するのはこれまでの事例にはない。それも当然、罰と言えば謹慎や体罰などが一般的だからだ。だが、浜風の犯した罪の重さを考えれば、通常の罰では到底贖えるとはいえない。俺はともかく、周囲はその程度では納得しない。浜風の今後の生活のためにも、ここにいる者たちの多くを納得させる形で罰を受けさせる必要があった。

 その手段として、この荒行の実施を決めた。

 死刑に比べれば軽いかもしれないが、それでも誰も実施したがらないような苦行には変わりない。実際、この罰を実施するにあたって最初は眉を顰めていたものたちも、今では浜風の奮闘ぶりを固唾を呑んで見守っているし、応援するものまで現れている。

 この罰の実施自体は成功していると言えるだろう。

 ただ、問題は浜風が耐えられるかどうか、だ。

 俺は次の対戦相手を目にして、息を飲んだ。

 とうとう彼女の出番か。

 陽炎。

 赤い髪を靡かせる彼女の目つきは獣のように鋭い。浜風が疲弊しきっているからといって、一切の手心を加える気がないのだろう。鈍く光る鋼鉄の義手を揉んで、腰辺りに取り付けられた第一砲塔のハンドルを触っている。隻腕でも引き金を引けるように改造された障がい者用の特殊艤装。ハンドルの動きに合わせ仰角や方向を変えられるようになっており、砲身がすべて浜風へと牙を剥いた。

 周囲のざわつきが一層大きくなった。陽炎の気迫が波のように広がり、伝わっている。

榛名『両者、位置について』

 榛名の声が、少しだけ震えていた。

榛名『――打ち方はじめ!』


 陽炎が斉射を放った。轟音に叩きつけられる。頭の先から下腹まで電流のような震えが走り抜け、無意識に息を止めてしまう。息を吐く間もなく連撃が加えられた。

 反応が遅れた浜風はなす術なく水柱に包まれた。いや、もはや水の壁というべきだろうか。浜風の姿が視認できない。

 陽炎は走った。第二、第三、最大戦速で接近する。陽炎の艤装は並の艦娘のそれよりも性能が高く、トップスピードに至るまでの時間が優に速い。卓越した運動神経と艤装適正をもつ彼女だからこそ扱える「特別製」だ。

 かなりの接近を許した段階で、浜風はようやく水柱から出てきた。右舷側に抜ける形で走行する。先ほどの斉射をくらったのか、新しい塗料がこべりついている。組手が始まって四度目の大破判定。普通の演習ならこの時点で終了だが、五十人組手はここで終わらない。

 三分間、陽炎の攻撃を堪える必要がある。

 浜風は肉薄する陽炎に気づき砲を構えた。ギリギリのタイミングである。砲身を陽炎の眼前につきつけ、引き金を引いた瞬間――。

 陽炎の姿が消えた。ふっと、瞬きをする間もなく、霧のように。

 上だ。陽炎は、浜風が砲撃を行うその瞬間に跳躍したのだ。空気抵抗も摩擦も慣性も重力も、すべてを忘れたかのような鮮やかすぎる動きだった。遠くから観戦している俺も思わず見失いかけるほどの常識を逸した回避行動。人間に、いや「船」である艦娘に出来る動きではない。

 会場が静まり返った。刹那のこと。空気が凍ったその一瞬、陽炎が浜風の真後ろに着地し、浜風の砲弾が水柱を上げた。

 二人の姿が、巻き起こった水の中に消えた。

時津風「な、なにが起こったの……?」

 時津風の呟きは、この場にいるほとんどの者の感想を代弁していた。

 戦いが始まってまだ二十秒も経っていない。

 俺たちの認識が追いつかない。

 浜風が、水柱を突き破って出てきた。


「……ひっ!」

 誰かの押し殺した悲鳴が上がる。浜風の右腕があり得ない方向に捻じ曲がっている。

 思わず口を押さえた。

 陽炎が、関節技で破壊したのだろう。

 歯を噛み締め、浜風は連装砲を構えた。が、水柱を切るような陽炎の鋭い蹴りが浜風の腕を跳ね上げた。軌道をずらされ、砲弾が空へと消える。瞬間、途切れることなく陽炎の反対の足が跳ね上がる。回転蹴りが浜風の眉間を捉えた。

 よろめく浜風。装甲の効果で打撃のダメージはほとんどないが、それでも寸瞬間の目くらましには十分である。

 着地した陽炎は浜風の腕を掴むと、勢いよく引っ張った。ぐんと伸びきった直後に足をかけ、浜風をうつ伏せに倒すとそのまま脇固めへと移行する。極まった。なんとか抜けようと足掻く浜風だったが、それを許すような陽炎ではない。鷹のように鋭い目つきで、体重をかけた。

 ゴムが千切れるような音が聞こえた。

 それは錯覚である。距離の関係上、聞こえるはずがない。だが、たしかに俺の耳には聞こえた。それだけ陽炎の関節技が見事に極まっていたということなのだろう。みんなが、小さく呻いた。

 見ていられなくて目を閉じた。

 これ以上はもう……もう無理だ。

 陽炎、すまない。

 俺は手を挙げて、無線を繋いだ。

提督「試合を中止しろ」




 
 
 廊下に乾いた音が響いた。陽炎の平手打ちが俺の頬で爆ぜたのだ。


 足から力が抜け、思わず尻餅をついてしまった。目の前が真っ白に染まり、鼓膜が痺れる。

 手加減されてはいるが、怒りの乗った一撃だった。重い。鍛えていない人間なら頚椎を痛めただろう。

陽炎「……失礼しました」

 陽炎が目を伏せ、謝罪を述べた。

陽炎「不敬を働いてしまいました。罰は、どんなものでも受けます」

提督「いや、いい」

 口の中が鉄臭い。口元を拭うと、立ち上がる。若干の立ち眩みを覚えたが、なんとか堪えた。赤く染まった袖を見ないふりして、陽炎の肩に手を置く。

提督「この件は不問にする。……こちらこそ、無理をさせてすまなかった」

 先ほどの五十人組手で、手加減をせず徹底的に浜風を攻撃した陽炎だったが、あれは俺の命令を受けてのことであった。

 浜風の無断出撃を不問にするためには、ある程度の材料が必要となってくる。五十人組手はそのための一つのカードで、それをさらに強化する手段が陽炎に下した命令だ。

 要は演出である。陽炎が浜風と旧知の仲であることは周知されていることだし、その陽炎が浜風相手に容赦のない攻撃を行い、徹底して「罰」を与えれば、周りも納得せざるをえなくなる。後日、浜風の件は不問にすると問題なく宣言できるようになるのだ。表面的な不満や反発が浜風へ向くこともなくなるだろう。
 
 だが、この命令はあまりにも悪趣味なものだ。言い換えるなら、公開拷問に加担しろと言っているようなものだから。陽炎が憤慨するのは当然だ。いくら理屈を述べようと、親友を痛めつけることを感情的な部分で納得できるわけがない。

 俺が頭を下げようとすると、陽炎は手で静止した。


陽炎「……もう、こんなことは二度とやりません」

提督「ああ」

陽炎「後は上手くやってください。提督なら、みんなを納得させられると思います」

 苦笑いを浮かべそうになった気持ちは、胸中に押し隠す。この事態の遠因は、俺の甘さと俺の「平等主義」にあるのだ。

 まったく、皮肉な話である。

 陽炎は、俺の手を振り払うように距離を取ると、窓辺に寄り掛かって海を見た。一雨くるのだろうか。重たく覆うような雲に仄暗い黒さが沈んでいる。アメジストの瞳が、切なげに揺れる波を受け止めていた。

 ぬるい潮風が、カーテンと俺たちを揺らす。

陽炎「浜風のこと、大切にしてあげてくださいね」

提督「約束するよ」

陽炎「本当ですよ? あの子は、ああ見ても繊細なんですから」

 たしかに、繊細かもしれない。

 ほとんど表情の起伏がなく、普段は凍るように冷静でニヒルだが、彼女の内面は誰よりも複雑で、しかし純粋だと思う。

 意味のない命令違反も、病室で取り乱したときのことも……あの、温もりを知ったときの涙も。

 浜風という少女の脆さが形となったものだ。

 ここにいるみんなと、変わらない。だからこそ、大切にしなければならない。守らなければならない。

提督「浜風は、俺が守るよ」

陽炎「……」

 陽炎が、小さく笑った気がした。

陽炎「なら、安心ですね。ここにいるみんなと同じように、守ってあげてください」

 頷くと、陽炎は踵を返して歩き出した。


陽炎「それでは、私はそろそろ仕事に戻りますね。先日の遠征結果のレポート、上げないといけませんし」

提督「そうだったな。明日までには提出してくれよ」

陽炎「ええ、ええ。分かってますとも。……それより、後ろに大きな猫が隠れていますから、気をつけてください提督」

提督「え?」

 ……猫?

 瞬きをしているうちに、陽炎は廊下の角を曲がってしまった。

 俺は首を捻りながら、振り返る。

浜風「……猫ですか、私は」

 廊下の角から、浜風がひょっこりと顔を出していた。猫と言われたのが少々不満だったのか、小さく頬を膨らませている。

提督「聞いていたのか」

浜風「ええ。本館についたのはついさっきなので、少ししか聞いていませんが…….」

 浜風は珍しく言葉を詰まらせて、こちらを伺うようにしている。

浜風「その……本当、ですか?」

提督「……なにが?」

浜風「私を守る、というのは……」

 遠慮がちに、上目遣いで、言葉尻を弱らせながら訊いてきた。頬に朱が差しているように見えるのは、廊下を照らす光のせいではない。

 なんとなく決まりが悪くて頬をかいた。

提督「それは……その、そうだな」

浜風「……」

提督「それより、浜風。身体は大丈夫なのか? さっきまで入渠して戻ってきたばかりだろ」

浜風「体調は大丈夫ですよ。……話を逸らさないで」

 ダメか。

提督「……えっと」

浜風「……」

提督「……本当だよ。なにがあっても、その……俺は浜風の味方だから」

 顔を伏せてしまったのは仕方がないと思う。

 恥ずかしいなんてものじゃない。浜風の顔を見ることなんて、とてもじゃないができない。


浜風「そうですか」

 浜風の声は少しだけ弾んでいた。

浜風「ふふ、提督が守ってくれるなら、とても頼もしいですね」

提督「……そんなことないよ」

 そんなことあるわけない。

 俺は頼もしさなんてものとは無縁の人間だ。

浜風「そんなこと、あります。あなたは、私に温もりをくれた人だから」

 それは、ただの錯覚にすぎない。盲目になっているだけ。

 そう思いながらも言えなかったのは、彼女が向けてくれる信頼に水を差すのが躊躇われたためである。怖かったのだ。昔から、俺はそうだ。期待を失うことに堪えられない。堪えられないのだ。

浜風「あの提督……。お願いが、あります」

提督「なんだ?」

浜風「もう一度、手を握ってください」

 まるでお菓子をねだる臆病な子供のように。甘く、それでいて遠慮を感じさせる声で、そう言った。

 顔をゆっくりと上げる。薄い朱色に頬を染めた浜風は、まるで瑞々しい果実のようであった。かつての死んだように冷たい少女の面影はそこにはない。

 静かに差し出された手を見る。淡い電灯の光を吸い込んだしなやかな手は、美しいの一言につきた。

 俺が躊躇っていると、浜風の眉が少しずつハの字を書き始めた。

 ええい、仕方がない。

 俺は浜風の手を取った。雪のように冷たい手であった。それが重ねられ、冷たさに挟まれる。だが、愛おしさを感じさせる手つきだった。

浜風「えへへ……」

 浜風の頬が綻び、解れた。

浜風「温かいです、とても」

提督「……」

浜風「温かい……」

 じっくりと味わうように撫でられる。さすがに気恥ずかしくてたまらない。

 だが、浜風の笑顔を見ていると、離せなくなってしまう。

 死の病が取り払われた美しい笑顔を、少しでも翳らせたくないから。


雷「司令官」

 凍てつくように冷たい声がした。感情が欠片もない、抑揚というものを限りなく抹殺した声である。背筋を走り抜けた悪寒に、思わず肩が震えた。

 浜風の後ろに、雷が立っていた。

提督「い、雷……」

 廊下が暗くなったのは、雲がさらに深まったからではない。目に光がない雷の異様さに空気が支配されたためだ。

 浜風の手を振り払ってしまう。遠ざかった温もりを惜しむ小さな呟きが余韻を漂わせた。

雷「……執務室にいないと思ったら、こんなところで油売っていたんだ。仕事、まだ終わってないでしょ?」

提督「あ、ああ……」

雷「さっさと戻るわよ」

 雷は有無を言わさず俺の手を取ると、信じられないほどの力で俺を引っ張った。ぐん、と身体ごと持って行かれる。

提督「い、雷……。痛い、もう少しゆっくり……」

 雷は答えず、ずんずんと進む。

 背後から感じる鋭い気配は、苛立ちの具現化というべきもので。彼女はこうなると俺の言うことなどまったく聞きはしない。

 諦めて大人しく従うしかない。

 俺は浜風の方を見た。

浜風「……」

 青い瞳が、じっとこちらに向けられている。

 先ほどとは違って、感情の篭っていない瞳だった。

 彼女が何かを呟いた。

 何を言っているかは、分からなかった。


 

投下終了です

>>1です。お久しぶりです。
いろいろ忙しくて書けませんでしたが、これから少しずつ書いていきます。お待たせして申し訳ありませんでした。





 ■

 帝国歴二十九年、七月。

 雨しかない七月だった。

 晴れた日のことを思い出せないのは、雨の日以外のことをロクに覚えていないせいだ。とくに雨が多い月だったわけでもなかったし、蝉がたくさん鳴いていたのは記憶の片隅に残っている。普通と変わらぬ夏だったはず。

 だけど、その夏はあまりにも私の最愛の人たちが死にすぎた。そして、ことごとくその日が雨だったから、雨が頭の中に黴のようにこべりついて離れない。

 雨、雨、雨。濡れて垂れ下がる髪、頬を伝い首筋を流れる冷たさ、肌に張り付く濡れたシャツ。雨の嫌な記憶、そして感触や匂い。すべてが私を脅かす。

 第六駆逐隊のみんなを最後に迎えたのは、全部そんな嫌な思いに襲われるときの、暗く澱んだ港でだった。

 電を出迎えたときも暁を出迎えたときも、響を出迎えたときも。

 雨が煩かった。


 三人とも、リランカ島沖での対潜訓練に参加していた。秋の大規模作戦に向けて鎮守府全体の練度を上げるために行われた訓練だったと思う。第六駆逐隊は、その筆頭訓練候補に選ばれたのだ。

 最初、それを聞いたときは三人とも嬉しそうにしていた。提督から期待をかけていただいていることが、光栄だったから。あの奥手な電も、鼻の穴を広くして興奮していたほどだ。舞い上がった私たちは、絶対にこの訓練で強くなって大規模作戦に参加する艦隊に選ばれようと誓い合った。

 そのときの気持ちは、忘れられない。小さいからと小馬鹿にされ続け、それでも毎日頑張ってきた成果が花開こうとしていたのだ。それがどれだけ私たちの誇りを呼び起こしたか。どれだけ私たちの心が熱くなったか。

 だが、その喜びは線香花火のように一瞬で消えた。

 誰一人。誰一人も、無事に帰ってきてはくれなかった。私以外の三人はそれぞれ個別に出撃し、それぞれが無残に戦死した。

 まず最初に犠牲となったのは電だった。

 彼女は、艤装の不具合で航行不能となったときに、戦艦タ級の主砲の直撃を受けた。一瞬で、電はバラバラになってしまった。随伴艦が助ける暇なんてなく。

 帰ってきたのは、辛うじて残った「腕」だった。

 その「腕」を、三人で出迎えた。雨が降っていたのに、誰も傘をさしていなかった。ずぶ濡れになりながら呆然と「腕」を見つめていた。暁が膝から崩れ落ちて、「腕」にしがみついた。


暁「電……電? 嘘よね? いくらあんたでも、こんなに小さくないわよ。ね、電。本当は、どこかに隠れているんでしょ?」

 暁の言葉には、誰も答えなかった。答えられるはずがなかった。

 「腕」を持ち帰ってきた出撃部隊のみんなに、暁は「電はどこ? 電を出して?」と語りかけていた。みんな、俯いて口を噤んだ。誰も何も言わなかったが、暁はそれでも縋り付いていた。

響「暁……」

 響が、暁の肩に手を置いて首を横に振る。暁はその手を払い、出撃部隊旗艦の長門さんに掴み掛かった。

暁「嘘よ! こんなのが、こんなのが電なわけないでしょ! あんたたち、嘘をついているんでしょ? いいから電を出しなさいよ!」

長門「……もう出している」

 長門さんが、唇に鉛でも吊り下げているかのように、重たく、苦しげに言った。

長門「その腕が、電だ。我々が回収できたのはそれだけだった」

暁「うるさい! 嘘をつくなって言っているでしょ! いいから早く電を出せ!」

長門「……もう、出しているんだ」

暁「いい加減に――」

長門「電は戦死した!」

 長門さんの叫びが雨の音をかき消した。出撃部隊のみんなも、暁も、目を見開く。


 長門さんは唇を戦慄かせ、声を震わせた。

長門「いいか、暁。電は死んだ。戦士として立派な最後だった」

 握りしめた手から血が溢れ、雨に濡れた地面に溶ける。ただ、それを見詰めることしかできない。

長門「我々のせいだ。我々が、もっとちゃんと守っていれば……もっと早く助けに行けていたら……。こんなことにはならなかった。すべては、この艦隊の部隊長を務めた私の責任だ」

 長門さんはそう言って、深々と頭を下げた。濡れた髪が重たげに垂れ下がる。

 残酷な事実を突きつけられた暁は、よろめき、尻餅をついた。首を何度も横に振り、長門さんの揺れる瞳を見て、最後に「腕」に目を移すと号泣した。

 割れんばかりの慟哭が、沈黙の港を引き裂いた。

 響も唇を噛み締めて泣き、長門さんも目から涙を止めどなく流していた。出撃部隊のみんなも、すすり泣いていた。

 私は、ただ呆然とその光景を見ていた。涙が流れたかどうかなんて、覚えていない。妹のように可愛がっていた親友が死んだ事実を、受け止められなかったのだと思う。きっと、暁よりも信じていなかった。

 ――嘘なのです。

 そんな風に笑いながら、電がどこかから出てくるんじゃないか。

 けど、現実は残酷で。電は、もう帰ってはこなかった。二度と笑いかけてはくれなかった。

 あるのは、痛々しいほどに千切れた「腕」だけ。

 司令官がやってきたのは、それから少ししてからだった。

東「……電」

 変わり果てた電を見て、司令官は重たい声を絞り出すように呟いた。

長門「提督、すまない……」

東「電の最期は……どうだった?」

長門「立派だった。戦士として、誇り高い最期を迎えた」

東「そうか」

 司令官は、泣き崩れる暁の側にしゃがんだ。


暁「しれい……かん……」

東「……」

暁「電が……私の妹が……、なんで、なんでなの……? どうしてあの子が死ななくちゃならないの?」

 黒く塗りつぶされた目で、暁は尋ねていた。

東「ここは、戦場だ。残酷だが人が死ぬ」

暁「でも……」

東「暁……君は戦士だろう? 戦士なら分かるはずだ。辛いことだとは思うが、君は電の死を受け入れなければならない。受け入れて、進むしかないのだ」

暁「……」

東「それが、残されたものの役目。電は、真の戦士だった。彼女の勇敢さを忘れてはならない。君も……私も……彼女の勇姿を網膜に焼き付けて、戦うんだ」

暁「戦う……」

東「そうだ! 我々は、戦うしかない。戦って、彼女の無念を晴らそう! 掛け替えのない仲間の命を奪った奴らに鉛玉をくれてやれ!」

 提督は、暁を強く抱き寄せる。暁の目が大きく見開かれた。雨の音を吹き飛ばす提督の力強い言葉が、暁の、そして私たちの耳朶を震わせた。

東「鎮魂の歌は、連装砲で奏でるのだ! それが戦場の仕来りなのだから!」

暁「……私は」

東「仇を取ろう。私は、絶対に奴らを許さない」

 暁は提督の腕に手を置いて、僅かな逡巡を漂わせた後に「腕」を見た。火傷で黒ずんだ指が、暁や私たちへと助けを求めるように伸びている。電の怨嗟が、雨に混じって聞こえた気がした。

 暁が頷いた。ゆっくりと、しかし力強く。響も鋭い眼差しを空へと向ける。憎しみの火が、硝煙の香りを伴いながら私たち三人の心に焼き付いた。

東「――」

 司令官の言葉は、雨に消されていた。

 なんて言ったのかは分からない。

 ただ、司令官は三日月のように口元を歪め、笑っていた。

 
 

投下終了です

提督→司令官ですね……。すいません。つい、癖で提督と書いてしまいます…







 ■

 私は、やり直す。

 提督の側で。提督の温もりに抱かれるために。





陽炎「浜風?」

 陽炎姉さんの言葉で我に帰る。怪訝そうなアメジストの瞳が私を捉えていた。

 いけない、また提督のことを考えていた。彼のことを考え出すとどうしてか止まらなくなってしまう。思考がいつの間にか彼で埋まってしまうのだ。

 任務中は、考えないようにしていたのだが。

浜風「すいません」

陽炎「分かっているとは思うけど、任務に集中しなさいよ」

浜風「はい」

 注意を受けてしまった。私としたことが。

 私は、連装砲のグリップをしっかりと握り直した。辺りを見渡す。海。水平線の向こうが空と溶け合うほどに青い海だ。波を砕く飛沫に洗われながら、私は海上を疾駆している。前方には眼を凝らす時津風と深雪、隣には陽炎姉さんがいる。私が所属する南西鎮守府第一駆逐隊のメンバーだ。

 私たちは、重油資源の確保を目的とした遠征任務に就いていた。南西鎮守府は五月に入り東部オリョール海の攻略を終え、鬼門と言われる沖ノ島海域への挑戦権を得ていた。それに備えて重油を蓄えておきたいからだろう。ここ一週間はほとんど重油資源の確保に重点を置いた遠征が行なわれていた。

時津風「どうしたの浜風~? 浜風がぼーっとするなんて珍しいこともあるもんだね」

 時津風が振り返り、言った。

浜風「少し考え事をしていました」

時津風「考え事? なになに?」

浜風「それは……」

 提督のことだとは言い辛い。適当に誤魔化そうと言葉を選んでいると、陽炎姉さんから肩を叩かれた。


陽炎「私語はほどほどにしなさいよ。時津風も、前を向きなさい」

時津風「はーい」

 時津風は少し面白くなさそうに顔を顰めたが、素直に前を向いた。

深雪「たく、二人とも弛んでるぜ。しっかりしてくれよなー」

時津風「むむっ、深雪に言われると腹立つなあ」

深雪「なんでだよっ? あたしは真面目に警戒してんだろ?」

時津風「いつもいい加減じゃん」

深雪「任務のときはちゃんとやるさ。おら、それより集中しな。あたしまで隊長さんに怒鳴られるのはごめんだぜ」

時津風「……ちっ」

 時津風の舌打ちに、深雪が何か言いたそうに口を開きかけたが、何も言わずに警戒に戻った。陽炎姉さんを怒らせたら怖いことを骨身に沁みて知っているからだろう。

陽炎「まったく……」

 陽炎姉さんは呆れたように息を吐き、腕に巻かれた羅針盤に眼を落とした。

陽炎「そろそろ目的地に到着するわよ! いつも通り妖精たちが回収作業をしている間、私たちは対潜・対空警戒に当たること。もし、敵と会敵するリスクがある場合は作業を中断してすぐに引き上げるわよ! いいわね?」

 了解。私たちはそれぞれ声を張り上げて答えた。いつもやっていることだとはいえ、指先一つ分でも命を天秤にかけている以上は力が入る。

 だが、私は例外だ。敵に発見された場合、時津風や深雪以上に集中して狙われてしまうが、それでも深海棲艦の攻撃では死ぬことは叶わない。そういう呪われた身体を持っていた。だから、私が声を張り上げたのはただの演技である。

 しばらくすると、水平線に島影が見えた。回収地点。

 陽炎姉さんが、曳航していたドラム缶の鎖を手繰り寄せ言った。

陽炎「それでは、作戦を開始する。各自警戒を怠るな!」

undefined

undefined




 遠征を終えて鎮守府に戻ると、遠征隊のみんなが私たちを出迎えた。帰還の鐘が静寂を揺らしていた。

 私たちはドラム缶を携えて港に上がる。みんなが集まって囲ってきた。

「陽炎、お帰り!」

「資源はどう? 回収できたの?」

「敵とは遭遇した?」

 矢継ぎ早に飛んでくる質問は恒例のものである。そんなに毎回大袈裟に聞く必要もないと思うが、ただでさえ娯楽が少ないのが鎮守府という場所だ。出迎えも、艦娘にとって楽しみの一つになるのも無理はない。

 陽炎姉さんはドラム缶を豪快に地面に置いて、胸を張った。

陽炎「何事もなく回収できたわよ~。それもいつもの二倍くらいね!」

 感心する声が一斉に上がった。

「二倍! そんなに回収したんだ!」

「すごいね……」

時津風「浜風が考案した遠征ルートが見事に当たったね~。ほとんど敵と合わなかったよ」

深雪「ああ。いつもより若干遠回りだったけど、びっくりした。あんないいルートがあったんだな」

 時津風と深雪の言葉に、視線が一斉に私の方へと向いた。説明をせがまれているようだったので答えることとした。

浜風「以前所属していた鎮守府で私が発見したルートです。あの場所は、地図上には記載がない岩礁地帯と被っていて潜水艦の活動には適さないんですよ。それに、それ以外の艦種も『餌』である魚類の活動が活発ではないからか、避けてくれます。深雪の言うとおり遠回りになってしまうから、提督の皆さんは最初から無視しているようですが」

陽炎「まさに、急がば回れってやつよね。浜風の言う通りドラム缶の量をいつもより増やしていて良かったわ。いつも通りの量だったら、回収しきれなくて油まみれになるところだったろうし。――さすが私の妹」

 陽炎姉さんは満足気に笑いながら私の背中を叩いてくる。たぶん、手を抜いてはいてもそれなりに力が入っているはずだ。後で赤くなるのだろうな。


「浜風さん、頭いいなあ……」

「たしかに。浜風さんの物の捉え方や考え方ってかなり鋭いと思う。海域の情報や敵の生態にも専門家が顔負けするくらいに詳しい。悔しいけど、頭の出来が違うわ」

「本当に本配属されてから二年目なの?」

浜風「ありがとうございます。とても、嬉しいです。皆さんの役に立てていれば良いのですが……」

陽炎「役に立つもなにも。浜風の考えたことで、みんな本当に助けられてるんだから。胸を張りなさい」

浜風「姉さん……」

陽炎「真面目なあんたのことだから、負い目があったんでしょうけどね。あんたはきちんと罰を受けた。そして、自分の能力を生かして迷惑をかけた皆にお返しもしている。やってしまったことは消せないけど、あんたが誠意を持って償っていることは皆見ているわ。ね、そうでしょ?」

 陽炎姉さんが周りに同意を求めると、みんなそれぞれに顔を見合わせて頷いてくれた。もちろん、この人だかりにいない人間もいるから全員ではないが……それでも多くの人間が、私を許そうと、歩み寄ろうとしてくれているのを実感できる。

浜風「……ありがとうございます」

 私は、瞳を潤ませてみせた。

浜風「姉さん、皆さん……。これからも、頑張ります……」


陽炎「な、泣かなくてもいいでしょ。ちょっと……」

時津風「陽炎慌ててる~」

陽炎「あ、慌ててないわよ!」

深雪「どう見ても慌ててるんだよなあ」

陽炎「う、うるさい! ほら、浜風……。ハンカチで涙拭いて」

浜風「……」

 私はハンカチを受け取り、目元を拭う。

 本当、お人好しな姉だ。騙されているとも知らずに手を差し伸べてくるなんて。

 私に向けられている優し気な目線の数々にも失笑をこぼしたくなる。なんて、単純な人たちなんだろう。反省の色を示し二三回涙を見せただけで、もう許す気になって心まで開こうとしている。

 この鎮守府には、私と同じように他所の鎮守府で「辛い境遇」を経験して流れ着いてきた者たちが多いとはいえ……。はぐれ者に対してある程度寛容なのは分かるが、それにしても生温いのではないか。

 しかし、呆れる一方で都合がいいとも感じる。優しさや寛容さほど、利用しやすいものはない。

時津風「げっ」

 時津風が一歩引きながら小さく呟いた。苦手な野菜を前にしたときの子供のような反応である。視線の先を追いかけると、その理由が分かった。
 
 雷さんがこちらに来たからだ。


雷「お疲れ様、陽炎ちゃん」

陽炎「お疲れ様」

 陽炎姉さんが雷さんを不思議そうに眺めていた。提督がいないからだろう。

雷「司令官はいないわよ。忙しくて手が離せない状況だったから、私が代わりに成果の確認に来たの」

陽炎「ああ、それで……。やっぱ、沖ノ島海域攻略ともなると忙しくなるわよねえ」

雷「鬼門だからね」

 苦笑いしながら答えると、雷さんは手に持っていたファイルを広げた。

雷「それじゃ、確認するわよ。今回の鼠輸送任務で獲得した重油は」

 言いかけて、固まる。私たちが持ち帰ったドラム缶の量を目にしたからだろう。

雷「えっと……。もしかして、このドラム缶全部持って行っていたの?」

陽炎「そうよ」

雷「ずいぶん無茶なことするわね。それで、どれだけ獲得できた?」

陽炎「これ全部」


 陽炎姉さんが、ドラム缶に肘をついて得意げに言うと、雷さんは目を白黒させた。

雷「えっ!? 通常の倍くらい量があるのに? う、嘘でしょ」

陽炎「本当だってば。よかったら確認してみてよ」

 雷さんは陽炎姉さんの言葉に従い、ドラム缶一つ一つを検分し始めた。彼女のポケットには妖精たちが潜んでいたようで、ドラム缶の上に躍り出ると注入口を開く。匂いを嗅いだり、微量の重油を取り出して検査薬で品質を確かめたり、忙しなく働いていた。

 やがて検査が終わると、妖精たちは雷さんの肩に止まり、耳打ちをして結果を伝えた。

雷「……全部、基準値をクリアーしているね。本当なんだ」

陽炎「まあ、信じられないのも無理ないわよね……」

雷「間違いなく、今までの鼠輸送で一番の成果よ。これは司令官、大喜びすると思う」

陽炎「そっか~! だってよ、浜風。よかったじゃない」

 陽炎姉さんがニヤニヤと笑いながら言ってくる。

浜風「はい。そうですね」

陽炎「なんか物足りない反応ね。もっと喜んでいいのよ、もっと」

浜風「一応、喜んでいるつもりですが……」


雷「えっと、陽炎ちゃんどういうこと? なんで浜風さんが……」

 困惑を表情に貼り付けて雷さんが訊ねてくる。

陽炎「あれ、雷ちゃん知らない? 今回の遠征は浜風がルートを組んだのよ。この大成功もそのおかげってわけ。……司令にも話し通していたから、聞いていたかと思ってたけど」

雷「一応、第一駆逐隊が遠征ルートの変更を上申してきたとは聞いていたけど……。浜風さんが考えた案だったのね。てっきり、陽炎ちゃんが考えたのかと思ってたわ」

陽炎「ちゃんと浜風が考えた案で行くとは言ってたんだけどね。提督が伝え忘れたのかも」

雷「そ、それで、どんなルートだったの? 私、そこまでは聞いてないから……」

 陽炎姉さんが説明をする。黙って説明を聞いていた雷さんは、目から鱗とでも言うように驚いた表情を浮かべたが、だんだん苦々しい表情になっていった。私の提案の優位性を素直に認めたくないのだろう。

雷「……ふうん。そんなルートがあるんだ」

 雷さんは唇を尖らせながら言った。

雷「すごいじゃない、浜風さん。命令違反ばかりする勝手な人だと思っていたけど、それだけじゃないんだね」

浜風「ええ、どうも」

雷「ちょっと見直しちゃったわ。この調子で、司令官のために頑張ってね」

浜風「……」

 貴女に言われるまでもない。

 私は提督のためになるのなら、なんでもやるつもりだ。そう、なんでも。

undefined

undefined


雷「今回のこと、私から司令官にちゃんと報告しておくわね。それじゃ、検査も終わったし、そろそろ」

浜風「お待ちください」

 踵を返そうとした雷さんに声をかける。彼女はピタリと立ち止まり、マリオネットのような機械的な動作で振り返った。

雷「何かしら?」

浜風「報告なのですが、私から提督にしたいです。今回の遠征は私が考えたものですし、私が報告するのが筋だと思うのですよ」

雷「必要ないわよ」

 雷さんは、にべもなく言い放った。

雷「司令官への報告は特に必要な事由がないなら、秘書艦が行うのが通例でしょ? それこそ筋よ。私が検査に来たのも、そうする必要があるからだしさ。だから、気を回さなくても大丈夫」

浜風「別に気を使っているわけではないです。ただ、私が報告した方がより正確な報告ができると思うので言ったんです。遠征ルートのことが雷さんに伝わってなかったように、報連相は人を通すだけ正確な情報が伝わらなくなる可能性が高くなりますので。そのことを考慮しても、単純にそちらの方が効率が良いとは思いませんか?」

雷「心配しなくてもちゃんと伝えるわよ」

 雷さんは怒気を込めて言った。

雷「ちょっと失礼じゃないかしら? 私がそんなことも伝えられないとでも言いたいわけ?」


浜風「そうは言っていません。ただ、私は効率の話をしているだけですので。それに、さっき秘書艦が報告を行うのが通例と仰いましたが妙ですね。前の鎮守府では、遠征の報告は、その遠征を取り仕切る部隊長もしくは部隊長の代行者もしくは部隊全員で行うのが通例でしたよ? 情報の錯誤を避けるためにです」

 私がそう指摘すると、雷さんの顔が青くなった。図星を指されたようである。

浜風「それとも、私の鎮守府だけだったのでしょうか? 陽炎姉さんは、前の鎮守府ではどうでしたか?」

陽炎「ええと……岬鎮守府も、たしかに遠征部隊みんなで報告していたわね」

浜風「だ、そうです。この鎮守府だけのルールみたいですね。もちろん、提督の判断でそうしているのなら従います。ただ、そのことについても確認したいので、一度お伺いを立てたいと思います」

雷「……ダ、ダメよ。ダメ」

浜風「何が駄目なんでしょう? 提督と会って話を聞くだけですよ?」

雷「ダメなものはダメなの! だって、今までは私がやってきたんだから」

浜風「理由になっていませんね。では、提督じゃなく雷さん……いえ、雷秘書艦に聞きましょう。報連相の手段が、そのような非効率な方法になっているのは何故なんですか?」

雷「そ、それは……」

 雷さんは言葉を詰まらせる。言うべきことを探しているが、見つからないのだろう。あまりにも滑稽で、あまりにも愚かしい。


浜風「ああ、それとも」

 せせら笑うのを堪えながら、私は核心に触れた。

浜風「私が……いえ、私たちが提督に会うと何か不都合なことでもあるのでしょうかね。雷秘書艦にとって、不都合な何かが」

雷「――」

 雷さんが目を見開き、噛み付かんばかりの勢いで睨んできた。

陽炎「ス、ストップストップ!」

 私と雷さんの間に割って入り、陽炎姉さんが声を張り上げた。

雷「陽炎ちゃんどいて! こ、この。司令官に優しくされているからって、付け上がるんじゃないわよ!」

 叫びながら突進してこようとする雷さん。だが、陽炎姉さんの腕に抑えられ、そこから先は一歩も前進できない。

 しかし、付け上がるな、か。果たしてどの口が言うのだろうか。

陽炎「雷ちゃん、雷ちゃん落ち着いて! たくもう……報告に誰が行くかくらいでそんな揉めることないでしょ!」

雷「うるさい! 喧嘩を売ってきたのはあいつよ! あんな軍規違反女、私がぶっ飛ばしてやる!」

陽炎「落ち着きなさい! 浜風、あんたもよ!」

浜風「私は落ち着いてますが」

陽炎「そうかもしれないけど! でも、どんな形であれ発端はあんたでしょ? とりあえず謝りなさい」


浜風「……」

 眉を顰めそうになる。

 鼻息を荒くして唸る珍獣に、どうして私が頭を下げなければならないのか。ただ、まあ、私が軽く挑発したことが原因であるのは確かだ。

 私は溜息をつくのを堪え、頭を下げた。

浜風「そうですね。たしかに、私が怒らせてしまいましたから……。言い過ぎました。不愉快な思いをさせて、申し訳ありません」

雷「……ううぅ! この、この……!」

陽炎「雷ちゃん……ちょっと落ち着こう? ほら、浜風も謝っているし。ね?」

雷「……」

 唸り声が徐々に落ち着いてくる。

陽炎「報告には私が行くわ。雷ちゃんと一緒にね。それだったら筋は通っているし、いいでしょ?」

浜風「はい」

陽炎「雷ちゃんも、それでいいかしら?」

雷「……」

 雷さんは息を荒げながら、ゆっくりと頷いた。

 陽炎姉さんが、安堵の息をついた。

陽炎「……深雪、時津風。私、報告に行ってくるから資源の運搬だけ頼めるかしら?」

深雪「おう。問題ないぜ」

時津風「私も大丈夫~。任せて~」

陽炎「ありがとう」

 陽炎姉さんはお礼を言うと、動かなくなった雷さんの腕を肩に回して立ち上がった。そして、そのまま雷さんと一緒に、鎮守府本館の方へと歩いて行った。

 二人が去った後の港には、気まずい空気が流れていた。潮風が走り抜け、沈黙にケチを付けてくる。五月の風が冷たいのかどうかは知らないが、きっと温かいものではないのだろう。

 私は振り返って、みんなに頭を下げた。

浜風「お騒がせして、すいませんでした」


時津風「いやいや、いいよ~。みんな、あの腰巾着さんには少なからず思うところあるしさ」

 時津風がさらりと棘のあることを言った。眠そうな眼差しは、陽炎姉さんたちの去ったところに向けられているが、その色は冷ややかだ。

深雪「……まあな。浜風、秘書艦様が言ったことなんかあんま気にすんなよ。別にお前、間違ったこと言ってねえしな」

浜風「……」

 私が無言で頷くと、深雪はあからさまに嫌味な感じで舌打ちをした。

深雪「なにが『司令官に優しくされてるからって付け上がるな』だよ。それはお前じゃねえか。……たく、遠征も出撃もしねえいいご身分のくせに、人に対してそんなこと言えんのかよ」

「……たしかに、深雪の言うとおりね」

「私も、ちょっとそう思うなあ。昔、色々あったのは知ってるけど、それでもね……。提督にべったりで、みんなと仲良くしようともしないし」

「司令や陽炎は、優しすぎると思う」

 時津風や深雪の言葉をきっかけに、みんなが次々と愚痴をこぼし始めた。雷さんに対して、みんながあまりいい感情を持っていないことは、私も把握していた。鎮守府に来て三カ月になるが、それくらいの期間があれば人間関係はおよそ掴めてくるものだ。やはり、どこの組織にも多寡に差はあれど人間関係のいざこざというものは付き纏ってくるようで、この鎮守府も例外ではない。


 とくに、雷さんは難しいポジションにいるようだった。彼女の複雑な出自もそうだし、この鎮守府での立場や扱われ方もそうだ。

 彼女は形ばかりの秘書艦である。明らかにその適性や能力がないのに、秘書についているのだ。詳しい理由は分からないが、どうにも提督の意向でそうなっているとのことである。まあ、彼女の過去や、金魚の糞みたいに提督に付き纏っているところを見れば、察しはつくが。

 ただ、その「特別扱い」がどうにもみんな面白くないようで、出撃部隊も遠征部隊も関係なく、彼女に良くない感情を持っている者は多い。しかも、出撃や遠征任務も免除されている優遇っぷりだから、なおさらその感情に拍車がかかる状況になっている。艦娘は、戦うことをアイデンティティとする存在だから、その嫌悪もまあ無理なからぬことであろう。働かざるもの食うべからず、なんて諺もあるが、いかに寛容なみんなであろうとも、戦う意思が米粒ほどもないものは冷遇するようである。

 そして極め付けは、本人も提督以外に興味がないことだろう。誰とも交わろうとしないから、この状況が変わることはない。現に彼女に接するのは、間宮さんや榛名さん、そして陽炎姉さんくらいだ。

 と、こんな感じで、雷さんはこの鎮守府では孤立している。身から出た錆びというべきもので、同情する余地はあまりない。

 だが、私にとっては彼女の存在もとても都合がいいものだ。彼女は利用できる。この鎮守府の人間たちと信頼関係を築き、掌握する手段の足がかりとして。

 ヤケを起こし、マイナスからスタートした私が、この鎮守府に溶け込む手っ取り早い方法。それは共通の敵を作ることだ。南鎮守府にいた頃は南提督を共通の敵に置いたが、この鎮守府では雷さんにその生贄役をやってもらう。

 雷さん。貴女がこの鎮守府から消えるのはその後だ。

時津風「ささ、そんなことよりパパッと資源片付けちゃお~。お腹空いたしさあ」

深雪「だなあ。今日はA定食らしいから、張り切ってやるぜ!」

 ドラム缶を運び始める時津風たちを尻目に、私は海を見た。

 海は、ただ静かに潮騒を打っている。

投下終了です。
来年も風病をよろしくお願いします。


 



 ■

 静かな夕刻だった。

 執務室にはペンを走らせる音と、時計の音だけがある。俺は黙々と、山と積まれた資料の確認を行っていた。蟻が角砂糖を崩して巣に持ち帰るような、途方もない作業ではあるが、ルーティンと化しているから大して苦痛には感じない。いつものようにやっていれば、そのうち終わる。

 が、今日はいつもより筆が乗らない。集中ができないのだ。理由は、秘書の雷である。

 隣のテーブルに目を移す。そこには雷が座っていた。眉間に皺をよせ、乱暴な手つきでペンを動かしている。

 いかにも虫の居所が悪そうな様子であった。そして、とにかく落ち着きがない。時折思い出したかのように溜息をついたかと思うと、今度は指でリズムを刻み、苛立ちを表現する。

 陽炎と一緒に遠征の報告に来たときから、やけに機嫌が悪い。報告をしているときも声の端々に苛立ちがこもっていたし、陽炎が帰って事務作業を始めてからもずっとこの調子だ。

 同室にいる身としては、気が気ではなかった。


提督「なあ、雷」

雷「……なに?」

提督「どうかしたのか? やけに機嫌が悪そうだが」

 雷は返事をせず、頬を膨らませ俯いた。

提督「なにか嫌なことでもあったのなら、相談くらいにはのるぞ?」

雷「……」

提督「……うーん」

 困ったな。本人が教えてくれなければ対処のしようもない。

 まあ、無理に訊き出すのも良くはない。彼女が話したくないのなら、その意思を尊重しなければならないだろう。

 執務に戻ろうとすると、椅子が擦れる音がした。雷が立ち上がったのだ。

 お手洗いにでも行くのか。そう思ったが、雷は扉の方ではなくこちらにやって来た。


提督「雷?」

 相変わらず何も言わない。きゅっと下唇を噛んで、俺を見下ろしている。栗色の瞳に映った俺の像は雨の日の水面のごとく揺れていて、不安定だ。

 どうしたのだろう?

