男「なにをしているのだ、少女?」(230)


少女「海に血を流しているのです」

男「血を」

少女「はい」

男「胸まで海に浸かり、じっと立っている」

男「その姿を見て僕は」

少女「『何か清浄な行為に身を捧げている』そう思った、のですね」

男「そうだ」


少女「それは、たぶん、半分当たっていて、半分間違っている」

男「なぜ」

少女「なぜって。私は自分のなかからあふれ出すけがれを、こうして海水に浸かって、遠い遠いところへと、流し去っているのだから」

男「なんという哀しい物言いを!」


少女「男。あなたには私のおこないの、半分が見えていない」

男「いや、見えてないはずは。そして海にはなっているもの、それを君は、『けがれ』と呼ぶ。そんなのは君の思いすごしだと」

少女「勇敢な男。私のなかからあふれ出たけがれは、そうやって海に足を踏み出してしまったあなたをも呑み込んでしまうの。それでもよろしい?」

男「君が『けがれ』と呼ぶそれは、いのちのみなもと、生きている証。生きとし生けるものすべてを覆う慈しみ。見なさい、鮫が寄ってくる」

少女「そうです。私は待っていたのです」

男「それは! 愚かと言うことしか」


少女「愚かなのはあなた。鮫に食べられるのが恐ろしいなら、早く海を離れなさい」

男「いやだ」

少女「どうして。海に恋々として陸地に背を向けても、進化の掟はあらがいようもなくあなたを土の上へ押し上げる。無駄無駄無駄」

男「僕はのぞまない。けがれた土の上を、この二本の足で歩きまわるのを」

少女「自分に嘘をつくのはやめるの男」

男「ああ、鮫が君のすぐそばへ。しかしなぜ? 鮫は君に寄りそい、いとおしげに尾を振ったり、君のふとももにほおずりをしたり」

少女「あなたには分からなくて当然」

男「君は! なんと鮫の背に乗り、外洋へと向かう!」

少女「そうです。さようなら男」

男「さようなら少女」




少女は沖へと去った。

鮫の背にうち跨がって。

イルカに乗った少年ではない。鮫に乗った少女。


なぜ少年はイルカに乗り、少女は鮫に乗るのか。


僕は少女の姿がとうに見えなくなった渚に立ちつくし、はるか沖のかなたへと問いを投げるが、答えは与えられない。



もしや? おっさんやおばさんは鯨に乗るのか?

笑う気にもなれない。


僕は、鮫の背びれの後ろあたりに跨がった、少女の陰部を想像する。


きっとそれは鮫肌にきつくきつく押しつけられ、少女が生まれて以来感じたことのない、全く新しい、陶酔の波を彼女の脳髄へと送り込んでいるにちがいない。


鈍色の雲が覆いかぶさる沖を遠望しながら僕は、
こうして彼女が鮫の背であじわっているであろう陶酔に思いを馳せ、はげしく勃起する。

母なる海にせり出した僕の突起物を、海水がつめたく洗いたかぶりを鎮めようとする。
そのつめたさに、たかぶりが意気地なく収縮しはじめるのを、僕は見る。

そのいじけた収縮の過程で僕は、身をふるわせ射精した。


波間をただよう、僕の白い粘液。


けだるさのなかで波に体をゆすられ、よろける僕。


沖につらなるのはあいかわらずの沈黙。


でも、少女の流した血と、僕の精子は混じり合い一つになったのではなかったのか。


「いいえ」


遠い沖のかなたから、そんな少女の声が聞こえたような。


それでも僕は沖を見つめ続ける。


波間をただよう僕の白い粘液のように、はかない期待が拡散し消えていくのだとしても、僕はここを立ち去ったりしないのだ。


いまごろ少女は、鮫の背に乗って海中ふかく潜っているのだろう。


イルカと違い鮫はえらで呼吸できるから海面に出る必要はない。
やがて少女にもえらが発達し、水のなかで呼吸しはじめる。

えらで呼吸する少女は鮫と、そして海と、一体となる。


かたや。


イルカに乗った少年はしょせんイルカに乗っていることしかできない。
イルカに乗った道化を、生涯宿命づけられた哀れな少年。


いずれ少年は陸に上がり道化師となる。
外洋への旅、潮の香を忘却のなかへ押しやり、地上の掟と卑屈さだけを学ぶ。


なにげない瞬間、自分を見上げたイルカの眼差し。
それを思い出すことはあり得ない。決して。


イルカと鮫。少年と少女。


こうして進む方向は、決定的に分かれた。


浮力に乏しく、呼吸のためにたえず泳ぎ続けなければならない。
そうやって強大な筋肉を発達させた鮫の背中で、少女は魚になるのだ。


どれほど嘆き悲しみ、祭壇に供え物を積み上げようと、少女が戻ってくることはない。



「ようやく分かったの」


またもや、少女の声が沖から届いたという、もはや疑いようのない幻聴。



ここは…… どこなんだ。

僕は大波に呑まれて、そして、沖に流されて。


たぶん死んだ。と、思う。


それを、のぞんでやまなかったはず。


少女の近くへ行くには、それしか道がないはずだと。


なにもみえない。


? くらいばかりのなかに、……聞こえてくる、あの物音はなんだろう……



声?



やはり声だ。



「男! 男!」



僕を呼んでいる。


そうだ。聞きちがえようのない、あれは少女の声。



男「もしかして…… 本当に、少女?」

少女「他の誰だと」


男「いや。自分の、耳を疑うあまり」

少女「心配は無用。男の耳は二つとも、ちゃんとついている、いつもの位置に」

男「ここは、どこなのか」

少女「光のさし込まない、深い海の底」

男「道理で。君の声はするのに、姿は、ぼんやりとしか」

男「しかも!? 空気がないのに生きている」

少女「すでにえら呼吸を覚えはじめているの、男。でなければ話が破綻してしまう」

男「それは、間違いのないことなのだろうか」

少女「間違いない。どうでもいい解決済みの疑問はさておき男。私以外の誰だと」


男「少女以外の誰も」

少女「嘘をついてはいけない」

男「渚で君を見送った僕の哀しみも知らぬげに、なぜ君は、そのような疑いを」

少女「陸上で人は、呼吸するように嘘をつく。その陋習は、この海の底でもたやすくは抜けない」

男「ならば僕も言おう。陸上で人は呼吸するように人を疑う。その陋習はまだ君をとらえている」

少女「ぐぬぬ」


男「そもそも少女、『ロウシュウ』などという、地上の怨念にいろどられた言の葉を、勝ちほこったように振りかざす君のあやうさに僕は」

鮫「おい! 五体満足な人間のくせに不自然な会話ごっこはよしな」

男「うわ、なんとそこに鮫! しかも、実に標準的な日本語を」

少女「心配いらない。この鮫は私の友達。アルベルト自己紹介」

鮫「俺の名はアルベルト。旦那、あんたの名は」

男「男」

アルベルト「男、よろしくな」

男「うむ。とはいうものの少女。これはどう見ても、例の、なんだっけ」


アルベルト「ホオジロザメ」

男「そうホオジロザメ! ではないのか。獰猛な人食いにも分類される、あの」

少女「なに。私が『友達』と呼んだアルベルトを、人食い呼ばわり。男はこの暴言があえて妥当であると判断した。そう解釈してよろしい?」

男「いや…… 僕の目にはただ、このおそろしげな牙、強大な顎が見えるという」

少女「あきれた! 『ただただ、まちのぞんでいた』と殊勝げにうそぶいた舌の根もかわかぬうちに、わが身の心配をはじめるとは!」

男「それは誤解、僕は少女の身を案じて」

アルベルト「よくまあ次々と出まかせが言える旦那だね」

少女「しかたがないの、許してアルベルト。この人は病気だから」


男「失敬な! 僕は入院も通院もしていない!」

男「しかし一概に『鮫の脳味噌』とはかたづけかねる知性。あんたひょっとして化け物?」

アルベルト「俺にはあんたが化け物に見える」

少女「もうよしましょう男。多すぎる情報量を無理に、小さな脳味噌に詰め込まなくても」

男「小さな……なんだって?」


少女「さあ、そろそろ出発。男、アルベルトの背に乗って。あなたが前、私は後ろ」

男「前。言うなれば運転席。僕は、この乗り物の免許を取得した覚えはないのだが」

少女「だから自分が、後ろに座る方が適切だとでも? そんな話は、地上ばかりでなく、海のなかでも通らない」

男「言っている意味が分からない」

少女「ならば、一台のバイクに乗って走る若い男女の姿を。運転しているのは女? それとも?」


男「ごくありきたりには、男だ」

女「ほら、あなただって知っているではないの。あれは青春という、地上にも海にも通じるひとつの掟」

男「しかし、イルカにすら乗った経験のない僕が、どうして鮫を制御できると」

少女「では男。かりに私が前だとして、あなたは私の後ろでなにをしようというの」


男「君は! やはり僕を誤解しているのだ」

少女「いいえ。私は知っている。あなたが渚で、私をネタによこしまな妄想にふけり、はしたない限りの行為におよんだことを!」

男「なぜそれを……」

少女「そんなあなたであれば、私の背後に回り、密着させた体の一部をもちいて、またもや醜悪きわまるおこないをたくらむのは当然」

少女「しかも、『少女の血と混じり合った僕のホニャララ』ですって? ひいいい、気持ち悪いこの、変態!」


男「うううっ……僕はもう、君に会えないだろうという、絶望のあまりに」


少女「絶望? 捏造した免罪符を振りまわすのはよして、さあ前に乗る。もちろん、私が後ろからあなたの腰に手を回し、このゆたかな胸を背中に密着させるだろうなどと、はかない期待を抱いても無駄無駄無駄」

アルベルト「『ゆたかな』って言えるほどのもんかね」

少女「おだまり。さあアルベルト出発よ」

アルベルト「はいよ。ところで嬢、そのしゃべり方どうにかなんない?」

少女「アルベルト、あなどってはいけない。すべてはこの病人のせい」

少女「男の話法のもつ感染力はおそるべきものが。発症したのは私だけではない。いずれ私が発起人となって、被害者の会を立ち上げなくてはと思っている」

アルベルト「せいぜい気をつけましょう。では、ゆるりと」


─深海をゆくホオジロザメ、男、少女─


男「思ったより簡単な乗り物だ。ところで鮫」

アルベルト「なんだって? 自己紹介したはずだが」

男「覚えにくい名前だったゆえに」

アルベルト「さすがに大した脳味噌だな。それで?」

男「さきほど君は、『五体満足な人間のくせに不自然な会話』うんぬんと言ったように記憶しているが」

アルベルト「ああ。確かにそう言った」

男「あれは、不自然な会話は五体満足でない者に限り容認されるとの趣旨なのだろうか?」

アルベルト「つまらねえこと気にすると頭が禿げるぜ」


男「鮫に頭髪の心配をされるとは! ところでどこに向かってるの旦那?」

アルベルト「嬢に聞きな」

男「少女。鮫にそう言われた」

少女「いまに分かる」



いわゆる、不自然に聞こえる話し方。
それは五体満足でない人間に固有のものだという、偏見にみちた鮫の見解。


僕は、かような偏見を打破しなくてはという使命感に駆られた。


僕には、鮫を完璧に論破する自信があったのだが。結局ごまかされ機会を逸した。


つくづく残念というしかない。


それにしても、どれぐらいの深さまで潜ったのだろう。鮫は頭をいくぶん下に向け、黙々と尾びれを動かし前へ進む。


不思議にも水圧はほとんど苦にならない。


少女の言葉を信ずるなら、どこかから海水を体内に取り入れていることになる。
僕は自分の首筋から顎の下にかけてなで回し、えらの発生箇所を特定しようとこころみたが、徒労に終わった。


周囲は魚どころか、水棲生物のかげかたちも見えない。ただ無限とも思える漆黒の広がり。


だれかが会話の口火をきって、水圧のせいとは言えぬこの重苦しさをどうにかしてほしい。
僕は自分をたなに上げてそう期待する。しかし沈黙はどこまでも先へ先へと延びる。


ふとしたはずみに僕の口から洩れたため息。
その泡が、かすかに明るみを帯びた頭上へゆらゆらと上っていく。


海面へ旅立った泡がケシ粒のようになり、視界から消えるのを僕は見送った。
そのときようやく、のけぞり気味の僕の脳味噌に、お約束どおりの憶測が閃く。


(きっと僕は死んでいる)


(死後の世界で僕は少女とめぐり逢い、海の底を冒険している)


(それとも? 死のまぎわの一刹那、脳裏をかすめるというまぼろしの途中、なのか)



少女「そしてあなたはこう言う。『こんなまぼろしなら悪くない』」

男「こんなまぼろしなら悪くない」

男「先を越されてしまった……」


少女「悪くないものを、私は提供した。よって、あなたに対価を請求する権利を有する。認めますか」

男「まだ認めるわけには。あのとき僕が渚で、積極的にのぞんだのならともかく」

少女「この期におよんで。命拾いしたありがたみの片鱗も感じられないその、無駄とも思える用心深さはなに」

男「地上にいる人間の、ほぼ脊髄反射とでも」

少女「かわいそうに、男を緊縛する地上の拘束のつよさといったら!」

男「しかたがない、この拘束は、ガレー船の漕ぎ手が市民から奴隷にとって代わられて以来、綿々とうけつがれてきたようなもの」


僕たちは再びだまり込んだ。


それからどれくらい、沈黙の潜行が続いたのか。


行き先を承知しているらしい鮫はただまっすぐに進んでいく。


先刻より少女も鮫も、僕の問いには言を左右にして目的地を秘匿する。それがいやおうなしに、僕の不安をかきたてる。


えたいの知れぬ一室に僕を拉致したうえで、凌虐のかぎりをくわえようとでもいうのか。


そのためにわざわざ、僕を死の瀬戸際より救いだしたのか。


よくしゃべるがいくぶん無愛想な鮫は、今は無言。
100メートル進む間に地上で数十年が過ぎ去っているような、そんな錯覚をもよおしそうな時間が流れていった。


不意に少女が背後から、僕の肩に身を乗り出してささやく。


少女「男は筋がいい。アルベルトが心地よさそうに」

男「そうか。僕の方はどうも、心地が今ひとつなのだ」

少女「それは思うに、理由は二つ。一つはたぶん男が、少年が乗るべきはイルカでなければという、地上の偏見にとらわれているため」

男「そうだろうか」

少女「違うとでも」

男「……たしかに。僕には鮫に乗った少年が、地上に災いをもたらさずにおかぬ、まがまがしい刻印を帯びているかのように」

女「ならば、イルカに乗っていれば災いは回避されると?」


男「そうは言わないが」

少女「ならば偏見を捨て去るべき」

男「分かった、努力しよう…… で、もう一つは」

少女「自分の胸に聞いてみると良い」

男「君は、親切心を地上に置きわすれたのか」

少女「はぁ。では言ってあげましょう。あなたが感じている居心地の悪さそれは、アルベルトの至極正常な言葉づかいに起因しているのでは? という私の憶測」

男「うむむ…… 一概に否定できない部分」


少女「すなわち、居心地の悪さを男のなかに励起する一因は、ほかならぬ病だということ!」

男「認めざるを得ない」

少女「男の病は常に、すきあらば手近の健常者に感染すべく機会をうかがっている。それを忘れてはならない」

男「はい、注意します少女」

女「ところでこの問答は、あなたが少年だという前提で成り立っている。これをどう思っているのですか」

男「君が少女なら、……格別無理はないと」

少女「それだけ?」


男「それ以上は、なにも。そういえば少女。本来は君の発言であるべきところに、さきほどから脈絡もなく『女』が交錯してはいないだろうか?」

少女「気づいたのね、男。そのとおり。私たちの病はこうして、いまも着実に進行している」

男「!」

少女「少女から女へ。赤飯を炊いて祝うべきイベントか、あるいは、大人の階段上るシンデレラのストーリー。よもやそんな陳腐な連想が」

男「ち、違う」

少女「本当に? あなたは、これで晴れて『男』と『女』の関係に昇格できると心ひそかに快哉をさけんでいるのでは?」

男「うう、またしても君は、誤解の迷宮に!」


少女「いいえ。それを私は格別とがめだてはしない。なぜならば、そんな期待など無駄無駄無駄! だから」

少女「現在あなたが『男』であるように私が完全に『女』となる日、ほぼ間違いなく、あなたは『男』ですらない」

少女「『男』からたんなる『人間』もしくは『二足歩行獣』に還元されている! かつて『少年』から『男』へと簡略化されたように」

男「そしていずれは…… 混沌のなかへ解けいってしまう、と……?」


少女「そのとおり。男がさっき、アルベルトという『名』に拒否反応をしめしたのもまた、明らかな悪化の兆候。この病はあらゆる個別具体性を破壊しつつ進行するゆえに。……問題は、治癒する意志があなたにあるかどうか」

男「もちろんだ! 君とともに、必ずや病を克服し」

少女「ほら、息を吐くように嘘をつくのもこの病の特徴。しかし私たちは、病を根治するために旅立った。ごらんなさい、目的地がすぐそこに」

男「あれは……! 海の底にあわく光をはなつ、真珠のような」

少女「そうまさに真珠。乙姫様の住まう、世に言う竜宮城なのだから!」

男「竜宮! 僕と少女はここで、永遠ともまがう至福のときをすごすという」

少女「と ん で も な い !  私たちはここで病を根絶し自分の名を取り戻す!」


─竜宮城に到着!─



男「おお、屋根に一対の鴟尾を配してたつ琉球風の楼閣はまさに、世間の一般的イメージと寸分たがわない竜宮城! 夢ならさめないでもらいたいもの」

少女「男、ぼーっと立ってないで。代表者がじきじきにお出迎えになっている!」

乙姫「ようこそ! 遠路はるばるこの竜宮城へお越しを! 私、乙姫をはじめ従業員一同、心より歓迎申し上げますです!」

男「これは…… 神秘的イメージを打ち砕くかのような、俗悪な熱烈歓迎ぶりに僕の幻想は揺らぎh」

少女「だまりなさい」

男「はい」



乙姫「さあさ、こちらへ」

従業員一同(タイ、ヒラメ、タコその他)「いらっしゃいませー!」

アルベルト「いやぁ姫、きょうはまたいちだんと綺麗じゃないの!」

乙姫「またアルベルトちゃんたら! 貧乏暇なしなんだからうまいこと言ったってだめよ」

男「……浦島伝説のヒロインたる神秘性はどこへ。これでは、温泉旅館の若女将」

少女「男よ。『すべての先入観は破壊されるためにある』これは私の、尊敬する師の言葉」

男「なるほど」

少女「理解したとはとうてい思えないが」


男「たしかに施設の体裁は…… 地上の有名テーマパーク級といって遜色ないと思う」

少女「当たりまえ。なにしろ七千八百年の歴史を誇る、海中最大のリゾート施設なのだから」

男「七千八百年!…… しかし、客は僕たち以外に見当たらないのだが」


乙姫「あら、こちらのお若い方ははじめてでいらっしゃる?」

男「はい」

乙姫「なら、不思議に思われるのもしかたないですね。この竜宮城は、厳選されたお客様にだけ楽しんでいただく、いわばプライベート・リゾートなのですから」

男「そういえば、浦島さんの話もまさにそんな感じだった」

乙姫「そして、お客樣方にはみな、たいへんなご好評をいただいてますのよ! まあ、百聞は一見に如かずと地上でもおっしゃるそうですから、こちらをごらんになっていただきましょう」


