高木「人生に乾杯を!」 (195)
【序】
いつもの店の、いつもの席に座り、いつものヤツを頼む。
いつもと違うのは、アイドル諸君らと一緒に来たこと。
そして、珍しく私が誘われる側だったということだ。
「余計な連中まで呼んだ覚えは無いんだがな」
キミはそう言って悪態をつくが、彼らを仲間外れにするわけにもいかない。
「せっかくお互いにフェスをやり終えたのだから、共に労ってやりたいじゃあないか」
そう言うと、キミは鼻を鳴らし、黙ってグラスを傾ける。
吉澤君は、その様子を横目で見ると、ふっと笑い、煙草に火をつけた。
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ウチのアイドル達だけでなく、律子君らプロデューサーの二人、そして――。
ジュピターと言ったかな、彼らも少し緊張しているようだった。
天海君達と一緒のテーブルについたものの、しきりに店内をそわそわと見渡している。
程無くして、マスターが私のグラスを差し出してくれた。
「遅れてすまなかったね」
そう言って、私は乾杯を促したが、案の定キミは何も反応してはくれない。
仕方がないので、同じく苦笑した吉澤君と、キミを挟んで乾杯の仕草をした。
珍しく誘ってくれたというのに、キミは事情を一言も話さないままだ。
まぁ、無理に聞き出すこともあるまい。
私と吉澤君は、話が始まるまでただ無言で待った。
招待された歌手の歌声と、微かに聞こえるアイドル諸君らのお喋りに耳を傾けながら。
次こそは負けねぇ、という威勢の良い声と、天海君や美希君の笑い声が聞こえる。
いつの時代も、共に切磋琢磨し合える関係というのは良いものだ。
我慢比べ――と、キミも思っていたのかは分からない。
お互いに、2杯目のグラスを少し進めたところで、ようやくキミは切り出してくれた。
「私は――」
私と善澤君は、あえて視線を向けることなく、黙って耳だけを貸す。
「――貴様にだけは負けるまいと、いつも思っていた。
なぜそう思うようになったのか、今日のフェスが終わった後、考えていたのだが――」
トンッ、とグラスを置き、中の氷がカランと響く音が聞こえた。
「貴様らにも、過去の記憶を紐解くのに協力する義務がある。
無論、セレブな私は記憶力も完璧であるから、貴様らは黙って頷いていれば良い」
回りくどいなぁ――要するに、昔話をしたいというわけか。
今日のフェスを受け、ということは、キミも我が765プロの力を認めてくれたのだろう。
そして、なぜ今になって自身の行いを振り返りたいと思ったのか――。
今夜は、なかなか面白い話が聞けそうだ。
【1】
資料を一通り揃え、時計に目をやると、もう10時をまわっている。
本当は9時半くらいには事務所を出たかったのだが、少し準備に手間取ってしまった。
「じゃあ、行ってくる」
独り言のように呟くと、ソファーの方から暢気な返事が返ってきた。
人の苦労など知らず、いい気なものだ。
マフラーを忘れてしまったことに気づいたのは、駅が見えてきた頃だった。
気づけよ馬鹿――舌打ちしながら僕は自販機で缶コーヒーを買い、仮初めの暖を取った。
電車に乗り、事務所で揃えた資料と手帳に目を走らせる。
これからスカウトしに行くアイドル候補の通学先と、スケジュール表だ。
今日スカウトするのは二人――。
時間帯的に、一人目は昼食に誘うことになるだろう。
一通り頭の中でシミュレーションした後、僕は資料を鞄にしまった。
高木は、そろそろレッスンに向かった頃だろうか――。
能力こそあれ、アイツのことはどうしても認める気になれない。
僕と高木の役割分担は、至って明瞭だった。
僕がアイドルの候補となる人材をスカウトし、高木が育てて売り込む。
僕の方が、良い人材を見つける能力に秀でる一方、高木は人を育てるのが得意だった。
仕事やライブの時は、僕が事前に戦略・企画立案を行い、高木が陣頭指揮を執る。
ただ、アイツは何というか、あまりカッチリとせず、感覚で物事をこなすタイプだった。
アイドルの各人がどのようにレッスンを行い仕事をこなしたか、あまり記録に残さない。
これでは、万が一後でつまずいてしまった際、反省のしようも無い。
しかし、なお腹立たしいのは、それでアイツは案外上手くやれているのである。
文句の言いようも無い上に、さらに、アイドル諸君らは僕よりも高木に懐いている。
そりゃあ、僕よりもアイツの方がレッスン等で一緒の時間は多いけど、何か不公平だ。
適当だけど、サバサバして明朗快活な方が、若い子にはウケが良いのだろう。
僕みたいな、地味で几帳面な男と比べりゃ、まぁ、やっぱりそんなもんか。
第一、今はそういう懐いてくれる――もとい、育てるべきアイドルが不足している。
業界の厳しさを目の当たりにして、次々と辞めていき、今残っているのは二人だけだ。
僕がどうだという話ではなく、事務所の存亡の危機に目を向けなくては。
雑念を振り払い、僕は乗り換えの駅で降りた。
スカウトする予定の子がいる大学は、ここからもう15分くらい電車に乗る。
「う~ん――あの、とても光栄なお話であるのは良く分かるのですが――」
今日スカウトする一人目の子は、見た目とは裏腹に結構身持ちの堅い子だった。
昨今のアイドルブームに乗っかろうと、抵抗無く食いつく子も多いというのに。
「不安に思うのも無理はない。
でも、君のダンスセンスは、今後のアイドル業界の未来のためにも必要だと思うんだ」
嘘は言っていないつもりだ。
昨今は、人形のような容姿とゆったりとした振り付けをウリとする女性アイドルが多い。
しかし、僕達が求めるのは新風だ。
電子音を取り入れた、アップテンポなエレクトロニック・ダンス・ミュージック――。
まだ日本でのブームの兆しは見られないが、いずれ必ずそれは来る。
それを体現できる女性アイドルを、僕は求めているのだ。
最近は、「ぶりっ子系」だの「本音派」だの、アイドルの在り方も細分化が進んでいる。
くだらない――僕は、このジャンルで日本のつまらないアイドル業界を席巻してやる。
だから、この子の運動神経を手放したくはないのだけれど――。
「実は私、卒業後は父が経営する会社に勤めることが決まっていまして――」
「えっ、あ、そ――そうなんだ」
家のことを持ち出されると、さすがにキツイ。
高い身長、控えめだが美しいボディライン、ショートカット、キリっとした目鼻――。
正直、好みではある。が、ダメか――。
「あっ、いえそんな、お支払いします」
やはり、大学に進む子は、こういう所にも育ちの良さを感じさせるものだ。
ますます別れるのが惜しくなる。
僕は、なけなしの金で昼飯代を二人分払い、店を出た。
「えーと、次次――」
無念、だが引きずるな――こういうのは割り切りが、切り替えが大事なのである。
二人目の子がいる高校は、幸いにもここからそう遠くない。
今度こそ綿密に戦略を立てて、スカウトしてやる。
そうでないと、高木になんて言われるか――アイツに馬鹿にされるのだけはごめんだ。
時間も潰す必要があるし、とりあえず、喫茶店でも探そう。
二人目の子は、先ほどの子とは違い、とても明るく元気な子だった。
「本当に、私をアイドルにしてくれるんですか!?」
おまけに、アイドルというものに強い憧れもあるようだ。
さすがは高校生。未来が眩しくて仕方がない年頃なのだろう。
「僕達は、日本でのエレクトロニック・ダンス・ミュージックの確立を目指していてね。
君のような、抜群の運動神経を持った子じゃないと体現できないんだよ」
「え、えれくっとろ――な、何ですかそれ?」
あまり頭は良い方ではないらしい。そこも、さっきの子とは違いそうだな。
だが、見方を変えれば扱いやすいということ――決してマイナス要素ではない。
こうしてちょっと専門的な言葉を使ってみせて、興味を引かせるのも容易というわけだ。
「ヨーロッパで生まれたディスコミュージックが派生したものさ。
ちょっと聴いてみるかい?」
そう言って、僕は手持ちのラジカセにカセットを差し込み、再生してみせた。
公園を往来する人々には煙たがられたが、いずれ彼らにもその魅力が分かる日が来るさ。
「す、すごい! 何か変な音がしてる!」
案の定、目の前の子は僕のラジカセに釘付けだ。
おそらく、その魅力の半分も理解していないだろう。だがそれでいい。
わざわざ重たいラジカセを持ってきたかいがあったというものだ。
さて、それじゃあ事務所まで連れて行くか。
「良かったら、事務所でその辺の詳しい話もするけど――どう、来る?」
「あっ、はいもちろん! 行きます行きます!」
目をキラキラさせて、少女は僕について来ようとする。
胸がでかい――馬鹿な女ほどその傾向がある、というのは誰にも公言しない僕の持論だ。
男性ファンの獲得も容易いだろう。
「おーい、アキコおめぇ何やってんだ?」
ふと、聞きなれない声がした方を見ると、制服姿の大男がすぐそばに立っていた。
この子のツレか――勝手な印象だが、総身に知恵が回りかね、と言ったところか。
「あっ、ケンジぃ?
私ねー、この人の事務所に行ってアイドルになるんだー、すごいでしょ!」
女の子は僕の腕に抱き着いて、はしゃいで見せた。
突然のことで、僕は無意味な動揺をしいられている。
「はぁ? おめぇ馬鹿か、こーいうのはエロビデオの勧誘に決まってんだろ」
「えっ?」
大男が言葉を発した瞬間、女の子の顔が凍りついた。
「おめぇ、胸でっけぇもんなぁ。
頭もわりぃし、おだて文句で良い気になった所をガブリ、ってなるのが関の山だろ」
何を言ってるのだコイツは。
いや、この流れは非常にまずい。何とか誤解を解かねば。
「い、いや違う。僕は決していかがわしい者では――」
「――よくも騙してくれたわね、こんの変態オヤジっ!!」
少女から渾身の平手をモロに喰らい、僕はしばらく気を失った。
馬鹿かコイツは。なぜこうも人の言うことをホイホイ信じるのだ。
――甘言でスカウトしようとした僕が言えたことではないが。
左頬がまだヒリヒリと痛む。
道端に放置された車のサイドガラスで少し確認したら、相当腫れていた。
今日は色々と散々な日だ。
思えばマフラーも忘れ、一人もスカウトできず、まして一人から平手打ちを喰らう――。
駅に向かう道すがら、すれ違う人達の誰もが僕の顔を凝視し、すぐに目線をそらす。
ヒソヒソと、笑い交じりに話す声も聞こえる。
頬を腫らした男が汚いスーツを着て、ダサいラジカセを持って歩いているんだものな。
高木も笑うだろう。僕だってお笑いだ、笑うしかない。
日も傾きかけている。
事務所に帰り着く頃は、もう夜だ。高木も帰っているだろうな。
寒いので、自販機で缶コーヒーを買おう――。
そう思ったけど、財布にはロクに金が残っていなかったのでやめた。
寒さくらい、我慢すればいい。
だのに、この哀しい心だけはどうしようもなかった。
商店街に、聞き覚えのある歌が流れている。
上を向いて歩こう、か――まさに今の僕にピッタリの曲だ。
笑いたいのに、自分の情けなさに泣きたくなる。
鼻唄で、心の内にある負の感情と寒さを紛らわす。
そうしていた時、僕は思わず、歩を止めた。
服飾店のショーウィンドウ――。
その前に立ち、店先に並ぶ洋服を眺める女性に目を奪われたからだ。
ほんの少し緑がかったセミロングの髪。
右の目元にある泣きぼくろも、何だかセクシーだ。
それでいて、穏やかなで優しそうな印象を与える横顔。
庇護欲をそそられる小さい肩。
コートを着ていても、目で見て分かるほど魅力的なスタイル。
いや、ダメだ。
僕はダンス・ミュージックを日本に流行らせてやるんだ。
良く見ろ、ヒールを履いてるぞ。
スカートの裾から覗かせる脚の線も細すぎる。
およそ激しい運動なんてしたことございませんと言わんばかりのお嬢様じゃあないか。
今、僕が求めているのとは真逆の子だ。
でも胸でかそうだなぁ。
いや馬鹿、そうじゃない。
あ、でも胸でかいから馬鹿なのかも。
いやぁいかんいかん、落ち着け。落ち着くんだ黒井祟男。
お前の求めるアイドル像は何だ。
業界に漂うつまらん閉塞感を新風で払ってやるんじゃなかったのか。
それには彼女ではダメなのだ。そのくらい分かるだろう。
だからここは無視して通り過ぎるのだ、いいな。
「あ、あの――」
「? ――は、はい」
遅かった――気づけば僕は声をかけ、彼女も返事をしてしまっていた。
「あ、いや――」
馬鹿か僕は、何で声をかけたんだ。
この子にダンスをやらせる気か? 絶対無理だ、賭けてもいい。
そもそも、こんなおとなしそうな子は芸能界に向いていない。
今ならまだ間に合う。適当に謝るフリをして通り過ぎるんだ。
「ぼ、僕、あの――アイドルの、事務所をしているんです」
「それで、今、良い子がいないか、探している、んだけど――えと――」
思考が定まらない。
呂律が回らない。
さっき平手を喰らったせいだ。
あぁ、何てこった。左頬が腫れているんだった。
恥ずかしい面を下げて女性に声をかけるとは、何をしているんだ。
さっきまでヒリヒリしていた頬が、いよいよ熱くなった。
頬だけじゃない。まるで顔全体に火がついたようだ。
一体どうしたいんだ、僕は。
もう帰ろう。あまりにも惨めだ。
「あ、あの――」
俯きながら、その場を去ろうと思った時、今度は彼女の方が声をかけてきた。
「今日は、すごく冷えますけれど――マフラー、しなくて平気なんですか?」
「へっ? あ、いや――」
一瞬、何を聞かれたのか理解できず、変な声が出てしまった。
マフラー――何でいきなりマフラーの話を?
「よろしければ、あの――これ、どうぞ」
そう言うと、彼女は少し背を伸ばし、その身につけているマフラーを僕の首にかけた。
突然のことで、僕は何が何やら分からない。
「あ、えっ。な、何で――君のは――」
「私は、さっき買ったものがあるから平気です。ほら」
彼女はそう言って、手に下げた紙袋から新しいマフラーを取り出し、首に巻いてみせた。
「――ねっ?」
彼女のその微笑みを見て、僕はいよいよ、耳までぼうっと真っ赤になるのを感じた。
「か、必ず返します!」
僕は急いでバッグを漁り、名刺を彼女に差し出した。
「え、あの! 良ければ明日以降で空いてる日に来てください!
マフラーは、ちゃんとクリーニングに出してその日に返しますので!」
呆気に取られる彼女を後目に、僕は大げさに咳払いをしながら足早にその場を去った。
何で、あんな約束をしたんだろう――。
明日以降などと、今からクリーニングに出して明日までに仕上がるはずないじゃないか。
その後、どうやって事務所に帰ったのか、良く覚えていない。
「お前らしくねぇなぁ」
翌朝、したくもない話をしてやったところ、案の定高木は呆れた様子だった。
「昨日クリーニングに出したっつったって、今日までに仕上がるはずねぇじゃん。
今日その子が来たらどう言い訳すんだよ」
「うるさいな、これも作戦だよ」
僕は、心にも無いことを言って、無理矢理ごまかす。
「彼女はきっとお嬢様だから、クリーニングを利用したことだって無いはずだ。
適当にクリーニング屋のせいにしてごまかすさ。
むしろ、状況を上手く利用して事務所に誘い込んだ僕の話術を褒めてもらいたい」
「つってもお前、ダンスできる子探してんじゃなかったっけ?
スカウトしようとしてた子達と同じくらい、有望だったりすんの? その子」
高木が痛い所を突いてきた。
本当に、コイツは要らない所で的を射た発言をするから嫌いだ。
「何だっけ、えーとあれ、エレキング――?」
「エレクトロニック・ダンス・ミュージックだ」
「そう、それ。
多少ニブい子が来たとしても、それなりに見れるようにしてやる自信はあるが――」
「もし本っ当に、からっきし運動できないとかいう子だったら、俺も面倒見きれねぇぞ」
高木が一瞬、不安そうな顔を覗かせ、またいつものニヤケ面に戻った。
「半端モンのアイドル担ぎ上げたって、新風は巻き起こんねぇんだろ?」
そんな事は分かってる――そう呟きながら僕は席を立ち、コーヒーを淹れようとした。
扉が開き、彼女が事務所を訪れてきたのは、その時だった。
「あ、あの――ごめんください」
高木も僕も、驚きのあまり思わずその場にコーヒーカップを落としてしまった。
「あぁ、す、すみませんっ! ビックリさせてしまって、私――!」
「あぁいやいや、大丈夫! 大丈夫だから、やっすいモンだからこんなのは!」
僕のカップは陶器、一方で高木のはプラスチック製の安物だ。
つまり、僕のだけが床に落とした衝撃で割れてしまった。
さらに、高木のヤツは僕の割れたカップをして安物だと言っている。
驚かせたことを一生懸命に謝る彼女をなだめるためだろうが、何か腑に落ちない。
美味しい所ばかり持っていきやがって、まったく。
うるさい女は好きじゃないのだが、目の前で慌てふためく彼女は嫌いじゃなかった。
高木にコーヒーを淹れるよう指示し、彼女を応接室のソファーに座らせる。
彼女はよほど恐縮しているようで、小さい肩をさらに縮ませ、ガックリと俯いていた。
「カップのことは、気にする必要ないですよ。
大分年季が入っていたし、そろそろ買い替えようと思っていたんです」
これくらいの嘘は言ってあげないと、彼女はいつまでも顔を上げてくれなさそうだった。
それに、昨日醜態を晒した分、今日は努めて紳士的に振舞おうと僕は心に決めている。
相手が大学生か高校生くらいに見えても、敬語、丁寧語――。
「改めて自己紹介しますね。
このアイドル事務所の代表をしている、黒井祟男です。あっちは副社長の高木順二朗」
高木の方を指差そうとしたら、既に高木はコーヒーを注いで傍まで来ていた。
「つっても、この事務所のスタッフは社長と副社長しかいないんだけどね」
ハハハ、と誘い笑いをしながら、高木は雑な仕草でカップを置いた。
もっと丁寧に置け。
「あ――お二人しか、いらっしゃらないんですか?」
ようやく顔を上げた彼女の表情は、少々驚いた様子だった。
「あぁいえ、あとアイドルが二人――まぁ、やっぱり少なすぎですよね」
「いえ、そんな――」
俯きつつ、必死に取り繕う言葉を探しているようだ。
余計な気を遣わせてしまったな。
「ところで、今日はコイツに貸したマフラーを返してもらいに来たのかな?」
高木が間抜けなトーンで話題を振った。
「お、おい高木――」
「いやねー、まだクリーニング終わってないんだよね。ごめんねー。
コイツ昨日かなり動転してたみたいでさ、変な約束しちゃったよね。ごめんね本当に」
そう言いながら、高木は馴れ馴れしく彼女の前で手を合わせ、顔をしかめてみせた。
ピエロを演じることで、場の空気を極力和ませようとしているらしい。
「あ、いえ、そうではないんです!」
彼女はまたも慌てた様子で、手を一生懸命横に振った。
マフラーのことじゃないのだとしたら、今日は何をしに――?
そう思っていると、彼女は手持ちのバッグを開け、ゴソゴソと何かを漁りだした。
「私があげたマフラーのせいで、アレルギーになっていないか心配で――あ、ありました」
彼女がそう言って取り出したのは、小さな軟膏?――のようなものだった。
「昨日お別れしたあと、マフラーにダニがいたらどうしようとか、心配になったんです。
首が痒くなったりしていませんか? カブレてたらいけないと思って――」
あまりに突拍子もない話の展開に、私だけでなく高木も口をあんぐりと開けてしまった。
彼女は、なおも心配そうな様子でこちらの表情を伺っている。
思えば、初対面の男に、寒そうだからとマフラーを差し出す時点でおかしな子だった。
この子は、やはり馬鹿なのかも知れない。
「いえ――大丈夫です。おかげで寒さに凍えずにすみました」
僕は、何とか平静を装い、彼女に返事をした。
高木は、その横で必死に笑いを堪えている。
「よ、良かったぁ」
この事務所に来て初めて見せてくれた彼女の笑顔に、僕は危うく動揺しかけた。
僕は高木とは違う。ニヤケ面はよせ。
ふと見ると、彼女のバッグにはタグが付いていた。
OTONASHI――。
「おとなし、さん――というのですか?」
「えっ、な、何で分かったんですか?」
「タグが付いていたので、もしやと思って呼んでみました」
冗談のつもりで言ったのだが、どうやら本当に彼女は『音無さん』だったらしい。
音無さんは、僕のことをエスパーだ、超能力者だと絶賛しだした。
彼女のツボが良く分からない。
これ以上ペースを乱されるのは癪なので、本来の業務を果たそう。
「ところで――音無さんは、アイドルというものに興味がありませんか?」
「アイドル、ですか?」
右の人差し指を頬に寄せ、少し考えて彼女は答えた。
「すごいなぁって、テレビを見て思ったりします」
「運動や、音楽に関する経験は、何かありますか?」
「運動、は全然ダメです。
鈍臭いから、小さい頃、かけっこでもいつもビリだったし。歌は好きですけど――」
「それが、どうかしたんですか?」
音無さんは、僕の質問の意図を推し量りかねている様子だった。
「おい、黒井」
高木が僕の腕を掴み、強引に席を立たせる。
そのまま、事務室の奥の方まで引っ張られたところで、高木は切り出した。
「お前、あの子をスカウトする気なのか?
さっき話をしたろ、あの子は本当にお前が求めている子なのか?」
高木は、先ほどとは打って変わってひどく神妙な面持ちだ。
そう、彼女は僕が求めるスキルをおそらく持っていない。
そんな事は分かっている、だが――自分でもどうしたいのか良く分からない。
「第六感というのだろうか――こんな思いは初めてだ。
僕自身、オカルトチックな考えは好かないのだが」
「ならいい」
高木はアッサリと僕を解放した。止めるんじゃなかったのか?
「スカウトするとお前が決めたのなら、俺が文句を言う筋合いはねぇよ。
そういう役割分担だからな」
高木は親指を立て、それを自身の後ろに向けた。
「ほら、彼女待ってるぜ」
応接室のソファーに戻り、彼女に話を切り出す。
「音無さん――アイドルに、なってみたいと思いませんか?」
えっ――彼女の口から小さな声が漏れ、しばらく硬直した。
しかし、すぐにそれはより大きな驚きの声となり、小さな部屋を埋め尽くす。
「な、なっ、そんな、無理ですっ!
私みたいな田舎臭い女が、テレビでかわいくフリフリって、そんな事とても――!」
失礼ではあるが、彼女が真っ赤な顔で必死に遠慮する様は、見ていて少し愉快だった。
「それに、私、高校卒業したら、4月から短大に入る予定なんです!
