【バンドリ】さあやとサアヤの話 (189)
よくある入れ替わりの話です。
小説版のネタバレ要素があります。
少し長いです。
SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1558747960
1
気が付くと彼女は電車の長椅子に座っていた。
ガタンゴトンと、車両がレールのつなぎ目を超える音。それ以外に音はしない。窓の外からは眩いばかりの白い光が射しこんできていた。そのせいで外の風景は見えない。
視線を左右に巡らせる。車内には彼女の他に人の姿がない。
ガタンゴトン。
幾度目かのその音を耳にしながら、彼女は考える。はて、どうして私は電車に乗っているんだろうか。
学校へ行くため? いや、学校へは電車は使わない。
じゃあどこかへ出かけるため? いや、そんな用事があっただろうか。
そもそも、自分はいつ、どうやってこの電車に乗ったのか。それをまるで覚えていない。
人のいない車両。まるでこの車内だけで世界が切り取られてしまったかのような空間。
ふと、彼女は自分の対面の長椅子に人影が現れたことに気付く。
窓からは変わらず白い光が射している。対面の人物も逆光になっているから、その姿は見えづらかった。
眩い光に負けないように、目を凝らしてみる。あちらもそうしているのだろうか、逆光の黒い影がやや前かがみになっていた。
――もう少し、もう少しで見えそう。
そう思ったところで、フッと白い光の中にその人物の姿がくっきりと浮かんだ。彼女はそれに驚いた。
電車の長椅子。その対面には、まるで鏡を見ているかのように、自分の驚いた姿があった。
え、なにこれ。
思わず口から呟きが漏れたところで、彼女の視界はブラックアウトした。
2
「う、ん……」
ベッドの枕元でけたたましいアラームの音が鳴っている。それに意識が段々とはっきりしてくるのを山吹沙綾は感じていた。
目を瞑ったまま、枕元の音源に手を伸ばす。スマートフォンの感触が手にあった。手探りで端末のサイドボタンを探し、それを押し込んだ。アラーム音は止み、部屋の中には静寂が訪れる。
「んー……今日ってなんか予定あったっけ……」
まだ目を開かないまま呟く。
今日は日曜日。ポピパのみんなと遊びに行ったのは二学期が始まってから間もないことで、もう九月も終わる今週の休日は特に何も予定がなかったはずだ。そういえば昨日遅くまで香澄とメッセージのやり取りをしてたなぁ、その時に何か約束でもしたのかも。
そう思い、沙綾は目を開く。薄ぼんやりとした視界が徐々に鮮明になっていく。
「えっ……?」
そして部屋の景色がはっきりと見えるようになったところで、彼女の口から驚いたような呟きが漏れた。
ガバッ、とベッドから身を起こす。そして室内を見回す。そこは見慣れた自分の部屋ではなかった。
「えっ!?」
基本的な部屋の間取りは同じだけど、置いた覚えのないものがやたらと目に付く。
それはアコースティックギターだったり、壁に貼られたロックバンドのポスターだったり、ベッドの枕元に置かれた三つの時計だったり……とにかく、自分の部屋とは似ているけれど、確実に自分の部屋ではない場所で沙綾は眠っていたのだった。
「…………」
言葉が出ない。私はどうして知らない部屋にいるんだろう、眠っている間に何があったんだろう、そういえば変な夢を見たような気がする……と、関係のないことに思考が逸れ始めた時、
――ピピピ!
「わっ!?」
手に持ったままだったスマートフォンが震え、何かの通知音を流す。よく見れば、その手にしている物も自分が持っている物と違うものだった。
その画面にメッセージアプリの通知が表示されていた。
「……見ていいのかな、これ」
明らかに自分の物ではないスマートフォン。だけど、いくら室内を見回してもその持ち主となる人物は沙綾以外見当たらない。状況がてんで分からないけれど……多分見てもいいんだろう。
そう思ってアプリを開く。グループトーク……『ポピパ』。メッセージの送り主は……戸山香澄。見慣れた名前に少し安堵して、ちょっと落ち着いた。
自分が置かれている状況が全然飲み込めないけれど、とりあえずこのスマートフォンの持ち主の名前を調べよう。もしかしたら昨日、知らないうちにポピパかチスパの誰かの家に泊まるような流れになっていたのかもしれない……いや、冷静に考えるとここはほぼ見覚えがあるようでまったく無い部屋なんだけど、それはひとまず置いておこう。
一つ息を吐いて、沙綾はアプリのプロフィールを開く。そして混乱した。画面には『山吹沙綾』という名前が表示されたからだった。
沙綾はしばらく放心した。脳裏には次から次へと取り留めのない思考が浮かぶ。沙綾。うん、私は山吹沙綾。当たり前のことだ。じゃあこの部屋も沙綾のものであってスマートフォンも沙綾のものだから、つまり、そう、これは大掛かりなドッキリをポピパのみんなが仕掛けたのかな? あはは、みんな悪戯好きだなぁ……。
(いや、そんなことを考えてる場合じゃないでしょ)
とにかく落ち着かなければならない。
何がどうなっているかは分からないけれど、このスマートフォンが『山吹沙綾』のものだというのははっきりした。そしてこの部屋も『山吹沙綾』のものであるだろうことも分かった。よし、ここまで分かれば……うん……うん。
「つまりどういうことなの……?」
やっぱり沙綾は何も分からなかった。
それから十分ほどあーでもないこーでもないと頭を悩ませて、最終的に沙綾が行きついたのは、誰かに電話をしてみよう、ということだった。
幸い自分の……多分、自分のスマートフォンにはポピパのみんなの連絡先があった。チスパや他のバンドの人のは見当たらないけれど、とにかくポピパの連絡先さえあればどうにでもなるだろう。きっと。
「こういう時に頼れるのは……」
消去法で考えてみよう。
まず、おたえ。申し訳ないけど、こういう時にはまったく頼りにならない気がする。「起きたら知らない部屋に……? お泊りしたの? 私も行きたかったなぁ」なんて言われて話が噛み合わないだろう。
次、りみりん。多分、私以上にテンパっちゃうと思う。もしかしたらアワアワするりみりんの声を聞けばそれで冷静になれるかもしれないけど、りみりんに変な心配をかけるのはちょっと申し訳ない。
次、香澄。……真剣に話は聞いてくれそうだけど、なんだろう。解決に持っていけるビジョンが浮かばない。「よく分かんないけど、とりあえずさーやの家に行くね!」って言われそう。いやいや、起きたら自分の部屋じゃなかったから私は困惑しているわけで……。
最後、有咲。
「……有咲だね」
口では色々言うけど友達想いだし、こういう時も……香澄とおたえの天然な言葉じゃなきゃ、きっとすぐに信用して親身になってくれるだろう。何かいい助言を貰えるかもしれない。
沙綾は一つ頷いて、有咲の連絡先を探す。
「有咲……えーっと、市ヶ谷……あったあった」
連絡先に市ヶ谷有咲の名前を見つけ、沙綾は発信ボタンをタップする。そしてスマートフォンを耳に当てる。呼び出し音が一回、ニ回、三回……そこで電話がつながる。
『はいはーい。おはよー、沙綾』
「あ、朝からごめんね?」
『ううん、別に。かすみんが早く来るって言ってたしね、あたしも早めに起きてたし』
「……?」
電話越しの声は確かに有咲のものだった。けれど、なんだろう。拭えない違和感があった。
かすみん、という呼び方。それが指す人物はきっと香澄のこと……だと思う。あの有咲がそんなあだ名で香澄のことを呼ぶだろうか。というか、いつもよりも随分と落ち着いた調子の声のような気もするし……。
『どうかしたの、沙綾?』
「あ、う、ううん、なんでも……」逸れかけた思考が有咲の声で軌道修正される。そうだ、今はそれよりも自分のことだ。「……いや、なんでもってことはないんだけどさ」
『え、何かあったの? 大丈夫? 家のこと?』
「え? いや、違……わないこともないけど、違うかなぁ?」
『……なによそれ。はぁ、まったく……ボケナスはりみだけで十分よ。おたえとかすみんも普段はアレだし、せめて沙綾だけはシャンとしてて欲しいわ』
「……うーん?」
その言葉に違和感が拭いきれなくなってしまった。香澄とおたえに対してならともかく、りみに対して有咲が「ボケナス」などと言うことがあるだろうか。……あのテストの一件からりみに対してずっと優しくなった有咲が、こともあろうか「ボケナス」呼ばわりなんて……。
『それで、どうしたのよ? 沙綾も時間、早くなったり遅くなったりするの?』
「……あー」
電話越しの声を聞いて、沙綾は考える。拭えない違和感もあるけれど、とにかく有咲は有咲であって、ポピパのみんなの名前を口にしていた。なら、自分が今頼れる人物はこの有咲だけだろう。
そう思って、口を開く。
「あの、さ。今からちょっと変なこと言うけど、信じてくれる?」
『……まぁ、よほど突拍子のないことじゃなきゃ信じるわよ?』
「そっか。じゃあ言うね?」これ、よほど突拍子のないことになるだろうなぁ……と思いながら、沙綾は続きの言葉を口にした。「なんていうか、起きたらまったく見知らぬ場所にいたんだけど、どうしたらいいと思う?」
『…………』
「…………」
『……はぁっ?』
だよね、そういう反応になるよね。沙綾はそう思いつつ、言葉を続ける。
「その、本当なんだよ? 部屋の間取りは同じなんだけど、やたらと部屋に見慣れないものがあるっていうか、なんていうか……」
『もしかして寝ボケてる?』
「いや……ちゃんと起きてる……多分」
『あんたの家族構成は?』
「え? なんで今さら?」
『いーからさっさと吐きなさい』
「……そりゃ、父さんと母さん、それに私と純と紗南だけど」
『オッケー、重症だわあんた。ちょっとその場に留まってなさい。今、自分の家よね?』
「えっ、あ、えーっと、多分?」
『ん。絶対その場を動かないこと。いいね。かすみんたちにはあたしから言っとくから、沙綾はその場で待機!』
「あ、うん」
『所要時間は……まぁそんなかかんないかな。ちゃんと大人しくしてるのよ。それじゃ』
