双葉杏「優しさの形」 (95)
杏はいつも怠けている。
前世はナマケモノだと言われれば、ああ通りで、と皆思うだろう。ポストが赤いのと同じように、杏は怠けているものだ。
理由などは知らないけど、そういうものだからそうなんだ。ぐらいに皆は杏の事を思っているだろう。
しかしこんな杏でも、ちゃんとしっかりしていた時期はあったのだ。
そう言うと、プロデューサーは笑うだろう。本当か?と少し意地悪気な笑みで杏に尋ねるだろう。
プロデューサーだけでなく、他の皆も疑うだろうな。誰も信じはしないだろう。杏だってあちらの立場なら信じない。
それだけ杏は怠けているのだ。
でも確かに杏だって頑張っていた時もあるのだ。
優しくされたかったから。
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「あつい」
小さな事務所内に、杏の間抜けな声が広がった。間抜けな声といったのは、別に杏の声にコンプレックスがあるわけではない。
扇風機の前で喋ったから、なんだか間抜けな声になっているだけだ。
「あつい」
もう一度唱えてみる。しかし涼しくはならない。けれど黙っていられず、訴えるようにもう一度。
「あーつーいー」
「うーるーさーいー」
ずっと黙っていたプロデューサーが声を上げた。椅子を回し、机と向き合っていた体を杏の方へ向ける。
プロデューサーと目が合う。
とりあえずニヘラと笑っとくと、プロデューサーも杏の真似してニヘラと笑い返してくれた。
その表情が可笑しくてそして少し嬉しくて、杏は普通に笑ってしまった。
なんだか睨めっこで負けてしまったような時の気持ちだ。
プロデューサーはそんな杏にニコニコした顔を向けて、静かにとジェスチャーした。
プロデューサーは基本いつもニコニコしている。応用の顔が出てくる事は滅多にない。
というか杏は見たことが無い。
ウンコを踏んだ時もニコニコしながら落ち込んでいた。怒ったり落ち込んだりしないわけではないけれど、表情はいつも笑顔なのである。
きっとプロデューサーは笑うのが趣味なのだろう。
「じゃあ涼しくして」
「そんな無茶な」
プロデューサーは苦笑いで肩をすくめる。
「大体事務所に冷房がないってのが有りえない」
プロデューサーに向かって、逆転裁判の、異議あり!!のポーズをイメージしながら指を突きつけてやった。
「仕方ないだろう故障して、新しいのを買う金も無いんだから」
事実を述べられると、どうしようもない。金がないなら仕方が無い。
この暑さを許せる訳ではないけれど、プロデューサーを責めるのはやめてやろう。
「あー、なんでこんな弱小事務所に所属したんだろ」
「…そんな事を言うなよ」
プロデューサーは、口元を引きつらせた。
でもやはり一応笑顔だ。
なんだかプロ意識を感じてしまう。
「プロデューサー、一緒に違う事務所に移籍しよー」
それを聞くと冗談だと確信したのか、余裕のある笑顔に戻る。
「事務所でよく堂々と言えるな。そして断る」
「なんでー?」
「ここが好きだから」
にっこりとした顔でそう答え、また仕事を始めた。
杏も本当はここが好きだ。
移籍したいなんてのは冗談だ。
確かにこの事務所は何にもない。資金もコネも、冷房もない。
だけどこの事務所が好きだった。
でもこの部分が好きなのだと指定出来るものがある訳ではない。自分でもどこが好きなのか、良くわからない。
もしかしたら妙に狭い事務所が良いのかもしれない。
もしかしたらやたらと古いマンガが沢山置いてあるからかも。
周りが高いビルだらけの中で、一つ小さな建物が逆に目立ってる事なのかもしれない。
そのどれでも無いかもしれないし、どれもがそうなのかもしれない。
とにかく杏はこの事務所が嫌いじゃなかった。
プロデューサーの横顔を見た。
パソコンの画面に集中していて、見られていることに全く気付いていない。
この部屋には仕事用の机が二台、接客用のソファーが二脚とその間に一つ机がある。それでこの部屋の7割は埋まってしまう。他には小さな部屋が二つあるだけで、この事務所は本当に狭い。
杏がいま立ち上がれば、プロデューサーをすぐ抱きしめれるぐらい狭い。
別に抱きしめたいという訳ではない。
もしかしたら、プロデューサーとのこの距離が好きなのかもな。
「そういえばさー」
「なにー?」
プロデューサーは、パソコンとにらめっこしたままで返答する。
