ビッチ・2 (459)


次スレたてました。

前スレ

また投下します

SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1360764540

SSWikiまとめたぜ
なにか間違いがあったら訂正しといてね


>>25
作者です。
Wiki作成感謝です! はじめてWiki作ってもらえた。
というか作者以上に登場人物や背景を把握していてびっくりしました。
今後創作途上で登場人物の名前や背景を忘れたときに使用させてもらいます。

本当にありがとうございました。


では再開します。


「怜菜って自殺したんだと思う」

 麻季は真面目な声で静かに言った。


 これまで考えもしなかった言葉に僕は一瞬動揺したのだけど、すぐにそんなはずはない
と思い直した。

 そんなわけはない。怜菜はか弱そうな外見とは裏腹に芯の強い女性だった。それはただ
彼女の言葉だけからそう判断したわけではない。僕は彼女の一貫した行動からそう確信し
ていた。

 怜菜は離婚後に配偶者のいない状態で出産した。同じ病院に出産のために入院している
母親たちと比べたってつらいことは多々あったはずだった。でもそんなことは怜菜から僕
にあてた最初で最後のメールには何も言及されていなかった。僕は今では一語一句記憶し
ている彼女のメールの文面を思い出した。



『お互いに伴侶の不倫を慰めあっているうちに恋に落ちる二人。そんな昼メロみたいなこ
とをわたしは期待して先輩をあの喫茶店に呼び出しました。そして、先輩はわたしが旦那
と別れるなら自分も麻季と別れるって言ってくれました。もちろんそれは先輩がわたしに
好意があるからではないことは理解していました』

『でも奈緒人君への愛情を切々と語る先輩の話を聞いているうちにあたしは目が覚めまし
た。奈緒人君から母親を、麻季を奪ってはいけないんだと。そしてその決心は自分の娘を
出産したときに感じた思いを通じて間違っていなかったんだなって再確認させられたので
す』

『本当に長々とすいません。あたしの先輩へのしようもない片想いの話を聞かされる義理
なんて先輩にはないのに。でもわたしは後悔はしていません。そして今では先輩が麻季と
やり直そうとしていることを素直に応援しています。生まれてきた子がわたしをそういう
心境に導いてくれました』

『これでわたしの非常識なメールは終わりです。先輩・・・・・・。大好きだった結城先輩。こ
んどこそ本当にさようなら。麻季と奈緒人君と仲良くやり直せることを心底から祈ってま
す』



 それは何度思い起こしてもつらい記憶だった。生前の怜菜に最後に会ったとき僕が彼女
の想いに少しでも応えていれば、また違った現在があったのだろうか。そうしていれば、
怜菜は死ぬことなく奈緒を抱いて微笑んで僕の隣にいてくれる現在があり得たのだろうか。

「君が何を考えているのかよくわからないけど、怜菜さんの死は自殺じゃなかった。暴走
してきた車から奈緒を守って亡くなったんだ」

「あたしだってそう思っていたんだけどね。そうとも言えないんじゃないかって考えるよ
うになったの」

「・・・・・・もうよせ。これ以上僕に君のことを嫌いにさせないでくれ」

「それは・・・・・・あたしは信じてるから」

「何を言ってる」

「あたしが何をしても博人君は、結城先輩はあたしのことが好きだって」

「本当に何言ってるんだよ。もうよそうよ。昔のことは昔のことに過ぎないだろうが。君
は鈴木先輩と再婚することにしたんだろ?」

「うん。ごめんね」

「謝るな。僕もこの先の人生は理恵とやり直すことに決めた。だからもうこれ以上怜菜さ
んのことは蒸し返さないでくれ」


「神山先輩なんてどうだっていい」

「・・・・・・それなら」

「神山先輩さんだけじゃない。雄二さんのことだってどうでもいいよ。怜菜は死んだし、
雄二さんにだってあたしたちの愛情の邪魔なんかできないんだよ。あたしたちはお互いに
愛しあっている。でも問題は奈緒人と奈緒のことでしょ」

「何を言っているのかわからなよ・・・・・・もういい加減にしてくれ」

「それはあたしのセリフだよ。博人君もいい加減に目を覚ましてよ」

「子どもたちを放置した挙句、家庭を捨てたのは君の方だろうが。今さらお互いに愛しあ
っているも糞もあるか」

「博人君、まだ話の途中でしょ。そんなにあなたが興奮したらこの後の話がしづらいじゃ
ない」
 麻季が微笑んだ。「それに約束が違うよ。食べながら聞くって言ったのに全然食べてな
いじゃない。そんなんだと博人君、体壊しちゃうよ」

「・・・・・・食べるよ。だから続きを聞かせてくれ。何で子ども二人を家に放置した? その
とき君は何をしてたんだ」

「これ以上怜菜に勝手なことをさせないためだよ」

「どういう意味だ」

「奈緒は怜菜そのものじゃない。そして奈緒人はあなたそのもの。博人君は気がついてい
なかったかもしれないけど、奈緒人と奈緒はお互いに愛しあっているのよ。そんなことあ
たしは絶対に許さない」

「君が何を言っているのか全然わからない」

「・・・・・・食べないと」

「子どもたちが愛しあってるって、そしてそれを許さないっていったい何の冗談だ」

「博人君、食べないと身体に悪いよ」

「食事なんてどうでもいいだろ! そんなことを君に心配してもらう必要はないよ。僕に
は今ではもう理恵がいる。君はいったい何の権利があって・・・・・・いや、そうじゃない。奈
緒人と奈緒が仲がいいことに何の問題があるんだ」

「怜菜は恐い子だったのよ。あなたを愛して、雄二さんの不倫のことを内心は喜びながら
冷静に彼を振って、そしてあなたに告白したの。お腹の中に雄二さんの子がいたのにね」

「本当にもういい。これ以上そんな話は聞きたくない。それより僕が海外にいたときにな
んで子どもたちを放置したか話せよ」

「怜菜が自分の大切な娘を放って死んでいいと思うほどあなたを愛したのだとしたら、あ
なたはそんな怜菜のことを愛せる? 怜菜が自分の娘を捨てて自殺したのだとしたら」

「そんな非常識なことがあるか。誤魔化さずに何で子どもたちを一週間近く放置したか答
えてくれ。真実をだ。それを言わないなら僕は今すぐ帰る」


「そうね。わかった」
 麻季はそう答えた。「わかったから、あなたの身体に悪いから少しでも食べて」

 もうとうに食欲なんてなくなっている。僕は形だけ目の前の皿からなにやらフライのよ
うなものを取り上げて口に入れた。味なんて全く感じない。

「博人君、串揚げ好きだったよね」

「どうでもいいよ、そんなこと」

「わかってる。あのときね、あたしは」



 麻季は散々悩んだ挙句、その声を信じることにしたのだった。その圧倒的な説得力を前
にして信じざるを得なかった。

 それは麻季がこれまで漠然と感じ続けてきた不安に正確な解答が与えられた瞬間だった。
このとき麻季は全てを理解した。これまで博人に対する自分の愛情の深さを彼女自身疑っ
たことはなかった。でも、怜菜が自分の死をも厭わず博人の心の中で一番の女性として生
き続けていく道を選んでそれを実行したとしたら、その愛情は麻季のそれを凌ぐほど深い
ものであると考えざるを得ない。つまり愛情の深さにおいて麻季は怜菜に負けたことにな
る。

 怜菜の自殺によって博人の心の中では、最後に会った怜菜の記憶が永遠に凍結されたま
ま古びることなく残るだろう。それは怜菜が博人への愛情を遠慮がちに表わしたときの切
ない記憶だ。表面上は麻季に優しく接している博人の中では、怜菜の愛に応えなかった自
分への後悔と、そんな自分を責めずに寂しげに微笑んで身を引いた彼女の最後の表情や容
姿がいつも浮かんでいるのだ。

 麻季は最終的に怜菜に負けたのだ。



『負けちゃったね・・・・・・怜菜を甘く見すぎていた』

 声が重苦しく囁いた。

『・・・・・・うん』

『このことに気がつかなければこの先博人との仲を頑張って修復することを勧めたと思う
けど、怜菜の意図を理解した以上このまま博人と一緒に生活しても君がつらいだけだと思
う』

『どうしろって言うの』

『わからない』

『博人君の心を取り戻す方法が何かあるでしょう。今まで散々役に立たないアドバイスし
ておいて、こんなときには何も言わないつもり?』

『・・・・・・』

『確かに怜菜の思い切った行動で一時的に彼の心は奪われているかもしれないけど、博人
君は、結城先輩はあたしのことが好きなの。先輩に殴られたあたしを助けて、あたしの髪
を撫でてくれたときから』

『死んだ人相手には勝てないよ』

『そんなのってひどいよ』

『ただ』

『え?』


『たださ、死んだ怜菜相手には勝てないかもしれないけど負けないこと、いや少しでも負
けを減らすことはできるかもしれないね』

 声は少し考え込んでいるように間をあけた。

『どういうこと?』

『今にして思えば君は、いや、君と私は完全に怜菜の仕掛けた罠に嵌ったんだよ。完膚な
きまでにやられたね。そもそも怜菜は何で鈴木先輩なんかと結婚したんだと思う?』

『それは・・・・・・あたしだって不思議だったけど』

『先輩が電話で言っていたこと。怜菜は麻季の情報を先輩に伝えて、まるで先輩に対して
麻季と接触させようとけしかけていたみたいだったって』

『うん。彼はそう言ってたね』

『そして先輩と君は出合って、怜菜の計画どおり不倫の関係になった。その後、彼女は博
人に接触して、君と先輩がまだ連絡をとりあっていることを博人に告げ口したよね』

『・・・・・・じゃあ全部怜菜の計画どおりだったってこと?』

『うん・・・・・・そしてさりげなく怜菜は博人に自分の想いを告白した。怜菜に誤算があった
とすれば、博人がその場では怜菜の気持に応えなかったことでしょうね』

『そのときはあたしは怜菜に負けていなかったってこと?』

『うん、そう思う。でも、怜菜は賢い子だし思い切って自分の考えを貫く強さを持ってい
た。大学の頃からそうだったじゃん』

 それは声の言うとおりだった。一見大人しそうな怜菜は自分が決めたことは貫きとおす
強さをその儚げな外見の下に秘めていた。麻季なんかと一緒に過ごさなかったら、怜菜は
学内の人気者だったろう。それなのに彼女は麻季と二人でいる方が楽しいと言ってくれた。

『怜菜は離婚して奈緒を出産するまで待った。そして、そのときが来ると迷わず車に身を
投げたんじゃないかな』

『博人君の心の中で永遠に彼に愛されるためだけに?』

『うん。でも怜菜はもっと先まで考えていたんじゃないかな』

『わからないよ。これ以上何が起こるの』

『確かに死者には勝てないかもしれないけど、博人君は君には優しいし君がこのまま良い
妻でよい母でい続ければ、怜菜の記憶だっていつかは薄れていって、君への本当の愛情が
戻るかもしれない』

 麻季はその言葉に一筋の希望を見出した気分だった。たとえ今がどんなにつらくても何
年かかっても何十年かかろうとも博人の愛情が戻ってくるなら・・・・・・・。

『でも、そのことも怜菜はちゃんと考えていたんだろうね』

『どういうことよ』

『奈緒を見てればわかるでしょ。あの子は怜菜にそっくりじゃない。先輩の面影なんか全
然ないよね。この先可愛らしく成長する奈緒を眺めるたびに、博人は怜菜のことを思い出
させられるんだよ』


『それにさ。奈緒は奈緒人が大好きだし、奈緒人だって君より奈緒の方が好きみたいじゃ
ない? 怜菜は自分と博人君が果たせなかったことを、奈緒と奈緒人に託したんだと思
う』

『そんなわけないでしょ!』

『じゃあ何で怜菜は自分の娘に奈緒なんて名前を付けたのかしらね』

『・・・・・・嫌だ。そんなの絶対にいや』

『もうできることだけしようよ。君は博人を失う。でも怜菜や奈緒にはこれ以上勝手なこ
とをさせるのをよそう。それで怜菜に完全には負けたことにはならないし』

『博人君とは別れられない。絶対に無理』

『想像してごらん。怜菜にそっくりに成長した奈緒を見つめる博人の視線を。そしてある
日突然に奈緒と結婚したいって言い出す奈緒人の姿を。本当にそれに耐えられる? そし
てそうなったら、何年も博人とやり直そうとつらい思いをして頑張ってきた君は、完全に
怜菜に負けたことになるんだよ』

『・・・・・・』

『もう決めないと。つらいことはわかるしあたしも甘かった。正直怜菜を見損なっていた
し。でも今となってはそれくらいしか打てる手はないのよ』

『どうすればいい?』

『博人君と離婚しなさい。そして奈緒を引き取って、彼女を奈緒人と博人君から引き離し
なさい』

『・・・・・・でも、それじゃあ奈緒人は』

『うん。君は奈緒人とはお別れすることになるね』

『そんな』

『つらい選択だよ。でも今迷って決断しないでいても、いずれ奈緒人は君を捨てて奈緒を
一緒になるって言いだすよ』

『そんなこと決まったわけじゃない。奈緒人と奈緒はお互いに兄妹だって思っているのよ。
普通に考えたら付き合うなんて言いだすわけないじゃん』

『兄妹の恋愛なんて意外に世間じゃよくあるんじゃないの? 君だって博人の妹の唯ちゃ
んに嫉妬してたじゃない。実の妹なのに博人にベタべタするやな女だって』

『奈緒人はそんな子じゃない。妹と付き合うなんてあたしが言わせない』

 声が少しだけ沈黙した。それからその声は再び囁いた。どういうわけかその声音は悲し
みに溢れているような、そして麻季に同情しているような優しいものだった。



『じゃあ、試してみようか。奈緒人が君と奈緒のどっちを選ぶか』

『・・・・・・何言ってるの』

『その結果をみて決めればいいじゃない。とりあえず子どもたちには可哀そうなことをす
る必要はあるけど、君をそこまで追い込んだのは怜菜の責任だしね』

『だって』

 それから声はその残酷な計画を静かに語り始めた。


今日は以上です


 何をするでもなくただ身を寄せ合って二時間近く海辺をうろうろしただけで、僕と叔母
さんは江の島の島内の駐車場に戻って来た。内容のある話なんか全くしていない。

「かもめだ」とか「浜辺に雪が積もって白くなっている。初めてみたよ」とか「冬でも
サーファーの人って海に入ってるんだ。寒くないのかな」とか。ここまで来て僕たちが交
わした会話なんてどうでもいいにも程がある。

 でも駐車した車のところまで時間をかけて戻ってきたとき、叔母さんはいったん僕の腕
を自分の肩から解くようにして、少しだけ離れた位置で僕を見つめた。

「今日はありがとう、奈緒人。おかげで嫌なことを忘れられたよ。明日香にもお礼を言わ
ないといけないね」

「僕は別に・・・・・・。むしろ叔母さんに変なことをしようと」

 叔母さんはすぐに僕の言葉を遮った。

「あんたがそんなこと言うな。嬉しかったよ。あたしがあんな気持悪い告白をしたのに、
あんたは今日ここまで付き合ってくれたし」

 叔母さんはそう言って、目を瞑って顔を上げた。僕は叔母さんにキスした。叔母さんの
手が僕に回され、僕も叔母さんを抱き寄せるようにした。それが叔母さんとした最後のキ
スだった。

