唯「澪ちゃんが宇宙との交信を始めました」 (100)
「ほら! ほら! 聞こえるだろ!」 ジーーーーー
ウッキウキに声を弾ませた澪ちゃんが、つまみをひねりながら言いました。
ジー、というラジカセの雑音が響く部室内は、窓から降り注ぐ光でオレンジ色に染まっています。
「わたし…ちょっとお手洗いに…」
あずにゃん、5分前におトイレから戻ってきたとこじゃん。
「あ、お、お茶のおかわり淹れてくるねっ」
ムギちゃん、まだなみなみと入ってるよ? ミルクティー。
ただ一人、りっちゃんだけが、なに食わぬ顔で悠然とマドレーヌを頬張っていました。もぐもぐ。
えらいです。さすがは部長です。
やっぱりね。こういうときはりっちゃんの出番ですよね。
頼むよ、りっちゃん隊員!
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ところがりっちゃんは、ひとつマドレーヌを食べ終えるとふたつ目に手を伸ばし、
さらに三つ四つと次から次へマドレーヌをパクつくばかり。なにも行動を起こそうとしません。
そのあいだ、澪ちゃんは宇宙がどうの、地球がどうの、緑がどうの、イルカがどうの、……etc
目をキラッキラに輝かせながらしゃべり続けていました。
あんまりちゃんと聞いてなかったので詳しくはわかんなかったんだけど。
さっさとなんとかしてよっ! りっちゃん隊員!!
すると、わたしの心の声が聞こえたのか、
りっちゃんはわたしに向けて、片目を閉じたり開いたり、合図を送ってきました。
「ああ、スルーしとけ、ってこと?」
「バカ! 口に出していうな!」
「オイ! ちゃんと聞かなきゃダメだろ! 集中しろっ!」
…なんで怒られなきゃいけないんでしょうか。意味不明です。
澪ちゃんの目つきは血走っていました。マジです。マジもんです。
「あ! 忘れてた! そ、そういや今日部長会議だったわ~、じゃ!」
りっちゃんは唐突に立ち上がり、シュパッと飛ぶように駆けて行きました。
期待ハズレの腰抜け隊員め。
ところで。
あずにゃんはお腹の調子が悪いのでしょうか。
ムギちゃんは一体どんなお茶を淹れているのでしょうか。
二人ともちっとも戻ってきません。
ギャラリーが減ったからなのか、澪ちゃんは先ほどまでの大演説をやめ、雑音を聞き入るように目をつむっていました。
意味のわからない演説を聞かされるのも苦痛ですが、静かになったぶん余計にラジカセの雑音が耳ざわりです。
しばらく観察していると、二つの瞳からしずくが流れ始めました。
澪ちゃんはすっかり自分の世界に入り込んでしまっている様子です。
わたしは澪ちゃんのお皿に残ったマドレーヌを手に取りました。
澪ちゃんは全く気づく素振りを見せません。
マドレーヌを口に含み、ゆっくりゆっくりとその甘みを噛み締めながら、
なんでこんなことになってしまったのか、ぼんやり考えてみましたが、わたしにわかるはずもありません。
部室には雑音が流れ続けています。
わたしは両耳を塞ぎ、目を閉じました。
こうすれば今、わたしに感じられるのは口の中に広がるマドレーヌの甘さだけ。
ん~、マドレーヌおいし♪
現実逃避バンザイ。
★★
「ハァ…」
「どうしたの? お姉ちゃん」
「どうしたもこうしたもなくてねぇ…」
「もしかして澪さんのこと?」
我が妹はどうしてこうも察しがいいのでしょう。
お風呂上がりの憂がバスタオルで頭を拭きながら、わたしに向けて微笑みました。
「結構評判になってるよ。二年生の間でも」
澪ちゃんの宇宙の声講座は軽音部やクラス内に収まらず、学年を超えて広がりを見せています。
ある日、宇宙の声が聞こえた、と言いだしてからというもの、
澪ちゃんはいつでもどこでもあの古めかしいラジカセを持ち歩くようになりました。
しかもドヤ顔で。
黒人さんでもないのにヘッドホンを首にかけ、ラジカセを担いでうろうろしているのです。
いいえ、黒人さんでもこんなことしないでしょう。
今の時代、世界のどこを探せば澪ちゃんみたいな人は見つかるのでしょうか。
世紀末からタイムスリップしてきたラッパーでしょうか。
どうやら放課後ティータイムには、いつのまにかベーシストの代わりにラッパーが加入していたようです。
休み時間はみんなと会話もせず、ラジカセにヘッドホンをつないで宇宙の声を聞き、
