提督「グラーフ・ツェッペリン、割り箸を割る」 (34)

グラーフ・ツェッペリンはビニールで包装された割り箸を一膳手にし草庵の露地を散歩していた。

安っぽい割り箸はアドミラルがコンビニでナポリタンを購入した際に、店員がプラスチックのフォークと一緒に入れたものだった。

アドミラルはフォークを使ったので、割り箸が余り、それがグラーフ・ツェッペリンに贈られたという経緯であった。

梅雨の季節で曇天の中小雨が降っていた。グラーフ・ツェッペリンは雨が好きだった。晴天時には白じみ少しぼやける煉瓦造りの建物も雨に塗られれば輪郭を明確にしたし、道や草花も色が鮮やかになった。

グラーフ・ツェッペリンは明晰判明なものが好きだった。

そんなわけで涼しい小雨は割り箸を持て余しているグラーフ・ツェッペリンの機嫌を少し良くさせた。


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露地の石畳にはまだ青い単葉が散らばっていた。秩序を愛好するグラーフ・ツェッペリンが一度掃除しようとした時には、このエリアを半ばなし崩し的に管理している鳳翔に止められたことがあった。

「ここは落ち葉があるべきところなのです」と言って、枝を揺さぶり更に五六枚の葉を散らしてよしとする鳳翔をグラーフ・ツェッペリンは呆然と眺めたものだった。

露地の先には小さな庵があった。本当に小さくいくら敷地が狭いからといっても、もう少し大きく出来たのではないか。古びて傾いた屋根は廃線となったバス停留所を彷彿とさせた。

グラーフ・ツェッペリンは縁側に座った。建物の内なのか外なのか境界の曖昧な場所こそ割り箸をただ所持している今の彼女には相応しいように思えた。

靴脱ぎ石をブーツの踵で叩くと、艶のある青尻尾のニホントカゲが出てきてすぐに隠れた。

グラーフ・ツェッペリンは貰った割り箸をかざし眺めてみる。ビニールの端の方には「切り口」と緑色の印があったので、ぴっと裂いてみた。

水平ではなく斜めに切れてしまい、切り口は箸を取り出すには不十分の大きさになった。

仕方ないので、紐通しの要領でビニールをしわ寄せて割り箸の天で袋を突き破る。

白樺材の割り箸は天から先まで切り込みの筋が一本通っている元禄型であった。

グラーフ・ツェッペリンは縦に持った箸の使い代部分を両手でつまみ左右にゆっくり引き裂こうとしてみる。

白樺は竹と比べて粘性が強く、最小限の力加減を探ろうと繊細な操作を行った彼女は二度三度に渡る緊張と弛緩の起伏を経験した。

集中により引き延ばされた瞬間は無限の如く。グラーフ・ツェッペリンは手元にある割り箸を観察する余裕と愛着を持った。

すると、彼女の目には割り箸が粘性と割裂性と相反する性質を持つ矛盾体の様相を呈してきた。

グラーフ・ツェッペリンはこの瞬間、ドイツ的な弁証法の精神を割り箸に見て取ったのだ。

グラーフ・ツェッペリンは集中した。何も大げさなことはない。艦娘として生まれて間もない彼女の意識にとって価値の階梯はいまだ脆弱なのだから。

そもそもどうして己は今割り箸を割ろうとしたのか。割り箸は食事の道具であるのだから、割り箸を割る行為が意味づけられるのは眼前に食事がある時であろう。しかし、グラーフ・ツェッペリンの前に食事はない。

また割り箸の使用法が「箸」としてだけに限られないにせよ、グラーフ・ツェッペリンが目的なく「割る」という行為に及ぼうとしたのは事実らしかった。

「そこに割り箸があるのだから割ろうとしたのか?」。グラーフ・ツェッペリンは己を訝しんだ。どうも合理性に欠ける動因に思えたのだ。

「割り箸が手元にある」という単純に存在を示唆する事実命題から「それゆえ割り箸を割る」という行為はただちに帰結として導出され得ないはずだ。

行為を導出するにはその主体が動機や目的を持っていなければならない。例えば「雨が降っている。だから傘を持って行こう」という場合には主体が「雨に濡れたくない」と思っているのが前提されているように。

例外的に「熱湯に触れたため、手を引っ込めた」という反射の場合では、事実と行為は一体となり、第三項的な意志前提は必要ではない。

しかし、グラーフ・ツェッペリンが割り箸を割ろうとしたとき、それは生物学的な反射によって行われたわけではない。また訓練によって割り箸があったら自然な動作で割るという習慣を身につけていたわけでもない。

