男「賢くて強くて早口な彼女」(259)
彼女が乗ってきた。
彼女はいつもこの電車の前から二番目の車両に乗って登校する。
男「あ、彼女さん。 おはよう」
彼女「男君、おはよう!」
男「良い天気だね」
彼女「そうだね」
僕は三、四日に一度のペースで前から二番目の車両に乗ることにしている。
それが偶然を装える、最も短い頻度だった。
男「あ、髪型変えた?」
彼女「うん! 気付いた?」
男「すっきりしたね」
彼女「可愛いでしょ!」
男「う、うん」
彼女「君が初めてだよ。 髪型変えたの気付いてくれたの」
男「いつ切ったの?」
彼女「昨日の夜」
男「その後誰かに会った?」
彼女「会ってない」
男「そりゃ俺が初めてで当たり前だね」
彼女「そうだね」
男「……あれ?」
電車が発車しない。
アナウンスが流れた。
彼女「人身事故みたいだね」
男「そうみたいだ」
彼女「歩かない?」
男「え?」
彼女「ここからだと歩いてもそんなにかからないでしょ? 歩いて行かない?」
男「え……別にいいけ」
彼女「決まり!」
僕が「別にいいけど」を言い終わらないうちに彼女は電車を降りていった。
彼女「花粉もようやく収まってきて気持ちがいいね」
男「君は花粉症持ちだっけ?」
彼女「うん。 辛かった」
男「毎年大変だね」
彼女「今年は特にね」
男「そうなの?」
彼女「うん。 長かった」
男「普通じゃない?」
彼女「いや、長かった」
男「そう」
彼女「君も気持ちよさそうだね」
男「そう?」
彼女「ニヤついてる」
男「えっ」
彼女「わかるよ。 寒くもなく、暑くもない今の季節は最高!」
男「寒いのや暑いのは嫌い?」
彼女「嫌い」
彼女は食い気味に言った。
彼女はいつでも反応が早い。
その上早口で、僕はたまについて行けなくなる。
男「僕は夏も冬も好きだよ」
彼女「私だって好きだよ」
男「寒いのや暑いのは嫌いなんだろ」
彼女「夏は涼しくて、冬は暖かければ良かったのに」
男「贅沢だなぁ」
彼女「しんどいのは嫌い」
男「誰だって嫌いだよ」
彼女「そうだね」
彼女「ね」
男「うん?」
彼女「今日学校サボっちゃわない?」
男「え!?」
彼女「だって良い天気だし」
男「うーん……」
彼女「もっと散歩したい」
男「……うーん」
彼女「君はいつも真面目だし、たまにはいいじゃん!」
男「……じゃ、サボっちゃうか」
彼女「決まり! ね、どこ行く!?」
どこかいつもより彼女のテンションが高い気がした。
内心僕も昂って仕方がないのだけれど。
彼女と今日一日一緒にいられると思うと堪らなく嬉しかった。
今日という日を大事にしようと思った。
男「どこ行こうか……そうだな……」
彼女「動物園行きたい!」
男「決断早いな!」
彼女「動物園でいい?」
男「まぁいいけど」
彼女「じゃあ出発!」
男「急かすなよ」
男「君さ」
彼女「うん?」
男「よくサボるよね」
彼女「まぁね」
男「出席日数大丈夫?」
彼女「計算してるから平気」
男「勉強の方は?」
彼女「完璧だよ。 知ってるくせに」
男「まぁね」
男「出席しなくてもあんなに出来るんだから、凄いよなぁ」
彼女「へへー!」
男「お、動物園の看板が見えた」
彼女「ねぇ」
男「んー?」
彼女「私ね」
男「うん」
彼女「君のことが好き」
男「……え?」
彼女「君のことが好き」
男「す、好きってどういう」
彼女「恋人になって欲しい」
男「え、えっ」
彼女「付き合ってください!」
男「え、えぇ!?」
男「い、いきなりだね」
彼女「いきなりじゃない」
男「これがいきなりじゃなくてなんなのさ!」
彼女「二人きりになれるときをどれだけ待ったと思う?」
男「……そういえば今まで二人きりってのは無かったかも」
彼女「無かったよ。 あったらとうの昔に告白してた」
男「……僕が先に告白するつもりだったのに」
彼女「そうなの!?」
男「僕もずっと君のことが好きだった」
彼女「本当!?」
男「……うん、俺と付き合ってください!」
彼女「喜んで!!」
男「なんて良い日なんだ……」
彼女「本当に!」
男「え、いつから好きだったの?」
彼女「30年前から!」
男「僕ら19だよね」
彼女「1年前から!」
男「僕と一緒だ」
彼女「そうだったの!?」
男「……もっと早くに告白すればよかった」
彼女「本当だね」
男「……今日からよろしくね!」
そう言いながら彼女を見た。
彼女も僕を見ていて、その目からは涙が流れていた。
男「な、泣いてるの!?」
彼女「う、嬉しくて」
男「……」
泣くほどに僕を好きでいてくれたことが嬉しくて堪らなかった。
つられて、僕も少しだけ目が潤んだ。
男「ど、動物園着いたよ」
彼女「うん!」
男「キリンの首の骨の数って人間と同じなんだって」
彼女「知ってる」
男「ゴリラって皆B型なんだって」
彼女「知ってる」
男「カバの汗ってピンク色なんだって」
彼女「知ってる」
男「むぅ」
彼女「雑学はどうでもいいよ。 それより君のことが知りたい」
男「僕のこと?」
彼女「休みの日は何してるの?」
男「えっと……本読んだりツーリングしたり」
彼女「今度バイク乗せてよ」
男「いいよ」
男「君は? 休みの日は何してる?」
彼女「散歩」
男「散歩?」
彼女「そう。 ひたすら歩いてる」
男「楽しい?」
彼女「イマイチ」
男「楽しいことしようよ」
彼女「今楽しいよ」
男「座ってて。 飲み物買ってくる」
彼女「私も行く!」
男「いいよ、疲れたろ?」
彼女「疲れてない!」
男「元気だな」
彼女「自販機見っけ!」
男「元気だな」
彼女「ねぇ!」
男「何?」
彼女「ソフトクリーム屋だ!」
男「あ、ほんとだ。 食べる?」
彼女「食べる!」
男「じゃ、座って待ってて」
彼女「私も行く!」
男「でも結構並んでるよ?」
彼女「だからこそだよ」
男「?」
彼女「君がソフト買いに行ってる間私は一人になっちゃうじゃん」
男「10分ぐらいだよ」
彼女「10分もかかるんじゃん」
男「ふむ」
彼女「私は少しでも君と一緒にいたいの!」
男「……じゃ、一緒に行こうか」
彼女「うん!」
男「うーん……」
彼女「んー」
男「……微妙」
彼女「そうだね」
男「なんか、水っぽい」
彼女「でも」
男「でも?」
彼女「いや、なんでもない」
男「?」
男「……アイス食ったら腹の具合が」
彼女「え、大丈夫?」
男「ちょっとトイレ行ってくる」
彼女「私も行く!」
男「そんなわけにいくか!」
彼女「むぅ」
男「すぐ帰ってくるから待ってて」
彼女「待ってる」
男「ただいま」
彼女「遅い」
男「5分も経ってないよ」
彼女「ねぇ、君はどうして私を好きになったの?」
男「な、なんだよいきなり」
彼女「教えてよ」
男「……一目惚れ」
彼女「へぇー」
男「電車の中で君を見かけて、可愛いなと思って、気付いたら好きになってた」
彼女「ふーん」
男「君は? どうして僕を好きになったの?」
彼女「私と目が会った君がなんとなく忘れられなくて」
男「一目惚れか」
彼女「違うもん! 私は好きになるまで時間がかかった!」
男「どれだけ?」
彼女「3日」
男「短い!」
僕たちはその後、一日中散歩をした。
お互いのことをたくさん話し、笑いあった。
特別なことは何もしなかったけれど、彼女と歩いているだけで僕の心は嬉しい緊張で満たされた。
一年間、彼女を想う度にやってくる動悸と身体の火照りは辛かったけれど、今日一日で全てチャラになったと思えるほどに幸せな日を過ごした。
男「そろそろ帰ろうか」
彼女「……うん」
男「どうかした?」
彼女「ううん。 今日はすっごく楽しかった」
男「僕もだよ」
彼女「……あのさ、今晩さ」
男「うん?」
彼女「……や、何でもない。 明日も会える?」
男「もちろん」
彼女「じゃ、また明日ね!」
男「うん、また明日!」
━━
━━━
━━━━
今日は楽しかった。
楽しすぎた。
本当に告白してよかったのだろうか。
一年間彼を想うのは本当に永くて苦しかったけど、それでも365回といくつかの夜を超えてきた。
今はどうだろう。
たった一晩を超える自信すら無い。
もしこの先彼を失うことがあれば、私は本当に駄目になってしまうかも知れない。
彼と私の想いの募り方は違う。
それはどうしようもないことだ。
彼を失うことが怖くてたまらない。
━━
━━━
━━━━
付き合ってから一週間が経った。
僕たちは可能な限り時間を共にした。
彼女と会う時間はとても短く感じられ、あっという間の一週間だった。
幸せ真っ盛りの僕に、しかし一つの懸念があった。
男「あのさ」
彼女「ん?」
男「バイトを始めようと思うんだ」
彼女「えっ!?」
男「君と付き合ってさ、正直もっとお金が欲しいと思った」
彼女「ど、どうして!!」
男「恥ずかしい話なんだけどさ、この一週間君とお茶したり映画を見に行ったりして結構お金が足りなくなってきてるんだ」
彼女「だから私も出すとあれほど!!」
男「いや僕が出したいんだ。 だからせめて週三くらいでバイトをしようと思う」
彼女「で、でもそしたら会える日が」
男「休日にはシフト組まないようにするよ。 幸いアテがあるんだ」
彼女「お金かかるデートなんてしなくていいよ! 毎日散歩するだけでいい!」
男「でも僕は君ともっといろんなことをしたい」
彼女「……」
男「君を楽しませるいろんな計画があるんだ。 その為にお金が欲しい」
彼女「……」
男「バイト、してもいい?」
彼女「……駄目なんて言えないよ」
男「決まり!」
彼女「……いつから?」
男「明日から」
彼女「早いね」
男「実はもうシフトの曜日も決まってる。 月、火、木はバイトの日になる」
彼女「月、火……」
男「その3日は会えないと思う」
彼女「……ねぇ、あのさ」
男「うん?」
彼女「その……一緒に……」
男「なに?」
彼女「……いや、なんでもない」
男「?」
彼女「バイト、頑張ってね」
男「おう!」
彼女「ね、君って奥手だよね」
男「は!?」
彼女「明日から二日間会えなくなるじゃん?」
男「ま、まぁ」
彼女「手、繋いでよ」
男「えっ!」
彼女「それで頑張れると思う」
男「お、大げさだな」
彼女「駄目?」
男「……」
僕は彼女の手を握った。
彼女「あはは! これじゃ握手じゃん!!」
男「あ、そ、そっか。 こう?」
彼女「うん」
男「……」
彼女「ありがと」
男「……うん」
彼女の手は汗ばんでいた。
軽く言っているようでそうではなかった。
━━
