咲「誰よりも強く。それが、私が麻雀をする理由だよ」 (1000)
咲「中学……麻雀部に入ろうかな」の続編です
今決めてる原作との大まかな変更点
・咲さん臨海女子に
・インターハイのトーナメント表で臨海女子と白糸台の位置入れ替え
今回は完結まで一気に投下は難しいのでちまちま投下していきます、ご了承ください
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朝。夜明けと共に寝床を抜け出し、咲は雀卓に向かい合って正座する。
瞑目した目蓋の裏に焼きついた勝利のイメージ。
様々な思いが去来する咲の脳裏をよぎるのは、想像できる最大の強敵の姿。宮永照。
咲は確かな手応えを感じていた。牌譜を取り寄せ、生の映像をその目に焼きつけた姉のイメージに狂いはない。
たとえ力を隠し持っていたとしても、咲には対処できる自信があった。
「うわあーっ! しまったーーっ!」
しかし、完璧に思われたイメージは、薄い壁越しに漏れ聞こえてくる大声で瞬く間に霧散した。
咲「……はあ」
脱力する。越して間もない新居、それも軽い欠陥住宅の疑いがある場所で、やるべきではなかったか。
でもピンポイントに邪魔されるとは思わなかった。
やるせなさを盛大なしかめっ面に変えて、咲はスリッパを履いて隣部屋に駆け足で向かった。
咲「朝からなんて声出してるんですか。近所迷惑です!」
一喝する咲の声に「うわーうわー」と延々叫んでいた声がぴたりと止む。
一拍おいて、部屋の主が扉からぴょこんと顔をだした。
「ご、ごめんなさい。あんまりにもあんまりだったものだから」
咲「あ……」
思わず息を呑んだのは、その住人が明らかに異邦の空気を纏っていたから。
小柄な体躯。青みがかった瞳。民族衣装を彷彿とさせる独特な衣服。
控えめにこちらを窺う姿に毒気を抜かれてしまう。
「というか隣に人住んでたんだね。いや最近引っ越してきたの? まあいいや」
「ネリー・ヴィルサラーゼ。グルジアの留学生だよ」
グルジア。聞き慣れない名前に首を傾げそうになるのを堪えて、名乗り返す。
咲「宮永咲です。えーと、よろしくお願いします」
ネリー「よろしくー」
砕けた物言いに緊張を弱めて咲はうっすらと笑みを浮かべる。
ネリー「あ、さっき騒いでたのはね、お金の勘定を間違えてたから」
ネリー「知り合いが途方に暮れてたから即席ラーメンを売ってあげたんだけど」
ネリー「値上げする前の価格しか受け取ってなかったんだよね」
咲「はあ」
ネリー「まあそれはきっちり差額を徴収するからいいんだよ」
ネリー「それより!」
ネリー「サキの名前どこかで聞いた気がするなー。いつだっけ?」
咲「サキ……」
ネリー「あ、名前で呼んじゃダメだった?」
咲「い、いえ。外国の人なら名前で呼ぶのが自然ですし。たぶん」
咲「さ、咲でよろしくお願いします」
何故だかわからないうちにお辞儀していた咲は奇妙な感覚に包まれていた。
なんで私、こんなあたふたしてるんだろう。
ネリー「お、おおー……おおう」
ネリー「今のってヨメイリってやつだよね。はじめてみたよ」
咲「なんでですか! って、調子が狂うなぁもう」
咲「とにかく、これからよろしくお願いしますね。お隣同士仲良くやりましょう」
ネリー「うん! 仲良くやろう!」
差し出されたネリーの手に一呼吸遅れて反応する。
本当に、ぐいぐい来る子だなぁ……。
握りしめた手のひらに返ってくる柔らかな感触に、咲の胸はひとつ脈を打った。
咲「よし、っと。準備できた」
ネリーとの会話から暫くして。登校の準備を終えると、咲は忘れものがないか入念に確認した。
そして。
咲「強い私。何にも屈せず負ける事のない私」
鏡台と向かい合って、決まりきった文言を唱える。
イメージする。
強く、何者にも負けない自分の姿を。
毎日こうするだけで、驚くほど効果を実感する自分がいた。
咲「いってきます」
誰にともなくつぶやいて部屋を後にする。
神棚の上には、幼い姉妹と両親が映る写真が額縁に入れて飾られていた。
臨海女子の学舎へと電車で向かう傍ら、咲は車内に立って雑誌を広げる。
ウィークリー麻雀トゥデイ。数多くの打ち手について情報を教えてくれるが、咲の興味はただ一点、インターハイチャンピオンに関する記事だ。
咲「やっぱり麻雀をやってた……お姉ちゃん……」
懐かしげに目を細めたそのとき、不意に車体が揺れ、がくんとした衝撃が咲を襲う。
咲「う、わわっ……」
危うく転びかけ、体勢を大きく崩しながらも何とか立て直す。
しかし思いの外しぶとい慣性の力にいつの間にか目の前にいた人物に抱きつくような形でその胴に腕を回してしまう。
肩甲骨に届く長さの髪が、度重なる荒々しい挙動にぱさりと揺れる。
咲「あ、ああうあえあっ」
「ング? オオーウ」
「ニホンの電車にハ可愛い女の子ガ抱きついテくれるサービスまであるんデスね。ワンダホー」
少女に抱きつかれるのを喜ぶ発言にまさか男性かと顔を青くする咲だったが、声の質と抱きついた腕に伝わる感触が女性的な柔らかさを帯びていた事で安堵した。
胴に回していた腕を離し、自分より頭一つ分は高い位置にある相手の顔を見やる。
朝にひと悶着あったネリー同様、彼女もまた日本人離れした外見をしていた。
ま、また外人さん。
重なる異国の人間との遭遇に東京が世界で有数の国際都市である事を意識させられる。
せめてもの救いは、今のところ日本語を話せる人種に限られていた事か。
お世辞にも英語が堪能といえない咲にとって、ぎょう幸だった。
そして今目の前にいる彼女は、海外のトップモデルさながらのスレンダーな美人。
咲が憧れる女性の姿のひとつだ。
「ハフッ、ハフッハフッ」
電車の車内でカップ麺片手に奮闘していなければ。
咲「あ、あの私が言うのもなんですが……危なくないんですか?」
ネリーほどのとっつきやすさはないが、それでも圧迫されるような印象でない事も手伝い、咲は比較的物怖じせずに話しかけられた。
「イエス。モーマンタイ。アメリカの人間嘘つきまセン」
国籍が不安になる発言だったが、どうしてか周りには彼女と自分しかいないし、そう目も当てられない事態にはならない気がした。
もっといえば、麻雀にも発揮される第六感が咎めたところで無駄と半ば悟ってしまっている。
「ココはイイ場所でス。ニホンの列車は朝になるとオニのように混みまスが、ココなら安心してムゲンを堪能できまス」
咲「はあ」
「ところでお嬢サン、貴女もお一ついかがでスか?」
咲「いいんですか?」
「ロンオブモチ。ラーメンのムゲンの前に、ヒトは等しく平等でス」
鞄からカップ麺をとりだし、事もなげに勧めてくる彼女に面食らうも、咲にはどうしてかそれが自然な流れに感じた。
この人の不思議な雰囲気のせいかなぁ……。
これも一種の人徳かと感心していた咲だったが、生憎朝は食べない性癖だ。固辞する。
咲「お気持ちは嬉しいんですが、朝は食べないのが習慣になっていて食欲が湧かないんです」
「オオーウ。このメガン・ダヴァン、ラーメンの布教に失敗するとは一生の不覚……」
身ぶりを交え大仰に嘆く彼女の姿にふふっ、と笑いが漏れる。面白い人だと思った。
咲「ところで臨海女子の制服を着ているってことは、同じ学校の方なんですね」
「そういうお嬢サンは麻雀の雑誌など手に持っテ、私と同じく麻雀に携わル者ではないでスカ?」
咲「はい。新入生なんですけど、麻雀部でお世話になろうと思ってます」
「グレイト!」
長身の彼女が上げた喝采に咲はあっけにとられる。
言葉を声にして返す間もなく、反応する間もなく、咲のものより少し大きな手が咲のそれを包み込んだ。
「私はメガン・ダヴァン。臨海女子の留学生で三年でス」
咲「み、宮永咲です……どうもご丁寧に」
ダヴァン「ミヤナガ、サキ……知っていまス……ニホンのジュニア大会で勇名を馳せタ」
咲「中学生大会ですけどね。でも知っていてもらえて光栄です」
ダヴァン「そうとワカれば早速いきまショウ、我が麻雀部に!」
咲「まず授業がありますよ」
滞りなく電車が臨海女子の学舎付近までダヴァンと咲を運んでくれ、学年の違うダヴァンとは校舎で分かれる。
咲「ふう、朝から大変だよ」
真新しく見える教室に到着し一息つく。迷子癖が発揮されず助かった。仮にしていたら初日から遅刻だ。
それにしても、早朝のひと悶着に始まり、朝から濃密な時間を過ごしている気がしてならない。
担任「みんなー席につけ。出席をとるぞ」
一日は、まだまだ始まったばかりだ。
昼過ぎ。
初登校とあって早めに切り上がった就業はいまや放課後。
校舎の至るところから生徒を吐き出して活気に包まれている。
人ごみが元来苦手な咲だが、今日は日が日だけに足早に麻雀部へと向かっていた。
道中、マントマ○オよろしく、日傘を差した女の子がぷかぷかと空に浮かんで麻雀部に向かうのを目撃したが、咲は無視した。
疲れで幻覚をみているのだと言い聞かせる。
そんなものはどうでもよかった。
咲は一度目を閉じ、深く息を吸う。
朝から続くごたごたで生じた雑念がすうっと消えていく。
東京での新生活、学校生活、エトセトラ。
全ては枝葉末節。咲にとって重要なものは、そんな座興の中にない。
麻雀。それだけが目的であり、望みであり、かけがえのないもの。
それ以外のものなんて幾らでも代えが効く。
麻雀以外いらない。
それが、偽りのない咲の本心だった。
小動物然とした普段の雰囲気が消え去る。
鳴動。
瞳の中に灯る冷やかな火が、臨海女子麻雀部の部室棟を稲光のごとく打ち据えた。
麻雀部の扉をくぐり抜ける。
その瞬間、既に世界は変わっていた。
大勢の部員、その中で異色を放つ四人の留学生らしき生徒の姿。
麻雀部監督アレクサンドラ。
そして。
智葉「待ちかねたぞ宮永咲」
昨年インターハイ個人戦三位。臨海女子三年、辻垣内智葉。
咲「約束をした覚えはありませんけど」
智葉「当然だ。お前のような奴がうちに来ているなど、ついさっきまで知りもしなかったからな」
咲「なら、その高圧的なしゃべり方やめてくれませんか。不愉快です」
智葉と咲の間に火花が散る。
一触即発で爆発しかねない雰囲気に、しかし水を差したのは、のんきな声だった。
ネリー「あっ、サキー!」
それに面食らったのは智葉だ。
まるで出鼻を挫かれたかと言わんばかりに舌を打つと、般若の形相でネリーをねめつけた。
智葉「ネリー……今私は大事な話をしてたんだ。お前はそれを邪魔した。分かるな?」
声もなくこくこくと首を頷かせるネリー。
咲「別にいいじゃないですか。私、ちょうど今朝彼女と知り合ったばかりなんです」
ダヴァン「オオーウ! 知り合ったといえば、誰かを忘れていマセんか?」
智葉「ダヴァン。二度目はない」
ダヴァン「はい」
智葉「さて、用件を聞こうか」
一瞬で置物となったダヴァンを一瞥し、智葉は咲に向き直る。
咲「あれ? クラスから届いていませんか。入部届けを提出したはずなんですけど」
智葉「生憎、意思は直に聞くタチだ」
咲「でしたら」
咲はにっこりと笑った。
怖気すら与える温度のない笑みだった。
咲「臨海女子一年、宮永咲。入部を希望すると同時に、団体戦先鋒のレギュレーションを希望します」
投下おわり
また書きためたら来ます
お昼ごろ投下しにきます
にしても、結構書いたと思ってもレスにすると少なくてびっくりする
智葉の咲に対する敵意が、咲の冷然とした佇まいがボルテージを上げていく中、落ち着き払った声音が場を制した。
アレクサンドラ「はい。そこまで。もうちょっとみてたかったんだけど、やりすぎね」
智葉と咲、アレクサンドラ、それに留学生の四人を除く部員の大半が青ざめた表情で震えているのを一瞥して示す。
アレクサンドラ「結論から言わせてもらうと、宮永さんの入部の件は勿論受理、別件に関しては保留といったとこかしら」
智葉「私と宮永が今すぐ打ち、はっきりさせるというのは?」
アレクサンドラ「はあ。それを狙ってやたら険悪にしてたのか。でも却下」
アレクサンドラ「まずデメリットが大きい。どちらが勝ったとしても、片方を失うリスクは侵したくない。これは部全体の戦力をかんがみての話」
説明を聞いた智葉は不快そうに鼻を鳴らす。
智葉「私が負けると?」
アレクサンドラ「下手な芝居はやめなさい。実のところ、歯牙にもかけてないんでしょ」
智葉「…………」
あれほど充満していた敵意が唐突に霧散する。
幾らか穏やかになった口調で智葉は話す。
智葉「性分です。私を前にどこまで突っ張れるか見極めておきたかった」
アレクサンドラ「困った子だわ」
言葉と裏腹に優しげな視線を送るアレクサンドラ。
しかし、続いて話に加わった部員に内心頭を抱えた。
咲「私は本気でした」
アレクサンドラ「それが困りものなのよね」
咲「先鋒以外は考えられません」
アレクサンドラ「そうは言ってもねえ……」
智葉「メグ。さっきはすまなかったな」
ダヴァン「サトハ……!」
ネリー「ねえねえ、わたしは?」
智葉「お前は反省するくらいでちょうどいいだろ」
ネリー「そんなー!」
智葉「まあ、悪かった」
ネリー「わたし思うんだ。誠意を示すにはお金が一番だっあだだだだ!」
ダヴァン「オーウ、ネリーナンマイダブ」
戯れる三人を無言で見つめる咲の心中は穏やかではなかった。
この和みかけたムードをひっくり返さないと。
智葉と力比べする展開になれば早いものの、やはり年の功か、純粋に人柄なのか、単純な挑発ではその気にならないようだ。
中学レベルの実績しかなく、ひ弱な外見で舐められやすいと思っていた咲だが、悪い意味で相手にされていないと感じた。
嘆息する。行き場のない熱を威圧として周囲に撒き散らす。
智葉「お前そのオーラみたいなの飛ばすのやめろ。入ってくる前にもやっただろ」
卒倒したり失禁しかける部員が出て大変だった、とぼやくように智葉が咎める。
ダヴァン「この気圧される感覚……まさしく魔物のモノ……心臓に悪いでス」
ハオ「中国麻将でなら私もあんな感じのできますよ」
明華「面白い方が加わりましたね。彼女と打つのが楽しみです」
咲はしらず口端を緩めていた。
臨海女子。高校女子麻雀界では異色の傭兵軍団。
在籍する四人の留学生はいずれも世界ランカーと聞く。
中学では大した敵もおらず、勝ちの決まった対局に胸が高鳴る事も殆どなかったが、今咲の胸は歓喜に包まれている。
咲「わかりました……先鋒の話は結論を急ぎません」
実際、幾ら前評判があろうと力もみせず先鋒の座を確約するなどあり得ない。咲は冷静な思考を取り戻しかけていた。
となればもう無駄に威嚇する必要もない。臨戦態勢を解いた咲はいつもの大人しそうな雰囲気に立ち戻り、今度こそ如才なく微笑む。
咲「これからお世話になります。よろしくお願いします」
明華「こちらが先ほどいらした対局室、そしてあちらが校内合宿に使う宿舎です」
夕方から夜に差し掛かろうかという時刻。窓から差し込む薄暮の淡い光を浴びながら、明華と咲は長い廊下を歩いていた。
明華「これで回るところは終わりです。何か分からない事などありませんか?」
咲「いえ。大体わかりました。ご親切にありがとうございます」
部室での一件から相当な時間が過ぎた。あれから対局室に連れ込まれ、洗礼とでもいうべき対局漬けの時間を送ったのだが、咲は今、ここ最近ないくらいに気持ちが充実している。
明華「宮永さん……いえ、咲さんとお呼びしてよろしいでしょうか」
咲「はい。私も明華さんと呼びたいです」
親密な関係へと近づく言葉。
二人の距離が縮まり、いよいよ顔が触れそうになるくらい近寄ったところで、明華がささやく。
明華「とても濃密な時間でした。素晴らしい闘牌でしたよ、咲」
咲「……楽しかった。また明日にも打ちたいです」
ふふっ、と稚気を催したように明華が笑う。
明華「私とメグ、それに……ネリーとハオ。これだけの面子と打っておきながら、そう言える一年生は臨海にいないでしょうね」
明華「あなたは点数の上では私たちに及ばなかった。……メグはカタカタ震えていましたが」
トラウマでも刺激されたんでしょう、と苦笑いを零す。
咲としても、心配になるカタカタ具合だったが。結局は、不用意に立直したところを追いかけ立直された挙げ句、捲り合いを経て直撃をとられる、といった辛酸を舐めさせられた。
明華「私があなたのカンを逆手にとって槍槓してみせた。覚えていますか?」
咲「……覚えていますよ」
明華「あなたはあのとき槍槓されると思っていましたか?」
咲「率直に言えばいいえです。可能性として考えなかった訳じゃないですけど、私はそんな隙を与えるつもりで打っていないし」
実際、インターミドルに三年間出場し、強豪校との練習試合を幾度となく経験しても。
加槓に槍槓、ましてや暗槓に国士なんて許した事は一度たりとなかった。
その経緯を聞いた明華は不可解そうに眉をひそめた。
明華「なら、なぜ槍槓されたときあれほど平静でいられたんですか?」
明華「あれは偶然だと?」
咲「あれは狙ったものでした。偶然なんかじゃない」
明華「なら、なぜ」
咲「嬉しかったからです」
明華の表情に今度は疑問の色が足された。
咲「今の私がどんなに警戒しても槍槓を決めてくる打ち手がいる」
咲「それは今の私が弱いから」
咲「だから」
咲「そんなあなたを叩きのめし、槍槓できないようにする事ができれば」
咲「私はまた一つ強くなれる」
咲「そう思っただけですよ」
明華「咲さん貴女は……」
冷や汗を垂らす明華をよそに咲は笑みを深める。
明華が最初、案内を買って出たのは好奇心だった。
普通、臨海女子ほどの麻雀部が一年一人のために道案内などしない。
だが咲は別だ。
異質なサポート体制故の特別措置。
既に咲は、留学生達と同じような活躍を期待されている。
だから、道案内にも務めるのはレギュラークラスの人間。
そこで明華はネリーやダヴァンと競合して咲の道案内の権利を勝ち取った。
そして聞きたかった事の真意を問うた。その結果がこれ。
いつのまにか、月が出ていた。
冴えざえとした月の光を浴びる咲。
その姿は、何かに魅入られたかのように幽玄の美しさを湛えていた。
「サキー! 一緒に学校いこうよ!」
翌朝。登校に多少ゆとりを持たせて起床した咲の耳朶を打ったのは、昨日の朝と同様、薄い壁越しに漏れ聞こえてくる声だった。
咲は走った。
咲「全然懲りてないじゃないですか! だから近所迷惑です!」
ネリー「あははーごめんねー」
起きてる気配がしたものだから、と釈明するネリーだったが、他の住人はどうか。
抗議に来るのが咲だけという事は、泣き寝入りしているのか、単に空き部屋なのか。
ため息をつく咲にネリーは優しげに肩を叩く。
ネリー「ため息をするとお金が逃げてっちゃうよ」
咲「しあわせじゃなくて?」
初耳だ。というか、ネリーに限定した持論ではないだろうか。
基本的に、彼女の会話の引き出しは、金銭に関するものばかりだ。
咲「なんだか朝から疲れるよ……」
ネリー「ねえねえ」
ちょんちょんと肩を叩かれる。なんだろう。向き直る。
ネリー「サキって、いつも敬語で話してるわけじゃないよね?」
咲「それは、まあ……はい」
ネリー「だったらなんでわたしに敬語なの! 同い年だよ」
咲「あっ」
思わず口を開けた。
咲「そういえば。最初に敬語を選んだからなんとなく」
日常生活で敬語を使う機会の方が多いのもあるかもしれない。先生や先輩には勿論敬語、同級生とはそんなに喋らないというか関わらないし、インターミドルで会った選手には学年関係なく敬語だ。
考えてみたら、敬語を使わずよく話す相手は『クラスメイト』ちゃんくらいになるのかなぁ……。
今は遠い場所にいる友達を思い出していると、膨れっ面のネリーが何やら訴えようとしていた。
ネリー「タメ口! タメ口にしないとお金を要求するよ!」
何それ、と咲が笑う。
そんな咲の顔を、じいっとネリーが見上げていた。
咲「え、何……」
ネリー「やっぱりサキはそうやって笑ってた方が可愛いね」
不意に褒められ固まる。
明け透けにものを言うのは彼女が日本人じゃない故か。
面映ゆい気持ちになりながら、咲は話題を変えた。
咲「学校にいこうって話じゃなかったっけ?」
随分と脱線した話題を軌道に戻し、いざ登校の準備をしようとすると、前から衝撃が襲った。
ネリー「やったー! タメ語だーっ!」
咲「ちょ、ちょっと、ネリーちゃん」
タメ口の言い方が微妙に変わっていたが、抱きつかれた衝撃に比べたら些細な事だった。
無理に引き離すのも失礼かと思ってなすがまま。しかし釘は刺しておく。
咲「あの……私こういうの慣れてないから、あんまり……」
そう伝えるとぱっと離れるネリー。そのあたり、善良な気質に思えて咎める気持ちは薄れる。
ネリー「ごめんごめん。じゃあ学校いこう!」
咲「私準備してくるね」
投下おわり
コメントありがとうございます
京太郎なんですが中学で出すの忘れたのと話の流れに特に関係してこないので今のところ登場予定なしです
咲さんの父くらいですね男で重要になってくるのは
朝の通学時間。定刻の電車にネリーと共に乗り込む。
ネリー「誰かと一緒に学校いくのって、はじめてかも」
咲「そうなの? 意外だな」
性格からして友人は多くいそうだが、そんな事もあるかと納得する。
家の場所や時間の都合もあるし、仕方ないだろう。
ネリー「にしてもここ空いてるね」
咲「いちゃいけないところではないはずだけど」
ネリー「女性専用車両でもわたしたち関係ないもんね」
車両の中にぽっかりと空いたスペースに立っている。
周りをみると結構どこもぎゅうぎゅう詰めになっている。奇妙な事があるものだと咲は不思議に思った。
ネリー「まあいいや。それより学校に着くまで話がしたい!」
咲「いいよ。何の話しよっか?」
ネリー「サキの中学の頃の話が聞きたい!」
特に敬遠したい内容でもなかったので話してみる。
咲「うーん。そうだなあ、三年間麻雀部としてインターミドルに出場して」
咲「一年のときにベスト8、二年目は準優勝、最後の年は優勝したよ」
ネリー「あ、それは監督から聞いたかも。団体戦だよね」
ネリー「あれ個人は?」
咲「興味ないから出なかったよ」
ネリー「へー」
咲「ああ、そうそう。三年生のときは部長してた」
ネリー「サキが?」
咲「あんまり柄じゃないけどね」
苦笑いする。「そんなことないよ」とネリーは言ってくれたが、やはり人を率いるのは苦手だった。
咲「あ、あとあんまり麻雀には関係ないんだけど……」
咲「ピンク色の髪をした女の子にしつこく連絡先を聞かれて怖かったな」
ネリー「ストーカーってやつだね」
咲「そこまでじゃないよ」
冗談を交わしひとしきり笑い合うと、咲は新しい話を切り出した。
咲「ああ……一つお願いしてもいいかな」
ネリー「うん?」
咲「ネリーちゃんが学校にいくときとか、麻雀部の部室にいくときとか、できたら一緒にいてほしいの」
沈黙。数秒変な間を挟み、ネリーが答えた。
ネリー「んー」
ネリー「それってもしかしてコクハク?」
咲「じゃなくて!」
咲「その……私、方向音痴、というか……すぐに迷っちゃう癖があって」
咲「昨日、明華さんに案内してもらったときに言えなかったんだけど……たぶん無駄っていうか」
咲「い、一応努力はしてるんだよ? すれ違う人に道を聞いたり……でも気づいたらどこにいるかわからなくなるっていうか……うぅ」
咲「だから、恥ずかしい話なんだけど、誰かにいてもらえたらなぁ……って」
咲「だ、ダメかなぁ……?」
ネリー「全然ダメじゃないよ!」
ネリー「サキと一緒にいるの楽しいし、ドントコイだよ!」
咲「あ、ありがとう……」
咲は喜ぶ。
恥ずかしかったけど頼んでよかった。
何かお返しできる事ないかなぁ……。
ふと思いついた事を訊く。
咲「ネリーちゃんってお昼はどうしてるの?」
ネリー「お昼? 学校の食堂で食べてるよ」
咲「それなら」
咲は、ネリーに弁当を作って渡そうかと提案した。
幸い母からもらっているお金は潤沢といっていいほどあるし、自分ともう一人分の弁当を作る程度は問題ない。
ネリー「いいの!?」
咲の提案を聞いたネリーは目を輝かせた。
ネリー「やったー! 昼食代が浮く!」
やっぱりそこかと慣れてきた感のある咲は苦笑する。
話は無事まとまり、電車も到着を知らせるアナウンスが流された事もあって、二人は横開きの扉の前に並んで立つ。
ふとネリーがつぶやいた。
ネリー「そういえばどうして昨日は迷子にならなかったんだろ」
咲「麻雀に使ってる力を使うと迷わずに着ける事もあるんだ」
今の力のレベルだと着けるかどうかは半々だった。
今度こそおわり
荒らしだったのか
教えてくれて感謝です荒らしじゃなかったらすみません
ダヴァン「今日は散々でシタ」
卓につくなりそんな事をのたまうダヴァン。
心なしかげっそりとしていた。
同席しているネリー、明華、咲はただならぬ様子を間近で眺める羽目になったものの、抱いた感想はそれぞれ違った。
咲「あの……大丈夫ですか? お顔が青いですけど」
明華「心配する必要はないと思いますよ、咲さん」
どうして、と疑問に思う咲だが、続くネリーが白けた様子で言う。
ネリー「どうせラーメン絡みに決まってるよ」
咲「ラーメン?」
ネリー「そ。ラーメンのムゲンがどうとかいつも言ってるでしょ」
ダヴァン「実ハそうなんでス!」
消沈していたダヴァンが突然叫ぶ。
ダヴァン「昨日の朝、私ハ通学の電車の中でラーメンのムゲンを堪能するといウ幸運に拝謁しまシタ」
明華「朝の通学時間の電車でその様な事ができるとは思えませんが」
ダヴァン「それができたのでス! しかシ、今日ハできなかっタ……」
ダヴァン「それどころか無茶な挑戦で、カップ麺の中身を車内に撒き散らすといウ悲劇が起きてしまいまシタ……」
ダヴァン「ああ……不運な私……」
ネリー「それ不運なのは乗り合わせた乗客だよね」
明華「とんでもない事をしでかしますね。いよいよ病気です」
冷めた目でみられている事など意にも介していないかのように、ただ肩を落とすダヴァン。
もはや咲についていける会話ではなく、静観するしかない。
ネリー「あー。そういや今朝サキと乗った電車はいやに空いてたね」
ネリー「あれくらい空いてたらカップ麺食べれたかもね」
ダヴァン「オーウ……そういえバ、私がカップ麺を堪能できたのも、サキと乗り合わせたときでシタ」
奇遇だね、とネリーが受け返す傍ら、明華は思案げな素振りをみせる。
明華「咲さんがいたから空いていたのでしょうか」
ダヴァン「ッ!! ッッ!!!」
カッと目を開いたダヴァンが蹴飛ばす様に席を立つ。
ダヴァン「サキっ!! 明日カら一緒に通いましょウ!!!」
ネリー「ダメだよ。サキは、毎日ネリーと通うって約束したんだから」
咲「う、うん……」
ね? と念を押してくるネリーに曖昧に頷きながら、そっとダヴァンの様子を窺う。
ダヴァン「ウ、ウウぅ……」
血涙を流していた。
智葉「……さっきから何を騒いでるんだお前らは」
智葉「インターハイ予選も控えているというのに」
ネリー「真面目にやってよメグ!」
明華「お見苦しいところをお見せしました。メグが」
智葉「お前らも同罪に決まってるだろ」
驚き呆れた目で言い逃れようとする二人を睨む智葉。
視線を動かして、ちらりと咲をみる。
智葉「昨日は手厳しい洗礼を受けたみたいだな」
咲「凄く楽しかったですよ」
それが本心だというのは、今ネリーたちと平然と同卓している事で察したのだろう。
一つ鼻を鳴らすと咲を睨みつけた。
智葉「私はお前に先鋒の座を譲るつもりはない」
咲「はあ……?」
何を当然の事をと呆ける咲に智葉は冷然と言い放つ。
智葉「今のお前にはな」
そのまま何処かに立ち去ってしまった。咲には理解が及ばない。
(でも)
正直どうだっていい。智葉が何を考えていようと、やる事に変わりはないのだから。
頭の中が冷えていく。この冴え渡る感覚に身を委ねれば、意識は瞬く間に作り変わる。
『ーー咲、お前もその花のように、強くーー』
皆が望む私に。私が望む私に。
ネリー「サキー」
咲「どうしたの?」
ネリー「えっとね、麻雀打とう?」
明華「……」
言われなくても。
打って、打って打って打ちまくって。
私は強くなる。誰よりも。
ネリー「よーし、次はネリーの親からだよ!」
インターハイ予選まで、時間は刻一刻と迫っている。
智葉「監督。こんなところにいたんですか」
幾つかの別室を渡り歩いた末に、智葉は探していた人物を発見する。
アレクサンドラ「あら。私を探してたの?」
長テーブルの上に数枚の牌譜が広がっている。
アレクサンドラはそれを熱心に観察していたようだ。
智葉「……昨日の留学生と宮永の牌譜ですか」
アレクサンドラ「わかる?」
悪戯っぽい笑みを浮かべるアレクサンドラ。
智葉は首肯した。
アレクサンドラ「さて、サトハは何のご用かしら」
智葉「インターハイの県予選、宮永を先鋒に起用してください」
アレクサンドラの瞳が真剣味を帯びる。
アレクサンドラ「どういう心境の変化?」
智葉「試したくなった。インターハイ予選までに、あいつがどこまで力を伸ばすのか」
智葉の言葉に、アレクサンドラは考え込む素振りをみせた。
その瞳はテーブルに広がる牌譜に向けられている。
アレクサンドラ「私は、ネリー以外の三人に協力して宮永さんを抑え込むよう指示した」
アレクサンドラ「鼻っ柱を折っておくべきだと思ったから。でも」
智葉「失敗した。宮永は点数こそやや下回りはしたが、ほぼ互角の闘牌をしてみせた」
「はあ」溜め込んだ疲れを吐き出す様に、アレクサンドラがため息をつく。
アレクサンドラ「いかな強豪にいたといえど、所詮中学レベルの経験しか持たないはずの子が、こうも力を発揮するなんてね」
常識が通用しないわ、とアレクサンドラ。
智葉「魔物……か」
智葉がふとつぶやく。
天才なら星の数ほどいる。
こと麻雀の分野において所謂『天才』といわれる人種は数多く存在する。
ツモ牌が分かる力、一巡先をみる力、特定の牌を集める力。
どれも、理屈を超えた超能力じみた力だ。
加えて分かりやすい力を持っていなくても、明らかに常軌を逸した読みや勘で勝ちを拾う者もいる。智葉もこれに該当するだろう。
だが、魔物はその上をいく。
アレクサンドラ「お陰で考えていた強化プランがパーよ」
智葉「でもまだ伸びる。あいつは中学レベルでしかなかった経験を、これから急ピッチで埋めていく」
アレクサンドラ「……宮永咲が臨海女子に入学した事はマスコミにもまだ知られていない」
アレクサンドラ「お金を出してる人はその話題性にも目をつけているのよ」
そして、と言葉を継ぐ。
アレクサンドラ「中国や欧州といった麻雀先進国で活躍する打ち手と連日打っていけば」
牌譜から外れたアレクサンドラの視線が、部屋をさ迷い、やがて智葉へと向く。
アレクサンドラ「臨海女子の先鋒として、全国で闘うに相応しい選手に化ける」
智葉「かもしれない」
アレクサンドラ「あら。どこに行くの?」
智葉「練習です。時間は幾らあっても足りない」
踵を返し、別室を出ていく智葉。
その横顔から覗く瞳は戦意に満ち溢れていた。
最近、日本で暮らす日々を楽しいと感じるようになってきた。
麻雀を打つためだけに。
お金のために雇われて仕方なく、という認識が薄れつつある。
きっかけは四月に一般入学してきた同い年の女の子。
名前は宮永咲。ネリーの隣人だ。
ネリー「サキー! 迎えにきたよ!」
ざわめいている一般生徒の群れの中から、呼び声をかけた茶髪の少女が出てくる。咲だ。すぐさまネリーは駆け寄って、咲の手をとった。
部室にいこう。提案するまでもなく目的は一致していた。二人で校舎を並んで歩く。
道中、咲は積極的に話題を振ってきた。
咲「ネリーちゃんたちって授業なんかはどうしてるの?」
ネリー「授業なんてないよ。ネリーたちは麻雀のために雇われた傭兵だもん」
試験やなんやと煩わされて麻雀が疎かになっては元も子もない。
そのための支援を学校は惜しまない。
ま、お偉いさんの意向だけどね。
まだまだ馴染みの薄い一般生徒は沢山いるらしく、遠巻きにして好き勝手に噂されるのが現状だ。
口さがない日本人に辟易する事もあったけど。最近は、気にならなくなってきた。
例外もきちんといるから。
その一人である咲は、下駄箱で上履きから外靴に変えながら、楽しそうにネリーの話を聞いている。
咲「ダヴァンさんや明華さんはもう部室にいるのかな?」
ネリー「メグって呼んであげた方がいいよ。『サキがよそよそしいんでス……』とかいってめんどくさいんだから」
咲「メグ……さん」
咲「……えへへ、なんだかちょっと照れちゃうね」
ちょっぴり顔を赤らめて綻ばせた咲は、ニコ・ピロスマニの描く動物並みに愛らしかったが、見とれていたら咲と打てる麻雀の時間が減る。
む、メグの事でそんな顔しちゃって。
むくむくと謎の対抗心がわき上がり、自分もやってやれないかと目論んではみるものの、中々思いつかず断念した。
ちょっと落ち込む。
ネリー「……メグたちならいると思うよ。ご飯の時間とか以外は部室だね」
自分たち留学生はそのためにいるのだから、相応の振る舞いも見せないといけない。
まあ、基本的に麻雀が好きなやつばかりだから、さして重荷ではないとも思う。
「へー」と気のない返事を一見する咲。でも目つきが一瞬変わったのをネリーは見抜いていた。
(満足げに目を細めちゃって……麻雀の事になると変わるな、サキは)
ネリーは、その変化にまだ慣れないでいた。
智葉と真っ向から反目した、初めて対局したあの日など、あまりの変わりように別人に見えたほどだ。
そして咲は、文句なしに強い。
これは留学生四人の共通した感想だ。
咲「そういえば明日って祝日だよね。ネリーちゃんはどうするの?」
ネリー「うーん。特に用事もないし。学校で麻雀打つよ」
咲「よかった。私もいくつもりだったんだ」
「お弁当作ってくるね」と柔和な笑みを浮かべる咲。ネリーは、もろ手を上げて喜んだ。
ネリー「やったー。ありがとう、サキ!」
咲「ううん。私も誰かに食べてもらえた方が嬉しいから」
咲の作る料理はとてもおいしい。
多様な日本食、その質の高さにはかねてから舌鼓を打ってきたが、その中でも咲の料理をネリーは一際気に入っていた。
話しているうちに部室にも着き、ネリーと咲は寄り添って入っていく。
ダヴァン「来ましたね。今日もネリーと一緒でシタか」
ハオ「ネリーが教室まで迎えにいっているそうですよ」
ダヴァン「なるほど。ネリーに先んじて向かえバよかったんでスか」
明華「おや。私もいってみたいですね」
咲「変な噂が立ちそうなのでやめてください……」
ネリー「サキに迷惑かけるのはゆるさないよ!」
会話もそこそこに雀卓に向かう。
ネリーと咲の他に日本人の部員二人が同席し、卓を囲む。
その日、ネリーと咲は思う存分麻雀を打って過ごした。
翌日。
朝から隣部屋に突撃訪問して咲と合流してから、ネリーたちは学校へと向かう電車に乗る。
ネリー「ううー眠いよう」
咲「わざわざあんな早い時間にくるからだよ」
苦言を呈しながらもミント味のガムを手渡してくる咲。
用意がいい。さりげない優しさが身にしみた。
恙無く学校に到着し、二人揃って門を潜る。
天気は快晴。澄み渡った朝の空気を吸い込めば、眠気も多少は晴れる。
部室にいけばいつもの顔ぶれが集う。
明華「また二人ですか。仲が良いですね」
ネリー「ネリーと咲は同じアパートだよ。お隣なんだから」
麻雀卓に座るダヴァン、明華、ハオ。そして智葉。
対抗心を燃やす智葉の姿に咲が気炎を上げていたが、今日も智葉はそっけない。
代わる代わる卓に入り、あぶれたメンバーはネット麻雀を打ったり、対局の様子を観察したり。
そんな中、咲と智葉が同席する事は決してなかった。
咲「明らかに避けられてるよ。今日もダメかなぁ……」
お預けを食らう咲はいつもの事ながら、今日は、目に見えてしょんぼりしていた。
ネリー「サキ……」
智葉が咲を避けるのは監督の指示らしい。
インターハイ予選まで時間もあまりなく、自分が先鋒に相応しいと分かりやすく示したいのだろう。
その中で智葉と争う事もできず、かといって智葉の実力を目の前でみている以上、侮る事もできず、オーダーへの不安が焦燥を煽る。
日に日にそれが強くなっていく咲の姿はあまり見ていたくないものだ。
何とかしてあげたい。
とはいえ、ネリーが監督や智葉に頼んでもあしらわれてしまったので、気休めにもならない励ましくらいしかできないのが現状だった。
ネリー「一度休もう? 朝からうちっぱなしだよ」
咲「でも……」
ネリー「体調崩しなんてしたらますます選ばれなくなっちゃうよ」
体調を管理するのも立派な資質だ。
それに、体調さえ万全なら他のポジションに選ばれる可能性は捨てきれない。
そう伝えてはみるけど、咲の反応は芳しくない。
咲「先鋒以外じゃ……」
ネリー「……」
どうしてそこまで先鋒にこだわるのか。
はっきり言って咲の力は侮れない。
留学生のポジションを奪ってもおかしくない可能性にネリーだって冷やりとさせられるのに。咲はというと、先鋒でなければ試合には出ないと監督に明言するほどだ。
ネリーはオーダーから外されるわけにはいかない。
だから、咲を心配する一方で、少しだけ安心してしまう自分に少なくない罪悪感を覚える。
どうして、咲は先鋒にこだわるのだろう。
後ろめたい自分の立場が、その問いを投げかける事を拒ませる。
ネリー「サキ、ごはん食べよう」
咲「え?」
ネリー「お腹すいちゃった。朝つくるのみてたから、すっごく楽しみにしてたんだから」
朝早くに押しかけて、ちょっとだけ弁当作りを手伝ったりして。
咲を休ませるための方便。でも、楽しみにしているのは本音だった。
咲「……ネリーちゃん。そう……だね。お昼にしよう」
ネリー「校庭で食べよう。天気もいいしちょうどいいよ」
受け入れてくれた事にとびきりの笑顔を浮かべて。
先行して部室を飛び出していく。
追いかけてくる咲が後ろの方で何事かをつぶやいた。
咲「……ありが……と……」
投下おわりです
昼下がりの校庭は、祝日という事情もあって先客もおらず、空いていた。
しかし完全に人気がないわけではないようだ。運動場の方から部活に励む生徒の声が聞こえる。
ネリー「サキ、このタンドリーチキンすごくおいしい!」
咲「ん。おいしくできたみたいでよかった」
咲お手製の弁当を広げ、暫し歓談に耽る。
しかしすぐに食欲が勝り、中々箸は止まらなかった。
ネリー「ごちそうさま!」
完食。米粒一つ残さず平らげて満足げなネリーに、咲は笑顔で受け答える。
咲「お粗末さまです。ふふ」
それから麻雀や学校の話をしようかとネリーが考えていると「飲み物がなくなったから何か買ってくる」と言って咲が立ち上がった。
ネリー「ならネリーもついてくよ」
咲「大丈夫。すぐそこだし、ネリーちゃんは休んでて」
咲の迷子になる癖が心配だったけど、さすがにあの距離なら大丈夫かな。
無理を言ってついていく必要もないと思ったネリーは、咲の言葉に従う事にする。
咲の姿が見えなくなり、一人になった。
ネリー「うーん。ひまだな」
手持ちぶさたになって思わず口を突いて出る。
最近、誰かと一緒にいる時間が増えた。具体的には、咲と一緒の事が多い。相対的に一人の時間が寂しくなった。
グラウンドから聞こえてくる部活に励む声。
ほどよく鼓膜を揺さぶる音に段々と眠気が降りてくる。
咲、早く戻ってこないかな。
まどろみに落ちていく。
いつしか目蓋は閉じ、意識はどこか遠いところに旅立っていた。
心地よいまどろみが意識をやさしく包んでいた。
そよ風が草木を撫でる音、淡い木漏れ日が射し込む。
そして、横になった頭の裏に感じる柔らかな感触。
薄目を開けて咲が膝枕をしているのだと気づくのに、ネリーは数秒の間を要した。
(寝ちゃってたんだ……サキが膝まくらしてくれてる)
(気持ちいいな……もうちょっとだけ)
狸寝入りを決め込むネリーに気づく事なく、咲は文庫本を手に佇んでいた。
心地よい時間が過ぎていく。
やがて時間の境がなくなって、またまどろみの中に入りかけるネリー。だが、その直前に知らない声が耳朶を打った。
「あ、誰かいる」
「あれ宮永さんだ。同じクラスの子」
闖入者の存在に咲も気づいたのだろう。わずかに膝を動かして反応を示した。
「宮永さんも部活?」
咲「うん。麻雀部だから……」
「麻雀部! うちってめちゃくちゃ強いんだよね」
「えー。すごい!」
咲「あの、ネ……この子が寝ているので、できたら静かに」
「あ、本当だ。ごめんね」
「っていうか外国人……? 制服着てないけど」
留学生だと答える咲に闖入者たちは関心を示した。
「その子しってる。ネリーって子でしょ」
「そうなの?」
「うん。有名だから」
「有名?」
「なんかお金の話ばっかしてるって」
「日本に来たのもお金もらって麻雀するためだよね」
「えー」と非難がましげに声をあげる闖入者たち。気分が沈む。
ネリーはそういった認識をされる事が多かった。度を越えた吝嗇家だとか、お金に汚いという風評だ。
お金への執着がある事は否定しないし、事実お金のために留学しているが、咲の前でそのような言われ方をするのは嫌だった。
日本ではお金への執着を意地汚いとみられる事が多い。咲のように、親しく接してくれる日本人は稀だった。
咲に嫌われたくない。
何か言い返すべきかと考え始めたネリーに、しかし先んじて言い返したのは他ならぬ咲だった。
咲「お金のために麻雀して何が悪いんですか」
咲の雰囲気が、麻雀で全力を発揮するときのそれに近くなっている。急激な変化をネリーは感じとっていた。
別人のように冷たい態度。そしてネリーですら痺れる威圧。
気勢を削がれたのは鋭い瞳を向けられているだろう闖入者たちだった。
「え、何この子いきなり雰囲気が……」
「そ、その子寝てるんでしょ? そんな庇わなくても」
咲「あなた達には関係ありません。さっさと他のところにいってください」
場所はいくらでもあるでしょう、と冷たく言い捨てる。
闖入者たちは言葉通りさっさと移動していった。本気で凄む咲に堪えかねたのだろう。
二人きりになって、咲はネリーの頭を撫でながらつぶやいた。
咲「ろくに麻雀を打てない人たちに、ネリーちゃんの麻雀を馬鹿にしてほしくない……」
(サキ……)
嬉しかった。純粋に咲の好意が胸に響く。
頭を撫でられる心地よさに身を委ねながら、ネリーは考えていた。
起きた方がいいのかな……。
踏ん切りがつかないまま、ほどなくして。
不意に機械的な音が鳴る。
それが携帯の着信音だと気づくまで、暫くの時間を要した。
咲「あっ……電話」
咲「えっと……あれ……ええっと……?」
やけに時間がかかっている。
咲「ここを……こうして……そっちを…………あれ」
おかしいよ! 何でそんな手間どるの!
こっそり薄目を開けて窺ってみれば、悪戦苦闘する咲の姿。
助言するべきか。いやでもこれはーー自力でいけるか。
いける! あとその横のボタン押すだけだよ! 最初からそのボタン押すだけでいいんだけど!
咲「…………はい。もしもし」
咲「お母さん? ……うん。私だけど」
お母さんか。どうしよう。今は邪魔しちゃ悪いかな。
起きる機を逸して聞き入っていると、話は続く。
咲「今は学校……だけど。うん……お昼の休憩をとってたとこ」
咲「わかってる……練習はきちんとしてるから……」
咲「うん……お姉ちゃんも学校に……いってるんだね……」
話を聞いていて、何となく違和感を抱いた。
いつもに近いけど……ちょっと違うような。
他人行儀というか。気のせいかといえばそんな気もするけど。
姉の存在と、母親との少しぎこちない会話。あと機械音痴。
ここに来て盗み聞きがまずいかと思い始めて、ネリーは焦った。
ど、どうしよう。起きた方がいい……かな。
咲「それも……わかってる。うん……うん……」
咲「……え、待って。そんなの」
咲「……そんな事されたら…………私、臨海女子やめるから……!」
サキが臨海女子をやめる!?
不穏極まる話に、ほぼ反射的に身動ぎする。これ以上盗み聞きすべきじゃないという気持ちも大きかった。
咲「っ、ネリー……ちゃん? 起きた?」
咲「あ……うん。同じ麻雀部の子もいるから」
咲「……わかった。それじゃ」
早々と会話を打ち切り、咲が囁きかけてくる。
咲「…………ネリーちゃん……?」
ネリー「……ん、う……うん……サキ……?」
起き上がり、今目が覚めた風にきょろきょろと辺りを見回す。
咲「よく寝てたね。疲れてた?」
いつもの咲だ。何となく安心する。
飲み物を渡してくる咲にお礼とお金を返しながら、思う。
ネリーはサキのこと……何にもしらないんだな……。
喉を潤すお茶の苦みが妙に頭に残った。
実況「……強い強い強い。十六年連続全国出場のかかった臨海女子、東東京インターハイ予選」
実況「この春から加わった一年生、宮永を先鋒に投入。この配置が図に当たり、破竹の勢い……ここまでの試合、全てを先鋒戦で終わらせています!」
実況「レギュレーションの変更によるやむを得ないオーダー、昨年の個人戦全国三位・辻垣内を外した大胆な起用に、関係者の間では疑問の声が上がっていました」
実況「しかし蓋を開けてみれば、留学生の出番すらない独壇場。対戦した他校を圧倒しています!」
実況「いよいよ次は決勝卓。ベスト4に残った高校は意地をみせられるのかーー!?」
実況「決勝での戦いに期待です!」
ネリー「サキ。お疲れさま」
咲「うん。あとはよろしくね」
決勝卓の帰り。対局室の近くまで迎えに来て労ってくれるネリーに、薄く笑って返す。
ネリー「セーブしとかなくてよかったの?」
咲「うん。監督の許可もとってたしね」
話しながら、控え室へと戻る。
ダヴァン「おお、戻りまシタか」
ハオ「おかえりなさい」
明華「お疲れ様でした」
口々に迎えてくれる部の仲間。
智葉「予選の相手ではものの数じゃないみたいだな」
咲「どうでしょう。臨海を意識する学校は先鋒がエースじゃないところもありましたから」
先鋒に留学生を起用できなくなった事もあって、色んな目論みが交錯する先鋒戦ではあったが、結局はその全てを蹴散らす結果になった。
大都市圏とはいえ、予選だとこんなものか。
残る個人戦には期待があるものの、拍子抜けの感は否めない。
慢心がある事を自覚していた咲だが、今のところ、智葉と当たるまで本当の意味で油断はなくせないだろう。
その分智葉との直接対決には熱を入れている。
咲「……先輩」
智葉「どうした」
咲「それ……何ですか?」
智葉「ふむ。エトピリカになりたかったペンギン……略してエトペンだそうだ」
智葉が腕に抱くぬいぐるみが気になって尋ねてみる。
咲「……なんというか、その……私物ですか?」
智葉「貰い物だ。懇意にしている子供達から貰ってな」
咲「そ、そうなんですか」
正直、壮絶にミスマッチだったので聞きづらかった。
いや意外と少女趣味でも合っているんだろうか。
咲「…………」
部室で以前見た、長ドスを抜くかのような鋭い雰囲気で闘牌する智葉の姿が脳裏を過る。
似合わない。
智葉「……何か失礼な事を考えていないか」
咲「い、いえ」
ネリー「自覚あるんでしょ? エトペンが補食される寸前にみえるっあだだだだ!」
智葉「誰が肉食動物だ」
ネリー「うわあん、サキー」
泣き真似して抱きついてくるネリーをよしよしと宥めながら、咲は思う。
どちらかと言うとシノギに拐かされた被害者かなぁ……。
智葉「おい宮永。顔をみれば喧嘩を売ってると分かるぞ」
咲「え、えっと……その……」
智葉「いつもの威勢はどうした。まあいい。今日の試合が終わったら打ち上げをするぞ」
咲「わ、わかりました」
咲だけしどろもどろながらも、皆が了承の意思を伝える。
ハオ「ではいってきます」
出番の回ってきたハオが対局室に。
二位に対して十万点近くリードしている事もあり、適度な緊張感で臨めるようだ。
しかし一方の咲は。
(うう……やることはやったけど……なんかやりづらいよぅ……)
弱気な性根が顔を出しているのを自覚する事なく、内心のびくびくを仕草に滲ませてしまっていたーー……。
眠れない。
日々迫る刻限が真綿となってしめつける。
インターハイ、レギュラーの選出。先鋒の席。
もやもやとした不安に覆われ、埒のない疑問がかま首をもたげる。
先鋒に固執する。でも本当にそれでいいのか。固執すればするほどわからなくなる。
ネリー「練習おわったー!」
咲「お疲れさま」
咲「なんだかやたら時間気にしてたね」
ネリー「晩ごはん! サキの晩ごはん食べれると思うと我慢できないよ!」
今日は一緒に夕食を摂ると約束していた。
大体、隔日くらいで提案がある。毎日は忍びないと考えているのだろうか。きっちり食費まで入れてくれて義理堅い。
咲「ふふ。下ごしらえしといたから、すぐに用意するね」
ネリー「うん!」
元気爛漫な返事に気持ちの凝りが少しなくなる。
独り暮らし。独りの時間がもっと増えていたら。今より鬱々とした時間を過ごす羽目になっていただろう。
紛らわしてくれるネリーには感謝が絶えない。
ただ。
ネリー「じゃ帰ろう!」
咲「あ、ごめん。ちょっと寄るところあるから先に帰ってもらってていい?」
ネリー「そうなんだ。でもついてった方がよくない?」
咲「行き慣れてるとこだから大丈夫だよ」
今だけは突っぱねた。
今、咲の頭の中はぐしゃぐしゃで、収まりがつかない。
気分転換しよう。ネリーとの夕食の席で水を差すような真似をしたくなかった。
ネリーを帰す。名残惜しそうにしていたが、少しの時間だ。我慢してもらおう。
校門を通り、いつも帰るときとは違う角を曲がって繁華街の方面に抜ける。
その間も堂々巡りの問いかけは続く。
自分は先鋒の座を勝ち取れるのか。本当にそうしなければならないのか。
先日の母との会話が思い出される。
『あなたがその気になってよかったわ。中学の三年間を麻雀に費やせたのは本当に大きい』
『高校。ここでどれだけ実績を残せるかが、今後に直結する。そのための地力をあなたは中学で身につけたのよ。おめでとう、咲』
『さあここから。まずは臨海女子で先鋒になりなさい』
『そしてインターハイ本選で姉……照を倒す。それができたら』
『私が照との仲をとりもってあげる……約束する』
先鋒に。そしてお姉ちゃんに……。
姉との縁を戻す事は切実な願いだ。そして約束を抜きにしても、咲には姉を下す理由がある。
雑多な人が行き交う繁華街の往来にぽつんと立ち、もう何年も会っていない姉の顔を思い浮かべる。
お姉ちゃん……。
辻垣内智葉を差し置いて先鋒になれるのか。ネガティブな感情が胸を埋め、後ろ向きにしか考えられなくなる。
自分で嫌になるほどの意気地の弱さ。
表面的に取り繕う術は身につけても、変わらない本質が悲しい。
寝不足の体は悲しみに沈む心とは裏腹に熱く、もわりとした熱が頭全体に広がっていた。
体の動きが鈍い。このまま突っ立っていたら危ないか。倦怠感もひどい。
気分はまるで入れ換わった気はしないが、仕方なく帰路につこうとする。
しかし意識しないところから現れた誰かの体に行く手を阻まれた。
「あのさーちょっといい?」
「さっきからみてたんだけどさ、一人でぼーっとしてるよね。暇なの?」
咲「は、はあ……?」
男の二人組。然して歳の差もなさそうな異性に突然話しかけられ、咲は困惑した。
都会からは離れた長野に暮らし、休日に街へ繰り出すような習慣もなかった咲には、彼らの目的もわからずとりわけ不審なものに映った。
「暇なら俺らと遊ばない? いいトコしってんだけど」
咲「いえ……その……」
寝不足故に上手く働かない頭を回して考える。
全く覚えのない相手だ。その割にやけに馴れ馴れしいのはどういう事か。
「いいじゃん。暇なんでしょ?」
「ってかさあ、どっかで見た事あるよね君。何だっけ」
咲「あの……帰りたいのでそこを通らせてくれませんか」
体調が悪くて、と控えめに伝える。しかし彼らが退く気配は一向になかった。
「え、体調悪いの。なら休まないと」
「すぐそこにいいトコあるし。いこういこう」
話が通じない。咲は困り果てた。
見た目はそこそこ整った感じで、衣服や装飾にも気を配る普通の男性にみえるが、えもいわれぬ悪寒がした。
なんだか不気味だ。さっさと立ち去ろう。
道を譲ってもらえないのなら横に回ろうとすると、
「まあまあ」
がしりと腕を掴まれた。いよいよ狼狽してしまう。
咲「ちょ、ちょっと……!」
さすがに我慢の限界だ。柳眉を吊り上げ、掴まれた腕を振りほどこうと力を込める。
だがびくともしない。咲は青ざめた。元々腕っぷしも強くなく、不良を訴える体調が余計に力を失わせていた。
掴まれた腕がひっぱられる。今の体調からしてあまりに乱暴な扱い。とうとう目眩が襲った。
咲「う……やめ……っ!」
男たちはにやにやとしている。周りをみれば咲の体調不良などわからないからか、異常に気づく人はいない。
慌てる。見向きもしない通行人、どこかに連れ去ろうとするかのような男たち。背筋といわず総身を寒気が這い上がる。
咲「誰か、助……っ」
智葉「うちの部員に何やっているんだ」
そんなとき、男たちの前に立ち塞がったのは咲も知る先輩だった。
「は?」
「なんだこいつ」
智葉「何してんだって聞いてんだよ。おいお前ら、そいつの腕離せ」
「し、知らねえし」
「関係ないだろ……」
智葉「ああ? 知り合いだって言ってんだろうが。いい加減にしとけよ」
颯爽とあらわれた智葉はただ毅然とするだけでなく、鋭い眼光で相手を竦み上がらせていた。
尋常ならざる迫力に男たちが怯んでいる。それは咲の目にも明らかで、しかし咲と同年代の女の子が相手と知ると血相を変えた。
「は、はあ!? ふざけんじゃねーぞ!」
「女相手になめられっぱなしでいられっかよ!!」
何を血迷ったか、男たちは智葉に近づき手を上げようとする。咲は驚いた。なんて男たちだ。
咲を離して二人がかりで智葉に向かっていく。
危ない! 咲は思わず服の裾を掴んで男たちを止めようとした。しかし手が空を切り、いよいよ男たちが智葉の襟を掴もうとする。
その刹那、智葉が機敏に反応した。
智葉「ふんっ!」
襟に伸ばされた手を逆手にとって投げ飛ばす。
したたかに打ちつけられた男が苦悶の声を上げる。
あっさり仲間が倒されパニックを起こしたもう一人が、同じ様に襟を掴もうとして投げ飛ばされた。
智葉「調子に乗ってんじゃねーぞバカヤロー!!」
「ひいっ……」
「な、なんなんだよこいつ……」
智葉「ああ?」
眼光を飛ばす智葉に狼狽えて、今度こそ男たちは逃げ出す。蜘蛛の子を散らすようだった。
智葉「ふん……腰抜けが」
智葉「おい宮永、大丈夫だったか?」
もう意味がわからない。驚愕の連続で混乱し、胸の鼓動は早鐘を打つ。
お、おわったの……?
咲はへたりとその場に座り込んでしまった。
智葉「お、おい……大丈夫か」
咲「なんか……腰が抜けちゃって……」
智葉に助けてもらいながら立ち上がり、咲はひどく頭痛のする頭に鞭を打つ。
咲「先輩……その、ありがとうございます……」
感謝の言葉を絞り出す。智葉の顔を窺うと、本調子ではない自分を気遣うような色があって、本当に頭が上がらなかった。
智葉「ったく、体調が悪いのに無理してんじゃないぞ」
咲「あう……ごめんなさい」
智葉「姉……照もこんな感じなのか? 本当に心配かけさせる」
咲「どうでしょう。お姉ちゃんとは何年も会ってませんから……」
智葉がびっくりしたような顔をしていた。一瞬遅れて、咲も失言に気づく。
咲「あっ」
智葉「いや……すまん。そういうつもりじゃなかった」
それが偽りでないのは見ていてわかった。何となくだが、そういう小細工をするような人ではない。そんな気がした。
とはいえ、動揺は隠せない。姉が妹はいないと言う以上、伏せておきたい事実だったから。
咲「あの……この事は」
智葉「わかっている。他言はしない。約束する」
智葉がそう言うならと咲は納得する。それよりも感謝の気持ちが上回っていた。
智葉「だがあいつは……いや何でもない。怪我はないのか」
咲「あ……はい、腕を掴まれただけなので」
智葉「家まで送っていく。そんな状態で一人では帰さんからな」
咲「うぅ……すみません……」
智葉に連れられて帰宅した咲がネリーに衝撃を与えたりしていたが、その後は何事もなかった。
せっかくだからぜひ夕食をと誘う咲に断りきれず智葉も食卓を囲む珍事はあったものの。
この日の事は、智葉に対する咲の心証を大きく変える出来事になったのだった。
投下おわり
宴もたけなわ。盛り上がる皆をぼうっと眺めながら、咲はカラオケボックスで用意された唐揚げをつまむ。
ネリー「サキどうかした?」
咲「ううん。何もないよ」
予選は優勝。次鋒のハオであっさりトビ終了し、あっけない幕切れとなった。
予選は通過点でしかなく、もはやそれは咲の眼中になかった。咲の心中を占めるのは、個人戦、そして個人戦で当たるだろう先輩の事だけ。
ネリー「うーんそう? あ、次ネリーの番だって。いってくるね!」
順番だと伝えられマイクを手に駆けていくネリー。
ダヴァン「サトハはどんな歌が好きなんデスか?」
智葉「歌か。演歌をよく聴くな」
気にしている人物の声が聞こえて、咲は耳をそばだてる。
演歌が好きなんだ。
容易に想像できる趣味に咲が微笑を零していると、
ネリー「どれが理想ってやつなんだ♪ 彼が理想ってやつなんか? 答えてよデジタ~ルモグラ~♪」
智葉「あれはサカルトヴェロの歌か?」
ダヴァン「どうみてもJ-POPデスよ……」
そんな話があって込み上げる笑いを思わずこらえた。
ネリー「あれ元気になった?」
咲「う、うん。ちょっと気が紛れたかも」
その後、智葉が天城越えを歌ったりして盛り上がり、咲は悩み事を少し忘れる事ができた。
明華「歌といえば私。私といえば歌。私の出番が来たようですね」
智葉「座ってろ」
ハオ「私が歌いますね」
そんな一幕もあったが。予選を勝ち抜いた打ち上げは盛況の内に終わった。
咲「終わったね」
ネリー「帰ろっか」
智葉「ああ。さっさと帰るぞ」
ネリー「えっ、サトハ!?」
咲「先輩?」
いざ解散の段になりネリーと帰ろうとすれば、なぜか智葉がいて咲のみならずネリーも驚いた顔をした。
智葉「この前の事もあるからな……時間も遅いし送っていく」
咲「え、でも……」
智葉「前はネリーと帰らず家とも別の方向にいくからどうしたかと思ったぞ。危なっかしい。自覚しろ」
咲「は、はあ……」
生返事をする咲。
ネリー「ぷんぷん。今日はネリーいるもん!」
置いてかれ気味のネリーが気色ばむ。
智葉「ぶっちゃけこいつは足しにならん」
ネリー「ひどいよサトハ!」
ひどいよひどいよ、と文句を言うネリーをあやして、咲は思った。
この前のとき……そんなところから気づいてたんだ。それに今日も。
人を率いるのはやっぱりこういう人なのかな。
心配をかけてばかりの自分との違いを痛感した。
咲「じゃあお断りするのもなんですし……お願いします」
智葉「任せろ」
鷹揚に頷く智葉。
智葉「どこか寄るところがあるなら遠慮するなよ」
咲「あ……はい大丈夫です……」
智葉「本当に?」
咲「え?」
なんで、と不思議に思った咲は聞き返す。
ネリー「ペロッ! これは嘘をついてる味だよガイトさん!」
智葉「誰がガイトさんだ。……用事があるのか」
咲「えっ、と……しいていえば、本屋に……でも」
智葉「本屋だ。いくぞ」
ネリー「しゅっぱーつ!」
迷惑ですよね、という言葉を遮って智葉とネリーが歩き出す。咲は泡を食った。
咲「ちょ、ちょっと……!」
智葉「チームメイトに遠慮するな」
智葉「それがレギュラーを争う仲でもな」
咲「え……」
どんどん進んでいく智葉とネリー。
咲は言い返せず、戸惑いながらあとを追った。
智葉「ここでいいか」
咲「はい。すぐに済みますから」
本屋。本に興味を示さないネリーを漫画コーナーに置いて、文庫本のコーナーに向かう。
目的の品は平積みされていてすぐに見つかった。
智葉「やはり本が好きなのか」
咲「えっ、先輩」
智葉「ついていっても問題なさそうだったからついでにな」
隣の棚の本を手にとりながら、智葉が言った。
咲「そうですね。中学では元々文芸部に入ってましたし」
智葉「文芸部か。確かにそんな感じだ」
少しだけ会話に間が空く。咲は中学時代を思い出していた。
あのとき入る決意をしなかったら、ずっと麻雀をしないで過ごしてたんだろうな……。
それがいい事かはわからないが、姉との距離を縮めるきっかけは得られなかっただろう。
智葉「お前の姉も……そういうのが好そうだった」
咲「しってるんですか?」
智葉「ああ。去年インターハイで打ったからな」
咲「あ……そうでしたね」
個人戦全国三位。それは決勝で姉と卓を囲んだという意味だ。
咲はまだ見ぬ姉の姿を想像する。
智葉「やはり姉が気になるか」
咲「そう……ですね。私が怒らせちゃったんですけど、前は仲よしだと思ってましたから」
智葉「そうか」
また間が空く。記憶に残った最後の姉は、プラマイゼロに憤慨する姿だった。
智葉「だから……先鋒にこだわるのか」
咲「それもあります」
咲「お姉ちゃんに……勝たないといけませんから」
智葉「勝たないといけない?」
咲「約束してるんです。姉に勝てたら仲をとりもってくれるって、母と」
咲の話に智葉は眉をひそめた。
智葉「おかしな条件だな。そんなの無条件にするもんだと思うが」
咲「よくわかりません……ただ、私から何かする勇気もないんです」
智葉「……」
口をつぐむ智葉。
沈黙の時間。
店内に流れる音楽とざわざわとした客の声だけが耳に入る。
ネリー「サキー!」
そこに、ネリーが前触れなく背後から姿をあらわした。
咲「わっ」
ネリー「これみてこれみて! ズギャーン!」
ネリーの持つ開きかけの漫画。
それは、独特な立ち姿が特徴的な少年漫画だった。
咲「ネ、ネリーちゃん……」
智葉「後ろから驚かすな。子どもかお前は」
智葉にたしなめられ、ぷっくり頬を膨らましたネリーが子どもじゃない、とぴょんぴょん跳ねる。
その姿はまさしく子どもだった。
咲「あはは……ネリーちゃんそれ買うの?」
ネリー「うん! メチャカッコイイよ~コレ!」
智葉「何の真似かわからん」
揃って会計を済まし、店を出る。
明日はついに個人戦だった。
咲「お疲れ様でした」
長い、とても長く感じた対局を終え、咲はそれだけ口にした。
智葉「……宮永」
咲「先輩、ありがとうございました」
智葉「……ああ」
個人戦決勝卓。
並みいる強豪を下し、たどり着いた四人が凌ぎを削る戦い。
制したのは、臨海女子所属、辻垣内智葉だった。
実況「個人戦、決着ーーーー!」
解説「良い試合でした」
実況「有数の参加者数を誇る激戦区、最後の試合となりましたが、一騎討ちの様相を呈しましたね」
解説「はい。団体戦では辻垣内がオーダーから外れ、一年の宮永が活躍した事もあって予想は荒れましたが、意地をみせてくれました」
実況「こうなると全国ではどのようなオーダーがなされるか気になりますが、どうなるんでしょうか」
解説「実力でいえば辻垣内でしょう。この試合で見た限り、宮永の一歩上をいっていたように思います」
実況「とはいえ、宮永も団体戦で大暴れ、個人戦も二位と健闘しましたね」
解説「オーダーの発表が楽しみです」
照「…………」
誠子「宮永先輩、どうしたんでしょう」
菫「予選がおわって気が抜けてるんだろう。おい淡、菓子を出してやれ」
淡「はいテルーお菓子だよー」
照「…………」
尭深「……」
尭深がお茶を啜る。
誠子「食いつきませんね」
菫「これは重症だな」
淡「どうしちゃったのテルー!」
言い募られども照からの反応はない。
部長である菫はやれやれとため息をつく。
菫「まあ照抜きでもいい。全国出場校の研究をするぞ」
淡「面白い学校からやろうよ」
菫「お前は……まあいい。強豪からすればいいしな」
誠子「強豪というと神代のいる永水や園城寺の千里山ですかね」
菫「両校とも勝ち上がっているみたいだ。じゃあその二校か」
淡「その二人って大将なの?」
されたくない質問をされて菫は嘆息した。
菫「……二人とも先鋒だな」
淡「えー! じゃあ私関係ないからパス!」
ふざけるな、と菫は思ったが、他にもみておくべき学校はある。
苦言を呈すのは後回しにした。
菫の考えを察した誠子が助言してくれた。
誠子「番狂わせの出場を果たした学校……なんてどうですかね」
いい案だ。淡も興味深そうに聞いている。探してみて何校か目星をつけた。
菫「奈良の古豪、晩成を下してきた十年ぶりの阿知賀、北海道は初出場……」
菫「長野は風越でも龍門渕でもないのか。清澄……こっちも初出場だな」
長野、そう口にしたとき、照が僅かに反応した。
次いで口を開く。
照「菫……長野の選手リストみせて」
菫「いきなりどうした」
照「選手リスト」
菫「おい」
照「リスト」
菫「……はあ」
菫は出場選手の書かれた名簿を渡す。渡されたそれを読む照は、目を皿のようにしている。
照「……いない……違う……」
照「ありがとう」
菫「何を探してたんだ」
照「……言えない」
ごめん、と手短に謝ってくる照に菫は諦めをつけた。
こう言うときは決まって口を割らない。それなりに長い付き合いでわかっているから、時間の浪費を避けた。
淡「長野なんかあるの!? ビデオみようよビデオ!」
「いない」や「違う」といった呟きを聞かなかったらしい淡が関心を示す。
勘違いだがちょうどいいか。後でこれを種に言う事を聞かせよう。
淡の提案を聞き入れる形で、長野の映像を見る準備を整えさせる。
準備はまもなくして整った。
実況『大将戦、決着ーーーー!』
実況『名門の風越、前年度優勝を果たした龍門渕、初出場の鶴賀を下し、頂点に立ったのは清澄高校だーー!』
藤田『これはまさかだな。清澄が優勝するとは思わなかった』
実況『二位に対し四万点のリードを抱え大将・原村にバトンを繋いだ清澄ですが、龍門渕の猛追を寸前でかわし切る結果になりました』
藤田『もしかするとこれは清澄の作戦勝ちかもしれないな。副将戦までに龍門渕を沈ませ、大将戦を逃げ切るつもりだったように思える』
実況『真っ向から戦っていたら厳しかったという事ですか』
藤田『十中八九負けていただろうな。原村が衣の支配を受けない体質とはいえ、真正面からやるには火力も何も違いすぎる』
藤田『龍門渕の最後の親を流していなければ順位は変わっていた。あれは風越の援護に近かったな』
淡「へー」
淡が相づちを打つ。
気が抜けているのは作戦で勝利を拾ったと言われていたからだろう。
『それでは選手にインタビューをしていきましょう』
和『咲さん勝ちました! 私、全国にいきます!!』
実況『……えー。これは』
藤田『宮永咲。インターミドルで活躍していた選手だな。今年高校一年生のはずだが』
実況『な、なるほど。その宮永さんに宛てたメッセージなわけですか』
和『本当に大変でした。何度も挫けかけましたが、その度に咲さんへの想いをバネに頑張りました』
和『チームメイト? ……ええもちろん、チームメイトとの絆も大きかったです』
衣『驚天動地。得がたい経験をさせてもらった』
衣『本音をいえば正面から衣を打ち破る相手を期待していたが、これもまた勝負。今回は衣の負けだ。認めよう』
衣『死に物狂いで点棒を守り切られた……天晴、という他ない』
衣『欲をいえば、清澄や風越の大将が絶賛するミヤナガサキとやらに見えたかったな』
衣『全国へは観戦にいこう。ノノカ達と共にな!』
『以上、中継席でした!』
淡「天江コロモ負けちゃったのかー」
淡「ねねスミレ、次みよ!」
菫「おいおい。まだ決勝以外が……」
そこまで言って、菫は気づく。
照がプロジェクターの画面を食い入るように見ている事に。
菫「ミヤナガサキ……」
ミヤナガ。宮永。まさか、と菫は照の方を振り向く。
淡「ミヤナガ? テルーとおんなじ名字だねー」
菫「おい照」
照「…………」
今日は二回更新できた
おわり
白糸台というか照の視点もうちょっと続きます
また黙りだ。菫のため息が再び中空に吐き出される。
だがこの清澄は侮れない。
レギュラー五人のうち、三人が一年生。先鋒、副将、そして大将。
来年以降も出てくるなら脅威となる可能性は十分にあり得る。
菫は清澄に警戒心を抱く。
しかし。
実況『東東京予選、決着ーーーー!』
実況『圧倒的な強さでした。臨海女子、決勝戦まで先鋒のみ、そして決勝でも先鋒・宮永の稼いだ大量リードから、次鋒で決着ーー!』
健夜『相手になってませんね』
健夜『恐ろしいのは、来年以降も三年までに収まる選手が先鋒・宮永も含め四人いる事でしょう』
健夜『臨海以外の学校には辛い現実となりましたね』
実況『臨海の宝刀、留学生選手を決勝に至るまで一人しかみられませんでしたが、そうみてよさそうですね』
健夜『はい、全国でもーーーー』
衝撃の光景。
菫は開いた口が塞がらなかった。
淡、尭深、誠子もそうだったろう。
それは、各県のビデオ観戦が佳境に達した頃だった。
東東京は臨海で決まりだろうと思っていて、現実に臨海だったが、そのオーダーは驚愕すべきものだった。
誠子「弘世先輩、これ」
菫「ああ……」
ちらりと視線を送られた照は、むっつりと押し黙っている。
何度かコンタクトを試みたが、結果は空振りに終わる。
淡「このサキって子、超イケてんじゃん!」
淡「っあー! でもまた先鋒!?」
淡「もう先鋒代わってよテルー!」
一人相撲を繰り広げた淡にも無反応を貫く。
菫「おい」
再び声をかけた瞬間。照が席を立ち、足早に部室を出ていく。
露骨な追及の避け方だ。
菫は、ため息をまた吐き出した。
菫「そこまでされると逆に確信を持てるけどな」
淡「スミレー結局臨海女子の先鋒はツジガイトって人とどっちが出るの」
菫「……ほんと自由でいいな、お前は」
誠子「こっちに書いてありますね」
菫「照のやつ、見ないでいったか。まあ自力で見つけるか白状するまでは隠しといてやろう」
もやもやする。
逃げだすように部室を飛びだし、意味もなく階段を駆け降りてきた照は、昇降口で靴を変えながら歯噛みする。
先ほど虎姫の部員共々知らされた事実。咲が臨海女子で麻雀をしているという現実。
校門前の並木道を仏頂面で歩きながら、ゆっくりと反芻する。整理できた頃には、やはり少なからず衝撃が尾を引く。
咲が高校でも麻雀をやっていた。東京で、照と目と鼻の先で。
母は咲の進学先に関して何も教えてくれなかった。今問い詰めればあっさりと認めるのだろう。照は臍を噛む。
中学で咲が麻雀を始めたときもそうだった。長野に会いにいこうとして、勇気が出ない私をみて目を細めながら、母は平然としていた。
『咲が麻雀を……なんで教えてくれなかったの!?』
『訊かれなかったから。最近、話す時間も持てていなかったしね』
『でも……』
『反対しろというならお門違い。咲は自分の意思で始めた。関与していないわ』
『……私がこうやって騒ぐから黙ってたの?』
『それは心外。でも中学の三年間だけとは言ってたから照の望み通りになるわ』
『姉妹なら、妹がやりたいというなら応援してあげなさいとは言っておくけど』
あのときの会話が思い出される。
今思い出しても腑に落ちないやりとり。今回もまた蚊帳の外。
そして中学でやめるという母の言葉に反して、高校でも咲は麻雀を続けている。咲の進学先を頑なに教えない事から薄々察するべきだったのだろうが、やはりショックを受けてしまう。
咲が東京にいる。あの咲が。
会いにいくべきか。そして告げた方がいいのか。無理に麻雀をする必要はないのだと。
しかしインターハイのオーダーは既に変更の期限を過ぎている。
選出されていれば咲の出場如何が学校の進退に関わる。
もっと早く知っていたら咲を説得する事もできた。いや、だから今まで知る機会を与えなかったのか。
照個人としては、それで咲のためになるなら、学校の事情を放ってもいいと考えている。
だが咲が聞き入れるとは思えない。咲にとって照など親戚のお姉さんと変わらない存在だろう。
そんな相手に進退に関わる話をされても迷惑だ。もし照が咲の立場なら断る。
横断歩道の赤信号に立ち止まるのを余儀なくされつつ、雑踏の中でまた意味もなく足踏みする。
日はまだ高い。
人込みを避け物陰へと足を向けながら図書館を目指す。
しかしいってみれば閉館の日で、そこに意識を向ける余裕もなかった自分に地団駄を踏みたくなる。
仕方なく図書館の前に踵を返し、書店に足を運ぶ。
静かではないかもしれないが文字を読んで紛らわそうと考えていた。
だがそこで、思いがけない人物と遭遇する。
智葉「奇遇だな」
照「……辻垣内」
去年のインターハイで凌ぎを削った強敵。そして、咲のいる臨海女子に在籍する麻雀部員でもある。
照は静かに息を呑む。緊張を強いられる相手だった。
照「久しぶり」
智葉「ああ、久しぶり」
間が空く。個人的に因縁浅からぬ相手、それも咲と無関係ではないだろう。
先ほど他の部員を巻き込んでも、と思っていたところの人間だ。気まずい。
何を話せばいいのか。迷っていると、智葉から話が振られた。
智葉「本当に奇妙な縁だ。この書店の系列店で宮永……妹とも一緒になった事がある」
照「っ、咲が……姉と言ったの?」
その言葉が照に与えた衝撃は小さくない。内心の嬉しさを隠しつつ、努めて無感情に話す。智葉は「ああ」と頷き「他言はしないという約束だが」と加えた。
智葉「一応、当人だ。それに……そうも言っていられなくなった」
照「どういう事?」
智葉「……咲の事だ」
雲行きがあやしい。
照はもう一度「どういう事」と尋ねる。通りすがる客の様子を窺いながら、智葉が厳しい面持ちで返す。
智葉「先に聞いておきたい事がある」
智葉「それに明確な返事をしないなら話さない」
その言葉に最初、言い知れない不快さが胸をつく。また蚊帳の外に置かれそうな不安がかま首をもたげたからだ。
その感情を抑え込む。今は関係ない。教える気のない母のときとは違う。
智葉「詳しい事情はわからないが……咲の話を聞く限り、お前たちは……昔はともかく今は疎遠なんだろう」
智葉「それでも咲のために動けるのか。咲を思い慕う気持ちがあるのか」
それが知りたい、と智葉の表情に真剣味が増す。
照「それはできるし、ある」
はず、と加えかけて口をつぐむ。
なぜそんな言葉を言いかけたのか。
続く智葉の指摘に思い当たる節があった。
智葉「ならどうして妹はいないなんて言った」
照「それは……」
中学で麻雀をやめると聞いていた咲に自分が姉という事で余計なプレッシャーを与えたくなかったから。遠い長野にいる咲を見守るのはできないし、託せるような人にも心当たりがなかったから。
言葉にして頭に並べてみれば何だか言い訳じみていて。苦し紛れに「咲は中学で麻雀をやめると聞いていたから」とだけ伝えると、
智葉「中学で……」
いまいちぴんときていない、智葉はそんな様子で思案げに押し黙った。
照としても話す気はない。
これ以上は家族の事情だ。踏み込まれたくない。
照「だから……高校でも麻雀をしている事に驚いている」
智葉「まるで咲に麻雀をやめてほしいみたいじゃないか」
照「咲は競技麻雀に向いていない。……やらせるのは酷」
智葉が非難の視線を向けてくる。随分と勝手な言い分だとは思う。しかしこの件に関して照は麻雀を捨てる覚悟があった。
それほどに咲を麻雀に関わらせる事に懸念を抱いている。
長い沈黙が落ちる。先に均衡を破ったのは智葉だった。
智葉「…………お前は……」
智葉「咲の才能が……恐ろしかったんじゃないか?」
照自身、何度も考えてきた事だ。だからその問いに対する答えは決まっていた。
照「子どもの頃、咲の才能が末恐ろしいと思った事はある」
手の届かない場所にいってしまうのではないかという不安。
嫉妬ではなく、咲が心の底から麻雀に打ち込めば、咲がいなくなってしまう、漠然とした恐れが渦を巻く。
照「だけど、自分の感情に怯えて咲が傷つくのを見過ごすより……私は咲の平穏を選ぶ」
人が生きていればどうしたって傷つかないで過ごすのは無理だ。
でも悲しみを減らしてあげる事はできるはず。
照はその思いを支えに今日まで過ごしてきた。
だから。
智葉「なら傍にいてやらないとだめだろう……」
智葉のその言葉は、深く胸に突き刺さった。
智葉「……私の口からは教えない」
智葉の足が動く。まるで話は終わったとばかりに。嫌な予感がした。追いすがるように慌てて名前を呼ぶ。
照「辻垣内……」
智葉「知りたければ自分で確かめに来い」
待って、と言いすがる前に智葉は立ち去った。後に残された照に残ったのは、言い様のないもどかしさと逼迫する不安だった。
短いですがここまで
じめじめとした梅雨の季節。
もう少し、あと少しで抜けるといった具合に晴れ間も覗いてきた近ごろだが、ネリーの心は浮かなかった。
ネリー「ねえサキ! 今日は一緒に帰れる?」
咲「ごめんね、今日もちょっと遅くなるんだ」
すげなく返された言葉に気分が沈む。まるで考える様子がない。
部活の練習中。あんまり喋っていると私語を禁じられるので大人しく引き下がり、黙々とよく知らない相手と卓を囲む。
何度目かの入れ替えで入ってきた明華がネリーに囁く。
明華「今日もだめそうですか」
ネリー「うん……」
とりつくしまもない。最近、気の抜けた麻雀を打ちつつあるネリーは、手に入れた牌をろくに理牌もせず打ちながら返す。
智葉「ちょっと出てくる」
一つ声をかけて智葉が部室を出る。このところ、放課後や休日に誰かを待つようにする智葉が多少気になるネリーではあったが、大して詮索せずに捨て置いていた。
ダヴァン「ココは一つ、趣向を変えてみてはどうでショウ」
ネリー「趣向?」
「ハイ」と答えたダヴァンがカップ麺を三つ出す。どこからともなくといった感じでまさしく手品めいた手腕だったが、ネリーの目は白い。
ダヴァン「例えば、例えばデスが、カップ麺を食すパーティのようなモノを開けば……」
ネリー「そんなのに釣られるのお前だけだよ!」
思わず突っ込む。どう考えても咲を釣れるとは思えなかった。「そうデスか……」としょんぼり立ち去るダヴァンを胡乱な眼差しで見送る。
ふう、と一つ吐息して落ちつく。少しだけ元気が出た。
そのまま部活が終わる。外に出た智葉は居合わせず解散となって、伝言板に伝える旨を書き残した。
明華「咲さんは帰ってしまったようですね」
ネリー「夕飯の時間には帰ってくるんだけど……心配だよ!」
帰りがけに声をかけてくる明華と話す。咲は部活が終わるなりそそくさと帰ってしまい、既に不在だ。
ダヴァン「しかし、サキも強情デスね……」
ハオ「もう一月近くこの状態です」
口々に混じってくる面子も決まっている。留学生組に智葉。咲と親交のある部員は基本的にこの五人だ。
ネリー「ううーもう! サキのバカ! サキのバカ!」
ダヴァン「ど、どうしたんデスか」
ネリー「きのうの夜一緒にごはん食べたんだけど、ほとんどお話してくれなかったの!」
校舎の外、留学生四人の空間が静まりかえる。
咲と一番仲の良いとみられているネリーですら、そんな現状。由々しき事態だ。
明華「団体戦で共に戦う仲間として、見過ごせませんね……」
深刻な表情でつぶやく明華に誰も返す言葉を持たなかったーー……。
じめじめとした梅雨の季節。
もう少し、あと少しで抜けるといった具合に晴れ間も覗いてきた近ごろだが、ネリーの心は浮かなかった。
ネリー「ねえサキ! 今日は一緒に帰れる?」
咲「ごめんね、今日もちょっと遅くなるんだ」
すげなく返された言葉に気分が沈む。まるで考える様子がない。
部活の練習中。あんまり喋っていると私語を禁じられるので大人しく引き下がり、黙々とよく知らない相手と卓を囲む。
何度目かの入れ替えで入ってきた明華がネリーに囁く。
明華「今日もだめそうですか」
ネリー「うん……」
とりつくしまもない。最近、気の抜けた麻雀を打ちつつあるネリーは、手に入れた牌をろくに理牌もせず打ちながら返す。
智葉「ちょっと出てくる」
一つ声をかけて智葉が部室を出る。このところ、放課後や休日に誰かを待つようにする智葉が多少気になるネリーではあったが、大して詮索せずに捨て置いていた。
ダヴァン「ココは一つ、趣向を変えてみてはどうでショウ」
ネリー「趣向?」
「ハイ」と答えたダヴァンがカップ麺を三つ出す。どこからともなくといった感じでまさしく手品めいた手腕だったが、ネリーの目は白い。
ダヴァン「例えば、例えばデスが、カップ麺を食すパーティのようなモノを開けば……」
ネリー「そんなのに釣られるのお前だけだよ!」
思わず突っ込む。どう考えても咲を釣れるとは思えなかった。「そうデスか……」としょんぼり立ち去るダヴァンを胡乱な眼差しで見送る。
ふう、と一つ吐息して落ちつく。少しだけ元気が出た。
そのまま部活が終わる。外に出た智葉は居合わせず解散となって、伝言板に伝える旨を書き残した。
明華「咲さんは帰ってしまったようですね」
ネリー「夕飯の時間には帰ってくるんだけど……心配だよ!」
帰りがけに声をかけてくる明華と話す。咲は部活が終わるなりそそくさと帰ってしまい、既に不在だ。
ダヴァン「しかし、サキも強情デスね……」
ハオ「もう一月近くこの状態です」
口々に混じってくる面子も決まっている。留学生組に智葉。咲と親交のある部員は基本的にこの五人だ。
ネリー「ううーもう! サキのバカ! サキのバカ!」
ダヴァン「ど、どうしたんデスか」
ネリー「きのうの夜一緒にごはん食べたんだけど、ほとんどお話してくれなかったの!」
校舎の外、留学生四人の空間が静まりかえる。
咲と一番仲の良いとみられているネリーですら、そんな現状。由々しき事態だ。
明華「団体戦で共に戦う仲間として、見過ごせませんね……」
深刻な表情でつぶやく明華に誰も返す言葉を持たなかったーー……。
アレクサンドラ「先鋒、宮永咲」
それは、インターハイのオーダーが発表されたときのことだった。
アレクサンドラ「一部の人には疑問が残るだろうけど、これは最終決定。異論は認めない」
淡々と告げる監督の声。冷たい面差し。一瞬、聞いているネリーすら何かの間違いかと疑った。
対して、隣に立つ咲の変化は顕著だった。最初、何かを受け入れた顔で粛々と佇んでいた咲。
その表情が徐々に変わっていき、やがておぞましいものを垣間見たように手を口に添え、瞠目する。
一連の変化を見届けたネリーの顔に驚愕が浮かぶよりも早く、咲の顔がある方に向く。
智葉だ。たったいまレギュラーを勝ち取った相手。揺れる瞳が捉えている。
咲「っ…………」
言葉にならない声が上がる。咲だ。
そのままネリーが反応を返す暇もなく走り去っていく。
一方の智葉は、事の成り行きを冷静に見守る。
ネリーには何が何だかわからない。混乱していた。
アレクサンドラ「あちゃあ、取り乱しちゃったか」
苦みばしった顔でそう言ったのは監督だった。
この場にいるのは留学生四人と智葉、先ほどまでいた咲と監督を含めて七人。誰もが何らかの理由で大なり小なり動揺している。
アレクサンドラ「……サトハ、頼める?」
智葉「わかりました」
即座に了承した智葉に頼んだ監督が面食らう。少しして「無理言っちゃってごめんね」と一言詫びる。
智葉はそれに頷くと、咲の後を追って走りだす。後ろ姿はすぐに見えなくなった。
ネリー「サキ……どうしちゃったの?」
沈黙が返される。しかしほどなくして監督の口が動いた。
アレクサンドラ「ここにいる人にだけ教えておく。今回のオーダーはスポンサーの決定だという事」
ネリー「お金をだしてる人たちが……?」
アレクサンドラ「サトハはそれを知っていた。だから冷静でいられた、というのもある」
言葉の意味はわかる、けれど何を伝えたいかまでは、ネリーには読み取れない。
恐らく他の面々もそうだったろう。
痛いほどの沈黙が落ち、場を包み込む。
そんな中でネリーは、咲を追いかける事をしなかった自分に疑問が込み上がる。
(なんだろう……すっごく嫌な予感がした……)
あのとき追いかけていたら。自分は、取り返しのつかない失敗をしていたのではないか。不可解な想像が脳裏を駆け巡る。それが、今も意識の端でちらつく。
どくどくと胸が騒ぐ不吉な感触。
幽玄な明かりを窓から射し込む月は、綺麗な真円を描いていた。
あくる朝、ネリーは目覚ましの音で目を覚ます。決めておいた時刻にきちんと起きられた。
ただ頭が重く、鈍い痛みが続いている。
昨晩中々寝つけなかったからだろうか。
洗面所で顔を洗い、歯を磨いて、寝間着から着替える。
学校にいく準備が整う頃には体調も幾らかましになっていた。
マグカップに注いだ牛乳をベッドに座って飲みながら、考える。
サキ、もう起きてるかな……。
きのうあれから咲が戻ってくる事はなかった。
智葉にどんな様子だったか聞いてみたが、いまいち要領を得ず、現状はわからず終い。
直接会って確かめるしかない状況だった。
ネリー「サキー、起きてる?」
部屋の前に荷物を持っていき、控えめにノックする。
まもなく反応は返ってきた。
咲「ネリーちゃん……?」
咲「待ってて。すぐに用意するから」
言葉通り、一分そこらで準備を済ませた咲が姿をみせる。
そして「おはよう」と如才のない笑みを浮かべ、挨拶してくる。
いつも通りだ。安心する。
ネリー「おはようサキ!」
咲「いいお天気だね。あ、これ今日のお弁当」
「ありがとう!」と元気よくお礼をしながら弁当箱の中身を確認する。
献立は栄養のバランスがとれ、それでいてネリーの好物ばかり。
自然と気持ちが浮き立ってきて「わあ」と顔が綻ぶ。
ネリー「すごい……食べるのが今からすっごく楽しみだよ!」
咲「ふふ、喜んでもらえてよかった」
それからどうやってネリーの好物を見抜いたかを種にして話を膨らませつつ、学校に向かう。
咲「それじゃ私は授業があるから」
ネリー「うん! 授業がおわる頃迎えにいくね!」
咲「いつもごめんね。ありがとう」
感謝されるまでもない。望んでやっているのだから。
咲と別れ、単身部室に。
心配が杞憂だったと感じ、すっかり気を緩ませていた。
ネリー「なんだ、心配しなくても大丈夫だったんだ」
ネリー「そうだよね。選ばれなくて落ち込むんならわかるけど、咲は選ばれたんだし!」
ネリー「サトハには悪いけど、全国で咲と戦うの楽しみだな!」
部室に到着する。
まだ誰もいなかった。
この時間だと来るのが少し早かったらしい。しかし二十分も待てば他の留学生も集まってきた。
明華「おはようございます、皆さん」
ハオ「おはようございます」
ネリー「あれ、メグは?」
ハオ「ああ。電車でカップラーメン零したから掃除してるよ」
ネリー「またやったのかよあのラーメン狂い……」
たまには咲と登校させてやるべきだろうか。
乗り合わせた乗客が不憫でならなかった。
明華「メグのラーメン馬鹿っぷりはともかくとして……咲さんの様子はどうでしたか?」
ネリー「ふっふーん、教えてほしい?」
ハオ「その様子だと大丈夫そうだね」
ネリー「そっ! 心配して損しちゃったよ」
明華「くすっ、一番心配していたネリーが言っても照れ隠しにしか聞こえませんよ」
それから暫くは三麻をして、遅れてきたダヴァンも加えて卓を囲む。
ネリー「あー、疲れたー」
明華「もうこんな時間ですか。そろそろ昼休みにしますか」
ダヴァン「賛成デス。ラーメン分がもはやピンチでシテ」
ハオ「一日にどんだけ摂れば足りるんだ……」
ネリー「お昼! おべんとうだー!」
休憩する事が決まり、早速荷物から弁当箱を取りだすネリー。
明華「今日も咲さんお手製のお弁当ですか?」
ネリー「いいでしょ。サキは料理もすっごくうまいんだから!」
明華「羨ましいですね。私にも一口……」
ネリー「これはネリーのだから」
明華「そんな事を言わずに。咲さんからも言われてるんでしょう?」
ネリー「う……」
確かに咲からも分けてあげるように言われていて、おかずを少し多めに入れてもらっているくらいだ。
ネリーは、渋々弁当から摘ままれるのを許した。
明華「今日もおいしいです」
ハオ「本当に」
ネリー「うう……」
ダヴァンもカップラーメンを啜りつつ、箸休めに(?)弁当をつついていた。
昼の休憩を終えてまた麻雀漬けの時間を過ごす。
気づけば咲を迎えにいく時間になっていた。
ネリー「あっ、そろそろいくね」
いってらっしゃいと見送る面々を背に部室を出る。
生徒「宮永さん? 宮永さんならさっきどこかにいったけど」
しかし咲は不在だった。
ネリー「おかしいなー。いつもはいるんだけど」
手洗いにでもいったのだろうか。
ネリーは教室の外で少し待つ事にした。
すると数分ほどで咲が戻ってきた。
咲「あ、ネリーちゃん……。ごめんね、ちょっと出てたの」
やはり手洗いだったのだろうか。
そんなに待ったわけでもないので気にする事はないと告げた。
咲「ありがとう……今日もよろしくお願いします」
ネリー「そんな改まって言われると照れちゃうな。いこっ、サキ!」
手を差し出せば咲が握って、手を繋いだ状態になる。
いつもの格好だ。なんだか嬉しくなって強く握り返す。
ネリー「そういえば今日もサキのお弁当大好評だったよ!」
咲「そうなの? ふふっ、嬉しいな」
しかしどうしてか、咲の握る手の力はいつもより弱い気がした……。
部活が終わり、真っ直ぐ咲と帰宅して。
部屋の隅にあるソファで寛ぐ。
普段と変わらない時間。代わり映えのしない行動。
あとは適当に時間を潰して、近場で見繕った店で夕食を済ましてしまえば。咲のところで相伴しない日として、平凡な日となるだろう。
そうなるはずなのだ。
ため息を一つ。ソファを寝転がり、半身を起こす。妙な呻き声が突いて出た。
ネリー「サキ、どうしてるかなぁ」
つぶやく。気になるのはやはり、依然咲の事。放課後、連れ立って部室に顔を出してからも、ネリーの意識の大半を占めていた。
如才のない闘牌。その合間に時折みせる、柔和な振る舞い。
他の留学生や智葉も、違和感を持たず自然に接していたようだし、咲の事は心配いらないように思える。
しかしその一方で。言い知れない不安がかま首をもたげる。もやもやして仕方ない。
そのもやもやの正体がわからないから、むしゃくしゃするのだろう。
これでは埒があかない。ネリーは思い切って隣人を訪問した。
ネリー「サキー? いる?」
戸を叩く。ここで予想外だったのは、扉の向こうから水っぽく啜る音が聞こえてきた事だ。
咲「…………ネ、ネリー、ちゃん……?」
そして。遅れて躊躇いがちに返ってきた声が、まるで涙に濡れたようなものだった事で。ネリーはついにぎょっとした。
ネリー「サキ……な、泣いてるの?」
予想外の事態。鬱々とした気分から一転、激しい動揺に見舞われる。咲からの返事がない。
扉を破って突入したい衝動に駆られながらも、寸前で堪え、断腸の思いで待つ。
何十分にも思える時間を待ったあと、返ってきたのは拒絶の言葉だった。
咲「今日は……帰ってくれない、かな……」
ネリー「そんな声聞いて帰れないよ! とにかく開けて!」
先ほどより勢いをつけてノックする。もし訪ねようと思わなければ咲のこの状態に気づかなかった。その認識が余計にネリーを意固地にした。
咲「っ……帰って!」
ネリー「サキ……」
咲「ごめん……明日からは普通にするから……」
そういう事じゃない。そうしてしまっては意味がない。ネリーは、どうしても咲と顔を合わせたかった。
しかし咲が開けてくれないのでは白旗を挙げるしかない。ネリーの粘りも虚しく、その日咲が顔を出す事はなかった。そして。
その日以降、咲は徐々に周囲を遠ざけるようになっていく。
それは梅雨に入り、梅雨が明ける直前になっても改善される兆候はなく。やがて、団体戦のチームメイトである留学生たちの悩みの種へと育っていくのだった。
明華「しかし……打つ手なしですね。正直に白状してしまうと匙を投げたい気分です」
ハオ「まさか尾行して探る、というのも気が引けますしね……」
時間は戻り、梅雨明け前のある日。
部活終わりに留学生四人で集まって話し合っていた。しかし、実りある話は特に見当たらない。
ダヴァン「夕食までに帰ってくるのなら、とりあえず夜遊びの心配はないでショウか」
ネリー「いや、ネリーと夕食を食べる日はって話だから……それ以外の日はわからない……」
明華「ちょっとネリー、その話は初耳ですよ」
ハオ「そうすると二日に一回くらいはいつ帰ってるかもわからないの?」
どころか新たな問題まで噴出する始末で、対策を考えるにも一苦労だった。
とはいえ、咲も軽はずみに夜遊びをしたりするような人ではない、というのがこの場の四人の共通した見解であり、最後の一線で落ちつきを取り戻す。
ダヴァン「とにかく根気強く咲に話しかけるしかありマセン」
ネリー「……そうだよね! 咲だっていつか……」
ハオ「やっぱり大まかにはネリーに任せる事になるよね。協力できる事があれば何でも言って」
咲が親しくする人間は限られている。少なくとも臨海では留学生と辛うじて智葉が交流があるくらいで、麻雀部以外の人とは交流を避ける節があるとネリーはみていた。そして、より深い親交があるとなると、ネリーしかいない。
ネリーは意気込む。
咲と楽しく過ごす時間を、思っていたよりも気に入っていたのだと失って気づいたから。
また以前の関係に戻りたい、そんな願いがネリーの背中を押していた。
明華「あの日の翌日、咲さんが泣いているところをネリーは見かけた……それは、重要な意味を持つ気がします」
ふと明華が意味深な発言をする。もしネリーが咲の決定的な変調を目撃しなかったら、事態はもっと霧に包まれたものになっていた。
相も変わらず周囲を遠ざける咲にも、さしたる違和感を抱かなかったかもしれない。
そう考えるとネリーはぞっとした。
ダヴァン「食べるモノが必要な状況になりそうなら私に任せてくだサイ。ドントコイ」
ネリー「どうせカップ麺だろうけど必要だったらお願いするよ」
誇らしげに申し出るダヴァンに半ば呆れつつも厚意には感謝する。必要になる状況は想像できないが。
ネリー「咲を元通りにする! それで、あわよくば咲から事情を聞き出す!」
力強く宣言。不退転の決意を胸に、四人はそれぞれの帰路についた。
咲「あ、あっちの角までで大丈夫です……一人で帰れますから」
住宅街を低速で走る自動車の車内。助手席に座る咲は、運転席の女性に告げる。
「そっか。本当に大丈夫? 万が一って事があったら困るけど……」
咲「さすがにもう目の前ですし。歩いて一分くらいのとこなら、雀力をちょっと使えば……」
「あはは……力は使わないとダメなんだ」
咲「うぅ……ご心配おかけして申し訳ないです……」
週に一回はお世話になる間柄。それも、行き帰りの送迎付き。
至れり尽くせりの扱いに咲は身が縮こまる思いだった。
「んーと、明日はダメなんだっけ。隣に住んでる子と夕飯食べるんだよね」
咲「はい……こちらの都合で申し訳ないのですが……」
「いいのいいの。子どもに融通きかすのが大人の甲斐性ってね。気にしないで」
咲「……」
「あ、あれ? 変な事言っちゃったかな?」
咲「い、いえ、そうじゃなくて……すごく若々しいからあんまり歳上って感じがしなくて」
咲「その……お姉ちゃんくらいかなぁって。……あ、あのすみませんっ、失礼ですよね」
あわあわと狼狽える咲をよそに、空気が抜けるような音が運転席から上がる。
それは、堪えきれず漏れた笑い声だった。
「ふ、ふふふふっ」
「あーもう。本当可愛いなぁ咲ちゃんってば」
「思わず食べちゃいたくなるくらい☆」
咲「あ、あの……」
「あっ、咲ちゃん気をつけてね」
「咲ちゃんって無防備だから……麻雀の強い人だからって簡単に気を許したらダメだよ」
「特に鬼みたいに麻雀の強い、アラフォーみたいなアラサーを見かけたら全力で逃げて☆」
「麻雀の将来性的にも、アッチ的にも狙われたらやばいから☆」
咲「は、はあ……」
よくわからないけど気をつけよう。咲がそう思ったとき、車が目的地に到着した。
「それじゃ……咲ちゃん、またね」
咲「はい。今日もありがとうございました」
深々とお辞儀して感謝の意を示す。
車を降りて見慣れた住宅街に足を下ろすと、咲が今まで乗っていた車がこの場を離れていく。
それを手を振って見送り、咲は住んでいるアパートに向けて短い道程を歩きだした。
今夜はとても綺麗な半月だ。
咲「……」
オーダーの選出の日から暫く経ってから、誰にも内緒で始めたこの習慣。臨海に入学してから懇意にしていたネリーにも明かす気はない。
後悔は、ない。自分のしてしまった事、自分という存在が団体戦のメンバーである事を考えれば、悩むべくもない。
願わくば。自分が座る椅子に本来座るはずだった人の望みを叶えられるように。
自分を磨き抜き、そして圧倒的な力を全国で示す。
そのためのこの上ない協力者も得た。
迷いは、なかった。
ここまで
なんですが、何か調子が悪く推敲できないというか頭の中で話を組み立てられないというか…
自分でも何書いてるかわからない状態なので変なとこあったら指摘もらえると助かります
ネリー「サキー! 学校いくよ!」
咲への決意をした翌日の朝、準備を済ませて部屋から出てきた咲に向かって、ネリーは勢いよく抱きつく。
咲「わっ! ど、どうしたの」
ネリー「どうもしないよ、今日も朝から咲に会えたから嬉しかっただけ!」
咲「え、ええ……?」
みるからに戸惑う咲、しかし嫌そうな素振りはなく抱きつく自分を受け止めている。
ネリーは心の中でにやりとした。
(ふっふっふ、計算通り!)