あっ、今高校三年で――だから、あまりそういう事はできないかなーって」
「大丈夫大丈夫、高校や大学行きながらアイドルやってる子だっているんだ。
皆、無理のない範囲でレッスンや仕事をして、楽しんでやってるよ」
僕の横に座っていた高木が、音無さんに明るい口調でフォローする。
その言葉を聞いた音無さんの目が、少し揺らいだのを僕は見逃さなかった。
「先ほど人数をお教えしたとおり、実は今、事務所の存亡の危機なんです。
今の僕達を救ってくれる新しい人材を、僕達はずっと探していました」
音無さんが、僕の顔を見る。
「高木が言ったとおり、手が空いた時だけで構いません。
どうか、僕達を哀れと思うなら、力を貸してくれないでしょうか」
僕の見立てでは、音無さんは人一倍の気ぃ遣いで、ノーと言えない日本人だ。
アイドルになりたいと思わせるのではなく、こうして困った振りを強調すれば――。
相当悩んではいたが、ようやく彼女は僕達と活動することに同意した。
「ご、ご面倒をお掛けするかと思いますが――」
「お前も性格悪いぜ」
音無さんには後日、諸々の書類の提出をお願いし、今日のところは帰した。
彼女がいなくなった後、高木がコーヒーを片手に僕を茶化す。
「今は猫の手も借りたい状況なのは、お前も分かっているだろう」
僕が反論すると、高木は肩をすくめる。
確かに、音無さんには悪い事をしたのかも知れない。
赤の他人の頼みで気の進まない事を無理矢理やらされ、青春を奪われたくはないだろう。
だが――。
何故、彼女にそうまでこだわるのか、自分でも良く分からない。
ひょっとして、邪な気持ちを抱いているのか? まさかな。
「分かるぞ、おっぱいでかいもんなあの子」
気づくと、高木がいきなり僕のそばに顔を寄せて、肩を叩いてきた。
「お熱になるのはいいが、よろしくやるんなら俺の見てないところで頼むぜ」
「黙れっ! さっさと仕事に行けよ!」
僕に一喝され、高木は後ろ手に手を振りながらコートを取り、事務所を出ていった。
頭をボリボリと掻きながら、僕は気を取り直してコーヒーを淹れようとカップを探す。
クソッ――そういやさっき割れてしまって、僕のカップが無いんだったな。
ふと見ると、彼女が飲み残していった、テーブルの上のコーヒーカップが目に留まった。
あれか、高木のカップしか無いんだよな――。
僕は、スポンジにたっぷり洗剤を含ませ、彼女が使ったカップをよぉく洗った。
アイドルの卵を探すには、フィールドワークが基本だ。
己の嗅覚を頼りに、求める子がいそうな場所を手当たり次第に訪ねていくしかない。
音無さんのようなケースは、初めてと言っても良いくらい非常に珍しいものだ。
ああいう出会いは、今後期待しない方が良いだろう。
事務所にいながら、電話帳のように欲しい人材を探せる手段があれば良いのにと思う。
検索サービス、とでも言えば良いのか――ゆくゆくはそういう技術も発達するだろうか。
とはいえ、無いものねだりをしている暇も無い。
午前中に回った中で、運動部の優秀な成績をまとめた冊子をくれた学校があった。
とりあえず、ティンとくる子がいないか見てみるか。
そう言えば、音無さんは高校三年生と言っていたな。
私服姿しか見たことが無いが、制服姿もまた違った魅力があるのだろう。
おそらくもう見る機会が無いのが、少し残念ではある。
馴染みの喫茶店に入り、コーヒーを頼んで席に着く。
関東大会ベスト4――。
県大会優勝――。
中には、マイナースポーツながら全国大会への出場実績がある部も――。
だが、いまいち魅力を感じられない。
無論、決して悪いわけではない。
これほどの子達なら、高木の特訓次第でそれなりのアイドルには育つだろう。
音無さん――彼女は心配だな。
落ち込みやすそうだから、出来る限り褒めて伸ばした方が良さそうだな。
運動神経が無い子に無理をさせないよう、よくよく高木に言っておかねば。
「お客さん」
「へっ?」
喫茶店のマスターが、急に僕に話しかけてきた。
「相席、お願いしても良いですかね」
「えっ――あっ、えぇ、どうぞ」
カウンター席は、既にほとんど埋まってしまっている。
僕が一人で占領していた4人掛けテーブルの向かい側に、若い優男が座ってきた。
「どうも、すみません」
「いえ」
歳は、僕よりも少し若いくらいだろうか。
カジュアルに着崩したスーツは僕よりもキマっていて、何だか見てて腹立たしい。
少し茶色がかった髪を見るに、同業者か、もっといかがわしい業界の人間か――。
なるべく意に介さないよう、僕は再び目線を冊子に落とした。
だが、さっきからいまいち思考がまとまらない。
気になるのは、音無さんの学校に同じような冊子が無いか、ということばかりだ。
思えば、僕はまだ音無さんがいる学校のことも知らない。
早く書類を持ってこないかな――。
「スカウト、ですか――」
突然、目の前の男が口にした一言に、僕は驚いた。
彼の顔を見るに、ただの独り言ではなく、明らかに僕に向かって話しかけてきている。
「いえ、もしかしたら同業の方かな、と思っただけですので――。
お邪魔をしてしまい、すみません」
優男は、以前として笑顔を崩さず、僕を見つめている。
彼の狙いが分からない。
「同業の方、とは――失礼ですが、どのようなお仕事を」
心情を悟られないよう、努めて冷静に、彼に聞いてみた。
「アイドルのプロデューサーです。
と言っても、まだ駆け出しですが――あなたもですか?」
「えっ? えぇ、まぁ」
「何となくそんな気がしました。音楽の趣味も合いそうだな、ってね」
驚いた拍子に、つい自分の素性を明かしてしまった。
良いように踊らされている気がして、何だか気分が悪い。
だが、次に彼が続けた話に、僕は少し興味を引かれた。
「最近の音楽業界は、どことなく閉塞感を抱えているような気がしてならない。
細分化とは言いますが、無秩序な分散化は音楽というジャンルの価値を下げるだけです」
「誰からも愛され、口ずさめるような曲――。
それこそが、僕達プロデューサーが目指すべきものであり、世に示すべきもの。
そう思い格闘する毎日ですが、実績も名誉も、何も力を持たない僕が言っても、ね――」
ニーズの多様化に伴うサービスの細分化は、決して間違いではない。
言わばアイドルは商品であり、プロデューサーはそれを売り込む職業だ。
ニーズに合わせて売り手が戦略を変えるのは当然であり、無秩序でも何でもない。
そうであろうと、生存競争の中で起きる事象なのだから、良い悪いの話ではないのだ。
自分の仕事を、高尚なものとでも勘違いしているのか? コイツは。
一方で、方向性は違うようだが、業界の未来を見据えている点は評価してやっても良い。
「あなたは、どう思いますか? 同じプロデューサーとして」
おまけに面倒くさい男のようだ。適当にあしらっておくに限る。
「そうですね――私もそう思います」
「ありがとう。同じ志を持つ人に出会えて、嬉しいです」
男は時計を見て、少し大げさに驚いてみせる。
「あっと、いけない。
ちょっとコーヒーを一杯飲むだけのつもりが、随分と長居をしてしまった」
「すみません、長々と喋ってしまって。
外で同業の方と出会うのが珍しいものですから、嬉しくてつい日頃の愚痴を」
男は席を立った。アイドルのレッスンに付き合うのだという。
「学校の冊子等、組織のパンフレットから良い人材を探すのは、僕も度々やります。
よろしければ、協力できることがあるかも知れませんので、もし気が向いたら――」
男は胸元からサッと名刺を取り出し、お金と一緒にテーブルの上に置いた。
「これは失礼。黒井と申します」
僕もお返しに、名刺を差し出した。
得体の知れない輩に名刺などあげたくもないが、ふとした縁でどう転ぶか分からない。
無難な対応をしておくのがベターだろう。
「あ、あとお金が多いようですが――私の分まで出していただかなくとも――」
「いえ、良いんです。僕の話にお付き合いいただいたお礼として、奢らせてください」
男はそう言って、僕の社交辞令を丁寧に断り、会釈した。
「共に音楽業界を背負う者同士、頑張っていきましょう」
協力できることがあるかも知れない、だと? 何を馬鹿な――。
武田蒼一――良く分からない男だ。
彼の名刺を訝しげに眺めていると、先ほど閉まったばかりの店のドアが突然開いた。
「黒井、いるか!?」
入ってきたのは高木だ。この時間はレッスンのはずだが――。
「騒々しいぞ、高木」
「あっ、いた!」
「店にも迷惑だろう」
「うるせぇな、後でいくらでも謝るから聞け!」
「エリ子とアサ美が、ウチを辞めちまいやがった! 二人ともだ!」
「なっ――」
あまりに突然なことを高木から告げられ、僕は言葉を失った。
「二人とも、つい数ヶ月前に入ったばっかだったのに――。
普通の女の子に戻りたい、だとよ。クソッ、いっちょまえのことを言いやがって!」
高木が机をドンッと叩く。他の客がこっちを見ている。
「奇妙な言い方だが、彼女達を普通じゃなくしてあげるのが、お前の仕事だったはずだ。
お前がついていながら、まさか今になって普通が魅力的になるとはな」
「だから腹立ってんじゃねぇか」
高木は、いつになく怒っていた。
普段はヘラヘラしているが、仕事に対してはコイツなりの真面目さがある。
「4月にもなりゃ、学生は学年が変わるし、卒業する子だっている。
節目を迎える前に、自分の進路を見つめ直す子は、そりゃ多いだろうよ」
「俺が許せないのは、その転換期にアイドルの魅力を彼女達に教えられなかった俺自身だ」
クソッ――コイツの口からは、さっきからその一声ばかりが漏れていた。
現役の所属アイドルが一人もいなくなったという事実を、コイツも重く受け止めている。
だが、こういう事態は、ロクにスカウトできていなかった僕のせいでもある。
それに、まだ候補生だが、アイドルが一人もいなくなったわけでは無い。
「こうなったら、音無さんに賭けるしかないか」
椅子にもたれ、天井を見上げながら、僕は半ば諦めるように呟いた。
「あまりこう、彼女に過度な重圧をかけたくはなかったんだけどな」
「でも、もう四の五の言ってらんねぇだろ」
高木が僕に詰め寄る。
「あの子で一発逆転、かましてやるしか道は残されてねぇんじゃねぇのか?
お前の言うエレキングなんたらをよ」
「エレクトロニ――」
「あぁいい分かった何でもいいよ。
運動神経があろうと無かろうと、お前の求めるレベルまで俺があの子を育てる!
それで決まりだ、なっ?」
まくし立てながら、高木は自身をも鼓舞するかのように、僕の肩をバシバシと叩いた。
高木は難題が降りかかっても、さも簡単そうに言う。
実際、何だかんだで上手く収めるコイツの手腕に助けられたことも無いわけでは無い。
しかし、今回は、少なくとも僕にとっては程度が違う。
エレクトロニック・ダンス・ミュージックは、僕にとって隠し玉――最後の切り札だ。
業界を席巻するには、中途半端なインパクトでは許されない。
下手をすると、エレクトロニック・ダンス・ミュージックそのものの評価に関わる。
そして、一度落ちた評判を覆すことは並大抵のことではない。
ここぞのタイミングで、確かなクオリティのものを突きつけてこそのインパクトだ。
問題は、彼女にそれだけのポテンシャルがあるか、僕達にそれを引き出せるか――?
結局、その日もあまり良い成果は挙げられなかった。
音無さんをどう育てるかについて頭が一杯になり、スカウトに集中できなかったのだ。
高木然り、僕も未熟である。
今のうちから心配ばかりしていても仕方がない。
まずは、彼女をレッスンに連れて行く。考えるのはそれからだ。
二日後、音無さんが書類を持って事務所に来た。
未成年なので、契約に当っては保護者、つまり親の同意書等が必要になるのだが――。
ん――苗字が違う?
「あの――ここの、保護者の方のお名前なんですが――」
僕が聞くと、音無さんはすごくバツが悪そうな顔をして、モジモジしだした。
「あぁ、いえ、事情がおありであれば、無理にお答えいただかなくとも――」
「いえ、すみません」
音無さんは、視線をテーブルの上の書類に落としながら、答えた。
「私の、許婚の方なんです――歳は、少し離れているけれど」
音無さんは、ポツポツと僕に語ってくれた。
祖父母の代から決まっていた相手であること。
彼女の両親は既に他界し、相手方の家に居候している身であること。
20歳になったら結婚する約束であり、それまでは自由にして良いと言われていること。
四年制の大学ではなく、短大への進学を志望したのもそのためか。
「だから――アイドルをやれるとしても、二年くらいだけなんです」
「――ごめんなさい、大事なことなのに、今まで黙っていて」
「あぁいえ、そんなことは――そうでしたか」
まさか、音無さんがそんな人生を抱えていたとは――。
物憂げに同意書を見つめる目の前の女性は、年下のはずなのに、どこか大人びて見えた。
「おーっす、どうだ終わったか?」
次の言葉が見つからなくなった僕達の間に、高木が割り込んでくる。
コイツは、良い意味でも悪い意味でも、つくづく空気が読めない男だ。
「何だよもう、こんなの時間かけなくていいよ、オッケーオッケー、終わり! 契約完了!」
「あのな、契約の話なんだからお互い慎重に――」
「後でお前が確認して、不備があったら電話して出し直してもらえば良いじゃねぇか」
顔をしかめる僕を尻目に、高木は音無さんの方に向き直った。
「ほら、おっちゃん、早くレッスン行こうぜレッスン! 運動着持ってきたでしょ?」
「お、おっちゃん――?」
自分のことを言っているのだろうか――突然の呼び名に、彼女は顔を赤らめて困惑する。
「そうそう、音無さんって呼び辛いからさ。おっちゃん」
「高木、お前レディーに向かってなんて失礼な――」
「いいじゃねぇか、変に肩肘張らなくて。
あっ、俺らのことは遠慮なく、タカちゃんとクロちゃんとか、好きに呼んでいいからね」
そう言った後で、ん?――と高木は首を傾げた。
「あれ、そう言えばお前の下の名前って“たかお”だったっけ。
タカちゃんじゃ、お前もタカちゃんになっちゃうな。じゃあやっぱ俺はジュンちゃんか」
「黙れ、いい加減にしろ。社長として、職場の風紀を乱す行為は――」
「あ、あの――」
音無さんの控えめな呼び掛けに、僕達は口論を止めて彼女に顔を向けた。
「で、できれば――アクセントは語尾じゃなくて、“お”に付けてもらえないでしょうか?
おっちゃん↑、って語尾が上がると、本当に、おじさんみたいに聞こえちゃうから――。
ご、ごめんなさい」
ペコリと頭を下げる彼女を見て、高木は品無くゲラゲラと笑った。
僕はちゃんと“音無さん”と呼ぶことにしよう。
かくして、僕と高木と音無さんは、馴染みのレッスンスタジオへ向かった。
白のTシャツに黄緑色のジャージ上下――。
彼女が着替えてきた運動着姿は、服装こそおよそオーソドックスではあったが――。
「あ、あの――どうかされましたか?」
厚着だったさっきまでと比べ、よりボディラインが強調されている。
高木は生唾を飲んでいたが、僕もそうしていたのかも知れない。
「すみません、これしか持っていなかったもので――変な服装でしたら――」
「いぃいやいや、いいのいいの! すごい何というかアレが、うん、いいなって」
「馬鹿っ! ――すみません、何も気にしないでください」
キョトンとする音無さんを何とか誤魔化し、準備運動を始めた。
「ん――えっ、ちょ、もうダメ?」
――体が硬い。素人目の僕から見ても、柔軟体操をするその様はかなり深刻だ。
すみません、と連呼する彼女を必死になだめる高木――暗雲が立ち込める。
「よし、それじゃあ――えと、大丈夫おっちゃん?」
「は、はい――何とか――」
「む、無理はしなくて良いからね?
アハハ、じゃあえっと――この、簡単なステップから始めよっか。俺の見ててね」
準備運動の時点で、既に肩で息をしている音無さんの前で、高木がお手本を見せる。
コーチを雇う金も無いので、レッスンの進め方はほとんど我流だ。
「――と、こんな感じ。
いきなり全部はしんどいから、最初の8拍目くらいまでやってみよう、ねっ?」
気が動転して、頭にクエスチョンマークが舞っているのが、傍から見ても良く分かる。
そんな彼女に、高木は極力優しくレクチャーを始めた。
「じゃあ、まず1で右足前。そうそう、で、2、3でこう足を揃える――」
「ん――」
たどたどしいステップを踏み始める音無さん。
何度も同じところを、繰り返し繰り返し――まだ要領を得ない。
高木の渾身の笑顔も、次第に引きつり始めた。
彼女は、決してわざと手を抜いているわけではない。
彼女のこれまでの姿勢から、まず間違いなく真面目で献身的な性格であることは分かる。
だが、そう――きっと本気で、必死でやっていて、アレなのだ。
「はぁ、はぁ――す、すみません、もう――」
とうとう彼女は、そう言ってその場にへたり込んでしまった。
体力の無さも、絶望的である。
「うむ――ま、まいったな」
つい、高木の口から本音が漏れた。
慌てて取り繕うが、彼女はますますガックリと頭を垂らす。
助けを求めるように、高木は僕に視線を向ける。
助けてほしいのはむしろこっちの方だ。
僕の求めるものを実現するのは、限りなく不可能に近いようだ。
やはり、第六感などアテにするものではない。本当に、どうしたものか――。
「――そういやおっちゃんさ、歌が好きって言ってたっけ?」
それまでひどく悩んでいたはずの高木が、急にトーンを変えて音無さんに話しかけた。
「えっ? ――え、えぇ、好きは好きですけど――」
「歌う方? 聴く方?」
「ど、どっちも――」
「よし、それじゃあダンスレッスン終わり!
ボーカルレッスンしようぜ。ここと違う階に専用のスタジオがあるんだ」
呆気に取られる彼女に、早く立ち上がるよう高木はジェスチャーを繰り返す。
そうしながら、ふと僕の方に顔を向け、ニカッと笑ってみせた。
「いいよ、服装はそのままで。
顔洗ったりとかはしてきていいよ。あ、これ水ね、はいっ」
高木は音無さんにまくし立て、スタジオの移動を催促する。
ボーカルか――そこまで重要視していなかったが、一定の水準は必要だしな。
ただ、ダンスがアレでは、どのみちダメなのだ。
ボーカルに光を求めるのは、現状では現実逃避に他ならない。
いずれにせよ、高木とは音無さんの育成方針についてよくよく詰めていかなくては――。
そんな事を考えているうちに、僕達はボーカルレッスンのスタジオに到着した。
「音源は色々あるからさ、最近のアイドルの曲とか歌ってみない?」
そう言って、高木はスタジオの棚からレコードを何枚か取り出してみせた。
「好きな曲とか、どう?」
「そ、そうですね――」
音無さんは、棚に並べられたレコードを眺め、悩んでいる。
やがて、一枚のレコードを棚から引き出した。
「実は、歌ったことは無いんですけど、最近のでは好きな曲で――。
歌詞カード、付いてますよね?」
レコードをセットし、音無さんをマイクの前に立たせる。
歌詞カードを両手で持ち、少し緊張している様子だ。
多くを求めていたわけではないが――いかにも歌い慣れていない素人だな。
当然のことではあるので、今後場数を踏んで慣れてもらえれば良い。
だから、緊張でまともに声が出なかったとしても、ちゃんと後でフォローしてあげよう。
そう思っていた――おそらく高木もそうだったろう。
――――――。
僕達は、言葉を失った。
一言で言い表すならば、彼女の歌声はまさに異次元だった。
曲調のせいだけではない。
これまで聴いた、どんなアイドルや歌手よりも、彼女のそれは、すごく澄んでいて――。
誰からも愛され、口ずさめるような曲――。
数日前、武田とかいう男が言っていた言葉を、ふと思い出す。
彼女の歌声は、まさに、聴く人の心を癒し、労わり――愛す、とでも言えば良いのか。
そう――あまりに優しい歌声だった。
彼女の歌声は、誰からも愛される。
それは、誰をも愛す歌声だから。
――自分でも甚だ奇妙な感想だと思う。
しかし、音無さんの表情は、これまでに見た彼女のどんな笑顔よりも眩しく輝いている。
それを目の当たりにし、歌声を聴いたら、僕はそう感じざるを得なかった。
歌い終わり、ホッと息をつく音無さんに、高木が水を差し出した。
「すっげぇよ――本当に、こんなすごいの初めて聴いたよ」
言葉にできない――高木の表情が、何よりも彼の心情を物語っていた。
「すごく、緊張しちゃって――途中、うわずっちゃったりもして、恥ずかしかったです」
「そんなこと無い! 感動した、これは本当に」
音無さんは、高木に差し出された水を一口飲み、もう一度息を吐き出した。
謙虚、というか――おそらく、彼女は自分自身の歌声の凄さを理解していない。
プロを相手に、拙い歌を聴かせてしまって恥ずかしいと、本気で思っているようだ。
「巣晴らしい歌声でした、音無さん」
手を叩き、音無さんに賞賛の言葉を投げかける。
無論、心から出た拍手なのだが、音無さんはなおも顔を赤くさせて伏し目がちだ。
「黒井――どうする?」
高木がまるで、同意を求めるかのように僕の顔を見た。
皆まで言わずとも、何を言いたいのかは良く分かる。
「音無さん――ダンスとボーカル、どちらを武器に自分を売り出していきたいですか?」
「う、売り出す、ですか?」
返答は、僕にも分かりきっている。言わば、この問答は一種の儀式のようなものだ。
「私、あの――運動は苦手なので、歌を歌っている方が良いかなーって」
「分かりました」
僕は大きく頷き、高木の方を見た。
「稀代の歌姫誕生、だな」
そう言ってニヤリと笑う高木に、僕も思わずニヤリとしてしまった。
ようやく自分の事を言われているのを理解した彼女の顔は、夕日よりも赤く燃えていた。
【2】
彼女の歌声を録音したデモテープを持ち、さっそくレコード会社への営業が始まった。
僕らの読み通り、いずれもその反響は大きく、曲のオファーが相次いだ。
我が事務所創立以来の、一大事である。
今日の成果について報告しあうため、高木と行きつけのバーで落ち合った。
店に入ると、ジャーナリストの善澤が既に一杯やっていた。
「どけよ善澤。そこは俺の特等席だぜ」
カウンターの一番奥の席で手を上げている彼に、高木が悪態をつく。
飲んでいるのは、たぶんいつもの安いウィスキーだろう。
「まぁそう言うな。
それより、二人とも今日はやけに嬉しそうな顔をしているが、どうした」
「聞いてくれるか」
「面白い記事になりそうならな」
善澤が胸ポケットから煙草を取り出し、火をつける。
この狭い店内では、三日は煙草の匂いが服にこびりつくので、勘弁してもらいたい。
だが、今日はそんな細かいことなどどうでも良かった。
「ラジカセ使って、その場で聴かせてやったら、二つ返事でオーケーもらったぜ。
あのオヤジ、この間別の子の売り込みで会った時はほとんど無関心だったクセによ」
シャンディガフを美味そうに飲みながら、高木は誇らしげに語った。
外回りで我が事務所の評判を落とすようなことをしていないか、心配だ。
「あまりそう品の無い行動は慎めよ。
ただでさえお前は風体がみすぼらしいのだから、ネクタイくらいちゃんと締めていけ」
「何だその言い草は、営業の時は締めてるって。
それより、お前の方はどうだったんだよ」
「正直、過度な期待をしていなかった大手の会社が、感触良く接してくれた。
阿夕悠氏と者倉俊一氏への楽曲提供依頼も、検討してくれるそうだ」
「ま、マジかよっ!?」
高木が驚くのも無理はない。どちらも、アイドル音楽界の第一人者だ。
善澤も、「ほぉー」と一応の反応を示す。
「聞いたかよ善澤。今ならお前に彼女の取材、優先的にさせてやってもいいんだぜ」
「俺は芸能記者を目指してないしな」
そう言って煙草を吹かす善澤の背中を、高木はバンバンと叩く。
「僕も驚いたよ」
未だ覚めやらぬ興奮を抑えようとグラスを取ったが、既に中身は空だった。
「あっ、いいよ黒井。マスターごめん、俺のもついでにお代わりちょうだい」
「お勘定、払ってもらえるんだろうな」
「だ、大丈夫ですよ――僕達だってそれなりに働いてるんですから」
マスターが疑り深い目で見ながら、僕のカルーアミルクと高木のシャンディガフを作る。
このバーは、僕達くらいしか客が入っているのを見たことが無い。
そのくせ、マスターは少し気難しい性格の男で、お客を楽しませる気概が感じられない。
潰れてしまえ、と何度も三人で悪口を言ってやったものだ。
「肝心の彼女はどうしてる? 俺達の歌姫は」
「今日は、高校の卒業式だったそうだ」
「卒業式ねぇ――」
とうに日は暮れ、しかしせわしなく人々が往来するドアの窓の外を眺め、高木が呟く。
「短大に入学するが早いか、芸能界に放り込まれて――二年したら引退して結婚だろ?」
「そうだな」
「すげぇ目まぐるしく環境が変化していって、大変だよなぁおっちゃん」
「何を他人事のように。僕らだってその要因の一人だろう」
「分かってるけどよ」
以前として、高木は窓の外を眺めながら、独り言のように僕に語りかける。
「せめて、引退する時には、アイドルやって良かったって、思ってほしいなぁってさ」
彼女の青春――それも、最後の二年間を奪う責任を、僕達は自覚しなくてはならない。
高木の言う事はもっともだった。
「そうするためにも、よりレッスンを重ねて、完成度を高めていく必要がある。
気を抜くなよ、高木」
「あっ、それなんだけどさ――」
そう言って、ようやく高木は僕の方に向き直った。
「俺、あの子のレッスン担当しなくて良いかなぁ」
言葉の真意が分かりかねているところへ、高木が続けた。
「だって、おっちゃんはもうボーカル特化型として確立してるじゃん?
