東郷あい「秋深き」 (66)
隣は何をするひとぞ、と。
ベランダで夜風にあたりながら物思いに耽って、ふと思い出す。
それくらいに希薄な関係になってしまったのかな…”お隣さん”は。
それとも、ね。
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ーーー
入居のタイミングは別々だった。
私がこの場所、女子寮の隅っこに住み始めたのは今日のような秋の終わりだったし、彼女が越して来たのはその次の春。
つまりは都合4ヶ月ほど孤独だったわけだが。
その頃は何も気にせず部屋でサックスを吹いていたのだったかな?
寮長から許可を得ているとは言え、やはり近隣への音漏れと言うのは音楽人なら誰もが気にすることだし、それもあってこんな隅っこへの入寮を望んだふしもあるからね。
とは言っても、彼女が隣に越して来たことを疎んでいるわけでは決してないよ。
…正直、少し外れのこの場所に一人と言うのは寂しい気もしていたのさ。
隣に越してくる子が高校生だと聞いて、おや、と思ったのは責めないで欲しい。
そのぐらいの年の子なら、寄宿舎型の本棟へいくと思っていたし、親御さんもそれを望むだろうからね。
きっと、一人暮らしができるくらいにはしっかりとした子なのか、若しくは私みたいに何かしらの事情があって広めの部屋か、あるいは”独立したスペース”が必要な何かを持っている子なのだろう、と。
まあ蓋を開けてみれば、その推測は両方共間違っていなかったようで。
彼女が越して来た日の事は、それはもう鮮明に覚えている。
なにせ…ね。
まあ、引っ越しの挨拶と言っても、大した会話をしたわけじゃあない。
それ自体はそっけないやり取りだった。
「引っ越し蕎麦です」
と差し出された簡素な小包を受け取って、2,3の会話を交わして…
レッスン後で疲れていたとは言え、あれは酷い対応だったかな。
そう、疲れていたんだ。
だから不自然な重みにも気づなかった。
貰い物はなるべく早く食べてしまおう、お返しも用意しないと。
ガサガサと包装を解いて箱を開いてどうもおかしいぞ、となってね。
重量の理由は決して蕎麦の量ではなくて、
一緒に添えられていた ―というにはあまりにも立派過ぎる― 小ぶりな、どんぶりだった。
いやあ、あの時は凄く焦ったね。
なにせ、どう見ても量産品じゃなく一品物だ。
芸術品に詳しいわけではないが、少なくともそこらに売ってあるものじゃないだろう。
岡山出身と言っていたし、ふむ… ”備前焼”というやつなのかな?
裏印は漢字一字。
検索はしてみたものの、どこにも載っていない。
所々釉薬の塗りが甘いような気がするが、これも味なのだろうかな。
引っ越し蕎麦のお返しだからゴミ袋のストックを幾つか渡そう、などとしか考えていなかったものだから、さてどうしたものか、とね。
とにかく先ずはお礼をと、沸かしていた火を止めて隣へ向かった。
こちらがこんなにも慌てるとは想像していなかったらしい。
お互いに頭を下げ合うという不思議な形となってしまった。
きっと自己紹介の意味もあったのだろう。
「じつは、私の作品なんですよ」
と、照れながらも伝えてきた様子は、なんというか…芸術家(の卵、かな)の魂とでも言うべきか、そういった気概も少し見えて。
分からないわけではない。ジャンルは違えど、私も芸を嗜むものの端くれだ。
と、いうわけで。
初対面から好感を持ったといえばそうなのだが、なにせ突然でね。
だから、彼女に関しての大きな思い出と言うと、どうしてもこの時のことばかり頭に浮かんでしまうんだ。
ーーー
勿論それっきりってわけじゃあない。
事務所もグループも一緒なだけあって、レッスンが一緒だったり事務所で会ったりして立ち話をする機会なんかは何度かあった。
けれど悲しいかな、こちらは社会人(職業:アイドルだがね)だし、あちらは高校生だ。
夏が近づく頃には、お互いの生活時間のズレもあって、朝のゴミ出しの時なんかに少し挨拶をするぐらいで… 薄情者だったね、今思えば。
まあしかし、会う機会が減ったというのはネガティブな事ばかりじゃなくてね…
つまり、一方では私達が忙しくなってきた結果でもあるんだ。
そう。アイドルとして少しずつ、仕事が回って来るようになったのさ。
彼女はビジュアル面の仕事が多いようだったかな。
下町の浴衣祭りに送りこまれたメンバーの中にいたようだったし、
秋口にはなんのイベントだかわからないが女神のような衣装を着ていたポスターが事務所に飾られていた記憶がある。
私はと言うと、メイド服を着せられていたりしたがね。
