モバP「こんな日に」神谷奈緒「こんな日だから」 (187)



※ 地の文もりもりです。

※ 個人的な解釈、推測、キャラづけも多分に含まれます。

※ 2015年1月からのアニメの設定は、ほぼ考慮に入れていません。
  武内Pは出てきません。



SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1474025133



神谷奈緒は今、渋谷の上空を飛翔している。

鈍色にうごめく雲の隙間から差す光芒が、
眼下に広がる渋谷のコンクリートジャングルをきらきらと輝かせる。
先ほどまでの大荒れの天気が嘘みたいに静かだ。

そんなことをしみじみと思いながら、
今の不可解な状況に立ち返り、声にならない声をこぼす。

「この後、どうなるんだよぉ、コレ……」



  ***


その日、神谷奈緒は少しだけワクワクしていた。

朝のニュースで台風の予報があったとおり、
通学途中の空もたしかにねずみ色の雲で覆われていた。
上空の流れは速いのか、量感のある雲が
ずずずっと引きずるように流れるのがわかった。

しかし、雨が降る気配は感じられず、風も静かだ。
そんなときには、これから大雨が降るのかという予感と疑念の入り混じったような
心の浮き足立ちを経験することは珍しくないだろう。
小学生男子のような感慨である。

奈緒の感じるワクワクも小学生男子のそれだった。
いや、厳密にはそれだけではないのだが。



案の定、通っていた学校も下校を早めるという判断をし、
午後の授業が丸々中止となった。

「ちょっと得した気分だな。へへっ」

などとのんきなことを言っていた奈緒は、
この数時間後に降りかかる災難を知る由もない。

先生からは「寄り道することなく真っ直ぐ帰るように」と
釘を刺されたにもかかわらず、
「ちょっとみんなの顔でも見ていくか」と
事務所に足を向けたのが運のツキであった。



事務所、というのは彼女の所属するアイドル事務所である。

グラス・スリッパープロダクション
――通称、GSプロのクール部門プロデューサーに、
奈緒がスカウトされてもうすぐ一年が経とうとしている。

所属アイドルが十人に満たず、
他の社員も片手の指で足りんじゃないか
というぐらい小さい事務所であるが、その歴史は長い。
かつては業界に名を馳せていたのだが、
その少数精鋭の方針が災いして、衰退してしまったことは否めない。
少数精鋭と人的資源の不足は表裏一体の良い例だ。



東京メトロは中目黒駅から歩いて十分前後、
目黒川が横を流れる、比較的綺麗な雑居ビルの一つにGSプロは居を構えている。

そのビルの一階には落ち着いたシックな雰囲気の喫茶店があり、
二階と三階がGSプロである。

二階が事務スペース、三階が簡易レッスン場と倉庫と仮眠室になっている。
四階は貸しテナントだ。

屋上は誰が上がってもいい場所であるが、GSプロの面々以外はほぼ使わない。
それゆえ、実質はGSプロの休憩スペースとして独占されている。



どうしてプロデューサーが自分なんかをアイドルにスカウトしようと思ったのか、
奈緒は理解も納得もしていないが、
それでも仲間たちと、そしてプロデューサーとするアイドル活動は楽しかった。

だからこそ、奈緒はよく事務所に顔を出す。
それは他のアイドルたちも同じなようで、
彼女たちにとってGSプロは居場所の一つとなっている。

奈緒が事務所の扉を開ける頃には雲の厚みが増し、
まだお昼の一時前なのにすっかり外は薄暗くなっていた。



「おはようございまーす」

扉を開け、挨拶をする奈緒。
すると、奥の方から二人分の返事が聞こえた。
その声に一番耳なじみのある男の声がなかったことが少し残念な気がしたが、
そんな自分に気づいて奈緒は首を振る。

「ん? いやいや、そんな残念とかじゃねぇーし」と誰に言い訳をしているのだか、
誰にも聞こえないようつぶやいた。



二階事務スペースの半分を占める、談話スペースに顔を出すと、
そこには奈緒と同じくクール部門のアイドルである古澤頼子がソファに座っていた。

「おはようございます、奈緒さん」

あらためて挨拶をする頼子。
彼女はテレビで台風情報をチェックしていたようだ。
アナウンサーが「本日、午後三時頃には強風域に……」と現状を伝えている。



「おっす、頼子さん。頼子さんも学校早上がり?」

「ええ。私のところはお昼前には。奈緒さんもですか?」

「そうなんだよ。へへっ、ちょっとラッキーって感じ。で、ついこっち寄っちゃってさ」

「ふふ……。私もです。早く帰りなさいとは言われたのですが。
 今日ということもあり、結局ここに来てしまいました」

「あははっ。そうだよな~。仕事ないってわかってても、
 今日みたいな嵐の日ってなんかワクワクして、来ちゃうよな~」



二人が談笑をしていると、談話スペースと簡単なパーティションで
区切られた向こうの事務スペースから、千川ちひろが顔を出す。

「お仕事がないなら、その分、早く帰らないとだめですよ。
 まぁ、今日は仕方ないかと思いますが」

優しく諭すちひろの顔色は良くなく、大きなマスクをしていた。
ちひろにしては珍しい状態だ。



「おはよう、ちひろさん。って、大丈夫? なんだか具合が悪そうだけど」

「そうなの……なんだか、今朝から風邪っぽくて」

そう言って、ちひろは自分の顔に両手を近づけると、
顔を覆って「くちゅん」とくしゃみをした。

窓の外に見える木々が少しだけざわめきを増した。

「今日はもう臨時にお仕事を閉じてしまっては?」と頼子が心配そうに提案する。

少し考えた素振りを見せた後、ちひろは首を振って
「でも、今日は他に誰もいないし……」とうなだれる。



「他のプロデューサーさん達は?」と奈緒がきいた。

「それがですねぇ……
 キュート部門のプロデューサーさんはまゆちゃんと仕事で今日は帰らず、
 パッション部門のプロデューサーさんは光ちゃんと麗奈ちゃんの
 仕事の打ち合わせ諸々でいつ帰ってくるかわかりません。
 総括プロデューサーさんは今、海外出張中だし……」

「ヘレンさんのお仕事に関しての会議でしたね」

「あぁ、そういえばそうだっけ。
 それにヘレンさん、たしか今日帰国するんじゃなかったっけ?
 そろそろ空港に着くころだったと思うけど……」

頼子も奈緒もテレビに目をやる。
画面の上側に「数分前に渋谷区でつむじ風が発生」といった速報が出ている。

「この天気じゃなぁ……」奈緒のつぶやきと一緒にちひろも困った顔をした。



「まぁ、そういうわけなので、私が事務所を離れるわけには
 ……ふぁ、ふぁ、ふあっくちゅん!」

「いやいやいや、休んだ方がいいんじゃないですか、ちひろさん。
 あきらかに具合悪そうですよ」

「ええ、ちひろさん。あまり無理なさらないでください」

「そういえばさ……あ、あたしの――あ、いや、
 あたしと頼子さんのプロデューサーさんはどうしたんだ?」

どこかたどたどしく奈緒がきいた。
すると、ちひろが申し訳なさそうに答える。



「クール部門のプロデューサーさんもお仕事ですね。
 渋谷の方で打ち合わせです。
 その……奈緒ちゃんのお仕事の」

「そ、そうだったんだ……」

思わず奈緒は窓の外の雲の様子を覗きこんだ。
先ほどに増して、曇り空はその黒さを増している。



「そういえば……」
今度は頼子が深刻そうに何かに気づく。

そのまま、事務所の玄関の方に歩き去り、すぐさま戻ってきた。
安っぽい男物の傘を手にして。

「あっ……」
奈緒とちひろが顔を見合わせる。
そして、頼子がメガネを直しながら、苦々しく告げた。

「やっぱりプロデューサーさん……傘、忘れてます」

その瞬間、ポツと窓にひとしずく。
その後は早かった。パラパラと雨粒が事務所の窓を濡らしていく。



「ふあぁぁ、ふぁっくしゅん! ぐすっ。
 ……あぁ、どうしましょう。
 プロデューサー、もうそろそろ打ち合わせが終わると思うんですけど……」

事態の面倒くささに一層体調を悪くした様子でちひろが頭を抱える。

その様子を見て、奈緒は「はぁ」とため息ひとつをついて、決意した。

「わかりました、ちひろさん。傘はあたしがプロデューサーに届けます」

「ええっ!? いいんですか、奈緒ちゃん?」と、ちひろ。

「ま、まぁ、ちひろさんに無理させるわけにはいかないしな」



「それでしたら、私が行ってもいいですが」頼子も言う。

「でも、今回はあたしのための打ち合わせだろ?
 だからさ、あたしが、その、なんだ、行った方が……いい……かなって」

なぜだか奈緒の言葉の最後は尻すぼみといった感じで、声が小さくなる。
その様子を見た、頼子は少しほほ笑んだ。



「わかりました。それなら、奈緒さんにお願いしましょう」

「ごめんなさいね、奈緒ちゃ――くちゅん!」

「ちひろさんも、もう今日は帰って休んでください。
 代わりの留守番は私がします。私、家も近いので」

くしゃみの止まらないちひろを見て、頼子が申し出た。

結果、ちひろは早退、頼子は事務所番、
奈緒はプロデューサーを迎えに行くことになった。



「ぐすっ。奈緒ちゃん、気をつけていってきてくださいね」

「この通り、天気は荒れつつあります。十分に気をつけて」

頼子が指し示すテレビには、先ほどの字幕速報を補足するように
アナウンサーが何事かを読み上げている。
「先ほどから都内で強いつむじ風が発生しており、確認できただけでも四か所で――」
などと聞こえてくる報道を後に、奈緒は傘を二つ持って事務所を出た。

事務所の置き傘であるビニール傘を開き、もう一本、男物の傘を手にして。



  ***


事務所を出る前に、制服から、
事務所に取り置いていた普段着にいちおう着替えておいた。
風が強くなれば、スカートでの行動はいささか不安だったからだ。

そう、奈緒だって乙女なのである。

Tシャツの上に青いパーカーを羽織ったパンツスタイルで、万全の準備だ。
その着替えの間に、プロデューサーを奈緒が迎えに行くということは、
頼子がメールで知らせてくれたはずだ。



渋谷で仕事をしているプロデューサーと合流するために、
まずは中目黒駅まで行く必要があるだろう。
そこから東急東横線で渋谷駅までアクセスするというのが、奈緒の算段であった。