━━━
━━━━
今日はバイトの日だ。
そして明日も。
2日も会えない。
でもこれは普通なのだ。
どんなに好き合っていても毎日欠かさず会うなんてことは難しい。
彼との関係を続けたいならば、耐えなくては。
普通でないのは私だけなのだから。
電話がかかってきた。
他の誰にも真似できないような速さで私は電話を取った。
彼女「もしもし!」
男「もしもし。 ごめん、寝てた?」
彼女「ううん!」
男「良かった。 少し話せる?」
彼女「うん!」
男「疲れたー!」
彼女「どんなことしたの?」
男「とりあえず今日は物の場所を覚えるのと、皿洗い。 明日はオーダーするからメニュー覚えなきゃならないんだ」
彼女「イタリアンだっけ?」
男「そう」
男「何と何の何風パスタだか何野菜の何サラダに何を添えてだかわけがわからん」
彼女「なんかネーミングはフレンチっぽいね」
男「でもピザあるよ?」
彼女「フレンチのピザもあるけど……どんなお店なんだろう」
男「まかないは美味かった。 今度一緒に行こうよ」
彼女「あ、ほんと? 行く行く!」
男「……ごめんね」
彼女「何が?」
男「僕もずっと好きだったのに、君に先に言わせた」
男「僕もずっと手を繋ぎたいと思っていたのに、君に先に言わせた」
彼女「……」
男「今度は、僕から言う」
彼女「……うん!」
男「……会えない日は、電話していいかな」
彼女「……もちろん!」
男「ありがとう」
彼女「いえいえ!」
男「今日はもう寝るよ」
彼女「うん。 お疲れ」
男「おやすみ」
彼女「おやすみ」
そうか。
恋人なら、会えなくても電話が出来るんだ。
彼も友達と遊びたい日があるだろう。
実家に帰ることもあるだろう。
会えない日はこれからもたくさんやってくるだろう。
それでも、電話は出来るんだ。
普通じゃない私に、活路が見えた気がした。
━━
━━━
━━━━
付き合ってから一ヶ月が経った。
初給料が出たので、僕たちは初めての旅行をした。
日帰りだけど。
彼女「見て見てっ!! 綺麗ー!」
男「おー!」
彼女「うーむ……青い……」
男「海って何で青いか知ってる?」
彼女「光の反射と吸収の関係でしょ?」
男「空の青が反射してるからだよ」
彼女「じゃあ空はなんで青いの?」
男「海の青が反射してるからだよ」
彼女「最初の青はどこから来たんだ」
男「子供の頃こういう話を親から聞かされてね」
彼女「面白い親御さんだね」
男「でも最近知ったんだけど、海の青って空の青も少しだけ関係してるんだって」
彼女「え!」
男「お、初めて僕の雑学で君を驚かせた」
彼女「初めてだっけ?」
男「君が知らなくて僕が知ってることなんてほとんど無いと思う」
彼女「そんなことないよ」
男「君は頭が良いから」
彼女「私、今の大学ギリギリ入れたんだよ?」
男「え!?」
彼女「C判定だったもん」
男「マジか」
男「じゃあ今の君のトップクラスはどうわけなんだ」
彼女「毎日勉強してるから」
男「どれくらい?」
彼女「10分」
男「短い!」
彼女「あ、魚が跳ねた!」
男「う、見損ねた」
彼女「なんか良い匂いがする」
男「あそこで焼き牡蠣売ってるね」
彼女「むぅ」
生唾を飲む音がした。
男「買ってくるよ」
彼女「私も行く!」
男「はいはい」
彼女「二つ食べていい?」
男「いいよ。 僕も二つ」
彼女「うわっ……美味すぎ……」
男「ほんと……身がプリプリ」
彼女「こんなにグロいのにこんなにグロい美味い」
男「人も貝も見た目じゃないってことだね」
彼女「一目惚れした君が言うの?」
男「君だってそうじゃない」
彼女「私の場合は、一目惚れというには見てる時間が長すぎたかな」
男「僕だって一年間君を見てたよ」
彼女「私だってそうなんだけど」
男「一緒じゃん」
彼女「つまり一目惚れってのは好きになるきっかけのことじゃん?」
男「そうだね」
彼女「初めて見た人をジロジロと長い間観察して、『あぁこの人素敵かもしれない』と思うのは一目惚れって言うと思う?」
男「え……」
彼女「つまりはそういうこと」
彼女「私とふいに目が合うって、実はあり得ないことなんだよ」
男「なんで?」
彼女「私動体視力が凄いから」
男「?」
彼女「知らない人と目が合いそうになったら、君はどうする?」
男「目を逸らす」
彼女「私だってそうする」
男「何が言いたいのさ」
彼女「私は目を逸らすことが出来たけど、そうさせなかった君は特別だって話」
男「……ふーん」
彼女「あの頃の私ってさ、感情が無かったんだ」
男「へ?」
彼女「取り戻してくれたのは君だよ」
男「ど、どういうこと?」
彼女「なんでもないよ」
男「なんでもない?」
彼女「ただの厨二病ごっこ」
男「はぁ……?」
彼女「風が強いねー!」
男「何してんの?」
彼女「TMRごっこ!」
男「HOT LIMIT?」
彼女「ナマ足魅惑のマーメイド!」
男「ちょ、脚をしまえ!!」
彼女「あはははは!!」
男「誰も見てないだろうな……」
彼女「確認してからやったから大丈夫」
男「まったく……」
彼女「ドキドキした?」
男「ん……まぁ」
彼女「へへ……」
男「今誰もいないんだな?」
彼女「うん、ここ人気無い」
男「……」
彼女「?」
男「……あの」
彼女「……何?」
男「……目、閉じて」
彼女「……ん」
僕たちはキスをした。
男「……ごめん、スマートじゃなくて」
彼女「ううん」
男「うわぁー! 俺かっこ悪い!!」
彼女「そんなことないよ。 有言実行かっこいい!」
男「あ……やっぱ覚えてた?」
彼女「うん。 嬉しい」
男「……今度はもっと上手くやるから」
彼女「今の、すごく良かったんだけどな」
男「……」
彼女「でも、次も期待してる!」
男「……よーし!」
男「そろそろ帰りの電車の時間だ」
彼女「うん」
男「どうだった?」
彼女「すっごく楽しかった! 良い所だね」
男「良かった。 楽しんでもらえて」
彼女「……私もお金出しちゃ駄目?」
男「駄目。 ごめんね、親父にそう育てられてきたから」
彼女「……私は君に何があげられる?」
男「時間と愛情」
彼女「……そんなの私も貰ってる」
男「それでトントン。 僕はお金をあげてるつもりなんかないよ」
男「損したなんてこれっぽっちも思ってない。 だからこれでトントン」
彼女「……そっか」
━━
━━━
━━━━
電車に揺られながら隣の彼のことを考えた。
どうしようもなく愛おしく、しかしまた、思いが募るほどどうしようもなく怖くなっていく。
この人はいつまで私の側にいてくれるだろうか。
もしかしたら一生を添い遂げてくれるかもしれない。
私が隠し通していられる限りは。
━━
━━━
━━━━
彼女と付き合ってから三ヶ月。
今日は僕の誕生日だ。
男「ごめん、待った?」
彼女「ものすごく待った」
男「どれくらい?」
彼女「二分」
男「短い!」
彼女「さ、行こ!」
男「うん」
男「どこ行こう?」
彼女「私ね、いろいろ考えたんだけど」
男「うん」
彼女「君の誕生日だから君が喜ぶことをしたいと思った」
男「うん」
彼女「君が喜ぶことってなんだろうってずーっと考えてた」
男「うん」
彼女「わからなかった」
男「うん?」
彼女「だってさー君何しても喜んでくれそうなんだもん」
男「まぁね」
彼女「だからノープラン!!」
男「堂々としてるなぁ」
彼女「でも何もしてあげないってわけじゃないよ!」
男「何してくれるの?」
彼女「何でも! 今日一日君の言うことを何でも聞こう!」
男「ほほう」
彼女「今日はそういう日!」
男「なるほど」
男「何でも……ね」
彼女「う、うん」
男「フッフッフ……」
彼女「な、なんか怖いよ?」
男「後悔することになるぞ……」
彼女「……」ゴクッ
男「じゃあ……」
彼女「……うん」
男「カラオケに行こう」
彼女「!」
男「前誘ったとき断ったよね。 『信じられないくらい音痴だから』って」
彼女「ちょ、ちょっと待って! 君は音痴とカラオケに言って楽しいの!?」
男「ずっと君の歌を聞いてみたいと思ってたんだー」
彼女「く……」
男「まぁ嫌なら別にいいよ。 どうする?」
彼女「……行く」
男「いいの?」
彼女「男に二言は無い!」
男「男らしい!」
男「でもほんとに嫌ならいいんだよ? 君が嫌がることを強要したいわけじゃないから」
彼女「ううん。 前は引かれるのが怖いから断っただけ」
彼女「ほんとは私もカラオケ好き」
男「そうなの? 」
彼女「高校生の頃はよく行ってたよ」
男「へぇー」
カラオケに着き、ドリンクバーで飲み物を取り、僕が一曲歌い、とうとう彼女が歌うときが来た。
彼女「君歌上手いねぇー!」
男「お世辞はいいから早く曲入れなよ」
彼女「……うん」
男「大丈夫、笑わないから」
彼女「むしろ思いっきり笑ってよね。」
彼女「……そいじゃ、行きまーす!!」
男「いよっ!」
彼女「聞いてください、スピッツで『チェリー』」
凄まじかった。
音は外れ、テンポは走り、強弱は滅茶苦茶だ。
しかし顔を可愛く歪めて気持ちよさそうに歌っている。
そんな彼女を見ていると可笑しくて愛おしくて笑いを堪えることが出来なかった。
彼女「笑うなそこ!!」
男「わ、笑っていいって、言ったじゃん」
彼女「うわぁムカつく!!」
男「つ、つ、続けて」
彼女「……あいーしてーる!!のひーびーきだーけで!!」
男「ひ、ひひ……」
凄まじかった。
音は外れ、テンポは走り、強弱は滅茶苦茶だ。
しかし顔を可愛く歪めて気持ちよさそうに歌っている。
そんな彼女を見ていると可笑しくて愛おしくて笑いを堪えることが出来なかった。
彼女「笑うなそこ!!」
男「わ、笑っていいって、言ったじゃん」
彼女「うわぁムカつく!!」
男「つ、つ、続けて」
彼女「……あいーしてーる!!のひーびーきだーけで!!」
男「ひ、ひひ……」
彼女「笑うなって言ったじゃん!」
男「言ってることが間逆だよ」
彼女「くああ……!」
男「でも、すごく可愛かった」
彼女「え」
男「カラオケ来て良かった。 もっと歌ってよ」
彼女「う……」
男「リクエストしていい?」
彼女「う……うん……」
二時間が過ぎ、退出時間になった。
男「延長!! 延長しよう!」
彼女「えっえっ」
男「いっそフリータイムに出来ないかな……」
彼女「え、君の誕生日こんなんでいいの!?」
男「最高!! もっと歌いたい!」
彼女「……よし、それなら今日はとことん君を楽しませる道化となろう!」
男「そうこなくちゃ!!」