(動揺した咲を押して押して押しまくれば、ボロを出す!)
(咲ってば結構おっちょこちょいだから……これでいける!)
ネリー「サキー、サキー」
咲「ネ、ネリーちゃん……くすぐったいよ」
じゃれつく犬や猫のようにひっつき、暫しくんずほぐれつ。
くすぐったさに堪えかねた咲が「ん……っ」と艶かしい声を出した頃を見計らい、ネリーは切り出した。
ネリー「サキー、最近部活おわったあとにどこいってるのー?」
咲「そ、れは……はやっ、……さんと……はっ!」
何か話し始めた咲だったが、はたと目を見開く。
それから怒りか羞恥からか頬を赤く染め、ネリーから素早く離れる。
咲「いっ、いきなり何……どうしちゃったの!」
(失敗!)
(うーん、いい線いってた気がするんだけど……次いこう!)
その場は適当に誤魔化し、ネリーは咲と連れ立って登校した。
お昼。昼食の時間になり、留学生四人で囲む卓から抜けて、ネリーは咲の教室に向かう。
明華「やる気十分ですね」
ネリー「咲を落としてみせるよ!」
ダヴァン「その意気デス」
ハオ「なんか嫌な予感がするんだけど」
次なる咲を動揺させる作戦とは。
ネリー「はいサキ、あーん」
咲「え、えっと……?」
ネリー「あーんだよ! ほら口あけて!」
咲「あ、あーん……もぐもぐ」
咲の教室に乗り込み、弁当をネリー手ずから食べさせる。
最初は困惑していた咲もネリーの行動の意図するところを知って観念したのか、おずおずと口を開く。
教室中の視線が突き刺さる。
咲の顔は茹で蛸のごとく紅潮していた。
ネリー「はい、あーん。ねえサキ」
咲「……あーん、もぐもぐ……な、何?」
ネリー「どうしてネリーの事避けるの?」
咲「別に……避けてなんて……」
ネリー「うそだよ! ネリーの事なんか放って他の人のとこいってるんだ!」
ざわざわざわざわひそひそひそひそ
「聞いた今の?」
「うん。つまり浮気?」
「えー宮永さんああ見えて……」
「ああいう子に限って遊んでるんだよね」
咲「わああああっ! 何言ってるのネリーちゃん!?」
ネリー「何って、ネリーの事なんで避けるかしりたくて」
咲「さ、避けてなんかないってば! それより今日はもうここらへんで……」
ネリー「……ネリーを帰らせて誰かを呼ぶの?」
咲「呼ばないよ! ネリーちゃんはもう食べ終わってるみたいだし、昼休みもあんまり残ってないから」
ネリーが手ずから食べさせていては時間が足りないかもしれない。正論だとネリーは思った。
(残念。ここまでか……ここは引き下がるしかないみたい)
(でも諦めないよ! 次こそ尻尾をつかんでみせるんだから!)
放課後。
咲を迎えついでに抱きついて、腕を組んだまま部室までの道程を踏破する。
咲はびくびくと震えてネリーの顔色を窺っていたが、容赦はしない。
不意を打って組んだ腕の隙間から脇をくすぐり、驚いて腰を抜かした咲に馬乗りになって責め続ける。
そして耳元に口を近づけ囁く。
ネリー「ねえサキ……隠してる事言ってくれないと食べちゃうよ?」
咲はぐうの音も出ない様子でされるがままだったが、耳打ちされてがばりと起き上がる。
咲「な、ななななっ」
ネリーから距離をとった咲は指を差したまま泡を食う。
ネリー「どうしたのサキ?」
咲「ど、どうしたのって……はぁ」
咲「いいから来てっ」
人通りの多い廊下で白昼堂々繰り広げた醜態は多くの視線を集め、一刻も早くその場を去りたかった、のだろうか。
ネリーの手をひっぱり、部室へと足早に向かった。
明華「ああ。来ましたね。咲さんこんにちは」
咲「……こんにちは」
ハオ「ネリーもおかえり」
ネリー「咲を連れてきたよ!」
部室に入り、ここ最近の常となりつつある素っ気ない挨拶を返す咲。
ネリーも後から入ってくる。
ダヴァンは給湯室でカップ麺にお湯を注いでいた。
咲「あ、あの……」
明華「おや。私にご用ですか?」
咲「今日のネリーちゃん……なんだか変なんです。理由を知りませんか」
明華「はて……変、ですか」
ネリー「~♪ ねえねえハオ、なんだかいけそうな気がするよ!」
ハオ「そ、そう」
明華「何やらご機嫌のようですが……それ以上は」
咲「そうですか……はぁ」
明華「ネリーが何か?」
咲「えっと……その、今日はやけにアグレッシブだなぁ……と」
咲「……あんまり、お近づきになりたくないくらいに」
明華「そ、そうでしたか……あのすみません」
咲「はい?」
明華「ネリーが今日変わった事をしているなら、それは私のせいでもありますから」
咲「それって……」
ネリー「サキーいっしょに打とう!」
咲「ひっ」
明華「……」
明華「ネリー、ちょっとこっちに来なさい」
ネリー「え? なにっあだだだだ!」
明華「こっちに来なさい」
今日咲に何をしたか詰問する明華。
内容を聞くにつれて口元がひきつり、やがて般若のごとき形相に変わっていく。
明華「ネリー、あなたに任せたのは間違いだったかもしれません」
ネリー「間違いってそんな大げさなっあだっ! いだいいだいいだい!」
明華「黙りなさい。さっきあなたに呼ばれただけで怯えていましたよ、彼女」
ネリー「そ、そんな……何かの間違いじゃ?」
明華「何が間違いですか。今日の部活中は無闇な接触を禁止します」
うな垂れるネリーにも明華の視線は冷ややかだった。
ダヴァン「マアマア、ネリーにも悪気はなかったんデスよ」
ネリー「メグ!」
思わぬ助け船にぱあっと目を輝かすネリー。
カップ麺をずるずると啜りながらではあるものの、味方してくれるダヴァンに強く感謝していた。
ハオ「こっちの卓に誰か入りませんか?」
咲と座ったハオが誘いをかける。頃合いを見計らってか、ネリーの方をみている。
その視線を受けたネリーはいの一番に名乗り出る。
ネリー「はいはい! ネリーが入る!」
明華「……では私も見張り役という事で」
ダヴァン「私は新発売のヌードルを味見するので待ってマス」
ハオ、咲、ネリー、明華で卓を囲む。
起家はネリー。全自動卓でシャッフルされた牌が配られる。
(あ、ラッキー。いきなり一向聴だ!)
三四四五八3455①①⑤⑥‐ツモ五
ドラは3。開局親番でピンフドラ1高め一盃口の一向聴。
一巡目は、もちろん打八。
第二ツモが三、打5。
これで聴牌。四筒か七筒が入れば和了だ。
(この局はもらったかな……他のみんなは聴牌してないし、字牌を整理したりしてる段階)
相手の聴牌やツモ牌を察知できるネリーにとって、この局は自分の独壇場。そう感じるに十分な条件が揃っている。
唯一この盤面を一気にひっくり返すのは、咲がカンを連打しての和了。しかし、その確率はそこまで高くない事をネリーは今までの経験から予想していた。
(ここは強気に攻めるーー!)
と意気込んだものの、待ち牌を引けずツモ切りする事七牌。
そこで恐れていた事が現実となった。
咲「カン」
咲「もいっこカン」
咲「ツモ、嶺山開花です」
一向聴から嶺山牌を二枚引いて和了に持ち込んだのだろう。
しかも二回目のカンは、ネリーにとって不運な事に七筒によるカン。
ネリー「うわー、アガれると思ったのにー!」
明華「惜しかったみたいですね」
ハオ「ドンマイ」
咲は勝者の余裕を湛えて微笑んでいる。ネリーはむっとなった。
ネリー「次はアガってやるんだから!」
次局。四巡で好形の聴牌が完成、速攻を仕掛けるもまたかわされ、咲による嶺山開花。
さらに次の局。明華が早い巡目で聴牌した気配を察知したのでベタオリ。ハオもオリたようだった。
咲「それロンです」
明華「っ! はい」
しかし後から追って聴牌した咲が競り勝ち、明華から直撃をとる。また咲の和了。
そのまた次の局は、ダブルリーチしたハオがツモ切りした牌を咲がカン、嶺山開花。
咲の独走状態だった。
ネリー「サキ、今日ノってるね!」
咲「うん。調子いいみたい」
とはいえ、このくらいの連続和了は稀にある事。なので誰もさして気にとめていないようだった。
だが。
咲「カン、ツモ」
咲「それロン」
咲「カン、もいっこカン、もいっこカン」
咲「ーーツモ、嶺山開花」
咲の独走がほぼ一半荘続き、二人が飛んだところで対局が終わる。
その頃には、異常を感じとっていたのはネリーだけではなかった。
明華「咲さん、随分飛ばしてますね」
ハオ「私は実際に飛んじゃったよ……」
ダヴァン「ムムム、次は私が入りまショウ!」
ハオとダヴァンが入れ替わり、再び対局。しかしまた咲の一人勝ち。先ほどから打っていた明華とネリーは失点が少なかったものの、ダヴァンがトビで終局。
対局慣れしているはずの面子に妙な緊張が走る。
ネリー「サキ、なんか打ち方変えた?」
咲「ん、そうだね。相手の速攻手に対応する打ち方を意識してるかな」
対局した面子がやられたのは、一重にがらりと咲の打ち方が変わった事が大きいだろう。
だから一度対局した面子は慣れてある程度対応できたし、そうでない者は対応しきれず失点を重ねた。
咲が格段に腕を上げたわけではない。しかし、以前にまして打ちにくい相手となったようにネリーは感じていた。
ネリー「速攻手?」
この時期に打ち方を変えるとは中々大胆な決断だ。いや、そもそも誰を意識したのだろうか。
明華、ハオ、ダヴァン、ネリー、そして智葉。
誰かなようでいて、誰でもない気がする。
ネリーは困惑した。
咲「そ、それより次打とう?」
とはいえ、練習中だ。咲の促しに応じて次の対局へと移る。
結局、その日は皆一変した咲の打ち方に対応しきれず、翻弄される事となった。
部活が終わる。今日も終わり際不在だった智葉に伝言を残し、帰り支度をしていく。
ネリー「サキー! 今日は」
咲「ご、ごめん、また今度」
言い終わらないうちに遮り、そそくさと部室を後にする咲。
ネリーは頬を膨らませた。
ネリー「ぶー、どうしようもないじゃん!」
明華「まあまあ。忍耐ですよ」
ダヴァン「センリの道も一歩カラ。地道にいきまショウ」
ネリーを慰める面々も見慣れたものだ。
咲に迷惑をかけた点であれほどきつく当たった明華も、このときばかりは同情的だった。
ハオ「でも今日は一つ手がかりがあったね」
ネリー「打ち方の事?」
ハオ「うん。あれは何かあると思うな」
明華とダヴァンも頷く。
ネリー「んー、打ち方か」
意識して打ち方を変えてしまうほどの相手となれば、相当な実力者だ。
それも変えたのは咲である。
臨海に入学してネリーや智葉たちの影響は受けたとはいえ、今まで咲は基本的に中学時代の打ち方を崩す事はなかった。
その咲が、特定の打ち筋を警戒するほどの相手。
明華「私たちではない……とすると」
ダヴァン「世界ジュニア、もしくは日本のプロクラスといったところ……デスか?」
対象が多すぎた。日本のプロでさえまだ来日して日が浅いネリーは網羅できていない。
とはいえ、意見が合っているところもある。それは、自分たちを意識して打ち方を変えたのではないという事。
ネリー「サキ……なんだかネリーたちと打ってても上のそらだった」
明華「……そうですね。無視されるのはやはり、気持ちよいものではありません」
顔を突き合わせているのに。咲の瞳は他の誰かを映していた。
むしゃくしゃする。
ハオ「でも正直意外だな」
ダヴァン「意外?」
ハオ「ネリーの事。こう言っちゃ何だけど、お金の絡まないとこでこう熱くなると思わなかった」
期せずして自分の話題になり、反応が遅れる。
咎めるように明華が顔をしかめた。
明華「ハオ、その言い方は……」
ハオ「わかってます。でも私としては別に、悪口のつもりじゃないんだ」
ハオ「日本人は……特に同年代のやつは良い顔しないけどさ。私たち中国人からしたら、お金稼ぎを目的にするのは何も後ろめたい事じゃないし」
ハオ「それはともかく、ネリーは目的以外のものは必要以上に追わないクレバーなタイプだと思ってたんだよ」
ネリー「まあね! だいたい合ってるよ」
ハオ「そう。こうやってさらりと認めて、建て前を気にしないし」
ハオ「だから、宮永さんに執着するのはよっぽどなんだなって」
ハオの言いたい事がわかってか、既に表情を和らげている明華。
一方のネリーも、怒りは微塵もない。よくみているなと感心したくらいだ。
そして咲を特別視しているのも、当たっている。
ネリー「サキとは……何も求めないでいられるから」
咲が入学して間もない頃。ネリーは日本の気候にまだ少し馴染めず、夜風に当たりすぎて体調を崩した事がある。
国許とは違う勝手に療養にも苦心して、つい薬や器具を探すのにどたばたと騒がしくしてしまったのだ。
当然、日頃騒音に悩まされていた咲が文句を言いに来たのだが。
ネリー「サキって根がお人好しだから、具合が悪いネリーをみて慌てちゃって」
ネリー「あの頃はまだ刺々しかったんだけど……一人しかいないなら看病するって聞かなかったんだよね」
今の押しの弱い咲からは想像しにくいが強引に上がり込んで、あれこれと世話を焼いていった。
当時の咲は周囲に壁を作っていてつんけんした態度が目立つ存在だったのだが、ネリーの目が届いてないと思っているところでは素に戻り、あたふたとしていたのだ。
ネリー「熱で意識が朦朧としてたからわからないと油断してか、気弱そうに心配してたな。……ばっちりみてたけどね」
ネリー「んでそのときに思ったんだ。お金の絡まないところでネリーを気にかけてくれる人って久しぶりだなって」
日本に来てから、お金に絡まない、仕事ではない感情を持つ事は滅多になかった。誹謗中傷のようなものを除いて、持たれる事も遠ざかっていたと言っていい。
そして、日本に来る前、麻雀で身を立てようと決意してからも、目に入るのは落とし落とされる相手ばかりで、個人として付き合おうと考える余地は残されていなかった。
ビジネスライクな関係や競争する関係に、あまりに毒されていたのかもしれない。
咲のささやかな優しさに触れて、ふとネリーはその事に気づいたのだ。
ネリー「それにサキって案外可愛いと思ったんだよね。今はもう普通に可愛いけど、前はもっとつんつんしててギャップがあったっていうか」
ネリー「あと……サキは私に何も求めてない。歓心を得ようだとか取り入ろうだとかそんな気持ちはこれっぽっちもなくて、無理して好かれようとも思ってない」
ネリー「私も……私も、お金をもらったり、技術を盗み合ったりするんじゃなくて……ただ隣にいて、笑いかけてくれるサキが好きなんだってわかったから……」
ぽつり、ぽつりと咲と打ち解けた思いでを話す。
そうするとネリーの心は自然と穏やかに凪いで、温かな気持ちに包まれる。
静かに聞いている面々も、微笑ましいものを感じたのか、薄く笑っている。
明華「だから……ネリーにとっても、咲さんは特別なんですね」
ネリー「ネリーにも?」
明華「咲さんにとっても……という事です。恐らくですが」
ネリーにはいまいち分かりにくい話だった。
明華が続ける。
明華「以前の刺々しかった咲さんの事を、私は危うく思っていました」
明華「嵐へと変わる風のような……近づくものをみな傷つけてしまいそうな雰囲気を持つ彼女が、恐くて仕方なかった」
明華「今の彼女は大切なものを優しく包み込み、向けるべき相手にだけ刃を向ける騎士……」
明華「きっとネリーと触れ合う事でかつて抱いていた感情を取り戻したんだと思います」
明華「だから……ネリーにとっての特別が咲さんであるように、咲さんにとっての特別も」
ダヴァン「マア、そういうコトでショウネ」
ダヴァン「ミョンファみたく難しいコトはわかりマセンが」
ダヴァン「サキとネリーのハートは熱いタイズで結ばれてイル……そのコトはみてたらわかりマスヨ」
ダヴァン「まったくお熱いデス。朝の通学だけでもサキを貸してくれマセンカ?」
ネリー「お前はどこまでいっても変わらないね……」
だけど、萎みかけていた気力は取り戻せた。
心の中で三人に深く感謝した。
ネリー「うん! 決めた!」
ネリー「サキを絶対振り向かせてみせるんだから! 百回振り向かすっ!」
心に強く、強く念じて。
気力をくれた三人に背を向け、握り拳を掲げた。
咲「今日向かってるところって……長野なんですか?」
「そうだよ。先方のお屋敷があるからね」
咲「そうですか……」
「咲ちゃんの古巣……だったよね。実家の方に挨拶していく?」
咲「いえ、お気になさらず。父も仕事だと思いますし」
「休日出勤かあー……その単語聞くだけで憂鬱になっちゃうな」
咲「ふふ、父の場合はむしろ喜んで出勤してますね」
「ええ!? ……仕事人間なの?」
咲「そこまで極端な人ではないんですけど、今の仕事が好きなみたいです」
「そっかー。その気持ちはわかるなあ☆」
咲「お仕事、やっぱり好きなんですね」
「うん。この仕事に憧れて……ずっと目指してきたからね」
咲「そうなんですか……」
咲「羨ましいです。……私には、好きなものってまだわからなくて」
「まだまだこれからだよ……っていうのも無責任かな」
「ゆっくり見つけていけばいいんだよ。咲ちゃんは今青春の真っ盛りなんだから☆」
「好きな人、なんかでもいいんだよ。恋するパワーは人でもモノでも関係ないんだから☆」
「仕事でも、ね……☆」
咲「すごく……ためになります。やっぱりはやりさんって素敵な人です」
はやり「あはっ☆」
はやり「咲ちゃんはほんといい子に育ってるよ……お姉さん感動しちゃった」
はやり「ところで学校の方はよかったの? 七月の三連休といえば集中して練習があるだろうけど」
咲「構いません。きっとこちらの方が実りがありますから」
はやり「ふんふん……そう言い切られちゃ期待に応えないわけにはいかないね☆」
はやり「っていっても、今日のメインははやりじゃないからあっち次第なんだけど」
咲「……」
咲「龍門渕の天江衣さん……強いんですか?」
はやり(お、咲ちゃんのスイッチが入ったね☆)
はやり(……麻雀しようとするときはがらりと変わるんだよね。まるですこやんみたーーやめておこうこれ以上は)
はやり「強いよ。今の咲ちゃんじゃちょっと厳しいかも」
咲「そうですか……」
はやり「恐くなった?」
咲「いいえ」
咲「そんな人を叩きのめしてこそ……意味があります」
はやり「ーーーーーー」ゾクッ
はやり(正直なところ……咲ちゃんと天江さんの実力差は未知数)
はやり(ある条件を満たさなければ……たぶん、咲ちゃんが勝つ)
はやり(でも今夜は……わからない)
咲「龍門渕は……決勝で負けたんでしたっけ」
はやり「そうだね。清澄ってところが勝ったよ」
はやり「でも、あくまで搦め手で天江さんを避けた上での勝利……実質、長野で一番強い個人は天江さんといってもいいと思う」
咲「清澄は……初出場でしたね」
はやり「およ? そっちに興味おありだったか☆」
はやり「うーん、といっても……咲ちゃんが満足するほどの選手は……」
はやり「一年生でレギュラーに抜擢された有望株が三人いるのは脅威的だけど、現時点では……って評価かな☆」
はやり(あれ、そういえば決勝戦の映像みたときに咲ちゃんに呼びかけてた選手はたしか清澄の……)
はやり「清澄の原村和ちゃんって咲ちゃんの知り合い? 去年のインターミドル個人戦のチャンプだったけど」
咲「原村和……さん」
咲「いえ知らない人です。個人戦には出なかったので」
はやり(向こうはめちゃくちゃ知ってるぽかったけどねえ……あちゃあ☆)
はやり「ま、そんな事もあるかな☆」
はやり「何はとまれ、龍門渕邸へとレッツゴー☆」
ここまで
いつも読んでくれる人がいて嬉しいです、励みになります
142と143で「およ」や「あはっ」を「はやっ」あたりに変換しといてください
ネリー「夏だっ! 合宿だっ! お泊まりだーっ!」
明華「ーーーー」
ネリー「日本の夏ってこんなにむし暑いんだね。ほら、もう汗ばんできた」
ハオ「ーーーー」
ネリー「これは合宿所にあるっていう温泉で洗い流さないとね! あっ、せっかくだから洗いっこしてみたいな!」
ダヴァン「ーーーー」
ネリー「咲ってば照れ屋だからお風呂いっしょしたことなかったんだよね。今日は本当に楽しみだなあ」
明華「……ネリー、現実を見ましょう」
ネリー「え、なに? ミョンファもいっしょに入りたいのーしかたないなー」
ハオ「だめだこりゃ……」
ダヴァン「……アワれすぎてカップラーメンを食べる気にもなれマセン」
ネリー「もうーみんなテンション低いよ! お泊まりあり温泉あり旅館宿での合宿なんだからノってこうよ!」
ネリー「ネリーしってるよ、ツアーバスの中では歌うものだって」
ネリー「~~~~♪」
智葉「さっきからうるせェぞネリー!!」
ネリー「ぴいっ!?」
智葉「子どもみたいに駄々をこねるな。ツアーバスのスタッフさんに迷惑だろうが」
ネリー「で、でもサトハ……お泊まりにサキがいないんだよ? ネリーたちは何をしにいくの?」
智葉「部活の合宿」
ネリー「そんなのわかってるよ! でもサキがいないとはじまらないでしょ!?」
智葉「そりゃお前だけだ。この機に咲離れするんだな」
ネリー「やだーやだーサキがいないお泊まりなんてやーだー!」じたばた
智葉「……重症だな。おい明華、そいつ脇に除けとけ」
明華「ネリー、少し休みましょう。ーーハアッ!」
ネリー「うぐっ」
明華「サトハ、寝かせておきました」
智葉「ご苦労。相変わらず良い技の冴えだ」
ダヴァン「((((;゜Д゜)))」
ハオ「どうなってんだ……今のなんだよ……」
智葉「ま、咲がサボるのは意外だったな」
明華「咲さんは練習に皆勤でしたからね。私も欠席するとは思いませんでした」
智葉「ふン……体調を崩したわけじゃあるまい。この時期に体調管理を怠る奴じゃない」
明華「信用してるんですね、咲さんの事」
智葉「……まあな」
智葉「先鋒を任せられるのはあいつしかいないよ」
明華「智葉……」
智葉「同情するなよ? そんな言葉が欲しい訳じゃない」
智葉「今年に懸けてたのはあいつも私も一緒。つまらん横槍は入ったが……まあ、思ったほどショックじゃない」
明華「私たちは優勝しますよ」
智葉「期待してる」
ネリー「うわあーーんっ! サキがいないよーーーーっ!!」
智葉「ちっ」
明華「おや。もう意識を取り戻しましたか」
ネリー「ううっううう……ばん"べサ"キ"い"な"い"の"お"おおお」
明華「寝かせますか?」
智葉「……」
ネリー「う"っ……ううぅぅぅ……」
智葉「放っとけ。スタッフさんには迷惑だろうが、後でお詫びしておく」
明華「智葉もなんだかんだネリーに甘いですね」
智葉「ふン……私だって多少残念には思ってるんだ。気持ちは分からなくもない」
明華「ふふっ……同感です」
衣「トーカ、今日はやけに騒がしいな」
透華「大切なお客様が来るのですわ。食事などの準備をさせているのです」
衣「ほう、客人か。何処の者を迎えるか露と知らぬが、ハギヨシをあれほど駆け回らすのだ。余程大事な客人なのだろう」
透華「ふふ、もう言ってもいいかしら。実は衣を訪ねてくるお客様なのですわ」
衣「真か? 衣にはとんと見当がつかない」
透華「訪ねてくるのは宮永咲という私達の一つ下の娘です」
衣「っ!」
衣「そうか……トーカでかした。今衣が希求する最も魅力を感じる相手だ」
衣「しかし彼の者はトウキョウにいると聞いた。どのようにして招いたのだ?」
透華「さるプロ雀士から打診があったのですわ。衣の胸を借りたい、と」
衣「成程な……願ってもない申し出だ」
口角をつり上げて衣が不敵な笑みを浮かべたとき、入り口の扉が遠慮がちに叩かれる。
透華「どなたですの?」
ハギヨシ「私でございます、お嬢様」
透華「入りなさい」
流れるような動作で年若い黒髪の男が入ってくる。
優雅な佇まいで透華と衣の前に傅くと、用件を口頭で話す。
ハギヨシ「瑞原様がお見えになりました」
透華「案内なさい」
ハギヨシ「はっ」
衣「ついに見えるかミヤナガサキ……」
透華「……」
衣「金剛不壊にできているといいのだけど」
衣「あまりに期待外れなようなら壊してしまうかもしれない」
衣「ノノカ達の手前、それは避けたいが……」
衣「そこまでの凡愚であれば致し方なし。拉ぎ折るのみ」
衣「自ら挑みにきたのだ、闕望させてくれるなよ」
屋敷の敷地に踏み入った瞬間、感覚で理解した。
咲(とんでもない人がいる……まるで昔のお姉ちゃん……)
びりびりと感じる。強者だけが発する威圧。咲が咲であるために必要なもの。
咲(しかも底がみえない……ゾクゾクするよ……)
咲も先ほどから無理に抑えるのをやめて身から威圧的な雰囲気を醸している。
完全に解き放ったわけではないが、十分に真剣といえるレヴェルだ。そもそも本当の意味で力を出し切るのはまだ先で、今はそのときではない。
顔を上げる。見上げた屋敷の佇まいはそうそうたるもので、麻雀とは別の意味で世界が違うなと冷や汗を垂らした。
はやり「はやや……ヤル気十分だね」
はやり「今日は観戦に徹するから目一杯楽しんで☆」
頷く。話していると黒い髪をした執事のような出で立ちの男が音もなくこちらに歩いてくる。
ハギヨシ「お待ちしておりました、瑞原様、宮永様。ご案内致します」
先導する彼の後を歩いて屋敷の中へと入っていく。
外も見事な造りだったが、中も輪をかけて豪奢だ。調度品など幾らかかっているか想像もつかない。
ハギヨシと名乗る男性に案内されたのは、屋敷の一室である重厚な扉の前だった。
ハギヨシ「お入りください。透華様と衣様がお待ちになっております」
勧めに応じて扉の取っ手に手をかけ、押して開いていく。
重厚な扉に見合う音を立て開いていく扉の先に、彼女たちはいた。
透華「お待ちしていましたわ。龍門渕透華です。どうぞこちらに」
いかにもお嬢様然とした少女だ。アホ毛が特徴的な彼女に勧められるまま席につきながら、咲は、隣で視線を送ってくる小さな女の子に意識を鷲掴みにされていた。
衣「天江衣だ。本日は遠路はるばるよく来てくれた」
衣「ミヤナガサキ……噂はかねがね。心待ちにしていたぞ」
衣「莫逆の友になるか贄か供御となるか……しっかり見極めさせてもらおう」
清純そうな見かけに反して不遜な物言いをする子だ。
しかしその言動に見合った力を、彼女は確かに持っている。
ひしひしと感じる威圧的な空気から咲は自ずと理解していた。
咲「お招きいただき感謝します天江さん。今日は一緒に楽しみましょう」
衣「衣でいい。少なくともノノカ達の認める打ち手ではありそうだ。楽にしてほしい」
咲「衣ちゃん、よろしくね」
衣「ちゃん!?」
変な声を上げて固まる衣。
表情にはありありと戸惑いの色が現れていた。
衣「いや待て。どうして天江さんから衣ちゃんになる。砕けすぎではないか」
咲「衣さんというのはなんだか違和感があって……あの、失礼ですけど本当に歳上なんですか?」
衣「衣はれっきとした高校二年生だ! 日本には制度がないから飛び級でもない!」
咲「……うーん。すみません……」
衣「そ、そう謝られると衣が悪い気がしてくるではないか」
衣「なあトーカ、衣は悪くないよね?」
透華「宮永さん、あまり衣をからかわないでくださいまし」
咲「うぅ……ごめんなさい……」
透華「あら……わざとではないんですのね」
透華「衣、宮永さんの反応も致し方のないものかもしれません。許してやりなさいな」
衣「いやおかしくないか!? 衣はそんな反応をされて当然の存在なのか!?」
透華「多少自覚があった方がよいですわ。正しい自己評価はあった方がよいに決まってるのですわー!」
「おーっほっほっほっ!」と高笑いする透華はどこまでもステレオタイプなお嬢様だった。
衣「衣……何か悪いことしたかな……」
咲「あ、あのごめんなさい! でもとても可愛らしいと思います」
「可愛らしい……子ども扱いではないか。ぐすん」と肩を落としてしまう。
どうすればいいんだろう。咲にはフォローの仕方が思い浮かばなかった。
はやり「はや~☆」
はやり「まあまあ二人とも、今日は麻雀をしにきたんだよ」
透華「そ、そうですわ衣! 今日は麻雀を楽しみなさい!」
保護者二人に勧められて麻雀をするための部屋へと移動する。
純「おっ、やっときたぜ」
一「ずいぶん遅かったね。話が弾んでた?」
透華「そ、そんなとこですわ! おっほっほ!」
雀卓が中央に置かれた部屋には三人の先客がおり、咲たちを待っていたようだった。
透華「智紀、牌譜をお願いします」
眼鏡をかけた少女がこくんと頷く。
透華「ささ、おかけになってください」
席につく。
透華「面子は……純と私からいきましょう」
純「げっ、俺からかよ」
軽い愚痴を挟みながらも席に座っていった。
透華「さあ始めますわよ。衣、機嫌を直しなさい」
衣「うう……ぐすん」
若干ぐだりつつも龍門渕邸での麻雀が始まった。
衣「ほう! 予想以上にやるではないか!」
卓を囲んでから数半荘。
衣は、声と表情に喜色を湛えてそう言った。
咲「えっと……光栄です」
若干照れながらも、ほぼ落ち着いた心境で返す。
数半荘卓を囲んだ結果は咲の大勝といっていいもの。
透華は「これは……中々に中々ですわね」とやや驚いた様子でつぶやき、純など「なんだよこいつ……化け物じゃねえか」とカタカタしていた。
手応えは、そこそこ。
期待していたほどではないが、やはりそこそこに満足していた。
衣「妖異幻怪の気形……うむ。まさしくそれだ」
衣「感謝するぞ、咲。衣は今充足を感じている」
咲は愛想笑いで返した。
まだまだ日は高く、麻雀をする時間はたっぷりあるだろう。
一応宿泊する用意もしてきたのだ。
もしかしたら宿泊をお願いするかもしれないと龍門渕側からの提案だが、この喜びようをみると頼まれるだろうか。
少し、気が進まなかった。
咲「衣ちゃ……衣さんも、とても手ごわかったです」
衣「敬語はいい。喋りにくいだろう」
咲「うん、ありがとう」
人心地つく。麻雀の結果はどうあれ、衣本人の人柄は好ましい。
たおやかに笑い、咲は衣との話に耳を傾けた。
衣「…………咲ならば、あるいは……」
咲「どうしたの?」
衣が思案顔でつぶやいた内容が聞き取れず、首をかしぐ。
衣「……咲、頼みがある」
咲「何かな?」
衣「今日は泊まっていってほしい。今宵麻雀を打ちたいのだ」
咲「えっ」
呆気にとられる。薄々予想はしていたが、いざ誘われると戸惑いが先に立った。
思わずはやりの方に視線が泳ぐ。
はやり「?」
咲「え、ええと……その」
承諾すべきか否か。咲の迷いを知ってか知らずか、素知らぬ顔で見つめ返してくるはやりに頬をひきつらせながら、返答に思い悩む。
衣「……そうか。色好い返事をもらえないのは至極妥当だな」
咲「え?」
衣「先の対局でこてんぱんにされた身だ。敗衄した衣が侮られるのも道理。満足させてやれず申し訳なかった」
衣「しかし、だからこそお願いしたい」
衣「先の衣は十全の力を発揮できていなかった」
衣「夜……月が満ちたならばお見せしよう。衣の全力全開を」
咲「っ、なるほど……そういう事なら」
はやりの「今の咲では厳しい」との言に反してあっさり勝利したのはそういう事情か。
咲は見た。既に下した相手と無意識に侮っていた衣に見え隠れする烈々たる気概をーー。
これは……虎の尾を踏んじゃったかな。
怖気が走るほどの眼光で睨む衣に総身が震えた。
透華「話は纏まったようですわね」
純「纏まっちまったのかよ。勘弁してほしいぜ」
そろそろとこの場を離れようとしていた智紀と一の頭を純が掴み、顔を近づけてにやりと笑う。
純「次はお前らもやるんだよ」
ここまで
あ、昼でも月は出てるから衣の力に昼夜は関係ないか……?
すみませんが夜が深まれば月の力が増す事にはさせてください
衣「昼の時間を潰してしまいすまなかったな」
衣「さあ、始めようか」
咲「うん」
一「よろしくお願いします」
衣「さいっ、ころ、回れ~っ」
ガラガラ
衣「………………ふむ」
一「僕から親だね」
透華「昼と同じで25000点持ちの30000点返しですわ」
純「俺らは観戦だな」
智紀「……」こくん
はやり「はやや~☆」
東一局
咲(ついに衣さんの本領が…………)タン
透華(さて、どうなりますか…………)タン
衣(……………………)タン
一(テンパイ……だけど形が悪いな。整えて一向聴に戻すべきか…………)タン
衣「ロンだ、7700」
一「あちゃー早速かあ」
咲(っ! 早い。手が出せなかった)
東二局
衣(様子見するか…………)タン
一(…………)タン
咲(何か不気味な雰囲気……なんだろう…………)タン
透華(目立ちたい、ですが今日は我慢ですわ…………)タン
咲「カン!」
咲「ツモ、2400オールです」
東二局 一本場
咲(さっきから一向聴になるとカンしないと有効牌がツモれないような…………)タン
透華「……」タン
衣「ーーーー昏鐘鳴の音が聞こえるか?」
衣「カン」
咲「なっーー」
咲(私の有効牌が、喰い流された…………!)
咲「うっ……!」タン
咲(ダメだ……一向聴から進めない……それどころか王牌の支配が揺らいだ…………?)
咲(流局する……? っ、いや違う、これは…………っ!)
衣「……無様、と普段の衣なら口にするところだが」
衣「海底、ツモ」
咲「っーーーー!」
咲「っーーーー!」
衣「先のように有効牌を先んじて喰ってしまわねば、海底までにアガられてしまう…………」
衣「凡百の徒が相手ならば海底で力の差をみせつけてやるのだが……余興はこれくらいにしよう」
衣「昼と同じ意識では忽ち敗滅するぞ?」
咲「トンだ……それも三人まとめて…………」
衣「いやいや、25000点持ちにして初見で良く食い下がった方だ」
透華「ふう……相変わらず出鱈目な闘牌ですわ」
一「はは……僕なんて焼き鳥」
咲「これがあなたの本気、ですか……衣さん」
衣「然り。付け加えるなら、昼も力を抑えていた」
衣「互角か……互角とまでいかずとも近い結果にはなったろう」
咲「……どうして……そんなことを?」
衣「笑わないでくれ。逃げられたくなかった」
衣「今ご覧に入れた通り、同じ満月の日といえど昼と夜では雲泥の差があるのだ」
衣「昼に互角の闘牌をみせた相手が夜には更に力を増す……そう聞いて対決を避けられるやもと恐れた。故に手を抜いた」
衣「……怒っているか?」
咲「怒ったりはしません……逃げられると思われたのは心外ですけど、普通に考えればあり得ますから」
咲「私は……勝ち負けにはあまり興味がありません。軽蔑されるかもしれないけど」
咲「負けて悔しくなったり、恐れたり……逆にただ勝ったところで、喜ぶ気持ちがわき上がったりもしない…………」
咲「闘争心ってものがないんです……ごめんなさい……」
透華(悲しい性ですわ……彼女は麻雀を楽しめているのかしら)
はやり(……咲ちゃん)
衣「……衣と似ているな」
衣「衣も勝利に然したる価値を見出だせない。全力を発揮できれば負けた事はない故、逆はわからぬが」
咲「衣さんは強いですから……相手を探すにも一苦労ですね」
衣「だからこそ、打ち合える相手を見つけた喜びは一入。咲、もう一度打とう。次はトビはなしだ」
咲「……そうですね。私も……あなたを上回る力を身につける必要はあります……!」
東一局
衣「再び卓を囲めて素敵滅法っ。だが、気の抜けた牌は打ってくれるなよ……!」タン
一「……」タン
咲「リーチ」タン
咲(③⑥⑨p待ち高めドラ…………悪くない手牌だけど、なんか微妙な気がする……)
透華「……なんでしょう、悪寒がします」タン
衣「ロン」
咲(やっぱりか……)
透華「げっ。三暗刻! そこで高め一盃口のリャンメンテンパイを捨てるなんて……衣、あなた宇宙人ですの?」
衣「悪いな。出てくる気がしたんだ」
東二局
咲「カンっ!」
咲「もいっこカン」
咲「ツモ、嶺山開花です」
東三局
一(タンヤオなら、副露してなんとか…………)⑥p
衣「チー」
一巡後
透華「ええいっ」タン
衣「ロン」
透華「ですのっ!?」
咲(三元役絡みのトイトイ……あれからたまに海底狙いに来る事があったけど……そのときとは速度が違いすぎる)
東三局 一本場
透華「はああ……粉々ですわ」
純(ずいぶん消耗してるな……ま、あんだけ牌効率無視した和了連発する相手につきっきりじゃきついわな)
一(ボクいつからアガってないっけ……焼き鳥とかいうレベルじゃない、いや焼き鳥なんだけど)
咲「…………それ、カン」
咲「ツモ、責任払いで7700です」
一「……はい」
東四局
衣「なあ咲、衣達の麻雀は……相手に負担を強いるな」タン
咲「……何を」タン
衣「衣はトーカ達が大好きだ。故に満月の衣に付き合わせるのは忍びない」タン
一(衣……)タン
衣「……ロンだ。12000」
咲「……」
衣「これだ。こんな調子で楽しく麻雀を打てるはずがない。一やトーカ達は優しく、また慣れたものだが……衣と打った者の多くは、世界の終わりを見たかのような顔をする」
咲「……そうかもしれませんね」
衣「続きを打とう」
南一局
一「……」タン
咲「……」タン
透華「……」タン
衣「衣は麻雀を打つのが楽しい。勝たずともただ牌に触り、卓を囲むだけで嬉しい」タン
衣「負けても構わない。寧ろ衣を凌ぐ気形を見られるならば、喜んで迎えたいくらいだ」
一「……」タン
咲「そう……」タン
透華「……」タン
衣「しかしむべなるかな……現実は衣と再び打ちたくなる者などいない」タン
透華「っ、衣、私はいつでも……!」
衣「良い。……トーカ達は本当に優しいな。こんな衣を気遣ってくれる」
衣「今年の県予選も……多くの者に麻雀を捨てさせてしまったというのに」
透華「それは、半端な輩が……っ」
衣「庇ってくれてありがとう。だがなトーカ、そういうレベルではないと衣も悟っているのだ」
衣「衣の麻雀は、自信を粉微塵に打ち砕く……地道に努力してきた者ほど、衣の天稟に恐れを抱く」
衣「海底ーーーーツモ」
咲「……」
衣「衣も馬鹿げていると思う」
衣「衣は努力と呼べるものなどした事がない……感覚に任せて打つ、ただそれだけで衣は、凡百の打ち手が羨む領域に立つ」
衣「ただそれだけで……衣を孤独にする」
南二局
衣「今年の県予選も心踊る打ち手は見つけられなかった」
衣「だがノノカ達は、衣の力だけでは覆せぬものがあると教えてくれた」
衣「そして……ミヤナガサキ、お前の存在を図らずも示してくれた」タン
咲「清澄の原村和さん……でしたっけ。私は知らない人なんですが、いい人みたいですね」タン
衣「なにっ?」
衣「知らない? そんなはずは……」
衣「……」
衣「くくく……何やら愉快な事になっていそうだ。そんな臭いがする」タン
咲「愉快って……単純に会った事がないってだけですけど」タン
衣「それが……おっとツモだ、満貫」
咲「……」
衣「腑抜けていないか。何やら注意が散漫してしまっているが」
咲「わかっちゃいましたか」
衣「勝つ気概が感じられぬ……あまり衣を退屈させてくれるな」
衣「先ほどから敬語なのは……そういった心境の変化か?」
咲「……無意識だったよ」
南二局 一本場
四五六①②⑦⑦234567
咲(六巡……ペン③p待ちテンパイ。ドラは①p……)タン
衣「ねえ咲、咲は衣の莫逆の友になってくれる?」タン
咲「ばく……ぎゃく?」
衣「親しい仲になろうという事だ。受け入れてくれると嬉しい」
咲「……」タン
衣「黙りか……悲しいな」
はやり(……咲ちゃんと天江さんは、仲良くなれると思ったんだけど)
咲「嫌っていうわけじゃないんだよ……ただ……」
『なあ咲、衣達の麻雀は……相手に負担を強いるな』
衣「凡百の徒ならば壊してしまう衣達の麻雀も……本人同士ならば、共に楽しめるのではないか」
『あんなふざけた打ち方をされても、あの子を認めたのは実績を示す一助になる。そう思っているからこそですよ』
『咲っ! どうしてわざと負けたの!?』
『わたしね、本当は咲ちゃんに嫉妬してた』
咲「そう……だね。私たちみたいな麻雀は何をやっても……傷つけちゃう。嫌な思いをさせる」
衣「だからこそだ!」ガタッ
咲「っ!」
衣「咲が共にいてくれるならば……衣は、衣達は独りではない」
衣「もう嘆かなくていいのだ……狭い部屋に閉じこもって、震えなくても」
衣「力ある打ち手は世の中に数いれど……衣と同じ苦しみを抱えて過ごしてきた者と巡り会えたこの幸運は奇跡」
衣「運命めいた縁すら感じる……この手をとり、繋いでくれるならば……」
衣「もう何も恐くない、衣と共にいてくれ」
咲(…………私は……私の麻雀は…………)
『ーーやっぱりサキは、そうやって笑ってた方が可愛いね』
咲(…………ネリーちゃん……)
スッーーーー
四五六①②⑦⑦234567
咲(ツモ6s……②pを打って一向聴に戻すか……それともドラ①pからしてリーチして勝負する……?)
ちらっ
咲(一さんは副露を絡めてテンパイしたようだけど……気配がいやに薄い。役なし? ならダマテンか)
咲(……透華さんもテンパイ。何か鬼気迫ってるな…………相当な大物手)
咲(衣さんも当然テンパイ……危険な場、だけど…………)
衣「……いきなりやる気になったようだな。願ってもない。受けて立つぞ」
咲「リーチ!」
衣「っ、門前で仕上げたのか」
透華「っ……」③p
咲「ロン、一発」
透華「くうっ……」
一(人間業の読みじゃない……)
衣「見事だ。流されてしまったよ」
咲(まだ余裕がある。海底を防げない局もちらほらあるし……地力は衣さんが上)
咲(それに……段々力が強まってる? まだ底がみえないなんて)
咲(……龍門渕さん、苦しそうだな……何かを抑えつけてるみたいだけど……今はよそ見をしてる場合じゃない、よね)
南三局
衣「衣の支配は、深い水底へといざなう。深い水底こそが衣のフィールド」タン
一「……」タン
咲「……」タン
透華(先ほどのチャンスを逃したのが痛い、ですわね……)タン
衣「地の理は人の和に如かず、とは言うが……独力でその支配を揺るがす咲は、並の打ち手を並べたところで匹敵するものではないか」タン
一「……確かに、宮永さんの代わりはできそうにない」タン
咲「……」タン
衣「リーチだ」
咲(早いっ……役牌と暗刻、待ちは……6sと9sあたり?)
衣「咲よ、喋ろう。もっと話がしたいのだ」
咲「どうして私にこだわるの……」
咲「対等に打てる相手なら私の学校……臨海の人なら私より強い人もいる。わからないよ」
衣「臨海……咲は臨海の人間だったか」
衣「……臨海の打ち手。思い出した。昨年全国に出場した折当たったな」
咲「なら」
衣「正直あまり良い印象はない。対峙こそしなかったものの、まんまと逃げ仰せられた」
咲「逃げ……?」
衣「昨年の準決勝、勁敵を前に尻尾を巻いた選手がいた。それだけの話だよ」
咲「……その選手って」
衣「メガン・ダヴァンといったか」
咲「っ……」タン
衣「衣が望む打ち手は怪物を前に臆する者ではない……あのように小心な様では、衣の望む相手にはほど遠い」タン
咲「……」タン
衣「興を削いでしまったな。つくづくあの打ち手が忌々しいよ」タン
衣「夜も深まりすぎたか……」
衣「いかな咲といえど、これ以上は辛いだろう。名残惜しいが……この半荘で終いにするか」
咲「……まだ、続けられるよ」
咲「私もまだ全力じゃないから……最後まで打てると思う」
衣「なに? それは本当かっ」
咲「うん。でも……代わりに私が最後まで打ち勝ったら、さっきの言葉訂正してほしい」
咲「メグさんは……臆病者なんかじゃない」
咲「誤解してほしくないから……メグさんの事」
衣「……」
衣「わかった。咲がそこまで言うなら、かの者は過去を脱したのかもしれない」
衣「賭けよう。衣と咲、どちらが打ち勝つか」
咲「……ありがとう。じゃあ……」
衣「靴下を脱いで手套を脱す……か?」
咲「うん。これが私の全力」
咲「リーチ」
衣「ーーーー」ビリビリ
衣「成る程……こけおどしではないようだ」
咲(家族麻雀以来……裸足で打った事はなかった)
咲(先輩と個人戦で対決したときでさえ……)
咲(だけど、ここで何もしないでいたら……きっと後悔するから)
『咲……もう靴下を脱いだまま打たないで。約束して』
咲(ごめんなさいお姉ちゃん……約束、一足先に破ります)
咲「もう……負けない」
ネリー「はあ……」
ネリー「もう夜かあ。時間経つの早いな」
ネリー(合宿に来た日に夜まで麻雀打って寝て。また今日も夜まで麻雀……)
ネリー(練習がおわって……お風呂入ったあと旅館の庭を散歩してる。風情ある景色、なんだろうけど……)
ネリー「はあー、つまんないなー」
咲「そうなの? 良い感じに風流だと思うけど」
ネリー「だってサキがいないんだもん」
咲「あれ私はいない扱い?」
ネリー「ん? っていうか誰……」
ばっ
咲「?」
ネリー「サキ!? なんでいるの!?」
咲「用事がおわったから遅れて来たんだ。監督や先輩には許可もらったよ」
ネリー「うわーん、サキー」
咲「うわわっ、そんな勢いよく抱きついたら危ないよ」
ネリー「だって……だってえええ」
咲「……」
ネリー「サキ?」
咲「……ごめん。一方的に避けちゃって」
ネリー「っ……」
咲「どんな顔して接したらいいかわからなくなったの」
咲「本来なら、私は……団体戦のチームにはいない存在だから」
ネリー「……サキの言ってることよくわかんないよ」
咲「そ、そうだよね。あはは……先走っちゃった」
ネリー「でも、サキがどんなことしちゃったんだとしても……ネリーの気持ちは変わらないよ」
咲「……」
ネリー「事情は……話してくれなくてもいい。サキが話したくなったら聞きたいけど」
ネリー「それよりも……どんな理由でも、サキに避けられるのが辛いよ」
咲「ネリー、ちゃん……」
咲「……」
咲「……」
咲「もう少し待ってもらって……いい?」
咲「今は色んな事が山積みで、答えを出せそうにない」
咲「中途半端な気持ちで答えたら……きっと後悔しちゃうから」
ネリー「サキ……」
ネリー(本当は、今すぐにでも仲直りしたい)
ネリー(何に思い悩んでるのか知って、どうしたら解決できるかいっしょに考えて、もっと身近な存在になりたい)
ネリー(でも、今は……)
ネリー(いつになくサキが憔悴してる、気がする)
ネリー(この話をしたから? それとも他のなにか?)
ネリー(どっちでもいい……これ以上、追いつめたくない)
ネリー「……わかった! まってるよ」
ネリー(これでいいんだよね……)
咲「っ! ごめんね……勝手な事ばっかり言って……本当にごめんなさい」
ネリー「そんな泣きそうな顔で謝らないで。こういうときは、笑顔で『ありがとう』じゃない?」
咲「あはは……なんだか映画の殺し文句みたい」
ネリー「他所者に麻雀で敗れた場合、そこらの相手ならリベンジ、相手がサキなら夫としなければならない! 我が部族の掟!」
ネリー「サキは通算でネリーに勝ち越してるから夫ね」
咲「……ぷっ、何それ」
ネリー「古本屋で見つけた漫画から流用してみたよ!」
咲「ふふ……じゃあ私が負け越したら、お嫁さんに来てくれないんだ?」
ネリー「へ? あっ、うーん、それは……」
ネリー「そうだ! ネリーに負け越すようなサキはお嫁さんだよ! それが部族の掟!」
咲「あははは……もう、めちゃくちゃだよぉ……」
ネリー「ていっ! せいやっ!」
咲「あははは……っはぁ……」
ネリー「……えへへ」
咲「……」
ネリー「……」
ネリー「……もうちょっと寄ってもいい?」
咲「……うん」
咲「……今は、そばにいてほしい……」
ネリー「……じゃあ」
すっ
咲「……」
ネリー「……」
咲「インターハイ、始まるね」
ネリー「うん」
咲「……インターハイが終わったら……全部、話すよ」
咲「ネリーちゃんが訊きたい事……なんでも」
ネリー「……無理してない?」
咲「ちょっとしてるかも……」
咲「でも、聞いてほしいんだ……ネリーちゃんに」
ネリー「……うん。まってる」
咲「ネリーちゃん」
ネリー「なに?」
咲「……ありがとう」
インターハイ 全国会場
智葉「……」
明華「……」
ダヴァン「……」
ザッザッザッザッ
霞「……」
初美「……」
春「……」
巴「……」
小蒔「……」
ザッザッザッザッーーーー
小蒔「っ……」ぺこっ
ネリー「……いったね」
ハオ「今のは……鹿児島永水か」
明華「あれが巫女というものですか」
ダヴァン「フム……なるほど」
智葉「お辞儀していった奴は相当やばい」
ネリー「え? あのぽよんぽよんしてた人?」
ハオ「かなりの割合でぽよんぽよんしてたけど……あの集団」
ネリー「一番ぽよんぽよんしてた人だよ! だから一番強いね。ふんすっ!」
ハオ「なんでえばってんの……」
明華「ぽよんぽよんしてたといえばもう一人の黒髪の方も、ただならぬものを感じましたが……」
智葉「石戸霞だな」
明華「知っているんですかサトハ?」
智葉「ああ……去年決勝まで勝ち上がったのは伊達じゃない」
ダヴァン「ってカ、制服着まショウヨ……」
ネリー、ハオ、明華「……」
智葉「耳が痛いな」
ネリー「ネリーたちもやっぱり浮いてみえるかな」
ハオ「まあ……今この瞬間も視線を集めてる時点で、お察しというべきか」
明華「ですが制服を着ては私たちのアイデンティティが」
智葉「我々が視線を集めてるのは強豪校だからだろ」
ハオ(ちゃんと制服着ようかな)
ダヴァン「マア~、ウチであのミコに文句をツケられるのは私とサキくらいデスね」
ネリー「う……サキとお揃いって考えれば……」
ネリー「……ってサキは?」
一同「あっ」
穏乃「おお~、ここが全国!」
憧「こらこら、先走んな」
宥「人でいっぱいだね~」
玄「強そうな人がいっぱいだよ……」
灼「……ついにきた」
晴絵「まだ肩の力は抜いておきな、灼」
憧「晴絵、控え室ってどこなの?」
晴絵「ああ、そこの角を……」
和「……」
宥「ーーーー」ぶるっ
玄「あ……あれ、あっちから歩いてくるのって……っ」
憧「……」
穏乃「間違いない……和だっ!」
和「? 誰か駆けてきて……」
和「っーー、あれ、は……」
穏乃「和っ、和だよね!」
和「高鴨穏乃……さん?」
穏乃「あははっ、なんでフルネームなの」
和「い、いえ、あまりに唐突だったので」
和「皆さん……いるんですね。本当に久しぶりです」
玄「和ちゃん、久しぶりだね」
憧「和……久しぶり」
和「玄さんに、そっちは……もしかして憧ですか?」
憧「あー、わかったみたいでよかった」
和「そして……赤土先生ですよね。……先生?」
晴絵「あ、ああ……私もこんな早く会えると思わなかったから」
晴絵「びっくりしたよ……久しぶり」
和「……はい。お久しぶりです」
穏乃「ねえねえ、うちの控え室に遊びにきなよ!」
憧「この子は……私らもまだ入ってないのに誘う?」
玄「まあまあ、いいじゃない」
宥「あったかい……」ぶるぶる
灼「いや震えてるように見え……」
晴絵「和は一人? あまり引き留めちゃ悪いかな」
和「いえ……ちょっとした野暮用で。一人ですが」
和「チームメイトと競争みたいな話になって……思わず飛び出してきてしまったんです」
晴絵「競争?」
和「ええ。喧嘩ではないのでご心配なく」
和「でもさすがに戻らないといけませんね。また会いましょう」
穏乃「ええ……せっかく会えたのに」
憧「和だって団体行動してるんだから仕方ない」
憧「それに……また会えるわよ」
穏乃「……そうだなっ!」
穏乃「和、試合で会おう!」
和「皆さんも出場していたんですね……」
和「わかりました。約束です!」
穏乃「よしっ」
和「それでは私はこのへんで……」
穏乃「うん、絶対またーー」
咲「ううぅ……ここ、どこぉ……」
一同「ーーーー」ゾクゾクッ
咲「……こっち?」ゴッ
咲「ええっと……あ、あっちかなぁ……」ゴッ
咲「っ~……どうしたらいいの……」ゴゴゴゴゴ
灼「な、何あれ……」
玄「あわわわわ……」
宥「……」ぶるぶるぶるぶるぶるぶる
穏乃「……」レイプ目
憧「ちょっ、シズ大丈夫……?」
晴絵「あれは……臨海女子の制服?」
和「っ!!? っ!!!?! っっ!!!!!」
咲「な、なんだろ……急に寒気が……」
咲「あっちから……」
咲「?」
和「咲さんっ!!!」
ここまで
今日の夕方から夜多少短いですが更新します
一応なんですが和はっていうか咲和は好きなので和を悪く書いたりはしないです
咲「へ?」
和「まさか……まさか、本当に会えるなんてっ!」
和「咲さん咲さん咲さんっ! お久しぶりですっ!!」
穏乃、玄、宥、憧、晴絵「っ」ビクッ
咲「え……ええっと……?」
和「去年のインターミドル以来ですね。あの日は咲さんが忙しくあまり話せなくてずっと心残りでした」
和「せめて連絡先を渡せていれば。長野で進学する事になっていたので当時はこれからいつでも、と勘違いして必死にならなかったのが悔やまれます」
和「東京に、いってしまっていたんですね」
和「でも過ぎた事を言っても仕方ありません。こうしてまた会えた……それだけで私は……私はっ……」
憧(和ガチ泣きしてるんだけど……え? どういう事?)
咲「?? あの、人違いじゃ……」
和「咲さんっ!」
ぎゅっ
咲「ひぅっ!?」
和「あの子より先に会えた……これはきっと、運命なんですよね……」
憧「ちょっと、あれ誰よ。さっきまでと違いすぎんだけど」ヒソヒソ
玄「さ、さあ……誰なんだろう」ヒソヒソ
穏乃(ううっ……私と再会したときより喜んでない……?)ガクッ
和「咲さん……」
咲「……」ガクガクガクガク
憧「あれちょっとヤバイよね。止めてくる」
玄「わ、私もいくよ」
穏乃「……」ガクリ
憧「あ、あのさ和、そろそろ離してあげたら……?」
和「え? ああっ、何やら咲さんが苦しそうにっ」
ばっ
咲「あ……な、なにが……」ふらっ
玄「おっと、大丈夫ですか?」
咲「あ……ありがとうございます。受けとめてくれて」
玄(おもちないなぁ……)「いえいえ、気にしないでください」
咲「ふう……」
和「咲さんっ!!」
憧「ちょっとタンマ」和ぐいっ
憧「あの子誰なのよ? ただの知り合い……にしては反応がすごいけど」
和「一言でいうと私がこの世で最も尊敬する人です。中学時代にみた闘牌に心奪われてしまったんです」
憧「尊敬……にしちゃ」
憧(てか力強っ、私じゃなきゃ押さえつけられないな)
和「はあああ……っ」ジーッ
咲「っ……」身構え
和「艶々とした茶色い髪、くりくりした瞳、そしてたおやかさの中にも凛々しさを秘めたお顔……」
和「はああっ……咲さんを越える生き物はこの地球に存在しません」
晴絵(数年ぶりに会った教え子がおかしくなってた)
憧(どう収拾つけんのよこれ)
憧「あーそっちの咲さん……だっけ? も混乱してるみたいだし、まず挨拶しようよ」
憧「私たちにも紹介してほしいし」
和「そ、そうですね。興奮のあまり先走ってしまいました」
咲「っ……」感謝の視線
憧「あたしは新子憧。阿知賀女子の一年。奈良代表ね」
咲「あ、あの……宮永咲。臨海女子の一年……東東京代表です」
玄「松実玄なのです」
宥「松実宥。玄ちゃんの姉だよ」
灼「鷺森灼……よろしく」
憧「んで、あっちでがっくりしてるのがシズ……高鴨穏乃」
憧「あと監督の……晴絵っ、何ぼさっとしてんの」
晴絵「あ、ああ……赤土晴絵。阿智賀女子の監督だ」
憧「あたしと穏乃は一年だから敬語はいーよ。よろしく」
咲「う、うん……よろしくお願いします」ぺっこりん
憧「あはっ、微妙に敬語混じってるよ」
和「……」ムスー
憧「って、なんでむすっとしてんのよ」
和「……いえ。置いてきぼりだったので」
憧「あはは、あんたも紹介したら?」
和「もう憧、冗談が過ぎ」
咲「あの……どなたですか? できたら紹介してもらいたいんですけど……」
憧「えっ?」
玄「和と知り合い……じゃなかったのですか?」
咲「は、はい。その……初対面だと思うんですけど」
憧(ええ……和?)
和「」
憧(あ、死んでる)
灼「一応紹介してあげた方がいいと思……」
憧「……あー。こっちで土気色の顔してるのは和。原村和ね」
憧「あたしが言うのもなんだけど、去年のインターミドルチャンピオンで結構有名人よ」
晴絵(インターミドル……宮永咲……はっ!)
咲(原村和……あれ、どこかで……)
咲「よ、よろしくお願いし」ぺっこりん
和「うっ、うううううっ……!」
憧「またガチ泣き!? ……ってまあしゃーないか」
和「そ、そんなぁ……何かの冗談ですよね。そんなオカルトありえませんよぉぉぉっ……」
和「インターミドルで何度もお会いしましたよね!? いやほとんど私が会いにいったんですが……それでも、それでもっ、覚えてないなんてあんまりですよぉぉ……」
咲(インターミドル……ピンクの髪……あっ!)