奈緒が中目黒駅まで向かおうと大通りに出た時である。

「うわっ! なんだろう……この渋滞?」



たしかに車通りが普段から多い通りではあった。
しかし、今の車道はいつもの比ではないくらい車の数が多い。
あまりの数に流れが滞り、歩くよりも遅いスピードで列がかろうじて進む程度だ。

奈緒のすぐ近くでクラクションが鳴る。

「おわぁっ! ……あぁ、もうびっくりしたなぁ」

クラクションが鳴った方を一瞥して、奈緒はそそくさと中目黒駅へと向かった。



駅に近づくにつれ、だんだんと人も増えてきた。
どうやら車だけではなく、人の流れもどこかで滞っているらしい。

嫌な予感がした。
思わず「まさかね……」とつぶやく。

そして、駅の様子がはっきりと視界に入った途端、
彼女のチャームポイントたる凛々しくも可愛らしい太眉が
「やっぱりね」と釣り上がる。それと同時に表情もひきつる。



電車が走る高架下に中目黒駅は収まっている。
その駅は人でぎゅうぎゅう詰めの状態であった。
券売機に近づくどころか、高架下に入って雨をしのぐことすら難しそうな状況だ。

その混雑から奈緒は少し距離を取って、
雨の中、傘をさしたまま「どうするかなぁ~」と腕を組んだ。

少し背伸びをして、駅の電光掲示板をみようとする。
男性の背中や差されたままの傘たちの隙間をぬって、
かろうじて読めた文字は「運休中」の三文字であった。



「むぅ……」

渋い顔をしながら背伸びを続けていると、急に強めの風が吹いて奈緒の身体を煽った。

「おわっと」

焦った奈緒であったが、持ち前の運動神経で体勢を保とうとする。
そのとき、すぐそばを通りがかろうとした男性の肩にぶつかってしまった。



「あっと、すみません!」

その男は「いえ」と短く返す。
フッと顔を見ると、二十代半ばほどであろうか、なかなか整った顔立ちをしている。
あからさまな洒落っ気を気取ってはいるものの、
全体的にはラフなファッションで、
髪型もよくあるツーブロックのトップから前髪の方に眉毛まで流すスタイルだ。

一瞬だけ目が合うが、
他人には何の興味もないといった色のない視線はすぐにそっぽを向いた。



奈緒もその場を離れようと、視線を外そうとする。

と、思った矢先、男はハッとしたように奈緒のことをチラリと見直した。
かすかに「えっ?」と言ったように聞こえる。

(あっ、なんかまずったかな)

そんなことが頭によぎった。



奈緒はデビューしてまだ一年とちょっと程度しか経っていないDランクアイドルである。

そうであっても、ここ最近は少しづつ、だが、確実に注目度を増してきていて、
無防備に街を歩いていれば、たまにではあるが、
声をかけられることも出てきたのである。

つい最近もプロデューサーに
「奈緒は自分の思っている以上に人気が出始めてること、
 自覚したほうがいいぞ」
と言われたばかりである。

それゆえの漠然とした不安が奈緒の頭によぎったのだ。



そんな彼女の不安をよそに、次の瞬間には、
その男はそそくさとその場を離れてしまった。

「何なんだろう……?」

どことなく得体のしれない気まずさを感じながら、奈緒は駅の方へと向き直す。



周囲の雑踏に耳をすますと、
同じく高校生ぐらいであろう男子集団が携帯を見ながら話している。

「うわ、マジかよ……突風だってさ、渋谷」

「電車も車もそのせいで止まっちゃってるみたいだな」

それを聞いて奈緒もツイッターをみてみると、
たしかに、そんなような情報がタイムラインにちらほらあがっている。



 と、その時、事務所にいる頼子からの着信が入った。

「あ、もしもし、頼子さん?」

『もしもし、奈緒さん、もう中目黒駅には着きましたか?』

「あぁ、着いたんだけど……すっごい人で混んでてさ」

『やっぱりそうでしたか……。
 都内の路線、かなりの数が運休を始めているみたいです。それを知らせたくて』



「あぁ、やっぱり、そうか~。う~ん、それじゃあ、歩いて渋谷まで行くかなぁ」

『ええっ、大丈夫でしょうか……? 遠いような』

「三十分ぐらいで着くだろうから、大丈夫だって!」

『ですが、雨脚もだんだん強くなるそうですよ。
 プロデューサーさんからのメールの返信もありませんし』

「たしかにパラパラ降ってるもんね。
 でも、このぐらいなら、まだ行けると思う。うん!」

『まぁ、今の感じだとそこまで強くはないですけど……』



「ま、行けるところまで行ってみるよ。
 それに、プロデューサーさんもメールを見れば待ってるだろうしな、なんてね」

奈緒は冗談めかして笑って見せる。
頼子はしばらく『う~ん』とうなった後、
『わかりました。また何かあったら連絡しますね』と了承した。

『くれぐれも無理はしないでくださいね』

「うん。ありがと!」



このとき、どうして雨の中、
渋谷までプロデューサーのために歩くという選択をしたのか、
奈緒は自分でも気づいていなかった。

ただ、さっそく行き詰った状況で頼子からの電話が来たのが嬉しかったのか、
はたまた迎えを待つプロデューサーを想像して自然とそうなったのか、
そのアイドルの表情からは自然と笑顔がこぼれていたことは事実であった。

……そして、その様子を
遠目からカメラのレンズに収める何者かの存在にも、奈緒は気づいていなかった。



  ***


奈緒は渋谷に向けて歩き始めた。
中目黒から渋谷に歩いて向かう際は、代官山の周辺を通ることになる。

混雑を避けようにも、奈緒はあまり周辺の地理に詳しくない。
そのため、無難に大通りを行くことにした。
幸いにも、天気が天気だからか、人通りは多くない。

その代わり、車道の方は先ほどに増して、渋滞の様相を呈してきた。



(全然、車、動いてないな……)

歩道橋を渡りながら、奈緒は車道の様子を見て思う。

ぼんやりと車道を眺めながら歩いていたせいで、
歩道橋の反対側から近づいている男の影を、奈緒はたいして気にかけなかった。

その男は少し大きめのショルダーバックを、
傘を差していない片手で抱えるようにして持ち、つかつかと奈緒に近づいていく。



全体的にラフなファッションだが、
あからかさまに洒落っ気を気取っていて、
前髪をしっかり眉まで流したツーブロックのよくある髪型をした、
なかなか整った顔立ちの二十代半ばといった男であった。
つまりは、先ほど奈緒とぶつかった男であった。

そんなことに全く気付かない奈緒。
そのまま、二人はすれ違う。が、その後すぐさま、その男は奈緒に向き直す。



「ねぇ、そこの君」

はっきりと大きな声をかける。
奈緒はびくっとして立ち止まった。そして、パッと後ろを振り返る。

その青年は鞄を抱えた手を一度放して、軽く振り、
わざとらしいぐらいの笑顔を奈緒に向ける。



奈緒は慌てた。慌てて周りを見回す。キョロキョロと。

「えっと……あたし?」

間の抜けた声で自分を指しながら問う。

「そうだよ。他に誰もいない」と男は返す。

先ほどまで振っていた手は、また鞄に添えられている。



 奈緒は一歩、後ずさりした。気づくと、男との距離は近い。

「ねぇ、君。こんな雨の中、どこに行くんだい」

「……どうしてそんなこと聞くんですか?」

「単に不思議だったからさ。ねぇねぇ、もしよかったらこの後、
 俺と美味しいものでも食べに行かない?」

(おっ、ナンパか……えっ、あたしが?
 あ、あたしがナンパされてるのっ!?)

男に対する強い警戒心と同時に、
自分がナンパをされているという事実への戸惑いの両方が出て、
奈緒の顔は愛想笑いとドン引きが混じったような奇妙なものになっている。



そういえば、こんなこと去年の今頃もあったな。
あ、でもそれは、相手がプロデューサーだ。
そうそう、スカウトされたときだ。

どうしてあの時、プロデューサーはあたしなんかをスカウトしたんだろう。
正直、今だって勘違いか何かであたしに声をかけたんじゃないかって思ってる。
あの時は、なんかいいように口車にのせられたって感じだけど、嫌な気はしなかったなぁ。

目の前の男からの現実逃避か、
目をぐるぐるさせながら、ついプロデューサーのことを考えてしまう。

そんなことを思い出した途端、
奈緒の表情から愛想笑いとドン引きのうちドン引き分が,なりをひそめてしまった。



それをみて、男がクスリと笑う。

「ふふっ、その様子じゃ、まんざらでもない感じ?」

まさか。

「よっしゃ、じゃあ、近くにおススメのカフェがあるから行こうか」

誰が行くか。

「ほら早く」そう言って、その男は奈緒の手を取ろうとする。

ハッと我に返った彼女は、サッと身を引いて、男と距離を取った。



「行きません。あたし、これから用事があるので」

すると、男の目つきが軽薄なものから、鋭いものに変わる。

「用事、ね……どんな?」

「そ、そんなこと、言う必要ないですよね」

「ははっ、そうだね。ゴメンゴメン」

 あくまでも男の調子は軽い。先ほどから片手が鞄から離れていない。



思わせぶりな様子で男は話を続ける。

「用事、たとえば――自分の傘は差して、
 もう一本の傘、それも男物の傘を持って、雨の中を急ぐような用事」

奈緒の目に警戒の色がますます走る。

「そう、例えば、恋人の男を迎えに行く、とかかな。……神谷奈緒さん」

「んなっ!?」

奈緒は動揺した。



なぜこの男はそんなことを知っているのか。
「恋人の男を迎えに行く」だなんて、
そんなシチュエーションに見えるのか、
いやいや、あたしはそんなんじゃないぞ、
プロデューサーさんと恋人だなんて、まさかそんな。

違う奈緒、そうじゃない。

そうだ、そうだ、そこじゃない。
なんでこの男は――あたしの名前を知っているんだ?