事実と行為という二項を架け橋する第三項が主体に属するものであるのなら、「割り箸がある。それゆえ割る」という内にもグラーフ・ツェッペリンは何らかのものを前提にしているのだろう。

実際のところ、「なんとなく」としか言えない行為だったのかもしれない。しかし、グラーフ・ツェッペリンは明証を好む。己にそのような意志の真空領域が属するとは考えたくないのだ。

割り箸というその道具存在的な性質がグラーフ・ツェッペリンを行為に導いたというのも無理があるだろう。
 確かに割り箸は割られることをその可能性として大きく持っている。つまり、割り箸は「割る」という行為をグラーフ・ツェッペリンにアフォーダンス、提供しているのだ。

可能な平行世界を集めて比較することが出来るのなら、グラーフ・ツェッペリンが「窓を割る」世界の総数より「割り箸を割る」世界の総数の方が圧倒的に多いだろう。

しかし、「割り箸を割る」可能性が比較的高いからといってグラーフ・ツェッペリンが現実に割り箸を割る理由にはならない。

常識的に考えれば、自由意志を持つ者にとって「窓を割る」世界はもとより「割り箸を割る」世界よりもはるかに「窓も割り箸も割らない」世界の方が多いはずだから。

やはりどう足掻いても「割り箸を割る」という根拠は、グラーフ・ツェッペリンにとっては、グラーフ・ツェッペリンの精神に求められなければならないのだ。

しかし、いくら己の精神を直接分析にかけても何も動機は出てこない。こうなってくると、この割り箸かグラーフ・ツェッペリンの精神かいずれかの特殊性にこの不可解な「割り箸を割る」という行為を根拠付けねばなるまい。

まず、割り箸から。この割り箸が「割る」行為を特別促す構造なのではないか。提督もよく好意薬やら仮死薬やらよく分からないものを用いて遊んでいる。思わず割りたくなるような割り箸を渡してくることもありうることかもしれない。

叩いたり転がしたりしてみる。ただの割り箸である。香りは。無臭。色彩も特筆すべき点なし。いくら観察しても、それはただの割り箸であった。そもそも思わず割りたくなる割り箸なんてどんな酔狂だ。

では、グラーフ・ツェッペリンの精神構造に問題があるのか。割り箸それ自体は普通なのだから、もしグラーフ・ツェッペリンに特別関心を起こさせるものがあるなら、それは「提督から渡された」という条件となるだろう。

ということは、「割り箸がある。それゆえ割る」というのは表現として正確ではなかったことになる。

「アドミラルから渡された割り箸がある」。そして「グラーフ・ツェッペリンは提督に関心がある」。ゆえに「アドミラルから受け取った割り箸にも一定の関心を持った」。
 しかし、「グラーフ・ツェッペリン自身はアドミラルへの関心に無自覚であった」ので、「あたかも割り箸にのみ関心が向かっていると錯覚し、割ろうとした」。

結局のところ、提督への関心が本来的なものであったにも拘わらず、その無自覚ゆえに、割り箸のみへの関心と取り違えてしまい「割る」行為に及んだというのが真相らしかった。

これでグラーフ・ツェッペリンが割り箸を割ろうとした不可解さは解消された。しかし、グラーフ・ツェッペリンは、この単純な事態を結論するまでに余りに無駄なプロセスを踏んでいることに違和感を覚えた。

いったいこれはどういうことだ。結局、割り箸を割る行為の根拠は己自身のアドミラルへの好意だったのだから、最初の内省の段階で真っ先に気付く、もしくは少なくとも予感しても良かったのではないか。

何らかの心的防衛が働き、本心に気付かせるのを遅らせたとも考えにくい。グラーフ・ツェッペリンは現にアドミラルへの好意を何の抵抗もなく自然に受け入れている。

アドミラルへの好意が意識外にあったということ。不意に出会い頭から既に提督へ好意を表明していたという金剛のことが思い出された。グラーフ・ツェッペリンがある仮説に行き着くまでそう時間はかからなかった。

仮説「我々艦娘は提督への好意を植え付けられて建造される」。考えてみれば、兵器に安全装置を備え付けるのは当然のことではないだろうか。

いくら組織に異性がほとんど一人しかいないとはいえ、成員の艦娘全てが彼に対して好意的評価を与えるというのは異常なことだろう。

これはグラーフ・ツェッペリンの憶測に過ぎない。しかし、もし本当にグラーフ・ツェッペリンのアドミラルへの好意が機械運命論的に決定されているのだとするのならば。

するのならば。いったい。どうするというのだ。グラーフ・ツェッペリンは困惑した。それは自由への困惑だったのかもしれない。

自由。スピノザ的に言うなら、それは力学的法則に支配されるこの世界に存在しない。人間がAかBかと選べると考えるのは錯覚なのだ。ただし自由は人間が己を決定論的世界にあるのだと認めたときに生まれるのだという。