自動ドア「ウィーン」


乙姫「いかがです? このエリアはつい最近、公開するようにいたしました。全部、当施設へお越しいただいたVIPのお客様のものです」

男「壁一面に、サイン入り色紙が……」

乙姫「こちらは、最近いらっしゃった方々ですね」

男「『EXCELLENT!』スティーブ・ジョブズ」

アルベルト「アメリカ人は簡潔かつ力強いね」

少女「惜しい人を失くしました」

男「『YES’ WE CAN!』バラク・オバマだって」

アルベルト「こんなのもあるね。『あなたを取り戻す』安倍晋三。いつ来たの?」

乙姫「通常国会が終わった直後にお忍びで。奥様もお連れにならずに」


少女「『あなた』ってだれ?」

乙姫「さあ…… 私のことなんでしょうかね。まぁ、『取り戻す』なんておっしゃられても困りますけれど」

男「こっちにはまた、ちょっと変わったのがあります。『ユリアが楽しんでくれてよかった。感謝している』ケンシロウ」

少女「『オラの好みじゃなかったかもな!』野原しんのすけ、ですって」

乙姫「いろんな方がお見えになりますから…… あら?」

アルベルト「どうしたの」

乙姫「『帰って来たぞ!』カーズ。ちょっとあなた。この人いつ来たの」

従業員1(ヒラメ)「6日前でした」

乙姫「よりによって私の留守に…… 一人で?」

従業員1「はい、お一人で」


男「どうやって地球に戻ったのだろう」

アルベルト「物騒だね」

乙姫「……いや実は、昔この人につきまとわれましてね。『闇の世界に住む者同士。ともに至高の存在をめざそうではないかッ』ってそればっかり」

少女「なんとなく想像できる」

男「たしか、念願かなって至高の存在になったはずですよ」

乙姫「そうらしいですね。宇宙に行ったきりもう戻らないと思ってましたけど、あの執念深さですから。……そういえば、こんな方もいらっしゃいましたよ」

三人「?」


男「どれどれ。げっ! 『世話になった』柿崎憲!?」

少女「……やっぱり、一人で?」

乙姫「もちろん。わたくし思いますに、どれほどご多忙でも、リフレッシュするお時間はしっかり創出なさる、それができる男性の条件ではないかと」

アルベルト「まあ、有能には違いないだろうね。でも嫌な奴だったでしょ」

乙姫「とんでもない。物腰のやわらかい、とても気さくな紳士でした。『またよろしく』とおっしゃいましてね」

三人「ひえええええ」

アルベルト「次に来るとき、ここが無事だといいんだがな……」


従業員1「えー、皆様。こちらは少し昔にみえたお客様のものです」

男「さすがに色紙も古びていますね…… 『大儀 のぶ』織田信長」

乙姫「ずいぶんと落ち着かないようすの方でしたね。ろくに見物もせずお帰りになられて。なにがそんなにお忙しかったのか存じませんが」

少女「聖徳太子のもありますね。『和を以て貴しと為せ』」

乙姫「この方には丸一日お説教を聞かされました。政治をなさる方はその博覧強記といい、情熱、エネルギーといい、ほんとうに驚かされます」

アルベルト「遊ぶのだって徹夜ですよ。付き合わされて命ちぢめる奴の多いことといったら」

男「まるで自分が付き合わされでもしたみたいに」


少女「えーと、こっちは?」

従業員1「あ、まことに申しわけありません、その入口から先はご遠慮願っておりまして」

少女「そう? 残念」

乙姫「そうなんですよ。この先には西暦6世紀以前の色紙を所蔵しているのですが、お客様にはごらんいただけないのです」

男「それはなぜなのだろう」

乙姫「うーん、とにかく、そういう決まりでして。申しわけないのですが」

アルベルト「きっと邪馬台国の卑弥呼なんてのがあったりするんだろうね」

少女「アルベルトよしなさい」


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乙姫「さて皆様、当施設最大の呼び物は『マリンチューブ』と申します超高速遊覧列車でございます。ぜひ、お楽しみになっていただきたく!」

アルベルト「え? この前来たときはそんなのなかったなあ」

乙姫「まだ開業して半年なのですよ!」

乙姫「3カ所の停車場ごとに、列車に搭載した耐圧ポッドで海中遊覧をお楽しみいただく趣向となっております。日本の総理大臣もたいそうお気に召したご様子で、来年度予算に調査費を計上したいと」

従業員1「うぉっほん!」

乙姫「あ、失礼いたしました、今のはどうか聞かなかったことに。では皆様こちらへ」


─「マリンチューブ」発着場─


男「これは! 日本の新幹線など遠くおよばない、流線型のきわみ!」

少女「かっこいいですね」

乙姫「客車は1両だけ、あと4両は食堂車とポッド収納車などで、限られたお客様へのもてなしを最優先した構成になっておりますのよ」

男「見るからに速そうですね、姫」

乙姫「それはもう。鮫やマグロが10キロ泳ぐ間に地球を半周してしまいます」

アルベルト「俺は乗れるかな……」

乙姫「ご心配なく! どんなお客様にも対応できるよう、ゆったりめの車内空間を確保してございますので」

少女「さあ乗った乗った」

乙姫「それでは皆様、私はここで失礼いたします。想像を絶する海中遊覧のひとときを、ごゆっくりお楽しみください!」


ゾロゾロ



─客車内─

少女「普通のグリーン車とたいして変わらないね。姫は乗らないんだ」

乗務員1(ウツボ)「は、一応経営者でございますので。ご遊覧の後でまたお相手させていだだくでしょう」

男「乗れるには乗れたが、ホオジロザメにはちょっと窮屈だったかな」

アルベルト「なあに、ほかに客はいないし、4人掛けを一人で占領させてもらうさ」

車内放送(乙姫)「皆様、当竜宮城が世界に誇る『マリンチューブ』へようこそ! 当列車は海中の最大深度六千メートルまでお客様をご案内いたします、世界最速の弾丸列車でございます」

男「弾丸だって……」

車内放送「現時点では第一期区間のみの開業ということもございまして、いたらぬ点は多々あるかと思いますが、なにとぞご容赦たまわりたいとぞんじます」


男「ねえ、少女」

少女「なに、男。少し顔が青い」

男「あの、……ここでの支払いは、全面的に少女に依存してよいのだろうか」

少女「心配ない。男を永遠にただ働きさせる方向で姫と話が」

男「え」

少女「私はそのつもり」

男「悪い冗談と受け止めざるをえない」

少女「まあ、冗談と楽観した方が頭も禿げないでしょう」

男「むぅぅ。楽観が達観にならぬように」

アルベルト「動きだしたな」


ゴォ…ォォォォォォォーーーーーーーーーー


アルベルト「ほう。弾丸っていうだけあって、あっという間に竜宮が見えなくなった」

男「背もたれにフライヤが。なになに…… 第一停車場は深度六千メートルの海溝付近」

少女「そこをポッドで散策するのね」

アルベルト「ポッドは一人乗りだろ。どっちにしても俺は乗れないし、いくら俺でも深度六千メートルで泳いだら頭痛がするから遠慮しとくわ」

少女「じゃ、どうするの」

アルベルト「食堂車で飲んでるよ」


男「海溝の停車場って、竜宮からどれくらい離れてるのですか」

乗務員1「およそ五千キロでございます」

男「それはすごい! 工事はたいへんだったでしょう」

乗務員1「いえ、工事そのものはたいしたことはございません。それよりも水棲生物との間で海底収用の交渉が難航いたしました。交渉開始から着工まで三千二百年でございますよ」

男「魚だの貝だのが工事に反対するんですか?」

乗務員1「ものを言いこそしませんが、非常に哀しそうな表情をするのです。工事区間では一片の哀しみも残してはならない、それを当初から着工の要件としておりました」

少女「それだけ、乙姫様も熱意を傾けていらしたのでしょう」

乗務員1「さようでございます。今はまだ第一期にすぎませんのでね。今後の延伸のことを考えますと、計画区間の完工まであと1万年はかかると見込まれております」


アルベルト「これから先の収用じゃ人間相手の交渉もあり得るってんでしょ?」

乗務員1「はい…… あまり大きな声では申せませんが。姫も頭を痛めてるのです」

男「しかしたいへんなスピードでしょうに、信じられないような静けさですね」

乗務員1「騒音はもう、海の生物に大きな哀しみを与えますので。特に、個体間の通信を音響に頼っている鯨には致命的です。これだけの静粛性を実現するのに九百年かかってしまいました」

男「あ…… 少し速度を落としたようだ」


ピロリロリン


車内放送「皆様。まもなく第1停車場に到着いたします。海底散策においでの方は、3号車へお越しください」

アルベルト「もう五千キロ走ったの? たまげたねぇ」

少女「それでは、おとなしく待ってるのよ。飲みすぎないように」

アルベルト「はいはい。お気をつけて」


─3号車─


男「耐圧ポッドって…… これ?」

乗務員1「はい」

男「この白色といい、前面に丸い窓を設けた球形といい、……どう見ても1968年公開の某SF映画に登場する、宇宙空間での作業用ポッドでは」

少女「正面にマジックハンドみたいなアームまでついている」

乗務員1「それは作業用ですので、お客様が操作することはできません」

男「彫刻と絵画がゴテゴテと並んだどこかの洋室に飛ばされて、あっという間に老人になって、巨大な赤ん坊に転生する羽目にならないという保障は?」

乗務員1「姫があの映画をたいそう気に入って、このデザインになりましただけでして。格別ご心配には」

少女「知ってる人はこわがるのではないかしら」

男「やはり○○○9000とかいうコンピューターが遠隔操縦している?」

乗務員1「さあ、機種までは存じませんが、事故のないように先頭車の制御室からコントロールしておりますので、安心でございます」

男「……」


乗務員1「いちおう、ポッド内で前進後退と方向転換の操作はしていただけます。ただ、二つのポッドが接近しすぎたり、障害物に近づいたりしませんよう制御室から常時モニターしております。その点はご了承ください」

少女「ポッド同士で通話はできるの?」

乗務員1「もちろんでございます! いえ、とは申しましても盗み聞きなどいたしませんのでご心配なく」

男「唇を読まれないとも限らんのだが……」

少女「べつに聞かれて困るような話はしないし」

男「まぁ、それはもちろん、そうですよ」

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乗務員1「シートベルトはお締めになりましたか? 遊覧時間は30分。これを過ぎますと自動的に回収いたしますので、少々オーバーしても心配ございません。では、ごゆっくりお楽しみください」


プシュー

ゴボゴボ


僕と少女は別々の耐圧ポッドに乗り、深度六千メートルの海へ。


ポッドのなかは、例の映画の操縦席がそのまま再現されていた。
そして、まっくらやみしか見えない前面窓の下部に、細長いディスプレイが浮かび上がる。


[座席正面のレバーを前後左右に倒せばその方向に進みます]
[別のレバーでポッドが回転します]…… ふむ。
ディスプレイは2点の注意書きを10秒ほど表示して消えた。


かすかな音量でBGMが流れている。耳をすますと、やはりというべきか、ハチャトゥリアン「ガイーヌ」のアダージョ。たぶん姫の選曲だろう。


暗黒の深海で「美しく青きドナウ」も論外だが、これはこれで気が滅入りすぎる。
僕らを木星へでも追いやるつもりか。僕はひと苦労して操作パネルをさがし出し音源スイッチを切った。


右側の窓に、僕たちをここまで運んできた列車があわい光をはなって浮かんでいる。
停車場とか言いながら、それらしい施設など全く見あたらない。


ポッドは前進しつつ、さらに深く潜行しているらしい。流線型をした先頭車の下部が、窓のなかで次第に遠のいていく。


僕はレバーを操作してポッドを回転させ、正面の窓を先頭車の方向に向けた。
地球の重力に引っぱられ背もたれに押しつけられる僕の背中。
先頭車の下部に赤い光が点滅しているのを確認し、僕はポッドの向きを戻した。


ポッドのライトが不意に点灯した。もっとも光線は、まばらなマリンスノーのなかを直進するばかりでなにも見えはしない。


そういえば少女は。
かすかな不安が気持ち悪い汗になりはじめた瞬間を見すましたように、もう一体のポッドが光線のなかをよこぎっていく。


少女「男。私のあとについてきなさい」


クリアーな命令口調が天井のスピーカーから。


男「君はどこをめざしているのだ」

少女「左斜め上のパネルを。ここから300メートルほど先に断崖がある。ここで見るものと言ったら、それくらいでしょう」


左斜め上、左斜め上のパネル、と。……あった。
僕と少女のポッドは谷間のような場所を進む二つの白い点で表示されている。少女の言うとおり、大きな裂け目が前方に口をあけていた。


マリンスノーが次第に少なくなり、ほとんど止んだ。


分解された鯨の破片、愛らしい小動物の亡骸、悲嘆にくれる渚のばかものがはなった懸濁物。
それらいっさいが届かない、真の海底に僕たちはいる。


ライトの先に浮かび上がる少女のポッドは黙々と進む。それ以外は完全な闇。


パネルに表示されている地形は、窓の外にかげかたちも見えない。


少女のポッドがゆっくりと動きを止めた。その直下に、ぼんやりと地面が照らし出される。
2機の距離が縮まり、少女のライトの先にある地形の全体像が、僕の正面窓からも見分けられた。


崖っぷちにたたずむ少女の先に、大きく口をあける巨大な深淵。
「奈落」とはきっと、こんな場所を言うのかもしれない。


かすかに機体を下に向けて深淵をのぞき込む少女。それを、斜め後ろから見つめる僕。


僕のライトに照らしだされる白いポッドが、うつむき加減の少女その人に見えてくる。


僕はどうすべきなのか。
走りよって、「早まってはいけない」と抱きとめる状況…… でもなさそうだ。


ただ、僕には、ひとつ確かめなければならないことがある。
あえてその懸案を、ここで処理してしまうべきだろうか。



             少女よ。君はなぜ、



不意にスピーカーが音を立て、僕はびくりと体をふるわせた。


少女「この下になにかおもしろいものがあると思う?」

男「微妙な気がする」

少女「怖いの男」

男「いや、怖くはないが」

少女「声におびえが」

男「それはたぶん君の気のせい、いやいや、BGMがかもし出す、特殊な雰囲気に起因するのかも」


少女の声にまじって「ガイーヌ」のアダージョが聞こえる。彼女がこの悪趣味をさほど苦にしていないのは意外だった。


少女のポッドがゆっくりと回転し、まっくろな窓──その奥に少女その人がいるはずの窓──が僕の正面を向いた。


男「崖の下には行かないの?」

少女「つまらなそうだし。男も微妙と判断しているのでしょう」

男「まあね」

少女「フライヤによると、次の停車場はグレートバリアリーフだって。見た?」

男「らしいね。海中最大のリゾートを標榜するわりには平凡だ」

少女「たしかに。でも最後の停車場、いったいなに」

男「うむ。『???』とはなんのことだろう」

少女「きっとミステリーツアー的趣向。ゆえに男。『二人だけの沈黙の世界』に胸を締めつけられる気持ちは理解できるが、告白は最終スポットまで思いとどまるべきだと」

男「」


少女「深淵をのぞきこむ私に、あふれる胸のうちを吐露したい衝動を抑えかねていた。これはほぼ間違いない」

男「ほぼ、……ですか」

少女「戻りましょう。アルベルトが酔いつぶれる前に。こんどはあなたが前」

男「了解。自動的に回収するって言ってたから迷子にはならないと思うが」

少女「なにをまた、興ざめな。男なら前をゆく背中を女性に見せつけなさい」

男「こんな背中でよければ」


タイマーに目を移すと、残り時間は5分と表示されている。30分などあっという間だ。

僕はポッドをUターンさせ、出発点と思われる場所をめざした。少女に教えられたパネルを見ると、列車の停車している位置が赤く点滅している。


これならば迷子になる心配はあるまい。
僕は安心しきって操作レバーを思いきり前に倒し、急発進する愚をおかした。


たちまち、闇のなかから眼前に迫る海中断崖。しかし遠隔操縦のありがたさ、僕のポッドはゆるやかに弧を描いて回避した。
そして予想にたがわず、スピーカーから哄笑が炸裂する。


少女「なにをやってるの。私たちの間柄が急激に親密さを増したかのような、その破天荒なはしゃぎようは」

男「だまっててくれたまえ」


危機一髪。

先頭車の○○○9000は映画のそれとちがい、誠実かつおだやかな性格とみえる。
おかげで命拾いをした。


とはいえ、某SF映画での重厚な機体にふさわしからぬ、軽妙極まるアクションを披露してしまった僕。背後から目にすれば、相応の余興だったのだろう。

少女の視点で自分の動きを脳内に再生すれば、自然に口元がゆるんでしまわざるを得ない。残念ながら。


僕はポッド内の孤独をいいことに、ゆるんだ口元を放置し、機体の制御を先頭車にゆだねた。
列車のあわい照明が視界に入る。BGMの音源スイッチを入れてみると、やはり…… R・シュトラウスの「ツァラトゥストラはかく語りき」。


