ほむら「想いの欠片」 (129)
「想いの結晶」のそのあとです。
こちらを読んでないと、おそらく色々と分からないと思います。
あの時構想こそすれど、書けなかったものが、ようやく形になりました。
またお付き合いいただければ、幸いです。
SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1392125748
暖かいまどろみに包まれて、私は穏やかに夢を見ていた。
とても幸せな夢だった。
いつまでも浸っていたいと思ってしまうほどに。
でも、そんな至福の時間は、目覚まし時計の無神経な騒音が掻き消していく。
弾けて飛んだ世界を名残惜しく思いながら、枕元に置かれた音の発生源を手でまさぐる。
それを探し当て、一発ゲンコツをお見舞いして、どうにかそれを止めることに成功した。
「……ん。う、もう、朝……」
そう呟きながら、カーテン越しに差し込む朝日と、登校の一時間前を指し示す時計を交互に睨む。
もう起きなさいと、そう私に語りかける私の世界。
肩をすくめながら、それらに了解の意を示すべく、半身を起こした。
つい、布団の暖かい誘惑に負けそうになったけど、どうにか這い出て難を逃れる。
正直、もう少し眠気が強かったなら、負けていたかもしれなかった。
そろそろ、寒くなってきたかな。
呆けた頭で、寝巻のままでいることのキツさをなんとなく感じて、そう思う。
先ほどまで体温のままに温められていた布団を名残惜しく睨んでみるけれど、そうはいかない。
ぼさぼさの髪に触って溜息を付きながら、洗面所へと重い体を引きずっていく。
待ち合わせの時間まで、十分に余裕はあるけれど、これを整えるのにどれだけかかるだろうか。
そんなとりとめのないことを考えながら、鏡に向き合った。
そこに映った自分を見てみる。
なかなかに面白い寝癖が付いていて、しかめっ面がそこに浮かぶ。
さすがにこんな状態で外に出るわけにはいかない。
そう思い、髪を水で濡らし、ドライヤーで乾かしを繰り返すのだけど。
持ち主に似たのか、相当頑固についたその寝癖は、なかなか直ってくれない。
結局、最後の手段に頼るハメになった。
「……こんな使い方するなんて、思わなかったわね」
魔法というのは、確かに便利なものだと思う。
そんなことを思い付く余裕すら、これまでまるでなかったな、なんて。
頑固にハネた前髪を瞬時に整えて、ドライヤーをコンセントから抜き、定位置に戻し。
二本置いてある歯ブラシの内、いつもの一本を手に取って、歯を磨きながら、思った。
ちょっと、寝癖に時間を取られ過ぎたかも知れない。
いつのまにか三十分以上が過ぎていて、焦りが頭を静かに過ぎる。
今日こそは朝ごはんを用意しようと思っていたけど、どうやらまた明日に持ち越しみたい。
怒られちゃうかな。
たぶん、怒られるだろうな。
そう思いながら、新品同然の食器が揃った棚と、ピカピカに磨き上げられたシンクを見て、視線を落とす。
ごめんなさいと、言葉にせず呟いて。
無造作に積まれた洗濯物の山から、今日使う分を引っ張り出した。
素肌を冷気に晒して鳥肌を立てて、慌てて下着を付けながら、つとめてその山を見ないようにする。
早くたたんで片付けないといけないんだけど。
しわになるとか、うっかりしてるとなくなっちゃうとか、色々、言われていたっけ。
別に、アイロンを掛ければいいのだし、そう簡単になくなったりしないだろうし、大丈夫だと思うんだけどな。
とか、思ってたけど。
首尾よく制服を着終えたはいいものの、靴下が片方しか見つからず、時間を随分と浪費する羽目になった。
日常生活を語るには、私はあまりにも経験が足りないらしい。
大人しく従う以外の選択肢はないのだなと、苦笑いを零しながら、山を崩して掻き分けて。
「……あった!」
無情にも、タイムリミットはすぐそこで。
ぐちゃぐちゃにした部屋の惨状から目を逸らし、大慌てで玄関で靴を履き、カバンを抱えて家を飛び出す。
そして、走り出した。
空が、とても青い。
あの日、あの瞬間にも、負けないほどに。
朝特有の冷たい風に、走って汗ばんだ身体の熱が取られていく。
「おはよう、あんまり急ぐと危ないよ!」
「おはようございます、ちょっと寝坊しちゃって!」
「気をつけるんだよ!」
「はい!」
すれ違う見知らぬ人に話しかけられて、それに元気よく返事を返して。
そんなこと、想像もしてなかったな。
きっと昔の私なら、無視して通り過ぎるだけだったのかな。
あるいは、怯えて何も言えなかったのかな。
いや、そもそも、何かに間に合うために急いで走るだなんて、それ自体がありえなかったかな。
坂を上り、交差点を渡り、朝の街を駆けていく。
目指す場所は、もう、すぐそこだ。
はやる気持ちを抑えられずに、腕時計の針を確認した。
辛うじて間に合うくらいの時間を示していることに安堵して、ラストスパートに入る。
綺麗なアウトインアウトを披露しながら角をジグザグに曲がり、最後のL字路を抜けて、正面を見た。
小さな影が、そこにある。
私を認めて、腕を振って迎える姿が。
私の耳に、声が届く。
「ほむらちゃん、おはよー!」
必死に走った代償として、乱れに乱れた呼吸と、心臓の鼓動を抑えようとするけれど。
今度は別の要因によって、その努力は実らない。
しょうがないから、歩きながら、一言を返せるだけの落ち着きをなんとか取り戻して、言った。
「おはよう。まどか」
たった、それだけのことで。
溢れそうになった涙を、必死に押し留めた。
肩を並べて、話しながら、歩いている。
内容は案の定、こうして息を切らしていたこと。
「寝坊、したの?」
「ううん。寝癖の処理に手間取ったのと、その」
一番時間を取ったのはそれだから、言わなくても済むかなとも思ったんだけど。
後ろめたさは隠しきれず、つい口をついて、続きがあるような語尾になってしまう。
言葉を待つように覗き込んでくるまどかの顔を見れば、何もないよとはとても言えなかった。
「その、靴下が……見つからなくて」
「もう、だから、ちゃんとすぐにたたんでね、って言ったのに」
「……うん」
「その分だと、また朝ごはんも食べてないね?」
「……」
すぐに見抜かれてしまって、申し訳なさが溢れ出て口を開けない。
しおしおと首を縦に振り、肯定の意を返す。
私を見ていた視線は、いつの間にか白い目に変わっていた。
「ほーむーらーちゃん?」
「……気を付けます、ちゃんと、だらしない生活しないようにします……」
「せっかく、一緒に家具類そろえたんだから。使ってよ」
「はい……」
もう帰ることもないだろうと思っていた私の家には、何一つとして生活用品が存在しなかった。
それを見かねたまどかが、私を半ば強引に商店街へ連れて行って、必要なものを全部揃えてくれた。
もっとも、有効活用できているかと言われたら、このザマなのだけど。
日常という、異常。
それに溶け込むにはまだ、時間がかかりそうだった。
「せっかく、手に入れたんだから、さ」
「……うん」
まどかが、強調するように、重ねて言う。
その言葉には、どこか影があった。
その意味を理解して、私の返事も、トーンを落としたものになる。
手に入れた日常に、何も考えずに浸れたら、それはとても楽かもしれない。
でも、そう簡単にはいかなかった。
単純に私の不器用さという問題もあるけれど。
もっと別の問題が、私たちの前には、残されていた。
足取りは、自然と重くなる。
何を思ってのことかなんて、問う必要はない。
ずっと頭の隅に残って、それは消えていなかった。
何も考えずに日常を謳歌するには、きっとまだ、早いということ。
「杏子ちゃん、今日、来るかな」
「……」
