千早「賽は、投げられた」 (545)
一番最初。
私が気付くよりもずっと前。
生まれたままの姿の私は、何も持っていなかった。
その目は、母親の姿を見つけてさぞ安心したことだろう。
記憶はない。
だから、憶測でしかない。
私の前に置かれた、一枚のシート。
すごろく。
スタート地点に、私の駒がぽつんと佇む。
まっさらな出発地点から、私は始まる。
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私は手探りだった。
何をすればいいのか。
何をすれば幸せになれるのか。
そんなことは、誰も教えてくれない。
私の手に握られたさいころ。
これが私の全てだ。
小さなキューブに詰まった私の未来は、とても綺麗に、輝いて見えた。
さいころを振る。
『1』
駒を進める。
『両親の愛情を得る』
『1マス進む』
良かった。
私は、幸運に恵まれているらしい。
私は幸先のいいスタートを切ることになった。
さいころを振る。
『1』
駒を進める。
『弟が生まれる』
『1マス進む』
ああ、なんて素晴らしい事だろう。
私に弟ができた。
可愛い、私によく懐いてくれる、大切な弟。
さいころを振る。
『1』
駒を進める。
『両親から同じように愛され、姉弟で健やかに育つ』
『2マス進む』
家族四人で、ささやかな幸せを享受する。
私の拙い歌を、弟は心から楽しそうに聞いてくれる。
それを眺めながら、両親も柔らかく微笑んでいる。
私にとって、それは、これ以上ない幸せのように思えた。
さいころを、振ろうかしら。
いえ、ここで止めておきましょうか。
このまま、
『すくすくと育って大人になり』
『伴侶にも恵まれ』
『子宝を授かり』
『時々は家族と、弟と会って、昔を懐かしみながら』
『ずっとずっと、幸せな日々を送りましたとさ』
めでたし、めでたし。
それで、いいのではないでしょうか。
そんな想いが、私の中を過ぎった。
「あ……」
きっと、幸せな記憶。
それを想い、ふと指の力を緩めた瞬間。
手のひらから、さいころが零れ落ちた。
ころり。
『1』
「あ…………」
私は、次のマスを見て、身体が固まった。
けれど、すごろくのさいころは、絶対だ。
進めなければならない。
振ってしまったら、後戻りはできないのだ。
「弟を、失う」
「5マス、戻る」
何故。
何故、さいころは零れ落ちてしまったの。
マス目をなぞった赤い人差し指が、震える。
歯がガチガチと震える。
何度も夢だと思おうとしたけれど。
時折噛む舌の痛み。
指先にまとわりつく赤い粘り気。
あらゆる感覚器官が、夢であることを拒絶した。
大切な弟だった。
私の拠り所だった。
その命は、いとも簡単に、ほんの刹那に、摘み取られてしまったのだ。
駒を何度も取りこぼしながら。
口元から嗚咽を漏らしながら。
駒を、5マス戻した。
震える手は、さいころを振ることを止めない。
さいころを振る。
『1』
呼吸が荒い。
頬は、何か気持ちの悪い液体で、べしゃべしゃに濡れている。
駒を進める。
マスに書かれている文面は、先ほどとは変わっていた。
『家族の幸せが途切れる』
『スタートに戻る』
ささやかな幸せは、もう残っていなかった。
かつて注がれていた愛情も、大きく変質してしまった。
私は、また一人でスタートに佇む。
こんな家には居たくない。
早く、さいころを振って飛び出そう。
投げ出すことだけは、絶対に許せなかった。
さいころを零し落としてしまったのは、私だから。
さいころを振る。
『2』
駒を進める。
『淡々と学校へ通う』
特別な指示はない。
ただ、学校に行くだけだ。
学校も決して、居心地のいい場所ではなかった。
腫物を扱うような空気は、酷く澱んでいた。
それでも、触らないでいてくれるだけ、家よりは良かった。
さいころを振る。
『1』
駒を進める。
『歌を歌う』
『1マス進む』
そして、一つだけ、いいところ。
音楽の授業は、今の私にとって、唯一求めるものだった。
あの幸せなひと時を、きっとまた手に入れられる。
“歌”は、私にとって幸せの象徴だった。
さいころを振る。
『2』
駒を進める。
『合唱コンクールに出場する』
『1マス進む』
中学校。
私はまた、歌う喜びに心を開き始めていた。
相変わらずみんなは、無愛想な私を腫れ者扱い。
私も、関わろうとはしない。
それでも、歌う時はみんなと一緒だった。
私は声を張り上げ、導くように歌う。
その時だけは、みんなついてきてくれた。
コンクールで大きな結果を出すことは出来なかったけれど。
私が大きな声を出せば、みんなも大きな声を出す。
歌う度に、みんなが喜んでくれた。
ああ、そうだ。
確かあの頃も、こんな風に、みんな喜んでくれていた。
そこに、ささやかな幸せがあった。
コンクールの期間が過ぎると、私はまたいつもように戻った。
みんなもまた、腫物を扱う日々。
けれど私は、見つけかけた気がした。
小さな、幸せの萌芽。
今回は少し遅かったけれど。
次は、きっと幸せを見つけてみせよう。
さいころを振る。
『1マス進む』
駒を進める。
『高校に入学し、一人暮らしを始める』
私はようやく、檻から抜け出した。
無理矢理理由を作り、遠くの高等学校に入学。
晴れて、念願の一人住まい。
あの家では、もう幸せを見つけることはできないから。
新しい場所で、幸せを見つけよう。
きっと。
私は、何も疑っていなかった。
きっと、思い描いていることは、間違いではないって。
さいころを振る。
『1マス進む』
駒を進める。
『合唱部に入る』
きっと、ここなら私の居場所になってくれる。
歌しか残っていない私にとって、その場所は輝いて見えた。
ここでなら、コンクールの最中に垣間見えた幸せを、共にできるはず。
思った通り、ここでは誰もが歌を愛していた。
勿論、私も。
さぁ、取り戻そう、幸せな日々を。
私は、無我夢中で手を伸ばした。
霞の中で、形も分からぬ何かを掴もうとして。
歌への想いをぶつけるように。
今は失き幸せな日々を探るように。
弟の笑顔にすがるように。
思えば、私は焦っていたのかもしれない。
幸せを目前にしているように見えて。
その実、背後はいつも崖っぷちだった。
さいころを振ろうと力んだ私の手のひらから。
ころん、と。
また、さいころが零れ落ちた。
「あ……」
力と共に右手に込められた、期待と不安は、やり場を失って戸惑い。
ころころと転がり、私の意に背く数字を出すさいころを、眺めるしかなかった。
「1マス、進む」
心のどこかで、私は思っていた。
やはり今回も、私は幸せへは届かないのだ、と。
『合唱部での居場所がなくなる』
『スタートに戻る』
確かに、歌への想いはあった。
それは、私も、みんなも。
けれど、根底にある“もの”が決定的に違った。
私は、歌に対して盲目的だった。
私には歌しかなかった。
私が思う理想しかなかった。
みんなには歌以外もあった。
歌を取り巻く、各々の幸せがあった。
沢山の幸せの中に歌も含まれるみんな。
歌の中にしか幸せを見出せない私。
“合唱”が“独唱”に変わるのに、そう時間はかからなかった。
私は再び、幸せのかけらを、完全に見失った。
手に入れる寸前のつもりだった。
足腰が砕け、地べたにへたり込む。
幸せの青い鳥など、どこにもいやしない。
鳥籠の中を覗こうにも、それは最初に壊れてしまった。
投げ出すことを許せないなどと言っておきながら、この様だ。
私は弱い。
弱い私には、もう賽を投げる勇気は出ない。
このすごろくは、私に苦難しか与えない。
もう、さいころなんて振りたくない。
もう、こんなゲームは降りたい。
教えてください。
私の幸せは、どこにあるのでしょうか?
教えてください。
私は、何を探せばいいのでしょうか?
私は自分の駒を掴み、放り投げようとした。
「それは勿体ないよ」
誰かが、そっと私の右手を握った。
私の手を優しく包み、その中にある駒を壊さない様に。
「許せない気持ちが変わらないなら、もうちょっと頑張ってみよう?」
「無理よ。もう、さいころを振る気力もないわ」
私はへたり込んだまま、両手はぶらぶら。
それでも、突然現れた彼女は、私の手を放さなかった。
「さいころを振れなくてもいいよ」
「一歩一歩、進んでいけばいいよ」
「私が、引っ張ってあげるよ」
「またさいころを振れる、その日まで」
彼女は慈しむように私を見た。
同情じゃない。
命令でもない。
「どうして、私に声をかけたの」
「辛そうだったから」
「私、助けなんてお願いしたかしら」
「されてないよ」
「なら、どうして」
「私、お節介焼きさんなんだ」
えへへ、と、彼女は笑った。
「私は、さいころを振らないわ」
「うん。私が引っ張ってあげる」
彼女は、私の手を握る力を強めた。
「だから、その代わりね」
「その代わり?」
同じくらい強い眼差しで、私の瞳の奥を見据える。
「絶対に、前に進むことをやめないで」
「それは……」
「はい、ゆーびきーりげーんまーん」
「え?」
「うーそつーいたーらはーりせーんぼーんのーます!」
「あ」
「はい、ゆーびきった!」
とびっきりの笑顔で、私に微笑みかける。
「一緒に前に進もう?」
どうしたらいいのか、私には分からなかった。
耐え忍んできたことも、
無我夢中でやってきたことも、
何一つ、実を結ぶことはなかった。
さいころを振る力も失くした今、私は何もできない。
「分からなくてもいいよ」
「そのために、私がいるよ」
駒を私の指先に握り直させ、手を握って一緒に動かす。
伝わってくる彼女の温もり。
その中に、ほんの僅かだけ。
霞の中で、探していたものを感じた気がした。
「ほら、まずは1マス進んでみよう?」
私は言われるがままに、駒を進める。
1マス進む。
私の前にあるのは、小さな雑居ビル。
築どれくらいになるのか、下手をすると私よりも年上?
手を引かれて訪れたのは、これまた小さなアイドル事務所。
私は社長を名乗る人に、一言だけ質問をされた。
「君は、好きなことはあるかね?」
私は、偽りなく答えた。
「以前は、歌が何よりも好きでした」
「……いいえ。歌が私に届けてくれる幸せが、好きでした」
「それをまた手にしたいと、もがいています」
その言葉を聞いた社長は、何も言わずに頷いてくれた。
1マス進む。
1マス進む。
「ん、君が新しく入るっていう子だね?」
「如月、千早です」
「うん、前から知ってるよ」
「え?」
不思議がる私を見て、その人は小さく笑った。
「以前知り合いに、中学生の合唱コンクールに招待されてさ」
「その中に、とても想いのこもった歌声を持っている子がいてね」
「気になって顔と名前だけは覚えてたんだ」
「そう、でしたか」
「これも何かの縁だ。全力でフォローするからよろしくな」
穏やかだけれど、少し空回り気味なプロデューサーに会う。
1マス進む。
1マス進む。
「ちょっと騒がしい子が多いけど、いい子たちばかりよ」
「音無さん、ですよね」
「あら、私の名前も憶えてくれたの? ふふ、嬉しい」
「細かいところまでは詮索しないけれど、千早ちゃんに複雑な事情があるのは聞いてるわ」
「……お気遣いなく」
「そうね。無理に助けてあげようとか、そういうことはしないわ」
いたって自然な表情で、腫れ物に触るような素振りは全く見えない。
「でも、何か少しでも不安があったりしたら、関係ない事でもいつでも聞いてね」
「自分で言うのも寂しいけれど、年の功もあるから、ね?」
「そうですね。その時が来れば」
音無さんは微笑んだ後、思い出したように深いため息をついた。
1マス進む。
1マス進む。
「あ、ごめんなさい。このプレートに名前書いてもらえる?」
「ええと、これですか」
「そうそう。ロッカー用のネームプレート。あと、こっちの書類もお願いね」
「色々とあるんですね」
「リアルな話、お金も生じるからねぇ。あ、私は秋月律子。よろしくね」
「如月千早です。よろしくお願いします」
挨拶をすると、その人は眼鏡の端を光らせ、にんまりと笑った。
「歌だけなら即戦力って聞いてるわ。基礎を固めたら、あとはダンスをみっちり鍛えるだけね」
「私、ダンスに興味は……いたっ!」
「ダ・メ・よ! 私もみっちりと鍛えてあげるから、覚悟決めときなさい!」
秋月さんの拳骨は、本当はあまり痛くなかった。
1マス進む。
1マス進む。
「あら、あなたが新しく入った……」
「はい。如月千早です」
「三浦あずさと申します。よろしくね、千早ちゃん」
「千早ちゃ……いえ、何でもないです」
「あらあら、ちょっと馴れ馴れしかったかしら」
そう言うと、その人はちょっと疲れたように肩に手をやった。
「どうかしましたか?」
「最近、肩の疲れが取れなくて……」
「…………くっ」
「や、やっぱり呼び名、変えた方がいいかしら?」
三浦さんにえも言われぬ敗北感を覚える。
1マス進む。
1マス進む。
「初めまして。私は――」
「いえ、みなまで言わずとも分かります」
「どこかでお会いしましたか?」
「いいえ。しかし、新人の方がいらっしゃるということは、既に聞き及んでいました」
そう言うと、その人は不敵な笑みを浮かべながら言った。
「今井さん、ですね?」
「いいえ、違います」
「なんと……私としたことが……」
「私は――」
「おや、もうレッスンの時間が……私は四条貴音と申します。それではまた、如月千早」
よく分からない四条さんに終始翻弄される。
1マス進む。
1マス進む。
「そ、その子を捕まえて!」
「え? このハムスター? 大丈夫よ、もう捕まえ……」
「とりゃー!」
まっすぐ、甲子園球児のような綺麗なヘッドスライディングで。
「え? もう捕まえ……」
「今ので逃げちゃったわ」
「え、ええええええ?! うわあああん自分の馬鹿ああああ……って、もしかして噂の新人さん?」
「はい、これからこちらでお世話になります、きさら――」
「自分、我那覇響だぞ! ダンスが好きで、ペットがいっぱいいて……ってハム蔵ー!」
「え、ちょっと……こちらが名乗る前に行ってしまったわ……」
我那覇さんには、あとでちゃんと自己紹介しておかないと。
1マス進む。
1マス進む。
「お茶、いかがですか?」
「ありがとう、ございます」
「ふふ、ちょっと緊張してるのかな。私、萩原雪歩っていうの」
「如月千早です。萩原さん、よろしくお願いします」
「そんなにかしこまらなくていいよ、千早ちゃん」
一生懸命私をリラックスさせようとしてくれるその手は、僅かに震えていた。
「手……」
「あっ?! ご、ごめんなさい! その……お口に合うか、心配で……」
「……とっても美味しいわ、萩原さん」
「よ、良かったぁ……」
萩原さんは、ちょっと心配性だけれど、芯は強くて。
1マス進む。
1マス進む。
「ねぇ、千早さん」
「……会ったこと、ありましたか?」
「ううん、ないよ。初めましてなの!」
その子は私を見るなり、いきなり当たり前のように名前を呼んだ。
「えっとね、ミキはミキなの。星井美希」
「初めまして。如月千早です」
「それでね、千早さん。えーっと……あれ?」
「うーんとね……何言おうとしたか忘れちゃったの」
「はぁ」
「まぁいいや。ね、お昼だし、一緒におにぎり食べよ?」
星井さんのマイペースに、すっかり調子を崩されてしまった。
1マス進む。
1マス進む。
「だーれだっ!」
「……誰?」
「残念! 正解は亜美でしたー!」
知らない声に目隠しをされた上、理不尽な不正解を突きつけられる。
「千早お姉ちゃんだよね? 亜美なりの挨拶だよん」
「あまり初対面の相手にはやらない方がいいと思います」
「お堅いぜ千早お姉ちゃーん。双海亜美だよ! よろよろ~」
「私は如月千早……って、名前は知っているみたいですね」
「りっちゃんの書類覗き見したからねん。んっふっふ~」
「個人情報の保護、って知ってます?」
双海さんみたいな子供に覗かれてしまうセキュリティはどうなのだろう。
1マス進む。
1マス進む。
「だーれだ!」
「……双海さん」
「えっ!? 千早お姉ちゃん、なんで分かったの!?」
聞き知った声に振り向くと、そこで驚いていたのは、よく似てはいるけれど別の子だった。
「……双海、さん?」
「あっ! その顔、もう亜美がやったあとっぽいじゃん! ぐぬぬ!」
「双海亜美さん、じゃない?」
「うんむ。我こそはジェミニの片割れ、双海真美よ! 控えおろう!」
「如月千早です。よろしくお願いします」
「千早お姉ちゃんノリ悪いっしょー。もう少しこうさぁ」
もう一人の双海さんに、小一時間ほどノリ突っ込みのレクチャーを受ける。
1マス進む。
1マス進む。
「ちょっと。アンタが新人?」
「……そうですけれど」
「ふぅん……ま、悪くはないんじゃない? 悪くはね」
「そうですか。ありがとうございます」
「水瀬伊織よ。一回で覚えておきなさいよね」
「如月千早です」
やけに上から目線の言葉に、内心、少し穏やかではなかった。
「ふん、どうせ分からないことだらけなんでしょ?」
「足引っ張られるのもイヤだし、何かあったらさっさと言いなさいよね!」
「あ……はぁ……」
前言撤回、真っ赤な顔をした水瀬さんは、少し人見知りで照れ屋なだけみたい。
1マス進む。
1マス進む。
「あ、えっと、千早さんですか?」
「はい。如月千早です」
「えっとえっと! 私、高槻やよいって言います! これから、よろしくお願いします!」
「よろしくお願いします」
精一杯の挨拶をするその子の姿に、つい笑みが零れてしまった。
「あっ!? わ、笑いましたかー!?」
「い、いえ、そういうわけでは」
「うーっ、千早さん酷いです……」
「ごめんなさい、ごめんなさい、高槻さん」
「……なんちゃって! こーはいとして、ビシバシ鍛えていきますよー!」
満面の笑みを浮かべる高槻さんは、どこかで見た鬼教官の真似をした。
1マス進む。
1マス進む。
「あれ? お客さん?」
「いえ、今日からお世話になります、如月千早です」
「そっか、じゃあ今日から仲間だね! ボクは菊地真。よろしく!」
「よろしくお願いします」
てっきり、女性だけの事務所だと思っていたのだけれど。
「男性の方もいらっしゃったんですね」
「えっ?」
「え?」
「……そうだよね、ボクの外見じゃ勘違いされても仕方ないよね……」
「えっ!?」
完全に意気消沈してしまった菊地さんを、私なりの言葉で励ました。
1マス進む。
1マス進む。
「うぉっほん! 新しい環境には慣れたかな?」
「正直、まだ慣れるとまではいかないです」
「それもそうだな……ならば、私が直々にあだ名を付けようじゃないか!」
「あだ名、ですか?」
「それで呼び合えば、皆の仲も深まるだろう」
こめかみに指を当て、しばらく唸った末に。
「そうだな……ゴンザレスなんてどうだろう」
「嫌です」
「ならばハンブラ」
「嫌です」
高木社長は、そうか、と一言、寂しそうに呟いた。
1マス進む。
さいころは振らない。
1マスずつ進めていく。
最初は、彼女に腕ごと駒を動かしてもらうだけだった。
仕方がないなぁ、などと言いながら。
少し嬉しそうに、私の駒を、一歩、また一歩と進めていった。
「もうちょっと、私の手助けが必要かな?」
「……まだ、私一人の力では、進められないわ」
「そっか。じゃあ、まだ握っててあげるね」
そう言いながら、手の力は徐々に弛んでいった。
逆行するように、私の腕には、ほんの少しだけの力。
1マス進む。
「プロデューサー、何を唸っているんですか?」
「うーん……いや、先月分の給料、もう少しあったような……」
「音無さんとあずささんが、いっぱい奢ってもらったって喜んでました」
「!! そ、それだ!」
私の言葉に飛びつくように反応したプロデューサーは、そのまま机へ突っ伏した。
「やばい……クレジット大丈夫かこれ……」
「お貸ししましょうか? 私、仕送りのお金とかあまり使ってませんし」
「い、いや! 高校生にお金を借りるのは……大人として……」
「けれど、このままではクレジットが」
「! ティンと来た! 社長に借りよう!」
大人として、あまりにも情けない言葉を聞いた気がする。
1マス進む。
私が駒を進めながらため息をつくと、横から笑い声が聞こえた。
「うわぁ、プロデューサーさん、それはないよ」
「仕事に関しては本当にできる人だし、人柄も素晴らしいのだけれど」
「ちょっと見栄っ張りだよね」
「この人が担当で、本当に大丈夫なのかと思う時もあるわ」
プロデューサーは、時々抜けているところがある。
特にお酒が入ると気が大きくなるようで、音無さんはその隙を狙っている感もある。
けれども、仕事には決して出さない。
プロなのか、どうなのか……。
1マス進む。
「むふふふ……」
「音無さん、それは何を読んでいるんですか?」
「ピヨッ!? ち、千早ちゃん!?」
「そんなに驚かなくても……ちょっと読ませてください」
「ダメ! こ、これは絶対にダメ!!」
音無さんは、必死の形相で持っている本を死守しようとしている。
「えい」
「ひゃっ! ち、千早ちゃんくすぐっちゃいやあははははは!」
「表紙くらい……」
「あ」
丸一日、絵柄が頭から離れてくれなかった。