僕は音量をそのままにして、後ろのポッドに話しかけた。


男「今、何時だろうか。渚で波をかぶったとき腕時計が止まってしまって」

少女「時計は持ってきてないから分からない」

男「へたをすると浦島太郎だが。それは気にならないと」

少女「私より地上を取るなら、それは男が好きなようにすればいい」


帰りたければ帰れ。ふむ。たとえ追い払われようと、僕は少女を残してここを離れたりはしない。


少女「列車を下りたら姫に話して、帰りの便を用意させてもよいのだが」

男「君を残して帰れというのか」


返事はなかった。


「ツァラトゥストラ」の大ファンファーレが鳴り響くなか、僕と少女のポッドは自動制御の下、3号車に収容された。


─食堂車─


アルベルト「お帰り。どうだった」

少女「まあまあ。ムード的には悪くないが、30分間のデートで結果を出すにはそれなりのスキルが求められると知った」

男「僕の力不足だ。なに飲んでるの」

アルベルト「SEX ON THE BEACH。もう5杯飲んじまった」

男「成果を挙げられなかったカップルへのなんというストレートな当てつけ」

アルベルト「いや、オマジナイだよ」

少女「今、成果を挙げられなかったナントカって言わなかった?」


アルベルト「嬢、男がしょげてるじゃねえか、かわいそうだろ」

少女「いいや、見た目ほどはしょげていないと断言する。私はジンジャエール辛口」

男「僕もそれでいい」

アルベルト「いいかげん、ビーチでのホニャララも飽きた。グレンフィディックをロックで」

少女「いいわね、お酒飲めるって。私も早く飲めるようになりたい」

アルベルト「未成年がぜいたく言うんじゃねえよ。自分が宝の山に埋まってるのが分かってねえな」

男「おい鮫、失礼だぞ! 今の発言は取り消したまえ」

アルベルト「なんだとこのガキ!」


少女「よしなさい! あなたちょっと飲みすぎ」

アルベルト「なに? これっぽっちの酒でか?」

少女「男、意味もなくアルベルトに食ってかかったあなたが悪い。よって、グレンフィディック18年のストレートを、一気飲みせよと命ずる」

アルベルト「おい嬢…… こんなガキにはもったいない酒だぜ」

少女「私が払うから大丈夫。男、受けて立つ? 逃げる?」

男「逃げたりはしない。さあ、グラスを僕の前へ!」

乗務員2(マグロ、厨房担当)「よろしいん…… ですね?」

アルベルト「うへぇ、グラス一杯になみなみと。はぁ…… もったいねえ」

男「これか。見ていたまえ」


ガブガブ


男「」バタッ


少女「おい男、男!」

アルベルト「しーらないっと」

男「ううう……」

アルベルト「生きてるじゃねえか。そこに座らせて、動かさねえように」

乗務員2「私はなにも見なかったことにしておきます。はいお水」

少女「ありがとう。男、水を飲んで」

アルベルト「だめだよ、ほっときな。大丈夫、これくらいじゃ死にゃしねえよ」

少女「ほんとに、世話ばかり焼かせる」

アルベルト「なぁに、世話のひとつも焼かせねえで男かっての。今に嬢にも分からあな。お?」

少女「なに?」


アルベルト「原潜が接近中。後方約2万メートル」

乗務員2「よくお分かりですね」

アルベルト「そのためのロレンチーニ器官よ。……あ。魚雷発射した。4発」

車内放送「メーデーメーデー! 魚雷が接近中!」

少女「ちょ、なんでよ!」

アルベルト「潜水艦だから魚雷撃たねえとカッコつかねえと思ったんだろ」

少女「理由になってない」

アルベルト「そうか? しかしまずいね、どんどん近づいてるよ」

乗務員2「今、速度を上げています。最高速度を出せばあるいは」

アルベルト「最近の魚雷は速いぜ。逃げ切れるかね」

少女「嫌だ死にたくない……」



ドォーン


車内放送「本列車は迎撃魚雷を発射!」

アルベルト「なかなか気の利いたもの装備してるんだね。ウイスキーお代わり」

少女「それどころじゃないでしょ!」

男「う”~」


ズズゥーーン


少女「わっ!」

アルベルト「けっこう揺れたな。でも酒は…… 一滴もこぼさない」


車内放送「皆様。本列車を狙った魚雷はすべて破壊されました、ご安心ください」

車内放送「改めて申し上げますと、このイベントはアトラクションであり危険を伴うものではございませんが、深海戦の緊迫感を皆様にご堪能していただくため、事前の案内は控えさせていただきました。なにとぞ、ご理解たまわりたいと存じます」

アルベルト「ぎゃはははは!」



少女「最っ低。全然ご理解たまわれないんですけど」

男「う"ー。……なんかあったの?」

アルベルト「ひぃぃ~~、笑いすぎて腹いてぇ」

少女「なんという悪趣味のきわみ。マジで寿命ちぢんだ。帰ったら引き出しの中の書きかけの恋文を処分しておかねば」

男「!」

アルベルト「しかしよ乗務員、さっきの原潜本物だよな? 魚雷も偽物じゃないみたいだし。これいったいどういう仕組みなの」

乗務員2「私にはなんとも……」

アルベルト「間違って命中したらどうするつもり?」

乗務員2「……実は某国政府との特別提携による企画なのです。たぶん、魚雷も実弾ではないはずで」

アルベルト「『たぶん』て、あんた…… それに、故障かなにかで迎撃魚雷が発射できないこともあるんじゃないの」

乗務員2「かないませんなぁ……」


少女「それくらいにしてあげたら? でも、この趣向は再検討していただくよう強く要請します。小さいお子さんや妊娠中の女性でも乗ってたらどうするんですか」

乗務員2「分かりました、お客様の声として今後の運営に反映させていただきます。……VIPの方々にはおおむね好評だったんですがねぇ……」

少女「世の中にはいろいろな人がいますから! 男、気分は?」

男「うう…… 酒という飲み物をありがたがる気持ちは、まだ僕には理解できない」

アルベルト「そう、10年早い」

男「君の、ホオジロザメとしての経験と苦悩の蓄積に、一端なりとも触れたかったのだが」

アルベルト「そう簡単に触れられるもんじゃねえのさ」

少女「? なにその、唐突な渋さは。鮫でなかったら惚れる」

男「ぐぬぬ」


アルベルト「しかしよ乗務員。潜水艦てのは男の生きざまそのものだよな? だれにも関心をはらわれることなく、闇の中をじっと孤独に潜行し、ぎりぎりの、ぎりぎりまで我慢して、一気に発射する。この快感。男そのものだぜ」

乗務員2「まさに発射するんですよ!」

アルベルト「そうよ。潜水艦の乗組員なんてのは、この一瞬の快感のために生きてんだと思うわ。違うものを発射しちまう奴だって……」

乗務員2「女に分かってたまるかってんでさ!」

アルベルト「なんだと…… おまえ分かってんじゃねえか。まあ飲めよ……」ドボドボ



・・・・・



そうだ。



俺は鮫になる前、潜水艦に乗っていた。太平洋を舞台にした戦争も終わりに近づいていた頃だ。


勝てる見込みはもうなくなってたから、遠からず艦と運命を共にするのを覚悟してた。
暑苦しい艦内に閉じ込められたまま、海の底に沈む。飛行機乗りみたいな華々しさとは無縁だが、これも潜水艦を選んだ者のさだめだ。


自分の最期を何度も何度も想像した。「結構、これが俺の死にざまだ」と納得がいくまでな。


そんなある日のこと。俺の艦に妙な客が来た。

陸軍少佐の身なりで参謀飾を光らせたそいつは、もう滅多に見かけなくなってた飛行艇でやってきて、ボートから乗艦するや、乗員全員を甲板に並ばせた。
そして、俺たちの度肝を抜くようなことをしゃべりだしたのさ。


「もううすうす気づいとると思うが、勝てん。この戦争では負けた」

「ところが現実問題として、われわれは戦を続けとる。負けたなら戦を続ける必要はないと、だれもが思うだろう。ところが、そうではない」

「戦争当事国として、負けたにしても、綺麗に終わらせなきゃならん義務があるのだ。後世に禍いを残さんようにな」

「これだけの戦をやらかすと、いろいろと途方もない禍いの芽が生まれてくる。こいつを刈り取るのも、武人の務めだ。おまえたちはこれから、その任務にあたってもらう」


参謀殿の話は続いた。
俺たちの任務──それは、秘密兵器を運ぶ敵の巡洋艦を、目的地に到達する前に捕捉して積み荷ごと撃沈せよということだった。

これほど重大な話をどうして俺たちみたいな下っぱにまで聞かせたのか、理由は分からない。参謀殿は最後にこうつけ加えた。


「『この戦争では負けた』と言ったが、百年先、二百年先に全世界の利益となるなにごとかをわれわれが成し遂げたのなら、それは疑いもなくわれわれの勝利である。4年間の戦闘で負けたのであっても、悠久の尺度において勝利を達成する、これこそまさしく、われわれが今も戦陣にある理由である。この点を肝に命じよ」


俺の艦はそれから10日間、その巡洋艦を探し回った。航空基地のある島に着いて秘密兵器とやらが引き渡されてしまったら万事休すだ。目標以外の敵艦は全部無視し、危険は極力回避した。


戦艦とか空母とか『大物』を狙いたいなんていう奴がいなかったのは、今思うと不思議でしかたない。
目標は一つ。みごとに全員が意思統一されていた。


しかし…… 獲物の巡洋艦は見つからない。焦りが深まるうちに、たまたま遭遇した別の潜水艦が魚雷で仕留めたという知らせが入った。もちろん、その潜水艦に事情はいっさい知らされてなかったはずだ。

手柄をさらわれた俺たちは地団駄を踏んだが、肝心の秘密兵器がどうなったのか…… それが分かったのは1週間後。


秘密兵器は2カ所に投下されて何十万もの人が死んだ。巡洋艦が撃沈されたのは荷運びを終えた後だったってわけだ。それから何日もしないうちに終戦。


俺たちは戦争で負け、「悠久の尺度」でも敗れた。


母港へ帰投する途中、俺たちの艦は戦勝国の駆逐艦に囲まれ、爆雷の波状攻撃を受けて撃沈された。乗員全員が艦と運命を共にした。
おそらくこの記録は戦史から抹消されてるだろう。


潜水艦乗組員としての俺の死は、たいした苦しみもなく、あっさりとやってきた。それはそれでありがたいことだった。


俺が鮫になったのはなぜなんだろう。
秘密兵器を運ぶ途中の敵艦を見つけられなかった恨みが、鮫のかたちになったのか。
そうやって永遠に、ありもしない目標を探し回りたかったのか。


よく分からない。


でも、鮫になった今でさえときどき考える。
あれの投下を俺たちが防いでいたら、人間の世界はどう変わっただろうと。


なんだってこんな話をしちまったんだ。やっぱり酔ってるのか。
まあいいや。グレンフィディックをもう一杯くれ。


・・・・・


・・・・・


アルベルト「嬢どうした。なぜそんな目で俺を見つめる」

少女「あなたの、その瞳の奥にあるものを、のぞいてみたくなったの」

男(なに? この雰囲気は……! もしかして!?)

少女「目をそらさないで。私だけを見て」

アルベルト「嬢、悪ふざけが過ぎやしねぇか」

少女「ふざけてなんかいない」

男「少女、君はどうかしている。君の目の前にいるのはたんなる軟骨魚類、人食い鮫にすぎない!」

少女「渚の[ピー]男がまきちらす騒音に耳を貸さないで。すでにここは、私たちだけの世界。あなたが、私の心を奪ってしまったのだから」

男「少女それは! 気のせいだと」


アルベルト「嬢」

少女「アルベルト!」

男「ああついに、僕の目の前で二人の、いや正確に言えば一人と一匹の唇が重ねられてしまい、……」

少女「ん…… はぁっ…… これが、大人のキス…… そして? 私の目の前にいるのは? はっ! 眉目秀麗な、まぎれもない人間の青年!」

アルベルト「そう。私は某国のアルベルト王子。父王の命令で諸国遍歴の旅をしている途中、悪辣な魔術師によってホオジロザメに姿を変えられてしまったのだ」

アルベルト「そして、真に愛する者のキスだけが、私にかけられた呪いを解く方法だった。少女。君の愛で、私は救われた」

少女「アルベルト!」


アルベルト「少女! 君を愛してる!」

少女「私も! これから真の幸せを手に入れましょう!」

アルベルト「君と二人で、かならず!」

男「」


アルベルト「男。君のおかげで、私は少女に出会うことができた。ありがとう、これからも変わらぬ友情を約束してくれたまえ」

男「うわぁぁぁぁぁぁん、そんなのいやだあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!」



・・・・・


男「いやだあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」

少女&アルベルト「」

男「夢?……」

アルベルト「急に意識失ったと思ったら大声でわめきだしやがって。次の遊覧はやめとくか?」

男「ああ、やはり鮫だヨカッター、それにしてもなんという夢。疲れたのだろうか」

少女「アルベルトが言うように休んではどう?」

男「いや、結構。おかげで酔いもさめた、と思う。しかし…… 鮫が潜水艦乗組員だったり魔術師に呪いをかけられた王子だったり。なんという波瀾万丈」

アルベルト「王子か。いい酒くらっただけあって夢も豪勢だな」


>>77
「肝に命じよ」→「肝に銘じよ」



ピロリロリン


車内放送「皆様。当列車はまもなくグレートバリアリーフの第2停車場へ到着いたします。海中遊覧においでの方は3号車へお越しください」

少女「どうする男」

男「なに、もう平気さ。しかし…… やはりポッドで遊覧するしかないのだろうか」

少女「たしかに泳いだほうが楽しそう、場所が場所だけに。水着持ってないけど」

アルベルト「俺も酔い覚ましにひと泳ぎするか」

少女「え…… あなた世界有数のダイビングスポットを、恐怖のどん底にたたき込むつもり?」

乗務員2「心配ございませんよ。今どきのダイバーは慣れたものです」

男「泥酔した人食い鮫、南海の楽園に現る。これは安全なポッド内から見物せずにはいられない」


─3号車─


乗務員1「えー、皆様。ここではポッド背面にこれを貼りつけていただきます」

少女「これは、国際的なダイビング組織のステッカー」

乗務員1「ええ、当施設と提携しているのです。これを貼っておけば、怪しまれることもないというわけでして」

男「まぁ、たしかにこのままでは怪しすぎる物体だ」

乗務員1「あ、オープンで泳がれる方は、これを装着なさってはいかがです」

アルベルト「なにこれ?」

乗務員1「ポッドと通話できる小型マイクです。スイッチは舌で操作できますから」


プシュー

ゴボゴボ


少女「わ…… すごい。これは泳いだ方がだんぜんいいじゃない」

男「たしかにそうだ」

少女「アルベルトが泳いでるよ。まだ酔ってるみたい」

男「こうして離れてみると、やはりホオジロザメの風格には圧倒されざるを得ない。……おや、ダイバーたちが。それも怖れる様子がぜんぜんない!」

ダイバー1「Oh!」

ダイバー2「Ah!」

ダイバー3「It’s a great white shark!」

ダイバー2「Great!」

ダイバー1「Fantastic!」


少女「みんな写真撮ってる。……大丈夫かしら、アルベルト酔ってるのに」

男「あーあ…… やっぱり襲いかかって。ダイバーたち逃げてったよ」

少女「アルベルトいたずらしないの。駆除されても責任取れない」

アルベルト「いやースッキリしたぜ。SEX ON THE BEACHのせいで頭痛かったのが吹っ飛んだわ」


バシャーン


男「ありゃま…… ブリーチングまでやってる」

少女「しょうがないの。目立ちたがり屋だから」

男「また飛び跳ねて…… ? どうしたんだろ。動かなくなった」

少女「鮫は泳がないと沈んじゃうのに。どうしたの?」


男「笑ってるよ!」

アルベルト「いや。ここで見てるから、そのへん走り回っててくれない?」

男「どうして」

アルベルト「どうしてって…… 想像してみろよ。その気色悪いポッドで、この海の楽園を徘徊してる自分たちをよ!」

少女「え…… たしかに…… 可笑しい」

アルベルト「な?」


僕はBGMのスイッチを入れた。聞こえてきたのは、……J・シュトラウスの「美しく青きドナウ」。ここまで予想がはずれたことはない。


そうだ。

僕たちはこの海の楽園に、暗黒の宇宙の違和感を振りまくためにやってきたのだ。
僕らが鮫の見世物になっている状況も、なぜかそれほど悪い気がしない。


アルベルト「すっかりなじんでるよ、いやー、見てて飽きねえなあんたら。Fantastic!」

少女「ちょ、アルベルトやめてったら…… 男、そこ泳いでるナポレオンフィッシュと並走してみて」

男「こうか?」

アルベルト「すげえ絵になるぜ!」

少女「魚が逃げない。男はきっと人間より魚に愛される」

男「なんとでも言いたまえ」


これも姫の意図だったのだろうか。
宇宙空間を活動の場としていた、人類のおごりの象徴ともいえるこの白い機体を、あでやかなサンゴの密生する楽園で笑いものにする。でも、そこに悪意は感じられない。

海藻が、魚礁となった船を覆い尽くしていくのは悪意でないのと同じように。


少女「ダイバーたちが戻ってきたね」

男「げんきんなものだな」


少女のポッドが、テーブルサンゴの上にたたずむ鮫の鼻先に来て止まった。

鮫と向かい合う少女。スピーカーからはなにも聞こえない。
僕をのけ者にして、二人だけでなにごとかささやき合っている。
ふたたび先刻の夢の中に引きずり戻された気がして、嫉妬で軽く胸が灼けた。


その向こうでは、見つめ合う鮫とポッドに向けてダイバーたちがさかんにカメラのシャッターを切っている。
きっと、種を超えた対話とでもいうべきのどかな情景と見たのだろう。