それと、レッドバラードでのライブコンサートもあったりした。
適当にものを言っているようだが、記憶なんてそんなものだよ。
何せ今… ふぅむ。
ライブバトルなんかで対戦した事もあったかな。
彼女と私は担当のプロデューサーが違うから、直接対決じゃあなくてもライバルになってしまうことが度々あった。
そういう形ではなく、同じイベントに出たことも実は一度だけ有るのだけど…
ああ、あの時の事はあまり思い出したくない、というのが本音だ。
ーーー
彼女が越して来てからちょうど一年といったところだろうか。
地元の桜祭りに「出演」するメンバーに、私と彼女は選ばれていた。
但しそれぞれ役割が違って、私と他のメンバー、早苗さん・あずき・薫の4名は昼の仕事…TV向けのレポーターなどが主で、
彼女は夜のステージの主役といったところ。
きちんと覚えているやり取りと言えば、前日にステージリハの後で交わした幾つかの言葉ぐらいかな。
実は彼女と私はその場所に来たことがあって、
まあなんのことはない、あの引っ越し祝いのせめてものお返しとして、この桜並木の下で彼女にサックスを披露したのだ。
ある意味では意趣返しであったし、何より
「趣味でつくったものですから」
と物でのお返しを遠慮されてしまったので(ゴミ袋?渡したにきまっているだろう?)それならば、とね。
その時の事を思い出しては話したり、後は…
「どんな服を着れば良いのでしょうか」
と困っていたようだったな、たしか。
昼の部の撮影は”春らしい私服”というふわっとした指定しかされなくて、特に事務所からの通達もなかったように記憶している。
どうやらあまり私服選びにはあまり自信が無いらしい。
それに、5人で合わせたりするのかどうかと心配していたみたいだった。
他の3人が何を着てくるかは分からないが(薫とは何度か共演しているし予想は難しくはなかったがね)、そうそうおかしなことにはならないだろう。
強いてバランスを取るなら、大人組は少しかっちりとした服装だろうから少し柔らかめが好ましいというぐらいかな。
…まさか、早苗さんがあんな勝負服で来るとは予想もつかなかったのさ、その時点では。
あまり具体的なアドバイスをできるわけでも無いので、「かわいい服を着てくるといい」と言っておいた。
夜の衣装姿は大人っぽい、幻想的な姿のものだったはずだ。
昼と夜とでギャップがあるというのも魅力的だろうからね。
当日についてだって、本来なら良い思い出が残っていたはず、だったんだが。
いつもよりも会話が弾んでいたと思うし、番組も良い視聴率が取れたらしい。
夜のステージも。それは良いものだった…
夜桜の中ふわりと踊る彼女は、それはそれは素敵な輝きだったよ。
しかし。
そう、その後に残っていた二文字…”宴会”が、…うう。
ああ、あれは私にとって、一生の不覚だったと言ってもいい。
大したことではない。
ただ酔いが回って、情けない姿を見せた、というだけだ。結果だけみればな。
それでも私にとっては手痛いことだった。
なんだろうね。
どうしても、年下の子には”お姉さん”として振る舞いたいと思ってしまうのだよ。
頼られたいし、格好をつけたい。
ちっぽけなプライドさ。だが、予想以上に響いたんだ。
以来、どうしても、ね。
避けているわけではないが、意識をしてしまって。
そうしているうちに、交流の機会は減っていってしまった。
まあ要するに、私が悪い、ということだ。
ーーー
その失敗を引きずりながらも、今右手に持っているのは淡い林檎フレーバーのチューハイの缶だ。
なに、大人にはこうやって何も無くとも飲みたい夜もあるのだよ。
例えば…こんな静かな秋の夜には。
酔いに任せ、感傷にひたる。
気がつけばあの頃のことを思い出している。
ちぐはぐな、継ぎ接ぎな記憶が頭を巡り、心地よい夜風がそれを洗い流していく。
寂しさを紛らわせたくて、ね。
冬も近づいてきているし、すっかり忙しくなったのはいいことなのだが、こうやって一人になるとなかなか…
”秋深き 隣はなにを する人ぞ”
の句は、芭蕉の最後から二つ目の句だったか。
病で寝たきりの日が続き、弟子の開いた句会に参加できぬお詫びに送ったもので、
今では都会の暮らしの孤独さを表すように使われる事も多いとか。
耳を澄ませばごぽごぽと水の、少し詰まったような音が聞こえてくる。
きっと洗い物でもしているのだろう、少し酔っていて耳の感覚が優れないような気はしているが。
ああ。
もう一口、缶を傾けて…
パァン、とくぐもった破裂音が。
水音、悲鳴。
!!