 俺が様子を伺っていると、彼女は俺の後ろに回った。突然のことで反応が追いつかない。後頭部が何か柔らかいもので包まれた。布数枚の先にある人肌の感触が、首筋の辺りを撫でる。

 驚いて振り返ろうとした。だが、頬が彼女の鼻先にぶつかった。温い吐息。心臓の音。そして遅れて感じる肌の熱。それらに気づいた瞬間、銀木犀にも似た香りがふわりと華やいだ。

提督「……」

 突然どうしたのか。

 困惑していると、雷がそっと囁きかけてきた。

雷「ねえ、司令官」

提督「……なんだ?」

雷「あの子に、優しくしないで」

提督「あの子?」

雷「浜風さんのことよ」

 浜風の名前を、苦虫でも吐き棄てるように言う。

 まさか、機嫌が悪い原因は浜風か? 遠征の出迎えの際、浜風と喧嘩でもしたのだろうか。

提督「ひょっとしてだけど」

雷「答えて」

 尋ねようとすると雷に遮られた。有無を言わさない口調だった。


雷「答えてよ、司令官」

提督「……」

 たしかに客観的に見れば、浜風に対して甘いと思われるのも仕方がないことではある。

 が、それはあくまで彼女の特殊すぎる事情を勘案した結果だ。他の艦娘たちに対しても、それぞれの事情を考慮した上で、不平等になりすぎない範囲で個別に対応している。だから浜風だけを特別扱いしているつもりはない。あくまで、鎮守府の長としての視点で、鎮守府の仲間として見ているだけだ。

 むしろ、特別扱いしているのは君の方だよ。そんなことは口が裂けても言えないので、飲み込んで他の言葉を述べた。

提督「……別に、特別、浜風に優しくしているつもりはない。みんなと同じように接しているはずだ」

雷「そうは思えないわ。あんな重大な違反をしたのに、解体処分にすらしようともしないし。普通なら、とっくに死刑よ。それを大目にみて、しかも遠征部隊として働かせている」

提督「それはあくまで彼女が優秀な艦娘だからだ。純粋に、能力として判断した結果だよ」

雷「……たしかに、浜風さんが優秀なのは認めるわ。でも、本当にそれだけ?」

提督「……なにが言いたい?」


雷「あの女に対して、何か特別な感情があるんじゃないの?」

 雷の言葉は、重く冷たく耳朶に届いた。

 背筋がぞっとする。彼女の細い腕が蛇のように蠢いて喉仏を軽く押さえつけてきた。

提督「そんな感情なんて、ないよ」

 図星を刺されたわけではないのに、声が掠れた。

 本当に、浜風に対してそのような想いは持っていないのだ。あるのは、救ってしまったことに対する責任感と、仲間としての感情だけ。それ以外にない。

 慄きの正体は、後ろに纏わりついた暗い影にある。

 可憐な少女の裏側から零れ出た闇に。

雷「ふうん」

 うろん気に言うと、彼女は続けた。

雷「じゃあさ、聞いてもいい? あの時――なんで手なんて握っていたの?」

 廊下で、二人きりで。

 俺は心臓を鷲掴みにされたような気分でその言葉を聞いた。冷たい汗が、米神を伝う。

提督「……そ、それは」

 一月前のことだ。今の今までそのことを一度も訊いてこなかったのに、ここで訊いてくるなんて。

 俺は、動揺を隠せなかった。やましい気持ちなどないのに。ただ、浜風のささやかな望みに応えただけだというのに。雷の追求は、まるで刃のように鋭く突き刺さった。

 雷の俺に対する執着心。そして、そこから形成される「愛情」という名の純粋な悪意。その怖ろしさを知っているから。


雷「ねえ、司令官。ねえねえ。なんで? なんでなの?」

 雷の指が、頬をさする。

提督「……ち、違うんだ。別に、君が気にするような意図は」

 なかった、と弁明を続けることはできなかった。

 雷が、耳に優しく噛み付いてきたからだ。俺は悲鳴を上げそうになった。今度は舌が耳の中を這う。這い回る。身体中の関節という関節に甘い痺れが走る。その甘さ、その熱さ、そしてその奥にある負の感情――。それらがドロドロと入り込み、脳髄を痺れさせてきた。しかし、それは劣情には決して成り切れない恐怖そのものとして。

雷「言い訳なんて聞きたくないわ。ねえ、司令官。あんな雌猫の手なんて握ってはダメよ。どんな病原菌がへばりついているかわからないんだから」

 彼女は俺の腕を鷲掴みにすると、もう片方の手で俺の胸ポケットからライターを取り出し、火をつけた。

雷「ちゃんと消毒しなきゃね」

提督「――」

 ――なにをする気だ。

雷「うふふ……。司令官、最初は痛いかもしれないけれど、我慢してね? ちょっと爛れちゃうかもしれないけど、大丈夫。高速修復材につければすぐに元通りになるから」

 人間にも、高速修復材は効くんだよ。雷は、笑いながらそう言った。

提督「や、やめろ! なにを考えているんだ!」

雷「なにって? 消毒って言ったでしょ?」

提督「馬鹿なことはやめてくれ! それに、一か月前のことだぞ! どうして今になって……」

雷「うん、そのときは我慢したわ。だって、司令官ならあんな病原菌くらい平気だって思ったから。だけど、最近そう思えなくなったの。あの菌が、だんだん司令官の手を穢し始めた気がして……。あの菌って、遅効性だったのよ、きっと」


 訳のわからない持論を展開し、火を近づけてきた。俺は雷の手を必死で振り払おうとしたが、艦娘の力には抗うことができない。押さえつけられ、なす術もなく彼女の良いように扱われる。

 恐怖が臨界点に近づいてきた。

 足がふるえる。カチカチと歯がなる。背中にシャツが汗で張り付く。潰れた悲鳴を上げ、俺はもがいた。椅子がガタガタと音を立てる様は、恐怖でのたうち暴れる牛のようであろう。

雷「じっとして……ね?」

提督「やめろおおっ!」

 火が、俺の袖を微かに焦がし――消えた。

提督「……え?」

 雷が、小さく笑って告げた。

雷「冗談よ」

提督「……冗談だと?」

雷「そう、冗談。いくらなんでもそこまではしないわよ」

 ふざけているのか。こんなの、冗談の一言で済む問題じゃ――。

雷「でも、半分だけね。司令官に痛い思いをさせるのは嫌だけど、消毒をして欲しいというのは本当。……だから、ちゃんと手を洗ってね? 毎日一時間くらい。じゃないと、今度は本当に燃やしちゃうかも」

 横目で微かに捉えられた雷の目には、光など一片もなかった。頭に昇りかけた怒りが一瞬で霧散する。

雷「そうすれば、あの子のことなんか気にしなくなる。……他の子達と同じように接するようになる。そうよね、司令官」

提督「……あ、ああ」

 逆らっては、ダメだ。

 逆らえば、本当に手を燃やされる。

雷「……司令官が、優しくしていいのは『家族』だけよ。ここにいるみんなは、仲間だけど『家族』じゃない」

 そのこと、忘れないでね。

 雷はそう告げて、腕を解いた。その際に袖が捲れたせいか、右腕に刻まれた無数の傷が見え隠れしたが、俺は見ないふりをする。

 頭を撫でられた。

 いつもなら、いや……前までは心地よく感じていたはずのそれも、今では憂鬱を呼び起こすだけだ。


雷「……司令官の『家族』は私だけよ」

 違う。

 違うんだ。家族とは、こんな脅迫と心の闇をひけらかした依存で結びついた関係であってはならない。彼女の言う家族の像は酷く歪で、酷くおかしい。

 それに、俺の家族はとっくにみんな死んでいる。父も母も……妹の静流も。柊家の名を継ぐものは俺しかいない。

 それは彼女だって同じだ。彼女の家族だった者たちは、全員あの事件の犠牲となった。艦娘制度始まって以来のシリアルキラーの手にかかり、殺された。

 これは、もう存在しなくなった関係性を無理やり引っ張り出した、狂気じみたごっこ遊びでしかない。みんなに平等に接する義務を負う俺と、「特別な関係」を築くために彼女が考え出した方法だ。ここ一ヶ月近くは、ことあるごとにこの言葉を引き出して、俺とスキンシップを図るようになってきた。

 元々、依存傾向の強い子だ。おそらく、この鎮守府に来る前は『家族』に依存していた。そして、家族を失くしてからは、ぽっかり空いた穴を埋めるように俺へと依存した。

 最初は、それで仕方がないと思った。似たような境遇にあった彼女に同情したのもある。だからこそ、俺は彼女を拒まずに側へ置き、療養してもらおうとした。ある程度は、それで成功したのだ。塞ぎ込んでいた彼女は、徐々に明るさを取り戻した。

 が、一度歪んだものは中々元には戻らない。光が強くなると影が深まるように、明るさの裏に隠れた闇はだんだんと暗く、深くなっていった。

 俺は、それに気づくのが遅れた。

 いや、彼女を受け入れた時点からすでに手遅れだったのかもしれない。俺は彼女の狂気を拒み切れず、そして彼女への情を捨てきれず、ずぶずぶと沼に嵌るように雷という子に囚われた。

雷「……ふふ」

 愛おしげに、雷は笑う。

 俺は、浜風の言葉を思い出していた。

 カタツムリとレウコクロリディウム。俺と雷の関係性へのアイロニーだ。

 俺は、カタツムリか。

 なにかあれば、すぐにブラックニッカという殻に籠って身を守る俺には、ぴったりかもしれない。


 
 

投下終了です。
>>52>>53>>56>>57>>58>>59>>60>>61>>64>>65>>66>>67>>68>>69

以上が、まとめ速報の方で更新されていませんでしたので上げておきます。あちらで読まれている方、申し訳ありませんでした。






 ■

 二度目の雨も煩かった。

 粘りつくように、鬱陶しい雨だった。

 電が荼毘に付されて一週間後のことだ。司令官の命令で、暁を加えた第一艦隊はリランカ島沖へと出撃した。

 もちろん、これは弔い合戦だ。電の無念を晴らすことに躍起になっていた暁は、今まででは考えられないほどに鋭い怒りに満ちた表情をしていた。目は血走り、誤魔化しきれないほどの隈もあった。

暁「行ってくるわ」

響「……暁」

 響が心配そうに暁の背中を見ていた。私も、同じ顔をしていたんだと思う。

 妹の死を誰よりも深く悲しみ、誰よりも憎んだのは彼女だった。これまでの明るい暁は、面影すらも匂わせることなく豹変していた。

 それが、怖かった。暁が急に遠くなった気がしたからだ。

響「……暁、いや姉さん。無理だけはしないでくれ」

暁「分かっているわ。無理なんてしない」

響「約束、だよ?」

暁「レディは必ず約束を守るわ」

 だから心配しないで。

 暁はそう言ったけど、そこに笑顔なんて欠片もなくて。私も、響も、そんな姉の表情に、どうしようもなく不吉な予感を覚えずにはいられなかった。

 電のことが過ぎったこともある。だけど、それ以上に……戻ってきた暁が、もう二度と私の知っている暁じゃなくなるような気がしたのだ。


雷「私とも、約束して欲しい」

 私は何度か逡巡し、絞り出すように言った。

雷「……必ず、戻ってきて」

 暁は、振り返らずに手を挙げた。

 そうして、暁は長門さんたちとともに出撃した。私たちは水平線の彼方に第一艦隊が消えるまで、ずっとずうっと港で見送った。

響「大丈夫。姉さんは、必ず帰ってくる」

 響の呟きに、私は返事ができなかった。

 たぶん、響も返事を期待して言ったわけではないだろう。自分に言い聞かせているだけで、不安を拭いたかったのだ。

 だが雨は、響の言葉に不穏な響きを与えるだけだった。



 それから、二時間ほど経った後だったと思う。出撃部隊から撤退を願い出る電報が入った。

 電のときと同じように、暁の艤装が故障を起こしたのだ。機関部が突然火を上げ、航行不能となったという。あってはならない事態が二度も起こってしまったことに愕然とするしかなかった。一体、整備班は何をやっているのだろうか。こんな失態、許されることではない。

 不安と苛立ちに苛まれる私たちと違って、司令官は冷静だった。同じ轍は二度と踏まないと、すぐさま進言を聞き入れ撤退を命令した。長門さんを殿に、動けない暁を重巡洋艦に曳航させ、状況を見極めながら指示を出し続けた。

 隣で見ていた私たちは、暁の無事を祈った。

 どうか。どうか、神様。

 暁を……私たちの家族を、無事に帰してください。


東「……戦線からは、離脱したな」

 時計の長針はどのくらい回っただろうか。気が遠くなるような祈りの時間は終わった。

 司令官の一言に、私たちは崩れるみたいに尻餅をついた。

響「……よかった。本当に、よかった」

 響が顔をくしゃくしゃにしながらそう言った。きっと、私も同じ顔をしていただろう。視界が滲んで、身体が震えて、訳がわからないくらいに安堵していた。

東「迎えに行こうか。この目で、暁のことを観なければ」

 司令官の言葉に、私たちは頷いた。

 私たちは艤装を身につけて急いで港へ向かった。出撃ドックから直接海に出て暁を迎えにいく。艤装が付けられない司令官は、「灯台の辺りから観るよ」と告げて、そちらへ向かった。

響「……」

雷「……」

 私たちの間に言葉はなかった。

 ただただ、暁の無事な姿を見たいという一念に囚われて、他のことなんてどうでもよかった。暁。私たちのお姉ちゃん。私たちの大切な家族。その顔がみたい。その顔を見るまで、心から安心なんてできない。

 駆けるように、海へ出た。

 暁。暁、暁、暁、暁――。

 雨が、装甲の上で弾け飛ぶ。雨脚がさらに激しくなってきていた。

 暁、暁、暁、暁――。

 第一艦隊の姿が、雨で烟る水面に浮かんできた。影が少しずつ形を現してくる。

響「暁っ!」

雷「お姉ちゃん!」

 喉を焼くように、私たちは叫んだ。
 
 その声は暁に届いたのか。重巡洋艦の肩を借りていた暁は、私たちの姿を見ると小さく笑った。笑顔は血で化粧されている。大破しているのだろう。黒い煙。電気を走らせる壊れた装甲。痛々しい姿だった。


 でも、生きている。
 
 生きていてくれている。

 お姉ちゃん、よかった――。

東『「勧酒」という詩を知っているかい?』

 突然、通信が耳をくすぐった。やけにノイズが少なくて、明瞭に聴こえてくる。

東『人生の儚さを謳った漢詩だ。この国では、井伏鱒二の名訳の方が知られているだろう。――この盃を受けてくれ、どうぞなみなみ注がしておくれ、花に嵐のたとえもあるぞ……とね。ふふ、聴いたことはないかな? 私はこの詩が大好きでね。ふとした瞬間、風呂でも入っているときにでも、よく口ずさんでしまうんだ』

 まるで歌うような調子の声。やけに明るくて、弾んでいるからか、雨の中でもはっきりと聴こえてくる。

 私は、思わず振り返った。

 灯台の下に司令官がいる。雨に邪魔されて司令官の顔だけは見えない。

 なぜ振り返ったのか。わからない。響は暁の元へ向かっているのに。どうして私は……。

東『と、こんなことを言いたいんじゃない。言いたいのは、そう、この詩の最後の一文。特徴的な一文についてだ。そこに書かれていることが本当かどうか、観てみたいと思ったんだよ。なにぶん好奇心が強いものでね。……ああ、後学のために教えておくとしようか。それは、こういう一文だ』

 最後の声音は、優しく紡がれた。

東『「さよなら」だけが人生だ』


 その瞬間だった。

 圧倒的な光と轟音が背後を貫いた。海が隆起し、全身を叩きつけるような衝撃が走る。私は前のめりに倒れてしまった。一瞬、世界から雨が消えた。視界も意識も真っ黒に染まる。

 それは落雷のような爆発だった。

雷「――」

 振り返ると、さっきまでの景色はなかった。炎が渦を起こし、黒煙が空を突き刺すように登っている。まるで海面が焼かれているようだった。

 人が、何人も転がっていた。ある人は血だらけになり、ある人は火に包まれて狂ったように暴れ、ある人は顔の半分を失って泣き叫んでいた。

 一体、なにが起こったのだろう。

 近くの悲鳴が、遠くから聞こえる気がした。

 前にいる響が、叫んでいる。あかつき、あかつき。そう叫んでいる。泣いているように叫んでいる。フラフラと前に歩きながら、炎に手を伸ばしながら。

 私は起き上がることさえできなくて。

 ただ、眼前に広がる光景を呆然と見ていることしかできなかった。

東『ふむ。どうやら本当かもしれないな。さよならだけが人生。ふふ、さよならだけが人生か。人生とは、脆いな』

 司令官の嬉しそうな声だけが、はっきりと聴こえた。

 今度の雨は遮りはしなかった。


投下しました。
人とは何か、という問いはこの作品のテーマでもあります。人ってなんなんでしょうね。




 ■

 南西鎮守府は、「小さな揺り籠」だ。

 地図に名も載らない小島の中にある。かつてここは戦場として名を馳せ、何千人もの戦士が死んでいった場所だ。その名残なのか、島のあちこちには兵器の残骸が転がり、いくつもの防空壕の跡がある。そんなところに、優しい提督と艦娘たちが寄り集まっているのだ。

 彼女たちの多くは、かつて他の鎮守府に配属されていた。が、あらゆる地獄に触れ、苦しみの果てに脆く崩れ、傷つき、絶望し、果てにこの地へ流れついた。だから、ここには痛みを共有できる人間関係が自然と形成される。傷を舐め合うことに特化した集団となる。

 その様を、海軍内ではこんな風に揶揄する声があるそうだ。

 隔離病棟。

 鎮守府ではなく病院扱い。それはこれ以上にないほどの恥辱であり、不名誉な扱いであろう。しかし、残念なことに間違いではない。

 ここは元々、鎮守府ではなかったのだから。

 そう。ここは以前その揶揄どおりに病院だったのだ。正確に言えば、精神や肉体に傷を負った艦娘たちのリハビリを行う療養施設だった。

 艦娘は、精神や肉体にダメージを受け、戦闘行為を行えなくなった場合、二つの道を用意される。

 一つ目は解体という手段だ。解体の儀を行うことによって、艦娘の使命から解き放つ……いってしまえばクビにするわけだ。だが、これはあまり積極的に取られる手段ではない。なぜなら、解体をした場合は戦死した場合と違って、艦の魂を次の適合者に降ろせるようになるまで最短で二年もかかるからだ(これには個人差があって五年かかるものもいる)。戦死の場合、一年も掛からない。この厄介な制約が、前者の選択に対するハードルを上げているのだ。

undefined


 だから、どちらかといえば二つ目の選択肢の方が積極的に用いられる傾向にあった。前述したとおり治療だ。戦線復帰が可能な見込みのある者を対象に、約一年の期限付きで療養施設へ入院させる。これは聞こえのいいことのようだが、実際は搾取の文脈で語られることだ。その艦娘が使い物にならなくなるまで、徹底して酷使する魂胆がありありと見える。本当に奴隷と紙一重の存在なのだ、我々は。

 まあ、それはさておき。この鎮守府は、元々二つ目の選択肢の役割を担っていた施設だった。それが、十一月に突如として鎮守府へと改装される運びとなったのだ。その理由は、この時期に発覚した『捨て艦』事件にある。

 あの事件がもたらした影響は計り知れないものだった。もはや通常の生活さえもままならないと判断され、解体されたものは人員の三割にも登り、それ以外の艦娘たちのほとんども治療が必要なレベルで「破壊」されていた。つまり、一つの鎮守府が消え、その人員のほとんどが療養施設へ送られることとなったわけだ。

 さすがに提督会議もこの戦力の損失には目を瞑るわけにはいかなかったのだろう。戦力を少しでも有効活用するために、療養施設を鎮守府へと改装する苦肉の策をとったわけである。

 それが、「小さな揺り籠」の創設の歴史だ。

 この鎮守府に、問題を抱える子達が多く集まるのもそういう理由である。

 陽炎姉さんのように身体の一部がない子。躁鬱を抱えながら休みがちに仕事をする子。定期的な幻聴に悩まされる子。いないはずの姉妹艦の名前を時折呼んでしまう子。比較的軽度だがPTSDにかかっている子も多い。むろん、深雪や時津風のように健康な子もいるが、ほとんどがそんな子達ばかりだ。


 彼女たちは、自分の抱える課題や障がいと向き合い、治療しながら鎮守府の一員として戦うという、ある意味では過酷な状況下におかれている。そんな状況では症状がより悪化しそうであるが、提督の采配がいいおかげで、幸いそうしたトラブルはあまり起こってはいないらしい。情けのように送られてきた補充要員をうまく回して対応したり、それぞれの艦娘たちの症状に合わせたケアに努めていたりするおかげであろう。提督の優秀さが、彼女たちを綱渡りのような状況で救っていると言ってよかった。

 ……以上が、私がこの鎮守府について調べたことの簡単な概説だ。しかし、まだ調査は十分とは言い難い。この鎮守府は思った以上に奥が深く、まだまだ把握できないことも多くあった。まるで、深淵を覗いている気分になるくらいに。

 そう、例えば――あの二人。

 私は、思考の海から帰還し、目線を食堂のカウンターの方に滑らせた。

 そこには、楽しげに談笑しながら食べ物を受け取る鈴谷さんと熊野さんの姿があった。私は熊野さんを注視する。はしゃぐ鈴谷さんを窘めながら、彼女は優雅な動作でトレイを運んでいた。

 目を細めずにはいられない。

鈴谷「おりょ? 浜風さんじゃーん。チィース!」

浜風「どうも」

鈴谷「今一人なの? 珍しいね」


浜風「陽炎姉さんは提督に呼ばれているみたいで。たぶん、提出した報告書について不備か質問があったのでしょう。私は陽炎姉さんの用件が終わるまで待っています」

鈴谷「ふーん。それじゃあさ、陽炎ちゃんたちが来るまで私たちと一緒にご飯食べない?」

浜風「いいですよ。喜んで」

 愛想笑いを浮かべて了解すると、鈴谷さんも嬉しそうに笑った。後ろにいる熊野さんが躊躇を見せたが、鈴谷さんが席に着くと諦めて座った。

熊野「すいません。……鈴谷が失礼しますわ」

浜風「気にしないでください。私も、お二人とお話ししたいと常々思っていましたので」

鈴谷「そっかそっか。嬉しいこと言ってくれるじゃ~ん!」

 本当に嬉しそうに鈴谷さんは言った。この笑顔を見ていると、邪気はないように思える。彼女はとても人懐こい性格だし、接しやすいからだろう。

 私は、鈴谷さんと熊野さんとたわいのない雑談をしながら食事を進めた。味気ない食事に、味気ない会話。つまらない時間だったが、二人はとても楽しそうに笑っていた。

 一頻り話をしたところで、陽炎姉さんたちがやってきた。

陽炎「はまかぜー」

鈴谷「……と、陽炎ちゃん来たね。そろそろ私たち行こうかな」

浜風「そうですか。もう少し話していけばいいのに」

鈴谷「んにゃ、そうしたいのは山々だけど。そろそろ私たちも出撃の準備をしなくちゃさ」

浜風「ああ」

熊野「楽しかったですわ。また、機会があればお話ししましょう」

 熊野さんが微笑んだ。


浜風「それでは、また」

 二人は手を振って去っていった。入れ違う形でやってきた陽炎姉さんが不思議そうな顔で二人の背中を見ていた。

陽炎「浜風、遅れてごめん」

浜風「いえいえ」

陽炎「鈴谷さんたちと食べてたの?」

浜風「ええ。とても楽しいお話をいろいろ聞かせていただきました。鈴谷さんも熊野さんも、いい人ですね」

陽炎「そっかー」

浜風「なんだか嬉しそうですね?」

陽炎「そう? まあ、あんたもちょっとずつみんなと溶け込めてきたんだと思うとね~」

浜風「なるほど」

 私は曖昧に返事をした。

浜風「ところで、陽炎姉さん」

陽炎「何かしら?」

 鈴谷さんと熊野さんに目をやる。二人は、食堂を出るところであった。私は、熊野さんの背中へと視線を移した。

浜風「……あれは、誰なんですか?」

陽炎「え?」

浜風「熊野さんです」

 ああ、と小さく呟いて、陽炎姉さんは表情を曇らせた。


陽炎「……気づいちゃったのね」

浜風「偶然、工廠で艤装保管名簿を目にして気付きました。この鎮守府に、熊野なんて艦娘は所属していませんよね」

 本当は、偶然なんかではなく、全員の情報を把握するために行った調査で気付いたのだが。ここに配属されている重巡洋艦は全五隻。そのうち、最上型は二隻だけだ。その中には熊野さんの名前なんてなく、別の艦娘の名前があった。

浜風「私の気のせいではないならば、本当は三隈という名前の艦娘ではないですか?」

 陽炎姉さんは小さく首肯する。

陽炎「……それ、本人に言ってはダメよ? せっかく仲良くなれたんだから」

浜風「わかっています。彼女はおそらく」

陽炎「解離性同一性障害。あの人は、疑うことなく自分のことを熊野だと思っている」

浜風「……」

 やはり、そうか。

浜風「……彼女は以前、どこの鎮守府にいたんですか?」

陽炎「……」

 陽炎姉さんは俯いて、言葉を口の中で転がしていた。言いにくそうにしているところを見ると、察しがついた。

 名前を出すことさえ憚られる鎮守府なんて、一つしかない。

浜風「東鎮守府。そうですね?」

undefined


陽炎「そうよ。雷ちゃんたちと、一緒のところ」

 深く深く嘆息し、

陽炎「……あの人は、きっと、耐えられなかったのでしょうね。逃げることもできずに追い詰められた結果、熊野さんという人格を作って、辛い経験と記憶から逃避した。何があったかは、三隈さんの主人格が心を閉ざしてしまっている以上、詳しくはわからないけどね」

浜風「……そうですか」

陽炎「そっとしておいてあげて。気づいていないフリをして、熊野さんとして接して欲しい。事情を知っている子はみんな、そうしているから」

 私は、首を縦に振った。

 解離性同一性障害は、自分の中に別の人格を生み出してしまう精神病である。しかし、それはまったくの別人を生み出すわけではなく、あくまで自分の心を区分けするような形で生み出すのだ。つまり、別人が宿るのではなく、その人の内側から生じる一部でしかない。その一部分のことを「交代人格」と称するが、「交代人格」はその人が辛い経験や記憶から逃れるため、必要に応じて生み出されたものであり、彼らはそれぞれに応じた役割を担う。その理解が前提として重要となってくる。

 この障害は、幼年期の愛着障害と、耐え難いほどの苦痛に満ちた体験を通じて発症するとされている。共通する特徴としては、「安心できる居場所の喪失」が挙げられており、それが基盤にあるからこそ、彼らは自分の交代人格という逃避先を失うことを極度に怖れる傾向にある。自己の存在を確かめるために自傷行為に走ったり、治療をする医師に対して「お前は私を消すつもりなのだろう!」と攻撃的な態度に出るケースがあることも、それを裏付けているだろう。

 だから、私たちは彼らを否定してはいけない。否定せず、その人格の存在を認めなければいけない。それが大事なアプローチなのだ。陽炎姉さんが、そっとしておいて欲しいと言ったのもそれが理由だ。

浜風「鈴谷さんも、わかっていて接しているのですね?」

陽炎「……ええそうよ。彼女は舞鶴鎮守府だったんだけどね。三隈さんの治療のために転属を希望して、ここに来ることになったって司令から聞いたわ。三隈さんとは姉妹艦というだけでなく、同期だったみたいね」


浜風「なるほど」

 だから、彼女は他の艦娘たちと違って壊れてはいないのか。きっと、心の強い人なのだろう。自分の友人が歪に変わってしまったことを受け入れた上で、自然に振る舞うなんてことは、そう易々とできるものではない。

浜風「ああいう障害には、専門家、周囲、そして側にいて支えてくれる存在……それらが三位一体となった、複合的な支援が必要となってきますからね。鈴谷さんは側にいて支える存在として、これ以上にないくらい適任なのだと思います」

陽炎「そうね……」

 陽炎姉さんはそう言うと俯き、しばらく黙りこんだ。そのまま時計の長針が一周するくらい考え込み、ふと顔を上げた。

陽炎「……あんたに話しときたいことがあるの」

 無言で続きを促すと、陽炎姉さんは周囲を見渡した。

陽炎「場所を変えてもいいかしら。ここじゃ、ちょっと話しにくいから」




 陽炎姉さんとともにやって来たのは艦娘寮の屋上であった。

 金網が軋む。フェンスに背中を置いた陽炎姉さんは、懐から小さな箱を取り出した。「誉」という粗悪な煙草だった。

陽炎「吸うのよ、実は」

浜風「意外です」

陽炎「こう見てもけっこう不良なのよ」

 陽炎姉さんは笑いながら煙草に火をつけた。紫煙がゆらゆらと立ち登り、空へと溶けて無くなる。


陽炎「あんたと二人でこうして話をするのは、久しぶりかもね」

浜風「たしかに、そうかもしれません。二月からゆっくり話している暇なんてありませんでしたし」

陽炎「いつ以来だったかな」

浜風「もう、一年経ちますね」

陽炎「そっか……」

 煙草の火が蛍のように赤く灯る。

陽炎「谷風は元気にしているかしらね」

浜風「私がいたときは元気でしたよ。今はどうかはわかりませんが……」

 谷風たちが……南鎮守府のみんなが現在どうしているのかは私も分からない。ただ、提督から聞いた話によると南鎮守府は現在も存続しているらしい。南提督が死んだ話は一切伏せていたから、はっきりしたことは知らないが。解体されたとの話もなかったから、きっとまた、新しい提督が着任することになったはずだ。

陽炎「……元気だと、いいわね」

浜風「もしかして、手紙が来ないんですか?」

 陽炎姉さんは、重たげに頷いた。

陽炎「二月からね。ぴったり、来なくなっちゃった」

浜風「……」


陽炎「だから、友達としては心配かな。心配するだけで、どうすることもできないけど」

 陽炎姉さんらしからぬ、諦観を匂わせる台詞だった。それがさらっと彼女の口から出てきたことが意外で、少しだけ驚く。

 右腕の義手をさすりながら、陽炎姉さんは言った。

陽炎「どうして、みんなに手が届かないんでしょうね。みんな、一人残らず助けられればいいのに」

 伸びきった煙草の灰が、崩れて落ちた。塵となり、一瞬で風にさらわれてゆく。

 私は、何も言わなかった。

 叶わないとわかって口にする理想は、自嘲に他ならない。それを意味もなく貶すのは、悪趣味としか言いようがないだろう。

 戦争での命は、落葉だ。到底拾いきれるものではない。彼女も戦場に足を踏み入れて一年で嫌というほど思い知らされてきたのだろう。彼女の零した本音のかけらには、なんとも言えない哀愁が漂っている。

 一年。たかが一年だ。だが、一年という月日は、あまりにも重くのしかかってくる。陽炎姉さんが煙草を嗜むようになったのも、きっとこの重みから少しでも目を逸らしたかったからなのだろう。

 煙草の火が消えた。

浜風「……そろそろ本題に入りましょう」

 陽炎姉さんが二本目に手をつける前に、私は言った。

浜風「話とは、何ですか?」

陽炎「……」

 握り締められた義手が、音を立てて震えた。

陽炎「……ここが元来どういった場所なのか、提督や他の誰かから聞いているかしら?」


浜風「はい。元々、療養施設だったようですね。東鎮守府の一件をきっかけに鎮守府へ変わったと聞きました」

陽炎「そうよ。だから、ここには色々な事情で排除された子や傷ついた子達が多く所属しているわ。雷ちゃんや三隈さんのようにね」

 そう言って、上へと視線を移した。雲に濁された空は暗い感情の鏡のようである。

 陽炎姉さんは見るのが嫌だったのかもしれない。目を閉じて、ゆっくりと細く息を吐いた。
 
陽炎「……海軍は狂っている。戦場に出て、一番実感したことがこれよ。戦闘の怖ろしさよりも、命の尊さよりも、何よりもね。私たちが剣を捧げた組織の腐敗に巻き込まれ、みんな病んでしまった。いつも思うのよ、私。私たちは一体何のために……誰のために戦わされているのかって」

 そんなこと、答えは出ている。簡単だ。私たちが怪物を殺せば殺すほど甘い汁を啜ることができる極少数の者達のためだ。国を守るためでも、平和を取り戻すためでもない。大義などない。なんにもない。

 あるのは腐った果実の甘い香り。戦争を狩りと見做し、勲章を見て自慰行為に耽る外道貴族どもの享楽の宴。その実態の中で私たちの有り様は、青と赤の凸型の駒でしかない。艦娘は護国の英雄だと嘯き、虚像の誇りを育む嘘に騙された、愚かな駒だ。

 その嘘に私たちは苦しめられた。私も、おそらく陽炎姉さんも。そして、ここにいる壊れた艦娘たちも。

陽炎「ここにいるみんなも、同じことを思っている。戦うことに、本当は大した意味はないんだって。霧のような夢から目を覚ましちゃったのよ」

浜風「……それでも、みんなは戦いを止めない。それは何故でしょう?」

 分かっていながらも、敢えて訊ねた。意地悪をする気もからかう気も一切ない。

 ただ、なぜだろう。なぜか、陽炎姉さんの口から答えを聴きたい気がしたのだ。

 陽炎姉さんは、ゆっくりと顔を下ろして私の顔を見つめた。皮肉っぽく笑うことなど一切なかった。アメジストの瞳は尊厳に洗われ、澄んでいた。


陽炎「私たちが、艦娘だからよ。大義があろうがなかろうが、それでも私たちは戦わなければならない。これは、理屈では語れないことよ」

浜風「……そうですね」

 たしかに、理屈を並べ立てては語れないことだ。いかに汚されようとも、嘘の英雄像で飾り付けられようとも、「艦娘である」という誇りだけは確かなものだ。それだけは変わらないし、変えられない。

 真の化物にでも、ならない限りは――。

陽炎「馬鹿だと思う。でも、そんな馬鹿野郎どもを誰よりも私は誇らしく思うの。それは、可笑しなことかしら?」

 私は首を横に振った。

浜風「たしかに、合理とは程遠いですね。でも、誇りというのはそういうものなのだと思います」

陽炎「……そういうところは、変わらないわね」

 陽炎姉さんは呟くように感想を漏らし、少しだけ表情を緩ませた。首を傾げても、彼女は答えず、煙草を咥えた。

 ゆらり、ゆらり。煙がまた昇る。

陽炎「私はね、そんな大好きな馬鹿野郎どもを守りたいの。それは命だけではなくて、心や魂も含めてね。……矛盾したことを言っているように思うかもしれないし、たしかにそう言われたら反論し辛いわ。でも、こんな無茶苦茶な思いを、分かってくれた人がいる」

浜風「……提督、ですね」

 無意識に手を握る。一ヶ月前に感じた熱は、もはや残り滓のように儚い。

 陽炎姉さんは紫煙をゆっくりと吐いて、

陽炎「司令は、私のことを『同志』って言ってくれたわ。同じ想いを抱いた『同志』だって。司令官なんてどいつもこいつも役職だけ立派なクズばかりに違いない思っていたけど……あの人だけは違った。あの人は本当に、この鎮守府を、私たちを守ろうとしてくれている。艦娘の権利を、尊厳を、命を」

 語調が強くなっていく。風が吹き抜け煙草の火を消す。熱を言葉に吸われるように陽炎姉さんの意思に火が灯る。

陽炎「だから、この鎮守府だけは絶対に、どんなことがあっても守護するわ。ここは、私たちにとって最後の希望。唯一の正気の島だから」

浜風「……正気の島」


 こんな、壊れた者たちが傷を舐め合う場所が、か。

 でも、陽炎姉さんの想いは否定できるものではなかった。たしかに、ここは彼女たちにとって、艦娘としてのアイデンティティを保っていられる最後の居場所だ。提督の傘の下で、仲間達と苦しみを分け合いながら、どうにかこうにか生きている。だからこそ、彼女たちは皆必死に戦おうとするのだろう。

 悲しいほどの直向きさだった。

陽炎「もう、何も失いたくはない。手の届かない場所は無理でも、せめて自分の手の届くところだけは……。もう、守れないのは嫌なの」

 陽炎姉さんは、義手を空に掲げてそう口にした。鋼鉄の腕を見つめる目には、まさに陽炎のような感情の揺らぎが映っている。そこにあるのは腕を失ったことに対する後悔か。それとも、もっと別のことに対する懺悔なのか。

陽炎「……ねえ、浜風。あんたにもお願いしたいの。どうかこの鎮守府にいるみんなを、あんたにも守って欲しい」
 
浜風「私も、ですか」

陽炎「無理にとは言わない。でも、協力して欲しいの。あんたなら、私や提督よりもずっと頭の回転が速いし、こういうのは得意だと思うからさ」

浜風「……」

 これが、彼女の話したかったことなのだろうか。

 きっと、間違いではない。これは、彼女が血を撒き散らしながら彷徨い続け、その果てに見出した一筋の光だ。輝かしい想いを共有し、同じ道を歩きたいと思って話してくれたことに、誇張も嘘もないだろう。


 まごう事なき本音。ただ、その本音の裏には別の思いが隠れている。きっと洞穴のような暗く澱んだ、失意の片鱗だ。腕を失い、最果ての「小さな揺り籠」に至ることとなった原因……それに触れようとしたのではないか。

 だが、陽炎姉さんは何も語ろうとはしなかった。

 きっと語る勇気が後一歩足りないのだろう。彼女は強く優しい人だが、その反面繊細なところもある。私に知らせたいと思いつつも、知られることが怖いのだ。

 そう察しつつ。私は、助け舟を出す気にならなかった。

 そこに、大した理由はない。
 
浜風「……分かりました」

陽炎「協力してくれる?」

浜風「ええ。陽炎姉さんと提督の願いですから」

陽炎「……ありがとう」

 陽炎姉さんはそう言って、嬉しそうにも寂しそうにも見える微笑みを浮かべた。

陽炎「あんたも一緒なら心強いわ」

 私は何も言わず、そっと空を見上げた。消えかけた紫煙の先に広がる空は、どんよりと重たい色になっていた。

 きっと、雨が降るだろう。

 嘘つきな私を非難する、煩い雨が。


投下終了です






 ■

 俺は、疲れていた。

 身体が鉛のように重たい。それに反し、頭がふわふわと浮いたように軽い。思考がまとまらないときがあって、ぼうっとしてしまう時間が増えた。報告に来たものたちの言葉も、耳に入っても鼓膜を通過しないで蒸発することが頻繁にあった。歩くと、ふらつくときがある。

 どう考えても、疲労のせいだ。最近、沖ノ島海域攻略の準備で多忙を極めていることもあるが、理由はそれだけじゃない。

 どこに行くにも雷がついて回るからだ。仕事のときも、飯を食いに行くときも、果ては用を足すときまでも、俺の側から離れようとしない。唯一、煙草を吸いに行くときだけは煙の匂いを嫌がって距離を置いてくれるが、それだけだ。それ以外の時間は、ほぼほぼ雷の拘束を受けている状態だった。

 それは、寝るときだって例外ではない。

 重たい溜息が出た。

 雷が右腕に抱きついて寝ていた。俺の部屋、俺のベッドの中で、どうしてこんなにも穏やかな寝顔ができるのか。涎を垂らし、だらしなく口元を緩ませている。

 呑気なものである。俺は、君のせいでロクに休めていないというのに。

 燻る苛立ちを引っ込めて目を瞑る。だが、腕にかかった重さと柔らかな温かさが気になって、どうにも寝ることができない。もちろん、情欲に繋がるものではない。ただただ、岩の上に布一枚敷いたような寝心地の悪さが気になって仕方がないだけだ。もともと、人と一緒に寝れる性質ではないだけに、余計に辛い。

 寝るときくらい、一人にしてくれ。


 そう何度念じたことか。

 だが、口には出せない。口に出せば、雷の腕に赤い刻印が増えてしまうから。

 このまま、雷が熟睡したことを確認して抜け出そう。一度深い眠りに入れば、彼女はそうそう起きない。その隙に、一杯ひっかけてやる――。

 そう誓い、目を開ける。

 今夜は半月のようだ。淡い明かりが窓に染み込み部屋を濡らす。夜鳥の声が遠くから聞こえては消え聞こえては消え、静寂を壊さない風情を運んでくる。

 俺はそっと腕を動かしてみた。ぎゅっと握り返された。

 まだ、ダメか。

雷「……響」

 溢れそうになった舌打ちは、その呟きに遮られた。

 腕を引かれた。

雷「響……どこにも、行かないで……」

提督「……」

 熱を孕んだ感情が瞬時に冷めていく。

 響。それは、彼女の姉だった艦娘。理不尽に、無意味に、奪われてしまったかけがえのない命。

 もう二度と、戻ってこない「家族」だ。


 雷の目尻から悲愴の露が零れる。鼻筋を通り、俺の腕を冷たく濡らした。雷の中でけっして無くならない喪失の悲しみに、俺は目を伏せずにはいられなかった。

 鬱陶しい。そう、思いそうになっていた。ずっと纏わり付いてきて、自分のわがままを押し通すために狂気をひけらかす雷が重みになりかけていた。

 だが、俺は覚悟したはずだった。雷の……ここにいるみんなの苦しみを受け止める、と。そして、その覚悟に従い、俺は雷を救った。そして、彼女は俺を慕うようになった。俺には彼女を救った責任というものがある。このような身勝手で、感情的な考えを抱くのは無責任という他ない。

 俺は……。俺は、なんてことを。

 雷の髪に触れる。絹のように柔らかい髪は指に絡みつき、すぐに流れた。

 疲れているせいだ。

 初心を忘れてはいけない。たとえ、浜風の嘲り通りの関係性になっていようとも。それを苦々しく思ってしまうことがあろうとも、受け止めなければならないのだ、俺は。

提督「……俺は、提督だからな」

 だから、守らないと。

提督「……雷」

 もう苦しまなくていい。君は、もう辛い思いをする必要はないのだ。

 ゆっくり撫でていると、雷が優しい顔つきに戻った。

 ほっと息をつく。

 こうして見ると天使のようだ。細い眉に、小さな口、そしてやや幼さを感じさせる桃色の頬。もし、艦娘となった副作用で成長が止まっていなければ、きっと今頃美人になっていただろうに。重責も背負わず、悲劇も知らず、幸せになっていただろうに。

 艦娘なんかに、ならなければよかったのに。

 俺は瞑目し、ゆっくりと自分の肩を揺する。肩の骨が軽快に音を立てた。思ったよりも大きい音だったが、雷はまったく反応をせず穏やかな寝息を奏でている。

 とりあえず、酒を飲もう。それなりの量を飲めば寝ることはできるはずだ。睡眠の質は下がるが、どうせ寝れないのなら深酒してしまったほうがいい。

 そう思い、雷の腕をそっと外して起き上がったときだった。


 ドアがノックされた。

 軽快だが気遣いを感じさせる優しい音だ。
 
提督「なんだ」

 答えて、はっとした。つい、いつもの癖で反射的に答えてしまった。
 
 馬鹿野郎。今は雷がいるのだ。扉の先にいるのが陽炎ならともかく、あのノック音は間違いなく陽炎ではない。榛名か、それか羽黒……おそらくどちらかだ。

 だが、その予想は最悪の形で外れた。

浜風「……夜分遅くに失礼します」

 心臓が冷えた。あれは、浜風の声だ。

 まさか、このタイミングで浜風が来るなんて。

 俺は雷の方に目を向ける。小さく寝息をたててはいるが、寝ているのは確かだ。

 この状況を浜風に見られるわけにはいかない。いかに雷が幼いとはいえ、秘書艦が提督である自分と共寝しているなどと知れたら、どう誤解されるかわかったものではない。賢い子だから、事情を説明すればわかってくれるかもしれないが……だが、良くは思われないだろう。

 とくに、二人は仲が良くないのだ。これをきっかけに、二人の仲がさらに険悪になるなんてことにも繋がりかねない。

浜風「提督に……その……用事があって来ました。よかったら、開けてもらえると嬉しいです」

提督「あ、ああ! ちょっと待ってくれ」

 一体、どうしようか。

 扉と雷を交互に見ながら考える。身体の重たさはいつのまにか消し飛んでいた。

 とりあえず雷に布団をしっかりと掛ける。これで扉側から見えにくくはなっただろう。だが、寝返りを打たれでもしたら簡単に見つかってしまう。やはりどうにかこうにか理由をつけて帰ってもらうのが得策か。いやしかし――。

 そうこうしているうちに、なんとドアノブが回った。扉がゆっくりと開いていく。浜風が、あっと小さい声を漏らした。

 俺は慌てて扉に近寄った。


提督「や、やあ。浜風」

浜風「あの、すいません。まさか開いているとは思わず、つい……」

 浜風は、申し訳なさそうに眉毛をハの字に下げた。

提督「いや、いいんだ。俺が鍵をかけ忘れていたのが悪い。不用心だったな」

浜風「いえ、私も勝手に開けてしまったので。……提督、今、時間よろしいでしょうか?」

提督「そうだな、ちょっと日を改めてもらえると嬉しいかな。明日も早くから起きないといけないし、来客もあるから。憲兵の定期監査が来ることになっている。あと書類もかなり溜まっている。締め切り間近のやつを片付けねばならないんだ」

