梓「おとまり!」 (95)

ピンポーン、とチャイムの音が響き、指が離れるよりも早くに扉が開いた。
うわっはやっ!
えへ、待ちきれなくてさぁ。
扉の隙間から顔を出した唯先輩は、眉尻を下げながらそう言った。

梓「おおげさですね。別の人だったらどうするつもりだったんです?」

唯「わかるよぉ、あずにゃんのことなら」

梓「はいはい」

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また適当なこと言って。
わたしが呆れたように言うと、唯先輩は不満そうに唇を尖らせて、わかるよぉあずにゃんのことなら、と同じ言葉を繰り返す。
ま、とにかくはいってはいって~。
表情をくるりと変えた唯先輩は、うれしそうに手招きをしながらわたしの買い物袋をうけとり、跳ねるようにして階段を登っていった。
おじゃまします、とちいさく呟き、靴を脱いであとへ続く。
階段の途中で唯先輩が振り返り、わたしを見て言った。

唯「言うの忘れてた」

梓「?」

振り向いた唯先輩の頬が赤い。

唯「…いらっしゃい」

梓「…おじゃま、します」

よく見れば耳までまっかっか。すぐまた背中を向けて階段を登っていってしまう。ふわふわと揺れるボブカット。
わたしも耳たぶに触れてみる。…あつい。きっとわたしの顔もまっかっかだ。心臓もばくばくいってる。
大きく息を吸う。い、いまからこんな調子でどうするんだわたし。いや、でも緊張してもしかたないよね…だって今日は…

今日ははじめての、おとまり。
唯先輩の家には、ご両親も、憂もいません。先輩たちも泊まりにはきません。
そう、ふたりっきりの…おとまりです……。

唯先輩の家に来るのはもちろんこれがはじめてじゃない。
友達の家、かつ部活の先輩の家、ということもあって、今までだってなんどもこの家にやってきたことはある。
でも大抵は部活の先輩たちといっしょだったり、憂がいたりするから、ここで唯先輩とふたりきりになるのは、これがはじめての経験だ。
しかもこれから明日の朝までずっと一緒。正真正銘これがはじめて…はじめての経験…

は、はじめての経験、って……なに言ってんだわたし!

唯「あずにゃん、どうしたの? すごいよ汗、暖房きつかった?」

梓「はっ! …いえ! そーゆーことではっ」ブンブン

唯「それならよかったー、暑かったら勝手に温度調整していいからね。とりあえずそのへんに座っててよ、今からわたしが腕によりをかけて晩ごはんつくっちゃうから!」フンス!

梓「そんな、わたしも手伝いますっ!」

唯「いいのいいの! あずにゃんはお客様なんだから!」

梓「いや…でも…」

唯「ほらぁ~、遠慮しないで~」

梓「遠慮、っていうかその…」

唯「なーに? どうかした?」

梓「ふ、ふたりで一緒に料理したいな、…なんて//」

モーレツな勢いで抱きしめられて、しぬかと思った。

皮を分厚く切りすぎたせいで、ずいぶんと小さくなったジャガイモが、口の中でほろりと溶けた。

唯「あずにゃんおいしいね~♪」モグモグ

梓「そうですね、とりあえず失敗しなくてよかったですね」

つくったのはカレーライス。
普段料理をしない(できないんじゃなくて、経験が少ないだけ)わたしたちでもできるもの、かつ失敗なくおいしいもの、となればメニューは限られてくる。
お味のほうは…はじめてつくったにしては、われながら悪くない出来だと思う(そもそもカレーで失敗することがあるかは知らない)。
スーパーで買った市販のルウの裏側、そこの説明書き通りに作れることのできた自分を、まずは褒めてあげたい。
わたしは二杯、唯先輩は三杯もおかわりをした。
作りすぎた残りは明日の朝にでも食べることにして、器に移し替えてラップをかけ、冷蔵庫にしまう。
食事中、唯先輩はずっと笑顔だった。これを見られただけで、二時間かけて作った甲斐があったよね。
しかも、この日のために買ってきたお揃いのエプロンをつけて、ふたり並んでキッチンに立てちゃったし/// もうすっかりおなかいっぱい。

ごちそうさまでした。
お米粒ひとつ残さずきれいに平らげ、ふたりして両手を合わせた。

…。

両手を合わせた格好のまま、唯先輩が動かない。
少し伏せるようにして目を瞑るその姿はまるで、祈りをささげているみたい。

梓「ひょっとしておなか、痛いんですか?」

ゆっくりと左右に首を振る。依然目を閉じ、黙ったまま。

息してる?
フスーフスーと鼻息が聞こえるから問題ない。
やっぱりおなか痛いんじゃ…

豚肉、ちゃんと火、通ってたよね?
実は説明書き以上の時間、具材が溶けるほど煮込んだんだから、たぶん大丈夫。…だと思う。
人参もジャガイモもたまねぎもマッシュルームも全部今日スーパーで買ったばかりだし…
あっ! もしかして冷蔵庫の横に転がってたカブを唯先輩が思いつきで入れたせい? あのカブ傷んでたのかな…そう言われるとちょっと黒ずんでた気もする…でもわたしも食べたはずなのになんともないし…それとも単に食べ過ぎ? やっぱりさすがに三杯は……

唯「あのさっ、あずにゃん!」

梓「…はっ、はいっ」

突然立ち上がった先輩は、フスーフスーと鼻息をあらっぽく鳴らしながら大きく目を見開き、わたしを見つめた。

唯「…………」フスーフスー

梓「…………」

唯「…………」フスーフスー

梓「…………あのぅ、どうかしましたか?」

唯「…………」フスーフスー

鼻息が荒い。なんかぶたさんみたい。
表情は真剣そのもので、黙ったままじっとわたしを見つめている。

唯「…………」フスーフスー

梓「あのぅ、あんまりそうやって見つめられると恥ずかしいんですけど…」

唯「…………」フスーフスー

梓「やっぱりおなか痛いんでしょ」

ブンブンと勢いよく首を振った。

梓「別に意地張らなくてもいいですよ、ほら、早くトイレ行ってきてください」

唯「そっ、そうじゃなくてっ!」

あ、やっとしゃべった。

梓「じゃあなんなんですか。ちゃんと言ってくださいよ」

唯「ご、ごめん…なんだか喉がすっごくカラカラで声が出なくなっちゃって…」

梓「お水飲んだらいいじゃないですか。目の前にあるでしょう」

唯「うん…わかってたんだけどあずにゃん以外目に入んなくなっちゃって…」

梓「なにバカなこと言ってるんですか。はい、お水」

唯「あずにゃんのお水がいいなぁ…間接キッスになるし//」

梓「自分のコップにまだお水入ってるでしょう。バカ言ってないでほら、自分の飲んでください」

唯「あずにゃんちべたい……」

唯「ふぅ…」コトン

梓「…で、どうかしたんですか?」

唯「…う、うん」

お水を一気に飲み干した唯先輩は、落ち着きなく視線を左右にキョロキョロと動かしてばかりで、こちらを見ようとしない。
これじゃさっきと真逆じゃない。一体なんなの? 
しびれを切らしたわたしは食器を手にとり、立ち上がった。