実力も申し分無い。レッスンだって特に必要無いさ」
「だから、あの子はつまらんレッスンなんてそこそこに、バンバン売り込めば良いよ。
営業戦略の企画と立案は、お前の仕事だろ?」
高木は、ニヤリと意地の悪そうな笑みを浮かべた。
「なら、お前は何をするんだ。僕の代わりに、アイドルのスカウトでもやるか?」
まるで仕事をしたくないとでも言いたげに聞こえたので、少し僕の語気が強まった。
「あぁ、別にそれでもいいぜ。お前とおっちゃんの仲を邪魔しなくて済むならな」
「はぁ?」
高木がテーブルに肩肘をついて顎を手に乗せ、ニヤニヤとこちらを見つめている。
「ぶっちゃけあの子にホレてんだろ?」
「おっ、何だ。黒井にもようやく春が訪れそうなのか?」
先ほどまで、黙って煙草とウィスキーを交互に飲んでいた善澤が、急に体を向けてきた。
うだつの上がらない新米記者のくせに、何で僕に関心を寄せるんだ。
「何を言い出すかと思えば、くだらんことを」
「何だよ、照れんなよ」
なおも僕をからかい続ける高木――呆れたヤツだ。
「あのな、高木――プロデューサーにとって、アイドルというのは常に三人称だ。
邪な気持ちをアイドルに持った時点で、プロデューサー失格なんだよ」
「じゃあ、お前はあの子と一緒の時間が増えなくても良いのか?」
「そうは言っていない」
「ハハハ。だがまぁ、一番残念なのはダンスレッスンを行わないことだよなぁ」
「何で残念なんだ」
「だって夏場になったらTシャツ一枚になるんだぜ?
タンクトップなんて着せた日にゃ、すんげぇぞアレ。もったいねぇよなぁ」
「彼女にダンスの展望が開けないのなら、仕方がないだろう」
「残念なのは否定しねぇんだな」
「高木っ!」
ハハハ、と高木は笑ってグラスを手に取った。
「いずれにせよ、だ。
俺は経営の才能が無いから、社運をかけたあの子のプロデュース方針はお前に任せるよ」
高木の背後で、善澤が大きく頷く。
マスターが黙って彼の灰皿を取り替えたことに気づくと、善澤は手刀を切って会釈した。
確かにコイツの言うとおり、過度なレッスンは彼女に必要無い。
何より、彼女と一緒に営業に回るのをコイツに任せるのは、あまりに危険だ。
つまり、僕が音無さんのプロデュースをするのが、どう考えても有益なのだ。
「仕方がないな」
何か言いたくなる思いをカルーアミルクで喉の奥へ流し込み、ため息を吐く。
そんな僕の様子を見て、高木と善澤はニヤニヤと笑っていた。
コイツらに馬鹿にされるほど、頭にくることは無い。
だが――今日の僕はそこそこ気分が良い。大目に見てやることにしよう。
二日後、大手のレコード会社に音無さんを連れて行く。
まさかと思ったが、件の音楽家二名――者倉氏と阿夕氏も打合せの場に出席されていた。
こんな話は聞いていない。
偉大な両氏を前に、終ぞ記憶に無いほど緊張しまくる僕であったが、音無さんは違った。
それどころか、両氏の顔面が肌荒れしているのを見て、とんでもない事をしでかした。
「あ、あの――お肌が荒れているようですが、痛くないですか?」
いつぞや、僕にマフラーを差し出した時と同じようなトーン――イヤな予感がする。
両氏は、目を丸くして音無さんを見ている。
僕達をよそに、音無さんは手持ちの小さいバッグをゴソゴソと漁りだした。
「私も、肌荒れには悩んでいて、いつでもあの、取れるようにしようと――あ、これ」
音無さんが取り出したのは、味付け海苔だった。
「海苔って、ヨウ素だかミネラルがお肌の老化やシミを防止するって、何かで見たんです。
火で炙れば、もっと吸収が良くなるって――あっ、私一杯持ってるので、よろしければ」
唐突に渡された味付け海苔を持って、大笑いする両氏。
音無さんもニコニコと嬉しそうだが、僕としては気が気でない。
物怖じするかと思えば、良く分からない大胆さを見せる。
未だ、彼女の底が計り知れなかった。
だが、一つ確実なのは――彼女の歌は、本物であるということだ。
「この間と同じように、楽しんで。何も心配しなくて良いですよ」
それだけ伝えて、僕は彼女をスタジオに残した。
ガラスの向こうで、音無さんが不安そうにこちらを見つめている。
大丈夫、何も心配はいらない。
歌う曲は、この間僕達に聴かせたものと同じ曲だ。
曲がひとたび始まれば、もう音無さんの時間だった。
先ほどまで海苔をもらって喜んでいた男連中が、彼女の歌う姿を食い入るように見る。
二度目である僕ですら、営業中であることを忘れ、すっかり魅了されていた。
まるで心臓を鷲掴みにされるような――しかし、確かな温かみを与えてくれる。
その優しさに、誰もがその身を差し出すことを厭わず、彼女もまたそれに応えるのだ。
長いのか短いのか――5分ほどで歌い終わった後、男達は皆放心していた。
「あ、あの――」
音無さんが、また不安そうな顔に戻り、僕の顔を見つめる。
「――ブラボーッ!!」
作曲家の者倉氏が立ち上がり、開口一番、鼓膜が破れるかと思えるくらい絶叫した。
音無さんがビックリしてたじろぐ。
「唯一無二の歌声だ、素晴らしい! 何という逸材だろう!」
作詞家の阿夕氏も、その横で座りながら拍手を送った。
「長年この仕事をしてきたが、君みたいな人は初めてみたよ。
間違いなくこの国の音楽史に残るだろうね」
その後は、先方の言うことにただただ頷いて、今日の営業は終わった。
要約すると、ぜひ我々で曲を作らせてくれ、日本の音楽界を変えてくれ、とのことだ。
歌い終わる前と違い、今度は音無さんが目を丸くし、放心する番だったというわけだ。
もっとも、僕は今日一日、終始展開についていけず、ずっと放心していたのだが。
帰り道、駅まで音無さんを見送るまでの間、僕は音無さんに今日の感想を聞いた。
「うーん――いまいち、まだ実感がありません。
ただ歌っただけですから、本当に私がレコードを出したり、テレビに出るのかなって」
音無さんは、俯きながら、呟くように答えた。
「音無さんは知らなかったかと思いますが、今日いた人達は、とても凄い方々なんですよ。
きっと、音無さんだって聴いたことのある曲がいくつもあると思います」
そう言って、僕は両氏が手がけた代表的な曲をいくつか紹介した。
すると、彼女はかなり驚いた後、やはりいつもの、非常に恐縮した姿勢になった。
「わ、私、そんな凄い方々になんて失礼なことを――の、海苔をあげるだなんて――」
「いや――アレはアレで、結構ウケてたから、問題無いですよきっと」
音無さんは、ふとした事ですぐにヘコんでしまうのが悪いクセだ。
きっとこうなるからこそ、僕はあえて音無さんに両氏の素性を教えなかった。
萎縮した状態で本番に臨めば、おそらく彼女は本来の実力を発揮できない。
いかにストレスフリーな環境を整え、遠慮なく歌わせるか――。
それこそが、音無さんをプロデュースしていく上での命題になるだろう。
ようやく落ち着きを取り戻し、今度は音無さんが僕に聞いてきた。
「黒井さんは――どう思われましたか? 私の歌」
「えっ――」
彼女の表情は、やはりどこか不安げというか、まるで親に叱られるのを待つ子供の様だ。
何も心配することは無い。この人はもっと自分に自信を持つべきである。
「――正直に言って、僕はもっとダンスに秀でた子を探していたんです。
だから、先日のダンスレッスンを終えた直後は、すごく不安だったのですが――」
「うっ――す、すみません、本当に私――」
「いえ、謝るのは僕の方です。
特定のジャンルにのみ固執していた僕の心を、あなたの歌が溶かしてくれました」
「誰からも愛され、口ずさめるような曲――。
音無さんの優しい歌声なら、きっとそんな歌を歌えると思います」
「誰からも、愛される曲――?」
気づかぬ内に、自分の胸の内を明かしてしまった。
彼女の顔を見ると、やはり俯いているが、どこか嬉しそうだ。
「さっきの偉い人達よりも、黒井さんに褒められた方が、何だか嬉しいです」
音無さんは僕の方に顔を上げ、ニコッと笑ってみせた。
夕日に照らされた彼女のその笑顔は、すごく眩しくて――。
いつかと同じように、僕の顔が、またしても耳までぼうっと真っ赤になるのを感じた。
彼女を駅で見送り、公衆電話で事務所に連絡してから、家路に着く。
その間、僕の頭の中は彼女のことで一杯だった。
どのようにプロデュースしていこうか、ということよりも――。
それは何か、違う何かだった。
4月から、音無さんも新生活が始まった。
それから一ヶ月程度、曲が出来上がるまでの間、僕達はただスカウトに専念した。
年度明けということもあり、新しい事にチャレンジする意欲のある子はそれなりにいる。
すぐに契約とは行かないが、候補生候補、と呼べる子は何人か見つけることができた。
音無さんも、度々夕方に少し事務所に顔を出し、色々と変な物を差し入れに来た。
のど飴はまだしも、鰹節、絆創膏、ビタミン剤、なめろう――。
高木は、別の意味でも彼女に会うのを楽しみにしていた。
主に土日で彼女のボイストレーニングを行うが、高木と一緒にただ聴き惚れるだけだ。
さながらそれは、レッスンの名を借りた、僕達二人のためだけの歌謡ショーだった。
やがて、遂に曲が出来上がり、すぐさまレコーディングを行う運びとなった。
リテイクは、ほんの1回のみ。
「も、もう一度歌ってみて!」
者倉氏の指示のままに、音無さんは歌っていたが――。
「あれさ、おっちゃんの生歌を一回で終わらせたくなかったってだけじゃねぇの?」
レコーディングが終わり、夕食を取ろうと入った近くの洋食屋で、高木が愚痴った。
「あっ。高木さん、またおっちゃん↑って語尾あげたでしょう?」
高木の悪ふざけに、音無さんはすぐさま反応し、人差し指を立てて注意した。
彼女は、僕達ともすっかり打ち解けてくれたようだ。
嬉しそうに頭を掻く高木を見て、音無さんはふふっと笑みをこぼした。
「実際、音無さんの歌はもう完成されていますからね。
一方で、者倉氏も新人に一発オーケーを出すのは、プライドが許さなかったのかも――」
「あー、確かにな」
高木が、僕の横で大きく頷いた。
「とはいえ、これで音無さんも晴れて本格的にアイドルの仲間入りです。
レコードの発売は、おそらく二ヶ月はかかるでしょう。
その間は、地方のイベントやローカル局の番組に出演し、歌を披露することになります」
今のところの展望を告げると、音無さんの口から「うわぁ」という声が漏れた。
「どうかしたの?」
口をポカンと空けたまま硬直する音無さんを不思議に思い、高木がたずねる。
「な、何だか――良く分からないけど、すごく、アイドルっぽいかもって。
黒井さんの話し方も、何というか、業界の人って感じで――」
あまりに純朴な彼女の感想に、僕と高木は目を合わせ、笑わずにはいられなかった。
「そりゃだって――おっちゃんはもうアイドルだし、俺達はプロデューサーだもの」
「高木の言う通りです。
まさか、本当は今まで僕達のことを、アイドル事務所の人間だと信じていなかったと?」
「だ、だって――全然、偉そうな人達じゃなかったから――」
「わははは、だってよ黒井。お前には威厳が足りないんだそうだ」
「うるさいな、何で僕だけなんだよ、お前もだろ」
少し声を荒げる僕を、高木と音無さんが二人して笑う。
音無さんにまで笑われてしまったら、僕だって笑うしかない。
早く彼女の歌声を世間に聴かせたい――。
家に帰り着くまでの間、僕は何度も手帳に記した仕事の予定に目を走らせた。
一週間後の、地方のイベント参加が、彼女にとっての初仕事だ。
善澤にも、声をかけておいてやるか。
商店街とは思えない、水を打ったような静寂。
やがて巻き起こる、地鳴りのような歓声。
心配するまでもなく、地方営業は大成功と言って良かった。
簡素なステージの上で、音無さんはいつものように俯いて顔を赤らめる。
そんな彼女を、いつの間にか足を止めて集まった往来の人々が盛大に称えた。
「レコードいつ発売されるの!?」
「テレビに出るんでしょ!?」
「おっちゃん、手を振ってー! こっちー!」
観客からの猛烈なアタックに、音無さんは両手を前に突き出して激しく動揺している。
ここらで切るべきだな――僕の合図に、高木はすかさず応え、ステージに上がる。
「いやいやどうもありがとうございました。
えー、皆さんが応援してくれれば、おっちゃんはまたこうしてお歌を歌いに登場します。
ですのでね、えー、これからも“みんなの歌姫おっちゃん”をよろしくお願いしまーす!」
高木に促され、音無さんは慌てて観客へお辞儀をし、そそくさとステージを降りた。
なおも、観客側からはアンコールが聞こえるが――。
「もう、止めた方が良いかな?」
胸に手を当て、荒い呼吸を繰り返す音無さんに、高木が優しく声をかける。
僕も、高木に同調し、初仕事を終えた大型新人アイドルを労った。
「初めのうちは、無理をしない方が良いですよ。
ああいう観客の相手の仕方は、これからゆっくり覚えていけば良いのですから」
「す、すみません。でも――アンコールしてくれてる――」
ようやく呼吸を落ち着かせ、音無さんが先ほど降りたステージの方へ顔を上げた。
興奮からか、少し目が潤んでいる。
「大丈夫大丈夫、おっちゃんは十分すぎるほど仕事したよ。あの歓声が何よりの証拠さ」
「そうです。立派でしたよ、音無さん」
「あっ、う――」
僕らの方に向き直った音無さんの目から、涙がこぼれ出てきた。
「あ、あれ? ――わわっ、どうしよう、止まんない」
「ど、どうしたのおっちゃん?」
「ううん、私――」
音無さんは、また顔を下に向け、首を振った。
「こんなに、私の歌、喜んでもらえるなんて――思ってなかったから――!」
彼女は、ついこの間までただの女の子だった。
プロの音楽家よりも、一般人がくれる評価の方が、彼女にとってリアルだったのだろう。
今日の小さなステージで、彼女はようやく、自分の力を実感できたのだ。
この経験が、今後より大きな自信につながってくれれば良い――。
人目もはばからず泣きじゃくる彼女を見て、僕と高木は目を合わせ、笑った。
ひとたび営業に出れば絶賛され、テレビに出れば大きな話題になる。
待ちに待ったレコードが売り出されれば、その売り上げは加速していくばかりだった。
善澤が作ったらしい記事が店先に積まれ、あっと言う間に消えていく。
“みんなの歌姫おっちゃん”は、贔屓目無しに、今最も旬なアイドルだった。
「俺が名づけ親なんだぜ、俺が!」
紙面に大きく載る音無さんの愛称を指差し、朝から高木が大声で喚く。
せめで冷房が効くまでは、大人しくしてほしいものだが。
「えー、本当ですかー?」
「本当だって、何ならおっちゃんに聞いてみるか? ねぇー、おっちゃーん!」
新しく入ったアイドル達は、高木の言うことを疑っている。
普段の行いが悪いからだ。
「高木さんは、まずアクセントを語尾につけるのを止めてくださいね?」
音無さんが、アイスコーヒーをお盆に乗せて給湯室から出てきた。
残暑が厳しいこの季節にはありがたい。
「そんなぁ、今のはちゃんと“お”にアクセント付けてただろ」
「“今のは”じゃなくて、これからもずっと、そうしてください」
音無さんは、すっかり高木の扱いに慣れた。
音無さんの活躍のおかげで、我が事務所を志望する候補生が急増した。
最近僕はスカウトに出向くことは無く、専ら音無さんのプロデューサーを務めている。
高木は、新人のアイドル達の世話役だ。
音無さんはと言うと、事務仕事を兼任する傍ら、本業も何とかこなせている。
大学も忙しいだろうに、よく働く子だ。
このところ、音無さんには平日も二、三日間、仕事に出てもらっている。
オファーが増えるにつれ、土日だけでは仕事を捌ききれなくなってしまったからだ。
「勉強は、帰ってからしています」
新曲のレコーディングを控えたボイストレーニングの休憩中、音無さんが語った。
学業が疎かになってやしないかと、心配だった。
「大学で大変なのは――ええと、最近、キャンパスにすごい人が集まるようになって――」
人差し指を口元に寄せ、悩ましそうに天井を見上げる。
なるほど、そりゃあ歌姫に会いに大学を訪れる人は大勢いるだろう。
あわよくば握手したり、サインをもらおうなどという輩だって、いてもおかしくは無い。
「大学の方では、何か対策とかは?」
「いえ、迷惑をかけているのは私ですから――友達の助けを借りて、裏口から通学したり」
ううむ――しかし、それも時間の問題だろうな。
「大丈夫です。ノートは友達が貸してくれますし。
出席日数も、先生と相談して、レポートを提出すれば良いって、言ってもらえました」
「そうですか。それは何よりでしたね」
「はいっ」
ニコッと笑う音無さん――だが、口には出さないだけで、相当な苦労をしているはずだ。
「無理はしないでくださいね。
今の音無さんなら、体調不良でキャンセルしたくらいで仕事は減りませんから」
「ありがとうございます、黒井さん。でも――」
音無さんは、飲みかけのペットボトルをテーブルに置き、僕の目を見て言った。
「私、アイドルをやれて良かった――今、毎日が充実していて、すごく楽しいです」
休憩を終え、早くボイトレをしようと僕を急かす音無さんに、確かな成長を感じた。
彼女をスカウトして――いや、彼女に出会えて良かった。
事務所の窓に、向かいのアパートの桜の花びらがへばりついている。
こういうのを見ると、月日が経つのは本当に早いものだと実感する。
「今年の桜は、短かったですね」
呆けて窓の外を見つめる僕の顔が物憂げに見えたのか――。
音無さんが、僕のデスクにコーヒーを置きながら、寂しそうに言った。
そうですね――呟くような返事になったのは、桜のことだけが寂しいのではないからだ。
「私も、あと一年かぁ」
お盆を胸の前で抱え、音無さんも物憂げに窓の外を眺める。
高木は、器用に新人アイドル達のプロデュースを行ってきていた。
今日も一日、各々仕事に行っているアイドル達の現場を順番に回っている。
事務所にいるのは、僕と音無さんだけだ。
「ここまで事務所が持ち直り、軌道に乗ったのも、音無さんのおかげです」
今日までを振り返り、しみじみと思ったままに語ると、音無さんは首を振った。
「黒井さん達のおかげで、この一年間、すごく色々なことを経験できました。
お礼を言うのは、私の方です」
「あと一年間、改めて、よろしくお願いしますね」
そう言って、音無さんはニコッと笑い、給湯室に足を運んでいった。
残された期間はあと一年――。
それが終わったら、音無さんは短大と同時にアイドルも卒業し、そして――。
そういえば、音無さんが結婚する相手って、どんな男なんだろう。
かっこいいのかな。
確か、歳が離れていると言っていたな。
僕と同じくらいか、もっと上か。
祖父母の代から決まっている、ということだと、よほど格式高い家柄なのか――?
知りたい。今すぐに。
柄にも無く、すごくドス黒い下世話な疑問が、僕の頭の中に渦巻いた。
「相手の人、ですか?」
最近の僕は、自制するということを知らないらしい。
気づいた時には、現場へ送る車の中で、助手席に座る音無さんに思わず聞いていた。
「あっ、いや――」
慌てて取り繕っても、もう遅い。
取り乱している様から僕の思いを推し量ったのか、音無さんはふふっと笑った。
「そんなに気を遣っていただかなくても、大丈夫ですよ」
「あ、はい――すみません」
「――この人です」
テレビ局の控え室の中で、音無さんは僕に一枚の写真を差し出した。
代々伝わる、貿易関係の仕事?――をしている会社の次期社長らしい。
歳は、僕よりも少し上のようだ。
優しくて誠実そうな人柄だというのが、写真からでもひしひしと伝わる。
アイドルのプロデューサーなんかでは、足元にも及ばない。
なるほど、音無さんのような良い女性には、とてもお似合いの相手だった。
「――お、おめでとうございます」
ようやく、何とかその一言だけ、搾り出すように言いながら、僕は写真を返した。
「まだ結婚していませんよ」
「は、はい――」
程無くして、スタッフが僕達を呼びに来た。
音無さんはすっかり慣れた様子で返事をし、スタジオに入っていく。
音無さんの仕事は、音楽番組への出演が主だ。
トークやバラエティ、グラビア等のオファーも当然あったが、全て断っている。
彼女の歌唱力が持つカリスマ性が薄れるから、という僕の判断だ。
引退と結婚を目前に控えながら歌うというのは、どのような心境なのだろう。
煌びやかなスタジオに笑顔で立つ音無さんを見て、僕はそう感じずにはいられなかった。
結婚する前に、彼女に青春らしいことをさせてあげよう――。
僕が高木に話をすると、高木はそう提案した。
仕事を調整し、綿密に計画を立てる――夏に向けて。
「おっちゃん、ちゃんと水着持ってきた?」
運転しながら、高木が後部座席にいる音無さんに声をかけた。
車の中は、キャンプ用具で一杯だ。
「もう、さっきから高木さんそればっかり」
音無さんの怒ったような、困ったような声が後ろから聞こえる。
表情は見えないが、きっと頬を膨らませていることだろう。
「まったく、お前はスケベなことしか頭に無いのか」
「何だよ、おっちゃんが学生らしいことをできる最後のチャンスなんだぞ。
お前だって賛成して、他の子達にも内緒でこうして準備してきたんじゃねーか」
「あれ、皆もう知ってますよ? 私達がキャンプに行くこと」
音無さんが放った衝撃の一言に、僕達は思わず同時に振り向く。
「私が教えちゃいました」
「な、何でだよ! せっかく皆に怒られないように、バレないように慎重に俺達――!」
「同じ事務所の仲間なんですから、隠し事は良くないです」
音無さんは笑顔で続けた。
「皆、私のことを良く知ってくれているから――反対する子は誰もいませんでしたよ。
留守は任せて、お三方で楽しんで来てください、って」
社長と副社長が事務所を放って、特定のアイドルと遊びに行くなど、普通は許されない。
音無さんの人柄と、理解あるアイドル達に助けられ、僕らを乗せた車は真夏の海へ――。
車が到着した先にあったのは、真っ白な砂浜、真っ青な海面、雲一つ無い青空。
そして――。
「――何でお前達がいるんだよ」
誰もいないはずのビーチの木陰で、善澤と、バーのマスターが、既に一杯やっていた。
「このビーチをお前らに教えてやったのは、私だからな」
「で、マスターからその話を聞いて、俺達も行こうぜってなったのさ」
普段は気難しいマスターが、缶ビールを片手に赤ら顔で喋っている。
コイツらも結局スケベ野郎だった。まったく――!