浜風「は、はあ。相変わらず、お忙しそうですね……」

 早口でまくし立てるように言ってしまったからか、浜風が微苦笑を浮かべた。そして、目を伏せる。

浜風「ご迷惑、でしたね。すいません」

提督「め、迷惑というわけではないぞ。ただ、忙しくてな。睡眠時間だけはしっかり確保したいから」

 背中が汗で冷えていたが、心は少しだけ平静を取り戻しつつあった。この流れなら浜風も帰ってくれるだろう。浜風には悪いが、今だけはどうしてもタイミングが悪すぎる。

 だが、浜風は引こうとはしなかった。

 きゅっと下唇を噛んで、俺の手をしばらく見つめた後、顔を上げた。

浜風「失礼を承知でお願いがあります。そんなに時間は取りませんので。その……」

 息を吐いて、言葉を紡いだ。

浜風「手を握って欲しいんです。それだけなのですが、駄目でしょうか?」

提督「……」

 俺は後ろを気にしながらも、浜風の顔を見た。

 期待と不安が混在した表情だった。青い瞳が潮が引いているときの海のように揺れている。あどけない、歳不相応な彼女が年相応になっていた。木香薔薇の香りが漂っているようだった。

 ささやかな幸福を、浜風は感じている。そして、その幸福をいま欲しがっている。まるで、お菓子を欲しがる子供のようないじらしさがあって可愛いらしい。ほんの一月ほど前は、こんな浜風をみて調子が狂いそうになった。ギャップがありすぎるからだ。


 が、今は米神に汗が滲むだけだった。焦りと、過去の慄きが一息に吹き出してきた。後ろの気配が急激に濃密になった気すらした。

 おかげで、「消毒」されかけたのだ。あれ以来ライターは全て処分したが、それであのときの記憶もゴミ箱に行くわけではない。この白磁の中に朱が滲んでいるような美しい手をとった途端、黒い瞳がこちらに向いているのではないか――。冗談として一笑できないのが怖ろしい。

提督「……」

 目を下げると、浜風の手が開いたり閉じたりしているのが見えた。逡巡する。まるでロシアンルーレットでもしているかのような気分だ。

 この手をとっていいものか。

 浜風の気持ちを思えば、握ってあげたい。ほんのささやかな願いでしかないから、叶えたい。

浜風「……やはり、駄目でしょうか?」

 浜風の声は不安げに震えていた。
 
 ええい、仕方ない。自分の気持ちに正直になれ。

 浜風の手を握ろうと手を伸ばした瞬間だった。

雷「……ううん」

 全身が硬直した。

 雷が寝返りをうって、こちらを向いたのだ。毛布が蹴飛ばされていた。扉から漏れ出た淡い光が、寝顔を映していた――。

 時が凍るとはこのことか。すべてが消え失せた。音も色も、感覚の一切が無へと還った。

 浜風がぽかんと口を開けていた。瞬きを繰り返し、思考を停止させているようだった。

 沈黙が重たい。沈黙が、冷たい。


浜風「……お邪魔だったようですね」

 冷笑を浮かべながら、浜風が言った。

提督「ま、待て! 待ってくれ! 誤解だ!」

浜風「わかっています。秘書艦娘と同じベッドで『仕事』をすることにお忙しいのでしょう?」

提督「わかってないじゃないか! そ、その、これは違うんだよ! 説明させてくれ!」

浜風「いえ、必要ありません」

 踵を返そうとした浜風の手を、反射的に握った。

提督「た、頼む! 話だけでも聞いてくれ……!」

浜風「……」

 浜風は握られたところをじっと見つめた。

浜風「……話だけなら聞きましょう」





浜風「事情はわかりました」

 浜風はそう言って、溜息をついた。

浜風「想像以上に依存されていますね。……一日中、べったりじゃないですか」

提督「……そうなんだよ」

 俺は扉に背中をあずけた。木の扉が、深く軋んだように思えた。

提督「正直、ちょっと困っている。前はここまでべったりしてくることはなかったんだけどな。夜も、最近はほとんど毎日来る」

浜風「最近は、ということは以前からあったのですか?」

提督「ここまでではないが、結構……。一人では不安で眠れないと言って来ていた」

浜風「なるほど。今は、毎日不安に苛まれているわけですね」

 微かなアイロニーが匂う口調だった。

浜風「そんなに不安を感じることはないと思うのですがね。いつも、どんなときでも提督と一緒にいられるのですから」

提督「……」


 君が遠因ではあるのだけどな。

 だが、そんなことは口に出すべきではない。浜風は、ただ普通に接してきているだけだ。多少の「わがまま」はあるが、本当に些細なものだし、注意する必要なんてない。それに、浜風の境遇を思えば、これくらいは付き合ってやりたいと思うのが人としての情というものだ。

 色彩の欠けた世界で生きることを強いられた浜風が、唯一見出した色。俺という人間の温もりだ。それは、さながら雪山の中に突然現れた小屋にも似ていて。浜風がすがりたいと思うのは詮なきことであろう。

 問題の根底は雷にある。あるいは、俺の今までの接し方に誤りがあったか。

提督「……どうしたものかな、本当に」

浜風「拒否するわけにはいかないのですか? あまり優しくしすぎても依存が強まっていくだけですよ」

提督「わかっているよ」

 けれど、それをやってはならない。やってしまえば、彼女は自分を痛めつける。拒絶により吹き出した不安を、傷として刻み込む。

 それは、さすがに浜風には言えない。

 雷の名誉にも、関わってくる。

提督「そうすべきだとは思う。けれど、甘いんだろうな俺は。彼女にはなるべく笑顔で居てもらいたい」

浜風「それで、提督から笑顔が消えるようではいけないと思いますよ。……ロクに寝れていないのでしょう? 目の下に大きな隈があります」

 浜風に指摘されて、思わず目元を拭った。

 やはり隠し切れはしないようだ。

浜風「提督はただでさえ、大変な立場にいらっしゃるのです。雷さんのことまで抱え込みすぎると、今度は貴方が壊れてしまいます。それでは共倒れです」

 浜風の言葉は淡々としているが、鋭く尖っていた。

浜風「提督は、優しすぎますよ」

提督「……そうかな」

浜風「そうですよ。そこは提督の美点でもありますが、それで磨り減るのは勿体ないです。自分をもっと大切にしてください。自分を犠牲にしては、駄目です」

 青い瞳が、疲れ切った俺の顔を映している。酷い顔だ。自分でもそう感じる。


提督「もう少し、毅然とした態度を取るべきなのかもしれないな」

浜風「ええ、雷さんのためにもなりませんから。依存状態を抑えるためには、ある程度の線引きは必要なことでもあります。それに……」

 浜風は言葉を区切り、言った。

浜風「場合によっては、もっと専門的な治療も視野に入れるべきでしょう」

提督「……それはつまり」

浜風「提督の元から離すということです。幸い、ここには専門家が在中していますからね。彼らに任せるべきです」

 浜風の言うことはもっともだ。側から見たら、もうそうすべき段階にあるのは目に見えている。依存を止めさせるには、結局のところ、その依存先に近づかないよう離すのが一番だ。

 だが、それはあまりにも危険すぎる。

 口を噤んで、下を向いた。胃の内容物がもぞもぞと蠢いて、上に這い上がってきたからだ。

 思い出すのは血に染まったシーツとベッド。

 まだ、浜風がこの鎮守府にいなかったときのことだ。すでにそのとき、俺は雷の治療を専門家に依頼したことがあった。が、結果は惨事に終わった。俺の元から離れることがわかった雷は、豹変し、狂ったように暴れ、自分の手首の骨が剥き出しになるほど切って切って切りまくった。「司令官と離れ離れになるなら死んでやる!」と咆哮を上げながら――。

 また、ああなることは目に見えている。だから、その選択だけはできない。

 それに、依存のきっかけを作ったのはそもそも俺なのだ。俺には、その責任がある。


 俺の無言に察するものがあったのか、浜風が溜息を零した。

浜風「もし、専門家に任せるのが難しいのなら……なるべく距離を置くように工夫するべきです。あなたには、一人の時間が必要ですよ」

提督「そんな方法あるかな」

浜風「なくはないですよ」

 俺は目を白黒させて、浜風を見た。

浜風「簡単な話です。彼女を出撃させればいいんです」

提督「なに?」

浜風「出撃です。理由はよくわかりませんが、提督は彼女を出撃させていませんよね? 遠征隊として出撃させれば物理的に距離を取れますし、それなりの時間も取れますから」

提督「しかし、それは……」

浜風「……なにか不都合なことでもあるのでしょうか?」

 俺は小さく頷いた。

提督「雷は、前の鎮守府で家族を亡くしているんだ。……そのときのことが頭を過るんだろうな。出撃を怖れている節がある」

浜風「……なるほど。ですが、そうも言ってられないとは思いますが」
 
提督「どういうことだ?」

浜風「さっき、言っていたじゃありませんか。憲兵の定期監査が入ると」

 俺は押し黙った。内心、浜風の博識さに舌を巻きつつ。

 そうか、彼女は元秘書艦のだったな。ならば、定期監査でどういったチェックが入り、どういった指導が行われるのか知っていてもおかしくない。

浜風「雷さんは、半年近く一回も出撃していないのですよね? いくら出撃義務がある程度免除される秘書艦とはいえ、その点は確実に突っ込まれると思うのですよ。この鎮守府や、ここにいる艦娘たちの事情がいかに特別なものであろうとも」

 浜風の目が、猫のように細くなる。

浜風「……もしくは、すでに突っ込まれたことがあるのではないですか? 通常なら、療養所で治療中のもの以外を除き、二ヶ月活動記録がない艦娘には『強制出撃』が命じられますからね」

 どういった特別措置がこの鎮守府に適用されているか知りませんが――。浜風はそう言葉を締め、扉の方に目を移した。小さく鼻を鳴らし、微かな笑みを浮かべた。

undefined


 息を飲む。手が汗で滲んでいるのを感じる。

 怖ろしい子だ。この鎮守府の特異性を考慮し――内容までは仔細に知らないまでも――特別措置が取られていることまで読んで、このような指摘をしてくるなんて。しかも、ほぼ当たっている。雷について、憲兵からすでに指摘を受けているのは事実だ。

 南西鎮守府には、他の鎮守府にはない特別措置がいくつか認められている。これは、俺がこの鎮守府の提督に任命されるにあたり、提督会議と交渉して得たものであった。

 代表的なものを挙げるとするなら、十分な補充要員の確保、そして療養が必要な艦娘のある程度の出撃免除――この二つ。とくに後者は厳しい追及を受けた。落ちこぼれた「戦力」の有効活用が、鎮守府への改装の大前提としてあったからだ。当然、それに反するような条件だから、揉めるに決まっている。

 しかし、胃を痛めながらも交渉をした結果、どうにか後者の条件を勝ち取ることに成功したのだ。ただ、当初提示していた条件に比べると、到底満足できるものにはならなかったが。

 その内容はこうだ。対象となる艦娘については、最大四ヶ月までの出撃免除を認める――というもの。

 そう、四ヶ月。つまり雷はすでにその期間を二ヶ月も超えてしまっているわけだ。憲兵からこのことを問題視されるのは当然の帰結と言えた。なんとか、理由をあれこれつけて雷を庇ってはいるが……そろそろ庇いきれなくなってきている。

浜風「このままでは、どのみち雷さんが辿る道は『強制出撃』です。『強制出撃』は、事実上の処刑とほぼ変わりません。片道分の燃料だけを与えられ、出撃させられるわけですからね。しかも、沖ノ島海域に」

 淡々とした指摘が、降りかかる矢のように突き刺さる。俺の葛藤を、悩みを、的確に鋭く抉ってくる。

 浜風は、何も言えなくなった俺に優しい笑みを向けた。

浜風「しかし、これはチャンスだとも思うんです」

提督「チャンス?」

浜風「もし、雷さんを出撃させることができれば……提督は雷さんと距離が置けるし、雷さんも監査の網から抜けることができる。……それに、提督もご存知ですよね? 雷さんが周りからどう思われているのか」

提督「……ああ」


 もちろん、知っている。

 ほとんどの艦娘たちから敬遠され、一部の者たちからは金魚のフン、穀潰しとまで揶揄されている。可哀想ではあるが、それも無理はないことだった。みんな、それぞれに苦悩を抱えながらも、自分たちの居場所を守るために必死になって戦っている。カウンセリングを受けながら、薬を飲みながら、汗と涙と血を流して。そんな中でロクに働かないものが居たら、後ろ指をさされるのは分かり切ったことではある。

 雷は俺しか見えていないから、まるで気にしてはいないが……。俺は当然、頭を抱えていた。全員を纏めるべき立場の秘書艦に協調性がないのは、本来ならば由々しき事態だ。

浜風「……これほど嫌われてしまったら、信頼回復にはかなり時間がかかるでしょう。ですが、彼女をある程度受け入れてくれる者が何人かでてきて、彼女自身も他の子に目を向けることができれば、状況も変わるでしょう。提督への依存も緩和できて、専門家の話も聞くようになるかもしれません」

提督「……」

浜風「必要なら、私も、陽炎姉さんも協力します。こういう助言は得意ですし、昔はよく人の相談にも乗っていましたので。できることならなんでもやりますよ。――雷さんを守るために」

提督「……なぜそこまで。君は、雷と仲が悪いはずじゃなかったか?」

浜風「別に私は彼女のことを嫌っていませんよ。嫌われてはいるでしょうが。……まあ、それに陽炎姉さんとの約束もありますから。この鎮守府にいるみんなを守ることに協力すると。当然、雷さんもその一人です」

 浜風は破顔してそう答えた。彼女にしては珍しい、熱のこもった口調であった。

 銀の髪が、海月の足のように揺らめく。目の前を、浜風の芸術品のごとく整った顔が埋め尽くした。廊下の光と俺の影を染み込ませた頬が、水彩画を思わせる淡い肌色に彩られた。


浜風「もちろん、提督もです」

提督「……浜風」

浜風「提督は、私を守ってくれるのでしょう? ならば、私も同じです。提督が苦しんでいるのなら、その苦しみを解消したい。そう、思っています」

 浜風の言葉が、染み渡るように響いた。ほんの少し。ほんの少しだけれど、心の中にある淀みの重たさが抜けていく。

 目の前にある瞳は、空のようだ。青く、澄んでいて、人を惹きつける不思議な魅力がある。

 無言で見つめ合ううちに、浜風の白皙の頬にほんのりと桜色が浮かんできた。

浜風「……えい」

 小さな掛け声とともに、浜風が胸に飛び込んできた。

 驚いて仰け反る。俺たちの体重を受け止めて、扉がゆるりと部屋の方に沈み、反発した。

提督「お、おい」

 いきなりどうしたんだ。

 浜風は俺の背中に手を回してきた。優しく、それでいて離したくないと主張するかのごとく。

浜風「……お許しください。ちょっと、雷さんが羨ましかったもので」

提督「う、羨ましかった?」

 声が裏返ってしまった。

 浜風の柔らかさ、浜風の温もり、浜風の匂い。限りなく大人に近づいた少女の感触が、溶け込むように俺の神経を痺れさせる。


浜風「……ずるいですよ、雷さんばかり。私だって提督と一緒にいたいのに」

 思わず、息を飲んだ。

 わかっているのか、この子は。自分と雷の違いというものを――。

提督「……な、なあ浜風。君の気持ちはわかったよ。とりあえず」

浜風「嫌です」

 浜風は俺の言葉を遮り、力を込めてきた。

浜風「離しません。ずっと、我慢していたんですから……。この温もりを……ずっと……」

提督「……」

浜風「……温かい」

 心底、嬉しそうな呟きだった。

 俺は息を吐く。純粋な思いの発露に、少しだけだが緊張が解れた。彼女も根っこではまだ子供なのだと、思うことができたから。

提督「我慢させてすまないな、浜風」

 思えば忙しさや雷を理由に、彼女のことを放ったらかしにしていた。彼女も雷と同じ、俺が救ってしまった子なのだ。放置するのは無責任だったかもしれない。

 それに、浜風の望みはシンプルだ。そんなものさえ叶えてあげないのは、彼女にとってあまりにも酷ではないか。

 浜風の頭に手を置いた。思ったよりも、彼女は小さかった。

提督「まあ、なんだ……。忙しくてなかなか時間は取れないかもしれないが、なるべく、努力するよ」

浜風「ありがとうございます。……でも、無理しなくていいんですよ。雷さんもいるんですから」

提督「まったく自分の時間がないわけではないさ。タバコを吸うときだけは、一人になれるから……。よかったらおいで。いつも二時くらいに、鎮守府本館の裏にいる」

浜風「……はい」

 浜風は俺を見上げて、嬉しそうに笑った。

浜風「また、温もりが欲しくなったら行きますね」





 浜風が帰った後、俺は部屋に戻ってベッドに入った。雷の寝息は聞こえない。こちらに背を向けているせいでどんな顔をしているかはわからないが、反応がないところを見るに寝ているのは間違いなさそうだ。

 俺はほっと息をつく。身体が一気に重く、沈んでいくような気がした。

 これなら、酒がなくても寝れそうだ。

 浜風が来たおかげで色々と焦ったが、張り詰めたものが解れたのも確かだ。彼女は、俺が抱えていた葛藤や悩みを理解してくれていた。それが、嬉しかった。

 苦しみを解消したい、か。

 彼女の優しさが、染み渡るようだった。

 浜風……。

 不思議な子だ。あの子を見ていると、なぜか静流のことを思い出す。とくに、見た目が似ているわけでもないのに。雰囲気……だろうか。他の子にはない、なんというか、青い薔薇のような存在感がある。そんなところが、よく似ている。
 
 そんなことを考えているうちに、瞼が重くなってきた。

 久しぶりに、ゆっくり眠れるといいな。

 そうして、俺の意識は闇へと落ちていった。













雷「……消毒しなきゃ消毒しなきゃ消毒しなきゃ消毒しなきゃ消毒しなきゃ消毒しなきゃ消毒しなきゃ消毒しなきゃ消毒しなきゃ消毒しなきゃ消毒しなきゃ消毒しなきゃ消毒しなきゃ消毒しなきゃ消毒しなきゃ消毒しなきゃ消毒しなきゃ消毒しなきゃ消毒しなきゃ消毒しなきゃ消毒しなきゃ消毒しなきゃ消毒しなきゃ消毒しなきゃ消毒しなきゃ消毒しなきゃ消毒しなきゃ消毒しなきゃ消毒しなきゃ消毒しなきゃ消毒しなきゃ消毒しなきゃ」













投下終了です。
カゼヤマイ(@hl_zikaki)という名でツイッターもやってますので、そちらもよろしくです。





 ■

 暁の死は、不幸な事故として扱われた。

 魚雷が突如として爆発、それが他の魚雷や砲弾にも誘爆、そして大破状態だった暁は肉片一つ残さず海の藻屑となった。

 あまりにも残酷で、あまりにも呆気ない死だった。実感なんて持てるわけがなくて、暁の死を受け入れられなかった。受け入れたくなんて、なかった。私も響も。

 だけど、それが実感として落ちてくる間もなく、事態は目まぐるしく動いた。

東「よし、出撃しよう」

 司令官は、あっさりと言い放った。

 暁の死から二日後のことだった。葬式すらやってもいないのに、そんなこと忘れたかのように出撃を指示してきた。

東「明日、またリランカへ行くぞ。タ級には随分と煮え湯を飲まされたからなあ」

 私たちは、呆然と司令官を見詰めた。ここには出撃部隊と欠けた第六駆逐隊がいて、みんな、蝶の蛹から蜂が生まれてきた光景を見たかのような顔をしていた。

 司令官は、何食わぬ顔で耳垢をほじくり返し、指先についたそれを息で吹き飛ばした。そんな呑気な司令官に、長門さんが詰め寄った。

長門「……提督、お前は何を言っているんだ?」

東「ん? なんだ長門、聞こえなかったのか? 出撃だよ出撃。リランカへ電の葬い合戦だ」

長門「そうじゃない! お前、状況がわかっていないのか!」

東「状況なら理解しているよ」


 そう言って、司令官はみんなを見渡した。

東「不幸な事故によって、駆逐艦『暁』が轟沈。暁を曳航していた重巡洋艦『熊野』が重体、その他も二、三名が大破という大損害を被った。まるで激戦をくぐり抜けてきた後のような、酷いヒドォイ状態だ。みんな、ショックも大きいだろう」

長門「ならば、なぜ出撃なんてやろうと言うのだ!」

東「だからこそだよ。だからこそ、行かねばならない。ここで引いたとあっては、一体なんのために戦ってきたのか分からなくなってしまう。暁の死が、無駄になってしまうじゃないか」

長門「……言いたいことはわからなくはない。だが、今は休むべきだ。提督が言ったように、みんな、この事態に対して大きなショックを受けている」

 長門さんはこちらを一瞥し、感情を抑えた声で続けた。

長門「今、出撃しても大した成果を得られるとは思えない。それに、これは元々訓練だったんだ。そんなに急を要することでもないではないか」

東「ずいぶん軟弱なことを言うな」

 司令官は何がおかしいのか、けらけらと笑った。

長門「……なんだと?」

東「わかってないなあ、長門。我々は栄光ある帝国海軍の軍人だぞ? それがだ、仲間を殺されておきながら逃げたとあっては嗤われてしまうぞ。あの世で我々を待っている電も暁も、後ろ指をさされることとなる。それでは、あの二人があまりにも可哀想ではないか」

 司令官は立ち上がり、長門さんの前に立つと肩を叩いた。


東「しっかりしたまえ。君ともあろうものが、本質を見誤っているぞ。死体すらロクに残らなかった暁を弔うのは、形だけの葬式か? ……違うだろう? 戦いだ。今、戦うことこそが、彼女の叶わなかった宿願を繋ぐバトンとなるのだ。泣き喚くだけ泣き喚いて指を咥えて引き篭もるなんてことが、許されていいはずがなかろうが」

長門「……お前」

 長門さんは唖然としていた。私も他のみんなもそうだ。

 司令官の言葉に心を動かされたからではない。尤もらしい理屈を並べているが、どれもこれも白々しいほどに空虚で、まるで頭の中に染み込まなかった。

 司令官は、薄っすらと口元を歪めていた。

 弔いを、死への労りを述べる人間の表情だとは、とても思えなかった。

 私の脳裏にへばりついた声が再生される。人生の脆さを、楽しそうに歌っていたあの声が。

東「だから出撃だ。明日、リランカ島沖へ出撃する。これは命令だ。異論は認めない」

 以上だ。司令官はそう告げて、私と響に笑顔を向けた。

 ぞっとした感覚が足元から駆け上がってきた。全身が硬直する。

 まるで、蛇のような目だ。獲物を見つめる捕食者の目。

 響が手を握ってきた。その手は湿っぽくて、震えていた。

長門「どうしたんだ、提督。……最近、おかしいぞ?」

 長門さんのその言葉は、この場にいるみんなの気持ちを代弁したものだった。

 司令官は、こんな無茶な提案をしてくるような人ではないはずだ。「教授」と慕われるほどに頭が良く、慎重で、無駄を嫌う几帳面な人で……でも、優しい人だった。決して甘い訳ではないが、私たちのことをいつも気遣ってくれていた。

 それが、どうして……。まるで、顔だけ同じ形をした別人に成り代わってしまったかのようだ。


長門「お前は、こんな命令をする男ではないはずだ。考え直してくれ」

東「却下だ。言っただろう。異論は認めない」

長門「提督……!」

東「何度も言わせるな。次口答えをしたら、懲罰房に入ってもらう。わかったか?」

 長門さんは歯噛みして下を向いた。司令官の決定が揺るがないものだと悟ったのだろう。

東「わかったか、と訊いているんだが?」

長門「……わかった」

 渋々といった感じの返事だった。

 長門さんの渋面など見えていないかのように、司令官は口の端を吊り上げて、手を広げる。
 
東「さあ、出撃出撃出撃だ。みんな、気合い入れていこうじゃないか!」

 誰も何も答えなかった。ここにいるほとんどの人が顔を引きつらせ、おかしくなってしまった司令官を見ていた。

 ただ、一人だけ平然としている人がいた。重巡洋艦の青葉だった。彼女は白けた空気に構うことなく、手を挙げた。

青葉「質問いいですかねえ?」

東「……ん? なんだい、青葉」

青葉「出撃メンバーはどうなさるおつもりで?」

東「ああ」

 そうだなあ。そう呟いて、みんなを順々に眺める。


東「……まあ、あまり変わらないかな。熊野と暁の分を変えるくらいだろう」

青葉「ん? でも、飛鷹さんとか全身に大火傷負って、指も数本欠損してましたよ。変えなくていいんですか?」

東「指数本くらいなら誤差だよ誤差。火傷も跡になったくらいで、高速修復自体は成功しているわけだしな。十分、戦力として機能するさ」

 あっさりと言ってのける司令官に、怒りすら湧かなかった。飛鷹さんはこの場にはいない。顔に大きな火傷の跡が出来て、ショックのあまり部屋に閉じこもっていた。それを無理矢理引き摺り出そうとする神経が、信じられなかった。

 長門さんが何かを言おうとするのを遮り、青葉は質問を重ねる。

青葉「じゃあ、熊野さんと暁さんの代わりは誰にするんです?」

東「熊野の代わりは、まあ三隈辺りが妥当だろう。三隈も、熊野がこんな目にあって怒りに震えているはずだしなあ」

青葉「泣き崩れていましたけどね」

東「大丈夫だ。今頃、その悲壮も怒りに変わっている。私には分かるんだ。怒りは、素晴らしいエネルギーだ。その熱量は、信じられないほどの力を生む。成功を導き出す原動力となる」

青葉「そんなものですかね? まあ、いいですが。……では、暁さんの代わりは誰になるんですか?」

 司令官の目がこちらに向いた。みんなの視線も、一斉に集まった。

 驚愕、怖れ、憂い、憐れみ。色と形の違う瞳に浮かぶのは、ゴミ捨て場のゴミように混ざり合う負の感情だった。そして、その中には、生ゴミを漁るカラスやゴキブリのように蠢く狂気がある。

 無言の悲鳴が身体を擽ぐる。立っているのもやっとなほどに、足が震えた。響の手が強く、痛いくらいに握りしめてきて、でもそんな痛みさえも霞んで消えゆくほどに、恐怖が――生理的な恐怖が、私たちを貫いていく。

 司令官は、淡々と告げた。

東「……どっちかだなあ」

青葉「どっちか、と言いますと?」

東「そりゃあ、第六駆逐隊のどっちかに決まっているだろう」


長門「さすがにそれだけは容認できん!」

 たまらない、と言った感じで長門さんが叫んだ。同調する勇気のあるものは、誰もいない。彼女だけが、鋭い眼差しを司令官に向けて、詰め寄った。

長門「第六駆逐隊だけは……絶対に出撃させるべきではない!」

東「なぜだ?」

長門「そんなこと言わなくても分かるだろう! 少しは彼女たちの気持ちを慮れ!」

東「あー、そうだな。少し軽率だったかもしれん。すまないすまない。『家族』だもんな、そりゃあ『家族』がいなくなれば深く悲しんでしまうものだ」

 司令官の謝罪は、羽根よりも軽かった。呆気にとられた長門さんの隙を突くように、口元を吊り上げて続ける。

東「では、第六駆逐隊は解隊しようか。そうすれば、彼女たちは、ただの鎮守府の仲間だ。電と暁とも『家族』ではなくなる。『家族』でなくなれば、問題なかろう」

長門「……貴様」

 長門さんが今にも殴りかからんと言わんばかりに、歯をむき出しにした。が、詰め寄ろうとした瞬間、青葉が割って入って長門さんの腕を掴み、捻りを加えた。


長門「がっ……!」

青葉「おいたは駄目ですよ~。司令官への不敬は許されない行為です」

 にこにこと笑いながら、さらに捻りを加える。長門さんが空中で一回転し、叩き伏せられた。マホガニーの机が衝撃でグラつき、資料とインクが宙に舞った。

長門「ぐ、ぐあああ……」

 呻き声。あの長門さんが、泡を吹きながら腕を抱えてのたうち回っていた。肘が……あり得ない方向に曲がっている。誰かの悲鳴。そして、笑い声。

 まさに、狂乱とした状態。長門さんに駆け寄る人、恐怖で固まる人、なぜか蹲ってしまった人。わからない。何が起きているのか――。

東「脆いねえ、人間は本当に脆い」

 悲鳴の中に、聞こえた静かな悦楽。それは、悪魔の囁きとしか言いようがないもので。

 悪魔は、はっきりと告げた。

東「さて、次はどちらが死ぬ?」

 ああ、と響が呻いた。私は何も言えなかった。ただ、唇を震わせているだけの虫けらにすぎなかった。

 なにが電と暁を死に追いやったのか、いま、はっきりとした。

 艤装が二度も不自然に故障を起こしたのも、暁の魚雷が突然爆発したのも――。

 すべて、目の前の悪魔がやったことだったのだと。楽しそうな悪魔が、自分の楽しみのためにやったのだと。

 悪魔の赤い瞳が、歪んだ。

東「次は、どちらが私をイカせてくれるんだい? はやく、君たちのどちらかの死体をみて、マスターベーションをさせて欲しい。ああ、暁は肉片すら残らなかったからね。『手』はもう楽しんだから……次は『頭』でも残らないかなあ? ふふ、うふふ、ハヒャハヒャヒャヒャヒャ、ハヒャ、ハヒャハヒャ」

 ナニヲイッテイルカワカラナイ。

 コイツガ、ナニヲイッテイルノカ。

 ワカラナイ。

投下終了です


 


 ■

憲兵「――まず結論から申しますと、鎮守府の運営に関しては、特段の問題はありませんでした」

 対面に座る憲兵が、無表情にそう言った。

 ここは鎮守府にある応接室だ。今日は憲兵による定期監査が実施され、その最終報告がこの部屋で行われていた。深緑の軍服に身を包んだ憲兵は、俺よりも一回り大きな体躯をしているからか、かなりの威圧感がある。鎮守府を監査するものとしての素養を十二分に感じさせる男だ。

 資料を捲りながら、憲兵は続ける。

憲兵「遠征を主軸にして活動されていたためか、資源の獲得量は格段に向上しています。しかし、だからといって人員の酷使があるわけでもない。編成案が非常に練られており、トラブルへの対応策も二重三重に用意されている。効率的な遠征を行う体制が整えられていますね。これからの沖ノ島海域攻略にも期待がもてますよ」

提督「ありがとうございます」

憲兵「……ただですね。一点だけ、気になるところがあります」

 憲兵の鋭い眼差しがこちらに向けられる。

 俺はぐっと下唇を噛んだ。

 ついに来たか。


提督「気になるところ、といいますと?」

憲兵「駆逐艦『雷』でしたか。以前もたしか、出撃実績がない件で勧告をさせていただいたと思うのですが、あれからも出撃をさせていないようですな。秘書艦娘の認定を受けている艦娘とはいえ、これは見逃せませんよ」

提督「……申し訳ありません。駆逐艦『雷』を出撃させるには、もう少し療養が必要だと判断しました。本人には出撃をする意欲自体はあります。ありますが、まだ万全とは言えないので」

憲兵「もう半年が過ぎているのですが、まだ万全ではないと?」

提督「はい」

 目を逸らさずに言うと、憲兵は肩を揺らして溜息をついた。

憲兵「柊中佐。もうこれ以上の猶予を与えるのは難しいですよ。この件については、憲兵団上層部の方でも問題として指摘されております。次は、稟議書を書いていただけば済むというわけにはいきません」

提督「……わかっています」

憲兵「あなたの鎮守府の特異性は、こちらも考慮してはいます。本来ならば治療段階の艦娘を、戦力として運用する難しさは相当なものでしょう。ですが、決まりは決まり。特約である四カ月の猶予を過ぎれば、本来ならば解体処分、もしくは強制出撃の執行が命じられます。それは、承知のことだとは思いますが」

提督「ええ」

憲兵「中佐のこれまでの功績は、上も高く評価しております。だからこそ、特約違反を稟議書の提出だけで済ませてくれたのです。しかし、今回の監査報告の時点でも出撃が認められないとなると、提督会議の方へ問題を上げなければならなくなります。提督会議にまで話が上がってしまった場合、駆逐艦『雷』への強制執行だけに留まらず、中佐にもなんらかの処分が下される可能性があります」

提督「……」

憲兵「中佐、ご自身のためにも駆逐艦『雷』への処分を検討してください。解体処分にするのか、それとも厳罰を与えた上で出撃をさせるのか。……いま、駆逐艦『雷』を出撃させることを約束していただけるのなら、まだ交渉する余地はあるかと」

undefined


 俺は大きく息を吐いて、コーヒーテーブルに置かれていた茶を一息に飲んだ。茶は、すっかり温くなっていた。味をあまり感じられないのは、茶が薄いからだろうか。

 葛藤が口を重くしていた。もう、雷を救う手立ては出撃以外に残されていない。そんなことはわかっていたが、だからといって彼女の意思を踏み躙るような決定に、判子を押すようなことをしたくはない。

 憲兵は静かに俺の言葉を待っていた。感情を込めていない冷めた瞳が俺を射抜く。彼の前に置かれた茶は、まったく減っていない。

 沈黙を揺する時計の針。刻まれれば刻まれるほどに、俺の息苦しさが増していく。ズボンを掴み、歯を噛み締める。背中のシャツが汗で濡れる。

 ――落ち着け。

 目を瞑った。思い出すのは浜風の言葉。ものの見事に、彼女が指摘したような状況に追い込まれたわけだが、彼女はこの状況をチャンスだと言っていた。雷の状況を、そして、雷の重みに耐えきれなくなっている俺の苦しさを変えるチャンスだと。そのために、できることは協力すると言ってくれもしたではないか。

 浜風の言葉を、信じたい。温もりを求める彼女の手が、俺の背中を押した。

提督「……わかりました。雷を、出撃させます」

憲兵「……かしこまりました」

 憲兵は資料から一枚の紙を取り出して、俺の前に置いた。

憲兵「こちらに御署名をお願いします。駆逐艦『雷』の出撃措置に同意したことを示す誓約書です」

 まるで、こうなることをわかっていたかのような用意の良さだった。この憲兵は仕事が出来るのだろうが、あまり好きにはなれない周到さだ。

 とりあえず紙を手に取り、内容に目を通す。

提督「一月に最低二十回の遠征および出撃実績を要する……か」

 月に二十回となると、遠征ならば普通の艦娘より少し多いくらいの頻度だ。だが、雷は療養認定を受けている艦娘である。そのことを考えると、これはかなり酷なことではないか。

 しかも、それだけではない。この制約を、最低半年間続けなければならないとも、記載されている。


提督「いくらなんでも、これは少しばかり厳しいのではないですか?」

憲兵「仰る通りだと思います。ですが、我々も妥協した結果、こういう内容に決めたのです。それに、多少ばかり厳しくしなければ上が納得しません」

提督「結局は、戦力外と判断されるということですか」

 憲兵は厳かに頷いた。

 万年筆を取りたくない。

 そう思いながらも、重い動作で懐から万年筆を取り出すと、署名して印鑑を押した。インクが滲んだ字にも、曲がった印鑑にも迷いが透けて見える。紙を受け取って精査する憲兵の眉がわずかながら傾いた。

憲兵「……たしかに、受け賜わりました」

提督「……」

憲兵「それでは、私はこれで失礼します。今回の監査結果についての詳細は、また紙面にて改めて送らせていただきますので、届き次第ご確認のほどよろしくお願いします」

提督「ええ」

 気返事しか返せなかった。

 どっと疲れが噴き出してきたのか、身体が重たい。数百枚の書類に判を押す作業よりも、この誓約書を一枚書くことの方が、はるかに心労のかかることであった。

 書類をまとめ終わった憲兵が立ち上がり、礼を述べて扉を開いた。そして、最後にこちらを振り返ると、苦い笑顔を浮かべてこう言った。

憲兵「……お互いに、嫌な仕事をしているものですね」



 憲兵が帰ってから、俺は執務室へと戻った。

 執務室には、雷がいた。机に座って一心不乱に何かを書いている。書類の整理でもしているのだろう。

雷「お帰りなさい、司令官」

提督「ただいま」


雷「憲兵さんとの話はどうだったの?」

提督「うん、まあ当たり障りのない感じだったかな」

 つい誤魔化してしまった。

雷「ふうん」

 興味がなさそうに言うと、雷は作業に戻った。

 俺は席に座り、机に肘をついて何をするでもなく雷を見詰める。仕事に集中しているのか、俺に見られていることには気づいていない。今日は、別に機嫌が悪いということもなさそうだった。

 どのタイミングで、切り出そうか。

 まさか、自分が出撃を強制されている状況に追い込まれているなんて、雷は夢にも思っていないだろう。この話を聞いたとき、一体彼女はどんな表情を浮かべるのだろう。

 出撃は、彼女にとってトラウマになっているはず。数ヶ月ほど前のことだが、出撃をそれとなく促したときに、不安げに眉を下げて俺に抱きついてきたのを覚えている。あのときの彼女は、微かに震えていた。

 また、あんな表情をするのだろうか。もしかすると、取り乱して泣いてしまうかもしれない。それだけで済めばまだいい方で、最悪自傷行為に走る可能性もある。右腕の傷が、また増える。

雷「どうしたの?」

 視線に気づいたようで、雷が首を傾げながら訊いてきた。

提督「……いや、なんでもないんだ。つい、ぼけっとしてしまった」

雷「もしかして、私の美貌に見惚れていたの? ふふーん」

 雷は手を後ろに回して挑発的なポーズを取りながら、ウインクをした。まったく色気を感じないどころか、背伸びした子供の冗談にしても失笑ものであった。


雷「ちょ、ちょっと何よ、その冷めた反応! 司令官、ひっどーい!」

提督「すまないすまない。君は……まあ可愛いと思う」

雷「え? そ、そうかしら?」

 雷は頬を赤らめて俯いた。人差し指で前髪をパスタのように絡め取り、所在なさげに弄んでいる。可愛らしい反応だが、これから言わなければならないことを考えると、ますます気が重くなる。

 俺は深呼吸をして、覚悟を決めた。

提督「雷、君に話さなければならないことがある」

雷「どうしたの? そんなに改まって……」

提督「さっき憲兵から、君を出撃させるように注意勧告を受けた。だから今後、君には遠征か出撃に出てもらわなければならなくなる」

雷「え?」

 雷は目を丸くして、口を開けていた。

雷「出撃? 私が……?」
 
提督「そうだ。君の気持ちを思うと、非常に心苦しいのだが……どうしても出てもらわないと困ることになってしまった。だから悪いとは」

雷「うん、いいよ」

 あまりにもあっさりとした返事だった。俺は完全に意表を突かれて、雷がなんと言ったのか聞きこぼしたほどだった。驚いて雷を見ると、彼女は予想に反して爽やかな笑顔を浮かべていた。

雷「出撃だよね、大丈夫。私も、実は司令官にお願いしようかなあって思っていたところだったんだ」

提督「なんだって?」

 驚くしかなかった。彼女は絶対に出撃を嫌がるだろうと思っていたから、まさかそんな心算を持っていたなんて夢にも思わなかった。


雷「私も艦娘だもの。戦わない艦娘に価値がないことくらい、わかっているわ。いつまでも、司令官の優しさに甘えすぎていてはダメだよね」

提督「……雷」

雷「それに……どくしなきゃだし」

 声が小さくてよく聞こえなかった。首を傾げると、雷はなんでもないよ、と笑ってみせた。

雷「ごめんなさい、今まで。私、これからは司令官のために頑張って出撃するわね」

提督「それでいいのか? 出撃が……その、怖くはないのか?」

 雷は小さく頷いた。

雷「怖くなんてないわよ。出撃の間、司令官の側に居られなくなるのは嫌だけどね」

提督「……わかった。では、君には遠征部隊に加わってもらおうと思う。しかし、かなりの期間ブランクがあるから、数日ほどは模擬戦闘などを繰り返して感覚を取り戻すことに専念して欲しい。いいかな?」

雷「わかったわ。……あ、一ついいかしら?」

提督「なんだ?」

雷「所属する遠征隊なんだけど、どこになる予定なの?」

提督「そこまではまだ考えていない。模擬戦闘の様子を見てから考えようとは思っていたが……希望したい部隊でもあるのかい?」

雷「うん。陽炎ちゃんがいるところがいいなって」

 第一駆逐隊か。

 たしかに、陽炎がいるところなら安心ではある。陽炎は稀に見る戦闘能力の持ち主だし、雷とも仲が良い。だから、任せるには申し分ないが……問題は残りの三人だ。

 深雪と時津風は、雷のことを煙たがっている。二人ともフランクな方だが、一度嫌いになった人間に対してはとことん冷たくなる。雷の所属を歓迎するとはとても思えなかった。


 そして、浜風。浜風自体は別に雷のことを嫌っているわけではなさそうだが、反対に雷が浜風のことを毛嫌いしている。先日も、鼠輸送任務の帰りに二人が揉めたことは俺の耳にも入っている。

 この三人がいるところに雷を入れた場合、統率の乱れにもつながり兼ねない。

 しかし、だ。俺は、陽炎の想いを……そして、浜風の言葉を信じている。彼女たちになら、雷を任せてもいいのではないか。

提督「……そうだな。検討してみよう」

雷「ありがとう」

提督「だが、雷。言うまでもないことではあるが、遠征はチームプレイだ。隊の秩序を乱すようなことは許されないから、くれぐれも注意するように」

雷「うん、みんなと仲良くするわ」

 雷は満面の笑みでそう答えた。

 ……本当に、大丈夫だろうか。

 しかし、信じるしかあるまい。陽炎と浜風が、上手く調和を取ってくれることを。

 
 

 
雷「そういうわけで、よろしくね!」

 雷はチューリップのような笑顔を咲かせて、そう宣言した。

 出撃措置が決まって次の日の朝だった。爽やかな日差しが差し込む港には、遠征部隊の一同が集まっている。みんな、鳩が豆鉄砲を食ったような顔で、前に立つ雷を見つめていた。

深雪「……えーと、これは何の冗談なんだ?」

 深雪が、眉間を揉みながら尋ねてきた。

提督「冗談ではない。今し方、雷が説明したとおりだ。雷は、今日から君たち第一駆逐隊の一員として働くことになった」


深雪「いやいや、わからねえよ! どうして、秘書艦……雷があたし達の隊に加わることになったんだよ! それもいきなり!」

提督「様々な事情や状況を勘案した結果、第一駆逐隊への所属が妥当だと判断した。そちらには陽炎がいるし、君たちは優秀だからな。ブランクのある雷へのサポートとして、一番信頼がおける」

深雪「そんなこと言われたってな……! なんで、あたし達がこんなやつなんかと!」

陽炎「深雪」

 陽炎が、静かな声で言った。

陽炎「これは、提督が決定したことよ」

 深雪が歯を噛んで押し黙る。心底嫌なのだろうが、陽炎の言葉が意味することを分からない彼女ではない。

陽炎「……それでいいんですね、提督」

提督「ああ」

 陽炎のアメジストの瞳が雷へと向けられた。心配や憐れみ、言葉で表し難い様々な感情が、色を混ぜた絵の具のように溶け合い、雷の像を霞ませる。

 しばらくして、細く長い息が陽炎の口から溢れた。

陽炎「かしこまりました。雷ちゃんの復帰と入隊を歓迎します」

深雪「……陽炎!」

陽炎「時津風は、どう?」

 詰め寄ってきた深雪を片手で制し、陽炎は時津風へ訊いた。時津風は眠そうな目をさらに細くして、肩をすくめる。

時津風「陽炎がそう言うなら、不服はないよ~。別に歓迎はしないけどね~」
 
陽炎「そう。……浜風は?」

浜風「私は歓迎しますよ。提督の決定は合理的なものだと思いますし、雷さんが復帰するのなら喜ばしいことです」

 浜風は微笑みながら肯定的な意見を述べた。だが、先日の部屋の前でのやり取りを思い出すと薄ら寒いものがある。その澄んだ綺麗な微笑みが、見透かしたものであるように見えて仕方がないのだ。