1マス進んで1回休み。
初めて当たった1回休みは、なんとも言えない気分だった。
「うわぁ……」
「人の趣味をどうこう言うつもりはないけれど、流石に事務所に持ってくるのは……」
「た、多分、新刊が出て買ってきたばかりだったんじゃないかなぁ……?」
「家に帰るまで我慢できないのかしら……」
どうやらこの事務所、有能な人には駄目な面があるらしい。
多分、こんな生活だからなかなか貰い手が……。
なんて、正面から言ったら多分寝込んでしまうのだろう。
ああ見えて、凄く繊細な人だから。
1回休み明け、1マス進む。
「あら、これは何かしら」
「あ! それは見ちゃダメ!」
「……律子へのファンレター?」
「うわあああ!」
「そう言えば、昔はアイドルだったって」
私の手から手紙をひったくった律子は、顔を真っ赤にして黙り込んだ。
「昔のファンレターをデスクに飾ってるなんて、可愛い所もあるのね」
「ううううるさいなぁ悪いかぁ!」
「いいえ。とってもいいことだと思う」
「そ、そう正面から言われるのは、それはそれで気恥ずかしいのよ……」
幸せの形を握りしめる姿は、羨ましかった。
2マス進む。
2マス進むため、私達の手は、いつもより少し長めに触れ合っていた。
「律子さんって乙女チックだよねぇ」
「普段は冗談挟みつつも、ピシッとしているのに」
「でも、この後仕事にならないんだよね」
「ええ。私も手伝うくらいだもの」
律子は照れると、仕事が手につかなくなる。
それも尋常ではなく、まともに業務ができるまで持ち直すのに、二時間はかかる。
けれどそれは、彼女がその事柄に純真に向き合ってる証。
照れるどころか、誇っていいこと。
再び、1マス進む。
「千早ちゃんは、コーヒーと紅茶、どっちがいいかしら?」
「どちらかと言えば、コーヒーでしょうか」
「あらあら、それなら私と一緒ねぇ」
私と一緒ではない胸元を揺らしながら、あずささんは喫茶店のドアを開けた。
「……くっ」
「あ、あら? お気に召さなかったかしら?」
「いえ、何でもありません」
「そう? ここ、エスプレッソが美味しいの」
「では、あずささんお勧めのエスプレッソを」
「うふふ。私もそれでお願いしまーす」
お勧めのエスプレッソは、確かに身体に染み渡る美味しさだった。
1マス進む。
駒を進めた後、私を見ながら言った。
「あずささんって包容力あるよねぇ」
「……私には何が足りないって言いたいのかしら」
「そ、そうじゃないよう! 身体的なあれではなくて、こう、精神的な……」
「確かに、それは思うわ」
年上とはいえ、そこまで離れているわけではない。
それでもあずささんは、私達を包み込んだ上で微笑みかけてくれる。
少し別の世界にいるような余裕と空気が溢れ出している。
時々、慌てんぼな一面を見ると、ちょっと安心する。
1マス進む。
「如月千早、ここが二十郎でございます」
「こ、ここが……?」
「ここならば、あなたの欲求を満たしてくれることでしょう」
久しぶりにラーメンを食べたいと言ったら、四条さんが妙にやる気を出してしまった。
「噂には聞いていましたけれど、凄い場所ですね」
「さぁ、こちらが二十郎のラーメンになります」
「多っ……?!」
「どうしましたか? 存分に召し上がっていただいてよいのですよ?」
「食べないと……全部、食べないと……!」
「遠慮することはありません」
何とか完食するも、丸一日体調を崩す。
1マス進んで1回休み。
二度目の1回休みの間、少し疲れた私は、隣の肩に寄りかかった。
「四条さんに合わせてラーメンを食べたら身が持たないよ、千早ちゃん……」
「それはこの件でよく分かったわ」
「いつも不思議然としてるのに、ラーメンが絡むとすっごくテンション上がるよね」
「食べてる最中のはしゃぎっぷりは少し意外だったわ」
四条さんというと、ずっと掴み所のない、秘密主義な人だと思っていた。
けれども、あの姿を見る限り、年相応の心もあるように感じる。
完全な人間、一色に染まり切った人間など、そうはいない。
認識しているよりもずっと、彼女は普通の人なのだろう。
1回休み明け、1マス進む。
「ごめんなー、千早。手伝ってもらっちゃって」
「構わないわ。どうせ暇だったし」
「その代わりに自分、腕によりをかけて作るからな!」
「そんなに気合を入れなくても……」
ペット用品の買い出し手伝いのお礼に、我那覇さんが夕食を振る舞ってくれることになった。
「何か手伝うことはあるかしら」
「ええと、それならねぇ……っ! ち、千早!」
「どうしたの? 急に慌てて……」
「そ、そこの料理ガードしてぇ!」
「!?」
間一髪、危うくご馳走がブタ太の餌になるところだった。
1マス進む。
駒を握る手に、ぽたりと何かが垂れた。
「……はっ!? ご、ごめん千早ちゃん! あんまり料理が美味しそうで……」
「ブタ太を見てるのかと思ったわ」
「違うようそんな酷くないよう! でも響ちゃん、相変わらず料理上手いなぁ……」
「編み物とかも得意みたいね」
普段の慌てんぼ振りからは、想像できない技術。
もしかすると家事裁縫全般は、事務所内で一番かもしれない
活発な中で時折見せる、女性らしさというか少女らしさというか。
そういうものは、ここから来てるのかもしれない。
面白い。期待。
きたい
なるほど……春香は「いない」のか
期待してます
1マス進む。
「そ、そんな言い方って!」
「私は思ったことを口にしているだけよ」
「でも、それが全部じゃないよ!」
「少なくとも、私はそう思っているわ!」
萩原さんと意見が真っ向からぶつかり合い、そのまま喧嘩別れのように話さなくなってしまう。
「……」
「……」
「……どうぞっ」
「……あ、お茶……?」
「あーあ、間違って一人分、多くお茶を淹れちゃいましたぁ」
手元に置かれる歩み寄りのサインを見ては、私も歩み寄らないわけにはいかない。
1マス進む。
駒から手を放した後、頬をつんつんと突かれた。
「千早ちゃんの意地っ張り」
「萩原さんだっていい勝負よ」
「雪歩、普段は弱気なのに譲らない時はとことん意地張るよね」
「そうね。とっても強情」
そして、どこか私とも似てる。
萩原さんが事務所内で声を荒げるなんて滅多にない。
その内の結構な割合は、私との衝突だったりする。
あの意地があるからこそ、彼女はずっとこの業界に残っている。
1マス進む。
「千早さん! 次はこっち!」
「ねぇ美希、そろそろ終わりに……」
「えぇ~っ!? ダメなの!」
「千早さん、滅多にこういうの来てくれないから、今日はテッテー的にミキがドレスアップしてあげる!」
「しなくていいわ、しなくていいから……」
何故か妙に懐かれてしまい、懇願されて私服を買いにくることに。
「ほらほら! こっちのスカート穿いてみて!」
「お願い……そろそろ、私も限界……」
「むーっ! もっと可愛い千早さんをみんなに見せつけるの!」
「あ、あぁ……もう勝手にやって……」
強引な小悪魔の勢いに圧されつつも、こういう服も悪くないのかな、と思った。
1マス進む。
1マス進む。
「千早さん! 次はこっち!」
「ねぇ美希、そろそろ終わりに……」
「えぇ~っ!? ダメなの!」
「千早さん、滅多にこういうの来てくれないから、今日はテッテー的にミキがドレスアップしてあげる!」
「しなくていいわ、しなくていいから……」
美希には何故か妙に懐かれてしまい、懇願されて私服を買いにくることに。
「ほらほら! こっちのスカート穿いてみて!」
「お願い……そろそろ、私も限界……」
「むーっ! もっと可愛い千早さんをみんなに見せつけるの!」
「あ、あぁ……もう勝手にやって……」
強引な小悪魔の勢いに圧されつつも、こういう服も悪くないのかな、と思った。
1マス進む。
少し強めに、私の手を握られた。
「うー、美希、ずるいなぁ。私も行きたいなぁ」
「もうごめんよ。誰とも行かないわ」
「そんなぁ……。ね、一緒に行こうよ! 今度はお化粧用品でも買いに!」
「遠慮しておくわ」
美希は、私のクールなところがかっこいいのだという。
この性格はこれまで、人との間に壁を作る役割しか果たしてこなかった。
彼女の、自分の気持ちに素直な性格は、私みたいに敵を作る場面もあっただろう。
辛くはなかったのだろうか。
1マス進む。
「あ、亜美……ちょっと待って……」
「千早お姉ちゃんダメダメっしょ! オーディションなんだからアゲアゲで!」
「ま、まだ一時間以上前なのに走らなくても……」
「ヘイヘイ! この程度で息が上がってたらイクサには勝てぬよ、千早お姉ちゃんクン!」
年相応にはしゃぐ亜美に、疲れつつも少し微笑ましさを覚える。
「もう……じゃ、そんな私になんて余裕で勝てるわよね」
「うえぇっ!? ち、千早お姉ちゃんいきなりダッシュは卑怯だよー!」
「いついかなる時も、気を抜いてはダメよ」
「ま、待ってぇー!」
「どうしようかしら?」
いつもはあんなに押してくるのに、押されるのには滅法弱い子。
1マス進む。
私の手を握る力は、大分弱まってきていた。
「亜美って防御力低いよね」
「勢いに乗ってる内は振り回されてしまうけれど、隙をつけば、ね」
「ふっふっふ、そこはやっぱり年の功かな?」
「そんなこと言ったら、音無さんに怒られるわ」
仕返しをした時のふくれっ面は、ついついからかいたくなる表情で。
まぁ、そういうことをすると、大体仕返しをされる。
構ってあげるのは、私のためでもあるのだと思う。
あの子とはまた少し、違うタイプだけれど。
1マス進む。
「千早お姉ちゃーん……真美、もっとテレビ出たいよー」
「頑張りましょう、最近は出番も増えてるわ」
「でも真美が映るの、本当にちょびっとだけっぽいよー! もうやる気失くすぅ」
「仕方ないわ、私達はまだまだ下積みだもの」
そんな不満を訴える真美だけれど、本当によく我慢していると思う。
「そだよね。亜美も頑張ってるのに、真美が弱音を吐くわけにはいかないよね」
「でも、いいんじゃないかしら」
「え?」
「いいわよ、少しくらい弱音吐いても。私の方がお姉さんだから」
「……千早お姉ちゃん……」
膝の上で俯いている身体を、出来る限り優しく抱きしめた。
1マス進む。
暖かい手のひらが、私の頭を撫でる。
「真美はもう少し、みんなに本音で甘えていいと思うんだよね」
「それは難しいから、私達が甘えさせてあげないと」
「千早ちゃんも頑張ってるよね。いい子いい子」
「……髪、乱れるのだけれど」
そんなことを言いながら、私の顔は少し緩んでいる。
あの時の真美のように。
普通なら毎日友達と遊んでいる年頃の彼女。
はしゃぎたい時、疲れた時くらい、いつも元気をもらっているお礼をしよう。
1マス進む。
「ごほっごほっ……」
「全く、風邪をこじらせるなんて……意識が足りない証拠よ!」
「ごめんなさい……伊織……」
「無駄口叩いてる暇があったらさっさと治しなさいよね」
寝込んでいる私の部屋へ、伊織が風邪薬やドリンクを持って訪れた。
「こっちが薬で、これがウイダーで……」
「……ありがとう」
「べ、別に親切でもなんでもないわよ。さっさと治してくれないと迷惑なの」
「ええ。お見舞いに来てくれたから、すぐに治るわ」
「ば、ばっかじゃないの! 非科学的よ!」
長丁場の収録で疲れているだろうに、休む間もなく真っ先に来てくれた。
2マス進んで3回休み。
長い休みの間、手の甲から温もりがなくなり、少し不安になった。
「伊織、本当はとっても優しい子なんだよね」
「本人はあれで、隠せているつもりらしいけれどね」
「でも、プロデューサーさんには割と辛辣だよね」
「照れ隠し以外のも大分あるわね」
彼女も、人から誤解されやすい一人。
しかも彼女は、アイドルとしての姿も、自ら偽っている。
それでも頑張るのは、ひとえにその信念の賜物。
いつか、自分が目指す栄光を手にする日を夢見て。
長い休みが明けて、再び1マス進む。
「ありがとうございます、弟達の相手をしてくれて」
「いいわよ、私も楽しかったから」
「弟達も千早さんのこと、とーっても気に入ってました!」
「嫌われなくて良かった」
最近家族に何もしてあげられてないと悩む高槻さんの、ちょっとしたお手伝い。
「千早さんって、小さい子をあやすのが上手いですねー」
「そう、かしら」
「まるで本当のお姉さんみたいかなーって」
「高槻さんの?」
「え、えぅ……それも楽しい、かも。えへへ」
あの日々の私みたいにはにかむ表情は、年相応の無邪気さを感じさせた。
1マス進む。
久しぶりに感じる温もりに、懐かしい安心感を覚える。
「私なんかよりよっぽどしっかりしてるなぁ、やよい」
「家計のやりくりまでしているのよ」
「はえー……私にはとっても無理……」
「本当に頑張っているわ、高槻さんは」
もっと遊んでもいいんじゃないかとは思う。
けれど、高槻さんに聞くと、今の生活で十分幸せなのだと言う。
みんなは少し驚くけれど、私には分かる。
それは本当に、幸せな生活なのだ。
1マス進む。
「元気出そうよ」
「大丈夫よ。ありがとう、真」
「いや、全然大丈夫じゃないって。目が死んでるって」
誰よりも自信のあったボーカルオーディションに落ちて、真に慰められる。
「たまたま審査員との相性が悪かっただけだよ」
「違うわ。私には才能も力もないから――」
「……あああもうまだるっこしい!」
「いたぁっ!?」
「こっちなんて何度女の子であることを全否定されたと思ってっ……! くぅっ……」
「ご、ごめんなさい。ほら、真、元気出して?」
いつの間にやら立場が完全に逆転して、愚痴を聞く側に。
1マス進む。
駒を持つ手が、段々自分の力で動くようになってきている。
「でもね、やっぱり真はかっこいいよ」
「天は必ずしも、本人が望む才能を与えるわけではないのね」
「勿体ないなぁ。私がイケメンだったらいっぱい女の子侍らすのになぁ」
「あなたじゃ性格的に無理よ」
真が女の子らしいことをできるのは、いつになるのだろう。
もっとも、本人の性格や言動も一因ではあるのだけれど。
それを理解した上で、お姫様の座を掴みとるために頑張っているのだ。
……そもそも、掴みとる、という発想からして道のりが遠そうなのはさておき。
1マス進む。
「おお、如月君。調子はどうかね?」
「調子ですか。悪くはない、と思います」
「伸び悩んでいるのかね?」
「……ひと月近く前から、歌声が全く変わっていない気がするんです」
そう打ち明けると、社長は真面目な顔で話を聞いてくれた。
「如月君は最初から高い実力があったからね。そろそろ、目に見えた変化は少なくなる時期だろう」
「壁を越えようにも、その壁が分からないんです」
「そうだな……時間もあるし、私が少し見てあげよう」
「え?」
「まぁ任せたまえ、たまには違う視点から見るのも効果があるものだ」
容赦なく指摘をされ、疲れ果てて帰った夜は、久しぶりの充実感に見舞われた。
2マス進む。
私を包む手は、もう添えられるだけで、殆ど力は籠っていなかった。
「社長、昔は腕利きのプロデューサーだったんだね」
「いつもの姿からは全然想像できなかったわ」
「社長にも、プロデューサーさんみたいに走り回ってた時期があるのかな」
「あったのでしょうね。がむしゃらに走り続けた日々が」
少し世代がずれていて、抜けているところがあって。
それでも、みんながこの事務所に居るのは、間違いなく社長のお陰で。
どうなっても、社長がいれば何とかなるでしょう。
そう思わせてくれる、信頼感があった。
私の生活は、これまでとは大きく変わった。
耐える日々。
待つ日々。
探す日々。
もがく日々。
そんな毎日を送ってきた私にとって、この場所は異質だった。
耐えることも、待つことも、探すことも、もがくことも。
全部、これまでと同じようにある。
変わっていないはず。
けれど、それだけではない。
それだけではないのだ。
「千早ちゃん」
物思いに耽っていると、不意に、私を呼ぶ声が聞こえた。
直後、ふんわりと後ろから抱きすくめられる。
「この場所は、千早ちゃんにとって、良い居場所になれるかな」
胸元に回された手を握りしめる。
ああ、なんて暖かい手なんだろう。
かじかんだ私を、ゆっくりゆっくりと溶かしていく。
背中に押し付けられた身体の温度も、私の芯を解きほぐしていく。
「そうね。なると、いいわね」
「……いいえ。したいわ。私の居場所に」
これまで私の理想は、形になりかける度に打ち砕かれてきた。
今回もまた、同じように消えてしまうのではないか。
そう思うと、身体の震えが止まらない。
両手の震えが止まらない。
さいころを振らなければ良かったんじゃないか、と。
失うならば知らなければ良かったんじゃないか、と。
また、終わってから後悔するんじゃないか、と。
ぐるぐると、無限螺旋が頭の中を回り続ける。
ここは本当に、私が手を伸ばしてもいい場所なの?
けれどその疑念を、私は必死に振り払う。
それでも私は進みたいと思った。
今度こそ手放したくないと思った。
今、私の身体を包む温もりを、本当のものにしたいと思った。
「うん。しようよ、千早ちゃん」
「頑張ろうよ、私も一緒にいるから」
私を抱きしめる手に、弱々しく力が増した。
その壊れそうな手を、今度は私が優しく包む。
「ええ」
「きっと。今度こそ」
進むんだ。
砕け散る寸前だった勇気を振り絞って。
進むんだ。
不幸せになるために生まれてきたわけじゃないんだと、証明するために。
進むんだ。
手に入れられるものがあるんだと、証明するために。
進むんだ。
この子に、それを証明してあげるために。
待ってた
1マス進む。
寝坊した美希が収録に遅刻して、みんなで平謝り。
1マス進む。
真と二人で、人気深夜番組のレギュラーを貰った。
1マス進む。
旅番組で、四条さんと風情のある小旅行へ行った。
1マス進む。
高槻さんとその妹弟達と、遊園地で遊びまわった。
1マス進む。
真美とのラジオが開始、ネットで妙な人気が出た。
1マス進む。
萩原さんの家へと遊びに行った時、死を覚悟した。
1マス進む。
人に笑われ背中を見たら、亜美に紙を貼られてた。
1マス進む。
昔の歌を歌う律子に遭遇し、つい歌声を録音した。
1マス進む。
社長とライバルの話は、何度聞いても面白かった。
1マス進む。
道案内を買って出たあずささんを、必死に止めた。
1マス進む。
音無さんの手伝いで、得体のしれない本を売った。
1マス進む。
出演したCМの会社が、実は伊織の実家で驚いた。
1マス進む。
我那覇さんの彼氏かと思いきや、お兄さんだった。
少しずつ、私は前に進んでいる。
興味がなかったダンスも、必死に練習するようになった。
人々に向ける笑顔も、段々自然になってきた。
私は今、確かに変わろうとしている。
辛いことも、難しいこともあった。
心が折れかけたことも、一度や二度ではない。
それでも、私にはみんながいた。
私だけじゃない、みんなも辛いことを経験した。
最初は励ましてもらってばかりだった。
その内、私が励ましてあげることも増えた。
「私もいるよ?」
重ねられた手が、いじけたように手の甲を引っ掻いた。
「分かってるわ」
「本当にー?」
「本当よ」
「ならいいけど」
爪で引っ掻かれた部分を、今度は同じ指が優しく撫でる。
くすぐったくて、つい手を払う。
「あ」
すると、ちょっと泣きそうな、寂しそうな顔をした。
仕方ないから、今度は私が手を重ねる。
「ち、千早ちゃん、怒った?」
「怒ってないわ」
「……本当に?」
「さっきから、やたらと疑い深いのね」
「そ、そういうわけじゃないけど、さ」
その目には、未だに疑念の色が見える。
だからそれを消せるように、反対の手でその目を塞いだ。
「……えへへ」
そのまま撫でると、今度こそ嬉しそうな声が聞こえた。
>>87
おいピヨ
彼女は私の言動一つで、色とりどりな喜怒哀楽を見せる。
私が歌いたいと言うと、聴きたい聴きたいと喜ぶ。
私がもうやめようかなと呟くと、絶対に駄目だと怒る。
私が傷付いて打ちひしがれると、伝染したように哀しむ。
私が悪戯心から驚かすと、びっくりした後に楽しむ。
これまで灰色だった世界が、少しずつ色づいていく。
彼女の表情や言葉の一つ一つが、極彩色よりも鮮やかに光る。
薄暗くて識別できなかった空間を、まばゆい光で照らしていく。
何故、私の手を引っ張るのか聞いた。
「ひ・み・つ」
と、少し悪戯っぽく言われた。
この話題になると、いつもはぐらかされる。
ずるい。
「千早ちゃんの拗ねた表情、とっても可愛いよ」
「馬鹿」
手を引いてもらう必要は、もうじきなくなる。
そう思えた。
1マス進む。
「千早、話がある」
突然プロデューサーに呼び出された。
少し、覚悟をした。
「深刻な話ですか?」
「いや、別にクビとか倒産とかそういう話じゃないからな」
「そうですか」
内心、ほっと胸を撫で下ろした。
みんなメディアへの露出が増えてきて、これからという矢先。
ここで私一人消えるというのは、考えるだけでも怖かった。
「それで、なんでしょう?」
「ああ。実は千早に、メジャーデビューの話が来てる」
メジャー、デビュー……?