「神谷奈緒さんですよね、アイドルの」男はかまわず続ける。

奈緒の頭に二つの可能性がよぎった。
一つ目、厄介なファン。しかし、これは可能性が低いだろう。
なぜなら、今まで奈緒が出会ったファンはみんな良い人たちで、
こんなアプローチをしてこなかった。
と同時に、ファンにはこんなこと、してきてほしくない
という望みがゆえに信じたくなかった。



二つ目、厄介な記者。おそらくはこちらなのではないか?
まさか自分みたいな低ランクアイドルを
狙う記者なんているとは、にわかに信じがたい。
でも、最近、人気が出てきたというプロデューサーの言葉も考慮に入れると、
奈緒にはこちらの方があり得るように感じられた。

いずれにしても、この場は穏便に切り抜けなければならない。
わざわざ事情を説明する必要もないだろう。



「すみません、あたし、急いでますのでこれで」

そう言って、すばやく踵を返して、駆け出す。

歩道橋を足元に気をつけながらも勢いよく降り、
雨の中、傘が風に煽られないようにしながら走る。

奈緒はダンスをやっているからか、足もそれなりに速く、
この足場の中でもバランスを崩さない(ダンス万能説)。



しばらく走ったところで、後ろを振り返ると、男は追ってきてはいなかった。

「ふぅ~……」奈緒は自分のスピードを緩めた。

そうして止まってみると、走った以上に心臓がバクバクしているのがわかる。

「ははっ……あぁー、びっくりしたなぁ。
 ふぅ……。ちょっと落ち着こう。大丈夫、大丈夫」



自らを安心させるように念じながら、プロデューサーの傘をギュッと握ってみる。

ライブ前にマイクを握っている自分の肩に、
ポンと手を置いてくれたプロデューサーを思い出した。
肩の力が抜けて、息が整っていくのがわかる。

「うん、もう大丈夫」
そうつぶやく奈緒を包む雨は、少しではあるが、先ほどよりも強くなっていた。



  ***


再び電話が鳴った。
少しびくっとした奈緒だが、表示された相手の名前を見て、胸をなでおろす。
頼子からだった。

「もしもし、奈緒です」

『頼子です。奈緒さん、今、どこですか?』

「今、代官山に入ったところぐらいかなぁ。何かあった?」

『はい。それが、先ほどプロデューサーさんからお返事があって……』

どこかバツの悪そうな調子で頼子が言葉を濁す。



「お返事があって?」

『プロデューサーさん、「この天気が崩れそうな中、
 来てもらうのは悪いから、迎えに来ないでも大丈夫だ」って』

「……へ?」

『……お迎えはいらない、ということかと』

少しの沈黙が二人の間に流れる。しかし、それも長くはなかった。
奈緒の方から口火を切る。

「いや、迎えに行く」やや強情な口調だった。



それを聞いた頼子は『あはは……』と控えめに苦笑をもらしただけであった。

「だってさ、ここまでけっこう大変だったんだぞ!
 この雨の中、進むのもだし、なんか変な人に絡まれたりさー」

愚痴をこぼすように語る奈緒に対して、頼子が明らかに心配した様子で尋ねる。

『変な人に絡まれたりって、大丈夫だったんですか?』

「あっ、えっと……うん、なんとか」



頼子に先ほど会った男のことを話す。

話しながら歩いている最中も、雨脚が少しずつ強くなっている。
傘がボツボツと音を立てているのがわずらわしい。

一通り何があったかを頼子に説明し終わると、
頼子が『聞いたことがあります』と応えた。

『最近、悪質な芸能記者が渋谷を中心に出没すると。
 若い男性で、見た目は小ぎれいな今どきのシティボーイって、
 ちひろさんが言っていました』

「シティボーイ?」



『シティボーイ』

「…………えぇ~」

『……コホン。さて、そのシティボーイなんですけど、
 どうやら半ば強引な絡みで、業界慣れしてないアイドルを引っ掛けては
 妙なスキャンダルを取ってきているらしいです』

「うわぁ、まさにそんな感じだった」

『ちひろさんの見立てでは上手いこと、
 でまかせを記事にしているのではないかと。
 いずれにせよ、関わらないように気をつけた方がいいですね』



「うん、そうだな。気をつけるよ。良かった、頼子さんが知ってて。ありがとな」

『フフ……どういたしまして』

雨音響く傘の中で、頼子との通話に安心している奈緒は気づかなかった。
後方数十メートル、鞄を片手にかかえ傘を深めに差して、
彼女の後を追うシティボーイの姿に。



頼子と通話をしながら歩く奈緒は全く別の異変に気づく。
何の気なしに歩いてきた。大通りを渋谷に向けて、道なりに。
その道に「通行止め」と書かれていれば、迂回路に逸れて歩いたし、
「通行止め」に出会えば、指示通りに迂回し、
その先で「通行止め」の看板があったので、回り道をせざるを得なくなった。
行った先には、また「通行止め」の文字が立ちはだかって
――ようやく奈緒は気づいたのだ。



「あのさ、頼子さん。なんだか道が……通行止めばっかりなんだけど」

『通行止め……ちょっと待ってくださいね』

頼子は事務所で、共用のパソコンを開きながら通話をしている。
あまり電子機器に強くない頼子ではあるが、
GSプロに所属してから少しずつプロデューサーに教えてもらって、
ブラウザ検索やSNSの使い方はわかるようになっている。



頼子が渋谷近辺の交通情報を調べたところ、たしかに渋谷や代官山をはじめとして、
都内のあちこちで交通渋滞や冠水の影響が出ているらしい。
通行止めもその一つであろう。

その旨を奈緒に告げると、奈緒はため息ひとつの後、
「やっぱりそうかぁ」と答えた。

『奈緒さん、今、どこですか? 道案内しますね』



  ***


奈緒は、頼子の道案内によって、
通行止めにぶつかっても比較的効率のいい裏路地のルートを進むことができていた。

携帯のナビ機能使えばいいじゃん、というツッコミは野暮である。

雨もしっかり振り、風もあるが、大雨とは言わない程度であり、
通行止めが生じるほどとは思えなかった。



唯一の心配は携帯電話の電池残量である。
先ほど確認したところ、残り半分を切ったところであった。
とはいえ、代官山もすでにだいぶ渋谷寄りに来ているはずで、
何もなければ無事に渋谷に着けるはずだ。

そう、何もなければ。こんなときに限って、何もないはずはないのである。



「ん?」

先ほどから全く人気のない路地の奥、進行方向先で小さな白い人影が動いた。
よくよく目を凝らすと、どうやら子どもが
キョロキョロと周りを見まわしているようだ。

「なんだろう、こんな日に?」怪訝に思う奈緒。

「頼子さん、ちょっとごめん。一旦、携帯切るね」

『えっ? あ、はい。いいですけど、平気ですか?』

「うん。たぶん平気。ありがとな。また電話するよ」

そう言って、携帯を切り、子どもの方に近づく。



どうやら女の子のようだ。
年の頃は小学校入学前といったぐらいだろうか。
雨合羽をしっかりフードまで被っている。

表情を読み取ろうと、フードの中を横目で覗いてみると、
一目でとても不安そうな顔をしていることがわかった。

(う~ん、プロデューサーさんを迎えに急いだほうがいいとは思うんだけど)

一瞬の逡巡はあったが、次の一歩を踏み出すころには、行動が決まっていた。
奈緒はその少女のそばにそっと寄り、しゃがみこんで優しく声をかけた。



「どーっした?」

「ふぇ?」

少女は、しゃがみこんだ奈緒と目を合わせると、
少し驚いた表情になった後、すぐさま笑顔になった。

「あ~! シエルだぁー!」と言って、奈緒に抱きつこうとする。

「おわっと!」

雨合羽で抱きつかれたらたまらない。
傘の軸を首と肩で挟んで落とさないようにしつつ、
慌てて少女の腰のあたりを両の手で押さえて、阻止する。



危うく尻もちをつきそうになったが、そこは流石ダンスをやっている奈緒。
耐えることに成功する(ダンス万能説)。

「シ、シエル? 何のことだ??」

奈緒に静止させられつつも、その少女はあきらめないガッツがあるらしく、
抱きつこうと両手を広げてクネクネしている。
クネクネしながら応える。

「シエルってね、ウチで飼ってる犬ー」

「い、犬ぅ?」

思わぬ答えと、少女のガッツに気圧されて、
この場は不利と踏んだ奈緒は、一度立ち上がって体勢を整える。



今度は中腰になって、少女と目線を合わせた。
すると、今度は少女の方が奈緒に声をかける。

「お姉ちゃんのこと、知ってるー」

「えっ!?」

「この前、テレビに出てたよー。髪ほどいてたよね。可愛かったー」

奈緒は途端に耳が熱くなることを自覚した。



今まで、ファンと仕事で接する機会はそれなりにあったし、
プライベートで自分の同年代あるいは年上のファンに声をかけられる機会も
わずかばかりではあるがあった。

しかし、こうも純粋な年の子に真正面から
「可愛かった」などと言われたことは、なかったのである。

「か、くぁ、かわいい……?」

この小さなファンの前に、アイドル神谷奈緒は、
全くアイドルらしいリアクションを返せずにドギマギしてしまっている。



第一、まだまだそんなにテレビには出ていないのだ。
メジャーな放送局での出演はほぼなく、地方局レベルには何回かあるが、
まさかこんな少女が知っているなんて……。

そんな奈緒の疑問を察知したかのように少女が口を開く。

「あのねー、お姉ちゃん、シエルに似てるんだー。
 だから、テレビで観たとき、シエルが女の子になちゃったあ、って」

ああ、そういうことね、と奈緒はなんとなく納得した。



おおかた、そのシエルという子に奈緒が似ているものだから、印象的だったのだろう。

(いやぁ、それにしても、犬かぁ……)