咲「お、思い出しました!」
和「っ!!」
咲「インターミドルで何度も会いに来てくれましたね……あの、そのときはそっけなくしてしまってごめんなさいっ」頭下げ
和「さ、咲さん……」
咲「中学のときは麻雀をやめるつもりで……これからも続けそうな相手とは親しくしないようにしてたんです」
咲「原村さんはとても上手かった印象があるので……これからも麻雀していくんだろうなって」
咲「あの、あんな冷たくして許してもらえないと思いますけど……本当にごめんなさい!」
和「……」
憧(なるほどねー。そういう事情か)
憧(よかったじゃない、和)
咲「原村さん?」
和「……」
咲「……」
和「……」
咲「……あ、あの……」
和「結婚しましょう」
咲「えっ!?」
他一同「っ!?」
和「咲さんのつれない態度にはそんな理由が……嫌われていなくて本当に安心しました。これはもう婚約まったなしですね」
咲「え……いやその、昔もなんですけどちょっと怖っ……」
和「屠殺場の豚をみるような視線に最初こそ反発しましたが……なるほど。今ではむしろ興奮するくらいなので一向に構わなかったんですけど、ふふ……優しくされるというのもいいものですね。やはり咲さんは女神でした」
咲「あ……あのう…………」ガクガクブルブル
和「咲さん、結婚しましょうっ!」
咲「ひうっ」
憧「やめんか」ぽこっ
和「あたっ、何するんですか憧、今いいところ」
憧「いやいや明らかにドン引かれてるでしょ。気づきなさいよ」
和「え……そんな……っ」
和「そうなんですか、咲さん……?」
咲「えっと、あのっ……もうちょっと落ちついて話しましょう」
咲「友達になろうって言われたあのとき……本当は嬉しかったので」
咲「これからも仲良く……してください」
和「さ、咲さぁん……」ウルウル
憧「あんまり甘くするとつけあがるわよ」
宥「け、結婚って……」赤面
玄「結構アグレッシブだったんだねえ……」
咲「あの……原村さん……」
和「私の事は和と呼んでください」
咲「え、でもまだ……」
和「和で」
咲「……和ちゃん」
和「はい。なんでしょう?」
咲「ええっと……実は私迷子になってて……」
咲「だから、早いうちに戻らないといけなくて」
憧「そういや会ったときなんか途方に暮れてたわね」
宥「迷子……あったかくないよぉ……」
玄「ふむふむっ、ここは、名探偵玄ちゃんの出番」
和「大変じゃないですかっ!」
和「携帯でチームメイトに連絡はとれないんですか?」
咲「きのう充電し忘れたから電池が切れちゃってて……」
和「番号は覚えてませんか?」
咲「番号……? あっ、電話番号の事だね」
咲「番号は……えっと」
和「……」
咲「……覚えてない」
憧「そうすると連絡とるのは難しそうね」
憧「晴絵、臨海女子の監督と知り合いだったりしないの?」
晴絵「いや……臨海女子に知り合いはいないな」
灼「八方塞が……」
穏乃「じゃあさ、控え室の場所は?」ピョコッ
憧「あっ、復活した」
咲「控え室……わからないです」
穏乃「だめかぁ……」
晴絵「無闇に探し回るよりいっそ抽選会で探した方がいいかもしれないね」
憧「どうする?」
咲「……抽選会で探します」
憧「んじゃ決まり。それまで一緒にいよっか」
咲「ありがとうございます……っ」
憧「あはは、そんなかしこまらなくていーよ」
咲「心細かったので……それにさっきは和ちゃんとの間に入ってくれて助かりました」
咲「新子さんがとりもってくれなかったら……」
咲「……」和の荒ぶりっぷりを思い出す
憧「うわ震えてる……まあ災難だったね」
咲「あの……憧さんとお呼びしてもいいですか?」
憧「え? ああ、もちろんいいけ……」
和<●><●>
憧「ど……ってうわっ!」
憧「……なに和?」
和「いえ? 憧はずいぶん慕われたみたいだなーと」
憧「……どうしろってのよ」ハァ
和「まあさっきは私も助けられました。なのでとやかく言えませんね」
和「あくまでっ、正妻の座は渡しませんが!」
憧「狙ってないんだけど」
憧(そもそも、あたしが好きなのは……)ちらっ
憧(シズの鈍感っ、何か言いなさいよっ)
玄「話についてけないよ……名探偵玄ちゃんの出番……」
宥「玄ちゃん、元気だして」
玄「うわーん、おねーちゃーん」だきっ
宥「よしよし」
灼「賑やかすぎ……」
晴絵「あはは、人数的には二人増えただけなんだけどねえ」
憧「ねえ晴絵、とりあえず控え室にいってから抽選会にいくの?」
晴絵「ん、そうなるかな。じゃあいこう……」
はやり「ーー」テクテク
晴絵「か……」
はやり「? ーーあっ!」
ダダダダッ
はやり「赤土晴絵さん? 赤土晴絵さんだよね?」
晴絵「み、瑞原プロ……」
憧、和、玄、宥、穏乃「プロっ!?」
灼「……」
はやり「いやあ久しぶりだね☆ 元気にしてた?」
晴絵「は、はあ……まあ」
はやり「しかも咲ちゃんまでいるっ☆」
咲「は、はやりさん……」
はやり「やっほー☆ なんだかびっくり箱みたいなメンバーだねっ☆」
憧「ねえあれって牌のおねえさんの人よね」ヒソヒソ
宥「う、うん、テレビでみたことある」ヒソヒソ
玄「おもちおっきいのです」ヒソヒソ
灼「あのプロきつ……」ヒソヒソ
はやり「はやりはインターハイで解説求められるらしいから下見にきたんだ☆ みんなは今から抽選会?」
晴絵「え、ええ……控え室にいったら向かう予定です」
はやり「ん~? なんだか固いなあ☆ 久しぶりだからしょうがないっか。それじゃ特定の出場校とあんまり話しちゃいけないらしいから、はやりはそろそろいくね☆」
はやり「またね晴絵ちゃん、咲ちゃんっ☆」
はやり「はやや~☆」手振り振り
晴絵「はは……嵐みたいな人だ」
咲「……ふふ」
穏乃「はあ……びっくりした」
憧「心臓に悪いわよ」
和「ふむ……あの服装、趣味が合いそうです」
晴絵「まあとにかく控え室に……ってか和、戻らなくていいのか」
和「咲さんがここにいるのならば話は別です。帰るのは延期です!」
憧「それでいいのか清澄……」
和「ふふふふ……抽選会で戻れば大丈夫です。これで暫く一緒ですね咲さん♪」
咲「う、うん」
穏乃「和といられるけどなんか複雑……」
憧「あれに対抗しても馬鹿らしいわよ」
和「咲さん手を繋ぎましょう」
咲「えっ? えっと……うん、わかった」
和「っ!!」ぱぁぁっ
憧「まあ思ったより無害よね」
抽選会 会場道中
和「え……咲さん、クラスメイトさんはご存じで?」
咲「うん。ご存じ……っていうか三年同じ中学で麻雀部だったし」
咲「クラスメイトちゃんの事……知ってるの?」
和「ーーーー」
灼(和って人の表情、筆舌に尽くしがた……)
和「う……意識が飛びかけました。これが敗北の味、ですか」
咲「敗北?」
和「はい。ですが私は倒れませんっ、咲さんの心を射止めるまでは!」
咲「は、はあ……えっと」
憧「適当に流しときなって。やばくなったら止めたげるし」
抽選会 会場付近
憧「おわ、人だかり」
玄「ここは密集具合が段違いだね……」
宥「あったかい……かも」
晴絵「灼、人込みに飲み込まれないようにしろよ」
灼「心配しすぎだと思……」
和「あああっ……ついに着いてしまいました」
咲「また会えるよ」
和「そうですよね! 私たちは赤い糸で結ばれてますから!」
……キー…… サ…… サキー……
和「あれなんでしょう?」
咲「この声……もしかして」
ネリー「サキーっ!!」
咲「うわわっ」
だきっ
和「くぁwせdrftgyふじこlp」
咲「ネ、ネリーちゃん……いつも言ってるけどいきなり抱きつくのは」
ネリー「えへへっ、ごめんごめん」
和「いつも!? いつもって言いました今!?」
智葉「やれやれ、こんなところにいたか」
ダヴァン「サキの迷子癖にも困ったものデス……ハフッハフッ」
ハオ「メガンのそれのが百倍迷惑なんだけど……」
明華「とにかく見つかってよかった。咲さん、ご無事でしたか?」
穏乃「あ、あわわわわわっ」
玄「が、外人さんがいっぱいなのです」
宥「あったか~い」
灼「制服着てない人多……」
晴絵(これが留学生軍団、臨海女子……世界ランカーに去年の個人三位。文句なしの強豪)
和「そんなにひっついて! 離れなさいっ、馴れ馴れしいですよ!」
ネリー「サキ、何このピンクおっぱい?」
咲「原村和ちゃん。中学のときの……えっと知り合い。さっき会って一緒にいたんだ」
ネリー「ふーん」
和「咲さんなんなんですか、このちびっこは!」
咲「同じ臨海女子で留学生のネリーちゃん。友達だよ」
和「なっ」
ネリー「ふふん、なるほどね。よろしく『知り合い』のノドカ」
和「くううっ……」
憧「まあーた火種か」
智葉「とにかく抽選が始まる前に見つかってよかった。携帯も通じないから肝を冷やしたぞ」
咲「うう……ごめんなさい……」
明華「まあ結果よければ、ですよ。次から気をつけましょう」
咲「はい……」
和「咲さんの隣に座るのは私ですっ!」
ネリー「ノドカは永水の席に座った方がいいんじゃない?」
咲「の、和ちゃん……自分の学校のとこ戻らないとまずいよ」
和「くっ、この場は預けます。でも勘違いしないようにっ」
和「咲さん、また会いましょうっ! というか会いにいきます!」
ダダダダッ
ーー只今より、インターハイ本選、組合わせ抽選会を行いますーー
ネリー「おかえりっ、サキ」
咲「ただいま」
ここまで
シノハユ知識ほぼなしで大人組の呼び方だけ表みつからなかったので間違いあったらご容赦
風越の大将は金角ちゃんではないです
投下します
まどろみの中で記憶がおぼろげに映し出される。
今はもう懐かしく、けれど未だ心を締めつけるありし日の残照。
蓋をしてしまった思いで。
「もう一度よ。咲、もう一度」
幼く、まだ咲が九九も暗唱できなかった頃、母は口癖のようにそう口にした。
教育熱心だったのだろう。
物心がついてすぐ様々な習い事を勧められ、姉の照と同様、多くの習い事に時間を費やしていた。
そこらの教育ママの方針とやや毛色が違ったのは、バレエやスケートといった一芸で勝負する世界ではなく、茶道華道といった教養として通用するものに徹底していた事。
だから咲は、周囲の大人たちは、夢にも思わなかった。
タレント性のみではなく、プロとして暮らしていくのに必ず相応しい実力がなくてはならない麻雀に打ち込ませるとは。
「あなた達には才能がある。凡人が及びもつかないほどの」
その一言で姉妹の教育方針は一変した。今まで熟してきた習い事など忘れろとばかりにすっぱりとやめさせ、母が抱える大勢の部下はあたふたしていたが。まさに鶴の一声で、仰々しい名前のつく茶道華道の家元とのあいだに生じた問題も切って捨てる。
その際に被ったらしい少なくない損失、それを歯牙にもかけず、強行した母に疑問を呈す者もいたようだが、幼い咲には察しかねる話だった。
とまれ、才能を見いだされ麻雀の腕を磨く幼少時代を姉ともども過ごす事になった。
しかし母の意向といえど、麻雀は好むところであったので、姉妹はむしろ望んで打ち込んだ。
プロ雀士のような講師を雇わず、内実は終始『家族麻雀』であったのは資金や人脈に糸目をつけない母にして奇妙ではあったが、咲にそのへんの機微を理解するにはまだ幼く、勧められるまま『家族麻雀』に没頭した。
「もう一度よ。咲、もう一度」
それが母の口癖だった。
「そうね……真剣さが足りない。お年玉を賭けましょう」
姉妹ははた目にも素晴らしい麻雀の才を有し『家族麻雀』でたゆまず努力を積み重ねたが、どうしても実力が伸び悩んでしまう時期があった。
そんなとき母が提案したのは、子どもの貴重なお小遣い源であるお年玉を賭けるというものだった。
姉妹はささやかな反発こそしたが、有無を言わせぬ母の語り口と、少なくとも負けなければ減りもしない、という説明で渋々受け入れた。
そして姉妹はめきめきと腕を上げていく。中でも咲の成長は目覚ましく、姉の一歩上をいっていた。
照「咲っ、もう一回! もう一回勝負して!」
負けん気の強い姉はその事実に屈せず、姉妹の勝負は白熱した。しかし咲は勝ちに頓着しない。実力の優劣にもこだわりがない咲にとって姉の情熱は少しばかり重く、辟易としてしまう事もあった。
ただ結局のところ、大好きな姉と卓を囲める。それだけで咲は楽しかった。咲は、咲なりに麻雀を楽しんだ。姉も、姉なりに楽しんでいたろう。二人は仲睦まじい姉妹だった。
詰まるところ何も問題はなかった。あの日までは。
咲「うわあっ! すごいっ、きれいだよおねえちゃんっ!」
照「高いから気をつけて。落ちたら危ない」
その日。咲は、小高い山々が連なる、山頂からの景色が一望できる場所に来ていた。
そこから見渡す景色は壮観。
心の奥底まで訴えてくるプリミティブな情動に刺激された咲は、喜色に溢れた声でしきりに感嘆した。
照「……綺麗だね。ずっとこうしていたい」
咲「今日は麻雀の練習はおやすみだっていってたよ」
手ごろな場所に座り、地べたの感触を確かめる。天候の影響もなく快適な座り心地だったのでこれ幸いと座り込む。
照「咲……おいで」
手招きする姉に促されるまま姉の膝の上にちょこんと乗る。
姉妹の体格にあまり差はない。妹の気遣いに姉はふっと笑みを零して返す。
そこからの記憶は曖昧だ。不鮮明な映像が、切れ切れに脳裏をよぎる。
そしてーーーー
咲「リンシャンカイホー? 何それ」
照「麻雀の役の名前だよ。『山の上で花が咲く』って意味なんだ」
咲「咲く? おんなじだ! あたしの名前と!」
照「そうだね、咲。森林限界を超えた高い山の上、そこに花が咲くこともある」
照「咲、おまえもその花のように、強くーーーー」
今と昔を繋ぐ言葉。姉の言う通りの強さを手に入れようと思った。
狂おしく咲き乱れる桜に人が心奪われるように、私もまたそんな花であろう。
咲き誇る花のイメージ。嶺山開花。
それはーーーー
咲「カンっ!」
咲「ツモ……リンシャンカイホー!」
家族の仲を裂く引き金となった。
「咲、あなたその打ち方、どこで覚えたの?」
「やめなさい……その打ち方は」
「あなたにはもっと相応しい打ち方がある。誰もたどり着けない、考えもつかない、神に愛されたものがなせる闘牌。あなたにはそれができる」
「才能を示すものは、すべからくそれを磨く義務が生じる。腐らせてはならない」
「……一見華々しく見えるそれは、あなたの才能を曇らせる……」
「だから、そんな打ち方はやめてしまいなさい」
「そう……それは照から教わったの」
「大丈夫。怒ったりしない。咲のためを思ってしたことだもの」
「姉はいつだって妹を想っているもの」
「……あなたは、その打ち方さえやめればいい」
暗転。
智葉「宮永、上がったか」
咲「はい先輩、……みていたんですか?」
合宿所の練習ルーム、その一室。広々とした部屋の壁に背を預けていた智葉が、対局を切り上げた咲に声をかけてくる。
智葉「様子を見ておきたかったんでな。調子はどうだ?」
咲「……正直、エンジンがかかりすぎて……力を制御しきれてない感じです」
咲「見苦しいところをお見せしました」
智葉「気にするな。それより……何かあったのか」
尋ねるというより確認する風に話す智葉にぎくりとした。
咲「鋭い……ですね」
智葉「そんな事はいい。話せるのなら聞いておく」
咲「……強い人と戦ったんです。その影響で」
智葉「そうか……稀にある事だな」
智葉「相手は?」
咲「えっと……それは」
衣の屋敷に出向いて対局した事は伏せたい。はやりとの関係も露呈するかもしれないから。
今さっき対局したばかりの部員も居合わせている。
どうしよう……答えないとまずいかな。
言い淀んでしまう。しかし智葉から追及はなかった。
咲「……その……」
智葉「いや、いい。忘れてくれ」
「無理はするな」とだけ釘を刺し、踵を返す智葉。
智葉「ネット麻雀の用意をさせておいた。慣らしに使えそうなら使え」
咲「わ、わかりました」
どこまで見抜いてたんだろう。咲は若干焦りつつ、返答した。
既に智葉は入り口の方に歩いている途中で、そのまま別れるかと思われたが、ふいに頭だけ振り返って告げる。
智葉「夜、時間を空けておけ。団体戦のメンバーも含んでミーティングがある」
全国に出場する内輪での話だろうか。智葉も個人戦を一位で通過している。咲はそれに頷いて返した。
咲「ネット麻雀か……ちょっと苦手なんだよね」
伝言すると智葉は今度こそ退室し、咲は備えつけのPCに向かい、準備されていたネット麻雀に取りかかる。
咲「えいっ。……これ? ………………」
咲「こ、これなら…………このっ、…………」
咲「あ…………負けちゃった」
明華「そうみたいですね」
咲「わっ!」
身がすくむ。意識の外からかかった声。後ろから明華が覗き込んできていた。
咲「みょ、明華さん……」
明華「驚かせてしまいましたね。ふふ、ごめんなさい」
咲「……むう、からかってますね」
悪びれない笑みでしとやかに振る舞う明華に、じっとりとした目つきで抗議する。
なのに当の彼女はますます相好を崩した。
明華「いつもネリーがいますから。私だって、たまにはコミュニケーションを図りたいんですよ」
咲「……その言い方はずるいですよぅ……」
明華「まあまあ。ネット麻雀の方はよろしいんですか?」
咲「うーん、やっぱり現実に打とうかと……」
明華「ネットの世界は能力が通じにくいですね。大分と苦戦したようで」
明華「ところで……それはチャットが来ているのではないですか?」
咲「え?」
指摘されて視線を移す。敗北を示す表示画面の端、チャットコマンドが点滅している。
たどたどしい操作でウィンドウを開くと、簡素なページにメッセージが記されていた。
『あなたは宮永咲さんですか?』
咲「あれ……」
なんでわかったんだろう。目をしばたたかせる傍ら、明華が厳しい表情を浮かべた。
明華「咲さん……本名でしてたんですか?」
咲「え? はい、名前を入力してくださいとあったので……」
明華「そういうときはハンドルネームを使うものですよ。ネットでは大体そうです」
明華「まあ、そうそう本名だとはばれないと思いますが……って待って、待ってください」
咲「はい?」
明華「何してるんですか」
咲「宮永咲かと訊かれたので『はい。そうです』と……」
明華「何してるんですかっ!」
素早くマウスが取り上げられる。きょとんとした。
『咲さん、本当に咲さんなんですか?』
『まさか……いやでもこの感じ……』
明華「しかもネット麻雀では有名なプレイヤーではないですか……いえ、まるでわからないプレイヤーも、それはそれで不安ですが」
『咲さん? 返事をしてください』
明華「……困りましたね」
『私は宮永咲じゃありません。さっきのは冗談です』
『……あなた、さっきまで打っていた人と違いますね。代わってください』
明華「は?」
『いやいや。同じ人ですよ』
『そこをどけ。次はない』
咲「ど、どうしたんですか……」
明華「…………」
明華「……咲さん、私の言う通りにキーボードを打ってみてもらえますか?」
咲「え……は、はい……構いませんけど」
明華の指示に従って人差し指でキーボードを叩く。
咲「えーっと……『おかしな事を言いますね』……っと」
『咲さん!? 咲さんなんですか!?』
咲「え?」
明華「は?」
『いや……ちょっと違いますね。咲さんの言葉じゃないような……』
『おい邪魔をするな。潰すぞ』
咲「ひいっ……」
明華「……なんなんですかこの人」
『咲さん? 咲さんっ、返事をしてください!』
『くっ、さっきから邪魔してんのはどこの誰だよおっ! この女狐! 泥棒猫っ!』
明華「…………」
咲「……ひいぃ……なんなの……」
明華「咲さん、PCの電源を落としましょう」
明華「あとそのネト麻のアカウントも消します」
咲「わ、わかりました……」
明華「これは注意を怠った私の責任ですね……すみません、咲さん」
咲「よくわからないですけど……明華さんのせいじゃないです……」
明華「いえ、アレをただの人間と侮った私が悪いです。正直日本をなめていました」
咲「え……ええっと……?」
明華「咲さんのようなか弱い女性をお守りするのがフランスの誇
り。騎士の誓い」
明華「あのような怪物に狙われているとは……咲さん、大丈夫です」
ふわりと明華の身体がかぶさる。優しい抱擁に照れくさい気持ちになった。
咲「あの……ちょっと恥ずかしいです……」
困ったような笑みとともに、明華の身体が離れていく。
自分の顔が赤くなっているのがわかる。
頬に手をやる。熱い。
明華「日本の方は奥ゆかしいですね。照れなくてもいいのに」
柔らかく笑ってそう言う明華に苦笑を零し、咲はーーーー。
それらを追体験する意識は、恐いのか恥ずかしいのか、それとも最初に覚えたもの悲しさか。
いろんな感情があふれて、ごちゃごちゃと混ざるのを感じながら、咲の意識は浮上していった。
抽選会で白糸台と臨海の場所がわかってちょっと居眠りしちゃう咲さんでした
ここまで
『……あなた、さっきまで打っていた人と違いますね。代わってください』
明華「は?」
『いやいや。同じ人ですよ』
『ジョークジョーク。フレンチジョーク』
くらい言わせてもよかったか
和だけはっちゃけさせすぎましたね、反省
1です。これでトリップ合ってたっけ…
たくさんのレスありがとうございます。励みになります。
生存報告代わりに続きを一部置いていきます
ふわふわと意識がおぼつかない。緩やかな酩酊。考えを妨げるもやが頭を覆っている。少し時間を置いてそれを振り払い、のろのろと意識を起こす。既に開いていた薄目を擦りつつ外に意識を向けると、誰かに覗き込まれているのに気づく。
見知った顔。ネリーだ。
咲は瞠目し、ネリーの肩を軽く押すようにして突き飛ばした。
ネリー「わっ……サキ?」
咲「あ、ごっ、ごめん」
ネリーの表情にみるみる困惑が浮かぶ。慌てて謝る。咄嗟の事とはいえ、ひどい事をしてしまった。
気まずさに視線を逸らし周囲に流すと、臨海の面々、団体戦のメンバーと智葉もこちらを見ていた。
智葉「居眠りは感心しないな。気をつけてくれ」
咲「すっ、すみません……」
どうやら自分は寝てしまっていたらしい。いや、推論づけるまでもなく、意識を取り戻すより以前の記憶を遡れば事実は火を見るより明らかだ。
叱咤が飛び、咲は平謝りするしかなかった。それがたしなめる程度に留まっていたのは、辛うじてお目零ししてくれているに違いなかった。
壇上で行われる抽選は佳境に達し、対戦表の空欄も大分と少なくなっている。壇上の奥に設えた巨大なディスプレイ。そこに映るトーナメント表には、各校の生徒が整然と設けられた座席から視線を注ぎ、話題の的になっていた。
咲ら臨海の生徒とて例外ではなく、先ほどから主に日本人の生徒たちが言葉を交わす。囁き合うようにして話すのは、泰然と対戦表を眺める留学生に気を遣っての事か。
そうだ。彼女たちの目の前でもあった。
年輩を含む多くの部員から『代表』の席を預かる以上、情けない顔を見せるべきではない。咲は中学からそうしてきたように気を引き締め直す。
気になっていた臨海と白糸台は既に割り振られたようだ。
共にシード。違うブロック。決勝まで勝ち上がらなければ、両者に対決の芽はない。
恐らく、自分はそれを確認して気が抜けたのだろう。長い道のり。決勝までの時間を想い、張り詰めた糸を解いてしまった。
思わず息を吐く。
明華「どうしました? 顔色が優れないようですが……」
咲「あ……あはは、
寝起きだからなのかな。えっと、体調が悪いわけじゃないんです」
我ながら下手なごまかしだ。そう思いながら、じいっと視線を投げてくる明華に冷や汗を垂らす。笑みがひきつりそうになる。
明華「気のせいならばいいのですけど。咲さんは平気で無理をしそうだから心配です」
咲「平気でって……そんなにやせ我慢できるほど打たれ強くないですよ私」
顔に出しているつもりはなかった。そして明華に言い返した言葉は本心から口にしているつもりだった。
明華「うーん安心できませんね。他ならぬ咲さんの事ですから」
意味がわからない。
いとおしい何かを見つめるように目を細めた明華。その視線が、ゆっくりと通り抜けていくのを感じながら困惑する。
返事を避けてふらりと視線を移す。
壇上では他校の代表がくじを引いていた。残り一校だ。見なくても対戦表がどうなるかは決まっている。
けれど一瞥して視線を切っては逃げ場所がなくなってしまうから、咲はさして興味のない光景に視線を留め続けた。
ダヴァン「準決勝で千里山と当たりそうデスね」
ふと、静かに眺めていた留学生たちの方から声が届く。
ネリー「そこって強いの?」
智葉「はあ、研究しろといったのに調べなかったな?」
ネリー「うっ」
智葉「……全国に出場すること三十五回。激戦区の北大阪を十一年連続で勝ち抜いてきている。
去年のインターハイで四位、全国ランキングは二位。全国区の名門といっていい」
朗々とした智葉の説明が続く。
二校とも名のしれた強豪だが、ネリーは知らなかったようだ。不勉強を叱られ小さくなっていたが、教えられるうちに強豪と理解したのか、不敵に笑って戦意を燃やす。
喉元に牙を当てられるかのような威圧。日ごろ顔を合わせ、打ち慣れた咲ですらぞっとする獰猛な笑み。
智葉「だが、その前に二回戦、
北部九州最強の呼び声高い新道寺女子……まず上がってくる」
明華「新道寺ですか。映像を見ましたが、得体のしれない選手がいました」
智葉「油断は禁物だな。全国は思いもよらないところから強敵が出てくる」
しかし会話が途切れる事はない。多くの面で高校離れした印象を与える顔ぶれ、ジュニアの世界レベルが集うこの場でそれは何ら不思議はなかった。
そして。
部の面々が他校の話題に花を咲かせる中、咲もまた脳裏に他校の生徒を思い描く。
先ほど再会した原村和だ。長野代表校のレギュラーだと聞いている。
長野出身。という事は。もしかすると。
ずぷりと嫌な感覚が背に流れ落ちる。咲にとって長野は、特別な意味を持っていた。生まれ故郷、家族の思い出が根づく地、そして。
感情が荒れ、思考が乱れる。どうしよう。
冷静になり一息つく。肺の奥から搾り出すような吐息。その余韻に浸る間もなく。頭の中で幾つかの計算を巡らし、会場の全体の様子をちらりと窺ってから、智葉に話しかけた。
咲「あ、あの、先輩。
おトイ……お手洗いにいってきてもいいですか」
智葉「何?」
会話を中断して振り向いた智葉が聞き返す。
咲「だから、その……お手洗いに」
恥ずかしい。授業中に尿意を申告する心持ちで、頬に熱が集まっていく。
「だめですか?」と問いかけるも、智葉は眉を寄せていた。やはり抽選が終わるこのタイミングは問題があったか。
内心逸る気持ちを抑えつつ、返答を待つ。
まもなくして智葉が口を開く。
智葉「わかった。抽選はもう終わってしまうから会場を出たすぐ傍で待っていよう」
よかった。半ば諦めかけたところに許可が降り、思わず表情が和らぐ。しかし間髪入れず条件がつけられた。
智葉「ただし、一人じゃなく誰か連れてだ。迷子になられたら困るからな」
ぐうの音も出ない話だった。ついさっき迷子になっていた身だ。「誰か選べ」との指示に大人しく従い、候補となるメンバーを見繕う。
咲「じゃあ……明華さん、お願いします」
数秒ほど逡巡して、咲は一人を選ぶ。
明華「おや。意外ですね。はいはい、承りますよ」
朗らかな明華を連れ会場を後にする。
座席から離れる直前、複雑そうに顔をしかめるネリーが目に入ったが、咲の視線はその姿を素通りした。
見えていなかったかのように。
インハイ会場内のトイレはそこらの公衆のそれと比較すると清潔な以外、特筆する事はなかった。咲は周囲を一瞥すると、すぐ個室の扉を開く。
用は足さない。元々そのつもりだった。蓋を下ろした便座に腰かけ、適当な時間を潰してから、退出し合流しようとする。
しかし、洗面所の姿見の前でぱたりと足が止まる。
私は何をやってるんだろう。
今さらすぎる疑問がのどを突く。考えるまでもない。思い立って抽選会を抜けだし、こうしてここに立っている。
部の引率に苦労する智葉に真っ赤な嘘をついて。親切から同道してくれた明華を欺いて。
おめおめと。
惨めな少女の姿が鏡に映っていた。虫酸が走るほど嫌悪が込み上げる。
自分だとわかっている。それでも、改める事ができない自分に、咲は目に見えない重圧に屈したように小さな肩を震わせた。
▼
咲「ごめんなさい、お待たせしましたっ」
洗った手をハンカチで拭きつつ急ぎ足で駆け寄る。明華の姿は出口からやや離れた場所にあり、見知らぬ誰かと対面していた。
明華「ああ咲さん、おかえりなさい」
まず一人、柔和な笑みが出迎える。
「へー……待ってたのってあの子?」
そして、見慣れない女の子。
咲「っ……」
その姿をみて咲は息を呑む。
同年代の少女。すらりとした肢体を包む制服に、ふんわりとウェーブのかかった金色の髪。その中心に整ったパーツで形作られた小ぶりの顔がある。
絵本に登場するお姫様のような面立ち。同性の目からみても、綺麗な少女だった。
「そこの人、サキ……宮永咲でしょ?」
咲「えっ? そ、そうですけど……」
淡「私は大星淡。ということで」
淡「いくよっ!」
名乗りながらつかつかと歩み寄ってきた少女、大星淡にむんずと腕を掴まれ引っ張られた。
目の前で対面したかと思うといきなりだ。力任せにぐいっと自分の側に引き寄せてくる。
咲「は、…………え? え?」
突然の事に色を失い、一歩二歩となし崩しに手を引かれて歩く。
一体何者なのか。
そこまでして急激に現状が飲み込めて、振り払おうと腕を動かす。だが、僅かに淡の身体を揺らがせただけで振り払えない。引っ張られたままだ。
咲「ちょっ、とおお……」
膂力に差があるのか。嫌がる子犬を扱うような力関係。無論子犬の側にされたのは咲だ。
咲は貧弱な自分にちょっぴり危機感を持った。
そこで、無理矢理に繋がれた淡と咲の手にもうひとつ上から手が重なる。
明華「こういう事をされると困ります」
明華の赤みがかった茶色の瞳が刺すように見据える。
口調はやんわりとしたものだったが、常にない棘が込められている。咲にはそう感じられた。
淡「え、あれっ、動かない」
明華の手に加えられた力と拮抗したのか、その場から歩かされる事はない。事態を把握した淡が「えいっ、えいっ」と勢いをつけて引っ張っても、動かないようだ。
淡「ちょっと邪魔しないでよ」
明華「そう言われても。連れていくなとしか言えません」
目に見えて機嫌を損ねて睨む淡に、明華は掣肘を加え、光る目に力を込めて見返した。
咲「あ……明華さん、ありがとうございます」
明華「いえいえ。お知り合いではないんですよね?」
確認するような問いにこくこくと頷く。すると安心したように微笑みを返される。万一にも邪魔者だった可能性を考慮したのだろうか。律儀な人だった。
淡「むうっ」
咲「あの、その制服……白糸台の人ですか?」
淡「あ、わかるんだ。やっぱり?」
風船のように頬を膨らましいかにも不満そうな顔つきの淡に向き直り、恐る恐る尋ねてみると、なぜか淡は顔を綻ばせた。
淡「まあテルと同じ学校だからね。手間が省けるよ」
咲「っ……!?」
何気なくそれを口にされた瞬間、意識に空隙が生まれ、ぽかんとした咲の肌が一瞬のちに粟立つ。
驚きを隠せなかった。瞳が揺れているのがわかる。鼓動が速くなっているのが自覚できる。
予想はしていたのに、頭が真っ白になった。
淡「ふうん、その様子じゃ関係ないって訳じゃなさそうだね。わかってたけど。ねっ、それより打とうよ!」
淡の声は弾んでいた。宝物を見つけた子どものように目を輝かせ、無邪気に喜ぶ。
半ば忘我の彼方に飛んでいた咲にも悪意がないのは何となく感じとれて、冷静に事を見る働きを促した。
名前を出されただけだ。ただ『テル』と呼んだ。それだけ。
どういう関係かと疑問を呈された訳でもなければ、血縁かと勘ぐる記者ほど直截的でもない。
明華「出場選手同士の対局は禁じられていますよ」
淡「あー、うん。そうだっけ」
指摘にあっけらかんと淡が言葉を返す。
淡「ぶー。けどまあ、しょうがないっか。打てるときは打ってよね」
咲「え……?」
淡「なにその『え』は?」
咲「あ、……えっとその」
言い淀む。『そんな規則なんて知った事じゃない。打て』くらいは言いそうな印象だったとは口にしづらかった。
少し意外に思う。同年代にしては幼い印象が先に立ち、その内面まで同じものとばかり考えていたが、それは咲の思い込みだった。
これでは咲が失礼だ。申し訳ない気持ちになり、かといってはっきりと謝る決心もつかず、俯きがちに視線を逸らす。
明華「……強引に付き合わせる気がないのなら聞かなかった事にします。咲さん、そろそろいきましょう」
咲「あっ……! そ、そうですね、待たせてるんでした」
明華の促しにはっと顔を上げ同意を示す。
咲「じゃあ、あの……部の人たちを待たせてるので失礼します」
深くはないが丁寧に頭を下げ、その場をあとにしようとする。
すると。
淡「あ、ちょっとだけ待って!」
淡に呼び止められる。どうしたんだろうか。神妙な面つきをした淡に戸惑いつつ受け返す。
咲「どうしたんですか?」
淡「ごめんね、怒ってる?」
最初意味がわからなかった。しかし、思い当たる節はあって、さらに聞き返した。
咲「どうしてですか?」
淡「んー、その何となく。テルの話出したとき様子が変だったから……」
心なしかしょんぼりとして話す淡。得心がいった。タブーに触れてしまったと感じたのだろう。
咲「そうですか。でも、怒ってないですよ。あ! 気を遣ってるとかじゃなくて本当に」
淡「そっか……よかった!」
一転、安堵したように淡の相好が崩れる。萎れた花が再び咲くかのような笑顔。
咲にとって、淡との会話、それは本当に些細なやりとりだ。
しょっちゅう関係を探られた、中学時代に比べれば。
何て事はない。即断で結論に至る。
インターハイまで臨海への入学を嗅ぎつけられなかった通り、高校に上がってからその類いの状況を運良く避けられていた。
そんな弊害だろう。姉と同じ学校の生徒に名前を出されただけで取り乱してしまった。
咲「誤解も解けたようですし、それじゃあ今度こそ。また……機会があれば打ってください」
淡「うん、またねー!」
元気よく別れを告げる淡に微笑を返す。淡はそのまま手洗いに向かうようだ。
さて、皆を待たせている。急がなければならない。
明華と共に帰り道をいく。手洗いに始まり、散々待たせてしまった事もあり、咲は頭の上がらない思いで明華と並び歩き始めた。
明華「気にやまなくて大丈夫ですよ。気にしていません」
真心のこもった言葉が耳朶を打つ。柔らかな笑み、温かみのある声。優しい響きだった。
抽選会の静かな熱気が嘘のように静まり返った長い廊下に二人分の足音を響かせながら、目を伏せた咲の声が続く。
咲「でも……ごめんなさい」
良心の呵責に苛まれぽつりと一言漏らした咲に、明華は困ったような笑みを浮かべる。
明華「お手洗いはタイミングが悪かったですが、仕方のない事です。それに先ほどの事でしたら巻き込まれた形で、咲さんに非はありませんよ」
明華の言葉はどこまでも優しかった。でも、それに甘える気持ちにはなれない。
自分は、今こうしている間も明華の厚意を裏切り続けている。
だから、彼女の言葉にうなずく事もできず、咲は無言で歩き続けた。
ここまで
今までの内容は手元に保存してありますができるだけこのスレで完結させようかと思います
あ、長くなるという意味ではなくこのスレを落とさず続けるって意味です
新スレに昔の分もまとめて投稿するのは疲れそうなので
少しだけ更新します
▼
夕暮れ時。閑散とした部室で咲は牌を掃除していた。
卓の端に牌を並べる。濡れたタオルで裏側を全面軽くふいて、すぐさま、乾いたタオルでしっかりとふく。
部室に他の人はいない。窓から射し込む茜色の夕陽を浴びながら、咲は黙々と作業した。
そこに来訪者が現れる。
智葉「……宮永、何をしている?」
固い声が飛ぶ。入ってきた入り口の扉に手をかけたまま、智葉が言葉を発していた。対する咲は、平然としている。
咲「何って、洗牌に決まってるじゃないですか」
「みてわからないんですか」と言いたげな目つきで智葉に視線だけ寄越す咲。挑戦的な態度で、目上への敬意が感じられなかった。
その間も、咲の手は止まらず作業を続けている。まるで智葉の来訪など気にかけていないと言外に主張するようだった。
しかし一方で、ドアノブから手を外し咲の目をみて話す智葉の表情は厳しかった。
智葉「私の記憶が確かなら、牌の掃除は一年全員に指示したんだがな。他はどうした?」
咲「帰らせました。邪魔だったので」
智葉「邪魔?」
咲「喋りながらだらだらと作業したり、やった作業も雑だし」
咲「あと遠回しに嫌みを言ってきたりしたので。反応しないとうるさいし」
咲「私一人でやった方がましかなって」
咲「だから言ったんです。私が責任持って全部やるって」
智葉「なるほどな……」
咲の説明に智葉は口を開けて唖然とした。同時に、咲を含む一年の部員たちに憤りを感じていた。智葉の指示は「一年全員でやれ」というものであって、一人に任せるものではない。
何か灸を据えてやらないとなと考えながら、智葉は部室をぐるりと見渡し、現状に嘆息した。
この部室にいくつ卓があると思っているのか。十は軽く超えている。終わるまでやったら夜になってしまう。
智葉「ずいぶんと安請け合いしたものだ。下校時刻もある。今日中に終わるはずないだろう」
咲「そうでもないですよ。帰らせる前に終わってた卓も、まあ雑だけどあるし、私牌の掃除は得意ですから」
反論しながら、背中部分をふいた牌を立てる。牌のケースで卓の端に揃え、頭部をふく。そして牌を横に寝かせーー。
智葉は作業の様子を観察する。確かに掃除する手並みは鮮やかだった。みた限り、動きは機敏で、丁寧さも損なわれていない。
これならもしかすると終わるのではないか。そう思わせるほど咲は手慣れていた。智葉の気持ちは一応納得に達する。
智葉「間に合うかもしれないが、様子はみさせてもらう」
咲「まあ……それくらいはしょうがないか。いいですよ、みてて」
いちいち癪に障る言い回しをするやつだ。手近にあった椅子に腰かけて、卓をひとつ挟み対面する形で様子を見守った。
それからどれくらい時間が経っただろうか。重苦しい沈黙に包まれた部室で同じような光景が繰り返され続ける。
途中、手伝う事も頭をよぎったが、勝手な行動をする一年に甘い顔をするのもためらわれ、結局は観察に留まっていた。
ただ話がしてみたくなって口を開いた。
智葉「中学でも牌の掃除をしていたのか?」
作業する咲の目が向く。依然作業は続け、露骨に面倒くさそうな色を宿している。
咲「一年の頃は勿論してましたよ。当たり前です」
智葉「三年のときは?」
咲「三年って私部長してたんですよ。やると思います?」
確かに、やる事はあっても頻繁にはあり得ないだろう。三年で部長ともなれば、やる事は幾らでもある。無名の弱小校ならともかく、咲のいたような、真剣に全中を目指す中学がそうとは思えない。
智葉「いや、久々にしてはブランクを感じさせないからな。少し気になっただけだ」
咲「……」
数秒の間。押し黙った咲の手が止まる。
手を止めたのは智葉のみる限り初めてだ。少し驚きながら気になって様子をみていると、
咲「……してました。やりたかったので」
咲がぽつりと漏らしてすぐ作業に戻った。
智葉「へえ珍しいな」
咲「そうですか?」
智葉「ああ」
うなずく。本心だ。
智葉とてやるべき事なら洗牌だろうと文句など口にせず取り組むが、別に好きでする訳ではない。
その点、好んでするというなら智葉にはわからない感情だ。
咲「変わっていますか」
咲がつぶやいた。
咲「私、こういう作業が楽しいです。麻雀を打つよりこうしている方が好きかもしれません」
今度は手を止めなかった。
淡白な声。興味なさそうに乾いた表情。けれどその瞳だけは、ほんの少し哀しみを帯びて揺れている。
よくみなければわからない変化。本人も自覚していないかもしれない、些細な違い。
目の当たりにしている智葉ですら気のせいかと思うが、あえて聞き出す気にはなれない。
ただ。
こうしている方が好きかもしれない。その言葉に嘘はない気がした。
椅子から立ち上がり、入り口である扉に歩いていく。
咲「帰るんですか?」
答えず扉を開き、廊下に出る。この対局室を始め、幾つかの部屋に繋がった廊下。
そこの棚に用意していた掃除道具、濡れタオルと乾いたタオルを一枚ずつ手にとって。
対局室に戻る。
智葉「こっちの卓で最後だな」
咲が作業する卓ではないもうひとつ、唯一手つかずの卓の前に立つ。
咲をみる。意味がわからないといった顔をしていた。
咲「何を」
智葉「最終下校時刻。時間切れだ」
一人でやるならな、とつけ加える。
咲「……辻垣内さんに手伝わせたら余計嫌みを言われます」
智葉「残念だったな。一人でやりきれなかった、お前の計算ミスだ」
そう告げてやると咲が悔しそうな表情を浮かべる。
まんまとやり込めた智葉は鼻で笑ってやった。
▼
大会を運営する、壮年に差し掛かろうかという男性のスタッフが壇上に登り、細々とした説明を述べている。
抽選会の熱気は収まりつつあった。戦いを前にし厳かさを醸しつつある会場の中で、臨海の生徒が位置する一角は静かながら、一抹のぎこちなさが漂う。
智葉「おい、しゃんとしろ。いつまで放心してるんだ」
気遣わしげな智葉の声がネリーに向けられる。時と場所の都合があり、音量を潜めた最低限の声だったが、耳に入っているのかいないのか、ネリーはさしたる反応をみせない。
明華と咲が姿を消して以来、こうして肩を落ち込ませるネリーだが、事の仔細がわからず、智葉は頭を悩ませる。
こういうとき、近しい存在であるという事は癌になる。
勝利を目指す以上、メンバーの私的な事情に振り回されるのは、チームにとって毒にしかならないからだ。
チームにとって、大切なのは人の和。
そして、個々人の実力も当然大きい。
優勝を狙うにあたって臨海女子の分析をすれば、実力の面はクリアしている。非常に高い水準にあると言えるだろう。
しかし一方で、和が乱れる要因を回避できているか、と言われたらその面は危うい。
メンバーの一人を除いて留学生、それも雑誌編集者などに傭兵と表される存在で大半が占められている。
傭兵は不必要な干渉はしない。彼らは勝つべくして雇われたのであって、仲を深めたり、メンバーに影響を与えるのが目的ではないからだ。
だから、傭兵とその周囲の関係は、一見仲良く見えたとしてもビジネスライクなものに終始していた。
咲がその態度を大きく変え、チームに馴染むようになるまでは。
ネリー「うん……わかった」
俯いたまま小さな声を返すネリー。聞こえていたらしい。随分と間が空いたが、受け答えただけましか。
智葉「ネリー。その、だな……」
掛ける言葉に悩む。ネリーと咲の事情を智葉はよく知らない。なら、どうすべきか。
智葉「咲の事を知りたいか?」
束の間の逡巡を挟み、核心から切り出す。
ネリー「……え?」
智葉「お前に一つ雑用を与える」
ネリー「雑用ってそれとなんの関係があるの?」
智葉「話は後だ。今は抽選会に集中しろ、直に終わる」
壇上では抽選会の締めくくりにかかる運営スタッフが形式に則った閉会の辞を述べている。今、長々と話し込むのは得策ではない。智葉は壇上に視線を移し、そう締めくくった。
▼
閉会を迎えた抽選会場の混雑は人込みで出口が見えないほどだった。思ったように動く事が儘ならない。
出口の傍で待っていないとならない智葉たちは他の人が粗方掃けてから行動に移す事にした。といっても、全員が咲たちを待つ必要はなく、残るのは団体戦のメンバーと智葉だけだ。
ネリー「ねえサトハ、さっきの話
どういうこと?」
智葉以外の日本人の部員が会場を後にした頃、見計らったかのようにネリーが疑問を投げる。ハオやダヴァンは静観していた。
智葉「ああ、それはーー」
智葉は説明する。
各校が団体の一回戦を終えた後、つまり四日後の夜、智葉にある仕事が任せられていた。
それは出資者との座談会。
日本人選手の運用に関して、意見や話し合いの場が持たれる。今年から苦肉の選択で彼らをチームに組み込む事になった臨海が、避けては通れない道。大事な会合だ。
そんな概要をざっくばらんに伝えてやると、ネリーは渋い顔をした。
ネリー「えっと……それネリーと関係ないんじゃないの」
智葉「参加する出資者に宮永という女性がいると聞いてもか?」
ネリー「っ!」
ネリーの顔色が瞬く間に変わる。ここまでは問題ない。予想した反応が得られた事に満足しながら、智葉は話を続ける。
ネリー「……ミヤナガ?」
智葉「この春から加わったスポンサーだ。
新参にも拘わらず、既にスポンサーの中でもまとめ役を務める大物。大口中の大口といっていい」
ネリー「そんなのどうでもいいよ! サキと関係あるの?」
説明を一言で切って捨てる。抽選会も終わり、人目を憚る必要があまりなくなったネリーは、声を抑える事もなく気炎を上げていた。
智葉「落ちつけ。どうでもいい事はないだろう」
ネリー「それは……まあそうだけど」
智葉「それと関係だが……わからん」
ネリー「は?」
ぽかんとするネリー。目も丸くなっている。
見守っていたハオとダヴァンも呆気にとられたようだった。
座っていた席から立ち上がり、智葉は出口に向かって歩き始める。この後時間を空けて開会式もあるため、あまりもたもたする余裕はない。
どたどたとネリーがついてきた。ハオやダヴァンも慌てた様子で続く。
ネリー「ちょっとサトハ!」
智葉「知らないんだからしょうがないだろ。実際に行って確かめろ」
ネリー「ええ……」
智葉「まあ、行く行かないは自由だ。早めに決めてくれ」
話を切り上げて前をみる。粗方人の掃けた抽選会場は、思ったより歩きやすくなっていた。
ここまで
咲さんって地味だからモブ顔とかいわれるけど、髪を長くしたら見えないような気がする
ちなみに序盤に描写したきりですが、今の咲さんは照と同じくらいの長さです
中学の最後らへんはロングでした
>>311 最初の智葉の台詞だけ修正
そんな概要をざっくばらんに伝えてやると、ネリーは渋い顔をした。
ネリー「えっと……それネリーと関係ないんじゃないの」
智葉「参加する出資者の中に宮永という女性がいる。そう聞いてもか?」
ネリー「っ!」
ネリーの顔色が瞬く間に変わる。ここまでは問題ない。予想した反応が得られた事に満足しながら、智葉は話を続ける。
▼
智葉「調子が悪い?」
抽選会に残った智葉たちと明華、咲が合流し、開会式に向かう途中。体調不良を訴えた咲に智葉が聞き返す。
咲「はい……お手洗いにいったんですけど……よくならなくて」
智葉「そうだったのか」
申し訳なさげな咲の話に相づちを打つ智葉。その表情に心配する色が宿る。
智葉「しかし……困ったな。大会の期間中逗留する宿に戻るにも、誰かつかなければならないか」
咲の迷子体質は厄介だ。知らない場所では必ずと言っていいほど迷うし、心がけてどうにかできるのは予防策くらい。
ほとほと手を焼く智葉の引率者としての苦労は想像に難くなかった。自然と咲の身も縮こまる。
ダヴァン「通りで朝から辛そうな顔してたんデスカ。サキ、ダイジョウブ?」
咲「あ……、はい、その……休めば……大丈夫だと思います」
智葉「とりあえず大事にならないならよかった。実際に打つのもまだ先の話だしな」
智葉「体調を崩した理由に心当りはあるか?」
体調管理は徹底しなければならない。特にこの時期となればもってのほかだ。
智葉の問いに答えあぐねた咲が視線を落とす。
咲「それなんですけど……」
咲は智葉に近づいていくと耳打ちした。二人以外に聞き取れない小さな声。納得したように智葉は何度か首を浅く振り、不安そうな咲を見返す。
智葉「……なるほどな。それなら……まあ仕方ない、か」
智葉の流し目が皆をざっと見渡していく。そんな視線がふとネリーで止まると、牽制するように険しさを帯びた。
智葉「例によって誰かについてもらわないといけないな」
智葉「開会式の後、記者の取材もある。留学生は……まずいか」
開会式の後には、各校に取材する時間が記者に与えられている。留学生にとって取材の持つ意味は他校とまた毛色が変わってくる。迂闊に外させる訳にもいかなかった。
智葉「仕方ない。私がいこう」
咲「えっ……あの、それって大丈夫なんですか?」
咲は目をしばたたかせ、恐々と智葉を見つめた。
智葉「大丈夫じゃないがこうなるといけるのは私になる。引率はメグと明華でやってもらう」
「いいな?」と確認する智葉にダヴァンと明華がうなずく。
誤字訂正
通りで→道理で
智葉「ハオもサポートしてやってくれ。……一人、手を焼きそうなのがいるからな」
苦笑を零しながらハオもうなずいた。
ネリー「サ、サトハ……」
智葉「あの話の返事は後にしてくれ。悪いが出かける」
智葉「さあいくか」
咲「え……本当に先輩が……?」
心中の狼狽を示すように咲の視線がさ迷い、揺れる。時折ネリーの方にも視線は流れ、目が合ったそばから逃れていた。
智葉「そんな冗談わざわざ口にしない。留学生にいかせる訳にもいかないしな」
咲「……えっと……、だったら私一人で……」
智葉「いかせる訳ないだろ。もういい、強制だ」
痺れを切らした智葉が逃げ腰な咲の手をすかさず掴み、会場の外へ引っ張っていく。開会式に向かう道半ばの廊下。残る留学生たちの間には、喉につっかえた小骨を気にするような空気が漂っていた。
▼
・
・
・
咲「せ、先輩っ、待って」
智葉「ああ悪い。さすがに早すぎたか。すまん」
咲「いえ、急がなきゃならないのはわかってるので…すみませんいきましょう」
智葉「ああ。そう言ってくれると助かる」
智葉「とはいえ咲の運動神経がぷっつり切れてるのも考慮して…こんなとこか」
咲「そ、それくらいならなんとかついてけそうです」
スタスタ
智葉「会場は何事もなく出られそうだ…というのも大げさか」
咲「迷惑のかけ通しで面目ないです…」
智葉「気にするな。といっても難しいだろうが、あまり気負う必要はないぞ」
智葉「さて会場も出られた事だし、ここからはタクシーで…ん?」
咲「あ…」
部下「ご無沙汰しておりますお嬢様」ペコ
智葉「黒スーツ…知り合いか?」ヒソ
咲「その…母の部下の方…みたいです」
部下「みたいとは寂しいですね」
咲「す、すみませんっ、長く勤めてる方だとは…わかってるんですけど」
部下「……」
咲「あ、あとお嬢様呼びは…」
部下「承知しました咲様」
咲「う…」
智葉「それで…どういう用件かお聞きしても?」
部下「はい、お忙しいところ失礼しました。咲様をお迎えに上がりました」
咲「…え?」
智葉「お迎え?」
部下「咲様のお母様はこうなる事を見越していましたので」
部下「部の方の手を煩わせないようにと私を遣わしたのです」
智葉「…なるほど」
部下「それでは後はお任せ下さい。責任を持って送り届けます」
智葉「送り届ける先はわかっているんですか?」
部下「宿泊先は把握しております。文京区の旅館ですね」
部下「ですが…此方が把握しているという事はご存じなのでは?」
智葉「……」
咲「…あの…」
部下「失礼しました。それではご一緒させて下さい」
咲「……」チラ
智葉「あ、ああ。咲がよければこの人に任せよう」
智葉「咲の反応からすると身分は確かなようだしな」
咲「…はい。それじゃあの…ここまですみませんでした」ペコリ
智葉「何かあれば連絡してくれ」
智葉「では…ここからお願いします」
スタスタ…
部下「出発しましょうか。彼方に車を停めてあります」
咲「…はい」
運転中の車内
部下「暫く見ないうちに随分と大きくなられましたね」
部下「何年ぶりでしょうか。お綺麗になりました」
咲「……」
部下「社交辞令ではございませんよ?髪も照様に似てたおやかな…」
ピクッ
咲「お姉ちゃんとは…よく会うんですか?」
部下「顔を合わせる機会はあまりございません。普段の送迎などは断られていますので」
咲「そうですか…」
・
・
・
部下「それでは私はこれで」
咲「はい。ありがとうございました」
部下「…本当であれば部屋の前までお供させて頂きたいのですが」
咲「あ、あの、本当に大丈夫なので。ここまでくれば」
部下「承知しました。一応、私の連絡先を渡しておきます。何かあれば」
咲「わかりました。えっと、それじゃ」ペコッ
タッタッタッタッ
部下「…奥様の仰る通りか」
咲「ふう…」パタン
咲「……」
咲「びっくりした…なんで…」
prrrrrr…
咲「わっ、…電話?お父さんからだ」
…………………………ピッ
咲「もしもし」
界『もしもし。今大丈夫だったか?』
咲「うん」
界『知ってると思うが、仕事で今東京に出てるからメシでもどうかと思ってな』
咲「私は大丈夫だけど…仕事の方は大丈夫なの?」
界『ああ。じゃなきゃ誘いなんてかけるかよ』
咲「そ、そうだね」
咲「……」アセアセ
界『はあ。まあーた気遣ってんのか。大丈夫だっての』
咲「…だけど…」
界『ふう、誰に似ちまったんだろうなあまったく』
界『細かいところは違っても、あの子にそっくりだよ…お前は』
咲「あ…」
界『うん?どうした?』
咲「な、なんでもない」
界『…なあ咲、この機会に言っとくがあれはもう気に病むな』
咲「…うん」
界『お前のせいじゃないんだ』
咲「……」
界『…また電話する。勿論かけてきてもいいからな』
プツッ…ツーツー
咲「……」
布団バタン
咲「…私のせいじゃないなんて…思えないよ」
咲「……ごめん…なさい…」
▼
照「咲……大丈夫だった?」
記憶の中にある、幼い顔立ちをした姉が憂いげに咲を見つめる。昔、家族で一緒に暮らした家。姉妹の部屋で、咲は姉と向かい合わせに立っていた。
照「またあいつに何か言われたの。気にしたらダメだよ。あいつが悪いんだから」
剣呑に柳眉を逆立てる姉が喋りかける。普段とは違う窘めるような口調。それを咲は、もの悲しい気持ちで聞いた。
大好きな姉が悪し様に誰かの事を口にする姿はみたくない。仕方のない事だとしても、いつも笑っていてほしかった。
咲「あいつなんて……いっちゃだめだよ」
照「……」
咲「おかーさんと仲よくしよう? きっと、おかーさんだって」
照「……無理だよ。だってあいつは咲に……」
口ごもった姉がふいっと視線を逸らす。
照「咲は……辛くないの?」
突然だった。質問の意図を図りかねてきょとんとする。
照「昔から咲にあれやこれや言いつけて……咲、いつも我慢してるじゃない」
照「心配なんだ。いつかもっとエスカレートするんじゃないかって」
咲「えすかれーと?」
照「あ……えっと、もっとひどくなるんじゃないかって事」
意味するところを理解して、咲は頷く。けれど姉の言葉そのものには相槌を打ちかねた。
しかし姉の視線は険しい。
照「それにあいつはあの打ち方にまで口を出して……!」
その瞬間、姉の内に抱える憤りは、頂点に達していたのだと思う。
表情を怒りに歪め、忌々しげに言葉を吐き出す。それが筆舌に尽くし難い嫌悪を宿している。
けれど、その怒りや嫌悪がふっと和らいだかと思うと、話題は咲の思いがけない流れに移った。
照「ねえ咲、あの丘にいってみない?」
咲「え?」
照「今日は天気がいいしちょうどいいよ。覚えてるでしょ? 一緒にいった、あの丘」
咲「う、うん。覚えてるけど」
照「よかった。用意はもうしてあるんだ。まだお昼過ぎたばかりだし、たくさん遊べるね」
また膝に乗せてあげる。そう言って、姉は嬉しそうに顔を綻ばせる。
咲は笑い返す事ができなかった。今日はもう他の約束があったから。
咲「あ、あの、おねえちゃん」
目の前にはすっかり笑顔を取り戻した姉の姿。なのに、咲の気分は沈む。これから姉の気持ちが良い方向に動かないと半ば理解していたから。
照「どうかした?」
咲「えっと、あのね、それ明日じゃだめ?」
にこにことしていた姉の笑みが固まる。
照「え……どうして?」
咲「今日ほかの人と約束しちゃってたの……ごめんね」
照「……そ、そっか。ならしょうがないね」
なら明日にしよう。改めて約束をとりつけ、姉が笑いかけた。その笑顔はどこかぎこちない。
照「いってらっしゃい。気をつけてね」
見送る姉の姿が一瞬揺らいだ。
その場で姉と別れると、咲は靴を履いて外に出る。
噎せ返るような春の匂い。
約束に向かう道の途中に連なった満開の桜並木。
爽やかな風が通り抜ける。
そんな春爛漫の景色の中を、咲は浮かない顔で歩き続けた。
やがて約束の場所に着く。
桟橋。そこを一望できる自然公園の中に、探していた人のうしろ姿はあった。
背に届く長い髪。丈の短いワンピース。
その女の子は車椅子に乗っていた。
「あ、咲」
歩いてくる咲の姿を認めた女の子が振り返り、声をかけてくる。
咲「こ、こんにちは」
「あはっ、丁寧だ」
緊張して固くなった咲にけらけらと笑う。不思議な子だった。他人との間に張る壁を飛び越えてくる。なのにどうしてか不快さを感じない。
人見知りの気がある咲にも珍しい事だった。
「今日はどうした?」
咲「……やっぱり今日もおねえちゃん怒ってた……」
咲は意を決して口を開く。先ほどの姉の話をする。幼いながら特殊な環境に身を置く咲が心を開く対象は限られていたが、女の子には他の人にしない踏み入った話もできた。
母の事になると話を聞いてくれなくて悲しい事。
最近姉を前にすると萎縮してしまってぎこちなくなる事。
「そっか……大好きだからおねーちゃんにどう接していいかわかんないんだね」
「……うん」と答えたきり咲は沈黙する。しっとりと濡れそぼる空気。ほんの僅かな間静寂が訪れる。
「ねえ、今日はあそこの桟橋にいこうよ」
咲「え、ええっ?」
いきなり話が変わった。驚きのあまり素っ頓狂な声を出す咲に女の子は歯をみせて笑った。
咲「だ、だいじょうぶ?」
「だいじょーぶだいじょーぶ!」
咲「うーん、わかった」
「きりきり押すのだー」
咲はおっかなびっくりハンドルに手を添えると、乞われるまま桟橋に向かって車椅子をこぎ出す。
「あっ、ここまででいいよ」
咲「え? ここでいいの?」
「うん。ここから先は歩くから」
心配した咲が止める間もなく女の子が立ち上がり、よろめく足どりでひょいひょいと歩いていってしまう。
咲は慌てて肩を抱く。
「もうっ、大丈夫っていったのに」
咲「あぶないよっ」
「ぶー」
よろけそうになりながら歩く姿はみていて安心できるものじゃない。指摘すると片頬だけ器用に膨らませてぷりぷりとされる。
「咲は心配性だなー」
咲「そっちが危なっかしいの!」
「知ってた? ウォッカってロシア語で水って意味なんだよ」
咲「そうなんだ……ってだからなんなの!」
幾ら注意しても立て板に水、なのだろうか。咲は諦めきれず奮闘した。
「将来の夢は水族館を作ること!」
数分後、話題は原形を留めていなかった。
咲「お寿司屋さんじゃないんだ」
「わたし泳ぐの好きだったけど、今はもうムリそうだから」
「かわりにお魚さんに泳いでもらうのだ」
「水族館、できたら照おねーちゃんと見にきてね!」
てらいのない笑顔で語る女の子。うやむやにされて釈然としなかった咲もこの時ばかりは「うん!」と目を輝かせた。
「咲はなにかない? 夢」
咲「夢?」
「咲もね、なにか目標があるといいと思うな」
「なんでもいいんだよ。咲のしたいこと。このわたしが手伝ってあげる!」
咲「うーん、夢……」
考え込む。自分に何ができるだろうか。それはあまりにも少なく思える。
「自分じゃなんにもできないって顔してない?」
咲「わたし……とろくさいし……」
「とろくさくないよ。咲がそう思ってるだけ」
「咲は麻雀を極める可能性を持ってる」
「なにかを極めたらね、あとはそこからコツを掴めばいいんだよ」
「だから」
「ネバーギブアップ
ーNever give upー」
咲「……うん! わかったよ!」
「よし! わたしについてきて!」
この時、憂鬱な気持ちは吹き飛び咲に笑顔が戻った。
懐かしい顔を結ぶ像が揺らぐ。
水彩画に水を垂らすようにぐにゃっと歪んだ風景。
波が引く。不意に押し寄せたそれが意識を拐っていった。
次回に続く
▼
バッ
咲「……」
咲「……夢…」
咲「…そうだよね…夢だから……」
咲「っ……」ポロポロ
ガラッ バタバタ
ネリー「サキ大丈夫だった!? 体調はもういいの!?」
咲「え…っ?」
ネリー「…サキ?」
咲「……」フイッ
ネリー「泣いてた…の?」
咲「……」
ネリー「サキ…こっち向いてよ」
咲「…ごめん」
ネリー「だから、謝るんじゃなくて…」
ネリー「ネリーをみてよ…」
咲「……」
ネリー「…また出直すね」
ネリー「広間に皆いるから…気が向いたら来て」
咲「……」
咲「…わかった」
ネリー「…うんっ! 来てね!」
ダダダダッ
こらネリー!走るんじゃない!
うええっ!?
咲「……」
咲「……」チャリ…
咲(…鞄につけたお魚のキーホルダー)
咲(ネリーちゃんが買ってくれたお揃いの…)
咲「……」ギュッ
咲(ネリーちゃん……)
▼
広間
ガヤガヤ
ガラッ
咲「あの…遅れました」
ダヴァン「サキ!」
明華「咲さん。お加減はよろしいんですか?」
ハオ「いらっしゃい。待ってたよ」
咲「はい。あの…」
チラ
ネリー「っ……」
バッ
咲「体調はもう大丈夫です。ご心配おかけしました」ペコリ
智葉「大事にならず何よりだ」
ダヴァン「お腹すいてマセンカ? ここにとっておきのカップ麺が…」
ハオ「はいはい。普通に旅館の食事あるからね。また今度ね」
明華「はい、こちらです咲さん。お食事は入りそうですか?」
咲「え、ええっと」
グゥゥゥーー
咲「い、いただきます…っ」
ダヴァン「オーウ、ジャパニーズ赤面」
ハオ「ジャパニーズ赤面て何だよ…」
明華「ふふふふ、とても可愛らしかったです」
ワイワイ
咲「…恥ずかしかった」
パクパク…
ネリー「サーキっ」
咲「ネ、ネリーちゃん…?」
ネリー「はいっ、これ」
スッ
咲「これ…遊園地のチケット?」
ネリー「時間できたらいこうよ!」
咲「……」
咲「わざわざ買ってきてくれたの…?」
ネリー「うえっ?」
咲「……」ジー
ネリー「あー、その、なんていうか余ってた、そう!余ってたのもらったの!」
ネリー「だからその、偶然!偶然だから」
咲「……」
咲「…ふふっ」
ネリー「へ?」きょとん
咲「わかった。時間できたらいこうね。…ありがとう」
ニコッ
ネリー「…うんっ!約束ね!」
ダダダッ
咲「……遊園地かぁ…」
明華「楽しそうなお話をしてましたね」
咲「みょ、明華さん?」
明華「何やら二人の空気が出来上がっていて話しづらかったので今のうちに、と思いまして」
咲「はあ…えっと…」
明華「あ、どうぞお食事なさってください。私は見てますので」
咲「わ、わかりました?」
パクパク…
パクパク…
明華「……」ジー
咲「あの…そんなに見られてると恥ずかしい…です」
明華「ああ、失礼しました」
咲「いえ…」
パクパク…
パクパク…
ダヴァン「……」ジー
咲「メ、メグさん?」
ダヴァン「オットこれは失礼」
ダヴァン「食事、ドーゾ続けて?」
咲「は、はい」
ダヴァン「ところでココに偶然新発売されたカップ麺が…」スッ
ゴスッ
ハオ「ああごめんね咲、このアホは放っといていいから」
咲「え…あ、はい」
スッ
ダヴァン「いやしかしコレはホントとっておきの…」
明華「メグちゃん?」
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ…
ダヴァン「またの機会にシマス!!」
明華「ふふふふっ」
咲「……」
ハオ「深く考えない方がいいよ」
▼
(入浴シーンはカットされました)
ネリー「はあーいいお湯だったね」
明華「泳ぐのはやりすぎです。貸切りとはいえ」
ダヴァン「マアマア、次から気をつけマショウ」
ハオ「メガン甘いよ」
咲「……」
ワイワイ
ネリー「あーもう部屋ついちゃった」
明華「ゆっくり寝られていいじゃないですか」
ネリー「個室じゃなくて同室がよかった!具体的にはサキと!」
ダヴァン「個室は個室で贅沢デスヨ」
明華「私だって咲さんと同室してみたいですよ」
ハオ「ツッコミ疲れたー。お先に入りますね。おやすみなさい」パタン
ネリー「あーあ…ツッコミ役が」
ダヴァン「酷使しすぎマシタね」
明華「度重なる酷使に堪えかねて出奔…まあ逃がしませんけど」
咲「えっ」
ネリー「えっ」
ダヴァン「えっ」
明華「えっ」
▼
咲自室
咲「ふう…」パタン
テクテク
布団バタン
咲(明日からインハイ一回戦…)
咲(…二回戦まであと四日)
咲(四日経ったら…今のままではいられない…よね)
咲(……)
咲(…わかってた事だから)
咲(やらなきゃ。お姉ちゃんと仲直りするために)ゴッ
ちょっとですがここまで
ほのぼの書きたい…これ完結させたら俺…宮守SS書くんだ…
推敲うまくいけば今日の夜あたりにまた投下します
推敲全部おわってませんがおわったものからゆっくり上げてきます
チュンチュン…
咲「……」
ムクリ
咲「朝か…起きなきゃ」
▼
咲「今日は自由に過ごしていいんですか?」
智葉「ああ。観戦してもいいがしなくてもいい」
智葉「夜にミーティングはあるが、一回戦の間は基本的にそうだと思ってくれ」
咲「なるほど…」
咲(一回戦は何日かあるし、今日はお父さんと食事いこうかな…)
智葉「…体調は大丈夫なのか?」
咲「え…?」
智葉「どこか元気がないからな。気のせいならいいんだが」
咲「……」
咲「気のせいです。…あれも大分と楽になりましたから」
智葉「そうか。お大事にな」
咲「は、はい」
ネリー「サキー!」ダキッ
咲「わっ」
智葉「毎度驚かせるやつだな…」
ネリー「おはよー、今日の予定話してた?」
咲「おはよう…うん、そうだよ」
ネリー「ねねっ、だったら遊園地いかない?」
咲「遊園地?って昨日の?」
ネリー「そうそう。準備はもうばんぜ…あいたたた!サトハなにするの!」
智葉「ほーう?昨日私が伝えた事はもう忘れたと?」
ネリー「きのう?…あっ」
智葉「思い出したならこっちに来い。咲、悪いな」
咲「い、いえ」
ぐいっぐいぐいっ
ネリー「いたっ!耳伸びるよサトハぁ!」
智葉「いいんじゃないか?人の話がよく聞けると思うが」
ネリー「歩けるっ、自分で歩けるからぁ!」
スタスタ
咲「……」ぽつーん
咲「あ、お父さんにOKって電話しないと」
ピッ………………ポッ……………………パッ
▼
界「よう。悪いな待ったか?」
咲「ううん」
界「まあ入るか。予約はしてある」
・
・
・
カチャカチャ
咲「へー仕事順調なんだ」
界「ああ。なんやかんや慣れてきたからな。年の功ってやつだ」
咲「ふふ、よかった」
界「そんな心配か…あー、まあ十年も前っていやへっぽこだったからな」
界「心配されてもしょうがないか…」カチャカチャ
咲「でもすごいよ。今結構偉い立場になったんでしょ?」
界「まあな…ただあいつに比べたら小物もいいとこだ」
咲「あいつ?」
界「…母さんだよ」
咲「っ…!」
界「あいつはすごいよ」
界「十年で多少ましになったが、俺が一生かけてもたどり着けないとこにあいつはいる」
界「あの問題がなければ咲も俺なんかよりあいつに庇護してもらった方が…」
咲「そんなことないよっ!」ガタッ
ザワザワ
咲「あ…」
界「まあ…座った方がいいぞ」
咲「うん…」
界「……」
咲「でも…さっきのは本音だよ」
咲「お母さんのことは好きだし、確かにすごい人なのかもしれないけど…」
咲「お父さんは、お父さんしかいないから」
界「咲…」
咲「騒がしくしちゃってごめんね。食べよう?」
界「ああ。冷めないうちにな」
カチャカチャ…
界「…ありがとな」
▼
旅館 講習室
ネリー「あーっ!もうめんどい!」
智葉「あと一息だ。頑張れ」
ネリー「スポンサーをもてなすための企画作りとか…そんなのネリーの仕事じゃないよー」
智葉「だから雑用と言ったろう。嫌なら出なきゃいい」
ネリー「出たいからこうしてあくせく働いてるんだよ!ぷんぷん」
智葉「怒るな怒るな。あとで飴ちゃんやるから」
ネリー「いらないよっ!」
・
・
・
ネリー「おわったー」
智葉「やればできるな。いい仕事じゃないか」
ネリー「ふふーん、こういうのは経験上得意だからね」
ネリー「相手をいい気にさせるくらいわけないよ。ふんす」
智葉「…コメントに困るな」
智葉「とまれかくまれ、これで明日の座談会は準備万端だ」
智葉「知りたいこと、うまく引き出してこいよ」
ネリー「もちろん!」
ネリー「そのためにこんな雑用したんだしね」
ネリー「元はとらせてもらうよ!」
智葉「当日は私もいく。出来る限りのフォローはするよ」
ネリー「サトハ…ありがとね!」
智葉「ふん…一回戦を踏まえた分析もある。私はここらで失礼する」
智葉「ちゃんと寝ておけよ。おやすみ」
ガラッ…パタン
ネリー「明日…座談会の当日か」
ネリー「ミヤナガって人は…本当にサキのお母さん…なのかな」
ネリー「……」
ネリー「まあどうするかは、明日会ってみて決めよう!」
ネリー(サキのこと…ちょっとでも知りたい)
▼
インターハイ本選。各校が団体戦の一回戦を終え、二回戦を明日に控えた夜。
ネリーたち臨海の選手が宿泊する旅館とは別のところで座談会が催されようとしていた。
都心にほど近い立地。風情ある佇まいを現代に残す旅館。
枯淡の趣。その表現が正鵠を射る雅な建築物だった。
ネリー「わー、すごいとこだね」
智葉「ああ……私たちが泊まる旅館も相当なものだが、ここはそれを凌ぐな」
玄関を通り、石畳の玄関口で靴を脱いでロビーに抜ける。大きなガラス窓の向こう、中庭に広がる美しい枯山水に感嘆の息を漏らしながら、智葉とネリーは旅館の廊下を進んでいく。数名の日本人部員を伴いつつ。
枯山水にある赤砂との調和は、素人目にも玄妙な味わいを理解させた。ネリーらの聞いた話が正しければ、日本でも指折りの老舗旅館だそうだ。
智葉「有形文化財にもなっているそうだ」
ネリー「ほえー。すごすぎてもうよくわかんないよ」
座談会を開く講習室への道すがら、軽く会話を交えつつ歩いていく。ほどなくして講習室の前に一行が並ぶ。
智葉「さてネリー。入る前に一つ言っておく事がある」
ネリー「え?」
智葉「何があっても激昂はするな。相手にしているのが誰かよく考えろ」
困惑するネリーをよそに講習室の戸が開いていく。
その向こうから、形容し難い緊張が伝わってくるのをネリーは感じた。
スポンサーA「やあ。来たかね」
智葉「この度は我々に心を砕いて下さり感謝いたします。皆様が割いた時間を無駄にしないよう努めて参ります」
スポンサーB「うむ。あまり気負わずとも大丈夫だ。楽にしなさい」
スポンサーC「立ち話もなんだ。君たちも座りたまえ」
智葉「はい、失礼いたします」
きびきびと振る舞う智葉が他のメンバーを誘導し、席につかせていく。引き締まった空気。ネリーはまだしも、日本人部員は智葉を除き皆呑まれてしまっていた。
ネリーとて平静という訳ではなく、緊張に身を固くする。
スポンサーA「さて、早速本題に入りたいのだが」
スポンサーC「うむ……」
上座に座す出資者たちの視線がネリーに集まる。明らかに疑念や困惑を含んだ目つき。
スポンサーB「彼女は留学生ではなかったか?」
スポンサーA「ああ、確かサカルトヴェロの……どうしてここにいるんだね」
智葉「私が連れて参りました。当人が是非出席したいと希望しましたので」
スポンサーC「ふうむ、本人が望むのなら構わないのだがね……恐らく」
その時、出資者たちの視線が一方に集中する。その先に座す赤い髪の女性、セミロングほどの独特な癖のついた髪の彼女が鋭い眼光を飛ばし、周囲を睥睨した。
「私も構いません。留学生の意見を聞けるのなら、寧ろ歓迎すべき事柄でしょう」
スポンサーB「おお。それなら問題ありませんな」
スポンサーA「時間をとらせて悪かったね。是非参加していってほしい」
智葉「ありがとうございます」
淀みなく返答する智葉に脇を小突かれ、ネリーも応える。
ネリー「あっ、ありがとう、ございます!」
怪しい敬語にじろりと智葉に睨まれたが、幸い出資者たちの機嫌は損ねなかったようだ。にこにことした笑みを浮かべている。
スポンサーC「それでは本題に入ろうか。まずーーーー」
智葉「はい。ーーーー」
スポンサーA「ふうむ。ーーーー」
スポンサーB「ーーーー」
座談会は円滑に進み、スポンサーへのもてなしもまずまずの成果を出した頃、赤い髪の女性が纏めに入る。
「そうね。基本的には今回の運用モデルをベースに、状況に応じて対応していく形でいきましょう」
「団体における日本人の選手枠は一名。個人では留学生を使えない以上、この形で問題ないでしょう」
出資者たちがいち早くその考えに頷く。赤い髪の女性が主導権を握る事に些かの不満もないかのような追従。とはいえ、ネリーの目にも問題らしい問題は見つからない。これは合理的な結論なのだろうとネリーは思った。
しかし智葉はどこか悔しそうな顔をしている。どうしたのだろうか。不思議に思っていると、智葉は不承不承な色を僅かに醸しつつも承諾の意を伝えた。
スポンサーB「さて……長い時間付き合わせて悪かったね」
スポンサーC「明日から君たちの出番もある。早めに帰って休みなさい」
スポンサーA「それでは失礼するよ。……宮永さん、お先に失礼します」
次々と部屋をあとにしていく出資者たち。それを終始緊張した面持ちで見つめる付き添いの日本人部員。智葉の指示で日本人部員たちも帰されていくと。
講習室には、智葉とネリー、そして赤い髪の女性が残った。
ちょっとごはん食べてきます
「あら……貴女たちは帰らないの?」
智葉「野暮用が残っていまして……ネリー」
ネリー「うえっ?」
また脇を小突かれて、ネリーは変な声を出してしまう。
しかしすぐに目的を思いだし、質問を投げかけた。
ネリー「あの、あなたはサキ……じゃなかった、宮永咲のお母さんですか?」
あまり使う機会のない敬語におかしな訛りを含みながら尋ねる。
果たして返答はすんなり返ってきた。
「咲は私の娘だけど……それが訊きたかったのかしら?」
ネリー「あ、う……いや、その」
しまった。ネリーは焦る。
母親なのか娘なのかばかり気になって、そこからどう質問を繋げるか失念していた。
隣にいる智葉も憮然としている。ネリーは焦った。
「そうね。貴女たちが聞きたいのはこんなとこじゃないかしら」
「私が咲に娘としての愛情を注いでいるかどうか」
「少なくとも辻垣内さん、貴女はそうでしょう?」
智葉「……ええ、そんなところです」
憮然とした智葉が一転、厳しい面持ちで冷や汗を垂らす。
ネリーはいまいち話が飲み込めなかった。
「なら問題はない。私は咲に愛情を注いでいる。この世の誰よりもね」
智葉「ならどうして……一緒に暮らさないのはどうしてですか?」
「照が嫌がるのよ。知っているでしょう? あの子の姉」
智葉「……」
あの子の姉? 照? それって……。
ネリーは困惑する。宮永……照。それは日本のインハイチャンプの名前だ。それが咲の姉? ネリーの知らない話だった。
「あと夫もね……咲の教育に関して意見が衝突している。力ずくで咲を手元に置く事も出来るけど、それは最後の手段。今はその時ではない、という事」
ネリーの遠く及ばないところで話が飛び交っている。さながら空中戦を地上から眺めている心地。ネリーは話を半分も理解出来ていない自信があった。
智葉「……」
「私が気になるのはどちらかというとそちらの……ネリーという子なのだけど」
ネリー「え? ネリー?」
「咲とは随分親密な付き合いをしているそうね。登下校から教室と部室の送り迎え、部活の時間、臨海から斡旋されたアパートでも隣部屋……男女なら懇ろと言われても違和感がないくらい」
ネリー「……え、えーっと」
「咲の事は好いている? 友人として貴女が無二の存在となるのであれば、私としても否やはないのだけど」
ネリー「え? うん??」
「少し迂遠だったかしら……親友となってくれる事を期待しているの」
親友。雑多な言葉に混乱する頭でもその意味は即座に理解できた。咲の親友。ネリーとて望むところだ。
ネリー「うん! じゃなかった、はい! ネリーもサキの親友になりたい、です!」
あまりに拙すぎる敬語に智葉が憮然を通り越して刺すように睨んできていたが、ネリーには目の前の女性とのやり取りに夢中で意識を素通りしていた。
赤い髪の女性、咲の母はそんなネリーに微笑を浮かべ眺めていたが、眼差しを鋭くすると苦言を呈した。
「でもね、今のままじゃそれは不可能」
ネリー「……え?」
ネリーは瞠目し、自失した。
ネリーとサキが親友になるのは不可能? どうして?
「あの子は貴女に心を開いていない。理由は三つある」
愕然とするネリーを尻目に赤い髪の女性は滔々と語り出す。
「第一に、あの子は貴女に過去、特に家族について語らない。中学時代のちょっとした思い出程度なら話しただろうけど」
その時、ネリーの脳裏に浮かんだのは、母親と電話していた咲の姿。
あの時、ネリーは咲の事を何にも知らないと自覚した。以前中学時代の話を電車で耳にして。あれから家族について話す機会は何度かあった。
けれど、咲は家族の事については一貫してはぐらかした。その事が、ネリーの中で徐々に大きな凝りとなりつつあった事を、薄々自覚していた。
その事実を改めて意識させられ、ネリーの心に不安がにじみ出す。
「そして、あの子は貴女に対して遠慮している。何か嫌だと思ってもそれを口にしない。後ろめたい心を隠しながら、貴女と付き合っている」
「そんな関係から親友と呼べる信頼は生まれない」そう言い切る赤い髪の女性。しかしネリーは反論した。
ネリー「そんなことない! 確かに……サキは家族のこと何にも教えてくれなかったけど、嫌なことはちゃんと嫌っていってくれるよ!」
赤い髪の女性が反論するネリーの姿を冷ややかに見つめる。無知な子供を憐れむような瞳。矢のごとく鋭いそれに射抜かれ、思わずネリーはたじろぐ。
「敬語。忘れてるけどいいわ、そのままで。それより……知っていた?」
一拍置いて、続ける。
「咲はね、魚にトラウマがあるの。口にするものくらいなら大した抵抗はないけど」
「身につけるようなものは別。辛い思い出が蘇って相当なストレスを与える」
そこまで聞いて既にネリーの頭には痛烈な閃きが到来していた。魚。身につけるようなもの。顔色が崩れ、真っ青になっていくのがわかる。
「もうわかったかしら? 貴女が咲にプレゼントした魚を模したキーホルダー……あれは最悪のチョイスだった」
半ば悟っていた事実が容赦なく突きつけられる。意識が、混乱の坩堝へと落ちていく。隣にいる智葉の存在も抜け落ち、ネリーの意識は過去のーー思い出の場面へと旅立った。
いったんここで切ります
次はたぶん明日かあさって更新
あと結構前の話ですがハーメルンというサイトに中学の話と過去の投下分をざっと修正したのあげてます
まとめ読みならあちらのが読みやすいと思うのでよければどうぞ
あ、↑でいった保管庫になってるやつですが、今のところ気になった文や台詞を直した程度で加筆はないので特に読む必要はありません
▼
その日、ネリーは朝一番にアパートの隣室を訪問した。日曜日。諸事情で部活は昼からとなっていたが、ネリーは朝早くから行動を開始していた。
しかし。かといって咲も朝早くから動くとは限らない。ぶっきらぼうですげない咲の事だから、無視される可能性だってある。
だが、ネリーには秘策があった。
ネリー「サーキー! あーそーぼっ!」
咲「あ、朝っぱらからおかしな呼び方しないでください! 私まで誤解されますっ!」
ふざけた、もとい遊び心に満ちたネリーの呼びかけの甲斐あって、瞬く間に咲が玄関から姿をあらわした。
ネリー「あー敬語! 敬語は禁止禁止! 禁止だよ!」
咲「あっ……えっと。そうだったね」
入部の翌日に約束(?)したというのに嘆かわしい。ネリーは即座に指摘した。咲も直ぐ様悔い改めたようだ。満足したネリーは薄い胸を張った。
咲「……じゃなくてっ! ああいう近所迷惑な事はやめて。困るの」
ネリー「あーそういやそんな話何度かしたね」
アハハ、と乾いた笑いを零す。
咲「それで……何の用?」
虫の居どころが悪い。そう言いたげな咲に「うん!」と答える。
何と伝えようか。やはり、こういう時は直球に限るのではないか。心中で結論づけて。ネリーは直球でぶつかった。
ネリー「咲のとこで朝ごはんごちそうになろうかなって!」
咲「帰ってください」
即答だった。敬語に逆戻りしていた。
ネリー「そんなこと言わないでー冷蔵庫に何も食べもの入ってないんだようー」
咲「そんなの知ら……知りません。自分で何とかしてください」
とりつくしまもない。
しかしやはりネリーには秘策があった。
ネリー「サキ……この前ネリーを看病してくれたよね」
咲「あっ、あれは……あまりにひどい状況だったから仕方なく手を貸したんだよ」
咲「あと部屋もちらかってて、ごみ袋も溜まってるし、ご飯も薬も明らかにちゃんととってないし!」
咲「学校に斡旋されたアパートの、隣部屋の、しかも同じ麻雀部の子が救急車で運ばれなんてしたら、私にも迷惑なんだから!」
咲は顔を真っ赤にしてそう言い切ったあと、息も絶え絶えに肩を上下させる。
そこまでの反応をされるとは思わなかったが、ネリーはこれ幸いと自分の話を口にした。
ネリー「あのときはありがとね! ほんとに助かったよ!」
ネリー「嬉しかった……日本で、ネリーの体調を心配してくれる人なんて、それこそネリーに麻雀の活躍を求める人くらいだったから」
ネリー「ほんとに……ほんとに嬉しかったんだよ!」
混じり気のない感謝を告げると、ちょっぴり咲が驚いた顔をする。呆気にとられて、戸惑っている感じ。
咲「そんなの……知らない」
咲「気まぐれに世話してあげようと思っただけ……勘違いしないで」
言葉から逃れるように顔を逸らす。
居心地悪そうな咲の頬はほんのりと赤く染まっていて。それが素直になれない猫のようで、微笑ましい。淡白で冷えきっていたネリーの心に、ぽっと灯りをともす。
ネリー「そうそう、おかゆとか冷蔵庫にあるもので色々つくってくれたよね」
ネリー「それで……冷蔵庫の中、空っぽなんだよね」
咲「……あっ」
咲がはっとして手を口に当てる。話した通り、部屋の冷蔵庫は空っぽで、咲もそれを把握しているはずだった。
ネリー「だから……お願い! ちゃんとお金払うから!」
咲「お金あるなら外で食べたら……」
ネリー「サキは病み上がりに栄養の偏った食事しろっていうの?」
実際には○○食堂に代表される栄養面も考慮する外食店もあったが、あえて言わないでおく。
咲「……ううっ」
ネリー「ねっ! おねがい!」
咲「わかったよ……じゃあ上がって」
「やったー」と喜び勇みながら咲の部屋に上がり込む。
ネリー「あっ、脱ぎかけの服と下着発見!」
咲「うわああっ! 待って! 入るの待って!」
ネリーの胸はいつになく弾んだ。
・
・
・
ネリー「ごちそうさまーっ!」
丸テーブルの上に置かれた空の皿。そこにあったものを残さず平らげてネリーは日本式の作法で食事を締めた。
咲「口に合ったならよかったんだけど……大丈夫だった?」
ネリー「大満足だったよ! これイングリッシュ・ブレックファストってやつだよね!」
今は空になった大皿には様々な料理が盛られていた。
目玉焼き、ソーセージ、マッシュルーム、ベイクドビーンズ、ハッシュドポテト、トマト、ベーコン、そしてトースト。
どれも素朴なものだが、咲の腕もあってか、非常に美味しく仕上がっていた。
ネリー「看病の食事でも思ったけど、サキって料理うますぎじゃない?」
調理風景から眺めていたが、料理人志望かと疑うほど鮮やかな手並み、そして繊細な味つけ。
ネリーも多少の期待はしていたが、健常な状態で口にする咲の料理は、冗談抜きで食べるたび舌鼓を打つものだった。予想を遥かに越えている。
咲「あ、えっと……子供の頃にちょっとね。大きくなってからも家事をする機会多かったし」
ネリー「へー」
咲の言い回しに少し違和感を覚えたが、すぐに気にならなくなった。それよりも咲自身の事が気になったから。
ネリー「サキってさ、好きな男の子とかいるの?」
咲「へ?」
咲が硬直した。鳶色の瞳が面白いくらい丸くなって、ネリーは思わずぷっと吹き出す。
咲「な、なんなの」
ネリー「いや料理できて、麻雀できて、可愛くて。ネリーが男なら即結婚申し込みだよ」
咲「え、ええっ」
咲の顔が沸騰したように赤くなる。面白い。弄り甲斐があるのも好評価だ。
咲「私……男の人にもてないよ」
ネリー「なんで?」
咲「告白された事ないし、デートにも誘われないし……」
話していくうちに段々元気がなくなっていく。
咲「中学のとき、あだ名魔王だったし……」
そう呟いた瞬間、効果音が出そうなくらい肩を落とす。本気で傷ついているようだった。
ネリー「ぷっ、っくく、ぶはっ! 魔王! 魔王って呼ばれてたの!」
咲「わ、笑わないでよ! 本気で気にしてるんだから!」
ネリー「いいじゃん、魔王。そこらの男じゃ手に負えない高嶺の花ってことでしょ?」
本心からそう思った。咲が麻雀をする時に見せる冷俐な一面や、周囲に撒き散らされる威圧感をもってそういっているのなら、
それは、十把一絡の男には魅力を感じるだけの度量もないという事。咲と同じ土俵に立てる、ネリーのような才ある人間には寧ろ魅力的に映る事さえあるというのに。
そんな気持ちを余さず伝えてみると、咲はぽかんと口を開けて唖然とした。
咲「ネリーちゃんは変わってるね……」
ネリー「ネリーが変わってるんじゃなくて、サキのみてきた男がへっぽこなだけ!」
実際、咲のように威圧を飛ばす人間は何度もみてきた。雀士に限った話ではなく、スポンサーの中にもそういった人間はいた。
そして、そんな人間の殆どは何かの道で成功し、一流と呼ばれる存在だった。
ネリー「ふふん、そのうちサキにもわかるよ。ネリーのいってる事が」
咲「……」
ネリー「うん? どうしたの?」
急に黙りこくった咲に首をかしげ、疑問を呈す。
咲「ううん……前に同じように言われた事があったから……ちょっとびっくりしちゃった」
ネリー「へー。それはきっと大物だね!」
咲「あはは……ネリーちゃんが言うかなそれ」
ネリー「それってどんな人なの?」
咲「それは……」
言い淀んだ咲の言葉を待つ。しかし、咲の口からそれが語られる事はなかった。
咲「……忘れちゃった」
ネリー「えー」
せっかく咲の事が知られると思ったのに。心の中で残念がる自分がいる事にネリーは気づきつつあった。
会話が消化不良に打ち切られたあと、咲はネリーが食べた食器を洗いにいった。
もやもやする。咲ともっと話したかった。
咲「ネリーちゃん」
ネリー「なに?」
この時、あわよくば部活の時間まで一緒にいられるのではないかと期待していた。
しかし、そんな淡い期待はあっさりと裏切られた。
咲「麻雀のことで研究があるから今日は帰ってもらっていいかな?」
ネリー「え……」
衝撃。そして落胆。
咲の提案は一緒にいる事を拒むものだった。
ネリー「そ、そっか。部活には出るの?」
咲「うん。だからまた部活でね」
少しだけほっとする。もう顔も合わせたくないとかそういう流れじゃない。
そんな訳ないとは思いつつも、ネリーはもぞもぞと胸に嫌な感覚を覚える。
咲の顔を見上げる。特に感情の浮かばない表情。
ふと、気づく。
ネリー「サキ、なんか顔赤くない?」
咲「またからかってるの? はいはい、またあとでね」
それとなく促され部屋をあとにする。
やはり、嫌な胸騒ぎがした。
▼
ネリー「ねえねえ、サキはもうきてる?」
正午を過ぎた昼下がり。部室に顔を出したネリーに答えたのは、カップ麺を啜るダヴァンだった。
ダヴァン「サキデスカ? サキなら対局室にいマスヨ」
ネリーは胸を撫で下ろす。
ネリー「そっか。ならいいけど」
どうしたのかとダヴァンが訊いてくる。ネリーは適当にあしらった。徒に時間を費やしたくない。
留学生との会話は実になる事も往々にしてあるが。
時に、己の弱みを露呈させてしまう事もある。
チームだろうと関係ない。油断すれば喰い殺される世界。
日本で安穏と麻雀をする連中には浮世離れした話だろうが、それがネリーの生きてきた現実だった。
ネリー「……ねえ、メグ」
ダヴァン「ング。どうしたんデスカ?」
ネリー「サキのことどう思う?」
ダヴァン「ン……」
しかし、そんな話題を振ったのはどういった心境からだったか。
ダヴァンは口内で咀嚼したカップ麺を嚥下すると、
ダヴァン「べらぼうに麻雀強いデス」
簡潔に返した。
ネリー「そんなのみればわかるよ」
麻雀が強い。それは、咲と相対した雀士の多くが感じるだろう。
卓越したセンス。それを裏打ちする純粋な技術。両方を兼ね備える咲は、高校一年生にして世界ジュニアに通用する域に達している。
息を落としながら落胆したように返すネリー。しかし、続く意見に相づちを打った。
ダヴァン「ノーノー。私が一番見てるのは、潜在能力といいマスカ……その成長性デス」
ネリー「成長性……たしかにね」
成長性。そう、成長だ。
咲が入部してきた時、ネリーは今ほどの評価を咲に下さなかった。
入部した当日。留学生たちと卓を囲み、監督の指示で咲を抑え込むように各人が動いてはいたが、ネリーたち留学生は連携をとらなかった。
各人が交互に牽制にかかり、波状攻撃じみたものを咲に仕掛けてはいたものの、それは一斉攻撃ではなかった。
それでもネリーたち世界ジュニアレベルの選手相手に一進一退の攻防を演じ、わずかに一人沈む程度に済ませた咲を警戒しなかった訳ではない。
しかし。
ダヴァン「尋常じゃない速度でサキは成長してマス。今となっては……私が奥の手を出しても、いや」
ネリー「サトハすら喰いかねないかもね。ほんと、シャレにならないよ」
そう。入部当日は留学生たちが奥の手は出さず、恐らくは咲は全力を出してあの結果だった。
だが今は、留学生たちが奥の手を出さない、その前提を覆しても勝負の行方はわからない。そんな状況になりつつある。
ネリー「ネリーたちと打ってることがそれだけサキの成長を促してる?」
ダヴァン「……強い打ち手と打つコトは大きな経験になりマス」
「デスガ」ダヴァンが言葉を継ぐ。
ダヴァン「それだけとも思えナイ。ナニカがある……そんな気がシマス」
それきりダヴァンは閉口した。ネリーも答えを得た訳ではないが、何となくこの件に関してこれ以上議論を重ねても無駄な気がした。
この辺りが潮時か。すっかり長くなってしまった話を打ち切ろうかと思った時、ふとダヴァンがつぶやいた。
ダヴァン「サキは……時々寂しそうに麻雀を打ちマスね」
ネリー「え?」
ネリーの胸がひとつ脈を打った。
ダヴァン「思いマセンカ? 気のせいでショウカ」
ネリー「うーん……そうかな」
否定的に答えたものの、何か胸に引っかかる。そんな感触があった。
『ツモ。嶺上開花』
ーー勝ったとき。
『……私が一位ですね。ありがとうございました』
ーー他の三人を打ち負かし、一位になったとき。
麻雀を打つ最中、凛々しく見える横顔が翳りを帯びる。
いつしかネリーは目を閉じていた。左右に首を振るう。瞼の裏に浮かぶ光景を振り払った。
ダヴァン「ネリー?」
呼びかける声を無視して部室の奥へと進んでいく。そこは咲がいる対局室とは別の方向。
わからない。どうして意識してしまうのか。こんなにも。
弱った時に看病してもらっただけ。それだけで、どうして。
ーーチャリ。
ポケットに入れたものがスカートの中で擦れ合って、軽妙な金属音を立てた。
▼
日が暮れ、夜のとばりが落ちようとする時分、次々と帰っていく部員を尻目に鞄を持ち上げる。
寄り道をするつもりはない。さっさと帰ろう。
明華「今帰るところですか?」
そう思っていたところに話しかけられる。
ネリー「そうだよ」
努めて親しげに言う。
正直煩わしい。態度にこそ出さないが、明華のように笑顔の裏で何を考えているかわからない、そんな相手と話すのは苦手だった。
明華「よければ忘れ物を届けてくれませんか?」
ネリー「忘れもの?」
みれば明華は肩から二つ鞄を提げている。誰のものだろう。
明華「咲さんのものです」
ネリー「え?」
明華「確かアパートで隣部屋でしたよね?」
ネリー「ああ……うん」
歯切れ悪く返す。なんだろう。大した手間じゃないし、即答で引き受けたっていいはずだ。
なのに。どうして気が乗らないんだろう。
明華「咲さんの対応が気になりますか?」
ネリー「……対応?」
明華が思案げに眉を寄せる。
明華「いえ気のせいかもしれませんけど……最近になってネリーにきつく当たっている気がして」
え、と声が漏れる。
困惑し何も言えずにいると。明華は眉を寄せたまま、話を続けた。
明華「最初は親しげにしていたと思うんですけど。咲さんが刺々しくなっているというか」
明華「言い方は悪いですが智葉に対するそれに近くなったような……」
考える。明華の言葉は憶測だ。けれど、いざ振り返ってみると無視できない符合がある。
咲『それで……何の用?』
咲『そんなの……知らない』
誰に対しても最初からよそよそしい感じではあったが、こんなに拒絶するような空気を前面に出していたか。
咲『あの……私こういうの慣れてないから、あんまり……』
咲『ネリーちゃんが学校にいくときとか、麻雀部の部室にいくときとか、できたら一緒にいてほしいの』
はっとする。そういえば……付き添いを頼まれる事が最近めっきりなくなっていた。
わずかな間の事だったから気にとめなかったし、別の人に頼んだんだと軽く受け止めていたけれど。
考えてみれば、これは明確なサインだったのではないか。
瞬く間に焦燥が募る。
ネリー「ミョンファそれ貸して!」
明華「えっ」
ひったくるように明華から鞄を掴みとると、ネリーは猛然と家路を急ぐ。
部室を飛びだし、校門を抜け、通学路を疾走して。
学校にほど近いアパートに到着し、エレベーターを待ちきれず階段を駆け上っていく。
三階。一直線の通路に等間隔に配置された扉、見慣れつつある自室の扉、今はその手前に。
インターホンを鳴らすのを忘れ、うっかりノブに手をかけてーー開く。鍵がかかっていない!
一瞬の迷い。瞬時に決断して扉を開く。その先には、
ネリー「サキっ!?」
フローリングに倒れ伏した咲の姿。すかさず飛び込む。
倒れ伏す咲に駆け寄ろうとして、ネリーは玄関の段差に足をひっかけた。
「うわああっ」倒れ込むと同時に二つの鞄が手からすっぽ抜ける。ぎっしり詰まっていたからだろう、咲の鞄の中身が滑り落ち、散乱していく。
倒れ込む刹那、見えたその中身は大量の紙束ーー牌譜だった。
ネリー「サ、キ……っ」
玄関口の傍で倒れる咲の元に慌ててにじり寄り、額に手を当てる。高温。猛烈な熱が伝わってくる。
咲「あ……っ」
意識はあったらしい。呻き声を上げた咲は駆けつけたネリーに目もくれず、震える手を伸ばすと、
咲「あ……った、……姉……ちゃんのはい、ふ……っ」
青息吐息で散乱した牌譜を掴もうとする。その姿にネリーはかちんときた。
ネリー「バカァァァァっ!!」
大喝。あまりに自身を省みない言動にネリーは感情を爆発させる。
咲「う、……あ……っ」
大音声を間近で叩きつけられた咲がふらつく。しまった。酩酊した咲を抱きとめ、素早く辺りを見回す。
まずはソファーまで運ぼう。
体格に差のある相手。咲が華奢とはいえ、ネリーには一先ずそれが精一杯だ。
できるだけ引きずらないように咲を運ぶと、寝室から掛け布団をひっぱりだしてきてかける。咲の手にある鞄から出てきた牌譜は取り上げて、リビング中央の丸テーブルに置いた。
咲「う、あ……うう……っ」
ネリー「サキ……」
横になった咲が熱に浮かされて呻くのを目に、ネリーは力なく呼びかける。
どうみても風邪だ。そして、原因はやっぱりーー。
ネリー『サキ、なんか顔赤くない?』
咲『またからかってるの? はいはい、またあとでね』
ネリー「看病して……自分が風邪になるなんて」
ネリー「バカっ、サキの間抜け……!」
埒のない事をぼやきつつ、どうするか考える。まずは風邪薬。常備薬を探すより、買ってきた方が早いだろう。後は……。
ネリー「病人食なんてつくれないよ……」
コンビニかどこかでレトルト食品。それくらいしか思いつかない。
ネリー「よしっ……」
頭の中で必要なものを整理し、すっくと立ち上がる。
ネリー「……サキ。いってくるからね」
聞こえているとも思えなかったが、何となく一声かけて部屋をあとにする。
ふと。背後から視線にさらされたような感覚に陥る。気のせいだろう。ネリーはアパートの部屋を飛び出した。
▼
ネリー「ふう、これでなんとか」
必要と思われるものを買い揃え、慌ただしくネリーが戻ってくると、ソファーには変わらずソファーで横になる咲の姿があった。
とりあえずは大人しくしていたようで一安心した。
薬局で市販されていた強めの風邪薬とミネラルウォーターのボトルをレジ袋から出し、目につきやすい場所にあったコップに水を注ぐ。
どうやって飲ませよう。
咲の元までいき錠剤を飲ませようと試みるが、中々口を開いてくれない。そのあと水を流し込めるかも不安なところだ。
ネリー「……しっ、しょうがないよね」
コップの水と錠剤を口に含む。
咲「……う……は、あ……」
熱っぽく上気した頬。物欲しそうに動く唇。
普段つんと澄ましていた咲の弱りきった表情。それは、思いの外ネリーの琴線に触れた。
じ、人工呼吸みたいなものだし。
い、いいよね……?
心中の問いかけに返事があるはずもなく。
悶絶しそうになるのを堪えつつ、咲の唇に顔を近づけていく。
唇同士が触れる。
咲「ん、……ふっ……」
さらに舌で口の中に割って入り、喉の奥に奥へと水と錠剤を押し込む。
ネリー「ぷはあっ」
無事流し込め、逆流する感じもないのを確認すると唇を離す。密着していた部分から温かな吐息が漏れた。
ネリー「アイスノンアイスノン……」
まるでうわ言のようにつぶやきながらレジ袋を漁り、額に貼る冷却シートを取り出して貼る。
ばしんっ!
必要以上に勢いよく貼りつけてしまったのはえもいわれぬ衝動に駆られての事だった。
終了!
次苦戦してるんでちょっと遅れるかもです!
すみません>>382でシーンの切り方間違えたので修正させてください…
「あの子は貴女に心を開いていない。理由は三つある」
愕然とするネリーを尻目に赤い髪の女性は滔々と語り出す。
「第一に、あの子は貴女に過去、特に家族について語らない。中学時代のちょっとした思い出程度なら話しただろうけど」
その時、ネリーの脳裏に浮かんだのは、母親と電話していた咲の姿。
あの時、ネリーは咲の事を何にも知らないと自覚した。以前中学時代の話を電車で耳にして。あれから家族について話す機会は何度かあった。
けれど、咲は家族の事については一貫してはぐらかした。その事が、ネリーの中で徐々に大きな凝りとなりつつあった事を、薄々自覚していた。
その事実を改めて意識すると、ネリーの心に不安がにじみ出す。
「そして、あの子は貴女に対して遠慮している。何か嫌だと思ってもそれを口にしない。後ろめたい心を隠しながら、貴女と付き合っている」
「そんな関係から親友と呼べる信頼は生まれない」そう言い切る赤い髪の女性。しかしネリーは反論した。
ネリー「そんなことない! 確かに……サキは家族のこと何にも教えてくれなかったけど、嫌なことはちゃんと嫌っていってくれるよ!」
反論するネリーの姿を赤い髪の女性が冷ややかに見つめる。無知な子供を憐れむような瞳。矢のごとく鋭いそれに射抜かれ、思わずネリーはたじろぐ。
「敬語。忘れてるけどいいわ、そのままで。それより……知っていた?」
一拍置いて、続ける。
「咲はね、魚にトラウマがあるの。口にするものくらいなら大した抵抗はないけど」
「身につけるようなものは別。辛い思い出が蘇って相当なストレスを与える」
そこまで聞いて既にネリーの頭には痛烈な閃きが到来していた。魚。身につけるようなもの。顔色が崩れ、真っ青になっていくのがわかる。
「もうわかったかしら? 貴女が咲にプレゼントした魚を模したキーホルダー……あれは最悪のチョイスだった」
半ば悟っていた事実を容赦なく突きつけられたネリーは、慄然とその場に居竦んだ。
意味わかんないかと思うので説明させてもらいますと、
>>382→ネリーがその場で回想場面を思い返す→座談会シーンの続き
のような脈絡になっていたのを、
>>382(座談会のシーン終了)→回想→インハイ二回戦当日
という流れに変えました。ほんとすみません…
またまたすみません
>>382ですが宮永母の描写をぼかしすぎたかなと思うので加筆しました、再修正になりますがどうしてもやりたかったので…ご容赦ください。
この次に修正投稿します。
>>382
「あの子は貴女に心を開いていない。理由は三つある」
愕然とするネリーを尻目に赤い髪の女性は滔々と語り出す。
「第一に、あの子は貴女に過去、特に家族について語らない。中学時代のちょっとした思い出程度なら話しただろうけど」
その時、ネリーの脳裏に浮かんだのは、母親と電話していた咲の姿。
あの時、ネリーは咲の事を何にも知らないと自覚した。以前中学時代の話を電車で耳にして。あれから家族について話す機会は何度かあった。
けれど、咲は家族の事については一貫してはぐらかした。その事が、ネリーの中で徐々に大きな凝りとなりつつあった事を、薄々自覚していた。
その事実を改めて意識すると、ネリーの心に不安がにじみ出す。
「そして、あの子は貴女に対して遠慮している。嫌だと思った事を口にしない。自分の気持ちに蓋をし、後ろめたい心を隠しながら……貴女と付き合い続けようとしている。これからも、ずっと」
「そんな関係から親友と呼べる信頼は生まれない」そう言い切る赤い髪の女性。
ネリーは困惑した。どうして断言できるのか。自分と咲の関係を逐一観察しているかのような言い草。もしそうだとしても、そこまで言われる筋合いはないし、そこに蓋然性もないはずだ。
しかし、不吉な言葉がもたらす不安を抱えながらも、紡ぎ出される言葉には到底無視できない、不可解な引力があった。
「嫌な事も……全く話さないという訳ではない。多少は話すでしょう。でもそこが限界。家族の事、語られるべき本心、貴女に打ち明けられた事は何一つない」
ネリー「そ、そんなことない! 確かに……サキは家族のこと何にも教えてくれなかったけど、嫌なことはちゃんと嫌っていってくれるよ!」
反論するネリーの姿を赤い髪の女性が冷ややかに見つめる。無知な子供を憐れむような瞳。矢のごとく鋭いそれに射抜かれ、思わずネリーはたじろぐ。
「敬語。忘れてるけどいいわ、そのままで。それより……知っていた?」
一拍置いて、続ける。
「咲はね、魚にトラウマがあるの。口にするものくらいなら大した抵抗はないけど」
「身につけるようなものは別。辛い思い出が蘇って相当なストレスを与える」
そこまで聞いて既にネリーの頭には痛烈な閃きが到来していた。魚。身につけるようなもの。顔色が崩れ、真っ青になっていくのがわかる。
「もうわかったかしら? 貴女が咲にプレゼントした魚を模したキーホルダー……あれは最悪のチョイスだった」
半ば悟っていた事実を容赦なく突きつけられたネリーは、慄然とその場に居竦んだ。
これで最後です、もうしません絶対しません(戒め)
宮永母に関して情報が少ないのでさっぱりという人がほとんどかと思いますが、この言い回しの真意に気づける人がいたらその推察力はたぶん神(情報少なすぎるのでわからなくて当たり前ですが)
もし気づける人がいたらすごく嬉しい、それではまた次の更新日の目処が立ったら報告しにきます
回想そろそろ書き終わります
推敲が終わり次第あげるので今日か明日に更新します
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ネリー「……うん、こんなものかな」
締め括るようにそう言ってフローリングに座り込む。
咲の具合はあれから小康の様相を呈し始め、汗だくになった咲の汗を拭いたり、着替えさせるのに苦心して諦めるなどの過程を経て、何とか咲の容態を安定させる事に成功していた。
熱に浮かされる咲だが意識はいつの間にかなくなっていたらしい。
ネリーとしては、治療行為のあれやこれに気づかれなくてよかったと安堵するばかりだ。
徐に時計を見やる。夜の七時を半分ほど回ったところ。
咲「……あ、れ……」
その時、閉じていた咲の瞼が開き、瞳に光が宿った。
ネリー「サキ? 起きた?」
咲「……ネリー、ちゃん……?」
咲「わた、し……なんで……」
ネリー「風邪ひいて倒れたんだよ。大変だったんだから」
部屋に押し入った時、既に咲はぐったりと倒れていた。ネリーが来たのも半分偶然みたいなものだ。本当に危機一髪だったのではないかと思う。
咲「……看病、……してくれたんだ……」
ぼうっとした目でごちる咲。ネリーはこくりと頷いた。
その言葉を最後に会話が途絶える。無言の時間。お互いをじいっと見つめる。
咲が不意に沈黙を破った。
咲「は、いふ……牌譜、みなかった……?」
呂律の回らない口調で尋ねてくる。
ネリー「牌譜って……忘れた鞄にあったやつなら」
咲「それ……とってくれない、かな……?」
牌譜をどうしようというのか。あの時、玄関で意識が朦朧としていた咲の行動を思いだし、身構えた。
ネリー「牌譜をどうするの?」
つい刺のある言葉が突いて出る。
咲「……研究、しないと……」
ネリー「はあ? そんな状態で何いってるの」
こんなときに研究。いらいらする。何を考えているのか。
所詮他人事なのに怒りが込み上げる。いやこんな、非常識な話を聞かされたら当然だ。
咲「でも……」
ネリー「でもじゃない! ネリーが来たとき倒れてたんだよ!? 状況わかってるの!?」
尚も食い下がろうとする咲に大声で怒鳴りつける。
怒鳴り声を出すなんていつぶりだろう。怒りをこうして表すなんて本当に久しぶりだった。
いつも明るく無害なイメージを装うために。明日をも知れぬ過酷な競争の中で培った本能が警告を鳴らす。それは利口な選択ではないと。
賢く生きる判断。油断させ、だまくらかし、陥れるため。陽気なお調子者の仮面をかぶり、本性を隠す。
そんな当たり前の皮が剥がれていく。底知れない感情が胸の裡で暴れまわる。
ネリー「だれを対策して研究するのかしらないけど! そんなのでやったって意味ないんだから!」
咲「でも……でも、研究しないと……また強くなってるのに……」
焦燥に駆られたように咲が口にし、ふらふらとした手が何かを求めてさ迷う。
それをみて。
床に散らばった牌譜を掴もうと咲が震える手を伸ばした光景を思い出す。
これと似たものを、生まれ故郷で目にした事があった。
進退が懸かった勝負に臨む女の子。不注意で体調を崩し、瀬戸際に立たされた彼女は、病床にあって、それこそ死に物狂いで練習に励んでいた。
その時、将来を左右する局面で体調管理に失敗した愚をネリーは嘲り、それでも尚足掻く様を憐れみの目で見つめた。
それと同じ事。
咲も、あの女の子も、ネリーには同じような事をしているように思える。
なのに。
ネリー「……意味わかんないよ」
ふらふらとさ迷う咲の手をつかむ。
あのとき選ばなかった選択。
あのとき生まれなかった感情。
つかんだそれを自分の胸に抱き寄せ、両手で優しく包み込む。
ネリー「……こんなことしないでよ。お願いだから」
しっとりと濡れる声。胸のうちから滾々とあふれる感情。
あのとき、体調を崩して苦しんでいたとき。
咲も手を握ってくれた。暖かかった。意識は朦朧としていても、ちゃんと感じていた。
人のぬくもり。ささやかな優しさ。
心のどこかで求めていたもの。
咲「…………ちゃん……?」
その時、咲の声が震えるように誰かの名前を呼ぶ。
ネリーじゃなかった。聞き覚えのない名前。
こちらを見上げる咲の瞳がまた浮かされるように潤み、再来した熱のせいか、やや舌の回らない話し方で喋りだす。
咲「ごめん、ね……わたし馬鹿だから……最後まで気づかなくって」
咲「お母さんともお姉ちゃんとも……手、離しちゃったよ……」
わからない。家族の話をしているんだろうか。漠然と考える。
ただ、今にも泣き出しそうなその悲痛な声色が。
耳に、胸の奥に、嫌な疼きを呼び起こす。
咲「わたしの麻雀は……大好きな人たちが願いを込めてくれたのに」
咲「わたしの麻雀が、みんなから笑顔をなくして……」
ネリー「……サキ」
咲は見ていなかった。
同じ部屋に居合わせ、同じ時間を過ごし、目と目が合って。
鳶色の瞳は確かに自分を映しているのに。
ネリー「しっかりしろバカァっ!」
咲「……えっ?」
涙の粒が浮かんだ目をぱちくりとさせる咲。
飛ばした怒号が、届いた。
ネリー「サキは自分を粗末にあつかいすぎ! それってすっごく最低なことなんだから!」
きっと睨みつける。
重い風邪に喘ぐ咲が、何を思い、何に苦しんでいるのかなんて知らない。
短い付き合いだ。咲には避けられている節すらある。大切な事なんて。何一つ打ち明けてはくれないだろう。
けれど。
ネリー「頑張って、無理して、ぼろぼろになって!
