真「二人の幸せのために」 (85)


「――ごめん……。ボクの“好き”と雪歩の“好き”はやっぱり違うみたいだ。今更こんな事を言うなんて、ボクは酷いやつだよね……。…………別れよう、雪歩。」

「…………冗談……だよね……?」

そう言って笑おうとする雪歩の顔はひどく引き攣っていて、今にも泣き出しそうに見えた。

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冬も間近、公園には風が強く吹いていた。まだ夕刻で明るさも幾分か残っていたけど、付近には誰もいない。足元を落ち葉がカラカラと小気味よい音を立てながら転がっていった。

ボクらのすぐ側にある噴水はその働きを止めていて、落ち葉を浮かべた水面は少し濁っていた。
春頃に訪れた時には綺麗な放物線を描いて水が噴出していた事を思い出す。
そうだ、あの時もこの噴水が側にあって……ちょうどこの場所で雪歩に告白されたんだっけ……。だからボクは――。

不意に涙が溢れそうになり、それを必死で堪えた。今ボクが泣いたらダメだ。それだけは……。

何故こうなってしまったのか。二人の思い出を振り返っても、幸せな映像しか浮かばないというのに……。


――――
―――
――


――半年程前――

765プロオールスターでの新春ライブが無事に成功し事務所で打ち上げをしている途中、「二人だけになれる場所で話がしたいの。」と雪歩がこっそりと耳打ちしてきた。なにやら重要な話があるらしい。
もう時刻が時刻なので明日ではダメなのか尋ねてみたが、どうしても今日話したいとのことだった。その真剣な表情にボクは頷き、打ち上げ後に近くの公園で落ち合う約束をした。


春とはいえ、夜更けは寒い。打ち上げの後、ボクは体をブルリと震わせながら公園へ向かった。勿論事務所の皆には内緒で。
雪歩は一足先に適当な理由を付けて打ち上げを抜け出していたから公園で待っているはずだ。
この寒空の中雪歩をいつまでも待たせるのは可哀想だと思い、ボクの歩みは自然と早足になっていた。


公園の入り口に着くと奥の方に人影が見えた。
夜中に公園に来るのは初めてだったから知らなかったけど、公園には公園灯がたくさん設置されていて思いの外明るい。
規則正しく並ぶオレンジの光の間を縫って人影に駆け寄る。そこにいたのは、やっぱり雪歩だった。

「遅くなっちゃってごめんね。寒かったでしょ?」

「ううん、そんな事ないよ。私の方こそこんな時間に呼び出しちゃってごめんね…?」

「いや、ボクも気にしてないよ……。そうだ、話って…?」

「そ、それはね……。」

そう言ったっきり、雪歩は俯いて黙ってしまった。時折ボクの目を上目遣いにチラッと見ては、またすぐに顔を伏せてしまう。
なんだかその様子は昔の雪歩を見ているみたいで微笑ましかった。ボクは無闇に言葉の先を急かしたりはせず、黙って雪歩が喋り出すのを待った。


静まり返った公園にはサァー……という水音だけが聞こえ、ふと雪歩から視線を外すと雪歩の後ろに噴水があるのが見えた。
噴水から出た水が放物線を描き、月明かりを反射して煌いている。ボクはしばしその光景に見蕩れていた。

「あ、あのね……。」

数十秒の間を置いて雪歩が喋り出したので、ボクは意識を雪歩に戻す。

モジモジとしていた雪歩はその動きを止め、深呼吸を2回してから言葉を続けた。


「あの…!私……わ、わたし……真ちゃんが……す、好きなの!!」


顔を真っ赤にして目を瞑りながらそう言う雪歩を、ボクは少しの間ポカンとした顔で見つめていた。雪歩は目をギュッと閉じたまま、産まれたての小鹿みたいにフルフルと震えている。

(勿論ボクも好きだよ。)という言葉を喉から出る直前に飲み込んだ。雪歩の“好き”はそういう“好き”じゃない……。それだけの事を言うのならこんな所まで呼び出さなくたっていいはずだ。

“好き”って……やっぱりそういう意味なの?男の子と女の子が付き合う時の……。

急激に頬が熱くなる。

うわぁー……ボク、雪歩に告白されてるんだ……。……どうしよう……雪歩の事は大好きだし、かわいいとも思うけど……そういう目で見た事は無かった。あくまでも親友として仲良くしているだけだった。


あまりにも驚いたせいで雪歩がボクの返答を待っている事をすっかり忘れていた。当の雪歩はいつの間にか目を開いていて、今にも涙が溢れそうな瞳でボクの顔を不安げに見つめている。

雪歩が不安がってる。何か喋らなくちゃ。

そんな思いからとりあえず、「ボクのどこが好きになったの…?」と無難な事を尋ねてみる。

すると雪歩は顔をパァーっと明るくして饒舌に喋り始めた。


「あのね、まず、真ちゃんは私が事務所に入ったばかりで今よりもっとダメダメだった時、私を励まして、『一緒に頑張ろう。』って言ってくれたよね。それがすごく嬉しかったの。
それからもずっと不安な時や苦しい時に真ちゃんが傍にいてくれたから、私、今まで頑張ってこれたんだと思う。本当に感謝してるの。それから、真ちゃんのカッコよさも勿論大好きだし、女の子らしくしようと頑張ってるところも好き。
普段は気丈に振舞ってるけど本当は繊細で傷付きやすいところも、全部全部大好き。それからそれから……

「ちょ、ちょっと待って雪歩。それだけ聞けたら十分だよ。」

ボクは慌てて雪歩から機関銃のように飛び出てくる言葉を止めた。恥ずかしくて気が遠くなりそうだったからだ。こんなに激しく好意をぶつけられたのは、アイドルを始めてからも初めての経験だった。

まだまだ言い足りないのに……、とでも言いたげな表情の雪歩だったけれど、素直に言う事を聞いて黙ってくれた。


ふぅ、と一息ついて、「雪歩の気持ちはよく分かったよ…。じゃあ、ボクの気持ちを言うね。」と言葉を紡ぐ。

雪歩はボクの言葉の続きを固唾を飲んで待っている様だった。


正直、告白された今でもボクは雪歩の事をそういう目では見れていない。
でも、雪歩に告白されて素直に嬉しいと思った。告白されたのなんて生まれてはじめてだし。雪歩はとてもかわいい女の子で、性格も愛らしい。雪歩の言う“好き”とは少し違うけど、ボクも雪歩が好きなことには違いない。今は違っても、時間が経てばボクも雪歩を“好き”になれるはずだ。