お昼休みはお弁当を食べ終えるとすぐに屋上へ行き(宇宙の声が入りやすいらしいです)、
放課後は教室や部室で布教活動。
それが澪ちゃんの日課です。
澪ちゃんの奇妙奇天烈摩訶不思議な行動はすぐさま学年中、学校中に広がりました。
そりゃそうです。ファンクラブもある人気者、桜高のアイドル秋山澪ちゃん。
いつでもどこでもファンは彼女の行動に注目しているのです。
今では週に三度、ファンクラブ会員を集めての“宇宙の声を聞く会”が催されています。
『ファンクラブの子達が希望してるし…他ならぬ澪もみんなに聞かせたいって言ってるから…』
ファンクラブ会長である和ちゃんは、真っ赤なメガネを左手の人差し指でクイッと押し上げながら言いました。
困ってるときの和ちゃんはこうしていつも左手の人差し指でクイッとメガネを押し上げる癖があります。
クイッと。右手ではなくて左手です。
幼馴染みのわたしにはわかるんです。
嘘です。
双方の要望が一致している以上、会長としての務めを果たさないわけにはいかないというわけで。
実に立派な会長です。さすがわたしの自慢の幼馴染み。
前ファンクラブ会長の曽我部先輩も草葉の陰で喜んでいることでしょう。
けれどもそのおかげで、もともと少なかった練習の時間が、いままで以上に少なくなりました。
そりゃそうです。
口を開けば練習練習、三四がなくて五に練習。
練習、という言葉以外の日本語を忘れてしまったんじゃないかというくらい練習練習言ってた澪ちゃんがいないのです。
同じく練習練習言ってる練習にゃんも大きな味方を失って、前ほど練習練習言わなくなりました。
それ以前にメンバーが揃っていなければ練習できないんですけど。
ガミガミうるさいことを言われずにお茶やお菓子を飲み食いできるのはありがたいですが、
五人みんな揃っていなければ楽しさもおいしさも半減です。はっきり言うとつまんないのです。
ライブや学祭、今後の軽音部の活動にも支障が出ちゃいますし(すでに出てるけど)、なにより澪ちゃんの将来が心配です。
最近では深夜遅くまで宇宙の声を聞いているらしく、なんと授業中に居眠りしていることすらあるのです。
あの澪ちゃんがです。
真面目とおっぱいと勉強熱心が服着て歩いてる澪ちゃんがです。
りっちゃんやわたしが居眠りしていると情け容赦なくばしばし頭を叩く古典の堀込先生も、
澪ちゃんの頭を叩くわけにもいかず、眉をしかめながらゴホンゴホンとあざとい咳払いを数十回繰り返していました。
(それでも澪ちゃんは起きませんでした。夢の中でも宇宙と交信していたのでしょうか)
「実はわたしも昨日行ってきたんだよね、例の集会」
「え…憂、それホント?」
妹が洗脳されておかしな宗教にハマりでもしたら、留守がちな両親に代わり平沢家を預かる姉として申し訳が立ちません。
「うん。純ちゃんが行きたいって言うから梓ちゃんも誘って三人で」
ホッ。純ちゃんとあずにゃんがいっしょならまだ安心です。
「純ちゃんもあずにゃんも災難だねぇ…」
「でも…ほかのみんなは結構満足そうだったよ」
憂はほのぼのと微笑みました。
…そうかもしれません。
もともとほとんど開かれることのなかったファンクラブの会合が、定期的に開かれるようになったのですから。
澪ちゃんファンの人たちとしては、理由はなんであれ、とにかく澪ちゃんと少しでも接点が持てることがうれしいのです。
澪ちゃん自身も、ファンクラブが存在するおかげでこうして数多くのひとに宇宙の声を聞かせられるわけですから、ハッピーでしょう。
つまりウィンウィン、ってやつです。
でもみんな、聞こえてるのかな。宇宙の声。
みんながちゃんと聞こえていて、澪ちゃんと同じように宇宙の声に感動しているんなら、なにも問題はありません。
けれど。もし。
「憂はさ、聞こえた?」
バスタオルをとるとふわっとシャンプーの香りが漂います。
わたしと同じ香りをまといながら、憂はちょっとだけ口角を上げました。
額に張り付いた半乾きの髪はわたしよりちょっぴり色素が薄くて、
お風呂上がりで赤く上気したほっぺはぷくぷくとやわらかそう。
そんなことをぼんやり考えていると、憂が両手を伸ばし、わたしのほっぺに触れました。
「お姉ちゃんのほっぺ、相変わらずやわらかいね」
「うい…ちょっと、」
「世界でいちばんやわらかいんじゃないかなー」
