輝子「プロローグ」 (42)


目が覚めると、まずシャワーを浴びる。
夜も勿論お風呂には入るけれど、これは私の昔からの習慣。

だって寝起きのボサボサ頭で外へ出ることは彼に何度も怒られた、少しは女の子らしくしろと、そう言われてきた。
寝癖があるとどうも女の子らしくないらしい。

最初は私も必死に櫛で髪を整えていたりしてたんだが、私の髪は癖が強いから一度シャワーを浴びてしまった方がてっとり早い。

でも、シャワーを浴びた後のドライヤーは少し億劫で、腰まで届くほどの長さの髪を全部乾かすまでには時間がかかる。

それに乾かす時は丁寧にやらないと結局ぐしゃぐしゃになってしまうし。
指を櫛代わりに髪を梳いても、たまにひっかかって痛かったりもする。

これだけめんどくさいことなのに、特に今日は少し時間をかけないといけなくて、まぁ仕方ないか、女の子らしくないとかよく分からんことで怒られるのはいやだしな。

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髪が十分乾いたら小さな三つ編みを作り、リボンで結ぶ。
ピンクのリボンはもう色が褪せてしまっていて、そろそろ新しいのを買った方がいいのかもしれない。

今日の服はどうしようか。
昔友人に勧められて買ったアクセサリーとかゴチャゴチャしてるやつは結構お気に入りで、たまのお出掛けの時はこれをよく着ていくのだけど。
……ん、いいか、久しぶりにこの服にしてみるか。

黄緑色のシンプルなシャツ、正面には沢山のカラフルなキノコが印刷されている。
下は白のスカート、ちょっと短いがまぁ大丈夫、誰も見んだろ。

黄緑と白、子供の頃はよくこんな組み合わせの服を選んでいた気がする。
まだ外は少し肌寒いから上にパーカーを羽織ってみると、なんだか懐かしくなって思わず口がニヤついてしまった。


机の下にあるキノコの様子を確認して、肩掛けのバッグを手にとる。
トモダチは今日も元気そう、心なしか昨日より大きくなってる。いや、実際大きくなってるんだ。私がトモダチの成長を間違えないわけないしな。

彼らに行ってきますと声をかけ、外へ出た。
今日は快晴だ、ジメジメしてないのもたまにはいい。


……あ。


朝ご飯……た、食べてない。
朝というには今はもう、遅い時間だが。


…………
……




電車に二十分程度乗った後、駅から更に十分くらい歩くと見えてくる綺麗なビル。

結構大きい建物だけど、一つの会社という訳ではないらしい。入り口の前にはよくわからんポスターが沢山貼ってある。

私が用事があるのはここの六階。
ロビーで談笑しているスーツ姿の人達から隠れるように移動しながらエレベーターに乗り、上の階に向かう。


なんだか少し、緊張してきた。

い、いや、緊張することはないはずなんだけどな、うん。


目的の階に到達したことを音声ガイドが告げてくれる、エレベーターから降りるとまたすぐ目の前に小さなドアがあって。
少し深呼吸をした後、数回ノックを鳴らす。
……反応がない。鍵がかかってないか確認してみると簡単にドアノブは回った。どうやら開いているみたいだ。


「お、おじゃま……します……し、していい、ですかー……?」


私は中を探るように扉をゆっくり開け、部屋の中に入る。
沢山の机が並んであったが、机に座ってる人は殆どいない。

でも、ただ一人だけ、ずっと奥の方に少し背の高いショートカットの女の人を見つけた。
じっと静かにパソコンの方を見つめていてこちらには目さえ向けてこない、あの様子だと多分私のノックも聞こえなかったのだろう。

さ、最初から仕切り直しするか。今度は強くノックを叩いて気づいて貰おう。と、とりあえず外に出るか。


「あら、こんにちは」


再び外に出ようと後ろを振り向いたら、声をかけられてしまった。
慌ててまた体を彼女の方へ向ける。くるくると半回転、半回転。なんだか昔のダンスレッスンのことを思い出す。
私はあまり得意じゃなかったな。