思わず缶を取り落としてしまった。
隣で何かあったのか!?
一気に酔いが覚める。
押し入りか?いや違う。
身を乗り出してベランダ越しに様子を伺うも、人が争っている様子ではない。
何が起きているのか把握はできていないが、一旦冷静になれ。
なにかしらのトラブルが起きている。
落ち着け。…落ち着け。
取り急ぎ寮長と管理人に連絡をし、勝手ながらこちらからもアクションを起こすと伝えておいた。
先ずは落ち着いて、インターホンを押す。
もしかしたら、皿を落としただけだとか、…そうであってほしい。
1,2,…
ノック。
反応はない。
ドアの奥からは…水の、流れる音。
水漏れ、という程度では無さそうだ。
躊躇っている暇ではないかも知れないな。
意を決してベランダへと戻る。
管理人がマスターキーを持ってくるかとは思うが、数分はかかるだろう。
その間に手遅れになるようなことが、万が一でもあってはいけない。
ベランダの仕切り板を、物干しでついて破る。
非常時の講習で習っておいてよかった。
そのまま進入し、雨戸越しにもう一度声をかける。
返事は聞こえない。
水の音にかき消されているだけか?
ベランダ扉に鍵はかかっていなかった。
カーテンは水に濡れて重たい。
水が足元を濡らす。沈む、というほどではないが。
スマートフォンが足元に転がっていて、食器の破片が流れて来て、彼女が壁に身体を寄せていて。
火事場のなんとやらというやつだろう。
抱え上げてとにかくベランダへと避難する。直後、もう一度インターホンと、鍵の開く音。
ベランダから声だけかけて、一旦自室へと連れて行く事にした。
部屋の状況は管理人に一任する。とりあえずは。
彼女に大きな怪我はなかった。
驚いて転けてしまって腰を少しうったようだったが、痣もなく少し痛みが走る程度で済んだようだ。
ただ、突然のことで気が動転しているようだった。
当然だろう。私だってきっとそうなる。
ゆっくりとなだめながらも、一応身体の様子をさぐる。
問題はびしょ濡れなことぐらいか。
バスタオルを引っ張りだして優しく包みながら拭いていく。
もう大丈夫、と声をかけながら。
このままでは身体が冷えて風邪をひいてしまう。
すぐに風呂を…と思ったが、どうも水が出ない。
緊急処置で止水栓をひねったらしい。正しい判断だろう。
少し落ち着いた様子だったので、一声残してもう一度隣へ。
寮長の真奈美さんも来ていて、業者への連絡をしていた。
管理人は中で状況把握をしている。
こういう時に年上の人間は頼りになる。
そうだ。
こういう時に頼りになる人間でなくては。少なくとも今、彼女にとって。
もう一度自分の心を律する。
アルコールなんて、とうの昔に吹っ飛んでいた。
…どうやら水道管が破裂したらしい、とのこと。
水場のタイルにおおきな罅がいっており、そこから水が噴出したみたいだ。
確かに、思い出せばごぽごぽと異音がしていた。
水の流れがおかしくなり、慌てて蛇口をひねった結果、負担がいったのだろうと。
事務所への連絡と、本棟への連絡をする。
前者は彼女のプロデューサーに向けて。後者は、浴場使用の許可を取るために。
先走った行動について管理人に謝罪をしたが、逆に褒められてしまった。
緊急時には正しい行動だった、とね。
自分でも、咄嗟の時に動けたということには悔いはない。
とはいえ、喜んでいる場合ではないか。
今は彼女の事が最優先だ。
業者が来たとして、本人の立会いはむずかしいだろう。
二人に任せたうえで、必要なら自分も後で同席すると伝える。
プロデューサーを介して親御さんにも連絡がついたようだ。
娘が心配だ、明日すぐにそちらに向かう、その他については申し訳ないが一任すると。
部屋に戻り、うつむいている彼女の方へゆっくりと向かう。
手を取り、顔をそっと上げさせる。
先ずはともかく、冷えた身体を温めよう、と、言い聞かせるように。
着替えを取りには行けなさそうだ。
二人分の家着を、タンスから引っ張り出す。
お風呂から戻ってくるともう遅い時間だった。業者は到着しているようで、玄関で管理人と少しだけ話す。
事務所からの伝言も言付かっていたようで、一晩どうかお願いします、と。
こちらもそのつもりではあった。
本棟はとっくに消灯時間だったし、ゲストルームも準備ができていない。
それに、このまま一人で寝かせるのだけはよくない、と思っていた。
部屋に戻り、布団を敷いてひとまず腰を落ち着ける事にする。
何度目かわからない「大丈夫だから」の言葉と一緒に、縮こまっている身体を静かに抱きしめた。