「あっ、どうも初めまして。黒井さんと高木さんから良くお話を聞いています」
マスターとは初対面の音無さんが、自分から進んで挨拶しにいった。
薄手のTシャツにより強調されるボディラインに、マスターの顔がますます赤くなる。
「い、いつか私の店にもぜひお越しください」
「未成年だから行けねーよ、バーカ」
高木に茶化され、マスターが高木を追いかけ回す。
せっかくの白い砂浜で、むさい男二人の鬼ごっこなど、景観破壊以外の何物でもない。
まぁ、音無さんが喜んでくれれば、それでもいいか。
さっそく水着に着替え、海辺へ走る。
海に入るなど、何年ぶりだろうか。
で、肝心の音無さんであるが――。
「お、お待たせしました」
駐車場の近くにある更衣室から、音無さんが歩いてきた。
そ、その姿は――。
「こういうのを着るのは初めてだったんですが、高木さんに勧められて――」
男達は、無言で音無さんに背を向けると、一斉に海に向かって走り、飛び込んだ。
そして、海面から頭だけ出し、改めて音無さんの方に向き直る。
「ど、どうしたんですか皆さん?」
このスタイルにこの水着は、あまりにも危険だ――刺激が強すぎる。
下半身が興奮していることを悟られないためには、海中にその身を隠すしかない。
結局、男達は順番に音無さんの相手をした。
水を掛け合ったり、追いかけっこをしたり、ビーチボールで遊んだり――。
そして、興奮が抑えられなくなったら合図をし、海中に入って泳ぐフリをするのだ。
あの時ほど、高木を褒めてやりたいと思ったことは無い。
日が暮れてきたら、シャワーを浴びて着替えなおし、バーベキューをする。
浜辺で石を積み、買ってきた薪と墨をくんで、火をつける。
火の勢いが強くなってきたら、団扇で扇ぎつつ墨の位置を――あ、あれ。
「だーもう、お前ダメ、見てらんねぇよ! 貸せ!」
持っていたトングを高木が無理矢理奪い、ドカッとかまどの前に腰を下ろした。
そして、慣れた手つきで団扇とトングを巧みに扱い、墨をくべ、網の用意を指示する。
すごーい、と喜ぶ音無さんに、高木が誇らしげに胸を張る。
「センスが違うんだよな、センスが」
そう言いながら僕をチラッと見て、ヘンッと鼻を鳴らした。
ただでさえ苦いビールが、ますます苦い。
音無さんは、意外と良く食べる方だった。
僕がうっかり焦がしてしまった肉でも、構うことなく取っていく。
「もっと旨そうなの取っていけよ」
そう言って、高木は程良く脂がのった肉を音無さんの前に置いた。
その肉を、すかさず善澤が奪い取る。
「あっ、てめぇ善澤!」
「そう怖い顔するな、まだたくさんあるじゃねぇか」
「お前は煙草だけ吸ってればいいんだよ」
「あ、本当だいっぱいある。もっと入れちゃいましょ」
音無さんは、クーラーボックスに残った肉を見つけると、一斉に開封し網に投入した。
「やばい、おっちゃんがおっさん化したぞ」
「今のは正直、僕も擁護しきれないのですが――」
「もう、男の人が4人もいるんですから、もっといっぱい食べましょうよ!」
音無さんのおかげで、シメの焼きそばは、肉無しになってしまった。
片付けを済ませると、高木が最後の遊び道具を車から持ってきた。
「花火しようぜ。善澤、ライター貸せ」
音無さんに優先的に花火を渡す。
グルグルと円を描いてみせたり、両手に持って走ってみたり、楽しそうだ。
皆さんもやらないんですかと、音無さんが振り返って問いかける。
そうは言うものの、30前後の男達が4人で花火を持つのも気味が悪い。
「黒井と高木は付き合ってやれよ、同じ事務所の子だろう?」
善澤が煙草を吹かしながら、参加を促す。
他人事だと思って――だが、一緒にやってあげた方が楽しいのかな。
「よし、おっちゃん競争しようぜ。速く回した方の勝ちな!」
高木はそう言って、花火を両手に持って火をつけ、グルグルと回しだした。
「あっ、すごい! 私も、ねぇ、黒井さん!」
静かな浜辺で、いつになく音無さんは大きな声ではしゃぐ。
こうしていると、本当に普通の女の子なんだな。
「善澤とマスターも、こっち来て一緒にやろうぜ!」
高木が二人を呼ぶと、やれやれとでも言いたげにこちらへ歩いてきた。
どうやら、二人も先ほどからやりたかったらしい。
音無さんと同じく、花火を持った男達は年甲斐も無く大声ではしゃいでいた。
「おい、黒井」
突然、高木が少し離れた所から僕を手招きした。
もう遊び道具は大体使ったはずだが――一体何の用だろう。
不思議に思いながら近づくと、高木はさらに顔を僕に近づけてきた。
「お前、彼女とプラトニックな関係のまま別れる気か?」
「えっ――」
「いいからここは俺に任せろ。二人きりになったら、しっかりやれよ」
待て、お前何をする気だ、何を企んでいる――。
問いかける間も無く、高木は打ち上げ花火を持ち、連中の下へ走って行った。
「よーし、じゃあ次は打ち上げ花火だな! お前ら、どけどけ」
高木が忙しなく三人の間に割って入り、その場から離れるよう促す。
二つの打ち上げ花火を砂浜の上にセットし、ライターで火をつけた。
シューッ、と高木のいる方から小さな音が聞こえた。
導火線に火がつき、まさにこれから打ちあがるのかと思ったその時――。
突然、打ち上げ花火がパタッと、二つとも倒れた。
その発射口は、善澤とマスターの方に向いており――。
「あっ、やべ」
高木が小さく声を発するが早いか否か、花火は二人の方へ打ち放たれた。
間一髪、缶ビールでガードするマスター。
その横で、善澤の被っていた帽子が吹っ飛んだ。
「てめぇ、何してくれてんだ!」
二人が一斉に、高木に走り寄る。
高木は、その二人を笑いながら、遠い海辺の方へ逃げていく。
そうして、三人は僕と音無さんを残し、夜の帳の中へ消えていった。
「あっ、えーと――」
急に音無さんと取り残され、何となく気まずくなる。
彼女も、アハハと控えめに笑うだけだ。
「とりあえず――線香花火、しましょうか」
僕の提案に、音無さんが手を合わせ、喜んで応えた。
二本分取り出し、音無さんに渡す。
ライターは、たぶん善澤のがさっきの打ち上げ花火のそばにあるはず――やはりあった。
慣れない手つきでライターを扱い、先に音無さんの、次に僕のに火をつけた。
「線香花火が、一番好きです」
手元で上がる小さな火花を見つめながら、音無さんがふと言った。
「小さくて、地味かも知れないけど――。
よく見ると、燃え方に色々なシーンがあって――ほら、今」
先ほどまで大人しかった赤い球体が、大きく力強い火花を一つ、また一つ上げる。
そして、その間隔が短くなり、やがて、ザーッと連続して鋭い火花が数秒続き――。
ほとんど、二人同時に――花火が、落ちた。
「何となく――私の、アイドル人生も、こんな感じだったのかなーって」
音無さんは、落ちた花火を物憂げに見つめている。
「黒井さんが私を見つけて、私の残された青春に火をつけてくれて――。
だから、短かったけど、すごくたくさんの花を咲かせることができました」
「あっちで、海と星を見ながら――もう少し、話をしませんか」
僕の提案に、音無さんは黙って頷いた。
「アイドルを引退して、ご結婚された後は、何を――?」
この分だと、おそらく三人は既に口裏を合わせていて、当分戻って来ないだろう。
右隣に座る音無さんに聞きながら、僕はそんなことを考えていた。
「うーん――良く、分かりません。
結婚も、主婦になるのも、初めてのことですから、何をしたら良いのか――」
どこか困ったように、音無さんは応えた。
それもそうだ。今まで家族じゃなかった男女が、家族になるのだ。
ただ事務所の経営を考えていれば良い僕なんかより、当人の方が不安も大きいだろう。
「心配する必要は無いと思います。
写真を見せてもらったお相手の方は、とても誠実そうな方だと分かります」
音無さんは、僕の言葉にふふっと笑みをこぼした。
「そうですね――私をスカウトした、黒井さんが言うんですものね」
「えぇ。こう見えても、人を見る目には自信があります。
あの若さで、立派な方ですよ。芸能界の裏方などという、低俗な我々よりもね」
得意げに胸を張ってみせると、また笑った。それでいい。
彼女が笑ってくれるなら、僕はいくらでもピエロになってやる。
「ううん、でも――」
笑った後、音無さんは首を振り、遠くの星空を眺めた。
「黒井さん達が、あの人よりも立派じゃないとは、私は思いません。
私を輝かせてくれた、皆さんを――黒井さんを、私はこれからもずっと、慕い続けます」
やばい。これはまずい流れだ。
だって、ほら見ろ――また、耳までぼうっと真っ赤になるのが分かる。
「あ、あぁ。何だか眠くなってきたなぁ」
変に上ずった声が口から出て、ますます顔から変な汗が出る。
恥ずかしさを紛らわすように、僕はそのまま浜辺の上に大げさに寝転んだ。
「あっ、それ気持ち良さそう。私も」
何と、音無さんまで僕の真横に寝転がってしまった。
まずい、心臓がバクバクする。
「あ、やっぱり砂が顔にちょっと付いちゃうかも――」
そう言って、頭に手を押さえながら、音無さんは寝心地の良い姿勢を模索している。
僕は、思わず右の腕を差し出した。
「良ければ、これ――枕」
女性に腕枕なんて、生まれて初めてである。何をしているんだ僕は。
寝転がった時点で、てっきり音無さんが止めてくれると思った。
僕を起こし、適当にテントの方へ戻りましょうとか言って。
そして、テントの中で二人で寝て――。
いや、結局同じことだ。
むしろ、密室である以上、テントに戻る方が余計に危険な気がする。
だから、この状況の方がまだマシ――いや、危険であることに変わりは無いのだが――。
しかし、音無さんは喜んで僕の腕に頭を預け、寝転がった。
腕に伝わる彼女の重みが――温もりが心地良く、妙に落ち着いていられる。
「綺麗な星ですね」
音無さんの声が、すぐ横から聞こえる。
「そうですね」
波音しか聞こえないほど辺りは静かで、まるで世界に二人だけしかいないかのようだ。
見渡す限りの星空が、より非日常的な空間を演出する。
「ずっと、続いてほしい――」
彼女の言葉か、僕が言ったのか――よく覚えていない。
ふと横を向くと、音無さんがすぅすぅと寝息を立てていた。
きっとこうして、安らかに眠る日も少なかったことだろう。
それでも彼女は、僕にアイドルにしてもらえて良かったと、本心で言ってくれている。
せめて今は、こうして休ませてあげよう。
僕もまた、彼女の寝息と遠くに聞こえる波音をBGMに、眠りに落ちた。
「結局、お前らあの時何もしなかったんだよな」
行きつけのバーでの送迎会で、高木が僕と音無さんを指差して悪態をついた。
「せっかく俺がお膳立てしてやったのに、据え膳食わない男の恥め」
外は、先月に降った大雪がまだ残っている。
歩道も凍っているため、ドアの窓から見える人々の足取りはおぼつかず、数もまばらだ。
「何もしなかったとは何だ」
モスコミュールを片手に、僕は高木に反撃する。
コイツは絶対、いかがわしい事を考えていると確信した。
「そりゃお前、あの状況で、年頃の男女がやることっつったらよぉ――」
「音無さんには許婚がいるんだぞ。
僕みたいな薄汚れた人間がツバをつけて良い人では――!」
「やだもう、二人とも!」
音無さんに怒られ、僕と高木は肩を縮める。
その様子を横目で見ながら、善澤はふっと笑い、グラスを傾けた。
「しかし――音無君ともこれでお別れか、寂しくなるな」
グラスを置き、ふぅっと息を吐きながら、善澤は視線を落とした。
「お前、そういう事は言うなって約束したろ。
今日はお別れ会じゃなくて、おっちゃんの新たな門出を祝う会なんだよ」
高木が声のトーンを上げた。
「ほれ、乾杯しようぜ。おっちゃんもめでたくハタチになったんだし。
ウーロン茶じゃなくてほら、遠慮しないでさ、何か違うの飲みなよ」
カシスオレンジが音無さんの手元に渡ったところで、僕達は改めて乾杯をした。
今日の送迎会は、マスターも参加者の一人である。
「美味しい――」
一口飲んで、音無さんが呟くように言う。
その一言を聞いたマスターの顔は、今まで見たことが無いくらい嬉しそうだった。
エロ親父め。
「エロ親父め」
僕が思っていたのと同じことを、高木と善澤が同時に言った。
よせばいいのに、余計なことを口にするから、ほら、またマスターの機嫌が悪くなる。
「大学では、飲んだこと無かったの?」
高木が無粋なことを音無さんに聞く。
「うちの大学は、規律が厳しかったから、見つかったらすごく怒られるんです。
飲んでいる子も、いないわけじゃなかったんですけど」
「結婚したら、あまり飲めなくなるかも知れないしさ。
せっかく美味しいと思えてるんだったら、もっと飲もうぜ! ほら、乾杯!」
「おっ、そうだ!」
乾杯を促した直後、高木が何かを思い出したかのように突然席を立った。
「マスター、この店のカラオケってまだ使えたよな?」
「一曲100円だぞ」
「祝いの席でそんなケチくせぇこと言うなよ。あれちょうだい、いつものテープ」
マスターが差し出したテープを高木は勢いよく受け取り、店の奥へと消えていった。
「何が始まるんですか?」
音無さんは不思議そうに僕に尋ねた。
「どうせしょうもないことですよ」
「違いない」
善澤も僕の言葉に頷きながら、煙草に火をつけようとした。
その瞬間、マスターは善澤の手から煙草をパッと取り、灰皿をしまった。
「おい」
「今日はウチは禁煙だ」
「だったら灰皿置くんじゃねぇよ」
マスターが、横目で音無さんの方をチラッと見る。
その意図を理解すると、善澤は舌打ちをしながら席を立ち上がった。
「こんなシケたバー、潰れちまえ。まったく――外に行ってくる」
頭を掻きながら、善澤は店の外へ出て行った。
「あの――お気を遣わせてしまって、すみません」
音無さんが、申し訳無さそうにマスターと、善澤が歩いて行った方を向いて謝る。
何も謝ることは無い。アイツの煙草は匂いがキツ過ぎるのだ。
と、そんな時に店内にイントロが流れ、高木がマイクを片手に戻ってきた。
「みんなの歌姫、そして我らの歌姫おっちゃんのために、今宵はこの私、高木が歌います」
ようやく、高木が何をやりたかったのか、理解した。
この歌は、サビの所でしきりに乾杯を連呼するヤツだ。
高木がこの歌を歌ってる時の面倒くささといったらない。
「別れのとぉきぃはぁ 近づぅいぃてぇるぅ~」
しかも、今日の高木は相当張り切っている。
歌姫を前に、どうしてそんな汚い声で自信たっぷりに歌えるのか。
音無さんはというと、おどけながら歌う高木を見て喜んでいる。
彼女も少し酔っているようだ。
「雲のぉようにぃ~ 風のぉようにぃ~ 鳥のぉようにぃ~ 飛んでぇ行くぅ~!」
「あぁ~なぁたにぃ~! 乾杯~しよぉ~! 乾杯~しよぉお~!」
出た。始まった。
マイクを握り締めながら、空いた手にシャンディガフを持ち、僕にカラんでくる。
この曲は、もっと情緒豊かに歌うべきもののはずなのに、根本から無視である。
僕はビール系は苦手なんだ、勘弁してくれ。
「ほら、飲めよ黒井! えぇおい、わぁ~かぁれのぉ~! 乾杯~しよ~!」
「歌詞違うぞ」
「あれ、そうだっけ。まぁいいじゃん、おっちゃぁ~ん!」
マスターのツッコミも無視し、今度は音無さんに歩み寄っていく。
僕は音無さんと高木の間に割って入り、音無さんと店の入口の方へ逃げようとした。
その時、ちょうど善澤が煙草を終えてドアを開け、店の中へ入って来た。
「善澤、アレを何とかしてくれ」
僕は善澤の肩を掴み、高木の方へ追いやろうとした。
善澤は、瞬時に状況を判断し、そうはさせまいと意固地になる。
「てめぇの相方なら、てめぇで何とかしろよ」
「好きであんなヤツと一緒に仕事してるわけじゃない」
「俺から見れば、ほとほとお似合いのコンビだぜ」
「何だと!」
「そぉれおっちゃん、一緒に歌おう、ねっ? あーえーと、乾杯~」
「まだ全然サビじゃないですよぉ」
気づくと、高木は音無さんの肩に手を回し、マイクを一緒に握っている。
音無さんは顔を赤くさせ、甲高い声を上げながら楽しそうに笑っていた。
「こら、何やってんだ高木! マスターも見てないで止めてくださいよ!」
「客同士のトラブルに干渉する気は無いのでな」
「唐変木め。おい高木、俺にマイク貸せ!」
代わる代わる、男達がマイクを奪い合い、音無さんとデュエットする。
リズムも音程も、歌詞さえも、あったものではない。
あまりにめちゃくちゃな光景だった。
だが、音無さんはすごく喜んでくれていて――。
僕達もまた、この奇妙な関係に、非常に満足していた。
別れの日がやって来た。
善澤の提案で、皆で公園に集合し、記念写真を撮ることになった。
3月にも関わらず、昨日とは打って変わり、上着が要らないくらい暖かな陽気だった。
雪は、今日のうちに溶けて無くなるだろう。
「本当に動くのかよ、それ」
「何しろ仕事では使わんからな」
善澤が三脚にカメラをセットし、セルフタイマーのゼンマイをキリキリと回す。
その様子を、高木が疑わしそうに見ていた。
善澤が、何回か試し撮りを繰り返す。
「こんなところかな――よし、並んでみてくれないか」
善澤がファインダーを覗きながら、手を振って僕達の位置を細かく指示する。
僕と高木が後列である、ということに、僕達は納得できなかったが――。
「今日の集合写真を提案したのは俺だぜ。
後で隊形を変えて撮ってやるから、まずは俺を音無君の隣にいさせろよ」
そう言われて、渋々ベンチの上に立つ。
音無さんは、僕らを慰めるように、ニコッとほほ笑んだ。
「俺の位置空けとけよ――よし、撮るぞ」
タイマーをセットした善澤が、足早に音無さんの右隣に移動する。
マスターは左、僕らは彼女達の後ろだ。
パシャッ――と音が鳴ったのを合図に、僕は肩の力を抜いた。
「よし、じゃあ次は俺達がおっちゃんの隣だな。どけ」
そう言って、高木はマスターと善澤を押しのけた。
「まったく現金なヤツだな――ムッ」
ため息交じりにカメラの方へ戻った善澤は、ふとカメラを見て怪訝そうな顔をした。
何か、カメラに不具合でもあったのだろうか。
「どうした?」
「いや――さっき試し撮りをしすぎたのか、フィルムが無くなったようでな」
何だと!――僕と高木は、思わず奇声を上げながら善澤に食ってかかった。
「そんなことだからお前はいつまで経っても三流ジャーナリストなのだ!」
「確信犯じゃねぇだろうな! おっちゃんの思い出作りになんてことを――!」
「まぁまぁ、二人とも落ち着いてください」
喧嘩を始める僕達を、音無さんのおっとりとした声が制した。
「いつかきっと、また、遊びに来ますから――」
「写真、現像できたら送るよ」
「ありがとうございます。マスターさんも――黒井さんと高木さんも、お体を大事に」
「また変な差し入れ、期待してるからね」
音無さんは、最後の別れの時まで、笑顔だった。
僕も含め、泣いてしまうのでは――悲しい別れになってしまうのではと心配だった。
悲しくはない。彼女の人生は、これから始まるのだ。
「――お元気で」
僕がその一言だけを告げると、音無さんは深々と頭を下げ、僕達の下を去って行った。
30分ほど席を外します。
【3】
「アイドル自身の資質によるところは、確かにあると思います」
武田蒼一は、こちらの質問に毅然とした態度で答えた。
「しかし、資質は育てることができる――。
プロデューサーは、それだけの責任をアイドルに対して負うということです」
彼女が引退してから、5年が過ぎた。
高木が育てたアイドル達は、各々その才能を開花させ、順調に仕事をこなしている。
相変わらず、新しく候補生を志望する者も多い。
今や我が事務所は、多数の人気アイドルを抱える芸能プロダクションとなった。
そんな折、昔どこかの喫茶店で一緒にコーヒーを飲んだ男――武田から連絡があった。
新しく事務所を立ち上げてみたものの上手く行かず、相談に乗ってほしいとのことだ。
私とて、そう暇ではないんだけどな。
「別に行っても良いんじゃないか?