それに――……。

「ボクも雪歩の事が大好きだよ。あの、こんなボクで良ければ……付き合おう、雪歩。」

ボクはそう言いながら右手を差し出した。


雪歩は少しの間呆然とその手を見つめていたけど、ボクと同じように、でもおそるおそる右手を伸ばしてきて、ほとんど添えるような微かな力でボクの手を握った。

「本当に……?本当にいいの…?」

「うん。本当だよ。」

「私と……付き合ってくれるの…?」

「うん。付き合うよ。その……ボク、付き合うの初めてだけど……。」テレテレと左手で頬を掻く。

「本当なんだ……。」

そう言って俯いたかと思うと、雪歩の頬を伝って大粒の涙が流れ落ちるのが見えた。

「え?雪歩、どうしたの!?」

雪歩の手を握ったままアワアワと慌ててしまう。今のやり取りに何か悪いところがあったのだろうか?


すると雪歩はボクの手を離し、突然ボクの胸に飛び込んできた。

ボクの胸元に頭を預けて抱きついたまま泣き続ける雪歩になんて言葉をかければいいのかわからず、とりあえず雪歩の背中に手を回して軽く抱き返す。そのまま子供をあやすように、ぎこちないながらも雪歩の背中をポンポンと叩いてあげた。

「……雪歩、大丈夫?」

「…………うん。」

「ボク、雪歩を悲しませちゃったかな…?」

「違うよ……全然違う……。」

「じゃあ、どうして……。」

「……嬉しくて……幸せすぎて、涙が出てきたの。」

「え?」思わず声が出る。それを意に介さず雪歩は喋り続けた。


「私……真ちゃんが好きで……大好きで……。でも、その気持ちを真ちゃんに伝えたら嫌われる、気持ち悪がられるに決まってるって思ってずっと言えなくて……辛かった。」

「……うん。」

「女の子を好きだなんておかしいって自分の気持ちを否定しようとしたけど……それでもやっぱり真ちゃんが好きで、どうしようもなくて……。」

「うん……うん……。」

「だから、今日告白してダメだったら仕方ないって思ったの。もう気持ちを抑えられそうになかったから……。何を言われても泣かないって決めて、心の準備もしてきた。だけど……まさか、受け入れてもらえるなんて……夢みたいで……。」

それからもしばらくの間、雪歩はボクの胸の中でさめざめと泣いていた。ボクも何も言わず、ただ雪歩の涙を胸で受け止め続けた。
雪歩が小さく嗚咽する音と噴水から絶え間なく出る静かな水音、それが公園内にある音の全てだった。



「雪歩」小さな声で呼びかける。


数秒間固まったままだった雪歩は、やがてゆっくりと顔を上げた。


雪歩の顔がすごく近くに見える。距離は10cmもないだろう。
雪歩の大きな瞳から零れそうな涙も、この距離なら鮮明に見えた。月明かりに照らされた瞳はキラキラとしていて、まるで宝石のようだ。


ボクは――雪歩にキスをした。


頭で考えてした行動じゃなかった。まるで吸い込まれるみたいに、自然と体が動いていた。
付き合ったばかりだとか、女の子同士だとか、これがファーストキスだとか……そんな事は一切頭をよぎらなかった。

唇を重ねた瞬間、雪歩が一瞬体を震わせるのを感じたけれど、それからは静かにボクの口付けを受け入れてくれた。

その時間が数秒なのか数十秒なのか、それとももっと長い時間だったのかはわからない。だけど、それはとても幸せで満ち足りた時間だった。


時間が止まったかのように寄り添う二つの影。
そんなボク達を、月だけが静かに見下ろしていた。



**********


付き合い始めたボク達は全てが順調にいっている様に思えた。仕事も、私生活も。


雪歩はボクと両想いになれた事で何かが吹っ切れたらしく、あらゆる仕事を積極的にこなしていった。
「真ちゃんと並んで立てるようになりたいの。」なんて事を微笑みながら言う雪歩に置いていかれまいとボクも常に全力でアイドルの仕事に取り組んだから、ボク達の知名度はグングン上がっていった。


私生活の面では、恋人が女の子だとデートの時にスキャンダルに気を使う必要がないので気が楽だった。
ボクと雪歩はデートの時に手を繋ぐ。こんな事が人前で大っぴらにできるのもボク達が女の子同士であるが故の特権だろう。

手を繋ぐだけなら友達の時にもしていたけど、ただの友達だった時とは手の繋ぎ方が変化していた。お互いの指を絡める繋ぎ方だ。恋人繋ぎって言うんだったかな?
ボクと雪歩の仲が良いことは周知の事だったから、それを皆に不審がられる事も無かった。


デートと言っても、付き合いたての頃は友達の時と同じような遊び方をしていた。ただ、手の繋ぎ方が変わったように、お互いの距離がぐんと近くなりスキンシップが多くなった。
雪歩はボクに触れられるとくすぐったそうに笑う。それがすごくかわいくて、恋人という関係の持つ力に驚いたりもした。

以前の雪歩の笑顔にはどこか陰りがあった。今考えれば、という程度の極わずかなものだけれど、今の雪歩の屈託の無い笑顔を見ていてそれに気付いた。
ボクへの気持ちを押し殺していたせいであんな表情をしていたのだとしたら、やっぱり恋人になれて良かったんだ。――そう思った。


**********



そして、付き合ってから数ヶ月して、恋人という関係だったらいつかは辿り着くであろう場所にボクらも行き着いた。
つまり、その……ボクと雪歩は体の関係を持った。

その話を持ち出したのは雪歩の方だった。


その日――ボクの部屋で肩を並べてソファーに座り、ゆったりとオフを過ごしている時、雪歩が突然ボクにキスをしてきた。
それ自体は何も特別な事じゃない。二人きりの時にキスをするのはいつもの事だし、何の脈絡も無くしてくる事もままあった。キスをするのは嫌いじゃなかったからボクも自然にそれを受け入れていた。