という言葉のあと、ブツッ、という音がスマートフォンから響く。
「……切れちゃった。大人しくしてろって言われたし……まぁ、今このワケ分かんない状況で部屋から出るのも怖いし……有咲が来るの待ってるしかないかぁ」
でも、有咲の声を聞いたら少し落ち着いたな。沙綾はそう思い、見慣れないベッドに再び寝転がるのだった。
それから約二十分後のことだった。コンコン、という部屋の扉がノックされる慎ましい音を聞き、ぼんやりと物思いに耽っていた沙綾はベッドから身を起こす。
「えっと、どうぞ?」
多分ここは自分の部屋なんだろうけど、まだイマイチ確証がもてなかった。曖昧な返事を扉にすると、すぐにガチャリとそれが開かれる。そして、
「さ、沙綾ちゃん、大丈夫!?」
「え?」
パッと部屋に飛び込んできたのは、見覚えのない女の子だった。
歳は沙綾と同じくらいだろうか。少し茶色がかった髪の毛は肩甲骨の辺りまで伸ばされていて、頭のてっぺんと耳との間くらいで、ネコミミのようにこんもりと丸く盛られていた。
まるで香澄の髪型みたいだな、なんて思っていると、続いてもう一人の人間が部屋に入ってくる。
「あーもう、そんなに慌てなくても多分大丈夫よ。どうせ寝ぼけてるだけでしょ」
やれやれ、と今にもため息を吐きそうな表情のその人物も、沙綾と同じくらいの歳の女の子だった。綺麗な金色の髪をツインテールで括っていて、前髪は眉毛の上あたりで切り揃えられている。肌の色も白くて綺麗だ。
「ど、どこか調子悪い……? 熱とかない? 大丈夫?」
「え、えっと……?」
香澄に似た髪型をした女の子は、愁眉をあつめた顔で沙綾に詰め寄る。それに沙綾が困惑したような態度で返すと、いよいよ泣き出してしまいそうに顔が歪んでいく。
「はいはい、心配なのは分かるけど詰め寄んないの。ごめんね、騒がしいのを連れてきちゃって。本当はあたし一人で来るつもりだったんだけど途中にバッタリかすみんと出くわしちゃってさ」
そんな女の子の首根っこを捕まえて、今度は有咲に少し似た女の子が沙綾の前に躍り出た。それにもやっぱり沙綾は首を傾げるしかなかった。
「んで、沙綾」
「あ、はい」
「…………」
「…………」
淡い緑に近い色をした双眸が沙綾を射抜く。沙綾は『そういえば私、パジャマ姿だったな』なんて今さらのように自分の身なりが気になりだす。
「……沙綾よね?」
「えっと、うん。私は山吹沙綾だけど」
せめて髪の毛くらい括ろうか、と思ったところで、金髪ツインテールからそんな言葉を投げかけられ、沙綾は曖昧に頷く。
「ふぅん……」それを見て金髪ツインテールっ子は少し何かを考えるような顔をした後、再び口を開いた。「質問。あなたの家のパン屋さんの名前は?」
「え?」
「いいから答えて」
「あ、えっと、やまぶきベーカリー?」
何を当たり前のことを聞いているんだ、と思いつつ沙綾が答えを返すと、どうしてか香澄に似た女の子がくしゃりと更に泣きそうな顔になった。
「兄弟の名前は?」
「……弟が純で、その下の妹が紗南」
それに首を傾げながら、沙綾は質問に答える。
「通ってる学校の名前は? 全日制? 夜間?」
「花咲川女子学園で、全日制だけど」
「……あなたが所属してるバンドは? 何を担当してる?」
「Poppin'Party、ドラム担当」
「りみはあんたのことをなんて呼んでる?」
「りみりん? 普通に沙綾ちゃんだけど」
「……おたえは?」
「沙綾」
「…………」
「……あの」
「最後。かすみんがあんたと出会ったきっかけは?」
「え?」
「かすみんよ、戸山香澄。ほら、そこにいるでしょ」
言われて金髪ツインテールの指さした方を見ると、もう涙が今にも零れてしまいそうなほど瞳に溜まったネコミミ――いや、確かアレは香澄曰く星だったな――の少女がいた。
「香澄と私がって……入学式の日に、偶然ぶつかっちゃったのがきっかけだけど……」
「っ……!」
「え!?」
そう言い終わるが早いか否か、とうとうネコミミ少女の瞳からポロリと涙が落ちた。それに沙綾は戸惑う。何かこの子を傷付けることを言ってしまっただろうか、どうしよう、謝った方がいいのかな、でも何を謝れば……。
「それで、あんたさ」
戸惑う沙綾、涙を流すネコミミ少女。その二人と対照的に、金髪ツインテールは何も変わらない調子で言葉を続ける。
「今日、起きてから鏡とか見た?」
「か、鏡? 見てないけど」
「そう。じゃあこれ。あたしの手鏡、ちょっと覗き込んでみて」
「え、でも……」
「いーから」
「……分かったよ」
傍で涙を流す少女を放っておくのは心苦しい。けれど、金髪ツインテールからの強い言葉に不承不承、沙綾は差し出された手鏡を覗き込む。そして驚いた。
「……誰これ」
手鏡に映っていたのは、淡い亜麻色に近い髪の毛をした、どことなく山吹沙綾に似たような、見たことのない顔だった。
「……はぁー……なんとなく分かった」
「え、何が……?」
「沙綾がどうなったのかが。ほんと、ジョーシキで考えたら有り得ないことだけど」
「え、本当?」
「ええ」
「そうなの? えーっと……」
「有咲。市ヶ谷有咲」
「あ、やっぱり有咲なんだ……。じゃあ、こっちの子が……香澄」
「さぁやちゃぁぁん……えぐっ、ぐす……」
「なんでかすみんはそんな泣いてんのよ」
「だってぇ……沙綾ちゃんがぁ……」
「大丈夫よ、あんたが考えてるだろう笑える悲劇は多分ないわよ」
「ほんと……?」
「ええ。別に病気になったり頭パッパラパーになったりした訳じゃないわ。ほら、昨日みんなで話してたでしょ?」
「昨日の話?」と、沙綾とトヤマカスミの声が被る。
「そう。そっちのサアヤは知らないだろうけど、たらればの話。もしも生まれ変われるならみんなはどうしたい? って」
「うん……話した」
「そんで、多分、だけど」
「うん」と、再び沙綾とカスミの声が被る。
「どうしてそうなってるとか、なんでこうなったとか、そんなのは分かんないけど……今ここにいる山吹沙綾は、きっとそんな『たられば』の世界の沙綾なんじゃない?」
「……はぁ?」
「……えっと?」
いまいちピンと来なかった沙綾は首を傾げた。床にへたり込んでいたカスミも同じように首を傾げる。
「だから……えぇっと、並行世界……パラレルワールドって分かる?」
「SF映画とかであるような?」
「そう、それ」
「え、えっと……?」
「かすみんは分かってないみたいね……。簡単に言うと、ここではない別の世界のことよ」
「う、うん……?」
その言葉を聞いたカスミは、曖昧な声を出しながらなんとなく、という風に頷いた。本当に香澄なのかな、この子……と沙綾が思う横で、アリサは大仰なため息を吐き出す。
「絶対分かってないわね……。それじゃあこう! このただっぴろい宇宙のどっかに地球と似た星があって、そこにはあたしたちに似てるけど、全然まったく違うあたしたちがいるかもってこと!」
「……なんとなく分かった……と思う」
「ん。そんで、この沙綾の中にいるのはその世界の沙綾なんじゃない? ってことよ」
「…………」
「…………」
アリサからの言葉を受けて、沙綾とカスミはしばらく黙り込み、それからしばらくして、「ええ!?」という驚きの声を同時に上げた。
「えーっと、つまり私は何らかの原因で違うポピパのみんながいる世界に来ちゃったってこと……? でもどうして……」
「さ、沙綾ちゃんは!? わたしたちの知ってる沙綾ちゃんは無事なの!?」
「あたしが聞きたいわよ、両方とも。とりあえず落ち着きなさい、かすみん」
独り言のように呟いた沙綾と詰め寄ってきたカスミに対して、アリサは呆れたような口調でそう返す。
「それで……サアヤ」
「あ、うん、なに?」
「……意外と落ち着いてるわね、あんた」
「うーん、落ち着いてるっていうか……未だに私自身、そのパラレルワールド? っていうのに実感がないっていうか……」
「そう。まぁ取り乱して暴れたりって方が厄介だしその方がいいわ」コホン、とアリサは一つ咳ばらいをする。「それで、これはあたしの勝手な推測なんだけど」
「うん」
「多分、こっちの沙綾とあっちのサアヤ……つまり、あんたね。この二人が入れ替わっちゃったんじゃない?」
「え、どうして!?」と、驚いたような声を出したのはカスミだった。
「たらればの話なんてしたせいでそれが本当になっちゃった……とか? まぁ憶測よ、憶測。こういう映画やドラマのストーリーなんてそういうもんだし。なんか心当たりとかない、サアヤ?」
アリサの言葉を聞いて、沙綾は考える。昨日していたことはお店の手伝いと、それから夜遅くまで香澄とメッセージのやり取りをしていたこと。あとは……
「夢……」
「ん?」
「そういえば、変な夢……見たなって」
「どんな夢?」
「えーっと、なんだろう……人が全然乗ってない電車に乗ってて、それでいつの間にか対面に人が座ってて……よく見るとそれが自分自身で、鏡を見てるみたいにびっくりした顔でお互いを見合ってた……って夢?」
「……変な夢、だね……」
「うん……」
「まー夢なんてそんなもんでしょ。でも、それが何らかの形で関係してるなら、本当に入れ替わってそうね」
「そうかなぁ……?」
と首を傾げたカスミにアリサは向き直り、ピッと人差し指を立てる。
「そうよ、かすみん。いーい? まず、ここにいるサアヤはその夢で自分の姿を見たのよね?」
「うん、そうだね」
「ということは、もうその時には入れ替わってたのよ。だからあんたは自分の姿が目の前にあって、そんでこっちの世界の沙綾も同じく、対面に自分の姿を見て驚いた……ってワケ」
「あー……それなら辻褄が合う、かも?」
「フツーに考えたらありえない空想だけどね。でも、サアヤが嘘をついてるようには見えないし、多分そんな風になってるんじゃない?」
「なるほど……大丈夫かなぁ、入れ替わっちゃったもう一人の私」
顎に指を付け、まるで他人事のように呟く沙綾。それを見たアリサは大きなため息を吐き出した。
「あんた、ホント余裕綽々ね。自分の状況分かってるの? 元に戻れる保証も何もないのよ?」
