幼馴染はゲスパーガール (141)


 俺は幼馴染を養っている。
 比喩とか冗談じゃなくて、これは本当のことね。


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 学校が終わると俺はすぐに帰り支度をすませる。
 鞄を背に階段をかけ下りながら考える今日の献立。
 それから必要な買い出しと節約テク。

 いろいろ電車の中で絞っていって、行き着いたのは結局無難にカレーなんだけど。
 でもまあ仕方ないじゃん?
 タマネギジャガイモニンジン三点セットでお安くするよってチラシが言ってたんだから。


 降りた駅の前のスーパーで買い物、ありがたいことに値引きでさらに安かった。
 重いエコバッグを手に歩いていると、途中からピアノの音が聞こえることに気づく。
 その地点はいつも決まっているかのように正確だ。

 穏やかなメロディー、ゆったりとしたテンポ。
 俺はその曲名を知らない。
 でも相当上手く弾いていることは分かった。
 そしてこれも何となく分かる。なんだかつまんない音なんだ。


 何がって言われても答えられないよ。
 俺はピアノ詳しくないし弾けないし。

 でもなんだろうね、おっかなびっくりっていうのかな、あたりさわりがないような。
 そんな気がするんだよね。
 まあ素人の評なんだけど。

 そんなことを考えていたらいつの間にか家に着いていた。
 俺のじゃない。その一つ隣。幼馴染の家。
 ピアノの音はその二階から聞こえていた。


 玄関を開けると人の気配は全くない。
 しんとしちゃって背筋に染みる。
 やだね。ピアノの音だけがもれ聞こえるってのもなんだか余計に寂しい感じ。

 キッチンに荷物を置いて、俺は二階に上がっていった。
 彼女の部屋は一番奥にある。
 俺はドアの前に立ってノックする。
 ちょうどピアノの曲調が変わったところで、邪魔するのはどうかと思ったけど。


 音がやんだ。どうぞ、と涼しげな声がする。
 部屋に入るといつもながら結構広い。
 俺の部屋の軽く二倍はあると思う。

 でも殺風景だ。物がない。
 あるのは机とベッドと、それからアップライトピアノ。

 これではとてもじゃないけど退屈しそうだ。
 漫画もないしテレビもパソコンもないなんて。俺には信じられないよ。

「無くても平気。そういう人もいるの」

 こちらを振り向いてチカが言う。

「知ってるよ。でも君はこの部屋から出ないじゃないか。スマホもないんだし。つまんないに決まってる」
「世の中に絶対なんてない。知っておいた方がいいと思うわ」

 彼女の表情のない目が、じっと俺を見つめた。


 これが俺の幼馴染。
 白く整った顔。でも陰のある表情。暗く沈んだ空気を纏う。
 目は澄んでいるのにきっと何も映してはいない。

 率直に言って美人だよ。
 ただし病的な部類のね。
 たとえるなら死体のような美しさ。
 人を近づけない雰囲気があるんだ。

「ありがとう。病的、の前に多分褒めてくれてたんだと思っておく」
「悪いね」
「いいの。悪いといえばわたしが一番悪いみたいなものだから」


 そしてこれが彼女が持つ超能力だった。
 彼女の容姿を説明するより言動を羅列するより、これがよほど彼女自身だと俺は思ってる。
 つまりは彼女の枷。

 チカはテレパシー能力者だ。
 人の思考を読み取れる。
 ただし制約があって、読み取るのはすべての思考じゃない。制御もできない。
 ネガティヴな感情が付与された思考。それが無制限に彼女の頭に飛び込んでくる。

 そのせいで彼女はこの部屋から出られないと、そういうわけ。


 俺は幼馴染を養っている。
 彼女の味方は俺だけだ。

つづく

期待

これは面白そう

期待


 相手の悪意しか感じ取れないテレパシスト。
 チカはかつて、自分を指してゲスパーと嘲った。


 物心ついたときにはもうそれはあったらしい。
 ただ、今よりずっと力は弱かった。
 相手のネガティヴな感情がほんのりと伝わってくるくらい。
 人よりちょっと勘のいい子っているもんだけど、チカがちょうどそれだった。

 でも次第に能力は強くなっていき、今では相手の無意識の悪意すらわかるんだとか。
 そんなわけだから普通に生活できるはずもない。
 中学をなんとか卒業して以降、彼女は一歩も外に出ていない。


 当然チカの親は困り果てた。
 父親は単身赴任中だったから主におばさんがおろおろしていた。
 というよりほとんど泣きそうな勢いで、毎日うちに相談に来ていた。

 でもね、言っちゃあなんだけど、おばさんは泣き言を言うばかりでさ。
 母さんも母さんで意味ある助言をできるわけでもなかったし。
 そこで俺が頃合いを見てそこに入っていったわけ。

 俺がなんとかしてみるよって。


 そのころチカはおばさんとちゃんと話をしていなかった。
 食事すらあまりとらなくなっていて、とにかく何か食べさせる必要があったんだ。

 そしておあつらえむきなことに俺は料理が割と好きだった。
 得意というほどではないけれど、でもとにかく好きだったんだ。

 高校に入ってからもチカの部屋はたびたび来ていたし、だから緊張することはなかったんだけど。
 それでもその日は何を言おうかぐらいは考えた。
 まああまり気の利いたことは思いつかなかったよ。

「シチュー作ったんだけど食べる?」

 ドアの隙間から顔をのぞかせて、チカは小さくうなずいた。
 その時点で俺が彼女の世話役に決まったってわけ。

つづく


 それから時は流れて一年ちょっと。つまり今。
 思ったような進展を得られずおばさんは少し焦ってる。
 でもまあ忙しくてこの時間めったに家にはいないので、とりあえず俺は放っておいている。

「カレーどんなもん?」
「おいしい」

 座卓の向かいからそう告げるチカはあまりに無表情で、俺は思わず笑ってしまった。

「それ絶対おいしくない顔だって」
「でも本当だもの」
「じゃあもっとおいしそうな顔しようよ」
「無理」

 ますますむっつりと彼女はつぶやく。
 でもおかわりをと皿を差し出してきたので、とりあえずは信じてやることにした。


 食事が終わる頃、俺は鞄から本を数冊取り出した。

「そういえば頼まれてたの持ってきたよ」

 俺の手のそれを見上げて、彼女の目がわずかに輝いた。
 こういうときは悔しくなるね。
 チカは俺の料理じゃこんな顔をしないんだ。
 なんだかものすごく負けた気分。

「ありがとう」

 彼女は受け取って、中身をあらため始めた。

「それでいいよね?」
「問題ないわ」

 もうすでに半分生返事。
 俺は苦笑しながら皿を持って部屋を出た。


 彼女の読む本は多岐にわたる。
 一番多く読むのは、というか使っているのが参考書の類。
 中学の頃から十分に授業を受けられなかった彼女だけど、いつも勉強しているので多分俺より頭はいい。

