やはりわたしの青春ラブコメはまちがっている。 (988)

 『俺ガイル』一色いろはルートになります。
 10.5巻まで読了済みです。
 その後の展開として書いています。
 アニメしか見てない方やまだ全て読んでない人はネタバレ注意。
 一色いろはの一人称で進みます。

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 序章 だから一色いろはは幸せを願う。


「あのね、ヒッキー……」
「……なんだ?」
「——えっ……あ、ちゃんと、聞いてくれるんだ……」
「ん……ああ……」
「そっ、か……ありがと」
「いいから。その、なんか、言いたいことあんだろ? ちゃんと聞いてるから、言えよ」
「う、うん……えへへ。あ、あのね……あたしさ、ヒッキーのこと……好き。ずっと、好きだった」
「そうか……」

 え、え、ひゃぁぁあ、なになに、この状況!
 先輩見つけたから近寄ってみれば結衣先輩が告白してるとか、誰が予想できるんですか!
 いやいやいや……ていうか、やっぱり結衣先輩って先輩のこと好きだったのか……まあ、どう考えてもそうだよなぁ。

「うん、そうだ! あ、と、別に返事はいつでもいいからね……? あたしから言っといてあれだけど、その、あんまり覚悟とかできてなかったりする、から」

 あー……雰囲気に押された感じですか。
 まあ、先輩が結衣先輩と一緒に帰るのって稀だしなぁ。
 デートに誘おうにも休日は家から出ないし。

「なんだそれ……いや、そのだな、返事は今、言わせてもらう」

 おぉっ!
 先輩が珍しく男らしい……。
 でも本当、変わったなぁ先輩。

〝俺は、本物が欲しい〟

 涙声で、かすれた情けない声で。
 怯えるように歯の根をカチカチと鳴らしたまま、必死に紡がれたその言葉は今でもわたしの耳に残っていた。

 あれから、なのかな……先輩が変わったの。
 鬱陶しく付き纏ってたから分かる。
 先輩が頑張ってたのは知ってる。
 今までとは違うやり方で、一人で解決に向かわせようとはせず、結衣先輩にも雪ノ下先輩にも頼ってた。
 まあ、わたしには頼ってくれなかったんですけど。

 うわ、なんかこの言い方だとわたしが先輩にベタ惚れしてるみたいで嫌だなぁ。

 んー……どうするんだろ。
 あの顔じゃ、答えは出てるようなもんか。
 奉仕部もやっと落ち着いてきたところで先輩も結衣先輩のことを真剣に考えてたんだろうな……。

「そっか……あはは、なんか、答え、分かっちゃった、かも」

 切なげに笑い、語尾にいくにつれて声は萎んでいく。
 それでも、結衣先輩は顔を上げていた。
 先輩もしっかりと結衣先輩の目を見ていた。

 あー、もう、かっこいいなぁ……この真剣さが。
 いっつもだらしなくてやる気なんて欠片もない態度取ってるくせに、こういうときは真面目なんだから。
 真面目になった、か。

「由比ヶ浜……ごめん、お前とは付き合えない」

 言って、先輩は頭を下げた。

「うん、分かった!」

 元気のいい返事とは反して、結衣先輩の頬には涙が伝っていた。
 取り繕うようにして口の端を吊り上げても、その唇はふるふると戦慄《わなな》いている。

「顔、上げてよ……ヒッキー」
「由比ヶ浜……」

 心底すまなそうな顔で結衣先輩を捉える先輩。

 そういう顔したらダメですよ!
 結衣先輩は多分分かってたんですから!

「あの、ね……分かってた、分かってたんだ……あたし。その、さ、それでも……っ! 言いたかったっ、から……っ。あはは……こんなの迷惑なだけ、だよね……ごめんね」
「それは、それは違うぞ由比ヶ浜。俺さ、その……なんつーか、思い上がりもほどほどにしとけって思いながらもどっかで……お前が俺のこと好きなんじゃねーかって思ってた」

 先輩鋭いもんなぁ……ただ、それを後ろ向きに考えちゃうだけで。
 あぁ、そういえば、あのとき、なんであんなこと聞いてきたのかと思えば……そういうことか。

〝なぁ一色……お前さぁ、振られるならどう振られたらすっきりできる?〟

 いやぁ、あのときは焦った……勘付かれたのかと思ってついつい「え、なんですかそれ。もしかして最近押しかけてるからって勘違いしちゃったんですか。キモいですそういうのまだ無理です」とか言っちゃったっけ。

 わたしが相手だから言ってくれたのかな……だとすれば悪いことしたなぁ。
 もうちょっと真剣に考えてあげればよかった。

「そう、なんだ……うわー、なんか伝わってて嬉しいけど恥ずかしいなー」

 うわーうわーと言って両手で顔を覆う結衣先輩。
 この人素で可愛いなぁ……あれ今度やってみよ。

「それで、待ってたっつーか……今度は最後まで聞こうと思っててさ。だから、あれだ、あれ。別に迷惑なんかじゃねぇよ、むしろ、由比ヶ浜の好意は嬉しいくらい……でだな」
「うん……うん……っ。ありがとっ」

 今度こそ本当の笑顔だった。
 涙でくしゃくしゃになった顔だけど、まぶしいくらいの笑顔。

 え、いや、ほんと成長したなこの人……。
 結衣先輩もそれが分かってるから、こんな笑顔になれるんだろうな。
 あ、バス……。

「もう、行かないと……か」
「あっ、な、なぁ由比ヶ浜っ! その、次のバスにしてくれないか? まだ、話があるんだ」
「え……? えっと……うん、分かった」

 振った女の子を引き止めるとか……それはアウトです先輩!

「わ、悪いな……」
「ううん、大丈夫大丈夫! ほら、そんな待つわけじゃないしっ」

 言って、結衣先輩は顔の前でぶんぶんと手を振る。
 あ、笑ってる……やっぱ振られても嬉しいのかな……先輩と話せるの。

「で、話ってなに?」

 バスを見送り、さっきまでの涙が嘘みたいにカラッと晴れた笑顔で尋ねる。
 わたしも気になります先輩。

「そ、そのだな……明日からも、部活……来るよな?」
「えっ? う……うん、多分行く……と思う」

 そりゃ行きづらいよ。
 告白した人とされた人が同じ空間で仲良く部活とか、なにそれ怖い。

「絶対……来いよ」
「ん……? 明日、なんかあったっけ?」

 奉仕部になんかあるときってあるんだ……いや、依頼とかあるのは知ってるけど。
 なんたって居着いてるから。
 でも、基本大したことないよなぁ……。

「いや、なんもねぇけどさ……ほら、アレだよ、アレ」
「ヒッキー……」

 嬉しそうに顔を綻ばせる結衣先輩。

 え?
 今の分かったの?
 わたし全っ然分かんなかったんですけど。

「流石にアレじゃ分かんないよ……」

 ですよねー……そうですよねー。

「いや、だからさ……その、奉仕部はやっぱ、三人いねぇと、だろ? 由比ヶ浜の気持ちには応えられねぇけどよ……お前が居て、雪ノ下が居て……それで本物、だと思ってるから」
「ヒッキー……」

 結衣先輩は口元を押さえ、瞳には再び涙が滲んでいた。
 分かりますよ結衣先輩!
 わたしも、先輩……、って気持ちです今!

 最初からこれだけ素直だったらよかったのに……。

「そうだね……そうだよねっ! 行くっ! 行くよっ! 明日も、明後日も、毎日……絶対っ! 行くっ!」
「そう、か。よかった……」
「ありがと、ヒッキー……。ヒッキーがそうやって言ってくれなかったら、あたしやっぱ、行ってなかったと思うんだ」
「い、いや、これは……俺の自己満足だから」
「違うよっ! だって、あたし嬉しいもんっ! だから、違うよ」
「……そうか?」
「そうだ! あ、バス来ちゃった……」

 え、もう?
 本当に待たないじゃん……あ、いや、意外と十分以上経ってた……時間が進むのって早いなぁ。

「じゃ、ヒッキー、また明日ねっ!」
「おう、また明日」

 バスに乗り込み去っていく結衣先輩を見送り、先輩も自転車に跨る。
 いやぁ……清々しい。
 こんな清々しい失恋があるのは知りませんでした。

 あ、じゃなくてっ!

 え?
 今の分かったの?
 わたし全っ然分かんなかったんですけど。

「流石にアレじゃ分かんないよ……」

 ですよねー……そうですよねー。

「いや、だからさ……その、奉仕部はやっぱ、三人いねぇと、だろ? 由比ヶ浜の気持ちには応えられねぇけどよ……お前が居て、雪ノ下が居て……それで本物、だと思ってるから」
「ヒッキー……」

 結衣先輩は口元を押さえ、瞳には再び涙が滲んでいた。
 分かりますよ結衣先輩!
 わたしも、先輩……、って気持ちです今!

 最初からこれだけ素直だったらよかったのに……。

「そうだね……そうだよねっ! 行くっ! 行くよっ! 明日も、明後日も、毎日……絶対っ! 行くっ!」
「そう、か。よかった……」
「ありがと、ヒッキー……。ヒッキーがそうやって言ってくれなかったら、あたしやっぱ、行ってなかったと思うんだ」
「い、いや、これは……俺の自己満足だから」
「違うよっ! だって、あたし嬉しいもんっ! だから、違うよ」
「……そうか?」
「そうだ! あ、バス来ちゃった……」

 え、もう?
 本当に待たないじゃん……あ、いや、意外と十分以上経ってた……時間が進むのって早いなぁ。

「じゃ、ヒッキー、また明日ねっ!」
「おう、また明日」

 バスに乗り込み去っていく結衣先輩を見送り、先輩も自転車に跨る。
 いやぁ……清々しい。
 こんな清々しい失恋があるのは知りませんでした。

 あ、じゃなくてっ!


「せんぱーいっ!」

 え、ちょっ、そのまま行っちゃうのっ!?
 ちょっ、待っ!

「せんぱーいっ! 先輩ってばーっ!」

 そこでようやく先輩はキキッと音を鳴らして自転車を止めた。
 振り返った顔はもの凄く嫌そうだ。

「なんだよ一色……悪いが今日はそういう気分じゃなくてな」
「いや、まあ、わざとじゃないんですが、わざとじゃないですけどね? その、見てしまったので……それは分かってます」

 分かってますけど、成長した先輩に少しくらいいい思いをさせてあげたいじゃないですか。
 どうせわたしが告白しても振られるのは目に見えてますし、それならちょっとくらいお手伝いしたいじゃないですか。
 やっぱり先輩に幸せになって欲しいじゃないですか……。

「盗み聞きか。あまり褒められる趣味じゃないな」
「なっ! だからわざとじゃないって言ってるじゃないですかーっ! まったく……先輩はわたしをなんだと思ってるんですかねぇ……。怒っちゃいますよー?」

 腰を曲げ、下から見上げるように先輩を睨む。

「はいはい、あざといあざとい」

 普段と変わらない表情であしらわれた。
 この人、わたしに対して態度変わらな過ぎでしょ……。

「いや、今のは素です」

 反撃のつもりでそんなことを言うと、先輩はあからさまに驚愕の声を漏らす。

「嘘、だろ……」
「はい、嘘です」

「お前なぁ……」

 はぁ、と長嘆息する先輩。
 呆れてものも言えないってやつですかね。
 実際のとこ、素っていうか先輩相手だと自然に出ちゃうだけなんですけど。
 これが素……?

「それはそうと先輩っ! どっか、寄り道して帰りましょっ」

 腕をがしっと掴み、ぐいぐいと引っ張る。
 それでも先輩はまだ抵抗の意思を見せた。

「いや、だから俺は……」
「いいじゃないですかー! 先輩の恋路、手伝いますよ……真面目に」

 最後ににこっと笑みを見せるのは忘れない。
 甘えと笑顔は標準装備なので。

「はぁ……分かった分かった」
「さっすが先輩っ! 話が分かる人は好きですよっ!」
「お、おう……」

 目を伏せて戸惑いがちに答える先輩。
 好きとかはまだ恥ずかしいのかー。

「え、なに照れてるんですか。あ、もしかして今のちょっとしたやり取りで惚れちゃいました? それは流石にキモいです無理ですごめんなさい」
「俺はお前に何回振られればいいんだよ……」
「えー、百回くらいですかねぇー?」
「いや、百回超えてんだろもう……」

 それは確かに……。

「じゃっ、千回くらいで!」
「じゃあってなんだよ。意味分かんねぇよ……」
「まあまあ、そんなことは置いといて早く行きましょー」

 適当に話を振りながら、目的地へと足を進める。
 そこまで離れなくても少しお洒落なカフェとかはあったりするけど、流石にこの時間帯に学校付近の店に寄るのは躊躇われる。

 先輩と一緒にお茶してるとこを見られるとか超リスキー。

 先輩が嫌ってわけじゃなくて、もしそんなところを見られて噂にでもなった日には先輩に近づけなくなってしまうから。
 わたしが近づこうとしても、きっと離れていってしまうだろうから。

 悶々とそんなことを考えているうちに到着した。

「さーてなににしよっかなー」

 入店し、メニューを辿るように指を動かす。
 最近奢ってもらってばっかりだから、ここは自分で払うとして……スタンダード? にカフェオレでいっか。

「カフェオレ、ショートで」

 店員さんに笑顔を向けて言うと、答える前に先輩が口を開く。

「あぁ、それ二つで」
「え——」
「はい! カフェオレのショートをお二つでよろしいですねっ?」
「はい」
「あの——」
「かしこまりました! 少々お待ちください!」

 あぁ……行っちゃった……。

「おい、席取っとけよ」
「え、あ、はい……」

 ずるいなぁ……もう。
 うーん、でもそっかぁ……奢るのが板についちゃってる感じだなぁ、これ。
 どーせ、妹なんとか発動なんだろうけど。

 適当な席に腰掛け、先輩が飲み物を置いたのを確認して話を切り出す。

「で、ですよ先輩!」
「ん」
「え? あ、ありがとうございます……」

 ずずっと差し出されたカフェオレを飲みながら、チラッと先輩を表情を見る。
 うわぁ、いつも通りだ……。

「先輩も結構あざといですよねー……」
「ばっか、ばかお前、これは素だ」
「ふーん……」

 ま、知ってますけど。
 わたしにだけ優しいわけじゃ、ないんだよなぁ……。

「それで? 恋愛相談だったか? まだ葉山のこと好きなんだっけお前?」
「は?」
「いや、そんな、なに言ってんだこいつみたいな顔で見られても……」

 いやいや、わたしからすれば本当になに言ってんだこいつ、ですから。
 あっれー?
 いつからわたしの恋愛相談になったの?

「彼女どころか友達すらいない先輩に恋愛相談なんてするわけないじゃないですか! バカなんですか? 失敗する未来しか見えませんよ!」
「おい、なんで俺が貶されてんだよ。だいたい俺だって友達の一人くらいいるわ」
「え……」
「おい待て、なんだその顔」

 先輩友達いたっけかなぁ……いや、いないよなぁ……あ、あの人か。

「ああ、あのなんかキモい人ですね! 材……材なんとか先輩? でしたっけ?」
「違ぇよ。友達じゃねぇよ。友達でも友達じゃねぇよ」

 慌てて否定する先輩。
 でも、わたしには言ってる意味が分かりませんでしたー!

「はぁ? 意味分かんないですキモいです」
「す、すまん……いや、なんで俺が謝ってんの?」

 なんかとりあえず謝っとけみたいなアレなの?
 とかぶつぶつ文句を垂れる先輩に優しく言葉を投げ掛ける。


「え、だって、あの人以外で先輩に友達なんているわけないじゃないですか。妄想かなんかですか? そういうの引きます現実見ましょうよ」
「妄想じゃねぇよ!」
「具体的には?」
「そりゃ、まあ、戸塚とか、戸塚とか……あと戸塚?」
「うっわ……」

 なにこの人キモい……っ!
 戸塚先輩が可愛いのは概ね同意だけど。

「こ、こほん……で? 何の用だっけ?」

 視線に耐え切れなくなったのか、わざとらしい咳払いとともに話を戻す。

「そうそう、だから、先輩のお手伝いしますよっ! って話ですよっ!」
「手伝い……? お前が? 俺がするんじゃなくて?」

 いまいちよく分からないといった風に言葉を返し、カップを口に持っていく先輩。
 なんでこれで分からないかなぁ?

「だからぁ……先輩、雪ノ下先輩が好きなんですよね?」
「なっ——」
「うわっ、き、汚いですよ、先輩!」

 けほけほと咳き込み、口周りを拭う。
 改めてじとっとした目でわたしを睨む。
 腐った目に磨きがかかってる……悪い方向に。

「な、なに言ってんだお前!」
「なにって……違うんですかー?」
「違うわ。雪ノ下は……そうだな、憧れ、だと思う」

 憧れ、ねぇ……。

「それ多分先輩が気づいてないだけですよ」
「そう、なのか……?」
「そうですよ。恋愛検定一級のわたしが言うんですから間違いありません」
「なんだその検定……需要皆無だろ」


 そうでもないですよー。
 自分が誰のことが好きか、改めて分かっちゃったりしますし。

「わたしも……葉山先輩は憧れでした。まあ、先輩の言う憧れとは違いますけどね」

 あれは……憧れの葉山先輩ラブな自分が好きだっただけだし。
 先輩のとは違う。

「そういうわけで、お手伝いしますよっ!」
「って言われてもな……自覚ないし」
「きっと、遠慮してるんだと思います。先輩は本物の奉仕部を大切に思うあまり、無意識に自制してるっていうのが、わたしの見立てですね」
「それなら……それでいいけどな」
「よくありません!」

 それじゃあ先輩が幸せになれない。
 それに——

「それは……先輩が嫌う欺瞞じゃないんですか? 隠し通すのが本当に本物ですか……? わたしは……わたしは、そうじゃないと思います」
「そう、か……それでもな……やっぱ壊したくねぇよ」

 まあ、そう言うだろうと思ってました。
 先輩はそういう人だから。

「壊さなきゃいいじゃないですか」
「それが出来たら——」
「出来ますよ。先輩なら、出来ます」

 はぁとため息を溢し、胡散臭げな瞳でわたしを見る。
 根拠はなんだ、と視線で問われている気がした。

「先輩、変わりましたよね……」
「別に……そんなことねぇだろ」
「いえ、変わりました、凄く。だから、出来ると思います。それに……そんなこと言ったら結衣先輩が先輩に告白した時点でもう壊れてますよ」


 先輩が雪ノ下先輩に告白して壊れるなら、結衣先輩が先輩に告白したって壊れる。
 でも、今回、奉仕部はきっと壊れない。
 先輩が変わったから、結衣先輩が笑顔になれたから。

「…………」

 気まずそうに目を逸らし、押し黙る。
 なにか思うところがあるのか。

「無言は肯定ですか?」
「——とにかく、俺はやらねぇ……それが答えだ。だいたい、本当に雪ノ下のことを好きかって聞かれてもイマイチぴんとこねぇ」
「なら……それなら、なんで結衣先輩の告白断ったんですか?」
「それは……」

 口ごもる。
 先輩はいつもそうだ。
 なにか大切なことをはぐらかす。
 自分にも、周りにも、嘘を吐いて生きている。
 そういうところも含めて好きになったけど、そういうところを直して欲しいとは思う。

 いや、もしかしたら、分からないのかもしれない。
 分からないけど、断らなきゃいけないと思ってしまったのかもしれない。

 本物にしたってそうだった。
 いまだになんとなくそんな気がするってだけ。
 今まで見たことがなかったし、手にしたこともない。
 だから、これがそうだと言えるものを先輩はおろかわたしだって知らない。
 それでも、欲しいと思ってしまった。

「分からない、ですか?」

 わたしが問うと、先輩は頷く。

「ああ、正直分からない……なんであの時断ったのか。でも、ずっと思ってた。分からなくても断るべきだと……だから、待ってたんだ。もう少し前でも、もう少し後でも、遥か未来でも、由比ヶ浜の告白がいつだろうと俺は断った。それが……正しい結論に思えた」


 苦々しい表情を浮かべたまま、ぽつぽつとつぶやく。
 一つ一つ噛み締めるように、自分を納得させるように。

「でも、それが正しかったのかも分からない、と」
「……そうだな」
「はぁ……。先輩、恋愛に正しい結論なんてありませんよ」

 そんなものはない。
 けど、まあ、わたしの台詞は当然、先輩の決意を全否定するものになるわけで……先輩は少し苛立った声音を出す。

「それじゃ、どうすりゃよかったんだよ……付き合うのはどう考えたって違うだろ」
「なんでそう言い切れるんですか?」

 おかしな話だ。
 分からない、分からないという割りに、正しいことは分からないはずなのに、これは違うと決めつける。
 正しいか分からないなら、違うかも分からない。

「そりゃあ……俺が由比ヶ浜にそういう感情を持ってないから、だろ」

 さも当然のように言い切る。
 それだけはしっかりと分かってるとでも言わんばかりに。
 わたしはそれが明確な理由にはなり得ないと思う。

「んー……でも、それってそのとき持ってなきゃいけないものじゃないじゃないですか? だって、よく言うじゃないですか。付き合ってから好きになることだってある、とか」

 なんだかんだ言っても、やっぱり先輩を否定するのは心が傷む。
 一言、口にするたびにぎゅっと心臓を掴まれたような嫌な圧力がかかる。
 それでも言わなければいけない。


「そんな適当なことはできねぇだろ。あいつだって、そんなのは望んでないはずだ……」

 先輩は口頭こそ勢いよく話し始めたが、言葉尻にいくに連れてどんどんと自信のない声色に変わっていく。

「普通……そうじゃねぇのかよ……」

 ぼそり、鎮痛な面持ちのままつぶやく。
 普通がなにか分からない。
 普通じゃなかったから分からない。
 そんな雰囲気だった。

「それは先輩の押し付けじゃないですか。結衣先輩が言ったんですか? そんなのは嫌だって」

 言ってないはずだ。
 むしろ、それでも言いと言いそうですらある。
 相手のことが心底好きならそうだ。
 わたしだって……先輩がそう言ってくれるなら今すぐ先輩に告白してる、多分。

 いや、実際のところ、そういうことをしない先輩だから好きになったっていう部分があるから……そうとも言い切れないか。

「そうかもしれねぇけど……。でも、そういうのは、嫌だ」

 はっきり、否定した。
 ただ、自分が嫌だからだと。
 そう、そういうのが聞きたかったんですよ。

「そうですか……それなら仕方ないですね」

 先輩の眼は見開かれていた。
 また、分からなかったんだろう。
 なんでそうなったのか。

「先輩が嫌ならしょうがないじゃないですか。正しくても間違ってても、それが先輩の気持ちなら誰も文句は言いませんよ。そういうのは嫌だったから、はっきりと断った。なにを後ろめたく思う必要があるんですか? 誠実でいいじゃないですか」

 誠実な先輩ってのもまた珍しいものだけど。
 なんというか、似合わな過ぎて全身がむずむずする。

「正しい結論なんてないんですよ……だいたい、正しいかどうかなんて誰にも分かりませんし。それに、間違ったっていいんです」

 間違ったっていい。
 恋愛なんて間違ってばかりなんだから、今更間違えたところで大したことじゃない。
 むしろ、ときには間違えることも必要まである。

「それで……」

 そこで一旦、言葉を区切り、先輩の反応を伺う。
 諦めたのか、なんだと言いたげな顔を浮かべる先輩に苦笑し、言葉を続けた。

「結衣先輩の告白を断ったのは、結衣先輩のことを恋愛対象としてみれなくて、それでいて適当に付き合うのも嫌だったから」

 再び区切ると、先輩は頬杖をつき、落ち着かない様子で視線を泳がせながらも顎で続きを促す。

「それが分かったので、先輩が雪ノ下先輩のことを想っているから断ったわけじゃないってことも分かりました。ではでは、改めて聞きますが……やっぱりやる気はないですか?」

 無言のままこくりと頷く。

「それはなんでですかー? まだ雪ノ下先輩のことを好きじゃないからですか?」

 ずいっと身を乗り出して尋ねる。
 先輩はぐいっと上半身を逸らし、迷惑そうな顔をした。

「そうだ」

 さらに詰め寄ると、ついには頬杖すらやめて背もたれに体重を預ける。

「でも、これから好きになるかもしれないじゃないですかー」


 相変わらずな反応に頬が緩みそうになるのを堪え、不満を滲ませた声で言う。
 先輩は脱力した様子でふるふると首を振った。

「分かんねぇけど……それはねぇよ、多分」

 強情だなぁ……分かんないとか多分とかそんなことばっかり。

「分からないなら、せめて分かるまでやってみましょうよ! わたし、分からないまま結論を出すのはよくないと思うんですよねー……」

 すとんと着座し、視線を落とす。
 少しの沈黙の後、ちらっと先輩の顔を見て、駄目押し。

「ダメ……ですかね?」

 しゅん、とそんな擬音が聞こえてきそうなほど身体を縮こまらせていると、耳に大きなため息が響いた。

「……やるだけ、だぞ」

 作戦通り!
 ぶっちゃけ、わたしも先輩が雪ノ下先輩とくっついてくれないと諦めがつかないんですよ。

「はいっ! では、具体的にどうしましょうか?」

 それからしばらくの間、先輩と会話をし、おおまかなことを決めてまたそのときどきで考えようということになった。

「うぅー……寒いー」

 外に出ると、とっくに日は沈んでおり冷たい風が吹きすさぶ。
 スカートのせいで足下から全身に這い上がってくる寒気に思わず肩を抱き、ぶるりと身体を震わせた。

「先輩ーっ! 寒いですー! もう三月なのに!」


 遅れて出てきた先輩の右腕に抱きつき、がちがちに凍りそうな身体をすり寄せる。
 うわぁ、とそんなことを言い出しそうな顔で右腕だけをぴんと伸ばし、なんとか距離を取ろうとしている先輩を見ると少しばかり寒さも和らいだ気がした。

「なんでお前なんにも持ってねぇんだよ……なんなの? 最近の女子高生はそんなに気合い入ってるの? っつーかそんなに寒いならスカート折るなよ。そもそも三月は普通寒いだろ」

 氷点下の言葉責め。
 はぁあ、と先輩が本日何度目かのため息を吐くと白いもやが改めてこの寒さを実感させてきた。
 冷たいっ!

 負けじと目をうるうるさせてマフラーを引っ張ると、やれやれといった様子で先輩はマフラーを取り、そっぽを向いて無愛想に差し出してきた。

「ほら」

 よっしゃ!
 マフラーゲットだぜ!
 すぐさまぐるぐると首に巻くと、男性用だからか少し垂れる部分が長くなったので、後ろで緩く縛る。
 マフラーに顔半分を埋めると先輩の匂いが鼻腔をくすぐる。
 少し照れくさい。

「……ありがとうございます。これ、先輩の匂いがしますね」

 にへらと笑ってそんなことを言うと、わたしのがうつったように先輩の頬も赤らんだ。

「あざとい。流石いろはす、あざとい」

 一瞬名前で呼ばれたものかと錯覚して胸が高鳴る。
 そうじゃなかったと落胆し、そもそも全く喜ぶべき言葉をかけられてなかったことにさらに肩が落ちた。

 そんなわたしのことを見ていたようで、なにか幼い子でも見るような温かい眼差しを向けられた。

「……忙しいやつだな」

 先輩のせいですよ、なんてことは言えなくもなかったけど、どこか気恥ずかしかったので頬を膨らめて睨みつける。
 しかし先輩は意に返した様も見せず歩き出した。

「あ、待ってくださいよー」

 慌てて駆け寄ると先輩の歩調が緩くなったのが分かり、笑みが溢れるのと同時にまた身体の芯が温かくなった。

 寒空は容赦なくわたしの身体を責め立てるけど、先輩と一緒ならなんとかなりそうだ。
 そんなことを思うくせに、先輩と雪ノ下先輩をくっつけようと画策する自分に自嘲じみた笑みが出る。
 それでも、結末がどうあれ、この無愛想な先輩には幸せになって欲しいと願った。

  ****

「あ、お兄ちゃーん!」

 のんびり二人で歩いていると、横からそんな声が飛んできた。
 ふと顔を向ければ、セーラー服に身を包んだ女の子がぱたぱたと駆け寄ってくる。
 ぴょこんと跳ねる毛がどこかの先輩との血縁関係を匂わせた。

「おぉ、小町。今帰りか?」
「うん、そだよ! まさかお兄ちゃんに会えるなんてねー、今日はついてるかも。あ、今の小町的にポイント高いっ!」

 わたしたちの目の前まで辿り着くと、にかっと八重歯を見せて笑う。
 かわいい……目腐ってないし。
 ていうか、なにそのポイント制度。
 超あざとい。

「ん? んん? おおーっ!?」

 じーっと観察していると、わたしに気づいたようだ。
 わたしと先輩を交互に見て目をキラキラと輝かせる。

「こんにちはー。先輩の後輩の一色いろはです。よろしくねー」
「こんにちはー! 妹の小町ですっ! お、お兄ちゃんとはどういう関係でっ!?」

 息せき切ってぐいぐいっと顔を突き出してくる。
 ま、まぶしい……若いっていいな。

「んー……? なんだろ……愛されキャラ的な? ほら、マフラー。いやー愛が重いねっ!」
「返せ」

 一切の間を空けずにマフラーに伸びてきた手をさっと華麗によける。
 べーっと悪戯っぽく舌を出すと、先輩の口から何度目かのため息が漏れた。

 小町ちゃんはなにやらほほぉーっと感心したような顔をしたかと思うと、「ま、またお義姉ちゃん候補が……っ!」と戦慄いている。
 お義姉ちゃんて……て、照れる!

「どこまでいったんですかっ!?」
「どこにも行かねぇよ。俺はずっと小町のそばにいる」
「やめて、出てって」

 ひゅううと冷たい風が吹いた。
 あ、あれー? なんだか視界が滲んできたなー、と目をぐしぐし擦る先輩。
 小町ちゃんはそんな先輩の耳に口を近づけ、そっと囁く。

「ちょっと、そういうのはお家にいるときだけにしてって言ったでしょ!」

 聞こえてますよー!
 ちょっと!
 この兄妹大丈夫!?
 家でただれた関係になってない!?

 しかし、小町ちゃんはそんな心配はいらないとばかりににこにこ微笑む。

 たったっと喜びを滲ませた足音で寄ってくると、ケータイを取り出した。

「いろはさんっ! アドレス交換しましょうっ! アドレスっ!」
「……う、うん、いいよー?」

 なんか企んでそうだ。
 わたしとしても小町ちゃんとは仲良くしたいから構わないんだけど……。
 先輩とデートするダシに使えるかもしれないし。

「送りますねー」

 ふふーんと鼻唄混じりにメアドが送られてくる。
 登録して空メールを送ると、小町ちゃんは再び忙しなく操作し、ふぅと一息ついてケータイをしまった。

 そしてしばらく適当な会話をしながら帰路を辿る。
 途中でわたしのケータイが通知音を鳴らす。
 ふと小町ちゃんを見るとやけに機嫌がよさそうだ。
 ケータイを取り出したわたしを確認して先輩と会話を再開する。
 特に気に留めるでもなくケータイに視線を落とすとメールが届いていた。

 差出人:比企谷小町
 件名:
 本文「なんでもお手伝いしちゃいますので、なんなりとっ! これからよろしくお願いしますねっ☆」

 ばっと小町ちゃんを見ると、ぱちっとウインクをされた。
 送信予約だと……まさかそんなもの駆使してくるとは。
 元旦にしか使う機会ないと思ってたけど、こういう使い方もあるんだね。
 ちょっと感心しちゃいました。

 やっぱり先輩の妹なんだなー……。
 きゃっきゃっと先輩と戯れる小町ちゃんをぼんやり見ながら思う。
 シスコンとブラコンだった。
 企みは全て先輩を思ってのことなのだろう。


 夕陽は二人を暖かく包み込む。
 オレンジ色はどこか感傷的だった。
 なんだ……全然一人じゃないじゃん。

 先輩には常に寄り添ってくれる家族がいる。
 学校で一人でも、社会に馴染めなくても、そういう人がいるだけで救われる。
 先輩が幸せになるのはそう難しいことじゃないのかもしれない。

 ——わたしも、いつか、きっと。

 二人に駆け寄るわたしの足音はどこか楽しげだった。


 第一章 きっと、誰しもそれらしさを探している。


「お疲れ様ですー!」

 からりと戸を開き、軽い会釈とともに奉仕部の部室へ入り込む。
 奥の雪ノ下先輩、真ん中の結衣先輩、そして最後に先輩へと目をやる。

「おー、いろはちゃん。やっはろー!」

 最初に挨拶してくれたのは結衣先輩だった。
 手を挙げてわたしの名前を呼んでくれた結衣先輩に手を振り返す。

「こんにちは」

 雪ノ下先輩は、ふと、絵になる所作で顔を本からわたしに向け、薄い微笑みをたたえる。

「はい、こんにちはですー!」

 元気よく挨拶を返し、一月ほど前に調子の良くなったヒーターの働きでぬくぬくとした室内をすたすたと歩く。
 長机を挟んで先輩の向かいに当たる場所に座った。

「…………」

 無言。
 無言だこの人。
 さっきちらりとわたしを見たのはなかったことにするらしい。
 随分といい度胸だった。

「こーんにーちはー」

 ふりふりと先輩と本の間で手を振る。
 すると、先輩は面倒臭そうな面持ちをわたしに向け、渋々口を開いた。

「よう」

 二文字。
 たった二文字だ。
 まあ、いつも通りな先輩だった。


 いつも通りな部室。
 いつも通りな奉仕部の面々。
 結衣先輩の告白から少し日が経ち、それでも奉仕部の関係はいつも通りだった。

 変わらない日々に、変わらない空気に、まったりと身体を預け、各々がそれぞれ暇を潰す。
 依頼がなければ奉仕部は動かない。

「もうすぐ春休みですねー」

 あまりにも暇なので適当に話題を振ると、いち早く反応したのは結衣先輩だった。

「だねー! 生徒会はなにかやることあるの?」

 学生らしく、長期休暇が楽しみなのかわくわくるんるんという感じで尋ねられる。

「んー……そうですねぇ……」

 先日の件で予算はしっかり使い切ったし、春休みはどちらかと言えば先生達の忙しい時期であって、生徒会はとくになにもない。

「とくにないですねー。あ、でも、新入生の入学式の準備とかはありますけどねー……」

 椅子並べとか……完全に雑用じゃないですかね、これ。

「そうなんだー。あ、ねぇねぇ、ゆきのんは春休みって予定空いてるの?」

 そんな他愛ない話に花を咲かせる結衣先輩を横目に、先輩に向き直った。
 先輩、入学式ときて、頭に思い浮かんだことを口にする。

「そういえば先輩、小町ちゃん合格おめでとうございます」

 ひたすら読書を続けていた先輩の動きが一瞬ぴたりと止まる。
 なんでもなかったようにまた動き出した。
 ぼそっと小さいつぶやきを落として。

「……さんきゅ」
「あはっ、いーえっ!」

 必死に自分がどれだけわたしのことを鬱陶しいと思っているか態度で伝えようとしてくる。
 が、それもつい最近の祝い事を話題にされては上手くいかないらしく、こほんと咳払いをして本を閉じた。

「小町にもメールしてくれたんだろ? ありがとな、喜んでた」

 まるで自分のことのように照れ臭そうにしている先輩に微笑する。

「いやー、もう、本当にシスコンですねー。妬けちゃうなぁ、ちら」
「ちら、とか言うな。あざとい」

 上目遣いでの強襲はやはりいつも通りにあえなく失敗に終わる。
 机に上半身を乗せ、むすーっと口をへの字に曲げて見せてもその結果は変わらないどころか、むしろ先輩の頬は引き攣っていた。

「お前……日に日にあざとさに磨きがかかってないか……?」

 そんな褒められてるとも貶してるとも分からない言葉を吐く。
 なんとかして仕返し出来ないものかと視線をスライドさせると一つのカップが目に留まった。

「もーらいっ」
「あっ」

 一瞬の逡巡ののちにひょいっとカップを持ち上げる。
 そのままカップに口をつけ、こくりと一口だけ喉を通す。
 きっと、今のわたしは相当に意地悪な顔をしているだろうな。
 にやにやと先輩の反応を伺うと、予想通り顔を赤くしていて、思わず心の中でガッツポーズをしてしまう。

「はい、ありがとうございましたー」

 ことん、とカップを先輩の手前に戻す。
 その音がいやにはっきりと聞こえ、不思議に思い首を動かすと結衣先輩と目があった。

「え……」

 口元を両手の先で押さえ、あわあわとする結衣先輩。
 何が起きたのかと雪ノ下先輩に視線を向けると、雪ノ下先輩は雪ノ下先輩で固まっていた。

「えー……っと……」

 なにこの空気……。
 ちょっと間接キスしただけなんだけどなー。

 そっぽを向き顔を赤らめる先輩。
 頬を紅潮させてわたしの唇を注視する結衣先輩。
 こほんと咳払いをして問い詰めるような視線を浴びせてくる雪ノ下先輩。

 三人の顔を順々に見ていると、キスという単語が際立ち、なんだかもの凄く恥ずかしいことをしてしまったのではないだろうかと思えてくる。
 自然と俯きがちになり、熱くなった頬をさする。

「恥ずかしいならすんなよ……」

 沈黙を破った先輩は呆れた声音でそうつぶやく。

「ち、違いますよぅ……。なんか、変な空気になっちゃったので……えーっと、ごめんなさい」

 俯いたまま謝罪の言葉を述べる。

「……別に同じカップで紅茶を飲んだだけだろ……。き、気にすんな」

 全く平然と出来てない調子で告げ、ぐいっと紅茶を呷る先輩。
 まだ結構な量が残っていて、ごほごほとむせた。
 誰が一番気にしてるんですかー!
 うぅぅ……キスしちゃった。


 改めて認識すると、ボンッと顔から熱が吹き出すのが分かった。

「……なんだよ」

 じとーっと睨みをきかせる結衣先輩にバツの悪そうな顔で尋ねる先輩。

「別にっ!」

 結衣先輩はふーんと顔を背けてなにやらぶつぶつとつぶやき、いじけたように人差し指でテーブルをなぞりはじめてしまった。
 先輩は先輩で読書始めちゃうし……。
 んー……なんか話題……。

「あ、そうそう! 先輩!」
「……なんだよ」

 ずいっと顔を近づけると、先輩は鬱陶しいとばかりに身を引く。
 傷ついちゃうなー。

「いやね、小町ちゃんが受かったので合格祝いを買いに行こうかと思ってるんですよねー?」

 椅子に深く腰掛け、ちら、ちらちらっと視線を送る。
 しかし、先輩から返ってきたのは気のない返事だった。

「へー。さんきゅーな。行ってら」
「はい、減点!」
「……は?」

 何言ってんだこいつ、意味わからん。
 とでも言いたげにわたしを見る。

「なに言ってんだこいつ……意味わからん、怖い」

 言っちゃったよ……しかもなんか怖いとかついてるし。

「いやいや、普通そこは『そっか、いつにする?』でしょう! 小町ちゃんのことは先輩の方がよく分かってるんですから着いてきてもらうに決まってるじゃないですかー! 馬鹿ですか? 死ぬんですか? ていうか死んでください」

「おい待て、なんで俺が貶されてんだよ。っつーか死なねぇよ、まだ当分生かしといてくれよ」

 えー、俺なんかしたー?
 と、不満たらたらな表情を向けてくる先輩ににっこりと微笑む。

「じゃあ明日ちょうど土曜日ですし、また十時に千葉駅に集合ってことでよろしくです!」

 きゃぴるんっとこれまた普段通りに笑みを向けると、先輩は待て待てと矢継ぎ早に言葉を並べた。

「いや、ほら、明日はちょっと。アレだからアレ。うん、アレがアレでアレになっちゃったから、な? ていうかなんで既に俺が承諾した体で話進めてんの? いや、進めるどころか終わっちゃってるしよ」

 なんで?
 なんでなの?
 そんな感じで必死に弁明してくる先輩を遮り、人差し指を顎にあて、くりっと小首を傾げる。

「んー……まあ、先輩がどれだけ休みの日に動きたくないのかは充分に伝わりました。はぁ、しょうがないですねー。じゃあ、ダメですっ」
「いや、なんでだよ……」

 言って、呆れ顔で姿勢をだらんとだらけさせる。

「え、だって、先輩明日暇じゃないですかー?」

 そう返すと、先輩はぐぬぬと食い下がる。

「いや、だから、アレなんだって」
「あははっ。いや、もうそれいいですって、ほんと。先輩がアレって言うときは絶対なにもないですから」

 しらーっとした視線で刺すように見つめると、ようやくにして諦めたらしい。

 顔を俯かせこめかみを押さえながら、はぁーと長嘆息する。

「もういい……分かった。それは分かったがな。お前さー、最近俺の土曜出勤率が高過ぎると思うんだが、そこんとこどう思うよ……なにか言い訳があったら言ってごらんなさい、怒らないから」

 でたー。
 怒らないから言ってごらんって言う人って結局最終的には怒るよね……ていうか、既に怒ってるケースが九割を占めるまである。

 実際、目の前の先輩からもひしひしと怒りが伝わってきた。
 そもそも声色が冷たかったりする。

 けど、まあ、こういう先輩の態度ももう慣れっ子だ。
 なんなら毎回言われてるような気さえしてくる。
 いや、言われてるなー。
 うん、言われてた。
 こういうときはとりあえず逃げておこう。

「じゃ、明日十時に千葉駅で!」

 同時にかたっと音を立てて椅子から立ち上がる。
 そのままびしっと敬礼し、にこやかな笑みを浮かべてさっさっと退散した。

  ****

 三月も中旬に差し掛かり、あと少しで春休みを迎える。
 上を向けば澄んだ青空が視界いっぱいに広がり、降り注ぐ太陽の光は一見すれば暖かく見えそうだ。
 しかし、現状では寒さは衰えておらず、春物のダブルトレンチコートの隙間から風が侵入し、現在進行形で遠慮なくわたしの体温を奪っていた。

 くぅ……暖かくなるって言ったのに……天気予報なんて信じたわたしが馬鹿だった。

「せんぱーいっ!」

 雑踏の中に紛れ切れてない腐った目を発見。
 片手を振り上げながら小走りで近づいていくと、やはり先輩だった。
 ダークグレーのPコートは厚手で暖かそうだ。
 どうすれば奪えるだろうかと思案してしまいそうになる。

「はぁっ……お待たせしましたー」

 途中でバックを後ろ手に持ち替え、先輩に向かって大きくとんっと踏み込む。
 背を反らして先輩の顔を見上げた。

「ん?」

 黙りこくる先輩にきょとんとした表情を見せる。
 どうしたんだろう。

「あー……、結構待ちました? もしかして早く来てくれちゃったり、とか?」

 うむむーと考えるような仕草を取る。
 今回はあざとさを狙わずに早く来たんだけどなー……まだ十時まで五分あるし。

「あぁ、いや、珍しいと思って……また待たされるもんだと思ってたわ」
「あー、そういう……もうしませんよー」

 むすーっと頬を膨らませて睨むと不思議なものを見るような目で見られる。

「だって、先輩待たせても文句言われるだけなんですもーん」
「そりゃあそうだろ、俺だぞ俺」

 悪びれた様子もなく、だって俺だよ? とポイントの低い主張をしてくる先輩。
 減点100。

「ま、いいですけどねー。治るものだとも思ってないですし」
「そうか、助かる」
「うっわー、ポイントひっくーい」

 そんなポイントいらねぇよとさっさと歩き出す先輩の隣にぴとっとくっついてわたしも歩みを進める。


「あ、どこ行くか決めてくれてたんですかー?」

 期待を乗せた声で尋ねる。

「いや……」
「え、じゃあなんで歩き出したんですか……」

 ついつい呆れ口調になってしまう。
 千葉ぶらり旅でもするつもりなんですかね……。

「近い。さっきから近いんだよお前……」

 引き攣った笑みで半歩横にずれる先輩。
 すかさず距離を埋める。

「あはっ。あ、距離感近いからって勘違いしちゃいました? いやいや、そういうのまだ無理ですごめんなさいっ」

 詰めた距離を詰める前より広げてぺこっと頭を下げる。

「いや違うでしょう、どう考えても……」

 ため息とともに吐き出される定番の台詞を聞き、ぱっと顔をあげて先輩の腕にしがみついた。

「それで、どこ行きましょーかーっ?」

 にこぱーっと笑みを浮かべ、窺うように先輩の顔を覗き込む。
 先輩は口元をひくつかせながら変わらない呆れ顔で答えた。

「決めてねぇのかよ……っつーか、今日のはなんなの? 小町がどうとか言ってたけど、なんか用があったんじゃねぇの?」

 じとっと睨みをきかせる先輩。
 あー、そっか、そうだった。
 今日はデートじゃないんだよなー……ちょっと有頂天になってたかも。

「この前の件ですよー」

 言うと、先輩は考えるように首を傾け、ああと思い至る。


「……なら、話ができる場所……か」
「そうですねー」

 同意を示し、うーんと首を捻る。

「つか、それ千葉に来る必要なくないですかねぇ?」
「ままっ、そこは気分の問題ってことでっ! ていうか、メインはあくまで小町ちゃんの合格祝いですからねっ? ではでは行きましょうっ」

 手を引き、歩くペースをあげる。
 わたしだって完全に先輩のことを諦めたわけじゃないんですよ。

 先輩の幸せを願って身を引くなんて、そんなのはわたしらしくないのかもしれない。
 わたしが幸せに出来るのならそうしたいのは山々だけど、流石に奉仕部、さらに雪ノ下先輩が相手では勝ち目がない。

 いや、あるいは、そうやって身を引く理由を作ってるだけなのかもしれない。
 初めて芽生えたこの感情が否定されてしまうのが怖くて、先輩との関係が崩れ去ってしまうのが怖くて逃げているだけなのかもしれない。

 もしそうだとしてもそれならそれでいい。

 それは間違ってるのかもしれない。
 それは悪いことなのかもしれない。

 それでも、ここでこうして先輩と一緒にいられるならそれでいい。

 わたしらしさなんて分からない。
 だいたい、らしさなんてものはえてしてそういうものだろう。
 例えそれが一つや二つの矛盾を伴っていたとしても、わたしがそうしたいと思ってるのだから、それはそうするしかないのだ。

 ふ、とペースを落とし、先を指差し先輩に微笑みかける。

「あっちにいい感じに可愛いお店があるんですよー」

「ああ、そう」

 素っ気ない返事に苦笑しつつ、わたしは前に進んだ。

 わたしが間違いを正そうとする日がいつくるのかは分からない。
 あるいはそんな日は来ないのかもしれない。
 だから、今、先輩と一緒にいられる今の時間だけは目一杯楽しんでもいいと思う。

 わたしの心の声に気づくものは誰もいない。

  ****

「いやぁー、買った買った」

 結局、小町ちゃんの合格祝い以外にもいろいろと買ってしまい、ほくほく顔で外へ出る。
 荷物になるし、最後にすればよかったかなー……。

 時刻は午後一時前。
 太陽が高く昇り、気温は朝よりはマシになった気がするけどまだ寒さは堪える。
 先輩の腕に抱き着くとやはりうざったいと視線で言われたが、今暖房器具を離したら死んでしまうので勘弁してもらいたい。

「……なんで荷物に加えてお前まで持たなきゃならねぇんだよ……超重い」
「んなっ!」

 飛ぶように離れると先輩がニヒルに笑う。
 気持ち悪いです。
 でも、そんなことより重要なことがある。

「お、重かったですか……?」

 おずおずと尋ねる。

「ああ、すっげー重かったな」
「うぅ……」
「荷物が」

 いつの間にか下がっていた視線をばっと先輩に向けると飛び込んでくる意地の悪い顔。
 だ、騙された……っ!

「先輩サイテーです……」

 コートをきゅっと掴み、俯く。
 本当に重いかと思った……この人そういうこと平気で言いそうだから冗談に聞こえないんだよなぁ。

「あー……なに、悪かった」

 そろそろと目をやると、バツの悪そうな顔をしてがしがしと頭を掻く先輩。
 ちょっとは反省したらしい。

「次はありませんよー?」
「はいはい……」

 渋々頷きを返した先輩に改めて笑顔を向け、それではどうしましょーかと意見を求める。

「帰る」

 即答だった。
 ふざけたことを抜かす先輩に詰め寄り、にっこりと微笑む。

「それではどうしましょーか?」
「ぐっ……はぁあ。お前が決めろ……」

 項垂れる先輩。
 諦めるのはいいですけど、投げやりになられるのはつまらない。

「それではどうしましょーか? わたしお腹が空いてきましたよ?」

 少しヒントを出すと、だからなにっくらいの反応をされたので、「あー、さっきの傷ついたなー」と、先輩を睨む。

「あー、はいはい。どこ行く? ラーメン?」
「は?」
「なんで不満げなんだよ……この前おいしいって言ってただろお前……」

 いや、言いましたけど……。

「えっと、先週もわたし、『は?』って返したと思うんですけど、そこのところどう思います? ちなみにこのセリフも二回目なんですけどね」


 初デートの後、今回含め計三回もなにかと理由をつけて先輩と出かけていたわけですが、なんだか毎回ラーメンを勧められている気がします。
 その頭は飾りなんでしょうか。

「この機会にお前もなりたけに染まればいいと思う」

 急にわけのわからないことを言い出した先輩に凄みをきかせる。

「はぁ?」
「す、すいません調子乗りました……おいしいのに……」

 がっくりと肩を落とす先輩。
 そういうことやられるとちょっとかわいそうに見えてくる。
 卑怯だ。
 あざとい。

「いや、まあ、おいしいのは分かってますけどー……出来れば毎回違うカテゴリを選んで欲しいなー、みたいな? ラーメンはたまににして欲しいなー、みたいな?」

 目線が下がり気味な先輩の顔を覗き込んで言う。

「はぁ……はいはい、んで? なに食べんの? イタリアン? カプレーゼだのペペロンチーノだの似合いそうな顔してるもんな」

 どんな顔ですか……。
 ていうかパスタ好きですね。

「なんですかそれ、褒めてるんですか」
「いや、褒めてない。遠巻きにサイゼを提案した」

 遠巻き過ぎて伝わりませんよ……。
 うーん。

「……サイゼですか。こんな可愛い女の子との食事でファミレスはいただけませんね」
「じゃあなにがいいんだよ……もう決めてくれよ」

 お手上げです、と首をふるふるとする。
 んー……ラーメン、パスタ。

「あー、先輩ってもしかして炭水化物好きです?」
「は? 日本人なら誰でもそうだろ、むしろ世界中で愛されているまであるな。人間炭水化物取らなきゃ生きてけないし。パンとか米とか」

 腕を組み堂々と言い放つ。
 どうやら意図が伝わらなかったらしい。

「いや、そういう意味じゃなくて、なんていうんですかねー……こう、それ一品で一食になるみたいな。ラーメンとかパスタとか」

 パスタは……なんか違う気もするな。
 先輩は腕を組んだまま半目でうーんと唸る。

「ラーメンは好きだが、別にパスタはそんなでもないな」
「はぁ、そうですか」

 なにが好きか分かるチャンスだと思ったのに……まあ先輩雑食って感じだから深く考えることでもないか。
 MAXコーヒーとラーメンだけあげとけば生きていけそうだ。

 むむむ、と眉を八の形にしてどこに行こうか考えていると、いい加減立ちっぱなしが辛くなったのか通りを挟んで向かいにある店を指さす。

「もうそこでよくないっすか、いろはさんー」
「へっ?」

 おっと、おっと……。

「急に名前呼びとかやめてください。なんですか、何回か遊んでるからって勘違いしちゃったんですか。まだちょっとそういうの無理ですせめて他人というカテゴリから抜け出してからにしてくださいごめんなさい」

 少し緩みそうになった顔を精一杯真顔にする。
 ……ちゃんとできてるかな。

「なんでそうなる……ていうか他人って。いや、いいんだけどよ……」

 めんどくせーとでも言いたげに深い息を吐く。
 荷物が重いのか、腰を曲げているせいでいつにもましてやる気のなさが伝わってきた。

「んー、だって、先輩とか他人か彼氏かの二択しかなくないですか? 友達とか……ふっ、ないない」
「うっわぁ、それすっげーむかつくわ。つーか、彼氏の方がねぇだろ……。なに? お前の中では彼氏の方がランク低いわけ?」

 そんな声に首を振って答える。
 肯定することはできない。
 でも、実際そうだったのかもしれない。
 昔は。
 それどころか、上下すらも定まっていなかったように思う。
 あの頃は。

 ただ、今は違う。

 片想いをしているわたしは可愛くない。
 誰かのために好きな人を譲るわたしも可愛くない。
 好きな人の幸せを願う乙女なわたしもやっぱり可愛くない。

 かっこいい人をステータス的に手に入れたいという欲求はない。
 可愛いわたしでいたいとも思わない。

 だから、この人にだけは可愛いと思われたかった。
 決してどんな男でもいいんだろうと思われたくなかった。

 わたしは首を振る。
 わたしは可愛くないけど、わたしがしてることも可愛くないけど、それでもわたしはわたしで……。

 この人との友達関係なんていらない。
 この人と恋愛関係になりたい。

 ただ、ただ、急にそんな素直になれるかって話で。

 可愛くないことでも今はしたいと思うから、わたしにはこう言うしかできない。

「先輩も候補ってことですよ」

 唇が当たりそうなほど先輩の耳に顔を近づけ、囁いた。
 くすぐったかったのか、身を捩る先輩の脇をするりと抜けてくすくすと笑う。

「あそこでいーです。行きましょっ」

 がしがしと頭を掻く先輩に笑いかける。

 きっと、もっともっと言いたいことはあったんだと思うけど、思い出せない。
 それはやっぱり先輩とのこの距離感を崩したくなかったからなのだろう。

 思い出せない、いや、本当は思い出したくないんだ。
 思い出したくないし、言いたくない。
 言えない。

 思い出したくない言葉なんて、いっそ忘れてしまった方がいい。
 記憶の彼方に忘却して。
 気づかないフリをして。
 隠して、装って。
 そうしていれば、いつかは失われてしまう。
 でもこれは、なにもしなくてもいつかは失われてしまうものだから。

 失ったときには嘆くのかもしれない。
 あるいは平然としていられるのかもしれない。
 わからない。
 わからないけれど、そのときが来てしまうのが怖いから。
 今は先延ばしにしてしまおう。

「ほら、早く早くっ」

 のんびりと歩いてくる先輩の腕を引き、店内へと入る。

 先輩と入ったお店はお蕎麦屋さんだった。
 注文をして、談笑を楽しみつつ出てくるのを待つ。
 談笑……あぁ、うん、しか言わないけど談笑っていうのかなこれ。


 それにしても、ラーメン、パスタときてそばですか……。
 麺が好きなのかも。
 いや、でも、パスタはそうでもないって言ってたしなぁ……。
 思索にふけっていると、かたっという音がした。

 見ればちょうど店員さんがそばを運んできたところだった。
 湯気の沸き立つそばは冷えた身体を芯から温めてくれそうだ。

「おいしそうですねー?」

 箸を持ち、きゃっきゃっとはしゃぎながら先輩を見ればどこか満たされない顔をしている。

「そばはよくてラーメンはダメとか……なんかラーメンに偏見持ってないですかね」

 ずずっとそばを食べながら不平不満を垂らす先輩。

「んー、そんなことないですよー? 次そば選んだらまた怒ります」

 次、という言葉に反応してげっそりとする。
 ぽつりと漏らした言葉はわたしに向けたものではなかったのだろうが、耳に届いてしまった。

「ふぇぇ……いろはすが鬼畜だよぅ……」
「きもっ。それきもいです先輩!」
「いや、待て。それはおかしい。だって、お前いつもやってんだろ……なら俺がやっても可愛い」

 なにその超理論。
 あ、ていうか可愛いと思ってたんだ。

「なんですかそれ。もしかして遠巻きに——」

 いつも通りの返しをしようかと思って口を開くと、言い切る前に先輩はなにか思い直したような顔になる。

「ああ、よく考えたらお前がやってもあざといだけだったわ。なら俺がやっても可愛くなるわけねーわ」
「……先輩のばーか」

 つーんとそっぽを向いて数秒。
 そっぽを向いていてはそばが食べれないことに気づいてしまった。
 なんか声かけてくださいよ先輩。
 おそるおそる視線だけを向けてみると、先輩はなにか考えごとをしているようで箸を止めてぼそぼそと呟いている。

「……いやでも、あざといと感じていても一色が可愛くないということにはならない、か……。ならやっぱり俺がやっても可愛いということにな……ならねぇな、うん」

 結論は出たらしく、再び食事に戻る。
 ずずずっと、そばをすする音。
 そしてようやく黙っているわたしに気づき、顔を上げた。
 慌てて視線を戻す。

「……は? なにやってんのお前、早く食えよ。冷めるぞ」
「むぅ……はーい」

 顔は赤くなってないだろうか。

「それにしてもここちょっと暖房強いですねー」

 なんて、見咎められることはないと知りつつも言ってしまう。

「そうか? 熱でもあんじゃねぇの、帰ろうぜ」

 ほんと、この先輩は……。
 もうちょっと心配するような口調ならまだしも、こっち見もしないもんなぁ。

 なんでこんな人好きになっちゃったんだろー、マイナス面が圧倒的過多なんだけどなー。
 けど、まあ、恋というものは往々にしてそういうものだろう。
 初恋だから知らないけど。

「かもですねー。まあ、帰りませんけど」
「ですよねー。まあ、知ってましたけど」


 変わらずそばをすすりながら、わたしを真似た返事をする。
 もう諦めているのか、その面持ちに嫌そうな感情は見えない。
 さっきのは多分いつものノリ、ってやつだろう。

「このあとどうしましょうかー?」
「かえ——」
「うん、どうしましょうかー?」

 例えわざとだとしても、そこまで帰る帰る言われると楽しくないのかなーと不安になってくる。
 うー……、先輩まだ今日は荷物持ちしてここでお金使っただけだもんなぁ……楽しくない、のかな。

「……つーかもう小町の合格祝い買ったし、あとはあの続き話して終わりなんじゃねぇの?」

 しばらく考えていたと思うと、追い打ちをかけるようにそんなことを言われる。
 でも、そうだよなー。
 すぐお家に帰ってればお昼代はかからなかったわけだし……。
 あー……、嫌そうじゃなかったのはこれ食べ終われば帰れると思ってたからか。

 どんどんと思考の渦に嵌まっていく。
 マイナス方面の考えことというのは考えれば考えるほど次から次へと負の感情がわいてくるもので、「いつもの先輩」を排除して「今の先輩」のことばかりが浮かんできた。

「そ、そうですよねー……いつもすいません」

 なんだか視界が滲んでくる。
 たははーと沈んだ気持ちを笑って誤魔化そうにも余計に苦々しくなってしまった。
 これじゃあ気を遣ってくださいと言っているようなものだ。

「え、と……わたしもうお腹いっぱいなので先に帰りますねー! やっぱりなんだか熱っぽいようなので……お話はまたお家にでも伺います。いつも出してもらってるし、お代置いときますねっ! ではではー、また学校で」


 まくし立てるように告げ、荷物をまとめて足早に店を出た。

「あ……」

 小町ちゃんの合格祝いどうしよう……。
 まあいいや、直接渡したかったけど今度学校で先輩に渡そう。

 たったっと小走りでその場を去る。

 一分でも一秒でもとどまっていたくなかった。
 こんなぼろぼろの顔は見せたくなかった。
 潤んだ瞳を見れば、また先輩はあざといとか言って笑ってくれるんだろうけど、今はその言葉も聞きたくない。
 あざといなんて言われたら本当に涙がこぼれ落ちてしまいそうで。

 それは嫌だった。
 そんな本気の泣き顔なんて見られたくない。
 そしたらいくら先輩でも気づいてしまう。
 先輩が気づいてしまったら、もう、そこでこの関係は終わってしまうのだから。

 心中の想いが失われるだけならまだいい。
 それならまだ先輩のそばにいられる。
 それは矛盾しているのだろう。
 想いが失われたなら先輩のそばにいたいとも思わないはずなのだから。

 でも、いい。
 それはいい。
 好きじゃなくなっても嫌いになることはないから。
 好きじゃなくなれば失う怖さもどこかへ行ってくれるから。
 あるいはそれも矛盾しているのかもしれない。
 でも、それでいいんだ。

 とにかく、心中の想いが知られるのは避けたい。
 まだ一緒にいたい。
 デートができなくてもいいから。
 たまたま会って言葉を交わすくらいの仲でもいいから。


 知られてしまえば壊れてしまう。
 先輩はわたしと接触を避けるだろう。
 結衣先輩と同じようにはならない。
 わたしは先輩にとって本物でもなんでもない。
 本物か偽物か問うことすらない存在。

 なんてつまらない存在だろう。
 あの優しさはわたしにだけ向けられるものじゃない。
 それは分かってる。
 分かってる。
 分かってるけど……でも……。
 ついついそのことを忘れそうになる。

 わたしと出会ってからの先輩が誰を救ったのかはほとんど知らないし、出会う前は全く知らない。
 けれど、先輩は救ってきたのだろう。
 いつもいつも、当人達しか知らないところで。

 隠して、欺いて、傷ついて。

 そうやって救ってきたんだろう。
 だから先輩には今支えてくれる人たちがいる。
 先輩のことを見ていてくれる人たちがいる。

 ただ、先輩が見ているかはまた別の話だ。
 一年を通して関わりあった奉仕部の二人は先輩の中で大きな存在だろうけれど、救った相手はそういうわけでもない。

 わたしは先輩に救われた一人に過ぎない。
 鬱陶しくつきまとっている分、つまらない存在どころか邪魔な存在に格下げされている可能性もないことはない。
 そもそも救った救われたなんてことを先輩が考えているのかほとほと怪しいけど。

「はぁっ……はぁっ……」

 気づけば千葉駅からはかなり離れていた。
 切れ切れに漏れる吐息は白いもやとなり、一瞬で空気に溶け込む。

 ふらふらとおぼつかない足取りで帰路を辿る。

 モノレールに乗るのははばかられた。
 さすがにこんな状態では恥ずかしい。
 知り合いに会いでもしたら気まずさメーターが吹っ切れる。

 少し休憩したい。
 そう思った矢先、視界に小さな公園が映り込んだ。
 引き寄せられるように入り、ベンチにすとんっと腰を下ろす。

「はぁー……」

 落ち着くと、意図せず後悔と反省の入り混じるため息が漏れた。
 なにしてんだろ……わたし。

 それこそらしくない。
 いつも通りだった。
 だから、いつも通り無理くりにでも連れ回せばよかった。
 確かに瞳はうるんでいた。
 でも、わざと瞳をうるませることもあった。
 なら、ぐっと涙を堪えて続行すべきだった。

 店を飛び出すなんてそれこそ怪しまれる。
 そんなのは全然いつも通りじゃない。
 しかし、どうだろう……あのまま続けていて、わたしは涙をこらえられただろうか。

 無理だったかもしれない。
 どちらにせよまずい事態になるのならここまで来たのもあながち悪い選択ではなかったように思う。

 いつも通り。
 明日からもいつも通り振る舞おう。

 だいたいなんであんな結論に至ってしまったんだろう。
 あんなのはいつもの先輩だ。
 最初っから渋々付き合ってくれているのは断言できていた。

 たまたまあのタイミングであんなことを言われたものだから、どうにも感情を制御出来なかった。
 失敗した。

 この機会に諦めてしまおうか……。

 どうせ報われない恋だ。

「……はぁ」

 無理だ。
 それが出来ればもうやってる。
 先輩が誰かしらとくっつかないと出来るものも出来やしない。
 誰かしらとくっついたところで諦めきれるのかは本当にそのときになってみなければ分からないけど。

 分からないことばっかりだな……。

 なんにも、分からない。
 自分のことも先輩のことも。
 この気持ちのことも……。
 全くもって嫌になる。

 いつも通り出来るかな。
 先輩に会うのは少し我慢した方がいい気がする。
 けど、急に来なくなったらそれはそれで怪しまれそうだ。

 なんで会いに行ってしまったんだろう。
 顔を見るたび、話すたびに惹かれていってしまうのは明白だったのに。
 簡単な話だ。
 会いたかったから、ただそれだけだろう。

 どうすれば避けられる。
 どうすればバレない。
 なんにも分からないわたしに分かるわけもない。

 もう終わってしまったのだ。
 先輩との関係は切れた。
 先輩なら奉仕部に依頼すれば請け負ってくれるだろうけれど、そんな居心地の悪い空気に包まれたくはない。

 ダメだ。
 なにをどうしたってどうにもならない。
 先輩がなんにも気づいていないのを祈るしかない。

 背もたれに体重を預け、首の力を抜く。
 ぼーっとしていると浮かんでくるのは先輩だった。


 不満げに目を細める先輩。
 卓球で熱くなる先輩。
 胡散臭そうにわたしを見る先輩。
 頬を赤らめて頭を掻く先輩。
 ラーメンを美味しそうに食べる先輩。
 詰め寄ると身体を仰け反らせる先輩。

 どの先輩も、やっぱりわたしの好きな先輩だった。

「ふっ……うぅ……っ」

 脳裏に蘇る先輩の顔に笑みがこぼれ、同時に目頭が熱くなった。
 視界がぼやけ、鼓動が音を荒げる。
 首を傾けているせいで涙は左頬に流れていく。
 少し湿った髪は寒風ですぐさま冷たくなり、誰もいない寂しさを実感させた。

 無性に晴天が恨めしく思い、空を睨みつける。
 しかし、無責任にわたしを照らす太陽はどこ吹く風と悠々佇み、どこまでも白々しかった。

  ****

 再び空を仰いだときには、煌々と輝く憎き太陽はどこかに逃げ、儚く朧げな光を降り注ぐ月が現れていた。
 泣き疲れてうつらうつらとしているうちに寝てしまったようだ。
 おかしな態勢で寝たせいか首がありえないくらい痛い。
 いいこと、ないなぁ……。

 昼間よりもぐっと気温が下がった夜風で顔が冷え、思考が冴え渡る。
 なんか身体が重いなぁと上半身を起こすと、ぱさりと何かが落ちた。
 拾い上げてみればそれはコートだった。
 合わせてニット生地のセーターまである。

 わたしは自分で着てるし……。
 色はダークグレー。
 男モノのPコート。

 はっとして空いている右のスペースを見る。

あの時の人の続きか。期待してる

前スレかなんかあるの?
あるなら教えてくだしあ

>>48
あの時の人が俺かどうかよく分からんがありがとう、頑張る
>>49
ないよー

ちなみにSS投稿速報に同じやつ投稿してる


 空いたMAXコーヒーの缶と手のつけられていないミルクティーの缶が並ぶ。
 その奥にティーシャツ姿で寒そうに身体を縮こまらせて寝入る先輩の姿があった。

「え……」

 え?
 えっ!?
 えぇっ!?

 あまりの衝撃に凝り固まった身体が完全に硬直する。

 なんだこれ。
 なんだこの状況。
 待って、待って、落ち着こう。
 すー、はー、と深く深呼吸をし、再び横を見る。
 やっぱりどっからどう見ても先輩だった。
 目をごしごしとこすってもそれは変わらない。

 終わった。
 事実を確認してこみ上げてきたのは絶望感だった。

 全部見られた。
 涙でぼろぼろになった顔も。
 帰ると言ってこんなところで寝ていたところも。
 言い逃れのしようがない。

 追いかけてきてくれたのが嬉しいという気持ちもあった。
 しかしそれは、もう崩れ去ってしまった関係とは釣り合いが取れなくて呆然とする他ない。

 涙腺が緩み、つうっと涙が頬を伝う。

「……ぁあ……なんで……っ。うぅっ……」

 ぽろぽろと零れ落ちる涙はとどまるところをしらず、拭っても拭ってもコートが濡れていくだけだった。
 お礼を言いたいし、このまま放っておけば風邪を引いてしまうかもしれないけど、先輩に合わせる顔なんてない。
 そんな勇気ない。


 そっと立ち上がり、先輩にコートを被せて心の中でお礼の言葉を紡いで背を向ける。

「んっ……。一色……?」

 聞こえた。
 聞こえてしまった。
 聞こえてしまえばもう、立ち去ることは出来ない。
 ここまでしてくれた先輩を無視して帰るなんてことは出来ない。

 ぐしぐしとコートの袖で涙を拭い、それでもまだ溢れ出てくる涙を上を向くことでなんとか堪える。
 長い沈黙の後、今出来る最大限の笑顔を作って振り返る。

「おはようございますっ! 先輩っ! もー、こんなところで寝てたら風邪引いちゃいますよー?」

 上手に出来ただろうか。
 わたしは今、笑えているのだろうか。
 いろいろな感情がごちゃまぜになって、そんな感覚すら自分では分からない。
 でも、先輩の顔を見ればその答えはすぐにわかった。

 ——あぁ、出来てなかったみたいだ。

 振り向いた先にあった先輩の顔はひどく歪んでいた。
 申し訳なさそうで、ただひたすらに辛そうな表情だった。

 どうしてこうなってしまったんだろう。
 些細なことだ。
 先輩の発言は至っていつも通りだった。
 改めて考えてみると先週も終始似たようなことを言っていた気もする。

 それなのに今回、わたしは過剰反応してしまった。
 いつもなら考えないことを考えて、定かではない結論を導き出し、勝手に判断して店を飛び出してしまった。
 挙句散々泣き腫らし、こんな公園で眠ってしまい、起きたら先輩が横にいた。


 もうほんと……最悪だ。
 わたしの人生で最大最悪までありそうだ。

 無言を貫く先輩。
 なんて言おうか考えているのかもしれない。
 なんて言って突き放そうか考えているのかもしれない。

「あー……」

 身を捩り、意を決したようにわたしの目を見て口を開く。
 すかさず言葉を被せた。

「や、やだなー、そんな顔しないでくださいよー。分かってます! えっと、迷惑だったんですよねっ! ちゃ、ちゃんと……分かってます、からっ! もう、終わりにしますから……っ! だから……言わないでください……」

 絞り出した声は震えていた。
 一気に言いたてようにも、みっともなく言葉は途切れ途切れになる。
 吐息は荒くなり、じわりと溢れ出てきた涙で先輩の顔はよく見えない。
 喉が熱い。

 言いたくない。
 でも、言われるのはもっと嫌だった。

 わたしの抵抗も虚しく、涙はたやすく流れ出す。
 拭っても、拭っても、わたしの意志を無視して零れ落ちる。
 止まらない。
 終わらない。

「うぅっ……」

 やだ。
 やだ。
 こんな顔見られたくない。
 まだ一緒にいたい。
 いつだって、どこでだって、笑顔を向けることくらいしか出来なかった。
 意図せずとも笑顔になれた。
 叶わないって分かってても、楽しかった。

基本的に一日3レス更新。
速さが足りないようなら増やすけど、現状でも一日に書ける量の三分の一ずつ更新してるから、あんまりペース上げると書け次第の更新になると思う。
それでもよければ、言ってくれれば増やします。

意見さんくす
とりま、今のペースでいきます
五月入ったら暇になるなら5レスくらいになると思う

また、とか、あの人、とかってなに……?
気にしなくていいやつ?
ちなみにここはこのスレが初


 とめどなく、キリがないくらいに流れる涙はわたしがいかに先輩のことが好きだったのかを静かに訴える。

「はぁっ……はぁっ……。あれー……おかしいなー。な、なんかっ、止まんないですっ。ごめんなさい……その、決して困らせたいわけではなくてですね……うぅ」

 なにを言ってるんだろう。
 こんな顔を見せて。
 一体どの口がそんなことをのたまうのだろう。
 ぎりっと下唇を噛み締めて、ごくりと喉を鳴らす。

「もう……近づきません。責任も、もう充分ですし……。いつも、いつも……ごめんなさいでした」

 ぺこりとお辞儀をして、涙で濡れた顔のまま口角をあげる。
 顔を上げて、別れの言葉を紡ぎ出す。

「これで、さ、さよならっ……です」

 あははっと乾いた笑みを見せ、くるりと後ろを向く。
 一刻も早く遠くに行きたかったけど、どうにも気力がわかない。
 足に力が入らず、ふらついてしまう。

 不意に腕を引かれた。
 たたっ、と引かれるままに方向転換すると、顰めっ面をした先輩の顔が瞳に映る。
 そのまま倒れるように先輩の胸中に飛び込んでしまった。
 とんっと額が先輩の胸に当たる。

「なんですか……。こんなの……らしくないですよ。女の子を追いかけるのも、泣いている女の子を引き止めるのも……全っ然、らしくないです」

 引き留めて欲しいという気持ちもちょっぴり残っていたかもしれない。
 自然弱々しい声音になる。

「……俺らしさってなんだよ。それならお前の方がよっぽどらしくねぇだろ……」


 ティーシャツ越しに伝わってくる先輩の体温は冷たい。
 どくんどくんと波打つ心臓の鼓動は緊張しているのか速く思えた。

「……自分らしいとか、お前らしいとか、その実態なんて誰にも分かりゃしねぇだろ。ただ、ここでこうしてる俺は俺で、お前もやっぱりお前だ。それだけは違いない」
「それは……」

 続く言葉は浮かんでこなかった。
 同意しているからか反対しているからか。
 あるいは、迷っているだけなのか。

「らしさなんて結局、願望なんだ。お前らしい行動は俺がお前に望んでいたもので、俺らしい行動はお前が俺に願ったもの。……いくら願ったって、いくら望んだって……そんなもんは偽物なんだよ」
「偽物、ですか……」

 わたしと先輩との関係を否定された気がした。
 胸がきゅうっと締めつけられる。
 一呼吸置いて、先輩は尚も話を続ける。

「俺もお前も、きっと誰だって、相手のことはおろか自分のことだってよく知らない。知らないから知っている部分だけを望んでしまう。知らないなにかを知るのが怖いから……知ってしまったら戻れないかもしれないから」

 知ってしまったら戻れない。
 その言葉は巨大な剣のようで、わたしの心をたやすく切り裂く。
 もう、前の関係には戻れないのだろうか。

「でもな、それじゃあダメなんだよ。偽物のままじゃ、ダメなんだ。知らないから間違えるし、勘違いもする。すれ違っていずれ失ってしまう。……それは、それだけは嫌だ。知らないまま失うくらいなら、俺は……」

 気づけばわたしの鼓動も速さを増していた。
 うるさいくらいの爆音を奏で、続きを待つ。

 先輩は一体わたしになにを言ってくれるのだろうか。

 わたしは一体先輩になんと言われたいのだろうか。
 答えなんてどこにもなくて、探したって見つかりっこないのに、それでも、まだ、諦めきれなくてその言葉の先を待つ。

「俺は……」

 震える声でもう一度言う。

 この状況はあのとき、あの廊下で立ち会ったものと酷似していた。
 しかし、続く言葉が同じだろうとは思わなかった。
 わたしがそれを聞いていたことを知っている先輩なら、きっと違うことを言ってくるのだろう。

 いや、例えそれがなくとも。
 わたしと先輩との関係。
 彼女達と先輩との関係。
 両者は明確に違っていて、だからこそ、この先に続く言葉は違うはずだ。

 生唾を飲み込み、喉を鳴らす音が聞こえた。

「俺は、お前のことが知りたい」

 はっきりと、そう言った。
 ばっと視線を上げて捉えた先輩の表情は、いままでにないくらい情けなくて、頼りなくて。
 でも、それでも、それだから。
 その言葉を信じてみたいと思った。

 わたしは先輩にとってどんな存在なのだろう。
 そこらへんに落ちている石ころと変わらないのだろうか。
 ただのうざったい後輩なのだろうか。
 その問いに答えてくれるものもいなければ、そう問うこともきっとないのだけれど。

 ただ、つまらない存在ではないのだろうと確信していた。

 ぎゅっと先輩のティーシャツを握り締め、じぃっと見つめる。
 目を逸らす先輩に口元が緩んでしまう。


「ふふっ……なんですかそれ、口説いてるんですか? あ、もしかしてまた勘違いしちゃいました?」

 相も変わらない調子の台詞を吐き、はにかむ。
 ふっ、と呆れたような短いため息をして苦笑する先輩。

 それを見て、名残り惜しいけれど先輩の服から手を放した。
 人差し指を傾げた顎に当て、うーんと考える仕草をしながら背を向けて二、三歩歩く。

 ピタリと足を止めて両手を後ろで組み振り向いた。
 ふわりとコートの裾がはためく。

「——でも、わたしも勘違いしちゃいそうだったので、それ結構アリです」

 にこーっと咲かせた笑顔は、それはもう上手に出来ていただろう。
 だって、これは決して偽物ではないから。

 本物とはなんだろうか。
 本物の笑顔なんてあるのだろうか。
 先輩と過ごしているとつい漏れてしまう笑みは本物なのだろうか。

 その問いにもやっぱり答えは返ってこない。
 けれど、今は偽物じゃないことだけが分かっていればそれでいい。

 彼と彼女達はそうやって距離を縮めてきたのだろう。
 こんなことを繰り返したいとは思わない。
 だからこそ、この大きな一歩を大切にしよう。

「はっ……」
「ふふっ……」

 わたしの言に反応して先輩が笑う。
 つられてわたしもまた笑った。

「さて、行きましょうかっ」
「ああ」

 軽く頷いて、荷物を取りにベンチへと戻る。

「あ、紅茶……飲むか? 冷めてるが」

 ん、と缶を差し出してくる先輩。
 もう片方の手には空いたMAXコーヒーの缶が握られている。

「こっちでいいですっ」

 ひょいっとMAXコーヒーの缶を奪い、制止も聞かずに口をつける。
 中には数滴しか残っていなかったけど、これでもかというほどの甘さが口内を満たした。

「う、あっまーい……」

 自業自得だと言わんばかりの視線を送ってくる先輩の手に缶を返す。

「まぁ、でも……社会はわたしにも厳しいようなのでコーヒーと先輩くらいは甘くてもいいですかね。ってわけで、わたしには激甘でお願いしますっ」

 あはっ、と笑いかけると先輩は口元をひくつかせた。
 逃げるように紅茶の缶を開けてごくりと喉を通す。

「あ、口直しにそれももらいです」
「……おい」

 またまたひょいっと缶を奪い取り、ごくごくと流し込む。
 完全に冷めた紅茶は冷え冷えする寒さをさらに強調するけれど、先輩の優しさを感じて胸の奥だけは温かくなった。

「行きましょー! 荷物、お願いしますねっ」
「はぁ……はいはい」

 同じ歩調で公園を出る。
 脇には見慣れた先輩の自転車が止めてあった。

「あ、一回お家帰ったんですね」

 何の気なしにそう聞くと、先輩は照れくさそうに頬をぽりぽりと掻く。

 なんか恥ずかしがるようなこと言ったかな……?

