提督「花柳の娼鶴」 (22)
人類存続を脅かしたはずの深海棲艦との戦争。その終わり。
それは不意に現れた。走れば遠のく水平線のゴールテープを追いかけていたら、突然実在する白いテープがせり上がって大きくなってくるような。
対深海棲艦を自負する各鎮守府の目的は当然その脅威を排除することである。ただし、その目的は達成不可能であることが望まれたようだった。
いよいよ海図上から敵影の赤印が少なくなってくると、鎮守府は戦果を上げることに愚図りだした。亀をいつまでも追い越せないアキレスの図のように、戦果グラフは目的に近づくほど数値が横並びに密集し停滞する形となった。
どういうわけか駆逐艦イ級一隻に対して空母と戦艦の艦娘十隻が大敗北を喫するという戦況が常態化していた。しかし、そうした「延命療法」の限りを尽くした戦火も線香花火のような残り火を尾にしてぱっと消えてしまった。
その戦争は締まりのない印象であった。終戦報道を見る人は「ああ、あれ最近終わったのね」と些細なことだと無関心であった。人々にとって、とうの昔に終わっていたものが今更終わったと報道されてもさしたる反響もなし。流行遅れの終戦であった。
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巷間では「鎮守府? 奴らは終戦に何も寄与してないね」「終戦の原因は深海棲艦の寿命だって一番言われているから」と扱われた。終戦間際の態度ばかりが取りざたされ、緒戦の大活躍を忘却された鎮守府は組織規模の縮小を余儀なくされた。
提督達は提督であり続けるために志願していくつかの試験を通過しなければならなくなった。落第者は街に放り出された。
男はその落第者のうちの一人であった。背を丸めて歩く姿にはくたびれた感じがある。男のくたびれた雰囲気は不合格の挫折によって染み付いたものではないようだった。もっと長期的に養われたような灰がかった疲弊。
男は提督を志願したにもかかわらず、合格しようという意志が薄弱だった。姿勢上は提督を続けたいと欲して、内心ではやめたいと願っていたわけでもなかった。
男は鎮守府の生活に不満はなかった。好意的で優しく接してくれる艦娘達に囲まれる生活に楽しみがなかったと言えば嘘になる。
強いて言うなら、「優しさに接すれば必ず優しさを返す」という兵器としての彼女達の無機質で関数的な人格に閉塞感を時折感じることはあった。しかし、ルーチンワークの歯車を演じることに退屈を覚えたことがあるにせよ、それは提督業から逃れたいという欲求には繋がらなかった。
街に出ることで何か自由を期待したのかもしれないが、それより「提督をやめて、どうするのか」という問に答えられないことへの不安が大きかった。だから、男は試験に必死になるのが自然のはずだった。
しかし、男はどうしても試験を突破しようと気勢を上げることができなかった。確かに男は鎮守府の生活に満足していたけれど、それをいざ試験を通して再認するとなると躊躇うようだった。
もしかしたら提督であろうとする情熱のなさは落第の落胆を抑えようとする心理的防衛によるのかもしれないと男は思ったりした。前もって挫折してしまうことで提督でなくなる挫折を正当化しようと。
しかし、手の届かないものを必要ないものとする正当化には己を肯定し他を否定するような攻撃性が根底になければならない。男は己自身にそのような盛んで硬質な心情を見いだせなかった。男は心身とも単にくたびれていた。
歩く男の影は街灯と時折通過する車のヘッドライトに照らされ幾重にもあらゆる方向へ広がった。男は伸び縮みする影が自分の影かどうかを怪しんだ。己の後をつける赤の他人の影のようにも見え、追われているような気持ちになった。
己の目前に大きく広がる影。己を追跡する影。逃れなければと、追跡者の影を疲労の鈍い足で追いかけた。男はさしあたり捕えられない追跡者の影をのろのろと追いかけるしかなかった。
いつしか娼家の立ち並ぶ街角を歩いている。あたりの様子には客引きの威勢のみが空回るチープな喧騒はなかった。静かな感じであったが、それはまた高級でシックに身を引いた静けさでもなかった。