「あの、えっと、それは、どういう」
「ごめんごめん。いきなりで驚いたか」
「……」
言葉を失うくらいには驚いた。
確かにこの事務所から、もう何人かはメジャーデビューを果たしている。
悪くはない結果が続いていることから、そろそろ次が来てもおかしくはなかった。
「でも……私が、ですか?」
「そうだ、作曲者の方からのご指名でな。千早も名前はご存じだろう?」
デスクの引き出しから、プロデューサーが少し厚めの封筒を取り出す。
裏面には差出人名として、著名な作曲家の名前が入っていた。
手渡された封筒の中身を覗くと、楽譜とCD-ROMが収められている。
「その曲は永年温めていたけど、琴線に触れる提供相手がいなかったそうでね」
「そんな折、先月の番組で披露したカバー曲を聴いて、千早しかいない!と思い立った、とのことだ」
「私なんかが、そんな……」
私が好きな曲も含め、多くの名曲を生み出してきた名作曲家。
そんな方が、永年温めてきた曲。
私にはとても、荷が重い。
「プロデューサー、私にはとても……」
「ああ。プレッシャーがかかるのは分かる。だから、無理にとは言わない」
動揺する私を見て、プロデューサーは頷いた。
「少し拝見させてもらったが、間違いなく話題を席巻する名曲だ」
「もし失敗すれば、色んな意味で大きな損失を生むことになる」
誰にも渡さず、守り続けてきた我が子。
もし私が歌い上げきれなければ、その子を殺すことになる。
誰からも待望され、多くの感動を生み出すであろう子。
その子を手にかけてしまえば、私に未来はない。
「千早にはこの曲を御しきる力があると思ってる」
「でも、曲に気圧されたままでは、力は出し切れない」
「……少し、考えさせてください」
嬉しかった。
けれど、怖かった。
これは、悪い流れだ。
とびっきりいいことがあった後、私はそれをめちゃくちゃにする。
未来が見える。
大御所の歌を、無様に歌う私。
天からの授かりものを、無残にも殺す私。
一体誰の皮肉だろうか。
その曲は、幸福の象徴の名を冠していた。
タイトルでジョジョスレかと思った
「千早ちゃん、どうして悩むの?」
「私はまた失敗するわ」
左右のイヤホンを、それぞれ二人で分け合う。
私の左頬と彼女の右頬が、かすかに触れる。
「いい曲だね」
「ええ、本当に……いい曲」
耳を流れるメロディーを聴きながら、歌詞に目を通す。
目を瞑ると、在りし日々が脳裏を過ぎる。
心に突き刺さるように胸が痛んだ。
でも不思議と、耳を塞ぐ気にはならなかった。
「私、千早ちゃんに歌って欲しいなあ」
「どうして?」
「千早ちゃんがこの歌を歌えば、きっとみんなが認めてくれるもん。……ちょっと、複雑だけど」
「複雑?」
「う、ううん! なんでもないよ!」
彼女は慌てて、取り繕うように笑った。
その表情に、いつもの快活さは見えない。
「ねぇ、何を隠してるの?」
「うぇっ!? か、隠してななななんてないよ?!」
「……そう」
これ以上聞いても無駄だろう。
こうなった時の彼女は、本当に口が堅い。
「ね、千早ちゃん」
腕を掴まれ、引っ張られた。
その力は、とても弱々しい。
私の身体はなかなか動かなかった。
「指切り、したよね。前に進むことをやめないで、って」
「でも……」
「だから、お願い」
少し、腰が浮いた。
「歌って」
今は亡き弟の姿が、僅かに重なった。
1マス進む。
「やります、プロデューサー」
私の言葉を聞くと、プロデューサーはデスクから勢いよく立ち上がった。
「ほ、本当か!?」
「はい」
「大丈夫か?」
「覚悟は決めてきました」
プロデューサーはじっと私の目を見た後、安堵の表情を浮かべた。
「そうか、その調子なら大丈夫そうだな。嬉しいよ」
「嬉しい?」
「はは、俺は千早のファンだからな。名曲が生まれるんだ。そりゃ嬉しいさ」
名曲になるかどうかは、私にかかっている。
気を引き締めなければならない。
1マス進む。
まるで、私のことを歌っているかのようだった。
過去に囚われず、未来を目指そうとする歌。
それでも、過去を忘れることは出来ない。
過去を意識し、過去を忘れようともがく。
忘れたい。
忘れたい。
脳裏を過ぎるたびに、克明に思い出される。
忘れられない。
負の連鎖。
でも、どこかで切り離さなければならない。
飛び立たなければならない。
私に課された課題。
「もう、少しだね」
弱々しい声が、私の背中を押す。
「分かってる。あと少し。あと、少しよ」
この声は、彼女へ向けられたものか。
それとも、自分に言い聞かせる為か。
決別しなければならない。
この歌のように。
私は、あなたを忘れない。
でも、きのうにはかえれないのだから。
1マス進む。
「お疲れ様でした」
「千早……」
収録を終えた時、プロデューサーは僅かに涙ぐんでいた。
「プロデューサー、どうしました?」
「いや……なんだろう」
涙を拭うプロデューサーの手は、小刻みに震えていた。
「千早の歌が泣いてたからな。伝染ったみたいだ」
「伝染っただなんて。泣いてるの、プロデューサーだけじゃないですか」
「お前、気付いてないのか?」
「え?」
プロデューサーはポケットからハンカチを取り出した。
それを差し出しながら、私の顔を指差す。
「涙、出てるぞ」
「え……」
右手でそっと目元を撫でる。
指先には、雫を拭き取った跡が残されていた。
視界が少し滲んだ。
「プロデューサー」
「ん?」
「私、前に進めたでしょうか」
「……そうだな。千早にとっては大きな一歩だよ、これは」
プロデューサーはそう言い残し、私の肩を叩いてスタジオを出て行った。
その途中、他のスタッフにも声をかけていく。
片づけをしていた人達も、途中で中断して出ていった。
すぐに、スタジオには私一人が残された。
「っ……!」
骨組みを抜かれたように、私の身体が崩れ落ちる。
もう我慢をする必要はなかった。
「……っうぁ……」
声が漏れる。
止めるつもりもない。
「あぁ……うっく……あ、あぁ……」
止まらない。
忘れられない想いが目から溢れ、流れ落ちていく。
「さよう、なら」
私の、大切な。
鏡を見る。
泣き腫らした目が真っ赤になっていた。
「千早ちゃん、大丈夫?」
「ええ、大丈夫」
心配そうに見つめる彼女に、私はにっこりと笑って返した。
「本当に? 無理してるように見えるよ」
「大丈夫だから」
それでも不安そうな表情をする彼女を、正面から静かに抱き締めた。
「わっ」
「少し、このままでいてもいいかしら。なんだか安心できるの」
「そっか。うん、いいよ。千早ちゃんがそうしていたいなら」
細い手が私の背中にも回される。
私はこの子に、どれだけ救われたことだろう。
触れ合う感覚に混ざり、微かな鼓動が伝わる。
とくん、とくん、と。
心臓が潰れてしまわないか、心配になるほどのか細さ。
「千早ちゃん」
「なに?」
「……ううん。やっぱりなんでもない、よ」
また、その表情をする。
何かを言いかけてから躊躇う表情。
それをなかったことにするかのように、私を抱く力が強くなった。
1マス進む。
私が吹き込んだ命は、世間に喝采と共に受け入れられた。
幸福の象徴の名を冠する、魂の放浪の歌。
受け入れられたことで、私は安堵した。
自分を重ね、想いを籠めた歌。
過去との決別、未来への歩み。
これを否定されたら、私自身も否定されたことと同じだ。
今、ようやく。
私の想いは、人々から認められたのだ。
私は自分が歩む道に、ようやく自信を持つことができる。
ヒント:
× 伊織
○ 水瀬さん
>>112
それよく言う人いるけど、媒体によってどっちも使うよ
SSって元と比べて人間関係や親交度が一緒とも限らんし
よっぽど深い意味合いでもない限りは呼び名にそこまで拘る必要なくねっていつも思う
そうだよな、別に響のこと琉球アニ丸って呼んでもいいよな
1マス進む。
作曲家の方が、わざわざ事務所へお越しになった。
対面して最初に、握手を求められた。
我が子の産声を上げさせてくれてありがとう、と。
私は新しい命を育んだ。
それと同時に、一つの想いを殺した。
向けられた言葉に喜ぶと同時に、締め付けられるような気分だった。
作曲家の方は、また如月千早のために歌を書きたい、と。
そう言い残し、お帰りになった。
「やったじゃないか、千早!」
「はい。何とか責務を全うできて、肩の荷が下りました」
プロデューサーは上機嫌だ。
事務所の懐が良くなるとか、そういう打算ではない。
心から私のことを喜んでくれているのだろう。
けれど、その気持ちを素直に受け取ることができない。
どうしてそんな風に思うの、私は。
別れは告げたのだ。
もう、告げたのだ。
1マス進む。
事務所のみんなも、自分のことのように喜んでくれた。
「千早さんはやっぱりすごいの! ひょーげんりょく?っていうの?」
「ホントだよね。ボク、思わずウルッときちゃったよ」
「千早なら当然よね。ま、いつもよりはちょっと良かったけど……」
「弟達が子守唄に歌ってーって言うんです。難しくて歌えないですけど……」
「これは負けてらんないっしょ! 亜美達も新曲をじゃんじゃん!」
「うーん、でも真美達はもちっと育成されんといけんですなー」
「歌ってあんなに感情を籠めることができるんだね。驚いちゃった」
「そうよ、雪歩。とはいえ、あそこまでとは……想像以上だったわ」
「か、カッコイイ系なら自分だって余裕で! ……ごめん、見栄張った」
「大言はいけませんよ、響。しかし、月までも届きそうな見事な歌声でした」
「千早ちゃんの歌、まるで語りかけてくるようだったわ。少し、悲しげで……」
感嘆の言葉をかけられたり、もみくちゃにされたり。
心の整理がつかない中でも、みんなの反応は純粋に嬉しかった。
「如月君、よくやってくれた」
「本当よ。あんなに難しい状況で……すごいわ」
社長と音無さんも、私のことを優しく褒めてくれた。
大人から褒められることは嬉しいことだということを、久しぶりに思い出した。
昔は、いっぱい誉めてもらった。
その度に、花が満開になるように嬉しかった。
――千早。
――お姉ちゃん。
私を呼ぶ声を思い出す。
……駄目だ。
思い出してはいけない。
後ろに下がってはいけない。
必死に頭の中を掻き回した。
前に進め。
自分に必死に言い聞かせる。
己の意思で前に進め。
自分が逃げられない様に縛り付ける。
「痛そうだね、千早ちゃん」
「これは、必要な痛みだから。耐えなければならない痛みよ」
「そっか」
口振りとは裏腹に、彼女の顔は納得していなかった。
「もう引っ張ってあげるほどの力はないけど」
「これくらいなら、してあげられるよ」
ずきずきと胸の奥底が痛む。
そこに暖かい手が当てられた。
「痛く、なくなった?」
「少し楽になったわ」
そう答えると、満足そうな笑顔を浮かべた。
額には、じんわりと汗が滲んでいる。
彼女は最近、辛そうな表情をすることが多い。
私に負けず劣らず、痛みを堪えるような表情をしている。
この子は、どうしてここまで、私のことを。
1マス進む。
私の歌がきっかけになったのか、事務所はにわかに賑わい始めた。
これまでも賑やかではあったものの、今は少し趣が違う。
まず、仕事が入るようになった。
最初は一躍有名になった私が中心。
次第に私の周囲もクローズアップされることで、他の子達も目に留まるようになってきた。
元々みんな、活躍できる力は十二分にある。
その声やキャラクターが知れていくにつれ、自然と仕事は増えていった。
ステージイベント。
テレビの司会。
映画のキャスト。
ラジオのパーソナリティ。
ゲームの声優。
話題性に満ち溢れた私達の事務所は、瞬く間に活躍するフィールドを広げていった。
主役級の仕事を貰うことも多くなった。
大規模なプロダクションライブや、私達全員で持つ冠番組の企画も持ちあがり始めた。
私達が売れれば売れるほど、
社長は事務所に居ることが少なくなった。
音無さんは電話応対が増えた。
プロデューサーと律子は中でも外でも大忙しになった。
それでも時々顔を合わせて話すと、誰もが本当に活き活きとしていた。
その光景を見て、ようやく報われた気がした。
ああ、私はやりました。
やっと、みんなに貢献することができました。
良き風を、大切な人達に届けることができました。
私の居場所を、やっと掴み取ることができました。
極彩色で彩られた世界に、私の色も加えていきましょう。
一か所だけ灰色だったキャンバス。
みんなの色の中に、私の色が灯っていく。
この幸せなキャンバスの中へ、私も飛び込もう。
眺めて満足するだけじゃない。
自分の足で、駆け出そう。
どうなるんだこれ……
私はずっと、すごろくを眺めていた。
随分とたくさんのマス目を歩いてきたものだ。
「もうこんなに歩いてたんだね」
「そうね。手を引いてもらってばかりだったから、気付かなかったわ」
「えー、千早ちゃんはまるで私のせいみたいに言う」
「でも、そうじゃないかしら?」
「ずるいよー!」
ぽかぽかと背中を叩かれる。
その微笑ましさに、つい苦笑してしまう。
それを見たのか、ぽかぽかと叩く回数が更に増える。
叩かれれば叩かれるほど、口から洩れる笑い声は大きくなった。
「……あら?」
叩かれて足が動いた拍子に、何か硬いものを踏んだ。
足をどけてみると、小さな立方体が一つあった。
「これ……」
それはよく見覚えのある、点の刻まれた立体。
さいころ。
運命を決める、四角い宣告者。
久しぶりに目にしたそれは、まるで忘れ去られた史跡のように長い年月を感じさせた。
ずきん。
胸の奥が、痛む。
「千早、ちゃ……」
心配そうな目を向けられる。
「……」
何も言わずに、私はさいころを拾い上げる。
石のような手触り。
暖かい手に握られた反対の手とは対照的に、冷たい感触が伝わってくる。
「大丈夫」
頭の中で反復する。
もう過去には囚われない。
「そうよ。私はもう報われた」
さいころから目を離さない。
「誰もが認めてくれた。前へ進ませてくれた」
冷たいキューブを強く握りしめる。
「ここからは、自分一人の力で」
後ろから私の名前を呼ぶ声が聞こえた、
「また昔みたいに、自分の力で」
気がした。
「私は、幸せを掴み取るの」
手のひらに載せたさいころを、宙へ放った。
放物線を描きながら飛んで行く。
これは、零れ落ちたものでも、すっぽ抜けたものでもない。
間違いなく、私が自分の意思で放ったもの。
私自身によって決められる運命。
これまで私が逃げ続けていたもの。
さいころが地面に落ちる。
かつん、と音を立てて跳ねた。
もう一度地面にぶつかると、そのままころころと転がった。
転がっていたのは、ほんの一瞬のはず。
その一瞬が、私には異常なほど長く感じられた。
ぴしり、と、何かにひびが入る音がした。
『6』
さいころが数字を示す。
駒を摘まむ私の手には、もう誰の手も添えられていない。
私だけの力で、駒を進める。
「ひとつ」
駒を動かしながら、マス目を数える。
「ふたつ」
私が止まるかもしれなかったマス。
「みっつ」
嬉しいこと、大変なこと、悲しいこと。
「よっつ」
それらはもう、私には関係のないマス。
「いつつ」
そして、私が自分の手で、導いた場所は。
「……っ」
駒を置こうとした手が、止まった。
『ゴシップ誌に家族のことを書かれる』
『3マス戻って2回休み』
悪いことは、重なるものだ。
その事実を思い出した瞬間、視界が一気に暗くなった。
携帯の充電が切れていなければ、もう少しマシだったかもしれない。
コンビニで何気なく立ち寄った雑誌コーナー。
平積みにされた雑誌の表紙に、信じられない言葉を見つけた。
「美しき歌姫の、醜い家庭事情」
私はひったくる様に雑誌を手に取り、その中を見た。
別居中の両親について。
言葉すら交わさない、冷え切った家庭環境。
そして、そのきっかけとなった――
「っ――!」
雑誌を慌てて置き、口元を押さえる。
猛烈な吐き気に襲われた。
急いで店を飛び出し、部屋へ逃げ帰る。
玄関へ飛び込むと同時に、胃の中のものを全て吐き出した。
「ぅ……」
胃が空になってもなお吐き出そうと、身体が消化器官を圧迫する。
最悪の状態でもなんとか意識を保ち、汚れてしまった玄関先を片付ける。
放心状態で、充電中の形態の電源を入れる。
何件もの着信とメール受信。
全てプロデューサーからだった。
『事務所へ来てくれ』
要件はもう分かっていた。
「千早……」
真っ青な顔をしたプロデューサー。
目の前のデスクには、私がコンビニで見たものと同じ雑誌。
「その表情……もう、これを見たのか」
「はい。朝、コンビニで」
努めて平静を装ったつもりだったけれど。
プロデューサーの態度からすると、顔に出てしまっていたらしい。
「私は、大丈夫です。いずれ、こういう日は来ると思っていましたから」
分かっていた。
こうなるであろうことは。
「それよりプロデューサー。この記事で、事務所は――」
そう口にした時、プロデューサーに両肩を勢いよく掴まれた。
少し驚いてプロデューサーの顔を見ると、泣き顔と怒り顔が入り混じった表情だった。
「それよりじゃない!」
何故怒鳴られたのか分からず、私は困惑した。
「今、一番心配なのは千早のことだ! 事務所のことなんて後回しだ!」
ああ、この人は私のことを心配しているのだ。
「私のことこそ、後回しで大丈夫です。事務所に影響が出ては、他のみんなが……」
「大丈夫なものか! 俺が思いっきり掴んでも、震えが止まらないほどなのに!」
言われて初めて気づいた。
私の身体は、まるで極寒の中に裸で放り出されたように震えていた。
なんともないと自分に言い聞かせ、何とかここまで保ってきた。
けれど、震え続けている自分の現実を突き付けられ、徐々に余裕がなくなっていく。
恐怖と絶望を意識すれば意識するほど、私は追い詰められ、逃げられなくなっていく。
「こんな状態で、事務所を気遣っている余裕が――」
「……じゃあ」
「……?」
「じゃあ、どうしろと言うんですか!」
「千早っ!?」
気持ちのままに、私は吠えた。
そうして自分を正当化しなければ、私は潰れてしまう。
「じゃあ、どうすればいいんですか!?」
「誰かに泣きつけば、この記事はなかったことになるんですか?!」
「記事に書かれているのは全て事実です! 嘘も誇張も何もない!」
「私を心配してもらったところで、何か変わるんですか!?」
「それより大切なのは、事務所としてどう動くかです!」
「違いますか!!」
「それは……」
私が捲し立てると、プロデューサーは押し黙った。
プロデューサーの優しさは痛いほど伝わってくる。
けれど、これは私自身が招いた運命だ。
事務所に迷惑をかけるわけにはいかない。
私は前に進み続けなければいけない。
立ち止まることは、許されない。
「千早、ちゃん……」
私を安心させようとしてか、弱々しい手が重ねられた。
「大丈夫――」
「うるさいっ!!」
「きゃっ!?」
その優しさを、私は感情のままに払いのけた。
「千早ちゃん……無理しちゃ、ダメだよ……」
「もう黙って! 放っておいて!!」
「っ……。うん……ごめん、ね」
私は完全に余裕を失っていた。
恐れと焦りが身体を支配していく。
「振らなきゃ……さいころを、振らなきゃ……」
強迫観念に襲われ、またキューブを握りしめる。
さいころを振る。
『1』
駒を進める。
『トーク番組に出演する』
まだ軽微とはいえ、事務所や他のみんなへの影響は出てきていた。
勿論、これだけで干されるということはない。
でも、週刊誌のターゲット決めや、世論の風潮。
それらは、このような綻びから徐々に大きくなっていく。
ダメージを最小限に抑えるためにも、私の健在をアピールしなければならなかった。
容赦のない質問を浴びせることで有名な番組だ。
今のタイミングなら、あの週刊誌のことについて聞かれるだろう。
正直言って、気分は最悪になるに違いない。
でもここでさらりと受け流せれば、ダメージはプラスに転換される。
ゴシップ記事がダメージたる所以は、突かれた時に痛がるからなのだ。
視聴率も高く、話題性もあるこの番組。
ここで払拭することができれば、これ以上引き摺らずに済むだろう。
そう考えての、私自身の判断だった。
「本当に出るのか? 今ならまだ……」
「くどいですよ、プロデューサー」
「……そうか。千早が、そこまで言うなら……」
きっと、内心では全く納得していないのだろう。
けれど、一度こうなった私が折れないことも分かっている。
あんな記事を出してしまっておいて、その上こんなに心配までかけて。
私はつくづく最低の人種だ。
だからせめて、自分の尻拭いくらい自分でしなければならない。
これに打ち勝つことが、私の課題の総仕上げだ。
乙
今日みつけた
続きが楽しみ
さいころを振ろうと握りしめた途端、再び胃から何かが込み上げてくる。
熱く、酸味を帯びた嫌悪の塊。
いやだ、いやだいやだいやだ。
身体が拒絶する。
本能が拒絶する。
私が拒絶する。
振りたくない。
この結果を見たくない。
克服したはずだ。
私は、報われたはずなんだ。
何度も何度も。
何度も何度も何度も何度も何度も。
繰り返し繰り返し、大丈夫だと口にする。
「――」
もう誰かの声は耳に入らない。
周りの環境音に同化して、雑音のように音だけが認識される。
視界も定まらない。
感覚も狂っている。
冷たい、氷のような何かが私の右手を掴む。
「やめて!!」
ヒステリックな叫び声を上げ、掴んできた手を振り払う。
そうだ、このまま勢いに任せよう。
私は、さいころを振った。
『2』
2マス進めなければならない。
1……。
2……。
『傷を抉られる』
『5マス戻って10回休み』
私はまだ、過去を切り捨てられていなかった。
「ッ……」
決壊寸前だった。
司会者から浴びせられる、容赦のない質問。
両親の仲違いの原因。
一人暮らしを始めた理由。
事故を起こした運転手とのその後。
掘り返されるたびに、その場で胃の内容物を戻しそうになる。
これまで培ってきた作り笑顔を、必死に盾にする。
この1時間を何とかやりきれれば。
耐え切れさえすれば、また帰れる。
過去を乗り越え、あの日々に帰れる。
番組も終盤に近付いてきた。
プロデューサーはカメラの横から、唇を噛み締めながらこちらを見ている。
ごめんなさい、プロデューサー。
ご心配をおかけしてしまい、申し訳ありません。
でも、あと少しです。
あと、少し、ですから。
その少しが、気の緩みに繋がったのだろうか。
ずっと張りつめていた私の神経が、ふっと弛んだ。
そしてまさにその瞬間に突き付けられた質問。
ある雑誌の表紙を指差しての一言。
明日発売する雑誌を事前に入手したのだという。
それを見た、聞いた、私は。
『弟を見殺しにした』
『本当ですか』
視界が歪む。
歪んでいてなお、捲れ上がる様に痛むくらい目を見開く。
脳内を巡る信号が何倍にも増幅され、限界を超える。
抑えるのも間に合わず、口が大きく開く。
「ちはっ――」
映り込むのも無視して、プロデューサーがこちらへ駆けてくる。
でも、到底間に合うはずはなかった。
「あ……」
口を押えようとしていた手。
「ああ……!」
絶望の光景から逃げるように、反射的に目を覆った。
「あ……あああ!」
私の感情を妨げる壁はない。
数年前に置いてきたはずの幼い感情が、ただただ発露する。
「あああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!」
私はその醜態を、カメラを通して数多の人々へと晒した。
幸せな日々よ、さようなら。
私はまた、スタートに戻る。
酷いものだった。
私はパニックを起こし、泣き叫び、暴れた。
途中でカメラは切られたものの、これは生放送番組。
それまでの映像は家庭へ届き、ネットの海へとばら撒かれた。
プロデューサーに抱き抱えられてすぐ、私は倒れた。
パニック障害のような症状。
すぐに救急車で病院に運ばれた。
長々と醜態を晒さずに倒れられたのは、せめてもの救いだった。
「ごめんな、千早。許してくれ。止められなかった俺を、許してくれ……」
救急車の中で、プロデューサーはみっともなく泣いていた。
泣きながら、何度も何度も謝罪の言葉を繰り返した。
どうして、プロデューサーが謝るんですか。
私が、私が悪いのに。
呪われた災厄の源である私が、悪いのに。
意識が朦朧とする中で、うわ言のように繰り返した。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
ごめん、なさい…………。
――。
私はすごろくの前で立ち尽くした。
倒れた駒が、私のことを見上げている。
もう涙すら出ない。
私はやはり、最低の人種だった。
絶望に叩き落とされるなら、自分一人で勝手に落ちればいいものを。
みんなを破滅の巻き添えにした。
最低だ。
最悪だ。
「そんな、自分のことを最低だなんて、言っちゃダメだよ」
声が聞こえた。
凄く久しぶりな気がする。
「どうして? 事実なのに」
「千早ちゃんは、最低なんかじゃ……最悪なんかじゃないよ……」
震えた涙声が後ろから聞こえる。
私はそちらに視線を向けずに吐き捨てた。
「最低よ。最悪よ」
「でも、千早ちゃんのお陰で出来た事だっていっぱいあるよ!」
「例えば?」
「お仕事減ったって言うけど、千早ちゃんがいなかったら減るようなお仕事もなかったんだよ!」
どうしてか、必死に私に追いすがる様に言葉を繰り返す。
そんな言葉を聞くたびに、私の神経が逆立っていく。
「みんな、才能のある人達よ。私が居なくたって、いつかはトップアイドルを目指して羽ばたいていたわ」
「むしろ私のせいで、地が固まる前に仕事が来るようになってしまった」
「その上で、私が招いた今回の出来事」
「一方的に仕事を与えられ、そして一方的にその芽を摘まれたのよ、彼女達は」
「誰もが、あの煌びやかな舞台で主役を演じる資格があった」
「才能があった。環境に恵まれていた。運もあった」
「私と出会ってしまった、ということだけを除いて」
「もう、彼女達は星のように輝くことは出来ない」
「もう、私のせいで泥にまみれてしまった」
「ねぇ、それでもあなたは言うの?」
「私は最低じゃないって」
「私は最悪じゃないって」
「言うよ!」
たった今まで涙声だったのに、この言葉だけははっきりと口にした。
正確には、今も涙声であることに変わりはない。
ずっと弱々しかった声に、ぴしっと芯が通った。
どうしてか分からないけれど、命を削る様に絞り出した強さがあった。
「千早ちゃんは、最低なんかじゃない」
「千早ちゃんは、最悪なんかじゃない」
「私、知ってるよ!」
怖い。
彼女から向けられる言葉が、私を否定するようで。
「何よ……あなたが、私の何を知っているの!」
「いきなり出てきて、知った風な顔をして!」
私は叫んだ。
私が私であるための、最後の砦を守るために。
涙を目にいっぱいに溜めて、彼女も叫ぼうとした。
「だって……だって!」
きっと、万感の思いが籠った奔流。
「千早ちゃんは……千早ちゃんは、私の――」
けれど、私がその続きを遮った。
怖くなった。
彼女が何か言い掛けた時、私の身体は反射的に動いた。
「ッ千早ちゃ……」
その動きに気付いた彼女は目を見開き、咄嗟に身構えた。
私は怒りに身を任せ、そのまま彼女を突き飛ばした。
「きゃあっ!」
信じられないほど軽い身体が、衝撃で後ろへ飛ぶ。
勢いよく倒れ込んだ彼女は、しばらく起きることができなかった。
彼女が痛みに呻いている間に、私はドアに手をかける。
「!! ま、待って、千早ちゃん!」
地面に強く打ちつけた半身を押さえながら、彼女は慌てた様子で言った。
その言葉に振り向くこともなく、私はドアを開け、部屋を出る。
「待って! 待ってよぉ!」
暗い哀しみの色をした瞳から、涙が溢れて頬を伝う。
私も、彼女も。
「行かないで、行かないでよ!」
何とか起き上がった彼女が、よろめきながらドアへ駆け寄ってくる音がする。
「……っ」
私は待たずに、ドアを閉めた。
がちゃり、と拒絶の音。
鍵を掛け、いつか彼女に出会った時のように、その場にへたり込んだ。
後ろのドアを何度も何度も叩く音が響く。
「開けて! 開けてよぉ! 千早ちゃん、千早ちゃん!!」
あの弱々しい身体で体当たりしているであろう音も聞こえる。
ドアはびくともしない。
それでも形振り構わず、彼女は叩きながら泣き続けた。
「開けてよ! 千早ちゃん! お願い、お願いだから!」
痩せ細った身体から絞り出された声は、突き刺すように私の心へ届く。
それでも、ドアを開かせるまでには至らない。
私の諦観は、それほどまでに達していた。
「もう、私は疲れたのよ……もう、何もしたくない……」
「イヤだぁ……そんなの、イヤだよぉ!」
ドアを叩く音が弱まっていく。
音は弱まっても、叩くことは決してやめようとしない。
私を呼ぶ声に、苦痛の声が混ざり始める。
それでも痛みを堪えながら、彼女は叩き続けていた。
どうして。
どうして、そんなに私に固執するの。
「もう放っておいて!」
もう私は疲れた。
もう私は諦めた。
もう私は、何もしたくない。
だから、放っておいてください。
「私のことは、あなたには関係ないじゃない!」
「放っておいて! もう二度と私に構わないで!」
だからもう、私のために、そんなに傷つかないでください。
これ以上、私の罪を増やさないでください。
「嫌だよぉ!!!」
一際大きな叫び声が聞こえ、ドアを叩く音が止んだ。
「……だって、千早ちゃん……指切り、したもん……」
呟く声に、小さく嗚咽が混ざる。
「絶対に、前に進むことをやめないで……ってぇ……」
この少女と初めて会った時を思い出した。
確か今みたいに、深く深く絶望の底に座り込んでいた時だった。
私達の間に、久しぶりの静寂が訪れた。
そしてぽつりと、彼女が呟いた。
「私、アイドルになるのが夢だったんだ」
今にも消え入りそうなかすれ声で。
「小さい頃ね、近所の公園で歌ってるお姉さんがいてね」
「私も歌ったら、みんなに誉めてもらえたの」
「みんな楽しそうで、私も楽しくて」
「だから私、もっともっと、たくさんの人を楽しくさせてあげたいって思ったの」
「それで、将来の夢がアイドル。安直だよね、えへへ」
涙声を堪えながらの、精一杯の強がりが聞こえた。
「でも、私には才能も力もなかった」
「小学校卒業する頃には、半ば諦めてたんだよね」
「私なんかには、アイドルなんて絶対に無理だ、って」
「ほら、千早ちゃんも知ってると思うけど、私って音痴だから」
そう言うと、どこかで聴いた童謡をワンフレーズ歌った。
音痴、というほどではないけれど、お世辞にも上手とは言えない歌声。
「やだよねぇ。大人に近づくと、なんか現実的になっちゃって」
「……そんなこと考えてたんだけどね。ある日、気持ちが変わる出来事があったの」
「合唱コンクールに出たんだ」
私の心が、僅かに揺さぶられた。
最近は結構上手くなったよな
「私達の順番は後半だったから、前半は他の学校の歌を聴いてたんだけど」
「ある学校にね、とぉーっても歌が上手い女の子がいたの」
「20人くらいいたのにね、その子の声はすっごくよく聴こえるんだよ」
「すごいよねぇ。他の子も頑張ってたんだけど」
「……合唱としてはあまり良くないのかな? あはは……」
「でね、私、その子の歌しか聴こえなくなっちゃって」
「終わってみんなが拍手してる時……私ね、泣いてたんだ」
「もうすごい勢いで涙が止まらなくて……」
「なんとか声は堪えてたんだけど、先生に心配されちゃった」
「その子の歌がね、とっても悲しそうだったの」
「寂しいのを、泣くのを必死に堪えながら歌ってるみたいで」
「もらい泣き……しちゃった」
ドアの向こうから、鼻をすする音がした。
少しして、また無理をして明るく振る舞う声が聞こえた。
「その時、思ったんだ」
「ああ、歌ってすごい!って」
「私もこんな風に、人の心を動かすような歌をたくさんの人に届けたい!って」
明るく振る舞いつつも、声は徐々に力を失っていく。
「やっぱり私、アイドルになりたい、って」
ドア越しからでも、涙まみれの笑顔が見えた気がした。
(´;ω;`)
「だからね、千早ちゃん。もう一回、私からのお願い」
「前に進むことを、やめないで」
ドアの向こうから届いた願いは、先ほどよりも深く、私の心に刺さった。
「私ね、千早ちゃんのお陰で生まれ変われたんだよ」
「自分自身の意味を、心からの願いを、やっと見つけられたんだよ」
「千早ちゃんが諦めちゃったら……自分の力を信じられなくなっちゃったら……」
「私の夢も、あの時の感動も、希望も……全部、否定されちゃう」
「私が考えてきたことが、やってきたことが、無駄になっちゃう」
「私には、何も残らなくなっちゃう」
「私が、生きた証も……なくなっちゃう……」
きっと、必死に堪えていた涙がまた溢れてきたのだろう。
「わた、しの、おもい……ぜんぶぜんぶ、うそになっちゃう……!」
その後にも何か言おうとしていたけれど、言葉になっていなかった。
「そろそろ私、限界なんだ」
呼吸を整えながら、彼女は次の言葉を必死に紡いだ。
「もう、千早ちゃんと一緒にいられない」
「だから、お別れの前に、もう一つだけお願い」
突然向けられた言葉に、一瞬思考が止まった。
限界?