「はい、これでおしまい」

 叔母さんはそっと僕の腕から抜け出して笑った。

「叔母さん・・・・・・」

「これで本当におしまい。あたしもあんたのおかげでいい夢を見させてもらったわ。お互
いに今日のことはもう引き摺らないようにしよう。できるよね?」

「・・・・・・うん」

「よく言えました。じゃあ、帰ろうか。家まで送って行くから帰ったら明日香に優しくし
てやってね」

 帰りは行きよりも早く時間が流れて行くようだった。もう叔母さんも僕も何も喋らなか
った。叔母さんは黙って車のスピードを上げた。昼間の慎重な運転が嘘のように。

 やがて、車が住宅地に差し掛かると叔母さんはアクセルを緩めた。前に僕が住宅地内で
の乱暴な運転について注意したことを思い出したのだろうか。自宅まで送ってもらったと
きは既に夜の七時を越えていた。

「送ってくれてありがと」

「じゃあ、明日香によろしくね。あと結城さんにも」

「父さんはいないと思うけど。叔母さん、うちに寄って行かないの」

 随分心ないことを僕は口にしてしまった。でも叔母さんは少しだけ笑っただけだった。

「今日は帰るよ。また来るね」


 叔母さんの車が坂をゆっくりと下りていくのを見送ってから僕は鍵を開けて自宅に入っ
た。家の中は真っ暗だった。両親がいないのはわかるけど明日香はどうしたのだろう。あ
いつは今日は普通に学校に行ったはずだし、夜遊びも止めているので家にいるはずなのだ
けど。そういえば叔母さんの車から自宅を眺めたとき、二階の明日香の部屋も含めて家全
体が暗く夜空の底に沈んでいるみたいだった。

 さすがに明日は休めない。今までの僕ならさっさと自分の部屋にこもって適当な時間に
寝てしまっただろう。明日香の不在なんかそれほど気に病むことはなく。

 でも今は明日香のことが気になった。前にそうやって明日香を放置したとき、明日香は
飯田という男に暴力を振るわれていたのだ。

 今はあのときと違って僕は明日香の彼氏だ。彼女のことが気になるのは普通の心の動き
だった。でも、そんな明日香を今日僕は裏切った。それが最初で最後の出来事であったと
しても。そんな僕に明日香を心配する資格はあるのだろうか。

 今でも最後に別れたときの叔母さんの表情が僕の心を支配している。そんな心の片隅で
明日香のことを片手間に心配するなんて、そんな都合のいい思考があるか。

 僕は悩みながら二階に向った。明日香の部屋は電気がついていない。通り過ぎようとし
たとき、僕はその部屋の奥に人の気配を感じた。僕はそっと開いたドアから明日香の部屋
の中を見回した。

「・・・・・・明日香?」

「お帰りなさい、お兄ちゃん」

 暗い部屋の中から明日香の沈んだ声がした。電気も付けずに制服姿のままベッドに横に
なっていたようだ。

「寝てるのか? 具合でも悪いの」

「ううん、大丈夫だよ。お兄ちゃんこそ遅かったね」

「うん。でも本当に平気か? 何で暗いのに灯りつけないの」

 明日香が起き上がった。彼女はその手に自分の携帯を握っていた。

「・・・・・・叔母さんの車の音がした」

「ああ。叔母さんにここまで送ってもらった」

「叔母さんは?」

「帰ったよ。明日も仕事だろうし」

「そうか」

 相変わらず明日香の表情は暗かった。僕は思わず彼女の傍らに近寄った。ベッドにペタ
ンと座ったままで明日香が静かに僕の腰のあたりに抱きついた。


 反射的に明日香の体を抱き寄せた。一瞬抱き寄せられた体がぴくりと動いたけど、明日
香はそのまま僕のベルトのあたりに顔を押し付けた。

「明日香」

「何も言わなくてもいいよ。あたしがお兄ちゃんに頼んだんだから、お兄ちゃんが悩むこ
となんてないんだよ」

「・・・・・・明日香」

「だから悩むなって!」

「何でおまえ泣きながら切れてるんだよ」

「切れてない。あたしがお兄ちゃんに叔母さんを支えてって言ったんだもん。叔母さんが
壊れないようにしてって」

「泣いてるの」

「ごめん。あたし絶対に嫉妬しないって誓ったのに、嫉妬しちゃった。あたしにとって玲
子叔母さんはお兄ちゃんと同じくらい大切なのに」

 明日香は顔を上げて僕の目を見つめた。その目には薄っすらと涙が残っている。

「叔母さんは大丈夫?」

「うん。多分もう平気だと思う」

「よかった。お兄ちゃんありがとう。非常識なことを頼んでしまってごめんなさい」

 謝るのは僕の方なのに明日香はそう言った。黙っていた方がいいのかもしれない。叔母
さんだってそれを望んでいる。でも、僕はもう自分の彼女にこれ以上隠し事をしたくなか
った。ただでさえ有希の女帝疑惑とか、実の妹への混乱した気持とか、そういう大切なこ
とを明日香に隠しているのに。

「正直に言うと叔母さんとキスした」

「知ってるよ」

 明日香はあっさりと言ったので僕は狼狽した。何でさっきの出来事を明日香が知ってい
るのだろう。

 明日香は僕から身を離して、握り締めていた自分のスマホのディスプレイを僕に見せた。
そこには抱き合ってキスする僕と叔母さんの画像が映し出されていた。


 これはいったい何なんだ。明日香が僕と叔母さんの後をつけて撮影したのか。でも、こ
れで明日香に対しては何の言い訳もできなくなったのだ。下手に何もなかったと嘘をつか
なくて良かったのかもしれない。それでも全てを話せるわけはなかった。叔母さんが僕の
ことを好きだと言ってくれたこととかを。叔母さんは明日香のことを考えてもうやめよう
と言ったのだし、僕もそれに同意したのだから。

「驚いたでしょ? 友たちが偶然に江の島でお兄ちゃんたちに出合ったって言って送って
くれたの。随分遠くまでデートしたんだね」

「いや、デートとかじゃなく」

「お兄ちゃん?」

「う、うん」

「今日のことは全部あたしのせいだから、お兄ちゃんも玲子叔母さんもあたしに罪悪感を
感じることはないんだよ」

「だって・・・・・・」

「そのうえで改めて聞かせて。お兄ちゃんは玲子叔母さんのこと好き? いや、そうじゃ
ないね」
 明日香は言い直した。「お兄ちゃんはあたしと玲子叔母さんのどっちが好き? もっと
言えば、あたしと玲子おばさんと奈緒と有希で比べたら、お兄ちゃんが女性として一番好
きなのは誰?」

 奈緒と有希の名前まで出てきたことに僕はびっくりした。僕と玲子叔母さんがキスして
いる画像を見た明日香は、玲子叔母さんのことだけではなく根源的な問題を解決しようと
考えていたのだった。

 それは僕にとっても考えたくない厳しい質問だった。さっきまで自分の情念をぶつけ、
それを受け止めてくれた年上の玲子叔母さん。告白に答え一生一緒に暮らそうかと口説い
た義理の妹の明日香。

 そして、僕の始めての恋人であり、今では悲劇的な別離を乗り越えて奇跡のような再開
を果たした奈緒。卑怯な考えだけど優劣なんかつけられない。それでも僕は今は明日香に
返事をする義務があると思った。

 混乱した思考の中で、唯一そんなことはないと言い切れるのは有希だけだった。少なく
とも僕の方は有希に対しては恋愛感情は全くない。昔、告って振られた女さんに対する気
持よりももっとない。

 ・・・・・・答えはもうわかっていたのだ。それは自分の本心ではないにしても。僕はそれを
明日香に言う前にもう一度深呼吸した。ここで答えてしまえばもう今度こそ永遠にそれを
貫くしかなくなる。


『少なくともあたしの方は奈緒人のことが好きだったよ。こんな気持ちをあんたに知られ
たらドン引きされるだろうし、二度と叔母さんって呼んでくれなくなると思って必死で隠
していたけどね』
『あたしにとってもあんたにとっても大切にしなきゃいけない女の子がいるでしょ。明日
香とあんたが仲直りして結城さんと姉さんの家庭はようやく幸せな普通の家庭になろうと
しているの。だからここまでにしよう』



 玲子叔母さんの意思は明確だった。僕とどうこうなろうなんて全く考えてさえいない。
今日の出来事は今日だけの夢だと思わなければいけない。叔母さんが今日、僕のことを受
け入れていたとしたらという考えも繰り返し浮かんだのだけど、それは無益な考えだった。
叔母さんを喜ばせるためには僕は明日香と恋人同士でい続けなければならないのだ。

 そして奈緒。

 僕は奈緒のような美少女が何で僕なんかと付き合ってくれたのだろうとずっと考えてい
た。奈緒と手を繋いで有頂天になっていたときだって、意識の底では常にそういう疑問が
流れていた。積極的な奈緒の態度に自分を誤魔化してはいたけど、こんな冴えない僕に何
であんな可愛い奈緒が好きになってくれたのだという疑念は常にあった。

 そして今ではその疑念は解決した。僕の奈緒への想いはともかく、奈緒があんなに積極
的に行動するほど僕に惹かれたことには理由があったのだ。僕の記憶は解離性健忘とやら
のため曖昧だけど、幼い頃、誰よりも大切にしていた女の子の思い出はようやく浮かんで
くるようになっていた。それは幼い頃、無理矢理引き剥がされて会えなくなった仲のいい
実の妹の記憶だ。このとき僕はそのつらい出来事を思い出していたのだ。

 妹を車に乗せた母親。僕はそのとき何が起ころうとしているのか判らなかった。多分、
妹もそうだったのだと思う。それまでしっかりと抱き合っていた僕たちは引き剥がされ、
奈緒は知らない男の人が運転席にいる車に乗せられた。その瞬間、永遠に引き剥がされる
のではとようやく思いついた僕と妹は同時に叫び出していた。



『奈緒・・・・・・奈緒!』
『お兄ちゃん! 奈緒、お兄ちゃんと離れるのはいや』



 僕と偶然に再会した奈緒は無意識に僕に惹かれたのだと言う。ずっと兄である僕を忘れ
られなかった彼女は、兄以外の男性に惹かれたことに対して罪悪感まで感じていた。そし
て、そこが僕と奈緒の決定的に違うところでもあった。

 奈緒はずっと思い続けてきた兄に再会したことを素直に喜んだ。自分の初めての彼氏が
消滅してしまうのにも関わらず。僕も妹に再会できたことは嬉しかったのだけど、時間が
経つにつれ奈緒の中で彼氏としての自分が消滅してしまうことに焦燥を覚えた。客観的に
見れば奈緒は実の妹だ。そして彼女は素直に、昔引き剥がされた大好きな兄である僕と再
会したことを喜んでいる。そんな奈緒の気持ちに僕は飽きたらない感情を抱いてしまった。

 今にしてみればわかる。

 奈緒がこんな冴えない男を好きになって彼氏にしようとしたその意味が。奈緒は最初か
ら無意識のうちに兄貴を求めていたのだろう。実の兄貴になら高スペックを求めるまでも
ない。矛盾するようだけど僕が奈緒の兄貴でなかったら、奈緒は僕なんかを恋愛の対象と
考えることすらなかったはずだ。


「お兄ちゃん?」

「うん」

「お兄ちゃんは誰を選ぶの?」

 震える声で明日香が聞いた。

 こいつの僕への愛情だけはもう疑う余地はない。答えなんか初めから決まっていた。玲
子叔母さんは僕と明日香の仲がうまく行くことだけを望んでいる。そして奈緒は今では僕
のことを大好きな実の兄としてしか考えていない。もちろん有希さんは僕にとってそうい
う対象ですらない。

「何度も言わせるなよ」
 僕は明日香に言った。「ずっと一緒にいるんだろ?」

「はっきり言って。それでもう二度とうるさく言わないから」

 明日香がくぐもった声でそう言った。

「明日香のことが一番好きだよ。ずっと一緒にいようよ。父さんと母さんと四人だけで」

 明日香が再び僕に抱きついてぐずりだしたので、僕は明日香の顎に手をかけて彼女にキ
スした。

「ありがと」

「礼なんか言うなよ」

 もうこれでいいのだと僕は考えた。

「でもさ、ずっと四人なの?」

「何が?」

「・・・・・・家族って増えるもんじゃないの」

「何を言ってる・・・・・・って、何してるの」

 明日香が何かごそごそとスマホを操作していた。

「もう二度と迷わないように、お兄ちゃんと叔母さんのキスの画像を消去したの」

「これでよし。お兄ちゃん?」

「うん」

「ごめんね。あたしもう迷わないし不安に思わないから」

「よかった。明日香、愛してるよ」

「あたしも」

 スマホをぽいと机に置いて明日香が抱きついてきた。

 僕たちは抱き合った明日香のベッドにもつれ合うように倒れ込んだ。

 翌日、いつもの時間にいつもの車両に乗り込むと、富士峰の制服姿の奈緒が僕を見つけ
て微笑んだ。

「おはようお兄ちゃん」

 それは今朝ベッドの中で僕に呼びかけた明日香の屈託のない、でも少しだけ顔を赤くし
た声とそっくりだった。


今日は以上です


 夕食後、明日香と一緒に二階に上がった僕は、明日の土曜日に奈緒をピアノ教室に迎え
に行ってもいいか聞いた。彼女が嫌がるようなら、奈緒と約束してしまったので明日だけ
は許してもらってそれでもうお迎えは終わりにしようと思ったのだ。きっと嫌がるだろう
なと僕は思っていた。だから明日香が迎えに行くだけならいいよってあっさっりと言った
ときは少し驚いた。

「僕と奈緒と会うの嫌なんじゃないの?」

 僕は明日香の部屋で彼女の隣に座って聞いた。明日香はカーペットの上にぺたんと座り
込んで隣にいる僕の顔を見上げた。

「喜んで行ってらっしゃいと言えるほど心が広い女じゃないんだけどさ」

 明日香は笑った。「でもまあ、お兄ちゃんにはプロポーズされたばっかだし、こんなと
きまで嫉妬してお兄ちゃんを信じられないなんて、あたしの方が嫌だもん」

「無理してない?」

「してない。お兄ちゃんを信じてるよ。でもこれからは奈緒ちゃんを送ったらなるべく早
く帰ってきてね」

「うん。わかってる」

 僕だってそのつもりだった。奈緒からは話があるとは言われていたのだけれど、一緒に
昼食をとることは断ったのだし、食事抜きで何時間も話をしているわけではないだろう。
それにいくら兄妹とはいえ、今では僕の婚約者である明日香を放って毎週奈緒を迎えに行
くわけにもいかない。奈緒の機嫌次第だけど、一応もう迎えにはいけないと言ってみよう。

「明日はなるべく早く明日香のところに戻ってくるよ」

 それを聞いて明日香が黙って僕に身体を預けたので、僕は明日香の肩を抱いた。華奢な
感触が手に伝わった。そういうこと考えるべきじゃなかったけど、その感触は奈緒を抱き
寄せたときや玲子叔母さんと抱き合ったときの記憶を思い起こさせた。僕は少し狼狽して
明日香の顔を覗ったけど、明日香はもう別なことを考え始めていたようだった。