僕たちはフリータイムを目一杯使い切ってカラオケを後にした。
男「いやー楽しかった!」
彼女「久々に思いっきり歌った!」
男「声ガラガラだ」
彼女「また行こうね!」
男「うん」
男「腹減った」
彼女「私も。 ご飯食べに行こう」
男「それなんだけどさ……」
彼女「あ」
男「ん?」
彼女「あれ」
男「……親父狩り?」
彼女「……みたい」
男「隠れて警察呼んで。 俺はちょっと行ってくる」
彼女「いいや、私が行く」
男「は?」
彼女「私強いから」
男「冗談言ってる場合じゃない」
彼女「君喧嘩強いの?」
男「したことない。 とにかく隠れてろよ」
彼女「あ、ちょっと!!」
男「何してんの?」
チンピラ「あぁ?」
男「カツアゲしようとしてない?」
チンピラ「お前に関係ねぇだろ」
彼女「馬鹿じゃないの?」
男「!?」
チンピラ「……あ?」
彼女「馬鹿だから人様を脅してお金盗るんでしょ」
彼女「馬鹿だから犯罪だって意識も無く、馬鹿だから他にお金を得る手段も見つけられない」
男「お、おい!」
彼女「あんたが盗ろうとしてる二万円を稼ぐのにどれだけの時間がかかると思ってるの?」
彼女「あんたは人様の人生を奪ってるんだ。 馬鹿はそんなことを考えもしないんでしょうね!!」
チンピラ「てめぇ……」
駄目だ。
こいつは女だろうと容赦なく殴る。
駄目だ、それ以上煽るな。
男「おい、早く逃げろ!」
彼女「時間がどれだけ重いか分かってるの!? 分かんないならあんたの時間全部捨ててとっとと死ね!!」
チンピラ「お前が死ね」
男「!」
彼女「!」
目の前に火花が散った。
視界がグラつき、膝が砕けた。
彼女が怒声を上げている。
彼女が奴に殴りかかろうとしている。
男「止せ!!」
奴は彼女目掛けて真っ直ぐに拳を繰り出した。
彼女の眉間に当たるはずの拳は、彼女をすり抜けた。
チンピラ「!?」
男「……パリング!?」
それも強烈なやつだ。
バランスを崩した奴が転ばぬよう差し出した脚の先には彼女の脚が先回りしており、奴はそのまま地面に顔を叩きつけた。
倒れた奴の頭を彼女が踏みつけようと脚を上げた。
かろうじてそれを躱した奴は、鼻を押さえながらそのまま去っていった。
彼女「おじさん、何も盗られてませんか?」
おじさん「あ、あぁ……ありがとう」
男「……」
彼女「お怪我は?」
おじさん「大丈夫だ。 な、何かお礼を……」
彼女「結構です。 私達これからデートの続きをしますので!」
おじさん「……そうか。 じゃあまた会えたらそのとき改めて礼を」
彼女「はい。 気をつけてくださいね!」
おじさん「あ、あぁ」
彼女「大丈夫?」
男「……なんて危ないことをするんだ」
彼女「……ごめん」
男「謝ってほしいわけじゃない」
彼女「……男が殴られてカッとなって」
男「その前から君は奴のことを挑発してただろ?」
彼女「挑発じゃなくて……ただただ頭に来たから……」
彼女「ごめん……私のせいで君が殴られちゃって……」
男「……」
彼女「……私なら勝てると思ったからあのおじさんを助けたいと思った」
彼女「でも、冷静になってみれば君がそんなの許すハズがないよね……」
男「……」
彼女「君が私を庇って殴られることも予想できたハズだった」
彼女「私の思慮不足でした。 ごめんなさい」
男「……僕が殴られたことはどうでもいい。 問題は君が殴られそうになったことだ」
彼女「わかってる。 ごめんなさい」
男「……はぁ」
男「……格闘技かなんかやってたの?」
彼女「ううん」
男「それにしては強すぎない?」
彼女「動体視力が凄いから」
男「……」
彼女「……」
男「……ま、何にせよ君に怪我が無くてよかった」
彼女「……ごめんね」
男「もういいよ」
男「腹減った」
彼女「そういえばご飯の話してたね」
男「それなんだけどさ」
彼女「うん」
男「今日は君が何でも言うことを聞いてくれるらしいからさ」
彼女「うん」
男「ご飯作って!」
彼女「えっ!!」
男「君の手料理が食べたい!」
彼女「え、ほんと!?」
男「駄目?」
彼女「作る作る!」
男「やった! じゃ、スーパー行こう!」
彼女「何が食べたい?」
男「んー……唐揚げ」
彼女「よし来た。 他には?」
男「ネギたっぷりの味噌汁」
彼女「うんうん」
男「あ、あとアイス食いたいな」
彼女「アイス!?」
男「無理?」
彼女「まぁ作れるけど」
男「やった!」
彼女「やった、鶏肉安い」
男「これ安いのか」
彼女「普段スーパー行かないの?」
男「コンビニ弁当食べてるからな」
彼女「身体壊すよ!」
男「まぁ改善しなきゃとは思ってる」
彼女「私がご飯作ろうか?」
男「え?」
彼女「あ、いや……」
男「え、何毎日飯作ってくれるってこと?」
彼女「……君が望むなら」
男「それってさ」
彼女「……うん」
男「弁当? それとも……」
彼女「……お好きな方で」
男「……え、まさか同棲してくれるの!?」
彼女「き……君が良ければ……」
男「……や、やったぁ! ま、マジで!?」
彼女「うん……!」
男「夢みたいだー……」
彼女「まさかこんなに早く一緒に住めるとは思わなかった……」
男「俺だって……部屋に呼ぶのも今日が初めてなのに……」
彼女「こんなに幸せでいいんだろうか……」
男「駄目ってこたーないだろう」
彼女「私さ、所謂『普通のカップル』のペースを守らなきゃと思ってたの」
男「あ、俺も」
彼女「いろんなことを『まだ早いかな』って我慢してきたんだ」
男「俺も俺も」
彼女「でもお互いそう思ってるなら、それって意味無いよね」
男「全くだ」
一人称間違えたwww
彼女「私、君で良かった」
男「うん、僕もそう思う」
彼女「こうやって君と買い出しとかずっとずっと憧れてたんだ」
男「良いよね」
彼女「したいことならまだまだ山ほどある」
男「僕も」
彼女「ちょっと欲張ってもいいかな?」
男「いいよ。 僕もいい?」
彼女「いいよ!」
抽出したらちょいちょい間違ってんな
男「ここが僕んち」
彼女「年季の入った建物だねー」
男「ここの四階。 もちろんエレベーターは無い」
彼女「一番上は気持ち良いね」
男「そう来るか」
彼女「おじゃましまーす」
男「次からは『ただいま』ね」
彼女「わぁ……」
男「どう?」
彼女「意外と片づいてる」
男「意外とってなんだ」
彼女「というより物が少ない。 本とギターしかない」
男「まぁね」
彼女「調味料使われた形跡がほとんどないんだけど」
男「そりゃ使ってないのに使われた形跡があるわけない」
彼女「そう」
彼女「ギター弾くなんて聞いてない」
男「言ってなかったっけ?」
彼女「ちょっと傷ついた」
男「僕も自分がギター弾くことを忘れてたんだよ」
彼女「なにそれ」
男「ずっと弾いてないんだ。 賃貸だと音出せないし」
彼女「なんとかならない? 聞きたい」
男「今度ヘッドホン買ってくるよ」
彼女「やった!」
彼女「じゃ、すぐ作るよ」
男「手伝うよ」
彼女「いい。 座ってて」
男「いいの?」
彼女「男子厨房に入るべからず」
男「ワンルームなんだけど」
彼女「じゃあこの辺からこっちは入っちゃ駄目」
男「トイレどうやって行くんだ」
彼女「うーむ」
男「早く作って」
彼女「はーい!」
彼女「先サラダ食べてて」
男「お、美味そう!」
彼女「あとこんなの買ってきた」
男「ビールだ!」
彼女「とうとう飲酒が合法になったね!」
男「会計したの君じゃん。 非合法」
彼女「罪に問われるのは売った方じゃなかったっけ?」
男「確か」
彼女「じゃあ私が口を割らない限り誰も罪に問われることはない」
男「まぁそうかな」
彼女「拷問されたって言わないよ」
男「味噌汁沸騰してない?」
彼女「あ、大変!!」
彼女「出来たよー!」
男「うわ、美味そー!!」
彼女「召し上がれ!」
男「いただきまーす!」
彼女「私もいただきまーす」
男「!!」
彼女「……どう?」
男「……滅茶苦茶美味い」
彼女「ほんと?」
男「今まで食った唐揚げの中で一番かもしれない」
彼女「お、大げさだな……」
男「ごめんお袋……お袋の唐揚げは二番目になってしまった……」
彼女「……嬉しい」
男「君もビール飲まない?」
彼女「未成年に飲酒を勧めるのは罪に問われるよ」
男「拷問されたって言わないんだろ」
彼女「じゃ、少しだけ」
彼女「……ほんとにこの部屋に私が来ても大丈夫?」
男「あぁ……ちょっと狭いかな」
彼女「私は全然いいんだけど」
男「僕も全然いいんだけど……そうだな」
男「……引っ越そう」
彼女「え!?」
男「少し駅から遠くなるけど、友達が住んでるアパートさ、家賃は変わらないのに少し広いんだ」
彼女「へぇー」
男「一つ部屋も増えるし」
彼女「でも引っ越すのお金かかるよ。 私はここでも平気だよ」
男「幸い荷物は少ないし、軽トラ借りれば引っ越し代はそんなにかからない」
彼女「でも新しいとこ借りるとなれば敷金礼金とかかかってくるでしょ?」
彼女「私、ほんとにここでいいんだよ。 君となら四畳半でだって苦じゃないから」
男「僕だって君となら二畳だって構わないんだけどさ」
彼女「さすがに二畳は行き過ぎだよ」
男「四畳半だって大概だよ。 まぁそれは置いといて」
男「お金の当てがあるんだよねー」
彼女「え、まさかバイト?」
男「うん」
彼女「……」
男「山小屋に泊まり込みのバイトの話が来てるんだ」
彼女「と、泊まり込み!?」
男「うん。 二週間」
彼女「に、二週間!!?」
男「行ってきちゃ駄目かな? それで広い部屋に引っ越せる」
彼女「わ、私は別に今の部屋で」
男「僕は君に不自由な生活をさせたくないんだ」
彼女「う……」
彼女「二週間……二週間……」
男「……電話も通じないみたい」
彼女「えっ!!?」
男「……」
彼女「……」
男「……」
彼女「……私も行く」
男「え!?」
彼女「私も山小屋でバイトする!!」
男「えぇ!?」
彼女「そもそも私だってずっとバイトして、デートのお金は折半したかったんだ!」
男「い、いやそれは」
彼女「親父さんの教えでしょ? そんなの知らない! それは君のエゴだよ!」
男「で、でも」
彼女「こんなに良くしてもらってるのにお金も出せない私の気持ちも考えて!!」
男「う……」
彼女「あ、いや非難してるわけじゃないの! 君のそういう所も好き! でもさ」
男「……うん、ごめん」
彼女「あ、いやあのね……」
男「……確かに他にもバイトしたい奴がいたら声かけてって言われてる」
