唯「夢みる少女じゃいられない」 (98)
新幹線が新横浜を過ぎた頃になってようやく、りっちゃんから着信があったことに気がついた。
着信履歴は二時間前と一時間前の二件。LINEのメッセージも一件。
返信のスタンプを打とうとした途端、車内放送が流れ始めた。もう品川に着くみたい。降りなきゃ。
スマホをバックに押し込み、立ち上がって棚の上にある荷物を手に取る。
返事……まぁ、いいか。またあとで。
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隣の席のおじさんに軽く頭を下げ、通路に出る。すでに降車のための行列ができている。
家族連れやカップルが多い。お盆休みの新幹線は、帰省や観光のための乗客でいっぱいだ。
三人掛けの真ん中の席しかとれなかったとはいえ、座れただけでも感謝感謝。
寝過ごして富士山を見られなかったことは残念無念。
エスカレーターを上りながら、りっちゃんに電話をかけるべきか迷う。
LINEには仕事で待ち合わせに遅れる旨が送られていた。
それならわざわざ電話をかけ直して要件を確認しなくていいか。
ただ、二回も電話をかけてきていたことが気になった。
けど、仕事中だとしたら電話をするのも悪いかな。
相手の様子がわからず躊躇しているうちに、エスカレーターを上りきってしまった。
……まぁ、いいか。急用なら、またかけてくるっしょ。
新幹線の改札を抜けたところに、ムギちゃんの姿が見えた。
歩いてくるわたしを見つけたムギちゃんは、笑顔で大きく手を振った。
わたしも大きく振り返し、改札を目指して駆け出す。
一歩を踏み出すたび、背中のリュックがぼんぼんと跳ねる。
息を切らして改札を抜けたわたしは、両手を広げてムギちゃんに抱きついた。
「ムギちゃーん! ひっさしぶり~~!」
「唯ちゃーん! 待ってたよ~~!」
抱き合ったムギちゃんの身体は、相変わらずやわらかくてあったかい。
新幹線の冷房で冷え切った身体があったまる。
すん。あ、いい匂い。わたしの知らない、柑橘系の香り。
……ん? 周囲の視線を感じる。
あ、目立ってるかな。まぁ二十代後半、いい歳こいた女二人が公衆の面前で抱き合ってりゃねぇ。女子高生じゃあるまいし。
年齢にふさわしい行動。そんなことを考えるようになったのは大人になったからなのか。
TPOを考えろ? みっともない? うるさいよ。いいじゃん。だって大事な友達と、久々の再会なんだから。
そう、遠距離恋愛の恋人たちが、数ヶ月ぶりの再会を喜んでるみたいなもんだよ。
「ごめんね、わざわざ迎えにきてもらっちゃって」
「ううん、わたしが唯ちゃんを呼んだんだし。それに唯ちゃんに早く会いたくって!」
と、ムギちゃんは言うけれど、わたしが心配だったに決まってる。
このわたしが、東京の電車を間違えずに乗りこなして目的地に着くなんて、できるわけがない。
…いや、これでも大人ですからね、ちゃんと調べりゃできなくはないんでしょうけどね、ムギちゃんに案内してもらう方がはるかに確実ですからね。言い訳じゃなくってね。
人混みの中をするすると歩くムギちゃんにぴたりと付いていく。
ムギちゃんは、大勢のひとごみの中をするすると進んで行く。
わたしひとりなら、ぶつかったり、まごついたり、ふらふらしてるうちに違うところに行っちゃいそう。
ふたつみっつと路線を乗り換え、わたし達は電車に揺られ続けた。
車内から聞こえる会話のイントネーション、駅に着くたびに流れる発車メロディ、車窓に流れる景色。どれも馴染みがなくて、旅行に来たんだと実感する。
ぺらぺらとおしゃべりしながら、ムギちゃんに手を引かれて電車を降りる。
SF映画の地下要塞みたいに長いホームを歩き、どれだけ登るんだと不思議なくらい長いエスカレーターを上り、さらにまた電車に乗って…、目的の駅に着くと、もう空は真っ暗だった。
「ムギちゃん、すごいね。迎えに来てくれてよかったよ」
七年も住んでいればね、とムギちゃんはこともなげに笑った。
「そーいや、りっちゃんどうしたの?」
「あれ? LINEきてなかった?」
「ん…どうだったかな」
「仕事で遅れるって。先に始めてくれていいって」
「そっか」
七年、か。
りっちゃんがこっちに来てからは三年。時の流れって早いね。
駅前の居酒屋に入って一時間くらいが経ったころ、ようやくりっちゃんが姿を現した。
肩を過ぎるくらいまで伸ばした髪に、軽くパーマをあてたりっちゃんは、ごめんごめん、と手刀を切りながら席に座り、手をあげて店員さんを呼び止めると、笑顔で生中をひとつ、注文した。
「唯、久しぶりなのにごめんな、遅れて」
「いいよ~ん。その代わり、ここの払い、よろしくね♪」
「オイ。会って早々それか」
「りっちゃん、休日出勤お疲れさま。相変わらず仕事、忙しそうね」
「んーまぁ、ぼちぼち、かなぁ」
そう言って、ニッと歯を見せて笑った。
とりあえず元気そうで安心。わたしも、ニッと歯を見せて笑う。
それを見たムギちゃんも真似をして、ニッと笑った。
「いつ以来だっけ? 唯と会うの」
「年末に会ったじゃん」
りっちゃんの生中がやってきた。ジョッキを掲げ、三人でもう一度、乾杯をする。
「そっかそうだったな。あのときは全員揃ってたっけ?」
「年末は梓ちゃんがいなかったから…みんなで集まってのはその前の年の年末ね」
そう言って一気にジョッキを傾けて残りを飲み干すと、ムギちゃんは耳に沿わせてピンとまっすぐ手を伸ばし、店員さんを呼んだ。あ、ついでわたしも注文いいかな? だし巻き、あります? え、ないの? だし巻きだよ、だし巻き。ありふれたメニューなのに…まぁいいか。
「そんなになるのかぁー…みんなで毎年旅行に行ってた頃が大昔に思えるな」
「しょうがないよ、りっちゃん。結婚したり、子供できたりしたらさ。カテイノジジョーってやつだよ」
「家庭の事情、ねぇ」
りっちゃんは枝豆の殻を放り投げながらため息をついた。
「そうねぇ、でもまたみんなで旅行、行きたいね」
「そうだねぇ。ベタだけど南の島とか行きたいな。スキューバやってみたい! りっちゃんは?」
「わたしは熱海とかでいいや」
「………りっちゃん、しょっぱいね、しみったれてるね、夢がないね、老けたね」
「うっせー。いいとこだぞ? 熱海も。ムギは? どっか行きたいとこある?」
「わたしもいいと思うよ、熱海」
「まー、ムギちゃんがそう言うなら」
「…対応が違いすぎ」
「えー、だってりっちゃんだし」
「ふふ、みんないっしょなら、きっとどこでもたのしいよ」
すこし寂しそうに言いながらも、ムギちゃんはやってきた店員さんに熱燗を頼んでいた。
大学卒業。
さすがに就職先まで同じ、というわけにもいかず、高校大学とそれまでずっと一緒だったわたし達にようやく別れの季節がやってきた。
澪ちゃんは大阪、ムギちゃんは東京。わたしとりっちゃんは地元…だったけど転勤次第ではどうなるかわかんない。まだ大学生だったあずにゃんだって、就活の結果どうなるのかわかんない。
だからわたし達はひとつ約束をした。
“毎年一度は五人全員で集まって、旅行しよう”
それをたのしみにがんばろう、って。
レンタカー借りて温泉に行ったり、海に行ったり、スキーに行ったり。
社会人になったのをいいことに、ここぞとばかりに溜め込んだ小銭を大放出して。
離れていても、わたし達は会えばすぐに、あの頃に戻れる。
本当に不思議なんだけど、まるでタイムスリップしたみたいに、部室でお茶飲んでダラけてた気持ちにそのまま戻っちゃう。
毎日遅くまで働いて、たくさん失敗して、こっぴどく怒られて、へとへとになって家に帰ってまた朝早く起きて出勤して。その繰り返しで溜まり溜まった疲れも、みんなで集まって笑って話せば、全部嘘のように消えてなくなった。
働き始めて、離れ離れになって、学生時代とは違っていても、わたしは何も変わらない。
肌はみずみずしさを失って、ついに体重が増え始め、いやでも年齢を感じるようになってきても、気持ちや関係性は何にも変わらない。
ささいなことでいちいち連絡を取り合ったりは、しなくなったけれど、肝心な部分は何も。だよね?