 もしかしたらもう大学受験レベルにはあるんじゃないかなあ。
 確かめることはしないし、もしそうだったことが分かってもむなしいだけなんだけどさ。
 通うことのできない大学に受かることだけわかるなんて、そんなに悲しいことってないよ。


 他にも雑誌から新聞、分厚い学問書まで何でも読む。
 小説はもちろん読むし、古典最新ベストセラーえり好みなんか一切しない。

 本は彼女の「こんな感じの本が読みたい」をもとに俺が見繕ってくることになる。
 チカには具体的な本の情報を得る手段がないせいだね。
 おかげで俺はレファレンス能力だけ異様に上がってしまったというわけだ。

 彼女は俺が買ってくる本借りてくる本に文句は言わない。
 ただ受け取って、黙々と読みふける。


 一度彼女に聞いたことがある。

「一番好きな本ってどれ?」

 チカは迷わず机の上を指さした。
 ずっと前からそこにあった本だ。
 もっと分厚くて難しそうだったり深みがありそうなのを何冊も読んでいる彼女には、ちょっと意外な感じの本だった。

 何の変哲もない文庫本。
 普通のよりもやや薄い。
 表紙には少女と白いピアノの絵。

 題名は、『ホワイト・ピアノ』


 パラパラっと読んでみた。

 昔好きだった人が引っ越してしまった女の子が主人公。
 喧嘩別れをしたせいで、もう誰も好きにならないと決め込んだ。
 心が凍ったセンチメンタルガールというわけだ。

 題名のホワイト・ピアノは作品の中に出てくる絵本の名前でもある。
 魔法をかけられて、雪と氷でできたピアノに眠っているお姫様。
 熱い心を持った王子がそのピアノを弾くことで、彼女は長い眠りから目を覚ます。

 そして幸せなハッピーエンド!
 最後まで読んでないけど多分主人公の女の子の方もハッピーエンド!
 きっと凍った心を例の彼にとかされて。

 なんて陳腐な話だろう!


 本当にこんなのが好きなの、と聞くと、チカは迷いもなくうなずいた。

「素敵な話だと思うの」

 まあ彼女がそう思うのもわからないでもないよ。
 チカもきっと心が凍ってるんだ。
 そして誰かの助けを待っている。

 救われるのを待っている。


 俺はそれがなんだか腹立たしい。

つづく

おつ
主人公は氷のピアノ扱いってことだもんな


「じゃあ風呂沸かしてあるから入ってから寝なよ」
「うん」

 小さく手を振る彼女を背後に部屋を出た。
 荷物を背負って玄関をくぐる。
 七時を過ぎて、外はすでに暗かった。

 今日の任務はこれで終わり。
 後は家に帰るだけ。
 疲れたってほどじゃないけどさ、身体はちょっと重いんだ。

 振り向いて見上げると、チカの部屋の明かりがこぼれてる。
 じっと見上げて、ため息をついた。

「やあんなんだか甘酸っぱい感じー?」


 突然の声だったんで驚いた。
 門扉の方を見やるとそこに肘をついて、見覚えのある人影が身を乗り出していた。

 派手な金髪と何を塗ってるんだかつやっつやで目立つ唇。
 制服も着崩して、不真面目を人の形に押し込めた感じ。

 正直これと知り合いだなんて嫌なんだけどな。
 でも仕方ない。人生にままならないことなんていくらでもあるよ。
 俺はため息をついてそちらに向き直った。

「メイコか」
「いよっす、元気?」


 メイコは俺のもう一人の幼馴染だ。
 小学四年ぐらいのころ近くに引っ越してきて交流が始まった。

 ……というのはあまり正確じゃない。
 俺が教室でチカと一緒にいるところに、こいつが勝手に割り込んできたんだ。

「あんたが今注目のエスパーちゃん? 噂はかねがね聞いてるよー」

 唖然とした。
 誰もが何となく避けてきた話題に、こいつはなんの気負いもなく踏み込んできたんだよ。
 それもわざわざ隣のクラスから。

「わたしはメイコ。メーって呼んで。そっちはチーって呼ぶよ。いいよね?」

 俺たちは返事もできないままメイコを見上げた。
 思えばその頃からもうこいつはこいつだったんだ。


「ヒロはなに? 今日もチーの世話?」

 俺は無言でメイコに近づいていった。

「なん? 怖い顔しちゃってさ」
「何しに来たんだよ」

 俺が言うと彼女はへひひと笑う。

「用事がなくても来るときは来るよお」
「用事があってもお前は来るな」
「なんで?」
「迷惑だからだ」
「なるほど。そだね」

 案外素直にうなずきやがる。


「でもさあ今日のピアノがちょっと寂しそうだったから」
「ピアノ?」
「うん。夕方。大丈夫かなって」

 俺は顔をしかめる。
 適当なこと言うなよ。
 ピアノの音なんかで人の気持ちが分かるわけないだろ。

「チーは元気?」
「お前が心配するようなことじゃないよ」
「心配なんかしてないって。ちょっと様子見にきただけやしー。愛玩動物はちゃんと愛でんきゃね」

 俺の怪訝な視線に、メイコは再びへひひと笑った。

「だってチーちゃんってばめっちゃ可愛いじゃんさ!」
「わかったからさっさと帰れよ」
「はーい」


 くるんとこちらに背を向けて、メイコはゆっくり歩き出した。
 はあ、と俺は息をつく。
 少し相手しただけなのに、なんて疲れる奴だろう。

「あんたも大変だね」

 見るとメイコがこちらを振り返っていた。

「誰かのせいでね」
「ずっとあの子の世話してくつもり?」
「できる限りはね」
「そ」

 会話はそこで途切れた。
 なのに彼女は立ち止まったままだった。
 こちらを見たまま何も言わない。
 なんだよ?