「……どこに行ったか全く見当つかなかったからな。小町に頼ったらめちゃくちゃ怒られるし……」

 うげぇ、と思い出したように苦々しい顔になる。
 そんなに必死に探してくれたんだ……。

「あ、今のいろは的にポイント高いっ!」

 小町ちゃんの真似をして腕に抱きつくと心底めんどくさそうな顔をされた。

「あー、はいはい可愛い可愛い……」
「うわー、適当だなー」

 唇を尖らせて、ぶーぶーと文句を垂れる。
 そのまま小町ちゃんモードを続行。

「お兄ちゃんそんなんだから友達できないんだよー? ほんとごみぃちゃんだなー。いろははこんなのがお兄ちゃんで大変です……」

 はぁやれやれとばかりに首を振る。
 いい加減苦痛になってきたのか、先輩の顔も険しくなる。

「それやめろ……やめてください。妹は小町一人で充分だ。むしろ小町さえいればいいまである」

 うんうん唸り、いや戸塚は外せないな、とか付け足す。
 この人単純に妹の真似されたのが気に食わないだけだ……。

「うっわー、流石としか言いようがないシスコンぶりですね」

 さささーっと距離を取り、若干引き気味に見る。
 しかし、どうやら全く意に返していないようだった。

「ふっ、まあな」

 なんて、自慢気になる有様。

三部作というと、
いろは「…あれ? もしかして比企谷せんぱいですか?」
いろは「せーんぱい♪」八幡「………」ペラ、ペラ
いろほ「せんぱーい、そろそろ千葉ですよー。起きてくださーい」

これかな。多分最初期のいろはすss

スレ汚しスマソ

そういうことか、りょーかい
最後に駄作って言われないようにがんばる

世辞でもなんでも良とか期待とか言われるとモチベ上がるな、コメくれてる人さんきゅー

その三部作見たわ
良作で間違いない面白さでした
深夜に読み始めたから、次の日睡魔がやばかった

そういうことか、りょーかい
最後に駄作って言われないようにがんばる

世辞でもなんでも良とか期待とか言われるとモチベ上がるな、コメくれてる人さんきゅー

その三部作見たわ
良作で間違いない面白さでした
深夜に読み始めたから、次の日睡魔がやばかった

そういうことか、りょーかい
最後に駄作って言われないようにがんばる

世辞でもなんでも良とか期待とか言われるとモチベ上がるな、コメくれてる人さんきゅー

その三部作見たわ
良作で間違いない面白さでした
深夜に読み始めたから、次の日睡魔がやばかった

 ダメだこの人、早くなんとかしないと……。

「それよかお前……」

 ふと、わたしに顔を向け、なにかを言い出そうとする。
 が、それは携帯の着信音に遮られた。
 鳴ったのは先輩の携帯らしい。
 ごそごそとポケットの中を漁り、携帯を取り出す。

「……小町だ。ちょっと悪い」

 すまなそうに軽く頭を下げた先輩。

「あ、全然いいですよー。お礼言っといてください」

 この分なら先輩は多分、完全にわたしの気持ちに気づいたわけじゃないだろうし。
 それならきっと、小町ちゃんがうまく言いくるめてくれたのだろう。

 電話に出た先輩の横顔をぼんやりと見つめながら、だらだらと後をついて行く。

「ん、ああ、いや寝てた。しょうがねぇだろ、なんかうとうとしちゃったんだから! 走り回って疲れたの! ……おい、もうちょっと俺をねぎらえよお前……八幡的に超ポイント低い……。あー、分かった分かった。はいはいー、んじゃ」

 はぁーと何度目かのため息を吐き、ちらりとわたしを見る。

「あ、電話終わりましたー? あれ? ていうかお礼言ってくれてなかったですよね?」

 んー、と思い返してみても、そんな節はなかった。
 問い詰める視線を浴びせていると、ごほんとわざとらしい咳払いをして口を開いた。

「あー……、あれだ、自分で言え、直接」
「……は?」

 なに言ってるんだろこの人……。

「えー……っと、それって先輩のお家に来いってことですか? ちょっとまだわたし心の準備が……」

いつもアイフォンで更新してるけど、アンドロイドだとめっちゃ使いにくいなこれ…
返事ついでの更新
0時過ぎの更新は変わらず3レスしま

そう言ってもらえるとありがたい
さすがに比べられると思ってないけど、自惚れないようにしとくわ

おお、こんなアプリあったんだ
無知ですまん、助かる

変わらず3レスとか言っといてなんだけど、ちょっとペース上げるわ
計算してみたら一章更新するのに一ヶ月かかりそうだった…
今日の分投下


 ぽっと頬を赤らめて答えると、先輩は慌てて否定の言葉を吐き出す。

「違ぇっ! 違ぇよっ! いや違くないんだけど、そういう意味じゃねぇ……」

 あら、そうですか、残念ー。
 まあ、分かってましたけど。

「んー? じゃあ、どういうことです?」
「あー……、小町が連れて来いってうるせぇんだよ。飯作ってあるからダッシュで帰ってこい、だと」

 小町ちゃん流石過ぎる……。
 あ、これなら小町ちゃんに直接渡せる。
 ちょうどいいか。

「あー、そういう……。りょーかいです。でも流石にダッシュは……正直気力ないです」

 かくんと俯き、ちらっと先輩の引く自転車の荷台を見る。
 その視線に気づいたのか先輩は足を止めた。

「でも待たせちゃ悪いですよねー……ちらっ」
「分かってる。分かってるからちらっとか言うな……俺ももう怒られたくない」

 顎で早く乗れと伝えてくる。
 二人乗りは小町ちゃん専用とか言ってた先輩が……いいことあった。
 とてとてと荷台部分に近づき、ちょこんと座る。
 なんだか恥ずかしさとあいまって居心地が悪い。

「ちゃんと掴まってろよ……急ぐぞ」
「あ、はい……」

 しっかりと荷台に跨り、先輩のお腹に手を回す。
 先輩の背中は大きくて、細身でもやっぱり男の人なんだなぁと実感させられた。
 意識すると身体が熱くなる。

「よし……行くぞ」


 ぐんっと引っ張られるような感覚に思わず抱きしめる力を強める。

「きゃっ! せ、先輩っ、速いっ、速いです! 安全運転でお願いしますっ! 先輩が事故ったの知ってるんですからね! わたしが怪我したら責任取ってくれるんですかっ!」

 わーぎゃーと喚き散らすが、スピードは緩まるどころか速くなる。

「なんで知ってんだよ……誰だ言ったやつ。大丈夫、結構痛いけど大丈夫」
「いや、それ全然大丈夫じゃないですからー!」

 不安な台詞を残してそれ以降黙ってしまった先輩にしがみつき、ぎゅうっと目を瞑る。
 怖い怖い怖い怖い。
 自転車ってこんなスピード出たっけ?
 これが小町ちゃんパワーなのっ?

「あぅぅー……」

 情けない声を出していること十数分。
 ようやく到着したようで、キキッとタイヤの擦れる音を立てて自転車が止まる。
 知っているだろうか。
 急ブレーキというのは急だから急ブレーキと言うのだ。

 つまり、反動がある。
 引っ張られるように仰け反っていた頭は、慣性の法則に従ってどんっと先輩の背中に衝突した。

「あうっ……いったーい」
「おお……すまん」

 自転車に跨ったまま首だけを捻ってわたしの様子を窺う。
 その顔を思いっきり睨みつけてやった。
 鼻痛い……つぶれたかもしれない。

「むぅ……」
「悪かったって。とりあえず早く降りろ」

 冷たい態度を取る先輩に返事をせず、ゆっくり荷台から降りる。

 お尻痛い……。
 自転車を置いて戻ってきた先輩の額には薄っすらと汗が滲んでいた。

「ふーん……」

 わたし怒ってますアピールをするが、変わらない態度であしらわれる。
 玄関の前に立つと、荷物で両手が塞がっているからか開けてくれという意がこもった視線を向けてきた。

「はぁ……」

 なんだかアホらしい。
 たったっと先輩に駆け寄り、玄関を開く。
 間を置かず、忙しない足音が近づいてきた。
 その足音の主はばんっと勢いよくドアを開け放つ。

「いろはさーんっ! ようこそですー。今日はほんと、うちの愚兄がすみませんでした」
「小町ちゃんこんばんはー! いいのいいの、いつものことだからー」

 へこへこと頭を下げる小町ちゃん。
 よく出来た子ですよ、ほんと……。
 なんでお兄ちゃんの方はこんなんになっちゃったんだろうと、隣の朴念仁を憐れむように見る。

「おい、なんだよその目……」
「あ、いつものことってところは否定しないんですね」
「まあ、あながち間違いでもないからな」

 ふっ、と憎たらしく鼻で笑う。
 なんでそこで開き直れるのか不思議でしょうがないんですが……なんなのこの人。
 なんかもっといい人いないかなー。

 遠い目をしてぽけーっと虚空を見つめる。
 すると、そのやり取りを見ていた小町ちゃんがわたしと先輩を交互に見てふぅ、と安心したように息をつく。

「よかったー……仲直りできたんですねー」
「まあそもそも喧嘩してないしな」

 まあ、確かに。

 うんうんと頷いていると、小町ちゃんは目を真ん丸くさせる。

「ま、まさかお兄ちゃん……謝ってないとかないよね?」

 その言葉に、んーと一連の出来事を思い出してみる。
 謝られて……ないな。
 いや、まあ、別にいいんだけど。
 わたしが悪いんだし。

「あー……悪かったな。その、いつも通りだと思ってんだが……。なんつーか……そんな追い込まれてるとか、全く考えてなかった。すまん」
「あ、いやいや、いいんです……その、わたしのほうこそすみませんでしたというか……」

 先輩にみっともなく泣きっ面を晒してしまったのを思い出し、どこかぎこちない返しになってしまう。
 わわっ……なんか急に恥ずかしくなってきた……。
 やだやだ、なんであんな泣いちゃったんだろ。

「お兄ちゃん……女の子泣かせたらまず謝らないと」

 呆れ気味に告げる。

「やっぱ俺が悪いの……?」
「自分が悪くなくてもだよっ! そういうの得意でしょーが」

 うがーっと八重歯を見せて威嚇する小町ちゃん。
 あ、そういうの得意だよなー、うんうん。
 なんだか妙に素直に納得してしまう。

「やだ。なにその得意分野! お兄ちゃん立派な社畜になれそう!」
「先輩キモいです」
「お兄ちゃん……ちょっと引くよ」

 おかしな口調で百倍くらいキモさの増した先輩を、小町ちゃんと二人で冷めた目で見る。
 わたしはどうか分からないが小町ちゃんのは堪えたようで、ずーんとあからさまにテンションを落とした。


「あー、蒸し暑いー。なんか、梅雨みたいにジメジメしないー?」

 襟元をぱたぱたとやりながら、同意を求めて小町ちゃんへ視線をやる。

「ですねー。なんかここだけ妙にジメジメしてますよねー! ささっ、お兄ちゃんなんて放って中へどぞっ」
「はーい、お邪魔しまーす!」

 小さくなにかをぼやいている先輩を置いて、小町ちゃんについて行く形でリビングへと入る。
 普通だ……強いて言うなら、いや、やっぱり普通だった。
 んー、でも、普通よりは大っきいのかなー?

 ぼけーっと突っ立っていると、足元になにかもふもふしたものが当たった。

「あ、猫だー」

 しゃがみ込んで撫でてみる。
 ふてぶてしい顔はどこかの誰かさんに似ていて、撫でろとばかりにごろんと腹を見せる姿もやっぱりどこかの誰かさんに似ていた。

 先輩がわたしの脇をすり抜けていくのと、ほとんど同時に小町ちゃんから声がかかる。

「いろはさーん。洗面台あっちにありますんでご自由にどうぞー」

 顔を上げると洗面台のあるらしい方向を指差す小町ちゃん。
 ……洗面台?
 ふむ……と、悩むように首を傾げる。

「あー、ほら、お化粧が……そのー」

 言いつらそうに言葉を濁す。
 お化粧、というところでピンときて慌てて立ち上がる。

「あっ! ありがとー」
「いえいえですっ」


 にかっと人好きのしそうな笑みを浮かべる小町ちゃんを横目で流し見ながら洗面所へと急いだ。

「うっわー……」

 鏡に映ったわたしの顔はひどい有り様だった。
 瞳は淡いピンク色に充血し、擦ったせいかまぶたは腫れている。
 涙のせいでマスカラやらアイラインやらが滲み、極めつけには目元から顎のあたりにかけて涙の痕が曲線を描いていた。

 手近にあった洗顔料を拝借して洗い流す。

「ふぅ……」

 鏡に映る顔は綺麗になりはしたけど、当然すっぴんだ。
 まあ……いっか。
 そんな濃い化粧してるわけじゃないし、そこまで変わりはしないだろう。
 諦めるためにそんな理由を取り繕い、意を決してリビングへと戻る。

「じゃじゃーん! 今日のご飯は小町のいろはさんへの愛がたーっぷり詰まったオムライスですっ☆」

 ばーん! と効果音が表示されそうなテンションでぺろっと舌を出してウインクする。
 あ、あざとい……かわいいけど!

「あれ? なんか忘れてない? 小町ちゃんなんか忘れないですかー? ていうか、もはや意図的に省いてないですかー?」

 えー、えー、と声を漏らす先輩には満足いただけなかったようだ。
 そんな先輩に小町ちゃんはきょとんとした顔を向ける。

「え? なんの話? バカなこと言ってないで早く食べるよお兄ちゃんっ!」
「えー……」

 最近妹が厳しいなぁ、とか不貞腐れた様子でぶつぶつ言いながら椅子に座る。

更新終了
一日6レスになると思う

iPhoneのテキストエディタ使ってるから更新はiPhoneのが楽なんだよね
androidで好みに合ったテキストエディタが見つかればいいんだけどー


 四人用テーブルにオムライスが三つ。
 まず、小町ちゃんが座った方に一つ。
 そして、先輩の前に一つ。
 その横にもう一つ。
 つまり隣に座れってことですね、分かりました喜んで座らせていただきます。

 もう散々醜態を晒してしまったので、よほどのことでは動じない。
 よくよく考えたら隣に座ってご飯を食べるなんてやったことあるし。
 ラーメン屋のカウンター席で。

 なんなら毎日のように腕に引っ付いてるから、むしろ距離感遠いくらいまである。

「いただきまーす!」

 オムライスをスプーンで掬い、大口をあけてぱくっと食べる。
 あ、これおいしい。

「どうですかー?」

 きらきらとした瞳で感想を求めてくる小町ちゃん。

「すっごいおいしいよー! いやー、わたしお菓子は作るんだけど、料理はあんましないから尊敬しちゃうなぁ」

 言ってるうちに一つの考えが頭を過ぎり、意味ありげな視線を返す。
 小町ちゃんはその意味を汲み取ってくれたようで指をピンと立てた。

「あ! じゃあじゃあ、今度一緒に作りましょうっ! お兄ちゃんの胃袋くらいなら余裕で掴めるようになるはずですっ」

 ほほう……それはなかなか。
 男を落とすなら胃袋を掴めって言うもんね!

「作る作るー! あはっ、先輩! 先輩の胃袋もぎ取っちゃいますよー?」

 首を傾げて見上げるように先輩に顔を向ける。

 露骨に嫌そうな顔をして目を背けられた。

「もぎ取っちゃうとか臓器移植かよ……ドナーカード持ってないんですけど。……来るときは言えよ、出かけるから」
「なんでそういうときばっかり出かけるんですか……先輩わたしのこと嫌い過ぎです」

 うぅーと口を尖らせて瞳を潤ませると先輩はため息を漏らす。
 こうなればもう先輩の口から出てくる言葉なんて分かったようなものだ。

「分かった分かった……毒味すりゃいいんだろ?」

 渋々了承の旨を伝える。
 わざわざ毒味とか言う必要ありますかねー。
 ちょっとこの人ひどくないですかねー。

「ふっ、分かればいいんですよ、分かれば」
「なにこの後輩……めっちゃ腹立つ」

 嘲笑すると不機嫌そうにぶつくさと文句を垂れる。
 いつも通り。
 いつも通りだけど、もうあんな感情は浮かんでこなかった。
 踏み出した一歩の大きさを改めて認識し、ほっと安心する。

 ぺちゃくちゃと喋りながら食べていると、いつの間にか完食していた。

「ごちそうさまでしたっ」

 ぱんっと手を合わせて小町ちゃんに微笑みかけると、小町ちゃんも笑みを返してくれる。

「はいっ! お粗末さまですー」

 慣れた手つきで皿を下げ、台所へ消えていく小町ちゃんを見送る。
 わたしより少し前に食べ終わった先輩は炬燵に身体を隠してうとうとしていた。

 そろーっと忍び足で近づく。

「わっ!」
「うおっ……おぉ。まじびびった……やめろよ、心臓止まるかと思ったわ」


 眠たそうな眼でじとーっと睨まれてしまった。
 そんな顔も愛しいと思ってしまう自分にはほとほと呆れてしまう。
 しずしずと炬燵に滑り込み、テーブルに上半身を乗せると眠気が襲ってきた。

 沈黙。
 いつもなら無理にでも追いやってしまうこの空間も今なら心地よく思える。
 少しだけ先輩との距離が近づいたから。
 少しだけ先輩のことを知れたから。

〝俺は、お前のことが知りたい〟

 熱い想いが乗せられた言葉はわたしの耳をくすぐる。
 不器用で、無愛想で。
 そんな先輩の心根にはいまだ深く恐怖が根づいているのだろう。
 壊したくない。
 失いたくない。

 でも、だからこそ疑問がわいてくる。
 誰だって持っているその感情が人一倍強い先輩が、なぜ、わたしに面と向かって気持ちを吐露してくれたのか。

 その理由は聞かないし、言ってくれることもないのだろうけれど。
 きっとわたしとの関係もそう思ってくれていたのだと思うと素直に嬉しい。
 それなら、その想いを振り切ってぶつかってきてくれたことは凄く嬉しい。

「……先輩」

 眠気やら照れ臭さやらでとろんとした声になってしまう。

「……なんだ」

 やはり変わらず無愛想な先輩に苦笑して、ただ言いたいことを伝える。

「今日はすいませんでした……あと、ありがとでした」

 消え入りそうなほど小さい声だったが、先輩の耳にはしっかりと届いてくれたらしい。

「ほんとそれな……せっかくの土曜日になにやってんだろ俺……」
「ちょっ、そこは気にすんなって言うところじゃないんですかねー?」

 むーっと頬を膨らませて睨みつける。
 先輩は腕で目を覆っていて、頬はわずかに紅く染まっていた。
 本当、素直じゃないなぁ。
 先輩も、わたしも。

「ばか……気にしねぇ方が無理あるっつーの……」

 か細い声音で吐き出された言葉は、甘ったるい空間に溶け込む。
 そんなこと言われたら怒るに怒れない。
 これが天然のあざとさ……恐ろしい。

 しばらくまどろんでいると、小町ちゃんが歩み寄ってくる。

「お兄ちゃーん。寝るならお風呂入って部屋で寝てよー」

 腰に手を当てて、はぁっと息を吐く。
 それに従うように先輩はもぞもぞと炬燵から這い出てきた。

「はいはい……」

 気だるげに立ち上がると、ぐーっと伸びをして大きな欠伸をする。

「あ、いろはさんどうしますー?」
「へ?」

 不意に言葉をかけられ間抜けな声が出てしまった。

「どうするって……なにが?」
「よかったら泊まっていきませんか?」

 にひひっと悪戯を思いついた子供ように笑う。
 泊まって……泊まるっ!?
 え、今なんて?

 聞き間違い……?

「ほら、明日日曜日ですしー? もう遅いですしー? お兄ちゃんも送りにいけそうもないですし? あと小町的にも積もる話があるといいますか……」

 どうします? どうしますっ? もちろん泊まりますよねっ?
 と言わんばかりに詰め寄ってくる小町ちゃん。
 う、ううーん……流石に即OKってわけにはいかない。

「せ、先輩が嫌じゃなければ……」

 今はまだ大丈夫だけど、先輩がわたしを知ろうとしてくれている間は大丈夫だけど……知って改めてめんどくさいやつだと認識されたらと思うと怖い。
 なるべく本当にマイナスになりそうなことは控えたい。

 上目遣いで控えめに言うと、先輩は渋面を浮かべたまま唸る。
 やっぱりダメ、かなぁ。

「……正直、嫌だな」
「で、ですよねー」

 期待していた自分に嫌気がさす。
 先輩の一挙一動、特別なんでもない一言に舞い上がったり落ち込んだり。
 あー、めんどくさいなーわたし。

「はぁ……でも、送ってくのはもっと嫌だ。今日はもう外に出たくない。風呂入って寝る。これは決定事項だ。俺は動かない、絶対にだ」

 うっわぁ……。
 すっごいかっこよさげに言ってるけど、言ってること全然かっこよくない。
 ん?
 あれ?
 ……ってことは?

 目をぱちくりさせていると、先輩は言葉を吐き捨てて背を向ける。

「勝手にしろ。だいたい、小町が用あんなら小町の客だろ……俺の許可なんていらねぇよ」


 そのまま風呂場へと向かっていってしまった。
 まさか泊まることになるとは……。

「え、えっと……じゃあ、泊まっていこうかな……?」
「りょーかいですっ!」

 嬉しそうに口元を綻ばせる小町ちゃんを見ているとなぜだか落ち着いてくる。
 先輩のお家に泊まり……か。

「あ、そういえば小町ちゃんっ」

 ごそごそと荷物を漁り、今日のメインであるところの小町ちゃんへの合格祝いを取り出す。

「はいっ! 合格おめでとう。四月からよろしくねー?」
「わわっ、ありがとうございますーっ。こちらこそです、いろは先輩っ」

 ぺこりとお辞儀をして八重歯を見せる。
 あどけない顔は先輩が夢中になるのもしょうがないかもと頷けた。

「先輩、か……なんか実感わかないなぁ。小町ちゃんは今までと同じでいいんだよー?」

 そう返すと小町ちゃんもどこか気恥ずかしかったのか、素直に承服する。

「あ、そうです? なら、これまで通りいろはさんでいきますねっ」

 言った直後に真顔になったかと思うと、風呂場の方をちらりと確認した。
 カーペットに正座し、咳払いをする。
 真剣な面持ちを維持する小町ちゃんに、思わずこちらも居住まいを正してしまった。

「で、……ちなみにいろはさん、どこまで本気なんです? えーっと、別に疑ってるとかってわけではなくでですねー、連絡を取り始めたのも最近ですので……」

 イマイチ掴みきれていないということなのだろう。

更新完了
BB2C使いやすかった
グーグルで開くより断然まし……助かったー
外での気分更新のときはAndroid、基本はiPhoneでいくからID違うってなるけど酉つけてるから大丈夫だよね
あ、10.5巻までの既出設定で違うとこあったら言ってもらえると助かります
ここじゃ直せないんだけど

 恐る恐るといった様子の小町ちゃんに笑ってしまう。
 兄が兄なら、妹も妹だった。
 先輩のことが心配でしょうがない。
 そんな顔だ。

「そうだなー……、まあ、はっきり言っちゃうとベタ惚れしてる、かなー。あはっ」

 やっぱり口に出すのは恥ずかしい。
 真面目腐った顔を崩して、笑って誤魔化す。

 愛だの恋だの、惚れただの腫れただの。
 そんなもの幻想だと思ってた。
 ただのまやかしで、それこそ願望。
 願っても望んでも手に入らないものだと思ってた。

 それがいまやわたしの心を埋めている。
 少しでも一緒にいたいし。
 もっとよく知りたい。
 たまに見せる笑顔に胸が踊り。
 走っても走ってもなかなかつまらない距離にもどかしくなる。

 そのたびに思い知らされる。
 本当に、心奪われてしまったのだと。

 叶わないと分かっていても諦めることはできず。
 むしろ熱く高鳴っていく想い。
 それは辛くて苦いものだけれど、自分の意思で捨てることなんて出来なかった。

「初恋は甘酸っぱいって言うけど……こんなに苦いものはないね」

 たはは、と誤魔化すように笑う。
 そんなわたしを見て、小町ちゃんは胸を撫で下ろす。

「そうですかそうですかっ! ではでは、どうしましょーか。小町にできることならなんでもお手伝いしちゃいますよー!」

 きゃぴきゃぴとはしゃぐ小町ちゃん。
 この子がいれば雪ノ下先輩を超えられるだろうか。

 いや、それはやっぱり無理だろう。
 わたしが一歩踏み出すのと同じように彼女も踏み出してしまう。
 追いつけやしない。

 だから、わたしが手伝ってもらうのはわたしのことじゃない。

「あー……、わたしさ、先輩には雪ノ下先輩とくっついて欲しいんだ」
「へ?」

 どういうことなの、と視線で問い掛けられる。

「ううん、くっついて欲しくなんてない。本当はわたしが先輩とくっつきたい。でも、多分先輩が好きなのはわたしじゃないから……」

 わたしじゃきっと先輩を幸せにはできないだろうから。
 だから、手伝ってもらっても意味がない。

「そうですか……。んー、じゃあ小町はお兄ちゃんと雪乃さんがくっつくように立ち回ればいいわけですねー。……今まで通りだ。本当にいいんですね?」

 念押しにと尋ねてくる小町ちゃんに頷いて答えとする。
 いい。
 これでいいんだ。
 こうでもしないと、この片想いは終わりそうにない。

「もう、諦めはついてるんですか?」

 確信を突く台詞にどきりと心臓が跳ねる。
 ふるふると首を振って返事をする。

「ううん、全然。だから、わたしはわたしで頑張る。もし、雪ノ下先輩に追いつけそうならもっとがむしゃらになってみる……つもり」
「んー、今でも結構迫ってると思いますけど……」
「それはないよ。だって、違うもん」

 違うんだ。
 なにがと聞かれても分からない。
 けど、わたしといる先輩と奉仕部にいる先輩とじゃ明確になにかが違う。

 それだけは分かる。
 分かってしまう。

「りょーかいです。……あ、もしかして、このことお兄ちゃんにも話しました?」

 なんか最近様子がおかしかったんですよー、とにやにやする小町ちゃんは楽しそうだ。
 様子がおかしかった、か……先輩も意識してるってことかな。
 いいことなんだろうけど、これが望んでいたことなんだろうけど、それでも少し辛い。
 胸がチクリと痛む。

 自然、苦々しい顔になってしまっていた。
 それを察せられない小町ちゃんではなく、気まずそうに咳払いをする。

「あ……っと、ごめんねー。なんか自分でも気持ちの整理ができてないっていうか……」

 可愛くなくても、わたしはわたしがしたいことをする。
 そう決めたはずなのに、今じゃわたしがしたいことがなんなのかすら分からない。
 わたしは一体、なにをしたいんだろう。
 わたしは先輩になにをしてあげたいんだろう。

 ぐるぐると渦巻く感情はとてもわたしでは制御できない。
 先輩に惹かれて。
 先輩に恋して。
 先輩に近づこうとつきまとってきた。
 先輩に幸せになって欲しいと願った。

 それは本当にわたしがしたかったことなのだろうか。

 でも、もし違ったとしても、そうするべきなのかもしれない。
 世の中、やりたくなくてもやらなきゃいけないことが多過ぎる。
 やはり、世界も社会も人生もわたしに厳しいようだ。

 ――あるいはそれは、誰にだってそうなのかもしれなかった。

「どうすればいいんだろうねー……。最近、自分で自分がわかんないや」

 はぁーあ、と肩を落とす。
 恋愛に正しい結論なんてない。
 自分で言った言葉ではあったけど、これほど無責任なものもない。

 明確な答えがあれば、諦めるかどうか踏ん切りもつく。
 こうやっていつまでもだらだらと先延ばしにして、優柔不断でいる必要もなくなる。

 結局、今の現状もわたしの弱さが招いているものだった。
 壊したくない、そばにいたい。
 嘘を吐いて、逃げ場を作って。
 どっちつかずの立場で。

 隠して。
 偽って。
 嘯いて。

 いつまでも、変わらない。
 それじゃあ、いつまでたっても、変わらない。

 先輩はやっぱり凄いなぁ……。
 怖かっただろう。
 今を変えるっていうのは、そういうことだ。

 なにかを失わずして、なにかを変えることはできない。
 だからきっと、このまま変え続ければなにかを失ってしまうのだろう。

 それはそのまま、なにも変えなければなにも失わなくてすむように聞こえるけれど、それは違う。
 先輩は分かっていた。
 なにも変えなくても、知らないままでいても。
 いつかは失われてしまうということを。

 変えなければ失わなくて済むだなんて、そんなのは詭弁だ。
 超理論もほどほどにしといた方がいい。
 逆説的に言ったってそんなものはおかしい。
 恋愛と数学は違う。
 現実で対偶の真偽が一致することなんて稀なのだから。


 そういう点で葉山先輩はまちがっているのかもしれない。
 いや、まちがっているのではなく、ただ違うのだ。
 先輩とは対極に位置する存在。

 民主的で協調性があって一般論を振りかざし、甘言で惑わす。
 どこまでも甘く、どこまでも優しい。
 変わらないままじゃどうにもならないこともあると、どこかで気づいているはずなのに。
 現状維持に努めて場を取りもつ。
 だから、好かれる。

 それは悪いことじゃない。
 社会に適応するというのはそういうことだ。
 みんなと一緒に諍いなく青春を謳歌する。
 きっとそれは素晴らしい。
 輝かしくて称賛に値する。
 でもどこか嘘くさい。

 感動的で情熱的な青春ドラマ。
 輝く光はスポットライト、雲一つない青空は狙いすましたタイミング、涙とともに降りしきる雨は電動ポンプで、舞い散る桜は紙吹雪なのだ。

 先輩の言を借りると、そんな関係は偽物に違いない。
 涙はたやすく引っ込むし、キスに感情は込もってない。

 舞台も役者も機材も全て揃えて、失敗してもリテイクできる壊れない関係を望む。
 そして葉山先輩は、それを壊さないためにどこかで犠牲になっている人がいるということも知っている。

 裏方で必死に立ち回る人は与えられた仕事をこなしているだけだと言い張る。
 けれど、誰よりも傷つき誰よりも失ってきたその人の姿を見て痛ましく思う人間はわたしだけではない。

 わたしはどうすればいいんだろう。
 どうすれば先輩の傷つく姿を見なくて済むのだろう。

 先輩は変わった。
 でも、変わったのは先輩の心持ちだけで本質的にはなにも変わっていない。
 いつか、きっとまた、まるでそれが義務かのように誰かの犠牲になる。
 望まずとも願わずとも、先輩はそれしか知らないから。

「ほえー……」

 うんうんと思索にふけていると、不意に感嘆とも驚嘆とも言えないどこか抜けた声が聞こえた。
 ふ、と首を動かし声の主に顔を向けると、ぱっちりと目が合って小町ちゃんはにやけ面を晒す。

「な、なにー?」

 なんだか嫌な予感がして声が上擦ってしまう。

「いやいやぁ、ほんとにお兄ちゃんのこと好きなんだなぁと思いましてっ!」

 きゃるるんっとあざと可愛い笑顔を振り撒く。
 本意かはわからない。
 しかし、先輩を心配する気持ちに偽りはないだろう。

「まあねー……それは、そうなんだけどさ」

 肯定すると小町ちゃんはおおーっと大袈裟に驚き、きゃあーと純真無垢な乙女さながらに顔を手で覆う。

「そ、そうなんですねーっ」

 紅潮した頬をぱたぱたと仰ぎ出す始末。
 忙しなくそんな動作を繰り返されるとこっちまで恥ずかしくなってくる。

「なんで小町ちゃんがそんなに照れてるの……」
「いやー。結衣さんも雪乃さんもあんまりはっきり言わない人ですから、そう真剣な顔ではっきり肯定されますと、嬉しいやらなにやらで……小町、感激です」

 冗談めかしてよよと泣き伏す。
 ふーん、雪ノ下先輩はまあ分かるけど、結衣先輩もそんな感じだったんだ。
 あー、でも、結衣先輩もなんだかんだ乙女なところあるからなぁ。
 改めて考えてみると、納得できる点はそこかしこに見られる。

「小町ちゃんにはっきり言っても先輩との関係がどうこうなるわけじゃないからねー。隠す必要もないし、隠したところでこれだけアピールしてれば女の子なら気づくでしょー?」

 むしろ小町ちゃんに話すことでプラスになるまでありそうだ。
 お家での態度はどうかーとか、なにか言ってなかったかーとか。
 そんな情報も小町ちゃんがいれば手に入る。
 そこからなにかを窺い知れることもないことはないだろうし。

 しかし、なんか言外に先輩が鈍いというような言い回しになってしまった。
 間違いでもないんだろうけど、臆病だから察しはいいんだよなぁ。

「ふむふむ、確かに。小町的にも開き直ってもらった方が手伝いやすいですっ!」

 ぱあっと輝かんばかりの笑みを向けられる。
 まぶしい……。
 まぶしいのになんか瞳の奥に黒いものが見えた気がした。
 気のせいだと思いたい。

 そんな隠されたなにかを頭の片隅においやり、ガールズトークを繰り広げる。
 楽しい時間はあっという間だ。
 家への連絡も済まし、あとはくつろぐだけだーなんて無遠慮なことを思っていると、いつのまにか先輩はお風呂から上がっていた。
 コーヒーを淹れて炬燵に戻ってくる。

「あれ? 寝るんじゃなかったんですかー?」

 落ち着いた雰囲気でコーヒーを飲み、つまんなそうにテレビをぼんやりと眺める先輩に尋ねる。

「……風呂入ったら目ぇ覚めたわ。つーか、もう寝たし……ここで寝るのはなんか負けた気がする」


 そう答えた先輩の目元は確かに入る前よりはすっきりしていた。
 眠そうな気配は微塵もない。
 頬はお風呂上がりだからか朱色に染まっていて、わたしの記憶の中にまた先輩の新しい顔が刻まれる。
 しかし、不機嫌そうな面持ちはやはりいつも通りな先輩だった。

「なんですかそれ……一体なにと戦ってるんですか。キモいです」

 身体を倒して先輩から距離を取る。
 先輩がいつも通りだからわたしもいつも通りになれる。

 もう心配することはない。
 そりゃあ急激に距離を詰めようとすれば先輩はあからさまに避けようとしてくるんだろうけど、そんなことはしないから大丈夫だ。

 先輩つまなそーだなーとか、先輩嫌なのかなーとか、あーだこーだとこの分かり辛い先輩の気持ちを探る必要はもうない。
 たったそれだけのことだけれど。
 それだけのことがわたしの心を満たす。

「いろはさーん。気持ち悪いお兄ちゃんなんか放っておいていいので、お風呂どーぞー! 着替えはあとで持っていきますねー」
「ね、ねぇ小町さん……? ちょっとお兄ちゃんに冷たすぎじゃない? お兄ちゃん泣いちゃうよ?」

 小町ちゃんの辛辣な言葉に反応して、おうおうとうめき声を発する。
 そんな先輩を一瞥して、特に声をかけることもなく立ち上がった。

「……え? なに今の、なんで汚物を見るような目で見られたの俺」
「あはっ、やだなー先輩。そんなの決まってるじゃないですかー」

 言葉を区切ると、先輩には先に続く言葉が予想できなかったらしく首を傾げる。

「汚物を見たからですよっ」
「おいやめろ、そういうことを言うんじゃない。なんかもう直接的に言わないところに悪意感じるし、お前俺のこと嫌い過ぎだろ……。もう早く風呂入ってこい……お前がいると俺にダメージしかない」

 うなだれる先輩を流し見て、お言葉に甘えてお風呂場へ向かおうと一歩踏み出した。
 そこでふと気づき、んーと考えてみるが考えてもよくわからないことだったので直接聞いてみる。

「小町ちゃん先に入らなくていーの?」

 いきなり声をかけたためか、きょとんとした表情になる。
 それも一瞬で終わり、即座に胸の前でぶんぶんと手を振って言う。

「あ、小町はもう入ったので大丈夫ですよっ! んんっ、よくよく考えればお兄ちゃんより先に入ってもらうべきでしたかねー……お兄ちゃんの浸かったあとのお湯に浸かるとかちょっと……。どうします? 貯め直しましょうか?」

 おぉ……この子今さらっと凄い酷いこと言ったな……。

 先輩の浸かったあと……あぅぅ、考えたら顔が熱くなってきた。
 そういうこと一々言わなくていいのにっ。

 一回意識すると忘れ去るのはなかなか難しい。
 ほんとに貯め直してもらうか、シャワーにしようかなんて考えが浮かんでくる。
 でも、流石にそんなことはできない。

「あははー、流石に悪いからいいよー。我慢するっ」
「おい……我慢ってなんだよ。さっきからお前ら、俺を貶すなら他所でやってくれませんかねー」

 先輩はもう諦めたのか、テレビに目を向けたまま適当な口調で答える。
 それは今回に限ってはよかった。
 絶賛赤面中のところを見られるわけにはいかないから。

 先輩が振り向いたらわたしは背を向けながら喋らなきゃならない、でもそれは相当嫌なやつだ。

 ほっと息を吐くと、白い影が視界の端に映った。
 のそのそと歩いていき、先輩の背中にがたいのいい身体をすり寄せる。
 その行動は可愛らしい。
 可愛らしいけど、タイミングを考えて欲しかった……。

 白い影――カマクラに反応して先輩が振り向く。
 名前は小町ちゃんに聞いた。
 いや、名前なんて今はどうでもいいっ。
 一瞬の出来事に反応することも出来ず、ひょいっとカマクラを持ち上げた先輩とばっちり目が合う。

「……は? なんでそんな顔赤いのお前……」

 慌ててふいっと目を背けたけど、もう遅いし横を向いた程度じゃ隠せない。
 ど、どうしよう……。
 やばいやばいやばい。
 見られた、完全に見られた。
 今、顔が赤くなる理由なんて一つしかない。

 当然、先輩がそれに気づかないわけもなかった。
 しばらく呆然としていたかと思うと、わたしと同じように顔を背ける。

「あ、あー……なんつーか、その、意外だな。お前そういうの気にするタイプだったか?」

 ちょっ、そこは話題そらしましょうよ……。
 なんでわざわざ気まずい話題振るんですかー……。

「え、えーっと、まあ、わたしも女の子ですからねー? それに流石のわたしもこんな状況は初めてなわけで……」

 間接キスだってそんなしたことなかったのに、こんなの経験あるわけがないっていう。
 よく思い返してみれば意識して間接キスしたのも先輩が初めてな気がする……なんかそこらへんの男子とか、ちょっと、その、生理的に無理だし。


 ああっ、なんでこんなこと思い返しちゃったんだろ。
 ますます顔が熱い。
 ど、どうすればっ……と視線を泳がせていると、先輩がまたも口を開く。

「えー……、あー……、そうなんだな。いや、普通そうなのか。まあ、普通とか分からんけど……」

 なんだかどんどん居た堪れない気持ちになってきた。
 心臓がうるさい。
 ぶんぶんと恥ずかしさを紛らわすように首を振る。

「え、えっと、では、入ってきますっ!」

 口早に告げてその場を去った。
 脱衣所兼、洗面所に飛び込み、胸を押さえる。
 鼓動が荒い。
 脈の速い人用のペースメーカーも開発してくれないだろうか。
 先輩といると不整脈になる。

「すぅー……、はぁー……」

 ゆっくりと深い深呼吸をし、浴室の扉に目をやる。
 落ち着き始めた鼓動はまたも警鐘を鳴らす。
 これ大丈夫かな。
 倒れたり……しないよね。

 中に誰がいるわけでもないのにどくんどくんとやかましく音を荒げる心臓。
 あー、もー、なに考えてんだろ……。
 無心だ、無心になれ。

 半ば強制的に恥ずかしい思念を吹き飛ばす。
 いやー、吹き飛んでないなー、これ。
 全然吹き飛んでないのを自覚しながらも、覚悟を決めた。

 するすると衣服を脱ぎ、下着に手をかけたところでさっきまでの思念を本当に吹き飛ばす重大な事案が発覚する。

 し、下着……どうしよ。

 え、え、ほんとにどうしよ……。
 一回脱いだのをもう一回?
 な、なんか嫌だし、先輩にそういう目で見られるのはキツい。
 い、いや、先輩に限ってそれはないと思うけど……でも、やっぱりやだ。

 小町ちゃんのー……は、流石にキツいか。
 着替えは用意してくれるって言ってたけど……。
 もういいや、入ってから考えよう。
 思考停止。
 考えること多過ぎて疲れてきた……。

 さっさと下着を脱ぎ、浴室へと足を踏み入れる。
 んー、うちとそんなに変わらないかなー?
 しばらくきょろきょろと見回すが、特に目立つものはない。
 さっさと身体と髪を洗って、改めて最初の難関へと意識を向けた。

「うぅ……」

 なるべく意識しないようにー、なんて思ってる時点で過剰に意識しちゃってるわけで。
 そろそろと足をつけるとちゃぷっと申し訳なさそうな小さい音が響く。

 ええいっ、もうどうにでもなれっ。
 ずぶっと一気に足を突っ込み、その流れのままもう片方の足も入れる。
 勢いよくしゃがむとばしゃんっと激しく水飛沫が散った。

 あううぅぁ……は、は、恥ずかしいっ。
 先輩が見てるわけでも、ましてこの場にいるわけでもないのに顔を覆ってしまう。
 おっと……これは予想以上に恥ずかしいぞー……。

 耳まで熱を持ち、顔から湯気が出ている気さえする。
 せ、先輩が浸かったお湯……。
 払拭するように手でお湯を掬い肩にかけるが、温もりがなんか変な妄想を加速させようとしてきて逆効果だった。

 頭を浴槽の淵に乗せて天井をぽーっと眺める。
 無機質な天井には水滴が張り付いていて、なんか落ちて来そうだなー、とか考えると幾らか落ち着けた。

「ふぅ……」

 漏らした吐息は湯気に紛れる。
 静けさが包み込む空間。
 先輩の顔がぼんやりと浮かんできて再び顔が熱くなりそうになるが、それは声によって静止された。

「いろはさーん。着替え、ここに置いときますねー!」
「あっ、うん。ありがとー」

 遠ざかっていく足音。
 あ、下着相談すればよかった。
 相談したところでどうにかなるとも思えないけど……。

 いやぁ、本当にどうしよっかなー。
 最悪ノーパンノーブラだよね……。
 ブラは寝るときつけないからまあいいとして、問題は下。
 先輩の家で穿かずに一夜を過ごす……とか、なにそれなんか悪い予感しかしない。

 だいたい、そうなると帰るときも穿かずに帰らなきゃだよなぁ。
 それは流石に女子高生のすることじゃないんじゃないだろうか。
 ていうかスカートだし……絶対無理。

 あー、どうしよー。

「ふわぁぁ……」

 なんか眠いし……欠伸が止まらない。
 このままじゃ寝ちゃいそうだ。
 ……先輩に救出されて裸見られるところまで見えた。
 なんにも打開策は浮かび上がってないけど、もう上がろう。

 さっさと浴槽から出て扉を開くと入り口付近にタオルが置いてあったので、それで身体を拭く。

 髪の水気を拭き取りつつ着替えを探すと、それらしきものが一式纏まっていた。
 男モノのジャージ上下とティーシャツ。

「……あ」

 そうか、そうなるのか。
 小町ちゃんのが入らないとなれば、着替えだって先輩のを借りるしかない。

 先輩のを……直で。
 変な汗が滲んでくる。
 泊まるとか簡単に決めるべきじゃなかった……。

 どうしたものかと考えているうちにも身体は冷えていく。
 しょ、しょうがない……家に帰るまではこれで過ごして、また後日返そう。
 だ、だいたい洗ってあるんだからそこまで気にすることじゃないし。

 言い訳に言い訳を重ね、自分の気持ちを誤魔化して服に袖を通す。
 平静を装ってリビングに戻ると、そこには小町ちゃんの姿はなく、先輩だけがテレビを眺めていた。

「あれ? 小町ちゃんどうしたんですかー?」

 先輩の視界に入るように身体を傾け、意識をこちらに向けさせる。

「ん、あぁ、先に寝てるってよ。布団は小町の部屋に敷いておくだと」
「ははぁ……早寝さんなんですねー。結構夜更かしとかしそうなのに」

 へーとかほーとか言いながら炬燵に入り、テーブルに頬杖をつく。
 なんだかドラマを見てるようだ。
 わたしは特に見てないやつだったため、内容に興味がわかない。

「あー……、妙なとこで気遣うからな、あいつ。受験も終わったし、いつもなら起きてる」
「んんー?」

 一瞬、その言葉の意味するところがわからず首を傾げて先輩を見る。

 すると先輩もこっちを見ていたらしく目が合った。

 二人きり。
 泣いているわたしを探してくれた先輩。
 先輩の服を借りているわたし。
 かあぁっと顔が熱を帯びる。

「……あ、そ、そういうことですか……」

 思わず目を逸らし、膝に両手を乗せて縮こまってしまった。
 ん、と短い返事をした先輩の顔をちらりと窺う。
 先輩の頬もほのかに赤みを帯びていて、少し笑みが零れた。

 先輩は誤魔化すようにコップを持って立ち上がる。
 もう行っちゃうのかなー……。
 その背中を眺めていると先輩は一歩を踏み出した姿勢で動きを止めた。
 不思議に思い、そのままじっと見つめる。
 小さなため息とともに先輩の声が耳に届いた。

「……コーヒー、飲むか?」
「……っ! はいっ」

 不意打ちは反則だ。
 喜びに打ち震えそうになる。

 台所の奥へと消えていく先輩の姿を確認し、ドラマをぼんやりと見る。

 どうやらラブストーリーらしい。
 純愛なのか大人の恋なのか青春なのかは前後の繋がりを知らないために分からない。

 ヒロインを探して雨の中を駆け回る主人公。
 空を仰ぎ、主人公の名をつぶやきながら涙を流すヒロイン。
 クライマックスっぽい雰囲気が漂っていた。

 すれ違いでもあったのか、それとも浮気現場でも見たのか。
 どうでもいいけど、どちらにせよ……めんどくさい女だ。

 どうせ優しくてかっこいい主人公なんだろう。

 それならそんな中途半端に逃げて見つけてもらうのを待つより、会いに行った方が潔くていい。
 見ててむかつくことしかない。
 何ヶ月か前の自分を見ているようだった。

 いや、もしかしたら今日の自分はまさにこんな感じだったのかもしれない。
 心のどこかで見つけて欲しいと願っていたのかもしれない。

 それは……ないか。
 実際見つかったとき絶望感しかなかったし。
 本当、怖かったぁ……。

 それでもどこか既視感を感じる。
 なんだろうか……どこかで見た光景。
 わたしはこのヒロインを知っている気がする。

 そのままぼーっと成り行きを見守っていると、主人公がとうとうヒロインを見つけたというところでコトッという音がする。
 見れば先輩がコップをテーブルに置いて、炬燵に身を埋めようとしていた。
 コップからは湯気が立ち昇り、コーヒーの薫りが鼻腔をくすぐる。

「あ、ありがとうございますー」

 軽くお礼を言って、コーヒーを啜りながら画面へと視線を戻す。

 なにやら薄ら寒いセリフを言う主人公。
 イケメンならなに言ってもいいと思うなよ……。
 この流れだとこの後はラブシーンか。

 熱い抱擁を交わす。
 しばし見つめ合い、ゆっくりと唇を重ねた。

「……嘘くさい」

 つい本音がこぼれる。
 聞こえてしまったかと先輩を見ると、やはり少し驚いた顔をしていた。

「お前でもそういうこと思うんだな……こういうの好きそうななりしてんのに」


 まあ、言われると思ってましたよ。
 そうです、そうです、どうせこういうの好きそうななりしてますよー。
 ふんっ。

「はぁ……まー、好きでしたけどね。こういう仕草とか参考になりますし」
「参考ってお前……そういう意味での好きかよ……」

 うわぁと少し引いた視線を向けてくる。
 ひっどいなぁ……傷ついちゃうなぁ……。
 まあ、今更なんだけど。

「ストーリー自体もそこそこ好きでしたよー? 憧れっていうか……」

 うーん、憧れは憧れだけど、葉山先輩のに近いかなー。
 どう説明したものかと頭を悩ませていると、先輩がふっと呆れたような短い息を吐く。

「あれだろ? 素敵な恋愛ストーリーに憧れてるわたしかわいーみたいな」
「あ、それ!」
「認めんのかよ……」

 おっとおっと、余りにもピンときたもんだからつい反応してしまった。

「こ、こほん。あー、あー……、うーん……。いや、もう、取り繕いようがないですね。諦めます」
「ええ……諦めちゃうの? まあ、言い直すタイミングも逃してたしな」
「……ちっ」

 小さい舌打ちにも目ざとく反応して眉を吊り上げる先輩。
 そういうのは聞き逃さないんだから。
 もしかしていつもは聞き逃してるフリなのかと疑ってしまいそうになる。
 この先輩に限ってそれはないか。
 聞こえてたら顔に出るし。

「ていうか、意外ですねー?」

 居心地が悪いので話題を逸らす。

「は? なにが?」
「なにがってほら、こういうの嫌いそうななりしてるじゃないですかー? 全部演技で演出で、本物の欠片もないし。超つまんなくないですかー?」

 はぁーっと退屈さを誇示するようにため息を吐く。
 返ってきた先輩の言葉は予想外なものだった。

「いや、超面白いだろこれ。俺こういうの好きだぞ? めちゃくちゃ笑えるし」
「はぁ?」

 なに笑えるって……なんかシリアス(笑)な雰囲気だったじゃん。
 収録終われば恋人関係も終わる。
 そんなの先輩だって分かってるだろうに。

「いやいや、お前よく考えてみろよ。これ撮った後とか休憩時間とかこいつらどう過ごしてると思う?」
「どうって他人になるだけじゃないんですかー?」

 答えると先輩はちっちっとむかつく仕草をする。
 なんだこれむかつくな。
 先輩にやられてるってのがよりむかつく。
 これ考えたやつ誰だよ。

「甘いな、一色。よくニュースとかでやってるだろ? 俳優の誰々さんと女優の誰々さんが交際関係にーとか、どうやら共演したドラマをきっかけにーとか、電撃破局ゥッ! とか」
「……はっ!」

 気づいた。
 気づいてしまった。
 ていうかなんで電撃破局のところだけノリノリだったし。
 そんなところで満面の笑みを拝みたくはなかった。

 い、いや、そんなことより。
 こ、この先輩――

「ふっ、分かったか。この裏で行われている昼ドラ並みにドロドロした人間関係を想像するのがこういうドラマの醍醐味だ」

 ――最低だっ!


「クズ過ぎる……。でも、考えるとなんだかわくわくしてきました。悔しいです」

 ぐぬぬっと下唇を噛みしめると、先輩は今までで一番のドヤ顔を披露する。
 あんまり自慢できる思考じゃないとおもうんだけどなー……。

 流石人生マイナス思考。
 本人は超プラス思考だと思ってるあたり救いようがない。
 つまり、救いようがないクズである。

「だろ? ラブシーン前に破局とかしてたらもう最高だよな」

 ちょっとー?
 ゴミの日いつー?
 生ゴミなのか燃えるゴミなのか絶対に萌えないゴミなのか、はたまた社会のゴミなのか分別に迷う。

 一人での外出は控えた方がいいのかもしれない。
 不法投棄とみなされかねないし。
 しょうがないからわたしが一緒にいてあげよう。

「もう先輩喋らない方がいいと思います。あ、サングラスつけるとなおよしです」
「えぇ……同意しただろ、お前」

 不満気に言い募る。

「まあ、しましたけど……。ん……そう考えると一概に嘘くさいとも言えないですねー、そのとき好き合ってたらですけど」

 本当に情熱的なキスをしてるつもりなのかもしれない。
 それならば、少しは見る価値もあるというものだ。
 しかし、先輩の意見は違うようでかぶりを振る。

「いや、嘘くさいだろ。結局、こういうのはどこまでいっても虚偽で欺瞞で生み出された娯楽に過ぎない。嘘っぱちだ」

 ふんっと嘲るように笑う。
 くだらない。
 恋も愛もそんなのは幻想だとばかりに追い払う。

「んー……、そういうもんなんですかねー?」
「じゃなきゃ、電撃破局なんてことにはならねぇだろ。演技に熱が入り過ぎて錯覚でもしちまったんじゃねぇの? プラシーボ効果と似たようなもんだろ、多分。知らねぇけど」

 まあ、それもそうか。
 でも、そうなると裏方……というか、マネージャーさんとかはより大変だろうなー。
 ご機嫌取りにオファーの選別に……売れない女優とかならネタが出来て万々歳ってところかもだけど。
 やっぱり、どこかで誰かが犠牲になる。

「わたしも……」

 無意識的につぶやいてしまう。
 それに気づいた先輩はちらりとわたしを見やる。

「わたしも、いつか本物が手に入りますかねー……」
「……さぁな。お前が言う本物ってのがどういうもんを指すのかは知らねぇけど……手に入ればいいな」
「はいー……え!?」
「なんだよ……」

 まさかそんなことを言われるとは思ってもみなかった。
 先輩って普通にそういうこと言える子だっけ?
 あぁ、でも、どうでもいい人にはそんな感じだなぁ。

「……わたしってどうでもいいですかねー」

 口を尖らせてじとっと睨む。
 そんなわたしの態度に先輩は頭にはてなマークを浮かべていた。

「は? どうしてそうなる。話飛びすぎだろ、お前」
「いや、だって、先輩ってどうでもいい人にしかそういうこと言わなくないですかー……?」

 むむむーっと眉を顰めて、かくりと頭を垂れる。
 長いため息が聞こえて顔を上げれば、心底呆れたような顔で見られた。

「お前って、重要なとこで察し悪いよな……。どうでもいいやつと本物がどうこうなんて話しねぇだろ……」

 お、おお……?
 なんか恥ずかしくなってきた。
 なに拗ねてるんだろわたし。
 先輩も先輩ではっきり言わないなぁ。

「それってつまりー……?」

 明確な言葉を催促するも、あからさまにはぐらかされてしまう。

「あー、なんの話だっけ?」
「全く……捻デレさんですねー」
「それやめろ」

 くわっと怒気を表す。
 どうでもいいけど、捻デレとかちょっと的確過ぎて笑える。
 捻デレ選手権とかあったら先輩単独優勝するレベル。
 なんなら世界選手権優勝まである。
 小町ちゃんナイス造語。

「つかぬことをお聞きしますが、先輩」
「なんだ改まって……気持ち悪い」
「き、きもっ……ひっど」

 なにこの人ちょっと酷過ぎじゃない?
 絶対わたしのこと嫌いでしょ。
 もはやわたしを中心に世界を憎んでるまであるよ。
 なんかわたしが中心なら許してしまえそうで怖い……わたしこの人好き過ぎでしょ。

「先輩わたしのこと絶対嫌いですよねー……」

今日休みなんで気分更新

 もう睨むのも億劫なので、遠い目でぽーっと虚空を見つめながら問う。

「いや、別に」

 いつのまにか本を読み出している先輩はさして興味もなさそうに返答する。

 ていうかマジでいつ本出したし。
 数十分前から読んでますっくらいに馴染んでるけど、数秒前には読んでなかったじゃん。
 読んでなかった……よね?
 違和感がなさ過ぎてなんだか心配になってくる。

「へー。あ、じゃあ、好きです?」
「いや、全然?」
「うっわー……、そこだけちゃんと返答するとか本当性格悪いですね……」

 おい、そのいい笑顔やめろ。
 ちょっとかっこいいとか思っちゃったでしょうが。
 なんかだんだん扱いが雑になってきてる気がする。
 気を許し始めてるのか、ただ慣れただけなのか。
 前者だと思っておこう。

「じゃあ、なんなんですー?」

 ひくひくと口元が吊りあがるが、なるべく笑顔を維持して尋ねる。

「ん、あー……。これといって特にあるわけでもないが……強いて言うなら、苦手?」
「ほう……なんかしっくりきちゃって反応に困りますね」

 苦手、苦手か……。
 まあ、そうだろう。
 先輩とわたしなんて本来なら関わることもないはずだったし。
 きっと奉仕部に行かなければ話すこともなかっただろう。

「苦手ですかぁ……なんかわたしも先輩そんな感じかもです。これ、苦手だからって仲良くなりたくないわけじゃないってのが面倒ですよねー……」


 なんなら好きだしね。
 でも、やっぱり先輩は苦手だ。
 だって、全然落とせる気がしないんだもん。

「あー、それある。めっちゃあるわー」
「うわー、適当だなー」

 なんか戸部先輩の影が見えた。
 あの人、あるとだべだけで会話してそうだな。
 かーっ、それあるわーっ!
 っべー。隼人くんまじ、やっべーっ!
 みたいな。
 複合版で、だべ? それあるべ? とかも言ってそうだ。

 なにこれ、全然意味分かんないんだけど。
 付属語なの?
 一体そこになにがあるの?
 ひとつなぎの大秘宝?
 まあ、でも、都合のいい男は嫌いじゃないです。
 ああ、ありますよねー、にぱーってしとけばなんとなる。

 はぁーあと仰向けになると、先輩は流石に悪いと思ったのかがしがしと頭をかきながら言い直す。

「あー……、まあ、分かるな。お互い内面を少しでも知っちゃうと尚更な……」
「ですねー……。案外気が合うかも? とか考えちゃうんですよねー」

 わたしにとって先輩は案外、なんてレベルじゃなかったけど。
 でも、少しだけでも先輩がわたしと同じ気持ちを抱いているのが分かって嬉しくなる。
 我ながら単純だなぁ。

「まあ、俺ほどになると、勘違いしないためにも今後一切会話しないけどな」
「うっわ……」

 ほんとダメだなこの人……。
 だめんずってやつだ。
 わたしがだめんず・うぉ~か~を名乗る日も近いかもしれない。
 

「でもわたしとは会話してくれるんですねー?」

 にやにやと意地の悪い笑みを浮かべて聞く。

「まあ、義務だからな」
「義務って……」

 なんか期待した答えと違う。
 もっとキョドッて欲しかった。

「それはそうと先輩。雪ノ下先輩とはどうですかー? なんか進展ありました?」
「なんか進展があったように見えるか?」
「全っ然見えませんねー」

 毎日のように奉仕部に顔を出しているが、どう見ても先輩と雪ノ下先輩の距離感は変わってない。
 やる気なさそうだなー。
 まあ、ないよなー……。

 ふむむ、と策を考えているとどうにもうつらうつらとしてくる。
 欠伸が漏れ、先輩と目が合い、つい逸らす。
 隣から聞こえてきた欠伸に釣られてまた大口を開けてしまう。

 眠いなぁ……今日結構寝たはずなんだけど……。
 お蕎麦屋さんを出たのが午後二時前。
 最後に見たのが公園の時計で、そのとき三時過ぎ。
 起きたのが六時頃だったから三時間は寝た計算になる。

 やっぱり走ったのが原因かなぁ。
 荷物重かったし、あと泣き疲れたのもあるかもしれない。
 先輩といるせいでドキドキするのもプラスに眠気補正がかかってそうだ。

 そんなどうでもいい思索にふけっていると、わたしの意識は徐々に遠ざかっていった。

  ****

 ガソゴソという物音に反応して目が覚める。
 キィっとリビングに繋がるドアを開ける音が耳に届き、次いで聞こえてきた声に思わず寝たふりをしてしまった。


「――はぁ、疲れた……って、あんたまだ起きてたの?」

 なんだか物凄く疲れを纏った声音だった。
 寝たい、帰りたい、動きたくない。
 どこかの先輩を彷彿とさせる三大欲求を察せられる声の主。
 しかし、先輩とは違う女らしい声色。

「ん、ああ……母ちゃん。おかえり」

 薄々分かってはいたが、やはり先輩のお母さんだったらしい。
 血は争えないとはこのことだろうか。
 妙に納得してしまう。

 そうなると小町ちゃんはお父さんに似たのかと思われる。
 が、先輩の小言を聞いていた限りそういうわけでもないのだろう。

 小町ちゃんとは一体……。
 突然変異?
 この家で宝物のように扱われる理由の片鱗を垣間見た気がした。

「ただいま。はぁ、明日休みだからってこんな時間まで……ん? その子……誰? まさか八幡、あんた……」

 声を震わせる。
 どうやら盛大な勘違いをしているようだった。
 まあ、先輩だからね。
 その気持ちはお察しいたします。
 でも、通報はしないであげてください。

「違ぇっ! 違ぇから携帯しまえっ! ……ただの後輩だよ。んで、小町の先輩」

 迷わず携帯をとりだしているあたり、先輩のヒエラルキーは相当低いようだ。
 家族からも信頼されてないなんて……先輩かわいそ過ぎる。

 しょうがない、わたしは信頼してあげ……いや、やっぱそれはちょっと厳しいかなー。
 先輩を信頼とか流石のわたしでも無理があった。

 信用貸しとか友達間の貸し借りと同じくらい信じられない。

「へー……小町の先輩、ねぇ」
「いや、なんでそこだけ抜き取ったし。まず大前提で俺の後輩だからね……?」
「はっ、あんたに後輩がいるわけないでしょうが。寝言は寝て言え。ふぁあ……母さんもう寝るから、あんたもさっさと寝なさい……」

 なんかかわいそうになってきた。
 あっれー?
 家族……だよね?
 本当に家族だよね?
 家族間の会話ってこんな冷めてるもんなの?

「いや、だから……こいつが寝ちゃってるから寝るに寝らんねぇんだよ。こんなとこで寝かしといたら風邪引くだろうが」

 あぁ、すいません……起きてます。
 起きるタイミング逃して固まってます。

「へ……? あんたそんな気遣いできたの?」
「……なんかさっきから酷くないですか? 俺、息子だよ……?」
「……?」
「いや、そこで黙るなよ……なんで考えてんだよ。息子だよ。……息子だよね?」

 しばしの沈黙。
 二人して考えないで……もうやめてあげてよ。
 先輩のライフはもうゼロだよ……。
 一緒に考えてる時点で先輩も大概だけど。

「まあ、仮にあんたが私の息子で、その子があんたの後輩? なら、あんたがベッドまで運んでやりなよ」
「は? 仮? ちょっと待て、仮って言った今?」

 言った。
 言いましたよ先輩。
 確実に。
 まあわたしが先輩の後輩って部分につけるのは分かりますが……ちょっと前半は酷じゃないですかね……。

 明日からは少し先輩に優しくしてあげよう……。

「うっさい、しつこい男は嫌われるよ。しっかし……あんたも後輩を家に連れ込むような歳かぁ……結構可愛いし、逃げられないようにしなよ」

 つ、連れ込むってそんな……。
 先輩にそんな度胸あるわけないじゃないですかー。
 小町ちゃんの命令じゃなきゃあり得ない状況ですよ。

「いや、そういうんじゃねぇから。可愛いっつったって凄えあざといしな、こいつ。……まあ、寝てる分にはいくらかマシだが」

 可愛いとか……可愛いとかっ!
 うぅ、顔赤くなってないかな……。
 先輩も寝てる分にはかっこいいですよ!
 目瞑ってるし。

「はぁ……バカだねぇ、あんた。女の子って生き物は好きなやつの前じゃ可愛くしちゃうもんだよ」

 ちょっ、ちょっ、お母さん!?
 なんか話がまずい方向に……。

「はっ、それはない。なぜなら俺に好かれる理由が一つもないからなぁっ! だいたいこいつ、大抵の男に可愛くしてるしな」

 なにそれ悲しい。
 そんな自慢気に言うことじゃないよ。
 それに先輩を好きになる理由いっぱいありますよ!
 えっと、ほら、アレとか、うん。

「確かに……」

 あ、納得しちゃうんだ……。
 ていうか心外だなぁ。
 誰にでも可愛くなんてしてないのに……最近は。
 先輩につきまとってるせいで付き合い悪いとか言われてるんですからね……。

「まあ、なんでもいいから、早く運んでやりな……おやすみ」

「おやすみ……」

 足音が遠ざかっていく。
 ど、どうしよう……起きるべき?
 いやでも、先輩に運んでもらえるチャンスとか絶対ない気がする。
 ここは……この状況に身を任せよう、かな。

 黙って狸寝入りをしていると、大きなため息とともに炬燵が捲れあがる感覚が伝わってくる。
 先輩が動き出した。

「おーい、一色ー? 一色さーん?」

 必死に呼びかけてくる声にも無反応を貫き、静かに呼吸を繰り返す。
 ようやく諦めたのか、先輩の手がわたしの肩に触れた。
 ビクリと肩を震わせてしまう。

「おぉっ……ビビった……」

 驚愕を示す声。
 やばいな……このままじゃ運んでもらえない。
 無反応無反応。
 力を抜いてリラックス。

 再び訪れる感触。
 先輩の腕がわたしの肩と膝に回され、浮遊感に襲われる。
 お、お姫様抱っこされてる……。

 やばいやばいやばいやばい。
 めっちゃやばい。
 なにがやばいって、いつも自分から絶対に触れてこない先輩がわたしの身体を抱えてるっていうこの状況と、心臓うるさ過ぎてバレてしまいそうなスリルがほんとやばい。

 緊張で身体を硬直させていると、するりとジャージが滑り落ちるのが分かった。
 ん……?
 んんっ!?
 チャック閉めてなかった……。

 重力に従って身体に張り付くティーシャツ。
 浮かび上がる身体のライン。

 そしてノーブラ。
 とどめとばかりに足を止める先輩。

 う、うわぁぁあっ!!
 超視線感じる。
 見られてる……見られてるよぉ……。
 人が寝てるのをいいことにじっくり見ないでください……。
 お嫁にいけない。

 軽い咳払いとともに再び動き出す先輩。
 がちゃりとドアを開ける音。
 そろーっと忍び足で入っていくことから、おそらく小町ちゃんの部屋だろう。
 そこで先輩は驚愕の一言を漏らす。

「……布団なんて敷いてねぇじゃねぇか……」

 えぇっ!?
 敷いてないのっ!?
 小町ちゃん!?
 ど、どうするんだろう……先輩。

 ゆっくりと方向転換していく。
 どうやら小町ちゃんの部屋は諦めたようだ。
 と、ということは……?

 再びドアを開ける音がする。
 先ほどとは違い、勝手知ったる様子でずけずけと入り込んでいく。
 先輩の部屋……なのかな。

 ふっと、降下する感覚にぎゅっと先輩のシャツを握りしめてしまう。
 間もなく柔らかいものが背中に当たる。
 ベッドに降ろされたのだろう。
 ……まだ離れたくない。
 自然と握りしめる力が強くなる。

 わたしが掴んでることに気づいてなかったのか、先輩はそのまま身体を起こそうとした。
 そうなれば当然、いきなり身体が引っ張られたように先輩はベッドに倒れこむ。

「うおっ」

 なにやってるんだろわたし……。
 せ、先輩が近い……。
 吐息が耳に当たる。
 こ、これは我慢出来ない。


「んっ……んん? せ、先輩……?」

 耳をくすぐる息に変な声が出てしまう。
 たった今起きましたー。
 なんですかこの状況ー。
 みたいな白々しい態度を取る。

 先輩の顔が離れた直後、くすぐったさで意識していなかった事柄に意識が向いた。

「ひゃっ……せ、せ、先輩っ! どこ触ってるんですかっ!」
「う、うわっ! 悪いっ!」

 ばっと先輩がベッドから転がり落ちると同時に、わたしの胸に乗せられていた手も離れた。

 うわー!
 うわー!
 まさかこんなことになるなんてっ!
 一色いろは一生の不覚っ!
 自分のせいだというのが分かってるために、責めるに責められない。

「うぅー……」
「い、いや、わざとじゃないっ! マジで!」

 必死に弁明する先輩。
 ま、まあ、先輩なら……。
 うあー……なに考えてるんだろ、バカだわたし。
 そのままだと土下座でもしそうな勢いだったので、ふぅーと落ち着かせるように息を吐き言葉をかける。

「せ、先輩にそんな度胸がないことくらいは分かってますよー……」
「そ、そうか……」

 ほっと胸を撫で下ろす。
 よかった。
 よかったけど、そんな簡単に引き下がられるというのもなんだか癪だった。
 熱を帯びた顔を鼻から下だけ布団で隠し、じーっと視線をやる。

「でも……責任、取ってくださいね」
「う、うん?」


 慌てふためく先輩。
 まあ、いじめるのはここら辺でいいか。
 あんまりやるとかわいそうだ。
 ついさっきお母さんにいじめられてた先輩をいじめるのは心が痛む。

「冗談です……」
「そ、そうか」
「けどっ! そこは即答しないとポイント低いですよっ!」

 ひひっと底意地の悪そうな笑みを見せる。
 苦笑する先輩。
 不意に額に手を乗せられた。
 ゆっくり撫でられる。
 先輩はわたしの方を向いておらず、あわあわと戸惑うわたしには気づいていないらしい。

「……ゆっくり休めよ」
「う……はい」

 な、なに……急に。
 どうしちゃったの……。
 しげしげと見つめていると、振り返った先輩と目が合う。
 慌てて手をどかす。

「あっ……」

 無意識に名残惜しむような声が零れる。

「わり……小町のときの癖が……」
「あぁ……」

 そういうことですか……。
 残念というかラッキーというか……なんだかなぁ。

「それじゃ……おやすみ」

 扉に向かって足を進めていく先輩。
 もうちょっと一緒にいたいです。
 なんて、そんなことを言えるはずもなく、願いを込めた視線をぶつける。
 しかし、その願いが届くことはない。

「おやすみなさい……です」

 出て行く先輩の背中にぼそりと言葉をぶつけて、毛布にくるまった。

 先輩の匂いがする。
 撫でられた額が温かい。
 まどろみを誘う暖かな空気に包まれ、わたしは再び意識を手放していった。

  ****

「ふぁ……眠い」

 窓から差し込む光に目を瞬かせる。
 ジャージに入れっぱなしだったせいか、布団の中に転がっていたケータイを開いて時刻を確認する。
 九時……か。

 もぞもぞとベッドから這い出て、ぐぅーっと伸びをする。
 なんかだるい……。
 これが日曜日の魔力……恐ろしい。

 明日からまた学校かぁー……憂鬱っ!
 なんだか変にテンションが上がってしまった。
 全く憂鬱そうじゃない。
 実際、先輩に会えるから最近楽しくてしょうがないんだけど。

 昨晩覚えされられた羞恥の念は霧散させ、きょろきょろと先輩の部屋を観察する。
 質素というか簡素というか……無味乾燥な部屋だった。
 先輩みたいだ。
 いや、先輩は割合面白いか。

 ひょいっとベッドの下を覗き込んでみる。
 男の子の部屋に来たらやってみたいことランキング、堂々一位っ!
 エロ本探し!