お別れ?
何を言っているの、この子は。
「今度新曲を出す時は、明るい歌を歌ってほしいな」
声が震えている。
何かへの恐怖を必死に打ち消そうとしているけれど、つい漏れ出してしまっている。
そんな震え。
「千早ちゃんの歌声なら、たくさんの人に幸せな気持ちを届けられるから」
「それに、千早ちゃん自身にも、歌いながら楽しい気持ちになってもらいたいし」
「……だから、デビュー曲の時は少し複雑だったんだけど……」
「あっ、ううん、あの曲はすごくいい曲だと思うよ! 私も好きだよ!」
「でも、明るい曲も聴いてみたかったかな……って」
慌てて詰め込むように、あれこれと饒舌になっている。
発車直前の駆け込み乗車のように、焦りが感じられた。
「……一つ、聞いていいかしら」
「なぁに?」
「あなた自身の理由は分かったわ。でも……どうして、私に楽しい気持ちになってほしい、と?」
「えーっとね……その……」
私の問いかけに対し、急に歯切れが悪くなった。
うー、恥ずかしいなぁ、などと前置きをしてから、彼女は答えた。
「だって……友達が寂しそうに歌ってるのなんて、見たくないよ」
「とも、だち……?」
「うん。大切な大切な、友達」
照れつつも、愛おしさで包むような声が聞こえた。
「……」
「……えっ!? も、もしかして友達だと思ってるの、私だけだった、とか……?」
考えもしなかった。
ある日突然現れて、それから当たり前のようにいつもいて。
そう、彼女がいるのが当たり前になっていた。
友達?
そんなことが頭にこれっぽっちも思い浮かばないほど、彼女は身近な存在になっていた。
私にとって、彼女は――。
「あ……」
それを考えようとした時、小さな悲鳴が聞こえた。
「私、もう行かなきゃいけないみたい」
「ごめんね。最後の最後で、なんだか困らせちゃったみたいで」
そう話す声が、ドアから少し遠ざかった。
「でも私は、千早ちゃんのことを友達だと思ってるよ」
「……千早ちゃんもそう思ってくれたら、嬉しいな」
徐々に声が遠のいていく。
待って。
何処へ行くの?
私は慌てて立ち上がり、ドアを開けようとした。
ドアノブが、動かない。
「千早ちゃん。さっき頼んだこと……できれば、お願いね」
動かない。
ドアが開かない。
行ってしまう。
「待って!」
足音は止まらない。
待って、待って待って待って待って!
「一人にしないで! 私を置いてかないで!!」
いつも一緒だと思っていた。
何処へも行かないと思っていた。
自分で閉ざしたドアを叩きながら、今更ながら、自分の愚かさを噛み締める。
「ばいばい、千早ちゃん」
「待って――」
叫びが喉でつかえ、呼吸が止まる。
その時になって、ようやく気付いた。
私は、彼女の名前すら知らなかった。
追いついた
続き期待
凄く面白い、激しく期待
知らない?
彼女の名前を?
シラナイ?
あんなに一緒にいたのに?
ドアの向こうから、彼女の気配が消えていく。
まるで立ち上る煙のように。
溶けていく氷のように。
声は、喉でつかえたまま。
当たり前だ。
出てくるはずの言葉を、私はそもそもシラナイのだから。
「■■――!」
がむしゃらに叫んだ。
彼女の姿を脳裏に浮かべながら。
それは何の意味も持たない記号。
今この瞬間だけ、彼女と言う意味を持たせた記号。
勿論、返事はない。
ドアの向こうの気配は、とっくに消え失せていた。
「あ……」
私は何をしているのだろう。
ドアの隙間から吹き込む風に乗って、微かな香り。
彼女が使っているシャンプーの香り。
ついさっきまで目の前にあった香りなのに、酷く懐かしい。
涙が溢れた。
私は、どうしてここにいるのだろう?
声も出ないまま項垂れると、足元に大きな紙が落ちていた。
すごろく。
ぽたり。
ぽたり。
、と。
すごろくに染みがいくつも出来ていく。
『じゃらり』
金属が擦れる音がした。
……こんなもの。
『じゃらり』
こんなもの。
『じゃらり』
こんなもの!
『じゃらり』
こんなものこんなものこんなもの!
『じゃらり』
全部全部全部なくなっちゃえ!
全部どこかへいっちゃえ!
全部、全部引き裂いてやる!
もう二度と……二度と!
「ぅ……」
紙吹雪が舞う。
ドアはいくつもの南京錠で固く閉ざされている。
その中で私は、一人で叫び続ける。
「ぅあ……」
運命への哀哭?
環境への悲嘆?
違う。
もっともっと、どうしようもなく根深いもの。
自分自身への、失望。
「うぁぁぁああああぁぁぁぁぁあっぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁああああ!!!!!」
* * * * * * * * * * * * * * * *
「ああああぁぁぁ……っっハァっハァっハァっ――」
自分の叫び声のせいか、私は跳ね起きた。
「っハァっハァっハァっ……」
時計を見ると、時刻は日付を越えて少し。
べっとりと嫌な汗をかいている。
「今の……夢、は……」
ここはベッドの上ではない。
どうやら、テーブルに突っ伏したまま寝てしまったようだ。
寝起きの気分は最悪だった。
ふと周囲を見回すと、一枚の紙が目に入った。
「これ、は……」
すごろく。
真美が空き時間の戯れに、広告用紙の裏に書いたものだった。
「あ……」
見た瞬間、鼓動が高鳴る。
いや、高鳴るなんて生易しいものではない。
「ハァっ……!」
心臓の動きが、みるみる内に早くなっていく。
呼吸もどんどん早くなり、頭の中が徐々に白んでいく。
「ハァっハァっハァっハァっ!」
死ぬ。
直感がそう判断する。
「誰、か……!」
頭が回らない。
何をすればいいか分からない。
「電、話……!」
意識が朦朧とする中、必死に携帯電話の位置を探る。
幸い、ポケットに入れたままだ。
震える手で何度も掴み損ねながら、何とか取り出して画面を開く。
誰でもいい。
誰かに、連絡をしないと。
待ち受け画面には、プロデューサーからの着信履歴。
迷わずボタンを押した。
『千早! かけ直してくれたのか!』
数コールの後、すぐにプロデューサーの嬉しそうな声が聞こえた。
良かった、出てくれた。
『って、どうして何も言わないんだ? 息も荒いが……』
端的に、急いで、伝、えな、けれ、ば。
「あ……ハァっ……! 助、け……」
『……ち、千早!? おい、しっかりしろ!』
いしき、とび、そ
「早く……家……たす……」
『部屋にいるんだな?! 救急車は呼んだのか!?』
かっ
『聞こえてるか! 千早! ちは――』
――――。
寝ては起きて、寝ては起きて、と忙しい日だ。
目覚めた時、最初に目に入ってきたのは白い天上だった。
鼻を刺す独特な化学的匂いが漂っている。
「病室、ね……」
ベッドの横には透明のパックがぶら下げられ、ぽたりぽたりと滴が落ちている。
その先から伸びる針は、私の腕の中へ潜り込んでいた。
「助かった、のかしら」
「千早、気分は大丈夫か?」
声がした方に目をやると、げっそりとしたプロデューサーが椅子に座っていた。
「慌てたよ。電話が来たと思ったら、いきなり発作起こしてるんだから……」
「……すみません。ご心配をおかけした上、こんなお手間まで……」
「それはいいんだいいんだ。面倒を見るのがプロデューサーの仕事だから」
まともに会話をできる私を見て、一先ず安心してもらえたようだ。
「過呼吸で倒れただけだって救急車の方には言われたけど……ホッとしたよ」
私が落ち着くと、プロデューサーがすぐに連絡を入れた。
社長、音無さん、律子。
そして次に、当然のように。
「ご両親にも連絡しないと」
「しなくていいです」
「そう言うわけにはいかない。仮にも娘さんを預かってる身だ」
「私の家のこと、ご存知ですよね」
「だとしても、だ」
「なら、私が会いに来なくていいと言った旨、一言添えてください」
「……分かった」
プロデューサーとしても、譲歩の限界ラインだったのだろう。
私の言った通りにしてくれつつも、やりきれない表情をしていた。
このかたくなな千早を溶かすのは誰だろう・・・・・・
そりゃあやっぱり春香じゃないの?
そんなわけないだろ
夜が明けて。
検査入院をすることになった私の所へ、両親は来なかった。
代わりに、オフだった二人が朝一番にやってきた。
「千早さん、お身体は大丈夫ですか?」
「心配は要らないわ、高槻さん」
あんな無様な姿を晒して迷惑をかけた私を、こんなにも心配してくれる。
私には過ぎた仲間、だった。
「何よ。心配して損したわ」
「ごめんなさい、水瀬さん」
「……っ」
「えーっと、これ、途中で買った果物です!」
ありがとう、と言おうとして二人を見ると。
水瀬さんが浮かない表情をしていた。
「今、なんて言った?」
「え? ごめんなさい、と」
「そうじゃなくて。私のこと、名字で呼んだわよね」
それが何だと言うのだろうか。
そんなに気にするようなこと?
変な心配をさせてしまったのかと、薄く微笑むと。
「アンタ、そんな無感情な顔で笑うような人間じゃなかったわ」
「そうかしら。昔から無表情だと言われていたけれど」
「ええ、そうね。淡白だけど時々激しい性格が顔に出やすくて、愛想笑いなんて誰よりも苦手だった」
愛想笑い、なんてつもりはなかったけれど。
でも、水瀬さんの言ってることは分かる。
きっと、私は。
「……いい機会だから、そのままゆっくり休んでなさい」
「私は……休むも何も」
「……」
「千早さん、退院したら、事務所のみんなでご飯食べに行きましょー!」
「……ええ、ありがとう」
高槻さんは何かを察したかのように、水瀬さんの手を引いて病室を後にした。
去り際の水瀬さんは、何かを案ずるような目つきで私を見ていた。
次にやってきたのは四条さんと我那覇さんだった。
「お加減は如何ですか?」
「あ、もう誰か来たんだなー。この匂い、伊織か?」
「ええ。水瀬さんと高槻さんが」
そう答えると四条さんは一瞬、水瀬さんと同じように顔をしかめた。
一方の我那覇さんは、いつものようにあっけらかんとしている。
「食欲はあるの?」
「それなりに、と言ったところかしら」
「じゃあ、これどーぞ!」
差し出されたのは、丸いお菓子が入った小袋。
「いつも同じものな気もするけど……サーターアンダギー!」
「私もいただきましたが、真美味でしたよ。さぁ、どうぞ」
我那覇さんに差し出された袋から、一つ摘み出す。
口に運ぶと、柔らかい甘みが広がった。
美味しい、はず。
「……あ、あれ? なんか失敗しちゃったか?」
「え?」
「なんか微妙な表情をしてるから……」
「いえ、美味しいわ、我那覇さん」
「んー……」
納得しかねると言った表情で、我那覇さんは首を捻る。
その様子を見ていた四条さんは、私の顔をじっと覗き見た。
「何かついてますか?」
「如月千早。あなたは……」
出かかった言葉を呑み込み、四条さんは言葉を選び直した。
「……きっと時間が解決してくれることでしょう。私からは何も言いません」
「ん……」
四条さんの言葉に、我那覇さんも神妙な面持ちになった。
それを見る私の心は、どんな色をしているのだろう。
二人の言葉も、このお菓子の味も。
何も響かなかった。
「てりゃーっ!」
「サボりは許さんぜよ!」
前の二人が部屋を出てしばらくすると、騒がしい声が聞こえた。
勢いよく病室のドアが開いたかと思えば、小さな身体が駆けこんでくる。
「ってうえぇ!? 思ったよりやばそーじゃない?」
「うわ、点滴痛そー……」
「大丈夫よ、双海さん。見かけほどじゃないわ」
「え……?」
問題ない旨を伝えたところ、何故か一層深刻な表情をされてしまった。
二人はベッドの両側にそれぞれしゃがみこむと、私に声をかけた。
「千早お姉ちゃん、辛い?」
「辛いって……何が?」
「えーっと、それはその……色々、あるけどさ」
「辛くはないわよ」
それは偽りない事実。
辛くは一切ない。
普段ならそう感じるセンサーが、今は全く動かない。
「なんか、千早お姉ちゃんが遠くに行っちゃったみたいな気がする……」
「ねぇ、急にいなくなっちゃったりしないよね?」
「大丈夫よ」
心配する必要なんて何もない。
私にはそもそも、行く場所なんてどこにもない。
二人の心配は杞憂でしかない。
「ホントにホント?」
「本当よ。心配性なのね」
「でも、真美もなんか怖いな、って思った……」
「心配なら、電話でもメールでも。深夜でもいつでもしてくれていいから」
「うん……」
別に部屋に来ても構わない。
呼び出されれば遊びに行ってもいいし、何でも付き合おう。
何をしても、私は何も感じないだろうから。
双海さん達が出ていく時、廊下で誰かに声をかけていた。
すぐに入れ違いで入ってきたのは、菊地さんと萩原さん。
「千早、具合はどう?」
「心配されてばかりね、私」
「心配するよ……夜中にいきなり倒れたりしたら……」
菊地さんが椅子に腰かける横で、萩原さんが魔法瓶からお茶を注いでくれた。
「はい、千早ちゃん」
「ありがとう」
「……」
菊地さんは俯いて何も話さない。
そういえば廊下で双海さん達と喋っていたけれど、何を話していたのだろう。
「雪歩のお茶、美味しい?」
「ええ。流石萩原さんね」
このお茶は美味しい。
それは間違いない。
「それ、真ちゃんが買ってきてくれたんです。お店まで探して」
「菊地さんが……?」
「ッ……ああ。口に合うかな」
ただそれは、美味しいという客観的事実が存在しているだけで。
私の口に合うか、というのは、自分では判断できない。
「……そうね。嫌いではないわ」
事実だけを告げる。
その答えに、やっぱり、といった表情で。
「……そっか。良かったよ」
「真ちゃん……」
「これ、残りのお茶の葉。置いてくから、良かったら淹れてもらって飲んでよ」
「ありがとう」
鞄から取り出された小筒からは、ぷんと香りが漂ってきた。
きっと以前なら夏の匂いとか太陽の香りとか、色んな感想が浮かんだだろう。
「ボク達、近くで収録だからもう行かなきゃいけないんだけど」
「……お大事にね、千早ちゃん」
部屋を後にする二人の肩は、何故か僅かに震えていた。
真とか伊織は痛いほど変化感じてるんだろうなあ… 読んでて胸が痛いのに続きが読みたくなる
生放送で見殺し発言は司会者が叩かれるだろ
その辺の処理もお願いします
それからしばらく一人の時間が続いた。
その沈黙を破ったのは、営業途中だった三浦さんと秋月さん。
「千早、起きてる?」
「失礼するわね、千早ちゃん」
窓の外を眺めていた私を見て、三浦さんが呟く。
「お邪魔だったかしら?」
「いえ、そんなことは」
「よかったわ。これ、差し入れ」
手渡されたのは、ケーキ屋の箱。
中にはシュークリームが入っていた。
「とーっても美味しいのよ」
「あ、食べるの辛かったら無理しないで。冷蔵庫に入れておくから」
「一つ、いただきます」
秋月さんの気遣いを制して、一つを口に運ぶ。
生クリームの上品な甘さが、舌の上で溶ける。
「さ、律子さんも」
「千早へのお見舞いの品でしょう、これ……」
「私は構わないわ。秋月さんもどうぞ」
甘いということしか分からない私が食べても、勿体ないだけだから。
「それじゃあ、一つ……え?」
口に運ぼうとして、秋月さんの手が止まった。
「何か?」
「あ、ううん! 一つ貰うわね」
慌てて口に入れると、美味しい美味しいと早口で何度も言った。
それを見ながら、三浦さんは人差し指を顎に当て、僅かに顔を傾ける。
「病院、退屈じゃない?」
「これで退屈するような生活、元々送っていませんでしたから」
「それはそれで心配だなぁ」
二人は他愛もない話題を振ってきた。
何かを隠しながら。
きっと私を慮ってのことだろう。
私にそんな価値はないのに。
二人も帰って、外が暗くなり始めた頃。
営業終わりのプロデューサーと星井さんが、病室を訪れた。
「よ、千早」
「なんだかハニーに聞いてたよりも、全然元気そうなの」
「みんなが騒ぎ過ぎなのよ」
そう、私なんかに構いすぎている。
もっとやるべきことがあるはず。
「ともあれ星井さん。営業お疲れ様」
「え……!?」
「お、おい美希! 待て!」
私が声をかけた途端、星井さんは血相を変えてしがみついてきた。
労いの言葉をかけるのは、間違っていたのだろうか。
でも星井さんが口にしたのは、全く別のことだった。
「ち、千早さん?! どうして星井さんなんて呼ぶの!?」
「何かおかしいかしら」
「どういうこと……どういうことなの、プロデューサー!?」
かなり動転しているらしい。
プロデューサーのことを、ハニーと呼ぶ余裕もないくらいに。
「美希、落ち着け。検査のためとはいえ、千早は入院中の身だぞ」
「あっ……ご、ごめんなさい……」
「千早、さん……どうしちゃったの……?」
「別にどうもしてないわ。発作で倒れただけよ」
「それだけなワケないの!」
涙を目にいっぱいに溜めて、星井さんは叫んだ。
何事かと部屋を覗き込む看護師を見て、プロデューサーが慌てる。
「どうして……どうして……」
「本当に何ともないわ。しばらく休めば、また買い物でもなんでも行ける」
「ミキは……ミキは、千早さんと行きたいの!」
よく分からないことをもう一度叫ぶと、星井さんは病室から走り去ってしまった。
「美希! あいつ……」
「プロデューサー、星井さんを追いかけないと」
「分かってるよ。それより、千早」
何がそれより、なのだろう。
私に何か言うよりも、星井さんを追いかける方が重要なのに。
「……あの生放送の件は、司会側の配慮不足ってことで決着した」
「事務所的には責任は何も問われてない。気に病まないで、しっかり休んでくれ」
「……」
プロデューサーは何を言っているのだろう。
私だってそれくらいの予想はつく。
問題は、そこではない。
『如月千早は、あのような人物である』
このレッテルは、業界関係者一般視聴者問わず、観た人間全員に刷り込まれた。
勿論、同情論も少なくはないだろう。
けれども、私が晒した醜態から根付いたイメージ。
それはじわりじわりと、人から人へ伝染し、蝕んでいく。
私自身の評価だけではない。
『仲のいい、一心同体の事務所』
そこを表に出してきたこの事務所にとっては、致命的な猛毒。
世界は、いくらかの良心に守ってもらえるほど、優しくはない。
だからこそ。
「分かりましたから、早く星井さんの所に行ってあげてください」
「……ああ。くれぐれも思いつめないでくれよ、千早」
私に引き摺られるのではなく、少しでも周囲のフォローに回らなければならない。
私からもたらされるマイナス異常に、みんなをプラスへ導かなければならない。
私を切り捨てる、という手早い手段を取れる事務所でないことは分かっている。
だからせめて、私に構わないでください。
もう私には、みんなが心配するほどのものは、何も残されていない。
だからこそ。
「分かりましたから、早く星井さんの所に行ってあげてください」
「……ああ。くれぐれも思いつめないでくれよ、千早」
私に引き摺られるのではなく、少しでも周囲のフォローに回らなければならない。
私からもたらされるマイナス以上に、みんなをプラスへ導かなければならない。
私を切り捨てる、という手早い手段を取れる事務所でないことは分かっている。
だからせめて、私に構わないでください。
もう私には、みんなが心配するほどのものは、何も残されていない。
私の中は、本当に空っぽで。
みんなの気持ちに対して、お礼を言わなければ、とは思った。
けれど、それはみんなにわざわざそうさせたことへの礼であり。
みんなの気持ちに対しては、何も感じなかった。
入ってくるものがなかった。
溜まっていくものがなかった。
まるで笊が水を通すように、上から下へまっすぐ落ちていくだけだった。
地下へ向かう吹き抜け階段のように。
私の心は、限りなく無機質になっていた。
検査の結果、特に異状はなし。
発作も、精神的なものだろうと判断された。
入院の必要はないけれど、暫くは通院してくれ、とのこと。
病室を引き払う時、音無さんが迎えに来てくれた。
「部屋まで送ってあげるわ、千早ちゃん」
「わざわざそんなこと、して頂かなくても」
「とはいえ、もうここまで車で来ちゃったのよね」
今から引き返してもただの時間の無駄だし、と。
音無さんは珍しい私服姿で微笑んだ。
おお… もう…
曇り空の下、音無さんの車が走る。
舗装の古い道路のお陰で、がたがたと揺れる。
「みんな心配してるわ、千早ちゃんのこと」
「私はなんともありません」
そう答えると、音無さんは少し寂しそうな顔をした。
「……落ち着いたら、事務所に顔を出してね」
「呼ばれれば明日にでも」
それっきり、音無さんは何も喋らなかった。
「ほんの二日だけど、入院生活は退屈だったでしょ」
「何もしないことには慣れてますから」
マンションに着いて、車を降りる。
荷物を出して、音無さんに頭を下げた。
「ありがとうございました」
「ふふっ、もっとお姉さんを頼ってもいいのよ?」
「何かあれば、また」
別れの言葉を告げ、部屋へと向かう。
建物に入ろうとした時、後ろから声が聞こえた。
「時間がかかってもいいわ。私もみんなも、待ってるから」
「帰ってきてね……千早ちゃん」
私は何も答えず、そのまま部屋へ帰った。
単調な日々が始まった。
起きる。
朝食をとる。
ずっと窓の外を眺め続ける。
昼食をとる。
病院へ行く。
帰宅して、また窓の外を眺める。
夕食をとる。
入浴する。
寝る。
ひたすら、それの繰り返し。
寝ればいつも、夢を見る。
深い眠りも、浅い眠りも。
ベッドで寝る時も、テーブルでうたた寝をする時も。
眠りに落ちるたびに、私はあの部屋にいた。
破かれたすごろく。
南京錠が巻き付いたドア。
壁に背を預け、一人で座り込む私。
ただ、それだけの夢。
もうさいころは振らない。
駒を進めることもない。
私に触れていた誰かも、いない。
起きて外を歩けば、時折私に気付く人もいる。
侮蔑の視線。
同情の視線。
時には露骨に声をかけられることもある。
けれど私はもう狼狽えなかった。
嘲りの声が聞こえれば、そうですか、と。
慰めの声が聞こえれば、そうですか、と。
道行く人々はそんな私を見るたびに、顔をしかめた。
日々は動き続ける。
しかし、前へは進まない。
動き続ける世界の中で、私は確かに生きている。
ただただ、生きているだけ。
意思なく動くだけの駒のように。
私だけが停滞の中を生きていた。
事務所のみんなは必死に頑張っている。
仕事は減ったものの、私の置き土産にも負けず、懸命に。
地道な活動と少しずつ表れる成果。
そうだ、彼女達は本来、こうあるべきだったのだ。
夢を目指し続ける彼女達はきっと、輝いていることだろう。
その日も私は、いつものように病院へ向かった。
発作はもう、殆どなくなっていた。
しかし主治医の先生曰く、どうにも私が心配らしい。
病院を訪れ、軽い世間話をする毎日。
私の返答から精神状態の変化などを見ているらしい。
今の私が、どう変わるはずもないのだけれど。
単調な毎日に組み込まれていた病院での時間だったが、今日は少しだけ違った。
「……プロデューサー?」
診察を終えて廊下を歩いている時、病室から出てくるプロデューサーに出会った。
「ん、千早か」
「こんにちは。お見舞いですか?」
「ああ、ちょっと知り合いのな」
プロデューサーが出て来たのは個室部屋。
その浮かない表情も手伝い、ただの入院でないことは容易に想像がついた。
プロデューサーは、閃いた!というような表情をした。
「お前、もう暇か?」
「私ですか? はい、あとは帰るだけですが」
「良かったら会ってやってくれないか? 千早のファンなんだ」
「私は構いませんが」
そう頼まれれば、特に会わない理由はない。
ファンだという人物にとってプラスになるかどうかは保証できないけれど。
入口のところには名前が書かれた表札があった。
女性の名前。
知り合いと言うからには、プロデューサーと同年代くらいだろうか。
自分からは何を話したらいいのか分からない。
せめて、あちらから話を振ってくれると有り難い。
プロデューサーがドアを控えめにノックする。
「春香、また入るぞ」
部屋に入ると、白いベッドに横たわる姿が見えた。
無機質な白い壁に囲まれ、締め切られた病室。
傍の棚に置かれた花瓶に挿されたオレンジ色のガーベラ。
綺麗に畳まれ、椅子の上に置かれたパジャマ。
そんな場所で、女の子は眠っていた。
プロデューサーは、その顔を覗き込みながら声をかける。
「ぐっすり寝てるところ、たびたび出入りして悪いな」
私もプロデューサーの後ろから、寝顔を覗き込む。
……。
……?