梓「洗い物さっさと済ませちゃいましょうよ。それからあとはお風呂にも入りたいですし…」

唯「そう!」

梓「!」

唯先輩の瞳がらんらんと光っている。また鼻息が荒い。ぶたさんに戻ってる。

唯「お風呂だよ!」

梓「はい?」

唯「いっしょにお風呂入ろうよ! あずにゃん!」ギラギラ

梓「おことわりします」

唯「えぇー……そんなぁ…」

唯「なんでぇ? どうしてダメなの? 合宿のときとか一緒に入ってたじゃん! ねぇあずにゃぁん…」ユサユサ

梓「それとこれとは別、っていうか…やめてください今食器持ってるんで危ないです揺らさないでください」

唯「クスン…ようやく勇気出して口にしたのに……」

梓「こんなこと言おうとしてたんですか…なにごとかと思いましたよ…」

唯「だってぇ…断られたらショックじゃん……」

梓「どっちみち断ったんですけどね」

唯「納得できません!」

梓「なんですか突然…」

唯「だってわたしたち付き合ってるでしょ?」

梓「まぁ…はい…いちおう」

唯「わたしはあずにゃんが好き。あずにゃんもわたしが好き。でしょ?」

梓「それは……はい、そうですけど…」

唯「それでもって今日ははじめてのおとまりだよね? ふたりっきりで朝まで一緒なんだよね?」

梓「……恥ずかしいからあんまり言わないでください」

唯「じゃあ一緒にお風呂に入ろうよっ」

梓「おことわりします」

唯「だからなんでそうなるのぉ…」

唯「朝まであずにゃんと片時も離れたくないのに…」

梓「べ、べつにいいでしょう…、朝まで一緒にいるんだからお風呂くらい別々でも…」

唯「そんなにイヤなんだね………」

梓「あの…イヤ、というかなんといいますか…イヤじゃないといえばイヤじゃないんですが」

唯「じゃあ入ろうよ!」

梓「だからダメですって」

唯「うぇーん!」

唯「ねぇ、理由を教えて? どうしてあずにゃんはわたしと一緒にお風呂に入ってくれないの?」チラ

梓「理由…って言われましても…(ああっ! でた! 上目遣い……!)」

唯「ねぇ! どうしてなのっ」

梓「ええっとぉ…(ううううう…かわいすぎます唯先輩!!)」

唯「……どしたのあずにゃん?」

梓「ハッ、いや大丈夫です!」

唯「?」

梓「あのその…とくにこれといった理由があるわけじゃないんですけど…とにかく恥ずかしくて…」

唯「えー、ちっとも恥ずかしくないよぅ。合宿のときは全然普通だったのに」

梓「あれは…あのときはみなさん一緒でしたし、ほら、そういうアレじゃないじゃないですか」

唯「そういうアレ? あずにゃん、アレってなに?」

梓「アレは…アレですよ」

唯「アレかぁ……で、なに?」

梓「なにって…ナニですよ。アレといればナニに決まってるでしょう」

唯「ふむふむ。アレってナニのことだったんだね」

梓「そうですよ。お風呂でアレをナニするから恥ずかしいです……ってナニ言わせるんですかっ!」

唯「あずにゃんが勝手にしゃべってただけじゃん…」

唯「まぁまぁ~、カタイことい・わ・ず・にっ♪ ほらほら、お着替え取りに行こ~よっ」

梓「えっ、ちょっと! わたしまだ一緒に入る、って言ってませんよ!」

唯「イヤではないんでしょ?」

梓「それは……」

唯「どっちにしてもわたしは自分の着替えとってこなきゃだからさ。せっかくだしあずにゃんにパジャマ選んでもらおうと思って」

梓「えぇー別にいいですよ。どうせまたあの変な文字の入ったクタクタのトレーナーでしょう? どれでも一緒ですよ」

唯「む。失礼な。そーだ、パジャマだけじゃなくて下着も選んでもらうからよろしくね」

梓「うぇ?! ゆゆゆゆいせんぱいっ! ナニ言ってるんですかっ!?!」

唯「ナニの話はもういいって」

梓「そそそ、そんなハレンチなことはできません!」

唯「そんなに気にすることかなぁ? だってお風呂一緒に入るんだからどーせ着替えてるとこだって見えるじゃん」

梓「そう言われると…いやいや、だから一緒に入る、って言ってませんってば」

唯「まぁまぁ~、とにかくお部屋いこっ、ね、あずにゃん♪」ギュ

梓「うっ、はい…(だから上目遣いは反則ですってば!)」ドキドキ

…お部屋!

唯「気分的にはこれかそれかあれか…」ゴソゴソ

唯先輩は、取り出したパンツをベッドの上へ等間隔に並べていく。
赤、白、黄色。綺麗だな。フリフリついてる、こっちはくまさん、ななな…こんな際どいのまでっ。意外と大胆…
わたしは極めて冷静を装い、その様子を眺めていた。




ティッシュを鼻に突っ込みながら。

唯「鼻血とまった?」

梓「いへ、まらみらいれす」

唯「首の後ろ、チョップしてあげようか?」

梓「いへ、けっこうれす」

これはただの布…ただの布…単なる布の切れ端…いろとりどりのセクシーな布切れ……

……………。

これ…全部一度は唯先輩が穿いたことあるパンツなんだよね…

唯「わっ、あずにゃん鼻血っもれてるもれてる! ティッシュ新しいのに変えなきゃ!」

唯「ふぅ…こんなところかな。じゃ、あずにゃん。この中から好きなもの選んで!」

唯「好きなもの、って言ってもあずにゃんが穿く用じゃなくてわたしが穿く用だからね!」

唯「で、でも…あずにゃんが穿きたい、って言うなら…貸してあげてもいいけどっ///」

唯「そしたらわたしがあずにゃんのパンツ…借りちゃおっかなぁ……」

唯「あわわわ~っ! あずにゃんまた鼻血でてるよぉ~~!!」

唯「だいじょうぶ? おさまった?」

梓「……すみません。たぶんもう大丈夫だと思います」

こんな風になっちゃうから、とてもじゃないけど一緒にお風呂なんて入れないです。
そっかぁ…お風呂が血の池じごくになっちゃうもんね。唯先輩はすこしさみしそうに冗談を言った。