通りは男たちだけが疲憊した敗残兵のように姿勢も気にかけず、ふらふらしている。行人はまばらにもかかわらず、通行は渋滞していた。
木造の長屋が並び、短冊のように細長い玄関口には女が立っていて、男たちの関心を惹くこともせず、たびたび思い返したように挨拶をしていく。
端々が黒ずんだネオン灯の幽かな放電音とそこに群がる蛾の羽ばたきが聞こえるようでうるさかった。
明日の太陽に照らされれば容易に記憶から溶け去るくたびれた風景。ここでどんな姿勢をとろうと男自身が忘却できるというのは気楽だった。男は顔を上げて遠くまで風景を舐めるように見渡した。
ある女と目があう。しまったと思った。その女とはよく知った仲だったのだ。互いの視線はなかったことにならなかった。男は女の視線を手繰るようにして近づく。女もじっと男を待つ。
その間、女がどんな意味合いの表情を浮かべたか。親しみのある笑みもなければ、職業的な無表情でもなかった。よく回っているこまが静止して見える時のような凛とした表情だった。
言葉を交わさず目だけで示し合わせると、女は男を自分の部屋に案内した。部屋は香がくゆり、薄暗い灯火が揺れている。女が障子戸を後ろ手に閉めて、敷布団の上に正座した。
立ったままの男は見上げてくる女と鋭角にぼんやり視線を合わせたまま。間が開く。男は別してこの女を買いたいと欲したわけでも、積もる話をしたいというわけでもなかった。かけるべき言葉は特になかった。
「どうぞ腰をおろしてください」女はその言葉をさも自然で些細な調子で述べる。男も断る必要がなかった。座る。あぐらだと正座する女と視線が丁度水平に重なった。
「翔鶴、お前がなぜ」
「そんなことお尋ねにならなくてもいいじゃありませんか……提督」
女の口調には柔らかい拒絶の響きがあった。男への非難というより、問に答えられない己自身に焦りを持ったような棘のある響き。
男の曖昧な問から女は「なぜ売笑婦になったのか」と聞かれた気になったようだった。男は自分でも何を尋ねたのか考えの形はなかったけれど、女から答えられると、疑問がちゃんとして湧き上がった。
「翔鶴、お前は秘書艦だった。練度もあった。鎮守府を去る必要はなかったはずだ」。兵器としての艦娘は提督とは異なり、練度が十分ならば残れるはずであった。
沈黙。男は己の言葉に叱責の無責任な優越を含んでしまったかに思え恥ずかしくなる。遠くで犬が吠えた。夜の獣が鳴く声は風景に溶け込まずにまっすぐ届いてくる。
「提督、知っていますか。動物って飼い主に似るんですよ? 一緒に生きていると、漠然とした雰囲気だけじゃなくて、顔立ちまで似るんですから、不思議なことですよね」障子に閉ざされた窓を眺めながら女は言った。
鼻筋の通った女の横顔は灯火に揺られ陰影を深くしていた。男はこの女を「翔鶴」と呼んでいたことに気付いた。艦娘でない女を「翔鶴」と呼称するのは適切ではなかった。女も男を「提督」と呼んだ、それも適切ではなかった。
それらの名前はもう男と女から剥離してしまい自称として虚しく宙に浮くしかなかった。それでも、二人が互いをその虚名で呼び合うならば、破れ目のない虚構世界として、提督と艦娘という関係は確実なものとなる。
提督は翔鶴を抱き寄せた。初めてのことではなかった。二人は鎮守府でまだ二人の名が実在的であった夜にしばしば肉体を重ねた間柄である。馴れに伴って肉体への情熱も少なくなり、冷たい間隙につまずき、相手を観察する余裕に囚われることもあった。
しかし、虚名で結ばれた提督と翔鶴は、いまや互いの真空を意識せざるをえず、強烈に引きあわされる。その情熱は人為以上のものだった。自然の性向上そうならねばならないと、実在世界が提督と翔鶴の交じわりを囲い込んで一点へ圧力をかけてくるようだった。
提督と翔鶴は己の空虚が相手によって埋められることを望む。しかし、流れ込んでくるのは空虚のみ。そして、空虚を埋めるために二人は一層激しく互いを求め合うのだった。
提督と翔鶴は行為の果てに充実などないと知っていた。それでも、二人は空虚を一つに混ぜ合い、精神的同一を求めた。不安定と不安定の共有は安定の感じを生むのだ。