見覚えがある。
どこかで会ったことがある?
覚えのあるシャンプーの香りが、私の鼻腔をくすぐった。
髪は肩よりも少し長い。
「……ぁ」
「……? 千早、どうした?」
きっと入院している内に、髪は本来の長さよりも伸びていて。
「名前は……はる、か……?」
「ああ、天海春香っていうんだ。近所に住んでる子なんだよ」
その寝顔は、何度も見たことのある顔で。
私は、この子を知っていた。
入口にあった表札。
ずっとずっと、会いたかった顔。
その姿を見た途端、私の中でにわかに湧き上がる激情があった。
■■……。
■■!
違う!
春■。
■香。
春香。
春香。
春香!
彼女の名前は、『天海春香』!
あっという間に燃え上がった感情。
冷え切っていた私にとって、その動きは急激過ぎて。
すぐさま、自分では制御できなくなった。
天海春香。
あの時呼べなかった、彼女の名前。
天海春香。
欠けていたピースを、やっと見つけることができた。
天海春香。
大切な大切な名前。
天海春香。
かけがえのない、私の、私の――!
春香!
春香、春香、春香!
ねえ、分かる?
私よ!
如月千早よ!
なんて素晴らしいの!
もう会えないと思ってた!
もうあなたは、私の世界から消え失せたと思ってた!
けれどあなたは今、こんなにも近くにいる!
また話せる!
また触れられる!
また、触れてくれる!
私の隣に、いてくれる!
春香!
春香、寝てなんていないで早く起きて!
私、ずっとずっと会いたかった!
ちょっと会わなかっただけなのに、まるで何年も経ったみたい!
今なら、あなたの名前を呼んであげられる!
夢の中なんかじゃない!
本当のあなたと、手を取り合うことができる!
「あんな鍵だらけのドアは……もう、無い……」
「ほら、分かる……? 私、今あなたの左手を握ってる……」
「ねぇ、春香!」
「また、二人で色んなことを話しましょう?」
「アイドルになりたいんでしょう? 一緒に、頑張りましょう?」
「ほら、春香」
「春香……」
「……何とか、言って……!」
春香は、何も喋らない。
目を閉じて、小さな寝息を立て続けるだけ。
「お前……春香と知り合いだったのか」
「春香、春香!」
「……千早。春香はな」
「どうして……」
「……」
「どうして、目を覚まさないんですか……!」
私がどれだけ名前を呼んでも。
身体をゆすっても。
春香は目を覚まさなかった。
>>61すげぇ
Alea jacta est か
「目を覚まさないんだよ」
春香をゆする私の手を押さえ、プロデューサーは言った。
「丁度、千早が発作を起こして入院した日」
「あの夜から、目を覚まさないんだ」
私の呼びかけに、春香は全く答えない。
穏やかな寝息を乱せば、今すぐにでも起きそうなのに。
「病気……というのも少し違うんだけどな」
「長い間寝ては少し起きて、長い間寝ては少し起きて……」
「これまでも、そんな生活を送ってた」
「寝る時間が徐々に長くなってきて、あの夜、とうとう……」
「そんなこと……全然聞いてない……」
「……やっぱり黙ってたのか、春香」
友達に隠し事は良くないな、と。
プロデューサーは寂しそうに笑った。
「前は長くても二、三日で起きてたんだが、医者が言うには、今回はもしかしたら……もう」
「ッなんでそんな!」
プロデューサーのスーツを思いっきり掴む。
どうしてそんなにあっさりと言えるの?
春香が、春香がこんなことになっているのに!
「ご両親も俺も、いつかこうなるかもしれないと言われて、覚悟はしてた」
「春香自身も、な」
「っ……」
どうして、こんな。
折角会えたのに。
届きそうどころか、実際に触れられる距離にいるのに。
やっぱり、私と春香の心は、こんなにも遠い。
地球の裏側よりも遠いところに、春香はいる。
あの南京錠のかかったドアの遥か先に、春香はいる。
「どうして」
「……」
「どう……してぇっ……!」
頬が濡れる。
久しぶりの潤い。
乾き切ったと思っていたのに、まだ湧き出る源泉があったなんて。
「俺には何もできない」
プロデューサーは項垂れながら、スーツを握りしめる私の指を解いた。
「ただただ、春香が起きるまで待ってることしかできない」
「……悪い、千早。今日はこんなつもりじゃなかったんだ」
果実の種を噛んでしまった時のように苦い顔をして、私から目を逸らした。
春香がすぐ目の前にいるのに、私には何もできない。
その現実を突き付けられ、理解した時。
私は悔しくて悔しくて、唇を噛み締めた。
「……待っていること、しか?」
ふと、プロデューサーの言葉を復誦してみた。
確かに私は無力だ。
私には、春香を目覚めさせることはできない。
なら、何をするべきか?
「……深く考える事なんて、なかったのかもしれない」
こんな時、春香ならどうするか。
こんな時、私はどうしてもらっていたか。
どうしようもない時。
塞ぎこんでいた時。
邪険に突き放した時。
どんな時でも、春香は傍にいて、私のことを待っていてくれた。
簡単なことだった。
とてもとてもシンプルな結論。
なら、今度は私の番だ。
「プロデューサー。これからも、春香に会いに来ていいでしょうか」
「ん? そりゃ勿論。春香も喜ぶだろうな」
春香はここにはいないのに。
でも、いい。
ここに春香がいないのなら。
春香が、今は遠くに行ってしまっているのなら。
私はここで待ち続けよう。
彼女が、春香が帰ってきて、再び目を開けるその時まで。
もう私は、すごろくの番に追われていない。
さいころは振っていない。
駒を進めるつもりもない。
そんな今の私にとって、停滞し、待ち人に思いを馳せるのは、とてもとても容易なこと。
ずっとずっと。
何日でも。
何週間でも。
何か月でも。
何年でも。
私は待ち続けよう。
他の何も望まない。
ただただ、春香が目を覚ますことだけを待ち続けよう。
彼女がそうしてくれたように。
彼女への恩返しに。
そして、私自身のために。
その日から私の日課が増えた。
診察を終えた後、病室へ立ち寄る。
春香が一人きりで眠り続ける、白い壁の部屋へ。
どうやら、ご両親は午前中の内に来ているらしい。
私は椅子に腰かけ、春香と二人きりで他愛もない独り言を続ける。
「今日ね、こんな嬉しいことがあったのよ」
「お昼にこんなものを食べたのだけれど、とても美味しくて」
「昨日たまたま観たテレビが面白かったわ」
嘘で塗り固められた独り言。
私が感じられるはずもない感覚を、あたかも事実のように語りかける日々。
きっと春香が聞きたがりそうな話。
過去の記憶を頼りに、一つ一つ創り上げていく。
毎日毎日、足繁く通う。
二人きりの時間の流れは、とても穏やかに停滞していて。
可愛らしい寝息を立てる春香の横で、私は話し続けた。
一度、病室の前でご両親らしき人達とプロデューサーが話しているのを見た。
その翌日、いつものように春香に話していると、春香のお母さんが来た。
初めての対面で戸惑う私に微笑むと、持ってきた紅い林檎を八つに切り分けた。
それを差し出し、二人で食べてね、と言うと、着替えを抱えて帰っていった。
「美味しそうな林檎ね、春香」
林檎は一つも減らなかった。
俺のツボにド直球でここまで一気に読んでしまった
そこから始まる、私と春香、二人だけの空間。
まるで録画したビデオを見続けるように、変わらない日々。
毎日を繰り返す。
コピーのように淡々と、往復する毎日を繰り返す。
日にちの感覚を忘れ。
曜日の感覚を忘れ。
月の感覚を忘れ。
外の空気がなければ、季節さえも忘れそうなほどに。
私と春香、二人だけの世界だった。
誰もいない、二人だけの世界。
今日は晴れ。
春香とお話をした。
今日は曇り。
春香の髪を洗ってあげた。
今日は晴れ。
車椅子に乗せ、春香と散歩した。
今日は雨。
春香と一緒に音楽を聴いた。
今日は曇り。
春香が好きだという花を持ってきた。
昨日も。
今日も。
明日も。
明後日も。
その次も。
その次も――。
私の生活は春香を中心に動いていた。
いや、春香だけを軸に動いていた。
最近、春香以外の人と話した記憶がない。
携帯電話も、随分前に電池が切れたまま。
それでも私の生活に支障はない。
今の生活を続けることに、問題はない。
ない、はず。
ないはず、なのだけれど。
私の潜在意識が。
私の深層心理が。
何かの不調を訴える。
何かの違和感を訴える。
それが何なのかは分からない。
認識できない。
余分なものなのか。
足りないものなのか。
はたまた、ただの思い込みなのか。
それでも自分に言い聞かせた。
私は待ち続けなければならないのだ。
それこそが、私の義務なのだから。
それじゃあ駄目だろう千早……
その日も、私は春香の病室へ向かっていた。
病院への道すがら、唐突に声をかけられる。
「……千早お姉ちゃん?」
「っ千早お姉ちゃん! 千早お姉ちゃんだ!」
その声には聞き覚えがあった。
双子の双海さん。
駆け寄ってきたのは、髪の短い妹の方。
「千早お姉ちゃん! 電話もメールも返事がないから、心配してたんだよ!?」
「部屋に行っても、いつも反応がないし……」
そういえば、携帯電話の電池は切れていたんだった。
病院へ向かう足はそのままに、ふと思い出す。
「亜美ちゃん、ちょっと早いわよ……って、千早ちゃん?」
軽装の三浦さんが駆け寄ってくる。
成程、二人でレッスンにでも行っていたのだろう。
「久しぶりね。全然音沙汰がないから、みんな気が気じゃなかったのよ?」
「ホントだよ! いつでも連絡でもなんでもしろって言ったの、千早お姉ちゃんなのに!」
そういえば、そんなことを言ったような気もする。
でも今は事情が変わった。
もっと優先するべきことが、私の前にはある。
「ちょっと千早お姉ちゃん、なんか言ったらどうなのさ?」
双海さんが私の腕を掴んだ瞬間。
「……亜美ちゃん!」
「うえっ!?」
私は腕を払った。
「ち、千早、ちゃ……」
「急いでいるんです。失礼します」
私は春香の所へ行かなければならない。
ここで時間を潰している暇はない。
ちょっと勢いよく払い過ぎたかとも思ったが、転んではいないようだ。
「千早、お姉ちゃん……」
か細い声が聞こえた。
「何処に、行っちゃったのさ……」
私が居る場所は、今も昔も変わらない。
春香の傍。
なのに、この揺らぎは何?
背後から聴こえてくる女の子の泣き声が、耳から離れない。
「春香。遅くなってごめんなさい」
花瓶の水を換えながら謝った。
いつからか、これは私の仕事になっていた。
「そうね。今日はどんな話をしようかしら……」
今日来る途中にね、と言い掛け、口を閉じる。
泣きじゃくる双海さんの姿が見えた。
違う。
違う!
脳裏からその姿を振り払い、改めて春香と向き合った。
「……ごめんなさい。話してあげること、思いつかないの」
小さな揺らぎが水面を震えさせる。
小さな波紋が生まれた。
もう陽が落ちる。
帰らないと。
「また明日ね、春香」
結局何も話すことができず、私は病室を後にする。
病院から出ると、正面に二つの影があった。
「……千早」
「何か用かしら、菊地さん」
「亜美を泣かせたんだってね」
「別に、意地悪などをしたわけではないわ」
「そうなんだろうね」
菊地さんは必死に感情を押し殺している。
隣に立つ萩原さんは、無表情でこちらを見ている。
拳を握りしめ、菊地さんが一歩ずつ近づいてくる。
「……なんとも思わなかったのか、千早」
「……」
「思わなかったのか」
私は何も答えなかった。
菊地さんの拳に、更に力が籠められる。
怒っているのだろう。
私を殴るつもりなのだろうか。
それもいい。
そうしたいというのなら、私は構わない。
漫然と待っていると、強めの衝撃が私の左頬を襲った。
勢いで、私の顔が右を向く。
「ゆ、雪歩……?」
「……」
前へ向き直った私の目に映るのは、驚きで目を丸くする菊地さん。
そして、平手を放ったままの姿勢で私を睨む、萩原さんの姿。
正直、萩原さんが手をあげるとは思わなかった。
「随分嫌われたわね、私」
「……そんな事しか感じなかったの?」
私の襟を掴みながら、萩原さんは叫んだ。
「ねえ千早ちゃん! そんなことしかっ! 感じなかったの!?」
「落ち着いて、雪歩!」
激昂する萩原さん、宥める菊地さん、気圧される私。
菊地さんの言葉に我に返ってから俯くと、萩原さんは背を向けて走っていった。
「ちょっと待ってよ!」
私をちらりと見て何か呟くと、菊地さんは慌てて追いかける。
その場には、私一人だけが残された。
自分の部屋へ戻り、ベッドへ倒れ込む。
痛みが引かない左頬を押さえながら、去り際に菊地さんが言い残した言葉を思い出す。
どうして雪歩が叩いたか、分かる?
分からない。
双海さんを泣かせたから。
私に愛想を尽かしたからではないのか?
「……どうして?」
ならば何故。
何故叩いた側の萩原さんが、あんなに辛そうな顔をしていたのだろう。
何故肩を震わせながら、私を叩いた右手を押さえていたのだろう。
揺らぎが大きくなる。
波紋は、笹舟が浮いていられないくらいになった。
昼前、呼び鈴の音で目が覚めた。
どうやら昨夜はそのまま、ベッドで寝入ってしまったらしい。
夢は、春香と再会した日から見なくなっていた。
無視しても、何度も何度も呼び鈴が鳴る。
どうにも来客が帰る気配はないので、仕方なく身体を起こした。
「ええと、おはようございます?」
「千早はねぼすけだなー」
玄関を開けると、首をかしげる高槻さんと、何やら紙袋を抱えた我那覇さんがいた。
「……何か急な用事かしら」
「別に、急ってほどでもないんですけど」
「渡したいものがあって来たんだ。頬、大丈夫?」
我那覇さんに言われて思い出す。
そう言えば、萩原さんに叩かれたところがまだ少し痛い。
「大丈夫よ」
「痛そうです……これ、貼っておいてくださいね」
高槻さんに渡されたコンビニの袋の中には、冷却シートの箱が入っていた。
「雪歩さんも、ちょっとカッとなっちゃっただけで」
「つい、手が出ちゃったんだよ。怒らないであげて、っていうのも難しいと思うけど……」
恐る恐るといった様子の、二人のフォロー。
「別に、気にしてないわ」
「はぁ、良かったぁ……これ、あげる!」
私の言葉に安心したのかはにかむと、我那覇さんは抱えていた紙袋を差し出してきた。
素直に受け取ると、高槻さんはにこりと笑い、おずおずと袋を指差した。
「中身、気に入ってもらえると嬉しいかなーって」
紙袋は、その大きさにしては軽かった。
その後も何かと私の暮らしぶりを心配してくる二人に、ふつふつと疑問が湧いてきた。
「……一つ、聞いていいかしら」
話題が止まり、二人がやや緊張の面持ちで私の目を見る。
「どうして、私の心配なんてするの?」
問いかけた途端、二人の表情が緩んだ。
「そんなの決まってるさ」
「千早さんは、私達の大切な人ですから」
大切な人?
私が?
どうして?
「あ、千早! 次事務所に来たら、一言くらい亜美に謝っておいてね!」
そう言い残すと、二人はじゃあね、と。
最後に手を振って、階段を下りて行った。
私には分からなかった。
私は春香が大切だ。
春香は色んなものをくれて、色んなことを教えてくれて、私にとってかけがえのない存在だから。
では、彼女達にとっての私は?
私は彼女達に何かしただろうか?
何故彼女達が私を大切だと思うのか。
私のどこに、輪を去ってもなお気にかけるような、かけがえのないものを見出したのか。
分からない。
紙袋に入っていたのは、二羽の鳥の模様が編まれたマフラー。
一羽は少し潰れ気味で。
上手くいかないことに苛立ち、ツインテールを揺らしながら唸る姿が浮かんだ。
揺らぎがどんどん大きくなっていく。
大きな石を投げ込んだように。
支援
午後。
病院に行く前に、久しぶりに事務所へと寄る。
うっかりしてたのか、紙袋に編み棒が入っていたので、我那覇さんに返さないと。
「あ……!」
事務所の前に着くと、久しぶりの顔を見た。
「千早さ――」
「こんにちは、星井さん」
「……っ!」
名前を呼ぶと、星井さんの表情が強張った。
バッグに手を入れたまま、唇を噛み締めながら私を睨む。
「……こんにちは。如月、さん」
何か気分を害するようなことを口にしただろうか?
星井さんはビルに背を向け、ずっと私のことを見ていた。
「美希、そんなところに突っ立ってないで早く……って、千早?」
「こんにちは」
二人して黙り込んでいると、建物の中から秋月さんが姿を現した。
私の姿を見て、嬉しそうに駆け寄ってくる。
「久しぶりじゃない! 帰ってきてくれたのね!」
「ごめんなさい、秋月さん。今日は我那覇さんの忘れ物を持ってきただけで」
「あ……そう、なんだ。ごめんごめん、早とちりしちゃって。わざわざありがとね」
秋月さんは一瞬だけ寂しそうにして、すぐにいつもの明るい顔に戻る。
編み棒を紙袋ごと手渡すと、秋月さんは星井さんの方へ向き直った。
「ほら、美希! 久しぶりに会ったのに、何よその顔は」
「う……」
居心地が悪そうに、星井さんの視線が泳ぐ。
「ったく……あれ? 美希、バッグから見えてるそれって……」
「っ! こ、これは……その……」
言われて見てみると、星井さんの手元に何か包みがある。
バッグに入れた手は、それを取り出そうか迷っていたようだ。
「千早にあげるって言ってたやつでしょ?」
「そ、それは、そう、だけど……」
「まどろっこしいわねぇ、あなたらしくもない。照れてないでサッと渡せばいいのよ」
そう言うと秋月さんは私に手招きをして、星井さんの手を取ろうとした。
その時。
「……これは、千早さんにあげるモノなの!」
「み、美希!?」
星井さんはバッグを抱き込み、大きく後ずさった。
「如月さんにあげるものなんて、何もない!」
「あ、ちょっと、美希!」
私と秋月さんは、呆然と星井さんの後姿を見ていた。
星井さんが階段を駆け上がる音は、とても乾いていた。
如月さん。
そう言われた時、どこかがとても痛んだ。
階段を登る足音が、空っぽな私の頭の中で反響する。
かんかんかん。
かんかんかんかん。
私から逃げるように去っていく音は、響くたびに私を軋ませた。
何らかの理由で至る所にひびが入った私の身体。
軋むごとに、ボロボロと劣化した欠片が剥がれ落ちる。
星井さんの足音だけではない。
秋月さんの瞳。
私を見つけた時の輝いた瞳と、直後に一瞬だけ見せた暗い瞳。
輝いた瞳の中にいたのは、私ではなかった。
暗い瞳の中にいたのは、私だった。
揺らぎは最早、揺らぎというには大きすぎた。
うねりが、幾重にも重なって広がっていく。
秋月さんに別れを告げ、病院へ向かう。
事務所から少し歩いてから、私を追いかける足音に気付いた。
「何か用でしょうか」
「用、というほどのことでもないのですが」
後をつけていたのは、四条さんと、双海さんの姉の方。
「双海真美が、千早のことが心配だと言うもので」
「だってさ、遠目に見てもめっちゃ悩んでるのバレバレなんだもん」
まただ。
私のことが心配だと言う。
私なんかの心配をするより、やるべきことは沢山あるはず。
「私の心配なんてしても時間の無駄よ。もっと他のことに時間を使って」
「やっぱり、そういうこと言うんだね」
やっぱり?
双海さんは、私が考えていることを分かった上で?
「ねぇ、千早お姉ちゃん。心配することって悪いことかな? 真美達、迷惑じゃない?」
心配することそれ自体は、決して悪いことではないだろう。
「迷惑ではないわ」
「……良かったぁ」
双海さんは肩の荷が下りたように、安堵の笑みを浮かべた。
四条さんも目を細め、喜ぶ双海さんの頭を撫でた。
「皆も悩んでいたのですよ。自分達の心配が、千早の迷惑になっているのではないか、と」
「やよいっち達に、何で自分の心配するんだーとか聞いたらしいじゃん」
迷惑などではない。
ただ単に不思議だっただけだ。
誰も彼も、何を考えているのか分からない。
不透明感が捻じれ合って渦を作る。
考えれば考えるほど、泥沼に嵌っていく気分だった。
再び思考の渦に呑み込まれそうになっていた時、双海さんが私の手を取った。
「ねね、千早お姉ちゃんって今仕事してないから、ニート状態っしょ?」
「ふ、双海真美! そのような言い方は……」
「事実ですから構いません。それがどうかしたかしら」
「じゃ、今度遊園地に遊びに行こうよ!」
前なら行っても良かった。
でも今は毎日、春香に会いに行かなければならない。
「ゆーびきーりげーんまーん」
断ろうと思っていたら、いつの間にか私の小指に双海さんの小指が絡められていた。
「うーそつーいたーらはーりせーんぼーんのーますっ! お姫ちんが証人ね!」
「ふふっ、確かに見届けました」
「いや、あの……」
私の言葉を待たず、双海さんは笑いながら逃げてしまった。
四条さんも、私を見てにっこりと笑ってから追いかけていった。
私は底なし沼に足を取られ、無様にもがいている。
考えても考えても、納得のいく答えが見つからない。
指切りをした小指が、じんじんと熱くなる。
強い既視感を感じながら、私は二人の後姿を見送った。
前にも、同じように指切りをした気がする。
あの時は、どんな約束だっただろうか。
誰と交わした約束だったか。
それを考えるたび、小指がずきりと痛む。
そこにいるのは、誰?
うねりはますます激しくなる。
何本ものうねりが濁流となり、私の心を巻き込んでいく。
この胸が痛いのに読み進めちゃう感覚。真美頑張ってほしいがどうなるか
はるかー! はやくおきてくれー!
