椎名法子「踵で愛を」 (27)
椎名法子ちゃんがドーナツをもぐもぐやったりやらなかったりするやつです。
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ぱたぱた。
たとえば、新作のドーナツがとってもおいしかった。たとえば、お仕事がうまくいった。
そんなとき、あたしは踵をぱたぱた鳴らすくせがあるみたいだった。
大きな撮影が終わった楽屋内で、あたしの目の前にはお土産のドーナツを二袋掲げたプロデューサーが立っている。
甘ーい匂いをくたびれたコートに纏わせて立っている。
お疲れ様。と声をかけてくれるから、ありがとうって返事をするけど、目は彼の持ったドーナツに釘付けのままで。
おいおい、俺よりドーナツのほうが大事なのかよ、だって。
そんなことないよ? プロデューサーには感謝してるよ~。
「もしかして。プロデューサー、ドーナツに嫉妬してるの?」
「そんなこと言うヤツには今度から持ってくるドーナツ半分にするよ」
「そんな殺生な~。ね、持ってるの全部食べていいの?」
「ダメ。片方は俺のだ。あとで食べる用なの」
あたしはずっとぱたぱた、おもちゃのロボットみたいに軽快に踵を鳴らして、このいつものやり取りをするんだ。
プロデューサーがドーナツの甘い匂いをしているときは、いつだってぱたぱたとステップを踏む。
ぱたぱた。
プロデューサーと出会ったのは、確か春先、あたしが中学生になってすぐのころだ。
街角で揚げたてのドーナツを買って、抱えたドーナツの匂いが嬉しくって。
少しだけステップを踏んで歩いていたら、急に冴えないスーツの人に声をかけられたんだった。
ドーナツひとつ分けて? って言われるんだと思った。
だから袋に手を入れて、あげるドーナツを選んでたらあの人は急に慌てて、そうじゃないって言うから。
詳しく話を聞いたら、なんとアイドルのプロデューサーだった。
「食べてる笑顔が良かった」だとか、「嬉しそうな表情にティンと来た」だとか、めちゃくちゃに捲したてるプロデューサーに、初めはちょっと困惑した。
あたしが嬉しいのも全部ドーナツのおかげだったから、納得出来なかったんだ。
でも結局、あたしはドーナツのためにアイドルになった。
それからずっと、プロデューサーと一緒。
初めての仕事はドーナツと関係がなくて、プロデューサーを困らせるようなことを言っちゃった。
プロデューサーのおかげでなんとか上手くいって、そのあとはたくさん撫でられた。
ドーナツも一緒に食べた。
ドーナツ屋さんのキャンペーンガールとしての仕事が決まったときは、二人して踊り始めるくらい嬉しかった。
仕事はもちろん大成功して、事務所で盛大にドーナツパーティーをした。
「三カ月はドーナツ見たくない」ってプロデューサーは言ったけど、次の日も一緒に食べた。
ずーっと、プロデューサーと一緒。
ドーナツは最近、前よりずっとおいしく感じるようになった。
プロデューサーの車に乗って、事務所に帰ってきた。
事務所は珍しく人が出払っていて、静かだ。
プロデューサーはあたしをここまで送ってから、ちょっとした仕事に向かったみたい。
あの人のことだから、すぐに終わらせて帰ってくるのかもしれないけど。
「プロデューサー、最近忙しいんだろうなぁ」
貰ったドーナツの封は開けないでおく。今度は、あたしからもプレゼントしようかな。
ソファーに深く座って、そこから静かな事務所のなかで、ひかえめに踵が鳴る音だけが響く。
でもそれもしばらくしたら止まった。
だれか帰ってきたらみんなで食べよう、と思って取っておいてあるドーナツの紙袋と目が合う。
けれど、そこはぐっと、食べてしまいたい気持ちを我慢した。
みんなと食べたほうが美味しいもんね。
あぁ、外はもう冬だなぁ。
あったかいココアと、チョコレートのドーナツが美味しい季節だなぁ。
窓から見えるプラタナスの木はすっかり裸になっちゃった。
撮影が少し早く終わったおかげで、まだ外は明るい。
もうすぐおやつにちょうど良い時間なんだから、早くだれか帰ってこないかな。
そんなことを考えてたら、そのうちカツカツと階段を上る音が聞こえて、あたしはドアの方を見た。
だれか帰って来たんだ。
足音に合わせてまた、踵を鳴らした。
がちゃり、と静かにドアノブが回って、帰ってきたのはゆかりちゃんだった。