彼女は私の方を見ながら微笑んでいて。
私は「コンニチハ」とオウム返しのように言葉を機械的に発する……語尾が高くなってしまった……い、未だに挨拶は慣れん。


「あ、あの、えと……あれです……」

「Pさんなら今、少し出かけていますよ、もうすぐ帰ってくると思いますが」


どうぞ、それまでこちらに座って待っててください。

彼女は手のひらを上にして遠くのソファーを指し示した。
それはとても柔らかそうで、きっといいものなんだろうな、あれ、ちょっと座ってみたい、けど。


「い、いいです……それなら、ま、また、後でくる……きます」


彼女は知らない人じゃない。ここに来る時には何度か会って話だってしたこともある。
でも、私がうまく喋れないせいで彼女との会話は一方的なものだったし、特別親しい人というわけでもなかった。
なのに私がここにいると相手は気まずいかもしれない、というか何より仕事中だ。私が一緒の空間にいるのは迷惑になるだろ。


またしばらく時間を置いて訪ねなおそう、それかエレベーターの前で待っとくのもありか。
そんなことを考えながら、逃げるようにドアノブを握ろうとしたその瞬間、勝手にドアが開いた。

掴もうとしたものが目の前から遠ざかり手は空を切る、その勢いで私はバランスを崩してしまう。
咄嗟に縁に手を引っ掛けようとしたが間に合わない。

時間にすれば数瞬の出来事なはずのに思考だけはずっと早くに伝わってきて。

い、痛いかな、痛くないといいんだが。
そう祈ってももうどうしようもない。私は覚悟して目を瞑る。


けれど、いつまで経っても痛みはこなかった。
代わりに感じたのは柔らかい衝撃、そして、私がぶつかったくらいではびくともしない力強さ。

それが人だと気づいた時には、その人に体重を預けるようにしていた私は、腰に手を回されぎゅっと腕の中に引っ張られた。

……タバコの香りと、慣れ親しんだあの匂い。
顔を見なくたって、もう私には誰が抱き留めてくれたのか分かる。


「おっと……輝子、もう来てたのか」

「……うん、来てたぞ」


相手の胸に顔を少しうずめる。
タバコの匂いが彼を覆い隠しているようで、この匂いはやっぱり、好きになれないな。


「先程、丁度いらっしゃったんですよ」

「そうですか、あー……それなら……」

「はい、お疲れ様でした、あとは任しといてください、最近はお仕事ばかりだったんですから……たまには彼女と羽を伸ばさないと、ですよね」


……彼女じゃない。

この人にはそう見えるのだろうか。いや、他の人達に私達はどう見えるんだ?
まぁ、人からどう見られてるなんかは問題ないが。私達が、私達をお互い親友だと認め合ってたら別に。


「ありがとうございます、じゃあ……ちょっと彼女をエスコートしてきますよ、たまには構ってやらないといじけますしね」


……だ、だから、彼女じゃない。

親友までそんな冗談を言うのか。
抗議するように彼を睨みつけたけど、彼はそれを無視して頭を撫でてきた。

誤魔化されたみたいで不満があるが、目が合わなかったことに少しだけほっとする。


「じゃあとりあえず……飯でも食いに行くか、俺実は朝から何も食ってないから腹ペコなんだよ」


ん、朝ご飯食べてないのか。
私も食べなかったぞ。流石親友、気が合うな。

数秒の沈黙の後、今度はさっきより酷く乱暴に撫でられてしまった。
ちょ、ちょっと、折角ちゃんとしてきたんだぞ。髪がボサボサになったら怒るのは親友だろ……?