 先輩むっつりスケベだからなーという期待を裏切り、ベッドの下にあったのはほこりだけだった。
 つまんな。
 無味乾燥男め……。

 ちぃっと舌打ちして、部屋の中にあったパソコンに目をやる。
 変なとこでしっかりしてるからなぁ……どーせパスワードとかかけてるんだろうな。


 試すだけ無駄だ。
 あの先輩の設定しそうなパスワードなんて分かるわけない。
 ただでさえなに考えてるか分からないし。

 段々と目が冴えてきた。
 ふふーんと軽く鼻歌を歌いながらリビングへと向かう。
 リビングのドアを開くと、ふわっといい匂いが鼻を突く。
 誰かが料理をしているようだ。

 小町ちゃんかなー?
 と思ったが、小町ちゃんも先輩もソファでくつろいでいる。

「おはようございます、先輩」
「ん」

 素っ気ない返事に苦笑しつつ、小町ちゃんに顔を向ける。

「小町ちゃんもおはよー」
「いろはさん、おはよーですっ!」

 キラリと光る八重歯は元気一杯な感じが伝わってきて癒される。
 小町ちゃんマジ天使。

 しかし、一体誰が……。
 予想しながら足を進めると台所から顔を見せたのは知らない顔だった。

「あら、おはよう。よく寝れた?」

 顔は知らないけど、この声には覚えがある。
 先輩のお母さんだ。

「えっ、あ、はいっ。おかげさまで。え、と……一色いろはと言いますっ! 突然お邪魔してしまってすいません」

 ぺこりとお辞儀をして、はにかむ。
 まさかこんなタイミングでご対面するとは……。
 日曜日は寝てるって聞いてたんだけどなぁ……。
 ラスボスが勇者を待ちきれずに街まで襲ってくるみたいな理不尽さだった。
 

 レベルなんて上げさせねぇってか。

「あははっ、そんな畏まらなくていいんだよ? バカ息子がいつもお世話になってるし。これからもよろしくね」

 気さくな雰囲気だ。
 しかし、その目に深く刻まれた隈がわたしに追い打ちをかけてくる。
 あぁ……わたしが来たせいで気を遣わせてしまったんだろうか。
 悪いことしたなぁ……。

「いえっ、むしろわたしの方が先輩にはお世話になってると言いますか……」

 ちらっとソファにふんぞりかえる先輩の様子を窺うと、どうにも居心地の悪そうな顔をしていた。
 小町ちゃんはものっすごいにやけている。
 ちょっと!
 教えてくれてもいいじゃん!
 わたしにだって準備ってものが……まだ顔も洗ってないし。

「へー、あんたがお世話ねぇ……?」
「別になんもしてねぇよ……うぜぇ……。なんで起きてくんだよ、眠いなら寝とけよ」

 はぁーっと深いため息を吐き、頭を抱える。
 その言葉からして、やはりいつもは寝ているようだ。

「あ、すいません……気を遣ってもらったようで……」
「んー、いいのいいのー」

 ご機嫌で台所へと戻っていくが、セリフはまだ終わってなかったらしい。

「ばっかだねぇ、あんた。息子が女連れて来たのに寝てられるわけないでしょ? まあ、お父さんは堂々寝てるけど……起こしてこようか?」
「おい、その言い方やめろ。誤解しちゃうだろ。あと親父を起こすのも絶対やめろ。一色見たら、めちゃくちゃ責め立てられそうだろ……俺が」

 なにそれどういうことなの……。

 不思議に思い、視線で説明を求める。
 その視線に気づいたのか、先輩はぽりぽりと頭をかいて説明を始める。

「あー……、なんつーか、お前アレだろ? だから……親父が嫉妬すんだよ……」
「はい?」

 アレってなに……。
 アレじゃ伝わらないことだって一杯ありますよ。
 というか、大抵のことは伝わりませんよ。
 そんな先輩の言葉を代弁するように小町ちゃんが口を開く。

「ほんとお兄ちゃんは捻デレさんだなぁー。可愛いって素直に言えばいいのに」

 うりうりと先輩の脇をつつく。

「う……うぜぇ……」
「か、可愛いですか……?」

 なんだかもう一回聞いてみたくなって、つい聞き返してしまう。

「あー……まあ、一般的に見りゃ、か、可愛い方なんじゃねぇーの? 知らねぇけど……」
「うわっ、捻デレさんですねー」

 からかうようにそう告げると、先輩はまたも「うぜぇ……」と言葉を漏らす。
 先輩のうぜぇには照れが混じってるときがあると確信した瞬間だった。
 なんか、かわいい。
 先輩の口から可愛いを絞り出せたので、わたしはもう満腹です。

 洗面所に行って顔を洗い、戻ってくると既に朝食は用意されていた。
 もぐもぐと中々なお手前の食事に舌鼓を打つ。
 最中にお母さんがひっきりなしに先輩との関係について探ってきたので、少し参ってしまった。

「じゃ、聞きたいことも聞いたし、私は寝るわー。いろはちゃん、くつろいでってねー。なんならそこのバカ兄妹外に連れ出していいからー」


 背を向けたままひらひらと手を振り、寝室と思わしき部屋に消えていくお母さんを苦笑しつつ見送る。

 パタンとドアの閉まる音。
 しーんと静まり返るリビング。
 少しの間を置いて、三つの口からはぁーっとため息が漏れた。
 わたしを含めた、そのため息の主は顔を見合わせて各々の持つ表情で笑う。

「さって……わたしも帰りますか」

 一息吐き、つぶやく。
 またしても静まるリビング。
 なにごとだと二人の顔を見やると、なにか変なものでも見るような目を向けられていた。

「え……なに? なんですか?」

 不躾な視線に耐えきれず問う。

「い、いや、お前のことだからまた外に連れ出されるもんだと思ってたわ……」

 賛同するようにうんうんと頷く小町ちゃん。
 んー……、そうか、いつもならそうなのかわたし。
 今日に限ってはそういう気分でもないんだけど。

「あー、いや、昨日の今日で連れ出すのも申し訳ないかなー? みたいなですねー?」

 苦し紛れに吐いたセリフに先輩は眉を顰める。
 本当のことを言えと脅されている気分だ。
 きゃー、わたしのことなんてなんでもお見通しなんですねー。
 と、ふざける雰囲気でもない。

「なんか三千円置いてありますし、小町達も暗に出てけと言われてるみたいなんですよねー。折角ですから、いろはさんも一緒にどうです? ていうかいつも二千円なんで、多分千円はいろはさんのご飯代です」

 言われてみれば、確かにテーブルの上にポツンと三千円が放置されていた。

 それが暗に出てけということを示していると理解できるのは、この二人だけなんだろう。
 けれど、だからこそ、そのうちの一人である小町ちゃんが言うのならそういうことなんだろうと納得できた。

「あー……、でも、なんていうかー、昨日……」

 うまく繋がらない言葉を吐き出しながら、先輩に目を向ける。
 そこで先輩もようやく分かってくれたようだった。

「あー……、お前さ、気にしすぎなんじゃねぇの? らしくねぇ……って言うのはなんか違うか。別にらしくする必要もねぇけどさ、でも、そんな怖がることもねぇだろ……別に」

 そう、怖かったのだ。
 昨日の今日だ。
 そんなすぐに忘れられるはずもない。

 いくら普段通りに振舞っても、普段通りに接せられても。
 心のどこかで嫌われてしまう可能性を考慮してしまっていた。
 心を探る必要も、心配する必要もないと分かっているはずなのに。
 こればっかりは一朝一夕でどうにかなるものじゃない。

「小町も出掛けたがってるし……。つーか、俺の吐く台詞なんかに振り回されてもしょうがねぇだろ……なんなら俺、いつも帰るしか言わないぞ?」
「うわー。流石ごみいちゃん、最低だなー」

 小町ちゃんは若干引き気味に先輩を見る。
 ふぅ……この兄妹を見てると、それもそうだなぁと思えてきてしまった。
 折角誘ってもらってるのだ。
 くだらない心配事は他所に放ってついていこう。

「分かりました。遊びに行きましょうっ!」
「おう」
「やったー!」

 だけど、このまま行くわけにはいかない。


「じゃ、着替えてから適当なところで待ち合わせってことでいいですー?」

 顎に指先を当て、どこにしよっかなーと考えていると、目の前にずいっと紙袋が差し出された。

「いろはさん。これ、洗って乾かしときましたんでっ!」

 きゃぴっとウインクをする小町ちゃんから紙袋を受け取り、中を覗き込むとわたしの下着やら服やらが入っていた。
 ああ、緊張し過ぎて仕舞うの忘れてた……。

「あ、ありがとー! んー……でも同じ格好で出掛けるっていうのもなぁ……」

 うーっと唸り声をあげていると、先輩が口を開く。

「お前昨日、服とかも買ってただろ……それじゃダメなのか?」
「あっ! その手がありましたっ! 先輩ナイスですっ!」

 おお……これなら今すぐ出かけられる。
 よしよし。
 なんだか楽しくなってきた。

「じゃ、着替えてきますっ! あ、覗いちゃダメですよー?」

 頬を膨らまして顔前に人差し指を立てる。
 先輩は呆れたようにため息を吐いた。

「覗かねぇよ……早く着替えて来い」
「はーいっ!」

 るんるんっと脱衣所へ向かい、パパッと着替えて鏡を見る。
 化粧品は一応バッグに入っているため、それを使って軽いメイクを施す。
 ぱちくりと瞬き、にこーっと笑ってみる。

 映し出されるのはいつものわたしだ。
 びっくりするほどいつも通りだった。
 亜麻色のセミロングも、ぱっちりとした瞳も、先輩とのお出かけで浮かれているのも、仮面のような笑みも、どれもすべて常々のわたしだ。


 しかし、ずっといつも通りというわけにはいかない。
 先輩といればどこかで必ず仮面にひびが入り、ボロボロと本性が現れてしまう。
 それが悔しくもあるけれど、同時に嬉しい。

 なんなら、ここに仮面は置いていこう。
 もう、わたしには必要ない。

「おっけーでーすっ」

 リビングに入るやいなやぱちっとウインクする。
 先輩も小町ちゃんも着替え終わっていたので、三人で仲良く家を出た。

 昨日とは違い、今日はそこそこ暖かい。
 風も穏やかで過ごしやすい一日になりそうだ。

 きゃるるんっと飛び出る笑顔は本物だろうか。
 響く笑い声は作り物だろうか。
 きっと、誰しもそれらしさを探している。
 けれど、それはそうやすやすと見つかるものではなく、一生見つからない可能性も低くはない。
 あるいは、それは一定ではなく変容していくものなのかもしれない。

 わたしが先輩に願った先輩らしさとは。
 先輩がわたしに望んだわたしらしさとは。
 今もそれは分からないけれど、それを知る必要はなくなってしまった。

 らしさなんて押し付けはいらない。
 ただ、わたしを受け止めてくれればそれでいい。

 そんな声に気づくものは、やっぱり誰もいないのだけれど。
 今はそれでいい。
 先輩が知りたいと言ってくれたから。
 先輩が求めてくれたから。
 それなら、今は。

 ――それだけで、いい。


 第二章 あるいは、その姉妹だけは既に知っている。


〝あの人のようになれたら〟

 それはきっと、生まれてから死ぬまでの間に誰もが一度はつぶやく言葉。

 でも、叶うことはない。
 だから、願うことに意味なんてない。

 けれど、それでもわたしは願わずにはいられなかった。
 誰かと人生を交換して欲しい。
 そんな思いがわたしの胸を埋める。
 しかし、絶対に叶わないのだから諦める他ない。
 わたしはこのまま生きていこう。

 失ってしまったけれど。
 遠ざかってしまったけれど。
 不幸は続くものだけど。
 今、ここで味わったのなら、わたしの間違いだらけの青春はハッピーエンドになるはずだから。

 わたしは進もう。

 きっと、いつか見つけられる。
 掛け替えなのない、代わりのきかない、誰とも交換したくないと思えるような。

 わたしだけが持つ、人生の意味を――

  ****

 始業式の次の日に行われた入学式はつつがなく終了し、小町ちゃんは晴れて総武高の生徒となった。

 生徒会で次にある仕事と言えば生徒総会とかそんなところだ。
 それまでも雑用だのなんだのはあるが、基本前期はぼけーっと過ごすことになるだろう。
 だって、わたしより副会長とか書記ちゃんの方が仕事できるしね。


 しかし、やはり、二年時の楽しみと言えば、十一月の修学旅行。
 私立の学校とは違いお金がないので、行き先は京都とか奈良、大阪辺りになる。
 とは言っても楽しみなものは楽しみで、なにが楽しみかと言えば、色恋沙汰だろう。

 誰々が誰々に告白したーだとか、誰々に告白されたんだけどどうしよーとか、お前からの告白とか求めてない求めてないどうしようーとか。
 きゃぴきゃぴとどす黒いことを話す女子達の会話に混ざるのも女の子の嗜みというものだ。

 まあ、女の子の友達あんまりいないんだけど。
 可愛いというのも考えものである。
 その点で言えば雪ノ下先輩はほんと辛そう。
 たいして関わったこともないくせに、トイレで悪口言ってる同級生よく見るし。
 なんだか同情してしまうレベル。

 同情してかわいそうだとか言ったところで「ええ、そうね。彼女達は他人を卑下することで自分が劣っていると認めてしまっているということに気づいてないもの。本当にかわいそうよね」とか、かわいそうの対象を履き違えられそうなので絶対に言わないけど。

 しかし、修学旅行か……。
 旅行出来るのは確かに楽しみだけど、わたしの心中では少し前よりは楽しみが半減していた。
 先輩と会えないなー……。
 三日も。
 学校行事に参加してるのに先輩に会えないとかなにそれ辛い。

 いや、三泊四日だから四日……?
 なんか日程的にそのまま休日に突入しそうだし、下手したら一週間くらい会えないかもしれない。
 うわぁ……なんか憂鬱になってきた。

 イベントと言えばその前に文化祭があった。
 これが十月か……。
 今年の文化祭は先輩と一緒に回れるかなぁ、昨年は葉山先輩につき纏って……。
 あ、あれかー。
 あのドラマのヒロイン、あの文実の委員長に似てるんだ……。
 うわー、すっきりした。


 思えば、あのときあの扉の向こうで委員長を糾弾していたのは先輩の声だった気もする。
 そうか……あの反ヒキタニシュプレヒコールはそういうことか。
 けど、なんでそんなことを……。
 考えることに意味はない。
 いくら考えたってわたしが分かることではなかった。

 んー……、この頃はまだ生徒会だし、忙しくて会えないかも。
 先輩、文実やってくれないかなぁ……。
 仕事はできるし、スカウトしたいぐらいなんだけどな。

 で、体育祭との間くらいに生徒会選挙か。
 早く来ないかな選挙。
 いや、でも、わたしが生徒会じゃなくなれば先輩につきまとえる理由もなくなっちゃうな……それはまずい。
 えー、でもやりたくないなー。

 間を置かずに体育祭、か。
 棒倒しと騎馬戦だっけ?
 なんかものっすごい気持ち悪い人が騒いでたのと、葉山先輩がいつも通りかっこよかったのは覚えてる。

 だから、忘れていた。
 ヒキタニという人物の存在を完全に忘れていた。
 ヒキタニの名前だけが浮き立っていたのも理由の一つだろう。
 実際にそんな人は存在しない。
 そんな恥ずかしい名前の人は知らない。

 ていうか、なんかこの学校、秋に行事持ってき過ぎじゃない?
 明らかにバランスおかしいでしょう……考えようよ。
 普通に文化祭とか夏休み前にやってもいいだろう。
 一年はたいしてすることないし、二年ならクラスが変わってもいくらか顔見知りがいるわけだから無駄に手間取ることもない。

 うん、おかしいよこれ……。

 生徒会への嫌がらせとしか思えない。
 文化祭、生徒会選挙、体育祭ってことは、文化祭の仕事中に選管の仕事もやらなきゃいけないかもだし……選管は適当に募集しようかな。
 アウトソーシング? だか、ワークシェアリング? だかってやつだ。
 先輩が言ってた。

 体育祭はわたしが新会長の面倒を見るしかないか。
 っても、昨年の体育祭のときはまだめぐり先輩が会長やってたからわたしもよく分からないけど。
 先輩やってたって言ってたし、分かんなかったら先輩にでも聞こう。

 ひらりと年間スケジュールの書かれた紙を生徒会長席の上に放し、はぁーとため息を漏らす。
 前期はぼけーっと過ごすことになりそうだ。
 なんて現実逃避はもう終わりにしなければならない。
 前期に文化祭が来てくれてれば……くっ。

 コーヒーを啜り、書類を確認しつつキーボードに手をつける。
 二年時に行われる校外学習の行き先アンケート調査の仕分けだ。
 所謂、雑務というやつである。
 無駄に生徒の数が多いため、こんな雑務でもそこそこの時間がかかる。

 さらにはこの雑務が一通り終わって一息つくと、月が変わって五月には職場見学なるクソイベントの希望を取り、ひいてはそれのアポまで取らなければならない。
 マジくそ。
 自分で取ってよー……もう高二なんだからそのくらい出来なきゃ社会に出て行けないでしょ……。

 なんてぶつくさ文句を垂れるが、ここは曲がりなりにも進学校なので生徒会以外そんなことはしない。
 なら、先生がやればいい。
 そう思うが、平塚先生を筆頭にここの教師陣は面倒くさがりなのである。

 平塚先生はマシな方か。

 単純に一番話しやすいから最初に顔が浮かんでくるってだけだ。
 むしろ平塚先生もよく仕事を押し付けられている気がする。
 とにかくうちの教師陣は面倒くさがりなのだ。
 さらに言えば生徒会担当顧問は押し付けが得意。

 必然、生徒会に仕事のない時期にはこういう雑務が回されてくる。
 そのくせなにか失敗しようものなら、やれなんで聞かなかっただの、やれなんで勝手にやっただのと終わりのない説教を聞く羽目になるのだ。

 ていうか、進学校なら職場見学とか無駄なイベントいれてんじゃねぇよ。
 前年度卒業生の進路統計結果、就職0パーセントじゃねぇか。
 まず大前提にそこだろ、そこ。
 三年進級時のコース選択に就職コースがあるわけでもあるまいし、バカじゃねぇの。

 なんなら生徒会で下請け企業の擬似職業体験出来てるからとわたしだけでもご遠慮願いたいレベル。
 なにが面白くてやりたくもない仕事で失敗して先生に頭下げて、電話の向こうでお怒りの先方に見えてもいないのにへこへこしなきゃいけないのか。

 いやほんと、新入生歓迎会での新入生の態度が悪いせいでゲストがもう二度と来ないとか言い出すし、なんなの。
 高校生なんてそんなもんだろうが。
 もうちょっと心を広く持とうよ。
 最近の若者は、とかリアルに聞きたくなかったよ。

 おーい。
 クレーム処理委員会作ってー。
 ていうか先生の仕事じゃないの、これー?
 おっかしいなー。

 あー、生徒会とかマジくそ……。
 わたしの口調も心なしかいつもより荒れ気味である。
 ちょっと先輩の愚痴を参考にしてたりする。

 さっきもわたしが生徒会に入ることを断れなかった原因である一年時の担任が、「お前がだらしないと俺が怒られる」とか文句を垂れていった。
 そんなに心配なら手伝ったらどうですか、という意味を含めた言葉を吐くと、用事があるからとそそくさ逃げていく始末。

 なにが用事だ。
 メインである仕事を生徒会にほとんど押しつけて一体なんの仕事をしているのか甚だ疑問である。
 職員室行ってもコーヒー片手に談笑してんだろ、お前。
 交通事故にでも遭ってしまえ。

 そんな罵詈雑言を唱えながらも、黙々と働く。
 パソコン腱鞘炎になりそうです。

 早く奉仕部行きたい。
 なんなら奉仕部で仕事したいくらいで、むしろ奉仕部で仕事した方が捗るまである。
 けれど、面目やらなんやらでそういうわけにもいかない。

 わたしがアクションを起こそうものなら副会長の瞳がキラリと光る。
 月曜に使った『書記ちゃんが好きそうなデートコースを教えてあげる代わりに作戦』はもう当分は使えない。

 今週は新入生歓迎会やら部活動紹介やらと雑務で忙しかったし、今日だって離任式があったからその片付けで時間が押している。
 デート行く暇なんてないだろうからまだ活用してないはずだ。

 ぐぬぬ……春休み前に奉仕部に入り浸っていたのが仇となったか。
 結局、春休みの間はまともな理由が思いつかずに先輩と会うことも叶わなかったし。

 ちょくちょく先輩の行きそうなところをぶらついたりしてたんだけどなー。
 サイゼとか、ラーメン屋さんとか。
 あ、なにこれ、ちょっとストーカーっぽい。
 だいたいあの人が外に出ないのが悪いんだよ。
 もうちょっとアウトドアになってくれればエンカウント率も上がるというものである。
 スイクンの方がまだ出会いやすい。
 先輩の生息図誰か作ってくれないかな。


 スイクンはちょっと古かったか……ポケモンとかゲームは長いことやってないから分からない。
 精々ルビサファが限界。
 それすらもうろ覚えだったりする。
 先輩が努力値がどうのこうの言ってるときは本当に別ゲーの話かと思った。
 ドン引きした。

 本当なら小町ちゃんに聞くのが手っ取り早いんだけど、生憎小町ちゃんも春休みは忙しかったようだ。
 なんでも、受験シーズンに遠ざけていた友達関係を少し修復するとかなんとかで家でゴロゴロしていることが少なかった。

 小町ちゃんは先輩と似て単独行動を好む習性を持っていると思ってたので、へー意外だねーと返したら、主に総武高合格者数人に重点を置いてるとか言ってた気がする。
 あくどい。
 あくどいは言い過ぎか、わたしでもそのくらいはする。
 ごめんね小町ちゃん。

 しかし、わたし街に行って知り合いやら同級生に会うことってほとんどない気がする。
 自然に避けれてるのだろうか。
 先輩と行動することが多いから都合はいい。

 あ、でもつい先日ラーメン屋で平塚先生に出くわしたな。
 先輩もだけど凄く美味しそうに食べるもんだから見てるこっちが幸せになってくる。
 まあ、病みつきになるって気持ちも分からないではないんだけど。

 平塚先生の語り癖はもう病気な気がする。
 ところどころ納得できる部分があってしまうあたり、わたしも社畜に染まってきてしまったのだろうか。
 あ、それ分かりますっ!
 とか言っちゃったし。
 特に得意でもなかったキーボードのタイミングもかなり慣れてきた。

 あー、先輩ー……。
 最終下校時刻にちゃちゃっと終わっても、片付けとかしてるうちに先輩は悠々自転車で帰っちゃうし。
 なんでこう学期始めという時期は忙しいんだろうか。
 日曜にある統一地方選挙の啓発は他の役員に任せてあるけど、来週は交通安全指導があるし、うわー、もう。

 今日はもう終わらないだろう。
 仕分けが終わったってそれだけじゃひと段落とも言えない。
 アポ取って撮影許可取ったり、行き先によっては前売りでのチケット確保しなきゃいけない。

 あー……だるい。
 ん?
 え……ちょっと待って……?
 雑務じゃなくなってる……?
 信じられない……っ!

 全然雑務じゃないんですが、これ。
 思いっきり業務だよ。
 先生がやってるの企画提供だけだよ!
 アンケート作りも集計も企画書作成も生徒への企画説明も全部生徒会に丸投げじゃんっ!

 なんなら例年通りの行事なので、先生はなにもやってないとも言える。
 ここまでいくと怒る気力もなくなってくる。
 頭痛くなってきた……。
 もうわたしここの臨時顧問になれるんじゃないかな……事務専門で。
 なら事務員か。

 そんなこんなで色々こなしてやっとひと段落なわけだ。
 しかし、行事が終わればまた仕事がやってくる。
 その後に控えている校内新聞に載せるための新聞部の取材やら学校ホームページの編集に手を回さなきゃならない。
 そこまでやってようやく一つのイベントが終わるのだ。

 仕事、仕事、仕事、仕事、仕事、仕事、仕事、仕事、仕事、仕事、仕事、仕事、仕事。

 仕事がゲシュタルト崩壊しそう。
 聞いてないっ!
 生徒会がこんなに忙しいなんて聞いてないです、先輩っ!

 サッカー部マネージャーとか春休み明けてから一切顔出せてないし。
 この雰囲気じゃ、マネージャーを理由に抜け出すなんて無理。

 奉仕部に手伝ってもらおうかとも考えたけど、代わりにやってもらうことは出来ても協力してやってもらうことはない。
 同時進行すればそりゃあ早く片付くけど、それほど切羽詰まってるわけでもない。
 わたしと他生徒会役員でこなせてしまうっていうのが一番の問題だった。
 問題は会議室で起こってるんです!

 つらい、つらいよぉ……。
 仕事は持って帰ろう……新入生の行事が多いせいで全然進まない。
 土日で終わらせる。
 そして来週の月曜には奉仕部に行こう。

 そうだ、奉仕部へ行こうっ!
 と、立ち上がって生徒会室から逃げ出したい気持ちを抑えて仕事を続ける。

 また一口コーヒーを飲み、ぽーっと生徒会室内を見渡してみた。
 いつもより人は少ない。
 でも、みんな頑張って働いてくれてるし、わたしも頑張らないと。
 ことりとソーサラーにカップを置く音がキーボードを叩く音に掻き消される。

 よし!
 やるぞー!

 無理にでも張り切って、意味不明なテンションのまま胸の内で浮かんできたラブソングを唄う。
 今度先輩とカラオケ行こう。
 ていうか、これ失恋ソングだったな……。
 またキーボードをカタカタと鳴らし始めたところで生徒会室の扉が開いた。

「あ……」

 死んだ魚のような腐った目。
 アホみたいにぴょこんと跳ねた毛はその人となりを表すようだった。
 以上二点だけ見れば、もう他全部隠してても生徒会室に入って来たのが誰か即答できる。

 目とアホ毛がチャームポイントというか、ウィークポイントというか……むしろ本体?
な先輩。
 わたし達の視線を気にした風もなくずけずけと入り込んできた。
 え、なに、なにが起きてるの一体。
 嬉しいけど……わたしなんかした?

 他の役員はわたしへの用事だと一瞬で察知したのか、すぐに仕事へ戻る。
 先輩は真っ直ぐわたしのデスクへと寄ってきて、立ち止まった。

「えー……っと? なんか用です? ていうか、失礼しますくらい言いましょうよ……」

 内心の喜びをおくびにも出さず呆れた口調で問う。
 なんか不機嫌だ……いつも世の中の全てが面倒くさいみたいな顔してるけど、今日は増し増しで酷かった。
 アンハッピーパウダー250%増量でもしてるんだろうか。

「ん、ああ……悪い。なんか家に帰ってきたような気分だったわ……。うわ、生徒会室に来て家に帰ってきた気分とか、俺の社畜根性もいよいよ末期だな……」

 生徒会室が三番目のホームになっちまってるよー。
 ちなみに二番は部室で、一番はもちろんマイホーム。
 小町がいるだけでたぎってくる。
 小町マジ天使。
 帰りてー。

 とかなんとかぶつぶつ言いながらこめかみに手のひらを当てて唸る。
 はぁーっと長嘆息すると、膨らんでいたポケットから徐にMAXコーヒーを取り出してゴクゴクと飲み始めた。
 え……この人、ほんとに何しに来たの……怖い。


「で、ご用件はなんでしょうか? 冷やかしならお引き取りください。出口はあちらとなっております」

 にこーっと笑みを向けながらひしひしと怒りを伝える。
 思った以上に冷たい声音になった。
 会いたくても会えなくて必死に仕事頑張ってるときに、こんな態度で平然とされたらやはり少しくるものがある。

「お、おう……すまん。いや、なんか、小町が……お前がほとんど顔見せなくてさみしいから手伝って来いって、奉仕部に、指名依頼を……ですね……」

 冷めた目で睨んでいると、言葉尻にいくにつれて先輩の口調が大人しくなっていく。
 ふむ……小町ちゃんの差し金か……。

 うーん……いや、嬉しい。
 嬉しいんだけど……わたしもいい加減雑務というか、こんな単純な事務で頼ってもいられないっていうか。
 なんでも先輩に頼るのは止めだ。
 む、むしろ……頼られたいなー、みたいな。

「えー……、折角なんですけど、そんな切羽詰まってるわけじゃないので。わざわざ来てもらったのにすいませんー」

 言外に要らないですという意を含めて答えると、先輩は眉を顰める。

「……大丈夫か、お前? 熱でもあんのか?」
「はい?」
「いや、だってお前、俺に仕事押しつけるのが仕事みてぇなもんだろ。それなのに入学式終わってからほとんど顔見せないし……なにやってるのかと思えばちゃんと仕事してるっぽいし?」

 言いながらわたしの背後に回ってパソコン覗き込む。
 続け様に書類を手に取り、マウスでパソコンの画面をスクロールする。
 ちょっ、近い近い。
 この人無意識だとたまにすっごい距離感近くなるから反応に困る。


 先輩はへー、ほー、と納得してるのか感心してるのかよく分からない声を上げる。
 い、息が……耳にっ!
 先輩いつもこんな気分だったんですね……やめませんけど。
 しばらく書類と画面を交互に見ていたかと思うと、もう一度つぶやいた。

「いや、ほんと、大丈夫かお前……」
「ど、どういう意味ですかねぇ……?」

 必然的に口元がひくつき、眉が吊り上がってしまう。
 なんなのこの人……わたしをバカにしに来たの?
 入室直後の不機嫌さは微塵もなく、本気で心配されている顔なのが余計に腹立つ。

 わたしがちゃんと仕事してたらおかしいですか、そうですか。
 ならもう先輩に全部やらせようかなー、あははー。
 わたしだって頑張ってるのに……。

「いや、でも、そうか……与えられた仕事はなんだかんだやるもんな。存外真面目なんだな、お前。へぇ……ちゃんと生徒会長してんだ、凄えな」

 わたしの心中なんてお見通しとでも言わんばかりのタイミングで吐かれた褒め言葉にたじろぐ。
 さっきまでの怒りなどどこかへ吹っ飛んでしまった。
 先輩に褒められた。
 たったそれだけのことで、ちょっとの間だけでも頑張ったのが報われた気がした。

「あ、ありがとうございます……」

 なんだか恐縮してしまい、身体を縮こまらせてお礼を述べる。
 しかし、なにか不思議だったのか、先輩はきょとんとした顔になった。

「は? なんでお礼?」
「え……いや、珍しく褒められたので」

 素直に思いの丈を告げると先輩に訝しげな視線を浴びせられる。


「いや、それは違うだろお前……。俺は評価されるべきものを正しく評価しただけだ。別にお前にお礼を言われる筋合いはない」
「そ、そういうもんですかねー?」

 なんだか雪ノ下先輩の言いそうなセリフだった。
 受け売りなのかもしれない。

「そういうもんだ。お前はいつも通り、『そうなんですよー。頑張ってるんです、わたし』とか言っとけばいい」
「な、なんですか、それ……」

 わたしいつもそんなこと言ってるかなー?
 え、言ってない言ってない。
 言ってない……よね?
 なんだか、こう自信満々に言われてしまうと分からなくなってくる。

 自分の普段通りの発言なんて思い出そうとして思い出せるもんでもないけど……。
 そんな癪に触るような言い方はしてないと願いたい。

 そうなんですよーって……そうなんですよーって……。
 なんでそんな自分で自分の努力の程は理解してますっ☆きゃぴっ。
 みたいなアピールをしなければならないのか。
 理解に苦しむ。

 ちょっと自分を見つめ直した方がいいのかもしれない。
 んー……それにしたって、そうなんですよーはないでしょ。
 先輩が相手じゃなかったとすれば……。
 えー、そんなことないですよぉー(照)。
 とかになるはずだ、多分。

 なんだか充分過ぎるほどにうざい気がしてきた……。
 だが、そんなことないですよぉー(照)の威力には目を見張るものがある。
 それだけでジュース奢ってもらえたりするし。

 まあ、男子と遊びに行けば大抵のものは奢ってもらえるけど。
 堂々割り勘宣言をしてくるのは先輩くらいのものだ。
 今となってはその先輩もわたしの妹キャラスキルに落ちた。
 あれ? わたし最強じゃない?

 そうは言っても、あんまり先輩に奢らせるのも悪いなと感じてきたわたしがいる。
 この人基本お金持ってないし。
 バイトなんて始める雰囲気すらない。
 もはや先輩がバイトしてたらちょっと引くレベル。

「はぁ……まあ、もうなんでもいいですけどー」

 ぱしっと書類を先輩の手から奪い取り、作業を再開しようとキーボードに手を伸ばす。

「それで? なんかやることねぇの?」
「はいー……? だから、別にそこまで切羽詰――」

 先ほど述べた理由を再び口にしようとすると、わたしの台詞を遮って先輩が口を開く。

「いや、だから、切羽詰まってるとか詰まってないとか、そんなもんはどうでもいいんだよ……。奉仕部も暇だし……このまま帰っても小町にどやされるのが目に見えてる。っつーわけで仕事寄越せ」

 ん、と手で催促してくる。
 意識せずとも、ふっと呆れたような短いため息が漏れてしまった。

 なんだこの先輩……。
 普段は仕事なんてしたくねー、働きたくねー、帰りてーが鳴き声のくせに、どんなツンデレですか。
 仕事ちゃんも思わずきゅんっときちゃいますよ。

「はぁ……。それじゃ、来週の交通安全指導後に配る交通安全意識調査のアンケート作成をお願いしますー。そこの空いてるデスク使ってもらって結構です」
「はいよ。それは最初から作るのか?」

「あ、前年度の資料がフォルダに残ってるはずなのでそこまで手間はかからないと思います。では、お願いします」

 はいはいと返事をする先輩ににこーっと笑いかける。
 はぁーあ、頑張ってもっと先輩に褒められたかったなー。
 とか内心落ち込んでいると、先輩はまだなにか思うところがあるようで、じーっとわたしのパソコンを見る。

「それは分かったが……一色が今やってんのはやんなくていいのか?」
「へ? ああ、はい。これもアンケート作成も元々土日に終わらせようと思ってたので、それだけやってくれれば充分助かります」

 答えると、今度は奇異なものでも見たかのような視線を浴びせられる。
 え、なに、なんなの……。
 わたしなんか変なこと言った……?

「土日ってお前……家で仕事すんの? どこの会社員だよ。だいたいなんだこれ……役員ほとんどがそれぞれ別の作業してんじゃねぇか……生徒会に負担かけ過ぎだろ」
「あー……」

 そういうことか。
 なんと言えばいいものか。
 ぶっちゃけこの希望先の仕分けは来週中に終わらせれば間に合うんだけどな。
 わたしが奉仕部行きたいから前倒しして進めようとしてるだけだし。

「え、えっと、これ自体の締め切りは来週中なんですけどー。えー……、ほら、自由な時間を確保したいじゃないですかー?」
「……いや、それなら尚更平日にやればよくね?」

 確かに……。
 先輩は土曜日至上主義だし、先輩の脳内ではわたしは土日遊んでるイメージがついてそうだ。
 実際そうだったわけだけど、先輩と出掛けられないなら遊びにいく意義もない。


「あー……っと、わたしは放課後に生徒会室に閉じこもらなきゃいけないほうが嫌なんですよっ! サッカー部もそろそろ顔出さないとまずいですし……」
「はーん……。まあ、いい……アンケート終わったらそれも手伝う」

 終わったらって、いや、確かにすぐ終わるものではあるんだけど……。

「いやいや、流石にそこまでしてもらうのは悪いのでー……っていうか、それだと奉仕部の理念に反してません?」
「は? さっき言っただろ、小町の指名依頼なんだって。俺個人での依頼なら俺がどんなやり方しようが関係ねぇだろ」

 なんか文句ある?
 とばかりに言ってくる。
 そんなに強くこられると拒否し辛い。
 けど、やっぱり先輩に頼るのは気が引けるので、なにか理由はないかと模索していると追い打ちをかけてきた。

「つーか、小町の依頼は『手伝って』、『お前を部室に連れてくる』ことなんだから、その過程がどうあろうが問題ない。そもそもこの依頼自体が奉仕部の理念に反してるしな。だから、はっきり言っちまえば、これは小町のお願いだ」
「ぐっ……」

 反論の余地がない。
 小町ちゃんのお願いなら先輩が動く理由として充分過ぎる。
 なんだこのシスコン、キモい。

「しっかし……やっぱりどう考えてもこれは生徒会の仕事の範疇に収まってねぇだろ……。複数の教師から請け負ってるみたいだしどっかで仕事重複してたりすんじゃねぇの? どこのブラック企業だよ」
「あー……、重複は本当一回味わって泣きそうになったんで、気をつけてます」

 あのときは本気でなにやってたんだろうと自分を責めた。
 一仕事終えたと思って、他の役員が終わらした仕事確認してたら同じことやってたっていうね……時間の無駄にも程がある。

 あのときって……あれ、三日前くらいの話だったっけ。
 仕事が積もり過ぎて遥か昔の出来事のように感じる。
 ほとんど毎日、企画複数同時進行してるからどれが終わってどれが終わってないのかメモ帳見なきゃ把握できないし。

「労基法スレスレだろ……」
「まあ、生徒会は企業の労働組合・ユニオンとかとは違いますからねー。給与貰ってるわけじゃないですし。学校や教師、生徒の処遇に対する不服申し立てなんかは基本的にはできないんですよ……」
「はぁ? それは……」

 続く言葉は容易に予想できたので、被せる形で言葉を紡ぐ。

「たとえ、学校側の不当なものだとみなされる場合も、です」
「おぉ……信じられんくらい真っ黒だな、ここ」

 本当真っ黒ですよ……わたしの視界も真っ黒になってくれないかなー。
 働きたくなーい。
 けれど、わたしがサボれば誰かがその尻拭いをするわけで……もしそれに奉仕部が関わってきたらと思うと絶対にサボれない。

「近々、はっきり意思を伝えるつもりではありますけどねー……」

 先生からあれこれ言われたらなんかはいはい言っとかなきゃダメな感じがして断れないのは他のみんなも同じ。
 だからってこの状況を甘んじて受け入れられるほどわたしの懐は広くない。
 文句の一つや二つ言ってやらなきゃ気が済まない。

「ま、そりゃそうだろうな……。んで? 今残ってるのは役員がやってんのと交通安全アンケにその希望調査集計だけか?」
「まあ、そうですねー……また増える可能性もなくはないですけど」

 急に入ってきてぎゃーぎゃー言って仕事置いてくんだもんなぁ……。

 下っ端ってつらいなぁ。
 生徒会長なんて結局、生徒でしかないのだ。
 生徒の上には導いてくれる先生(笑)がいる。
 道筋も教えずにどう導いてくれるのか小一時間問い詰めたい。

「それは断れよ……。アンケと集計終わればこっち顔出せんのか?」
「は?」
「お、おお……なんかすまん?」

 あぁ……思わず高圧的になってしまった。

「はぁ……ごめんなさい。ちょっとイライラしてるみたいです……」
「あぁ……うん、そりゃあ仕方ねぇだろ。気にすんな」

 なんか先輩がいつもより優しい。
 じーんとくる。
 こんな状況じゃなきゃ優しくされないって事実に。

 うーん……いつも優しい、のかな?
 あざといあざとい言ってくるから、全く優しさ感じないだけで本質は優しいんだ。
 ふとした優しさにドキドキしてるわたしがいる。

「ありがとうございますー。それで、これ終わればそっち顔出せるかって話ですが……これ終わっても他役員のが終わってなければ手伝うというか……色々あるので、月曜にちょっと覗くくらいなら」
「……ん、そうだよな。どう考えても役職分けてる意味なくなってるし」
「そうなんですよねー……」

 一人一つの仕事をこなしているなら組織の意味がない。
 正直なところ、今の生徒会は最高決定権がわたしにあるというだけで、書記も会計も庶務も名前だけの存在だ。
 なんならわたしが事務局長であとは全員事務局員とかでいいとすら思う。

「だいたい、仕事の量に対して人員が少な過ぎんだろ……これ」

「あー、まあ、この時期ですから補佐は」
「部活勧誘、か」
「はい……」

 人はいるにはいるのだ。
 特に戦力となる人材は揃っている。
 副会長、書記、会計、と選挙で決まった役付きはいるし、庶務だっている。
 残ってくれている人は基本的に全ての業務に関わってくれている人たちだ。
 だから、遅れることはない。

「遅れることはなさそうだが……。むしろ、遅れないことが問題だな。下手に出来ちまうから余計に仕事を任されるし、こなしちまえるから出払っている人材を呼び戻すのも忍びない、と」
「おぉ……流石ですねー?」

 素直に驚いていると、そのくらいパッと見りゃ分かんだろ、と返されてしまう。
 普通の生徒なら分からないと思いますけど……雪ノ下先輩とかならとにかく。

 先輩は働きたくないからこそ働くことに詳しい。
 だから、職場の現状を即座に把握できる。

 誰よりも知っているから、誰よりも嫌がる。
 だから、仕事というものはやりたくなくてもやらなきゃいけないことだと分かっている。
 お父さんに仕込まれたとかなんとか言ってたな……。

「補佐は部活との兼任が多い……っても、お前みたいにマネもいるんだろうが。マネはこの時期忙しいよな。マネが可愛いかっこいいってだけで入部するやつだっているわけだし、看板娘みてぇなもんだ」
「はいー……、流石に生徒会を優先してとは言い辛いんですよねー。補佐って言っても常駐してるわけじゃないですから……」

 だから尚更言い辛い。
 来てもらって各役職の補佐についてもらえれば一つ一つを役割分担して効率よく進められるんだけど……。

 はぁ……この状況も、なんだかんだ言って仕事を拒否出来なかったわたしの責任だ。
 みんな先生から言われたら面と向かって拒否することは出来ないのだろう。
 けれど、わたしが生徒会長で、わたしに決定権があるんだから。

「はぁあー……」
「問題だらけだな……」

 わたしのため息に反応して先輩は改めて生徒会室を見回す。
 そしてしばしの間、なにか思索にふける。
 ふぅ、と息を吐いて動き出した。

「一色……ちょっと出てくる。別に逃げやしねぇから、待ってろ」
「……はい?」

 なんでですかと尋ねようとしても、先輩は早足で生徒会室を立ち去って行ってしまった。
 悪い予感がする。
 先輩は変わったのだ。
 主に奉仕部の二人を頼るようになった。

「あー……」

 後悔先に立たずとはこのことだ。
 先輩には無理にでも帰ってもらえばよかった。
 来て欲しくない未来から目を背けるように書類と格闘していると、再度、生徒会室の扉が開かれた。

「はぁ……やっぱり」

 ぞろぞろと侵入してくる面々はどれも見知った顔だった。
 つい、デスクに肘をついて額を押さえてしまう。
 頭痛い……。
 人生って思い通りいかないなぁ。

 一人は小さく手を振りながらの入室だった。
 肩までのピンクがかった茶髪に緩くウェーブを当てて、歩くたびにそれが揺れる。
 探るようにして動く視線は落ち着かず、わたしのため息が聞こえてしまったのか、小さく肩を震わせた。

「や、やっはろー? え、あんまり……歓迎されてない?」

 一人はまるでここが居城かのように堂々入ってきた。
 流れる黒髪。
 冷めた瞳の奥には僅かばかりの暖かさがあることをわたしは知っている。
 ただの微笑はその端正な顔立ちとあいまって妙な神秘さを帯びていた。

「こんにちは、一色さん」

 一人は恐る恐るといった様子で外から中の様子を窺い、意を決したような顔をしてぴょんっと飛び込んできた。
 その際にどこかの先輩にそっくりなアホ毛がふるふると揺れる。

 猫やら犬やらに飛びつかれそうだった。
 あ、猫飼ってたな……あれを遊び道具にしてるんだろうか。
 それはないか。
 小柄な背丈にショートカットの黒髪。
 取り繕うように笑顔を見せるとチャームポイントの八重歯がやけに強く主張する。

「いろはさん、こんにちはですー」

 最後に入ってきたのはなんか目の腐った不審者じみた男だった。
 ポケットに手を突っ込んでいて、その顔はふてぶてしい。
 遠目からみても猫背だと分かった。
 誰こいつ、知らない。
 無言だし。

「みなさん……こんにちはです。奉仕部メンバー揃ってなにかご用でしょうか……と言ってもきっとそこの……えっと、んー……? ひ、ひ……。こほん、なんとか先輩が連れて来たんでしょうけどー」
「おい、諦めんじゃねぇよ。え、もしかして本当に忘れてたりする? あ、だから、俺のこと先輩って呼ぶの?」


 マジかよ、知りたくなかったよ。
 と腐ったオーラを撒き散らす先輩。
 いや、本当迷惑だから出てって……。

 まあ、最初は本当に覚えてなくて先輩先輩呼んでたからあながち間違いでもない。
 ちなみに、今更比企谷先輩なんて呼ぶのは小恥ずかしいから変えるつもりはない。
 言うともっと腐臭漂わせそうだから言わないけど。

「そんなどうでもいいことは置いといて、どういうつもりです?」

 ふっとバカにするように短く息を吐き、先輩の顔を睨む。

「い、いや……大変そうだったし、問題があったから解決しに……」
「頼んでませんけど。ていうか先輩、そういうの得意じゃないですかー? わたしの真意を知って、なんでわざわざこんなことするんですかー?」

 視線を外す先輩。
 眉を吊り上げてじーっと見つめる。
 多分、心底不愉快そうな顔になってるだろう。
 けど、気にしない。

「先輩ー? わたし聞いてるんですけどー? ちゃんとこっち見ましょうよ」

 自然と高圧的な口調になってしまう。
 黙り込む先輩の態度にイラつく。
 頬杖をつき、ひたすら冷たい視線を浴びせていると口を開いたのは先輩ではなかった。


「いろはさん? 手伝いに来たのにその態度は」
「いや、だから、わたしは頼んでないんですよねー? ていうか、わたし今、先輩とお話してるんですけどー?」

 いつもなら怯えてしまう冷たい声音も今日ばかりはなんともなかった。
 なんで。
 いや、一体なにをしたいんだこの先輩は。
 そんな想いが胸に渦巻く。

「む……いろはちゃん、ちょっとその言い方ないんじゃないのー?」

 言われて少し冷静になる。
 これ自体は先輩がやらかしたことだから、確かに雪ノ下先輩まで無碍に扱うのは違うのだろう。
 先輩の優しさで、受け入れるべきなのだろう。

 雪ノ下先輩と結衣先輩。
 双方の態度もわたしからしてみれば『ない』んだけど、波風立ててもしょうがない、

「はぁ……そうですね……。不快な思いにさせてしまってすみません……」

 立ち上がり、軽く頭を下げる。
 なんでこんなにイラついてるんだろう。
 思い通りにならないのなんていつものことなはずなのに。
 いや、分かってる。
 なんでなんて、そんなことはわたしが一番分かってることだ。

「ふぅ……奉仕部の依頼で来てくれたんですよねっ! 本当にごめんなさい……。じゃあ……お願いします。雪ノ下先輩には副会長の補佐を、結衣先輩には会計の補佐を、小町ちゃんには書記の補佐を、先輩には庶務の補佐を任せてもいいですかー?」


 先輩はただわたしのことを考えて動いてくれたに過ぎない。
 わたしが不慣れだから。
 わたしが使えないから。
 わたしが問題を解消できないから。
 そう思って奉仕部の面々を連れて来てくれたのだ。

 どこにも怒る必要なんてない。
 ここは素直に頼るのが普通だ。
 それが自然の流れだ。
 逆らうべきじゃない。
 わたしが持ってる感情はただの意地なんだから。

「ええ……構わないわ」

 雪ノ下先輩にも。

「うん、分かった」

 結衣先輩にも。

「はーいっ!」

 小町ちゃんにも。

「おう」

 先輩にも。

 誰にも悪気なんてないのだろう。
 ただ、そう。
 わたしのことを知らないだけなのだ。
 だから、勘違いして、すれ違って。
 いつか失われてしまう。


 それは酷く怖い。
 でも、ここで怒ったってなんにもならない。
 知って、そこで壊れてしまうかもしれない。
 わたしには、丸くおさめて次からこうならないようにすることしかできない。

 わたしのことを知りたい、とそう言ってくれた先輩を裏切るようで心苦しいけれど、こんな幼稚な感情はわたしだけが知っていればそれでいい。

「……先輩」

 出来るだけ申し訳なさそうな顔を作る。
 いや、作らなくたってそう見えるだろう。
 わたしの顔は情けないことこの上ないはずなのだから。

「ん? なんだ……?」

 わたしのご機嫌でも窺うような声色だった。
 先輩は全然、わたしのことなんて知らない。
 だから、わたしがなんで怒ったのかなんて分からない。
 わたしの真意なんてものも分かってなかった。

 なにを期待していたのだろうか。
 先輩にだって分からないことはある。
 そんなことは知っていたのに。
 わたしのことを知っていてくれているなんて。
 自惚れもいい加減にしておけと自分を諌めたくなる。

 見れば、結衣先輩も雪ノ下先輩も小町ちゃんもわたしたちの様子を窺っていた。
 心配なんだろう……先輩が。
 この人たちが大切なのはわたしではなくて先輩なのだ。

 だから、頼んでもいないのにここに来て、わたしが先輩に文句を連ねれば不機嫌になる。

 如何にも人間らしかった。

 才色兼備、容姿端麗、文武両道だなんて持て囃され、浮世離れしている雪ノ下雪乃も。
 空気が読めて、スクールカースト最上位に君臨し、漫画の中から飛び出してきたような優しい女の子、由比ヶ浜結衣も。
 社交的で、その反面一人でも生きていけて、腹黒くて、あざといと感じさせながらも可愛いと思わせる、先輩曰く天使な比企谷小町も。

 等しく、ただの人間なのだ。

 先輩がどう言いくるめたのかは知らないが、どう考えても奉仕部が手伝うのはおかしいこの状況で、頼んでいないと事実を述べたわたしを責め立てる。

 どこか決定的に間違っていた。

 エゴイストで、恋愛脳な女の子。
 頼られるのが嬉しくて、正常な判断能力を失った女の子。

 馴れ合うことを知ってしまった。
 口に出して伝えることを覚えてしまった。
 だから、ぬるい。
 対極に位置するなにかを手に入れたとき、きっと彼女達の本質は変わってしまったのだ。

 あるいは小町ちゃんだけは変わっていないのかもしれない。
 どちらにせよ、先輩側であることには変わりない。

 だから、わたしは。

 わたしがいくら納得していなくとも、こう述べるしかない。
 置いてきた仮面をつけて。

「さっきはごめんなさいでしたー! いやー、やっぱりちょっとカリカリしちゃってるみたいですー……。改めて、お願いしますねーっ? ほんと、お手伝いありがとうございますっ。助かりましたー!」

 つけた仮面ははがれない。
 今の先輩といても、決して。
 はがれない。

「あー……いや、まあこんだけ仕事してりゃストレスもたまんだろ……気にすんなよ」

 先輩を騙すことなんて容易い。
 先輩はわたしのことを知らないけど。
 わたしは先輩のことを知っているから。
 もう、同じ轍は踏まない。

「あはっ、はーい。ではでは、やっちゃいましょうっ!」

 恋に憧れ、裏で毒を吐き、気にもしてない男子に可愛く振る舞う。
 それは確かに昔のわたしで。
 もう完全に戻ることはないのだろう。

 けれど、この日。
 わたしは一部だけ戻った。
 一色いろはが一色いろはたりえるものが帰ってきたのだった。

 この日はきっと切っ掛けに過ぎなかったんだろう。
 他にも数多の理由が加わっていくのだろう。

 以来、先輩の前では。
 無意識に笑みが漏れることはなくなった。


  ****

 世の中に溢れる女子高生という生き物は男子の前でどんな姿を演じるのだろう。
 可愛らしく。
 弱々しく。
 そんな姿を演じているだろうか。

 女子高生にとって男子なんてものは飾りでしかなかったりする。

『あ、なにそれー?』

 そんな感じで軽く近づき。

『へー、相模くんってゲーム得意なんだー?』

 小首を傾げてにこにこーっと笑う。

『なんかそういうのかっこいいかもー』

 心にもない言葉で褒め称え。

『あ、照れてるー! かわいー!』

 容易く心を弄ぶ。

 それはわたしだけなのかもしれないし。
 やっぱりみんなそうなのかもしれない。

 ただ言えるのは、男子もまた可愛い女の子を求めているということだ。
 誰も彼もが可愛いわたしに寄ってきて。
 誰も彼もが可愛いわたしを求めてる。

 本物なんて求めているのはあの先輩くらいだ。
 そんなもの、幻想だ。

 本物なんてない。
 手に入らない。
 いくら願ってもいくら望んでも、現実に現れることはない。
 きっとこれは諦めるための言い訳なのだろう。
 まだ少しの間しか探していないのだから。

 誰も求めてないわたしを晒す必要なんてない。
 あの男子も、そこの男子も、わたしにそんなものは求めていない。
 だから、わたしの本当を見せればこの群れは散り散りになり、みな一様にわたしに失望する。

 勝手に期待して、勝手に失望して。
 こんな関係は嫌だった。
 どこまでも嘘くさい青春。
 楽しんでいる自分を作って満足していた。
 だから、あの言葉を聞いたときに胸が高鳴った。
 この作り物の世界から抜け出せる気がした。

 それなのに、わたしは。
 結局また同じことをやっていたのだ。

 勝手に期待した。
 先輩となら本物が見つけられるかもしれないと。
 なんでも出来る人間なんていないのに。
 先輩には全てを見透かされているなんてバカなことを思って。
 そうじゃないと知って失望した。

 まだ先輩と本物を見つける方法はたくさんあるだろう。
 溜まった鬱憤を喚き散らしてみるのは最善手だ。
 ただしそれは、その後になにかを失う覚悟がなければ出来ない。


 わたしにはその覚悟がない。
 恐ろしい。
 嫌われてしまうのも。
 避けられてしまうのも。
 壊れてしまうのも。
 変わってしまうのも。
 大切なものを失うのも。
 堪らなく怖い。
 だって。

 ――まだ、好きだから。

  ****

 結局、押し寄せていた仕事の波は奉仕部の力添えによって解消された。
 ほとんど倍速で稼働したためか、月曜には校外学習のアポ取りまで済ませられた。
 かなり前倒ししたので、火曜である今日からは数日奉仕部に顔を出せるだろう。

 全く、奉仕部メンバーの働きぶりには舌を巻く。
 何回か生徒会の手伝いを経験していたからだろうけど、手際がよく、なによりわたしの意図をしっかりと理解していた。
 各役職の補佐を手伝ってくださいという建前を見抜き、見事に各役職の仕事をこなしてくれた。

 雪ノ下先輩はわたしと副会長の補佐を。
 結衣先輩は金銭管理系統の仕事を。
 小町ちゃんはー……、まあ、書記は会議でもやらないとその本領が発揮されることはないので、上手いこと書記ちゃんの仕事の分担を図っていた。
 先輩はお得意の雑務をやりながら、結衣先輩に仕事を回したりしていた。


 雪ノ下先輩がいくら有能でも、じゃあ副会長の役割をお願いしますなんて言えない。
 役員にも面子というものがある。
 そこらへんを理解してくれたのは素直に助かった。

 四人の人員追加で、各役職それぞれの仕事が出来る。
 みんな一通りのことは出来るけれど、やはり得意分野、慣れ親しんだ分野というのは一歩勝る部分があるのだ。
 効率上昇、能率上昇、それはそのまま時間の短縮になる。

 改めて思い返してみても、やはり疑問が残る。
 なんでそこまでして早く終わらせたかったのか。
 わたしがではなく、先輩達がだ。

 先輩に頼られたから?
 落ち着いて考えると、それは理由として弱いのではないだろうか。

 いくら甘くなったと言っても、あの雪ノ下先輩が素直に頷くとは思えない。
 いや、あの人はなにか勝負を持ちかければ案外簡単に乗るか……。
 うーん……。

 そんな疑問は自室から出てリビングに向かうと、お母さんの言ったセリフで解消された。

「あ、いろはおはよう。誕生日おめでとっ!」
「おはよー……誕生日……?」

 あぁ……そういえば、今日誕生日だったか。
 今まで忘れることなんてなかったけど、今回ばかりは忙しくてすっかり忘れていた。


 となれば、先輩達が急いでいた理由もなんとなく想像がつく。
 わたしの誕生日を祝ってくれるつもりだったのだろう。
 言い出しっぺは結衣先輩か小町ちゃんあたりかなー。
 先輩が最初に出したのが小町ちゃんの名前だったことから推測するに、小町ちゃんの線が強そうだ。

「お母さん、産んでくれてありがとーっ」

 大げさなお礼を述べて抱きつく。
 苦笑しつつもお母さんは受けとめてくれた。

「はいはい。早くご飯食べないと遅刻するよ」
「はーい」

 実際には、まだ学校に行くにはかなり早い時間なためゆっくり食べても遅刻することはないのだろう。
 しかし、夜は一緒に食べれないので朝食は仲良く二人で食べる。
 これが女二人しかいない我が家の鉄の掟。
 まあ、たまに書き置きとともにお母さんに破られるけど。

「いろは」

 毎日の幸せを噛み締めながら朝食を食べていると、声を掛けられる。
 お母さんの顔はどこか申し訳なさそうだった。

「ん? なにー?」
「その、お母さん今日も遅くなっちゃいそうなんだよね」

 はぁ、と深いため息を溢す。

 言いたいことは分かった。

「そんなこと気にしなくていーよ。あ、でも日曜の夜にでもケーキ食べさしてねー?」

 にぱーっと笑いかけると、お母さんはくすりと笑う。

「任せて」

 今から日曜日が楽しみだ
 わくわくしながら食事を終え、お母さんを見送る。

「行ってらっしゃい」
「行ってきます。いろはも、行ってらっしゃい」

 いつも言えないからといつの頃からか言ってくれるようになった言葉。
 満面の笑みには満面の笑みを返そう。

「行ってきますっ!」

 今日もいい朝だ、なんて思いながら、少しくつろいで学校へ向かう。

 幾人の男子から誕生日プレゼントをもらってしまった、頼んだっけ?
 頼んだんだろうなぁ、いや、頼まずともそれとなく伝えていたのだろう。
 なんともわたしらしい。
 呆れた……。

 先輩達が急いでいた理由は確定した。
 しかし、彼女達の本質が変わってしまったのもまた事実だと思われた。
 雪ノ下先輩に誕生日を祝われる謂れはないし。
 それだけ変わってしまったのか。


 それに、先輩がわたしのことを知らないのも当たり前だが事実だ。
 知っていれば知りたいとは言わない。
 あのとき、わたしは嬉しく思ったはずなのに。
 なんでそれを今、素直に喜べないのだろうか。

 ほうけていても勝手にやってくる放課後。
 いつも通りまずは生徒会室に向かい、適当に仕事をこなしてから久々に奉仕部へと向かった。

 人気のない特別棟の廊下はひんやりとした空気が蔓延している。
 迫り来る宵闇。
 薄暗い場所にいると憂鬱になってしまいそうだ。

 早足で歩いていると、目的地である扉まですぐに辿り着いた。
 なんの変哲もない、しかしどこか懐かしい扉。
 中からは笑い声と共に仄かに甘い匂いが漏れてくる。

 からりと扉を開けば、室内にいる人達は前年度より一人増した四人でわたしを迎え入れてくれた。

「おっ! いろはちゃん、やっはろー!」

 元気な声に合わせて振られる手。
 手を振り返して返事をする。

「結衣先輩、こんにちはですー」

 間もなく小さな影がとてとてと近づいてきて、笑顔を向けてきた。


「いろはさん、こんにちはですっ!」
「こんにちは、小町ちゃんっ! いやー、もうすっかり奉仕部員だねー?」

 少し腰を曲げてにこーっと微笑む。
 小町ちゃんのブレザー姿はやはりまだ見慣れない。
 生徒会室で見てたのパソコンの画面だしなぁ。
 どこか初々しいその様はいつにも増して愛くるしかった。

 改めて奥に目をやれば、この謎過ぎる部活の長と目が合う。
 微笑みは逆光でよく見えないが神秘さは健在で、むしろ逆光が後光に見える。
 あなたが神か。

「こんにちは、一色さん」
「雪ノ下先輩こんにちはーっ! 今日はお招きありがとうございますっ」

 もう分かってます。
 そんな意を含めた言葉を送ると、バツの悪そうな顔をして結衣先輩と小町ちゃんを見る。

「由比ヶ浜さんと小町さんがしつこくてね……ごめんなさい。迷惑ではなかったかしら?」
「いえいえっ! そういうことなら喜びが勝るというものですー。まさか、こんな風に祝ってもらえるとは思いませんでしたよー」

 長机には見栄えのいいホールケーキが置かれている。
 やっぱりそういうことなんだろう。
 うんうん頷いていると、最後の一人が口を開いた。

「お前、遅えよ……直で来いって言ったろ」


 セリフだけ見れば不機嫌そうだが、その声色は暖かい。
 顔も少し気恥ずかしそうだ。

「先輩。挨拶ってしってます?」
「は? あぁ、あれな。不審者に対する牽制のやつな。よくされるから知ってるわ。むしろこの中の誰よりも挨拶について詳しいまである」

 どうだ! とばかりにふんぞり返る。
 ちょっと、この人自慢気になに言ってんの。
 挨拶される理由がかわいそう過ぎる。

 卑屈過ぎる解釈に結衣先輩がうわぁと声を漏らし、雪ノ下先輩はこめかみを押さえる。

「出た、ヒッキーの不幸自慢……」
「あなたのことだから本当にありえそうで怖いわね。けれど、祝いの席でそのような発言をするのは余り褒められたものではないわよ。一色さんに謝りなさい、卑屈がやくん」
「誰だよそれ、お前が俺に謝れ」

 いつものやり取り。
 いつも通りの光景。
 そのはずがどこか居心地が悪い。
 気色悪い。

 分からない。
 なんでこんなことを思ってしまうのか。
 失望してしまったからだろうか。
 テレビドラマでも見ているような。
 リアリティのない演劇を見せられているような気分になる。

 先輩はわたしのことなんて知らないから知りたいと言ってくれたのに。
 なかなか言葉に出せない。

 気づいて欲しいのか。
 構ってちゃんもほどほどにしておいた方がいい。
 メンヘラじゃあるまいし。

 一番気色悪いのは、わたしか。

「おーい、いろはさーん?」

 その声にはっとなる。
 なに考えてんだろ。
 めんどくさい女だなぁ、わたし。

「ん、なにー?」

 呼びかけてくれた小町ちゃんに問うと、小町ちゃんはわたしの顔を見つめたまま首を傾げた。

「んー……、いや、なんでもないですーっ! そんなことより、早くケーキ食べましょー! ケーキ♪ ケーキ♪」
「食べる食べるー」

 誰がどうとか、わたしがどうとか。
 そんなことどうだっていい。
 今はこの甘ったるい空間に混じることに専念しよう。

「そういや、なんで遅れてきたんだ? もう仕事はねぇんだろ?」

 ケーキを口の中一杯に頬張りもぐもぐと食べているとそんなことを聞かれた。
 なにこのケーキめっちゃ美味しいんだけど。
 メイドイン雪ノ下。
 ほんとなんでも出来るなこの人。

 ゆっくり味わいたいところだけど、質問が来てしまった。

 紅茶でケーキを飲み下し、先輩をじろーっと睨む。

「先輩ー? それ本気で言ってますー?」

 むむぅと唸って見せると先輩は少し狼狽えた声を出した。

「お、おう?」

 よく分かってなさそうだった。
 普通に分からないこともある。
 当然だ。
 人間なんだから。

 ああ、いや、こういうのはやめようって。
 思考を切り替えて、わたしの言葉を待つ先輩に目を細めて気だるげな声で答えた。

「はぁ、なに言ってんだか。仕事ってのはやめることはあっても終わることはねぇんだよ……」
「……いや、お前がなに言ってんの? この前も小町が俺の真似してたけど、なにそれ、流行ってんの? 流されすぎじゃない? 素麺なの?」

 ううーん?
 似てなかったかなぁ?
 結構自信作だったんだけど。
 小町ちゃんやったんだ、なんか親近感。

「あ、それヒッキー言ってたーっ! ていうか、いろはちゃん超似てるし」

 くすくすと笑う。
 やっぱりなぁ、先輩の言いそうなことだ。
 やったー……?

「ん、なんか先輩に似てるってのも嫌な話ですね。これは封印です」

「あ、そだよねー……ごめんね?」
「いえいえっ! 先輩の真似なんてどう転んでも傷つく未来しかないのにやったわたしが悪いんですよー!」

 あははーと賑やかな笑い声が響く中、暗いオーラを纏う人物が一人。
 長机を挟んでわたしの向かいに座っている。
 んん、誰だっけこの人?
 声をかけようとして口を開いたまま虚空に視線を漂わせる。

「あれー? おっかしいなー……、なんで俺の心が抉れてくんでしょうか。つーか、お前、なに誰だっけこの人ー? みたいな顔で見てんだよ。白々し過ぎて逆に傷つかねぇよ」
「おお、流石先輩! なんでもお見通しですねー?」

 白々しい。
 本当に白々しい。
 喋れば喋るほど上っ面の気分は高揚していくのに、反比例するように隠された心は冷めていく。

 好きなのに、嫌。
 この嫌はなんなんだろう。
 なににたいする嫌悪なのだろう。

 わたしの気分がころころと変化を見せる。
 考えないように考えないようにと遠ざけても、いつのまにか浮かんでくる。
 ほんっと、めんどくさい……。

「なんでもは知らねぇよ、知ってることだけ」
「なんですかそれ。意味わかんないです、引きます」
「え、知らねぇの……?」

 はぁぁーっと盛大にため息を吐く。
 なんかわたしが悪いみたいなんですけど。

「自分が知ってるものを相手も知ってると思ったら大間違いですよ、先輩。そんな風に思って期待してたらきっといつか失望します」

 それは自分に向けた言葉だったのかもしれない。
 わたしなりにヒントを出したつもりだったのかもしれない。
 気づいて欲しいけど気づいて欲しくない。
 知られたくないのに知られたい。

 なんだこれ、わたしは先輩にどうして欲しいんだ一体。
 あー……、やだやだ。

「おお……なんだ、やけに真面目なこと言うな」
「わたしもたまには真面目ぶってみたくなるときがあるんですよー?」

 ふふーんと誇らしげにすると、訝しげな視線を向けられた。
 心の中を覗かれている気分になる。
 この瞳にはなにが見えているのか。
 わたしの思いは見えているのか。

 いや、見えていないのだろう。
 戻ってきた仮面は厚い。
 先輩と喋っていても綻びすら見せない。
 だから、きっと、見えてない。

  ****

 からりと晴れた日の放課後。
 いつのまにか生徒会室の前にいた。

 あれぇー?

 さっきまで名も知れぬクラスの男子と話していた気がするんだけど。
 どういうことなの……。
 目覚めたら会社にいました。
 みたいな。
 それなんて社畜ー?

 はぁ、ここでうだうだやってても仕方ない。
 まだ誰も来ていないようなので、ポケットに入れっ放しの鍵を使って錠を外す。
 すぱーんと勢いよく開けると、扉ははね返りすぐさま閉まった。

 あ、危ない、手挟むかと思った。
 痣が出来たら先輩に貰ってもらうしかなくなる。
 やだなにそれ、痣作ろうかなっ!
 なんか恥ずかしい子みたい。
 無意識に耳についたピアスを撫でる。

 頭の悪そうな思考を振り払い、キョロキョロと周りを見た。
 誰にも見られてない……よね?
 見られてたら恥ずかしいじゃ済まない。
 家で枕に突っ伏して悶え苦しむレベル。

 しかも、学校にいる間中見た人と出会わないように細心の注意を払わなきゃいけなくなる。
 運悪くばったりと出くわしてしまった日には、あっという声とともにぷっと吹き出され枕を濡らす。

 よし、誰もいないな。
 おーけーおーけー。

 ふーあっぶねーと額を拭い、改めて扉を開いて入室。

「……え?」


 一歩踏み込んで硬直。
 視界に飛び込んできた存在感ある紙束。
 嫌な汗が噴き出す。
 恐る恐る手に取り、一枚一枚確認してみる。

 保護者面談に伴う教室整備。
 歯科検診診察誘導、保健委員への説明及び歯の手入れについてのアンケート作成。
 育友会常任理事会のプリント作成。
 部員勧誘における問題行動の統制。
 各部活動GW期間中の合宿申請審査及び合否決定。
 新規部活動申請の申請書確認及び合否決定。
 GW期間中の街中見回り。
 GW期間後、指導対象生徒の指導及び指導後の報告書作成。
 五月生徒総会の主要動議内容決定及び各委員会への通達、議長の選出。
 etc.

「……なにこれ?」

 ちょっと待ってちょっと待って。
 え、ほんとなにこれ?
 なんか半分以上先生の仕事に見えるんだけど気のせいなの?

 保護者面談に伴う教室整備ってなに?
 掃除?
 机を教室の後ろに運んで廊下に椅子並べるだけだよね?
 いや、自分でやれよ。

 は?
 歯科検診?
 歯?
 保健委員への説明?
 いや、直接保健委員行って説明して来いよ。
 なんで生徒会通してんだよ。
 アンケート作成も保健委員がやれよ。


 育友会ってなに?
 育友会?
 え?
 常任理事会とかやるなら委員会あるんじゃないの?
 委員会のメンバーが自分で作るもんじゃないの?

 こいつらGW仕事する気なさそうだけど、なにするつもりなの?
 街中見回り?
 なんで他の生徒が遊んでるところを生徒が探し出して指導するの?
 わたしたちにGWはないの?
 バカなの?
 生徒指導を生徒がやってどうすんだよ。

 え、なにこれ、怖い。
 怖い怖い怖い怖い。
 部活関係と生徒総会以外全く関係ないんだけど。
 この学校大丈夫?
 本気で心配になってきちゃったよ。

 ぐぐぐっと力強く書類を握りしめていると、人の気配を感じて振り向く。

「あ、こんにちはー。今日もよろしくお願いしますねっ」

 そこに突っ立っていたのは副会長と書記ちゃんだった。
 なにやら瞳に戸惑いが浮かんでいる。

「……ん? どうしましたー?」
「あ、あぁ、いや……なんか殺気立ってたから。……今も」

 少し引き気味に言われる。
 おっと、苛立ちが隠しきれていなかったらしい。
 男子に引かれるというのは先輩以外では珍しい体験だ。
 別に体験したくもなかった。

「あっ、と……すいません」
「……いや、別にいいけど。それ、なに?」

 副会長が眉間に皺を寄せて紙束を指さす。
 もう分かっているんだろうけど、一応の確認ってやつだ。

「あー……いつものあれです」
「だよな、はぁ……」

 いつも堅苦しい顔がより堅くなっている。
 書記ちゃんもどこかお疲れ気味だ。

 しかし帰るだの断れだのとは言い出さない。
 わたしが断れないのを知っているし、自分たちも断れないから。
 わたしもわたしなりに頑張っていると分かってくれているから。

 意欲的に仕事に取り組んでいる相手にたいして文句を言う人たちではない。
 最近はそこそこうまくやってるし。

 だからこそ、この意味不明な仕事を馬鹿正直にやってやるつもりは微塵もない。

「わたしちょっと出てくるんで、この部活関連の会議と生徒総会の動議についての会議どっちでもいいんで進めててもらってもいいですかー? 会議内容は議事録読んで把握します」

 はい、と副会長の手に書類を渡す。

 会議に会長が出ないというのも少し問題だけど、書記ちゃんが有能だから議事録を読めばしっかり会議内容の把握は出来る。
 それならわたしは別のことをやる。
 もっと大きな問題を解決しなきゃいけない。

「……分かったけど、会長はどこへ?」

 怪しむような視線。
 しょうがないしょうがない。
 奉仕部に入り浸っているわたしが悪いのです。
 しかし、今回はガチ用事なので瞳をしっかりと捉えて答える。

「ちょっと職員室へ。このバカげた仕事の返品作業してきまーす」

 にこーっと笑みを向けると後退りされた。
 悲しい。
 なんだろう、そんなに怒ってる風に見えるかな。
 言いようのない怒りに駆られてるのは事実だけどさ。
 ちょっと酷いです。

「ではでは、あとよろしくですっ」
「う、うん……」

 苦笑いを浮かべている副会長を横目に生徒会室を出る。
 一直線に職員室へ、といきたいところだけど、わたし一人が行ったところで適当にあしらわれるのがオチ。
 だから、最終兵器を求めてわたしは足を特別棟へと向かわせる。

 扉の前でふーっと息を吐き、誰に何を頼むかを再確認したのち、扉を開けた。

「こんにちはー!」

 見慣れた面子に挨拶をしながら足を進める。

「やっはろー!」
「いろはさん、こんにちはですーっ!」

 似たようなテンションで挨拶を返してくる結衣先輩と小町ちゃん。
 残る雪ノ下先輩も微笑み混じりに挨拶をしてくれた。

「こんにちは、一色さん」
「よう。なんか今日早くないか?」

 おっと、先輩を忘れてた。
 え、先輩がわたしを無視しなかった?
 珍しい。
 こんなことが珍しいとかすっごい悲しい。
 なにこの人、いつもどんだけ失礼なの?
 びっくりだよ。

「そうなんです! 今日はちょっと依頼があるんですよー」

 言うと、先輩の顔が曇る。
 この前は信じられないくらいやる気だったくせに。
 小町ちゃんのお願いじゃないとやる気が出ないとか、マジシスコン。

「先輩キモいです」
「いきなり罵倒かよ……」
「あっ……いや、今のはつい口からこぼれてしまったというかですねー」

 ついついね。
 うん、よくあるよねー。
 しょうがないよねー。

「え? お前いつもそんなこと考えてたの? つーか、全然フォローになってないし」
「は? いつも先輩のこと考えてるわけないじゃないですかなんですかバカなんですか独占欲ですかちょっとくらい他のことも考えさせてくださいごめんなさい」
「いや、だからなんでそうなるの? おかしくない? え、もしかして俺がおかしいの?」

 えー? あれー?
 と鳴き声を上げている先輩を無視して、たった今荒くなった呼吸を落ち着かせる。
 そして、依頼人として奉仕部の面々の前に立った。

「小町の初仕事ですねーっ! なんなりと!」

 目をキラキラと輝かせて既に承諾する気満々な小町ちゃん。
 その横で結衣先輩がなんだろーと首を傾げ、雪ノ下先輩がこめかみを押さえる。
 苦労が伝わってくる。
 雪ノ下先輩ふぁいとです!

「はぁ……小町さん。まずは依頼内容の確認。その後受けるか否かを検討し、受けると決まってから動き出す。内容も聞かないうちからあまり安請け合いしてはいけないわ」
「は、はーい……ごめんなさいです」

 雪ノ下先輩の諌めるような口調に、あぅぅ……と身を縮こまらせる。
 ていうかさっき初仕事とか言ってたけど、お兄ちゃんのお願いはノーカンなのね。
 まあ、わたし頼んでないしなぁ。

「それで? 依頼というのは?」

 真っ直ぐ凛とした瞳を向けてくる。
 今回の依頼は別段難しいものじゃないし、日を跨いだりするわけでもない。


「依頼、というか……お願いに近いんですけどー……。雪ノ下先輩に職員室まで同行してもらいたいんです」

 簡単なお仕事だ。
 拍子抜けしたのか、雪ノ下先輩は目をぱちくりさせる。

「……同行? 理由は?」
「そうですねー……。まずは、これ、見てください」

 持ってきた紙束を机の上に置く。
 細くしなやかな指が汚い紙束に触れる。
 そんな紙くず触らせてしまってごめんなさい。
 こんなものは書類と呼ばない。
 大人の汚い部分が寄せ集まった紙くずだ。

 一枚一枚確認していく。
 重ねるごとに雪ノ下先輩の表情は曇っていった。
 結衣先輩と小町ちゃんも横から眺める。
 その顔も当然のように険しいものになっていた。

 最後の一枚まで目を通し、雪ノ下先輩は紙くずを机に置いてふぅとため息をつく。
 それに追従するように結衣先輩が口を開いた。

「これ……生徒会の仕事なの?」

 疑問形の口調ではあったが、結衣先輩も分かっていて聞いているのだろう。
 じゃじゃーん、ここで問題ですっ!
 これは生徒会の仕事でしょーかっ?
 正解は、絶対に違いますっ!

 シンキングタイムとかいらない。

 論理的にでも倫理的にでも道徳的にでもご自由に考えて下さって構わないが、真実はいつも一つである。
 いや、道徳的に考えたらそうならないのかもしれなかった。

 あれ、答えは一つじゃないとか言われるし。
 いやでも、これは圧倒的にモラルが欠如してるので、やっぱりこの答えに限っては一つ。

 絶対に間違っている。

「いや、違いますよー。全然生徒会の仕事じゃないです」
「だ、だよねー……あはは」

 また怒りが滲んでしまっていたのか、結衣先輩の笑い声は乾いたものだった。
 ひそひそと声が聞こえてきたのでそちらに目を向けると小町ちゃんが先輩に耳打ちしている。

「お、お兄ちゃん、総武高ってこんなに酷いの……?」
「は? いや、俺見てないから知らん……なんかハブられてるみたい」
「お兄ちゃん? 今、小町真面目な話してるんだけど?」
「……え? なに? そんなに酷いの? いや、この前のも結構酷かったけど……」

 先輩の言葉を耳ざとく聞いていたのか、雪ノ下先輩が結衣先輩に、結衣先輩が小町ちゃんに、小町ちゃんが先輩にと紙くずを回す。
 ようやく手に入った紙くずを……なんかこの言い方だと先輩が紙くず欲しがる変な人みたいだ。
 なにこの人、そんなに紙くず欲しかったの?
 親近感湧いちゃったのかな。


 そんなことを考えてるうちにも、変な人代表な先輩はパラパラと目を通していく。
 最後にとんっと机で紙くずを揃え、わたしに返してくる。
 受け取りたくもないが受け取らないわけにもいかないので、渋々受け取る。

「まあ、あれだな……、これは流石にないな」
「ですよねー……?」

 げんなりとした表情になるとかわいそうなものでも見るような目で見られる。
 わたしってば本当かわいそう。

「んで? 依頼はこの現状をなんとかしたいってとこか」
「は?」

 なに言ってんだろこの先輩……。
 わたしの話聞いてたのかな。

「いや、さっき言ったじゃないですか。依頼は雪ノ下先輩に職員室まで着いて来てもらうことです」
「それになんの意味があるのかしら? 私が先生方に説得を試みればいいの?」

 言って、真剣な面持ちのままわたしに目を合わせる。

「いえいえ、それは自分でやりますので雪ノ下先輩は基本的に後ろに立っていてもらうだけで構いません。だいたいそれだと奉仕部の理念に反しているじゃないですかー」
「え、ええ……それはそうなのだけれど、私がやった方が」

 雪ノ下先輩も思うところがあったのだろう。
 直接文句を言ってやりたいという気持ちが伝わってくる。
 けれど、そんなことは頼んでいない。
 だから、雪ノ下先輩らしからぬ言動を遮り強めの口調で言う。

「自分で出来ます」

 室内がしんと静まりかえる。
 わたし以外の誰もが驚きを露わにしていた。
 それもそうだろう。
 きっと、前のわたしなら言わないセリフだ。

 ここで甘えて雪ノ下先輩に全てを任せるのが、今までのわたし。
 でも、そのままじゃいけないと思ったから。
 自分で出来ることは自分でやりたいから。

「そう……」
「はい。とは言っても雪ノ下先輩にも少し話してもらいますが」
「と言うと?」
「雪ノ下先輩には奉仕部の部長として、この前の仕事に奉仕部が介入したという事実を述べてもらいます。それ以外は本当に立っていてもらえれば充分です」

 そこまで言うと、雪ノ下先輩は得心がいったようだ。
 先輩も軽く頷いている。

「そういうことね……」
「なになに? どういうことなの?」

 結衣先輩は理解しかねているらしく、雪ノ下先輩とわたしの顔を交互に見て説明を求める。

「つまり、生徒会だけでは処理しきれていないという現状を先生方に分かってもらうということよ。この仕事の押し付けは前期に生徒会の仕事が少ないから回されている。それなら、許容量を超えた仕事は受ける必要はない」
「へ、へー……」

 本当に分かったのかよく分からない返事をする。
 まあ、結衣先輩に詳しく説明する必要もない。
 会議を任せてきてしまったし、早く行きたい。

「そういうことです。まあ、全部返品するつもりですが」

 にこっと笑うと、雪ノ下先輩にマジで? と視線で問われる。
 勢いよく頷くと雪ノ下先輩は目を俯かせて少し逡巡し、再び顔を上げた。

「他にも仕事があるのかしら?」
「正解ですっ! 生徒総会関連のものと部活関連のものがあります。加えて、校外学習の事後処理と職場見学の準備。これだけあれば他の仕事を断る理由として充分じゃないですかー?」
「……そうね。そもそもが生徒会の仕事ではないのだし」

 うんうん頷き、雪ノ下先輩は立ち上がる。

「その依頼、受けるわ。さっそく行きましょう」
「はいっ!」

 颯爽と出て行く雪ノ下先輩を追いかける。
 去り際に「用心棒かよ……」というつぶやきが聞こえた気がしたが、無視した。

 職員室へ向かう途中、雪ノ下先輩が再び口を開く。

「由比ヶ浜さんや小町さん、比企谷くんを呼ばなかったのは……単純に必要ないからかしら?」
「あー……、まあ、それが一番の理由ですねー。別に何人もいる必要ないですし」

 ここで一番と言ってしまったのは失策だったかもしれない。
 当然、雪ノ下先輩はそこを追求してきた。

「二番もあるのかしら?」
「え、あ、まあ……」
「教えてもらっても?」
「……怒らないでくださいよー?」

 ちらりと雪ノ下先輩の顔を窺うと、少し不機嫌そうな顔をしていた。
 しかし、なんでいきなりそんなことを……あぁ、先輩の声聞こえてたのかも。

「それは聞いてみなければ分からないわね」
「ですよねー……。まあ、いいですけどー。その、ぶっちゃけ来てもらっても邪魔というか……雪ノ下先輩の雰囲気が柔らかくなってしまうんですよねー」

 雪ノ下雪乃という人間は、自分に親しくしてくる人間に滅法弱い。
 普段は冷酷な笑みも結衣先輩が話しかければ優しい笑みに変わる。
 わたしは馴れ合いが心地よくなってしまった彼女を求めているわけではない。

「それは……いつも私が冷たいということかしら?」

 そう言った雪ノ下先輩はどこかさみしげだった。


「まあ、他の生徒から見ればそうなんじゃないですかねー……? わたしも最初は怖かったですし……」
「そ、そうなの……」

 目に見えて落ち込む。
 だが、雪ノ下先輩も分かっていてやっていたはずだ。
 敵意を近づけないように。
 近づいてくる者を容赦なく叩き潰せるように。

「今はその怖さを頼りにしてますよー? 雪ノ下先輩の有名度は校内随一ですし、そもそもが総武校一の秀才。先生もあまり強いことは言えないでしょう」
「用心棒、ね……よく言ったものだわ」

 やっぱり聞こえてた、先輩のバカ。
 用心棒なんて人聞きの悪い。
 わたしはただ後ろに雪ノ下先輩が控えているという事実が……やっぱり用心棒か。

「……ごめんなさい」
「はぁ、別にいいわ。私だってもともとはそのつもりでやっていたのだし。それに……」

 そこで言葉を区切る。
 そんなところで止められては気になるので、続く言葉を催促してしまう。

「それに?」
「その、こ、後輩の頼みだもの……」

 いつも通りの仏頂面だったけれど、頬は少し赤らんでいた。
 それはやっぱり雪ノ下先輩らしからぬ態度なんだろう。
 けど、たまにはこういうのも悪くない。


 ていうか、わたしって意外にも受け入れられてたのか、なんか嬉しい。
 にまにまとした笑みを浮かべていると、雪ノ下先輩が軽く咳払いをして立ち止まる。

「着いたわね」
「そうですねー……」

 職員室の扉に手をかけてふうと息を吐く。
 大丈夫。
 出来る。
 自分に言い聞かせて、扉を開いた。

「失礼しますー」

 職員室に入ると、まずコーヒーの匂いが出迎えてくれた。
 目標へと目をやると、楽しくおしゃべりしながらコーヒーを飲んでいる。
 わたしに仕事を押しつけて自分は歓談に夢中とはいい度胸だ。

「……あの人です」

 そっと雪ノ下先輩へターゲットを伝える。
 確認すると同時に眉間に皺が寄った。

「……そういえば、担当顧問が変わっていたのだったわね。なるほど、だからあんな……」

 離任式で前任が他校へ行ったのは知っていたようだ。
 前任との面識はあったらしく、仕事の押しつけは新しい顧問によるものだと推測する。

 それはその通りだ。
 事実、春休み前はたいした仕事があったわけでもないのにそこまで仕事が回ってくることはなかった。


 今回は運が悪かった、悪い先生に当たってしまったと言えばそこまでだが、はいはいと従ってやるつもりは毛頭ない。

 しかしあいつのせいだけとは言えない。
 他の教師の仕事まで回ってきているからだ。

 あいつが安請け合いして流しているのだうが、あの態度を見るに生徒会に頼んでいるのは他の先生だって容易に推測できるはず。
 ならば、それに感化されてよしとしてしまっているこの学校の教師全体に問題がある。

 今回でその流れを断ち切る。

「行きましょう」

 雪ノ下先輩の声色は氷点下にまで下がっていた。
 いつも正しくあろうとする雪ノ下先輩には刺激が強かったらしい。
 まあ、この場合に限っては、いい発破剤になったと思っておこう。

「はい」

 強い歩調で担当顧問の元へと向かっていく。
 職員室がそんなに広いわけもなく、辿り着くのに要したのはほんの数秒だった。

「お話中に失礼しますー。先生、少しお時間よろしいでしょうか?」

 目の前まで来てそう告げる。
 丸々とした体型にふてぶてしい顔つき。
 髪の毛はあまり肥えてない。

「おお、一色か。なんだ? なにか用か?」


 わたしに顔を向けて心底不思議そうに聞いてくる。
 めっちゃ腹立つ。
 先生は雪ノ下先輩も目に入ったのか、少し戸惑うような顔になった。
 やっぱり、先生にも雪ノ下オーラは効くらしい。

「えーっと、まあ、用ってほどのことじゃないんですけどー」

 間延びした声で言う。
 そんなわたしの態度が癇に障ったのか、先生は眉を顰めた。

 気が短いなぁ、毛も短いし。
 なんなら足も短いぞこの人。
 ダックスフンドか。
 いや、ダックスフンドって結構細身だし……豚?
 頭も肌色だし豚だな。

「はやくしろ。俺は忙しいんだ」

 急かすように言う。
 思わず吹き出してしまいそうだった。
 忙しいって、デスクの上になにも置かずにそんなこと言われても信憑性0なんですけど。

「申し訳ありませんー。では……」

 そこで一旦言葉を区切り、ばんっと手に持っていた紙クズをその綺麗なデスクに叩きつけてやった。
 いきなりのことに目をぱちぱちと瞬かせる。

「これ、生徒会では承りかねます。ご自分でなされてはどうでしょうか?」
「……は?」


 ぽかんと口を開けて固まる。
 しばしの間が空き、ようやく事態を飲み込んだのか豚は鳴き声を荒げる。
 躾しっかりしとけよ。

「どういうつもりだっ! 正当な理由があるんだろうなっ?」

 そのセリフは想定済みだ。
 なんのために雪ノ下先輩を連れてきたと思ってる。

「現在、生徒会では生徒総会関係と部活関係で複数の仕事が行われております。加えて、『生徒会とは関係のない仕事』が二件」

 生徒会とは関係のない仕事、のところを強調する。
 ぶっちゃけ、この時点でおかしいのだ。
 そんなものやってやる理由はない。

「先日頼まれた校外学習と職場見学です。これ以上は生徒会の手には負えません。それにこれ、全て生徒会管轄外の仕事ですよ? 一体先生方はなにを?」

 デスクに置かれたコーヒーをちらりと見て、ふんっと嘲るように笑う。
 挑発は最大の交渉手段だと思う。
 冷静でない相手との交渉は楽に進む。
 ドラマかなんかでやってた。

 しかし、効果がなかったようだ!