メタ次元に後退することで事象と距離をとる。その距離の空白が自由なるものだとすれば、グラーフ・ツェッペリンはまさに今自由を獲得したのだ。

グラーフ・ツェッペリンがアドミラルへ好意を寄せるのは、グラーフ・ツェッペリンがそのように設計されたからである。現状グラーフ・ツェッペリンはこのことを事実として自覚することを認めている。

いままで主観としてまさにその感情の内に生きてきたものを、客観的に対象化すること。それはグラーフ・ツェッペリンに、アドミラルへの好感情に反対する可能性が開かれること。

単純な感情面では、グラーフ・ツェッペリンは恋する乙女に過ぎない。しかし、いまや自由な精神に開かれたグラーフ・ツェッペリンにとって、その役を熱演するには心的抵抗が強い。

グラーフ・ツェッペリンは割り箸を指先で転がした。食事のためやら掃除のためやらといったあらゆる目的の連関から外れ、ただそこに物体としてだけある割り箸。

恋する乙女の呪縛から自由を獲得したグラーフ・ツェッペリンもまた単なる物体であった。恋する乙女としてその内を生きていた時、その生の目的は「アドミラルの歓心を買う」などと用意されていた。

それゆえ「AかBか」と選択の際にはその目的に合致するかで意志決定すればよかった。だが、その目的自体の選択に惑うのならば。

グラーフ・ツェッペリンは割り箸に共感した。グラーフ・ツェッペリンも割り箸も同じだ。どちらもいまや完全な無目的。盲目的自由に巻き込まれている。

無限の可能性というのは結局のところ有限な存在者にとっては袋小路以外の何者でもない。

グラーフ・ツェッペリンがいまだ視野狭窄にもアドミラルへの感情に振り回されていた時、そこにはグラーフ・ツェッペリンという存在の意味は確かに充足されていた。

日常生活にアドミラルへの好意という軸があったからこそ、一つ一つの事象や好意に評価や意味を与えることが出来ていた。しかし、いまやそれは崩壊している。

端的に言えば、存在の意味を喪失していた。食事のない場所で引き裂かれようとした割り箸がその存在の意味を喪失するように、グラーフ・ツェッペリンも作為的運命への自覚に基づく自由によって己の存在の意味を見失ったのだ。

その回復手段はやはり目的を選択することだ。如何に。選択に目的の手助けが必要だというなら、単純に目的の選択をより大きな目的の下に包摂すればいい。

艦娘としてグラーフ・ツェッペリンに与えられている意味。それは「深海棲艦を倒すための武力」。これがグラーフ・ツェッペリンの根本的な道具的価値である。

この兵器価値を遂行するためには。さて、グラーフ・ツェッペリンは「恋する乙女」で「ある」べきか「ない」べきか。

「艦娘が艦娘として最高のパフォーマンスを実現するために」という目的の下で艦娘を設計したはずの大本営が提督への好意を備え付けたのならば、答えは当然「そうであるべき」となる。

これにてグラーフ・ツェッペリンはこれまで通り恋する乙女であり続けるという決定を行うのだろうか。否。それはできない。

以前グラーフ・ツェッペリンがまだ素朴に「恋する乙女」だった頃、それは無目的な「恋する乙女」であり純粋目的であった。しかし、いまや「恋する乙女」は「艦娘としての兵器価値」という目的を達成するための手段に堕している。

手段としての好意は好意ではない。手段の選択は目的に依存する。

もし戦争が終わり、グラーフ・ツェッペリンがもはや艦娘の兵器価値を目的する必要がなくなった時、手段としての「アドミラルへの好意」もまた必要なくなるだろう。条件に左右される愛は愛でないはずだ。

結局は「恋する乙女である」ということはいかなる他の目的からも独立した一つの究極目的でなければならない。

しかし、一種の安全装置を目的として恋する乙女であることを決められている艦娘という存在の本質上、常に艦娘の愛は手段的な様相を呈す。

いつの間にか草庵の庭で紅茶を飲んでいた金剛がグラーフ・ツェッペリンに笑って言った。「このラヴがたとい外部から植え付けられたものであったとしても、現に私は提督を愛しているネー。それだけで私には十分デース」。