推測で物を言うのは、あまり好きじゃない。
でもきっと今日も、彼女は学校に姿を見せないだろう、と思う。
それを口にすることは憚られたが、多分、まどかも、その問いの答えは分かっているのだろう。
そうであってほしい、という願望を込めて口にできるのが、きっと私との違いというだけ。
まどかをこの世界に取り戻してから、一週間。
美樹さやかの行方不明が知れ渡り、捜索願が出されてから、三日。
同じく佐倉杏子も、学校に姿を見せなくなっていた。
魔獣退治の中で、顔を合わせることはあったけど。
私たちと、あまり言葉を交わさなくなった。
ただ戦いに必要なら手を貸して、貸されて、それだけ。
まどかが戻って来た時、一緒に涙を流して喜んでくれた面影は、なくなっていた。
そんな関係には、慣れているはずだけど。
どこか心にひっかかりを残して、消えないでいた。
「……何か、できること、あるかな」
まどかの面持ちは、暗い。
本来なら、円環で彼女たちを見守る立場だったはずが、自分だけこの世にまた存在を受けたことへの罪悪感。
もっと単純に、友達が落ち込んでいて、距離を置かれていて、それに対して感じる辛さ。
その辺りから来るものなんだろうと、思う。
じゃあ、私のひっかかりは、何だろう。
自分の感情にまともに向き合ってこなかったせいで、まるで雲を掴むようだった。
だから、まどかの問いには、ろくな答えを返せない。
「ごめんなさい。それは、私にも」
私がかつて、まどかを失った世界で生きていた間。
その欠落を、誰かに埋めて欲しいとは思わなかった。
誰一人として、それを理解してくれるだろうとも思わなかったから。
今思ってみれば、さぞかし周りに手を焼かせたんだろうと思う。
ちょうど私の一番近くに居たのは、佐倉杏子と巴マミだったけど。
私も確かに、今の彼女たちと同じように、周りから距離を置こうとしていたと覚えている。
「分からない、けど」
そんな私に、彼女たちはあれこれと世話を焼こうとした。
特に、巴マミは、ふさぎこむ私に少しうっとうしいくらいに関わって来た記憶がある。
随分と邪険にしてしまったと、今では反省するばかりだけど。
その姿は、今の私たちには、とても価値のあるものだった。
「ほっとけない、よね」
「うん」
まどかと、気持ちを同じくすることを確認して、意志を固める。
空虚を抱えた人の孤独を埋められるのは、同じく空虚を抱いた人間だけだと思うけど。
それでも、意味がないからって、何もせずにいられるほど。
あの二人からもらったものは、軽くはなかった。
「それとなく先生に聞いてみたんだけど、マミさんは学校には来てるみたいなんだ」
「じゃあ、巴さんから接触してみるべきかしら」
「うん。もしかしたら、杏子ちゃんのこと、何か知ってるかも」
ただ、巴マミとの接点も、薄くなってしまっていた。
佐倉杏子ほど極端ではないけど、私たちに会うたびに、その横顔には陰りが浮かんで、隠し切れていなくて。
作り笑いを浮かべることが多くなって、口数も少なくなっていった。
いつしか、私たちの方から会いに行こうとしない限り、会わなくなっていた。
彼女なりの、柔らかな拒絶の形だった。
だから、会いに行くのは、怖い。
きっと、一筋縄ではいかないだろう。
だけど、諦めないって、決めたから。
「……もう、逃げない」
罪滅ぼしになんてならないことは、よくわかってる。
でも、自分がそうしたいと思ったことから、理由をつけて逃げるのは、もうやめだ。
そんな小さな呟きに、横に居るまどかが頷いてくれた。
そして、放課後。
下校の支度をしていた巴マミを、教室まで出向いて捕まえて、そのまま帰り道を共にした。
拒否されるかもしれないと思っていただけに、受け入れてくれたのは、素直に、嬉しかった。
「いらっしゃい。ごめんなさいね、散らかってるけど」
「こちらこそ、急に押しかけてごめんなさい。マミさん」
そう前置かれ、まどかが返事をした所で、扉が開く。
ここを訪れるのも、しばらくぶりの様な気がする。
それほど長い期間ではないけど、その間の精神的な距離がとても遠かっただけに。
玄関をまたぐのも、少し、勇気が必要だった。
別に何か、問題が解決したわけじゃない。
大変なのはこれからだと、そう言い聞かせながら、靴を脱いで上がらせてもらう。
そして、飛び込んできた視界は、その感覚をよりいっそう強くさせた。
「……掃除、しなきゃって思うんだけど。どうしてか、後回しにしちゃって」
扉が閉まる音と一緒に、巴マミがそう弁解する。
別に、言うほど散らかってると言う訳ではない。
洗濯物が四方八方に散乱している私の家よりは、よほどマシだ。
でも、私の知っている巴家の、いつもの様子とは程遠かった。
テーブルの周り、ソファの周り、そういった所にコンビニやファストフード店の包装紙が、置いてある。
捨てられるべきゴミなのだろうけど、そのままに。
そして、それらには、見覚えがあった。
「……杏子ちゃん、来てるんですね」
「たまに、ね」
言葉を失っていると、お茶を入れてくるね、と巴マミが台所に歩いて行った。
私たちは馴染み深いはずのテーブル前に残される。
初めてここに来た時も、いつここに来る時も、彼女はいつだって頼もしかったのに。
どうしてだろう、その背中がひどく、小さく見える。
「マミさん、これ……」
まどかがぽつりと呟いた。
その対象は、散らかっているビニール袋かと思ったけど。
視線は、壁に向かっていた。
「……ッ」
そこには、絵が、写真が、飾ってあった。
映り込む人影は、どれもよく知ったもの。
巴マミと、べべと呼ばれた頃の百江なぎさが、そこにいた。
それはいつか、ここで見たものとまるで同じ。
よろめいて、まどかに支えられて、なんとかまた向き直る。
その様子に心当たりがあるとしたなら、それはたった一つ。
きっとこれは、私がかつて見た夢の残渣として残ったもの。
彼女たちの記憶を偽りのままに作り変えた、その証として。
言葉を失い、私はそれらをただ見上げるがまま。
「そうね。分かってても、どうしても、下ろせなくて」
罪悪感のあまり倒れそうになって、それを遮るように、後ろから声。
巴マミが、お盆にティーカップとポットを載せて、歩いてきて、着席を促す。
そこには四つのカップが並んでいた。
今ここにいる人の数と合わないことに心の中で首を傾げながら、私は素直に席へ座る。
胸にうずきと痛みを感じながら。
「はい、お待たせ」
三つのカップに、琥珀色の液体が満たされる。
一つのカップには、初めからお湯が入れられていて、湯気を上げていた。
私の送る視線に気づいたらしい彼女は、困ったような顔をして。
「癖に、なっちゃって。一つ余分に用意するの」
「いつ、誰が来ても、すぐに迎えてあげられるように、って」
「鹿目さんの時にね、たまたま間違えて温めてたら、役に立ってくれたから……おまじない、かな?」
そう、儚く笑った。
私がこの手に持ったティーカップは、取っ手の所までとても暖かい。
震えは誤魔化せずに、紅茶の液面に波紋として、広がっていく。
その一つのカップは誰を想ってのものだろう。
ここにいない誰かを想う心は、どれほどまでに傷んでいるのだろう。
それを与えたのが誰か、ということに思いを至らせたが最後、私の思考は容易く迷路へと導かれて行く。
造られた世界と、壊された世界。
その欠片がこの部屋には満ちていた。
あまりにも痛かった。
正面に座る、その痛みを一身に浴びせられた彼女の目を見れなくて、拳を握り込みながら視線を落とす。
償いなんて、できるはずもなかった。
何かを伝えようとしてここに来たはずなのに。
私はかけるべき言葉をまだ見つけられていない。
謝ればいい?