空虚な一体感は提督と翔鶴を満足させる。二人がまだ実在的であった頃とは比べようもない程、互いを愛おしんだ。相手の空虚を愛することは同時に己の空虚を愛することであり、他者愛と自己愛の境界はなかった。そこには自己犠牲の悦びと利己性の安堵が共存していた。
提督と翔鶴は虚構世界で観念的に同一化し理念的な愛に結ばれた。しかし、虚構の宵闇は実在の陽光に場を譲らなければならない。二人がいつまでも一人であることは許されなかった。
男は女に金銭を支払う。
この商取引によって、男と女は互いに相手を秘密のある油断ならない他人として認識し、空虚ではない不透明な夾雑物をお互いの内に見出すと、双方は気持ちを己の方へぎゅうっと凝固させ、実在世界で生きるに値する実在者となるのだった。
煤煙の漂う陰気な夜にそのあたりをさまよう男の姿を見かけることが多くなった。男は風景の中に馴染み目立たないようになっていた。
のろのろ歩く男の横を同じようにのろのろ歩く他の男達の顔ぶれも限られたものだと知った。一声も交わしたことがなく、探るような視線を交わすこともない顔見知り程度であったが、その薄弱な関係性に身を浸すことが男の自己嫌悪を慰めてくれた。
街の女は優しかった。どうやら一人の女に執着する男という像が気に入られたようだった。通り過ぎようとすると「今日は私とどう?」と娼婦の職業的な気怠さからは少しはみ出すようなみずみずしい調子で誘われたりすることも多かった。
その場合には、いつも男は挨拶がてらに誘いをいなしてその娼婦の前を過ぎ去った。「そう残念ね。気が向いたらいつでもきて」彼女達にとってその応酬は気軽な楽しみであったようだし、男も誘惑を振り払うという英雄的な誠実さをひと時の間誇らしげにして遊んだ。
「提督。おかえりなさい」「ただいま。翔鶴」「提督。上着をあずかります」「ありがとう。翔鶴」「提督。それでは」「ああ。翔鶴」。何をして何を思うか、すべてが決まりきった公式に従い順調に進んでいく「ままごと」であっても、それを本気にすれば現実と変わらない。
夜が明け、男が上着を羽織っていると女が「あら、もう」と呟いた。「なんだ、まだ居てほしいのか」と言うと、女は少し考えた後に「お勤め頑張ってね」と別れを告げた。「そうかい」男は早々と出て行く。単調で無味な送り出しであっても、男は何か弾むような気分になった。
ある時、男が女の部屋に入ると、既に女の肉体は疲れていた。「あら、提督、きのう来てくれたから、今日はこないと思っていたわ」女は薄い着物を整えながら言う。
「男か」「ええ、それはもちろん」。女のまだ素人らしい澄んだ表情を見ていると、男は女が反省する素振りもしないのを不満に思った。
「どんな男だ」
「若い、まだ学生ぐらいの」
「なに? 学生、学生だと。どこのだ」
「他の方の個人的な話を詳しくするのはちょっと」
鎮守府からの付き合いであるその女については首を捻った時にできる皺の形まで親しく知っている。しかし、その曖昧な学生のことを考えると、女に自分の知らない暗闇ができたように思えた。
あらゆる肉体的な接触にその女が各々どのように反応するのかを男は網羅的に熟知していた。しかし、その曖昧な姿の学生のことを考えると、もしかしたらそいつは己の知らない反応をこの女から引き出したのではないかという嫉妬に駆られた。
提督は翔鶴を乱暴に押し倒し、着物を剥いだ。女が驚いたように小さく悲鳴を上げて男を押し戻そうとする。「提督、私にちょっと休憩を」歯牙にもかけず提督は翔鶴を烈しく求めた。普段より強い情熱であったにもかかわらず、その行為はいつものように全能感を与えることはなかった。
金銭を払うとき、男は嫉妬が静まるどころかより激しくなっていることに気付き不意打ちされた。
提督と艦娘の虚構関係は金銭を渡すことで解消される。もし、その関係項である「翔鶴」が消え去っても嫉妬が残るというなら、それは実在の関係項である女そのものに向かっているはずだった。
男は「翔鶴」という今では虚名の存在については全知であったが、それとは別に実名を持つ女という存在については無知であった。