「ねえ・・・・・・」

 明日香が素直に僕に抱き寄せられながら言った。

「うん」

 僕は自分の思いを悟られなかったことにほっとした。そして少し罪の意識を感じて、そ
れを誤魔化すために明日香の肩を抱く手に力を込めた。

「ちょっと強く抱きしめすぎだよ。変な気持になっちゃうじゃん」

「だめ?」

「今日は下にママたちがいるんだよ」
 明日香が笑って僕をたしなめた。「だからお兄ちゃんも我慢して。そうじゃなくて、や
っぱり夕食のときのパパとママの様子って変だったよね」


 確かにそうだった。食卓を囲んだときの父さんと母さんの様子には、明日香が帰宅した
ときのような二人のいさかいの片鱗もなかった。子どもたちを気にしてお互いへの態度や
言葉を取り繕っていたのだろう。それでも母さんが親密な明日香と僕の様子に喜んでいた
のに対して、父さんはほとんど反応を示さなかった。よく考えてみれば不思議なことでは
あった。以前玲子叔母さんから聞いた話だと、母さんだけでなく父さんも僕と明日香が仲
良くすることを望んでいるということだったから。

 僕はさっき明日香から聞いた父さんと母さんの会話、というかいさかいの内容を思い出
した。



『そんなわけあるか。でも奈緒人たちが自然に知り合ったのに会うことを制限するなんて
あり得ないだろ』

『あたしはマキちゃんのこと嫌いだよ? でも今回だけは彼女の言うことも理解できる
よ。だってお互いに交渉せずにそれなりにうまくやってきていたんじゃない。今さら過去
を蒸し返してどうなるっていうのよ』

『過去のことなのは僕たち大人のことだろ。あいつたちにとっては現在進行型の話だろ
う。奈緒人が妹と出合って仲良くすることのどこがいけないんだ』

『繰り返すようだけど、あたしにとってはレイナさんのほうがマキより脅威なの。マキち
ゃんの気持もわかるよ。やっぱり奈緒人君に注意すべきだと思う。彼にはむしろ明日香と
仲良くなってもらいたいの』



 僕が妹と出合って仲良くすることのどこがいけないんだと父さんは言っていたそうだけ
ど、その妹とは状況から考えると明日香ではなく奈緒のことだろう。つまりマキさんとい
う僕の実の母らしい人から父さんにメールが来た。そしてそのメールは、僕と奈緒が知り
合って仲良くしているのでそれを止めさせて欲しいという内容だったのかもしれない。何
でマキさんが僕と奈緒を会わせたくないのかその理由は不明だった。そして父さんは僕と
奈緒が仲良くすることのどこがいけないんだといい、母さんは僕には奈緒より明日香と仲
良くなってほしいと主張しているらしい。

 僕の母親からのメールの内容に対して反対しているのが父さんで、賛成しているのが母
さんだと言うことになる。それでいてどうやら母さんは、父さんがマキという人を気にし
ていると言って非難しているようだ。

 なかなか複雑で一概には理解できない。

「母さんは僕が妹の奈緒と仲良くするのがいやなんだろうか」

「お兄ちゃんもそう思う?」

「そういうふうに聞こえるよね」

「逆に考えるとさ。パパってあたしとお兄ちゃんが仲良くするの内心では喜んでないのか
なあ」

 明日香が不安そうに言った。


「・・・・・・前に玲子叔母さんから聞いた話だと、父さんも母さんも僕と明日香が仲良くする
のを望んでいるみたいなことを言ってたよね」

「うん。あたしもそれ覚えている。つうかあのときは嬉しかったし」

「じゃあ、何であんな言い争いをしてたんだろう。マキっていう人からのメールには何て
書いてあったんだろうな」

「マキさんってお兄ちゃんの本当のお母さんだってば」

「それは聞いたけど」

 本当の母親と言われても全く実感がわかない。マキという人から父さんにメールが届い
た自体が問題なのだろうか。でもそれだけではないような気もする。

 明日香の不安にも根拠がないとは言えなかった。母さんは僕と明日香の仲のいい様子を
見て喜んでいる様子だったけど、それに対して父さんはそのことにさほど乗り気な様子を
見せていない。

「でもさ。僕と奈緒は兄妹なんだし、普通に考えれば父さんが僕と奈緒が仲良くすること
を応援していたとしてもさ、それが僕と明日香が付き合うことに反対しているっていう意
味にはならないと思うけどな」

「それはそうかも。じゃあ、パパもママもあたしとお兄ちゃんが付き合うこと自体を問題
にしているんじゃないのかな」

「多分ね。玲子叔母さんが言っていたことが正しいなら。むしろ僕と明日香のこととは関
係なく、僕が妹と仲良くするのがいいことなのかどうかで喧嘩してたんじゃないのかな」

「奈緒ちゃんに嫉妬していたあたしが言うのも何だけど・・・・・・。ママはもうあたしたち家
族を放って置いて欲しいんじゃないかな。マキさんにも奈緒ちゃんにも」

 再婚家庭なんだから、元の奥さんやその子どもとは関わりたくないという母さんの気持
も理解できるような気はするけど、何となくそれだけじゃないような予感がしていた。父
さんとマキさんが再び仲良くなるのとは話が違う。僕が知っている母さんは、確かに僕の
本当の母親ではないけど、かつて悲劇的に引き離された仲の良い兄妹の再会にまで文句を
言うような人ではないと思う。

「明日、奈緒に聞いてみるよ。奈緒の家庭でなんかあったのかどうか」

「うん。あたしもお兄ちゃんが奈緒ちゃんを迎えに行っている間、叔母さんに話を聞いて
みる。レイナさんという人のことはこれまで聞いたことがなかったし」

 レイナって誰なんだろう。母さんがマキさんよりも脅威だとかいうほどの人らしいけど。

「お兄ちゃんさ、奈緒ちゃんを送ったら自宅じゃなくて叔母さんのマンションで待ち合わ
せしよ」

「え」

「えじゃない。あたしと叔母さんはお兄ちゃんの不誠実な浮気くらいで壊れるような仲じ
ゃないし。叔母さんとキスしたことはもう気にしなくていいんだよ」

「不誠実な浮気って。僕はそんなつもりは」

 なかったとは言い切れなかった。でも明日香は笑った。

「冗談だって」

 明日香と叔母さんの仲よりも、どちらかというと僕と叔母さんが気まずい雰囲気になる
んじゃないかと心配したのだけど、それは明日香には言いづらい。

「それにいつまでも叔母さんとお兄ちゃんと三人で過ごせないなんて嫌じゃん。こういう
ことは早く解決しちゃった方がいいよ。心配しなくていいから。お兄ちゃんが叔母さんの
部屋に来る頃までには、今までどおりの三人の仲に戻しておいてあげるよ」

 僕は付き合うようになって初めて、明日香の中に今まで僕が知らなかった面がいっぱい
あることを思い知らされていた。きつい性格で僕を罵っていた明日香が仲直りして泣き虫
で甘えん坊な側面を見せた。でも彼女はそれだけじゃない面を持っているようだ。実の妹
と付き合い出してしまった僕を黙って救おうとしてくれた明日香や、奈緒が実の妹だと知
ってフラッシュバックに悩んでいた僕を黙って根気強く支えてくれた明日香。

 そして今では僕をリードして積極的に疑問を解決しようとしている。そんな僕が知らな
かった明日香の姿に僕は密かに萌えていた。

 あのまま付き合っていれば奈緒も礼儀正しく優しく、でも積極的な女子だけではない顔
を見せてくれていたのだろうか。僕はさっき初めて見た奈緒の冷たい態度を思い出した。


「パパとママって今は静かだよね」

 そんな僕の感慨を断ち切るように明日香が階下を気にして言った。

「うん。狭い家だから喧嘩していればここまで聞こえるだろうしな」

「仲直りしたのかな」

「かもしれない」

 明日香の部屋から様子を覗おうとしても階下からは何の気配もしない。

「・・・・・・ちょっと偵察に行ってこようかな」

「マジで? 僕も行こうか?」

「お風呂に行くついでなんだけど。まさかついて来るつもり?」

「んなわけないだろ。おまえが風呂出るまで自分の部屋にいるよ」

「またエロゲ?」

「してないってそんなもん」

「まあいいや。ちょっと偵察してくるよ。また後でね」

 明日香は僕に軽くキスしてから僕の腕から抜け出した。



 自分の部屋に戻った僕は何となく机のPCを起動した。

 あれ?

 前回、異常終了したのだろうか。インターネットのブラウザが異常終了時のセッション
を復元するか聞いてきた。そういや最近は自宅でPCを使うことなんてなかったな。そう
思った僕は何気なくその選択肢にはいをクリックした。それこそギャルゲの選択肢を無意
識に選んでしまったときのように。

 終了時に表示されていたサイトが浮かび上がった。それは僕なんかが閲覧しようと思う
ことすらない画面だった。

 それは何やらハーブやアロマを通販している販売サイトみたいだった。でも、以前警察
の平井さんの話を聞いていた僕は、そのサイトを眺めているとだんだんと販売されている
商品が理解できるようになった。これは脱法ドラッグの販売サイトだ。見た目は綺麗なア
ロマ系のハーブの商品が整然と陳列されているように見えるけど。

 こんなページを見た覚えはない。考えられるのは明日香くらいだ。明日香の部屋にはパ
ソコンがない。高校生になるまではネットに接続したPCは与えないというのが両親の方
針だった。もっともスマホに買い換えた時点でネット接続なんてしたい放題なのだけど。
それで今までにもこういうことはあった。明日香が僕の部屋に入り込んで勝手にネットを
見ていることが。

 僕自身に覚えがない以上、これは明日香が見たサイトなのだろう。それにしてもこんな
やばそうなサイトを何で明日香が見たのだ。これもイケヤマとか悪い友人たちの影響だっ
たのだろうか。

 僕はサイトをを眺めながらその下部に表示されている「連絡先」というリンクに辿り着
いた。


 何気なく「連絡先」という文字にマウスを重ねると、アンダーバーにリンク先のメアド
が表示された。僕には過去の記憶はないけれど記憶力自体が劣っているわけではない。表
示されたメアドのことははっきりと思い出せた。あのときはあれだけその内容に狼狽して
いたのに。

 それは昨日、明日香のスマホに届いたメールの発信先のアドレスだった。それは捨てア
ドっぽいWEBメールのアドだ。僕は階下の様子を覗った。

 まだ明日香が風呂から出てくる様子はしない。父さんたちの様子を偵察すると言ってい
たから、いつもより階下で粘っているに違いない。僕はPCをそのままにしてそっと明日
香の部屋に戻った。さっき明日香が机上に放置したスマホのメーラーを開く。



『結城明日香さんへ。しんせきの玲子さんが自分のマンションの前の車の中で気を失って
います。早く行って看病してあげてください。玲子さんは命にはべつじょうありませんけ
ど、雨にぬれているのでかぜをひくかもしれません。暖めてあげてください。あと、放っ
ておいても1時間くらいで気がつくと思いますけど起きたら砂糖水をいっぱい飲ませると
はやくよくなります。とおりすがりの者より』



 差出人は不明だけど、そのメールの差出先は脱法ドラッグのサイトに表示されている連
絡先のリンクと同じアドレスだった。

 要はこういうことだ。このサイトの管理人は明日香のメアドを知っていて、そこに向け
て玲子叔母さんの危機を知らせてくれたのだ。それが誰かはわからないけど。

 僕は得体の知れない不安を感じながらも頭を働かせようとした。叔母さんを助けに行け
たのはこのメールを出した人のおかげだった。そして脱法ドラッグの販売サイトへの連絡
先のメアドからそれが発信されている以上、この救いのメールを送ってくれた人はこの脱
法ドラッグ販売サイトの関係者に違いない。

 そしてさらに考えれば、あの救いのメールも別に玲子叔母さんを助けるのに間に合うよ
うに送信してくれたわけではない。今まであまり考えないようにしていたのだけど、玲子
叔母さんの裸身には赤い痣がいたるところに痛々しく刻まれていた。つまり僕たちが見つ
けて看病したとき、既に叔母さんは無理矢理ひどいことを強いられた後だったのだ。勘ぐ
れば叔母さんの身体を弄んで自由にしたあと、用済みの叔母さんの始末に困って明日香に
メールをした可能性だってある。そう考えると必ずしもあのメールが善意から送られたと
は言い切れない。

 そしてそのメールを送信したやつは、この脱法ドラッグ販売サイトの関係者なのだろう
けど、いったい何で明日香の携帯のアドレスを知っていたのだろう。

 ここで僕は明日香が暴行を受けて入院した日に、事情聴取に来た平井さんに聞いたこと
を思い出した。女帝はこのあたりの不良高校生たちを組織して脱法ドラッグの商売で利益
を上げているのだという。そして女帝が有希なのかどうかはまだ判然としないけど、少な
くとも有希ならば明日香の携帯のメアドを知っているのだ。

 女帝に率いられた脱法ドラッグの商売。その販売サイトの捨てアドから明日香に送られ
たメール。そして送信者は明日香のアドレスを知っていた。


 平井さんから話を聞いた後、玲子叔母さんはやるならあたしも手伝うようと言った。そ
のとき僕は叔母さんの身の安全を危惧したのだけど、結局僕の恐れていたとおりになって
しまったようだ。僕が手をこまねいて、恋愛もどきの悩みにうつつを抜かしている間に、
叔母さんが犠牲になったのだ。

 僕のせいだ。

 明日香のスマホを元通りに置いて部屋に戻ったとき、明日香がラフな姿でバスタオルで
髪を拭きながら僕の部屋に入ってきた。

 僕はぎりぎりのところで明日香が部屋に入ってくる前にブラウザの画面を切り替えるこ
とに間に合った。

「お風呂のついでにリビングの様子を覗ってきたんだけど」

「う、うん」

「二人とも声を低くして話をしてたんでよく聞き取れなかったんだけど、レイナさんって
いう人のことを二人で話しているみたい」

「そうか」

 僕の脳の容量はもうこれ以上の情報に耐えられそうもない。奈緒と会うことへの母さん
やマキさんの反対のことも気になるけど、玲子叔母さんの事件だって全く何も解決してい
ない。僕のおかげでもう忘れられたよと叔母さんは言ってくれたけど、客観的にはこれで
終わりかどうかもわからなかった。再び叔母さんが襲われることはないとも言い切れない
のだし。

 とりあえず明日は奈緒の話を聞こう。そして僕と奈緒の母親であるマキさんの意図を探
ってみよう。奈緒ならばレイナさんという人のことも知っているかもしれない。それから
明日香の言い付けどおり叔母さんの家に行き、叔母さんの方の問題を考えてみよう。もっ
とも叔母さんが悪い夢を見たと思って忘れようとしているのなら、その話を叔母さんとす
るのは酷というものだ。でもそのときは平井さんを頼ればいいのだ。