唯「でもよかったー。お風呂断られちゃったし、あずにゃん、実はわたしのことあんまり好きじゃないのかと思っちゃった」

梓「そんなことないです! …そんな…そんなこと」

好きじゃない、なんて、そんなこと思われたくなくて、わたしは唯先輩の袖をきゅっと握った。
先輩はその手をやさしく掴んでわたしを引き寄せる。いつもの匂い、唯先輩の匂い。

唯「へんなこと言ってごめんね」

わたしはちいさく首を振る。

唯「わたしね、ときどき不安になったりするんだ。あずにゃんはわたしのこと、ほんとに好きなのかなーって」

梓「そんな…わたしだって」

唯「ごめんごめん。わかってるよ。でもね、どうしても不安になることはあるからさ。だからね。さっきはちょっとうれしかったんだー//」

梓「…え?」

唯「だってだよ? あずにゃん、わたしのパンツみてたっくさん鼻血出すくらいコーフンしちゃったんでしょ? あずにゃんはわたしのことそーゆー目で見てたんだなーって!」

梓「あ、いやあのそのあっと、うーんとそそそれは………」

唯「いいのいいの! すっごくうれしいよ? だってそれだけわたしのこと好き、ってことでしょ!」

唯「わ、わたしも…あずにゃんとそういうことしたい、って考えたり…す、するから……///」

梓「えっ///」

唯「と、ときどきだよ! ときどき! いっつもそんなこと考えてるわけじゃないからね!」

梓「わ、わかってますよ!」

唯「だから…今日は…そゆことできたらいいなぁーなんて思って…でもどうやったらそういう雰囲気になるのかちっともわかんなくて…それで…」

梓「お風呂…」

唯「うん…」コクリ

梓「すみません…わたしの(鼻血の)せいで…」

唯「ううん、いいよ。ぜんっぜんいいよ! だって(鼻血の)おかげであずにゃんの気持ちがわかったしそれに…」

唯「ゆっくり進んでいったらいいんだよね! まだ先は長いんだし!」

梓「せんぱい…」






見つめ合う。
唯先輩の瞳の中にわたしが写っているのが見えた。
きっとわたしの瞳の中にも唯先輩が写っている。
瞳が、だんだんと近づいていく。
瞼を閉じる。
呼吸。
鼻息は…荒くない。
でも胸がバクバクいってる。
わたしの二の腕を掴んだ唯先輩の手から伝わる体温。
震え。
あずにゃん。
わたしの名前を呼ぶ声。
吐息が頬にかかる。
香辛料の匂い。
これはさっき食べたカレー。

あ。

カレーの味。
甘口。
でもさっきよりずっと甘い。
はじめて知る味。





憂「ただいまー、あれ? おねえちゃん帰ってるのー?」


唯梓「「!!!?!???!?!??!?」」



トントントントン…

憂「おねえちゃーん?」

梓「ちょちょちょっ、あがってくるっ! あがってきますよっ! なんで憂がっ、今日は誰もいないって!!」

唯「わかんないよわたしにだってっ! たしかに純ちゃんちに泊まるって言ってたもん!」

梓「わわわわわわ…どーしようどーしましょう…」アタフタ

唯「と、とりあえずここに隠れてっ」

梓「わかりましたっ!」

こうしてわたしはクローゼットの暗闇に飛び込んだ。バタン。



コンコン

憂「おねえちゃん、いるー?」

唯「あ、うっうい?? かかかえってたんだー…おかえりっ!」

憂「うん。さっきからけっこうおっきな声で呼んでたんだけど」

唯「あれ? そうだった? ごめーん、気がつかなかったや」タハハ

憂「ふぅん……」

ガタン、クローゼットの内側から物音が響いた。
冷たい汗が背中を流れる。
思わず視線を向けてしまいそうになり、瞳を閉じる。

憂「どうしたのお姉ちゃん? 急に目を瞑ったりなんかして」

唯「なんでもないってば! 憂こそどうしたの? 今日は純ちゃんちにお泊まりだったはずじゃ…」

憂「うーんそれがね」

純ちゃんのお兄ちゃんが急に帰ってきちゃったんだって。
兄弟水入らずに水を差したくなくて、憂は帰ってきたんだって!
すばらしいね! 兄妹って! あはは!

唯「そ、そうだっ、ういっ、ごはん食べた?」

憂「えーっとまだだけど…」

唯「ならさっ、よかったらカレーの残りがあるから食べない??」

憂「うそっ? お姉ちゃんが自分でつくったの?」

唯「う、うん…まぁね、わたしもやればできる、っていうか。アハハ。ほら、はやくリビングいこっ、ほら、ね?」

憂「う、うん…どうしたの? そんなにあわてて」

唯「あわててなんていないよぉー。うん。ぜぇーんぜんあわてていません!」グイグイ

憂「ちょっと待っておねえちゃん、ごはんはいいんだけどちょっと気になることがあって」

唯「え」ドキ

憂「なんでベッドの上にパンツを並べてるの?」

唯「」

唯「いや……これは……その……ですね…………どれを穿こうかな…って悩んでいまして……」

憂「へー…」

唯「悩んでばかりいても埒があかないからさ、いっそのこと候補のパンツ全部出して並べてみよう! って思いまして……」

憂「…それで、決まったの?」

唯「それがまだ……」

憂「さっさと選んで片付けてね。出しっぱなしにしてちゃダメだよ。はい、早く決めて」

唯「ええっとぉ……(わわわ…いざとなると焦って決められないよぉ!)」アセアセ

憂「そんなに悩むこと? じゃあ久しぶりにわたしのパンツ穿く?」

クローゼット(!?)ガタ

唯「うい! しーだよ! しー!」

憂「しー? しーってなに?」

唯「え……いや、それは…」

憂「どうしたの? 照れることないでしょ? ふたりだけなんだし。それに昔はよく交換したじゃない」

唯「ま、まぁ…昔…昔の話だね! 子供のころっ、ちっさいころ! はるかとおいむかし!!」

憂「昔って言ってもわたしが高校入るまでだけど」

クローゼット(…………)ワナワナ

唯「それはその…そうなんだけど…今は…マズイ、っていうか…」チラチラ

憂「おねえちゃん? さっきからなに気にしてるの? クローゼットのほうばっかり見て」

クローゼット(!?)ビクッ

唯「なんでもないよ! クローゼットにはなんにもないよ!」

憂「なんにもないことはないでしょ」

唯「ないってばぁ!」

憂「あー、なにか隠しごと? いいよ、お父さんたちには黙っておくから」

唯「ないない! 本当に隠しごとなんてない!」

憂「……わたしにも言えないことなの?」

唯「……そ、それは」

憂「………」

唯「………」ゴクリ

憂「……おねえちゃん?」

唯「うい。わたしが憂に隠しごとなんて、できると思う?」

憂はかすかに首を振った。
その目はさみしそうに揺れている。胸の内に不安と不信が渦巻く中、きっとわたしのことを必死に信じようとしてくれてるんだと思う。
わたしはゆっくりと立ち上がり、憂のそばに寄ると軽く頭を撫でた。
やさしく身体を抱き、クローゼットからは見えない位置に引き寄せ、くちづける。
んっ、と憂の唇からわずかに吐息がもれる。
おねえちゃ…なにか言おうとした憂の唇を再び塞ぐ。
わたしたちは時間がたつのも忘れてお互いの唇をむさぼりあった。