恩を売っておけば、後で色々ためになるかも知れないぜ」
他人事だと思って――まぁいい。
高木の意見もあり、一応こうして武田の事務所を訪ねてきたのである。
以前会った時と、ほとんど変わらない顔立ち――スーツは多少良いものになったようだ。
「黒井さんは、少し貫録が出てきましたね」
「太ったつもりは無いのですが」
「あぁいえ、違います。
体型ではなく、顔に威厳が感じられるということです。すみません」
ハハハ、と、武田は困ったような愛想笑いをした。
アイドルに、プロデューサーに求められるものについて、お互いに議論を交わす。
そのテーブルに、コーヒーが運ばれてきた。
「遅くなってすみません」
コーヒーを持ってきた女性は、石川さんというらしい。
事務員か何かだろうか――。
「彼女もプロデューサーです。
事務所経営に関して不肖な僕にとって、頼りになる相棒ですよ」
「とんでもありません。私なんて、何もこの事務所のお役には立てていないですよ」
武田の紹介に、サバサバとした態度で受け答えし、彼女はその場を退いた。
彼女と同じか、少し若いくらいかな――印象はだいぶ違うが。
「黒井さんの事務所では、黒井さんご自身がアイドルのスカウトをされていると聞きます。
そして、高木さんがアイドルの育成を――見事に歯車が機能しているのですね」
「いえ――」
武田の褒め言葉を、私は短く否定した。
「私は、今はほとんどアイドルのスカウトをしておりません。
社長とは名ばかりの、事務処理役ですよ」
「ですが、かつて一世を風靡した音無――」
「彼女のスカウトも、たまたま道端で出会い、気まぐれに声をかけたまでのこと。
彼女の能力まで見極め、スカウトに至ったわけではないのです」
窓の外に目をやり、これまでの自身の歩みを振り返る。
「偶然出会った天才が三流事務所を押し上げ、増えたアイドル志望者を高木が育てる――。
ただその場にいさせてもらっただけの私から、偉そうに助言できることなどありません」
「フ~ム――そうでしょうか」
武田は頬に手を当て、何やら考え込んでいる。
ロクなことを言わない私をフォローする言葉でも探しているのか。
生憎だが、私から彼に言うことなど、元々何も無いのだ。
「しかし、一度彼女にお会いした時は、すごく楽しそうでした」
武田は、ふと顔を上げた。
「彼女に会ったのですか?」
「えぇ、いつだったか――テレビ局の中でね」
「もちろん僕は知っていましたので、僕から彼女に声を掛けました。
若いのに、とても物腰の柔らかな人で、好感を与えてくれる人でしたね」
武田は頬を緩ませながら、まるで自慢するかのように話を続ける。
「業界に身を置く人の中には、関係者からの重圧に潰され、腐る人も少なくありません。
そんな中で、彼女は本当に、アイドルをしているのが楽しいようでした」
「その時、僕は気づかされたのです。
アイドルが仕事しやすい環境をあらゆる面で整えることが、プロデューサーの仕事だと」
武田が私の目を見た。その言いようの無い気迫に、少し気圧されそうになる。
「やはり、貴方と高木さんは、立派なプロデューサーであると思います。
我々も見習わなくては。ねっ、石川さん」
ふっと穏やかな表情に戻り、武田が石川さんの方へ首を伸ばしながら話を振る。
部屋の奥で、デスクについた石川さんが手を振るのが見えた。
「今日はわざわざご足労いただき、ありがとうございました。
良い勉強になりました」
「いえ、こちらこそ」
簡単な別れの挨拶を済ませ、席を立つ。
まだ角は出ていないのかも知れないが、この男からは浅からぬ凄みを感じる。
いつか、我が事務所を脅かす存在になるのかも知れない。
そんなことを考えながら出口に向かうと、突然、私の足にドンッと何かがぶつかった。
「こらっ、マイ! おウチの外にいる時は走っちゃダメって言ってるでしょ!」
ぶつかって来たのは、女の子だ。
まだ年端もいかない少女の首根っこを掴み、おそらく母親と思われる女性が頭を下げる。
「す、すみません。この子ったらいつも落ち着きが無くって」
「いえ、構いませんよ。怪我は無かったかい?」
「うん!」
少女は、私にたった一言返事をすると、すぐに石川さんの所へ走って行った。
「みのるちゃん、ダンスごっこしよ!」
「えぇー、この間もやったでしょう?」
「あの子の母親である彼女は、昔僕がプロデュースしていた元アイドルなんです」
腰を低くさせ、石川さんに差し入れを渡している先ほどの女性を、武田は指差した。
「僕の力不足で、あまり活躍させることが出来なかったのですが――。
以前、僕が事務所を立ち上げた際、たまたま遊びに来たことがありましてね」
「子供と一緒に、ですか?」
「そう――舞ちゃんと言うのですが、あの通り、すっかり石川さんに懐いて」
歳は、およそ5歳くらいだろうか。茶髪で、随分と天真爛漫な子だ。
もう少し時が経てば、もっと魅力的になっていることだろう。
「アイドル界の金の卵かも――と、思いませんでしたか?」
「いやはや――。
この業界に長くいると、どうもそういう目でしか女性を見れなくなっていけませんな」
「まったくです」
ワハハ、と、私と武田は笑った。
職業病も、ほどほどにしなくてはなるまい。
「お疲れ様でしたー」
「はい、お疲れ様。気をつけて帰るように」
日も暮れ、アイドル達が帰った事務所は、やけに広く感じる。
「よう、お疲れさん」
高木が、コーヒーを持って私のデスクにやって来た。
「毎日遅くまで、ご苦労なことだな。新しい事務員でも雇ったらどうだ」
高木の言うように、事務員を雇うことは何度か考えた。
確かに、私が事務作業を行わなくて済むようになれば、その分他の仕事もできる。
以前のように、スカウトに時間を割いて、新たなアイドルの発掘もできるだろう。
だが――。
「いや、いいんだ。黙っていても、ウチには勝手に新しい子が入る。
もう精力的にスカウトをする必要も無いのさ」
「でも、お前言ってたじゃないか。
抜群にダンスに秀でた子をスカウトして、エレ――何とかを流行らせるって。
いくらか筋の良い子は入ってきたが、お前のお眼鏡に適うレベルじゃないんだろ?」
「地味な事務仕事は、私の性に合っている――これでいいんだ」
高木の淹れてくれたコーヒーを啜り、再びキーボードを叩く。
「先に帰っていいぞ。後は私がやっておくから」
高木は肩をすくませ、出口の方へ歩いて行く。
「きっと、比較しちゃうもんな――あの子と、な」
ポツリと呟いた自分の一言をごまかすように、大声で挨拶し、高木は出て行った。
高木は、私のことを良く理解している。
きっとこの事務室に、他の事務員がいたら――。
私はきっと、彼女と比べてしまうだろう。
彼女の方が、私好みのコーヒーを淹れてくれた。
キーボードを打つのは、彼女よりも早いようだな。
細かい所の気配りは、彼女の方がもっと良く気づいてくれたのに――。
アイドルにしてもそうだ。
実際、今も私は事務所で頑張ってくれている現役の子達を、彼女と比べてしまう。
特に、ボーカル志望の子達などは――かわいそうだが、どうしてもそうなのだ。
もう、彼女以上の子が現れる事はあるまい――。
彼女が去ってからの5年間は、私の世界をすっかり灰色にしてしまった。
だが、こんな私にも密かな楽しみがある。
事務所から誰もいなくなるのを見計らい、引き出しを開け、写真を取り出す。
別れの日、善澤のカメラで撮った、一枚の写真――。
これを眺めながら、彼女が今どこで、何をしているのか、思いを巡らせる。
子供は生まれただろうか、近所付き合いは上手く行っているだろうか――。
週末は、家族仲良く外出でもしているのかな――。
彼女がきっと幸せな日々を送っているであろうことを思うと、自然と笑みがこぼれる。
こんな姿、事務所の誰にも見せることは出来ない。無論、高木にもだ。
そうして、私の残業時間は無駄に延びていくのだった。
パソコンの電源を切り、時計に目をやると、もう23時をまわっている。
少し時間をかけすぎたか。
そそくさと洗い物を済ませ、電気と戸締りを確認し、部屋を出る。
コートは必要無いが、春とはいえ深夜にもなれば風が冷たい。
さっさと帰って寝よう――そう思いながら、事務所のビルの階段を降りる。
降りた先で、私の足がふと止まった。
向こうの通りから歩いてくる女性――私は、我が目を疑った。
ほんの少し緑がかったセミロングの髪。
小さい肩。
カーキ色のコートを羽織り、両手で何かを抱きかかえている。
良く見ると、それは小さな女の子だった。
「黒井さん――」
音無さんは、私を視認すると、足を止めた。
その顔は、どこか憂いを帯びており――程無くして、彼女の目から大粒の涙がこぼれた。
再会を喜ぶ涙ではないことは、一目で分かった。
音無さん――と、女の子を車に乗せ、夜道を走る。
「突然、すみません――」
後部座席にいる彼女が喋ったのは、その一言だけだった。
私は、曖昧な返事のみをして、それ以上、何も聞かなかった。
自宅に着いて、とりあえずインスタントのコーヒーを出す。
女性を招くことなど想定していなかったので、部屋は汚いままだった。
だが、そんな事など意に介せないほど、今の彼女からは深刻な雰囲気が漂っていた。
改めて見る彼女の顔は、5年前よりも大人びており、美しい。
だが、こうも悲しい表情をされては、それも魅力的に感じられなくなってしまう。
女の子は、辛うじて掃除を済ませた私のベッドの上で、スヤスヤと寝息を立てている。
「音無さんも、今日はそのベッドで寝てください。
僕――私は、ソファーで寝ますから」
風呂を沸かしてきます、と言って、私は立ち上がり、部屋を出ようとした。
その時、突然、後ろから抱き着かれた――音無さんに。
「ごめんなさい――今日だけ、一緒に、寝てください――」
「一人だと、体、震えちゃうんです――ごめんなさい――ごめんなさい――」
よほど尋常ならざることが彼女に起きたのだろうか――怖くて、とても聞けなかった。
女の子を間に挟み、以前海でしたように腕枕をしてやる。
おかげで、彼女達はどうにか良く眠れたようだ。
朝、目が覚めると、一緒に寝ていたはずの音無さんと女の子は、ベッドにいなかった。
「小鳥ー、冷蔵庫の中から卵を取ってきてくれるー?」
音無さんの声が台所の方から聞こえると、「はーい」と幼い声で返事があった。
ジューッと、何か肉のようなものが焼ける、良い匂いと音がする。
「落とさないで持ってきたの、偉いわね」
「えへへー」
「あっ――おはようございます」
音無さんは、フライパンから手を離さないまま体をこちらに向け、挨拶をした。
「ほら、小鳥もちゃんと挨拶しなさい」
「おじちゃん、おはようございます」
女の子は、卵を両手に抱えながら、ぎこちなく頭を下げる。
「おじちゃんじゃないでしょう? ほら、さっき教えたように、ねっ?」
「――くろいさん、おはようございます」
「黒井さん、ちゃんと野菜も取らなきゃダメですよ?
幸い、ハムと卵はあったので、これから目玉焼きにしますね」
昨日の表情がまるで嘘のように、音無さんはニコッとほほ笑んでみせた。
狭い部屋の中で、狭いテーブルを囲み、私と音無さんと女の子が朝ごはんを食べる。
何が起きているのか全く分からない。
「――すみません、食器の数が少なくて」
「いえ、こちらこそ勝手に台所、使ってしまって――あぁほら、小鳥、こぼしてる」
女の子の口元を、すかさず音無さんがティッシュで拭う。
「実は、お願いしたいことがあったんです」
食事を終えようとする頃、音無さんが切り出した。
女の子は、手持ち無沙汰そうに、フォークでカチャカチャと皿を叩いている。
「私を、もう一度黒井さんの所で、働かせてもらえないでしょうか?
できれば、アイドルとして――難しいのなら、事務員でも、何でもいいんです」
私の目を見て話す音無さんの顔は、ひどく真剣な面持ちだった。
子供を持つと母親は強くなる、とは良く聞くが――。
「理由を、聞かせてもらえませんか」
音無さんの頼みであれば、断る理由などない。
だが、どうしても今の彼女の背景にあるものを知りたかった。
彼女は、顔を伏せた。
「――お金が、必要だからです」
その回答は、私にとって衝撃だった。
まさか音無さんの口から、金がほしいなどと言う言葉が出るとは思わなかったのだ。
そもそも、貿易商を営む会社の社長と結ばれたのではなかったのか。
それがなぜ、子供と二人で、金を稼ぐために、この世界に戻ってこようと――。
それ以上は、とてもじゃないが聞くことはできなかった。
聞いたらきっと、彼女を辱めることになる――そんな気がしたからだ。
「子供をこの部屋で一人ぼっちにさせておくわけにもいきませんし――。
小鳥ちゃん、でしたか。この子も事務所へ一緒に連れて行きましょうか」
「ありがとうございます。
――良かったわね小鳥、この人が優しい人で」
音無さんが、小鳥ちゃんというらしい女の子の頭を撫でる。
状況を飲み込めないその子は、ぽけーっとしながら音無さんのされるがままだ。
この二人と一緒に出勤したら、事務所の皆に確実に勘違いされそうだな。
「へぇー、小鳥ちゃんっていうんだねー。小鳥ちゃんは、何歳ですか?」
「4さい」
「すごーい、自分の年齢言えるんだー! かわいいー!」
「ねぇねぇ、あっちでお姉さん達とお絵かきしよっか」
事務所に着くや否や、アイドル達がこぞって小鳥ちゃんの世話をしだした。
中には、音無さんの現役時代を知る子もおり、余計に愛おしいようである。
「聞くまでも無いことなんだろうけど、あの子はおっちゃんの子なんだよね?」
高木の質問に、音無さんは頷いた。
「こうして、アイドルの子達があの子に構ってくれるのは、とてもありがたいです」
「アイドルとして復帰したいというのなら、俺達にとっても嬉しい話さ。
さっそく、ボイストレーニングと、近いうちにレコード会社への営業に行こう」
高木はそう言いながら、音無さんと私の顔を交互に見た。
彼女の実績があれば、楽曲の提供もスムーズに受けられるだろう。
「――ありがとうございます」
音無さんは、応接室のソファーに座ったままの姿勢で、僕達に深々と頭を下げる。
その佇まいは、気心知れたはずの私達にも淑女然としており、時の流れを感じさせた。
「いいよ、そんな畏まらなくて。それより、今日は変な差し入れは無いのかい?」
「変な、って――そんなことを言う人にはもうあげませんよ?」
「ははは、まぁまぁ」
口元に手を当て、彼女は忍ぶように笑う。
心からの笑いだろうか――そんなことばかり気になってしまってならない。
「プロデューサー、そろそろレッスンですよー!」
「えっ、あぁもうそんな時間か。悪い、今行く」
アイドル達から呼び出され、高木は席を立ち、音無さんに小さく手を振った。
「それじゃあおっちゃん、またね」
高木が出て行った後の応接室を、妙な静けさが包む。
私は高木とは違い、話題がポンポン出てくるわけではない。
もう、聞かなければなるまい。
彼女は昨晩、自身の子供と二人で街を彷徨い歩いていたようだった。
「今も、旦那さんと一緒に暮らしているのですか?」
おそらく核心を突くことになるであろう質問を、私は音無さんにぶつけた。
今日、彼女達は泊まる所があるのだろうか――。
――長い沈黙の後、音無さんは、首を横に振った。
「そうですか――」
私は、必死に頭を回転させ、次の言葉を探す。
どこかアパートでも手配を――いや、部屋が決まるまでの間はどうしよう。
駅前のホテルで仮泊――それくらいの費用は経費から捻出できるか。
ただ、音無さんが働いている間、子供はどうする――保育園か何かに通わせるのか?
何がどう必要になるのか、皆目見当がつかない。
おそらく、帰る場所が無いであろう彼女に、かけてやるべき言葉も――。
どのように話題を展開すべきか悶々としていた時、突然応接室に誰かが入ってきた。
「おかあさーん、みてみて」
小鳥ちゃんが、スケッチブックを両手で持ちながら、パタパタと音無さんに駆け寄る。
どうやら、自前のものらしい。
「あら、すごい、頑張って描いたのねー。何を描いたの?」
先ほどまで暗い表情をしていた音無さんが、小鳥ちゃんに穏やかな微笑みを返す。
小鳥ちゃんも、母親に頭を撫でられて嬉しそうだ。
「きょうのあさごはんのえ、かいたの」
白いテーブルに、皿が三つ。
それの上の、中央に小さい人物が、その両脇に大きい人物と、真っ黒な塊がある。
「この黒いのはなぁに?」
音無さんも、少し合点がいかない様子である。私にも分からない。
「くろいのおじちゃん」
小鳥ちゃんは自信満々にそう答えると、ニカッと白い歯を見せて笑った。
「おねえちゃんたちが、おじちゃんはくろでかいたほうがいい、って」
「おじちゃん、おじちゃん」
小鳥ちゃんの手は、黒のクレヨンで真っ黒だった。
ベタベタに汚れてしまっている自慢の一枚を、私にもしきりに見せびらかしてくる。
ふと気づくと、事務所にいたアイドルの子達が、応接室を覗き見て笑っていた。
「ふふっ――あはははは」
音無さんは、腹を抱えて、目尻に涙さえも浮かべながら笑った。
おそらく、再会してから初めて見る、彼女の心からの笑いだった。
私も、ニコニコしている小鳥ちゃんの頭を撫でながら笑った。
復帰してからの音無さんのアイドル活動は、順調に進んだ。
“みんなの歌姫おっちゃん”の電撃復帰は、当時を知るファンに衝撃を与えた。
その話題性が追い風となったことも、人気が出た理由の一つとしてあるだろう。
しかし、何よりも彼女の歌唱力は、5年前から少しも衰えていなかったのだ。
結婚発表と引退を表明してからの復帰に、心無い邪推をする週刊誌もあった。
夫婦仲が上手くいっていないだの、さらなる道楽のための小遣い稼ぎ、と見る目も――。
そんな雑音も、彼女の歌声とそれを称える歓声に、次第にかき消されていく。
新規のファンも、見る見るうちに増えていった。
「おかあさん!」
音楽番組の収録を終え、スタッフに会釈をしながら音無さんがスタジオを降りる。
そのタイミングを見計らい、袖で待っていた小鳥ちゃんが音無さんに駆け寄っていく。
一年近く母親の仕事場に通っていれば、その手際も慣れたものである。
「良い子にしてた?」
「うん!」
いつものように、音無さんが小鳥ちゃんの頭を撫でる。
こうして見ると、最初に会った時と比べ、随分と大きくなった。
「お疲れ様でした、音無さん」
私は、ペットボトルのお茶を音無さんに差し出した。
「お守りをするのも大変でしょう? この子、落ち着きが無いから――すみません」
「いえ、良い子にしてくれていますよ」
音無さんは、小鳥ちゃんの面倒を見る私に頭を下げ、先に家路についた。
結局のところ、音無さんは訳あって離婚をしたらしい。
アイドルに復帰したのも、きっと小鳥ちゃんの養育費にあてる収入を得るためだろう。
私を含め現場のスタッフは、仕事場に子連れで現れる彼女を見て、皆そう解釈している。
なぜ離婚をしたのかは、まだ聞いていない。
おそらく、いつか彼女の中で整理がつき、自分から明かしてくれる日が来るだろう。
無理に聞き出すこともない。
「あっ、お帰りなさい」
家に帰ると、既に音無さんが夕食の支度をしてくれていた。
最近は、なるべく早めに帰るよう心掛けているのだが、今日は少し遅くなってしまった。
「ビールも冷えてますけど」
「いや、いいです。ありがとうございます」
私がジャケットを脱ぐと、音無さんは何も言わずにバッグと一緒にそれを受け取る。
居間に入ると、テーブルの上には美味しそうな煮びたしと焼き魚があった。
テーブルと食器は、同棲を始めて間もない頃に新調している。
「小鳥ちゃんは?」
「さっき、寝ちゃいました」
音無さんが肩をすくませながら、かつて倉庫代わりにしていた部屋を指差す。
そっと覗くと、ベッドの上で小鳥ちゃんがスヤスヤと寝息を立てていた。
「おじちゃんが帰ってくるまで起きてるんだー、って、意地になってたんですけどね」
「そうですか」
頭をポリポリと掻きながら、以前として微笑みを絶やさない音無さんに頭を下げた。
「あの子、黒井さんのことばかり話すんですよ」
私の食事に付き合いながら、音無さんは小鳥ちゃんのことについて語った。
「事務所の人達のおかげで、随分と性格も明るくなったみたいだし――。
本当に、感謝しています」
「いえ、アイドルの子達も、私も高木も、好きでやっていることですから」
特に高木などは、私よりも小鳥ちゃんにメロメロだ。
一緒に暮らせと、最も囃し立てた当人のくせに、彼女といつも一緒の私に嫉妬している。
私がご馳走様と言うと、音無さんは手際よくテーブルの上を片付けていく。
「あぁ、すみません。僕がやります」
「いえ、お座りになっていてください。お疲れでしょう?」
彼女が食器を台所に持って行き、程無くして、水を流す音が聞こえた。
「黒井さん達の事務所に戻って、本当に良かったです」
「――旦那さんとは、もう会わないんですか?」
思わずそう言ってしまった後で、ハッとした。
他人の家庭事情に、何を口出ししようとしているんだ、私は。
「夫と不仲になったから、というわけではありません」
ふと振り向くと、音無さんは台所で私の食器洗いを続けている。
「それに――もう、会えませんから」
音無さんは、そう言ったように聞こえた。
食器を洗う音にかき消されてしまうくらい、小さな声だった。
私は立ち上がり、音無さんの肩を掴んでこちらに向かせた。
涙で濡れた顔――私は何も言わず彼女を抱きしめ、彼女も無言のまますすり泣いた。
「いい加減、本当の夫婦みたいだな」
ある朝、いつものように事務所に出社した我々を見て、高木が無粋なことを言い出した。
「新人の子の中には、勘違いしてる子だっているぞ。
同棲もしてるんだし、いっそのこと本当に結婚でもしたらどうだ」
「高木、お前な――」
音無さんがどれだけ辛い過去を背負っているのかも知らずに、よくもそんな事を――。
そう言おうとしたところで、私も知らないという事に気づき、言葉に詰まってしまった。
「うーん――小鳥は、どう思う?」
音無さんは、特に否定をする様子も無く、手を繋いでいた小鳥ちゃんの顔を見る。
「なにが?」
「黒井さんが、小鳥のお父さんになるのを」
えぇ、と驚く声を上げ、小鳥ちゃんが私の顔をジッと見上げる。
「いっしょにすんでるから、もうおとうさんかとおもってた」
小鳥ちゃんの一言を聞いて、高木はより大声で笑う。
「そうだよねぇ。一緒に住んでるんだから、もう立派なお父さんだよねぇ」
「高木! くだらない事をこの子に吹き込むんじゃあない!」
「黒井さん、子供の前でそんな大声出しちゃダメですよ?」
「あっ、す、すみません――」
いたずらっぽく微笑みながら音無さんに注意され、毒気を抜かれてしまう。
音無さん自身は、一体どう思っているのだろうか――。
その日からしばらくは、そればかりが気になって仕方がなかった。
良いトシをして、よほど浮かれていたんだろう。
彼女の奇妙な行動に気がつくまでは。
いつものように、某局にて仕事を終えた音無さんを、二人で出迎える。
二言三言、言葉を交わすと、彼女はトイレに行きたいとのことだった。
「先に、車で待っててもらっても良いですか? すぐに行きます」
そう言われ、小鳥ちゃんと一緒に車の中で待つ。
最近、この子は“アルプス一万尺”が上手になった。
音感も良いようだ――アイドル界の金の卵、と武田が評していた子をふと思い出した。
何度か続けるとさすがに飽きるのか、今度はしりとりをしようと言いだす。
ようやく5歳にもなろうという年齢の割に、言葉を良く知っている。
たまに行かせる保育園が、その著しい成長の助けにもなっているのだろう。
――しばらくしりとりが続いたのだが、一向に音無さんが戻ってこない。
もしかしたら、駐車場の場所が分からず、建物の中を彷徨っているのかも知れなかった。
「おじちゃん、どうしたの? おじちゃん“う”だよ?」
「あ、あぁ――それじゃあ、ウズベキスタン」
「あっ、“ん”がついた! ことりのかちー!」
このまま待っていても仕方がない。
適当にしりとりを切り上げ、小鳥ちゃんの手を引きながら音無さんを探すことにする。
この建物のトイレは、確かエレベーターを降りて左側にあったような――。
「あっ! おかあさん!」
小鳥ちゃんが、私の手を引いた。
彼女が指を差した方に視線を向けると、音無さんが公衆電話の前に立っている。
誰かに電話をしているようだった。
程無くして、受話器を置いてこちらを振り返ると、音無さんはひどく驚いた様子だった。
「戻らなかったから、心配で」
「い、いえそんな――ご面倒をお掛けしてしまい、すみません」
音無さんは、目を泳がせながらぎこちなく頭を下げた。
このような音無さんの仕草は、これまで記憶に無かった。
何をしていたのか、聞くべきか――?