「集まるだけなら、次は年末?」
軟骨のからあげを頬張りつつ、わたしが尋ねる。
「その前に梓ちゃんの結婚式よ」
お銚子を傾けつつムギちゃんが答えると、
「そうだったそうだった」
と、目の前に置かれたノドグロに目を輝かせながら、りっちゃんはおおげさに頷いてみせた。
「ハァァァ~~あずにゃんが結婚かぁ…わたしのあずにゃんが……」
「唯のじゃない、っての。しっかし最近、ウチの職場でも結婚ラッシュでさぁ…」
「りっちゃんとこも? わたしも先月三回も結婚式に出たからさ、財布カラッカラ…」
「わたし達、先輩なのに先越されちゃったねぇ…」
「ムギちゃんはその気になれば大丈夫だよ、かわいいから」
「…えへ、ありがと。唯ちゃんだってすっごくかわいいわ!」
「ありがとー! そんなこと言ってくれるのムギちゃんだけだよぉ!」
「そうなの?? 唯ちゃん、すっっごくかわいいのに!! すっごくすっごく!!」
「んもぅ…ムギちゃんってばぁ褒めすぎ! ムギちゃんのかわいさだってすんごいよ!」
「ううん、唯ちゃんのほうがかわいい!」
「そんなことないって! ムギちゃんのほうがかわいい!」
「唯ちゃんのほうがかわいい!」
「ムギちゃんのほうがかわいい!」
「唯ちゃん!」
「ムギちゃん!」
「…………お前ら、自分で言ってて悲しくならないか?」
「ならないならない! だって事実わたし達かわいいもーん。だから結婚してなくたって、まだまだ焦る時間じゃないっしょー。
ほらー人生、長いんだから。それにけいおん部的にも独身勢が人数優勢! いえーい!」
わたしがムダに大きな声をあげてグラスを掲げると、ムギちゃんもそれに合わせてグラスを掲げた。
りっちゃんは顔をため息をついて呆れたように笑い、申し訳程度にグラスを掲げ、乾杯をした。
わたし達の中で、一番はじめに結婚したのは澪ちゃんだった。
勤め先の銀行で、新入社員だった頃の教育係だった先輩と。
結婚式で流すため、わざわざ桜高の生徒会室を訪れて伝説のライブビデオを借り、編集した映像を披露宴で流したのはいい思い出。
そのあとの二次会で花嫁の鉄拳が、りっちゃんの頭上に炸裂にしたのは言うまでもない。
結婚してからも五人で旅行に行った。
夏、高原、星がきれいだった。それが最後。
その旅行のあとすぐ、りっちゃんが転勤になり、年の瀬には澪ちゃんに赤ちゃんができた。
明くる年の三月、年度末を機に、あずにゃんは仕事を辞めて専門学校に入り直した。
ずっと同じ職場にい続けたわたしも、キャリアを重なれば役職もついて、だんだん忙しくもなるわけで。
ばたばたと騒がしい毎日に追われて五人で全員での旅行は簡単にできなくなった。
それでも年末は大抵みんな桜が丘に帰ってきていたし、落ち着けばまた、どっか行きたいね、ってそう話してた。
「あのさ、唯」
本当は今回の東京行き、澪ちゃんあずにゃんにも声をかけていたんだけどね。
家庭の事情や仕事の都合ばっかりは、どうしようもない。どうしようもないけど……まぁ、いいか。
「おい、聞いてるか?」
「んあ? 聞いてるよぉ」
「唯…酔ってる?」
「こんくらいで酔うわけないじゃん。まだ生中三杯とカシスオレンジに白ワインに日本酒…」
「はいはい。もういーから。熱い茶飲め。熱い茶」
いつのまにやら目の前に置かれている湯呑を手に取り、じっと見入る。
茶色の液体に映ったわたしの顔が、ゆらゆらと揺れていた。
「いま思ったんだけど」
「どうしたの唯ちゃん」
「わたし達、黒髪ストレートロングにしたら、結婚できちゃったりして」
「なに言ってんだ、唯」
「ハクバノ王子サマは、黒髪ストレートロングのオヒメサマしか、迎えにこないのです。なんちゃって」
「ア ホ」
りっちゃんは口を大きくあけ、呆れたようにそう言った。
「ほらー。澪ちゃんあずにゃんにあってわたし達にないもの、って考えたらさ、ふと」
「そうでもないだろ、ほら。憂ちゃん」
「憂は特別だよー、憂だよ? 憂」
「それもそうね」
ムギちゃんは然もありなん、と頷いて焼酎ロックをぐびぐびやっている。
「唯ちゃん。結婚や恋愛は見た目だけじゃないわ。澪ちゃんも梓ちゃんも中身が素敵なのよ。だから…」
空になったグラスの氷を鳴らしながら、ムギちゃんは生真面目に言う。
「それじゃ結婚できないわたしたちは、中身がくだらないってこと?」
通りがかった店員さんを呼び止め、ムギちゃんの分と合わせてウイスキーを二つ注文する。
ロックにするか、水割りにするかで5分ほど悩み、ムギちゃんに合わせてロックにする。
ご注文入りましたー!! …やたらと大きな声で返事をされて、ちょっとうっとうしい。
「そういうわけじゃ……」
「ごめんごめん、くだらない冗談だよ」
「そうそう。くだらない冗談。くだらないくだらない」
その場をおさめるようにりっちゃんは軽口を叩き、中身が残りわずかとなったグラスを持ち上げた。
「くだらないくだらない♪」
一休さんの調子でわたしも呟くと、「くだらないくだらない♪」とムギちゃんもそれに続き、わたし達三人はグラスを掲げてかちん、と乾杯をやり直した。
「結婚なんてさ、縁だよ、縁」
「なぁ~にを言ってんのさっ、りっちゃんのくせにぃ。そんなこと言えた立場じゃないでしょうがっ」
含み笑い。
りっちゃんは黙ったままニヤニヤと笑う。うげー、りっちゃんキモいっす。
「オイ、ひくな」
「ひくよ。だってキモいし」
「キモいとか言うんじゃねーっ」
「キモいっすりっちゃん隊員。そんなんじゃ一生結婚なんてムリだと思いまっす」
またしても含み笑い。
りっちゃん酔ってる? それにしてもヒドくない? ちょっと会わないうちに頭おかしくなった?
「だからひくな、ってば」
「ひくよぉ……だってキモいもん。正直、完全に酔い冷めちゃったよ………」
「りっちゃん。焦らさないではっきり言ったら? 唯ちゃん、りっちゃんはね…」
たまりかねたのか、ムギちゃんが口を挟む。
「ダメだよムギちゃんやさしくしちゃ。
こういうのはね。ちゃーんと事実を突きつけてあげないといけないの。
そうしてあげないとね、事実を認識できないでしょ?
どーゆー行為が“キモい”のか、しっかりわからせてあげるのがりっちゃんのためなんだよ……うん」
「えーっと…な、」
コホン。
いかにもわたしを見ろとばかりに、りっちゃんが咳をした。
なにさ? ほら、聞いてあげるからさっさと言いなよ。どーせくだらないことなんでしょ。
「唯、わたし、な……」
ほらほら。もったいぶったりしないの。
「えーっと……」
さっさと言いなよ。もう。はっきりしないなぁ。
わたしはグラスを手に取り、口につけた。
「わたしも、結婚……しちゃうかもしんない」
ウイスキーが喉をすり抜けた瞬間、焼けるような感覚が全身を貫いた。
ほーら、やっぱり。たいしたことない話じゃん。
あんなにもったいぶっちゃってさ。バッカみたい。
……バッカみたい。
そのあとトイレでしこたま吐く。
どれくらいこもっていたんだろう。便器から顔をあげてよろよろと立ち上がり、スマホを取り出す。
りっちゃんからのLINEと着歴。また気がつかなかった。もう店を出るけど大丈夫か、って。
スマホの電池が残り少ないし、返事をする余力もない。
だいたい、心配なら様子を見にきてくれりゃいいのに。…と思ったら扉をノックされて声が聞こえた。
もしかして、ずっとそこにいたのかな。声をかけてもノックしてもわたしが気づかないから電話したのかな。
いきおいよく扉を開き、敬礼してみせる。
唯隊員、無事生還しましたっ! ……バッカみたい。
りっちゃんは眉を八の字にして、呆れたように笑った。
東京の夜は心なしか、涼しく感じる。
四方を山に囲まれたわたし達の町と違い、真夏とはいえ夜になると少しひやりとする。
都会の空は星が見えない、という先入観があったけれど、そうでもない。
鮮やかな星空、とはいかないものの、全然見えないわけでもない。ってやつ。普通。
「唯、ホテルどこだっけ?」
「なに言ってんの。りっちゃんち泊まるって言ったじゃん!」
「ありゃ? そうだっけか?」
唯ちゃん、飲む? ムギちゃんがアクエリアスを差し出した。夜道に自販機が明るく光っている。
わたし、どっちかっていうとポカリのほうが…まぁいいか。好意を無下にはできません。
りっちゃんはわたし達から少し離れて誰かに電話し始めた。
眩しい自販機の逆光が、りっちゃんの全身を黒く塗りつぶす。
唯ちゃん、平気?
平気だよ。ムギちゃんこそ、平気なの?
わたしも平気。
ほんのりと桃色に染まった頬で、ムギちゃんは答えた。
唯ちゃん、肩貸すよ?
んー、もう大丈夫。
じゃあせめて、手をつながない?
えー、いい歳して?