クローゼット(………………………)

唯「…じゃあ、パンツはテキトーに選んであとは自分で片付けるから。憂は先にリビングに行ってて」

憂「……うん」

パタン

唯「…………」

クローゼット(…………)

唯「…………」

クローゼット(…………)

唯「…………」

クローゼット(…………)ギィィ

唯「言いたいことはわかってますごめんなさい……」

梓「…とりあえず言い訳くらいは聞いてあげます」

梓「…………唯先輩は普段から憂とああいうことしてるんですか」

唯「そんなことないよぉ! あっ、あれは…その…ああでもしないとバレちゃうと思って…とっさに!」

梓「それにしては慣れてるように見えましたけど? それにパンツも交換してるとか?」

唯「ないない! ないよ! …憂が高校生になってからは…してないもん!」

梓「つまり中学まではしてたんですね」

梓「それで…キスは今でもしてる、と」

唯「そっそれは…」

梓「してるんでしょ」

唯「いやぁ…うーんと」

梓「はっきり言ってください! してるんでしょ!」

唯「あ、あんまり大きい声出すと憂が…」

梓「答えて! してる! してない! どっち!?」

唯「してます! ごめんなさい! してます!」

梓「サイッテーです………」

梓「ハァ…どーりで…はじめてのはずなのに舌を入れてくるなんて…、とか思いましたけどそりゃそうですね、しょっちゅうキスしてるベテランさんなら手慣れてて当然ですよね、はい。よくわかりました」

唯「…ベテランなんかじゃないもん」

梓「……」キッ

唯「ひっ」

梓「ベテランでしょーが! ……わたしなんて、はじめて……だったのに」ジワ

唯「わ、わたしだって…」

梓「…なんですか」ギロッ

唯「あずにゃん先輩こわいっス……」ブルブル

唯「わたしだって…憂以外とするのははじめてだし…和ちゃんとだってしたことないし…。
  それに………憂はちがうもん。憂とは子供の頃からチューしたりしてじゃれてるだけだし。恋人のチューとはちがうよ。ぜんぜん。
  あずにゃんは別だもん。特別。あずにゃんとのチューは特別なの。全然ちがうの!」

唯「わたしも………すっごく緊張したんだよ? 
  うまくできるかな、先輩だからリードしなきゃ、やさしくしなきゃ、って。一生の思い出になるでしょ? はじめて…なんだもん。
  だからさ、あずにゃんの唇にふれた瞬間、うれしすぎて呼吸とまるかとおもった。
  まだ…いまでも残ってるよ、あずにゃんの唇の感覚。あまくて、やわらかくて、ずっとそのままでいたくて…

  とにかくあずにゃんはわたしにとって特別なの! 全然ちがうの!」

梓「……」

唯「わかって…くれた?」

梓「…わかりました」

唯「…ふぅ」

梓「証明してください」

唯「えっ」

梓「わたしと憂はちがうって。わたしは特別だって。証明してください」

唯「いいよ」

今度はもう、早かった。
お互いの唇が触れ合った瞬間、相手を貪るように、吸い尽くすように、はげしく。絡めあっ…


トントントントン…

憂「おねえちゃーん! まだー?」


唯梓「「!!??!???!?!?!」」



唯「とりあえずあずにゃん! クローゼットのなかにっ」

梓「は、はいっ!」

パタン

こうしてわたしは再び闇の中へと吸い込まれた。

コンコン

憂「おねえちゃん? 入るよ?」ガチャ

唯「はーい…ど、どうしたの? どうかした?」

憂「それはこっちのセリフだよ…ちっとも降りてこないから」

唯「へ? あ、うん…パンツをしまう順番で迷っちゃってさ…」タハハ

憂「もぅ…へんなおねえちゃん!」

唯「アハハ…もうすぐ片付くから心配しないでよ」

憂「うん。あ、そうだ、ちょっと気になることがあったんだけど」

唯「えっ、な、なに!?」

憂「シンクの洗い物、すごいことになってたんだけど」

憂「あれ一人分じゃないよね」

唯「」

クローゼット()ガタッ

唯「あれは…」

憂「カレーもずいぶんたくさん作ったみたいだし…」

憂「誰か来てた? ひょっとけいおん部のみなさん?」

唯「うっ、うん! そうそう~憂がいなくてさみしいからみんな呼んじゃってさ~そんでカレーパーティーしたんだよね~!」

憂「へぇー、じゃあけいおん部のみなさん全員集まったんだー」

唯「そうそう、そうだよ! りっちゃんに教わりながらカレーつくったんだー!」

唯「ムギちゃんがかぼちゃプリン、澪ちゃんは栗羊羹もってきてくれてぇー」

憂「あれ? 紬さんがかぼちゃプリン持って来てくれたのって、こないだのハロウィンのときじゃなかった?」

唯「えっ、うそっ? まちがえたっ」

憂「ん? ”まちがえた”ってなぁに?」

唯「そ、それは…」タラタラ

憂「それにシンクの洗い物、たしかに山盛りだったけど、五人分にしては少なすぎるよね。
  だいたい律さん、紬さん、澪さん、梓ちゃんが来て、洗い物を手伝いもせず帰るなんて考えにくいし…」

唯「みみみみんな忙しいみたいで…」アタフタ

憂「忙しい。へぇぇ~~そうなんだ。でも誰か来てたのは本当なんだね。その誰かは忙しくて洗い物をする暇がなくて…」

唯「だから帰っちゃったんだってば!」

憂「うーん…」

唯「…うい」

憂「どうしたのおねえちゃ………ん」

眉をよせ、顎に手をあてた険しい表情の憂が顔をあげた。
一瞬。
けれどわたしがその隙を見逃すわけもない。唇を盗む。

憂「んっ…あっ、ん…ふぅ…」

唯「んん…」

どれくらい、唇を重ねあっていただろう。
深く深く。奥へ奥へ。ねじ込んでいた舌を引き抜いた。
ぬらっとした糸を引き、こぼれ落ちる唾液。
互いに混じり合ったそれは、もうどちらかひとりのものではありえない。