奈緒の顔に微妙にひきつった笑顔が貼りつく。

「でもね、シエル、迷子になっちゃって……」

「あぁ~、そういうことか……」

少女の哀しそうな顔を見て、奈緒も少し悲しくなる。



何があったかはよくわからないが、
どうやら飼い犬であるシエルという子とはぐれてしまったようだ。

この雨の中、雨合羽を着て探しに出るぐらいなので、よほど心配だったのだろう。

奈緒としては、保護者らしき影がどこにも見えないことが心配に拍車をかけた。

「よし、わかった。ちょっと待っててね」と少女に言う。

奈緒は電話を取り出して、頼子につなぐ。



『はい、頼子です。奈緒さん、どうしました?』

「あ、頼子さん、さっきは急にゴメンな。それで、実は――」

事情を話すと、頼子も『それは心配ですね……』と答える。

できれば、家まで送り届けてあげたい。
それは二人の共通の見解であったが、あらためて住所を聞いてみても、
少女はわからなかった。



う~ん、と悩む奈緒に、電話の向こうの頼子さんも頭を抱えているようだ。

『――そうだ。奈緒さん。もしよかったら、
 その子の背格好とか服装とか教えてくださいませんか』

「う、うん、わかった……」

なにか考えがあるのだろう、奈緒はできるだけわかりやすくその少女の特徴を伝える。
シエラという犬を探している、といった情報も付け加えて。

『ありがとうございます。それじゃあ、私の方も手を打ってみます。
 奈緒さんはどうしますか?』

「そうだなぁ……」



少女の方を見る。すると、少女は奈緒のパーカーの裾をきゅっと握っていた。

奈緒は頬を優しく緩めて、頼子に言う。

「ちょっと、この子とシエルを捜してみるよ」

そうして頼子との通話を再び切って、携帯をしまう。
空いた手で、裾に落ち着いていた少女の手を取って、そっと握る。

「じゃ、お姉ちゃんと一緒に行こっか!」

少女はにぱっと笑って、「うん!」と元気よくうなづいた。



  ***

シティボーイの顔には悪辣な笑みが浮かんでいる。

というのも、先ほどから後をつけている新進気鋭のアイドル・神谷奈緒が、
なかなか面白い形で仕立て上げられそうなネタを、提供してくれているからだった。



この雨の中、男物の傘を手に提げて出かけている時点でワンアウトは取れる。

実際、カマをかけにアプローチしてみたら、あのリアクション。
「恋人」という言葉に過剰に反応する様子は、
鞄の中に潜ませていたカメラにばっちり残っている。

さらに、道中、嬉しそうにニヤニヤして電話をしながら歩いているのだ。
これは何かある。

さしずめ、恋人に「今から迎えに行くよ~、うふふ」とキャッキャしていたに違いにない。
無論、その様子だってシャッターに収め済みだ。

もうこの時点でツーアウト。



これならスリーアウト目も簡単だろうと踏んでいた矢先、
今度は小さな少女と合流し、仲睦まじそうに手をつないで歩きだしたのである。

彼にとっては驚きの好都合な展開であった。

「オイオイオイ、マジか、神谷奈緒」

興奮して独り言が漏れる。

まぁ、所詮は下賤な勘違いでしかないのだが、
この男、何を思ったか、奈緒に隠し子がいると踏んだ。

歳を考えろ馬鹿野郎、というツッコミは至極真っ当だが、
それを成す者は、今のところ登場していない。



ただ、代わりと言ってはなんであるが、
そんな彼の愚かな様子を、「へっへっ」とお尻を振りながら傍観する者はいた。

その子は、専用の雨合羽の下に、
ウェーブのかかった茶色く豊かな毛を蓄え、
わずかに紅く光る丸っこい目を潤ませている。

その子の首に提げられているタグには「シエル」と記されていた。



毛色は見事なまでに綺麗な栗色で、
長く垂れた耳は独特のウェーブがかかっていることもあって、
まるで奈緒のロングヘア―のように見える。

シエルは先ほどから、男の後ろ数メートルをちょこちょこついて歩いている。
首からぶら下げた散歩紐は引きずられてびちゃびちゃだ。

男の方もその様子に気づいていたが、
別に犬が可愛いとも怖いとも思わないタイプであるがゆえ、
小型犬に近い中型犬など気にもとめていなかった。



相変わらず強い雨脚の中、奈緒と少女の後を気づかれないようにつけていった。

奈緒たち二人はこの雨の中、めげずに路地裏のいたるところを歩く。
その途中、所々で立ち止まって周りを見まわしたり、
古い室外機の裏を除いたり、ゴミ捨て場のバケツを確認したりしている。
何かを探している様子であった。

しばらくして、二人は路地裏から大通り沿いの歩道に出ていった。
男は小走りで後を追う。



そのとき、男の傘に急に大きな力が加わった。
「うおぉ」と力を入れると、傘の骨が軋む。
後ろから突然の強風が男の身体を追い越し、大通りへと抜けていった。

あまりの風に大通りに飛び出そうになったが、
何とか耐えて、曲がり角の影から奈緒たちの様子を見ようとした。

その時、信じられない光景が男の目の前にそびえ立った。



「な、なんじゃこりゃあああ」

それは渦であった。

ビルによって行く手を阻まれた強風が行き場を求めて、複雑な流れを生み出したのか、
降りしきる雨粒を巻き込んで、その目ではっきりわかるほどに、中空に潮を巻いていた。

つむじ風。

思わず、カメラを取り出し構える。
シャッターをいくらか押し、ファインダー越しに奈緒と少女を探した。

「いた!」



奈緒と少女も渦の存在に驚いている様子だ。
かなり近くにいる。男はかまわずカメラを向けている。

奈緒と少女が走り出した。
風の強さに危ないと判断したのか、奈緒は傘をすぐさま畳んで走った。

奈緒の後方で、少女が転ぶ。
奈緒との距離が離れる。
男はシャッターを切る。
奈緒はすぐに気づき、少女に走り寄り、抱きかかえて走った。
そして、路地裏に消える。

男は邪な笑みを見せる。



「はは……まさか、こんな写真が撮れるなんて。――おっと」

男はつむじ風が移動していることに気づき、自らも慌ててその場から離れた。

さて、この後どうするか。いい写真も撮れたし、ここで退散してもいいのだが。

しかしながら、男の欲はここでの撤退を是としないようであった。
もう少し粘ろうと、つむじ風に気を配りながら、奈緒たちが消えた路地の方に向かう。

しかし、奈緒たちの姿は見えない。
しばらく捜すも、結局男自身も裏路地の袋小路に出てしまった。



いちおう念のためにと思い、袋小路の奥に足を向ける。

と、その時であった。何かの紐が足に引っかかり、男はバランスを崩した。
男は特にダンスなどはしていなかったので、
体勢を保つことができずに、転んだ(ダンス万能説)。

かろうじて、撮影機材は守ったものの
せっかくのラフなお気取りファッションはずぶ濡れである。

開き直って、尻もちをついたまま、舌打ちをし、自分の足を引っ掛けた紐を見る。



その紐が続く先端には、大きめの茶色いモップのようなものが、
小さめの茶色いモップをフリフリしている。

いや、犬だ。先ほどからついて来ていた犬だ。
茶色い毛並みの犬が、茶色いしっぽをフリフリしている。
なんだか神谷奈緒に似ているな、と思った。

男の脚を引っ掛けたことをまるで申し訳ないとも思わない、
すまし顔で舌を垂らしながら、男を一瞥している。

男はなんだか、無性に腹が立ってきた。



しかし、犬はそんなことおかまいなしに、
次の瞬間、「わんわんっ!」と勢いよく声を上げながら、男に飛びついた。

「おわぁっ、なにすんだ、この、やめろ!」

男に飛びついた犬は、抵抗する男に全く意に介することなく、
ベロベロとその顔面を舐めまくる。

男が止めようと伸ばす手を、見事にかいくぐりながら攻勢を保つシエル。
男はたまらず、抵抗を止めて、むしろ立ち上がった。



「わん、わんっ、わんっ!」
立ち上がる男に対して距離を取るシエル。
そのしっぽは勢い良くブンブンと回されている。余程楽しかったらしい。

一方の男は顔を真っ赤にして、悔しそうに言う。

「てんめぇ、このやろう……」

と、その時、「シエル!」と幼い少女の声が聞こえた。
すぐさま、路地の角から少女と、神谷奈緒が走ってくる。



男と目が合った奈緒は「あーっ!」と叫ぶ。

男は瞬間的にまずいと思った。しかし、ここは袋小路。
後ろは行き止まりであり、ここを抜けるには奈緒たちが現れた方向に行くしかなかった。

そして、犬への怒りは忘れて、すぐさま奈緒たちの方へ走り出す。
「きゃっ」とシエルを抱きかかえてしゃがむ少女にも、
少女の前に乗り出して身構える姿勢を作る奈緒にもかまわず、
男はその横を走り抜けた。

ドンっと、男の身体が奈緒の肩にぶつかる。
奈緒は傘を手放してしまい、その傘はしたたかに地面に打ち付けられた上、
男に足蹴にされ、壊れてしまった。

そうして、男は奈緒たちの視界から消えた。



  ***


幸いにも奈緒一行にはどこにもケガはなく。被害は傘だけであった。

実のところ、先ほどのつむじ風によって、
奈緒の傘はひしゃげており、男が足蹴にするまでもなく半壊状態であった。

かろうじて風雨を防げる、シャッターの閉じたさびれた軒先で
少女二人と犬一匹、並んで雨宿りをしている。



「お姉ちゃん、ありがとね!」

シエルを抱きかかえたまま、少女は満面の笑みで奈緒にお礼を言った。

「へへっ」と奈緒は少女にむけてはにかむ。

少女が飼い犬との再会を喜ぶ様子を見ながら、奈緒も半分胸をなでおろした。
もう一方を、さてどうするか……。



正直なところ、奈緒はかなりクタクタであった。
先ほどの大きなつむじ風から逃げるとき、雨合羽を着た少女を抱き上げたし、
傘も壊れてから、しばらく雨宿り先を探して歩いたため、雨にも降られてしまった。

お気に入りのパーカーのフードを被り、
どうにか直接、地肌に雨があたらないようにしたものの、
お気に入りのパーカーはひどく濡れてしまった。
下着までは濡れていないのが幸いだった。



もう一方、それはすなわち、少女の親のことである。
どうやって彼女を親に送り届けるか……その方策を奈緒は全く持っていなかった。

(まいったなぁ……)