ただ、いつもと違ったのは雪歩がボクの口の中に舌を侵入させてきた事だ。ボクはその感触に驚いて目を見開き咄嗟に頭を引こうとしたけど、いつの間にか雪歩の手に後頭部を抑えられていてそれは叶わなかった。
雪歩の舌が口の中で別の生き物のように動く感触に、ボクは強く目を閉じて為すすべなく終わりを待つ事しかできなかった。


やっとの事で雪歩がボクを離してくれた時、ボクらは息も絶え絶えの有様だった。

「雪歩……どうしたの突然、こんな……。」荒い呼吸を整えながら、動揺する心のままボクは尋ねた。

「真ちゃんは……こういう事に興味ないかな……?」同じく呼吸を整えながら、真っ赤な顔で質問を返してくる雪歩。

「こういう事……?」

「私……真ちゃんの事をもっと知りたいの。付き合えただけでも夢みたいに嬉しくてすごく幸せだったけど……だんだん欲が出てきちゃったみたい……。真ちゃんの事、全部知りたい。心も……体も。真ちゃんと一つになりたいの。その……真ちゃんが嫌じゃなければ……だけど……。」

最後の方は消え入りそうな声で呟いて、雪歩は顔を伏せてしまった。


……ボクは今の関係で十分満足していた。それになんと言っても、女の子同士でそういう事をするっていうのがボクにはあまりピンとこなかった。
でも、雪歩がそれを望むのなら……。

ボクに告白してきた時の様に不安げな顔の雪歩。その表情を見たボクは、自分の考えをまとめきる前に承諾の言葉を口にしていた。

雪歩はボクの答えに少し驚いたような表情をしていたけど、「ありがとう、真ちゃん……。」とはにかんだ笑顔を見せた。

雪歩が笑顔になるとボクも笑顔になる。雪歩が幸せだとボクも嬉しい。

この可愛らしい女の子の笑顔を守ることがボクの役割だと、半ば本気でそう信じていた。


――こうしてボク達は忙しいスケジュールの合間を縫って会っては、デートをしたりキスをしたりキス以上の事もする、そんな関係になった。


**********



「女の子同士でそういう事をするのはあまりピンとこない」なんて言いながらも、雪歩と“そういう事”をするのはすごく気持ちよかった。
積極的なのは雪歩の方で、ボクは基本的に受け身だった。
でも、感じやすい体質なのかボクの方からしてあげると雪歩は大げさに思えるくらいの反応を返してくれる。それが可愛くて、なるべくボクからもしてあげるようにしていた。


雪歩と重なると溶けていく様で、まるで世界にはボク達二人しかいないように思えた。
雪歩の髪も、目も、唇も、指も、言葉も、反応も、全部全部ボクだけのもの。雪歩という存在を独り占めにしている満足感。ベッドの上で雪歩がどんな風に乱れるのか知っているのはボクだけだという優越感。そんな感情が胸の中にあった。
ボク達はこれ以上無いというほど恋人という関係を堪能して、互いを求め合った。



――でも、そんな甘い夢の終わりは唐突に訪れた。


きっかけは雪歩の些細な一言だった。



その日、ボクと雪歩は枕を並べ、身を寄せ合ってベッドで横になりおしゃべりをしていた。寝る前にしばらくの間、お互いの顔を見ながらとりとめのない話をするのが通例になっていた。

「――でね、その時春香ちゃんがね……」

クスクスと楽しそうに話をする雪歩の声を聞きながらふと枕元に置いてある時計を見ると、時刻は12時を大きくまわっていた。

「そろそろ寝ないとマズいね。」雪歩の話に一段落ついたところでそう声をかける。

「あ、もうこんな時間。真ちゃんと話してると楽しくて、時間があっという間に過ぎちゃうよ。」と、ニッコリと微笑みながら言う雪歩。

「ボクもだよ。」と微笑み返す。

「今日は撮影で疲れたから、私ちょっと眠くなってきちゃったかも……。」

口に手を当ててあくびをしてから、眠たげに目を擦る雪歩。

「眠っていいよ。おやすみ、雪歩。」と言いながら、ボクは雪歩の頭を撫でてあげた。

それを受けて雪歩は目を閉じてくすぐったそうな顔していた。猫みたいで可愛い。


十分に撫でてもらって満足した様子の雪歩は、体をモゾモゾと動かしてボクにピッタリと体を寄せてキスをした。
そして、重ねた唇の離し際、幸せそうな顔でこう言った。



「おやすみ真ちゃん、愛してるよ。」



「――ボクもだよ。」



一瞬の間を置いて、ボクはそれに答えた。

その返事を聞いて満足したのか、雪歩は自分の枕に頭を沈めてすぐに寝息を立てていた。


――ボクはと言うと、枕に頭を沈めたもののなかなか眠れなくて、天井を見つめながら今の会話について考えていた。最後のやり取りのことがどうにも頭に引っかかった。

雪歩は気付かなかったみたいだけど……雪歩の「愛してる」という言葉に返事をする時、ボクは一瞬言葉に詰まった。「ボクも愛してるよ。」と言うつもりだったのに、喉で一旦引っかかって出てきた言葉からは「愛してる」が省かれていた。――何故?


…………「愛してる」って言葉を聞くのが初めてだったから驚いたのかな……。
「大好き」って言葉は数え切れないほど二人の間で交わされてきたけど、「愛してる」はボクも雪歩も使った事が無かった。――ついさっき雪歩が口に出すまでは。

“愛してる”……“愛してる”ってなんだろう?雪歩の様子を見るに、雪歩にとっては“大好き”と“愛してる”はほとんど同じ意味の言葉みたいだ。
たまたま今まで使った事が無かっただけで、ボクに「大好き」と言う時は「愛してる」と言っている様なものだったんだろう。

でも……ボクはどうだ?「大好き」とは言える……けど、雪歩に「愛してる」って言えるかな?
…………少なくとも、これまでのボクの「大好き」に「愛してる」の意味が無かったのはたしかだ……。


心の中のガラスの玉が割れて中身が溢れ出した。ジワリ、と胸に暗い感情が染み渡っていくのがわかる。


その不安は最初からあった。だけど、時間が解決してくれるはずだと思い込む事で必死に目を逸らし続けてきた。不安自体が存在しないかの様に振舞ってきた。
…………でも、雪歩が口に出してしまったから……もう見て見ぬ振りはできない。