 まるで、こうなることを分かっていたかのような……。いや、さすがにそれは考えすぎか。

浜風「雷さんの勘が戻るまで、出来る限り尽力致しますよ。極力、怪我がないよう安全に……。前にも左右にも、そして後ろにも、十分注意を払いながら」


雷「……ありがとう! みんな、協力して頑張りましょう!」

 雷はそう言って、手を差し出した。冷めた表情で時津風は無視し、陽炎と浜風はともに苦笑いを浮かべ、手を伸ばす。

 三人が手を合わせようとした瞬間、深雪が雷の手を払い退けた。

雷「なにするのよ」

深雪「……あたしは、認めたくねえ」

 深雪は眉間にシワを寄せ、雷を睨め付けた。

深雪「みんなが必死になって、死に物狂いで鎮守府を守ろうとしているときに、一人のほほんとしていた腰巾着野郎なんか……。今さら、仲間として認められるか!」

雷「別に、貴女に認められる必要はないんだけどねー」

深雪「あ?」

 深雪が肩を怒らせて、雷に近づいた。

深雪「……んだと、てめえ」

雷「これは司令官が決めたことなんだもん。貴女が一人、我儘を言ったところで今さらどうにもならないわ。違うかしら?」

深雪「この――」

提督「やめないか!」

 二人が一斉にこちらを向いた。

提督「深雪。君が納得いかない気持ちも分からなくはないし、だからこそ無理に雷と仲良くしろという気もない。だけどな、だからといって個人的な感情で動かれても困るぞ。これから同じ隊になるのだから」

深雪「……同じ隊なんかじゃねえよ」

提督「深雪」

 深雪は俯いて舌打ちをした。怒りが背中から立ち昇るようだが、沸騰寸前の状態で蓋を押さえつけているようだった。


提督「雷、君もだ。先日もあれだけ言っただろう? 隊の秩序を乱すようなことはしてはいけないと」

雷「はあい」

 雷は頬を膨らませながら不本意そうに返事をした。

 思わず米神を押さえる。言葉が耳の奥まで届いている気がしない。

陽炎「……これから大変ね」

 陽炎が独り言ち、空を見上げた。つられて顔を上げると、一粒の水滴が頬で弾けた。

 空はいつのまにか鼠色に染まっている。気づかなかった。ついさっきまで晴れていたというのに。

提督「……それでは、用件も済んだし戻ろうか」

雷「そうね!」

 なぜか上機嫌な雷は、俺の腕に抱きついてきた。

提督「お、おい。いきなりなんだ」

雷「ふふーん。なんかこうしたい気分だったのよ」

提督「歩きづらいし、人の目があるから……」

 そう窘めようとしたが、雷は聞いていなかった。頬を腕に擦り付け、猫のような声を出している。

 陽炎たちの視線を背中越しに感じる。あまり、気分の良いものではない。落ち着かない気分で振り返ると、ぎょっとした。

 ちょうど浜風と目があったのだ。

 俺は、その目に惹きつけられた。陽炎たちの目線など眼中にも入らなくなるほどに。その青さの奥の奥、ひっそりと佇む淀み……微かに現れては消える魚影のような感情の揺らぎ。

 刹那のことだ。瞬きをするほどの瞬間に露と消え、いつもの冷静な眼差しが現れた。

 一体、なんだ。

深雪「……なんだってんだよ」

 深雪のぼやきには誰も答えない。

 俺の腕には、雷の温もりと奇妙な寒気が矛盾した同居をしていた。

投下終了です






 数日ほど様子を見ていたが、雷の動きは悪いものではなかった。氷上を滑るような綺麗な航行といい、砲撃や雷撃の正確さといい、ブランクを感じさせないものである。

 ただそれでも、満点とは言えない。

 第一駆逐隊の動きについていけるようになるまでは、まだ訓練を積む必要があるだろう。ただ、雷にはあまり時間がない。浜風や陽炎にも雷の戦力分析を頼んでいるから、それとの兼ね合いで連携の取り方などを早急に考えていくしかないか。

 双眼鏡を下ろすと、雷が豆粒みたいに小さくなった。今は砲撃および雷撃の訓練中で、雷は動き回りながら的を次々と撃ち落とし、信管を抜いた訓練用魚雷を放っていた。

浜風「……一分半。タイムが縮まりましたね」

 俺の横にいた浜風が言った。ストップウォッチに目を落とし、ボードに記録を書き込んでいる。

浜風「射撃の正確さはなかなかのものですね。夾叉もスムーズです。射撃に関しては問題ないでしょう」

 浜風は分析したことを淡々と語る。


浜風「ただ、雷撃については若干のモタつきがあります。雷撃が苦手なようです。斉射をする際のタイミングは考えなければならないでしょう。その点も踏まえましても、雷さんは最後尾に置くべきかと」

提督「……そうだな。しかしそれだと、雷へのサポートが疎かになる可能性がある。俺としては、なるべく君か陽炎の近くにつけたいんだ」

浜風「では、配置を変えて私が四番艦につきましょうか。あれだけ正確な射撃ができるなら、夾叉を私でとって雷さんが撃てば命中率も上がるはずですし」

提督「ふむ、それなら大丈夫か」

 俺は手帳に浜風とのやり取りを書き込んだ。

 雷の得意不得意を分析仕切った、非常に理に適った提案だ。文句のつけようもない。

 その隙のない提案力に相変わらず舌を巻きつつ、同時に胸を撫で下ろしてもいた。

 浜風に任せておけば大丈夫だろう。

 そう思うのは早計かもしれない。しかしそう思わせるほどの風格と能力を彼女は併せ持っている。彼女には、普通の人間にはない、人を惹きつける引力のようなものが働いている。人を魅了して離さない黒い薔薇のような……。そういう意味でも稀に見る天才なのだ。
 
青葉「なんか、浜風さんが秘書艦みたいですねー」

 後ろを振り返ると青葉が立っていた。接近に全く気づかなかった。


提督「いつの間にいたんだ」

青葉「さっきから居ましたよ、もう! 司令官ってば失礼です。愛しい愛しい青葉がこんなにも近くにいるというのに」

提督「また撮影に来たんだな?」

青葉「愛しい青葉ってくだりは無視ですかひどいなあ。……はい、そうですよ。雷さんが現役復帰をすると空から槍が降るようなことを聞いてですね。取材も含めて記事にしようかと」

提督「……何度も言っていると思うが、変な記事は書くんじゃないぞ?」

青葉「書きませんよー? 書くとしても、『秘書艦と司令官の深夜の蜜月! 同衾する姿を激写!』とかくらいです」

提督「ちょ、ちょっと待て。なんだその内容」

 背筋に汗が吹き出てきた。やり取りを黙って聞いていた浜風の横目が鋭くなった気がした。

青葉「……あり? なんですかその妙な反応。まさか本当なのです?」

 青葉が何度も瞬きをしている。どうやら冗談のつもりで言ったようだった。

提督「そんなわけあるか!」

青葉「……本当ですかねえ。なら、今度司令官の部屋にカメラを」

提督「……そんなことをしたら新聞の発行は一生認めないからな」

青葉「うわあ、権力の乱用! パワハラ! 私が逆らえないことをいいことにそんなことを言うなんて! どう思います、浜風さん?」

浜風「……ラ、か」

 急に振られた浜風は聴いていなかったのか、神妙な顔で下を向いていた。何かを呟いたような気がするがよく聞こえなかった。


青葉「浜風さん? おーい!」

浜風「え? ああ……。すいません、聞いていませんでした」

青葉「司令官の部屋にカメラを仕掛けるぞーって冗談を言ったら、新聞の発行を禁止するって提督が言い出したんですよ! それについてどう思うか聞いたんです。報道の自由に対する侵害ですよね!」

浜風「その前にプライバシーの侵害です。自重してください」

青葉「ががーん」

 浜風にきっぱり突き放されて、わざとらしく青葉は凹んで見せた。

青葉「うう、青葉傷つきました。浜風さんは味方だと思っていたのにぃ」

浜風「すいません」

提督「……いや、律儀に謝る必要はないから」

 生真面目に頭を下げる浜風へそう言うと、俺は雷の方へと目を戻した。彼女は、二回目の訓練に行く準備をし終わっているようだった。慌てて無線で連絡を入れる。

提督「準備できたか?」

雷『うん。いつでもいけるわよ!』

提督「了解」

 そのまま手信号で合図を送ると、雷は再び海を走った。鳥の声すら聞こえてこない静かな海に、艤装のエンジンの音が響き渡る。白波を切る音さえも聞こえてくるようだ。

 砲音が、奏でられる。空気を叩き、身体の内側に染み込むように響いてくる。

青葉「ほほう、ほうほう」

 青葉はさっそくカメラを構えて、写真を撮っていた。

青葉「これはこれは……。ずいぶんとまあ、白々しいですねぇ」

提督「白々しい?」

青葉「あーすいません。言葉の綾です。ブランクもありますし、まあ、こんなものですよね」

浜風「それはつまり、雷さんは本来の力を発揮できていないと言うことなのでしょうか?」


 俺が口を開くより先に、浜風が言った。

青葉「ですねー。彼女は、青葉と同じ鎮守府の出身ですから。見た目はああですけど、けっこうやるんですよ、彼女。動きもこんなものではないはずです」

浜風「へえ。それは気をつけないといけませんね」

 浜風はボードに目を落とす。

浜風「もっと、情報の整合性に目を向ける必要がありそうです。ヒアリングも実施しておきましょうか」

提督「それは俺がやるとしよう。デリケートな問題に触れる可能性もあるからな」

浜風「かしこまりました」

 その後、射撃訓練は終了した。合計で四回ほど行われた訓練の平均的な結果は、一分四十秒というところであった。陽炎を除いた第一駆逐隊の平均は一分二十秒だから、まだ改善すべき点は多いだろう。浜風の言う通り、とくに雷撃は課題の一つだった。

雷「司令官ー!」

 雷は港に着くと、真っ先に俺のところへやってきた。

提督「お疲れ様」

雷「お疲れ様ー。ねえ、どうだった? どうだった?」

提督「なかなか良かったと思うぞ」

雷「ほんと? 嬉しいわ!」

 雷はパッと花やぐように笑うと、俺に抱きついてきた。

 なんとなく予想していたことだったので、別に驚きはしない。ため息をつきながら、肩に手を置いて引き離そうとする。が、雷はそれを拒否をするように、さらに力を込めてきた。

青葉「おやおや、お熱いことで」

 青葉の茶化しに反応するように、周りにいた他の艦娘たちも何やら囁き合っている。

 とくに、浜風。浜風の視線が冷たくて痛い。

提督「……みんなが見ているから」

 俺が苦言を呈しても、雷は聞いていない。ぐりぐりと頭を上機嫌に押し付けてくる。

提督「おい」

雷「別にいいじゃない。恥ずかしがることなんてないわよ。私と司令官は、そういう仲なんだから」

 誤解されるような言い回しをするんじゃない。

青葉「え、どういうことなんです? 詳しく詳しく!」

雷「えー、それは恥ずかしいなあ。言わなきゃダメ?」

青葉「もったいぶらず! できれば赤裸々に!」


提督「そういうのじゃないと言っているだろう。ただの提督と秘書艦の関係だ」

青葉「提督と秘書艦……意味深な言い方ですねぇ」
 
 ああ言えばこう言うやつだ。

提督「……あのなあ」

雷「違うわよ」

 反論しようとすると、雷が遮った。あまりにもきっぱりとした言い方だったので、青葉が目を丸くした。

雷「私と司令官はね、『家族』なのよ。上官と部下の関係なんて薄っぺらいものじゃない。もっともっと特別な仲なの」

 関係の深さを見せつけるように。腕に込められた力が強くなる。痛いくらいに締め付けてくる。

雷「『家族』って、そういうものでしょう?」

青葉「あー」

 苦笑いとも微笑みとも取れない表情を浮かべて、青葉は頬をかいた。

青葉「まあ、そうですよね。家族。家族は大切ですよね、うん」

雷「わかってくれた? 私と司令官は『特別』なのよ」

青葉「はい、とても」

 青葉は同意しながらも肩を竦める。

青葉「司令官も果報者ですね。こんな可愛い子に家族として受け入れられているんですから」

 青葉の言葉には答えなかった。

 みんなを見る。顔をひきつらせるもの、囁き合うもの、溜息をつくもの、何かを察して目をそらすもの。非常に気まずい空気だ。

 初夏の日差しの熱さか、空気の重たさに緊張しているのか、汗が米神を伝う。

 鼻歌が横から聴こえてきた。雷の鼻歌だ。リズムもなにもなく適当だが、上機嫌なことだけは伝わってくる。俺は素直に不愉快に感じた。図書館でサックスを吹くような、場の雰囲気をまったく考慮しない行為だからだ。

 こいつは、わかっているのか。

 いや、何も考えていないのだろう。どの言動にしろ、思慮を巡らせた上でやっているとはとても思えない。自分の立場も弁えてはいない。

 彼女は、本当にみんなと仲良くやっていこうという気があるのか。以前聞いた言葉の重みが、さらに軽くなっていく。


浜風「家族ですか」

 恐ろしく静かな声だった。だというのに、声のもつ引力はみんなの視線を一斉に集めるほどのものだ。俺は怒りを忘れた。鼻歌だけが変わらずに流れ続けた。

 浜風は、笑っていた。浜風が笑うところはなかなか見れないが、いつもの可愛らしく美麗なそれとはどこか違う。

 青い目が、ゆるりと歪んだ。

浜風「たしかに腑に落ちます。お二人とも本当に仲がよろしいですから」

雷「ふふーん、でしょでしょ。なんだー浜風さんも、よくわかっているじゃない」

浜風「ええ、でも、親子にしか見えませんね。それ以上でもそれ以下でもないですね」

 場の空気が凍りついた。

 雷の表情から感情という色が抜け落ちていく。

雷「……どういうことよ?」

浜風「どうもこうも、私は思ったことを言ったまでですよ。提督。提督も、雷さんのことをそういう風に見ているのではないですか?」

提督「……あ、ああ」

 俺は間抜けな返事をしたが、雷の表情が影を帯びていくのが見えて、慌てて訂正を入れた。

提督「だけどそれは雷だけじゃなくてな。みんなそうだよ。俺にとっては、みんな大切な子供のようなものだ」

浜風「そうですか。とても、光栄なことです。雷さんと『同じように』思っていただけて」

 浜風はそう言うと嬉しそうに微笑んだ。

 腕に張り付いた柔らかな温かさがだんだんと感じられなくなってくる。だのに、張り付かれているという実感は、強くなる。生きた心地がしなかった。


浜風「さあ、みなさん艦娘寮に戻りますよ。今回取れたデータも含め、皆さんとも改めて話し合いたいので。それに、この演習場はもうすぐ出撃部隊が使う予定になっています。はやく行かないと迷惑になりますよ」

青葉「あー、そういえばそうでした。用意してこなくては」

 青葉が手を叩いて戻っていくと、それに呼応する形でみんなも続々と踵を返した。最後に残った浜風は、俺に会釈をし、最後にこう言った。

浜風「それでは、改めてヒアリングも含めて報告書を上げますので。失礼します」

提督「……」

 なにも言うことができなかった。浜風の背中が遠ざかるのをただ呆然と見送るしかなかった。

 浜風のあの一言によって、みんなは毒気を抜かれたようだった。目くじらを立てていたものも、変な噂を膨らませようとしたものも。彼女が場の空気を上手くとりなしてくれた形だが、その代わりに毒気を増幅させたものが一人、残された。

雷「……」

 隣を見る気にはなれない。

 沈黙が、痛い。

提督「なあ、俺たちも戻ろうか」

 返事はない。

提督「雷行くぞ。戻るぞ」

 耐えきれず歩き出そうとすると、一歩目で転びかけた。雷が石のように固まって動かなかったからだ。

提督「おい」

雷「特別よね?」

 雷がぼそりと尋ねてきた。感情を廃した抑揚のない声で。

雷「私たちは、特別な関係……だよね?」

 血の幻臭が、鼻腔をくすぐる。海馬に刻まれた嫌な記憶が呼び起こされる。

 俺は戦慄に震えながら、思ってもいない嘘をついた。

提督「家族、だと思っているよ」

 誤魔化しという名の嘘を。俺には、家族なんていない。偽りの関係に縋る気もない。残念なことだが、君とは違うのだ。

提督「……行こう。仕事があるから」

 長い沈黙の後に、彼女は言った。

雷「……そうね」

投下終了です

あと、最近話題のpixivfanbox を始めました。
もし、支援してくださる方がいらっしゃいましたら、よろしくお願い致します。
URLを貼っておきます

? https://www.pixiv.net/fanbox/creator/14053647?utm_campaign=creator_page_promotion&utm_medium=share&utm_source=twitter?


 ■


 嫌だ。

 行きたくない。行きたくない。行きたくない。

 でも、行かなきゃ。行かなきゃ、響が殺される。私の代わりに出撃させられて、意味もなく、無残に死んでしまう。そんなの嫌だ。

 だから決めたんだ。私が行くって。私が、出撃して響の代わりに死ぬということを。

「……」

 誰も何も言わなかった。私は艤装を身につけて、よたよたとよろめきながら出撃ドックへ向かって行く。足がおぼつかず、途中で何度も転んでしまう私は無様だったと思う。見兼ねた長門さんたちが、私のことを支えてくれたが、それでも足は鉛のように重たかった。

「すまない」

 もう、何度目かわからない謝罪が横から聴こえてくる。

「こんな思いをさせてしまって、本当にすまない」

 長門さんの頬は酷く痩けていた。張りのあった唇もボソボソに乾燥し、切れ長で意思の強さを感じさせてくれた目にもまったく力が入っていない。昨日の今日で、もう何十年も年を取ってしまったかのようだった。

 他のみんなも同じだった。出撃部隊は、みんな、口を噤んで歩いている。

 出撃ドックの入り口にたどり着いた。そこには、遠征部隊が顔を揃えて立っていた。私たちを見つけると、全員が沈鬱な面持ちで敬礼をした。誰も、何も、発さない。ただただ無言を貫いている。

 息が苦しい。足が止まってしまった。


「……雷」

 息が、出来ない。うっ、うっ、と死にかけの鳥みたいな声が勝手に出てくる。太ももから止めどなく何かが流れ落ちて、止まらない。

 あれ? どうしちゃったのかな?

 立って歩きたいのに、足が言うことを聞かないの。

「……立つんだ、雷」

 長門さんの言葉は淡々としていた。

「何があっても、私が守る。……だから立ってくれ」

「……」

「三隈、羽黒。支えてくれ」

 身体がふわって浮かんだ。なんで、私が持ち上げられているの?

「いや」

「……暴れないで」

 三隈さんが、言った。

「いやだ、いやだ」

「暴れるなって言ってるのよ! バカ!」

「三隈!」

 長門さんが叫んだ。

「叫びたいのは、お前じゃない。そうだろう?」

「……ごめんなさい」

 長門さんの背中が前へ前へ進んでいく。私も、前へ前へ運ばれて行く。

「嫌だよ、いや、いや」

「……」

 出撃ドックが、目の前に見えた。

 カチカチ、カチカチ、頭の内側から音がする。わからない。わからない。何の音がなっているのか、わからない。

undefined


「……響ちゃん」

 響の名前を誰かが呼んだ。深い草むらから飛び出してきたイタチのように、敬礼する群衆を掻き分け、響が現れたのだ。頭の中の音が止んだ。

 空色の髪を翻らせる響の姿は凛としていて、切れかけた正気の線をギリギリのところで繋ぎ止めてくれた。驚くほどに、響の表情は凛としていた。ここにいる誰もが、響を見ていた。

「雷を降ろしてやってくれ」

「あ、ああ」

 長門さんの合図で、私は降ろされた。

「ひ、びき」

「……」

 私は、満足に動かない足を引きずって響に縋り付いた。鉄がぶつかり合う音が鳴った。なぜか身に纏われていた彼女の艤装と私の艤装が擦れたためだ。

 どうして、艤装なんてつけているんだろう。どうして?

「……私には、どうしても許せないものが二つあるんだ」

 響が淡々と喋り始めた。

「一つ目は、人の心と尊厳を無残に踏み躙るような行為だ。とくに、手前勝手な欲望で他者の生活を脅かす悪辣さには反吐が出る。あるときは暴力に訴えかけ、あるときは権力に物を言わせて……。それが、平然とまかり通ってしまう理不尽を、私は許せないんだ」

 言葉を切った響は、ゆっくりと細い息を吐いた。

「そして、二つ目はそうした理不尽に対抗できない己の弱さ、勇気の無さだ。奪われるだけ奪われて、なにも、一切、抵抗することもできないなんて業腹さ。正義はこちらにあるのに、その正義を貫けばいいのに、それができない。そんな弱さに屈しかけた己が、本当に許せないんだ」


 私は、力強く抱きしめられた。その際、装甲の後ろにある装置を触られたのか、艤装の装甲が解除された。響の血の暖かさと鼓動が、ダイレクトに伝わってくる。微かな震えも、そしてそれに抗う身体の強張りも。すべてが――。

「これから、ささやかな抵抗をしようと思うんだ。……私のために、命を投げ出そうとしてくれた優しい妹のためにも」

「なにを言っているの? 響……?」

「愛しているよ、雷」

 突然、視界が激しく揺れた。頭の奥に振動が走った。世界がガタガタに崩れる。身体が沈むように地面に吸い寄せられた。

「……Простите」

 響がなにかを言った。なんて言ったのかは分からない。

 どうして、なんで。

 そんな想いが、沈みかけた意識の底で湧き上がる。だけど、それはすぐに霞のように消えていった。だんだんと、闇が沈んでのしかかり、私の意識を奪い去った。

 





 雷ちゃん。

 誰かが私を読んでいる。

 雷。

 誰だろう。一人では、ない。

 雷。

 どうして、私を呼んでいるのだろう。理由は分からない。ただ、優しく、温かい声だ。聞いているだけで、冬の寒い日に暖炉にあたっているような気持ちになる。

 呼びかけようとした。どうしたの、って。けど、声が出てこない。口を開いて喉を震わせても音にならないのだ。

 彼女たちは、何回も呼びかけてくる。答えられない私に、答えを求めるように問いかけてくる。

 ああ、待って。私は、あなたたちと話したいのに。

 そうやって、なんとか声を出そうと足掻いていると、彼女たちが口を揃えてこう言った。

 ――逃げて。

「おはよう」

 目を覚ますと邪悪な笑みが私を見下ろしていた。悲鳴すら溢れない。いつの間にかベッドで眠っていた私は、ただただ固まった。

「可愛い寝顔だったね。ぐっすり眠れたかい?」

 問いかけに答えられない。身体の内側に暗い痺れが走り抜ける。

 ここは、治療室? カーテンもベッドも壁も天井もすべてが真っ白で、見覚えがある空間だ。なんで、私はこんなところにいるのか。 そして、司令官がどうして側にいるのか。

 私が混乱しているのを見ても、司令官は笑顔を崩さない。私の表情など見えていないのかもしれない。いきなり頬を撫でてきた。

「ああ、よかった。すぐに目を覚ましてくれて、本当に良かったよ。これで何日も目を覚まさないってことになっていたら、目も当てられなかった。綺麗なうちに感動の再会をさせてあげられないところだったよ」

「あ、あぁ……」

「ん? どうしたんだい、私の可愛いイカヅチちゃん。そんなに声を引きつらせて……。あ、もしかして、驚かせてしまったかな。ごめんごめん」

undefined


 指が、頬の上で踊っている。人差し指と中指が、まるでピアノに触るような繊細な動きをしている。だけど、滑らかな動きとは相反する、ねっとりとした液体の感触があって、気持ち悪い。それが、すっと頬を通り口元に落ちてくると、私は全身を強張らせた。

 鉄の味がした。血。血だ。ち、血、血液……。

「あ、あああ」

 私は、椅子に腰掛ける司令官の膝元に目をやった。真っ白な部屋に調和する白い布で包まれた物を持っていた。それは丁度重箱くらいの大きさのもので……下の方が真紅に濡れていた。司令官のズボンも、床も、赤い。

「君は、本当に、本当に優しい家族をもっているね。私は感動したよ。これが、家族愛なんだなあと……。報告を聞いているときも、涙が止まらなかった。なぜか長門には殴られてしまったがね……。酷いやつだよなあ、感動しているのに水を差すのだから。思わず腹が立って懲罰房に叩き込んでしまった」

 司令官が、何かを言っているが聞こえない。私の全意識は、司令官がもつ「布」に向けられている。私の思考はパンク寸前だった。

 あれは、なんだろうなんだろうなんだろうなんだろう。なんなんだろう。あれは、あれは、あれは。

「まあ、そんな瑣末なことは置いておいて。とにかく、君たちの家族愛に、私は大いに感動したんだ。だから、それに免じて君の出撃は免除にしてあげようと思ってな。おめでとう、雷。君は生き残った」

「しれ、しれいかん、それは……」

「ん? ああ、これか。そう焦らなくとも今から開けてやるよ。君へのご褒美だ。私が楽しむ前に、再会させてやろうと思って」


 司令官は優しい声で告げて、涙を流した。布の結び目を解いて、中身を露わにさせる。中からふわりと、空色の髪が広がった。

「さあ、響。『家族』に挨拶しなさい」

 私は、絶叫した。世界が割れるような感覚が頭の中から全身に広がっていく。黒く、黒く、ボールペンで紙をめちゃくちゃに塗りつぶすみたいに。

 目の前のそれは、たしかに響だった。けど、あの可愛いらしい顔はそこにはない。鼻もなく、口も裂けていたし、白い肌はそのほとんどが爛れていて、サーモンピンクの粘り気のある肉が露出している。あの、澄んだ瞳も、死んだ牛のそれのように燻んで、両方とも明後日の方向に向いている。

 私は、それを響だと信じたくなかった。けれど、身体は明確にそれを響だと受け取っている。身体が震え、抑えがたい吐き気に犯され、えずいた。

「ああー、見ろよ響。吐いてしまったよ。家族との感動の再開なのに、酷いやつだなあ」

 司令官が、それの頭を撫でていた。うっとりと表情を緩ませて、涙に濡れた優しい瞳を向けながら。

「響、ああ、どうして君はそんなに綺麗なんだ……。私は、君を、愛しているよ」


投下終了です





 ■

 提督はとても優しい人だ。

 あの日約束してくれた通り、鎮守府の裏に行くと、彼は私にぬくもりを与えてくれた。大切な宝物を扱うように私の手にそっと触れ、私が満足するまでそのままでいてくれた。いつも、いつでも、そうしてくれた。

 不思議なのだ。提督に触れていると、これまで感じたことのない多幸感に襲われる。だけど、それは心を激しく揺さぶるものではなく、ゆっくりと溶けて流れてくる雪解け水みたいに爽やかで静謐な幸せである。水が流れ、草木が芽吹き、花が咲く。春の暖かさとは、こんな感じなのだろうと想像させられる。

 このときだけ、私は自分が悪魔であることを忘れられた。自分の怪物性のすべてに目を背けることができた。一人の、浜風という人間として、自分の姿を描くことができた。

提督「……浜風は、温かいね」

 ある日、提督がそんな風に言ってくれたことがあった。

 私は、私が温かいかどうかなんて知覚することができない。自身の冷酷さには自覚があったから、きっと私の手も凍るように冷たいのだろう。そんな風に思っていたから、その言葉が意外で、なんだろう……とても嬉しかった。

 こそばゆい感じを覚えながらも、恥ずかしくてつい、私は捻くれた返事をしてしまった。

浜風「では、私は優しくないということでしょうか?」

提督「どういう意味だい?」

浜風「だって、こう言うじゃありませんか。手が冷たい人は心が優しい人だって。つまり、その逆を言えば、私は優しくないってことになるんじゃないですか?」


 提督は優しく微笑んでくれた。

提督「……俺はそんな迷信を信じてはいないから。君は、とても素直で心根の優しい子だと思うよ」

 ずるい。

 そんな顔で、そんなことを言われたら、嬉しくないわけないじゃないか。

 どうしよう、口角が上がって来てしまう。

浜風「へぇ。そうなんですか。……へぇ」

 私を悦ばせることに関して、彼は天才的だと言わざるを得なかった。私に向けられる表情や仕草、そのすべてが、私の心をくすぐってくる。

 この、心の底から湧き上がってくる想いの正体を、私は知っていた。ただ、知識としてだ。実感が伴ったことはこれが初めてである。

 これは、間違いなく恋だった。




 
 温もりから彩りを知り、彩りから恋を覚え、恋から執念に目覚めた。

 私は、提督を私のものにしたいと思う。欲を言えば、部屋に閉じ込めてしまいたい。それくらい彼が好きで好きで好きで仕方がなかった。

 ふとした瞬間に、彼のことばかりを考えている。彼が何をしているのか、どんなことを思っているのか、そのすべてを知りたいと思ってしまう。
 
 ――随分、ご執心ね。

 薄暗い廊下に、冷淡な声が響いた。私は足を止めて、窓の方に目をやる。

 小さな人影がぼんやりと佇んでいた。その顔を見て、溜息を吐きそうになる。相変わらず下卑た笑いを浮かべているものだ。

 ――そんなにあの男の「温もり」ってやつが良かったの?

浜風「消え失せなさい、阿婆擦れ」

 ――あらあら、冷たいことを言わないでよ。私とあなたの仲じゃない。

 私は無視をして歩き出した。こんな奴に一秒でも時間を割きたくはない。

 影が後ろからついてくる気配があった。鬱陶しい。

 ――何処に行くの? あの男のところかしら?

浜風「……」

 ――この先だもんね。あいつの部屋。我慢出来なくなっちゃったんでしょう? 

浜風「言いたいことはそれだけかしら」


 足を止めず、言い放つ。義姉の笑い声が耳朶にこべりついて離れない。

 ――あはは、図星を指されて傷ついたのかしら? 

浜風「黙りなさい」

 ――でもさ、この先に行ったところで、またあのチビがいるわよ。あんた、気づいていたでしょう? あのとき、あのチビが起きて話を聞いていたこと。

 私は、何も言わなかった。

 この阿婆擦れの言う通りだ。私はたしかに、雷さんが起きていたことに気づいていた。その上で、あのような振る舞いをして、彼女を「挑発」した。

 そうすれば、必ず私の命を狙ってくることに確信が持てたからだ。

 ――今日は、きっと邪魔されるわよ。

 わかっている。だが、それでも。それでも……だ。夜になるとなぜか、私の胸の奥は引き絞るような苦しみに襲われる。昼間、分けてもらえた「温もり」が強烈に欲しくなる。まるで麻薬のように、抗いがたい甘い狂気に襲われる。

 だから、あの子が居てもいい。邪魔されたなら邪魔されたときだ。

 ――邪魔されたら嫌よね。鬱陶しいと思うでしょう?
 
 もちろんその通り。

 疎ましく思わない方が無理だろう。できるなら、彼女を気絶させてでも、提督の「温もり」を求めたいと思う。が、それは許されることではない。提督に引かれて嫌われでもしたら元も子もないからだ。それだけは、けっしてあってはならない。

 そう、だから……。


 ――鬱陶しいなら、殺せばいいのに。

 囁きかけるように。

 義姉は私の耳元で、悪魔の言葉を零した。

浜風「……」

 ――透明にしてしまえばいいじゃない。そうすれば、あの男が手に入るかもしれないわ。お得意の水面下でのネチネチした駆け引きなんか、する必要ないでしょ? 今のあんたには「完全犯罪」が可能なんだから。

 私は、再び立ち止まった。提督の部屋はもうすぐそこにあって、視界の端に映っている。それでも止まったのは、微かに頭を過ぎった逡巡からだった。

浜風「……わかっていますよ。そうした方が、手っ取り早いことくらい」

 だが、それはあまりにも危険なことだ。

 提督は彼女を疎ましく思う一方で、彼女に依存しているところがある。依存されて頼られることを、心の拠り所にしている。雷さんをなかなか出撃に出そうとしなかったのも、彼女の状態を慮った以上に彼女を失う恐怖が背景としてあったからだろう。

 その拠り所を急に消してしまえば、提督がどうなってしまうのかわからない。そこについては、未知数だった。

 だからこそ本来ならば、時間をかけて外堀を埋めて、じっくりとやる必要があった。周りから信用、提督からの信頼を得られるようになり、雷さんを居心地の悪い状態に置き、精神的に追い詰めて、「最終手段」をとるしかない状況に持っていく。そして、事件を起こした彼女を、提督が解体処分にせざるを得ないようにする。そういう方法で排除するつもりだった。

 が、目論見はだんだんと軌道修正せざるを得なくなった。

 ――わかっているんでしょう? もう、殺してしまうしか方法がないことくらい。

 義姉の言葉には死んでも頷きたくはない。

 窓が、揺れた。風の音だと思ってみたら、複数の「顔」が張り付いていた。青や赤の光を纏ったその「顔たち」は、廊下の窓ガラス全面を埋め尽くし、嗤う。

 ――それだけあの男の心には、悪い意味であの子が巣食ってしまっている。あんたにはそれが分かってしまった。だから、わざわざお膳立てをしてあげたんでしょう? あの子が、あんたの隊に入ってこられるように。その気になれば、いつでも殺せるように。


浜風「……違う」

 私は無意識のうちに、手を握ったり開いたりしていた。

 ――何が違うってのよ?

浜風「本来の計画を早めることにしただけです。つまり、あの子を滅するつもりはないと言うことです。彼女は、絶対に私の命を狙うでしょう? だからこそ、狙いやすいようにわざわざ私の後ろに配置してやったのですから。……その証拠さえ掴めれば、彼女を殺さずともこの鎮守府から退場させることは可能です」

 ――ふうん。解体処分に追い込むわけね。まあ、あの甘ちゃん提督なら、たしかに解体処分くらいで済ませてしまうでしょう。

 義姉はつまらなさそうに言って、溜息をつくと続けた。

 ――ようやく殺る気になったかと思えば、また回りくどいことをやるつもりなのね。下らない。

浜風「どうとでも言えばいいです。あなたの喜悦を満たすために、私は動いているわけではないのですから」

 ――そりゃあ、そうでしょうよ。

 義姉は私の前に回り込み、けたけたと声を上げて笑った。

 ――でも、あんたがそんな回りくどい方法に拘る理由はなんなの?

浜風「……あの子を殺してしまえば、提督が壊れてしまうかもしれないからです」

 ――壊れたっていいじゃない、別に。あんたは、あの男が自分だけを愛してくれればそれでいいんじゃないの? だったら、壊れてくれた方が都合はいいと思うけどね。あんた、そう言う人間に寄り添うのが得意なんだから。

浜風「……」

 ――何をそんなに躊躇しているの? 壊してしまえばいいのよ。いつもみたいに。あんたに依存するよう、仕向ければいいじゃない。

 甘い誘惑が毒を伴って、私の心に伸びてくる。

 私はそれを振り払うように歩き出した。

 ――あんたがわざわざ命をかけてまで、そんな面倒なことをする必要があるのかしら。艦娘の艤装なら、あんたは普通に死ぬってこと、知らないわけじゃないでしょ?


浜風「……わかっている」

 でも、そうしないと。

 そうしないと、殺す以外に方法がなくなってしまう。

 提督は簡単に彼女を手放すことはない。そして彼女も提督からは離れようとはしないだろう。だから、多少面倒な手を使ってでも、提督が彼女を手放さざるを得ない状況を作り出す。そうすれば、提督が負う精神的なダメージも遥かに少ないもので済むはずだ。自分で決断して除籍したのと突然理不尽に失うのとでは、傷の深さは圧倒的に違う。

 それに、雷さんを殺すことは、提督の切なる願いを無碍にするということでもある。

 そんなこと、できるわけがない。

 ――ふうん。相変わらず面倒な奴ね。

 私が創り出した幻影は、私の心を読んだかのように冷笑を浮かべた。

 ――じゃあ、理由をあげるわ。あなたが納得して、あの子を殺すことができる理由をね。

 義姉は私より先回りして提督の部屋につくと、部屋の扉を親指で指し示した。

 ――この先で起こっている光景を、黙って覗いてみなさいな。そうすれば、あんたはあの子を殺したくて殺したくて仕方なくなるから。

 私は眉を潜めながら、扉に近づく。扉はなぜかほんの少しだけ空いていた。そこから、悪魔のような囁きが聞こえてきた。

雷「――だからね、司令官。私たちの子供、作っちゃお?」



投下終了です


 いつもどおりだったはずだ。

 いつもどおり、彼女は俺の部屋に来た。寝れないから一緒に寝てほしいと、何回聞いたかわからない理由を口にして、布団に入り込んできた。そして、いつもどおり寄り添って寝むったはずだ。

 それが、どうして、こうなった。

 俺の上に、雷が跨がっていた。ふと、重さと熱を感じて目を覚ますとこの状況だったのだ。驚いたなんてものじゃない。眠気は急速に醒めていった。

提督「……雷? なにをしているんだ?」

 問いかけても、彼女は答えない。ただ真っすぐこちらに目を向けている。月明かりに照らされた薄暗い空気の中でも、彼女の瞳は妖しい光を孕んでいることが分かった。

 様子がおかしい。

 俺は、起き上がろうとした。だが、雷がそれを許さなかった。俺の両腕を掴んでそのままマットレスに叩きつけた。力を込めても、微動だにしない。


提督「おい、何するんだ」

雷「……」

提督「雷、聞いているのか? 一体なんなんだ」

 怒りを込めて言うと、彼女の目が細められた。顔を耳元に近づけてくる。

 冷たい吐息だった。

雷「司令官。ねえ、司令官。私、気づいたの」

 何に?

 そう尋ねる前に、彼女は続けた。

雷「私たちは、まだ本当の意味で『家族』じゃなかったんだって。特別な関係にはなれていなかったんだって。そうでしょう? 司令官は、誰にでも優しい。私以外の子にも。深雪ちゃんや時津風ちゃん、陽炎ちゃん、それにあの女狐にも……」

 忌々しげに声が歪む。俺の手は、汗で滲んだ。

雷「悔しいけど、あの女狐が言ったとおりよ。私たちはまだまだ足りなかった。もっと、もっと……関係性を深めないと、『家族』にはなれないんだわ。一緒に寝て、一緒に起きて、一緒に仕事して、一緒にご飯を食べて、一緒に笑い合って、一緒に泣いて、一緒に抱き合って……いっぱい、時間を過ごしてきたわ。それでも、私たちは血のつながっていない他人同士。まだ、足りない。ねえ、私たちが『家族』になるには、どうすればいいかわかる?」

提督「な、なんのことだ。わかるわけないだろう」

雷「そう、わからないんだ。……じゃあ、教えてあげるね」


 ――既成事実を、作ればいいんだよ。

 背筋が凍りついた。

 いま、こいつはなんと言った? 既成事実だと? 既成事実とはなんのことだ。既成事実。キセイジジツ。

 つまり、それは――

雷「セックスしようって、ことだよ」

 幼い雷の口からは、あまりにも似つかわしくない言葉が飛び出てきた。声の中に微かだが官能的な響きが混ざっている。

提督「ば、馬鹿なことを言うんじゃない! お前、自分が何を言っているか分かっているのか?」

 俺は腕を振りほどこうと暴れた。だが、ベッドが軋むだけでビクともしない。雷が、さらに強く俺の身体を抑えつけてきたからだ。腕の骨が、万力で締め付けられて砕けそうなほどに痛かった。

雷「あはは、分かっているよ。赤ちゃんの作り方くらい、前の司令官が教えてくれたもん」

 雷が顔を上げた。頬は朱く色づき、口元は熱い吐息を零している。茶色い瞳が、淀んでいた。

雷「逃げちゃダメだよ。そんなの絶対、絶対許さないんだから」

提督「やめろ! き、貴様、何を考えている! 馬鹿なことは止めるんだ!」

雷「ひどーい、貴様だなんて。これから奥さんになる相手に言う言葉じゃないでしょ?」

 彼女の耳には、拒絶の言葉は届かない。彼女は、俺の腕をクロスさせて片手で抑えつけると、パジャマのボタンを外し始めた。碁石を打つような乾いた音がして、徐々に徐々に柔らかい肌が顕になる。淡い光が、少女の肌を妖艶に彩っていた。

 ブラジャーが、こぼれ落ちた。わずかな膨らみに、赤い突起が二つ……。

 汗が脇から止めどなく流れ落ちる。言いようもない恐ろしさに、足先が痺れるように震えた。この戦慄は、もはや暴力に等しく、性への興奮は起こりようもない。

 俺の目の前には、怪物がいた。抵抗するものを無理やり蹂躙しようとする血走った目をした獣が、いた。


雷「これは、『家族』になるために必要なことなの」

 息を荒くして、獣は言った。

雷「だからね、司令官。私たちの子供、作っちゃお?」

 獣は、俺の唇を無理やり舐め始めた。口を堅く閉ざしても、無理やりこじ開けられ、中まで舌を差し入れられた。小さな熱い舌が、ぐるぐると口内を動き回る。粘液が粘液を上塗りし、俺の口は生温かいもので溢れかえる。

 行為は、執拗だった。いったい何秒、何分そうされたかは分からない。俺は必死に足をバタつかせ逃げようとしたが、獣の拘束は外れない。恐怖と絶望が、だんだんと喉元にせり上がってくる。

 怖い。怖い。怖い。自分よりはるかに小さな少女に、強姦されている事実が。幼い少女が、性に倒錯している歪な姿が。

 何もかもが、怖い。

雷「あはは、司令官。司令官の唇、柔らかぁい」

 獣は、口と口を繋ぐ粘液の橋を絡め取りながら、笑顔を見せた。

雷「男の人の唇って、みんな乾いてて堅いのかと思ってた。あはは、司令官のはしっとりしてて、まるでマシュマロみたいだね。私、司令官とのキス、一番好き」

提督「……頼むから止めてくれ。こんなの、おかしいじゃないか……!」

雷「何もおかしいことなんてないよ? 私たちは男と女でしょ? 自然の摂理じゃない」

提督「俺とお前は、上司と部下だ! こんなことをする関係じゃないんだよ! なあ」

 言い切る前に、唇を塞がれる。また舌が、俺の矜持と尊厳を弄んできた。別の生き物のように動き回るそれが、ひたすらに気持ち悪い。


 獣は、俺の胸板に手を伸ばしてきた。乱暴にさすり、服のボタンを外していく。

雷「司令官、まだ足りないよ。もっと、もっと気持ちよくなろ?」

 獣が、そう言って口を歪めたときだった。

 巨大な爆音が、鳴り響いた。鼓膜を破裂させるのではないかというほどの音響が、俺の内臓を揺さぶった。壁が、天井が、シャンデリアが、地震のように震えて、家具のいくつかが倒れた。俺の上に乗っていた獣も、小さな悲鳴を上げてベッドから転げ落ちた。