そう迷っている間に、小鳥ちゃんは私の手を離れ、音無さんの服にしがみついた。
「ねー、はやくかえろうよー」
「えっ、えぇそうね小鳥――よし、今日は小鳥の大好きなカレイの煮つけにしよっか」
「わーい、やったぁ!」
小鳥ちゃんが、私と音無さんの間で小躍りする。
この子の好みは、意外に渋い――が、今はそんなことはどうでも良い。
音無さんは、何かを私に隠している。
「で、お前はどうしたいんだよ」
いつもの店で、モヒートをテーブルに置き、高木が私に向き直って問いかける。
マスターは無言でコップを拭き、善澤は高木の隣で煙草を燻らせていた。
「私は彼女が心配なだけだ」
半ば吐き捨てるように言いながら、私はジンライムを口元に運ぶ。
「心配だと言えば、たとえ彼女にとって聞かれたくない事でも聞くのは許されるってか」
「そうは言っていない。
どうすれば彼女の力になれるのか――自分の無力さが腹立たしいんだ」
「別に、無理して彼女の力になろうと思わなくて良いんじゃないのか」
それまで沈黙を保っていた善澤が、煙草を灰皿に押しつけ、私の顔を見た。
「彼女だってもう大人なんだ。
いつもお前の助けが必要となるほど、一児の母というのは弱くない」
「そりゃ、俺だっておっちゃんや小鳥ちゃんのために出来る事は何でもしたいさ。
だが、本人達が求めないのに勝手に善意を押しつけるのは、ただのエゴってものだろう」
高木の言葉に、マスターは無言で頷きながら、黙って私と高木の酒を作っている。
私は、無言で酒を口に流し込んだ。
釈然としない思いを洗い流したくて、マスターに空のグラスを差し出す。
コイツらの言いたいことは、良く分かる。
もし彼女に隠したい事情があるのなら、聞かない方が良いだろう。
今のところ仕事は順調だし、同棲生活にも大きな問題は無い。
“仕事上の付き合い”以上の関係とはいえ、人間関係に一定の距離感は必要なのである。
そう、自分に言い聞かせた。
音無さんは、普段あまり贅沢をしようとしない。
弁当が支給されない仕事の時は、必ず自分で弁当を作る。
服も、小鳥ちゃんにこそ買い与えるものの、自分の新しいものを買うことは無かった。
普段食卓に並ぶものも、安い食材を創意工夫で美味しくしようとする努力が垣間見える。
実際に美味しいし、小鳥ちゃんも喜んでいる。
以前、お金が必要という旨を話していたので、何か意図があるのだろうとは思う。
別段、生活には困っていない。
そう思っていた。
音無さんがアイドルに復帰して――同棲して、一年半近く経った。
いつものように音楽番組の収録を終え、外を見ると、もう夕日は沈みかかっている。
秋の日は釣瓶落とし、とは良く言ったものだ。
「あぁ、今から帰る――小鳥ちゃんによろしく」
公衆電話を使い、小鳥ちゃんを預けている事務所へ連絡をしておく。
最近、事務所でアイドルの子達に遊んでもらいながら、母の帰りを待てるようになった。
さながら、彼女と私達にとって、事務所は託児所である。
さて、音無さんを連れて帰るか――そう思い、彼女が待つ控え室へ向かう。
しかし、ドアを開けると、そこに音無さんの姿は無かった。
トイレだろうか――いや、荷物が無い。
妙な胸騒ぎがする。
スタジオに戻り、後片付けをしているスタッフに音無さんの居場所を問う。
手あたり次第に声を掛け、ようやく一人、有力そうな情報を得た。
「音無さんならさっき、どこかの芸能関係のお偉方と、そこで何か話してたと思いますが」
「どこに行ったのか、分かりませんか?」
「いやぁ、次に見た時はもういなくて――すみません」
スタジオを後にし、お偉方と話をしていたらしい音無さんを探す。
通路は狭いものの、局内は広く入り組んでおり、見つけ出すのは容易ではない。
気づくと、額にはうっすらと汗がにじんでいた。
「やぁ。おたくは確か、おっちゃんのプロデューサーさんだね?」
急に後ろから呼び止められ、振り返ると、見知らぬ髭面の男が立っていた。
身なりから察するに、おそらくさっき話していたお偉方だろうと直感した。
「黒井と申します」
咄嗟に私は名刺を差し出したが、男はそれに意を介さず話を続けてきた。
「いやぁ、今日のおっちゃん良かったよ~。彼女の歌は絶品だよねぇ」
「恐れ入ります」
「うんうん。でさ、さっきおっちゃんから聞いたんだけど、仕事欲しいんだって?」
えっ――と聞き返しそうになるのをグッと抑え、視線だけ男の下賤な目に向ける。
「いやぁ、俺も彼女のことはデビュー当時から良く知ってるんだけどさ。
彼女、すっごくアグレッシブというか、貪欲になったんだねぇ。
以前は音楽番組にしか出ないって有名だったのに、さっき話してみたら、良いねぇ~。
深夜帯のバラエティとか――それに、グラビアも出したいって?」
「ば、バラエティ――グラビア?」
「割とキワどい水着も着てみたい、ってよぉ――一児の母とはいえ、あの子も女だねぇ。
あのプロポーションなら、飛びつかない男なんていねぇよ。ひひ」
局内を走り回り、ロビーでようやく音無さんを見つけ出した。
「えっ、あ――」
有無を言わさずに彼女の手を引き、先ほどの髭面の男の下へ急ぐ。
「お仕事のご依頼に関するご相談は、全て私を通すよう各局の方々にお願いしております。
今回の件は、音無が無断で行った事であり、我が事務所の本意ではございません」
会議室にて、音無さんを横に立たせ、訝しげに見下す男の前で、私は必死に頭を下げた。
「えぇ? でも、彼女がそもそもやりたいって言ってきたんだけど」
「音無も、仕事を集めなければならないという思いで、かなり気が動転していたようです。
どうか、このお話は無かった事とし、今後とも変わらぬお付き合いのほどを、何卒――!」
「ん、まぁ――やれやれ、しょうがねぇな」
男は、最後まで納得しきらない様子のまま、部屋を出て行った。
今回の話については、くれぐれも他言しないよう、厳にお願いをしたつもりである。
だが、人の口には戸が立てられないのが世の常というものだ。
あの手の男から、どのような影響が業界に行き渡るのか、少なからず不安になった。
「――ごめんなさい」
先ほどまで終始黙っていた音無さんが、ようやく口を開き、私に深々と頭を下げた。
私は、彼女を容易に許すことができずにいた。
仕事を音楽番組一本に絞ったのは、彼女の歌のブランドを高めるためである。
バラエティやグラビアといった仕事が低俗とは言うまい。
だが、少なからず下品なファンがつき、イメージダウンに繋がるのは容易に想像できた。
「何故、こんな勝手なことをしたんですか」
ここ最近の彼女の奇行には――あえて奇行と言わせてもらうが――明らかに理由がある。
私にとって、それが隠し通されることは、もはや看過できなかった。
音無さんは、口をキュッとつぐみ、下を向いた。
長い長い沈黙が、無機質な会議室に流れた。
やがて、ついに観念したのか、音無さんは下を向いたまま重い口を開いた。
「夫が遺した、借金を返すためです」
のこした――彼女が選んだ言葉の意味を推し量り、ハッと息を呑む。
借金の額も、目が眩むほど多大だった。
「正確に言うと、私は、離婚したのではないんです。
夫は――自殺しました」
「夫と結ばれて、しばらくは、とても幸せでした。
一年後にはあの子も――小鳥も生まれて、私も夫も、お互いの幸福を喜び合いました。
不出来な妻である私を、あの人は、いつも優しく慕ってくれていた――。
私の人生は、何て恵まれているんだろうって、心からそう思いました」
「でも、ある時――夫の会社が、倒産しました。
会社の社員が、輸出入を禁じられているものの取引に、手を出していたそうです」
音無さんの旦那が、貿易関係の会社の社長だったことを、私は思い出した。
「例えば、動物――それに、薬や、もっと物騒なものも扱っていた、って――。
それを知ったのは、警察が、私達の家に上がり込んできた時でした。
お人好しだった夫は、何も知りませんでした」
「結果として、法律違反による罰金――。
それ以上に、違法な取引によるトラブルで、色々な方面から賠償金を請求されました。
財産を差し押さえられ、会社の信用も無くなり、経営ができなくなり――」
「夫は――会社の人達を、信じていました。
社員を自由にさせ、責任は自分が取る――それこそ、組織の長があるべき姿だ、って」
「自分の会社の人間に裏切られ、絶望したんだと思います。
裁判を起こす気にも、なれなかったのでしょう。
お酒をたくさん飲んで、次の日の朝には――夫は、自分の部屋で、首を吊っていました」
音無さんは、顔に両手を当て、ますます声を震わせた。
「夫の、ご両親からは――お前が来たから、息子はおかしくなったんだ、って――。
アイドルなんて、尻軽で、頭の悪い女が、息子の頭も、おかしくしたんだろうって。
私、ただ幸せで、彼も、すごく良くしてくれていただけなのに――。
家を追い出されて、借金が――娘だって、小さくって――っ!
そしたら、あの人が――声を、かけてきて――したくもない、仕事をっ!!」
気づいた時、私は、彼女を抱きしめていた。
こんな小さい肩で、彼女は何て不条理な人生を背負ってきたことだろう。
私の胸の中で、音無さんは、あらん限りの声を上げて泣いた。
一児の母が流す、あまりに脆く、悲しい涙を前に、私は自分の愚かさを恥じた。
夕食と風呂のため、21時頃まで席を外します。
あと3章ほどあり、今日中に終わることができればと考えております。
【4】
音無さんの仕事の依頼は、少し減ってきた。
おそらく、先日の業界人との一件が、何かしら良からぬ影響を及ぼしたのだろう。
それでも、懇意にしてくれる関係者はそれなりにいてくれるのがありがたい。
借金のことを高木に相談し、しばらくは私と高木の給料を返済にあてることにした。
音無さんは、それだけはどうか止めてほしいと、必死に断ろうとする。
「俺達の金をどう使おうが、俺達の勝手だろう」
高木の言葉に私も頷くと、音無さんは目に涙を溜めながら、深々と頭を下げた。
本当は、会社の金でいくらか肩代わりをしてやりたいが、さすがにそれはできなかった。
アイドルは彼女だけではない――他のアイドル達の生活も守る義務が、私にはある。
最近では、レコードではなくCDが音楽の媒体として主流となってきている。
業界全体に新しい追い風が吹いているようで、知らずワクワクする。
そして、そのCDの売上は依然として好調だ。
いくら良くない噂が流れようと、彼女の歌声の美しさは不変である。
ファンもそれを分かっているのだろう。
深夜、自宅に帰り着くと、音無さんが玄関で待ってくれていた。
「お帰りなさい。今日も、行ってきたのですか?」
「えぇ」
ジャケットを脱いでネクタイを解き、バッグと一緒に音無さんに預ける。
すっかり日常的となった一連の動作も、今日は少し重く感じる。
「――本当に、ごめんなさい」
「よしてください、音無さん。前にも言いましたが、私が好きでやっていることです」
最近、私は仕事の合間を縫って銀行へ通い、賠償先への振込みをこまめにしている。
目標の返済額へはまだ遠いが、10年か、20年先か、いつかは達成できるだろう。
ローンが増えたと思えば、何てことはないのだ――これまでの彼女の苦しみを思えば。
「音無さんも、僕の帰りなど待たず、ゆっくり寝ていてください。
アイドル活動は体力勝負でもありますから、疲れを残さないことも大切ですよ」
そう言って、私は彼女の肩に手を当て、小鳥ちゃんが寝ているであろう部屋へ案内する。
「ありがとうございます――本当に、うっ――」
音無さんは背中を丸め、小さな咳を数回した。
「大丈夫ですか?」
「えぇ――ちょっと、むせただけですから」
そう言って、彼女はニコッとほほ笑んでみせる。
お人好しで、責任感の強い彼女のことだ。
自分を潰すようなことがないよう、細心の注意を払わなければならない。
いよいよ音無さんの仕事が少なくなってきたのは、それからしばらくしてのことだった。
今までは気のせいかと思っていたが、明らかに依頼の減り方が不自然である。
「心配はいりません。これまで通り、受けた仕事を真摯にこなせば良いんです」
そう言って、音無さんを元気づける。
しかし、心にもない励ましであることは、どうしても彼女には伝わってしまうようだ。
CDの売上も、最近は落ち込み気味だ。
一方で、何故かCDショップに在庫が無いなどというクレームが多く寄せられる。
それが事実なら、こちらとしても見過ごすことができない。
だが、レコード会社に電話しても、「そう言った事実は確認していない」の一点張りだ。
一体何だというのか。
釈然としない思いを抱えたまま、音無さんの仕事に同行する。
幸いにも、ちょうどレコード会社の関係者が現場にいた。
音無さんがスタジオ入りした後、私はその関係者を見つけ、即座に捕まえた。
「い、いえ――そう言われましても、音無さんのCDは依然人気でございまして――」
「人気であるのなら、増刷すれば良いでしょう。
何故、あらゆる店舗で彼女のCDの在庫が無くなるなどという事態が起こるのですか」
私は、危うく目の前の男の胸倉を掴みそうになった。
彼女がこれ以上不当な扱いを受けることなど、許されるものではない。
「しょうがないじゃん、人気が無いんだから」
耳障りな声がした方を向くと、見覚えのある髭面の男がニヤニヤしながら立っていた。
コイツは――以前、どこかの局で会った、あの一件の男だ。
「人気が無い、と――?」
髭面の男の言う意味が分からず、私は相手を睨みつける。
人気があるから、CDが売り切れるのではないのか。
「そう、人気が無い――特に、俺達レコード会社関係者からのね」
そう言って、男は私に名刺を差し出した。
エンペラーレコード社の副社長――大富、というらしい。
大富という男は、下賎なニヤケ面を浮かべたまま話を続けた。
「この業界で生きていくのに、何が一番大事か、おたく分かる?
信頼関係なんだよ、人と人との――俺達使う側と、おたくら使われる側のさ」
大富は両手を上げ、大袈裟に肩をすくめて見せた。
「それがどうだい。
彼女が違う仕事に挑戦したいって言うから、俺もコネを使って仕事を回そうとしたのに。
すぐにおたくら、手の平を返しちゃったでしょ?
そうやってコロコロ態度を変える連中を、信用しようとする人がいると思う?」
「先日の非礼については、重ねてお詫びを申し上げた次第です」
拳を強く握りしめ、何とか平静を保ちながら、私は必死に言葉を選ぶ。
彼女の仕事を――活躍を、取り上げようとする相手に、どう取り繕えば良いというのか。
「彼女にとって、今が一番大事な時期なんです。
失った信頼を取り戻すチャンスを、どうか我々にお与えいただけないでしょうか」
「今が一番大事な時期? ハハッ、あの子確か今年で26か7だっけ?」
大富は、ゲラゲラと腹を抱えて笑った。
「アイドルとしては、賞味期限も終わり間近じゃねぇか。
そういうチャンスは、後進の若手にちゃんと譲ってやれよ。
未練がましくダラダラと、過去の栄光にしがみついてんのは見苦しいぜ」
「ただ――」
大富は、意味深な、かつ下品な視線で、下から覗きこむように私を見た。
「チャンスを与える方法が、無いわけじゃあない。
そうやって、俺達のゴリ押しで再起したアイドルだって何人もいる」
大富は、私の肩に手を当て、耳元に顔を近づけてきた。
胸が激しく動悸を打つのを感じる。
「おっちゃんさ、イイ体してるよな」
「――黒井さん? お仕事、終わりました」
音無さんが、スタジオを降りて私の下へやってきた。
気づくと、音楽番組の収録は既に終わり、スタッフの片付け作業が始まっている。
「黒井さん――どうかされたんですか。あっ――」
彼女も、ようやく大富の存在を確認し、慌てて頭を下げる。
大富は、その様子を満足げに眺め、また私に視線を戻した。
「まぁ、しっかり考えておくがいい。
彼女の仕事のために、どうすべきなのかをな」
音無さんが戻るのがもう少し遅ければ、私はアイツを殴っていたかも知れない。
去り際の大富の後姿を見ながら、私は唇を噛みしめた。
「おじちゃん、どうしたの?」
夕食時、ふと小鳥ちゃんが、私の顔を覗き見た。
「すごくこわいお顔してる」
「何でもないよ。ほら、お魚も残さず食べなさい」
慌てて私は笑顔を取り繕い、小鳥ちゃんの食事を促す。
その様子を見て、音無さんも不安そうな表情を見せていた。
大富の言ったことに、耳を貸すつもりなど毛頭無い。
無論、この件を音無さんに話すことも――。
だが、アイツの様子を見るに、このままでは仕事も曲の売上もますます無くなるだろう。
音無さんだけではない――ゆくゆくは、他のアイドルまで妨害する可能性もある。
どうすれば今の状況を打開できるのか、今の私には見当がつかない。
「黒井さん――今日の昼間から、ずっと何か悩んでらっしゃいます、よね」
小鳥ちゃんが寝た頃を見計らい、居間で二人くつろぐ中、音無さんが問いかけてきた。
「私の仕事が――少なくなったことについて、ですか?」
「いえ――何でもありません」
口を開くと、呪詛の言葉が不意に出てきてしまうかも知れない。
言葉少なに音無さんとの会話を切り上げ、私は席を立った。
「風呂に入ってきます」
「きっと、私の頑張りが足りないんですよね」
まるで独り言のような音無さんの呟きに、私は思わず足を止める。
「もっと、良い歌を歌って――もっと多くの人を、感動させられるようにならなきゃ」
音無さんはニコッと笑った後、背を丸め、言葉を詰まらせながら、寝室に入って行った。
どうしても、自分だけで抱えきるのには限界があった。
いつもの店に高木達を呼び、今回の一件を打ち明けると、高木は激怒した。
「ふざけやがって――俺達が使われる側だと、何様のつもりだ!」
いつものモヒートを高木は掻っ食らい、乱暴にグラスをテーブルに置いた。
「俺達は、芸能関係者の顔色をうかがって仕事してんじゃねぇ。
ファンのために――音楽が、アイドルが好きな人達のために仕事してんだ。
いつだって俺達は、お客さんが求めるものが何なのかを考えていかなきゃいけないんだ。
だのに、尻尾を振れなどと――!!」
「しかし、そうは言っても、このままでは状況は改善されないんだろう」
善澤が、煙草の灰を灰皿に落としながら続ける。
「自分達がどうしたいのかよりも、どうしなきゃいけないのかを考えるべきじゃないのか」
「そんな事は分かっている、だが――」
私は、自分のグラスを握りしめ、中で漂う氷にジッと視線を落とした。
どうすれば仕事を獲得できるのだ。一体、私は何をしなきゃいけないんだ――。
「まさか、その大富とかいうクソ野郎に従うなんて言わないよな」
高木が私を睨みつけた。
思わず私は、高木の胸倉を掴む。
「心配するな、手はある。
俺に言わせりゃ、“どうしたいのか”と“どうしなきゃいけないのか”はイコールだぜ」
私に胸倉を掴まれたまま、高木はニカッと笑った。
「誰も文句を言えないような、とびきりの名曲を作ればいいのさ。
小賢しいマネで潰すことなどできない、ファンのハートをガッチリ掴むヤツをな」
「単純なことを――」
善澤は呆れながらも、ニヤリとしながらグラスを傾けた。
確かに、いかにも高木らしい安易で単純な打開策だ。
だが――。
いくらレコード会社が操作しようとしても、圧倒的な世論を無視することはできまい。
小細工が通じない、誰からも愛され、口ずさめるような曲――。
一発逆転にかけるしかない。
グラスに残ったジンライムを一気に飲み干し、私は店を出た。
翌日、以前お世話になった阿夕悠氏と者倉俊一氏へ早速アポを取った。
ありがたいことに、お二方とも直々に、今日我が事務所へ来てくれるとのことだった。
昼過ぎに、お二方を丁重に応接室へ通し、楽曲の提供をお願いする。
「おそらく、最後のチャンスになるかも知れません。
どうか、お力をお貸しください。この通りです」
「最後のチャンスとは――。
どのようなご事情があるかは知りませんが、最後にはしてほしくないですな」
そう言ってニッコリ笑ったのは、阿夕氏だった。
者倉氏も、穏やかに笑いながら彼に続ける。
「私達は、彼女のファン第一号であり、それを誇りに思っている。
最後と言わず、これからの彼女の末永い活躍の一助となれるよう、良い曲を作ろう」
ファン第一号は私だ――そう言いかけたが、私はただただ頭を下げた。
サンプルは、一ヶ月以内にくれるとのことだった。
願わくは、彼女に幸せをもたらす一曲となることを祈るばかりである。
仕事が少なくなった分、ボイトレに十分な時間を割けるのは不幸中の幸いだった。
急にレッスンの時間が増えたことに、音無さんも最初は戸惑いを隠せずにいた。
しかし、彼女は何も言わず、優しく微笑みながら私についてきてくれる。
私の意図を理解したのか、理解せずとも私のことを信頼してくれているのか――。
いずれにせよ、彼女の真摯な姿勢には感謝をしなければならない。
「お疲れ様です。良い感じですよ、音無さん」
その日も予定されていたレッスンメニューを順調にこなし、休憩時間になった。
用意された給水用のペットボトルを差し出すと、音無さんは会釈をしながら受け取る。
レッスンのコーチに彼女の調子を聞くと、コーチは頭を掻く。
「調子も何も、この子に私が教えられることなんてありませんよ。
引退する前よりも、ますます声が洗練されてきている印象があります」
突然、音無さんはペットボトルの水を口から吹き出し、大きく咳をした。
「だ、大丈夫ですか?」
「ちょっと、む、むせただけです――もう、先生が変なことを言うからですよ」
音無さんは、タオルで口元を拭うと、二、三回咳をしたのち、あははと笑った。
「強いて言うなら、そうねぇ――。
高音部をもう少し余裕を持って歌えるようになれると、もっと良くなるかしら。
ブレスに気をつけて、さっきのパートをもう一度やってみましょうか」
「はいっ」
短い休憩を終え、再び音無さんはレッスンに戻った。
高木から、スタジオの管理人室を通し、レッスン室に電話が入ったのはその時だった。
「どうした」
受話器を取ると、鼻息と思われる高木の荒い呼吸が聞こえる。
尋常でないことが起きたようだが――。
「さっき、者倉さんから事務所へ連絡があったんだ。
とうとう出来たようだぜ――おっちゃんの新曲が」
急遽、ボイストレーニングを中止し、音無さんと一緒にスタジオを出る。
はやる気持ちを抑えながら車を走らせ、私は者倉氏への事務所へと急いだ。
「随分と早かったね」
息を切らしながら者倉氏の待つ部屋へ着くと、彼は椅子に座ったままこちらを向いた。
ニコニコとしながら、一枚のCDを左手で持ち、ひらひらと顔の横で揺らして見せる。
「阿夕さんともよくよく相談しながら、今の彼女にピッタリな一曲を仕上げたつもりだ。
私達と――それに、おそらく君も、同じ思いをこの曲に託していることだろう」
者倉氏からCDを受け取り、私は深々と頭を下げた。
「必ずや、ご期待に応えてみせます」
「私達のことなど、気にしなくて良いよ。君達自身のためにベストを尽くしなさい」
「ありがとうございます」
事務所を出て、私は音無さんにそのCDを手渡した。
彼女にその存在を知らせていなかった――私のシンプルな願いが詰まった新曲だ。
CDを手渡された音無さんは、泣きそうになるのをグッと堪え、力強く頷いた。
曲の名は――『幸』。
その日以来、音無さんは、まるで何かに憑りつかれたかのように新曲の練習に没頭した。
ボイトレだけでなく、歌に関する本を書店や図書館で探し求め、読み漁ったようだ。
凄まじい文量が書きこまれたノートを、短期間のうちに何冊も作り上げた。
「私にはもう、これしかないんだって――そう思うと、こんなに頑張れるものなんですね」
小鳥ちゃんが寝た後、遅い夕食を二人で食べながら、音無さんははにかむように笑う。
夕食後も、彼女は居間でひたすら勉学に励み、そのまま寝てしまうことが多くなった。
彼女を抱きかかえ、寝室へ運ぶ――その寝顔には、まだ幼さが残っている気がした。
「おっちゃんは大丈夫か」
いつもの店で、高木が私に問う。
ここ最近、根を詰めている彼女の体調を気遣ってのことだろう。
「大丈夫かどうかは、正直に言うと、分からない。
だが――今の彼女に頑張るなと言うのは、もはや無駄なのだと思う」
プロデューサー失格だな――高木に言った後でそう思い、私は乾いた笑いをこぼす。
「確かに、そうだな」
高木は私の言ったことに黙って頷いて、グラスを静かに傾けた。
「結局は、彼女が頑張らなければならない話なのが、なんとも歯痒いのだがな」
「幸せになってほしいな」
「あぁ」
最近、高木はやけに老けこんだなと思う。
向こうも、私のことを同じように思っているのかも知れない。
新曲披露を控えたライブまで、あと2週間を切っていた。
音無さんの具合があまり優れないのを見て、久しぶりに休暇を取らせた。
好きに練習をさせてやりたいが、健康を損なっているのが明らかであるなら話は別だ。
「でも、もう本番が――」
「根を詰め過ぎて喉を潰してしまっては、元も子もないでしょう。
最近、空気も乾燥してきているので、部屋で暖かくして休んでいてください。
小鳥ちゃんも、僕が面倒を見ておきますので」
小鳥ちゃんの手を引くと、彼女は嬉しそうに繋いだ手を上げて見せた。
たまには育児からも離れ、一人で休む時間が彼女には必要なのだ。
ようやく観念したのか、音無さんは恐縮そうに頭を下げ、事務所を出て行った。
最近、咳が少し多いのが気になる。喉を休ませなくては。
家で歌ったり、ラジカセで流すことも多いおかげで、小鳥ちゃんもすっかり曲を覚えた。
今も事務所で、アイドルの子らを前に、得意げに歌ってみせている。
「すごーい! 小鳥ちゃん、お歌が好きなの?」
「うんっ! 大きくなったら、おかあさんといっしょにテレビでうたうの!」
「小鳥ちゃん、将来はすっごい歌手になってたりして」
一曲の時間が一分やそこらの童謡とはワケが違う。
新曲をフルで、始めから終わりまで歌いきるのは、さすがは音無さんの子供だ。
「将来が楽しみだな」
高木が私のデスクに行儀悪く腰掛けながら言う言葉に、私も頷いた。
実の子供ではないのだから、親馬鹿とは言うまい。
親子共演か――ひょっとしたら本当にあるのかも知れないな。
目の前で事務所の皆に囲まれ、はしゃぐ少女を見て、私はフッとほほ笑んだ。
自宅に帰り着いた瞬間、そんな淡い夢は一瞬にして消え去った。
「おかあさん――」
ドアを開けた時、玄関で音無さんが倒れていた。
急いで彼女を抱きかかえ、車の後部座席に乗せる。
意識があるのか無いのか――必死に呼びかけても、辛い呼吸をずっと繰り返している。
額に手を当てると、ひどい高熱なのが分かった。
「おかあさん――おかあさん――!」
後部座席からは、一緒に乗せた小鳥ちゃんの悲痛な叫びが聞こえる。
目の前で起きている事を信じることができず、ただアクセルをベッタリと踏む。
視界が恐ろしいほど狭くなった国道で、私はチンタラ走る車を何台も何台も追い越した。
病院に着き、救急処置室なる部屋へ彼女が運ばれたのち、私は高木へ電話をした。
何が起きたのか聞かれたが、こちらだって知りたい。
だが、おそらくレッスンによる過剰な負担が原因であろうことは推測できた。
しばらくして、高木が病院にやってきた。
私を殴ってほしい――電話を切る直前にそう言い残したが、高木は何もしなかった。
「小鳥ちゃんの前で、そんな事できるわけないだろ」
少女のすすり泣く声だけが廊下に響き渡り――長い時間が流れる。
ようやく救急処置室から、音無さんを乗せた担架が出て、その後ろに医師が続いた。
私達は、医師に呼ばれ、病室へ運ばれて行く音無さんを後目に、彼について行った。
「こちらの、喉仏の辺りに見える白いもの――これががんです」
医師がレントゲン写真を見せながら、私達に説明する。
彼女の症状は、咽頭がんとのことだった。
「幸いにも、末期まで進行しているわけではありません。
しかし、咽頭を部分的に切除するのが、おそらく最も有効な治療法になるでしょう」
咽頭――を切除する――のどを、切るのか?