それでうまくいったとしてサキの好きな人たちは喜ぶの!? やったよってサキは胸を張っていえるの!?」
これだけは伝えたい。
柄にもなく他人事に必死になって、声を振り絞っても、自分を蔑ろにするなと。
他ならぬネリーが嫌なんだと叫びたかった。
ネリー「サキは……謝ってばっかだよね」
すっかり黙りこくった咲が呆然と見つめ返し、話を聞いている。
上半身を起こした体勢。
鳶色の瞳が当惑の色を浮かべ揺れている。
ネリー「麻雀に勝ったときの対局のお礼、ごめんなさいって聞こえるよ」
咲「だって……私が勝っても誰も喜ばないから」
消え入りそうな掠れた声で返事が返ってくる。
ネリー「普通、勝ったら自分が喜ぶんじゃない?」
咲「私……勝っても嬉しくない」
勝利を渇望する人が聞けば怒鳴りそうな台詞だ。
ネリー「勝つのが当たり前だから?」
しかし、頭ごなしに考えない。何か別の意味があり話しているのだと考える。
咲「……勝って楽しかったり、負けて悔しいっていうのがわからない」
根本的な話か。不感症。そもそも、勝負という概念に感情がつき纏わない気質なのか。
「でも」と咲が一貫してか細い声で継ぎ足す。
咲「……負けて辛いのはわかる。私が負けて残念がる人をみると辛いし……悲しい」
その言葉にぴんときた。何食わぬ顔で尋ねる。
ネリー「じゃ、サキが勝って喜ぶ人がいたら?」
咲が双眸を開く。
咲「あ……嬉しい、かも」
そこでの推量は肯定と同義だと知っていた。
ネリー「なんだ、サキも嬉しくなるね」
したり顔で笑う。
咲にないのは恐らく、自ら勝利を求め、敗北を厭う気概。闘争心というやつではないか。
実際この説得には根本的な穴が存在していたが。あえて言及はしない。この場では。
咲「……そっ、か……」
蒼白だった顔に一瞬血色が戻った気がした。
直後、力を失ったように咲の上半身が横倒しになる。
風邪の容態が芳しくないのだろう。ネリーはおたおたとする。長話にうっかり付き合わせてしまった、弁明の余地もない。
それに……ベッドまで連れそびれた。散々だ。全く格好がつかない。
何とも言えないネリーの煩悶は咲が安らかに寝息を立て始めるまで続いた。
▼
東の空に昇る太陽がガラスの窓越しに日差しを降り注ぐ。
布団だけ拝借しフローリングに雑魚寝していたネリーは、すやすやと眠る咲の顔を興味深そうに眺めていた。
やがて重たげに瞼が開く。
ネリー「おはよー」
咲「……お、おはよう」
掛け布団を掴みながら、おずおずとした返事。半身を起こし、二人が向き合うと。
咲「……」
ネリー「……」
どこからか奇妙な音が鳴り響く。空腹を訴える消化器官のそれと似ていた。というかそうだった。
ネリー「おかゆ……食べる?」
咲「……う、うん」
掛け布団で顔を隠した咲が言った。裏返りそうなほど声が震えていた。
ネリー「あ、サキ。今日はどうするの?」
レトルトの食事を済ませ、静かに窓の外を見つめていた咲に訊く。
咲「学校? ……うーん」
ややあって「今日は休む事にするよ」窓の外から視線を外し返答した。
前日に倒れたのだ。考えずともよさそうなものだが。腑に落ちないものを感じながら、ネリーは長ソファーの上で半身を起こす咲の元に歩み寄っていき、すとんと座る。
ネリー「じゃ、ネリーも部活までここにいるねっ!」
留学生は授業に出る必要がない。勿論、出る事も自由だがこの期に及んで出る気にはなれない。
咲は申し出を断らなかった。正確に言うと遠慮がちな空気を漂わせていたのだが、素直に厚意を受け入れたのか、「ありがとう」と伝えてきた。
ネリー、咲『……あ、あの』
奇しくも同時に沈黙を破ろうとして、顔を見合わせる。
ネリー「サキ……何か話あった?」
咲「ネリーちゃんこそ……」
ネリー「うーん、サキから話していいよ」
咲「ええっ?」
驚いたのだろう。咲は困惑気味に表情を固くした。
だがこのままでは埒が明かないと思ったのか、意を決するようにきゅっと唇をひきしめると口を開く。
咲「あの……昨日の事」
咲「ごめんね……おかしな事言って。頭がぼうっとしちゃって」
咲の言葉はある意味、予想通りだった。謝罪など望まないが概ねネリーがしようとした話でもあった。
ネリー「覚えてたんだ」
咲「ちゃんと記憶はあって……あの、本当にごめんね」
つまり、後悔しているのだろうか。居心地悪そうな佇まい。今にもなかった事にしてくれと頼んできそうな、一歩引いた態度。
冗談じゃない。昨日、ようやく近づけたと思ったのに。
ネリー「ネリーは嬉しかった」
咲「……えっ?」
ネリー「中々難儀な性格してるね。けどまあ想定の内かな」
にっと笑う。しみったれた空気を笑い飛ばすように。
ネリー「世界を回ってるんだよ。折り紙つきなの」
咲「……」
ネリー「だからさ、仲良くしようよ!」
咲の顔に明らかな迷いが浮かぶ。
また浮かない表情。違う。見たいのはこんなじゃない。
ネリー「それに……」
会った次の日の電車でみた、屈託のない笑顔。それが焼きついて離れない。
ネリー「サキは笑ってる顔が一番可愛いよっ!」
息を呑む音がした。咲が、目を剥いている。
長い沈黙が部屋を包む。
朝早く昇ったばかりの陽が二人を照らした。
次の瞬間。
咲「う、……あっ、あああっ……!!」
咲の頬を涙が伝っていた。
ネリー「サキって意外と泣き虫なんだね」
怒ったり、疎まれたり、落ち込んだりされてきた咲の、新しい一面。
その発見を、咲を胸の中に抱き寄せたまま微笑んで見届けた。
▼
あれから。
咲の部屋で暫くの時間を過ごして。
陽が沈み、茜色の光に部屋が満たされた頃、咲が言った。
咲「部活……休んじゃったね」
「皆勤だったのにな」少し残念そうにぼやく咲。
ネリーが笑った。
ネリー「真面目だね、サキは」
咲に黙っていた秘密。実は智葉から今日の部活は休みになったと連絡があった。
今になって伝えると、咲は小刻みに肩を揺らして吠えた。
咲「そ、そういうの早くいってくれないかなあ!」
ネリー「あはは、ごめんごめんっ」
掴みかかりそうに飛び上がってきた咲を制し、ベッドに落ち着ける。咲は見るからに不満そうだった。
咲「……ねえ、ネリーちゃん」
ふと。深刻な表情で咲が切り出す。
咲「昨日の話で気になったんだけど……」
咲「私、やっぱり勝負事はだめかもしれない」
ネリー「どうして?」
神妙な表情をしたネリーが聞き返す。
咲「私が勝って……心の底から喜んでくれる人はいないよ」
咲「最初にいったよね。私が勝っても誰も喜ばない」
咲の瞳が光を失ったように陰る。
ネリー「あちゃあ……気づいちゃったか」
ネリー「ま、あんなので説得されるの熱にでも浮かされてるときくらいだよね」
ネリーが苦笑した。
咲「それに……もし私が勝つ事を望んでくれる人がいたとしても、私が勝つ事で辛い思いをしたり、泣いちゃうほど苦しい人がいたら……やっぱり悲しいよ」
ネリー「サキは欲張りさんだね。普通、そんな事は考えないよ」
ネリー「でもね」
ネリー「ネリーは勝ってほしいな、サキに!」
咲が驚愕に目を見開く。
咲「どうして……?」
ネリー「サキの麻雀、すっごく綺麗なんだもん! ……はじめてみたとき、びっくりしたよ」
ネリー「サキがカンした瞬間、鮮烈なイメージが駆けめぐった。ピンク色の花弁が咲き乱れるみたいな……あとから知ったけど、あれ桜っていうんだね」
にっこりとネリーが笑いかける。
咲の表情は暗かった。
咲「花は……みんなが私に託した夢の形だから」
咲「最初は白かったの」
咲「桜は……此岸の花だから」
沈黙が落ちる。しばらくの間、咲もネリーも言葉を発する事はなかった。
傾いた陽が茜色に部屋を染める。ポケットに手を突っ込んだネリーがその手を差し出した。
ネリー「……サキ、これあげるっ!」
咲「これ、は……」
ネリー「お魚のキーホルダー! 可愛いでしょ、お揃いで買ったんだ」
戸惑う咲に話しかけ、説明するネリー。
ネリー「この前看病してくれたお礼! これからもよろしくねっ!」
夕陽に照らされたネリーが破顔する。
ゆっくりと伸ばされた咲の手がキーホルダーを受け取る。その手は震えていた。
咲「ありがとう……大事に、大事にするよ」
鳶色の瞳を縁取る睫毛に涙の粒を浮かべ、噛み締めるように咲は微笑んだ。
おわり
あー指痛い
次回はおまたせしましたインハイ二回戦当日です
ところで咲日和四巻買ったんですが…キャラが、間違えた…!
すみません…すみません…
暑さと夜勤明けで頭が茹だりました…
気合い入れて続き書きます
みなさん温かい言葉本当にありがとうございます
無理のない範囲で頑張ってみます
▼
チュンチュン…
ネリー「……」
パチッ
ネリー「ん、朝か……」
ネリー「準備しなきゃ」
▼
ネリー「おはよー」
ダヴァン「オハヨウございマス」
ハオ「おはよう」
明華「おはようございます」
ネリー「あれ」
キョロキョロ
ネリー「サキは?」
スタスタ…
智葉「来たかネリー。おはよう」
ネリー「サトハ」
智葉「ああ……咲だろ?」
ネリー「うん」
智葉「咲ならいない」
ネリー「え?」
智葉「朝早くに咲の縁者の人から連絡があってな。別口で会場入りするそうだ」
ネリー「そんな……縁者の人って」
智葉「……咲の母親の部下にあたる人らしい」
ネリー「っ! サキの、お母さんの……」
智葉「……大丈夫か? 昨日の事で相当堪えているだろ」
ネリー「……」
明華「あの……」
智葉「うん?」
明華「どうかしたんですか? ネリーも元気がないようですけど」
智葉「昨日一悶着あってな。咲の母親と会ったんだ」
明華「っ、咲さんのお母さんですか」
ダヴァン「そういえバ、あのとき明華はいなかったんデシタね」
ハオ「咲と一緒にいたからね」
アレクサンドラ「さて皆準備はいい? そろそろ出発するわよ」
▼
衣「ついたーっ」
透華「あまり遠くまでいかないでくださいね」
純「今日は観戦か」
一「清澄の人たちと合流しなきゃね」
智紀「確かあっちの方で……」
久「あら。あれは」
まこ「おでましじゃのう」
衣「ノノカーっ」
和「わっ、危ないですよ」
優希「相変わらずのどちゃんにべったりだじぇ」
クラスメイト「アハハ……」
京太郎「ぐっ、羨ましいぜ」
透華「ハギヨシ。案内は頼みますわよ」
ハギヨシ「はっ」
▼
えり「三尋木プロ」
スタスタ…クルッ
咏「ん?」
えり「あの、今日はよろしくお願いします」
咏「あ、うん。よろしくー」ヒラヒラ
えり「若輩者ですが精一杯頑張っていきますので」
咏「アハハ。もっと気楽でいいんじゃね? しらんけど」
えり「……ところで今日はシード校の初試合ですけど」
咏「白糸台、臨海、千里山、永水。錚々たる顔ぶれだね」
えり「三尋木プロはどのシード校に一番注目していますか?」
咏「シード校限定? 難しい質問だ」ヒラヒラ
咏「わっかんねー。やっぱ白糸台じゃね? チャンピオンは別格でしょ」
えり「宮永選手ですか……」
えり「確かに門外漢の私でも彼女は一線を画しているのを感じさせます」
咏「アハハ、宮永選手、だともう一人と区別つかないよ」
えり「もう一人?」
咏「臨海にもいるんだよ。宮永咲っていうらしいね。しらんけど」
えり「宮永咲さんですか。チャンピオンとは何かご関係が?」
咏「さあ?」
えり「さあって……」
咏「わっかんないんだよねー」
咏「マスコミも気になってるらしいよ。でも何も出てこないって話」
えり「なるほど……まあ名字が被るくらいよくある事かもしれませんね」
スタッフ「すみませーん。そろそろスタンバイお願いしまーす」
えり「あっ、はい! わかりました!」
咏「……」
咏「今日は何か妙な気配がびんびんするんだよねー。何だろうね」ヒラヒラ
▼
衣「ついた! ここが観戦室か」
和「流石に控え室とは感じが違いますね」
優希「今日はどこの観戦をするんだ?」
まこ「第一試合になるんかのう。臨海女子、新道寺女子、苅安賀、栢山学院の試合じゃ」
優希「おお! 臨海突破!」
まこ「突破はいらん」
優希「臨海突破といえばのどちゃんとクラちゃんの友達がいるとこだじぇ」
まこ「突破はいらんて……まあ、だから観戦しようって話になったんじゃけえ」
優希「おーい、のどちゃんクラちゃん! 説明求む!」
クラスメイト「和は天江さんの相手で忙しいから私が……何の説明?」
優希「臨海突破の友達って確か強いんだじぇ?」
クラスメイト「……そうだね。咲ちゃんは強いよ」
京太郎「臨海って学校自体も強豪なんですよね。シード校だし」
まこ「まあ強豪中の強豪っちゅう話じゃ。世界中から麻雀の強い学生を集めとるらしいからのう」
優希「これは強敵だな! 目をタコにして観察しとくじぇ!」
クラスメイト「それ皿じゃない……?」
京太郎「あっ、そろそろ始まるみたいですよ」
▼
智葉「……もうすぐか」
アレクサンドラ「時間ね。貴女たちにとってはそう難しい相手ではないけど、新道寺には警戒して」
他一同『はい』
ダヴァン「気が引き締まりマスね……」ズルズル
ハオ「それで締まってるの?」
明華「咲さんが先陣ですね」
ネリー「……サキ、いってらっしゃい!」
咲「うん……じゃいってきます」ぺこ…
スタスタ…
智葉「……元気がないな」
明華「はい。体調が悪いといった感じではないですけど」
▼
対局室前 廊下
咲「……」
スタスタ
咲「今日が、終わったら……」
咲「……」
ゴソゴソ…
スタスタ
バタンーーーー
ここまで
いつも読んでくれてありがとうございます
次回更新日決まったらまた報告にきます
>>455ちょっとだけ修正
▼
智葉「……もうすぐか」
アレクサンドラ「時間ね。貴女たちにとってはそう難しい相手ではないけど、新道寺には警戒して」
他一同『はい』
ダヴァン「気が引き締まりマスね……」ズルズル
ハオ「それで締まってるの?」
明華「咲さんが先陣ですね」
ネリー「……サキ、いってらっしゃい!」
咲「うん……じゃいってきます」ぺこ…
スタスタ…
智葉「……元気がないな」
明華「はい。体調が悪いといった感じではないですけど」
▼
対局室前 廊下
咲「……」
スタスタ
咲「今日が、終わったら……」
咲「……」
ゴソゴソ…
ゴォォォォオオッ
スタスタ
バタンーーーー
次の更新は今日の日付が変わる頃です
あとバタンはドアの音なのでご安心ください
▼
その日、初めて使われる対局室は静かな熱気に満ちていた。
ひしひしと伝わる緊張感。スポットライトに照らされた雀卓には、唇を固く結ぶ少女が三人座っていた。そこに、四人目があらわれる。
咲「ーーーー」
あらわれた少女は嫣然と笑う。凛とした立ち姿。最後の一人となった引け目はなく、唯一の一年生という気負いもないようだった。
苅安賀の先鋒を務める少女が、彼女を視界に入れてつぶやく。
苅安賀先鋒「やっと揃ったか」
咲「ごめんね、またせちゃった?」
煌「いえいえ。試合が始まるまでまだ時間はありますし、気にしていませんよ」
栢山学院の先鋒も同意を示してか会釈する。苅安賀の先鋒もまた、怒気をあらわすような事はなかった。しかし一方で。
他三人『……』
三人の視線が咲という少女に集中する。咲は裸足だった。各々疑問や当惑の色を浮かべている。手には一足の外靴、確かに握られているのに、彼女はなぜか素足でその場に立っていたのだ。
咲「よろしくー」
煌「ええ。こちらこそよろしくお願いします」
栢山「……よろしく」
苅安賀「……どうも」
咲が席につく。試合開始を告げるブザーが鳴り響いた。
東一局 ドラ⑤p
最初にテンパイを入れたのは親番の苅安賀だった。八巡目に、三色崩れのドラ表示牌のカン4p待ち。
苅安賀(先制で、親番……この場一のドラ表示牌待ちでも、手牌にドラ1もあるんだ。ここは攻める!)
ガラリー。苅安賀は精神的に優位を得る。
苅安賀(臨海と新道寺の相手なんて散々だ……けどやるしかない。何としても二回戦に進んでやる)
圧倒的な下馬評がある。それは、大勢が臨海と新道寺の勝ち抜けを確実視するといったもの。だが、負けるとみられているからといって、自分でも負けると決めつけたくなどない。
そして。この局面において精神的に優位に立った。状況の面でも優位に立ったかに思われた。
だが、テンパイしていたのは一人ではなかった。同巡、栢山学院も平和ドラ1の25s待ちで聴牌を入れ、ダマテンを選択していた。
咲「ツモ。リーチのみ」
さらに十四巡目。緊迫した空気が走る中、後から仕掛けた臨海が和了する。30符1飜。安手で出鼻を挫かれた苅安賀は渋い顔をした。
東二局 ドラ4s
親が栢山へと移り次局に流れる。先制したのは、またも苅安賀。
苅安賀(ドラ切りで平和高め一盃口テンパイになったところを見逃して九m打ったが……ツイてるな。次巡でヘッドの一mを暗刻にドラ単騎でテンパイ復活だ)
十二巡目の事だった。遅い巡目だが他三人はリーチしておらず、実際この時点でテンパイにこぎ着けたのは苅安賀のみ。
十三巡目、新道寺もドラを切れば平和高めタンヤオの①④p待ちテンパイになるが、①は既に河切れ、今さっきツモで入ったドラを残しテンパイを諦める。
さらに十四巡目。栢山がリーチ。タンヤオ・ピンフ⑤⑧p待ちでテンパイのチャンスを得た。
苅安賀(くっ。出てこないか。私の山に残っていてくれよ……!)
残り四巡。再び緊迫した空気が卓を包む。苅安賀は河からドラを拾うのを半ば諦め、自身のツモ牌に望みを託した。栢山の顔にもツモ切りする度冷や汗が伝う。
咲「おっかけ。リーチっ!」
しかし十五巡目。元気な声が上がる。まるではしゃぐような様子だ。
苅安賀(やけに陽気なやつだな。映像だと確か……いや、それよりも、こいつは嶺上開花でアガる事が多いんだったな。暗カン以外は警戒しなくていいか)
どこか嫌な予感を覚えながら、苅安賀は3sを切る。しかしそれが当たり牌だった。
咲「ふふん、ツモっ!」
裏は乗らず子の満貫8000。
晒された手牌をみてみれば、何と。栢山の待ち牌、最後の⑤⑧pを暗刻にして平和ドラドラ、高めタンヤオ一盃口、安めタンヤオか一盃口の369s待ちでのテンパイ。この事実は苅安賀を動揺させた。
苅安賀(何だこいつ……他家の待ち牌をほとんど止めてる)
偶然だろう。そう思いながらも、苅安賀の表情は苦い色を浮かべる。事情はどうあれ、八千点もとられたのだ。次局での挽回の気持ちも強まる。
その時。
苅安賀(っーー!? 何だ今の……臨海のやつか?)
一瞬、ぞっとする。臨海の少女から視線が送られていたのに遅ればせながら気づく。
苅安賀(私を狙いでもしてるのか……くそっ、普通新道寺を狙うだろ)
狙われている確証はない。確証はないが、にじみ出す不安を苅安賀は自覚せざるを得なかった。
東三局 ドラ④p
苅安賀(良い流れで手が入ってくる……! もうテンパイしたぞ。否が応にも期待してしまうな、これならいけるんじゃないか)
五巡でテンパイ。勿論、苅安賀の先制だった。期待が膨らむ。
二三四六七七八⑥⑧567東東
手牌はこう。カンチャンカン⑦p待ち。これでさくさく決められるなら別に良いと思うが、リーチのみは打点効率が悪い。色々選択の余地がありそうだ。
苅安賀(東が自風だからシャンポン変化……⑤p引いての高めドラのリャンメンリーチもいい。イーシャンテン戻しからマンズ良形テンパイを狙うのも……いやいや、8s引いて三色同順確定狙うのも魅力だな。どうするか)
親は新道寺。苅安賀はしばらく悩んだのち、
苅安賀(ええい……こっちで勝負だ!)
打七m。テンパイ取りダマからの変化待ちだった。
リーチが入ったのは十三巡目。苅安賀が手変わりなくツモ切りを続ける間に、手が伸びてきたらしい臨海からリーチの宣言。
苅安賀(ま、まずい……けど二巡で手が二手変化したぞ! 高め567s、安めドラの④⑦p待ちでテンパイだ!)
気分が高揚してくる。④pと5sは残念ながら河で切れてしまっているが、それでも待ちは三種。特に67sは手牌の一つ以外河には見えない。期待値は十分だった。
十五巡目。
咲「あれ、索子の6引いちゃった」
臨海が漏らした言葉に苅安賀は思わずガッツポーズしそうになった。
苅安賀(よ、よしっ……! 臨海はリーチしてる! これならーー)
咲「じゃ、わたしのアガりだね。ツモ。三暗刻、発」
苅安賀(は、はあっ!?)
苅安賀は耳を疑った。そして、倒された臨海の手牌をみてみると、
一一一二三四666777発発
苅安賀(ば、馬鹿な……)
67mの暗刻。これでは、苅安賀の待ちは⑦p単騎のようなものだ。ふざけた話だった。
また、まただ。また待ちが潰された。妙だ。何かがおかしい。
苅安賀(どうなってんだよ……大体こいつ、全然カンしないじゃないか。カンして有効牌をツモって嶺上でアガる。そういうスタイルじゃなかったのか……?)
都予選とは全く違う打ち筋。こんなふざけた話があるのか。あれだけ予選の敵を圧倒して勝ち抜いたスタイル。あれが、すべて全国の場のための隠れ蓑だったというのか。
咲「……あー」
ふと、臨海の少女がつぶやくように声を漏らす。
咲「うん、大体わかった。ここらへんでいいかな」
苅安賀(何がだ……?)
目を向ければ新道寺や栢山もきょとんとしている。苅安賀同様、意図するところがわからないのだろう。本当に訳のわからないやつだった。
点数の表示された電子ボードを見やる。
臨海117100
苅安賀80500
新道寺95700
栢山96700
苅安賀(くっそ……断ラスかよ。まだ、諦めるような段階じゃないけど)
苅安賀(……さっきの臨海のツモ。シュンツかアンコだったら四暗刻だった……そう考えたらマシなのか?)
ポジティブに、悲観的にならないよう考える。気持ちが折れたらおしまいだ。そう思っての事。
しかし次の局、苅安賀含む三校は度肝を抜かれる事になる。
東四局 ドラ北
配牌。
咲「ダブルリーチ!」
第一打。臨海はリーチを宣言した。
煌「っ……!」
栢山「う……」
他校に動揺が走る。今までどちらかというと重い立ち上がりだった臨海の、これ以上ないテンパイ。臨海が親というのもあって他校の警戒は半荘で最大のものとなる。
咲「……」
しかしその後、何事もないまま八巡目まで回る。
苅安賀(テンパったけど……このままいけるのか?)
テンパイする苅安賀。他校も手が進んでいるように見える。その頃には他校の警戒は幾分薄れ、自分や他の相手の手を気にする余裕が生まれてくる。
しかし。
その時、三校は気づいていなかった。三校がいずれもテンパイしーー、
苅安賀(うーん、来ないな……)
全員が、来るはずのない牌を待っていた事に。
九巡目。
咲「カンっ!」
臨海が動く。暗カン。晒されたのは2m。
ついに嶺上開花か。飛び上がりそうになる身体を抑え、臨海の挙措に釘づけにされる苅安賀。
他の二校も心中穏やかじゃないだろう。カンで有効牌をツモるというのなら、和了が決まったようなものだ。必ずかどうかわからなくとも、それだけで身構えるには十分な条件だった。
咲「うん? ……どうぞ、次ツモってください 」
栢山「あ……え? いいの?」
そう問い返す栢山の少女も、研究を重ねたのだろう。すわ和了見逃しかと言うように戸惑うのも無理はない。
臨海が不思議そうに頷くのに合わせて山から次の牌をツモる栢山。ちょうど東家である苅安賀の山がなくなり、北家、臨海の山に差しかかったところだった。
最後の山から栢山が牌をツモする。そして現物を切る。次に新道寺。
打七m。
咲「ロン」
十巡目にしてついに臨海は和了を宣言した。
>>468 発と7間違えてるよ。またはあがり役の宣言。
咲「ダブルリーチ、裏4」
咲「18000」
②②②② 77⑤⑥⑦⑦⑧⑨五六 七 裏①
親の跳ね満だ。決して小さくない衝撃を新道寺以外にも与えつつ、新道寺の点数を一気に削る。
咲「連荘は……いいや。ここでおわり」
連荘拒否。それ自体も驚きに値する行為だったが、苅安賀の内心の注目は別のところにあった。
苅安賀(連荘拒否? 親っかぶりを警戒したのか? いやそれより、まただ。おかしい。これはどう考えてもおかしいって)
臨海の手牌。そう、また待ちの潰しだ。⑥pは一つ止めているだけだからともかく、②pはおかしい。狙っているとしか思えない。
苅安賀(くっ、被害妄想か……? でも最初のリーのみツモから流したり、潰したりばっかだぞ。偶然でこんなことあるのか……?)
確率論的にどれほどのものかわからないが、この理不尽な感覚、一目でわかる確率の偏り。今までの対局経験からいって一部の雀士が持つ不可思議な力というやつから受ける印象と同じだ。純粋な技術という可能性もあるが……そちらは正直考えたくない。
東場が終わり、勝負は南場戦へと移る。
この時、苅安賀先鋒の戦意はまだ挫かれていなかった。
しかし、続く南場戦が、東場戦の流れをそっくりそのまま焼き直した内容になった時。
咲「この中には……いないかな」
異常な戦局に冷や汗を足らす三人を前に、臨海の少女は悠然と佇みながらそんな呟きを残し、前半戦を終えた対局室から一時的に退室していった。
>>472
おっとすみませんミス…
申し訳ないですが変換お願いします
▼
対局室へと繋がる広い廊下。そこを、一人の少女が息を切らし、走っていた。
青みがかった瞳。高校生にしても小柄な体躯。そして、民族衣装めいた異邦の様相を呈す装い。
臨海女子が擁する留学生、ネリー・ヴィルサラーゼだった。
ネリー「サキっ!」
廊下の向こうから歩いてくる少女にネリーは呼びかける。ゆったりとした歩み。ネリーの姿を認め、快活で柔らかな笑みを浮かべるその少女を。
咲「あ、ネリーちゃんっ」
ぱたぱたと駆け寄ってくる。ここ最近の物憂げな様子が嘘のように明るい反応だった。
広いといってもよく使われる通路。二人の距離はあっという間になくなり、向かい合う事となった。
ネリー「あれ……」
咲「うん? どうしたの?」
ネリー「えっと、サキ?」
名前を呼んで問いかける。ネリーは困惑する。何とも言えない違和感があった。
ネリー「ほんとにサキ?」
咲「なにそれ? ネリーちゃんおかしーこというね」
咲がからからと笑う。違和感がさらに強まる。
咲はこんな喋り方をしていただろうか。こんな笑い方をしていたか。
控え室で対局を観戦していた時から気になって仕方がなかった。カメラに映された表情、仕草、その一つ一つが、別人を見ている気にさせて。
二回戦が、対局が近づく毎に思い詰めたようにしていた咲の物憂げな顔を思い出す。
ネリー「サキ……」
ふと猛然と足音が近づいてくる。ネリーの来た控え室の方角からだ。
正体は対戦校の選手たちだった。映像で見たことがある。あれは白水哩に鶴田姫子。あとの数人も、制服からして苅安賀や栢山学院の部員だろう。
ネリーの背後から来た彼女らはすぐに二人のところにまでやってきて、少しもしないうちに横を通りすぎていく。
その瞬間。咲に対してきっとした視線を数人が残していった。
咲「あー、嫌われちゃったかな」
あっけらかんとして咲が言う。
そして、たった今対局室から出てきた選手達と、激励などの目的で駆けつけただろう選手達。彼女らを大して興味なさそうに眺める。その反応も、ネリーには違和感しかない。
咲はこういうことを気にしてしまう性質だ。ナイーブで、仕方ないとはわかっていても、誰かといがみ合うような関係になるのを喜ばない。大体の場合は落ち込んでしまうはずだ。
その一面は、惰弱といってしまえばそれまでだけれど。その甘さがどうしてか、ネリーには好ましく思えていた。だからこそ、そんな咲の姿を見誤りたくない。わき上がった気持ちがネリーに問いを投げさせた。
ネリー「ねえサキ、それって誰のまねしてるの……?」
咲「っーー」
その発言が空気を如実に変える。飄々と振る舞っていた咲が息を呑む。
今までどこか掴みどころのない雰囲気を漂わせたーー演じていたーー彼女が、対局室にいた時も含めた中で初めて挙措を失する。
咲「っ……、っ……」
表情に焦燥じみた緊張を浮かべる咲、その瞳がもの問いたげに何度も揺れ動く。その瞬間、咲は間違いなく咲に戻った。そうなのだとネリーは思った。そして、胸裏にふとした思惟が浮かぶ。
ネリー「……巧い麻雀だったね」
咲「え?」
ネリー「あんな打ち方、できたんだ。むー、ネリーたちには一度も見せてくれなかったのに」
拗ねたように口を尖らせる。謎が残る咲の振舞いにはもう言及しない。日常話を楽しむように明るく振る舞った。
咲「……え、えーと」
ネリー「あれってどういう能力なの……って、それはまずいか。ああもうっ、いくら? いくら出したら教えてくれる?」
咲「……あは、お金の問題じゃないし」
ネリーは、どうして咲があんなことをしていたか、考えてみて、無理に聞き出さないことにした。やはり、咲は別人のように振る舞ったけれど。その目は今までと違い、会話を本心から楽しんでいるように見えた。
ネリー「お金だけじゃないよ! サトハはジャニパーズ自由業見せてくれるし、ミョンファはサキの従者になるし、ハオは満漢全席作るし、メグは……あー、カップ麺くれるよ」
咲「カップ麺の箱いっぱい積み上がりそーだね」
どちらともなくくすりと笑いが漏れる。
インハイ二回戦の前半戦と、後半戦。その短い時間、ネリーと咲はたしかに壁を一つ取り払い、歓談にふける。
流れるように過ぎていく時間。後半戦を前にし、咲は対局室へと戻っていく。
その間際。
「……ネリーちゃん、ありがとう」聞き逃しそうなほど小さな声で短く、たしかに咲の言葉がネリーの耳に届いた。
ここまで
この部分は投下するの色んな意味で不安でしたが…疑われたくないので先に否定しておくと、この咲が多重人格だとかコピー能力持ってるだとかではないです
突飛な話にはしないよう気をつけてますのでお付き合いいただけると嬉しいです
連荘拒否ってそんなルールあったか?
オーラスで親の上がり止めならわかるけど
連荘したくないなら普通にノーテンで流すべき
東風でもない限り東四局ではあり得ない
>>473修正 >>482さん助かりました、ありがとうございます
咲「ダブルリーチ、裏4」
咲「18000」
②②②② 77⑤⑥⑦⑦⑧⑨五六 七 裏①
親の跳ね満だ。決して小さくない衝撃を新道寺以外にも与えつつ、新道寺の点数を一気に削る。
咲「連荘は……いいや。ここでおわり」
三校の頭に疑問符が浮かぶ。オーラスならともかく、今の局面で和了止めなどルール上できないはずだ。
試合の行方を見守る会場のスタッフも発言の意図を測り損ね、困惑している。臨海の少女が告げる。
咲「あ、次いってください。気にせず」
気になる。とはいえ、試合の進行は絶対なので全自動卓が働き始め、状況が流れていく。臨海以外が歯に挟まるものを感じているかのような顔をする中、苅安賀の内心もっとも気になる部分はまた別の場所にあった。
苅安賀(連荘いいやってなんだ? いやそれより、まただ。おかしい。これはどう考えてもおかしいって)
臨海の手牌。そう、また待ちの潰しだ。⑥pは一つ止めているだけだからともかく、②pはおかしい。狙っているとしか思えない。
苅安賀(くっ、被害妄想か……? でも最初のリーのみツモから流したり、潰したりばっかだぞ。偶然でこんなことあるのか……?)
確率論的にどれほどのものかわからないが、この理不尽な感覚、一目でわかる確率の偏り。今までの対局経験からいって一部の雀士が持つ不可思議な力というやつから受ける印象と同じだ。純粋な技術という可能性もあるが……そちらは正直考えたくない。
東四局 一本場 ドラ中
煌「ノーテンです」
栢山「……ノーテン」
苅安賀「ノーテンだ」
咲「はい、わたしもノーテン」
流局。あっさりと一本場が終わる。
三校の間に妙な空気が流れた。
苅安賀(いや……これ狙ってたとかじゃないよな。親以外がアガったらどっちにしろ流れたわけだし。はは、まさかな)
乾いた笑いをこぼしそうになって、ぎりぎりで苅安賀は思いとどまる。
咲「……」
苅安賀(いやなんでどや顔なんだよ。偶然だから。偶然、偶然……)
臨海の憎たらしい少女の笑顔は、不気味なほど堂に入っていた。そうなると仕草の一つ一つがやたら意味深に見えてきたが、苅安賀は頭を振るって疑念を振り払い、戦いに集中しようとする。
そして。東場は終わり、勝負が南場戦へと移る。
この時、苅安賀先鋒の戦意はまだ挫かれていなかった。
しかし、続く南場戦が、東場戦の流れをそっくりそのまま焼き直した内容になった時。
咲「この中には……いないかな」
異常な戦局に冷や汗を足らす三人を前に、臨海の少女は悠然と佇みながらそんな呟きを残し、前半戦を終えた対局室から一時的に退室していった。
>>473修正 >>482さん助かりました、ありがとうございます
咲「ダブルリーチ、裏4」
咲「18000」
②②②② 77⑤⑥⑦⑦⑧⑨五六 七 裏①
親の跳ね満だ。決して小さくない衝撃を新道寺以外にも与えつつ、新道寺の点数を一気に削る。
咲「連荘は……いいや。ここでおわり」
三校の頭に疑問符が浮かぶ。オーラスならともかく、今の局面で和了止めなどルール上できないはずだ。
試合の行方を見守る会場のスタッフも発言の意図を測り損ね、困惑している。臨海の少女が告げる。
咲「あ、次いってください。気にせず」
気になる。とはいえ、試合の進行は絶対なので全自動卓が働き始め、状況が流れていく。臨海以外が歯に挟まるものを感じているかのような顔をする中、苅安賀の内心もっとも気になる部分はまた別の場所にあった。
苅安賀(連荘いいやってなんだ? いやそれより、まただ。おかしい。これはどう考えてもおかしいって)
臨海の手牌。そう、また待ちの潰しだ。⑥pは一つ止めているだけだからともかく、②pはおかしい。狙っているとしか思えない。
苅安賀(くっ、被害妄想か……? でも最初のリーのみツモから流したり、潰したりばっかだぞ。偶然でこんなことあるのか……?)
確率論的にどれほどのものかわからないが、この理不尽な感覚、一目でわかる確率の偏り。今までの対局経験からいって一部の雀士が持つ不可思議な力というやつから受ける印象と同じだ。純粋な技術という可能性もあるが……そちらは正直考えたくない。
東四局 一本場 ドラ中
煌「ノーテンです」
栢山「……ノーテン」
苅安賀「ノーテンだ」
咲「はい、わたしもノーテン」
流局。あっさりと一本場が終わる。
三校の間に妙な空気が流れた。
苅安賀(いや……これ狙ってたとかじゃないよな。親以外がアガったらどっちにしろ流れたわけだし。はは、まさかな)
乾いた笑いをこぼしそうになって、ぎりぎりで苅安賀は思いとどまる。
咲「……」
苅安賀(いやなんでどや顔なんだよ。偶然だから。偶然、偶然……)
臨海の憎たらしい少女の笑顔は、不気味なほど堂に入っていた。そうなると仕草の一つ一つがやたら意味深に見えてきたが、苅安賀は頭を振るって疑念を振り払い、戦いに集中しようとする。
そして。東場は終わり、勝負が南場戦へと移る。
この時、苅安賀先鋒の戦意はまだ挫かれていなかった。
しかし、続く南場戦が、東場戦の流れをそっくりそのまま焼き直した内容になった時。
咲「この中には……いないかな」
異常な戦局に冷や汗を足らす三人を前に、臨海の少女は悠然と佇みながらそんな呟きを残し、前半戦を終えた対局室から一時的に退室していった。
>>465
失礼
咲「ツモ。リーチのみ」
だけど、リーチツモは2飜だよ。多分、500・1000じゃない?
>>488
あっと…メンゼン忘れてました教えてくれて感謝です
やっぱ闘牌書くとぼろぼろ出るな…精進しますみなさんのおかげで修正ききましたほんと助かってます
電子ボードに表示された点数は
臨海118000
苅安賀88000
新道寺95500
栢山96500
ですタブン
今日のお昼か夜に投下します
▼
煌「………………」
哩「……花田」
煌「部長、本当に申し訳ないです。申し開きの言葉もありません……」
哩「そがんこと言うな。私は怒りに来たんやなか」
煌「ですが、この点数で謝らないわけには……」
臨海180000
苅安賀78000
新道寺55000
栢山92000
哩「あはは、ここまで独走されっと清々しいね」
煌「そんな爽やかな顔で……」
煌「……前半戦だけでこれだけ削られ、あまつさえラス。もはや地に頭を擦りつけて謝罪するレベル、いえそれでも取り返しなんてつきません……」
哩「なあ花田、どうして私がここに来たかお前には分かっとっか?」
煌「い、いえ、お叱りの言葉をいただくとばかり思ってましたので……」
哩「負けてほしくなか。そう思うて来た」
煌「え」
▼
煌「………………」
哩「……花田」
煌「部長、本当に申し訳ないです。申し開きの言葉もありません……」
哩「そがんこと言うな。私は怒りに来たんやなか」
煌「ですが、この点数で謝らないわけには……」
臨海180000
苅安賀78000
新道寺55000
栢山92000
哩「あはは、ここまで独走されっと清々しいね」
煌「そんな爽やかな顔で……」
煌「……前半戦だけでこれだけ削られ、あまつさえラス。もはや地に頭を擦りつけて謝罪するレベル、いえそれでも取り返しなんてつきません……」
哩「なあ花田、どうして私がここに来たかお前には分かっとっか?」
煌「い、いえ、お叱りの言葉をいただくとばかり思ってましたので……」
哩「負けてほしくなか。そう思ってきたとよ」
煌「え」
煌「しかし私の実力では繋ぐことはできても、あの宮永さんという方に勝つのは……」
哩「勝てとは言ってなか」
煌「??」
哩「お前は確実に繋ぐ。つまり準々決勝以降もあいつとは常に当たる」
煌「そんな気が早いのでは……」
煌「で、ですが、皆さんのことです。繋ぎさえすれば勝利を飾ってくれると信じています」
煌「私にできるのは、皆さんが反撃も考えられないほど点棒を失うのを避けることで……はっ」
哩「何ね、全部説明するまでもなかった」
哩「そう、後ろには私らがおる。花田、お前はできるだけよか形で繋ぐ、そのために戦ってくれ」
哩「気持ちで負けんな」
煌「は、はい! 全力を尽くします!」
姫子「ぶちょー、やっぱり心配なかでしたね」
哩「姫子」
姫子「花田は強い子やけん尻込みなんかせんです。あの臨海の澄ました一年に吠え面かかせてくれますよ」
煌「ひ、姫子、そこまでは……」
姫子「っていうのは冗談。でも応援しとるし信じとるよ」
煌「……うん!」
哩「なあ、ところで気づいとっか?」
哩「東四局、南四局、どっちも一本場は全員がノーテンば言って流れたが」
哩「臨海の先鋒……二局ともテンパイしとったよ」
煌「っ!」
煌「そ、そんな……」
姫子「ぶちょー、それ言ってもよかったんですか」
哩「隠しても仕方なか。後から知る機会はいくらでもあるばい」
哩「今言ったのは……花田が情報として活かしてくれると思っとるけん」
哩「なあ花田、あん臨海の一年のやり口はわかってきたやろ?」
煌「……はい。他家の待ち牌を手役に組み込んで握りつぶし、第四局ではダブルリーチをかけ相手に放銃させる……そのくらいですが」
哩「気になんとばあるけど……大体そうやと思う。あいつは他家が何を待ち牌にするか察知できる節がある」
煌「いくら勘が良くても、状況でどうとでも変わる待ち牌を技術で読むのは無理がありますよね」
哩「ああ、あれは十中八九能力の恩恵やけん」
哩「加えて……第四局に和了する力、あれは別物としか思えなか」
姫子「私もそう思います。待ち牌を潰しながら和了するところは同じでも、ダブルリーチで和了する局は何かがおかしい」
哩「それにダブルリーチ、あんときは配牌から手は基本変わらなか」
哩「その状態で相手の待ちを潰すっていうのも、納得がいかん」
煌「つまり、配牌やツモに干渉する力が働いている……ということですか?」
哩「ああ。察知できるだけじゃ説明がつかなか」
煌「なら、何をしてもアガれないことになるのでは……」
哩「花田の能力で抗えるのは瀬戸際だけか」
姫子「でもその瞬間、臨海は和了できない状態で他家の待ち牌を大量に抱えることになります」
哩「そいは最終手段。花田、ちょっと試してほしいことばあるとよ」
煌「試してほしいこと……ですか?」
▼
後半戦 東一局
煌「俄には信じがたいですが……」
煌(部長が授けてくださった策、試さないわけにはいきません!)
八巡目
煌(テンパイした……けどこれを待ってもまずアガれない)
煌(だから……テンパイを崩す!)
十二巡目
煌「ツモ! 1000 2000です!」
栢山「っ!」
苅安賀「なっ」
煌(ほ、本当にアガれました!)
咲「……へえ」
咲「よくアガれたね」
煌(手牌をさらして……っ、やはり最初にテンパイした手の待ち牌がありましたか)
栢山「……」
苅安賀「どうやって……」
煌(様子をみた限り、他二校の方も待ち牌を握られていたようですね……)
煌「まだ貴女以外は一度も和了していませんでしたから。ようやく対局の舞台に立たせてもらった気分です」
煌(私がやったやり方……それは、テンパイを崩して待ちを変える。それだけ)
煌(それだけで……よかったんだ)
咲「あははっ。くるなら新道寺だと思った」
咲「ダブルリーチの局で狙い撃ちしたけど……挽回がんばってね?」
煌「っ!」
煌(あれは……狙われていたんですか)
煌「なるほど……この熟練の打ち手がひしめく舞台で貴女ほどの打ち手に注目されたこと、光栄に思います」
咲「ふーん。……怒らないんだ」
煌「何を怒ることがありましょうか。抗うだけの技量がない私が詰られるならまだしも、あっさりと狙いを直撃してみせるその技量、すばらです!」
咲「……」
咲「あなたって……」
煌「私は花田煌といいます。遠慮なく煌と呼んでください」
咲「……煌、優しくなんてしないよ。これからなんだから」
東二局
咲「ポン!」
咲「ポン!」
数巡後
苅安賀(なっ……ようやくテンパったと思ったら、副露で潰されてる形……!)タン
咲「それロン。3900」
煌(副露を使っているから和了までが早い。なるほど、一筋縄にテンパイを作り変える時間は与えないわけですか)
東三局 一本場 ドラ西
煌(東三局は和了できましたが……アガらせてもらった感がありますね)
煌(副露で手は進んでいる様子なのに、十五巡目の和了まで沈黙していました)
煌(とはいえ、親番で満貫をアガれました。真実はどうあれ今は喜びましょう!)
五巡目
34666789⑦⑧七七六 ツモ ⑥p
煌(最初のテンパイ……これは作り直すのにちょうどよかったかもしれませんね)
打9s
栢山「……リーチ」
煌(っ! 早い、どうしましょうか)
煌(こんなに早い巡目ですからテンパイを作り直してないかもしれませんが)
煌(逆に、あまりに引きがよくて意識せずに手を変えたのか)
煌(あるいは待ち牌が潰されるからくりに気づいたんでしょうか?)
煌「……」タン
煌(ともあれ、オリないのであれば手を作り変えるしかありません!)
咲「カン」
栢山「っ……」ガクッ
煌(暗カンで潰された?)
咲「……」ツモ切り
煌(宮永さんは宮永さんで嶺上牌から有効牌をツモったわけではないみたいです)
煌(嶺上開花は警戒しなくていいんでしょうか? ダブルリーチの局といい、頭がこんがらがってきますね)
八巡目
煌(手が作り変わりました!)
苅安賀「……」タン
煌「ロン、7700の一本場は8000です!」
苅安賀「くっ」ジャラ……
煌(すみません……本当は宮永さんの点数を削れたらベストなのですが)
煌(いやはや、積極的に敵方の待ちを手に入れながら未だ放銃なしとは)
臨海196900
苅安賀54100
新道寺77000
栢山83000
煌(とはいえ、二位抜けも夢じゃないですねこれは!)
東三局 二本場
煌(う……これは厳しいかも)
煌(配牌が悪く、手も進まない。一度目のテンパイすら遠いです)
栢山「……」タン
苅安賀「……」タン
煌(せっかくの二本場ですが、他校もいつテンパイの作り直しをするかわかりません、安全牌を切ることに集中しましょう)
十八巡目
煌「ノーテンです」
苅安賀「テンパイ」
栢山「ノーテン」
咲「わたしもノーテン」
煌(連荘は流れましたが、まだまだチャンスはあります! 気を取り直して次です!)
東四局
咲「ダブルリーチ」
煌(あ、この局は……)タラリ
六巡目
咲「……」タン
煌(ダブルリーチとなると最初から気を張りつめてしまいますね)
煌(ですが、前半戦の東四局と南四局、あのときはどちらも和了は比較的遅かった……)タン
煌(なら、それよりも早くこちらが和了するのは可能なんでしょうか?)
十二巡目
咲「カン!」
煌(あ……間に合いませんでした)
煌(また点数が減ってしまいますね……)
一巡後
栢山「……」タン
咲「それロン」
栢山「……えっ?」
咲「18000だよー」
栢山「は、はい」ジャラッ
臨海213900 ▲18000
苅安賀55100
新道寺76000
栢山64000 ▼18000
煌(わ、私……じゃない?)
煌(毎回狙い通りにはいかないんでしょうか? ですが、お陰で念願の二位になれました)
東四局 一本場
咲「……」タン
煌(ダブルリーチは……してきませんね。今回も流れるんでしょうか)
煌(他家も心なしかほっとした顔をしてますね)
煌(0本場では毎回跳ね満を決められてますから……私も同感です)
煌(ですが、親が流れるのなら、できれば子の和了で流したいところです!)
十二巡目
煌(っ、来ました! 作り直しでテンパイ!)
煌(こ、これなら……!)
咲「うーん、これかな?」タン
煌「あっ」
煌(来ました直撃! まさか宮永さんからアガれるなんて!)
煌「ロンです!」
苅安賀「ロン」
栢山「ロン」
三校『えっ?』
咲「あははー、三家和! 流局だね!」
三校『……』
煌(え……ね、狙ってやった……?)
煌(ま、まさか……)
煌(ですが相手の待ちを熟知している宮永さんなら、もしかして……)カタカタ
苅安賀「お、おいっ、お前……!」ガタッ
咲「ん?」
苅安賀「今のを狙ってやったのか! あ、あり得ないだろ!」
咲「……うーん」
咲「なんとなくかな。さ、それより次やろうよっ」
苅安賀「~~っ!」
煌「あ、あはは……」タラリ
南一局
苅安賀「……」タン
栢山「……」タン
煌(最後の南場です。もう少し意地をみせたいところですが……)タン
咲「……」
煌(おや? 長考でしょうか?)
咲「うーん。もういいかな?」
………………
三校『?』
煌(……何がでしょう?)
咲「……悪く思わないでね。これに本来制限はないのはたしかだけど」
咲「手をぬいてたわけじゃない。ほんとだよ」
煌(さ、さっぱり意味が……)
咲「ダブルリーチ!」
三校『っ!?』
煌(え……ええっ?)
煌「……」ボーゼン
煌(え、これは……東四局と南四局とは別?)
煌(で、ですが、偶然なら、わざわざ謝ってきたことと辻褄が合いません)
咲「煌?」
煌「え?」
咲「煌の番だよ。ってわかってるか」
煌「あ……す、すみません!」タン
煌(すっかり気をとられました……これはよくありませんね)
煌(敵であるはずの宮永さんに心配されてしまいました)アセアセ
十二巡目
咲「カン!」
煌(これは確定、でしょうか)
咲「……」タン
煌「……」タン
栢山「っ……」タン
苅安賀「く……」タン
咲「それ、ロン」
臨海224900 ▲12000
苅安賀44100 ▼12000
新道寺77000
栢山65000
煌(あ、安心しました……無理して現物を切ってよかった」
煌(また別の人に……狙いを変えた……んでしょうか?)
南二局
咲「ーーダブルリーチ」
煌(ま、またですか)
煌(ダブルリーチでアガる局は毎回跳ね満……これは怖いです)
煌(今は辛うじて二位、ですが宮永さんに直撃されたら瞬く間に転落してしまいます)
煌(な、何か手は……)
十四巡目
栢山「っ……通って」
咲「通らない。ロン」
栢山「うっ……」ジャラッ……
臨海236900 ▲12000
苅安賀44100
新道寺77000
栢山53000 ▼12000
煌(……)
南三局
煌(こんな……一方的な展開……)
煌(はは……十三万点以上のプラスだなんて、そんなオカルト……と言いたくなりますね)
咲「ーーダブルリーチ!」
煌(これで一年生だというんですから、本当に恐れ入ります)
煌(……宮永さんがエース? いえいえ、臨海といえば留学生。もっと強い人が後ろにいる……あり得ない話じゃありません)
煌(これ以上が、この後に……)タン
栢山「……」タン
苅安賀「……」タン
シーーーーーーン
煌(すっかり空気が沈みきって……みんな同じことを思ったんでしょうか)
咲「カン!」
煌(勝て、ない……)
煌(こんな人と準決勝でも当たる……)
煌(わ、私は……)
哩『そう、後ろには私らがおる。花田、お前はできるだけよか形で繋ぐ、そのために戦ってくれ』
哩『気持ちで負けんな』
煌(部長……)
姫子『花田は強い子やけん尻込みなんかせんです。あの臨海の澄ました一年に吠え面かかせてくれますよ』
姫子『っていうのは冗談。でも応援しとるし信じとるよ』
煌(姫子……)
咲「ロン!」
煌(苅安賀に直撃……)
煌(次は、臨海の親……もし連荘されたなら、私は二位でいられなくなるかもしれない)
煌(皆さんに良い形で繋ぐのが、私にできる……)
煌(宮永さん、あなたの実力には感服しました)
煌(ですが)
煌(まだ二回戦なんです! 勝負はーー終わらせません!)
オーラス 南四局 ドラ南
咲「ダブルリーチ」
煌「……」タン
栢山「……」タン
苅安賀「……」タン
咲「カン」
スーーーーーー
煌「その嶺上牌、とる必要はありません」
咲「は?」
煌「ロン」
一一九m19s①⑨p東西北白発中
南
咲「ーーえ?」
煌「32000です!」
臨海216900 ▼32000
苅安賀32100
新道寺109000 ▲32000
栢山53000
ここまで
あとでもうちょっと続き更新します
あ、間違えた裏ドラが南
▼
誰ともしれないざわめきが辺りを包んでいた。
試合が終わり、滞りなく次戦へと移れるよう忙しなく準備に追われる会場のスタッフを尻目に、対局室をあとにする。
扉を抜けると、先ほども見た広い廊下が迎える。少し、疲れていた。足早に廊下を抜けようとする。
咲「……」
対局室と控え室を繋ぐ長い通路。道筋通りに数歩そこを歩き、しかし、ぱったりと足が止まった。
どんな顔をして皆に会えばいいんだろう。顔を合わせるのが、怖い。
この件に関して、誰にも告げていなかった。臨海の中で知っているのは、私と、出資者である母だけ。いやもしかしたら、監督には知らされていたかもしれない。けれど話そうにも、どう話せばいいだろう。この妙ちきりんな行為を。
いつしか足は控え室への道から逃れていた。出戻る足であとから出てきた他校の選手とすれ違う。
彼女はびくりと身体を震わすと合いそうになった視線を逸らし、足早に隣を通りすぎていった。
それは……そうなるよね。あれだけやられたんだもん。
まだ別人の顔で離れていく選手の背中を見送りながら、心中でごちる。わかっていた事だった。でも、あまり見たくない光景だった。悲しくて、辛い。そして、そんな事を思ってしまう自分に嫌気が差す。
自分で決めて、自分でやったことなのに。咲はちくちくと痛む胸を抱えながら、廊下をあらぬ方向に向かって歩く。
そのとき、見つめるような視線を感じた。背後。振り返ってみると、そこには新道寺女子の先鋒……花田煌がいた。びくんと跳ねるように身体が浮き上がった。
彼女はチームメイトだろう、同じ制服姿の少女四人に囲まれ、やがてその場をあとにしていく。うしろ姿が見えなくなった瞬間、喉の奥から込み上げた安堵のため息を出す。
靴下共々靴を履き、切り替わった意識で再び歩き出す。あてなく会場をさ迷って。
期せずして、面識ある人に出会った。
「よう宮永、久しぶりやな」
咲「……え?」
目の前にあらわれた人に瞠目する。その人と最初に会ったのは三年前で、最後に会ったのも三年前だった。
呆然としたまま名前をつぶやく。
咲「愛宕、さん……」
洋榎「おう覚えとったか。そうや、浪速が生んだ奇跡の美少女・愛宕洋榎ちゃんやで」
軽快な調子でおどける洋榎の相貌には、とても柔らかい、人好きのする笑みが浮かんでいる。だが、その目は全く笑っていなかった。
洋榎「あんな、さっきの試合見とったで」
一言、報告するように洋榎は告げる。浮かんでいた笑みがふっと消えた。
洋榎「お前、なんも変わってへんな。相変わらず舐めくさったやつやわ」
純然たる敵意のこもった目。隠そうともしない、嫌悪をにじませた声音が容赦なく向けられていた。
これでおわり
前半戦のオーラスは和了止めできたんだった…そのうち保管庫で直します、教えてくれて感謝です
>>514 洋榎の台詞ちょっと付けたし
▼
誰ともしれないざわめきが辺りを包んでいた。
試合が終わり、滞りなく次戦へと移れるよう忙しなく準備に追われる会場のスタッフを尻目に、対局室をあとにする。
扉を抜けると、先ほども見た広い廊下が迎える。少し、疲れていた。足早に廊下を抜けようとする。
咲「……」
対局室と控え室を繋ぐ長い通路。道筋通りに数歩そこを歩き、しかし、ぱったりと足が止まった。
どんな顔をして皆に会えばいいんだろう。顔を合わせるのが、怖い。
この件に関して、誰にも告げていなかった。臨海の中で知っているのは、私と、出資者である母だけ。いやもしかしたら、監督には知らされていたかもしれない。けれど話そうにも、どう話せばいいだろう。この妙ちきりんな行為を。
いつしか足は控え室への道から逃れていた。出戻る足であとから出てきた他校の選手とすれ違う。
彼女はびくりと身体を震わすと合いそうになった視線を逸らし、足早に隣を通りすぎていった。
それは……そうなるよね。あれだけやられたんだもん。
まだ別人の顔で離れていく選手の背中を見送りながら、心中でごちる。わかっていた事だった。でも、あまり見たくない光景だった。悲しくて、辛い。そして、そんな事を思ってしまう自分に嫌気が差す。
自分で決めて、自分でやったことなのに。咲はちくちくと痛む胸を抱えながら、廊下をあらぬ方向に向かって歩く。
そのとき、見つめるような視線を感じた。背後。振り返ってみると、そこには新道寺女子の先鋒……花田煌がいた。びくんと跳ねるように身体が浮き上がった。
彼女はチームメイトだろう、同じ制服姿の少女四人に囲まれ、やがてその場をあとにしていく。うしろ姿が見えなくなった瞬間、喉の奥から込み上げた安堵のため息を出す。
靴下共々靴を履き、切り替わった意識で再び歩き出す。あてなく会場をさ迷って。
期せずして、面識ある人に出会った。
「よう宮永、久しぶりやな」
咲「……え?」
目の前にあらわれた人に瞠目する。その人と最初に会ったのは三年前で、最後に会ったのも三年前だった。
呆然としたまま名前をつぶやく。
咲「愛宕、さん……」
洋榎「おう覚えとったか。そうや、浪速が生んだ奇跡の美少女・愛宕洋榎ちゃんやで」
軽快な調子でおどける洋榎の相貌には、とても柔らかい、人好きのする笑みが浮かんでいる。だが、その目は全く笑っていなかった。
洋榎「あんな、さっきの試合見とったで」
一言、報告するように洋榎は告げる。浮かんでいた笑みがふっと消えた。
洋榎「お前、中学の時からなんも変わってへんな。相変わらず舐めくさったやつやわ」
純然たる敵意のこもった目。隠そうともしない、嫌悪をにじませた声音が容赦なく向けられていた。
彼女と出会ったのは、咲が初めて公式戦に出場した年、一年目のインターミドルでのこと。全国大会に進出した咲の中学は準々決勝で洋榎の所属する大阪の強豪とぶつかり、勝敗を争った。
そのとき以来だ。洋榎が咲を疎み、咲が洋榎を避けるようになったのは。
洋榎「まあ……出てこんとは思ってなかった。臨海か。意外な選択やけど、強さからしたら妥当かもな」
ぴりぴりとした空気が流れる中、会場の壁にもたれかかった洋榎が腕を組みつつ話しかけてくる。
横目に咲の姿をとらえるその瞳はやはり友好的なものにはほど遠い。咲は固唾を飲み、口を開く。
咲「愛宕さんは姫松高校でしたね」
洋榎「知っとったんか」
咲「……研究しましたから」
そうかと一言、相づちを打たれる。大して興味なさそうだ。その後、互いに沈黙した。驚くほど言葉が浮かんでこない。
洋榎「……それにしても驚いたわ。こんなところで鉢合わすとは」
咲「……あっ」
失念していた。咲は今、試合の最中にも拘わらず抜け出してここにいるのだった。
洋榎の視線が無遠慮にねめつける。まだ試合中じゃなかったのか。そう言われている気がした。
次鋒戦が始まり、出番が終わったからといって看過される話じゃない。返答に窮した咲の身が竦む。しかし、洋榎からの追及はなかった。
洋榎「……そろそろ戻るわ。手洗い言って出てきたとこやしな」
あまり長居して勘違いされたら敵わない、と洋榎は茶化すように言うと踵を返し奥の方へと去っていく。やがて姿が見えなくなり、咲は人心地つく。
咲「見逃してくれた……のかな」
出番を終え勝手に歩き回っているのを突き出すというのも何だが、一言厳しく叱咤されてもおかしくない状況だ。
咲「……」
それとも。わざわざ叱咤するのも煩わしい、そこまで関わり合いになりたくない、ということだろうか。
遠くから残響が聞こえる。今も何処かで賑わっているのだろう、一瞬大きく沸き上がった歓声が耳朶を打つ。
咲「……やっぱり戻ろう。こんなことしてちゃ、いけない」
思い浮かぶのは臨海の人々の姿。団体戦のメンバー、レギュラー争いからは遠かった日本人の部員、そしてーー智葉。
考えたことをつぶやき自身を戒めると、咲は来た道を引き返しざわめきの反響する廊下を黙々と歩き始めた。
▼
「おかえりなさい。無事に戻ってこられたようでよかった」
控え室に帰った咲にかけられた第一声は、監督のものだった。扉を開きざま中にいた監督含む臨海のメンバーから視線の砲火を浴び、怯んだ咲は恐々と見つめ返す。
ネリー「サキ、おかえりっ」
明華「おかえりなさい」
ダヴァン「迷わなかったようで安心しまシタ」
次々と投げかけられる言葉。ハオがいないのは、次鋒戦に向かったからだろう。控え室に据え置かれたモニターの向こうで闘牌するハオの姿が物語っている。
咲「あの……」
アレクサンドラ「咲、貴女の行動はあまり感心しないわね」
咲「……すみません。勝手なことをして」
慇懃に頭を下げる。 弁明などはせず粛々と監督の沙汰を待った。叱責は当然のものだ。対局中と対局後、二重の意味で。
アレクサンドラ「監督としてもの申したいことはあるけど」
アレクサンドラ「先鋒の役割を貴女は申し分なく果たした。……今日だけは私個人としても目を瞑るわ」
ほぞを噛む。その言い回しは、つまり、監督に何らかの働きかけがあったのだろう。何より叱咤にしては軽すぎる。それが、本来あってはならないのだということは鈍くともわかる事実だった。
忸怩たる思いに駆られながらそれでも咲にできることは、すみませんと頭を下げ続けることだった。
やがて、監督からお咎めはお終いと伝えられ皆が観戦を続けるソファーに通される。そこに加わった咲にとって意外だったのは、皆観戦か雑談に興じ、先ほど異質な姿をみせたはずの咲に何ら猜疑や困惑の目を向けないこと。普通に接し、まるで普段の対局を終えた風な皆に咲の方が逆に戸惑う。
モニターの向こうのハオは一方で危なげなく戦局を進めていた。隙のない打ち回し。普段通り危なげない姿に何となく咲が見入っていると、
ダヴァン「サキ、体調はダイジョウブ?」
席を立ち咲の隣にまで回り込んできたダヴァンに話しかけられる。
咲「え……っと。体調は……問題ないです」
ダヴァン「ナルホド。ああ、先ほど見慣れないコトをしてたので気になりまシテ」
咲「あ……気づいては、いたんですよね」
やっぱり、という言葉を飲み込んで伏し目がちにダヴァンを見上げる。
ダヴァン「ソレは、まあ……気づかないワケにはいきまセン。あれだけ特殊な打ち方をすレバ」
喋るダヴァンの視線がふらふらとさ迷う。直に話してみれば、多少の困惑はあるのだろう。想像に近い反応が得られたことで咲の頭にも徐々に理解が広がる。
咲「あの、私……」
切り出して、すぐに言い淀む。可能なだけ伝えられる何かを話そうとするも見当がつかなかった。一方のダヴァンが機先を制す。
ダヴァン「サキ、私は体調に問題がないと知れただけで満足でスヨ」
落ち着いた様子で告げられる。
ダヴァン「ウチは、留学生が集まってできたチームでス。元々全てを話すような間柄ではありまセン」
ダヴァン「私もミンナに話していないコトありマス。だから……それでいいんデス」
咲「……」
たしなめるような言葉にぽかんとし口を噤む。
ダヴァンの話す理屈はすんなりと頭に入った。普通の学校の、普通の部活仲間ならば、信頼に瑕が入るような隠し事。しかしここでは違う。
臨海女子。ここに在籍するレギュラーの過半数は留学生。そして近い将来、世界を舞台に鎬を削り合う関係。
憎からずとも手の内や胸中の丈を隠すのはこの中にあって常識の範囲。とりわけて追及される謂れもない。
そんな考え方が浸透したチームであることを咲はどこかで失念していた。
プロを目指す日本の高校生雀士の多くとは事情が異なる。留学生であり、世界ランカーでもある彼女らは、麻雀生命を賭すし烈な争いにいち早く身を投じている。
同じチームにありながら根本から違う存在。今になって、実感がわいてくる。その事実を咲は静かに噛みしめた。
ダヴァン「といっても、マア……」
だが、前言を翻すような脈絡で切り返すダヴァンに目を向けると。
ネリー「じー」
いつのまにか、穴が開きそうなほどじっくりとネリーにみられていた。
咲「ネリーちゃん……?」
恐る恐る呼びかける。するとネリーは「……うん! サキだね!」と何かに納得してサキの隣にぽすんと座った。
咲「……あの」
ネリー「んー?」
モニターの方に視線を流しながらネリーが話す。自然体。前半戦と後半戦、その合間に話した時と同様だった。
異変には気づいていながら聞き出そうとしない、咲にとってありがたくも都合の良い対応。
咲「な、何でもない」
あえて藪をつつく気にはなれなかった。何がしたいのか。自分でもよくわからない。一体、どうしたいのだろう。咲は平静を取り繕いながら思い悩む。
情けないなと思った。つい数日前も見知らぬ人が相談に乗ってくれたのに、今の自分は少しも応えられていない。
ただ、目まぐるしく思考が空転する中でもわかることは、ネリーがーー。
ネリー「あれ?」
思案に耽る咲をはた目にネリーが不思議そうな声を上げた。突如現実に引き戻され、咲は顔を上げる。そして、不自然な方に向いたネリーの視線を追う。
咲「あ……」
その先にあったのは、つい先日シンプルな外装の装飾に御守りを増やした咲の鞄だ。
ネリー「こんなお守りつけてた?」
咲「この前……神社で買ったの。一回戦で手持ちぶさただったとき」
ネリー「へー。何のゴリヤクあるの?」
咲「えっと……わからない」
ネリー「へ?」
あっけにとられた声。そんなに意表を突かれたのか、若干大きな声が出てしまい、モニターを眺めていた明華も目を向ける。
明華「何かありました?」
ネリー「あー、ついうっかり。大したことじゃないよ」
邪魔してごめんと手を合わせるネリー。
明華「そうですか?」
言いつつ、明華も席を立ちダヴァンやネリー、咲が座るソファーに移動する。
モニターに向けてU字に配置されたソファーに、気づけば四人が一列になって腰かけていた。
アレクサンドラ「貴女たち……仲がいいわね」
監督も苦笑ぎみだ。
ダヴァン「サトハと、今戦ってるハオが揃えば完璧デス」
ネリー「サトハもこっちにきたらいいのに!」
明華「自分に厳しい人ですから。観戦席で見守ってますきっと」
智葉とハオを入れて六人。臨海の控え室はなごやかな雰囲気に包まれていた。
メンバーの言葉に監督は微笑を浮かべるとすらりとした足を組み替え、どことなく満足そうな様子。その中にあって咲は、奇妙な安心感を覚えた。
心配は杞憂だったのかもしれない。考えすぎて、思い込みが強くなって、ありもしないものを怖がっていた。本当はそうなのかもしれない。
あの日、話を聞いてくれた二人の顔が古いフィルムを何度も再生し直すようにぐるぐると頭の中に映し出される。
あそこにいってみよう。いないだろうけど、もしかしたら……また会えるかもしれない。
時折振ってくるネリーや明華、ダヴァンの話に受け答え、次鋒戦を戦うハオの雄姿を観戦しながら、咲はこの後の予定の算段を立て始めた。
▼
中天に昇った太陽が西へと傾き始める頃。
咲は渋谷の街をさ迷っていた。
咲「ま、迷った……」
炎天下の道路は熱した鉄板めいて暑い。
咲が生まれ持った悪癖は人ごみに溢れる大通りを即席の迷宮に変え、行く手を惑わせる。
何度も訪れ、幾度もその足で歩いた渋谷で迷うことはないんじゃないかと咲は盲信したが、そんなことはなかったようだ。
百面ダイスを振って判定を行うテーブルゲームでもこの状況でまさかそんな目が、という風な事態が起こるように咲のそれも稀にファンブルを招いてしまうのだった。
咲「こっちにいったらああなって、あっちにいくとそうなるから……」
咲「向こうが南だからそっちが西で……」
咲「ああっ、わかった!」
入り口から始まり、最終的にスクランブル交差点のど真ん中で思案すること三分。
宇宙からやってきた光の巨人の大半が帰ってしまう頃、咲は天啓を得た。
咲「そうそう、こっちに……」
雷で打たれるような閃きのまま突き進むと明治通りに出た。
咲「ここじゃない……」
目的地とは違ったのでメトロプラザの前の歩道橋を渡って明治通りを越え、宮下公園のそばを通って宮益坂を登りーー円山町へと抜ける。
咲「…………円山町?」
円山町。 円山は江戸時代から大山街道の宿場町として栄えていた。円山町が花街となったのは、1887(明治20)年頃、義太夫流しをなりわいにしていた人が、弘法湯の前で宝屋という芸者屋を開業したのが始まり。
渋谷駅の西側、道玄坂上の北側に位置する。東は道玄坂、南は南平台町、西は神泉町、北は松涛に接する。ラブホテル街としても知られる。
咲「あわわわわ」
急いで立ち戻る。
咲「……ええっと」
すると咲は坂の上にいた。
見覚えがある。ここは坂のちょうど中腹辺りの景色で、このまま登っていけば。
咲「や、やった……っ」
あの日も通った道だ。忘れるはずがない。
あのときは目的地があって、けれどいざ向かう段になると踏ん切りがつかなくて、人目を避けたくて閑散とした通りを選んだのだった。
勢揃坂。1964年の東京オリンピックに合わせて整備された外苑西通りが並走していることもあり、今は交通量の少ない裏通り。
この坂の上にはとある祭祀施設が存在する。
数日前にも咲が訪れた、緑の多い静けさの似合う神社だ。
(観戦をしないでこっちに来ちゃったけど……許可は出た。準決勝で当たる相手の映像は夜に皆で見ることになってるし、いいのかな)
大会期間中にこうして自由に街を練り歩くのは躊躇いがあったが、一日中根を詰めるのも大会中ではよくない。適度に休息するのも必要だと、部員に自由行動を許した監督の指示を思い返す。
臨海は二回戦を勝ち進んだ。一位通過。二位は……新道寺。
一位の臨海と五万点差で通過した彼女らとは準決勝でも当たる事になる。
(……気が抜けない。新道寺の先鋒……花田さんには警戒しないと)
坂を登りきった咲は鳥居を潜り、予てからの目的地だったその神社に足を踏み入れた。
街の中にぽっかりと開いた境内。
その中央奥に、純和風の荘厳な社が見えてくるーー。
参道脇にある建物の外廊にぐったりと倒れた人の姿も!
咲「きゃああっ!」
のどかな風景に紛れた異物。さながら行き倒れの様相を呈す少女。同年代くらいか。
「ん、んぅ……誰じゃ?」
咲「あ……」
のっそりと起き上がり、振り返ってきた少女に咲は声を漏らす。ぱちぱちと目をしばたたかせる。その少女は知っている相手だった。
数日前もここで会った、二人のうちの一人。
咲「佐々野さん……?」
いちご「こんなとこにまでちゃちゃのんを笑いに……って宮永さんか」
すっくと立ってスカートの裾を払いながら返答した少女ーー佐々野いちごは、最初邪険にする風だったが相手がわかると途端に顔を綻ばせた。
いちご「宮永さんも来たんか。驚かさんでくれんかのう」
咲「驚かさないではこっちの台詞ですよ……」
お互い友人に出会ったかのように気さくなやりとりをしつつ、参道で向かい合う。参道の脇から歩いてきたいちごは手に持った腕時計を弄びながら話す。
いちご「そういえばあの人に会ったときも似たような状況なんじゃったか。だったら悪いことをしたのう」
咲「いえ、謝るほどのことじゃないですけど……」
どうしてあんな風に建物の端っこで寄りかかるようにして倒れていたかは気になる。聞こうか迷っていると、
いちご「まあ立ち話もなんじゃ。本殿の方に座る場所があるしそっちにいかんか?」
咲「あっ、そうですね」
提案されて野外にしつらえられた長椅子へと歩いていく。
咲「今日は……いないんでしょうか」
うっかり主語を忘れて伝えてしまう。しかし、いちごは言わんとするところを察してくれた。
いちご「もう一人はおらんみたいじゃ。まあ、お互い大会があるし、約束もしとらんかったから」
自分と咲が会えたのも偶然だ、と暗に言う。
いちご「ところで……」
いちごの顔がきりっとひき締まる。
いちご「大会の調子はどうじゃ?」
緊迫の表情に一瞬気圧され、瞳を見開きそうになった。
お互いインターハイの団体戦、個人戦に出場していることは知っている。嘘をついても仕方ないので咲はありのまま事実を話すことにした。
咲「さっき二回戦を勝ち上がってきました」
団体の、とはつけない。わざわざ言わなくとも個人戦は始まってもいないのだからつける必要がなかった。
いちご「そ、そうか。宮永さんは臨海じゃったな。うん、順当か。おめでとう」
二回戦突破を祝いながらも、端整な顔に焦りを浮かべるいちご。「順調そうで何よりじゃ」と続く声も勢いがない。
その反応で咲はいちごの戦果に何となく想像がついた。
(ど、どうしよう。佐々野さんの方は良い結果じゃないよね、これは。でも……この流れで聞かないっていうのも)
お互い話さないでおくならまだしも、片方だけ話すのは不自然だ。聞かないというのもそれはそれで露骨。咲は腹をくくった。
咲「佐々野さんは……どうでした?」
一瞬、沈黙が場を覆った。
いちご「……あー、うん。何ていうかその、何じゃ。……一回戦で負けた」
咲「そう……なんですか」
言葉に詰まったが、個人戦がまだあるということを咲が話そうとすると、
いちご「ああ、もう! あんなんおかしい、考慮できるかっ!」
咲「さ、佐々野さん?」
唐突に切れだしたいちごに咲は困惑する。
いちご「聞いてくれんか宮永さん、実はーー」
いちごは自分たちの学校が敗退に追い込まれた理由を滔々と語った。
途中までは一位をキープしていたらしいが、いちごの失着でそれを崩してしまったこと。
具体的には、役満を振り込まされたのが原因で調子を崩したのだという。
いちご「それでな、宮永さん」
咲「はい」
親リーチを警戒して、八索四枚見えの場に二枚切れという九索を切ろうとした。いちごが説明する。
詳しく状況を聞いたがその選択は理に敵っていた。振り込んだとしても、せいぜいチャンタかトイトイだと思っていたというのも、相手によるが咲にも頷けた。
いちご「それで切ってみれば清老頭だったんじゃ!」
咲「そ、それは運が悪いですね……」
絶望的ないちごの嘆きに咲は同調した。
それで三万二千点もの点棒を失うのは辛い。まして場の流れまで一気に持っていかれるのだ。失うものは実際点棒より大きかった。
いちご「それからやることなすこと全部うまくいかなくて、うちの高校はちゃちゃのんがエースみたいなもんだったから、取り返そうにも厳しいし、もう手遅れじゃった……」
咲「……」
哀愁を誘う姿に咲はかける言葉に迷う。
いちご「それからは散々じゃ……一回戦敗退で部はお通夜みたいに沈むし、マスコミは顔を見るなりコメントがほしいとマイクを向けて追っかけてきて……」
いちご「負けた試合はパブリックビューイングで全国のお茶の間に放映されとったから、みんな知ってて……街中を歩いとっても指をさされてからかわれる始末……」
いちご「もう最悪じゃ!」
なまじ顔が売れているぶん、状況は悪くなる一方のようだった。
いちごがアイドルとして人気を博していることは咲も承知していた。有名になったいちごの負け試合を知らなかったのは、臨海のデータ収集にはそういった世俗的な関心で成り立つ話題とは無縁だし、一部メディアで報道されたニュースは二回戦の事で思い詰めていた咲には知る由がなかった。
いちご「うう……ホテルにまで押しかけるマスコミに部員たちがこっそり送り出してくれたのに……街で気晴らしもできんかった。どっか人目のつかんとこでうじうじしとれっていうんか……」
咲「佐々野さん……」
落ち込む姿に咲の気分もどんよりとする。次の瞬間にはさめざめと泣きかねない様子。みていて胸が痛かった。
そして、思い至る。先ほど最初に出会ったとき、ぐったりと臥せっていた理由に。
恐らく渋谷の街に出てきて、性質の悪いからかいを受けたのだろう。そうだとしたら、いちごに心なく追い打ちをかけた相手に怒りを抱いた。
何か少しでも元気づけられないだろうか。考えて、咲は手に持っていた袋に気づく。
それと同時に、目の前でお腹が鳴る音がした。
咲「もしかしてお腹空いてます?」
いちご「うっ……実は今朝から何も食べてなくて」
食事も喉を通らなかったんだろうか。なんにせよ、咲は話を持ちかけることにした。
咲「よかったらこれ食べませんか?」
言いながら手に持った袋を差し出す。
いちご「それは?」
咲「東京バナナです。その、捻りがなくて申し訳ないですが」
ありきたりなものだ。それにお菓子類。咲は八の字に眉を垂れ下げる。
いちご「と、東京バナナっ!?」
しかし、予想に反しいちごは目を輝かせた。
咲が持ってきたのは、東京ばな奈「見ぃつけたっ」シリーズのショコラブラウニーとメープルバナナ味とバナナプリン味の四個入りを一つずつ。
一人で食べるには多すぎるが、三人で分けるとキリのいい数なのでこうした。
いちご「はむっ、はむっ」
咲「……」
いちご「はぐっ、はぐっ」
いちご「はむうぐっ!? っ、っ……!」
咲「はい、お茶です」
いちご「あ、……ごくっ、ごくっ」
いちご「ぷはぁ……あ、ありがとう宮永さん、助かった」
咲はにこにこと笑みを浮かべる。
喉のつっかえを解消したばかりの状態で懸命にお礼を言う姿はなぜだか可愛らしかった。さすがはアイドルなのだろうか。
いちご「って……あ、全部食べてしまった」
咲「大丈夫ですよ。私は元々食べたい気分じゃなかったので、ちょうどよかったです」
咲がそう伝えるといちごはほっとしたように胸を撫で下ろす。
だが俄に深刻な表情になったかと思うと、その表情に影を落とした。
いちご「な、なあ宮永さん……幻滅した?」
咲「え?」
咲の目が瞬く。
いちご「二年も下の宮永さんにぐだぐだと愚痴をこぼして、こんなみっともない食べ方して……アイドル失格じゃ」
心中を吐露するいちご。
弱音を零す彼女はとても弱っているように見えた。その目尻からうっすらと光るものが滲む。
咲「……」
確かに、彼女の言う通りなのかもしれない。見るものが……彼女のファンがみれば、きっと今の彼女は翳ってみえるに違いない。
それはきっと多くの人を悲しませてしまうこと。そして何より、彼女自身が悲しんでいる。
咲「そんなことないですよ」
だから咲は否定した。
咲「私、言いましたよね。初めて会ったとき佐々野さんのこと知らないって」
いちご「……うん」
咲「流行り廃りに疎くって、だから佐々野さんのこと全然知らなかったんです」
咲「アイドルだって教えられても可愛い見た目だってくらいしかわからないし、今佐々野さんが着てたりするファッションも漠然といいなって思うくらいで」
息を継いで声を出す。ふわりと笑みを湛えた。
咲「でも今は可愛いしいい人だなって思います」
咲「愚痴をこぼすとき佐々野さん、誰かのせいにしてませんでした」
聞いていた話だと、二位でも通過できなかったのは他の部員にも原因がある。
面白おかしく騒ぎ立てるマスコミや大衆にだって思うところがある。
けれど一貫していちごは誰かを責めなかった。踏んだり蹴ったりな扱いに嘆きはしても、あのマスコミめ、だとか直接言わなくともそんな風に感じさせる事がなかった。
咲「それってすごいことです。私なら……きっと、誰かを怨めしく思っちゃいますから」
いちご「……」
咲「あと食べ方ですけど」
咲は率直な感想を口にした。
咲「私ああいうの大好きなんです」
いちご「へっ?」
咲「私、けっこう料理が得意で同じ学校の子によくお弁当を作るんです」
咲「それでおいしそうに食べてくれるので……嬉しくって」
咲「実は……料理をするのあまり好きじゃなかったんです」
咲「昔、嫌なことがあって……今でも嫌で……お父さんもそれを知ってるから、私が食事を作ったときはいつも重い空気で」
咲「……でも、その子はおいしそうに食べてくれるんです。さっきの佐々野さんみたいに、その、お行儀は悪いかもしれないけど、とにかくおいしそうで」
目を丸くしたいちごが真剣な表情になって聞き入る。
咲は少し涙ぐんでいた。
咲「それをみてたら陰鬱な気持ちが吹き飛んじゃって……だから、その、おいしそうに食べる姿をみて幻滅だとか思うことはないんですよ?」
脇道に逸れかけた話をどう落ちつけようかと言葉尻が不自然に上がりつつ、話が締められる。
いちごはうっすらと笑っていた。
いちご「宮永さんはその子が大好きなんじゃな」
いちごがハンカチを差し出す。その段になってようやく自分が少し泣いていることに咲は気づき、恥ずかしそうにハンカチを手にとる。
目元を拭う。涙はあっという間に拭き取れた。
いちご「まあ今回はその子に助けられた部分が大きいけど、宮永さんに嫌われんかったしよかった」
咲「う……その、終わりらへん以外だってちゃんと本音ですよ」
いちご「あはは、まあまあわかっとるから。……ありがとうな、宮永さん」
咲「……はい」
感謝を伝えるいちごは見るものに元気を与えるアイドルの笑顔をしていた。
その後、二人してぼうっと空を眺める。空は澄みわたるように青かった。雲ひとつない。
木々に囲まれた神社の長椅子で、心地よい静寂が包む。緩やかに時間が流れていく。
そのとき。
咲「……あ」
いちご「ん? 電話?」
ベルが鳴った。咲のものだった。
咲「こっちの電話みたいです」
いちご「ん、ちゃちゃのんは気にせんと出て」
咲「はい、ありがとうございます」
スカートのポケットから端末を取り出してみる。
着信主はーー瑞原はやりと表示されていた。
ここまでです
更新おまたせしました
次回ははやりん+重要な大人一人との話でお送りします
鹿老渡は先鋒がクソ強いっぽいからちゃちゃのんはエースというよりは実力それなりで人気の高い準エースっぽいんだよなぁ
>>537
それは先鋒が五万点のリード作ったところからきてる?