提督「なんだ!?」

 何が起こったというのか。突然の事態に、思考が追いつかない。

 警報がけたたましく鳴り響いた。

雷「なによ! 一体なんなのよ! いいところだったのにっ!」

 雷が熱り立って喚いたが、警報の激しい金属音にほとんど掻き消される。俺は事態を把握するよりも先に、本能を総動員した。逃げるように立ち上がって、部屋を出た。

 雷が、何かを叫んだ。だが、聞こえないふりをして逃げ出した。

 走る、走る、一心不乱に。

 呼吸が乱れたがお構いなしに。獣の舌の感触を頭の中から必死に消そうと、恐怖を消そうと、走った。

 階段を飛ぶように降り、角を曲がったときだった。誰かとぶつかりそうになった。


陽炎「わっ!」

 陽炎だった。彼女は突然現れた俺に驚いたようだったが、すぐに顔を引き締めた。

陽炎「良かった! 無事だったのね、司令!」

提督「あ、ああ……」

 荒い息を吐きながら、俺は答えた。

陽炎「突然爆発があって、警報がなり始めたから……。ほんと、無事で良かった」

 胸を撫で下ろす陽炎は、驚くほどに可憐だった。

 それだけじゃない。優しくて、汚れない清純さを併せ持っている。

 あの獣とは、まったく違う。日常だ。日常にある、普通の少女の美しさ。毒花に刺された後に見る蒲公英だ。

 ああ、なんて。なんて奇麗なんだ。

提督「……」

 なぜだろう。陽炎を見ていると、だんだん視界が滲んで、歪んでくるのは。

陽炎「え、ちょっ! ちょっとどうしたのよ司令! どこか怪我でもしたの?」

 陽炎が驚いた声を上げる。

 どうしよう。抑えが効かない。大の男が、ましてや帝国海軍軍人が、部下の前で、それも少女の前で無様に涙を流すなんてあってはいけないことなのに――。

 だが、開放された安堵から、恐怖で一杯になっていた心のダムは呆気なく決壊した。

 俺は陽炎を抱きしめていた。

提督「よかった……本当に、よかった……」

陽炎「し、し、司令! 司令ってば! いきなりなんなのっ?」

提督「……すまない、すまない。安心して、怖くて……!」

陽炎「ちょ、ちょっと、もう……! とにかく、離れなさーい!」






陽炎「……落ち着いた?」

 陽炎が顔を覗き込みながら、そう訊いた。俺は頷くと、ハンカチで眼元を拭った。

提督「すまない、取り乱してしまった。……ハンカチは洗って返す」

陽炎「いいわよ、別に。あげるわ。そのハンカチ見るたびに司令官の泣き顔思い出しそうだし」

 陽炎は白い歯を見せて、からかうように言った。

陽炎「でも、いくら爆発事故があったからって泣くこともないでしょ? 司令の気持ちはわかるんだけどさ。軍人として、ちょっと情けないかも」

提督「……すまない、君の言うとおりだ」

 陽炎は勘違いしているが、訂正しようとは思わなかった。あんな悍しい光景、思い出したくもないし、知られたくもない。

陽炎「まあ、でも、ちょっと嬉しいわよ。司令が、私たちのことをそこまで思ってくれるなんて」

提督「君たちは、宝だからな……」

 そう、宝だ。一人残らず大切な存在だ。

 その存在に、あんなことをされた。

陽炎「……そんな顔をしながら言うな、たく」

 恥ずかしそうに頬をかきながら、彼女は目をそらした。その少女らしい反応が、今の俺には救いだった。

陽炎「それより、事故の状況の方が大事よ。けっこう大きな事故だから一緒に来て」

 たしかに陽炎の言うとおりだ。俺は頭をふって、あの忌まわしい出来事を頭の片隅に追いやり、指揮官としての責務に集中する。陽炎に付いていきながら、尋ねた。

提督「……事故の状況は? 一体何があった?」

陽炎「工廠の爆発事故よ。何が原因かはわからないけど、けっこう大きな爆発だったから、おそらく誰かの艤装が爆発して、誘爆したんでしょうけど……」

提督「敵襲の可能性は?」

陽炎「百パーセントとは言えないけど、限りなくその可能性はゼロだと思う。夜間警邏も出ていたけど、敵影を見たって報告はないし。それに、この近海に鎮守府を襲えるほどの艦種はいないはずだから」


 俺の頭には、南鎮守府の事件が過ぎっていた。陽炎の報告では安心はできない。

 しかし、もし敵襲だった場合、責任問題になって軍法会議ものだが……今はそんなことはどうでもいい。

提督「それくらいの根拠では、敵襲の可能性は排除できない。油断せず警邏隊を探索に当たらせろ。大型艦種が入ってきている可能性にも考慮して、警邏隊には榛名も同行させるように。もし、敵を発見した場合は即時戦闘体制に入って構わない。また、念のために動けるものは総員戦闘準備をさせておけ」

陽炎「りょーかい。……よかったわ、いつもの司令ね」

提督「さっきは本当に悪かった。もう大丈夫だから」

陽炎「うん、安心したわ。……で、この指示報告って私がしていいの? 雷ちゃんがいないけど」

 雷。その名前に心臓が震えたが、なんとか堪えて肩を竦めてみせた。

提督「あいつはいい。たぶん寝ているから、お前がやってくれ」

陽炎「なんというか、まあ……雷ちゃんらしいわね。わかった、私がやっとく」

 陽炎は溜息をついて、トランシーバーを出した。慣れた様子で流暢に指示をしてくれている。その間に、事故現場に近づいたのか、もうもうと立ち込める煙が見え、強烈な匂いが漂ってきた。俺はハンカチで、陽炎は袖で、鼻を覆った。

 近づくにつれ、ヒリヒリとした熱が顔を焼いた。近づけば近づくほど、熱さが増していく。

 工廠が、炎の渦に包まれていた。赤い炎が、空さえも焼き付くしている。その周りでは、慌てた様子の妖精たちが、必死に消防活動を行なっており、手隙の艦娘たちも手伝いをしていた。

 その中に、白いバンダナを巻いて必死に水を運ぶ鈴谷の姿を認めた。その顔はすでに煤だらけで、火災の激しさを教えてくれる。俺たちは彼女に駆け寄った。


提督「鈴谷!」

鈴谷「提督じゃん! 無事だったんだね、よかった」

 鈴谷は、心底ほっとしたように息をついた。

提督「負傷者はいるか?」

鈴谷「幸いなことに、一人も確認されていないよ。工廠も深夜帯は基本的に人はいないから」

提督「……そうか」

 俺は愁眉を開いた。負傷者がいないことが、俺にとっては何よりも大切なことだからだ。

鈴谷「鈴谷、どうすればいいかな? このまま消火活動手伝ってていいの?」

提督「ああ。その他の必要な指示はすでに陽炎経由で知らせてある。そのまま作業してくれ。……指揮は俺が取ろう」

鈴谷「分かった! じゃんじゃん運んですぐ鎮火させるから見ててよねー!」

 鈴谷は張り切った声を出して、飛ぶように火に向かっていった。

陽炎「司令、私も手伝うわ!」

提督「頼む」

 陽炎の言葉に頷くと、ふと視界の隅に人影を捉えた。特徴的な銀髪と佇まい。その人物は、木陰に立って燃える工廠を見つめていた。

 浜風だ。

提督「……浜風」

 何をやっているのだろうか。この非常時に、ぼうっと突っ立っているなんて。

 咎める気持ちはわかなかった。ただ、気にはなった。あの浜風が、こんな状況で何もしないなんておかしい。

 俺は、浜風に近づいて声をかけようとした。

 だが、声が出なかった。

 燃え盛る音の中、消火活動の声がする中、警報がなる中、浜風は何かを呟いていた。あまりにも小声だったのでよく聴こえなかったが、繰り返し、繰り返し、なにかを一心不乱に。

 三文字の言葉を。血走った眼で。


提督「……」

浜風「……提督? 提督!」

 浜風は俺に気付くと、飛びつくように懐に入ってきた。

浜風「ああ、提督……提督……。よかった……。無事だったんですね……」

提督「あ、ああ……」

浜風「あの雌……いえ、雷さんは何処ですか? 見当たりませんが」

 顔が歪みそうになるのを、なんとか堪えた。

提督「あいつは、今は寝ているよ。俺だけ音に気づいて飛び出してきたんだ」

浜風「ふうん、そうですか」

 浜風は、嬉しそうだった。嬉しそう? この状況に、そんな笑顔は似つかわしくない。

浜風「ということは、ふふ、置き去りにされて今は独りですか。……可哀想な子」

提督「浜風?」

浜風「なんでもありませんよ。提督がご無事でよかったです」

 浜風はそう言って、額を胸板に押し付けてきた。

浜風「よかった、本当に、よかった」

 俺を愛おしげに抱き止めながら、浜風は不安の解消に勤しんでいた。

 微かな違和感が、俺を炙っていた。

投下終了です。
長らくお待たせしてしまい、すいませんでした。





 工廠の火災は、陽炎が予想したように艤装の爆発が招いたものだった。迅速な消火活動の結果、全壊は免れたものの、被害はけっして小さくはなかった。工廠は半壊。艤装の大半は、消失してしまった。

 敵襲でなかったことは幸いだったが、だからといってお咎めなしとはいくはずがない。事故の責任は当然のように追及された。提督会議本部に招集された俺は、横須賀副議長から厳しい訓戒を受け、減給処分と工廠の修繕が完了するまでの間の謹慎を言い渡された。これ程に軽い処分で済んだのは、提督という貴重な人材を長期間遊ばせておく暇がないことと、舞鶴中将の口添えがあったからだろう。

 工事の終了は、一週間後の予定であった。鎮守府設備の修理は、通常妖精が行う。一瞬で艤装を作り出すほどの彼らの能力を持ってすれば、大規模な修理もその程度で済んでしまう。呆気ないものだ。

 だが、その呆気なさは、今の俺には有り難くない。たったの一週間。たったの一週間だ。それくらいで、心の整理が付くものだろうか。

 雷と、向き合えるようになるのだろうか。

 頭には、あの夜の光景がこべりついている。俺の上に馬乗りになって、涎を蜜のように吸う卑しい女の汚らわしい光景が。月明かりに狂った、一匹の性に支配された獣が。

 ずっと、俺を苛んでいくる。

 あれから二日がたった。それでも、消えようとはしない。

舞鶴「……柊中佐。ずいぶん、顔色が悪いじゃないか」

 本部からの帰り道。門を出てすぐのところにある葉桜の並木道を、舞鶴中将と歩いていた。達磨のような体型の舞鶴中将は、太い眉を潜めて俺の顔を覗き込んでいる。

提督「……そうでしょうか?」

舞鶴「どう見てもそうだ。萎びた玉葱のような顔をしているぞ」

 その例えはよく分からないが、よっぽど酷いのだろう。

舞鶴「責任を感じとるのはわかるが、そこまで窶れることもなかろうに。たったの一週間、我慢すればよいだけであろうが」

提督「まあ……」

舞鶴「たく、小心なところは治っておらんのぉ。指揮能力は優秀だというのに、勿体ない。そこさえ治ればなあ」


 舞鶴中将は、溜息をついた。立派に蓄えた髭が心なしか残念そうに下がって見える。

 訂正する気も言い訳する気も起きず、すいませんと頭を下げる。分かってもらえるわけもない。俺の今の苦しみを。

舞鶴「過ぎたことは過ぎたこと! くよくよしていても男が下がるだけだぞ柊中佐! 過去はどんなに後悔しても戻ってこんから、後ろを振り向く暇があったら前を向かんか前を!」

提督「あだっ!」

 背中をぶっ叩かれて思わず悲鳴を上げた。柔道五段の平手打ちは並の痛さではない。背中には刺すような痛みが波を起こしていた。

 彼とやり取りしているときは、大抵叩かれるので慣れてはいたが、痛いものは痛い。無言の抗議を目線に込めると、舞鶴中将は豪快に笑った。散歩中の貴婦人が、二度見するほどの声量だった。

舞鶴「その粋だ! わしを睨む元気があるならもう大丈夫だな!」

提督「……気合いを入れてもらって、ありがとうございます」

舞鶴「む、なんだ? 声が小さいな。もう一発いっておくか?」

提督「わあ、勘弁してください! 気合いを入れていただいて、ありがとうございますっ!」

 これ以上、あんな岩みたいな手で殴られてたまるか。

舞鶴「よしよし、それでこそ帝国海軍軍人だ。……いいか、柊。お前は部下たちの鏡だ。お前が痩せた大根のような顔をしておったら、部下たちも不安に思う。そうしたら、艦隊の指揮にも必ず響いてくるぞ?」

提督「……」

舞鶴「儂らには、泣くことも不安に暮れることも許されん。指揮官たるもの毅然としておくことが寛容だ。一番最初に教えたことのはずだ。初心を忘れるな」

提督「はい、先生」

 あなたの教えは、痛いほど分かっている。だが、俺という人間の弱さが、その教えを忠実に守ることを許さない。許さないのだ。

 俺は、あらゆるものが怖い。艦娘制度という歪みをもたらす悍しいものに関わる全てが。


 あの夜の光景も、その一つだ。

 薫風が、木々をそよそよと通り過ぎる。いつの間にか川辺の近くにまで来ていた。ハハコグサが揺れる川辺は、温かな陽射しを受けて宝石のようにキラキラと輝いている。犬と戯れる童たちがいた。憎たらしいほどに楽しそうだった。

 内地の長閑すぎる光景は、俺の目には毒だ。あまりにも、ギャップがありすぎる。

舞鶴「……墓参りには、行くのか?」

 舞鶴中将は、唐突にそう尋ねてきた。

 誰の墓参りか。俺の父と母、そして静流の墓参りだ。

提督「はい。帝都を離れる前に済ませようと思っています」

舞鶴「そうか、そうだな。帝都はいつ離れる予定だ?」

提督「今日の夕刻までには、鎮守府に戻ろうかと思っています」

舞鶴「……ふむ、性急だな。そんなすぐに戻ったところで、どうせすることはないだろうに」

提督「いえ、溜まっている報告書や書類があるので、せっかくの機会に片付けてしまおうかと思っていました。謹慎中でも提出する準備くらいはできますし」

舞鶴「生真面目なやつめ」

 舞鶴提督は顔をしかめて言った。だが、すぐに顔を引き締めた。


 改まって、どうした?

舞鶴「その予定、変更できんか?」

提督「なぜです?」

舞鶴「閣下が、お前に会いたがっている」

提督「閣下が?」

 俺は目を見開いた。閣下とは、今は隠居されてしまった呉元提督のことだ。お会いするたびにいつも気にかけてもらっていたが、最近はまったく会うこともなくなってしまっていた。

 閣下は、引退されてからというもの誰にも会いたがらなかったからだ。俺も何度か挨拶に伺おうとしていたが、目の前の達磨中将に止められていた。

 それが、今になって、なぜ? しかも、俺などに。

舞鶴「閣下は、お前に話したいことがあるのだそうだ。詳細は私も分からんが、とにかく、急ぎでないならすぐに会いにいってくれ」

提督「それは良いのですが……。なぜ、私に?」

舞鶴「詳細は知らんと言ったろう。閣下は、昔からお前を気に入っていたからな。ただ単に会いたいだけなのかもしれん」

提督「はあ」

舞鶴「いいから、行ってこい。閣下の呼び出しなんだぞ?」

 よくは分からないが、舞鶴中将の言うとおりだ。閣下の呼び出しを無碍にはできない。

 俺は、舞鶴中将に頭を下げて閣下のところへと向かった。

undefined







 閣下の屋敷は、帝都の一等地に建っている。立派な庭園がついた巨大な日本屋敷だ。見るものを圧倒する威風堂々とした出で立ちは、どこか閣下を思わせるものである。

 威容と形容すべき門の前で、俺は喉を鳴らした。

 何回来ても緊張する。無理もないだろう。相手は艦娘制度の始まりから艦隊を率いて深海棲艦と戦ってきた生ける伝説、軍神そのものだ。艦娘と一緒に内火艇で出撃して指揮を振るった、なんていう冗談みたいな言い伝えをもつ男なのだ。

 軍人としての格そのものが違う。引退したとはいえ、それはなんら色褪せない。

 俺は、手汗を拭いて呼び鈴を鳴らした。

 乾いた金属音とともに声がした。女性の声だ。澄んだ綺麗な声だった。

提督「失礼致します。御主人様に、柊結弦が挨拶に参りましたとお伝えください」

「ああ、柊中佐かあ」

 女性の声が、嬉しそうに弾んだ。門が開くと、現れたのは美麗な熟年の淑女であった。紫の髪に、紫の瞳。どこかで見た顔だった。

「久しぶりだね。私のこと、わかるかい?」

提督「……隼鷹さん?」

 まさか、この年老いた女性が? 自分でいいながら信じられない気持ちだったが、彼女以外に思い当たる節がない。

 彼女は、白い歯を見せた。

隼鷹「正解! よく分かったね?」

提督「……やはり、そうでしたか」

隼鷹「ははは、びっくりしたでしょ? 解体されて艦娘じゃなくなったからさ、魔法が溶けちゃったんだよ」

 魔法。その言葉で得心がいった。艦娘は艦娘になった時点で成長が止まってしまうのだが、解体された瞬間に人間に戻るためか、その反動で止まっていた時間分一気に歳を取るのだ。この現象を、一部では「玉手箱を開ける」などと揶揄するが、隼鷹さんほど歳を取る艦娘はまず存在しない。


 なぜなら、ほとんどの艦娘が歳を重ねる前に戦死して転生するからだ。それほどに艦娘の死亡率は高いのだが、隼鷹さんはその中でも例外中の例外、三十年前の開戦初期から生き残っている艦娘である。かなりのレアケースで、そんな強運に恵まれた艦娘は、後は雪風と大和くらいしかいない。

 だからこそ、彼女はこうして歳を取ったわけだが、理屈は分かってもさすがに驚きを禁じ得ない。

 俺が何とも言えない表情をしていたせいか、隼鷹さんは優しく、それでいて少し寂しそうに笑った。

隼鷹「まあ、そんな顔するなよな。私もお婆ちゃんになっちゃって戸惑ってるけどさ、それはそれで幸せなことなんだからさ」

提督「……そうですね」

 たしかに、そのとおりなのだろう。無惨に死んでは転生し無惨に死んでは転生を繰り返す他の艦娘たちに比べると、はるかに幸せなことなのかもしれない。

 俺が頷いて笑ってみせると、隼鷹さんも満足そうに微笑んだ。

隼鷹「じゃ、とりあえず上がれよ。提督……じゃなかった、豪三郎さんがお前のことを首を長くして待っていたんだからな。はやく会いにいってやれ」

提督「はい。お邪魔します」

 門を抜けて飛び石を渡ると、これでもかと広い玄関についた。靴を脱いで上がり、隼鷹さんに案内されて廊下を歩く。日本家屋らしい木の温もりに包まれた家だ。ヒノキのいい香りがした。

 長い廊下を歩いて辿り着いたのは、中庭だった。

 庭石に一人の老人が座っている。和服を着た、痩せた老人だ。暖かな陽の光を浴びながら、穏やかな表情で手に持った一葉の写真を見つめていた。小鳥が鳴き、鹿威しが静かに響く。まるで、洋画を見ているような幻想的な光景。


 その美しさに、一瞬、目を奪われた。そこにいるのは間違いなく呉元提督……閣下その人であった。

提督「……閣下」

 俺が声をかけると、閣下はゆっくりと顔をこちらに向けた。

 俺は、息を飲んだ。こちらに顔を向けて初めて気付かされた。その、やつれ切った表情に。

呉「結弦くん。久しいな」

提督「……お久しぶりです。お邪魔しております」

呉「ああ、今日はゆっくりしていくといい。……すまないな。ちょっと陽を浴びたくて庭に出ていたんだ。客間に移ろうか」

 閣下は微笑みながら言うと、杖をもってゆっくりと立ち上がった。そこに、大艦隊を指揮していた頃の気迫はない。

 隼鷹さんが慌てて駆け寄り、介抱する。以前なら強気で突っぱねていたはずのそれを、すんなりと受けていた。

 酷く、胸を締め付けられた。

提督「はい、わかりました」

 表情に出さないようにするのが精一杯だった。彼が人と会いたがらなかった理由が、分かってしまった。

 閣下は、俺のそばにやってくると心底嬉しそうに笑ってくれた。骨の浮いた手で、俺の身体を触る。

呉「事故があったと聴いていたが、どうやら怪我はしていないようだな」

提督「ええ、なんとか……」


 さすが、引退してはいても耳が速い。

提督「いらぬご心配をおかけして大変申し訳ありません」

呉「まったく、話を聞いたときは肝を冷やしたぞ。まあ、何はともあれ無事でよかったが」

 閣下はそう言って、俺の手元に視線を落とした。

呉「ん? その手に持っているのは、まさか……」

提督「ええ。松島屋の豆大福です。少々忙しかったのでこのようなものしか手土産にできず申し訳ないのですが」

呉「いや、素晴らしいものじゃないか。私は松島屋の豆大福に目がないのだ。良いものをありがとう。……隼鷹」

隼鷹「分かってる。茶だろ? 用意してくるよ」

 隼鷹さんは片目を閉じて、茶の用意に台所へ向かった。俺たちはその間に、すぐそばの客間に移動する。

 俺は閣下の真向かいに腰を落とした。つい習性で正座をすると、呉提督がさっそく豆大福の箱を開けながら言ってくれた。

呉「楽にしてくれ。お前は客だからな」

提督「はい、わかりました」

 胡座で座り直す。

呉「さて、今日は大変なところをいきなり呼びつけて悪かったな」

提督「いえいえ。閣下のお呼び出しならば、たとえ槍が降ろうとすぐに駆けつけますよ」

呉「大袈裟な物言いをするな。そう言ってもらえると嬉しくはあるが」

 カラカラと、閣下は笑う。


提督「……それで、本日はどのようなご用件で?」

呉「色々ある。まず、結弦くんの近況が聞きたい。最近はどうだ? 海域攻略は進んでおるか?」

提督「ええ、一応、バシー島沖の攻略も順調に進んでおります。このままのペースで行ければですが、今月中には攻略も完了するかと」

呉「ほう、そうか。では、次はいよいよ『魔の海域』だな。あそこはそこそこに大変なところだから、心してかかれよ」

提督「はい。覚悟して参ろうと思っています」

呉「良い良い、その粋だ。お前なら心配せんでも大丈夫だろう」

提督「……」

 この人は、こんなにも優しい人だったろうか? 俺の知っている閣下のイメージは、もっと峻厳で、もっと苛烈なものだ。直属の部下にも刃のように容赦なく切り込み、厳しく接するイメージがある。

 それは、俺に対しても例外ではなかったはずだ。やはり、引退されたことや息子さんが亡くなられたことが、彼の心境に変化をもたらしているのだろうか?

 閣下のやつれきった顔に、答えがあるのだろう。彼の苦悩は、俺ごときに押し測れるものではないはずだ。

 閣下が豆大福に手を付け出した。そのタイミングで、隼鷹さんがお茶を運んできてくれた。

提督「ありがとうございます」

隼鷹「いいってことよ。それより、今日はゆっくりしていってくれよな。久しぶりの来客で私も嬉しいんだ」

 隼鷹さんは、本心から言ってくれているのだろう。お茶を差し出す手は労りに満ちていた。

呉「かっかっ、本当は酒を出したいところなんだがなあ。秘蔵の三十年ものの響があるんだ」

隼鷹「駄目だぜ、豪三郎さん。酒は医者に止められているだろ?」

呉「むっ、貴様に酒を止められると調子が狂うな」

隼鷹「どういう意味だよ?」

呉「自分の行いを振り返らんか。蛙は口から飲まれるということだ」


 ぐうの音も出ないのだろう、隼鷹さんが押し黙った。俺が思わず噴き出してしまうと、赤らめた頬を膨らませながら「……最近は止めてるし」と呟いた。

隼鷹「……じゃ、じゃあ、私はもう行くからな! なんかあったら呼んでくれよ?」

 隼鷹さんが恥ずかしそうに去っていく。閣下はその後ろ姿に静かな瞳を向けていた。

呉「あれは、いい女だろう?」

提督「……そうですね」

呉「私が辞任するときに、付いて行くといって聞かなくてな。戦力の低下に繋がって後任に迷惑がかかるから止めろと言っても、まったく応じなかった。『お前一人には抱え込ませない』と言って。……頑固な女だよ」

 まるで数十年来の連れ合いを自慢するように、彼の口調には深い慈愛が感じられた。これが、開戦から背中を預け合ってきたもの同士の絆というものなのだろうか。

 こんな美しいものが、あったのだな。艦娘は、道具のように扱われてばかりだと思っていた。そうした艦娘ばかりが、うちには沢山いるから。いいように扱われ、捨てられ、玩具同然に弄ばれ……壊れてしまった子たちばかりが。

 俺も、みんなと、こんな風になりたいものだ。果たして、なれるのだろうか。こんな絆を、作れるのだろうか?

呉「……結弦くん」

提督「はい」

呉「お前の鎮守府は、難しいだろう?」

 即答はできなかった。思わず口をつぐんでしまう。そして、この反応が、何よりも雄弁に事実を語っていた。

 閣下は、隼鷹さんに向けていた目を俺にも向けてきた。すべてを見透かすような瞳だった。


呉「すまないな。お前があの改装鎮守府の提督になったのは、すべて私の力不足だ。東の捨て艦を止められなかったのも、療養所の改装という馬鹿げた計画も……私は止めることができなかった。もし、その頃の私にもう少し力があったなら、君をあのまま輝かしい道に進ませることができたはずなのに」
 
提督「……閣下」

呉「責任を感じていたのだ、ずっと。本当にすまなかった」

 閣下はそう言って、頭を下げた。目頭が熱くなるのを禁じ得なかったが、舌唇を噛んで我慢する。

 彼は、分かってくれている。俺が背負った業の深さを。苦しみを。

 なんて慈悲深い人なのだろうか。仏を見ているような気分だ。

提督「閣下、頭を上げてください。……俺があの鎮守府を任されたのは仕方のないことです。閣下のせいではありません」

 そうだ、すべての原因は東提督という悪魔にある。あの事件の前から、捨て艦を無くそうと尽力していた閣下を責めることなどできるはずがない。

 鹿威しがなった。静謐さを揺らす、優しい響き。

提督「私は……この半年間、さまざまな悍しいものを目にしてきました。正直、海軍のあり方、艦娘制度のあり方に疑問を抱いたことも事実です。しかし、あの鎮守府に就任してよかったと思うこともあるのです」

 予備役とはいえ、海軍大将だった人物に批判をぶつけるなど、ずいぶん大それた行いだ。だが、閣下は諌めることなく黙ってくれていた。眼で、続きを促してくる。

提督「……それは」

 俺は唾を飲み込んで、言った。

提督「それは、彼女たちの笑顔を取り戻したことです」


 浜風や陽炎、三隈、榛名、羽黒、青葉、その他の苦しみぬいて流れ着いた艦娘たち。一人ひとりの顔を思い浮かべる。彼女たちは、涙ばかりを流していただろうか? 否、南西鎮守府での日々の中で、少しずつ少しずつ笑顔を取り戻していったはずだ。

 その笑顔は、大いに意味のあるものだ。行き場を失った彼女たちの、最後の寄る辺となっている事実。それはあるいは俺だけの自己満足なのかもしれない。だが、ささやかでも彼女たちの救いになったことは、どんな勲章よりも嬉しい俺だけの成果なのだ。

 誰が何を言おうと、俺は、大きな財産を手にしている。手にしているのだ。

提督「……私は、それだけで意味のあることだと思っています。だから、どうか気にしないでください。私は、その役目を果たすことにはなんの躊躇もありはしないのですから」

 いつもは誤魔化してばかりの俺も、今回ばかりは嘘をつかなかった。これは、紛れもない俺の本心。

呉「……言うようになったな」

 言葉とは裏腹に、閣下の目は優しかった。

呉「あの洟垂れが、ずいぶんとまあ……。今日はやはり酒を用意するべきだったな」

提督「隼鷹さんが飛んできますよ」

呉「それもそうだな」

 呉提督は白い歯を見せた。茶を一口含むと、今度は一点変わって目を細める。

呉「しかし、結弦くんよ。必ずしも、すべての艦娘がお前の期待に答えてくれるわけではない。……その意味は分かるな?」


 俺は顔をしかめそうになるのを堪えて、頷いた。

呉「そのとき、お前がどういう選択をするのか。あの鎮守府で、お前に問われる真価はそこにある。すべての艦娘が平穏無事に笑って過ごしていけるわけがないことは、心しておけよ。そんな極楽は、お前たちの世界には存在せん」

 いちいち、もっとだ。俺がずっと目をそらし続けてきた問題を、彼は目の前に持ってきて問答をした。間違いなく、俺の逃げ腰な短所をわかった上で。

呉「壊れるなよ、結弦くん。私は、お前なら乗り越えられると信じたい」

提督「なぜ、そこまで……そこまで、私のことを?」

呉「若者の力は侮れんということだ。私はな、ひたむきな若者が好きなんだよ」

 閣下は大口を開けて、笑ってくれた。





 湿っぽい話が続いたからか、その後閣下は取り留めのない雑談に切り替えて、クールダウンを測ってくれた。海軍内部の人間だけにわかる身内ネタから始まり、閣下が好きな相撲の話や落語の話、そして、内火艇で出撃し指揮を取ったという話が本当であることなど……閣下は元々話好きだったようで、話題は尽きなかった。

 時計の針が大分進んで、陽射しが冷たくなってきた頃。閣下は急に皺の刻まれた顔を引き締めた。

呉「……さて、話は変わるが、お前にはもう一つ大事な話があるんだ」

 急激な変化に、思わず姿勢を正した。閣下の顔は、海軍大将の頃のものに戻っていた。

提督「なんでしょう?」

呉「お前たち末端にはまだ伏せられていた話についてだ。この話は、提督会議の議員たちしか知らない」

 それはつまり、超極秘事項ということである。

 唐突にそんな話題になったことに、俺は戸惑いを隠せなかったが、閣下の反応を見る限りでは、本日の本命はどうやらこれのようだ。

 俺は喉を鳴らして、閣下の言葉を待った。

呉「私がまだ呉鎮守府で指揮をしていた頃の話だ。東鎮守府の事件が発覚する直前……十一月初頭の夜のことだ。呉鎮守府第一艦隊は、サーモン海の定期攻略を終わらせて帰途の途中であった。その帰り、呉鎮守府近海付近で事件が起きた」


提督「事件」

呉「ある、正体不明の深海棲艦に出くわしたのだ」

 閣下の言葉は淡々としていたが、どこか苦々しい重さが混じっていく。

呉「敵は一隻。見たこともない艦影で、艦種はまったく類推することができなかった。我が隊の旗艦武蔵は、慎重に慎重を重ねて敵を観察し、攻撃を行うべきかどうか報告を入れてきた。私は了承したよ。燃料にも弾薬にも余力があったからな。しかも、敵は一隻だった。いかなる艦種であっても、たやすく撃滅できるであろうと、慢心もあった」

提督「……」

呉「結論から言うと、我々は大損害を被った。そのたった一隻の敵艦に、駆逐艦一隻が轟沈、旗艦武蔵を含めた三隻が大破に追いやられた」

提督「――な」

 絶句した。呉鎮守府の第一艦隊といえば、海軍最強の艦隊だ。それが、たった一隻の深海棲艦にそれほどにしてやられるなど……。到底信じられない話だ。

 だが、閣下はそんなことを冗談で言う人ではない。

呉「あれは、とんでもない化物だった。駆逐艦のような見た目のくせに、武蔵に匹敵する威力を持った主砲と、正規空母並の艦載機保有数を誇っていた。しかもそれだけではない。雷装巡洋艦を思わせるほどの魚雷まで搭載していたよ。砲撃、雷撃、航空戦……まるで、すべての深海棲艦を合成した生物
のようであった。そんなものを、化物以外のなんと形容すればいいか。……私たちの艦隊は、そいつにいいようにしてやられた。最終的に刺し違える覚悟で、武蔵が撃沈させることに成功したが、一歩間違えれば私たちは全滅していたであろう」

 息を飲んだ俺を一瞥し、閣下は息を吐いた。


呉「……信じられない話だろう?」

提督「はい」

呉「だが、事実だ。あいつは、ニタニタ笑いながら我が艦隊を相手にしていたそうだ。思い出したくもない、悪夢のような夜だったよ。私たちは、そいつのことを戦艦レ級とカテゴライズした」

提督「……戦艦レ級」

 そんな化物が現実に存在するという事実に、寒気を覚える。しかも、呉鎮守府がその艦隊と出くわした場所は、海域の最深部などではない。ただの帰り道だ。しかも、鎮守府近海のすぐ近く。

 それは、これまでに考えられてきた深海棲艦の常識とは明らかに違う。

提督「……縄張り行動をとっていない」

 俺の呟きに、閣下は肯定の言葉を述べた。

呉「そうだ。あれは、あんな場所に現れていいような敵ではないし、群れずにたった一隻で行動していた点でも普通とは違う。これまでの下らん理屈のどれにも当てはまらない。……まあ、だからこそ、提督会議以下には伏せられたわけだがな。いらん混乱を避けるためという弱腰な理由で」

 その口調には強い皮肉が籠もっていた。だが、もっともだ。そんな危険な存在についての情報を周知徹底しないなど、本当にどうかしている。もし、呉鎮守府ほどの実力を持たない鎮守府が、不運にもそいつと出くわしたらどうなるか……考えるまでもない。

呉「あれの存在が示す恐るべき事実は、そこだけじゃない。……深海棲艦がさらなる進化を遂げたという事実。それが、もっとも恐ろしい」

提督「そう、ですね。いわゆる、姫クラスとも違うようです」

呉「やつらは、縄張り行動に縛られるからな。だが、レ級はそうじゃない」

 俺の脇から冷たい汗が流れ落ちていく。風の音、水の流れ、鳥の声。あらゆる情報が重たく、入ってくる。

 閣下が何を言おうとしているか、俺には分かってしまった。

呉「……あれが、私の出くわした一隻だけだったならいい。突然変異種で、百年に一体生まれるような個体ならいいだろう。だが、そうは思えない。もしあれが、次から次へと生まれてくるようなら……」

 閣下は、言葉を切って続けた。


呉「我々は戦争に負けるぞ、結弦くん」

 鋭利な刃で突き刺されたかのように、俺の心にその言葉が食い込んでくる。南鎮守府の空襲でも感じた嫌な予感が、ジワジワと重油のように湧き出してきた。

 まさか、あの事件の犯人も――。

 証拠のない推論にしかならないが、そう考えてしまっても違和感はおきない。空恐ろしさを感じたが、答えが出しようはないので、一旦保留する。

提督「……私は、どうすれば良いのでしょう? この目の前に現れた危機に対して、どう対処すればよいのでしょうか?」

呉「備えろ」

 俺の質問に、閣下は即答した。

呉「正直、いまのお前にできることは少ない。だから、いまは戦力を整えて備えるんだ。来たるべき日に向けてな。そして、海域攻略に勤しめ。実力のないものの意見に耳を傾けるような海軍ではない。しっかり実力をつけ、お前の影響力を高め、やがて……やがて革命を起こせ。お前と、舞鶴でな」

 俺は大きく目を見開いた。

 いま、この人は俺にクーデターを起こすよう示唆したのだ。そこに、予備役となった男の本音が現れていた。

 俺にこの話をした理由も、きっとここにある。海軍には、閣下を擁していた「呉派」と横須賀大将が統べる「横須賀派」に分かれて派閥争いをしていた。前者は深海棲艦の殲滅と早期終戦を目指す「積極決戦派」とも呼ばれ、後者は国防の優先と鎖国体制の完成を目指す「鎖国派」とも呼ばれている。両者は互いに主義主張を対立させ歪み合ってきたが、「呉派」だった東提督が起こした捨て艦事件や、閣下の引退が重なり、呉派の求心力は低下。今の海軍は、横須賀派にほとんど牛耳られているのが現状だった。

 その現状を打開しろ、ということだ。彼ら「鎖国派」は自身の信仰する優生思想と、自分たちの利益にしか興味がない。この戦線の膠着状態によって、うまい汁が吸えている彼らがいつまでも椅子に座っていたら、戦争は終わらない。戦争を終わらせるため、敗戦を防ぐため……そのための、クーデター。


呉「だが、焦るなよ。お前たちには今、味方になる勢力が少ない。今行動を起こしたところで、国民の支持も得られないだろう。あまり時間もかけてはいられないが、時期焦燥に走っては足元を掬われる。横須賀も、佐世保の小僧も存外手強い。やつらを相手するには、十分な準備がいる」

提督「……」

呉「迷っているのか?」

提督「……いえ、そういうわけではありません。ただ、私にその役目が務まるかどうか、正直自信がありません」

呉「弱気になるな。お前ならできるさ。……ただ、こんな負担を背負わせてしまうのも、また私のせいだ。すまないな」

提督「いいえ。海軍を変えなければいけないとは、私もずっと思っていたことです。……跡を引き継いだ私たちが、やらねばならないことだとは思いますので」

 内心、かなりのプレッシャーは感じていた。閣下は評価してくれているみたいだが、どうしてそんな風に思ってもらえるのかも分からないし、俺は自分をそこまで過大に評価してはいない。酒に頼り切らねばやっていけぬ、軟弱な人間だと思っている。

 どうして、俺なのか。そう思ってしまうところはある。だが、俺や舞鶴提督がやらねばならないことも分かってはいる。

提督「……閣下が、いてくれれば」

 つい喉元からその言葉が零れ出た。はっとして、閣下の方を見ると、困ったような笑顔を浮かべていた。

呉「……お前たちには、酷なことをさせてしまっているな」

提督「すいません、つい……」

呉「いいんだ。いい。私の引退が、海軍に大きな歪みをもたらしたのは事実だからな。だが、私はあそこで辞めなければならなかった。辞めなければ、私は桐生家の人間として、いや……人としての道を反することになっていた」

 閣下の顔には、寂寥感が影になって浮かんだ。閣下は床の間に目を向けている。そこには、彼の奥方と息子さんの写真があった。


 何があったのか、俺は知っている。彼が息子さんにいかなる処断を降したかも。その責任をとって、海軍を退いたことも。

 言葉に尽くせぬほどの後悔が、黒い瞳に陽炎となって映っている。さっき、中庭でも写真を眺めていた。その写真は彼の懐に仕舞われているが、きっとその写真にも息子さんが映っているに違いない。

 ずっと、いつ何時でも……彼は自分を責め続けているのだ。

呉「人は、ときに自分の選択を後悔する」

 その言葉には、苔むした岩のような重みがあった。

呉「もっといい選択肢があったのではないか、とな。それは避けられないことだ。さっきも選択の話をしたが、これから君にはたくさんの選ばなければならない状況が訪れるだろう。後悔することも、きっとたくさんな。そのとき君がどうするのか、私は見届けたかったが……まあ、それはいい。ただ、例えその選択肢が後悔するものだったとしても、選んでしまった以上、その事実は変えられない。その後の行動、考えが重要なんだ」

提督「……はい」

 首肯しながら気づいていた。彼は俺に言いながら、自分にも言い聞かせているのだと。呪い囚われた自分に対して。

 そして俺に、自分のできなかったことを託している。

呉「結弦くん、いや柊結弦中佐。お前はきっと、大いに成長できる。……海軍の、この国の未来を託したぞ」







提督「今日は、お世話になりました」

 俺は玄関で、呉提督と隼鷹さんに頭を下げた。時刻はもう八時を回ろうとしていたためか、外はすっかり暗く、鈴虫の声が風流に響いていた。

呉「ああ、楽しかったぞ。また内地によったときは家に遊びにくるといい」

隼鷹「中佐ならいつでも歓迎するぜ」

 二人の笑顔に、俺の心に優しい温かさが灯った。帰る家がある人は、きっとこんな気持ちになるのだろうな。

 俺は感謝の言葉をもう一度述べる。すると、呉提督が俺のそばにやってきて抱きしめてくれた。

提督「……閣下?」

 閣下は、何度か背中を叩いた。あまりにも弱々しい力だった。

呉「元気でな……。未来ある若者よ」

提督「……」

 俺の頬に、微かな湿り気を感じた。驚いたが、何も言わず抱き止める。隼鷹さんが、目頭を抑えているのが見えた。

 数十秒、そうしていただろうか。閣下は、名残惜しそうに俺を離すと、今度は突き飛ばしてこう言った。

呉「いけ。今日はもう遅い。振り返らずに帰れよ」

提督「……はい」

呉「……じゃあな」

 俺は、踵を返して玄関を出た。彼の言葉どおり振り返らずに門を抜ける。

 そこで、追ってきた隼鷹さんに声をかけられた。

隼鷹「待てくれ中佐」

提督「……忘れものでもありましたか?」

隼鷹「違うよ。せっかくだし、送ろうと思ってな」


 俺は戸惑いに眉をひそめた。有り難い話ではあるが、時刻が時刻だ。女性に夜道を歩かせるわけにはいかない。

提督「有り難い話ですが……」

隼鷹「いいから。送らせてくれ中佐」

 強い言葉で遮られた。

 彼女の瞳には有無を言わせぬ光が宿っている。何か話があるようだ。

提督「わかりました。よろしくお願い致します」

隼鷹「すまねえな。無理言って」

提督「……いえ」

 俺たちは、外灯に照らされた夜道を歩き出した。

 星の見える夜だった。帝都は鎮守府に比べると明かりが多いからか、それほど星は見えないが、綺麗な夜空には違いなかった。

 しばらくは沈黙したままで、足音しかしない。川辺に辿り着いた頃だろうか。水の流れが耳に響いてくるころに、隼鷹さんが口を開いた。

隼鷹「今日はありがとうな。豪三郎さん、久しぶりに嬉しそうな顔をしていたよ」

提督「そう言っていただけて、光栄です」

隼鷹「ほんと……安心した。ずっと塞ぎ込んでたからなあ」

提督「……」

 隼鷹さんは、上を見上げていた。空を見ているわけではないのは、舌唇を噛んで何かを我慢している様子で分かった。俺は何も言わない。彼女が口を開くのを、ゆっくりと待った。

 やがて、彼女は意を決したように口を開いた。


隼鷹「癌なんだ」

提督「え?」

隼鷹「末期の肺癌なんだよ、豪三郎さん。医者からももって後三ヶ月って言われている」

 そんな告白をされるとは思ってもいなかったので、閉口せざるを得なかった。

 癌だと? あの、閣下が?

 閣下の痩せた姿が想起される。まさか、あの姿は単に心労でああなったわけではなくて――。

隼鷹「鎮守府にいた頃に、癌が見つかったんだ。その頃からもう手遅れでな。医者からも療養を勧められたんだけどさ。ほら、あの性格だろ? 死ぬまで軍人であることに拘って、無理をおしてずっと指揮をしていたんだ。まあ、あいつらしいよな。私もできたら、あいつが死ぬまで指揮を取れればいいなって思っていたんだ」

 でも、提督は引退した。隼鷹さんは、苦しげな声でそう言った。

隼鷹「仕方のないことだとは思う。あんなことがあったんだ。だから、辞めるしかなかったこともわかる。けどな、無念だろ。あまりにも、無念だ。あいつがどんな思いで、三十年も艦娘を率いて戦ってきたか全部知っているからさ。私、悔しくて悔しくて……! 最後の最後まで、あいつには海にいて欲しかったのに!」

 堪えきれなかったのだろう。隼鷹さんの目から大粒の涙がボロボロと零れ出た。かける言葉なんて見つかりようがない。俺も、あまりのショックと動揺で頭が真っ白だった。

 閣下……。どうして? 

 そういう弱みを人に見せる人ではないことは分かっている。でも、これはあまりにも悲壮にすぎるのではないか。

 俺を抱き止めたときの、あの湿り気は……そういうことだったのだ。そして、今日見せた優しさも、かけてくれた言葉も。自身の終着点を見据えたものだった。

 ふと、俺の目からも一筋、こぼれた。閣下がこれまで俺にくれたもの、すべてが頭の中で流れていく。そのたびに、目からこぼれるものは増えていった。


提督「……閣下」

 閣下は、何も言わなかった。

 何も言わず、俺に思いだけを託した。正直、少々荷が重いと思っていたが、閣下の思いの深さをこうして再確認した今、考えを改めないといけない。

 時間が残されていない彼と違って、俺にはまだたくさんの時間がある。少しでも海軍を、艦娘たちの暮らしをよりよくするためにかけられる時間が。

隼鷹「……柊中佐。私からも、頼む。あいつは国民の、そして何よりも艦娘たちのためにこの戦争を終わらせようと、すべてをかけた。……無理はいえないけどさ、どうかその意思を継いで欲しい」

提督「……」

隼鷹「……頼む」

 俺は、隼鷹さんの華奢な肩を掴んだ。彼女は涙に濡れた顔を上げ、まっすぐに俺を見据えている。老いてしまったとはいえ、その顔は一切の曇りなく美しいものであった。

 本当に、素晴らしい女性だと思う。

提督「わかりました」

 俺の言葉は、自分でも驚くほどに強かった。

提督「俺が、この戦争を終わらせます」

 閣下の意思を継いで。

提督「約束します、俺が必ず」



投下終了です。
今回は珍しく光しかない話でした。あと、この作品を始めたのが5年近く前なので、現在の艦これ二期とズレがある部分もあるとは思いますが、どうかご了承ください。






 小型飛行艇の窓からは、海と空しか見えなかった。細い雲が鰯のように泳いでいる。

 のどかで、美しい景色だった。内地を往復するたびに目にする景色とはいえ、その美しさは色褪せることがない。

 だが、今はその美しさが目に毒だった。

 俺は視線を少しだけ東に移した。朝日が目に刺さるり、思わず目を伏せる。狭まった視界の先に、群れとなった艦載機の影をとらえた。

 横須賀所属の軽空母の直掩隊だ。機体はすべて零戦五二型で、勇まし気に編隊を組んではいるが、ところどころ列が乱れたり機体がふらついたりしているせいで、格好がついていない。玩具の兵隊たちが威張っている姿にも似ている。

 苦笑を浮かべずにはいられない。こんな頼りないものが、たった十機護衛しているだけなのだから。

 ……俺は本当に提督なのだろうか?

