塩見周子「箱庭に降る雨」 (21)
地の文有りモバマスssです。
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「……ねえ、周子はん」
ソファから気の抜けた声がする。
「んん、なに?」
流し読みしていた小説から目線を外して、声のした方に返事をする。
「お腹、空かへん?」
「あー。そだね」
あいにく手元に時間のわかるものがなかったから、正確な時間まではわからない。
それでもどうやら、とうに昼は過ぎてしまったらしい。胃が力なく訴えかけているのを無視できなくなっていた。
「うち、お腹と背中がひっついてもうて、動かれへん」
顔だけをこちらに向けた彼女が、柔らかく笑う。
「軽くなにか作る?」
「せやねえ」
ずっと、雨が降り続けている。知覚できないほど大きな装置によって、巡り巡った雨が循環しているんじゃないかと思うほどに。
いつかすべてが沈んでしまうんじゃないかと心配になったこともあったけど、一向にその気配はない。
昼と夕方の中間地点で、あたしたちはふたりきりで生きているような気分になる。
小説を畳む。栞なんて挟んでないけど、何度も何度も読み返した本だから、別に構わない。
立ち上がりながら尋ねた。
「しっかり食べたい?」
「うー、」
微かな難色。
「じゃあ、そうだな、適当にスープとかは?」
その表情がぱっと華やいだ。
「さっすが周子はん」
「はいはい」
その喜びようを見て、小さい子を持つ親の気持ちがなんとなくわかる気がした。
今日はコンソメのスープにしよう。
そう考えながらキッチンへ向かう。
そういえば今日はお昼を食べてない。よくあることだった。
お互いに食に対するプライオリティが高くないから、しばしば食べることを面倒がってしまう節があって、野菜室を開いたその中には、白菜に玉葱に人参。
今日も今日とて、料理を始める。
小早川紗枝という女の子と初めて出会ったのはいつのことだったろうか。
甘えん坊で、少しだけ意地っ張りで、意外にやきもち焼きな性格だとか。
人を疑うことが下手くそで、人を信じることが得意だとか。
はんなりとした雰囲気と、それでいて芯の通った人間性が綺麗だとか。
そんな彼女がアイドルとして輝く姿を隣りで見るのが好きだった。
だけどオフの日に見せてくれる、だらけきった姿も同じくらい好きだった。
十五歳だった彼女も、年齢だけでいえばもう大人になった。
胸を張って言い切れるわけじゃないけど。
きっと、あれから五年は経っているだろうから。
白菜から切る。ざくざくと軽快な音が鳴る。
適当な量を切って、後は元あった場所に戻す。
玉葱は四等分にする。続いて人参を乱切りにしようとしたところで、隣から彼女がやってきた。
すっぴんにスエット、適当にくくった黒髪。気合いは抜けきってこそいるけど、元がいいから十分可愛い。
「手伝ってくれるの?」
「みにきただけ」
彼女はあたしのすぐ近くのスツールに腰掛けて、上半身をテーブルに預けながらあたしが野菜を切る様を見つめている。
切り終えた野菜とウインナーを鍋に入れて、サラダ油で炒める。水分を加える前にこうすることで、コクと甘みが増すらしい。
「明日、なにする?」
野菜の炒められるいい匂いを嗅ぎながら、気まぐれに尋ねた。
「そおやねえ……たまにはお菓子でも作らん?」
「おー。いいんじゃない」
「あんね、うちね、食べたいもんあるんよ」
彼女が目を輝かせて、こちらを窺う。
「ほう。言ってみ」
「えっとね、八つ橋。こっちじゃ食べれへんくて」
その笑顔が相変わらず愛らしかったから、あたしは一も二もなく頷いた。
「いいねえ、明日になったら、作ろうか」
炒めていた具材がしんなりしてきた頃に水を加える。固形のコンソメを落として、ついでに胡椒も振りまいておく。今日は薄味にしよう。
そのまま少し煮立たせる。
ルームメイトに向き直る。だらしなく机にしなだれかかっていた。
その小さな頭を撫でる。髪の毛がふんわりとしていて暖かかい。