彼女「……じゃあ!」
男「うん。 一緒に行こう」
彼女「! ……やったぁ!!」
彼女「よ、良かったぁ……」
男「なんか震えてない?」
彼女「少しクーラー強いかも」
男「あ、ごめん」
彼女「ごめんね」
彼女「……山小屋のバイトの後の話なんだけど」
男「うん」
彼女「君がバイトの日、私もバイトしていい?」
男「いや、それはして欲しくない」
彼女「……」
男「バイトして帰ったときにさ、ご飯用意して待ってて欲しいんだ」
彼女「!」
男「帰ったときに電気が付いててご飯が用意されてて、君が待ってる」
男「そんな生活が出来たらどれだけ幸せだろうと思うんだ」
彼女「む……」
男「君が居心地の悪さを感じてるのはわかった。 だから今言った生活を叶えてくれないかなって」
彼女「……そんなんでいいの?」
男「それをしてくれたら今度は僕が負い目を感じるくらい嬉しい」
彼女「……やらせていただきます!」
男「やったぁ!!」
彼女「半端な料理は絶対出さないから!」
男「……」
彼女「……」
無言の空気が流れ、僕たちは見つめ合い、どちらからともなくキスをした。
初めてした日から会う度にしてきたキスだったけれど、今回のは今までのそれとは明らかに違うものだった。
男「……いい?」
彼女「……今日はなんでも言うこと聞くって言ったじゃん」
男「……そうだったね」
彼女「あ、でも電気だけ消させてほしい……」
男「うん……」
電気を消し、僕たちは抱き合った。
暗闇の中見えるものは何もなく、聞こえるのは僕の荒い鼻息と、彼女が鼻を啜る音。
僕の肩に温かいものが落ちた。
彼女は泣いているようだった。
僕は優しく抱きしめようとしたが、彼女は強く、強く僕を抱きしめた。
━━
━━━
━━━━
男「綺麗だねー……」
彼女「ほんと、山の星空ってすごい……」
私達は山小屋にバイトに来ていた。
初めの二日は驚くほど混んでいて目まぐるしく働いたけど、3日前から雨が降り続き、客足はパッタリと途絶えていた。
することが無ければ基本的に自由らしく、私達はのびのびと散歩デートを楽しんだりした。
男「寒い?」
彼女「少し」
男「毛布出す」
彼女「うん」
私達は毛布に一緒に包まってコーヒーを飲みながら星を見た。
粉砂糖を振りかけたような星空は果てしなく壮大で、多分そんなに長くはないのだろうけど私は時間を忘れてそれを眺めた。
男「オリオンの左肩」
彼女「ベテルギウスだね」
男「もう無いかも知れないんだって」
彼女「知ってる」
男「ベテルギウスってどれくらい離れてるんだっけ?」
彼女「640光年くらい」
男「遠いねー」
彼女「見えてる恒星の中では滅茶苦茶近いらしいけどね」
男「それが爆発するかもしれない」
彼女「爆発してるかも知れない。 600年くらい前に」
男「600年くらい前に爆発しててくれれば多分生きてる内に見られるね」
彼女「見たいね」
男「640光年ってすごいよなー」
彼女「そうだね」
男「ベテルギウスから地球に光が届くまで、およそ僕らの人生八回分。 果てしないね」
彼女「……うん」
男「昼まであった雨雲もすごく遠く見えるけど、その規模で考えればもう触れてるに近い距離だ」
彼女「うん」
男「君と僕との距離なんてさらに近い。 もう0とみなしてもいい」
彼女「今日はやたら恥ずかしいことをペラペラ喋るね」
男「君はそういう気分にならない?」
彼女「……なる」
ベテルギウスから地球に光が届く時間よりも長く、君と一緒にいたい。
その時間は一人で生きるなら絶望でしかない。
でも君と生きるなら、それはとんでもなく楽しい旅となる。
その狭間にいることが、恐ろしくて堪らなかった。
━━
━━━
━━━━
彼と付き合って一年目。
今日は特別豪勢な料理でお祝いだ。
男「ただいまー」
彼女「おかえりー!」
男「腹減った!」
彼女「出来てるよー!」
男「お、美味そう!!」
彼女「ビールもあるよ!」
男「素晴らしい!」
彼女「君と付き合って一年かー……」
男「もう一年かー……」
彼女「……」
男「大好きだ」
彼女「な、なにさいきなり!」
男「改めて言っとこうと思って」
彼女「……私も、大好き」
男「へへへ」
彼女「えへへ」
男「あのさ、話がある」
彼女「……?」
男「留学の話が来ている」
彼女「え……」
男「ドイツに一年間」
彼女「い、一年?」
視界がグラついた。
彼女「い……行くの?」
男「行きたいと思っている」
視線が定まらない。
駄目だ。
倒れちゃいけない。
男「……待っててくれないか」
送り出さなくては。
彼のことを本当に思うなら、送り出さなくては。
彼女「……もちろん待ってるよ」
彼女「たった一年だもんね。 行」
胃が捩じ切れそうだ。
彼女「ん……」
男「ど、どうした?」
彼女「な、なんでもない」
まずい。
彼女「ご、ごめん!!」
男「!?」
私はトイレに駆け込み、今しがた食べたものを全て吐き出した。
胃が空っぽになってもまだ痛みと吐き気は止まらない。
男「おい、どうした!?」
男「大丈夫か!?」
どれくらいの時間が経っただろうか。
そんなに経っていないのだろうけど。
トイレから出ると、彼は電話をかけようとしていた。
男「い、今救急車呼ぶ!」
彼女「いいから」
男「いいわけないだろ!!」
彼女「大丈夫だから!!」
彼の携帯をはたき落とした。
彼女「なんでもないの!」
男「なんでもないわけあるか!! 吐いたんだぞ!!」
彼女「体調が悪かっただけ!」
男「さっきまで唐揚げ食いまくってたのにか!? 携帯を寄越せ!」
彼女「違う、違うの」
男「何が違うんだ!」
彼女「これには理由が」
男「理由……?」
彼女「……!」
しまった。
男「教えてくれ」
彼女「な、何を?」
男「何かあるんだろ?」
彼女「な、何もない」
男「何もなくて吐くか!」
彼女「ちょ、ちょっとショックを受けたから」
男「それはわかる。 俺が知りたいのはそんなになるまでショックを受けた訳だ」
彼女「だ、だって一年は長いから」
男「誤魔化すな」
男「君の振る舞いには前から違和感を覚えていた」
彼女「ど、どこが」
男「……具体的にはわからない」
彼女「だから何もないんだって!」
男「君が言うまで君から離れない。 留学も行かない」
聞いた瞬間、膝から砕けてしまった。
『言わなければ留学に行かないのだ』という考えが過って安堵してしまった。
私にとってそのプロセスを経るのは短くはなかったが、彼には一瞬だっただろう。
彼はますます確信したハズだ。
男「やっぱりおかしい。」
彼女「ち、違う……君には言えないの……」
言いながら、言ってることがおかしいことはわかってた。
私はもう観念したのだ。
男「僕には言えない? どういうこと?」
彼女「い、言ったら君は離れてしまうから……」
男「……君は僕を裏切るようなことをしてるようには見えなかった」
彼女「う、裏切るなんて!」
男「だよね。 じゃあ大丈夫だから話してくれない?」
彼女「……はい」
彼女「……あのね」
━━
━━━
━━━━
彼女「私は高3の冬、車に轢かれた」
男「……」
彼女「走馬灯ってよく言われるけど、あれみたいな現象が私を襲った」
彼女「周りがスローモーションになって、『あぁここで死ぬんだ、生きたりないな、まだ処女なのに』なんて思った」
男「……」
彼女「私を轢いた車はゆっくりと走り去った」
男「そ、それって轢き逃げじゃ」
彼女「そうだね。 でも身体はどこも痛くなかったし、何より試験に遅れるのが嫌だったから何も無かったことにして歩き出そうとした」
彼女「センター試験の日だったんだ。 普段なら即警察に連絡してただろうけど、あのときの私にその判断力は無かった」
彼女「脚が動かなかった」
男「え!?」
彼女「脚も動かなかったし、周りも動かなかった。 いや、よく見れば少しずつ少しずつ動いていた」
彼女「走馬灯のスローモーションが、治らなかったんだ」
男「……!」
彼女「必死な受験生って怖いね。 そんな状況なのに、私はセンター試験を乗り切った」
彼女「考える時間は山ほどあった。 おかげで私は発狂しそうになりながらも今までにない高得点を叩き出したよ」
彼女「帰ってからストップウォッチを見て、自分の体感時間との差を見てみた」
彼女「私が30秒数えている間に、ストップウォッチは1秒しか進まなかった」
男「……!!」
彼女「今度こそ私は発狂した。 親が駆けつけて私を取り押さえて、病院に連れて行った」
彼女「病院でも私が発狂した原因には気付けなかった。 受験のノイローゼとして処理された」
彼女「その頃私がちゃんと喋れてたらまた違ったのかも。 でも30分の1のスピードの世界で、私は喋るどころか聞き取ることも出来なかった」
彼女「でもすぐに正常に戻った。 客観的には」
彼女「皆にとっての3日は私にとっての3ヶ月だからね」
彼女「死のうとしたって、死ぬ準備に1時間かかるなら私にとっては30時間。 その間にいろいろ考えて怖くなる」
彼女「もし普通の人は一瞬の痛みで死ぬとしても、私には30倍の長さの痛みがあるんだ」
彼女「未遂ならいろいろしたけどどれも達成は出来なかった」
彼女「そのうち何も感じなくなった」
彼女「周りの人にとっては多分一週間くらい」
彼女「週間ってのは恐ろしいもので、それでもそれまでの生活は続けられた」
彼女「入試はなんなくパスして、大学にも通い始めた」
彼女「そこで、君に会った」
彼女「君がこっちを見てるのを視界の端で捉えて、なんとなく私もそっちを見た」
彼女「多分それから君が目をそらすまで3秒くらいだったと思う」
彼女「私にとっては90秒。 そんなに長い間男の人と目を合わせたのは初めてだったから、すごくドキドキした」
彼女「何も感じなくなってたハズの私がドキドキしたんだ」
彼女「それから感情が私に戻り始めた。 新生活が楽しく感じられてきた」
彼女「同時に、どうしようもなく辛かった」
彼女「90分の講義は私にとっては270分。 4時間半だ」
彼女「また発狂しそうになったけれど、君のことを考えると不思議と落ち着いた」
彼女「代わりに動悸と身体の火照りに悩まされたけど」
彼女「一年間、ずーっと君のことを見て、耐えきれなくなって告白した」
彼女「そこから先は君も知ってる通り」
男「……」
2700分だ恥ずかしい
90時間だ
45時間だwwwワロタwww
なんてことだ。
付き合ったとき、彼女が泣くのも当たり前だ。