唯「ほら、いい子だからもう戻ろ?」

憂「……うん」ポー

唯「わたしはパンツ片付けたらすぐそっちいくから。洗い物もわたしがやるから。いい子で待ってて、ね?」

憂「……うん」ポー

瞳をうるうるとさせ、頬を赤らめた憂の頭を撫でる。
憂はうれしそうにこくんと頷き、ふらふらした足どりで部屋を出ていった。

唯「…ふぅ」

梓「ちょっとぉ唯先輩っ!なんなんですかあれはっ!?」バタン

梓「さっきのあれはどう説明するつもりですかっ! 誰が見てもなかよし姉妹のチューじゃないでしょう!」

唯「まあまああずにゃん落ち着いて」

梓「これが落ち着いていられますかっ!」

唯「興奮するのはわかるけどさ、もう済んだことはいいじゃん。それよりこの場をどう打開するか考えようよ」

梓「よくないです! 誤魔化さないでください!」

唯「ああもぅ…しかたないなぁ…」チュ

梓「!??」


チュッチュッペロペロクチュクチュチュパチュパジュルジュル


唯「ふぅ」

梓「……」グッタリ

唯「よし。じゃああずにゃん。これから事態をどう打開するか考えよう!」

梓「……わかりました」ポー

梓「ハッ、いやちょっと待ってください」

唯「あずにゃん、正気に戻るの早いね」

梓「そもそもなんですけど、わたし、隠れる理由なくないですか? 別に泥棒ってわけでもないんですから」

梓「ご両親ならともかく憂は唯先輩の妹ですし、それにわたしは憂と友達ですし…話せばちゃんとわかる、っていうか、むしろ隠す方がマズイですよ。なんか悪いことやってるみたいに思われます」

唯「そっか…、そう言われてみるとそうだね…わたしたち何も悪いことしてないもんね。つい反射的に隠しちゃったけど…」

梓「そうですよ。今から二人でリビングに降りて説明しましょう!」

唯「うーん、でもなんであずにゃんが泊まりに来てるのか、どうやって説明しようかなぁ…」

梓「それは…まぁ付き合ってるんですからそういうこともある、ってわかってもらえますよ」

唯「あー、そこからかぁ。そこからだよねぇ…」

梓「?」

唯「いやね。憂はね。わたしとあずにゃんが付き合ってる、ってこと知らないだよねぇ…」

梓「は?」

梓「ちょっとちょっと。どうして憂に言ってないんですか」

唯「黙ってたわけじゃないんだけどね、ほら、聞かれてもいないのに言うのも…ねぇ?」

梓「…都合が悪いから隠そうとしたわけですね」

唯「いやいや…そうじゃなくてぇ…」

梓「唯先輩、憂としょっちょうチューする関係ってこと、わたしに隠してましたよね?」

唯「それも隠してたんじゃなくて聞かれなかったから言わなかっただけ、っていうか…」

梓「つまりアレですか。わたしにも憂にも、ふたりに隠しておいて、上手に騙し通して二股かけてやろう、っていう…」

唯「ちっちがうよっ! そんなこと考えてないっ!」

梓「唯先輩、わたし、これから憂に会って全部話します」

唯「待って! あずにゃんよ~く考えてみて!」ムチュチュー

梓「またチューしてごまかそうったって、そうはいきませんよ!」グイー

唯「(…バレた)そうじゃなくて! じゃああずにゃんこそどうして自分から憂にわたしのこと話さなかったの!?」

梓「それは…」

梓「だって憂っておねえちゃん大好きだから…なんか悪いな、っていうかなんていうか、その、タイミングがなくて…
  大事な友達だからちゃんと言わなきゃ、って思ってはいたんですけど…
  でも唯先輩のほうからもう言ってるのかな、とも思ってわたしからは特になにも…」

唯「なるほどね。わたしもね、あずにゃんと憂を二股にかけようなんてそんなこと、
  全然、まったく、一ミリも、一瞬も、100%、神様にちかって、想像すらしてなかったけどね。
  でもこの状況で憂にわたしたちのことを説明しても、正確に理解してもらえるかわからないよ」

唯「あずにゃん。憂はわたしにとってもだいじなだいじな妹なんだ。
  だからさ。わたしたちのこと、きちんと伝えたいって思ってる。
  ちゃんとね、それにふさわしいタイミングを見て、三人で話をしたいって。
  でも今日はそういうタイミングじゃないでしょ?」

梓「そう…ですね」

唯「よし! じゃああらためてげんじょーのダカイサクを考えようよ!」

梓「そうですねぇ。いちばんいいのは憂がお風呂に入ってる間にこっそり帰っちゃうことじゃないですか」

唯「おっ、そだね。さっすがあずにゃん! てんさい!」

梓「それくらい誰でも考えつくでしょう。第一、荷物はリビングに置いたままなんですからそれを回収しないと帰れませんし。それに靴だって玄関に………あ、」

唯「…どしたのあずにゃん」

梓「あ、あ、あの…唯先輩………」

唯「?」クルッ

憂「…」ニコニコ

梓「」

唯「…あ」

憂「…梓ちゃん、いらっしゃい」ニコニコ

梓「…おじゃま……してます」ペコリ

憂「帰ってきて玄関に梓ちゃんの靴がある時点で気づいてたんだよね。
  いつ本当のこと言ってくれるのかな? って待ってたんだけど。おねえちゃんはごまかそうとするし、梓ちゃんは出て来てくれないし」

唯梓「「すみませんでした…」」

憂「どうして謝るの?
  なにか悪いことしてたの?
  そもそも隠れる、ってことはなんなの??
  普通に遊びにきただけなら隠れる必要ないよね? 
  もしかしてなにかわたしに言えないことでもあるの?
  ふたりはどういう関係?


  ねぇ。

  ちゃんと教えてくれないかな?」

梓「えっと…それは…」

唯「ないよ! 隠しごとなんてなにもないよ! 悪いこともしてない!」

憂「おねえちゃん、それほんと? わたしの目を見て言える?」ジツ

唯「いっ、いっ、いっっいえ、いえ、いえま………せんごめんなさい」

梓(唯先輩よわっっっ!)

