有栖川夏葉「Libra」 (14)


全身から出た汗はトレーニングウェアを上下の区別なく、ぐっしょりと濡らす。

鉛のように重くなったシャツは背中にはりついていて、格別の気持ちの悪さを誇っていた。

ダウンを済ませて、早いところシャワーを浴びなければ。

使用した筋肉を一つ一つ丁寧に伸ばし、アイシングをしていく。

その作業に没頭していると、不意に視界が塞がれる。

何者かの手によって頭の上からタオルをかぶせられたらしい。

「もう。何?」と抗議しながら、片手でそれをはぎ取って、仰け反るようにして背後を見やる。

そこには私を担当するプロデューサーがいた。


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「お疲れ様。夏葉」

「あら、プロデューサー」

「今日も精が出るな」

「当然でしょう?」

「クールダウンは終わったか?」

「ええ」

「じゃあすぐにシャワーを浴びること。風邪引くぞ」

「そのつもりよ。でも」

「乾拭きとモップがけは俺がやっとくから、ほら、行った行った」

「……じゃあお言葉に甘えるわ。ありがとう、プロデューサー」

「お安い御用だって」

 プロデューサーはにこりと微笑んで、清掃用具の入っているロッカーに向かう。ぼんやりとその様を眺めつつ立ち上がり、レッスンルームを後にした。


更衣室に置いておいた自身の鞄から着替えとタオルを取り出して、代わりにぐしょぐしょのレッスンウェアをしまう。

そうして、併設されているシャワールームに入った。

シャワーから流れる水の温度を指の先で二度、三度と確かめたあとに、一思いに頭から浴びる。

全身の汗が洗い流されていく、すっきりするこの瞬間は最後のご褒美のようで嫌いではない。

シャワーを浴び終えて、着替えに袖を通し、髪を乾かしていると、携帯電話にメッセージが届いた。

送り主はプロデューサーからで、ただ一言『出たとこに車つけて待ってる』とある。

彼にとっては、もう既に送っていくということは決定事項らしい。

遠慮の余地くらい残してくれてもいいのに、と少し呆れつつもまたしても私は厚意に甘えることにする。

さて、送ってもらうのであれば、あまり待たせるのも忍びない。

手早く支度を済ませるとしよう。

レッスンスタジオを出て、空を見上げる。薄紫色の空には月が登っていた。

目の前の黒いセダンが軽くクラクションを鳴らす。

私が駆け寄ると、助手席の窓がゆっくりと降りて、プロデューサーが「慌てなくてもいいのに」と笑っていた。

私がシートベルトを締めたことを確認すると、プロデューサーはアクセルを踏み、車はゆるやかに走り出す。それからしばらくして、彼が口を開いた。

「今日、何かあったのか」

「何か、って何かしら」

「何かは何かだよ。俺には夏葉が落ち込んでるように見えたんだけどな」

「何もないわ。いつもどおりレッスンがあって、その後に自主レッスンをしていただけよ」

「言えないようなことなのか」

深刻そうな顔つきで、プロデューサーが言う。

はぁ、とため息を一つ吐いて、観念するしかないことを悟る。

どうしてこうも目聡いのだろうか。


「何でもないことなのだけれど」

「ああ」

「レッスンのときに、少し厳しいことを言ってしまって」

「ユニットの子たちにか」

「……ええ」

「でもそれは間違ったことは言ってないんだろ?」

「そうね。でも、言葉は選べたかもしれないわ」

「なるほどなぁ。……俺はその場にいたわけじゃないから、よくわかんないんだけどさ、一つだけ言えることがある」

「何?」

「そんなに気にしなくても大丈夫だ」

「……私、昔にも同じような失敗してるのよね」

「聞いても?」

「ええ、でもあまり気持ちの良い話ではないわよ」

そう前置いて、私はぽつりぽつり、とかつての失敗を語り始めた。


◆ ◇ ◆ ◇ ◆


高校生活も残り僅かとなった三年生の秋のことだ。

偶然居合わせたクラスメイトと共に帰路を辿るなかで、友人が受験への不安を口にした。

そこに私が返した私の言葉が良くないものだったようで、友人の表情は曇る。

「だって、不安がっていても始まらないでしょう? 私たちは勉強する他ないのだから」

付け加えたこの言葉も良くなかったのだろう。

友人の表情は一層曇ってしまい、私たちの間には重苦しい沈黙が流れる。

少しの後、友人が「夏葉ちゃんはさ」と言った。

「夏葉ちゃんはさ、いいよね」

「いい、ってどういう……」

「だってそうでしょ? 夏葉ちゃんはお金持ちだし、かわいいし、スタイルいいし、勉強できるし、スポーツだって上手だし、きっとウチみたいな凡人の気持ちはわかんないと思う」