小さめのフォトフレームに入れて職場のデスクに飾るにはもってこいかもしれない。


写真を撮り終えたダイバーたちが引き揚げていく。それでも少女と鮫は見つめ合ったまま。
僕は我慢の限界に達し、通話スイッチを入れた。


男「もし。きょうの夕食のメニューは男の丸焼きにでもしようという相談?」

少女「いいえ、まだ食べる頃合いでないという見解で一致したので」

男「それは申し訳ないね。さてと、もう25分たったよ」

アルベルト「まあ、そのくらいな体感がある」

少女「男のむゎる焼きヶヶヶ」

男「君の人格に若干の下品さが加わったような。鮫に人格を浸食されているのでは」

少女「心配にはおよばない。あー、お腹すいた」


BGMはチャイコフスキーの「花のワルツ」。

僕が「ドナウ」とこの曲を区別できるようになったのはごく最近のことだ。
中央に鮫を挟んだ左右対称の編隊を組み、われわれは3号車へ引き返した。


─再び食堂車─


少女「さぁーて。ランチなのかディナーなのかよく分かんないけど、とにかくメニュー」

乗務員2「どうぞ」

少女「どーれ。あれ? 期待してたのにシーフード系ってぜんぜんないじゃない?」

乗務員2「まぁ、そのあたりはなにぶんお察し願いたいと。強いて言えばこちらの、『ストーンクラブの爪』などはいかがでしょう」

少女「マイアミビーチに専門のお店があるやつ?」

乗務員2「ええ」

少女「それでいいや。山盛りで持ってきて」

男「僕もそれをもらおう」

アルベルト「俺も。それからビール」

少女「あとね…… この、ペキンダックとローストビーフ」


男「蟹の爪だけなんで例外なの?」

乗務員2「爪だけもらって、また生えてくるのを待つのですよ。これなら命まで取らないっていう言い訳になりますし」

少女「いろいろめんどくさいんだね」

アルベルト「俺はどっちでもかまわん。アザラシを丸呑みにするわけでもなし」

──────────────────────────────


乗務員2「お待ちどうさまでした~」

少女「きたきた! おいしそう」



シーン


男「さすがに蟹だけあって、この静粛効果はすごい」

アルベルト「……やっぱりだめだ。嬢、殻むいてくれ」

少女「あなたまでまじめに殻をむかなくてもいいのに」

アルベルト「ふだん蟹なんて食わねえからな。こういう食い方もあるかと思ってよ」

男「さて。最後の停車場は『???』だけど乗務員さん、なにがあるの」

乗務員2「遠隔操縦で現地に行っていただき、そこで機内スピーカーよりお知らせいたします」

少女「ずいぶんと気を持たせるのね」

アルベルト「これでつまんなかったら…… 最後だけに致命的だぜ。さっきの魚雷戦のこともあるし」

乗務員2「いいえ、これまでのお客様にはもれなくご好評をいただいております」

アルベルト「どんなふうに?」


乗務員2「たとえば…… 『人生が変わった』『心に信仰のともしびが灯った』『おお、偉大なるかな神よ!』といったところですか」

男「なんだか、とんでもないものが待ちかまえてそうだ」

少女「聞いただけでお腹いっぱいって感じ」

男「そういえばよく食べた」

アルベルト「俺は少し眠くなった。あとどれくらい?」

乗務員2「50分ほどで到着いたします」

アルベルト「じゃあ俺は客車でひと眠りしてくらぁ。嬢、着いたら起こして」


少女「おやすみ。……男。アルベルトが気を使ったなんて、思ってないよね」

男「思ってない。僕は、彼が苦手のようだ。粗暴で、皮肉屋で」

少女「皮肉屋はともかく、粗暴さでホオジロザメを責めてもしかたないと思う」

男「だよね。でも…… どうも僕には、彼が高みから見下ろして腹のうちで笑ってるように思えて」

少女「それは男のひがみではないの」

男「きっとそうなんだろう。彼に比べたら僕はとてつもなく無力で、頭もよくないから」

少女「よしなさい」


……


男「? どうしたのだ少女」

少女「別に。男の顔にさわっただけ」


男「さわってなにを。どんな意味がその行動に」

少女「さわりたかったの。それ以上の意味など。それ以上なにを語る必要が?」

男「……」

少女「男あなた眠そう。アルベルトと一緒に寝る?」

男「鮫と同衾しろと」

少女「そうは言わない。なら、そこのソファで横になれば? 乗務員さん毛布あるかしら」

乗務員2「これをどうぞ」つ毛布

男「ありがとう…… じゃあ少女、なにかあったら呼んで」


僕は窓際のソファで毛布にくるまった。


透明なチューブのなかを疾走する列車はふたたび深海に下り、窓の外はいちめんの闇に戻っていた。


闇に塗りつぶされた窓に映る、少女の背中。

カウンターで少女が乗務員と談笑しているらしいのは、ときおり少女の笑い声が届くのでそれと知れる程度。会話の内容はまるで分からない。

少女の頭──窓に映る影──がときおり左右に動く。でも後ろを振り返って僕に熱い視線をそそぐ兆しはない。


少女によってこの深海に連れてこられた、僕という存在。
ここまで来て、僕はいったいなにになったのだろう。


地上の呪縛を、いかほどにでも解きはなつことができたのか。


例によって僕のひとり合点なのか。それならそれでかまわないとも思う。


では、病を治療する強固な意志があるのか。
僕は自問し、たちどころに「間違いない」という谺(こだま)を受け取る。

しかしその谺は、……僕の魂の奥底から発せられているとはいいがたい。


これが魂の奥底から発せられているのなら。

最後の停車場で異界の兵卒に拘束され、人肉ソーセージに加工される運命が待ちかまえているとしても、僕は従容として受け入れるような気がする。


どうして自分の名を、僕は欲しないのか。
なぜ「男」という、きわめて一般的な自己を、唯々諾々と受け入れているのか。


僕は寝そべったまま、視点を少女に移し替えてみる。
そして視野にあらわれる、一匹の怪物。
ため息をつけば一気に視点は元に戻り、目に映るのは、少女の背中に浮かび上がる、ほどよい肉付きに包まれた骨格。


きっと今も、僕の病は活動を続けているのだ。
少女が名を取り戻すのをあくまでも阻止し、僕ともども、混沌のなかへ呑み込もうというのだろう。

そしてあの鮫も?


意識が夢と現実の境をさまよい、いくらか眠りに落ちたらしいと知る。列車がゆっくりとスピードを落としている。


車内放送「皆様。当列車はまもなく第3停車場へ到着いたします。海中遊覧においでの方は3号車へお越しください。どんな場所かは着いてからの、お・た・の・し・み!」


アルベルト「お・た・の・し・み! っときたか。君たちのお楽しみは済んだかな?」

少女「私は別に。起こしに行かなくてもよかったの?」

アルベルト「呼ばれたような気がしてな」

少女「それは不思議。男はそこのソファで…… お楽しみにふけってるかどうかは」

男「僕は別になにも…… 鮫、君も行くのか」

アルベルト「行くとも。ひと泳ぎしてからのビールが美味いんだよ」

少女「大人の世界はいかに美味いビールを飲むかで回っているの、男」

アルベルト「全部それで回っているみてえな言い方だな」

少女「ほとんどはそうでしょ。男、ビールはだめよ」

男「アルコールはもうたくさん。では行きますか」


プシュー

ゴボゴボ


─第3停車場。前から男、少女、鮫の一列縦隊で出発─


男「深度40メートル。ただ一面の砂地。こんなところになにがあるのだ」

少女「あと600メートルくらい先で、少し深くなってるみたいだけど」

男「操縦レバーも利かない。完全な自動操縦だ」

少女「なんだか気味が悪い」

男「不測の事態でもあれば鮫が活躍してくれるのでは」

アルベルト「当てにすんな。だれだってわが身が一番大事だろ」


─────────────────────────────────


男「ここか……傾斜になっている場所は」

少女「まっすぐ下降していく…… まるで大きなお鍋の底みたい」

男「なんだろう? モニターに妙なものが!」

少女「え? あれは…… 華道で使う剣山を、器の底に置いたような」

男「あんな地形ってあるんだろうか……」

少女「アルベルト、ご自慢のロレンチーニ器官でなにか分かる?」

アルベルト「いいや。妙にデコボコした地形らしいが。少なくとも生き物じゃねえな」

僕たちは、モニター上に剣山のような多数の突起物が表示されている場所へまっすぐ進んでいった。
その場所は、鍋底状の地形からさらに一段深く落ち込んでいて、突起物は最深部から海面を突くかたちで不規則に並んでいる。

やがてポッドのライトが、その全貌をうっすらと照らし出した。


それは明らかに人工の建造物だった。
林立する無数の巨大な尖塔。


自動操縦のポッド2機と、それに導かれる一匹の鮫は、屹立する尖塔群の間へと分け入った。


円錐状の尖塔は、大きいもので根元の直径が30メートルほどもあり、その外壁はなだらかなカーブを描きつつ海面の方向へ絞り込まれている。
高さはまちまちで、切り取られたような平面状のてっぺんが見えるものもあった。

さほど浸食されているとも思えない石の外壁が、光線に照らし出されては後方へ消えていった。


さしずめ「幻の海中帝国」とでも銘打ち、第一期区間の呼び物にともくろんだのだろう。
いずれにしても、相当の工費をつぎ込んだに違いない。


ここでようやく、スピーカーから案内が流れた。


乙姫(スピーカー)「皆様。マリンチューブ最後の遊覧地点へようこそ。今皆様がおられますのは、一万二千年前に海中に没した古代文明の中枢部分でございます」

乙姫「この古代帝国で人々は、平和で、この上もなく幸福な生活を送っていました。しかし、幸福は嫉妬を招くものなのでしょう。おそろしい天変地異──大地震と火山噴火──がある日、一度にこの幸福な文明を襲ったのです」

乙姫「人々がその上で日々の生活を楽しんでいた大地は裂けて溶岩に覆われ、さらには内陸の奥深くまで津波が押し寄せました。人々は自分たちの信じる神の名をひたすら唱えたことでしょう。しかし、祈りは届きませんでした」

乙姫「最後の大地震と噴火によって大地はことごとく海中に没し、古代文明人は、災厄で命を落とした者も生き残った者もすべて、海に呑み込まれました。帝国の周縁部にいたわずかな未開の人々だけは生きながらえましたが、このおそろしい出来事を記憶するのは神を冒涜するふるまいだとして、記憶から消し去ったのです」

乙姫「そのため、古代帝国に関する一切の記録も記憶も、こんにちまで残っていないのです。わたくしどもは路線予定地の調査でこの遺跡を発見し、多くの史料を手にいたしました」

乙姫「史料や遺物はいまだ解析途上ではございますが、これまでに解明できたものをベースに、古代文明人の記憶を再構成いたしました、それをこれから皆様にご紹介いたします」


BGMが始まった。なに? 「白い恋人たち」だと?



http://www.youtube.com/watch?v=5XCaNP0CRRA



僕はBGMを切ろうと、反射的にスイッチに手を伸ばした。


なんたる発想の俗悪さ。
やはりあれは、乙姫を騙る温泉旅館の女将かなにかではあるまいか。


でなければ、脂ぎったオーナーから表向きの経営を任された愛人。
地上世界の現実の前では、どんな神秘も不毛の砂漠に還元されてしまう。


とはいえ、音声の解説は聞かぬわけにはいかない。
いまいましさをこらえ、僕はスキー場の古めかしいBGMを流れるままにしておいた。


建造物群の随所に照明が灯った。これはこれで、遊覧客へのゆきとどいた配慮と評価したい。


乙姫「建造物群の保存状態は、古代文明人のおどろくべき技術力を証明するものと言ってよろしいかと存じます」

乙姫「さて、右手に見えてまいります広場がご覧になれますでしょうか。これは古代文明人の集会場跡でございます」

乙姫「人々はここで、政治や教育、福祉などの問題を話し合い、代議機関へ提言を行ったのでした。しかし、当初行われていた真剣な討論も次第にゆるみがちとなり、遂には老人たちの娯楽の場と成り果てたと考えられております」

乙姫「終末が訪れたとき、人々は悔恨の言葉をここに記しました。いかに自分たちが自然の恵みに甘え、みずからを省みる習慣を放棄していたか。その碑文を、各国語の対訳を付してここに展示してございます」


ループする「白い恋人たち」。
姫の説明が中断したのを機に、僕はBGMのスイッチを切った。そしてポッドは、広場の奥にそそり立つ石碑へと進む。

高さ7メートルほどもある半円形の石碑の前に、僕と少女、鮫は並んだ。



[私たちには十分な時間があった]

[なにの、動かなかった。まるで縛られていたかのように]

[心は悔恨にとざされている。なのに私たちの体は、逃れようとすることさえ拒む]

[幸福であると思っていた間、私たちの体を、哀しみが腐らせてしまったのか]

[答えは与えられないのか]


[神よ]

[あなたの恩義に、どれほど感謝を捧げても足りるとは思わない]

[その報いがこれなのか]

[火の雨を避けるのに手を上げるのもものうく、萎えた足は大波を逃れられない]

[でも私たちは言おう]

[あなたを恨まない。最後まで、あなたの慈しみに感謝を捧げる]

[私たちが去った後も、あなたの世界が光に包まれんことを]

[世界に残る人がいるならば]

[彼らが幸福であらんことを]


乙姫「皆様。ただ今より、操縦レバーのロックを解除いたします」

男「? 音源スイッチ切ったはずなのに」

乙姫「遺跡の内部は案内板に従ってご遊覧いただけますので、ごゆっくりお楽しみください」

アルベルト「おい」

男「なに」

アルベルト「石碑の奥に、建物内部への入口がある。あそこに入ってみようや」

男「おい君…… あ、行っちゃったよ」

少女「これはめずらしい。アルベルトが興味津々」


男「しかし…… 一万二千年前とは思えないほど傷みが少ない。建造物の外観を維持しているのさえ驚異だというのに」

少女「さっき案内板を見た。ここはゆるやかな地滑りで海中に没したので、天災による損傷は比較的軽微だったと」

男「それにしても。長い年月にも耐える、これだけ巨大な石組みを築き上げる技術。それが丸ごと失われてしまったというのか……」

少女「アルベルトが暗い通路を迷う様子もなく、まっすぐ進んでいく…… 大丈夫? 迷子になっても知らないわよ」

アルベルト「だれに向かって言ってんだ。俺は鮫だぜ」

男「まるで前に来たことがあるみたいに。まあ、ついて行こう」



アルベルト「ここだ……」

少女「出口と思ったら…… 急に前が開けて」

男「丘の上に、なんだろう? 円柱に囲まれたあれは…… 神殿のようだが」

少女「石でできた神社みたいな構えね」

男「鮫が丘を上がっていく、行こう」

少女「アルベルトどうしたの? なにかに引き寄せられるみたいに!」


─神殿内。祭壇の間─


アルベルト「ここを探してたんだ。見ろよ嬢」

少女「え。祭壇の壁に鮫の浮き彫りが? そして…… 丸い穴」

アルベルト「そうなのさ。俺は神なんだよ。つうか、ここの神だったんだ」

男「気はたしかか鮫。まだ酔ってるんじゃないのか」

アルベルト「いいや。俺はあの穴に入る。そして神になる。お前たちとはここでお別れだ」

男「え」

少女「な、なにを言い出すの!」

アルベルト「帰りの足は心配ねえよ。姫が替わりを手配してくれるだろ。だが俺はここに残らなきゃならねえから失礼するわ」

少女「そんな! なにその、全っ然予想外の展開は!」

男「まったくだ、気をたしかに持ちたまえ鮫!」


アルベルト「まったく…… お前に言われるとは思わなかったよ。だがな、こりゃしかたねえんだ。俺でさえたった今まで予想もしてなかったんだから」

少女「くっ…… 秘密めかしておいて、こんなトラップが仕込んであるとは!」

アルベルト「いや、そんなたちの悪いもんじゃねえ、分かってくれ嬢。俺は今までずっと、この場所を探し続けてさまよってた。これで…… やっとひと息つける」

少女「いやだ…… なんでよ…… ここでお別れ? どうして? どういうこと?」

男「……」

アルベルト「泣かないでくれ。俺も嬢と別れるのがつらい。でもな…… ここに残るのは俺の務めでもあるからしかたねえ」

アルベルト「碑文にも書いてあったろ。あそこに書いてある神ってのは俺のことじゃないが、俺は神の『かたち』として、見守ってやらなきゃならない。何もかも承知してるくせに、ここを離れるわけにはいかねえんだ」


少女「え。ほんとに、ほんとにそうなの?」

アルベルト「そうなんだ」

男「……」

アルベルト「このヘッドセット、持って帰ってくれ。列車の備品だからな。ポッドのアームに引っ掛けとくぜ」

男「ああ…… 僕が持って帰ろう」

アルベルト「落とすなよ」

少女「待って! 最後に聞いて」

アルベルト「うん」

少女「あなたに会えてよかった」

アルベルト「俺もだ。元気でな嬢。男」

男「君も元気で」


鮫は通話用ヘッドセットを僕のポッドのアームに引っ掛けると、振り返りもせず、祭壇奥の壁にくり抜かれた丸い穴に飛び込んでいった。


────────────────────────────


────────────────────────────


そういえば僕は、今まで友達らしい友達を持ったことがない。

小さい時分からなんとなく近所の子供、あるいは小学校の同級生と遊んだりはした。
しかしそれは、心を許し合える相手だったわけではなかった。


やがて子供心にも生きるのがそう簡単ではないと気づき、しだいに人生の重みが耐え難くのしかかってくる。
なのに、その耐え難さを打ち明ける気恥ずかしさをどう乗り越えたらよいのか分からない。