 僕はそう考えた。今はもうこれ以上は何も思い浮ばなかった。

「明日、奈緒に聞いてみるよ。今はもう考えても仕方ないだろ」

 僕は明日香にそう言った。明日香は僕のベッドに腰かけていたけど、すぐに納得したよ
うにうなずいた。

「そうだね。あたしも明日は叔母さんにレイナさんのこととかマキさんのこととか聞いて
みるよ」

「まあ、直接父さんたちに問い質すという手もあることはあるけどな」

「それはよそうよ」
 明日香は少し不安げな表情をした。「何かこわい。それで万一離婚するとか言われたら
嫌じゃない」

「そんなことはないと思うけどな」

 僕はPCの電源を落として明日香の隣に座った。

「今日はここで一緒に寝てもいい?」

 明日香が上目遣いで言った。

「だって、おまえが今日は我慢しろと言ったんじゃん。下に母さんたちがいるからって」

「一緒に寝るだけなら別に平気でしょ? ママたちは普段は二階になんか来ないんだから。
それに一緒に寝るだけなのに何を期待してたのよ」

「わざと言ったろ?」

 ふふっていう感じの微笑をわずかに顔に浮べた明日香が僕をベッドから立ちあげるよう
にした。

「早くお風呂に入ってきて。あまり遅いとあたし先に寝ちゃうからね」


 次の日は土曜日だった。僕は佐々木ピアノ教室の前で午前のレッスンの終了時間を待っ
ていた。堂々と入り口前で待っていようかとも考えたけど、奈緒より先に有希に顔をあわ
せるのが恐かったので、僕は最初と同じく少し離れた場所で入り口を覗うようにして奈緒
が出てくるのを待っていた。今日も冬の曇り空が広がり肌寒い。早めに着いてしまったせ
いで体が冷え切っている。

 やがてようやく扉が外側に開き、女の子たちが固まって教室の外に出てきた。それはい
つ見ても華やかな光景だった。最初に出てきた一団の子たちの中には奈緒の姿も有希の姿
もない。それでも間断なく教室から吐き出される生徒たちをじっと見守っていると、やが
てその中に奈緒の姿が見えた。

 奈緒は前にも見かけた眼鏡をかけた高校生の男と何か話しながら教室の外に出てきた。
幸いにも有希の姿はまだない。奈緒が僕の姿を探すようならわかりやすい場所に移動して
姿を見せようと思ったのだけど、奈緒は周囲を見渡したりしなかった。彼女は一緒にいる
男が自分に話しかける言葉に笑顔で応えていて、僕のことを探す素振りさえない。

 そういう奈緒の笑顔はすごく可愛らしかったけど、今の僕にはそんなことはどうでもよ
かった。そのときの僕は心底から腹を立てていたのだ。僕は寂しそうな様子を隠そうと笑
顔で送り出してくれた明日香を放ってここに来ている。妹との約束を優先したためだ。そ
れなのにその妹の反応はどうだ。迎えに来いって高飛車に僕に要求したくせに、その兄を
探すようもなく男といちゃいちゃしている。

 大人気ないと思いつつ僕は奈緒の前に姿を晒した。さすがに奈緒は僕に気がついたよう
だけど、それでも彼女はすぐに僕の方に来るでもなく男と話を続けた。それでも僕は奈緒
と一瞬だけ視線を合わせることができた。彼女はすぐに僕から目を逸らしたけど、これで
僕が約束を守ったことは彼女にもわかったはずだ。これ以上、奈緒からこんな態度を取ら
れるいわれはない。

 僕は踵を返して駅に向かって一人で戻り始めた。

 ・・・・・・何かこういうことが前にもあった気がする。さっきの奈緒の様子に苛立ちながら
も僕は思った。あれは確か有希とメアドを交換したことに奈緒が嫉妬したときのことだ。
あのときもわざと僕の側に近寄らないようにしていた奈緒を置いて、僕は一人で駅に向か
っていたのだ。あのときは結局改札の前で、背後から駆け寄ってきた奈緒に抱きつかれて
謝罪された。でも今日は違うみたいで、背後には自分の態度を後悔して駆け寄ってくる奈
緒の気配はしない。それならそれでいいと僕は思った。どうせ今日で迎えは最後にしよう
と奈緒に言う予定だったのだし。

 そう思いながら駅の改札まで来てしまった僕が改札をくぐろうとしたとき、携帯が鳴っ
た。メールだ。

『すぐに行くから前に入ったファミレスで待ってて』

 短い無愛想なメールは奈緒からだった。

 ふざけるな。僕はそう思ったけど、どいうわけか数分後には僕はファミレスの席に収ま
っていた。結局、奈緒がそこに姿を現したのは三十分も過ぎたときだった。


今日は以上です


「ああ、お兄ちゃん」

 明日香が笑顔で僕を迎えてくれた。

「何だ、思ってたより早かったじゃん」

 玲子叔母さんの声は屈託がないように聞こえた。明日香は自分で言ったとおり僕たち三
人の仲を修復してしまったのだろうか。奈緒にされた衝撃的な告白で気が乱れているせい
か、このときは僕はあまり叔母さんのことを意識しないで済んだ。

「お兄ちゃん、お昼ごはんは?」

 それでも多少は居心地は悪い。僕は必死で平静を装った。

「まだだけど」

 明日香が悪戯っぽく笑って叔母さんの方をからかうように眺めた。

「明日香、おまえなあ」

 叔母さんが不貞腐れたように明日香に言った。

「いいじゃん。ちょうど味見できる人が来たんだし。あたしには全く理解できなかったけ
ど、お兄ちゃんなら別な感想があるかもよ」

「君たちに理解してもらわなくても結構。あたしが自分で美味しいと思ってるんだからそ
れでいいの!」

 叔母さんには僕との関係に悩んでいる様子はなかったけど、何か他の理由で少しお冠の
ようだった。

「いいじゃん、余っているんだし。お兄ちゃんの感想も聞こうよ。あたし用意してくる
ね」

「あ、こら。明日香!」

「いったい何の話?」

 明日香は勝手に叔母さんのキッチンの方に行ってしまった。

「はあ。あんたの妹、つうか彼女は本気で性格悪いわ。育ての親のあたしに向かってあの
態度はどうよ? あんたも見たでしょ、あの態度」

「だから、いったい何の話なの」

「あんたもうるさいなあ。あたしの料理のことは放っておいてよ」

 意外な言葉を耳にした。玲子叔母さんの料理? そんなものは今まで一度だってお目に
かかったことはない。多忙な両親の代わりに一時期叔母さんが僕たちの母親代わりをして
いてくれたことは知っていたけど、叔母さんの手作りの料理だけは見たことはない。過去
の記憶はあまりないのだけど、当時は今の母さんの実家が食事の面倒をみていたのではな
かったか。

「叔母さん、何か作ったの?」

「いや・・・・・・作ったっていうか」

 一瞬叔母さんの顔が赤くなった。僕はいけないと思ったのだけど、叔母さんを抱き寄せ
てキスしたときの記憶が蘇みがえってしまった。明日香への罪悪感を感じる。さっきまで
奈緒の告白に動揺していたのに、僕は言い寄ってくれる女性なら誰でも気になるような人
間だったのだろうか。


「お兄ちゃん、お待たせ。叔母さん手作りのお食事だよ」

 明日香が何やら黒っぽい物が乗った皿を運んできてテーブルに置いた。

「・・・・・・何? それ」

 そう言った途端に赤くなっていた叔母さんが恐い顔をした。明日香はけらけら笑い出し
ている。

「ピザだって」

 もはや笑いのせいでまともに喋れていない明日香が可笑しそうに言った。

「ピザって」

「まあ、普通は驚くよね。あたしも一応食べてみたんだけど」

「どうだった?」

 好奇心もあって僕は明日香に聞いてみた。何しろ玲子叔母さんの手料理なんて見たこと
もないのだから。

「あたし、お兄ちゃんのいい奥さんになれる自信がついちゃった。叔母さんには感謝しな
いとね」

 言われて見ると確かにピザかもしれない。円形の生地の上に赤いピザのソースとか溶け
たチーズとかが乗っている。でもそれはピザと言われたからそう理解できたのであって、
上面が黒く焦げているせいで初見ではその正体はわからなかった。

「どういう意味よ」

「だから叔母さんに感謝しているんだって」

 叔母さんが真っ赤な顔で反論しようとした。

「で、これ食べたの? 味は」

「焦げたところを根気よく削っていくと食べられる部分が出てくるから、そこを食べる分
には普通に美味しいよ」

 明日香の言葉に叔母さんがぷいと顔を背けた。

「じゃあ、僕も食べてみようかな」

「無理に食わなくていいよ。全くあんたたちには本気でむかつくわ」

 叔母さんが言った。


 ・・・・・・やはり明日香は自分で宣言したとおり、僕たち三人が一緒にいても気まずくなら
ないように叔母さんと話を付けたらしい。今さらだけど、明日香の行動力には感心するし
かない。

「奈緒人、あんた本当にお腹空いてるの?」

 叔母さんが少し真面目な顔で僕に聞いた。正直に言うと食欲なんてあまりない。僕がそ
ういうと明日香と玲子叔母さんが顔を見合わせた。

「じゃあ、叔母さんのピザもどきの話はもうやめよう」

 明日香がそう言った。

「ピザもどきって何だよ・・・・・・。って、本当に奈緒人に話すの?」

「あたしはもうお兄ちゃんには何も隠し事をしないことにしたの。叔母さんだってそうな
んでしょ」

 なぜか叔母さんは赤くなって黙ってしまった。

「叔母さんがマンションの前にいるから助けろっていうメールがきたでしょ?」

 何も僕には隠さないと言った明日香が叔母さんの様子には構わず唐突にそう言った。

「あれってさ、叔母さんが取材に行こうとした相手のと同じアドレスから送信されてたん
だよ」

 例の脱法ドラッグの販売サイトのアドレスのことだ。僕はそれに気がついたことを明日
香には隠していたのだけど、明日香は自力でそのことに気がついたようだった。

「あたしもうっかりしてたよ。イケヤマって名前を聞いたときに気がつくべきだった。前
に明日香が襲われたときに明日香を助けた男の名前は警察の人に聞いていたのにね」

 冷静さを取り戻したらしい叔母さんが口を挟んだ。

「・・・・・・どういうこと?」

「池山はあたしの元彼だよ。お兄ちゃんも会ったことあるでしょ」

 金髪ピアスの男のことだ。そいつが明日香の元彼なのは知っている。

「あたしさ、ちょっと仕事でハーブ関係の取材をしてたんだけど、ちょっとした伝手でそ
の取材に応じてくれたのが高校生の池山ってやつなんだ。もっと早く気がつくべきだった
けど、池山って明日香を助けた元彼じゃん? 彼と会って取材してたときは全然気がつか
なかったんだけど」

 叔母さんは最初の取材のことや、その後追加で池山から取材しようとあいつに連絡し、
指定の場所に行こうとしたことを話してくれた。結局そのときは叔母さんは池山には会え
ず、その代わりに。

 嫌な予感が胸中に広がっていった。

「・・・・・・叔母さんを襲ったやつってもしかして」

「違うよ。取材したときに会っているから顔はわかってる。池山じゃない」

「名前だけが根拠なの?」

 答えはわかっていたけど僕は聞いた。

「叔母さんが取材を申し込んだ先のメアドが、あのときあたしの携帯に来たメールと一緒
だったの。あれって博之がハーブの販売サイトで使っているアドレスだもん」

 博之と池山のことを呼んだ明日香には悪気はないと思う。単に元彼のことを以前呼びか
けていた名前で呼んだだけで、それに嫉妬している僕がバカなのだ。それに今はそんなこ
とを考えている場合ではない。


「博之が何か知っていると思うんだ。あいつは叔母さんにひどいことした犯人の仲間では
ないとは思うんだけど」

 何で明日香は池山が犯人じゃないと言い切れるのだろう。確かに明日香は池山に救われ
た。それは平井さんから聞いてもいたから事実だろう。でもその動機については結局何も
聞いていない。ただ元カノである明日香を飯田に取られるのが悔しかっただけけもしれな
いじゃないか。仮にあいつが明日香のことは今だに大切に考えていたとしても、玲子叔母
さんには平気で残忍な態度を取るようなやつかもしれない。偏見と嫉妬から思考にバイア
スがかかっているのかもしれないけど、ああいうやつならそうであっても不思議はない。

 僕は昨晩考えていたことを話すことにした。あまり直接的に表現して叔母さんを再び傷
つけないよう注意しながら。

「とにかく池山が関係者であることは間違いないよね。あんなメールを送れる立場にいた
んだから。それにあのメールのタイミングはおかしいよ。本当に善意で明日香に連絡して
きたのなら、あんなになる前に知らせてきたはずだよ。もっと早く連絡してくれてたら、
警察に通報するとかして、叔母さんがあんなひどいことをされる前に・・・・・・」

 ちょっと言い過ぎたかもしれない。明日香に反論するにしても叔母さんに嫌なことを思
い出させてはいけない。でも叔母さんは何も言わなかった。

「もちろん博之は何かを知っていたからメールしてきたんだとは思うよ」

 明日香は僕が微妙に不機嫌そうな様子であることに気がついたようだ。僕をなだめるよ
うな口調で明日香はそう言った。

「あいつが叔母さんが襲われることを知っていたことは確実だろう。あんなメールを寄こ
したくらいだし」

「だけど、彼は叔母さんを助けたくてあたしにメールしてきたんだと思うの」

「落ち着いてよく考えてみようよ。叔母さんは池山から指定された場所に行こうとして、
明らかに待ち伏せしていたとしか思えない男たちに、その」

「あまりあたしに気を遣わなくていいよ」
 叔母さんがそのとき冷静な声で言った。「あのときあたしは高校生くらいの男の子たち
に襲われたの。もうあまりあたしに気を遣わなくていいから」

「ごめん」

「だから気を遣うなって。もうあたしは立ち直ったんだからさ」

 叔母さんがほんの少しだけ僕の方を見て微かに微笑んだ。それは一瞬の出来事だったか
ら明日香がその微笑に気がついたかどうかはわからなかった。

「・・・・・・あのとき叔母さんとの待ち合わせ場所や時間を指定した池山が怪しいと思わない
おまえの考えの方が、僕には理解できないけどね」

 明日香はあいつに未練があるのだろうか。明日香は自分の大切な叔母さんを汚した仲間
かもしれない池山に肩入れし、今では婚約者であるはずの僕の話にも納得していないのだ。

「何で明日香は池山が善意で行動したって思うの?」

「お兄ちゃんが知っているかどうかはわからないけど、博之はあんな仲間とバカやって遊
んでいるけど、本当はまともな考えをずっと持っていた人から」

「明日香・・・・・・」

 おまえは僕より元彼の方を信じるのか。

「前にお兄ちゃんの親友の兄友さんにも言われたことがあるの。池山はあんなバカだけど、
根は本当にいいやつだし、本気で曲がったことをするようなやつじゃないって」

 確かにそんなことをかつて兄友から聞いたような気がする。あれは奈緒と付き合い出し
たばかりの頃だった。


 兄友の言うことだから根拠のない話ではないだろう。でも警察に目を付けられているよ
うなドラッグの販売グループに所属し、あんな格好をして周囲を睨みつけながら歩いてい
るようなやつのことを明日香はまだ信じているのだ。本当に明日香は僕のことが好きなの
だろうか。ひょっとして奈緒との関係に苦しむ僕を助けようとして、自分の意思に反して
無理にあいつと別れたのだろうか。明日香はそういう行動を取っているうちに僕への愛情
に気がついたと言っていたけど、それは本当なのか。最初は明日香は奈緒でなければ僕の
彼女は有希だっていいと考えていたのだし。