「なんでここはこんなに小さいんだろ」
前から疑問に思ってた事を尋ねてみる。
「金がないから」
プロデューサーは即答する。
「でもさ、ここの土地って高いでしょ」
「まあな、相当だろうな」
ここは都心の中でも便利な場所だ。
周りに有名なお店の本店もたくさんあるし、周りの物件はどれも恐ろしく高かった。
そんな土地のど真ん中にポツンと場違いなボロい建物がある。
それがこの事務所だ。
「何でこんな土地を持ってるのに、こんなに小さな建物なの?本当に金が無かったらなんでこんな土地が買えないでしょ。何処かに金を隠し持ってるの?」
実はアイドル事務所は表の顔で、何か非合法な商売があったり。
「あー、ここは社長が先祖から持ってる土地なんだよ。俺でも買える程度の価格だった頃からの」
「えっ、そうなんだ」
「なんかずっと昔から社長の一族がここで自分の仕事場を作ってるらしい。最初はラーメン屋で次は八百屋、そいでラーメン屋で今はアイドル事務所だ」
「ふーん、凄く妙な事をするね」
「だよな、俺も思う」
売らないのかな。
この土地を売ってもっと安い土地で大きな事務所を構えた方がいいんじゃないのかな。
「この場所が好きだとか言ってたから、売らないと思うよ」
驚いた、プロデューサーは杏の考えてる事に返答をしてきた。
「プロデューサーはエスパーなの?」
「ハハ、やっぱりそう考えてたのか。杏が考えそうな事ぐらい分かるようになって来たよ」
「え、本当」
それって、なんだか長年連れ添った夫婦みたい。そんな馬鹿な事を考える。それも悟られるてしまうのではと怖くなり、プロデューサーの横顔観察をやめた。
「ずっと、一緒にいるからな。こんな狭い事務所で」
「ふーん」
恥ずかしいのと嬉しいので、黙ってしまう。
杏が黙ると他に誰もいない事務所だから、プロデューサーのキーボードを打つ音だけが広がった。
カタカタという音に妙な緊張を感じてしまう。
杏は赤い顔を隠すように、プロデューサーに背を向けた。
そして勇気を出し、口を開く。
「ならさ」
「ん?」
「今…杏は何を考えているか、分かる?」
プロデューサーの横顔をもう一度覗き見る。プロデューサーはそれに気づき、手を止めこちらを見た。
目があってしまい、杏は動けなくなる。
数秒見つめあっていると、プロデューサーは杏の心を透かして見ているような気がしてきた。
そう思うと恥ずかしくて仕方がない、でも目を離したくても離せない。
プロデューサーの静かな瞳に吸い込まれてしまったようだ。
無限に続いてしまうように感じられた長い数秒後、プロデューサーは呟いた。
「…ファミチキ下さい?」
「…え、ああ、うん。そう、そうだよ凄いじゃん」
杏は内心拍子抜けしながら、拍手をしてプロデューサーを褒めた。
「まあな」
と、プロデューサーは調子に乗る。
「エスパーさんの称号を上げるよ」
「やった、資格が増えたぜ」
プロデューサーは大して嬉しくなさそうに喜んでみせた。
「あーつーいー」
「俺だって暑い」
「ねえー、帰ろう」
「駄目だ」
「えー、もう帰りたい」
「駄目だ」
「ううーだいたいこんなの、アイドルがやることじゃない」
「そんなだらしない表情の方がアイドルらしくないぞ」
「それが杏らしさでしょ」
「そうだった」
今年の夏は去年よりも暑い。
そんな事が毎年ニュースでやっていると、ああ本当に温暖化しているんだ、と少しは実感が湧く。
でもそれは何となくそうなっているんだなと感じるだけで、危機感はそんなにない。
きっと危機感を持つようになるのは、今年の夏をどうやれば生き延びられるかみたいなレクチャーをニュースで特集し出してからだろう。
人間は危機が迫って来ていても、それがまだ遠くの間はのほほんと出来るものだと思う。
だから人は毎年夏休みの宿題を最後までやらないのだ。
そうならない奴は人間ではないのだ、きっと人間のフリしたサイボーグとかなんかだろう。
あれ、なんでこんなに無駄な事をウダウダと考えているのだろうか。
「暑すぎて、杏の思考回路がおかしくなってる気がする」
「涼しくてもおかしくないか?」
「そんなことはないです~」
反論するのもめんどくさい。
空を見上げると太陽が杏を睨みつけていた。
太陽の鋭い眼光に臆して、視線を逸らす。
「来年も今年より暑くなるんだろうね」
「やめろよ、来年の分まで暑く感じてきたじゃないか」
「帰りたい」