「やめちゃえばあ?」
「は?」
「いやいやでやることじゃないよ」

 ……こいつは一体なにを言っているんだろう。
 虚をつかれてぼーっとしていると、メイコはひょいと肩をすくめた。

「ごみん。冗談」

 そして今度こそ夜の闇へと消えていった。

「末永くお幸せにどうぞねー」


 そのことを思い出したのは決してメイコの影響なんかじゃない。
 あいつは全然関係ない。
 あの日の記憶にはあのバカは登場しないしさ。

 その小さな女の子は俺の目の前で泣いていた。
 その子には、世界がとても尖って見えるらしかった。
 少し動けば肌を切られて血がにじむ。
 そんな残酷な世界を生きるには、彼女はあまりにも頼りなかった。

 だからさ、いやいやなんかじゃないんだよ。
 俺はこの子を心から守りたいと思ったんだ。

 頭に手を置いてやると、その子はびくりと少し顔を上げた。
 上目遣いの震える瞳に、俺は優しく笑いかけた。

「泣かないで。そんなに怖がることないだろ?」

 きょとんとした彼女の鼻を人差し指で押してやる。

「ほい、元気スイッチ。ぽちっとな」

 それでイチコロだったさ。
 彼女が笑ったその瞬間。
 俺はなんだか泣きたくなった。

つづく

いいですね

メイコから噛ませ良ヒロイン臭がする


 その日はなんだか変な夢を見た。
 その夢で、俺は猛烈に怒ってるんだ。
 敵がいて、そいつは悪者で、だから俺は立ち向かうんだ。

 どういうことだか知らねえけどよ、お前に俺の何が分かる。
 こっちの気持ちも知らないくせに知った風な口をきくんじゃねえよ。

 ふざけんな。ふざけんな、ふざけんな。
 ふざけんなふざけんなふざけんな!
 俺の中を覗き見るんじゃねえ!

 怒りをぶつけたその先で、敵は急にしぼんでいって、そこで俺は気づくんだ。
 悪者は多分俺なんだって。


 多分そんな夢のせいだと思う。
 俺はすこぶる機嫌が悪かった。

「ねえヒロくん、ちょっといいかしら。チカちゃんのことなんだけどね」
「ごめん急ぐから」
「待ってよ、ねえ、あの子そろそろ――」

 母さんの声を振り切って、俺は外へと飛び出した。
 イマドキの高校生にしてはイイ子な俺は珍しいんだけどねこんなこと。
 それでもイライラしてたから。

 背後のため息を引き離して、俺はずんずん歩いていった。


 ピアノの音が聞こえる。
 優しく緩やかなテンポのメロディーが。
 昨日と違う曲なのに、それでもやっぱりおどおどしてるようなそんな弾き方の。

 俺のイライラはますます積もっていって、胸の奥で暗く渦を巻く。
 すっきりしないのは曇り空のせいもあるんだろう。


「その眉間のシワさ」

 歩く横から声がした。

「なんか虫とか棲んでそだね」

 メイコがにやにやと俺の顔を覗き込んでいた。
 俺は無視して足を速めたけれど、こいつは余裕でついてくる。
 メイコはスタイルだけは無駄にいい。つまり脚も長くて歩幅、広いんだ。

「どしたん? チーにフラれでもしたわけ?」
「ちがうよ」
「じゃあ告られたんしょ」


 思わず足を止めると、メイコはひゅうと口笛を鳴らした。

「へえ! マジ?」
「……何か用?」
「告られた話聞きにきた」
「違うだろ」

 俺は顔をしかめてにらみつけた。
 そんなんでメイコがひるむわけなんかないんだけどさ。

「じゃあガッコに行こうと思ったってことで。珍しく」
「じゃあとか珍しくとか、なんなんだよお前……」
「そしたらあんたが前にいたから」


 俺は額を手で押さえた。

「昨日今日と連続でこいつに会うなんてついてないな……」
「聞こえてるよー」
「昨日今日連続でお前に会うなんてついてないよ」
「だろうねえ」

 メイコは怒ることも悪びれることもない。
 ただへひひと笑うだけ。

「あんたが何に怒ってるかは知らないけどさ」
「うん?」
「チーにだけは当たらないようにね」

 分かってるよそんなこと。


「じゃああたしはこの辺で」

 と言って彼女が歩き出したのは駅とは反対の方向だ。
 メイコがどこの高校に通ってるかは忘れたけど、俺の知ってる範囲の高校は、この先の駅経由でなければ通えない。

「学校行かないのか?」
「うん。いや、ちょっと体調が悪くなったとかそんな感じで」
「なんだよそれ」

 俺は呆れたけれど、メイコは後ろ手に手を振りながら歩いていくのみだ。

 まあ、ああいう不真面目な奴には関わらないに限るしな。
 もう気にしないことにして、俺は駅への道を再び歩き始めた。

つづく


 座卓に料理を並べる俺を、チカの視線がずっと追っていた。
 今日の夕食は豚の生姜焼き定食。のお手軽版。
 それでも俺にしては頑張ってる方で、最初はそれに目を奪われてるんだと思ってた。

 でもいただきますをしてからも、チカはちらちらとこちらに視線を飛ばしてきていてさ。
 なんだろうと思って視線を返すと、チカは目を伏せてしまう。
 目を離すとまたこちらに視線。目を戻すとチカはまた目を伏せる。

「なに?」

 苦笑しながら尋ねると、チカはそっ、とご飯茶碗を置いた。

「なんか……ヒロくん、怒ってるなって」


 俺は軽く息を詰まらせた。

「俺の……」

 俺の心を読んだ?
 そう聞こうとして、でも言葉に出す前に俺は言葉を切り替えた。
 何となくそういう質問は避けることにしている。
 聞いてはいけないことは、聞いてはいけない。

「俺、そんなに怒ってるように見える?」
「……ええ」

 チカのうなずきは、ためらいがちではあったけど、確信のこもったものだった。

「なんか、嫌なことでもあったの?」

 あったとも言えるしなかったとも言える。
 どうなんだろうねそこんとこ。
 正直自分でもわからないよ。


 でもさ、チカはその手の無意識ネガティヴも察知してしまうのが能力なわけで。
 俺は下手に隠さないことにした。

「実はさ……うちの母さんがさ、君のことで話があるって言ってたんだ」
「……どんな話?」
「さあ。学校行くからって途中で出てきちゃったから。今日家に帰るのが億劫だなあ」

 笑って言ったけど、チカは笑い返してはくれなかった。


「多分……もうそろそろ君を外に出すべきじゃないか、とかそういう話だと思うんだ。母さんもおばさんも焦ってるから」

 チカがうつむく。

「でも大丈夫さ。俺がいる限りそんな真似はさせないよ。だから安心していてくれれば――」
「やっぱり、外に出た方がいいわよね……」

 ひゅっ、と。俺の喉が小さく音を立てた。


「なに言ってるんだ?」
「だってそうでしょう? わたしが我慢して外に出ればいいだけの話だもの」
「我慢しなきゃいけない時点で何かが間違ってるんだよ。君は特殊だ。よく知りもしない奴らに口を挟まれるいわれはないよ」