ボクは……ボクは、雪歩を愛してはいなかった。


雪歩はこの世で一番大切な親友で、でも、それ以上の存在ではなかった。“愛してる”のわからないボクは雪歩と恋人ごっこをしていただけだ。その間に何かがわかる事を期待していたけれど、時間は“好き”と“愛してる”の溝を埋めてはくれなかった。

ボクは布団を頭まで被り背中を丸めて暗闇の中で縮こまった。
雪歩を騙しているという罪悪感に胸が押し潰されそうになる。

雪歩はボクにまっすぐな愛情を向けてくれているのにボクは雪歩に何も与えられない。形だけの行為はできるけど、中身が無い。



ボクは雪歩が本当に望むものをあげる事ができない。


……自分を騙して問題を先送りにするのももう限界だ。雪歩がボクにそうしてくれているように、ボクも雪歩に誠意を持って応えなきゃいけない。
……例えそれが、雪歩の望まない答えだったとしても……。


布団から頭を出して、すぐ横にいる雪歩の寝顔を見つめた。何の不安も無い、幸せそうな顔で眠っている。

「雪歩……。」

目から自然に涙が溢れ、頬を伝って枕を濡らした。好きなのに……こんなにも好きなのに……どうしてボクは君を愛せないんだろう。

何が足りないのかわからないのに、足りていない事だけはハッキリとわかる。君を見ているとわかってしまう。それがどうしようもなく辛いんだ。


涙が止まった時、決意は固まっていた。

冬に入る直前、2週間後に大きなライブが控えている。その後、雪歩にボクの気持ちを伝えるんだ。


**********


全体の40%程話が進んでキリがいいので、今日はここまで。


ライブまでの2週間、その間にも雪歩の口から何回か「愛してる」という言葉が出る事があって、その度にボクは剣で突き刺される様に心が痛んだ。
曖昧な返事しか返せないボクを疑わず、眩しい笑顔を返してくれる雪歩。その笑顔を見ることさえ辛かった。
でも、その痛みが雪歩に本当の気持ちを告白するという決意をより一層固めてくれた。

そしてライブの翌日、早速ボクは「大事な話があるんだ。」と電話で伝えて、雪歩を例の公園に呼び出した。


――
―――
――――

「――それで、大事な話って何かな……?」

ボクよりも後に公園に来た雪歩は挨拶もそこそこに本題について尋ねてきた。不安と期待を入り混ぜたような表情をしている。

「大事な話っていうのはね……。」

そう言いながらも、思わず雪歩から目を逸らしてしまう。これから伝える言葉を聞いて雪歩がどんな表情をするのか、その答えを知るのが怖かった。

でも……それは最低の行為だってわかってる。そうでなくても、ボクはもう十分に卑怯者なんだから……。
気を取り直して、ボクは雪歩としっかり目を合わせた。
そして、動く事を拒むように重たい口をなんとか動かして喋り始める。


「雪歩……ボク達が付き合いだしてから、もう半年以上経つよね。」

コクリ、と雪歩は頷く。

「友達の時は出来なかった事をたくさんしたよね。“好き”って言葉を何回伝え合ったかな……。数えるのもバカらしくなるくらい、お互いに“好き”って言ってたよねボク達。こういうのをバカップルっていうのかな。」

ハハ、と乾いた笑い声を出しながら最後の言葉を口にした。自嘲の混じった苦笑いが顔に貼りついているのが自分でもわかる。

そんなボクの様子を見て何かを感じ取ったのか、雪歩は黙ってボクの話を聞いている。


「でもね……」

ゴクリ、と唾を飲み込んだ。喉がカラカラになっていた。



「ごめん……ボクの“好き”と雪歩の“好き”はやっぱり違うみたいだ。今更こんな事を言うなんて、ボクは酷いやつだよね……。…………別れよう、雪歩。」


二人の間の空気がピンと張り詰めたのがわかった。
ボクの言葉の意味を上手く飲み込めないのか、雪歩は言葉には表しづらい微妙な表情をしていた。
雪歩の胸にボクの言葉が染み込むまで黙って待つ事にする。


これがボクの決断だった。
雪歩のためにボクができる事は、雪歩と別れる事、ただそれだけしかなかった。
ボクは雪歩が本当に望むものを与える事ができない。例え見せかけだけの恋人を演じ続けたとしても、その先に何が残るだろう?“本物”を知らない事が雪歩の人生にとってマイナスに働くのは間違いないように思えた。
ボクが雪歩を縛る鎖になっているのなら、雪歩が次の一歩を踏み出せるように手を離さなければ。