>>529
いちご「それからやることなすこと全部うまくいかなくて、うちの高校はちゃちゃのんがエースみたいなもんだったから~~
を
いちご「やることなすこと全部うまくいかなくて、うちの高校は先鋒の部員とちゃちゃのんがエースみたいなもんだったから~~
に訂正
>>538
訂正した文にそれからが抜けました
いちご「それからやることなすこと全部うまくいかなくて、うちの高校は先鋒の部員とちゃちゃのんがエースみたいなもんだったから~~
咲「っ!」
驚きに身を竦ませる。考えもしなかった相手だった。
とにかく出なければならないと思い、いつも通り苦闘の末に通話に移る。
咲「もしもし」
はやり『あっ、咲ちゃん? 繋がってよかった、はろはろー☆』
咲「いつも遅くなってすみません……」
はやり『それはもう折り込み済だから気にしないで☆』
咲「ありがとうございます。あの、どうしたんですか?」
大会の間は遠巻きな付き合いに終始すると思っていた。
インターハイで解説をする話は全国大会が始まる前から聞いている。全国の会場で一度出会った際も、特定の選手と長話してはいけないと言っていた。なら、対外的には電話で個人的に接触することも推奨されてはいないはず。
隣でぼうっと空を仰ぐいちご。
彼女があえて彼方に視線をやってくれているのを感じながら、電話口から聞こえるはやりの声に集中する。
はやり『うーん、何ていうか今から会える?』
咲「え?」
はやり『もちろん急な話だから断ってくれても大丈夫。ただはやりとしては、やっぱり来てほしいかな☆』
咲「……ええと」
どういう意図なんだろう。警戒や疑いではなく、咲は純粋に疑問を持った。
はやり『気が進まない?』
はやりとは、出場選手と解説者の間柄だから。
そう言って断ることは簡単だ。
電話ならいざ知らず直接会うとなれば情報を遮断するのは難しい。はやりが被害をこうむらないとは限らないと思う。
しかし、はやりの対外的な体面を心配する思いは本当でも、今の咲が迷う理由はそんな純粋なものだけとは言い難い。
はやりに対して誠実でありたかった。言えない事情があっても、明かしたくない過去があっても、力を貸してくれた恩に報いたい。そんな気持ちが混じり物の理由で断る事に対し二の足を踏ませる。
咲「……」
はやり『うーん、厳しいかなぁ……』
咲「あの……」
はやり『うん?』
聞き返すはやりの声。嫌な想像のピースが胸の裡にあった。つい数時間前にも同じ気配を感じた。
それはーー控え室に戻ったときの監督。
咲「理由を教えてください。
それは……会わないとはやりさんが困ることですか?」
はやり『……』
はやりは押し黙った。これは、どういう意味での沈黙だろう。
咲の頭には嫌な想像が組み上がりつつある。まさかとは思う。信じたくない。けれど。
悪い想像に囚われつつある咲は遅ればせながらはやりの名前を口にしてしまったことに気づく。失態だった。
隣にはいちごがいる。幾ら注意を逸らしてくれているとはいえ、あの瞬間に限って聞き逃すか。どう考えても希望的観測だ。
今からでも席を立つべきか。いや、名前を口にしてから離れてはもはや何を隠せるかわからない。
焦燥が募る。恩のあるはやりに被害をこうむらせてしまうことは恐怖だ。そんなことはあってはならない。胸の鼓動が早くなる。
咲「あ、あの」
はやり『試合、みたよ』
咲「っ!」
心臓が脈を打つ。先ほどまでの想像とは違う意味で瀕した驚愕に瞳を見開く。
はやり『どうして……やめちゃったの?』
はやりの声に悲しそうな響きが混じる。
はやり『あの打ち方、それに立ち振舞い……ううん、立ち振舞いは置いとく』
はやり『あの打ち方……昔咲ちゃんが打ってたって話してたものだよね。どんなものかは聞いてないけど』
はやり『あの打ち方には磨かれた深さがあった。あのそつのなさ……ヨミは一朝一夕じゃできない』
はやり『……そうでしょ?』
咲「……はい」
はやりの推察は当たっていた。咲は観念し肯定する。
はやり『あっちで打った方が……確かに強い、とはやりは思う』
その事実を口にする事に抵抗があるようだった。どうしてだろう。不思議に思ったが、淡い疑問は続く声に消し飛んだ。
はやり『でも』
はやり『私は……咲ちゃんにとって嶺上開花が思い入れのあるものなんだと思ってた』
はやり『私はこの打ち方をやめたくない。はやりにそう言ったのは嘘?』
咲「ち、違います……っ」
顔面が蒼白になった。はやりにそう思われたのだと頭が認識したとき、凄まじい恐怖が全身を突き抜けた。
咲「違うんですっ、私本当に……」
躍起になって否定する。そんな自分ははやりの目にどう映るだろう。考えるのも恐かった。
けれど一方で咲の心中には諦めにも似た絶望があった。信じてもらえるわけがない。
咲が決め、咲が行った『パフォーマンス』は今まで築いてきたはやりとの関係、交わしてきた言葉を真っ向から裏切る。
あのとき……インターハイの予選が終わり、念願だった智葉との直接対決に破れ……にも拘わらず、団体戦の先鋒に抜擢された罪悪感に押し潰されそうになっていたとき。
咲ははやりに二度救われた。
呵責に曇る視界を晴らしたあの出会いが、あのとき見失いそうになった縁を繋いでくれた衝撃が、嘘になる。
吹雪の中に裸で放り出されたかのような寒気が襲い、意識が白く弾けたーー。
▼
ーー許されてはならない悪徳は、この世に二つある。
それは、忘恩と殺人だ。
咲「嶺上開花。4000オールです」
都内某所。白塗りの壁が清々しい雀荘。
同卓した三人の男に向けて咲は静かに宣言した。
「いやあ、相変わらず強いねえ」
「ははは、まったく。これだけ強い子もめずらしい」
対局中ながら気楽そうに話しかけてくる男たち。ノーレートの麻雀だからこそ彼らは何ら気負わずにいられた。
咲「……ありがとうございます」
感謝の言葉を返す咲。浮き立つ様子はなく落ちついたものだった。
ここ数日、咲は雀荘に入り浸っていた。無論賭け麻雀を扱うような店ではなく、法的に健全なサービスを提供するところ。
そこで咲は憂さ晴らしをしていた。認めたくない現実を前にして、部活が終わるとすぐに都内を練り歩いた。
「あ、咲ちゃんそろそろ帰る時間じゃないかい?」
咲は店内の壁にかけられた時計をみる。夜の七時半。咲が帰る時間だと言い出す頃合いだった。
咲「あ……そうですね。そろそろ帰らないと」
「もうそんな時間か。あーあ、また女日照りだ」
さざめくように笑いが巻き起こる。
「くくっ、女ならまた来るじゃないか」
「おいおい勘弁してくれよ。訂正、可愛い女の子日照りだ」
この雀荘では女性客は男性に比べれば少なく、咲のような若い女の子となると貴重だった。
同卓したいと他の客から乞われることも多く、咲の場合、勝ちすぎるが目立った問題行動を起こすわけでもない。店側としても歓迎する雰囲気があった。
咲「ごめんなさい。あんまり遅くなると補導されちゃうので……」
「はは、本気にしなくて大丈夫だよ」
「そうそう。また打ってね」
咲「は、はい。私でよければ……」
咲は折り目正しく一礼すると同卓した彼らに別れを告げ、店をあとにする。
開けた天蓋に広がる夜空。繁華街の中程にあるこの辺りは夜になっても店や街灯の灯りで然程暗くなく、雨も降っていなかった。
家路を急ぐ。慣れた道を辿る足は早い。
臨海の学生マンションにはすぐに着いた。制服から着替えた普段着の姿で部屋の扉の前に立つ。
ネリー「あれ? 今帰ったの?」
するとちょうど隣の部屋から出てきたネリーと鉢合わせた。
咲「あ……うん。コンビニまでちょっと買い物」
ネリー「買い物袋は?」
咲「買い食いしちゃった」
ネリー「ふーん、サキが買い食いってめずらしいね?」
咲「私だってたまにはするよ」
適当なところで会話を終え別れる。ネリーは何だか首をかしげていたが、引き止めることはなかった。
今日は夕食を一緒に食べる約束もしていない。咲は安心しつつ部屋に入った。
一LDK。白塗りの壁に栗色のフローリング。清潔感のある淡い色彩の部屋。
臨海の学生マンションの中でも一際優れた物件であるその部屋に足を踏み入れる。
咲「……」
キッチンで立ち尽くす。
ひどい気分に見舞われていた。
咲の胸中に去来するのは強い後悔と、罪の意識。
オーダー発表直後、走り去った咲の元に駆けつけた智葉の言葉を思い出す。
智葉『気にするな……といっても難しいだろうが、気負う必要はない』
智葉『私には団体戦のレギュラーを目指す理由があった。今でもそれは変わらない』
智葉『最初、お前にレギュラーを譲ることはできないと思っていた』
智葉『だが……最近、お前の事が段々とわかってきた。それに変わったよ。最初から素のままでいてくれたらすぐにわかったんだがな』
智葉『だからいいんだ。私に遠慮する必要はない。咲ーーお前が団体戦の先鋒だ』
冷蔵庫から取り出した出来合いの食事を口にしている最中だった。
咲「うっ……!」
トイレに駆け込む。そして吐いた。
ここ数日何度もそうしたように、口にした食事は吐き出されていった。
咲「はあっ……、はあっ……」
やがて吐き出すものが胃液だけになる。咲はトイレから出て、キッチンに戻る。
水道から出した水をコップに入れて飲む。
テーブルに叩きつけるようにコップを置く。
咲「わ、私は……っ」
智葉から、他の日本人部員から、不当にレギュラーを奪った。
たった一枠しかない、智葉や一部の部員にとっては最後の機会だったそれを。
あってはならなかった。そんなことは。
涙が滲む。しかし、すんでのところで流すのは堪えた。
本当に傷ついているのは自分じゃない。目元を乱暴に腕でぬぐう。
その日、咲は食事をとらず入浴だけ済ませて眠った。
眠りは浅かった。
▼
咲「カン。……ツモ」
明くる日、咲は食事をとらず雀荘に通った。学校と部活にも。
咲「ツモーー嶺上開花」
明くる日、咲は食事をとらず雀荘に通った。学校と部活にも。
咲「カン……嶺上開花です」
明くる日、咲は食事をとらず雀荘に通った。学校と部活にも。
咲「……」
明くる日、咲は食事をとらず登校した。そして部活の時間になる。
ネリー「……サキ、きたよ」
咲「ネリーちゃん、いつもありがとう」
咲は笑った。自然な笑みだった。
ネリー「……最近、何だか変じゃない?」
咲「何が?」
ネリー「サキが」
咲「そうかな」
ごまかした。問題はなかった。
そのまま部活に出る。
智葉「……おい咲、ふらふらしていないか」
咲「っ……ご、ごめんなさい」
逃げた。問題はなかった。
咲「カン……ツモ、……嶺上開花です」
雀荘に通う。食事をとらず、水分だけを摂取する生活の中で感性は鋭くなっていく。麻雀の勘は冴え渡っている。
「あ、あちゃあ。また負けちゃったな」
「ほ、本当だな。ははっ……」
しかし段々と鬼気迫る雰囲気を発するようになっていく咲に、同卓する客は恐れを抱くようになる。
店側も腫れ物に触るような扱いになり、咲はそれらを敏感に感じとっていた。
咲「ダメだ……みんな私と打つのが嫌になってきてる」
最初は楽しんでくれていた。勝っても負けても気分よく同卓してくれていたから、咲としても気楽に雀荘を利用できた。
しかし今やそうではない。居心地の悪さを感じはじめていた。
咲「別の場所……探さないと……」
店がテナントに入っている五階建てのビルの階段を降りながら咲は別の場所を探すことを検討する。
憂さ晴らしするものは麻雀以外にも沢山ある。咲に限っていえば、麻雀がそれほど憂さ晴らしになるとは言い難い。
それでも麻雀にこだわるのは何かの糸口を掴めないかという思いが少しでもあるからで、実際こうして食を断ち麻雀に臨む事で研ぎ澄まされていくものがあった。
ただ、麻雀に強くなったからといってどうなると考えてしまう。智葉に勝る実力を示す場所はあの個人戦にあって今さら何をしようと卑怯でしかない。
そして、一度提出されたオーダーは早々変えられない。少なくとも、作戦の変更による都合のような理由では受理されない。
咲「どう、しよう……」
身体がふらつく。階段の段差を踏みしめる足がおぼつかない。
咲「っ……!」
あわや踏み外しそうになったとき、誰かに腕を掴まれぐいっと引き寄せられた。
「おい大丈夫か?」
咲の腕を掴んでいたのは若い男だった。雀荘で見た事がある。スーツを着た中肉中背の男だった。
咲「あっ……ごめんなさい」
咲は謝る。うっかりしていた。
あまり親しくない男性に接近されるのは智葉に助けられたあの出来事もあって恐れがあったが、それを態度に出すのは流石に失礼だった。緊張しながらも咲は咄嗟に頭を下げる。
「無事でよかった。危なかったぞ」
咲「は、はい、本当に……」
「どうしようっていうのは麻雀を打つ場所のことか?」
咲「ありが……え?」
目を丸くする咲。その反応に男はにっと笑う。
「何か麻雀を打ち続けたい理由があるんだろ?」
そうだった。打っていないと、打つ事で現実を見つめ続けないとならない、そんな強迫観念が今の咲の中に渦巻いていた。
咲は戸惑いながらも頷く。男も満足そうに頷いた。
「だったらいい場所がある。いくら勝ってもいいし、時間だって補導が恐ければ車で送っていってやる。どうだ?」
男の話は落ちついて聞けばどこか怪しげだった。しかし、食事を断った極限下で咲はその違和感に気づかない。
咲「お、お願いします。お金なら……ありますから」
上京して以来、膨れ上がった母の仕送りがあった。気が進まず、また必要がなく手をつけていなかったが、最近雀荘を利用するのに咲はそのほんの一部を費やしていた。
「ははっ、そりゃいい。じゃいくか」
男についていき車に乗ると、黒塗りの壁が目につく雀荘へと連れていかれる。
「ここではお金を出して戦うんだ。最初は俺が出してやるよ」
それが賭け麻雀だということに咲はついぞ気づかなかった。
咲「カン……嶺上開花です」
勝ち続ける。低下する判断力に反比例するように麻雀の感性は鋭くなっていく。
今の咲は輪をかけて麻雀の腕に磨きがかかっていた。
勝って、勝って、勝って勝ち続ける。
種銭といわれるはした金だったものがとんでもない金額に膨れ上がっていることなど意識の端にもなく、いつの間にか咲をここに連れてきた男が躍起になって同卓していることにも気づかず、咲はひたすら和了し続けた。
咲「……」
「お、おい!」
咲「あ……次ですか? はい、すぐに……」
「く、クソッ! よくもやってくれたな!」
咲はきょとんとした。どうしてか男が怒り狂っている。
茫洋とした意識の中で彼が自分をここに連れてきてくれた男性だと認識した咲はにっこりと笑う。
咲「あっ……お陰でたくさん打ててます。えっと、どうしたんですか……?」
咲は気づかない。男がどういった意図でこの場所に連れてきたかを。
彼は最初の雀荘で何度か咲と同卓した男だった。
しかし何度も咲に敗れ、プライドを傷つけられていた。
彼は女が男より劣っていると無条件に考えている節があった。そして、男子のインハイを制覇する程度の腕が彼にはあったため、その偏屈なプライドに拍車をかけた。
彼が考えたのは、『自分が負けたのはノーレート麻雀だからだ』ということ。賭け麻雀でなら勝負勘に自信のあった男は咲を遊戯の麻雀しか知らない小娘と侮り、賭け麻雀に誘導した。
普段なら決して乗らない怪しい誘いだったが、咲は乗ってしまった。そして、知らないうちに幾度となく男と賭け麻雀をしていた咲は、何度も種銭を借りて挑んだ男を破滅させていた。
「ふ、ふざけやがって! お前のせいで、俺はっ、俺はなあっ!」
「失礼、時間です」
「あっ、クソッ離せ! 嫌だ! 地下は嫌だあああっ!!」
男が黒服の屈強な男性たちに連れていかれるのを呆然と見つめる咲。
「クソォッ、何が嶺上の幽鬼だ! この疫病神がッ!!」
疫病神。その言葉は智葉を始めとする日本人部員にとんでもない厄をもたらした咲の心に深く突き刺さった。
「失礼します、次の対戦の時間ですがよろしいでしょうか」
咲「えっ……あ、え……?」
その段階になって自分が何をしていたか気づき始めた咲は当惑の色を瞳に浮かべて黒服を見返す。
だが確認は形式的なものだったらしく彼はいそいそと下がっていく。
卓にはいつの間にか三人の男が座っていた。
咲「あの……」
「よろしくお願いします」
そう挨拶してきたのは真向かいに座るスーツ姿の男。
やり手の銀行マンといった風貌。蛇のように執念深そうな目つきが印象的だった。
咲の返しを待たず対局が始まる。始まってすぐ、咲の勘が違和感を訴えた。
「ほい」
「ロン」
「あちゃあ~当たっちまったか」
ノミ手。咲はカン材が揃えば倍満以上確定の怪物手。
次局が始まる。次局以降も、ここぞという場面で差し込み、見逃し、鳴かせたりといったことが相次ぐ。
そういったことに疎い咲でもしばらく打っていれば違和感の正体に当たりをつけていた。
咲「……」
「おや、どうかしましたか?」
手を止めた咲に話しかけたのは真向かいの男だった。
蛇のような瞳がぎょろりと咲の姿をとらえる。
咲「どうして……こんなことをするんですか?」
「というと?」
咲「……言わなくてもわかりますよね。どうして、そんなことしなくても……」
真向かいの男は咲をしのぐ実力を持っているように思えた。このような対局では推し量れないところがあったが、彼らは咲を負けさせる、その一点に心血を注いでいるように思えた。
「やりすぎたんですよ。君が大損させた人の中には敵に回しちゃいけない人間の息子がいた」
「警告はしたはずなんですがね……恥をかかせてはならない相手だと」
恐らくそのとき咲は無我夢中で麻雀を打っていただろう。耳に入っていなかったのだと思う。今になっても思い出せなかった。
咲「……負けると……恥をかくんですか?」
確かにお金を失ったのなら不快になってもおかしくない。しかし、考えが顔に出ていたのか、真向かいの男はくっと口角をつり上げて笑った。
「金銭的な問題じゃないんですよ。こういうのはね」
咲「……」
「わからないって顔だ。いいですね、純粋というのは」
「それだけに……これから君が辿る末路が残念でならないよ」
「これに負ければ君は持ち金を全て失うだけじゃ済まない」
黒服が何かを伝えるように真向かいの男の隣に立つ。
「わかりましたよ。無駄話はもうやめます」
「さあ、続きを打ってください。伝えたルールにある通り、五分以上の長考はチョンボですよ」
それだけ伝え口を閉じる。話は終わったようだった。
咲は、どこか夢心地だった気分が段々と醒めてくるのを感じていた。
自分は、何をしていたんだろう。認めたくないが違法行為を犯していたと考えざるを得ない。
咲「……」
賭け麻雀。そんなことに手を染めた事実が明るみになれば、事は咲個人の進退にとどまらない。
臨海女子の不祥事となる。自分が犯した過ちの重大さに冷や汗が流れた。
後ろからゆらりと忍び寄る、破滅の足音が聞こえる。
「どうなされましたか。チョンボとなるまで残り二分となりましたが」
咲「……」
黒服から声がかかる。咲は応えない。状況を整理していた。
対局は一半荘。残りは咲の親番を含む三局。点差は、トップと三万点差のラス。相手は結託している疑いあり。
それでも咲には勝算があった。不正行為になど頼らない、真っ当なやり方で。
打ち方を変えるだけでいい。それだけでこの場はしのげる。
咲「……でも、そんなことしても……」
しかし、咲は現状を認識する。
咲は、臨海の不祥事となる重大な過ちを犯した。それも、智葉や他の皆に顔向けできないような、面汚しと謗られるようなことを。
もはや勝とうが負けようが関係ない。取り返しのつかないことをしてしまったのだ。
なら、この場をしのいだところで何になるのか。
咲「……」
「……あの」
咲「……すみません。打ちます」
嶺上開花にさえこだわらなければ勝てる。そんな状況で咲は打ち方を変えず、対局を再開する。
瞬く間に二局が消化され、オーラス、咲の親が回ってくる。
咲「……照お姉ちゃん……」
もうしばらく会っていない人の名前を呟く。救いを求めたのではない、ただ気持ちを伝えていなかった事に仄かな後悔がよぎった。
▼
絶望的な戦局に挑む少女の姿を見つめる視線があった。
視線の主は……瑞原はやり。牌のおねえさんの別名で知られるタレント雀士。
はやり「……」
彼女は随分と長い間その卓を眺めていた。
無論、健全なアイドルである彼女に賭博麻雀のような後ろめたい世界と関わり合いはない。
夜の街で休みがてら少し麻雀でもみようと思ったら性質の悪い店に足を踏み入れてしまい、すぐに出ようとした。
しかし卓を見渡してみれば年若い少女がその中にいるではないか。
それもひどく相手に負けを込ませている。みていればその歳にしてはかなり高いレベルにあり、今度はやりも解説に呼ばれたインターハイの全国でも活躍が期待できるほどだった。
それにどこかで見たような気がする。
キャスケット帽や眼鏡などで変装していたはやりは近くにいた店の給仕を呼びつけ、少女について聞く。
話によると彼女はごく最近見かけるようになった客で、ひたすら勝ち続けているらしい。
この業界に詳しくないはやりにもそれがリスキーな行為だということは想像がつく。
縄張り社会といわれる裏世界で、外様の人間が好き勝手に振る舞えばどうなるか。危険は火を見るより明らかだった。
そして耳をそば立てていると彼女が次に持ち金全てを賭けた勝負に臨む事が伝わってくる。
対して、少女はあっさりと受け入れ……はやりは少女の様子がおかしいと思い始める。
はやり「……何だか心ここにあらずっていうか、憔悴してるような……」
対局が始まる。トビなしの二万五千点持ちの三万点返し。
はやり「っ……!」
始まってすぐ気づく。相手の三人が結託している。
それに少女の真向かいに座る男は並の打ち手ではなかった。ぱっと見た印象ではプロに迫るのではないかというほどだった。
少女が段々と追いつめられていく。
なのに、彼女の表情に悲壮の色はなくただ何かを堪えるようにしている。
はやりは席を移動しその卓の近くの空き席に腰を下ろす。麻雀も打たず観戦するはやりに店の人間が渋い顔をするのがちらりと目に入ったが、構ってられなかった。
牌のおねえさんとしてのはやりはみすみす子供の危機を見過ごせない。そして。
「どうして……こんなことをするんですか?」
「というと?」
「……言わなくてもわかりますよね。どうして、そんなことしなくても……」
近くに寄るとちょうど手を止めた少女が話している。
その姿をみて薄ぼんやりとした記憶がさらに刺激される。
「やりすぎたんですよ。君が大損させた人の中には敵に回しちゃいけない人間の息子がいた」
「警告はしたはずなんですがね……恥をかかせてはならない相手だと」
「……負けると……恥をかくんですか?」
「金銭的な問題じゃないんですよ。こういうのはね」
「……」
「わからないって顔だ。いいですね、純粋というのは」
「それだけに……これから君が辿る末路が残念でならないよ」
「これに負ければ君は持ち金を全て失うだけじゃ済まない」
「わかりましたよ。無駄話はもうやめます」
「さあ、続きを打ってください。伝えたルールにある通り、五分以上の長考はチョンボですよ」
はやりが傍観する間にも状況は刻一刻と変化していく。
少女はまだ考え込んでいる。黒服が注意しても気に止めていない、というより気づく余裕もないようだった。
「……でも、そんなことしても……」
少女が何事か呟く。意味はわからない、わからないが、はやりはどうしてかそれを見過ごしてはならない気がした。
「……」
「……あの」
「……すみません。打ちます」
少女がようやく応え、対局が再開される。
瞬く間に結託した三人により場が流されていく。少女に迫った危機が、破滅が目に見える。
そんな中ではやりは少女が時々手をとめ、何か違うものを見ていると気づく。
それは確率の偏りを意識して打つもの特有の癖。幾度となく同じようなタイプをみてきた経験がなせる知見。
「……照お姉ちゃん……」
少女は、茶色い髪を肩にかかるほどの長さにした彼女は、その偏りを無視して打っていた。自分でも気づいていないだろう、盗み見た彼らの手牌をみればその片鱗が顔を出している。
彼女は力を出しきらない。破滅が目に見えているにも拘わらず。
それを認識した瞬間、はやりは駆け出していた。
人間の性向には「ハムレット型」と「ドンキホーテ型」の二つのタイプがある。
ハムレット型は悲観的で行動よりも思案の傾向があり、
ドンキホーテ型は楽観的で、考えるより先に行動するタイプである。
はやりは考えるより先に決断していた。
はやり「その対局、ちょおっと待ったあっ!」
▼
「その対局、ちょおっと待ったあっ!」
明るい声が轟き渡った。
この場には場違いな、綺麗な透き通った声。
それは、オーラスに臨もうとしていた咲の意識を、この場に居合わせた人間全ての意識を縫いとめた。
「失礼、どなたでしょうか」
いち早く職分を思い出した黒服たちに脇を固められる。
「私は通りすがりのおねえさん! 未来ある子どもをこよなく愛するアラサーだよ!」
誰もが目を点にした。
脇を固めた黒服もあっけにとられていたが、やはりそれだけで引き下がるような生易しい相手ではなかった。
「……失礼、どちら様でしょうか」
改めて黒服が問い質す。
咲は突然出てきた正体不明のアラサーにどうかすぐ逃げ出してくれと願った。
何を考えているかはわからないが、彼女がひどい目にあうのは避けたかった。
「おうおうっ、黙ってみてりゃ卑怯なマネするじゃねーか! 悪い子はオシオキだぞっ☆」
「申し訳ありません、どちら様ですか」
「うっ」
アラサーが押し黙る。考えがあっての割り込み、ではないのだろうか。
未だに呆然とする咲を指差したかと思うと、彼女は高らかに言った。
「そっちこそ、この子をどなたと心得るっ!」
「は?」
「畏れ多くも宮永家の末娘、宮永咲ちゃんであるぞっ!」
咲はまた驚く。自分の名前を知っている。どころか、家の末娘であることまで。
「み、宮永、咲……?」
「おうそうだっ、ちょっとお前らのボスに確認してこいやあーっ!」
「ひ、ひいっ……」
何だかわからないうちに黒服も雰囲気に呑まれ、駆け出していってしまった。
卓が、場が、水を打ったように静まり返る。
咲「あの、あなたは……」
「うん? あっ、にゃはっ、にゃはははっ、大丈夫だった? 乱暴なことされてない?」
咲「さ、されてませんけど……」
何なのだろう。この人は。
咲は泡を食いながら返す。
「そっか、なら安心したよっ☆」
季節外れのマフラーを口元に巻いた彼女は少しの間それを取り、煌めかんばかりの笑顔を覗かせる。
咲「っーー!」
思わずどきりとさせられる笑顔だった。
冷淡で厳めしい顔つきが並ぶこの場に似つかわしくない、けれど心惹かれる表情。
この極限的な状況下にあってそれは、咲に理由なき安心感を与えた。
だが。咲は表情をひきしめる。
咲「あの……本当にどういうつもりで」
「はや、私としてはあなたみたいな子がひどい目にあうのを見過ごせないかなーって」
咲「……」
俄には信じ難い話だ。それだけの理由で強面が居並ぶこの場に踏み入ったのか。
口先で言えてもそうそう出来ることじゃなかった。
「バカヤローッ!!」
咲が絶句したそのとき、黒服が消えていった奥の扉が開き、怒号が届いた。
「貴様……宮永だと!?」
「ひっ、は、はい……」
「……ソイツは手を出しちゃいけない家の娘だ。今日本の裏社会で実権を握ってる大陸系の組織だって避けて通る……宮永はなぁ、決して敵に回しちゃいけねえんだ」
「しかも咲だと!? 貴様っ、それは直系の……当主の娘の名前だぞ!!」
「今すぐお詫びしろ……! 貴様の命で済んだらいいがなあ……!」
「ひいっ!? は、はひぃっ……!」
奥から出てきた黒服が先ほど駆け込んでいった黒服に怒鳴り散らし、命令を出す。
それからすぐに咲たちがいるテーブルに舞い戻ってくると、黒服は土下座せんばかりの勢いで腰を折り、深く頭を下げた。
「も、申し訳ありませんでした……! 宮永家のご息女と知らず大変な失礼を……!」
「卓はすぐに引き払わせます、掛け金もどうぞお持ちください!」
「ですから、ですからどうかご実家にこの事は……!」
黒服の勢いに押されて他の黒服も揃って頭を下げる。
先ほどまでの威圧的な態度は微塵もない。見事なまでのトップダウンぶりだった。
「はや、はややっ……これはいったい……」
見知らぬ女性が慌てている。彼女としてもこの展開は予想外らしい。
咲は空気が大きく変わったことを敏感に察し、交渉にうって出た。
咲「あの……」
「な、何でございましょうっ」
咲「お金はいりません。なので……あの、賭け麻雀……ですよねこれ」
「はい、その通りでございます……!」
咲「私が賭け麻雀していたこと……漏らさないようにしてもらえませんか?」
「は……」
黒服は返事に躊躇した。しかし隣にやってきた元締め風の黒服が彼に釘を刺す。
「おい……これで弱みを握ったなんて考えるなよ。あの家はな、そういった駆け引きの外にある連中が集まった家だ……」
「日本の暴力団が勢力を縮小していく一方、大陸から乗り込んで喧嘩を売った組織がある……そいつらがどうなったと思う?」
元締め風の黒服が凄絶な表情を浮かべる。
「全滅だよ……大陸じゃ裏社会の一角を担ってたそいつらは軒並み駆逐され、裏社会から放逐された」
「……バカな事は考えん事だ。奴らは表社会の象徴だが、実態は裏社会よりもえげつない」
黒服たちが押し黙る。見知らぬ女性も、咲すらも押し黙った。
咲は家がそこまでの事をするとは知らなかった。名前は聞くが、清い活動をすると思っていたからだ。
咲「あの、家にこの事は話しません……約束します」
咲は立ち上がり、礼節を示すように頭を深く下げた。
「……ありがとうございます。お嬢様が稼いだこちらの一千万はせめてもの迷惑料としてお持ち下さい」
元締め風の黒服も流麗に一礼し、アタッシュケースに入った現金を開けて示す。
咲「え……」
咲は言葉を失った。
そんなにもらっても実家から離れて暮らす咲には手に余る額だ。
咲「お聞きしたいんですけど……このお金はえっと、大丈夫なお金ですか?」
我ながらこの聞き方はないなと思う咲だったが、他に思い浮かばなかった。恐らくニュアンスは伝わるだろう。
なけなしの勇気を振り絞り元締め風の黒服と目を合わせる。彼は慌てた様子で言った。
「も、もちろん……! きっちりと洗浄を済ませたカネです。この首をかけたって構いません」
そこまで言うなら大丈夫だろうか。咲は頷くと見知らぬ女性に向き直った。
咲「あの、よかったらもらってくれませんか?」
「えっ?」
咲「せめてものお礼です……お陰で助かりました」
それは状況的なものと気持ちの上での事、両方の意味でだ。
咲では実家を引き合いに出すことを思いつかなかったし、あの言葉、あの笑顔には正直救われた。
絶望に押し潰されかけた咲の心を繋ぎ止めてくれた。
咲「何だったらお金は実家に頼んで何の心配もないものに替えてもらいます。そっちのほうがいいですよね」
頭の中でどう頼もうか算段を立てつつ話す。
「うーん、気持ちは嬉しいんだけどそのお金はもらえないかなーって」
咲「えっ?」
しかし見知らぬ女性は固辞した。
「そのお金をもらっちゃったら咲ちゃんを宮永家の娘さんとしてみなきゃいけなくなる。だから……見返りはもらえないよ☆」
咲「そんな……」
だったらどうお礼すればいいだろう。咲は困惑しつつも、その無欲さに敬意を抱く。
「あーっ、断っちゃったよう……一千万あればお家のローンがどれだけ……うわー、うわーっ」
咲「……」
しかし見ている前で後ろを向いて呟きだす彼女をみて、咲は唖然とする。
少しして、くすりと笑いが漏れる。失望したのではない、親しみを覚えた。
そして、はっとする。もう随分と遅い時間だ。壁にある時計をみれば夜の九時。
咲「ええと……黒服の皆さん、そろそろ帰らせてもらっていいですか?」
「は……え、ええ、もちろん。それでしたらお送りして……」
「あ、それだったら私が送ります」
呻いていた彼女がきりっとして口を出す。
「いこっか咲ちゃん、早くここを出ようっ☆」
咲「え、うわっ」
手を引かれ、たたらを踏む。
「お嬢様、お帰りですか?」
咲「へっ?」
手を引かれながら、声をかけられる。
真向かいに座っていたスーツの男性だった。
「驚いたな……ねんねだとは思ってましたが、本物のお嬢様だったとは」
咲「……」
「それであの宮永のご息女だというんだから……俺も歳を食っている割にものを知らなかったらしい」
そう話す男はどうしてか嬉しげに笑みを零していた。
咲にはその心中が理解できない。それは彼の歩んできた人生がどんなものか想像できないからだ。
「卑賤な身でこんな事を言うのは憚られますが……どうかそのままでいてください。きっとそれに救われる人間がいる。心の片隅にでも留めておいてくれたら嬉しい」
咲は何だかよくわからないままに頷いていた。手を引かれる。今度はその力に逆らわなかった。
「ねえ、お家はどこ?」
雀荘を出て街を歩き出してから女性が聞いてくる。
まさか身柄目的だとは思いたくないが、咲は思わず身体を固くしてしまう。
咲「ええと……」
口頭で住所を伝える。
学生マンションは高級住宅街の一角に立っている事もあり、場所は問題なく伝わったようだ。
女性に手を引かれるままついていくと、時間貸駐車場に到着する。
そのまま車に乗り込む。白いワンボックスだった。
「ふう~、何とか抜け出せたね」
咲「そ、そうですね」
まだ心臓がばくばくとしていた。
絶望的な状況から抜け出したばかり、食事を断ち精神的には不調が続く中で咲の緊張はどこかネジが外れている。
臨海の不祥事という災いの種をなくせた一方で、これでよかったのかという気持ちがある。
咲「……」
「んっ、しょ……」
咲が考え込んでいると運転席からごそごそと衣擦れの音が聞こえてくる。
咲「わっ、あの……?」
みてみると、季節外れのマフラーなどの厚着や眼鏡を外し、その下からフリフリとしたヒラヒラの服が出てくる。
「あっ、気にしないで。これは変装だったの☆」
咲「へっ、え……?」
ついに季節に合った装いになった。こちらを向き白い歯を見せて笑う彼女。
その容姿に見覚えがあった。痛烈な既視感が襲う。
咲「み、瑞原はやりさん、ですか……?」
「あっ、知ってた?」
はやり「はやや~、だったらうれしいなっ☆」
煌めくような笑みを湛えてはやりが返す。
咲「……」
対する咲は開いた口が塞がらない状態だ。
車が走り出す。ゆっくりとした発進だった。
車窓に視線を転じれば都内の街並みが切るように流れていく。
はやり「ね、どうしてあんなところにいたの?」
走り出してから少ししてはやりが訊いた。痛いところを突っ込まれた咲は「うっ」と呻く。
咲「信じてもらえないと思いますけど……よくわからないんです」
咲はわかる限りの事情をはやりに話した。
ノーレートの雀荘でひたすら打ち続けた事、ある事情から食事をとっておらずそんな自分が発する異様な雰囲気から居づらくなった事。
今思えば怪しげな男性に誘われ別の雀荘を紹介された事、麻雀以外目に入らず無我夢中で打っていたらあんな状況になっていた事。
真剣な表情で聞き入っていたはやりだが、やがて眉をひそめた。明らかにそうしているとわかる仕草で、咲は直感的に信じてもらえなかったのだと思った。
はやり「ねえ咲ちゃん」
咲「はい……」
はやり「もうそんなことしちゃめっ、だよ?」
咲「……ふえ?」
ぽかんとした。予想と異なる言葉だった。
はやり「雀荘みたいなところには一人でいかないこと!」
はやり「これからずっととはいえないけど……そうだね、よおしっ☆」
信号待ちで一時停止した車内ではやりが両手で自身の頬を挟むように叩く。
はやり「はやりが連れていってあげるっ、仕事で都合がつかない時期もあるけど……そういうときはお友達に頼んで☆」
そんなことを言われる。咲は現在を含め今までの出来事が夢なんじゃないかと思い始めていたが、
はやり「返事はっ!」
咲「は、はうっ!」
勢いよく返事した。つもりだったが噛んだ。
はやり「はやや~」
悶絶する咲にはやりは困ったように笑う。
はやり「咲ちゃんは今日からはやりのお弟子さんだよ。雑務のない付き人ってところかなっ☆」
テレビでも見たことのある輝かんばかりの笑顔。
しかし状況だけに感激より戸惑いが先に立つ。
咲「そんな、瑞原さんにそこまでしてもらうわけには……」
はやり「はやりさん」
咲「あの」
はやり「はやりって呼んで」
咲「……はやりさん」
はやり「よし契約成立っ!」
咲「ええ!?」
はやりはまた笑いかけた。
本当に綺麗な笑顔。見られることを意識して磨かれた魅力的なそれに咲はただ圧倒されるばかりだ。
はやり「咲ちゃんははやりに一千万円くれようとした」
はやり「だからやっぱりはやりは一千万円もらったようなものなんだよ!」
はやり「それに後進育ててみたかったんだ~」
反論を許さずどんどん畳みかけてくる。
はやりの中で話はもう固まっているようだった。
はやり「っていうかまずは食事できないのをなんとかしないとねっ」
ぽんぽんと出てくる話についていけない。おろおろとする咲。
はやりはぴっと親指を立てると可憐に笑う。
はやり「よろしくね、咲ちゃん!」
咲「み、瑞原さん」
はやり「はやりさん☆」
咲「……はやりさぁん」
強引に振り回され続けてちょっと涙目になる。
咲「……きゅう」
はやり「さ、咲ちゃん!?」
というか空腹やら何やら色々といい加減限界だった。
急激に遠のいていく意識。自分の身を誰かに委ねるに等しい状況。
けれど。
はやり「咲ちゃんっ、咲ちゃんっ?」
咲「……ありがとう……ございます……」
その中で咲は不思議な安らぎを覚えながら意識を手放す。
眠りではなかったが。
今度のそれは深かった。
▼
引き伸ばしたように長く感じられる一瞬。
はやりからの返事を待つ。
恐怖に携帯端末を持つ手が震えていた。
はやり『そっか☆』
だから電話口からすっとんきょうな声が聞こえたとき、咲はそれがどういう意味の返答か判断しかねた。
いや、それは上っ面をとらえた思考だ。心の奥底ではご託はいいという意味に違いないと断定している。
絶望的な心境で咲はその声を聞いていた。
はやり『あっ、これだと誤解させちゃうかもしれないね。はやり信じるよ、咲ちゃんの言葉!』
咲「は……」
衝撃に息がつまる。陸にあげられた魚のように大きく口を開きながら言葉を咀嚼する。
信じられた咲の方が半信半疑だった。
咲「あの……」
はやり『うん?』
咲「本当に……信じてくれるんですか……?」
はやり『…………ふふっ』
間を置いて電話口から笑い声が漏れ聞こえてくる。
また悪い想像を膨らましつつ咲が固まっていると、はやりは「ごめんごめん」と前置きしながら続ける。
はやり『ね、やっぱり会おうよ咲ちゃん』
咲「は、はやりさ、あっ」
また呼んでしまった。咲は自分の迂闊さを呪った。
はやり『気にしなくていいよ。大丈夫だから』
咲「本当に……? ……いえ、とにかくわかりました。どこにいけばいいですか?」
はやり『今どこにいるの?』
咲「渋谷の……青山熊野神社です」
はやり『あ、えっとねそれじゃーー』
待ち合わせ場所を伝えられる。渋谷センター街にあるデパート。人目につきやすい場所に咲は少し不安になったが了承し、通話が終わりそうな雰囲気になる。
はやり『それじゃ』
咲「あのっ、ちょっとだけ待ってください」
はやり『うん?』
咲「私の……家のことは知ってますよね?」
はやり『知ってるけど、どうかしたの?』
咲はごくりと唾を飲み込む。
意を決しその問いを投げかける。
咲「うちの家から……何か言われてませんか?」
祈るような心持ちではやりの返事を待った。
はやり『あー……だからちょっと様子が変だったのかぁ』
はやり『うーん、それらしいことはないよ』
咲「そう、ですか……」
杞憂だった、のだろうか。
この点に関して疑り深くなっている咲の疑念は尽きないが、はやりの言葉を信用したくもある。
最終的に咲ははやりの言葉を信じた。
咲「変なことを聞いちゃってすみません。それじゃあデパートで」
はやり『……うん、待ってるよっ☆』
通話が切れる。
咲はすぐ隣に視線を移した。
いちご「むー……」
すると必死に耳を塞いでいるいちごが目に入る。
咲「佐々野さん……?」
呼びかけながら肩をちょんちょんと叩く。
すると空を見上げていたいちごの首がぐるんと回り咲の正面を向いた。
いちご「あ、終わったかのう?」
こくこくと頷いて視覚で伝えると、いちごは耳から手を外し、緊張から解放されたとばかりに息を吐く。
咲「すみません、こんな気を遣わせるなら離れた方がよかったですね……」
途中から周りを気にする余裕もなかった。
はやりといちご、どちらにとっても迷惑をかける形になって失敗を悟る。
しかし実際、聞かれていないなら咲の懸念は大幅に解消されるし、気持ち的にも楽になる。
いちごの心遣いに深い感謝を抱いた。
いちご「まーあれも途中から案外楽しかった」
咲「そうですか……?」
いちご「そうそう、宮永さんは気にしいじゃのう」
それは、否定できない。
ほどよく楽観的になれたらとは思うものの、いつも悪い方向に空回りする思考を抑えられない。
それだけならまだしも大抵相手に気を遣わせてしまうのだから忸怩たる思いに駆られる。
咲「やっぱり、考えすぎなんでしょうか私」
いちご「んーちょこっと接したちゃちゃのんがそう思うからのう」
やはり、人の目にそう映る。
はやりとの約束を気にかけながら咲は伝えたい事を絞った。
咲「この前相談に乗ってもらったことも考えすぎでした……みんな、受け入れてくれました」
打ち方を変えた上でのあの振る舞い、悪い想像ばかりを巡らしていた咲だったが、結局アドバイスの通り杞憂らしかった。
いちご「そうか!」
明るい返事が返ってくる。
いちご「安心した、本当によかったのう」
いちご「もう一人もそれを聞いたら語尾を伸ばしながら飛びはねそうじゃ」
元はといえばこの神社でふらりと居合わせただけなのに我が事のように喜んでくれる。
気恥ずかしく嬉しくもある気持ちにはにかみながら、咲は感謝を告げる。
咲「本当にありがとうございました……お二人の励ましがなかったら恐くて逃げ出してたかもしれません」
いちご「ん、それもまあお互い様じゃ」
咲「お互い様?」
いちご「さっき励ましてくれたじゃろ? 東京バナナもくれたし」
咲「そ、そこは愚痴も聞いてくれたしとかじゃないんですね」
東京バナナの価値はかなり高騰しているらしかった。
思わず笑みが零れる。他県民が喜ぶというなら咲だって長野県民だというのに。何だかおかしかった。
いちご「なあ宮永さん、携番交換せんか?」
咲「えっ」
だから不意に持ちかけられた誘いに驚きの声が漏れる。
いちご「なんかまずかった?」
咲「あ、いえいえちょっと驚いただけで。こちらこそお願いします」
電話番号の交換はすぐに終わった。電話帳に一つ増えた名前を確認してスカートのポケットに携帯端末をしまう。
咲「じゃあ……これから人に会うことになったのでこの辺で失礼します」
いちご「そうか、ちゃちゃのんはもうしばらくここにおるけど気にせんでくれ」
いちごと別れる。その足で咲は神社を出て、渋谷のセンター街へと向かった。
▼
はやり「やー咲ちゃん、こっちこっち!」
渋谷センター街の中程にある大きなデパート。
バスケ通りを急ぎ通ってきた咲は、今度は迷わなかったことにほっと息をつきながら手を振るはやりに振り返した。
咲「はやりさん、こんにちは」
はやり「うん、こんにちはっ☆」
行き交う大勢の客を避けながらはやりの元までたどり着き挨拶を交わす。
いつも通りフリフリのヒラヒラな服装。抜群のスタイル。
人気がある牌のおねえさんの姿は人通りの激しい大型デパートの中にあっても目立つらしく、通りすがる人がちらちらと視線を飛ばしている。
咲はそんな衆目が気になった。
咲「あの……いらない心配だとは思うんですけど」
はやり「ん?」
咲「よかったんですか? 出場選手の私とこんな大っぴらに。大丈夫なのかなって」
はやり「あー大丈夫、何とかなるなる☆」
もちろん考えはあるらしい。そもそも、付き合いはガチガチに禁止されているわけでもないのか。咲ははやりの判断に一先ず身を委ねた。
はやり「それでね、呼び出したワケなんだけど」
デパートの中を歩いて移動しながら切り出してくる。
咲は固唾を飲みはやりからの言葉を待った。
はやり「インハイ終わったらキャンプでもしようかと思っててね、咲ちゃんを誘いにきたのだ☆」
咲「へっ?」
はやり「あっその顔、いいね~。内緒で準備してた甲斐あったな」
咲「え、でも……本当にそれで? 何かの隠喩とかじゃなくて?」
はやり「あはは、深読みしすぎ」
いつものふわふわとした笑みを浮かべるはやり。
圧倒されていた咲も、変わらない様子に自然とリラックスした。
咲「わあ、キャンプなんて学校の行事以外でいくの初めてです」
はやり「それはもったいない。ふむっ、はやりお姉さんに任せなさい」
咲「は、はい。おまかせします」
はやり「手とり足とり教えてあげるね~」
咲「きゃーやらしい手の動きやめてください」
ふざけたやりとりをしているとフロアを幾つか移動し、キャンプ用品を取り扱うレジャー売り場に着く。
はやり「ん~」
咲「あれどうしたんですかはやりさん、探しものですか?」
レジャー売り場につくなりきょろきょろとしだすはやりに首をかしげる咲。
売り物を探している割には通りゆく人を追って視線が動いているし、妙な感じだった。
はやり「あっいた、咲ちゃんこっちこっち」
咲「は、はい」
手招きするはやりについていく。
するとその先には。
「あ~また負けた。何がいけないのかねぇ」
携帯型のハードを手に、売り物の青いキャンプシートの上でゲームに興じる妙齢の女性がいた。
はやり「おーい、うたりーん」
「そういう君ははやりん」
はやり「準備はいい?」
「バッチリッス。ウス」
咲よりも一回り小さい振り袖姿の彼女はゲーム機をバッグに押し込むと、早足と感じさせない程度にいそいそと咲たちの方へ歩み寄ってくる。
歩きにくそうな格好に反して滑らかな足どりだった。
「やーやーお二人さんいらっしゃい。席は暖めといたよ」
咏「あ、そっちの子に自己紹介しとくね。私は三尋木咏、プロ雀士やってまーす」
咲「三尋木プロ……」
それは、世情に聡いとはいえない咲でも知っているプロ雀士。
所属チームを優勝に導いたのみならず個人でも首位打点王とゴールドハンドを受賞。
日本代表の先鋒も務め、堂々たる経歴を持つトッププロの一人。
咲「……あっ、は、はじめまして。宮永咲です」
ぼけっとしていたが我に返り慌てて頭を下げる。
咏「……ふーむ」
咲「……」
咏「ふむふむ」
咲「……」
咏「あーなるほどね、オッケーオッケー」
咲「……?」
頭からつま先までためつすがめつ観察される。下から覗き込んだり、背伸びして上から見ようとしたり。
顔のあたりを念入りにみていたが意味のわからない咲は疑問符を浮かべる。
咏「君って界さんの娘さんでしょ?」
ずばり言い当てるようにしたり顔で訊かれ、咲は驚いた。
咲「父のお知り合いですか?」
咏「まー知り合いっていうか」
咏「ほら私ってインハイの解説っしょ? 麻雀協会員でインハイスタッフに呼ばれた界さんとはいわば同僚なんだよねぇ」
フリフリと和服の袖を振りながら説明してくれる。
咏「界さんすっげー君のこと自慢すっからさ、会う前から見た目とか大体知ってたんだよね」
咲「そうなんですか。どうりで……」
はやり「界さん? その人が咲ちゃんのお父さんなの?」
咏「はやりさんは会ったことなかった? まー裏方の人だからねぃ」
ヒラヒラと袖を振る。テレビでも見かけた仕草だが癖なんだろうか。異彩を放つ和服もさることながらそういう仕草は愛嬌を感じさせた。
肩肘張らない親しみやすい人柄ということもあり、咲の警戒心も薄れていく。
はやり「むむっ、どんな感じか気になるなぁ。似てた?」
咏「そんなには似てないかなぁ。母方の血が強いんじゃね? しらんけど」
はやり「はやや、むくつけきって感じだったらどうしよう。ねえ咲ちゃん」
はやりから父がどんな感じか訊かれる。大体の特徴を答えると横から咏が「やさぐれたオッサン」という印象を足す。
咲は思わず噴き出しそうになった。
その瞬間、店内にアナウンスが流れる。
『瑞原はやり様、お客様がお見えになっています。一階サービスカウンターまでお越しください』
はやり「はやっ、お客さん?」
はやりが首をかしげた。
咏「誰かが会いにきたんですかね?」
はやり「うーんマネージャーくらいしか行き先は告げてないんだけど……一応いってくるね」
ごめんと断ってはやりは一階へと向かっていった。
咏「……」
咲「……」
必然的に取り残される二人。
父という共通の話題があるので話は途切れないように咲は思ったが、はやりがいなくなってから、威圧するような空気が漂い始める。
出元は目の前の咏だった。
咲「あの……」
咏「……」
おっかなびっくり声をかける。無言で見つめられる。何か怒らせてしまったのか。刻々と咲の顔色が悪くなっていく。
咏「……」
咲「えっ、え、え……?」
状況は膠着していたかに思えたが、唐突に歩み寄ってくる咏。彼女が発す異様な空気に気圧され、咲は後ろ歩きに後退する。
じりじりと奥の棚に追いつめられていく。天井近くまでそびえる陳列棚が並ぶ一帯。この辺りは人目につきにくい。
そんな情報が脳裏をよぎってびくびくとしながらも咲は勢いに押されて下がる。
やがて商品が並ぶ棚を背にし、下がれなくなった。
最大級の危険を感じた。
咲「ご、ごめんなさいごめんなさい」
咏「ちょい黙って」
咲「はひっ」
人を襲うかのごとき迫真の表情で言い放つ。
そしてにゅっと伸びてきた咏の左手が咲の顔……その真横の陳列棚をしたたかに打ちつける。
咏「ちょっと聞きたいことがあるんだ。話してくれる?」
目と鼻の先にまで顔を近づけた咏が、怯える咲の瞳を覗き込みそう問いかけた。
ここまで
次回はまだ未定なので目処立ったら報告します
>>577訂正
そしてにゅっと伸びてきた
↓
そして、ぬっと伸びてきた
なんか無茶してない?
>>583
無茶というと?
どこで広げた風呂敷のことかがわからないんですが、今回の回想分でしたら回想に当たる部分を書いている時期に構想がありました
回想以外は全てプロットに沿って作り伏線の回収時期もラストまでプロットに書き込んであります(母や金角関連や照と智葉側の話も)
更新速度に関してはなんともいえませんが……完結させる気は当然あります
といってエタる人も多い事実があるのでこれ以上の弁明はむずかしいですね……
>>586
えっと、「母親が何か凄い人」って設定があるから……
見知らぬ男にホイホイついてって雀荘入る咲ちゃん、界のじつは競技麻雀の世界に深く関わってましたってのに「?」って思っただけ。
咲ちゃんは疲労してたからってのはあるやろうけど母親の設定のせいで無理に麻雀界の凄いやつらと関わり持たせようとしてる風にかんじたから。
ごめん。
あっ、もしキャンプの話もいってたとしたらすみません
この話はインハイ団体戦決勝までがヤマでそこからエピローグに入るのでキャンプの話は描けません
完結したあとの小話リストに入れるか迷ってますが……
皮算用ながら完結後のギャグやほのぼの路線のネタとプロットを思いついたら書き留めてたりします
>>590
まず今思考力がやばいくらい低下してるのでおかしなこといってたらすみません
界の方は今は意味不明だと思います。なぜそんな職についてるかは家族の確執に関わってきます、
あの状況に陥った咲と居合わせたはやりはドラマチックに仕上げるより偶然の方がいいと判断しました、
あと母親の設定?で関わり持たせるというのがよくわからなくて……話の核心で関わりを考えたのは咏だけ、ですがなぜ咏が接触を図ってきたのかは今までの展開の中に理由を出しました
それ以外の人選は……ぶっちゃけるとほぼ1の好み(と書けそうなキャラか)で決めてます
ここでこんなに疑問を持たれるのはプロット書いたり見てる時点に気づけなかったな
っていうか今までじわじわ溜まってきた分……?
いろいろ考えを改めてみないといけなさそう
皆さん感想や指摘ほんとありがとうございます
咲「な、何を聞きたいんですか……?」
詰め寄られた咲は間も置かず聞き返す。答えられるならさっさと答えてしまいたい。緊張と怯えに震える声が咏へと向けられる。
咏「…………」
咏はそんな咲を静かに見つめていた。棚に片手をついたまま微動だにしない姿勢。俄に鈍くなる眼光。
咲は戸惑った。
今の咏からはついさっきまであった威圧的な雰囲気が霧散している。どころか、どこかいたたまれなさそうにすら見える。
咏「…………はー、やめやめ。やっぱいじめてるみたいだわこれ」
壁に押しつけるようにしていた左手を陳列棚から離すと、咏は過剰に近づいた顔をのけて一歩下がる。
咲「聞かないんですか……?」
咏「いや……話は聞かせてほしい。けど無理強いはしないよ」
話したくなければ話さなくていいと、咏は言う。
詰め寄った際と比べると穏やかな口調。つい先ほど雑談していた時に抱いたのらりくらりとした印象と裏腹に、その言葉には茶化した感じが一切ない。
とはいえ、それで警戒や怯えが消えるかは別だ。当初はその気さくさに親しみを覚えていたが、そのぶん揺り起こしで腰が引けてしまう。
だが、断ってもその後の展望が見えない。
咲「……話せることならお話します」
咲は、暗がりを照らす月明かりほどの光明を優先した。相手の機微を理解する情報が圧倒的に足りない中、不確かでも読みとれた誠実さ。数秒の逡巡を挟んだ末に返答する。
「ありがとう」、咏はそう言うと、和服の中へとおもむろに手を突っ込んだ。
咲「えっ?」
目を丸くする。何をするつもりだろう。布地が交差して合わさる胸の部分に手を入れ、ごそごそと何かを漁りだした咏を咲は困惑の目で見守る。
すると、咏の懐から真っ黒いメモ帳が出てくる。
咏「あー、宮永咲ちゃんだったね」
改まって話をするには陳列棚が雑然と並ぶこの一角は手狭だ。二人は少し歩き、開けた場所に戻る。
取り出されたメモ帳にはボールペンが挟まれていて、咏はその飾り気のないペンとメモ帳を取材する記者のように構えた。
咏「君ってさ、ポットに水を入れるとき『ココマデ』の指示に従うほう?」
咲「……」
咏「あ、これ割とマジだから。笑ってもいいけど正直に答えてね」
白昼の喧騒に溢れるデパートでその珍妙な質問は、不可思議に咲の耳に残り、脱力させられるような後味をもたらした。
空調で炎天下の室外とは別世界に冷えた店内の温度が一段と下がったように思える。
率直に言って意味がわからなかった。
咲「えっと、守る……かな。壊れたりしたら困りますから」
何だかよくわからないままに咲は答える。
咏「なくなるのが早くても入れ直せばいいって感じ?」
咲「……そんな感じです」
咏「なるほど」
何事かメモ帳に書き込む咏。
今のやりとりで何を書いたんだろうーー少しだけ覗いてみたかったが、さすがに我慢した。
咏「カップ麺は? ほらあれにもあるでしょ。湯を注ぐときの目安としてさ」
咲「……従います。そうしないと味が落ちるような気がするので」
ダヴァンに勧められたときくらいしかカップ麺を口にしないが、食べるときはそうしている。
咏「じゃあ弁当の賞味期限は?」
咲「一応守ります。日本は期限を早めに設定するので二、三日くらいなら過ぎても平気だとは聞きますけど」
咏「ふむふむ、なるほどね」
仰々しく頷いた咏がささっとポールペンを紙面に走らせる。やはり何を書いているか咲からは見えず、不安になったが、咏がそれを気にする素振りはない。
咲は思い切って訊いてみた。
咲「あの……これって何をしてるんですか?」
咏「うん?」
ペンを動かしながら紙面に落とした視線を上げ、咲に向ける。
手を止め、考えるように瞳を上向かせると咏はまた咲に視線を戻して言った。
咏「プロファイリング」
咲「え……」
咲は絶句する。
それは、映画やドラマなどでよく見かけるあれだろうか。警察が捜査でよくしている。
警察……捜査……想像を働かせる。
ーー違法行為。
咲の頭の中に痛烈な閃きが去来する。
咲「あ、あっああああのっ、それっ……!」
咏「ん? あ、犯罪捜査とは関係ないよ。当たり前だけど」
咲「そっ、そうですか……?」
上ずった声で咲は返す。これはーーセーフなのだろうか。いや怪しまれている?
咏「なんだなんだ、案外不良ちゃん? 見かけによらないねぃ」
にやにやと面白がるように笑みを浮かべ、訊いてくる咏。
咲「…………」
一方で、咲は過度な緊張にばくばくと心臓の鼓動が早まるのを感じながら、咄嗟にごまかしたくなる衝動が生まれた自分に疑問を覚えた。
咏がどういう意図でプロファイリングと称する行為をしているとしても。確かに咲は違法行為ーー賭博麻雀をした。故意でも、全く本意ではなかったとしても、事実は厳然として変わらない。
だから、正直に事実を公にすべきだという思いは以前からあった。然るべき場所に申し出れば、然るべき報いが下るだろう。それが人間として正しく生きるということ。咲はそう信じている。
だが、現実にそうすると今臨海がインハイに参加し続けられるかも危うくなってしまう。罪を清算したいーーそんな咲のエゴのために団体戦の進退を天秤にかけていいのか。
けれど、部活仲間を巻き込みたくないというのもまた咲の一方的な思いだ。どうするのが正しいのか。あれ以来、咲は義務感と部活仲間への思いの狭間で何度も懊悩していた。
咏「ふーん、なんかワケありって顔だね」
煩悶の海に埋没しそうになった時、目の前の咏から声がかかる。彼女は深刻そうな顔をしていなかった。
咏「まあそれは気になるけど、私が聞き出すことじゃないか。ーー続きいい?」
事も無げに話す。その様子からは必要以上の関心を向けないある種の気楽さがあって、咲は泥沼化しそうになった思案から一旦立ち直れた。
咲「あ……はい、次をどうぞ」
それから二言、三言咲からすると他愛もない質問を繰り返し、やりとりが続く。依然としてわからない意図に咲の疑問は尽きなかったーー何でもない質問や答えにやけに感嘆したりしていたーーが、幸いというべきか返答を躊躇うような質問はなく、はやりが戻るまでの時間潰しとして咲はこの応酬を歓迎すらしつつあった。
咏「あー、なんか気になってきたなぁ」
何回目かの質問を終えて、脈絡もなくそんな事を言い出す咏に咲は首をかしげた。
咲「何がですか?」
咏「さっきの話。プロファイリングっていったら何だか深刻そうにしたでしょ?」
咲「え……」
波及したときの余韻を忘れそうになった頃、今さらという段階で蒸し返され咲は愕然とする。
咏「いやーごめんね、私って移り気でさ、唐突に気になって仕方なくなったりするんだわ」
そんなことってあるのだろうか。あるかもしれないが、咲はこの時本当に勘弁してほしいと思った。
咏「よしっ、いっちょ話してみようか!」
咲「あの……いや、その……」
しどろもどろになる。当然だが、事実を公にする事と彼女に打ち明けるのはイコールではない。どうやってこの場を切り抜けようーー暫く咲が迷っていると、
咏「何ていうかこういう反応って性格が出るねー」
焦る咲の姿を眺めていた咏がふと軽薄にもとれる口ぶりでそう言った。
咏「私このプロファイリングを長い間いろんな人にやってるんだけどね、そうするとある程度傾向がわかってくるんだ」
咏「こうしたらこんな反応を返しそうだなーとかって、誰しも想像するときがあると思うけど、私のそれ結構当たるんだ」
咏「失礼だけど、咲ちゃんはすごくわかりやすい。この間聞いた白糸台の淡ちゃんもわかりやすかったなー」
咲「淡……?」
咲がつぶやくと彼方に視線をやっていた咏が振り向き、「お、知ってる?」というような顔をする。
咲「淡……」
どこかで聞いた名だ。記憶の糸を手繰り寄せ、心当たりを検分していく。
ーー抽選会の日に会った子だ。咲は思い出す。
大星淡。姉と同じ学校の麻雀部員。そういえば、部活の一環でした他校の研究でも確か、要注意選手として挙がっていたような気がする。
咏「知り合い?」
咲「いえ……この前一回会っただけです。名前は知ってましたけど」
咏「そっか」
短く切り、咏が袖を振る。
咏「友達だったら面白いなって思ったんだけど、まあそんなとこだよね」
咲「少なくとも友達だとは思われてないと思います」
咲も友達だとは考えていない。友達、というと。
ーーネリーや、クラスメイト。二人の顔が思い浮かぶ。
明華や智葉、ダヴァンとハオに対しても浅からぬ思いはあるが、友達というとしっくりこない。先輩であり、部活仲間であり、チームメイト。はやりにしても同じだった。
咏「ふうん……友達は別かなぁ」
咏「ま、このへんにしときますか。恐ーいおねえさんに蹴られたくないから我慢しとく」
咏の物言いに咲は首をかしげる。それはもしかして、はやりのことだろうか。
咏「あーっ、言ってたらマジで怖くなってきたよ」
咏「はやりさんが呼び出されたアナウンス……実はあれ私がやったんだよね」
え、と声が漏れそうになった。
咏「これ……秘密にしといてもらえる? はやりさんにはあらためて謝っとくからさ」
咲「……え? え、ええっと……」
咏「お願い、この通ーり! なんでも言うこと聞くから!」
そこまで言わせるほどまずいのか。 突然の告白、そして懇願。掌を合わせ若輩の咲に頭を下げた咏が切実に頼み込んでくる。
咲は目を白黒とさせる。
咏「あ、あと君に詰め寄ったのとかも秘密にしといてもらえると……」
まるで賄賂を持ちかける官吏のようだ。露骨に悪どい顔。余った袖で口元を隠した咏が耳打ちしてきて、咲はびくっと肩を跳ねあげた。
だが、心なしか空気が一段と緩むのを感じる。それは自分の仕業を咏が告白したからか。話の流れが変わり、穏便な方向にまとまりそうになるのをみて、こくんと首を振った。
咏「え、いいの?」
すると、自分から持ちかけたことなのに咏は瞳を瞬かせる。意外そうだった。咲は、少しだけ考えーー自分の中の感情を確かめてーーもう一度首を縦に振る。
咏「……そっか。いや、ありがとね。ふざけんなって言われるの覚悟してた」
怒っていても咲にはそこまで強い物言いは無理だ。しかし、ネリーのように物怖じしない性格なら、そういう風に言ったかもしれない。
明け透けな悪徳官吏の顔を引っ込め、一転して真面目な表情で話す咏を前にしても、実際にはちっとも怒りは湧かない。
ーーポーズじゃなく感情で怒ったことはあまりない、レギュラー枠を不当に勝ち取ったあの頃でさえ、自分に対してさえ憤りや嫌悪を抱くことはなかった。
隠したり、引っ込めたりするのではなく、元からないのだ。怒っていないのだから、追及する必要もない。そう咲は思う。
一時的とはいえ、はやりに対し意図して隠し事をするのは気が引けたが、改めて謝罪するという咏の言葉が嘘とは思わなかった。
咲「いえ……はやりさんもそのうち戻ってくるでしょうから、何気なくしゃべりましょう」
咲の意見に咏は全面的にうなずいた。麻雀や父に関し当たり障りない話を繰り返しながら、はやりの帰りを待つ。
はやり「待たせてごめんっ、ちょっと手間取っちゃって」
それから数分もしないうちにはやりはぱたぱたと駆けてきた。
聞けばはやりが着いたときにはもう『お客様』は帰っていて、それとは別に、はやり名義で購入したという商品を持たされそうになったという。
代金は既に支払われていたそうだが、全く身に覚えがなく、配達も手続きしないとならない大きな商品だったので受け取りを遠慮し、店員と問答の末に振り切ってきたとのこと。
はやり「おっかしいなぁ……」
咏「い、いやー奇妙なこともあったもんスね」
はやり「……」
はやり「まったくだよ。熱狂的なファンが待ち受けてたとかならわかるけど、不気味だよ」
咏「…………」
咏が黙りこくる。その端整で若作りな顔に滝のように汗が浮かぶイメージが咲には見えた。
咲「はやりさん、今日はキャンプのお買い物をするんですか?」
咲はそこに口を挟む。助け船を出す、というのとは少し違ったが、実際に咲の気になるところであり、楽しみとするところでもある。
はやりはその疑問にすぐに応じ、キャンプ用品一式の準備、特にバーベキューの食材にはこだわりたい、と出鼻をくじかれた流れを払拭するように熱を上げ、良質な商品を探しだす。
その提案には咲も大いに賛成し、はやりが伝える商品の捜索を手伝う。咏もこれ幸いと乗っかり、和気あいあいとした買い物ムードを醸しつつあった。
咏「咲ちゃん、ありがとうっ……ほんとにありがとう……!」
咲「あ、あの……そんなにお礼を言われても困ります……」
はやりに隠れて感謝する咏は涙を流さんばかりに感動を表情で表している。咲としては助けたという認識はなく、恐縮するばかりであったが、この雰囲気に水を差さずに済んでよかったかなと感じ始めていた。
そこに商品を探しにいっていたはやりが戻ってくる。
手には真空パックに包装された商品。調理用の炭と書かれている。
はやり「備長炭見つけたよー、炭はこれにしよう!」
咏「おー、豪華っすね!」
ホームセンター顔負けの高級感溢れる品揃えに揃って感嘆する。買い物は順調に進んでいった。
その中で安息するような心地に包まれていく。ひとときの間、咲は悩みも何も忘れ、楽しい事だけを考えていられた。
咲「……はやりさん」
はやり「うん?」
咲「ありがとうございます……今日誘ってくれて」
微笑みながら伝える咲にはやりは、いつかも見とれさせた透き通るような笑みを湛え、音頭をとるように拳を突き上げた。
はやり「ふふ、お安いご用だよ。よーしっ、この勢いでキャンプコーナーを制覇だー!」
買い物は日が落ちるころまで続く。楽しい時間が終わるのを惜しみながら、咲は買い物を終えてはやりの車に乗り、臨海が宿泊する文京区の旅館の近くまで送ってもらった。
ここまで
本当は旅館の夜までいきたかったんですが書き直しで結構日が空いちゃったので早めの生存報告代わりに投下
次回、旅館に戻った咲に思わぬお客さんが……ギャグっぽい展開になりそう
ではまた目処が立ったら報告します
>>284
虫酸が走るほどの嫌悪が込み上げる。
→肌が総毛立つほどの恐怖が込み上げる。
痛恨のミス……メモ帳アプリに書き留めたメモ分かれすぎて見落としました
▼
車を降りる。排気の音。唸り声のような音を響かせるエンジンが、停車したはやりの車の周辺で存在感を示している。
咲「それじゃ……送ってもらいまでしちゃってすみません」
夕焼けで鮮やかに照らされたアスファルトを踏みしめ、咲は運転席のはやりにぺこりとお辞儀する。降りたのは宿泊する旅館にほど近い路地。入り組んだ道の最中にあって、旅館からは見えにくい場所にあった。
はやり「いいのいいの。大会、がんばってね」
「はい」と返事をして、横に視線を移す。
後部座席には帰りの車中、携帯型のゲーム機で遊び通していた咏が座っている。今はゲーム機を膝元に置き、車外に立つ咲を眺めていた。
咏「ねえ、はやりさんちょっとだけ時間いいかな」
咲が咏にも別れの言葉を告げようとした時、咏から出し抜けに提案がなされる。
はやり「咲ちゃんに用があるってこと?」
咏「うん。ちょっとそこに降りて……見える位置で話すからさ」
見えないところで話すとまるで問題があるような言い方だ。
はやりは、咲がいいならという風に返答した。二人の視線が咲に向く。突然矛先を向けられて咲はあたふたとする。
咲「えっ……はやりさんが大丈夫だったら私も構いませんけど……」
咏「ありがとう。それじゃちょっと失礼します、はやりさん」
咲の困惑もよそにとんとん拍子で決まってしまい、二人で連れ立って車外に。
繁華街にほど近い裏通りであるこの周辺。閑静な住宅街になっているここは両端をねずみ色の塀に隔たれ、夕焼け空から降る橙色の光が二人を照らす。
咏「咲ちゃん、今日は悪かったね」
車のボンネットから五メートルは離れたといったところで、足を止めた咏が話しかけてくる。やけに神妙な口調。
咲も合わせて歩くのをやめ、咏と向かい合って不思議そうにした。
咲「えっと……気にしないでください?」
どうして謝られたのかもわからない。咲は咏の心情を推し量ろうとする。
しかし、全くわからない。彼女とは会ったばかりで、テレビの向こうの人という印象も相まって、何を考えているか想像しづらい。そんな部分が多々ある。
咏「あっと……いきなり謝られてもわかんないか。はやりさんとの時間邪魔してごめんね、ってこと」
咲「……えっと?」
まだわからなかった。邪魔をされたという認識がなく、強いていえばアナウンスの件で拗れそうだったがそれもなんとかなった為、一見して問題があるように思えない。
咏「まあ……はやりさんにもバレバレだったけどね」
咲「……気づいてたんですね」
得心がいく。妙な間があったから危ない、とは感じていた。
咏「今日は無理言ってついてきたしなー。割と最初から怪しまれてたと思う」
咲「咏さんもキャンプに参加するんじゃ?」
咏「んー、そうなんだけどね、はやりさん今日は咲ちゃんと二人で下見にいくって話だったんだよ」
キャンプの買い物を元々咏は面倒くさがっていたらしく、なのに今日に限って頼み込んだのだという話を咏がする。
はやりは気を遣ってくれたのだろう。朝一番に行われた試合をみて、計画してくれたのだろうか。咲よりもずっと多忙なのにこうして配慮してくれるはやりを改めて尊敬する。感謝が尽きない。
咏「いやー、インハイの控え室のソファの上で土下座までしたよ。良子ちゃんとか『ドゲザ!?』って言葉遣いおかしくなってたからね」
冗談めかして話した咏がぷくく、っと思い出したように笑う。
咲「でも……どうしてそこまでして?」
咏「君にどうしても会っておきたかったから」
咲「?」
頭に疑問符を浮かべる咲。
咲「私と初対面ですよね?」
咏「ああ、それは間違いないと思う。私も記憶にないし」
二人揃って忘れているなんてこともないだろう。なら、どうして自分に興味を持ったのか?
咏「まあ兎に角二人水入らずの時間にお邪魔しちゃったから。だから……ごめん」
咲の疑問は解消されないまま話は進み、咏は前髪をくしゃっと掌で潰したかと思うとまた謝罪の言葉を口にする。
そして、唇を噛む。何か堪えがたいことがあるかのように。そんな彼女は随分と思い詰めているように見えた。
咲「そんな……とにかく私は気にしてませんから」
咲は本心からその言葉を伝える。
今日は楽しかった。掛け値なしに、今日のことは咲の心を軽くしてくれた。
暗く澱んだ気持ちはその人だけではなく周りにまで影響を与えてしまう。
だから、どこかで気分を切り替えなければいけなかったのだ。今日の買い物はそれに一役買ってくれた。
そしてその背景には、場を盛り上げる咏の姿があったように思う。咏に感謝こそすれ、責める気持ちなど咲の胸には微塵もない。
咏「……」
なのに、当の咏は前髪を潰した姿勢で口を閉ざしている。萎れた花を彷彿とさせる姿。何がそこまで気に病ませているのか。
買い物の時の姿を思い出す。飄々として、からからと笑ったり、困る時も生き生きとした姿。
咲はそんな咏の方が好きだった。
そこまで思い至り、咲の頭にひとつの方法が浮かぶ。それは、ひどく強い緊張を強いられるやり方。
深く息を吸って吐く。覚悟は、尻込みしてしまう前に、勢いで決めた。
咲「三尋木プロ……三尋木さんって、こうしたら人がどう返すかってわかるんですよね」
咏「……?」
咏が前髪に触れる手をのけて視線を上げる。
咲「それってまるで読心か何かみたいじゃないですか。超能力みたいです」
実際にはそんなに便利なものではないのかもしれない。けれど、今はあやふやでいい。
咲「私は未来予知ができますよ」
咲は真面目な顔で言う。
咏「ええ……?」
見るからに怪訝そうにされる。さもありなん。
咲「あ、信じてませんね? 本当なんですから」
咲はスカートから取り出した携帯端末で時刻を確認すると、年・月・日から連想して数を採る。
目に触れた夕焼け色に染まる住宅街、遠くから聞こえてくる子供の声、そして咏を元気づけたいという気持ち。
それらから採った数を五行、九星、方角、人物、人体……大成卦にも置き換える。
占断、結果はーー
『六年越しの真実に打ちのめされる』
咲「……」
携帯端末をしまいながら黙り込む。
咲「笑顔になります」
咏「え?」
咲「いつか、三尋木さんは笑います!」
強引に言い切る。対する咏は微妙な顔をしていた。
咏「それって……次の瞬間に私が車にハネられでもしなきゃそうなるよね?」
咲「う……」
その通りだった。もっと言うと、次の瞬間と言わず次に笑うまでの間だった。
咏「ぷっ、ははっ、あはははは……!」
しかし次の瞬間、咏は声をあげて笑い出す。その姿に、遅まきながら咲は咏の言い回しの意味に気づく。
咲「ああっ、そんなこれみよがしに」
咏「いいじゃんいいじゃん、ほれ当たったよ?」
にやにやと見せつけるようにして笑いながら、袖を振る。
ひとしきり笑い終えると咏は核心を突いた。
咏「本当はちゃんと出てたんでしょ?」
咲「えっ?」
咏「読心。咲ちゃんはわかりやすいねぇー」
完全に咏の方が上手だった。咲は肩を落とす。
咏「戻ろっか。あんま時間かけると悪いし」
咲「そうですね……」
車の方に戻ったら、咏をあまり怒らないようはやりにお願いしよう。そんな事を考えながら咲は返事をする。
咏「まー、あれだね。これかも仲よくしてよ。キャンプでも一緒しそうだし」
咲「はい、こちらこそ」
おそれ多いな、と思いつつも返す。
咲「今も昔もこれからも……どこまでだって縁は続いてるかもしれませんから」
咏「ご縁がありますようにってか。昔似たようなことを聞いた気がするよ」
先を歩いていく咏のうしろ姿を追いながら咏とそんな会話をした。
▼
閉じられた襖を前にする。はやりの車を降り、咏との会話を経て別れた後。旅館に帰った咲は臨海に用意された広間へと繋がる襖を開けようとしていた。
のだが。
「やーい、また負けたー!」
「うっ、うううっ」
「ネリー、そんなに言ってはいけません。いくら衣ちゃんが弱いからって」
「うぐぐっ」
「こんなに弱いってありうるのかな……これ以上手加減しようがないんだけど」
「ぐぬぬっ」
「アンビリーバボーでス。マア気を落とさず……カップ麺ありまスヨ?」
「ぐぬうっ……食べる」
「まったくとんだ期待はずれだよ、このちんちくりんめっ」
「チュルチュル……それはお前も人のことはいえないだろうっ!」
「ネリーのほうが十センチは高いもんねー」
襖の向こうから聞こえてくるかまびすしい声。その中にこの場にいるはずのない人物がいるように、咲には思えてならない。
咲「疲れてるのかな……衣さんの声が聞こえる」
疑念を払うように咲は頭を振った。だが、襖の向こうの声は途切れることなく聞こえてくる。
「ところで……襖のところに誰かいないか?」
「誰かいるみたいですね。気配がします」
びくんと咲の肩が跳ねる。
あまりもたもたしているとますます入りにくくなりそうだ。
意を決し、咲は襖に手をかけーーる前に開いた。
ネリー「あっ、サキだ!」
衣「なにっーー本当だ、待ちかねたぞ咲!」
ぴょこんとウサギの耳のようなカチューシャが揺れる。
開いた襖の向こうに広がる光景は、やはり想像を裏切らず智葉を除く臨海レギュラー陣と、驚くほど違和感なく馴染む衣の姿があった。
咲「龍門渕家の……衣さん?」
衣「ちゃんでもいいぞ」
明華「おかえりなさい咲さん」
明華が口火を切るとおかえりの唱和が降りかかる。
咲「あ……ただいま帰りました」
ネリー「サキ!」
あっけにとられたまま口にすると、目の前までネリーがやってきて柳眉を逆立てる。
ネリー「なんなのこのちんちくりん! すっごくえらそうなんだけど!」
衣「ちんちくりんはお前だっ」
ネリー「なっ、お前だよ!」
同じくネリーの隣まで駆けてきた衣が言い争いを始める。
咲「あの、衣さん……どうしてここに?」
衣「うむ、遊びにきた。今日は衣もこの旅館に宿泊していくぞ」
咲「え、一人で?」
咲が尋ねると衣はむっと頬を膨らました。可愛らしい。
衣「本当は一人でも来れたのだが……ハギヨシもいるぞ」
視線で指し示す衣のそれを追うとーー確かにいた。自分は黒子とばかりに風景に溶け込んでいる。
咲「気づかなかった……」
「以前、旧家の伝手で日舞の後見をしておりまして。つまらない特技でございます」
まるで何もないところから聞こえるようだったが、咲は深く考えないことにした。
ハオ「そうだ、咲もやる?」
ネリー「サキもやろうよ。このちんちくりん面白いんだようぷぷ」
衣「ぐうっ、ちんちくりんっていうなぁ!」
咲「えっと何をしてたの?」
ダヴァン「トランプ」
明華「の大富豪です」
咲「大富豪……?」
目の前のネリーや衣にばかり目を奪われていたものの、よくよく広間の様子に目を凝らすと明華たちが座す畳の一角にはトランプが散らばっている。
咲は少しだけ面食らう。このメンバーが集まってするには意外と平凡な遊びだ。
明華「やったことあります?」
咲「えっと……ルールはわかります」
実際にやるのは子どものとき以来。ただ基本的なルールは、問題なく記憶している。
ネリー「サキも参加決まりー!」
ダヴァン「オーウ、腕がなりまスネ」
衣「ねえ咲、咲は衣をいじめないよね?」
咲「イジめる……?」
どういうことだろう。
入る前の会話を思い出してみるに衣は負けていたようだがーー
ネリー「こいつが弱すぎるからしょうがないんだよ」
衣「うるさいっ、さっきまでのはちょっと調子が悪かったんだ!」
ネリー「うぷぷっ、しってるよそれ、負け犬のトーボエっていうんでしょ」
咲が考えようとするそばから口論が始まる。
咲「衣さんが負けてたんですか?」
衣「ま、負けてない!」
ネリー「ボロ負けだよ」
ネリーと衣の声が重なって上がる。
ハオ「まあ、控えめにいってボロボロだったかな……」
明華「一応ルールでハンディキャップをつけたんですけど」
咲「ハンデ?」
ダヴァン「こっちにルールを書いてマス」
ダヴァンから一枚の紙を手渡される。
『るーるぶっく 著:明華
・衣ちゃん以外8切りなし
・衣ちゃん以外2切りなし
・衣ちゃん以外革命なし
・衣ちゃん以外革命返しなし
・衣ちゃん以外ジョーカー切りなし
・衣ちゃん以外革命時3切りなし
・衣ちゃん以外階段なし』
やけにポップなつくりだった。デフォルメされた可愛らしい動物が紙面の端々に躍っており、文字も丸く、メモ用紙の色使いや柄もやたらとファンシー。デコレーションされたケーキのようだ。
明華「私が書きました」
咲「わあ、すごく可愛い」
って、そういうことではない、と咲は思い直す。大事なのはルールなのでルールに目を通していく。
咲「ジョーカーや2切りなしって、この場合どういう扱いになるんですか?」
明華「何度か試してみた結果、すべて非革命時の3扱いが妥当という結論に達しました」
咲「それって……」
限界ギリギリのハンデじゃないだろうか。あとは手札に変化を加えるくらいしかない気がする。
ネリー「試しにやってみようか? 弱すぎて笑えるよ」
提案に従って、一戦みてみることにする。
結果はーー
ネリー「はい、またコロモの負け!」
衣「うぐう……っ」
清々しいくらいに衣の惨敗だった。
ハオ「相変わらず手札減ってないね」
ダヴァン「出し方はそう悪くなさそうなんでスガ……」
明華「不思議ですね」
ネリー「次はサキもやろうよ!」
咲「うん、次入ろうかな」
誘われて承諾する。散らばっていたトランプを皆で集め、明華がシャッフルする。
そして配られていく。
衣「……」
その最中、不安そうな衣と目が合う。
衣さん。声をかけようとしたが目を逸らされる。
ネリー「ねーお昼どこいってたの?」
咲「えっ? ……神社とデパートだよ」
不思議に思っていると、隣に座るネリーが問いかけてくる。不意を突かれたが隠さず話す。
ネリー「デパートと……神社? あー、あのお守りの?」
咲「うん。あのへん静かで落ちつけるし」
神社に出入りするといちごたちと鉢合わせるかもしれないが、これといって問題ない。神社について軽く話す。
ネリー「ネリーもいってみたい。今度案内してよ」
すると興味を持ったようで目を輝かせるネリー。咲が了承し、適当に話を膨らませるうちにカードが配り終わった。
目の前に浅い山となっているカードを拾う。
ダヴァン「オ、ナンダカ自信ありげデスね?」
咲「結構自信あります」
むん、と力を入れるように受け答える。
実際、大富豪には自信ありだ。幼い頃家族でしていたそれはしばしば白熱した勝負になったし、少なくとも弱い方ではない、と思っているから。
好機を待って果敢に攻め立て、正しく引き際を判断すれば負けはない。
そう、まさに大軍を前に敵中突破してみせた島津義弘のように、戦国の島津一族を束ねた島津義久のごとく。
拾った手札を自分に見えるよう裏返し、いざ勝負ーー!
ハオ「あー、苦手だった……?」
ーー惨敗だった。
ダヴァン「コレは……」
明華「衣ちゃんと同レベル、ですね……」
ネリー「サ、サキ……どんまい」
何度か対戦した結果。口々に感想がつぶやかれるのを目に咲は唖然とする。
次がある、というような言葉はかけてもらえなかった。
衣「お、お前たちイカサマしているな!?」
咲同様、いつも通り負けた衣が立ち上がり、気炎を上げる。
猛然、というには可愛らしさが勝る怒声。
しかし咲にはわかっていた。わざわざイカサマなんてするはずがない。人柄としても状況としても信用している。だから、咲は衣の肩にそっと手を置いた。
咲「衣ちゃん……イカサマのせいじゃない。私たちの負けだよ」
衣「咲……うっ、衣は、衣たちは……負けたのか……っ」
「おい、何を騒いでる」
哀愁感を演出する小芝居で遊んでいると、突然襖が開き、誰かが入ってくる。智葉だった。
智葉「……? 何の騒ぎだ」
明華「お客さんがきたので遊んでました」
ネリー「ナガノのリューモンプチってとこから来たって!」
ダヴァン「リューモンブチでスヨ」
ハオ「ネリー、龍門……あっ、先に言われた」
智葉「天江衣……?」
智葉の眉が訝しげに眉をひそめられ、鋭い瞳が衣の姿を捉える。
衣「そうだっ、あの天江衣だ!」
智葉「それはわかる。だが、なぜうちに……練習試合の申し入れなど聞いてないが」
衣「うむ、話せば長くなるのだが咲と知り合いなので遊びにきた」
ちっとも長くない理由を述べ、胸を張る衣はどうしてか誇らしげだ。この場にいて当然とばかりにふんぞり返ったその姿に、智葉は思わずといった風に目頭を揉む。
明華「監督に許可はとっておきましたよ。特に問題ないそうです」
衣は個人戦出場者ではない。そして、部外者に見られて困るような資料も別室に保管されている。
智葉「ああ、ならいいんだが……」
ハギヨシ「お初にお目にかかります。衣様の世話役を仰せつかっております、ハギヨシと申します」
ハギヨシは、初対面の衣が失礼した、と詫びてまた風景の中に消えていく。息もつかせぬ業だ。
衣「よろしく頼む。夕餉も共にとりたいと思っている」
智葉「この旅館に泊まっていくのか?」
衣「ああ、近くの空き部屋を都合してもらった」
智葉「ふむ」
智葉の目が咲に向く。
咲「だ、大丈夫ですか?」
智葉「監督が許可しているなら何も問題はない。それに部員の知り合いだ。無下にできんよ」
その言葉には含むようなものは感じられず、むしろ歓迎する雰囲気さえあった。咲はほっと息をつき感謝を伝える。智葉は鷹揚に頷いてそれを受け取った。
明華「智葉も帰ってきたことですし、一服しましょうか」
一通り面通りを済ませ、智葉も含め皆が畳に腰を下ろしてから。両手を合わせるように掌を揃えた明華が提案し、その場でつままれていた菓子類とは別に、別室から包装された箱を持ってくる。
明華「北海道産の高品質小豆を使った赤福です」
そして、開いた箱の中にある赤福を指して示す。
ダヴァン「あの伊勢で作られている赤福?」
明華「そう、夏には抹茶の風味も爽やかな赤福氷にもなる、あの赤福です」
衣「わーい、もち米も専作団地で栽培されたものにこだわった赤福だー!」
皆が赤福を堪能する至福の時間を過ごす。そんな時間はあっという間に過ぎていったーー夏期限定赤福氷は520円(税込)ーー。
ちなみに猛然たる衝動に突き動かされ口を挟もうとしたハオは、何処からともなく飛来した赤福に口を塞がれていた。
明華「ところで智葉、何だか嬉しそうですね?」
智葉「ああ……ずっと口説いてたやつがようやく首を縦に振ってくれそうでな。そのせいだ」
ふと、智葉の微妙な変化を見咎めた明華が問いかける。指摘通りわずかに頬を緩ませた智葉はそう返すと、紙コップに入ったジュースを一気に飲み干す。
その深長な意味を匂わせる言い回しに首をかしげる咲の傍ら、横で聞いていた他の面々は色めき立つ。
ダヴァン「サトハ! もしかして、おめでたでスカ!」
智葉「馬鹿、飛躍しすぎだ。というか方向が違う」
ネリー「おめでとー!」
智葉「だから違う!」
衣「な、なあ咲っ、つまりどういうことだ? ハギヨシに赤飯を用意させた方がいいのか!?」
咲「そ、そっちじゃないよ。っていうかそっちでも、それもちょっと違う……」
残るハオは、まだ赤福を噛んでいる途中でもごもごと口を動かしていた。
ここまで
場面のキリが悪いですが旅館の夜もあるのでいったん切ります
シリアス成分がちょくちょく入るせいでほのぼのギャグなのか…ご飯やお風呂あるからきっとほのぼのするはずですたぶん
>>619
間違えた衣ちゃんじゃなく衣さんでした
ダヴァン「サトハに相手がいないのはおかしいと思ってマシタ」
ハオ「私たちの中では初めてじゃないですか?」
智葉「だから違うって……もういいだろ」
ネリー「ね、どう思う?」
咲「え?」
妙な疑惑を持たれた智葉が否定に回る中、他の目を盗むように畳の上をにじり寄ってきたネリーが咲に話しかける。こっそりと小声だ。
ネリー「サトハだよ、あれあやしいよね」
衣「あやしい? あれはあやしいのか」
ネリー「ちょっ、入ってこないでよ。あやしまれるじゃん」
見咎められるのを気にしてか、混ざってきた衣に反応するネリー。一方で咲は智葉の変調に思案を巡らせる。
咲(たしかに……何となく何かを隠すみたいな感じだな)
智葉は最初否定するに留まっていた。だが、段々その話には触れてほしくなさそうな素振りを見せ始めた。誰しも痛くない腹を探られ続けたら不機嫌になるだろうが、今の智葉はそれとはまた違う印象を与える。
咲は公明正大な先輩の珍しい姿に目をしばたたかせる。
智葉「はあ、恋愛話に飢えた奴らの相手は疲れる。この話は終わりだ」
煙たがるように智葉は手を振り、切らしたジュースの補充をしてくる、と広間から退室していく。
ハオ「ちょっとからかいすぎたかな」
ダヴァン「Hum……そうかもしれまセン」
明華「あら何か落ちました」
ひらりと何かが虚空を舞う。襖の向こうに消えていった智葉が落としたものか。薄っぺらいカード状をしたそれを明華が拾い上げる。
明華「…………」
ネリー「どしたのー、なにそれ?」
衣「ふむ、遠目に見た感じ写真か?」
落とし物に視線を落とした、というか凝視する明華に興味を惹かれたのか、ネリーと衣が近づいていく。そして、明華の手元を覗き込む。
ネリー「えっ、サキ……?」
顔を突き出すように覗き込んだネリーが、驚いたような困惑したような声を上げる。
衣「これは……咲だな。練習中か? 部室らしき場所で牌を握っている」
咲「わ、私?」
咲も件の写真を見ようと明華たちの方におっかなびっくり歩み寄っていく。
まだ覗き込んでいるネリーと衣に倣うように咲も手元を覗き込む。
すると確かにそれは写真で、咲の練習風景をとらえたものだった。
明華「部の練習風景を撮っただけにも見えますけど……」
ネリー「それにしては咲にスポット当たってない?」
衣「ハギヨシ、どうだ?」
「ふむ、断定はしかねますが……撮影技術の観点から申せば、この写真は宮永様を被写体として意識されている、そんな風に見受けられます」
咲「……?」
つまり、どういうことなんだろう。口々に飛び交う意見に咲は困惑する。
ダヴァン「おー、どうシマシタ?」
ハオ「何かあるの?」
その頃には一所に集まる四人の姿がダヴァンとハオの目にも止まり、七人が同じ写真を観察する格好になる。
ネリー「これはあやしい! あやしいよ!」
ダヴァン「コレ、サトハが落としたんデスか?」
明華「私にはそう見えました」
ハオ「明華がそういうなら……見間違いじゃない気がするな。でも、そうなると」
衣「臨海のツジガイト……だったか? あの者が咲の写真を持ち歩いていたことになるな」
騒然としてくる。一方の咲はというと、その渦中に身を置きながら流れについていけず混乱気味だ。
ただ、状況は大体飲み込めている。そして、 大切な部分もわかっているつもりだった。
咲「あの」
咲が言葉を発すると皆の目が一斉に集まる。咲は渦中の人物だ。皆挙動に注目していた。
咲「先輩がなんで私の写真を持ってたかわかりませんけど……そんなに騒ぐことでしょうか」
ーーだって先輩だから。やましい目的でそんなものを持っているはずがない。
言外にそんな心情が伝わってくる言葉。智葉に対する咲の信用は揺るぎなく、混乱しながらも咲の心に不安や疑念といったものは一切なかった。
ネリー「サキ……」
深い感情がこもった咲の発言に皆はっとした顔をする。そして、ネリーが口火を切ると皆次々に咲の名を呼んだ。
ネリー「ま……そうだよね。あのかたっくるしいくらいマジメなサトハが、そんなあやしいことするわけないか」
皆、同感だという顔をする。面識の浅い衣やハギヨシはその人柄の深くまでは知る由もなかったが、そんな二人をして納得するほど他の皆の信用が揺るぎない。ならばその通りなのだろう、と思わせる力があった。
ーーーーしかし、次の刹那。
智葉が外出先から持って帰ってきた肩掛けのバッグが、不安定な形で漆喰の壁に立てかけられていたそれが、転けた。ふとした拍子に。
ゴロンーーバサッ、
簡素な音で動いたバッグから転がり出てくる。カード状。一枚一枚の厚みは薄い。表面に照り返す光で艶めいた光沢が出ている。
それはーー写真だった。
ネリー「……え?」
ネリーの、いやこの場に居合わせた人間全ての視線がそちらに向く。
皆、目の前にある光景を認めたくないような顔をしていた。
なぜなら、智葉のバッグから転がり出てきた束というべき写真の集まりは、全てーー
ネリー「サキの写真……」
おぼつかない足どりで、ややふらつきながら、出現したそれらの散らばる現場にネリーは歩いていって拾い上げる。
そして、束ねた写真を震える手で一枚ずつ目を通していく。
部活に励む咲、部室棟に向かって歩く咲、クラスで授業を受ける咲、校門前に佇む咲、ネリーと連れ立ち学生マンションに入っていく咲、リビングの机に頬杖を突き椅子に座る咲、自室のベッドで眠る咲、涙の跡が残る寝顔で旅館の布団に入った咲ーー。
ネリー「あ、あ、あ、あ、あ……」
痙攣を起こしたように不自然な挙動をするネリーの元に、一人、また一人と、近づいていく。
そして皆一様に、慄然とする。
明華「こ、これは……」
ハオ「何かの間違い……?」
ダヴァン「ハ、ハ、ハ……」
ダヴァン「き、きっと不埒な人間から押収したんでショウ……そうでなければ、こんな盗撮写真」
盗撮写真。そのフレーズ、その一言に、皆硬直したように固まる。咲ですら。
衣「……これは、ちょっとまずいのではないか」
「…………」
ハギヨシ「……衣様」
衣の傍らに存在を霞ませていた執事が立つ。
咲「……え?」
魂が抜け落ちたような表情で自失していた咲の口から間を置いて声が漏れる。状況を飲み込めていない人間特有の現実感のない呟きだった。
皆の驚愕が冷めやらないーーそんな時。
襖が開く。
智葉「……ん? 何だこの空気」
襖の向こうから流れ込む風が実体を持ったように広間を包む。数瞬の沈黙。皆の視線は再び一斉に動き、きょとんとする智葉を捉えた。
智葉は二リットルのペットボトルを手にしている。先ほど告げた通り切らしたジュースの補充にいってきたのだろう。
普通なら、ありがとうなり気楽に一声かけてもいい場面。しかし現実には沈黙が重苦しく広間を覆っており、皆一ヶ所に立って集まってやたらと深刻そうな表情を浮かべている。その上、視線の行方はこぞって智葉だ。
智葉は不思議そうにした。
智葉「どうしたんだ? 何かあったのか」
ダヴァン「い、いえ……何かっていウカ」
ようやくダヴァンが口を開くが口調は辿々しい。今実際多くに疑惑を持たれているのは智葉だが、その歯切れの悪さはダヴァンこそ弁明に回る下手人のようだ。
ネリー「サ、サトハ!」
智葉「ん?」
ネリー「犯罪はダメだよ!」
智葉「はあ?」
ネリーの懸命な告白もちんぷんかんぷん。そんな様子の智葉が不自然に集まっている皆のところへ歩み寄っていく。何人かが智葉との間でネリーの手元に視線をさ迷わせていた。智葉がネリーの手元を覗き込む。
智葉「お前らいったい何を見てーーーーあっ」
明華「智葉……これ落としませんでしたか?」
ぎょっとして間の抜けた声を出した智葉が明華の質問に振り向く。
智葉「……それ」
慌てた様子で自分の衣服をまさぐる。明確に認めずとも語るに落ちた状態だった。
だが、そんな智葉に殺到する視線は冷たくはない。衣やハギヨシといった接点の薄い者は流石に警戒の感は拭えないが、咲を始め臨海のメンバーはただただ困惑している、そんな様子だ。
ネリー「サトハっ、これどういうこと?」
智葉「あ……いや、これはだな」
明華「智葉、正直に言ってください」
目が泳ぐ智葉の手を包むように握った明華が真摯に訴えかける。
ダヴァン「イマなら引き返せマス。犯罪はダメ、ゼッタイ」
智葉「ま、待て、違う! 誤解だ!」
手に持つペットボトルを落とさんばかりに狼狽えた智葉が顔色を悪くする。
智葉「それは手札というか……説得するのに必要な……」
ネリー「説得?」
智葉「ーーあっ、いやそうじゃなくて、その」
言い淀み、言葉尻が萎んでいく。この状況で狼狽をあらわにする智葉に周囲の目は自然とひきつけられる。数秒間の沈黙。
智葉「…………それは……部員の体調管理の一環だ」
喘ぐように智葉が弁明する。その言葉に聞いていた皆の顔に疑問の色が浮かぶ。
ネリー「体調管理?」
智葉「そ、そうだ、部員の体調管理は大事だろ?」
明華「ですけど咲さんに偏ってるような……」
智葉「案外咲は体調を崩しやすい、念のためだ」
ハオ「そんなに咲って体調崩してたっけ? 部活ほぼ皆勤ですよ」
智葉「うっ」
苦しげに呻く智葉。実際、苦しい言い訳だった。見守る咲の瞳も不安げに揺れる。
疑惑の趨勢を示すかのように数名が咲に寄って立つ。その中から一歩進み出たダヴァンが御仏のごとく慈悲深い微笑を湛え告げる。
ダヴァン「いいんデスよサトハ……この盗さーー秘蔵写真を眺めて、日頃の疲れを癒してると認めテモ」
智葉「ち、違う! ってそうだ、抽選会! 抽選会のことがあっただろ!」
抽選会。わずかながら臨海の面々の間に理解の色が広がった。
明華「そういえば体調を崩してましたね……」
智葉「う、うん、私もあの時は驚いた」
呟いて思い返すように明華は彼方を見やる。その脇で申し訳なさそうに目を伏せる咲。
だが、理解されたのは体調不良の事例だ。虚ろな言葉を繰る智葉からは心中の焦燥が透けて見えた。だからだろう。とんでもない発言が間を置かず智葉の口から飛び出す。
智葉「だが仕方ない、生理だったんだからな」
『は?』
何人かのつぶやきが重なる。その瞬間、智葉を除く誰もが意識を手離したように固まっていた。
咲「っ!?」
咲の瞳が限界まで開かれる。他の面々の表情にも、少し遅れて驚愕が浸透していく。
ハオ「ああ……あの時の。……生理だったんだ」
明華「なるほど……それならしょうがないですね」
ダヴァン「ソレであの耳打ちを……」
急速に広がっていく理解。しかし、それにつれてーー。
ネリー「……ねえサトハ」
ネリーが口を開く。複雑そうに顔をしかめている。焦りと緊張で一杯一杯の智葉はその様子に息を呑む。
智葉「な、何だ?」
ネリー「理由はわかったけどさ、それ言っちゃってよかったの?」
智葉「ーーーーあ」
ばっと咲の方を振り向く智葉。 咲の顔は、茹で蛸もかくやとばかりに紅潮していた。
咲「せ、先輩……ひどいです」
智葉「いやっ、これはだな……その」
咲の頬はまだ赤くなる。赤くなる。赤くなる。赤くなってーー駆け出した!