いいじゃない。それにほら、知らないところで夜にはぐれたら、大変でしょ? ね?
ムギちゃんは返事を待たず、わたしの右手をつよく握った。
その手が予想外に冷たかったのは、きっとさっきまでアクエリアスを握っていたから……そのはず。
通話を終えて戻ってきたりっちゃんは、手を繋いだわたし達を見て呆れたように笑った。
仲いいなー、おまえら。
そうだよ、わたし達、なかよしだよ!
そうよ、でもりっちゃんは仲間に入れてあげないんだから!
そうそう、りっちゃんとは手ぇ繋いであげないもんねー! ねーっ、ムギちゃん!
うんうん、りっちゃんとは繋いであげないんだから! ねーっ、唯ちゃん!
おまえら、バッカだなぁ。
そう言って、りっちゃんはとても楽しそうに、お腹を抱えて笑った。
最寄駅の改札口までムギちゃんを見送り、明日の集合場所と時間を再確認して別れる。
改札を抜けた後も、ムギちゃんは二回三回と振り返っては手を振り、一度姿が見えなくなってからもひょっこりと顔を出して手を振った。
そうこうしてる間に終電がホームへ滑り込む音が響き、ムギちゃんは最後に“また明日ねー!”と慌てた様子の大声で別れを告げ、駆け出した。
ふたりきり、残されたわたしたち。
「歩けるか?」
わたしはりっちゃんの方を向かずに無言で頷いた。
どんなに酔っていたって、りっちゃん隊員なんかにゃ頼りませんよ。
さっき言ったでしょうが。りっちゃんとは手ぇ繋がない、って。
大通り沿いのローソンに入り、買い物を済ませる。
飲みたかったピルクルは置いてなくて、しかたなしに飲むヨーグルトで我慢。…まぁいいか。
店を出てすぐの郵便ポストがあるところを折れて細い路地に入る。
路地を抜けると住宅街。しばらく行くと川にぶつかった。
膝丈くらいの高さのガードレールの、不恰好にへしゃげている部分にいくつか花が手向けられていた。
そのまま川に沿って歩き、二つ目の小さな橋を渡る。
橋のたもとには桜の木が立派に枝を伸ばしていて、その真下はゴミ捨て場になっていた。
すぐそばの電柱に監視カメラのようなものがつけられているのを見つけて思わず目を背ける。
駅から徒歩五分、という道程も、知らない街を歩くと随分長く感じるから不思議だ。
ただ想像していたのとは随分とちがう。
「案外、普通だね、東京も」
「なにが?」
東京の夜、と言えばギンギンギラギラ輝くネオンの光。
道路を颯爽と走る高級車。
道ゆくは世界の最先端をゆくビジネスマン、
振り向けば誰もが知る芸能人……
さすがそこまでいかなくても、もうちょっとその…ねぇ?
東京東京してると思ってたっつーか…桜が丘と大差ないじゃないの? ここ。
「あのな。東京、つってもいろいろあるの。どこもかしこも高いビルが建ってて、高級車が走りまくってて、芸能人がうじゃうじゃ歩いてるわけねーだろ」
…幼稚な頭の中を覗かれたようで、ムッとなる。
「さ、さすがにわたしもそこまでは思ってないよっ!」
「それにここはほとんど埼玉だからな」
「えっ、ここ埼玉なの?」
「いや、地図上は東京都だ」
「へぇ。じゃあ胸張って東京都民、って言えるわけだ」
「まぁ……一応」
無い胸張っても意味ないよ。
わたしは心の中で毒づいた。
りっちゃんの部屋は五階建アパートの三階角部屋。
玄関口で出迎えてくれたのは赤べこの張り子人形。
リビングに入ると、部屋の隅にいくつか積み上げられた空き缶が目に入る。
ソファの上にはファッション誌や音楽誌が数冊。最近出たばかりの新刊のマンガ本も。
すこしくすんだ黄色のカーテン、壁に貼られたミュージシャンのポスター、本棚の上に寝っ転がっているスポンジボブみたいなよくわかんないぬいぐるみ。そのいくつかになんとなく見覚えがある。
住む場所は違っても、りっちゃんの実家や大学時代の寮の部屋に雰囲気が似ている。住んでる人間が同じなのだから当然か。
初めて来るのに気兼ねのいらないかんじで助かる。おしゃれなデザイナーズマンションとか、几帳面に整理整頓が行き届いている部屋よりよっぽど居心地がいい。
学生時代と違う点をあげるとしたら、ほんのりタバコに匂いがすることくらい。
居酒屋でそんな様子は見せなかったけれど、りっちゃんも吸うようになったのかな。
テーブルの隅には所在なさげにライターと灰皿が乗っかっていた。
おっ、そうだ。電池残量少ないんだった。さっさと充電させてもらお。
「あ」
「ん、どしたー」
「やばい…充電器忘れたっぽい」
バッグの中身を漁っても漁っても出てこない。
電池が5%を切っている。しまったなぁ、コンビニでモバイルバッテリー買ってこりゃよかった。
「唯、iPhoneだっけ? わたしのiPodの充電器貸すよ」
「わるいね」
充電器を借りてコンセントにつきさす。
ぴぴぴ、と電子音が聞こえて何かと思ったらお風呂が湧いたそうな。好意に甘えて先にお風呂をいただく。
満足に足を伸ばせないちいさな湯船。死体みたいに足を折り曲げて浸かり、汗と脂を洗い流す。
いつもと違うシャンプーを使うと、髪がキシキシ言って調子が悪いけれど、ゼイタクは言えない。まぁいいか。
髪を乾かしてリビングに戻ると、りっちゃんはソファの上に猫のようにまるまっていびきをかいていた。ゆさゆさと揺すって呼びかけても起きる様子がない。
今日も仕事だったみたいだし、随分と疲れていたんだ。
わざわざ時間をとって呼びつけてしまったことも、約束していたとはいえ部屋に押しかけてしまったことも、申し訳ない気持ちになり、わたしはりっちゃんの髪を撫でた。
静かな室内にすぅすぅと寝息だけが聞こえる。
勝手なこととは思いつつ、わたしはリビングを出て寝室の扉を開けた。
夏用の毛布かブランケットくらいあるだろうと、灯をつけて室内を見渡し、一二歩踏み出したところでわたしは足を止めた。机の上、閉じられたノートパソコンの横に飾られた写真立て。
わたしはきゅっと口を結び、視線をそっちに向けないようにしながらベッドの上にくしゃくしゃっと捨て置かれたブランケットを手に取り、早々に灯を消して部屋を出た。
気持ちよさそうに眠るりっちゃんにブランケットをかけてあげると、ライターと灰皿を手に取り、リビングの灯を消してベランダに出た。
川から吹き上がる夜風が気持ちいい。
ふぅ、と息を吐くと白い煙が風に乗って流れた。
見上げた夜空にまばらな星が散らばっている。ひさしぶりに満天の星空を眺めてみたい。そう思った。
三年前の夏。
五人で行った最後の旅行。旅先は神鍋高原。
二泊三日の最終日、しこたまお酒を飲んで乱痴気騒ぎがひと段落した頃、部屋の片隅に置かれた古い振り子時計の針は、午前二時を指していた。
お酒に強くない澪ちゃんとあずにゃんは早々にリタイアしてとっくに布団の中。
最後の最後まで付き合ってくれてたムギちゃんはお酒に強くても睡魔に弱くって、からっぽの一升瓶を抱いたまま机に突っ伏してしまい、りっちゃんとわたしで担いでベッドに連れて行った。
『りっちゃん、ねむい?』
『いんや。まだまだいけるぜ』
『さっすがりっちゃんだね。じゃあもうちょっと飲む?』
『うーん、それもいいけど…ちょっと散歩でもしねぇ?』
とっくに閉まっていた旅館の玄関の自動ドアをこじ開け、わたし達は外へ出た。
高原の冷たい夜の空気が、酔った肌にきもちいい。
見上げた夜空には、信じられないくらいの星が存在していた。
高三の夏に夏フェスで見た夜空もすごかったけど、ここもぜんっぜん負けてない。
これがもし本当の星空なんだとしたら、わたし達が毎日見てる空はなんなんだろう。
わたし達、見てるつもりで何にも見てない、ってこと?