気丈に振る舞ってはいるけれど限界だったのだろう。
彼女は少しだけ私の胸の中で泣いて、そのまま泣きつかれて眠ってしまった。
しばらくそれを見守って、もう一度外へ。
ーーー
少しうなされているようだった。
毛布を掛けなおして、それでも強張っている頬を撫でる。
何かに縋るように、その手が服を掴む。
不安そうな手をそっと解き、今度はゆっくりと握って、しばらく背中をなでてやる。
小さい頃、母にしてもらったのと同じように。
しっかりしていてもまだ子供なのだと、今更のように思う。
少しずつ表情が緩み、呼吸も落ち着いていく。
ほっとして気が緩んだせいか、そのまま私も…
ーーー
翌日が休みだったのは幸運だったかな。
いや、次の日が休みでなければ勿論ああやってお酒を飲んだりなどしなかったけれどね。
彼女のプロデューサーとも連絡をとって、取り敢えず一日休養を取って心を落ち着けようと言う話になった。
夕方には親御さんが来てくださるらしいし、その頃には本棟の空き部屋を用意できるとのことだったから、それまで一緒にいることにした。
一晩寝て少し落ち着いたのか、本調子ではないが顔に明るさが戻ってきていた。
何か言おうとしていたけれど、無理に言葉にする必要はないよ、と言っておく。
気恥ずかしさや色々な感情が頭の中を巡っているのが見て取れたから。
応急修理は晩のうちに済んだとは言われていたが、まだ暫くは水を使えないとのことだったし、
家にこもっていても仕方が無い、ということで二人で出かけることとなった。
7歳も下の子とこうやって出かけるのは初めての経験だ。
薫と一緒に遊園地に行った事はあるが、またそれとは違う感じがするからね。
今回も当然、服を貸す事になる。
どうせなら、と少し私好みにチョイスさせて貰った。
ふむ、足がすらっとしているからタイトジーンズが似合うね。
ブラウス姿はちょっと普段の印象より男の子っぽくて、いい変装にはなるだろう。
髪の毛も少しだけ触らせてもらって…なんだか妹でも出来たような気分だ。
ああ、小さい頃は私も長い髪だったっけ。
こんなに艷やかな美しい髪ではなかったが。
写真も取らせてもらった。まだ、誰にも見せてはいないよ。
朝食を喫茶店でとって、商店街で取り敢えず必要になるであろうものの買い出しを済ませて、
昼からは気晴らしに街へ出ることにした。
まあ、いわゆるショッピングデートってやつだね。
週刊誌に撮られたら困るね、なんて冗談を交えつつ、お忍びのお嬢様をエスコートするつもりで。
その後はもう一度、今度は彼女のオススメのカフェへ。
今参加しているプロジェクト。お互い知っている共演者の話。それぞれのプロデューサーのこと。
あの時の思い出。
少しづつ解きほぐすように、互いのことを知っていった。
夕方、寮に駆けつけていた親御さんに会う頃にはすっかりいつもの明るさが戻っていた。
事後の色々はあって大変だろうが、彼女の所為ではないようだし(少なくとも調査結果はそうだった)、あまり気に病まないといい。
別れる時の言葉が、「迷惑をかけました」ではなく、「ありがとうございました」だったことに凄く安心した。
そうだよ。迷惑などと思ったりはしていない。
色々とあった一日半だった。
おかげで、すっかりと忘れたまま自室に戻って来てしまった。
今、水は出ない状態だと。
…誰か、今晩泊めてくれたりしないか?
慌てて電話をかけ始める。
随分と長い間出来なかった事が、ひょんなことで叶ってしまった。
あまり喜ばしい形での訪れではなかったけれども、ね。
ーーー
…こうして、突然のことではあるが、
春に来た彼女は、秋に去って行くこととなった。
去るとは言っても、本棟の空き部屋に移るというだけだが。
あの部屋はしばらく使えないだろう。
階下にあるのが駐輪場で本当に良かった。
私もここに留まり続けるとも限らない。
今回の件で各部屋に立ち入り調査もあるらしく、場合によっては全面改装工事という事態になる恐れもあるようだし。
そうでなくても、そろそろ寮を離れようという考えも頭の隅にあったから。
もう一度、という機会は巡っては来ないだろうな。
けれど、私は信じている。
”お隣さん”ではなくなったけれど。
彼女…いや、肇と。
これまでより、そしてこれからまた、仲良くできるんじゃないか、ってね。
<fin>
秋なので、肇ちゃんとあいさんのSSを書いてみました
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