「ただいま戻りました。あら、法子ちゃん一人ですか?」
「おかえりゆかりちゃん! 待ってたんだ。だれか帰ってこないかなーって」
ゆかりちゃんは、真新しいねずみ色のコートをハンガーに掛けた。
「今日も、なにか良いことがあったんですね?」
「うん! お仕事終わりにプロデューサーがドーナツ持ってきてくれたんだ!」
そう言ったら、ゆかりちゃんはうふふ、と朗らかに笑う。
「プロデューサーさんと、相変わらず仲が良いんですね」
「ずっと一緒だもん~。ゆかりちゃんこそ、そっちのプロデューサーと仲良しなんでしょ?」
「ふふ、まぁそれなりに、ですね」
今度ははぐらかすように笑って、ゆかりちゃんは答える。
なんだかんだあたしより歳上だから、すごく大人っぽいなって思うこともある。
同じくらい、ハラハラすることも多いんだけど。ゆかりちゃん、天然なところあるから。
「そういえば有香ちゃんは帰ってくるのかな」
「有香ちゃんは、今日は夜まで仕事だそうです。残念ですけど……」
「そっかぁ、仕方ないよね。お仕事が忙しいのは嬉しいことだし」
いつもの三人で集まることは出来なかった。少し期待してたんだけどね。
木枯らしが窓を少し叩いた。葉っぱが舞っているのも見える。
事務所のストーブ、そういえば点けてなかった。
「ココア飲みます?」
「うん、飲む飲む! ドーナツもあるよ♪」
「それは良かったです。今、淹れて来ますね」
「あたしも行くっ!」
キッチンに向かうゆかりちゃんの後をついて行く。
事務所のキッチンは毎朝お掃除してくれる人のおかげでピカピカで、シンクには曇り一つなかった。
あたしはドーナツの食器棚を開けて、埃一つないそこからふたつお皿を取り出した。
ゆかりちゃんは温かいココアを二人分持っている。
「そういえばさ、なんであたしが良いことあったってわかったの?」
「ふふっ。法子ちゃん、またぱたぱたしてたので。良いことがあったときの癖、なんですよね?」
「わわっ、あたしまたやってた? 自分でも気づいてなかったよ」
二人分のお皿とココアをそれぞれテーブルに置いた。柔らかなソファーに体を埋めて、さぁドーナツを食べよう。
だれかと一緒に食べるドーナツはいつもより美味しいのだ。当社比三倍。
お皿に乗せたドーナツはみるみるうちに数を減らしていく。チョコレート、プレーン、ハニーグレーズ。
最後に指についたグレーズを舐めたら行儀がわるいとゆかりちゃんに叱られた。
あたしがてへ、と舌を出したら、ゆかりちゃんはまたふわふわと笑った。
「法子ちゃんはいつも楽しそうで、見てるこっちも嬉しくなっちゃいます」
「そうかなぁ?」
「そうなんです。……私、楽しいことって水みたいだなって思うんです」
「えっ?」
「悲しいこととか、悔しいことはずっと残り続けるのに、嬉しかったことって何度掬い上げても零れていくように思えてしまって」
あたしにはよくわからなかった。
あたしがいつだって楽しいのはドーナツのおかげで、それに、一緒にいるみんなのおかげなのに。
「きっと法子ちゃんは、水を掬うカップをたくさん持っているんですね。そう思ったら、なんだか羨ましくなっちゃって」
「なんかイヤなことでもあったの?」
「いえ、そんなことないです。変なことを言ってしまいましたね」
忘れてください、とゆかりちゃんはふわふわ笑って言う。
「知ってますか? 法子ちゃんの癖が出るときって」
「あたしのくせ?」
「良いことがあったときも、もちろんドーナツを食べてるときも出てるんですけど、一番嬉しそうに足踏みしてるのは、プロデューサーさんと一緒のときなんです」
ゆかりちゃんはこのあと程なくして帰ってしまって、また事務所に一人になった。
あの言葉は、ドーナツを食べたあとに紙袋に溜まった、黄色いチョコレートの粒みたいにあたしの中に残っている。
しばらく、だれも帰ってこないのかな。
またカツカツと階段を登る音が聞こえる。だれか帰ってきたんだ。ドアを開けて出てきたのは、プロデューサーだった。
「あれ、法子まだいたのか」
「うん、どうかした?」
くたびれたカーキ色のコートをプロデューサーから剥ぎ取るようにして受けとって、ハンガーに掛けようとする。
もう、ドーナツの匂いはしないなぁ。
フレンチクルーラーみたいな色のコートからは、もうプロデューサーのにおいしかしなかった。