すっげーっ!、と声をあげたりっちゃんが駆け出した。わたしも慌てて追いかける。
『行こうぜっ』
前を行くりっちゃんが振り向いてわたしに手を伸ばす。その手を掴み、ふたり、走り出した。
わたし達は走った。夢中で走った。さっきまでしこたまアルコールを飲みまくってたことも忘れて走った。
こんなに時間に車が来るわけないし、道は広くてぶつかるものもない。
わたし達を邪魔するものは何もなかった。
走り続けてすっかり息の切れたわたし達は、大の字になって道路に寝転んだ。
360℃見渡す限りの星空。どれが何座?なーんて全く知識はないけれど、そんなことお構いなしに圧倒されるその迫力。
普段は人工の光に隠されて見えない星達も、本当はこんなにたくさん存在してるんだ。
いまのうちに存分に記憶に焼き付けておこう。
あ~、きっと天文に詳しかったらもっと感動したんだろうなぁ~、もっと勉強しときゃよかった。
『ねぇ、りっちゃん。“夏の大三角”ってどこ?』
『ん~~~とだな……。わからんっ! 星座なんてまったくわからんっ! とにかく綺麗! 以上!』
『やっぱりでしたか…りっちゃん隊員。聞いたわたしがバカだったよ…』
『なにィ! じゃあ唯隊員っ、お前はひとつでも知ってる星座あるのかよっ!』
『知ってたら聞いてないよ、おバカだね。りっちゃんだってどーせ知ってる星座なんてひとっつもないんでしょ?』
『あるわい!』
『うっそだぁ~、じゃあ言ってみそ』
『お、おりおんざ……』
『じゃあ、差してみて』
『………』
『ほら、やっぱうそじゃん』
『ち、ちがくて……オリオン座は冬の星座だから……』
『…………ごめん』
『やめろ! 謝られると余計みじめになる!』
そうやってふたり、星空に見とれながらもバカ話。
『………ところでさ。唯、流れ星、って見たことある?』
りっちゃんがぼそっと、わたしに尋ねた。
『んーん。ない』
わたしは星空を眺めたまま左右に首を振った。
『わたしもない。でもさ、こんだけ星あったら今見れそうじゃね?』
『あー、そうだね。じゃあねがいごとしなきゃ!』
左右に視線を泳がせながら、一層集中して星空に見入る。
『流れる切るうちに三回唱えるんだぞ。見つけてからじゃ遅いから、あらかじめ考えておけよ』
『んーとんーと……ねがいごとねがいごと……』
んんんーっ、そう言われてもいざとなるとなかなか出てこない。
そうこうしてるうちに流れ星を見逃したら一大事、と星空に集中すれば、ねがいごとを考えられず、ねがいごとに思考を向ければ、星空への集中がおろそかになる。
あー、もー! どうすればいいのさっ!
『あっ、流れた』
『ええっ! どこどこ!?』
『あそこらへん。もう流れちゃった』
『そんなぁ~……わたしねがいごとしてないよぉ』
『へへーん! わたしはしたぞっ、三回ちゃんと唱えたっ』
『うそじゃん。黙ってたじゃん!』
『バーカ。心の中で唱えればいいの』
『じゃあなにおねがいしたの?』
『ナイショ』
『いいじゃん教えてくれても。りっちゃんのケーチ』
『あのなぁ、言うだろ? ねがいごとは口に出しちゃ…って』
『知らないよそんなの。あれでしょ? どーせ、彼氏できますように。とかでしょ』
『ち、ちがわい!』
『はーいはい。ステキなカレシできるといいね。ま、できてもまたすぐ別れちゃうだろーけど』
『うっせー! お前だって人のこと言えねーだろがっ!』
わたし達の中で一番はじめに彼氏ができたのは…何を隠そうこのわたしだ。
でも一番はじめに失恋したのもわたしだった。
男の子ってわかんない。
付き合ってくれ、って向こうから言ってきたから、まぁいっか別にキライじゃないし、仕方なしOKすると飛び上がるくらい喜ぶくせに、
数ヶ月もすれば「ごめん、好きな人ができた。キミはひとりでも大丈夫だと思うから」って言ってくる。
なぁ~にが「ひとりでも大丈夫」だ。ちょっぴり恋愛ごっこしたくらいでわたしのことわかったふりするんじゃないよ。まぁ彼氏なんていなくても平気なのはその通りだけどさ。
わたしにはじめて恋人と言える存在ができた一週間後、追いかけて来るように恋人を作ったのはりっちゃんだ。
元気で明るくて楽しいりっちゃんは意外にモテた。意外、にね。りっちゃんのクセにモテるとかナマイキだ。
それでりっちゃんの恋の行き先はというと…それがわたしと同じなのだ。モテて告白されて、一応は付き合うも長続きしない。
わたしと違うのは、りっちゃんの場合フラれるんじゃなくて自分からフっていることが多い、ということだった。
フラれたフラれたって言ってるからそうなのかと思いきや、実は自分でフってた、なんて。
理由を聞いても曖昧にごまかすばっかりで、いつだって別れた理由を教えてくれない。
そのくせわたしに新しく彼氏ができると、りっちゃんも対抗するようにすぐ彼氏を作る。
わたしが別れれば、りっちゃんも別れる。
なに? りっちゃん、わたしと勝負してるつもり?
はぁ~~?? そんなわけあるかっ!
じゃあわたしの真似しないでよ。
真似なんかしてねーっつーの!
なぁんだ。たんにフラれただけかぁ。
フラれたのは唯もだろーが。
わたしはいーの。別に彼氏なんかいなくったって。
わたしだって、別に彼氏なんかいらねーし。
ほんとぉ?
ほんと!
あ、そ。
イミわかんない。りっちゃんさぁ、一体何がしたいわけ?
そんなわけでわたし達は恋人がいたりいなかったりで渡り鳥みたいなところがあった。
だから、恋バナはそれなりに盛り上がるけれど今ひとつパッとせず、どっかにいい男いないかねぇーとか、発泡酒を飲みながら叫びつつ、実際のところ本気ではなくてお酒のつまみにしてるだけ。
だって別に男なんていなくて毎日楽しいし。まぁいいか、と思って暮らしていた。
その頃は恋愛と将来を結びつくなんて、想像もできなかった。
結婚なんて遥か未来の話だと思っていたし、いつか自分にもそういう人生の決断を迫られる日が来るとしてもそれはずっと先の話だし、そのときはそのときでどうにかなるだろうとぼんやり思っていた。
そういうメンタリティは30歳に手が届く今になってもあんまり変わっていない。
いつか、そのうち、なんとかなるでしょ。まぁいいか。気持ちは未だ、女子大生。
『で、なにをおねがいしたの? おしえてよ。別にいーじゃん、減るもんじゃないでしょ』
そう言ってわたしはりっちゃんに覆いかぶさった。
わたし達はずっと星空を眺めたまま話していたから、このときはじめて目と目が合った。次の瞬間、りっちゃんが目を瞑る。
なにがそんな恥ずかしいのか、大抵のこっぱずかしい恋バナもつまびらかに語り尽くしてきた間柄で何を恥ずかしがる必要があると言うのか。
目をつむったままりっちゃんはプイと顔を背けた。
言えないってことは…えっちなおねがい? まさか。奥手な澪ちゃんには話せない、下世話な話だってわたしにはしてきたじゃん。
わたしは左手はアスファルトに押し付けたまま、右手でりっちゃんの頬を掴んで向き直らせると、閉じたままの瞳に息を吹きかけ顔を寄せた。わたしの前髪がりっちゃんの額にかかる。
『わたしに言えないことなの?』
りっちゃんが瞼を開いた。たったそれだけのことなのに、どうしてかわたしは気圧されて思わず顔を上げた。
一瞬の隙を見逃さず、りっちゃんがわたしの両肩を掴み、ごろん、とふたりの身体が転がる。今度はわたしが下になった。
『知りたい?』
りっちゃんの吐息が頬にかかる。さらさらの前髪が揺れる。
わたしはゆっくり頷いた。ほんのりとアルコールの匂いが漂う。りっちゃん、まだ酔ってる?
『でも口に出したら叶わない……んでしょ?』
『口に出さなくても教えられるよ』
そう言って、りっちゃんはわたしにキスをした。
りっちゃんが東京に転勤になったのはそのすぐあとだった。
あれから三年、わたしにも彼氏はいない。
理由なんてない。相変わらずまわりにロクな男がいなかっただけ。
彼氏なんかいなくても、毎日充実してたし、困ることなんてなんにもないだけ。
まぁいいか、作んなくても…って。
わたしが彼氏を作らないんだから、りっちゃんも彼氏を作らなかった。
少なくともそういう話は聞かなかった。それまで通り、何も変わらず。
色恋沙汰に縁遠くなっちゃたもんだからさ、恋バナ、全然しなくなって。
とはいえわたしとりっちゃんの間で気を使うなんてことは一切なかったから、別に話題に困んなかったわけで。変わらずくだらない話で笑いあって…。
ただあの日のことはお互い一切、触れようとしなかった。
近くにいようが遠くに行こうが、会えばいつだってわたし達は相変わらずだったし、それはこれからさきもずっと変わんないと思ってて。
わたしはわたし。りっちゃんはりっちゃん。
何も変わらないと思ってた。
びっくりしたよ。
りっちゃんがわたしより先に彼氏を作るのだって、はじめてのはずなのにさ、いきなりだよ?