わたしは知っています。わたしより、憂のほうが百万倍やわらかいんです。
こんなにやわらかいものは、憂のほっぺ以上にふにふにやわらかいものは、この世に存在しない、ってくらい。
思わず憂のほっぺに触れようと左手が伸びていたことに気がつき慌てて引っ込めると、もう一度憂に尋ねました。
「…で、憂は聞こえた?」
「お姉ちゃんは? 他のみなさんは聞こえたの?」
憂は答えず、反対にわたしに問い返してきました。
わたしは憂にほっぺを触れられたまま、黙って首を横に振りました。
「それを澪さんにちゃんと伝えた?」
わたしはもう一度、首を横に振りました。
「戻ってきてほしいなら、ちゃんと言ったほうがいいんじゃないかな。澪さんに」
「…澪ちゃん、すっごく一生懸命だから」
りっちゃんやムギちゃん、あずにゃん、わたし。
軽音部のみんなはたぶん全員聞こえてないと思います。
では軽音部以外の誰かで、澪ちゃん以外に宇宙の声が聞こえている人はいるんでしょうか。
まわりのみんな、誰にも聞こえてなくて、自分しか聞こえてなくて、誰も澪ちゃんのことを信じてないとしたら。
誰にもわかってもらえないとしたら。
どうしたらいいんでしょう。
わたしが考えごとをしてるうちに、いつの間にか憂の顔がすぐ間近に迫っていました。
じっとわたしの瞳を見つめる憂から目を逸らし、両手で憂の手を掴んでわたしのほっぺから離すと、右手の人差し指で憂の唇を押さえて言いました。
「ダメだよ。そういうのもうしない、って約束したでしょ」
そうしてポンと憂の肩を叩いて距離をとると、まだ半乾きで湿ったままの憂の髪を撫でて、
「髪、乾かしておいで」
そう言って立ち上がり、リビングを出て部屋に戻りました。
★★
「おっす」
ある日の放課後、澪ちゃんが部室にひょっこり顔を出しました。
ああ、今日は集会のない日だったっけ。
もはや澪ちゃんの放課後のメイン活動は軽音部ではなく、宇宙集会になっていました。
「ムギ、わたし今日はレモンティー飲みたいな」
「その言い方はないんじゃないか」
食いついたのはりっちゃんでした。
「は? どうしたんだよ、急に」
「あのな。ほとんど顔出さないくせにその言い方はなんだ、って言ってんの」
「律だってお茶、飲んでるだろ」
「そういうことじゃねーよ。ムギがどんな気持ちでお茶とお菓子準備してたか考えたことあるのか、って意味だよ」
集会の日であろうとなかろうと、ムギちゃんはいつだって澪ちゃんの分のお茶とお菓子を用意していました。
気まずい空気が立ち込めています。
いつか起こるんじゃないかと思っていたことが、ついに今日やってきました。
この機会にちゃんと話し合いをするべきです。
けれどそうわかっていても、なにを言うべきかどうやって伝えるべきか、いざとなるとちっともわからなくなってしまい、
わたしはりっちゃんと澪ちゃんを代わる代わる眺めるばかりでした。
「と、とりあえずお茶にしましょうよ…ほら! 今日は澪先輩の大好きなガトーショコラですよ!」
ここのところずっと、ガトーショコラの登場率は以前に増して高くなっていました。わたしでも気がつくくらいですから相当です。
きっと澪ちゃんを喜ばせたいというムギちゃんの想いに違いありません。
「………」
「………」
本当ならとっても美味しいはずのガトーショコラ。それがやたらと苦く感じたのは、きっと気のせいじゃないと思います。
ちょっと前まであんなにわいわいと賑やかだったお茶会は、終始無言でカチャカチャと陶器の音が響くだけの気まずい時間に変わってしまいました。
こんなときこそさわちゃん先生が乱入してきてくれると助かるのですが、
そんなときに限ってさわちゃん先生はやってこないのです。
まったく。役に立たないなぁ。
知ってたけど。
仕方ありません。
「よ~し、みんな! れんしゅう…しようっ……!!」
唐突に立ち上がり、思い切って言ってみました。
澪ちゃんの大好きな“れんしゅう”という言葉を使うことで気を引こうとしたわけです。
まさに切り札。例えればジョーカー、これぞ伝家の宝刀です。
「その前に聞いておきたいことがあるんだけど」
みんながさぁ練習するぞと立ち上がる中、最後まで座ったままの澪ちゃんが力強い声で言いました。
「大きい声出すなよ、びっくりするだろ」
「…大事なことなんだ」