 実のところ母さんもおばさんもチカの能力については何も知らないに等しい。
 彼女がそれをひた隠しにして生きてきたからだ。
 ひた隠しにしなければ生きられなかったからだ。

 それでも彼女は身を乗り出してきた。
 手をついた座卓が小さく揺れた。

「でもわたしは……!」


「いいんだよ」

 俺はチカの目を真っ直ぐ見据える。
 頼りなく震える瞳がそこにある。

「君は俺が守る」

 彼女の目に涙がにじんだ。

「でも、わたしは……」

 俺は、こちらからも身を乗り出してほほえんだ。

「ほら、泣くなよ。元気スイッチ押してやるからさ」

 彼女の形のいい鼻の頭。人差し指で軽く押した。


 なんにしろ、だ。

 チカは外に出ることができない。
 どうあがいたところでだ。

 俺は覚えている。
 一度、彼女が外に出ようとしたあの日のことを。


「待って!」

 その日、チカは俺を追って外に出た。
 夕方だ。赤い日の光が空から差していた。

「チカ?」

 振り向くと、彼女は必死な顔でこちらに駆け寄ってくるところだった。 

「わたしも行く!」
「え?」
「わたしも一緒に行く!」


 ……どこにいくんだったっけ。
 それはちょっと覚えてない。
 でもその話をしたらチカが熱心に聞いていたのを覚えてる。

 それでなんだろう。
 自分も行きたいなんて言いだしたのは。

「チカ……外に出て大丈夫なのか?」
「平気。何ともない」

 そうは言うけれど、彼女の顔は蒼白だった。

「だからわたしも」

 その瞬間、彼女は体をくの字に折ってうずくまった。
 悲鳴が上がる。細く悲痛な声が。
 耳を押さえて泣き叫ぶ。


「やだ……嫌。嫌! やだあ!」
「チカ、チカ!」

 俺は慌てて彼女を抱き起して家の中へと連れて行った。
 部屋のベッドに寝かせて水を持ってきてやる。
 コップを手に虚空をみやる彼女の背中をさすっていると、ぽつりとしたつぶやきが聞こえた。

「泣きたい」

 そういう彼女の頬にはもう涙が一筋こぼれてたんだけどさ。
 俺は黙ってその背中をさすり続けた。


 俺は胸が苦しくなるのを感じた。
 彼女は外に出ることができない。
 その事実を目の前に突き付けられて。

 でも。
 そのことにどこか安心している自分がいることにも気づいたんだ。


 何にしろだ。
 やっぱりよく知りもしない奴らに口を挟まれるいわれはない、このことだけは確かなんだよ。

つづく


 学校が早く終わった日、空いた時間で本屋に寄った。
 チカが気に入りそうな本や、料理本を見るためだ。

「……」

 どうにも頭に昨日のチカがちらつく。

『外に出たほうがいいわよね』

 なんだか腑に落ちないような、気に入らないような。


 チカは外に出なければならないというプレッシャーを抱えているんじゃないだろうか。
 そんな必要はないのに。
 チカが外に出られないのは仕方のないことなのに。

 でも彼女がそう思ってしまっているのならば俺にはどうしようもないことだった。
 だからせめて、いい本やおいしい料理で気を紛らわせてやりたかった。


 料理本をペラペラやっていたその時。
 後ろから急に声がした。

「あらあ、チーさんの旦那さんじゃない!」
「え?」

 振り向く先には派手な金髪。

「遠くからお見かけしてまさかと思ったんですけどやっぱりでしたねえ、お元気ですう?」
「……」
「今日はお仕事早く終わったんですねえ」
「……なんなの?」

 俺はたまらずメイコに尋ねたよ。
 メイコは「ン?」と片眉を上げた。

「別に。ノリ」

 何のノリだろう。


「どしたん? こんなとこにいるなんて珍しいじゃん」
「別に珍しくはないだろ。お前の方が珍しいじゃん、本屋なんて」
「そだっけ」

 並んで本をめくりながら言葉を交わす。

「何読んでるん?」
「見ての通り料理本」
「なんか作るん?」
「まあその予定」

 俺はちらりとメイコの本に目をやった。

「そっちは何を?」
「星」


「星?」

 言葉を繰り返すと、メイコは得意げににやりとしてこちらに本を広げた。
 なんだろう、星の写真が一面に伸ばされている。
 隅の方には望遠鏡の写真も写っていた。

「……天体観測?」
「あーたり! 褒めてあげよう」
「いらないよ」

 頭に伸びてくる手を払いながら俺は聞いた。

「でもなんで天体観測なんか」


「好きだからだよ」
「ん?」
「どうしても好きなものってあるじゃん。仕方ないってあきらめちゃうくらいにさ。あたしの場合、星がそれ」

 ふうん、と俺は曖昧に返事する。

「まあ、あんたにとってのチーの世話みたいなもんだね?」
「は?」
「好きで好きで仕方ないんでしょ。違うの?」

 俺はふと口をつぐんだ。
 それを見て、メイコは小さく微笑んだ。
 どこか寂しそうに。

「違うんだ。やっぱりそっか。そだよね」


「なんだよ」

 思わず声が大きくなった。
 でも言わずにはいられない。
 どういう意味だよそれ!