30年の想いが届いたのだから。
僕がバイトをするのも嫌がったのも当然だ。
彼女にとっては毎週合計3ヶ月間孤独な時間を過ごすことになるのだから。
山小屋のバイトの二週間は60週間、一年以上。
彼女「不思議なもので、君と付き合ってない30年間を耐えきったのに、君と付き合ってからは一晩耐えるのさえ辛かった」
一晩。
12時間としても、15日間。
彼女「……嘘みたいでしょ」
嘘だなんて有り得ない。
彼女に対して抱いた全ての違和感に合点がいった。
そして、僕がしてきたことの残酷さに気付いた。
男「僕は……なんてことを……」
彼女「……君は絶対そう考えると思った」
男「……」
彼女「……君は優しいから」
優しいだなんてとんでもない。
僕が切り出した留学は一年間。
つまり30年間。
男「……留学は、しない」
彼女「……君ならそう言うと思った」
男「……」
彼女「……行ってきて。 まともじゃない私の為に人生を我慢することない」
君はどうなんだ。
普通の恋人を演じる為に、いったいどれだけの我慢をしてきたんだ。
男「……しないったらしない」
彼女「……男」
彼女「……私と別れて」
男「……絶対に別れない」
彼女「……優しい君には、私は重すぎる」
彼女「君は私の時間に合わせようとする。 一日会わないなんてことはこの先絶対しないでしょう」
そうとも。
絶対にしない。
彼女「君は優しいから、この先全ての時間を私と過ごそうとする」
彼女「今も私の為に留学をやめようとしている」
彼女「君の人生を台無しにしてしまう」
違う。
男「違う!!」
男「僕の人生を君が決めるな!!」
男「僕が一番したいことは留学なんかじゃない!」
男「君と一生を添い遂げることだ!!」
彼女「!?」
男「留学したいのは一流の仕事をしたいからだ。 一流の仕事をしたいのは、良い人生を送りたいからだ」
男「でも、どんな仕事をしたって君がいなければ良い人生なんて有り得ない」
彼女「……!」
男「逆に、君がいれば何をしたって良い人生になり得るんだ!」
彼女「……そ、それなら」
彼女「わ、私、待つよ。 一年間」
彼女「良い仕事人になって、尚かつ私が居れば最高なんでしょ?」
男「一年じゃないだろ、30年だ」
彼女「う……」
男「30年も君を放っといたら、僕は幸せになれない」
彼女「……」
男「僕の20年は軽くない。 だから、30年の重みもわかる」
男「そんな時間恋人をほっとくのは男じゃないって親父に育てられたもので」
彼女「……そんなピンポイントな教育があるかい」
男「もっと早くに言って欲しかった」
彼女「……ごめん」
男「……もっと早くに気づけばよかった」
彼女「……無理だよ」
男「こうして重い話をしている時間も、君には途方もない時間なんだろう」
彼女「……」
男「だから、僕は今この瞬間から一生君を楽しませることに全力を尽くす」
彼女「!?」
男「それは、ひいては僕が一生を全力で楽しむことに繋がる」
男「もう君を待たせない」
男「結婚して欲しい!!」
彼女「えっ……」
男「聞こえなかった?」
彼女「聞こえた聞こえた!!」
男「……返事は?」
彼女「……学生結婚かぁ」
男「いいでしょ?」
彼女「……嬉しいっ…………!!」
男「あ、あぁ泣いた!」
彼女「な、涙がとまらない」
男「……好きなだけ泣きなよ」
男「寿命まであと60年くらいかな」
彼女「そうだね」
男「じゃ、あと1800年よろしく!」
彼女「あと60年よろしく!」
男「大好きだ」
彼女「私も」
僕たちは、同じ時間を生きてゆく。
fin
彼女「ホット一つ入ったよ」
男「はいよ」
彼女「ついでに私にも淹れて」
男「はいはい」
彼女「彼女今日すごく天気良いよ」
男「海荒れてるな」
彼女「風は強いね」
僕たちは学校を卒業したあと就職はせず、シーズン中は山小屋で一緒にバイトをした。
冬の間は学生時代のバイト先に無理を言い、やはり彼女と一緒にバイトをして、とにかく出来る限り時間を共にしならがお金を貯めた。
収入はアルバイトだけとはいえ彼女のやりくりは完璧で、特に山小屋のバイト中は支出がほとんど無いこともあり、四年でかなりのお金が貯まった。
そして半年前、僕たちは喫茶店を開いた。
初めて旅行した海沿いのあの町だ。
男「やっと落ち着いたな」
彼女「そろそろバイト雇うことも考えなきゃね」
男「そうだなー……こんなに繁盛するとは思わなかった」
彼女「君のコーヒーが美味しいから」
男「君のパスタが美味いから」
彼女「新しいメニュー考えたんだけど作ってもいい?」
男「二人しかいないんだからあんまりメニュー増やせないぞ」
彼女「簡単なやつだから」
彼女「どう?」
男「……美味い」
彼女「合うと思ったんだよねー!」
男「既存のメニュー合わせただけだし、これなら新しく出してもいいかも」
彼女「あ、お客さん呼んでる。 はーい!」
男「伝票忘れてるぞ!」
彼女「おっと」
彼女「和風唐揚げパスタ入りまーす!」
男「またか」
彼女「すっかり看板メニューだね」
男「パスタとしてより、唐揚げの美味さで売れてるみたい」
彼女「唐揚げはいろいろ研究したからねー」
男「一個余分に揚げて。 食いたい」
彼女「仕方ないなー」
彼女「はい、あーん」
男「し、仕事中だぞ!」
彼女「お客さんからは見えないよ」
男「……ん、美味い」
彼女「店の造り、正解だね。 カウンター作らなくて良かった」
男「なんで」
彼女「イチャイチャするスペースが確保出来たから」
男「……まぁね」
彼女「怖いくらいに順風満帆だね」
男「そうかな。 君の唐揚げがあればもう少し売れてもいいと思ってたけど」
彼女「私はこれくらいが一番良い」
彼女「生活に不安が無いくらいに繁盛してて、でもこうやってのんびり出来る時間もあって、雨の日なんかはさらにもうちょっとゆったり出来て」
彼女「忙しいときでも暇なときでも苦になる時間が少しも無い」
男「……そうだね」
彼女「刺激的かつ穏やかな日々。 私の求めてたものだ。 とっても幸せ」
男「僕も今すごく幸せだ」
彼女「『幸せすぎて怖い』ってフレーズがあるじゃん?」
男「あるね。 今までピンとこなかったけど、この頃よくそういうことを思う」
彼女「ほんと?」
男「失うことが怖いね」
彼女「……私は君と付き合ってからずっとそれを思ってた」
男「……」
彼女「でも今君も同じことを思ってると知って、それがすごく嬉しかった」
男「……うん」
彼女「人生を共にしてる感が堪らないね!」
男「むず痒いな」
彼女「……私、この生活を失うのも怖いけどさ」
男「うん、わかってる」
彼女「……」
男「しばらく喫茶店を続けてお金が貯まったら、また別のことを始めよう」
彼女「ほんと!?」
男「失うことは怖いけど、でも長い人生だからいろんなことやりたいよね」
彼女「うんうん!」
男「君となら尚更」
彼女「へへ」
男「でもきっとすごく苦労するよ?」
彼女「君がいれば苦労は苦じゃないよ」
男「僕もそう思う」
男「……この新メニュー、駄目かも」
彼女「え」
男「時間が経つとアイスが溶けてベチョベチョになる」
彼女「あー……」
男「味はいいんだけどね……」
彼女「シフォンケーキはよく水気を吸うなぁ……」
男「少し焼いたら改善されるかな?」
彼女「どうだろう。 試してみようか」
男「こういうのも人生を共にしてる感があっていいね」
彼女「ね!」
━━
━━━
━━━━
彼女「まだ焼けない」
男「網に置いたばっかじゃん」
彼女「お腹空いた」
男「僕もだよ」
彼女「火おこすの遅いから」
男「上手くいった方だと思うんだけどなぁ」
彼女「焼けたかな?」
男「まだ早い」
彼女「少しくらい赤くても平気だよ」
男「豚は危ないよ」
彼女「あと何秒?」
男「20秒待とう」
彼女「うーむ」
男「そろそろいいかな」
彼女「やった!!」
男「いただきます」
彼女「いただきまーす!」
男「うめぇー!」
彼女「美味しーい!!」
男「まだまだじゃんじゃん焼くよ!」
彼女「どんとこい!」
今日は彼女の誕生日。
何がしたいと聞くとバーベキューがしたいとのことだったので、今日は臨時休業にして店先でバーベキューをしている。
といっても小さな七輪を二人で囲むだけの簡素なものだけど。
彼女「ビール飲む?」
男「後で車出すだろ」
彼女「私が運転するよ」
男「いいよ。 それより豚トロ焦げるぞ」
彼女「あ、大変!」
男「それにしても豚トロ多いな」
彼女「私豚トロ好き」
男「そうなの?」
彼女「早く焼けるから」
男「あぁ……」
彼女「少しお腹満たしたら分厚いお肉焼き始めよ」
男「おう」
彼女は人一倍待つことや苦しいことが嫌いで、人一倍美味しいものや楽しいことが大好きだ。
その中でも一番嫌いなのが一人でいる時間で、一番好きなのが僕といる時間だそうだ。
こんな風に僕に甘えたり、「お店閉めて誕生日して欲しい」なんてわがままを言ってくれたりするまで大分時間がかかり、彼女が僕の意見を無視して豚トロ祭りを開催したりすることが実はかなり嬉しかったりする。
彼女「タレ作ってみたの。 レモン風味であっさりしたやつ」
男「どれどれ」
男「あ、これ美味い」
彼女「ほんと? よかった!」
男「君はほんとに料理が上手いね」
彼女「君が食べるの好きなせいだよ」
男「勉強してくれたんだ」
彼女「いっぱいね」
男「ありがとう」
彼女「こちらこそ」
彼女「お腹いっぱい」
男「久々のバーベキュー、美味かった……」
彼女「うーむ、満たされた」
男「そりゃよかった」
彼女「ね」
男「うん?」
彼女「耳かきして欲しい」
男「唐突だな」
彼女「今日は君が何でも言うこと聞いてくれる日だから」
男「そうだったの?」
彼女「ほらほら早く!」
男「急かすなよ」
彼女「リビングから座布団取ってくる!」
男「え、リビングでするんじゃないの?」
彼女「店でしよう!」
男「なんで?」
彼女「なんとなく!」
男「変なの」
彼女「ん、そこ気持ちいい……」
男「前したばっかりだからあんまり溜まってないな」
彼女「もーちょっと強くしていいよ」
男「はいはい」
彼女は気持ちがいいことも大好きだった。
自分を幸せにする全てに貪欲だ。
男「綺麗になったよ」
彼女「じゃ、変わってあげよう!」
男「悪いね」
彼女「お、大きいのみっけ」
男「その辺かなり際どいんだけど」
彼女「でもこのお宝を逃すわけにはいかない」
男「慎重に頼むぞ……」
彼女「うい」