謝れば、彼女の大切なパートナーは戻ってくる?
そんなはず、ない。
謝りたいなんて、私が免罪符をもらいたいだけ。
謝って許してもらうことなんて、望んでいいはずがないのに。
そんな夢を勝手に見せて、勝手に潰した私なんて、今ここで。
ティーカップごと紅茶をぶちまけられたっておかしくないはずなのに。
だめだと思ったけど、もう止まらない。
頭が真っ黒に、罪悪感で塗り潰されて、なにも――――
「しっかり、ほむらちゃん」
そんな、視界がぐにゃりと歪むような錯覚は、横からの声が吹き飛ばした。
我に返ってみれば、すぐ隣にいたまどかの手が、私の手に重ねられていた。
まどかの言葉は、そこで切れたけど。
がんばって、という結びは、確かに伝わる。
自罰の意識を、つとめて振り払う。
私を罰することができるのは、私じゃない。
その権利があるのは、私の身勝手に巻き込んだ、彼女たちだけ。
今、私がここにいる理由は、別のもの。
だからその理由のために、口を開こう。
「巴、さん……その」
「ごめんなさい。分かってはいるの、あなたたちの言いたいこと」
でも、そんな私の決意は、とても脆く崩れてしまう。
被せるように発せられた巴マミの言葉は、どこか早口に彼女の想いを紡ぎ始める。
私はただ、それを呆然と聞くことしかできなかった。
「分かってる。死んだ人は戻って来ない」
「パパも、ママも、そうだったように。なぎさちゃん、ううん、べべも、美樹さんも」
「過ごしたはずの日々だって、本当のものじゃない。覚めたら忘れる、忘れなきゃいけない、ただの夢」
「私の生きる世界はここ。死んでしまった人の分まで、私は強く生きなきゃいけない、のに」
湯気を立てる紅茶に手を付けず、巴マミはただ語る。
誰に対して語るのか。
きっと彼女は私たちを見ていない。
自分自身に、必死で、言い聞かせている。
「ごめんなさい」
「分かってるのに、私、そんなに強くないんだ」
「また、戻っちゃったって、それだけなのに」
「いつか、乗り越えてみせる。あなたたちの先輩として、あなたたちの掴んだ幸せを、祝福してあげたいもの」
「そう、あの子に約束したんだから」
「でも、っう、まだ……私……」
ぽつり、ぽつりと、言葉と涙が漏れる。
落ちた水滴は、琥珀の水面に一瞬だけ波を立てて、消えていく。
私は何も言葉を返せない。
どうして私が謝罪を受けるのか、分からない。
ただ口を有耶無耶に動かして、だけど想いに形を与えてあげられず、声とも何ともつかない音を吐くばかり。
代わりに言ったのは、まどか。
「マミさん」
「代わりになんて、なれないですけど」
「そばにいさせて、くれませんか」
それを聞くだけだった私は、冷や水を浴びせられたかのような感覚を。
その気持ちは、思ってはいても、恐ろしくて言えなかったもの。
それこそが罪を背負う覚悟なんだと分かってはいても、躊躇せず踏み出せる強さが、なくて、言えなかった。
その言葉を言ってくれたまどかの、横顔を見ようと、首を回す。
まどかの顔は、巴マミへと真っ直ぐに向いていた。
私の視線を感じたのか、眼だけがこちらに向けられる。
それはとても、優しくて、強い、意志を込められた表情だった。
対照的に私は、情けなくて、悔しくて、死んでしまいそうだった。
だけど、代弁してもらって、それで終わりにはしたくなかったから。
「巴さん」
今は言えなくても、代わりに言ってもらっても、その想いは嘘偽りのない私の本音。
だからせめて、その答えは受け止めよう。
今の私、弱くて卑怯でどうしようもない私の、精一杯として。
落としていた目線を、上げた。
巴マミはまだ下を向いている。
降りた沈黙が、痛くて、だけどそれを待つ。
彼女が言葉を返してくれるのを。
「……」
静寂は当然に、いつまでも続くものではない。
それを裂くのが、私の望む答えなら、良かったけど。
そうではなかった。
でも、それは別の形として、待ち望んでいたものだった。
「……なにさ、お取り込み中?」
いつの間にか開け放たれていた、玄関の扉。
外の湿った空気をたっぷりと纏い、トーンの低い声を響かせて。
佐倉杏子が、姿を見せた。
彼女は髪から、雨粒を滴らせていた。
夕立に遭っちゃってさ、とため息交じりに説明するその姿に、活気はない。
もっとも、今の私たちよりはよほどマシかもしれないが。
慌てたように巴マミは立ち上がり、バスタオルを掴んで渡す。
佐倉杏子はそれを素直に受け取って、頭から被る。
分厚い布地に覆われて、彼女の表情は見えなくなった。
「……寒かったでしょ。すぐお茶淹れるから、待っててね」
お湯に温められていたカップの中身を流しに捨てるべく、巴マミは私たちの会話から離脱する。
きっと返事はもう期待できないだろう。
結局、一世一代の大告白は無為に終わってしまった。
私たち三人はそこに残される。
言葉は無くて、佐倉杏子が、ごしごしと乱暴に髪を拭く音だけがそこにある。
いたたまれなくなって、彼女の後ろに陣取って、タオル越しの彼女の頭に手を乗せた。
「もう少し丁寧に扱いなさい。髪、傷むから」
「……お前、マミの奴みたいな事言うのな」
「知らないわよ」
声には拒絶の色が浮かんでいたが、私の手が振り払われることはなかった。
それにほっと胸を撫で下ろしながら、髪の毛から垂れる水滴を柔らかに拭き取っていく。
私に見えるのは、佐倉杏子の背面だけ。
それが巴マミのものと同じように、とても小さく見えて、そっと唇を噛みながらも手を動かす。
口も開こうとしたのだが、これは単に、まどかの方が早かった。
「あ、あの、杏子ちゃん……久しぶり」
「ん、そうだね……ひさしぶり」
ほんの少し、バスタオルを纏った頭が上がって、また下がる。
挨拶だけに留まるつもりは、まどかにはなかったと思うけど、佐倉杏子の返事はそこで会話を切るためのもので。
結局まどかの言葉はそこで切れて、気まずい沈黙があたりに降りる。
今度は、私の番。
「……杏子。学校、来ないの?」
言ってから、しまったと思う。
いくらなんでも直球に過ぎた。
心配してたとか、魔獣退治は順調なのかとか、今はどこで暮らしてるのとか、色々あったはずなのに。
後悔してみても、出てしまった言葉たちは元には戻せず、黙りこんで答えを待つ。