咲「言わないでって約束したのにぃ!」
智葉「違うんだ咲ぃ!」
智葉の呼びかけも虚しく、弾かれるように咲はその場を飛び出し、襖を開けてその向こうに消えていった。
『…………』
突然の出来事に訪れる沈黙。とてつもなく気まずい。少なくとも、智葉は針の筵に座らされたかのような錯覚を覚えた。
少しして閉じられていった襖が静かに開く。
咲「あ、あの」
わずかに開いた隙間から、誰かが広間の中を遠慮がちに覗き込み声を出す。それは咲だった。
咲「信じてますから……写真をおかしなことに使ってないって」
言い終わったと同時、ぴしゃりと襖が閉じられる。走り去る足音が襖の向こう側から上がった。
再び沈黙のとばりが落ちる。
明華「……智葉、何か言うことは?」
智葉「ごめん……」
沈黙はすぐに破られた。
▼
一部宿泊客での騒動もあったが旅館の夜は恙なく更けていき、咲たち臨海のレギュラー陣は広間で夕食をとる事になる。急遽逗留を決めた衣も一緒だ。
ネリー「んー、おいしーねサキ」
咲「そうだね……」
直前の騒動があり、絶品の懐石料理に舌鼓を打つとまではできない心境の咲だが、ネリーの言葉に頷く。
衣「ふむ、これは美味だ」
衣「どれ咲、食べさせてやろう。あーん」
咲「あの……私も同じのありますから」
食卓の雰囲気は明るい。直前の騒動が尾を引くかと思われたが、咲の意外な事に衣やハギヨシも気にした素振りを見せなかった。
明華「智葉、わかってますね?」
智葉「わ、わかってる」
智葉「ーーさ、咲っ」
咲「え?」
智葉「さっきはすまなかったな……口外しないという約束まで破ってしまった」
咲「い、いえ……いいんです」
咲「あんな状況でしたし先輩も混乱してたでしょうから」
咲「こちらこそすみません。思わず飛び出していってしまって」
あのタイミングで飛び出してはまるきり智葉が悪者だ。困らせてしまっただろう。咲は反省していた。
智葉「咲……」
咲「も、もう話題を掘り返すのはやめましょう。やっぱり恥ずかしいです」
和やかなムードで食事は進む。ダヴァンはというと相変わらずカップ麺まで食卓に添えていたが、もはや衣たちですら指摘しななかった。
ネリー「うぬぬ、ちょっと食べづらいかも」
ダヴァン「ハフッ、ハフッ」
咲「ネリーちゃんたちはお箸使うのにも苦労しそうだもんね。大丈夫?」
ダヴァン「ズルルル、ズルッ」
ネリー「だ、大丈夫。……でもあとでこの魚の骨とるの手伝って」
咲「あはは、わかった」
ダヴァン「ハムッ、チュルルルル……ズズ」
衣「ふっ、慣れていないとはいえ危なっかしい手つきだ。衣がやってやろうか」
ダヴァン「ズズズーーッ」
ネリー「サキにお願いしてるんだよ。チビスケはお呼びじゃない!」
ダヴァン「ズーーーーッ」
衣「なにをっ」
咲「ふ、二人とも喧嘩しないで……衣さん」
ダヴァン「モグモグ……」
衣「ん?」
咲「あ、あーん」
衣「っ! あーん、パクッ」
ダヴァン「ハムッ、ハフッハフッ」
ネリー「あ!! ずるいネリーにもしてよ!」
咲「は、はい、あーん」
ダヴァン「ズルッ、ズルルルルルルッ!」
ネリー「パクッ! ~♪」
ダヴァン「フウ……。ネリーはともかく、天江サン……スゴイなついてマスね」
明華「けっこう長い付き合いなんでしょうか」
智葉「癒される光景だ。ちまっこくて可愛らしい……」
ハオ「……うーん」
ネリー「サキって食べ方キレイだね。テーブルマナーのお手本みたい」
咲「え? う、うん、えっと行儀作法に厳しい家だったから」
衣「衣もテーブルマナーには自信があるぞ!」
食事は和やかなムードのうちに終わった。
▼
衣服を脱ぎ、入り口を潜って浴室に入る。広々とした浴室。もうもうと立ち昇る湯煙の向こうには、檜で作られた大きな浴槽が目に入る。
衣「お風呂だー♪」
ネリー「サキー! 早くおいでよ!」
咲「う、うん、今いく」
促され、駆け出して先に入っていったネリーの背中を追う。当然一糸纏わぬ姿だ。後ろから続々と入ってくるレギュラーの面々や立派な浴槽、真新しさのある板張りの床、と萎縮したように視線を巡らせていると、くすくすとネリーに笑われてしまった。
ネリー「もーまだ恥ずかしがってるの? 何回も一緒したのに」
咲「誰かとお風呂なんておね、家族とくらいしか入ったことなかったから……まだ慣れないよ」
衣「咲ーっ!」
咲「わ、わっ、いきなり飛びついてきたら危ないですよ」
衣「洗いっこしよう、洗いっこ」
ネリー「それはネリーがする!」
衣「お前は別の日にもできるだろうっ」
ネリー「ぐ……しょうがない、今日だけは譲ってあげる」
目の前で繰り広げられるやりとり。ネリーは苦渋をにじませた呻きを漏らし、明らかに不満を託ちながらも、矛を収める。
気を揉んでいたが、いさかいが起こりそうな気配が去ってほっと息をつく。
二人は対面して以来、咲の前では張り合うように咲に構おうとする。不可思議な事に友好的な好意、あるいは執着を寄せる二人が、咲には実感が湧かず、不可思議な存在として映る。
咲「……」
争うような話に発展するのは何とかしたいと思う。明確な気持ちが生じる。杞憂となった今回に安堵しつつ、咲の胸の裡に複雑な感覚を残す。
明華「何だか仲間外れになった気分です」
智葉「は? 普通に私たちといるだろ」
ダヴァン「ハハーン」
ハオ「明華って結構ネリーと咲好きだね」
明華「私ちょっと隅の方にいってきます」
明華「僕の憂鬱と不機嫌な彼女~♪ その心の中には、ぼくの知らない誰かがいる~♪」
智葉「……何で歌ってるんだ」
ダヴァン「ミョンファに歌う理由を尋ねるのはムダってもんデスよ」
ハオ「日本の歌も着々と覚えていってるのか」
見えない後ろの方でそんなやりとりもあったが、咲の耳にはろくに入っていない。とりとめのない考え事が遮っていた。
衣「よーし、洗うぞー」
ボディタオルを持ち意気込んだ衣が咲の背後に回って身体を洗い始める。
咲と衣が互いに背中を流した後、寂しそうにしていたネリーの背中も咲が二度洗いし、三人で浴槽に入る。
咲「ふー」
衣「あ、ふやけてる」
つかるなり大きく吐息すると衣から言われる。
実際、ふやけていた。リラックスする時間。腰砕けになる湯の気持ちよさに胸中の僅かなしこりまでも洗い流されていくようだった。
咲「んー、今日は色々あったから疲れちゃった」
衣「そういえば咲たちは今日が二回戦だったか」
咲「それもあるんだけど……」
今日はその後も色んなことがあった。
渋谷の街で迷子になったことに始まり、いちごとの再会、はやりからの電話、咏を交えたキャンプの買い物ーーそして、宿に帰ってからのこれまで。
結果として咲の心境は清々しい。悲観していた現実は現実とならず、騒がしくも楽しい時間がさらに心を軽くしてくれた。
もの悩みの種というのはいくらでもあるものの、今考えて答えを出す必要というものはないように思える。ここ最近、咲を思い詰めさせていたものといえばーー二回戦でのパフォーマンスだった。
だから、その憂いが晴れたことで咲の胸の裡から暗澹たる気持ちはもはや払拭されていたのだった。
咲「ーーってことがあって。かくかくしかじか」
衣「まるまるうまうま。ほー、ちゃちゃのんか。ちゃちゃのん音頭の人だろう!」
ローカルアイドルといえど同年代の女の子、それも麻雀を志す共通点もあってか、かいつまんで今日あった出来事を話すと真っ先にいちごの話題になった。
佐々野いちご。優しくて、東京バナナが好きで、おしゃれな女の子。衣も一目置いているらしくいちごの話題で盛り上がりながら、自分も会ってみたいと言う衣に咲はくすりと悪戯っぽく笑って返した。
咲「神社にいったら会えるかもしれないね」
衣「神社?」
不思議そうな衣に神社での縁を話す。初めて会った日も、今日の再会も神社だった。立場を考えれば街中や試合会場で見かけても不思議はないが、ふらりと立ち寄った神社での遭遇に奇妙な縁を感じる。
衣「はー、疲れたよー」
咲「衣ちゃんも?」
衣「うん。トランプが効いた……あれは悔しかった」
そういえば咲と衣はこてんぱんにされていた。自信を粉微塵に打ち砕かれた咲も地味にショックを受けた。衣は、でろーんと湯の中につかってぶくぶくと湯を泡立てている。
衣「まー能力を使えば敵じゃないけどなー」
咲「え?」
思いがけない発言に咲は目を丸くする。
衣「うん? 咲だってあるよね能力」
咲「え、能力って使えるの……?」
衣「何を今さら」
何を今さらという顔をされた。
衣によるとトランプに能力を使えるらしい。
咲「……うーん?」
衣「とにかく次は目にもの見せてやる」
咲「でも使えるんだったら何でさっきは使わなかったの?」
衣「……能力に頼るのはやめたんだ」
考えるような間があった。秘めたものがあるのだろうか、咲にはその正体に見当がつかなかった。
衣「ところでさっきからやけに静かだな。ネリー……だったか? どうしたんだ」
話題を体よく逸らされた気がするが、たしかに咲も密かな疑問を感じていた。全然ネリーが会話に加わってこない。どうかしたのだろうか。
声をかけても反応がない。すぐ横で湯につかっているのに。ひたすら前方を見つめ、ぽけっと座っている。
衣「おい……大丈夫か」
咲「ネ、ネリーちゃん?」
ネリー「…………あー、うーん?」
呂律の回っていない声が返ってくる。そして。ようやくしゃべったかと思うと、ゆらゆらと身体が揺れ出す。首も前後に揺れる。
衣「舟をこいでいる……?」
もしかして、眠いのだろうか。
智葉「あー、疲れがきたか」
咲「先輩?」
こちらの様子を見かねてか湯の中を歩いてきた智葉がつぶやく。
智葉「座談会のために夜遅くまで頑張っていたからな……」
咲「座談会?」
なんだか優しげな表情の智葉。聞き慣れない言葉に咲は疑問を呈す。
智葉「咲は知らなかったな。来年あたりに聞くと思うがまあ定例行事みたいなものだ」
曰く、座談会とは日本人部員の運用、時には留学生の運用も話し合われる場らしい。軽く説明してもらい、咲は満足した。
咲「それで……ネリーちゃんがその座談会に?」
智葉「ああ。雑用も手伝ってもらった」
智葉「それに……二回戦まで気を張っていたんだろう。ムリもない」
後半の話が座談会とどう繋がるかわからなかったが、今聞き出すこともないだろう。急ぐべきはーー
智葉「よし、私が運ぼう」
先に言われてしまい、咲は焦って立ち上がった。
咲「あ、あの、私も運びます」
このままつからせておくのも危なっかしい。それにこんな状態のネリーを放っては落ちついて入浴などできないし、何より心配だ。
咲の提案に智葉は視線を滑らせて思案げに唸る。
智葉「ん……そうだな、わかった。その方がいいだろう」
衣「衣も手伝おう」
鷹揚に頷いてもらって安心していた矢先、咲は立ち上がった衣の提案に驚く。
咲「衣ちゃんはゆっくりつかってていいんだよ?」
衣「力を貸すというほど役には立てないが少しは足しになるだろう」
咲「でも……」
衣「何、衣はさしあたり観戦以外に予定はない。気を揉まないでくれ」
気を遣って無理をするような気配は感じさせない。ならいいのだろうか。断るだけの理由が見つからず、なし崩しに頷く。
視線を転じるとネリーは相変わらず舟をこいでいる。早く休ませてあげよう。湯冷めしないうちに運ばないといけない。
三人でせっせと運ぶ。途中、明華たちも上がろうとするのを止めたり、早々に寝ぼけだしたネリーがラッコのように咲にしがみつき離れなくなって苦笑したり、ということがあったが、無事服を着せて寝室にまで運び終わる。
この後、時間を置いて準決勝を控えた他校の分析が始まるまで寝かせてあげることが出来そうだ。
ーーこの時、咲は今後にさしたる憂いを持っていなかった。悩みは粗方解消され、姉との縁だって何とかなるかもしれない。
現状に不満なんてほとんどない。物事に対する姿勢、人との関係。何もかも今のままでいいとさえ思う自分が大きくなっていく。そのことに疑問を挟む気持ちもなくなりつつあった。
けれど。
咲は失念していた。自分以外が抱える、自分に関する問題というものを。
最後にフラグを立てて、と
投下ここまで 時間足りず焦りましたが何とか間に合ってよかった
乙
やっぱり最大の問題は宮永母なのかな
お風呂での衣との会話ほぼ敬語抜けてたすみません脳内補完しといてください
ネリー「サ、サトハ!」
智葉「ん?」
ネリー「犯罪はダメだよ!」
智葉「はあ?」
ネリーの懸命な告白もちんぷんかんぷん。そんな様子の智葉が不自然に集まっている皆のところへ歩み寄っていく。何人かが智葉との間でネリーの手元に視線をさ迷わせていた。智葉がネリーの手元を覗き込む。
智葉「お前らいったい何を見てーーーーあっ」
ぎょっとして間の抜けた声を出した智葉がペットボトルを落とす。
明華「智葉……これ落としませんでしたか?」
床に激突する寸前、智葉は急いでペットボトルを受け止めて、明華の質問におそるおそる振り向く。
智葉「……それ」
自分の衣服をまさぐる。慌てるあまりペットボトルを持った手とごっちゃになり、右に左に動いた容器が撹拌される始末。明確に認めずとも語るに落ちた状態だった。
だが、そんな智葉に殺到する視線は冷たくはない。衣やハギヨシといった接点の薄い者は流石に警戒の感は拭えないが、咲を始め臨海のメンバーはただただ困惑している、そんな様子だ。
ネリー「サトハっ、これどういうこと?」
ネリーが智葉の肩をつかみ、激しく前後に揺らす。
智葉「あ……いや、これはだな」
明華「智葉、正直に言ってください」
目が泳ぐ智葉の手を包むように握った明華が真摯に訴えかける。
ダヴァン「イマなら引き返せマス。犯罪はダメ、ゼッタイ」
智葉「ま、待て、違う! 誤解だ!」
手に持つペットボトルを落とさんばかりに狼狽えた智葉が顔色を悪くする。
智葉「それは手札というか……説得するのに必要な……」
ネリー「説得?」
智葉「ーーあっ、いやそうじゃなくて、その」
言い淀み、言葉尻が萎んでいく。この状況で狼狽をあらわにする智葉に周囲の目は自然とひきつけられる。数秒間の沈黙。
智葉「…………それは……部員の体調管理の一環だ」
喘ぐように智葉が弁明する。その言葉に聞いていた皆の顔に疑問の色が浮かぶ。
ネリー「体調管理?」
智葉「そ、そうだ、部員の体調管理は大事だろ?」
明華「ですけど咲さんに偏ってるような……」
智葉「案外咲は体調を崩しやすい、念のためだ」
ハオ「そんなに咲って体調崩してたっけ? 部活ほぼ皆勤ですよ」
智葉「うっ」
苦しげに呻く智葉。実際、苦しい言い訳だった。見守る咲の瞳も不安げに揺れる。
疑惑の趨勢を示すかのように数名が咲に寄って立つ。その中から一歩進み出たダヴァンが御仏のごとく慈悲深い微笑を湛え告げる。
ダヴァン「いいんデスよサトハ……この盗さーー秘蔵写真を眺めて、日頃の疲れを癒してると認めテモ」
智葉「ち、違う! ってそうだ、抽選会! 抽選会のことがあっただろ!」
抽選会。わずかながら臨海の面々の間に理解の色が広がった。
明華「そういえば体調を崩してましたね……」
智葉「う、うん、私もあの時は驚いた」
呟いて思い返すように明華は彼方を見やる。その脇で申し訳なさそうに目を伏せる咲。
だが、理解されたのは体調不良の事例だ。虚ろな言葉を繰る智葉からは心中の焦燥が透けて見えた。だからだろう。とんでもない発言が間を置かず智葉の口から飛び出す。
智葉「だが仕方ない、生理だったんだからな」
『は?』
何人かのつぶやきが重なる。その瞬間、智葉を除く誰もが意識を手離したように固まっていた。
咲「っ!?」
咲の瞳が限界まで開かれる。他の面々の表情にも、少し遅れて驚愕が浸透していく。
ハオ「ああ……あの時の。……生理だったんだ」
明華「なるほど……それならしょうがないですね」
ダヴァン「ソレであの耳打ちを……」
急速に広がっていく理解。しかし、それにつれてーー。
ネリー「……ねえサトハ」
ネリーが口を開く。複雑そうに顔をしかめている。焦りと緊張で一杯一杯の智葉はその様子に息を呑む。
智葉「な、何だ?」
ネリー「理由はわかったけどさ、それ言っちゃってよかったの?」
智葉「ーーーーあ」
ばっと咲の方を振り向く智葉。 咲の顔は、茹で蛸もかくやとばかりに紅潮していた。
咲「せ、先輩……ひどいです」
智葉「いやっ、これはだな……その」
咲の頬はまだ赤くなる。赤くなる。赤くなる。赤くなってーー駆け出した!
咲「言わないでって約束したのにぃ!」
智葉「違うんだ咲ぃ!」
智葉の呼びかけ、駆け去る咲の背中に向かって伸ばした手も虚しく、咲は弾かれるようにその場を飛び出し、襖を開けてその向こうに消えていった。結果として伸ばした方の手にあったペットボトルが、やはり虚しく揺れただけだった。
『…………』
突然の出来事に訪れる沈黙。とてつもなく気まずい。少なくとも、智葉は針の筵に座らされたかのような錯覚を覚えた。
少しして閉じられていった襖が静かに開く。
咲「あ、あの」
わずかに開いた隙間から、誰かが広間の中を遠慮がちに覗き込み声を出す。それは咲だった。
咲「信じてますから……写真をおかしなことに使ってないって」
言い終わったと同時、ぴしゃりと襖が閉じられる。走り去る足音が襖の向こう側から上がった。
再び沈黙のとばりが落ちる。
明華「……智葉、何か言うことは?」
智葉「ごめん……」
沈黙はすぐに破られた。
おつー
味方をもっと増やしていこう
龍門さんとこと宮永母はどっちが優位なんだろ
>>641
>>651
智葉は二リットルのペットボトルを手にしている。先ほど告げた通り切らしたジュースの補充にいってきたのだろう。
普通なら、ありがとうなり気楽に一声かけてもいい場面。しかし現実には沈黙が重苦しく広間を覆っており、皆一ヶ所に立って集まってやたらと深刻そうな表情を浮かべている。その上、視線の行方はこぞって智葉だ。
智葉は不思議そうにした。
智葉「どうしたんだ? 何かあったのか」
ダヴァン「い、いえ……何かっていウカ」
ようやくダヴァンが口を開くが口調は辿々しい。今実際多くに疑惑を持たれているのは智葉だが、その歯切れの悪さはダヴァンこそ弁明に回る下手人のようだ。
ネリー「サ、サトハ!」
智葉「ん?」
ネリー「犯罪はダメだよ!」
智葉「はあ?」
ネリーの懸命な告白もちんぷんかんぷん。そんな様子の智葉が不自然に集まっている皆のところへ歩み寄っていく。何人かが智葉との間でネリーの手元に視線をさ迷わせていた。智葉がネリーの手元を覗き込む。
智葉「お前らいったい何を見てーーーーあっ」
ぎょっとして間の抜けた声を出した智葉がペットボトルを落とす。
明華「智葉……これ落としませんでしたか?」
床に激突する寸前、智葉は急いでペットボトルを受け止めて、明華の質問におそるおそる振り向く。
智葉「……それ」
自分の衣服をまさぐる。慌てるあまりペットボトルを持った手とごっちゃになり、右に左に動いた容器が撹拌される始末。明確に認めずとも語るに落ちた状態だった。
だが、そんな智葉に殺到する視線は冷たくはない。衣やハギヨシといった接点の薄い者は流石に警戒の感は拭えないが、咲を始め臨海のメンバーはただただ困惑している、そんな様子だ。
ネリー「サトハっ、これどういうこと?」
ネリーが智葉の肩をつかみ、激しく前後に揺らす。
智葉「あ……いや、これはだな」
明華「智葉、正直に言ってください」
目が泳ぐ智葉の手を包むように握った明華が真摯に訴えかける。
ダヴァン「イマなら引き返せマス。犯罪はダメ、ゼッタイ」
智葉「ま、待て、違う! 誤解だ!」
手に持つペットボトルを落とさんばかりに狼狽えた智葉が顔色を悪くする。
智葉「それは手札というか……説得するのに必要な……」
ネリー「説得?」
智葉「ーーあっ、いやそうじゃなくて、その」
言い淀み、言葉尻が萎んでいく。この状況で狼狽をあらわにする智葉に周囲の目は自然とひきつけられる。数秒間の沈黙。
▼
広間は緊迫に包まれていた。
レギュラー陣の憩いの場として用意されたそこにはいま、臨海が誇る留学生に、智葉と咲、そして、飛び入り参加した長野屈指の打ち手である衣と、謎の多い華麗なる執事ハギヨシが輪になっている。
立つ者、座る者、膝立ちする者。畳の上に佇む彼らの体勢は様々なれど、ただ言えるのは輪の中心に屹然とそびえ立つものに押しなべて目を奪われているということ。
智葉「……ついにこのときが来てしまったか」
眼鏡をかけサラシを巻いて胸を潰した智葉がしゃがみこんでそれの開封口に手をかける。
凛然たる決意に燃えた濃紫色の瞳。そこから読みとれる覚悟は堅固を通り越して峻烈だ。
着替えたばかりの衣服が濡れてもいい! お風呂上がりでさっぱりしたものが更にその湯上がりたまご肌を投げ出してようやく得られる程の力!
智葉「それじゃ……開けるぞ!」
ーープシュッ。
捻る力を加えられたキャップは避難する暇もないほどあっさりと開いた。空気が抜ける音、次いで何かが競り上がってくる不気味な音。
智葉「お、おおー……おおう」
止めどなく溢れ出る白い泡は意味を成さない言葉をつぶやく智葉の健康的な白い肌を駆け上り、容赦なく手元から手首、一部は二の腕までも達した。
ダヴァン「イヤー、お疲れさまデスサトハ」
明華「しっかり見てました」
咲「わっ、すごい泡」
ハオ「うわ……べたついてますねここ」
智葉「ふう、それじゃあ飲むか」
衣「わーい、ジュースだー♪」
時は2050年8月9日ーー振りすぎた炭酸のペットボトルを開封する儀式は賑やかに執り行われた。
▼
広間から廊下に出ると、間髪入れず背後の襖が開いて衣が出てくる。
咲「あれ……衣さん?」
衣「いきなり抜け出してどうしたのだ、と聞くのは野暮か」
神妙な口調。意図するところはわかっている、と言いたげだ。衣の方を向いて困った顔を浮かべる咲に衣は続けた。
衣「さっきのイベントは中々に楽しかった。混ぜてくれてありがとう」
話が変わっていた。若干固い表情を崩して話す彼女の深い色合いの瞳に咲はたじろぐ。
先ほど行われたペットボトルの開封は特に深い事情はなく、度重なる振動で炭酸が危険な状態に陥ったペットボトルの処理を兼ねる遊びだった。
智葉はケジメがどうとか落とし前がとか言っていたが、他の大半は面白がって見ていただけである。
咲「衣さんだけ別っていうのもなんですから」
衣「うむ、空谷足音」
衣は嬉しそうに笑った。
衣「少しだけ、咲のいる臨海というチームがどういうところかわかった気がする」
その言葉には好意的な意味合いが感じられて、咲も思わず相好を崩す。
咲「衣さんのいる龍門渕もすごくいいところですね。皆さんお元気ですか?」
衣「ああ。息災だ」
それはよかった。彼女たちの姿は目にしていないが、そうでなければ衣は今ここにこうしていられないだろう。何かあればすぐに飛んでいくはずである。
衣「それで行き先はネリーとやらのところか?」
また話が戻った。というより最初からその話に来たのだろう。歓談の場をわざわざ抜け出して、咲一人に礼を告げるというのも変な話だ。
咲「うん。ネリーちゃんの様子見に行こうと思って」
衣「ただの疲れだろう? 風邪でもない」
咲「でもネリーちゃんは留学生だから」
留学生のネリーにとって大会中の体調は人一倍重い意味を持つ。厳しい目を向けられる立場にあるネリーへの心配は絶えない。
衣「そうか。そうだったな。心配もムリはないか」
衣「ーーひき止めて悪かった。確かめておきたかっただけだ」
気にしないでください、と言おうとしたが衣は止める間もなく踵を返し、開いていた襖の中に駆けていく。
断りを入れず部屋をあとにした咲が気になって追いかけてきたのだろう。といっても、広間では皆思い思いに過ごしているから、問題はない。
静かに閉められた襖から目を離す。ネリーの部屋を目指し、咲は各人の部屋へと繋がる廊下を歩き始めた。
▼
ネリーの寝室に足を運ぶとネリーはまだ寝ていた。
敷き布団の上ですやすやと眠るネリーを起こさないよう布団の傍に腰を下ろし、何となく寝顔を見つめる。
今日、色んなことがあった。いちごとの話、はやりとの電話と咏を交えた買い物、そしてーー二回戦。
ネリーは他の皆と同様、咲の隠していた打ち方、奇異な振る舞いを受け入れてくれた。
そればかりか……事情を話せない、話したくない咲の気持ちを察してくれた。
前半戦と後半戦のインターバルに駆けつけられた時は何を言われるかと内心恐々としていた咲だったが、別れる時には感謝と嬉しさばかりが募った。
しらず微笑みを浮かべネリーを眺めていた。それに気づき、気恥ずかしくなって時計に視線を滑らせる。
時刻は七時を半ば過ぎたところ。他校の分析などをするミーティングは九時からだからまだ少し時間がある。
こうして何もしないでいるのも特に苦ではないし、別段やることがあるわけでもない。練習は調整程度で済ませるつもりだ。
だからここで時間を潰すのは問題ない。ただ、自分がここにいるということは誰かに伝えておいた方がいいかもしれない。
立ち上がって寝室と居間を繋ぐ襖の方に歩いていく。一度ネリーの部屋から出ようと玄関に立て掛けてあった鍵をとる。木の札がついた真鍮の鍵。
ダヴァン「ああ、いまシタカ」
廊下に出ると、すぐ外にダヴァンが立っていた。
咲「メグさん?」
ダヴァン「ネリーの部屋にいったとコロモから聞いたノデ」
咲「そうでしたか……じゃあ、私の場所を訊かれたらミーティングまでここにいると伝えてください」
ダヴァン「お安いご用デス!」
快諾してくれたダヴァンにありがとうと伝え、笑いかける。
ダヴァン「ネリーのコト……頼みまシタ」
その言葉が、妙に重く肩にのしかかるような言い方だったので、咲は首をかしげた。
咲「? えっと……はい」
ダヴァン「今日の二回戦……サキは気づかなかったかもしれマセンが」
ダヴァン「サキが帰ってくるまで、控え室のネリーは何だか様子がおかしかった」
ダヴァン「できたら気にかけてあげてくだサイ」
真剣に告げられたダヴァンの忠告は寝耳に水だった。咲は驚きながらも神妙に頷く。
ダヴァン「ソレでは私はココでお暇しマス」
咲「あれ……帰っちゃうんですか?」
ネリーの顔を見に来たのだと思っていた。
ダヴァン「様子を見に来ましたが、サキがいるなら安心デス」
咲「あはは……光栄です」
そんなことを言うと、ダヴァンはくるっと踵を回らせて廊下を歩き出し、後は任せたと顔は向けないで軽く手を上げて去っていく。
ダヴァンの後ろ姿が廊下の角に消えるのを見送る。忠告が気になりながらも咲は来た道を引き返し、ネリーの部屋に戻る。
部屋は静寂に包まれていた。後ろ手に戸を閉め、玄関に入った咲は一つ息を漏らす。
咲「気を利かしてくれたのかな……」
咲を一人部屋に残し、去っていった。そういえばネリーを寝室に運ぶ時、半分起きていたネリーを咲一人に任せていった智葉と衣。あれもお膳立てでもするようだった。
まるで恋愛映画の男女を取り巻く周囲、仲立ちするかのようだ、と思うと苦笑が込み上げる。
ネリーとーー女の子と恋愛関係になる。現実離れした話だった。
勿論、他人事として理解はあるつもりだ。世界的に見れば同性愛に寛容な国が大半で、特に先進国、ヨーロッパでは受け入れられている。随分昔にキリスト教圏の大国で全国的に同姓婚が認められもした。
だが、日本が少数派だとわかってはいても、日本で生まれ、日本で育ってきた咲としては恋愛は異性とするものという意識が強い。
ーーって、そんなに深く考えることでもないか。
ちょっとした作為的な振る舞いにおかしな連想をして思考が脇道に逸れてしまった。埒もない。
ネリーはまだ寝ているだろうか。ミーティングの時間になったら否応なく起こさなければならない。そんなことを考えながら寝室へと足を運ぶ。すると、思わぬことが起こっていた。
咲「あれ、うなされてる……?」
布団にくるまれているネリーが、苦しげに顔を歪めている。咲は慌てて、しかし物音はあまり立てないように駆け寄る。
夏場にきっちり布団を被っているとはいえ、空調は適度に効いている。寝苦しいとは考えにくい。
だが、今も苦しそうなネリーが絞り出すように呻き声を漏らしている。どうするべきかと面食らいながら咲が見守っていると、やがてネリーは「……ごめんなさい…………ごめんなさい……」と、ぽつぽつと寝言を口にし始める。
咲「ネリーちゃん……?」
その場で膝立ちになってネリーの手を握る。柔らかい、咲よりも小さな手だ。
咲「もしかして……」
先ほど受けた忠告はこれと関係しているのか。ふと思った。頭の中で瞬く間に嫌な想像が膨れ上がっていく。
咲「あっ、そうだ、熱……」
遅れて思い至り、ネリーの額にすっと手を添える。幸い異常というほどの熱は感じられない。ほっとする。
ネリー「……ごめんなさい……ごめん、なさい……」
咲「……」
だが、寝言は止まらない。悪夢を見ているのだろうか。手を握ったまま見守っていた咲の耳にふと、
「…………許して……」
そんな声が聞こえてきた。懇願するような悲痛な声。
何のことかわからずに咲は戸惑う。けれど、赦しを乞うネリーの言葉に、咲の脳裏にはある言葉が浮かんでいた。
ーー人は誰でもまちがう。まちがえたら、反省して、もとの道に戻ればいい。
いつのまにか、咲はそれを口にしていた。意味のない言葉。寝ているネリーに届くはずもなく、依然として苦渋の表情は消えない。
とにかく、熱はない。うなされているだけ。
頭ではわかっている。だから、そんなに重くとらえる必要はない。
そうとわかっていても、理屈とは裏腹に胸中に広がっていく不安が止まらない。どうしたのだろう。胸騒ぎが止まらない。
咲「そうだ……」
ネリーの手を包み込んでいた両手から片方を離し、スカートの中をまさぐる。探していた携帯端末はすぐに見つかった。取り出して、時刻を確認する。
午後七時五十分。二〇五十年八月九日。
目に触れるものーーネリーの苦しげな寝顔。
耳から聞こえてきたものーー悲痛な響きを宿す寝言。
心で感じたものーーネリーの悪夢をなくしてあげたいという願い。
急いで数を採る。八卦の象意、大成卦から採った数を立卦し、判断する。
これは何の道具も必要としない、特別なもの。梅の花を見てさえ答えが出る。
咲「…………無上甚深微妙法……」
ーー無意識のうちに一言唱えていた。そんな自分に驚きながらも、咲は集中を切らさず、続ける。
答えが出る。
『犯したあやまちを告白する』
咲の頭の中には、未来のイメージが映し出されていた。
▼
ミーティングは予定通りの時刻に行われた。監督や智葉も交え、広間に集まった団体戦のレギュラー陣は他校の分析と対策の議論を行う。
智葉「Aブロックは千里山と阿知賀。この二校が上がってくることが決まっている。新道寺も含め、相手は問題なく絞り込めたな」
各人が配られた資料に目を通しながら、議論していく。鋭く切り込んだ分析に時折議論が白熱することもあったが、最終的にはどれも一応の決着を見せ、対策は固まっていった。
ネリー「うーん……」
咲「ネリーちゃん、大丈夫? まだ眠い?」
そんな中、畳に腰を下ろしたネリーと咲は話し合いから少し離れて体調の話をする。
ネリー「眠い、けど……まあ大丈夫……」
咲「ムリしないで。寄りかかったままでいいからね」
ネリー「……うん、ありがと」
まだ眠気と疲労が抜けていないといった様子のネリーは、咲の肩に身体を預けるようにして寄りかかりながら、会話する。
こうしたミーティングに参加するのは留学生の務めだ。普段の部活への参加が義務づけられるのと同様、少々の不調を押してでも出席しなければならなかった。
とはいえ、咲の心配は尽きない。先ほどうなされていた姿を目にしたこともある。
できるなら無理せず休んでいてほしいと思う。だが、ネリーが出ると決めた以上、あまり強くも言えない。
咲にできるのはネリーが少しでも楽になるよう肩を貸してあげるくらいだ。
智葉「悪いなネリー、もう少し辛抱してくれ」
他で議論を終わらせてきたらしき智葉が歩いてきて、複雑そうに顔をしかめて言った。
咲「あ、先輩……」
智葉「咲も見ていてもらってすまない。助かる」
咲「いえ……出席したっていう形が必要なんですよね?」
智葉「そういうことだ」
事実、ネリーはミーティングが始まってから特に発言していない。気づいていながらも周りもそれに触れることはない。
形式が重要なのだ。臨海の留学生は例外なくそれを求められていた。
智葉「ところで……どうだ、準決勝の相手は?」
咲「新道寺はさておき……千里山は思ったより楽に捌けるかもしれません」
智葉「阿知賀は?」
咲「……わかりません。楽に勝てるかもしれないし、苦戦するかも……」
咲は、記憶に残る阿知賀の先鋒の顔を思い浮かべる。
松実玄。抽選会の日に会った一学年上の人。
和が暴走した際、仲裁に入ってくれたりと感謝している相手だが。何よりも大きいのは咲として会っているということだ。
宮永咲を知る人にあの演技をするのは相当の覚悟がいる。やりにくいのは間違いなかった。
智葉「意外だな……千里山の方が格上だと思ったが」
咲「相性、でしょうか。打ってみないことにはわからないですけど、千里山の園城寺さんは私にとって相性がいい気がするんです」
智葉「一巡先を視る力……という噂だが」
咲にしてみれば、それは力の多寡次第で簡単に打ち崩せてしまう能力だ。能力に頼らずとも高い実力を持つなら別だが、能力のみが武器だというなら。
智葉「努々油断はしないことだ。仮にも準決勝まで勝ち抜いてきた相手なんだからな」
咲「……はい。肝に銘じます」
智葉は去っていった。これ以上の心配はいらないと判断されたのだろうか。
肩に寄りかかる重みの方に視線を移すと、ネリーは大分と眠いようでうつらうつらと舟をこぎ始めていた。
咲「このあと……ミーティングが終わったらどうする?」
ネリー「んー……寝る、かな」
咲「なら私もついてってもいい?」
ネリー「……え? いい、けど……サキの予定は大丈夫なの?」
咲「大丈夫。特にやることもないし」
暇人だと自分で告げることに苦笑を零しつつ肯定する。ネリーも断りの言葉は口にせず、受け入れるような雰囲気だ。
咲「あ、そういえば……」
ふと思い立ち、配られた資料に目を落とす。
ネリー「どうしたの?」
咲「知ってる人の学校はどうなってるかなって」
資料の中には生徒別のデータだけでなく、試合の勝敗も記載されている。今まで取り分けて調べようとはしなかったが、いちごのこともあり、知っておこうと思った。
資料に目を通していくと、鹿老渡は……やはり一回戦で敗退している。
クラスメイトや和のいる清澄、姉のいる白糸台は明日の二回戦の結果待ち。
洋榎のいる姫松も二回戦の結果待ち。
そして、もう一校ーー神社で会ったもう一人が所属する宮守女子。
咲「あ……」
ネリー「何かあった?」
清澄、姫松、宮守、永水。
明日行われるBブロックの二回戦、そのうち三校が知っている人のいる学校だった。
そのことを伝えると、ネリーは「どこを応援したらいいか迷うね……」と微妙な顔をした。
咲「うん……」
ネリー「まあ、あんまり気にしすぎてもしょうがないよ」
咲「そうだね」
その通りだった。資料を閉じ、笑顔を作って、努めて気にしていない風に装う。
ミーティングは恙無く幕を閉じ、義務から解放されたネリーは咲を伴って自室へと帰っていった。
▼
咲「起きてて大丈夫なの?」
ネリー「んー……ある程度寝たから今はすっきりしてる」
午後十時過ぎ。咲はネリーの部屋の居間でネリーと共に座っていた。
ネリーは、しばらく眠ったのち起き出してきて「サキに退屈させるのも悪いから」と居間に顔を出してきた。
咲は慌てて止めたのだが、ネリーは今は寝ないと言って聞かず、結局は咲が折れて二人くつろぐことになっている。
咲「ムリはしないでね……身体に障ることしちゃダメだよ」
ネリー「わかってるわかってる」
鷹揚に受け止めるネリーだが、咲の心配は拭えない。
ネリー「まーテレビでもみてヒマ潰そっか」
テーブルの上に乗ったリモコンを手を伸ばして掴むと、ネリーは備えつけられたテレビに向かって突き出しながら電源ボタンを押す。
最初に映ったのはニュースだ。といっても、長い尺のある番組ではない。番組と番組の合間にある数分程度のニュースコーナーだった。
日経平均株価が連日高値を記録ーー。
渋谷周辺に通り魔出没か、付近の住民に注意を呼びかけーー。
南アフリカのヨハネスブルクにて犯罪率が150%を突破ーー。
矢継ぎ早に報道が流れていく。
ネリー「犯罪率150%?」
二人してついテレビの画面に見入っていると、ネリーが不可解だという顔をした。
ネリー「どういうこと?」
咲「ああ、それはね」
海外の治安が悪い場所では、犯罪率が100%を超えることがある。
これは、例えばヨハネスブルクの駅周辺半径20キロ以内で海外旅行者が強盗、追いはぎに遭う可能性が100%、
その帰りにもう一回強盗、追いはぎに遭う可能性が50%、合わせて150%となる。
ネリー「へー、なるほどね」
咲がそう説明すると、ネリーは得心がいったと頷く。
ネリー「でもよくしってたね?」
咲「えっと……ついこの間、私も教えてもらったんだ」
ネリーがそうかと相づちを打ち、テレビの画面に視線を戻す。
ニュースコーナーはすぐに終わり、その後はバラエティー番組が始まっていた。
ネリー「そういやあのリューモンブチの……コロモは?」
咲「衣さん? 衣さんならさっき龍門渕の人たちに連絡するって言ってたけど」
それを聞いたのはミーティングが始まる前だ。時間が経っているから、今はどうしているかわからない。
ネリー「ふーん、リューモンブチか」
ネリーが意味深につぶやく。
ネリー「リューモンブチはナガノで……サキもナガノからきたんだっけ。そういう繋がり?」
咲「え?」
ぎくりとした。偶然出身地が一緒だが、実際ははやりを介しての紹介だ。
咲「……」
言葉に窮して黙り込む。
はやりとの関係は、咲にとってまだ明かす心の準備ができていないことだ。
はやりとは出会った場所が場所で事情も事情だ。つまり、賭け麻雀に関することはまだ打ち明ける勇気を持てないでいる。
それは、賭け麻雀に手を染めた事実が発覚することへの恐れというより、皆を巻き込んでしまいかねない恐れが心に影を落とす。
団体戦のチームメイトは皆、留学生だ。もし仮に出場が危ぶまれることになれば、結果を求められる彼女たちへの影響は計り知れない。
それにーーもし万が一、不祥事を表沙汰にしないよう臨海が動くとしたら。皆に隠す片棒を担がせてしまうかもしれない。
ネリー「?」
咲「あ、えっと……」
押し黙る咲に何を思ったか、ネリーは不思議そうに言い淀む咲の姿を見つめる。
何もかも白状してしまいたい気持ちもある。しかしそれは、どんな結果を招くにしても、このインターハイが、少なくとも団体戦が終わってからがいいのではないか。
それからなら……皆に軽蔑されようと、嫌われようと、打ち明けることはできる。
ネリー「……話せない?」
咲「……ごめん、今は……」
賭け麻雀の事があって以来、度々顔を出すよそよそしさに場の空気がぎこちなくなるのを感じながら、咲は身を縮こまらせる。
言葉を弄せば幾らでも言い訳はつく。だが、隠し事はあっても、嘘だけはつきたくなかった。ネリーにも臨海の皆にも。
沈黙が訪れる。お互い口を閉ざし、場違いに明るい音を垂れ流しているバラエティー番組に目を落とす。
自分は何をしにきたんだろう。ネリーを心配してきたというのに。場の空気を悪くしていては世話がない。
咲「今日は……そろそろ自分の部屋に帰るね」
ネリー「……わかった! また明日!」
自省し、心の底に深く沈澱するような後悔に苛まれながら、咲は場を取り巻く空気の悪さに先ほどミーティングで触れたある人物の顔を思い浮かべる。
ーー愛宕さんと話すときも、いつもこんな感じだったな。
ここまで
前の更新で触れた咲以外が抱える、咲に関する問題というのですが、ネリーが同性の咲に恋心を抱いてるとかって話にはなりません
苦手な人も好きな人もいるかと思うので前もって明言させてください
▼
物事がうまくいかないとき、まず自分の行いを省みる。自助努力はすべからく前提とし、冷静に分析する。弥勒菩薩の下に救済が約束されているとしても、自分だって頑張らないといけない。
頼みとするところがなくなることは悲しいし、どうしようもなく不安になることだってある。けれど我慢しないといけない。人は誰しも自立して生きることを求められるところがある。
助けを求めてはいけない。救いを望んではいけない。友達でも、本当に大切なことは秘めておかないといけない。
何よりも。
自分の願いを誰かに託してはいけない。
一番ヶ瀬半兵衛の後家が救いの糸を垂らした神父にも病床の息子を託さず、ギルバート・ブライスが恋人に相応しくあろうと自らを厳しく律し続けたように。
できれば廃人同様のモルヒネ患者のように家の裕福さに価値観を毒されずに。
それが咲の理想なのだ。
▼
目覚めは良好だった。朝日が顔を出し、日中の蒸し暑さに比べたら幾分涼やかな寝室を後にして、冷房のきいた廊下に出る。
人気の少ない早朝の廊下はどこか静謐だ。東京でも指折りの高級宿ということもあってか、年季の入った板張りの廊下には風情があり、漆喰の壁も然り。
道中すれ違った老年の客に会釈を返す、若いのに早起きして感心だと誉められた。
咲もいつも早起きというわけじゃない。おそらく大会中の緊張や無意識下の興奮が絡んで偶然早くに目が覚めただけで、普段はむしろぐっすりと寝てしまうほうなのだ。
とはいえそんな説明をしても謙遜に受けとられかねないので、首から胸元に提げられたペンダントを見つけ、綺麗ですねと素直な感想を伝える。
するとその人は目を輝かせ、これは東京に就職して親元を離れた孫がくれたもので、今日はその孫に誘われて観光がてら食事にいくのだ、と嬉々として話しだす。
頬を緩ませ、その話をする老人の喜びようといったら遠足を楽しみにする子どものようで。少なからず共感した咲は微笑ましさに笑みを湛え、祝福する。
家族というものはいくつになっても、いや歳を重ねれば重ねるほど大事に、かけがえのないものへとなっていくのではないだろうか。
自分にとっての姉。自分にとっての母。自分にとっての父。
家族との好事を喜ぶ老人の姿が自分の家族や自分に重なり、より身近に感じられたのだ。
何より。
今目の前にいる人が嬉しそうに笑っている。それは正しいも悪いもなく常に善いこと。未来が祝福されたものであってほしいと願う気持ちは止められなかった。
とりもなおさず見知らぬ老人と談笑を交わす。そんなとき。
智葉「咲か?」
背後から声をかけられ、咲は驚いて振り返る。
その先にあったのは咲もよく知る先輩の姿。紫がかった優美な黒髪を下ろし、浴衣を羽織った出で立ちだ。
咲「先輩……」
智葉「何だ、会っていきなりトーンダウンか。ちょっと傷つくぞ」
咲「あっ、いえ! 違うんですよ、今のはがっかりとかそういうんじゃなくて!」
みる間に慌てふためく咲の姿に智葉はくすりと笑った。
智葉「冗談だ。わかってるよ」
その顔があまりにも不機嫌や不快から縁遠かったので、咲は脱力する。
咲「な、ならどうして罪悪感刺激するようなこと言うんですか……」
智葉「わかっててからかってるんだ」
咲「なお悪いですよ!」
衝撃の理由に愕然とし、吠えたてる。
智葉「なんだろうな……私たちの場合、ファーストインプレッションがアレだろ?」
咲「は、はあ……お世辞にも、いいとは言えませんけど」
入部当初の振る舞いは今となっては消し去りたい過去の思い出だ。
智葉「だから本能レベルでぎゃふんと言わせたい衝動が……」
咲「え、そうだったんですか……?」
そんな事情があったのか。ごめん被りたいものではあるけれど、元をたどれば自分の不始末。甘んじて受け入れるべきだろうか。
智葉「ああ、だから不意打ちで胸を揉んだりしても」
智葉「なめ回すように風呂場で視線を這わせたとしても」
智葉「ついでにうっかり先っちょだけ入ったりしても」
智葉「我慢してくれ」
咲「できませんよ!?」
とんだ暴論だった。
智葉「悪い悪い、これも冗談だから」
咲「大体なんの先っちょなんですか……いや冗談ならいいんですけど」
釈然としない気分で無駄に泰然と構える智葉を眺めていると、くすくすと笑い声が漏れ聞こえてきた。くだんの老人だ。
咲「あ……」
智葉「失礼しました、どうもこちらの彼女とは同じ学校のものです」
大した動揺もなくそつなく名乗った智葉はさすがだと思う。仲がいいね、と笑って言われ、咲は恥ずかしいやらなんやらで恐縮する。微笑ましいものを見つめるような視線だったからことさらにだ。
それから老人も交え二言三言交わして、頃合いを見計らった智葉が「では我々は朝食のあと練習がありますので」と切り上げ、その場をあとにする。
広間での朝食の時間が迫っていた。
▼
衣「わーい、朝食だー」
広間に用意された席につくと、当然のように衣がいた。
咲「衣さん、おはようございます」
衣「おー、おはよーっ、咲!」
咲「な、なんかテンション高いですね?」
衣はいつにもまして上機嫌だった。何か喜ばしいことでもあったようだ。発言に合わせて動く身ぶり手振りがそれを表している。
衣「うむ、聞いてくれるか!」
どうやら気づいてほしかったようで、まさに満面といった笑みを浮かべる衣。
衣「大富豪で見事リベンジを果たしたのだ!」
咲「あ、きのうの?」
衣「そうだ、昨晩は広間で皆退屈していたからな!」
咲がネリーの部屋にお邪魔していたタイミングだろうか。おそらくめでたいことだ。衣は清々しくて仕方ないとばかりに頬を緩ましている。
咲「わあ、おめでとう!」
衣「ふっふっふっ、きのうは満月だったからな。倍にして……いや、十倍返ししてやった!」
倍と十倍では相当な開きがあるが、たぶんドラマの引用だった。
満月の無駄遣い。咲の頭にふとそんな言葉が浮かんだが、水を差すのはやめておいた。
咲「私もリベンジ、できるかなあ……」
衣「何を弱気になることがある。咲なら余裕だ、けちょんけちょんだっ」
雑談している間に配膳されてきた食事をつまみながら、会話を続ける。
衣「そういえばネリーとやらの姿が見えないな」
咲「うーん、まだ寝てるのかな?」
さすがに起こしにいくのは憚られて、状況に任せたままである。
ハオ「ネリーならさっき見かけたよ」
斜向かいに座ったハオから教えられる。
咲「そうなんですか?」
ハオ「ここにくる途中でね。ちょっと外の空気吸ってくるっていうからそのまま別れたけど」
衣「起きてはいるのか」
なら、心配はいらないのだろうか。ダヴァンの忠告があって神経を尖らせている咲としてはやや不安が残る。
ネリー「おはよー」
そんなことを思っているそばからネリーが広間にあらわれ、のんきに挨拶を飛ばす。
ダヴァン「おっ、きましタカ。おはようございマス」
智葉「おはよう。今日は日中練習があるから入れとけよ」
明華「おはようございます」
噂をすればなんとやらで出現したネリーにぽかんとしたが、少し遅れて咲たちも挨拶を返す。
ネリー「ふあーい」
いつもの民族衣装めいた格好とは異なる浴衣の袖で寝ぼけまなこを擦りながら、ネリーが気の抜けた返事をする。
足どりもふらふらとし、見ている咲はやきもきしながら見守ったが、やがて咲の隣の空き席へと腰を下ろして食事を始めた。
ネリー「うーん」
ネリー「もぐもぐ……」
ネリー「うげー……魚だ」
何となくそのまま眺めていると、ネリーは香草焼きに目を止めてげんなりした顔をする。
紅白の混じった不思議な形状の帽子は健在で、そうしていると愛玩される動物めいた愛嬌があった。
咲「骨、とろっか?」
だから、ついつい世話を焼きたくなって咲は声をかけていた。
しかし。
ネリー「えっサ、サキええああうえあっ」
ネリーが思いもよらず奇妙な反応をして「え?」と声を漏らす。
ネリー「い、いたの?」
咲「最初からいたけど……」
ネリー「い、いたなら言ってよっ」
めちゃくちゃな文句だった。言っても何も、包み隠さずここにいるのだ。何を言えというのだろう。
(っていうか……私の隣座ったの、私がいたからじゃなかったのかな)
ともかく、ネリーの行動が謎だ。特に気になるのはネリーが席を選んだ基準……自分の隣だから、という理由ではなかったとすると。なぜだかむっとなり、もやっとした。
咲「もう……とりあえず骨とるからね」
強引に流れをやっつけて処理を始める。
ネリー「う……ごめんサキ、寝ぼけてた」
咲「別に謝らなくてもいいけど……」
考えてみれば、そんなひどいことをされたわけじゃない。存在に気づいてもらえなかったのは地味に傷つくが、無視されたわけでもない。
智葉「よし、皆食ったら打つぞ」
衣「衣も入っていいのか?」
智葉「ああ。こちらこそ頼む」
一方、他所では練習に関する話が決まっていた。
ここまで
今回、日が空いた割に更新量が少なかったのは今回更新の冒頭に入れるはずだった家族の回想が明日に回した方がよくね?と思ったからで、その回想書いた上で抜いたので文量少なくなりました
ちなみに咲……さん?ちゃん?が家族への思いを描写した部分、父の界さんが最後ですがそこに他意はありません
咲は家族のことは分け隔てなくほぼ平等に好意を持っている、つまり愛してますのでお父さんを蔑ろにする咲などいない
長くなりましたが余談はこのへんで
引用に気づいていただけたら望外の喜びです、後々掘り下げますので
というか本当更新量少ないな…すみません
続いて襖が開き、監督が顔を覗かせる。
アレクサンドラ「皆、いる?」
入ってきて居合わせる顔ぶれを見渡していく。欠員がないことを確認し、ハギヨシを供につけた衣がいることも認めると、
アレクサンドラ「貴女が天江さんか。挨拶が遅れたけどいらっしゃい、臨海へようこそ」
薄く笑いかけて歓迎する。
衣「こちらこそ挨拶が遅れた。よろしく頼む」
恭しく返した衣は自分がここにいて問題はないかと尋ね、智葉たちを介して出した許可で問題ないと認められる。
アレクサンドラ「練習にも参加していってもらえるのかな? 前もって許可は出しておいたんだけど」
智葉「ちょうどその話をしていました」
衣「是非お願いしたいと思っていた!」
その話を聞くと監督は上機嫌に相づちを打つ。
アレクサンドラ「そう。それは有り難い。うちは選手の特性上、対外試合を組みづらくて困っていてね」
衣「他校との試合はしていなかったのか?」
アレクサンドラ「国内では、そうなるか……海外のチームとの交流で賄っていたけど」
そういえば、日本に限れば他校との合同練習などはなかったな、と咲は思った。
ネリー「んーむむっ……他校との試合とかなくてよかったよね。正直、めんどくさいし」
箸の扱いに苦戦しながら食事しているネリーが言う。
ハオ「こっちから出向かなくていいから?」
ネリー「うん!」
ダヴァン「私としテハ……出向いてみたくもありマスが」
明華「ご当地のカップ麺が買えるからですか?」
ダヴァン「ハイ!」
智葉「……やれやれ」
二人共にらしい発言に咲は苦笑いした。
▼
朝食後、食休み程度の時間を挟み練習が始まる。
参加するメンバーは衣を含むレギュラーと、それに準じた実力を持つ日本人部員。合わせて十名ほど。データ収集も兼ねて他は観戦に出向く予定だ。
準決勝を明日に控え、引き締まった空気の中で卓が整えられていく。準備は部員総出で行い、瞬く間に終わる。
明華「そういえば咲さんはどちらで打つんですか?」
整った卓の前。そこで並ぶ格好になった明華にふと尋ねられて、ぼうっとしていた咲は数瞬反応に窮した。
咲「……え?」
明華「打ち方です。いつもの……嶺上開花を主体にしたものか、二回戦で見せた打ち方にするのか気になって」
固い雰囲気ではなく世間話でもするように気楽な問い。しかし咲にとってそれは、答えたくないほどではないものの重い意味を持つ。
咲「えーと……いつものじゃないほうでやるつもりです」
幾らかの逡巡を内に抱えながらも間を置かず答える。すると、
明華「そうなんですか」
浴衣から着替え、いつもの服装をした明華の顔にふわりと柔らかな笑みが浮かぶ。
明華「少し楽しみです。咲さんのあの打ち方は色々と興味深いですから」
咲「……」
するすると話が運ぶ。身構える暇もない。咲としても意外な印象に打ちのめされてしまい、呆けてしまう。
明華「? どうかしました?」
咲「い、いえ……」
歯切れ悪く取り繕う。不思議な気分だった。
ぽややんとした空気を発する明華を前にすると警戒心が働かないのだ。どちらかというと壁を作るタイプの咲が、あっさりと言いづらい話にも答えてしまうほどに。
奇妙なことだ。内にずかずかと踏み入られたとしても不快に思わせない。何かと調子を狂わされる。
ーー同時に、長らく覚えていなかった懐かしい感覚でもある。
掴みどころのない立ち振舞い。不思議な人柄。
明華のそんなところは少しだけ、思い出の中の、大切な人の面影に重なるのだ。
ネリー「サーキー、これ反対側持って~……」
両手で機材を抱えたネリーが横切り、救援を飛ばしてくる。
咲「わ、……っとと」
ぐらついた先端を慌てて支え、反対側を持つ。
ネリー「助かったー、ありがとサキ」
咲「これプロジェクター? 一人で無茶だよ……って、キャスターなかったの?」
ネリー「なんか壊れてたみたい、ついてないよー」
ここまで一人で運んできたのだろう。その事実に咲は驚く。
お金も絡まないこんな運搬作業に精を出すなんて。
智葉か誰かが報酬に金銭でも提示したのか。いや、前日から疲労がたまっているというネリーに、勧んでこんなことはさせないだろう。
よくわからない疑問にぶつかる。明華の印象に思案する間もない。結局、軽く考えているうちに対局の準備は完了し、ネリーに大事ないならいいかと片づけて卓につく。
衣「久々の咲との対局、心が躍るぞ!」
ハオ「いきなり気が抜けないですね……よろしくお願いします」
明華「歌ってもいいですか?」
同卓者は衣、ハオ、明華。
咲「……よろしくお願いします」
咲は幾らかの緊張をもって強敵がひしめく卓に臨んだ。
▼
幼い頃、咲はよく姉の後ろについて回った。
それは、家で共に過ごし遊ぶ機会が多かったからかもしれないし、父母が仕事に忙殺されがちな事からくる寂しさ、あるいは、二つながらも年長者の姉の大人びた雰囲気に憧憬を抱いていたからか。
ただ言えるのは消去法で慕ったのではないということ。幼い頃の咲は今ほど引っ込み思案ではなく、今よりも明るく社交的な性格をしていたから、友達だってそれなりにいた。当初、咲は生活を送る上で姉の庇護を必要としなかった。
だが、姉妹を取り巻く環境は変わっていった。中でも大きく変えたのは麻雀。それが家族の関係を一変させた。麻雀がなければ、悲しいことは起きず、今のように姉と離ればなれになることもなかった。
幼すぎた咲はそう勘違いしてあやまちを犯した。プラマイゼロ。決してやってはならなかったこと。
今の幼い咲にはそれがわかる。
ーーだから、知恵が足りないのだと思った。智慧ではなく、知識でもなく、知恵。ワラで出来ていて脳みそがないために何の役にも立たない、そんな自分を。変えなければいけない。中学に入る前にそう思ったのだ。
ネリー「やった、ネリーが一位~」
緊迫した勝負が繰り広げられる中、卓を囲んでいたネリーが勝ちどきを上げる。うきうきとしてご機嫌だ。
ダヴァン「無念デス……」
衣「む、届かなかったか」
対する同卓者はダヴァンと衣、そして咲。ちょうど今終わった対局は衣と咲が追い上げ、僅差でネリーがトップに立った。
それまでトップの割合は咲が大方を占めていた。今まで隠してきた打ち方をし、咲からは相手の打ち筋を見知っているのもあって優位に場が進んだ故の結果だ。
といっても咲が圧倒する展開は少ない。偶然が重なってたまたま大差をつけることはあるが、局面は一進一退、地力が高く能力を持った者も多いという顔ぶれのため、好き勝手もできない。
衣「くっ……慚愧に堪えんな」
夜にはほど遠い朝のためか、調子が出ない様子の衣が不満そうに唇を噛む。
十分すぎるほど脅威的な支配を発揮しているのだが、満月の夜に比べれば生易しいプレッシャー、あるいは想像する以上に歯がゆさを堪えかねているのかもしれない。
それでもほとんどの半荘で一位か二位につけているのは流石というべきか。それはともかくも。
ネリー「ふふーん、やったやった。ねねっサキ、見直した?」
咲「ホント強い……この打ち方で負けちゃうなんて」
今にも席を立ってステップでも踏みそうな調子ではしゃぐ。そんなネリーに静かな驚きをもって咲は答える。
実際、はやりも言ったように。この打ち方が普段の嶺上を主体にしたものより数段強いことを咲は自覚している。
そして。
衣との初対局を除けば家族麻雀以外でこの打ち方を披露したことがないとはいえ、勝とうとして勝てないというのは稀で。それこそ、姉や母、一部の限られた相手しか歯牙にかけないのだ。ネリーは間違いなくその一部の側に属していた。
衣「ふ、ふん、ようやくか。衣は一足先に咲に勝っていたぞ」
ネリー「今の対局は三位だったけどねー」
衣「うっ」
ぐっと押し黙る衣。二万五千点持ちの三万点返し、それもハコ下なしとなれば順位は時々で変わって当然、というのは皆承知の上だろうが、突かれて痛いには痛いらしい。
ネリー「ちょっとずつ慣れてきた! そろそろトップ率落としてあげるからね、サキ!」
まだ午前中、同卓者も立ち替わり違ってくるので一人に対し半荘二、三回ほどしか当たっていない。ただネリーは、わざわざ見学に回って咲を見ていた。そろそろ手の内も割れてきたようだ。
それこそ、靴下を脱がなければ仮初めの優位も保てないだろう。確信めいた予感がよぎる。
衣「……」
衣の視線が咲の足下に向く。
この場で衣だけは咲と靴下の関係性を知っている。だが、咲に脱ぐ気はなかった。
(昔の感覚にのまれちゃいそうになるから……あんまり脱いだ状態で打ちたくないな……)
あくまで練習だ。ただでさえ、この打ち方には忌避がつき纏う。ーーこの打ち方で打っていると思うのだ。自分が選んだやり方……二回戦で見せたような『パフォーマンス』が、果たして正しかったのか。どっぷりと思惟に沈んでいると、プロジェクターの画面がふっと瞬き、点灯する。
ネリー「あ、そろそろだったね?」
智葉が操作してつけたらしい。視界の端にリモコンを持った智葉が映った。
『第七十一回全国高等学校麻雀選手権、夏のインターハイBブロック二回戦、選手の入場が始まりますーー!』
不意打ちに耳に入ってくるテレビ中継。どくんと心臓が跳ねた。
衣「……ほう。始まったか」
『まずはこの高校! 北海道より初出場の有珠山高校ーー』
咲たちの卓はちょうど半荘が終わったところだったが、他も手を止めて画面に見入っている。一方の咲はそんな周囲を窺う余裕もなく、画面に釘づけだ。
京都、八桝高校。北神奈川、東白楽高校。
三校の紹介、当惑する咲の心境をよそに実況は滞りなく進み、最後の一校になってーー実況中継の向こうで、一際大きく歓声が轟いた。
『白糸台高校! インターハイ二連覇中の王者からはこの人、インターハイチャンピオン・宮永照選手ーー!』
画面の中で呼ばれた少女が、悠然と入場していく。それは、紛うことなく姉の姿、思い出の中の面影を残す凜然とした面立ち。
その横顔に見とれていた。入場が終わり、画面が切り替わったあとも未だ余韻に浸る。
わずかな雑音を残し静まり返った部屋で、誰かが息を呑む音がやけに響く。
誰かの視線を感じて、振り向く。見つめていた視線の主はネリーだった。
ネリー「……今のミヤナガテルってサキのお姉さん?」
咲「え?」
突拍子のない、まさかされるとは思わなかった質問に目をしばたたかせる。
知っていても遠慮するだろうという意味ではなく、知っていると思わなかった。
咲「……冗談で言ってる?」
ネリー「ううん、知ってて訊いた。お姉ちゃんだよね……まさかあっちが妹とかじゃなくて」
おどけるネリーにも今は軽口を叩く余裕はない。
咲たちの会話は当然同卓していた者にも、隣り合う卓のメンバーにも筒抜けだったから注目を買う。あちこちから視線が飛んでくる。
咲「知ってたんだ……」
驚きは大きかった。また、今さらながら隠していた罪悪感が首をもたげる。
ネリー「……隠してた?」
咲「うん……」
ごめんね、と小さく呟く。
ネリー「あの、ね……サキ」
咲「……」
ネリー「ネリーが言いたいのは怒ってるとかそういうんじゃなくて、その」
ふらふらとネリーの視線がさ迷う。
咲は何となくその言葉の先を予想していた。
だが、それこそ、知っていても言わないでおいてくれると思っていた。
ネリー「二回戦のあれって……あの人が関係してる?」
どうして。二回戦のときは訊かないでくれたのに。
頭の中でぐるぐるとその言葉が反響していた。聞き間違い、空耳、言い間違えーーいや、認めなくてはならない。
尋ねるネリーと交差したその瞳が風に煽られる蝋燭の火のように頼りなく揺れているのが印象的だった。
咲「ごめん……それは言えないよ」
部屋の静寂を打ち破る中継の大音声が上がる中、はっきりと咲はその答えを口にした。
▼
漠然とした疑問に囚われながら牌を打つ。
明華「それ、ロンです」
あえなく振り込む。上の空だった。我に返ってみれば、あり得ないミスで、止めていた待ち牌を自ら切っていた。
咲「あ……はい」
点棒を受け渡す。明華に妙な顔をされた。
明華「あの……大丈夫ですか。さっきから暗い顔してますけど」
咲「それはその……すみません」
笑ったほうがいい。少なくとも、沈んだ顔は隠すべきだった。
明華「そうではなく」
困ったように明華が笑う。
明華「ネリーも、何か言ってあげてください」
同卓するネリーに振る。残る一人である智葉はむっつりと黙り込んでいる。
ネリー「…………」
明華「困りましたね」
自分一人では手に余る。そんな様子で呟くが、智葉は依然として沈黙を守る。
明華「……続けましょうか」
ひっそりと息をついた明華が再開を促す。まもなくして対局の火蓋が切られる。
だが、勝負に熱がこもることはなかった。ひたすら沈黙が続く。
その間、咲はずっと考えていた。先ほどのネリーの言葉。そして自分がやっていることへの疑問。
大会を通して咲がやろうとしているのは姉との復縁だ。
姉とはもう六年会っていない。夢に見て会うなんて馬鹿らしいこともあったが、咲と姉との間には六年もの空白が横たわっている。
生半可なことで取り返せる年月ではない。六年もあれば。六年も会わずにいれば。思い出なんて少しずつ消えていって、環境を移した先で人間関係が一新される。
だから、興味を失われてしまった姉に振り向いてもらわなくてはならない。
仲を取り持つという母の言葉に甘えてはいけない。人任せにしてはいけない。そんなことはワラしか頭に詰まっていないカカシにもわかるから。
でも、咲がやっていることはーー。
意識せずとも思考が回る。鍋の中身を玉でかき回すように、ぐるぐるぐるぐる、勝手に回る。
明華「♪~ ツモ。……私が一位ですね」
お世辞にも嬉しそうには聞こえない宣言に意識が浮上し、現実を認識する。対局は終わっていたようだ。結果は、さんさんたる有り様だ。対局に集中できず悪し様に罵られても仕方ない腑抜けぶりだった。
咲「……すみません」
人には聞こえないよう口の中で呟く。謝っても空気を悪くするだけだ。しかし空言でも口にせずにはいられなかった。
咲にだってわかるのだ。山階左大臣が身なりの恥を知るように、競技者としてあるべき様から外れている痛烈な自覚は咲を打ちのめし、形だけ取り繕うことを躊躇わせる。
ネリーのことにだって見当がある。
もしかしたらネリーがあんな話をしたのは、今日になって踏み込んできたのは、何か事情があるのかもしれない。
昨日に知らされた疲労の蓄積が起因していたり、ダヴァンの仄めかした異変に何かしら関係していたり。
知りたい、という気持ちは雪が降り積もるように蓄積し重なっていく。だが、それだけは訊けない。
明華「ええと……次、打ちます?」
明華の控えめな問いが卓に座る三人に向けられる。咲は、誰か手の空いている人に入ってもらって席を立とうとした。個人的な心情に気遣わせるのはいい加減悪いと思ったから。
だが、思わぬ人物が機先を制した。ネリーだ。
ネリー「あ、あの……サキ」
おずおずと口を開く。その口を持つ小ぶりな顔がゆっくりと咲のそれに合わせられる。
ネリー「その打ち方ってさ、自由に変えられるの?」
ネリー「変えられるんだったら……ネリーは、前の打ち方のほうがいいな」
その言葉が、咲に与えた衝撃は甚大なものだった。三半規管を揺らされ平衡感覚が狂ったように咲を震撼させ、視界をも揺さぶった。
それは、否定の言葉だった。拒絶の告白だった。
『わたしね、本当は咲ちゃんにーーーー』
あのときと同じ、本心の吐露。また、同じことが繰り返される。呼吸が速くなる。血の気が引いていく。
今この瞬間、何よりも目の前の人が恐ろしかった。近づかれるのが怖くて、離れていくのが怖くて。どうしようもない感情が爆発し、頭の中に染み渡っていくーーーー。
「咲さん!」後ろから明華の声がした。
咲はその場から走り去り、逃げていた。中学に入学した年そうしたように。抽選会でそうしたように。
心が言葉にならない悲鳴をあげる。頭の中には恐怖だけがあった。
▼
無人の広間は広々とした間取りに伴って伽藍の侘しさが鎮座していた。
早足にここを訪れた咲は畳の上に転がっている自分の荷物を漁る。あるものを探しだし自室に引き返そうとしていた。
明華「ここでしたか」
不意に閉じてあった襖が静かに開き、来訪者が現れる。
咲「あ……明華、さん」
後ろ手にそっと襖を閉めた明華が呼びかけられて薄く笑う。目的のものを発見し握りしめた咲を見る目は穏やかだ。
明華「それ……魚のキーホルダーですか?」
咲「は、はい……頭を冷やそうと思って、その……これだけ持ってこうかなって、あのじゃあこれで!」
明華「おっと誰も練習を抜けていいなんて言ってませんよ」
咲「うわっ」
横を駆け抜けていこうとした咲の手がとられ、ぐるんと外回りに一回転させると正面から向かい合う形にする。舞うように鮮やかな手並みだった。
咲「えっ、えっ」
明華「うーん」
唸りながら、手を動かした明華が乱れている咲の髪を整えていく。
明華「はい直りました。よほど乱暴に走ったんですね、結構ボサボサでしたよ」
咲「はあ……」
明らかに状況が飲み込めずにきょとんとした咲の瞳が瞬く。
振りほどけそうにない力で掴まれたままの自らの手をチラと見やり、咲はわずかに数センチ目線の違う明華を見つめ返した。明華がことんと首をかしげて亜麻色の髪を揺らす。
明華「困惑中の咲さんに朗報です」
咲「へ?」
明華「買い出しを頼まれてきたので一緒にいきましょう」
咲「え……っ?」
咲の鳶色の瞳にこもる困惑がさらに深まった。
明華「お買い物ですよ、はりきっていきましょう」
咲「……え、えっと……」
明華「あ、今回のお釣りはファインプレーな私を称えてプチプチしたもの限定ですね、悪しからず」
どこまでもいつも通りのペースで言い切る。緊迫感などおくびにも出さない。咲は困惑が極まって泣き笑いのような顔になっていた。それも感極まったというより、見知らぬ場所に置き去りにされて途方に暮れたように情けない顔だ。
咲の手を引き、畳に転がる荷物のところまで歩くと明華はハンドバッグを手にとって中身を確認する。
明華「じゃ、いきましょうか」
相変わらず底抜けにのんきな声で明華は言う。有無を言わさず咲の手が引かれる。鼻歌が聞こえてきそうな陽気さでひっぱられ、心なしか咲はぐったりとして観念したようにされるがままになっていた。
明華「ネリーのこと、誤解しないであげてくださいね」
続く声に弾かれたように咲が顔を上げる。
明華「距離の測り方がわからなくなるときってありますよね」
明華「頭ではわかっていても……胸の奥から込み上げる衝動に逆らえない、そんなときも……きっとあるんです」
前を見て行く先に顔を向けたまま明華は言う。
明華「本当、突然ですね……」
言葉が重なっていくにつれてあるとき急に声のトーンが落ちる。だが、すぐに暗い雰囲気は払拭されて前を向いて見えなかった顔が一歩後ろを歩く咲のほうを振り向く。そこにはいつも通りの柔和な笑みが浮かんでいた。
明華「とぉーりゃんせーとぉーりゃんせー」
明華は笑顔を見せると前を向き、手を引いて歩き出した。
ここまで
相棒始まったモチベーションあがります
明華がよくわからない感じですがもうちょっとで明華とのエピソード書けるところまでいくのでもうちょいお待ちください
ってか明華も、か…
やっぱやり方失敗したなー…説明が追いついてない感じですみません
>>705 訂正
咲「……すみません」
人には聞こえないよう口の中で呟く。謝っても空気を悪くするだけだ。しかし空言でも口にせずにはいられなかった。
咲にだってわかるのだ。山階左大臣が身なりの恥を知るように、競技者としてあるべき様から外れている痛烈な自覚は咲を打ちのめし、形だけ取り繕うことを躊躇わせる。
ネリーのことにだって見当がある。
もしかしたらネリーがあんな話をしたのは、今日になって踏み込んできたのは、何か事情があるのかもしれない。
昨日に知らされた疲労の蓄積が起因していたり、ダヴァンの仄めかした異変に何かしら関係していたり。
知りたい、という気持ちは雪が降り積もるように蓄積し重なっていく。だが、それだけは訊けない。
明華「ええと……次、打ちます?」
明華の控えめな問いが卓に座る三人に向けられる。咲は、誰か手の空いている人に入ってもらって席を立とうとした。個人的な心情に気遣わせるのはいい加減悪いと思ったから。
だが、思わぬ人物が機先を制した。ネリーだ。
ネリー「あ、あの……サキ」
おずおずと口を開く。その口を持つ小ぶりな顔がゆっくりと咲のそれに合わせられる。
ネリー「その打ち方ってさ、自由に変えられるの?」
ネリー「変えられるんだったら……ネリーは、前の打ち方のほうがいいな」
咲「え……っ?」
胸の鼓動が激しく跳ね上がった。
咲「……な、なんで?」
狼狽したように取り乱しながら尋ねる。あり得ない聞き間違いを願い、手に汗がにじむのを感じながら、苦虫を噛み潰したように言いにくそうにしたネリーが、口を開いていくのを見届けるーー。
ネリー「今打ってるそれは……なんか、嫌」
その言葉が、咲に与えた衝撃は甚大なものだった。三半規管を揺らされ平衡感覚が狂ったように咲を震撼させ、視界をも揺さぶった。
それは、否定の言葉だった。拒絶の告白だった。
『わたしね、本当は咲ちゃんにーーーー』
あのときと同じ、本心の吐露。また、同じことが繰り返される。呼吸が速くなる。血の気が引いていく。
今この瞬間、何よりも目の前の人が恐ろしかった。近づかれるのが怖くて、離れていくのが怖くて。どうしようもない感情が爆発し、頭の中に染み渡っていくーーーー。
「咲さん!」後ろから明華の声がした。
咲はその場から走り去り、逃げていた。中学に入学した年そうしたように。抽選会でそうしたように。
心が言葉にならない悲鳴をあげる。頭の中には恐怖だけがあった。
>>699描写付け加え
アレクサンドラ「皆、いる?」
入ってきて居合わせる顔ぶれを見渡していく。欠員がないことを確認し、ハギヨシを供につけた衣がいることも認めると、
アレクサンドラ「貴女が天江さんか。挨拶が遅れたけどいらっしゃい、臨海へようこそ」
薄く笑いかけて歓迎する。
衣「こちらこそ挨拶が遅れた。よろしく頼む」
恭しく返した衣は自分がここにいて問題はないかと尋ね、智葉たちを介して出した許可で問題ないと認められる。
アレクサンドラ「練習にも参加していってもらえるのかな? 前もって許可は出しておいたんだけど」
智葉「ちょうどその話をしていました」
衣「是非お願いしたいと思っていた!」
その話を聞くと監督は上機嫌に相づちを打つ。
アレクサンドラ「そう。それは有り難い。うちは選手の特性上、対外試合を組みづらくて困っていてね」
衣「他校との試合はしていなかったのか?」
アレクサンドラ「国内では、そうなるか……海外のチームとの交流で賄っていたけど」
そういえば、日本に限れば他校との合同練習などはなかったな、と咲は思った。
ネリー「んーむむっ……他校との試合とかなくてよかったよね。正直、めんどくさいし」
箸の扱いに苦戦しながら食事しているネリーが言う。
ハオ「こっちから出向かなくていいから?」
ネリー「うん!」
ダヴァン「私としテハ……出向いてみたくもありマスが」
ダヴァンがきりっと引き締まった表情で言う。勇敢な発言だが突然だ。心なしか、陰影が射して見えるほどの歴戦の勇士のごとき顔つきだった。
明華「ご当地のカップ麺が買えるからですか?」
ダヴァン「ハイ!」
智葉「……やれやれ」
二人共にらしい発言に咲は苦笑いした。
>>706 訂正 多くてすみません……
▼
無人の広間は広々とした間取りに伴って伽藍の侘しさが鎮座していた。
早足にここを訪れた咲は畳の上に転がっている自分の荷物を漁る。あるものを探しだし自室に引き返そうとしていた。
明華「ここでしたか」
不意に閉じてあった襖が静かに開き、来訪者が現れる。
咲「あ……明華、さん」
後ろ手にそっと襖を閉めた明華が呼びかけられて薄く笑う。目的のものを発見し握りしめた咲を見る目は穏やかだ。
明華「それ……魚のキーホルダーですか?」
咲「は、はい……頭を冷やそうと思って、その……これだけ持ってこうかなって、あのじゃあこれで!」
明華「おっと誰も練習を抜けていいなんて言ってませんよ」
咲「うわっ」
横を駆け抜けていこうとした咲の手がとられ、ぐるんと外回りに一回転させると正面から向かい合う形にする。舞うように鮮やかな手並みだった。
咲「えっ、えっ」
明華「うーん」
唸りながら、手を動かした明華が乱れている咲の髪を整えていく。
明華「はい直りました。よっぽど乱暴に走ったんですね、結構ボサボサでしたよ」
咲「あ、あの……」
明らかに状況が飲み込めずにきょとんとした咲の瞳が瞬く。
振りほどけそうにない力で掴まれたままの自らの手をチラと見やり、咲はわずかに数センチ目線の違う明華を見つめ返した。明華がことんと首をかしげて亜麻色の髪を揺らす。
明華「困惑中の咲さんに朗報です」
咲「……」
明華「買い出しを頼まれてきたので一緒にいきましょう」
咲「え……っ?」
咲の鳶色の瞳にこもる困惑がさらに深まった。
明華「お買い物ですよ、はりきっていきましょう」
咲「……え、えっと……」
明華「あ、今回のお釣りはファインプレーな私を称えてプチプチしたもの限定ですね、悪しからず」
どこまでもいつも通りのペースで言い切る。緊迫感などおくびにも出さない。咲は困惑が極まって泣き笑いのような顔になっていた。それも感極まったというより、見知らぬ場所に置き去りにされて途方に暮れたように情けない顔だ。
咲の手を引き、畳に転がる荷物のところまで歩くと明華はハンドバッグを手にとって中身を確認する。
明華「じゃ、いきましょうか」
相変わらず底抜けにのんきな声で明華は言う。有無を言わさず咲の手が引かれる。鼻歌が聞こえてきそうな陽気さでひっぱられ、心なしか咲はぐったりとして観念したようにされるがままになっていた。
明華「ネリーのこと、誤解しないであげてくださいね」
続く声に弾かれたように咲が顔を上げる。
明華「距離の測り方がわからなくなるときってありますよね」
明華「頭ではわかっていても……胸の奥から込み上げる衝動に逆らえない、そんなときも……きっとあるんです」
前を見て行く先に顔を向けたまま明華は言う。
明華「本当、突然ですね……」
言葉が重なっていくにつれてあるとき急に声のトーンが落ちる。だが、すぐに暗い雰囲気は払拭されて前を向いて見えなかった顔が一歩後ろを歩く咲のほうを振り向く。そこにはいつも通りの柔和な笑みが浮かんでいた。
明華「とぉーりゃんせーとぉーりゃんせー」
明華は笑顔を見せると前を向き、手を引いて歩き出した。
▼
二人が去った旅館の練習室。残る九名は練習を再開し、対局を続けていた。ネリーに智葉、ダヴァンとハオが同じ卓に座り、黙々と牌を打つ。
智葉「おい……大丈夫か、ネリー」
様子を見かねた智葉が気遣わしげに話しかける。ネリーは明らかに消沈し、花が萎れたような有り様だ。麻雀にもそれがあらわれ精彩を欠いていた。
ネリー「あ……うん、体調にはまあ……問題ないかな」
智葉「なら精神的にはありそうじゃないか……休むか?」
ネリー「……いや、いいよ」
ダヴァン、ハオも休んだ方がいいとそれとなく伝えるが、ネリーは首を振って固辞する。
智葉「……無理には言わないが。あまり我慢して打っても実は少ない。元々伝えてあった通り、自主練習くらいに思っていいからな」
ネリー「うん……」
智葉「それはそうと」
そこで言い淀み、智葉は言葉を切る。言葉を探しながら、一旦はそのまま牌を打ち、様子を窺うように辺りを見渡していってネリーへと視線を戻す。
智葉「なぜ、聞いた? いや咲の反応もまあ予想外、というか予想以上だったが……」
ネリー「……」
智葉「……何か、焦っていないか」
何となくだが、智葉には心当たりがあった。いま口をつぐむネリーから先刻見せた焦燥の残滓らしきものが滲んでいるのもある。しかし、他にもある。それは、座談会のこと。
二日前、智葉はネリーに付き添い咲の母と対面した。サシ、ならぬ二対一で対峙することになった二人だが、話は一貫してネリーと咲の母の対談であるかのような流れで幕を閉じた。智葉が発言した回数など微々たるものだ。
今も思い出される。『トラウマ』の話があったあと、咲の母は最後の方にネリーの耳元で何事かささやいた。
その耳打ちをされて以来ネリーは一段と余裕をなくした気がする。いや、一段どころではないかもしれない。『トラウマ』の話を聞いたときも相当な衝撃を受けていたようだが、それに比べれば生易しいとすら言えるほどだった。
そしてその影響は、後日の二回戦、控え室の中にまで引きずられていた。
だから智葉は輪をかけてネリーの不調を気にかけてしまうのだ。
あれはいったい、何をささやかれたのか。
ダヴァン「サトハ、そのへんで……」
ダヴァンがそれとなく諫める言葉を口にする。
智葉「いやしかし、放っておいてまた同じようなことが繰り返されたら事だぞ」
ハオ「……それは確かに。傷口を広げるのは避けたいですね」
三人が意見を口にする。そのうちダヴァンとハオは留学生で、残る明華も咲のフォローに回っている。実質留学生は皆少なからず関わっている。
留学生が傍観に徹しない。その光景を、不思議な感慨と共に智葉は眺めていた。今までの二年間めったに見られなかったことだ。留学生同士が互いのプライベートに口出しするとなればなおさらに。
ネリー「何か、事情を聞く方法ないかな……」
智葉「おい……」
だが、ふと漏れ聞こえてきたネリーの呟きに、智葉は頭を痛める。この期に及んで諦めていないらしい。その熱意は智葉とて認めないわけにはいかないが、順序があるのではないか、と思わずにいられない。特に咲のような根がどこまで続いているかわからない相手の問題には。
「無理やと思いますよ」
どうやって諫めようかと智葉が苦心していると、唐突に隣の卓から声が差し挟まれた。
日本人である。二年生で、この場に呼ばれるほどには実力を示している部員だ。
いきなりどうしたのだろうか。彼女は何かにつけて首を突っ込むようなタイプではない。智葉は不思議に思った。
ネリー「ムリ……って?」
「うち……あの子と同中なんですよ。でもあの子は、その……自分のことは話さへん。たぶん、絶対に」
推量する『たぶん』をつけはしたが、絶対という言葉を使うあたり、彼女には何らかの確信があるように思える。
ネリー「……同じ中学? でも、あのときは……」
「うちは、あの人らとは違います……」
智葉にはわからない会話が交わされる。
ネリー「……」
「宮永さんには返しきれへんものがあります……うちが頼んだことやないけど、あの子はうち、っていうか部のためにいろんなものを擲ってくれた」
「……中学のときの話ですけどね。あの子が友達とどう接してたか見てましたから、ちょっと気になって」
差し出口を挟んですみません、とあちらの卓で牌が打たれるのを見ながら付け加える。彼女の真剣な眼差し。少なくとも適当なことを言っている風には見えない。智葉を含め、話している当人たち以外は静観していた。
ネリー「中学……友達?」
「いやそんな恐い顔せんといてくださいよ。そりゃ宮永さんにやっていますって。人付き合いに積極的な子ではありませんでしたけど……」
「っていっても一人しか知りません。仲良くしようとしてた子はおったんですが……それはともかく」
言葉を切り、牌を打つ。
「聞いてませんでした?」
ネリー「ま、まあ……そこはかとなく言ってたような気がしないでもないよ」
「……」
傍目にもわかる白々しさだ。部屋から全体的に呆れるような空気が漂う。誰も突っ込まないのが華だった。
「コホン、……ともかく、中学のときの話なんですが」
ネリー「う、うん」
「何ていうんかな……あの子は友達に秘密主義的な関係を求めてるんやと思います」
その話に智葉は得心する。確かに、そんな感じがする。何もかも頑なに話さないわけではないが、ある一線で壁を作って接している。時々そんな風に思えるのだ。
ネリー「ヒミツシュギ?」
「物事を他人には知らせないでおこうとするって考え方です。宮永さんの場合、全部ってわけやないし、むしろ大体のことは話すんですが……何かな、何が基準なんやろ」
見てきた以上のことは彼女もわからないらしい。彼女こそが思い悩んでいる本人であるかのように首をかしげ、唸り声をあげる様をみてネリーは不満そうにした。
ネリー「むー、使えないなー。お金いる?」
「あはは……勘弁してくださいよ。お金はいらないんで」
ネリー「しょうがない、タダの情報ってことで許してあげる」
「お金もらってたらドツボやないですか……」
ネリーも、少し普段のおちゃらけた雰囲気が戻ってきたようだ。周りもほっとするような笑うような雰囲気に包まれる。
ネリー「他はある?」
「他は……そうですね、その友達の名前はクラスメイトって子で、今は清澄高校ってとこにおるみたいです。ええと、団体戦の長野代表の」
ネリー「キヨスミ……」
ネリーがとてつもなく嫌そうな顔をする。コーヒー豆を直接噛み潰したかのようだ。清澄高校。何かあったような気がするが、思い出せなかった。
ネリー「そっか……助かったよありがとう」
「どうも。聞きたいことがあればまた聞いてください」
会話が終わり、ネリーは座っている座布団を座り直して改めて卓に向かい合う。
ネリー「よし、情報ゲット」
無茶な行動に移さないか智葉は心配だったが、水を差さずに置く。なんともやりにくい。
ネリー「そういやコロモー、お前なんか知らないの?」
衣「人にものを聞く態度じゃないな……」
ネリー「コロモお姉さんっ、お願いします!」
衣「そこまでいうなら仕方ない」
得意げに笑った衣が鼻を鳴らす。
衣「咲は……そうだな、家族に強い思い入れがあるようだ」
ネリー「ふーん」
衣「お前……露骨に態度が変わりすぎだろう」
口の端をひきつらせ、憮然とする衣。
ネリー「だってそれって何となく想像つくし」
衣「まあ聞け。……衣も家族に対する思い入れは一入だ。衣としては我が龍門渕に咲を迎え入れたいところではあるが」
ネリー「ちょっと」
衣「とりあえずは聞いてくれ。そしてこれは衣の直感だが……咲は家族を喪った経験がある。……まあ同じ穴というやつだ。信用してくれていい」
衣の言動に見え隠れする妙な威厳が説得力となって聞くものに疑いを薄れさせる。
衣「宮永照……衣も薄々感じていた口だが、二回戦の事、無関係ではないだろうな」
ネリー「……」
衣「……」
ネリー「え、それだけ?」
衣「っ!」
衣の目が泳ぐ。
ネリー「……」
衣「……」
ネリー「うん……ありがとう。いやこっちがムリに振ったからね」
あらぬ方向を向いて黙り込んだ衣から目線を切り、ネリーは再び佇まいを正す。座布団の上で姿勢を整えるその瞳は真剣な色を湛えている。