耳かきされながらスカートから出るナマ足を見ていると、僕の中の男の欲望がふつふつと湧き上がってきた。
ということは恐らく彼女も。
彼女「終わり!」
男「すっきりした」
彼女「ね」
男「うん?」
彼女「キスしよう」
男「うん」
彼女は気持ちいいことが好きで、つまりセックスも大好きだった。
彼女から誘ってくるようになるまでには、やはり時間がかなりかかり、しかしその後は毎日のようにセックスをした。
しかも一回で済まないことのほうが多い。
僕は僕で毎日していても飽きることがなく、どれだけ疲れていても少し照れながら誘ってくる彼女を見ると可愛くて仕方がなく、五年以上経ってもまだまだ僕たちは所謂バカップルのままだった。
彼女「ね、バスタオル取ってくる」
男「へ? なんで?」
彼女「ここに敷くの」
男「はぁ?」
彼女「ここでしたことってまだ無かったなーと思って」
男「え」
彼女「思いついちゃったんだから仕方ない!」
僕は苦笑いした。
本当に、貪欲だ。
━━
━━━
━━━━
男「コーヒー飲みたい」
彼女「わかったよ」
男「ありがとー」
お客さんが飲むコーヒーは彼が淹れるが、彼が飲むコーヒーは私が淹れることが多い。
彼が淹れる方が圧倒的に美味しいのだけれど、あまり自分では淹れようとはしない。
ものぐさではない彼がわざわざ私に頼む理由を聞いたことがある。
「僕にとって一番美味しいコーヒーは君が淹れたやつだから」だそうだ。
本当はそう返ってくるのはわかってたんだけど、それが聞きたくて、聞いた。
彼女「こんなもんかな」
恐らく適温まで加熱されたお湯を、豆の上に「の」の字を描くように注ぐ。
そしてタイマーをセットして豆を蒸らす。
彼女「これでなんで味の差が出るかなぁ」
タイミングが命の料理は私の得意とするところだけれど、ジッと見ててもさっぱり変化の無いコーヒーの蒸らし等はタイマーに頼らないと出来ない。
彼の場合、その日の気温や湿度に合わせて蒸らし時間を変えてるそうだ。
そんなので味が良くなるなんていかにもオカルトくさいけど、でも彼の淹れるコーヒーはいつも美味しい。
そこまで繊細な舌を持ってるわけでない私にわかるくらいハッキリと、私のコーヒーとは違う。
彼の用意した豆で、彼とさほど違わない手順で、だけど味はハッキリ違う。
不思議なもんだ。
蒸らしの時間を持て余してボーッとしていると、隣にあるガラスドアの冷蔵庫に写る私の姿が目に入った。
下着の上にTシャツを着ただけの格好で仕事場にいるのがなんとなく可笑しくて、私はそっと笑った。
私はよくこの格好をする。
「楽だから」なんて彼には言っているが、本当の理由は違う。
彼が、この格好が好きだからだ。
彼の口から実際にそれを聞いたわけではないが、この格好でいるときの私を見る目は明らかに違い、この格好でいると彼が誘ってくることが明らかに多い。
彼の好きな格好をしていると私も気分がよく、またそっと笑った。
彼女「出来たよ」
男「お、ありがと」
彼女「どう?」
男「ん、美味い」
彼女「良かった」
男「この後どうする?」
彼女「カラオケ行こう!」
男「お、久しぶりだね」
彼女「街まで車出して!」
男「よし来た」
私達の喫茶店かつ住居は海沿いの田舎で、一応観光地だけど観光客はあまり無く、カラオケなんてものは車で40分走らないと無かった。
男「普通車が欲しいなぁ」
彼女「私ジムニー好きだよ」
男「僕だって好きだけど」
彼女「この歳で一軒家持っちゃったんだから、車はもう少し軽で我慢してね」
男「安かったよなぁ」
彼女「家が? 車が?」
男「家。 田舎にしても安い」
彼女「一応観光地なのにね」
男「大丈夫かこの町」
彼女「改修費は結構したけどね」
男「それでもあと二年で払い終わる」
彼女「お客様は神様だね」
男「その後は何しようか」
彼女「何しようねー」
男「今の店は人に任せて、全く別のところで全く別のことをしたいと思ってる」
彼女「せっかく持った一軒家なのに?」
男「惜しいならここでも構わないよ」
彼女「惜しくない。 夢が広がるね」
男「まぁ全てはこれからの経営次第だけどね」
彼女「だね」
カラオケに着いた私達は、ドリンクを取ってから各々好きな曲を歌う。
彼女「ナマ足魅惑のマーメイド!」
男「脚をしまえ!」
このフレーズと共にスカートをたくし上げるのは鉄板のネタだ。
彼は脚フェチだから、私はことあるごとに脚を見せる。
彼が好きなのは太ももらしいから、私は膝より上のスカートは履かない。
私の身体を世の男性が見てるなんて自惚れてはいないけど、それでも私の身体は彼だけのものだ。
他の誰も興味はなくても、彼にとっては興味がある。
ならば私がそれを隠して、彼だけにしか見せないようにするのは、少なくとも私にとって大事なことなのだ。
男「……あのさ」
彼女「ん?」
男「カラオケって監視カメラついてる店が多いんだってさ」
彼女「え」
男「だからさ……前から言おうと思ってたんだけどカラオケで脚を出すのはやめて」
彼女「あちゃー……」
男「君は可愛いしスタイルもいいし、世の男は君が脚を出せば当然見ようとするからさ」
彼女「えっ、えっ」
男「君の脚は僕のものだから、他の男には見せたくない」
彼女「……へへ」
男「僕さ、君の身体で一番好きなのって実は脚なんだ」
彼女「知ってるよ」
男「え、なんで!?」
彼女「あんなにジロジロ見て、気付かれないと思ったの?」
男「う……」
彼女「だからね、ことあるごとに君に見せようと、かつ他の人に見せないようにしてきたんだけど」
男「む……」
彼女「そうか、カラオケでやるのは危険だったんだね……ごめん」
男「あ、いや俺の方こそごめん……」
彼女「……ふふ」
男「……ははは」
私達は自分たちの間抜けさが可笑しくってゲラゲラ笑った。
男「もしかして君が短いスカートを履かないのってさ」
彼女「そういうことだよ」
私達はまたゲラゲラ笑った。
彼と思っていることが一緒で、その答え合わせをするこういう瞬間が堪らなく好きだった。
彼女「今度から気をつける」
男「頼んだよ」
男「しかし君歌上手くなったなぁ」
彼女「私はもともと上手かったの!」
男「そうなの?」
彼女「事故以来慣れなくて音痴になってただけで」
男「あ、なるほど」
彼女「次入れてよ」
男「うん」
私達は声が枯れるまで歌い、カラオケを後にした。
男「飯どうする?」
彼女「あのね、家の近くの海沿いの通りあるじゃん?」
男「うん」
彼女「あそこで今日から三日間お祭りやるんだって!」
男「へぇー」
彼女「出店とかたくさんあるみたい!」
男「いいね」
彼女「行きたい!」
男「よし行こう!」
彼女「やった!」
車を家に置いて、私達は海沿いの通りに向かって歩いた。
男「あーほんとだ、やってるやってる」
彼女「浴衣着たかったぁ……」
男「今度買いに行こう」
彼女「いいよ、高いもん」
男「でも僕も君の浴衣姿見たい」
彼女「うーむ」
彼女「あ、じゃあさ」
男「?」
彼女「甚平買おう!」
男「浴衣とはまた違うじゃん」
彼女「似たようなもんだよ。 パジャマ代わりに。 それにさ」
男「それに?」
彼女「結構君好みだと思う」
男「……まぁね」
彼女「決まり! 無しでいいって言ったけど、それが誕生日プレゼントってことで!」
男「うん。 じゃあ明日買いに行こう!」
彼女「うん!」
彼女「たこ焼きだ!」
男「美味そう」
彼女「焼きそばだ!」
男「ちょっと落ち着きなよ」
彼女「どっちも並んでるなぁ」
男「じゃあ僕はたこ焼き並んでくるから君は焼きそばを」
彼女「一緒に一つずつ回ろう!」
男「……そうだね」
彼女「牡蠣は無いのかなぁ」
男「祭りの出店で牡蠣ってのは聞いたことないなぁ」
彼女「君と初めてここに来たときに食べた牡蠣、美味しかったなぁ」
彼が目を丸くして私を見ていた。
彼女「どうしたの?」
男「いや、そんなこと覚えてるんだなぁと」
彼女「あぁ……」
男「だって君にとっては」
彼女「うん」
彼女「不思議だね。 私の中では200年近く経ってるのに、君との記憶は色褪せない」
男「……そういうもんなの?」
彼女「と言いたいところだけど」
男「?」
彼女「君との記憶だけじゃなくて、他の記憶も六年前のそれのようにちゃんと覚えてる」
男「え」
彼女「私はさ、2年で60年分の時間を過ごすわけじゃん?」
男「うん」
彼女「でも精神年齢は変わらず25のまま! 老獪さの欠片もない!」
男「そうだね」
彼女「2年足らずで認知症とかなったらどうしようかと思ってた」
男「……ごめんな」
あ。
しまった。
男「不安だっただろ。 僕は気づけなかった」
私は人の30倍も考える時間があるのに、こういう失言をしてしまう。
彼女「……」
何か彼が気に病まないことを、もしくは気の利いたジョークでも言って楽しいお祭りモードに戻りたかったけど、何も言葉が出てこなかった。
男「これからは、そういうこともちゃんと話してな」
彼女「……うん」
男「お、順番が来た。 6個にする? 8個にする?」
彼女「16個!」
男「それ二人分だよね?」
彼女「私一人で食べると思ったの?」
男「一瞬」
彼はショックを受けただろうに、そんなことはおくびにも出さずすぐにお祭りモードに戻してくれた。
私がして欲しいことを、彼はスムーズにこなしてくれる。
私の30倍以上、彼は頭の回転が早い。
始めの頃は私に合わせてくれる彼に対して申し訳ないとか、私と一緒にいない方が彼は幸せになれるだろうとか考えていたけれど、それもすぐに彼が払ってくれた。
彼は私といて本当に幸せなのだ。
私にそう思わせる彼は本当にすごい。
私が気に病まないようにしてくれる彼に、ならば私も「ごめんね」などとは言うまい。
代わりにほどほどの感謝の言葉と、あらん限りの愛情を彼に捧げよう。
付き合って一年目のあの日からほどなく、彼は私にそう決心させた。
私の苦労は感謝の言葉をほどほどに抑えることと、愛情を伝える不自然でない手段を考えることだけ。
私は彼のTシャツの裾をそっと握った。
彼女「美味しい!」
男「そうかぁ?」
彼女「ぼそぼそでぱさぱさ!」
男「うん。 ぶっちゃけ不味いよね」
彼女「違う! お祭りではこれがいいの!」
男「君の焼きそばを出せばかなり売れると思う」
彼女「わかってないなぁ。 君が日によって蒸らしの時間を変えるのと同じように、お祭りにはこの不味さがベストなんだよ!」
男「今不味いって言ったな」