「…………冗談……だよね……?」

やっとのことで絞り出た雪歩の声は少し掠れていた。
どうやら微笑もうとしているみたいだけど、ひどく引き攣っていてボクには泣いているようにしか見えなかった。

「……………」

ボクは無言で雪歩に応える。冗談だなんて、言葉にした本人ですら信じていないだろう。


「だって……だって、キスもしたし……その先もしたよね?私が大好きって言ったら真ちゃんも同じ言葉を返してくれたよね?あれは……嘘だったの?」

「嘘じゃないよ……違うんだ雪歩。」

「何が違うの!?」

そう叫んだかと思うと、雪歩は目を伏せて泣き始めた。

「雪歩……」

「嫌……嫌だよぉ……。真ちゃんと離れたくないよぉ……。」

「それは僕も同じ気持ちだよ……。でも、このままじゃダメなんだ。」

「何がダメなの……?“好き”が違うって何……?“好き”ならいいんじゃないの……?もし違ったとしても、いつか同じ“好き”にはならないの……?」

「ボクも……いつか雪歩と同じ“好き”になれるんじゃないかと思ったから……ズルズルとここまで来てしまったんだ……。でも、ダメだった。どうにもならなかったんだよ。」


自分の不甲斐なさについ項垂れてしまう。こんな気持ちを雪歩に伝えなきゃならないのが辛くて堪らない。


しばらく無言の時間が続く。

「……私は……真ちゃんと付き合えて、すごく……すごく幸せだったよ……?真ちゃんもそうだと……」

嗚咽が続く言葉を遮った。

「……嬉しかったよ……。ボクは雪歩が大好きなんだ。一番近くで雪歩を感じられて幸せだった。それは間違いないよ。」

「それなら……!「だけど、同時に焦りも感じていたんだ。雪歩の気持ちに追いつけていないボク自身に。」

期待からかパッと顔を上げた雪歩の顔がボクの言葉を聞いてまた曇る。そして再び俯いて、口を閉ざしてしまった。


無言。

雪歩が喋り出すのを待つ。

「……わからない……わからないよそんなの……。わかりたくないよ……。」

俯いたまま喋る雪歩。自分の靴のつま先のあたりを見つめていて、決してボクの目を見ようとしない。

「わからなくていいよ……ボクだってハッキリとわかってるわけじゃないんだ。でも、もう限界なんだよ……。」

つい項垂れてしまいそうになる頭を意識して持ち上げる。ボクまで俯いてしまったらダメだ。


二人の間に何度目かの沈黙が流れる。


「……私……真ちゃんが私のことを好きじゃなくても……一緒にいたい……。ずっと一緒に……」


雪歩の足元に涙が染み込んでいく。


――ボクはなんて最低な奴なんだろう。雪歩にこんな言葉を言わせて……。
雪歩の涙の一粒一粒がボクを咎めているかのように思える。胸がひどく苦しい。

一瞬、何もかもを忘れて雪歩を抱きしめたい衝動に駆られた。
「ボクが悪かった」と謝って雪歩にキスをすれば、雪歩は泣きながらも、怒りながらもボクを許してくれるだろう。笑顔も戻るだろう。
でも……その甘い誘惑の先には何も無い。何度も考えたことじゃないか。

自分の決断を思い出せ。

胸に拳を当てる。
もう一度、雪歩にハッキリと伝えるんだ。


「――別れよう、雪歩。このまま付き合っていたら二人ともダメになってしまう。」


雪歩が震えながら伸ばしてきた手を振り払うような、拒絶の言葉。
……これで雪歩はもうどうする事もできないはずだ。


しかし雪歩は動かず、更に深く俯くだけだった。そして、ポツリと

「…………ダメになってもいいよ……。」と呟いた。

……ここまで言ってもダメなのか……。ボクが雪歩と別れる決意をしているのと同じくらい、雪歩もボクと別れたくないみたいだ。なんでこんなにボクの事が……こんなに酷い人間なのに……。
下唇をギュッと噛みしめる。とにかく、説得を続けるしかない。


「……ボク達が先に進むためにはこれしかないんだ。ボクも辛いんだよ……。わかって、雪歩。」

「真ちゃんと離れるくらいなら、先になんて進みたくない……。辛いなら、別れなければ良い……。」

地面を見つめたままボクの言葉を否定する雪歩。ボクの言葉を頑として聞き入れようとしない。

もっと強い言葉で雪歩を突き放さないと……。


「雪歩……本当に君を愛してくれる人と付き合うんだ。ボクには……できなかった。」


絶対に伝えなければならなかったけど、一番言いたくなかった言葉。つい苦虫を噛み潰したような顔になってしまう。

雪歩に「君を愛せない」と伝えるのは、想像よりもずっとずっと辛いことだった。

でも、これがボクの本当の気持ちなんだ


――プツンと、雪歩とボクを繋ぐ線が切れたような気がした。ズルズルと引きずってきた雪歩への未練が消えていくのがわかる。多分、今この瞬間に、ボク達は別れたんだ。


ボクの気持ちが引いていくのを感じ取ったのか、雪歩は顔を上げて小走りにボクの胸に飛び込んできた。

ボクの胸元に頭を押し付けて泣く雪歩に既視感を覚えた。けど、状況はあの時とまるっきり逆だ。


「真ちゃんが好き……大好きなの!誰よりも愛してるの!だからお願い……別れるなんて言わないで!」


――ボクは雪歩の肩を掴んでゆっくりと雪歩を自分から遠ざけた。

涙で赤くなった雪歩の目をまっすぐ見つめる。


「ボクも大好きだよ、雪歩。君は誰よりも……誰よりも大切な友達だ……。……さようなら。」


掴んでいた肩から手を離し、ボクは雪歩に背を向けて歩き出した。その瞬間、支えを失ったかのように雪歩はその場にへたりこんで、声を上げて泣き出した。

振り返ったりはしない。声を上げて泣く雪歩の姿を見ていたら、きっと駆け寄ってしまうから。


――ふと、雪歩に告白された時の記憶が脳裏を過ぎった。あの時、ボクはどうして雪歩の告白を受け入れたんだっけ…?


『雪歩に告白されて嬉しかった』

『ボクも雪歩が好きだった』


それに――『雪歩を傷つけたくなかった』


……そうだ……それが一番大きな理由だったような気がする。ボクは雪歩を傷つけたくなかった。告白を拒絶することで二人の関係が悪くなるのが、何よりも怖かったんだ……。

ハハ、と自嘲的な笑みがこぼれる。

結局ボクは“雪歩のためだ”と思い込みたかっただけで、自分のためにしか行動できていなかったんだ。
『傷つけたくなかった』だって?その結果、雪歩を誰よりも悲しませているのはボク自身じゃないか。
……ボクはなんて馬鹿なんだ。


涙がどうしようもなく溢れてくる。雪歩を傷つけてるのはボクなのに、泣く資格なんてないのに、どうしても止まってくれない。

コートの襟元を涙が濡らす。ボクはそれに構わず歩き続けた。

雪歩……願わくば、ボクを嫌いになってほしい。そして、誰かを好きになってほしい。君が幸せになってくれるなら、ボクはいくら嫌われてもいい。

愛せなかったけど、本当に好きだったよ、雪歩。


いつのまにか雪歩の声は聞こえなくなっていた。でも、心にはいつまでも雪歩の泣き声が突き刺さっていて、体の中で途切れることなく反響している。

一生忘れられそうにない痛みを抱えながら、ボクは公園を後にした。


**********

今日はここまで。明日で最後まで投稿できると思う。

読んでくれてる人ありがとう。


ボクと別れた次の日、雪歩は仕事を休んだ。次の日も。その次の日も。

事務所は雪歩の仕事の穴を埋めたり、各所に謝罪して回ったりで大騒ぎだった。当の雪歩とは一切連絡が取れず、家からも一歩も出てこないという事をプロデューサーから聞いた。