「ううん、分かってないと思う。未だに全然実感ないし、本当に他人事みたいに思えるし。けど、焦ってもどうしようもないのかなぁって思ってさ」
「そ。そりゃ賢明なことで」
「こんなに落ち着いてられるのもアリサちゃんのおかげだよ。ありがとね、親身になって話を聞いてくれて」
「……別に。沙綾に……あんたじゃないわよ? あたしたちが知ってる沙綾の方だからね? ……えっと、つまり、そう、沙綾に何かあったんじゃかすみんもみんなも悲しむからね。それだけなんだから」
「…………」
「なによ、そんなじっと見つめてきて」
「あ、ごめん。やっぱりどこの世界の有咲も有咲なのかなぁって思って」
「はぁ?」
アリサは少し肩を怒らせ、沙綾をねめつける。その姿に『やっぱり有咲っぽいなぁ』とますます沙綾は感じて思わず頬が綻ぶ。アリサは面白くなさそうな顔をして、ツインテールを靡かせながらそっぽを向いた。……ほんと有咲っぽいなぁ、この子。
「えっと……その、サアヤちゃん?」
そんな2人のやり取りを黙って眺めていたカスミがおずおずと声を出す。
「うん、なに……えーっと、カスミちゃん?」
「あの、その……」
「…………」
返事をすると、カスミはおっかなびっくりという様子で視線をあちらこちらに彷徨わせ、何か言葉を探しているようだった。沙綾はそれを黙ったまま見守る。
「そ、その……あのね?」
「うん」
「あの……サアヤちゃんはこれからどうするの……?」
「これから……あーそっか、こっちの世界の私になっちゃってるんだもんね」
「う、うん……」
「うーん、学校とかサボっちゃったら元に戻った時に苦労するだろうし……しばらくはこっちの私がしてたように生活するしかない、かなぁ」
「……その、平気? 沙綾ちゃん、お店の手伝いに弟たちの送り迎え、定時制の学校に通って、ポピパの練習とかもしてるけど……」
「多分平気……だけど、ちょっとお願いしてもいいかな?」
「え、な、なにを?」
「こっちの私がやってることは大体私もやってるんだけどさ、どの時間にどのことをやってたとか、そういうの。分かる範囲でいいから教えてくれないかな?」
「う、うん、それくらいなら……!」
「ありがと、カスミちゃん」
「ううん、これも沙綾ちゃんと……えっと、サアヤちゃんの為だから、頑張って教えるね?」
そう言って、カスミは優しく微笑む。……カスミちゃんは香澄と随分違うんだなぁ、きっとこれ以上のギャップはないでしょう、なんて沙綾はぼんやりと考えた。
なんて、つい一時間前に考えたことを、アリサの蔵に連れてこられた沙綾はあっけなく打ち砕かれた。
「ほうほうほう。つまり変わり身のジュツ、ということだな。サスガ獅子メタル殿。やることが一味違う。うちのニンジュツ・カワリックマよりも高度なジュツだ」
「え、あの、えっと……沙綾センパイがサアヤセンパイってことは……え、じゃあつまり見知らぬ人と同義ってことっすか……?」
「…………」
目の前で興味深そうな顔をして沙綾の顔を覗き込む人物。ピンクの髪留めで小さくサイドポニーを作った、何故か裸足で何故か忍者みたいに両手で印を結ぶ背の小さな女の子。
それとどうしてか怯えるように沙綾から距離を取り、カスミの背に隠れるようにビクビクしている、手足がスラリとしていて長い髪が綺麗な女の子。
「え、本当にりみりんとおたえ……?」
前者が牛込りみで、後者が花園たえ……と説明された沙綾はそう呟くことしかできなかった。
「だからそう言ったじゃない。そっちの裸足の貧乏エセニンジャがりみで、かすみんの背中に隠れてるコミュ障がおたえ」
「クラベン系女子が人を指してコミュ障などど言うとはコッケイであるな。ぷ、ぷ」
「うっさい。ほら、おたえもいい加減、かすみんを隠れ蓑にしない」
「む、む、無理っす! いきなりそんな、沙綾センパイの中身が入れ変わっちゃったって……自分、不器用なんで!」
「あ、あの、たえちゃん……そんなにギュって掴まれると洋服に皺が……」
「ああっ! ごめんなさい、ごめんなさい……!」
アリサに真っ向から向かって憎まれ口を叩くリミ。カスミの背中から一向に出てくる気配がなく、謝ってばかりのタエ。
「……ええ?」
困惑した声を上げながら、はっきりと沙綾は実感した。ここは自分の知っている世界ではないんだ、と。今さら感じたそれにやや焦りが募る。
「サアヤちゃん、大丈夫……? 顔色がちょっと……」
「あ、う、ううん、大丈夫だよ」
「……やっと実感が出てきたのかしらね」
「まぁ……うん、そんな感じ?」
やれやれ、と言った様子でアリサは肩をすくめる。しかしその表情にはどこか安心したような色が含まれていた。
「どうしたベンケー殿。いつにも増して変な顔になっているぞ」
「どういう意味よそれ」
「そのままの意味である」
「そ、う、で、す、かっ。それは悪かったわねっ」リミに対してわざとらしい口調でそう言ってから、アリサは沙綾に向き直る。「その、あたしが安心したのはね、あんたがどこかおかしくなってたりしないかちょっと心配だったから。別に変な意味はないわよ」
「あ、うん……」
「あっ、でも心配って言ったってあんたの為だけの心配じゃないからね? もしもおかしくなっててあたしたちに危害を加えようとしたりしたら、っていう心配もあったんだから」
「……これがツンデレってやつっすね」
「何か言った?」
まくし立てる様に言い訳がましいことを放ったアリサに、タエがぽつりと言葉を漏らす。そしてキッと金髪ツインテールに睨まれたタエは、さらにカスミの背に縮こまって隠れてしまった。その様子に、沙綾は少し強張っていた身体から力が抜けた。
「ベンケー殿のツンデレニズムはさておき、要するに、獅子メタル殿は獅子メタル殿として獅子メタル殿の生活を送るということだな」
「えっと……ややこしいけど、そういうことなのかな?」
「ふむ……」カスミの同意を得て、リミは少し思案顔になってから再び口を開く。「実はな、獅子メタル殿……あいや、ここは何か別の名前で呼んだ方がいいかもしらん。獅子メタル殿はあちらの世界での趣味はなんだったのだ?」
「趣味……ヘアアクセ集め、カラオケ、野球観戦、かなぁ?」
リミに――目の前の女の子をりみりんだと思うのに非常に大きな抵抗があるのだが、それは置いておいて――尋ねられ、沙綾はそう答える。
「ほうほう。野球がお好きと。結構。では当然贔屓球団は関西の球団ということに……」
「え、いや、別にどこが好きとかはない、かなぁ。弟が好きで、その付き添いでテレビ見たり球場に行くってことが多いし……強いて言うならウチから一番近い神宮の球団かな」
「なんでやねん! はーもうアカンわ。いつになったら大阪の球団のファンは増えるねん」
「……大阪の方なんだ」
「当たり前や。関西人がみんな甲子園球場に憧れ抱くと思うとったら大間違いや。本拠地かてなぁ、『いつ見てもガラガラやー』なんて心無い人が言いよるけどなぁ、縦縞の試合やなくとも年に三、四回くらいは……あとはオールスターでもやれば満員になんねん! 立地もええし!」
「…………」
先ほどの古風な喋り方と一転、隠すことのない早口の関西弁を浴びせられて、ますます沙綾の中のりみりんとリミの印象が離れていく。凄まじいばかりのギャップに眩暈さえしそうだった。
「……あんた、何の話してんのよ」
「む、すまぬ。つい」アリサに呆れ半分のツッコミを入れられ、リミは元の口調に戻る。「ヘアアクセ集めが趣味……ポニーテールにシュシュ……ではシュシュ殿だな」
「あ、うん」
「それでシュシュ殿。……何の話やっけ?」
「それは私が聞きたいかなぁ……」
「え、えっと、サアヤちゃんは沙綾ちゃんとして生活をするって話だったんじゃないかな……」
とカスミから遠慮がちな声を送られて、リミはポンと一つ手を打つ。
「そうだそうだ。流石師匠、頼りになる」
「そ、そう? えへへ」
「それで、シュシュ殿」
「う、うん」
「何を隠そう獅子メタル殿はな、毎回うちの為にヤマブキパンのパンを持ってきてくれていたのだ」
「……そうなの?」と、沙綾はリミではなくアリサに尋ねる。
「待て。どうしてうちではなくベンケー殿に聞く」
「持ってきてくれることはあるけど毎回じゃないわよ。あとりみだけの為でもないわね」
「うん、分かった。それじゃあ、たまに持ってくるね?」
「……ならばよし!」
対応にやや文句ありげなリミだったが、沙綾の言葉を聞いて満足そうに頷く。……なんだろう、この子。おたえとモカを足して二乗したくらい変わった子だ。
「あ、あの……」
リミに対してそんな印象を抱いていると、まだカスミの背に隠れたままのタエがおずおずと沙綾に声をかけた。
「どうしたの、えっと、タエ……ちゃん?」
この子もおたえと絶対に印象が重ならないな、と思いつつ、驚かせないように意識して優しい声で言葉を返す。
「は、はい。その、サアヤセンパイさんって、バンドはやっていたんですよね?」
「うん。今はポピパで、あとは昔にチスパってバンドでドラムやってるよ」
「……そこも沙綾ちゃんと一緒なんだ」
「っすね」
「それがどうかした?」
「あ、いえ、自分たちもバンドやってますから……その、曲とかってどうなんすか? やっぱり自分たちとは全然違う曲ばっかりやってるんすかね……?」
「……そうね。そこもちょっと考えないとね」タエの言葉を受けて、アリサが頷く。「えーっと、スコアは……あった。はい、サアヤ。私たちがやってるオリジナル曲だけど、見覚えはある?」
手渡されたスコアのタイトルに目を通す。『Yes!BanG_Dream!』、『STAR BEAT! ~ホシノコドウ~』(そのタイトルの上に『小心者のテーマ』という文字が二重線で消されていた)、『ティアドロップス』、『トゥインクル・スターダスト』、『ぽっぴん’しゃっふる』、『夏空 SUN!SUN!SEVEN!』、『走り始めたばかりのキミに』……
「……うん、『トゥインクル・スターダスト』以外はポピパで叩いた曲だね」
「え……わたしの最初の歌……」とどこかショックを受けた風なカスミを横目に、タエが安心したようにホッと息を吐き出す。