グラーフ・ツェッペリンは割り箸を転がしながら答える。「艦娘として私達のほうはそれでよいかもしれない。しかし、アドミラルはどうだ。設計された好意に虚しさを覚えはしないだろうか」

「虚しさデース?」

「私達の好意が正規的な発生でないなら、それは条件に依存する不安定なものだ。アドミラルはそんな砂上の楼閣の如き愛を喜ぶだろうか」

「グラ子は、例えば私達が艦娘でなくなった時や提督が提督でなくなった時に、私たちはそれでも彼への愛が持続するのかを心配してるってことデース?」

「私はこの愛が本物か偽物かを知りたいだけだ」

「私からしてみれば、条件の変化で愛想を尽かしたりするのって普通の恋愛だと思いマスけど、例えば相手が暴力を振るうようになって別れるなんてよくあることデース」

「その場合は相手を好きになるのも嫌うのもその当人の自然意志ではないか。私達の場合はそもそも不自然な形で操作されているわけだから状況は異なるはずだ」

「グラ子が知りたいのは、そのラヴが本当にただ外部から操作されただけなのか、それとも内心からの自然的なものも含むかどうかってことデスカ。
じゃあ、聞きますけど、その問に対して答えが完全に明らかになるのはどういう時デスカ?」

「それは本当に私達が艦娘でなくなった時になるだろう」

「なら、グラ子の要求を約言すれば『未来を知りたい』ということではないデスカ。それはナンセンスな悩みだと思いマース」。金剛はそう結論づけるとティーカップを静かに口へ持って行く。

「しかし、操作を受けているのは今ある現在だ。金剛のようにお気楽に問題を放棄できない」「私はお気楽デスカ?」「さあな」。金剛はカップを回し、グラーフ・ツェッペリンは割り箸の先を割らない程度に開いては離した。

「英国経験論では『今日まで太陽が東から昇ったという事実は明日も太陽が東から昇ることの根拠とはなりえない』と主張しマース」

「なんだ出し抜けに」

「帰納法や因果律はあたかも未来を保証してくれるように見えマスが、経験を根拠にする限り常に新しい経験の脅威に晒されているわけデス」

金剛は続けた。「私達にとって絶対的な未来でさえある種の幻想に支えられているのだとしたら、日夜戦場を渡る私達の生はどうでしょうカ」「なにが言いたい」「退役後を心配して悩むなんて贅沢だと思いマシテ」。英国的な冷笑だった。

「私達にとって確実なのが今現在しかないのなら、未来がどうこう悩む必要なんてないデス。そもそも偽物のラヴというのは、感情的な嫌悪を隠し表面だけ取り繕うものを言うはずネ。
 今提督を好きだと思う気持ち、それがたとい外部に由来するにしても、それが実際の感情なら偽物なんかではないはずデース」

金剛は飄々とこともなげに言ったが、その内には明日には生きていないかも知れないという逼迫した緊張感とそれに基づき生の現在を愛おしく思う気持ちが見え隠れしていた。

恐慌的なわけではない。メメント・モリ。先駆的に死を想うことによって現存在を充足するような、余裕か諦観か、この草庵に不思議と合致した風雅隠棲の趣さえあった。

これが差異だった。数多の戦場を駆け巡り予期せぬ死により現実の海へと沈んだ者と雌伏の内に目的のため自ら死を選び理想の海に沈む者との差異。どちらが上か下かという価値の階梯とは無関係な差異。

金剛には愛の内で生ききる強い情熱があった。たとい己の感情に距離を置いたとしても再びその内へと戻っていける生命力があった。グラーフ・ツェッペリンはそこまで感情を前傾させることは自分にはできないと直感した。

金剛は紅茶の波頭が夕焼けを反射しているのに気付くと、「そろそろ提督の執務が終わる時間デース!」と立ち上がり夕日の向こうに走り去っていった。「嵐のようだな」。

「嵐ですか? どうでしょう。今夜もまた降るかもしれませんね」。鳳翔が薄暗くなった露地からやってきた。「珍しいですね。グラーフ・ツェッペリンさんがここに来てくれるなんて」「先ほどまで金剛もいたぞ」「そのようですね。ティーセットも置きっぱなしですし」

「この場所には似合わない置きみやげだ。急ぎすぎだな。アドミラルのことになると」「私達艦娘は程度の差こそあれ、みなさんそんな感じではないですか?」

「鳳翔は行かなくてもいいのか」「私ですか?」「鳳翔だってアドミラルのことを好いているのだろ」「ふふ、どうでしょうか」。事実を誤魔化すのではなく、互いのうちで自明に了解されているものに関して改まってとぼける笑みだった。

