鷺沢文香「へいらっしゃい」渋谷凛「待って」 (27)


文香「へいらっしゃい」

がちゃり、とドアノブがゆっくりと回り

凛さんが私のいる部屋、第三会議室へと入ってきたため、笑顔でそう挨拶をします。

凛「待って」

文香「何握りやしょう」

右手の人差し指と中指とを左の掌にぽんぽんと打ちつけ、シャリを握る手振りを以て注文を促します。

凛「ちょっと、待ってって」

文香「ここは寿司屋でい。寿司食わねぇなら帰ってくれ」

凛「ほんとに待って」


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文香「どう、でしたでしょうか」

依然として困惑中の凛さんに、そう尋ねます。

凛「どう、って?」

文香「私は、お寿司屋さんに見えたでしょうか」

凛「……えっと、質問の意図が」

どうやら説明不足が過ぎたようで、私は凛さんに事の経緯を説明することになりました。

文香「凛さんは役作りをどのようになさってますか?」

凛「役作り? それはドラマとか、演劇とか、そういう?」

文香「はい」

凛「んー、どうだろ。私は役によるかな。自分に近い役なら、さらに自分を近付けるだけだし」

文香「なるほど」

凛「逆に、文香はどう考えてるの? 役作り」

文香「そう、ですね。私にとって役作りは読書のようなもの、でしょうか。
   その役に耽溺し、思考を模倣し、果てには自らのものとなるまで自分の中に落とし込む必要があるからです。
   そうすることによって感情表現に現実感を乗せることができるように思います。あくまで、私の場合はですが」

凛「へぇー、で文香の次のお仕事は?」

文香「お寿司屋さんです」

凛「…………今、全部察した」

文香「ありがとうございます。それで、先ほどの私はどうでしたか?」

凛「いや、ギャップが凄すぎて、何も言えないよ」

文香「そうですか……」


凛「役作り、難航中なの?」

文香「はい。恥ずかしながら」

凛「じゃあ、一緒に考えようか。私はもう上がりだから、今日は付き合うよ」

文香「いいのですか? せっかくの早上がりの日をこのようなことに使って……」

凛「ふふっ、文香って変なとこ遠慮するよね。さっき急に呼び出した癖に」

文香「その節は、どうもすみません……」

凛「いいよ。それで、次のお仕事の設定は? お寿司さんが舞台なの?」

文香「いえ、私の立ち位置としては、主人公たちがよく訪れるお店……といったところかと」

凛「ってことは脇役ではあるけど、出演回数多めなんだね」

文香「はい。まだ全ての台本が上がってきていないのですが、
   それでも台詞もなかなか多くて。それに1話、私のお寿司屋さんに焦点が当たる回があるので……」

凛「そっか、それは手は抜けないね」

文香「はい」


凛「で、役作り。どこまでできてるの?」

文香「オーディションの2週間前より、役作りを始め、様々なことに取り組んできましたが
   最初に行ったのはお寿司屋さんとはどのような職業であるかを調べて回りました」