「なら早く配り終えるんだ。さっきから杏は俺におんぶしてもらっているだけじゃないか」
いま杏は真夏のコンクリートジャングルのど真ん中で、プロデューサーと共に()ビラ配りをしている。
今度開かれる杏のライブに向けて、知名度のない杏は一生懸命ビラ配りをしているのだ。まあ杏は配ってないけど。
プロデューサーが配るビラを受け取ってくれた人に「来てね~」と、プロデューサーの背中から目も合わせずに手を振るだけだ。
しかし決して楽ではない。
この灼熱の太陽の中、外にいることが既に重労働なのだから。
今度開かれるライブは、うちの事務所的には結構大きなライブになる。
社長とプロデューサーは、杏に無駄に期待して下さっている。
きっかけがあれば、大手事務所にも負けないほど売れると信じているのだ。
今度のライブはそのきっかけにしようといているらしい。
「ううー辛い。暑いよぅ…」
「頑張れライブに人さえ来てくれれば、成功は間違いないから」
「なぜ言い切れる」
「だって杏は世界一のアイドルだからな」
プロデューサーは振り向いて、杏の顔を見ながら子供のように無邪気な笑顔でそう言った。
「…あっつい」
急に4度ぐらいは体温が上昇した気がする。原因はプロデューサーのせいである。
なんでこんなに恥ずかしい事を平然と言いやがるのだろうか。
いや、嬉しいけどもね。
「おい、凄く顔が赤いぞ。ごめん無理させたか。少し休憩しよう」
プロデューサーは勘違いをし慌てて杏の手を引き、近くのファミレスに向かった。
勘違いだと説明する訳にもいかないし、休憩は願ってもない事なので黙っていよう。
杏を気にかける時プロデューサーの笑顔は崩れていた、流石に本気で心配する時は笑顔じゃないんだなぁ。
杏が病気になったりしたら、またこの顔で心配してくれるのかな。
そうだといいな。
もしもそうなら、病気になるのも悪くないかもしれない。
ファミレスでジャンボパフェを食べ、その日はもう帰ることになった。
ジャンボパフェは予想以上にジャンボだった。
杏では一割程しか食べ切れないぐらジャンボだった。
残りの九割はプロデューサーが食べ切った。
睡眠は大切だ。
人間が生きていく上でとても重要だし、純粋によく寝ると気持ちいい。
そんな睡眠を邪魔する事は許されるだろうか?いや、許されるはずがない。
「だから杏の睡眠妨害はやめてください」
そう言って電話を切った。
さっきまでやかましかった携帯は、急に大人しくなる。
夜泣きの赤ん坊がようやく寝付いた時の母親のような気分である。ようやく寝れるわ。
しかしすぐに電話がかかってきた、夜泣き再来の気分だ。
「なんでしょうか?杏の意思は伝えた筈ですが?」
「私の意見は聞かれてませんが?」
「ではどうぞ、手短に」
「早く起きて事務所に来なさい」
「断る」
「断らせない」
「…それも断る」
「それも断らせない」
プロデューサーの話を無視して電話をを切り、携帯の電源を落とす。
電源を切れる、これが夜泣きの赤ん坊と違った、携帯の優れているところだろう。
「おやすみなさい」
そう呟き、ゆっくりと眠りの世界に戻っていく。
ピンポーン
しかし、またも杏の睡眠を邪魔するものが現れる。
杏の家に訪れる人は宅配の人ぐらいしかいない。Amazonでゲームか本を買ってたっけ。まあ後日でいいやと思い、杏は居留守を決めた。
ピンポーンピンポーンピンポーンピンポーンピピンポーン
Amazonではなかった。
携帯の電源を入れる。
電源がつくまでの数秒間もチャイムは叫び続ける。
プロデューサーの携帯に電話をかけた。
「なにしてんの?」
「来ちゃった」
「なんで?いや、それは分かるけども、対応が早すぎるよ」
「なんか今日は駄々をこねる日だと思ったから、最初から来てたんだよ」
本当にエスパーさんですか。
しかし嫌がらせがストーカーの様な真似をされても、杏が感じるのは喜びであった。杏も変態ではないのだろうか。
杏の事をここまで理解して、杏の為に動いてくれている。
それが例え仕事だとしても、と思ってしまうのだ。
「鍵開けて出てこい」
「…はーい」
ドアを開けると、笑顔でプロデューサーは立っていた。
「ほら、今日もビラ配り頑張るぞ」
「えー、今日もー」
「まだ全然配れてないじゃないか。ほら早く行くぞ」
「んー」
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