少女に悟られぬように、奈緒は心の中で困ってみせた。自分の後頭部をさすりながら。

と、その時、ポケットに入れておいた携帯が振動する。頼子からであった。

『奈緒さん、今もまだ女の子と一緒ですか?』

「うん、一緒にいる。実は傘、壊しちゃってさぁ。
 今は二人で雨宿りしてるところなんだ。あっ、そうそう、シエラは見つかったよ」

『本当ですか! それは良かったです』

「ああ。でも、この後がなぁ……どうしようかなって……」



『こちらも良い報せです。保護者の方と連絡がつきました』

「えぇっ!?」

奈緒は驚いたというより、心底安心した。

「すごい! どうやったんだ?」

『実は、私の友人にちょっとした探偵倶楽部をやっている子がいまして。
 高校の部活で、ですが』

そんな部があるのか?
とツッコミたくなる衝動をグッと飲み込んで、奈緒は続きをきく。



『その彼女に頼んで、SNSなどで調べてもらったんです。
 ついでに、情報を発信して。そうしたら、お母様が連絡をしてきくださって』

「そ、そっか――。ふぅ、本当に助かったよ。ありがとう、頼子さん」

『い、いえ、私は、みや――友人に頼んだけなので。
 その言葉は友人に届けておきますね』

「あははっ、そっか。じゃあ、その友人にもよろしく!」



その後、頼子が少女の母親と連絡を取った。

しばらくすると、奈緒たちが雨宿りをしている軒先まで少女の母親が来てくれた。

「カレン!」

「お母さん!」

母の姿を一目見た途端、母に向かって少女はシエルを抱きしめたまま駆けて行った。



奈緒は、その少女の名が、自分の親友の名と同じであったことを、
今更ながら知り、顔をほころばせた。

この軒先では、さほど風の強さは感じられなかったが、
他の場所ではもう傘が差せないのだろう。
「心配したんだから」と言いながら娘の頭を撫でる母親も雨合羽を着用している。



奈緒は安心したのか、さっきまで気にする余裕のなかった少女の飼い犬と目が合った。

「くぅ~ん」と甘えた声を出している。

「あぁ、なるほどなぁ」と奈緒は苦笑した。

軒先に入ってから、シエラは犬専用の雨合羽のフードを外して、
その可愛いお顔を露わにしていた。

今、あらためてシエルの姿を見ると、
そのウェーブのかかった毛質とそれをまとった長い耳の見え方は、
奈緒自身が毎朝鏡の中で見るそれと同じだった。



シエルの髪はとても鮮やかな琥珀色を輝かせていた。

『奈緒の髪はホントきれいだなぁ』

いつだったか記憶は定かではないが、かつてプロデューサーがこぼした言葉。
それが、ふいに胸に蘇る。

プロデューサーさん、
藪から棒にあんなこと言いやがって……どういうつもりだったんだろう。
当時も今も変わらぬ疑問が奈緒の胸の鼓動を高鳴らせた。



「――お姉ちゃん? お顔が赤いよ?」

ハッと気づくと少女が奈緒の目の前に立っている。

「これあげる!」

少女の手から、大人用の雨合羽が差し出された。

「えっと……?」

「こちら、奈緒さんに差し上げます」

不思議そうな奈緒に少女の母が答える。



「この度は本当にありがとうございました。
 連絡くださった方から、奈緒さんが雨具を壊してしまったと聞いて」

そう言えばそんなこと頼子さんに言ったような、と思いながら、
奈緒は頼子に心の底から感謝した。
そして、この母親にも、そしてシエラにも、少女にも。

「これからまだ行かなければならないところがあるみたいですね」

「……はい。ちょっと迎えに行きたい人がいて」

 奈緒は雨合羽を受け取り、少し照れくさそうに言う。

「この天気ですから、十分に気をつけてくださいね」と母。

「お姉ちゃん、今日は本当にありがと!
 わたし、これからも奈緒ちゃんのこと、応援するね!」と少女。

「へへっ……ありがとな。お姉ちゃん、がんばるから!」と奈緒は応えた。



  ***


少女から貰った雨合羽を身にまとい、
プロデューサーの安物の傘を手に奈緒は渋谷に向かった。

代官山の洗練された街並みに人影はなく、
東京で最も住みたい街の一つであることが、まるで幻のようであった。

実を言えば、奈緒は道を見失っていた。
なんとか看板を頼りに渋谷の方角を目指してはいるが、
渋谷のどこに向かっているかは見当もついていなかった。



頼子に頼ろうかと思って携帯を取り出すと、電池の残量が一桁になっていた。

「マジか……」奈緒は苦々しくつぶやく。

しかし、疲れた身体をできるだけ気にしないようにしながら、
キュートな太眉をキリリと結んで気合いを入れる。

(でも、がんばるって言ったからな!)

と、その時、にわかに奈緒を囲む街並みが揺れる。



コォォォという地響きに近い音の直後、空気を切り裂くような鋭い音が鳴った。
鳴った、と表現するよりも、振動したと表現した方が適切かもしれない。

雨合羽がふわりと広がったと感じた瞬間、今度は強い力で背中を押される。

「風だ!」

振り返ると先ほどと同じほどの渦――つむじ風が形成されていた。

街路樹はたわみ、建物は小刻みに揺れ、雨粒は流れとなって、
周囲の自転車などをなぎ倒していく。



「やっばい!」

奈緒は走ろうとしたが、立っているのもやっとであった。
気づくのが遅かった。すでに彼女は風の勢力圏内に取り込まれていたのだ。

必死になって近くの柵に掴まる。
手で握るだけでは、とても心許なく、腕で抱えるように柵を掴まえ、風に耐えようとする。



その時、手に提げていたプロデューサーの傘が、するりと抜けてしまう。

「あぁっ」

奈緒は手を伸ばして、傘を掴もうとするが、つむじ風はそれを許さなかった。
あっという間にプロデューサーの傘は風に巻かれ、
電信柱に叩きつけられ、綺麗なくの字となり、そのままどこかに飛んでいった。

奈緒も柵につかまって、へたりこみ、風をやり過ごすので精一杯だった。



おそらく時間にしたら一分もなかったのであろう。
しかし、奈緒にはその十倍の時間には感じられた一瞬であった。

一瞬、風の勢いが弱まった。奈緒はそのタイミングを逃さなかった。
意を決して、立ち上がり、渦の進行方向とは逆の路地裏に逃げ込んだ。

そして、無我夢中で走った。
気がつくと、風の音は消え、先ほどまでとさほど変わらない、
薄暗い灰色の路地と降りしきる雨だけが残った。



しかし、奈緒の手に安物の傘は残らなかった。

彼女はフラフラと大通りとは異なる街並みを歩いた。
自分がどこを歩いているか、もうわからない。

自然と携帯電話に手が伸びていた。
着信履歴から、古澤頼子の名前をタップし、通話を始める。

3コール鳴ったところで頼子が出る。



『はい、頼子です。………………あれ? 奈緒さん?』

「よ、頼子さぁん……」かろうじて泣くのはこらえた。

『な、奈緒さん!? 大丈夫ですか? 何かありましたか?』

「ん……だ、大丈夫。でも、傘が……」言葉が続かない。

『傘が? 一体何があったんです――』

そのとき、電話口の向こうから事務所の呼び鈴が鳴る音が聞こえた。
お客さん? こんなときに?



『あ、ごめんなさい、奈緒さん。今、どなたかが来たみたいで』

「う、うん、大丈夫だから、頼子さんは事務所に来た人を」

『す、すみません。でも、奈緒さん、本当に大丈夫ですか?
 何かあったのなら、がんばりすぎな――』プツッ。

ピーピーピー……。

携帯電話の電池切れだ。

奈緒は力なく携帯を自分のポケットにしまう。



どこだかわからない場所を歩く。なんだか東京ではない町を歩いているようであった。

時代錯誤にも道側にむけてテレビをディスプレイしている古い電気屋があった。
店の中は薄暗く、やっている気配がないにもかかわらず、そのテレビはついている。

事務所を出る前に観ていたチャンネルだ。
緊急時に画面の左側と下側に出る報道欄に、
都内の天候の様子がテロップとなって流れている。

都内各所でつむじ風の発生。それに伴う交通網のマヒ。強雨も続くとのこと。



電気屋の前にはご丁寧にベンチが置かれ、
お店から伸びるひさしがかろうじて風雨を防いでくれている。

気がついたら奈緒はそのベンチに座っていた。

「ふぅ……」と大きく息をつく。

疲労感がドッと奈緒を襲う。目元が濡れていて冷たい。
雨なのか涙なのか、よくわからなかった。

(あぁ、がんばろうって思ったんだけどなぁ……)

頭の中でつぶやいた。自分でも薄情なくらい冷静であった。

なんだか身体がとても重い。頭の中もフワフワしていた。
今、自分がいる場所もよくわからず、考えていることも定まらなかった。



頼子は焦った。奈緒の元気のない声、そして突然切れた電話。
また何かあったのでは? そう思うと、いてもたってもいられなかった。

しかし、事務所を空けるわけにはいかない。かと言って、頼れる大人もいない。
しかも、たった今、事務所の呼び鈴がなったのだ。
この天気の中、お客様でも来たのだろうか。

留守番として残った以上、少なくとも、そちらの対応をしなければならない。



急いで事務所の扉に向かおうとして、通路の棚にぶつかる。
棚の上に置いていたお菓子の箱が落ちる。

気持ちの揺れが所作に出てしまっている。これは、頼子にしては珍しいことであった。

なんとか心を落ち着けて、急いで事務所の扉を開けに行く。

「はい、すみません。今、開けます」

そっと扉を開ける。扉の前に立つ人物を見て、頼子は驚愕した。

「えっ、そんな……!?」



  ***


その日、奈緒は渋谷にいた。親友の加蓮と待ち合わせをしていたのだ。

しかし、その加蓮から「ごめん、遅れる!」と連絡があった。
おおかた出かける身支度に時間がかかったか、
そうじゃなければ、眩暈か何かで休んでいるのだろう。

後者だったら心配ではあるが、連絡をよこせるぐらいのときは、まだ元気である。
奈緒も慣れているから、もうそれほど動揺はしない。



その日は一緒に映画を観る予定であったが、
こういったことも見越して上映の一時間半前に集合時刻を設定していて正解だったな、
なんていうことを思っていた。

その日も雨が降っていた。
今日ほど雨脚が強くもなければ、風も吹いてはいなかったが、
渋谷の空を覆う灰色はしとしとと雨粒を落としていた。



色とりどりの傘が行き交う都会の雑踏をボーっと眺めて。
なんとなく退屈だなぁと思っていた時だ。TOHOシネマズの前だったと思う。

「すみません! 少しお時間いいですか?」

突然、見知らぬ男から声をかけられた。
「出たな、ティッシュマン!」これが彼に対して抱いた第一印象であった。

だが、よく見てみると、
都会で出没するティッシュマンとは、また違った雰囲気でもあった。



堅苦しいスーツに身を包んではいるが、
どうにも着慣れていないといった感じで、なんというか……
落ち着きのない元気な男の子が無理をしているようにしか見えなかった。

さらりと流れる癖っ気のない髪は短くも長くもない。
こんな雨の日はボリュームが増大する、自分の髪とはエライ違いで、
うらやましいとすら思う。

なんだか切れ味のありそうな目つきではあるが、その笑顔にはイヤミがなくて、
まるでショーウインドウに飾られている欲しいおもちゃを見つめる少年のような、
キラキラした瞳をしていた。

「アイドルになりませんか!?」



唐突な言葉に、奈緒は自分の耳を疑った。
アイドル? あの、めちゃめちゃ可愛い服着て、ライブする、あのアイドル?
コイツは何を言ってるんだ?