さほどの時間を要することなく、返事はもらえた。
その中身は、なんとなく予想してはいたけど、つらかった。
「ん、なんかさ……やっぱ、ガラじゃ、なかったっつか」
「多分、もう行かねえ」
手持無沙汰なのか、指を乾いた髪に絡めながら。
佐倉杏子は、そう言った。
私の手もつい止まってしまって、聞いておきながら、返す言葉も見つからない。
再び降りた気まずい沈黙に、彼女は何を感じたのか。
さらに一言を付け加える。
「……あたし、さ」
「帰ろうと思うんだ。風見野に」
「今日は、それを伝えに来た」
私の手を振り払うように、首が回って彼女はある方を向く。
そこには一人分のお茶セットと、一つの余分なカップをお盆に載せて運んで来た巴マミがいた。
その顔面は蒼白。
きっとそれを見上げる私たちも、そうなっているのだろう。
「……え、っと」
飲み込むことを諦めたのか、ひとまずそれまでの行動を完遂すべく、彼女はこちらに歩み寄る。
机にお盆を置いて、紅茶の入ったティーカップを渡して、いつもの定位置に座って。
何とか、疑問を口にした。
「佐倉さん、その、どういう、こと?」
「どうもこうもない、前みたいに、あたしは風見野で魔獣を狩るってことだ。もうこの街にあたしは要らないだろ」
対する佐倉杏子は、にべもない。
私が手にしていたバスタオルを奪うように手に取って、それで顔をぬぐった。
正面にいる巴マミの顔は見ずに、そのまま手元に視線を落としている。
そこには、温められたティーカップ。
手を付けようとは、していなかった。
巴マミは戸惑いながら、なんとか意志を確かめようと、疑問符を繰り返す。
「で、でも……そんな、急に」
「別に急ってわけじゃねーだろ。適当に魔獣探しててもさ、しょっちゅう被ってたし、過剰なんだって」
魔獣狩りのたびに、確かに、私たちは顔をよく合わせていた。
距離を置かれ始めてからも、そうなる前も。
グリーフキューブが吸収してくれる呪いの量は少なく、魔法少女が少ない方がやり易いというのは、その通り。
それは、相も変わらずに、正論。
でも、それだけじゃない。
私たちがそもそも、ここに来た理由、来なければならないと決意した経緯。
その順番と、その論理は、符合しない。
代わりに在る筈の、本当の理由。
それが何なのかは、何となく、察しが付いてしまうせいで。
黙り込んでしまって、引き留めるための言葉が湧いてこない。
そもそも、何処に行くのも彼女の権利で、それを制止するだけの理屈はない。
行って欲しくないという感情はあっても、それを正当化する道理が、見つからない。
「やっぱり」
「わたしたちの、せいかな」
そして、まどかが零してしまう。
それだけは言って欲しくはなかった、私が、私だけが背負うべき言葉を。
あなたが戻って来れたことに、罪なんてない。
そう言おうとして、口を開きかけて、まどかの目線が私を射抜いて制止させる。
「……そんなんじゃ、ねえよ」
硬直した私をよそに、佐倉杏子は返事をした。
だけど、その声のトーンは、一段と低かった。
目を逸らし、バスタオルをまた目深に被る様は、とても否定しきれているようには見えない。
まどかの言葉は、止まらない。
「でも」
「杏子ちゃん、なんだか、つらそうで――――」
だん、と。
机を叩く音が響いて、ティーカップの中の液体が揺らめいて、跳ねて、飛ぶ。
飛沫をそこらに散らせて、それに呼応するように、まどかの体が震えている。
思わず佐倉杏子の肩を掴んで、そんな資格ないって分かってるのに、言った。
「杏子!」
「うるっせえんだよ!」
そして幸いに、その怒りの矛先は私へ向いた。
突き飛ばされる力を受けて、私の手は彼女の肩を離れて、横薙ぎに流れる。
それが机の上の空間を抜けて、いくつかのカップを巻き込んで、倒した。
琥珀と、透明とが、混じり合う。
手に掛かったそれは、とても熱かった。
「人のせいにするほど、落ちぶれちゃいねえよ」
「だけどさ、あたしだって完璧じゃねえんだよ。見てたら辛いんだよ」
「やっと手に入れたんなら、それで満足して、ほっといてくれよ、あたしのことなんて」
「わざわざ見せつけられたらさ、クソみたいなこと考えちまうんだよ!」
「どうしてさやかは死ななきゃいけなかったんだ、どうして、戻って来たのが――――――」
ぱん、と。
言葉の雪崩を受けて固まった私の目の前に、人影が割り込んで。
目に涙をいっぱいに溜めながら、同じく瞼を潤ませて叫んでいた佐倉杏子の頬を、叩いた。
その主は、巴マミ。
打たれた頬を抑えて呆然とする佐倉杏子の頭を、その胸に引き寄せて。
堪え切れずに、声は出さずに、泣き始める。
「っ、う」
「うううううぅぅぅ、ああああぁぁぁぁぁ…………」
そして佐倉杏子もまた、声を上げて落涙し始めた。
私は突き飛ばされた体勢のまま、それを呆然と眺めている。
泣き続ける二人を、ただ、見ている。
まどかの泣き声も、次第にそこへと混じり始める。
それらすべては、きっと私の、私だけの罪だった。
それなのに。
「っ、暁美さん、鹿目さん」
「佐倉さんを許してあげて。悪気なんてなくて、だけど、この子には辛すぎたの」
涙声になりながら、巴マミは私たちに言う。
大声をあげて泣く佐倉杏子の胸中に、浮かんでいるのはきっと、たった一人。
こうして許しを乞う巴マミの胸中にも、きっと彼女が。
私を責めて、非難したって、当然なのに。
彼女たちの抱える空虚は、それほどなのに。
それをせずに、自身を咎めて、正しくあろうとする姿が、直視できない。
「この子は、私がちゃんと面倒を見るから。こんな状態で放り出したりなんて、しないから」
「でも私も、気持ちは佐倉さんときっと同じ。今は、あなたたちが、すごく痛い」
「私も、見てられない。辛くて、羨ましくて、そんな自分がすごく嫌で」
「だから、ごめん、なさい……今日は、帰って」
「ちゃんと、っ、う、乗り越える、から。笑って、あなたたちに会えるように、頑張って、忘れる、から」
そう、忘れると、言い続ける姿が。
私にも、きっとまどかにも、すごく痛い。
きっと今の私たちが一緒に居ても、いたずらにお互いを傷つけるだけ。