結婚、なんて。
ベランダから戻ると、ソファで眠るりっちゃんがブランケットを跳ね飛ばしていた。
仕方ないなぁ、もう。掛け直してあげますよ、と。
大きな窓いっぱいに月明かりが室内に射し込む。
すやすやと眠り続けるりっちゃんが、少女のように微笑んだ。
どんな夢、見ているんだろ。
わたしはあの日と同じようにりっちゃんの頬を掴むと、瞳に息を吹きかけ、顔を寄せた。
前髪がりっちゃんの額にかかる。
……バカみたい。
顔をあげ、りっちゃんの髪を手に取る。
パーマ、似合ってないよ。ヘン。前のほうが、好きだった。
わたしはりっちゃんから距離をとって座り直し、瞳を閉じた。
☆☆彡
りっちゃんのスマホが鳴り出したのは、もたもたしていたわたしがようやく靴紐を結び終えたタイミングだった。
ゆ~い~はぁ~やくしろよぅ~、なんて欠伸混じりの間抜け声を出していたりっちゃんは、ディスプレイを見て顔色を変えると「はい、田井中です」とハリのある声で名乗り、電話に出た。
「後輩ちゃんがミスったらしくて納品先に付いてかなきゃいけなくなったんだって」
「納品先? どこなの?」
「大阪。転勤前にりっちゃんが担当してたとこ」
「そう…大変ね。夜には合流、できるかしら」
高さ150mの展望台から東京の街並みを眺めつつ、ムギちゃんは呟くように言った。
特別行きたいところなんてなかった。
そもそも、りっちゃんムギちゃんがいるから遊びに来たわけで、二人と一緒なら別にどこに行ったってよかったし、極端に言えば一日りっちゃんちに三人集まってダベってゲームやってるだけでも一向に構いやしなかった。
裏を返せば、りっちゃんがいない時点でどこに行っても満たされない。
行き先に選んだのは…東京タワー。ムギちゃんのお気に入り。
りっちゃんがこっちに引っ越してきたとき、はじめて二人で行ったのもね、東京タワーだったの。
ムギちゃんは言った。
スカイツリーも興味あったんだけどな。まぁいいか。人も多そうだし。
むしろ、猫も杓子もスカイツリーなご時世だからこそ、オンコチシンっていうか…これ、意味あってる?
「高いねぇ…」
「そうねぇ…」
「りっちゃんち、ってどっちのほう?」
「えーっとね…あっちね」
「ムギちゃんちは?」
「向こうよ」
「ありゃ? 逆方向?」
「そうね。わたしの住んでるところは、神奈川寄りだから」
「ふぅん。りっちゃんちまで、電車でどのくらい?」
「一時間ちょっとくらいかな」
「結構とおいね」
「そうね。意外と広いのよ。東京も」
「じゃあ、偶然会ったりとか、ないの?」
「会えたら、素敵なんだけどね」
ムギちゃんは残念そうに笑った。
万に一つはそうそうにない。あれば奇跡。それは運命?
そういえば、りっちゃんの彼氏とやらはどこに住んでるのかな。ムギちゃん、知ってるのかな。
気になったけど、聞けなかった。…まぁいいか。
タワーを出た後はムギちゃんにくっついてあちこち巡り、晩ごはんはムギちゃんが予約を入れてくれていたレストランへ。
予約の30分前に、りっちゃんからムギちゃん宛にLINE。
納品した商品を全品検品させられることになり、最終の新幹線に間に合うかどうかもわからない、とのこと。
そんなに時間がかかるならもっと早く連絡してよ、てゆーか、わたしには謝罪はないわけ?と思ってたらわたしにも連絡きてた。またしても返信できず。…ごめんよ、と心の中で頭を下げる。
ムギちゃんのLINEを覗き見すると、ブサイクな顔した猫のスタンプを送っていた。
すぐさまりっちゃんからはブサイクな犬のスタンプが返ってくる。仕事しろっちゅーの。
ムギちゃんはブサイクな犬をいたく気に入った様子で、かわいい、を四度連呼。
わたしも大概だと自覚しているけれど、ムギちゃんの趣味も相当変わっている。
連れてきてもらったのはフレンチレストラン。
はじめて食する耳馴染みのない名前のメニューの数々は、上等すぎたのか、おいしいのかどうなのかよくわかんなかった。
りっちゃん、晩ごはん、ちゃんと食べられたのかな。
たこ焼き? おこのみ焼き? それも悪くないね。チープな味が恋しくなる。
「ここ、りっちゃんと来たこと、ある?」
「二、三回来たかしら?」
「へー、よくふたりで会ったりする?」
「…うん」
お互いの家にお泊まりしたりもしてるよ。
こないだはね、ウチでたこ焼きパーティーしたの!
りっちゃん、たこ焼き作るのうまくって、すごいのよ? くるっくるって!
わたしはね、はじめはうまくひっくり返せなくてぐちゃぐちゃにしちゃってたの。
でもねでもね! りっちゃんに教えてもらったから、最後のほうは上手に作れるようになったのよ!
…と、赤ワイン片手に持ったムギちゃんは、はしゃぐように言った。
ふぅん。仲良いんだね。
よかったじゃん、りっちゃん。
結局りっちゃんは最終の新幹線に間に合わず、ムギちゃんちに泊まらせてもらうことになった。
急な予定変更も、ムギちゃんは嫌な顔ひとつせず…むしろ大喜び。わたしもとても嬉しい。
「ほんとはね、はじめからウチにも遊びにきてほしいって思ってたの!」
眉毛がぴくぴくと跳ねるように動く。
前に東京に遊びに来たときにもムギちゃんちに泊まらせてもらったなぁー。
そのころまだりっちゃんはこっちに来てなかった。
ムギちゃんは東京に来てからずっと同じところに住んでいる。
駅からはマンションまで、歩いて二十分ほどかかる、少し不便だ。
でも近くに商店街があるからなんでも揃うし、緑が多いからお散歩も楽しいし、それに慣れちゃったから引っ越す気になれなくて、ムギちゃんは言った。
最寄駅に着き、ムギちゃんの自転車に二人乗り。
ムギちゃんが力強くペダルを踏み、ぐんぐんスピードを上げる。自転車は夜の街を駆けて行く。
途中、ファミマに寄って冷凍ピザを買う。
冷凍たこ焼きとどっちにしようか迷って、ムギちゃんの意見を聞いて決めた。
豪勢なディナーのあとに、チープなものが食べたく心理って不思議。
またしてもピルクルは売り切れ。…まぁいいか。飲み物は諦める。
コンビニを出て隣のツタヤに入り、DVDを一本借りる。笑えそうなやつをセレクト。
ムギちゃんは案外お笑いに詳しい。りっちゃんと二人でルミネに行ったこともあるって。
そこから五分ほど歩いてマンションへ。
エレベーターは故障中で使えず、階段で七階まで上がる。
膝はガクガク、呼吸はぜーぜー、運動不足の身体にこたえる……ムギちゃんは息一つ乱さず、鼻歌を歌っている。ジムに通ってるのかな? わたしもちょっと考えよう。
ムギちゃんの部屋は703号室。カードをかざすと、うぃーん、と音を立てて解錠された。
へぇ、こういうとこは新しいもんなんだ。セキュリティは大事だもんね。感心する。
扉を開くとふわっと煙くささが鼻をかすめる。ああ…蚊取り線香の匂い。
室内はこだわりの畳敷き。もとはフローリングだったのをわざわざ畳を持ち込んだと言う徹底ぶり。
寝室にベッドはなく、畳の上に直に布団を置いて寝るタイプ。
リビング…というか居間も和風。
畳、こたつ、みかん、緑茶のそろった居間のある部屋に住むのが夢だったの~♪、と聞かされたのは初めてお邪魔したとき、あれは冬だった。
真夏の居間の真ん中を、裸になったコタツ机が陣取り、その中心にはざる盛りされたせんべいが乗っかって、カーテンレールの端には金魚の形をした風鈴がチリンと鳴り、窓際にはブタの蚊遣器がゆらゆらと蚊取り線香の煙をくゆらせるのだった。
お風呂上がり。ムギちゃん秘蔵の純米酒をちびちび飲みつつ借りてきたお笑いのDVDを観る。
お腹を抱えて笑うムギちゃんの瞳が赤い。泣くほど笑う人、ひさびさに見たなー。
そもそもわたし、最近泣いてないや。最後に泣いたの、いつだっけ?