「それならよかったっす。実は来月辺りにライブをしようって話になってて……まだ先のことで色々未定なんすけど、練習が出来ないと不安で……あっ、いやっ、すいません! サアヤセンパイさんはそんな場合じゃないですよね!? ごめんなさい、軽はずみなこと言ってスミマセン!」
「う、ううん、大丈夫だよ」
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
見ているこちらが恐縮するくらいに縮こまって謝るタエを前に、沙綾はぼんやりと『麻弥さんを弱気にしたみたいな子だなぁ』なんて思った。
「あとはかすみんが今新曲を作ってて……って、まぁライブのことは今はどうでもいいわね。とにかく、サアヤ」
「うん」
「いつ戻れるか……いや、そもそも本当に戻れるかなんて分かんないけど、とにかくこっちの沙綾のことをあたしたちが知ってる範囲で教えるわね」
「分かった。よろしくお願いします」
本当に戻れるか分かんないけど。その言葉が少しだけ心に引っかかるけれど、今そんなことを気にしていても仕方がないだろう。
もしかしたら今日眠って明日目覚めれば元の世界に戻っているかもしれないし、明日じゃなくたってふとした時に戻れるのかもしれない。今はそう考えていた方がいい。
自分の知っているPoppin'Partyの面々とは幾分か(約二名はとても大きく)違った女の子たちから話を聞きつつ、沙綾はそんなことを考えるのだった。
「朝はパンの仕込み、それから三つ子の弟を幼稚園に送って、ウチの手伝い……」
この世界の山吹沙綾のことを教えてもらった夜。沙綾は自室でスマートフォンのToDoリストを眺めながら、自分ではない自分の一日の予定を確認していた。
大体のやることはいつもの自分とさほど変わらない。けれど、大きく変わっている状況はあった。
店番なんて一切出来ない幼い三つ子の弟。定時制の花咲川高校に通うこと。そしてなにより……
(母さん、いないんだ……)
この世界のPoppin'Partyのみんなに聞いた話の中で、一番衝撃が大きかったのがそのことだった。
さらに、Poppin'Partyの前のバンド――カスミちゃんたちは名前を知らないみたいだけど、私で言うチスパにあたるバンドだろう――で参加したコンクール。その決勝戦の時に、父が倒れて、サアヤはドラムを叩けなかった。
「…………」
その時の彼女の心情を慮ると、深い悲しさと寂しさが心に影を落とす。
既に母を病気で亡くしている。弟たちは店の手伝いどころか電話すら出来ないほど幼い。ライブだって地元のお祭りなんかじゃなくて、コンクールの決勝戦。そこで、家の唯一の柱である父親が倒れた。
「私なんかと比べ物になんないなぁ……」
沙綾もサアヤと似たような境遇を経て、香澄たちに出会って、そして夢を分け合った。だけどそれは似ているだけで、境遇の重さから言えばサアヤの足元にも及ばないだろう。
もしも私がまったく同じ状況になったら、と考えて、涙が零れそうだからすぐに止めた。
病弱なのに台所に立って家事をやって、辛くてもそれを隠していつも優しく笑う母親。その存在を失うというだけで立ち直れるか分からないほどの傷を負うだろう。
いつも明るくて優しいPoppin'Partyの親友たち。彼女たちがいればその傷にも耐えられて、乗り越えられるかもしれない。けど、一人だけ定時制に通うのであれば、心の拠り所になるその温かさに触れられるのは限られた時間だけになる。
そんな中で、幼い弟たちの面倒を見て、無理が祟ってまたいつ倒れるとも分からない父親にお店を任せて、バンド活動をする。
「私には無理かも……」
その決断に至るまでの詳しい経緯を沙綾は知らないけれど、もし自分がまったく同じ立場になったらバンド活動に精を出すことなんて出来そうにもない。この世界の山吹沙綾はきっとものすごく強い女の子なんだろう。
(でも、今は私がその“山吹沙綾”なんだから)
突飛もない出来事だけど、家族も、香澄も有咲もりみりんもおたえも、何もかもが違う世界に来てしまったことは確かな現実だ。いつになるのか分からないけど、そもそもアリサの言う通り戻れるのかどうかなんて保証は一切ないけれど、いつか自分よりずっと強いであろうサアヤがこの世界に戻った時の為だ。泣きごとばかりを言って自分ではない自分に迷惑をかけるわけにはいかない。気合を入れなくちゃ。
「ちゃんとやることを覚えておかないと……」
そう思い呟きながら、それでもそれがただの虚勢だと沙綾は自覚していた。
いくら願っていても明けない夜はない。見慣れない自室の奇妙な居心地の悪さに寝苦しい思いをしながらも、太陽は東の空から昇ってくる。
昨日と同じようにスマートフォンのアラームに起こされた沙綾は、部屋の中を見回して、やっぱり自分が違う世界にいるんだということを否応なく突き付けられた。
「……はぁ」
今日は、昨日のような変な夢は見なかった。もしかしたらその夢を見れていたら元の世界で目覚められただろうか。そんな栓のない思考がぐるりと頭を一巡りしたところで、ため息を吐き出す。
アリサの言葉の通り、どうしてそうなってるかも分からない、フツーに考えたら有り得ない空想。けど、こうして見慣れない部屋でヤマブキサアヤになっている山吹沙綾がいるのは紛れもない現実だ。
二十四時間前の私は割と呑気に事の次第を受け止めていた。だけどサアヤの境遇を聞いて、こうしてサアヤとして何ともない一日を過ごすんだ、と思うと心に重いものがのしかかってくる。
「……頑張らなくちゃ」
それでも逃げるわけにはいかない。沙綾は深呼吸をして、空元気を身体中に巡らせる。
まずやることは父さんとパンの仕込み。それから三つ子の弟たちを起こして、幼稚園へ送っていく。
「よしっ」
やまぶきベーカリーではなくヤマブキパン。純と紗南ではなく陸くん、海くん、空くん。いや、弟にくん付けはおかしいか。
夕飯や簡単な店の手伝いの時など、昨日はややぎこちない対応をして父さんに心配されたけど、今日はそんなことがないようにしなくちゃ。そう思って、沙綾は洗面所へ身支度をしに向かった。
見慣れない店で慣れたことをやって、見慣れない弟たちを見慣れない道を通って幼稚園へ送迎して、少し父親と違った父親にやたらと気遣われているうちに学校へ向かう時間になった。
沙綾は慣れないブレザーに袖を通し、カスミたちに教えてもらった花咲川高校の自分の教室を目指して歩を進める。
アリサの蔵への行き帰り、弟たちの送り迎えくらいでしか外の景色を見ていないけれど、花咲川の街並みはどれも自分が知っているものと微妙に違っていた。
商店街で言えばやまぶきベーカリーの真向かいにあった羽沢珈琲店は床屋になっていて、はす向かいの北沢精肉店は八百屋さんに。花咲川女子学園への通学路に沿っていた花咲川はやや離れた場所に流れている。
教えてもらった学校の住所を慣れないスマートフォンのマップアプリに打ち込んで、辺りをキョロキョロと見回しながら歩く。
季節は秋の中頃。肌を撫でる風はめっきり冷たくなった。キンモクセイの香りもだんだん遠のいてきた。
それらに郷愁的な気持ちが煽られる。元の世界でも似たような気持ちにはなっただろうけど、今この状況で感じるノスタルジーには無視できない不安や焦りの色が滲んでいるような気がした。どちらかというとホームシックと言うべきだろうか。
不意に吹いた強めの横風にポニーテールが靡く。その髪を束ねているのも、あまり自分が付けない淡い緑をした水玉模様のリボンだった。
「……ここが花咲川高校」
迷子のような気持ちで学校へたどり着く。そこもやっぱり自分が見慣れたものとは幾分か違うところだった。
校庭で部活動に勤しむ生徒、または中庭に設けられたベンチでお喋りに花を咲かせる生徒たちを横目に、沙綾は昇降口へ向かう。そしてローファーから上履きに履き替えて、自分のであり、カスミとアリサとリミのであるという教室へたどり着く。窓際の最後尾。そこが昼間はカスミの席で、定時制のサアヤの座席だと聞いていた。
そこへ鞄を置き、席に座る。それから改めて教室の中を見回す。
人はまばらだった。定時制の授業は十七時半から開始で、今はその十五分前。この教室の席は三分の一ほどしか埋まっていない。流石にもう少しすれば人も増えそうだけど、この教室の空席が全て埋まることはなさそうだった。
流石にカスミたちも定時制の授業がどんなものかは知らないみたいで、ただ授業が夕方に始まって、二十一時くらいに終わることだけを教えられた。……ということは、つまり。
(ひとりぼっちなんだ……)
言い方が悪いかもしれないけれど、そういうことだろう。人も少なくシンとした教室では、話し声も何もしない。窓の外の部活動に勤しむ生徒たちの声だけがやたらと大きく響いてくる。
沙綾だけが誰にも話しかけられないという訳ではなく、教室のクラスメートたちは誰に話しかけるということもなかった。
それもそうだろう。教室には高校生というには少し年齢の高そうな人もいた。何か訳を抱えているのか、ただずっとうつむいたまま席に座る人もいた。
定時制の高校というものがどんなものなのか沙綾は見たことがないけれど、仕事をしていたり理由があって昼間に学校に来れない人が多いというのは分かっていた。和気あいあいとしている方が珍しいのかもしれない。
そう思うからこそ、沙綾はサアヤに対する同情の念がどんどん強くなってしまう。
秋の太陽はどんどん駆け足になっていく。今日の夕陽ももう稜線の彼方に沈みいこうかとしていた。
斜陽どころか夜の帳が降りかけた街。普段とはまったく違う顔をした学校。頼りない蛍光灯の光に照らされる廊下。シンと静まり返った教室。そのどれを取ってみても、ただ寂しさを煽り立てるだけのものだ。
この場所で、サアヤはひとりぼっちで授業を受けているんだ。
「はぁ」
本当に異世界に迷い込んでしまったんだ、という重たい現実が頭の中を埋めて、うなだれた拍子にため息がこぼれ落ちた。そこで自分の机に何かが書いてあるのに気付く。
机上に置いた鞄を床に下ろして、まじまじとそれを見つめる。
――沙綾ちゃん、その、頑張ってね!