「おまえは僕よりあいつのことの方を信じるんだ。将来を誓いあったばかりの僕のことよ
り、あんな不良の元彼の方を」

 僕は思わず言わなくていいことを口にしてしまった。

「お兄ちゃん・・・・・・それ本気で言ってるの?」

 その言葉を口にした瞬間、明日香への嫉妬や不信感より、自分への嫌悪感を感じた。ふ
らついているのは僕の方なのに。奈緒の告白に悩み、叔母さんとの交情を忘れようと必死
になっているのは僕の方なのに。

 明日香は僕の言葉に顔を青くして、傷付いたような目に涙を浮べている。

「はいはい。もうよせ」

 叔母さんが口を挟んだ。

「叔母さん」

「あたしはあんたたちに言ったよね? あたしの部屋でいちゃいちゃしたり痴話げんかす
るのはよせって」

「・・・・・・ごめん」

「ごめんじゃないよ。あんたたちは昨日将来を誓い合ったんでしょ? 早速こんなつまん
ないことで痴話喧嘩してどうすんのよ。こんなんじゃあたしだって、あんたたちの味方を
してあげられないじゃん」

「ごめん」「ごめんなさい」

 僕と明日香が同時に叔母さんに言った。

「あたしに言うな。お互いに謝れよ」

「悪かったよ明日香」
「お兄ちゃんごめんなさい」

 再び僕と明日香が同時に、今度はお互いの目を見ながら言いあった。

「よし。これで二人とももうやめろ。池山がメールしてきた動機なんて、ここで話しあっ
てたってわかるわけないんだし」

 それは叔母さんの言うとおりだった。


「池山はもともとあたしが見つけた取材先じゃなくてさ。うちの編集部の仕事を請け負っ
ているプロダクションの編集の大学時代の後輩の、そのまた後輩なんだよね」

 叔母さんが冷静に言った。

「その編集者の後輩って何で博之のことを知ってたの」

 明日香が涙を拭きながら聞いた。叔母さんのおかげで明日香とは仲直りしたはずなのだ
けど、やはり博之という名前を明日香の口から聞くのは面白くない。

「その編集者の後輩はSPIDERっていうバーを経営しているんだけど、池山って常連客なん
だよ。つうかそこのマスターの高校の後輩なんだって」

「マスターって渡さんのこと?」

 明日香が言った。

「うん。確かそんな名前だった。あんた知ってるの?」

「博之と付き合ってた頃、あの店にはよく行ってたから。未成年でも飲ませてくれたか
ら」

「明日香、あんた外の店で飲酒してたの? あんたはまだ中学生なんだよ」

 叔母さんが驚いたように聞いた。明日香が目を伏せた。

「うん、ごめん。あのときはあたしもバカやってたから」

 叔母さんも明日香が中学生のくせに遊んでいたことは知っていたのだろうけど、不良の
彼氏と飲み屋に入り浸っていたことは知らなかったらしく、ショックを受けたように黙っ
てしまった。それから叔母さんは僕の方を見た。

「奈緒人。あんたは明日香がそんな店に入り浸っていたことを前から知ってたの?」

 もう誤魔化せるような状況じゃなかった。

「うん。店とかは知らないけど、明日香がたまに酔って帰って来るのは知っていた」

 それを聞いて叔母さんは悲しそうな表情を見せた。

「まあ、あんただけを責める訳にはいかないけど、でも知っていたのならあたしには相談
して欲しかったな」

「ごめん」

 明日香が口を挟んだ。

「叔母さん、違うの。お兄ちゃんのせいじゃないの。あたしが変な反発心から遊んでいた
のがいけないの」

「まあ、今はその話はいいや。あの頃は仲の悪かったとはいえ、奈緒人が明日香のことを
チクリたくなかった気持もわかるしね。とにかく池山に関してはあんたたちじゃお互いを
気にしあって冷静に判断できないだろうから、もう今夜はこの辺で止めておこう」


「やめないよ」

 明日香が伏せていた目を上げて僕と叔母さんにそう言った。

「あんた、何言ってるのよ」

 叔母さんが戸惑ったように言った。

「叔母さんだってまだ安全になったってわけじゃないでしょ。少なくとも何があったかは
調べておかないと、叔母さんがまた変なやつらに襲われたらやだもん」

「もうあんな不用意なことはしないよ。あたしだって学習したし」

「毎日叔母さんにボディーガードがついているわけじゃないんだよ。普通に会社と家と行
き来してたって危険はあるじゃない」

「それは心配しすぎだよ。あたしはそこまで弱い女じゃない」

「お兄ちゃん?」

 明日香が僕を見た。これについては明日香の言うとおりだった。組織として行動する相
手なら、叔母さん一人をどうこうしようとすればそんなに難しい話じゃない。叔母さんの
ためにはここで原因となった芽を摘んでおくべきなのだ。

「明日香の言うとおりだよ。僕が池山に会って問いただしてみる」

「それはだめ」
 明日香がすぐに反応して反論した。「あたしが博之に事情を聞いてみる」

「・・・・・・いい加減にしろよ。おまえだって叔母さんと同じで危ない目にあう可能性のほう
が高いんだぞ」

「博之はそんなことしないよ」

「おまえはそんなにやつのこと信じているわけ? 高校生なのにドラッグの商売なんかに
手を出しているやつのことを」

「お兄ちゃんみたいに平凡にアニメとかゲームとかだけしている人にはわからないと思う
けど、遊んだりバカなことやっている人がみんな悪いっていう発想は捨てたら? あいつ
らだっていろいろな経験を積んで、それは確かにクズみたいになっちゃうのもいるけど、
それでも人として筋を通そうとしている人だっているんだよ」

 やっぱり明日香は僕より元彼の方を擁護するのか。家にこもって過ごしている僕なんか
より「いろいろな経験」とやらを知っているやつらの方が人間として上だと思っているの
か。

 もしそうだとしたら、仮に今の明日香がどんなに僕のことを好きになっているとしても
僕とは価値観が合わない。これなら本当の妹の奈緒と恋愛ごっこみたいなことをしていた
方がよほどましだ。近親相姦は道徳的にどうかという問題はあるけど、それは少なくとも
法律に違反はしていない。

「犯罪まがいのことをしている男を庇うとか、僕には明日香の言っていることは理解でき
ないよ。明日香とは一生一緒にいたいと思ったけど、それは明日香が過去を反省している
と思ったからだ。今だにあの頃のことを美化しているんだったら、僕とおまえが一緒に暮
らすのは無理だと思う」

「・・・・・・何でそんなこと言うの? あたしはもうあんなバカなことしないってお兄ちゃん
に言ってるのに」

 明日香が泣き出した。

「でも、まだおまえが言うバカやってた頃の池山のことを信じてるんだろ」

「・・・・・・博之が叔母さんを犯した犯人じゃないって言ってるだけじゃん。兄友さんだって
彼は悪いやつじゃないって言ってたし」


「あたしが犯されたとか変なこと言うのやめろ」

 僕と明日香の諍いを冷静に眺めていた叔母さんがそこで静かに言った。

「あ・・・・・・ごめん」

 明日香が狼狽したように俯いた。

「ごめんじゃないよ。あたしはそんなことされていないよ。されかかったかもしれないけ
どさ」

 叔母さんは顔を赤くしたけどその口調ははっきりしていた。

「あんたらさ。これ以上痴話げんかを続けるなら今度こそ本当にここから追い出すから
ね」

「ごめん」

 明日香が叔母さんに小さな声で言った。

「奈緒人は?」

「僕は別に悪いことは言っていないし」

「・・・・・・もう一回言ってみ?」

「え?」

「あんたさ、今一番大切にしなきゃいけない女の子の話をしたよね? あたしとドライブ
したときに」

「・・・・・・した」

「それが一番大切な女の子に対するあんたの態度なの?」

 叔母さんは冷静そうに話をしているけど、叔母さんが泣きそうな気持で話をしているこ
とは僕にもわかった。僕はまた間違えそうになったのかもしれない。

「お兄ちゃんを責めないで。あたしも悪いんだから」

 明日香が細い声で言った。

「あんたが悪いことなんてわかってるよ。いくら自分の昔の知り合いを悪く言われたから
って開き直ることはないでしょ。実際、あんときのあんたは奈緒人につらく当たってたん
だから」

「いや。そのことはもういいんだ。叔母さんごめん。明日香・・・・・・悪かったな」

「好きなのはお兄ちゃんだけだよ。お兄ちゃんにいくら怒られてもしかたないけど、それ
だけは信じて」

「うん。ごめん」

「あたしこそごめんなさい」

 あたしの部屋でいちゃいちゃするなら追い出すと叔母さんは言っていた。

 明日香が僕に泣きながら抱きついてきたのに、叔母さんはもうそのことは蒸し返さずに
僕たちが落ち着くまでじっと待っていてくれた。


 それでも明日香が池山に会うのは危険だと思ったので、仲直りしてまだ僕に抱き付いて
いる明日香に対して、僕が一人で池山と会うと主張した。

「だめ。博之は前からお兄ちゃんのことが嫌いだから。それにお兄ちゃんが博之に殴られ
るなんてあたしはいやだもん」

 確かに僕なんかでは池山に絡まれたら抵抗すらできないだろうけど、そういうことを妹
に、自分の彼女に心配されると結構真面目にへこむ。

「殴られるくらいですむなら我慢するよ。おまえや叔母さんが危ない目に会うより全然ま
しだと思うし」

 明日香は何かを言い返そうとしたけど、結局口をつぐんだ。池山は自分や叔母さんに何
かをするような男じゃないって言おうとしたのだろう。でも、叔母さんにたしなめられ僕
と仲直りしたばかりの明日香はもう何も言わなかった。



 翌日の日曜日、お互いに妥協しあった僕と明日香は結局二人で池山に会いに来た。

 この日は池山の住まいの最寄のファミレスで待ち合わせをしていた。明日香が何と言っ
て池山を呼び出したのかはわからなかった。約束の時間にファミレスに入るとき明日香は
僕と繋いでいた手に力を込めた。

「明日香、こっちこっち」

 金髪ピアスの男が喫煙席で煙草を吸いながら明日香に大声で呼びかけた。

 明日香は困ったように僕の方を見た。

「彼、いつも喫煙席なんだけどそれでもいい?」

「あ、うん」

 正直、このときの僕は緊張していたから煙草の煙りのことなんてどうでもよかった。

 池山の向かいの席に明日香と並んで座ると、彼がむっとしたように明日香に言った。

「おまえさあ。座る場所違うんじゃんねえの」

「何で? あんた、何言ってるの」

 明日香が強気な声で池山に言った。こういう強気な明日香を僕は久し振りに見た。昔は
僕に対してはいつもこういう声で話し掛けていたんだっけ。最近は明日香の甘い声ばかり
を聞かされていた僕はそう思った。

「おまえが会いたいって電話してきたんだろうが。それなのになんで俺の横じゃなくてそ
いつの横に座ってるんだよ」

 不思議なのだけど、これだけ喧嘩っ早そうなやつがここまで僕に対して一切話しかけて
こない。もちろん今のところ殴られそうな様子もない。

 このとき池山の向かいの席で僕と並んで座っていた明日香は、今だに僕の手を握ってい
たしそのことは池山にもわかっていたはずなのに。

「明日香の言うことを聞いたら、俺とまた付き合ってくれるっておまえは言ってたじゃ
ん? 俺、今一生懸命おまえに言われたとおりのことをしようとしてるのによ。何でおま
えはもう他の男と一緒にいるわけ?」


「・・・・・・何言ってるのよ」

 明日香のが小さい声で言った。

「さっきから君は何を言いたいのかな」

 僕は池山に話しかけた。結構、緊張していたので、はっきりとした声ではなかったかも
しれないけど、僕にしては頑張った方だと思う。

 でもそんな必死な僕の声を池山は無視して、明日香に話しかけた。

「明日香、こいつ誰? っていうか俺とおまえの話しに何でこいつがついて来てるんだ
よ」

「この人はあたしのお兄ちゃんだよ」

 明日香が小さく言った。正直に言うと僕はここで明日香がはっきりと僕のことを彼氏だ
と言ってくれるのかと期待していたので、そのことに少しだけ落胆した。

「そんなことを聞いてるんじゃねえよ。兄貴だか何だか知らねえけど、何でここに他の男
を連れてきたのかって聞いてるんだよ」

「あたしが誰を連れてきたってあんたには関係ないでしょ。あたしはもう博之の彼女じゃ
ないんだから」

 ようやく強気な声で明日香が言った。

「明日香って、やっぱりそういう格好の方が似合うよな。前はケバ過ぎたし。それに髪も
黒髪の方が可愛いよ」
 反発する明日香には構わず、池山は無表情のまま話を変えた。「前から俺、おまえに頼
んでたじゃん? もっと清楚な格好をしてくれって。あの頃はそう言ってもおまえに笑わ
れただけだけど、ようやくおまえもその気になってくれたのな」

 何を言っているんだ、こいつ。それに僕のことを言及しているわりにはこいつはぼくか
ら目を逸らしている。

「あんたの好みに合わせたんじゃないよ。あたしはこれから真面目になろうって決めただ
け」

「誰のために? まさか、そこで偉そうに彼氏面して座ってるおまえの兄貴のためじゃね
えよな」

 明日香はそれには答えなかった。

「違うよな。だっておまえは富士峰のあの女の子をどうにかしたら、また俺と付き合うっ
て言ってくれたんだもんな。確かに俺だってまだそこまではできてないけど、そうすれば
今みたいな服装のおまえが俺とやり直してくれるなら明日にでもあの富士峰の中学生を犯
してきたっていいんだぜ」

 明日香が震えた。握り合った彼女の手が汗ばんでいる。

「鈴木奈緒っていったけ? 俺だって何の罪もない中坊をレイプするなんて趣味じゃねえ
けど、そうしないとおまえがよりを戻してくれないならおまえの言うとおり奈緒を犯すく
らいはするよ」

 僕は奈緒の、僕の妹のことをレイプするとかしないとかっていう話を聞かされているだ。
頭に血が上り、僕は池山の服のの胸元を掴んで引き上げ、拳を思い切り池山に殴りつけた。
でも僕の拳は空を切った。逆に僕は頬に池山のパンチを食らってテーブルの上に叩きつけ
られた。

「てめえ死にてえのかよ」

 僕は髪を掴まれて倒れていたテーブルから顔を引き上げられ再び殴られた。

「やめて! お兄ちゃんにひどいことしないで!」

 明日香が泣き叫んで僕と池山の間に自分の華奢な体を割り込ませて、池山から僕を庇う
ようにした。


今日は以上です

週末くらいから女神の更新を再開する予定です


 ・・・・・・あたしは有希の手によって再び有希の部屋のソファに横にされた。

「唯、大丈夫? どこか痛くない? 気持ち悪いの?」

 あたしはさっき逃げ出したばかりの有希の部屋のソファに再び仰向けに横にされながら
黙って首を横に振った。

「無理しないで。すこしここで横になっていなさい」

「・・・・・・平気だから」

「ごめんね、唯。男の子たちに命令してあいつらには必ずお仕置きをさせるから。機嫌直
してね」

 あたしはようやく我に帰った。ここで再び中学生の女の子の奇妙なカリスマ性に流され
ている場合ではない。子どもたちの安全がかかっているかもしれないのだ。あたしの人生
を捧げても惜しくなかった奈緒人と奈緒の安全が。