今度は打って変わって弱々しい声。澪ちゃんはまだ座ったまま、少し顔を伏せていました。
「みんな、あのさ…」
澪ちゃんはさらに小さく頼りない声でしゃべりだしましたが、すぐに黙ってしまいました。
傍目に見てりっちゃんがすごくイライラしているのがわかります。
澪ちゃんがこうやって時々暴走してしまいがちなのを一番わかっているのがりっちゃんです。
澪ちゃんの側に一番長くいるのがりっちゃんです。
澪ちゃんのことを一番わかっているのりっちゃんです。
そのはずです。
イライラしていても、澪ちゃんがしゃべりだすまで待っていてあげるのが、きっとりっちゃんのやさしさなんだと、
わたしはそう思います。
「…みんなはさ。聞こえてる?」
ここでごまかしちゃいけない。
わたしは思いました。
きっとみんなもそう思ったんだと思います。
でもみんな、なにも言えませんでした。
ここで本当のことを言えば、澪ちゃんが傷つくってわかっていたから。
けれど曖昧にごまかしてこの場をしのいでも、なんの解決にもならないってこともわかっています。
誰もなにも答えないまま沈黙が続き、しびれを切らした澪ちゃんは椅子から立ち上がるとソファーのところに置いてある愛用のラジカセを手に取り、スイッチを入れました。
相変わらず、ジー、という音だけが響くだけでした。
「…なぁ、聞こえるか? 聞こえるよな? な?」
そうやって縋るような表情でわたし達に訊ねる澪ちゃんには、
初めの頃のちょっと調子に乗りすぎた色は全くありませんでした。
「ごめん」
りっちゃんが小さな声で呟きました。
さっきまでの怒気を孕んだ口調とは全く違っていました。
「…」
澪ちゃんはりっちゃんに答えることなく、ラジカセのつまみをいじっています。
ジー、という雑音がさらに大きくなりました。
「ごめん」
さっきよりも大きく、はっきりした声でりっちゃんが言います。
それでも澪ちゃんはわたし達のほうを見ることなく、一心不乱にラジカセを見つめてつまみをいじっています。
「澪ちゃん」
ムギちゃんが呼びかけました。
澪ちゃんは振り向きません。
「澪先輩」
あずにゃんが声をかけました。
澪ちゃんはラジカセを見つめてブツブツ呟いています。
「澪ちゃん」
わたしが呼んでも、澪ちゃんには聞こえていないようでした。
「みお!!」
りっちゃんが大声で叫びました。
今まで聞いたこともないような大声が部屋中に反響して、思わずビクッと身体が跳ねました。
それは澪ちゃんも同じだったみたいで、ようやくラジカセから視線を外し、おずおずとこちらを向きました。
りっちゃんは、大声とは反対にちっとも怒っているようには見えず、
潤んだ瞳で澪ちゃんをじっと見つめていました。
「…みお。ごめんな。悪いけどわたしは何にも聞こえない。たぶんみんなも一緒だ。
だからもうやめようぜ。みんな心配してるんだ。もういいだろ? 戻ってこいよ。澪がいないとさみしいんだよ。
澪にとって、宇宙とか地球とかイルカとか…大事だってのはわかる。わかる…、けどさ。
わたし達のことは…大事じゃ、ねーのかよ…。わたしは、みおが…、だいじなんだよ…。
まえ…みたいに、お茶、飲んだり…ふざけてあそんだり…えんそう、したりしたいんだよ。
………なぁ…たのむよ、もどってきてくれよ…」
次第に泣き声が混じって、声を詰まらせながらりっちゃんは言いました。
「ごめん」
澪ちゃんの口から出たのは、さっきのりっちゃんと同じ言葉。
ようやくわかってくれたのか、とホッと胸をなでおろした瞬間、
「大丈夫、きっと聞こえるはずだから。今度こそ…ほら」
「澪のバカ! いい加減にしろっ!」
「あっ、ちょ、りっちゃん!」
「律先輩っ!」
「りっちゃん待って!」
叫びながら飛び出したりっちゃん、
りっちゃんを追いかけてムギちゃんとあずにゃんも飛び出して、
部室にはわたしと澪ちゃん。ふたりだけが取り残されました。
ジー、という耳ざわりなだけの雑音が響く中、澪ちゃんがわたしに振り向きました。
その顔は笑っているわけでも泣いているわけでもなく、きっと最初からわかっていたのかもしれません、
なにも言わず目を伏せるとラジカセのスイッチを切りました。
音が止み、しん、と静まり返った部室はいつもとまるで違う空間みたいに思えて、
澪ちゃんのいる“宇宙”ってこういうところなのかな?