「俺は俺で忙しい。今は休憩していただけだ。これは生徒会にやってもらう」

 偉そうに椅子にふんぞり返り、腕を組んだ状態で鼻を鳴らす。

 ほんと豚だなこいつ。

「いや、ですからー。生徒会も今は手一杯なので、無理です」
「この前ははやく終わらせただろ。今回も出来るはずだ。出来ないと思っていてはいつまでも出来ない。やろうと思う意志が大事だ」

 為せば成る為さねば成らぬ何事も。
 そんな有名な言葉を少し自分の言葉に変えていい事言ったみたいな顔されても困る。
 だいたいなに一ついい事言ってないし。

「根性論で語らないでください。現実を見て、ご自身の計画性のなさを認識した方がよろしいかと。それともなんですか? わたしたち生徒会がやろうと思ってやれば、もし出来なかったときの責任を取ってもらえるんですか? それでよければやりましょう。任せてください。絶対に間に合いませんが」

 言ってやると、豚は渋面をつくる。
 ここまで言われては任せられないだろう。
 わたしがやろうと思ってやったかなんて、生徒会室に来ないこいつには分かりやしない。

 であれば、わたしの言葉だけが真実。
 わたしが出来なかったと言えば、それはどうしても出来なかったのだ。
 自分が怒られることになる。

「だが、この前は……」

 この前は、この前はと渋る。
 前回出来たからと言って今回も出来るなんて思わないで欲しい。

 今回出来なかったものが次回出来るようになることがあるように、前回出来たものが今回出来ないということもある。


 それがもし同じメンバーなら泣き言だろう。
 疑いようもなく甘えだろう。
 だが、違う。

 こいつは知らないからそんなことが言える。
 いつだって、どこでだって、誰かが手伝ってくれるなんて保証はない。
 いつだって、どこでだって、これからは、わたしは自分でやりたい。

 視線を半歩後ろに下がっていた雪ノ下先輩に向ける。
 雪ノ下先輩は頷いてわたしの隣に立った。

「横から申し訳ありません。三年の雪ノ下雪乃です。前回の件ですが、早期に終わらせることが出来たのは、私が部長を務める奉仕部の関与があったからです」

 冷酷に響く。
 字面だけ見れば、ただ淡々と事実を述べているに過ぎないはずなのに、それを聞いた者は身を竦ませた。
 冷たい声音は職員室を一瞬で静寂に包む。

 ごくりと、誰かが息を飲む音が聞こえた。

「そ、そうなのか……?」

 恐る恐るといった様子でわたしに真偽を問う。
 そんな臆病な彼にわたしははっきり現実を突きつけた。

「はい、その通りです。奉仕部の助力がなければ仕事は終わらなかったかと」

 嘘は言ってない。
 本当に、奉仕部の助力がなければ仕事は(早期に)終わらなかった。


 雪ノ下先輩にじと目で見られる。
 あ、悪意はないんですよー?
 本当ですよー……?

「……こほん。そもそも、これとか全く生徒会関係ないですよねー?」

 机に置かれた紙クズのうちの一枚。
 生徒指導関連のものをとんとんと指で叩く。

「そ、そうか……だが、俺も忙しくてなぁ。悪いが今回も奉仕部に手伝ってもらえないか?」

 おぉ、そうくるのか、お前。
 まさかそのパターンがあるとは。
 ていうか、生徒指導の件は無視しやがった。

 やはり先生と生徒では雪ノ下オーラの効果に程度の差が出るのだろうか。
 それとも転任してきたばかりだからか。
 どうしようか、と考えているところで、ガラガラと職員室の戸が開いた。

 静まったままの室内にその音はよく響く。
 つい視線を扉へと向けると、そこには馴染み深い顔があった。

「はぁー……疲れた。……え?」

 一歩踏み込むと同時に異様な雰囲気を感じ取ったのか、その人物は長い黒髪を靡かせてくるりと方向転換する。

 逃がしません。
 悪いけど、ちょっと利用させてもらおう。

「平塚先生っ!」


 名を呼ぶと、平塚先生はぴたっとその足を止めて首だけこちらに向ける。

「んー? 一色じゃないか、なにをしているんだ?」

 わたしの姿を認識して、つかつかとこちらへ歩み寄ってくる。
 あまり近づいて逃げられないのはかわいそうなので、到着を待たず質問を投げかける。

「先生ー。生徒指導を生徒がやるのって問題じゃないんですかねー?」
「は? なにを言っているんだ君は。そんなもの問題に決まっているだろう? 生徒を指導するのは我々教師の役目だ」

 凛とした風体で堂々答える。
 平塚先生はやっぱりまともだ。

「ありがとうございますー! それだけ聞ければ充分です。引き止めてしまってすみません」

 暗に出て行った方がいいと伝える。
 その意図を察してくれたのか分からないが、んーと首を傾げて、じゃあと平塚先生は職員室を後にした。
 平塚先生のおかげか職員室は再びざわめきを取り戻した。

 改めて豚に向き直り、さて、と話を切り出す。

「だそうですが? わたしとしても普通はそうだと思いますが。そこのところ先生はどうお考えで?」
「ぐっ……」

 忌々しげに扉を睨みつける。
 平塚先生ごめんなさい。
 もし押しつけられたら、お詫びにラーメン屋にでも付き合ってあげよう。

「ま、まぁ、生徒指導の件はいい。というか、なんで生徒会の方に行っているんだろうな? ふむ……混ざってしまっていたようだ」

 なっ、こいつ!
 なんて白々しい……本当に人間か。
 いや、豚だった。

「ふーん……そうですかー。では、そういうことで。他の件に関しても生徒会で承るつもりはありませんので」

 さっと踵を返して歩みを進めようとすると、引き止める声がした。

「待て!」
「はぁー、なんですかー? まだなにか?」

 心底嫌そうな顔をして尋ねると、ばっと目の前に紙束が差し出される。
 よく見れば文字が書いてあった。
 これ、紙クズだ。

「一つ減ったんだ。なら出来るだろう」
「……はい?」

 なに言ってんだこいつ。
 出来ないから持ってきてるんですけど。
 頭悪いのかな。

「ですから、手に負えないと先ほど申し上げましたよねー?」
「なんでだ? 奉仕部が手伝えば出来るだろう」

 ああ、そんなこと言ってたな……。

「いや、奉仕部の理念はあくまでサポートなんで。前回はやむなく携わって頂いただけであって、毎回そういうわけにはいきません」

 明確に拒否の姿勢を貫く。
 が、まだ諦めていないようだ。

「なら手伝え。どうせ奉仕部なんてたいして依頼が来るわけでもないのだろう? そんな部の存在を認めるわけにはいかない。実績を残すためにも生徒会の手伝いをしておいた方がいい」

 なんだこいつ。
 ほんと、なんなのこいつ。
 なんでそこまで頑なに拒否するの。
 どこまで腐ってるんだよ……。

 これが大人?
 楽を覚えるのが大人になるってことなの?
 違う。
 違うはず。

 平塚先生だって、他の一部の先生方だって、わたしのお母さんだって、毎日、毎日、しっかり働いてる。
 嫌だ嫌だと思っていても、それがやらなきゃいけないことだから。
 自分の義務を果たして、それで生きてる。

 それなのに。
 それなのに、なんなんだこいつは。
 生徒に仕事を押しつけるのを当たり前だと思ってる。
 必死に働いている人を、真面目に頑張っている人をバカにしてる。

 そのことがわたしには許せない。

 わたしだって、頑張る方向性を変えただけでいつだって頑張ってきた。
 可愛く。
 みんなが求める自分になるために。


 奉仕部に手伝ってもらうにしても、出来ることはやってきた。
 なんでそんな。
 そんな適当に生きていられるのか分からない。

 なんかイライラしてきた。
 次から次へと想いがこみ上げてくる。
 嫌いだ。
 わたしとは絶対に合わない。
 こういうやつは嫌いだ。

 なんて言えばいい。
 考えると、横でぐっと拳を握りしめる音がした。
 見れば雪ノ下先輩の拳は固く握られていて、ふるふると震えている。
 怒っていた。
 それでも、黙ってくれている。
 わたしが「自分で出来る」と言ったから。

 なら、どうする。
 落ち着け。
 怒りに任せたってたいしたことは言えない。
 わたしにはわたしなりの――

「ほら、早く受け取らんか。俺は忙しいんだ」

 相も変わらない傲岸不遜な態度に、何かの切れる音がした。
 一体、何が切れた音だったのだろうか。


「はぁ? あんた、頭おかしいんじゃないの?」


 それは誰の言葉だったろう。
 三浦先輩の言いそうな言葉であり、雪ノ下先輩の発しそうな声音で、結衣先輩の声のようによく通り、平塚先生の態度に似た威圧感、そしてどこか先輩の持っていそうな憤ぎりが感じられる。


 怒気が職員室を冷気で包み、わたしも先生も雪ノ下先輩もが動きを止めた。

 そして、思い出したようにわたしの口は動き出す。
 圧倒的に。
 つけいる隙もなく。
 次から次へと言葉が飛び出していく。

 気づけばわたしは雪ノ下先輩の腕を掴んでずかずかと職員室の扉へと足を進めていた。
 ばんっと勢いよく扉を開ける。
 一歩、廊下に踏み出し、去り際に一言。

「仕事しろっ!」

 ぴしゃりと扉を閉めると、息が切れているのが分かった。

「はぁっ……はぁっ……」

 や、やっちゃったー。
 なに言ったのか全然覚えてないけど、すごいことを言っていた気がする。
 やっと身体の主導権が戻ってきたことに安堵し、足早にその場を離れた。

 職員室から離れて怒りの向くままに歩いていると、雪ノ下先輩から戸惑いがちに声をかけられた。


「い、一色さん……その、手を……離してっ……くれないかしら?」
「あっ! す、すいませんっ!」

 ぱっと手を離して雪ノ下先輩を見ると、肩で息をしている。
 そう言えば体力ないとか言ってたっけ。
 階段とか駆け上がって来ちゃったし。
 ていうか、ここどこ……と、周りを見回す。

 廊下、と言ってしまえば平坦だが、目の前には階段が続いており、その先には机が積まれている。
 どうやら、屋上に続く階段の前まで来ていたようだ。
 いつかの秋にこそこそと登った、特別棟の屋上へ続く階段。

 あのとき彼は、なにを思ってあんなことをやったのだろうか。
 その真意はいまだしれない。
 隣で佇む彼女なら、あるいはなにか知っているのかもしれない。
 が、そこに踏み込む勇気は出なかった。

「すいません……戻ります。ありがとうございました」

 大げさにお辞儀をして踵を返すと、不意に制服の裾が引かれた。
 なにかと思い振り返れば、そこには柔らかな微笑みをたたえる雪ノ下先輩の姿があった。

「……一色さん。少し、お話をしましょう」

 落ち着いた声音は自然とわたしを頷かせる。
 流麗な動きで階段を登っていく雪ノ下先輩に引かれるように、わたしは一つ目の段を登った。


  ****

 屋上に踏み入ると一陣の風が春の香りを運んでくる。
 暖かくなってきた四月中旬。
 とは言え、もう夕方だ。
 日は完全に沈みきっていないが、薄暗い。
 当然、身体に吹きつけた風は冷たく、思わず身体をぶるりと震わせてしまう。

 部活の行われている校庭を照らす明かりが、屋上の真ん中付近で立ち止まった雪ノ下先輩を微かに照らす。
 それはスポットライトと言うにはいささか心もとない。

 薄暗さと照明の灯りにたいした差はなく、雪ノ下先輩が浮き立つこともない。
 だから、ここでこれから起きることが、フィクションじみた青春劇ではないことを実感できた。

 雪ノ下先輩は再び吹いた柔らかい風に髪を靡かせながら、こちらを振り向く。
 なにか達観したような笑みを浮かべて口を開いた。

「あなたも怒るのね」

 言われて先のことを思い出し、恥ずかしさがこみ上げてくる。
 なにやってんだろ、わたし。

「それは……はい。わたしも、人間ですからねー……すいません」

 結果的に巻き込んでしまったので、雪ノ下先輩ものちのち怒られることになるだろう。
 なんだか申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

 時価数千万の陶器にひびを入れてしまったような絶望感が襲ってくる。

「別に怒っているわけではないわ。私も……その、なんて言えばいいのか分からないのだけれど……。そうね、すっきりした、と言うのが適切かしら」

 ふ、と呆れたようにため息を吐く。
 少し間を置いて恐る恐る言葉を発した。

「あれは、私には出来れば勘弁して欲しいわね」
「えっ! いやいや、やりませんよっ! わたしが言い負かされるのが目に見えてるっていうか……だいたい、雪ノ下先輩に怒る理由がないですし!」

 慌てて言葉を返すと、少し考えるような仕草をして首を傾げる。

「そう、かしら? あれは、正直私でも勝てる気がしなかったのだけれど。あなた、正論しか言わないし」
「そ、そうだったんですか? その、あんまり自分の言ったこと覚えてないっていうか……」

 正論しか言わないって、多分思ったこと全部吐き出しただけだと思うんだけど。
 過大評価にもほどがある。

「そう。でも、凄かったわよ? 仕事とはなんたるかを克明に語っていたもの。少し感心してしまったわ」
「あ、ありがとうございます……? で、でも、恥ずかしいのでもうこの話は終わりでお願いしますー……」

 雪ノ下先輩はいたずらっぽい笑みを見せる。
 分かっててやってるでしょこの人。
 そうね、となにを言おうか思索にふける。
 わたしを見たかと思うと、ある一点で目を留めた。

「それ、つけているのね」
「え、あ、まあ、せっかくもらいましたから……」

 なんとも抽象的な言葉だったが、それがなにを指すのかはすぐに分かった。
 少し気恥ずかしくなって、ピアスを撫でる。
 誕生日プレゼント。
 先輩からの、だ。

 身につけるものとか重いですよー、なんて言っちゃったけど、やっぱり嬉しい。
 これは先輩が恋愛に疎いから起きたサプライズ。
 いや、でも、先輩ならそういうトラウマもありそうだよなー。
 なんだろ、そう考えると……小町ちゃんかな?
 どちらにせよ嬉しいことに変わりはない。

「ふふっ、変わらないのね、あなたも」

 その言葉に少し戸惑う。
 自分なりに変わったつもりでいたから。
 いや、雪ノ下先輩が誰かを変わっていないと思っていたことに、なのかもしれなかった。

「そ、そうですかねー……」

 自然と顔を俯かせてしまう。
 優しい声は再び紡がれた。

「そうよ。変わらない……、変わっていないのよ、誰も」


 胸が抉られるような気分だった。
 一体、この人はどこまで分かっているのだろうか。
 ふと、そんなことを考える。

「そう、ですか。ちなみにー、どこらへんが……ですかねー?」
「そうね、意地っ張りなところかしら?」
「うっ……」

 もう全て見抜かれているらしかった。
 しかし、それでもあの頃とは変わったと自分では思っていただけに、なんだか悲しい。

「彼に……、比企谷くんの口車に乗せられてしまう人は大抵意地っ張りよ。ソースは私」

 続けてつらつらと人物を挙げていく。
 知っている人も、知らない人もいた。
 きっと、それが先輩の、先輩達の救ってきた人達なのだろう。

「変わってしまったと、そう思った?」

 その問いに頷きで返事をする。

「そう。それなら……それはきっと、真似をしているだけだわ。誰一人、変わった者はいないのだから」

 雪ノ下先輩が見上げた空は曇っている。
 時間が時間だし鼠色だ。
 これが綺麗な夕景ならあるいは嘘くさいと感じられたのかもしれない。

 この場にはなにもかもがなかった。
 舞台も役者も機材も足りない。
 演じることなんて出来ない。
 雰囲気に流されることもない。
 ただありのままの真実しかなかった。


「真似……?」
「そう、真似。私も彼も彼女も、足りないものがあって、真似をすることでそれを補おうとしている。由比ヶ浜さんは私と比企谷くんを、比企谷くんは私と由比ヶ浜さんを、私もきっと由比ヶ浜さんと比企谷くんを真似ている……」

 なんとなく、言いたいことは分かった。
 それはもしかしたら誰でもそうなのかもしれない。

「真似たいわけではないし、きっと、いいものでも、ないのだけれど……。わたしはそれが分かっていて尚、止められない」

 意識的にしろ、無意識的にしろ。
 誰だって自分にないものを求めてる。
 いつだって。
 だからそれを持っている人に惹かれてしまう。
 わたしが先輩に惹かれたように。
 きっと、わたしのもただの真似事だった。

「でも、人はそう簡単には変わらないし、変われない。真似をして表面上は取り繕えても、その実本質はなにも変わっていないのよ……」

 本質、それは一体なんなのだろうか。
 わたしの本質とはなんなのだろうか。
 そして、彼女の本質とは。

 分からないものを変えることは出来ない。
 自分を変えるには、まず自分を理解しなければいけないのかもしれない。

「変わると一口に言っても、成長と変化は違う。誰かの真似ばかりして、それではまるで妖怪変化よ。狐の化かしと変わらない。生まれてからずっと……真似をしてきたから分かる」


 驚きは隠せなかった。
 雪ノ下先輩が一体今まで誰を真似てきたのか。
 結衣先輩と先輩以外の誰かの存在。

「……誰の、ですか?」

 聞くと、雪ノ下先輩は虚空を見つめたままつぶやいた。

「姉さんよ。私はずっと、姉さんの真似事をしてきた」
「お姉さん、ですか」

 雪ノ下先輩のお姉さん。
 はるさん先輩かー。
 真似をしてきたということは、はるさん先輩は雪ノ下先輩にはないものを持っているということになる。
 上位互換だと思えばいいのか。

「まあ、姉さんの話はいいわ……、あまり考えたくないし。あなたの見てきた比企谷くんは変わっていない。奉仕部も変わっていない。それだけ分かっててもらえればいいの」
「そうですかー……」

 そう言われてしまえばそう答えるしかなくなる。
 そしてまたしても雪ノ下先輩は核心をついてきた。

「それと。一色さん、言わなければ伝わらないこともあるわよ」

 逃げてきた。
 ずっと、怖くて。
 手放したくなくて。
 その事実から目を背けてきた。
 それを今、言われてしまった。


「これは由比ヶ浜さんの言葉なのだけれど、『言ってくれなきゃわかんないことだって、ある』らしいわ……」
「分かってます、分かってますけどー……」

 それが出来れば苦労していない。
 なにもかも捨てる覚悟で、全てを吐き出せば楽になれる。

 でも、そのあとに残るものが本当になにもなかったとしたら。
 そのときわたしはどうすればいい。
 たらればなんて考えたらキリがないけど、それを考えてしまう。
 だいたい先輩だって……言わないときあるし。

「私はそのとき『あなただって言わなかった』と言ってしまった。でも、今はこう思う。言わなかったからが言わなくていい理由にはならない、と」

 なんでもお見通しらしい。
 それは既に経験したからなんだろうか。
 分からないけれど、その言葉には妙に信憑性があるように思えた。
 それでもやっぱり踏ん切りはつかない。
 だって、でも、そんな言葉ばかりが思考を埋める。

「『言われても分かんないことだってある』」

 どきりとした。
 どこかの先輩が言いそうな言葉だった。
 その予想は当たっていたらしい。


「これは、比企谷くんの言葉ね。その後にはあなたも知っているように、彼は『本物が欲しい』と言ったわ」

 それは聞いていた。
 言わなくても分かるなんてものは幻想で、それでもと続いたセリフ。
 それがなんなのかわたしには分からない。
 分からないから欲しいのかもしれない。

「私には分からないわ。まだ、分からない。きっとあなたもそう……違う?」
「そうですね……分からないです、私にも」

 正直に伝えるとやはり雪ノ下先輩は笑う。
 そうよね、と微かな声でつぶやいて、またなんともなしに空を仰ぐ。

「もしかしたら、比企谷くんには言っても分からないのかもしれない。彼は鈍い、というよりかは……そうね、捻くれているから」

 その通りだった。
 先輩は捻くれている。
 だからきっと、ありのまま真実を伝えてもそれが真実だと受け止められない。
 疑って、裏を探って、納得してくれない。

「それでも……いえ、だからこそ」

 雪ノ下先輩はそこで言葉を区切る。
 その先が、今の雪ノ下先輩自身がわたしに贈る言葉。
 改めてわたしを捉えたその真っ直ぐな瞳を見返す。

「言わなければ絶対に伝わらないわよ」

 そうだろう。
 それはその通りなんだろう。
 言わなくても分かるなんて。
 そんなものがもしあったとしても、わたしと先輩はそんな関係には至っていない。
 それならばやはり、言わなければ絶対に伝わらない。

 一体わたしはなにに失望して終わったと勘違いしていたのだろうか。
 まだ始まってすらいなかったのに。

 先輩は鋭いけれど捻くれているから曲解する。
 何度も何度も繰り返し言わなければいけないかもしれない。
 それでもいつか伝わるときが来るのなら。
 いつか本物が見つかるのなら。
 わたしは踏み出さなければいけないのだ。

 先に待つのは立ち入り禁止区域なのかもしれない。
 南京錠は壊れていないのかもしれない。
 なら、自分で……。
 わたしが、壊す。

「そうですね、わたしも、知って欲しいです……」

 失いたくないし、怖いから、出した声は弱々しいものだった。
 それでも、強くならなくてもいいから、一歩前に進みたいと、しっかり伝えようと、そう思った。

 悪いことだ、いけないことだという意識があれば、弱々しくもなる。
 これは、その先の景色を見たいというエゴだから。
 そうした結果二度と来れなくなってしまっても、わたしはきっと。

 初めて見たその景色を忘れない。
 それは、偽者ではないから。

「そう。なら、頑張って。私はあなたを応援しているわ、奉仕部の部長として」

 にこりと微笑み、風で乱れた髪を手で後ろへ流す。
 宵闇に溶け込む髪は雪ノ下先輩がどこかへ消えてしまうのではないかと思わせた。
 そんなことはあるはずもなく、雪ノ下先輩はわたしの横を通り過ぎ、がちゃりとドアノブを捻る。

「では先に戻るわ……あ。最後にもう一つだけ。諦めるのは早計だと思うわよ、一色さん」

 びくっと肩を震わせて勢いよく振り返る。
 しかし、そこにはもう、誰もいなかった。
 だから。

「まだ、諦めてませんよ……」

 その言葉は誰にも届かない。

  ****

 なんだか予定外に遅くなってしまった。
 足早に生徒会室まで戻り、扉の前で荒れた息を整える。
 会議はどの程度まで進んだだろうか。
 そんなに進んでいなくとも問題はない。
 一回で決めなければいけないことではないし、他の仕事を断ったので多少時間をかけて取り組める。

 そんな感じで、職員室での暴挙を記憶の奥底にしまい込み、わたしは扉を開いた。

「遅くなりましたー……え?」


 それはきっと必然の邂逅だったのだろう。

 頬杖をつき、顔を支える腕は細く白く、伸びる指はしなやかでたおやかで。
 触れれば簡単に折れてしまいそうな様はそれこそ彼女そのものだった。

 わたしに向けられた顔。
 その瞳には一瞬だけ値踏みするような視線が宿る。
 ぞくりとわたしの肌を震わせたそれはすぐさま奥に引っ込み、代わりに宿るのは子供じみた興味。
 まるでおもちゃを見つけた子供。
 口元は柔らかい微笑みをたたえていた。

 しかし、わたしはそれを知っていた。
 いつか鏡で見た。
 けれどそこには明確な差異がある。
 敵わない。
 わたしなんか足元にも及ばないと思わせるほど、彼女の方が分厚い仮面をつけていた。

 溢れる暖かい笑み、ともすれば冷たい顔が見え隠れする。
 わざと見せているんだろうか。
 だとすれば、なおさら恐ろしい。

「あー……えっと、お久しぶりですー。はるさん先輩」

 自分で言っていてなんだか久しぶりに思えなかった。
 それはあの日、進路説明会で出会ったのがありありと思い出せるからではない。
 全てリセットされてそんなことはなかったと思い込みそうになっているからだ。

 わたしはどんな呼び方をしていただろうか。

 これで合ってるのか本気で悩む。
 わたしはどんな会話をしたのだろうか。
 全く記憶が蘇らない。
 一つだけ残っていたのは恐怖だった。
 この人は怖い。
 それだけは分かる。

 けど、今はもっと怖い。
 あのとき出会ったのは違う人だったのではないかとそう思わせるほどに。
 ついさっき口から出した呼び方を忘れてしまえるほどに。
 その、モノを見るような目は、おおよそ人間に向けていいものだとは思えなかった。

 ただ、それに反してどこかで見たことがあるという感覚も存在していた。
 進路説明会以外にも……どこかで。

 どこで見たんだっけ……。
 思い出せないけど、割りと前から確実にこの人の顔をわたしは知っていた。
 それをなんで進路説明会のときに思わなかったのかはよく分からないけど。

「んっ、久しぶりだねー!」

 挨拶を返し、そのままなにかを言おうと口を動かす。
 すかさずわたしはつぶやいた。

「やっぱり似てる……」

 聞こえるか聞こえないかという絶妙な声量。
 しかし、この場において、彼女に限って、それを聞き逃すことはない。
 それだけは断言できる。

 標的を定めた人間というのは、標的の一言一句に耳を尖らせ、一挙一動に目を光らせる。

 この人がそういう人間であるならば、絶対に聞こえてしまったはずだ。

「……ん?」

 ――かかった。
 心中で拳をぐっと握る。
 これなればもうさっき言おうとしたことは言えない。
 タイミングがずれれば、この人がさっき言おうとした内容についてわたしが先に語るのは容易なことだ。

 とりあえずはまあ、まさか聞こえてしまうとは、みたいな白々しい態度でつぶやきの意図を晒せばいいか。

「あ……いえ、その、前も思いましたけど、やっぱり雪ノ下先輩に似てるなーと思ったので」

 びくびくと小動物のような反応を見せる。
 前も、なんて嘘っぱちだ。
 進路説明会のときに似てるなんて、一分も思わなかった。
 いや、あの詰め寄られたときに少しは思ったか。
 ただ、まあ、今はこう思う。
 そっくりだ、と。
 全然違うはずなのに、妙に重なって見える。

「へー……。あんまり似てないって言われるから驚いちゃったよー。なんか雰囲気が違うみたい。並べて見比べれば顔立ちは似てるらしいんだけどね」

 にこっと笑いかけてくるが、へーのとき全く目が笑ってなかったんですけど。
 もう気づいたんですか、怖い。

 けど、その返しは大方予想通りだ。
 驚いたから引っかかった。
 あらかじめお姉さんの存在を知ってなかったら、わたしもたじろぐしかなかったわけだけど。
 知っていれば、察するのは難しいことじゃない。

 そもそも、この人なんかわたしに似てるし。
 わたしよりも面の皮が厚く、わたしよりも頭がいい。

 でも、人間だから反射には抗えない。
 わたしが今までどれだけ相手の反応を窺ってきたと思ってる。
 予想外なことを言われて一切反応を見せない人間なんていない。
 予想外なことを言われても表情を崩さないようにしようなんて、そんなことを考えながら生きている人間なんていない。

 考えを見抜くのもそこまで難しい話じゃない。
 わたしのことはわたしが一番よく分かってるんだから。
 はるさん先輩がわたしにされたことにすぐ気づいたのも、あるいはそんな理由からかもしれない。

 んー……、いや、誰が相手でもお見通しな感じするな。
 やだ、なにこの人怖い。

「そうなんですかー? じゃあ、わたしが分かったのは、さっきまで雪ノ下先輩と一緒にいたからかもですねー? あ、今、雪ノ下先輩に頼んで一緒に用事を済ませてきたところなんですよー」

 そこまで少し駆け足で言い切り、ほっと胸を撫で下ろす。

 なんか意地の悪いことを言おうとしていたのは分かっていた。
 わたしが今言われるとすれば、生徒会長が会議に出ずにどこをうろついていたのか、ということだ。

 内容を先に述べてしまえば、もうどうこう言うことはできない。
 怒られる前に謝れば多少怒られる度合いが減るのと似ているかもしれないな。
 こんな人に詰問されたくない。
 声音と表情だけでイエスマンになってしまいそうだ。

 そのまま奥へと足を進め、途中で書記ちゃんから議事録を受け取ってコピー。
 その間にソーサラーをはるさん先輩が腰掛ける生徒会長のデスクに置き、コーヒーを淹れる。

 別に戦う気はない。
 雪ノ下先輩にしろこの人にしろ、わたしは勝てない相手に勝負を挑むような真似はしない。
 わざわざ敵に回す必要もない。
 であれば、あとは友好的に事を済ます。

 議事録に目を通しながら、ことりとソーサラーにカップを置く。
 一応、シュガーポットも隣に差し出して目を合わせると、じーっと睨まれた。

「ど、どうぞー?」

 ちょっとー?
 わたしなんかしたー?
 なんか意地の悪いこと言いそうな顔してたから、未然に防いだだけなんですけど……。
 自己防衛本能が働いちゃったんですよー。

 ていうか、コーヒーくらい出しとけよと役員をひと睨みすると、みな一様にして固まっていた。
 うん、あー……、まあ、仕方ないか。
 だってこの人怖いもん。

「おっ、ありがとー」

 声音からはひしひしと怒りが伝わってくる。
 伝えてるんだろうな、これ。

「えー……っと、八色ちゃん? ちゃんと気も遣えるんだねー」

 誰ですかそれ……。
 なんか先輩の名前とくっついたみたいでちょっと嬉しいとか思ってしまった。
 不覚っ!

 この人遠慮ないなー。
 せめて、なに色ちゃんだっけ? とか聞くならまだしも、思いっきり間違えたまま進めようとしてくるし。
 わざとですよーって言われてるようなもんだ。
 どうやら逆鱗に触れてしまったらしい。

 ていうか、ちゃんと気も遣えるんだねーって。
 全然気遣えるように見えないんだけどーって意味だよね、絶対。
 もう真っ黒だよ、この人。
 嫌われちゃったのかなー。

 そもそも、段々思い出してきたけど、あのときいろはちゃんじゃありませんでしたっけ?
 下の名前なんて忘れちゃったーみたいな?
 悪意が濃いよ。


「先輩ですからねー……雪ノ下先輩にはお世話になってますし。あと、一色ですよー」
「あぁ、一式ちゃん」
「な、なんか違いますけど。はぁ、もうなんでもいいですー……」

 一式ってなに。
 二式もあるの?
 なんなら零式とか出しちゃう?

 わたしが諦めるとはるさん先輩も満足したようで、満面の笑みを浮かべた。
 やっと本当の意味で笑ったなこの人。
 ああ、いや、これは本当の意味での笑みっぽい笑いか。
 そんな作り込まなくても。

「ごめんごめん、一色ちゃんね! しっかり覚えたよっ!」

 うっわ、嘘くさ。
 次会うときには七色ちゃんとか言われそうだった。
 なにそれ憂鬱。
 虹なの?
 もう突っ込まないようにしようかな。
 なんか癪だし。

「いや、別にいいんですけどねー……」

 笑みもどこか引き攣ったものになってしまう。
 うーん。
 もう切り替えよう。
 内容もだいたい把握したし、会議会議。

「ではでは、会議を再開しましょうかー?」

 長ったらしいおしゃべりを切り上げて、役員に目を向ける。

 そこは流石に生徒会役員なのか、ぱっと真剣な面持ちに戻った。
 うんうんとそれを確認して会議を進める。

 先にやっていたのは新規部活承認申請の認否だった。
 最近話題のライトノベルという書籍ジャンルの影響なのか、活動方針のよく分からない謎部活が多い。

 いたずらっぽいのも多数含まれていた。
 もう高校生なんだから本当やめようよ、こういうの。
 無駄に仕事増やさないで。

 しかし、謎部活だからダメというわけにもいかない。
 この学校の基準がかなり緩いからだ。
 加えて、活動方針がよく分からないと言っても、なにやらよく分からない言葉をびっしりと書き込んであるものもある。
 意気込みだけは伝わってくるんだけどなぁ。

 よく分からない言葉でなくとも、なんだか文節やらがめちゃくちゃで結局なにが言いたいのか分からないとか。
 しっかり日本語使おう?

 ていうか、奉仕部なんていう四人しかいないよく分からんやつとか、遊戯部とかいう二人しかいないのとかあるし、前例があると拒否し辛い。

 隣人部ってなんだこれ……。
 友達が欲しい?
 はぁ?
 先輩でも紹介してあげようかな。

「ひ……昼寝部?」


 おい、ちょっと待て。
 活動方針、ただ昼寝するだけの部活ですってなんだこれ。
 あ、下の方に海外ではシエスタがどうとか書いてある。

「えー……却下で」

 役員に目配せすると、異議はないようで頷きが返ってくる。
 そんな感じで、詭弁論部やらGJ部、女子部、侵略部、スケット団、のばらの会……etc.を仕分けていく。

 帰宅部って。
 俺には帰る家がある!
 いや、そんなこと言われても、却下。

 なんだかんだあまりにもふざけた(だいたいふざけてるが、その中でも酷い)ものを除いて、しっかりと審議を繰り返していくうちに完全下校時刻になってしまった。

「それでは、今日は終わりましょーかー」

 号令に従い、荷物をまとめていく。
 あっという間に生徒会室内の人口密度が下がった。

 副会長が扉に手をかけたのを確認して、ただひたすらふむふむと見ていたはるさん先輩に声をかけようとする。
 と、副会長はぴたりと止まり、わたしに向き直った。
 少しの逡巡ののちに口を開く。

「会長」
「はいはい? なんですか~?」

 なんか真面目くさった顔をしている。
 いや、副会長は大概こんな顔してるな。

「その、どうなったんだ? あれ」

 指示語の溢れる言葉にんーと考えてしまう。
 あれ、に思い至るまでにそこまでの時間は要しなかった。
 無理やり忘れていた職員室での出来事を思い出す。

「あぁ、ちゃんと断ってきましたよー! なので、仕事は部活関連のと生徒総会、それに校外学習と職場見学だけです!」

 言いながら、だけって言えるのかなーと考えてしまい、苦笑いがこぼれた。

「そっか……分かったよ。ありがとう。じゃあ、また」

 副会長はそそくさと逃げるように去って行ってしまった。
 そこにはもうなにもないけれど、ぽかんと扉を見つめてしまう。

 おぉ、なんか感謝された。
 正直に言葉にされると達成感がわいてくる。
 やっぱり、伝えるのは大事だと思いました!

 改めてはるさん先輩に向き直る。
 ちなみにわたしはずっと立ちっぱなしだったりする。
 まあ、そこまで苦でもない。
 荷物を抱えているわけでもなし。

「どうでしたー……?」

 遠慮がちに尋ねる。

 はるさん先輩はうーんとしばらく考えたのちに評価を口にした。

「二十点」

 思いのほか厳しかった。
 世知辛い世の中です。
 先輩とMAXコーヒー半分こしたい。

 かくんと肩を落とすと、はるさん先輩はあははと快活に笑う。

「っていうのは冗談で、五十点ってとこかなー」

 おっ! っと、喜びそうになったけど、よくよく考えればたいしていいとも言えない。
 二十点のインパクトが強すぎて、凄くいい点に聞こえてしまった。
 無理難題を頼んでから、少しランクを落としたものを提案するみたいな。
 打算的ななにかがあった。

「おー、ここで喜ばないなんて結構やるねぇ、いろはちゃん。じゃあ、大甘で五十点満点ってことにしちゃおうかなっ」

 どこの中学のテストですか、それ。
 だから素直に喜ぶことはしない。
 なにか見定められているような気がした。
 ここで喜んで、それで満足しちゃうやつだと思われるのは避けたいし、避けるべきだ。

 雪ノ下先輩のお姉さん。
 出来ることなら仲良くしたい。
 そんな欲が出ていた。

 ただ一つ聞かせて欲しい。
 一色ちゃんで覚えたんじゃなかったんですか?


「そうですかー……、では、次は百点満点で百点取れるようになっておきますね~」

 言えば、はるさん先輩は微かに驚く。
 そして、ほぉーっと最初に向けた値踏みするような瞳で見つめてきた。
 怖くて目をそらしたくなったが、ここは我慢してみることにする。

 なんか負けた気になりそうだから。
 別に勝つ気もないけど。
 なんで戦ってるんだろう、わたし。
 意地っ張りかー、その通りだなぁ。

「そっか。そういう子なんだね、あなたは。うんっ! 面白いっ! お姉さん気に入っちゃったなー」

 どうやら試験は終わったらしい。
 ふーっと額の汗を拭う。
 気に入られたならそれで充分。
 最高の結果だ。
 こういう人を敵に回すとろくなことにならない。

「ありがとうございます~っ」

 にこぱーっと業務用スマイルを向けると、訝しむような視線が飛んできた。

「普通に笑っていいよー?」
「え、あー……いえ、そう言われましてもー」

 普通に笑えるわけない。
 ていうか笑みなんてこぼれてこない。
 素になったら、ただただ怯えるばかりである。

「うーん。じゃ、普通にしていーよー?」


 暗に普通にしろと命令されているようだった。
 そういうことなら従うしかない。
 仮面を剥ぎ取れば頭がくらっとした。
 緊張感の解れからたたらを踏んでしまう。

「す、座ってもいいですかー?」

 はぁーっと深いため息を吐いて聞くと、はるさん先輩はどーぞどーぞと笑混じりに言ってくれる。
 お言葉に甘えて椅子に腰掛けた。

「ふぅ……ん?」

 少し落ち着くと、はるさん先輩が黙りこくっていることに気づいた。
 もう口に出すのも億劫なので視線でなんですかーと問う。
 言わなくても伝わることなら別にそれでいいと思いました!

「ふふっ、なんか似てるなーと思って……いや、似せてるのかな?」

 似せているという自覚はない。
 けど、憧れていた。
 だから、きっと、無自覚に真似事をしてしまっていたのだろう。

「……先輩、あー……比企谷先輩とですかー?」

 そういえば、進路説明会で会話してた気がする。
 やっぱり、お気に入りになれてよかった。
 わたしの選択は間違っていなかった。

 こんな人に邪魔されたらもうどうにもならない。

 どちらにせよ、わたしの味方になることはないんだろうけど。
 でも、先輩と雪ノ下先輩をくっつけるのには協力してもらえるかもしれない。

「うん。よく分かったねー、もしかして自覚あった?」
「いえ……無自覚でしたけどー……、でも、憧れてたので」

 答えるとはるさん先輩はまた笑う。
 心底おかしそうに。

「そっかー。とうとう比企谷くんに憧れる子が出て来たかー……」
「……そうは言っても、本当に先輩のやり方でやったことなんてわたしほとんど知らないんですけどねー……」

 本当に、知らない。
 知っているから騙すのは容易いだなんて……一体どの口が言うのだろうか。
 なんにも知らなかった。
 分かっていなかった。
 分かったつもりでいた。

 迷惑な話だ。
 そんなのは先輩が嫌がることだと分かっていたはずなのに。
 勝手に理解したつもりで。
 先輩は理解されたいなんて望んでないだろうに。
 理解した気になって絡んでくるような人は嫌いなのに。

 こういうこと、なのかな。
 知らないから間違えるし、勘違いもする。
 すれ違っていずれ失ってしまう。
 だから知りたい。


 でも、わたしは完全に理解できるなんてことはないと思うし、別に完全に理解したいとも思わない。
 ただ、そう、理解して欲しい。
 知られて失うこともあるかもしれない。
 それは嫌だ。
 でも知られないまま失うのはもっと嫌だ。

「比企谷くんは面白いよ、本当に。でも、いくら真似たってそれはどこまでいっても真似でしかない」
「分かってます」

 反射的に答えていた。
 二度目だったからだろう。

「やっぱり……姉妹なんですねー。似せようとしなくても、どこか似てますー……」

 はるさん先輩はまた意外そうな顔をした。
 どこらへんが意外だったのか……姉妹なんて似るものじゃないの……?

「ふふっ、そんなこと初めて言われたよー」
「……そうなんですかー。気に障りました?」
「あははっ! そんなわけないじゃない……雪乃ちゃんも成長してるんだなーってちょっとしみじみ」

 そう言って溢した笑みは優しくて、やっぱり雪ノ下先輩と酷似していた。
 見れば見るほど重なって見える。
 それは多分、本質が同じだから。
 あぁ……そういうことか。

「多分、はるさん先輩を真似ることをやめたからじゃないですかねー……? 本質が似てるから、技術や経歴を真似たところでむしろ歪になってた、みたいな……」

「ほう……そう見るかー。そっか……やめたんだ、雪乃ちゃん。やっと、お下がりから抜け出したんだね」

 そっかそっかと懐かしむように虚空を見つめる。
 その瞳にはなにが見えているのだろう。
 それを知ることはかなわないけれど、なにか希望があれば素敵だと思った。

「でも、やっぱり気に入らないなぁ」

 苛烈さを極めた声音に鳥肌が立った。

 視線を戻してわたしの顔を見つめる。
 その瞳には当然、目の前のわたしが映っているはずなのに。
 わたしを見透かしてその先を、いや、それどころか、途方もなく遠くを見据えているようだった。

 これは本性なのだろうか。
 いや、違うのだろう。
 本心ではあれども本性ではない。
 本物なんて口が裂けたって言えないおぞましくて歪んだ紛い物だ。

 はたとその瞳の奥になにがあるのか気になったところで、はるさん先輩の口が再び言葉を紡ぐ。
 もうそこには苛烈さの欠片もなかった。

「それにしてもよく見てるねー、いろはちゃん」
「……まぁ、そうやって生きてきましたからねー。でも、はるさん先輩に言われてもなんか素直に喜べないですよー……。わたしなんて結局、うわべだけしか見えてませんし……だからなんですかねー。うわべしか取り繕えない」


 たははーと困った風に笑う。
 わたしにもこの人みたいにいろんなものが見えてれば今頃違う自分がいたのだろうか。
 いや、そんなたらればに意味なんてないのだろう。
 いくら欲しがっても手に入らないものだし、欲しがる部分は相手のいい部分でしかない。

 その人にはその人の持つ嫌なところやダメなところがあって、それでやっとその人たり得るのだ。
 ならば、わたしがこの人のようにいろんなものが見えるようになったとき、その苦しみも分かるようになってしまうのだろう。
 逆に言えば、苦しみが分からなければ見えるようにもならない。

 だから、もしもに意味なんてない。
 わたしはわたしでいればいい。

「うわべすらも見えていない人だっているからねー。なにか見えるのなら、それで充分だよ。そ、れ、と! 陽乃でいいよ。いろはちゃん気に入ったし。はるさん先輩はなんか歪だから却下ね。あ、なんならはるのん♪ でもおっけー! むしろ推奨!」

 びっと人差し指を立ててぱちっとウインクする。
 なんかさらっと酷いことを言われた気がする。
 歪って……。

 素なのか外面なのか……外面だろうな。
 誰にでも言ってそうで、言いなれてる感が凄い。
 なら、のってしまおう、うん!

「あはっ、じゃあはるのんでー!」


 ぱちっとウインクを返すと、呆気に取られた顔になる。
 こんな返答は初めてなんだろう。
 年下なら陽乃さんが妥当で、同級なら陽乃さんか陽乃、年上なら陽乃になるのが普通だ。

 そして先輩なら多分、頑なに雪ノ下さんだ。
 なんだか想像出来てしまう。
 あの人免疫うっすいからなー……。
 はるのん♪ みたいなタイプは特に。
 外面見抜いて恐れてそうまである。

「……っと、まさかそうくるとはねー……。入室してきたときと言い、随分挑戦的じゃない。んー?」

 拗ねた様子でじろーっと睨んでくる。
 なんだか結構睨まれてるなわたし……当初の予定と違う。
 先輩にも計画性ないとか言われたし、改善点かもしれない。

 でも、女の子は行き当たりばったりくらいが可愛いと思うんだけどなー……。
 先輩にたいして普通の男子の感じる可愛いをやっても意味ないか。
 またあざといって言われるのがオチだ。

 けど、一応こんなことをした理由はある。

「だって、わたしに普通にしろって言ったくせに、自分は全然普通にしてくれないんですもん。今のだって常套句って感じでしたしー……」

 むーっと同じく拗ねて見せると、目をぱちくりさせてから大口を開けて笑う。

「あっははははっ! ま、まさかっ……そんなこと言われるなんて! くっ……くくっ……はぁっ、はあっ……ダメ、死ぬ……」


 えぇっ、はるのん死んじゃうのっ!?
 なんてふざけてみる。
 本当に死ぬわけないし。
 そ、そんな面白かった……今の?

「ははっ、は。はぁ……いやー、いろはちゃん本っ当最高っ! よし、ならわたしはいろはすって呼ぶ」
「ええっ……は、陽乃先輩?」
「今更言ったってもう遅いでーす」

 くぅ……まさか逆手に取られるとは……。
 はるのん恐るべし。
 下手に殴ると殺されかける。

「あっ、ちなみにはるのん呼びはいろはすが初だよー?」

 にやにやと悪戯小僧みたいな笑みを浮かべる。
 そこには嘘臭さなんて欠片もない。
 まあ、これを引き出せたのなら、いいか。
 なんて、どこぞの男の心境みたいな心持ちになってしまった。
 そんなプレミアいらないですよー……。

「はるのん以外で呼んだら、そうだなー……。うーん……、あ、比企谷くんになんか吹き込んじゃおうっ!」

 あ、悪魔だ……。
 なんてものを引き出してしまったのだろうか。
 奥に引っ込んでてくれてよかったかもしれない。

「……りょーかいです。あ、でもいろはすにプレミアついてませんよー……?」


 戸部先輩とかいろはすいろはすうるさいし。
 戸部先輩に限らず結構な数の人間にそう呼ばれている。
 水じゃんそれ……みかん味めっちゃみかんの味するよね。
 無色透明オレンジジュース。

「んー、そっかー。じゃあ、八色ちゃん? 比企谷くんと合わせて」

 にひひっと口元を吊り上げる。
 ちょっと待って、この人心読めるの?

「か、勘弁してくださいー……」
「んー、だって、いろはって愛称つけにくいんだもん。なんでそんな名前なの?」

 なにこの人、めっちゃ失礼。
 わたしは自分の名前結構っていうか……かなり好きなんだけど。

「わたしにとってはお母さんがつけてくれた大事な名前なんですけどー……。命名の理由は知りませんけどねー」

 必然、眼に力が込もってしまう。

「あ、そっか……ごめんね?」

 顔の前で手を合わせて申し訳なさそうに眉尻を下げる。
 本当に悪いと思ってくれているようだ。
 悪意があったわけじゃないのなら怒る理由もない。

「いえいえー……大丈夫です」
「ふふっ、よかった。そうなると……やっぱり、わたし専用じゃないのは残念だけどー、いろはすで」
「はいー……」


 いろはす♪ はるのん♪ って……なんだこれなんか凄い仲良さげ。
 このまま女子会とかしちゃう勢い。

「よし! じゃあそろそろ帰ろっか」

 立ち上がり、ぐーっと伸びをする。
 さっさと帰らないと……もう完全下校時刻とっくに過ぎてるし。

「ですねー」

 二人並んで校門まで歩く。
 不自然なほど先生に避けられていた気がする。
 ブラックリストにでも入れられてしまったのだろうか。

 明日の説教は平塚先生かなー。
 生徒指導だか生活指導だかの担当だし。
 っても生徒指導担当が一人ってわけでもないか。
 じゃなければ、生徒会にあんな仕事は回ってこない。
 平塚先生がいーなー……。

 説教とか指導とかマジめんどくさーいなんて女子高生らしいテロップを頭の中で流す。
 なんだか女子高生らしいことを考えたのが久しぶりに思えて憂鬱になった。

 最近、完全にキャリアウーマンみたいな思考してたからなぁ。
 よし、この仕事片付いたら自分へのご褒美にデパ地下でスイーツ買うぞーとか。
 どこぞのOLかよ。
 わたしの脳内思考が既にスイーツ(笑)。

 ちょっとお洒落なカフェでクマのラテアートとか見て「かわいー」とか言ってる方がわたしには似合ってるな。

 そんなくっだらないことを考えてるうちにも校門に辿り着く。
 そこには見慣れない黒塗りの高級車があった。
 平凡な我が校の校門でその存在感は凄まじい。

「お、おぉ……金持ちって感じがビシバシ伝わってきますねー」
「でっしょー? わたし見栄っ張りだからさー。便利だよー、これ」

 見栄っ張りて……。
 見栄を飾る必要なんてないくせに。
 どんなに張ったって飾ったってそれ以上にはならないでしょ。
 高度な嫌味か。

 まあ、でも、一理ないこともない、か。

「その外面が一番高級そうですねー……。わたしも欲しいんですけど、いくらです?」
「あははっ! 本当期待を裏切らないねー。そうだなー……いろはすの人生と等価交換かな」

 そんな安くていいのか。
 わたしが一生頑張ったってその外面は手に入らないだろうし。
 セール期間?
 友達割引かな?
 ま、本当に欲しいわけじゃないからどんだけ高かろうがどうでもいいけど。

「それ何十パーセントオフですかー」

 卑屈っぽいことを言うと、陽乃せ……なんで睨まれてるの。
 この人本当に心読んでるんじゃないの、怖い。

 こほん……はるのんは真面目ぶった顔になる。
 その顔は大人っぽくて、それこそどこかの結婚できない女教師がよく見せる諭すようなものだった。

「等価交換って言ったでしょ。これはわたしの人生だからね……。誰かの人生なんて他の誰かにとっては等しく無価値。真似をすることに意味もない。だから、等価値だよ」
「人生ですかー……」

 外面が自分の人生だと言い切る。
 一体どんな心持ちなんだろうか。
 外面なんて嘘でしかないはずのに……。
 まるで、自分の人生が嘘で出来ているとでも言うような自虐めいた訓諭。
 むしろ本題はそちらなのかもしれない。

 しかし、誰かの人生は他の誰かにとっては等しく無価値だと、その説諭にはなんとなく納得できた。
 誰かの人生を羨んだところでその人生が手に入るわけじゃない。

 もし手に入ったとしても、それはもう自分の人生ではない。
 他の誰かになっただけで、自分が変わったわけじゃないから。
 だからこそ真似することにも意味はない。
 それでも自分は変わらないのだから。

「真似をすることが悪いことだとは思いませんけどねー……。したくてしてるわけじゃない人もいますし」

「そりゃそうだろうね。だから別にいろはすが比企谷くんの真似をしてることを諌めてるわけじゃないよ? わたしは比企谷くんにしたっていろはすにしたって、そのままでいいと思ってるから」

 にこりと向けられた笑みは暗闇の中でも輝いて見えた。
 この人はわたしたちの行く先に何を見ているのだろうか。
 もしかしたら、自分の進めなかった道を進むわたしたちに希望を見出しているのかもしれない。

 雪ノ下陽乃という女の人生はきっと、生まれたときから決められていたのだろう。
 だからこそ、雪ノ下先輩が自分の真似をやめたことを知って安堵した。
 全ては推測で、どこまでいっても憶測でしかないのだけれど、その予測は少しばかりの真実を帯びている気がしてならなかった。

 しかし真実がどうあれ、わたしが心配することではないだろう。
 彼女は既に自分の中でケリをつけているのだろうから。

 誰だってそうだ。
 みな高校生になる頃には、早い人なら中学生の間にも現実との折り合いをつける。
 器用に、上手に。
 夢を捨てて、それが当然のように正しい道だと信じて生きていく。

 そういう意味では、わたしなんかよりも先輩なんかよりも、青春戯曲の登場人物になりきる有象無象の方がよっぽどリアリストに思えた。
 諦めて。
 諦めたことすら忘却して。
 わたしもそうだった。


 でも、わたしは思い出した。
 みんながみんな捨て去り忘れ去っていく淡く儚い夢を。
 きっかけは一つの言葉。
 本物。
 それはきっと掛け替えのないなにか。

 作られた劇的なんていらない。
 ビッグドリームではないけれど、いつだって不安定で今にも崩れそうな脆いものだけれど。
 わたしはそれが欲しい。

「さっ、帰ろう! 送ってくよ!」
「あ、ありがとうございますー」

 一切の躊躇なく甘えると、はるのんはとうとう苦笑する。
 彼女はもう諦めてしまっているけど、わたしの前でくらいは仮面を外せたらいいな。
 なんて。
 なんだかわたしも地味にこの人に、この人自身に惹かれているようだった。

 乗り込んで家の住所を告げる。
 実は甘えたのはただ予想外なことをしたかったからじゃない。
 まだ聞きたいことがあったからだ。

「陽乃せ――はるのんは今日はどうして学校に?」

 だからその目怖いって。
 野獣も逃げそうだよ。
 目で殺すってこういうことか。
 一クラスくらい殺してそうだ。
 バトル・ロワイアルは間違いなくはるのんの圧勝。

 雪ノ下先輩と共演なら少しくらい見所が作れるかもしれない。

「あー、雪乃ちゃんに会いにねー。結構ちょくちょく顔出してるんだよー? というかいろはす……今のわざとじゃなかった? んー?」

 ぐりぐりと頬を長い爪で捻られる。
 痛いっ!
 痛い痛いっ!
 痛いってばっ!

「す、すいませんー! 痛っ! や、やめてくださいよー!」
「ふふん、今回は許してあげよう。でも、次やったら比企谷くんに言いつけちゃうぞ?」

 にたぁっと身体が芯から凍りつくような笑みを浮かべる。
 こ、怖い。
 なにを言いつけるつもりなのか。
 聞くのはもっと怖いから触れずにいよう。

「オッケーです、肝に命じておきますー。ん、ああ、だから見覚えあったのかなー……。いや、でも、すれ違ったって感じじゃないんだよなー……」

 うーんと必死に記憶の糸を手繰っていると、はるのんは思い当たる節があったらしいく、あぁとつぶやく。

「進路説明会以外でなら多分文化祭だと思うよー。わたし有志団体でステージ出てたから。オーケストラ、見た? あ、それとサプライズ的な立ち位置で有志団体の大トリでバンドもやったかなー。ドラムで」
「――あっ!!」

 蘇る記憶に思わず声をあげてしまった。
 それか、そういうことか。
 そりゃあ見覚えもあるはずだ。
 凄い目立ってたし。
 バンドの方は残念ながら最後の方しか見れてないけど。

 思い出すとあの光景は今まで忘れていたことが嘘のようにありありと脳内に映し出された。

 様々な楽器を抱えた女性たちが華麗なドレスに身を包み、ステージにずらりと並ぶ。
 そこに悠々とした足取りで登場した女性は月並みな表現ではあるけれど、まるで磨きあげられた宝石のようだった。

 絢爛たるスポットライトの下、身体のラインを強調する細身のロングドレス。
 闇色の衣は一歩歩くごとに翻り、わたしを含めた観客全てを魅了する。
 胸もとと髪留めにあしらわれた黒薔薇のコサージュは割と前方に位置する席に座っていたわたしには華々しかった。
 真珠とスパンコールの煌めきがより一層彼女の輝きを強くする。

 淑やかな一礼を済ませて高いヒールで指揮台に上ると、彼女はタクトを手にした。
 すっと上に掲げ、ぴたりと動きを止める。
 その婉麗な所作に見る者も思わず動きを止め、これから始まるなにかに期待して固唾をのむ。

 ――そして、レイピアのように鋭く振り抜いた。

 瞬間、旋律が走る。
 圧倒。
 驚愕に次ぐ驚愕。
 アクションはさらに強烈なインパクトを与える。


 気づけば終わっていた。
 冷めやらぬ興奮。
 同時に戦慄した。
 こんな人物の存在に。

「……あれは凄かったです」

 なにが凄かったって、もう全てが凄かった。
 一言ではおさまらないどころか、言葉では言い表せない凄さだ。

 と、そこで、なんで進路説明会のときに見覚えがあると思わなかったのかが分かった。

 単純に興味がなかったんだ。
 この人が今までなにをしてきたのかとか、この人がどんな人かってことに。
 ただ、雪ノ下先輩のお姉さんはきっと凄いから仲良くなっておこうみたいなことを思っていた。

 そして、この人もわたしに興味がなかった。
 だからわたしにそこまで深入りしなかった。
 故に、この人の印象が問い詰められたときの怖いしか残っていなかったのだ。

 ただのなんか怖い雰囲気があるお姉さんと、あのオーケストラを指揮していた指揮者ではわたしの中で明確な差異があった。
 今日のは進路説明会のそれと違ったから。
 興味深々でおぞましいくらいの顔をしていたから。
 その表情がきっかけだったのだ。

「そっかそっか! 満足してもらえたならよかったよ」

 ふふっと満足そうに笑う。
 わたしが満足することではるのんが満足するのなら、わたしはこの人をずっと満足させられそうだ。
 はるのんは規格外だから。
 やることなすことがわたしを必ず感嘆させるだろう。

「あー……、文化祭と言えばあれもそうだね。ぷっ……くくっ……あはははっ!」

 なにを思い出したのか、大口を開けて笑い出す。
 わたしが不思議そうに見ていると、涙を拭いながらはるのんはわけを話してくれた。

「いやー……比企谷くんがちょっとね。文化祭の後一時的にだけど、ヒキタニって二年生の噂が流れなかった?」
「あぁ……」

 あの屋上でのことか。
 そのことは知ってる。
 なぜか実行委員長を探している葉山先輩に焦った様子で聞かれて、階段上っていくのを見かけてたから、教えたんだ。
 こっそり後をつけていって会話を聞いてたから、大トリはラストしか見れなかった。

 あのときも今もなんでそんな状況だったのかはよく分からない。
 ただ先輩が信じられないくらい辛辣な言葉で実行委員長を責め立てていて、それに葉山先輩が激怒したことだけは覚えてる。
 葉山先輩も怒るんだって思った。
 こんな酷い人もいるんだって思った。

 けど、今思うものは違う。
 経緯は分からないけど、あの糾弾には意味があったんだろう。

 先輩は意味もなくそんなことはしない。

 しかし真意を知ることは出来なかった。
 なんでとかどうしてとか、そんな疑問を本人に投げかけることは出来ないから。
 あの二人にしても、葉山先輩にしても、聞いたところで答えてはくれないだろう。
 実行委員長は面識ないから論外。

 今なら知ることが出来るのかもしれない。
 はるのんになら聞いてもいい気がした。
 常に傍観者とか観客気取りで雪ノ下先輩と先輩を見てきたこの人になら。

「それ、実は一部始終聞いてたんですよねー……」
「へぇ。……知りたい?」

 言わなくともわたしが知りたがっていることを理解してくれていた。
 わたしは知りたい。
 少しくらいは理解しなければ、どう理解してもらえばいいのかも分からない。

 でも、本当にいいのだろうか。
 先輩にとっては知られたくないことなのかもしれない。

「ふふっ、迷ってるねー。じゃ、お姉さん勝手に喋っちゃおーっと! これは独り言。いろはすはなにも聞いてない。それでいいよね?」

 ふっと呆れ混じりの短いため息が出た。
 もうこうなってしまってはわたしが拒否したところで語り出すだろう。
 この短時間でこの人がそういう人であると確信していた。

 だからわたしは無言で肯定を伝える。

 返事をしてしまったら、頷いてしまったら、罪悪感に苛まれてしまいそうだったから。

「うん。それが賢い選択だよ。それじゃあお姉さんはつぶやこうかな。あの優しくて小物な捻くれた子の話を」

 じっと聞き耳を立てる。
 あの大成功と思われた文化祭の裏の物語に。
 はるのんの口からぽつりぽつりと言葉が紡がれていく。
 その話にときには驚愕をときには憐憫を、そして最後にわたしの心を埋めたのは葛藤だった。

「――こうして彼は見事に彼女を救ったのでした。他にもやり方は一杯あるなかで比企谷くんはそれを選んだ。きっとそれは雪乃ちゃんのやり方に沿ったんだろうね。同時に奉仕部の理念に」

 いや、それは取り繕った理由だ。
 そうでなかったとしても、二番手三番手に違いない。
 本当の理由は、根幹をなす部分はもっと別のなにか。

 はるのんが中途半端に言葉を区切った時点で確実だ。
 シンキングタイムがあるのなら、じっくり考えさせてもらいます。

 映画のフィルムを巻き戻すようにして、わたしはわたしの記憶を遡っていく。
 なにか、なにかあったはず。
 そのときのわたしには不可解に見えたなにかが。

 ――見つけた。

 ぐんぐんと流れていく記憶の中に、彼女たちの発言の中に、奉仕部の歴史の中に。
 その答えを見つけた。

 わたしが奉仕部の存在を知ることになった昨年の晩秋。
 生徒会選挙にてわたしを落選させる方法を議論したとき、奉仕部は内部分裂を起こした。

〝あなたのやり方を認めるわけにはいかないわ〟

 なにが起きているのか全く理解しかねていたけど、文化祭の全容を聞いた今では分かる。

〝応援演説が原因で不信任になるなら、誰も一色のことは気にしないだろ〟

 そうやって、また、先輩は自分の傷つく方法を選んだのだ。

〝ねぇ、その演説って、誰が、やるのかな……。そういうの、やだな〟

 如実に浮かび上がる情景。

〝……なら、あなたのやり方にはなんの意味があるの?〟

 あのセリフはそういう意味だったのかと、だから否定したのかと、気づけばすんなり受け入れられた。

〝今回に限って? いいえ、違う〟

 先輩は文化祭のこと以外にも何回かそういうやり方をしてきた。

〝……あなたは、前もそうやって回避したわ〟

 それは分かっていたことだったはずなのに、わたしが思っていたよりもずっと醜いものだった。

 そういえば、暇つぶしで聞いた戸部先輩の恋バナにも思い当たる節がある。
 知り合いに邪魔されちゃって告れなかっただのなんだの言ってたけど、なんでその人がそんなことをしたのか疑問だった。

 まるで自分が先に告白することで、戸部先輩が傷つくのを『回避』したようで不可思議だった。
 知り合いレベルの関係なのに。

 つまり先輩は、前も、こうやって回避したわけだ。

〝それで、……なにか問題があったか?〟

 きっと問題はなかった。
 戸部先輩の態度を見るに、気にした風もなかったし、なら守るべきものは守れたし頼まれた依頼は達成できたんだろう。
 けど。

〝そんなうわべだけのものに意味なんてないと言ったのはあなただったはずよ……〟

 そう、うわべなんだ。
 表面上は確かになんの問題もなかった。
 戸部先輩の告白イベントで、戸部先輩自身も、多分その相手も、出演者は誰も傷つかなかった。

 だから先輩も傷ついてなんていないんだろう。
 これが先輩自身なんだから。
 ただ、いつも通りに事を済ませただけだ。

 でも、それでも、どこかで、裏方でサポートに回っていた誰かが傷ついた。
 自己犠牲で傷つくのは本人だけとは限らない。
 それを先輩は分かってたけど、それでもそうするしかなかった。

〝変える気は、ないのね〟

 だから、雪ノ下先輩が諦めたような口調で言った問いに対する先輩の言葉はもちろんこうなる。

〝……ああ〟

 変える気はない。
 変わる気もない。
 変えられない。
 変わらない。

 先輩の自己犠牲なんて、行動原理なんて、殺身成仁でもなければ、先難後獲でもない。

 そう、きっと。
 先輩はそういうやり方しか知らなかっただけなのだから。

 まあ、これ自体は実際のところ元々予測できていた。
 改めて問い直し、同じ答えになったというだけのことだ。
 ただ、前とは重みが違った。
 胸焼けしそうだ。

 結論を導き出して顔をはるのんに向け直すと、彼女は頷いて続く言葉を口にした。

「まあ、一番の理由は、比企谷くんはそんなやり方しか知らないからだろうね」

 答え合わせの結果は百点満点と言って差し支えないだろう。
 それだからこそ、葛藤は大きくなる。

 先輩は今も、それしか知らないから。
 生徒会選挙の解決方法はイレギュラーだ。
 依頼を正確にこなすわけではなく、依頼そのものをなくす。
 わたしをその気にさせれば、雪ノ下先輩と結衣先輩の立候補は止められる。
 そういう算段だったんだろう。

 でも、毎回同じようにはできない。
 依頼そのものをなくす、なんて奉仕部の理念に反してるようにも思うし。
 奉仕部を失くしたくないから切り出したジョーカー。

 本質はなにも変わっていない。
 いつか、また、先輩は自分らしいやり方でなにかを解決する。

 わたしはどうすればいいんだろう。
 どうすれば先輩の傷つく姿を見なくて済むのだろう。

 この思索も二度目だけれど、やっぱり前回より重みが増していた。
 わたしは今まで知らなかった。
 奉仕部の雰囲気とか先輩の考え方から予測していただけだ。
 その予測は大方当たっていたけど、わたしの思っていた規模より一回りも二回りも大きい。

 だからそう、その思索には追加項目がある。
 どうすれば奉仕部を維持できるのだろうか。
 正確には、どうすれば奉仕部の人数を維持できるのだろうか、か。

 先輩のやり方では必ずいつか先輩は奉仕部を離れることになる。
 そして弱々しい肩で一人生きていくのだ。
 横には小町ちゃんが並んでくれるのかもしれない。

 だが、なにかを失ったときの喪失感は何者にも耐え難い。

 そんな先輩は見たくない。
 それに先輩が失ったとき、同時に雪ノ下先輩も結衣先輩も失う。
 そんな先輩たちは見たくない。
 わたしはあの、暖かくて優しい空間が好きなんだ。

 あのいつかの晩秋みたいな寒々しい部室になんて入り浸りたくもない。

 先輩が傷つかない方法。
 それを見つけるのは今後の必修課題だ。
 なるべく早く、なにかが起きる前に。

 くすりと、不意にそんな笑いが耳に届いた。

「な、なんですかー?」
「いやー、わたしのことも忘れて思索にふけっちゃうなんて妬けちゃうなぁ」

 にやにやと口元を緩ませる。

「本当に比企谷くんのことが好きなんだね」
「えっ……あ、はい……」

 正直に頷く。
 別に隠す必要もなかったし、というか既にバレてると思ってた。

「でも、わたし……それ以上にあの部活が好きなんですよねー……。そこにいる先輩が好きなんです、多分」


 失って欲しくない。
 全員揃ってわたしを迎えて欲しい。

 雪ノ下先輩が先輩を罵倒して。
 結衣先輩が先輩にアホ呼ばわりされて。
 小町ちゃんが先輩と二人の仲を取り持って。
 先輩がそんな風景をぼんやりと眺める。

 どうしようもないほどありふれた日常を続けていて欲しい。
 もう誰も間違えなくていい。
 ずっと、なんてそんなものありはしないけど、ならせめて卒業するまではそのまま。

「そっか……。まあ、比企谷くんはどこにいても面白いけどー。あ、でも、比企谷くんは雪乃ちゃんのものだからね?」

 瞳には威嚇が込められていて、つい萎縮してしまう。
 わたしを見て彼女は少し申し訳なさそうな顔をした。
 それが意外だった。

「ごめんねー。いろはすの応援もしたいんだけどね……妹だから」

 本当に気に入られてるらしい。
 まさか応援したいと言われるなんて思ってもいなかった。
 柄でもない感じ。

「らしくない? でも、きっと、らしくないのが本質だよ」
「そう……ですね」

 らしくないのが本質。
 仮面をつけているわたしには附に落ちた。
 らしさなんて他人の抱く願望だ。
 それから外れて本当を見せれば引かれる。

「あ、ていうか、そんな心配はいりませんよー。わたしも先輩と雪ノ下先輩にはくっついて欲しいですし」
「それ、本心?」

 一発で見抜かれた。
 嘘はよくないな。
 嘘でもない、か。

「半分は本心ですかねー……。どうせわたしじゃ雪ノ下先輩には勝てませんから」
「わたしの妹だからねー」

 そこで否定しないのがこの人のいいところだろう。
 雪ノ下先輩の上位互換であるところのはるのんに否定されたって嫌味にしか聞こえない。

 上位互換は少し違うか。
 はるのんには雪ノ下先輩にないものがある。
 しかし、雪ノ下先輩にもはるのんにないものがある。
 どちらも等価値だ。

「ふむ……でも、そっか。そういうことならそっち方面で協力関係が築けそうだね」
「ですねー!」

 よしよし。
 計画通り。
 はるのんが味方ならもう怖いこともない。
 敵だったら震え上がるけど。

「じゃあ、これからよろしくね? っと、ちょうど着いたみたいだね」


 言葉通り、窓の外を見れば見慣れたわたしの住む住宅街が映った。
 ここからなら歩いて三分もかからない。

「どうする? 家の前まで送ろうか?」
「あ、それは大丈夫ですー! すぐそこなので。ではでは、ありがとうございましたー」

 言って、開いたドアから片足を地面につける。
 そこでふと気になることが脳裏を過ぎった。

「そういえばー、雪ノ下先輩に会わなくてもよかったんですかー?」

 雪ノ下先輩に会いに来たとか言ってたわりに、ずっと生徒会室にいたよなこの人。
 陽乃先輩は特に考えるでもなく、返答する。

「いいのいいの。別にいつでも会えるし、あんな面白いもの見ちゃったら話してみたくなるじゃない?」
「面白いもの……ですかー?」
「職員室」

 思わぬところで出てきた単語にびくっと肩が跳ねる。
 う、うわ……見られてたー?
 見てたのにあんな文句言おうとしたのかこの人。

「先生たちにはフォロー入れといたから、安心していいよ。静ちゃんに個人的に呼び出されるかもだけど」

 おお、悪魔かと思ったらちょっとだけ天使な部分もあった。
 でも、そんな簡単にいくものなの……?
 外部に漏れるとまずいからとか?
 それとも、雪ノ下家の威光?


 うんうんと考えていると、はるのんの口が三日月型になる。
 うっわ……。
 この人フォローとか言ってるけど……脅したんじゃないの。
 まあ、それでも、一応お礼は言っておこう。

「ありがとうございますー!」
「気にしないで。そんなことより……今、頭の中ではるさん先輩とか陽乃先輩とかはるのん以外の呼び方しなかったー? わざとではないみたいだけど」

 バレてた……。
 言ったあとから冷や汗が凄かったんだよね。
 許してもらえてよかったー。

「よく分かりますねー……」
「あははっ、気づいてないの? いろはす、素のとき結構顔に出てるよー?」
「えっ!?」

 そんなバカな。
 素じゃなくてもはるのんには見透かされてそうだけど。

「ま、比企谷くん諦めてもらっちゃったし、しょうがないから心の中では自由にさせてあげる」

 やった!
 まさかの展開!
 陽乃先輩っ。
 うん、違和感ない。

「でも、口に出すときはしっかり言わなきゃダメだよ?」
「はい……」


 なるべく名前を呼ばない練習しよう。
 あ、とか、そういえば、とか。
 目線を合わせて言えば切り抜けられるでしょ、多分。

 しかし、口に出すときは、の意味がそれだけだとは思えないな。
 なんか含みがある。
 いや、深く考えてもしょうがない。
 最近そんなことばっかりだ。
 額面通り受け取っておくこととしよう。

「それじゃ、まったねー」
「はいっ! また」

 ばいばーいと手を振ってくる陽乃先輩に手を振り返し、動き出した車が見えなくなるまで見送る。

「ふぅ……」

 つっかれたーっ!
 緊張とかは慣れてしまえばほとんどなかったけど、考えたりすることが多過ぎて頭痛い。
 あと、一つだけバレないようにすることに必死だったのもあるなー。

 わたし、先輩のこと諦めたつもりないし。

 もしかしたらバレてたのかもしれないけど、まあ、バレても諦めないからいい。
 と言っても、雪ノ下先輩と先輩をくっつけるように動くのは今までとなんら変わらない。

 理由が違うのだ。
 先輩のことを知って、改めて考えて、今までわたしが考えていた理由は取り繕ったものだとハッキリした。

 わたしが雪ノ下先輩と先輩をくっつけようとするのは、諦める理由を作りたいからじゃないし、先輩に幸せになって欲しいからでもない。
 もちろん、それも一部には含まれるんだろうけど、これも根幹の部分は別になにかだった。

 ――失いたくない。

 何度も願った思い。
 今度こそ正直に向き合えた。
 わたしが雪ノ下先輩と先輩をくっつけようと画策するのは、雪ノ下先輩と先輩がくっつくまでに時間を要するからなのだ。

 恋路を手伝うフリをして、先輩と過ごしたい。
 ダシにしたいだけだった。
 そして、気付かれて失ってしまうのが怖いから雪ノ下先輩に意識を向けさせたかった。
 そうすれば当分はぬるま湯に浸かっていられる。

 葉山先輩にいまだに少し媚び売った態度を取るのと似たような理由だった。
 どうしようもなく逃げ腰だ。
 不甲斐ない。
 でも、別に弱いままでもいいでしょ。
 人は簡単には変わらないんだし。

 変わったことに喜んで。
 本質が変わってないと思って心配して。
 本質すらも変わったと勘違いして失望して。
 なにも変わってなかったことに安堵して。
 またそれに心配する。

 なんというか、どうやらわたしは凄くバカだったようだ。

 誰だよ最近の奉仕部はぬるいとか言ってたやつ。
 完全にブーメランじゃないですか、やだなー。
 どうしようもないなぁ、ほんと。
 でも、どうしようもなくても、どうにかしてあげたい。

 さて、と。
 失わないために、わたしには他にもするべきことがある。
 先輩に、知ってもらわなきゃ。
 わたしが今、なにをどうしたいのか。
 わたしの恋心は伏せて。
 あんまり纏まってないけど。

 いつにしよっかなー。
 今月中には言いたいな。
 仕事の合間を縫って……。
 いやでも部室には結衣先輩も雪ノ下先輩もいるから恥ずかしい。
 ちょっといつもより早めに切り上げて待ち伏せしよう。

 ていうか、だいたい、あの先輩相手に詰め寄ったところで結果はたかが知れている。
 甘えて生徒会を無理矢理手伝わせたところで、そこまでの好感度アップになるとは思えない。

 押してダメなら引いてみる作戦だ。
 そして、「あれ、こいつ意外と凄いやつなんじゃね」みたいな印象づけを行う。
 我ながら穴だらけの策だった。
 しかし、わたし自身の正当性は主張できた気がする、わたし自身に。
 ぶっちゃけ、意味はない。

 方針は固まった、多分。
 もっとなんか大事な理由がありそうだけど、もうこれはしょうがない。
 纏まるまで待つしかない。
 よし、帰ろう。

 闇の中に一筋の光明が見えた気がした。
 周りを見ても、そこには切れかかって点滅を繰り返す街灯しかないのに。
 そんなものは電池が切れれば消えてしまう。
 破壊されれば消えてしまう。

 本当は光なんてなかった。
 本当の喪失は覚悟してないものからやってくる。
 だから痛いし苦しい。

 わたしが通り過ぎたのち、パチンと音を立てて街灯が光を失う。


 振り返ると、ただ、そこには闇だけが蔓延っていた。



 第三章 言うまでもなく、比企谷八幡の優しさはそこにある。


 しとしとと雨音が校舎内に響く。
 気温が高いせいか、じっとりとした空気が肌に纏わりつき髪はところどころぴょんぴょんと跳ねていた。

 天然パーマの完成。
 ボリューミーでチャーミング。
 やだ、わたしったら意識高い系!
 ゆるふわウェーブ! とか言って。
 やだなにあーし、天才?