「ちょ、コートのにおいなんて嗅ぐなよ」
「かっ、嗅いでないよ?」
「変なにおいとかしなかった?」
「ぜんぜん! プロデューサーのにおいって感じだった」
「やっぱ嗅いでるじゃん」
「あっ」
プロデューサーは自分のデスクに腰を下した。ギシ、と軋む音がする。
あたしはまたキッチンに向かって、今度はインスタントコーヒーの蓋を開けた。
「はい、コーヒーだよっ♪」
「おっ、ありがとうな法子」
出来上がったそれを手渡す。
窓の外を見たらもう陽が沈みはじめて、オレンジが黒に溶け出しているところだった。
「ドーナツ、俺の分まだ食べてないんだけど。法子も食べる?」
「もちろん!」
自分の分のコーヒーも淹れて、プロデューサーのデスクで並んでドーナツを食べる。
備え付けの大人用の椅子はあたしには少しだけ大きくて、つま先がぺたぺたと事務所の床を叩いた。
「法子、さっきの撮影だけどな、向こうの番組プロデューサーがめちゃくちゃ褒めてたぞ」
「えへへ、嬉しいなぁ……これも、プロデューサーとドーナツのおかげかな?」
なぜだか急に、プロデューサーは少し真面目な顔をする。
また椅子を軋ませて、デスクに向かっていた体をあたしの方に向け直した。
「ありがとうな、法子」
「へ?」
「法子は、ドーナツのおかげでアイドルを始めたんだよな」
そうだよ。ドーナツのおいしさを広めるために、あたしはアイドルになったんだ。
「じゃあ俺はきっと、法子のおかげで本当のプロデューサーになれたんだ」
「どういうこと?」
「いやなに、まだ全然仕事を取ってこれない、ペーペーだったときに、この子だ! って子を見つけたんだよ。それが法子なんだ」
って、くしゃくしゃ頭を撫でながら、ずっとプロデューサーはありがとうって言っていた。
プロデューサー、違うんだよ。
確かにあたしがアイドルを始めたのはドーナツのためだけど、でも今は、それだけじゃないんだよ。
一緒にアイドルするのが楽しくて、仕事終わり一緒に食べるドーナツが一番おいしいんだって思ったから。
くしゃくしゃと撫でられるのが気持ちよくて、なんだかぽかぽかするよ。
少し分けてもらったあたしの分のドーナツは、もう食べ終わっちゃった。
でも今は、全然物足りなくなんてなかった。
仕事終わりに食べる相手も、一緒に仕事する人も、一番一緒だったのって誰だっけ?
きっと、プロデューサーさんだった。
ぺたぺた。
つま先が床を叩く。
「プロデューサーになったのに、最初は全然上手くいかなくってな。でも法子がアイドルになってから、いつもプロデューサーになって良かったって感じるよ」
「いつも?」
「そう、いつも。いつだって頑張れるきっかけになったのは法子なんだよ」
あたしの手を取って、連れ出してくれたのはプロデューサーなんだよ?
「法子がいなかったら、今ここに俺はいないよ」
最近は、あなたのことばっかり考えてるんだ。ドーナツとおんなじくらいかなぁ? もう、あたしにはわかんないや。
「あのね、プロデューサー」
そう言ってあたしは席を立った。プロデューサーはちょうど、ドーナツを食べようとしてるところだった。
タップダンスができるくらいに、大きく踵が鳴る。ステップを踏む。あなたに一歩近づく。
「プロデューサー、ずっと一緒にいてくれて、ありがとうねっ♪」
プロデューサーがちょうど咥えたドーナツに、あたしも小さくかじりついた。
視線が、あたしとドーナツに小さくついた歯型の間をなんども行き交う。
あたしの顔も、きっとストロベリードーナツみたいな色なんだろうな。
もぐもぐとドーナツを飲み込んで、逃げ出すみたいに事務所を出た。
大きな音を立てながら、階段を蹴飛ばすみたいに降りる。
外は冷たい風が吹いてるけど、今のあたしには全然関係なかった。
揚げたてのドーナツみたいに、あたしはアツアツだったんだ。
大きく、踊るみたいに踵を鳴らした。
ぱたぱた。
口の中には、甘いハニーグレーズの味がずっと残っている。
ねぇ、たぶんこれが、恋の味。
お わ り
今回の元ネタはASIAN KUNG-FU GENERATIONの「踵で愛を打ち鳴らせ」でした→ https://youtu.be/CsCwl6rDOgU
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