必死に、忘れようと、死を乗り越えようとする彼女たちの邪魔にしか、ならないのだろう。
床へ転がったティーカップが、弧を描いて私の足に触れた。
それはつい先ほどまで、お湯を入れられて温められていた。
熱はまだ冷めずに、伝わってくる。
彼女たちの、諦めきれない、忘れたくない、そんな想いの表れが、確かに。
いつの間にか、私の目にも涙が溢れている。
それは感情のままをぶつけられたことによるものではない。
彼女たちの、大切な人の死を諦めきれないと、また会いたいと願う心に触れたから、湧いたもの。
それを見て、やっと思い出す。
私の言うべきことは、きっとたった一つの単純なこと。
それがどれほど重くとも、私はそれを言わなければならない。
誤解されたままにしてしまったなら、後悔してしまうだろうから。
目元を強引に擦り、だらしなく垂れた鼻水を拭い。
まっすぐに彼女たちを見て、口を開く。
「巴マミ、佐倉杏子」
「傷つけてることに、弁解のしようもないわ。許しを乞いたいのは私の方」
「でも、あなたたちは、一つ勘違いをしてる」
諦めなければいけないと、忘れなければならないと、そう言い聞かせる彼女たちに。
私が伝えられることなど、一つしかありはしない。
かつて自分がそう在って、その結晶がここにあるのだから。
「諦めろなんて、誰が言ったの?」
「そんなことを言うくらいなら、私は舌を噛み切って死ぬわ」
「何を犠牲にしても、何を失くしても、ただ一つそれだけを捨てきれなかった私が、言えるのはたった一つ」
「諦めないで」
私だって、やり残したことがある。
要らないと言われたけれど、それでもまだ伝えていないことがあるんだ。
あの場では押し切られてしまったけれど、やっぱり、伝えなきゃ。
何よりも自分のために、そう思うから、私はその言葉を口にできる。
「あなたたちの助けが無かったら、私は今頃ここに居ない。まどかもきっと、ここには居ない」
「だから、あなたたちが、それを望むなら」
「私は全身全霊を懸けて、あなたたちの力になる。かつてあなたたちが、私にそうしてくれたように」
手を、伸ばした。
それは一体どれほど長い間、こまねいていたものだろう。
いつかは私から助けを求めようとして、だけどそれを全力で諦めていた。
でも、今は違う。
この手は、あなたたちに、握ってもらうために。
悲痛な泣き声は、止んでいた。
代わりに、面喰ったような二つの表情が、私を見ている。
その顔は、すぐにまた、怒りに、悲しみに、染まる。
「……どうしろ、ってんだよ」
「もう会えない、声だって届かない。そんなことくらい、ガキじゃねえんだ、知ってるんだよ」
「あたしたちはもう、奇跡の対価になるようなものなんて、何も、持ってないんだよ……」
その反論には、私は口をつむぐほかない。
死という、分かり易くも絶対的な終わりを覆すに必要なものは、きっと、正真正銘の奇跡。
諦めないという、ただそれだけのことを頼りにするには、あまりにも強大な壁だった。
だけど、それは壁。
突き崩せなくても、手掛かり、足掛かりがあれば、越えられるもの。
私には、とてもそれは、思い付かない。
私、には。
「……ううん、そんなこと、ない」
「声なら、きっと届く。届かせてみせる」
「わたしがここに居る理由。きっとわたしは、杏子ちゃんの、マミさんの、力になれる」
口を開いたのは、まどか。
もう泣き止んで、代わりに表情に滲むのは決意。
円環の理と、現世と、二つの世界で同時に存在するまどかにしか、できないこととして。
「さやかちゃんと、なぎさちゃんは、円環の中で、わたしの中で、呪いを受け止めながら眠ってる」
「こっちのわたしも、向こうのわたしも、同じだから。感じてる」
「だから、わたしに意識を繋いでくれたら、もしかしたら」
「一時的になら、みんなを円環世界に、連れて行ってあげられるかもしれない」
「眠ってる二人を起こすわけにはいかないけれど、もしかしたら、声なら、届くかもしれない」
それは、一縷の希望。
永遠の離別であったはずの、魔法少女としての死を、ほんの少しだけ近づけてくれるかもしれない可能性。
当たり前に、断れるはずもなかった。
各々が、戸惑いと驚きと、そして隠しきれない期待を露わにしていた。
「……鹿目さん。そんなこと、しちゃって、いいの?」
「いいか悪いかじゃ、ないです。わたしが、そうしたいから」
わずかに残った躊躇も、まどかの力強い言葉で吹き飛ばされる。
そしてまどかは両手を出して、こっちに来て、というようなジェスチャーをした。
それを理解して、私は佐倉杏子の片手を引っ張って、握る。
彼女は不意を打たれたような顔をするけど、やっぱり、拒絶の行動に出られることはなかった。
同じように、まどかは巴マミの手を取って。
最後に私がまどかの手を堅く握り込んで、四人が一つの線で繋がる。
「……みんな、絶対に手、離さないでね」
「わたしにも、どうなっちゃうか分からない。こんなの、初めてだから」
頷いて、肯定の意を示す。
遅れて二人も、それを繰り返して、まどかは息を一つ吸い込んで。
目を、閉じて、開けた。
まどかの瞳の色が、変わった。
それを区切りに、世界が軋んで、歪んで、回る。
意識がぶつ切りになって、体が崩れそうになって、恐怖が全身を駆け廻るけれど。
それでも繋いだ手だけを必死に守る。
全てを成し遂げて、それでもここに帰ってくるために。
ぐるぐると視界が周り、極彩色が順番にそれらを塗りつぶし。
最後に全てが真っ白に光って、体が浮かび上がり昇って行くような感覚に支配されて。
気が付けば、何事もなかったかのように立ち尽くしていた。
辺り一面何もない、ただ白く輝くだけの空間に。
声は、出なかった。
見渡す限り、三百六十度を遮るものが何も無い、光の世界。
繋いだ手の温もりが無かったら、自分自身の輪郭すらも見失ってしまいそうだった。
「……良かった、着いたよ、みんな」
静謐を裂いて響いたまどかの声に、耳を震わせる。
はっとして目をやれば、彼女の姿はいつか見たものに変わっていた。
長く伸びて揺蕩う髪と、純白の衣装。
それが一瞬トラウマを呼び起こし、血の気が引いていく。
それを察してくれたのか、繋がれた手に力が込められて、何とか意識を保つことに成功する。