智葉「ネリー、一つ聞いていいか」
周囲の空気が緩み、ネリーの緊張感が持続しているのを見計らって、智葉は問いかけた。
ネリー「……うん?」
智葉「咲の……打ち方に言及したのはどうしてなんだ?」
智葉にはいまいちそれがわからない。
咲が隠していた打ち方を明かし、公然と打つようになったのに何かしら事情がある、というのは。
何となく察せられることだ。実力が智葉に及ばないことを思い悩んでいたあの頃の彼女の苦しみが、葛藤が、嘘であるとは思いたくない。あの頃でも引き合いに出さず、全く匂わせることがなかった隠し事。事情がないことはないのだろう。
だが、咲も今まで隠していたのだからそれ自体は非難されなくとも、話題が及ぶくらいは覚悟して然るべきだという向きもあるのではないか。なら、咲があれほど取り乱したのはなぜか。そして、ネリーの真意はどこにあるのか。
ネリーが押し黙る。考えているのだろうか。催促せず智葉は返答を待つ。
少しして、ネリーは明るさを装うように言った。
ネリー「サキ、あの打ち方だと練習に身が入ってないみたい」
ネリー「……だからね、カツを入れてやったの!」
元気を振り撒くような仕草。だが、何かを隠そうとするような不自然さが端々から感じられたのは気のせいか。
智葉「渇って……それは、お前……言い方が悪かったんじゃないか」
言おうか迷った末に智葉は苦言を呈す。伝え方に問題があったように感じたから。
実際、智葉は今聞いて『ああ、なるほど』とならず、『そういう意味だったのか』と意外な印象をもて余している。おそらく咲にも伝わっていないだろう。伝わっていたらこんなことにはなっていない。
智葉「あの言い方じゃわからないと思うが……」
ネリー「…………そんなの、わかってる」
指摘を受けたネリーが俯きがちになり、何事か呟く。か細い声で聞きとれない。
智葉「今、何て?」
ネリー「そうだね、言い方を考えてみるよ」
智葉「……そうしてくれ」
取り澄ました顔で智葉は返す。質問を重ねたくなる衝動を呑み込んだ。
黒い雷雲が広がるような雲行きの怪しさーー密かにそれを心の中で感じながら、練習を再開すべく全自動卓に手を伸ばす。
刹那、機械的な電子音が鳴り響く。
智葉「うん……?」
突如として鳴り響いた異音に智葉は首をかしげる。
ネリー「……?」
ハオ「あ、携帯かな?」
ダヴァン「アッチにありまスネ」
衣「あっちだ!」
視線を巡らせると電子音を流す携帯端末は皆簡単に見つけられた。
ぞろぞろと卓から離れて畳の片隅、何人かの荷物置き場となっている場所に落ちた携帯端末。
皆より一足早く着いたダヴァンがそれを拾い上げる。
ダヴァン「……着信してまスネ。通話デス」
ハオ「誰の?」
智葉「このデザイン、どこかで見たな……部員のものではあると思うが」
ダヴァン「ダレかこの携帯に心当たりありまスカー?」
振動し電子音を垂れ流す携帯端末が掲げられ、それを見たこの場にいる部員の反応は薄い。名乗りがあげられる気配はなかった。
ネリー「……ってことはミョンファか、サキの?」
ネリーがそう言うとたちまち沈黙のとばりが落ちる。渦中の人物である咲か、明華か、どちらかが忘れていったもの。皆、何となく身構えてしまう。
衣「出ないと切れてしまうのではないか?」
ダヴァン「アッ……」
電子音はまだ鳴り続けている。だが、電話してきた相手が痺れを切らせば止まってしまうだろう。
ダヴァン「出てしまっていいんでショウカ」
ハオ「どうする? 出る?」
智葉「うーむ」
咲の電話をとるのはまずいかもしれない。悩みどころだった。
ダヴァン「もしかしたら急用かもしれマセン! 出てミマス!」
智葉「あっ」
ダヴァン「ポチッとな!」
智葉が制止するよりも早くダヴァンはボタンを押していた。そして滑らかな動作で端末を耳に当て、
いちご『……あっ! もしもし、宮永さんの携帯で合っとるかのう?』
ダヴァン「……」
いちご『あれ……もしもし、もしもーし! 聞こえ』
ダヴァン「Do you pray to “MUGEN” of the ramen?」
いちご『え゛』
ダヴァンは通話を切った。
ダヴァン「フウ……危なかッタ」
ハオ「いやアウトだから。宗教の勧誘みたくなってたよ」
智葉「おい、咲が変な人みたいに思われたらどうする」
ネリー「何してんだこのラーメンマン!」
ダヴァン「ハッハッハッ、いけマセンネリー、私は女ですからウーマンでスヨ。英語は正しく使わなけレバ!」
この瞬間、Megan Davinの命運が決まった。
ダヴァン「」
智葉「悪ふざけするからだ」
折檻され、ダヴァンがその場に倒れている。一連の馬鹿げたやりとりですっかり雰囲気が変わってしまった。
だが、妙な空気が漂う練習室に再び電子音が鳴り響く。
智葉「……またかかってきたぞ」
ハオ「どうしましょうか」
ネリー「……」
衣「次は誰がとるんだっ?」
ハオ「いやそういう遊びじゃないんですよ」
電子音を垂れ流す携帯端末が緊迫した練習室で存在感を示し続けていた。
▼
朝方の爽やかな空気にさっと肌を撫でられ、空を見上げる。晴れ渡った空が青々しい。旅館から近場のコンビニまでの道の途上。日傘を差した明華と連れ立って、咲は車道脇の歩道を歩く。
明華「LaLaLaーーあ、そっち危ないです」
咲「ど、どうも」
道の行く先の街灯を先んじて見つけた明華が注意を促す。朝からの練習で若干注意が散漫してしまっていたが、咲は余裕をもって避けることができた。
一方、明華は道中鼻歌やメロディーを口ずさむ。往年のジャズの名曲に始まり、今は人生を面白おかしく歌ったシャンソンを口ずさんでいる。
『変えられるんだったら……ネリーは前の打ち方のほうがいいな』
『今打ってるそれは……なんか、嫌』
思い返されるのは、対局の練習中にかけられた言葉。
ネリーは、何を思ってその言葉を伝えたのか。反射的に怯えて逃げ出してしまってから、ずっと気にかかっていた。舗装された地面に広がる、朝の光りに磨かれた敷石を漫然と眺めながら歩道を歩く。
明華「わっ」
そうしていると、いきなり明華に脅かされた。いつのまにか前に回り込んでいたようだ。ひえっ、と変な悲鳴をあげてしまう。
咲「えっ、え?」
明華「もう着きましたよ」
ほらあそこ、と指を差す先にはコンビニがある。
咲「あ……」
二車線の車道を挟んで向こうの歩道。その道沿いに建っている色んな店の中にあるコンビニを一目見て、
咲「す、すみません!」
慌てて明華のほうを向き謝る。完全に不注意だった。
明華「大丈夫です、どっちにしてもまだ信号待ちですから」
見てみればその通りで信号に足を止めている格好だ。自分が今そうしているのに気づかないほど混乱していた。横断歩道の向こうにある赤く点灯した信号にほっと息をついて明華を見つめ返す。
咲「それでも声をかけてもらわなかったら気づきませんでした」
すみません、ともう一度謝る。すると明華はむっと可愛らしく顔をしかめた。
明華「できたらありがとうございますのほうが嬉しいですね。一点減点です」
確かに感謝のほうが気持ちいいだろう。何から点数が差し引かれたか不明だが、納得して言い直す。
咲「そう、ですね……ありがとうございます」
明華「いえいえ」
笑顔で返される。満足してもらえたのだろうか。言ったあと、何か小さく聞こえたような気がしたが、口が動いていなかったので妙に思い、首をかしげる。
明華「どうかしました?」
咲「いえ」
雑踏に視線を移す。信号待ちの間、手持ちぶさたなので適当な雑談をして待つ。やがて信号が青色に変わった。
横断歩道を並んで渡る。その途中、あちら側の歩道、向こう岸に立ち並ぶ店先の中のあるものに目が止まる。
それはーーファンシーショップにあるぬいぐるみ。カジキマグロを抱えた熊、のように見えるものだった。ショーウィンドウの中、透明な硝子越しに魚を携えた熊が勇ましげな立ち姿を晒している。
少しの間釘づけになった視線を悟られることはなかった。もし立ち止まっていたときに目をやっていれば明華に気づかれただろう。そのまま横断歩道を渡りきり、コンビニに入った。
「イラッシャイマセー」
そこそこ込み合う店内が透けて見える自動ドアを潜る。入店を告げるお決まりの音楽を聞きながら、明華と並び店内に足を踏み入れる。
だが入った瞬間、咲は硬直する。普通のコンビニだ。今まで見てきたそれと代わり映えしない、本来なら驚くに値しない光景。
しかし、
誠子「いいか大星、私は弘世先輩の代理としてお前が暴走するのを止めなきゃいけない。わかるな?」
淡「はい……亦野先輩……」
咏「アッハハハハハハ、おっもしれー」
店内に入ってすぐ奥の突き当たり、ぽっかりと空いたスペース。そこにいる、床に正座したり、腰に手を当てて説教したり、腹を抱えて爆笑したりしている人たち。否が応にも目を奪われてしまう。
淡「……ああっ!? サキだ!?」
誠子「な、何!?」
咏「……おや」
そして、棒立ちになっていた咲は瞬く間に捕捉される。一直線に飛んでくる矢のような視線に射抜かれ、咲はその場に立ち竦んだ。
ここまで
あ、ミスってた
>>727
コンビニの店内は空いて見えたことにしてください
>>725 ちょっと説明足らなかったんで訂正 ダヴァンは咲の電話だったのでテンパってしまっただけです
ダヴァン「フウ……危なかッタ」
↓
ダヴァン「……フウ、危なかッタ」
智葉「悪ふざけするからだ」
↓
智葉「焦ったのはわかるがふざけすぎだ」
すみませんやり方悪かったので訂正させてください 毎度本当に申し訳ない…
>>724
刹那、鳴り響いた機械的な電子音に周囲が浮き立つ。
智葉「うん……?」
突如として上がった異音に智葉は首をかしげる。
ネリー「……?」
ハオ「あ、携帯かな?」
ダヴァン「アッチにありまスネ」
衣「あっちだ!」
視線を巡らせると電子音を流す携帯端末は皆簡単に見つけられた。
ぞろぞろと卓から離れて畳の片隅、何人かの荷物置き場となっている場所に落ちた携帯端末。
皆より一足早く着いたダヴァンがそれを拾い上げる。
ダヴァン「……着信してまスネ。通話デス」
ハオ「誰の?」
智葉「このデザイン、どこかで見たな……部員のものではあると思うが」
ダヴァン「ダレかこの携帯に心当たりありまセンカー?」
振動し電子音を垂れ流す携帯端末が掲げられ、それを見たこの場にいる部員の反応は薄い。名乗りがあげられる気配はなかった。
ネリー「……ってことは、ここにいない人の?」
ネリーがそう言うとたちまち沈黙のとばりが落ちる。渦中の人物である咲か、明華か、はたまた観戦に向かった誰かというのもあり得る。
衣「出ないと切れてしまうのではないか?」
ダヴァン「アッ……」
電子音はまだ鳴り続けている。だが、電話してきた相手が痺れを切らせば止まってしまうだろう。
>>725
ダヴァン「出てしまっていいんでショウカ」
ハオ「どうする? 出る?」
智葉「うーん」
ダヴァン「もしかしたら急用かもしれマセン! 出てミマス!」
智葉「あっ」
ダヴァン「ポチッとな!」
智葉が制止するよりも早くダヴァンはボタンを押していた。そして滑らかな動作で端末を耳に当て、
いちご『……あっ! もしもし、宮永さんの携帯で合っとるかのう?』
ダヴァン「……」
いちご『あれ……もしもし、もしもーし! 聞こえ』
ダヴァン「Do you pray to “MUGEN” of the ramen?」
いちご『え゛』
ダヴァンは通話を切った。
ダヴァン「……フウ、危なかッタ」
ハオ「いやアウトだから。宗教の勧誘みたくなってたよ」
智葉「おい、咲が変な人みたいに思われたらどうする」
ネリー「何してんだこのラーメンマン!」
ダヴァン「ハッハッハッ、いけマセンネリー、私は女ですからウーマンでスヨ。英語は正しく使わなけレバ!」
この瞬間、Megan Davinの命運が決まった。
ダヴァン「」
智葉「焦ったのはわかるがふざけすぎだ」
折檻され、ダヴァンがその場に倒れている。一連の馬鹿げたやりとりですっかり雰囲気が変わってしまった。
だが、妙な空気が漂う練習室に再び電子音が鳴り響く。
智葉「……またかかってきたぞ」
ハオ「どうしましょうか」
ネリー「……」
衣「次は誰がとるんだっ?」
ハオ「いやそういう遊びじゃないんですよ」
電子音を垂れ流す携帯端末が緊迫した練習室で存在感を示し続けていた。
▼
暗幕を下ろしたような深い闇が目に浮かぶ。思い浮かべた記憶の真っ暗な光景はやがて淡い光に満たされていき、あるとき視界が唐突に開ける。
そこは、子供の頃から慣れ親しんだ長野の家の中、だろうか。内部から見た内装の特徴がいくつか合致する。芳香を放つ檜の柱。すっきりとした居間の外観。
そんな見覚えのある居間と寝室を繋ぐ廊下の、居間の入り口の扉の傍ら。そこに隠れるようにして咲は立っている。高校生になった今の半分より少し高い目線。水彩画に水を垂らして滲ませたようにぼやけた眼前の光景。
その奥、居間の中ほどで、父と母が向かい合ってたたずみ話し込んでいた。
「照と咲は寝た?」
界「ああ、遊び疲れたんだろ。昼寝してるよ」
「そう。……ごめんね、あなたも忙しいのに」
すまなさそうに母が声の調子を落とす。「いいさ」と父は鷹揚に笑う。
界「明日対局があるっていっても、朝早くからってわけじゃない」
「頑張ってね。応援してる」
界「ああ……お前も頑張れよ。ヨーロッパ、回らなきゃいけないんだろ?」
「うん。私は一族の事業のうちヨーロッパ地域を任されているから」
界「そうだな。……そっちのことは全然力になれないが、愚痴くらいは聞いてやれる。あんまりムリするなよ」
「問題ないよ。任された仕事は私の能力で充分対処できるし順調……それに、そっちに限らず今は……多くのことが良い方向に流れている」
界「そうだな」
「ただ、最近あの子の調子があまりよくないのが気がかり。私がヨーロッパにいっている間、気にかけてあげて」
界「ああ。わかった」
「あの子も……この家に来られるようになればいい。そうしたらきっと更に楽しくなる」
会話の中にテレビのノイズのような音がずっと混ざり込んでいる。過去の咲は聞いていたかもしれない。しかし、思い出そうとしても一連の会話は全く記憶に残っていなかった。目の前の光景と同じように感触も、匂いも、咲には感覚の一切がおぼろげに感じられる。
「照がいて、咲がいて、あの子がいる……当たり前だけどかけがえのないもの、子どもの頃に思い描いた夢が現実になる」
界「おいおい、俺は入れてくれないのか?」
「あはは、もちろんあなたもね」
――――曖昧模糊としていた視界が、その瞬間、克明に像を結ぶ。
鮮やかな笑顔。その瞬間の母は、笑っていた。それだけで人々に鮮烈な印象を与えるほど軽やかに。
多くの場合人々の注意や関心を惹きつけるのは、静止した顔の善し悪しよりは、むしろ表情の動き方の自然さや優雅さだ。そしてこのときの母は、飾らない自然な魅力に満ちあふれていた。
だが、咲の記憶の中で物心ついてから今に至るまで大部分を占める母は、そつのない優雅な立ち居振舞いで印象を刻みつける人だ。泰然としていて、血の繋がった娘の咲でさえやや情緒に欠けて見えるほど淡白で。
今や思い出の多くとは食い違う。冷悧な印象ばかり際立つ現在の母が、このときだけは明朗快活なはやりにも重なって見えてしまうほど、それくらい、別人のように感じられた。
古い記憶を遡ると奥底でいつも説明のつかない疑問に突き当たる。それは、物心ついた頃から長野の一軒家で暮らしている自分が、おそらくは物心がつく前に残していた記憶の断片。
薄ぼやけたそのかつての光景では、やはり自分は長野の家にいて、覚えのある居間の一室で両親が会話する様子を扉の外からこっそり覗いている。
高校生になった今では、そんなことが実際にあったのかどうか判断できない。それほどあやふやなものだ。しかし、その霧や霞のような記憶を反芻するたび考えてしまうのだ。
宮永咲の母という人は、いったいどんな人なのだろうかと。
優しい人だということは知っている。いろんなことを強いるように見えて意思を大事にしてくれることを知っている。
母の愛情を疑ったことはない。だから、今まで考えないようにしてきた。
知らなくても信じられる。今のままで不満はないから。
そうだ――――今のままで、不満なんてない。
「照と咲が生まれ、私は実績を積み上げて一族内での立場を固め、そうしていずれはあの子も……」
「あと少し、あと少しで叶う」
「その時こそ私は勝利を掴む。仮初めじゃない、真の栄光が手に入る」
「桜花のように儚く舞い散るものではなく、永遠を約束する石の加護に極まった栄華が」
界「ああ……そうだな」
薄ぼけた記憶の井戸で思い出したように会話が再生された。
▼
明華と協力して店内を物色する。回っているうちに買い物かごの中にはどんどんと商品の山が築かれていく。
薄力粉。だしの素。塩。カップ麺。醤油。酒。みりん。鶏卵。チキンラーメン。天かす。青のり。粉かつお。オタフクソース。ソース焼きそば。マヨネーズ。ポンズ。一リットルサイズのペットボトルに入った水ーー、
咲「あの……これ、なんなんですか?」
明華「はい?」
プロセスチーズの袋を手にとって確かめていた明華が呼ばれて振り返る。
咲「買い出しですよね?」
明華「買い出しですよ」
咲「部の……買い物なんですよね?」
買い物カゴを占領しつつある商品の数々にチラと視線を移し、咲が訝しげに訊く。すると。
明華「ええと実はですね、これは――」
淡「たこパだっ!!」
今にも秘密の種明かしだという雰囲気を匂わせる明華の説明が始まった途端、元気な声がして、二人の間にひょこっと淡の顔があらわれる。
咲「え?」
淡「ん、これたこ焼きの材料でしょ? たこパってやつでしょっ」
天真爛漫な淡の言動につられて、表情に疑問を浮かべていた咲はもう一度カゴの中身を見やる。
言われてみればそうかもしれない。少しばかり余計なものが紛れ込んでいるが、材料としてはお好み焼きの類いに近い。たこ焼きにもとれる。足りないのは肝心のタコくらいか。
咏「へー、たこ焼きパーティ? 楽しそうだねぇ」
と思っていると、少し離れた場所で眺めていた咏が歩いてきて軽い調子で加わる。
誠子「お、おい大星っ、話の邪魔をするんじゃない」
淡「へっ?」
だが同じく近づいてきた誠子は、目を離した隙に悪戯をしでかす我が子を見咎めた親のように駆け寄ってきて、淡の腕をひっぱる。
誠子「重ねがさね迷惑をおかけしてすみません。こいつにはよく言って聞かせますんで……」
明華「ああ、いえ構いませんよ」
ぺこぺこと何度も頭を下げる誠子。この場で顔を合わせてからもう何度目になるだろう。気にしていない風に返す明華も少々苦笑い気味だ。
誠子「ええとそちらの……宮永さん? もごめんね」
咲「いえ……」
謝りの言葉が咲の方にも入れられて、咲は萎縮したように会釈しながら思い返す。先ほどあったやりとりのことだ。淡は、店内に入る咲たちを目にすると出し抜けに声を上げ、素早く近寄ってこう言い放った。
淡「泊まってるとこいく前に会えちゃうなんてラッキー! これが飛んで火に入る夏の虫、いやサキだねっ!」
そして彼女はどういう因果か「白糸台の控え室においでよ」と言い、誠子が「いや、控え室は……」と渋い顔をすると今度は「そっか、なら宿泊先! うちのホテルにきてっ!」と言い出し、それからしきりに誘いをかけてくるのだ。咲の手をとって。
実際には自力で淡の手から逃れたり、明華が間に身体を差し込んだりするので厳密にいえば『手をとろうとして』だが、どちらにせよ少なからず咲たちが手を焼いたのは確かだ。
腕を掴みひっぱり込んだ淡の頭にもう一方の手を置いて押さえつけた誠子は、そういった経緯を気に病んでいるのかひたすら謝りっぱなしだが、
誠子「大星もこの通り反省して……」
淡「フローズンドリンク飲みたい」
両者の言動は真っ向から食い違っていた。「大星!」鬼の形相になった誠子が厳しい視線を飛ばす。
淡「えー、私はサキを連れて帰ろうとしてるだけだよ?」
誠子「それが迷惑なんだ!」
淡「ぶー」
しかし叱咤を受ける当の淡は暖簾に腕押しといった具合で動じず、ふくれっ面を開けっ広げにさらしている。
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明華と協力して店内を物色する。回っているうちに買い物かごの中にはどんどんと商品の山が築かれていく。
薄力粉。だしの素。塩。カップ麺。醤油。酒。みりん。鶏卵。チキンラーメン。天かす。青のり。粉かつお。オタフクソース。ソース焼きそば。マヨネーズ。ポンズ。一リットルサイズのペットボトルに入った水ーー、
咲「あの……これ、なんなんですか?」
明華「はい?」
プロセスチーズの袋を手にとって確かめていた明華が呼ばれて振り返る。
咲「買い出しですよね?」
明華「買い出しですよ」
咲「部の……買い物なんですよね?」
買い物カゴを占領しつつある商品の数々にチラと視線を移し、咲が訝しげに訊く。すると。
明華「ええと実はですね、これは――」
淡「たこパだっ!!」
今にも秘密の種明かしだという雰囲気を匂わせる明華の説明が始まった途端、元気な声がして、二人の間にひょこっと淡の顔があらわれる。
咲「え?」
淡「ん、これたこ焼きの材料でしょ? たこパってやつでしょっ」
天真爛漫な淡の言動につられて、表情に疑問を浮かべていた咲はもう一度カゴの中身を見やる。
言われてみればそうかもしれない。少しばかり余計なものが紛れ込んでいるが、材料としてはお好み焼きの類いに近い。たこ焼きにもとれる。足りないのは肝心のタコくらいか。
咏「へー、たこ焼きパーティ? 楽しそうだねぇ」
と思っていると、少し離れた場所で眺めていた咏が歩いてきて軽い調子で加わる。
誠子「お、おい大星っ、話の邪魔をするんじゃない」
淡「へっ?」
だが同じく近づいてきた誠子は、目を離した隙に悪戯をしでかす我が子を見咎めた親のように駆け寄ってきて、淡の腕をひっぱる。
誠子「重ねがさね迷惑をおかけしてすみません。こいつにはよく言って聞かせますんで……」
明華「ああ、いえ構いませんよ」
ぺこぺこと何度も頭を下げる誠子。この場で顔を合わせてからもう何度目になるだろう。気にしていない風に返す明華も少々苦笑い気味だ。
誠子「ええとそちらの……宮永さん? もごめんね」
咲「いえ……」
謝りの言葉が咲の方にも入れられて、咲は萎縮したように会釈しながら思い返す。先ほどあったやりとりのことだ。淡は、店内に入る咲たちを目にすると出し抜けに声を上げ、素早く近寄ってこう言い放った。
淡「泊まってるとこいく前に会えちゃうなんてラッキー! これが飛んで火に入る夏の虫、いやサキだねっ!」
そして彼女はどういう因果か「白糸台の控え室においでよ」と言い、誠子が「いや、控え室は……」と渋い顔をすると今度は「そっか、なら宿泊先! うちのホテルにきてっ!」と言い出し、それからしきりに誘いをかけてくるのだ。咲の手をとって。
実際には自力で淡の手から逃れたり、明華が間に身体を差し込んだりするので厳密にいえば『手をとろうとして』だが、どちらにせよ少なからず咲たちが手を焼いたのは確かだ。
腕を掴みひっぱり込んだ淡の頭にもう一方の手を置いて押さえつけた誠子は、そういった経緯を気に病んでいるのかひたすら謝りっぱなしだが、
誠子「大星もこの通り反省して……」
淡「フローズンドリンク飲みたい」
両者の言動は真っ向から食い違っていた。「大星!」鬼の形相になった誠子が厳しい視線を飛ばす。
淡「えー、私はサキを連れて帰ろうとしてるだけだよ?」
誠子「それが迷惑なんだ!」
淡「ぶー」
しかし叱咤を受ける当の淡は暖簾に腕押しといった具合で動じず、ふくれっ面を開けっ広げにさらしている。
誠子「お、おい分かってるのか、私がその気になれば……」
淡「できないでしょ?」
猫のように目を細め怪しげな光りを瞳に宿した淡がニヤと笑う。傍観する咲たちには何を指すやりとりか不明だが、誠子は「ぐっ」と押し黙り、苦々しく顔を歪める。
誠子「早く戻らないとまずいって、弘世先輩にめちゃくちゃ怒られるぞ?」
淡「でね、そのとき私は気づいたんだ。人間は記憶を蓄積する装置であるだけじゃなくて、思考を発生させる装置でもあるって」
誠子「聞けよ、ってか何の話だよ!」
淡「っべーだ」
台詞に合わせて仕草を作り誠子をおちょくると、淡は咲に振り向いてトトッと駆け足に歩み寄った。
淡「よしわかった、サキの気持ちを尊重しよう!」
ひしと手を握られて咲の身体が震える。しかし、一転して心情を慮る発言。その言葉を聞いて咲の心にはわずかばかりの安堵が生まれていた。
姉と縁があり、初対面での出来事、そしてよりによって白糸台の本拠地へと引き込もうとする彼女の強引さに恐怖にも似た苦手意識が芽生えていたが、彼女とて何がなんでも力ずくではない。そう認識し、咲も混乱から回復しつつあった。
姉の知人友人を前に平静ではいられない。だが、一方的に避けるのは悪いと思えるくらいには余裕を取り戻せた。握られた手もすぐに離されたからか、明華も口を出さない。静かに状況を見守っていた。
咲「大星さんは」
淡「淡って呼んで、愛称でもオッケーだよ」
思い切って口を開くと呼び方の訂正を求められる。
いきなり名前で呼ぶ。内気で人見知りな咲には抵抗がある。愛称など、もっての外だ。
とはいえ、無理をするでもなく相手が望んでいるようだし、ネリーを『ヴィルサラーゼさん』、明華を『雀さん』と呼びはしなかったように、異国の人間を相手にすると思って意識を切り替える。
咲「淡……さん」
淡「淡さん? アハハッ、なんか敬われてるみたい」
呼称が琴線に触れたのか笑いこける淡。
淡「まずは好感度だね!」
咲「え?」
淡「仲を深めてから誘う、そしたらオッケーの流れ。将を射んとすればまず馬!」
咲「あの、私たち買い出しの途中なんですけど……」
表現の疑問には触れないでおき、とりあえず咲は自分たちの事情を伝える。
まばらに通りゆく客や品出しする店員の視線をちらちらと感じながら冷蔵ショーケースがある一番奥の通路の端っこに直線状に並んで話し込む。その中心を陣取った淡は、藪から棒に奇妙なことを言い出した。
淡「ほら今日も暑いし? さっぱりしたくない?」
咲「はい?」
淡「でしょー!? ちょうどここにプールのチケットが二枚あるんだけど」
淡がスカートのポケットから手早く二枚のチケットを取り出す。だが、掲げられたそれを見る咲の反応は素っ気ない。
咲「……」
淡「うん?」
プール。あまり乗り気でないのもあるが、唐突に誘われても返答に困るというのもあり、咲は閉口する。
訪れる沈黙。白や明るい色を基調とした店内の雰囲気がそれをより際立たせる。
淡「……あううっ」
どう断ろうか咲が迷っていると、そんな様子をどうとらえたか、弱り果てたように淡はうめき声を漏らす。
淡「わ、わかった、そっちの髪白? 銀? ええっと外国の人も連れてっていいから」
淡「――はい三枚、これでいい?」
スカートからさらに一枚取り出すと元からあった二枚の上に重ね、差し出すように見せて示す。明華の分もあるのは好印象だけれど。咲の顔には苦笑が浮かぶ。
咲「ええっと、さっきも言ったけど部の買い出しの途中なんです」
淡「それ終わってから! パパっと決めて、パパっとみんなで買い出し終わらせたら、いっぱい遊べるよ!」
淡「すごいよー、東京でもいっちばん大きいレジャープールなんだから。長野からきたサキなんて腰抜かしちゃうよっ」
咲「ムリですよ。部の練習がありますし」
つい先刻練習室から飛び出した身でと思いながらも口実に断ろうとする。
淡「まあまあ、息抜きも大事。大体大会始まってから練習練習ってやってもアレでしょ? 一日くらい」
咲「……あの、気になってたんですけど」
淡「ん?」
咲「まだ試合中のはずじゃ……?」
咲たちが旅館の練習室でBブロックの二回戦が始まるのを見てから、まだ半刻と経っていない。それがあってか明華などは対面したときから怪訝そうにしていたが、咲も妙だとは思っていた。
淡「あー、ああーそれね」
疑問を受けて淡が大したことなさそうに答える。
淡「うん、私は大将だからね、出番まではモラトリアムがあるっていうか」
淡の背後で誠子が眉頭を押さえている。咲はひえっと息を呑んだ。
咲「そ、それ……まずいじゃないですか!」
二回戦で試合を終えた咲が辺りをぶらついた比ではないくらいまずい。戦慄に身震いする。単純に問題だし、万が一姉のいる白糸台が敗退扱いになったら咲の望みまで断たれかねない。割とシャレにならない焦燥が咲を襲う。
淡「だからね? サキがついてきてくれたらすぐ戻れるなーって」
咲「そういう問題じゃ」
淡「ほら、買い出し終わらせて会場きて私の勇姿拝んで、それでプール! 完璧ハナマルっ」
咲「いえですから」
淡「うるせえ! いこうっ!!」
押し問答の末、「ドン」と出た淡の頭に誠子のゲンコツが落とされる。
淡「あだっ」
誠子「いい加減にしなよ、大星。もう戻るぞ」
淡「……えー、どうせ大将の私まで回ってくるのは何時間か先だって」
誠子が淡を捕まえようとするが猫を思わせる俊敏さでヒラヒラとかわされ、咲の背後へと隠れるように回ってしまう。
誠子「くっ、店内だから派手な動きができない……」
淡「ツーン」
誠子「ツーンとしたいのはこっちだ! ……宮永さん、そいつ捕まえてくれないかな」
あっという間に後ろに回られた。心底申し訳なさそうにトーンを落とす誠子の頼みに咲は首をねじって後方をうかがう。
どうしてか淡は咲の髪に顔を埋めていた。
淡「んーっ、やっぱテルーにそっくり。髪型も髪の長さもホーンみたいなクセも」
咲「……あの、どいてください」
無遠慮に接近されて微かに不快な感覚を覚えながら伝えると、淡は名残惜しそうに咲の頭から顔を離した。淡へと突き刺さる明華の視線は心なしか険しい。
淡「ごめんごめん、つい」
咲「いえ……それより試合に戻ったほうがいいと思いますよ」
こんなところで油を売っている場合ではない。そんなことは部外者の咲に言われるまでもなくわかっているはず。とはいえ、約束を取りつけようと粘り続けて一向に帰ろうとしない淡を見ていると、何を考えているのかわからずにもやもやとした疑問が募っていく。
咲は、淡と積極的に拘わろうとする気はなかった。淡との関係を通じて姉との関係が進展する可能性を考えなかったわけじゃない。だが、そういった理由で淡と関係を結ぶことに打算の後ろめたさを感じる以前に、咲はその選択肢を拒絶していた。善悪の判断と感情を抜きに、それは咲にとって最も忌避すべきことだった。
淡「んー、試合は大事だけどこっちも気になるんだよね」
淡はどこまでも奔放に振舞っている。そんな悠長にしている間に試合の出番が回ってくる事態にもなりかねないのに。大丈夫だという確信でもあるかのように余裕を見せる。本当にコンビニに買い物でもしにきたような気楽さだ。
ふと気になったのは誠子と淡の力関係。淡は最初正座して謝っていたのに今では誠子に対して居丈高だ。この二人、どういった関係なのだろうか。
おもむろに誠子へと視線を送る。すると切実そうな瞳で見つめ返された。「淡を捕まえてくれ」目がそう言っている。
咲もそろそろ買い出しを再開したい。むしろ手伝わない理由がなかった。誠子に協力し淡を捕まえようとすると、
淡「わっ、わわっ、何?」
嫌な予感を察したのかするりと咲の腕をかわして距離をとられてしまう。
淡「あ、あれっ、プールの準備を気にしてる? だったら大丈夫、これ持ってきたから心配ないよ!」
しかし一度の失敗に諦めず近づいていく咲に、淡は焦った様子で陽気にそう言って手にすっぽりと収まるくらいの小ぶりなビンを取り出す。
咲「えっと、それは?」
錠剤の入った透明なものだ。プールの準備なんて見当はずれなことを言われたものの、気になって問いかける。
淡「ふっふーん、飲む日焼け止めだよ。すごいでしょ」
咲「え、それが……」
飲んで対策するタイプの日焼け止め。モデルやヨーロッパなどの間で大流行し、シワやシミなどにも美容効果が期待できる垂涎の品だ。咲も寡聞には聞いていたが高価なこともあり、実物を見るのは初めてだった。
誠子「み、宮永さん惑わされるな! そもそも水着がないぞ!」
淡「水着は私の貸したげるもーん」
興味を示した咲に危惧を抱いてか必死に呼びかける誠子と、余裕の表情の淡。だが実際のところ咲はある矛盾に震えていた。
咲「結構です……」
淡「え、何が?」
咲の発言に淡が聞き返す。なるほど、藪から棒に言っても伝わらないだろう。深い谷底から這いあがる怨嗟のように陰鬱な声でニュアンスが伝わるという期待に見切りをつけ、咲は水着はいらないと伝える。「なんで?」淡が不思議そうな顔をした。咲は、屈辱に身を震わせる。
咲「入りませんから」
咲が、淡の水着を着るには、身体のある一部分の厚みが足りない。おそらく、その水着を着ると余った布地を支える『力』が不足し、水着は重力に従って咲の胸を離れるだろう。――経験上、咲はそれをよく知っていた。
淡「なんで?」
咲「胸が、足りないからです!」
なおもいたずらに長引かせられる残酷な話題に、咲は終止符を打った。
誠子「大星……お前、そんなことをするやつだとは思わなかったよ」
咲の痛みを理解し境遇を同じくする誠子が非難する。人の道を外れた行いに失望をあらわにし、畜生道に落ちた罪人を見るようなまなざしで淡を見やる。明華も何か言いたそうにしているが、持てるものが心に届く言葉を口にする困難を悟ってかいたたまれなさそうに傍観。咏は遠巻きにずっと観察していて、こっそり爆笑していた。
淡「あー……な、なるほどね」
淡「もんで大きくしてあげよっか!」
咲「そんな幻想はいらないので帰ってください」
めげずにコミュニケーションを図る淡に凍えるようなまなざしで返答が返される。にべもなかった。
咲「……帰らないなら好きにすればいいですけど私たちは買い物に戻りますね」
淡「あうっ」
決別の言葉に淡が痛打を受けたような声をだす。
淡「そ、それは困るよっ」
取りすがるように顔色を悪くして淡が慌てる一方、咲は既に買い物に戻ろうとしていた。お辞儀した後、明華に目線を送って踵を返し、買い物かごを持ち直してその場から離れようとする。明華も呼応してうなずき「では失礼します」と言って残る三人にお辞儀する。
淡「待たれいっ」
背後から聞こえてきた謎の侍言葉にちょっとだけ反応しそうになったが、努めて無視を決め込む。
そしてはあっと息をつく。
心臓に悪い相手との別れ。咲はどこか安心していた。胸部の肉づきの話はちょうどいい口実になり、振り切るきっかけになった。
誠子「はあ……ようやくいけるか。最後に臨海の人たちに謝ってくるから大星、そこで待ってなよ」
淡「……」
誠子「な、なんだその眼鏡。おいっ、どこいく気だ」
淡「サキのとこ」
誠子「もうこのへんにしとけって。誘うにしても今じゃなくていいだろ。試合終わってからでも」
淡「次はいつ会えるかわかんないもん」
誠子「いや宿泊先はわかってるんだから……」
淡「いってもメンゼン払いされたら意味ないじゃん!」
誠子「あっ、おい!」
……後ろから、もめるような話し声が聞こえてくる。バタバタと駆ける足音。
淡「サキっ、今度の私は一味違うよ!」
まもなくして、明華と並び歩いている咲の前に後方から走って追い抜いてきた淡が躍り出た。
咲「あの……」
短い別れから再会を果たした彼女は、先ほどまでなかったシャープなフォルムの赤縁眼鏡をかけ、自信に満ちあふれた笑みを浮かべている。
再三の接触にまた焼き直しかとさすがに辟易してきた感のある咲が困惑気味に声をかける。すると淡は眼鏡のブリッジの部分を指で押し上げてクイクイさせながら、装っているようにも思える神妙な表情で話す。
淡「ねえサキ、私の話に興味ない?」
何のつもりだろう。思考が錯綜する。興味ない、そうばっさりと切り捨ててしまいたい気持ちと裏腹に、咲は混乱していた。
気にならないはずがない。姉の近くにいて、姉と接して、姉の言葉を聞いて。代われるものなら代わりたい。そんな立場にいる彼女がうらやましくて、妬ましくて。
その気持ちを抱く自分を認めたくない自分がいて、怒りが込みあげそうになる。自分はもう充分恵まれているのに。不満なんて持っていないのに。
何かを変えたいということは、何かが変わってしまうかもしれないということ。
咲はその事実を深く意識に刻みつけて、自分をいましめてきた。
だから――甘い言葉で惑わさないでほしい。大切なものを犠牲にするかもしれない夢を見させないで。
咲「なんなんですか……なんなんですか、あなた……」
わなわなと唇が震える。感情がとめどなくあふれて、蛇口が壊れてしまったかのようだった。心配げに自分の様子を見守る明華の表情が、期待にも似た何か別の色を湛えているように錯覚するほど、冷静さという冷静さが抜け落ちていく。
淡「……ふふ、もう帰れって言わないんだね?」
狙いすました顔で見透かすようなことを言う淡の口ぶりに、歯噛みしてきっと睨みつける。白昼の快適な店内で制服の下に隠れた肌がじっと汗ばんだ。
ここまで
目が痛いのでPCで書き始めたんですが投稿に手間どりました
なんだこの酉…だめだこりゃ
>>748 訂正しないつもりでしたがついでに訂正
咲「……帰らないなら好きにすればいいですけど私たちは買い物に戻りますね」
淡「あうっ」
決別の言葉に淡が痛打を受けたように呻く。
ああー>>748の後半文抜けてた
最後淡の煽り足りなくて(咲の)心情の移り変わりが乱暴になってるのはそのせいです、次回更新と一緒に直します
>>746 ついでに訂正、「望み」を「僅かな望み」にしただけですが
淡の背後で誠子が眉頭を押さえている。咲はひえっと息を呑んだ。
咲「そ、それ……まずいじゃないですか!」
二回戦で試合を終えた咲が辺りをぶらついた比ではないくらいまずい。戦慄に身震いする。単純に問題だし、万が一姉のいる白糸台が敗退扱いになったら咲の僅かな望みまで断たれかねない。割とシャレにならない焦燥が咲を襲う。
少しずつ書いて更新するやり方向いてないみたいです
完結まで書き切ってから投稿しますね
生存報告だけひたすらしにくるのも何なので一旦依頼出してきます
こまめに待ってくれていた人もそうでない人も結構な期間お待たせしてしまいそうですみません
細かいニュアンスを気にしてしまう性分でご不便ご不快にさせてしまいましたが、トータルでは書く時間あまり変わらないと思いますし、精神的に楽なのでこの形をとろうと思います
立て直したスレには最後に言った訂正だけ初めにして、続きからだけ投稿するのがいいかな?
スレタイは今のタイトルに「続」とでもつけておきます
それでは皆さん、ここまで合いの手や感想などお付き合いありがとうございましまた!またいずれ!
1回だけ上げときます
更新します
>>743から始めますが大筋変わらずに読みやすくした程度なので面倒だったら読み飛ばしてもまったく問題ありません
一気読みするとき邪魔かと思いますがバックアップ用のハーメルンの保管庫だと読みやすいと思います
>>743から
▼
明華と協力して店内を物色する。回っているうちに買い物かごの中にはどんどんと商品の山が築かれていく。
薄力粉。だしの素。塩。カップ麺。醤油。酒。みりん。鶏卵。チキンラーメン。天かす。青のり。粉かつお。オタフクソース。ソース焼きそば。マヨネーズ。ポンズ。そして一リットルサイズのペットボトルに入った天然水――、
咲「あの……これ、なんなんですか?」
明華「はい?」
プロセスチーズの袋を手にとって確かめていた明華が呼ばれて振り返る。
咲「買い出しですよね?」
明華「買い出しですよ」
咲「部の……買い物なんですよね?」
買い物カゴを占領しつつある商品の数々にチラと視線を移し、咲が訝しげに訊く。すると。
明華「ええと実はですね、これは――」
淡「たこパだっ!!」
今にも秘密の種明かしだという雰囲気を匂わす明華の説明が始まった途端、元気な声がして、二人の間にひょこっと淡の顔があらわれる。
咲「え?」
淡「ん、これたこ焼きの材料でしょ? たこパってやつでしょっ」
天真爛漫な淡の言動につられて、表情に疑問を浮かべていた咲はもう一度かごの中身を見やる。
言われてみればそうかもしれない。少しばかり余計なものが紛れ込んでいるが、材料としてはお好み焼きの類いに近い。たこ焼きにもとれる。足りないのは肝心のタコくらいか。
咏「へー、たこ焼きパーティ? 楽しそうだねぇ」
と思っていると、少し離れた場所で眺めていた咏が歩いてきて軽い調子で加わる。
誠子「お、おい大星っ、話の邪魔をするんじゃない」
淡「へっ?」
だが同じく近づいてきた誠子は、目を離した隙に悪戯をしでかす我が子を見咎めた親のように駆け寄ってきて、淡の腕をひっぱる。
誠子「重ねがさね迷惑をおかけしてすみません。こいつにはよく言って聞かせますんで……」
明華「ああ、いえ構いませんよ」
ぺこぺこと何度も頭を下げる誠子。この場で顔を合わせてからもう何度目になるだろう。気にしていない風に返す明華も少々苦笑い気味だ。
誠子「ええとそちらの……宮永さん? もごめんね」
咲「いえ……」
謝りの言葉が咲の方にも入れられて、咲は萎縮したように会釈しながら思い返す。先ほどあったやりとりのことだ。淡は、店内に入る咲たちを目にすると出し抜けに声を上げ、素早く近寄ってこう言い放った。
淡「泊まってるとこいく前に会えちゃうなんてラッキー! これが飛んで火に入る夏の虫、いやサキだねっ!」
そして彼女はどういう因果か「白糸台の控え室においでよ」と言い、誠子が「いや、控え室は……」と渋い顔をすると今度は「そっか、なら宿泊先! うちのホテルにきてっ!」と言い出し、それからしきりに誘いをかけてくるのだ。咲の手をとって。
実際には自力で淡の手から逃れたり、明華が間に身体を差し込んだりするので厳密にいえば『手をとろうとして』だが、どちらにせよ少なからず咲たちが手を焼いたのは確かだ。
腕を掴みひっぱり込んだ淡の頭にもう一方の手を置いて押さえつけた誠子は、そういった経緯を気に病んでいるのか終始謝りっぱなしだが、
誠子「大星もこの通り反省して……」
淡「フローズンドリンク飲みたい」
両者の言動は真っ向から食い違っていた。「大星!」鬼の形相になった誠子が厳しい視線を飛ばす。
淡「えー、私はサキを連れて帰ろうとしてるだけだよ?」
誠子「それが迷惑なんだ!」
淡「ぶー」
しかし叱咤を受ける当の淡は暖簾に腕押しといった具合で動じず、ふくれっ面を開けっ広げにさらしている。
誠子「お、おい分かってるのか、私がその気になれば……」
淡「できないでしょ?」
猫のように目を細め妖しげな光りを瞳に宿した淡がニヤと笑う。傍観する咲たちには何を指すやりとりか不明だが、誠子は「ぐっ」と押し黙り、苦々しく顔を歪める。
誠子「早く戻らないとまずいって、弘世先輩にめちゃくちゃ怒られるぞ?」
淡「でね、そのとき私は気づいたんだ。人間は記憶を蓄積する装置であるだけじゃなくて、思考を発生させる装置でもあるって」
誠子「聞けよ、ってか何の話だよ!」
淡「っべーだ」
台詞に合わせて仕草を作り誠子をおちょくると、淡は咲のほうを向いてトトッと駆け足に歩み寄った。
淡「よしわかった、サキの気持ちを尊重しよう!」
ひしと手を握られて咲の身体が震える。しかし、一転して心情を慮る発言。その言葉をかけられて咲の心にはわずかばかりの安堵が生まれていた。
姉と縁があり、初対面での出来事、そしてよりによって白糸台の本拠地へと引き込もうとする彼女の強引さに恐怖にも似た苦手意識が芽生えていたが、彼女とて何がなんでも力ずくではない。そう認識して、咲も混乱から回復し我を取り戻しつつあった。
姉の知人友人を前に平静ではいられない。だが、一方的に避けるのは悪いと思えるくらいには余裕を取り戻せた。握られた手もすぐに離されたからか明華も口を出さない。静かに状況を見守っている。
咲「大星さんは」
淡「淡って呼んで、愛称でもオッケーだよ」
思い切って口を開くと呼び方の訂正を求められる。
いきなり名前で呼ぶ。内気で人見知りな咲には抵抗がある。愛称など、もっての外だ。
とはいえ、無理をするでもなく相手が望んでいるようだし、ネリーを『ヴィルサラーゼさん』、明華を『雀さん』と呼びはしなかったように、異国の人間を相手にすると思って無理矢理意識を切り替える。
咲「淡……さん」
淡「淡さん? アハハッ、なんか敬われてるみたい」
呼称が琴線に触れたのか笑いこける淡。
淡「まずは好感度だね!」
咲「え?」
淡「仲を深めてから誘う、そしたらオッケーの流れ。将を射んとすればまず馬!」
咲「あの、私たち買い出しの途中なんですけど……」
表現の疑問には触れないでおき、とりあえず咲は自分たちの事情を伝える。
まばらに通りゆく客、品出しする店員、彼らの視線をちらちらと感じながら冷蔵ショーケースがある一番奥の通路の端っこに直線状に並んで話し込む。その中心を陣取った淡は、藪から棒に奇妙なことを言い出した。
淡「ほら今日も暑いし? さっぱりしたくない?」
咲「はい?」
淡「でしょー!? ちょうどここにプールのチケットが二枚あるんだけど」
淡がスカートのポケットから手早く二枚のチケットを取り出す。だが、掲げられたそれを見る咲の反応は素っ気ない。
咲「……」
淡「うん?」
プール。あまり乗り気でないのもあるが、唐突に誘われても返答に困るというのもあり、咲は閉口する。
訪れる沈黙。白や明るい色を基調とした店内の雰囲気がそれをより際立たせる。
淡「……あううっ」
どう断ろう。咲が迷っているとそんな様子をどうとらえたか、弱り果てたように淡はうめき声を漏らす。
淡「わ、わかった、そっちの髪白? 銀? ええっと外国の人も連れてっていいから」
淡「――はい三枚、これでいい?」
スカートからさらに一枚取り出すと元からあった二枚の上に重ね、差し出すように見せて示す。明華の分もあるのは好印象だけれど。咲の顔には苦笑が浮かぶ。
咲「ええっと、さっきも言ったけど部の買い出しの途中なんです」
淡「それ終わってから! パパっと決めて、パパっとみんなで買い出し終わらせたら、いっぱい遊べるよ!」
淡「すごいよー、東京でもいっちばん大きいレジャープールなんだから。長野からきたサキなんて腰抜かしちゃうよっ」
咲「ムリですよ。部の練習がありますし」
つい先刻練習室から飛び出した身でと思いながらも口実に断ろうとする。
淡「まあまあ、息抜きも大事。大体大会始まってから練習練習ってやってもアレでしょ? 一日くらい」
咲「……あの、気になってたんですけど」
淡「ん?」
咲「まだ試合中のはずじゃ……?」
咲たちが旅館の練習室でBブロックの二回戦が始まるのを見てから、まだ半刻と経っていない。それがあってか明華などは対面したときから怪訝そうにしていたが、咲も妙だとは思っていた。
淡「あー、ああーっそれね」
疑問を受けて淡があらぬ方向に目を逸らす。そして、そのまま大したことなさそうに答える。
淡「うん、私は大将だからね、出番まではモラトリアムがあるっていうか」
淡の背後で誠子が眉頭を押さえている。咲はひえっと息を呑んだ。
咲「そ、それ……まずいじゃないですか!」
二回戦で試合を終えた咲が辺りをぶらついた比ではないくらいまずい。戦慄に身震いする。単純に問題だし、万が一姉のいる白糸台が敗退扱いになったら咲の僅かな望みまで断たれかねない。割と洒落にならない焦燥が襲う。
淡「だからね? サキがついてきてくれたらすぐ戻れるなーって」
咲「そういう問題じゃ」
淡「ほら、買い出し終わらせて会場きて私の勇姿拝んで、それでプール! 完璧ハナマルっ」
咲「いえですから」
淡「うるせえ! いこうっ!!」
押し問答の末、「ドン」と出た淡の頭に誠子のゲンコツが落とされる。
淡「あだっ」
誠子「いい加減にしなよ大星、もう戻るぞ」
淡「……えー、どうせ大将の私まで回ってくるのは何時間か先だって」
誠子が淡を捕まえようとするが猫を思わせる素早さでヒラヒラとかわされ、咲の背後へと隠れるように回ってしまう。
誠子「くっ、店内だから派手な動きができない……」
淡「ツーン」
誠子「ツーンとしたいのはこっちだ! ……宮永さん、そいつ捕まえてくれないかな」
息もつかせない一瞬の攻防を呆然と眺めているうちにあっという間に後ろに回られて、流石に困惑する。だが心底申し訳なさそうな誠子にいっそ悲愴な顔で頼まれればやむをえず、咲は首をねじって後方をうかがう。わずかな隙に回り込んだ淡は、どうしてか咲の髪に顔を埋めていた。
淡「んーっ、やっぱテルーにそっくり。髪型も髪の長さもホーンみたいなクセも」
咲「……あの、どいてください」
無遠慮に接近されて微かに不快な感覚を覚えながら咲が伝えると、名残惜しそうに咲の頭から顔を離す。淡へと突き刺さる明華の視線は心なしか険しい。
淡「ごめんごめん、つい」
咲「いえ……それより試合に戻ったほうがいいと思いますよ」
こんなところで油を売っている場合ではない。そんなことは部外者の咲に言われるまでもなくわかっているはず。とはいえ、約束を取りつけようと粘り続けて一向に帰ろうとしない淡を見ていると、何を考えているのかわからず雲霞のような疑問が募っていく。
咲は、淡と積極的に拘わろうとする気はなかった。淡との関係を通じて姉との関係が進展する可能性を考えなかったわけじゃない。だが、そういった理由で淡と関係を結ぶことに打算の後ろめたさを感じる以前に、咲はその選択肢を拒絶していた。善悪の判断と感情を抜きに、それは咲にとって最も忌避すべきことだった。
淡「んー、試合は大事だけどこっちも気になるんだよね」
どこまでも淡は奔放に振舞っている。そんな悠長にしている間に試合の出番が回ってくる事態にもなりかねないはずなのに。大丈夫だという確信でもあるかのように余裕を見せる。本当にコンビニに買い物でもしにきたような気楽さだ。
ふと気になったのは誠子と淡の力関係。淡は最初正座して謝っていたのに、今では誠子に対して居丈高だ。この二人、どういった関係なのだろうか。
おもむろに誠子へと視線を送る。すると切実そうな瞳で見つめ返された。「淡を捕まえてくれ」目がそう言っている。
咲もそろそろ買い出しを再開したい。むしろ手伝わない理由がなかった。誠子に協力し淡を捕まえようとすると、
淡「わっ、わわっ、何?」
嫌な予感を察したのかするりと咲の腕をかわして距離をとられてしまう。
淡「あ、あれっ、プールの準備を気にしてる? だったら大丈夫、これ持ってきたから心配ないよ!」
だが一度の失敗に諦めず近づいていく咲に、淡は焦った様子で、しかし陽気にそう言って手のひらにすっぽりと収まるくらいの小ぶりなビンを取り出す。
咲「えっと、それは?」
錠剤の入った透明なものだ。プールの準備なんて見当はずれなことを言われたものの、気になって問いかける。
淡「ふっふーん、飲む日焼け止めだよ。すごいでしょ」
咲「え、それが……」
飲んで対策するタイプの日焼け止め。モデルやヨーロッパなどの間で大流行し、シワやシミなどにも美容効果が期待できる垂涎の品だ。咲も寡聞には聞いていたが高価なこともあり、実物を見るのは初めてだった。
淡「どうだ、まいったかー」
咲「……えーと」
予期しないアイテムの出現に思わず足が止まる。それを見てとった淡がますますふんぞり返る。一方の咲は気勢を削がれてしまって、会話など取り合わずさっさと捕まえてしまおう、という目論見が崩れていた。
送るまい、送るまいとしていてもチラチラと小ビンに視線を送ってしまう。
誠子「み、宮永さん惑わされるな! そもそも水着がないぞ!」
淡「水着は私の貸したげるもーん」
一方で興味を示した咲に危惧を抱いてか必死に呼びかける誠子と、余裕の表情の淡。だが実際のところ既に咲の関心は他に移っていて、ある矛盾に震えていた。
咲「結構です……」
淡「え、何が?」
咲の発言に淡が聞き返す。なるほど、藪から棒に言っても伝わらないかもしれない。深い谷底から這いあがる怨嗟のように陰鬱な声でニュアンスが伝わるという期待に見切りをつけ、咲は水着はいらないと伝える。「なんで?」淡が不思議そうな顔をした。咲は、屈辱に身を震わせる。
咲「入りませんから」
咲が、淡の水着を着るには、身体のある一部分の厚みが足りない。おそらく、その水着を着ると余った布地を支える『力』が不足し、水着は重力に従って咲の胸を離れるだろう。――経験上、咲はそれをよく知っていた。
淡「なんで?」
咲「胸が、足りないからです!」
なおもいたずらに長引かせられる残酷な話題に、咲は終止符を打った。
誠子「大星……お前、そんなことをするやつだとは思わなかったよ」
咲の痛みを理解し境遇を同じくする誠子が非難する。人の道を外れた行いに失望をあらわにし、畜生道に落ちた罪人を見るかのようなまなざしで淡を見やる。明華も何か言いたそうにしているが、持てるものが心に届く言葉を口にする困難を悟ってかいたたまれなさそうに傍観し、遠巻きにずっと観察していた咏はこっそり爆笑していた。
淡「あー……な、なるほどね」
淡「ーーあっ! もんで大きくしてあげよっか!」
咲「そんな幻想はいらないので帰ってください」
めげずにコミュニケーションを図る淡に凍えるような声とまなざしが返される。にべもなかった。
咲「……帰らないなら好きにすればいいですけど私たちは買い物に戻りますね」
淡「あうっ」
決別の言葉に淡が痛打を受けたように呻く。
淡「そ、それは困るっ」
取りすがるように顔色を悪くして淡が慌てる一方、既に咲は買い物に戻ろうとしていた。お辞儀した後、明華に目線を送って踵を返し、買い物かごを持ち直してその場から離れようとする。明華も呼応してうなずき「では失礼します」と言って残る三人にお辞儀した。
淡「待たれいっ」
背後から聞こえてきた謎の侍言葉にちょっとだけ反応しそうになったが、努めて無視を決め込む。
そして、はあっと息をつく。
心臓に悪い相手との別れ。咲はどこか安心していた。胸部の肉づきの話はちょうどいい口実になって振り切るきっかけになった。これ以上、彼女と話していたくない。彼女自身には何の他意もないが、咲の中でその気持ちは切実な欲求となりつつあったから。
誠子「はあ……ようやくいけるか。最後に臨海の人たちに謝ってくるから大星、そこで待ってなよ」
淡「……」
誠子「な、なんだその眼鏡。おいっ、どこいく気だ」
淡「サキのとこ」
誠子「もうこのへんにしとけって。誘うにしても今じゃなくていいだろ。試合終わってからでも」
淡「次はいつ会えるかわかんないもん」
誠子「いや宿泊先はわかってるんだから……」
淡「いってもメンゼン払いされたら意味ないじゃん!」
誠子「あっ、おい!」
……後ろから、もめるような話し声が聞こえてくる。バタバタと駆ける足音。
淡「サキっ、今度の私は一味違うよ!」
まもなくして、明華と並び歩いている咲の前に後方から走って追い抜いてきた淡が躍り出る。
咲「あの……」
短い別れから再会を果たした彼女は、先ほどまでなかったシャープなフォルムの赤縁眼鏡をかけ、自信にあふれた笑みを浮かべている。
再三の接触にまた焼き直しかと困惑気味に口を開く咲。――しかし、すぐに思い知らされる。辟易した感を装って頑なに突き放そうとしても。本心では、単に彼女に怯えているだけで。
眼鏡のブリッジを二本の指で押し上げてクイクイさせながら装っているようにも思える神妙な顔で切り出す淡の姿に、心が悲鳴をあげそうになっているのも、気づかないふりをしているだけなのだと。
淡「ねえサキ、私の話に興味ない?」
どくんと嫌な高鳴りがした。そして、瞬時に悟る。目を背けようとするちっぽけな抵抗が虚しくなるほど自分は彼女の言葉を意識してしまっていて、その証拠に、極度の緊張をしらしめる断続的な鼓動が、思惑も何も無視して反響するように頭の中で鳴っている。不吉な存在感を示しながら。
咲「……はい?」
とぼける返事をして、すぐさま平静を装う。だが、絶え間ない緊張が平常心を蝕む。砂の城に触れたように心の防波堤は脆くも崩れかけ機能を放棄しようとする。
淡「ああ、まだ私にはあんま興味ないよね。でも私って結構テルーと仲いいんだあ。――ねっ、私のするテルの話なら興味あるでしょ?」
咲「何を言ってるのか……」
さっきまでのどこか軽かった雰囲気が遠い。あのやりとりは前座か様子見で機を窺っていたにすぎなかったのか。
淡「とぼけてもムダ。知らない仲じゃないどころか相当大きな存在だよね。たぶん、お互いに」
また、胸の奥で唐突な鼓動がかき鳴らされる。嫌な音。見透かされているような、不安を煽られる感覚。どこまで知られていて、何をしようとしているのか。わからない。おそろしい。――そして、妬ましい。
咲「……もしそうだとして、何だっていうんですか……?」
淡「だからね? テルのこと教えてあげる。逆に、サキのこと、テルに教えてもいいし」
咲「…………」
思考が錯綜する。ちかちかと視界が瞬く。興味なんてない――そうばっさりと切り捨ててしまいたい気持ちと裏腹に、混乱のるつぼに咲は囚われていた。
気にならないはずがない。姉の近くにいて、姉と接して、姉の言葉を聞いて。代われるものなら代わりたい。そんな立場にいる彼女がうらやましくて、妬ましくて。
踏み込む勇気もないのにおこがましい、同時にそんな気持ちを抱く自分を認めたくない自分がいて、怒りが込みあげそうになる。自分はもう充分恵まれているのに。不満なんて持ってないのに。
何かを変えたいということは、何かが変わってしまうかもしれないということ。咲はその事実を深く意識に刻みつけて、今日まで自分をいましめてきた。
淡「――ねっ、どう?」
だから――甘い言葉で惑わさないでほしい。大切なものを犠牲にするかもしれない夢を見させないで。
咲「なんなんですか……なんなんですか、あなた……」
わなわなと唇が震える。感情がとめどなくあふれて、蛇口が壊れてしまったかのようだった。心配げに自分の様子を見守る明華の表情が、期待にも似た何か別の色を湛えているように錯覚するほど、冷静さという冷静さが抜け落ちていく。
淡「……ふふ、もう帰れって言わないんだね?」
狙いすました顔で見透かすようなことを言う淡の口ぶりに、歯噛みしてきっと睨みつける。白昼の快適な店内で制服の下に隠れた肌がじっと汗ばんだ。
その後、張り詰めた空気の中で一旦買い出す品の会計を済ませて咲たちはコンビニを後にした。白糸台の淡や誠子、そしてどうしてか咏も伴って。というのもコンビニを出ようとしたのは、
咏「いやー、そろそろ場所移したほうがいいんじゃない?」
という咏の助言があったからだ。周りの好奇やあるいは端的に言って煙たがる視線が気になってきていた咲はその助言を採り入れ、明華の預かったメモにある品が買い物かごに揃っているのを確認してひとまずレジに持っていった。すると。
咏「話し込むならすぐ近くにちょうどいいカフェがあるからさ、そっちいこうよ。お金は私が払うし」
続けざまに咏の提案。と、ここらあたりになってなぜ咏が加わる流れになっているのか、最初顔を合わせたときによくわからないまま挨拶して以来、これといって言葉を交わしていなかった咲が疑問を呈すると、
咏「よくわかんないけど一応大人もいたほうがいいっしょ。大会のスタッフとして白糸台の子たちが戻るのを見届けないとだし、はやりさんの手前、咲ちゃんのほうも放っとけないしね」
咏「あっ、もちろんキャンプとか一緒するって誼もあるよ。私としても咲ちゃんのこと全く気にならないわけじゃないからねー、しらんけど」
説得力があるようなどこか腑に落ちないようなことを言って、やや強引に咏が咲たちを先導していく。
そしてコンビニでのやりとりから十数分した後、採光のよい広々としたカフェの奥の方に咲たちの姿はあった。
淡「ふうー、生き返るー」
全面ガラス張りの窓に面した席で、咲は居心地悪そうに座りながら対面の淡を見つめる。彼女は届いた飲み物を赤いストローを介しおいしそうに喉を鳴らして飲み、たった今試験から解放されたような顔でのん気に感想を漏らす。
咲「…………」
飲んでいるのは、大きめのグラスに入ったフローズンオレンジ。良質な宝石のように鮮やかな色をしている。
開放的で清潔な雰囲気の店内――窓の外に広がる、繁華街に沿った賑やかな表通りの風景。咲の隣には窓際から順に頬杖を突く咏と折り目正しく座った明華が、淡の隣にはやや疲労している感のある誠子が保護者のようにぴったりとくっついている。
横長の長方形のテーブルと椅子で、最もホール側に近い位置に咲はさりげなく座っていた。
淡「あ、それでさ~テルってば最近全然相手してくれなくて」
咲「……」
淡「もうなんでもかんでも生返事。おしゃべりしよーっていったら『ああ』、麻雀打とうっていっても『ああ』、お菓子食べる? っていったら『うん』ってそればっかり」
癇癪を起こしたように「うがーっ」とバンバン机を叩くような仕草をする。そんな淡に、咲は反応に困って愛想笑いを浮かべながら静かに聞く。
淡「ひどいときとか、もう無視だよ無視。人を無視しちゃいけませんーって小学校でも習うじゃんねー?」
咲「そう……ですね。無視はいけないと思います」
淡「だよねー! いやーわかってくれてうれしいよー」
同意を求められて、少し言い淀みつつも一般的な意見を言う。現実には場合によりけりだと思うが注釈を加えるほどの意義を見いだせなかったから。一方で、淡にはやたらと喜ばれたようだった。
淡「今の言葉、テルーに言っとくね! サキが言ってたって話したらきっと効果あると思うんだー」
咲「ええと……、どうぞ?」
波濤の勢いで進められていく話に押され気味に返す。話が変に伝わってややこしいことにならないか。そういった心配が瞬間的に脳裏をよぎるが、今の咲にはここに来るまでの間に肝を潰した分の落差に対する戸惑いが勝り何もできないでいる。――そう、咲は困惑していた。
もっと緊張感のある話だと思っていたのだ。そしていま咲の心境は、何というか拍子抜けに脱力してしまっている。
同時に、咲の中で淡を遠ざけようとする気持ちが少しずつ薄らいでいく。逼迫した警戒心がほんの少し緩み、覆いかぶさるようなクオリアから解放されて、いつも通りの、高校に上がってからのいつも通りに近い形へと意識が替わっていく。
そんな中で、それとなく淡を見つめる。楽しいと感じているのだろうか。まるで気が合う級友とでも話を弾ませるかのように、にこにこと笑みを浮かべて人懐こく喋る彼女への疑問は尽きず、思い迷うばかりだ。
何か、意図するところがあったのではないのか。今となっては無用になったとしか思えない警戒心を働かせて考えてみるも、今しているのはたわいもない雑談。咲には意味を見いだせない。強いていえば『最近姉や弘世という先輩に構ってもらえなくてご立腹です』という不満をこぼしているくらいで、そんなことをいわれても困るというのが率直な心情だ。
姉の話とは名ばかりの世間話。不満を吐き出させてあげる程度の軽い相談事。緊張して思い詰めていた自分がばからしい。とんだ道化だ、と弱音をこぼしたくなる。張り詰める必要なんてなかったのではないだろうか。
明華「……咲さん?」
表情のこわばった印象が弱まり、柔和にも近い面差しに変わるのを見てとった明華の慎重に窺うような呼びかけ。「ちょっとだけすみません」、咲は淡に断りを入れて振り向き、いつも通りを意識した柔らかな声で尋ねた。
咲「さっきの話……本当に大丈夫でしょうか」
明華「……寄り道で遅れるという電話のことですか?」
咲たちはこの喫茶店に来る前、買い物に必要ない余分な時間をかけてしまうので前もって連絡しようとした。そして結局は明華の携帯端末で連絡してもらった。というのも、その段になって咲は携帯端末が手元にないことに気づいたからだ。
咲はやってしまったと思った。咲の携帯端末は高校に上がってから母の勧めで持つようになったため、持ち歩く習慣がしっかりと身についていないのだ。
とまれ明華に頼んで連絡してもらい、遅れてしまう旨を申し訳なさと共に伝えたのだが。その際旅館の練習室に忘れていった携帯端末があると知らされて納得すると同時に、「佐々野いちご」と名乗る人から電話があったのだ、ということを教えられたのである。
急用かもしれないので携帯端末を取りに一旦帰り、確認してから淡との話に臨もうと咲は思ったのだけれど、
智葉「その電話は私がとったんだがな、『取り立てて用事ではないので大丈夫。折り返しの電話もいらない』そうだ」
咲「そう……なんですか?」
智葉「ああ、だからこちらも特に気にせずゆっくりしてきていい――」
ダヴァン「サキイィイイィッ! ごめんなサイ! ソーリー! 許シテ!」
咲「メ、メグさんですか?」
そのときの電話でこんなことがあった。途中、電話口の向こうからでも聞こえる渾身の謝罪が入り込んで、どうやらダヴァンが何かしてしまったようなのだ。
智葉「……ああ。実は初回の電話はメグがとってな。意味のわからないことを言って電話を切りやがったんだ」
ダヴァン「ごめんなサイッ、ごめんなサイッ! ついうっかり慌てて切ってしまッテ……!」
智葉「……そういうことなんだ。すまないな咲、許してやってくれないか」
咲「え、ええ……メグさん、気にしないでください」
いったいどういう切り方をしたのかいちごの心証が心配ではあったが、それでダヴァンを責めても始まらない。覆水は盆には返らないのだから、後はいちごと自分の問題である。それに、そもそも電話をとってくれたのも厚意だったに違いない。咲の中にチームメイトを疑う気持ちは誇張ではなく微塵もなかった。
それからまさに涙ながらといった様子で電話口から感謝と改めて謝罪する言葉が聞こえてきたが、咲は鷹揚に受け止めた。ダヴァンの感情表現が日本人と比べるとオーバーであることは四ヵ月あまりの付き合いで知っていたし、謝意はきちんと伝わっているから。
明華「大丈夫ですよ。智葉はムリな気遣いなんてしないと思います」
そして現在の会話、咲の懸念を明華はやんわりと否定してくれる。
咲「……」
明華「佐々野さんという人のことも気になりますか?」
惑う咲の心のうちをすっぱりと言い当てられる。どきりとした。状況から察すれば想像はできるのかもしれないが、それにつけても明華の感の鋭さは人と比べて際立つ。そもそも、付き合わせてしまう彼女にだっていちごと同じかそれ以上に気になるし、散々迷惑のかけ通しで頭が上がらないのだ。なのに、咲の思い過ごしや思い上がりでなければ、いま彼女はあえてそれに触れないでいてくれている気がするのだ。
彼女とは、ある事情で他のチームメイトにましても多くの言葉を交わしてきた。だからだろうか。時々、深いところまで見通されているような、不可思議な感覚に陥る。それが決して不快ではない、心地よい気分をもたらすことに咲は恐怖を覚える。だがそんな感覚を今は振り切って、言葉を紡ぐ。
咲「佐々野さんにはあとで電話しようと思います。今は……こっちで大ほ」
淡「淡っ!」
咲「……淡さんと、お話しようと思います」
どうするかを決めて、淡へと向き直る。
咲「でもお願いがあります。私との話が終わったら、すぐに会場の方に戻ってくれませんか」
淡の瞳を見つめて、真摯な態度で頼む。くりっとした淡のそれが、予期しないものに遭遇したようにパチパチと瞬いた。
淡「……いーよ。でも、私が満足しなきゃ終わらせないからね?」
不敵な笑みで獲物を狙うかのように宣言する。なんというか、思わせぶりな態度をとる人だ。でもそれだけに、どんな思惑をしているのか気になる。それは混じり気のない気持ちだった。
少しだけ。少しだけ、知りたいと思うようになっていた。妬みではなく、恐怖にかられた詮索でもなく。
ネリーに抱いたような、明華に抱いたような――今のチームメイトみんなに抱くものと同じ。それはおそらく、純粋な興味。
『咲、大事なのはひた向きに相手をよくわかろうとする気持ちだよっ!』
昔教えられた言葉と共に、大切な人の姿が脳裏に蘇る。たくさんの言葉、そしてたくさんの想いをくれた人。
――もう二度と、戻ってはこない人。
咲「わかりました。満足するまで付き合います」
穏やかな顔の裏に苦い思いを噛みしめながらも、咲は微笑んで淡の言葉に答えた。
大きな湖が見える公園のプロムナード――青々とした芝生のうえに陣取って、車椅子に乗った彼女と、幼い自分とが向かい合って。思い出通りに会話が始まる。
『話にはね、イントロとサビがあるのだ』
咲『おうたの?』
『そっ。わたしは何かを説明するときになるべく「たとえ話」を使うようにしてるんだ。帰納法的っていうか、実例を使って質問に答えるなら例話法とか立体論法ってやつ』
『そこで今回は、会話を「カラオケ」にたとえて考えてみよー!』
咲『おー』
『だからね、今日はイントロとサビ』
咲『サビ好きだなあ』
『あはっ、あとでカラオケいく? ……ん? もしかして今のサビってワサビ?』
『それはそうと前にも話した通り、多くの人は会話するときに「伝えること」ばかり考えていて、「聞くこと」を意識してないの』
『これはカラオケにたとえると、「自分が歌うことばかり考えていて、他の人の歌を聞こうとしてない」って感じかな』
『他の人が歌ってるとき、聞くことよりも自分が歌う曲を探すのに一生懸命になってることってない? カラオケボックスの中を冷静に観察してみると、みんな歌うことばかり考えているのがよく見えて、なかなか面白いものだね。会話するときも、これと同じ状態になっているわけだよー』
『実は、会話ではもっとひどいことが行われてるの。他の人が歌おうとしている曲のイントロを聞いて、「あっ、この曲いいよね。わたしが歌いたい!」ってマイクをうばって歌っちゃったら、うばわれた相手はどう思うかな? 間違いなく腹を立てちゃうだろうね』
『でも実際の会話では、こうしたことがよく起きてる。かくいうわたし自身が、マイクうばいそうになったからね!』
咲『マイクとっちゃったらだめだよぉ……』
『と、とってないとってない! だからセーフ、ギリギリセーフ』
『……ま、まあ、とりあえずその経験をお話するよっ!』
『わたしって結構SNSとか使うんだよね。疎遠だった人もいるんだけど、SNSとかを使って友だちと連絡を取り合うことがあるの』
『そうしてある友だちと再会したときにね、その人が「やあ、久しぶりだね。オレさあ、この間、高尾山に登ってきたんだよ」って話しはじめたの』
『突然だけど、咲は高尾山が「世界一の山」なのを知ってる?』
咲『世界一?』
『うん、高尾山は毎年二六〇万人以上が訪れる「年間登山者数が世界一の山」なんだって。まー、このことつい最近まで知らなかったんだけどね』
『年間登山者数が世界一ということは、ビジネスでいうと「世界一集客している」って表現できる。「東京都下にある五九九メートルしかない小さな山が、世界一集客している」っていうのはすごくキョーミ深くない?』
『実はわたし中小の企業と関わりがあるんだけど、なんとなく高尾山が中小企業を応援してくれてるみたいに感じられて、すっかりうれしくなっちゃってねー』
『この話を聞いてから「いいことを知ったぞ。どこかでこの知識を披露したいなあ」ってウズウズしてた』
『だから、友だちが「高尾山に登った」って話を聞いて、すぐに「しってる? 高尾山って世界一の山なんだよ」ってうんちくを語りたくなっちゃった』
『でも、そのときちょっとだけ我慢したんだ。なんでかっていうと、その友だちが高尾山に登ったっていうのがちょっと意外だったから』
『その人は、「元祖オタク」って感じのタイプで、学生時代は文化部所属。わたしがしる限り完全なインドア派だったんだよ。そんなその人が山に登ったことに違和感を覚えて、「へー? 山登りなんかするんだ。意外だね」ってちょっと話を聞いてみることにしたの』
『そうするとね、びっくりするような事実がその人の口から出てきた!』
『「いやー、実はオレさあ、『山ガール』とつき合い始めたんだよ」っていうんだよ』
『ちなみに、その友だちは独身でこれまで結婚歴もない。それどころか、今までに浮いた話を聞いたことがない。そんなその人が、こともあろうに若い山ガールとつき合いはじめたっていうんだよ。それでそのあと、その人はうれしそうに彼女のことを話しはじめた』
咲『へええ』
『ここまで聞いたらわかるようにその人がホントに話したかったのは「高尾山に登ったこと」じゃない。「山ガール」と付き合いはじめたこと」だったのだ!』
咲『じゃ、じゃあ高尾山はどうでもよかったってこと?』
『まー、どうでもよかったってわけでもないだろうけど』
『いうなれば、「オレにも春がきた!」って曲を歌いたかったわけだねーフフ。高尾山に登ったことは、その人が歌おうとした「イントロ」だったわけだよキミ』
『もしわたしが、高尾山に登ったってイントロを聞いて、「フフ、しってるかい? 高尾山って世界一の山なんだよ」ってうんちくを語りはじめっちゃったら、どうなってただろうね』
『おそらく、その人の「オレにも春がきた!」って話は聞けなかったかな。これが、「イントロを聞いて、マイクをうばって歌っちゃうってこと』
咲『サビになる前にマイクをとっちゃったらだめなんだね……』
『まー、咲はとる心配なさそうだよねー』
『……あれっ、なら今の講義意味ないんじゃ』
咲『ありがとう――ちゃん! すっごくわかりやすかったよ!』
咲『――ちゃんのロンシ? は明快だね。お話が上手ですごいなあ』
『さ、咲ちゃん……』
『う、ううぅっ、最高だよぉ……咲ちゃんみたいな子をもてておかーさんしあわせだよぉ……』
咲『――ちゃんみたいなおかーさんもったことないよ?』
『あうっ』
『いいんだいいんだ、どーせわたしなんて……』
咲『……』
咲『その、えっとね。――ちゃんはおねえちゃんだよ』
『えっ』
咲『……いつもいろんなこと教えてくれて、ありがとね。おねえちゃんがとれーにんぐしてくれるおかげでわたし、自信がでてきたの』
咲『まだちょっとだけだけど……照おねえちゃんと、おかーさん……ふたりが仲よくなるようにできる気がしてきたんだ』
咲『だから――ありがとう。わたしをたすけてくれて、わたしと仲よくしてくれて、ありがとう』
咲『わたし、――ちゃんのこと大好きだよっ』
三十分ほど席を外します
▼
それから。淡と咲は多くのことを話した。咲が注文で頼んだラテアートの話から、インターハイの事、二人が住んでいる東京の事、学校の事、最近街中に広まっている噂の事まで話題は多岐に渡り、短い時間だが多くのやりとりが交わされる。最初はどことなくぎこちなかった会話も、いつしか小気味よく弾んで、身内を語り合うまでになっていた。
淡「それでさー、たかみ先輩っていつもお茶ばっかり飲んでるの」
咲「お茶、好きなんですね」
淡「好きとかってレベルじゃないよ。尭深先輩のほう見るたびにお茶飲んでるし!」
咲「じゃあお茶とりあげられたら困っちゃいますね」
「それはもう間違いないね」と犯人を言い当てる名探偵ばりに得意げな顔で淡が言う。咲はくすくすと笑った。
咲「弓に釣り竿にお茶……白糸台は個性的な人が多いんですね。楽しそう」
淡「テルーは竜巻だからねー、いやコークスクリュー?」
淡「常識的なのは私くらいしかいないなんてまったくどうかしてるよ」
「ふーやれやれ」とでも言いたそうに呆れ顔で肩を竦める淡。するとそこに、
誠子「一番非常識なのはオメーだろ……」
携帯端末に目を落としたまま、低く唸るような声で誠子がつぶやく。なぜそうしているかというと、わずかに漏れ聞こえてくる音から察するに試合の趨勢を確認しているのだろう。その育児に疲れた母親のような様子から苦労、特に心労がしのばれた。
だが強硬手段に出ることなく結果的に見過ごす形をとってくれている。少なくとも今は。咲は最初、淡と話し込む前に誠子に深謝した。協力するような態度をとっておいて淡のわがままに思える行動に加担することを。
そして約束した。三十分以内に淡を満足させて帰らせることを。
三十分であれば、タクシーに乗って会場を目指せばまず副将戦が始まるまでに到着するはずだ。中堅までが異常なハイペースで終わってしまえばその限りではないが、試合の情勢を確認している誠子の様子からして今現在その心配はないのだろう。
無論、常識で考えれば有無を言わさず控室まで連れ帰るのが妥当だ。個人戦ならともかく学校単位、チーム単位で進退が懸かる団体戦で自ら不戦敗のリスクを侵すなど考えられない。
ただ、淡もまったく周りの迷惑を考慮に入れていないわけでない。と、咲は思うのだ。確かな根拠に裏打ちされたようなものではないが、接して言葉を交わすうちに、淡の心根が邪だとも思えなくなってくる。咲としては初対面でのこと、そして今の状況もやはりこれはこれで完全には手放しに擁護できないというのもあって、苦手意識も相当にあるのだが。
淡「ふーんだ。サキと話すること認めてくれたのは感謝してるけど、あんまり調子乗らないでよね」
誠子「そっくりそのまま返してやるよ……お前、この後で覚えとけよ。お前のやったこと、包み隠さず弘世先輩に話すからな」
淡「うっ……い、いいもん。テルに守ってもらえば……」
誠子「ああそうそう、宮永先輩にも伝えなきゃな? 宮永さんに初対面でずいぶんなことやらかしてたみたいじゃないか」
淡「げえっ、なんでしってるの!」
誠子「あっちの雀さんから聞いた」
淡「ずっこい! それなし、それなし!」
……三十分でとても終わりそうになかったら強制的に退出させられるという話を、淡は覚えているのだろうか。
ボサノバが店内にBGMとして流れる中で言い合う二人から咲はさりげなく視線を外し、店内に巡らせる。にぎわっていて盛況の店内。白を基調とする爽やかな内観がそうさせるのか、それなりに混み合っている割に人いきれのような暑苦しさを感じさせることもなくすっきりとしている。内装も、木のぬくもりが感じられて好印象だ。買い出しで購入したものは荷物入れバスケットに入れられているので席も窮屈にならない。
備えつけのおしゃれな容器に入れられた角砂糖を自分のラテアートに投入しつつ、窓の方に視線を滑らせる。すぐ隣の明華、ではなくその先にいる咏を盗み見ようとしてのことだったが、
咏「うん? 私になんか用かい?」
あっさりと目が合ってしまい、慌てて視線をひっこめる。
咲「い、いえっ、三尋木さんも時間大丈夫なのかなって」
咏「あー大丈夫大丈夫、こんなこともあろうかとあらかじめフリーだからさ」
咲「……そ、そうですか」
爽やかなスマイルで片方の袖を振りつつモカを啜る。ある意味、淡よりもわからないのが咏だった。明華など慎ましやかに胡乱な目で見ているし、咲だってたぶん同じ心境だ。
咏「ここ、いい店っしょ。気軽に入れてオシャレな割に味も悪くない。結構掘り出しなんだー」
確かに、良い店だと思う。カフェブームで繁華街に乱立してさながら戦国の様相を呈すこの手のカフェだが、長野出身の咲には刺激の強い都市文化だ。もちろん長野にだって比較的都会といえる街はあるものの、東京や大阪と比べれば霞んでしまう。そもそも、インドア派の咲にとってはことさら刺激が強かった。
咏「いやー若い子と遊ぶのはいいねぇ、こっちも若返る気分だよ」
そしてそれはともかく、咏の語り口は軽妙だった。急流に磨かれた岩肌のようにつるっとしたカップから口を離し、何となしに咲たちの姿を眺めてはふむふむと納得したり吟味するように浅い頷きを繰り返す。観察に徹するわけではなく、こうして会話を求められれば闊達に舌を回らせる。
飄々として手品師めいた雰囲気があるのだ。デパートでの買い物でもみられた軽口は健在で、それらが咲の中で色濃い印象を残すなりかたち。一言で表すなら軽妙。ただ気安いというのではなくたわいないが、気がきいていて滑稽みのある言葉を放つ人。
咲「あはは、そんなこというようには見えませんよ」
咏「ん? どういうこと?」
咲「すごく見た目が若々しいってことです。若返るまでもなく綺麗ですし」
同時に、風貌に関しても彼女は謎めいた印象を持っていた。彼女は今年二十四歳になるかと思うが、それに反して彼女の容姿には十代の少女が持つような瑞々しさが残っている。それでいて重ねてきた齢をうかがわせる雰囲気をどことなくも漂わせていて、異国情緒にも似た不思議な魅力を作り出しているのだ。
咲「……」
咏「ははっ、うれしいねぇ――って、お、見とれてる?」
咲「あっ、……い、いえその、知っている人にも若作りの人がいるのでどうなってるのかなぁって」
咲が思い浮かべたのは衣のことだった。彼女の場合、若作りがすぎて幼い女の子にしか見えないけれど年齢に比べて若い容姿をしているという意味では同じだ。
そうでない人との違いを生み出している要因が気になる。食べているものや習慣が違ったりするのだろうか。
咏「なーんだ、残念」
彼女はそう言って、落胆したような仕草をする。そして大げさに嘆息してカップに口をつける。まるで、意中の彼氏がよそ見をしてふて腐れる姿を演じるかのように。つまり、本気で機嫌を損ねたわけではないのだろう。咲の知っている若作りの人には興味を示さなかったようだった。
淡「サーキー、聞いてよセーコがー」
一方、不毛な言い争いを繰り広げていた二人から淡が抜け出し、声をかけてくる。
誠子「だから呼び捨てはやめろっていってるだろ……」
そういえば呼び方が変わっている。『亦野先輩』と『セーコ』では親しみも気安さもずいぶんと違うが、どういう意味での変化だろう。誠子が呼び捨てに釘を刺しているあたり、誠子の本意ではないようだが。同時に、呼び捨てにされて怒っているようにも見えない。
咲「どうしたんですか?」
淡「えっとね、セーコが」
誠子「だからやめろって。また一年の中で浮くぞ」
……どうやら、誠子の気遣いのようだ。
淡「むうー話の腰折らないでよ。それに、あんなやつらどうだっていいし」
誠子「またお前は……」
誠子が渋面を作る。それは不快や苛立ちというより、心配の意味がこめられているように咲は感じた。
淡「だって麻雀で勝てないから文句いうんでしょ。あいつらは気に入らないとこを探して、ただ叩きたいだけ」
相手する時間がもったいないよ、とたかってくる蠅を見たように嫌そうな顔をする淡。声にも佇まいのひとつひとつにも、ありありと嫌悪があらわれている。よほど嫌っていることが見てとれた。
誠子「そうはいっても三年間、付き合っていく仲間じゃないか。少しずつでも馴染んでいくしかないと思うぞ」
――裏を返せば、三年間で終わる付き合いということでもある。ふと咲は思った。そしてやんわりと戒める言葉を受けた淡は、聞く耳を持っていないようだった。
淡「我慢して付き合うくらいなら無視でいいじゃん。どうせ三年。でも私にとっては貴重な三年なんだから、好きにやらせてよ。もうお説教はうんざり」
誠子「……」
淡「もー、セーコのせいでムダに空気重くなっちゃったしー。ねー」
同意を求めるように咲の方を向く淡。
咲「……そうですね。三年なんてすぐですから、見ないでいたらいつのまにか過ぎてるかもしれません」
咲は思うところを率直に言った。視界の端で、誠子が意外そうな顔をしていた。特に関わりのない人の隠れた趣味を見聞きして衝撃を受けた程度に目を丸くして、困惑がちに聞き入っている。
淡「だよねー! やっぱサキとは気が合うなあ、もうサキの学校に転校しちゃおっかな」
唐突ですがここまで
次回はわかりませんができるだけ早いうちにこれたらきます
>>807
咲「……そうですね。三年なんてすぐですから、見ないでいたらいつのまにか過ぎてるかもしれません」
視界の端で誠子の意外そうな顔が目に入る。咲は思うところを率直に言った。特に関わりのない人の隠れた趣味を見聞きした程度に目を丸くした誠子が困惑がちに聞き入っている。
こんな感じのやり方ですか?
基本的には細かい修正を保管庫の方でやっときますね
ちなみに行間のスペースはどれくらいが読みやすいですか?
あ、後一個だけ…本っっ当にすみませんすみません!