そして今、僕にとりついているこの病が、僕をいっそう人から遠ざけている。


鮫が躍り込んでいった穴を見つめながら僕は、はじめて友人と呼べると思った相手が、手のなかからするりと抜けていってしまったような空漠感にとらわれていた。


鮫の方はどうやら、僕の手の届かぬ場所へ去ったことで、このおそるべき病の感染をまぬがれはしたようだが。


BGMのスイッチを入れる。再び鳴り始める「白い恋人たち」。

僕は無言でたたずんでいる少女に話しかけた。


男「まだ時間がある。ほかの場所を少し散策しようか」


少女はうん、と答えてポッドを回転させ、祭壇に背を向ける。

意外にもしっかりした声。

僕の冷徹な脳味噌は、「気丈を装っているのだ」と分析する。僕は少女の後に従った。


少女「見て男。この案内板。古代文明人の落書きですって」

男「『未来を生きる人に幸せを』──災厄直後の殴り書き。……彼らは自分たちが生き残りたいとは思わなかったのだろうか。こんなメッセージを残す前に」

少女「きっと…… 生き残ろうという努力自体に倦んでいたのよ」

男「哀しいな。どうして、そうなってしまったのだろう」

少女「哀しいと思うの?」


男「やはり…… 最後まで努力を放棄すべきではないと思う」

少女「男は彼らの選択を否定するのね」

男「少なくとも肯定は……」

少女「そう。それはだれもが期待する『一般的な態度』よね」

男「こんなところにも、君は病の特徴を見てとるのか」

少女「いいえ。これは病よりも想像力の問題だと。……ひとつ聞くけれど、あなたはとうとう最後まで、彼を名前で呼ばなかった。それはあなたの意固地のせい?」

男「いや。きっと病のせいだろう」

少女「本気でそう思うの? 信じられない」

男「それはなぜだ」

少女「あなたほどの重篤な患者は、もはや個別性の代わりに、一般性が二本の足で歩いているようなものだからよ」


男「君は僕がそこまで重篤だt」

少女「いい? もう二度と、彼を『鮫』などと普通名詞で呼んだら私は許さない。彼の名を言いなさい男!」

男「!」

少女「言いなさい」

男「アル……」

少女「それから?」

男「アル……」

少女「私の後に続けて。アルベルト」

男「アルベ…… うむぅっ」


少女「アルベルト」

男「アルベ……ルト」

少女「やっと。彼は私たちの、かけがえのない友達。違う?」

男「違うものか!」

少女「いつか、魂の底からそう言えるように。古代文明人の神がいるなら、私はそのように祈りたい」

男「君は! なんていう……」

少女「それ以上言ってはだめ。少しは自分の病が自覚できるようになったの?」

男「いや…… まだたぶん、ほど遠い。それより少女。僕もひとつ、聞きたいことがあった」

少女「なに」


男「君はなぜあのとき、アルベ……ルトと一緒に引き返して、僕を救ってくれたのだ」

少女「それは…… 渚であなたが流したもの、それが欲望にまみれた、かぎりなく一般的な粘液『だけ』ではなかったから」

男「僕は、あのとき」

少女「涙。それを海に注いだことを、あなたはたぶん覚えていない。さあ、戻りましょう」


少女の横に並びたかった。でもそれを少女が望んでいないのは、手にとるように分かる。
だから僕は彼女の後ろについてゆくしかなかった。


僕は泣いた。

永遠にループし続けるかのような、「白い恋人たち」のメロディー。

この涙はやはり一般的なんだろうか。だとするなら、渚で僕が流したらしいそれは、もはや取り返すべくもないのか。


涙目の先に列車が見える。

最後の海中遊覧は終わった。


男「君はなぜあのとき、アルベ……ルトと一緒に引き返して、僕を救ってくれたのだ」

少女「それは…… 渚であなたが流したもの、それが欲望にまみれた、かぎりなく一般的な粘液『だけ』ではなかったから」

男「僕は、あのとき」

少女「涙。それを海に注いだことを、あなたはたぶん覚えていない。さあ、戻りましょう」


少女の横に並びたかった。でもそれを少女が望んでいないのは、手にとるように分かる。
だから僕は彼女の後ろについてゆくしかなかった。


僕は泣いた。

永遠にループし続けるかのような、「白い恋人たち」のメロディー。

この涙はやはり一般的なんだろうか。だとするなら、渚で僕が流したらしいそれは、もはや取り返すべくもないのか。


涙目の先に列車が見える。

最後の海中遊覧は終わった。


─3号車─


乗務員1「お帰りなさいませ。おや、アルベルト様は?」

少女「彼は遺跡に残りました。神としての務めを果たすために」

乗務員1「はぁー。お支払いはご一緒で?」

少女「ええ」

男「当然じゃないか!」

乗務員1「これは失礼いたしました! まもなく発車いたします」


少女「泣いてるの?」

男「泣いてなどいない」


少女「ならよかった…… 私は客車で少し眠る。男、絶対に来ないで」

男「……行かない」

少女「しつこいようだけれど念押しをする。これは言葉と裏腹に本当は待っているなどという、ありがちな状況ではない」

男「分かった。僕は食堂車にいる。なにか用があったら来てくれたまえ」

少女「うん。おやすみ」

男「おやすみ」


─食堂車─


乗務員2「おや? ほかのお二方は」

男「少女は客車です。アルベルトは…… 途中下車しました」

乗務員2「そうですか。……まあ、いろいろご事情もございますでしょう」

男「コーヒーをもらえますか」

乗務員2「はい、少々お待ちを」


ジャズのバラードが聞こえてきた…… 僕の知らない曲。
闇を切り裂くような女性のボーカルが、今の精神状態には妙に心地よい。


乗務員2「はい。お待たせしました」っコーヒー

男「ありがとう。……これは、なんという曲ですか」

乗務員2「CRY ME A RIVER。歌ってるのはだれだと思います?」

男「だれなんです?」

乗務員2「姫です」

男「これが? 信じられない」

乗務員2「人は見かけによらぬというでしょう。まぁ、私から見てもあの人は化け物ですから。これぐらい歌えてもなんの不思議もありません」

男「そうなんですか。僕はまた、よく知りもしないうちにあの人を誤解してしまうところでした」

乗務員2「いえいえ。誤解のひとつやふたつあの人には屁でもありません。そんな誤解を肥やしに生きてるようなものです」


男「なるほど。僕のようなばかものの誤解があの人の肥やしになるなら、僕にもそれなりの存在価値があるという」

乗務員2「ご自分を責めちゃいけませんよ。自分を責めすぎると、結局それが別の誤解の種になったりします」

男「そういうものなんですか?」

乗務員2「そうですとも。自分を責めず、他人も責めない。恥ずかしいと思うようなおこないにも理由があるんです。だから、自分も他人も、もっとやさしく見てあげればいい」

男「でも…… 少女から見て僕は、やさしく見てもらえる余地があるとは」

乗務員2「それは思いすごしです。彼女は今、とてもおつらいのです。客車に行ってさしあげなくてもよろしいので?」

男「絶対に来ないでくれ、と」


乗務員2「そうですか。なら、今は行かない方がいいかもしれません。でも列車を下りてからは、男さんが気づかってあげないといけませんな」


You drove me, nearly drove me, out of my head
While you never shed a tear


姫が歌いあげるのは、僕には想像もおよばぬ世界。
いうなれば痴情の泥沼。


でも真実とは、各人の名前が刻印された、具体的な恋愛とは、きっとこういうものなのだ。


そして再び、わが身をかえりみる。
病を治す資格が、僕にあるのだろうか。





Intermission





─発着場─


場内アナウンス「皆様。当竜宮城だけが実現し得た、世界に類を見ない驚異の海中周遊はいかがだったでしょうか? 今後とも従業員一同、一層のサービス向上に努めてまいりますので、またのご利用を心よりお待ち申し上げております!」

男&少女「」

乙姫「お帰りなさい! 聞きましたよ、アルベルトちゃん降りちゃったんですってね! まあ、世の中には思いもかけぬことがあるものです。あの子にはきっとそれが幸せだったんでしょう」

男「お出迎えありがとうございます」

少女「ありがとうございます」

男「いろいろ勉強させられました。特に…… たいせつな友人は失ってはじめて分かる、というような」

少女「それは正確じゃない。あなたは失ったときはじめて、友人を得たのだから」

乙姫「……やはり少し刺激が強かったかもしれませんね」

男「たしかに…… ちょっとやそっとでは音をあげないような、アクの強い人ばかりが来ているようだし」


乙姫「そうですねぇ、わたくしも、VIPとはそのようなものだと…… で、どうなさいます? この後もご案内してさしあげるコースがございますけれど」

少女「ぜひお願いします。私たちは、逃げないので」

乙姫「そんな怖い顔なさらなくても。気楽にまいりましょう」

男「ところで、歌がお上手なんですね。感動しました」

乙姫「あら! お聞きになったんですか? まあお恥ずかしい。下手の横好きってやつでしてね」


従業員2(タコ)「姫! あの方が呼んでおられます。『姫はどこへ行った』と」

乙姫「え? しょうがないわね。あ、申し訳ありません、わたくしはここで失礼を。タコあなたも来て」

従業員「では皆様、あちらに休憩室がございますので、ご案内にまいりますまでお待ちください。……姫、あの方はアレヤコレヤfade away」



男「……」

少女「……」

男「告白しよう。今、『よく眠れた?』と聞こうとして思いとどまった」

少女「それでは聞いたのと同じ」

男「僕は自分のおろかさを君に知ってもらいたかっただけだ」

少女「それであなたのおろかさが、少しでも救われるなら。……ここが休憩室。? バスルームもついてるのね。これはありがたい」

男「そうだね。シャワーでも浴びてスッキリしよう」


─休憩室─


従業員3(タイ)「いらっしゃいませ! バスルームをご利用ですか」

男&少女「はい」

従業員3「ありがとうございます。最初にご案内いたしますが、こちらのバスルームは地上のシステムと若干異なっております」

男「はあ……」

従業員3「コースが4種類ございまして。まず『身体洗浄』これが基本コースでございます。次に、基本コースにオプションを加えました『心の洗浄』、さらにオプションを追加しますと『命の洗浄』となります。最高級コースが『魂の洗浄』でございまして、こちらになりますとご利用料は基本コースの10倍となりますが…… どちらになさいますか」

男(シャワーぐらい普通に浴びさせてくれよ……)

少女「オプションの説明を聞かないとよく分からないけれど」

従業員3「『心の洗浄』コースでは、過去1年程度に蓄積した心の痛み、虚脱感などを半永久的に除去できます。『命の洗浄』では、生まれ落ちて以来抱えておられます、お客様の『業(カルマ)』を取り除いてさしあげます。『魂の洗浄』になりますと、お客様を輪廻から解きはなった上に、永遠の魂の救済をお約束するシステムになっておるのです」

少女「……基本コースでお願いします」


従業員3「よろしいのですか? 単なる徹 底 的な身体の洗浄にとどまりますが」

少女「はい」

男「基本コースでいいの?」

少女「やはり…… 安易な問題解決は将来に禍根を残すような」

従業員3「なにかおっしゃいました?」

男&少女「いえいえ!」


─バスルーム─


男「案内されて男性用に入ってみたが…… どこから水が出るのだ?」

従業員3「中央のベッドに横になってお待ちを。最後まで全自動サービスでございますので、お客様はなにもなさる必要はございません。では失礼」

男「全自動って洗濯機かよ。あー、きっとなにかしでかすと思ったら、床から水がすごい勢いで!」


要するに、床屋の自動洗髪機の全身版みたいなものだ。またたく間に水は天井まで充満し、僕は覚えたばかりのえら呼吸を再開せざるを得ない。

やがて室内に充満した水がものすごい勢いで回転を始めた。


人間を洗濯機に放り込んで洗うなどとは、許しがたい人権の蹂躙だ。そうは思ったものの、実際の洗浄が始まると倫理的嫌悪感を訴える気概すら吹き飛んだ。


どういう仕組みなのか、水は体じゅうの穴という穴から体内に侵入し、内臓と内臓のすき間、大腸と小腸のなかまで入ってきて老廃物を引っ掻き出していく。
僕の体内から引きずりだされた汚物はまたたく間に壁の穴から吸収され、代わりに噴出する白濁した洗浄液が鼻の穴から脳内に達し、ラベンダーとも柑橘系とも判別しがたい芳香を大脳皮質に刻みつけていく。


こうして巨大な洗濯機内で、たんなる洗濯物の位置におとしめられ猛スピードで回転しながら洗われているという、奇怪な被虐的よろこび。


それがすさまじい快感をともなうので、僕はいくぶん勃起しつつ、少女が見たらおそらく卒倒するであろうというくらい、気持ち悪い笑いを漏らしはじめていた。


で、当然ながらこの体験は女性用個室の少女にも共有されているのだなと妄想はふくらみ、僕の充血はさらに度をくわえる。僕は渚で犯したような粗相を繰り返してはなるまいと、自分を必死で抑え、その努力は…… 奏功した。


しかし、めくるめく体験とはいえ、さすがに手荒な印象は拭えない。基本コースゆえ、安かろう悪かろうで納得せざるを得ないのか。

洗濯機の回転は次第にゆるやかになり、被虐的快感を伴う人権蹂躙の時間が終わった。

洗浄水が室内から引いてゆき、すっぱだかで取り残された僕は、文字どおり身体の内から外まで一片の皮脂も残さず徹底的に洗浄されたことを実感したのである。


従業員3「お疲れさまでした。えー、お召し物は預からせていただきました。着替えをこちらに用意いたしております」

男「これは? タキシードじゃないですか」

従業員3「はい。この後、中央レストランで姫とお二方とのディナーを予定いたしております。お客様にもフォーマルな装いでおいでいただく慣例となっておりまして」

男「蝶ネクタイなんて結んだことありませんよ」

従業員3「ご心配なく。わたくしが結んでさしあげますので、失礼」

少女「蝶ネクタイぐらい自分で結べないの?」

男「少女! なんとあでやかな、イブニングドレス姿」


少女「真実味のない空虚な驚きにいちだんと磨きがかかってきたようね」

男「そんなことはない、まるで、これまでの君ではないかのよう」

少女「そう、過去の私はもういない」

男「それはそれで、ものがなしい響きがあるのだが」

少女「従業員さん、内臓の隅々にいたるまで洗浄していただきありがとうございます」

男(僕のタキシード姿にひとことの言及もなしとは!)


従業員3「お気に召していただければ幸いでございます。レストランはですね、階段を上がって左手の突き当たりのドアを入っていただきます」

男&少女「どうもありがとう」

男「その髪型も、……僕ははじめて見たが、とてもよく似合う」

少女「おや珍しい。馬子にも衣装というけれど、男性というのは、服装ひとつで言うことも違ってくるのかしらね」

男「ものは試しというではないか」

少女「姫の前でもその調子を忘れないように」

従業員2「わたくしがご案内いたします! こちらの階段を…… 足元にお気をつけください」

従業員2「こちらになります。どうぞ!」ギィッ

男「広い……」

少女「そしてだれもいない……」

従業員1「男様、少女様いらっしゃいませ、お席はこちらでございます」


─中央レストラン・丸テーブル─


従業員1「まもなく姫がまいりますので少々お待ちを」

男「しかし、客がそんなに入るとも思えないのに、この広さはなんなのだ」

少女「あと100人は入れそうなテーブルの数」

男「その、ほぼ真ん中に席をあてがわれているというこの状況。む? ドアが開いて」

少女(姫? いや男性……)

男(こちらに向かってくる?)

少女(しかもなに? 借りてきた猫みたいな男とは大違い、タキシードを着てまったく違和感がない、危険な香りの漂う超絶イケメン! その人が、え、私たちの席に?)


男(むむ、なぜあなたは僕たちの席に? あの、ひょっとして、席をお間違えでは……)

超絶イケメン「やぁ。君たちがきょう着いたお客さん?」

男&少女「はい……」

超絶イケメン「姫は少し遅れる。女ってのはこういうとき無駄に時間をかけたがるからね。……おいヒラメ。シャトーマルゴーの1997年を」

従業員1「かしこまりました」

超イケ「君らもそれでいいか?」

男&少女「え…… あの、はい」


男「あの、やはりこちらのお客さんですか?」

超イケ「まあね。君らはたぶん違うだろうけど、僕は長期滞在なんだよ。かれこれ5年ここにいる」

少女「5年……」


キィ バタン


超イケ「お? 思ったより早く来たね」

少女(姫もドレスで…… どうしたらこんな綺麗になれるんだろう)

乙姫「お待たせして失礼いたしました! あなた。どうしてここに」

超イケ「いいじゃないか。億万長者のジジイや政治屋の相手はうんざりだが、こういう人たちなら会ってもいいと思ってさ」


乙姫「また。なにを考えてるの」

超イケ「人聞きが悪いだろ」

乙姫「あ、お二人の前でごめんなさい。じゃあ、紹介しましょう。この人は長期滞在者で、浦島太郎さんといいます」

男&少女(!!!!)

超イケ「浦島です。よろしく」っ右手

男「はじめまして、男です」っ握手

少女「少女といいます、(っ握手キャー)よろしくお願いします…… あの、ほんとうにあの有名な、浦島太郎さんなんですか?」

浦島「ええ、その有名な浦島です」


男「イメージとの乖離が、失礼ですが、途方もないというか」

浦島「そうだね。地上で絵本や童話に登場する僕は、それこそ途方もないお人好しの頓馬に描かれてるんで常々苦々しく思ってはいたんだが。まあ、それが読者の期待するところなら無闇に目くじらを立てるのも野暮だしねぇ」

少女「失礼ですけど…… 身長はどれほどで」

男「少女!」

浦島「182センチですが? 気になりますか?」

少女「いえ、ぶしつけなことを」

男「やはり、亀を助けて、こちらへおいでに?」

浦島「あれは事実と違う。この人がね、漁の最中に亀を使って僕を拉致したんですよ」


乙姫「ちょっと、やめてよ」

浦島「いいじゃないか。結果オーライだよ。僕が君を愛してるのには変わりないだろ?」

乙姫「しかたのない人ねぇ……」

浦島「いや、こりゃ失礼。で、どう。きょうの感想は」

男「あまりにも多くのことが起こりすぎて…… 目が回りそうです」

浦島「はっはっは! 人間洗濯機なんか特に目が回っただろ? 僕も最初あれには参った」

少女「私は…… あの弾丸列車ですけど、やはり…… 遊び心にも節度というものが必要だと思わざるを得ませんでした」

乙姫「魚雷戦のことですね、うかがってます。今後は事前に案内を出す方向で考えさせていただきますので、ご勘弁ください」


浦島「僕に言わせると、あの列車はどうもひと工夫足りないよ。古代都市なんか特に……そういえばアルベルトが神になったんだって?」

男「お知り合いなんですか?」

浦島「彼とはよく飲んだ。酔うと目がすわってくるところが迫力満点だが、おもしろい男だった。さびしいねぇ…… なんの気まぐれで神になったのか知らんが」

乙姫「あなたの知らないことよ。あの子、ずっとあの場所を探してたんですって?」

少女「そう言ってました。私たちもアルベルトの決心を讃えたいと思ってます。さびしいけれど」

乙姫「元気出しましょう。さぁ、料理が来ましたよ」


(食事タイム)


浦島「へぇ、療養枠で。最近じゃめずらしいね」

乙姫「少女さんは以前、一度いらっしゃったことがありますよね」

少女「ええ。5歳のとき父に連れられて。アルベルトとはそのときに知り合ったんです」

浦島「男君ははじめてか」

男「はい。たぶん僕は…… 少女より重症らしくて」

少女「完治しなくてもいいんです。治療のきっかけみたいなものだけでもつかめればと」

男「皆さんに感染する危険はないのでしょうか?」

乙姫「私は大丈夫。この人だって、私に負けず劣らずの怪物ですからね」

浦島「姫の怪物ぶりは相当なもんだってことだ。だから男君。彼女に病気を感染させられるくらいだったら、君はここの経営者になれるよ」

乙姫「男さん、この人に少しあなたの病気を分けてやりなさいよ。好き勝手が二本足で歩いてるみたいな人間なんだから」


浦島「悪かったね。僕が居続けになった原因は君がつくったくせに」

乙姫「!」

少女「姫……? どうかしたんですか?」

乙姫「あなた。今、なんて言ったの」

浦島「居続けになった原因h」

乙姫「やめて! ここはそういう場所じゃないって何度言ったら分かるの? ここはVIPの方や人知れぬ病に苦しむ方に癒しを与える海底の楽園なのよ! それをまるで女郎屋みたいに! あああ、また昔のトラウマが!」ガタッ

浦島「おい! お客さんの前だぞ! しっかりしたまえ君!」ガタッ


男「行っちゃった……」

従業員1「どうかなさいました?」

少女「『昔のトラウマ』って言ってましたけど。浦島さんが居続けとか言ったら急に」

従業員1「はぁ。例のあれですな」


男「例のあれ?」

従業員1「もうずいぶん昔の話ですがね。ある年取ったお坊さんにひどいことを…… セクハラとでもいうんですか、言われたんですよ。それもお釈迦様の前で」

従業員1「それが相当くやしかったのか、今でもときどきヒステリーを起こします。ひどいときには10日ほど男になってしまいますが、それはまぁ、めったにありません」

従業員1「今回は大したことないですよ、すぐに良くなるでしょう」

男「どんなことを言われたんです」

従業員1「女の体はけがれてるうんぬんとかね。要はセクハラですよ」

少女「今でも地上ではそういう女性差別はなくなってませんよ。根強いものがありますね。……あ、浦島さんだけ戻ってきた♡」

浦島「いやー失礼。心配ない、2~3時間もすればケロッとしてるはずだ」

男「かいがいしいパートナーぶりでいらっしゃいます」

少女(お前は黙ってろ)


浦島「まったくね…… 僕がいないとなにもできないんだから。さぁ、料理が冷めないうちに。ワインはいいのかい?」

少女「ええ、私たちは。……なんだか、目の前の人に、酔ってしまいそうで」

男(少女!)