…と思いましたが、全然違うかもしれません。わかりません。
澪ちゃんの宇宙は、澪ちゃんの中にしかない。
澪ちゃんにしかわからない。
澪ちゃんのことを一番わかっているはずのりっちゃんにだってわからない。
たぶん澪ちゃんのお父さんお母さんにも。
きっと誰も、澪ちゃんの宇宙のことはわからないのです。
気がつくとラジカセを手に取った澪ちゃんが、スタスタと歩いて部室を出て行こうとするところでした。
慌てて後を追うと、澪ちゃんはポッケから鍵を取り出し、屋上の扉を開けようとしています。
集会で時折屋上を使っていましたから、その関係でうまいこと融通したのかもしれません。
ファンクラブ会長が生徒会長だと、そのあたりとっても便利なんでしょう。
扉が開き、屋内に強く冷たい風が吹き込んできて、わたしは思わず顔を伏せました。
澪ちゃんは平然として長い黒髪をたなびかせながら扉の向こうへ踏み出してゆきます。
わたしも澪ちゃんに続きました。…さぶいです。
空は青く広く晴れ渡っていて、雲ひとつありません。
高く空の向こうに、鳥が飛んでいるのが見えました。
こんな見事な晴天の日は、宇宙との交信もしやすいのではないでしょうか。
「天気がよくて、高い場所のほうが声は聞き取りやすいんだ」
やっぱりそうみたいです。
澪ちゃんがラジカセのスイッチを入れました。
快晴の下にジー、といういつもの雑音が響きます。
澪ちゃんは腰を下ろし膝を抱えて体育座りの格好になると、目をつむって顔を伏せました。
わたしも澪ちゃんの隣に腰を下ろして、同じように体育座りで膝を抱えて目をつむり、顔を伏せました。
しばらくそのまま澪ちゃんの側に寄り添っていました。
風に乗って雑音が空に流れてゆきました。
どれくらい時間がたったのか、「おーい」と扉の向こうであずにゃんの声が聞こえてわたしは顔を上げました。
ちょっぴり寝ちゃってたみたいです。
澪ちゃんは顔を上げていて、群青色に染まっていく空を眺めていました。
ラジカセの雑音はいつのまにか止んでいました。
★★
“ちょっと今、出てこれる?”
20時14分にきたメールを見て、わたしは靴紐を結びました。
ところがなぜか今日に限ってうまく結べず、なんどやってもほどけてしまいます。
「どこに行くの」
もたもたしているとお風呂上がりの憂がやってきて、
頬を真っ赤に染めながらわたしに訊ねました。
「うんとね、澪ちゃんとこ」
「こんな夜遅くに?」
「夜は空気が澄んでるから、特に声が聞こえやすいんだって」
そっか。と憂はにっこり笑って言いました。
「ねぇ、憂」
「なぁに、お姉ちゃん」
「もう一度聞くね。憂は聞こえた? 宇宙の声」
わたしの問いに対して憂は曖昧な笑顔を浮かべるままで、なにも答えてはくれませんでした。
「…聞こえたのか聞こえてないのか、どっちなの?」
「自分が聞こえた音が、宇宙の声なのかどうかわからないの」
「ってことは憂はなにか聞こえたってこと??」
「お姉ちゃんはなにも聞こえなかったの?」
わたしの耳に聞こえたのは、ジー、という雑音だけです。
「ジー、…っていう音は聞こえたよ」
「わたしも同じ」
「じゃあ聞こえてないってことじゃないの?」
「そうなのかな。でももしかしたらあれが宇宙の声なのかな、って」
「そんなわけないでしょ。だってただの雑音だよ? 壊れたラジカセから聞こえる単なる雑音だよ!」
「わからないよ」
「…わからないってなにが」
わたしには憂の考えていることがわかりません。
「わたしに聞こえてる音とお姉ちゃんに聞こえてる音と、澪さんに聞こえてる音は同じかどうかわからない、ってこと」
「…よくわかんない」
「わたしにもよくわかんない」
「なにそれ。ヘンなの」
「だよね。ヘンだよね」
憂は目尻を下げてにっこりと笑いました。
つられたわたしも思わず笑顔になりました。
「でもね。わたしにもお姉ちゃんにも、軽音部のみなさんにも…他の誰にも聞こえなかったとしても、
宇宙の声が本当に存在しないなんて言えるのか、わからないの。
だって澪さんは聞こえる、って言ってるんでしょ?