彼女「あ、君のコーヒーのことじゃないよ!」
男「わかってるよ」
彼女「あ」
男「ん?」
彼女「迷子だ」
男「ほんとだ」
彼女「ちょっとあそこのトルコアイス買ってきて」
男「なんで?」
彼女「子供を泣き止ますのは甘いものが一番なんだよ」
男「君が泣いたときには甘いもの用意するよ」
彼女「聞かなかったことにしてあげるから早く買ってきて」
男「はいよ」
彼女「どうしたの?」
子供「わああああん!!!」
やっぱりまともに話せない。
感情が昂ってるときは止めようと思っても止まらないものだ。
恥ずかしながら比較的最近この経験をした私にはよくわかる。
彼女「迷子?」
子供「うぐっひぐっ」
男「おまたせ」
彼女「遅いよ」
男「店の親父がなかなかアイス渡してくれなかったもんで」
彼女「はい、どーぞ!」
子供「! ……いいの?」
彼女「ママには内緒ね!」
子供「……ありがとう」
彼女「ちゃんとお礼言えて偉いね」
男「ほんとに泣き止んだ……」
彼女「はぐれちゃったの?」
子供「……うん」
彼女「そっか。 ママの携帯の電話番号とか知ってる?」
子供「……うん。 ここにかいてある」
彼女「よし、すぐにママ呼んであげるね!」
子供「ほんと!?」
彼女「ママが来る前にアイス食べちゃいな!」
子供「うん!」
あの子と母親は無事合流し、あの子がちらちら振り返ってくるのを見ながら、私達はたこ焼きを食べた。
男「ありゃ惚れたな」
彼女「?」
男「あの子の初恋は君だ」
彼女「そ、そんな馬鹿な」
男「僕も同じような経験があるからよくわかる」
彼女「……へぇ」
男「性が芽生えてない分、よりピュアな恋心だったな」
彼女「……なんか面白くない」
男「え」
彼女「そうか、私は身体目的だったんだね……」
男「そ、そうは言ってないだろ!」
彼女「ごめんね、私なんかとピュアじゃない恋愛をさせて」
男「そ、それは違う!」
彼女「何が違うの?」
男「え、あの、上手く言えないけど」
彼女「……」
男「……君の性的な魅力に全く惹かれなかったとは言えないけどさ」
彼女「……あはははは!」
男「ど、どうしたの」
本気で弁解しようとしながらあくまで嘘をつかない彼が可愛くて私は吹き出した。
彼女「な、何もそんな……あはは!」
男「え、何、何が面白かった?」
彼女「わ、私が本気で嫉妬してると思った?」
男「……思った」
彼女「む……」
流石だ。
幼い彼を射止めた見知らぬ女性に、ほんの少しではあるが、本気で嫉妬していた。
でも、まだまだ余裕だ。
今、彼は間違いなく私のものなのだから。
彼女「うーん、しかし可愛かったなぁ」
男「可愛くない」
彼女「そう?」
男「君に惚れてる男を可愛がるなんて出来ない」
彼女「大人気ない!」
男「子供だろうがなんだろうが君を狙う男は皆敵だ」
彼女「うわぁ……」
男「君は僕のものだ!」
彼女「や、やめてよ恥ずかしい」
私達は、本当に大人気ない。
彼女「……私に決して恋心を抱かない子供だったら可愛いと思う?」
男「女の子ってこと?」
彼女「私達の子供ってこと」
男「……!」
いい加減、私も腹を括らなければ。
彼女「欲しい?」
男「……君との子供はどんなに可愛いことだろうな」
彼女「……じゃあさ」
男「待つよ」
彼女「……へ?」
男「お腹を痛めるのは君だから。 それは君にとってどんなに怖いことかくらいはわかる」
男「どれだけでも待つよ」
あぁ。
やっぱり彼には全てお見通しだ。
彼女「……ごめんね」
男「久しぶりに君の『ごめんね』を聞いた」
彼女「……」
男「僕のために辛いことを耐えるのは、絶対にやめてね」
彼女「……わかってる」
男「ならばよし。 このまま君と二人だけの人生を送ることになっても、それはそれで最高なんだよ」
彼女「私も、そう」
男「君がいれば人生薔薇色!」
彼女「……ほんと、君は私にはもったいないよ」
男「……今なんて言った?」
彼女「あ、いや私は本当にラッキーだって話」
男「誤魔化すな。 もっと重いことを君は言った」
彼女「……」
今度のはうっかりじゃなかった。
言ってはいけないと思いながら、ずっと溜め込んできた言葉が口をついて出た。
愛想を尽かされたくないと思いながらも、一度決壊したら止められない。
さっきの男の子のように。
彼女「う……」
堪えようとしても涙が溢れ出す。
情けないのか悲しいのか、よくわからない想いがこみ上げてきて、私はそれを止められなかった。
子供のころ、友達と喧嘩するときに何故かこみ上げてくるそれと似ていた。
男「場所移そう」
こんな姿を彼に見られたくはないのに、彼に見られてるせいでどれだけ泣いても収まらなかった。
男「落ち着いた?」
彼女「……少し」
男「じゃ、話して」
彼女「……やだ。 お祭り戻りたい」
男「駄目」
彼女「……」
男「……」
彼女「……」
男「……君はさ、最初の頃、僕によく謝った」
彼女「……」
男「ことあるごとに『ごめんね』『ごめんね』って」
男「脈絡は無かったけど、どうして謝ってるのかは想像できた。 謝るべきことじゃないんだけど」
彼女「……」
男「さっきの、『私にはもったいない』ってのも同じとこから来てるように思えてならないんだ」
彼女「……」
男「……君は、ずっと耐えてたんだね」
男「……僕は、気付きもしなかった」
男「僕のせいで君は……」
彼は唇を噛み締めて拳を震わせた。
彼女「ち、違う! 全部私が悪いの!」
男「お、言う気になった?」
演技だった。
彼女「……ハメられた」
男「ハメてないよ。 こういうことを言えば君が喋ると思っただけ」
彼女「ずるいよ……」
全てが演技ではないから、ずるい。
彼女「……君は、誰とだって幸せになれたんだ」
男「……」
彼女「君を好きになる娘はたくさんいるだろうし、君は誰と付き合ったとしても愛せるだろう」
でも。
彼女「私は君がいなきゃ生きていけない」
男「……」
彼女「君と別れたら、数日で絶望のうちに死んじゃうかも」
彼女「……これって依存だよね」
男「……それは」
彼女「君がいなきゃ生きていけないから君といたい、なんて君に言いたくなかった」
彼女「だってそれは真心じゃない」
彼女「……あの運転手が心の底から憎い」
彼は、黙って聞いている。
表情が無い。
彼女「君が愛をくれるから、私はそれに応えてきたつもりだった」
彼女「『ごめんね』を言わなくなったのも、君のことを思ってだ。 そう思ってた。 でも違う」
彼女「私は、君といなきゃ生きていけないから、自分自身の為にそうしたんだ」
彼女「……君といたい気持ちは、実はとても醜い」
彼女「今まで気付かないふりしてたけど、無理なんかしてなかったけど、そうなんだ」
彼女「情けなくて恥ずかしくて……悲しくて」
言いながらまた堪えられなくなる。
子供のように、感情の制御が出来ない。
彼女「私は、まともな人間として君と出会いたかった!」
彼女「こんな、こんなクズが君と」
男「もういい」
男「君の言いたいことはわかった」
彼女「……」
男「僕も、君に言わなきゃならないことがある」
彼女「……」
終わっちゃったな。
仕方がない。いずれこうなったんだ。
こうなるべきだったんだ。
でも、彼ともっといたかったなぁ。
男「あのな」
彼女「……うん」
男「僕の身体の中に、爆弾がある」
彼女「……へ?」
男「爆発すれば綺麗に僕だけが吹き飛ぶ爆弾だ」
彼女「……え?」
男「その爆弾は、君と別れたら爆発しちゃうんだ」
わけがわからない。
明らかに冗談なのに、彼は真面目な顔をして話す。
男「僕は君と別れたら死んじゃうんだ」
男「信じてよ」
彼女「え……」
男「僕のことが信じられない?」
彼女「あ、いや」
男「信じてくれる?」
彼女「う、うん」
男「良かった。 でね、僕はどうしても君と別れたくない」
彼女「えっ」
男「君は僕のことを軽蔑した?」
彼女「……しない」
男「なんで?」
彼女「だって、軽蔑する理由が無い」
男「僕は、君といなきゃ生きていけない。 だから君と付き合ってるんだ。 軽蔑する?」
彼女「……そんなの」
彼と過ごした日々を思い出す。
彼女「……君がくれた愛は本物だ」
男「うん。 そうだと思う」
彼女「……何が言いたいの?」
男「君もまた、そうだってこと」
男「君は自分の気持ちがわかってないんだ。 罪悪感と劣等感に縛られてる」
彼女「……」
男「君は本当に僕を愛してるんだよ」
彼女「……なんでそんなことが」
男「君もさっき同じことを言ったんだけどな」
彼女「……」
男「こんな話は、もっともっと早く、それこそあの日のすぐ後にするべきだった」
男「『ごめんね』を言わなくなったことで僕は勝手に君がふっ切れたと思ってた」
男「まだまだ僕たちは言葉が足りない」
彼女「……うん」
男「言葉が足りないのがわかったから」
男「5日待って」
彼女「?」
男「レポート出すよ。 僕が君をどんなに愛してるか、君がいなくなったらどんな悲しい人生になるかの考察をまとめて」
彼女「い、いい! そんなのいい!」
男「プレゼン形式の方がいいかな」
彼女「いいってば! 充分伝わった!」
男「とにかく、僕の身体にある爆弾と同じように、君のそれは君のせいじゃないんだから」
彼女「……うん」
男「君の愛は本物だから、だから僕と結婚して」
彼女「……うん?」
男「タイミングを逃しちゃったからさ、いつ言おうかいつ言おうかとずっと考えてたんだよ……」
男「結婚式挙げてあげたいし、でも金が無いしで」
彼女「と、唐突だなぁ」
男「唐突じゃない。 店も軌道に乗ってきたし」
男「結婚してください!」
彼女「……喜んで!」
男「よし、早速結婚式のプランを練ろう!」
彼女「その前にもうちょっとお祭り楽しみたい」
男「そういやまだはしまき食べてなかった」
彼女「私りんご飴食べたい」
彼は早足で私の前を進む。
彼は嬉しそうに見える。
まさかはしまきのせいではないだろう。
彼女「早いよ!」
男「君が遅い!」
視界の端に動くものが見えた。
あきらかに法定速度を超えるスピードで走ってくる車がいた。
彼が渡っている横断歩道の歩行者用信号機は確かに青で、しかしこのスピードだとあの車は止まれないのではないか。
止まる気配すらない。
彼女「男!!」
私の声を聞いて彼がこちらを見る。
その間にも車は彼に迫る。
もうあの車が止まることは期待できない。
私がなんとかしなければ。
私は思いっきり地面を蹴った。
車はジリジリと彼に近づく。
もっと急げ!