何度か書き直したんだろうか。シャープペンシルで書かれたその文字の下にも、何か薄っすらと消えかけた文字の欠片が見て取れた。きっとカスミちゃんが書いたものなんだろう。
「……やっぱり香澄はどの世界でも香澄なんだな」
私の知っている香澄は、いつでも明るくまっすぐで、見ているだけで元気を貰えるとても優しい女の子だ。この世界のカスミちゃんとはちょっと似てないかな、と思ったけど、そんなことはなかった。カスミちゃんも香澄と一緒で、こんな寂しい気持ちをやんわりと埋めてくれる。優しさを分け与えてくれる。
カスミちゃんとサアヤの出会いは、この机に書いたメッセージのやり取りだと聞いた。なら、きっとサアヤも私と同じように、優しいカスミちゃんのメッセージに大きく助けられたことだろう。
姿は見えなくてもひとりぼっちじゃない。時間差はあるけど話し合える友達がいる。
それだけで随分と心が軽くなった。
ありがと。頑張るね。
鞄の中からシャープペンシルを取り出して、カスミからのエールにお礼を返す。気付いたら授業開始の時間になっていた。教室の扉を開けて、先生が室内に入ってくる。
やっぱり空席は半分も埋まっていなかった。その隙間を吹き抜ける寂しい風に身を切られそうだ。でも、カスミからのメッセージを見ればすぐに元気を貰える。
(サアヤに笑われないように、私も頑張らなくっちゃね)
先の見えない空想じみた現実。この先どうなるかなんて誰にも分からないけど、とにかく今は目の前の出来ることをやっていこう。
少しだけ明るくなった気持ちで、沙綾は黒板へと目を向けた。
3
「つまりそれは入れ替わりってことだな」
と、自分の突拍子もない事情を真面目に聞いてくれた女の子は呟く。
「い、入れ替わり……?」
「ああ。ほんと、なんでそんなことになってんのか知んねーけど」
ため息を吐きつつ、明るい髪色をしたツインテールの女の子――イチガヤアリサはぼやくように言う。
……山吹沙綾が奇妙な夢を見て目覚めると、そこは知らない部屋だった。スマートフォンも知らないものだし、大好きな“3”が部屋のどこにも見当たらないことに非常に困惑した。
ただスマートフォンの中にはPoppin'Partyのみんなの名前が入っていたことに安堵して、こういう時に一番頼りになりそうな有咲に電話をしたのが一時間前のことだった。
事情を話すと、最初は訝しがっていた有咲もすぐに親身になってくれて、すぐに沙綾の部屋まで駆けつけてくれた。ただ、沙綾の知っている有咲とはちょっと違ったアリサだったのには非常に驚いたけど。
「えっと……じゃあつまり、私は違う世界の山吹沙綾になっちゃった、ってこと?」
「そういうこと」
「……どうして?」
「だから知らねーって。沙綾がこんな性質の悪い冗談言う訳ないし、考えられるのがそんな有り得ないことだけなんだって」
とアリサは吐き捨てるように言う。自分の知っている有咲とはちょっと違っているけれど、でもなんだかんだ困ってる人を放っておけない優しい子なんだというのはちょっとの会話の中でも理解できた。きっとその態度も照れ隠しのようなものなんだろう。
「はー……そっかぁ……」
そう思いつつ、沙綾は天井を仰ぐ。見知らぬ部屋で、見知らぬ姿になった友人がいて、鏡を見れば見知らぬ女の子が映る。この夢のような現実をどう受け止めればいいのか分からなかった。
「…………」
「あれ、アリサ……ちゃん、どうかした?」
と、天井から視界を戻すと、何か迷うような顔で自分を見つめるアリサの姿が目に映った。
「あーいや……その、サアヤ?」
「うん」
「あのな……とりあえず、これからどうするんだ?」
「どうする……うーん、戻り方が分からない以上、とりあえずこっちのサアヤちゃんとして生活するしかない……のかなぁ」
「……まぁ、やっぱそうなるよな」それからまた少し迷うような素振りをしてから、アリサは再び口を開く。「その、なんだ。困ったことがあれば何でも言ってくれ」
「え?」
「ほら、いきなりこんな有り得ない状況になって、色々と困るだろ? こういう時、香澄とおたえはあんま頼りになんねーだろうし、りみはりみでアタフタしちゃうだろうし……」
ややそっぽを向きながら言われた言葉。それに沙綾は少し笑ってしまう。
「な、なんで笑うんだよ」
「あー、ごめん。なんていうか、アリサちゃんって可愛いなって」
「はぁ!? なんだよそれっ! ったく、どうしてどの沙綾も私に可愛いだとかなんだとか言うんだよ……」
「ふ、ふふ……」
さらに顔を赤くしてブツブツと呟く姿に、とうとう沙綾は吹き出してしまう。そして昨日、有咲の蔵で話したたらればの話を思い出す。
たられば。もしも生まれ変われるならどうなりたいか。その話の中で、有咲が悩める香澄のために、心を鬼にして突き放したことを聞いた。
どの世界でも有咲ちゃんは有咲ちゃんなんだ。口では色々言うけど、なんだかんだで友達想いの優しい女の子。
見知らぬ世界の中で、見知らぬ女の子の中に見知ったものを見出せた。きっとたえちゃんもりみちゃんも、そして誰より優しい香澄ちゃんも、その面影があるはずだ。
「あーもう笑うな! とにかく、困ったことがあったらすぐ言えよな!」
「うん、頼りにするね」
「……本当にか?」
「え?」
「沙綾のことだからな……どうせどこへ行ったって自分を二の次にする性格だろうし」
「……あー」
その言葉に思い当たる節が少しあって、沙綾は何とも言えない気持ちになる。
あれは七月のことだから、大体三ヵ月くらい前か。香澄ちゃんたちの初めてのライブを見て、バンドリカレーパンを作ったすぐあと。お父さんから「“お前”をもっと大切にしてほしい」と言われたこと。
そして七夕の風に撫ぜられて香澄ちゃんと出会って、本当の本当に『友達』となった時。眩いばかりに夢を追いかける彼女に憧れて、とうとう私自身の夢も撃ち抜かれたこと。
その二つを考えれば、確かにアリサの言うことはもっともだ。少しくらいの面倒ごとであれば自分の力だけでどうにかしようとするだろう。それを見透かされていることに嬉しいような、ちょっと悔しいような気持ちだ。
「まぁ、とにかく、今日が日曜で良かったよ」沙綾の反応を見て、アリサは『やっぱりか』と言いたげな表情になって言葉を続ける。「こっちの沙綾のことを教えるからさ、えーっと……そう、とりあえずウチの蔵に行こう」
「うん。ごめんね、アリサちゃん」
「いいって」
ややぶっきらぼうに言って、アリサはフイと顔を背ける。分かりやすい照れ隠しにやっぱり沙綾はちょっと可笑しい気分になるのだった。
異世界は異世界。自分が知っている世界に似ていても、それは似ているだけであって完全に別物なんだ。
アリサに導かれた蔵で、階段を上るのではなく下って行った見慣れない部屋で、この世界のPoppin'Partyのみんなと顔を合わせてからまた自室に帰ってきた沙綾は、ベッドに腰かけながら殊更強くそのことを実感していた。
まず、カスミちゃん。
私の知っている香澄ちゃんは、とっても優しくて、でも自分に自信がなくてちょっと引っ込み思案で、だけどギターを持てばキラキラした笑顔をしてステージで輝く素敵な女の子。
だけど今日出会ったカスミちゃんは常時ランダムスターを装備しているような明るくて元気な女の子だった。でも私のことをすごく心配してくれる優しいところは変わっていなかった。
次にリミちゃん。
私の知っているりみちゃんは……いや、なんだろう。知ってるって言うほどあの子の強烈なキャラクターを理解できている気がしないんだけど、とにかく不思議で掴みどころがなくて、でもウチのパンを美味しいって言ってくれる可愛い女の子。
しかし今日出会ったリミちゃんは、思わず連れて帰りたくなるような、ギターを持ってない香澄ちゃんを少し彷彿とさせる引っ込み思案な女の子だった。すごく可愛かった。
それからタエちゃん。
私の知っているたえちゃんは、後輩気質というか舎弟気質というか、何故かいつも語尾に『っす』とつけて私もセンパイ呼びするギターが上手で綺麗な女の子。
けれども今日出会ったタエちゃんは、天然を煮詰めた感じの、ある意味りみちゃんよりも掴みどころがない、すっごく綺麗な女の子だった。話が全然噛み合わなかった。
「…………」
そして……と、家族構成のことについてうっかり考えてしまい、沙綾は瞳に涙が滲んできて、部屋の天井を見上げる。
三つ子の男の子じゃなく、弟と妹が一人ずつ。もうそこまで手がかからなくて、むしろお店の手伝いまでしてくれる良い子たち。
お父さんは変わらず私の知っているお父さんの面影を持って、その面影よりも幾分か優し気な雰囲気をしている。
それで、その、最後に……。
「っ、うっ……」
と、母のことを胸中に浮かべたところで、沙綾は堪えきれずに嗚咽と共に涙を落とした。
……もう二度と会えないはずだった。もうずっと、記憶の中でしか優しい笑みも温かさも声も感じることが出来なくて、その思い出も薄れていってしまうだけのはずだった。
だけど、何度頬をつねっても、目をこすっても、優しい記憶の中と変わらない姿の母がここにはあった。
アリサの蔵で家族のことを教えてもらった沙綾だが、流石に出で立ちや雰囲気は全く別のものだろうと思っていた。事実、弟の純と妹の紗南は、似ているところが多少あれど陸、海、空とは別人であった。
なのに、先ほどばったりと台所で出くわした母は沙綾の記憶の中の姿そのままで、だからこそ沙綾は涙を堪えるのに必死だった。
毎日顔を合わせる娘がいきなり泣き出したら、母にいらない心配をかけるだろう。
そう思って、母と死別したあの日からずっと培ってきた気丈な振る舞いでその場を切り抜けて、逃げるように自室へと駆け込んだ。
それで、気を紛らわせるためにこの世界のポピパのことを考えていた……んだけど。
「うう……っ、うああ……」
一度考えてしまうと止まらなかった。もう二度と話すことも触れることも甘えることも出来ないと思っていた、母親の存在が手を伸ばせばすぐに届く場所にある。
その事実に抱いた感情が嬉しさなのかなんなのか、沙綾には分からなかった。だけど、ただただ胸中に生まれた色の分からないその気持ちが涙を生み出し続ける。
悲しい思い出と優しい思い出が交互に蘇って、それにまた心が揺さぶられる。嗚咽が漏れる。
沙綾は手近にあった枕を手にして、それを抱きかかえるようにして顔を埋めて、どうにかその情けない泣き声をかき消そうとする。
そうしてどれほど経ったろうか。
色褪せた母との思い出が脳裏を三周くらいしたところで、ようやく荒く波打った感情の海も凪いでくれた。沙綾は一度深呼吸をして、強く抱きしめていた枕から顔を離す。
「……うわー」
そしてぐしょぐしょに濡れてしまった無残な枕を見て、口から何とも言えない呟きが漏れた。こんなに泣いたのはいつ振りだろう、と考えて、割と最近だったことを思い出す。
「はぁ……」
意外と泣き虫な自分へ向けて呆れたようにため息を吐き出す。けれど、泣いたら泣いたで沙綾はなんだかスッキリとしていた。
たらればの話。そんな世界にどうしてか迷い込んで、大切な友達に似た友達がいて、失ってしまった大事な存在がすぐ触れられる場所にある。