「絶対になれます、あなたなら!
 可愛い衣装が絶対に似合う! 人気も出ます、必ず」

ありえない。それが正直な感想であったし、今でもそう思っている節がある。
しかし、その時、あたしが何を言っても聞かなかったなぁ、あいつ。

「アイドルにしてみせます、絶対に!」



あたしが可愛いだって? 「アイドルにしてみせます」だって? 絶対、に?

どうしてこの人はこんなにも一生懸命になってるのだろう?
その答えは今もわからないままだが、確実にひとつわかっていることがある。

そのとき、あたしは嬉しかったんだ、とっても。



だから、アイドルをやるなんて一言も言わなかったけど、彼の話を聞くことにした。

「アイドルとして頑張りましょう!」

で、その時から、人の話を聞かない人だったなぁ、あいつ。

――これが奈緒と彼女のプロデューサーとの最初の出会いだった。



気がついたら、奈緒は彼の言う可愛い衣装を着て、ライブ会場の舞台袖にいた。

急に胸が張り裂けそうになる。
手や足がプルプルと震えていることがはっきりと自覚できた。

初めてのライブの日だった。
この日のために、自分ができる努力はしてきたつもりだった。

だが、まさか、こんなに緊張するなんて……。
練習通りに身体が動いてくれるなんて、とても期待できなかった。

今にも泣きそうな声で、思わず口走ってしまった。

「あぁ、がんばろうって思ったんだけどなぁ……」



その時、ポンと肩の上に手を置かれた。プロデューサーの手だった。

情けない弱音を聞かれたと思うと、ますます涙が出そうだった。

「どした、奈緒? せっかくの可愛い顔が
 今にも泣きそうなくらいぶっさいくになっちゃってるぞ」

彼はニッと笑った。奈緒はむくれた。
この男、たまにこうだ。
バカ正直に思ったことを口にするもんだから、
デリカシーのかけらもないことを平気で言ったりする。



それにしても、どうして、この人はこんな笑顔でいられる?
初めての担当アイドルの初の晴れ舞台、緊張しないのかよっ!?
そんなことを言ったかもしれない。

「がんばろうって思ってるんだろ?」

うなづく奈緒。

「だったら、大丈夫だ。奈緒なら――
 がんばり屋で正直者な奈緒なら、オレ達の期待だけじゃなく、
 がんばろうって思う奈緒自身の期待にだって、ちゃんと応えられる」



プロデューサーは信じていた。奈緒の弱音を聞いても、確固たる強さで、奈緒のことを。

だから、今まで、アイドルをしてきたんだ。
どんなに上辺で取り繕おうと、やりたいという気持ちに嘘はつけない。
がんばりたいという気持ちに嘘はつけない。

だったら、今だって、この気持ちに嘘はつきたくない。

「今、迎えに行くからな、プロデューサーさん」



  ***


奈緒は目を覚ました。轟々と風が鳴り、したたかに雨が地面に叩きつけられている。

二十分ほどであろうか、奈緒は眠りに落ちていた。
そのおかげか、身体が少し軽くなっている。

「これなら……!」

立ち上がる。
プロデューサーの傘はその手にないが、せめて迎えにだけでも行きたい。
これはもう、彼女の偽らざる本心であった。



再び歩き出した奈緒。
しばらく歩き、周辺地図の看板を見つけて、自分の場所と渋谷駅の位置を確認する。

「よしっ!」と気合を入れて駆け出す。

いっそ傘がなくて、走りやすかった。

渋谷まで、もう少し。着いたらそこでプロデューサーを捜さないといけないだろう。
だが、体力の残りを考えている余裕なんてなかった。

その時である。自分の進行方向に大人の影が立っている。スピードを緩める。

嫌な予感がした。そして、それは的中した。



「やっと、見つけたぞ、神谷奈緒」

ティッシュマンの方が数千倍マシだ。
そこにいたのは、雨合羽を着たあのシティボーイであった。

「……なんなんですか、あなた」努めて冷静に奈緒は言った。

「さっきも言ったよ。俺とお茶でもしませんか? って。
 こんな天気だしさ、そろそろどう?」

ニヤついた顔が、奈緒にある感情を生じさせる。この感情は恐怖ではなかった。



「いい加減にしてください。あたし、用事があるって言いましたよね」

「あっ、そうだったね。恋人のお出迎えだろ? アイドルの神谷さん」

「そんなんじゃありません!」

「そうかなぁ……だって、ほら」

そういって、彼は鞄からカメラを取り出す。
そして、奈緒に近づいていき、カメラの背面ディスプレイを見せる。

「ほら、見える?」

そこには傘を差しながら、携帯電話で通話をし,
ほほ笑んでいる奈緒の姿が写し出されていた。



「なっ……勝手に撮ったんですか!?」

「だって、君はアイドルだし、俺たち記者はそういう写真を撮っていい人たちだから」

何を勝手なことを、と思った。
そして、やっぱりコイツは頼子さんの言っていた悪質な記者なんだと確信した。

「他にもほら、こんな写真がある」

歩道橋の上で自分の傘を差し、プロデューサーの傘を手に提げている自分、
「恋人を迎えに行く」などと言われて狼狽している自分、
さらには、しゃがんで少女の頭を撫でる自分、
少女と手をつないで歩いている自分の写真まである。



「ほら、『恋人』の存在を見破られて慌てる君もいるし、
 こっちの写真の電話の相手は彼氏かな?
 こんなに嬉しそうに話しながら歩いちゃってる様子もある。
 果ては、この子。何? 隠し子さん?」

奈緒はうろたえた。どうしてここまで、でっち上げられるのか、そこに驚愕した。

最初の写真は、相手が頼子さんだし、あの子が隠し子であるなんて、あるはずがない。
ま、まぁ、たしかに、歩道橋では戸惑ったけど……と心の中で主張するが、
あまりにも呆れてしまい、かえって一言に集約されて出てきた。

「そんなわけあるかぁー!」



「ふーん、そうなんだ。まぁ、たしかにそうだよねぇ。
 だって、自分の子だったらこんなひどいことしないだろうからなぁ」

わざとらしく言ってみせる男が次に見せたのは、
強風の中、奈緒が転んでいる少女の先を走り去ろうとしている写真であった。

「ほら、つむじ風に襲われてるのに、子どもを放って、自分だけ逃げようとしてる。
 この子も怖かっただろうに。そんなひどいこと、普通はしないよなぁ」

「はぁ? そ、それは、違うっ!」

奈緒は必死に否定する。だが、そんなこと意に介さずに男は続けた。

「でも、写真だとそう見えちゃうしなぁ。こんなのはどうだろう?
『新人アイドル神谷奈緒、嵐の日に少女を連れ出し、突風の中に置き去り!』って見出し」



得意げに男は語る。
こんなやつの言うこと、真に受けなくてもいい、とわかってはいるが、
フツフツと湧き上がるものを抑えられそうにない。

「まぁ、でも、本人の認めるってコメントが取れれば、
『新進気鋭のアイドル、人気上昇を支える男性の愛』っていう記事でもいいなぁ。
 どうかな? そっちの方がマシじゃない」

奈緒は拳に力が入っていくのを感じる。

「あるいは……その、支える愛をくれる男、俺にしちゃう?」

それを聞き、その男の下卑た笑いを見たとき、奈緒の堪忍袋の緒が切れた。



拳を固く結んで、男との間合いを一歩詰める。
アイドルがしちゃいけない形相で男をキッとにらみ、今まさに行動に出ようとする。

――その瞬間。

奈緒は男の後ろから颯爽と歩いてくる、大きなオーラに気づいた。奈緒の拳が緩む。



それは女性であった。
こんな雨の中だというのに、まったく姿勢が崩れることなく、
まったく歩みがぶれることなく、傘を差しながら、優雅にかつ大胆に歩いている。

その手にした傘にすら、一本の筋が通った生き方を感じるほどに、
美しく確実にまっすぐこちらに来る。

胸元、肩、脚を大胆に露出しているにもかかわらず気品のある
ベルベット色の鮮やかなドレスに身を包み、高く鋭いハイヒールを履きこなし、
真っ黒に艶やかなロングヘアーを強風になびかせる。