「諦めか。確かに金剛のような押しの強い艦娘を前にすれば意志も挫けるか」「諦めですか?」「なんだ」「いえ、意外な言葉だったもので」「ということは、鳳翔は諦めていないと」。グラーフ・ツェッペリンの言葉に鳳翔は少し思案顔をした。

「いえ、そうですね。諦めるという言葉はなんらかの理想を断念することでしょう? 人が「諦める」という時、己が何らかの理想を持っていることを認めているわけです」。鳳翔は草庵に上がり込んだ。

「そうだな。そして今の場合理想とは「アドミラルと交際する」などとなるだろう」。

「恐らく私はその理想を願っていないのだと思います」。そしてお茶を淹れながら言った。

「願っていない?」

「そうです。私が提督をお慕いしていて、更に提督も私のことを憎からず思っていたとしましょう。いわゆる両想いですね。それでも私は提督とお付き合いをしないと思います」。

「どういうことだ。何か交際できない事情でもあるのか」「いいえ、ありません」。鳳翔は湯気の立つ湯飲みを二つ持ってきた。「ならば、いったい。普通両想いで何も障害がないのなら交際を選択するべきではないのか」

グラーフ・ツェッペリンは鳳翔も艦娘という存在には設計上提督への好意が組み込まれていると考えているのではないかと思った。「提督への好意が本物か偽物かですか? いえ、そんなこと思いもしませんでした。グラーフ・ツェッペリンさんも随分不思議なことで悩んでいるのですね」。鳳翔は湯飲みの底を掌に乗せて一回転させると口をつけた。一息。

「私にとって今ある感情が自然なものとか不自然なものとかは余り関係ありません。その意味で私は金剛さんに近いのかもしれませんね。違う点はそれに従うかどうかでしょう」。どういうことだと聞く。

「金剛さんは現にある己全ての感情に従い、グラーフ・ツェッペリンさんは「本来的な感情」に従おうとする。グラーフ・ツェッペリンさんは金剛さんに共感しきれないようですが、二人とも感情を行為の主要因にしうるという点では一致しています」

「鳳翔は感情に従わないと言うのか。理性的だと自負しているということか」「理屈っぽいのはどうも苦手です。どちらかというとそれはあなたの領分なのではないでしょうか」。グラーフ・ツェッペリンは鳳翔に勧められたので割り箸を脇に置き茶を飲んだ。

「ええと、何と言えば。欲を持っていて、なおかつそれが実現できる環境であったとしても、その感情に従う必要もないと感じているようです。だから、そうですねグラーフ・ツェッペリンさん風に言えば「めた感情」? 「ぱとす」に対する「えーとす」? なんにせよ、より大きな感情に従っているようなものです」

「私や金剛の感情は小さいと」「いえ、そういうわけでは、ただの相対的な比喩だと思ってください。感情の価値を定める感情なんて盃の騙し絵のようにくるくる反転しやすいものです」

「例えば『徒然草』には「神無月のころ、栗栖野といふ所を過ぎて」と始まる有名な章段があって、そこで兼好法師はわびさびのある庵を見つけるんですね。
 兼好法師はその閑静な佇まいに感心していたのですが、向こうに柵で囲まれた蜜柑の木を見つけてしまい、これがなければなあと嘆く話です」

「兼好法師は人の物への執心や未練を嘆いているのですが、この無常への拘りや姿勢も一つの執心ではないでしょうか。ここの一般的な解釈がどうであれ、執心の否定もまた転じて執心となりうるというのは重要だと思います」

ルビンの壺
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「重要か」「ええ、重要です。例えば「人生は無価値だ」と言って自殺する人がいます。どうですか?」「どうですかとはどういう意図だ」「ふふ、すみません。でも、そう言って自殺する人は間違えています。本当に人生を無価値と思うのなら、自殺なんて選択はないはずです」

グラーフ・ツェッペリンが沈黙するので鳳翔は続けた。「そうではないですか? その人は自殺という積極的な行為で何かを実現しようとしたわけですから。その人が「無価値」という時、より大なる価値を実現するのにそれが邪魔になったということに過ぎません。
 それは「無価値」というより「反価値」と言うべきでしょう。執心の否定が執心であったように、価値の否定も価値になってしまっているのです」