そんな私の想いは全く伝わらず、せっかく整えてきた髪型はぐしゃぐしゃに。

彼が私に触れた部分を手で抑える。
親友はよくわからない、でも、そんなに悪い気はしなくて口元が少し緩む。


「その辺の喫茶店とかで軽くつまむぐらいでもよかったんだが……お前も腹ペコなら、美味しいとこ行こう」


少し待っててくれ。そう続けて彼は自分の机へと向かった。
多分帰る準備をしているんだろう……彼の机は昔と同じで、相変わらず色んなものが散らばっていた。


…………
……




「……うまいだろ?」

「う、うん……うまいな……」


難しい漢字の看板を掲げていたお店の地下。
お昼にはちょっと早い時間だと言うのに活気がある。飛び交う言葉は多分中国語だろうか、メニューも見たことない料理ばかりだ。

彼が聞いたこともない言葉で聞いたこともないものを注文するのに対して、私は炒飯や餃子のような、聞き馴染んだ言葉の料理を選んだ。


「こ、ここ、高くないのか?」

「心配すんな、普通の値段だよ」


そうなんだろうか。
立てかけてあったメニュー表を再び目で盗み見てみる……や、やっぱり、高い気がする、少なくとも私には。

それでもやってきた料理は値段以上に美味しくて、一つ一つ沢山量もあって。
い、いや、本当に多いなこれ。そんなに頼んだつもりはなかったんだが。

半分ぐらい食べただけで、もうお腹がいっぱいになってしまった。
これ以上はとても食べれない、料理を見てるのもちょっと厳しいくらいだ。


気を紛らすために食器を置いて、ぼんやりとお店の中を見渡す。
なんとなく見つめた視界の先に、カウンターに並んで座っている男女の二人組を見つけた。

お店には家族連ればかりで、男女二人きりという組み合わせはなかなかいない、彼等二人と私達ぐらい。

……というかなんか、距離近くないかあの二人、椅子がくっついてしまいそうだ。


今私達は向かい合って食べてるけど、もし私達が彼等のように並んで座ったら左利きの私と右利きの彼とではちょっとめんどくさそう…………あっ……今……き、きす、した、あいつら、キス、したぞ、あいつら。


「カップルか、昼からイチャイチャしやがってなぁ、羨ましい」


毒づいた彼は呆れたような顔をしていたが、口調はとても優しく、悪意は感じられない。

そうか、羨ましいのか、ああいうの。それなら。


……。


い、いや、違う。これは違う。
これは、うん、親友のやることじゃない。私には恋愛とかそういうの、全く分からんが、それくらいは分かる。
もちろん、彼等がどういう関係なのかも分かっている。

そういうのは、特別だ。多分。いや、知らんけど、特別なんだろう。
それは親友じゃ、ダメなことだ。

……ん、ダメかな? いやでも、親友だって特別じゃないか。


それは恋人ってのに、負けてないよな……?


「輝子」

「フヒッ?」


急に名前を呼ばれた、意識はすぐ彼の方に向く。
なんだか変な声が出てしまって、少し恥ずかしい。なんで私はこうなんだろうか。

彼が小さく笑う。
親友だから、別にいいが……わ、笑わなくたっていいだろ。


「これからどうするか決めよう、お前は行きたいとこあるか?」

「い、行きたいとこ……?」

「おう、まぁいつも通りここから適当に街をブラブラしてもいいんだけどさ」


な、何も考えてないぞ私。
親友と会うことしか、考えてなかった。

彼との付き合いはこうして今もずっと続いているけど、いつだって私は彼の側をついてまわるだけだったから。

……ああ、でも、行きたいとこか。
それなら一つだけ、あるかもしれない。


「な、なぁ」

「ん?」

「行くとこないなら……じ、事務所、行かないか……?」


その一言を告げた途端、彼の笑顔が消えた。
それは冷たいコンクリートのような無機質な表情で。


……わ、私は言っちゃいけないことを言ったのだろうか。
静かにこちらを見つめる彼に、私はどうすればいいか分からない。
目を逸らし、手元のおしぼりをひたすら指で弄る。


「事務所……そうだな、事務所か」


い、行きたくないのなら別にいいんだ。
二人一緒なら私はどこだっていいしな。


周りは相変わらずとても活気があって、暖房もとても強く暑いくらい。
それなのに私達の空間だけが時間ごと氷に包まれたようで。

おしぼりを小さく丸めたり広げたりする。彼の方にこっそり盗むように視線を投げると、彼はいつの間にか目を瞑っていて何かを考えているようだった。


「……うん、いや、行こうか、俺もなんだかそういう気分になったよ」


しばらく時間が経って彼は目を開けた。
その瞳は私の方向を向いていたけれど、私を超えてさらに遠くを見ているような気がした。

何か彼に言葉を返そうとする前に、彼は立ち上がり、会計の方へ向かう。

あれ、あれまだ料理が残っている、いいのかこれ。……い、いいんだな。うん。

慌てて鞄を持ち、私も置いてかれないように立ち上がる。
その後にご馳走様をするのを忘れていたことに気付いて、彼の分を含めて二回ほど手を合わせておいた。

続きはまた明日ぐらいに

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