「咽頭がんには、大きく三つの治療法があります。
放射線治療と、咽頭の部分切除、そして咽頭の全摘出手術です。
がんの進行が比較的浅ければ、放射線治療のみで根治が可能となる場合もあります。
喉や声帯の機能も、大きく失われることはありません。
しかし、がんの大きさや広がり方により、手術主体の治療に切り替えることになります」
声が――“大きく”失われることは無い?
放射線治療ではなく、切除手術であったら声は――彼女の、声はどうなる――。
「本来咽頭がんというのは、中高年の男性の発症がほとんどです。
しかし、患者さんのように、下咽頭の輪状後部という所――。
この辺りについては、例外的に女性の患者さんも比較的発症例は多い所なんです。
早期の発見は極めて難しいのですが、今回は幸いにも末期になる前に発見でき――」
「そんな事はどうだっていい!」
私はいてもたってもいられずにその場を立ち上がった。
椅子がガタンと倒れ、小鳥ちゃんが高木の陰で身をすくめるのが視界の隅に見えた。
「私が知りたいのは、彼女の喉は――声は、どうなるのか、それだけなんです」
「放射線治療であっても、以前と全く同じ声を維持できる確率は限りなく低いです。
切除手術であれば――まず無理だと思っていただきたい。
ですが、患者さんの場合、リンパ等への転移も見受けられません。
よほどのことが無い限り、命を落とす可能性は低いと思ってもらって構わないでしょう」
あまりに非情な宣告を前に、私は言葉を失い、その場にへたり込んだ。
高木が横で、何か追加の説明を聞いていたようだが、何も耳に入らなかった。
小鳥ちゃんが、私の服の裾を引っ張っていたような気がする。
部屋を出る頃には、小鳥ちゃんは高木にだっこされて眠っていた。
病室に入ると、音無さんはベッドの上で眠っていた。
その寝顔は安らかで、とても残酷な病を抱えたとは思えないほど綺麗だった。
「今日は、このままそっと寝かせといてやろう。
俺達も帰ろう、黒井。小鳥ちゃんも、家で寝かせてやらなきゃな」
高木は、音無さんの顔を覗き込むように見た後、私に向き直った。
当然のことながら、いつもの楽観的な笑顔は無かった。
「帰って――どうしろと言うんだ」
私は、病室の床をジッと見つめ、拳を震わせた。
「音無さんがこのような事になったのは、全て私の責任だ。
彼女の望むようにさせてあげたかったとはいえ――。
私は、元々丈夫ではなかったはずの彼女の体調の変化に、何一つ気づいてやれなかった」
「いや――そもそも彼女をあのレコード会社の男に接触させたのがいけなかったのだ。
彼女が、そこまで追い詰められていたという事実に気づくことができず――。
結果として、芸能界から干される一因を生み出してしまった。
僕は――何一つ彼女を管理できていなかった。
ここで帰ったら、僕は本当に何もできていない男になってしまう」
「そう言ってここに居残ることが、既にお前のエゴだってことに気づいていないのか」
高木の声は、今まで聞いたどんな声よりも暗く冷たかった。
「もちろん分かっている。
これは僕のエゴだ。自己満足でしかないことくらい十分認識している。
だが――どんなに醜くても、彼女に謝るまで――彼女が目を覚ますまで、そばにいたい」
「ならいい」
高木は私に手を差し出した。
私はポケットから自宅の鍵を取り出し、高木に預ける。
「彼女に許してもらおうなどとは思わない。
今日だけは、そばにいて――借金を背負って彼女の下を去るのは、それからだ」
「背負わなきゃいけないのは、借金だけじゃないだろ」
高木が、自分の腕の中でスヤスヤと眠る小鳥ちゃんに目を向ける。
「この子にはお前が必要だ。
おっちゃんの下を去るなどと、無責任なことを言うんじゃない」
高木はそう言い残し、小鳥ちゃんを抱きかかえたまま病室を出て行った。
私は、ベッドのそばの椅子に腰かけ、音無さんの顔を見つめた。
見れば見るほど、綺麗な顔だった。
初めて見た時は、もっと幼い顔をしていたような気がする。
どこかのショーウィンドウの前に立つ彼女に、私は心を奪われて――。
いきなり見ず知らずの、みすぼらしい男にマフラーを渡す、変な女の子だったな。
他にも、バッグから焼き海苔とか変なものは出すし、突拍子もないことも言い出す。
スカウトしたのは、彼女がとてもお人好しで、頼まれたらノーとは言えない人だからだ。
なのに、ダンスはからっきしで、僕が目指していたものへの夢を簡単に砕いて――。
でも、彼女の歌声はすごく優しく清らかで、聞く人の心を温めてくれる。
デビューする前は、高木と一緒にレッスンスタジオでひたすら聞き惚れていた。
デビュー後は、彼女の活躍に夢中になって、善澤やマスター達とも舞い上がって――。
彼女から声を奪うだと――そんな馬鹿なことがあるものか。
勘弁してくれ。
今度新曲を出すんだ。
あの曲で、彼女はやっと幸せを掴むことができるんだ。
何も悪いことをしていないじゃないか。
そうだ、どうせ嘘なんだろう。
あんな見ず知らずの医者の言うことを真に受ける必要がどこにある。
目を覚ましたら、彼女はいつものおっとりした声で、おはようって言うはずなんだ。
頼む――僕は両手を膝の上で組んで、ジッと下を向いた。
病室の床に、涙がいくつも落ちた。
ずっと待ち続け――朝日が昇る、ほんの少し前だろうか。
音無さんの目が、うっすらと開いた。
「――音無さん」
寝不足と涙で、すっかり目が充血しているのが分かる。
彼女の目に、今の僕の姿はどう映っているだろうか。
「黒井さん――」
彼女の声は、最後に聞いた声とはまるで別人だった。
しわがれた、かすれたような、とても聞き取りにくい声だった。
「ここは――私は、どうし――」
喉を詰まらせ、音無さんは数回、深い咳をした。
以前、ボイトレの休憩時間にペットボトルの水を飲む際、むせていたのを思い出す。
「私――病気、なんですか」
不安に満ちた表情で、音無さんは僕の顔を見つめる。
もう、終わりだ――。
「ゆっくり休んでください。
ライブは中止して――新曲も、出すのをやめましょう」
えっ――と小さい声が音無さんの口から漏れた。
病状を説明すると、音無さんは両手を顔に当てた。
僕は、両膝と両手をつき、頭を病室の床にこすりつけた。
「全て――僕の責任なんです。
僕がちゃんと音無さんをプロデュースできていれば、こんな事にはならなかったんです」
音無さんは、声にならない声を上げて泣いている。
「ごめんなさい――一生かけて、償います。借金も――!」
「もう、いいんです――」
ふと、音無さんが小さな声で呟いた――ように聞こえた。
顔を上げると、彼女はまだ顔に手を当てたままだった。
「きっと――そういう人生だったんです。
私には、あの歌をうたう資格なんて――幸せになる資格なんて、無かった――」
「皆から、一時でも、チヤホヤされて――。
だから、あの子を育てるには、もう一度アイドルをやろう、って――。
せっかく、好きになれた、お仕事だったから――でも、全部――。
全部、私の勘違い、だったんだなぁ――馬鹿みたい――!」
「でも――でも、私――あの子だけは、幸せになってほしい――。
お金に困らないで、伸び伸び、やりたい事――歌が、あの子、好きなんです――!!」
発泡スチロールをこすったような、聞くに堪えない泣き声が、病室に響く。
僕は、病室を飛び出し、朝焼けの町の中を、逃げるように走った。
絶叫しながら――泣き叫ぶことさえできない彼女の分まで。
自宅に帰らないまま事務所に直行し、事務処理を行う。
予定を組んでもらったライブとレコーディング、CD発注スケジュールの差し止め――。
これから各方面に、これらの事を周知し、頭を下げに行かなくてはならない。
下準備を一通り終え、時計に目をやると、8時をまわったところだった。
こういう雑多な仕事ばかり、手慣れたものだ。
電話でのアポ取りは、出張先の公衆電話で良いだろう。
私はコートと――マフラーを忘れずに手に取り、事務所のドアに手を掛けた。
その時、ちょうど高木が、小鳥ちゃんを連れて出勤してきた。
「お、黒井――」
私は、二人の顔を一瞥すると、何も言わずに事務所の階段を降りようとした。
「おい、待てよ黒井、俺も一緒に行く」
高木は大声で私を呼び止めると、膝を屈んで小鳥ちゃんの顔を見た。
「小鳥ちゃん、悪いけどおじちゃん達、すぐに出なきゃ行けなくなっちゃったんだ。
一人でお留守番、できるね?
もう少ししたらお姉ちゃん達が来るから、このドアの鍵をしっかり閉めて待っててね」
小鳥ちゃんは、何も言わずに大きく頷いた。
おそらく、何か大変なことが起きているらしいのを理解しているのだろう。
この子は賢い子なのだ。
高木は、ニッコリほほ笑んで小鳥ちゃんの頭を撫でると、私の下にやってきた。
「関係者へ頭を下げに行くんだろう。一人で行こうとするなよ」
高木は、そう言って私の肩に手を置いた。
ボサボサな頭で、無精髭を生やした状態での謝罪が、どう相手方に思われたか――。
とりあえず、阿夕氏と者倉氏は、何も言わずに許してくれた。
それより、音無さんの体調を気遣ってもくれた。本当にありがたい。
ライブの運営関係者にも、訝しい表情をされたものの、一応の理解を示してもらった。
もともと、会場の予約がたくさん寄せられていたのだという。
我々がキャンセルすれば、また別の団体へ手配することを考えれば良いのだそうだ。
残るは、レコード会社への謝罪だった。
電話でアポを取り、夕方近くに、レコード会社内の会議室へ通された。
室内に入り、私は目を見張った。
当レコード会社の担当者と一緒に、あのエンペラーレコードの大富も座っていたからだ。
「何だか、おっちゃんについて興味深い話があるって聞いてね。
まぁ、俺はただ横で黙って聞かせてもらうだけだから、気にせず進めてちょうだい」
私は、無言で高木に目配せをする。
高木も、初対面ではあったが、大富の存在を認識したようだ。
事のいきさつを話し、音無さんが新曲を出せなくなったことを告げる。
担当者の男は、大いに困惑した様子だった。
「そんなこと、今さら言われてもさぁ――。
大体、アイドルの体調管理だっておたくらの仕事なわけでしょ?
せっかく実力のある子なのに、潰されちゃったらウチらも迷惑なんだよねぇ」
こっちの気など知らず、相手の男は好き勝手なことを述べた。
しかし、何も反論することができず、私と高木は黙って頭を下げるしかなかった。
「しっかし、どうしようかなぁ――。
俺、この間の席で業界の人達にオフレコで伝えちゃったしなぁ、おっちゃんの新曲の話。
出せなくなっちゃったら、俺がウソついたみたいになっちゃうじゃない?
この業界って、信頼が大事だからさぁ。一度そういうのあるとしんどいんだよね」
頭を掻きながら、自分の保身のことばかり口にする下種――聞いてて吐き気がした。
「しょうがないんですよ。
この連中は、我々とは仲良くできない輩ですからね」
男の横に座って黙って聞いていた大富が、ニヤニヤしながら口を開いた。
「関係者を駆けずり回って新曲を出すって聞いたから、どんなもんかと思ったがね。
結局、こういう所でもおたくらは約束を破ることしかできないんだよ。
だから失敗する――繋がりを大事にしない輩はここでは生きていけないのさ」
「ただまぁ――咽頭がんって言ったっけ?
大変だねぇ、あの子も。でもさ、彼女、金に困ってるんでしょ?」
「声が出なくたって、ベッドの上でのお仕事はできるんじゃねぇの?
ほら、あのプロポーションだし、全国の男達は新曲よりも喜ぶだろうよ。
新ビデオ――いや、初ビデオ? 初体験、ってな、ひひっ。
それにさ、腰振って喘いでいれば声だってそのうち自然に出せるようになって――」
大富は、顔面から血を吹き出しながら後方に吹っ飛び、後ろの壁に激突した。
間髪を入れず、僕は座っていた椅子を持ち上げ、大富に目がけて叩きつける。
高木に後ろから羽交い絞めにされ、ようやく僕は正気を取り戻した。
右手に鋭い痛みを覚え、ふと見ると、大富のものと思われる歯が拳に突き刺さっている。
会議室を出て長い廊下をひた走り、僕と高木はレコード会社から逃げた。
「もう、事務所を畳むしかないだろうな」
応接室のドアを閉め、高木が私に切り出した。
「私が、レコード会社の副社長を殴ったからか?」
そう問いかけると、高木はくぐもった声を出しながら下を向いた。
「おそらく、事務所のアイドル皆に影響が及ぼされることになる。
おっちゃんと同じ苦しみを、彼女達に味わわせるわけにもいかないだろう」
「――音無さんだけでなく、大勢のアイドルの未来を潰したというのか、私は」
知らず、口から乾いた笑いが漏れてきた。
「とことん私は無能というわけだな、高木」
「そうは言っていない。お前の行いは、人として間違っていなかった。
だが、アイドル事務所の代表としては、正しくなかったのかも知れない」
「正しくなかっただと――ならお前は、あの男の言うことを黙って聞けと言うのか?
あんな下種に尻尾を振るべきだったとでも言うのかっ!!」
僕は高木の胸倉を両手で掴み、力任せに壁に押し込んだ。
「なぜ、彼女ばかりがこんな目に遭わなければならない!?
彼女が何か悪いことをしたのか?
悪事を働いた貿易会社の社長の妻だったことが、そんなに悪いことか!?
そんなはずはない! 彼女は、娘の幸せを心から願う優しいお母さんだ!!
新曲を出せなくなって、一番辛いのは彼女なんだぞっ!!
どうしてあんな連中に頭を下げる必要がある!?
仕事を取るため? いいや違うねっ! 頭を下げるのはアイツらの方だ!!
どうか歌ってくださいって、彼女にお願いするべきなのはアイツらなんだっ!!」
額にびっしょりと汗をかき、高木の胸倉を掴んだまま、僕は肩で息をしていた。
「彼女は――自分には、幸せになる資格が無かった、って、言ったんだ」
顔を見上げ、厳しい表情を崩さない高木に、僕は問いかける。
「お前は――どう思うんだ。
彼女に幸せになる資格が無いなんて、そんなはずはないだろう――!」
「プロデューサーにとって、アイドルというのは常に三人称――。
以前、お前はそう言っていたな」
高木の言葉が、冷たく僕の心に響く。
「一人のアイドルを特別視することが、他のアイドルの不幸を招き得る――。
黒井――お前には分かっていたはずだ」
視界が歪む。
膝が震えて、立っていられない。
僕は高木から乱暴に手を離し、フラフラになりながら応接室を出た。
部屋の外には、聞き耳を立てていたアイドルの子達――。
そして、足元に目をやると、泣きそうな顔をした小鳥ちゃんが僕を見上げていた。
僕はコートとマフラーを取り、高木と、音無さんの下を永久に去った。
【5】
「確かなスジの情報なんだろうな」
背後から、下品な男の声が聞こえる。
「信じるかどうかは勝手にするがいい――だが、ルールには従ってもらう」
私がそう言うと、背後でチッと舌打ちする声と、物が地面に落ちる音がした。
約束が果たされたことを示す合図である。
誰もいなくなってから、近くに待機させていた男に、物を私の下へ取って来させる。
茶封筒の中には、札束がギッシリと入っていた。
そこから何枚かを抜き取り、男に握らせてその場を去る。
数日後、スキャンダルにより、政治家と女優が一人ずつ芸能界から姿を消した。
私がアイドル業界を――芸能界を見限ってから、6年が過ぎた。
去り際の芸能界で全盛を迎えていたバンドブームも、どうやら終焉が近づいてきている。
エキセントリックな風貌で社会を風刺した連中は今、平易な格好をしてバラードを歌う。
アイドルブームなど、今や見る影もない。
今の私にしてみれば、そんな事はもはやどうでも良い。
興味があるのは、金になるかならないか。それだけだ。
今日も私は、真っ黒なフードを目深に被り、いつもの公園のベンチに座って客を待つ。
ベンチは、背中合わせに二基設置されている。
公園といっても、この場所は昼間でも人通りが滅多に無い、寂しい憩いの場である。
私の真後ろのベンチにピッタリと座り、話しかけてくる者――それがその日の客だ。
私の素性は、誰にも教えてなどいない。
公園のベンチに情報屋がいることも、そこでのルールも、全て人づてに伝わったことだ。
公園でのルールは、お互いに顔を合わせないこと――。
私と客を繋ぐのは、客が求める情報と、その報酬となる金のみである。
もし、ルールを破ったら――。
「おい、おっさん」
どこかのヤンキーらしき若者が二人、突然私に話しかけてきた。
「コイツがそうなの?」
「ぜってー間違い無いって」
「何かツレのオヤジから噂で聞いたんだけど、おっさんって情報屋なの?」
「俺らさ、アイドルの子達と友達になりてーんだけど、誰か良い子紹介してくんない?」
私は、彼らの言うことには耳を貸さず、目もくれることなく、ジッと押し黙った。
「おい、おっさん聞いてんのかよ!」
若者の一人が、私のフードに手を伸ばそうとした、その時だった。
突如、私の背後の柱の影から現れた男に、その若者が後ろ手に拘束された。
「坊主――この方のお顔は見ちゃいけねぇの、知ってるか?」
男の恐ろしい風貌に、若者達は声を出せないまま震えている。
「おい」
私は、座ったままの姿勢で若者達に声をかけた。
「お前達はまだ若いから、特別に見逃してやろう。
次からは気をつけることだ――その綺麗な両目を潰されたくなければな」
私の言葉に心底恐怖したらしい若者達は、悲鳴を上げながら公園を去って行った。
「旦那も人が悪いぜ。俺はお客の目ん玉潰したことなんてねぇのに」
用心棒替わりの男は、去って行った若者の方を見ながらケラケラと笑った。
「誰がお前を雇った以後の話だと言った」
私がそう言うと、男の顔からは笑顔が消え、背筋が伸びていた。
情報など、そういうものだ。
正しいか正しくないかなど関係無い。
目の前の人間の心を動かすのに最も効果的な御託を並べ、泳がせれば良い。
たとえ真実でなくても、世間が望めば、時としてガセはいつしか真実になる。
所詮、この世はそれだけいい加減で、くだらないものなのだ。
客を待つことに飽きたら、気晴らしに街中をウロウロと彷徨ってみる。
すれ違うあらゆる人達が、新聞や雑誌を手に取り、様々な表情を浮かべている。
“アイドル”というのは、今にして思えば言い得て妙な呼び名だ。
見えない第三者の意図で塗り固められた虚像を称え、応援し、崇拝する――。
まさに、腐った芸能界を体現する存在と呼ぶにふさわしい。
そして、それらに踊らされ、一喜一憂する者達――。
これら有象無象の連中も、私と同様、等しく無価値である。
唯一、無価値である自分を、価値ある人間たらしめるものがあるとすれば――。
それは、金である。
情報で動かせない人間がいたとしても、金で動かない人間はいない。
結局は、如何なる手を使ってでも、儲けた者の勝ちなのだ。
腐った奴らと、金と情報以外を理由に繋がる必要など無い。
まして、信頼関係だの、人との繋がりだの、馬鹿馬鹿しい。
一度絶望し、完全に見限った後で生きる世界は、この上なく居心地が良かった。
夜、公園に戻り、もう一度ベンチに腰掛ける。
私へ情報の提供を依頼する輩は、話の内容から察するに、芸能関係者がほとんどだ。
ある俳優の女性関係を探る者、その破局に繋がるネタを求める者等――。
私怨にまつわる依頼もあれば、金目当てでネタを求めるジャーナリストらしき者もいる。
そういえば明日、情報を提供する約束をしていた依頼人がいたな。
もう一度、ターゲットの俳優の身辺関係をリサーチしておくとするか。
そんな事を考えていた折、私の背後に、誰かが座った。
「――相談したいことが、あります」
声のトーンから、今回の依頼人は女性のようだ。
差し詰め、女性アイドルにお目当ての男性タレントを奪われたとか、そんな内容だろう。
男よりも、女の方がよほど下半身で生きている。
情報屋を生業とし、幾多の下世話な関係を目の当たりにしてきた私の持論だ。
「アイドルを目指そう、って思った時に――お勧めの事務所は、ありますでしょうか」
今回の依頼は、私にとってかなり異質なものだった。
これまでの依頼のほとんどは、誰かを蹴落とし、金を儲けるためのものだったからだ。
まるで、学生の進路相談のような――何となく拍子抜けしてしまう。
「あなたがアイドルになりたいと――?」
正直、そのようなか細い声では活躍など見込めない。
多少なり図々しさが伴わなければ、芸能界でなど生きていけないと、忠告してやろう。
「いえ、私ではありません――娘がいまして、それが、アイドルになりたい、と」
――つくづく進路相談だな。
こんな依頼に付き合ってやるなど、馬鹿馬鹿しくも思うが、私にもプロの自負はある。
受けた依頼は、報酬と引き換えに必ず完遂させる。
「三日後の同じ時間、もう一度この場所に来るがいい。
報酬は、言い値で結構――。
だが、本当にあなたにとって大切な情報なら、はした金にはならないはずだろう」
そう言い残し、私はベンチを立ち、公園を後にした。
アイドル事務所、か――。
もう二度と会うまいと思っていた連中の顔が脳裏にチラつく。
やはり、これからは依頼を選ぶというのも考えた方が良いのかも知れない。
「――たまげたな、まさかあの俳優にそんな顔があったとは」
この日も背後に座る者は、私の話を心底信じきっている。
話の半分に真実を混ぜるのがポイントだ。
「この話が明るみに出れば、彼は何も反論することができなくなる。
あの男を芸能界から追放するも、脅して骨の髄まで搾り取るも、好きにするがいい」
「感謝しよう。約束の金だ、ここに置いていく」
しばらくして、声が聞こえなくなった頃――。
待機させていた男がいつものように約束の物を拾い、私に持ってくる。
今日は、かなり羽振りの良い客だった。
いつもより多めに報酬を渡すと、男は嬉しそうにその場を去って行った。
私は、手の中に残った分厚い札束をジッと見つめた。
コイツも、人から人へ、様々なドラマを経て私の下へやって来たのだろう。
今まさに、一人の男を追い詰めようとしている低俗な輩が持っていた金だ。
このような悪銭は、私が使おうが、誰が使おうが、その程度に変わりはない。
私は、銀行へと向かった。
画面を操作していつもの口座を指定し、振込みを行おうとする。
しかし――。
どういうことだ――口座が無くなっている。
何度操作しても、結果は同じだった。
おかしい――昨日まではあったはずなのに。
こんな経験は、今までに無かった。
このままやってもラチが明かないので、今日は一旦帰ろう。
釈然としない思いを抱えながら、銀行を出る。
「――久しぶりだな、黒井」
銀行を出て少し歩いたところで、ひどく懐かしい声が背後から聞こえた。
少し低くなったか――しかし、この耳障りな声だけは、生涯忘れることはできない。
私はアイツの声に少し足を止めてしまったが、気にせずまた歩き出した。
「あ、おい、待てって――」
慌てて私を追って来ているようだが、アイツと話すことなど何も無い。
どうせ面倒なことを言い出すのだろう――身を遠ざけておくに限る。
「――理由が無いということか。今の私には、キミと話す理由が」
背後から独り言のような声が辛うじて聞こえ、その後は雑踏しか聞こえなくなった。
話す理由が無い――さすがに、アイツは私のことを良く分かっている。
私が求めるのは、客との金と情報のやり取りだけだ。
もう、誰もそれ以上私に関わらないでほしい。
再会は、思ったよりも早かった。
昨日、雑踏の中で聞こえたのと同じ声が、今日、私の背後のベンチから聞こえる。
「思ったよりも元気そうで、安心したよ」
顔を見なくても分かる。
そう言う高木は、背後で何となく笑ったようなだらしない顔をしているだろう。
「今さら何の用だ。
私は、私が求める物を持つ者としか関わりを持たないと決めている」
私は、アイドル業界を捨てたのだ。
コイツといると、思い出したくないことまで思い出してしまう。
さっさと話を切り上げ、席を立たなくては――。
「昨日、不思議に思わなかったかい?
キミがいくら操作しても、お目当ての口座が銀行で見つからなかったことに」
高木が発した言葉に、私は驚きのあまり思わず後ろを振り返りそうになる。
なぜ、そのことをコイツが知っているのだ。
「もう、彼女の借金の方はついた。
キミは、今後、諸々の口座に振り込む必要は無くなったんだ」
借金の方がついた、だと?