「真は何か知らないか?」と聞かれたけれど、わからないと答えた。言ったところでどうにかなる話ではないだろう。

このまま休み続ければ雪歩のアイドル活動に支障が出るかもしれない、と皆が心配していた。電話では埒が明かないから直接雪歩の自宅に出向いたりもしたみたいだ。

皆が思い思いに行動している中、雪歩を追い詰めた張本人であるボクは……何もしなかった。心配で心配で仕方なくて何度か連絡を取ろうとしたけれど、ボクからの電話が雪歩を更に苦しめてしまう気がして……。

雪歩が一番苦しんでいる時に手を差し伸べてあげられないなんて最低だ……。それどころか、その原因を作った張本人がボクなのだ。

雪歩のアイドルとしての立場が危うくなるにつれて周りのもの全てがボクを責め立てているように感じて苦しかったけれど、ボクには雪歩が一日でも早く事務所に戻ってきてくれるよう祈る事しかできなかった。


*****


ボクと雪歩が別れてから2週間――雪歩が事務所に戻ってきた。

雪歩は皆の前で深く頭を下げて、「迷惑をかけてしまってごめんなさい。」と謝罪した。

皆は雪歩を責めたりせず、温かく迎え入れた。

突然事務所に来なくなった理由を聞かれても言葉を濁す雪歩。
無理に追及する人は誰もいなかった。

皆が雪歩を取り囲んで久々の再開を喜んでいる中、ボクはその輪の外側に近い位置から皆と話す雪歩を見ていた。

結局その日、ボクと雪歩の視線が交わることは一度もなかった。

*****


小鳥さんから聞いたところによると、部屋に閉じこもっていた雪歩を外に連れ出したのはプロデューサーらしい。
日々の業務をこなしながらも毎日雪歩の実家を訪れ、粘り強く家族と交渉し、雪歩の部屋の外からドア越しに説得を重ね、2週間かけて雪歩をアイドルの世界へ連れ戻したのだ。

優しいけど少し頼りない、という印象がプロデューサーにはあったけれど、やる時はやる人だという事が今回の雪歩の一件でわかった。
「“事務所のアイドルだから”じゃなくて、“雪歩だから”助けたい。力になりたいんだ。」と、プロデューサーは雪歩にそう語ったらしい。

受け取り方によっては告白とも思える発言だけど、あの恋愛事に疎いプロデューサーの言葉にそんな意味が込められているはずがない。単にものすごくお人好しなだけなのだ。
ただ、その一件以降、雪歩のプロデューサーを見つめる目が少し変わったように感じられた。

――以前から悪くはなかったけど特別良くもなかった二人の関係が、信頼という絆で結ばれた事で少しずつ……本当に少しずつ縮まり出した。

*****


雪歩と事務所ですれ違っても会話の無い日々。例え視線が合ったとしても、次の瞬間には雪歩の視線はボクから逸らされていた。
それが辛くてもボクから話しかけたりはしない。雪歩をあれだけ傷付けたんだ、こんな扱いくらい当然だ、と……自分にそう言い聞かせていた。

ボク達の間に会話が無い事に気が付いた皆に心配されたりもしたけれど、ボクは「喧嘩してるわけじゃないから。」と軽い感じを装って質問を受け流していた。


そんな日々が続いて2ヶ月ほど経った頃――

ボクは朝早くに目が覚めたので、日課のジョギングを済ませて朝ご飯を食べてからいつもよりかなり早い時間に事務所に顔を出した。

事務所にはまだ小鳥さんしかいなかった。ボクは小鳥さんに挨拶し、軽く会話してから休憩室に向かう。今日のドラマの収録に出掛ける時間まで、そこで台本を読み返しておくつもりだった。


ボクが休憩室のソファーに座って台本を読み始めてから十数分後――休憩室のドアをノックする音が聞こえた。

「はーい。」

ボクの返事を聞いて入ってきたのは、雪歩だった。


部屋の中で二人きりになるのは久しぶりだから少し狼狽える。今までは意識してこのシチュエーションを避けてきたから。
なんて声を掛ければいいのだろう、もう二ヶ月近く話してないから咄嗟に言葉が出てこない。

そんなボクを尻目に、驚いた事に雪歩の方からボクに話しかけてきた。

「……おはよう、真ちゃん。」

「……おはよう、雪歩。」

「隣……いいかな。」

ボクは台本をテーブルの上に置いて、雪歩が座れるように端に詰めてソファーに座りなおした。空いたスペースに雪歩が腰を下ろす。


「……どうしたの。今日は早いんだね。」

「うん……。昨日事務所のロッカーに忘れ物をしちゃったからレッスンの前に取りに来たの。そしたら小鳥さんから真ちゃんももう来てるって聞いて……。」

ボクがいると知ってこの部屋に来たのなら、何か話があるんだろう。ボクは黙って雪歩の言葉の続きを待った。

「……真ちゃん、本当にごめんなさい。」

ボクの目をしっかりと見つめてそう言ってから、頭を下げる雪歩。

「……え?」

なんで雪歩が謝るんだ…?

「私……あの日からずっと真ちゃんを避けてた。家に閉じこもってたのも、顔を見るのが気まずいとかじゃなくて、真ちゃんの顔を見たらまた泣いてしまいそうで怖かったの。こんなに好きなのにどうして、って……。
プロデューサーに説得されて事務所には戻ってきたけど、真ちゃんのことは自分の中で全然整理がついてなかった。自分を抑えられる自信が無くて、視界にも入れないようにしてた。
でも、最近になってやっとあの時の事を思い出せるようになったの。」

雪歩が語る言葉に黙って耳を傾ける。あの時は一方的に突き放すしかなかった雪歩の気持ちを、ちゃんと知りたかった。


「あの時真ちゃんは私のことを大切な友達だって言ってくれたよね……。それなのに私は、真ちゃんに見捨てられるって、その事しか頭に無くて……。恋人の関係じゃなくなるのがどうしようもなく怖くて……別れるのは嫌だって泣き叫んでばかりで、真ちゃんの言葉を全然理解できて無かった。
あの……私達、恋人にはなれなかったけど……友達ではいられないかな…?都合が良いと思われるかも知れないけど、真ちゃんとずっとこのままなんて絶対に嫌だから……。