「スープまだ?」
「まだ」
「んー」
「もうちょっとだから、拗ねないの」
窓の外に目を凝らす。
未だに雨は降っていて、今朝からずっと続いている。昼の明るさに陰りを加えたような色味が網膜に焼き付く。
ふたりともが黙ってしまっていても、雨がその沈黙を塗りつぶしてくれる。
昼のひかりを蝕むような陰りを眺めていると、もしかしてこの雨は本当に、神様の流す涙なのかもしれないと思う。
「雨、やまないね」
撫でていた手を止めて、窓に見入る。
「なんか、世界にふたりだけ置き去りにされた感じせえへん?」
彼女が冗談めかして言う。
「そんな寂しいこと言うんじゃないの」
「寂しないよ、なんも」
白魚のような腕がするりとのびてきて、あたしのシャツの袖を掴んだ。止めていた手を動かして、いま一度頭を撫でる。
「そうかもね」
揺らせば散ってしまいそうに儚い瞳が、微かに細められる。
「スープ」
「あと少し」
「んん」
鍋の様子を見ながら答えた。薄く黄金色に色付いた中で、くつくつと音を立てて具材が踊っている。できあがるまでもう少し。
それまでもう少し、世界にふたりだけで雨の音を聞いていたい。
「ほら、できた」
深めのお皿に移して、二人で食べる。
「……なんや、えらい美味しいなあ」
一口食べた彼女が、驚いたように目をぱちぱちさせる。
「こんな簡単な料理に上手いも下手もないでしょ?」
「いやいや、うち本気で驚いてるわ。お野菜の加減も丁度やもん」
いつものことながら、苦笑してしまう。
毎日作り続けていれば誰だって、いやでも上達するものだ。
あっという間に食べ終えてしまった彼女が、おかわりをする。
やっぱり彼女は、薄味がお好みのようだった。
夜になっても、雨は降り続いていた。
暇なときがあれば、いつも彼女と話していた。
話題は尽きなかったし、尽きたとして困ることはなかった。
「子供の頃は、雨が好きだったんだ」
「自分の部屋の窓から、雨が降っているのをぼうっと見ていたっていう記憶があって、今日みたいな日にはそれを思い出すんだよね」
店に併設された家の二階から見た、擦り切れたテープのような記憶。
まだ京都に住んでいた時の話。それは度々あたしのこころにやってくる。
あたしがこう言うと、何度も彼女はこの話をしてくれる。
「うちは、雨はそんなに好きやなかったなあ」
「だってちっちゃい頃は、雨は神さまの涙やと思っててん」
どうしてだかそれを聞くのが、たまらなく好きだった。
「ふふ。可愛いなあ、紗枝は」
きめ細かい髪に触れながら、彼女に笑いかけた。
「周子はんかて、かいらしいで?」
「そうかな?」
「そおやで?」
今日も意味のない言葉を交わし合う。曖昧な感情だけがそこにはあった。
夜が更けてゆく。
「周子はん、今日、ここに泊まってってもええ?」
遠慮がちな彼女の申し出を断るはずがなかった。
「もちろん。明日は起きたらちょっとゆっくりして、それから八つ橋作ろっか」
「うん! ふふっ」
それから二人してベッドに潜り込んで、暫くなにごとかを話し込んで、先に彼女が寝入った。
昼間はあんなにだらけていたというのに、夜もぐっすり眠れるのが不思議だった。
それからあたしは電子書籍を取り出して、読んだこともない本を適当に購入する。
眠気が訪れるまで、それを読んで過ごすのが日課だった。
それでも今回はあまり集中できなくて、早々に読むのをやめてしまった。
あたしも寝てしまおう。
隣りで寝ている彼女の頬にそっと触れる。
仰向けになって目を閉じる。
どうせ明日も、代り映えのしない一日がくるのだと思いながら。
明日になれば、ちゃんと八つ橋を作れるのかな。
そんなどうでもいいことを思いながら、意識の深くに潜っていく。
最後の瞬間まで、雨音は続いていた。
以上になります。ありがとうございました。
さえしゅうは本当に素晴らしいと思います。
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