浦島「……初対面だから僕のことはよく知らないだろうけど、僕はね、あの人に尽くすことが生き甲斐みたいなものなんだ。地上へ出たところで、なにかしたいことがあるわけでもなし」

少女「」

男「そういえば、先ほど、こちらへ来て5年とおっしゃいましたが。浦島さんはずっと大昔の方のはずでは?」

浦島「そりゃそうさ。地上では千数百年くらいたってるはずだよ」

男「! じゃあ僕たちも」

浦島「君らは心配ない。短期滞在だからね。僕みたいな長期滞在に限り地上では何百倍も早く時間が進んでしまう。そういう仕組みらしい」

男「よかった……」


浦島「君ら、高校生か?」

男&少女「高1です」

浦島「じゃあ今は夏休みだよな? 2学期が始まって2人とも出てこない、さては駆け落ちか──『駆け落ち』も君らの世界じゃ死語だろうけど──なんて騒ぎになったらここの信用にかかわる。2学期が始まる前には必ず戻れるようになってるはずだ」

少女「でも、浦島さんは長期を選ばれたんでしょう?」

浦島「選んだのは僕じゃない。姫と、それからその他大勢さ」

少女「どういうことです?」

浦島「僕を見てどう思う? 僕みたいな容姿と才能を持ち合わせた人間が、田舎の漁師なんぞやってられると思うかい?」

少女(うゎゎ。でもこのルックスだからこそ許される発言)

浦島「罠だったんだよ。故郷の長老たちが僕の扱いに困って、姫と示し合わせて厄介払いしたのさ。浜を歩いてれば娘たちは群れをなして追いかけ回すし、漁に出りゃ舟が沈みそうなくらい魚を積んで戻ってくる。出る杭は打たれるってわけでね」


浦島「地上にいたときから、自分がただの漁師で終わる人間じゃないとは思ってた。都に出てこの才能を存分に発揮したらどうなるか…… 考えもしたよ。もっとも、そんな人間は年寄り連中には気に食わないものでね」

少女「浦島さんみたいな人だったら、今の日本でも絶対活躍できると思います! 起業しても、政治の世界に入っても、きっとサクセスストーリー間違いないですよ!」

浦島「どうかな。今じゃ、彼女の許しをもらってしょっちゅう地上には出かけてるし、友達もいる。世界でどういうことが起こってるか、君らよりずっとよく知ってるよ。だからって、ここを出ようなんて考えはどうも、……面倒くさくなってるんだ」

少女「でもそれじゃ…… 玉手箱じゃないけど、本当におじいさんになっちゃいますよ?」

浦島「それも悪くない。彼女は僕を必要としてるし」

少女「そう……なんでしょうか。浦島さんを必要とする人は、ほかにも、……たくさんいるんじゃないでしょうか!」

男「……」

少女「姫にだまされてるのではありませんか?」

男「少女よしたまえ!」

少女「あなたは黙ってて!」


浦島「……例の伝説にしても、僕がここを出たいって言い出したから玉手箱で復讐したって筋書きにしたわけでね。今さらそんな手に乗るわけはないが、……彼女の悲しむ顔を見る気にはなれないんだ」

少女「……」

浦島「これで分かっただろう。僕は生まれながらの、究極のヒモなんだ。ザ・キング・オブ・ヒモ。それが僕なのさ。あの伝説もよく読めばそういう僕の姿が浮かび上がってくるとは思わないか?」

少女「そんな……」

浦島「彼女は自分でも言ってるよ。『私ほどの面食いはいない』って。でなかったら、僕が今ここでこうしてるわけはない」

男「少し分かった。浦島さんは、ヒモとして自分を全うしたいと考えてらっしゃる」

浦島「うまいこと言うね。君、高1ってことは16?」

男「はい」


浦島「16歳。僕もその頃は野心を持てあましててね。一生を漁師で終わるなんて冗談じゃないと。今は…… 彼女と、そしてこの竜宮を支えることが僕の生き甲斐だ」

少女「でもやっぱり…… 浦島さんみたいな人がここに埋もれてしまうなんて、とても哀しいです」

浦島「君たち短期滞在者から見ればそうだろう。少女さん。君を見てると地上の女の子たちを思い出すよ」

少女「もっと思い出させてもよろしいですよ?」

男「どうしたんだ少女!」

浦島「どうかな。正直言うと、たいしていい思い出もないんだ」

少女(ひぃぃ)


浦島「さぁて。君らこの後どうするか話聞いてる?」

男「いいえ。特に」

浦島「次は海中生物体験があるんじゃないかな。あれはお勧めだよ」


男「どんなアトラクションなんです?」

浦島「一定時間だけ、海の生物になるんだ。それがね、ただの体験じゃないんだ。おもしろいよ」

男「実際に魚とか、貝になったりするんですか」

浦島「そう。一時期僕もあれにはまってね。いろんなのになったな。海蛇、タラバガニ、イソギンチャク、ナマコ」

少女「……なんか偏ってません?」

浦島「ありきたりの魚よりそういう生き物の方が印象に残らないか?」

男「でも、……海の食物連鎖に投げ込まれるわけですか?」

浦島「もちろん。それも大事な趣向、っていうより、肝心かなめの部分だ。まあ、百聞は一見に如かずだよ」

男「なんだか気になりますねえ……」


少女「本当に。潜水艦に魚雷撃たれるくらいだからなにがあってもおかしくない」

浦島「そう言わずに僕を見たまえ。ちゃんと生きてるじゃないか! マグロになったときは鮨ネタになってつるっぱげの親父に食われたりしたがね。あのときの大将の手のひらの感覚はよく覚えてる。彼は名人と呼ぶにふさわしい職人だった」

少女「なんなのですかそれは……」

浦島「年齢制限は14歳だったかな? たしかにちょっと刺激が強いからね。君らはもう問題ないはずだ」

男「どうする少女?」

少女「私たちはここに遊びに来たのではないので。必要ならやるしかないでしょ」

浦島「そんな怖がらなくていいよ。ひとつ付け加えると、そのまま人間やめたくなったらやめちまえるオプションもあるからね。あくまで本人の希望次第だが」

男&少女(ぞっ……)


浦島「じゃあ、僕はここで失礼する。姫の様子を見なきゃならんのでね。ゆっくり食事してってくれ」ガタッ



少女「はぁぁ…… いい男……」

男「超絶イケメンだから姫の囲いものになった。これが浦島伝説の真相」

少女「あなたが口出しすることじゃない」

男「ごめんよ。しかし少女、ほとんど食べてないじゃないか」

少女「いろんな意味でお腹いっぱい……」

従業員1「ワインをお持ちいたしましょうか?」

男「僕らは高級ワインはちょっと……」

従業員1「いえいえ。このディナーは主人持ちになっておりますので、その点はご心配なく」

少女「ほんと?」


従業員1「はい」

少女「! 分かったよーし食うぞ! メニュー! これとこれとこれとあれと、それから…… これ! 男も食べなさい!」

男「お腹いっぱいじゃなかったのか!(よかった、ヤケ食いだけど元気になって)」

   ・
   ・
   ・
   ・
   ・

男「しかし少女、僕は今から浦島さんが言ってた海中体験をやる元気はないよ。明日に回そう。もうゆっくり眠りたい」

少女「そうね男、一緒に寝よう」

男「ぶっ!」

少女「誤解してはいけない。同じ部屋で寝るというのは、同衾することを意味しない」

男「普通の感覚なら同衾と受け取られかねないが」

少女「それは地上の、最も低俗な通念に毒された先入観と、ひそかな男の願望では。寝室は同じでも男は私に指一本触れられない。ここはそういう構造になっているの」

男「心配にはおよばないよ。今の僕には、君に指一本触れる元気もなさそうだ」


少女「今は、ね。しかし5分後はどうだろう」

従業員1「お食事はお済みでしょうか?」

少女「ええ、ごちそうさま。ほんとおいしかった」

従業員1「恐縮でございます。この後すぐおやすみになられますか?」

男&少女「はい」

従業員1「では、こちらにベッドの一覧をお持ちいたしました。このなかからお好みのタイプをお選びください」

男「……ふぇぇぇ」


───────────────────────────────────────
──────────────────


僕と少女は、いわゆる「寝室」に案内された。


寝室といっても、要するに海のなかだ。
そして僕たちが選んだベッドは、巨大な真珠貝と巨大なクラゲ。


海底の真珠貝で眠るのは少女。
僕はそのまわりを、透明なクラゲのなかによこたわり終夜ただよい続けるのだ。


この浮遊感は癖になりそうだ。海底でじっとしている少女は、あのなかで、真珠を育てているのだろうか。


夜の海では生き物たちも多くは眠りについている。
ときおり、夜行性の魚が動き回る気配がクラゲのなかに伝わってくるが、気になるほどのものではない。


僕は貝殻の奥にいる少女に語りかけた。ポッド内から通話装置で会話したときのように。


「疲れたね」

「うん」

「今ごろはアルベルトも疲れて眠ってるよ」

「きっと、酔いもさめたんじゃないかな」

「もうお酒飲めないんだね、彼」

「」

「少女?」


返事はない。眠ったようだ。


ポッドのなかで少女と語り合ったのが、僕らが生まれる以前の、はるかな昔のように感じられる。


クラゲは英語でjellyfish。僕は透明なゼリーの壁越しに少女の眠る真珠貝を見下ろし、おやすみと声をかけた。


僕も眠ろう。

支援

みたことあるような文体、のような気がするんだけど過去作とかある?

>>160遅まきながらセンキュー

>>161ありますよ。
でも個別作挙げて自演認定されてもお互い面白くないでしょうから、その辺どうかご理解を。

今日は5、6発投下して終わりにします。


─翌朝─


従業員4(海亀)「皆様おはようございます! 朝食の用意ができておりますので中央レストランまでお越しくださいませ」

男「よく寝た…… おはよう少女」

少女「おはよう男」

男「モーニングコーヒーが僕らを待っている」

少女「ただのコーヒーよ。残念ながら」

男「そうだろうか。目が覚めると見知らぬ天井。というか、朝日の差し込む海面が天井という体験は、たぶんもう二度とできないのではあるまいか」

少女「そうかしら? ……私ね、はじめてここに来たとき、クラゲのなかで寝たのはよく覚えてるの。だから男にも体験してもらいたくて」

男「その君のやさしさだけできょう一日分の幸せが」

少女「どういたしまして。さて朝ご飯。男なにが食べたい?」

男「パンケーキにスクランブルエッグでもあれば最高なんだが」

少女「私もそれがいい。海亀行っちゃったね。こんどあれに乗ってみたい」

男(浦島氏専用の亀かもしれないな……)


─中央レストラン。朝食後─


従業員1「朝食はお気に召していただけましたでしょうか?」

少女「あんなおいしいパンケーキははじめてです! 卵はどこから取り寄せてるのですか?」

従業員1「別ゾーンに養鶏場があるのです。最近は品種改良でこの環境に適した鶏を飼っておりますが」

少女「そのうち泳ぎ出したりとか」

従業員1「鶏は鶏でございますからそれは…… 皆様はこの後、海中生物体験にまいられますか?」

少女「ええ」

従業員1「では、別の者が案内いたしますので、階段を下りまして左手の連絡通路前においでください。あと30分ほどでまいります」

少女「30分か…… コーヒーお代わりしよっと。ねえ男」

男「なに」

少女「きょうはここのお医者様の診断を受けるの。覚悟はいい?」

男「……僕は君より症状が重い。回復の見通しがなければどうなる?」


少女「ここでずっと療養生活を送るのはどう? 浦島さんみたいに」

男「それは無理だ。学校があるし、両親も心配する」

少女「末期症状に達したら、ただの生ける屍と違うんだけど。その状態で地上生活をやり通せるとでも?」

男「詳しくは知らないが…… あるいは受忍の範囲内かも」

少女「受忍ですって? 冗談はよして男」

男「駄目だろうか」

少女「甘い。そうやって悲惨な末路を迎えた例がたくさんあるのに。少なくとも私には無理」

男「でも、……地上の束縛から簡単には逃れられない。それに滞在費の問題が」


少女「男。まだこの病のおそろしさが分かってない。お医者様から詳しく聞くといい」

男「君は、……万一の場合はここに残るつもりか」

少女「ええ。両親にもそう言ってきた」

男「両親や、……ほかにも悲しむ人がいるのでは」

少女「そういう問題じゃない。これは病を背負ってしまった人間の責任だから」

男「病原体ごと自分を海底に埋葬するというのか?」

少女「埋葬だなんて。責任という話。あなたもこれだけは軽く見ない方がいい」



─連絡通路前─


従業員4「お待たせしましたー。これよりBゾーンにご案内いたします」

男「海亀さんの背中に乗って移動するんじゃないの?」

従業員4「いやー、連絡用カートがございますから無理にそうなさらなくても」

少女「海亀さん照れてる? かわいい」

従業員4「かないませんな、あっはっは」

少女「でもあっちこっちに施設が点在してるのね。全部で何カ所あるの?」

従業員4「全部で5カ所に分かれてます。お客様をご案内するBゾーンは2キロほど離れてますが、なに、この連絡カートで行けばすぐですよ」

少女「じゃあ、よろしくお願いしますね」

従業員4「はい。ではシートベルトをお締めください」



ゴゴゴ


男「うわ。結構速いな」

少女「ちょっとしたジェットコースター気分」

男「少女見て。竜宮城がもうあんな遠くに」

少女「今、それを私が言おうとした」

男「少女の先を越したかったのだ」

少女「ぐ、ぬ、ぬ。でも、綺麗…… 浦島様はもう起きてるのかな」

男「(『様』に昇格かよ)姫の姿も見かけなかったし、まだ寝てるのじゃないだろうか」

従業員4「浦島様は早朝にお出掛けになりました。じきに戻るご予定とうかがってます。……間もなくBゾーンに到着いたします」

少女「あれが…… なんだろう? 3本足で支えられた球体のような構造物」

男「気楽にと願いたいね……」



従業員4「あの球体のなかでメタモルフォーゼののち、3本の通路のいずれかを通って海中へ放逐されるのです。通路は接地面の岩盤を抜けた先に出口がございますのでね」

少女「放逐……」

従業員4「わたくしどもは通常、そう申しておりますが?」

男「ほかに言いようがあってもよかろうと」

従業員4「は、お気に触りましたら失礼を。正面ゲートに到着いたします」


─Bゾーン─


従業員2「少女様、男様。お待ち申し上げておりました。こちらでは海洋生物の生態を、あちらに見えます時計で1時間、実体験していただくコースとなっております」

従業員2「ただしあくまで、あの時計の1時間でございまして。実体験中の体感時間がいかほどになるかは個人差と状況ごとのバラツキが多分にございます。その点はなにとぞご了承ください」

従業員2「では、どのような海洋生物になっていただくか。それはこちらにございます回転板で決めさせていただきますので、必ずしもお客様のご期待には沿いかねますことを申し添えます」