感情が死んでる? いやいや。
DVDを観終える頃、一升瓶は空に。スマホで時間を確認するともういい時間。
…しまった。モバイルバッテリー買うの忘れてた…残念ながら、ムギちゃんのものとは型が合わず、充電不可能。残り15%。困ったな。まぁいいか。明日は帰るだけだし、なんとかなるかー。
隣り合って敷かれた布団に入り、二人並んで眠る。ふっかふかの羽毛布団。
昨日はソファで寝ちゃったから睡眠不足気味だったし、今日は一日中動き回ってたらふく食べて飲んで…疲れているはずなのに、なぜだかちっとも眠くならず。目がらんらん。
りっちゃん、もう寝ちゃったかな。
「唯ちゃん、起きてる?」
「うん、なんか目が冴えちゃって」
「そう…大丈夫?」
「大丈夫だよ、疲れてるけど大したことないし」
「そうじゃなくて、りっちゃんのこと気にならない?」
気になってないわけがない。
「……ムギちゃんはいつ聞いたの?」
「わたしもちょっと前よ」
「事前に相談とか……」
「ちょっとだけ」
されてたのか。
「わたしが言ったの。りっちゃんから唯ちゃんに、直接ちゃんと伝えなきゃダメ、って。
実は、今回唯ちゃんをこっちに呼んだのは、そのためなの」
余計なこと、してくれちゃったのね。
鏡台の片隅には五人が写った高校時代の写真と並んで、りっちゃんとのツーショット写真が飾ってある。
浴衣姿で身を寄せ合って笑顔でピースサインを作る二人。花火大会かな。割と最近の写真っぽい。
「ムギちゃんはどうなの」
「どう…って、なにが?」
「彼氏とか、いないの」
「いないよ、そんなの。唯ちゃんは?」
「今はいないよ」
「つくらないの?」
「うーん、どうだろ。ひとりはひとりで、気楽だしね。周りはじゃまくさいこと言ってくる人もいるけど」
世の中年男性のみなさん。
わたしに彼氏がいないと知って、目の色変えるのは勝手ですが、わたしにも選ぶ権利があります。
あとせめて自分の息がくさいことに気づいてください。芸能人じゃなくたって、歯は命。
世話焼きな中年女性のみなさん。
“わたしは本気であなたを心配しています”という態度で近づいて来るのはやめてください。
世間の常識や多数派の確信、自分にとっての善意が誰にとっても共通するものじゃないって知ってください。
善意の押し売りご勘弁。遠慮して断ってるんじゃなくて本心だから! ああ、もううるさい。あっちいって。
「ああ、わかる。ほっといてほしいよね」
「別にいーじゃんねー、彼氏なんていなくったって。わたしの人生なんだから」
「そうね。結局、自分の人生の責任は、自分でとる他ないものね」
自分の人生の責任、かぁ。
「…ね、ムギちゃん。りっちゃんの相手。どんな人か知ってる?」
「職場の同期らしいよ。でも詳しいことはあんまり」
「イケメン?」
「さぁ……会ったことないし、写真も見たことないから」
ムギちゃんは寝返りをうってわたしに背中を向けた。
「みんな結婚していっちゃうね。また集まるのが難しくなるね」
背中を向けたムギちゃんが呟く。
さみしい。正直、すっごくさみしい。昔はあんなにそばにいたのに。いつでもいっしょだったのに。
大人になれば、そんなものよりもっと大事なものができるわけ? 友達、ってそんなもの? ちがうよ、そうじゃないって思いたい。
子供じみたこと考えてごめん。
そりゃいつまでも学生時代や独身時代の関係性がそのまま続くわけないなんて知ってる。
生活の変化、それに伴う気持ちの変化。だんだんと人は変わっていく。
今の自分とその日常が一番大事なんて、当たり前。みんなそうだ、わたしだってそう。
変わっていくこと、過去になっていくことは、裏切りじゃない。悪いことじゃない。
昨日と同じ今日、今日とよく似た明日。それが続くと、なんとなく思っていて気付けばY字路。
目の前に看板。右行く?左行く? AorB?
いつまでもみんないっしょに進めない。さて、あなたはどちらを進みますか?
わたしはどっちに進めばいいんだろ。そもそも選択肢自体あったのか。
Y字路なんてあったっけ? 進学、就職。あるにはあった。
何を買う? 何を食べる? どこに行く? 誰と行く?
日常の中にある無数の小さな選択を繰り返してわたしは今、ここにいる。
選んだ記憶もなく、無意識に何かを選択し続けてきたことがたくさんあったんだろうな。
…わかんない。まぁいいか。
「売れ残っちゃったね、わたし達」
背中を向けたムギちゃんに、わたしは話しかけ続けた。
「ま、残りものには福があるっていうし!」
さみしさを紛らわすようにおどけた声を出す。
余計惨め。惨め? そんなことない、だってそれなりに毎日たのしく…本当? 本当にそう?
意地を張ると余計に…、もういいや、惨めで。はい、惨め。
いやだね、世の中って。
ほんと、めんどうなことばっかり。
「今までだってロクな男に出会わなかっただけだからね、まだまだこれから…」
わたしだって“ロクな女”じゃないかもしれませんが。
「そうね。出会いなんて突然なんだもん」
「おっ、もしやムギちゃんステキな出会いが?」
「あったよ」
「………そっか」
はじめて聞く話なのに、わたしはあまり驚かなかった。
「片想い…なんだ」
ゴロン、と身体の向きを戻したムギちゃんは、身をよじるようにしてわたしに近づき、ニッと笑う。
「その人と出会ったのはもうずっと前。
自分の気持ちに気がついたのはもうちょっとあとだったけど。わたし、思うの」
「なにを?」
「きっとその人のこと、一生好きだな、って」
「結婚、しないの? その人と」
ムギちゃんは黙って首を横に振る。
「えー…」
「あ、“don’t”じゃなくて“can’t”ね」
ムギちゃんは流暢な発音でそう言った。
「結婚はね、たぶんそのうちするよ。でも恋愛と結婚は別」
「じゃあちがう人と結婚する、ってこと?」
「親を心配させたくないしね」
選択肢は二択じゃない、ってことか。
右か左か、だけじゃない。上も下も前も後ろも。一歩進んで三歩下がる。探せば見つかる獣道。いっそ自分で切り開け。
道はたくさんある。人生の岐路なんだから、じっくり考えて…考えれば道は開ける。
いっときのアサハカな思いつきで選択を誤ればえらいこっちゃ。
じっくりしっかり、十年後、二十年後の将来設計を思い描いて、ジュージツした人生を送るためのベストな選択を……十年後?
十年前。わたし達はまだ学生だった。
単位獲得、サークル活動、アルバイト、就活……、うんぬんかんぬん格闘してたけれど、未来のことなんてどーにかなるでしょ、ってな具合に思ってた。
十年後のことは十年後の自分に任せるよ…それより今はこのキングボンビーをどうすればりっちゃんになすりつけるかに集中しよう…とにかく最下位脱出するよ!
…面接も試験もレポートもすっ飛ばして徹夜で桃鉄してたなぁ………我ながらアホな大学生だった。
おーい、どーするよ。今の自分。
この先どーする?
いよいよ来年30歳だよ。ぐわー、三十路。つまり十年後は40歳。………40歳!?
…背筋が凍りつく。
何も考えてなかった。
わたし、このままひとりでいたらどうなるの?
今ならまだ、間に合う。適当にそこそこな男と結婚する?
ムギちゃんみたく、恋愛と結婚をわけて考えるのもアリかもしんない。
それともバリバリ仕事に打ち込むキャリアウーマン?
…いや、わたしにそれができるのか?
もっとやるべきことがあるような気がする。
もっとやりたいことがあった気がする。
何を選んでも後悔しそうな気がする。
ああカミサマおねがい! 正しい選択を教えて!
わたしはずっと待っていたんだと思う。
ぼんやりだらだら歩いているわたしの手を、誰かが引っ張って言ってくれるのを。
こっちに進みなさい、って誰かが教えてくれるのを。
誰かがわたしの世界を変えてくれるのを。
そんな人、どこにもいやしないのにね。
「ムギちゃんはさ、十年後どうしたいか、考えたことある?」
「そうね。好きな人を好きでい続けられたら、それで十分かしら」
「えー、それって不毛じゃない?」
「そうねぇ。でもいいのよ」
「……で、諦めて親の言うなりになって、好きでもない人と結婚するわけ? それでいいの?」
無言で頷くムギちゃん。
「二十年後は? 三十年後は?
好きでもない人と結婚して、子供作って、一生を過ごすわけ?
ムギちゃん、本当はどうしたいの?
好きな人に告白した?
ちゃんと気持ちは伝えた?
その相手はムギちゃんのこと、どう思ってるの?
本当の気持ちを押し殺してこれからずっと、そのままでいいの? ……ねぇ」
わたしは自分の内側にある不安をなすりつけるように、吐き出した。
「わたしは平気」
「うそだ」
「うそじゃないわ。平気よ、平気」
「思い切ってさ。その好きな人に、ムギちゃんのほうから言い寄ってみたら? ムギちゃんならイケるよ~」
イケる、ってどこにだよ、なにがだよ。
「ムリよ。片想い、って言ったでしょ。
その人には、ずっと好きな人がいるの」
「奪っちゃえば?」
「ムリよ」
「どうして?」
「その人たち、両思いだから。…今のところ、なかなかうまくいってないみたいだけど…。
でも近くで見ていたらよくわかるの。お互い、相手を想ってるって」
「まだくっついてないならチャンスあるじゃん。諦めたらそこでおしまいだよ。望みを捨てなきゃいつか…」
「わたしはね、唯ちゃん。相手の人のことも好きなの。二人のことが大好きなの。想い合ってる人同士、ちゃんと結ばれてほしいと思ってるの。応援したいな、って」
「今は良くても、ゼッタイ後悔するよ」
「しないわ」
「するよ」
「しない」
「どうしてそんなことが言えるの? 今のムギちゃんの判断や行動が正しかったかどうかなんて、時間がたたなきゃわかんないよ」
「そうだね。先のことはわからないね。でもいいの。わたし、変わらないから」
「……イミわかんない」
「好きだから。その二人のこと」
「偽善者」
「ねぇ、唯ちゃん」
「……ん?」
「唯ちゃんに、わたしの何がわかるの?」
「……………」
「変わらないから」
ムギちゃんは断言した。
変わらない。
変わることを拒否して、“今この瞬間”の自分の感情を維持し続けしようとするムギちゃんは子供なのか。
それとも強い意志を持った大人なのか。
でもさ、結局今の決断を正しいかどうか、決めるのが未来の自分だってことは間違いないよ。
Y字路はいくつもあった。
目の前に現れた看板を見て、無意識に楽そうな方ばかり選んできた。
自分自身の、“今この瞬間”の感情すら考えてみようとはせずに。
判断を保留し続けたわたしの態度こそが、子供だったのかもしれない。
これでいいのか、わたしの人生。
じゃあ何を選ぶ?