 溜息をついて、硬い背もたれにもたれかかった。鋼鉄の天井は、空の輝きを嘲笑うように冷たかった。

 俺が鎮守府への帰路についたのは、閣下とお会いした日の明朝だった。

 南西鎮守府へは横須賀港から飛行機に乗って帰るのが通例となっている。その空域の制空権は完全に海軍の手中にあったし、近海に空母出現の報告例はほとんどない。雑魚とはいえ深海棲艦が出現する海路より、交通手段として安全なのだ。


 だが、それにしてもこの扱いは酷いものだった。他の鎮守府の提督たちならば、横須賀を代表する一航戦や正規空母たちの護衛が何十機も付けられる。俺の鎮守府よりも近く、階級もさほど変わらないはずの峠鎮守府や西鎮守府だって、きちんと正規空母の庇護におかれるのだ。それが、俺は軽空母の護衛がわずかばかり付くだけ。しかも、今年着任したばかりの新米である。

 南西鎮守府の長になってからというもの、ずっとこうだった。あらゆるところで冷遇され、差別を受けてきた。

 頭に来ないわけがない。横須賀提督のいけ好かない顔に唾でも吐き捨ててやりたい気分だ。しかも奴は、戦艦レ級の存在を知っている。それなのにも関わらず、こんな対応をしているわけだ。俺は死んでも構わないということか。

 これだけ差別されるのは、俺が呉派に属しているからだ。自分の政敵を徹底して貶めようとする愚考から生まれてきたものだ。だが、それだけが理由ではない。上層部が、俺の鎮守府を軽視していることにも理由がある。

 つまりそれは、俺の仲間を遠回しに蔑視しているということでもある。

 ……どこまでもコケにしやがって。

 俺だけが馬鹿にされるのならまだいい。まだいいが、彼女たちへの侮辱だけはどうしても許せなかった。

 しかし、どうすることもできなかった。今の俺には文句を言うだけの力がないからだ。この侮辱を頑として跳ね返すだけの権力がない。渋柿を渋柿と分かっていて食うことしかできなかった。

 悲しいことに、それが現実なのだ。閣下の言うとおりである。俺が無力だから、今の現状がある。

 苛立ちと無力感。空を濁って見せていた鬱屈の正体はこれだ。

 俺は懐から酒瓶を取り出した。例のごとくブラックニッカ。ラベルの「髭の王様」の目が、なんだか冷たげに見えた。


 ――また儂に頼るのか?

 そう言われているような気がする。

 悪いか? 飲まなきゃやっていけないんだ。

 ――どうして?

 俺は自嘲的に笑う。

 もう心が折れそうだからだ。閣下の意思を引き継いだ気になって、隼鷹さんともあんな約束を交わしたのに。英雄気取りで調子にのってしまったわけだが、現実をつきつけられて萎えてしまったわけである。

 あの力強い宣言はどこにいった? これじゃあ、公約を一切守らない無能政治家とまるっきり一緒じゃないか。

 髭の王様がニヒルに笑った気がした。

 ――風刺にでもされるといい。ドン・キホーテのようにな。

 その冗談はやめてくれ。

 俺はキャップを回して口をつけた。

 無力な俺に、いったい何ができるというのだろうか。提督会議を風車とするなら、俺はまるっきりロバに乗ったドン・キホーテだ。風車に突撃して倒そうとしていたわけだ。

 喉を焼きながら、思う。

 閣下たちが俺に託したのは、他に誰もいないからだ。消去法で残ったのが、俺だけだったという話で……。そうじゃなければ、俺に託そうなんて思わない。俺が閣下の立場なら迷わず他の人間に声をかける。

 酒瓶を口から離したとき、狙いすましたように飛行機が揺れた。乱気流にぶつかったためだろう。瓶から溢れた雫が、俺のズボンに降りかかった。


「すいません、中佐」

 パイロットが前を向いたまま、謝ってきた。

提督「いい、気にするな」

 ハンカチを取り出してズボンに押し当てる。拭いながら、はっとした。

 陽炎からもらったハンカチだった。先日はこれで涙と鼻水を拭ったわけだが、今はウイスキーという弱気の証を吸い取ってくれている。

 陽炎の笑顔が、ちらついた。

提督「……」

 もちろん、全部は消えない。スボンには染みができてしまった。だが、湿り気は幾分かマシになっている。

提督「……わかっているよ」

 そう、わかっている。俺と舞鶴の先生以外に、艦娘たちの笑顔を本気で守ろうとしているものは誰もいない。

 だから、俺がやらないといけないのは、わかっている。

 腹の中に住んでいる弱気の虫が、また顔を出しただけだ。

 ブラックニッカを見つめる。「髭の王様」は何も言わなかった。

 しっかりするんだ。

 俺にはまだ、時間があるんだ。無念を抱えたまま朽ちていくことしか許されない閣下の想いを、忘れるんじゃない。

 こんな貧弱な精神のままでいいはずがないんだ。彼女たちの笑顔を守るんだろう? ならば、俺がしっかりしないといけない。先生も言った。俺たち指揮官に泣き言は許されないと。


 俺は、空を睨んだ。揺れる艦載機を睨んだ。その先にある権力の横暴を睨んだ。

 許してはいけない。この屈辱を。

提督「……」

 それに、俺にはまず何よりも第一に向き合わなければならない問題がある。

 雷の問題だ。

 彼女とどう向き合えばいいか、まだ答えは出ていない。そもそも、正解など出しようがないだろう。経験の浅い俺にはそれだけの引き出しがないのだ。

 だが、俺は選択しなければならない。

 たとえ、間違っていたとしても逃げてはいけない。閣下は言った。人は、選択を誤るときがあると。そのときにどう考え、その後悔と向かい合うかが大切なのだと。人生は選択の連続であり、後悔の連続である。その荒波の中で、俺たち人間は生きている。

 俺は、すでに雷の選択で多くの過ちを犯してしまった。共依存を許し、周りに不満を抱えさせ、彼女の暴走を見てみぬふりしてしまっていたのだ。あの夜のことは、その選択の過ちが招いたことにすぎない。そう、彼女だけに原因があるわけではない。俺の罪でもある。

 だから、俺にはこの過ちに対して向かい合う義務がある。どんなに怖くても、どんなに許せなくても、彼女を蔑ろにしていいわけがない。

 戦わなければならない。俺は、俺自身と。

 それに――。

 俺は、ハンカチに目を落とした。そこには優しい染みがあった。ムラサキケマンのような形の染みが。

 陽炎と、浜風の顔が浮かぶ。陽炎は、俺の夢を笑わず真剣に手伝ってくれる。浜風は、俺を求めながら俺も雷も助けようとしてくれる。

 俺には、仲間がいる。

 もう、独りじゃないんだ。





 鎮守府についたのは〇八三○だった。

 小さな飛行場に降り立った小型飛行艇は、俺を降ろすと颯爽と帰って行った。不器用な艦載機群を伴って帰る姿は、まるでヒナを連れまわる母鴨のようである。どっちがどっちを守っているのかまるっきり分からない。

 俺は息を大きく吸い込んだ。六月になろうとしていたが、朝の空気はまだほんのりと寒い。暗く佇む修理中の工廠が視界に入ってきた。弱虫が、顔をのぞかせた。

 目を閉じて、思いっきり頬を叩いた。弾けた痛みがじんわりと引いていく中、目を開く。

 工廠の暗さは影を潜めていた。

提督「……よし」

 歩き出した。アスファルトはいつもより重く硬い。だが、足はしっかり前へと進んでくれた。

 心臓の鼓動が、走るように速くなる。冷たい脇汗も流れていく。しかし、俺に躊躇はなかった。恐怖に抗い、義務を実行する意志があった。

 飛行場を出ると、艦娘寮に差し掛かる。二つの寮に挟まれるように道があり、その側には休憩できるベンチや広場などもある。そこで談笑していた艦娘たちが、俺を見つけた途端立ち上がって手を振ってくれた。

 敬礼じゃないのが、嬉しかった。安堵もあった。ここにいる者たちからは邪気を感じられない。何か面倒ごとがあったわけではなさそうだ。

 雷が面倒ごとを起こしてやいないか、かなり心配だったのだ。彼女は俺から離れると発狂することがある。だからこそ秘書にして側に置いたし、外出するときは必ず連れていっていたが、さすがに今回ばかりは向き合うことができず、置いてきてしまった。

 雷には悪いことをしたとは思うが、彼女のしたことを考えれば、詮無いことだ。


 俺は、艦娘寮を過ぎ、鎮守府本館の入口へとついた。そこには、陽炎と浜風がいた。なんだか落ち着かない様子でそわそわしているように見える。連絡は入れていたから、待っていてくれたのだろう。

 二人は俺を見つけると、嬉しそうに笑ってくれた。おかえりなさい。その言葉が、優しく耳に溶ける。

提督「ただいま」

 俺は、ほっと息をついた。

浜風「お勤めご苦労さまでした。……どうでしたか?」

提督「一週間の謹慎だ。工廠が直るまで大人しくしておけだとさ」

 陽炎と浜風は顔を見合わせる。陽炎が、わかりやすいくらい安心したように表情を緩めた。

陽炎「よかったあ……。懲戒免職にでもなるんじゃないかって心配したわよ」

浜風「ほら、私の言ったとおりでしたでしょう。絶対、謹慎くらいで済むと思っていました」

 浜風は余裕そうに言った。

陽炎「……ほんと、あんたの言ったとおりだったわ。なんで分かったのよ。預言者かなんかなの? たまに怖くなるんだけど」
 
浜風「まあ、簡単な推理です。上が考えそうなことくらい、すぐに分かりますので」

 鼻を鳴らして微笑を浮かべる。言葉を曖昧に濁している辺りが、なんとも彼女らしい。その推理の行き着いた先に触れたら、陽炎を傷つけることになると分かっているからだ。

 この鎮守府を、代わりにやりたいなんて奴は一人もいない。だからこそ、上の連中は俺に押し付けたのだから。

浜風「でも、よかったじゃないですか。たったの一週間で済んで」

提督「……ああ。一ヶ月とか言われたら目も当てられなかったよ」

浜風「そのくらいでよかったんですけどね」

 浜風がぼそっとこぼした言葉に、俺は固まった。浜風は「ああ」と呟いてすぐに訂正した。


浜風「失言でした。提督の謹慎が長引けば長引くほど、遠征をサボタージュできると思ってしまいました」

提督「……あんまり、そういうことを言うのは関心せんぞ。俺は仮にも上司なんだから」

浜風「そうですね。失礼しました」

 浜風は頭を下げる。

 俺は冷や汗をかいていた。浜風の言葉はさらっと出てきたものだが、だからこそ毒を感じられるもののように思えた。……いや、いくらなんでも、考えすぎか。彼女は雷のことを救おうとしているのだから。

陽炎「あんたでもそういうこと思うのね」

 陽炎の言葉は呑気だった。浜風が肩をすくめてみせる。

浜風「私も人間ですので。休めるときは休みたいと思うのですよ。ね、提督も分かるでしょう?」

提督「あ、ああ。……でも、俺としては出撃できなくなるのは困るがな」

浜風「真面目ですね、本当に」

 喉を鳴らして笑う浜風は、不思議なくらい色気があった。

提督「……ところで、二人ともいいかな?」

 改まった言い方をしてしまう。二人の視線を受けて、唾を飲みこんだ。

 まだ逡巡と恐怖は、死んでいない。奥に潜んでこちらを伺っている。

提督「雷のことなんだが。あいつは、いまどこにいる?」

陽炎「雷ちゃん? 執務室で、事務作業しているわよ」

提督「……そうか」

 安心と怒り、恐れ、複雑な感情が渦を巻く。場所を聞くことで、その存在が輪郭を持って感じられた。

 あいつは、普通にしている。暴れていない。それを確かめられたことはいいことだ。だが、あんなことをしておいて普通に仕事ができる神経も疑いたくなる。理不尽な感情だとは分かっているが、感じずにはいられない。


陽炎「……司令?」

 陽炎が、怪訝そうに眉を傾けた。

陽炎「どうかしたの? なんか辛そうに見えるんだけど」

提督「……いや、すまない。なんでもないんだ。ただ、ちょっとあいつのことが気になってな。それだけなんだ。それだけ」

浜風「それだけじゃないでしょう」

 強い断言だった。感情がこもっているわけでもないのにはっきりと響き、俺は思わず押し黙った。

 浜風は、ゆるりと目を細めた。最近、気づいた。問い詰めるときの彼女の癖だと。

浜風「提督、なにか悩んでいることがあるんでしょう? それも雷さんのことで」

提督「……」

浜風「しかも、この前のこととは別のことで悩んでいる。依存が強くなってきて、眠れないこととは別のことで。……いや、正鵠を射てはいませんね。繋がってはいるけれど、もっと酷くなったことで悩んでいる。そう言った方が正しいですかね」

 図星も図星だった。まるで見てきたかのように、浜風は、俺の悩みを見透かしている。

 彼女の目が、鷹のような鋭さを帯びた。

浜風「……提督は、それをどうにかしたいと思っている。けど、自分では答えが出せなくて悩んでいる。そんなところですかね。それを、私達に相談しようかどうか悩んでもいた。でも、寸前のところで、言葉が出なかったのでしょう?」

陽炎「……本当なの、司令?」

 俺は口を開いて閉じ、そして意を決したように口を開いた。

提督「……ああ。当たりだ。参ったね」

浜風「……」

 浜風は、溜息をついた。


浜風「提督。私、言ったと思うんです。ここにいるみんなを守ることに協力すると。提督もそのうちの一人です、と。提督が苦しんでいるなら、その苦しみを一緒に解消したいと。言いましたよね?」

提督「もちろん、忘れてはいないよ」

浜風「では、隠し事はなしです。戸惑う理由もないはずですね?」

提督「……そうだな。君の言うとおりだ」

 俺は頷いて、息を吐いた。彼女には本当に敵わない。

提督「話すよ、ちゃんと。すまない、俺の覚悟が足りなかったんだ」

浜風「謝らなくていいですよ。提督らしいと思います」

陽炎「……たしかにね。臆病者だもん提督」

 陽炎がからかうように言った。抗議しようとしたが、やめた。陽炎の瞳は、慈愛に満ちた色をしていたからだ。夢に一歩近づいたような、嬉しさを隠せない表情だった。

陽炎「……そっか。そんなことを言ってたんだ」

 その顔は、ずるいな。

 俺は二人から目を逸らして頭をかいた。やはり、思い違いではない。俺は独りではないのだ。

提督「……じゃあ、聞いてくれるか?」

 二人が頷いたのを見て、俺は話始めた。

 あの夜に雷とトラブルがあったこと。そして、それをどう解消すればいいか分からないこと。今からどういう風に向き合っていくべきか。

 俺が悩んでいたことは出来る限り話した。


 だが、当然、言えないこともあった。強姦されそうになったことだけはどうしても言えなかった。ちゃんと話すと言っておきながら、話さないのは欺瞞かもしれないが、いくらなんでも話せることにも限度はある。

 いくらこの二人でも、雷が俺に対してしようとしたことを知ったら、さすがに嫌悪感をあらわにするだろう。とくに陽炎は怒り狂うはずだ。彼女は、そういう尊厳を踏みにじるような行為に、誰よりも強い反発を抱いている。この二人に嫌われてしまったら、雷は本格的に居場所を失ってしまう。

 雷のためにも言えない。だから、少しだけ内容を変えて伝えることにした。キスを求められ、断ったら喧嘩になったということにしたのだ。

浜風「……なるほど。それで、喧嘩になったわけですね」

 俺は頷いた。心苦しかったが、信じてもらうしかない。

 浜風は、俺を見詰めていた。サファイアのような瞳が、俺を捉えて離さない。金属探知機に探られるような居心地の悪さを覚えながら、俺は見つめ返した。

 視線がぶつかる。

 何十秒かして、浜風が目を逸らした。

浜風「……提督は本当、呆れるくらい優しいですね」

 苦々しい言葉だった。浜風は、スカートの端を強く握りしめる。何かに耐えているかのように、強く。

 その様子を見ていた陽炎が、気まずそうに頬をかいて、困ったように眉根を下げていた。


陽炎「あー……。なんか繋がったわ。一昨日のあれってそういうことなの?」

提督「ああ」

陽炎「……なるほどね。そういう状況も踏まえて考えるとさ。『そのこと』だけじゃなくて、これまで積もりに積もってきたものが一緒に爆発したのかな、って感じがするんだけど、どう?」

 それは、あながち間違いとも言えない。あれは、これまでの選択ミスの積み重ねが起こしたことなのだから。そこに連動する負の感情は、当然無視できない要素だろう。

陽炎「……限界がきちゃったわけね。雷ちゃんを置いていったのも、そういうことだったのか。どおりで、ちょっとおかしいと思ったのよ。提督が、これまで雷ちゃんを放ったらかしにしたことなんてなかったからさ」

提督「あいつには悪いことをしたかなとは思う。でも、どうしても許せなかったんだ。あまりにも……あまりにも一方的だったからな」

 語気がどうしても強くなる。言葉に出すと、どうしたって封じ込めていた荒い感情は表に出てきてしまう。

 あれは、一方的なんてものじゃない。

 あれは、破壊だからだ。

陽炎「……司令、ごめんなさい」

 バツが悪そうに、陽炎は謝ってきた。

提督「なぜ謝る?」

陽炎「いや、だって……司令があんなに取り乱すまで悩んでいたのに、私、何もしてこなかったじゃない? あの子が司令だけにしか心を開かなかったのは確かなんだけど、だからといって放置していい理由にはならないし……。任せきりになっていたなと思ってさ」

提督「……」

陽炎「だから、ごめん。仲間なのにさ、責任を押し付けるようなことをして」

 陽炎の言葉は、とても嬉しかった。素直で、優しい彼女の美点が、破壊的な気分を引き波のように静めてくれる。

undefined


提督「……ありがとう。その言葉だけでも十分嬉しいよ。俺も自分一人で抱え込んで誰にも頼ろうとしなかったからな。あいつがあんな風になったのは、俺の責任が大きいんだ。もっとはやく、お前たちに頼ればよかったな」

陽炎「……そうかもね。私達も、ちゃんと声かければよかった。自分のことしか見えてなかったわね」

提督「だから……その……今からでも頼らせてくれ」

陽炎「ん。わかった」

 陽炎は、ニンマリと笑ってくれた。太陽のように温かい笑みだった。陽炎がみんなから慕われる理由が、とてもよくわかる。

提督「それで……俺はどうすればいいかな? 一人で考えていたんだが、どうしても答えが出なくて。君たちの意見を聞きたい」

陽炎「そうね……。本来なら、提督の元から離すのが一番いいんだけど、そういうわけにはいかないだろうから。たぶん、また暴れちゃうだろうし」

提督「だろうな」

 否応なく思い出す。雷の自傷癖が止まらなくなるところを。制圧に入ったことがある陽炎も、その現場を当然見ているから、思い出しているようだ。顔が少しだけ青くなっている。

提督「……ただ、最悪の場合は専門家に引き渡すことも視野に入れていこうとは思っている。かなり強引だが、拘束した上で、監視をつけてな。でも、今はそうすることができない状況だから」

陽炎「どういうこと?」

提督「憲兵との出撃特約があるからだよ」

 陽炎が、「ああ」と嫌悪に満ちた呟きをこぼした。

陽炎「だから、うちの隊に入れたんだもんね。……ほんと、困ったわね。どうするのが一番いいかな。専門家を交えつつ話すというのは……もうやったんだっけ?」

提督「とっくの昔に。駄目だった。俺以外にはまったく心を開かないから。一言も喋らなかったよ」

陽炎「そうかー……。一筋縄じゃいかないわね」

提督「そうなんだよな。だから困っている」

 俺たちは二人して肩を落とした。こうして話してみると、改めて状況の深刻さが見えてくる。正直、詰んでいるように思えるくらいだ。


 だから、どうしたって見える選択肢は現状維持になってしまう。あの夜の出来事をなかったことにして、これまでどおりに接するという消極策。正直、被害者と加害者の図式がはっきり刻まれた今、これまでどおりに振る舞うことができるとは思えない。

 俺は、ロボットじゃないんだ。どうしたって、あの光景はまとわりついてくる。おそらく、長い時間をかけても、消えはしないだろう。自分の心を納得させて飲下すには、あまりにも劇薬すぎた。

陽炎「……一応、私とは普通に会話してくれるから、ちょっとアプローチはしてみるわ。正直、仲良くなれる自信はないんだけど、少しでも提督の負担を減らすにはこうするしかないと思う」

提督「助かるよ」

陽炎「榛名さんとかにも改めて事情を話して……。いや、彼女は無理か」

提督「榛名に限らず、東から来た連中はやめた方がいい。雷に対してかなりの負い目があるから」

陽炎「……そうよね」

 陽炎は、悲しげに目を伏せた。雷の事情をよく知っているからだ。

陽炎「とりあえず、やるだけやってみる。私の頭じゃこのくらいしか策が出てこないわ。ごめんけど」

提督「いや、いいんだ。考えてくれただけでもすごく嬉しい」

陽炎「……浜風はなんかないの? こういうの、あんたの専売特許みたいなもんでしょ?」

 陽炎が、今まで沈黙を保っていた浜風に水を向ける。浜風は、ゆっくりと頭をこちらに向けた。はらりと舞う銀髪から、隠れていた瞳が覗いた。

 乾いた目だった。冬の森林のごとく、空虚で寒々しい。


浜風「対策もなにも……」

 浜風は口の端を歪めて、衝撃的なことを口にした。

浜風「もう手は打ってますよ」

 俺たちは、完全に固まった。唖然、とはまさにこのことだろう。世界から音という音が消えていた。

 先に我に返ったのは陽炎だった。

陽炎「ちょ、ちょっと。どういうことなのそれ?」

浜風「手は打ったといっても、別に大したことはしていませんよ。私が、個人的に雷さんとお話しただけです」

陽炎「は? う、嘘でしょ? いったいいつ?」

浜風「先日の昼です。私の方から執務室に出向いて話しました」

 浜風は何でもないことのように言うが、寒気すら感じた。あの雷と、二人で話をしただと? とてもじゃないが応じるとは思えないし、あまりにも危険ではないか。

 雷は、人のことを菌扱いし、俺の手を燃やそうとしたやつだ。しかも、その菌とは他ならぬ浜風のことを言っていたのだ。そんなやつが、まともに浜風の話を聞くとはどうしても考えにくい。

 俺の視線を受けて、言いたいことを察したのだろう。浜風は苦笑を浮かべた。

浜風「まあ、最初は話なんてする気はないって態度でしたけどね。花瓶も投げられました。ですが、懇切丁寧に、粘り強く話しているうちに、こちらの話を聞くようになりましたよ。ちゃんとね」


提督「いったい、どんな話を……」

浜風「このまま提督を困らせ続けたら、提督と居られなくなりますよ、と説明しました。提督が夜眠れていないことや、憲兵に目をつけられている現状なども踏まえて話をして、どれだけ提督が困っているのか分かっていただきました。提督は、かなりご立腹だと。このままでは、あなたを解体しかねないと」

陽炎「そ、それって脅しじゃない! 何考えてんのよ!」

 陽炎が詰め寄らんばかりに声を上げる。まったくもって同意だ。いったい何を考えているんだ、浜風は。そんなことをしたら雷が何をしでかすか分かったものではない。

浜風「夢を見ているのですよ、彼女」

 浜風は淡々とこぼした。

浜風「ここは軍隊ですよ? その無機質さをまったくもって理解していない。提督は、私達の上官であり、生殺与奪に関与できるほどの権力を有する方。本来なら気軽に話もできないほどの存在です。友人でもなければ、『家族』でもない。だから、現実をわかってもらっただけです。四面楚歌に陥っている現状をね。それを理解していないから、あんな風に付け上がってしまうのですよ」

 酷く冷たい。浜風の言葉からは、一切の甘えや感傷は消えていた。どこまでも無味乾燥としている。

 俺たちは、閉口するしかなかった。

浜風「舐められてはいけませんよ、提督。それは優しさではなく、ただの甘えです。依存傾向の強い方は、他者との心理的な距離が曖昧になりやすいので、とくに一線を引いておくことが大切なんですよ。舐められてしまうと、どこまでも際限なく付け上がりますから」

提督「……」

浜風「初動でそれに失敗してしまったのでしょう? だから、こうなってしまった。これまでの策が一切成功しなかったのも、あなたが舐められて甘く見られてしまっていたから、上手くいかなかったんですよ。『司令官は、何をやっても私を見捨てない。怒らせても、いやいやすれば私を見てくれる』そんな風に子供じみた考えを抱いていたのでしょうね、彼女のことだから」

 浜風は鼻で笑った。


浜風「私も甘く見すぎていました。提督の意思を尊重して、消極的なやり方にこれまで異議を挟みはしませんでした。ですが、もうそういう状況じゃない。……思い知ったでしょう? 今までのやり方じゃ上手くいかないということを。だったら、やり方を変えないといけません。脅しだろうがなんだろうが、甘えを捨てて厳格な態度を示すべきなんです。今からでも一線を引いて、距離を分からせるしかないんですよ」

提督「……君の言うとおりだとは思うよ。しかし、それをしたら雷が暴走してしまうかもしれないだろう? それは考慮していなかったのか?」

 少しだけ責めるような言い方になってしまった。浜風の言っていることは間違ってはいない。間違ってはいないが、勝手に動かれた身としては、あまり気分は良くない。

 それに、不安もあった。その話を聞いた雷がどういう反応を示したのか、まったく読めないから。

浜風「その点は大丈夫ですよ。そんなパフォーマンスを許すほど、私は甘くありませんから。長い長い釘を刺しておきました」

 事実、何も問題は起こっていないでしょう?

 浜風は、目を細めてそう言った。

陽炎「そうかもしんないけど……。でも、いくらなんでも強引すぎるんじゃない? 司令にも何も相談することなく、勝手にやったんでしょ? ちょっとどうかと思うわよ」

浜風「なんとでも言ってください」

 突き放すような言い方だった。


浜風「どうせ、遅かれ早かれこうしなきゃいけなかったんですから。それを、私が私の意思で早めただけ。どう思われようが知りませんよ」

陽炎「……あんたねえ。その言い方はないでしょ。提督が、これまで雷ちゃんのためにどれだけ心を砕いてきたと思ってんのよ? そこを考えなさいよ」

浜風「その結果がこれでしょう? 提督一人に任せきりにしてしまったから、にっちもさっちもいかなくなってしまった。本当の意味で、提督の心が砕けてしまっていたら笑い話にもなりませんよ」

 陽炎はぐっと、言葉を呑み込んだ。浜風の言調はまさに鋭利な刃そのものだった。陽炎の痛いところを見事についている。

 冷たい眼差しの奥が、炉のように燃えていることに気づいた。珍しく感情的になっているようだ。

 ふいに、日が陰った。太陽が雲に隠れたのだろう。微風が肌を触り、空気が冷えていることを否応もなく感じさせる。

 浜風は入口から離れた。俺に近づいて、手に視線を動かし、俺を見上げた。

浜風「感情論など、なんの役にも立ちませんよ。だから私が動いたんですから。……提督なら、わかってくれると信じていますよ」

提督「……浜風」

浜風「では、私は戻ります。やれることはやりましたし、提督を見ることができて安心しましたから。後はよろしくお願いしますね」

 浜風は、去っていった。微笑のような苦笑のような曖昧な表情を浮かべて。

陽炎「ちょ、ちょっと」

 声を投げかけようとした陽炎を、手で静止する。首を横に振ると、陽炎は諦めたらしい。大きく息を吐いていた。


陽炎「……いいの、司令?」

提督「ああ、いいんだ」

 本当に、気の回る子だなと感心する。

 浜風は、不甲斐ない俺に代わって汚れ役を引き受けてくれたのだ。たしかにやり方は強引で褒められたものではないが、その点は無視してはいけない。

 俺は、浜風の背中から鎮守府本館へと目を移した。本館の二階の窓が、不気味なほどカーテンで閉ざされている。

 賽は、すでに投げられているのだ。俺の思わぬ形で。その事実は、いかに意図せぬ選択とはいえ、もう変えようがない。

提督「……やるしか、ないよな」



投下終了です



 執務室の扉の前で、俺は立ち尽くしていた。

 ドアノブがカタカタと音を立てている。俺の手が震えているせいだ。白い手袋の中は汗で湿っていた。極度の緊張が自律神経を昂ぶらせ、交感神経を活発にしているからだろう。指先だけではなく体の芯にいたるまで活性化しているかのようだ。鼓動が、内側から全身を叩いて、鼓膜の外へと突き抜けていく。

 落ち着け。自分に言い聞かせる。落ち着くんだ。落ち着いて対応すれば大丈夫なんだから。

陽炎「……大丈夫なの?」

 俺の様子を見かねたのか、陽炎が心配そうに声をかけてくる。

陽炎「やっぱり、私も付いていった方がいいんじゃない? 本当に外で待機していていいの?」

提督「……大丈夫だ」
 
陽炎「そうは見えないけど」

提督「……大丈夫だよ。君は、待っていてくれ」

 俺は陽炎に笑いかける。口元の緩み方が硬かったのは自分でも分かったので、良い表情は作れていないだろう。

 陽炎の眉は、ハの字に曲がったまま戻らなかった。だが、俺の意を組んでくれたのか、肩を強く叩いてくれた。骨が軋むほどの威力だった。

 悲鳴を堪える。

陽炎「なら、しっかりしなさい。後はいくしかないんだから」

提督「そ、そうだけどな。……もう少し手加減してくれよ」


陽炎「これでも蚊を叩くくらいの力でやったわよ」

提督「……基準がゴリラすぎる」

陽炎「は?」

提督「いやなんでもないです」

 思わず敬語になってしまう。どうして俺の周りにはこんな筋肉バカみたいなやつばかりいるんだ。

 俺の反応に、陽炎が噴き出した。突然だったから目を白黒させてしまう。

陽炎「いや、ごめん。司令情けないなーって思ってさ」

提督「悪かったな」

 憮然とした態度で言ってしまう。

陽炎「ごめんごめん。気は悪くしないでね。なんというかさ……司令らしくていいなあって思って。こういうヘタレなところも、司令の魅力だから」

提督「ヘタレなところが魅力ってどういうことだよ。むしろ欠点じゃないか」

陽炎「欠点があるくらいが面白いのよ、人間は」

 陽炎は白い歯を見せて、そう言った。からかうような態度と言葉には、彼女らしい温かさが街路の朝顔みたいに顔をのぞかせている。

陽炎「司令の欠点は、美徳でもあると思っているの、私。それだけ私達のことを……雷ちゃんのことを真剣に考えてくれているからこそ、思い悩むし、立ち止まってしまうんだと思うから。そんな司令官はあんただけよ」

提督「……そうかな」


陽炎「そうよ。雷ちゃんには悪いけど、他の司令官ならあの子のことなんてあっさり解体しているわよ」

 それは否定できない。いや、まず間違いなく面倒になってさっさと解体してしまうだろう。そして、ゴミのように捨ててしまう。

 陽炎は、咳払いした。

陽炎「まあ、ともかく。自信ないかもしれないけど、私は司令のことを信じているのよ。司令なら大丈夫だって」

提督「……」

 俺は頭をかきながら、目を伏せた。少しだけ、不覚にも耳元が熱くなるのを感じていた。

陽炎「だから、心配すんな。なんかあったって、この陽炎様が助けに入ってやるんだから、大船に乗った気で行けばいいの」

提督「そうだな。陽炎が守ってくれるなら百人力だ」

陽炎「そうそう。それに、浜風の言葉もあるでしょ?」

 陽炎は言葉を切って、窓の方に目をやる。視線は浜風が消えていった方角に向けられていた。葉桜がそよそよと緑の生命力を振りまき、靡いている。

陽炎「……たしかに、あいつがやったことは身勝手で余計なことかもしれないけど、大丈夫よ。あいつがああ言ったのも、自信があってのことだろうしね。そういうときのあいつの言葉は絶対に間違いないから」

提督「言い切るんだな」

陽炎「同期で親友よ? 当たり前でしょ」

 陽炎の言葉は強かった。深く結びついた信頼が確信となって現れているのを感じる。

 たしかに、浜風の言葉なら間違いないだろう。これは、彼女の人間性だけではなく、能力に裏打ちされた信用でもある。それがなければ、いくら俺でも厳重に注意しただろう。汚れ役を買って出てくれたとはいえ、だ。

陽炎「さっき言ったことと被るけど、私はあの娘も司令のことも信じている。だからあんたも、私達のことを信じなさい」

提督「分かった。……行ってくるよ」

陽炎「ん」


 陽炎は満足そうに頷くと、扉の横に背中を預けた。中に居るであろう雷に対する配慮だった。

 俺は、深呼吸をして再度ドアノブを握った。手はまだ微かに震えていたが、交感神経が落ち着いてきたのか、さっきみたいに鉄が擦れ合う音はしない。

 陽炎の目を見る。彼女は、何も言わず頷いた。

 俺は、扉を開けた。

 むわっ、と生暖かい風が吐き出され、顔を撫でていった。思わず目を閉じる。ホコリとインク、そして微かな酸味を帯びた汗の香りが、鼻腔に浸透し、かすかな不快感の呼び水となった。目を開ける。唖然とした。俺の目の前には、山脈のような資料の群れがあった。一つじゃない。幾重にも幾層にも幾数にも、白い巨峰が積み上げられている。マホガニーの机が、どこにあるのか一瞬わからなくなるほどに。

提督「……」

 なんだ、これは。

 背後で、扉が軋んだ音を立てて閉まる。外界から完全に隔絶され、異様な世界だけが浮き上がり、俺は孤独と強い不安の中に取り残された。

 理解不能。予想だにしていない光景。俺は、間違えて資料室にでも入ってしまったのだろうか。

 棚に目を移す。海域攻略を証明する賞状と、先生から頂いたマッカラン十八年が飾られている。俺には上等すぎるそのウイスキーは、ホコリの浮いた空気の中で、わずかな琥珀色の輝きを淡く主張している。部屋の薄暗さに、この瞬間になって思い至る。カーテンから漏れる光だけが、ここを照らしている。

 時計が、不気味に音を刻んだ。


 陽炎は満足そうに頷くと、扉の横に背中を預けた。中に居るであろう雷に対する配慮だった。

 俺は、深呼吸をして再度ドアノブを握った。手はまだ微かに震えていたが、交感神経が落ち着いてきたのか、さっきみたいに鉄が擦れ合う音はしない。

 陽炎の目を見る。彼女は、何も言わず頷いた。

 俺は、扉を開けた。

 むわっ、と生暖かい風が吐き出され、顔を撫でていった。思わず目を閉じる。ホコリとインク、そして微かな酸味を帯びた汗の香りが、鼻腔に浸透し、かすかな不快感の呼び水となった。目を開ける。唖然とした。俺の目の前には、山脈のような資料の群れがあった。一つじゃない。幾重にも幾層にも幾数にも、白い巨峰が積み上げられている。マホガニーの机が、どこにあるのか一瞬わからなくなるほどに。

提督「……」

 なんだ、これは。

 背後で、扉が軋んだ音を立てて閉まる。外界から完全に隔絶され、異様な世界だけが浮き上がり、俺は孤独と強い不安の中に取り残された。

 理解不能。予想だにしていない光景。俺は、間違えて資料室にでも入ってしまったのだろうか。

 棚に目を移す。海域攻略を証明する賞状と、先生から頂いたマッカラン十八年が飾られている。俺には上等すぎるそのウイスキーは、ホコリの浮いた空気の中で、わずかな琥珀色の輝きを淡く主張している。部屋の薄暗さに、この瞬間になって思い至る。カーテンから漏れる光だけが、ここを照らしている。

 時計が、不気味に音を刻んだ。


 間違いない。ここは、執務室だ。

 困惑に突き動かされるように、俺は辺りを見渡した。雷の姿が見えない。俺の机にも、秘書艦娘用の机にもその姿がない。いや、白い塊の群れに隠されて見えなくなっているというのが正確だろう。

提督「……雷?」

 妙に胸がざわつくのを感じながら、俺は秘書艦の名前を呼んだ。返事はなかった。再度、今度は少しだけ大きな声を出してみたが、それでも返事はない。

 部屋の形を思い出しながら、俺は慎重に近づいた。資料の山の一つが、つま先に当たってしまい音を立てて崩れる。心臓が飛び出る思いをしながら、それでも近づくと、ようやく雷の姿が見えた。

 俺は、息を呑んだ。

 一心不乱に、取り憑かれたように、雷は資料にかじりついていた。何かをブツブツつぶやきながら、ひたすらペンを走らせている。目元に大きな隈をつくり、見開かれた目は、虹彩に至るまでヘドロのように濁りきっていた。破れてしまうんじゃないかと思えるほど、充血しきった結膜が痛々しい。

 おそらく、ろくに寝ていないのだろう。それどころか、この部屋から出ることなく作業し続けているに違いない。普段は手入れを怠らない茶色い髪の毛が、使い古したモップのようにちりぢりになっている。風呂にも入っていないのか。

雷「……なきゃ」

 雷の呟きが、ペンの音に混じって聞こえてくる。

雷「もっと頑張らなきゃ、もっと頑張らなきゃ、もっと頑張らなきゃ、もっと頑張らなきゃ、もっと頑張らなきゃ、もっと、もっと、もっともっともっと」

提督「……」


雷「もっとやらないと、もっとやらないと。やらないと要らない子になっちゃう。いやだ、いやだ、もっとやらないと。もっとしないと。もっと頑張らないと。いやだいやだいやだ」

 後退ってしまった。ムカデが這い回るような戦慄が脳神経を駆け上がる。雷に気を取られすぎたせいで、俺は後ろを確認するのを忘れていた。資料の山に足を取られ、よろめいてしまった。尻もちを付くようなことはなかったが、短い悲鳴を上げてしまう。さすがに雷の鈍った知覚にも触れたようで、餌を狙う魚類のような瞳が、こちらに向けられた。

 黒い瞳に、飲み込まれそうだった。そこに映った俺の姿は、命を狙われる小動物のように怯えきっている。

 時計の音は、心臓の鼓動に掻き消された。

雷「……あ、司令官。おかえりなさい」

 彼女は、相好を崩して俺の帰還を歓迎した。が、その笑顔からは、花弁の禿げあがった桜のように可憐さの欠片もない。

 闇の底に咲いた悪の華だ。誰もが目を背けるような空虚さが、彼女を笑わせている。

雷「ごめんなさい。仕事に集中していて……。司令官が帰ってきたことに気づけなかったわ。遠くに行っていたから疲れたでしょう? コーヒーいれるわね」

 雷はそう言って立ち上がると、コーヒーカップを取りに向かった。足取りは覚束ない。資料の山など眼中にないと言わんばかりに跳ね除け、跳ね除け。その動きによって空気が撹拌され、酸味を含んだ汗の臭いがつんと鼻まで届いた。彼女は、棚の扉を開ける。

雷「待っていてね。すぐ淹れるから。司令官は座っておいて」

提督「……」

 声が出てこなかった。ただただ、汗が首筋を流れ落ちるばかりだった。俺は突っ立ったまま、危うい手付きでカップを取り出し、豆を用意する雷を見つめることしかできない。


 どうすれば……何が起これば、こんな風になるんだ。理解が追いつかない。浜風はいったい何を言ったんだ。どんな言葉をかければ、こんな……こんな……。

 そのとき、俺は最悪なものを見つけてしまった。それだけは見たくはなかった。雷の机の上に置いてある物体。俺は悲鳴を上げそうになって、口を抑えた。

 注射器だ。注射器と、やってはいけないもの。無造作に置かれた箱にはこう書いてある。

 ――ヒロポン。

提督「……お前」

雷「な、なに? どうかしたの司令官」

 雷は、俺の顔を見て怯えたように身体を震わせた。

雷「……あ。も、もしかして、コーヒーじゃなくて紅茶だった? いつもコーヒーだったから……ごめんなさい」

提督「馬鹿野郎!! そんなことを言っている場合か!」

雷「ひっ」

提督「いったいどこでこんなものを手に入れた! 俺の鎮守府では厳重に禁止しているはずだぞ!」

 そうだ。こんなもの。こんなものは、俺の鎮守府には一切置いてはいない。置いていてはいけないものだ。軍内部で暗喩的に「ダメコン」とも呼ばれているこれは、艦娘や兵士を無理やり働かせるために使われることがある、非人道的な代物だ。これのせいで廃人になってしまった艦娘を、俺は何人も目にしている。

 だからこそ、禁止にしていた。蟻の一匹も入れないくらいの厳重さで取り締まっていたのだから、これがあるわけがないんだ。

 あまりの悍ましさに、身体の震えが止まらない。


雷「あ、あああ、あ、あの。その、その」

 雷は目をキョドキョドと回しながら動揺している。言葉が言葉になっていない。だが、俺は止まることができなかった。すべてが、消し飛んでいた。これまでの不安や苦悩など、どうでも良くなっていた。ただ怒りだけがあった。俺は紙の束を蹴り飛ばし、箱を掴み取ると、雷に詰め寄った。

提督「どこで手に入れたと聞いているだろうが! 答えろっ!」

雷「あ。そ、その元気の出るお薬のこと? わ、わかんない。私の机の上に置いてあったから、使っていいのかと思って」

提督「いいわけないだろう! うちでは絶対に取り扱わないと再三訓示していたはずだぞ!」

 雷はパニックに陥っていたのだろう。頭が真っ白になっているのか、目線が俺を捉えようとしない。まるでピンポン玉のように、さっきよりも速く目が動く。

雷「……そうだっけ? いやそうだっけじゃないごめんなさい。あの、勘違いしてて。本当に机の上にあったから使っていいのかと思っちゃったの。前の鎮守府ではよく司令官さんが『嫌なことを忘れられるよ』って打ってくれていたし。実際忘れられたし。悪いものじゃないからいいのかなって。大丈夫なのかなって」

提督「そんなやつの言うことなんか信じるなっ! それはただの毒物だ! 人間を破壊する悪魔のような薬だ! 何度も教えただろう!」

雷「ひぃっ。怒鳴らないで怒鳴らないで。こ、これがあれば元気が沢山出るし、いつもより頑張れると思っただけなのよ!」
 
 雷はへたりこんだ。手にしていたカップが転がり、インスタントコーヒーの粉末が床を汚した。芳しい香りが漂うが、空気は少しも清涼としない。頭を抱える雷が、髪をかき乱し出した。

雷「頑張らないと頑張らないと、司令官が許してくれないと思って。いらない子だって思われるのが怖かったの! だ、だから、お薬で元気出してやらないとって。そのくらいしないと駄目だと思ったの」

提督「……」


雷「怒らないで、ねえ……。わ、私頑張ったんだよ? 今月分の定期報告の書類も一日で全部片付けたの。後は司令官の裁可を貰うだけの状態にしておいたわ。遠征の資料も、出撃の申請書も、工廠の開発報告だって! 過去に遡って全部まとめておいたわ! 司令官が会議のときに困らないようにしようと思って。ま、まだ他にもたくさん……。もちろん、終わってないやつもまだ一杯あるんだけど、調子が上がってきたの。きっと今日中に終わらせ」

提督「もういい」

 自分の意思とは関係なく、言葉がこぼれた。頭の中にある何が音を立てて切れていた。雷がビクリと震えたが、そんなこともどうでもよくなっていた。

 俺の口は、緩んでいた。どうしてそうなってしまうのかはわからない。いま、自分の感情は小波のように静まったものになっていた。怒りの先を通り越した感覚が、俺を一時的に静謐な躁状態にしている。身体が、異様に軽かった。ああ、こういう感覚なのか。

 限界とは、こういうことか。

提督「もう、いい。もういいんだ。頑張ったな、雷」

雷「……司令官?」

 恐る恐る声をかけてくる雷にも、笑顔を向けられた気がした。ああ、なんて軽いんだろうか。これまで感じていた重荷がすべて無くなった気分だ。

提督「は、ははは。そうだなあ。こんだけやったんだもんな。すごい、すごいよ。ああ、すごいと思う」

 ドアノブが擦れる音がした。俺は、「くるな!」と叫んでいた。心配した陽炎が中の様子を伺おうとしたのだ。今の現状を彼女に見られるのが嫌だった。こんな、情けない現状を。ドアノブは、止まった。


 俺は椅子を引いていた。いつも俺が座っている椅子だ。慣れているはずなのに、いつもよりもずっと硬い。尾てい骨に感じる鈍い痛みがゆっくりと蓄積されていくのを感じながら、俺は億劫な気持ちで天井を見上げた。

 隅を侵食するように黒い染みが広がっていた。もともと病院だったこの鎮守府には、随所にこうした歪な名残が見られる。

 壊れたものを、無理やり使おうとするからだ。だから、こんなことになるんだ。

 雷が、しゃっくりをあげながら泣き始めた。大きな目から溢れる涙を拾おうと拾おうとするかのように、手で拭っている。俺の気持ちは水面に浮かんだ氷のように冷めていた。泣き声がうるさいとすら思えた。ショッピングモールで、玩具を買ってもらえずに泣き叫ぶ子供を見たときのような気持ちだった。

 慟哭が、天井まで響いていた。

提督「……なんでだろうな」

 本当に、なんでだろう。俺はただ、みんなと穏やかに生きたいだけなのに。あまりにも落ちた闇が深すぎて、頭がどうにかなりそうだった。

 俺は、この闇からみんなを拾い上げようとしていたはずだ。でも、できる気がしない。閣下や浜風たちと話して持ち直しかけていた決意が、ガタガタと崩れていく気がする。


 いくらなんでもこれは酷すぎる。だって、だってだ――薬はこの鎮守府には「ない」はずなんだ。俺が赴任してから内部にあったものは一掃したし、外から着任した艦娘たちの持ち物検査だって徹底してやった。だから、あるはずがない。あるはずがないんだ。でも、現実はここに存在している。じゃあ、なんである?