梓「じつはかくかく……」

唯「しかじかで……それであずにゃんが泊まりにきてて……」

憂「ふぅん、そっか、そういうことだったんだ」

唯梓「「はい……」」

憂「かなしいなー梓ちゃん。わたし、梓ちゃんとは親友だと思ってたのに。なんにも言ってくれなくて」

梓「ごめん……」

憂「かなしいなーおねえちゃん。血を分けたたった二人の姉妹なのに隠しごとされるなんて」

唯「ごめん……」

憂「ま、いいよ。誰にだって言いにくいことくらいあるだろうしね。ところで梓ちゃん、もう夜ご飯食べたんだよね?」

梓「あ、う、うん…」

憂「それならもう か え る だ け だ ね ! はいこれ荷物! じゃあまた明日学校でね!!!」

梓「えっ、えっ」

唯「ちょ……うい………」

憂「はい! さっさと帰って……ね!!!!」







憂「な~~んちゃって! 冗談だよっ☆彡」テヘ

梓(うそだ………目がマジだった)

唯「」グッタリ

憂「じゃ、梓ちゃんお風呂入っちゃって」

梓「え、あ…うん」

唯「それじゃわたしも……」

憂「どうしたのおねえちゃん? お風呂は梓ちゃんに譲ってあげて。いちばんはじめは、お客さんに入ってもらわないとでしょ」

唯「あ、いや…その…ね? わたしもあずにゃんといっしょに…ね? お風呂入りたい…なぁ? なんて、ね?」

憂「あはは。なに言ってるのおねえちゃん。冗談つまんない。そんなのダメだよ」

唯「ど、どうしてっ?! いいじゃんお風呂くらい! 憂のけちんぼ!」

憂「わたしがダメと言ったらダメなの。………わかった?」

唯「…………はい」

梓(よわいなぁ……)

憂「それじゃあおねえちゃん。わたしと梓ちゃんがお風呂からあがってくるまでいい子で待っててね。それとパンツも早く片付けて」

唯「…………はい」

梓「あれ? わたしと…って、憂もいっしょに入るの?」

憂「あはは、梓ちゃんなに言ってるの? 当たり前じゃない」

憂「だってもし一人づつお風呂に入ってたらさ、わたしが入ってる間、おねえちゃんと梓ちゃんがふたりっきりになっちゃうでしょ?」

憂「そんなのダメだよ。ぜったいダメ」

唯梓「「………はい」」









……
………
…………
……………

いつの間にか、気がつくとわたしはすでに布団の中だった。
ふっかふかの羽毛布団の中。

入浴中。憂は普段と変わらない様子でわたしに笑いかけてくれていた。
けど、言葉が頭に入ってこない。会話の内容はぼんやりとしか記憶にない。
覚えているのは…もうもうと浴室に立ち込める湯気。
その合間に時折見える、刺すような憂の視線。
声とは反対に凍りつくような視線。
思い出すだけで身体が震える。

梓ちゃん、寒い? もうちょっと熱くしようか?
ううん、そんなことない! 大丈夫っ! ちょうどいいよ!
またまたぁ~遠慮しないでいいんだよ!
ぴぴぴぴぴっ。
43、44、45………上がり続けるデジタル数字の表記。
ごぼごぼごぼー、と威勢良く沸き立つ湯船。
鏡を見なくても自分の顔が赤くなってることがわかる。
呼吸があらい。こめかみから滴る汗が止まらない。
うわぁあずさちゃん。汗いっぱいだね!
いい汗をいっぱいかいて、新陳代謝をよくするのが美容の秘訣なんだよー。

たのしそうな憂の声が遠い。

そう、汗をかくのは美容の秘訣…わたしがきれいになったら、唯先輩よろこんでくれるかな?

…デトックス…美容…唯先輩のために…きれいになる…汗をかく…あつい……これはデトックス……もうろうとする……………唯先輩………うい………………





憂「目、覚めた?」

梓「………あ、うん」

やわらかい風がやんだ。
湯あたりしてたおれてたのか。
首を倒すと亀のぬいぐるみが見えた。
ということはここは憂の部屋だ。

うちわをあおぐ手を止めた憂が、枕元に置いてあったコップを手に取り、わたしへ差し出した。
上体を起こして受け取ると、一気に飲み干す。
おかわり、あるよ。プラスチック製の透明ボトルを揺らしながら、空のコップに麦茶を注いでくれた。
ベッドサイドのランプが、暗闇をほのかに照らす。憂はやさしく微笑んでいた。いつもの憂だった。

梓「…唯先輩は?」

憂「おねえちゃん? 自分の部屋で寝てるんじゃないかな」

ベッドの横、フローリングの上に布団が敷かれている。

梓「ごめんね、ベッド取っちゃって」

軽く頭をさげると、

憂「いいよ、梓ちゃん、お客様なんだから」

笑って憂は答えた。

静かな夜の中に針の音が響く。時計の針はもうすぐ頂点で重なろうとしていた。

憂「もう遅いから、寝ようよ」

梓「………うん」

ぱちん。憂がランプを消した。




憂「…………………」

梓「…………………」


憂「…………………」



梓「…………………」




憂「…………………」





梓「…………………」






憂「…………………」







ブイーンブイーン
梓「…」ガバッ

憂「…………………」


憂「おねえちゃんから?」

梓「……うん」

憂「誕生日おめでと」

梓「………ありがと」

憂「ねぇ、梓ちゃん」

梓「……なに」ポチポチ

憂「あっ、いいよ。返事打ち終わってからで」

梓「ん。もう送った。大丈夫」

憂「そっか」

憂「…あのさ」

梓「…どしたの」

憂「嫌いになった? わたしのこと」

梓「えっ」

憂「だからさ、わたしのこと、嫌いになった、でしょ?」

梓「………うい?」

憂「なるよねー、あれだけおねえちゃんとのこと露骨にジャマしたんだもんねー。いまさらなに言ってんの?ってかんじかぁー」

梓「いや…べつに…そんなことないけど…」

憂「うそ」

梓「うそじゃないよ。それならわたしだって…嫌われたかと思った」

憂「どうして?」

梓「そんなの当たり前じゃん。だってわたし…唯先輩と……」

憂「まぁね。それはそうだね」

梓「うっ…わかっててもはっきり言われるとツライね…」アハハ

憂「ん。嫌いじゃないよ。わたしが梓ちゃんのこと嫌いになるわけないじゃん」

梓「え、…そうなの?」

憂「決まってるよ。そんなの」

憂「ねぇ梓ちゃん。姉妹、ってふしぎだと思わない?」

憂「子供の頃からずっと一緒にいてさ、どんなときもそばにいて、とってもたのしくて、しあわせなのに、
  ずっとこのままでいたい、って思ってるのに、いつか別々になっちゃうのが“普通”なんてね」