「何言ってるのよ。アナタが今挙げたもの、家が裕福なこと以外は当然じゃない」

「…………は?」

「だって、私、そのための努力をしているもの。勉強だって、毎日のトレーニングだって、私が私のためにしていることよ」

言い終わると、彼女はぽかんとして、そのあとで目にいっぱい涙をためて「そういうことが言いたいんじゃない」と声を震わせながら叫び、走り去ってしまった。

そして私は後になって、彼女はただ一言「そうね」という同調の言葉が欲しかっただけなのだ、と知るのだった。

苦い思い出話を聞いてくれた私のプロデューサーは、一瞬だけ考え込むようにして、その後で笑顔を作る。

「話してくれてありがとう」

「プロデューサーがその子の立場だったら、私のこと、嫌いになったかしら」

「……俺はその子じゃないからわからないけど、今日の夏葉はそのときと同じ失敗をしちゃった、ってことなのか?」

「……そうなるのだと思うわ」

「そうか」

「他人に自分と同じかそれ以上の熱量を求めるなんて、良くないわよね」

彼はまたしても笑顔を作って「それは違う」と言う。

「確かに、どれだけ頑張れるかなんてのは人それぞれかもしれない」

「やっぱりそうよね」

「でも、それと今日の話は別だと思うぞ」

「どういうこと?」

「あんまり見縊るな、ってこと」

「……?」

よく意味がわからず、首を傾げる私に、プロデューサーは「その内わかる。だから大丈夫」と言う。

根拠のない慰めは気休めにもならないはずなのだが、どうしてか彼が大丈夫、と言えば大丈夫な気がしてくるから不思議だ。

それに、話して言語化したことで、気持ちの整理がついたことは確かで、先ほどよりは幾分か気持ちが軽い。

「ほら、着いたよ」

彼が視線で外を示して、次いでドアのロックを解除してくれる。

シートベルトを外し、ドアを開いて、降りる。

アスファルトにパンプスが当たって、こつんと軽い音が鳴った。

「今日はわざわざありがとう。少し気が晴れたわ」

「だから言ったでしょ。お安い御用だって」

「ふふ、ありがとう。それじゃあ」

「ああ、おやすみ。また明日な」

「おやすみなさい」

ばたん、ドアを閉じると、車はゆるやかに走り出す。

私はその後ろ姿が曲がり角に消えるまで見届けて、自宅へと入った。


明くる朝、私はいつもより早く目が覚めた。

充電器に接続されている携帯電話を操作して、アラームを解除する。

布団を捲り上げ、上体を起こし、そのままベッドから立ち上がった。

一言「カトレア」と呼ぶと、愛犬であるカトレアも起き上がって、私の後ろをとてとてついてくる。

フローリングとカトレアの爪とが当たって奏でられる軽快な音は耳に心地良い。

カトレアの餌皿に朝食を入れてやったあとで、支度に移った。

脳内で今日の予定を反芻する。

午前中に簡単な撮影が一件、終わり次第、ユニットメンバーとのレッスンに合流のはずだ。

昼食は時間次第となってしまいそうだが、それも仕方あるまい。

支度と散歩を終えた私は、玄関まで見送ってくれるカトレアにお礼を言いつつ支度を出た。

携帯電話を取り出し、プロデューサーに現場へと直行する、という旨のメッセージを送る。

すぐに『了解。よろしくな。頑張れ』と簡素な返事が戻ってきて、口角が上がってしまったのを自覚する。

心の中で「言われなくとも」と返して、歩調を速めた。


それから、つつがなく撮影は終了し、スタッフの人たちに挨拶をひととおり済ませたのちに、現場を後にする。

手首を返して時刻を確認すると、もう既に正午に差し迫っていた。

やはり昼食を摂っている時間はなさそうだ。

今朝覚悟していたとはいえ、がっくりとしてしまう。

さらに、昨日厳しいことを言ってしまったせいで顔を合わせ辛いことも相まって、足取りは重い。

しかし泣き言ばかりも言ってはいられない。

レッスンルームではユニットの仲間がレッスンに励んでいるであろうし、今日のレッスンは次のライブでの振付の合わせも兼ねると聞いているため、私が合流しなくてはいつまで経っても始められないだろう。