「では本当の「無価値」とはなんだ」「そうですね。価値/反価値の彼岸にあるのが無価値なのではないでしょうか。価値概念からそもそも無関係なものそれが人生ではないでしょうか。
 例えば定規はそれによって物の長さは測れますが、定規そのものの長さを測れません。メートル原器はそのものによって自分を一メートルだと測って証拠にはできません。定規は測るものであって測られるものではないのです。
 同様に人生もまたそのうちにある事柄の価値は測れますが、人生そのものの価値を測ることはできないのではないでしょうか。
 人生は内容によって「無価値」になるのではなく、その構造によって原理的に「無価値」なのです。きっと」

「そして、生が究極的に無価値なら、生きる意味もなければ死ぬ意味もないはずです。でしたら、生に現前する様々な現象とただ戯れるようにしてあればよいのでないでしょうか? たといそれがいかに熱烈な愛であったとしても」。そう締めくくると鳳翔は湯飲みからほのかに上がる湯気を眺めるだけだった。

はっきり言えばグラーフ・ツェッペリンは驚いていた。まさか鳳翔が論理を用いて真っ向から己の主張をぶつけてくるとは思ってなかったのだ。

正直、鳳翔ならば大和撫子特有の柔和な笑みでもって、問題を全て「理屈でない人間感情の微妙な機微」に包摂してしまい、問題自体をなかったことにすると考えていた。
 それがいまや鳳翔の側から、金剛やグラーフ・ツェッペリンの方こそ感情に支配されていると言われている。

グラーフ・ツェッペリンが日本に来てから、精神的苦悩をいわゆる「感情論」で片づける傾向が比較的強い風土に戸惑いを覚えていたのは事実であった。ほとんど紋切り型の感情論説を「この悩みにはこう」と展開する一対一対応の関数的お悩み相談。

しかも感情論は社会常識的にほとんどトートロジーとも言えるものばかり。トートロジーは常に正しきゆえに何も言っていないに等しい。天気予報が「明日は晴れるか晴れないかのいずれかです」と言うなら、それは何の役に立つというのか。

ここでは誰かに打ち明けられる悩みとは前もって己で答えを決めているものだけだなと漠然と思っていた。だから、鳳翔のその応答はグラーフ・ツェッペリンにとってひどく新鮮で喜ばしく思えた。

「いつもこうした言い方をするわけではありませんよ? グラーフ・ツェッペリンさんにはこの表現の方が良いと思ったので」。グラーフ・ツェッペリンは湯飲みも脇に置いた。
 鳳翔が話している内にちびちび飲んでいたらいつの間にか空になっていたのだ。鳳翔がおかわりを提案してきたが遠慮させてもらった。

「鳳翔、あなたはいわゆる解脱の境地にいるのだな。『悟り』というのか」
「そんな風に言われるとちょっと高尚すぎますね」
「金剛はあえて生の内側へ戻る『小人』の道をゆく。対照的に鳳翔は外側へ出て生全体を俯瞰する高い位置にいる。それをここでは『悟り』というのではないのか」

「さあ、どうでしょうか。私はただそれっぽいことを言っただけかもしれませんしね。もしかしたら金剛さんの方が悟りという言葉にふさわしいかもしれませんよ?」「ふむ、またお得意の遊戯的白痴か」

「別にとぼけるつもりはありませんよ」「どういうことだ」
「そうですね。心を牛に喩えて悟りに至る過程を描いた『十牛図』というものがありまして、それは牛を探すところから始まり手懐けたりするなど十枚の絵で構成されています。
 グラーフ・ツェッペリンさんが言う悟りとは八枚目の「人牛倶忘(にんぎゅうぐぼう)」になります」

「八枚目?」「そうです。まだ二枚残っています。そして残りの二枚は解脱から世界に戻る過程になっていて、最後の「入?垂手(にってんすいしゅ)」では普通の人の外見で描かれています」
「この最後の境地が金剛の立場だということか?」「さあ」「さあって」「いえ、分かりませんよ。だって最後はただ人と区別がつかないのですから」

グラーフ・ツェッペリンは気が抜ける思いだった。なんだこの何か言っているようで何も言っていない感じは。「あら、お気に召しませんでしたか」。鳳翔は少し微笑んだ。

「そろそろ準備しにいかないといけません」「ああ、今夜はも酒宴だと騒いでいたな」「グラーフ・ツェッペリンさんも参加されますか」「気が向いたらな」「そうですか」。

「でも、最後に言っておくと」「なんだ」「もしかしたらグラーフ・ツェッペリンさんのあり方が私達艦娘にとって最も正しいあり方なのかもしれませんね」「これまた突然だ」

「私、そして恐らく金剛さんも過剰に己を擬人化して人間性のうちに逃げているだけなのかもしれません。
 今までは私が金剛さんともグラーフ・ツェッペリンさんとも異なる点に重きを置いて話してきましたけれど、グラーフ・ツェッペリンさんもまた私と金剛さんとは異なります。
 そしてその対立軸は私達があたかも人として生きているのに対し、グラーフ・ツェッペリンさんは艦娘という事実を生きようとしている点に由来するのだと思います」