 この髪型なら雨降ってるときセットしなくていいじゃん!
 これ言ったら絶対はぁ? とか言われるな、封印封印。
 別に三浦先輩嫌いじゃないし。
 そもそも全然ゆるふわウェーブじゃない。

 しっかし、まあ……雨だねぇ、雨だなぁ。
 先輩今日は教室でご飯食べたのかなー。
 いつもどこか違う場所で食べてるみたいだけど。
 一人ぽつんと……かわいそう。
 今度雨降ったときは生徒会室に誘ってあげよう。
 いやでも、外じゃない可能性もあるか。

 愛妻弁当を作るのもいい。
 なんなら通い妻しちゃうぞー?
 妻……か。
 うわわ……なんか恥ずかしくなってきた。

 ていうかぼっちの人って結構な確率で休み時間音楽聴いてるよねー。
 あれって本当に聴いてるのかなー。

 ちょっと!
 なんか気になってきた!
 今度昼休みに先輩の教室に突撃して確認しないと!
 聴いてなかったらマジうけるとか言っとけばいい。
 いや、ウケねーからって返してくれる多分。

 折本さん……だっけ?
 どういう関係なんだろ。
 同級生って言ってたけど、先輩に友達がいたとは思えないし。
 しかも女の。

 さり気なく聞き出してみようか。
 あの人自分の傷晒すの好きだからなぁ。
 案外簡単に教えてくれそうだ。
 傷って決めつけちゃダメか。
 なんか淡い青春劇があったかもしれない。
 いや、ないな。
 絶対ないよ、うん。

 ざぁざぁと雨足が激しくなった。
 帰れるかなぁー……。
 それだけが心配だった。

 いつもなら雨が降ってるってだけで信じられないくらい身体がだるくなるけど、今日ばかりはその心配はない。
 昨日の決意によって、わたしの心中はからっからに晴れ渡っている。
 日本晴れだ。
 なんならお散歩に行ってもいい。
 いや、やっぱそれは無理。

「一色……聞いているのか?」
「えっ、はいはい! 聴いてないと思いますよー? 多分あの先輩聴くフリですっ!」
「なんの話をしているんだ君は……」

 職員室の一角。
 パーテーションで区切られた応接スペースには、革張りの黒いソファとガラス天板のテーブルが置かれている。

 ソファに座った女性は呆れたように片手で顔を覆う。
 しなやかにのびた脚。タイトなパンツスーツに包まれていながらも、その長さと形の良さが窺える。
 視線を上に滑らせていくと、絞られたウエストが。
 さらに上にいけば、それと対をなすわたしにはない豊かな胸部に釘付けになった。

 なにを食べればこんなスタイルに育つんだろう。
 はっ!?
 まさか、ラーメンがスタイルの秘訣なの!?

 慎ましいとまでは言わないが、あくまで平均的なわたしの胸と見比べるとからっからに晴れ渡った心にも少しばかり雲がかかった。

 現国兼生活指導担当の平塚先生はふうっとため息を漏らす。
 続けて、狭っ苦しい胸ポケットに入ったくしゃくしゃな煙草の箱から煙草を一本抜き取った。

 火をつけたのは安っぽいコンビニライターだったけど、無駄なところに拘らないその様が逆にかっこいい。
 慣れた手つきで煙草を吸い煙を吐くと、空気に少し靄がかかる。
 この煙草臭さにももう慣れたものだ。
 なんならあまりにも平塚先生がかっこいいので、わたしも吸いたくなってしまうくらいまである。
 まあ、吸う気はないけど。


 ふむ……。
 考えてみれば平塚先生が結婚出来ない理由はこれなんじゃないだろうか。
 いや、煙草臭いとかじゃなくて。
 かっこ良すぎるんだ。
 靡く黒髪にモデル顔負けのスタイル。
 どんな男だって気後れしてしまう。

「まぁまぁ、冗談ですよー。昨日の件ですよね~? でも、ぶっちゃけわたしもあんまりおぼえてないというかー……」

 ごめんなさーいと小動物ばりの愛くるしさを形作る。
 が、まあ、基本的に女性に効果はないのである。
 むしろ、イラっとされることの方が多かったりするしね。

「はぁ……まあいい。私も、なんだ、スカッとしたしな」

 にやりと口角を上げる。
 どうやらあの所業には平塚先生も思うところがあったようだ。
 なんだかんだ芯の通った人だし、当然と言えば当然だろう。

「今度ラーメン食べに行きませんー? 美味しいお店、連れてってくださいよ~」

 くすりと笑って密かな声で誘う。

「はっ……付き合ってやろう。お互い溜まってるしな」

 にかっと男らしい笑みをこぼして了承の旨を伝える。
 かっこいい……。
 先輩とか足下にも及ばないよ。


「それでー……こんな適当に済ませたってことは何か別件があるんじゃないんですかー?」
「おぉ、察しがいいな」

 まあ、そういうのは得意分野ですし。
 平塚先生は考える仕草をしたのちに脚を組み替えて口を開く。

「雪ノ下姉妹と話をしたらしいな」

 そっちの話か。
 いや、そんなあっちもそっちもあるわけじゃないけど。
 ていうかなんで知ってるのこの人。
 不思議に思ったのが顔に出ていたのか、平塚先生はあぁとその理由を述べる。

「君が職員室を飛び出した後、少し陽乃と話をしたんだよ。陽乃は生徒会室に向かい、わたしは奉仕部へ向かったんだが、どうにも雪ノ下の帰ってくるのが遅かったのでな」

 ああ、そういうことか。
 帰って来るのが遅かったから雪ノ下先輩となにか話してきた。
 生徒会室に向かった陽乃先輩がわたしと話さないわけもない。
 雪ノ下先輩に見透かされてたのも、陽乃先輩にものっすごい品定めされたのも苦い思い出だ。

「どうだった?」
「それは……どっちですかー? それとも、統合してって話ですか?」
「ははっ……。いや、そうだな……では、統合して君の心中はどう変わった、と聞こうか」

 やっぱり、みんな気づいているんだろうか。

 雪ノ下姉妹はもちろんのこと、先輩や結衣先輩も。
 そういえば、自分で出来るって言ったっけ。
 なにかあったと察するには充分か。

「自分でって意志は変わりませんよ……。ただ、言わなきゃと思いました。わたしの中では昨日、全ての結論が出ましたねー……」

 言うと、平塚先生は優しい顔をした。
 生徒の歩みを感じた。
 そんな感じだった。

 わたしは本当に歩めているのだろうか。
 前に進めているのだろうか。
 自分自身では自分の成長を推し量ることは出来ないから、誰かに認めてもらいたいと思った。
 その誰かにはきっと先輩も入ってる。

「自分で、か……。その意識向上は素直に褒めてやりたいところなのだが、私は、一人自分でやることしか知らない生徒が傷つくのを見てしまっている」

 誰のことをを言っているのか。
 そんなものはすぐに分かった。
 いつも一人で全て抱えて、気づけばどこかに行ってしまいそうな人。

「真似はしませんよー……。参考にはしますが。一人で出来そうにないときには平塚先生にでも助けてもらいますっ!」

 にこぱーっと笑顔を咲かせると、平塚先生は苦笑する。

「そうか……。それなら余計な心配だったな。では、もう一つ。雪ノ下雪乃と雪ノ下陽乃、双方を見て、双方と話して、君はどう感じた?」


 その問いも思索にふける必要はなかった。
 どう感じたか、どう思ったかは自分の中で整理がついてる。

「似てますよねー、あの二人。やっぱり姉妹なんだなぁって……。二人とも……素敵な人だと思います」

 わたしの言葉になにか変なところでもあったのだろうか。
 平塚先生は目を見開く。
 驚かれるは二度目だった。
 一回目は陽乃先輩。

「……君は思った以上に大物なのかもしれないな」
「む、それどういう意味ですー? もともと小物に見えてましたかー?」

 まあ別に自分自身でも自分が大物とは思えないけど。
 本物を見つけたいなんて。
 そんなことを思ったくせに、いつまでも先輩との関係の維持に努める。
 突き詰めれば壊れてしまいそうなほど脆い。

「いや、もともと期待はしていたさ。君は比企谷と同じで他人をよく見ている。だからきっと陽乃の外面も見抜くだろうとは思っていたが……。まさか、素敵な人だなんて言葉が出てくるとはなぁ……」
「素敵じゃないですかー? 優しくて、強くて、でも弱い……。わたしを助けてくれる人はいつもそんな人です。いい人はなんでか助けてくれない」

 それは多分、本当にいい人なんていないからなんだろう。

 葉山先輩はいい人だけど、わたしにとって素敵な人ではなかった。
 葉山先輩が先輩に劣ってるってわけじゃない。
 むしろ葉山先輩の圧勝だ。

 頼めば手伝ってくれて、悪意も敵意も見せない。
 葉山先輩がなにを求めてるのかは分からないけど、葉山先輩にとってきっとわたしはどうでもいい人で、わたしにとって葉山先輩はかっこいい人なのだ。
 いい人なんて結局演技に過ぎないから、いい人は怒ってくれないし歯向かってこない。
 その程度の距離感が心地いい関係。

 わたしにとっていい人だった葉山先輩は、いつか素敵な人を見つけられるのだろうか。
 いつもいつも、何かを隠して生きているところはなんだか先輩と通ずるものがある。
 それに、葉山先輩のこと自体嫌いじゃないから見つけられたらいいな、と思った。

「あいつのことを弱いと言ったのは君が初めてだな……」
「怖いですけどねー……。それにわたしじゃ勝てません。でも、勝ち負けじゃないと思うんですよねー? なんていうんですか? こう……誰かに見つけて欲しい、何かを見つけたい、みたいなー? ほら、弱味を見せられる相手がいるのって、すっごく素敵なことじゃないですかー?」

 弱味を見せているつもりで、ひた隠しにしている先輩もいるし。
 陽乃先輩にはまだいないのかもしれないけど、でもいつか見つかる。

「だいたい弱くない人間なんていないじゃないですかー? いくら分厚い仮面つけても、結局それって隠してるだけですし?」


 わたし自身の話をしている気分だった。
 どれだけ取り繕っても弱味がなくなるわけじゃない。

「分厚い仮面ってより、はるのんの場合は外套って感じですかねー……」
「……は、はるのん?」

 ああ、知らないとこういう反応になるのか。
 はるのんはプレミアだからなぁ。
 これだけ仲よさげな平塚先生が普通の呼び捨てだと、なんか特別っぽくてはるのん呼びも悪くないように思えてしまう。
 はーるのんっ。

「なんか流れでそう呼ぶことになっちゃってー……」

 はははーと苦笑を返すと、真剣な顔で見返されてしまった。
 生徒が卒業しようと先生にとってはずっと生徒なのかもしれない。
 その顔には期待が乗せられていた。

「わたしじゃ……無理ですよー?」
「どうだろうな。少なくとも陽乃にとって、君は新しいタイプのはずだ」

 それはそうなんだろうけど。
 うーん……。
 でも、まぁ。

「おもちゃになるつもりはないですよー。先生の期待に沿えるかはびみょーですけどー、仲良くはしたいので……。そんな感じで見ててもらえると助かります」

 ふと微笑むと、平塚先生も笑う。


「当然だ。それが私の仕事だからな」
「じゃ、そういうことでよろしくですー。そろそろ生徒会戻りますねー」
「ああ」

 雪ノ下先輩と陽乃先輩。
 わたしには二人が隠すなにかは窺い知れないけれど、それでいいのかもしれないと、わたしが知る必要はないのかもしれないと思っていた。

 どうせ見せてくれることもないだろうしなぁ……。
 まあ、もしそうなったら、そのときはそのときだ。
 受け止める準備くらいはしとこうか。

  ****

 わたしが進んだはずの日から僅かではあるが時間が経った。
 校外学習も終わり、四月末日。
 結局、先輩に言えてない。
 でも、小町ちゃんに誘われてゴールデンウィークに料理勉強をしに先輩の家にお邪魔することになった。
 そのときには、必ず。

 生徒会の仕事は生徒総会の動議と職場見学くらいしか残っていない。
 とは言っても、職場見学が終われば今度はまたその事後処理をしなきゃなんだけど。

 動議……かぁ。

「ぶっちゃけ、生徒総会とか誰も聞いてなくないですかねー?」

 ぐでーっとデスクに身体を乗せて、不満げに口を尖らせる。

 それに答えた副会長の顔は認めざるを得ないのが実に遺憾です、みたいな感じだった。

「まあ、そうだな。誰も、ということはないとは思うけど……」
「誰かが聞いてくれてる程度じゃモチベーション上がらないですー……」

 わたしが言いたいのは、わたしは必死で動議を考えたり当日には壇上で生徒会からの報告を行うのに、生徒はぺちゃくちゃおしゃべりを繰り広げるところにある。

 動議なんてどうせ意見出ないし、合間合間に手を挙げて聞いてもいないものを承認するのが生徒の役目。

「そうは言ってもな……」

 どーにかならないかなー……。

「なんか生徒の興味が出そうな動議にする、とかダメですかねー?」
「そうだな……例えば?」

 例えば……うーん。
 この学校結構校則緩いからなぁ。

「同好会の発足とか、制服着用の有無とか……定期考査順位の張り出し。あ、マラソン大会中止なんてどうです!?」

 マラソン大会中止、という言葉に役員の目が光った。
 やっぱりみんな嫌なんですね。

「そこら辺になるな……。まあ、マラソン大会を実際に中止させることは出来ないと思うけど」


 ですよねー。
 学校行事だもんなぁ……。
 PTAとかから反発があったりしない限りは無理だろう。

 同好会は結構イイ線だと思う。
 意味の分からない部活やりたがる生徒多いし。
 生徒総会なんだから生徒の関心がある話題でやった方がいい。
 これならいけそうだ。

「でも、それでも見てるだけだと思うな」
「えー。なんでですかー」

 ぶーぶーとその理由を問う。
 自分の学校生活に関わることならって思ったんだけどなぁ。

「全校生徒の前で発言するっていうのは、結構勇気がいるからね。会長みたいに誰でもできるわけじゃない」
「あー……」

 そういうことか。
 確かにそういうところで発言できる人物は限られている。
 三浦先輩とか雪ノ下先輩とかなら物怖じせずに言いたいこと言いそうだけど。

「それにそういうことが出来る人は大抵学校の中でも有名な人だからね。有名な人は上位カーストで、上位カーストに所属してる人間は基本そういうことに興味がない」
「それはありますね……」

 わたしも多分そんな動議であっても見てるだけだ。
 目立つし、みんなやらないからわたしもやらないみたいな。


「うーん……。じゃあ、まぁ、とりあえず動議の内容はそういう方向で決定して、また後日にでも各自意見を考えてくるってことでいいですかー?」

 行き詰まったままやっても時間の無駄だ。
 役員も特に反論はないようで、それぞれが頷く。

「では、今日は解散で。お疲れ様でしたー」

 荷物をまとめて出て行く役員たちを見送り、鍵をかける。
 さて、どこに行こう。
 選択肢としては、奉仕部かサッカー部。

 奉仕部はそのうちまた仕事を頼みに行くかもしれないし、部活行くかぁ……。
 面倒だけど、わたしを生徒会長に推してくれた先輩に迷惑はかけられない。
 たとえそれが奉仕部のためだったとしても。

 わたしが生徒会を理由に部活をサボり顧問に呼び出されたりすれば、きっと顧問は「出来もしないのに生徒会なんて入るから」と、わたしを糾弾するだろう。
 そんな嫌な思いはしたくない。
 わたしはわたしを推してくれた人に信頼されたいから。

 あ、サッカー部で葉山先輩と戸部先輩になにか良い案ないか聞いてみよう。
 こういうとき、空気を読む戸部先輩みたいなタイプの人間の意見は参考になる。
 クラスの中心でもグループの中心ではない。

 一般目線って言うとなんだか見下しているみたいだけど、街角調査みたいなもんだ。

 部活やりながら生徒会の仕事も進められるなんて一石二鳥でなんかお得。

 そういう点では奉仕部で頼れるのは結衣先輩くらいだからなぁ。
 いや、先輩は学内最底辺だし、それはそれで意見欲しいかも。
 でも、雪ノ下先輩と先輩を議論させると葉山先輩くらいしか入り込めないからなー。

「あんれー? いろはすじゃね?」

 なんだか聞き慣れた声が飛んできた。
 声の方へ顔を向ければ、昇降口へと入ってくる戸部先輩。

「戸部先輩、こんにちはー。どうしたんですかー?」

 うん……?
 まだ部活中のはずだけど……。
 試合前でコンディション整えるってわけでもないだろう。
 そんな話は聞いてないし。

「あー、なんかスプレー切れちまっててさー! 保健室の在庫貰ってくるとこってわけ」

 あっははーっとあっけらかんにそう言う。
 しかしわたしはその事実に固まるほかなかった。

 え、なに、なんで切れてるの?
 コールドスプレーだよね?
 だって、ついこの間……。
 あぁ、いや、在庫補充に行ったのは随分と昔の話だ。
 やっちゃった……。

 別にそんなに気にすることでもないんだろう。

 今日にでも買いに行って、補充すればいいんだろう。
 本来なら、それでいいんだ。
 わたしが生徒会長じゃないのなら、それでいい。

 でも、違う。
 わたしは今、生徒会長兼サッカー部マネージャーなのだ。
 いつも見ていられるわけじゃない。
 他のマネの子なんてただのミーハーで、葉山先輩とおしゃべりするのがあの子たちの部活だから、わたしがやらなきゃ誰もやらない。

 誰もやらないわけじゃない、か。
 誰かがやるんだ、きっと。
 だから。
 誰かがやってくれるからって言って、みんなやらないから。
 葉山先輩とか戸部先輩みたいな人が買いに行く。

 それでもいいのかもしれない。
 実際、今はたいした問題にもなってない。
 マネージャーのいない部活だってあるし。
 でも、誰かがやってくれるまで誰もやらなかったら、本当に使いたいときには多分ない。
 いつか、そうなる。

 そしたら、マネージャーはなにをやってるんだって話になる。
 わたしが葉山先輩にアピールするために率先して買い物に行っていたし、スポドリ作ったりしてた。
 それがいけなかったのかもしれない。
 部活のマネージャーなんて何人も要らないから、わたしがほとんどやってた。
 それはまずかったのかもしれない。

 そう、きっと。
 そういう話になったら他のマネの子は、「あれ? いつもなら一色さんが……」とかって言うんだろうから。

 そこで、「一色は生徒会長になったんだからお前たちがやらなきゃダメだろ」って言ってくれるならいい。
 でも、もし「一色が生徒会長になったせいで」ってなったら。
 それはよくない。

 普通ならない。
 でも、分からない。
 なんせこの学校の先生だ。
 みんながみんなああじゃない。
 それは分かってるけど、あれに影響されちゃう人だっている。

 それでわたしが怒られたとして。
 わたしだけで話がおさまるならいい。
 それならまだいい。
 でも、マネの子たちがそんな噂を流したら。

 そう考えると、どう転んでもダメな気がしてきた。
 わたしが生徒会長になって自分たちが怒られてやる羽目になったのなら、確実に愚痴る。
 で、結局、そんな噂が伝播して「一色いろはは出来ないくせに両方をやろうとした目立ちたがり」なんてレッテルを貼られるのだ。

 もう一年じゃない。
 生徒会に入ってそこそこの時間が経過して慣れてきたときなら、甘くみてはもらえない。
 それで困るのがわたしだけならいいんだけど。

 そんな噂を聞いて責任を感じてしまうバカな先輩がいる。


 困る。
 そんなのは困る。

 だいたい、マネだけじゃない。
 サッカー部顧問とか、生徒会執行部顧問とか、あと一年時の担任。
 噂の広まる経路なんて挙げようと思えばいくらでも挙げられる。

 それに、頑張ろうって思ってるときに助けられるのって、やっぱりちょっと悔しいし。
 甘えはあくまでアピール。
 そこらへんはきっちり区別しとく。
 助けてやらなきゃなんにも出来ないやつだとは、思われたくない。

 だから、しっかりしないと。
 もっと、もっと、ちゃんとやらないと。

「戸部先輩っ! 今日、部活終わったあと暇ですかー?」

 駆け寄り、ずいっと顔を近づけて問う。
 勢いがあり過ぎたのか、戸部先輩は二、三歩後ずさった。

「お? おぉ? ん、あー……、別にいろはすが気にすることじゃねぇべ? 生徒会頑張ってんだろ? 隼人くんもあんまいろはすに負担かけんなって言ってっし。ま、こういうときこそ俺が行くってやつっしょ」

 にかっと歯を見せて笑う。
 頼もしい。
 頼もしいし、本当この人いい人だなぁって思うんだけど。

「ダメです。わたしも行きます。本当はわたし一人で行きたいくらいです。ですが、やっぱり重いのでー……。仕方ないのでついてきてもいいです」


 にこっと笑いかける。
 が、どうも納得がいかないご様子だ。

「いやいや、いろはすは生徒会長やってろって! どっちもなんて大変だしよ。こっちはたまに顔出してくれりゃいいから。なっ?」

 実に戸部先輩らしい返答だった。
 気をつかうのがうまい。
 けど、なんだかこの人気をつかうのが当たり前みたいな節がある。
 そうやって生きてきたんだろうか。
 いつも外れくじばっかり引いてそうだ。

「わたしが行きたいんですよ! マネも生徒会長も頑張るんです……」

 どっちも、頑張る。
 出来る。
 出来るはずなんだから、頑張る。
 出来ることなら頑張りたい。

「どっちもは大変だからとか、そんなのダメなんです。負担とか……そういうの嫌なんですよ。出来ないって、思われたくないんです……。使えないとか、やっぱり出来なかったとかっ。お前には、無理だとか……思われたくないんですっ!」

 一気にまくし立てたからか、はぁはぁと肩で息をする。
 熱い。
 胸が焼けそうだ。

「い、いや、別にそういうつもりで言ったんじゃねぇっつーか。誰もそんなこと思わねぇだろー」


 落ち着け落ち着けとわたしを宥めてくる戸部先輩。
 気を遣わせてしまっただろうか。
 思いがせり上がってきて、つい熱くなってしまった。

「分かってます。分かってますけど、自分でやりたい、です」

 真剣な顔で真っ直ぐ瞳を捉えて告げると、戸部先輩は困ったようにぽりぽりと頭を掻く。

「おお、なに、いろはすなんか今日熱くね? ガチ気合い入ってる感じ?」
「ガチ気合い入ってます。生徒会長はわたしですが、サッカー部のマネもわたしです。だからどっちも全部しっかり、やります」

 そこまで言い切るとようやく諦めたらしい。
 そっか、と小さいつぶやきを落として戸部先輩は再びにかっと笑った。

「よっし! んじゃ、今日買い行くべ!」
「はいっ!」

 おーっとなんか変なテンションで盛り上がる。
 さて部活に戻ろうかと昇降口を見ると、葉山先輩が立っていた。

「……え?」
「……あ」

 わたしは不思議そうな声を、戸部先輩は見つかったやっべーって感じの声を漏らす。

「や、やあ……」

 い、いつから立ってたんでしょう……この人。

 なんか恥ずかしい。

「え? あっれー? 隼人くんどしたん?」
「ああ、いや、戸部がスプレー取りに行ったきり戻ってこないからなにかあったのかと思って……な」

 気まずい。
 この口調から察するに完全に見られてた。
 ど、ど、どうしよう。
 顔熱い。
 なんか凄い熱血漢みたいなこと言っちゃったし。

 ていうか、スプレーとか全然忘れてたし。
 戸部先輩も普通に戻ろうとしてたし。

「あ、やっべ、スプレーとか完全に忘れてたわー!」
「おいおい……」

 やはり戸部先輩もわたしと同じだったらしい。
 葉山先輩が苦笑いをする。
 わたしのせいですよねー……。
 ごめんなさい。

「まあ、いい。それより、今日備品の買い出しに行くんだって?」
「あ、あー、まあ……」

 優しく問いかけてくる葉山先輩に戸部先輩は気まずそうに言葉を濁す。
 わたしの同行を許可したからだろうか。
 葉山先輩には止められてるって言ってたもんな。

「そうか。なら俺も行くよ。一応、部長だしな」

「えっ!? い、いやっ、隼人くんはいいっしょー! ほらなんかアレだし? な? いろはす! なっ? ……あ」

 早口で拒否し、わたしと葉山先輩の顔を交互に見る。
 どうやら相当テンパってるらしい。

 わたしと葉山先輩のわだかまりはマラソン大会のときに傍目から見ても解けている。
 なのに、わたしと葉山先輩が近づくのがまずいと思って断ったり、その渦中のわたしに同意を求めてしまったり、後々気づいてやっちまったーみたいな顔になったり。
 そして、最後に、あっそうだったと思い出したような顔になってふーっと息を吐いた。

 この人大変そうだなぁ。
 と、さっきまで大変そうだと思われてたわたしが思ってしまうレベル。
 ちらりと葉山先輩の顔を窺うとちょうど目が合い、お互いに苦笑してしまった。

「やる気があるのならわざわざそれを否定することもないだろ。三人で行こう」

 やっぱり聞かれてたー。
 やーだー、はーずーかーしーいー。
 穴があったら入りたい気分だった。

 葉山先輩にまで同行してもらったら、なんか悪い。
 ここは断ろうと口を開くが、そういえば相談したいことがあるんだったと思い直す。
 どうせならゆっくり落ち着いた場所で話した方が疲れも取れていいだろう。

「そうですねー! わたしもちょっと生徒会の仕事で二人に相談があったんですよー。よかったらそれもついでに聞いてもらっていいですかー?」


 きゃぴきゃぴっと小首を傾げて聞くと、二人とも快く頷いてくれた。

「おっ、そゆことなら全然任しとけって!」
「ああ、俺も構わないよ」

 葉山先輩の一歩後ろへ下がってわたしにグッドサインを送ってくる戸部先輩。
 どうやら勘違いさせてしまったようだ。

 ああ、葉山先輩が来た途端にかわいこぶったからそう思われるのも仕方なかったかもしれない。
 別に狙ってやったわけではなく、タイミングが合ってしまっただけなんだけど。

「じゃ、お願いしますっ! わたしスプレー取ってくるので、二人は先に戻っててくださーい!」

 ではではっと軽く手を振り、二人の元を去る。
 別に保健室に行くだけなので、そこまで時間がかかるわけもなく、さっさと部活に参加した。

 久々というほどでもない。
 最近はそこそこ出れていた。
 けれど、それはやっぱり途中参加なわけで、途中参加ということは時間も少ない。
 すなわち、出来ることも少なくなる。

 それをなあなあにしていた。
 生徒会も部活も参加して頑張れてるつもりでいた。
 でも、全然出来てなかった。
 備品チェックなんてそんな当たり前のことも忘れてしまっていたのだ。

 どうしようもない。

 当たり前のことを当たり前に出来る人間になりたい。
 新年の抱負だとか、大人になったらだとか、そんなときによく耳にする言葉だったけれど、これが結構難しい。

 当たり前のことを当たり前に出来てない大人もたくさんいる。
 高校生だから、まだ子供だから。
 生徒会もやってるから。
 そんな理由を取り繕って逃げるのは簡単だろう。

 でも、楽なことを覚えるとろくなことにならない。
 楽な方へ楽な方へ。
 そうして進んだ先にはなにもない。
 気づいたときにはもう遅いのだ。
 わたしはなにも残らない人生なんて嫌だ。

 逃げ道なんていらない。
 妥協点なんて探る必要はない。
 これがわたしの人生だと。
 胸を張って言えるなにかが欲しい。

 黙々と作業に勤しんでいると時間が進むのは早くて、いつの間にか部活の終了時刻になっていた。
 備品のチェックも終わらせた。

 校門で二人が来るのを待つ。
 もうだいぶ暖かくなってきたからか、少し汗ばんだ身体にシャツがくっつき不快指数が上昇した。
 そんな嫌な感じすら吹き飛ばす爽やかオーラを纏って葉山先輩は現れた。
 身体から柑橘系の匂いがしそうだな、この人。


 先輩は腐った魚の匂いがしそうだ。
 実際そんなことなくて、案外あったかいんだけど。
 そういうトラウマもありそうだった。

 脇には戸部先輩もいる。
 大きく手を振りながら歩み寄ってきた。
 胸の前で小さく手を振り返し、到着とともに並んで歩き出す。

「そういやーさ」

 そんな、文字で見れば一瞬何語が判断しかねるような言葉遣いで戸部先輩が話題を提供する。

「いろはす最近遊びとか行かねーけど、土日なにしてるん?」

 土日は部活してるわけだが、そういう意味ではないのだろう。
 部活終わったあとになにをしてるのか、という意味だと捉えて言葉を返す。

「んー、雑務とかですかねー。あ、あと料理とか最近はまっててー」
「へー、そうなん。……は?」

 納得しかけたと思うと、疑問符を頭に浮かべて固まる。
 なにかまずいことでも言ったかな。
 料理してるのは本当なんだけど……。
 やってみたら案外楽しかったし。
 お母さんと料理するなら有意義な時間の過ごし方だ。

「え? え? なに? 土日も仕事してんのっ?」
「生徒会……そんなに大変なのか?」


 あー、そういう。
 葉山先輩まで心配そうな顔つきになってるし……。

「えーっと、その、空いた時間に雑務とか済ませとけば平日も部活出れるじゃないですかー? だから、えっと、やらなきゃいけないってわけじゃなくてですねー……」

 もっともらしい反論をする。
 しかし、逆効果だったようだ。

「は!? なおさらやべーっしょ! そんな無理してまでやる必要ねぇって!」
「……そうだな。俺から他のマネの子にも言っておくよ」

 おお、なんかまずい方向に傾いてきた。
 失敗した。

「いや、えっと、その、やりたくてやってるのでー……。だいじょぶ、です」
「そ、そうか?」

 本当に大丈夫か?
 と、言われている気がした。
 別に現時点でそこまで苦しいってわけでもないし、本当に大丈夫だ。
 両手で握り拳を作り、ぐっと気合い入ってますアピール。

「はいっ! 任せてくださいっ!」
「なら、いいんだけどな……」

 ちょっとわたし今回はガチなんですー、とかなんとか葉山先輩たちを説得しながら歩みを進める。
 そういうのは得意だ。
 だいたいにして、今までだって自分磨きは頑張ってきた。


 だから、実質、やることは変わらない。
 ただ対象がそこらへんのかっこいい人みたいな漠然としたものではなく、先輩へと一点に絞られただけのこと。
 そうして電車に乗り込み千葉駅へ、パルコに辿り着いた頃には七時を回っていた。

「あー、マーカーとかどうしましょうかー……。結構数減ってたんですけど、学校に持ってく時間とかないですよねー。完全に頭から抜けてました、ごめんなさい」

 スポーツ用品店へと向かいながら、そんな初歩的なことに気づく。
 足がないし、そういう嵩張るものは買えない。
 買えても学校はもう閉まってる。
 土日の昼に来ればよかったかなー……。

 ずーんと気を落としていると、先輩方がフォローに入ってくれる。

「ま、まあ、また土日にでも来ればいいさ。今日はスポドリとかスプレーとか消耗の早いものを中心に買おう」
「おっ、おう! そうだべ、いろはすー! 土日も付き合うからまた呼べよ!」

 そんな必死になられるとなんだか申し訳なくなってくる。
 しかしまあ、気遣ってもらったのにうじうじしてるのもよくない。

「そうですねー! あ、プロテイン買いましょうプロテイン!」
「うげぇ……」

 一瞬でげんなりとした表情に変わる。


「なんですかー。ていうかちゃんと飲んでますー? 筋トレしてますー? 全っ然変わってない気がするんですけど」
「いや、だってあれ不味いじゃんよー。まあ、飲んでっけどさー……ないわー」

 嫌とは言いつつも飲んでるんだ。
 ないってなんですか、ないって。
 こんな可愛いマネージャーが飲んでって言ってるのに。
 それだけで美味しくなるでしょ。

「はぁー。でも、なんでしょうねー? つきにくい体質なんですかねー?」
「あー、それあるかもしんねぇわ。ん、あ! んなら意味ねぇべ? 飲む意味ねぇべ?」
「いや、それなら、もっと飲んでください」

 がっくしと肩を落とす。
 ないわーないわーとそういう鳴き声の動物のように鳴く戸部先輩を見て、葉山先輩と二人で苦笑してしまった。

「そういえば、新入生どうですかー? なんか強そうな子とかいます?」

 聞くと、二人とも記憶を探るようにあー、うーん、と考え始める。
 少し経って評価がまとまったのか、わたしに顔を向け直した。

「そうだな……。トップ下とサイドバック、それとボランチ志望で中々実力ありそうなのがいたよ」
「んあー、ウイングやりたいとかってやついないっけ? あれも結構やれる感じだったべ」

 トップ下、サイドバック、ボランチ、ウイング……。


 ウイングはうちのフォーメーション的に使う場面がないからサイドミッドになってもらうことになりそうだ。

「トップ下ってどんな感じですかビジャですか」
「ビジャって……よく知ってるな。サッカー好きだったんだっけ?」
「好きになったって感じですかねー」

 好きな人と共通の話題を持つのは当然のこと。
 葉山先輩狙うなら有名なサッカー選手の名前くらい覚えとくべき。
 ていうか、そもそもサッカー部のマネなんだからちょっとくらい分からないと困る。
 スペインサッカーは至高。
 無敵艦隊。

「そっか。流石にビジャと比べるとかわいそうだけど、パスもドリブルもうまいよ」
「ほう……。つまり残りはラモスとイニエスタとセスクですね! パスサッカーに方針変更しましょう!」

 あ、セスクボランチじゃないっけ、てへぺろ。

「いんやー、サイドバックとウイングは足速くてドリブルうまい感じだったべ? パスは……まあそこそこ」
「だな」
「そうですかー……。トーレスとか来ないですかね」

 俯き、ちらっと見やると、手でないないってやられてしまった。
 トーレスかっこいいよね。
 顔が。

「まあ、でも! 二年生も結構レベル上がってきてますし! ちなみに今年の目標はーっ?」
「もち国立っしょ!」

 うぇーい!
 と奇妙な鳴き声を上げる戸部先輩に同じくうぇーいと返し、ハイタッチ。
 んー、青春って感じですねー。
 こういうのって行けないってわかってるから、簡単に言えるんですよねー。

「ぶっちゃけ、ガチな話するとどこまで行けそうですかねー? わたし大会のレベルとかまではそんなに詳しくないんですけど……」

 葉山先輩が飛び抜けてうまいのは知ってるけど、他の人たちがどれくらいなのかは正直なところよく分からない。
 見てないってわけじゃなくて、基準をよく知らないから。
 葉山先輩と比べてどうとかしか言えない。

「そうだな……。意外といいところまではいけそうな気はしてる」
「おお……。なら、応援頑張りますねーっ! 二人ともわたしを国立に連れてってくださいっ!」
「うっしゃ! 任せとけっ!」
「はは……出来ればいいけどな」

 葉山先輩は期待に応える人だ。
 だから出来るか分からないことを出来るとは言わないのだろう。
 でも、出来ないと決まったわけじゃない。
 新入部員が本当に超戦力になるかもしれないし。
 先輩たちはこれで最後だから、どうせならいくとこまでいって欲しい。

 淡い希望に胸を高鳴らせてスポーツ用品店へと入る。
 買う物を厳選したためにそこまで時間はかからなかった。
 戸部先輩は新作のスパイクを見て、へーほーかっけーと謎の三段活用をしている。
 不規則動詞ですかね。

 まあ、その気持ちも分からんでもないので葉山先輩と談笑しながら気が済むのを待つ。
 いつも振り回してたからなぁ……。
 こういうのはちょっと新鮮。

 今までも見たかったのかな。
 だとすれば悪いことをした。
 わたしだって服屋さんとか行って可愛い服出てたら見たくなるし。
 これからはもうちょっとペースを合わせてあげよう。

 ああいうのって見てるだけで楽しかったりすんだよね。
 スパイクって高いし、履き慣れとかあるからそんなほいほい買い換えるもんでもない。
 だから、どうせ買わないんだろうけど、それでもあんなキラキラした目で見てるのを邪魔しちゃ悪い。

「変わったな」

 そんな言葉が横からぶつかってきた。
 ぼーっと見てる間に会話が途切れていたらしい。
 反射的にパッと顔を向ければ、葉山先輩が笑っていた。

 優しい笑み。
 でもどこかぎこちない。


「変わってないですよー? なーんにも。もしかしたら、戻りかけてるのかもしれません」
「戻る……か」
「はい……。昔の、わたしに」

 キャラ付けをやめて、戻りかけてる。
 あの頃の、仮面をつけてなかった頃のわたしに。
 そんな気がするだけなのかな。

 自分のことは自分が一番知っている。
 でも、それは自分に似た人を見るときに役立つだけであって、自分自身に問うときにはなんの役にも立たないのだ。
 この世で一番なにを考えてるのか分からないのは自分自身なのかもしれない。

「でも、戻ることはない気がします……。なんとなくですけどねー……」

 ふと吐いた息は、呆れているようだった。
 なんだろうか。
 なにか嫌な予感がしていた。
 漠然としていて全く掴み所がないけれど、それがどうしようもなく暗くて怖かった。

「比企谷なら……戻せるのか……?」

 不意に出てきたその名前に肩が跳ねる。
 どうなんだろうか。
 わたしの仮面は厚くなってしまった。
 あのときから、笑えていない。

 思いの丈をぶちまければ仮面も一緒にどこかへ行ってくれるのだろうか。
 最初から分かっている結果なんてない。
 だからそのときまで分からない。
 ただ、こんなことを考えてしまっている時点でもう手遅れだったのかもしれなかった。

「どうなんでしょうねー……」


 たははと困ったように笑うと、葉山先輩は顔に影を落とした。

「……すまない」
「あはっ、なんで葉山先輩が謝るんですか~」

 なんとなく言われる言葉は分かっていた。
 この人はなにも出来ないのが苦しいのだろう。
 なんでもできると持て囃されていて、その実、重要なところでなにも出来ない。
 それが歯痒くて、悔しくて。
 拳を握りしめることしか出来ない自分を忌々しく思っている。

「……俺には、なにも出来ないから」

 だけど、それは筋違いというものだ。
 なにも出来ない。
 知り合いの、友達の、後輩の助けになってやれない。
 それを悔しむのは凄くいいことで、だからきっと葉山先輩はいい人なんだけど。

「気にしないでくださいよ。頼んでませんし」

 頼んでないのだ。
 優しく手を差し伸べるのは葉山隼人の当たり前かもしれない。
 そこにきゅんときて甘いマスクに心奪われるのは女子高生の習性かもしれない。

 でも、わたしはそんなこと頼んでない。
 だから、そんなことで謝られても困る。
 それに、そんなことをされたらなんだかわたしがかわいそうな子みたいじゃないか。

 違う。
 わたしはかわいそうじゃない。

 憐れでも惨めでもないから、情けはいらない。
 昔のわたしに戻りたいなんて思ってない。
 今のわたしが悪いなんて思ってない。
 両方わたしで、わたしはずっとわたしに違いないのだから。

 わたしでなくなりたいと願ってもそんな願いは叶わない。
 であれば、どんな未来になっても、わたしはわたしであり続ける。
 つまり、認めるしかないのだ。
 自分自身と向き合って、自分自身の存在を。
 受け入れてあげなきゃいけない。
 わたしを否定する権利なんて、わたしを含めて誰も持ってない。

「そう、か……。そうだな……」
「そうですよー! 戻れなくたっていいんです。別に戻ることに価値があるわけじゃないですし」

 仮面を無理やりはがすことに価値なんてない。
 それに、はがせない。
 自分でもはがせない。
 いつか自然にはがれるのを待つしかない。

 もしかしたら、これがわたしの新たな仮面なのかもしれない。
 昔のわたしに戻りたがってるのに、いまだに今のわたしを捨てきれないわたしの新しい仮面。
 中途半端なところでぬるま湯に浸かるためのつくりもの。

 わたし自身がつくりものなら本物を見つけるのは容易いことではなさそうだ。
 鬱になりそう、マジ鬱。
 とても鬱になりそうな人間の言葉じゃなかった。


「葉山先輩。多分、これからもお手伝いしてもらうと思うので、それに関してはよろしくお願いしますねっ」
「……ああ。俺に出来ることがあるのなら、喜んで」

 ちょっぴり感傷的な気分になってしまう。
 そんな顔でいられると困る。
 葉山先輩はわたしにとってはかっこいい人だけど、どうでもいい人ではないのだ。

「頼ってくださいね、いつでも。逃げ出したくなったら愛の逃避行でもしましょうか」
「はは……。君がそういうことを言うのは初めてだな」
「ですねー……。でも、愛のってところ以外は本心ですよ」

 にこっと笑顔を見せると葉山先輩はまた苦い顔になる。
 弱々しい顔は基本的に見せない人だから、そういう顔の方が人間らしくていい。

 何かを隠してるって意味では、もしかしたら先輩よりはるのんに近い、かも。
 ていうかはるのん、葉山先輩とか嫌ってそうだなー、表面では。
 なんだかいつの間にかはるのん呼びが板についているわたしだった。

「あ、そう言えば、はるのんと幼なじみなんでしたっけ?」
「はるのんって……陽乃さんか。そうだよ。誰かに聞いたのか?」
「あー、まあ、先輩に焚き付けられたときにちょっと」

 はーん……幼なじみ、ねぇ。

 なんて雪ノ下先輩に軽い敵意を抱いたりもしたけど、今となってはどうでもいい。
 そういう作戦だったんだろうな。

「比企谷が……。そうか、そういうことも……するんだな」

 誰かを使ってなにかを守る。
 そこが意外だったんだろうか。
 しかし、先輩はどうでもいい人はとことん利用する人だ。
 悪質で陰湿で嫌われることに躊躇がない。

「あの人……割とそういう人ですよ」
「そうかもな……。やっぱり、俺にはなにも見えてないんだろうな」

 少し上に向けた視線にはなにかが見えているのか。
 きっとなにも見えてない。
 そこには天井しかない。
 ただ、描くことはできる。
 誰にだって、なにかに思いを馳せる権利はあるのだから。

 卑屈な彼は、潔癖な彼女は、優しい彼女は、完璧な彼女はなにに思い馳せて、なにを思いあぐねて、なにを思い描くのだろうか。
 そして、彼は。
 ふと、そんなことが気になった。

「はるのんのこと、どう思います? あー……いや、どう思われてると思います?」

 人の目を気にしている彼だって、少しは見えるはずだ。
 いや、でも、やっぱり見えないんだろう。
 きっと、彼が本当の意味で見えるようになるのはまだ先なのだ。

「……なんでもそつなくこなす人間は面白みがないと、そう言われたよ」

 なんだか、あのとき、わたしを面白いと言ったはるのんの気持ちが分かった気がした。
 そっかそっか、確かにこれは面白みがない。
 全く分かってくれないし。
 でも、それがこの人の面白さだろう。

「そうですかー、では、今度は言われたことじゃなくて、葉山先輩自身がどう予想してるのか聞いてもいいですか?」

 最初っからなんて言われたかなんて聞いてない。
 他者の自分への評価の真意は分かっているのか。
 そのあたりを見たかった。
 そして、なにを思うのかが聞きたかった。

「あの人は……俺には興味がないんだ。君や比企谷みたいな自分が面白いと思ったものにしか手は出さないから……俺にはなにもしない」

 ほんと、つまんないなこれは。
 はるのんがそう言うのも分かる。
 それも逆効果になっちゃってるみたいだし。
 はるのんにも出来ないことがあると、それを近くで見て笑いそうになる。
 まあ、流石に感じ悪いから堪えるけど。

「はぁ……。わたしは別に、自分を卑下することが悪いことだとは言いませんけど、あんまり人の好意に気づかないフリをすると嫌われますよ」

 言うと、葉山先輩はぴくりと肩を震わせた。
 両手は硬く握られている。
 なにに憤慨しているのか。

 わたしの言葉にだろうか。
 それとも、自分の無力さにだろうか。

「なにも、言わないんですねー。そういうところ、嫌いじゃないです。でも、言わなきゃなにも伝わりません。本当に大切な人はきっと葉山先輩のことを待っていると思いますよ、わたしは」
「本当に、そうかな……」
「さぁ? わたしの主観的意見なのでー」

 偉っそうだなぁ、わたし。
 いつから人に意見出来るほど偉くなったんだろう。
 自分のこと、なんにも出来てないのに。
 ふっと、自嘲じみた笑みが溢れた。

「君は……なんでも分かるんだな」

 皮肉めいた言葉は意趣返しのつもりだろうか。
 だとすれば、その選択はまちがっている。
 そんなことに意に介す性格ではない。

「なんでもは分かりませんよ。でも、葉山先輩はなんにも分かってませんねー。はるのんは興味がない人にそんなことを言うような人じゃない。っと……まあ、わたしが言えるのはここまでですかね」

 みなは言わない。
 葉山先輩のためにもはるのんのためにも。
 それに気づくのは自分の力でやるべきだ。

 確かにはるのんは興味がない人間にはなにもしない。
 本当になにもしないのだろう。
 であれば、そんなことを言われてる時点ではるのんの興味の対象に自分が含まれてるって分かりそうなもんだけど。


 自分のことなんて分からないか。
 分かってたらこんなに悩まないんだろうし。
 フリでもないのか。
 それが葉山隼人の本質なのだろう。

 まあ、これも、予測に過ぎないんだけど。
 はるのんはどうかなんて知らない。
 あの人なに考えてるか分かんないし。
 でも、葉山先輩が明らかに無視している好意があるのは傍目から見ても明らかだよなぁ。

「君に……なにが分かる」

 静かな怒りのこもった声は、今までの葉山先輩の中で一番面白かった。
 なんだ、そういうのできるんじゃないですか。

「あはっ、分かりませんよ。なーんにも! ただ、そのままでいたらいいとは思います。あっと、もうこんな時間ですねー! 戸部せんぱーい! 行きますよー!」
「お、おう! わり! 時間忘れてたわー!」

 葉山先輩がなにかを言った気がしたが、それは戸部先輩の声にかき消された。
 弱々しくか細い声で言ったなにかはきっと弱音だろう。
 それが出来たら苦労しないとかそんなことだろう。

 でも、やる気がないのならいつまでたっても出来ない。
 やる気があるのなら今すぐにでも行動に移すべきだ。
 じゃなきゃ進めない。
 近いうちに一歩を踏み出せたらいいと、また偉そうなことを思った。

「んー……。相談したかったんですけど、今日はもう遅いですし、後日にしましょうかー?」

 時刻は八時半。
 閉店時間ギリギリになってしまった。
 このまま相談して、終わった頃には九時過ぎだろう。
 そこまで付き合ってもらうのは悪い。

「ん? いや、そんなん気にしなくていーべ? な、隼人くん? っつーか、俺のせいだしよ」
「ああ、気にしなくていいよ」

 まあ、そういうことなら、優しい先輩方に甘えるとしよう。
 二対一じゃどうしようもないし。
 そうと決まればやることは一つ。
 にぱっと満面の笑みを作って答える。

「そうですかー? ありがとうございますー! じゃ、お言葉に甘えちゃいますねっ!」

 先輩の顔が引き攣りそうな仕草だった。
 あの人の困り顔はなかなかに愛らしいのだが、あまり困らせて嫌われるのはいただけない。

「んじゃ、どこ行くかー。俺結構腹空いてっから、飯食えっとこがいんだけどさー」
「そうだな……。この時間だと……」

 考える素振りをしながらちらりとわたしを見る。
 その意図を察して、こくりと頷く。

「あっちにデニーズあったよな? そこにしようか」

 別にファミレスがどうのこうの気にしたりはしない。
 すぐ近くにサンマルクやらドトールやらがあるが、カフェなんか行ったって練習終わりの戸部先輩のお腹は満たせないし。

 ここで中途半端に食べて夜中にお腹空いて食生活が乱れるほうがマネージャーとしては困る。
 まあ、外食なんてバランス悪いからあんまり変わらないかもだけど。

「おっ、それありっしょ!」
「ですねー」

 同意して足を向かわせる。
 時間帯的に夕食どきではないため、店内の人はまばらだった。
 空いてるテーブルに腰掛けて注文を済ませる。
 まずはとりあえず言うべきことを言っておくことにした。

「今日はありがとうございましたー。買った物くらい……わたしが持って帰りますよ?」

 付き合ってもらって、そこまでされるのは忍びない。

「そこまでされちゃうとわたし来た意味ない気すらしてきますしー……」

 買い物も二人で出来る。
 買った物は二人で持って帰る。
 それで明日二人ともちゃんと持ってくるのだろう。
 わたし来た意味。

「いやいや、んなことねぇべ? な、なぁ隼人くん?」

「ああ。いろはがいなければなにが足りないのかも正確には分からなかったわけだしな」

 そっか……。
 んー、でもなぁ。
 どうにも納得しかねて渋っているわたしを見て、葉山先輩が話題を切り替える。

「まあまあ、たまには先輩面させてくれよ。それで? 相談っていうのは?」

 葉山先輩が言うと、戸部先輩がやっべーとなにかミスったような表情になる。
 どうやら気を遣ってわたしと葉山先輩を二人きりにさせたかったらしい。
 別にそういうのいらないけど。

 ていうか、さっきまでナチュラルにそういう企み忘れてたんだなこの人。
 相当お腹空いてたのか。
 気にしないでという意味を込めて笑顔を送ると、なにやら顔を青くする。
 なんだがわたしが怒っていると勘違いしてそうだった。

「あー、それなんですけどー。生徒総会ってあるじゃないですかー?」

 それ自体たいして目立つような行事でもないので、知ってる体で進めるのは躊躇われた。
 思った通り、葉山先輩はうんうんと頷くが戸部先輩は首を傾げて唸る。
 
「そんなんあったっけ? わり。俺基本流してっからさー」
「俺は一応覚えてる。が……まぁ、そこまで記憶に残ってるってわけじゃないな」
「ですよねー……。ぶっちゃけ、わたしも昨年の生徒総会記憶にないですし」


 一応、過去の資料に目を通しはしたので全く知らないというわけでもないけど。
 やはり、記憶は曖昧だ。

「全校生徒で議論するーみたいなやつだと思ってもらえればおっけーです。ま、別に知ってても知らなくてもそこは大した問題じゃないんで……。んー、やっぱりそこが問題、ですかね?」
「つまり、記憶に残るものにしたいってことでいいのかな?」

 さすが葉山先輩。
 理解が早くて助かる。

「そんな感じですねー! 具体的に言うと、みんなの興味が集まって自然と意見が出る、みたいなー?」
「おぉっ! 生徒会長っぽい! いろはす、めっちゃ会長っぽい! かっけーわー!」

 いや、ぽいとかじゃなくて会長なんですけどー。
 まあ、正直言って見た目会長っぽくないもんなぁ、わたし。
 そういう評価も仕方ないのかも。
 むしろ有効活用すべきだな。

 ギャップだ。
 札付きの不良が実は動物好きみたいな。
 それはギャップ萌えか。
 まあ、わたしの評価が上がるのならなんでもいい。

「そうなると……関心を集められそうな議論をするってことになるのかな?」
「はい! あ、でも、そこはもう考えてあるんですよー」

 スクールバッグをガサゴソと漁り、今日の会議の記録を差し出す。

 二人とも真剣な顔でテーブルの上の紙に目を通してくれた。
 なんだか正反対に頬杖をついているため鏡のようだ。

 戸部先輩も真剣なときは真剣なんだよなぁ……。
 結衣先輩と似て空気を読むのがうまい。
 グループ内でトップではないから身についたものだろう。
 三浦先輩があれだからってのもありそうだな。

「うわっ! ちょっ、いろはす~! テスト順位の張り出しはやめた方がいいべ? いや、マジで」

 勘弁してくれと、両手を合わせる。
 やっぱりそれは重要だよねー。
 わたしもそこまでいいわけじゃないから困る。

「そういう明確な拒否反応があるってことはやっぱり関心が集まるってことなので、決定ですねー!」
「うっわ、マジかよー! ないわー……。いろはすないわー……」

 ないってなんだ、ないって。
 たいした意味もないんだろうけど。
 戸部先輩相手だと特に怒る気にもならない。
 この人もわたしも冗談だって分かってるし。
 少し笑い合うと、そのあたりで注文したものが来た。

「あー、どうします? 食べ終わってからにしますー?」
「んあー……俺は別に食いながらでいいけど。どーせ喋るわけだし? 隼人くんはー?」


 二人で同意を求めて葉山先輩に目をやると、笑顔で頷いてくれたので少し行儀は悪いが食べながら話を進める。

「まあ、嫌なら動議のときに積極的に反対意見を出して否決するか、妥協案をかんがえるしかないな」
「そういうことです」
「っはぁ~。いやでも、無理っしょー……。全校生徒の前でとか恥ずいしよぉー」
「そこ、なんですよねー……」

 そう、そこなのだ。
 問題点はそこにある。
 あれだけ嫌がってても、それだけのことで諦めてしまう。

 流石、みんなと一緒は嫌だなんてみんなと一緒のことを言う代表である。
 今回はその平凡さが頼りだ。
 戸部先輩がやる気を見せればきっと雰囲気も固くならないし、それなら他の生徒も続いてくれる。

 ……ん?
 ああ、そうか。
 そういうことか。

「戸部先輩」
「ん? え? ……なに?」

 真面目な顔で見つめると、戸部先輩は嫌な予感でもしたのか額に薄っすらと汗を滲ませた。

「生徒総会で発言してください」
「うぇっ!? い、いっやー、無理っしょ! 無理無理! マジそういうのは隼人くんの方が適任だしよ!」


 隼人くんオナシャス!
 と、なんだか時代劇でやられそうになったチンピラみたいなことを言い出す。

「おいおい……」
「あ、もちろん葉山先輩にもお願いするつもりですよー?」
「まあ、俺はいいけどさ」
「うーわ……」

 退路を断たれた戸部先輩は露骨に嫌そうな顔をする。
 あ、これガチのやつだ。

「かわいい後輩のためだと思ってお願いできませんかねー……?」

 瞳を潤ませてきゃるんとした瞳で頼み込むと一瞬たじろぐが、すぐにはっとする。
 その手にはかかんねーぞと言われてる気分だった。
 ちっ……戸部先輩には割と適当に接してるせいかぶりっ子がバレているようだ。

「まあ、そんなに嫌ならいいですよ……。しょうがないですし。無理矢理やってもらうってのもなんか悪いですしー……」

 んー、じゃあ誰にしようかなー。
 なるべく口外しない人がいい。
 サクラなんてバレたら生徒会の評判が危うくなる。
 でも、一般人でってなるとなぁ……。
 結衣先輩含め奉仕部の面々には頼むとして……他誰かいるかなぁ。

「はぁー……」

 思索にふけっていると、誰かの長嘆息が聞こえてきた。

 意識を二人に向けるとどうやら嘆息の主は戸部先輩だったようで、忙しなく襟足を弄っている。

「あー、いや、まあ、なに? 手伝えることあんなら手伝うけどよー……。いろはすって、あんまそーいうガチな相談とかしねぇし?」
「え? マジですか! でも嫌なら嫌でいいんですよ? 他に当たりますし。ほら先輩とか奉仕部とか。まあ手伝ってくれる人が多ければそれだけ心強いんですけどね」
「お、おう……?」

 なんだか気を遣わせたかと思って早口でまくし立てたら、今なんて言った? みたいな顔をされた。
 微妙に気恥ずかしいので、紛らわすようにこほんと咳払いをする。

「本当にいいんですねー?」
「おう。……まあ、隼人くんがやんなら俺はそんなに目立たねぇっしょ」
「そうですか……。ありがとうございますー!」

 にこにこーっと笑ってみせると、戸部先輩も笑顔になる。
 ほんとこの人いい人だなー。
 いい人過ぎていい人止まりで終わりそうな感じが凄いする。

「で、ですよ。そうなると、葉山先輩のグループ内で何人か信用できる口の固い人にもお願いしたいんですねー?」

 誰か思い当たる人がいないか、という意味を込めて視線を向けると、二人は顔を見合わせて考え出した。
 一応、名前くらい把握しておきたいので聞き耳を立ててジッと見守る。


「っあー、んなら女子じゃね? あいつらを信用してねぇってわけじゃねぇけど、ほら、俺と一緒で軽いとこあんじゃん? 大岡とかはクラス別になっちまったし」
「まぁな……。いろはと面識があるわけでもないから、そもそも手伝ってくれるかどうかも怪しい」
「だしょ? そうなっと……優美子とか海老名さんになるべ?」
「だな。結衣には奉仕部通して頼むんだろ?」

 不意に話を振られるが聞いていたのでどうということもなく、普通に言葉を返す。

「あ、はい。その予定ですー。結衣先輩なら、これ、絶対拒否ると思うんでー……やる気になると思いますし」

 とんとんと指先で紙を叩く。
 そこには定期考査順位の公表と書かれていた。

 結衣先輩は、その、まあ、言っちゃ悪いけど頭がちょっとアレだから確実に反対だろう。
 そして言いたいことは言う人だ。
 それが奉仕部に関わる言いづらいことならまだしも、全校生徒の前で発言なら構うことはない。
 そんなことより自分の順位の公表の方がキツイはず。

 二人ともわたしの言いたいことが分かったのか、あーと声を漏らす。
 雪ノ下先輩に関しては断られる理由がないし、雪ノ下先輩と結衣先輩が承諾したら先輩に発言権なんてない。
 かわいそ過ぎる……。

「じゃ、そんな感じでいいですかねー? また後日話を合わせるってことで……いいです?」

 わたしとしても直接お礼を言っておきたいし、雪ノ下先輩と先輩にはしっかり話を通しておかないと暴走しかねない。

「そうだな」
「おっけ!」

 同意を得たので、そこからは世間話に話題を切り替えてゆっくりと食を進める。
 結構話に花が咲いてしまい、だらだらと話し込んでいたら十時になってしまった。

「あっ! そろそろヤバいですね!」

 十一時を過ぎたら補導対象だ。
 そうそう運悪く警察に出くわすなんてことはないと思うけど、もしもを考えれば避けたい。
 生徒会長が補導とか最悪だし。

「部活でお疲れなのに長引かせちゃってすいませんでしたー……」

 店を出て歩きながらだが謝っておく。

「いや、俺たちもたまにはこういう息抜きが出来た方がいいし気にすることでもないさ」
「そうそう! いやー、隼人くんいいこと言うわぁー!」

 本当に特になんとも思ってないらしく、二人の顔は晴れやかだ。
 あんなことを言われたあとでも切り替えが出来るのは葉山先輩の技能だろう。
 充分、人にはないものを持っている。
 もっと誇るべきだし、驕るべきだ。

 誰にでも出来るわけじゃないことをやれている。

 自分のいいところを褒めるっていうのは凄く大事なことだと思う。
 自信のなさはその人の魅力を八割方奪う。
 いいところより悪いところの方が目につくし。
 まあ、それを差し引いても葉山先輩は女子にとって魅力的なんだけど。

 この柔和な雰囲気と持ち前のポテンシャル、そもそも顔がいい。
 顔がよければ性格がそこそこ歪んでても女子高生には好かれる。
 結局のところアクセサリーだし。
 かっこいい彼氏という自分を輝かせるものが欲しいのだ。

 あんまり性格悪いと評判も悪くなるからお断りだけど。
 恋愛沙汰で同情やら嘲笑されるのは彼女らのプライドに酷く傷をつける。
 速攻切り捨てるだろう。
 ……女子高生という生き物の非情さを知ってしまった。
 もともと知ってたけど。

 あー、葉山先輩の場合、なんでも出来ちゃうから困ってるんだっけ。
 なんでも出来る人間なんていないけど。
 本当にそうなら困ることなんてない。
 なにか解決できない問題がある。

 ある種、葉山先輩はわたしに似ているのかもしれない。
 周りの作った葉山隼人という人物を壊さないように期待を裏切らないように。
 そのままでいれば一生を劇的に過ごせそうだ。

 劇的っていうより、まあ劇なんだけど。

 ああいうのを見慣れたわたしやはるのん、あと先輩あたりからしてみればどうでもいい。
 いや、先輩ならあるいは尊敬、もしくは敵対するのかもしれない。
 正反対の道を歩むまぶしい存在を。

 このまま終わるのを嫌がってるようには見えない。
 やっぱり選ばないのだろうか。
 誰にも正しいことなんて分からない。

 でもわたし個人としては、大衆の期待に応えるのをやめて、個人の願いを聞けるようになれば……凄くかっこいいと思う。
 なんにせよ、応援、してます。

 わたしの視線に気づいたのか、戸部先輩と話をしながら目を合わせてきた。
 それににっこりと微笑みを返すと、苦笑いされる。
 傷ついちゃうなぁー……。

 この人も、自分の中で既にケリをつけているのかもしれない。
 真実がどうあれ、やはりわたしが口を出すことではないのだろう。

「ではではっ! また明日ー!」
「ああ、また」
「おうっ!」

 わたしは途中でモノレールに乗り込んでも帰れたけど、付き合ってもらっておいてそんな態度を取るのは気が引けた。
 駅まで三人仲良く足を進め、ホームで簡素な挨拶を交わして別れる。

 生徒会役員がサクラを用意することに賛同してくれるかは分からないが、案は固まった。

 ぼーっと先輩の顔を思い浮かべながら帰路を辿る。

 ゴールデンウィークには話さなきゃ、だ。
 しっかり、自分の言葉で。
 先輩はどんな顔をするだろうか。
 なんて言ってくれるだろうか。
 そうして、ふと先輩の言葉を思い出してみる。

〝俺は、本物が欲しい〟

 あれはわたしに向けた言葉じゃなかったけど、どきりとした。
 本物ってなんなんだろう。
 わたしがやっていることは本物なのかなって。
 葉山先輩への好意は、この好きの気持ちは本物なのかなって。
 悩んで、考えて、それでも答えは導き出せなかった。

 だから、ディスティニーで確かめたんだ。
 結果は分かってたけど、それでも、好きでいられたなら、諦めずにいられたなら、この気持ちが本物だと思える気がして。
 玉砕して改めて分かったんだ。
 やっぱり、結局、かなり好きっぽい感じでしかなかったのだと。

 そりゃあ悔しいから涙も出た。
 わたしの作ってきたかわいいは無意味なものだったのかと絶望した。
 もうどうしようもなくて、どうすればいのかも分かんなくて。
 そのときに一緒にいてくれたのが先輩だった。

〝すごいな、お前〟


 初めて褒めてもらえた。
 あのとき、胸がすっと軽くなった。

 わたしの本性を知っている先輩がそう言ってくれたから。
 なんだか仮面をつけたわたしもありのままのわたしも、わたしの全てを認めてもらえたような気がして。
 今まで頑張ってきたのは無駄じゃないと言ってもらえた気がして。

 嬉しかった。
 ちゃんと見てくれてる人がいるって。
 だから、わたしもちゃんと見ようって。
 初めて、なにかと向き合えた気がした。

 あのときからだろうか、本当の意味で先輩がわたしの行動の理由になったのは。
 なんだか単純な女だなぁ、わたしも。
 傷心につけ込まれたのとそう変わらない。
 でも、この気持ちがかなり好きっぽいなんて曖昧な気持ちじゃないことだけは胸を張って言える。

 葉山先輩には悪いことしたな。
 わたしの都合で告白されて、断って、そしたらわたしは先輩に乗り換えた。
 パッと見れば、都合のいい女だ。
 いや、よく見てもそうだろう。

 葉山先輩が好きな風に装っていたのは、そのこともある。
 わたし自身の評判も落としたくなかったし。
 葉山先輩はそれも分かってて対応してくれていたんだろう。
 感謝、しないと……。
 葉山先輩にも、もちろん先輩にも。

〝お前を会長に推した奴が悪いに決まってる〟


 あの言葉はどこまで本心だったのだろうか。
 例えそれが百パーセント冗談であったとして、わたしが重大なミスをしたとき、わたしの立場が危うくなったとき、先輩はどんな行動に出るのだろうか。
 そのときは百パーセント本気でそんなことを言いふらしそうな気がする。

 嫌だ。
 それだけは絶対に嫌だ。
 わたしのために、だとかそんなことを言って止めたって絶対に聞かない。

『お前のためじゃない俺のためだ』

 とかそんな言葉から始まって。

『俺は誰かを責めたくなんてねぇんだよ。誰かを恨みに思うのは恨みに恨みきれねぇだろ。これは優しさとか責任感とか高尚なもんじゃない。自分のことなら早々に諦めちまえるが、人にされたことじゃ諦めがつかないだけなんだ』

 なんて、理屈をつらつらと述べる。
 それから、きっと。

『あのときあいつがこうしていれば、そのときそいつがちゃんとやっていれば、そう思って生きていくのは辛いし重苦しいしやるせない。ぶっちゃけ、だるい』

 こんな感じで嫌だという意思をはっきり言い切るんだ。
 反論を許さないために。

『なら、あのときお前に押し付けた俺のせいにしちまった方がいい。自分一人の後悔なら、嘆くだけで済む。だいたい……俺は押し付けたんだ。どう考えても俺が悪い』


 締めくくりは自分自身の落ち度を示す言葉によってなされる。
 ちょうど、こんな感じだろうか。
 先輩の長ったらしい屁理屈は。
 言いそうだ。
 言うだろう。
 全くとは言わずとも、似たようなことを。

 失敗は出来ない。
 先輩に任せはしない。
 お前に任せた俺が悪い、なんてそんなことは言わせない。
 いつか、必ず。
 お前に任せてよかったんだな、って思わせてみせる。
 だから、これからも頑張ろう。

 また、すごいって言って欲しいから。

 気づけば自宅の前まで来ていた。
 街灯が切れたままだからか、妙に暗い。
 こういうのってどこに電話すればいいんだろうか。
 そんなことを思いながら鍵を取り出し、差しこもうとしたところで鍵が開いていることに気づいた。

 心がざわざわと音を立てる。
 不快な音だ。
 早く帰って来たらいつも連絡をくれていた。
 嫌な予感がする。

 がちゃりと玄関の扉を開いた。

「ただいま……」

 返事はなかった。
 いつものことだ。

 毎日あるのは朝の行ってきますに行ってらっしゃいと言うのと、そのとき行ってらっしゃいと返してくれるお母さんに行ってきますと答えるくらいだから。

 電気はついていた。
 リビングから廊下に明かりが漏れている。
 そろりとなにか恐ろしいところにでも向かうかのような歩調になった。

「お母さん……? んっ……」

 リビングには誰もいないかのように思われた。
 ただ、焦げ臭い。
 ダイニングキッチンへと数歩近づくと焼け焦げた野菜炒めがフライパンの中に入ってるのが遠目で見て取れた。
 安全機能のおかげかクッキングヒーターの電源は切れているようだ。

 怖い。
 どうしようもなく怖い。
 この先に踏み出すのが、怖い。

「はぁ……はぁ……」

 動悸がする。
 息が荒くなっていた。
 激しく上下する胸の中では心臓が警鐘を打ち鳴らしている。
 一歩、一歩と近づくたびに、ぶわっと汗が噴き出す。

 キッチンからはダイニング、リビングの様子が窺えるようになっているが、ダイニングからは視界が狭まっているんだと今になって実感した。
 そこに誰かが倒れてでもいなければ、特に気にする必要もないことだから。


 願わくば、誰もいないで欲しい。
 それがあり得ない願いだと知っていても願ってしまう。

 実際には数分でしかないのに途方もないくらい長く感じる時間をかけて、わたしはそこに辿り着いた。

「お母さん……」

 足元には絶望があった。
 予想通りの展開だ。
 それでも現実を受け入れきれてない自分がいる。

 ここで倒れているのは本当にわたしの母親なのかなんてくだらない自問自答を繰り返し、横を向いた顔をそっとこちらに向けさせた。
 どこからどう見ても紛うことなくわたしのお母さんだった。

「お母さん……っ!」

 再び呼びかけるも返事はない。
 ただ、温かった。
 はっとなってケータイを取り出し、急いで番号を入力する。
 呼び出し音が途切れるのを待っていると、早々にそのときは訪れ、すぐさま言葉を吐き出した。

「も、もしもしっ! お母さんがっ――えっ、あ、救急です! お母さんが家で倒れて……それで……っ」

 相手の落ち着いた声音に少しだけ心が休まった。
 いくばかの質問に答え、通話を終える。

「はぁ……」

 ため息が漏れた。
 ちらりと窺うようにお母さんを見る。
 座り込んで顔を覆うと、浮かんでくるのは後悔だった。

 なんで、こんな……。
 いつも元気だったのはフリだったの?
 どうして気づけなかったんだろう……。
 そういうのは得意だったはずなのに。

 わたしはここでも、なあなあにしてたのかな。
 甘えてたのかな。
 でも、それのなにが悪いんだ。
 なんでこんなやり方で責められなきゃいけないんだ。
 家族にくらい……甘えさせてよ……。

 しばらくうつむいていると、救急車の音が聞こえてきた。
 ふらふらとした足取りで玄関の扉を開く。
 家の前で止まった救急車から出てきた人と業務連絡みたいなやり取りをして救急車へ乗り込む。

 がたがたと車内が揺れる。
 意外と揺れ大きいんだな、なんてどうでもいいことを考えた。
 まるで目の前の現実から目を背けるように。

 そこからの記憶はおぼろげだ。
 ただ、気づけば自室のベッドに寝転がっていた。
 お母さんはどうなったんだろうか、とか、そんなことを考える気力もない。
 というより、考えたくなかった。
 再び逃げるように意識を手放した。
 朝になったら、全て元通りになっているだろうか。


  ****

 朝日が鬱陶しい。
 まだ寝ていたい。
 眠気なんてないのにそんなことを思った。

 リビングに踏み入っても誰もいない。
 記憶を辿れば、断片的にだが昨日のことを思い出せた。
 結局、もう遅いからとか明日また来てくれとかそんなことを言われて帰宅を促されたんだったか……。

 お母さんが倒れるとかなにその展開。
 急展開過ぎてついていけないわー。
 わたしならそっと本を閉じるレベル。
 あー、もー、本当意味わかんない。
 悲劇のヒロイン的な?
 ははっ……笑わせる。

 くっだらない脳内劇を演じてみた。
 全っ然、笑えない……。

 朝ごはん……面倒くさい。
 お弁当……面倒くさい。
 学校も部活も生徒会も面倒くさい。
 行きたくない。
 久々にそんなことを思った。

 ぼけっとだらけていると時間は瞬く間に過ぎ、学校へ行く時間になる。
 ……先輩に会いたい。
 会ってどうするとか、そんなことは考えられなかった。
 ただ、会いたかった。

 無意識に足は進み、いつの間にか学校に着く。

 授業も半ば放心状態で、話しかけられたときだけは作り笑いを浮かべた。
 内心の苦痛をおくびにも出さず、クラスメイトと接する。
 便利な世の中になったなー。

 そのまま昼休みになったが、当然食べるものがない。

「いろはちゃーん、お昼食べよー」

 そんな声をかけて来た名も知れぬ女友達Aに「あっ、ごっめーん! 今日お弁当忘れちゃってー」とか言って購買に向かう。

 誰だっけあの子。
 ぶっちゃけクラスメイトの名前とかほとんど覚えてない。
 一色いろはの脳内ストレージに興味ない人の名前に使える容量はないのである。
 マジで一ビットもない。

 だいたいあいつが主犯だ確か。
 わたしを生徒会長に立候補した件の。
 名前を覚えてやる価値はない。
 別に名前覚えなくても会話できるしね。
 こっちから話しかけることないし。
 あっても、「ねぇ」とかで充分凌げる。

 なんだかいつもの数十倍性格の悪い脳内になっていた。
 不覚……。
 どうしようもないな、わたし。
 胸がずきずきと痛む。
 息をするのが苦しい。

「……あ」

 購買に着くと、列の最後尾に見覚えのある人がいた。


「よう」
「こんにちはーっ!」

 先輩に会うと、胸の痛みも少しだけ和らいだ。
 なんなんだろうこの人。
 リラクセーショングッズ?
 アロマ?
 わたしの顔を見て先輩は眉を釣り上げる。

「なんか……あったのか」

 しばらく考えた後に発せられた言葉に内心で驚く。
 一発で見抜かれちゃったか。
 凄いなこの人。

「なーんにもありませんよー?」

 だから嘘をついた。
 言えば先輩は辛い時期だけでも負担を担ってくれそうだったから。
 そういうのは求めてない。
 辛くて苦しくて、どうしようもなく痛いけど。
 甘くて楽しくて優しい人生なんていらない。

 なら、ここで甘えるわけにはいかない。
 楽な方へ逃げて、優しい人に頼って、甘い空間に浸って。
 その先にはきっとなにもないから。
 わたしはもう少し頑張ってみよう。

 なに、母親が倒れて入院した「だけ」だ。
 珍しいことじゃない。
 わたしだけが不幸なわけじゃない。
 それでも頑張ってる人なんていっぱいいる。
 それならわたしにだって出来るはずだ。

「そうか……」
「はいっ!」

 にこにこしたままパンを買い、そのまま先輩に着いていった。
 なにかを察してくれたのか、特に拒まれない。

「いっつもこんなとこで食べてるんですかー?」

 特別棟の一階、保健室横。
 購買の斜め後ろに位置するこの場所からはテニスコートが眺められる。
 どうやら戸塚先輩が自主練をしているようで、テニスコートから振られた手に先輩も軽く手を振り返していた。

「こんなとこって言うな。ここが俺のベストプレイスなんだよ」
「ふぅん……。わたしなんかが着いて来てよかったんですかー?」

 言うと、は? って感じの顔をされた。

「え? なにお前、ここで食べるつもりなの?」
「あ、あー……ダメですよねー。じゃあ、わたし教室戻りますねー……」

 難癖つけて無理矢理居座る気はわかなかった。
 ふぅと小さい吐息を漏らし、座りかけた腰を再び持ち上げた。

「あー……待て待て。いや、別に待たなくてもいいんだが。その、なんだ? お前がどこで食べようとお前の自由だと思うぞ」
「……へ?」

 なにを言われてるのか理解するのに数秒かかってしまった。
 本当、素直じゃないな……この人。

「ふふっ、そうですか。では、お言葉に甘えさせてもらいますねー」

 無愛想な優しさについ頬が緩む。
 心中では笑う気力なんてなかったから、やっぱりこれも仮面だった。
 相対するように先輩の顔はどこか曇っている。

 気を遣わせただろうか。
 やっぱり、まだ弱いな……わたしは。
 まあ、疲れたときには甘いものが欲しくなるし、今のうちに甘えておこう。

「……ふぇんぱい」

 パンをもぐもぐと食べながらだったからか、発音がおかしくなってしまった。
 顔が熱くなる。
 ぶんぶんと顔を振り熱を冷ましてから仕切り直すように咳払いをして、再び声をかける。

「……せ、先輩」
「おお、今のなかったことにすんのかお前……」
「ちょっ! そこは空気読んで忘れてくださいよー! もぉ……」

 ほんと、この人は……。
 うつむきがちに視線を向けると、先ほど見られた曇りはなくなっているように見えた。
 この人なりに気を紛らわせてくれたのか。
 そう思うと再び顔が熱くなる。
 やさしーなぁー……。

「はいはい、忘れた忘れた。んで? なんか言いかけてたろ?」

「あー……別に、暇ですねーって」

 特に話すこともないから、そんなことを言おうと思っていただけだ。

「へぇ。そうだな」
「うわ……」

 適当だなー。
 だが今はその適当さが心地いい。
 なんともなしにすりすりと先輩との距離を詰め、こてんと先輩の肩に頭を乗せる。
 なにを考えているのか、先輩は全くどかす気配がない。
 それがどうしようもなく嬉しくて。

 安らぐ。
 春風駘蕩たる穏やかな日和に身を委ね、目をつむれば潮の香りが脳内に海を映した。
 聞こえてくるのはさざ波ではなく、ポンポンと一定の間隔で打たれる鼓のような音だったが、それがより一層わたしの眠気を誘う。

 そのまましばらくうとうととしていると、先輩の微かな声が耳に届いた。

「……なにか、あったのか?」

 力強い声でなかったのは、眠そうにしていることからきた配慮か、それとも無理に答えなくてもいいという厚情か。
 分かったのは、この人は結句優しいのだということだった。

 二度目だ。
 二度聞かれてしまって答えないのは申し訳ない。
 それに、かえって怪しまれるだろう。
 しかし、まあ、なんて言えばいいものか。

 ああ……そういえば先輩の家族にも隈ができるほど働いている人がいたな。

「わたし、母子家庭なんですよねー……」

 先輩は頷くでも答えるでもなくただ黙っている。
 それが、この、あまり人の寄りつかない閑散とした場所には酷く似合っていた。

「それで、そのー……最近、お母さんの調子が悪そうで」

 また、嘘を吐いた。
 調子が悪いどころか倒れたなんて、そんなこと言ったら絶対心配するだろう。
 言えない。

 心配してもらえるのは嬉しい。
 けど、その反面で苦しい。
 先輩が傷つくの自体嫌だけど、それが雪ノ下先輩のためだったり結衣先輩のためだったらまだ許容できる。

 でも、わたしのためだったら、本当に苦しい。
 先輩が心配してくれるっていうのが、自惚れとか自意識過剰ならいいんだけど……。

「で……、ほら、わたしって結構マザコンじゃないですかー?」
「……いや、知らんけど」

 ですよねー。
 なにやってるんだろ。
 言いたいけど、言葉を選んだり改変したりしているせいかどうにも歯切れが悪くなってしまう。

「ま、まぁ、マザコン……なんですよ」

「お、おう、そうなのか」
「それで、えっと……あの、あー……」

 考えが纏まらなくて言い淀む。
 ちらと視線を落とすとパンを食べ終え、所在なさげな手が瞳に映る。
 また、撫でてくれないだろうか。
 暗がりでもないこの場所では、勘違いのしようがない。