ふぅ、と強く息を吐きだして、停車しているタクシーに乗り込んだ。

レッスンスタジオに到着して、入館手続きをして、更衣室ロッカーの鍵をもらう。

もらった鍵を手に更衣室へ向かい、ロッカーへ荷物を押し込んで、手早くトレーニングウェアへと着替えた。

タオルとドリンクを手に、仲間の待つレッスンルームのあるフロアへ行くと、既に廊下に、きゅっきゅっ、というダンスシューズと床とが打ち合う音が響いていた。

覚悟を決め、ドアノブへと手をかける。

勢いよく開くと、全員の動きが止まって私に視線が集まった。

「あー! 夏葉さん! お疲れ様です!」

私が何か言う前に、ユニットの中で最年少でありながらリーダーを務める、元気溌剌を絵に描いたような女の子、果穂が声をかけてくれた。

「お疲れ様。遅くなって悪かったわね」

そう言って、アップに移ろうとする私を見て果穂はにへーっと歯を見せたのち、他のユニットメンバーの方に向き直る。

「すごいすごい! 樹里ちゃんの言ったとおり!」

「はい。樹里さんの、……予言どおりでございました」

「な。言っただろ? ほら、果穂、渡してきてやれよ」

「えー、でもでもっ、それは樹里ちゃんが渡した方がいいと思います!」

やいのやいのと騒いでいる四人の話題が読めず、私はその様を眺めているしかなかった。

しばらくして、何かしらの話し合いがまとまったようで、レッスンルームの端に置かれていたコンビニエンスストアの袋を果穂が拾い上げ、それを一人に手渡す。

手渡された、金色のショートヘアが特徴的な少女、樹里は何やらやや不服そうな面持ちで、こちらに近づいてきて「ん」と言って、袋を差し出した。

よくわからないままに受け取って中を確認する。

サンドイッチが入っていた。

「これは?」

「ここ来るとき、チョコと凛世と偶然一緒になってさ。そんで夏葉の話になって、まぁ流れだ」

「流れ?」

「どうせ、夏葉はアタシらのこと待たせないように昼食べずに来るんだろうな、って話してて……ってもう察しろよ!」

「…………ぷっ、ふふ、あはは」

堪えきれず、吹き出してしまう。

「なんだよ。おかしいかよ」

「いえ、ありがとう。嬉しいわ」

「それと、覚悟しろ。今日のアタシらは一味違うからな!」

樹里が言うのと同時に、後ろの面々が謎のポーズを構え、その中央で果穂が仁王立ちをする。

ぽかんとしている私に追い打ちをかけるように、仁王立ちをしている果穂が小走りで近付いてきて「あたしたち、特訓したんです!」と高らかに宣言した。

「昨日の帰りに四人で話したんだ! ね、凛世ちゃん!」

「はい。特訓、致しました」

「明日は夏葉さんが合流したらびっくりさせるぞ! って決めていっぱいいっぱい朝から練習しました! もうばっちりです!」

「……まぁ、そういうわけだ。ほら、早く食えよ」

照れ臭そうに首の後ろを手でかきながら言う樹里だった。

プロデューサーが言っていたのはこういうことだったのだろう。

――あんまり見縊るな、ってこと。

昨日の彼の言葉を思い返す。

どうやらいらぬ心配を私はしていたらしい。

もらったサンドイッチを飲みこんで立ち上がり、ダンスシューズを鳴らす。

「水臭いわね。そういうのは私も混ぜなさい?」

「だーかーらー、お前を驚かせる、っつってんだろ! 食ったら早くアップしろよな!」

仲間の顔を見渡す。

ああ、この仲間となら。




そう、私は確信したのだった。



おわり


いいねえ

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