最後はまた2人で…というハッピーエンドが見える
春香の設定をぶっ壊してアイマスのストーリーを歩き
弟の記事の件からアニマス「約束」までを
初期千早に戻して歩かせるって感じかな
病室に着いても、私の心は波立ったままだった。
「ねぇ、春香……」
返事はない。
「私、何か間違っているのかしら」
春香の手のひらは、夢の中と同じように暖かい。
でもその目は開かず、私の質問には答えてくれない。
「ねぇ、春香……」
返事がないと分かっていても、声をかけずにはいられなかった。
「みんながね、私のことを気にかけてくれるの」
「迷惑をかけても」
「距離を置いても」
「千早、千早ちゃん、千早さん、千早お姉ちゃん」
「みんながね、私の名前を呼ぶの」
私の中は、空っぽになったものだと思っていた。
私の心は、あの事務所から離れたものだと思っていた。
思おうとしていた。
「でも、ずっと頭の中で反響しているの」
双海さんが泣きじゃくる声が。
萩原さんに叩かれた痛みが。
星井さんの刺すような視線が。
「お願い、春香……教えて……」
もう、誰にも迷惑をかけたくない。
誰も不幸に巻き込みたくない。
「私、どうしたらいいの……?」
何度私が問いかけても。
春香は答えてくれなかった。
いつの間にか、面会時間の終わりが来た。
病院から出なければならない。
「浮かない顔してるわね」
建物を出た途端、真横から向けられる声。
少し驚いて顔を向けると、水瀬さんが壁に身体を預けて佇んでいた。
「放っておいて」
「どうして?」
「私なんかに構っても、時間の無駄よ」
あれだけ環境に恵まれて、あれだけチャンスに恵まれて。
それを、全てを壊してきた私。
これ以上関わっても、私は不幸しか生まない。
「そんなにボロボロなのに、いっちょ前に私達に気を遣ってるつもり?」
水瀬さんは、そんな私の心を見透かしたように鼻で笑う。
それからすぐに、目付きを鋭くして詰め寄ってきた。
「余計なお世話よ、このまな板」
水瀬さんの猛禽類のように鋭い眼光が、私を射抜く。
――かと思うと、すぐにため息をつきながら目を背けた。
「もしかして、アンタのために心配してるとでも思ってる?」
「だとしたら悪いけど、勘違いしてるわ。私達は自己中集団なのよ、アンタが思っている以上にね」
「アンタのためじゃない。私達は“自分のため”にアンタの心配をしてるの」
そう私に告げる水瀬さんは、年齢以上に大人びて見えた。
「自分の、ために?」
「ええ。千早に何かあったら私達が困るから」
「そういう意味ならもう手遅れじゃないかしら。散々仕出かした後よ」
「まだそんなこと言ってるの?」
呆れ顔の水瀬さんが、再びため息をついた。
言いたいことがよく分からない。
けれどこれが分かれば、みんなが私に執着する理由も分かるはず。
「仕事なんて二番目なのよ。私達にとってはね」
「水瀬さんらしくない言葉ね。あんなに家族を見返してやるって言ってたのに」
「ホントよね。丸くなったものね、この伊織ちゃんも」
でも、仕事が二番目なら一番目は何?
そこに、みんなが私を気に掛ける理由があるのだ。
私にはそれが分からない。
「みんな、アイドルになるためにあの事務所に入ったはず。それを差し置いて優先することなんてあるのかしら」
「じゃあ千早、逆に聞くわ。アンタはどうしてアイドルになろうと思ったの?」
「それは……」
「私はアンタも知ってる通り、家族を見返す為よ」
水瀬さんは胸を反らせながら宣言した。
「トップアイドルになってどいつもこいつも見返して、悦に浸ってやるためにアイドルになろうと思ったのよ!」
そういえば水瀬さんはそうだった。
私は――?
「別にアンタは答えなくていいわよ、聞いても覚える気ないし」
こめかみに力が入り始めたところで、水瀬さんはあっけらかんと言い放った。
「でも、“アイドルになること”自体が目的じゃない。アイドルになって、“欲しい何か”があったからでしょう?」
「高揚感でも、自己顕示でも、復讐でも、新しい自分でも」
「アイドルを目指したのは、ただそれが得るためには最も近い手段だったから、ってだけのはずよ」
私は何故あの事務所に入ったのだろうか。
春香に押されたことは覚えてる。
でも、その結果、私は何を得ようとした?
「勿論、今だってトップアイドルは諦めてないわ」
「けれど、“もっと欲しい大切なもの”を見つけた。見つけてしまった」
「だから私達には、それが仕事よりも優先する第一なのよ」
そう私に言った水瀬さんは、何かが吹っ切れたように誇らしげだった。
「自分が欲しいもののために、アンタを心配する。ね? 私達、すっごい自己中でしょ」
「その自己中の結果だし、良いわよ、私達の心配を面倒に思っても。そのせいで私達を嫌いになっても」
「姿を暗ましたいなら水瀬財閥が手伝ってあげるわ。地球の裏側で新しい人生をやり直すくらい余裕よ?」
「でも」
一拍おいて、水瀬さんは再び猛禽類のような鋭い目つきになった。
これ以上譲歩はしないという、決意の瞳。
「私達のためを思って、とか。そんな頼んでもない下らない理由で私達の想いを、願いを否定することは許さない」
「絶対に、許さない」
「否定するならせめて、アンタ自身のためでありなさい」
言葉はとても静か。
身振りもなく、ただ静かに言われただけ。
なのに水瀬さんの言葉は鋭く研ぎ澄まされたナイフのようで。
「……ま、私が言いたいのはこれだけよ」
そう言うとまるで何事もなかったかのように、いつもの表情に戻った。
「い、伊織ちゃん……ちょっと言い過ぎじゃないかしら……?」
「別にいいのよ、小鳥。ネジが何本か飛んじゃってるみたいだから、これくらいガツンと言ってやらないと」
塀の陰から、恐る恐る音無さんが姿を現した。
どうやら水瀬さんと一緒に来て、今の始終を見守っていたらしい。
「ほら、現場行くからさっさと車を出してよね」
「うぅ……あたしは運転手じゃないんですけどお……」
「新堂が忙しいから仕方ないじゃないの。満足してあげてるんだから感謝しなさいよ」
涙目の音無さんが、近くに停めてあった車に乗り込む。
私が退院する時に乗せてもらった、小さな軽自動車。
「あ、そうそう、千早!」
助手席に乗り込もうとした水瀬さんが、私の方を見て叫んだ。
「アンタ、もう少し自己中になりなさい。人に気を遣ってばかりでも、人生つまらないでしょ?」
水瀬さんが乗ると、音無さんの車はすぐに走り去っていった。
言い残された最後の一言のせいで、頬の痛みが増していった。
伊織ってこういうのが似合うなぁ
まあ竜宮のリーダーに抜擢される子ですし
春香に次ぐ765の中心人物だね
あと大事なツッコミ役
待ってる
まだー?
頼む!来てくれー!
『もっと欲しい大切なもの』。
水瀬さんはそう言った。
みんなにとって、アイドル活動よりも何よりも大切なもの。
そういえば、みんなが私を気にかけていたけれど。
誰一人としてアイドル活動については口にしなかった。
それこそが、今の私から欠落しているモノ?
私は何のためにアイドルになった?
どうして、あんなにがむしゃらに歌い続けてきた?
「……あ、忘れ物……」
ふと、春香の病室にハンカチを忘れてきたことを思い出した。
少し取りに戻るくらいなら、きっと大丈夫だろう。
受付で事情を話し、病室へ向かう。
角を曲がって春香の病室が見えた時、扉が開いていることに気付いた。
「……誰か来ているのかしら」
765プロの関係者じゃないといいけれど。
今、あまり会いたい気分ではない。
静かに中の様子を窺うと、そこにいたのはプロデューサーだった。
「千早か?」
「っ……はい」
私の気配を察して、すぐにプロデューサーは振り向いた。
こんな時ばかり勘がいい。
「そんな嫌そうな顔するなよ。お説教とかするつもりはないよ」
「……見てたんですか?」
「たまたまだよ。個人的に春香を見舞いに来たんだ」
「ハンカチ取りに来たんだろ。忘れ物は気を付けろよ」
「はい、ありがとうございます」
置きっぱなしになっていたハンカチを手渡される。
お礼の言葉は何とか絞り出したものの、プロデューサーの顔を見る気になれない。
早く病室を出よう。
今何か声をかけられても、返す言葉は否定も肯定も思いつかない。
私は今、自分自身を見失っている。
「こいつさ、昔からアイドルになりたいって言ってたんだ」
帰ろうとした時、プロデューサーが春香の額を撫でながら言った。
「いつだったかなぁ。急に言い出したんだよ」
「小さい頃から明るかったけど、あんなに目を輝かせてるのは初めて見たな」
思い出すように話すプロデューサーの目は、優しかった。
「毎日毎日、自分なりに試行錯誤してた。ボイトレしたり、振り付けを真似したり」
「でもこんな体質だからな。レッスンをするのは愚か、アイドルを目指すこと自体、現実的じゃなかった」
「オーディションのチラシや新人アイドルの番組を見ながら、悔しそうにしてることも多かった」
「そんな春香に感化されたのかな。進路思いつかなかったから、じゃあ芸能業界でも行ってみようかな、って」
「あわよくば、こいつの夢でも叶えてやれたらな、って思ってさ」
「……誰かが助けてやらなきゃ、夢を持つことすら許されなかったんだよ」
私が知っている春香は、いつも笑っていた。
オーディションの様子を話すとワクワクしながら聞き耳を立てて。
収録の様子を話すと続きを急かされて。
けれど、それは本音だったのだろうか。
本当は私の話を聞きながら、内心穏やかではなかったのではないだろうか。
私が気まずくない様に、傷つかない様に、自分の心を押し殺していたのではないだろうか。
いつも明るい春香。
私は彼女のことを、どれだけ知っているのだろう?
毎日のように私の横で笑っていた春香。
アイドルをする私を見ながら、何を思っていたのだろう?
私はいつも、彼女から与えられてばかりだった。
事あるごとに励まされて。
事あるごとに慰められて。
事あるごとに私の背を押してくれた。
私は彼女に何を与えた?
何も与えていない。
彼女が恋い焦がれ、手を伸ばすことすら許されなかったものを享受し、食い潰してきた。
ただひたすらに、春香に甘え続けてきただけだった。
きっと、春香をたくさんたくさん傷付けてきた。
だったらせめて、怒って欲しい。
罵って欲しい。
軽蔑して欲しい。
『如月千早が悪い』と、一言そう言って欲しい。
でも、春香は目を開けてさえくれない。
何を思っていたのかをおくびにも出さず、ひたすら眠り続けている。
怖い。
たまらなく怖い。
私、本当は春香に嫌われていたのではないかしら。
本当は、春香は私の顔なんて見たくもないのではないかしら。
私が勝手に待ち焦がれているだけで、私が勝手に縋りついているだけで――。
「これ、預かってたんだ」
急に声をかけられ、ビクッと肩が上がる。
「春香の母さんがな、お前に渡してくれってさ」
そう言ってプロデューサーが懐から取り出したのは、二冊のノート。
一冊はかなり長い間使っていたようで、表紙が色褪せ始めている。
もう一冊は見たところ、比較的新しい。
「春香のノートだ。中身は見てないからよく分からんが」
「どうして……私に?」
「知らないよ。春香の母さんが、お前に、って言ったんだから」
古い方のノートは、随分前に流行った女の子向けのキャラクターのシールが貼られている。
粗雑に扱えば破れてしまいそうで、鞄にしまうことさえ躊躇われた。
「まぁ見てやってくれよ。わざわざご指名があったくらいだ。ファンレターでも書かれてるんじゃないか?」
そう言ってから、ハッとプロデューサーは腕時計に目をやった。
「やばっ! もうすぐ打ち合わせの時間じゃないか! すまん千早、また今度な!」
「お疲れ様、です」
私の言葉を最後まで聞かず、プロデューサーは慌てて病室を出て行った。
その直後、廊下から看護師の怒り声が聞こえた。
「……どうして、私に……?」
ノートを慎重に抱え、春香を一瞥してから病室を後にした。
久々の投下乙
おつおつ
千早がめんどくさい子だって久しぶりに思いだしたわ
アケ版のプロデュースし始めの千早はたるかったなー
乙
待っとるで
来ないかな···
面白いから続けて欲しいわ
帰路につきながら、右手に抱えたノートに目をやる。
表紙の下の方には『あまみ はるか』と拙い字が書かれている。
恐らく、私と出会うよりもずっとずっと前に書かれた名前。
それはきっと、私がまだ、幸せだった頃の。
「何が書かれてるのかしら」
ページを開けばすぐに分かる。
でも、それはとても崇高なもののように思えて。
とてもじゃないけれど、歩きながら片手間に読んでいいものではないように思えて。
「……確かそこの公園、ベンチがあったはずよね」
早く、読まなければいけない気がした。
夕暮れを過ぎ、誰もいない公園。
僅かに残った陽に照らされる遊具たち。
楽しい時間が終わりを告げて、誰もいない空虚な遊び場。
そこへ私は足を踏み入れ、ベンチへゆっくり腰掛ける。
鞄を脇へ置き、まずは古い方のノートを開く。
そこには、幼い春香が書き記した、可愛らしい言葉があった。
『わたしのにっき』
これは、私が知らない頃から春香が書き記した、日々の記録だった。
ぱらぱらとページをめくる。
毎日書いているわけではないらしい。
もし毎日書いていたら、ノートは何冊にも及んでいたことだろう。
日記は一つ一つは短いものの、春香らしさが伝わってくる。
『きょうは、ケイちゃんのおうちであそびました』
『テストで90てんもとれました』
『おかあさんがおべんとうにハンバーグをいれてくれました』
たどたどしくも楽しげな笑顔が浮かぶような記録達。
読んでいる内に、会ったこともない幼少の春香とお話をしているような気分になってくる。
笑いながら私に日々のわくわくを報告してくれる春香は、とても可愛らしかった。
『学芸会でまほう使いの役になりました』
『運動会でかけっこに出たけど、ころんでしまいました』
『お父さんの湯のみを割ってしまい、ちょっとおこられました』
あら春香、漢字が使えるようになったのね。
日常の記録であると同時に、微笑ましい成長の記録でもあるらしい。
私が知らない春香を見守る日々は、穏やかで心安らぐものだった。
そんな気分でページをめくっていると。
ある時を境に、様相に変化が出始めていた。
『遊園地に行ったけど、途中で眠くなってしまいました。もうちょっと遊びたかったです』
小学4年生の記録。
それは、春香の人生が大きく狂った瞬間だった。
日記の中にあった、ある言葉。
小学2年生の時の日記に、将来の夢が書かれていた。
『大きくなったらアイドルになって、たくさんの人をしあわせにしてあげたいです』
アイドルを目指して、音楽の授業や体育を頑張っていること。
テレビに出ていたトップアイドルがとてもかっこ良かったこと。
近所のお兄さんに、アイドルを育てるスクールの存在を教えてもらったこと。
そこに入るために、頑張ろうと意気込んだこと。
日常の報告の合間に挟まる春香の想いは、年相応に夢想的で。
そして、年相応に夢に溢れ、エネルギーに満ち満ちていた。
そのエネルギーが、遊園地の事件を境に弱まっていく。
『最近、すぐに眠くなってしまいます』
『学校に行けない日が増えてきました』
『体力が減ってきて、激しい運動が辛いです』
春香らしい、楽しげな報告もなくなったわけではない。
それらに挟むことで目立たない様に、けれど滲み出てしまう、悩みと不安。
医者にかかっても、詳しい原因が分からない。
ただ一つ確実だったのは、春香を蝕む何かが、じわりじわりとその力を強めていること。
それは小学生の身にも理解できる事であり。
小さな女の子の夢を挫くには、十分すぎるものだった。
まってた
続きがすごい気になる、面白い
諦める、とは一言も書かれていない。
しかし、その心は明白だった。
その日以降、春香は“夢”について書かなくなった。
家族や友達と過ごす、楽しい時間。
眠る時間が増え、退屈な時間。
『この頃、一人ぼっちな気分になることが増えました』
幸せと不安が入り乱れた少女の日々がもたらす負担。
それは、少しずつ少しずつ、その心身を蝕んでいく。
天性の才能には恵まれず、努力を重ねることも許されない。
それどころか、思うように生きることもままならない。
そんな彼女にとって“夢”は、まさしく“夢”でしかなかった。
「っ……」
小さかった春香にとって、どれだけ辛かったのだろう。
思うだけで、胸が締め付けられる。
そう思いながらページをめくると、やけに筆圧の強い、力のこもった字を見つけた。
『合唱コンクールに出ることになりました! 本番に向けて頑張ります!』
「あ……」
それは、中学生の頃の記述。
そして、私にとっても思い出深いあの頃。
『音を外しちゃいました……練習しないと』
『ケイちゃんがお見舞いがてら、自主練に付き合ってくれました』
『久しぶりに学校で合唱! 上手くなったって褒められました。良かったぁ……』
相変わらず、病は春香を苦しめる。
それでも、久しぶりに大好きな歌に取り組む春香の日々は、活き活きとしていた。
そしてとうとう、あの日が訪れた。
合唱コンクール当日の日記。
友達と出たコンクールの感想。
一生懸命頑張ってきた、自分への評価。
やり遂げたことへの達成感、不満。
そうしたことは、何一つ書かれていなかった。
書かれていたことは、ただ、一言。
『私、やっぱりアイドルになりたいです』
春香が、自分の生きる道を決意した日。
前に進み続けることを、決意した日。
春香は前へ進み続けた。
病と闘いつつ、努力を重ねる日々。
『少しでも体力をつけるため、ランニングを始めました』
『なかなか音がとれません。音痴、治らないかなぁ……』
『お兄さんがプロデューサーを目指すそうです。なれたら、私を手伝ってくれるって!』
また、活気に溢れた春香が帰ってきた。
時折辛くなったり、落ち込んだりすることもあるけれど。
春香は全力で、前に進んでいた。
けれども少し、生き急いでいるようにも見えた。
『あの子の名前を、お兄さんが教えてくれました』
その日記の部分だけ、大きな字で書かれていた。
わざわざかぎかっこを付けて、太字で強調するように記されていた。
『如月千早』
赤い下線を引き。
オレンジ色のマーカーでなぞり。
ハートマークや矢印で周囲を囲み。
ようやく見つけた宝物を自慢するかのように。
私の名前。
春香にとって、如月千早という名前は、とても大きな意味を持っているようだった。
それからしばらく読み進め、時が高校へと移り、しばらくした頃。
「……そう、この頃、だったのね」
書かれた文字を、人差し指でなぞる。
とても懐かしい。
まるで、長く会っていない友人に久しぶりに再会した時のような、そんな気分。
『昨日の夢に、千早ちゃんが出てきました』
私が、春香と初めて出会った日。
今となっては懐かしい、始まりの日。
乙
乙
つまり春香のお兄さんが千早のプロデューサーってこと?
乙
乙
夢の中で、如月千早と仲良くなれたこと。
765プロには楽しい人達が沢山いること。
近所のお兄さんが如月千早のプロデューサーだと知ったこと。
浮足立った姿が目に浮かぶような日記達。
厳しい現実と懸命に闘いつつも、突然現れた夢の世界に、春香は浸っていた。
その頃から私達の露出も増え始め、春香もそれを自分のことのように喜んでいた。
『みんなが活躍していると、私も勇気が湧いてきます』
『私もみんなみたいになりたいなぁ』
ずきんと、胸に痛みが走った。
少しずつ結果を出していく私達。
それを喜ぶ日記が書かれる一方で、読み進める私の中で、小さな違和感が生まれた。
あまりにも、私達のことばかり書かれすぎている。
読み進めてしばらくの内は、大して気に留めていなかった。
自分で言うのも何だけれど、春香は私達にとっても惹かれていたから。
だから、自然と比重が高くなっていたのだと思っていた。
しかし、それは違った。
明らかにおかしかった。
春香を蝕む力は、再び彼女を呑み込もうとしていた。
あるページに、少し震え気味の、心もとない文字があった。
『私、もう無理だそうです』
一緒に書かれていたのは、担当医からの辛い宣告。
『私は遠くない内に身体を動かせなくなり、二度と目を覚まさないそうです』
何とか耐えて、霞のような夢を追い続けていた春香。
その身体に、とうとう限界が来ようとしていた。
『どうして』
『私、頑張ったのに』
『何も悪いことしてないのに』
『色んなこと我慢して、必死に』
『なんで』
『なんで、神様』
『目指すことさえ許してくれないんですか』
捲ったページはくしゃくしゃになっていた。
何度も何度も書きなぐり、その度に消しゴムで消し。
感情に任せて紙を握りしめ。
そして、沢山の雫が文字を滲ませ、渇いた跡。
家族に聞こえないように、必死に嗚咽を堪えて震える姿が。
心の中で泣き叫びながら、恐怖と絶望から逃れようとする、壊れそうな姿が見えた。
「っ……」
そのページを見ながら、私は唇の端を強く噛み締める。
少し苦い、鉄の味がする。
乙
乙
まだかなー
待つ
sageてなかったごめん
なかなか来ないなぁ
あなた様いつまでも待っていますので早く書くのです
私は、何もできなかった。
春香は、こんなに苦しんでいた。
私はただ一方的に、春香の慈愛を受け続けた。
ただ一方的に、春香の優しさに甘えていた。
その裏で、春香はずっと泣いていた。
その辛さを、誰にも吐露することなく。
その辛さを、私に気付かれまいとして。
「ごめんなさい、ごめんな、さい……」
一滴、ページに新たな染みが増えた。
私は、本当に駄目な人でした。
春香の告白は、そこでおしまい。
読み返す気力など欠片もなく、私は日記を閉じた。
「こんなに……こんなに、夢に溢れていたのに」
表紙に書かれた、幼い春香の元気な文字が、一層私の胸を締め付ける。
締め付けられた私の心臓が悲鳴を上げる。
「はる、かぁっ……!」
様々な感情を押し殺して吐き出した名前は、でも、決して彼女へは届かない。
彼女はもう、どこにもいないのだから。
続きキター
乙!
GWは来るかな?
日記を抱え、ベンチへへたり込む。
私には、春香だけが支えだった。
春香がいたからこそ、私は頑張ってこれた。
でも、その春香はもういない。
私は、苦しんでいた春香へ、のしかかるように生きてきた。
私は、きっと、彼女の世界で最も罪深い人間だ。
私は春香に、歌う喜びを説いた。
私は春香に、アイドルの楽しさを語った。
私は春香に、夢を追いかける素晴らしさを教えた。
それは、なんて残酷なことだったのだろう。
「私……なんて……最低……」
自らを貶す言葉すら満足に吐き出せない。
うつむいていた顔を上げると、いつの間にか闇が訪れていた。
曇天の下、星の光は届かない。
「はるか……わたし、は……」
わたしは、わたしは。
鞄と二冊のノートを左手に抱え、右手を空へと伸ばす。
見えない星の光を掴もうとして。
雲の向こうに、彼女がいるような気がして。
「春香。私、酷いことしたわよね」
電球が切れかかり、ちかちかと点滅する電灯の光。
「でも、どうして?」
辛かったはず。
私を見つめながら、歯痒かったはず。
「どうしてあなたは、ずっと私の傍にいたの?」
点滅しながらも、電灯の光は途絶えない。
「どうして、私なんかの……」
昨日、双海さんが泣いた時。
あの時と同じような揺らぎが、また生まれた。
揺らぎは波紋となり、やがてそれは大きな波となる。
どうして?
ねえ、どうして?
答えて。
答えて!
立ち上がって一歩進むごとに、頭の中が掻き混ぜられる。
コーヒーカップを全力で回し続けた時のように。
脳が溶けて、シェイクになっているように。
分からない!
分からない、分からない、分からない!
春香!
あなたは、私に一体、何を見出していたの!?
乙
暗闇と点滅の中、私はおぼつかない足取りで当て所もなく歩き続ける。
不安、怒り、悲しみ、疑念、悲観。
様々な負の感情が入り交ざり、澱んだマーブル模様が出来上がる。
「私……私……!」
パンクしそうな頭を抱え、私はもう何も考えたくなかった。
おつおつ
乙
ふと、電灯が照らす塀の角。
人影が見えた。
「……誰?」
こちらをじっと見つめている。
その輪郭には見覚えがあって。
その髪型には見覚えがあって。
「……!」
その子はじっと、私の方を見つめていた。
「春香!」
私は影へ向かって叫ぶ。
「春香、来てくれたのね!」
見つけた私の声が、意図せず高く跳ね上がる。
ああ、やっと戻ってきてくれた。
ああ、私のところへ帰ってきてくれた!
私は喜び勇んで、影へ向かって声をかける。
「どうしたのよ、春香。そんな隅っこに隠れて」
けれど、影は何も言わず、じっと私の方を見つめている。
「ねえ、春香……どうしたの……?」
影はただ佇み、焦点の合わない視線を私へ向ける。
怖い。
彼女に対して、初めてそう思った。
「ちょっと……は、春香……?」
ぼんやりとした視線は、私を見ているようで、別の何かを見ているようで。
「は、はる……」
私を見透かすように。
瞳の中へ呑みこむように。
「……ぃ」
そして、私は気付いた。
それは、私が最も恐れていた。
「いやあああぁぁああ!」
それは、軽蔑の色。
「いや……」
気付けば。
「やめて……」
民家の窓から。
電信柱の陰から。
通り過ぎる車から。
いたるところから、春香は私を見ていた。
「お願い、春香……」
春香は皆、一様に侮蔑の眼差しをしていた。
「そんな目で、私を見ないで……」
私の世界で唯一の光だった、春香。
そんな彼女にまで見捨てられたら。
私は。
私は。
「っはぁっはぁっ!」
怯えながら夜道を走っているうちに、いつかのように動悸が激しくなる。
「許して、許して、春香……!」
偉そうなことを言っておいて。
結局私は、何よりも春香に見捨てられることを恐れていた。
「ぁ……!」
けれど、春香は許してくれない。
自動販売機の明かりの中に、見慣れた姿があった。
「ひっ――!」
その焦点が合わない瞳は、私を呑みこもうと追いかけていた。
私は情けない声を上げ、影を背にして走り出した。
直視したくなかった可能性から目を背けるために。
癇癪を起した子どものような声を上げた。
耳から入ってくる何かをかき消すために。
「あぁぁぁああ! いや! いやああぁぁああ!!」
人目もはばからず、時間も場所も気にかけず。
しかし、どれだけ走っても、春香は私を放してくれなかった。
どれだけ走ったのだろう。
もう叫ぶ気力もない。
疲れた体の支えを求めるように、橋の手摺りへ体重を預ける。
橋の上から見下ろした川の水面。
「春香……そこにもいるの……?」
水面にぼんやりと映る月明かりの傍に、見慣れたシルエットが見える。
「ぁ……はるか……」
水面に映る橋からは、私の代わりに春香がこちらを覗きこんでいる。
ああ。
これはもう、春香が私を呼んでいるのかもしれない。
このまま、春香のところへ行こうかしら。
それも、いいのかもしれない。
乙
おつ
バ、バッドエンド…?