大丈夫だよ、と、言葉にせず、彼女は言っていた。
「ここが、円環の理……?」
「なんつーか、思ってたより、殺風景……だな」
繋いだ手の先にいる二人も、硬直から溶けて各々に思いを洩らす。
私も、曖昧な記憶の果てにある一つの光景と、齟齬を感じずにはいられなかった。
ここにあるのは、空と海だけ。
その境界で立ち尽くすこの身が感じるのは、寂寞。
「眠るための世界、だから」
「みんなの願いは、みんなの夢の中にしか、作ってあげられなかったんだ」
「ここは、眠りに就いたみんなを見守る、私の居場所」
言葉が、閉じる。
そしてまどかは膝を折り、私たちの立つ水面に、私の手を伴って、触れる。
波紋が一つ、二つと広がる。
次第にそれは大きくなって、波立って、空気に震えを伝わらせて。
空間が、揺れて。
吹き荒れる風に思わず目を瞑り、止むのを待って開けてみれば、世界は一変していた。
「ッ……」
感じることは数多あれど、言葉にできず潰れるのみ。
そこには棺があって。
私たちを取り巻くように、空に、海に、狭間に、並んで、埋め尽くす。
中で眠るのは、少女たち。
年齢も肌の色も新旧も様々な、かつて希望を運び、かつて呪いを振り撒いたはずの、魔法少女たち。
何も語らないそれらは、雄弁に彼女たちの最期を語っていた。
「鹿目さん……これ」
「はい。わたしが導いた、魔法少女たち、です」
絶句したまま、それらを見る。
いつかは私たちも、ここに並ぶ。
だけど、まどかは、これを永遠に見守り続ける。
それは彼女がそう望んだ願い。
分かってはいても。
どこか、恐ろしさを、感じずには居られなかった。
「……ごめんね、おやすみ」
すぐ横にいたまどかが、呟く。
それを合図にか、棺と少女たちは、蜃気楼のように溶けていく。
沈み、浮かび、彼女たちの深い眠りの淵へと、おそらくは。
視界を遮っていたそれらは消え果てて、また、最初の空白が戻ってきた。
ほんの小さな、違和感を残して。
「おい、あれ……!」
佐倉杏子が、遠くを指差して言った。
その彼方にはほんの小さな影があった。
大きな一つと、小さな一つ。
それが何かなんて、確かめるまでもない。
どくん、と、心臓がやけに大きく鳴る。
だけど、その感覚に浸る間も無く、身体を強く引っ張られてバランスを崩した。
握った手が力のままに解けそうになり、必死にそれを離すまいと握り締め、声を飛ばす。
「ちょっと、落ち着いて、落ち着きなさい、っ!?」
立ち止っていた私に手を引かれ、バランスを崩して転びそうになっても、彼女は前に進むことを止めようとしない。
左手が千切れそうな痛みに耐えながら、せめてと足を前に運ぼうとしたら、今度は右側を引かれる。
そちらを見れば、巴マミも同じように駈け出して、まどかと私を引っ張っていた。
待て、と言えば、待ってくれるだろうか。
自分がその立場だったら、きっと無理だろうなと思った。
だから、まどかを見た。
焦りと困惑を隠そうともせずに、だけど手だけは離すまいと力を込めて、一緒に走ろうとしていた彼女。
私の視線に頷いて、地面を蹴って、浮き上がる。
「……なんだ、その」
「ごめんなさい……」
淡く輝く光の翼に包まれて、私たちは空を駆ける。
ただ一か所を見据えながら、焦燥に駆られる二人を宥めながら。
二人の謝罪には言葉を返さず、握る手に力を込めた。
少しずつ、その影は大きくなる。
ただの黒い点だったそれらが、次第に形を為して、輪郭を作って、人になる。
じわりと、繋いだ手に汗が滲んだのを感じる。
きっと私の手もそうなっているのだろう。
口の中が乾いて、吸い込む息がどこか痛いのは、気のせいではないのだろう。
滑らないように、吹き抜ける風にそれを乾かして、大きくなっていく人影に痛いほどの視線をぶつけて。
もう間違えようのないほどに、それらを認めて。
そして、降りた。
しばらくの間、誰も何も言わなかった。
何をするでもなく、ただ立ち尽くしていた。
何よりもそれを求めていたはずなのに、直面して、その衝撃に、耐えていた。
「……なあ、これ、夢じゃ……」
ようやく、第一声として発せられた佐倉杏子の呟きに、返す者は居ない。
私たちの目の前には、確かに彼女たちがいた。
美樹さやか、百江なぎさ。
その呪いを受け止めて、静かに眠りながら、宙に浮いていた。
その顔を良く見て、そして私は改めて絶句する。
堅く閉じられた瞼。
投げ出された両手。
呼吸を通さない鼻。
言葉を発しない口。
それは死のかたち。
私を忘却の淵から救い、世界を破滅から救った彼女たちの、おわりのすがた。
力を借りるだけ借りておいて、こんな姿にさせてしまっていたんだと、今更。
歯を、食い縛った。
浮かれていた私が、恥ずかしくなった。
私は、たった一つのものを手に入れるために。
こんなにも重いものを、犠牲にしていたんだと、気付かされたから。
そうやって、目の前の光景に意識を奪われていたから。
私は、指の間から何かがすり抜けていく感覚に、気付くのが、遅れてしまう。
「あらかじめ言っとく。ごめんね」
「ここまで連れてきてくれて、ありがとう。鹿目さん、暁美さん」
声が響いて、やっと私は我に返って、でもあまりに遅すぎた。
何が起きたと、理解するよりも早く、ただ起きた出来事を視認する。
私の手から、佐倉杏子がすり抜けた。
まどかの手からも、巴マミが離れていった。
伸ばした私の手は、もう何も掴めない。
彼女たちは、繋がりを失ったそこから粒子になって崩れていく。
触れていたはずの手を失い、前に進むための足を失い、心臓があるはずの体すらも。
それでも、倒れ込みながら彼女たちは残る片手を伸ばした。
勢いのままに、それぞれを、掴んだ。
佐倉杏子だった手は、美樹さやかを。
巴マミだった手は、百江なぎさを。
そして、消えた。
そこに眠っていたはずの二人ごと、私たちの視界から、掻き消えた。
「……え?」
気の抜けたような声だけを最後に。
音もなく、私たちはそこに佇んでいる。
色のない世界で、私たちの顔もさぞかし見事に無色だろう。
呆然と、何もない空間を、ついさっきまで彼女たちが居たはずのところを見ている。
その意味をようやく理解して、ほとんど二人同時に、膝から崩れ落ちた。