 あたしは心配そうにあたしの髪を撫でていた有希の手を払いのけて、上半身を起こした。

「大丈夫よ。悪いけど、あたしもう帰るね」

「・・・・・・だめ」

「だめって」

「帰っちゃだめ。まだ・・・・・・あの途中だったじゃない」

「もういいよ。有希ちゃんがどんな子だったかわかったし。あたしは、これ以上もう有希
ちゃんと一緒にはいられない。わかるでしょ」

「どんな子って? あたしが女の子も愛せるってこと?」

 あたしの言葉を鼻で笑うように有希が言った。まるで何をつまらないことを言っている
のとでも言うように。

「それもある。でもそれだけじゃない」

 あたしの言葉を聞いて有希の余裕ぶった態度が少し崩れた。そして有希は何かに思い当
たったようだった。

「・・・・・・まさか。加山とあたしの話を聞いちゃったの」

「そうだよ。いろいろ先生のことがわかったよ」

「何で? 唯のこと身動きできないように裸にして縛ってたのに。何で勝手に盗み聞きす
るのよ。卑怯じゃない」

 彼女はあたしのことを卑怯だと言った。あたしは再びあたしの髪の上でさっきまで愛撫
を繰り返していた有希の手を振り払った。さっき女帝と呼ばれていた有希に対して、年上
のあたしを裸にして弄んだ有希に対して、このときあたしはなぜか負ける気がしなかった。
あたしは唯を振り切って立ち上がった。やってみると簡単なことだった。カリスマとか何
を考えているかわからないことに対して、彼女はいろいろと恐れられているのだろうけれ
ど、思い切って押しのけてみれば、相手は単なる非力な中学生に過ぎなかったようだ。

 あたしは有希を睨んだ。

「何よ。唯、何でそんな顔するの」

 有希が怯んだような表情をした。こんな顔をした有希を見るのは初めてだった。女帝か
どうかは知らないけど、まだ幼い頃から有希は強気な性格以外の一面をあたしに見せたこ
とはなかったのに。

「まさかと思うけど、パパの弱みを掴んだつもり? それでそんなに強気なのね」


 有希がそう言った。

「そういう問題じゃないでしょ。神島スポーツの件、あれが本当ならあたしはあなたのパ
パに利用されたことになるのよ」

 あたしは吐き棄てるように言った。奇妙なことにそれを聞くと有希は少し落ち着いたよ
うだった。

「本当は何となくそうかなって思ってたんだ。ああいう調査は唯ちゃんに任せておけば安
心だって、前にパパが言ってたからね。やっぱり唯ちゃんが発見してパパに話したのね」

 あたしはその言葉に黙ってうなずいた。

「パパのこと嫌いになった?」

「何言ってるの」

「あたしとパパのこと嫌いになった?」

 有希が繰り返した。

「有希ちゃんは何を言いたいのかな」

「さっきまでは震えながらあたしの言いなりになっていたくせに。裸にされても触られて
もあたしに逆らえなかったくせに」

「言いたいことがあるならはっきり言ったら?」

「パパに利用されたとか裏切られたとか、そんな可愛いことを考えているわけじゃないん
でしょ?」

 どうやらあたしの思わぬ強気に怯んだ有希が少しだけ態勢を整えられたのは、あたしの
ことを強請りやたかりの一種だと認定したせいのようだった。そんなことを平気で思いつ
くほど彼女の生活は荒んでいるのだろう。有希はあたしのことを大好きだと言ったけど、
大好きな人間に裏切られ強請られると知ったら普通の人間なら相当落ち込むと思う。けれ
ど有希には傷ついた様子なんて微塵もはなかった。

 むしろそういう人間的な醜い欲望を持つ相手に彼女は慣れているのだろう。そういう人
間を相手にする方が有希にとっては得意なのだろう。あたしの行動が有希にとって理由の
わからないものであったであろうさっきのような状況よりも、有希が強気になったことは
それを証明していた。

 つまり小さい頃からあたしのことが好きだったという有希の言葉はでたらめなのだろう。
それはあたしを自分に従わせるためのピロートークに過ぎない。やはりこの子は単なる性
的に逸脱した女子中学生というだけではない。そう考えればあたしにベッドでいいなりに
しようとしたことだって、何か目的があったのかもしれなかった。

「先生に裏切られたことはショックだったよ。でも、別に他に何か考えているわけじゃな
いよ。さっき聞いたばかりでそんな余裕もないし」

「いまさら奇麗事言わなくてもいいよ。それにこういうことにはあたしの方が唯ちゃんよ
り慣れてるしね」

 いつの間にか有希の呼び方が呼び捨てからちゃん付けに変わっていることにあたしは気
が付いた。余裕を取り戻した彼女は、逆説的だけどさっきまで自由にできると舐めていた
あたしのことを警戒する余裕を取り戻したのかもしれない。

「奇麗事じゃないよ。もうこれ以上有希ちゃんにも先生にも関わりたくないだけ」

「誤魔化したってだめだよ。それに唯ちゃんに知られちゃった以上は、いくら言い訳され
ても信じるわけにはいかないしね。それで唯ちゃんは何が望みなのかな。警察の加山さん
はお金と、多分あたしの知り合いの中学生の女の子目当てに脅してきたんだと思うけど、
唯ちゃんは何が欲しいの。お金? それともパパの事務所での地位かな。たいていのこと
はかなえてあげられると思うから駆け引きはやめて素直に言ってごらん」


「じゃあ言うよ。あたしの望みはね、このままあたしをここから出してもらうこと。あと、
事務所は辞めるから揉めずに辞めさせて欲しいこと。二度とあたしと顔を合わせないでく
れること」

「それだけ? それに加えてお金なの? 横領した二億円のうちどのくらい欲しいの。ま
さか半分とか言い出さないでしょうね」

 やはり有希はあたしの言葉なんか何にも信じていないようだった。

 お金なんか欲しくないよって答えようとしたとき、不意に奈緒人と奈緒の顔が脳裏をよ
ぎった。

 有希は麻紀さんの代理人だった太田先生の一人娘だ。そして太田先生の姪が奈緒なのだ。
寂しがり屋だった小学生時代の有希にできた友だちの名はナオ。昔その話を有希に聞いた
ときはうかつにもそれを聞き流してしまったのだけど、その友だちとはまさに奈緒のこと
だったに違いない。

 そして奈緒人の方は、有希とは全く縁がないはずだったのだけど、さっきのカヤマとか
いう男の話ではどうも明日香ちゃんと奈緒人にちょっかいを出させたのは女帝、つまり有
希らしい。

 今の今まであたしが考えていたのは、自分が信頼していた先生に裏切られ利用されてい
たという事実だけだった。だから、なるべく早く有希から、この事務所から逃げ出すこと
だけを考えていた。逃げ出した後は法律事務所の方も辞職すればいい。有希は疑っている
ようだけど、奈緒人と奈緒のことに考えつくまでは、あたしが考えていたことは本当にそ
れだけだった。

 だけどあたしは今になって急にもっと大事なことを思いついた。ここで手を引けば、奈
緒人や明日香ちゃんの身に起きていることを知ることができない。

 さっき盗み聞きしたカヤマの言葉が思い浮んだ。



『中学生の、それも富士峰のお嬢様がねえ。いったいどのチンピラがあんたの男なんだ?
飯田か。それとも池山なのか』

『まさか、結城奈緒人じゃねえよな』

『まさか図星か。特別大サービスで教えてやろうか。おまえのこと女帝だって警察にちく
ったのは、結城奈緒人だよ。妹の結城明日香の事件がらみでな、兄貴の方が女帝に心当た
りがあるって言って来たってことだ。まさかとは思うけど奈緒人を取り合って明日香を襲
わせたんじゃねえだろうな』



 これは賭けだ。失敗すれば自分にどんな結末が待っているのかわからない。それでもあ
の携帯電話の通信料金の請求が途切れてから初めて、あたしは人生の目標に再会できたの
かもしれない。どうせ目標のない人生なのだ。ここで大切な子どもたちのために賭けてみ
てもいい。そして慎重にやれば、大学卒業以来したことはなかったことだけど、自分の全
能力と注意力を駆使すれば、奈緒人たちを脅かしている危機から救ってあげられるかも知
れない。

 そしてそのためのネタは掴んだのだ。一時期世間を賑わせた神山スポーツ横領事件の真
犯人が地裁が選定した管財人だったというネタを。

「あとさ。有希ちゃんに話を聞きたいな」

「話って何?」

「結城奈緒人についての話」

 有希は動じなかった。

「加山の話を聞いていたのね。でも、唯ちゃんには関係ないつまらない話だよ」

「それでも聞きたいの。関係はあるから」

「何ですって」

 有希の口調が変わり目が光った。

「お互いに話し合うことがあるんじゃないかな、あたしたち」

 有希が黙ってしまった。


「唯ちゃんのこと見損なっていたかな」
 有希が呟くように言った。「ちょっと子どもの頃親切に面倒を見てくれた、年上の綺麗
な姉さんを強引に裸にして抱いてあげたらどんな反応を示すかなってさ。昨日の夜ベッド
で思いついちゃったら興奮しちゃってさ。それで今朝は興味本位で唯ちゃんに迫ったんだ
けど、どうもあたしが考え違いしてたみたい」

「そんな程度の気持であたしにさっきみたいなことをしたの?」

 あたしは微笑んだ。もう戦いは始まっていたからだ。泣いてもだめだし怒ってもだめ。
取り乱すなんてもってのほかだ。これは駆け引きだった。しかも相当不利な駆け引きだ。
感情的になるわけにはいかなかった。嘘でも演技でもいいから冷静に事を進めなければな
らない。

 さっきの会話から察するに、有希の下にはは実力部隊がいる。つまり暴力装置を有して
いるのだ。そういう意味では暴力団と変わらない。そういう状況下であたしは奈緒人たち
を救わなければならないのだ。恐怖は感じなかった。ただ、自分の言動に懇親の注意を払
いつつ有希の思考を読むことに集中していた。
た。

「わかったよ。ちょっとあたしたちの関係をリセットしようか」
 有希が言った。「どうも唯ちゃんはあたしの玩具になるには頭が良すぎるみたいだし
ね」

 あたしは黙って彼女の話の続きを待った。

「それに正直に言うとさ。奈緒人さんと唯ちゃんの関係も気になるの」

 有希が続けた。

「気になるんだ」

 有希はどうやら父親からあたしの素性を聞いていないようだった。でもそれすらこの子
のフェイクかもしれない。女帝相手に油断はできない。

「うん。奈緒人さんはあたしの初恋の人だからね」

 いい加減にしろ。あたしはついそう怒鳴ろうとして何とか思いとどまった。こんなボー
イズギャングの女親分みたいな有希とあたしの大切な奈緒人が釣り合うとでも思っている
のか。

「あらそうなの? 有希ちゃんの彼氏って太田先生だって言ってなかったっけ」

「それはそうなの。だからあたしもつらくてさ。どっちかなんて選べないけど、パパも奈
緒人さんもあたしに他に恋人がいるなんて知ったら悩むでしょうし。最低でしょあたし。
二股かけてるようなものなの」

 有希がそう言ったけど、別に本気で悩んでいる様子もない。有希なりの冗談なのかもし
れなかった。

「まあ、それはゆっくり話し合おうよ。有希ちゃんの話を聞きたいな。ちゃんと喋ってく
れたら神山スポーツのことなんかすぐにでも忘れちゃう自信はあるんだけどな」

 あたしは気を張り詰めて有希ちゃんと対峙しながらふと気がついた。こういう話し方、
こういう交渉の仕方はまるで有希とそっくりだった。あたしはそのことに気が付き少し落
ち込んだ。でも、事を始めてしまった以上、ここで気を緩めるわけにはいかなかった。


「いいよ。話し合おう」

 有希がどういうわけか嬉しそうに言った。

「何で笑ってるの」

「今日はね。あたしに抱かれてひどいことをされた唯ちゃんがめそめそ泣いてさ。それで
も結局あたしの愛撫に負けて、あたしに依存してくる身体になるところまで躾けてやろう
と思ってたんだけど」

 やはり彼女はあたしのことんなんか好きでも何でもなくて、玩具かペットのように考え
ていたようだ。

「でも、今の唯ちゃんの方がいいな。久し振りに本気で頭を使ってやりあえる相手に出会
えたよ。こんなに近くにライバルになれる子が昔からいたのに気がつかなかったよ」

「それならよかった」

 あたしはなるべく平静を装って年上らしく言った。有希はそんなあたしをどういうわけ
か眩しそうに眺めていた。

「じゃあ、あたしから話すね」
 先手必勝。あたしは自分から話を切り出すことにした。「あたしにとっては以前から今
に至るまで、何よりも大切なのは奈緒人と奈緒なの」

 有希の表情が少し崩れたようだった。不意打ちを受けたのかもしれない。

 こうしてあたしは知っていることを有希ちゃんに話し出した。全てではないけれど。

 あたしは兄貴の大学時代のことから話を始めた。兄貴と麻紀さんとの出会い。結婚。出
産。そして麻紀さんと鈴木雄二氏との不倫。不倫を清算した麻紀さんと彼女を許した兄貴
が再び円満な家庭を再構築したこと。

 そして運命の兄貴の海外出張。麻紀さんのネグレクトと失踪。それを原因とした兄貴と
麻紀さんの破局。その後の長い離婚調停。その際、麻紀さんの代理人を勤めたのが有希ち
ゃんのパパであったこと。

 兄貴と理恵さんの再会。麻紀さんと鈴木雄二氏の仲にも再び火が着いたこと。

 そして調停の場での和解。

「まあ、そんなところかな」

 あたしは話し終えたけど、それまで口を挟んでこなかった有希ちゃんが疑わしそうにあ
たしを見た。今のところ有希ちゃんは別にそんなに驚いた様子を見せなかったけど、かと
いって全てに納得したわけでもないようだった。

「唯ちゃん何か隠してるでしょ」

 あたしはいきなりそう指摘されて内心狼狽したけど、何とか表情に出さずにすんだ。こ
れは駆け引きなのだ。気を抜いてはいけない。

「隠してなんかいないよ。いったい何のこと?」

「何か大切なことを話していないよね? 唯ちゃんは」

 有希の指摘は正しかった。確かにあたしは有希に説明するうえで、大事なことを意識し
て省略していた。


 それは怜奈さんと兄貴のことだった。そして奈緒が実は兄貴と麻紀さんの子どもではな
く、鈴木雄二氏と怜奈さんの子どもであることも。更に言えばその怜奈さんとは有希の実
の叔母さんであることも。

 兄貴と麻紀さんとの離婚については、その破局の本当の原因は調停の場では語られるこ
とはなかったため、麻紀さんがなぜあんな行動を取ったのかは依然として謎のままだった。