「先輩……」
「なんだ……?」

 喉まで出かかった言葉がその先に進まないい。
 やっぱり、言えない。
 そんなことが言えるなら、もっと大事なことが言えてるはずなのだ。
 今はただ、肩から伝わる温もりに浸ろう。

 この態勢になるのを許しているのは、また小町ちゃんと被っているからなのだろうか。
 勘違いはなくても、無意識に荷物を持とうとする先輩だ。
 そのくらいはありそうだな。

「小町ちゃん……なにかあったんですか?」

 少し、聞いてみたくなった。
 言いたいことを、言えることを、整理する時間が欲しかっただけかもしれない。
 せめて、この胸の鼓動が落ち着くまで。

「は? なんで?」
「あぁ、いえ、先輩がじっとしてるの珍しいなーって思いまして」

 いや、できれば、この時間が少しでも長く続いて欲しい。
 そんなやましい気持ちの方が大きかったかもしれない。

 悩んでいるのか黙り込む先輩の口が開くのを待つ。

「いつだったか忘れたが……」

 そんな言葉で束の間の静寂は破られた。

「小町が家出したんだ……五日くらいだったか、家に帰って来なくてな」

 へえ……。
 そんなことするんだ、小町ちゃん。
 なんか意外。

「親は仕事で忙しいし、俺が捜しに行ったんだよ……。んで、ほら、俺あいつの交友関係なんて知らねぇからさ」
「先輩自体に交友関係とかないですもんね……」
「ほっとけ。……小一時間走り回って、公園でようやく見つけたと思ったら泣いてたんだ、あいつ」

 なんだか……わたしみたいだ。
 状況が、だけど。
 春休み前の、あの公園でのことと似ていた。

「帰って来ても誰もいないって、さみしいって……」

 その気持ちは痛いほど分かった。
 わたしも朝しか会えないから。
 夜なんて一体何時に帰ってきてるのかすら知らない。
 さみしいし、苦しかった。
 けど、流石にそれは言えなかった。
 頑張ってるのは知ってたから。

 晩ご飯くらい……作ってあげればよかった。

 出来ることなんて一杯あった。
 もっと手伝いとかすればよかった。
 なんで、逃げてたんだろう。

「親は働いてるわけだから、そんなのは当然で、文句なんて言える部分じゃないんだよな。でも、子どもだからな……どうしようもなくさみしいときがあるんだ。……まあ、そんときの体勢がちょうどこんな感じだったんだよ」
「そうですか……」

 ちょっとした昔話が終わってしまった。
 まだ微妙に心拍数が上がっている。
 落ち着かせようと何度か深呼吸を繰り返す。

「ゆっくりで、いい」

 不意にかけられたその言葉は柔らかな声音をしていた。

「はい……」

 先輩のわたしのことをおもんばかる態度にようやく落ち着きを取り戻して、わたしは話を戻した。

「小さい頃から……甘えてばかりだったんです」

 思えば、お母さんが朝から働くようになったのは、わたしが学校で給食費の滞納をバカにされて泣いたときからだった気がする。
 それから二度とそんなことはなかった。
 いや、後にも先にもそれ一回だけだったな。
 そのとき何があったのか知らないが、そんないい生活はしてなかったから小さなことで家計がピンチになることはあり得る。

「わたしが……わたしが家のことで虐められたら、必ずお母さんはなんとかしようとしてくれて……」


 お母さんの帰りが遅くなったのは、わたしが学校で古いアパートに住んでいることをバカにされて泣いたときからだったはずだ。
 今の家に越したのはその三年後くらいか。
 おいおい、わたし泣き虫にもほどがあるでしょ。
 つい先月にも泣いたし。

「いつもいつも……朝から深夜まで働いて、朝ごはんまで作ってくれて」

 いつだったろうか。
 全然会えないのがさみしくて、一緒に朝ごはんを食べようと早起きしたのは。

 そのときのお母さんの笑顔が嬉しくて。
 少し涙ぐんですらいたお母さんの顔がまぶたの裏に張り付いて。
 こんなことで喜んでもらえるなら毎朝起きようと思った。

「お小遣いもあるんですよ……? わたしのお母さん凄いんです……ほんとに」

 今だから分かる。
 パート経験しかなかった主婦が正社員採用試験に受かる難しさが。
 たった三年でボロアパートから新築の家に引っ越す苦労が。
 日曜以外を朝から深夜まで働く労力が。
 年頃の女の子なんだからと学生には多いくらいのお小遣いを渡す優しさが。

「……わたしのせいで大変なんじゃないかって。最近は、遠慮してましたけど、中学の頃とかは日曜に買い物付き合ってもらったりとか……してましたし……」

 少しでも休みたかったはずだ。
 毎日働くだけ働いて、日曜くらいはって……普通そう思う。

「でも、いっつも……笑顔で……」

 一度だって辛そうな顔を見せたことなんてなかった。
 それが……なんで急に。
 隠してた。
 わたしが心配するから。
 お母さんも……意地っ張りだなぁ。

「わたしが甘えてばっかりだから……ダメだったんですかね……。その、先輩のお母さんも働き詰めじゃないですか? 先輩なら、こういうときどうしますか……?」

 尋ねると、間が空く。
 真剣に考えてくれているのだと、それが分かって胸が高鳴る。
 なんなのこの人……ほんと、だいすき。

「どうもしねぇな……多分」

 ぼそりとつぶやかれた言葉にはどんな意味が込められていたのだろうか。
 続きを促すように沈黙を貫く。

「……なんつーか、あいつらって基本子どもに弱いところ見せたがらないんだよな。だから、ふらふらしてても目に濃い隈が出来てても気づいてないフリをしてやる」

 親のことをあいつらって……。
 らしいっちゃらしいけど。

「本当にやばそうになったらなんかしら言うかも知れねえけど……。やっぱ、それでも『余計な心配すんな』って言われるんだと思う」


 確かにそんな感じするな、と思った。
 気にすんなって、そんなことより彼氏連れて来いって、はぐらかす。

「だから、余計な世話は焼かねぇな。まあ、そもそも俺は養われる気満々だしな」
「うっわ、最低ですねー……」
「実際、高校生なんてそんなもんだろ。なんつーの? 一色みたいになんか抱えてるやつの方がやっぱ少ねえからさ……。だから……つい、忘れちまうんだよなぁ……」

 そう、ついつい、そんなことを忘れそうになる。
 当たり前だと思い込みそうになる。
 事実、思い込んでいたんだろう、わたしは。

 お母さんがいて、母子家庭なのに一定水準以上の生活をさせてもらっていて、それが当たり前なんだと。
 十幾年の時間をかけて思い込んでいた。

 辛くないはずないのに。
 苦しくないはずないのに。
 事の重大さから目を背けて、逃げ道を作って、笑顔だから大丈夫だなんて……そんな保証はどこにもないのに。

「忘れないようにしておきます……これからは。わたし、お母さんが苦しいのは嫌なんです。だから、頑張ります」
「そっか……」
「……はい」

 家族だから。
 大切な人だから。
 苦しいなら、助けてあげたい。
 わたしが。


 じきに昼休みも終わるだろうか。
 ぼーっと景色を眺めていると、ひゅうっと風が吹いた。

「なんか……風向きが変わりましたねー」

 天気でも悪くなるのかな、なんて青空を見上げてしまう。
 見たところ雨雲はなさそうだった。

「……臨海部だと、昼を境に風向きが変わんだよ。朝方は海から吹き付ける潮風が、まるでもといた場所へ帰るように陸側から吹く」
「へぇー……物知りさんですね」
「一般常識だ」

 もといた場所へ帰る、か……。
 わたしがもといた場所はどこなんだろう。
 いつかそこへ帰れたら、いつか帰る場所が見つかったら、と柄にもなく願った。

「帰る場所があるっていいですね……。あんまりうまく言えないんですけどー、今のこの感じ結構好きです」
「そうか……。俺も嫌いじゃないな、一人ならなお良し」
「またそういうこと言う……」

 センチメンタルな雰囲気が台無しだ。
 まあ、先輩とそういう雰囲気になるってなんかくすぐったいからいいんだけど。
 心はまだ痛いし苦しいけど、気持ち朝よりは軽くなった思う。
 予鈴と同時に、さて、と立ち上がり、伸びをする。

「先輩……なんにも、手伝わないでくださいね」
「……は?」

 間抜けな声が返ってきた。

「一人で、出来ますから。近いうちにしっかり伝えますから……もうしばらくは、ただ見ててください」

 にっこりと張り付けた笑顔は偽物かも知れないけれど。
 いつかまた心から笑って見せるから。

「……おう」
「ではではっ! またそのうち奉仕部で」
「なるべく早く来いよ。待ってるから、小町が」
「なんですかその倒置法。暗に自分は違うアピールとかいらないですから。知ってますから」

 むーっと頬を膨らませて言うと、先輩は固まる。

「なにお前……え、なに? 今のも真似?」
「へ? え? いやいや違います違いますていうかなんですかそんなこと言ったことあるんですかもしかしてわたしが同じこと考えてるからって勘違いしちゃいましたかわたしも嬉しいですけどもうちょっと待っててくださいごめんなさい」
「ああ……そう」

 なんか知らんけどまた振られたようだ、とかぼやいて歩き出す。
 聞き取りが苦手なのだろうか。
 リスニングの点数悪そうだな。
 いや、悪くてよかったんだけど。

 とりあえず最後にごめんなさいって言っとけばなんとかなる。
 先輩がバカでよかったー。

 まあ、聞こえてても冗談にしか捉えられないだろうし、気にすることでもないか。

 あとを追うようにして校舎内へ戻り、教室に向かう。
 午後の授業はしっかりと受けよう。
 手伝う隙なんて与えない。
 雪ノ下先輩ばりの成績になってやる。

 そんな決意から少々の時間が経ち、午後の授業終了の鐘が鳴る。
 昨日から面談週間で短縮授業なため、今日も生徒会と部活両方に顔を出せそうだ。
 もちろん、顔を出すだけじゃ意味ないのでしっかり働く。
 お母さんに出来て娘に出来ない道理はない。

 面会は八時までだったか……。
 部活の方は毎日でなくとも二日に一回くらいは早く切り上げたいな。
 途中参加な上に早退なんて心苦しいが、そこばっかりは勘弁してもらいたい。
 朝会えないだけで結構キツいのだ。

 と、考えてるうちに生徒会室に着いた。
 んん……?
 帰りのショートは?
 いつ歩き出したのわたし……やだ、怖い。

 もうこれも何回目かって感じなので自分の社畜っぷりに半ば感心しつつ、生徒会室へと入る。
 コーヒーを飲みながら待っていると、役員がぞろぞろとやってくる。
 適当に挨拶を交わして出揃ったタイミングを見計らい、ではと執務の開始を告げる。

「今日もよろしくお願いしますね~。それで生徒総会の件なんですが、早速いい感じのアイデアが浮かびましたっ!」


 言って、役員の顔色を窺う。
 あまりよろしくないことから察するに妙案は出なかったのだろう。

「では、今から説明します。まだ決まったわけではないので、途中でもなんでも、もっといい案が思い浮かんだときには説明後に提案をお願いします」

 ペンを持ち、ホワイトボードの前に立つ。

「えー、まず、問題点、ですね。昨日の会議でどうすれば生徒の発言を促せるか、そういう雰囲気を作れるかという問題が出ました」

 きゅっきゅっと音を立ててボードに字を書いていく。
 なんだか先生になった気分だ。
 ここテストに出るぞー。

 本当なら昨日のうちに概要資料を作っておければよかったんだけど、生憎いろいろあり過ぎてそんなことに気を回していられなかった。
 許して欲しい。
 そう思った矢先に副会長に指摘されてしまう。

「資料とかはないのかな……?」
「あー……えっと」

 なんて言おうか。
 いや、まあ、生徒会役員なら話しても問題ないか。

「昨日、母が倒れましてですねー……。それで、ちょっと暇がなかったと言いますか……。すいません」
「あぁ、いや、そういうことなら仕方ないよ。……大丈夫なの?」


 バツが悪そうな顔で聞いてくる。

「あ、はい。大丈夫……だと思いますー。今日この後お見舞いに行く予定です」
「あー、そういう意味じゃないんだけど……。そっか、まあ、分かった」

 ああ、わたしの心配をしてくれてたのか。
 なに……優しいじゃないですか副会長!
 いつも刺々しいのに!

「あ、このことは内密にお願いしますー……。あんまり、その、同情とかされるのも嫌なので」

 ねっとそれぞれに同意を求めると、頷いてくれた。
 いい意味で堅い人たちだから問題ないだろう。

「それで、どうやって発言しやすい雰囲気を作るかってことなんですが、あらかじめ数人に議題を教えておいて、その人たちに先陣をきって発言してもらったらどうかなーと」
「それって……」
「まあ、はっきり言うとサクラですねー。とは言っても、そのあとに生徒が参加するようになったら切り上げてもらうつもりですよ?」

 最初の一歩さえ踏み出せればいい。
 あとは道なりに進むだけだ。
 誰でも発言していいという雰囲気が出来上がれば、参加率は上がる。

「でも……」

 渋る副会長。
 どうにかして説得出来ないものか。


「んー、でも、本当に最初だけなのでそんなに問題でもなくないですかー? そのあとどういう意見を言うのかはその人たち次第ですし」
「それも……そう、なのかな?」

 困ったように他の役員を見る。
 反応からしてそこまで否定的でもないようだ。
 まあ、やっぱ聞いてもらえないとつまんないし。
 満足そうにうんうんと頷くと副会長も諦めたようで、短い息を吐いた。

「では、これを一つの案として。他になにかある人いませんかー?」

 特に思いついてなかったのか。
 思いついてはいたが、わたしのよりは確実性が薄いと判断したのか。
 誰も意見を発しない。

「これに決定ですねー。じゃ、もうちょっと詰めましょうか。誰にやってもらうとかそこらへんを」

 そうして会議を続け、三十分程度が経った頃には細かいところまで決めることができた。

「それでは、今日は解散しましょうかー。後日、名前の出たメンバーを集めるので声をかけておいてください。あ、この人たちはわたしが言うので大丈夫です。ゴールデンウィーク後にまた会いましょう」

 出て行く役員たちににこにことした顔で手を振る。
 そのまま椅子に腰掛けるとふうと安堵とも呆れとも取れるような息が出た。

 空になったカップにコーヒーを淹れて、ブラックのまま口をつける。

「うっ……にっがぁ……」

 当然だった。
 しかしたまには苦いコーヒーも気分転換になっていい。
 甘いものに慣れると太るしね、ほんと甘えるとろくなことないなこの世界!

 まあ、コーヒーもこんだけ苦い思いをしてるんだから、わたしがちょっとくらい肩代わりしてあげるのもやぶさかではない。

 現実を体現したような味のコーヒーを飲み干し、ばっと立ち上がった。
 脳裏に浮かぶ擬人化コーヒーちゃんを憐れに思いながらも生徒会室を出る。
 きっと苦労人な顔をしているに違いない。
 先輩の顔が浮かんできた。
 こんなに苦かったら、そりゃMAXコーヒーにも惚れるな……。

 更衣室でジャージに着替え、グラウンドに着くと、サッカー部はパス練をしていた。
 ワンツーの練習らしい。
 きゃーきゃー騒いでる葉山先輩専用マネ(笑)には目もくれずに、新一年生へと目をやる。
 どうやら昨日の話通りだったようで、パスはそこそこらしい。

 基本出来てるけど、たまにタイミングが早かったり、逆に遅くて相手がスピードを緩めたり。
 センスも重要だけど練習で積み上げるものだって大きいし、今後に期待するしかない。

 一旦その場を離れ、ボトルに冷水機の水を汲んでベンチに置く。

 結構な人数がいるからそこそこキツい。
 そのまま観察を続けていると葉山先輩と戸部先輩がわたしに気づき駆け寄ってきた。

「おっ、いろはす~! もう生徒会終わったん?」
「やあ」

 相変わらずうるさいのと爽やかなのだった。

「はい~。今日は昨日の報告みたいなものなので、結構早めに終われたんですよー。あ、これどーぞ」

 二人にボトルを渡すと、やはり喉が渇いていたのかごくごくと飲み始めた。

「ふぅーさんきゅー。やっぱいろはすいると助かるわ~」
「すまないな。君にばかり頼ってしまって」

 まあ、あのマネがやるわけないしな。
 顧問も基本葉山先輩に任せっきりだし。
 本当、ここの教師ダメだなぁ……。

「いえいえっ! むしろマネージャーなんだからもっと頼ってもらわないとって感じですよー! 昨日は手伝ってもらっちゃいましたし、助かりました」
「そっか。力になれたみたいでよかったよ」

 にこっと微笑むと脇の女子から黄色い声があがる。
 そして即座にそれを向けられているわたしに殺気の込められた視線が飛んできた。
 そういうのは慣れたものなので軽く受け流して、話を続ける。

「そういえば、今日から二日に一回くらい早退することになると思うんですけどー……」

「ん? なにかあったのか? 別に構わないけど……」
「んだべ。こっちは気にしなくていーからよ」

 言うべきだろうか……。
 無理して言うことでもないし、別にいっか。

「ありがとうございますー! では、練習頑張ってくださいっ」

 練習に戻る二人を見送って、わたしもしばらくは練習を見守る。
 基礎的な練習が終わると、今度はミニゲームがある。
 そろそろかなーと、ベンチから立ち上がった。

「葉山せんぱーい! ビブス何色いりますー?」
「あー、今日は全面使えるから……適当に二種類お願いできるか? もうちょっと後になると思うけど」
「りょーかいでーす」

 二種類ってことは三チームでやるのか……。
 ワンゲーム何分だろ。
 それとも一点先取で交代かな。
 どちらにせよ、ミニゲームの途中で抜けることになりそうだ。

 いくばか時間が過ぎ、チーム分けがなされる。
 なんというかいつもより練習量が多い気がした。
 戸部先輩と葉山先輩は違うチームらしく、戸部先輩の着けているビブスと同じ色の選手だけがコート外に出てくる。

「うぃーっす」

「お疲れ様ですー。どーぞー」

 隣にあったボトルを渡す。
 別に手渡す必要もないが、目の前まで来てて且つ横にボトルがある状態で渡さないと言うのも感じが悪いだろう。

「おっ、さんきゅー!」

 お礼とともに水分を補給し、どかっとベンチに腰を下ろす。

「ふー……。いやー、今日ちょっとメニューきっついわー」
「そうなんですー?」

 やっぱり、いつもと違うのか。
 どうしたんだろうか。

「あれじゃね? あれ。国立」
「あぁー……。結構真面目に考えてくれてたんですねー」

 へーっと感嘆しつつ遠くを走る葉山先輩を見る。
 いつも通りに見えるけど。
 まあ、もともとが真面目だからなぁ。

「まっ、俺も行けるなら行きてーし? やれるだけやってみんべ」
「おぉー。なんだかんだ言って戸部先輩も結構うまいですもんねー」

 なんの気なしに言ったつもりが、戸部先輩的にはたいしたことだったようだ。

「おっ、そう? 分かっちゃう? いやー、いろはす見る目あるわーっ!」
「ちょ、うるさい、うるさいです」
「えぇー……そりゃないでしょー」


 がくっと肩を落とす戸部先輩。
 だってうるさかったんだもんしょうがないじゃん。

「はぁ……ていうか、現実的な話すると戸部先輩そんな時期まで部活やってる暇あるんですか? もしも勝っちゃって県代表なんかになったら冬ですよ冬」
「んあー……まあ、もし勝っちゃったら最後まで勝てばオファー来んじゃね? みたいな?」
「うわ……」

 若干引いてしまった。
 よくそんな楽観視できるなこの人。
 逆に中途半端に県の二次予選とかで敗退したらもう目も当てられない。

「ま……自信があるのは分かりますけどねー」

 昨年は二次予選準々決勝までいけたから、自信があるのは分かる。
 でも、準決勝と決勝があるのだ。
 運良く準決勝で勝てても、奇跡は二度起こらない。

「市立船橋に流経大柏、習志野、八千代……うちで勝てます?」
「そ、そりゃやってみなきゃ分かんねぇべ? ……隼人くんがマジなら俺はいけっと思う」

 申し訳なさげな声で吐き出された言葉からは、彼がよくも悪くも葉山隼人という人物を信頼しているのだということが伝わってきた。
 まあ、やる気があるのをとがめる気はない。
 最後のチャンスだし。

「なら……応援してますね」
「おう!」


 告白イベント以来、戸部先輩は僅かにだが真面目になった気がする。
 それが先輩へのライバル心からなら思い違いも甚だしいけど、いい方向に向いているとは思うから、これはそのままでいいのだろう。

 変わった、というより成長したのだろうか。
 わたしも、同じように。
 今なら、今回はマジで本気だからとか言ってた戸部先輩の気持ちがよく分かる。
 マジじゃない本気ってなんだろう。

「戸部先輩。わたし、葉山先輩のことは諦めました」

 ひっそりとギリギリ耳に届くくらいの声で言う。

「うぇっ!? マジッ!?」
「ちょっ、声大きいですって」
「お、おう……わり」

 なんのために小声で話したのか。
 幸い、特に誰も気にしなかったようで、こちらに顔を向けてはいない。
 いつもうるさいからか。

「……で? え? マジなん?」
「マジですよ。大マジです」

 わたしに習って声を極小にして聞いてくる戸部先輩に、変わらず小さい声で返す。

「そか……いや、でも、なんで急に?」
「急……でもないんですけどね。他に、好きな人ができたんです」

 戸部先輩は茶化さずに聞いてくれる。
 自分が今そういう状態だからか、それとももともとこういう人なのかは分からないが、ありがたい。


「え……それってなに? 隼人くんよりかっけーってこと?」
「んー……。いや、そんなことないですね。葉山先輩の方が顔はいいですし、気は使えるし、かたやわたしの好きな人なんてぼっちだし、周りからキモいキモい言われてますし、むしろクラスメイトから誰? って聞かれてます。あと目が腐ってますね、もう誰にも相手にされないそこらへんのゴミクズみたいな」
「お、おお……それ、ほんとに好きなん?」

 その疑問ももっともだった。
 他者からの評価が下にカンストしてるとか、逆に尊敬するレベル。
 でも、はっきりと答えられる。

「好きです」
「ど、どこらへんが……?」

 どこだろうか。
 やるときはやるところとか、一人で頑張るところとか、周りの評価に流されないところとか、なにかを大切にできるところとか。

「全部です」
「……マジか」
「マジです。今回はわたしもマジです」

 今までマジじゃなかったような言い草だった。
 性悪ここに極まれり。

「そっか……。んなら、頑張るしかねぇっしょー」

 ニカっと笑い、だべ? と聞いてくる戸部先輩に頷く。


「はい、頑張り……ます」
「そんで? 俺はなにすりゃいいわけ?」
「そうですねー……、その、まだバレたくないんですねー?」
「あー、そういうね。あるわー、それある」

 腕を組み、うんうんと頭を上下させる。
 なにやら共感してもらえたらしい。
 戸部先輩もそういうことを思うんだろうか。
 なんだかズバッといきそうなイメージだけど……。
 ああ、でも、奉仕部に相談するくらいだし、存外肝が小さいのかもしれない。

「でも、誰にも話せないと辛いじゃないですかー?」
「あー、あるある。それはマジである」

 再びうんうんと首肯する。
 それはってなんですか……。
 さっきのは別にそうでもなかったのか。
 思いはしたが、これが戸部先輩なので余計な事は言わない。

「だから、たまに愚痴とか聞いてください」
「おっけ。そゆことなら任せろ」

 どんと胸を張る。
 この人いい人だなぁ。
 そういうところ嫌いじゃないです。

「あ、ちなみにこれ葉山先輩知ってるんで」
「へー……ん? はぁっ!?」
「いやだから声でかいですって」
「わ、わり……で? どゆことなん?」

 再び声のトーンを落として疑問を振ってくる。
 なんて言えばいいのかなぁ。


「えー……っと、知ってるっていうか、気づいてるって感じですかね。別に教えたわけじゃないんで」
「はー……、ま、隼人くんだしな」

 なんかよく分からない納得のされ方だった。
 あの人完璧超人かなにかなの?

「ま、まあそれはいいです。それで、ですねー? 当分葉山先輩狙いなフリを続ける予定なので、わたしと葉山先輩が話してるときは戸部先輩も今まで通りの態度でお願いします」
「おー、あー、そういう……それでいいん? なんかその好きな奴にアピッても意味なくね?」

 まあ、確かにそうだろう。
 普通ならあまり利点はない。
 でもわたしが好きな人はあんまり普通じゃない。

「どっちにしても今のところあんまり効果ないんで、大丈夫ですー……」
「そなん? ……なんかそれヤバそうだな」
「ヤバいですよー……、わたしが落とせないのなんて葉山先輩くらいだと思ってました」
「いろはすが落とせないっつーと……やっぱやべぇな」

 なんだかガクブルと震えている。
 なにを怖がっているのかよく分からない。
 先輩に怖がる要素は全くないんだけど。
 むしろ先輩の方がいつも怯えてる気がする。
 主に雪ノ下先輩とかに。
 まあ、雪ノ下先輩こわ――

 ぞわりと怖気がした。
 な、なに……なんなの。
 きょろきょろと辺りを見回しても運動部しか見当たらない。

 なんか分からないけど怖いからやめておこう。

「そういうことでお願いしますねー?」

 なんだか、戸部先輩の言葉を無視したような返しになってしまったが、戸部先輩は特に気にした風もなく「おう」と笑い返してくれた。

 そのあとしばらくは談笑しつつ、たまに解説を求めたりして、ミニゲームを観戦している。
 二戦目が終了したあたりで、ふと校舎の時計に目をやれば、そろそろ行かなければという時間になっていた。

「葉山先輩! わたし、そろそろ行かなきゃなのでー、このあたりで失礼しますねー……」

 昨日、昇降口で、全部しっかりやると言ってしまったからこその罪悪感があった。
 うしろめたいというか、不甲斐ないというか、心やましいというか。

 罪を背負ってしまったような。
 裏切ってしまったような。
 どうしようもない、やる瀬ない。
 そんな気持ちが胸を埋める。

「はは……そんな気にしなくていいさ。一人で全部やる必要はない」

 それは、分かってる。
 ただ、わたしは、自分で出来ることは自分でしたかっただけだ。
 必要があれば頼る。
 けど、どうにも、この出来るはずだったことが出来なくなるということが許せなかった。


 あぁ……ほんと、苦いなぁ。

「ありがとうございますー……。では、また明日、部活で」
「ああ、待ってるよ」

 柔らかく優しい笑みは本心からこぼしたものだろう。
 ほんの僅かにではあったが、救われた。
 踵を返して更衣室に行こうとすると、戸部先輩が大きな声で挨拶してくる。

「いろはす~! またなー!」
「はーい! また明日ーっ!」

 手を振り返して、改めて更衣室へと戻り、着替えを済ませて学校をあとにする。
 一旦家まで帰り、お母さんの着替えを持って病院へ向かった。

 病院に着いた頃にはケータイの時計は六時半を示しており、あまり長くはいられなさそうなことに少し気分が落ちる。
 昨日の朝から声を聞いてない。
 受付でお母さんの部屋を聞く。

 院内を歩いていると、そこでなにか違和感があることに気づいた。
 わたしはなんでお母さんが入院すると思い込んでいるのだろうか。
 思い込んでいるというよりかは、知っているという感覚に近い。
 昨日、そんな話したっけ……?

 思い出せない。
 不安になる。
 またこれだ。
 心がざわつく。
 イライラする。


 過労で倒れただけじゃないのか。
 それとも過労で倒れたら入院するのが普通なのだろうか。
 分からない、そんな病院事情に詳しくはない。
 考え事をしているうちにもお母さんのいる部屋へと着いた。

 すーっと円滑さを自慢するような音を鳴らす引き戸を開ける。
 学校の扉に聞かせたらさぞ悔しがることだろう。

 こんな下らないことを考えてしまうのは、先に待つなにかから目を逸らしたいからだと自分でも分かっていた。
 それでも、余計なことを考えずにはいられなかった。

 それは甘えであり弱さであり、恥ずべきものであるとどこからか誰かが囁く。
 甘えて弱音を吐いて恥を晒す人生は楽だとまた誰かが囁く。
 よくある、自分の中に潜む天使と悪魔というやつだろうか。

 バカバカしい。
 天使と悪魔なんてわたしの中にはいない。
 わたしはわたしだ。
 わたしと誰かの関係性が変わることはあっても、わたしが変わることはない。
 であれば、わたしの中に潜むのはわたしただ一人であると、もう解は出ている。

 そのわたしはなにを決意した。
 頑張ると、そう言ったはずだ。
 強くなる必要なんてないと、そう言ったはずだ。
 逃げ道はいらないと、そう言ったはず。


 だから、それだから。
 偶像に惑わされる必要はない。

 確かに甘えはよくない。
 しかし弱さを受け入れるのは大事なことだ。
 こんなやつらとは根本的に考え方が合わない。
 別個に考える必要なんてないんだ。
 善も悪も、両方混じってるのが人間なんだから。

 弱いままでもいいから、目を逸らしたままでもいいから、一瞬でわたしの心をぶち壊しそうな現実に立ち向かう。
 それで負けるなら、そのときはそのとき。

「いろは……」

 お母さんがいたのは個室だった。
 にこりと笑う顔は申し訳なさそうに眉尻が下がっている。
 いつも元気に振舞っていたお母さんが初めて弱々しい部分を見せた瞬間だった。

 お母さんに元気がないのならわたしが頑張らないと。
 そう思い、にっこりと最上級の笑顔を作って早足で近づく。

「お母さんっ!」

 小さい子供がするように抱きつく。
 お母さんはいつものように優しく受けとめてくれた。
 ゆっくりと離れ、近くに置いてあった椅子に腰を下ろす。

「もー……心配したんだよー?」

 唇を尖らせて、けれども微笑みを絶やさずに言うと、お母さんは困ったように笑った。

「ごめんねー?」
「いーよっ。わたし、決めたんだよねー。頑張るって。だから、お母さんは安心して休んでてねー?」

 小首を傾げて決意のほどを伝える。
 すると、お母さんはどこか安心したような顔つきになった。
 それを見て、頑張ろうって意思がより強くなった。

「そっか……じゃあ、応援してるね」

 それは誰に対して言った言葉だっただろうか。
 わたしに対してのものだと思った。
 が、直後に発せられた言葉から自分に対してだったのかもしれないと思い直した。

 この解答はどちらも部分点しかもらえないだろう。
 それは、きっと、両方だったから。

「お母さんも頑張るから、応援してくれる?」
「……え?」

 お母さんはわたしの言ったことを聞いてなかったんだろうか。
 休んでていいと、そう言ったはずのに。
 そんなことはないはずだ。
 聞いてて、それで言ってるんだ。

「それって……どういう」

 言葉を詰まらせるわたしに、朗らかに笑う。

「お母さんね、*****なんだって」


 聞き取れなかった。
 いや、聞こえないフリをしたんだ。

 しかし、本当は聞こえてる。
 だから、頭の中にその台詞がしっかりと残っている。
 それでも、認められなかった。

「え……いや、えっと。や、やだなー、お母さん。今日エイプリルフールじゃないよー? ていうか、それは流石にたちが悪いってー……」

 あははと乾いた笑いしか出ない。

「ごめんね……嘘じゃないの」

 知ってた。
 そんなこと、知ってた。
 でも、やだ。
 そんなの、やだ。

「嘘だよ……そんなの、嘘。ねぇ……嘘って言って? 今ならまだ怒らないから……」
「嘘じゃないよ。もう一回、しっかり聞いて」

 真剣な眼差しで言われた。
 そんなことを言われたら聞くしかない。
 嫌でも、受け入れなくちゃいけない。
 忘れ去ることもできない。


「お母さん、余命三ヶ月なんだって」


 ガツンと鈍器で殴られたような衝撃が走った。
 二度目の宣告。
 これが真実。

 現実からは逃げられない。
 逃げ道なんて、用意できる問題ですらなかった。

 本当の喪失は覚悟してないものからやってくる。
 だから、痛いし苦しい。

 絶望の狭間に取り残された気がした。
 闇がわたしを包む。

「でもね、治った人もいるって」
「……え?」

 わたしは何度間抜けな声をあげればいいのか。

「頑張って闘って治したんだって……だから、お母さんも頑張ろうと思ってね」

 にこりと笑った笑顔は、入室時とは対照的に強く芯のあるものだった。
 安堵の息が漏れる。
 即座にそれを非難した。
 安堵できる部分なんて一つもなかったから。

 お母さんが余命三ヶ月だという事実は揺るがない。
 どれだけ頑張っても治らないかもしれない。
 最悪の事態を想定しておかなければ、本当に失ってしまったとき。
 壊れてしまいそうだった。

「応援……してる」

 小さなつぶやきは無事聞こえたようだ。

「ありがと。お母さんも応援してるよ」
「うん……」

 ほとんど吐息と変わらない声量で返すと、続く言葉は口パクになってしまった。
 唾を飲み込み、改めて、応える。
 期待に。

「がんばる」

 それはやっぱり弱々しい声で、震えて情けなかったけれど、お母さんは満足したのか頷いた。
 わたしに向かって手を伸ばし、頭を撫でる。

「強い子に育ってくれて、よかった」

 ナイフで抉られた気分だ。
 本当は強くなんかない。
 わたしは弱い。
 今にも泣き出して、弱音を吐いて、全てを諦めてしまいたかった。

 お母さんの方がよっぽど強い。
 余命三ヶ月だなんて言われて、普通そんなすぐにその結論には至らない。
 やっぱり、わたしのお母さんは凄いんだ。
 わたしは情けない。

 それでも、強い子だと言ってくれたなら。
 その信頼を裏切ることはしない。
 強くなる理由が出来てしまった。

 だって、お母さんを嘘つきにするわけにはいかないし。
 嘘から出た実なんてことわざもある。
 必ず、実に変えてみせよう。

 お母さんが胸を張って、自慢の娘だと言えるように。
 わたしが堂々とお母さんの娘だと語れるように。


 思えば、長いことぬるま湯に浸かっていた。
 生まれてから今まで甘えてばっかりで。
 いつの間に、こんなに冷めてたのかなぁ。
 いい加減、現実見ないと。

 希望はない。
 けれど、目標はある。

 それなら、もう少し、頑張ろう。

  ****

 五月上旬。
 暦の上では夏となり、さらさらと吹くそよ風は若葉や花々の香りに満ち溢れる。

 天候は晴れ。

 わたしの心の中があの日から曇天であることを考慮して少し暑っ苦しいくらいに輝いているのであれば、悪くない選択だ。
 ご機嫌取りはあからさまなくらいがちょうどいい。

 陽気に包まれた住宅街を歩いていると、鯉のぼりが目につく。
 五月上旬なんて曖昧な言い方をしたが、今日はこどもの日だ。
 つまり五月五日。
 ちなみに憲法記念日の振り替え休日で明日も休み。

 ふと、なんでおとなの日はないんだろうか、なんて瑣末なことを思った。
 考えるのもバカバカしいが、目的地に到着するまでの時間潰しにはなるだろうと、考えてみることにする。

 おとなの日。
 第一印象は卑猥な感じがする。

 大人の日と漢字で書くよりも平仮名の方がより生々しい気がした。

 こんなどうしようもない見解を示していながら、類似と言ってもいいものか分からないが。
 母の日、父の日、敬老の日というものがある。
 母と父、それと老人に限定する意味って一体……。

 母と父、老人だけ特別みたいな。
 結婚して子を持つことと、長く生きることは大切だと暗示しているのか。
 もしや近年の出産率低下の対策なのか。
 そんなわけないのだが。

 どこかの独身女教師はこどもの時期を過ぎたら老人になるまでこの類の祝日で祝われることはないのだと思うと、じわりと視界が滲んだ。
 誰かもらってあげて!

 母の日と言えば、今年は五月十日だったと記憶している。
 今年はなにをあげようか。

 毎年毎年お小遣いから捻出しているのだから、お母さん側からすると結局のところ返ってきたに過ぎないのかもしれない。
 それでもなにかあげたいなー。

 実は母の日とお母さんの誕生日のためにお小遣いを貯めていたりするわたしだった。
 やだなに、わたし優しい!
 単にお母さんに喜んで欲しいだけなので、実際は自分のためなんだけど。

「あ……」

 気づいたら目的地を数歩通り過ぎていた。
 あっぶなーい。

 早足で目的地まで戻り、備えつけのインターホンを鳴らす。
 中からはーいと可愛らしい声が聞こえ、がちゃりと玄関が開かれた。

 くりっとした大きな目。
 笑うと八重歯が見えるその女の子の頭からはぴょこんと毛が飛び出している。
 天真爛漫といった感じ。

「いろはさんどーもー! よくいらっしゃいましたー!」
「小町ちゃんこんにちはーっ!」

 どーぞどーぞと促されるままに屋内へと足を踏み入れる。
 この家に入るのは二度目だ。
 一度目はすごく恥ずかしい思いをした。

「お邪魔しまーす……」

 リビングへ通じる扉をそろそろと抜ける。
 ラスボスの顔は見えない。
 それだけが気がかりだったので、ほっと胸を撫で下ろす。

「よう」

 声をかけてきた男はソファに転がっており、その顔はいつにも増してふてぶてしい。
 いや、いつも通りか。

「先輩っ! こんにちはー!」

 笑みは相変わらず作らなければ出てこないものの、自然と声色が明るくなってしまう。
 たったっと駆け寄り、どーんとダイブ。

 見事に避けられ、そのままソファに沈み込む。

「い、今の受けとめるとこだと思うんですけど……」
「……アホか」

 しらーっとした視線を浴びせられ、ついついううーっと悔し混じりな声が出た。

「今日はお母さんいないんですかー?」

 それはそれ、これはこれ。
 さっと切り替えて、きょろきょろしながら問う。

「あー……なんかいらん気遣って出てった。……親父は引きずられてたけどな。泊まってくるらしい」
「なんかごめんなさい……」

 悪いことしたなぁ……。
 せっかくの連休なのに。

「そういうわけで! 今日も泊まっていきますよねー?」
「え、あ……あぁ、そういうことね」

 朝の着替えを用意しろというメールはそういうことか。
 確かに期待していた自分がいる。
 なに期待してんだろ……恥ずかし。

「じゃあ、お言葉に甘えよっかなー……?」
「やった! いろはさんゲットーッ!」

 勢いよく飛びついてくる小町ちゃんを受けとめる。

「いろいろ協力しちゃいますね」


 ぼそぼそと耳元でつぶやかれた言葉にびくっと肩が跳ねた。
 こ……この子、怖い。

 小町ちゃんはパッとわたしから離れると、なにかに気づいたようでわたしの顔の横をしげしげと見つめる。

「それ、毎日つけてますねー!」

 いつだったか、雪ノ下先輩に言われたのと似たセリフ。
 はっとなって耳を押さえてしまう。

「あっ……え、うん、まぁ……ね? い、いやっ、ていうか、毎日じゃないよー? ほら、先輩の家来るのにつけてなかったら感じ悪いし?」

 嘘です。
 毎日着けてます。
 寝るときとお風呂以外では外してません。
 一生の宝物です。

「ほうほう……」

 怪しげな笑みを浮かべてつぶやく。
 そんな目立つかなぁ……。

 ていうかキャッチピアスなのが悪いんだよ。
 学校で着けれないようなのなら着けないのに。
 それでも持ち歩くけど……。
 かわいいバックキャッチまで付いてたし。

 結論、先輩が悪い。

「先輩が悪いんですよっ! こんなかわいいの贈られたら普通着けます!」


 唇を尖らせてぶーぶーと文句を垂れると、不満気な声が返ってくる。

「えぇー……俺が悪いの? お前なんか文句言ってないっけ?」
「あ、あれは! アドバイスですよー! 今後の参考にと思って! わたしだから良かったものの、彼氏でもない人から身につけるもの贈られたら普通引きますよ! だから、わたし以外には贈らないでくださいね!」
「お……おう? なんか知らんが……まあ分かった」

 やったー!
 わたしだけ特別!
 ……なんかにまにましちゃうな。

 そんなわたしたちを見て、小町ちゃんはくすりと笑った。

「ではではっ! 小町は時間になるまでお部屋で漫画でも読もうかと思います! 昨日読みかけの漫画があったのをたった今思い出してしまいましたので!」

 言い切ると、ささーっと自分の部屋へと向かっていく。

「うわぁ……」

 なんてわざとらしい。
 わざとらしいのもわざとだとしたら、中々計算高いな。
 それに気づいてたら止めようがないわけだから、止めようという気持ちが沸いてこない。
 末恐ろしい……。

「はぁ……」

 隣でため息が漏れた。
 わたしと二人でいることにたいしてではなく、小町ちゃんの企みにたいしてだろう。

「なにしましょーかー?」

 くりっと小首を傾げて上半身を少し倒し、いつの間にか本を読み出していた先輩の顔を覗き込む。

 ばっちり目が合う。
 固まる。
 そのまま数秒固まる。
 頬が熱くなってくる。
 目線が泳ぐ。
 ちょっと態勢の維持がキツくなってくる。
 恐る恐る声を出す。

「あ、あのー……」
「あ、あぁ、悪い」

 時が止まったのかと思った。
 ソファにぽすっと背をもたれさせ、バレないように顔をあおぐ。
 あっつ、顔熱っ!
 なぜか見つめ合ってしまった。

 一生の思い出である。

 なに考えてんだわたし。
 んっ、んんっ、と恥ずかしさを紛らわせるように咳払いをする。

「えー……、で、なにしましょうか……」

 仕切り直して、もう一度問う。

「んあー……、なんかしたいことあるか?」
「え?」

 先輩がいつになく乗り気だ!
 なにっ?
 デレ期!?
 デレ期なのっ!?
 デレがやなの!?

「で、デレがや先輩……」

 きらきらと目を輝かせて羨望の眼差しを向けると、先輩の眉間に皺が寄る。

「誰だよそれ……つーか、デレてねぇよ。俺がデレるとか気持ち悪いだろ。いや、こんなこと言わせんなよ……悲しくなってきた」

 太腿に肘を置き、背を丸める。
 ずーん……って感じだろうか。
 漫画ならたれ線が入りそうだ。

「ちょっと、まだ梅雨前なのにジメジメするじゃないですか。やめてください。除湿機持ってくればよかったなー……」

 はぁーっと大袈裟に息を吐く。
 魂まで抜けてしまいそうだった。
 できるなら幽体離脱して、倒れたわたしを先輩がどうするのかにまにましながら見守りたい。

 えっ! そんなとこ触っちゃうんですかっ? とか。
 ちょっ! それ、キスしても目覚めませんよっ! とか。

 いや、キスはないか流石に。
 心ミジンコだもんなこの人。

「なにこの後輩……ちょっと酷くない? 俺なんかした?」
「あはっ、ちょっとデレてみましたー」


 きゃぴっと冗談を言ってみると、予想外に真に受けてしまったらしい。
 ぽかんと固まったかと思うと、目が濁る。
 目が濁ってるのはいつものことだった。

「……は? 今のがデレ? 怖……二度とデレないでくれると助かるんだが」
「ひっど……」

 なにこの先輩、酷い。
 泣いちゃいそう。
 これもいつものことだった。
 えー、いつもこんななのー?
 なにそれかなしーなー。

 女って怖い……と現実に打ちひしがれている先輩に擦り寄り、気持ち体重を預ける。
 こんなこと言われてもくっつきたくなっちゃうなんて……。
 わたしってば一途!

 気づかれてしまうという心配はない。
 なぜなら先輩がバカだから。

「お前ちょっと最近スキンシップが激しくねぇか……」

 ささーっとソファの隅に逃げていく先輩との距離をさらに詰める。
 うげぇと苦い顔をする先輩。

 こんなかわいい後輩がすり寄ってきてるのに逃げるとか、この人ほんとに男?
 あっち系の人なのかと疑いそうになる。

「いや、だから、もうこれ以上寄れないから。来んな来んな。追い詰められるとねずみだって噛むんだぞ」

 しっしっと追い払うようなジェスチャーをされてしまった。
 まじか。
 噛むのか。
 先輩になら別に噛まれてもいいかなー、とか。
 ちょっとアブノーマルかな……。

「葉山先輩とかにはしないので大丈夫ですー。嫌われたくないので」

 めげずに擦り寄る。
 ぴとっとくっつくと心が安らぐ。

 除湿機持ってくるとか言ってたの誰だよ。
 人間洗浄機が汚染されちゃうでしょうが。
 わたしにはむしろ、このぬくぬくした感じが最高なのです。

「それ俺には嫌われてもいいってことになっちゃうんですけど……」

 離れよう離れようと身体を反らせながら、ぶつくさと文句を垂れる。

 もー、変わらないなー。
 そういうところ、嫌いじゃないです。

「せんぱーい。なんか面白い話してくださーい」

 諦めたのか態勢を戻して本を読み始めた先輩の口元がひくつく。
 すっごい嫌そうだった。

「出た、リア充特有の無茶振り……。ぼっちにそんなもん求めんじゃねぇよ……」
「あ、あー……なんか、ごめんなさい」

 結構ガチで嫌そうだったので、素直に謝っておく。

 先輩には絶対に嫌われたくないです。

「謝んなよ……虚しくなんだろうが」

 謝るところじゃなかったらしい。
 分かり辛い……。

「じゃあ、なんかお話しましょーよー」
「なにそのなんの脈絡もない、じゃあ。どこに接続してんだよ……」

 なんかよく分からないつっこみをする。
 接続ってなに……?
 もしかして、じゃあって接続詞だったの?
 なに詞なのかなんて気にしたことすらなかったよ。

「いや、そんなことどうでもいいですよ……。つまんなくてもいいのでお話しましょう」
「はぁ……」

 うわー、あからさまにため息つかれた。
 そんなにその本面白いのかな。
 それともわたしと話すのが嫌なのか。
 そ、そんなことないはず……だよね。

 うーんうーんと不安に押し潰されそうになっていると、間をあけて先輩が口を開いた。

「あー……。そういや、お前、なんでこんな微妙な時間に来たんだ?」
「あ、んー……部活、ですね」

 じろりと睨まれる。
 ぶ、部活があったのは本当なんだけどなー。
 嘘じゃないよー。

「その、部活終わったあとは、お母さんとお話してたんですよー……。で、泊まるかもーとは思ってたので、少し長くなっちゃったみたいなですねー?」

「あー、そうか……。なんか、悪い」

 納得してもらえたらしい。
 本当は別に長話していたわけじゃなくて、病院まで行ってたからなんだけど。
 明日も行けるし、問題ない。

「いえいえー、そんな気にすることでもないですよー」

 なるべく明るく答えると、考えるような仕草を取り恐る恐る声を出す。

「……調子はよくなったのか?」
「あー、まあ、そこそこって感じですね」

 何回、嘘を吐くのだろうか。
 心苦しい。
 けれど、正直に打ち明けるわけにはいかない。
 心配、かけたくないから。

 沈黙が訪れる。
 あまり居心地のよくない沈黙だ。
 先輩はこれ以上踏み込むべきではないと判断したのだろうし、わたしもこれ以上踏み込まれたくはない。
 先輩は口下手だし、わたしが話題を提供するしかないだろう。

 んー……。
 あ、そういえば、聞いてなかったことがあった。

「先月、誕生日パーティー開いてもらったじゃないですかー?」

 話題を完全に切り替えると、好機と判断したのか、先輩は「ああ」と続きを促す。


「なんで、誕生日知ってたのかなーって。わたし言いましたっけー?」

 うーん、と思い返してみるも、どうにも記憶に残っていない。
 だが、なんかアピールしたような気がしないこともない。

 いつだったか……。
 言っていたとしても、そこそこの時間が経っているだろう。

「いや、お前が言ってたんだろ。『わたしは四月十六日が誕生日ですよ、先輩。プレンゼント期待してますね。高いの』とかって」
「え、マジですか……。それいつです?」

 わたしそんなこと言ったの?
 なに高いのって……。
 先輩からのプレゼントならなんでも嬉しいんですけど。

 なんなら母の日に小さい子供が贈る肩叩き券みたいに『先輩と一日一緒にいられる券』とか、『先輩に一つだけなんでもお願いを聞いてもらえる券』とかでもいい。

 そんなものもらった日には、なんでもかぁ……なににしよっかなぁ、などと、それを考えるのに一月くらい要してしまいそうだが。

「雪ノ下の誕生日パーティーした日だよ。ちなみに後半は嘘」
「あー! あのとき……って嘘ですか……。嘘はよくないですよ、先輩」

 どの口がそんなことをほざいているのか。
 白々し過ぎて吐き気がする。
 嘘ばっかり!


 いつか、これが本当になっちゃうのかなー。
 どこかの優しくて苛烈な、弱々しいお姉さんのように。
 あの生徒会室での邂逅以来、何度か生徒会室に訪れている。
 見れば見るほど、外面が悲しげに映る。
 近づいてしまっているのだろうか。

 人をよく見ている、と言われたことがある。
 自分自身ではそうは思わないけど、どうなんだろうか。
 別によくは見ていない気がする。
 目を合わせれば、不安だったり優しさだったり、疑念だったり、それなりに分かることはある。
 対峙すれば見ざるを得ないから、そのときになにか被って見えることもある。
 被ってしまうことがある。
 わたしが嘘に塗れるのも可能性として低くないのだろう。

 嘘を吐くのに慣れてしまうことを考えると、ゾッとした。
 例えば友達が百人いて、九十九人に嘘を吐き続けなければならないとしても、一人だけは本心を話せる友達が欲しい。

 そんなことを胸の内でそっと願った。

「悪い悪い」

 にべない態度に意味もなくほっとする。

 わたしはこのままでいいのだろうか。
 人は簡単には変われない。
 きっといくら頑張ってもその人の本質は変わらないだろう。

 でも、心持ちや意識、態度、思想。
 そういうものを変えることが出来るとは思う。

 友人関係、生活習慣、家族仲。
 そういうものだって変えることは出来るのだと思う。

 ふとした瞬間に見せるなにか、自分の中核をなすなにか。
 例えば、優しいだとか小狡いだとか。
 それ自体が変わらなくても、それに付加されているものを変える。
 もしくは、変えようという意識を持って生きる。

 わたしは、どうすれば、いいんだろうか。

 その問答は、如何にも重要なことのように思えた。

「でもよく覚えてましたねー? あ、もしかしてわたしのこと好きです? でも好きな人がいるのでごめんなさい」

 思考の渦に飲まれそうになるのを堪え、きゃぴっといつも通り、なにも変わらない、ただただ普遍的な態度で接する。

 変わるとか。
 変わらないとか。
 変われないだとか。
 変えられないだとか。

 そもそも、そんなものは、自分で制御出来るものではないのかもしれない。
 たとえ過去のわたしがどんなに醜くても過ぎ去ったものをどうにかする術はない。
 たとえ未来のわたしがどんな姿であろうと見えないものをどうにかする術はない。


 嫌なことも、楽しいことも。
 二つともあるから、人生なのだと。
 とりあえず、今のところはそう思っておくことにしよう。

「なにがどうしてそうなんだよ……。自意識の化物だなお前。たまたま記憶に残ってただけだ」

 自意識の化物ってなに。
 自意識過剰のナルシストってことですか。

 自分のことを褒めるのは大事なことだと思います。
 一色いろはゼミナールでは褒めて伸ばす方針を採用したい。

「それどういう意味ですかー……」

 じとーっと睨みつけると、先輩はなんでもない風に答える。

「知らん。……雪ノ下さんに言われたんだよ」
「ちょっ……自分が言われたことを人に押しつけるとか先輩マジですか。それよくないと思います」

 自意識の化物、ねぇ。
 じろじろと先輩を舐め回すように見る。
 いまいち意図が掴めないが、はるのんのことだから意味があるんだろう。

 気になってしまってどうしようもないので、ケータイで自意識を検索してみる。
 ぐーぐる先生はなんでも知ってるからね、うん。

 自意識……。
 自分自身についての意識。
 周囲と区別された自分についての意識。


 ふっと呆れたような息が漏れた。
 それに気づいた先輩がわたしのほうを向く。
 ケータイに落としていた視線を戻す。

 自意識……か。
 自分のことをよく分かっているということだろうか。

「なんかいいですね、そういうの」

 羨むような声が出た。

「わたし、自分のことなーんにも分からないんです。だから、分かってるってすごくいいなって感じです」

 なんにも、分からない。
 自分のことなんて一切が不明確で不明瞭。
 盲目。
 暗闇。
 自分の心の中を覗くと途端に闇に包まれる。

 自意識の化物だなんて恐れ多い。
 わたしなんていまだにそこらへんの有象無象と変わらない。

 でも、それでも、いつかは探らなければいけないのだろう。
 最初は手探りでおっかなびっくり。
 次は懐中電灯でも持ってゆっくりと。
 電灯を取りつけ、探索を続け。
 全貌を見ることは叶わないのだろうけれど、その一端だけでも、この目に焼き付けて理解するべきなのだ。

 わたしだけでなく。
 彼も、彼女も、先輩も。

「……そうか」

 弱々しい声には安堵があったように思う。
 なにに安堵したのかな。
 自分を認めてもらえたことになのか。
 それとも、もっとひどいなにかなのか。

 なにが「なんか抱えてるやつの方が少ない」だ。
 誰よりも抱えてるくせして。

「先輩……」

 呼びかけると、先輩は再びわたしに顔を向ける。
 じっと、見つめる。
 瞳の最奥にはきっと優しさがある。
 表層には不安の色があるように思えた。
 どうしてこんなに淀んでしまったのだろう。
 本当に、分かっているのだろうか。

 化物なら、区別というより隔離だろうか。
 自意識に囚われて身動きが取れなくなるみたいな。
 それとも、他意識に興味がないという意味だろうか。
 相手の意識の矛先に目を向けず、ありのままでいるみたいな。
 なんかどっちもありそうだな。
 考え過ぎかな……。

 整った輪郭。
 鼻筋の通った端正な顔立ち。
 その中で弱々しく濡れた瞳だけが、助けを求めている。
 そんな気がした。


 頬にそっと手を添える。
 蛇に睨まれた蛙の如く固まる先輩。
 手から温もりが伝わってくる。
 周囲の音が消えたような錯覚すらしてしまう。
 周囲の色が消えたような錯覚すらしてしまう。
 鼓動はわたしのものしか感じられないはずなのに、今、このときだけは、先輩の音も聞こえたような気がした。
 けれど、その音はすごく遠く感じて。

 こんなに簡単に触れられるのに、どうしてその心に届かないんだろう。
 不安があるとすればなんだろうか。
 いくら見えたって、心当たりがない。
 結局、わたしはこの人のことをなにも知らないのだ。
 わたしが助けてあげることは、出来ないのだろうか。

「なにか、悩んでませんか……」

 あるかどうかも分からないのに。
 訊いたって言ってくれっこないのに。
 どうしても、言わずにはいられなかった。
 先輩は答えない。

「奉仕部でなにかありましたか?」

 今度はもっと優しい声音で。
 しかし、先輩は答えない。

「わたしには……、なにも、出来ませんか……」

 先輩は、答えない。

 その沈黙だけが、ただただ、わたしの問いを肯定していた。
 自嘲染みた笑みが漏れる。
 自分のことは自分で、か。
 もどかしい。


 触れていた手をそっと離す。
 温もりは霧散して、手には言いようのない悔しさが残る。
 目をつむれば、わたしの胸の鼓動だけが静かに脈打っていた。
 ぎゅっと拳を握りしめる。
 出来るときには、必ず。

「やっぱり、押しつけてください……」
「……は?」
「押しつけていいですよー。逃げても、負けても、目を背けても、いいです! わたしが代わりに頑張ってあげますよーっ」

 にこにこーっと笑う。
 わたしは大切な人を助けたい。
 それは全てわたしのためになる。

「なに言ってんだお前……なんで、そんな」
「後輩ですからね……先輩の。たまには、かっこつけたくなるじゃないですかー」

 ふふんと自慢げにしてみせると、先輩は呆れ半分嘲り半分と言った様子で笑う。

「はっ……また、か?」
「はい。また、です」

 生徒会選挙にて、奉仕部を残すためにわたしに生徒会長という役職を押しつけた先輩。
 嘲りは自嘲だろうか。

「……機会がありゃあな」
「どうせすぐありますよ。先輩、よくなんかに巻き込まれて悩んでますし」
「不吉なこと言うな……」

 なにを想像したのかうわぁと顔を歪める。
 巻き込まれて、というより、首を突っ込んでの方が正しいか。
 生徒会選挙とクリスマスイベントに関してはわたしのせいですね、ごめんなさい。


 くすりと笑みをこぼすと、先輩もつられて笑った。
 きっと、あんなことを言ったところで先輩はわたしをあてにはしないのだろう。
 けれども、一つでも逃げ道を作れたらと、そう思った。
 少しくらい寄り添えたのかな。

 でも、まだ、しっかり笑えない。

 夕刻。
 時間にしては、まだ窓から差し込む光の色は変わっていない。
 それでも、そのうち変わる。
 自らの意志とは関係なく。
 でも、太陽はどこに沈もうが太陽であることに変わりない。

 であれば、わたしもどうなろうがわたしであることに変わりはない。
 それは暴論だろうか。
 しかし、先輩を傷つけないために、わたしはわたしのために、なにかをしたい。
 たとえ、闇に飲まれようとも。
 たとえ、希望などなくとも。
 わたしはこの道を進む。

 わたしはわたしのしたいように生きる。
 自分を他の誰よりも受け入れてあげなければいけないのは、自分なのだから。

「……先輩」

 端無く、ここで言おうかなと考えた。
 そして、数秒。
 今、このタイミングで言おうと決意した。

 あのとき、潮風の漂う人気のない場所で。
 伝えきれなかった、思いの丈を。


「……なんだ」

 真摯さの感じられる声音だった。
 ちゃんと、聞いてくれる。
 だから、ちゃんと、言わなきゃ。

「わたし……」

 そこで言葉を区切り、緊張ですっ飛んでいきそうになっていたセリフを掴む。
 握りしめて、決して、離さない。
 言いたいことは纏めてきたから。
 これを言えばいいだけだ。
 深く深呼吸をして、言葉を続ける。

「――あの部活、好きなんです」

 返事はない。
 無言だったが、それが続きを促すものだということだと気づくのは容易かった。

「雪ノ下先輩がいて、結衣先輩がいて、小町ちゃんがいて、先輩がいて……。あの空間が心地よくて、好きなんです」

 好き。
 その単語にどれだけの想いをのせたのか。
 わたしでも推し量れないけれど、それはそう表すしかないものだった。

「この仕事が終わったら奉仕部に行けるなーって思うと、頑張れるんです」

 きっと、また、暖かく迎えてくれる。
 だから、必死に頑張れる。
 先輩に会うため。
 それだけで、頑張れる。


「でも、だからこそ、手伝ってもらいたくないんですよね……」

 そう。
 ちゃんと、頑張ってあの場所に行きたい。
 前は違ったかもしれない。
 けれど、三月、わたしは先輩の努力の片鱗を見た。
 その胸に額を押し当てて、心の鼓動を感じながら、わたしは先輩の頑張りを実感した。
 失うことを怖れず、踏み出してくれた。
 自分たちはこうやってきたのだと証明してくれた。

「あの人たち、いっつも頑張ってるじゃないですか? だから、頑張らないで行きたいとは思わないんですね」

 頑張って、頑張って、形成されたあの空間に。
 わたしは堂々と居座りたいのだ。
 サッカー部マネだけど。

「だから、頑張ります」

 自分で出来ることは自分でやる。
 自分が出来そうなことはやってみる。
 マネージャーも生徒会も、出来れば奉仕部の存続も。
 家のことも。

「それに、褒められると嬉しいんです」

 心底、嬉しい。
 頑張りが認められるのは嬉しいのだ。
 その相手が先輩ならなお嬉しい。
 だから。

「だから、頑張りたいんです」

 まだ、続きがあった。
 けれど、先輩はそこで終わりだと思ったらしい。
 軽く頷く。

「……そうか。なら、あー……」

 なにを迷っているのだろうか。
 言葉を探すようにあっちこっちに視線を行き来させる。
 ようやく見つかったのか、ただ一点、わたしを見つめて言った。

「見ててやる……?」

 疑問形。
 すぐにそっぽを向く。
 ぶっきらぼうな態度に救われた気がした。
 昼休み、見ててくれと言ったのを思い出したから出てきた言葉だろう。
 タイミングよく笑い、ぽすっと頭を先輩の肩にのせる。

「ありがとうございますーっ」

 飛び出た声はやっぱり上向きで外面で。
 しかし、心の中では一瞬だけ太陽が顔を見せた。

「でも、一人で出来ないこともあります。わたしなんでも出来るわけじゃないっていうかー、基本なんにも出来ないので」
「……そりゃそうだろ。俺だってなんにも出来ねぇし。むしろなんにもやりたくねぇ」

 なんかクズいこと言い出したぞこの人。
 なんにもやりたくない、か。

「やりたくないことでもやらなきゃいけないときっていっぱいありますよねー……」
「だな……」

 うんざりとした口調で同意する。
 やりたくもなかったことをやってきたから。
 嫌にもなるよなぁ。

「で、話は戻りますが、もし、出来なかったら先輩を頼ります。なので、そのときは手を貸してください」

 一人でなんでもは出来ない。
 頼るべきところではきっちり頼る。
 でなければ、失敗する。
 そこで意地を張る必要はない。

「えー……」

 嫌そうな返事をいただいた。
 でも、頼ればしっかり手伝ってくれるのだろう。
 そういう人だ。

「よく考えたら、あんまり前と変わりませんね」

 前だって、なんでもかんでも頼ってたわけじゃない。
 変わったのは結局、わたしの心持ちだけだ。

「……そうか? 全然違うと思うが」
「そうですかねー? それはそれでいいですけど」

 それならそれで問題ない。
 変わったと感じてくれたのなら、少しは進めたのだろう。

「でも、わたし意地っ張りなので、多分素直に頼れません」


 頼らなきゃいけない。
 意地を張る必要はない。
 どれだけ心で分かっていても、行動に移せるかは別問題なのだ。
 そういう意味では、前の方が楽だったな。

「なのでーっ!」

 えいっと横から先輩に抱きつく。
 鬱陶しそうに身じろぎする先輩。
 その顔を見つめて、瞳を潤ませる。

「こんな感じで抱きついてうるうるしてたら、聞いてくださいー。あのときみたいに、『なにかあったのか?』って」

 そうすればきっと、頼れる。
 聞いてもらえれば頼れる。
 分からない。
 ただ、抱きつきたいだけかもしれなかった。

 わたしを見て、先輩は真剣な面持ちになる。
 なにかと小首を傾げてみると、あーと迷う素振りを見せる。

「……なんか、あったのか?」
「……はい?」

 あ、あー……。
 これもその合図だと思ったのか。
 これは本当にただ抱きつきたかっただけです。
 あ、でも、ないこともないか。

 パッと離れ、少し居住まいを正す。
 ちらりと横を見れば、先輩の姿勢は変わらず、わたしの言葉を待っているようだった。

「あ、あのー、今度生徒総会あるじゃないですかー?」
「あー……あれな、なんかよく分からない議題で全く誰も意見出さないやつ。予算の収支とかも公示するんだっけ?」

 おー、覚えてるんだ。
 存外真面目なのかもしれないとか思ってしまった。
 なんだかんだクズ呼ばわりされつつもテストの成績(文系のみ)はいいので、納得出来ないこともない。

「そうそう、それで合ってますー! よく覚えてますねー?」
「そりゃあな。ぼっちだから話し相手もいないし」
「あ、あぁ……そういう」

 真面目とかそれ以前の問題だった。
 ま、まあ、なんでもいいや。

「んで? その生徒総会がどうかしたのか?」
「えっとですねー、その『議題で誰も意見を出さない』っていうのを改善したいんですよねー。ほら、こっち側としても誰も聞いてないなんてちょっと面白くないじゃないですかー?」
「俺は聞いてるぞ」

 至極真面目な顔で言われてしまった。
 なんか、俺はお前のことちゃんと見てるぞみたいに脳内変換されて超恥ずかしい。
 せ、先輩が聞いててくれるならもうなんでもいいかなー、とかアホなことを思ってしまう。

「いっ、いや、それは嬉しいんですけど……ていうかなんですかそれ口説いてるんですかちょっと狙いすぎてかっこいいですごめんなさい」


 そういうのやめてーっと肘を伸ばして手のひらを先輩の方に向けた状態で、腕をぶんぶんと振る。
 目が><《こんな感じ》になりそう。

「……まあ、俺だけが聞いててもな」

 わたしが早口でまくし立てたことの一切を聞き流したらしい。
 慣れてきたなー、この人。
 腕を組んで思索にふける。

「っと! ちょっ、ちょっと待ってください! 方法はもう考えてあるんでいいんです!」
「……は? どういうことだ?」

 説明を求めてくる先輩に適当に説明する。
 話し終えると、ふむと頷いて先輩は考える。
 しばし考えていたかと思うと、唐突に顔をあげてなにか深刻そうな顔をした。

「俺が……そいつらと協力できると、本気でそう思ってんのかお前……?」

 なんかのたまいだしたぞ、この先輩。
 不安要素そこかよ。

「別に協力しなくていいんですよー?」
「……は?」

 んー、分からないかなー。
 嫌なことから逃げるのは得意だと思ってたんだけど。
 答えにたどり着くのに時間がいるのか。
 いや、そもそも嫌なことから逃げれてたことないな、この人。

「例えば、先輩が否定意見で葉山先輩達が賛成意見を出せばいいんです。協力なんてしなくていいです、むしろ敵意剥き出しで戦ってください」
「ああ……そういう。そっか、単純だな。いや、でも、待て。事前打ち合わせとかいるんじゃねぇのか? 俺たちの攻防が激し過ぎて、誰かが発言する前にどっちかが論破されたらどうする」

 そういう心配はいらないんだけどなー、と口を挟もうとするも続く言葉に遮られる。

「人を容赦なく罵倒することに定評のある雪ノ下とあの葉山だぞ……あの。学年一位と二位だ」

 ちなみに俺が三位と、自慢げな顔を見せる。
 はいはい、すごいすごい。
 先輩が三位なのは国語だけだけど、雪ノ下先輩と葉山先輩は多分総合順位ですけどね。

「だからー、それだけ優秀なんだからそうならないようにするのも容易いでしょう? 最初の掴みでいい感じに盛り上げてもらうだけでいいんですよ。結論が出そうになかったら本気でやってもらいますけど」
「葉山はとにかく……雪ノ下はなぁ……。結論を出すところだけは雪ノ下にやらせた方がいいと思うぞ。負けたら確実に機嫌悪くなるからな、あいつ」
「あぁ……」

 負けず嫌いだったっけ……。
 まあ、別に結論がどうなろうが関係ない。
 この動議内容自体はもう先生方に承認されてるし。
 本当に内容に目を通したかは置いといて、だけど。

「そこはまあ、好きなようにしてもらって構いません。ただ、途中は黙っててもらいます」
「まあそれなら……いいんじゃねぇの?」
「手伝ってもらえます?」
「あぁ……別に手伝うってほどのことでもねぇだろ」

 気恥ずかしいのか、頭をガシガシと掻く。
 やったー。

「ありがとうございますっ!」

 わーいわーいと喜び、しばらくまったりしていると小町ちゃんが降りてきたので、ついでに小町ちゃんにも説明する。
 と、訝しげな視線を浴びせられた。

「な……なに?」
「えー……、いや、あのー、これって本当に大丈夫なんですかー? その、バレたらいろはさんが怒られちゃうんじゃないかなー……みたいなですねー。小町はいいんですけど、お兄ちゃんとか雪乃さん、結衣さんも。小町的にそれは嫌だなーって。あ、今の小町的にポイント高いです」

 な、なにこの子、超優しい。
 やだ、かわいい。
 最後のがなければなおよし。

 しっかしまあ、そこは先輩が突っ込んで来なかった部分だ。
 だが、生徒会に報告した時点で懐疑的意見を抱く人がいることは分かっていた。
 ならば、あの場では言葉で取り繕ったが、なんらかの対策を講じるのが生徒会長の役目というものだろう。

 わたしがそれについての対策を口にしようとすると、先輩の声がそれを押し留めた。


「別に大丈夫だろ。こいつが小町やら雪ノ下、葉山に迷惑がかかるようなことをするわけがない」

 確信していると言わんばかりの先輩の言葉に小町ちゃんはきょとんとして、それから納得したようにうんうんと頷く。

「あー、それもそっか。うん、確かに! いろはさん、疑ってごめんなさいっ」

 ぺこりと頭を下げる。

 そ、そんな理由で突っ込んでこなかったのかこの人。
 なに、すごい信頼されてるわたし。
 え、嬉しい。
 やだやだ、本当、この先輩はなんでこうピンポイントで攻めてくるかなー。
 あー、熱いなー。
 も、もう……ほんと、嬉しい……っ。

「ちょっと! 今のいろは的にポイント高過ぎですよー! 先輩あざとい! ていうか、すぐ納得しちゃう小町ちゃんも……小町ちゃんも、ありがと!」

 この兄妹ダメだ……。
 わたしには優し過ぎる。

「いえいえですー! 小町はお兄ちゃんもいろはさんも信じてますのでっ! あっ、今のも小町的に」
「いい、いい。そういいのいいから。せっかくいいこと言っても台無しだから。つーか、お前も大袈裟だっつの。頑張るってそういうのも含めてって意味じゃなかったのかよ……」

 先輩に止められて小町ちゃんはぶーぶーと文句を垂れる。

 しかし、その顔はどこか嬉しそうだった。
 心地いい。
 安らげる。
 優しい、場所。

 お母さんと会うときも安らぐが、こことはまた違う。
 それに、入院中というか、病人なわけだから心配のが強くなっちゃうし。

「いろはさん、ご飯作りましょー!」
「うん、作ろっか」

 前回泊まってから夕食を作ってみたりしていたし、お弁当はお母さんが倒れた翌々日から毎日作ってる。
 そのおかげか、先輩にも納得してもらえるくらいの味には仕上げられた。

 お風呂に入り、ソファでくつろぐ先輩の横に腰かける。
 今日ばかりは小町ちゃんも起きていた。
 話を聞くに、前回お兄ちゃんに怒られたらしい。
 お兄ちゃんって呼んだらわたしも怒られてしまった。

「はぁ」

 日付けが変わり、先刻小町ちゃんが部屋に行ってしまった。
 これ以上ないくらい暇なので、うだうだと借りた漫画を読んでいる。
 強敵が仲間になったり、親友と戦ったりするやつだ。
 あんまり面白くない。
 テンプレとか王道とか言うらしい。
 面白いやつは面白いんだとか……、なら面白いの貸して欲しいなー。


 ぱたんと漫画を閉じ、横で熱心に、いや怠惰に本を読んでいる先輩に問う。

「それ、そんなに面白いんですかー?」
「あー? いや、別に」
「え、ならなんで読んでるんですか?」
「んなもん、暇だからだろ。本読むの自体は嫌いじゃねぇしな」
「ふーん……」

 まあ、なんだかいつも本読んでるもんなこの人。
 部室でも、家でも。
 いつも、で挙がる場所の少なさに驚きを隠せない。

「あ、もしかして、文系の成績がいいのって本読んでるからとかあります?」
「あー……あるかもな。漢字とかだけじゃなくて単語自体でも分からないのとかたまにあるし。自覚はねぇけど」

 そのたびに調べてるんだろうか。
 だとすれば中々な生真面目さだ。
 まあ、でも分からないと面白味も半減するか。

「へー……。あ、じゃあじゃあ! わたしに本貸してくださいよー! わたし、成績もあげたいんです!」
「……は? なんで?」

 単純に疑問だったのだろう。
 別段嫌そうな表情ではない。

「指定校狙ってるんですよねー。それと、大学では特待生になりたいですし。ほら、お金かからないじゃないですかー?」

 お金がかかると困る。
 お母さんに渡された通帳にはかなりの額が入っていたが、いたずらに浪費するのは気が引けた。
 お母さんはわたしのために貯めたんだと言っていたけど、どういう目的にしろお母さんのお金だ。
 それに、わたしはこれ以上、甘えるのはやめた。

「あー……そういうな。へぇ……本当に考えてんだな。俺なんて昨年の今頃は……っつーか、今でも私立文系受けて親に全額負担してもらう気しかない。専業主夫を諦めたつもりもない」
「うわ……最低ですね」

 まあ、そんなことを言っていても、この人はしっかり働くのだろう。
 嫌々と毎日愚痴をこぼしながら働く先輩の未来は想像に難くない。

「それは置いておいて、そういうことなので、来年の秋までには雪ノ下先輩ばりの学力になりたいわけですよ」

 うんうん頑張ろうという気持ちを込めて言う。

「はぁ? いや、無理だろ。目指すべきところが違う。あれは目指してなれるもんじゃない。部活やって生徒会やって、雪ノ下の成績に追いつく? それこそ空いた時間全部勉強だぞ、それ」

 なんかすごい勢いで否定されてしまった。
 悲しい。
 そこまで言われたらなんかムカつくので、頑張ります。

「でも、それが諦めていい理由にはならないと思うんですよねー?」
「そ、そりゃ、まあ、そうだが……」

 マジ?
 マジで言ってんの?
 と、疑念の込められた眼差しを向けてくる。

「頑張るって、言ったじゃないですかー。全部出来るだなんて思ってないです。生徒会だって手伝って欲しいときには頼みますし、部活はそもそも休みがあります」
「いやいや、頑張ったってどうにもならないことだってあんだろ……」

 諭すように言われる。
 それは確かにそうなのだろう。
 頑張ってもどうにもならないこともある。
 そんなことは分かってる。
 でも、それも諦めていい理由にはならない。

「頑張って出来なかったら、そのときはそのときです。そのときが来るまでどうなるかなんて誰にも分かりません」

 それに、と言葉を続ける。

「わたしは雪ノ下先輩並みの頭脳、知識が欲しいわけじゃありません。ただ、学校の成績で追いつく程度でいいんです」

 学年一位。
 やろうと思って出来ないことではない。
 総武高は県内有数の進学校だが、雪ノ下先輩みたいな人が何人もいたりするわけじゃない。
 なら、わたしでも出来るはずだ。

「いや、でも、雪ノ下って学年一位だぞ? 総合だけじゃなくて、多分各教科一位だぞ?」

「はい、知ってます。だから頑張ります。自分磨きは妥協しちゃいけないんです」

 真面目腐った顔で返すと、先輩は諦めたようにソファに背を預けた。
 そのまま頭を背もたれに乗せる。
 すると、天井を見上げて、あー……っと唸るように声をあげた。

 どうやら本気で心配させてしまったらしい。
 予定外の事態だ。
 慌ててなにか取り繕うとすると、先輩は態勢を戻して口を開いた。

「そっか、まあ……んじゃあ、見てるわ。応援、してる」
「っ……はいっ!」

 こちらに顔が向いていなくとも、その言葉に込められた気持ちを察することは出来た。
 その言葉自体の意味も。
 それは、わたしを喜ばせるには充分な代物だった。

「あ、ていうか、わたしが知的とか超やばくないですかー? これ先輩の心鷲掴み的な感じしません?」
「しないしない」
「うわぁ、雑ですねー」

 本当、今日来てよかったな。
 正直、昨日まで気分は最悪だったから。
 あの場では虚勢を張ったが、完全に敗北を喫し、絶望の前に打ちひしがれていたと言ってもなんら誇張した表現ではないと思う。
 肉親の余命宣告を数日で受け入れられるほど、わたしは出来のいい子供じゃない。
 ずっと、土砂降りだった。
 それが今日の朝には止んだ。
 先輩と話したら少しだけ日が差した。


 晴れ間を見せた心に、この微睡み。
 眠気に誘われるのも仕方ない。
 まだ話していたいと名残惜しい気持ちはあったが、また眠りこけてしまっては迷惑千万な話だろう。
 しずしずとリビングを後にし、小町ちゃんの部屋に敷かれた布団で久々の快眠を楽しんだ。

  ****

 太宰治、夏目漱石、芥川龍之介。
 わたしが先輩から教えてもらった本の著者はその三者だった。
 なんでも、「ライトノベルなんか読むくらいなら勉強しろ。読むならこれ読め。多分面接とかで使える」ということだ。
 加えて「著作権が切れてるからネットで読める。つまりタダ」と、とても魅力的なことを言われてしまっては首を縦に振る他ない。

 人の心配をする、というか、人の世話を焼くのが先輩の性らしい。
 また、妹なんとかかも知れないけど。

 太宰治は、『人間失格』、『走れメロス』。
 夏目漱石は、『こゝろ』、『吾輩は猫である』。
 芥川龍之介は、『羅生門』、『藪の中』。

 どれも聞いたことがある名前だった。
 幾つかは教科書に載っていた覚えもある。
 そういう作品を選んでくれたのだろう。
 少しケータイで読んでみたが、なにやら難解そうな文面に目眩がした。

 しかし、読んでみれば楽しいもので、やはりかの文豪、不朽の名作と囃し立てられるだけのことはある。

 楽しいのは先輩が選んだからかもしれない。
 芥川作品とメロスを除いては長編なので、勉強の気分転換にでもゆっくり読もうと思う。
 勉強の気分転換に読書!
 やだ、わたしかっこいい!