「嘘……嘘だよね、マミさん、杏子ちゃん……?」
「返事、してよ」
「ねえ、お願いだから、ねえ、ねえってば……」
返事は、ない。
まどかの声が独りで響き、世界に溶けて消えていくだけ。
ついさっきまで握っていた生命の温度は、あっけなくも消えていた。
もう繋ぐ相手の居ない左手が、酷く寂しかった。
ついた膝が、静かに震えていた。
「わたしの、せいだ」
「わたしが、みんなを、連れて来ちゃったから……」
まどかの独白は、自責へと変わる。
それを見ていられなくて、繋げたままの右手を引き寄せて、正面に向き合った。
目線は自然と合うけれど、まどかはそれを下に逸らす。
その仕草は動揺を隠しきれないもので、自分自身、よく知っているものだった。
だって私も、きっと全く同じことを考えていたから。
あの二人に無責任な檄を飛ばして、切っ掛けを作ってしまったのは、間違いなく、私だから。
そう思い至って、私もまた視線を落としてしまう。
でも、そこで立ち止まっていたら。
きっと後悔してしまうような気がした。
これまで私が歩けなくなった時、支えてくれた人たちに、顔向けが、出来ないような気がした。
「まどか」
「美樹さやかと、百江なぎさ。二人の居る場所、分かる?」
顔を上げて、問う。
その中身は、粒子になって消えた二人の消息、ではない。
彼女たちが最期に掴んだ、この世界が彼女たちの在るべき場所であるはずの、二人のこと。
「……あ、え、っと」
きっと、分かるだろう。
彼女たちはこの世界の住人で、まどかはこの世界の神様だから。
どんなイレギュラーがあったとしても、必ず。
「た、多分、分かる、けど」
「行きましょう。きっと二人も、そこに居る」
だから、それは必然。
たとえどんな形であれ、その存在を最後に繋げられた彼女たちは、そこに居るだろう。
もし触れることがかなわなかったのなら、打つ手などなかったかもしれない。
この世界を永遠に寄る辺もなく彷徨う、魂の一欠片になってしまっていたかもしれない。
そのリスクを承知してでも、きっと彼女たちはそれを選んだ。
その想いの強さに、負けてなんて、いられない。
呆気に取られたような表情を浮かべていたまどかも、私の言葉をようやく飲み込んで、頷く。
ついさっきまで巴マミと繋いでいたはずの右手を高々と掲げ、目を瞑り、光の柱を空に建てた。
暖かいそれに包まれて、私もまた目を閉じた。
何よりも大切なもののために、他のなにもかもを犠牲にする。
私と同じく、その道に踏み込んだ彼女たちをどこか近くに感じて。
置き去りにされるその感覚に改めて触れて、だけど私も譲らない。
そう、心に刻んだんだから。
光が導いた世界に、飛び込んで。
私の頭に、何か、音が響く。
それは子供の歌う、無邪気な歌だった。
執着、という言葉が、どうしてだろう、頭に浮かんだ。
そして、目を開ける。
私はまどかと手を繋いだまま、浮いていた。
そこはお菓子の国。
メルヘン、と言っていいのだろうか、いかにも子供の無邪気な夢を結晶化したような世界。
初めて視るような感覚は、なかった。
クッキーやケーキやチョコレートや、色とりどりの甘いものに囲まれた空間。
その中に一つ、際立って存在する建築物があった。
それはログハウス。
きっと砂糖菓子で作られているのだろうそこにだけは、電気が灯っていた。
頷いて合図をして、ゆっくりとそちらへ進んでいく。
途中、シロップの噴水やホイップクリームの生垣などにぶつかりそうになったけど、すり抜けた。
それはきっと私たちが、この夢の外側の存在だということ。
そのまま、ログハウスの壁もすり抜けて。
内側に広がる光景を、目に映す。
秘密基地と言うには小洒落た風体の屋内に、一つのテーブルと、二つの椅子。
「良かった……」
「……ええ、本当に」
そこに腰掛けている、二つの存在。
そのことにまずは、心底より安堵して、ほっと胸を撫で下ろして、緊張を解いた。
まどかの安心したような声に、私も同意で返した。
ここは、百江なぎさが円環でみる夢の世界。
その中に、巴マミが居た。
正面に百江なぎさを見据えて。
その前にはティーカップと、チーズケーキが置かれている。
彼女が私たちとは違い、夢の世界の住人として籍を置いていることの証左だった。
紅茶からはまだ湯気が立ち上っている。
きっと、このお茶会はまだ、始まったばかりなのだろう。
私たちに気付くような様子は、ない。
テーブルの上には、器に山と盛られた角砂糖と、上品なポットに入れられたミルク。
それらを少し引くくらい、百江なぎさが紅茶に入れて。
それを一啜りして、ようやくの会話が始まる。
「マミには、この椅子は小さいのですね」
「そうね。少しだけど」
「誰かを招くなんて、思ってなかったですから」
巴マミも、カップを口に運んだ。
砂糖にもミルクにも、手を付けずに。
ほんの少しだけその中身を嚥下して、音もなくカップを戻して、言う。
「もう少し、賑やかな場所だと思っていたけれど」
「少し前までは、そうだったのですよ」
「前?」
「あの魔女に引っ張り出されて、マミのところに行くまでは、です」
百江なぎさが、私の方を見たような気がした。
当然それは気のせいで、彼女の目線は目の前に居る巴マミにだけ注がれている。
突然に話が私のことに及んで、錯覚しただけか。
その魔女は、私がこの心の中に生んだできそこない。
ついには殻を割ることもなく、消え去ってしまったけれど、私が、そうなるはずだったもの。
そんな私の想いには関係なく、彼女たちは話を進めていく。
「あなた、最初はとても無愛想だったわね」
「そりゃそうなのですよ。とても幸せだった世界からいきなり放り出されたのですから」
「私に言われたって困るわ」
「こりゃ失敬、なのです」
「でも、結局は打ち解けてくれて、嬉しかったわ」
「……マミは、昔、夢に出てきた人に似てたのです。すごくこわい夢に」
「そう、なんだ」
「超とドが付くくらいのお人よしだったので、なんだか警戒するのも馬鹿らしくなったのですが」
「言ってくれるわね」
「褒めてるのですよ」
「聞こえないわよ」
あはは、と笑い声が室内に響く。
とても、和やかな雰囲気だった。