私と友達として……仲直りしてくれませんか?」

雪歩はそう言い終えるとゆっくりと右手を差し出してきた。


差し出された右手を見ると同時に涙で視界が歪んだ。
ボクは雪歩の手を両手で掬うようにそっと握る。

「雪歩、ごめん。本当にごめん。ボクは……」

胸が詰まってしまって上手く言葉が出てこない。

あんなに酷い事をしたのに……それでももう一度歩み寄って来てくれた雪歩。その優しさが言葉に出来ないくらい嬉しくて……。
思わず項垂れると目じりから涙が流れ落ちた。

ごめん、ごめんなさい、と嗚咽の合間に言い続けるボクの頭が柔らかく抱きしめられる。


「ごめんね……。真ちゃんも辛い思いをしてるはずなのに……私、自分の事ばっかりで……。」

「違う……ボクが全部悪いんだ……。付き合う事の意味もわからず無責任に雪歩の想いを受け入れたりして……。」

「ううん……私、真ちゃんと付き合えて本当に良かったって、今は素直にそう思えるの。少しの間だけでも真ちゃんの恋人になれて幸せだった。その結果どうしても上手くいかなかったんだから、未練なんて残るはずないよ。真ちゃんが私と同じ気持ちになろうと努力してくれた……ただそれだけで……」

頭頂部に熱い雫が落ちてくる。……雪歩、泣いてるの?

未練が無いなんて嘘だ。あんな別れ方、納得できるはずがないよ。

でも、そんな嘘を言ってまで仲直りしようとしてくれる雪歩の気持ちがただただ嬉しくて、ボクはそれに甘える事にした。



やがて涙も止まり顔を上げると、少し目を赤くした雪歩と目が合った。


「私達、ずっと友達でいようね。」

「うん。ずっと友達でいよう。」


あれから随分と時間が経ってしまった……でも、最後には微笑み合うことができた。良かった、雪歩と友達に戻れて本当に……。


――雪歩の「ずっと友達でいよう」という言葉に胸がチクリと痛んだ気がしたけど、ボクはそれを無視した。その違和感よりも雪歩と友達に戻れた事の方がずっと嬉しかったし、何より、その痛みの原因に気付いてはいけないような気がしたから……。


*****


雪歩と以前の様な関係に戻るまでに、それほどの時間はかからなかった。勿論、友達としての関係だ。それを二人は望んでいたのだから……友達に戻るのはそう難しいことではなかった。

友達として適切な距離、適切な会話、適切な接し方。何もかもが元通りになった。恋人としての時間なんて無かったかの様に振舞うボク達。
それを悲しく思わないわけではなかったけれど、あの時に出来た傷はまだ生々しく胸に残っていて、すぐに触れることは躊躇われた。


以前と変わった事は一つだけ。雪歩が事務所に戻ってきた時から変わり始めた事――雪歩とプロデューサーの関係だけだ。
多分、皆は気付いていない。それどころか、もしかしたら当の本人達ですら気付いていないのかもしれない。そんな些細な変化だった。
でも、誰よりも長く雪歩の側にいたボクには……その視線を受けてきたボクにはわかってしまった。
雪歩がプロデューサーを見つめる目。それは特別な人を見つめる目だ。

雪歩がプロデューサーに恋をしている……というわけでは無いと思う。少なくとも今はまだ。
ただ、雪歩を助けたい一心で身を粉にして行動したプロデューサーが、雪歩の中で大きな存在になったのはたしかだった。


*****


月日が経つほどに、雪歩の世間話の中にプロデューサーが登場する頻度が増える。プロデューサーについて喋る時の雪歩の表情が和らいでいく。

1年が経過する頃には、雪歩がプロデューサーに恋をしているのはほぼ間違いないように思われた。

……予感が事実に変わった。ただそれだけの事だ。雪歩と別れる時に望んでいた事が現実になったのだから、ボクは寧ろそれを喜ぶべきなんだ。


「プロデューサーが好きなの?」と尋ねると、顔を真っ赤にして否定の言葉を口にする雪歩。
ボクはそれを軽く受け流して、二人の仲を応援している事を告げる。

「ボクに協力できる事があったら何でも相談してよ。」と、笑いながら胸を叩く。

雪歩は少し戸惑っていた。それはそうだろう。仮にも恋人だった人に、しかも自分を振った人に違う恋の相談をするなんて……協力を申し出たボク自身おかしな話だと思う。

だけど……

「ごめん雪歩……。君を傷つけた人間が何を言ってるんだって思うかもしれないけど、償いがしたいんだ……。どんな事でも雪歩の力になりたい。ずっと友達でいたいから……。」

少し逡巡した後、雪歩は微笑んだ。

「ううん……そんな事……。ありがとう真ちゃん……。」

その笑みには悲しみも含まれているような気がした。だけど、ボクにはそれにどういう意味があるのかわからなかった。


*****


雪歩と本当の友達に戻るため、二人の恋を成就させようとボクは陰ながらできるだけの支援をした。雪歩とプロデューサーが二人きりになれる場を作ったり、雪歩を意識させるような会話をプロデューサーに軽い感じで振ってみたり……。
プロデューサーがいくら鈍感でも1年近くもその攻勢が続けば流石に雪歩の気持ちに気付いたらしい。それからの展開は想像以上に早かった。元々似た者同士の二人、性格の相性が良かったのだろう。

“アイドルとプロデューサー”という一線を守りたいからなのかプロデューサーは雪歩に告白したりしないし露骨にベタベタする事もないけど、二人が特別な関係にあるのは事務所内では周知の事実……という状況にまでなった。

雪歩がアイドルを引退する時二人は結ばれるんだろうな。と、そう思わせるような雰囲気が二人の間にはたしかに存在していた。


何もかもが順調に運んで幸せそうな雪歩の笑顔を見ていると、雪歩に対して抱いていた後ろめたさが消えてゆくのを感じた。あの時の償いが出来た気がしてホッとする。
雪歩が許してくれても、ボクは自分自身をまだ完全には許せていなくて……友達のはずなのにどうしても雪歩に一歩引いた接し方をしてしまう自分が嫌だった。