十牛図

鳳翔は去った。金剛と違い湯飲みはちゃんと片づけていった。しかし、謎を残していった。グラーフ・ツェッペリンはいまだ一本の割り箸を掌で転がす。

結局どうすれば。金剛も鳳翔も仮説「艦娘は提督への好意を機械運命論的に決定づけられている」という問題を回避する方法は教えてくれた。どちらも距離の取り方で感情の「本物/偽物」の境界を見えなくする手段であった。

金剛は感情に過剰に接近し、つまりその内で生きることによって感情の真偽区分をなくし、鳳翔は反対に感情から過剰に離遠し、つまりその外から眺めることによって真偽区分の意味をなくす。

しかし、グラーフ・ツェッペリンは金剛のように生に熱中するほど器用でもなく、かといって鳳翔のように生に対し徹底して枯淡になることもできなかった。鳳翔の如く「さようなら、世界」とも金剛の如く「ただいま、世界」とも言えない宙ぶらりんだった。

回避できないなら克服するしかない。問題はこうだ。「私はアドミラルのことを好いている。しかし、その感情は偽物の可能性がある。果たして私は恋する乙女としてあるべきか」

「アドミラルのことを好いている」という感情命題に距離をとって解消するのが鳳翔のやり方であり、「感情は偽物の可能性がある」という命題の存在意味を否定して解消するのが金剛のやり方だ。どちらも一方を放棄する。

二人のやり方を拒否するグラーフ・ツェッペリンにとっては「アドミラルのことを好いている」と「感情が偽物の可能性」と両方を認める道しか開かれていないように思えた。

さらに「偽物の可能性」から「可能性」という言葉もなくそうと決めた。つまりそれは「私はアドミラルのことを好いているが、しかしその感情は偽物である」ということを承認することである。安直な賭けで問題を放棄しないようにと自戒したのだ。

パスカルは神の存在を証明する際に賭けの理論を持ち出した。
「神がいる方に賭けたとしよう。もし実際に神がいれば永遠の浄福は君の物だ。かりにいなかったとしても君はガッカリするかもしれないが代償はそれだけだ。
 もしいない方に賭けたとしよう。その場合、もし実際に神がいなかった場合、(死後も生きているとして)君のものになりうるのは「ほら自分は正しかったんだ」という小さな自己満足だけだ。しかし、もし神が存在した場合にはその代価は余りに大きい。なんたって永遠の栄光に浴する機会を逃したのだからね。
 さあ君も私も神を信じる方に賭けようではないか!」

不可知なものを肯定する場合このようなやり方が出てきてしまう。しかし、グラーフ・ツェッペリンはそれをよしとしない。「可能性」を残していたらパスカル的な賭けに逃げる可能性がある。ゆえにグラーフ・ツェッペリンは己の感情を「偽物」と措定したのだ。

しかし、勇み足でそう決めたのも束の間、頭を抱えた。「私はアドミラルを好いている。しかし、それは(非本来的という意味で)偽物である」。ここから一歩も思考は進まなかった。

この命題は致死的な矛盾を孕むわけではない。愛は事実的であり、ただその出自が不自然であるというだけだから。しかし、グラーフ・ツェッペリンにはその非本来的愛に従うことはできなかった。

そもそも根本的な矛盾はグラーフ・ツェッペリンが己を「偽りの愛に従わない」とするのに、自分で「その愛は偽物」としてしまっている点だ。理論的ザックガッセ、いわゆる詰みだ。どうしようもない。

苦悩を重ねる内にふとグラーフ・ツェッペリンは「私はどうしてこんなにも愚かなのか」と考えた。普通ではない。

普通ならそもそも仮説である「提督への好意を持つように艦娘は設計される」という点の事実確認を行うのではないか。大本営の研究室にでも潜り込むという一大スペクタクルを演じるべきではなかったのか。

そして、その検証の過程でその仮説の事実を確認しえなかったとしよう。それでグラーフ・ツェッペリンの抱える問題は解決されるだろうか。

否。ある事実を否定する証明は不可能だ。例えば宇宙人がいることを証明したいなら地球外生命体の一つでも持ってくればいい。しかし、その不存在の証明はできない。どれほど宇宙の広大な範囲を捜索するにせよ必ずその外部へ存在の可能性は開かれ続ける。