 ただ、先生からの受任通知の中では兄貴と怜奈さんの不貞行為が離婚事由の一つとして
挙げられていた。先生に聞いたことはないけど、あの受任通知の内容はでたらめであるこ
とをあたしは確信していた。あんなひどいことを兄貴がするはずがない。それでも兄貴と
麻紀さん、そして怜奈さんの間には何かの桎梏があったことも確かだと思ってもいた。

 そうでなければ怜菜さんの忘れ形見を兄貴と麻紀さんが引き取って自分たちの子どもと
して奈緒人と一緒に育てようとするはずがない。

 あの晩、突然実家に一人で戻って来た兄貴は、両親とあたしに対して麻紀さんの大学時
代の親友の娘を引き取ることを話しに来た。突然の話だったから、両親もあたしも混乱し、
なぜそうするのか理由を明確に答えるよう兄貴に言ったのだ。

「怜奈さんは離婚して一人で子育てをしていたんだけど、先日交通事故で亡くなったん
だ」

 あのとき兄貴はそう言っていた。

「ご主人はいらっしゃるんでしょう?」

 お母さんが当然の疑問を口にした。

「出産前に離婚したからね。彼女には旦那はいないんだ」

「残された女の子にとっては離婚したとしても、その人のご主人が実の父親であることに
は変りはないだろう。おまえや麻紀さんがでしゃばる理由にはならんと思うが」

 お父さんが落ち着かない様子で言った。お父さんの気持もわかった。なぜなら兄貴は家
族の了解を得に来たという感じではなかったから。それは実家に一応子どもが増えること
を知らせておくと言いに来ただけという感じだったから。

「元旦那の方は引き取るつもりがないんだ。だからその子は今でも児童養護施設に入れら
れてる」

「旦那様の方がそうでも亡くなった方の実家はどうしたの? その方のご両親にとっては
孫になるんでしょ」

「詳しいことはわからないけど引き取るつもりはないようなんだ」

 兄貴が他人事のように言った。

「・・・・・・また、麻紀さんのわがままに振り回されてるの?」

 あたしは思わず我慢できずに兄貴を責めるように言ってしまった。最初はこの小さな集
まりの中では兄貴の味方をしようと思っていたのに。

 結局そのときは兄貴の意思が固かったし、麻紀さんも乗り気だと聞いたためうちの両親
が折れたのだ。そして一度認めてしまえば、引き取られてきた奈緒は天使のように可愛ら
しかった。たまに兄貴と麻紀さんにに連れらて実家に遊びに来た奈緒に対して、うちの両
親は夢中になり溺愛するようにまでなってしまった。それはあたしも同じだった。

 ただ、麻紀さんの意向かどうか、兄貴は滅多に子どもたちを連れて実家に来ることはな
かった。仕事が忙しかったせいかもしれないけど。


 あたしは、奈緒人と奈緒がお互いを本当の兄妹だと信じている以上、それを否定する
ようなことは一生言わないつもりだった。それは奈緒人と奈緒の面倒を実家で見ていた頃に
自分に課したルールだったから。でもそうして結城家に引き取られた奈緒は太田先生の妹
の娘、つまり姪にあたる。そして有希にとっては従姉妹になるわけだ。有希が何かを気が
ついていても不思議はない。あたしは覚悟して有希の言葉を待った。でも、有希の口から
出たのは意外な言葉だった。

「絶対大事なことを隠してるでしょ。だって今の話を聞くと、唯ちゃんが頑張って育児し
たりとか、自分にとって一番大切なのは奈緒人と奈緒だとかって。その理由が曖昧じゃ
ん」

 有希が何か変なことを言い始めた。

「だって自分の甥と姪だもの」

「それだけじゃないでしょ」

 有希が値踏みするようにあたしを見つめた。この分ではどうも怜奈さんや奈緒の秘密の
話ではないようだ。あたしは少し安心した。

「ああ、そうか」

 有希が笑った。

「何で笑ってるの?」

「何でって。ああそうなんだ。ああ可笑しい。唯ちゃんってあたしのことを変質者を見る
みたいな目で見てたでしょ? あたしがパパのことをを好きなこととか女の人を抱きたい
とかってあたしが言うたびにさ」

「別にそんなことないよ」

「誤魔化さなくてもいいよ。そう思われるのなんて慣れてるから」

 有希が不意に笑い止んであたしを見た。

「どうしたの」

 これは駆け引きだ。こんな揺すぶりに動揺してはいけない。いったい有希が何を言いた
いのかわからないけど、少なくとも怜奈さんと奈緒のことでなければ良しとしなければ。

「唯ちゃんもこっち側の人間だったのね」

「・・・・・・どういう意味」

「変態なのはあたしだけじゃなくて唯ちゃんもか。唯ちゃんって近親相姦願望がある人だ
ったんだ」

 一瞬あたしは唖然として沈黙してしまった。そして多分驚きから醒めたあたしの顔はさ
ぞかし真っ赤になっていたに違いない。

「図星か。大切で大好きなお兄ちゃんのために、唯ちゃんは頑張って奈緒人さんと奈緒ち
ゃんを守ったんだね。健気だなあ」

「ち、ちが」

「唯ちゃん顔真っ赤だよ」

「違う」

 ようやく口から出たのは小さな呟きみたいな声だけだった。これではもはや駆け引きに
すらなっていない。長年の間、誰にも気がつけれていなかった自分の感情をあっさりと有
希に指摘されたショックで、あたしにはもう虚勢を張る元気は残っていなかった。

「そんなにうろたえなくてもいいじゃない。あたしは唯ちゃんの理解者だよ。というか唯
ちゃんがセクシャルマイノリティーの人だってわかって嬉しいよ」

 有希は再び笑い出した。


「まあ、話はわかったよ。奈緒人さんと奈緒ちゃんの兄妹を引き裂いたのは麻紀おばさん
と代理人のパパだったわけね」

 ようやくブラコンを指摘されたあたしも立ち直って答えた。奈緒人と奈緒を守るために
はいつまでもショックだとか言っているわけにもいかない。

「そうなるね。あの頃は麻紀さんとあなたのパパはあたしたちの敵だったの」

「うん。よくわかった。話してくれてありがと。唯ちゃんの人に言えない恥かしい性癖の
こともわかったし」

 あたしの表情が変わるのを見た有希は首をすくめた。

「そんなに睨まないでよ。いいじゃん、お互い様なんだから。それで? 唯ちゃんは結城
奈緒人のことを知りたいって言ってたけど、どっちかっていうとあなたの方がよく知って
るんじゃないの」

「兄貴と麻紀さんの離婚以来、奈緒人と奈緒にはずっと会ってないの」

 あたしは気を取り直した。それに、少なくとも奈緒人と奈緒が実の兄妹ではないことや、
奈緒が兄貴と麻紀さんの実の娘ではないことは有希にはばれずにすんだのだ。あたしの恥
かしい秘密と引きかえだったにせよ。

「そうなんだ。あたしは何を話せばいいの? 二人の近況でも話そうか」

「ううん。そんなことはいいや。むしろ、有希ちゃんがあの二人に何を仕掛けようとして
いるのかを話してくれるかな」

「・・・・・・神山との会話を盗み聞きしただけで、そこまでわかっちゃうんだ」

「あと、明日香ちゃんってきっと兄貴の義理の娘でしょ。理恵さんの実の娘で奈緒人の義
理の妹」

「・・・・・・だったら?」

「明日香ちゃんを襲わせたってどういう意味?」

「本当に聞きたい? 唯が聞きたいなら全部話すけど」

「聞きたいな。あたしも知ってることは話したんだし」

「わかってないのね。これを聞いちゃったら、あたしたちから縁を切りたいなんて甘いこ
とは言えなくなるよ。いくら神山スポーツのネタを押さえていたとしても、そんなものく
らいじゃ何ともならなくなるのよ」

 あたしは黙っていた。正直もう引き際だとさっきは思っていたのだけど、ここまできた
ら全部を知ってできることはしたかった。たとえ自分の身の安全が引きかえになるにして
も。

「まあ、唯ちゃんが聞きたいなら話してあげるよ。そのかわり長い話になるよ。説明する
にはあたしのことも知ってもらわないときっと理解できないから」

「うん。それでいいから全部話して」

「さすが唯ちゃん。やっぱりあたしなんかがあなたをベッドの上で玩具にしちゃうのはも
ったいないや。パパが見込んで引き抜いたことはあるね」

 あたしはそれには答えなかった。

「じゃあ話すよ。実の兄貴を愛している変態の唯ちゃんなら、あたしのしたことのモラル
を問題にすることはないでしょうしね」

 そして有希ちゃんは淡々とその長い話を始めた。


今日は以上です。更新速度が遅くてすみません。今仕事がデスマーチ中なのです

でもなるべく頑張って投下します


 有希も自分自身が直接的な暴力に対しては無力であることは承知していた。だから、最
初の日は父親の許可を得て父の運転手をボディーガードにすることにした。遠山はパパの
運転手兼ボディーガードだ。

 最初に接触したのは繁華街のゲームセンターにいた金髪ピアスの男だった。

 最初有希が彼に話しかけたとき、彼はじろっと値踏みするように有希を眺めて関心なさ
そうに無視した。きっと中学生の女の子だと知って相手にする気をなくしたのだろう。そ
れでも有希が彼に対してどうでもいい世間話を続けていると、彼はイライラしたように有
希を睨んだ。その視線が有希の顔に留まったかと思うと、やがて彼は値踏みするように有
希の全身を舐めるように眺め出した。きっと有希の容貌や容姿に気がついたのだろう。

「誰? おまえ」

「あたしは太田有希ですけど」

「はあ? 中学生だろおまえ。俺に何か用?」

「ええ。お名前を伺ってもいいですか」

「名前って俺の?」

「はい」

「ええと。俺は池山、池山博之っつうんだけど」

「ヒロユキさんですか。初めまして」

「つうかおまえマジで俺に何か用あんのかよ。何で俺の名前なんか聞いた?」

「あの。お知り合いになってもらえませんか」

「はあ?」

「ヒロユキさん、格好いいんでお友だちになってもらえないかなって思って」

 池山と名乗った男は相変わらず不機嫌そうな、威嚇するような態度を維持しようとして
いたみたいだけど、密かに笑いのような表情が口元に浮かんでいるのことが有希にはわか
った。こいつもやはり単純な男の子だったのだ。それでも有希の頭の中の構想を実現する
にはこういう男の子から地味に始めるしかない。父親を見返して感心させるためなら、大
概のことは目をつぶらなくてはいけないだろう。

「おまえ、ゲーセンとか初めてか」

 池山がじろじろと有希の身体を眺めながら言った。

「はい。校則で下校中は本屋以外に寄り道してはいけないので」

「おまえさ。その格好でここにいるのってやばくね?」

 富士峰のセーラー服姿を舐めるように見回しながら池山が言った。

「そうなんですか」

 有希は無邪気な笑顔を池山に向けて言った。

「まあ俺には関係ねえけどさ。ここはしょっちゅうおまわりとかが顔を出すしよ。その格
好じゃ捕まえてくださいって言ってるようなもんだな」

「え。やだ」

「やだって言われてもよ」

「じゃあ、どこかに連れて行ってください。警察の人とか先生とかが来ないところがいい
な」

「何で俺が」

「・・・・・・駄目ですか」

 有希が自分の清楚な外見を利用したのはこれは初めてだった。これまでの有希はその逆
のことをして大人たちを不意打ちしてきたのだ。清楚で可憐な外見を裏切るような発言を
武器にして。

 やってみると思ったより簡単なことで、しかも効果は抜群のようだった。まだ虚勢を貼
ってはいるけど、この金髪ピアスの男は有希に興味津々のようだった。ひょっとしたら彼
もパパと同じで無垢な女の子を汚す歪んだ興味を持っているのかもしれない。その証拠に
この池山という男の視線は彼女の顔よりは富士峰のセーラー服の方により向けられている
ようだった。


「駄目ですか?」

 有希は池山の目を見つめて再び繰り返して言った。

 最初に目を逸らしたのは池山の方だった。

「しかたねえなあ。おまえ、そんなに俺に興味があるのかよ」

「はい」

「じゃあ、ちょっと出るか。一緒に来い」

 池山は虚勢を張っているのか、彼女の手さえ握らずに店の外へ出て行った。それでも有
希が付いてくるのか不安だったのだろう。店の外に出たとき、彼は有希の方を振り返って
彼女が付いてきていることを確かめたようだった。

「こっちだ」

 池山は繁華街の更に奥の方へ向って行った。素直に彼の後を追いながら、有希は背後を
確認した。大丈夫。パパの忠実なボディガードはちゃんと自分の後を密かに追ってくれて
いる。遠山さんがいてくれれば大抵のことは問題ないはずだ。

「ちょっと待ってください」

 有希はそう言って池山に追いつくと彼の腕にしがみついた。少しだけ見せた動揺を隠す
ように池山は有希を連れて夜の街の底に入って行った。

 そこは小さなバーだった。外には看板も何もないので一見の客が入ってくることはまず
ないだろう。何の表示もない木のドアを開けて池山は迷わずその狭い空間に歩み行った。

 薄暗い店内の片側にはカウンターがありその中に一人の男がグラスを磨いていた。池山
はその男に声をかけた。

「渡さん。ちーす」

「何だ博之か。っておまえなあ」

「何すか」

「おまえ・・・・・・その子」

「さっき知り合ったんですけど」

 渡と呼ばれたバーテンダーが困惑したように有希を見た。

「君、中学生だろ。その制服は富士峰女学院だよね」

「あ、はい」

 有希は反射的にとっておきの笑顔を渡という男に向けた。パパにだって滅多に向けない
くらいの表情だ。

「博之」

「はい」

 ずいぶん素直に池山が答えた。この二人はどういう関係なのだろうか。有希は少し不思
議に思った。池山はただ大人だというだけで遠慮して下手にでるような人間には見えなか
った。

「さすがに中学生の女の子を俺の店に連れ込むのはよせよ。俺だってこれで食ってるんだ
し、何かあったらやばいんだよ」

「それは誤解っすよ渡さん。別に俺が連れてきたんじゃなくて、こいつが勝手についてき
たんです」

 それを聞いて渡というバーテンはもっと難しい顔をした。


「まあ来ちゃったんだからしかたない。座れよ」

 不意にバーテンが言った。文句をつけたわりにはあっさり引いた形だったけど、有希に
はその変心の原因は自分の容姿にあるということがわかった。この三十代くらいの男も、
中学生に過ぎない自分に興味を惹かれたのだろう。興味というかはっきり言えば自分と仲
良くなりたいと思ったに違いない。有希は微笑んだ。

「ご迷惑だったらあたしは帰りますけど」

「いや、そんなことはねえけど」

 期せずしてバーテンと池山の発言が綺麗に被った。二人は気まずそうにお互いから視線
を逸らした。

「素敵なお店ですね」

 有希はカウンターのスツールに腰掛けて言った。カウンターの反対側にはボックス席が
三席ほど並んでいたがそこには客は一人もいなかった。カウンターの端に若い男が一人腰
かけて黙って酒を飲んでいるだけだ。