それに考えなければいけないことは多々あるけれど、いずれどうにかなるだろう。そんな楽観的な思考さえ浮かんでくる。
(今の私に出来ることは……この世界の私のために、しっかりすることだけ……だもんね)
そうだ。考えていたって仕方ない。私じゃない山吹沙綾がこの世界に帰って来た時のために、やるべきことをしっかりやらなければ。
お母さんに会うたび会うたび泣きそうになってたら、いずれ元に戻った時にこっちの沙綾が苦労するだろうし、頑張らなくちゃ……と意気込んで、その思考に何故だかとても寂しい気持ちになった沙綾は少し首を傾げるのだった。
翌朝。
いつもよりもやや遅い時間に起床した沙綾は身支度を整え、迎えに来てくれると言っていたアリサを待ってから家を出た。
慣れないワンピースの制服に、あまり自分が買わない色のリボンで纏めたポニーテール。それがまだ東の空の低い場所にある太陽に照らされて、背の高い影を作る。
午前八時前の見慣れた街にどこか似ている街並みは、沙綾にとって新鮮な印象を与えてきた。
まるで上京したての子供のように辺りをキョロキョロうかがっていたせいか、たびたび隣を歩いて学校まで案内してくれるアリサに「転ぶなよー」とやる気のなさそうな注意をされつつ、この世界の山吹沙綾が通うという花咲川女子学園までたどり着く。
「……と、まぁ大体花咲川に沿って歩いて行けばこうやって学校に着くから」
「うん、分かった。案内してくれてありがとね、アリサちゃん」
「ん……」
と、お礼を言われたアリサがどことなく居心地悪そうに目を逸らす。
「えっと、どうかした?」
「あーいや……なんかサアヤから『ちゃん』付けで呼ばれると変な気分って言うか……」
「……照れくさい?」
「だっ、誰もそうとは言ってねーだろっ」
「そっかー。ごめんね、アリサちゃん」
そんな様子に沙綾は微笑ましい気持ちになって、思わず頬が緩む。
「あーもう、だから……」
何か反論しかけたアリサだったが、小さく首を振ってそれを諦めたようだった。
「あ、おはよう、有咲ちゃんと……サアヤちゃん?」
反応が一々可愛いなぁ、と沙綾が思っていると、後ろから控えめな声がかけられる。振り向けば、小さな背丈で少しだけ俯き加減なリミの姿があった。
「おはよー、りみ」
「おはよう、リミちゃん」
「う、うん……」
リミは挨拶を返すと、チラリと沙綾に視線をやって、それがバッチリ合ってしまうとまた慌てたように地面に視線を落とした。
昨日のアリサの蔵の時点で引っ込み思案な女の子だとは感じていた。きっと学校にいる時のクラベン系女子な有咲ちゃんってこんな風なんだろうな、とぼんやり沙綾は考える。
「私は違うクラスだから、あとはりみに案内してもらってくれな」
「そうなの?」
「そーだよ。香澄たちはみんな同じクラスで、私だけ違うクラス」
アリサはどことなく面白くなさそうな顔でそう言う。本当は同じクラスが良かったんだ、と頭の片隅で考えながら、沙綾は自分の知っているPoppin'Partyのみんなのことを思い出す。
確か、香澄ちゃんと有咲ちゃんとりみちゃんは同じクラスで、加えて席も三人並んでいたと聞いていた。たえちゃんだけは違うクラスで、毎朝『今生さらば』みたいな別れの寸劇をするのをやめてくれ、と有咲ちゃんが一昨日に言っていたのも覚えている。
その有咲ちゃんがこっちの世界だと違うクラスで逆の立場になっていることに、なんだか数奇な巡り合わせみたいなものを感じてしまう。もしも生まれ変われたら、なんてタワゴトを話し合った時に言っていたことが実現しているのが何とも皮肉というか、なんというか。
「じゃあ、その、私が案内するね……?」
そんな思考の海に埋没していた意識が遠慮がちな小さな声で現実に戻ってくる。
「うん。お願いします、リミちゃん」
「は、はい、頑張りますっ……」
「……なんでそんなに緊張してるの?」
「え、えっと、その……」
沙綾が尋ねると、リミは視線を逸らし、もじもじとしながら黙ってしまう。……昨日から薄々思っていたけど、やっぱり人見知りなんだろうか。香澄ちゃんみたいでかわいい。
「そんな深く考えないで、沙綾に接する感じでいいだろ。ほら、私も隣のクラスだし、そこまでは一緒だから」
「う、うん……ごめんね、サアヤちゃん」
「謝られることなんてされてないよ。こっちこそ面倒ごとに付き合わせてごめんね?」
「ううん……」
チラリと上目遣いを送ってきて、またすぐに視線をそらしてしまう。そんなリミに庇護欲じみたものをくすぐられつつ、沙綾たちは教室を目指すのだった。
沙綾にとって、明るい教室で授業を受けるのは懐かしさと新鮮さが入り混じった体験だった。
太陽の柔らかい光が差し込み、空席がある方が珍しい賑やかな教室。中学校まではこういう空間で自分も授業を受けていたことを、十年来の旧友に顔を合わせた心境で沙綾は思い出していた。
常にキマッてる明るいカスミがいて、掴みどころがないタエがトンチンカンな受け答えをしたり、引っ込み思案なリミが緊張したような声で教科書を読んだり……。
十六歳の人間であれば当たり前に享受できる日常。元の世界ではかなり無理をしなければもう手に掴めないと思っていた賑やかさ。それがなんとも眩しかった。
ただこの明るい世界での授業にもいくつか問題があって、特に顕著だったのは授業内容だ。
定時制と全日制では授業の数が違う。一日四コマしか授業がない定時に比べ、全日制の授業は一日六コマ。その分だけ授業内容は進んでいて、沙綾がまだ習っていないことが多くあった。
授業中の暇な時に、丁寧な字で書かれたこっちの世界の沙綾のノートを見ていたけど、その内容はなかなか頭には入ってこない。
これは苦労しそうだな、とため息混じりの苦笑を浮かべたところで、四時間目の授業が終わるチャイムの音が響いた。
沙綾はカスミに手を引かれて、隣のクラスのアリサと合流して中庭へ向かう。
秋の心地いい陽気。どこまでも晴れ渡った青空。生徒たちで賑わう中庭。その真っただ中で、ポッピンパーティーのみんなと食べるお昼ご飯。
ただそれだけのことだった。
世界中のどこにでもあるような何の変哲もない、高校生のお昼休みの一幕。
だけどそれは沙綾にとってやっぱりどんなものにも勝る輝きを持っていて、胸の中に温かいものが広がっていく。
それだけならよかったのだが、どうしてか同時に寂しさも感じてしまっていた。
昨日の夜に感じたものと同質の寂寥。「これは一体何だろう?」と沙綾が考えているうちに昼休みも過ぎて、午後の授業も終わり、放課後になっていた。
「学校どうだった、サーヤ?」
そしてこの世界のPoppin'Partyのみんなと共に歩く帰り道で、沙綾はカスミにそう尋ねられた。
「どう……うーん、なんていうか新鮮だな、って感じ?」
「新鮮?」と沙綾の言葉を聞いたタエが首を傾げる。
「うん。私、元の世界だと定時制に通ってるんだ。だから明るい教室で授業受けたり、みんなとご飯食べたりっていうのがちょっと新鮮」
「夜に学校……ちょっと楽しそう」
「あはは、そんなにいいものじゃないよ。定時に通うのは私だけで……ひとりぼっちだし」
「そうなんだ。それはちょっと嫌だな。サアヤは大変だね」
「まぁ、ちょっと寂しくなる時もあるけど……もう慣れちゃったから平気だよ」
「…………」
そうなんでもないように言った沙綾は、カスミとアリサとリミが何か意味深な視線を送ってきていることに気付く。
「あれ? 三人とも、どうかしたの?」
「いや、なんつーか……」
アリサはちらりとリミへ視線を送る。
「うん……」
それを受けたリミは遠慮がちに頷いて、
「……サーヤ! これから遊びに行こう!!」
最後にカスミが抱き着かんばかりの勢いで沙綾の肩を掴み、そんな言葉をくれるのだった。
「え、え? どうしたの、そんな急に」
「だってだって、なんか嫌なんだもん!」
「何が?」
「サーヤがね、なんでもない顔で『寂しいけど平気』って言うの!」
「…………」
「だから一緒に寄り道しよっ!」
あまりにもまっすぐな言葉が沙綾の胸に刺さる。それに返す言葉を失っていると、カスミは沙綾の手をギュッと握った。
「ちょ、ちょっと、カスミちゃん」
「あ、ごめん。痛かった?」
「ううん、そんなことはないけど……」
「じゃあ行こうよ!」
「えっと……」
「諦めろ、サアヤ」と、少し呆れ顔のアリサがポンと沙綾の肩に手を置く。「こうなったら香澄は止まんねーから」
「そ、そうなの?」
「うん……香澄ちゃん、とっても優しいから」
リミも柔らかい微笑みを浮かべ、アリサの言葉に頷いていた。
「私、はぐみのとこのコロッケが食べたいな」
「いいね、おたえ! それじゃあまず、はぐん家だね! さぁ行こう、サーヤ!」
タエと言葉を交わしたカスミに、沙綾は強く手を引かれる。
(……やっぱりカスミちゃんは香澄ちゃんなんだな)
こちらの都合はお構いなしの、強引ともとれる優しさ。それに夢を撃ち抜かれた日のことを思い出し、沙綾は手を引かれるままに歩きだした。
4
沙綾がその文字に気付いたのは、入れ替わってから一週間ほど過ぎたある日だった。
相変わらずシンと冷えた空気が漂う定時制の教室。いつもの通りだな、と言えるくらいに慣れ始めてきたその空間の中で、沙綾はいつものように自分の席に着いた。
「……うん?」
すると、机の真ん中に少し大きくメッセージが書かれているのが目に付く。
――ねえ、聞こえる?
カスミちゃんからのメッセージかな、と思いながら沙綾がそれをまじまじ見つめるけど、可愛さの中に芯の強さを感じる文字は、どうにも彼女の文字には見えなかった。
誰かの悪戯かな。もしかしたらリミちゃんやアリサちゃんが書いたのかもしれない。
そう思ったから、沙綾は何も深く考えることなく、その隣に返事を書いた。
うん、聞こえるよ。
そこで先生が教室に入ってきたから、沙綾はそれきりその文字は気にせず、机の上に教科書を広げた。
◆
沙綾がその異変に気付いたのは、入れ替わってから一週間ほど過ぎたある日だった。
明るい学校にも、賑やかな教室にも、やまぶきベーカリーという響きにも慣れはじめたころ。花咲川に沿って歩き、学校までやってきて、だんだん顔を覚え始めたクラスメートと簡単な挨拶を交わして自分の席につく。それから机の上に目をやると、そこには何か文字が書き込まれていた。
今は香澄ちゃんと同じ机を共有してるわけじゃないのに、誰かが悪戯でもしたのかな。
「……え?」
しかしその落書きをジッと見つめると、それがとても見慣れた文字であることにすぐ気が付いた。
猫が尻尾を丸めたような、少し丸っこい可愛い文字。それは、あの寂しい教室で何度も何度もやり取りをした、他でもない香澄の文字だった。
もしかして、と沙綾の頭にはひとつの可能性が思い浮かぶ。
フツーに考えたら有り得ないことだけど、ジョーシキではまったく通用しないことだけど、そんなことを言ったら今自分が置かれている状況の方がよっぽど非常識で作り物めいている。
だから彼女は『困ったことがあったらすぐに相談してね』という見慣れた親友の文字の隣に、自分たちの始まりになった文字を書き込んだ。
ねえ、聞こえる?