男「……なんじゃそりゃ」


少女「それを先に言えと。商売なんだから客を失望させるようなことは、よもや」

男「そう願いたいが若干…… どころか相当の危惧を抱かざるを」


従業員2「では、さっそくでございますが少女様から。こちらの白い玉を回転板にご投入ください」

少女「勝負っ!」

従業員2「スタート! さあ少女様が転生なさる先は…… 止まりました! バフンウニでございます」

少女「」

男「クキキキキ……」

少女「笑うな」

男「だって…… 『おめでとう』とでも言えばよいのか」

従業員2「では男様、回転板の前へお進みください」


男「ようし…… 南無!」

従業員2「スタート! バフンウニに続き男様は…… おお、無難に金目鯛でございました!」


男ガッツポーズ


少女「ねえ、これって交換とかできないの?」

従業員2「それがまことに残念ながら、玉が静止した時点で変更はできないのでございます」

少女「はあ…… バフンウニ? どんなパフォーマンスをすればいいのか想像つかないんですけど」

従業員2「天運にお任せになるのが一番かと。それが当アトラクションの醍醐味と申せますので」

少女「それはいいけど、今の『無難に』ってなに? 『無難に』って」

従業員2「えー、それではここで、男女別のアレンジメントルームにお入りください。お心の準備はよろしいですか?」

男「はい」

少女「バフンウニってどんなかたちしてたっけ……」



─アレンジメントルーム─


男「……と言われて入ってみたが真っ暗だ。だれかいますか?」

?「心の目を見開いてよう見んか!」

男「そんな無茶言われても。暗くてなにも見えないんですけど」

?「うるさい奴ぢゃこれならよう見えるであろうが!(照明点灯)」

男「ぎゃ! いきなりセイウチとジンベイザメのアイノコのような、て、あなただれ?」

?「儂は命の司(イノチノツカサ)ぢゃ。ひとつ聞くが、『大は小を兼ねる』というのはどういう意味か知っておるか」

男「? ……大きいもので小さいものの用も足りるって意味?」

命の司「違う。『大便は小便を兼ねる』というのが、本来の意味ぢゃ」

男「はぁ?」

命の司「疑うな! 儂の申すことを疑うと、災いが降りかかるぞ」


男「……」

命の司「信じたか。たわいもないのう」

男「……あんた従業員でしょ? さっきから客に向かってなんですかその態度」

命の司「儂は従業員ではない。乙姫と業務委託契約を結んでおるだけぢゃ。これも経費節減の一環とか言うてな」

男「それでも僕はあえて、サービス向上の努力をあなたに求めたい」

命の司「愚かなことを言うでない。ほれ、早う着ているものを脱いで、生まれたままの姿にならんか」

男「分かったよ……」

命の司「……ほう。立派なものをつけておるではないか。そのようなものをつけてくれた父母に、一度でも感謝したことがあるか」

男「次はなにをするんですか!!」


命の司「そう急くでない。そうぢゃ、脱いだものはそこの、隅にでも重ねておけ。……で、おぬしの目の前に半球のかたちをした器があるぢゃろう。そのなかに入って座れ」

男「このなかに?」

命の司「そうぢゃさっさと入らんか。狭いゆえ膝を抱えんと。……うむ。では、器の片割れで蓋をするゆえ頭を低うせよ。そう、それでよい」


カポ
ガチャ


命の司(外)「まったく。大便と小便は別物に決まっておろうが。なりばかり大きゅうなっても頭の中は赤子同然ぢゃのう」

男(内)「むぎぎぎぎぎぎくそじじい」

命の司「その立派なものはたいせつにするのぢゃぞ。『身体髪膚これを父母に受く、あえて毀傷せざるは孝のはじめなり』と言うでな。では覚悟のほどはよいか」




ここに来て以来、球体のなかに入ってばかりいる。


だが今回の状況は相当に過酷だ。
狭苦しい球形の器にすっぱだかで押し込められ、魚に転生するのを待っているというのは。


なにかのプレイならば16歳の僕にはレベルが高すぎる。
少なくとも閉所恐怖症の人間だったら泣き叫ばずにいられまい。


なにをまた、人間は好きこのんでこんな遊びをしたがるのだろう。


やはり人間は根本的に変態なのだろうか、などと思索にうつつを抜かす間もなく、状況が変化しはじめた。


僕が籠っている器の外壁がメッシュ状に変化し、刺激性の液体が一挙に流入してくる。たちまち、僕の体と液体との境界があいまいになった。

分かりやすく言うと僕の体は溶解しはじめたのだ。それもすさまじい早さで。



麻酔でも施されたのか痛みはまったくない。

さはさりながら、狭い器のなかに押し込められて肉体を溶かされるという、世界史上の弾圧と迫害の記録にも見いだせぬような残虐きわまる体験。

それをじっくり味わう間もなく、僕の身体髪膚は完全に溶解し、メッシュの外へと吸収されてゆく。


溶解した僕を含有する液体は透明なパイプのなかを奔流となって流れ、……なにやらフラスコのような容器に到達した。

即座に容器の口から棒のような器具が差し込まれ、僕の溶存する液体をすさまじい勢いで攪拌しはじめる。
同時に容器自体も、口のあたりを支点として8の字を描くように回りだした。


そして僕は熱したフライパンの上に…… という展開にはならなかった。

冗談はともかく、再構成が始まった。
僕が溶け入ったコロイド状の液体は、フラスコ状容器のなかで次第にゲル化し、そして固形化へと進む。



どれくらいの時間がたったのか。


僕は金目鯛となって海のなかにいた。



これが魚眼というやつか。

魚体のなかにいる人間の僕は驚嘆のあまり小便をもらしそうになる。


それは「すばらしい」などというチープな言葉を超越した、魔的な世界だ。
人間はいったい、海のなにを見てきたのか。


「生きる」とはこういうことだったのか。四つの原色を認識できれば世界はこのように見える。
そのまったく新しい世界を僕は、尾びれと胸びれを動かし、背びれを微調整しつつ前進する。


「人間やめたくなったらやめちまえる」


浦島氏の言葉が脳裏によみがえった。
ひょっとして? 実際にやめてしまった者がいなかったと断言できるだろうか。


いたのではなかったろうか。



地上と縁を切り海の生物として、魚眼の先に広がる魔の世界に身を投じる。

想像するだけで、恐怖に肌が粟立つ。
しかし半面では、ポッドで深海に下っていくときに感じたはかりしれぬなにかが、たしかに僕を魅了している。


魔的な魅惑の先にひそむ、底のしれぬ深淵。


まったく違う存在になるということ。


それは、男でも人間でもなくなり、完全な混沌に身を投じるのと似てはいないだろうか?

ならば、名前を取り戻そうとしてあがく理由はなに。


「古き良き時代」の感傷みたいなものでは?


思索にふけっているうちに、僕の金目鯛は近くを漂っていた動物性プランクトンをひと呑みにする。

さらに餌の集まっていそうな岩場へと移動するうち、背後から忍び寄る大型魚の気配を察知して飛び跳ねるようにその場を離れた。



制限時間の1時間どころではなかった。


数週間、いや数カ月は経過したはず。なにせ僕は成熟した雄の個体として生殖を経験したのだから。


気に入った雌の成熟個体を追いかけまわしライバルとの闘争に勝利し、雌の産んだ卵の上に涙を流しながら精子を振りまいた。


それは人間の男子が手淫でなし遂げるような、うしろめたい欲望の噴出ではなかった。
大いなるよろこびと祈りにも似た感激。自分が消えいってしまうことへの歓喜。

いつか僕が、愛するだれかと結ばれたときのよろこびがかくもあればよいのだが。


浅い海へと散っていく受精卵を頭上に見送って、疲れはてたパートナーは落ち葉のように力なく水中をただよい始める。
そして僕の見ている前で、大型魚に呑み込まれた。


同じ運命をたどっても別にかまわなかったのだが、なにも死を急ぐことはない。
制限時間を過ぎたわけでもなさそうだし。


さあて。バフンウニはどんなかたちをしてたんだっけ?



バフンウニバフンウニ。字のとおり馬糞のようなかたちをしてるんじゃないだろうか。


ウニの姿を求めて僕は海底をなめるようにさまよった。
む! あそこにウニが群生しているが……トゲが異様に長い。どうもバフンというイメージではないな。


成熟個体としての役目を果たし終え、晩年を迎えているはずの金目鯛である僕の探索はなおも続く。


見つけた。


あのかたちはまぎれもなく、僕のおぼろげな記憶と違和感なく合致する「バフンウニ」だ。


欣喜雀躍の勢いで僕はその、馬糞の形をしたウニらしき物体の上でとんぼ返りを披露した。だが反応はない。


そりゃ、なんの不思議もないだろう。
そもそもこの海底に数百、数千のバフンウニがいたとして、少女の転生個体と邂逅する確率は。


(おぬしのやっていることは無意味な遊戯)


命の司がそうささやいたような錯覚に思わずはね上がったとき、海底がずるりと動いた。


・・・・・


こうして僕──役目を果たし終えた金目鯛──は人間の操る底引き網にかかった。



水揚げされた僕はどこぞの厨房で煮付けにされている。

忙しく立ち働く料理人たちの喧騒。


美味に調理され皿に盛られた僕、すなわち金目鯛の完成形は、客の前へと運ばれる。


僕の皿を挟んで向かい合う二人の客。いずれも男。

手前にいる方の中年男が、ほどよく煮上がった僕の肉に箸を入れた。


僕の一部を口にして中年男。


「なんか身に締まりがないね。水揚げ時期が遅かったのかな」


致し方ないだろう。放精を終えた雄は存在の半分を次世代に与えたのも同然。

あなたが賞味したかった僕の半分は、すでに海中に放たれてしまったのだから。



二人の男は冷酒を酌み交わしつつ談笑している。注意深く聞いていると、どうやら音楽家とマネージャーのようだ。

ライブハウスでのブッキングをめぐってギャランティーの額だの設備の善し悪しだのを談じ合っている。


ミュージシャン仲間のうわさ話。ときおり交じる悪口。反省の弁。自分の能力に対するとめどもない慨嘆。

刺身と板わさを前にして飲んでいるマネージャー氏はさほど酔っていないようだった。


座がお開きになる。

不満を言いながらも僕の身を綺麗にたいらげたミュージシャン氏はマネージャー氏とともにタクシーへ。


マネージャー氏を残し先に降車したミュージシャンはしっかりした足取りで夜の住宅街を闊歩する。

街灯に照らし出される瀟洒な家並み。そのうちの一軒の前で彼は足を止めた。



呼び鈴を鳴らす。出てきた中年女性──妻だろうか?──にひとこと声をかけ、玄関に入った彼はまっすぐ地下室へ向かう。

地下室のドアを開けると、そこにはグランドピアノとギター、各種音響装置。


ギターをケースから出し、ひとつ深呼吸してから、メロディーを奏で始める彼。


即興演奏は続く。2分、3分……


しかしなにかが起き、演奏は不協和音を残して中断する。


魂が凍り付いていくのを、僕は彼のなかで感じ取った。

ギターを抱えたまま茫然としていたミュージシャンは、静かに楽器をケースに戻し、蓋を閉じた。


僕は自分がなにをしでかしたかを知った。


この人に病気を感染させてしまったのだ。


─────────────────────────────────



彼の歌は死んだ。

彼がギターで鳴らすのはもう、歌ではない。歌のまねごと。
それは彼自身が一番よく承知しているだろう。


なんということを僕はしてしまったのか。



僕であった物質は無数の分解過程を経て、ふたたび海へと向かったようだ。

薄れた意識が元どおりに回復したとき、僕は出発点である球形の器のなかに戻っていた。



従業員2「お疲れさまでした。お召し物はこちらにございます。深海魚の生活はいかがでございましたか?」

男「あれ。やたらと胸くその悪いあのじいさんは」


従業員2「あの者の用は出発時だけでございますので、お帰りの際にお気遣いいただくことはございません」

男「いや、気遣いするつもりはさらさらないですよ。……一生のうちに二度とできない体験だとは思うけど、ちょっと複雑な気分だな」

従業員2「なにかトラブルでも?」

男「トラブルというより…… 僕が病人である関係上、迷惑のかかった人が出てしまったかもしれない」

従業員2「はぁ…… さようでございましたか。人間は食物連鎖の最上位に位置する以上、ご体験中のいかなる事態であれお客様は免責される前提なのですが」

男「へぇ。たとえ人食い鮫でも?」

従業員2「はい。どうしても気掛かりでしたら、後で姫にお話しされるということでよろしゅうございますか?」

男「それで結構です」

従業員「ではリラクゼーションルームへどうぞ。まだ神経系の亢進状態が続いておりますので、そちらでクールダウンしていただく必要がございます」



─リラクゼーションルーム─


少女「男お疲れ」

男「少女。君はバフンウニとしてどんな生涯を送ったのだ」

少女「ひとことで言うと哲学だね」

男「哲学? 僕は君を探し回ったのだが」

少女「そう? 金目鯛は見なかったなぁ。ところで男」

男「なに」

少女「名前を取り戻すという問題の端緒は見つかった?」


男「端緒というより、問題意識だな」

少女「で? どうするの」

男「言うまでもない。君と同じだ」

少女「はじめて前向きな姿勢を見せたね」

男「今まで僕は前向きじゃなかったのか!?」

少女「だって今までのは口から出まかせだもん。違うの?」

男「なんの躊躇もなくそこまで言うか……」


少女「さて次はいよいよ、Cゾーンでお医者様の診察を受けるのよ。お薬ももらえるかも」

男「いよいよだな……」

少女「ところで『命の司』どうだった?」

男「若い女性の前では口にするのもはばかられるようなはずかしめを受けた」

少女「そんなに? 私もけっこう言われたよ。『ええ体つきしとるのう。早う丈夫な子を産んで両親を喜ばせんと』とかね」

男「現代では社会的制裁を受けるレベルのセクハラだ」

少女「そう? 『おほめにあずかり恐縮です』って言ってあげたけど」

男「……それにしてもキャラが同じとは。なんだって二人もそろえる必要があるんだろう」

少女「きっと姫のこだわりなんだよ」


男「たぶんね。従業員さんそうでしょ?」

従業員2「あれですか? いや、あれはただのAI(人工知能)です」

男&少女「え?」

従業員2「お客様の第一印象で、とにかくその神経を逆撫でするようにプログラムされてるのです」

男「」

従業員2「メタモルフォーゼに最適の状態まで持っていくため処置の一つらしいのですね。詳しいことは存じ上げないのですが」

少女「自分のこと、従業員ではなくて外部の業者だって……」

従業員2「そういう設定にしてあるだけなのです。お気に触りました点はなにとぞご容赦ください」

男「いいですとも。容赦しますよ」

少女「気前がいいね男!」

男「はっはっは!」


……笑っていられたのもそのときまでだった。

>>189
「最適の状態まで持っていくため処置の一つ」
      ↓
「最適の状態まで持っていく処置の一つ」



僕たちはふたたび海亀の運転するカートに乗り、Cゾーンへ。


少女「へー、網にかかって煮付けになったの。金目鯛のエリートコースじゃん」

男「身に締まりがないって言われたよ。君は?」

少女「石鯛に捕食された」

男「怖くなかった?」

少女「まぁこんなもんかなって。それから石鯛のウンコになってデトリタスから正体不明のプランクトンに転生して終わり」

男「どこに哲学が」

少女「海底にじっとしていて、その位置から魚や海面をながめてるって状況。いうなれば究極の放置プレイ」


男「バフンウニを経てMの資質が開花したと? よく考えると、哲学の属性としてもふさわしいかもしれない」

少女「なるほどね。神の視点と逆の位置にいて、底のまた底から神の栄光を讃えるのってやっぱりMだね」

男「でも見えてるものは神の視点の相似形だ」

少女「だから哲学でしょ?」

男「うむ。僕の方はだね。煮魚として地上に降臨することで才能ある一人の音楽家を駄目にしてしまったようだ」

少女「駄目にしたのかな? 試練を与えただけなんじゃ?」

男「いや。残念ながらたぶん違う…… つーか僕にSの自覚は皆無なのだが」

従業員4「まもなくCゾーンに到着でございます」

男「なんだろう…… 洞窟みたいなところに入っていくね」



─Cゾーン─


少女「思い出した…… ここ入ったことある」

男「まるっきり病院の待合室だ」

スピーカー「男様少女様、診察室へお入りください」

少女「早い…… って患者は私たちだけだもんね」


─診察室─


少女「失礼します」

医師(マンボウ)「いらっしゃい。それじゃお二人ともここへかけてください」

男&少女「お世話になります」

医師「うーん。……ぱっと見た感じ、『標準化』の急激な昂進ですね」

少女「はい」

医師「診断の前に念のため確認しておきたいのですが…… あなた方はこれ、つまり『標準化』を治療すべき病気だと受け止めてらっしゃいますか?」

男「というと?」


医師「つまり、私どもの見るところ、地上ではこれを病というより、きたるべき人間のあり方だと考えているふしが認められるのです」

少女「なんですって?」

医師「たとえばインターネットにしても、ネットワーク内での一定レベルの標準化が前提になってる。これはお分かりですね」

男&少女「ええ」

医師「人間もそういった標準化が完成すれば、互換性の高いパーツとして社会のどの部分にはめ込むことも可能になる。ですから、『標準化』を病ではなく進化とみなすのであれば、なにも哀しむべきことじゃなくなるわけで」

少女「人間という器は、そんなことを進化として受け入れるようにはできてないと思うのですが」


医師「それは個人の考え方です。しかし人間を個ではなく群体として眺めると、群体としての思考はまったく別の方向に向いていたりします」


医師「個性とか個別性に拝跪してもなにも解決しない。もはや過去の遺物であり、群体の思考──いや『志向』といった方が正確ですかな──によってこそ人類は前進しなければならない。そういう考え方は次第に勢いを持ちはじめています」


医師「ただし、個性至上主義とでもいいますか、古い考え方はいまだに強力ですから、当面はなにやかやと隠れ蓑をまとう必要がある。つまり、少女さんがおっしゃったことは、過渡期に表れる典型的な主張と言えるかもしれない」


少女「では先生は、その、新しい考え方を支持なさるのですか!?」


医師「いえ、そうは言ってません。地上にそのような趨勢が認められるというだけで。この立場に立てば、お二人は病気でもなんでもない、いたって健全であり新時代の人間として完成途上にあるということになるのですが、それを受け入れるかどうかという話なので」


男「先生ご自身はどのように考えてらっしゃるのですか」

医師「医師という立場で申し上げてよいのですか」

男「もちろんです」

医師「……これを病気とみなして、治療してさしあげることはできます。しかし、今申し上げたような世界の趨勢がありますからね。お二人の客観的利益になるとは保証しかねる部分があります」

少女「もちろん治療の結果は、私たちの責任において受け止めるつもりです」

医師「よろしいのですか。後悔なさるかもしれませんよ」

少女「構いません」

医師「あ、そうだ。これはあくまで参考までに申し上げるのですが、逆の解決方法として、人間の標準化がより完全になるようサポートするというやり方もあります。ただし外科的手法で」


医師「脳の一部を──やはり除去するという言い方をせざるを得ないのでしょうな──手術によって取り除く、いやもちろん、昔の前頭葉切断みたいな野蛮なやり方とはまったく違ってはるかに後遺症は少ないのですが、まだ臨床試験段階には違いないので」

男&少女「それは結構です!」

医師「しつこいようですが、……よろしいのですね? 自殺とか大量殺人といった症例として顕在化するのは、そうした部分が最悪のかたちで温存された結果だというのが医学界共通の見方となっておりますけれど」