「じゃあやっぱり好き? 愛してる?」
「そ、そんなはっきり聞く奴があるか」
「ここにいるじゃん」

 あっさり言ってメイコは続ける。
 からかいの言葉、あるいは俺にとって致命の言葉を。

「そんなに愛してるなら全人生預かっちゃえばあ? 結婚とかどうよ。みじめだけど」

 みじめだけど。


「……それは一体どういう意味だ」
「別に」

 言って、メイコは棚に本を置いた。

「あたし行くね」
「待てよ」
「今日の夕食さ!」

 俺の手の料理本を示す。

「そこに載ってるのがいいと思うな」

 思わず目を落とすと鮭のホイル焼きが載っている。
 再び目を上げたときにはすでにメイコは歩き出していた。
 声をかけるには少し遠い。


 俺は棚を振り向いた。
 そこに天体関連の本がある。
 もちろん先ほどメイコが読んでいたものだ。

 料理本の間に挟まって、それだけが周りから浮いていた。

つづく

乙。この雰囲気好き


 鮭のホイル焼きが座卓の上に乗っている。
 自分で作ったその夕食に、俺は手を付けることができずにいた。

「ヒロくん?」

 チカが心配そうに俺を覗き込む。
 俺は首を振った。

「何でもないよ」

 ネガティヴな気持ちは読まれると分かってはいたけれど。


 みじめだけどね。

 メイコの言葉が頭をぐるぐる回っている。
 あれは一体どういう意味なんだろう。

 その答えがどうしてもわからない。
 けれどもなぜかもう知ってもいるような。

 もどかしい。


「……今日、メイコに会ったよ」
「メーちゃん?」

 今日というよりか最近は結構よく出くわすんだけれど。

「メーちゃん何か言ってた?」
「……」
「ヒロくん?」
「あいつ、口を閉じてることの方が少ないから、まあいろいろ言ってるよ」

 チカがちらりと笑った。

「そうだね。メーちゃんはおしゃべりだもんね」
「うん、そうだねー」

 俺の返事ではない。


「え?」

 俺とチカは思わず二人して部屋のドアの方へと目をやった。
 薄く開いている。

「駄目なんだー二人とも。人の悪口を本人のいないところで言うなんてさ」

 メイコはドアの隙間からするりと室内に滑り込んできた。
 それからぱちくりと瞬きする。

「どしたん? 二人とも」
「…………なんで?」

 チカが尋ねる。

「チーに会おうと思ったんだよ」
「……もしかして、玄関の鍵、開いてたか?」
「うん」


「マジか……」

 大きくため息をついて額を押さえる。

「気をつけなよー泥棒入っちゃう」
「もう手遅れだ」
「じゃああとは盗まれるだけだね」

 確かにな。俺は顔をしかめてメイコをにらんだ。
 後はこいつに蹂躙されるだけだよこれ。

「ま、久しぶりってことで。飲みながら話でもしましょうや」

 メイコは手にしていたビニール袋を掲げた。


「ちょっとならいいじゃーん! 絶対わかりゃしないってー」

 すがりつくメイコを追い払いながら缶ビールを排水口に捨てる。

「ああ……あたしの愛しいアルコールちゃんたちが……」
「うるさい。ていうかお前まさか常習的に飲んでるのか?」
「そんなわけないじゃん」

 ならいいけど。

「三日に一回は飲まない日もあるよ」

 ダメじゃんか。


 代わりに普通のジュース類で乾杯した。

「で、どうなん二人とも。一体どこへんまで進んでるん?」
「進んでるって?」
「もうキスは終わってるとして」
「終わってない」
「もう押し倒したりはしたわけ? チーってどんな感じなの? ヤってる最中」

 俺は半眼でメイコを見据えた。
 目の端で顔を真っ赤にしたチカが小さく口をパクパクさせている。

「結構あえぎ声大きいの? それともマグロ?」
「知らないよ。キスもしてないって言っただろ」
「キス飛び越してヤるとかケダモノ」
「違う」
「それよりあんたアッチの方は上手いの? どうなの? ねえねえ」


 詰め寄ってくるメイコを押し返してチカの方を向く。

「チカ、こいつ、将来天文学者になりたいらしいよ」
「天文学者?」

 チカは目をぱちくりさせながらメイコを見た。

「えー違うよー」

 メイコは顔をしかめて首を振る。

「別に照れるこたないじゃないか」
「だって違うもん。わたしはただ星を見るのが好きなだけなん」
「仕事にはしないってことか?」
「イエス。そんなめんどくさいのはノーサンキュー! ってね」


「メーちゃんは、星が好きなの?」
「そーだよ。きらきらしたものが大好き。二連星とかたまんないよね」
「二連星?」
「二つ一セットの星だよ。あんたたちみたいな星ー」

 チカが息をのむ。「わたしたちみたいな……」、そうつぶやいたのが聞こえた。

「何ハズいこと言ってるんだ」
「チーはどんなものが好き? ヒロ以外で」

 俺を無視してメイコはチカに尋ねる。
 チカは少し考えて、答えた。

「わたしは……海」


 その瞬間、俺は何かを思い出しそうになったんだ。
 何だったっけ。
 かなり大事なことだった気がするんだけど。

「海? なんで?」
「……分からない。でも好きなの」
「ふーん。まあそういうのってあるよね。なぜだか好きでたまらないの。あれかな、魂にでも刻まれてるのかな」

 どうかしら。微笑みながらチカはこちらをちらりと見た。
 俺はきょとんとしたけれど、チカは特に何も言わなかった。
 メイコはそれに気づいていて、小さく茶々を入れてくる。

「なあに? 夫婦で愛のコンタクト? ウザいからどっか他でやってくんないかなー」
「自分からやってきたくせによく言うよ」


 それから一、二時間ほどだべって過ごした。

「あれよ、あたしは高校ハネったら東京出るんて。で、部屋借りてヒモ男飼いながら時々星を見るんよね」
「必要か? ヒモ男」
「生活費はどうするの?」

 俺とチカがそれぞれ尋ねると、メイコはおおむね一言で答えてみせた。

「さあ? 決めてない」

 んな適当な。


「じゃあヒロは高校卒業したらどうするん?」
「俺? 俺は……」

 いきなり聞かれて答えがすぐには出てこない。
 仕方ないからもごもごと答えたよ。

「地元で就職……かな」
「へえ、いいじゃん」

 絶対貶してくると思ったのに、メイコは意外にもそんな風に言った。

「……本当にそう思ってる?」
「うん。自分の分際を知ってるのはいいことだよ」

 こいつめ。


「チーは?」
「え?」

 急に聞くのでどきりとした。
 遠慮もためらいもありゃしない。

「チーは今後どうしたいのって聞いてるの」
「わ、わたしは……」
「ちょっとさ。メイコ」

 俺はそれとなくたしなめようとした。
 聞いてはいけないことってのはある。

 だがメイコは遠慮なんて一切しなかった。

「何? あたしは聞いて当然のことを聞いてるつもりだけど」
「けど」
「それとも何? チーには今後なんてないなんて言うの? そんなわけないでしょ。死ぬんじゃあるまいし」