次の日の朝、沙綾はいつもよりも三十分早起きをして、慌ただしい足取りで学校に向かった。
可能性としては限りなく低いし、もしかしなくても誰かが何の気もなしに書いたものかもしれない。でも、それにもしも返事が来ているのなら。
昇降口で上履きに履き替えて、急く足をどうにか落ち着けながら、早歩きで教室にたどり着く。そしてこれまたバタバタとした足取りで、自分の机の上をバッと覗き込んだ。
――うん、聞こえるよ。
昨日書いたメッセージ。その隣には、見慣れない几帳面な字が並んでいた。
やっぱり、と沙綾は震えた息を吐き出す。それから急いでペンを取り出した。
これもまったくの偶然で、昨日の放課後に誰かが書き込んだ悪戯かもしれない。それでも妙な確信があった。どうしてそう思えるのか、と聞かれれば、初めて香澄と沙綾がやり取りしたメッセージと同じだから。
ペン先を机につける。何から書こうか。何を書けばいいだろうか。焦る思考が空回りしそうだったから、一度深呼吸をした。
それから沙綾は、几帳面な字の隣にメッセージを書き始めた。
◆
――初めまして、どうぞよろしく……なんて言ってる場合じゃないか。見えてるんだよね? この字は香澄ちゃんのじゃないから、多分、もうひとりの私。もし全然違う人だったらごめんね。でも、私の考えてることが合ってるなら、あなたは入れ替わっちゃったもうひとりの山吹沙綾のはず。
見えてるなら、合ってるなら、返事をください。
机の上のメッセージに、なんとはなしに返事を書いた翌日だった。
斜陽の校舎に登校して、人もまばらな廊下を歩き、さびしい教室の自分の席に向かうと、そんなメッセージが書き記されていた。
沙綾は最初こそ悪戯か何かだと思った。
けれど、自分が知ってるポピパのみんなと一緒で、こっちの世界のポピパのみんなもそんな趣味の悪い悪戯をするような女の子ではないことはもう十分に分かっていた。だから彼女たちの仕業ではないだろう。
じゃあ、沙綾とポピパのメンバー以外に、この非現実的な入れ替わりを知っている人物って誰だろう。考えてみれば、すぐに当事者しかいないという答えにたどり着く。
だから沙綾も、そのメッセージに応える。
◆
――うん、見えてる。それと、きっと合ってると思う。
こっちの世界の私は、実家のパン屋がヤマブキパンで、三つ子の弟くんたちがいる。そっちの世界の私は、実家のパン屋がやまぶきベーカリーで、弟の純と妹の紗南がいる。
やっぱりそうだったんだ。よかった……って言っていいのか分かんないけど、よかった。
どうなってるのかは不明だけど、でも、どうしてか私とあなたの机は繋がってるみたいだね。香澄ちゃんとこうやってやり取りをしてた時みたいに。
――だね。こうやって尋ねるものおかしいけど、そっちで何か困ったことはない? あっ、こっちはこっちのポピパのみんなに助けてもらって、なんとかやってる。だから安心してね。
ありがと。こっちも大丈夫だよ。こっちの香澄ちゃんたちがよくしてくれて……あ、でもごめんなさい。勉強だけはちょっと……定時制だから、やってる範囲が全然違くてさ。
――そんなことは気にしないで平気だよ。陸くん、海くん、空くんは元気だよ。元気いっぱいすぎて、ちょっと困るくらい。純と紗南はどう? ぐずったり、ワガママ言って迷惑かけてない?
ウチの三つ子が迷惑かけちゃってて……ごめんね? 純くんと紗南ちゃんは大丈夫。すごくいい子だよ。お姉ちゃんの様子が変だって分かってるみたいで、さりげなく気を遣ってくれてる。ふたりとも元気にしてるよ。
――ううん、あれくらいの子なら、やんちゃで元気な方が可愛いし安心するよ。変な気を遣わせてごめんね。
そっか、純と紗南が迷惑をかけてないならよかった。
一日一文のやり取り。昼間にメッセージを書けば、どういう理屈かは分からないけど、時空を超えたもうひとりの沙綾にそれが届き、返信がくる。
その文通のおかげで、沙綾はもうひとりの自分もなんとかやっていることを知れた。入れ替わってしまった、なんていう信じがたい現実も自分の中で確かな輪郭を持った。
それはそれでいいことだけど、それでもまだ目の前にはひとつの問題がどっしりと腰を据えている。
どうやったら戻れるんだろうね?
――うーん……それは本当にどうすればいいのか分かんないや。とにかく、しばらくはこうしているしかないみたいだね。
机の上に書かれたあちらの沙綾からのメッセージ。問題の解決に繋がりそうな糸口はまったく見つからない。だというのにどうしてか、沙綾はホッとしたというか、奇妙な安心を覚えてしまっていた。
その気持ちの正体も掴めなくて、彼女はどこか落ち着かない気分になるのだった。
◆
あちらの世界の沙綾とやり取りが出来ることが分かってから過ごす、初めての日曜日。
ヤマブキパンは俺に任せろ。お前はほら、あれだ、セイシュンしてこい! ……なんて妙に張り切った父親の言葉に送られて、沙綾はアリサの家を目指して歩いていた。
今日の空にはいわし雲が泳いでいて、そよぐ風にも少し冷たさが感じられるようになってきた。十月ももう終わりに差し掛かっていて、気付けばこの世界の沙綾と入れ替わってからもうひと月が経とうとしている。
その間に得た、この嘘みたいな現実を解決するための手がかりはゼロに等しい。
それでもいつか絶対に戻れるはずだ、と胸中で呟いて、沙綾は歩を進める。
「え、そ、それ本当なの!?」
たどり着いたアリサの蔵。そこにPoppin'Partyの全員が集まり、各々が思い思いの場所に腰を下ろしてから、沙綾はこの一週間、こちらの世界の沙綾と机を通して連絡が取れていることを打ち明けた。
それに一番に反応したのはカスミで、瞳をぱちくり瞬かせながら沙綾に詰め寄った。沙綾はちょっとびっくりしてのけぞる。
「はいはい、落ち着きなさいよ、あんたは」その首根っこをアリサが掴み、沙綾から距離を取らせる。
「あ、ご、ごめんね、サアヤちゃん」
「ううん。心配なのは分かるから平気だよ」
「う、うん……」
カスミは照れくさそうに俯き、少し身体をよじらせる。突飛な反応をしてしまったことが恥ずかしいんだろうな、と思うと、そこまで心配されているこっちの沙綾が少しだけ羨ましくなる沙綾だった。
「それで、シュシュ殿」
「あ、今日のパンはこれだよ。クリームデニッシュ」
「うちが言いたいのはそうではない、と言いたいところだけどそれはそれでシュシュ殿に失礼だろうからパンを貰うのはやぶさかではない。べ、別に期待してたわけじゃナインダカラネ!」
はむ、と差し出されたデニッシュにかぶりついたリミを沙綾はどこか慈愛のこもった温かな目で見つめる。ここ最近、不器用に懐いてくる動物を餌付けしてる気分だった。
「それで?」とアリサに話の続きを促されて、「あ、うん」と沙綾は腹ペコのノラネコみたいなリミから視線を外す。
「机の上にね、メッセージがあったんだ。『ねえ、聞こえる?』って。みんなの中の誰かが書いたのかなって思って、『うん、聞こえるよ』って返したら、次の日に『もうひとりの山吹沙綾だよね』って返事が来て……」
そうして交わしたメッセージの内容をアリサたちに伝える。どうしてかカスミは最初の『ねえ、聞こえる?』という言葉だけで泣きそうになっていて、話を聞くうちにどんどん涙が溜まっていくのが印象的だった。
「沙綾ちゃん……無事なんだね。よかったぁ」
そしてここ一週間のやり取りを聞き終えたカスミは安堵の呟きとともに涙を一滴こぼす。
「よかったはよかったけど、あんまりよくないわね」
それとは対照的に、アリサは憂鬱そうなため息を吐き出した。
「え! どうして?」
「本当にふたりが入れ替わってて、あっちでも沙綾が無事にやってるっていうのは確かによかったわよ。けど、解決の糸口はなーんも見つかってないのよ?」
「そうなんだよね……」と、アリサの言葉に頷く沙綾。
「まぁ、机を通してやり取りができるって分かったのはいいことに違いないけどね。……ていうか、それならかすみん」
「なに?」
「気付かなかったの? サアヤの机にメッセージが書き込まれてたってことは、かすみんの机にも同じものが書かれてたはずでしょう?」
「うーんと……」尋ねられたカスミはこめかみの辺りを両手で押さえて目をつむる。あ、ちょっと香澄っぽい、と沙綾は思った。「……書いてなかった、はず」
「ふーん……?」
アリサはその答えを聞いて、顎に手を当てて考える。それからすぐに「おかしいわね」と呟いた。それからデニッシュを頬張っているリミ、相変わらずカスミの背に隠れて息を潜めているタエに目をやり、最後に沙綾に向き合った。
「嘘ついてるわけ……は、ないわよねぇ」
「うん……辻褄が合わないけど、嘘は言ってないよ」
「わたしも沙綾ちゃんの字なら見慣れてるから……見逃すことはないと思う」
「うーん」と三人は唸り、首を傾げる。それに対して、「あ、あの……」とタエが遠慮がちに手を上げた。
「どうしたのよ?」
「もしかして、っすけど……自分たちの放課後……つまり、サアヤセンパイの定時になる時だけ机と机が繋がるとか、そういう感じじゃないっすかね……?」
カスミの背から恐る恐る顔を出して発言するタエ。それに沙綾とアリサは頷く。
「まぁそうとしか考えられないわよね」
「うん。どうなってるんだろうね、本当に……」
「す、すみません、自分の発言でなんか余計に頭をこんがらがせちゃって……すみませんすみません……」
ぶんぶん頭を下げ始めたタエを「だ、大丈夫だよ」とカスミがなだめる。「そうだよ、大丈夫だよ」と沙綾も意識して優しい声を作ってなだめる。アリサはタエの反応に慣れているからか、さして気にした様子もなく、一応フォローのつもりで呟く。
「とにかく、沙綾と連絡を取れる手段があるっていうのは間違いなくいいことよね」
「う、うん! 沙綾ちゃんが無事だってキチンと分かったし! たえちゃんのおかげだね!」とカスミが続く。
「そうだね。何かあれば、時間はかかるけど意思疎通が出来るし、いつ書けばいいのかも分かったし」と沙綾も続く。
「はむはむはむ……」とリミはまだデニッシュを食べている。
「きょ、恐縮っす……」とフォローされたタエはますますカスミの背中で小さくなった。
「それじゃあ、わたしがメッセージを書いても沙綾ちゃんに届けられるかな?」
「多分、ね。詳しい時間は分からないけど、放課後、定時の生徒が来るギリギリに書けば届くはずよ」
「それならわたし、沙綾ちゃんにメッセージ書く!」
キュッと握りこぶしを作って、カスミは力強く立ち上がる。それに釣られて背中に隠れていたタエも立ち上がった。
「……まぁ、そうね。かすみんからのなら沙綾も喜ぶでしょうし、いいんじゃない?」
「うん! 頑張る!」
「……シュシュ殿」
「あ、おかわりあるよ」
「そうおいそれと、うちはパンになんて負けない!」
「今度はアップルデニッシュだよ」
「しかしそう出されてしまってはもったいないのもまたジジツ。頂こう……はぁ、ビミ~♪」
握りこぶしを作って使命感に燃えるカスミ、それを呆れたように見つめるアリサ、まだまだ沙綾に慣れないタエ、パンを美味しそうに頬張るリミ。
そんなポッピンパーティーの面々を見て、なんだか色々と慣れてきたなぁ、なんて沙綾は思った。
その翌日、沙綾はいつものように定時制の教室へ足を運び、自分の席に腰を下ろす。そして、すぐに机の上に書かれたメッセージが目に付いた。
「……わー、すごいなぁ」
間違いなくカスミの字だった。それ自体は別にいいんだけど、ただちょっと問題というか、気がかりなのは……
「机の左……三分の一が埋まってる……」
窓際側の三分の一にこれでもかというほどメッセージが書き込まれていると、嫌でもそれが気になって集中力が削がれるというかなんというか。
けどこれはカスミがこっちの世界の沙綾に宛てた大事なメッセージだ。努めてそれを気にせず、先生に見つかって何かをお小言を貰われないように、その上に教科書を広げた。
◆
週末の空は生憎の曇天だった。
分厚い雲が天をのっぺりと覆い、雨の気配こそないものの、太陽の光を深く閉ざした空は昼下がりだというのにどこか薄暗い。
「はぁ……」
沙綾は自室の窓から曇り空を眺め、ため息をこぼした。胸の内には眼前の風景にもよく似た暗雲が垂れこめていて、この重たい吐息と一緒に少しくらい出て行ってくれないか、と思ったけどそんなことはまるで起きなかった。
「……はぁ」
もう一度ため息を吐き出す。そして思うのは、机の上のメッセージのこと。
入れ替わってしまったもうひとりの自分と連絡が取り合える。それは喜ばしいことであるし、この事態の解決の糸口になってくれるかもしれない。加えて自分ではない山吹沙綾が無事に山吹沙綾をやっているということも嬉しいこと……のはず。
だけど、沙綾はカスミたちにこのことを打ち明けていなかった。
どうしてそうしたのか、と聞かれれば、沙綾も首を傾げてしまう。こんなバカげたことを言ったって信じてもらえないと思っているのか、どうなのか。
自分の本心が全然分からないけれど、それでも自身の胸中に募る気持ちの名前は罪悪感とか後ろめたさなどと呼ばれるものなのは分かる。
その気持ちを晴らす方法も分かる。こちらの世界のカスミたちにもすぐに伝えればいい。あなたたちの知っている沙綾ちゃんは無事だよ、連絡を取り合うことが出来るんだよ、と。
けれど、どうしてかそれが出来ない。
「なんでなんだろ……」
あんなに優しくしてくれる彼女たちのことをまだ信用していないのか。それとも……それとも、なんだろう?