少女「最後まで苦しむしかないなら、苦しみを受け止めるのが人間の務めでしょう。私たちはあくまで、治療を先生にお願いしているので」

医師「分かりました。あまりしつこく聞こえましたらご容赦ください」

少女「いいえ、ご親切にありがとうございます」

医師「まあ地上でもね、医療外の分野で補完的手法がいろいろと追求されてはいるようで…… おっとまた余計なことを申しました。さて、どちらから始めましょうかね」


男「いいかい少女? では先生、僕からお願いします」

医師「では、こちらの小部屋へ。少女さんはお待ちになっててください」


─小部屋─


医師「まずお名前をうかがいましょう」

男「男です」

医師「男。それは人間の性別のうち一方を指す普通名詞でもありますね」

男「はい。それは認識しています」

医師「では、あなた個人に関する周辺情報からうかがってまいりましょう。年齢、職業もしくは学年、住所を」

男「16歳。高校1年。日本国」

医師「高校名と、それから住所地を番地まで」

男「○○高校、○○県○○市○○─○○─○○」

医師「……ふむ。ではもう一度お名前を」


男「……戸籍名、ということですか」

医師「はい」

男「○○○○○です」

医師「では、今おっしゃった戸籍名について。これがあなたの名前ですか」

男「そうです」

医師「特に違和感を持っておられない?」

男「……はい」

医師「今、男さんがおっしゃった戸籍名は、単に○が五つ並んでいるだけです。それ以上の情報はありません。高校名、住所地も同様です。具体名が入るべきところに○が並んでいるだけ。この点についてどう思われますか」

男「僕は、○ではなく個別具体的な名称を述べたと認識しています」

医師「男さんの認識は完全にそうだったのですね」

男「……はい」


医師「分かりました。所見を言いますとですね、高校名と住所地の○が二つずつ、これに関してはなんの情報もありません。実際は3文字だったり4文字だったりする可能性があります。ただ、戸籍名が姓名合わせて漢字5文字である可能性は高いと思います。これだけが唯一の希望と言えば希望ですね」

男「はぁ……」

医師「残念ながら、投薬のみで治療できる見込みはきわめて少ないと言わざるを得ません」

男「では、ここにとどまって治療を受けるしかないと」

医師「ええ。長期療養をお受けになるお考えは?」

男「今すぐにはなんとも……」

医師「余計なことを吹き込んではいけないのですが、……私どもに強制はできませんので。病を抱えたまま、末期症状を回避しつつごく普通の一生を完遂しようと考える方もおられます。しかしはっきり言って、素人が綱渡りをするようなものです」

男「ありがとうございます。少し考えさせてもらってよろしいですか?」

医師「ええ、よくお考えになってください。では少女さん」

少女「はい」



今なお根強い偏見のもとにあるあの性病の検査で、ポジティヴの結果を受け取った感染者の心情とはこういうものなのだろうか。

いや…… 比較しようとする感覚自体がどうかしているのだろう。


一縷の望みをうち砕かれた僕は、診察室のソファにうなだれて少女の問診が終わるのを待った。


小部屋でのマンボウ先生と少女の問答がかすかに漏れ聞こえる。しかし会話の内容は分からない。

医師は事務的に所見を述べ、少女はそれに淡々と応えている様子。


少女の問診が終わった。


医師「お二人ともお疲れさまでした。少女さんは地上に戻られて投薬で何とかなると思います。残念なことに、お二人の間で加療のレベルに違いが出てしまいましたが。処方箋を用意しますので、もう少々お待ちを」

男&少女「ありがとうございます」

男「よかったね少女。もう君はまともに生きていける」

少女「先生の話だと、必ずしもそうではないって。でも男。しっかりね」

男「やはり…… 素人の綱渡りは周りの迷惑だ。先生の勧めに従うことになるだろう」

少女「もうそろそろお昼。おいしいランチでも食べよ」

男「うん」


マンボウ先生から僕と同じ質問を受けた少女の返答は、各種文字や記号が組み合わさった暗号のようなものだった。

意味を成していないのは僕と同じだが、白い○が並んでいるだけの状態とは深刻さの度合いが違うらしい。


海亀さんは海溝の底みたいに沈み込んだ僕らにかける言葉もなく、無言のままカートを運転して二人の患者を竜宮城へ運んだ。



─連絡通路前─


男「海亀さん」

従業員4「はい。なんでしょう」

男「ここでちょっと、叫んでもいいですか? 海に向かって」

従業員4「ええ…… 別にかまいませんが」

男「では」




俺 は 永 遠 の 夏 休 み な ん か ま っ ぴ ら だ !




少女「スッキリした?」

男「あんまりしない」


少女「でもすごいじゃん。男、今『俺』って言わなかった?」

男「言った。たぶん生まれてはじめて」

少女「今からそっちに切り替えなよ」

男「いや…… 違和感ありまくりだ」

少女「えーなんで? あ、でも考えてみると、少年が男になるより男が少年めざすんだから、逆効果かもs」


「バッギャロオオオオオオオオオオオoueeeeeaaaaiiiiiiiiiiiii!!!!!!!!」


少女「なに今の?」



「HAOOOOOUYYYIIIIIIiiiiiii!!!!」


ガシャーン


乙姫「タコ! ヒラメ! サスマタ持ってきて」

従業員1&2「はい!」ダダダ

男「どうしたんだ……」


(姫の執務室から)「オデノゥォァァァァァァァァァずぅいんすぇいグァァァァァァァァァァァァ、ごの、ぐぞウォンナのぜいデァァァァァァァァァァァァァァHYOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOuuuuuuuuuuuuuu!!!!!」


男「浦島さんだ……」



ドッシャーン
ガラガラ


乙姫(執務室内)「お願い、太郎ちゃん私が悪い! 私が悪かったから物を壊すのはやめて、ね? いい子だから!」

浦島「ヴァカどぅあれごのグザレビッチぐぁおみゃえのぜいでごの、オデはぅぁぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇFUuuoooooooooooooooooo!!!!!!」

従業員3「また派手にやっとりますな……」

少女「いったい…… どうしたんですか?」

従業員3「なに、お酒を飲むとあの調子なのです。でもきょうはいつにも増してひどい…… 姫に手を上げるのだけはやめてほしいのですがね…… 姫は『お前たちが口出しすることじゃない』の一点張りですから」

浦島「オデェのぅお、ぜんごびゃぐねんウォ、がえじやがれごの、グゾウォンナァァァァァァァァァァァァァァァァッ!!!!!!!!」

従業員3「いかがです? ランチの前にご入浴でさっぱりされては? 『魂の洗浄』を選ばれますとあのような(ガシャーン)お苦しみからも解きはなたれるかと」

男&少女「結構です!」


少女「姫、私も手伝います!」ダッ

男「少女!」

乙姫「こ、これはお恥ずかしいところをお見せいたしました! すぐに鎮まりますので、どうかあちらでお待ちください」

少女「いいえ! 浦島様ここを出ましょう! 地上へ戻って、本当の人生を!」

乙姫「どうかここはわたくしどもにお任せになって! お客様のご迷惑になっては本当に心苦しゅうございますので!」

浦島「呼んだか」

少女「浦島様!」

浦島「……なんだガキか。ガキは寝かせとけって言っただろこのアバズレ」


乙姫「駄目じゃないのお客様の前で! ほら、お部屋に戻って」

浦島「タコ! シャブリ持ってこい」

従業員2「はいただ今!」

浦島「てめぇ。今からシャブリ尽くしてやるからな」グイッ

乙姫「え? ちょ、あなた何時だと思って…… 駄目だってば、お客様の前で…… あ! はぁッ…んぐっ……」


ピシャ!


少女「」


男「レストランにいるから……」



どうしてなのか、少女に付き添っていてはいけない気がした。


そして、ばつの悪い大人の世界の一幕を垣間見てしまった幼児みたいに、僕はレストランに避難した格好になったのだ。


少女がレストランに姿を現すまでの20分ほどの間になにがあったのか、僕は知らないし知りたくもなかった。


少女「お待たせ」

男「大丈夫?」

少女「平気。姫は取り込み中だけどランチには同席するんだって」

男「えええ?」


少女「私たちにとってもその方が助かるよ? この後の予定を相談しないといけないし」

男「まあたしかに。……君はきょう帰るのか」

少女「うん。男はここに残る?」

男「いったんは戻らないと。長期滞在にするにしても、親に相談して、休学の手続きも取る必要があるから」

少女「でも信じてもらえないよ?」

男「そうなったらそれまでかな…… 証拠写真でも見せようか」

少女「ここ、写真撮影だけは厳禁なの」

男「やっぱりね。どれくらいの期間になるのか。10年、20年…… そんなになったら、たとえ信じてもらえても絶対にOK出ないと思う」

従業員1「まもなく姫がまいります」

男&少女「!」


   ・
   ・
   ・
   ・
   ・

乙姫「お待たせして申し訳ございません」

男「い、いえ。よろしいのですか?」

乙姫「ええ。お見苦しいところを。先ほど、少女様は夕方お帰りとうかがいましたが」

少女「はい。お薬もいただきましたし、地上のお医者様あての紹介状も」

乙姫「それは…… 本当によかったですね。お大事になさってください。男様は」

男「僕は長期の加療が必要らしいです。しかしこのまま失踪者になるわけにもいきませんので、いったん帰ろうかと思ってます」

乙姫「そうですか……」

男「学校のこともありますし、両親が承諾するかどうか。それに滞在費の問題も」

乙姫「……」


少女「私が男のご両親に会って、事情を説明するよ。もし駄目なら実際に見てもらうしか…… 姫、海亀さんのお迎えを出していただけます?」

乙姫「男様のご両親をお迎えするのですか?」

少女「はい」

男「警戒するだろう。警察に通報されるのがオチだ」

少女「だったら警察にも来てもらえば?」

乙姫「」

少女「男が自分で説明したって同じだよ。心療内科へ送られるのが関の山でしょ」

乙姫「そうですね…… 参考までに申し上げますと、長期滞在しなければいけない事情を説明しにお帰りになられて、また戻ってこられた例は皆無なのです。この点も踏まえて、男様がご自身で判断なさるしかないのですが」

男「分かりました。……ここに残ります」

少女「いいのそれで?」


乙姫「では、わたくしからも一つ提案を。5日目以降は自動的に長期滞在に切り替わるのですが、2週間分はサービスということにさせていただいても」

少女「2週間…… 地上ではどれくらいに」

乙姫「およそ10年です」

男「……そのころ少女はもう立派な大人。たぶん結婚して子供もいるのでは」

乙姫「2週間のうちに地上での加療に切り替えて差し支えなしとなったら、お戻りになればよろしいのです。その間の滞在費は頂戴いたしませんので」

男「いいんですか?」

乙姫「ええ。ただし、当地の時計ではあくまで2週間ですので、スケジュール的に余裕があるとは申せませんけれど」

少女「2週間プラス短期滞在分の4日で18日。やれる?」

男「やるしかない…… 考えてみれば、昨日ときょうで10年分くらいの経験をした。こうやって一日一日を積み重ねていけば、あるいは」

少女「ランチが来たよ。食べながら考えよう?」



人生の重大事だ。


名前を取り戻したところで、その名前は戸籍上の生年月日、続柄、本籍地に拘束されている。


結局、否応なしに10年分の遅れを僕は背負わなければならない。


ではこのまま治療を拒否し、魔物としてのうのうと地上に舞い戻るつもりか。


それは僕自身が病そのものと化すことを意味する。そしてこの病は、僕が生みだしたものではない。


所詮はどこかから僕に感染したにすぎないのだ。


そんなものの奴隷になるのはご免こうむる。僕の決意は固まった。



 ─竜宮城正面ゲート─


乙姫「ではお気をつけて。ご都合のよろしいときにはまた遊びにいらしてください」

少女「お世話になりました。浦島様によろしく」

乙姫「まだご利用になってないアトラクションがございますのでね、お気が向いたら」

男「さようなら少女! 幸せになってくれ」

少女「なに言ってるの…… 気合い入れて、長期に入る前に治しなよ」

男「気合いならもう、今まで経験したことのないくらいに」

少女「がんばってね。2学期に入っちゃったら…… みんなに…… 旅をしてる、って言っとくから」

男「泣かないでくれよ…… ううっ……」



従業員4「よろしいですか? ……ではそろそろまいります」



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かつて鮫に乗った少女であった私は、海亀に乗った少女として地上へ戻った。


帰ってすぐ、勇気を奮い立たせておもむいた男の両親のもとで、私は罵声を浴びながら自分でできうる限りの事情説明をした。


当然本気にしてもらえるはずはない。

男の両親は警察に捜索願を出し、私も警察に呼ばれた。そして同じ説明を繰り返した。


警察に呼ばれたのはそのときだけ。


10日後の指定日時に、私は海岸で待った。

警察も学校関係者も現れず、予定時刻を3分ほど遅れて男の両親は姿を現した。

そして海亀に乗った中年夫婦が何度も振り返りながら波間に消えるのを、私は砂浜から見送ったのだった。


男の両親は翌日戻り、私は憑き物が落ちたような表情の父親から「だいたいのことは納得した」と告げられた。

両親はその後もときどき息子に会いに行っているらしい。



それから8年。


私は大学を卒業し、証券会社に入社して金融戦争の最前線に身を置いている。


勤めはじめて1年で何度、心が折れそうになったことか。


そのたびに思い出すのは、あの海底ですごした2日間。

海底に没した古代文明、男の横顔、アルベルトの声、そして「白い恋人たち」。

バフンウニから見上げた、海面に揺らめく太陽。



そんなある日、音信不通だった男から手紙が届いた。



  鮫に乗った少女へ

 長期滞在に移行して10日たった。君の世界ではもう7年くらい経過しているだろう。

 便りを今まで出さなかったのは、自分のなかで区切りがついたかどうかをたしかめる

 必要があったからなのだ。意味もなく君の気持ちを忖度したわけじゃない。


 それは誤解しないでほしい。


 治療はとりあえず順調だ。この調子なら、あと4日で地上への帰還が認められると思う。

 ただ、竜宮での2週間で、僕の人間としての組成も確実に変化した。あれほど強靭に

 思われた地上の束縛が、今はほとんど感じられない。このことを浦島さんに話したら

 「それは君が病を克服しつつある徴候だよ」と笑っていたが、果たしてどうなんだろう。


 いずれ戻らなくてはならないはずの地上が、どんどん遠ざかっていく気がしてならない。


 それが怖い。不安だ。


 明後日またマンボウ先生の診察を受ける。そこでいろいろなことがはっきりするだろう。


 君に会いたい。


 もう大学を卒業して社会人になってるんだろうか。


 大人になった君の姿を見るのが楽しみだ。


 余談だが、浦島さんは地上に戻る気らしい。最近の姫は妙につれないのだそうだ。

 長すぎた春というか、永遠に続きかねない倦怠期に終止符を打つ潮時みたいなことを

 彼は言っていた。笑っちゃうね。




 君の幸せを祈ってる。君の幸福は僕の幸福。


                         男



「ナッチー昼メシ行かねー?」

「それって私に言ってんの?」

「他にだれがいるよ?」

「人の名前ぐらいちゃんと言えないの」

「言いにくいし覚えにくいだろ。ナッチーが一番言いやすいって」

「だったらあなたの脳味噌は鮫並みね。あ、ところでウクライナ国境にまた大部隊が集結してるって。週明けの東京市場はあおり食うわよ」

「穀物相場も要注意だな…… メシは?」

「ナッチーさんと行ってくれば?」


「あのさ、はっきり言うとこれは照れだよ。『ナツコ』とかでかい声で呼んだら、そりゃ夫婦だって」

「あなたがそう思うだけでしょ」

「俺じゃねえよ。周りがそう受け止める」

「だったら『周り』と昼メシ行った方がいいんじゃ? あ、マジな話だけど私、先約があるの。ごめん」

「……それ早く言えよ」

「ほんとごめん。許して。2時間ぐらいで戻るってマネージャーに言っといて」


私はタクシーに乗り波止場へ向かった。


立ち並ぶ倉庫の裏の岸壁に、彼は立っている。

私の足音に気づき、こちらを向いた。ポケットから出した手のひらをこちらに向け、握ったり開いたり。それなんの真似。


「ひさしぶり。いつ着いたの」

「2時間前。いいのか仕事抜けてきて」

「土曜日だし暇なのよ。私パスタ食べたいんだけど」

「俺もそれでいいよ。御際野那津子さん」

「昼間っからお酒は駄目よ」

「最近ビールしか飲んでないんだ」

「嘘」

「ほんとだって。しかし暑いね」


「ずいぶん涼しくなったわよ。言っとくけど、四季の変化は結構厳しいからね。5年も至れり尽くせりの環境で生活してたんだから大丈夫?」

「なんとかなるさ。こう見えても灼熱の砂漠とか酷寒の土地にも出掛けたりしてたんだ」



私は彼の腕を両手で抱える。自然と足元を見るような格好になる私。

そうやって私たちは岸壁に背を向け歩き出す。


「ただでさえ暑苦しいのに、そうくっつくなよ」

「いいじゃない。照れる?」

「8年たってそれ相応に大人になったんだろ? それらしくしろよ。俺の方が追い越されてガキに見えても不思議じゃなかったのに」

「私にお姉さんポジションを強要する気?」

「どういうノリだよそれ」


「ねえ太郎ちゃん」

「ん」

「なんで手ぶらなの?」

「荷物は全部別送してあるよ」

「それって変」

「どうして」

「だって…… 浦島太郎は玉手箱を大事に抱えて帰ってくるのがお約束でしょ」

「おい…… そんなの考えもしなかったよ。欲しけりゃ後で届けさせるか?」


「冗談。本気にしないで」

「悪乗りしてやってるだけだ」

「ねえ、話変わるけど姫にときどき手紙書いてやって」

「『そういうことはするな』ってさ。一人で生きてけって言われたよ」

「さびしくないのかな」

「俺よりもっといい男見つけるだろ」

「新たな浦島伝説の始まりだね」

「浦島ってのはこれで終わりだ。次は佐藤でも高橋でも山田でも勝手にやってくれだ」

「帰るって言い出したら…… やっぱり玉手箱持たせるのかな」

「そんな甘いもんじゃないってよ。ずっとおそろしいものを持たせてやるってさ」

「怖!」


私の名は御際野那津子(みぎわの・なつこ)。きょうから彼と暮らす。

彼と一緒に生きていく。


終わり


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