一段下のところで身体を横たえた憂の表情はわからない。
暗闇にひとつひとつ言葉が浮かんでは、消えていく。

憂「すっごく好きで、これからも一緒にいたい、って思っても、いつかは離れ離れになるのが“普通”なんだよ。みんなそう思ってる。
  おねえちゃんだって」

憂「当たり前のことなんだよ。普通のことなの。
  いつかおねえちゃんにわたし以外に好きな人ができるなんて。
  むしろおめでたいことなんだよ。わかってるんだ。
  それが梓ちゃんで、わたし、すごくうれしい。ううん。うそじゃない、うそじゃないよ。本当だよ? ほんとうのほんとう。

  わたしが梓ちゃんのこと恨むなんておかしい。まちがってる」


ごめんね。


最後にそう言って、憂はすっかり黙ってしまった。



寝ちゃったのかな。

わたしは、というとすっかり目が冴えてしまって(さっきまで寝てたせいもあるかもしれない)、ちっとも寝付けやしなかった。

寝なきゃ。

目を閉じる。
すると、瞼の裏に唯先輩が現れた。よくできた幻だ。
幻は次第に輪郭があいまいになり、だんだんと姿を変え、憂になってゆく。
しばらくして完全に憂になると、ふたたび変化をはじめ、そのうち唯先輩に戻る。
唯先輩、憂、唯先輩、憂、唯先輩、憂、唯先輩、憂、唯先輩、憂、唯先輩、憂、唯先輩、憂、唯先輩、憂、唯先輩、憂……………

瞬間接着剤でもつけられたように、瞼が固まって開かない。

唯先輩はまた憂になり、憂は唯先輩になり、そしてまた……永遠に続くかのような変身を繰り返すうちに、ふたりは混じり出す。

どっちがどっちかわからなくなった幻は、しまいにそのどちらでもないまっくろくろの塊になり、わたしにのしかかった。ずしり。



ぎゃあ!



わたしは声をあげて飛び起きた。


窓の外からはりんりんと、虫の音が聴こえる。
額を流れる汗を拭う。前髪が張り付いて気色悪い。

瞼を閉じた憂は、静かに寝息を立てていた。





 ブイーンブイーン

ケータイが鳴った。

憂「……出なよ」

梓「……起きてたの?」

憂「眠れなくて」

梓「わたしも」

憂「…おねえちゃん、なんて?」

梓「…唯先輩も、眠れないんだって」

憂「…梓ちゃん、提案なんだけど」

梓「…なに」

憂「わたし、このまま眠れそうにないの。だからいっそのこと、お散歩いかない? 夜のお散歩」

梓「……じゃあわたしからも提案」

憂「なに?」

梓「唯先輩抜きでいかない?」

憂「いいね♪ おねえちゃんにナイショでいっちゃおっか?」

いこういこう♪

わたしたちは笑いを噛み殺しつつ起き上がって素早く着替えると、音を立てないよう静かにドアを開き(なんてったって起きてる唯先輩に感づかれちゃいけない。ふたりっきりでナイショのお散歩なのだから)、抜き足差し足、家を出た。



17歳になって、はじめての夜。
半分に満たない月が空に浮かんでいる。
秋の夜の冷気が肌を刺す。
隣に並んで歩く憂がわたしの手を握る。わたしも握り返す。
このあいだまであんなに暑かったのにね、と憂が笑う。
そうだよ、先週なんてジャケット着てるのも暑いくらいだったのに、わたしも笑う。
今週からはマフラーしてる子増えたもんね、と憂。
純なんて寒がりだから、10月中からコート着てたよ、とわたし。

憂「そっか」

梓「…どうしたの?」 

憂「おねえちゃんと梓ちゃん。今は同い年、なんだね」

梓「二週間そこそこだけだよ」

憂「それでもいいじゃない。ちょっとの間だけでも」

追いつけるなら。
そう言った憂の口から白い息が溢れて、暗闇に消えていく。


松ヶ崎の橋を渡り終えると、踏切の向こうにコンビニの明かりが見えた。
あそこでなにかおかしとあったかいものでも買って、帰ろうか。 

憂「梓ちゃん。ひとつお願いがあるの」

梓「どうしたの。まさかに財布忘れた?」 

憂「ううん。持ってきた」

そりゃ憂がそんなヘマをするわけない。唯先輩ならともかく。
唯先輩、どうしてるかな。寝てるかな、起きてるかな。メール、まだ送ってくれてるのかな。ケータイ置いてきちゃったからわかんないや。

点滅する真夜中の黄信号。
車も来ていないというのに横断歩道の手前で立ち止まり左右を確認してしまうのはこびりついた習慣のせい。

憂「いますぐ家に戻って。おねえちゃんのところへ行ってあげて。きっとまだ起きてるから」

梓「…急になに言い出すの」

憂「いいからはやく」

梓「そんなこと…じゃあ憂はどうするの?」

憂「わたしは…朝が来るまで外にいる。散歩してる」

梓「バカなこと言わないでよ、カゼひくよ」

憂「バカじゃないよ。おねえちゃんをひとりにして、わたしとこんなとこにいる梓ちゃんのほうがバカだよ」

梓「ちがうよ。バカは憂だよ」

憂「梓ちゃんのバカ!」

梓「憂のバカ!」

梓「……わたし、帰らないからね。憂と一緒にそこのコンビニに行って、おかしとホットミルクティー買うまでは」

憂「じゃあ、コンビニまで一緒にいくよ。そのあとはひとりで帰って」

梓「ヤダ」

憂「……どうして。気を利かせてあげる、って言ってるのに!」

梓「そんな風に気を利かせてくれてもぜんっっぜんうれしくない。
  そんなじゃ憂に勝った気がしない」

憂「なに……勝つとか負けるとか」

梓「ヤなの…憂がわたしのこと…わたしと唯先輩のことにちゃんと納得してくれてないのが、すっごくヤなの。
  だから……勝つとか負けるとか…そういう風に言うのは違うかもだけど…ちゃんと認めてもらいたい」

憂「…………」

憂「そんなの…無理だよ。もしかしたらわたし、一生しぬまでおねえちゃんと梓ちゃんのこと、認めないかもしれないよ?」

梓「うぅ…いっしょうかぁ…思ってた以上にきびしいね……ハハ。でもそれくらいのほうが、憂っぽいかも」

憂「わたしっぽいって?」

梓「おねえちゃんのこと、だいすきなんでしょ?」

いいんじゃない。それで。

憂「梓ちゃんって、」

梓「?」

憂「思ってたよりバカだね」クス

梓「なっ…」

そう言っていたずらっぽく笑うと憂は駆け出した。
白み始めて紫がかった夜の端へ、ポニーテールを揺らしながら。
わたしも慌てて追いかけていく。新聞配達のバイクがわたしたちを追い越していった。