馬鹿な――少なくとも、あと10年はかかると見込んでいた額だったはずだ。
コイツが肩代わりをしたとでも言うのか。
どこでそんな金を――。
「水瀬という資産家を?」
――知っている。
多国籍企業を多数取りまとめ、近年新しく財閥を立ち上げた、新進気鋭の実業家だ。
「とある縁があって、彼と友人になることができてね。
金に困っていると相談したら、無利子で貸してくれたのだよ」
人脈でたまたま金を得たということか――。
信頼を否定し、むしろ醜悪な人間関係の膿から金を掠め取る私に対する皮肉のつもりか。
「そして、借金の相手先には、口座を解約するよう私の方からお願いをした。
無論、キミがこれ以上、余計な金を振り込まずに済むように、だ」
高木は、しきりに私のことを“キミ”と呼称する。
歳相応に落ち着いたのもあるだろうが、私と微妙な距離感を保っているようにも思えた。
「人との信頼関係に絶望したキミは、キミなりに苦肉のやり方で金を工面したのだろう。
だが、それはもう必要無い――もう、汚いことをしなくて良いんだ」
今さら、私にどうしろというのか。
また一緒にアイドル事務所を立ち上げようなどと言い出すのではあるまいな。
「――借金の方がついたのなら、好都合だ。
これからは、私は私自身のために金を稼ぐことができる。
自分のペースで、低俗な連中から気ままに金を毟り取ってやることにするさ」
「――そうか。なら、もう一つの用件を言おう」
高木は、半ば諦めるように呟いた。
まだ用件があったのか。
「今度、私の従弟が新しくアイドル事務所を立ち上げることになった。
765プロダクションと言ってね。なかなかシャレた名前だろう?」
フン、と私は鼻を鳴らした。
アイドル不毛のご時勢に、そんな商売など当たるはずが無い。
「一方で、肝心のアイドルがなかなか見つからない状態でね――。
キミなら、誰か目ぼしい子でも知ってやいないかと、相談したかったのだよ」
「アイドル業界は、とうの昔に死んだ。
そんな事にも気づかない間抜けにくれてやる助言や情報など無い」
そう言い放ち、私はベンチを立った。
「せめて、彼女と――小鳥ちゃんと連絡が取れさえすれば良いのだが――。
母親譲りの歌声は、アイドル復活の十分な狼煙になると思うんだがねぇ」
とうとう私は、振り返ってしまった。
高木は、いつの間にか既に私の方へ振り向いている。
最後に会ったときと比べ、頬はこけ、肌がくすんでいるその顔に、表情は無かった。
咄嗟に、柱の影に待機させていた男が飛び出す。
しかし、私はその男を制止し、この場を立ち去るように言い捨てた。
困惑した表情の男を尻目に、私は高木に詰め寄る。
「貴様――彼女をアイドルにさせるだと?
6年前に何があったのか――私達が、私が、何をしたのか忘れたのか!」
「手術を終え、病院を出た後、彼女は子供と一緒に行方をくらましてしまった」
高木は、私が去った後の彼女のことをポツポツと語り始めた。
「その真意は分からない。
程無くして私は事務所を閉鎖し、アイドル達の雇用先の手配をしなくてはならなかった。
彼女がどこで何をしているのか――気を回す余裕は、とても無かった」
「事態がひと段落してから、私は彼女の足取りを探しつつ、借金を返すことにした。
返済を通し、私のような味方がいるのだということを、彼女に認識してほしかったのだ」
高木も借金の返済を行っていたことは、知らなかった。
だが、そういう思考に至る男であることは、想像はできる。
「借金が無事完済できれば、私も彼女に会うことができる――。
幼稚な発想だが、逆に言えば、そうしないと彼女に会う資格が無いとも思った。
だから、水瀬に借金の方をつけてもらった後、私は本格的に彼女を探した」
「するとどうだ――あのバーに、最近彼女が現れたそうなんだ」
「あの店――まだ潰れていなかったのか」
そう聞くと、高木は少し笑いながら、黙って頷いた。
「マスターから話を聞いてね。
カウンターに座ってカシスオレンジを注文し、そのグラスを握り締めていたらしい」
「何をしに来たんだ」
少し鼻息が荒くなっているのが、自分でも分かる。
ここ最近、こんなに気持ちが昂ったことは記憶に無い。
「人生相談、とでも言えば良いのかな――。
娘をアイドルにするために、私と、キミを探していると――そう言ったらしい」
娘を、アイドルに――この話、確かに記憶がある。
まさか――二日前の依頼人、あれが――。
「なぜ、彼女は自分の娘をアイドルにしようと――」
私は、高木の言うことが信じられなかった。
あれだけ辛い思いをしておきながら、それと同じ経験を娘にさせたいなどと思うものか。
小鳥ちゃんを765プロとかいう事務所に引き入れるための、コイツの戯言に違いない。
「黒井――キミは、過去の出来事に対する思い込みを忘れなければならない。
それに囚われていては、キミの人生も止まったままだ。
彼女もきっと、キミが燻ったままでいることを良しとしないはずさ」
高木が、私のことを諭すようになだめる。
「貴様は、彼女の不幸が仕方のないことだったと思うのか」
私は、高木のことを認めるわけにはいかなかった。
「アイドル業界の腐敗は、超常的な事象によるものではない。
ましてや神仏の類が私達を巡り合わせたわけでもなく、彼女が潰れたのも運命ではない」
「私達だ――全て、私達の仕業だということを、忘れてはならないのだ」
私は、高木に背を向け、公園を後にした。
おそらく、私は明日の夜、この公園で彼女に出会うのだろう。
自分を取り巻く灰色の世界が、急激に彩を帯びてグニャグニャと歪んでいくのを感じる。
「ねぇー、マイー。ちょっと待ってよぉ」
元気の良い女の子の声が聞こえ、ふと見ると、中学生らしい数人のグループがいた。
その前を、茶髪の溌剌とした女の子が先導している。
「もう、早くしてよ! カラオケの時間がもったいないじゃない!」
「そんな事言ったって、マイのテンションについていけるの誰もいないよぉ」
茶髪の女の子は、他の女の子達の周りを飛び跳ね、しきりに急ぐよう催促している。
私は、その茶髪の子に見覚えがあった。
いつか、どこかの事務所で会った、“舞”という天真爛漫な少女――。
アイドル界の、金の卵――。
私の直感は、確信に近いものに変わっていた。
男には、今日は柱の影に隠れず、公園の入口近くで待機するように伝えてある。
彼女以外の人が、このベンチに近づかないように――たとえ高木であってもだ。
今日のことは高木に伝えておらず、高木も彼女に会っていないから、来るはずもないが。
やがて、背後で誰かがゆっくりと、ベンチに腰を掛ける気配がした。
来たか――。
「――娘のことで、約束のとおり、お伺いしました」
手術の影響だろうか――少し、声が擦れているような気がする。
この声が彼女のものであると、認めたくはなかった。
「近々、765プロダクションという新しい事務所が設立される。
確かな手腕を持つ男が運営するものであり、所属アイドルも手厚く扱ってくれるだろう」
胸が激しく動悸しているのを気取られぬよう、私は努めて紳士的に話す。
「そうですか――」
呟くような返答の後、しばらく沈黙が続いた。
ベンチを立つような気配も無い――まだ、彼女は私の真後ろに座っている。
「なぜ、娘をアイドルにしようと――」
私は、彼女に聞いた。
「芸能界というのは、恐ろしいところだ。
腐った輩の気まぐれで、簡単にこちらの人生などボロボロにされてしまう。
いくらそれが娘の望みだとしても、親であるあなたがそれを止めなくてはならない」
「娘も――それは、良く知っています」
か細い返事が聞こえ、私の心臓が胸の内で大きく鳴り響く。
「親である私が、ダメになっていくのを――近くで見ていたのですから――。
アイドルというのが、いかに厳しいものであるか、あの子は知っているんです」
「だったらなぜ――!」
私は、彼女の考えが――小鳥ちゃんの考えが理解できなかった。
あの子が近づいて良い世界ではないのだ。
「歌を歌う私の姿が――好きだったんだそうです。
歌で、皆を笑顔にしていく私が――自分も、そうなりたいって」
ふいに、彼女の歌を初めて聴いた時のことを思い出す。
彼女の済んだ歌声は、聴く人の心を癒し、労わり――愛す。
「たとえ、芸能界が怖いところであっても――。
歌で与えた感動は、嘘なんかじゃない――あの子は、それも良く知っているんです」
「あなたも、かつては、そう思ってくれていたはずです――黒井さん」
長い沈黙が、公園のベンチを包む。
「――おそらく、高木は今頃あのバーにいるでしょう。
765プロダクションについて知りたいのなら、アイツに聞いてください」
私は、ベンチを立った。
「歌が与える感動に嘘は無い――だが、感動を与えるだけでは生きていけない」
札束の入った封筒をベンチに置き、私は後ろを振り返ることなく、その場を去った。
途中、公園の入り口で待機させていた男に、持っていた残りの札束を渡した。
「今まで、ご苦労だったな」
「だ、旦那――これは一体、どうしたんですか」
「もう、この商売は終わりにする。世話になった」
自暴自棄になったのではない――次に私がやることは、もう決まっている。
スーツに袖を通すのも、随分と久しぶりだ。
事務所のインターホンを押すと、以前の石川さんとは違う、別の女性が応対に現れた。
彼女に連れられ、私は、もう縁が無いと思っていた男に出会った。
「お久しぶりですね――まさか、もう一度お会いできるとは思いませんでした」
武田蒼一は、以前と変わらない若々しい顔を保っている。
慌しく職員が動いているところを見るに、事務所の経営はそれなりに順調のようだ。
「トラブルを起こし、アイドル業界を退いたと聞いています。
しかし、貴方がこのまま引き下がる人ではないことを、僕はずっと信じていました。
あぁそう、石川さんはこの事務所を辞めたんですよ。
彼女自身も、事務所を立ち上げたいって言い出して――何だったかな、確か876――」
「世間話は良い。単刀直入に話をしよう」
そう言って、私は手に持ったバッグから、札束を机の上に積み上げた。
「なっ――これは一体、どういうことですか」
武田が困惑した表情で、私と札束を交互に見上げる。
「日高舞――キミも良く知る、アイドル界の金の卵と言っていた子だ。
あの子を、この事務所でアイドルとしてデビューさせてほしい。
プロデュースに必要な金は、この金を好きなだけ使ってもらって構わない。
楽曲についても、私が提供しよう」
「楽曲も、ですか――失礼ですが、どのような曲でデビューさせるおつもりですか?」
武田の質問に、私はそれまで忘れていたある種の情熱をもって答えた。
「エレクトロニック・ダンス・ミュージックだ。
必ずこの国で流行る――そのインパクトこそ、アイドル復活の狼煙になるだろう」
「エレクトロニック・ダンス・ミュージック――。
ジャンルは僕も良く知っていますが、なぜこれを今になって持ち上げようと――」
武田は、まだ私の根底にある考えを理解しかねているようだった。
「元々、これは私がずっと暖めていたものだった。
しかし、思わぬボーカリストが手に入り、活用する機会を逸してしまった。それだけだ」
私は、言葉少なに彼の質問に答え、さらに続ける。
「今回のプロデュースに関する金銭的なリスクは、全て私が負う。
さらに、キミが日高舞のプロデューサーとして表舞台に立ち、私は影の進行役を務める。
一方で、今回のプロデュースによる金銭的収益は、私も分け前をもらう」
「つまり――失敗した時のお金の負担は貴方が、逆に名声等のリスクは僕が負う。
成功した場合の地位や名声、名誉は全て僕が得る。お金は僕と貴方で分け合う、と――」
武田は、口元に手を当て、何か思案しているようだった。
「金銭的収益の分け前とは、具体的にどれだけの割合を希望されていますか?」
当然、それは気になるところだろう。
私は、毅然として答えた。ここは譲るつもりは無い。
「7割」
「8割でも良いですよ」
武田がサラッと答えた。
この回答は、私も予想だにしていなかった。
「何も、貴方の提案が当たるはずがないと、疑っているのではありません。
むしろ、それだけの能力を持つ貴方のプレゼンです。僕も彼女のブレイクを確信する」
武田は、さらに澄ました顔をして続ける。
「僕も彼女も、お金については頓着が無いのです。
逆に言えば、何かムーブメントを起こすためには、地位と名誉が必要だと僕は思った。
それを獲得できさえすれば、僕は満足です」
「日高舞は、それで納得するのかね」
私は武田に問い詰めた。とても理解できない。
「彼女は快楽主義者ですからね。
お金があろうと無かろうと、彼女なりに人生をエンジョイする方法を日々模索しますよ」
武田は、にこやかに答えた。
――初めて会った時から、そう思っていた。
コイツは、やはり私とは決して相容れない男のようだ。
だが、まぁいい。
今の私に必要なのは、全てのものを動かせるだけの金だ。
それさえ得ることができれば、この男の信念などどうでも良い。
「商談成立だな――日高舞をよろしく頼む」
「こちらこそ」
武田との固い握手を交わし、私は事務所を後にした。
私の読みは、この上なく当たった。
日高舞は、この国の音楽シーンに飛来した巨星として、瞬く間に業界を席巻した。
ジャンルの目新しさに加え、彼女自身の圧倒的パフォーマンスも大きな反響を呼んだ。
武田蒼一は、新しい音楽を創造する第一人者としてその名を轟かせる。
エレクトロニック・ダンス・ミュージックの隆盛は、まさしく時代の象徴となった。
無名の新人が大スターとして輝き、新ジャンルが音楽界のメインストリームとなる――。
それは、アイドル業界がこの国で復活した瞬間でもあった。
しかし、私は知っている。
日高舞が輝きの中心にいる、その裏で、夢を諦めざるを得なくなった子がいることを。
日高舞がデビューして3年――。
一般人男性との交際、結婚と引退の噂がまことしやかに流れる。
その頃には、私はこれまで見たことが無いほど莫大な収益金を手にしていた。
これを元手に、さらに金をもっと増やして――。
そう――私は皆に思い知らせてやらなくてはならない。
ある日、私はエンペラーレコード社を訪ねた。
その目的はもちろん、彼である。
「今さら、何のようだ?」
会社のロビーで彼を待ち伏せ、強引に目の前に立つ。
大富は、以前よりもさらに脂ぎった顔をしかめながら、私をジロジロと見ている。
「貴様にとって、暴かれたくない情報のいくつかを、私は手にしている。
どうだ――この場で披露してみせようか」
そう言って、私は胸元から写真を何枚かチラつかせる。
全て、この男と、女性アイドルや女優とのスキャンダルだ。
「ほう――だが、そういうカードはもう少し自分の立場をわきまえて切るべきだな」
大富はそう言って指をパチンと鳴らす。
だが、何も起こらない――何度も鳴らしては当惑する大富を睨みながら、私は言った。
「お付きの人間は、既に買収した――この会社に、貴様の言うことを聞く者はいない」
「何だと――ッ!」
大富は、顔を真っ赤にしながら胸元からPHSを取り出し、誰かに電話をする。
「――あっ、おい、俺だ。すぐに俺の本社に来い!
即刻片付けてほしいヤツが目の前に――あ、あれ、もしもし? もしもし!」
「貴様の関連会社も、全て手中に収めている。
立場をわきまえるべきなのは、私の方では無かったようだな」
私の言葉を前に、大富は力無くその場にへたり込んだ。
かつては私をコケにした連中も、今では度々私にゴマをすりにきている。
そう――結局のところ、やはりそういうことだ。
振り返ると、夕日が煌々と燃えている――あの日、彼女と見た夕日のようだ。
私は、この業界に知らしめなければならない。
この世で生きていくために、必要なものは金なのだ。
金にさえ困らなければ、法律を破り、悪事を働く必要もない。
借金の返済のために、己の身を追い詰めていくこともない。
何より、生きていくのに邪魔な輩を黙らせることができる。
かつて、一人のアイドルが潰れた。
それは、当時のプロデューサーの未熟さによるところが大きい。
しかし、彼にもし、不遇な状況を打開できるだけの財力があったなら――。
彼女は、自分には幸せになる資格が無かったと言った。
それは、ある意味では間違っていなかったのかも知れない。
幸せになるために必要なものを、不幸にも彼女は持っていなかったのである。
だが、真に哀れなのは、彼女がそれに気づかず、娘に同じ道を歩ませようとしたことだ。
彼女の不幸は、運命ではない。
夢だけでこの業界に入っては、必ずどこかで挫折し、突き落とされる。
金を持たない者が、この業界に近づいてはならないのだ。
それを、私がこの世のアイドルを目指す全ての者に知らしめてやる。
悲劇を繰り返さないために、持たざる者を諦めさせてやることこそが、私の使命なのだ。
そうでなくては、彼女が浮かばれない――。
私は、敗北してはならないのだ――!
あなたに、許してもらおうなどとは思わない。
だが、私はもう、決してあなたのような悲劇を生み出さない。
それが私の贖罪だ。
765プロだと?
高木のヤツめ、この期に及んでアイドルとの信頼関係などと――!
そんな不確かなものを頼りにしては、いつか必ずアイドルを不幸にする。
生き残るすべを持たない者がこの業界に近づいてはならないのだ!
私を見ろ。
961プロダクションを見ろ!
私を通して、金にまみれたこの腐った芸能界を見ろっ!!
そして諦めろ!
ここは自分が生きていける場所では到底ないと!
高木――貴様の信念は、私の信念を真っ向から否定するものだ。
もう、彼女のような人を生み出してはならない――!
それを分かれ、高木っ!!
みんな、ここから離れろ――近づくんじゃあないっ!!
【終】
小さな願いがいつか
大きな未来になっていく
それは子供がいつしか
大人となってく様に
信じ合う喜び覚えて
傷つけ合う悲しみ知って
巡り逢う出会い
手と手をさあ取り合って
「――私の事務所が貧乏であることは、否定はしないがね」
キミは音無君の歌を、未だ自分の中で認める気になれないようだ。
歌い始めた時から数えて、二杯目に当るグラスを、早くもキミは空にしようとしている。
「今になってそういう話をしたということは――。
キミ自身、何か思うところがあったということかい?」
私は、なるべくキミのプライドを傷つけないよう、その真意を尋ねる。
「あらゆる弱者を金と実力で潰すことで――。
貧乏な連中の夢を諦めさせることで、彼女の不幸を否定しようと考えた――」
「だが――結局のところ、それは私の自己満足であり――。
自分のせいとして受け止めきれなかった私の、現実逃避だったのかも知れん」
グラスに残った酒を勢い良く飲み干し、乱暴にテーブルに置いて、キミはため息を吐く。
「今日、貴様らにフェスで敗北して――。
私が歩んできた道が、正しかったのか、間違っていたのか、分からなくなった」
善澤君は、黙って新しい煙草に火をつける。
「日高舞が台頭した時、音無君はアイドルとして大成することを諦めた――。
キミの思惑通りにね」
私は、手元のグラスの中にある氷をカラカラと回してみせた。
キミと同じものを頼んではみたが、私には少し強すぎるらしい。
「彼女はちゃんと知っているよ――。
あの時の、夢を諦めさせるという行為が、キミなりの優しさの表れだったということを」
私の言葉に、キミは反応し、顔を向ける。
「音無小鳥が、か――フン。
どうせ貴様が余計な入れ知恵をしたのだろう。大きなお世話だ」
「ううん、違うとも。彼女自身が語っていたと、私の従弟から聞いたのだ。
それに――」
「音無君だけでなく、“彼女”も知っている――そうだろう、マスター?」
私の問いかけに、マスターは無言で頷いた。
キミは、何のことか分からずに少し困惑しているようだ。
しばらくして、出番を終え、ステージを降りた音無君が、店の入口に向かう。
外に出て、間もなく彼女は再び扉を開けてやってきた。
――彼女を連れて。
キミは、驚きのあまり手に持っていたグラスをテーブルの上に落とした。
幸い、倒れずに済んだようだ――昔、事務所でカップを割った時のことを思い出す。
「あなたは――な、んで――」
呂律が回っていないのは、酒のせいだけではないようだ。
開いた口が塞がっていないキミの間抜けな表情を見るのは、なかなか久しぶりだな。
「今まで、お会いするのをためらっていました。
悲しい決意をされた黒井さんに、今さら私が会っても、辛くさせるだけに思えて――。
高木さんや、マスターさんから、お話を聞く度にずっと――悩んでいました」
「でも、この子が――小鳥が、教えてくれたんです。
黒井さんが、珍しく皆さんを誘ってるって――昔話でも、するんじゃないか、って。
だから、今日――」
彼女の隣で、音無君は嬉しそうにニコニコと笑っている。
「私は――私は、良かれと思って、あなたのためなどと――。
だが、結局、私は何一つ――正しい行いをしてこれなかったのかも知れない」
顔を背けるキミの隣に彼女がそっとつき、キミの手を取った。
「きっと――人生には、正しいとか、間違った人生なんて、無いんです。
あるのは、自分や、その人の人生が、好きかどうかなんじゃないかな、って」
「黒井さんは、これまでずっと、自分が良いと思う道を、歩んでこられたと思います。
そうして積み重なった黒井さんの人生を、私が嫌いになることはありません」
キミは、ガックリと頭を垂れ――グラスを握り締めたまま、ブルブルと肩を震わせた。
これ以上は、お邪魔かな?
「というわけで、社長――この日のための特別な一曲を、私、内緒で用意してるんですよ」
音無君は、そう言って私の腕をグイッと引っ張った。
何のことか分からない私に、なおも彼女は笑顔で続ける。
「お母さんと皆さんとのお別れ会の時、社長が歌った歌――。
私もバックコーラスで参加しますから、社長、ねっ?」
「お、おいおい――私にこの場でアレを歌って、大恥をかけと言うのかい?
第一、あの歌は別れの歌だから、再会を祝すこの場にはそぐわないよ」
やや興奮気味の音無君をなだめるよう、必死に私は抵抗した。
だが、音無君は笑顔のまま首を振る。
「歌は上手い下手じゃありません。気持ちが大事なんです。
それに、お母さんも言ってました」
「この曲は、別れの歌じゃない――いつかの再会を誓う歌なのよ、って。
これ以上ないくらい、この場にピッタリの曲だと思いませんか?」
気づくと、善澤君は火をつけたばかりの煙草を灰皿に押しつけた。
マスターは、それを手早く手元へ片付ける。
「――おい、俺の灰皿はどこにやった」
善澤君が、ひどく陽気なトーンでマスターに訪ねると、彼は笑顔で答えた。
「今日はウチは禁煙ですので」
フン、と鼻を鳴らしながら、善澤君が席を立つ。
「こんなシケたバー、潰れちまえ。まったく――外に行ってくる」
そう言って、善澤君は店を出て行った。
なるほど――私の歌を聴きたくないということだな。
つまり、私に歌えということか――まったくマスターといい、あの男ときたら。
良いだろう。せっかくの祝いの席だ。
ステージに上がると、アイドル諸君らの驚きに満ちた顔が目に飛び込んでくる。
プロである彼女達を前に、お粗末な歌を披露するのは、何とも恥ずかしいものだ。
しかし、キミと彼女を二人きりにさせてあげるには、こうするのが一番良い。
この位置からでも良く分かる。
お前の顔が耳までぼうっと真っ赤になっているのは、酒のせいだけではないのだろう。
彼女の表情も、この上なく喜びに満ちている。
久しぶりの再会に、何を話すのか――それは、後で聞くのを楽しみにしておこうか。
小鳥ちゃんのコーラスを背に、俺は久方ぶりに、意気揚々とマイクを手に取った。
いつの日か 夕焼けの帰り道 眩しげに
振り返る 我が道に 人生に乾杯を!
タイトルの元ネタは、コーヒーカラーの『人生に乾杯を!』です。
終盤に、同曲の歌詞と、音無小鳥の『幸』の歌詞の一部を引用しております。
ただ、同曲を高木社長に歌ってほしかっただけです。
オチが無い駄文長文となってしまい、すみません。
なお、>>172で貼ったのは、2004年リリースのオリジナル版です。
2009年には、『人生に乾杯を! ~別れの曲~』というリメイク版がリリースされています。
こちらも曲そのものだけでなく、PVもすごく良いので、ぜひご覧いただければと思います。
最後までお読みいただいたうえ、暖かいご支援、ありがとうございました。
それでは、失礼致します。
>>172のアドレスが変な気がするので念のため張り直し
http://www.youtube.com/watch?v=b6dYDEJkxVw
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