「……でも聞き方ってもんがあるだろ」
「それはごめんだわ。あたしバカだから気の使い方なんてわかんねーよ」

 ケッ、と顔をしかめてメイコは言う。

「正面から尋ねる礼儀しか知らないんだ」

 ぐっ、と俺は詰まった。
 確かに一理は、ある。
 チカはこれから、どうなるんだ。どうしていくんだ。
 これは逃げられない問いなんだ。


「それでもやっぱり――」

 言おうとした俺をチカがそっと手で遮った。

「わたしは」

 そこで一度うつむく。
 だがしっかりと顔を上げてメイコを見据えた。

「わたしは正直どうなるのかわからない。どうできるかもわからない。でもこうしたいというのはあるわ」
「どんな?」
「ブレイクスルー」
「うん?」
「殻を破るの」


…………


「それじゃああたしはこの辺で」

 玄関をくぐりながらメイコが言った。

「ああ」

 俺は暗い声で答えた。
 それに気づいてメイコが笑う。

「何ー? むっつりしちゃってさ」
「いや……」

 口ごもっていると、彼女は引き返してきて俺の肩を叩いたんだ。

「まあそんなに気負うなって」
「……誰のせいだよ」


 恨みがましくにらむ俺に、メイコはにやりとしてみせた。
 そして玄関から出ていく。

「チーは変わらないね」
「え?」

 一言を残して。

「相変わらず、すごく外に出たがってるよ」

 ばたん。
 静かに閉じた玄関のドアを見つめて。
 俺は呆然と立ち尽くした。


 王子を待ってる眠り姫。
 心の凍った女の子。
 ホワイト・ピアノは目覚めのメロディーを奏でる日を待ちわびて。

 その先のハッピーエンドに、俺の居場所は存在しない。

つづく



主人公はお姫さまを救う勇者なのか、それとも拐かした魔王なのか…


…………


 小さい頃に一度、うちに離婚の危機ってやつがやってきたことがある。
 なんでだったのかは詳しく教えてもらえなかったし、聞かされても困惑する以外なかったろう。
 まあとにかく、家族はそのころ静かな緊張状態にあって、俺にはすごく窮屈だった。

 俺のいい子としてのルーツはそこにある。
 いい子にしてれば母さんたちが少しでも笑ってくれると思ってたのだ。

 実際母さんは俺の孝行を喜んだ。
 俺はすごく頑張った。
 洗いものも手伝ったしゴミ捨てもやった。
 お風呂洗いもトイレ掃除だってやっていた。

 欲しいものは我慢した。嫌なことにも文句は言わなかった。
 ひたすら親の機嫌をとったんだ。


 その甲斐あってかどうなのか、結局親の離婚はなくなった。
 それはもちろん嬉しかった。

 でも、その頃にはもう、俺の中に恐怖は植えつけられてしまってたんだ。
 いい子でないと悪いことが起きる。
 俺の心にそんな棘が突き刺さって抜けなくなっていた。

 俺はいい子じゃないといけないんだ。
 そうじゃないと、そうじゃないと……

「そんなに怖いの?」

 綺麗な目が俺を見つめていた。


 ああそうだ、チカはその頃すごく可愛かった。
 今でも美人だけど、隣に引っ越してきたばかりのその頃はもっときらきらしていて、エネルギーがあったんだ。
 そんな彼女が言った言葉が俺は今も忘れられない。

「そんなに怖がることないわ。大丈夫。安心して」

 花が咲くように、彼女の笑顔が咲いた。

 なのに。
 俺の中では瞬時に怒りが爆発した。

「お前に何が分かるんだよ!」


 唐突に心を読んだように言い当てられて、俺は怖がったんだと思う。
 怯えて、威嚇したんだと思う。

「ふざけんな! 分かったように言うな!」

 チカは呆然とした後、その目にじわりと涙を浮かべた。
 ぽろぽろと涙をこぼしだす。
 静かに、静かに、しずくがこぼれて落ちていく。

「ごめん、なさい……」

 俺は慌てて慰めた。
 その時初めてチカの能力のことを知った。


 そして思った。
 この子は俺が守らなければならないと。

 だってこの子は脆いから。
 誰かが支えていないと駄目だから。


 もう一つ。
 俺の弱さを知るこの少女は、決して外に出してはいけない。


…………


「ヒロ君、ちょっといい?」

 学校が終わって幼馴染の家に向かうとなると、自然自分の家の前を通ることになる。
 いつもなら普通にチカのところに直行するんだけど、その日は家の前に母さんが待っていた。

「……何?」

 俺は苦味のある予感をかみしめながら問い返した。


 家のリビングのテーブルに着いて、俺と母さんは向かい合った。
 母さんの表情は硬く、暗い。
 切羽詰まってるといってもいい。

 その時点で俺はもう、どんな話が始まるか知っていたのかもしれない。

「あなたまだ……チカちゃんのところに行くつもり?」

 母さんが探るように慎重に言った。
 俺は特に気負うことなく返した。

「そうだよ? なんかまずい?」
「まずいっていうか……」

 母さんは言いよどむ。

「いえ、まずいんじゃないわ。でもこのままだとよくないでしょ」


「確かにそうかもね。でも他にどうできるって言うのさ。あいつだって苦労してるんだよ」
「分かってるわ。分かってるけど……」

 俺はイライラし始めていた。
 分かってるならいいじゃないか。それ以上何を望むんだよ。

「焦るのは分かるよ? でも焦るだけじゃ何もならないよ。下手に手を出してこじれたら元も子もないじゃない。だから……」
「わたしはあなたのためを思って言ってるの!」

 急に母さんが声を荒げた。
 こちらに身を乗り出して、目に強い光を宿して。


「あなたこれから将来を決める大事な時期じゃない。言い方はあれだけど、人のことに構っていられる状態じゃないのよ」

 俺は虚をつかれた。
 母さんは続ける。

「確かに人のことを思えるのっていいことだと思うわ。でもね、それで自分を大事にできないならそれこそ元も子もないのよ」
「……受験のために、チカを見捨てろって?」
「そんなこと言ってないでしょ」