…本当はね。わかってるよ。
まわりのみんなに理解してもらえなかったり、共有してもらえなかったりすることは、
“ない”ってことにされちゃうんだろーなー…ってこと。
だけどね、わたしはあんまりそういうことしたくない、っていうか…うーん、と…。
あ、わたしね。澪さんのこと好きだから、信じたいな、ってそう思うの」
憂はにこにこ笑いながら言いました。
「お姉ちゃんもわたしとおんなじ気持ちかな、って勝手に思ってた」
「…わたしも澪ちゃんのこと、好きだよ」
「うん。知ってる」
憂の瞳は、まっすぐわたしを見つめていました。
「でもわたし、信じてなかった」
「ううん、そんなことないと思う」
視線をそらして下を向くと、結んだ靴紐がまた縦結びになっていました。
ほどいて結び直しましたが、また縦結びになってしまい、ほどきます。
なにやってんだろ、わたし。
「結ぼうか?」
「…大丈夫、自分でできるから」
「…結ばせて」
憂は三和土に降りて腰をかがめると、簡単にほどけないよう固く強く靴紐を結んでくれました。
「ほら、できた」
「うい…お願いがあるんだけど」
「なに?」
「キス、してくれない?」
憂は目を閉じてすっと顔を寄せ、キスしてくれました。
わたしは黙って立ち上がり、憂に背中を向けるとドアノブをつかみ、扉を押し開けました。
びゅうっと冷たい風が頬を刺し、髪が揺れます。
目を見開いたまま一歩を踏み出し、扉を閉めることも忘れてそのまま、わたしは真冬を駆け出しました。
★★
「来てくれないかと思った」
唇の熱は、そのまま残り続けていました。
息を切らして走ってきたわたしを見て、澪ちゃんはかすかに笑いました。
いつもと同じいもむしみたいなコートに、ぼんぼんのついた白いマフラー。
星のマークの入った桃色のかわいい耳当てをつけています。
月の光に照らされて、ひとり公園のベンチに座る澪ちゃんはとても綺麗で、
最近のエキセントリックな言動のせいですっかり忘れていましたが、
改めてこの子が美人だということを思い出させてくれました。
「ごめん、遅くなって」
「いいんだ。ありがと、来てくれて」
わたしが隣に腰掛けたのを見て、澪ちゃんはラジカセのスイッチを押しました。
おなじみの、ジー、という音が夜の公園に響きます。
「高いところのほうがいいじゃないの」と訊ねると澪ちゃんは、
「山の上とか登ってみたいけど夜は危ないから」と答えました。
澪ちゃんにちゃんと理性が残っているようで安心です。
途中、「こうしたほうが聞こえやすいかもしれないから」、
そう言ってラジカセにイヤホンを挿して片方をわたしに手渡してくれました。
このほうがまわりにうるさくないし、夜の公園で意味不明な音を垂れ流すよりも変な目で見られにくいからいいかもしれません。
わたしが右耳にイヤホンをはめるのをみて、澪ちゃんは耳当てを外し、左耳にイヤホンをつけました。
それからつまみに触れて、少しづつ少しづつ動かしました。…慎重に音を探っているみたいです。
左手でイヤホンをつけた耳を押さえ、眉を寄せて真剣な面持ちです。かなり集中している様子でした。
しばらくすると、つまみを調整していた手が止まり、どうだ! という笑顔をわたしに向けました。
けれどわたしの右耳には、変わることのない、ジー、という音が響いているだけでした。
「唯、聞こえる?」
「ジー、っていう音はね」
ここまできてもう、わたしは曖昧にごまかすつもりはありませんでした。
「そっか」
会心の調整も徒労に終わり、澪ちゃんはがっくりとうなだれました。
「澪ちゃんは? どんな声が聞こえるの?」
「えーっと…前にも話したと思うけど…」
そう言って話す内容は、地球環境がどうのとか森林破壊がどうのとか平和がどうのとかイルカがどうのとか…前に聞いた内容と変わりません。
耳タコです。
「そうじゃなくて。内容っていうよりも聞こえ方っていうか。澪ちゃんにはそれが人間の声として聞こえるの?」
「うーん、そうだなぁ…人間の声として聞こえるっていうよりも…振動っていうか音楽っていうか…身体の内側に響く感じで伝わってくる、というか……」
言葉にするのは難しいんだ、澪ちゃんは言いました。
あれだけなんども集会をしていて、澪ちゃんはなんにも説明してこなかったのでしょうか。
いや、説明なんかしなくても声さえ聞けば、みんなわかってくれるに違いないと思っていたのかもしれません。
「もしかして、ジー、って音?」
「……」
「…澪ちゃん?」
「…そう言われるとそう聞こえなくもない」
「なにそれ。じゃあ澪ちゃんもわたし達といっしょで、なんにも聞こえてない、ってことじゃん」
「……」
夜の公園はとても静かです。
澪ちゃんは黙ったまま、なにも答えてくれませんでした。
月の綺麗な夜でした。
点滅を繰り返す古い電灯が、ベンチに座るわたし達を照らしていました。