乙、きっと本物の春香さんが助けてくれる
乙
一気読みした
一ヶ月ほど来てないが大丈夫か
ねぇ、春香。
私がそちら側へ行ったら、許してくれるかしら?
私がそちら側へ行ったら、また笑ってくれるかしら?
歌って歌って、幸せだった頃のように。
二人で寄り添っていた頃のように。
「春香、私」
欄干から身を乗り出して、私は春香へと手を伸ばした。
ぽたり。
そんな私の頬を、水玉が打つ。
頬を伝った雫が、口に届く。
ぽたぽた。
小さな粒が、私の後頭部を打つ。
降り注ぐ雫は、瞬く間に数を増していった。
「あ……」
水面には、いくつもの波紋が広がった。
そこにいたのは、春香ではなく、私だった。
雨音が大きくなる。
雨粒が私に叩きつけられる。
「っ! は、春香の!」
日記が濡れてしまう。
我に返って、慌てて足元の鞄を抱き上げる。
幸い、鞄は防水性があったようで、中まで染み込んではいない。
「良かった……」
呟いた言葉とは裏腹に、私の心は空模様のようだった。
抱きしめた鞄は、雨に濡れて冷たい。
雨は容赦なく降り続ける。
この時間になると、車も人も通らない。
私は自宅のある方へ歩き続ける。
胸に、鞄を抱きながら。
もう視界に、春香は映らない。
足元の水たまりの中も、
曲がり角のミラーの中も、
そこにいるのは、私だけ。
大切な人さえをも逃げ口にしようとした、醜い私だけ。
春香が、あんな顔をするはずがない。
あの子は、とっても優しい子。
人を怨むくらいなら、怨んでしまう自分を責めるような子。
なのに、私は。
自分が楽になりたいから、醜い役割を春香に押し付けた。
いいえ、分かっていた。
私は昔から、そういう人間だった。
今更なこと。
そう。
私は、春香に何かを望まれるような、そんな人間じゃない。
ねぇ、春香。
あなたはどうして、私の隣にいたの?
ミテルヨー
オツタゾー
雨粒でない雫が頬を伝った時。
突然、雨が止んだ。
「傘を忘れたのかね?」
声を掛けられて見上げると、傘を差した社長がいた。
「如月君が、雨に打たれながら歩いている姿が見えてね」
そう言うと、私の反応も待たずに、傘の柄を差し出してきた。
「風邪を引くといけない。使いなさい」
「……結構です」
私は社長の視線から逃げるように、速足気味に傘から出た。
「如月君」
「放っておいてください」
誰とも話したくなかった。
きっと、居たとしても、春香とも。
「今日――天海さ――母さ――事――所――」
何かを言っている社長を背に、私は走った。
「――記は――二冊とも――」
雨音が、水を蹴る音が、私の鼓動が。
社長の声を掻き消していく。
水たまりを踏むたびに、私は鞄を守るように身を縮こまらせた。
私は走る。
自分の小さな国へ逃げ込むために。
逃げる?
私はもう、自分のことなんてどうでも良かったのではなかったかしら?
そうだ。
私は変わっていない。
弟を亡くしたあの頃から。
本当は泣き虫で、一人ぼっちで。
弱い、弱い、私のまま。
「っはぁっはぁっはぁっ……」
逃げ込んだ場所は、明かりのない、暗い部屋。
まるで私を写しとったかのように。
「イヤ……」
重い身体を引き摺り、雨水を滴らせながら。
部屋の奥を目指しながら、呻くように声を上げる。
「もう、イヤ……」
鞄をベッドの横へ放り出す。
糸が切れた人形のように、私は崩れ落ちた。
「もう……もう……!」
何も、いいことなんてなかった。
このすごろくは、私を苦しめるだけだった。
もう、いいわよね?
私、頑張ったでしょう?
もう、駒を止めても。
もう、休んでも。
いいわよね。
ねぇ、春香?
――。
『お願い、千早ちゃん』
『前に進むことを、やめないで』
……はるか?
春香の声が、聞こえた気がした。
ずっとずっと聞きたかった。
優しい優しい、あの子の声。
「どこ……はるか、どこ……?」
重い身体に鞭を打つ。
何かに縋るように、声が聞こえた方を見る。
水に濡れた鞄が一つ、部屋の隅に転がっていた。
どうなるんだ……?
恐る恐る、鞄を手に取る。
重い。
鞄だけの重さではない。
中に入っている、二つの重さ。
社長が口にした言葉。
『日記は、二冊とも読んだのかね?』
鞄を開けると、表紙の焼けた古い日記とは別に。
もう、一冊。
『Dream』
そう、優しい文字が書かれた表紙。
夢。
私がいつか、どこかに置き忘れてしまったもの。
ノートは全く濡れていなかった。
鞄は、思っていた以上に防水性能が良かったのか。
それとも、何かが守ってくれたのか。
まだ読んでいない、二冊目の日記。
表紙をめくろうとする。
が、指が動かない。
「読まなくちゃ……でも、私……」
凍てついたように、指は動かない。
雨に濡れ、冷えて縮こまった私の心は、あと一歩を踏み出すことができない。
いつか七色に彩られていた心のキャンバス。
今はまるで、埃を含んだ雨水のようにくすんでいて。
幼いあの日、掌から幸せが零れ落ちたあの日。
部屋の隅で泣きもせずに座り込んでいた、あの日のように。
その時、ぴくり、と指が動いた。
私が動かしたわけではない。
自身の意思に反して、勝手に動いた。
誰かが、そっと優しく、私の手を取るように。
「……どうしてかしら」
誘われるように、表紙の文字をなぞった。
「暖かい……」
押し付けた指の腹が、じんわりと熱を帯びる。
乙です
乙
来ないなぁ…
夢と書かれた、真新しい表紙。
それを書いたのが春香だと思うだけで、胸が熱くなり、痛くなる。
灰色の澱みに沈みきった私には、眩しすぎる明るさ。
私はこの日記を読まなければいけない。
社長に言われたから?
プロデューサーに渡されたから?
春香のお母さんが、きっとそれを望んでいるから?
いえ、違う。
きっとそれを望んでいるのは、他でもない――
「春香……あなた、なのよね」
そう思うと、不思議と指が動いた。
一体なぜなのかは、自分でも分からない。
春香に会いたいからか。
どんなに小さな光でも、縋りたかったからか。
最早、自分にできることは、何一つなかったからか。
渦巻く脳の荒波には、色々な想いがごちゃ混ぜになっている。
それらが求める、共通の、一つの答え。
「……読ませてもらうわね、春香」
目の前にある彼女の記録を、確かめること。
宝物の輝きが窓の外へ漏れないように。
誰かから隠すように、こっそりと表紙をめくる。
めくった瞬間目に入ってきたのは、元気良く跳ねるような文字だった。
『今日は、アイドル事務所へ面接に行ってきました!』
そう。
これは、自分の日々を書いた記録ではない。
彼女が想い描いた、そうありたかった自分。
目指すことさえ許されなかった、彼女の在りたかった姿。
私が開いた日記は、天海春香の夢、そのものだった。
続き乙です
乙
乙
待ってるよー
引き込まれて一気にここまで読み進めてしまった
続き待ってます
彼女は、自らの運命を知っていた。
叶わぬ夢、いずれ訪れる虚無の恐怖。
それでも彼女は叫んだ。
『なんで、神様』
『目指すことさえ許してくれないんですか』
彼女は終わりが近づいても、恐怖を叫ばなかった。
彼女が嘆いたのは、日々の終わりでも、自らの病でもない。
自らの力で、夢を目指せないこと。
この日記は、そんな彼女の、夢。
ページをめくるたびに、彼女の奮闘記が現れる。
どこかの世界であったかもしれない、夢の日々。
『事務所のみんなに挨拶をしました』
『社長も事務員さんも、プロデューサーさんも、候補生のみんなも、みんなみんな優しいです』
『ちょっと周りに振り回され気味だけど、頑張ってやってます』
少し既視感を覚える出来事たち。
新しい世界に心躍る彼女の心が、ほんわりと伝わってくる。
待ってた!
レッスンに取り組む春香。
営業へ赴く春香。
仲間たちと笑い合う春香。
小さなステージに立つ春香。
一行一行が、私の胸をきゅっと締めつける。
辛いから、じゃない。
彼女が綴る出来事の一つ一つが理解できるから。
自分の身に起こったことのように理解できるから。
そこから生まれる喜怒哀楽を、理解できるから。
理解できる、から?
『律子さんが昔貰ったファンレターを見ました』
『あずささんとコーヒーを飲みました』
『オーディション前に、亜美と一緒に走りました』
『響ちゃんのお兄さんを追いかけてみました』
『雪歩と喧嘩しちゃったけど、仲直りしました』
「痛っ……」
ずきん、と、頭の奥が響いた。
何かをこじ開けるような痛み。
無理矢理詰め込んだクローゼットの扉が、圧力で軋むような。
一行ずつ、声に出して読んでみる。
「美希が遅刻して、みんなで謝りました」
寝坊した本人は、素知らぬ顔であくびをしてて。
「真と二人で、深夜番組のレギュラーを貰いました」
方向性を間違った真の爆弾発言を、必死に修正して。
「番組の収録で、四条さんと旅行に行きました」
露天風呂で格の違いをまざまざと見せつけられて。
「やよいとその家族と、遊園地で遊びました」
連れ込まれたお化け屋敷で悲鳴を上げちゃって。
「真美とのラジオ番組の人気が出てきました」
時折真美の言葉の意味が分からずに聞き返すと受けて。
「出演したCMは、伊織の実家のものでした」
当の伊織本人は、かたくなに出演を拒んで。
「……どうして、私は知っているの?」
これらは彼女の夢。
叶わなかった、実在するはずのない彼女の夢。
そのはず。
でも、分かる。
日記の出来事があった時、みんなはどんな様子だったのか。
その時、彼女はどんな気持ちだったのか。
『作曲家の方が、歌手として私を指名してくれました』
『重圧に押しつぶされそうだけど、頑張らないと!』
まるで自身がそこにいるかのように分かる。
理解、できる。
「私の、歌を、みんなが……」
読み上げる声が震える。
目頭が熱い。
何かが込み上げてくる。
眼前が滲んで、日記の文字が読めない。
私はそのまま、日記を閉じた。
「どう、して……」
しばしの静寂の後。
代わりに、問いかけの言葉が口から漏れる。
その問いに意味はない。
私はもう、その答えに気付いていたから。
「はる、か」
濡れそぼった情けない顔を、手のひらで覆う。
「私が、そうだったのね」
その日記に記されていたのは、かつて私が春香に語った出来事たち。
彼女が目を輝かせながら、食い入るように聞いていた日々。
『わた、しの、おもい……ぜんぶぜんぶ、うそになっちゃう……!』
病床に臥せる彼女の、たった一つの、大切な想い。
「私が過ごしていた、あの日々こそが――!」
春香の、夢だった。
こう繋がるのか
全部読み返しちゃった
うーん…その展開にはちょっと足りないぞ
千早の過ごした日々が夢ならこの千早の存在も夢ってわけだ
それが春香の夢なら>>361で春香は自分の夢を軽蔑したことになる
その次点で夢は否定されて消えてるはず
何が虚で何が実か。整合性を考えてみようぜ。
説明が足りないというなら結論を出すにはまだ早い。
いや
これまでの流れで春香の夢だった!って結論だしてっから>>415で
これまでの流れでそりゃ変だろって話だから
>>419
それ夢違いww
>>415で言ってる夢は寝てるときに見るほうじゃなくて目標、憧れのほうだろww
細切れで読むには解りにくい構成だから仕方ないけど
頭から通しで読みなおすとちゃんとつながってるよ
>>361のあたりは精神的に追い詰められた千早の見た幻覚かと
完結してない話の考察とかするのも無粋だし、続きを楽しみにしときましょ
ばきり。
頭の中で、閂が折れる音がした。
「私は、ずっと、ずっと」
扉が開く。
そこから差し込み、仄暗い部屋を満たす、強い光。
黄、
緑、
黄緑、
橙、
紫、
浅葱、
桃、
黒、
白、
臙脂。
部屋を彩る、極彩色の輝き。
私がずっと見ていた、夢の輝き。
鮮やかな色たちが飛び跳ねる。
マーブル模様を作りながら、青い光へ入り混じっていく。
辛いことが、たくさんあった。
何度も心が折れた。
何度も何度も、化膿した傷を抉られた。
それでも。
それでも、顔を上げてきた。
前を向いてきた。
前を、向かせてくれた。
馬鹿みたい。
辛さなんて瑣末なことだった。
程度は違えど、誰にでも辛いことはある。
そんな時でも、私には傍に支えてくれる人がいた。
大切なのは、とてもとてもシンプルなこと。
「私はずっと、幸せ、だった」
世界一の大間抜けが、たった一つ気付かなかったこと。
キテター
大団円が近いかな?わくわくですわ
幸せを無下に食い潰していた私を、春香はどう思っていただろうか。
嫉んでいただろうか。
怨んでいただろうか。
違う。
『だって……友達が寂しそうに歌ってるのなんて、見たくないよ』
私が幸せを食い潰していても尚、傍にいてくれた。
私を支えようとしてくれた。
幸せに恋い焦がれ。
追いかけて。
手を伸ばして。
でも、それ以上に。
「ずっと私のことを、見てくれてた」
夢の日記の、最後の空白ページ。
「ずっと私のことを、想っていてくれた」
そこには書きかけの、シャープペンシルの筆跡。
「ずっと、私の幸せを、願ってくれていた」
きっともう力が入らなかったのであろう、震えるような『千早ちゃんと』の文字。
「大切な大切な、友達……!」
青い雫が、床に当たって弾けた。
いいえ。春香だけじゃない。
「律子も、伊織も」
「亜美も、真美も、あずささんも」
「真も、萩原さんも、高槻さんも」
「美希も、我那覇さんも、四条さんも」
社長、音無さん。
プロデューサー。
「私は、たくさんの人に幸せを、もらってっ……」
雫が止まらない。
体中の私を絞り出すように、ぽたり、ぽたりと床を打つ。
「あ、うあ、ぅぅぅぅっ……」
声を抑えるので精いっぱいだった。
ちーちゃん、泣かないで
その時。
ぴんぽん、と。
呼び鈴が鳴った。
「如月君」
さっき聞いたばかりなのに、とてもとても懐かしい声。
「いるんだろう?」
今返事をしたら、情けない声しか出ない。
小さく縮こまり、きゅっと唇を噛み締める。
「皆、心配しているよ」
優しく、荒れ果てた心を宥めるような声。
「先ほどのキミの様子を話したら、ひどく気にしてね」
みんななら、きっととても心を痛めている。
とても優しい人たちだから。
でも、私はその優しさに気付かなかった。
みんなを沢山傷つけた。
そんな私が、今更――。
「予定も入っていたというのに、皆そっちのけだよ」
「かく言う私も、人のことは言えないのだがね?」
その言葉を聞いた途端。
まるで自分の足ではないかのように、弾くように床を蹴った。
急いで玄関のドアを開けると、社長がにこやかな表情で立っていた。
「やっと出てきてくれたね」
間近で声を聞いて、また涙が溢れてきた。
「社長、わた、私……わたしっ……!」
「うん、何も言わなくていい。さ、行ってあげなさい」
階段の方を向くように、肩をゆっくり押された。
温かな体温を肩に感じながら、私は階段を駆け降りた。
足がふわりと浮くように軽い。
私じゃない、誰かの力が身体を動かす。
行きたい、走りたい、早く降りたい。
私がそう思うたびに、何かが私を引っ張る。
誰かが、私の手を引く。
誰もいないそこに、誰が居るの?
私の隣に今、誰が居るの?
分かってる。
ずっとずっと、隣に居てくれたのよね。
階段を駆け下りてマンションを飛び出す。
「っはぁっはぁっはぁっ……」
足を止める。
いつの間にか、雨は止んでいた。
街頭がいくつもの影を照らす。
大小様々な、色とりどりの影たち。
「……こんな時間に、何、してるのよ……」
目にするなり、こんな悪態をつく自分が嫌になる。
でも、そんなことでも口にしてないと。
そのまま、崩れ落ちてしまいそうだったから。
その中で、ひと際強く光を映す金髪。
マンションから飛び出した私を見つけ、その長髪が揺れた。
「……千早、さん?」
恐る恐る、様子を窺うような声。
久しぶりに聞いた気がする声が、たまらなく愛おしくなった。
「み、き」
震えていた黄緑の光が、私の方へ駆けだした。
「千早さぁん!」
「きゃっ……!?」
顔を涙でびしゃびしゃに濡らしながら、美希が飛びついてきた。
「千早さんだよね、如月さんじゃないよね?!」
「っ……馬鹿ね、美希。如月さんでも、合ってるわよ……」
「違うよ、違う! 千早さん! 千早さんだよ!!」
大粒の涙をぼろぼろと零す美希。
子どものように泣きじゃくる彼女を、強く抱きしめる。
暖かい。
この子は、なんて暖かいのだろう。
「お姉ちゃあん!!」
「ちはっ……ひぐ、千早お姉ちゃぁん!!」
美希の後を追ってきた二人が、私の両腕にそれぞれ抱きつく。
いつか、深く深く傷つけてしまった黄の光。
もう絶対に、この腕は払わない。
「亜美、真美」
「千早お姉ちゃん、行かないで! もうどこにも行かないでよぉ!」
「行かないわ、どこにも、決して」
「遊園地、遊びに行くんだかんね! 指きり、したんだからぁ!」
「もう……行くのだか行かないのだか、分からなくなってきちゃうわよ……」
ああ。
そうだったのね。
今更気付くなんて、本当に馬鹿みたい。
私がアイドルを続けていた、一番の理由。
顔を上げれば、闇夜に鮮やかな色模様が浮かび上がる。
「千早、びしょ濡れだけど大丈夫か!?」
浅葱。
「何かタオルか何か……あっ、確か鞄にあったはず!」
黒。
「ええっと、真ちゃん! 一緒に、さっき渡した魔法瓶貸して!」
白。
「そのままじゃ風邪ひいちゃいます! 着替えはお部屋にありますよね?」
橙。
「一応着替えは持ってきたわ。上着だけでも羽織らせてあげましょう」
緑。
「こんなになるまで……無理をしないで、もう少し私たちを頼って、ね?」
紫。
「皆、千早のことを心配していたのですよ。今宵だけでなく、ずっとずっと」
臙脂。
「本当よ! なんでもかんでも抱え込んで……この大馬鹿!!」
桃。
私が、ずっとアイドルを続けていたのは。
「音無さん、社長はどちらに?」
「千早ちゃんが来たからそろそろ……あっ、社長!」
歌いたいから。
「はい、千早ちゃん。ちょっと熱いけど」
「ありがとう、萩原さん……熱っ」
「だから雪歩が言ったのに。ただでさえ身体が冷えてるんだからさ」
それだけでは、なかった。
「折角の女の子の髪が台無しよ?」
「すみません、あずささん」
「ミキに貸して! 綺麗にしてあげるの!」
「ミキミキ、まだ手が震えてんじゃん」
私は心のどこかで気付いていた。
顔を上げれば、闇夜に鮮やかな色模様が浮かび上がる。
「千早、びしょ濡れだけど大丈夫か!?」
浅葱。
「何かタオルか何か……あっ、確か鞄にあったはず!」
黒。
「ええっと、真ちゃん! 一緒に、さっき渡した魔法瓶貸して!」
白。
「そのままじゃ風邪ひいちゃいます! 着替えはお部屋にありますよね?」
橙。
「一応着替えは持ってきたわ。上着だけでも羽織らせてあげましょう」
緑。
「こんなになるまで……無理をしないで、もう少し私たちを頼って、ね?」
紫。
「皆、千早のことを心配していたのですよ。今宵だけでなく、ずっとずっと」
臙脂。
「本当よ! なんでもかんでも抱え込んで……この大馬鹿!!」
桃。
“もっと欲しい大切なもの”。
仕事より優先する第一のこと。
この暖かい場所に居たい。
この幸せに包まれていたい。
やっと見つけた居場所を手放したくない。
この場所だから、歌いたい。
この場所で、歌い続けたい。
そんな、簡単な理由だった。
続き乙です
目をつぶると。
たくさんの声が聞こえてくる。
なんだかまるで、幻のようで。
部屋に飛び込んだ時、そのまま微睡んでいたのではないかしら。
そのまま、夢でも見ているのではないかしら。
ふわふわと浮いているような感覚。
そんな私を、声が呼ぶ。
ねぇ、千早ちゃん。
起きて?
「あ……」
目を開けると。
みんなが、そこにいた。
「……ち、千早っ!? ど、どうしたんだ!?」
「え?」
プロデューサーが、おろおろとした様子で尋ねる。
けれど私は、そんな質問をされる覚えがない。
「何か辛いのか?」
「え、どうして……」
ぽたり。
「あ」
雫が落ちた。
それは確かに、私の目から零れた。
「あ、れ……」
止まらない。
落ちた雫が、手の甲に当たる。
「おかしい、です」
「何がだ?」
「止まらない、んです。涙」
別に悲しいわけじゃないのに。
痛いわけでもないのに。
それに、暖かい。
水なのに。
「あ……駄目、私……」
堪えなきゃ。
両手で顔を覆う。
今気が緩んだら、もう。
「いいんだよ」
そう思ってた私を、プロデューサーが制した。
「我慢しなくていい。もういっぱいいっぱい、我慢してきただろう?」
顔を隠す私の手が、下ろされた。
「おかえりなさい」
そしたら、待ち構えていたように。
みんな、そんな風に、笑顔で言われたら。
「っ……!」
私、言えないじゃない。
一言しか、言えない。
いいんだよ、それで。
いいのかしら、それで。
みんな、その言葉を待ってるよ。
だから、私は。
とびっきりの情けない泣き顔で。
「ただ、いまぁっ……!」
涙で顔をぐしゃぐしゃにして、答えた。
続ききてる!頑張って!
待ってます
待ってる
もうそこから先は、何も喋れなかった。
小さな子供みたいに、声を上げて泣きじゃくった。
私、ずっと孤独だった。
ずっと一人じゃないと駄目なんだって。
これからずっと、一人なんだって思ってたの。
でも、みんなが。
みんなが、いていいんだよって。
わたし、ここにいていいって。
みんなが代わる代わる、抱きしめて涙をふいてくれる。
でもふいてもふいても、すぐに溢れるの。
「千早ちゃん」
そんな私の頭を、あの子の声が優しく撫でてくれる。
「我慢しないで、いっぱい泣いていいんだよ」
泣きじゃくる私は、声を上げることもできない。
上げてもその声は、きっと、あの子には届かない。
「泣いてる間は、本当の自分と向き合えるから」
そっと触れる声は、悲しいくらい冷たくて。
「誰よりも素敵な、千早ちゃんと」
私を見つめるその声は、寂しそうに潤んでいて。
春香。
いっぱい遠回りをしてしまったけれど。
私は、やっと居場所に気づけた。
でもここには、あなたも必要なの。
ねえ、春香。
春香!
あの日から私の前に立ちふさがる、分厚い扉。
いくら叩いても、もう彼女の声は聞こえなかった。
私は四角いさいころを、ぎゅっと握りしめた。
その時。
何かがそっと、私の肩に被せられた。
「ん……」
その拍子に、分厚い扉ははらりと消えて。
私の前にあったのは、毛布の柔らかな感触だった。
「あれ、ここは……」
「っと、起こしちゃったか」
「プロデューサー……?」
鼻腔をくすぐる、薬品の匂い。
気づくと私は、春香が眠るベッドに突っ伏していた。
「あれ……私、なんで春香の病室で……」
「あの後そのままみんなで見舞いに来て、寝ちゃったんだよ」
あの後とは、マンションの前でのことだろう。
錯綜する記憶をこねくり回す。
朧気ながら、泣きながら春香のことを話したのを思い出した。
「いろいろ抱え込んでたからな。仕方ないさ」
プロデューサーは苦笑した。
寝ぼけた頭を叩く。
埃が舞い上がるように、意識が乱れてくらくらした。
「今、何時ですか?」
「ちょうど日付が変わるくらいだな」
日付を跨いだら魔法が解けて、春香が起きたりしないだろうか。
そんな逃避的な思いを巡らせる。
けれどそばで寝息をたてる春香は、いつものまま。
死んだように、穏やかなまま。
「事情は話してあるから、病院に泊まっていくか? 帰るなら送っていくよ」
「大丈夫です。一人で帰れますから」
「時間が時間だ。大切なアイドルを一人で帰せるか」
大切な、アイドル。
私を許してくれるその言葉が、嬉しくて、嬉しくて。
そして春香の隣では、少し苦しくて。
夜風が冷たい帰り道。
「ずっと聞きたかったんだが」
「何を、ですか」
「夢の中での春香は、どんな様子だった?」
「春香の、様子……」
白い息を吐きながら、プロデューサーが訊ねてきた。
目を閉じて、春香との日々を思い出す。
「あの子はいつも、笑っていました」
いつも明るくて、朗らかだった。
冷えて縮こまった私を照らすように。
>>1が還ってきた!素晴らしいッ!!