 鋭く母さんが返す。

「ただ、バランスを考えろって言ってるの!」


「でも……でも母さん」

 俺は自分の声がどうしようもなく弱いことに気づいたよ。
 ビビってんのかな。いや違うだろ。
 多分……多分俺は突き付けられてるんだ。
 致命的なものを。

「俺は、チカが」
「そんなにチカちゃんのことが大事なの? 自分を犠牲にしてもいいくらい?」

 俺は……うなずくことができない。

「あなた、別にチカちゃんのこと、好きじゃないでしょ」


 テーブルを強く叩いて。
 意味をなさない怒鳴り声を上げて。

 俺は玄関を飛び出した。


 ピアノの音がする。
 緩やかなテンポのメロディーが。

 曲名はやっぱり知らないけれど。
 その曲はきっと俺を慰めているんだ。

 ピアノの前に座るチカの背中をぼうっと見上げながら、俺は母さんの言葉を反芻していた。

『あなた、別にチカちゃんのこと、好きじゃないでしょ』

「……」


 ぐるぐると頭を巡るこの思い、きっとチカにはバレている。
 それでもチカは何も言わない。
 チカは優しい奴だから。

「……やんなっちゃうよな」

 壁にもたれたままつぶやいた。

「みんなして俺たちのことが気に入らないのかよ……」
「……」

 ピアノの音が止まる。
 チカが小さく振り向いた。

「俺たちってそんなに変なのかなあ……」


 沈黙が落ちた。
 重くはないけどなんだか硬い沈黙が。
 同じくらいけだるくよどむ沈黙が。

 衣擦れの音がした。
 顔を上げるとチカが体をこちらに向けていた。

「出ようか?」

 その言葉の意味は、すぐにはつかめなかった。

「え?」
「わたし、外に出ようか?」


 ぽかんとした後、俺は思わずつぶやいたよ。

「無理だろ?」
「ええ、無理。でもやるの。やってみるの」
「でも、前は駄目だったじゃないか。あんなひどいことになって……」

 発作を起こしたようになったチカを思い出す。

「大丈夫。今度は行けるわ」
「根拠は何だよ」
「今度こそ行けなきゃダメってこと」
「そんなの何の支えにもなるもんか!」

 俺は思わず立ち上がった。


「なんだよ、なんでそんなこと言うんだよ」
「……」
「不満なのか? 俺の世話なんて受けたくないって?」
「違うわ。でも」
「お前なんかが外に出られるわけないだろっ!」

 空気が凍った。
 少なくとも俺はそう思った。

 チカが微笑んでいる。
 寂しそうな笑みだ。

 小さく口を開いて、囁くように彼女は言った。

「それでも、出たいの」


 俺は怒りも悲しみも悔しさも、一切合切をかみしめて外へと飛び出した。
 走る。走り続ける。
 どこまでもどこまでも。息が上がっても汗が噴き出しても。

 でも実際のところはどこまでもなんて無理だ。
 俺は力尽きて道の脇にうずくまった。

 結局この先の海にすら行けなかった。


 力のない体を引きずるようにして道を引き返した。
 答えの出ない問いが燃焼した後の頭の中は、諦めだけが沈殿している。

 なんていって謝ろう。
 その時の俺はそれだけを考えていた。
 でもそれももう必要なかったんだ。

 俺はチカの部屋の入り口に立ち尽くした。
 中には誰もいなかった。

 主を失ったからっぽの部屋は、その分余計に広かった。
 絶望的に、広かった。

つづく


…………


 歩き続けて足が痛い。
 それでも止まらずに探し回る。
 チカを探して歩き回る。

 夜が明けて今日。
 休日だったのは幸いだったのかどうなのか。
 まだチカは見つかっていない。

 このことはまだ母さんやおばさんには伝えていなかった。
 ことが大きくなるだけで何の解決にもならないように思えたからだ。
 それよりは早く見つけて連れ帰るのが大事だった。

 もちろん見つけられるのならばの話だけど。


 家の近所の道、公園、橋の下。
 人気のない場所は大体探しつくしたのに、チカはどこにもいなかった。

 公園に戻ってベンチに座る。
 驚いた。うん、正直驚いたよ。
 こんなに見つからないなんて思わなかった。
 チカに行くところがあったなんて思いもしなかった。

 彼女は持っている力のために人のそばには行けない。
 人ごみなんてもってのほかだ。
 いるとしたらそんなに遠くではないだろうし、人気のない場所も限られるはずなのに。

「なんで……」

 うつむく。
 今日見つけられないのなら、さすがにおばさんたちに報告しないわけにはいかないな……


 ふとピアノの音がしていることに気づいた。
 聞き覚えがある気がする。
 でも少し違う。
 この弾き方はチカのものじゃない。

 俺はいつの間にか立ち上がっていた。
 この音がチカのものでないにしても、俺には大事な手掛かりに思えたんだ。

「いよっす。しっかり切羽詰まってる?」

 いきなりの声の方に顔を向けると、メイコがそこに立っていた。
 何も言えずに立ち尽くす俺に、メイコは近寄ってきてベンチを示した。

「ま、座ろっか」


 ピアノの曲が、穏やかに、緩やかに流れ聞こえる。

「さあて、どこから話す?」
「……チカを知らないか」
「来たよ」

 思わずメイコを見ると、彼女は軽く肩をすくめた。

「なんかひどい顔してたから話聞いた。んで、ひとまずかくまってる」
「お前の家か」

 鋭く言って、俺は立ち上がった。
 メイコの家は知っている。ほんのすぐ近くだ。


「行くの? 行っていいの?」

 俺は無視したよ。
 チカの居場所が分かった以上、もうこいつの話を聞く必要はないし。

「あんた、自分のためだけにチカの世話をしてたんだってね」

 足が止まった。

「情けないね。ひどい話だね」
「お前」
「チーから全部聞いたよ」

 俺は急に足元が抜けたようにふらついた。

「お前、まさか……」
「うん。チーは全部知ってた。あんたの胸の内を全部」


 メイコはマニキュアの具合を確認しながら続ける。

「そりゃそうだよね。チーはエスパーだもん。何でもお見通し。あんたのゲス具合もお見通し」
「それなのに、一緒に過ごしていたっていうのか……?」
「まあ、そうしないと養ってもらえないしね。ああ、いや……」

 すっ、と爪を一撫でしてメイコはこちらに視線をよこした。
 にやりと笑う。

「そうでもないか」
「え?」
「あたしンちさ、マンションじゃん?」

 だったな。

「人が多いとこ。なのにチカは割と平気で過ごしてる」
「それって……」

 俺はすぐにピンと来た。

「そ。チーは必要もないのにあんたに養われてたってこと」


「……なんで」

 俺はそうつぶやくことしかできなかった。

「同情じゃないの?」

 メイコはバッサリ切って捨てる。

「なんにろ言えるのはさ、あんたがチーを養ってたんじゃない。チーがあんたに養われてやってたってことだよ」

 チカが、俺に養われてくれてた……?

「そんな……そんなわけ」
「ま、どっちでもいいよ」

 ベンチから立ち上がったメイコがこちらに近寄ってくる。

「チーより伝言。今は会いたくありません、探さないで下さい。以上」

 そしてすれ違って去っていく。

「――ってわけだからよろしくぅ」

 俺はその声を背中で聞いていた。


 歩いていた。
 歩き続けていた。
 チカを探すという目的もなくしてただ延々と。

 なんだか胸の中がからっぽだった。
 どうしてこんなことになったんだっけ。
 俺が自分のためだけにチカを世話していたから?
 それを隠し通せなかったから?