>>806
咏「なーんだ、残念」
彼女はそっぽを向いて座り直し落胆したようにすると、大げさに嘆息してカップに口をつける。まるで意中の彼氏がよそ見をしてふて腐れる姿を演じるように。つまり、本気で機嫌を損ねたわけではないのだろう。咲の知っている若作りの人には興味を示さなかったようだった。
淡「だよねー! やっぱサキとは気が合うなあ、もうサキの学校に転校しちゃおっかな」
他方、図らずも同調されることが続いた淡の機嫌はたちどころに回復し、いかにもその場で思いついたようなことを口にしてすっかりご機嫌だ。
――だからそのとき、咲は転校だなんだという話を真に受けなかった。
それは先輩への可愛らしい反発心の発露か、もっとわかりやすく会話にメリハリをつける何かで、その場限りの冗談だと思っていたから。
咲はこれを血液のようなものだと考えている。心臓に供給される血液が常時入れ替えられ、それによって体の健康を維持するように、この手の冗談はやりとりに緩急を生み、円滑にする。あいまいな感情を表せる。そしてコミュニケーションという体の健康を保つことで日々の暮らしは彩られるのだ。自分のものも、他の人のものも。
こういう冗談に振り回された経験が咲には何度かあった。ただ、それで機嫌を損ねたことは一度もない。なぜだろう。先に述べたような必要の正当性から仕方ないと考えているわけではない。中学時代、麻雀をするときの雰囲気をシューベルトの曲になぞらえて魔王だと周りで連呼されていたときも、罰ゲームで自分に告白するという同級生の悪戯を受けたときも――幼いころ姉のサプライズまがいの茶目っ気に付き合わされたときも――内心にでも怒るということをした覚えがない。
そういった咲の性質を前にすると、麻雀の際の印象で咲という人物像をイメージしていた人などは意外と『いい子』だという。しかし咲にはそれが、ちっともいいことだとは思えないのである。
店内にゆったりとした雰囲気をつくっているボサノバの情緒的ながらも軽快なリズムの音楽とはちぐはぐな陰鬱さを秘めたその思案はひっそりと行われた。
淡「ね、サキはどう?」
咲「え?」
淡から問いが投げられる。考え事にうつつを抜かしながらもただ単純にどういうことかと疑問を持った風に咲が答えられたのは偶然だった。礼を失した自らの態度を叱りつけて気を引き締めなおし、耳を傾ける。
淡「私としてはインターハイおわったら転校してもいいって感じなんだよね。テルいなくなるし、そうなったら別に白糸台じゃなくていいし」
インターハイが終わったら、というのは国民麻雀大会や世界ジュニアなどその後を意識してのことだろうか。
咲「もしかして、お……照さんと戦いたいんですか?」
淡「おおっ、よくわかったね。やっぱそれなんだよ。同じ学校なのもいいけど本気で戦えないっていうのがあるんだよねー」
わかってくれたか、とうれしそうにして続けざまに言う。
淡「やっぱりこう、大会とかじゃないと本気って出せないものじゃない?」
確かに、そういうところはある。いくら全力を意識して、たとえば何かを賭けたとしても、練習では賭けられるものなどたかが知れているし、賭けるものが大きすぎればそもそも法律にひっかかりかねない。
他方、大会に懸けられるものは人によれど人によっては非常に大きなものになる。「練習にはスリルがない」と淡は言った。咲自身はおそらくその楽しもうとする感覚を共有できないが、理解はできた。
淡「ただそれだとやっぱリンカイ? じゃサキと戦えなくなるし。個人戦は問題ないけど」
だが、なぜ姉ではなく自分なのだろう。
咲「……」
もやもやとした感覚にさいなまれていると、
淡「サキは、私がきたらどう思う?」
咲「え?」
尋ねられて心臓が跳ねた。今度はちゃんと聞いていたのだが同じ「え?」を繰り返したからか、淡はぶうっと頬をふくらませて「もう」、と注意し上目遣いにこちらを見上げた。
咲「ご、ごめんなさい」
淡「むー……いいけど、そんなんじゃ私を満足なんておぼつかないんだからね」
少し不満そうにする淡からは「私、怒ってます」という訴えがダイレクトに伝わってくる。三〇分で満足させる。そう明言したからにはきっちりやってほしい。そんな心情が透けて見えた。
こんなやりとりをするつもりはなかった。
というのも、今まではもし機会があれば多少無理を押してでも話を合わせて帰らせ、後日に会ったら自然に謝ろう。そんな打算めいた思案をめぐらせていた。けれど。
淡「で、どうなの? 私がサキの学校いくのってどう思う?」
咲はその質問の答えに窮した。意味が推し量れなかったのではない。自分がいくことになったら咲は、どう思うのか。そういう話。軽々とそんな話をするのはひとえに二人の学校が共に都内にあるからだろう。なぜそんなたとえ話をするのかという特に今大事とも思えない理由を考えながら――必死に嫌な可能性を頭から追い出し考えないようにして――絞り出すように答える。
咲「え……っと、どっちでも」
淡「えー」
明らかに落胆した声。信じられないという顔をされる。それは、どっちでもいいという玉虫色の答えが期待にそぐわないことを表向きは軽い声色が示していた。
「どっちでも、じゃなくてどっちか」とリスのように愛らしく頬を膨らませてせがむ淡の言葉が遠い。答えられなかった。本当に、咲としては否も応もない。淡に興味を持っているのは事実だ。けれど近しい存在になりたいかは……別だった。
勝手に興味を持って、好感を持つのなら問題はない。そう思っていた。けれど、見誤っていたのかもしれない。面識の浅い自分にこだわる姿勢はあくまで姉に付随するもので、姉ありきのものだと思っていて。だから、その、仲がよさそうで慕っているように見える姉と並べられて話をされたら。どこまで本気で言っているか見分けがつかない。全部冗談だろうか。あくまで姉の話のついでだと考えておいていいのだろうか。わからない。
知りたいのに、近づきたくない。その心情は矛盾していたが確かに混在している。
そしてこの状況は、そう簡単に相手が自分に興味を抱くはずがないという思いからくる浅はかな想像が生み出したものだった。
淡「んん、これは困った……」
ついに答えを引き出せないと悟ったのか、不満を主張するようにずっとふくらませ続けていたリスのような頬をやめ、淡は長考するように表情を固くすると、手元のグラスに浮く赤いストローを口に含み「むーっ」、これみよがしに音を立てて啜る。そうしていくらか飲み下してから口を離し、「私の麻雀しらないのかなあ」、ひとりごちるようにぼそりと呟く。しかしその頃には葛藤の念が強まっていた咲の耳にそのわずかな音を拾う注意深さは失われていた。
誠子「残念だったな、振られて」
淡「ふっ振られてないし! これから――わひゃっ!?」
明華「あぶない」
そのときだった。興奮して手元を疎かにした淡が立ち上がろうとしてグラスをこぼし、倒れかけたそれを明華が即座に掴みとる。
淡「わ、わっ、……あれ?」
甲高い破砕音やテーブルの上の洪水を想像したであろう身を守る姿勢で固まっていた淡の身体が動きだし、一足遅れて不思議そうな声をあげる。瞬きする鮮やかな忘れな草色の瞳は目の前で起こった事態を呑み込めず、当惑しているようだった。
咏「うわっ、すげえ」
咏の声が誉めそやす。熱心に淡を心配せずそういう意味では他人事のようであったが、事実、脊髄反射的な速度でグラスを掴みとった明華のおかげで事なきを得たものの、そうでなければ確実に倒していただろう。明華の働きは一瞬ながら舌を巻くものだった。
淡「あ、ありがと……」
明華「いえ、気にしないでください」
反応すらできなかった咲の耳にそんなやりとりが届く。驚いた余韻をまだ残した風でありつつも淡が素直に感謝を述べ、明華も険悪な雰囲気になるのを避けてか気さくに返す。
ただ。
淡「うわ、濡れた……」
倒れそうになった際、激しく揺れたせいで中身の一部が跳ね、水兵服のような制服の首元から胸のあたりにかけてを点々と濡らしていた。一応、テーブルにもこぼれていたがそちらは大したことなかった。
誠子「お前が受け止めた感じだな……拭いてもらったほうがいいぞ」
「うん……」と、誠子の忠告にしょんぼりと返し、店員を呼ぼうとしてか淡は辺りをきょろきょろ見回す。盛況の店内。そこで、ある変化に気づく。
淡「な、なんか、めちゃくちゃ混んでない……?」
淡の困惑した声が示す通り、いつのまにやら店内は大賑わいだった。テーブル席はひとつ残らず埋まり、昼時の購買のようにごった返している。咲などは話に夢中になるあまり変化に気づかず淡同様、呆然とするばかりだ。水曜日でまだ昼時にも遠い時間なのに。
誠子「ま、まあ、呼ぶしかないだろ。この後試合もあるし……」
と誠子が言って慌てて店内に視線を巡らせるものの、旗色が悪い。どうしたんだろう。咲もつられて店員を探して声をかけるべく、視線のあとを追って、それからしきりに辺りを見回す。
店員が見当たらないのだ。これだけ広やかな店内に客も大勢いる。店員が一人もホールに出ていないはずがないのだが、見当たらないのだ。
咏「あ、あれー、少数精鋭なのは知ってたけどなんでこんなスタッフいないんだ……やたら客多いし……」
しかし、焦り顔で呟く咏の声が聞こえなくなるほど探し回った結果、一人見つけた。時間に急かされたビジネスマンでもそこまでじゃないのではと思うくらい忙しなくホールとキッチンを行ったり来たりしている、スカート丈のエプロンを腰に巻いた若い少女の姿を。
だが。
「お、お待たせしました! アイスモカになります!」
「すみませーん、注文したいんですけどー」
「はっ、はい、ただいま!」
「このラテアートとーフローズンとー」
「注文したのまだですかー?」
「すぐお持ちしますっ!」
「――お待たせしました、ご注文の」
「あれ注文したのと違うんだけど」
「ええっ! わ……もも申し訳ありません!」
頭の上に乗ったベージュのハンチング帽が落ちないのが奇跡的に思えるほどせせこましく歩き回る店員が、目を回して対応に追われている。そしてバッシングしてきた大量の皿やシルバーやコップ類をトレーに乗せて運びながら厨房に向かって歩いていく途中。
「どうしよう……どうしよう……」
「あっ、おかわり――」
「ああああああああっ、一人なんて無理ですよおおおおおおお!! ――あっ」
わー、きゃー、どーん、がっしゃーん。ふざけた表現だが、まさしくそんな感じのコミカルな絵面が広がっていた。
誠子「あー……ありゃ時間かかるぞ」
目を覆いたくなる惨状を目にした一同から誠子が諦観したようにつぶやく。わずかな間の出来事だったが、信じられないような衝撃と悲観的な現実をもたらしていた。
淡「シミが……」
誠子「……替え、あるか?」
淡が首を振る。誠子と淡がどんよりと会話し、依然として軽快な音楽が流れる中、咲はスカートのポケットに突っ込んだ手をぎゅっと握る。――これを渡したら、何か意味が生まれてしまうのではないかと案じていた。咲は恐怖する。人ではなく物事を疑い出したらきりがない。何度も、何度も考えて、未だに直らないこの癖が、淡との距離が一線を越えることを、今こうして逡巡していることを、拒もうとする。それは意識下を越えて無意識下の働きに達していた。
けれど。
淡はこの後試合を控えている。白い生地の制服にフローズンオレンジの鮮やかなシミがついた格好で、テレビ中継もされる場所に向かわせていいだろうか。人によっては小さなことと笑うかもしれない。でも。公衆の面前で女の子が身だしなみを気にする心境を咲は決して無碍にはできなかった。
だからこれからするのは当たり前のこと。高校に上がってから触れあってきた人たちとの思い出が曇らせていた目を晴らす。そして心を決める。そうして覚悟した咲の前に、かつて抗えなかったその懸念は、どれほどの力も持たなかった。
ごくりと唾を飲み込む。嚥下した舌の根が恐怖に屈して回らなくなってしまわないうちに、スカートの中から折り畳まれた布を抜きだして口を開く。
咲「あの、これ……使ってください」
淡「え?」
驚いたような淡の声。それもそうだろう。咲が抜きだし、淡に向けて差しだしたのはハンカチ。ただのハンカチだった。
淡「使っていいの?」
咲「それは、はい……使わなかったら意味ありませんし」
淡「ラッキー! ハンカチ持ち歩いてるなんて女子力高いね、サキー」
そういえば、他の人は持っていたりしなかったのだろうか。差しだすか差しださないか、自分にとっては究極の二択から解放されてようやくそんなことを考え出している咲は、鬱々とした様子など欠片も感じさせない淡がハンカチを受け取るのを見届けてから、ぐるっと他の同席者たちを見渡す。そして知ったのは、咲以外の誰もハンカチを持ち合わせていなかったということだった。
▼
場所は変わってカフェの化粧室。
淡「しってる? トイレって、アメリカならレストルーム、イギリスならトイレットっていうんだよー」
他の飲食店と比べて清潔に保たれていそうな感のあるそこの大理石――おそらく人工――の床に淡と向かい合わせに立って作業していた咲は、唐突に豆知識を披露する淡の言葉に作業する手を止める。
咲「ならしってましたか? 人工大理石には、大理石の粉や成分は全く入ってないんですよ」
淡「へー、しらなかった! 大理石ってあるのに?」
咲「そうらしいです。ちなみに、私もしりませんでした」
「じゃあ引き分けだね」、と淡がうれしそうな顔をする。咲も微笑む。
淡「ずばり、サキってけっこう勝負好き?」
咲「え? ……どうでしょう」
淡「またまたー、やっぱサキとはなんか気が合いそうなんだよねー」
何ら意識せず流れ作業的に歓談していた咲は、途中よくわからない質問があって動かしていた手を再び止めて思案したが、結局は曖昧に答えてお茶を濁した。
先ほどからしている作業、というのはシミ抜きの応急処置のことで。ハンカチとティッシュと水があれば簡単にできる基本的なものだ。
淡「うーん、落ちそう?」
咲「フローズンオレンジはたぶん水溶性ですから……このあと、液体の洗濯洗剤と綿棒とタオルを使って本格的にやらないといけないかも」
そう言って作業を再開しながら、一応、やり方を口頭で伝える。まず、シミの下にタオルをひき綿棒に洗濯洗剤を染み込ませたら――「うはあ」、説明が始まって早々、淡が奇妙な声をあげた。
淡「覚えらんない」
咲「音をあげるのが早すぎます」
明らかに覚える気がない。咲はそう感じた。苦笑をこぼしながら「でも」、と継ぐ。
咲「応急処置でもはた目に目立たないようになってきましたから、あとはお洗濯でいいかもしれません」
「もちろん、気になるならちゃんとしたやり方で細かく汚れをとったほうがいいですよ」、と付け足しながら、どうしてかぽけっとした淡を見つめる。なんだろうか。首をかしげる。
咲「どうしましたか?」
淡「ねっ、今の感じどう?」
咲「ど……どう?」
淡「だーかーらー」
作業する咲の手を、向かい合っている淡の手がさっと伸びてきて掴み、強引に止める。
リボンをといて露わになった淡の胸元。白い薄手の夏服、その汚れの部分に咲は手に持ったハンカチを当てて、その服の裏から水を含ませたティッシュで軽く叩く。そうするとハンカチに汚れが移る。両手を使ってのこの作業を咲は先ほどからしていた。そして、後は仕上げに水分をある程度とろう。そう思っていた矢先の出来事だ。
これでは作業できない。その旨を訴えようと口を開くと同時、
淡「あたってるでしょ? 胸」
悪戯っぽく言われて、咲は顔を赤らめる。気恥ずかしいから考えないようにしてたのに。咲は内心で愚痴った。
咲「確かに、時々柔らかい感触はしますけれど」
淡「なんか口調変になってるよ? あははっ」
淡「ふふーん、サキにはまねできないでしょー」
暗に貧しい胸だと仄めかしてるのかな……。心中で呟く。幸運なことに咲たち以外には閑散とした化粧室の中で、淡の無邪気な声が響く。本当に悪気はないのだろう。からかうような――いや、まさしくからかわれているのだろうけど、とにかく今はさっさと作業も会話も切り上げて戻らないと。こんなところ誰かに見られるのは堪えがたい。
けれど。
淡「どう? 興奮した?」
咲「あの、女同士でそんな話するのって虚しくないですか」
淡「あはは、たしかに!」
淡は話をやめる気はなさそうだ。薄い望みに見切りをつけて、作業を邪魔する手をそっと押しのけようとする。すると案外抵抗もなく離してくれたので咲は満足し、てきぱきと作業を再開し、手早く手際よく進めていく。
応急処置の作業自体はもうほとんど終わっている。当初、のっけから雑談が差しはさまれてはいたが、咲はこれといって気にせず作業に打ち込んだ。こういった事は得意だ。
また、このやり方になったのは、淡が服を脱ぎたくないからそのままやってくれという話だった。
いよいよ応急処置が終わって、片づけにとりかかる。ハンカチの汚れを移した面を内にして折り畳み、スカートのポケットにしまう。
淡「はあ、サキが男だったらイチコロなのに」
――仮定の話は、嫌いだ。自分に限っては、いくらでも弱音をはいてしまいそうになるから。
淡「よしっ、戻りますか」
黙って聞いていると話題が変わって、陽気な調子の彼女に「はい」と肯いて歩き出す。
しかし、淡が歩き出そうとしない。一歩、二歩と進んでそれを見てとった咲も足を止める。
どうしたんだろう。声をかける前に先んじて淡が口を開く。
淡「ふう……戻るのだるいなあ」
「え?」と振り向いた咲からはそっぽを向いて淡が言う。
淡「セーコ……亦野先輩と顔、合わせづらい」
結構、気にしていたのだろうか。気まずそうだ。
咲としてはあまり気遣う態度もとれず、「そうですか」とただ困ったように返す。
亦野さんも心配しているんですよ、なんて彼女をよく知りもしない私が言うわけにはいかないし、どうしようかな……。数秒沈黙が続いた末に、「ホントはね」うんざりしたようなため息をついてから淡は切り出す。
淡「私、二年にも目つけられてるんだよね。ネンコージョレツとかうるさいんだこれが」
体育会系、麻雀をそういっていいのか迷うところだが、スポーツ的な面もあるこの部活では実際、体育会系の理屈で動いているところが少なくない。こういった部では伝統をないがしろにすることを避け、たとえば先輩と後輩に厳格な上下関係を求めることがある。
安部公房はかつてドナルド・キーンとの対談で「(日本人は)型に当てはめないと気が済まないところがある」と語った。
これは、いわゆる様式美、ステレオタイプの作品が好まれるのはなぜか、という問いへの答えであったし、安部公房の生きていた頃とは時代もずいぶん進んだが、それ以外にもみられるところがある、現代にも通ずる部分がある、と咲は考える。紋切り型の理屈は一種の安心感をもたらすところがあるのだ。
ただ、こういった話は日本に限られない。
長幼序列といって一年でも年嵩の人を敬う風習がある。韓国ではこの考えが非常に強い。韓国の人はしばしば相手の年齢を気にするが、この風習の影響が大きい。
咲「上級生とも……ですか」
これらの事から咲が導き出した結論は、安易に手を出してもかえって事態を悪化させかねないということだ。こういったことに付随する感情は非常にセンシティブな問題であり、ビジネスで政治主張や宗教の話題が基本的に好まれないように、よしんば正論であったとしても相手の感情を逆なでして事態を悪くしてしまえば目も当てられない。
手を貸さず親身にしないことは淡と距離を置くひとつの判断だったが、咲の声は自然と重くなった。
淡「弘世先輩は実力主義的な見方も強くしておくべきだって言ったけど、テルは『そうすれば部員間で衝突が起きるし、常にケアしていかないといけない問題になる。私は先のことなんて確約できないから、協力できない』ってさ」
淡「まあ、今の三年が引退する頃には転校かなー」
咲「転校したとして……逃げたって言われるのはかまわないんですか?」
反面、気負った様子のない淡に質問を投げかける。そんな咲のほうに、淡は虚空に移していた視線を向けて「ははっ」とおかしそうに笑う。
淡「雑魚相手に何思われても気にならないかな。自分が認めた相手にそう思われるのはシャクだけど」
強いんですね……うらやましい。そんな褒め言葉は胸に秘めた。
話すか話すまいか。秘めたそれはともかく咲は思いあぐねる。
咲「そういえば淡さん」
考えて、結局話すことにした。
淡「ん?」
咲「臨海にきたとして……私とは仲よくしないほうがいいですよ」
「どういうこと?」淡がいぶかって眉をひそめる。
咲「同じことになりますから。そうしたほうがいいんです」
淡「いや、意味わかんないし」
はっきり説明してほしい、そう訴えるように淡は桜色のくちびるを尖らせた。
「うーん」今度は、咲が眉をひそめる番だった。
咲「……私は部内で疎まれてますから」
淡「へ? あの外国の人は仲わるくないよね」
咲「チームメイトくらいです。あとは大体嫌われてます」
淡「ふーん……じゃ私と一緒だね」
はっとする。――虎姫。今年の白糸台のレギュラーチーム。
咲「い、いえ一緒とは……」
誠子が副将ならチームメイトだし、姉や弘世という先輩も話した感じでは同じチームのようだった。失言だったと気づく。
淡「ぶー、なんで嫌がるの。満足させる気ある?」
咲は沈黙する。今大体、タイムリミットの半分を過ぎたところか。困窮して平身低頭で帰ってほしいと頼む前になんとかしないとならないだろう。
だが無理に話を合わせるやり方には抵抗がある今、ものごとを自然の流れに任せたほうがかえってうまくいくのではないか。
――無為自然。ハオから教わった考え方だ。
ただ、自分の中で体よく納得するために使うのはハオに対してしのびなかった。
咲「あります。ただ、うまくやり方が思いつかなくて」
淡「はあ」
聞こえよがしにため息をつかれる。
淡「……ま、いいけどね。ムリに合わされたってつまんないし」
「出よっか」、と後ろ手に結ばれていた手を離す。そしてそのまま、歩きはじめる。咲もそのあとを追う。
淡「ねえ」
先をいって背中を見せている淡から声がかかる。
淡「三年がすぐっていったのは、サキの経験?」
続けて、問いかけられる。依然として淡は前を向いて歩いている。心なしか先ほどまでよりも真剣なトーン。咲も足を止めずに考えた。
九歳から中学に入学するまでの三年間はあっという間だった。意識的で主観的な体験に過ぎないが、それは咲にとって変わらない事実だった。
――なら、一年なんてもっと。
楽しい時間は早く過ぎてしまう。大切にしないといけない。でも、いつまでもこのままでいたい。
質問に答えずに歩く。淡のうしろをついていく。そのまま、会話が途切れた状態で二人は化粧室をあとにした。
ここまでならいいかな
即日中に更新予定覆りましたけどここまでです
わかりにくくなりそうなので『時間の移動』と『視点の移動』をこれから分けます。
時間の移動は『▼』で示します
視点の移動は『○』で示します
最初に提示しとくべきでしたね…失敗
混乱させたら申し訳ない
たとえば二回戦の試合は咲の視点から外れてましたよね、そういう部分です
▼
ひとめぼれというものがもし実在したとしたら、その人はどんなことを思うだろう。何もない場所で、なんでもない時に思い返して、胸が騒いで、もだえそうになって。そんな感じなのだろうか。春になると、なんとなく体調が悪いとかざわざわ感があるだとか、そうなるのは季節の変わり目に自律神経のバランスが崩れるからだ。そういうこともある。
魂の片割れと巡り合うツインソウル、過去世のつながりを示すソウルメイト、心的な波長が合致するツインフレーム、多分に空想的な単語と想像が頭に浮かんでは消えていく。それらの単語にはいまいちぴんとくるものがない。まだ、恋とは電撃的なものだとか、恋は目で見ず心で見るだとか言われたほうがうなずける。
マンションの広い一室で咲はひとり机に向かっていた。
穏やかで春らしい陽気を人々に満喫させていた日も暮れ、あとにはうっすらと闇が空を覆う、夜にしては明るい外の景色と、この時間にもなれば少しばかり冷え込んだ夜気が流れ込む。それを、バルコニーへとつながる平べったい窓からちらりと覗き見て、感じとった若干の肌寒さに身体を震わせる。
もう結構な時間、机と向き合っていた。部活を終えてからまっすぐにこの学生マンションの自分の部屋に帰り、制服をハンガーにかけ部屋着に着替えて以降、ずっとその調子だった。
しかしそうしてやっていたこともひと段落して、綿密に立てられたカリキュラムのうち今日の分は充分に消化されたころ、咲の頭にはある懸念が浮かび上がっていた。
「おーい、サキいるー?」
緊張した面持ちで考え込む咲の耳に来客をしらせるベルの音が届く。続けて、親しげにかけられるのんきな声。
――や、やっぱり。がらんとした部屋にその音が響いた瞬間、咲は腰を浮かせた。
「ネ、ネリーちゃん?」
ばたばたとあわただしく、けれどはしたない足音は極力立てずに玄関の前まで向かうと、おずおずと扉の向こうに声をかける。
「おー、いた。今日もあがってきたいんだけどいい?」
数瞬答えに窮した。躊躇して、でも面倒をかけている身で断るのはわるいな、と思い、提案からほどなくして扉をひらき迎え入れる。
開け放しになった外開きの扉から、民族衣装めいた独特の衣服でなく日本風のラフな装いをしたネリーが入ってくる。
「あ……」
「うん?」
――この頃、咲は生活に別段の不足は感じていなかった。自然に望みうるものすべてが揃っていたから。
東京に越してきたばかり。高校に入学して日も浅く、智葉との対局はすんなりかないそうにないものの都予選までまだまだ時間もチャンスもあるように思われた。それに、逆にいえば気がかりはそれくらい。
臨海で麻雀に打ち込み、切磋琢磨し、目的へと近づくため存分に腕を磨く努力をすることで彼女の欲求のようなものはおおかた解消された。あとは一人で部屋にこもって牌譜を調べたり、気分転換に本を読んだり、音楽を聴いたり、母親の勧めで勉強したり。朝になれば学校に通ったりした。規則正しい生活。学校で臨海の生徒とわずかな会話を交わすほかは、ほとんど誰とも話をしなかった。そしてそんな生活にとくに不満を抱くこともなかった。いや、むしろそれは理想的な生活に近かった。
しかしネリーという付き合いの浅い少女を目の前にすると、咲はそれなりに激しい心の震えのようなものを感じた。
「どうかした?」
「あ、ううん。なんでも」
ぽかんと口を開けて感じ入るような吐息を漏らした咲に対して、疑問の声をあげるネリー。咲は、すぐに手を振ってごまかす。動悸を起こしたように心拍数の上がった胸を軽く押さえ、そよぐ風に乗ってただよう、普段とは違う彼女の香りに息を吸い込みほんの一瞬鼻をふくらませる。
「……今日もつけてる?」
「うん、ちょっとしたくせで」
この香りは、昼間ネリーから感じとれるような自然な匂いではなくふりかけた香水のものらしい。彼女の故郷にはスプラという伝統的な夕食会があって、彼女の場合身内の習慣の名残で夕食どきにこうして香りづけをすることがあるのだそうだ。咲はそう聞いている。日本の宴会のようなものらしい。
後にしったことだがつける日とつけない日があって、咲にもその基準はわからないのだが、あえて聞こうとはしなかった。単に気分の問題なのかもしれない。
「それで今日は……」
お菓子のような甘い香気を放つネリーを玄関の内側に招き入れて扉をしめると、先ほどまでいたリビングへと並んで渡り廊下を歩きながら咲は切り出す。並んでも渡り廊下にはもう一人分ほど並んで歩く余裕があった。なのに来客用のスリッパでフローリングを歩く彼女は、内心気が気ではない相手の心境を知ってかしらずか、じゃれつくようにすり寄ってくる。そして「今日は夕飯と手紙かな」と答えた。
「だいじょうぶ?」
「来るって聞いてたから用意はしてあるよ。……でも、手紙?」
朝一緒に登校するために乗った電車で聞いてはいたのだ。部活のあいだにその話が出ないまま、別々に帰ることになったから確信が持てていなかっただけで。
「うん」見えない話に疑問を持った咲にネリーは肯くと、そばにあった咲の腕を抱え込み、早くいこうとでも促すようにひっぱって部屋の先へと導く。向こうで落ちついてから話すということだろうか。
会って間もない、思い返してみればまだ一〇日にも満たない付き合いだというのに、ずいぶんと距離が近かった。この手のいわゆるパーソナルスペースに関して咲は敏感だ。そのはずだ。人を寄せつけないように努めていた節もある。なのに咲は、どうしてか、嫌と口にすることもなく自身でもわからないことに胸を高鳴らせた。
下ごしらえしておいた材料を調理し、夕食をふるまう。菜の花やタケノコなどの春野菜を使ったツナちらしに、きゅうりとわかめとしらすの酢みそあえ、スナップえんどうのごまソテー、そして麩と春雨の吸い物。「おいしかったよ、ごちそうさま!」手ぬかりなく手抜きなくつくられた食事に舌鼓を打つネリーに「おそまつさまでした」と返事をした咲が洗いものを片づけた後、キッチンと隣り合ったリビングへと戻ってくると、ソファでくつろいでいる様子のネリーが目に入る。
自分の部屋でくつろぐ人の姿をみて、咲のうちには複雑な気持ちが生じていた。むろん自分の部屋でくつろがれていることに気分を害したとかそういうことではない。借りてきた猫のように縮こまられるよりはずっと楽だ。やりやすいし、心持ちとしても軽くなる。
ただ、中学時代を含めて家族以外の同年代の人間を家に上げる、ましてや自分の部屋に招いたことはなかったからだろうか。送り迎えや慣れるまで何かと一緒にいてもらう面倒をかける申し訳なさから断りきれなかったとはいえ、慣れない感覚に手こずっているのと。
姉に勝つという目的を掲げ、邁進しないといけないはずの自分が、こうして安穏とした空間にいることに茫漠とした焦りを感じているだけで。
姉に勝利し強さを証明することは何にも勝る望みだった。それが姉の願いにかなうと思っていた。
姉に勝てば仲をとり持つという母の言葉はあてにしていない。信用していないだとかあきらめてしまっているのとは違う。でも逆に、聞かされた当初からやめてほしいとは思っていた。咲がとれる手を尽くしても母をどうこうできそうにないのでやむを得ず断念するほかなかった。自分にできることをしよう。結果として、自分で解決すれば問題はないのだ。
「あ、サキ?」
自分の中で咲が折り合いをつけていると、ソファに座って足をぶらぶらさせていたネリーが歩いてくる咲の存在に気づき軽く手を上げ、声をかけた。
「お疲れさま。ごめんね、ゴショーバンになったうえに片づけもさせちゃって」
歩いてきて、ネリーとちょうど真向いの椅子に座る。ダイニングテーブルを挟みソファと平行に置かれた椅子だ。
「気にしないで。それより、難しい言葉しってるんだね」
「勉強したの!」
茶目っ気をきかせてえへんと胸を張るネリー。その意欲に咲の胸に感心の念が浮かんだ。そんな気持ちを表情に浮かべながら話す。
「臨海の留学生の人たちってみんな日本語上手だよね……」
「んー、基準あるのかな?」
あくまで学校の学習範囲程度にしか英語をしらない咲のような日本人からすれば、とても助かることだ。咲などは、外国人を前にすると何語を話す人なんだろう、日本語で大丈夫だろうかと慌てたり身構えたりしてしまうので、思わずほっとしてしまう。
咲は何気ないやりとりから少し様子をみて、相手が手紙――おそらく本題――について話し出す様子がないのを感じとると、
「そういえば今日は――」
留学生の繋がりで、今日麻雀部であった出来事のうち留学生に関係することを話す。
少しぎこちないやりとりが続いていた明華との間に読書という共通の趣味を見つけたこと、ラーメンをつくろうとしたらポットにお湯がなくてしょんぼりしていたダヴァンのこと、他の留学生たちの割と奔放な気風にハオがたじたじしていること。
麻雀部以外でのことは、あまり話さない。教室のほうで特筆することがないでもなかったが、たいていは通じにくい話になってしまうし、そもそも一般生徒側の話題に彼女はあまり興味がないようだと咲は感じていたから。気を遣ってくれているのかちゃんと聞いて相づちを打ってくれるのだが、そのあたりの機微を察するのは得意だった。
普通の会話。たわいないやりとり。頻繁に話す機会を持つと内容自体はとくに変わり映えするものでもなかったが、彼女との会話に咲はどこか新鮮味を感じていた。
中学では部に関する事務的なやりとりを除き私語を交わす相手など『クラスメイト』くらいしかいなかった。その彼女にしても、やりとりする際は重い雰囲気がどこかでちらついて、ときに、窒息してしまいそうな息苦しさを覚えることがあった。そういう意味で気負うところのほとんどない彼女との会話は気が楽だったが……。
――ひどい話。クラスメイトちゃんは機を見つけては積極的に声をかけてきてくれるのに。話もろくに聞かないで、うやむやにして、その場から逃げるみたいに、ううん逃げて立ち去って……。
咲は顔色ひとつ変えずに心中で呟いた。
「へえ、読書?」
麻雀部での話題で、ネリーが関心を示したのは明華との事だった。
「たしかにもの静かなとことか読書してそうな……んー、ネリーもやってみようかな?」
「読書のこと?」
「うん。日本語の勉強にもなるし」
日本語の勉強。ふと気になって質問を重ねる。
「もう今でも上手だと思うけど、何か上達させたい理由があるの?」
「あー、えっとね、実はそれが今日きた理由なんだ」
ネリーはそう言って、持参した小ぶりのバッグから封筒を取り出す。
「それって……」
「うん。手紙なんだけど」
それは、日本でよく見かける薄みががった茶色の封筒だ。ネリーは手にしたそれの口に指を差し込むと、中からエアメール用の封筒を半ばまで取り出して咲に示す。
「手紙を書きたくて。ただ、話すのと違って書くのってむずかしいじゃない?」
たしかに漢字などはまた別の難しさがあるし、あるいは手紙の作法も日本のものに則るなら難関かもしれない。咲にもなんとなく言わんとしている事は分かった。
「日本語で手紙を?」
「サカルトヴェロの言葉と、それを日本語にしたやつ、合わせて二枚送ろうかなって」
エアメール、サカルトヴェロの言葉。故郷に宛てる手紙だろうか。けれど、もしそうなら日本語で書く意味はなんだろう。その理由が咲にはわからなかった。
「ええと、ネリーちゃんの国の言葉で書かれた手紙を原稿にして、また新しく日本語のものもつくる……その手伝いをすればいいのかな?」
思った疑問を口にすることはなかった。代わりにではないものの、齟齬が生まれてしまわないよう咲は手伝いの工程をともすれば冗長な表現で詳細に訊く。
「そうそう! そういうわけで……頼める?」
すると、喜色をにじませて肯定される。意図は問題なく汲みとれていたらしい。そしてここにきて、あらためて依頼される。
実はこうして具体的な用件で夕食を共にとったあともネリーが咲の部屋に残るのを望むのは、一〇日足らずの付き合いで初めての事だった。ネリーが夕食を相伴に預かる機会は会ってから半々ほどだった。昼の弁当を含めればもっと高い頻度で咲の食事を口にしているだろうが、それはさておき。一緒に夕食をする半々の際はとくに理由らしい理由をつけず夕食のあとも咲の部屋でしばらく過ごしていった。自分の部屋などで時間を潰してしまっていいのだろうかと咲の脳裏に心配がよぎったものの、帰った方がいいとは言えなかった。今日は理由がある。
しかし、気のせいだろうか。座高の関係から見上げてくるネリーの無邪気そうな瞳、そこには相手が受け入れるという確信が宿っている。そんな風に咲は感じられた。
でもすぐに思い直す。思い過ごしだろう。ともあれ、手紙の書き方と漢字くらいならよほど凝っていて難解なものでなければ力になれそうだ。そう知って咲の気持ちは浮き立った。
「うん、私でよかったら手伝うよ」
「けっこう長い手紙だから、時間かかりそうなんだけど……」
咲は頭の中に時計を思い浮かべる。おそらく今七時かそれくらいだからまだ時間には余裕がある。終わらなくたって、明日以降に回せばいいのだ。相手さえよければそれもできる。実際に時計のほうに目はやらなかった。時間を気にする素振りに見えて気にさせてしまうかもしれないから。
「大丈夫。というか、手伝わせてほしいかな。お世話になってるし」
「ありがとう!」
華やいだ顔でお礼を言うと、ネリーは手元のバッグからペンや何やといった手紙を書くのに必要そうなものを取り出して、小さめのダイニングテーブルに並べていく。その最中。
「あっ、そういえばこの前みてた魚介のパスタあったよね?」
「レシピで?」
「そうそう、あれ今度食べてみたいな」
「でもあれ、イカかタコ入ってたような……」
「試しにね?」
「え、大丈夫なの?」
禁じられたりしていないだろうかと咲は思ったが、「ダメなのはユダヤの人だよ」とネリーは言った。
「イエスさんが新しく交わした契約でモーセさんの契約は旧いものになったっていうのがクリスチャンでは主流だからね。十戒は守るんだけど」
海や川にいるものの中で、ひれやうろこのないもの。ひづめが割れていなかったり、反すうしないもの。そのタブーは多くのクリスチャンには当てはまらないらしい。
「大斎があったからかな? 魚肉がダメな期間があるから地中海のほうじゃむしろタコやイカの料理も盛んらしいよ」
「地中海……」
「こっち、ええっとネリーのとこには関係ないんだけどね」
「へええ。じゃあ今度試しにつくってみるね」
少し新鮮味が感じられた談義に花を咲かせていると、机のうえに筆記用具やなんやが出そろい、用意が整う。
それから手紙を書く手伝いがはじまった。ネリーが原稿を読み上げて、その内容を漢字を含む文章に咲が翻訳する。そして、四苦八苦してネリーが新たな便せんに書き直そうとする。噛み砕いて伝えようとした咲の努力の甲斐あってか、元々ネリーの漢字への理解が高かったのか、作業は遅々とするようなこともなく順調に進んだ。咲は机のうえに並べられている手紙を見比べた。筆を走らせるそれらの便せんは、可愛らしさとは無縁の無骨なもので飾り気に欠けている。咲にはそのように感じられた。
ふと、勤しむ彼女をながめる傍ら、とりとめのない思惟が咲の中に持ち上がる。文面から伝わる違和感。硬さやよそよそしさのようなものが感じられる。これは誰に宛てたものだろう。
頭語と結語はどうするかと尋ねた時、ネリーは『前略』と『草々』を選びとった。咲にもいまいち自信がなかったので日本郵便のサイトを参考にした。
前略と草々であいさつは省かれ、時候の言葉さえなく締めくくられる。それでいいのだろうか。咲にはちんぷんかんぷんだった。
「ネリーちゃん、これ誰にあてた手紙なの?」
身をこごめ、机にかじりつくように意識を集中させていたネリーは「うん?」と顔をあげ、左上に視線をすべらせると、宙にただよわせたそれを引き戻してきて咲の顔に合わせた。
とくに意識していないと人の眼は、左脳を働かせるときは左上に、右脳を働かせるときは右上に、黒目の部分が寄って視線が流れがちである。右利きの人は九九パーセント、左利きの人は約三分の二が左脳に言語野を持つといわれる。
そして、咲はとくに気にしなかったが、流れたネリーの視線は左上を向いていた。
「……お母さんかな。どうかした?」
「……お母さん?」
母親があて先にしては、と咲は思った。いや、頭語と結語が前略と草々なのはまだいい。ただ、いわば三大要素となる時候の挨拶、相手の近況や安否を尋ねる、自分の近況や安否をしらせる、というもので考えたとき、ネリーの手紙はというとちょっと平淡だ。自分の近況は一応書いてあるのだが、きわめて短く、簡素に綴られている。『とくに将来を不安視させるようなこともなく安泰だ』程度の、修飾や装飾のへったくれもない文章だ。
頻繁に手紙を交わして伝えることがなかったり、意外と近くに母親が滞在していたりするのかなと咲は思った。
頭語と結語は、そもそも女性のプライベートな手紙なら省くか柔らかい表現を代わりに使ってもおかしくないらしいから、頭語と結語は日本の感覚でいえばおかしいものではないのだろうし、ネリーの手紙はフランクともとれる。ただ外国の感覚でいったらどうなのだろう。咲は迷う。
手紙について何か言っていいのだろうか。外国の人との付き合いは、生まれてこの方ほとんどない。親族の人くらいだろうか。あの人たちは比較的国際色豊かだった気がする。外国の、伝統ある血筋や隆盛を誇る家からも血を採り入れて、一族の繁栄に努めるのがあの人たちの願いらしい。幼い頃、九歳のとき以来、疎遠になっているので今はどうか自信がないが、どっちにしても幼いときは勿論、今でも咲などに分かるのはごく限られた事だった。
それはともかく。親族との付き合いも浅く、親族に限らず他者とごく限られた交流しか持ってこなかった咲は、現在に至っても異国の人間には慣れていない。だから、作法に関して口を出していいものか判断がつかない。
「うーん」
思いあぐねて無難に流そうかと咲が考えていると。ネリーは書くのが大体おわったからか、作業を中断し、腕を組んで唸り声を上げた。
「どうしたの?」
「どうしてネリーだけこのマンションなのかなって」
咲は首をかしげた。どういう意味だろう。
「いやね、臨海じゃみんな学校が貸し出す物件に入るんだけどひとつの物件にはまとめないのかな?」
「え、どうしてそれを私にきくの?」
留学生の扱いなど学校が決めるはずだ。どことなく硬い雰囲気を纏っている。なんだか詰問されているようにも感じられた。ほのかにだが、いつもと違う雰囲気がネリーから感じられる。そんなことしらないよ。小心な気質もある咲は感覚としては涙を浮かべたくなる心境で、でもそれをぐっとこらえ、外づらはずっと平静にしていた。こうして弱さを隠すのが咲の日課である。もっぱら馬鹿らしいことのように他人の目には映るかもしれないが、腰まであった長い髪を切ったのも、どことなく悠然とした振舞いを心がけるのも、そもそもは半ばイメージでつくられた態度だった。
「本当に、しらない?」
いぶかしむように眉をひそめられる。納得いかなそうな声だった。なんとなく思い当たるようなことは頭の中にあったが、咲はできるだけそれを気にしないようにした。
ええと……話題を変えようかな。でも、うまい変え方が見つからないよ……どうしよう。
心情の一切を表に出さないまま、あれでもないこれでもない、と思いついた大して役に立ちそうもない話題を乱雑に並べ、とっかえひっかえして吟味した。
これはどうだろう。ダメかもしれないけど……と、不安げに震える心境で咲はある話題を選びとった。
実は、とある名門の麻雀部ではレギュラーや上位陣がなるべく寮で同室になるようになっている。
「うーん、新道寺ってところが寮でレギュラーや上位陣の人がなるべく同室になるようになってるのはしってるけど」
「は?」
一瞬、息がとまった。
「……えっ」
なぜか睨まれた。もしかして凄まれたのだろうか。はっきりと、いつもとは雰囲気が違うのを、少なくともその瞬間はネリーが別人のように咲には感じられた。
「……え、ええっと」
「ああっと、ごめんごめん、いきなり話かわったからびっくりしちゃったよもう!」
「……そう? 怒らせちゃったらごめんね」
「だいじょうぶ。びっくりしただけだよ」
「よかったよ」
おうむ返しにきつく睨まれた直後、その瞬間がのど元を過ぎればすでに空気は戻り、つい驚いただけなのだとフォローされたこともあって、咲は胸を撫でおろす。実際にその仕草を無意識にとりつつ、ややあって少し緩んだ表情に気づいてはっと直す。おそらく自然にできたように咲は思った。
「ふーん。それで、シンドウジ? ってとこはなるべく同室になってるの?」
ネリーの様子はすっかり元通りだ。さっきのやりとりの後だと少し違和感というか、いたたまれないものを咲は感じたがそれは表情に出さず、「うーん」と考える風にして適度な間をつくる。
「留学生は……たぶんいなくて、部の中心メンバーがってことなんだろうけど」
「へー、みんな同じ部屋なのかな?」
「ペアとかで決まるんだったらネリーちゃんと私みたいだね」
「たしかにそうだね!」
元気のいい返事をするネリー。そうしてから、その顔がほのかな疑問を持った風に思案するものになる。
「あ、そういえばそんなことよくしってるね? それってサキの地元……ええっと長野? の高校だったり?」
少し、考える。そうしてから、気まずい雰囲気にならないよう話題を続かせることを優先して咲は口を開く。
「高校の進学先決めるときに誘われたことあるんだ。すぐ断ったけどね」
「やっぱり臨海にいきたかったから?」
少しばかりの苦笑を浮かべて話すと訳知り顔でニヤっとするネリー。知っている風なのは臨海こそ新道寺に勝るとも劣らない強豪だというだけではなく、彼女の茶目っ気なのだろう。心中でそれを理解してから、ネリーの整った小さな鼻のあたりを見つめつつ、再び咲は「うーん」と悩んで唸った。話したくないこと、話してもいいこと、それらをきっちりと整理して、間違えないようにしておきたかったから。
それをするのはいい。まったく問題ないというか、そうしないと困るし、知られたくないことがたくさん、ありすぎていつも話題がそっちにいかないか、いったらどうやって流したりうやむやにしようか。そればかりを考えているときもあった。
けれど、話題の向きはそこまで深刻ではない。少なくともほとんどの話は当たり障りない話でごまかせると思ったし、事実、ここ一週間とちょっと話したくらいでは、頻繁に会う機会、話す機会があったネリーでさえ話す内容に困ることはなかった。大体、そこまで深く踏み込んでくる人などそういない。実際そうされたことはなかったし、フレンドリーなネリーとてそれは同じだった。いやがるような話になると話を流してくれる。
ここまで
風邪ひいた…冬なるといつもきついのくるな…
回想途中ですがここ書くの慎重にやりたいので体調良くなるまでちょっと時間ください
ややこしいのでちょっと補足させてもらうと
>>45>>46(高校一年四月、初登校の翌日)
>>47(五月の祝日、ゴールデンウィーク開始前日。2050年説でやってますが五月の祝日は現代基準でお願いします。>>47の『明日』、>>49からが『祝日』と表現してあります)
>>390~(座談会での回想、これも>>46と>>47の間)
・咲が『姉に勝ったら仲をとり持つ約束』の話をしたのは相手が智葉だからです
けれど、話題の向きはそこまで深刻ではない。少なくともほとんどの話は当たり障りない話でごまかせると思ったし、事実、ここ一週間とちょっと話したくらいでは、頻繁に接する機会があったネリーでさえ話す内容に困ることはなかった。大体、そこまで深く踏み込んでくる人などそういない。実際そうされたことはなかったし、フレンドリーなネリーとてそれは同じだった。いやがるような話になると話を流してくれる。
考えを固めた咲が口を開く。
「……そうだね。臨海がよかったから」
臨海の方が、勝ち残れる確率がより高いと思ったから。
「ふふん、このわたし様もいるんだから当然だねー」
冗談めかしたネリーの言葉にくすくすとした笑いが咲からこぼれる。確かに、臨海を選んでよかったのかもしれない、と思っていた。
――先鋒の座も打ち方の自由も、新道寺でなら保証されていたけど……この学校で、やっていきたいという思いも芽生えたから。
『――――あなたも、本がお好きですか?』
『――本を楽しむのは一人でもできます。誰を傷つけることもありません。誰を怒らせなくてもよくて、誰を悲しませなくてもいい。本を読むことは、私が心から好きだといえる、たったひとつのことです』
『――――――本を読むのは一人でもできます。でも……二人だからこそ見つけられる愉しみも、私はあると思うんです』
先日交わしたやりとりを反すうしながら咲が微笑みを浮かべていると、どうしてかじっとりとした目線がネリーから送られてきていた。
「今、だれ思いうかべた?」
不満そうな声。目が据わっている。
「くそー! ネリーがサキに先……サキに目をつけたんだからねー!」
「な、何の話……」
「――はっ」
ネリーがはっとする。
「今のオフレコね?」
「は?」
今度は咲が言う番だった。といっても、咲の場合は純粋に不思議そうにしただけだが。
「ふー……仕事したら小腹すいちゃった。これはカレーメ○だね!」
口止めするディレクター的な仕事だったんだろうかと咲が小首をかしげていると、ネリーはいきなり「やったぁーー!!ジャスティス!!!」とへんてこなポーズをつけて叫びだす。
「じゃ……ジャス?」
「もー、サキしらないの。日本人なのにだめだなー」
「???」と辺り一面に疑問符を乱舞させる咲だが、ネリーは立ち上がって謎の小躍りをしている。楽しそうだからそっとしておこう……なんだか可愛らしいので目を白黒させながらも咲は見守る。
そうすると、夜になり失せた穏やかな春の陽気が戻ってきた気がした。
彼女には独特の雰囲気がある。おもちゃ箱を開いたらオルゴールの音色が聴こえてくるような――――それは、空気をたちどころに変えてしまう。
「今度、カレーメ○ごちそうしてあげるね!」
ネリーの言っているそれが何なのか、さっぱり見当はつかない。しかし咲は、「うん。ありがとう」と本心からの喜びを込めて応えた。
「うわっ、とっと」
――そのときだった。立ちくらみを起こしたようにネリーの足がもつれる。その動きが、瞬間的に嫌なイメージを思い起こさせ、脳裏にはっきりとした映像を蘇らせる。
「だっ、大丈夫?」
カーペット以外とくに何もない場所でふらりとよろめいたネリーに椅子から立ち上がり、近寄っていく。「だいじょうぶ、だいじょうぶ」。症状を根拠なく予断する患者のような物言いだったのでかまわず手をとって様子を調べる。「大げさだよー」別段問題なさそうだったので、ネリーの声に従って手を離す。二人とも立ち上がった状態で、向かい合ったまま互いを眺めている。ふと、先ほどまでの自分が過剰に心配する様子をしていなかっただろうかと気にしながら、くりくりとした目を瞬かせて不思議そうにするネリーからゆっくりと視線をそらしていった。
その先は彼女が来るまで勉強に勤しんでいた机のほうだ。母が昔、日頃から自分に言いつけていたことを思い返す。軽挙妄動は慎まなければならない。その通り、なのだろう。つい先日も同様の事を母から念押しされたな、と考えながら、どきどきしている心臓の調べに気を落ち着かせようと試みる。大丈夫だ、問題ない。そこで、今まさに明らかに不自然な挙動をしているなと気づき、ネリーへと視線を戻す。
「……サキ? だいじょうぶ?」
顔を曇らせた彼女に「大丈夫。心配ないよ」と返す。声は震えなかった。
心配してくれている……んだろうな。『クラスメイト』や母、夢の中での姉、誰かに心配させてばかりだと分析しながら自分にきつく言い聞かせようとする。だが、怒りはわかなかった。自己嫌悪もない。――それは、自己嫌悪に陥る者の傾向からすれば不自然ではなかったかもしれないが、もし咲がその傾向を知っていても恥じ入る気持ちは消えなかったろう。恥だと思う心と怒りや嫌悪を抱く心、この二つは咲の中で分別され、違う意味合いを帯びている――。
「はー、びっくりした! 心配するサキのほうがよっぽどあぶなっかしいよ」
「あ、あはは。なんか動転しちゃったみたい」
笑い話にするように冗談めかして笑うと、「なにそれっ」とネリーはおかしそうにする。
――密着するような態勢にならなくてよかった。まだ、どきどきしてる……これはどっちなんだろう。
自身の落ち着かない心臓の鼓動が、果たして何に由来するものなのか。
「――ん?」
思案をめぐらせながら自問していると、ネリーが俄に声をあげる。見てみると、彼女の瞳は自分を映しているように見えて通り抜けている。そんな気がした。どこを見ているんだろう。思考を打ち切って視線の行方を追ってみると、それは自分を通り越して後方、戸棚のあたりに向かっているようだった。
「あそこ……あれ、オルゴール? ……あそこらへんに前からあったっけ」
「――えっ」
慌てて振り向く。ガラスで中のものが透けて見えるその戸棚には確かに昨晩まで置いていなかったオルゴールが雑多な収納物にまぎれ、中ほどにしまわれていた。その位置は、立っていれば自身の身長のちょうど腰あたりに来る高さだ。
「あっ……」
失態を認識し、不意を突かれた自分の喉から声が漏れる。忘れていた。今朝、学校に行く前ふと聴きたくなって音色を鑑賞してからばたばたして急いで安全な場所にしまい込んでから、そのままになってしまっていたのだ。人目につかないようにという意味合いも含めて厳重に保管しておく必要があったのに。
マドロナのコブ材で作られた、曲線形のフォルムのオルゴール。いつもならあの宝物のことを忘れるなんてあり得ない。そのはずなのに。
「……これって」
泡を食いながら視線を移すと、一方のネリーはこちらを気にする様子もなく。戸棚のほうへと歩いていく。ゆっくりとした歩みで、茶色いフローリングを踏みしめて。
その瞬間――いやそれよりも以前から、二人の間に何か溝が生まれてしまったかのような感覚が胸のうちにあった。まるで得体のしれないものが澱んだかのような。ぶるりと身を震わせる。呆然と眺めた先には、一〇日にも満たないこのわずかな期間いつも見てきたものとは真逆の、つめたい血の通ったかんばせ。
「リュージュ社の、オルゴール?」
戸棚の前までたどり着いた彼女は断りもなくそれを開き、中に入っているオルゴールを見つめる。その声は、名状しがたい色に震えていた。ガラスの覆いがとり払われたオルゴールは彼女がつぶやいた言葉の通り、世界的に有名なオルゴール会社によるものだ。丸みを帯びたそれを飾り立てる花模様と、その――白い百合の模様を縁どる筋。はた目にもその高い質をうかがわせる上品な仕上がりをしているそれは、かけがえのない宝物だった。自分の宝物だ。なのに。
「ネリーちゃん?」
オルゴールを見つめる彼女の表情は筆舌に尽くしがたかった。普段の人懐こそうな印象はなりを潜め、彼女と自分、二人を明確に区分する境界が生じているかのように。まるで紺碧のうさぎと遭遇したような――そんな面持ちで、呼びかけた声に反応する様子もなく。一心に見つめ続けている。
それから、長い沈黙のとばりが落ちる。話しかけられるのを拒むような雰囲気で黙り込む彼女に再び声をかけることもできず、静まりかえる部屋でただ沈黙を守って立ち尽くす。時間がひき伸ばされるような感覚を受けた。つい先ほどまで談笑していたのが信じられないほどの急激な空気の変化が鈍い衝撃となり、頭の中でずっと反響していた。
「ごめん。今日は帰るね」
ふいに、ひどく乾いた声で、彼女は静寂を破った。
「えっ?」
「……ごめんね、用事思いだしちゃった!」
言い直した言葉にはいつものはつらつとした元気が宿っている。どうなっているんだろう。まるで事態が呑み込めなかった。
あっけにとられるこちらを尻目に、せっせと荷物をまとめあげて、彼女は……ネリーは部屋をあとにしていく。
「じゃあまた明日、朝迎えにいくから!」とだけ言い残して。とり残された咲は、やっとの思いでうなずいて、しかし未だ困惑から立ち直れずにしばらくその場にたたずんだ。
「――宮永さん。はいプリント」
翌日。白昼の教室で前のクラスメートから順繰りに回ってきたプリントを手渡される。
「ありがとうございます」
外向けの硬い声で感謝を伝え、そのプリントを受けとる。
「もう、敬語じゃなくていいんだけど?」
すると、同級生相手にしてはかしこまった言葉遣いを指摘されて、咲の顔に苦笑が浮かぶ。
「こうするのがくせなので。気にしないでください」
「はあ……同級なのに?」
「同級でも、です」
強調して言い返すとあきらめたようで、「そっか」と愛想笑いをくれて首を戻し前を向く。そのクラスメートはあきれた風でもあった。
咲は、そのことを気に留めずプリントに視線を落とす。内容は別段気にする必要のない事務的な連絡事項だった。そう判断して教室内の多くの生徒がそうするように前を向く。
「はい、それじゃあ今日の授業はここまで。チャイムが鳴ったら昼メシにしていいぞー」
四時限目の担当だった現代社会の教師の投げやりな声で告げられた指示に教室内が俄に活気づき、皆堰を切ったように思い思いに私語を交わし始める。そんな周りの生徒を冷静そうに眺める咲も、実は解放感を覚えてわずかに浮足立っていた。
やがてチャイムも鳴り、教室の人込みも食堂や購買などを目指して散り散りになっていく中、我先にとごった返すところに割り込むのも気が引け、弁当箱を入れた包みだけ机の上に出して機をはかっていた咲は、「そろそろいいかな……」とごちて、大分と空いてきた出入り口を目に椅子からおもむろに立ち上がる。そのときだった。
「おー、宮永。ちょっといいか?」
「はい?」
教壇で日誌か何かをつけていた現代社会の教師がいつのまにか咲の近くにまで歩いてきていて、唐突に話しかけられる。
「あの……」
「ああいやいや、何か言いつけようとか叱ろうってんじゃない。警戒しないでくれ」
自分はそんなに警戒した風だっただろうか。もろ手を軽く上げて降参したようにするその教師に、咲は両端を持ち上げるようにして弁当箱の包みを手のひらに乗せたまま、目をしばたたかせた。
「それでご用は……」
「うん、まあ褒めにきたんだよ。感心したんでな」
「感心、ですか?」
要領を得ない咲の返答に「ああ」と教師はうなずくと、
「まあセンターの科目に現代社会を選ぶやつはあんまりいないからな。受験科目に採用している大学もほとんどない。たいてい、日本史か世界史になってくる」
続けてそう説明し、眉尻を下げる。
「日本の高校生で現代社会に注力して勉強する学生は少ないってことだ」
なんとなく、話が見えてきたので口を開く。
「経済学に興味があるならきちんと勉強したほうがいいですよね」
「そう! そうなんだよ!」
話に理解を示してくれたのがよほどうれしかったのか、教師は教材を抱えて両手が塞がった状態で身振り手振りして喜ぶ。予想以上だった。
「現代社会は経済学の基礎であるミクロ経済学とマクロ経済学を扱っているからな……重要な科目なんだよ」
科目でいうなら政治・経済もあるがあえて言わず、そうですねという意味を込めてこくんとうなずく。
「それなのに経済学部の受験科目ですらほとんどの大学が日本史か世界史を採用するもんだから……皆ちゃんとやらない。定期試験なんかのために勉強したとしても、右から左に忘れておわりさ」
「経済学部の受験科目として現代社会の方がふさわしいっていうのにな……」と、教師は皮肉げな笑みを自嘲ぎみにこぼす。
「その点、お前はなかなか見どころがあるぞ宮永。授業を受けていれば知っていると思うが、おれは担当する生徒たちから定期的にノートを提出してもらってそれを細かく見てる。そこでだ」
教師はそういって言葉を継ぐと、
「おれの一〇年の教師人生から言って、宮永、お前の学習意欲はぴかいちだ。理解も問題ない」
真剣な顔を少しだけ近づけながら言ってくる。ただ、そう褒められてもいまいちぴんとこない。そもそも、入学からまだ一〇日ほどで――事前の春期講習を含めれば数週間ほどにはなるが――そこまで、わかるものだろうか。
しかし疑問は口にせず代わりに嘘ではない思ったことを言葉にして返す。
「そう言ってもらえるとうれしいです。でも、私の場合はそれこそ、経済学を勉強していこうと思っているからで」
「ほう、そうなのか?」
「はい。それも母に勧められてやっているだけですよ」
教師は「ふむ」と咀嚼するように首肯して少しの間思案げにしたが、
「充分だと思うがな。親御さんの言いつけといっても、やる気のないやつはダメさ。多少あったところで嫌々じゃ効果もたかが知れてる」
「その点、お前のノートからは必死に勉強しようって『意思』が伝わってくる。いやな、感心したんだよ。本当に」
依然として手放しに称賛し、『意思』という言葉にアクセントまでつけてくるのを耳にしていると、流石に気が引けてくる。
「そんな立派なものじゃ……」
別にわざわざ否定する必要はなくて、早く会話を切り上げてもいいのに。どうにかして過大評価を改めてもらいたい。そんな気持ちが奥底にわきあがって言い返すと、教師は思いもよらないことを言い出す。
「謙遜しなくていい。いや……どっちっていうとそれは卑下だと思うぞ」
「ひ、卑下……ですか?」
それは、大げさすぎるのではないかと思った。単なるノートの話がそんな広がりを見せてもはや戸惑いが顔を出す。
けれど教師はどうやらそうは思っていないようで、真面目な顔つきで見つめてきている。
周りの目だってある。こうして話し込む間にも少なくない視線を感じ縮こまりそうになるのを我慢して、戸惑い以外の平静をとり繕う。
「うん、言おうか迷ってたんだがな……」
にもかかわらず、好奇の視線を意に介した様子もなく教師は話を続ける。
「もっと力を抜いていってもいいんじゃないかと思うんだ」
「力……?」
「ああ、力……肩の力だ」
そう結論づけた教師が肯く。
「宮永のノートを見ていて思った。気負いすぎてる。なんていうのかな……教えられたことを一言一句たがわず覚えようって躍起になってる感じだ」
「そりゃ力を入れなきゃいけない期間ならそうしてもいい、むしろそのくらいの意気込みはあって悪いもんじゃない」
「だがな、そんな全力は長期的に見て長く続くもんじゃない。どんな陸上選手でも全力疾走をいつまでも続けられるやつはいない。構造的に不可能だからだ」
勉学に対する意識の集中と、人体の脚部を使った疾走を同列に考えていいのか。素朴な疑問は口にしなかった。類推的帰納法の危険性は、日本経済が昭和恐慌に見舞われたことで、経済再生は屈伸運動と似ているという理由から、両者を同列に論ずることは極めて危険であることを物語っているように、周知の事実だ。だが、国民に対して政府が屈伸運動のたとえを用いたのは国民の理解を得るための便宜上の説明であったろうから、それと同じで、目の前の教師も説得するためにそういったわかりやすいたとえを持ち出したのだろう、と納得する。
そこにあるのは、きっと純粋に生徒を心配する気持ち。敬意を抱くべきまぶしい感情。
だから、今自分がすべきことは反発することや疑問を呈することではなく、
「――ありがとうございます」
感謝。誠意をこめたお礼を、慇懃に頭を下げて伝えることだった。
その姿勢で、しばし動きを止める。そして充分に時間が経過してから、頭を上げて柔和な微笑みを浮かべながら告げる。
「肩の力を抜く……たしかに、力みすぎていたかもしれません。むやみに続けていれば息切れしてしまう……そのことを、しっかりと心にとどめて勉強に励むことにします」
――人間らしい生活を投げ捨てる覚悟で臨まなければ、たどり着けない境地がある。本心では、そう思っている。けれど本心はどうあろうと、そんな精神論は、この場で唱えるべきではないと思ったから。
目の前の様子をうかがってみると、鳩が豆鉄砲を食ったような教師の顔が目に入る。
悠然とした態度を心がけながら笑いかけてみる。すると、教師はますます当惑を深めたような顔をした。
「……あの?」
心配になって話しかけてみると、
「あ、ああ……そうか。わかってくれたならよかった、うん」
若干の歯切れの悪さと共に、返事が返ってくる。教師は左手を首のあたりに当てながら、思い悩む風にして、しかし考えを打ち切ったのか、すぐに視線をこちらに合わせて口を開く。
「時間をとらせて悪かったな。昼メシだったろう?」
「いえ。今からでも充分間に合いますから」
お礼の言葉も改めて伝えると、世間話もそこそこに二言三言交わしてから、別れることになってその教師は教室の出口へと立ち去っていく。
その後ろ姿を見送ってから、何となしに漠然とした視線を周囲に向ける。
視線は合ったそばから逸らされた。そして、ひそひそと噂するような声。どうしてだろう。自分を眺めたり盗み見したりする生徒たちのまなざしには、怯えや得体のしれないものに対するような色が宿っている。
それは、それらの目は、中学でも経験したものと同じ――どうしてそんな目で私を見るの――まったく同じものだった。
いたたまれなくなって教室を急ぎあとにする。内心は表にださない。押し隠す。そしてそれはうまくいった。
退室する直前、胸の奥にたまった息苦しさをすぼめた唇から漏れる物憂げな吐息に変えて扉の向こうへと踏みだした。
風邪が大体治ったので推敲した分をここまで
咳だけしつこいのでマスクが手離せませんが…文章はちゃんとできてるはず?自覚なくて明らかにヤベエコイツって感じだったら教えてください
それはそうとネリーの回想は序破急つける感じで長めになるので先に伝えときます
今回は報告代わりの少なめだったので次は長めに溜めてきます
最後になりましたがご心配おかけしました、いつもありがとうございます
お礼の言葉も改めて伝えると、世間話もそこそこに二言三言交わしてから、別れることになってその教師は教室の出口へと立ち去っていく。
その後ろ姿を見送ってから、何となしに漠然とした視線を周囲に向ける。
視線は合ったそばから逸らされた。そして、ひそひそと噂するような声。どうしてだろう。遠巻きに自分を眺めたり盗み見したりする生徒たちのまなざし。そこには、怯えや得体のしれないものに対するような色が宿っている。
それは、それらの目は、中学でも経験したものと同じ――どうしてそんな目で私を見るの――まったく同じものだった。
いたたまれなくなって急ぎ教室をあとにする。内心は表にださない。押し隠す。そしてそれはうまくいった。
退室する直前、胸の奥にたまった息苦しさをすぼめた唇から漏れる物憂げな吐息に変えて扉の向こうへと踏みだした。
青空に羊雲が群れていた。陽射しは穏やかで、渡り廊下を歩いている咲の顔をぬくぬくと照らす。
麻雀部の部室を目指していた。そのために、校舎から一度出て部室棟へ。部室で昼食をとろうと考えていた。日中ネリーが過ごすことの多いその一角で昼の休憩を過ごすのがルーティンとなりつつある。
道すがら、中庭を横切って走る渡り廊下から見える中庭の風景に目を止める。どきりとした。
見上げるような桜の木のふもとに、亜麻色の髪をした少女が背中を預けている。
明華だ。目を瞑って、何かに耳を澄ますようにその場に佇んでいる。不意の遭遇に咲の足が止まる。
「奇遇ですね」
瞑目した状態でどのように察したのかちょうど目を開くと、明華はすぐに話しかけてくる。
「こんにちは」
先ほど教室で向けられた目の余韻が残りぼうっと歩いていたが自然に返せた。内心ほっとしながら、渡り廊下越しに向き合うことになった明華を見据える。
彼女は桜の木に背を預けたままだ。林立した沢山の桜がその花弁を舞い散らす中、そうしている姿は一枚の絵画のようだった。
「こんにちは。これからお昼ごはんですか?」
挨拶が返され、質問される。
「はい。そちらはもう済ませましたか?」
「ええ。今日はさっぱり済ませました」
ざっと見渡すと、中庭には昼食をとる生徒たちがベンチなどに見かけられた。その数はまばらだが所々でにぎやかな雰囲気を醸している。すぐに視線を戻す。明華は、咲の手にある弁当箱に目を止めると尋ねてくる。
「咲さんはここで?」
「いえ、部室で食べようかと思っています」
「そういえばあちらは部室棟でしたね」
咲の行く先に視線を流して、また咲の方に。いつものように微笑みを携える彼女の瞳が咲をとらえる。
ロケーションを楽しんでいたのだろう。あまり長話するのも悪いと思って、それじゃあまた、と咲が口を開きかけると。
「よかったら、少しお話しませんか?」
「そ、……お話、ですか?」
機先を制されて、口ごもる。動揺はそれほどではない。今日にも放課後の部室で顔を合わせるだろうに、少し不思議に思っただけ。
「はい」
とくに表情のない目をした彼女が肯く。
「何を、というほどじゃありませんが、強いていうならこの風景……景色についてでしょうか」
フランスには日本に近い四季があるという。日本に比べると湿気が少なくからっとして、穏やかな気候をしているそうだが、この景色は彼女にはめずらしいのだろうか。視界に映る鮮麗な景色に、思いをめぐらせて咲は口を開く。
「桜は、お好きですか」
「はい。この小さな花びらが吹雪くように乱れ舞う姿はとてもうつくしい。いつまでも見ていたい……そんな気持ちになります」
答えた彼女の瞳が見つめてくる。あなたはどうかと尋ねるように。
「……私も好きです。満開に咲き乱れる桜を見ていると、言いがたい感慨に駆られます……胸の奥底からこみ上げてくるような」
「よかった。同じように感じられて」
柔らかな笑みを浮かべた彼女はそのまま言う。
「そろそろ教室に戻ります。次の授業は移動教室なので」
別れを告げる言葉。随分と早い雑談の幕切れだった。理由はもっともなもので疑る余地もないように思えたが、だとすれば明華は何を思って会話を持ちかけたのだろう。桜の話に共感を示してほしかった、とかだろうか。
「また、部室で」とおそらく放課後に顔を合わせることを考えながら咲は肯き、去っていく明華の後ろ姿を見送る。段々小さくなっていくその姿を追う。彼女の歩き方は頭が上下したり正中線がぶれることなく、堂に入っていた。
後ろ姿を最後まで見届けることなく部室棟への歩みを再開し、内心秘めていた緊張を吐き出すように咲はため息をひとつこぼした。
○
昼食どきの校舎内はそこかしこで混雑していた。といっても、足の踏み場もないというほどのところは購買や食堂の食券売り場くらいで、今咲がいるような部活棟へとつながる廊下などは比較的空いていて歩きやすかった。
リノリウムの床。足音を鳴らして歩いていく。遠くから聞こえてくるさざめきのような喧騒。
歩調は遅くもなく早くもなく。廊下の両端を教室の扉と窓とが規則的に立ち並び、窓の外には中庭の光景が広がる校舎の一角を、平常な心境で咲は歩いていく。
部室までもうすぐだ。人気がぱったりと途切れている様子に軽い幸運を感じながら最後の角を曲がる。
「おう」
「ひゃっ……」
曲がった瞬間、誰かの顔が至近距離に映し出されて咲の口から悲鳴が漏れかける。
「っ……辻垣内、さん」
突如として目の前にあらわれたのは辻垣内智葉、咲が越えるべき相手だった。
彼女は、立ちはだかるようにして今も咲と向かい合わせになっている。距離が近い。どちらかの身体が少しでも動けば相手の身体に触れそうなほどだ。
心臓に悪い登場をされて、また過剰に近い距離にいる誰かの存在に内心びくびくとしながら、咲は侮られないために虚勢を張る。まなこを鋭くして声や表情もなるべく毅然と。実際はた目にもそう見えた。
「ああ、驚かせたか。悪いな急いでたんだ」
「……いえ。ちょっと驚いただけですから」
先ほどの明華ではないが奇遇だと咲は思っていた。
「……あの、いかないんですか?」
ただ、急いでいるという割に智葉がその場から動こうとしないことには疑問を感じる。智葉を前にするのは苦手だ。いくなら早くいってほしい、と考えながら咲が言葉を投げかけると、
「おいおい、突っ込めよ。明らかにおかしかっただろ今の」
「はい……?」
意図の読み取れない指摘で返されて困惑する。
「いや、あのな」
「……?」
「……まあ、なんだ。驚かせようと思ってな。待ち受けてたわけだ」
先ほどの言い分とは真っ向から食い違う話を智葉が始める。その顔は渾身の一発芸が滑って苦虫を噛み潰すかのような感じだ。
確かに咲はいつもこのくらいの時間に部室を訪れてここを通りがかる。毎回この角を曲がると決まっている。わずか一〇日ばかりの中で繰り返されたことだが、智葉はそこから察したのだろう。
「そう……なんですか? じゃあさっきの話は嘘ということですか」
「まあ、そうなる」
「そうでしたか」
咲は普通に返した。不自然に平坦な声になるではなく、表情や仕草で不満を訴えるわけでもなく。知っている人に朝おはよう、と言われて、おはようと返すような自然なやりとり。平然としている。
「ううむ……」
想像していた、もしくは期待していた反応とは違ったのか、智葉は唸る。どうしたものかと思い悩むようでもあった。
目の前の人との距離が近いな、と感じたのか咲は一歩下がる。そうするとほっとしたような顔になる。
「お前……最初の数日と今とでキャラ違わなくないか?」
ところが無情にも智葉はさらに一歩を踏み出してまた距離を詰める。やむを得ない。咲はもう一歩下がる。智葉が一歩詰めた。さらに一歩下がる咲。すかさず智葉が一歩踏み出す。咲はそれ以上下がらなかった。あきらめたのだろう。
「……キャラ、ですか?」
わずかに目を泳がせてから咲が返す。
それに智葉が「ああ」と肯いて。いぶかしむ、というよりは腑に落ちないといった感じで続ける。
「初日なんかはもっと食いかかってきてただろ。それがここ一週間ほど……いや、最初の数日だけ、か。あのときのやる気にあふれたお前はどこにいったんだよ」
智葉の言葉を受ける咲の顔には色濃い困惑が浮かんでいた。しかし、どこか理解の色があるようにも見える。
「あれは……ちょっと先走ってやりすぎただけです。まだ先は長いと思って力を抜いた。そういう感じで」
「なんかあやふやな言い方だな……じゃあまた、都予選なり近づいてきたらああなるってことか?」
「それは……」
言い淀む咲。その歯切れの悪そうな口ぶりは、どちらかといえば問いに対して否定のニュアンスを接するものに感じさせた。
「ふう……まあいい。私とレギュラー争いする気はあるんだな?」
少しばかり疲労した感のあるため息を漏らしてから、智葉は凛然と表情をひきしめ、それだけは聞かせてもらう、といった調子で強気に尋ねる。
真意を問いただすように正面から目を見つめてくる智葉に対し、目をそらして少しの間押し黙る咲の姿は口を噤む可能性を想像させたが、やがてゆっくりと、見ようによってはおそるおそる智葉と目を合わせると、
「それは……あります。私は先鋒になりたい。そのために臨海にきました」
その言葉を口にする。そのときだけは、赤みがかった鳶色の瞳に強い意思がこめられるかのような力を智葉に感じさせた。そこに帯びる一種の悲愴さは、聖職者が一心に祈りを捧げる姿をも想起させる。
無意識に解き放れたのだろう、麻雀の才気とも呼べる威圧的な力が空気を軋ませるかのような感覚を呼び起こす。その力はともかく、強靭な意思を感じさせる瞳と、その瞳の、色こそ違えど雲の上に広がる清浄な大気にも似た色合い、その二つは智葉の眼鏡にかなうものだった。
ただ、どう見繕ってもそこに敵意と呼べるほどのものは存在しない。その事実が、智葉の顔を曇らせる。
「ならいいんだ。私からみれば気迫が足りてないが、まあ相手をしてやる気にはなれそうだ」
だが智葉はすぐに表情を凛としたものに戻して、全身から立ち昇っている戦意すら声に滲ませて告げる。
「……はい。お手柔らかに、全力でお願いします」
「ふっ、お手柔らかに全力ってなんだそれ」
咲の言葉に鼻で笑って、智葉は固い表情を崩す。それでも真顔といって差し支えないものだったが、少なくとも臨戦態勢ではなくなっている。
智葉は、咲の手に乗った弁当箱の包みを一瞥すると、
「じゃあ、私は戻る。これから昼か? 時間をとらせて悪かったな」
「いえ……それじゃ失礼しますね」
短いやりとりを交わしてその場を立ち去る。悠然とした、本当の意味で洗練された足どり。映像やイメージに頼るある意味模倣しているともいえる咲には決して同じことはできないだろう。
そのことを意識したか意識しなかったかはわからないが、咲はその場で目を伏せて、うつむき加減になった口から吐息を漏らした。
○
部室に着くと、咲はいつも昼食をとっている部屋に向かう。休憩室のようなその部屋に入ると大きな机の上にだらんと上半身を倒したネリーがすぐ目に入った。
「あ、いらっしゃいサキー」
ネリーはそのままの姿勢で入口に顔が向いていたので咲の来室に気づき、気の抜けた声で出迎える。
彼女の手元、机の上には空になった弁当箱が置いてある。今日も残さず食べてくれたんだ。咲の口元に自然と笑みが浮かぶ。
入ってきて、机の周りに並べられた椅子の中から入口に一番近い席に咲は腰を下ろすと弁当箱を机に置く。まもなくして弁当箱を開いて昼食が始まった。
「五時限目ってなにー?」
「体育だったかな」
話を振ってきたネリーに、弁当をつつく合間を縫って返す。
愛想は良くなく悪くもなく。見ようによっては若干素っ気ないようにも見える、いつもの調子で咲は喋る。
「へぇ体育。何するの?」
「うーん、バレーボール……だったような」
「ははっ、あやふやだね」
さして興味がないから、曖昧な記憶なのだろう。上半身を横倒しにして、顔も咲に向かって寝返りを打ったような態勢のまま会話を重ねるネリーが笑う。
「そうだね、適当」
愛想笑い程度に咲も笑う。話の流れに合わせた。
「なんだ、バスケなら出てもよかったのになー」
「ネリーちゃん、得意なの?」
「こうみえても、中学の六年でたびたびバスケ部の助っ人を務めたのだよ」
「えへん」と声に出しながら誇らしげに胸を張るネリー。色々と、興味を惹かれる発言だ。
「そうなの? ちょっと意外かも……あと中学の六年?」
「うん? えーと、ネリーのとこは、日本でいう小学校が三年、中学校が六年……って言い方でいいのかな。その九年がギムキョウイクなの」
初等教育が三年、中等教育が六年……という解釈でいいのだろうか。高校からはどうなるのかとネリーに尋ねてみると『前期中等教育が六年』という風な答えだったので、中等教育に中期か後期があるのだろうと思った。
「へええ」
「あ、その相づちはけっこう興味ありげなときのあれだね?」
ネリーが得意そうにほくそ笑む。寝返りを打ったような態勢でそうすると間抜けた印象があって面白いな、と若干失礼な感想を咲は悪意なく抱く。
「うん、バスケの話も意外。その、馬鹿にするわけじゃないけどバスケって、背の高い人が強い気がして」
宙高く舞い上がったボールを大木のような大男たちが我先にと跳躍して手を伸ばしたり、それか、もっと単純にダンクシュートを決めたり。咲の中でバスケとはそういうイメージが強かった。
「ふふーん、サキはまだまだだねー」
しかしネリーはともすると侮る発言にも気にかけず、得意そうに言うと、やる気を見せるように机に預けていた上半身をがばっと起こして、
「ネリーには、これがあるから」
架空のボールを支えるような恰好をして、おそらくはバスケのシュートポーズをとる。まだわからない。どういうことだろう。
「ええ……?」
「えー、まだわかんない? スリーポイント、スリーポイントだよ」
わざとらしく機嫌を損ねたように眉をひそめて、一回、二回と実際にシュートするようにネリーが手を動かす。バスケの経験など中学の授業くらいでしかなかった咲にもそこまで言われれば、ある程度理解が広がってくる。
「ああ、そういうのあった気がする」
「わかった? ネリーみたく背が控えめだとたしかに不利なとこはいっぱいあるけど、これがあれば」
そこで言葉を区切って、ネリーは足の裏を椅子に乗せてその場で勢いよく立ち上がると、
「これは――――ネリーの翼だよ」
シュートの姿勢をとって、そのまま流れるように綺麗な動作で手の中にある架空のボールを放つポーズをとる。
「わあ……とっても上手そうに見えるよ」
「上手そう、じゃなくて上手いの! ドリブルだってお手のものなんだから」
「そうなの? 見てみたいな」
「今度みせてあげるっ!」
疑るでもなく本心から咲がそう言っているのを見てとったのか、すっかりネリーは機嫌をよくして、天真爛漫な笑顔を惜しげなく振りまいていた。その微笑ましい姿に咲もつられて笑みを浮かべる。
昨晩の別れ際、おかしな雰囲気で別れることになって、朝一緒に登校したときにはもうしこりを感じさせないやりとりができていたが、ここにきて改めてすとんと安堵の思いが胸に落ちる。
昨晩のあれは何か理由があったのだろう。でも、こうしていつも通りいられるなら大丈夫なはず。自分の中で密かに折り合いをつけて、忘れた頃に弁当をつまんでいくと、
「あ、ところで話は変わるんだけど」
会話の熱も冷めて椅子に座り直したネリーから、ふと話しかけられる。
「きのう頼んだ手紙、あるじゃない?」
「あ……うん、あったね」
「きのう勝手に帰っちゃってなんなんだけど、もうほんのちょっとで完成するから……あとで、手伝ってもらっていい?」
はきはきとした物言いの多いネリーにしては消極的な頼み方。昨晩の急な帰宅、ネリーはネリーで気にしているのだろうか。
こちらを見上げてくる青みがかった瞳は、つい昨晩の確信が宿っているように感じられた言葉とは対照的に、少し自信なさげに陰っている。
「もちろん。お昼ごはんもう食べ終わるからまずそれからやろうか」
「ほんと!? 昼休憩でできると思うしほんと助かるよー」
とくに、断るような理由はない。ましてや昨晩のことで気分を害したわけでもない。なら咲の返答は決まっている。
お世話になっている人の役に立てるのはうれしいことだ。もっと、何かしてあげたいと思う。
「じゃあ早くお弁当片づけないと……もぐもぐ」
「あっ、そんな急いできなこモチ食べたら……」
「――うっ!? ごふっ、げほ、ごっほ、げっほ!」
咲はむせた。
「だ、だいじょうぶ?」
慌てて席から立って近寄ってきたネリーが背中をさすりながら言う。
「っていうか、なんできなこモチ? ネリーのには入ってなかったけど……」
ネリーのその言葉には、どうしてお弁当にきなこモチを、というようなニュアンスも込められていた。
「……も、貰いもので……」
息も絶え絶えな口から説明を入れる。
「貰いもの?」
小首をかしげて言うネリー。誰からの、と不思議がるようでもあったが、咲はそれ以上口を噤んだ。
智葉からの貰いものだった。咲にもなんだかよくわからないのだが、軽く話していて、気づいたら一箱ほど貰うことになっていたのだ。
渡す際、智葉の口元がこっそり三日月のように弧を描いていたような気がしたが、咲にはそれが何を意味するかわからなかった。
「ま、まあ、きなこモチは残したほうがいいよ? お弁当にミスマッチだし……せっかくのサキの料理がおいしくなくなっちゃうよ」
「う、うん……また時間を置いて別に食べることにするよ」
息苦しさも大分と和らいできたので、きなこモチをどうするかを決め、他のおかずを選んで食べ進めていく。きなこモチを捨てるという選択肢はなかった。
「でもサキのむせる姿ちょっと面白かった」とネリーが面白がる一方、咲はきなこモチでつまずいてからは順調に食べ進めて、やがて完食する。
「ごちそうさま。……ネリーちゃん、手紙の方、今からでも大丈夫?」
時計で時刻をみてみると、昼の休憩はまだ二〇分ほどはある。
「だいじょうぶだよ、ええと……じゃあはい、これ」
と咲が弁当を片づけている間に準備しておいたのだろう。部屋にある大きな机に昨晩同様、手紙を書く道具が並べられていく。
そして、手紙を書く……日本語に書き直す作業が始まると、互いに熱中して進めていく。
昨晩、咲が見たときもほとんど作業は終わっていると感じた通り、残りは昼休憩を使い切るまでもなく片がつきネリーも満足する出来になったようだ。
「サキ、ありがと! ほんと助かった」
「ううん、こういうのも新鮮で面白いね」
てらいのない笑顔で咲がそう返すと、ネリーはほんの一瞬きょとんとして、次いで朗らかに笑った。
「さて、それじゃあとは手紙だしてくるだけっと」
今から出しにいくのだろうか。授業が免除され望まない限り出席しなくてもいい立場にあるから、やろうと思えばできるのだろう。
しかしネリーは「ううん、今からちょっと用事あるからあとでかな。今日中には出すけど」と答えた。
「ちょうど部活の時間と重なるかも。たぶんだいじょうぶだけど、もし部活に遅れたらそのこと伝えといて!」
ネリーに頼まれる。こういうとき、遠慮がちに『~してもらってもいいかな?』とある種迂遠な訊き方をしないのはネリーらしさが出ている気がする。こういった話し方にはさっぱりとした印象があって、咲としては話しやすい。
「わかった、もし遅れたら監督や辻垣内さんとか……上級生の人に伝えとくね」
「ありがとう!」とすかさずネリーから感謝が告げられる。ぽんぽんと進むやりとりに咲は心が弾むのを感じた。
▼
放課後は部活だ。部室には多くの生徒が集う。
「オーウ、サキ」
ぞろぞろと皆が何らかの目的を持って動き、ちょっとした喧騒が出来上がっていくなか、正面から軽く手を上げながらダヴァンが親しげに声をかけてくる。
ダヴァンはとくに気さくで、さらに言えばネリーとは違い頼れる歳上という感じがして、こうして声をかけてもらうと咲としてはうれしくなる。むろん、決して表情を緩ませたりはしない。
「ドブリーデン」
だが、続いてかけられたあいさつに咲は「え?」となる。実際口に出していた。
「ど、どぶりーでん……?」
「ハハハ、横文字が苦手なお年寄りやジャパニメーションの萌えキャラみたいな発音になってまスヨ」
いや、会って早々、そんなあいさつをされたら困惑しても無理ないのではないだろうか……。
そんなことを思っていると、
「いやいや、なんでドブリーデンなんですか。メガンってアメリカから来たんでしょう?」
ダヴァンの後ろの人込み、そこからハオが歩いてくる。彼女は呆れたような顔をしていた。
一方のダヴァンはいつのまにやら怪しげな雰囲気を纏っている。なぜか陰影のついた妙に味のある表情で語り始める。
「ククク……様々な属性のキャラが飽和する今の時代、単にカタコトの日本語を話すアメリカ人というだけデハ、個性が埋没するのは必至……つまり、他の欧米の属性を採り入れる、というコトが今の時代における……」
「キャラを見失ってるメガンは放っといて……宮永さん」
「はい?」
ハオに呼ばれて応える。見向きされていないのにうわ言のように語り続けるダヴァンは放っといていいのだろうか、と思いながらも緊急性はなさそうだと判断し、ハオの方に向き直る。
「よかったら今日一緒に打とうよ。ネリーじゃないとってわけじゃないでしょ?」
質問の意味を察して、目をしばたたかせる。
「留学生四人と辻垣内さん、私のメンバーで交代に卓を囲む練習があるんじゃ?」
「あー、そういうことじゃなくてさ」
手で頭を掻くような仕草をするハオ。
「咲と智葉以外の日本人部員を入れて打つ練習あるでしょ?」
臨海の麻雀部では、対局の面子の組み合わせを色々と変えながら打つのが主流で、留学生と一部のメンバーだけ固定して卓を回すといったやり方はとらない。
たとえば、留学生二人日本人部員二人の卓、留学生一人日本人部員三人の卓、時には留学生クラスの部員四人の卓、といったように様々な組み合わせで回していく。
中でも、現在の練習方針としては留学生クラスの部員二人にそこそこ実力のある日本人部員二人を加える、といった卓を比較的多く用意し、留学生のレベルアップに務めながら日本人部員全体の底上げにも目を向ける……といった練習法が採用されているのだった。
そして、留学生クラスの部員――その一人に咲は数えられている。他には智葉だけ。
「……はい。だいたい『上座役』の二人はペアを組む形になってますね」
上座役、というのは。一般の日本人部員が卓に入るとき、留学生クラスの部員を指してそう呼ぶ。
入学して間もなくされた部員一同を前にしての監督の説明曰く、留学生クラスの卓に入る一般の日本人部員は胸を借りるようなものだから、その卓の留学生クラスの部員を『上座役』と呼称する……これは長年の伝統とらしかった。
「うん、だから……よかったら私と組まない?」
ハオは辺りをきょろきょろと確認するように見回して、
「ネリーは今日まだ来てないみたいだし、さ」
咲は黙り込む。そして、辺りに視線をめぐらせてみる。
ネリーは見当たらなかった。手紙を出しにいって遅れているのだろうか。
「そう、ですね。わかりました」
今日はよろしくお願いします、とぺこりと頭を下げて言う。ややあって頭を上げると、
「……」
無言で見つめてくるハオと目が合った。
「あの……?」
なんとも微妙そうな表情を彼女はしていて、もしかしてしらない間に怒らせてしまったのだろうかと声をかけると、
「ああ、ごめん。大したことじゃないんだけど」
彼女は、はっとしてから断りを入れて、
「いや……同じ一年なんだし敬語とかそんなしなくてもいいんじゃないかってね」
同級生にも度々されてきた質問をしてくる。自分の表情がわずかにこわばるのを咲は感じた。
「そう……ですね、そうなんですけど、これがくせになってしまっていて」
ハオも、どちらかというと礼儀正しく分別をきっちり守るタイプのようだが、堅苦しさというのはあまり感じさせない。少なくとも、咲のような同級生に対しては割とフランクだしフレンドリーであるように思う。
他方、ほとんど全ての人に対して折り目正しく接しようとする咲は几帳面といっていいほどだ。ハオも同級生など大抵の人と同じようにそこが気になったのだろう。
勿論ハオの今の言葉も同級生と同様、糾弾する風ではなくたしなめるように言ってくれるものだが、これを変えたくない咲としてはそうしてたしなめる気遣いをさせるのも、付き合ううちに距離感を心配させるのも心苦しいものだった。
だから――あまり人とは関わらないようにしたい。
それが、人間関係について咲が出した答えだった。
「……ネリーとは、仲がいいね」
だから、躊躇いがちにハオが言った言葉は胸に刺さった。
「……」
「ああ、嫌みとか言いたいわけじゃないんだ。ちょっと不思議に思って」
実際、気にした風でもなくハオはそう話すと手にしたバッグからペットボトルを出し、それを飲んで唇をしめすと、水滴の残った唇から小さく息を漏らして何気なく咲を見つめた。
「あんまり気にしないで。咲がそうするってことは何か意味があるんだろうし」
ハオの言葉は咲の頑なさを受け入れていた。何かを押しつけるでもなく、関心を失ったようでもなく。
「それより誘いを受けてくれたのがうれしいな。断られるかもしれないって思ってたから」
そう笑いかけてくるハオの瞳は穏やかだった。その瞳は澄んでいて、その瞳に見つめられていると後ろめたいような申し訳ないような複雑な心境になる。
「断るなんて、そんな」
「まあまあ、思い詰めた顔しないで。今日は咲とたくさん打てそうで楽しみだな」
いろんな思いが胸に渦巻いている。しかし今それを気にするのはやめて、
「そうですね。私も楽しみです」
笑顔で、同意する。
「そういえばネリーはなんで来てないんだろうね?」
「たぶん手紙を出すのに……あっ! 誰かに伝えるの忘れてた!」
ハオの素朴そうな疑問に思いだす。遅れたら伝言を頼まれていたのだ。
どたばたと駆けだして、ネリーの遅刻の理由を伝えにいく。
「本当にネリーには気を許してるんだね」
その後ろで、微笑ましそうなハオの声が上がったが、咲の耳には届かなかった。
▼
それは部活が始まってから一時間ほどした頃のことだった。
「盗られたぁーーーーっ!!」
ハオと二人、同じ卓で日本人部員二人を相手にしていた咲の目の前で蹴破られるような勢いで入口の扉が開き、次いで絶叫するような大声が上がった。下手人はネリーだった。
今にもカンをして和了を宣言しようとしていた咲は一旦倒そうとした四枚の牌から手を離し、飛び込んできたネリーに目を向ける。
ネリーは憤懣やるかたない様子でずかずかと練習室の床を鳴らして歩く。どこに駆け込もうか見定めるように周りを見渡しながら向かった先は咲と智葉の卓が隣り合う、中ほどの場所だった。
「なんの騒ぎだ……盗られた?」
場を乱したネリーを見とがめるように険しい視線を送りながら、智葉が訊く。
対して、咲をはじめ部屋中の視線を浴びているネリーはそれを気にした様子もなく、
「手紙とお金が、盗られちゃったの! もう信じられない!」
依然として怒り心頭といった様子で捲し立てると、地団駄を踏む。
「手紙と金だ……?」
「故郷に送るエアメールと、現金書留だよ!」
やりとりを続ける智葉とネリー。
「……警察には届けたのか?」
「これから!」
ネリーはそう言うと、急に静かになって、考え込むような素振りをする。
一方、ずっとその様子から目が離せなかった咲は、
(故郷に送る手紙って手伝った手紙かな……)
盗られてしまったという手紙のことが頭にひっかかっていた。
「手紙、それと現金書留、か……金はいくらくらい被害にあったんだ?」
「……五〇万」
「……円か?」
「うん」
額面を聞いた智葉が表情を厳しくして黙り込む。一方、五〇万円という学生にはなかなか縁のない大金の話になって、周りの日本人部員たちの目の色も変わる。
「えー、五〇万だって」
「やばいね」
「そりゃあんなに騒ぎもするよ」
「うんうん」
色めき立つ部員たち。そのほとんどの声が大金を盗られたというネリーに同情的なものだった。
五〇万といえば現金書留の上限額ではないだろうか。本当に不運。
そんな声が所々で交わされて、練習室の雰囲気はネリーが入ってくる前と一変している。
「あっ!」
そんな中、ネリーが何か重大なことを思い出したように声をあげる。
「どうした?」
「正しくは、五〇万一六〇〇円だった!」
「はあ?」
出し抜けにそんなことを言われて、さしもの智葉も困惑気味に返す。
「手数料! 手数料の一六〇〇円もとられたんだよちくしょー」
またしても「むきーっ」と地団太を踏むネリー。
「ちくしょうって……とりあえず、盗られたのは手数料込で五〇万一六〇〇円……そういうことか?」
智葉が真面目な顔をしてそう確認すると、全く関係ない遠くの席で噴き出すような笑いが漏れた。
「おい、今の……」
不謹慎を咎めようとした智葉をよそに、また別のところで忍び笑いが漏れ聞こえてくる。
「せ、一六〇〇円て……」
「手数料は不意打ち……」
所々から笑いを堪えようとする空気が生まれ、忍び笑いが漏れ、かといってそれは嘲るようなものではなかったからか、智葉はかぶりを振って嘆息する。
「五〇万一六〇〇円がー……」
そして、畳みかけるようにそんなことを言ってどんよりするものだから、お笑いムードは拍車をかけ、部室の重苦しい空気はいくぶんとり払われていた。
それをみて、智葉も注意するのはやめたようだ。ネリーに向き直ると。
「それでネリー、今から警察にいってくるのか?」
智葉の質問にネリーが無言で肯く。
「警察に届けを出したあとどうする? 練習はしていくのか」
「うーん……やめとくよ。いいかな?」
「まあ……いいだろう。私事もいいところだが、故郷への手紙とあっちゃな。無碍にできん」
「ネリーが気にしてるのは五〇万だけどね」
「ふっ、そういうのは口に出すんじゃない。ま、お前らしいけどな」
会話を終えたネリーが、こちらに――咲の方に歩いてくる。
「はー、ついてない」
咲やハオや他の日本人部員二人がつく卓に、そのうち咲のところに来て、ネリーが落ち込んだ様子を見せる。
「災難だったね……」
「ほんとだよ」
咲が同情すると、ネリーが肩を落として言う。
「これから、警察に……?」
「そうなるかな。うーん」
「どうしたの?」
腕を組んだネリーが唸る。その悩ましそうな様子に咲が尋ねる。
「いや……ちゃんと戻ってくるかなって」
「……それは」
どうなんだろう。咲は、自信を持って答えを言うことができなかった。
二〇一〇年代から続く美徳で、日本人は落とし物をしっかり届け出をするので、日本で滞在する間に失せものをした海外の人間はその失せものが思いがけず戻ってきて驚く、といった話を聞いたことはあるけれど。
そもそも、盗られたという話だ。盗難では話が変わってくる。
「ま、なるようにしかならないよね」
言い淀んでいる間に咲の返答にあきらめをつけたのか、ネリーはそう結論づける。
「じゃ、とりあえずいってくるね!」
そして、行動は早い方がいいとばかりに踵を返して、駆けだそうとする。
「ま、待ってネリーちゃん!」
「へ?」
迷った末、声をかけた咲にネリーが振り向いた。
「サキ?」
「あ、あの……盗られた手紙って」
おずおずと声をかける。咲の中で、もやもやとした気持ちがふくらんでいる。だが、一度意識してしまったら、無視することはできない。
「手伝った、あの手紙?」
「ああ」
尋ねるとネリーはばつの悪そうな顔をした。
「うん、その手紙。ごめんね、せっかく手伝ってくれたのに」
「あ、ううん。そのことは気にしないで」
変なことを気にさせてしまった。言いたいのはそんなことではなかったのに。少しだけ後悔する。
「そうじゃなくて……その、警察にいくんだよね。よかったら私もいっていいかな……?」
「え?」
ネリーの意外そうな顔が目に入る。自分でもおかしなことを頼んでいるな、と思った。でも、言ってしまった以上、言い切ろう。咲は口を開く。
「手伝ったから、なのかな。盗られたって聞いたら気になって……」
対するネリーはどうしたものかと思案するような様子だ。そして「うーん」と軽く唸ると。
「ネリーは構わないけど……練習はどうするの?」
今からいくんだよね、とは聞かなかった。今からいくに決まっているから。
「え……っと、その間は抜けよう、かな」
そう言って、同卓する部員たちをうかがう。日本人部員二人にハオ。勝手なことを、と叱りを受けるのも覚悟してそうすると、日本人部員は「ああ、そう」という感じで、残るハオは、
「あ、抜けるの?」
と、どこか呆然とした表情で見つめ返してきた。しかしすぐに立ち返ったように表情を戻すと、厚意だろう提案をしてくれる。
「なら伝えとこうか?」
「いえ、さすがに自分で伝えます。……ネリーちゃん、ちょっとだけいい?」
丁重に断り、ネリーに視線を移す。
「うん、智葉のとこでしょ? 一緒にいく」
そのままネリーと連れたって智葉の元に。
咲がネリーに付き添いたい、そのために一時練習を抜けたい、という話。
その旨を智葉に伝えると、彼女は顔をしかめた。
「心配なんだろうが……それでお前まで練習を抜ける、そう言っているのか宮永?」
厳しい視線が飛ぶ。咲はそれを正面から受けて、逸らさなかった。
「……はい」
「……別にダメとは言わんが」
そう言いながら、決して快いとはいえない表情の智葉。その瞳からは、どこか失望した色が読みとれる。
「そういったことで麻雀への集中をおろそかにするなら、お前への見方も変えざるを得ない。……いや、個人的な見解だ。気にせずいってこい」
淡々と告げられる。さすがに、気にしないというのは難しい。智葉の私的な見解というのが、咲の理屈でいっても同じ答えを出したから。
姉に勝つという目的に向かって邁進する……邁進しようとしている自分にとって、この行動は熱意を中途半端なものにする。
自分は本当に、中学で麻雀していた頃と違って、強くなるために全力を注いでいるか。
胸の奥から染みだした不安や迷いを振り払って、智葉に頭を下げる。慇懃に。
そして待たせていたネリーと合流して並んで練習室の中を歩いていく。
多くの視線を感じる。ネリーは言わずもがな、自分も注目されている。中学の三年のことが大きいのか、それとも初日からの智葉に真っ向から対抗しようとする姿勢のせいか、あるいは入部していきなり留学生と同等のような扱いを受けているからか、良くも悪くも関心が寄せられている気がした。
でも、それらは枝葉末節だ――――と言い聞かせる。
他人の注目、他人の好悪、それらは姉に勝つのに何ら関わりないことだ。間接的に影響するかもしれない程度。間接的な要因にまでいちいちかかずらっていたらきりがない。
だから、無視しなければ。無視しないといけない。
しかし、しかつめらしい考えをめぐらせればめぐらせるほど――、
「……サキ?」
思考が打ち切られる。歩いている途中、ネリーから呼びかけられる。
「え?」
「え、じゃないよ……顔色悪い。だいじょうぶなの」
足を止めて、咲の顔をのぞき込みながら心配げにネリーが言う。咲は平静をとり繕った。
「なんでもないよ。それより」
行く前に卓を囲んでいた人たちに謝らないといけない。智葉から許可を受けていくことが決まった以上、彼女たちには迷惑をかけることになる。
「それより?」
小首をかしげたネリーにそのことを告げて、一時、彼女の元を離れて同卓者に謝りにいく。他の二人は微妙な反応だったが、ハオは快く送り出してくれた。三人に等しく感謝する。
そうしてから、咲はもう一度ネリーと合流し、部室をあとにした。
▼
警察への遺失物捜索願の手続きは滞りなく終わった。
近場の警察署に赴いたのだが、高校生の少女二人、とくにネリーは目鼻立ちはともかく服装が日本人離れしているので署内でも好奇の目を向けられることも多く、遺失物に関して手続きする際、担当に出てきた壮年の警察官も「あー、日本語は話しますか? Do you speak English?」と前に出たネリーに多少狼狽していた。
余談だが、この警官の『あなたは英語を話せますか?』という英語は正しい英文だ。和訳から考えるとつい『can』を使いたくなってしまうかもしれないが、『Can you speak English?』での『can』はこの場合『能力』の意味を指す。
そのため、人に対してこのように使うと『あなたには英語を話す能力があるか』という英文になり、場合によっては礼を欠いた表現となる。たとえば日本人に対して、母国語である日本語を話す能力があるかと訊くのは問題ないかもしれないが、一方で、外国人に日本語を話す能力があるかと訊くのは若干失礼だ。仕事で日本語を必要としない限り、話せなくても無理はないのだから。
だから、観光で日本に来ている外国人に対して日本語が話せるか、英語で尋ねるときは「can」ではなく「do」を使うのがベターだ。
閑話休題。ともあれ会話について日本語が堪能なネリーの直接の申し立てにより捜索願はつつがなく受理された。
「ええと、それでは現金書留の方は五〇万……」
「五〇万一六〇〇円! 一六〇〇円忘れないでよねっ!」
そう念押しするネリーが印象的だったが、悪く感じるものは咲の中にない。部室の部員たちではないが、いい意味で妙なおかしさがある。そう思った。
「は、はい、承りました」
手続きを終えて、署内をあとにする。捜査の進捗についてはインターネットの警察ウェブサイトの検索機能などで確認できるらしい。
見つかるのかな。見つかってくれるといいんだけど……目に映った署内で働く人々に咲は望みを託して、ネリーと並んで出入口の自動ドアを潜った。
「さーて、帰りますか!」
都会の喧騒あふれる街の表通りに出て、燦々とした陽射しにあたためられたアスファルトを踏みしめ、開口一番、ネリーが明るく切り出した。
空は青く澄み、まだ太陽が高く昇る時間帯。
警察署の敷地から踏み出して雑踏する街角に身を投げ出せば、繁華街にふさわしい人いきれが咲たちを出迎える。
「問題なく受理されてよかったね」
慣れない人込みに翻弄されかけつつも、何とかネリーの隣につけて歩く咲が話す。
「ほんとだよ。まともに取り合ってくれなかったらどうしようかと思った」
安堵したような表情を浮かべるネリー。機嫌がよさそうだ。
しかし一方で、咲は署内で聞いたある事情から顔を曇らせる。
「でもネリーちゃん、事件性……怪しい外国人の人に突き飛ばされて持ってたもの奪われたって……」
「あー、それだ。ほんとついてないよね」
「う、うん」
ついてない、というか……と咲は思ったが口にするのはやめた。
黒ずくめのサングラスをかけた風貌の外国人。
ネリーはそんな怪しい風体の人間に横合いから突き飛ばされて、まんまと手紙や現金書留の封筒をかっさらわれてしまったらしい。
咲はその話を聞いたとき驚いた。
都会ではそんなことあるんだなあ……と長野とは勝手の違う常識に戸惑うばかりだ。
「くっそー、あの突き飛ばしたやつ、今度見かけたらギッタギタにしてやるー」
「あ、あはは、危ないからやめとこうよ……」
不穏なことを言い出すネリーをたしなめる。負けん気の強いところは咲からしてネリーの好ましくも可愛らしいと感じている部分だが、それでネリーがひどい目にあうのは嫌だ。
「そういえばサキ?」
ふと、話題を変えるように呼びかけられる。
「なに?」
「えっと、一緒にきてくれてありがとね?」
咲の顔を見つめてネリーが言う。咲は面映ゆい気持ちになった。
衒学的…胸に刺さりますね
意図せずにしてそうな気はします
以下、長文注意
少し言い訳させてもらうなら雑学みたいなものは説明のために入れてることがあります
理由は三つほどあります
一つは、伏線として受け取ってもらえるよう最低限情報を明示する目的(語らず隠しているものもあります。あと、地の文の心情を描く中で誤った解釈をさせたり)
一つは、キャラの設定などが唐突に出てきた、とならないよう布石を打つ目的
最後はあいまいな言い方で申し訳ないんですが、物語の筋をなんとなくわかってもらえたらな、という感じです
隠し立てするような重要じゃないことで実例を挙げると、
・化粧室で淡が披露した豆知識
・ネリーから咲に『地中海沿岸の地域ではイカやタコを使った料理が発達しているんだよ』と教えたこと
こういうのには意味があります
ただ…後で繋げられるかなー程度の気持ちで保険として語ったのもあります
題材的にかんがみて、凝りすぎないよう注意はしてるつもりなんですが…
我ながらすぐ影響されるところがあるので苦闘してます…
結末までの進行状況をみて、更新ペースは保ちたい、ただ文章の添削があまりおろそかにならないかも心配
どうしよう…
たしかにテンポを崩してるのは大分前から気にしてました…
その場の軽快さも勿論なんですが、全体が間延びしてしまったかな…
正直、ここまで来るのにこんなにレスを使うとは思わなかった…改善すると軽口は言えないけどできるだけ頑張ってみます
長々と語ってすみません
不安なのは大体言い尽くした(後は準決勝と決勝の闘牌描写くらい)ので、今後は淡々とやってきます ペッコリン(←好きなスレの真似w)
このSSまとめへのコメント
この手のif物って何で他校設定にしたくせに一々清澄や和と絡ませんの?なら原作通り清澄で良かったろ?せっかく他校で書くなら普段絡まないキャラとの交流だけに力注げよ