続いているのか、待ってるぞ
はい
終わり??
「でも、最後に話した時」
思い出す。
ドアの向こうから聞こえた、涙声を。
「春香は泣いていました」
最後の最後で思わず溢れてしまったのだろう。
彼女のもう一つの、本当の気持ち。
「静かな寝顔だけれど、きっとまだ、あの子は泣いています」
みんなに抱き締められた時に聞こえた、か細い声。
春香は私に、勇気をくれた。
でも私はまだ、春香に何もあげていない。
「千早はくれたよ、沢山のものを」
プロデューサーの声が、夜道に小さく響いた。
私の否定を許さない声。
「本当なら、ああなるのはもっともっと早いはずだった」
プロデューサーは立ち止まり、僅かに振り返った。
「千早と出会った頃から、あの子は前にも増して明るくなったよ」
「でも……結局、何もできてないじゃないですか……!」
春香は今、眠りについている。
それが、全てじゃないですか。
「お前の悪い癖だ」
「いたっ」
こつん、とプロデューサーのゲンコツが落ちた。
「そうやって、また引きこもるつもりか」
「……すみません」
「そんなマイナス思考じゃあ、この先のアイドル生活が思いやられるな」
見上げると、プロデューサーは笑っていた。
そこに、陰は僅かもなかった。
「悔いてどうにかなるなら、それでもいいんだけどな」
ゲンコツが落ちたところを軽く押さえる。
まだ少し、痛い気がする。
「残念なことに、俺達はやり直せない」
『これから何を為すのか』。
それしか選ぶことはできないと、プロデューサーは呟いた。
それなら私は、春香に何をしてあげられるのだろう。
どうすれば春香は、また笑ってくれるのだろう。
春香は死んだように眠っている。
でも、死んでいるわけではない。
また、笑って欲しい。
「分からないんです」
春香に笑ってもらうために。
「私には一体、何ができるのでしょうか」
強いプロデューサーなら、きっと。
何か答えをくれる気がして。
「できることなんて何もないよ、千早」
けれどプロデューサーからの返事は、非情なものだった。
「できる、なんて確たる保証してもらえるのは、余裕と力のある人間だけだ」
当たり前のことを言うように、その声に躊躇いはなかった。
「俺達は医者でも超能力者でもないし、春香の目を覚ます確かな術なんて持ち合わせていない」
「もし自分が何か"できる"と思ってるなら、それは思い上がりだと、俺は思う」
その言葉は、私に向けられたものなのだろうか。
それとも、プロデューサーの脳裏を過ぎるのは。
「……随分、酷いことを言うんですね」
「あはは、意味を取り違えないでくれよ」
取り違える?
乙
生きててよかった
おつおつ
「できることなんて何もないよ、千早」
けれどプロデューサーからの返事は、非情なものだった。
「できる、なんて確たる保証をしてもらえるのは、余裕と力のある人間だけだ」
当たり前のことを言うように、その声に躊躇いはなかった。
「俺達は医者でも超能力者でもないし、春香の目を覚ます確かな術なんて持ち合わせていない」
「もし自分が何か"できる"と思ってるなら、それは思い上がりだと、俺は思う」
その言葉は、私に向けられたものなのだろうか。
それとも、プロデューサーの脳裏を過ぎるのは。
「……随分、酷いことを言うんですね」
「あはは、意味を取り違えないでくれよ」
取り違える?
「できることなんて何もない、だから俺達は"する"しかない」
「"する"?」
思わず聞き返す。
「その結果が実を結ぶなんて保証は誰もしてくれない」
「そんなあやふやな何かを信じて、良かれと思って進むしかないんだ」
「風邪を引いた人の看病は、"できる"」
「スポーツ大会での応援は、"する"」
「それなら、哀しむ誰かを励ますのは?」
「大好きな人に喜んでもらおうと、プレゼントを贈るのは?」
指折り数えながら、プロデューサーの言葉を心の中で復誦する。
少しずつ、プロデューサーの言葉が染み込んでくる。
「それが、"する"ですか?」
少なくとも、俺はそう思うよ。
プロデューサーはそう言って、小さく笑った。
少し間が開いたのち。
「だから、プロデューサーになってしばらくした時、決めたんだ」
そう、呟いた。
「春香の病は、俺にはどうにもできない」
「ならせめて、あの子が元気になれた時に、良かれと思うことをしようと」
「なんとなくで始めた道を、本気で進もうと思った」
プロデューサーは、ずっと、ずっと。
その遠い未来を信じて、歩んできた。
あやふやな何かを、今も信じている。
あの子の姿を目の当たりにして。
辛く、哀しくても。
身と心を削りながら、それでもあやふやな何かを信じている。
やっぱりとても、強い人。
そう、思った。
私も、強くなれるだろうか。
私も、強くあれるだろうか。
私も、強くありたい。
「プロデューサー」
「ん?」
だから、宣言をしよう。
「私も考えてみようと思います」
「自分が、"する"ことを」
まずは、意志を。
あやふやな何かに繋がる、最初の一歩を。
「今の千早、いい顔してるぞ」
「そうですか?」
「自然な笑顔、久しぶりに見た気がするよ」
丁度アパートの前に着いた時、そんなことを言われた。
タクシーを探しに大通りへ向かう姿を見送りながら。
頬に手をやると、僅かに力が入っていた。
乙。
ほ
ほっ
ほ
完結までに1年半弱か… おつ
ひとりぼっちの部屋で。
ベッドに身体を投げ出し、天井の明かりを見つめる。
"自分がすること"。
それは一体何?
"自分がしてあげたいこと"
それは一体何?
目の前に春香が居れば、次々と湧いてくるかもしれない。
笑わせるとか。
お話をするとか。
身だしなみを整えてあげるとか。
美味しいものを食べさせてあげるとか。
「でも、そうじゃないの」
今、私がどうしたいのか。
今、私は何を考えているのか。
色々なものに、人に、助けられ。
色々なものを、受け入れて。
そんな今の私だから、すること。
そんな今の私だから、したいこと。
結果が実を結ぶなんて保証はない。
それでも。
私が心の底から、純粋にしたいこと。
あの時突き放してしまった、愚かな私が。
恥知らずだろうとも、あの子に伝えたいこと。
心に秘めた、一つの気持ち。
この気持ちが、春香に届きますように。
そのために、私はするの。
何かを、絶対に。
それから日々、悩むことが日課になった。
「千早、コーヒー飲むか?」
事務所の給湯室から漂う、香ばしい香り。
「ありがとうございます、プロデューサー」
「あまり根を詰めすぎるなよ」
「いいんです。何かしていないと、私も落ち着かなくて」
「……プロデューサー殿、千早に何か吹き込んだんですか?」
「こ、怖い顔するなよ」
「大丈夫よ、律子。別に嫌な悩みとかではないから」
ならいいけど、と。
煮え切らない声が、尖らせた口から小さく聞こえた。
悩んではいる。
やきもきするし、時々いらいらもする。
けれど、嫌ではなかった。
悩むことが心地良い。
悩む度に前へ進む気がする。
そしてその悩みの答えは、そう遠くはない気がする。
きっと私は、もう知っている。
あとは私が、それに気付くだけなのでしょう。
乙
おつおつ
乙
保守
保守
保守
そして私は、夢の中で。
部屋で一人、すごろく盤を眺める。
セロテープで張り合わせたシート。
その向こうには、一枚の姿見。
そこに映るは、私の姿。
「如月千早」
鏡よ鏡、鏡さん。
「この気持ちは、どうしたら春香に伝わるかしら」
鏡に映った私が、口をぱくぱく。
言葉に合わせて、小さく動かす。
いつか扉に巻き付いた鎖。
締め付けを握りしめた南京錠。
それらは、もう無い。
けれど、扉の向こうからは誰も来ない。
こちらからも、開けられない。
「如月千早」
鏡よ鏡、鏡さん。
「この気持ちは、どうしたら春香に伝えられるかしら」
鏡に映った私が、口をぱくぱく。
口を、ぱくぱく。
「っ!」
慌てて起きる。
目を覚ます。
時刻は深夜二時。
「……っはぁ、っはぁ……」
少し、息が荒い。
その動悸は、恐怖からではなく。
「ああ、そうね……」
私が、すること。
考えてみれば、そんなことは一つしかなかった。
「プロデューサー、お願いしたいことが」
「お願いとは珍しいな」
翌日、事務所へ赴き開口一番。
事務所の視線が、私に集まる。
「で、なんだ?」
「春――」
「待て、悪い、電話だ」
私の想いを遮るように、小さな鳴動。
プロデューサーの携帯電話。
「はい、765プロの……ああ、これは……お世話になっております……」
会話から聞こえたのは、覚えのある名前。
「千早さん、ちょっとムッとしてるの」
「そんなことないわ」
「ううん、してるしてる。でもそういう素直な表情してくれるの、嬉しいな」
「じゃあ美希に話しかけられたら、いつもこういう顔しようかしら」
「ヤなの。千早さんのいじわる」
二人で小さく笑う。
この小さな幸せも、春香が居たから。
だから私は、伝えるために――。
「話し中に悪いな、千早」
「いえ、お仕事ですか」
「ああ。で、いきなりで悪いが」
プロデューサーも、小さく笑う。
「ムッとしてる機嫌直して、ついてきてくれないか」
連れて行かれたのは、とあるスタジオ。
馴染みのある、小さなスタジオ。
「お待たせしました」
プロデューサーがドアを開ける。
御足労頂き申し訳ない、と、その人は言った。
電話の主は、よく知る作曲家。
かつて歌った、幸福の象徴の歌。
それを、生み出した人。
見た、来た、勝った
おおこれは…乙乙
ほ
眩暈がした。
私の存在は、この人の"子"を貶めた。
私が関わらなければ、あの歌は今も世に愛されていたはずだった。
けれど今、あの歌が表に出ることは殆どない。
あれだけの歌が。
私が、殺してしまって――。
「千早」
プロデューサーの声が、私の頭を止めた。
そうだ。
今の私には、過去を悔いる暇も資格もない。
全ては既に結果となってしまっている。
あれこれ考えたところで、何も好転はしない。
私はただ、作曲家の方が私を呼んだ理由を聞くだけ。
聞いて、謝罪でも何でも、誠意を尽くすだけ。
心を落ち着けて、改めて向き合った。
その時だった。
"ずっと待っていた"。
今、なんて?
思わず、自分の耳を疑った。
聞き違いか何かだろうか。
隣に立つ、プロデューサーの顔を見る。
プロデューサーは笑って、前へ向き直るよう促した。
目の前に立つ人は、尚も言葉を続ける。
"如月千早のための歌を贈るために"。
優しい笑顔で右手が差し出された。
一枚の、白いCD-ROM。
震える手で、恐る恐る受けとる。
プロデューサーが音響機材の電源を入れる。
「聴かせていただくか?」
機材に電源が入る。
私はおぼつかない手つきで、ディスクを入れるためのボタンを押す。
白いディスクをはめながら、遥か遠くのように思えるあの日を思い出す。
そういえばあの日、この人は確かに言った。
私のために、歌を書きたいと。
「ずっと、気にかけてくださってたんだ」
震える私の手を、プロデューサーの手が支える。
助けを借りて、ディスクは機材に呑み込まれた。
カラカラとディスクが回る音がする。
機材の左右に並ぶ、大きなモニタースピーカーへ顔を向ける。
「千早が立ち直ったら、どうしても渡したいものがある、って」
プロデューサーが、再生ボタンを押した。
初めに聴こえたのは、ピアノの旋律だった。
優しく、私を抱きとめるような音が聴こえた。
暖かい音が、耳から全身へと伝わっていく。
そして瞬時に、思った。
「ダメです。この曲は」
私は、反射的にそう答えていた。
「ダメって、お前……」
プロデューサーが不意をつかれたような顔をする。
作曲家の方は表情を変えず、私をまっすぐ見つめる。
「この子は、ダメです」
こんなに優しくて、こんなに暖かくて。
「この子は、私のところなんかに来ては、ダメなんです」
こんなに、愛おしい子は。
けれど、その人は迷わず答えた。
如月千早のところでなければダメだ、と。
その子は、如月千早に会うために生まれてきたのだ、と。
その時スピーカーから、弦楽器が響いた。
まるで、私に向かって産声を上げるかのように。
私は、何も言えなかった。
「千早、歌えるな」
「……」
「歌って、くれるな?」
「……はい」
私はずっと俯いたままで。
顔を見られないよう、小さく頷くことしかできなかった。
次の瞬間。
パチリ、と。
私の中で、ピースが繋がる音がした。
機材の電源を落とすプロデューサーに、後ろから声をかけた。
「プロデューサー、さっき事務所で話そうとしたことですけれど」
「なんだ?」
「私、したいことが見つかったんです」
パソコンから取り出したCD-ROMを胸元に抱える。
大切に持ちながら、電話に遮られた話をする。
「へえ、何をしたいんだ」
「伝えたいんです、春香に」
さっき聴いた旋律を思い出す。
一度聴いただけなのに、脳裏から離れないメロディ。
それを思い浮かべるたびに、春香との日々を思い出す。
そして、彼女が最後に願ったことを。
伝えたいんです。
私の気持ちを。
「だから、歌おうと思います」
きっと、今日の出会いは。
この子との出会いは、このために。
「そのために、お二人にお願いがあるんです」
「お願い?」
「この子の詞を、私に書かせていただけませんか」
二人は互いに、意外そうに顔を見合わせた。
よっしゃ続きキタァ!!
「私は、詞をうまく書けるわけではありません」
これまで筆をとったことは殆どない。
こんな素晴らしい歌に、そんな拙い詞を付けていいかも分からない。
けれど、これが一番の方法だと思ったから。
私の気持ちを届ける方法。
私の想いを、私の言葉で、私の歌で、全ての人に。
それが、春香が望んでいたことに、最も近づけると思った。
それが、春香との指切りに、最も近づけると思った。
それが、私があの事務所に居たいと願う理由に、最も近づけると思った。
「ご納得頂けるまで、何度でも書き直します」
「少しでも良くするために、どんな努力も惜しみません」
「だから……だから、お願いします!」
「いやあ、千早は話が早くて助かるよ」
「え……?」
私の肩を、プロデューサーの手がぽんぽんと叩く。
下げていた頭を起こすと、目の前の二人はにこにこと笑っていた。
「実はもう一つ、ご依頼があってね」
「詞を、千早に書いてほしいそうだ」
プロデューサーの言葉に、初老近い作曲家の方は、少ししわを浮かべて笑った。
如月千早のための歌なのだから、如月千早の想いをこめてほしいと。
「奇しくも、お互いに同じことを考えていた、ってわけだ」
「いいんでしょうか、私で」
「たった今この口で、自分にやらせてくださいって言ったじゃないか」
「あぐ、あう」
「今更ノーは許されないぞ、千早」
プロデューサーが意地悪そうな笑みを浮かべて、私の両頬をぐっと押す。
不安を口にしようにも、まともに発音できなかった。
プロデューサーの車で事務所へ戻る途中。
運転をしながら、プロデューサーが口を開いた。
「ああ、そうそう。千早の復帰ライブをやることが決まった」
「えっ!?」
「そのライブが、表立っての復帰後初仕事だ。気合入れろよ」
「あの、先ほどの歌は」
「そのライブでお披露目だ」
「……あまりにも、急では」
「千早が戻ってきてくれたのがみんな嬉しくて、ついつい張り切っちゃってね」
やや否定的な言葉とは裏腹に。
自分の心が、熱を帯びていくのが分かった。
パズルのピースが、一つ一つはまっていく。
散々遠回りしてしまったけれど。
沢山の人に迷惑をかけてしまったけれど。
もう、迷わない。
私は、前へ進もう。
沢山の想いと共に。
私の想いと共に。
あの子が夢見た光景を。
あの子が願った光景を。
夢で終わらせないために。
私が、"する"ために。
多くは語らぬ
続きはよ
すげえこのSSまだ書いてくれてたんだ
記憶力無くて完結するまで読まない派なんだが頑張ってな
完結したら必ず読むからな
ほしゅ
誰もが寝静まった頃。
私は一人、閉ざされた部屋にいた。
足元には、くしゃくしゃになった紙の山。
書いては捨て、書いては捨て。
「……自分の気持ちを表現するのが、こんなに難しいとは思わなかった」
自分以外誰もいない部屋でひとりごちた。
くすくすくす。
当然よね。
これまで私は、誰かに伝えるなんてこと、していなかったのだから。
どれだけ書き続けていただろう。
投げ捨てた紙屑が何かに当たり、ころん、と音がした。
「ん、何の音かしら……」
筆を置き、我に返る。
すっかり固まってしまった身体を伸ばし、目線を上げる。
いつか固く閉ざした、重々しい扉。
その横に、人が通れるかどうかくらいの小窓が出来ていることに気付いた。
痺れる身体に鞭を打ち、立ち上がる。
小窓の外からは、何やら賑やかな喧騒が聴こえた。
「ねーねー、千早お姉ちゃん。何書いてんの?」
「真美にも見せてよう!」
「ふ、二人とも肩に乗らないで……新曲の歌詞よ」
「えっ!? 千早お姉ちゃん新曲出すの!」
「あ、亜美、耳元でそんな大きな声……」
「ほんと!? みっせてみせてー!」
「ま、まだ全然できていないから」
やんちゃな二人に振り回されていると。
ふと、のしかかっていた二人の重さがなくなった。
「こーら、二人とも! 千早の邪魔しない!」
「ぎゃー! りっちゃん!」
「ごむたいなー!」
眉間にしわを寄せた律子が、二人を私から引き剥がしていた。
「大丈夫よ、律子」
「そう? 何やら行き詰ってるみたいね」
「いざ歌詞を書くとなると……言葉ってなかなか出てこないものね」
「商用作詞なら兎も角、本当の想いを歌にするのは難しいわよね」
二人の襟をつかんだまま、律子は笑う。
掴まれた二人も、文句を言いつつ笑う。
「思ったことそのままずばーっと歌詞にしちゃえばいいじゃん!」
「亜美、それが出来たら千早も悩まないわよ」
「じゃあ真美も手伝う! 千早お姉ちゃんはどんな歌にしたいの?」
「どんな歌に……そうね」
私が歌詞に籠めたいのは。
「春香に教えてもらったこと……春香に伝えたいこと」
「春香ってあの病院のお姉ちゃん?」
「千早お姉ちゃんってば、ほんとにはるるん好き好き人間ですなー」
「まぁた真美は人に勝手にあだ名付けて……」
「ふふふ、いいんじゃないかしら。あの子なら喜ぶわ」
はるるんなんて、あの子らしい可愛いあだ名。
誇らしげな真美を尻目に。
律子はため息をついてから、私を見た。
「なら、天海さんに会いに行ってあげたらどう?」
「春香に?」
思いもよらぬ提案が、耳に飛び込んできた。
「ここ最近、それに集中してて病院行ってないでしょ」
「言われてみると……」
「天海さんと会ってゆっくりすれば、少しずつ考えもまとまるかもしれないし」
確かに最近、あまり病院に行っていない。
「千早は一回悩むと、外に目がいかなるところがあるわよね」
私もだけど、と呟く声が聞こえる。
律子に言われて気付いた。
たまに会いには行っているけれど。
最後に春香とゆっくり向き合ったのはいつだっただろうか。
ノートを受け取った時?
みんなと涙を流した時?
「亜美も行く!」
「真美も真美も!」
「何言ってるの、二人とも邪魔しないの!」
「えーっ!?」
「なんでー!?」
「あんた達、今までの話の流れ分かってた!?」
「ごめんなさい、二人とも。行ってくるわ」
ぽんぽんと二人の頭を撫でる。
二人とも口をへの字にしつつも、渋々納得したようだった。
「今度は亜美達も行くかんねー!」
「抜け駆けは許さないっしょ!」
「はいはい。その時は一緒に行きましょう」
もう、可愛い頬を膨らませて。
何気ない幸せを背にして、事務所を出た。
春香の病室に入ると、思わぬ先客がいた。
「あら、千早ちゃん」
「あずささん、どうしてここに?」
小さな寝息をたてている春香の横で。
丸椅子に腰かけたあずささんが、にこにこと振り向いた。
「時々お見舞いに来てるのよ」
「お知り合いだったんですか?」
「うーん、お話ししたことはないけれど」
あずささんは頬に手をやり、考え込むように首を傾けた。
「春香ちゃんは、私たちのことをよく知っているんでしょう?」
「はい」
私が事務所で感じたこと。
みんなと共有した感情や経験。
それらを全て聞いてきた春香は、もう一人の私と言ってもいい。
「それに、仲良くしたいと思って……くれていたのかしら?」
「……はい」
事務所のことを聞くたびに。
春香は自分もその輪の中に入りたいと思っていたのだろう。
夢のノートにもそんな日々を書き連ねて。
「みんなの話をするたびに、目を輝かせていました」
誰かが体調を崩せば心配して。
誰かが前に進めば手を打って喜んで。
まるで、友達のことのように。
「なら、今度は私たちがお話を聞いてあげないと」
「きっと、春香ちゃんも話したいことが沢山あるんじゃないかしら」
あずささんは春香を見て微笑んだ。
「私たちのことをよく知っていて」
「こんなに辛い中で、私たちと仲良くしたいと思ってくれて」
あずささんが優しく春香の頬を撫でる。
慈しむように、優しく優しく。
春香を見つめるあずささんの目は、僅かに潤んでいた。
「私たちも春香ちゃんと、お友達になりたいの」
「というより、どうしてか他人には思えないのよ」
「ずっとずっと……一緒にいたみたいで」
あずささんがそう呟いた時。
病室の扉を、誰かがノックした。
「入っても大丈夫ですか?」
確認してから恐る恐る入ってきたのは、萩原さんだった。
急須と湯呑が載ったお盆を持って。
「あ、千早ちゃんも来てたんだ」
「萩原さんも一緒だったのね」
「だって、あずささん一人だと……」
「あ、あら?」
「……ふふふ、なぁんて。私も春香ちゃんに会いたくて」
そう言って、三人で小さく笑った。
「二人のお邪魔しちゃ悪いよね」
「そんな、気を遣わなくても」
「いいのよ。私たちも結構ゆっくりしちゃったから」
「このお茶、二人で飲んでね。それと……」
そう言って、萩原さんは鞄から小さな箱を出した。
「貰い物だけど、和三盆。すっごくお茶に合うから」
「ありがとう、萩原さん」
「春香ちゃんって、甘いもの好きかな?」
「好きだと思うわ、お菓子作りが趣味ですし」
「わあ……。だったら今度、和菓子も作ってくれないかな」
あれこれと妄想を膨らませる萩原さん。
ええ、きっと美味しい和菓子を作ってくれるわ。
自分のお菓子を萩原さんに食べてもらいたい、と言っていたから。
「それじゃあ、私たちは行くね」
「千早ちゃん、また事務所でね」
「はい。あずささん、萩原さん、また」
「うん、またね。ってあずささん、入り口はこっちですぅ!」
「あ、あらあら?」
慌ててあずささんの服を引っ張る萩原さん。
ふふふ、どこであっても賑やかな事務所。
こんな中に春香まで増えたら。
それはそれは、きっと大変なことになるわね。
「それじゃあ、萩原さんのお茶とお菓子をもらいましょうか」
春香に声をかけると、すぅすぅと返事があった。
全く、春香ったら寝坊助なんだから。
おぉ投下されてた
春香のまわりがさびしくなくていいねぇ
捕手
ほ
ダメかぁ
あ
「真美があなたのこと、はるるん、ですって」
あの自慢げな表情を思い出して。
思わず、笑みがこぼれた。
「可愛いあだ名ね、はるるん」
そう、優しく呼びかけるけれど。
勿論、春香の寝息は変わらなかった。
彼女は変わらず、リズムを刻む。
すう、すう、すう、すう。
その寝顔は、とてもとても穏やかだけれど。
春香。
眠りの中のあなたは。
今も、まだ泣いているの?
!!??!?
これ依頼されてなければセーフだっけ
依頼されてても(実際されてたが)処理されなきゃセーフよ
最近の運営ぜんぜん仕事してないからヨユーヨユー
ということでおかえり>>1
胃に悪いからどうかこれっきりにしてくれ
うおお…絶望的だと思ってたら更新されてた
どうか出来れば完走してくれ
ほ
ほしゅ
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