凛「へぇーオーディション前からって、すごいね。それは業務内容を調べたり、実際にお寿司屋さんに行ったり?」

文香「えっ、と。それも行ったんですが、私はお客さん側からの視点ではなくお店側の視点に立たなければ、と思いまして」

凛「うん」

文香「酢飯を作りました」

凛「酢飯を」

文香「ご飯を炊き、寿司酢を加え、逐一うちわで扇ぎながら混ぜ合わせます」

凛「混ぜ合わせる」

文香「そして、ちょうど数時間前に作り、御櫃に入れておいたものがこちらです」

凛「当然のように会議室の机から御櫃が出てきた」

文香「これが、シャリです」

凛「シャリ」

文香「ええ」


文香「まずはシャリだけで、どうぞお召し上がりください」

凛「……ありがと。ちょうどお昼まだだったから助かるよ」

文香「いかかですか?」

凛「うん、おいしいよ」

文香「実は、そのシャリに使っている寿司酢はオリジナルなんです」

凛「そっか。オリジナル……ってオリジナル?」

文香「はい、白砂糖や塩などの分量を調整、試作を重ねた末の、シャリです」

凛「文香って元々料理できたっけ」

文香「人並み程度には。ですが、色々と調べるようになったのはここ最近です」

凛「………」


凛「文香が本気なのは分かったよ。それで、オーディションの2週間前からやってたって言うけど具体的にはいつなの?」

文香「今から2か月前ですね」

凛「合格発表があったのは?」

文香「昨日です」

凛「………もうそろそろ慣れてきた気がする」

文香「そうですか」

凛「ほんと、文香って気になったらとことん、って感じだよね」

文香「そうなのでしょうか。自分にはよく分からなくて」

凛「自覚ないんだ……」

文香「さて、シャリだけではまだお寿司とは呼べませんよね」

凛「そう、だね」

文香「では、食堂の厨房の使用許可を取ってあるのでそちらに移動しましょう」

凛「嫌な予感がするんだけど」


文香「というわけでやって参りました。CGプロダクションが誇る無駄に豪華な社員食堂の厨房です」

凛「……来ちゃったね」

文香「では、さっそくお寿司を作っていきましょう」

凛「そっか」

文香「凛さんは先程、お昼はまだだとおっしゃってましたよね」

凛「うん」

文香「一通りネタは揃えてあるので、どうぞ何なりと」

凛「じゃあ、アナゴ、なんてないよね」

文香「ご注文、承りました」

凛「あるんだ……」


凛「今日のために買ってきたの?」

文香「はい、実践してみたくて。競りに」

凛「競りに」

文香「競りは、上げ競りといって値段が釣り上がっていくものや、下げ競りといって値段が下がっていくものなど様々で、
   その入札方式も公開式であったり非公開式であったりと、本当に良い経験となりました」

凛「ごめん。ちょっと文香が分からなくなってきたよ」

文香「それで、ですね。凛さんには申し訳ないのですが……」

凛「あー、やっぱりアナゴはなかったとか?」

文香「いえ、捌くため、少し時間がかかるのですが……」

凛「そっか……」


文香「まずは目打ちをします」

凛「当然のように出てくる謎の道具」

文香「アナゴは通常の出刃包丁でも問題なく捌けますが、今回はせっかくなので」

凛「またも当然のように出てくる専用の包丁」

文香「鰻裂き包丁という鰻用のものを使いたいと思います」

凛「それは買ったの」

文香「はい。自費で」

凛「自費で」

文香「胸ヒレの辺りから包丁を入れて開きます」

凛「うん」

文香「内臓と中骨を取り除きます」

凛「うん」

文香「ヒレも臭みの原因となるため取り除きます」

凛「流れるような作業工程」


文香「水洗いした後に、熱湯でぬめりを取り、酒塩で味付けをして、火を入れます」

凛「香ばしい」

文香「アナゴの白焼き、お待たせしました」

凛「……食べていいの?」

文香「ええ、どうぞ」

凛「いただきます」

文香「いかかでしょうか」

凛「こんなおいしいの食べたことない」

文香「ふふ。ありがとうございます」

凛「おいしかったよ、ありがとう」

文香「さて、次はどうなさいますか?」

凛「次、って?」

文香「私の役のセリフをお借りすれば……何握りましょう」

凛「あー、せっかくだし本気でやってみる?」

文香「本気、とは?」

凛「私お客さん役やるからさ」

文香「本当ですか?」

凛「うん、食べさせてもらうばっかじゃ悪いし」

文香「では、厨房の入り口をお寿司屋さんの入り口に見立てて……」

凛「そっからやるんだ……」


凛「女将さん、やってる?」

文香「あら、凛さんいらっしゃい」

凛「もう秋だって言うのに、暑いね」

文香「そうねぇ、上がりは冷たいお茶にしとこうか」

凛「助かるよ」

文香「はい、冷たいお茶。それじゃ、何握りましょ」

凛「じゃあ、トロもらおうかな」

文香「あいよ」

凛「……シャリ握るの、手慣れてるね……」

文香「小さい頃から修行だって、板前に立たされてたからねぇ」

凛「あっ、ごめん。つい。そういう役だもんね」

文香「トロ、お待ち」

凛「ありがと。……なにこれおいしい」

文香「そりゃどうも。ささ、じゃんじゃん頼んで頂戴な」

凛「ふふ、じゃあタコ」

文香「はい、タコね」

凛「こりこりしてておいしい……」


* * *



凛「ふー、おいしかったよ。ごちそうさま」

文香「お粗末様でした」

凛「ねぇ、あのさ」

文香「はい、どうかなさいましたか?」

凛「役作り、完璧じゃない?」

文香「ばれてしまいましたか」

凛「板前さん顔負けの腕だと思うよ」

文香「私なんて、まだまだです」

凛「そういえば、最初に私が食べたあのトロも自分で捌いたの?」

文香「いえ、まだマグロは技術も包丁も整っていなくて……」

凛「文香はどこに向かってるのか分かんないんだけど」

文香「人間至る所に青山あり、です」

凛「……?」

文香「どのような場所であっても、自分の居場所足り得るという意味です」

凛「その、ことわざ?とお寿司がどう関係あるの?」

文香「お寿司屋さんであっても、アイドルであっても、私は私です」

凛「うん」

文香「ですからきっと、このお仕事はアイドルの私の糧にもなると思うのです」

凛「なんか無理矢理いい話風にまとめてるけどさ」

文香「ええ」

凛「お寿司の腕前を見せつけたかっただけ、ってことでいいのかな」

文香「ばれてしまいましたか」



おわり

番組の特集が組まれた際に、鷺沢文香の料理の腕が話題となり
鷺沢文香主演での寿司屋を舞台にしたスピンオフ作品の制作が決定したのはまた別のお話。

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