 決まっている。誰かが、なんらかの方法で持ち込んだからだ。

 雷の話を信じたわけじゃないが、彼女の持ち物である可能性は極めて低い。それは、遺憾ながら隣で見てきた俺だからわかる。こいつはそんなに器用じゃない。今こうして、俺にあっさり見つかったことからも分かる。

 だから、誰かが彼女に渡した可能性が高い。

 引き笑いしか出てこなかった。雷が泣き叫ぶ中で、そんな表情を浮かべるだけしかできない俺も、きっとどこかが可笑しくなりかけている。

 これは現実か。それとも悪夢なのか。

 地滑りに飲み込まれたように、この現実からは逃れることはできない。

 頭の中に、ある歌の詩が浮かんでくる。

 なあ、静流。

 俺は、どうすればいいんだろうな?



投下終了です。
すいません、ミスで二回投下してしまった部分があります。以後気をつけます








陽炎「……まさか、こんなことになるなんて」
 
 陽炎が眉間を押さえながら、そう言った。苦しげな吐息混じりの声はけっして大きいものではないが、静寂に包まれた療養室の中では重たく響いた。

 俺は椅子に座り、項垂れているだけだった。首筋に倦怠感が重くのしかかっている。視線の先には雷の腕がある。点滴を打たれた腕には血の気がなく、いつもの健康的な輝きがない。ただ、白い。死人のように白い。そのせいか、リストカットの跡がかえって生々しく見えて、グロテスクな死体の彫像が横たわっているようでもあった。

 でも、目を逸らそうとも思えない。嫌悪と吐き気と無力感に蹴られ続けた俺には、現実から逃れる気力すらもなかった。いや、かえって現実にしがみつくことで正気を保とうとしているのかもしれない。綱渡りの綱が見えなくなったまま立ち往生している状態だった。

 雷はあの後、薬の効果が切れたのか、糸が切れたように倒れてしまった。蓄積された疲労が、溢れ出したストレスと不安とともに一気に押し寄せたのだろう。荒い息を吐きながら、身体中に汗を浮かべて苦しんでいた。なのに、その姿を無気力に眺めることしかできなかった。いつの間にか部屋に入ってきていた陽炎に叩かれ、「しっかりしなさい!」と声をかけられ、ようやく我に返ることができた有様で。雷をここまで運んでくれたのは、陽炎と彼女が呼び出した浜風だった。

 あれから、一時間くらいが経つ。空はいつの間にか雲で覆われていた。薄暗い部屋に、薄ら寒い風が流れてくる。水っ気があったから雨が降り始めたのかもしれない。向かいに立っていた浜風が、窓を閉めた。


 サッシが窓枠を叩き、外界の音が消えた。強調された沈黙を厭うものは誰もいない。俺も、浜風も、陽炎も、三者三様にこの重たい空気を享受している。点滴筒を滴る生理水の音が、ポツポツと時を刻んでいた。

 何回、そのリフレインを聴いただろうか。浜風が口火を切った。

浜風「……私のせいですね」

 答える気力はなかった。

浜風「私が言い過ぎたせいで、雷さんを追い詰めてしまいました。……すいません」

陽炎「……そうね」

 陽炎が代わりに答えてくれた。

陽炎「明らかに、やり過ぎたわね。勝手に行動したのも本来のあんたらしくないし。正直言うけど、ちょっと前のあんたに戻ったみたいだったわよ。……そこは反省した方がいいと思う」

浜風「はい。そうですね」

陽炎「でも、仕方ない部分もあるわ。……こんなものを隠し持っていたなんて、誰にも読めるわけないんだから」

 陽炎の憎々し気な物言いは、彼女の手の中にあるものに向けられているのだろう。あの薬の箱は、陽炎が持っていた。

陽炎「……どうして、こんなものが。司令が徹底して取り締まっていたはずなのに」


浜風「おそらくですが、彼女が隠し持っていたものではないと思います。そんなに器用な性格ではありませんし」

陽炎「じゃあ、誰かがこの子に渡したってこと?」

浜風「その可能性が高いでしょう。誰が渡したのかはわかりませんが」

陽炎「……信じられない」

 陽炎が絶句していた。無理もない。俺も同じ気持ちだからだ。こんなものを不正な手段で手に入れ、雷に渡した輩がいることなんて信じられないし、信じたくはない。

 だが、現実はこうだ。人間を狂わせる悪魔の薬はここにあり、その誘惑に身を委ねたやつがここで眠っている。

提督「……浜風の言うとおりだ」

 喋るのも億劫だったが、口を開いた。

 視線をゆっくりと上げていく。眉を下げた浜風の後ろに、窓がある。俺の顔が映っていた。酷い顔だ。目が死んでいる。正直、何もかも放り出して酒に溺れてしまいたい。浴びるほど飲んで、ゆらゆらと街の中を彷徨い、そのまま夜の街頭のごとく消えてしまいたい。いっそ、いっそ俺も……親父やお袋のように……。

 俺は頭を振るった。馬鹿な考えを浮かべてはいけない。俺には、そんなやり方で楽になる資格はないのだ。弟を殺したカインのように、生き地獄を彷徨い歩いていかなければならない。たとえ、頭のどこかがおかしくなりかけていたとしても。

 浜風の青い瞳は、湖面のように静かだった。陽炎も何も言わずに俺の言葉を待っていた。喉元にわだかまる言葉の澱を、息を吐きながらゆっくり解す。


提督「……受け入れるしかない。誰かが、こんなくだらないものに手を染めて、雷を巻き込んだんだ。この子の弱みに漬け込んでな」

 拳を握りしめる。力は入らない。しかし、気怠さの中にも、怒りの火は燻っている。消えていない。消してはいけない。

 俺は、許せない。

提督「……浜風。俺はもう、君を責めはしない。いずれは、やらなければならなかったことではあった。そこから目を逸らしていたのは俺だからな。俺に、責任がある」

浜風「……」

提督「今回の件もそうだ。薬を排除した気になって、完全に油断していた。俺がもっとちゃんとしていたら、こんなことにはならなかったかもしれない」

 血の味を、味蕾が拾っていく。唇を噛んでいた。億劫さを噛み殺し、怒りを増幅させ、交感神経を無理やり叩き起こす。それは自分の顔面を殴って気合いを入れるのとなんら変わらぬ、自傷行為。自分を責め、自分を傷つけ、自分を追い立てる。そうすることで、自分を無理やり奮い立たせようとする愚かな行い。馬鹿者の発想。意味もないプライド。壊れかけ、折れかけた人間の取るに足らぬ意地。拳が、軋んだ。中手骨が内側から折れんばかりにしなる。鋭い痛みが俺を加速させる。億劫さは落葉のごとく死に絶え、荒い感情が若竹のごとく生長していく。

 俺は、ベッドの鉄柵を殴っていた。

陽炎「……司令」

提督「絶対に、許さない。これは許されない裏切りだ! 浜風、陽炎! 俺は、あんなものを汚い手段で入手した輩を、このままのさばらせておく気はない。見つけ出し、必ず処断する。そして、追放してやる」

 二人は、何も言わなかった。圧倒されて言葉が出てこないのだろう。俺は構わず、雷に目を向けて続けた。


提督「こいつもこいつだ。あれだけ再三注意したのに薬の誘惑にあっさり負けやがって……。なぜ、一言も俺に相談しに来なかった、馬鹿野郎め」

 俺には散々、隠し事をしないように言っておきながら。こいつは俺をあっさりと裏切った。強姦未遂でも、この件でも。これで、二回目だ。もう我慢の限界を超えていた。

 目頭が、だんだん熱くなってきた。ポロポロと、意志とは関係なく思いが溢れていく。雫が、雷の手を濡らした。彼女は、それでもまったく動かなかった。

提督「馬鹿野郎、馬鹿野郎が。どんな思いで俺がお前を受け入れたと思っているんだ……。こんな、こんな酷い裏切りをされたいがために、受け入れたんじゃないんだよ。少しでも、笑って、笑ってくれればいいなって思っただけなのに……。だからこそ何度も向き合おうとしたのに。こんな……こんなの……酷すぎるだろう」

 わけがわからない。俺は、どうしてこんなにも、惨めで苦しいんだ。どうしてこんなにも、上手くいかないんだ。雷を救えず、裏切られ、あまつさえ他の艦娘からも欺かれた。上から理不尽な目に合おうが、後ろ指をさされようが、今までやっていくことができたのは、彼女たちが笑ってくれていたからのはずなのに。

 その笑顔の裏に、悪意の影があることを思い知らされた。閣下に得意気に語った、自分の中で唯一の成果だと思っていたことですら、足蹴にされた。踏みにじられた。泣きっ面に蜂、なんてかわいいものではない。塩酸を浴びせかけられたような気分だ。

 最悪の、気分だ。

 止まらなくて、とうとう嗚咽が漏れ始めた。過呼吸を起こしそうになるくらい、苦しくて、辛い。暗闇の中に閉じ込められたみたいに、ひどく寂しい。

 その時だった。ふわり、と温かなものに頭が包まれた。毛布のごとく柔らかく、軽やかな感触。布越しに感じる肌の弾むような感触が、俺の横顔に吸い付いた。


浜風「提督」

 浜風の甘い吐息が、俺の生え際を撫でた。愛おしげに愛おしげに、彼女は俺を捕まえて、額をゆっくりと頭の上に乗せてくれた。

浜風「……提督」

 優しい声が、耳を触る。衣擦れの音が、そっと俺の心に染み入る。浜風の手が、俺を撫でる。優しくやさしく。温かくあたたかく。聖母のごとく。苦しむ俺を包み込む。

 揺り篭のように。俺の苦しさを鎮めるために、小刻みに頭をゆすり。俺の涙がいかに服を濡らそうとも、彼女は俺を慰めることをやめなかった。

 浜風は、囁いた。

浜風「……あんまりですよね。こんなにも、頑張っているのに」

提督「……」

浜風「提督はみんなを救おうとしているのに。そんな提督にむかってこんな仕打ち……。許せない」

 淡々とした声には、まるで邪気はない。ただ、最後の言葉だけが冷たく響いた気がした。ほんの細やかな火がゆらぐような差異。だが、その冷たさは、氷というより雪解け水で。優しい冷たさだった。

陽炎「私も、許せないわ。こんな人の神経を逆なでするような行為、人のやることじゃない」

 陽炎の強い言葉に、浜風が「ええ」と同意した。

浜風「……提督。私は、雷さんを専門家の元に預けて療養させるべきだと思います。提督自身がもう本当に限界ですし、彼女自身も治療を受けないと危うい状況です。それに、薬を渡した人物が特定できていない以上、また雷さんに危害が及ぶ可能性が高い」

提督「……ああ」

 弱々しく返事をすると、彼女は間をおいて続けた。

undefined


浜風「しかし提督が言っていたように、彼女には憲兵の特約という縛りがあります。しかも、まだほとんど出撃の実績を残せていない。これではいくら事情を説明して説得しようにも、先方は一切応じないでしょう。書類上の数字にしか興味はありませんからね。酷ですが、説得できる実績を残せるようになるまでは、彼女には出撃を強いなければなりません」

提督「……わかって、いるよ。そうしないと、雷が殺されてしまう」

浜風「その決断の苦しさは、察するにあまりあるものです。ですが、ここはどうか踏ん張ってください。私達もできる限りサポートしていきます」

陽炎「……できることは、なんでもやる。私達は司令の味方よ。だから信じて欲しい。いまは、誰も信じられないかもしれないけど……」

提督「……いや」

 俺は目を閉じて、言った。

提督「お前たち二人は、信じられる。陽炎も、浜風も、どちらも。お前たちは、同じ志をもった仲間だ。俺の気持ちを踏みにじるような行為をするわけがない」

 それに、状況から見ても二人が犯人だとは考えられない。陽炎のいた岬鎮守府でも「ダメコン」は使われていたが、彼女に使用の形跡はないし、むしろ彼女も「ダメコン」の被害にあった艦娘たちを見てきているから、あれに対しては深い憎しみを抱いている。浜風の場合は、ここに来た経緯が経緯だ。あんなものを持ち込む隙も暇もなかったはずだ。

 だから、確信をもって言える。彼女たちは絶対に白だと。

提督「……そうだろ? お前たちは、違う」

陽炎「ええ。もちろんよ。私も、浜風も、絶対にそんな外道なことはしないわ」

浜風「……一蓮托生。そういうべき関係ですから」

 二人は、そう言って笑ってくれた。この二人がいなければ、俺は本当にどうなっていたかわからない。そう思うくらい、二人の存在は大きくなっていた。俺は笑えなかったが、それでも限界だった心の中にも一縷の望みがあることに気付かされた。


 俺は、雷の顔に目をやった。熱に浮かされ、不規則な呼吸をこぼす雷は、苦しげで哀れでもあった。

 彼女のことは、許せない。許せるわけがない。だが、こうして苦しむ彼女を見ていると、彼女も被害者であることを思い起こされる。家族も何もかも失い、薬漬けにされた被害者……。

提督「……浜風」

 はい、と浜風は返事をした。

提督「……ありがとう。もう、大丈夫だ。だから」

 離してくれ。そう言おうとしたが、俺の口は浜風の手で塞がれてしまった。目を見開く。浜風の顔が目の前にあった。

浜風「嫌です」

提督「え?」

浜風「嫌です、提督。私は離したくありません」

提督「な、なぜ?」

 いきなりどうしたんだ。俺が訝しんでいると、浜風は真剣な顔で言った。

浜風「このまま離したら、提督が壊れてしまいそうな気がして……。だから、嫌です。離しません」

提督「……」

 どうしたものか。俺が陽炎の方に目を遣ると、陽炎は微苦笑を浮かべて肩をすくめた。そのまま諦めて受け入れろとでも言われているように思えた。

 俺は、浜風の腕に手を置いた。目が合う。瞳が揺らいでいる。彼女の頬にほんの少しだけ朱が灯った。


提督「……心配、かけたよな」

浜風「ええ。私のせいでもありますが……それでも、見ていられませんでした」

提督「……すまない」

 浜風の吐息が、顔にかかる。それほどに俺たちの距離は近かった。桜色の唇。湖のような瞳。そして、ベールのように顔にかかった銀の髪。象徴主義の画家が題材に選びそうなほど、神秘的で美しい。

 浜風は、ただただ俺を心配していた。俺の心が磨り減り限界に近づいているように見えたから、たとえ責られることになろうとも行動に移した。結果はどうであれ……彼女の心意気は素直に嬉しい。そして、今も。今もこうして抱き止めてくれている。俺に寄り添って、崩れ落ちてしまわないように。

 壊れそうで、不安だから。消えてしまいそうで、辛かったから。だから、俺を抱きしめてくれた。

浜風「今の提督は、かつての私です」

 それは、死の病に侵され、同じく壊れそうだったかつての彼女。生きる希望をすべて奪われ、苦しんだかの時の彼女。

 重ね合わせるとたしかに、俺たちは相似する。

 だからだろう。その言葉が、心に波紋を立てる。

 俺の奥底に、沁み入るように。

浜風「……だから、離しません。離したくなんてありません。命令されてもです。いいですね?」

提督「……好きにしろ」

浜風「ありがとうございます」

 浜風の微笑みは、天使だった。彼女はふたたび俺の頭を胸に収める。彼女の柔らかさが、耳とこめかみからダイレクトに伝わってきた。

 あたたかい。こんなにも。


 彼女は、温かい。

浜風「……提督」

 俺は答えない。彼女の言葉に続きがあることを、知っていたから。

浜風「……犯人は、私達が探してみせます。私と、陽炎姉さんで」

提督「頼んで、いいかな?」

 もちろん。浜風も、遅れて陽炎も。当然のようにそう答えた。

提督「……犯人は、かなりの知能犯だ」

浜風「分かっています。きっと抜き打ちで検査をしたところでボロは出しません。かえって警戒されるだけでしょう。それならば、秘密裏に探った方がいい」

陽炎「……探偵か。面白くなってきたじゃない。私がホームズで、あんたがワトソンね」

浜風「逆でしょう。能力的に考えても」

陽炎「やかましい」

 二人の冗談に、思わず笑ってしまった。この二人は本当にいいコンビだと思う。

 この二人ならば、大丈夫だ。

提督「それじゃあ、頼んだぞ。犯人は絶対に許しはしない。必ず捕まえる。俺たちの手で、必ず」

















 その一週間後。

 工廠の修理が完了し、謹慎が解かれた直後のことだ。

 再開された遠征任務の最中。陽炎旗艦の第一駆逐隊が想定外の敵襲を受け――。

 駆逐艦「雷」が戦死した。

投下終了です。




 ?

 あいつだけは許さないわ。

 あいつが、あの女狐が、司令官を誑かしたから。

 だから、私達『家族』の関係がおかしくなったんだ。

 六月に入って、司令官の謹慎が解かれてからのことだ。私は、以前から機会をうかがっていた「消毒」の実行を決意した。一刻もはやく消してしまわないと、司令官が、私のもとからどんどん離れていってしまう。毒されて、おかしくなってしまう。あの女がいる限り、私達の日常はけっして戻らない。

 司令官には、以前の優しさがなくなっていた。私が元気の出るお薬を使って以来、ずっと態度がよそよそしかった。昔の司令官なら、あのくらいであんなに怒りはしなかった。頑張ったことを、もっと素直に褒めてくれたはずなのに。たとえ、怒ったとしてもすぐに許してくれたはずなのに。ずっと。ずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっと、私は避けられていた。私が目を覚ましてから、六日間と十四時間三十七分も、ほとんど口を聞いてもらえなかった。そんなの、異常事態だ。だって、私たちは片時も離れてはいけない関係なのよ。それが、こんなにも距離があったらダメじゃない。このままじゃ、家族じゃなくなってしまう。


 そんなの嫌だった。怖い。不安でおかしくなっちゃう。響の首が語りかけてくるの。このままじゃ、司令官を失っちゃうよ、って。嫌よ。嫌、嫌。司令官がいなくなっちゃったら、私は生きていけないんだから。

 手首を切ろうとしたわ。いつも、不安なときはそうすれば、落ち着くから。前の司令官さんが、私のために教えてくれたメンタルケアの方法。それをやろうとしたんだけど、それさえもできなかった。

 あの女狐の言葉が、くさびになっていたから。

 あいつは、解体用の申請書類を私に見せびらかして、司令官が私のことで腹を立てていると言ってきた。戯言だと、もちろん思った。司令官が、そんな風に思うはずないもの。でも、あいつが持っていたあの書類は、司令官以外には用意ができないものだ。しかも、そこには司令官のサインまであった。それをあいつが持っているという事実……。それが、私の心をかき乱した。

 あの女は、私の反応なんて見えていないみたいに、目を細めた。

 ――提督は、私にこれを預けてくださいました。何かあったら、それを憲兵団に送るよう命令してきたのです。……これでも分かりませんか? 提督は、あなたのことを解体したがっているのですよ。貴方のこれまでの立場を弁えない越権行為の数々に、お怒りになっているのです。

 ――もし今度、夜寝室に潜り込んだり、リストカットをしたり、その他、提督の私生活や安全を脅かすような行為があった場合、私は迷わずこれを送りますから。そうなったら、貴女はお終いですよ? 立場を弁えて一層励んでいかないと、提督はけっして許さないわ。少しは考えることね。

 あの女はそう言って、最後に嘲笑った。そのときの気色悪い人形みたいな笑みが、忘れられない。悔しくてくやしくて、内臓が千切れそうなくらいに。

 でも、それ以上に怖かった。あの女が言ったことは信じたくない。信じたくはないけど……。それなら、どうして司令官は私を置いて行っちゃったんだろう。今まで一度も置いていかれたことなんてなかったのに。


 要らないからなんじゃないか?

 私のことが、要らなくなったからなんじゃないか?

 そうじゃないと、置いて行かれるわけがない。

 吐き気がした。身体が、ガタガタ震えた。あの女は、そんな私に虫けらでも見るような目を向けてきた。でも、何も言えなかった。私が動けるようになったのは、あの女がいなくなってからだった。

 私は、お手洗いに駆け込んで思いっきり吐いた。胃の中のものを出し切って、胃液すら出なくなるくらい吐いた。呼吸が苦しくなり、喉が焼けるように痛くて辛かった。そして、それ以上に惨めで孤独だった。私は膝を抱えて涙を流した。

 どのくらい、そうしていたかは覚えていない。頭がぼうっとしていたから。自分でも分からないうちに、執務室に戻った。仕事をしないと、って思ったんだ。働かないと落ち着かなかった。捨てられる。その思いが、頭を支配して離れなかったから、どうにか仕事で消し飛ばしたかったんだ。

 そんなときだった。

 あの薬と注射器が、机の上に置いてあった。

 見た瞬間、全身の毛が逆立ったわ。私は、その味を骨身に染付くくらい知っていたから。心臓が早鐘を打って、まるで爆弾みたいになった。涎が、ボタボタと服を汚したけど、どうでも良かった。薬を開けて注射器に入れていた。

 元気が出るやつだ! これを打てば、嫌なことを忘れられる! 誰が置いたのかはわからないけど、そんなこといい。早く打ちたい打ちたい打ちたい打ちたい打ちたい打ちたい打ちたい打ちたい打ちたい打ちたい打ちたい――。


 罪悪感はなかった。興奮で砕け散っていた。前の司令官が、「『家族』の代わりに」と言って打ってくれたやつ。「家族」が居なくなりそうだったから、使わないと。使わないと、私が死んじゃう。

 それに。この薬で元気を出して、お仕事を頑張ればきっと褒めてくれる。前みたいに頭をよしよししてくれる。そうしたら、私たちはきっとまた「家族」に戻れるはず。ううん、戻れる。そう、思った。

 これしかなかったのよ。縋るしかなかった。だから、腕に注射器を刺した――。

 そうしたら、あんな結果になっちゃった。どうして? どうしてなの? 頑張ったのに。頑張って、あれだけやったのに。おかしいわ。こんなこと、あり得ない。司令官が、あんなに怒るなんて考えられない。

 私は、気づいた。

 あの女……。そうだ、あの女だ。

 あの女が、余計なことを吹き込んだに違いない。前みたいに色目を使って、司令官を誑かしたんだ。司令官が、私を解体しようなんて考え始めたのも、きっとそうだ。あの女が書類を書かせた。

 ――すぐに消さないと。

 この世から、菌一つ残さず、完全に消毒してしまわないと。

 司令官は病気なのよ。あの女の菌に毒されて、心が病んじゃったんだ。菌さえ消せば、きっと、きっと元に戻ってくれる。


 だから、決意したんだ。あの女を消すことを。

 出撃が再開された翌日。私が所属する第一駆逐隊は、執務室に集められた。司令官が、隈の増えた目で訓示を読み上げ、私たちに作戦内容と命令を告げた。鼠輸送任務。この鎮守府で初めての遠征任務だが、難度の低い任務だから、なんとも思わなかった。そんなことどうでも良かった。ただ、私は消毒のことしか考えていなかった。

 いかにバレずに消してしまうか。間違いなく、チャンスは戦闘中しかない。鼠輸送任務で通るルートは、ほとんどの確率で会敵する。そのとき、信管をイジった魚雷を後ろから撃ってやろう。幸い、あの女の提案で、私たちは順番的に四番艦と五番艦になっている。つまり、あの女の丁度真後ろに私が来るようになっているんだ。皮肉な話だわ。あの女は、自分の提案のせいで死ぬことになるんだから。

 笑っちゃうわ。策士気取りが、策に溺れる。ざまあみろって気分だ。

 私は、司令官の方を見た。司令官はすぐに目を逸らしてしまった。ちょっと傷ついたけど、大丈夫。今はとても晴れやかな気分だから。

 待っててね、司令官。

 あなたを解放してあげるから。






 ○九二○。

 私たち第一駆逐隊は、南西諸島海域近くの島で資源の回収を行っていた。回収は妖精さんが行う。妖精さんたちは物質を縮小化する能力を持っている。その力によって、油や鋼材などを小さくし、ドラム缶に詰めて運ぶんだ。その作業は時間がかかるため、私たちは作業が終わるまでの間、島影に隠れつつ警戒していた。

 海は、鳥さんの鳴き声が木霊するほどに静かだった。空にはクジラのような雲がたくさん泳いでいて、こんな呑気な日はないというくらい呑気で、私は地団駄を踏みたいような気分だった。

時津風「順調だね~」

 時津風ちゃんが、のほほんとした声で言った。

時津風「このままなら、敵と会わずに帰れるかもね。今日はラッキーデイかなあ?」

深雪「油断すんなよ。来ないと思っていると、突然現れるからな」


 深雪ちゃんが真面目な顔で時津風ちゃんを諭した。

時津風「ジンクスってやつだね~。でも、今日は来ないような気がするなあ」

陽炎「……あんたの勘、当たった試しがないのよね」

 陽炎ちゃんの茶化しに、時津風ちゃんが頬を膨らませた。

時津風「酷い言い草だなー。わたしだって、たまには当たるんだからね。この前、間宮のアイス券当たったんだぞ~」

深雪「それで運を使い果たしたんじゃないか?」

時津風「いやいやないでしょ~。今回も当たるって」

陽炎「そうだと良いけど」

 陽炎ちゃんは肩をすくめる。三人は警戒を怠らないようにしつつ、その後も雑談を交わした。私は零れそうになった舌打ちを抑え、あの女に目を遣る。

 あの女は、無表情に空を眺めていた。何やら考え事をしているのか、ぼうっとしているようだ。これから殺されるのに、何も知らないからっていい気なものね。さっさと、その人形みたいな面をこの世から消してやりたい。はやく敵が来ないかな。

 私が歯ぎしりしていると、あの女の目が一瞬ギョロリとこちらを向いた。

 思わず、固まる。あの女の目線は、すでに空の方へと戻っていた。なんなの……一体。本当に気色悪いわね。


陽炎「……どうしたの、浜風?」

 陽炎ちゃんが、あの女に気を遣って尋ねた。

浜風「いえ。雲の動きが速いので、くもりそうだなと思っただけです。雨が降らなければ良いのですが」

陽炎「予報では降らないはずなんだけど、たしかに、この感じじゃちょっと分からないわね」

 陽炎ちゃんは手をかざす。「まだ晴れてるだろ」っていう深雪ちゃんのツッコミは無視して、空を見て呟いた。

陽炎「……なんもなければいいけど」

 妖精さんたちの回収が終わったのは、それから五分ほど経った後だった。陽炎ちゃんが司令官に回収終了の無線を入れて、私たちは帰路についた。

 十分、十五分……安全な時間が続く。私は焦り始めていた。敵がなかなか現れてくれない。これでは、あの女を消毒できないじゃない。

 雲が、厚くなっていた。空が灰色に陰り出した。日の光が塞がれて、海上の風が鋭く吹き抜けていく。装甲を弾いて霧散する潮水は、きっと肌に刺さるくらい冷たくなっているのだろう。はやく終わらせたい。はやく、終わらせて、帰りたい。司令官に、よしよしされたい。抱っこされたい。キスされたい。あのときの続きをしたい。

 私が、妄想に浸っていると、陽炎ちゃんが無線で『妙ね』とこぼした。

陽炎『……いくら何でも、静かすぎる』


時津風『そうかな~。いつもこんな感じじゃない?』

 陽炎ちゃんは時津風ちゃんの言葉を黙殺して、空に首を巡らせた。彼女の背後から、何やらただ事じゃない気配を感じる。他のみんなも感じたのか、静かに上を見た。

 なにも、見えない。

 だが、陽炎ちゃんは違うようだ。

陽炎『そんな……馬鹿な……』

 陽炎ちゃんの義手が、カタカタと揺れる。誰かが、何かを彼女に問いかけようとした刹那。

 対空電探が唸り、陽炎ちゃんが叫んだ。

陽炎『散開しろ!!』

 ほとんど条件反射だった。私たちは陽炎ちゃんの言うとおり動いた。その隙間に飛び込むように、雲を突き破って艦載機が降下してきた。

 爆撃機。敵空母の――。

 認識したときには爆音がなっていた。水柱が噴火のごとく盛り上がり、大量の水を弾き飛ばした。嵐にも劣らない水が、私の顔を叩く。見えない。なにもかも霞んだ。

陽炎『敵襲っ!』


 劈く声が、鼓膜に刺さった。

陽炎『各位、之の字行動を取れ! 回避に専念しろっ!』

 指示がした。視界が晴れる。艦載機が一機二機十機二十機と雲霞のごとく雲から現れた。数え切れない。

 考えるまでもなく身体が動いた。疑問が浮かばない。考えれば死ぬ。本能が叫んでいた。死にたくない。ならば動けと。艦載機が、目の前を掠め、爆弾を落した。破裂。水を頭から被る。スパークが起こった。破片が針のごとく装甲を裂いた。肺が、キュッと締付けられる。無呼吸状態。息が乱れた。艦載機が上から迫った。面舵。爆弾が、わっと火を拭いて空を焦がす。

 なんで、なんでなんでなんで。その言葉しか出てこない。

 曳光弾が上空に弾き出された。陽炎ちゃんたちが反撃している。私も倣った。でも、全く当たらない。敵機の発動機が嘲笑うように唸る。雷のごとく音が弾け弾け弾けた。

陽炎『しれぇぇぇ!! 空襲よ! 至急応援を頂戴!!』

 馬鹿な――。司令官は、きっとそう叫んだと思う。でも、思考する暇なんてない。航空隊はそんな容赦をしてくれない。吐き出される爆弾の質量が、私たちの五感をすべて押し潰した。殺される。純粋な恐怖。スズメバチの大群に囲まれた幼児。武器は玩具みたいな機関銃だけ。


 躱しながら撃つ。錐揉みして墜ちたのはたった一機。それ以外が、私たちをけたぐった。倍以上の機銃掃射のシャワー。敵戦闘機が通るたびに降りかかってくる。避けようがない。削れる装甲が、チェーンソーを当てた丸太のようで、悪寒が駆けていった。

雷「ああああああああああああ、きゃあああああああああああっ!!」

 悲鳴、涙、悲鳴。私たちは、嬲られるだけの人形に等しかった。

 何度、爆発の明滅が目を焦がしただろうか。敵機が弾薬を使い果たして去っていったときには、私はボロボロにされていた。

陽炎『――全員無事!?』

浜風『なんとか』

 あの女が答え、それに続くように深雪ちゃんが『小破だけど、大丈夫だ』と応じた。私も報告した。中破だった。装甲がスパークを起こしていたけど、艤装にほとんどダメージはなく、まだ動けるのが幸いだ。

 だが、時津風ちゃんは絶望的な報告をした。

時津風『っ――。ごめん……やられた。大破だよ。……爆弾くらって、足を、撃ち抜かれた』

 陽炎ちゃんが「そんな……」と呻いた。だが、すぐに己を取り戻して時津風ちゃんのところに駆ける。私たちも続いた。

 時津風ちゃんを見た瞬間、全員が言葉を失った。右の太ももに大きな穴が空いている。そこから、赤黒い肉が見え、ゴボゴボと黒い塊のような血を吐き出していた。あの女が、包帯とスカーフを取って止血に入った。


時津風「……っ、あっぐ。……浜風、いいよ。私のことなんか、置いて、いきなよ」

陽炎「馬鹿なことを言うな! そんなことできるわけないでしょ!」

時津風「置いて行きなって! あの数の艦載機だ。きっと正規空母クラスの空母機動部隊がいる。それも、二隻以上の……! 次の攻撃もすぐに来るよ! 今の私は、ただの足手まといだ! みんな殺られてしまう!」

 時津風ちゃんは脂汗を顔中に貼り付けながら叫んだ。苦しげに息を吐いて、苦悶に顔を歪めながらも、毅然とした態度だった。

 あの女の手を、時津風ちゃんは叩いた。

時津風「いいから、早くいけ! 私が殿を努めて食い止めるから」

陽炎「ふざけたこと言うな! 今のあんたに何ができんのよ!」

深雪「そうだぜ……。まともに動けねえお前がいたって、数分も持ちはしない」

 深雪ちゃんの言葉に、時津風ちゃんは微笑で返した。

時津風「数分は、稼げるでしょ? ……だから」

提督『時津風』

 司令官の声に、全員が押し黙った。静かだけど、峻厳とした迫力のある声調。

提督『却下だ。絶対に生きて帰れ』


時津風「でも……!」

提督『二度は言わない。殿など許すものか。それに、陽炎ならともかく、いまの貴様程度では数分も持ちはしない。そのくらい分かっているだろう?』

 時津風ちゃんは言葉を失って、悔しそうに顔をしかめた。

提督『貴様、ヒーローにでもなるつもりだったか? 俺の鎮守府にヒーローは要らないんだ。感傷に浸っている暇があるなら、立て。生きることを諦めるな!』

 司令官の恫喝に、時津風ちゃんの目から涙が零れ落ちた。本当は一杯いっぱいなのだろう。ぐずりながら、目をぬぐって、彼女は言った。

時津風「……立てないよ。足が動かないんだもん」

提督『陽炎、担げ』

陽炎「了解!」

時津風「えっ? ちょ――きゃっ!」

 陽炎ちゃんは司令官に言われたとおり、軽々と時津風ちゃんを担ぎ上げた。まるで、人体の重さを否定するかのようであり、私たちはその事実にも唖然とさせられた。

陽炎「行くわよ。もう時間がない」


「……」

陽炎「ボサッとすんな! 死にたくないなら全員死ぬ気で付いて来い! いいかっ!」

 私たちは、全員「了解!」と返事していた。陽炎ちゃんがさっさと踵を返して走り出す。速い。とんでもない速度だった。私たちは遅れないよう慌てて付いていった。

深雪『たくっ、化け物かよ! 人一人担いでて、何であたしたちより速えんだ!』

浜風『しかも先ほどの空襲で無傷ですからね……。これが、「覚醒」した艦娘の本来の力ですか……』

 深雪ちゃんとあの女が通信で話していた。そこに、割って入るように司令官の声が刺さった。

提督『第一駆逐隊に通達。現在、基地航空隊がそちらに向かっている。到着は二十分後を予定している』

陽炎『二十分……。かなり速いわね』

提督『最近、不穏な情報を入手してね。念の為に用意していたんだ』

陽炎『不穏な情報?』

提督『いま説明している暇はない。それより、二十分持ちそうか?』

陽炎『持たせるしかないでしょ。応急措置は済ませたけど、時津風の失血も不安だから、なるべくケツを叩いてやって』

提督『当然だ。各員、聞いたな? これから二十分、なんとしても持ちこたえろ。絶対に全員で生きて帰ってこい! いいな!』


『了解!』

 全員が、声を合わせて言った。

 その数分後だった。敵の第二次攻撃隊が到着した。数は、先ほどよりも少ないようだったが、それでも傷ついた駆逐隊を嬲るには十分すぎるほどの数だった。

 状況は、最悪だった。けれど、希望は捨てていなかった。司令官や陽炎ちゃんたちの言葉が、私の視野を広げてくれていた。さっきよりも身体が軽かった。アドレナリンが出ていることもあったが、この土壇場で勘が戻ってきたためかもしれない。自分でもびっくりするくらい、冷静で集中できていた。ゾーンに入ったのかもしれない。すべての動きが、ゆっくりに見える。

 それに、敵の攻撃隊は合理的に判断したのか、時津風ちゃんを抱える陽炎ちゃんに攻撃を集中していた。だから、こちらが少しだけ手すきになっていた。先ほどと比べたら雲泥の差と言ってもいい。

 私は、司令官の声を、言葉を思い出す。

 ――生きて帰ってこい。

 ああ、司令官。司令官。司令官司令官司令官司令官司令官司令官司令官司令官司令官司令官司令官司令官司令官司令官司令官しれいかん――。私の大切な家族。『家族』が、戻ってこいと言ってくれた。このまま頑張って生きて帰れば、私のことを許してくれるかもしれない。吊橋効果というやつなのかな? この危機を乗り越えれば、私たちの絆はさらに深まる気がする。雨降って地固まるってやつよ。


 そう、それと――。私は、忘れていない。

 あいつを、「消毒」しなきゃ。

 今なら、雷撃機も飛んでいる。魚雷を放ったところで、絶対にバレはしない。こっそりと確実に、間合いに近づいた瞬間、あいつに撃ち込んでやる。

 爆発を取舵で躱しながら、あいつの方を見る。まだ遠い。あいつは、冷静に爆撃機と雷撃機の動きを読みながら舵を取り、機銃を放っていた。寒気がするほど冷淡だ。本当に機械なんじゃないかと思えるくらい、動きが精密だった。まるで、この状況に慣れているようにも見える。

 が、どうでもいい。あいつを、殺せればいいんだから。

 私は、魚雷を準備した。魚雷発射管を稼働させ、海面に向ける。そのまま徐々に徐々に距離を詰める。

 間合いまで、あと一歩というところで――目が合った。

 息を、呑んでしまった。あいつの瞳が、まるで深海棲艦のように真っ赤に輝いていたからだ。狂気が、詰まっていた。

 まるで、私の狙いなどすべて分かっていたかのように、あいつは、目をゆるりと細めた。


 雲が、蠢いた。そう見えた。見えてしまった。それくらい、敵航空隊の数が一斉に増えた。

 敵の増援が、現れた。

深雪『クソがぁっ!!』

 深雪ちゃんの絶望が響いた。第一次攻撃時よりも、遥かに多い数になった。しかも、それだけじゃない。真反対の方向からも敵機がやってきた。赤く輝く、艦載機。エリートクラスの空母機動部隊の航空隊が。

 瞬きほどの刹那。音が消え、殺意が消え、狂気が消え――すべてが私に殺到した。

 悪魔たちが、笑った。

陽炎『雷ちゃん!』

 陽炎ちゃんの悲鳴。ゆっくり迫る艦載機の大群。

 逃げなきゃ。逃げなきゃ逃げなきゃ逃げなきゃ逃げなきゃ。

 私は、主機を必死に働かせようとした。壊れそうなくらいに音を上げていた主機が、その瞬間、止まった。


雷「――え」

 このタイミング、で。

 故障? いや、違う。そんなわけがない。こんなタイミングで故障なんてあり得ない。あり得るわけが、ない。

 ああ――。

 私の記憶が、弾ける。迫りくる敵機を前にして思い出していたのは、本物の悪魔の顔と声。東鎮守府の司令官の微笑みと、歌。

 あいつは、電や暁や響の艤装をわざと故障させ、無惨に殺害した。暁を殺したときの歌は、今でも忘れない。

 ――「さよなら」だけが、人生だ。

 私は、腰を抜かした。爆弾がいくつも、いくつも放たれた。ゆっくりとゆっくりと空気を引き裂きながら、私へと落ちてくる。

 最後に見たのは、あの女の顔だった。

 あいつは、これまでに見たことがないくらい、満足そうな笑みを浮かべ、口を動かした。

 さよなら、と。



投下終了です。
霹靂はあと2回ほどで終わります。
また、視点変更のために使っていた四角の記号が読み取れなかったようで、?マークになっていますが、ご了承ください。スマホを変えた影響かもしれません。


 



 □

 選択した結果はいつも無惨だった。

 陽炎が泣いている。涙。滴り落ちる先には腕――雷の腕。差し出された雷の遺体。唯一のこった雷の残骸。

 彼女は死んだ。

 敵の増援が、彼女を容赦なく切り裂いた。降りかかった爆弾の嵐は避けようなどなかったのだろう。一瞬だったそうだ。助ける暇などなかったに違いない。爆発が天を貫き、空を焼いた。バラバラになった雷は、血液さえも蒸発して消えた。腕だけを残して消えた。呆気ないほどの死。理不尽なほどの人生の否定。

 俺は、ただ見詰めていた。残骸を。雷だったものを。見詰めるしかなかった。視界は色褪せていた。灰色だった。鮮やかな色素はすべて死に絶えたかのようだ。空が曇っていたせいではない。それだけではない。現実味のない光景が、俺から色彩を奪っていた。

 何も言えない俺に語りかけるものはいない。負傷して運ばれた時津風以外の三人は、ただ陰鬱な表情で虚空を見ていた。陽炎だけが泣いている。浜風と深雪は意気消沈としている。

 雨は降っていない。暗い。絶望。無味無臭の世界。死がすべてを奪い去っていた。


 雨は、降っていない。

 だのに、なぜだろう。なぜ、こんなにも雨の音が聞こえるのか。生きているのは耳だけなのか。いや、違う。幻聴だ。わかっている。雨の音を浮かべていないとすぐに気が狂いそうになる。ああ、俺は曖昧になっていた。自分が立っていることさえもわからなくなるほどに。港。ここは港。陽炎たちの帰りを待っていた。全員が無事で帰ってくると信じて待っていた。

 無線で、陽炎から雷の死を聞いても信じてはいなかった。信じられるわけがなかった。戦死者を一度も出していないのが数少ない取り柄なのだ。死ぬはずがない。死んだはずがない。陽炎の見間違い。大破と轟沈を間違えて報告しただけ。間違いは、誰にでもあることだ。だから、帰ってきたら笑って許してやろう。

 そう思って、待っていたんだ。

 だけど、帰ってきたのは絶望だった。死に至る病が死を運んだ。腕を象徴に添えて。残虐なおこない。これ以上の残酷さが、この世のどこにあるのだろうか。

 俺は信じられなかった。

陽炎「……報告します」

 聞きたくない。

 陽炎が続けた。

陽炎「〇九三七、南西諸島海域での鼠輸送作戦の帰投中、第一駆逐隊は敵航空隊より二度の攻撃を受けました。被害は、大破一、中破二、そして轟沈が一名」


 違う。間違うな。

 轟沈なんて出ていないんだ。お前の持っているそれは、雷なんかじゃない。違うんだ。間違っている。訂正しろ。

 そう叫びたい。でも出来ない。出来ないんだ。分かっている。この手が誰のものかなんて間違いようがない。爛れて黒く変色したとはいえ、間違うことはないんだ。俺は、近くで見てきたのだから。ここにいる誰よりも近くで。

提督「……報告ご苦労」

 冷たい声が零れ出た。

提督「もう、下がってくれて構わない。……俺が預かろう」

 雷の腕を、とは言えなかった。陽炎が充血した瞳をこちらに向けて、無表情に頷いた。感情を殺そうとしていることが痛いほどに伝わってくる。だが、それに気遣う余裕なんてあるはずがない。

 腕は、異様なほどに軽かった。軽すぎた。人間の一部とは思えないくらい肉感が薄い。死の軽さを、冷たい現実を、否応なしに教えられる。

 ああ、久しぶりにこの腕に抱く。

 無機質な死を。

提督「……下がれ」

 いつまでも下がろうとしない陽炎たちに言った。彼女たちは動かない。動けない。分かっている。分かっているんだ。彼女たちの気持ちは、苦しいほどにわかるんだ。

 だが、俺は抑えきれなかった。


提督「下がれぇ!」

 陽炎たちは今度こそ何も言わずに立ち去った。港には俺と雷だったものだけが残った。腕は、何も言わない。肉が溶け、骨が剥き出しになった指先をこちらに向けているだけだ。

 雨は降っていない。

 降ってはくれない。





 葬式が終わってから、一週間が経った。

 世界は陰鬱と翳ったまま、足を引きずるように時間が過ぎた。とてつもなく長い日々だった。だのに、なにがあったのか、ほとんどが曖昧模糊としていた。

 身寄りのない艦娘の骨は、無縁墓地に埋葬されるのが慣例だった。雷には、血のつながった本物の「家族」はいない。彼女は孤児院出身だった。帰る場所がない。帰ることができない。

 だから、墓石の下に眠っている。

 南西鎮守府の小高い丘。見下ろせば鎮守府と海が見える開けた場所に、墓地はあった。ここは、療養所時代からある墓場だ。治療中に亡くなってしまった艦娘たちが、大きな墓石の下で一つになって眠っている。その横に列席する小さな墓石。真新しくて、光沢のある御影石。駆逐艦「雷」と刻まれた文字。

 俺は、見下ろしていた。片手に菊の花を持って。

 生暖かい風が、俺を撫でていた。辺りは仄暗い。空を覆う灰色の雲のせいだ。幾層にも重なって、太陽の光を阻んでいる。

 雨は降っていない。音は聞こえない。

 花を置いた。しゃがみこんで、そのままじっと下を見た。蟻の大群が、キリギリスの死体を食いちぎって運んでいる。切り離された前足が、冷酷に放置されていた。雷の墓の前は劇場になっていた。演目は生の無慈悲さ。踏みにじって邪魔をする気力は、俺にはなかった。

 億劫だった。何もかも、捨ててしまいたくなっていた。もう、どうなってもいいから。そんな気分が、俺の心を侵食し、傷口に沁み入るように痛みを発していた。神経が狂ったように痺れ、指先を震わせている。自律神経が壊れかけていた。どうにかなりそうだった。


 ようやく、気づいたんだ。雷がいなくなって、ようやく。俺が、本当は雷をどう思っていたのか――。

 雷がはじめてこの鎮守府に来たとき。彼女は、ひどく怯えていた。目をいつも動かして、何かに備えるようにいつも身体を抱えて丸まっていた。俺は、それを見て掻き毟りたくなるほどに心が乱れた。どうにかしてあげたいと、思ったんだ。家族を惨殺され、精神を隅まで破壊された彼女を救いたいと。俺には……家族をすべて失った俺には、彼女の気持ちが痛いほどに分かったんだ。

 ――俺のことを家族だと思ってくれていい。

 そう言ったとき、彼女は嬉しそうに笑ってくれた。はじめて笑ってくれたんだ。心底、安心したように。それから彼女はみるみるうちに元気になっていった。元気になった彼女を見るのが嬉しくて、甘えてくる彼女を、つい甘やかしてしまった。その関係をズブズブと続けた結果が、共依存。いつの間にか、自分でも気づかないうちに、俺たちは鎖で繋がれていたのだ。

 その関係を、鬱陶しく思うことはあった。たくさん、あったよ。彼女の身勝手さに振り回されて、疲れたこともイライラしたこともあった。許せないことだって、あった。

 でも、それだけだったか?