だけどこれでやっと本当の友達に戻れる。本当の笑顔を雪歩に向けられるんだ。


そう……思っていたのにな……


*****


――それから1年後――

ボクは事務所の応接室のソファーに座って小説を読んでいた。窓から差し込んでくる春の柔らかい日差しがボクを包んでいて、なんだか眠たくなってくる。
小説に目を落としながらも内容は頭に入らずボンヤリとしていると、コンコンとノックの音が聞こえ、応接室のドアが開いた。雪歩だ。

「あ、真ちゃんここにいたんだ。プロデューサーが下で待ってるよ。急がないと収録に遅刻しちゃう、って。」

腕時計に目をやる。うつらうつらしてる間に集合時刻を過ぎていたみたいだ。

「ごめん。すぐ用意するよ。」

「うん。プロデューサーすごく慌ててたから、早く行って安心させてあげなきゃ。」と、ニッコリ微笑む雪歩。

その笑顔はかつて、ボクだけに向けられる笑顔だった。

今、その笑顔はプロデューサーを想う時にも表れるようになっていた。


「真ちゃんどうしたの?早く行かないと遅刻しちゃうよ?」

首を傾げながら訝しげにボクを見つめる雪歩の言葉にハッとして急いで準備をする。

その時、「おーい、雪歩!真はいたかー?」
窓の外からプロデューサーの少し張り上げた声が耳に届いた。

窓際に小走りに駆け寄って、「真ちゃんいましたー。すぐに下りますー。」と返事をする雪歩。

「真ちゃん、行こ?」

微笑みながら雪歩はボクの手を握った。


早くプロデューサーの所に行きたいのか、少し急ぎ目に先を歩く雪歩に引っ張られる様に歩を進める。

その後姿を見つめながらボクは胸が掻き毟られる様な想いに囚われていた。



雪歩が好きだという想いに



認めたくなかった、でも、認めざるを得ないくらいにその想いはボクの中で膨れ上がっていた。なんで今更……何百回そう思っただろう。
それが自分に足りなかったから雪歩を傷付けたのに……その失敗を取り戻すために雪歩とプロデューサーの仲を取り持ったのに……。

全てが裏目に出てしまう自分は哀れどころか滑稽にすら思える。でも、そんな自分を笑う元気はもうどこにも残されていなかった。


皮肉な事に、ボクが雪歩への思いに気付いたのはプロデューサーがきっかけだった。

プロデューサーを想い、想われる関係が続くうちに、雪歩はどんどん綺麗になっていった。外見ではなくて内面から溢れ出るような美しさを身に付けていった。
これが“本物”の関係の力なんだろうかと思ったりして、“偽物”の関係を続けない決断をした自分の判断は正しかったのだと安心した。
もし、あの関係を今まで続けていたとしてもボクは雪歩を愛せなかっただろうし、その前にボクの心は罪悪感で押し潰されてしまっていたと思う。だから、あの時自分が雪歩と別れる選択をした事に後悔は無かった。

でも……綺麗になっていく雪歩を見続けるうちに心に“本物”の感情が芽生えてしまった。
雪歩を自分の手で誰よりも幸せにしたい、性別なんて関係無い……“好き”では到底収まりきらない感情が体の中を駆け巡る。


何度も言うように、ボクがこの気持ちに気付けたのはプロデューサーのおかげだ。ボクが傷つけた雪歩を助けてくれたのもプロデューサーだ。
だからこそボクには二人の仲を引き裂くようなマネは絶対にできない。

それに……「好きじゃないから別れたけど、好きになったからもう一度付き合おう」なんて……言える訳が無かった。

ボクは自分の気持ちを死ぬまで秘密にすると心に決めた。たぶんこれは罰なんだろう。雪歩を傷付けた罰だ。

ボクは雪歩の友達。そして、雪歩はボクの友達だ。この関係はずっと変わらない。ボクが一線を越えない限りは……。



「雪歩……愛してる。」


ポツリと小さく発した言葉は口の中から出てすぐに消えた。前を歩く雪歩は振り返りもしない。当然だ、聞こえない様に言ったのだから。

でも、いつかのベッドの中で言えなかった言葉も今なら言える。自分はたしかにあの頃よりも成長したんだ。それを確認できた事が嬉しかった。

だけど、この言葉が雪歩の耳に届くことは永遠にない。


雪歩と付き合っていたあの頃に戻れたら……と、考えた事が無いとは言えない。今のボクなら雪歩を傷付けたりしないで幸せにできると思うから。

でも、時間は絶対に巻き戻らない。何かを無かった事にはできない。自分の現状を受け入れて前に進むしかないんだ。


事務所の階段を下りきると、通りの少し離れた位置にプロデューサーが車を駐車して待っているのが見えた。運転席のドアの横に立ち、こちらに向かって手を振っている。

雪歩もプロデューサーに手を振り返す。それに合わせてボクも元気よく腕を振った。
自分の気持ちがどうであれ、それを二人との関係に持ち込むつもりは無かった。


プロデューサーの元へ小走りに駆け寄る雪歩。その瞳にはプロデューサーが映っている。ボクの手を握る力も心なしか弱まっているように感じられた。

走りながら雪歩と繋がれた手に目を落とす。恋人の時のように指が絡まっていないから、ボクが手の力を抜けば二人を繋ぐものは無くなるだろう。


不意に涙が出そうになった。相手が好きなのにその気持ちを伝えられないのがこんなに辛いなんて……ボクに告白してくれる前の雪歩もこんな気持ちだったのかな。
同じ女の子同士なのに告白するのは怖かったよね。でも、それを乗り越えて相手に気持ちを伝えられるなんて、やっぱり雪歩はすごいや。

雪歩、ボクを好きになってくれてありがとう。付き合ってくれてありがとう。幸せになってほしい。雪歩には誰よりも幸せになってほしいんだ。

ボクは友達として雪歩を支えていくよ。だから……

雪歩がプロデューサーの元へ行けるように、二人が幸せになれますようにと願いを込めて――

ボクは雪歩の手を離した。

(了)

最後までお付き合い頂きありがとうございました。
真が前を見つめているからバッドエンドではないと思ってる。

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