わたしは何がしたい?
何を望んでた?
生ぬるい現状維持以外の何を?
思考を放棄し続けて来たせいで、やりたいことがわからない。わたしの望みは一体なんなの?
………
完全に沈黙した状態が長々と続く。
ムギちゃんはもう寝てしまったのだろうか。
わたしも寝てしまえば、朝が来れば、何事もなかったようにわたし達は笑顔に戻れる。
ゲームのリセットボタンを押すように。そうねがいたい。…それなのに眠れない。
くだらないことを言った。後悔しても遅い。
どうしてこんなバカげたこと…自分でもわからない。
もしかしてわたし、結構不安だった?
別にそんなんじゃない。わたしはただ…今までみたいにおもしろおかしく毎日を暮らしたいだけ。ずっとそうしていたいだけ。
わたしのおねがいなんて、その程度のささやかなものだよ。
それなのに、周りはそれを許してくれない。どんどんと流れに押し流されるように変わっていく。
わたし達はいつから大人になるのだろう。大人になっちゃったんだろう。
高校を出たら?
二十歳になったら?
就職したら?
結婚したら?
子供ができたら?
時計の針が0時を告げるように、
カレンダーをびりっと破るように、
除夜の鐘が鳴るように、
もっとわかりやすく教えてくれたらよかったのに。
はい! あなたは今日から大人です!!
って。
首を振っていた扇風機が止まった。おやすみタイマーが切れたんだ。
窓から吹く風が気持ちいいから、差し支えはなさそうだ。ちりんちりんと風鈴が揺れた。
「…ごめんなさい」
「どうしてムギちゃんが謝るの」
「言い過ぎたと思って…だって、唯ちゃん、わたしのことを思って言ってくれたのに」
ちがうよ。わたしは自分のことしか考えてないよ。
自分の不安を当てこすりたかっただけなの。だから悪いのはわたし。
「りっちゃんが好きなの」
鈴のように澄んだ声で、ムギちゃんは言った。
「りっちゃんがほかの人のことを好きだってわかっていても、好きなの」
ムギちゃんは、どうしてそんなふうに自分の気持ちがわかるんだろう。
まっすぐ自分の気持ちを言葉にできるんだろう。
「くるしく、ないの?」
「くるしいよ。でもきもちに嘘つくほうがもっとくるしいから」
「ずっとそのままでも? 永遠に振り向いてもらえなくても?」
「…くるしいよ。くるしくてくるしくてたまらないよ。
わたしがどんなに好きでも、りっちゃんはわたしを振り向いてくれない。
昔も今も、来年も、きっと十年経っても二十年経っても。
…それなのにわたしだけりっちゃんのこと思い続けたって…なんの意味もないんじゃないか、って、不安でいっぱい。
それに、りっちゃんが本当に好きな人と結ばれない限り、ひょっとしてわたしにもチャンスがあるんじゃないか、なんて考えちゃう。
りっちゃんのこと、大好きなのに、大好きな人がしあわせになってほしくないって思ってる。
わたし、最低よ。クズよ。
こんなことばっかり考えて、気が狂いそうよ。もう、いや」
スマホがちかちか光ってるのに気づいて手に取る。
りっちゃんからLINEだ。こんな時間に起きてるの? …間が悪いよ。こんなタイミングじゃ返事できないじゃん。…いつもいつも、りっちゃんにちゃんと返信できない。
「唯ちゃん、ごめん。いますぐ出てって。りっちゃんのところへ行って」
「……えっ?」
「…………あたまがおかしくなりそうなの。
このままだとなにもかもイヤになって、ぜんぶぜんぶ大キライになりそうなの…
でも、そんなのぜったいイヤ! 唯ちゃんのことも、りっちゃんのことも、自分自身のこともキライになんてなりたくない!」
叫んだムギちゃんが、布団を跳ね飛ばして勢いよく立ち上がった。呼吸が荒い。肩を震わせながら横たわるのわたしの前に仁王立ちして、布団をひっぺがした。
「…わけわかんないよ」
「…まだ間に合うから」
「ちゃんとわかるように言ってよ」
「りっちゃん、待ってるよ」
「イミわかんない」
「わかるわ。唯ちゃんはね、本当はわかってるのよ」
「…………ムギちゃん」
「りっちゃん、ずっと待ってるんだよ。唯ちゃんの返事」
「……返事」
「唯ちゃんだって、りっちゃんに確かめたいこと、あるんじゃない?」
わたしはゆっくり立ち上がると、仁王立ちしたままのムギちゃんをぎゅっと抱きしめた。
「……わかった」
無言。ムギちゃんの肩は震え続けている。
「今日は案内してくれてありがとう。久しぶりに二人で遊べて、すっごく楽しかったよ」
「…唯ちゃん」
「なぁに、ムギちゃん」
「わたし、唯ちゃんのこと、だいすきよ」
耳元でムギちゃんがちいさく呟く。
わたしはその震える肩を強く抱きしめて、頭を撫でた。
わたしも、だいすきだよ。耳元でムギちゃんに伝える。
「もう行って。りっちゃん、待ってるから」
そう言ってわたしから離れると、顔を見せないように倒れ込み、頭から布団をかぶり、まんまるに身体を縮こまらせた。
暗がりのなか、手探りで着替えをすませ、枕元に置いておいたリュックを背負い、ムギちゃんの部屋を出た。
スマホを取り出す。電池残量はもう一桁だ。LINEを開いて文字を打つ出す。
わたしが返事すべきこと、りっちゃんに聞きたいことは……
“どうして”
…と四文字打ったところで手が止まり、文字を消す。
どうして
どうして
どうして
どうして
四文字が頭のなかをぐるぐると巡る。
どうして、この四文字の続きが打てないのか。
りっちゃん相手に、遠慮も気兼ねもなく、どんなことも包み隠さず付き合ってきたつもりなのに。
決意だって固めたのに。それなのに。
四文字に続く言葉が打てないのは、どうしてだろう。
やっぱり電話をかけようか、うまく文字にまとめられなくても、声に出せば伝えれるかもしれない。
でもこんな時間にこんなところで電話したら、ここに住んでる人たちに迷惑だ。
せめて下まで降りて外で電話しようか、と思ったら、あ……エレベーター壊れてるんだった。7階から歩いて降りるのか……ぐぇぇ…
第一、こんなに夜遅く、りっちゃんはまだ起きてるだろうか。もう寝てるかもしれない。
深夜に叩き起こすのはさすがに非常識。疲れて寝てるところを起こされて、いきなり意味不明な話をされて…不機嫌になったりっちゃんを想像する。
むむむ…伝わらるものも伝わらなさそう。
そうこうしてる間に残量がまた減った。
ああ…これじゃあ話してる途中で切れちゃうよ。
まぁいいか、しかたないよね、今夜はやめとこ。
また今度会ったときでいーじゃん。そのときに話せば。
次会うとき……あずにゃんの結婚式。結婚、あずにゃんの次は…りっちゃん。
そっか、りっちゃん、結婚しちゃうのか。
まぁいいか…………
いいわけ、ない!
わたしはダッシュで階段を駆け下りた。
7階6階5階4階3階……息が切れる、膝がガクガク、太ももはプルプル。
踏み外したら大ケガだ。それでもかまうもんかと一段飛ばし。
エントランスまで降りてきて、その勢いのまま正面玄関を飛び出す。
マンションの外に出るとすぐ、スマホを取り出す。
指が震える。ゆっくり…ゆっくり…慌てないで…よし。
プップップッとプッシュ音。電話がかかった。
コール音が響く。1回 2回 3回 4回 5回 ……。
出ない。
6回 7回 8回 9回 10回 ……。
出てよ。ねぇおねがいだから、出て。
11回 12回 13回 …。
今、りっちゃんの声が聞きたい。
14回 15回…。
今、りっちゃんに伝えたい。
16回…。
今じゃなきゃ、ダメなの!
17回目。
わたしは目をつむり、祈る気持ちでスマホを握りしめた。
お願い!!!