寒い夜でした。
冷たい風が吹くたびに震えそうになって、ふたりで身体を寄せ合って宇宙の声を聞こうとしていました。
澪ちゃんが左耳からイヤホンを外しました。
それに引っ張られるようにしてわたしの右耳からもイヤホンが外れます。
イヤホンから漏れるジー、という音。
わたしはラジカセからイヤホンを引っこ抜きました。
さっきまでふたりだけのものだった音は夜にバラまかれ、星空へと広がってきました。
なんで、わたしを呼び出したの」
「もしかして、唯には聞こえてるんじゃないかと思って」
「聞こえないよ。澪ちゃんだって、本当はなんにも聞こえてないんでしょ」
澪ちゃんはまた、黙り込んでしまいました。
「…………」
静かに呟いた澪ちゃんの言葉。
公園通り沿いを走る車の音に、かき消されてしまった言葉。
もしかしたらわたしの聞き間違いかもしれません。
澪ちゃんはなにも言わなかったのかもしれません。
「…だよな、そうだよな」
今度ははっきり、澪ちゃんの声が聞こえました。
「聞こえる、って言ってもわたしだけだもんな。
わたし以外の人全員聞こえないんだもんな。
わたしだって聞こえた声がどういうものか、うまく説明できないもんな。
そんなんじゃ、聞こえない、ってことと一緒だよな。
“宇宙の声”、…なんて、わたしの勘違いだった、ってことか…ハハ…」
快晴の夜空には無数の星。
でもこうして今、目に見えている星だけが、夜空にまたたく星の全てではないそうです。
目に見えていないだけで、本当はずっともっと、この宇宙には数え切れないくらいたくさんの星が存在しているらしいです。
けれどそのうちわたしの知っている星なんて指の数で足りるほど。
わたしの知らない星、見ることのできない星のほうが、ずっとずっと多いのです。
「今夜は付き合わせてごめんな。
宇宙の声はこれでおしまい。
明日からは毎日ちゃんと部室に行くし、練習もする。
宇宙の話ももうしない」
澪ちゃんはかるく笑ってみせるとベンチから立ち上がり、大きく伸びをしました。
「ほんとうにそれでいいの?」
「うん。なんか吹っ切れた。やっと冷静になれたよ。
ほんとごめん。わたしの思い込みのせいでみんなにめちゃくちゃ迷惑かけちゃって。
明日、みんなにちゃんと謝る」
「じゃあもう、宇宙の声は聞かないの?」
「ああ、もう聞かない」
「なんで? どうして? 聞こえるんじゃなかったの?」
「意味…ないから」
澪ちゃんは耳当てをつけなおして、ラジカセのスイッチを切りました。
音が止み、夜の公園を静寂が包みました。
「…やめないでよ」
「…え?」
「…簡単にやめるくらいならこんなことしないでよ。
本当に聞こえるんならやめるなんて言わないでよ。
誰にも理解されないからってやめないでよ。
…聞こえるんでしょ、
大事なんでしょ、
信じてるんでしょ、
…大切にしてよ、ねぇ…
お願い、だから…」
「ゆい…」
自分で自分がなにを言っているのか、わからなくなっていました。
強く握った両手は冷たくて凍えそうで、唇を噛みしめて我慢しようとしたけれど、
涙がこぼれるのを止められませんでした。
「わたし…聞こえないけど…全然聞こえないけど…信じてもなかったけど…
澪ちゃんが言ってることも…地球とか森とかイルカとかわけわかんないけど…
でも、澪ちゃんが宇宙の声聞くの、やめちゃうなんてヤダ」
誰にもわからないからって、
人とちがうからって、
まわりに理解されないからって、
なかったことにされちゃうなんてやだ。
否定されちゃうなんてやだ。
ほんとうのことなのに。
じぶんのほんとうの気持ちなのに。
いやだよ…そんなの…ぜったいやだ。
澪ちゃんはもう一度ベンチに腰掛けて、わたしをぎゅっと抱きしめてくれました。
わたしは全身を震わせながら、必死で澪ちゃんにしがみついていました。
何かの拍子にスイッチが入ったのか、ラジカセからは宇宙の声が流れ出していました。
★★
『ジジジッ……の風、日中は南の風、晴れ、夜は曇り。北部の山沿いでは雪……
日中は日差しのでるところはあるものの、最高気温は昨日とおなじかやや下がるでしょう。
府内警報注意報は出ていません。降水確率は……』
「どう? 今夜はイケそう?」
「…どうかな。曇りみたいだし、音の入りは悪いかも」
屋上には冷たい風が吹いています。
扉を開けて一歩を踏み出した瞬間に後悔するこの寒さ。
ところが澪ちゃんは寒さに強いのか、コートも着ずにこうして風に吹かれて平然としています。スゴいね、冬生まれ。
「ふぅん。まぁわたしはどーせ聞こえないからどうでもいいんだけど」
「…身も蓋もないこと言うなよ」
「それより今夜は寒いの?」
「昨日より寒いってさ」
「げ。サイアク」
今夜はやめよっかな。
「おしるこおごるから」
「わたし…一生澪ちゃんについていくよっ」