 本日は晴天なり。
 調整信号でもお笑い芸人の話でもなく、普通に天気の話。
 この前も晴れだったな。
 わたしのマイブームは晴れ女。
 気分もそこそこ良好。

 五月晴れというやつだ。
 ごがつばれ。
 いつかどこかで見たが、新暦五月の晴天を指すらしい。
 ちなみに、さつきばれと読む場合には、六月、つまり陰暦の五月の梅雨時に見られる晴れ間を指すんだとか。
 くっだらないことはよく憶えている。

 ごがつばれと読んでいられる期間も、もう残り二十日ほど。
 本日は五月十日。

「さて、ここで問題でーす! 今日はなんの日でしょうかー?」

 病院の一室。
 白く清潔そうなベッドで上半身だけを起こしているお母さんに問う。
 近くに窓があるおかげか、お母さんの顔色はよさそうだった。

「んー……、なんの日だったっけー?」

 わざとらしい仕草で考え考えし、にっこりと笑って快活に答える。

「お母さんちょっと分かんないなー。教えてくれる?」

 そんな笑顔で分かんないとか言われても、「信ずることができぬ」って感じである。
 最近覚えた言葉とか使いたくなるよね!
 言葉っていうか文章だし、邪智暴虐の王はもっと大変なものを信じてなかったけれど。

「正解は、母の日です!」

 三文芝居を繰り広げて、はいっとかわいいラッピングのされた箱を手渡す。

「ふふっ、あ、そうだったねー! ありがとっ!」

 顔を見合わせて少し笑い合う。
 心地いい。
 なのに、やっぱり、笑えない。
 はぁーあ、と心の中で長嘆息する。
 わたしは誰が相手なら笑えるのだろう。

「ねっ、開けてみて!」

 早く早くと催促するように身体を揺らす。
 はいはいと微笑んで、お母さんは包みを開けた。

「おっ、マグカップかー」

 白いマグカップ。
 ピアノの鍵盤が螺旋階段の如く描かれており、そこかしこに音符が散りばめられている。

 二匹の黒猫がいて、一匹は鍵盤の上を歩き、一匹はでかでかとその歩いてくる子を見守るように佇んでいた。
 首にワンポイントであしらわれたピンクのリボンがかわいい。
 尻尾をモチーフにした取っ手もかわいい。


「かわいいでしょー?」

 どうよ、と自信ありげな態度を取る。

「うん、ありがとね。でも、いろはにしてはちょっと大人っぽいチョイスっていうか……。マグカップっていうのは意外かも」
「なにそれー。子供っぽいてことー?」

 むむーっと頬を膨らませてみせる。
 子供っぽいだろう。
 しかし、それでいい。
 いつまで経ってもわたしはこの人の子供で、この人はわたしの母親なのだから。

「ん……先輩と一緒に選んだからかも?」

 そう、泊まりに行った次の日。
 小町ちゃんと先輩に母の日のプレゼント選びを手伝って欲しいと頼んで、ららぽへ行ったのだ。
 途中で小町ちゃんが消え去ったのはまあ、予定調和とでも言おうか。

 悩みこんでいると、先輩にマグカップを提案されたため、見てみたらちょうどこれが目に入った。
 即決。
 この感じが、どこかわたしとお母さんに似ている気がして。

 ちなみに、先輩がマグカップを提案したのは、奉仕部の二人に湯呑みをプレゼントされたからだとか。
 クリスマスプレゼントらしい。

 わたし渡してないんだよなぁ……。
 誕生日はしっかり渡そう。


「おおー? 先輩って誰? 誰? 男?」

 ぐいぐいと身を乗り出して聞かれる。
 心底楽しそうだ。
 こうして見ると元気そうなんだけど……。

 そう言えば、お母さんが倒れた日、入院だかなんだかと言われていたのをあとから思い出した。
 結局、あのときの不安は的中してしまったわけだけど、なんだかもやもやしたままだったので、妙にすっきりしたのは記憶に新しい。

 余命三ヶ月。
 お母さんから聞いた限り、病気らしい。
 そんなことは分かってるだけどなぁ。
 なんとかしようにも調べようがない。
 お母さんも意地っ張りなので、それはもう諦めた。
 わたしはただ、応援していよう。

 退院は出来るんだとか。
 なんでも、倒れたのは疲労のせいで、普通に生活できるらしい。
 遅くても今月中に家に戻って来られる。
 それを聞いて、喜ばずにはいられなかったが、不安は消えない。
 入院してた方が安全なんじゃないだろうか……。

 まあ、今くらいは、お母さんの前でくらいは、そういうのは心の底に沈めておこう。

「え、あー……、男だけどー」
「おっ! なんだっけ? 葉山先輩だっけ?」

 キラキラとした目で問う。
 女子か。
 なんか言いづらいなー。

 高校入ってから葉山先輩葉山先輩言ってたからなー……。
 いや、でも、振られたーって言ったよなぁ。

「イケメンなんでしょー? いろはやるじゃーん!」

 このこのっとばしばし肩を叩かれる。
 が、まあ、そろそろ否定しなきゃだろう。

「あー、いやー、えっとー……、また違う先輩なんだよねー」
「えっ!? そうなの? 葉山先輩は諦めちゃったってことー?」

 ざんねーん、と大袈裟にリアクションを取り、再び瞳を煌かせる。

「で? その人はどのくらい好きなのっ?」

 早い。
 切り替え早い。
 怖い。
 わたしのお母さんだなぁと改めて思ってしまった。

「葉山先輩よりは好きかなーって感じ」

 なんか気恥ずかしくて目をそらしてしまう。
 すると、ほほう……と、全然信じてなさそうな声が聞こえてきた。

「よりは……ねぇー?」
「うっ……な、なに?」

 にやにやとなにならご満悦のご様子。
 心の内を探られるような視線に身を捩らせてしまう。

「どこらへんが好きなのー?」

「んー……、えっと……優しいところとか」
「うんうん」
「……大切なものを守れるところとか」
「うんうんっ」
「しっかり考えてるところとか!」

 言っているうちになんだか楽しくなってきて、つらつらと先輩の好きなところを挙げていく。
 うんうん、それで? と聞いてくれるお母さん。

「へぇー……。葉山先輩のときは『かっこいい』、『頭がいい』、『爽やか』とかだったのにねぇー?」

 じろじろと見つめられる。

「ま、まあ、それは今はいいでしょー……?」

 伏し目がちに言うと、くすりと微笑む。
 どんだけ歳を取っても女は恋バナが好きらしい。
 いや、単に娘の話だからかもしれないけど。

「ふふっ、ねぇねぇ、そのピアスもその人にもらったの?」
「え、あー、うん……」

 ピアスに触れられるのは何度目か。
 ものすごい恥ずかしい。
 そ、そんな目立つ……?

「いっつもつけてるもんねー。そっか……本当に好きなんだ」
「うん」

 そこだけははっきり言える。
 この気持ちは嘘ではない。
 これだけは、絶対に。


「今度連れてきてねー」
「えっ! あー……、まあ、退院してから、ならいいかなー」

 わたしの言葉にお母さんは首を捻る。
 んー……と考えたのち、ああとその理由に思い至ったようだ。

「心配性なんだっけー? そっか、じゃあ早く退院しないとなー」

 ぐぐーっと伸びをして笑う。

「あ、それと、いろはピアス触る癖ついてるよ」
「え……? ええっ!?」

 う、嘘……。
 そんな、嘘でしょ……。
 なにそれ恥ずかしい。
 けたけた笑うお母さんには感謝しなければ。
 これからは気をつけよう。

  ****

「おつかれさん」

 体育館から退場していく生徒の波をぼんやりと見つめていると、横から労いの言葉をかけられた。

「あ、先輩」

 目を向けてみれば、そこには先輩含めた奉仕部の面々と、葉山先輩グループが立っていた。
 他にも数人協力者はいたわけだけど、まあ、よく会話をするのはこのメンバーなので、わざわざ話しかけてくるのもこの人たちくらいだろう。


「今日はありがとうございましたー!」

 控え目ながらも嬉しさを滲ませた声でお礼を告げ、ぺこりとお辞儀をする。
 結果から言えば、生徒総会は大成功に終わった。

 熱く激しい議論が交わされたからか、それとも単に気温が高いのか、体育館内は熱を帯びている。
 生徒の波からは今日の議論の結果についての反応が聞こえてくるし、先輩方の働きは大きかっただろう。

「いいって! いいって! 俺らも結構楽しかったし、なっ?」

 襟足を引っ張りながら、葉山先輩と三浦先輩に視線を送る。

「ああ、たまにはこういうのもいいな」
「はぁ? 別にあーしはやりたくてやっただけだし」

 相変わらずの爽やかさだった。
 三浦先輩……それツンデレですか。
 やっぱり私服登校を否決されたのは悔しかったらしく、じろっと雪ノ下先輩を睨む。

「雪ノ下さん……次は絶対負けないかんね」

 その本人はと言えば、ふふんと満足そうな微笑を浮かべていた。

「あら、まだ次をやる気力が残っていたの? その諦めの悪さ、嫌いじゃないわよ」
「なっ! なにその上から目線! そんなんだから友達少ないんじゃないのっ?」

「くっ……そ、それは今関係ないでしょう」

 ばちばちと視線で火花を散らす二人を結衣先輩と葉山先輩がなだめる。

「ま、まあまあ、ゆきのん! あたしはずっと友達だよっ!」
「落ち着け優美子……次は俺も手伝うからさ。な?」

 両者むーと唸ったのちに、ふんっと正反対に顔を背けた。
 仲良いなぁ……この人たち。
 言ったら怒られそうだから言わないけど。

「そーいやー、ヒキタニくんって頭良い感じじゃね? 俺とか半分くらいなに言ってっか分かんなかったしよー。雪ノ下さんと隼人くんもだけど」

 急に話を振られて先輩がキョドる。

「お、お、おう……まあな」
「この男と同列に扱われるというのは癪ね……」
「お前もっと遠慮しろよ……」

 眉を顰める雪ノ下先輩に呆れた視線を送る先輩。
 そこに葉山先輩が仲裁に入る。

「ま、まあまあ……ヒキタニくんは文系得意なんだろ? 俺もちょっと言葉に詰まったし」

 庇うようにそう言うと先輩の顔はすっごく嫌そうに歪んだ。
 うっわぁ、露骨。

 すると、影からなにやら怖気の走る笑い声が聞こえてきた。


「ぐ腐腐腐……。は、隼人くんがヒキタニくんを庇ってるとか! はやはちのっ」
「ちょっ! 海老名擬態しろし!」

 三浦先輩にぱしんと頭を叩かれ、昂りを収めていく。
 え、なにこの人、怖い。
 は、はやはちってなに……?
 ちらりと先輩を見やると、げっそりしていた。

「気にしなくていい。世の中には知らない方がいいこともあるんだ」

 どこか諭すような口調だった。
 いつもなら、こういうことを言われれば知りたくなってしまうのだが、今回ばかりは遠慮しておくことにする。
 あまりいい未来が見えない。

「お兄ちゃん……お疲れ様」

 小町ちゃんの憐れみの声が体育館の喧騒に霧散していく。

「ったく、あんたそんなことばっか言ってっと晒されるよ」

 三浦先輩の口からでた聞きなれない単語に、わたしを含め数名が首を傾げる。

「晒される?」
「ああ、なんか最近、総武高の裏サイトが出来たらしくてさ。それのことだろ?」
「そ。ま、陰でしか言えないやつには言わしとけばいーけどさ……、連れがやられんのは気分悪いっしょ?」
「へぇ……」

 裏サイトねぇ……。
 晒されたら有名税とでも思っておけばいいか。

「まあ、んなもんは、すぐ問題起きて閉鎖すんだろ」
「そういうもんですか」
「そういうもんだ」

 とにもかくにも、生徒総会自体は成功した。
 誰かが言いふらそうとも問題はない。
 先生方に許可は取ってあるし。
 一時的に生徒会補佐として働いてもらう、と言えばすんなり納得してくれた。

 サクラだと言わなければいいのだ。
 第一、そんなことを気にしてる生徒もいないだろう。
 考え過ぎだ。

 さて、とみんな生徒の波へ混ざっていく。
 二つのグループが仲良くやれていた。
 その中に混じっていかない人がここに一人。

「いつか、こんなこともあったなって思い出す日が来るんだろうな。こういうやり方は俺にも雪ノ下にも出来ねぇ。……すげぇよお前、頑張ったな」

 そりゃあ生徒会でなきゃ出来ないでしょうね、なんて茶化す場面でもないか。
 その言葉はわたしが褒めて欲しいと言ったから出てきたのだろうか。
 ふと見上げた先輩の顔は、暖かい微笑みを宿していて、そうではないのだと思えた。

 多分、この先輩の優しさはここにあるのだ。
 ふとした拍子に表に顔を出して、わたしの心を掴む。
 言うまでもなかったことを、改めて認識して、今になって自覚できた気がした。


 別にこうなることが目的で動いていたわけじゃないけれど、これは二次産物に過ぎないのだけれど。
 それでも、なにか達成感のようなものが、わたしの胸の内に溢れていた。

 しかし、この優しさはときに先輩自身を傷つける。
 先輩自身が傷ついたと思っていなくとも、それを傷ついたと思って心配する彼女らが隣にいて、結果的に傷つくのだ。

 それを悪いことだとは言わない。
 あの部室にいる先輩は楽しそうだし、それが彼と彼女らの在り方なのだろうから。
 であれば、わたしがするべきことはなんだろうか。

 もう少しで、その答えが見つかる気がした。

「はいっ!」

 満足そうに笑って歩き出した先輩の背中を見つめる。

 褒めて欲しい。
 また、また。
 もっと、もっと。
 そうやって、人は自分を縛りつけていくのだろうか。
 わたしはしがらみに飛び込んでいるのだろうか。
 たとえ、そうだとしても、わたしはそれで満足だ。

 周囲から褒め称えられる存在になれば、先輩はまた知りたいと思ってくれるだろうか。
 わたしに興味が向くだろうか。

 あのときはあれが精一杯だったけど、いつか全てを知ってもらえる機会があるかもしれない。
 いつか、纏めた言葉じゃ伝えきれなくて、わたし自身も分からないところまで暴かれてしまうかもしれない。

 先輩一人じゃなくて、周りの人も。
 親しければ親しいほど、想いを寄せればさらに、理解されたいという欲求が強くなる。

 孤独な彼にとって、頑張るわたしは眩しいのかもしれない。
 潔癖な彼女にとって、ひたむきなわたしは傷ましいのかもしれない。
 優しい彼女にとって、近づくわたしは疎ましいのかもしれない。
 完璧な彼女にとって、期待しないわたしは使いやすいのかもしれない。
 穏和な彼にとって、選ぶわたしは輝かしいのかもしれない。

 一人一人の中に違うわたしがいて、三百六十度どこから見てもその裏側は窺い知れない。
 龍安寺の石庭のように意図的なものではないけれど、いや、だからこそ、全貌はわたしにも見えなかった。

 それぞれが持つわたしに対する意識は矛盾し錯綜しているために、真相はそれこそ藪の中なのだけれど。
 いつか本当の意味でわたしを理解してくれる人がいることを願おう。

 外れていても、当たっていても。
 真相は分からないのだから、合否のつけようがないんだけど。
 現実は苦くて苦しいから、僅かな可能性もないかもしれないけど。

 それでも。

 他人の気持ちなんて誰にも分からないのに。
 矛盾だらけで誰にも分かるわけないのに。

 でも、それでも。

 それでも、そのくらいは願ってもいいはずだから。
 きっと理解してもらえるって。
 あの名作とは違って、完全に理解されるときがくるんだって。
 バカだと詰られたって構わないからわたしは。
 わたしは、せめてそれだけは。

 いつまでも――


 第四章 いつの間にか、雪ノ下陽乃は居座っている。


 生徒総会から数日が経過した。
 前期生徒会の仕事は残すところ職場見学のみ。
 と、言いたいところなのだが、実は先日もう一つ増えてしまっていた。

 総武高創立三十周年記念イベント。
 学校としても大きなイベントにしたいらしい。
 市立のくせに見栄っ張りだ。
 そう言ったイベント事は生徒の自主性云々で生徒会に任されるのが常となっているこの高校。
 当然のように今回も生徒会に回ってきた。

 テストも近いし、最初は断ろうかとも思ったのだが、大人に必死に頭を下げられては断れるものも断れない。
 まあ、職場見学に関しては大した仕事でもない。
 選択肢は用意されてるし、グループに分けたって人気者の行くところに集まることが多い。
 例年通りのイベントだから企業側も理解してる。
 集計してアポ取ればそれで終わり。

 イベントは予算も多い、夏休み直前なので日程にも余裕がある。
 多いと言ってもいつもより多いだけなのでたかが知れてるし、それほど苦しいものにはならなさそうだ。
 イベント事ならクリスマスにもやったしね。
 フラッシュアイデアだのWIN-WINだのロジカルシンキングだの。

 あれ、なんか不安になってきた。
 軽くトラウマである。
 フラッシュバック。

 そんなことより目下の問題は中間テスト。
 なんなら、毎日部活と生徒会以外の時間は全て勉強に費やしているので、今回でかなり成績が上がるのではと期待している。
 来月頭には英検があるのだが、それを受けようか迷い中。
 さすがに間に合わないかなぁ。
 だいたいにして受験料かかるし。
 うん、今回は見送ろう。

 そんな感じで今日も今日とて生徒会の仕事をキリのいいところで切り上げ、部活へ。
 廊下に出て、数歩歩いたところで足が止まった。
 今日、部活休みだった。

 奉仕部行こーっと。
 こういう休みの日は奉仕部に行き、先輩と雪ノ下先輩に文系科目を教わっている。
 二人とも受験生なのに大丈夫かと聞いたところ、「家でやってるから問題ない」とのことだ。

 まあ、毎日本読んでるし、本当に問題ないのだろう。
 先輩に関してはちょっと不安なので、小町ちゃんに真偽を問うたところ、本当にやっているらしい。
 真面目だなぁ。
 惚れ直しました!
 もともとゾッコンだけどね!

 ふふーんと軽快な足取りで部室の扉の前まで辿り着くと、中から聞き慣れない声が聞こえてきた。
 依頼が来たのだろうか。

 うーんと考えた末に、そっと聞き耳を立ててみる。
 あんまりいい趣味とは言えないけど、出てくるタイミングが分からなければ入るに入れない。

『それで、依頼は……その、ラブレター? に対する返事の内容と、付き合うことになった場合のサポート、ということでいいのかしら?』

 これは、雪ノ下先輩の声だろう。
 ラブレター?
 いまどきそんなもの送る人いるんだ。

『は、はいっ! あ、でも、断るときのだけで大丈夫っす。ほら、変に断るとなんか噂になりそうじゃないっすか?』

 なんでそんな上からなの。
 その自信満々さは流石に引く。
 ていうか、友達とかに聞くならまだしも、それを公にして他人に頼むとか……ないわー。

『あ、あー……そういうのあるかもー……』

 あははーと乾いた笑いが聞こえる。
 信じてないんだろうなー。
 わたしも信じてないけど。

『これ、名前とか書いてないじゃないっすか? 会うまで断るかどうかの判断も出来ないんすよねー』

 名前書いてないとか、うわぁ。
 もう決まっちゃったよ。
 ギルティ。

『いや、お前……それって……』
『俺こういうの初めてなんすよねー! あ、でも、最近女子と遊ぶことも多かったりしてて!』

『あぁ……うん』

 せ、先輩っ!
 ダメ!
 諦めちゃダメですよ!
 なんか無駄に嬉しそうだから言い辛いのは分かるけど!
 心の中で応援する。
 その応援が伝わったのか分からないが、再び先輩の声が聞こえてきた。

『あ、あのな、最悪の事態を想定してだな……』
『え? なんすか? あ、もしかして嫉妬っすかー? 先輩そういう縁なさそうっすもんね』
『お、おう……まあな』

 ちょっ、こいつわたしの先輩になに言ってんの?
 はぁ?
 よく考えなくてもわたしたちの方が酷いこと言ってた。
 でも、こいつこれガチで言ってるな。
 絶許。

『あ……あのさー、あたしはそういうの……自分で考えた方がいいと思うなー……とか』

 そうそう。
 そのくらいは自分で考えないと。
 誠意が足りない。
 まあ、相談したくなっちゃう気持ちは分からないでもないんだけど。

『ええっ!? そんなこと言わないでくださいよー! お願いしますっ!』

 結衣先輩のちょっとイラっとしてる感じがひしひしと伝わってくる。
 この男子気づいてないのかな。

『あー……っと、まあ、出来ないならいいっす。ありがとうございました。じゃあ』

 戦慄。
 それは言っちゃいけない言葉である。
 誰に向かってそんな口を聞いているのか。
 無知は罪。

『待ちなさい』
『ひぃっ』

 やっぱり……。
 もう五月半ばなのに寒いよ。

『あなた、私をなめているのかしら? 今までどれだけその類を断ってきたと思っているの? 出来ないわけがないでしょう』
『い、いや、そんなことないっす、すいませんっ!』

 弱……。
 それから十分程経過し、そろそろ足痛いなー、疲れたなーと思っていたところで、扉に向かってくる足音が聞こえた。
 少し足早にそこを離れ、いかにも今来ましたーみたいな態度で引き返す。

 すれ違った男の子はなんというかパッとしない感じ。
 いや、でも、そこそこ顔立ちは整っているようにもおも、思わないことも、ないかな。
 野球部とかに入ったら多分モテる、適当。

「こんにちはー……」

 部室内はめんどくせーってオーラが充満していた。

 適当に挨拶を済ませ、先輩の斜め横に座る。
 ちらと雪ノ下先輩を見やると目が合った。
 そのままじーっと見ていると、かくんと小首を傾げる。

「雪ノ下先輩、なんで受けちゃったんですかー?」

 じとーっと見つめたまま問うと、少し考えるような仕草を取り、答える。

「え……ああ、聞いていたのね。……だって、その、悔しいじゃない」

 しょぼんとした様子で顔を俯かせる。
 かわいいけど、ダメです。

「だって、あれ、絶対悪戯じゃないですかー?」
「え……?」

 え、なんでそんな不思議そうなの。
 もしかして本気で誰かがあの男子にラブレター送ったと思ってたの?
 やだ、純粋。

「そうなのかしら……?」

 意見を求めてきょろきょろと視線を動かすと、それぞれがうんうんと頷いた。
 まあ、あれはどう考えても悪戯だろう。
 雪ノ下先輩が知らないのも仕方ないのかもしれない。
 そういう側になったことはないだろうし、それに、女子はやられない系統のやつだ。

「どう考えてもそうだろ……。名前は書いてないわ、下駄箱に突っ込んであるわ、その上告白が明日ってなんだそれ」

「明日? え、なんですかそれ? やった人バカなんですか?」

 嘘ですって言ってるようなもんだ。
 あの男子もよく信じたな。

「明日だと……なにがまずいのかしら?」
「そりゃあお前……どう見ても不自然だからだろ。渡した日の放課後に設定するのが一番信憑性がある。まあ、俺だったら名前がない時点で捨てるけどな。いや、むしろ、開かない」

 それは、警戒心強過ぎでしょ。
 経験があるのだろうか。
 ありそうだなぁ……。

「そう……そういうこと。……その、ごめんなさい」

 ずーんと分かりやすいくらいに落ち込む。
 知らなかったらしょうがない。
 無知は罪?
 そんなわけないでしょうが。

「ゆ、ゆきのんだけのせいじゃないよー! あたしも止められなかったし」
「そうですよー!」

 慌てて二人がフォローに入る。
 しかし、すぐに立ち直ることは出来ないだろう。
 そういうの気にしそうだし。

「まあ、もう受けちゃったわけですし、どうするか考えた方が有意義ですよー」
「そう……ね」

 ふむ……と思索にふける。
 それを待たずして結衣先輩が口を開く。


「あ、あたしはしょうがないんじゃないかなー……って思うんだけど」

 さっきのいらだちがまだ尾を引いているのか、否定的だ。
 それが妥当と言えば妥当なのだろう。
 別に頼まれたわけじゃなし。

「だな。それで俺みたいになるわけだ」

 はっとバカにした感じで笑う。
 うっわー、性格悪いなーこの人。

「うわぁ……それはちょっとかわいそう。なんとかしてあげたいかも……」
「おい、なんでそこで意見変えてんだよ」

 気持ちは分かる。
 わたしもそれはかわいそうだと思ってしまった。
 こんな腐った目になったら、あの男子の高校生活はもう絶望的である。
 捻くれ者は先輩一人で充分。

「そうね……これ以上環境を汚染するわけにはいかないわよね」

 心なしか青ざめている。
 深刻な問題だ。
 早急に対処すべきだろう。

「ねぇ、なんで俺が汚染物質みたいな言い方なの? おかしくない?」
「誰もあなたのことだとは言ってないでしょう? 自意識過剰よ、比企谷菌」

 流石自意識の化物。
 菌って聞こえたのは気のせいだと思いたい。

「いや、言ってるから。菌って超言ってるから。なに? 環境汚染レベルなの? 俺の目ってそんなに酷いの?」

 気のせいじゃなかったらしい。
 でも、先輩の目はそんなに酷いです。
 自覚してください。

「噛んだだけよ。そんなこと言えないわ……悪口は好きではないもの」
「いや、それ言ってんのとほぼ変わらねぇから……」
「ま、まあまあっ!」

 いつ間にかすっごくいい笑顔を咲かせて生き生きと先輩を罵倒していた雪ノ下先輩を結衣先輩が止める。
 顔を横に向けると、小町ちゃんと目が合った。

「お人好しだねー」
「ですねー」

 苦笑する。
 基本見守るスタンスなのだろうか。

「んー、でも、どうしよっかー……」

 ふぬぬと顔を顰めて唸る。
 三人がしばらく考え考えしていたが、どうにも案が浮かばないらしい。
 その様子をただ見ていた先輩と目が合う。

「まあ……一応、策はあるちゃあるが……」

 はっきりしない口調に雪ノ下先輩と結衣先輩が不安げな表情を浮かべる。
 小町ちゃんは特に気にしてなさそうだった。
 それが先輩なのだと、理解しているのかもしれない。


「話す……。先に話すから……それから検討してくれ」

 諦めたように言う。
 成長、してるんだなぁ、本当に。
 優しい微笑みをたたえて頷く二人を確認し、先輩はその策とやらを話し出した。
 内容自体は簡潔なものだった。
 しかし、話し終えた直後の二人の表情は曇っている。

「それって、誰がやるの……?」

 恐る恐るといった様子で結衣先輩が尋ねる。

「まあ、出来るやつがやるしかねぇだろ……」
「……どうせヒッキーがやるんでしょ? それじゃ、なにも変わらないよ」

 変わらない。
 なにが変わらないのか。
 依頼の進行か。
 先輩のやり方か。

「大丈夫だろ。一年経ったら分かんねぇけど、そんな直後で話したがるやつなんていねぇ。ソースは俺。これなら、俺に被害はないし、あいつの傷も浅く済む」
「でも……」

 いまだ不安そうなままだが、反論が浮かばなかったのか俯いてしまう。
 そこで今まで思考を練っていた雪ノ下先輩が顔を上げた。

「私が……、『間違えて入れてしまった』と言うではダメなのかしら……?」

 慎重に提示された案を聞いて、先輩は即座にかぶりを振る。


「ダメだ」
「……理由を聞いてもいいかしら?」
「そういうタイプじゃないだろ、お前」

 確かに。
 絶対にまちがえないとは言い切れないが、というかそんなことは絶対にないのだろうけど、少なくともそういった行動に関して入れ間違えるなんてことをするとは思えない。

「そう……そうね」

 再び室内を沈黙が包む。
 結衣先輩が声を発したのは、しばらく経ってからのことだった。

「は、はいっ!」
「結衣さん、どーぞ!」

 元気な声とは裏腹に小さく挙げられた手。
 いつの間にか司会進行役的立ち位置に移動していた小町ちゃんが発言を許す。

「そ、その……」

 言い辛そうに顔を俯かせ、もじもじと指を交差させたり突き合わせたりする。
 ようやく決心したのか、ふぅと息を吐いて言葉を紡いだ。

「あ、あたしがやるなら……いいよね?」

 雪ノ下先輩の案を、ということだろう。
 結衣先輩がやるなら、さっきの問題はクリア出来そうだと思ったが、先輩は再度かぶりを振る。


「ダメだ。そもそも、この部室で顔を合わせている以上、お前らがなにかやったところで怪しまれる。気づいたとき辛いだろうな、あいつ。偽の手紙で舞い上がって、女子に同情されて」
「それなら……。それなら、あなたがやっても意味がないのでは?」

 もっともな疑問だった。
 まあ、でも、そこを理解していて言ってるのなら、先輩はクリア出来ているのだろう。
 その予想は当たっていたらしく、先輩はにやりと口元を歪ませて、自信あり気な調子で答える。

「いや、俺なら絶対に成功する。よく考えれば分かんだろ?」

 なんでそんな自信満々なんですか。
 全然分からないし。
 その挑発的な物言いに雪ノ下先輩ははてなと思考を巡らせるが、やはり分からなかったようで、再度問う。

「……説明してもらえるかしら?」

 その言葉が予想外だったのか、先輩は疑問符を頭上に浮かべ渋面になる。

「いや、そりゃお前……だって、陰薄いだろ、俺」
「え、あ……そう、そういうことね」
「いつも罵倒してるくせになんで分かんねぇんだよ……」

 真面目に聞かれてしまってはやはり堪えるものがあるらしい。
 机に両肘を乗せて、がくっと項垂れる。

 目の前に先輩の頭が現れた!
 ちょっぴりかわいそうだ。
 どうする?
 撫でる。

 ぽんぽんと撫で始めて二秒と経たないうちに、先輩はがばっと頭を上げた。
 その顔は驚愕で彩られている。

「え……? なに? なにしてんのお前……」
「あー……、いや、かわいそうだなーっと思いまして」
「……は? え、なに? なに企んでんの? 怖い」

 うっわぁ……と身体を仰け反らせる。
 その反応は結構傷ついちゃうんですけどー。

「なんにも企んでませんよー! 失礼な……先輩はわたしをなんだと思ってるんですかね……」
「いやいやいや、なんもないのにお前が俺に優しいわけないだろ。なに? 熱でもあんの?」

 ぴきぴきと血管が浮き上がりそうだった。
 流石のわたしも怒りますよー?
 怯えた態度を取る先輩ににっこりと微笑む。

「は?」
「なんかすいませんでした」

 一秒の間も無く謝罪を述べる。
 素直でよろしい。
 にこにこーっとしたまま、引き攣った笑みを浮かべる先輩と見つめ合っていると、こほんと横から咳払いが聞こえた。

 そちらを見やれば、雪ノ下先輩が眉間に皺を寄せ、結衣先輩が唇を尖らせている。
 その背後では小町ちゃんが暖かい目で微笑んでいた。


 敵意が剥き出し過ぎるよ。
 諦めるのは早計だとか言ってたじゃないですか!
 あと小町ちゃんなんか怖い。

「す、すいませーん……」

 雰囲気に気圧されて謝ると、雪ノ下先輩がふうとため息を吐いた。

「まあ、今のは比企谷くんが悪いわね」

 その言葉に乗っかるようにして、結衣先輩も先輩を批難する。

「そ、そうだよ! ヒッキーのバーカ!」

 結衣先輩……ぼ、ボキャブラリーが……。
 頭の程度が知れてしまう。
 まあ、そこがかわいいのでそれはそれでいいのだろう。
 どうやって入学したのかが七不思議になるレベルではあるのだが。

「えぇ……なにこの理不尽」

 言われた先輩はどうも納得がいかない様子である。
 しかし、そういう風体というだけであって、さっきまでの鎮痛な面持ちが二人から消えたことを安堵しているのか、声色は暖かみを伴っていた。

「まあ、世の中理不尽が常ですよ」

 諭すように言うと、妙に納得した調子で頷かれた。
 人生に疲れてそうだなこの人。

「それで……その、あなたのやり方は本当に大丈夫なのかしら……?」

 真剣さを宿した瞳を先輩に向ける。
 こういうときの雪ノ下先輩には、どこかはるのんに似た苛烈さがある気がした。
 先輩は攻撃的な瞳をしっかりと見返し、はっきりとした口調で答える。

「大丈夫だ」

 答弁を聞き、雪ノ下先輩はゆっくりとまぶたを降ろす。
 一秒ほどだったろうか。
 刹那と言ってもいいかもしれない。

 再び開かれた瞳は凛と澄んでいた。
 なにかを受け入れたような、そんな瞳だった。
 このとき、また、この人たちはお互いに一歩歩み寄ったのだろう。

「……そう。それなら、あなたを信じるわ」

 確認の意思を込めて、結衣先輩と小町ちゃんに視線を送る。
 二人とも首を縦に振った。

「……うん、分かった」
「小町もそれでおっけーです。ま、お兄ちゃんがなにやっても小町はずっとお兄ちゃんの妹だよっ! あ、今の小町的にポイント高いっ!」

 きゃはっとあざとかわいく笑う。
 いつも通りの仕草、態度に場の空気が和らぐ。
 が、わたしの心中は穏やかではなかった。


 信じる、応援してる、頑張って。
 それは重荷だ。
 枷で、鎖で、重圧だ。
 誰かに期待される。
 誰かに応援される。
 願ってもいないのなら、そんな人生は苦しくて辛い。

 信頼。
 その言葉は今までどれだけの人間を押しつぶしてきたのだろうか。
 わたしはいい。
 やりたくてやっているのだから。
 励まし、期待はモチベーションの上昇になる。

 では、先輩はどうだろうか。
 すっと先輩の瞳を見る。

 ――あ。

 見えてしまった。
 一瞬、浮き出た不安が。
 なにか、隠していることがある。
 先輩の話のどこかに嘘がある。
 前はなにに関係するものか分からなかった、でも今は分かる。
 なら、わたしは、どうするべきだろうか。

 わたしが踏み込んでもいいのだろうか。
 部員ですらない、わたしが。
 わたしに、せっかく纏まった意見を壊す権利なんてあるのだろうか。
 でも、ここで言わなきゃ、言っしますておかなきゃ、後悔する気がした。

「あ、あのー……」

 暖かい空気に水を差す。
 声を出したわたしに注目が集まっている。

 本当にいいのだろうか。
 再度自問した。
 やらなきゃダメだ。
 再度自答した。

「それって……その、やっぱり放っておくって選択肢はないんですかー……?」

 空気が凍りついた気がした。
 差した水が冷え冷えして凝固していく。
 わたしはまちがえてはいないだろうか。
 不安になる。
 胸が押しつぶされそうになる。

「いや、その、わたし部員じゃないですし、余計な口を挟んでるっていうのは分かってるんですけどー……」

 それでも、止めたい。
 もっと早く言うべきだったのかもしれない。
 先輩の案が出た時点で積極的に否定すべきだったのかもしれない。

 でも、歩み寄ったのをまた離れさせることに価値があるのだろうか。
 やっぱり、なにも言うべきではなかったのでは。
 ぐるぐると渦に飲み込まれていく。

「その、先輩に被害が及ぶ可能性が少しでもあるなら、やめた方がいいんじゃないかなー……みたいなですね」
「それも、そうね……」

 柔らかな声だった。
 ほっと息をつく。

「でも、やっぱり、なんとかしなければと思うわ」

 固まってしまった。

 なんでそういう結論になるのかよく分からなかった。
 先輩が傷つく=却下。
 わたしの脳内方程式はそんな感じなわけだが、雪ノ下先輩は違うのだろうか。

〝諦めるのは早計だと思うわよ〟

 再び浮かんできた言葉は、さっきとは違う意味で捉えられた。
 自覚、してない?
 いや、でも、まさか。
 あれだけ先輩に執着して置きながら自覚してないなんて、そんなことってあるの?

 恋したことがなかったから、気持ちの整理が出来てないとか……?
 それとも、奉仕部として先輩を認めているだけだという理性で抑えつけているのか。

 どちらにせよ、由々しき事態である。
 少なくとも、雪ノ下先輩にとって先輩の身が最優先事項ではないのだということが発覚してしまった。
 あるいは、本当に信頼しているのか。

「で、でも……知らない人ですよー?」
「……今までだって、そう。比企谷くんのときも、由比ヶ浜さんのときも、知らない人だった……。当然、一色さん、あなたのときもね」

 それを言われてしまえば黙るしかない。
 いや、そうでもない、か。

「わ、わたしのときは依頼は達成されてないじゃないですかー? あれは、依頼を失くしただけであって」
「それでも、達成するための努力はしたわ」

 それは、そうなんだろう。
 事実、雪ノ下先輩と結衣先輩が立候補した。
 途中で先輩がなかったことにしただけで、放っておけば雪ノ下先輩か結衣先輩が会長をやっていた。

「私は知己の仲だから手を差し伸べるわけではないのよ。あなたが心配しているようなことには、きっと、ならない。だから……安心して」

 落ち着いた態度で宥められてしまった。
 どうすればいいのだろうか。
 先輩を信頼……?
 いや、無理だよ。
 そんなのは無理だ。

 ていうか、雪ノ下先輩がなにかするわけじゃない。
 やるのは先輩。
 企画も提案も実行も先輩。
 先輩がやりたくないと言うか、過半数の票を手に入れるしかない。

「えっと、でも、助けを求められたわけじゃないですし……。結衣先輩はいいんですか?」

 卑怯な手を使ったと思う。
 優しい女の子にどっちかの味方につけというのは酷だろう。
 けれど、それしか手がない。

「え、いや、あたしは……その、どうかなーとは思うんだけど。その……うーん」

 わたしと雪ノ下先輩を交互に見ては唸り声をあげる。
 ああ、もうダメだ。
 一言目で引き込めなかったら、付き合いの長い雪ノ下先輩につくだろう。


「ヒッキーを信じてみたい……かな」

 詰んだ。
 きっと、とか、みたい、とか。
 そんな漠然とした言葉で済まさないで欲しい。
 もっと、もっと重要なことなはずなのに。

 残るは小町ちゃんのみ。
 二対三だ。
 多数決は絶対。
 いや、でも、小町ちゃんが味方になってくれれば、それで先輩に頼めば先輩は止めてくれるだろうか。
 まだ、微かに希望の光が残っていた。

「こ、小町ちゃんはどうかなー……?」

 尋ねると、小町ちゃんはうーんと少し考えたのちに答える。

「小町は……そうですねぇー。お兄ちゃんの味方ということで……」

 申し訳なさそうに言う。
 よくよく考えればそうなることは最初から分かっていた。

 先輩の瞳に不安が見えたと、言うべきなのだろうか。
 それは、怖い。
 信頼していると決意を固めている人たちに、そんな証拠にもならないもので反論するのはキツい。

 わたしだけが見えてしまった。
 なんだか、少しだけはるのんの気持ちが理解できた気がした。
 誰も分かっていないことが分かる。
 なんだこれ……辛いな。
 分かるのに、分かってもらえない。


「一色……」

 声色に迷いがあった。
 わたしの言葉を聞いて意志が揺らいだのだろうか。
 それなら、これが最後のチャンスだ。

「せ、先輩には前に言ったんですけどー……、わたし、この部活好きなんです」

 なるべく暖かく。
 優しさのある声音で。
 それだけ想っているのだと伝わるように。

「その、わたし別に部員じゃないですし? 余計なお世話だとは思うんですけどー……、でも、出来れば止めて欲しいなって感じ……です」

 雪ノ下先輩も結衣先輩も驚いていた。
 わたしがそこまで奉仕部に想いを寄せているとは思っていなかったのだろう。
 小町ちゃんは、気づいてたみたいだけど。

「ダメ、ですかねー……?」

 重くなった。
 空気が。
 この先輩方はなにに躊躇しているのだろうか。
 分からない。
 でも、もう少しで分かる気がした。

「一色さん……ごめんなさい」

 申し訳なさそうに顔を背ける。
 そうまでしてなんで……。


 はたと一つの可能性が頭に浮かんだ。

「もしかして……」

 よくよく考えてみればそういうことだったのかもしれない。
 そこからして歪なのだ。
 内に潜むプライドと優しさと信念が邪魔をしていた。
 だから、きっと、断れない。

「依頼……断ったこと、ないんですか?」

 沈黙。
 あり得ない。
 一年も活動していて、一度も断ったことがないなんて。
 数多とは言わないまでも、そこそこの数の依頼がきてたはずだ。
 一度くらい断っていてもおかしくない。
 というか、一度くらい断っていなければおかしい。

 いや、何度か断ろうとしたことはあったのかとしれない。
 何でも屋じゃない。
 そう言っていた。
 それでも、誰かが動いたのだろう。
 誰とは言わないが、誰かが。

 今現在、小町ちゃんを除く三人がそれぞれの真似をしているのも問題だと思われた。
 それぞれにプライドがあり、優しさがあり、信念がある。
 断れない。
 問題を無視できない。


 ここで問題を無視して逃げたら、この人たちは罪悪感に苛まれるのだ。
 心にもやがかかって、うわべで取り繕うしかなくなる。
 この人たちは、そんな関係を求めているわけではない。
 目の前にある問題を無視しなければ維持できない関係性など希薄なもので、そこで壊れしまうならそれまでだと思っている。
 だから、そうするしかないのだ。

「そういう……ことですか……」
「違うわ。依頼が……、依頼が断れないわけではないの」
「問題を無視できないのなら、同じことですよ……」

 そんなの同じだ。

 わたしも、先輩を信じるしかないのだろうか。
 あの瞳に宿った不安はなにに対する不安なんだろうか。
 分からない。
 一見、デメリットは潰されていたように感じた。
 ……ああ、でも、まだ、相談できる人がいた。
 これは、家に帰ってから考えよう。


「えっと、では、方針も固まったみたいなので……っていうか、まあ、わたしが邪魔しただけなんですけどねー。雪ノ下先輩、今日もお願いしていいですか? 先輩も」

 重い空気をはぐらかすように笑って問題集やらノートやらを開くと、雪ノ下先輩も微笑んだ。

「ええ、もちろん」
「おう」

 学年一位と文系三位に挟まれた状態で勉強する。
 会話はほぼない。
 小町ちゃんが先輩とこそこそ話すくらいだ。

 わたしがまちがえれば脇に控えて本を読んでいるどちらかから指摘が入る。
 集中できるし、嫌なことを忘れられるからそれはいい。
 結衣先輩も一緒に混じって勉強している。

 わたしとしては、先輩が見ててくれているってだけで頑張っちゃうぞーって感じなので、最高と言ってもいい。
 楽しい勉強タイムである。

 しばらくすると、ぱたんと本を閉じる音が耳に届く。
 それが終了の合図だ。

「そろそろ終わりにしましょうか」
「だな」

 五人揃って部室を出て、人気のない廊下を歩く。
 小町ちゃんと結衣先輩が先行し、雪ノ下先輩と先輩がそれを見守る。

 最近はこういう配置が多い気がする。
 わたしは先輩の近くにいたいので、当然後列である。

「一色さんは……存外真面目なのね。それに、覚えも悪くない」

 突然贈られた褒め言葉に、えっと驚きつつ雪ノ下先輩の顔を見ると、優しく微笑んでいた。

「だな。もともと頭は悪くねぇんだし、やる気の問題だったのかもな」

 二人してそんな褒めないで欲しい。
 いや、嬉しいんだけど、恥ずかしい。
 あわあわと取り乱してしまう。

「それは大きいかもしれないわね。確か、読書もしているのよね?」
「え、あ、はい。『藪の中』と『羅生門』と『走れメロス』は読みましたねー。今は『人間失格』を読んでます」

 答えると、雪ノ下先輩はふむと考える。

「太宰と芥川……比企谷くんにしては無難なチョイスね」
「なんだよそれ……ライトノベルなんか勧めたってしょうがねぇだろ。流石の俺でもそのくらいは弁えてるっつーの」
「そう……意外だわ。あなた、弁えることが出来たのね」


 言って、雪ノ下先輩はくすりと悪戯っぽい笑みをこぼす。
 楽しそうだ。
 先輩は苦々し気だが。

「純文学なら、綿矢りさもいいと思うのだけれど」

 どうかしら? と、首を傾げる。

「いや、綿矢りさは著作権切れてねぇだろ。中島敦がギリ」

 先輩の返答に雪ノ下先輩はこめかみを押さえる。
 そのポーズ好きですね。
 好きでやってるんじゃないと思うけど。

「……そんな理由で文豪の著作を勧めていたのね。本当……呆れた」
「あー……いや、それは……なぁ?」

 勝手に言ってもいいものか判断がつかなかったのだろう。
 わたしに目配せする。
 うんと頷き、雪ノ下先輩に声をかける。

「その、わたしがあんまりお金を使いたくないんですねー? 勉強も特待生になるためですし」
「……そうなの? なにか……あ、いえ、なんでもないわ。そういうことなら、仕方ないわね」

 なんとなく察してもらえたらしい。
 雪ノ下先輩自身も、なにか家庭の事情があるのだろう。
 まあ、本を買うくらいのお金はあるんだけど。


「……そうね。あ、でも、綿矢りさに限らず有名な作品なら図書室にも置いてあると思うわ。よかったら読んでみて」
「綿矢りさですね……覚えておきます」

 なんか聞いたことのある名前だ。
 そもそも純文学がなんなのかよく分からないが、まあ気にすることでもないだろう。
 うん。

「それで? なんか気に入ったのとかあったか?」

 言われて、んーっと考えてみる。
 気に入ったのか……。
 そういうのは特にないかなぁ。

「これといって特にないですかねー。どれも興味深いですし。ほら、描かれているものがそれぞれ違うじゃないですかー? だから、そもそも比べることに意味を感じないっていうか……。強いて言うなら、全部気に入りましたかねー」

 それぞれにそれぞれの良さがある。
 みんな違ってみんないいみたいな。
 だから、どれも等価値なのである。

「へぇ、なんか哲学的なこと言うな」
「……一色さんはそういう考え方なのね」

 ほう、と感心したように息を漏らす。
 そんなたいそうなこと言ったかな……。
 考え方が違うとそうなるのかもしれない。
 しかし、結構はるのんに影響されたコメントである。


「まだ理解できてないだけかも知れませんけどねー。なんか堅い雰囲気あるじゃないですかー?」
「ああ……まあな」

 なんにせよ、先輩と話す話題が増えたのでわたしは満足です。
 ライトノベルとやらも読んでもいいかもしれない。
 もうちょっと落ち着いたらだけど。

「あ、そういえば、最近、あのー、なんでしたっけ? お悩みメール? とかいうのやってないんですか?」

 あまり見てない気がする。
 パソコン自体を。

「あぁ、いえ、最初に確認だけしているわよ」

 そうなると、あれか。
 わたしが来るの遅いってだけか。
 まあ、納得である。

「でも、別にたいした相談はこねぇけどな。材木座の愚痴とか……あ、なんか今日匿名の来てなかったか?」

 なにを思い出したのか、雪ノ下先輩に確認するように尋ねる。
 すると、雪ノ下先輩は先輩に訝しげな視線を浴びせた。

「……あれ、本当にあなたじゃないの?」
「いや、違ぇよ。俺が何年ぼっちやってると思ってんだ。暇潰しは俺の百八の特技の一つ。暇を潰させたら俺の右に出る者はいねぇ」

 なにを自信満々に言っているのだろうか。
 一瞬、かっこいいこと言ったのかと思った。
 そのドヤ顔は正直うざい。


「あなた以外にも……いるのね」
「おい。どういう意味だそれ。ぼっちなんて沢山いんだろ。例えばお前とか」
「あら、心外ね。私には……」

 言いかけて口を噤む。
 わたしにはなんとなく分かってしまったが、そこは流石の先輩、なんにも分かっていないご様子。

「はぁ? 私にはなんだよ」

 問い詰められて、前方をチラチラと気にしながらぼそぼそとつぶやく。

「いえ、その……私には、ゆ、由比ヶ浜さんがいるもの」

 言った瞬間。
 結衣先輩がバッと振り返り、雪ノ下先輩に抱き着く。

「ゆ、ゆきのんっ!」
「き、聞いていたのね……は、離して」

 鬱陶しそうに身じろぎするが、その頬は赤らんでおり、全く説得力がない。
 はぁあと呆れ混じりのため息を吐き、さっさと歩き出した先輩のうしろにちょこちょこと着いていく。


 全くもって気づいてなさそうなので、くいっと袖を引っ張ると、ようやくにしてわたしを認識した。

 え……わたしってそんな陰薄いですかね。
 い、いや、うしろにいたら普通気づかないよね!
 背中に目がついてるわけじゃあるまいし!
 うんうん!

「あ? なんだ?」

 なんだかうしろに着いていくのは不安なので、すーっと隣を位置取り、質問に答える。

「メール、内容なんだったんですかー?」

 結局聞いてない。
 なにがなにやら分けも分からず、置いてけぼりにされている感がすごかったです。
 わたしは悲しいです。

「ん、あぁ、なんか『友達がいないので昼休み暇なんですが、どうしたらいいですか?』みたいな感じだったな、確か」
「え、それ本当に先輩じゃないんですか?」
「いや、だから違うっつーの」

 友達がいないとか。
 それもうイコール先輩って感じなんですけども。
 ぼっち人口って結構多いのかな。
 日本の行く末が心配。

「んー……、まあ、信じましょう。で? なんて返したんです?」
「なんで嫌々なんだよ……。俺が返したわけじゃねぇからよく分からん……っつーか、返してなかった気がすんな」
「え……? いや、本読むとかあるじゃないですか」

 他にも……うーん。
 先輩みたいに思索にふけるとか。
 寝るとか。
 テニスをする戸塚先輩を眺めるとか。

 先輩がやってることしか思い浮かばなかった。
 身近なぼっちを先輩しか知らない。
 どうでもいいけど、身近なぼっちってなんかすっごい矛盾してる気がする。

「あぁ、いや、そう、メールの内容がそれだけじゃなくて、なんか本を読んだりとか自分なりにやってみたけどどうにも合わなかったみたいなことも書いてあったらしい。だから、とりあえずは延期」
「へー……延期って、それ、奉仕部じゃどうしようもなくないですかー?」

 昼休みの暇潰し。
 いろいろやってみてダメならもう諦めるしかないんじゃないのか。
 それか、奉仕部メンバーの誰かが友達になってあげるとか。

「まあな……」

 んー、でも、昼休みかー……。
 わたしも最近昼休みが面倒になってきたんだよなぁ。
 本読みたいのに女子のコミュニケーションに付き合わなきゃいけないし。

 生徒会でなにか出来るかな。
 どうだろ……本が読めなくてもあれに付き合うのはだるいから逃げられるなら逃げたい。
 完全に個人的理由だった。


「あのー、もしよかったら」

 考えてみますよーっと提案しかけたとこらで、放送の開始を告げるリズミカルな音が校内に響き渡り、わたしの声を遮った。

『1年A組、比企谷小町さん。1年A組、比企谷小町さん。落し物が届いています。校内にいるようでしたら、職員室までお願いします』

 平塚先生の声だった。
 落し物ってそんなんでいちいち放送するとか……。

 あぁ、でも、毎回雪ノ下先輩と結衣先輩が二人で鍵返しに行ってるから、鍵が返ってきてないのならまだいるってことになる。
 であれば、見知った顔の落し物があることを伝えてあげるくらいはするだろう。

「おっと……じゃあ、今日は小町も一緒に職員室行きますねー」
「うんっ、そだね! 一緒に行こうっ!」

 なんだかよく分からない盛り上がり方をしている後方に特に顔を向けることもなく、歩みを進める。
 放送……。


「あ! 先輩! いいこと思いつきました!」
「やめろ、言うな」
「はいっ! あのですねー……って、言うなってどういうことですかっ!」

 あんまりナチュラルに拒否されてたから全然気づかなかったよ。
 びっくりだよ。
 なんなのこの人。
 わたしのこと嫌いなの?

「いや、お前のいいこととか絶対ろくな案じゃねぇだろ……」
「そ、そうですかねー……」

 んー、そう、かな?
 そうなのかもしれない……。
 いっつも押しつけてるイメージつよいもんなぁ、わたし。
 そう思われても仕方ないし、きっとそうなのだろう。
 なんだか妙に納得してしまった。

「そうですねっ」

 先輩わたしのことよく知ってるなー、うんうんと頷きながら言うと、先輩から疑惑のこもった声が返ってくる。

「え……?」
「え、なんですか……。先輩がろくな案じゃないって言ったんじゃないですかー……」

 じとーっと睨みつけると、目をそらして明後日の方向を向いたまま答える。

「ああ、いや、無理にでも言うのかと思ってた」

「あー、でも別に、わたし頭いいわけじゃないですしー? 多分ろくな案じゃない気がするんでいいです」

 にこにこーっと笑ってみせる。
 しかし、どうも納得いかないらしい。

「……なんか悪かった。聞いてから判断するべきだった。奉仕部じゃ解決出来ないかもしれないし。だから、あー……、その案、聞いていいか?」
「……え、あ、えっと、はいっ!」

 ちょっと!
 先輩に頼られてる!
 なんか嬉しい。
 我ながらちょろいなぁ。

「えーっと、生徒会で昼休みに放送してみたらどうかなー、みたいな感じですねー……。その、学内の有名人をゲストで呼んでー、質問に答えてもらったり、とか? あ、あと、生徒に人気なものをアンケート取って、発表してみたり……とか……。情報ラジオ的な? どうですかねー……?」

 ちらっと先輩の顔を窺う。
 と、先輩はなにか考えているようだ。
 うずうずとしながら返答を待っていると、とうとう顔をこちらに向ける。

「どうだろうな……、雪ノ下、聞いてたか?」

 ふっと後ろを振り向き、問いかける。
 その動きにつられてわたしも雪ノ下先輩に視線をやる。

「ええ、聞いていたわ。特にこれといって他に案があるわけでもないし、いいのではないかしら?」


 微笑みながら賛成してくれた。
 この認められた感じ。
 あー、嬉しいなぁ。

「んで? どうする? 生徒会でって……別にそこは無理しなくてもいいぞ? 相談は奉仕部に来てるわけだからな」
「あー、わたしも結構昼休みに女の子と話すのが煩わしいと言いますか……だるいと言いますか……」
「あぁ、そう……」

 なんか気持ち引かれてしまった。
 女子は黒いんですよ……。
 先輩ならよく知ってるでしょ。

「ですのでー、生徒会……というより、わたしがやりますよー。アウトソーシングってやつだと思ってもらえればオッケーです。わたしを助けると思って……」

 上目遣いでうるうるっと瞳を潤ませる。
 先輩からも、後ろからもため息が聞こえてきた。

「……雪ノ下」
「……やりたいというのなら構わないわ。私たちよりも、一色さんの方が慣れていそうではあるのだし。それに、奉仕部の活動と言っても生徒には伝わらないでしょうから」

 確かに。
 奉仕部の存在なんて、基本誰も知らない。
 誰かから斡旋されない限り、辿り着くことなんてないだろう。

「では、やらせてもらいますねー」

 いい逃げ場所が見つかった!

 それにこれうまくいけばわたしの宣伝効果も期待できるし。
 有名人と仲良いアピールも同時に出来る。
 我ながら頭がいいのでは。

 卑賤な思惑を表に出さないように気をつけつつ先輩らと共に足を進めた。
 駅で先輩と別れ、電車とモノレールを乗り継ぎ、帰路を辿る。


「はるのーんっ」

 人懐っこい笑みを浮かべる雪ノ下先輩の姉、雪ノ下陽乃に駆け寄り、ソファを挟んであすなろ抱き。
 なんだかはるのんが勉強の合間にどうでもいいことを教えてくるせいで、変な単語を覚えてしまった。
 テストに出るかな。
 出ないね。


「ただいまー!」

 鍵の開いた玄関の扉を開け放ち、帰宅を報せる。
 すると、リビングの方から声が返ってくる。

「おかえりー」

 それに引き寄せられるようにしてリビングに踏み込むと、美人のお姉さんがソファに腰掛け、首だけをこちらに向けて手を振っていた。
 シャフ度(ソファver.)みたいな。

 艶やかな黒髪。
 きめ細かく透き通るような白い肌。
 その端正な顔立ちがこの人が美人であると極めつけていた。

「はるのーんっ」

 人懐っこい笑みを浮かべる雪ノ下先輩の姉、雪ノ下陽乃に駆け寄り、ソファを挟んであすなろ抱き。
 なんだかはるのんが勉強の合間にどうでもいいことを教えてくるせいで、変な単語を覚えてしまった。
 テストに出るかな。
 出ないね。

「よしよーし」

 ペットでも愛でるように、わたしの頭を撫でる。
 撫でられ心地がいい。
 なんだそれ。
 しかし、ごろごろと喉を鳴らしてしまいそう。
 吾輩は猫である。
 完全に籠絡されているわたしだった。

「よっと」

 我が身の安全のためにもはるのんの手中から抜け出し、回り込んでソファに腰を降ろす。

「で、今日は帰るんですかー?」

 窺うように上半身を傾けて問う。
 このお姉さんゴールデンウィーク明けから、頻繁に我が家に泊まっている。
 わたしが勉強を教えて欲しいと頼んだときから、だ。
 土日だけのつもりが、まさか泊まってまで教えてくれるとは思わなかった。

「んー、まだー。……ていうか、いろはすー、それ毎日聞いてくるけど帰って欲しいのー? お姉ちゃん、邪魔?」

 瞳をうるうるさせて聞いてくる。
 わざとらしい……。

「いやいや、そんなわけないじゃないですかー! 帰っちゃうのかなー……って思いまして……」

 二人暮らしのくせに我が家は無駄に広いのだ。
 わたしのためにというお母さんの愛情が満ちているけれど、結構、一人は辛い。
 帰っちゃったら、さみしーなー。


「やだ! かわいいっ! いろはすかわいーっ! もうしばらくいるよー。雪乃ちゃん冷たいし……」

 ぎゅぎゅーっと抱きしめられる。
 この顔に当たってる脂肪分けてくれないかな。
 そしたら、先輩を悩殺できるのに。
 わたしにそんな勇気がなかった。

「雪ノ下先輩が冷たいのは自業自得だと思いますけど……」
「まあねー♪」

 パッと離れ、ふんふんと鼻唄を歌う。
 なにやらご機嫌だ。
 雪ノ下先輩を虐めるのを思い出しているのなら、ただただ怖い。
 わたしに矛先が向かわないように祈るばかりである。

「ていうか、帰らなくて大丈夫なんですかー?」
「んー? うん。今、反抗期だからー」

 なんだそれ。
 反抗期ちょっと遅くないか。
 ときどきよく分からないことを言う。

「さて、夕ご飯作ってあるから食べよっか」

 立ち上がり、んーっと伸びをする。
 最近我が家の夕食は豪勢である。
 原因は言うまでもなくはるのん。

「毎日毎日、食費とかいりませんよー?」

 美味しい料理に舌鼓を打ちつつ、むすーっと口を尖らせて言う。
 ほんとこの人なんでも出来るな。
 雪ノ下先輩にケーキを作ってもらったときにもそんなことを思った気がする。
 ほんとこの姉妹なんでも出来るな。

「いいのいいの。無駄に高い食材使っちゃってるし」
「いや、自分で買ってきてるじゃないですかー」

 全く理由になってない返しに言い返す。
 手渡されるなら受け取らなければいいからまだマシなんだけど、そこらへんに置いてくから困る。
 お金は大事にしましょう。

「一人でやるのも大切だけど、頼るのも大事だよ。いろはす危なっかしいのよね。ほっとくと壊れちゃいそうでさ。だから、好意は素直に受け取りなさい」

 めっと諌められてしまう。
 わたし恵まれてるなぁ……。
 でも、甘えてばっかは嫌なんだよなー。

「はぁ……手伝ってもらってばっかりですね……」
「いろはすの『手伝って』は本当にサポートだけでしょ。そんなこと気にしなくていーの」

 優しい声音ではあったが、そこには有無を言わせぬ迫力がある。
 それだけでぐっと言葉に詰まってしまうのだから、この人には一生敵いそうにない。

「それに、勝手に壊れちゃったら、つまらないじゃない?」

 ふふっと蚊も殺せないような優しい笑顔で、そんな狂気染みたことを言う。
 勝手に、か。
 この人はわたしをどうしたいんだろう。
 これもフリならいいんだけど。

「……、そんな柔じゃないですよ」

 歓談混じりに食事を済ませ、ぱぱっとお風呂に入ったら勉強タイム。

「今日はなにやろっかー。数学? 化学? 物理? でも、テスト範囲だいたい終わっちゃったよねー、遊ぶ?」
「いや、遊ばないです」

 なんだその余裕。
 急に遊びにシフトするとかどうなってんの。
 脳内お花畑か。
 わたしはそこまで自信ないんですけど。

「もう一回最初からやりましょー。あと、今日の復習」

 むんっと張り切って見せると、はるのんはあからさまにめんどくせーオーラを撒き散らす。

「えー、だっていろはす学校でほとんど覚えてくるから教え甲斐ないんだもん。なに? 満点でも取るつもりなのー?」
「満点っていうかー……学年一位取りたいのでー」

 学年一位目指すとか言うと、『学年最下位だったわたしが一年で大学に特待生入学!』とか、そんなアホっぽいタイトルの小説が頭に浮かぶ。
 だが、まあ、そもそもわたしは成績が悪いわけではない。
 かと言っていいわけでもないのだが。


 ていうか、ヤンキーがちょっと頑張ったからってちやほやされるというのがまず間違っている。
 最初のゴミクズだった部分には目を瞑ってるんだもんなぁ。
 過去は消えないのに。

「ふーん……もう取れると思うけどなぁー」

 ぶつくさと文句を垂れつつも、じゃあやろっかと最終的には手伝ってくれる。
 なんでここまでしてくれるんだろうか。

 行き当たりばったりに見えて、無駄なことはしない人である。
 なにか企んでいそうだ。
 単純に優しさだけなら、それはそれでいいんだけど。

 余計な不安を脳内から消し飛ばし、勉強に集中する。
 数学の問題集、テスト範囲の最初の問題から始め、黙々と取り組んでいくと、何度もページを捲り、いつの間にか最終問題になっていた。
 それを解き、じっと黙っていたはるのんに目をやる。

「んー? なにかありました?」

 なんか全然指摘された覚えがない。
 手を休めずひたすらノートに答えを書いていた気がする。


「ううん、全問正解」
「……ん?」

 言われた意味が分からず、かくんと首を傾げてしまう。
 ……全問正解。

「え? いやいやいや、今何問やったと思ってるんですかー。冗談にしてはたちが悪いですよー?」
「冗談じゃないよ。ちょっと同じ問題やり過ぎたかもねー。答え覚えちゃってるみたい」

 あー、確かにそれはあるかもしれない。
 あんまり迷わなかったし。
 どうしたものか……。

「明日、わたしの問題集持ってきてあげる。とりあえず、一旦休憩して生物でもやろっか」
「はーい」


 ぐぐーっと伸びをして、コーヒーを淹れ、着座する。
 小説でも読もっかなーっとケータイを手に取ると、はるのんが話し掛けてきた。

「それで? 比企谷くんと雪乃ちゃんはどう? ちょっとくらい近づいたー?」
「あー……あの人たち距離が近づいても変わりませんよ。相変わらず本読んでます。わたしが集中しちゃってるってのも問題かもですけどー」

 雪ノ下先輩と先輩に勉強を教わるのは、はるのんの提案である。
 四月末にあまりに暇で頼んだこともあったけど。
 うまい具合に心の距離感も狭めてくれればいいと思ったが、そうもいかない。
 まあ、この程度で変わるならもっと早くくっついてるだろう。

「そっかー。でも、いろはすは頑張らないとだもんねー」


 ぐでーっとソファに体重を預けていると、わしゃわしゃと頭を撫でられる。
 割りと本当に気に入られているようで嬉しい。
 わたしもはるのんお気に入りですよ!

「……あ、あと、雪ノ下先輩、自覚してない気がするんですよねー」
「ん、あー、どうだろうね。雪乃ちゃん、純粋だから。まあ、あれが好きとかそんな綺麗なものならいいんだけど」

 くすりと怖気の走る笑みをこぼす。
 怖いなぁ、この人。
 敵に回すのは絶対に避けたいものである。

「最近、なんか面白い依頼とか来てないのー?」

 と、そこで、今日の依頼のことを思い出した。
 嫌なことをとことん奥底に沈めていたらしい。
 依頼と言えば、少し前にも恋愛相談だかを受けてたな。
 わたしは又聞きしただけだからよく知らないし、そのことは今はいいだろう。

「あー……、なんか今日、変な依頼があったんですよねー……」
「おっ! なになに?」

 ずいっと顔を近づけてくる。
 瞳がキラキラしていた。
 無邪気な子供って感じだった。


 まあまあと興奮を抑えて、今日の依頼の詳細を話す。
 依頼内容から、その問題点、先輩の解決策。
 話し終えると、はるのんの口はにやりとつり上がっていた。

「へぇ……面白そうじゃない」
「面白くないですよー……」

 全っ然面白くない。
 わたしはどうしたらいいのだろうか。
 なにも変えないためために。
 個人的には、あれを成長と呼びたくはない。

「でも、そっか……変わらないなぁ。文化祭のときから、なんにも変わってない」

 変わらない。
 それは部室でも聞いた言葉だった。
 なにがどう変わらないのか。
 変えないために動くけれど、もともと変わっていないと言う。

 わたしはなにを変えたくないのか。
 彼女たちはどこが変わっていないのか。
 そこには禅問答のような分かりづらさがある。
 ならわたしは頓知でもきかせた答えを導き出せばいいのかといえば、そういうわけでもないのだろう。

「その先が見えているのに、なんでまちがえるのか。それじゃあ、なにも、変わらない。それでいいと思ってるんだろうね。そこが甘い。だから気に入らない」

 はっと嘲るように笑う。
 その先、先輩が行動したあとに起きる問題。
 ああ、と思い至ってしまった。
 先輩のついた嘘が分かってしまった。
 それも全て予測に過ぎないのだけれど。
 限りなく真実に近いのではないだろうか。

「でも、本当に、先輩を信頼しているのかもしれないですよー……?」

 本当に信頼しているからいいとか、そんなこと全く思ってもいないくせに、ついそんな言葉を吐いてしまった。

「まあ、ないこともないだろうね」

 そこで言葉を区切り、わたしの瞳を改めて捉える。
 ほんの一瞬で視線は逸らされたが、そこにどんな意味があったのだろうか。

「また、人に押しつけて……ダメだなぁ、雪乃ちゃんは」

 くすくすと愉快そうに笑う。
 ころころと表情を変える人だ。
 しかし、全てが作りものに感じる。
 そう、それこそ一から十まで作りものな感じ。

「だいたいそれって結局、傷が浅くなるだけで、根本的な解決になってないじゃない? まあ、その小物っぽさが比企谷くんらしいけど」

 それはそうなのだろう。
 先輩のやり方ではどっちにしたって傷つく。
 であれば、それに意味はあるのだろうか。
 先輩がやっていることに、なんの意味があるのだろうか。
 ただ、自分で自分を傷つけているだけじゃないのか。

「信頼することが必ずしもいいことだとは限らないですよねー……」


 信頼は重い。
 誰かに頼られるのはキツい。
 逃げ道がなくなる。

「だねぇ。でも、もしかしたら、なにも問題は起こらないかもしれないよ?」
「もしかしたら、かもしれない……ですか」
「はっきりしないよねぇ」

 本当、はっきりしない。
 そんな可能性にかけるなんてどうかしてる。
 曖昧模糊とした言葉で片付けていい問題じゃない。
 甘いのだ。

「いや、そもそも、あれは信頼、なんですかね……」

 先輩には前科があるのに信じて。
 方法がないからといって頼る。
 そんなものは信頼とは呼ばない。
 なにをどう呼ぶかなんて、人それぞれだけど、わたしは呼べない。

「わたしは、出来ませんね。時と場合によっては信用しますが、信頼はできません」

 人を信ずることができぬ。
 なんだかその言葉の意味が少しだけ理解できた気がする。
 信実なんて……あるのだろうか。
 幻想で妄想で、フィクションの中にしかないのではないのだろうか。
 フィクション、物語。

「あれも無責任な信頼ですよねー……その場にいない人の命をかけるなんて」

 唐突につぶやかれたわたしの言葉に、はるのんは意味を考える様子もなく答える。

「あははっ! 確かにね、そこから歪んでたのかも」

 突然、呼び出されて、約束が取り付けられてて、王の前でどう断ればいい。
 信頼なんて、実はメロスのひとりよがりだったんじゃないだろうか。

 言葉ではなんとでも言える。
 感動の再会のとき、セリヌンティウスは嘘を吐いたのではないだろうか。
 ずっと、疑っていたのではないだろうか。
 ただ、セリヌンティウスの懐が広かっただけで、最初から戻ってくるなんて思ってなかったんじゃないだろうか。
 あのとき、再会して、ようやく信頼したんじゃ……。

 人の腹の内なんて探れない。
 真実は物語の中に隠されたまま。
 誰にも分からないからこそ、そんなことを思った。
 そんな信頼はいらないと、そう思った。

「信実は……空虚な妄想だと思っておくことにします」

 信実がイコール本物であると、そう定義されているわけではない。
 わたしは疑うことを知っている。
 どうしたって先入観が働いてしまうし、完全に信頼するなんてことはできない。
 信頼する気もない。

 だいたい、嘘くさいんだ。
 美しい愛情だとか。
 麗しい友情だとか。

 美麗ってなんだそれ。
 カードバトル型ソーシャルゲームの宣伝文句?