グラーフ・ツェッペリンの仮説も同じだ。大本営の研究室にその事実がなかったからといってその否定は確定できない。

更に言ってしまえば、グラーフ・ツェッペリンのように疑い深い精神にとっては地球上全てでその事実が確認できなかったとしても、何か我々には与り知らぬ原理を疑うかもしれない。

そこまでいくともはや人間をわざと誤謬させるあの底意地悪いデカルト的悪神を信仰するかの如くである。絶対確実なものを求めるために間違いの可能性があれば全てを切り捨てる方法。

デカルトは切り捨てたものを結論的には神の誠実性によって回復しようとした。「私があるというのは確実である。そしては私は神が誠実であるという観念を有する。確実なものから出た命題は確実だ。神は断じて人間を騙す悪神ではないのだ。ゆえに懐疑によって一度捨てたものの確実性は保証される」

同様にグラーフ・ツェッペリンもまた大本営や神の良心を信頼して己の愛を真なるものと見なせばよいのだろうか。「いや、ないな」と自嘲した。この愚かなるグラーフ・ツェッペリンが神頼みをするのは酷く滑稽に思えたのだ。

しかし、もしグラーフ・ツェッペリンのうちにこれは絶対に外部から与えられた感情や願いではないと思えるものがあるのなら、それを基点に道は開かれないだろうか。

そして、グラーフ・ツェッペリンにはそれに心当たりがあった。この知的欲求、理解を希求する想いだ。
 というのも、大本営が艦娘の思考ルーチンにグラーフ・ツェッペリンの如く停滞する思考を組み込むとは考えられないからだ。どのように考えても今のグラーフ・ツェッペリンは「艦娘」として最高ではないだろう。

この明らかな愚かさこそが、グラーフ・ツェッペリンにとって自分生来のものであるという根拠になる。理想兵器の設計書には愚かであることは計画づけられていないはずだ。

グラーフ・ツェッペリンは割り箸を眺めた。そう根本的に艦娘も割り箸も同じだ。設計的には道具として位置づけられている。本来無一物。感情や意志など余分なものはなかったはずだ。

しかし、それはどういうことだ。この愛が設計されたものでないにせよ、出自は完全に不明。結局振り出しではないのか。堂々巡りだ。

グラーフ・ツェッペリンは繰り返すうちに愛は必ず堂々巡りとなる運命にあるのだと考え出した。そしてその不明瞭さにこそ愛の本義があるのではないかと。

理解したいという想いは一種の希望である。そこには何らかの期待がある。そして永遠に不明瞭な愛は永遠にその希望の糧であり続けるだろう。

なるほど艦娘という存在は失恋を約束されているのかもしれない。いずれアドミラルは我々の前から去ってゆくだろう。その時に絶望しないために希望を二重化しているのだ。アドミラルを期待する愛という希望に対して更に愛への理解という希望。

曇天の宵空からは月の朧気で曖昧な光が僅かに差し込むばかり。明晰を好むグラーフ・ツェッペリンにとって、曇天は昼には好ましいが夜には厭わしい。世界はまったく不条理だ。

かすかな光量の空に一瞬だけティーポットが見えた。いつのまにか金剛のティーセットは消えていた。いつの間にか飛び去っていたのか。暗がりで気付かなかった。グラーフ・ツェッペリンはその「天空のティーポット」を思い馳せた。

誰も空にティーポットが浮かんでいたなんて信じないだろう。でも、グラーフ・ツェッペリンはその存在を確かに知っている。

グラーフ・ツェッペリンは割り箸を割った。何のために? それはグラーフ・ツェッペリンの方が是非聞きたい。結局グラーフ・ツェッペリンにとってこの割り箸は何の意味があったのか。そして、それを割った意味は。

グラーフ・ツェッペリンは割った後考えた。この割り箸はどうするべきか。捨てるべきか、それとも使ってやるべきだろうか。

道の境界は全て暗く。グラーフ・ツェッペリンは草庵を出たのはいいが、どこへゆくのか。金剛がいるであろうアドミラルの場所か鳳翔のいる酒宴会場か。それとも別の場所か。

まあ、何にせよ目的はない。そもそもグラーフ・ツェッペリンは散歩の途中なのだ。割った割り箸をもって夜の散歩。盲目的自由に従い。


おわり

恐らく純愛ものなのではないでしょうか?

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