「…ゲンキンなやつ。…ていうかそんな安く釣られて大丈夫か?」
いいのいいの、結局澪ちゃんについていくのに変わりはないんだから。おしるこオゴってもらえてラッキーです。
あの日以来、澪ちゃんは宇宙の声の布教をやめ、以前どおりの澪ちゃんに戻りました。
部室でちゃんとみんなに謝ってりっちゃんとも仲直り。
ラジカセは持ってきているものの、人目を厭わず聞きまくるようなことはなくなり、やっとこ平和が訪れました。
『みお…わかってくれてうれしいよ』グスッ
『りつ…泣くなよ、大げさだな。わたしがわるかったよ。わたしも十分反省したからさ、だから泣かないでくれよ』
『よかった~やっぱり五人揃ってないとお茶もお菓子もおいしくないものね♪』
『そうです! 五人揃ってこその軽音部です! さぁ今日からガンガン練習しましょう!』
『ああ! これまでできなかった分、一気に取り返すぞ!!』
これまでサボっていた分演奏はガッタガタで、澪ちゃんは自分のことを棚にあげて激怒していました。
勘弁してほしいです…。
「唯って変わってるよな」
「なに? 急に。宇宙の声が聞こえるとか言ってる人には言われたくないんだけど」
「仕方ないだろ、聞こえるものは聞こえるんだから」
澪ちゃんは膨れたように言います。
「わたしは聞こえるからさ。でも唯は聞こえないのに付き合ってくれるからすごいな、って」
「そうだねぇ~」
「も、もしかして少しは聞こえるようになった?」
「ううん。まったく」
「……」
わかりやすく肩を落とす澪ちゃんが可愛らしくて、思わず笑ってしまいそうになります。
でも聞こえるか聞こえないかは、もうわたしにとってそれほど大事なことではないのです。
あの夜、家に帰ったのは随分遅い時間で、日付が変わる手前くらいでした。
冷え切った身体でリビングの扉を開けると、コタツに突っ伏すようにして憂が寝ていました。
わたしをずっと待っていてくれたのでしょうか。
起こしてしまうのは気が引けましたが、このままにしては風邪を引いてしまうかもと思い、身体を揺りました。
『…ん、あ、おねえちゃん…』
『ただいま。ごめんね。遅くなって』
『ううん、よかった。帰ってきてくれて』
憂は笑ってわたしの手を握りました。
『ダメ、冷たいから』
『いいよ、あっためてあげる』
『ううん、ダメ。ダメだよ』
憂はさっきのことを覚えているのでしょうか。
わたしのことをどう思っているのでしょうか。
自分から突き放したくせに、あんなことを言ったわたしを。
いろんな考えが頭の中をめぐり、こんがらがってわけがわからなくなり、目を閉じたわたしの唇にやわらかいものが触れました。
目を開くとそこにあったのは、いつもの憂の笑顔でした。
『うい…』
『おねえちゃん』
わたしはおおいかぶさるようにして憂を押し倒し、キスをしました。
憂は両腕をわたしの背中に回し、つよく身体を抱きしめました。
もう二度と、ほどけないほどつよく。
けれどわたしは抵抗するつもりなんて、まったくありませんでした。
なぜならそれは、他ならぬわたしが、いちばん望んでいたことだったからです。
「さぶっ」
「ほら、風邪ひくぞ」
そう言って澪ちゃんがこっちに缶を投げました。
「あっ、おしるこだ」
「唯がくるかな、って思ったから買っといた」
「気がきくね~澪ちゃん」
「えへへ、まあな」
「…うーん、でもコーンポタージュのほうがよかったかもー」
「…ゼータクゆーな」
「宇宙の声が聞き取れるんだから、心の声くらい読んでほしいね」
「無茶いうなって…」
澪ちゃんがラジカセのつまみを触れると、天気予報はかき消えて、ジー、という音が鳴り始めます。
わたしは澪ちゃんの隣に腰掛けて身体をぴったりくっつきました。こうするととってもあったかいのです。
つまみを調整する手が止まり、「ん」と澪ちゃんが声に出してわたしの顔を見ました。
この表情から察するに、宇宙の声絶好調!ってとこでしょうか。
わたしにはまーったくなぁーんにも聞こえませんけど。
きっとこれからずっと、どんなに頑張ってもわたしに宇宙の声は聞こえないかもしれませんけど。
でもそんなことどーだっていいんです。
宇宙の声は聞こえないけど、聞こえるって言ってる澪ちゃんのことを信じてるから。
澪ちゃんに、宇宙の声を信じ続けてほしいから。
こうして隣に座っているんです。
「唯」
「なーに、澪ちゃん」
「ありがと」
「どしたの? 急に。もしかして、わたしがいると声が聞こえやすくなるとか?」
「いや。そんなことはない」
「なーんだ。それよりさ、澪ちゃん。もうすぐお昼休み終わるよ」
「ん、わかった。あとちょっとだけ」
真っ青な冬空に、宇宙の声が響いていました。
おしまい
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