どうやら男の嫉妬は「翔鶴」に暗闇ができることより、自分が全く知らない実在の女をその学生が僅かでも知っただろうということに起因しているようだった。
男は女を見た。かつて実在した翔鶴と女は別の印象だった。以前は無駄なく引き締まっていた白い上腕や腰周りが今は丸みを帯びて成熟した柔らかみを持っている。言葉尻も明瞭で透き通るものから、熱っぽく雪を溶かすようであり男から強情な言葉を誘い待っているようでもあった。
別の夜。「なあ、翔鶴、お前はここから出る気はないのか」男がそう言うのを聞くと彼女は笑い出した。肺臓の奥から一挙に空気を吐き出し、露出した白い乳房が上下する。愉快さからではなく、反応に困った時に出す突発的な反応であった。
その時はまだ過去の完了を取り払い無理くりに延長した鎮守府的な関係にあったはずだった。男の発言は明らかに提督の言葉から逸脱してしまっていた。虚構に破れが生じ、そこに関係のボルテージが吸い込まれ、湯底の冷水に触れたみたいに観念的な動揺と停止が二人の肌を撫でた。
「さあ、どうかしら」と彼女はおどけた。煙に巻くというより、彼女は翔鶴か女のどちらの名義で答えたらいいのか判断できなかったようだ。だが、もし仮に、彼がそこを明確にしたとしても、霧のようにして曖昧な濡れ場に逃れたかもしれない。
女は己の娼婦としての肉体をここから出すことに抵抗があるようだった。例えば無関心で乾いた公共の場に女の裸体が現れたらどうなる。女体の生々しさを無関心でラッピングし単なる風景として無視するならよし。しかし、無視できないなら、それはただ困惑を惹起するだけの性的モニュメントとなる。
それが寝室にでもあれば、半分の人間は持つべき欲求を喚起することができ、もう半分も納得して立ち去ることができただろう。しかし、白々しい公共にある裸の女体は歯車が噛み合わずすっと空転し続けるようで、人を苛立たせるものとなる。
砂漠の車輪はただ砂塵を巻き上げ、意識だけが前方に飛び出すのに、後方の肉体がそれに首輪をつけて引っ張り返してくる不条理な息苦しさ。女が無意識に漂わすであろう娼婦の臭いがそうして外の世界を窒息させ、停止させ、その代償に追放されるのを女は恐れたようだった。
もしここに逃げ戻ってくるしかなく、ここにしか居場所がないのならば……想像すると女は嫌な表情をした。どうやら女は己が娼婦であるしかないとは思いたくないようだった。まだ女は娼婦として心的な抵抗があり、それゆえに娼婦である現状を維持しようとしていたのだ。
男は夜を幾度かまたぎ誘いをかけたが、女の煮え切らない態度に腹を立てた。男の提案によっては、女のそうした心配を無用にすることもできた。けれど、それは強い決断が必要で、提督時代には容易いことだったが、今の男には踏み切れない案件だった。結局、男は女の態度に腹を立てた。
それからしばらくの間、男は女のもとから離れた。男は別の娼婦と夜を過ごした。娼婦を買うとはどういうことか改めて確認したくなったのだ。
女に目星をつけると部屋に入りすぐにことが始まる。一般的な男女交際に関する塵労をことごとく排除して、ひと飛びに始まる漿液を交わらせる行為。その異様さに男は改まって気付いた。
男は今まで「翔鶴」に囚われすぎていて、その共通の過去を土台にした手段でしか女と関わらなかったのではないか。過去を背景にした行為はどうしても恋人的な健全さを伴う。それだから、男は女が娼婦であるのに神経質になりすぎて、己の気分を害していたのだ。
「所詮ただの娼婦さ」。呟く。男の中で実在の女の影が大きくなった。過去の過程である「翔鶴」を排除することは、裏返せば女のただ現在の肉体と関係することであり、はからずもそれは女そのものに接近することであった。
女に関する嫉妬、その背後にあるはずの女への愛情。それを否定するために、他の娼婦を巡ったのに、その結論が女そのものと向き合えと示すのは、男にとって皮肉に思えた。
それならそれで結構。しかし、男は何かきっかけを欲した。そうでないと心情的に納得できなかった。男は足早に歩き、のろのろ歩く男たちを追い越していった。長屋の前に女はいなかった。