思い切り脚を出すと、限界を超えて早く動いた気がした。
しかしこっちに気付かないはずはないのに、車はますますスピードを上げる。
私は彼に向かって思いっきり手を伸ばして突き飛ばした。
彼に手が触れるころには車はもう間近に迫っていた。
大丈夫、この距離なら彼は避けられる。
車はますます加速し、私の身体は吹き飛んだ。
━━
━━━
━━━━
彼女に呼ばれて振り返ると、彼女は今まで見たことがない必死な表情をしていた。
何事かと思い、止まってもいいはずの音が止まってないことに気がついた。
右を見ると、停止線を超えて白のセダンが走ってきていた。
が、止まった。
車だけではなく、僕自身も止まった。
いや止まったように見えて少しずつ、少しずつ動いていた。
咄嗟に理解した。
これが彼女の見ていた世界なのだ。
まずい、早く逃げなくては。
そう思ったが、すぐに考え直した。
また彼女の方を振り返ると、案の定彼女は僕を突き飛ばそうとしている。
このまま彼女に突き飛ばされては、彼女は助からない。
考えている間にも、彼女の右手が僕の胸に触れて、僕を押し始めている。
彼女の左手に近い所に僕の右手があった。
これなら間に合う。
僕は右手を彼女の左手にゆっくり伸ばし、掴んだ。
そしてそのまま思いっきり彼女を後ろにぶん投げた。
一旦突き飛ばされてコースから外れたが、彼女を引っ張ったことでまたコースに入った。
もう自力で避けられる距離ではない。
ここで死ぬのかもしれない。
遺された彼女はどうするだろう。
辛いだろうな。
もう彼女を思って泣くのも間に合わない。
しかしやはり走馬灯は走馬灯で、彼女との思い出を振り返る時間はほんの少し残ってそうだ。
轢かれる瞬間が怖いので僕は目を瞑り、彼女との時間を思い出す。
僕はなんて幸せだったんだろう。
願わくば、彼女はすぐに新しい相手を見つけて幸せになって欲しい。
嫉妬深い僕がこんな風に思えるなんて信じられなかった。
ああ、そろそろ車が僕にぶつかる。
……まだぶつからない。
目を開けると、彼女が横から抱きついてきた。
泣いている。
時間が、もとに戻っている。
あぁ、車の方が避けたんだ。
後ろを見ると、急ハンドルを切ったせいでコントロールを失ったのか、車は電柱に突っ込んでいた。
潰れたのは誰もいない助手席の方で、運転手の方はピンピンして座席から出てきた。
途方に暮れたように車を見ていたが知ったことではないので僕は彼女の方に視線を戻した。
泣きじゃくって、僕に何か言っているが全く聞き取れない。
男「と、とにかく歩道に避難しよう。 危ない」
彼女を歩道まで引っ張り、彼女を見ると、彼女も涙と鼻水まみれの顔で僕を見ていた。
男「……酷い顔」
彼女「だ……だ、い」
男「落ち着いて」
彼女「き……」
男「……逃げちゃおうか。 君も擦り傷だけみたいだし」
彼女「あああ……」
僕は彼女を引っ張って、うちに帰った。
彼女はその間ずっと泣いていた。
僕は彼女を椅子に座らせ、コーヒーを淹れた。
男「……落ち着いた?」
彼女「……」
彼女はゆっくりと携帯を出し、何かを打ち込んだあと僕に画面を見せてきた。
彼女『LINEで話して』
男「……?」
目の前にいるのにそんなことをする意味はわからなかったが、僕は言うとおりに携帯を出してアプリを立ち上げた。
彼女『君を突き飛ばしたはずの私が何故か君をすり抜けてて、何が起こったかわからなかった』
男『わからなかった? 君が?』
彼女『君を突き飛ばそうとして『急げ、急げ』と思ってたらほんとに私の身体が速く動いたの』
彼女『その代わり車もどんどん速くなっていった。 そして君を押した瞬間、私は吹き飛んだ』
男『え?』
彼女『目の前から君が消えて、後ろを振り返ると君がいて、車はいなくなってて』
彼女『私は信じられないほど速く君に抱きついて、状況を理解した』
彼女『私、治ったんだ』
男『えっ!?』
彼女『君が引っ張った瞬間に、私は治ったんだ』
治った!?
あれのことか!?
男『ほんとに!?』
彼女『同時に何が起こったかも理解できた。 君は私の代わりに轢かれそうになったんだ』
彼女『怖かった』
彼女を見ると、唇を噛み締めて、また泣いていた。
男『ごめん』
彼女『私こそ、ごめん』
お互いがお互いを助けようとして、たまたま両方が助かった。
僕は自分が死ぬより彼女が助かることを選んだけど、彼女の方もそうだった。
どっちかが死んでいたら、どっちも助からなかった。
男『コーヒー、飲みなよ』
彼女はコーヒーに口をつけた。
彼女『美味しい』
男『よかった』
彼女『ごめんね、打つの遅くて』
男『いいよ』
彼女『君の声が聞き取れないし、私も上手く喋れないの』
男『あ、なるほど』
彼女は笑いだした。
男『何が面白いの?』
彼女『だって君、動きがコミカルでものすごい早口で』
彼女『ピングーみたい』
ピングー?
あのクレイアニメか。
彼女の目に、今僕はそう映っているのか。
男『とにかく良かった。 君はもう何も悩むことがない』
彼女『うん。 君が引っ張ってくれたから』
男『君が僕を助けようとしたからだろ』
彼女『最後に引っ張り上げてくれたのは君だ』
男『とにかく良かった』
彼女『うん』
僕は彼女を抱きしめ、キスをした。
彼女が携帯に打ち込み、画面を見せてくる。
『短い!』
僕は彼女の携帯にそのまま打ち込む。
『いつも通りだよ』
『いつもこんなので満足してたの!?』
『まぁ』
『全然足りないよ! もっと!!』
僕は苦笑いをし、また彼女にキスをした。
彼女は治ったけど、今まで以上に彼女と時間を共にすることになる気がした。
━━
━━━
━━━━
あれからもう一週間。
彼のCDをありったけ引っ張り出して聴いたり、映画のDVDをありったけ引っ張り出して見たりした。
音楽や映画は以前は楽しめなかったもので、治ってから私はそれらを貪った。
もちろん彼を付き合わせた。
もっともっとやってみたいことがたくさんある。
もちろん彼も付き合わせる。
とんでもなく速く過ぎる時間に、私はすぐに慣れた。
もともと産まれてから18年間それで生きてきたのだから、勘を取り戻すだけだ。
彼女「明日は何をしよう?」
男「君はこの一週間ずっとテンションが高いね」
彼女「だって、生まれ変わった気分!」
男「だろうね。 疲れない?」
彼女「疲れる!」
男「だろうね」
彼女「でもそんなことも言ってられない」
男「なんで」
彼女「私は焦ってるの!」
男「どうして」
彼女「だって、君といられる時間は5、60年しかないんだよ!?」
男「充分じゃないか」
彼女「全然足りない! もう一日たりとも無駄に出来ない!」
男「……やっぱり君で良かった」
彼女「へ?」
男「君といると、とんでもなく濃い人生を送れそうだ」
彼女「もちろん!」
男「治って、僕に対する気持ちは変わった?」
彼女「全く変わらなかった」
男「やっぱり」
そう、客観的には何も変わらなかった。
変わったことといえば私が、少しどんくさくなったことと喋りがトロくなったことくらい。
結局前と同じく彼と出来る限りの時間を共にしようとしてるし、毎晩彼を求めている。
でも、自分の気持ちに確信が持てた。
これは大きな収穫だ。
前よりも彼と過ごせる時間は圧倒的に短くなったけれど、私はこれから彼と一緒にとんでもなく濃い人生を送れるだろう。
男「あ、これ」
彼女「? なにこれ」
男「レポート」
彼女「ほ、ほんとに書いたの!?」
男「うん」
彼女「うわぁ……」
分厚い。100枚近くありそうだ。
彼女「いつ書いてたの?」
男「君が寝てから」
驚いた。
この一週間私は夜ふかししていて、つまり付き合ってる彼も夜ふかししていた。
しかし実は彼は、私が寝てからさらにこんなものを書いていたのだ。
彼女「大丈夫なの!?」
男「平気」
彼女「……明日はゆっくり寝てね」
男「じゃあ昼まで寝させてもらおうかな。 そのあとカラオケ行こう」
彼女「うわぁ……うわぁ……」
パラパラとレポートをめくると、文章こそレポート用のそれだったが、内容はラブレターに等しかった。
顔が真っ赤になるのがわかり、とりあえずレポートを閉じた。
彼女「あ、後で一人で読むね」
男「今読まないの?」
彼女「読んでる私を見られたくない。 君が寝てから読む」
男「ちぇ」
彼女「あ、PDFで頂戴」
男「どうするの?」
彼女「携帯に入れる」
男「いいけど絶対に友達に見せたりするなよ!」
彼女「しないよ。 もったいない」
男「それからこれ」
彼女「あ、甚平!」
男「買ってきた。 着てみてよ」
彼女「生着替え?」
男「え、いいの?」
彼女「いいのって……今更そんなのなんでもないでしょう」
男「いや、すごく見たい」
彼女「そ、そう言われると恥ずかしくなってきた」
男「早く脱げー!」
彼女「エロオヤジみたい」
私は一枚一枚服を脱いでいった。
普段彼の前で着替えをしたりもするが、ここまでジロジロ見られながら着替えるのは初めてで、なるほどこれは恥ずかしい。
やっとの思いで甚平を着て、くるくると回って彼に見せつけた。
彼女「どう?」
男「……超可愛い」
彼女「へへへ……」
顔が真っ赤になる。
男「もう辛抱たまらん!」
彼女「うわっ!」
押し倒された。
押し倒して欲しかったのでそれはいいが、セリフはもうちょっとなんとかならなかったのか。
彼女「辛抱たまらんって……」
男「今日はとことんエロオヤジでいってみようと思って」
彼女「なるほど」
うーむ。
愛おしい。
彼女「あのね」
男「うん?」
彼女「ありがとう」
男「こちらこそ」
彼女「これから60年、よろしくね」
男「うん。 60年、よろしく」
彼女「大好き!」
男「僕もだ」
私達は、同じ時間を生きてゆく。
fin
ハッピーエンドで良かった。
んで子育て編はいつですか?
おつ。
男と彼女ってお互い初彼女彼氏?
このSSまとめへのコメント
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