 それとも、その間違いを正せなかったから。


 ピアノの音は聞こえない。
 ここには誰の呼び声も届かない。
 誰の思いも届かない。

 それでも、耳に打ち寄せる音はあったんだ。

 気づけば海が目の前だった。
 まだ海開き前で人はいない。
 この気温では水の冷たさしか連想できそうにない。

 でも日の光に照らされる水面は、きらきら光って綺麗だった。
 気持ちよく広がる海原は、悩みも何もかも吸い取ってくれそうだ。

「本当に、吸い取ってくれたらいいのに」


 チカの部屋に入って。
 ドアに背中をつけた。

 結局戻ってきてしまった。
 もう何もないこの場所に。
 いや、もちろん机もベッドも棚も前のままなんだけど、何か大事なものはなくなってしまってるんだ。

 ため息をつく。
 ここに残されているのは記憶だけだ。
 それ以外はもう何もない。
 そう、何も。

「……?」

 俺は机の上に何かを見つけてそちらに近寄った。


『ホワイト・ピアノ』

 何のことはない。見慣れた文庫本だ。
 チカの好きな物語。
 でもそういえば、俺は最後まで読んだことはなかった。

 何となく手に取って、表紙をめくった。


…………


 二日かけて読み終わって。
 俺はしばらくその結末の意味を胸の内で転がした。

 思っていたような終わり方じゃなかった。
 王子様が来て終わりの話じゃなかった。
 俺の中で何かがかみ合わなくなった。

 些細な違和感に過ぎないのかもしれない。
 単なる見当違いの願望。

 それでももし俺の予想が正しいのなら、俺は行かなければならない。


 呼び鈴を鳴らしてしばらく。
 中からメイコが顔を出した。

「あ、来た来た」
「その、俺……」
「さ、入りな」

 うつむく俺に構わずメイコは中を示した。

「え?」
「え、じゃないよ。入んないの? あたしゃそれでもいいけど」

 なんなんだ?
 俺は目をぱちくりさせた。


 奥の部屋に通されて。

「ではごゆっくりー」

 メイコはそのまま引っ込んでいった。

「……」

 俺は顔を前へと向け直す。
 そこには見慣れた光景があったんだ。
 アップライトピアノに向かう女の子。
 聞いたこともない曲を弾いている。

 いや、曲が聞いたことがないんじゃない。
 きっとその弾き方が今までとは違うんだ。


「チカ」

 俺が囁くと同時、ピアノの音がやんだ。
 ゆっくりと振り向いて身体をこちらに向け直して。
 チカは静かに頭を下げた。

「ごめんなさい」


 いろいろ言うことはあるんだろう。
 態度も怒るとか心配するとか、そりゃもういろんな選択肢があったと思う。

 でも俺は、やっぱり見当違いのことしか言えなかったよ。

「ホワイト・ピアノ」
「え?」
「読んだよ、ホワイト・ピアノ。最後まで」

 真っ先に話すこととしてはずいぶん素っ頓狂なことだ。

「絵本のお姫様は知らないけれど、主人公の女の子は心が凍ってなんかいなかった」
「うん」
「周りの人との交流でそれに気づいた女の子は、自分で大事な人に会いに行くんだ」
「……うん」

 そう、氷と雪のピアノには彼女と彼がついていて、並んで一緒に弾いている。
 柔らかい雪解けのメロディーを。


「……」

 チカの瞳が真っ直ぐに俺を見つめてきた。
 彼女は小さく口を開く。

「主人公の女の子は心を凍らせてなんかいなかった。そしてきっと、それはわたしも同じなの」
「それは……?」
「わたしの心も凍ってなんかいなかった。この能力なんて関係ない。わたしはいつだって外に出られたのよ」

 それは俺のせいなのかい?
 舌に苦味が広がったよ。
 罪悪感の味。

「違うわ」

 心を読んでチカは首を振る。

「わたしはいつだって外に出られた。でも変わってしまうのは怖かった」
「……何が?」
「ヒロくんとのいろんなものが」


 ガツンと頭を殴られたような衝撃が走った。
 チカは声を絞るようにして続ける。

「でも、わたしがヒロくんと本当の意味で前に進むには、外に出るしかないから……! 分かってたのに」
「……俺はチカを閉じ込めた張本人だよ」
「わたしがメーちゃんを好きなのは、メーちゃんが前向きなことも後ろ向きなことも隠さず口にするから」
「……え?」

 唐突に変わった話向きに、俺は置いてけぼりを食らいかけた。

「素直な人って怖くなくていいわ。でもね、どれだけネガティヴな思いを隠し持っててそれがわたしに突き刺さっても、どうしても嫌いになれない人がいるの」

 チカが微笑んだ。
 目には涙をにじませながら。

「あなたが好きです」


 俺の頬を涙が伝った。
 声を上げて泣いたのは、どれくらいぶりだっただろう。

「俺もやっぱり、君が好きだよ……」


「あれ、帰るの?」

 メイコが玄関に顔を出した。
 俺とチカは並んでそちらを振り向いた。

「ああ。そろそろおばさんたちにも隠し切れないよ」
「ありがとうねメーちゃん」

 化粧の途中だったのだろうか、ところどころべたついたりテカったりしている顔をこすりながらメイコはあくびした。

「いんや気にしないどいてよ。あたしも二連星の観察は好きだからさ」

 俺とチカは顔を見合わせた。


 すっかり暗くなって人気のない道をたどりながら俺は口を開いた。

「外はもう平気なんだ?」
「うん。でもすごく我慢してる」
「それって大丈夫なの?」
「ヒロくんと一緒にいるためだから頑張るわ」

 そう言う彼女の体には緊張の力が入っていて、俺は思わず笑ってしまった。

「もし普通に外に出られるようになったらどこ行きたい?」
「海」

 即答だ。

「なんで?」
「昔ヒロくんが教えてくれたのよ。ヒロくんのおばあちゃんの家は海が近いって。すごくきれいな海だって」

 ああ、と俺は思い出した。
 そんなことを話したこともあったっけ。
 そのせいでチカは俺を追って外に出て、発作を起こす羽目になったんだ。


「そっか。行きたいな、海」
「行こう。海」

 手に温かいものが触れた。
 恐る恐るのそれを、俺は優しく握りよせた。
 手をつないで帰る家路、街灯の明かりが冷たかった。

おわり
どうもでした

補足
ホワイト・ピアノは佐藤多佳子さんの『サマータイム』参照

おつ

おつ、すごくよかった
過去作とかあれば教えてほしい

似たようなのだと、
学校からの帰り道、死神に声をかけられた
吸血少女と待つ夜明け
とか書きました

おつ

いやぁ、よかったわ
お疲れさま

乙です

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