 あれが美麗なのは金のためである。
 綺麗な薔薇に棘があるように、綺麗事には裏がある。

 世の中綺麗なことばかりじゃない。
 どれだけ目を背けても、逃げても、そこに必ず汚いものがあるのだ。
 それを見て見ぬフリして得るものにはなんの価値もない。

「そっか。じゃあ、いろはすはどうする?」

 嬉々として聞いてくる。
 なんだかうまく乗せられてしまったらしい。
 そういうことか。
 それが目的だったというわけだ。

 この人にとって大事なのはやっぱり雪ノ下先輩で、わたしは邪魔だったのだ。
 最初っから諦めたなんて思ってなかった。
 しかし、わたしのことを気に入っているというのも、嘘ではないのだろう。
 だから、不安材料は消しておきたかった。

「はぁ……おもちゃになるつもりはないですよー。もう少し……考えます」

 考えてどうにかなるのだろうか。
 分からない。
 分からないが、考えなければ。
 わたしはわたしに出来ることを考える。
 考え出した出来ることを、やってもいいのか、も考える。


「ふぅん……」

 苛烈さを極めた瞳と目が合う。
 それに屈せず、ふっと呆れたように息を吐く。
 同時にはるのんも破顔した。

「ふふっ、うん。いろはすはそれでいいよ」

 その抜き打ちテストみたいのやめてくれませんかね……。
 普通に怖いし。

「さーって、勉強再開しよっか」
「……はい」

 その後、ひたすらに勉強を続け、ベッドに横たわる。
 考えることが多過ぎる。
 いや、実際にはそこまで多くはないのだろう。

 しかし、でも、けれど、そんな逆説の言葉を使って逃げ回っているのだ。
 わたしは……どうすればいいんだろう。
 本当に、これでいいのかな。
 くだらない追いかけっこをしているうちに、わたしの意識は遠ざかっていった。


  ****

 どうにもならない事を、どうにかするためには、手段を選んでいるいとまはない。
 選ばないとすれば――わたしの考えは、何度となく同じ道を行き来した挙句に、ようやく結した。

 しかし、この「すれば」は、いつまでたっても、結局「すれば」なのだ。

 わたしには、手段を選ばないということを肯定しながらも、この「すれば」のかたをつけるために、その後に来たるべき「盗人になるよりほかに仕方がない」という事を、積極的に肯定するだけの勇気がない。


 ここでの「盗人」というのは、当然ながら比喩ではあるのだが、正確に喩えられてはいない。

 それは、先輩がこの件を解決に導くのなら先輩は悪になるのだろうが、わたしがやるのであれば悪にはならないからだ。
 わたしがやれば、きっと、誰も傷つかずに済む。

 ――先輩も。

 いくら「仕方のない悪業」であっても、悪い事をした人は責められる。
 先輩のその行為自体に実際にはなんの悪意もないわけだが、それを見聞きした他の人間はどう思うだろうか。
 想像に難くない。
 またあのときの焼き直しだ。
 もっとも、先輩の説では誰も見聞きしないらしいが。

 そんなことを授業中を除きひたすら考えていた。
 現文の点数だけ上がりそう。
 やったね!
 それでも中々勇気が出ない。
 そうこうしてるうちに昼休み。
 もう時間がない。

 ていうか、なんか疲れた、甘いものが欲しい。
 甘いものと言えば、MAXコーヒー。
 短絡的思考でMAXコーヒーを求めて自販機へ向かう。
 がこんっと音を立てて落ちてきた缶を手に取り、踵を返す。

「えっ、あ、こんにちはーっ!」
「よう」


 野生の先輩がいた。
 しかしモンスターボールが切れている。
 くっ……抱きつくしかないのか……。
 まぁ、学校でそんなこと出来るはずもなく、再び自販機に向き直り、素早くMAXコーヒーをもう一つ購入。

「どーぞっ。奢りです、話聞いてください」
「……いや、金は払う」

 嫌だと言わないところが流石先輩。
 もはやあざとい。

「いいですいいです。ほら、早く行きましょう」

 ポケットをがさごそと漁り始めた先輩の背中をぐいぐいと押す。

「分かった、分かった。自分で歩くからやめろ」
「はーいっ」

 パッと離れ、先輩の横を歩く。
 ベストプレイス。
 来るのは二度目。
 だって……一人がいいって言ってたし。
 嫌われたくないし……。

「んで? なに?」

 腰を下ろし、ぶっきらぼうな口調で聞いてくる。
 ムードもくそもあったもんじゃない。
 先輩にそんなもの求めてもいないけど。

「今日の放課後……やるんですよね」
「ん……あぁ」


 顔をテニスコートに向けたまま、微妙な返事をする。

「大丈夫、なんですよね……?」
「あぁ……」

 顔は変わらずテニスコートに向いている。
 腰を上げ、ばっと先輩の前に立つ。
 じぃーっとその瞳を見つめる。
 目を逸らされた。

「こっち、向いてください」

 少し強めの口調で言うと、先輩は素直にわたしの顔を見た。
 ぐっと上半身を傾け、瞳に焦点を合わせて再び問う。

「大丈夫、なんですね?」
「あぁ、大丈夫だ」

 はっきりと淀みない口調で答える。
 改めて先輩の隣に座り直すとふっと息が漏れた。
 また、見えてしまった。
 不安が。

「ふふっ、そうですかー……。なら、いいです」

 ほんっと、馬鹿だなぁ……この先輩。
 しょうがない人だなぁ。
 でも、それが確かに先輩らしいのだ。

「そういうところ、嫌いじゃないです」
「はっ、そうかよ。俺も自分のこういうところが嫌いじゃない。むしろ大好きだ」
「うっわぁ……」

 この人が意見を変えることはないのだろう。
 であれば、わたしがどうにかするしかない。
 はなっから選択肢なんてなかったんだ。
 誰も傷つかずに依頼を達成する方法は一つ。
 先輩を傷つけないためなら、わたしは手段を選ばない。

「じゃ、わたしもう行きますね」
「ん、あぁ。あ……さんきゅーな」

 ぼそぼそと小さい声でお礼を言い、MAXコーヒーを掲げる。
 それににこっと微笑みを返した。

「いいですよ。勇気、もらいましたから」

 不思議そうに首を傾げる先輩を横目に教室へと戻る。
 弁当を食べ、昼休みも終了。
 午後の授業を終え、とうとう来たるべきときが来た。


 指定場所は校舎裏。
 少し遅れると副会長に告げて校舎裏に向かっていると、角のあたりで固まっている女子に近づく影が四つ。
 先輩たちだった。
 言い争いを始めたところに少し駆け足で近づき、声をかける。

「先輩」

 振り向いた先輩は不思議そうな顔でわたしを見る。

「わたしが説得しますよ」

 言うと、先輩は安堵の息を漏らした。
 女子たちは逃れよう逃れようと雪ノ下先輩との終わらない論争を繰り広げている。
 やはり悪戯だったのだろう。


「そうか、助かる。じゃあ、俺はそろそろ依頼人のところへ行って」
「違いますよー。わたしが説得するのはあの男子です。先輩たちはこの子たちを遠ざけて言いくるめてきてください」

 しばしぽかんと口を開いたまま固まる。
 意味が伝わったのか、先輩は眉を顰めた。

「出来るのか……?」

 懐疑的な視線を向けてくる先輩の瞳を真っ直ぐ捉え、わたしは答えた。

「はい、必ず」
「そう、か……なら、いい。お前に任せる」

 先輩はどこか安心したような表情になる。
 やはり、問題点を理解していた。
 わたしはまちがっていない。

「では、早く」

 先輩はこくりと頷き、雪ノ下先輩に耳打ちする。
 雪ノ下先輩は一瞬だけわたしを見て、結衣先輩と小町ちゃんに宥め役を任せた。

 結衣先輩が優しく言葉をかける。
 泣き出しそうになっている女子の背中をそっと包んだ。
 あれが主犯か……。
 一言二言言葉を交わすと、残り二人の取り巻きを伴って、先輩たちは戻っていった。

「……ありがとう。ごめんなさい」

 そんな言葉が、去り際に聞こえた。

 気づかれてしまっただろうか。
 敵わないなぁ……。

 ふぅーっと大きく深呼吸して決意を固める。
 この状況で誰も傷つかずに丸く収めるにはどうすればいいか。

 先輩がやろうとしたのは、自らが名乗り出て騙された男の子を嘲笑するという方法だ。
 男子というのは女子の目を気にする生き物。
 相手が男子ならそこまでのショックはない。

 それに加えて他学年。
 傷は浅く終わる。
 のちに噂が流れることがなかったのなら、過去のものとして忘れ去るのに時間はかからないだろう。

 しかし、デメリットがある。
 先輩の悪評が広がる可能性だ。
 いくらあの男子があの女子三人にとって悪戯をされる煩わしい存在だとしても、本当に仲のいい友人一人や二人はいるだろう。

 話すはずだ。
 必ず。
 自分がどれだけ非道なことをされ、傷を負い、悲しんだかを。
 そこから先輩の悪評が噂となって伝播する可能性は大いにある。

 絶対と言ってもいい。
 人の口ほど閉じていられないものはない。
 先輩が過去に話さなかったのは、単に先輩に友達がいなかったからだろう。
 避けられるのなら、避けるべきだ。
 本当に仲のいい友達なんて、結局、主観でしかないわけだし。

 大体、過去に一度、「女子に暴言を吐いて泣かせた屑野郎ヒキタニ」の名が広がってしまっている。

 もう一度広げるのは難しいことではない。
 その上、裏サイトという匿名で晒し上げる手段まである。
 鬱憤を晴らすならこんなに適切な場所はない。

 そして、そんなやり方を先輩に取らせてしまった奉仕部の彼女らはどう思うだろうか。

 慰めるかもしれない。
 心配するかもしれない。
 諌めるかもしれない。
 親密な仲だからこそ、きっと、その行動を咎める。
 この問題は推測できただろうと。
 なんで言ってくれなかったのかと。

 先輩がやったことは裏切りに近い。
 信頼を裏切る行為だ。
 予想できた問題を蔑ろにした彼女たちにも責任はあるわけだが。
 問題を無視できなかった全員に責任があるわけだが。
 優劣をつけるとすれば、頑として譲らなかった、問題点を隠した先輩の責任になるのだろう。

 さらに後悔する。
 こんな結末を迎えてしまったことを、必ず後悔するだろう。
 またあの寒々しい雰囲気になるとまでは言わないけど、いい未来は見えない。

 あのとき止められててもうわべになったし、行動を起こしたら起こしたで問題になる。
 板挟みだ。
 葉山先輩のように選ばないことはできないから、より嫌忌する方を選んだ。

 全部予想で予測で、勝手に心配して、勝手に行動してるだけだけど、少しでも可能性があるなら、わたしはそれだけは避けたい。


 結局これも全て、そうなる「かもしれない」だけだけど、百パーセントそうならないと断言出来ないのなら百パーセントそうならないようにすべきだ。

 わたしなら、それができるから。
 それ以外の手法でもって、彼も先輩も彼女たちも傷つけずに事を終わらせられるから。
 はるのんの期待にも応えられるから。

 例えそれが、ありがた迷惑で、大きなお世話な、余計なお節介だとしても。

 わたしが動くべきときは、今だ。

 一歩、校舎裏へと力強く踏み出した。
 じゃりっと砂を踏みつける音に反応して、男子がわたしをその純真無垢な瞳で捉える。
 たったっと可愛らしく駆け寄り、気持ち眉尻を下げて申し訳なさそうな顔を作った。

「ご、ごめんね……いきなり呼び出して」
「い、いや、別に気にしてないよ」

 照れ隠しか頭を掻く。
 名前も知らない。
 いや、よく見てみれば、どこかで見た顔だ。
 ……あ、この男子サッカー部だ。
 うわ、今まで分からなかったとか……やば。
 試合に出てた記憶も上手い記憶もないから、全く興味ない。
 次の瞬間には記憶に残ってすらいない、どうでもいい存在。


「そ、そのね……わたし、今、生徒会に部活に勉強とかも頑張ってて、多分それらしいことなんにも出来ないんだけど、抑えきれなくて……それでも、よければ」

 悪意によって作られた嘘の告白現場。
 問題点は嘘、というところだ。
 なら、実にしてしまえばいい。
 問題の解決、ではなく、問題の消去。
 問題自体がなくなれば、まさに問題ない。

 だから、選ばないとすれば――

「わたしと付き合ってください」

 ――告白するよりほかに仕方がない。

 わたしはまた、嘘を吐いた。
 本当にまちがっていなかったのかどうかはは、よく分からない。


 校舎にもたれる。
 足に力が入らず、ずるずると地面に落ちた。
 夕日が出るにはまだ早い。
 だから、見上げた空は明るい。
 もう少し……ドラマチックなら。
 嘘くさいものだと現実逃避出来たのに。

「はあぁぁぁ……」

 あれだけ断る理由を挙げつらえたのに告白は成功してしまった。
 いや、失敗か。

「ははっ……」

 なにやってんだろ、わたし。
 まあ、いいか。
 守りたいものは守れた。
 誰も傷ついてない。
 なにも、まちがえてない。


 結論を導き出したところで、両側から足音が聞こえてきた。
 特に確認する気も起きない。
 誰かなんて予想がつく。

 一人はあの謝罪を述べた人物で、もう一人は彼に奉仕部を紹介した人物。
 誰が彼を奉仕部に回したのか。
 それも少し気掛かりだった。
 答えは彼がサッカー部だと分かった時点で明らかになった。

「……いろは」
「一色さん」

 ぼーっと空を見上げたまま、わたしを呼ぶ声に返事をする。

「どうしましたー?」

 少し態度が悪いのは勘弁して欲しい。
 これで先輩とは当分会えなくなってしまったわけだし。
 はるのんの思惑通りというわけだ。
 まったく、ひどいことするなぁ。
 拒否できないわたしが悪いんだけど。

「どうして……」

 拳を固く握りしめる音が聞こえた。
 また、悔やんでいるのか、この人は。
 自分がなにも出来なかったことを。
 そんな資格ないだろうに。
 分かっててやってたんだから。

「あはっ、それ、聞いちゃいます? また、先輩に押しつけようとしたくせに……」


 柄にもなく、睨みつけてしまった。
 その後悔の浮かぶ瞳に僅かな安堵が見えて、なおさらイラついた。

「それは」
「いいですよね。そういうの、楽で。誰かに押しつけて、逃げて、甘えて。優しい世界で生きるのは楽しいですよね。選ばないのは、保身のためですか」
「俺は……そんなつもりじゃ」
「でも、先輩がなにをするかは分かってた」

 分かってて動かないなら、同じだ。
 むしろ、もっとひどい。
 汚くて、浅ましい。
 本当に獰悪なのは、こういう人じゃないのか。
 いや、それはわたし主観か。

「はぁー、まあ、いいですけどねー。先輩の逃げ道はわたしが作ります」

 沈黙。
 なにを言えばいいのか分からないのだろうか。
 それとも単に、なにも言いたくないのか。

「一色さん……」

 らしくない。
 怯えるような声音。
 もっと、堂々としててくださいよ。
 それじゃあ、わたしはなにを守ったのか分からない。

「ごめんなさい」

 二度目の謝罪。
 その謝罪に、朗らかな笑顔を作って答える。


「気にしないでくださいよー」
「でも……私も、あなたに甘えた。分かっていて、目を背けた。あなたは……奉仕部のために」
「やめてください」

 そんなの聞きたくない。
 奉仕部のためとか。
 そんなんじゃない。
 わたしは……わたしは、勇気を先輩に、動く理由を先輩に求めてしまったけれど。
 でも、そんなことが言われたくて動いたわけじゃない。

「わたしがこうしたのは、奉仕部のためとか、彼のためとか、先輩のためとかじゃないんです。ごめんなさいとか、そんな言葉が聞きたかったんじゃないんですよ」

 わたしが動いたのは。
 それは、もっと、独善的で、独裁的なそれこそ唾棄すべき傲慢な感情である。
 だから、そんな憐れみも同情もいらない。
 優しくて甘くて楽な人生はいらない。
 それは心地いいぬるま湯だから。

 わたしは強くなると決めたのだ。
 そんなおためごかしで今のわたしがあるだなんて思わないで欲しい。
 誰の犠牲にもなってない。
 わたしは最初から、わたしのためだけに動いているのだから。

 すっと、立ち上がった。
 弱さが露呈した彼女の瞳を見つめて、言い切る。


「慰めは、いりません。あぁ、もし二人になにか聞かれたら『実は少し前から好きだったらしい』とか言ってくれればオッケーです。心配されるのは、辛いので」

 また微笑む。
 僅かな圧力を込めて。
 否応なく頷かせる彼女の苛烈さを真似て。

「……分かったわ。ありがとう」
「いえいえっ。葉山先輩も、さっきはああ言いましたけど、気にしないでくださいね。誰にだって出来ることと出来ないことがありますし」

 目をそらして黙り込む。
 ふっと呆れるようなため息が漏れた。
 そんな罪悪感に苛まれるくらいなら、最初からやらなければよかったのに。
 しかし、まあ、選べなかったのだろう。
 葉山先輩は優しいから。

「じゃあ、またなにかあったら手伝ってください。それでチャラってことでー」
「そんなことで……」
「別にたいしたことじゃないんですよー、わたしにとっては。では、また後で」

 話を打ち切り、生徒会室へ。
 業務をこなして、部活。
 なにやら不躾な視線が飛んできたが、その一切をはねのけて、いつも通りお見舞いに行き、家に帰る。


「おかえりー」

 変わらず出迎えてくれるはるのん。
 その口元はいやらしく歪んでいる。
 本当、この人は。

「どうだったのー?」
「聞かなくても分かるじゃないですかー、概ね期待通りですよ」
「あら、そう」

 くすりと笑みをこぼす。
 手のひらで踊らされている感が否めない。
 腹立たしい。
 もっと、なにか別の策はなかっただろうか。
 つい、そんなことを考えてしまう。


「ふふっ、嫌いになった?」

 期待の眼差し。
 どちらを期待しているのか。
 どうでもいい。
 探る気も起きない。
 めんどくさい。

「変わりませんよ。はるのんがなにも言わなくたって、わたしはこうしたと思いますしー。なんなら、はるのんがいてくれるだけマシですらありますね」

 自分で動いた責任を誰かに求めるのは、あまりにも遣る瀬ない。
 出来ることが出来なくなるより。
 出来たことを否定するのはなにより辛い。
 あいつがこうしていなければ、あのときこんなことをしなければ、そう思って生きていくのは、重いし苦しい。

 だから、後悔はしない。
 わたしは為すべきことを為したのだと。
 せめてわたしくらいは褒め讃えてあげなきゃいけないだろう。

「うんうん、やっぱり、いろはすはいろはすだね。ありがと」

 ぽんぽんとわたしの頭を撫でる。
 その手を振り払い、真っ直ぐその子供じみた瞳を睨んだ。


「いつまでも、思い通りになっているつもりはないですけど」
「へぇ……」

 頑として譲らない。
 わたしにだって、確かにあるはずなのだ。
 一人でも、決意した。
 揺るぎない信念が。

「じゃあ、期待してるね」

 心底見下したような視線。
 いつか、きっと。
 この侮蔑的で屈辱的な視線を変えてみせると、わけもわからない、くだらない闘争心が芽生えた。

「足元、気をつけてくださいね」
「そうだね、ちょっと泥濘んできたみたい。コンクリートで固めとこうかな」

 慈悲もない言葉である。
 容赦もないし、なにもない。
 まぁそんなもの、いらないけど。
 しかし、泥濘んでる、か。
 本心からそう思わせられたのなら、今は満足しておこう。
 しばらくそのまま。
 どちらともなく笑う。

「はるのんー」

 がばっと抱き着く。
 柔らかい。
 わたしこんなに柔らかかったかなぁー、おかしいなぁ。
 同じ女の子なはずなんだけどなー。

「よしよし」
「先輩に会えないです、本当にそれだけが辛いですー。先輩と会えるならなにをしようがどうでもいいです」
「うん、うん……? それはちょっとどうかと思うなー?」

 マジかよと引き気味な視線を向けられてしまった。
 でも、本当に心の底からどうでもいい。

 わたしが嫌だったのは、わたしが動くことで先輩に会いづらくなることだった。
 けど、今日、先輩に会ったとき、先輩の不安が見えていて見逃したら、結局、顔は合わせづらくなるな、と思ってしまったのだ。
 先輩が傷つくのを黙認したら、二度と笑えなくなってしまうような気すらした。
 ずっと後ろめたくなるくらいなら、ちょっと会えないことくらい我慢できる。

 何ヶ月付き合えば別れてくれるかな。
 彼を傷つけないようにするために、彼が振るまでわたしは演じなければならないのだ。
 依頼なんて、来なければいいのに。

 と、思ったところでなんの意味もないことは分かっている。
 けど、分かっているのと、理解しているのは別だ。
 納得出来なきゃ理解じゃない。

 せめて夏祭りまでには別れたいな。
 今年は先輩の誕生日と被ってるから、デートついでに誕生日プレゼントを渡すのだ。
 なにそれ楽しい。
 やだ、わくわくしてきた。

「なに、にやにやしてるの……」
「いえ、なんでもないでーす」


 企みの成功に一縷の望みをかけて、わたしは全力で彼と付き合おう。
 彼と別れるために。
 なんとしても。

 こんなことを考えていると、どうにも自分が悪辣というか悪逆というか、悪鬼のごとき存在に思えてきて仕方がない。
 まあ、この際、捻じ曲がったやり方であることは肯定しよう。

 非常に不服ではあるが、わたしが憧れを真似たことは事実であり、その憧憬の的がそもそも捻くれている。
 であれば、虚言で彼の学生生活を守ったわたしもひん曲がっていて然り。

 わたしにはアイデンティティーがないんだと思う。
 もっと言えばセルフアイデンティティー?
 意味はそんなに変わらなかったかな。
 自己同一性障害に割りと近いだろう。
 自分がない。
 他人は疎か本にすら、すぐ影響を受ける。
 それでも、ただ信念だけはあった。

 そこに、彼のためという考えが一分でも含まれていたかと聞かれればそんなことはない。
 もし、一通りの流れを見て誰かのためだと思った人が一人でもいたならば笑止千万。

 ヒーローでもなければ、ヴィランでもない。
 他人のためになにかをするほど正義じゃないし、悪評が広まることを良しとすることは出来ない。

 なんだこれ、清々しいまでのクズっぷりだな。
 でも、本当に一ミクロンも彼のことなんて考えちゃいないのだ。

 なんなら断言しよう。
 絶対にない。

 わたしはわたしの大切なものが失われるのが怖いから、わたしのために道化を演じるのである。
 仮面を被った経緯だって、確かそんな理由だった。

 やること成すこと言うことがころころと変わっても、それだけはきっと、変わらない。
 わたしの人助けに労わりも思いやりもない。
 言い直した方がいいか。

 わたしはわたしが大切だから、あんなことをしたのだ、と。

 はなっから隠す気などさらさらない。
 私利私欲のため。
 それが真実。
 真実はいつも誰かにとって残酷だ。

 わたしはわたしに嘘は吐かない。
 自分にすら疑われてしまったらなにに信じてもらえばいいかも分からない。

 あぁ、そうか。
 例えば、百人の友達がいて、百人に嘘を吐き続けなければいけなかったとしても、たった一人、わたしに嘘を吐かなければそれでいいのだ。
 わたしだけには包み隠さず話せる。
 なんだ、信実、あったじゃん。

 信実だって真実に負けず劣らずな残虐性を秘めていた。
 中途半端な信頼は誰かにとって苦しい。
 中途半端に実直な彼はわたしにとって傷ましい。


 そもそもが他人に求めるべきものではなかったのだ。
 なんにも知らない、知ってもらおうとしても伝わらない、全てを理解されることはない。

 それなのに誰かに信頼してもらおうだなんて、理解して欲しいだなんて、そんな考え自体が常軌を逸しているとしか思えない。
 分かっていたものを再認識しただけなのに、少しだけ自分のことを知れた気がした。

 ――なのに、まだ、諦めきれない。

 疑うことも、装うことも、騙すことも、貶めることも。
 おおよそ、人間の醜い部分であり同時に人間らしい部分のほとんどを知ってしまっているのに。

 どこかにあるんじゃないかって。
 わたしの中以外にも信実はあるんじゃないかって。
 あの部室にいるとそんなくっそくだらない妄想をしてしまう。

 分かって欲しい。
 知って欲しい。
 知らないままでいられることはひどく怖いことだから。
 勘違いして、すれ違って、遠ざかっていってしまう前に。
 完全に理解されて、信頼して欲しい。
 全てを暴き出されたい。

 ――自分は、信頼なんて出来ないくせに。

 そんな願望を抱いている自分が気持ち悪くて仕方がない。
 醜悪で汚穢した自己満足。


 けれど、もし、全てを知ってもらえたなら。
 もしもお互いがそう思えるのなら。
 その汚さを許容できる関係性が存在するのなら。

 そんなこと絶対にできないのは知っている。
 そんなものに手が届かないのも分かっている。
 でも、そんなものは存在しなくても、手にすることができなくても、望むことすら許されなくても、わたしは。

 ――――わたしは本物が欲しい。


 中間テストが終了し、三日が経った。
 あの日から数えれば、二十日ほどだろうか。
 週明けの月曜日。
 英語で言えばMonday。
 これパッと見もんだいって読める気がするのわたしだけなの?
 というわけで、なんだか問題が起きそうな気がしている。
 どういうわけでだよ、支離滅裂だよ。

 既に梅雨時。
 最近、太陽の顔を拝んでいない。
 岩戸隠れってやつだろうか。

 空は今にも降り出しそうなほど曇っている。
 この心中で雨は勘弁してもらいたいな。
 最近、先輩の顔も拝んでいない。
 あれ以来、先輩とは一度しか話してない。
 一度話せただけでもラッキーだと思わなきゃ、かな。
 はるのんに邪魔されてほとんど話してないけど。

「はぁ……」

 先輩に会いたい。
 しかし奉仕部との関係がバレるとまずい。
 どうしたものだろうか。

 ちなみに、校内ラジオは今日から始められそうだ。
 初回ゲストと、知りたい情報についてはアンケートを取ってある。

 わたしの学校知名度もうなぎ登りになること間違いなし。
 ここのところ、女子に話し掛けられる、というか、親しげに接せられることも増えた。
 葉山先輩を諦めたのが露見したからだろう。

 見事なまでの手のひら返し。
 わたしってかわいいから(顔が)。
 利用するにはもってこいなんだろうなー。
 見事なまでに名前を覚えてないのだが。

 いや、思い出そうとすれば思い出せるけど。
 思い出そうとも思わないわけだ。
 彼女らの名前を覚えるくらいなら、英単語を一つ覚えた方が大分マシだな。

 そんなどうしようもないことを考えながら、駅から出て、学校までの道のりを歩く。
 先輩の登校時間に合わせたいなー。
 そうなると、もうちょっと遅い電車に乗ればオッケー。

 けれど、最近は一定ではない。
 先輩と出くわすであろう時間は論外。
 会ったらなんか気まずいし、先輩と喋ってるときに彼氏(笑)が登場して変な修羅場になったら軽く五回は死ねる。


 その点、葉山先輩ってすごいよね!
 最後までチョコたっぷりだもん!
 甘々だし、先輩もわたしが葉山先輩狙いだと思ってたはずだから一緒にいてなにも気負うことがない。

 まあ、葉山先輩の話は置いといて、それなら、先輩と会う時間から一つずらせばいいだけじゃないかって話になりそうなもんである。
 だが、人生そんなに甘くない。
 いろいろ、いや別にいろいろじゃないや。
 とにかく理由があるのだ。

 うんうん唸っていると、ちょうどその元凶がやってきたらしい。
 キキッとタイヤの擦れる音がわたしの隣で鳴る。
 わたしはと言えば、やったー会えてうれしーなーみたいな笑顔の描かれた仮面を生産し、バッと横を向いた。

「あっ、おはよぉ~!」

 我ながら甘ったるい声である。
 カキ氷シロップ(イチゴ味)を注いだコップに、果糖と練乳とハチミツを投入して「はい、ジュース。飲む?」みたいな。
 最後のセリフいらないな。
 ただの悪魔だった。

「おうっ! 最近よく会うな」
「だねーっ(うっわ、白々しい)」

 余りの白々しさに聞く人が聞けば分かるような声色になってしまった。
 最近よく会うってなに。
 わざわざ会った次の日から別の電車に変えてるのに君が毎回特定してくるんでしょ。
 女子か。

 まあ、そういう部分に疎いのは救いである。

 意図的に避けてるのがバレたら気づかれる恐れが出て来ないこともない。
 っていうか、それを奉仕部に相談されたりしたら困るし。
 加減が難しい。
 明日は何時の電車に乗ろうかなー。

「なぁ、明日は何時くらいに登校するんだ?」

 おっと、とうとう聞かれてしまった。
 いつか聞かれそうだとは思ってたけど。
 そんなに一緒に登校したいのー?
 マジで女子かよ、こいつ。
 わたしは君より先輩と登校したいなー。

「んー、いつも起きた時間によってバラバラだから分かんないかなぁ。なんで~?」

 きょとんと首を傾げて、全然意図が分かりませんよーって感じの言葉を返す。

「あ、いや、別に」
「そっかぁー」

 にへらと笑うと、スポーツマンらしい明るい笑みを見せてくれる。
 女々しいのは自覚しているのだろうか。
 直接言うだけの度胸はないらしい。
 ま、断られたら怖いもんなぁ。
 分かる、分かるよ、その気持ち。
 わたしも頑張るから、君も頑張ろうぜ!
 いや、頑張られたら困るわ、やっぱ今のなし。

「そういえば、今日分かるんだよな、順位」
「うん、そうだねーっ」

 わたしは何位だろうか。
 一位は取れているだろうか。
 あれだけ勉強したし、テストも手応えがあった。

 自信はある。
 根拠はない。

 今日、全ての試験結果が返ってくる。
 定期考査順位の公表は生徒総会でも議論が白熱したわけだが、両者譲らず時間が押してきてしまったので、代案として提案された上位三十名のみ公表に落ち着いた。

「いろはは頑張ってたから名前出てるかもな!」

 僅かに、だが。
 いろは、の部分が強調されていたように思う。
 気のせいかもしれないが。

 しかし、もしそうでなくとも、この男子が女子の名前を呼ぶことになにかしらの想いを抱いているのは間違いない。
 どの男子も、なんて言わない。
 葉山先輩みたいな人だっているし。

 なんだろうか。
 独占欲か、こいつは俺の彼女なんだと自分に認識させているのか。
 どちらも、なんだろうか。
 自信が欲しいのか。
 証拠が欲しいのか。

「えー、そうかなぁ~」

 考えてみれば、男女交際というものを定義できるものなんてない気がする。
 お互いがお互いを彼氏彼女だと認めて好き合っている、とか。
 いや、それは今のわたしが真っ向から否定している。

 好きでなくても成立してしまう。
 相手の気持ちなんて分からない。
 だから、嘘をついて隠していくのは容易だ。
 自信、証拠、か。
 そんなことで得られる証拠に証拠としての意義はあるのだろうか。

 名前なんてただの記号でしかないのに、そこに意味を見いだそうとする。
 くだらない価値観であるが、同時に誰もが持っている価値観。

 わたしだって先輩の名前を今更呼べない。
 雪ノ下先輩だって八幡だなんて呼び出すことはないだろう。
 結衣先輩はあだ名をつけたりしてる。
 葉山先輩みたいな人であっても、ヒキタニくんと比企谷で区別したりするのだ。
 はるのんだってそう。

 それになんの意味があるのかと問われれば、わたしの場合は恥ずかしいとしか言えない。
 なにが恥ずかしいのか意味不明。
 それでもなんか恥ずかしいの!
 い、いや、別に呼びたいわけじゃないけどね。

 彼の場合も自分でよくは分かっていないのかもしれない。
 それでもなんとなく満足してしまっているのだろう。
 名前を呼ぶことが必ずしも親しさに直結するわけではないのに。

「俺は微妙かもなー、全然勉強してねーし」
「えー、そうなの~?」

 わたしを勉強に誘っておいて勉強してないとかどういう了見ですか。
 いや、お見舞いだなんだかんだと難癖つけて断ったわたしにも原因はあるのかもしれないな。


 不健全な理由で誘っていたのではなく、モチベーションが下がってしまったのだと思うことにしといてあげよう。
 なにこれ、超上から目線。

 さり気なくスキンシップを避け、会話に相槌を打っている間にも足は動いているため、学校に到着する。

 この数日間で、彼がどうして悪戯をされたのか分かってしまった。
 ぶっちゃけ、ちょっとウザいのだ。
 なんか自意識過剰っていうか。
 勘違いしやすいっていうか。

 会話が特別上手いわけでもない。
 顔が別段よかったりもしない。
 でも、なんか調子乗ってる感がある。

 所属するグループを間違えてしまったという可能性が有力。
 年度が変わって変わるのは、なにも先生だけじゃない。

 当然のようにクラス替えがあり、新しいグループが結成されるわけだ。
 毎年毎年、よくやる。
 どこぞのアルファベット三文字のアイドルグループですか。

 そこで運悪く人気者が集まるグループに所属してしまったのが彼というわけだ。
 たまに見かけると劣化葉山先輩みたいなのと喋ってるし。
 いるよねー、三人ユニットで一人だけ顔悪いやつ。

 空気を読む力もない。
 会話を盛り上げる力もない。
 でも、女子だけは寄ってくる。
 だから勘違いした。

 浮かれて調子に乗ってるやつほどウザいもんはない。
 今回、彼はあくまで被害者なわけだが、もうこれ放っておいて自覚させた方がよかったんじゃないのとか思ってしまう。

 だから、やっぱり、一般的に考えて、わたしのやったことも、先輩のやろうとしたことも正しくない。
 だが、それならどうすればよかったのかわたしには分からない。
 自覚させたら彼は傷ついてしまう。
 それは奉仕部はもとより、わたしとしても望まないことだ。

 鬱陶しいし、面倒くさいし、女々しいし、頭悪いし、中途半端だし、チャラ男もどきみたいな彼だが、別に嫌いじゃない。
 欠点こそあれ、嫌悪するほどでもない。
 わたしにだってとても隠しきれないほどの欠点があるのだし。
 嫌いじゃないし、好きでもない。
 やっぱり、(どうでも)いい人だった。
 どうでもいい人を積極的に傷つけようと思うほど、わたしは人間辞めてないつもりだ。

 問題はなんだっただろうか。
 正しかろうが、間違っていようが、わたしとしては正しかったので、後悔はしていないけれど、どんなことであれ反省はすべきだろう。
 省みて、似たようなことが起きたときに、次はもっとうまく出来るようにするべきなのだ。

「お、あれじゃね?」

 隣から聞こえたそんな声に反応して、彼が指差す方向を向く。
 廊下の壁に設置された掲示板。
 そこには何枚か紙が掲示されていて、その前に幾人かの生徒が群がっていた。

 近づいて掲示板を見上げ、総合順位と書かれた紙から自分の名前を探す。
 下から。
 上からより下からの方が期待が高まる気がするのは、わたしの名前がこの紙に書かれているという自信があるからだろうか。

 六位 一色いろは

 ぐっと心の中で拳を握りしめる。
 ――くっそ、悔しいっ!
 えぇー、あんなに頑張ったのに六位なの?
 納得がいかない。
 一位取りたかったなぁー。

「おっ、いろは名前載ってんじゃん」

 彼がなんか言った。
 ぽすっと頭になにかが乗せられる。
 やめて欲しい。
 避ける隙もなかった。
 いや、わたしが隙だらけだったのか。

「は、恥ずかしいよ……」

 上目遣いで見つめつつ、そっと手をどける。

「お、おう、ごめん」
「……ううん」

 葉山先輩ならいい。
 はるのんでもいい。

 先輩なら最高。
 でも、そんな目でわたしのことを見ながら頭を撫でるのはやめて欲しい。

 なに考えてるのかだいたい分かる。
 テストは終わった。
 お母さんも先月末に退院した。
 だから、そう、ようやく恋人らしいことができると期待しているのだ。

 残念だが、恋人らしいことなんて、なに一つするつもりない。

「またすぐ期末だから頑張らないとねーっ! 高校総体も一次トーナメント始まったし。部活頑張ろうねっ! 生徒会が七月の記念イベントで忙しいからあんまり顔出せないかもだけど……」

 ごめんねーと謝罪の意を込めて眉尻を下げる。
 ここまで言われてしまえば、言えることなんて限られてくるだろう。
 人間は周囲に共感を求めたがる生き物だし、求められれば応えようとしてしまう。
 相手によりけりだが、基本的にそういう性質。

「そ、そうだな! 頑張るよ!」

 だから、こう言わせることになんの苦労もいらない。
 言質を取ることになんの意味があるのか。
 深い意味はない。
 ただ、目の前で頑張ると口にしてしまった以上、そうしないことに少なからず罪悪感は生まれるから、それを回避しようとするのもまた性質。
 それだけの話。

「うんっ、応援してるね~」

 無責任な信頼。
 無責任な期待。
 こちら側にはなんの苦痛もなく、一方的に相手を追い詰める精神攻撃。
 その人間が適当であればあるほどわたしの求める結果になる可能性は大きい。
 プレッシャーっていい言葉だなー。

 この期待を裏切れば関係が壊れてしまうと無意識的に自覚させる。
 だから、頑張る。
 頑張って辛くなる。
 辛くなると逃げたくなる。
 そして天秤にかけるのだ。
 頑張りとそれに対する見返りを。

 そこで気づく。
 論功行賞なんて言葉がバカらしく思えるほどのコストパフォーマンスの悪さに。
 どれだけ頑張ってもわたしとの進展がまったくない。

 適当だから、逃げることを選ぶのに時間はいらない。
 他に好きな人ができたとか、ついていけないとか、適当に理由をつけて別れを切り出せばいい。
 振らせるのも案外楽なもんだ。

 要は面倒くさいとかつまんないとか思わせればいいだけ。
 振られ方が分かっていたからこそ、わたしはあんな行動を取ったのだ。
 まあ、告白が成功しないのが最善だったんだけど、それが無理なのも分かってた。

 奉仕部の依頼も完遂される。
 デートプランを考えたところでデートには行かないし、行ったところでイチャイチャするわけでもない。

 依頼はサポートであって進展じゃないから、奉仕部の範疇外だ。
 なにも気にすることはない。

 わたしにしては上出来だろう。
 雪ノ下先輩にバレてしまったのが少し不安だけど、バレてしまったものはしょうがない。
 もしそれでなにか問題が起きたのならそのとき考えればいい。

「じゃあ、また部活で」
「おう」

 簡素な挨拶を交わして教室へ入る。
 一瞬、四方八方から視線が集まり、間もなく散開。
 ほとんどの人が再びおしゃべりに戻る中で、数人がわたしに近づいてきた。

「いろはちゃん、おはよー」
「あ、おはよー」

 にこにこーっと笑う。
 どうでもいい人とどうでもいい会話。
 現在進行形で時間を無駄にしてると思うと憂鬱になってくるので、先輩の顔を思い浮かべながら適当に答えるのが吉。
 授業とそれを繰り返しているうちに昼休みがやってきた。

「今日から放送するんだっけ?」
「そうだよー、行ってくるねー」

 ばいばーいと手を振り、足早に放送室へと向かう。
 ゲストにオファーは承諾されているから呼びに行く必要はない。
 さらに、放送自体は昼休憩が開始されてから二十分後なのでそこまで急ぐ必要もない。

 だが、しかし、まあ、待たせても悪い。
 というより、女子の会話に混ざるのがだるい。

 校内有名人の話を面白おかしく冗談交じりにその本人と語り合う。
 休み時間に音楽を聴いても本を読んでも楽しめない孤高な御仁が満足するとは到底思えないが。

 けれども、他にたいした案も出ない。
 であれば、手段を考え実行してその孤独愛好者が満足出来なくてもそのあとはご自由にどうぞという話だった。
 わたしは満足だから、無名匿名顔も知れない赤の他人のことなんてどうでもいい。

 満足。
 ……いや、実際には、この人気者との対談というのはかなり危ういのか。
 雪ノ下先輩の有名人っぷりは葉山先輩と比べて勝るとも劣らないほどだ。
 だから、近いうちにきっと会うことになる。
 ん、あ、いや、そんなものは操作してしまえばいいだけの話だった。

 これを使えば軽い情報操作なんかも出来そうだな、なんて不穏なことを思い浮かべてせかせかと歩く。

 一人ぼっち、か。
 心の底から孤独愛好者なんて本当にいるのだろうか。
 どこに行っても一人。
 それがどれだけ寂しいことか考えたことがあるのだろうか。

 ふと周囲を観察してみれば、確かに一人で行動している者はいる。

 今、このときに限れば、わたしもその一人ぼっちにカテゴライズされていておかしくない気さえする。

 まあ、でも、その、例えば先輩とかに言わせてみれば違うのだろう。
 時間を限定すれば一人で動く機会なんていくらでもあるわけだし。
 そんなことを言えば、先輩も時間を限定しなければぼっちではない気がするけど。

 いつも一人、ね。
 いつも一人な人間なんて少なくともこの学校にはいなさそうだけど。
 それとも心の問題なのか。
 どれだけ友達がいても、心の中ではいつも一人。
 そんなの、みんなそうだ。

 わたしたちって親友だよね、とか。
 部活仲間だから、とか。
 なんでも話し合える仲だ、とか。
 どれもこれもひとりよがりに違いない。

 学校で友達を作ることにどれだけの意義があるのか知れない。
 作っても卒業したらどうせ会うこともない。
 協調性とか仲間意識とかくだらない。

 学校で友達を作らないことにどれだけの意義があるのかも知れない。
 作ったら卒業したあともなにかの役に立つかもしれない。
 排他的とか敵対意識もくだらない。

 そんなのどっちだっていいじゃん。
 あのときあいつとつるまなければ。
 あのときあいつと仲良くしておけば。
 後悔しながら生きていくのは疲れる。

 であれば、自分のしたいようにするのがいい。
 もちろん、その先のリスクリターンを計算して、だ。
 どれを失いたくないか。
 なにを手にしたいか。

 そして、そのあと後悔してはいけない。
 自分で選んだ道なんだから、肯定してあげなきゃまちがいでしょ。
 だから、そんなシリアスな顔してお弁当食べるのやめようよ。
 超美味しくなさそう……。

 件の匿名相談人は、一体なにを思ってあんな相談をしたのだろうか。
 彼か、あるいは彼女かも知れないが、考えてみれば、孤独愛好者ではなかったのかもしれない。

 先輩がそうだったから彼らもそうとは限らない。
 むしろ先輩以外はそうじゃないと考えるほうが理に適っている。
 先輩はちょっと特殊。

 本や音楽という選択肢を潰して、奉仕部に相談をした意味。
 友達が欲しかった、とか。
 匿名でも言えなかったわけか。

 ていうか、匿名……?
 全く関わり合いのない人が奉仕部のお悩みなんたらにメールするなんてことがあるのだろうか。
 わたしは分からないことも多いが先輩たちは送り主のことを知った風だった。
 そうなると、あのメールを送ってくるのは奉仕部の存在を知っている人だと考えていいのかも。


 剣豪だとかホモだとかお姉ちゃんだとか、恐らく自身を表すキーワードを使ったハンドルネーム、はたまたyumikoなんてど直球でくる人すらいる中で匿名。
 知り合いだからこそバレたくなかったみたいな作為的なものを感じる。

 ふむ、どうでもいいな。
 もし仮にその匿名さんが奉仕部メンバーの知り合いだとしても、わたしに分かるわけもない。

 そもそも真意が友達が欲しいだと決まったわけじゃないし。
 あんまり深読みして考えなしで行動しても失敗する未来しか見えない。
 別にやりたくないし。

「あっ」

 思考を中断すると、放送室の扉に誰かが寄りかかっているのが見えた。
 流石にそんなすぐ来るとは思ってなかった。
 小走りで駆け寄ると、相変わらずな爽やかオーラを纏ったその人はわたしに気づいたらしい。
 軽く手を上げて挨拶をしてきた。

「やあ」

 にこりと笑って葉山先輩に挨拶を返す。

「こんにちはー! こんなに早く来ちゃって大丈夫ですかー? なんか、ほら、三浦先輩とか」

 あとで詰め寄ってきたりしないですよね?
 大丈夫ですよね?
 そんな不安を察してくれたのか、葉山先輩は苦笑する。


「ああ、それなら心配ないよ」
「そうですか、それならいいんですけどー」

 言って、あらかじめ借りていた鍵で放送室の扉の錠前を外す。

「っていうか、お弁当持ってますけど、わたしが早く来なかったらどうするつもりだったんですかー……」

 入室しつつ問う。
 葉山先輩の手にはお弁当が入っていると思われるお弁当袋の持ち手が握られている。
 思われるというか、むしろその様相でお弁当が入ってなかったらびっくりするレベル。
 そんなドッキリを仕掛ける意味も意義もないので、まずお弁当で間違いないだろう。

 中には更に二つの扉があり、片方の扉を開いて中に入る。
 放送室の控え室、とでも言おうか。
 ガラス板で区切られた向こうの部屋には、機材というかなんと呼称すればいいのかよく分からないが、放送室らしい設備が備わっている。
 パッと見狭っ苦しい感じだ。
 実況席なんかに似てるかもしれない。

 たいしてこちら側は割とスペースが広く取ってあり、四人掛けの食堂テーブルが置かれている。
 お弁当を置いて椅子に座り、改めて葉山先輩を見ると、なにやら困ったような顔をしていた。

「昼休みは放送室で過ごすから自由な時間に来ていいって言ったの、忘れたのか?」
「えっ」


 あー、言われてみればそんなことも言った気がする。
 別に早く来てもらって困ることもないし、いいんだけど。

「忘れてましたー……」
「はは、だろうな」

 特に気にした様子もない。
 それならまあ、わたしが気にしている必要もないだろう。
 気を取り直して袋からお弁当を取り出す。
 わたしが動く音以外になにも聞こえないのが不自然で、葉山先輩を見ればなぜか固まっていた。

「どうしましたー? 時間もったないですし、食べながら話しましょうよー」
「あ、あぁ、そうだな」

 慌てた様子でお弁当を取り出し、食べ始める。
 わたしもそれに習って卵焼きを一つ口の中に放り、咀嚼して自らの料理の腕の向上にうんうんと頷く。
 こくりと飲み込み、ちらと見やるとなにやら切り出すタイミングを見計らっているようなので、わたしから切り出す。

「なにか、話があったんじゃないんですかー?」
「あぁ……悪いな。最初から分かってたのか?」
「それはまあ……気づきますよー、普通」

 三浦先輩やいつものグループとの食事を断って来たのなら、いや、それを聞いていなくてもこれだけすぐ来れば気づく。
 分かりやすいというか、むしろ気づかなかったら異常。


「そうだよな……」

 苦笑い。
 さっきから苦笑いばっかりだ。
 そんな重い話なの?

「あんまりうじうじしてるの、らしくないですよー」
「それを言うなら君もだろ?」
「それはそうですけどー……ってはぐらかさないでください」

 むむーっと頬を膨らませてみせると、葉山先輩はまた苦笑して、いつかのパルコで見たような真剣な表情になった。

「君は……、君はなにがしたいんだ?」
「はい?」

 ようやく話された本題に、素っ頓狂な声をあげてしまった。
 なにがしたいって……そんなのもう分かってるだろう。

「わたしがしたいことはもう見ましたよねー?」

 あのとき、見たはず。
 言ったはずだ。
 わたしにとってはたいしたことじゃないと。
 奉仕部のためでもなければ、彼のためでもない、無論先輩のためでもないと。

 だから、あれがわたしのしたかったことに違いない。
 その返答に葉山先輩は顔を俯かせたまま、再び問う。

「……あれが、本当に君のしたかったことなのか?」
「わたしはしたくないことはしませんよ」

 一切の間も無く、一瞬の逡巡すらなく、口から言葉が飛び出したことに自分でも少し驚いた。
 その驚きは葉山先輩も同じだったのか、珍しく口を開けて間抜け顔をさらしている。
 ごまかすように咳払いをすると、三つ目の問いを発した。

「じゃあ、なんであんなことがしたかったんだ……?」

 そう問われてしまうと、わたしも少しばかり考えざるを得ない。
 その答えが分からないから考えるわけじゃない。
 その答えを言ってもいいのかを考えているんだ。

 しばらく考えてみても、言うのが得とは思えない。
 ぶっちゃけた話、わたしの価値観なんてかなり最低な部類に入る。
 どす汚れたヘドロ臭い傲慢な価値観。

 ここで言ったときのリスクは、葉山先輩と決別する可能性。
 リターンは理解されて受け入れられる可能性。
 考え方が違うだけで仲違いするとまで言ってしまうのは少々オーバーな気もするけど、それでも、悪感情を持たれるのは進んでやりたいことじゃない。

「なんで、知りたいんですか?」

 とりあえず問い返してみることにした。

 この人がなにを思ってわたしの内面を知りたがっているのかが分からない。
 決断はそのあとでもいい。

「それは……」

 とうとう箸を置き、指を交差させて組む。
 一見、祈っているようにも見えるポーズだ。
 実際は思議しているのだろうけど、この人がなにかに祈るとすればそれはなんだろうか。

 こんなことを考えることに意味はないと思うが、この待ち時間に考えてもいいだろう。
 お弁当を食べながら思惟してみる。

 祈るっていうと、一般的に神様だとか仏様か。
 神様を信じている類の人間とは思えない。
 仏教徒であれば仏を拝んでいてもおかしくないけど、形式的に拝むのと、個人的に祈るのではまた意味合いが違ってくる。

 ならば、なにか。
 わたしの場合……、わたしの場合はあれだな。
 そもそも祈らないかな。
 こうあって欲しい、こうなって欲しいと祈ることになんの意味もない。
 最悪の事態を想定していなければ辛いと分かってしまった。
 最初から期待しなければ失望もしない。
 なんの参考にもならないな、わたし。

 葉山先輩が祈るとすれば、そもそもそれはなにを祈るのか。
 こうなりたいは既に自分で解を出しているように感じる。
 なら、こうしたいだとか、こうありたいだとかになってくる。

 未来の話。
 未来に祈っているのだろうか。
 未来の、自分に。
 神様に祈るのとそう変わらない。
 未来の自分が願いを叶えてくれるなら、そんな楽なことはない。
 先輩に愛されたいです。
 未来のわたし、ふぁいと!

 本当に頑張るのは今の自分なので、無意味に違いなかった。
 どうしようもないなわたしの脳内。
 アホくさ。
 そもそも葉山先輩もなにかに祈るなんてことをしているのかと聞かれれば、そんなもの分からない。

「……以前、失敗したんだ」

 わたしのくっそどうでもいい脳内思考を破って、葉山先輩の言葉が耳に届く。

「失敗、ですか?」

 なににたいしてなのか、そういう意味も含めて葉山先輩の言った言葉を反芻するように問う。
 目を合わせると重々しげに首肯して、再び口を開く。

「俺は……、彼を、いや、彼のことをなにも知らない。だから、中途半端なことをして、傷つけた。……多分、こう思うことがそもそも彼の癪に触るんだろうな」

 彼、それが誰を指すのか。
 聞かなくても分かった。
 だから、その予想にもなんとなく頷けた。
 彼は憐れみや同情はいらないだろうと、わたしも思う。


「彼は俺に出来ないことを平然とやってのける。それが、たまらなく悔しい。それを悔しんでる俺が俺は嫌いだし、だから彼を擁護したくなる」

 出来ないことを平然とやってのける。
 その言葉に違和感とも言えない、なんだろうか、なにかまちがっていると感じた。

 だって、別に、彼は平然とやっているわけではないだろうから。
 必死にもがいて、可能性を模索して、手段を導き出し、それが出来るのが彼しかいなかったから、そうしたに過ぎない。

 うわべだけの薄っぺらい関係なんて求めてないから。
 そんなものに意味なんかないし、分かったフリをして出来なかったものから目をそらすような人間でいたくないから。
 信念だけを突き通して、やるべきことをやったのだ。

 利己的で打算的なわたしとは根本的に違う。

「それ、別に平然とやってるわけじゃないですよー、きっと」
「そうか……、そうかもな」
「その、彼からしてみれば、葉山先輩がそう見えてると思いますし。似たようなことを彼も考えてたと思います」

 今も考えてるのかは、分からないけど。
 それも、目の前の彼も同じか。
 話は思ってたより長くなりそうだった。
 この雰囲気でケータイを触る気にはなれず、時計を一瞥すると針は放送開始の五分前を指し示している。

 時間通り放送を開始するか。
 遅れてもいいから葉山先輩の話を聞くか。
 決めるのにそう時間はかからなかった。

「続き、どうぞ。なんなら放送は遅れても中止してもいいですし」
「……意外だな。なにか企んでいたんじゃないのか?」

 からかうように笑う。
 なにこの人、酷いっ!
 どっかのアホな先輩じゃないんだから、そういうこと言わないでくださいよー。
 確かに企んでましたけど。

「……わたしが今やりたいことが葉山先輩と話すことに変わったってだけですよー。放送が後日になったってたいした影響はないですし」

 明日も明後日もあるが、ゲストを呼ぶのは週二なので明日にでもまた来てもらえばいい。
 生徒の期待度がそこそこ高いので、期待を裏切るようで心苦し……くはないな、別に。
 ああ、期待といえば、目の前の人はどうなんだろうか。

「多分、期待されてますけど、どうします? 今日部活休みですし、生徒会も休みにしたので空いてますけど」

 くすりと悪戯っぽい笑みを浮かべると、葉山先輩は渋面を作る。
 はぁと諦めたようにため息を吐いて、自嘲気な笑顔を見せた。

「放送、やろうか」
「ですねー」

 期待通りの答えを出した葉山先輩と隣の部屋に移動する。

 流石学内一のイケメン、ゲスト紹介のときに黄色い声援がここまで聞こえた気がした。
 やってみれば終わるまでの時間はあっという間で、気づけば授業開始十分前。
 適当に切り上げて、ふぅと息を漏らす。

「……慣れてるな」

 メモ帳にペンを走らせていると、不意にそんなことを言われた。
 顔を見ずに返事をする。

「まあ、人前に立つことがよくありますからねー。もう半年ですし、慣れもしますよ」

 生徒会に入って半年。
 十二月頭から今までやってきた。
 慣れて当然。

「それに、もともと人前に立つのは苦手じゃありませんからねー」

 人の上に立つのは得意じゃないけど。
 壇上で話すくらいなら、マイク越しに喋るくらいなら、生徒会長一色いろはを作り出せばいいだけだ。
 そこに事務処理能力もリーダーシップもいらない。

「っと、はいどーぞ。ここに来てください。あんまり外で見られるのはお互いマズいと思うのでー」

 わたしが差し出した紙を受け取り、まじまじと見てから口を開く。

「ここは?」
「わたしの家です」
「は?」


 わたしの顔と手元の紙とを交互に見て、顔に戸惑いを浮かべた。
 ここまで動揺している葉山先輩も珍しいものだなー、とか思いながら椅子から立ち上がり、弁当を持って出口に向かう。

「早く出ないと授業遅れちゃいますよー? わたしもそろそろ行かないと。次、職場見学ですし」

 そう、今日は職場見学の日である。
 だから、実はもう既に二年生のほとんどが校内にいなかったりする。
 わたしもそろそろ行かないと怒られてしまうので、面倒だけど急がなければ。

「あ、あぁ、……いいのか?」
「あはっ、葉山先輩に限ってそんな心配はしてませんよー」

 実際必要ないだろう。
 葉山先輩がそういう人なら、心配なんていらない。
 それに、どうせ今日も怖いお姉さんは来るだろうし。

「悪いな」
「いえいえ。では、待ってますねー」

 葉山先輩と別れて校門へ向かう。
 門前には黒塗りの高級車。
 その車窓からは、にこやかな顔をした美女が小さく手を振っていた。

「いろはす、おっそーい」

 わたしが車に乗り込むと、けたけたと笑いながらそんなことを言う。

「葉山先輩と話してたんですよー……」
「へぇ、隼人と。なんの話してたのかなー? お姉さんに教えてごらん」

 教えてごらんとか。
 そんな邪悪な笑み浮かべながら言われても困る。
 半分くらいっていうか、八割方強要されている感がある。

「ほらほら~」

 話し始めないわたしを見かねて、指で頬をつついてくる。
 痛っ!
 痛い痛いっ!

「ちょっ、痛いですってー!」

 ぱんっと手の甲で払いのけると、頬を膨らませてじとーっと睨んでくる。
 かわいいけど怖い。
 心臓を射抜かれている心持ち。

「別にたいしたこと話してませんよー。それに、今日来ますから、気になるなら直接聞いてください」

 少し引き気味に言うと、はるのんはきょとんとした顔になる。
 意外だっただろうか。

「へ? 隼人が来るの? いろはすのお家に?」
「はい」
「ふぅん……そ。じゃ、わたしも行こっかな」

 にこーっと満面の笑み。
 柔和に見えて、拒絶を許さない底知れないおぞましさ。

 瞳の奥に怪物でも飼ってるんじゃないの、この人。

「そんな怖い顔しなくても、別に拒んだりしませんよ。どうせ来るんだろうと思ってましたし、ご自由にどーぞー」
「へぇ、いろはすはなーんでも分かっちゃうんだねー」

 ここまであからさまな皮肉を言われるとは思っていなかった。
 嘲笑と侮蔑、奥に隠れるのは期待だろうか。
 いや、それはわたしが知って欲しいからそう思うだけのことだろう。
 どこか似た雰囲気を感じるからついついこの人と自分を重ねてしまう。

 ぴったりと張り付いた全てを見透かしたような笑み。
 わたしの考えだなんてお見通しだと言わんばかりに、なにか企んだところで無駄だとバカにするように。

 本当に、なにか見えているのだろうか。
 実は、なにも見えてなかったりして。
 そんなことはないんだろうが、全てが見えているとはとても思えなかった。
 わたし自身の汚さは、わたしが語らない限り誰にも見えない。

 『旧約聖書』に出てくる悪い蛇みたいな人だけど、わたしは唆されるほど無知ではない。
 『人間失格』に出てくる作りものみたいな顔だけど、わたしは騙されるほど単純ではない。
 『走れメロス』に出てくる邪智暴虐の王みたいな行動をするけど、わたしはそもそも誰も信じてない。

 であれば、そんな皮肉にたじろぐこともない。
 しかもそれ、二度目だし。


「あはっ、なーんにも分かりませんよー? はるのんのことも」

 目の前のお姉さんの笑顔を真似てそう返すと、むっと顔を顰めた。
 ご機嫌を損ねてしまったらしい。
 まあ、よくあることなので、放っておく。
 すると、しばらく無言が続く。

 ぴりぴりとした緊張感が車内を満たしているが、わたしはこの空気がそんなに嫌いじゃない。
 取り入りたいという感情が薄れていた。
 というより、ご機嫌を取って気に入られようとすることはこの人には逆効果な感じなので、怒ってるなーって思うとちょっと優越感なのだ。

「ふふっ」

 まったりと車窓から街並みを眺めていると、思わず笑みがこぼれる。
 自然に笑えるのは、今やこの人の前でだけかもしれない。
 そうは言っても、隠し事があるので作りものの笑いをするときも多いんだけど。

「なに笑ってるの」

 鋭く、突き刺すような攻撃的な雰囲気を纏った声が横から飛んできた。
 人のことを嘲るのは大好きなくせに、自分が笑われるのは許せないらしい。
 随分と傲慢なお姫様だった。

 傲慢さで言ったら、わたしもひけを取らないと思うけれど。

 この人の場合、育ちがあれだから仕方がないのかもしれない。
 人の上に立つために生まれてきたような人だ。
 むしろ、そうでなきゃいけないまである。

「なんでもないですよー」

 眉を顰めてじろっと睨みをきかせるはるのんを笑って受け流す。
 はるのんに限っては変に取り繕うほうが悪手だと思う。
 素直に話す気はないですよーと言い含めたほうが、無駄に探られなくて済む。

「はぁ」

 呆れとも諦めともつかない嘆息が、誰に向けるでもなく虚空に消えていった。
 無意識に窓の外に向けていた視線を、再びその嘆息の主へやる。
 もう緊張感は緩和されていて、怒気も伝わってこない。
 わたしに顔を向けもせずに、はるのんは口を開いた。

「いろはすはさ、どこまで分かってるの?」

 その問いにすぐ答えることは出来なかった。
 憂いを帯びた声音には僅かばかりの期待が混じっていたし、なによりそんなことを聞かれるのが予想外だった。

 らしくないと言えばそうだろう。
 だから、これが雪ノ下陽乃の本質。
 もちろんこれが全てではないだろうけど、これが雪ノ下陽乃の持つ弱さであることは疑いようもなかった。

 それすらも、演技であるという可能性を除けば、だけど。
 それだから、わたしはこの人を信じきれない。
 なにも知らないし、なにを考えているのか分からない。


 もちろん、相手の考えていることが手に取るように分かったら、そんなのは気持ち悪いというのは理解している。
 けど、なにも分からないほど怖いものもない。
 まあ、なんでもかんでも疑ってかかるわたしの性根が一番恐ろしいのかもしれないけど。

 そう考えると、誰にしたって同じか。
 期待や信頼の声は別として、言ったことを鵜呑みにできない。
 どうしてもその真意を探ろうとしてしまう。
 どうやら、わたしは相当に捻くれてしまっていたらしい。

 無垢な信頼心は罪らしいけど、汚穢した警戒心も罪深い。
 誰も信じないやつなんて、きっといつか誰にも信じてもらえなくなる。

 視線を窓の外に戻して、なんともなしに答える。

「なんにも分かりませよー、ほんと。予想して、勝手に決めつけて、それに則した行動を取ってるだけです」

 そう、ただそれだけ。
 この人はこういう人だ。
 こういう性格でこういう態度を取るとこうなる。
 今までの行動を鑑みて予想してそうしてるだけ。

「そっか。……期待して、とは言わないんだね」

 その声音には気鬱さが欠片もなかった。
 あるいは、これも、予想に過ぎないのだろうけど。

「なにかに期待するのは、やめたんです」

 期待されるのは嬉しい。
 わたしは頑張ると決めたから、期待や応援は嬉しい。
 けれど、期待はしない。
 期待なんて言葉の響きはいいけれど、類義語は重荷だと思うから。

 期待、羨望、憧憬。
 それはその対象を型に嵌めて苦しめる。
 失望させてはならない。
 嫉妬に変えてはならない。
 幻滅させてはならない。
 完璧を求められたら辛いだろう。
 完璧な人間なんていないんだから。

 それに、期待した方も辛い。
 辛いって言い方はおかしいか。
 勝手に期待したんだから、自業自得だ。
 勝手に期待して勝手に失望する。
 勝手に羨んで勝手に妬む。
 勝手に憧れて勝手に冷める。

 その度合いが大きければ大きいほど、振り幅は大きくなる。
 誰かに、何かに、自分に、期待したっていいことなんてない。
 だからなんにも期待しないし、最初っから最悪だけを考える。
 それが一番合理的だ。


 でも、なんか悲しい。

 ときどき、心が空っぽになってしまったような、虚無感に襲われる。
 誰かに縋りたくなる。
 でも、それはしない。
 現実はいつだって残酷だから。

 誰も助けてくれないし、誰も承諾してくれないし、誰も寄り添ってくれない。
 最初からそれだけを考えてれば、世界が輝いて見える。
 憂いも哀しみもないから。

 助けてもらえたときにすっごく嬉しいし、拒否されなかったときに心から喜べる。
 多分、電飾みたいなわたしが作り出した輝きだけど、それでもそっちの方が楽しい気がした。
 一人でイルミネーションを眺めたって、楽しいはずないのに。

「それは……わたしも、含めて?」

 遠慮がち、なのにどこか高揚した声。

「もちろん、そうですよー。だから、わたしの前では頑張らなくていいです」

 もし。
 これは本当にもしもの話で、真実、仮定に他ならないんだけど。
 もしも、わたしが誰にも期待しないことで、期待され続けた人の逃げ道が作れるなら。
 電飾だけじゃなくて、そういう人たちの輝きを取り戻せるのなら、なんにも救いがないというわけでもないのかもしれない。

 密かに、いや、まことしやかにと言ってもいい。
 そんな嘘くさい微かな希望を、胸の内に真実として留めておいた。


 偽物の光が輝く一人ぼっちの世界の空に、星が見えた気がした。
 でも直視はしない。
 きっと、近くにいて欲しくなってしまうから。

「わたしが代わりに頑張りますよー」

 先輩にも言った言葉。
 葉山先輩にも、似たようなことを言った気がする。
 あのときは一緒に逃げてあげようと提案したのだったか。
 今は、ここは俺に任せてお前は逃げろって感じだな。
 やだ、わたしったらかっこいい。
 完全なる死亡フラグ。

「そっか……」

 ごくりと唾を飲み込む音が聞こえた。
 訪れる静寂と、一瞬の緊張。
 はるのんは一言つぶやいて口を噤む。

 そのつぶやきは、今にも消え入りそうなほど小さくて、普通なら聞こえないほど微かなもの。
 なのに、押し殺しきれていない震えがそれを留めて、様にならないたどたどしい声をわたしの耳までしっかりと届かせる。
 じんわりと空気に溶けていく四つの記号から、今まで極々微々にすら感じられなかったこの人の温もりが、この空間を満たすほど溢れ出していた。


 これが雪ノ下陽乃の本体なのだろうか。
 流れていく街並みから視線を逸らさず、そんなことを考える。
 聞くのは、まだ当分先だろう。
 そのとき信じられるか分からないから、またわたしは予想して勝手に決めつけておこう。
 窓に映るわたしの顔が、なんだか妙に満足感に包まれていて、再び笑みがこぼれた。


 朝方に空を覆い尽くしていた雲はいつの間にやら退去していた。
 さつきばれ、か。
 ビルに降り注ぐ陽光は、大量のガラス板に反射されて、思わず瞑目してしまうほどの輝きを放っている。

 高層ビル、というのは、どうしてこう一面ガラス張りなんだろうか。
 デザインの問題なのか。
 どこの高層ビルもこれだと見分けつかないし、直射と反射の二段攻撃でコンクリートが焼けそうだからやめた方がいいと思いました(小並感)。

 そんな感じで職場見学を済ませ、くるりと踵を返す。
 同時にガッと、ブラウスの襟を掴まれた。

「ちょっと、どこ行くの」
「い、いやー、もう職場見学したし帰ろうかなー、みたいなですねー?」

 冷や汗をたらたらと流しながら答えると、はるのんはにたりと表情を歪めた。
 まるで誰かの弱みを握ったかのようだ。
 誰のだろうか。
 分からないし、分かりたくない。

「もしかして、今さら緊張してるなんてことないよねぇ?」

 底意地の悪そうな笑みである。
 この人いい性格してるなぁ。
 でも、そんな程度の低い挑発にわたしが乗るわけない。

「あはっ、そんなわけないじゃないですかー」

 あっれー?
 心情とは正反対のセリフである。
 一瞬、なにかに取り憑かれちゃったのかな。
 しかし、いくら嘆いてもこう言ってしまった以上、いや、もとより帰るという選択肢は用意されていない。

 すっぽかさないように送迎車付きなので、いい加減諦めるとしよう。
 今ここでこうしてることが、正しくわたしのやりたいことなのだと、そう考えるしかない。
 そう考えでもしなければやってられない。
 まあ、はるのんが考えなしに動くとも思えないから、そこまで心配はいらないか。

「よし、じゃあ行こっか」

 カツカツとヒールが地面を叩く音を響かせて、はるのんはビルの入り口へと歩みを進める。

 立ち並ぶビル群の中でも一際ぬきんでて高身長な目の前のビル。
 見分けがつかない?
 そんなわけあるもんか。
 この自己主張の強さが分からないなら、その人は飛び抜けて理性が強いのだろう。

 慌ててはるのんに着いて行くと、堂々と設置された会社板には、雪ノ下建設の文字があった。
 なにここ、スーパーゼネコン?

 Wikipediaとかに載ってるんじゃないの?

 金持ちなのは知ってたけど……、なんか閨閥とか形成してそう。
 ああ、いや、そもそもが県議会議員だったか。

「ていうか、どうやって説得したんですかー?」

 なんでわたしがこんな大手ゼネコンに一人で職場見学に来ているのか。
 それを語るには、一週間と少し、つまるところ職場見学のグループ分け兼行き先決定日の前日にまで遡らなければいけない。

『そう言えば今度職場見学あるじゃない? もういろはすの見学場所決まってるから。単独行動だよ、やったねー!』

 とは、この鉄仮面お姉さんのセリフである。
 やったねーじゃないよ。
 世界は理不尽が常だとは思っていたが、ここまで理不尽なことをされたのは生まれて初めてである。

 おかげで薄っぺらい笑顔を浮かべ続けなくても済むし、放送も行えたので、感謝してると言えばしてるんだけど。
 雪ノ下家の大黒柱と会うとなれば話は別。
 結局愛想笑いする羽目になりそうだった。

 弱者は理不尽に晒される運命らしい。
 どうにかして抗いたいな。
 運命なんて信じちゃいないけども。
 アイドントビリーブインディスティニー。

 ディスティニーと言えば、ディスティニーランド。
 確かあれの創設者はなんとかディスティニーだったか。

 なにか運命的なものを感じる名前である。
 わたしはディスティニーに因縁的なものを感じているが。
 校内放送で、ディスティニーで告白したら振られるという都市伝説を広めてやりたい。
 完全なる八つ当たり。

 あ、八と言えば、

「あー、ちょっとお願いしたら是非にって言ってくれたよ」

 わたしが終わらない脳内マジカルバナナもとい、現実逃避を繰り広げていると、ふふふという不気味な笑い声と共にそんな言葉が返ってきた。
 なに、どこの魔女?
 ギリシャ神話とかに出てきそう。

 お願いって。
 是非にって。
 お願いの内容と是非にに至るまでの会話を聞きたい。
 いや、やっぱ聞きたくない、怖い。
 まさか生徒指導の件だろうか。

「そうですかー」

 ひどく平坦な調子の声になってしまった。
 しょうがない。
 そんなことを気にするより、今は目前に迫った受付である。
 はるのんが受付嬢と二言三言交わすと、しばらくしてフロア内がざわめき立つ。

 その発生源に顔を向けると、一人の男性がエレベーターから降りてこちらに歩み寄ってきていた。
 秘書的な人はついていないが、十中八九はるのんのお父さんだろう。

 例えるなら日系ベッカムみたいな。
 雰囲気の話ね。

 これだけの企業のトップなのにも関わらず、傲慢さを感じさせない圧倒感。
 はるのんより巧妙に隠しているのか、それともこの先導者的風体が生来からの持ち味なのか。
 どちらにせよ、成功者たる資質を彼が備えているのは結果から見てまちがいない。
 一生、会いたくなかったタイプだなぁ。

 わたしたちをその誠実そうな瞳で捉え、軽く手を挙げる。
 はるのんが手を振り返すのと同時に、わたしは会釈を返した。

 あまり早く顔をあげて待ちぼうけるのもアレなので、ちょうど目の前にたどり着くというタイミングで顔を上げる。
 精悍な顔つきは口元に作られた優しげな笑みによって、柔和なものに変わっていた。

「こんにちは。君が陽乃のお友達かな?」

 決して大きくはない。
 しかし、どこまでも届きそうな通りのいい声。
 これも真骨頂だろうか。
 恐ろしいものだが、天は二物を与えない。
 そういう方面の才能が優れているのだろう。
 つまるところハッピーセット。
 まあ、なにものにも対価が必要なので、悩みという名の代金を支払い続けているのだろうが。

「はい、一色いろはと申します。本日は」

 形式的な挨拶を学生らしい笑みを添えて返そうとすると、遮られた。


「ああ、そういう固い挨拶はいらないよ。陽乃からいろいろ聞いているからね」
「そ、そうですかー……」

 出鼻を挫かれてしまった。
 じろりとはるのんに視線を向けるも、軽く受け流されてしまう。
 どうやら視線で人は殺せないらしい。
 一体、なにを聞いているのか……、わたし気になります。

 呼び方は雪ノ下さんでいいだろうか。
 ファーストネームは馴れ馴れしいし、まちがっても先輩ではない。
 いや、人生の先輩ではあるんだけど。

「では、行こうか。着いてきてくれ」

 颯爽と歩き出した雪ノ下さんに追従する。
 案内された先は応接室らしき部屋。
 手前開きのドアを開いて手で中へ勧められたので、おずおずと足を踏み入れる。

 高級さを感じさせる黒い革張りのソファ、木製のセンターテーブルを挟んで、ソファと同じ素材で作られたであろうアームチェアが二つ。

 数からして対少人数用の応接室なんだろう。
 どっちかって言えば、要人用って感じだけどそれは気にしない方向でいく。

 ちらりと雪ノ下さんの顔を窺うと、にこりと笑いを返された。
 こんなの完全に想定外だよ!
 下座?
 下座でいいんだよね?
 いくら客って言ってもこっちがお願いしてる立場で、雪ノ下さん目上の方ですし。


 とか考えつつ、身体が勝手に下座であるアームチェアに進んでるわたしだった。
 見上げた下っ端精神である。
 これは万年平社員だな、わたし。

 一応、座る前に立ち止まり、雪ノ下さんがにこにこしながら座ったのを確認して腰掛ける。

 きゃー、すっごい柔らかーい!
 なにこれ!
 学校の応接スペースにあるのと全然違う!
 本革?
 オーダーメイドだったりする?

 自然ともたれそうになる背を頑張って伸ばす。
 ただ柔らかいだけじゃなくて、なんというかなんとも言えない座りやすさである。
 なんだこれ。
 一家に一脚本革アームチェア!

「高校生にしては、よく出来た子だね」

 人好きのしそうな笑みを浮かべて言う。
 高校生にしては、のところに微量の毒を感じたのはわたしだけでしょうか。

「な、なにか粗相でもありましたか……?」

 折角の機会である。
 気にしないように振る舞うより、もしまたはるのんがなにか企んだときに困らないためにも聞いておいた方がいい。
 恐る恐る問うと、はるのんがくすりと笑い、雪ノ下さんは豪快に笑う。

「ははっ! これは確かに、貪欲だ」

「でしょー?」

 ちょっと?
 貪欲ってどういうこと?
 そりゃあ結構欲深い自覚はあるけど。
 二人のわたしの評価がマジで気になる。
 貪欲って褒め言葉だっけー?

「ど、どういう意味ですかねぇ……」

 引き攣ってしまう顔を必死に整えつつ、僅かばかりの苛烈さを滲ませて再び問う。
 しかし、そこはやはり大企業の社長。
 なんの苦もなくさらりと受け流し、爽やかな笑みを浮かべる。

 どうでもいいけど、この人笑ってばっかりだな。
 はるのんと同じで底知れない。
 雪ノ下家は怪物の巣窟か。

「悪いね、ちょっとカマを掛けさせてもらった。そんな怖い顔しないでくれ」

 別に怖い顔はしてないんだけど。
 わたし女の子なんですけど。
 ちょっとこの人、初対面の女子高生にたいして酷くない?

「はぁ……」

 もう気をつかうのも疲れた。
 これはあれだ。
 はるのんと同じタイプだ。
 いや、全部が全部ってわけじゃないけど、面白いものが好きなあたりはそっくりだろう。

 先ほどより深い位置に重心をずらし、軽く背もたれに体重を預ける。
 気を張ってたのがバカらしい。

 父親がこうなら、つまり怖いのは母親の方か。
 まあ、どっちにしろ、会いたくないタイプであることに変わりはなかった。

「あのー、わたし、職場見学に来たんですけど……」

 どう見ても案内とかする気なさそうだけど、せめてなんかしら資料くらい貰わなきゃ。
 軽いレポートもあるし。

「ああ、それなら、帰りに資料を渡すから安心してくれて構わないよ」
「そうですか……」

 準備がいいですね。
 そのいい笑顔やめろ。
 なに考えてるのか全然分かんない。

「総武高は進学校だったと記憶しているけど、なぜ職場見学を?」
「え、さぁ? 先生の考えることなんてわたしには分かりませんよー。昨年の進路統計、就職者0パーセントなので、完全に無駄だとは思いますけど」

 本当、無駄なんだよなぁ。
 慣習ってやつかな。
 それとも地域企業との交流?
 偉い人の考えることはよく分かんない。

「わたしのときもあったなぁ。中止させる気はないのー? いろはすがっていうか、生徒会が準備してるんでしょ?」

 中止、か。
 それは考えたことなかったな。
 まあ、なければないで生徒会の仕事が減るからいいんだけど、あってもさほど困るわけではない。


「生徒会は下請けですからねー。そんな権限ないです。たとえ出来ても、それに割く労力考えたらやっちゃった方が楽じゃないですかー?」

 地盤は出来てるわけだし。
 今まであったものをなくすっていうのは、そこそこ面倒だろう。
 よくは知らないけど。

「アポ取ったり面倒じゃない?」
「んー、実際そうでもないですよー? 慣れれば電話するだけですし。わたしは大手ゼネコンの取締役と会談する方がよっぽどキツいですね……」
「ははっ、まさか嫌味を吐かれるとはね」

 嫌味を嫌味とも思わないような顔してそんなこと言われても。
 爽やかすぎる。
 貪欲とか言われた仕返しのつもりだったけど、ここまで鮮やかに躱されてはぐうの音も出ない。

「進学校の生徒が企業にアポを取るのに慣れてるってのもおかしな話だな」

 言われてみればその通りである。
 将来役に立つスキルだろうし、特に問題はないけど。
 しばらく続く世間話。
 途中で出されたお茶を飲み、サイドテーブルに置いて話を切り出す。


「えっと、本題はなんですかー?」

 横に座るはるのんに視線を送るも、我関せずといった感じである。
 巻き込むだけ巻き込んで傍観ですか。
 まあ、もともと期待はしてない。
 ノープロブレム。

「そうだな……、君はなんだと思う?」

 質問に質問を返すのはよろしくないかと思います。
 さすがにそんなことを言うわけにもいかないので、考えてみる。

 はるのんが父親とわたしを会わせる理由から。
 はるのんのしたいことが、わたしになんらかの貸しを作ることだと仮定して考えると、わたしが今求めているものが答えなのかな。

 前期の生徒会の仕事は残すところ職場見学の事後処理と三十周年イベント。
 わたし個人としては、お金と学力。


 資金援助受けるほど困ってないし、断るのははるのんも分かってるはず。
 学力に関しては既にはるのんにみっちり教わってる。
 三十周年イベントのスポンサーかなにかかなー。
 そこらへんが妥当だと思う。

 でも、それだけじゃ、ないんだろうなぁ。
 貪欲。
 内容のない世間話。
 大方、わたし自身の品定めってとこか。
 はるのんからなにを聞いているのか知らないが、そんな定めるほどの価値はわたしにないと思うけど。

「三十周年記念イベントと、今こうしてわたしと話してることが本題、ですかー?」

 確認すると、こくりと首肯する。
 だいたいそんなところですよねー。
 はるのんに大きな借りを作るのは怖いから嫌なんだけどな。

「それってー、その、等価交換ってことになります?」

 問うと、雪ノ下さんはまた笑った。
 この人ほんとよく笑うな。
 なに、そんなに面白いのわたし?
 ははは、乾いた笑いしか出ないです。

「等価でいいなら構わないけどね。強制で連れてきたんだ。私に貸しを一つ作ったと思ってくれ」
「え……」

 マジですか。
 信じられない高待遇である。
 ん、ああ、いや、違う。

「はるのんに借りもないってことで、いいんですよねー?」

 はるのんに目を向ける。
 さっきからくすくす笑っていた顔が、きょとんとしていた。
 少しの間を置いて破顔する。

「あははっ! うんうん、それで大丈夫だよ。いろはすは心配性だなぁ」

 誰のせいだと思ってるんですか。
 いっつもなんか企んでるから怖い。
 いつの間にかハマってたりしないよね?
 笑ってるときが一番怖いんだよ。

「……それなら、いいんですけどね」
「わたしは父に頼まれただけだからねー」


 頼まれた、ね。
 なら、はるのんは既に報酬をもらってるってことか。

「はるのんに貸しを作ってまで話す価値がわたしにあるとは思えませんけどー……」
「そんなことはない」

 なんだか非常に凛々しい声で否定されてしまった。
 有無を言わせない強制力である。
 これも彼が成功者足り得るものなのか。

「じゃあ、なにが聞きたいんですかー?」
「ははっ、まどろっこしいのは嫌いなタイプか」
「いえ、探られるくらいなら拒否するか、自分で言った方が気が楽なだけですよー」

 遠回しに探られて、表層だけ知ったつもりで語られたくもない。
 わたしの仮面も、結構な分厚さになってしまった気がするし。
 いや、これも結局、わたしの内面に違いないか。
 隠そうとしたって隠せないし。
 だからこそ、誰にも知りえない。

「そうか。では、単刀直入に聞こう。君にはなにが分かった?」

 は?
 と、失礼過ぎる返答をギリギリのところで留めて、その意味するところを考える。
 なにに対してか、聞いてもいいのかなー。
 相変わらずのにこにこ顔には、自分で考えろと書いてある気がした。

 そんなー。

 嘆いてみても、現状は変わらない。
 もしや、こんな短期間で自分のなにかが知られたなんて思ってないよね、この人。
 わたしそんなハイスペックじゃないんですが。

 一ヶ月丸々一緒にいたはるのんのことすら全く分からないのに分かるわけないじゃないですかー、やだなー。
 しらばっくれられる雰囲気でもない、と。

 八方塞がり。
 十六方位にならないだろうか。
 ……マジでなんにも分かんないんだよねー。
 どうしよ、これ。
 そのまま答えるしかないか。

「……なんにも分かりませんよー。こんな短時間でなにかを見抜くとか、嘘発見器じゃないんだからそんなの無理ですよ」

 別に嘘ついてるわけじゃないか。
 それでも無理なもんは無理。
 人の感情を見透かせるのなら、こんな恋煩いに頭悩ませてないし。
 人の行動を読むのに長けているわけでもない。
 たまーに、分かる時があるだけだ。
 分かったつもりになるのが得意なだけだ。

 人をよく見ていると言われたことがある。
 それは、当たらずとも遠からずといった感じだろう。
 きっと、見ているようで、何一つ見てなどいないのだから。

 わたしが言葉を返すと、ふんふんと納得したようなしてないようなよく分からない反応を示し、雪ノ下さんは口を開く。

「それでは質問を変えようか。どうして、途中で態度を変えたんだい?」

 うん?
 その質問なら、特に迷うこともない。

「単純に、気を張ってるのが無駄だと思ったからですよー」

 無駄なことはやりたくない。
 別に気に入られたくないわけじゃない。
 気に入られたいからこそ、営業スマイルを外したんだ。

「無駄と思ったのはなぜなのかな?」
「なぜ、と言われましてもー……、必死に悪いところ隠すより、多少毒があった方が面白いじゃないですかー? あー……、えっと、もしかして、別に面白いもの好きってわけじゃありませんでした?」

 まさか、ね。
 結構失礼な態度取っちゃってるよ、わたし。
 今更、取り繕えないよ。
 ど、どうしよう。
 はるのんと同じタイプだと思ったんだけど。

「面白いもの好き、か。いや、その通りだよ」

 よかった……。
 ほっと安堵の息を吐く。
 再び視線を戻すと、目で問われていた。
 どうしてそう思ったのか。
 同じ問いの繰り返しだ。

「はるのんと似てるなーって思ったので……、全部じゃなくて、えっと、三分の一くらいですかね。あ、これは、貪欲、わたしの返答に笑ったからですよー」

 また問われるのも面倒なので、先に理由まで述べる。

「へぇー、三分の一ね。残りの三分の二はなに?」

 結局、また問われてしまった。
 はるのんの問いに僅かに顔を横に向けて、答える。

「外面と、はるのん自身の持つなにか、です」
「……ってことは、外面と面白いもの好きはわたし自身の持つものじゃないってこと?」

 きょとんと首を傾げてさらに問いを重ねてくる。
 かわいい。
 いや、違う違う。
 なんて言えばいいんだろう。
 そういうんじゃないんだよなー。

「んー、なんですかねー。三分の二が親の影響、遺伝みたいな感じでー、三分の一が環境で形成された人格……、みたいな?」
「ふぅん」

 なんか興味深そうに頷かれてしまった。

「まあ、わたしにはなんにも分かりませんけどー。どれも勝手に予想して決めつけてるだけです。これから変わる可能性も変わらない可能性もあります」
「そっか……」
「そうです」

 人格やら性格やらは一定じゃない。
 わたしみたいにころころ変わることもあるだろうし、どっかの誰かみたいに頑として変えようとしない人もいる。

 変えようと思って変えれるものではないし、変わりたくないと思っても変わってしまう。
 常にその形を変え続ける。
 芯となる部分が変わらなくても、付随するものが変われば形は変わるのだ。
 だからこそ、信頼できない。

 いつの間にか、わたしの知らない誰かに変わってしまっている可能性が少なからずある。
 だから、期待もしない。

 そんなんだから、寂しいんだろうなぁ。

方便か社交辞令かもしれませんが読んでくれていたという方がいるようなので、依頼出して終了宣言してから書き込むのも未練がましいとは思いますが失礼します

SS投稿速報というサイトで同時進行してます
そちらは継続します

渋は今コピペ中です
毎日更新するものなのか分からないので、おっかなびっくりという感じですが

まだ読んでくださる方がいるのなら、よければ

では、失礼しました
今までありがとうございました

煽りに負けるくらいなら最初から書くなと

もうここでは書かないつもりだけど、人の酉使って他スレアンチしてる馬鹿がいるので酉変更します

なんでもいいけど、トリップ変えて前ので荒らしてるやつがいるってんなら前のトリップキー晒してっちゃえばいいじゃん
変える前にやったらただの馬鹿だけど

>>985
ヒント
>>956-957

なるほど

このSSまとめへのコメント

1 :  SS好きの774さん   2015年06月03日 (水) 18:43:05   ID: un2JJ5Jh

面白いです

2 :  SS好きの774さん   2015年06月05日 (金) 00:45:32   ID: dwueTyW0

期待です!!

3 :  SS好きの774さん   2015年06月09日 (火) 15:21:02   ID: i95jP6fm

面白い、無事完走することを祈る。

4 :  SS好きの774さん   2015年06月15日 (月) 02:29:34   ID: 2IOqEAQr

完結してほしい作品です‼

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