 それだけではなかったはずだ。

 俺は、彼女が作ってくれた唐揚げが好きだった。彼女が淹れてくれるコーヒーの芳しい香りに、何度も解された。子供扱いしたらむくれる彼女をかわいいと思った。頭を撫でたら顔を真っ赤にして笑う彼女を愛おしいと感じたこともあった。彼女との何気ない会話が、ときに俺を癒やしてくれた。辛く苦しいときに、彼女に励まされたこともあった。彼女はときに悪魔で、ときに天使だった。


 ああ。そうなんだ。もう、彼女の笑顔を見ることも、作ってくれた唐揚げを食べることも、一緒にコーヒーを飲むこともできないんだ。

 両膝を強く掴んだ。服が、千切れんばかりに歪む。

 ぽつり、と水滴がうなじを叩いた。

 彼女との日常は、失われたのだ。もう永遠に帰ってこない。当たり前にあったそれが、どれだけ尊かったことなのか、彼女を失ってはじめて……はじめて……気づいたんだ。

 俺はいつも遅すぎる。

提督「雷……」

 視界が、歪んでいく。うなじに触れる水滴は、一つだけではなくなった。二つ三つ、頭にも落ちてくる。

 彼女を追い出そうとした。彼女の一方的な行為に耐えきれなくなって逃げようとした。向き合おうとしながらも、目をそらし見ないようにしていた。なあ、俺は、なんて身勝手なんだろうな? 言い出したのは俺なのに、「家族」であることを後から否定して、その関係を清算できないかと考えてしまっていたんだ。

 なあ、雷。

 雷。

 俺たちは……。

 雨が、降り出した。俺の涙をさらうように、濡れた髪から雫が流れていく。


 ときに嘆き、ときに喧嘩し、ときに対立し、ときに感情を図れず、ときに一方的になり、ときに踏みにじってしまう。それでもだ。それでも、俺たちは一時でも笑い、助け合ってきたこともあった。暖かい時間を共有し、励まし合える関係だった。

 その関係が、「家族」でなくてなんだというのだ。

 俺は、地面を叩いた。拳で殴り、手のひらで打ち、地面を指で削り取るように掴んだ。

 激しい慟哭を上げた。雷の名前を、何度も、何度も、空に向かって叫びながら、取り乱した。雨が、激しく降っていた。そんなことどうでもよかった。濡れようが、このまま潰されて溶けてしまおうが、どうなってもよかった。雨が目に落ちてきても、瞬きさえもしないで泣き喚いた。稲妻のような嘆きを、叩きつけ叩きつけ叩きつけ叩きつけ叩きつけ叩きつけ叩きつけ叩きつけ叩きつけ叩きつけ叩きつけ、喉が壊れるくらいに叩きつけた。

 雷。

 俺たちは、「家族」だった。「家族」だったんだよ。

 ごめんよ。俺はお前を家族として受け入れようとしなかった。受け入れるべきだったんだ。清濁併せ飲む覚悟が足りなかったんだ。俺の意志の弱さが、お前を狂わせたのかもしれない。

 選択した結果はいつも無惨だった。

 本当は、彼女のように「家族」を求めていたのに。失ったものの影を、追っていたのに。必死に見ないようにしてきた結果が、これだった。すべてを失った後では、もう何もかも遅すぎる。声をかけてやることさえも出来やしない。


 軍帽が、地面に落ちた。泥水と雨を吸って汚れていく。手袋ももはや茶色に濁りきっていた。

 降りしきる雨が、嘲笑う。

 家族を失い続ける俺を、嘲笑う。

 なあ、静流。兄ちゃんは、また守れなかったよ。

 お前を死なせて、親父も母さんも自殺に追い込んで、手の届くところにいた雷すらも救えなかった。

 兄ちゃんは愚かだ。

 無能。かつて、親父が俺をそう詰った。そのとおりだ。閣下の期待なんて的外れなんだ。俺は、ドン・キホーテ。風車に突撃をして失笑をかう程度の存在。裸の大将。過大な夢を見る馬鹿。現実を理解していないクズ虫。

 酒瓶が手にあった。飲もうとしていた。無意識だった。飲まねばやっていけないと身体が叫んでいた。酒の味を、アルコールに麻痺する感覚を欲していた。馬鹿だ。馬鹿だ。俺は、馬鹿だ。こんなところに来ても、酒を手放せない。

 叫びながら、瓶を叩きつけた。瓶は、音を立てて砕けた。「髭の王様」が死んだ。


 胸を焼いたのは激しい自己嫌悪。アルコールで誤魔化そうとした痴愚。胃の内容物が、感情の澱をともない、せり上がってくる。逆側からも焼かれる。まるで地獄の業火だ。己の罪を己の内側から糾弾されている。

 耐えられず吐いた。雷の墓石を汚さないようにするのが精一杯だった。キリギリスに胃液がかかった。俺は死を愚弄した。止まらなかった。鼻に逆流して、鼻からも垂れ流すほどに出した。そのほとんどが胃液と朝飲んだ酒だった。食は喉を通らなかった。酒だけを浴びるほどに飲んでいた。ここ数日、ずっと。

 涙が止まらない。雨は、誤魔化さない。消してくれない。俺の惨めさを。俺という人間のくだらなさを。なにも。

 膝を抱えていた。子供のように丸まりながら。

提督「……ごめんなさい。お父さん、お母さん」

 謝るな。

提督「静流を見殺しにしてしまいました。何もできませんでした」

 謝るんじゃない。二人はもういない。

提督「僕が、悪かったです。僕が。僕が……。僕がもう少し頑張っていれば、きっと間に合っていました。僕が、無能だから。無能だからあんなことに。ごめんなさい。許してください」

 やめろ。やめてくれ。

 もう、振り返らないと決めただろう。





 □

 提督は、悲しんだ。

 自分に取り憑いていた寄生虫の死を。子供のように膝を抱えて、掠れた笑い声を上げながら。私が差し出した傘にも、苛む雨が止まっていることにさえも気づくことなく。

 提督の姿は、精神病院に囚われた子供たちを想起させる。私が艦娘になる前に入れられていた白いところ。色々な子供たちがいた。壁に語りかけて返事をもらう子、頭を打ち続けて自分の存在をアピールする子、糞尿を垂れ流しながら走り回る子、膝を抱えて自分の世界に閉じこもる子。記憶の中にいた誰かの姿と提督の姿が重なっている。

 ああ、可哀想に。

 あんな寄生虫のせいで。こんなにも苦しむなんて。

 傘が揺れる。提督を責めてやりたいと悪魔が風を差し向けたようだ。私は力を込めて傘を抑え付けた。

 良心の呵責はない。

 私は間違ったことは何もしていない。あいつは提督から血と精神を吸うだけに飽き足らず、高潔な優しい想いさえも踏みにじり汚そうとしたのだから。思い出すと、いまでも腸が千切れそうになる。あの夜、私が見た光景。あれは紛れもなく破戒だった。


 許せるはずがない。私の大切な人を、温もりをくれた人を、愛を教えてくれた人を、あんな目にあわせた。陵辱。この熟語は、死ぬほど嫌いだ。万死に値する罪だ。たとえ未遂だったとしても、提督に触った指をすべてへし折って舌を切り落としても足りないくらい、やつがやったことは許せなかった。

 墓に入った今でも――。いや、だからこそ。骨となって戻ってきただけじゃ飽き足らず、いまもこうして提督を苛んでいるのだから、本当に質が悪い寄生虫だ。細菌よりもしつこい。死してなお提督を苦しめている。

 でも、仕方がないことだとはわかっている。殺害とは、死とはこういうものだ。どんなチンケな存在であれ、人間として存在を定義された者の死である以上、人の心には深いシコリが遺ってしまう。南鎮守府で嫌というほど見てきた光景だ。誰かの死が、誰かを苦しめる毒として蓄積していく。やがて死に慣れていくが、そんなものは表面上の麻痺でしかない。心が壊れないように蓋をしているだけの状態だ。奥底では、ずっと沈殿し続けて、やがて新たな死を呼ぶ病となる。

 まるで――風病のごとく。

 死の破壊力を、私は知り尽くしていた。だからこそ、あの寄生虫を殺さないことに拘っていた。私を殺そうとしたところを、証拠を掴んだ上で糾弾し、追放してやるつもりだった。回りくどいほどにあいつを挑発し続けたのも、出撃に追い込まれたあいつを私の後ろに置くよう誘導したのも、すべてそのためだった。あんなことをあいつがしなければ、私があいつを殺すことなんてなかったのだ。

 だけど、私はあの女を殺した。躊躇なんてなかった。私の怪物のごとき憎しみが、理性を変容させた。殺害行為のデメリットよりも奴を消し去るメリットの方が大きいと判断させるほどに。


 出撃再開までの一週間は、地獄だった。ずっと、ずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっと我慢していた。殺したかった。八つ裂きにしたかった。だから、その感情を慰めるためにも、殺すまでのあいだ提督に指一本触れさせないためにも、釘を刺してやったのだ。偽装した書類を用意するのに一日かけたが、大したことはない。印鑑を掘るのも、提督の筆跡パターンを分析し一ミクロンのズレもない偽装文章を書くことも、なんということもなかった。

 それを突きつけてやったときの、あいつの顔は滑稽だった。普段から考えるということを放棄しているためだろう。馬鹿は、すんなり信じた。さすがに薬まで使うのは想定外だったけど、釘は深々と刺さってくれた。多少の慰みにはなった。

 が、満足するには程遠いものだった。殺さねば溜飲は下がらなかった。待ち望んだ一週間がきたとき、私は笑いを噛み殺すのに必死だったほどだ。出撃前に発艦させた艦載機が、見事に仕事を成し遂げたのをみた瞬間は、脳が溶けそうなくらいに喜びが広がった。泣き叫ぶ陽炎姉さんたちの中で、私だけが悪魔に魂を売り渡していた。

 あははは。あははははははっ。

 ああ、可笑しい。悪魔に魂を売り渡した? いまさら、なにを世迷言を言うのか。そんなもの、人間でなくなったときに、とっくに売り渡している。

 だから、悪魔的な打算も浮かぶ。

 私は、あの寄生虫の死でさえも利用する。吐き気を催すほどに憎いやつだが、せいぜい糧になってもらおうと思う。


 提督を、私無しでは生きられないようにする。私だけを見るようにし、私といるときだけ幸福を感じるようになってもらう。それが、最良な手段だ。これ以上、あの寄生虫みたいな存在が寄り付かないように。提督が汚されないように。

 いま、あの女の死が、提督に深い影をさしている。前述したように死とは病だ。提督は深く傷つき、打ちひしがれている。あの女の死はなかなか消えないだろう。だが、かならず消してみせる。抹消はまだ終わってはいない。

 お前は二度死ぬんだ。

 私は、墓石に蔑視と嘲笑を向ける。だが、そんなものは一瞬だ。すぐに眼差しは愛しの人を捉える。抱きしめたい衝動にかられたが、今は肉体と肉体の接触がかえって提督を苦しめるだけだと分かっていた。だから、私は彼に慰めをかけることはしない。別の角度から布石を打つことにした。

 怒りを煽る、という布石を。

浜風「提督」

 彼は呼びかけには答えない。聞こえていないかのように笑い続ける。

 だが、構わない。雨に打ち消されないよう声を張り上げる。

浜風「提督、聞いてください。あなたに報告しなければならないことがあります。出撃再開のあの日、私たちが第二次攻撃を受けたあのときのことです」


 提督の笑いが止まった。

 私の嗤いがこみ上げてきた。

 雨が、激しく私を責めた。服が濡れて肌に張り付いたが気にもならなかった。圧倒的な愉悦の前では、すべてが些事と化す。

浜風「あのとき、雷さんの艤装が故障を起こしました」

 提督が、ねじ切れるような勢いで首を巡らせた。仄暗い三白眼がこちらを射抜いていた。私は神妙な顔を装って見詰める。雨など消えている。私と、彼の意識の前では、消え失せる。

 私は、続けた。

浜風「あれは、誰かが意図的に故障させた可能性があります」

提督「……」

浜風「提督、辛いかもしれませんが、聞いてください。雷さんを間接的に殺したものがいるのです」

提督「……う、そだ」

 嘘ではない。殺したものはあなたの目の前にいる。そして、艤装を破壊したものは、私ではない。

 だから、私が語ることは事実を捻じ曲げた真実だ。

浜風「残念ですが、真実です。雷さんの艤装が故障を起こしたところは、私も陽炎姉さんも見ていました。一瞬でしたが、間違いありません」

提督「……あ、あ。うそ、だ。うそだうそだうそだ」


 提督が、頭を抱える。泥に汚れた手を振り回し、髪が汚染されることも厭わず、子供のようにイヤイヤをしている。

 なんて、可愛いんだろう。私は歯を噛んで、堪える。下半身が、落ち着かない。こんな感覚、提督の温もりを知ったあのとき以来だ。ああ、これが本当の支配者のカタルシス。提督を所有したいという究極の欲求が、私を突き動かす。

 提督の頬を、叩いた。乾いた音がなった。一瞬生まれた空白。唖然とする提督。

 私は、この隙を見逃しはしない。

浜風「しっかりしなさい! 柊結弦! 雷さんの死を無駄にする気なの!」

提督「……」

 私の目からボロボロと、意味がない水が流れ出る。この程度の三文芝居、何度もやってきた。目を見開く提督。驚いている。驚いてくれている。

浜風「あなたの苦しみは、想像を絶するものでしょう。これまで、あなたが犠牲を出さないように最善を尽くしてきたことはみんな分かっている。だからこそ、折れそうになっていることも……」

提督「……」

浜風「でも、ここで折れたらすべてが無駄になるわ! 雷さんだって、こんなあなたの姿なんて望んでいないはずよ! ……私たちのことを守ってくれるんじゃないの? 私たちを幸せにしたいんじゃないの? 私や陽炎姉さんと約束したことを忘れたの……?」

 声のトーンを落とす。提督が俯いて、目を震わせていた。動揺が、走り抜けている。彼の中で記憶と思いが膨張しようとしている。今まで、何人もこうして操ってきた。だから、わかる。手に取るようにわかる。提督の心が、提督の感情が、提督のすべてが。

 王になったような全能感が、私を軽くした。


 ああ、提督。提督。ていとく。

 私は、あなたのすべてが欲しい。

 傘を放り投げた。肉体の接触は、いまこの瞬間なら絶大な効果を発揮する。状況は目まぐるしく動く。私は、それに逆らわず提督を胸に抱いた。

浜風「……あなたには、私がいるわ」

提督「……はま、かぜ」

浜風「忘れないで。あなたが今後どんな苦しみに苛まれようとも、私は、私だけはあなたのことを絶対に見捨てない。雷さんを殺した犯人も、薬物を持ち込んだ馬鹿野郎も、私がかならず見つけるわ。あなたの夢も、あなたの望みも、かならず私が叶えてみせる。支えてみせる」

 だから。

 だから、私だけをミテ?

浜風「何度でも約束する。かならず……」

 提督が、私の背中に腕を回した。彼の頭が腕の中に。温かい。今までにないくらい、温かい。私はうっとりと法悦に浸る。

 ふと、水溜りが目に入る。波紋を作り続ける水面。浮き上がったキリギリスの死骸。そこに微かに映る影。

 嘲笑する義姉の影。あいつは、なにも言わなかった。ただただ満足そうに私を見下ろしていた。私も、笑みを返してやった。やつは、居なくなった。

 構いはしない。なんとでも笑え。


 私は、決めたんだ。彼を手に入れるためなら地獄の鬼どもとだって喜んで契約してやる。あの鎮守府にいる子達がどうなったって、構いはしない。

 邪魔するものは、すべて、排除してやる。

 そう、邪魔するものはすべて――。

 提督のすすり泣く声。私は子守唄を聞く気分で耳を傾けながら、空に視線を移した。

 寄生虫を殺したあの瞬間。

 私は、信じがたいものを目にしていた。

 エリートクラスの赤い艦載機。あれは、私のものではない。それがなぜか、私のまったく意図しない方角から狙ったようなタイミングで現れた。そして、寄生虫の艤装が故障。あれも私の仕業ではない。あんな手の込んだ細工は一切していない。

 あの一瞬で、だ。あの一瞬で、私が意図しないことが二度も起きたのだ。偶然にしてはあまりにも出来すぎている。

 私の殺害を察知した何者かがいる。そいつが、私に余計な手を貸してきた。ひどく遠回しで、悪趣味なやり方で。

 誰だ?

 いったい、誰がそんなことをしたんだ。


 意図はわかっている。私に対する挑発だ。艦載機を見せびらかして、艤装を故障させることで、私に暗喩的なメッセージを送ってきた。

 一つは、私の計画を察知していることを知らせる目的。もう一つは、「私の『正体』を知っているぞ」という示威行為。そして、最後は……。

浜風「……ふふ」

 ――最後は、探してみろという挑戦状。

 私は、提督の頭を強く抱きしめた。雨は、降り止む気配を一向に見せない。ドス黒い雲が、不気味なほどに蠢く様は、巨大な芋虫の群れのように悍しかった。

 面白くなってきたじゃない。

 どんな目的があるのかは知らないけどね。

 私と提督の邪魔をするなら、消してやるわ。

 この寄生虫と、同じように。






 

投下終了しました。
次回からは五章に入ります。まだ半分くらいですが、これからも気長によろしくお願いします。




 
 クヌギの幹に張りついた命の殻が、割れた背中をこちらに見せながら、生まれ変わりを主張している。

 空蝉は、命の欠片。置き去りにした蝉どもは、懸命に生の躍動を訴えている。天まで昇るような激しさで。入道雲さえ揺さぶるように。

 寄生虫の死から一ヶ月半が経った。立秋を迎え、鎮守府に沈んでいた原油のような重たい気配は、少しずつ溶けてなくなってきている。私達にとって死とは日常の範疇を出るものではない。慣れることはないが、切り替える術というものを、みんな大なり小なり身につけているのだ。戦場で正気を保つための処世術を構築できないものから、はやく死んでいく。

 蝉のようにね。

 空蝉の下で、翼のもげた蝉がもがき苦しんでいた。生誕の残骸と、朽ち果てようとする生が置き去りにされている。酷い光景だ。戦場でよくある光景でもある。その酷薄さを、私は冷徹に見限り、足を進めた。

 暑いのかどうかすらわからない。きっと暑いのだろう。激しい運動でもしないかぎり汗をほとんどかかないから、身体はセンサーの役割を果たさない。かげろうによって、地面がぼかされているところから察するしかなかった。 




五章「王」





 
 クヌギの幹に張りついた命の殻が、割れた背中をこちらに見せながら、生まれ変わりを主張している。

 空蝉は、命の欠片。置き去りにした蝉どもは、懸命に生の躍動を訴えている。天まで昇るような激しさで。入道雲さえ揺さぶるように。

 寄生虫の死から一ヶ月半が経った。立秋を迎え、鎮守府に沈んでいた原油のような重たい気配は、少しずつ溶けてなくなってきている。私達にとって死とは日常の範疇を出るものではない。慣れることはないが、切り替える術というものを、みんな大なり小なり身につけているのだ。戦場で正気を保つための処世術を構築できないものから、はやく死んでいく。

 蝉のようにね。

 空蝉の下で、翼のもげた蝉がもがき苦しんでいた。生誕の残骸と、朽ち果てようとする生が置き去りにされている。酷い光景だ。戦場でよくある光景でもある。その酷薄さを、私は冷徹に見限り、足を進めた。

 暑いのかどうかすらわからない。きっと暑いのだろう。激しい運動でもしないかぎり汗をほとんどかかないから、身体はセンサーの役割を果たさない。かげろうによって、地面がぼかされているところから察するしかなかった。 


 一応、肩にかけていた水筒を掴み、口をつけた。熱中症対策は万全にしておかなければ、熱感覚がない私は気づかないうちにやられてしまう。提督の温もりを知ったからといって、呪いが解けたわけではないのだ。常に隣にいることを、ゆめゆめ忘れてはいけない。

 鎮守府本館の側を抜け、港を通り、艦娘寮へと向かう。私の探している人はそこにいる。魔の海域を攻略し、モーレイ海も突破して迎えた、束の間の休息を楽しんでいることだろう。きっと、みんなと将棋でもしているはずだ。

 艦娘寮の広場に、人集りができていた。

 その中心に、提督の影が見える。どうやら鈴谷さんと指しているようだ。緑の後ろ髪がエメラルドみたいに光っていた。

提督「王手」

 提督が、にやりと口を歪めた。鈴谷さんが悩ましげに唸っている。状況を見る限り提督の優勢なのだろう。

 鈴谷頑張りなよー、と周囲に煽られて、鈴谷さんが頭を抱えた。

提督「積みだなあ。どう足掻いても逃げられないぞ」

鈴谷「待って待って、ちょい待って。まだなんか手があるかもしれないじゃん!」


熊野「たとえ持ち駒を置いたとしても無理ですわよ。銀をここに置かれたら……ほら、上に逃げるしかないでしょう? そこに提督が龍を指したら完全に積みですわ」

 三隈……いや熊野さんの解説が添えられる。盤面は私の位置からでは見えない。しかし、完膚なきまでに鈴谷さんは敗北したようだ。項垂れている。みんなの笑い声と口笛。

鈴谷「にゃああ、悔しい。また負けちった」

提督「ははは、鈴谷もまだまだだなあ。もっと勉強して出直してきたまえ」

 提督が扇子で扇ぎながら得意気に言った。鈴谷さんはさらに奇声を上げる。

鈴谷「今度こそ自信あったのにぃ。熊野と超練習したんだよ?」

提督「まあたしかに、初めのときよりは強くなったと思うぞ? まさか美濃囲いで来るとは思わなかったしな」

熊野「型は覚えても、まだ活かしきれていませんわね。さらに勉強あるのみですわ」

 私は人垣に割って入ると、提督に声をかけた。

浜風「提督。お楽しみのところ申し訳ありません」

提督「おお、浜風か。どうかしたのか?」


 提督は白い歯を見せてくれた。肌はやや小麦色に焼けていて、いつもの病的な肌の白さを覆い隠している。健康的で、海の男らしい爽やかさがあったが、それが上辺だけのものであることは、わかりきっていた。私だけでなく、ここにいる全員が。

 私は、微笑み返して告げる。

浜風「指示されていたキス島攻略の編成案なのですが、いくつか纏めましたので改めて相談したいです。お時間の都合は大丈夫でしょうか?」

提督「もう出来たのか。相変わらず仕事が早いな。時間は大丈夫だから、気にしないでいい。さっそく聞かせてもらおう」

浜風「陽炎姉さんとも相談したいので、よければ演習場に行きませんか?」

提督「陽炎は演習場にいるのか?」

浜風「ええ。新しい艤装を試しているようです。防空戦の練習も兼ねているようなので、瑞鳳さんとも一緒にいるみたいです」

提督「なるほど。では、そちらに向かおうか」

 提督は駒を盤面に整理すると、立ち上がった。鈴谷さんたちに別れを告げて、歩き出す。足取りは驚くほどに軽い。軽く見える。

 私も、提督についていこうとした。


鈴谷「ねえ、浜ちゃん」

 私は振り返る。

 鈴谷さんは、いかにも不安そうに眉を下げていた。彼女はいつしか、私のことを「浜ちゃん」と渾名で呼ぶようになっていた。馴れ馴れしいとは思わない。一ヶ月半の時間の変化を実感するだけだった。

浜風「なんでしょう?」

 提督の方に視線を投げる。彼は私が立ち止まったことに気付かず、海を見ながら歩いていた。

 はやく、済ませて欲しい。提督といられる時間が減ってしまうではないか。

 しかし、内心の抗議は黙殺する。鈴谷さんの様子には、苦しげすら感じられたから。よく見ると鈴谷さんだけではない。全員が呼応するように、煮えきらない表情を浮かべていた。眼差しをそっと提督へ向けるものもいる。

鈴谷「提督さ……。変わっちゃったよね」

 鈴谷さんは言葉にしたことを後悔するように目を伏せた。太陽が雲で遮られ、影が落ちる。光で虚飾した欺瞞が鮮やかさを失っていく。

 彼女の言いたいことは間違いではない。提督はたしかに変わってしまったように見える。寄生虫を失って以来、昔よりもずっと臆病になったし、ずっと明るくなった。まるで、闇を振払おうと必死で懐中電灯を振り回すような健気さで、自分を偽り始めた。そこには深い傷があり、恐怖があった。大切なものをこれ以上掌からこぼれ落としたくないと、無言のうちに叫んでいる。


 それは、これまでにない馴れなれしさになって現れているのだ。みんな、当然だが違和感を覚える。提督がおかしくなってしまったんじゃないか、と勘繰ってしまう。

 提督のことを慕わないものはいない。だからこそ、心配している。寄生虫……雷さんの死が、彼に計りしれないダメージを与えてしまったのではないかと懸念に駆られるのだ。

鈴谷「あ、その……さ。別に提督のことを悪く言っているわけじゃないんだよ? ただ、最近の提督、なんか違うなあって思うだけで」

 私が黙してしまったことを気にしてか、鈴谷さんは取り繕うように言葉を並べる。健康的な太ももが微かに動き、将棋盤を揺らした。

 転がる王を、誰も気にしない。

浜風「わかってますよ」

 私は口を開いた。

浜風「でも、心配する必要はないと思います。提督は、たしかに明るく振る舞おうとしてはいますが、本質的には何も変わりませんから。みんなが知っている、思慮深い提督のままですよ」

鈴谷「そう思いたいんだけどね。あの様子を見ていたら心配するなって方が無理だと思う」

熊野「私も、そう思いますわ」


 鈴谷さんの言葉に、おそるおそる熊野さんが同意した。他のみんなも同じ意見なのだろう。何も言わなかったが、表情は一様に陰っていた。

 本当に心配する必要はないのだけれど。

 提督には私がいるのだから。あなた達が心配するまでもなく、提督の傷は私が少しずつ着実に癒やしている。取るに足らない有象無象どもが、提督の思いに踏み入ろうとするなんて、おこがましいにもほどがあるわ。

 嘲笑したくなる気持ちを抑え、私は口を回す。

浜風「皆さんの心配は、当然のことだと思います。ですが、提督は皆さんが思っているよりずっと強い人です。たしかな信念をもった武人です。だから、大丈夫……。彼は、かならず立ち直ってくれますよ。それは秘書である私が保証します」

 私は、言葉を区切って全員をゆっくりと見渡し、最後に鈴谷さんを見た。

浜風「それとも――」

 目を細める。

浜風「私の言葉は、信用できませんか?」

 静かに、しかしはっきりと力強く。ほんの微細な怒りをアクセントに込めた。全員が息を潜め、私の言葉に飲み込まれる。まるで重力に引きずられたかのように。ざわつくことさえなく。

 私はしばらく間をおいて、微笑みを作った。鈴谷さんを静かに見続ける。彼女は落ち着かない様子で、髪を触っていた。


浜風「私は、皆さんが好きです」

 全員の視線が、こちらを向いた。

浜風「とてもお優しいですから。私が自分を見失っているときも、皆さんはけっして私を見捨てませんでした。本当に、嬉しかったんですよ。だから、皆さんが辛そうにしているのを見るのは、耐えられません」

 不意打ちを食らった鈴谷さんは、目を白黒させていた。構わない。畳み掛ける。

浜風「私は皆さんに笑っていて欲しい。もし、私の言葉が信じてもらえないなら、私の努力が足りないということです。そんな自分が許せなくて、さっきはつい語気が荒くなりました」

 拳を握り、胸の前に置く。その一点が、遠近法の消失点のように作用して、全員の注目を集めた。軽く胸を叩きながら、語調にメリハリをつけていく。

浜風「皆さんが、笑っていられる鎮守府を作る。それが、私の夢なんです。提督と同じ夢です。いいですか。私は、皆さんの笑顔を大切にしたいんです。それが、私を救ってくれた皆さんに対する最良の恩返し。そう信じています。ですので!」

 拳に感じた。

 全員の心を、掴んだ感触を。


浜風「……ですので、皆さんの不安は、かならず取り除いてみせます。私が、全力で提督をサポートします。そうすれば必ずや、あなた達の優しい憂慮は、杞憂に変わるでしょう。私には、その力があります。ノウハウがあります。皆さんの期待に、絶対に応えてみせますよ」

鈴谷「……やっぱすごいね、浜ちゃんは」

 鈴谷が、ほうっと息を吐いてそう言った。それを合図に、全員の緊張が解れていく。名著を読み終わったときのような酩酊感を、全員が感じている。確信だ。私には、人の心を読む力がある。

浜風「そんなことはないです。私はただ、皆さんに報いたいだけですから」

熊野「その志は、とても気高いものだと思いますわ」

 熊野さんの言葉に、周りも追従している。私を称える声が続く。私は嬉しそうなフリをしながら、提督の方に目を走らせる。

 提督は、立ち止まって海を見ていた。表情はよく見えないが、明るさは鳴りを潜めていた。

 ああ、提督を待たせてしまっている。退屈させてしまっている。有象無象の相手をしている暇は、とっくになかったんだ。

浜風「……それでは、私はもう行きますね」

鈴谷「提督のこと、よろしくね。私たちもできることはなるべく手伝うからさ。なんでも言って?」

浜風「はい。そのときは、よろしくお願いします」

 そんなときは、永遠に来ないけどね。

 誰も信用なんてできないのだ。

 私は、去り際に転がる王の駒をみた。盤上から落ち、地面に倒れ付す王は、ルールの外に追いやられて、その存在意義を見失っている。あるいは、狭い枠から出られたことを喜んでいるのか。

 沈黙の王は、けっして語らない。






時津風「あ、浜風と司令じゃ~ん」

 私達が演習場に着くと、時津風がいた。ボラードに腰掛けて、見学をしているようだった。

時津風「二人とも視察? 休みなのに仕事熱心だねえ」

提督「俺に休みはないさ。栄光なる帝国海軍のカレンダーには、土曜日と日曜日は載っていないんだ」

 提督は肩をすくめて皮肉を口にする。時津風はほんの一瞬眉をひそめたが、すぐに顔を戻して「そうだねえ」と同意した。

提督「それで、陽炎はもう新しい艤装を試したのか?」

時津風「うん。これがすごくてさ~。あんなの普通の駆逐艦が使ったら、身体がおかしくなっちゃうと思うよ」

浜風「戦艦の装備を改装したものですからね」

 私は海の方に目をやった。水平線に無数の点が浮かんでいた。ブイや的、深海棲艦を模した型。いくつかは壊れ、ひしゃげている。その中央に佇む人影が、陽炎姉さんだった。やや下を向いているが、表情までは伺いしれない。ただ、この距離からでも、陽炎姉さんの背中に張り付く無骨な鉄の塊は、一際目立っていた。

 試製三十五・六センチ単装砲。規格外にもほどがある特注品だ。通常の駆逐艦では、まず使いこなせない装備である。時津風の言うとおり、仮に使うことができたとしても、けっして無事では済まないだろう。三半規管をやられ、身体中の筋肉や骨が軋み壊れてしまうに違いない。陽炎姉さん、「覚醒」した艦娘にのみ許される禁術のようなものだ。


「覚醒」とは、艦娘が特異点へ到達したことを指す。それはいわゆる改や改二などの「改装」とは、定義を異にするものだ。「改装」によって艦娘はたしかに進化を果たし強くなるが、あくまで「艦娘という枠内」での変質でしかない。「覚醒」は、枠外を超えていく。つまり、「艦娘ではない別の何か」に変異することを意味する。

 では、通常の艦娘とは何が決定的に違うのか。それは、艤装適性と妖精との同調率だ。艦娘の艤装適性は、文字通り艤装との相性である。例外もあるが、艦種に相応しい装備以外は使えないのが通例だ。無理に装備すれば、キックバックという現象によって脳が深刻なダメージを受ける。しかし、この定石は覚醒した艦娘には当てはまらない。自分の身体能力、艤装の耐久力の許される範囲で、あらゆる装備を使いこなすことができるようになるのだ。

 また、最大の違いが同調率である。艦娘は妖精たちと感覚を共有しなければ、艤装を使うことができない。その値が優れていればいるほど、優秀な艦娘であることを意味するのだが、どんなに練度を上げた艦娘であっても、せいぜい感覚の半分を共有できればいい方だ。私でも三十六パーセントが最大値である。陽炎姉さんの数値は二百二十パーセント……百パーセントを有に超える。それはつまり、妖精を支配する力をもつということでもあるのだ。

 提督たちと、同等……いやそれ以上の力だ。さすがに、鎮守府中の妖精を支配できる提督たちの権能と比べたら範囲は狭いが、こと自分の艤装に住まう妖精への影響力は提督たちを上回っている。

 提督の支配からさえも外れた存在。艦娘が行き着く究極の姿。この領域に踏み込んだものは、艦娘制度が始まってから三十年で数えるほどもいない。

 そのうちの一人が、陽炎姉さんだ。右腕は、その領域に至る過程で無くしてしまったもの。ある地獄が、彼女を変えたのだ。


 陽炎姉さんは空を見上げた。艦載機が、空を引裂きながら彼女の元へと向かっていく。瑞鳳さんの演習用艦爆隊である。

提督「始まったな」

 提督が緊張した声で言った。

 艦爆が高らかに舞う。急降下。完全なる不意打ち。だが、陽炎姉さんは動じない。必要最小限の動きで取舵を切る。爆音。紫色の水柱が膨れ上がった。陽炎姉さんは機銃を唸らせた。弾き出される曳光弾。吸い込まれるように艦爆機を捉える。錐揉みして落ちていく。それとすれ違うように、陽炎姉さんは前に出る。戦闘機の返礼は彼女に当たらない。それさえ、見切ってかわした。撃ち落とす。二機の戦闘機が死んだ。その最中、彼女は最大の武器を展開していく。

 背中から伸びる単装砲が、牙を向いた。

陽炎「おあああっ!」

 鋭い裂帛とともに、凄まじい黒煙が上がる。烈風が、空気を破壊しながら私たちを叩いた。息が吸えなくなり、肺が呼吸を取り戻した瞬間には、一つの的が粉砕しているのが見えた。

 それを知覚した瞬間には、元の場所から陽炎姉さんの姿は消えていた。驚異的な速度で動き続け、艦載機を次々と叩き落としている。

 必死だった。あまりにもひたむきだった。後悔を払い落とそうと、蟠りをぶつけようと、恐怖とトラウマを打ち消そうと。

時津風「……相変わらず、すごいな」

 時津風の声には感嘆だけではなく、寂寞が込められている。苦しさがある。叫びのような舞をみせる陽炎姉さんに対して、負い目を感じているのだろう。

 それは、提督も同じだった。不自然な明るさは落ちていた。暗く淀んだ三白眼を、陽炎姉さんに向けながら後ろ髪に引かれる思いに耐えている。


提督「浜風」

 提督は私に顔を寄せ、小さな声を出した。耳朶が溶けてしまいそうだった。思わず足が震える。歓喜の声が出ないようにするのが大変だった。

浜風「なんでしょう?」

提督「まだ見つからないのか?」

 何が、とは言わなくてもわかる。寄生虫に薬を与え、寄生虫の艤装を停止させ、やつを殺した犯人。提督は何も知らない。私の刷り込みを、信じ続けてくれている。そして、犯人が見つかることを切望している。

 薬と艤装の故障、そしてあの赤い艦載機。同一人物の仕業で間違いない。私たちを嘲笑うかのような快楽主義者にも似た手口が、共通しているからだ。明確な根拠に乏しくても、それだけはわかる。

 だが、一ヶ月半が経っても犯人は見つからない。寄生虫の戦死以降、一切の目立つ行動を見せないからだ。証拠や痕跡もまったくといっていいほど見つからない。これでは、いくら私でも探しようがなかった。

 はやく見つけたい。私もそう思う。しかし、相手は油断ならない存在だ。私の計画を察知したほどの知能の持ち主であり、赤い艦載機を出せるほどの戦力をもつ怪物だ。下手に動けば、私が食われてしまう可能性もなくはない。慎重にいかねばならない。

 これまでの雑魚共とは、明らかに違う。

浜風「すいません、まだです。おそらく警戒されているのでしょう。なかなか尻尾を出しませんね」

 質問に答えると、提督は落胆するように肩を落とした。心が痛んだ。提督の期待に答えられないことがこんなにも辛いなんて。


提督「……そうか」

浜風「なるべく早く特定します。お辛いでしょうが、もうしばらく堪えていただけますか?」

提督「ああ。すまないな、急かすようなことを言ってしまって」

浜風「いえ、お気持ちはわかりますので」

 それから、提督は口を閉ざした。沈黙が寂しかったが、私も何も言わない。

 爆発音が、虚しく響いた。

浜風「……」

 しかし、だ。

 犯人の手がかりがまったくないかというと、そうでもない。実はある程度、容疑者の絞り込みは進んでいる。

 あるカテゴリーに属する者たちが、候補者だ。

 それは、最大級のトラウマを抱えるものたち。

 東鎮守府に所属していた艦娘たちだ。

 なぜ、彼女たちが怪しいのか?

 理由は、過去の事件を知っていれば自ずとはっきりする。私は、南鎮守府にいたときに「捨て艦事件」の報告書を盗み見たことがあった。なので、あの事件の内容は大体頭に入っている。あの事件の発端、第六駆逐隊の相次ぐ事故死。その内容は、すべて「艤装の故障」によるものだ。そう、つまり、寄生虫が死んだときと同じ現象が起きていたということだ。


 そんな偶然、あり得るはずがない。だから、ほぼ間違いなく犯人は東鎮守府にいた者たちの誰かだ。

 これは、黒幕のヒントとは考えにくい。挑発の手段であっても、ヒントを与える意図まではないということだ。事件は未だにトップシークレット扱いだ。この鎮守府の中でさえ、事件の詳細を知っているものは限られている。カウンセラーや提督など一部の人間以外には、ほんの一握りの情報しか開示されていない。大体何があったのかは知っていても、詳細までは誰も知らないのだ。だから、私がここまで情報を握っているとは黒幕も考えないだろう。私が当事者たちから聞き出したことを考慮した可能性もあるが、その線は薄いと見た方がいい。なぜなら、あの事件についてはみんな口を固く閉ざしているからだ。

 黒幕は、殺しに無秩序な美学を持っている。寄生虫の事故を、同じような手段で演出したのも、それが理由だと考えると納得がいく。

 吐き気を催すほどの邪悪だ。もはや黒幕は、人の精神を持ち合わせてはいないだろう。紛う事なき、精神病質者だ。気が狂っているとしか言いようがない。

 そして、私はこれとまったく同じ感想を抱いたことがある。はじめて、「捨て艦事件」の資料に目を通したときに。この事件の首謀者に対して、そう思った。

 苦虫をかみ潰すという比喩は、こういうときに使うのだろう。苦いとはどういうことか知らないけど、言葉の意味するところくらいは理解できる。


 考えたくはない、可能性だ。

 だが、あの提督の死亡は明確に確認されたわけではない。牢獄の中で爆死したそうだが、死体は一切見つかっていないのだ。それに、厳重な体制の敷かれた留置場に爆薬を持ち込めるはずはないから、ずっと引っかかっていた。しかし、一つだけ方法がある。たった一つだけ……。

 何事にも例外は存在する。私というイレギュラーが存在し、赤い艦載機というさらなるイレギュラーを見てしまった以上、可能性として考慮しておかねばならない。

 ――少なくとも、この鎮守府に、私と同じ存在がもう一体いることは間違いないのだから。

陽炎「あああっ!」

 陽炎姉さんの叫び。砲撃と風。艦載機の唸りと響き。私は、彼女の舞を見ながら深い溜息をついた。

投下終了しました。
すいません。章台を上げ忘れていました。
今回から五章です。ようやく本番に入ってきた感じです。よろしくお願いします

このSSまとめへのコメント

1 :  SS好きの774さん   2017年08月10日 (木) 19:15:21   ID: fl-o4X1M

破滅に向かっている気がする
結末が楽しみですぞ

2 :  SS好きの774さん   2017年08月15日 (火) 17:32:32   ID: x1Aqxmfo

バグなんかに負けず、頑張ってください

3 :  SS好きの774さん   2017年08月25日 (金) 17:14:41   ID: Xo9MRwxh

盛り上がって参りました

4 :  SS好きの774さん   2017年09月11日 (月) 15:51:24   ID: YBoQtrRd

楽しみだな…

5 :  SS好きの774さん   2017年09月14日 (木) 08:55:44   ID: EbieUiOV

素晴らしいssだった。
ここで終わりかよぉ!?と思うけど、あえてここで書き終えるのがまたいい味出してるw

6 :  SS好きの774さん   2017年11月28日 (火) 22:55:36   ID: 3tKWH0Ym

うひょひょひょ生存確認
いつまでも待ってる

7 :  SS好きの774さん   2017年12月03日 (日) 08:17:46   ID: M429oU82

生きてたか
これからも頼むゾイ

8 :  SS好きの774さん   2018年03月28日 (水) 23:40:53   ID: j7m3t-BW

9 :  SS好きの774さん   2018年04月24日 (火) 00:57:09   ID: fbgblazk

とても面白いです。これからも頑張ってください。

10 :  SS好きの774さん   2018年06月08日 (金) 18:52:43   ID: yGu4_ILi

クッソ面白い

11 :  SS好きの774さん   2018年07月04日 (水) 22:36:38   ID: sEEHhccM

おう更新あくしろよ

12 :  SS好きの774さん   2018年11月26日 (月) 21:04:49   ID: I9IK8DnU

Twitterも更新無しだし悲しいなぁ…

13 :  SS好きの774さん   2019年02月07日 (木) 01:01:55   ID: VoWS1x74

待ってまーす

名前:
コメント:


未完結のSSにコメントをする時は、まだSSの更新がある可能性を考慮してコメントしてください

ScrollBottom