「……もしもし」
18回目のコールを終えて、りっちゃんの眠そうな声が耳に届いた。
「…出ると思わなかった」
「電話かけといてそれ? 唯こそこんな時間になにしてんの、つーか、なんか息荒くね?」
「…………眠れなくて」
「…そっか。わたしも」
「…何の用?」
「アホ。それはこっちのセリフ」
りっちゃんは呆れたような声を出して、笑った。
わたしも笑った。
情けない。膝がガクガクで、立っていられない。
アスファルトの上にペタンと座り込む。
心臓がバクバクと音を鳴らしてる。喉が渇く。声が震える。
わたし、こんなにヘタレだったっけ? 呆れるくらい臆病だ。
大きく息を吸って…吐く。
「聞きたいことがあるの」
「…なんだよ」
「どうして……」
「どうして?」
うだうだ考え続けたあげくにようやく電話をかけて、りっちゃんは出てくれたというのに、
電池残量は残りわずかだというのに、なにも言葉がでてこない。
薄紫色の空にかかる雲。ほとんど星なんて見えない。
あの日ふたり見た星空とは大違いだ。
しばらく黙ったまま、明けつつある空を見つめていた。
もうすぐ日が昇る。新しい一日がやってくる。
太陽は昇って、沈んで。月が昇って、沈んで。また太陽が昇って。
一日一日が重なったその先に、何があるだろう。わかってるのはりっちゃんが結婚してしまうこと。
そういえば“おめでとう”って言っていなかった。
今、それ、言っとく?
今、それ、言うべき?
言うべきだよねぇ。
友達なんだから。
澪ちゃんやあずにゃんのときはまっすぐに出てきた言葉がなぜだか今は出てこない。
どれだけ無言の時間が続いても、りっちゃんは電話を切らなかった。
そうだ。りっちゃんは、わたしを待っていてくれてた。いつだって待ってくれてた。
わたしが何かを伝えようとするのを。返事をするのを。
言わなきゃ。言わなきゃダメだ。今しかない。今、ちゃんと言葉にして伝えなきゃいけない。
理由なんて知らない。内容なんてわかんない。
うまいこと言おうなんて考えなくていい、かっこつけなくていい。今、思ったことをそのまま口に出すだけ。
誰も進むべきを道を教えてくれない。
手を引っ張っていってくれる人はいない。
夢にみたハクバノ王子サマなんて、現実にはいない。
いつか今の自分を裁くのが、未来の自分だったとしても、ソイツは今、ここにはいない。
いるのは、自分だ。選ぶのは、自分だ。今、この瞬間の、わたしだけだ。
わたしが選ぶ! わたしが決める!
け、けっ、けっこん……おめ、おめ、お、お、お………おめで…、、、
言えるかバカ!
「………りっちゃんのせいでわたし、婚期逃しそうなんだけど」
「は?」
出てきたのは思いもしない言葉だった。
「……この三年間一切男っ気ないし。もう来年30歳なのにどーしてくれんの。
とりあえず付き合うとかいうレベルでも男に興味なくなっちゃったんだけど。
ねぇ、どうしてかわかる? りっちゃんのせいだよ。りっちゃんがあんなことするからだよ。
そのくせりっちゃんが結婚するとか、なに? なんなの? ふざけてんの? バカにしてるでしょ」
次から次に言葉が溢れ出てくる。こうなったら後に引けない。もう、なるようになれ!
「ちょっと待て。意味わかんね。酔ってんのか?」
「酔ってない!」
「…彼氏作んないのも結婚しないのも、唯の勝手だろ。わたしを巻き込むなよ」
「バカ言わないでよ! 勝手なのはりっちゃんじゃん。そっちがわたしを巻き込んだくせに」
「……ちゃんとわかるように言え」
「どうしてキスなんかしたの」
沈黙。
受話器の向こうからりっちゃんの呼吸だけが聞こえて来る。
呼吸がだいぶ落ち着いてきた。
「…ごめん」
「あやまんなバカ! わっかんない! ほんっっっっとわっかんない!
いままでずーっと考えてたけど、わかんない!
わたしの頭ん中ぐっちゃぐちゃにしたまま遠くに逃げて、思わせぶりな態度取り続けて、ずっとほうっておいたくせに結婚?? イミわかんない! ふざけんなだよ!!」
「…気持ちに決着、つけたかったんだ。
わたしが結婚すれば、唯のことも、ムギのことも、全部うまくまとまる気がしたんだ」
「この偽善者!」
「……わるい」
「……もういい。わたし、帰る」
「……唯、ムギんちにいるんだよな? わたし、今ホテル出た。始発の新幹線に乗って帰るから。急いでそっち行く。とにかく会って話そう」
「もういいってば! 話すことなんて何もないよっ、結婚でもなんでも勝手にすればっ!」
「ゼッタイ行くから。待ってろ!」
「……電池切れるから」
すぅ、と雲が流れた。
その瞬間、わたしは見た。
明け方の空、雲と雲の、わずかな隙間を縫うようにして星が走るのを。
また言えなかった。
今なら、叶えてほしい願い、あったのに。
ひどいよ、いきなりなんだもん。ムリだよ。ズルいよ。
「…唯、いま見た?」
「…なにを」
「わたし、外にいるから見えたんだけど、流れ星がさ……」
「見てない」
「わたしはちゃんと三回、願いごとしたぜー」
「こんなときに自慢? 無意味だよ。迷信じゃん。あんなの」
「そうかもな。でも勇気を出すときの景気付けくらいにはなるよ。あのときだって」
「……切るよ」
「わかった。じゃあ最後に聞いて。わたし、結婚しない。今決めた。もともと返事、まだだったから」
「…知らないよそんなの。わたしが聞いてるのと別のことじゃんか」
「そうだったな。言うよ。あのさ、わたしがあのときあんなことしたのは…」
「…」
「唯のことが、好きだからだよ」
沈黙。
オレンジ色の空、ビルとビルの間から太陽が顔を出した。
みるみるうちに空が白んでいく。
一瞬ごとに空の色を変えながら、夜は朝へ変わっていく。鮮やかな光が、世界を包んでいく。
新しい一日が、はじまる。
世界が変わる。
「唯、聞こえてた?」
「…聞こえた」
「そりゃなによりだ」
「ねぇ、りっちゃん。わたし、いつもりっちゃんに返事できてなかったね」
「いいよ、もう」
「いいわけないよ。ちゃんと今、返事するから聞いててね」
「おう」
「わたしも、りっちゃんのことが好き」
沈黙。
ねぇ、りっちゃん。
さっきからわたし達、黙ってる時間長くない?
LINEにしときゃよかったのに、なんでこんなときに限って電話なんだろ、しかもわたしの方から。
あ~あ、バッカみたいバッカみたい。
ほんっとバカみたい。
わかんなかったなら、こうやってさっさと聞けばよかったんだ。
自分から聞けば、よかったんだ。そんなこともわからなかった自分は、なんて愚かだったんだろう。
ごめんね、りっちゃん。バカでごめん。
でもね、りっちゃんだっておなじだよ。ちゃんとわかるように伝えてくれなきゃ、わかんないよ。
もっとちゃんと、わかりやすく、教えてよ。バカ。
「今から電車乗る。新幹線に乗るから、東京駅で待ってて」
受話器の向こうでりっちゃんが言った。
「ムリ。だって電池切れるし。東京駅広いし、迷うし。ゼッタイ会えないよ」
「大丈夫だ。見つける。どこにいたって、唯のこと必ず見つける。だから大丈夫」
「やだ。もう待つの疲れた」
「それはお互いさま。今までのことを思えば二時間三時間くらい、知れてるだろ」
「……他人ごとみたいに言わないでよ」
「……ごめん。でも会いたい。とにかく唯に会いたい。いますぐ会いたい。会いたいんだ」
「……バカ」
わたし達って、ほんとバカだね。笑っちゃうくらい。
瞳に溢れた涙が流れ出さないように、わたしは顔を上げた。
「わたしが行くよ、わたしがそっちに行くから。りっちゃんは大阪駅で待ってて」
「え……でも」
「そっちの方が土地勘あるし、合流しやすいでしょ。だから待ってて、もうちょっとだけ」
「……わかった。待ってる。ゼッタイ来てくれよ」
「行くよ。ゼッタイに行く。わたしもね、みつけるよ。どこにいたって、りっちゃんのこと必ずみつける、それから……」
電池が切れた。
でも、そんなことどうでもいい。
だってこれから会いに行くんだもん。会って直接、りっちゃんに伝えるだもん。
これまで言えなかったことも、これから言おうとしたことも、全部全部、伝えるんだ。
これからわたしが選ぼうとしている道が、正解なのか、不正解なのか、今のわたしにはわからない。
十年後のわたしが、激怒する選択なのかもしれない。
そんなことしったこっちゃない。
もしからしたら、とんでもなくバカなことをしようとしてるのかもしれない。
許しておくれ、未来のわたし。
わたしにとってのわたしは、今、この瞬間のわたしだけだから。
太陽の光に消えて行く星を見ながら、りっちゃんと一緒に、また星を見たいな。そう思った。
おしまい。
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