背丈はあまり大きくない。だが、その威容は、存在感は、ワールドクラスであった。



男の手からカメラがするりと抜ける。
その女性が奈緒の肩を抱き寄せ、男との距離を離す。

呆気にとられる奈緒が、女性の左手を見ると、そこには男のカメラがぶらさげられていた。

「大丈夫? 奈緒」

奈緒の隣に立つその女性の名は、ヘレンといった。



「お、おいっ、それは俺のカメラだっ!」

慌てて男がカメラを取り返そうと、走り寄ってくる。
しかし、男が伸ばした手は、そのままヘレンに片手で流され、男は地面に転がった。

男をいなしたヘレンは傘を持っていない方の手でカメラの操作をする。



「あら? いい写真もあるじゃない」

ヘレンがカメラのディスプレイを奈緒に見せると、
そこには奈緒が少女を抱きかかえて必死に走っている様子が写っていた。

逃げている時の奈緒は気づかなかったが、
抱きかかえられている少女は、まるでジェットコースターに乗っているかのような
満面の笑顔であった。

ヘレンは、そのまま流れるような操作で他の写真を削除していった。



「お、おい、アンタ、そんなことして許されると思ってるんだろうな!」

「そういう貴方の悪行だって、ちゃんと納まっているわ」と、
ドレスの胸元からスマートフォンを取り出す。

奈緒、終始、言葉が出ていない。

「くそっ、俺のカメラ……盗難だぞ!」

「あら、返すわよ」

そう言い放って、ヘレンは地面に座り込んでいる男に向かって、優しくカメラを放った。



「今日みたいな日、貴方のような軽い男は、風に飛ばされてしまうでしょうね」

カメラをしどろもどろに受け止めた男に向かって、ヘレンは言った。
そして、今度は奈緒の方に向き直して言う。

「走るわよ、奈緒!」

「――ハッ、ハイ!」

やっと言葉を取り戻した奈緒は、
傘を閉じて勢いよく走りだしたヘレンの後を追って、思いっきり駆けた。



二人の姿を見送って、男は毒づく。

「ち、ちくしょう! あのアマっ! どうにかしてやるっ」

男はよろよろと立ち上がった。そうして周囲の異変に気づく。

雨が降っているはずなのに、自分に雨粒が当たっていない。

よく目を凝らすと、自分を中心にして外周に雨粒が集まっている。
そして、周りの木々がざわめき、建物のガラスが小刻みに震えている。

「えっ?」



次の瞬間、猛烈な風が一瞬にして渦をつくり、周囲の物を弾き飛ばし始める。
男もまた、その物たちの一部でしかなかった。

叫ぶ間もなく男の身体は中に投げ出され、
せっかく手に返ったカメラもどこかに飛んだと思ったら、
電信柱に激突して粉々に砕けた。

男もそのまま勢いよく、近くのごみ置き場に突っ込む。

「ぶへっ」

可燃ごみ、生ごみのクッションに助けられ、幸いケガはどこにもなかったが、
しばらくの間、ごみと一緒に眠りにつくこととなった。



  ***


「か、帰ってたんですか、ヘレンさん?」

走りながら奈緒が尋ねる。

「ええ。ついさっきね。少し飛行機の到着は遅れたけど、
 今、これだけ天気が悪いのは、このあたりだけよ」

なんだよ、もう、と奈緒はうなだれる。
そう言えば、プロデューサーは雨男だったと、奈緒は思い出した。



「でも、どうしてここに?」尋ねる奈緒。

「一度、事務所に帰ったのよ。そしたら、頼子が一人で留守番しててね。
 ずいぶん慌ててたから、何事かと思ったわ。
 理由を訊いてみたら、奈緒がプロデューサーを迎えに行って、
 何かトラブルがあったみたい、って」

奈緒は納得した。携帯がつながらなくとも、
やっぱり頼子さんは助けてくれる、と感謝した。



「頼子の話から、だいたいアタリをつけてきたけど、無事に合流できてよかったわ」

「ありがとう、ヘレンさん。本当に助かったよ」

「お礼はまだ早いわ。あなたはまだ、為すべき事を成していない」

「はい――」

それにしても、どうしてヘレンさんはこんな日に事務所に寄ったのだろう、
と奈緒は疑問に思った。そのまま、自宅に帰ることもできただろうに、と。

まぁ、奈緒自身もこんな日に事務所に寄ったから、
今、こうしているのだが、それはこの際、問わなかった。



なんとなく見覚えのある街並みになってきた。
ただし、恐ろしいぐらいに人はおらず、
中目黒、代官山の大渋滞が嘘みたいに車もない。
みんな、室内に隠れているのだろうか。

とはいえ、すでに渋谷には入っているはずだ。
そろそろ駅につくかな、と安心する奈緒であったが、
天気の神様は油断を許さなかった。



後ろから地鳴りのような音が迫る。
振り返る奈緒とヘレンが見たのは、先ほどまでに見てきた中でも最も巨大な渦であった。

建物を揺らしながら、迫るそれは、もはやつむじ風ではなく竜巻であった。

「ウソだろ……」呆然とする奈緒。



「どうして、どうして……こんな」

「この道を真っ直ぐ走れば、渋谷駅の忠犬ハチの前に出るわ。先に行きなさい、奈緒」

ヘレンはまっすぐ竜巻を見据えて言った。

「えっ!?」

奈緒はヘレンの意図がわからなかった。



「さぁ、これをあげるわ」

そう言って、ヘレンは先ほどまで差していた傘を奈緒に渡す。
その表情は凛々しかった。

「いい? その傘は世界レベルの傘よ」

「何ですか? 世界レベルの傘って!?」

「いざというときだけ差しなさい。きっとあなたを助けてくれる」

「これ以上の『いざ』は,さすがに勘弁してください!!」

「そうね、いわばこれは、私からあなたへのプレゼントよ」

「プ、プレゼント? 何のことですか?」



「奈緒、貴女……気づいてないの?
 ――まぁ、いいわ。ここは私が引き受ける。
 だから、貴女は行きなさい、プロデューサーのもとに」

「えぇ、どうするんですか!?
 だいたい、そんなドレスでこれ以上濡れちゃったら」

「これは合羽よ」

「そんなベルベットの合羽なんてあるのッ!?
 ――いやいや、よしんば合羽だとしても、あの竜巻には無理ですって」

「私はヘレンよ」

 奈緒は口ごもった。



「嵐の中、傘を差さずに輝く人間がいてもいい。
 自由とは、そういうことよ。さぁ、行きなさい、奈緒ッ!」

「あぁ、もう! それ、どこのネゴシエーターですかっ! 奈緒、行きます!」

最後のツッコミを入れて、奈緒は走った。ヘレンの指示した道を走った。

ヘレンは目を輝かせて、向かってくる竜巻に叫んだ。

「さぁ、私と一緒に最高のステージにしましょう!」



  ***


ちひろは自宅でベッドに潜り込みながら、外の様子を見ていた。
どうにもこれだけ荒れてしまったのは久しぶりである。

あまり体調を崩さない自分であるが、
そうであっても生きているのだから、こういう日もある。

特にくしゃみがひどかった。先ほども特別大きなくしゃみが出てしまって、
部屋に一人ではあるがなんだか恥ずかしかった。



事務所が心配である。事務所のみんなも心配である。
特にプロデューサーを迎えに外に出た奈緒のことが気になっていた。

「大丈夫かなぁ……。あっ……ふあぁ、ふぁ、ふあぁ~」

 そうして、また、特別におおきなくしゃみをひとつした。



プロデューサーは渋谷の街で雨宿りをしながら思う。

つくづく自分は雨男だな、と。にもかかわらず、昔から傘を忘れる。今日だってそうだ。

今日は仕事の打ち合わせが終わった後、大切な用事があって渋谷の街で買い物をしていた。

そうこうしているうちにこの天気である。

交通網もマヒし、傘もない。
手には先ほど買った大切な品があるので、雨にさらしたくない。
すなわち、身動きが取れなくなった。

仕方なくこうして雨宿りのため、映画館に入って、映画の鑑賞にふけっている。
これは決してサボりではない。仕方なく、雨宿りとしてである。



しょっちゅう傘を忘れるものだから、よく担当アイドルたちが届けに来てくれる。
特に、奈緒はその回数が多かった。

本当に感謝している。自分が担当しているアイドルが、
そうやって自分のことを気にかけてくれて、本当にありがたい。

そう思うと、さすがに今日みたいな日は、傘を届けてもらうなんて申し訳なかった。

(メールで言っておいたから、大丈夫だとは思うが……)

と自分に言い聞かせながら、映画を観ている。
しかし、断っていても来ていたら、どうする? という懸念が
先ほど急に思い浮かんでしまった。



プロデューサーは後悔していた。
その可能性に思い至らずに、映画館に入ってしまったことを。
バカ正直に、「おっ、ちょっと映画観たいな」に従ってしまった自分を。

彼は一度気になり、そこから生まれた衝動に抗うのが、小さいときから苦手であった。

結局、映画の最中ではあるが、プロデューサーは席から離れた。

上映中の作品は劇中、最も見せ場であろうシーンにさしかかろうとしていた。



奈緒は、ハチ公前に立っていた。
いつも様々な人間でにぎわうその広場も、奈緒一人しかおらず、
そのあまりの違和感に戦慄した。

幸いにも雨脚や風は、だいぶ静かになって落ち着いていた。

プロデューサーの姿を捜す。しかし、そもそも他人の影が見当たらない。



先ほど見た夢、思い出した記憶も渋谷であった。
ちょうど一年前、加蓮と待ち合わせをしたことから、奈緒のアイドル人生は始まった。

それを思うと、プロデューサーとの出会いがついこの間だったような、遥かな昔であったような、そんな不思議な感覚になる。

切れた息を整えながら、そんな感慨にふける。



(そういえば、あのときは何で、加蓮と遊んだんだっけ?)

いつもと同じようにただ駄弁りたいから集まっただけ?
それとも観たい映画があったから? それも違うような気がする。

そして、自分の時計を見る。9月16日、まさに、加蓮と待ち合わせて、
プロデューサーに出会った日。そして――

9月16日。



「おうわぁっ!」

その日付の意味に、やっと気づいて、奈緒は我ながら滑稽なぐらいに叫んだ。

「そ、そっか、そういうことだったんだ……
 じゃあ、今日、事務所に頼子さんがいたのも、
 ヘレンさんがプレゼントってくれたのも――」

じゃあ、プロデューサーは?
儚い期待が奈緒の胸を満たした瞬間、再び木々がざわめき、ハチ公がプルプル震えた。

身構える暇もなく、気がついたら、奈緒の身体はフワリと空中に浮かんでいた。

というよりも、飛び上がっていた。



  ***


奈緒は風を一身に受けて、高く高く空に舞い上がった。

雨粒と木々の破片で構成された渦が、奈緒の体を支えるように、
グルグルととぐろを巻いている。

奈緒の頭の中に様々な思い出が流れる。
物心ついてから、小中学生時分の思い出。

プロデューサーに初めて声をかけられた瞬間。
その時の彼のキラキラした目。
初めて事務所に入ったときのこと。
ちひろさんの笑顔。
ヘレンさんのカッコいい姿。
頼子さんが所属したときのあいさつ。
他の部門のアイドルたちも楽しいやつらばっかりで。



きつかったレッスン。自分はダンスが得意だって気づいた時は嬉しかったなぁ。
プロデューサーが気づかせてくれたんだっけ。
よくレッスンにもつきあってくれたしなぁ。

仕事でヘマをして番組のディレクターに怒られた時もあった。
悔しくて、車の中で涙を流したこともあった。
それも全部、プロデューサーが慰めてくれた。

初めてのライブを彼と一緒に考えた時間。
舞台裏でひどく緊張してた自分の肩に置かれた手。そのぬくもり。
ファンの歓声と嬉しそうな笑顔。
それを思い出すと、いつだって自分も笑顔になれる。
自分のことのように喜ぶプロデューサーも,その中の嬉しそうな笑顔の一人だ。



あの人、いつも落ち着きがなくて、
突拍子もないことを言うし、キツいアドバイスだって言うけど、
いつも全力であたしの背中を押して、真っ直ぐに褒めてくれる。

あぁ、これが走馬灯ってやつかぁ、などと思いながら、
アイドルとしての時間と、プロデューサーとの時間が次々と浮かんでは消える。

「……って、なんで、プロデューサーさんとばっかなんだよ!?
 もっと、こう、他にも、あるだろ!?」

そう口に出して、奈緒は自分が不思議なくらいに落ち着いていることに気づく。
心臓はドキドキしていたが、それは恐怖ではない。ワクワクであった。



この全く現実味のない状況がそうさせるのか、
あるいはプロデューサーとの思い出がそうさせるのか。

そう思ったとき、やっぱり「なんで、また、プロデューサーの!」と
一瞬、頭に浮かんだが、奈緒はそれを言うことをやめた。

なぜなら、どんなに上辺で取り繕おうと、
やりたいという気持ちに嘘はつけないからだ。

プロデューサーを迎えに行きたいと思った自分の気持ちに嘘をつかないと決めたからだ。



きっと、これはプロデューサーの影響だろうなぁと、奈緒は思った。

奈緒とは違って、彼は、本当に「バカ」のつく正直なのである。
奈緒の悪いところを言う時も、良いところを言う時も、
彼女をアイドルにしたいと言った時も、
可愛いと言った時も、その髪が綺麗だと言った時も、
全て、バカ正直に彼は言う。

奈緒は気づいた。

どうしてプロデューサーが自分なんかをアイドルにスカウトしようと思ったのか?
どういうつもりで、自分なんかに「可愛い」とか「綺麗」とかを言ってくれるのか?