だけど、それはすぐに一変する。
「でも、マミは、非道いのです」
「……え?」
「別れた時、さやかが最後に言ったこと、覚えていますですか」
その問い掛けに、私も記憶を掘り返して思いを巡らせる。
彼女が言っていたことは、確か、呪いの行き先のこと。
まどかに全て預けて逝くはずのそれを、自分自身で受け止めて、乗り越えたい、と。
「なぎさも、そう決めたのです」
「だから、みんながいて優しかった世界を離れて、ここで、なぎさ自身と、向き合おうとして」
「まだ、受け止めきれてないですのに、マミが無理やり起こすから」
「ほら――――」
ずるり、と。
ティーカップを半ばまで持ち上げて、唇へ運ぼうとしていた、彼女の姿が、崩れて。
ピンクと白色の混じった肉塊になって、潰れた。
ティーカップが無残にも割れて、乾いた音を続いて響かせる。
「っ、あ」
巴マミの声とも息ともつかない音は、肉が這い回る湿った音で掻き消され、百江なぎさだった何かは真っ黒に染まる。
そこからは毒々しい巨大なぬいぐるみが生えて、私たちがかつてよく見たその姿に変わった。
それは、何度も何度も戦い、彼女の命を、あるいは自身の命を散らせた、お菓子の魔女。
綺麗に整えられた屋内に所狭しと体を伸ばし、調度品を見るも無残な姿に砕きながら、顕現しようとする。
私もまた、その冒涜的なまでの変化に、声も出ない。
伸びた尾が、胴体が、巴マミに向かって進んで、絡み付く。
まるで蛇がそうするように、彼女の首だけを空間に残して、あとは全て覆ってしまった。
もはや身動きの一つも取れない巴マミに向けて、それは、魔女は、大きな口を、がばあと広げて。
「――――ッ!」
すぐ横に居たまどかが、声にならない声を上げる。
右手をかざして、力を込めたようだった。
空間に軋みを響かせながら、それは溶けた少女と生えた異形に伝わって。
大口を開けた状態で固まったそれは、光を受けて、その色を少しずつなくしていって。
少しずつ、彼女は、彼女の姿を、取り戻していった。
まどかの体力と、精神力を、代償にしながら。
「……はあ、は……っ」
「まどか、大丈夫!?」
「うん、わたしは……それより、なぎさちゃん、マミさん、は」
息も荒いその声に、慌てて首を回して確認する。
そこには、最初と何も変わらない彼女たちが居た。
荒れ果てたはずの室内も、いつの間にか元に戻っている。
それをまどかも確認したようで、一息をつく様子が感じられた。
「良かった……」
心の底からまったく同じことを呟いて、へなへなと肩の力を抜いた。
それを目の前で見せられた巴マミは何を思うのか。
彼女は背筋を伸ばして座っている。
百江なぎさの姿を取り戻した、かつてのパートナーに視線を向けて、固まっている。
お茶会にはまた、沈黙が下りていた。
「このザマ、なのです」
百江なぎさが、自嘲気味にその沈黙を破る。
その手をぎゅっと、心臓のある位置に当てて。
こんなにも小さな子が背負うには、あまりに重い独白を、始める。
「まどかの力がなかったら、この身体を維持することだってかなわないのですよ」
「この呪いはなぎさの半身です。でも、水と油みたいに、反発して、受け入れてもらえないのです」
「たぶん、怒ってるのです。まどかに優しく受け入れられていたのに、なぎさが奪い取ったから」
「なぎさはまだ、そんな風に優しくなれないのです。マミみたいにも、まどかみたいにも」
「だから、もう帰って欲しいのです。時間をかけて、ゆっくりと、向き合いますから」
言葉を受けた巴マミは、ゆっくりと手を頭の上に動かした。
それが何を意図してのものか、測りかねて、注視する。
彼女の細やかな手は、頭に付けられた飴色の綺麗な宝石を取り外し、掌に収める。
それは、彼女の魂の結晶。
百江なぎさも同じく、その行動の意味を理解しかねている。
巴マミは静かにそれを、胸の前に持って来た。
そして、差し出して、言う。
「……私、そんなに優しく見えるかな」
「全然、そんなことないのに。いつも自分のことばっかり考えてて、あなたを強引に起こしたりして」
「大切な友達が喜んでるのに、それを素直に祝福してあげられないような、ずるい子で」
「今だってあなたの言葉を聞きながら、どうやったら説得できるかなんて、そればかり考えてる」
自己嫌悪の色を浮かべながら、彼女は静かにソウルジェムを握っては開き、開いては握り。
そして、机に置いた。
かたん、と音を立てた一つの命は、人差し指の力を受けて、机の上を滑る。
その先は、百江なぎさへ。
その声も、百江なぎさへ。
「半身、か」
「私もね、ずっと探してる」
「魔法少女になったあの日から、命懸けで。なくしてしまった私のかけらを」
巴マミの契約は、二つの犠牲により執り行われた。
一つは彼女自身の魂。
一つは、彼女の、家族の、命。
「私はずっと、家族が欲しかったの」
「どんな時も、離れていても、安らぎをくれる心の拠り所が」
「それをなくした私は、とても薄かった。今にも壊れてしまいそうで、寒かった」
「だから、あなたの与えてくれた温もりは、とても暖かかった」
私の作った世界の中で、巴マミと百江なぎさ、もとい、べべの過ごしていた時間。
きっと、まさしく、家族が過ごすそれだったのだろう。
愛おしそうに手を合わせ回想に浸る巴マミの表情は、とても、幸せそう。
「たとえ作り物の記憶でも、あなたは私の家族だった。なくしてしまったはずの半身だった」
「あなたにとっても、そうであれたと信じてる」
「だから、きっと。あなたのなくした半身は、私が埋めてあげられる」
目が、開かれた。
そこに宿る炎の名前は、決意。
何よりも熱く、その命すらも燃やす覚悟を持って。
「あなたがその呪いに向き合う手助けを、私にさせて」
「そしてあなたは、私が生きるための手助けをして」
「厳しくても、辛くても、それでも優しかった、あの世界で、一緒に」
「そのために、一言でいいの。生きたいと言って」
「その言葉があれば、私はあなたをここに招いて連れて帰る」
「どんな壁があったって、たとえ鹿目さんに、みんなに止められたって、この想いを通してみせる」
このSSまとめへのコメント
このSSまとめにはまだコメントがありません