汗、かいちゃったね。
と、静かに玄関の扉を閉めながら憂が言った。

憂「いっしょにシャワー、浴びよっか?」

ううん。いいや、わたしは笑って首を振る。
昨日の夜みたいな思いをするのはもうこりごりだ。

憂「じゃあわたしもやめる」

梓「いいよ。浴びて来なよ」

憂「ううん、いいの。かえって湯冷めしちゃいそうだし」

梓「そっか。そだね」

憂「…なんか眠くなってきた」

梓「…わたしも」

憂「今寝て、いつもの時間に起きれるかな……」

梓「わたしムリ。絶対起きられないと思う」

憂「うぅ……でもずっと起きてるのも…ムリそう…」

梓「ファ~…わたしも……」

ソファに腰掛けた途端、ぐぐっと身体が沈み込み、意識が朦朧としていく。

憂「………………学校、サボっちゃおっか」

梓「……いい…かもね」

憂の頭ががくんがくんと前後にかしいでいる。

梓「お互い……、母親のフリして…学校に電話…してさ。“娘は熱がでまして…”ってね」

憂「いいね。でも学校はじまる時間まで起きてる自信、ないかも……」

梓「そだね……それも…そうだ………ね……………」

だめだ………意識がとぎれそう。

ねえ。

……。

ねえ、あずさちゃん。

…なに。

おねがいがあるの。

また? へんなこと言わないでよ。

言わないよ。だから聞いて。

ほんとにへんなことじゃないんだよね。

梓ちゃん、しつこい子はおねえちゃんに嫌われるよ?

…それはやだ。

じゃあ聞いて。

うん。

もうちょっとの間だけ、お姉ちゃんと一緒にいさせて。

…そんなの、わたしが許可するようなことじゃないよ。

…ううん。梓ちゃんに認めてほしいの。

…わかった。

…それともう一つ。

…まだあるの?

…おねがい。

…いいよ。

おねえちゃんには、言わないで。わたしが言ったこと。

憂が言ったこと?

うん、わたしが言ったこと、ぜんぶ。

…。

約束して。

できない。

どうして?

だって…

だって?

もう全部忘れちゃったんだもん。

…。

…。

…ありがと。梓ちゃん。








……
………
…………
……………


ぐらぐらと身体を揺すられて目を覚ました。



ちょこん、とわたしの隣に腰掛けた唯先輩が、“まちかど情報室”に熱心な視線を向けている。
唯先輩はもうすでに制服に着替えており、前のめりの姿勢で液晶画面にかじりついていた。どれだけ夢中なんですか。
痛んでしまった包丁を研ぐなら…うんぬん。アナウンサーの説明に集中した様子の唯先輩がうんうんと頷く。内容、わかってるんだろうか。
唯先輩、こういう生活雑貨に興味あったんだ。…うそでしょ。憂じゃあるまいし。憂?

左右に視線をうごかす。
憂はどこにもいなかった。

頬を両手に乗せた唯先輩の視線は変わらずテレビに釘付けだ。
わたしもつられてテレビに視線を向けてみる。…どうにも興味を持てない。わたしの生活に必要性を感じないのだ。別にいいじゃん。痛んだら新しいの買えばいいのに。
いやでも…簡単にほいほい買い換えるのってどうなんだろう。昔からつかってるものを大切に…番組内容から離れてそう思っているうちにうつらうつらとしはじめて、ガッと肩を掴まれた。

唯「あずにゃんおはよ」

梓「……起きてたんですね」

唯「ううん。正確に言うと寝てない」

梓「……眠くないんですか」

唯「うーん。なんかもう、眠気のピーク過ぎたみたい。むしろ逆にテンション高いよ! だからなに見てもちょうおもしろい!」

梓「………ああそれで」

唯「ほらほら、ご飯たべよ」

リビングにはトーストの焼ける香ばしい匂いが漂っている。
唯先輩はわたしを両脇から抱えるように持ち上げて立ち上がらせると、ズルズル引きずるようにしてテーブルまで連れていく。
テーブルには少し黄身の崩れた目玉焼きに、片側が黒くこげたウインナー、半分にカットされた食パン、忘れちゃいけない昨日のカレー。

これ、唯先輩がひとりでつくってくれたんですか?
えへへ、まあね。
憂の分は?
わたしがリビングに来た時にはもういなかったんだ。
…そうですか。

唯先輩は両手を合わせ、“いただきます”とおおきな声を出した。
わたしも両手を合わせ、“いただきます”とちいさく呟いた。

やっぱり憂はどこにもいなかった。

梓「………」モグモグ

唯「………」モグモグ

梓「………」モグモグ

唯「………」モグモグ

パチン、と音がして、ティファールが沸騰を告げた。
あずにゃん、なに飲む? ホットミルクティーでいい?
はい、大丈夫です。おねがいします。

梓「あの…唯先輩」

唯「…ん、なぁに」

昨日の夜、わたしが憂と散歩したのは現実だったんだろうか。
憂と、夜に話したこと。一緒にお風呂に入ったこと。そもそも、昨日憂は家に帰ってきてた?
どこまでが夢で、どこまでが現実かわからない。

梓「憂のこと、好きですか?」

唯「あったりまえじゃん」

唯先輩は勝ち誇ったようにピースを作り、歯をむき出しにして笑った。歯と歯の間に、ウインナーの切れ端が挟まっているの見えた。

梓「大事にしてあげてくださいね」

唯「もっちろん。大事にしてるよぉ」

唯先輩がマグカップにお湯を注ぐ。
ティーバッグを揺らすたび紅色が広がり、みるみるうちにカップを満たしていく。

梓「唯先輩、もうちょっとしたら誕生日ですよね」

唯「そだよー」

梓「ウチ…来ませんか?」

唯「えっ、それはつまり昨日の続きを……」

梓「それもいいんですけどでも今回は……憂と三人で、お祝い、したいです」

梓「三人で、お祝いしたいんです」

唯先輩は紅茶に口をつけ、ちょっとだけ啜ってからニッコリと笑い、頷いた。

唯「ゆっくり、進んでいったらいいんだよね、わたしたち」

梓「はい」

梓「すみません、やっぱ紅茶、結構です」

唯「えっ、どうして?」

梓「これ、飲みます」

テーブルの端に置かれたミルクティーを手に取る。
すっかり冷たくなった缶のプルタブを開けて口につけた。
甘すぎるくらい甘い、ミルクティーだった。

おわり

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