その答えに。



(きっと、プロデューサーさんは、正直なだけなんだ)

自分がこうしたいと思った気持ちに、プロデューサーはとても正直なだけなんだと。

(だとしたら、きっとそれを理解できない、納得できないのは、あたしの方の問題なんだ)

奈緒はいつも感じていた。どうして素直になれないのか、ということを。

今日だって、どうしてあの厄介なシティボーイに絡まれた時に、
素直に「プロデューサーを迎えに行く」と言えなかったのだろうか。

プロデューサーといえば、ただの仕事仲間であるはずだ。
その仕事仲間を迎えに行くというのは、そんなにおかしなことであろうか?
少し仲の良い、ビジネスパートナーなら、
もっと気軽に普通の感覚で迎えに行ってもいいだろう。



そもそも、普通の感覚とは何なのか。
逆に言えば、自分は普通の感覚でなかったのか?
それこそ、あの男の言うように……。

その意味に思い当たったとき、
奈緒は自分の顔がこれまでかつてないほどに、熱くなるのを感じた。

(いや、そんな、まさか……!)



自分は、ただの仕事仲間という感覚ではなかった?
それ以上の関係を想像してしまった?
それって、自分に少なからずそういう気がなければ、思いもよらないことなんじゃないか?
つまり、自分は期待している? プロデューサーさんに? 何を?
つまり、そういう関係であることを――

「いやいや、そんな、ありえないだろぉ!」

舞い上がった奈緒は空の上で一人じたばたした。必死に顔を覆おうとする。



その時に気づいた。
空に舞い上がっても、自分の手にしっかり納まってくれている、その傘を。

――世界レベルの傘を。

『いざというときだけ差しなさい。きっとあなたを助けてくれる』

ヘレンの言葉を思い出す。
どうにかこうにか、風圧に負けじと傘の柄をしっかりとつかむ。
そして、傘のスイッチに力を入れる。
傘が開く。

その瞬間、世界が一瞬だけ時間を止めたような気がした。



傘が風を受け、奈緒の身体が優しく宙に浮く。
奈緒は飛ばされているのではなく、飛んでいた。

落ち着きを取り戻した彼女はあらためて眼前に広がる景色に息を飲んだ。



神谷奈緒は今、渋谷の上空を飛翔している。

鈍色にうごめく雲の隙間から差す光芒が、
眼下に広がる渋谷のコンクリートジャングルをきらきらと輝かせる。
先ほどまでの大荒れの天気が嘘みたいに静かだ。

そんなことをしみじみと思いながら、
今の不可解な状況に立ち返り、声にならない声をこぼす。

「この後、どうなるんだよぉ、コレ……」

しかし、そんな疑問を吹き飛ばすくらいの、
空から差し込む光の柱と、その光を受けて七色に輝く霞がかった銀色の街の美しさに、
奈緒は見惚れた。

「あぁ、すごい……」



ヘレンの傘をしっかりと握って、ゆっくりと高度を下げていく奈緒。
空には晴れ間も見えてきた。

「こんな景色、観れるといいなぁ……一緒に」

無意識に出た言葉を、奈緒は自然と受け入れた。
あぁ、やっぱり、そうなのかなぁ、なんて思いながら。

ふと自分が降りていく先を見ると、そこはTOHOシネマズであった。
そして、そのビルのエントランスから、
探し求めていた人が出てくるのを、奈緒は見つけた。



  ***


プロデューサーは目を疑った。

なぜなら、雨が上がり、晴れ間がさしてきた空を見上げたら、
自分の担当している可愛い可愛いアイドルが、ゆっくりゆっくり降りてきているのだから。
傘に風を受けて、空から自分の目の間に。

彼女が手に届く距離まで来る。
彼女が着地するとき、ケガをしないように、そっと手を伸ばす。

傘を両手にしっかり握っている奈緒は、その手を取るわけにもいかず、
仕方なくプロデューサーは彼女の腰を支えるように手を添えた。

そのまま、プロデューサーに抱き寄せられるように、奈緒は地面に降り立った。



しばらく沈黙する二人。

プロデューサーは一歩、奈緒から離れて、ようやく口にした。

「迎えに、来てくれたのか?」

「そ、そうだよ……迎えに、来た……」

「え、えっと……それで、空から?」

「……うん、空から」

もじもじと小さな声で返す奈緒。うつむいてしまって、プロデューサーと目が合わない。



そんないじらしい様子を見たプロデューサーは、
奈緒に近づき、その顔を覗きこんで、目を合わせた。

その様子とは裏腹に、奈緒の心が弾む。

「ありがとう、奈緒。迎えに来てくれて」

そう言って、プロデューサーは笑った。
いつものプロデューサーらしい、ニカッとした笑顔であった。

それを見て、奈緒もなんだかおかしくなった。
自分がこんなにもいじらしくしていることも、笑えてきた。

くく、と一瞬だけ笑いを堪えようとしたが、ダメだった。
奈緒は声を出して笑った。それにつられて、プロデューサーも声を出して笑う。



「ったく、こんな日によく迎えに来たな。しかも、空からって、奈緒」

「いいじゃんかよー。ありがたく思えよなー。大変だったんぞ!」

「そうだろうな、空から降ってくるぐらいだもん。なんだよ、空からって、天使か」

「て、天使って――そっ、そんなことより、
 プロデューサーさんこそ、ここで何してたんだよ」

「映画、観てた」

「うわぁ……。いやまぁ、映画館だからそうなんだろうけども……
 あたしが大変な目にあってる時に、プロデューサーは映画かぁ」

「なんかゴメン。うん、そうだよな。こんな日だもんな。大変だったと思う。
 だから、迎えに来てくれて、本当にありがとう。すげぇ嬉しい」

「うれ、嬉しい!? な、なんだよっ! プロデューサーさん――」

が仕事仲間だからってだけで、喜ばせようと思ったわけじゃない、と言おうとして、
その言葉は飲み込んだ。



嬉しさと恥ずかしが入り混じる。
だけど、ちゃんと気持ちは伝えよう、そう思い直した。

「――には、日頃から感謝してるから、そ、その、なんだ、
 こんな日だからこそ、助けてやらなきゃっていうか……
 や、やっぱり……喜んでくれると、いいなって」

プロデューサーは目を丸くした。

「な、なんだよ、これは日頃の感謝だぞ、それ以上の意味はないんだからなっ!
 てか、その目は、もしかして信じてないな!?」



「あ、いやいや、そんなことはないぞ。むしろ、信じてる!
 信じてるぶん、なんか、素直だなぁって思って」

「は、はぁ!? な、なんだよぉ、せっかく人ががんばって――もうっ!」

その通りだ。奈緒にしてはがんばった。
だからこそ、彼の機微のない対応にむくれてしまうのも仕方ない。

だが不幸にも、プロデューサーはバカ正直なのである。
バカ正直にとって、機微のある対応というものは、いささか高等すぎる技術である。

「もういいよ! さぁ、帰ろう、プロデューサー!」

それでも一緒に帰ろうとする奈緒はやはり良い子なのだ。



「あ、待って、奈緒。これを受け取ってくれないか」

奈緒を呼び止めるプロデューサーは手に提げていた紙袋を差し出す。

「……何、これ?」

「誕生日プレゼント」

再び奈緒の胸がドキリとする。

「ここで渡すかどうか迷ったけど、今着てるパーカー、きっと濡れてるだろ。
 だからさ、代わりに着てほしいんだ」

「ってことは」奈緒が袋からプレゼントを取り出す。



それは、以前、プロデューサーと仕事帰りに寄った店で見つけて
「かわいいなぁ」と思っていたパーカーだった。
こういうのが似合う女の子に、奈緒は強く憧れている。

同時に、憧れるくらいかわいいからこそ、自分には似合わないと思ってしまう。

だから、できるだけ欲しい素振りは見せなかった。……そのつもりだったのだが。

「奈緒、この前、これすごく欲しそうに見てただろ? だから、それがいいかなって」

まんまと見透かされていて、たまらなく恥ずかしくなる。



「で、でも、こういうのは、可愛い系の女の子が着るもので」

「可愛い系の女の子だろ?」

「ぐむ……」

「大丈夫、絶対に似合う!」

そう、それなんだ。プロデューサーさんのそういうところ。

「それ着てさ、もしよかったら、一緒に映画でも観よう。
 こんな日こそ、さ。
 誕生日おめでとう、奈緒!」

自分が素敵だと思った気持ちを、正直に素敵だと表現するところ。
あたしは、それに何度、背中を押されただろうか。

それに何度、この心を――。



奈緒は、あらためて自分の気持ちを受けとめた。
そして、自然と溢れてきた晴れやかな笑顔で言う。

「ありがとう、プロデューサーさん。あたしも――すごく嬉しいよ!」



              ――――おわり

おつきあいくださった方、本当にありがとうございました。
奈緒、誕生日おめでとう!
そして、これからも、大好きだァァァ!!

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