「君、名前は」

 渡という男が聞いた。

「太田有希と言います」

「ユキちゃんさ。こんな時間に外出してていいの。家の人が心配するんじゃない?」

「大丈夫です。パパはお仕事でいつも夜遅いか帰ってこないし、ママはいないから」

「おまえ何飲む?」

 渡と有希の会話に割り込むように池山が言った。有希は久し振りに高潮感が胸の奥に湧
き上がってきたことに気がついた。この二人はあたしを取り合っている。中学生のまだ子
どもであるはずの女の子を。池山はともかく大人であるこの渡というバーテンも自分に関
心があるのだ。ここを最初の足掛りにしよう。ゲーセンでこの池山に目を付けたことは成
功だったのだ。

「じゃあミルクティーをいただけますか」

「え」
 渡は驚いたような表情を見せた。「ごめんね。酒以外のソフトドリンクだと、ジュース
かウーロン茶くらいしかないんだ」

「じゃあウーロン茶を」

 後の話になるが、その日以降このSPIDERにはダージリンとオレンジペコの茶葉が常に用
意されるようになるが、それを注文するのはいつも有希だけだった。

「渡さんって素敵ですね」

 渡が新たに入ってきた数人の客の相手をするために彼らのそばを離れたときに、有希は
池山に言った。

「それはどうでもいいけど。おまえさ。マジでいったい何しに来たの」

 彼は面白くなさそうな表情でそう言った。

「だから池山さんとお友達になりたくて」

「本当かよ。俺より渡さんのことばっか気にしているじゃねえか」

「そんなことないですよ」

 ここでへそを曲げられてはまずいので、有希は可愛らしい笑顔を池山に向けた。


「おい博之。おもてのバイクを裏に廻しとけ。さっきどこかのガキが弄ってたぞ」

「マジすか。ちょっと行って来る」

 池山が慌てて店の外に出て行くと、入れ替わりに渡がカウンターに座った有希の前に来
た。

「有希ちゃんさ」

「はい」

「何で君みたいな子が博之と一緒にいるのか知らないけど」

「けど、何ですか」

「念のために言っておくけどさ。あいつには明日香っていう彼女がいるからね」

「・・・・・・本当ですか」

「うん。あいつはそういう奴だから。彼女のことは大切にしておいてその辺で捕まえた女
の子と・・・・・・言ってる意味はわかるよね?」

「渡さんは彼女はいるんですか」

「それは関係ないでしょ」

「渡さんも彼女がいても、あたしと遊んだりできる人なんですか」

 有希は上目遣いに渡を見た。

「・・・・・・俺には彼女なんかいないよ。いても君みたいな子どもを弄んだりなんかしない」

「あたし子どもじゃないですよ」

「中学生は子どもだよ」

 有希が楽しそうに何か言い返そうとしたところで池山が戻ってきた。

「渡さんバイク裏に廻しました」

「おまえ、酒飲んでるんだから今日はバイクは置いてけよ」

「大丈夫ですよ」

「駄目だったって言ってるだろうが」

 オーダーお願いしますという声が背後のボックス席のカップルの方から聞こえてきた。
渡は注文を取りにカウンターから出て行った。一人でこの店を切り回しているらしい。

「なあ」

 池山が珍しく真面目な表情をした。

「渡さんってああ見えて遊び人だし、結構ロリ入ってるしよ。おまえも気をつけた方がい
いぜ」

 この辺りがもう有希の限界だった。こいつは馬鹿すぎる。あたしに対して欲望を覚えて
その感情に正直に従っているにしても、それでもこいつは馬鹿すぎる。有希はもうそろそ
ろいいだろうと思った。最初から目標があってしたことなのだし。

「あなた、あたしのこと気になってるでしょ」

「へ」

 突然、今まで清楚な中学生だと思い込んでいた有希の冷たい声に、強面の池山が困惑し
たように有希を見た。その声に反して目の前の有希はやはり押さなく清楚な富士峰の中学
生にしか見えない。


「あたしの言うことを聞いてくれたらあたしもあなたの言うことを聞いてあげる」

「おまえ。何が言いてえの」

「簡単なことよ。あたしを助けてくれればいいの。そしたらご褒美をあげるから」

「いやその。ご褒美って」

「何でもいいよ。あんたの好きなことで」

「・・・・・・おまえ。いったい俺に何をさせたいんだよ」

「あたしのパートナーになってくれればいいのよ」

「どういう意味だよ」

「お金持ちになりたくない?」

「何だって」

「お金持ちになりたくない? なんならあたなのお友だちも誘ってくれてもいいんだけ
ど」

「意味わかんねえ」

「・・・・・・ねえ。ちゃんと説明してあげるから。どこか静かなところに行かない?」

「・・・・・・ここだって静かじゃか」

「そういう意味じゃなくて」

 そのとき池山の携帯が鳴った。有希に興味を抱いているであろう彼はその着信を無視す
るだろうと有希は思った。でも池山は着信の相手を確認すると、有希のことを無視してい
そいそと電話に出た。

「明日香か。昨日、はぐれたから心配してたんだぞ。おまえ、いったい何してたんだよ」

 明日香。渡さんが言うにはその女は池山の彼女らしい。

「おまえ、突然消えちゃうしさ。俺がどんだけ心配してたと思ってるんだよ」

 それからしばらく池山は何だか不服そうに明日香とかいう彼女の話を黙って聞いていた。
しばらくしてやっと彼は声を挟んだ。

「明日香さ。もしかしておまえ昨日、兄友と一緒にいなかった?」

「いや。切れるなよ。違うならいいんだって。ただよ、飯田がおまえと兄友が二人で歩い
ているとこを見たって言ってたから」

「待て待て。俺が言ってるんじゃなくてさ。わかったって。誤解ならそれでいいよ」

「・・・・・・泣くなよ。俺が悪かった」

「明日は会えるか?」

「ああ。合わせるよ。じゃあSPIDERで五時に待ち合わせな。ていけね。六時までここは開
いてねえや」

「うん。じゃあ六時にSPIDERでな」

 このとき有希は思った。こいつを抱きこむなら今夜のうちかもしれないと。

 それで思い切って有希は池山に抱きついた。


「おまえさ」

 池山は有希の手を振りほどきはしなかったけど驚いてはいたようだった。

「どうしたの」

「何かさっきとは別人じゃねえか。いったい何を考えてるんだよ」

「多分今はさ。あんたと同じことだと思うよ」

「・・・・・・」

「ちょっと待って」

 有希は多分これまでSPIDERの前で目立たないように時間を潰していいるであろう父の運
転手に電話した。

「遠山さん?」

「はい」

「今日はありがとうございました。でももう帰っていただいて結構ですから」

 有希は父親から父の部下や使用人に対しては敬語で話すように躾けられていたのだ。

「え。パパに確認しなきゃいけないんですか」

「そうですか。パパからそう言われているんですね」

「・・・・・・わかりました。パパに連絡したら電話ください」

「誰に電話してたんだよ」

 池山が不審そうに聞いた。あんたが暴走したときのためのボディーガードにだよ。有希
は胸の中で答えた。

 有希の携帯が鳴った。

「パパとお話したんですか。うん、そうですか。じゃあ、今日はお疲れ様でした。ちゃん
と日付が変わる前には変わりますから。うん、一人で夜道を歩いたりはしません。タク
シーならいいでしょ?」

「じゃあ、おやすみなさい」

「だから誰と話してたんだよ」

 池山が再び聞いた。

「ちょっとね。あんたこそ、明日香って彼女?」

「いや。そういうわけじゃ」

「明日香って子、兄友って人と浮気したの?」

「・・・・・・おまえ。いったい何者だよ」

「単なる純粋無垢な中学生だって」

「・・・・・・俺はどうすうりゃいいんだ」

「あたしと契約しなさい。そしたらラブホに行ってあなたの好きなようにさせてあげる」

「・・・・・・おい」


 最初は池山の仲のいい数人が有希の下に集まっただけだった。それでも有希のカリスマ
性を初めて直接的に発揮する人数としては十分だった。半ばは彼女の可愛らしい無垢な容
姿に惹かれて集まってきた彼らは、やがて有希の笑顔の背後にある得体の知れない何かを、
恐れるようになっていった。

 最初に有希が出した命令はすごく子どもっぽいものだった。有希は自分の元に集った不
良生徒たちにお互いに仲良くするように言ったのだ。

 その次の命令は徹底されるのにしばらく時間が必要だった。仲間内の喧嘩を禁じた次の
命令は、他者に手を出すなというものだった。街中で喧嘩を売って自己実現したつもりに
なっている連中にはなかなか納得しづらいもだったらしい。

 有希の命令を破ったやつが大学生のカップルにちょっかいを出したとき、ちょっかいを
出したやつは有希の命令に従った遠山により入院させられた。全身打撲。全治三ヶ月。そ
れ以降、有希の命令を無視するやつはいなくなった。

 暴力を禁じられたわけではなかった。ただ、暴力に及ぶには有希の指示や許可が必要に
なったのだ。最初は同じ工業高校のグループから始まったのだけど、その影響は次第に他
校の生徒たちにも及んだ。その人数が三十名を超えたとき、有希は脱法ドラッグの商売を
始めた。

 有希の勢力の発展には法則があった。実のところ有希の組織は小さなグループの緩やか
な連合体だった。直接的なメンバーへの勧誘は有希によって禁止されていて、人数が増え
るときには一気に数十人が仲間となった。つまり高校生たちのチームごとメンバーにして
いたのだ。そして、そのためなら暴力や実力行使には慎重だった有希もOKを出した。実
働部隊は池山のグループで彼らは有希に最も近いところにいたため、傘下のその他のグ
ループからは「親衛隊」と呼ばれるようになっていた。実際、池山グループの構成員は最
大の人数でもあった。

 有希の片腕は今では明らかに池山だった。一度だけ有希を抱いた池山は、最愛の彼女が
いたせいか、有希に対して執着を示したり過度に馴れ馴れしくしたりしなかった。そのこ
とが有希と池山の関係を長続きさせたのかもしれない。それに池山は実は相当常識的は考
えの持ち主だった。自分の補佐役には肉体的に強いだけのバカはいらない。そういう意味
でも池山は理想的な副官だった。

 もちろん有希は奇麗事だけで事業を大きくしたわけではない。必要なら有希はまるで無
関係な人間に対しても容赦しなかった。ただ、池山はそういうときに有希の意向に逆らう
ことがあった。彼の常識的な感性がこういうときには裏目に出たのだ。

 そんなとき有希が頼れる人間にはまず遠山がいたけど、彼はパパの運転手であり有希が
勝手に動かすことには限度があった。それで有希がそういう汚い面で仕事に利用し出した
のが池山グループの飯田だった。飯田は池山以上に有希に心酔していた。利益や畏怖から
有希に従っている不良高校生たちと違って、彼は本気で年下の中学生である有希に憧れて
いたのだ。

 有希はそんな飯田へのご褒美として飯田に寄り添ったり、飯田と一緒にいるときに彼の
手を握ったりしてあげた。それ以上のことはしなかったけど、飯田にとってはそれで十分
なようだった。奈緒や明日香を暴行するよう命令しても、池山は難色を示したけど飯田だ
けは何の文句も言わず有希の命令に従った。組織内で有希に反抗的な動きを察知すると、
飯田は有希に報告する前にその首謀者をボコボコにした。

 飯田は結局明日香への傷害で警察に捕まるのだけど、この頃になると池山グループ以外
でも、有希のカリスマ性を信奉する連中が飯田の後釜を狙うようになってきた。この頃は
ドラッグの売り上げも絶頂で、この組織にいるだけで末端の高校生まで月に数万円のおこ
ぼれに預かれるようになったのだ。

 いつしか有希は女帝と呼ばれるようになった。そして、自然発生的に有希のグループは
いつのまにか「ビッチ」と呼ばれるようになった。もともとは有希に抵抗するグループが
有希のことを蔑んでビッチと呼んだことからきたらしいけど、それがいつのまにか有希の
組織の正式名称となったのだ。


 脱法ドラッグは常に法的な規制と追いかけっこをしている。厚生労働省がある化学物質
を違法薬物に指定するとその化学物質を成分に含有している製品は違法なものとなる。脱
法ドラッグによる被害が各地で生じメディアによって報道されるようになると、違法薬物
の指定は頻繁になっていった。

 ぎりぎりでも合法の仮面を被っていくためには違法になった瞬間にそのドラッグの取り
扱いをやめなければならない。といってもそもそもハーブには信頼できる原材料表示なん
かないため、どれが違法の商品となったのかを特定することは有希にもグループのメン
バーにとっても無理な相談だった。

 それを引き受けていたのがSPIDERのマスター、渡だった。彼は池山の工業高校のOBで
彼自身も高校時代は池山同様にかなり悪ぶっていたらしい。ただ、同じようにバカをやっ
ていた連中と異なり彼は成績が良かった。渡はまともな受験指導もないその高校から現役
で薬学部に入学したのだけど、それは高校創立以来初めてのことだったらしい。

 六年間の薬学部への在籍中、彼は真面目に勉強したらしいのだけど、卒業時にまたその
変人振りを発揮して、就職活動すらせずに小さなバーを初めた。それがSPIDERだった。

 有希は渡に対しては配下の連中に対するのとは異なり、いつだってていねいに下手に出
るようにしていた。彼からはある意味パパと同じような香りを嗅ぎつけていたのだ。単な
る悪ではなく、真っ当な側でも立派に通用する能力と人柄を備え異常と正常のボーダーで
どちらにも顔が利く立場をスマートに維持している。下手に出たというか、有希は自分の
無垢で純真な外見を渡に対してはフルに活用した。もちろん、有希が女帝でありどんな商
売をしているのか渡は知っていたから、有希のそんな演技なんか通用するわけがなかった。
それでも有希にはわかっていた。

 この人はロリコンなのだ。しかも、明日香やその他のグループに近いケバい格好の女の
子たちには全く関心がないみたいだ。女子大生以上の年齢の女に対してもそうだ。彼女た
ちには彼はいつも無愛想な態度を取っている。むしろ、池山や飯田のような高校の後輩と
話しているときの方が楽しそうだった。だから彼は女の子たちからは密かにホモ呼ばわり
されていた。

 でも有希にはわかっていた。渡はパパとそういう面でも同じ種類の人間だ。有希が富士
峰のセーラー服でSPIDERを訪れると、渡は不機嫌そうに文句を言う。そんな格好でバーを
うろうろされたら迷惑だと。でも渡の視線はいつも嘗め回すように有希のせーラー服に身
を包んだまだ大人になりきっていない身体を、まるで渇望しているかのように眺めるのだ。

 有希は結構最初の頃から技術面でのアドバイスを渡に聞き、渡もそれに答えた。薬学部
での成績が上位だったという渡は、当然ながら化学物質や薬物について詳しかった。それ
から有希はどれが違法商品になるのかの判定を彼に頼むようになった。渡は文句を言いな
がらそれに応えてくれた。いわばビッチの技術顧問になったのだった。有希は会えて彼に
は金銭的な報酬をわたさなかった。それをしたら渡が気を悪くすると考えたからだ。その
代わりに有希は渡のことをいつも特別に扱うことにした。池山や飯田よりも彼のことを優
先した。店内にいるときは常に渡との会話を優先し、彼に頻繁にちょっとしたプレゼント
(高価なものではなかった)を買い彼に渡した。そして常に私立の女子校の中学生らしい
無垢な笑顔を彼に向けた。

 それだけの報酬で渡は満足していたようだった。


今日は以上です

更新が遅くてすいません

また投下します

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