男は側面に回り込んだ。どうして娼家の敷居なんかを高く感じなければいけないのだと思いつつ、舗装が途切れ黒く湿った土の上を歩くので足音で気配が悟られないのに安心した。
テレビのバラエティ番組から流れる肉感のない笑い声が聞こえた。電灯の明かりが遮蔽されることなく目を刺した。窓も障子も開いていた。中を覗くと、あの女が小さな机の前に正座して帳簿をつけている。
「翔鶴」そう呼びかけた声が余りに空々しい響きを持ったのを男は感じた。女は男を見ると驚いたように言う。「あら、提督、どうして」それもまた空々しかった。
以前ならその呼称は実在よりも現実的な響きがあり、お互いを純粋に陶酔させるものだった。しかし、それも今や学芸会の演劇プログラムの如き、ぎこちなさで互いを遠くするものと成り果てていた。引き合う磁石の極を捻ると離れようとするように、純粋な虚構世界は不意に消え去った。
「……お前はどうして帳簿なんてつけているんだ?」
「そのうち体を気遣う必要があるから、こうした裏方仕事を任されたんです」
「気遣う? それはどういう……」
「私、妊娠したみたいなんです」
男は言葉に詰まった。
「……妊娠。相手は誰なんだ?」
沈黙。
「…………よし、ならば俺が父親だな」
女は理解できないという風に男を見た。
「可能性の問題さ。俺が君を一番抱いたことがある。ならば、その子を俺の子だと考えるのは何も不思議なことじゃない。それとも君が何か不貞を働いたのか」
女は首を振って言う。「そうね。あなたの子よ」。まだふくれていないお腹をさすった。「あなたは知らないでしょうけど、私この商売あまり向いてなかったみたい。あなた以外に私を買う人なんていなかったわ。それで最近ご無沙汰だったでしょう? このままじゃ収入にならないから、きっと帳簿づけに回されたんだわ。ふふふ」
「そうかい、そうかい。めでたいことだ! 子供だ! 子供! はっはっは」男は自分たちの笑い声が妙に響くように思えた。バラエティ番組は今しがた終わったようで、テレビはニュースを流していた。
最近、組織の整理を終えた鎮守府が信頼を回復しようとしているらしい。「艦娘には先の戦争で大いに重宝された特殊な能力があります。艦娘は特定海域において燃料資源などを獲得することが可能なのです。一度の獲得量は微々たるものですが、最も重要なことはそれを無際限に何度でも繰り返すことができるという点なのです。
そう反復です。科学とは、物体が下に落ちるなどの恒常的で再現性のある事象をもとに構築されますが、艦娘の資材確保もそれに当てはまるようです。というのも、艦娘は従来の存在とは全く異なった質的な再現性を持つ関数的な―――――」
テレビは鎮守府の様子を映し出した。全員、背丈も変わらず歩き方も同じで、容貌も変わらない白い制服の提督たち。彼らは区別のつかない大量の伊58に指示を出していた。燃料を運んでくる様が映され、これがいかに国の経済を豊かにするのかが説明される。
もののついでか、艦娘たちの戦闘訓練の様子も映し出された。あらゆる艦娘がその同名称ごとに何人も集まって行動していた。翔鶴も映った。何人もの翔鶴が並び、同じ銀髪をなびかせ、引き締まった表情で矢を放つ。
カメラはコンベアに運ばれるように順々と翔鶴を映していく。あらゆる同一の翔鶴。「あっ!」。男は不意に叫んだ。唐突にその中の一人が自分の秘書艦の翔鶴だったと直観したからだ。
男は女の方を向いた。女はくたびれた影を表情に深く落としながらも笑って言った。「ダメね。疲れた状態では、帳簿なんてつけていられません。うっかりゼロの桁を間違えて大変なことになりそうで怖いわ」。男は今女が何を考えているのかわからなかった。「翔鶴」ではなく、一人の女として余りに実在的で人間的な不明瞭さがあった。
原因が定まれば結果も定まる関数的な関係ではない。私秘的な過去を持つ女は紛れもなく人間であった。何一つ定まらない曖昧な関係。それでも二人に不安はなかった。
おわり
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