何度も何度も繰り返した思考は、また同じ袋小路に入り込む。どうすればいいのか沙綾は分からなくなって、また重たいため息を吐き出した。
休みが終わると、空模様は打って変わって晴々としていた。
色々な意味で憂鬱な月曜日を越えた火曜の朝。昨日と同じく麗らかで控えめな秋の陽光が降り注ぐ通学路を、沙綾は俯きがちに歩いて学校へ向かう。
見慣れてきた商店街はまだ朝もやの中で眠っているみたいで、シンと静まり返っていた。スマートフォンの時計を見ればまだ七時ちょっと過ぎ。このまま歩いていけば、始業のチャイムが鳴る一時間前に学校に着いてしまう。
沙綾がこれだけ早く学校へ向かうのには理由があった。それは入れ替わってしまったもうひとりの自分からのメッセージを確認するため、というもの。
けれど、それにしたって……と沙綾は考える。
別にいつ確認したっていいはずなんだ、机のメッセージは。人の机の上の落書きが気に障ったとか目に付いたとかで、誰かがそれを消すわけなんてない。ましてや、読んでる途中に消されることなんてない。それなのに人目を避けるように、朝早くのがらんどうの教室に向かうのは……。
また入り込んでしまった袋小路。頭を振って、意識して早足に歩く。そんな風に、悶々とした悩みを踏み潰すような足取りでいると、思ったよりも早く学校に着いてしまった。
早朝の学校もまだ眠っているみたいだ。人気のない校門を通り抜け、昇降口に入って自分の教室を目指す。
朝の光は眩いばかりだけど、それが余計に影の濃さを引き立たせる。こんな朝早くから電灯が灯っているわけないから、廊下の陽の当らない場所には闇が淀んでいた。
それを知らんぷりして教室にたどり着くと、沙綾は足音を殺して、そっと自分の席に向かう。
誰もいない教室で、何も悪いことはしていないはずなのに、それでも自分の背中を追いかけてくる後ろめたさは一体何だろう。
気にしないようにして、自分の席に腰かける。それから机の上に目を落とした。
「あれ……これって……」
そしてすぐに気付く。これは、この字は……そう、香澄ちゃんのものだ。
食い入るように、机の左三分の一を埋めんとする文字に目を通す。
――沙綾ちゃん、だよね? 見えてたら嬉しいな。ううん、見えてるよね。絶対に見えてるハズだよね。
春のある日から始まった、机上の文通。時を超えてやり取りを交わしていた日々が沙綾の脳裏に蘇る。その思い出を噛みしめるように、彼女はメッセージを追っていく。
――こっちの沙綾ちゃんから「大丈夫」って聞いたけど、大丈夫? ちゃんとごはん食べてる? 何か大変なこととかない? もし何かあったら遠慮せずに言ってね! わたしたちに出来ることがあればなんでも頑張るよ!
書いてある内容は、そんな風に沙綾を心の底から心配しているものだった。読み進めていくと、今読んだものと同じような言葉が何個も並んでいたり、ところどころに誤字脱字が見られる。
それだけ熱心に書いてくれたんだな、と思うと、沙綾は少しだけ胸が温かくなった。
――沙綾ちゃんたちがちゃんと元通りに戻れる方法、わたしは全然役に立てないかもしれないけど、みんなで一生懸命考えるから! 無事に戻れたらライブだね! 頑張ろ!
しかし、最後の方の激励のメッセージが、また沙綾の心に暗い影を落としてしまう。
大切な親友からのメッセージ。嬉しいはずなのに、頼もしいはずなのに……どうして、こんなにも寂しい気持ちが胸の中に生まれるんだろうか。
けれど、それを悟られないようにしなくちゃ、と沙綾は思う。それから香澄への返事を書こうと、足元に置いたバッグからペンを取り出して、机にペン先を当てる。
何を書こう。何を書けば……香澄ちゃんは心配しないだろう。
そしてそんなことを考えると、まるで机の上にくっついてしまったかのように、ペンは動かなくなった。
そうしているうちにクラスメイトたちがどんどん登校してきて、教室が賑やかになっていく。
気付けばリミの姿が近くにあり、「おはよう、サアヤちゃん」という控えめな挨拶を聞いて、「うん、おはよ」と沙綾は机の上にバッグを置きながら挨拶を返した。
◆
――心配してくれてありがとう。こっちも大丈夫。元気だよ。
入れ替わってしまった沙綾からの返事は、そんな短いものだった。
そのことを、定時制の授業が始まる前の校門で、沙綾のことを待っていたカスミから聞かされた。
「沙綾ちゃん……大丈夫って言ってくれたのは安心なんだけど……」
あとに続いた言葉は歯切れが悪くすっきりしないもので、カスミは何かの違和感というか、気持ちのズレというか、そんな類のものを感じていそうだった。
そのカスミとひとつふたつと言葉を交わしてから別れを告げて教室に入った沙綾は、自分の机の上のメッセージを眺める。
――心配してくれてありがとう。こっちも大丈夫。元気だよ。
机の左側を覆うメッセージのあとに、ポツンと記された言葉。ああ、確かにこれは心配になるな、と沙綾も思う。
席に座って、自分ならどうだろうか、と考える。
もしも私が香澄にこれだけ心配されたら、当然嬉しい。感謝もするし、安心もする。少なくともたった一言で返事を終わらせることはない。
だけど、もしもの話だけど、何か悩みを抱えているとしたら……それも自分ひとりで解決しなければいけないような、後ろめたい使命感に急かされるような悩みを抱えていたとしたら、どうだろう。
「……絶対、こういう返事をするよね」
自分の悩みなんていうつまらないものは、人に知られないように、誰にも心配や迷惑をかけないように、ひとりでどうにかしようとする。
山吹沙綾のそういうところは、沙綾自身が一番よく分かっていた。何でもかんでもひとりで背負いこんで香澄に本気で怒られた文化祭の日とか、ポピパがバラバラになりかけて、何が正しいのか分からなくて自分の気持ちは引っ込めた日のこととか、その他にも日常の小さなことを考えれば枚挙に暇がない。
もしかしなくても、きっともうひとりの沙綾は何か悩みを抱えているのだろう。それは分かるけど、悩みの正体は分からなかった。
(何か少しでも、悩みが分かるような言葉をくれればいいんだけど……)
自分のことは棚に上げて、そう思いながら、沙綾はもうひとりの自分宛てのメッセージを考えた。
5
沙綾は悩み続けていた。
机のメッセージをカスミたちに話せないでいる。香澄からの心配のメッセージにもそっけない返事をしてしまった。そんな行動をしてしまっている自分の本心が分からない。
どうしてこんなことをしてしまうんだろうか。暇さえあればその思考が頭に浮かび、沙綾の眉間に皺がよる。どれだけ考えても考えても、迷い込んでしまった複雑な迷路から抜け出せない。
そんな沙綾をいつも心配してくれるのがカスミだった。
「サーヤ、大丈夫? なんだか暗い顔してるよ?」
休み時間でも、お昼休みでも、下校中でも、アリサの蔵にいる時も、そうやって声をかけてくれる。何か不安があるなら、悩みがあるなら、一緒に考えさせてと気にかけてくれる。
だけどその心配が余計に心のどこかに刺さって、沙綾は居たたまれない気持ちになっていた。
「……ううん、大丈夫。慣れないことが多いから、少し疲れてるのかも」
毎度毎度そんな言葉を返しているけど、それが半分嘘だというのは伝わってしまっているのかもしれない。そう思うと、ますます彼女の心に差す影の色が濃くなる。ため息も頻度が増して、眉間の皺も深くなる。
それでもこちらの世界の沙綾としての日常は続いていくし、机のメッセージも続いていた。
――りみちゃんって、なんていうか動物みたいだよね。
あー、確かに。パンあげた時とかすごい動物っぽい。
そんな他愛のないメッセージには、沙綾も何も考えずに返事を書ける。だけど、
――こっちでも色々とさ、どうやったら戻れるっていうのは考えてるけど……やっぱり何も思い浮かばないんだ。そっちはどう?
という、問題の解決に向かうための言葉には、沙綾はいつも迷ってしまう。
このメッセージに何を返せばいいんだろう。カスミちゃんたちにはあなたのことを黙っているのに、私は何もやっていないのに、どんな言葉を書けばいいんだろう。
胸の内でいろんな感情がぐちゃぐちゃに混ざり合って、自分のことが分からなくなっていく。
……いっそのこと、何も書かないでいようか。
ふと頭に持ち上がった思考に、どこか気持ちが楽になった。心が軽くなったような気がした。
だから沙綾は、その日は何もメッセージを書かずにいようと思った。
◆
「今日も来ない……か」
相変わらず頼りない蛍光灯の明かりに照らされた教室で、沙綾はぽそりと呟いた。
机の上に目をやれば、そこには一週間前に自分が書いた文字が並んでいる。今日も、その隣に返事はやって来ていない。あちらの沙綾との連絡は、先週から途絶えたままだった。
そのことをPoppin'Partyのみんなに伝えると、最初こそ「そういう日もある」というようなことを全員が言っていた。だけど返事がやって来ない日々が重なると、不安の色をだんだん顔に滲ませていった。
唯一の連絡手段である机上のやり取り。入れ替わってしまった沙綾との繋がり。それがなくなってしまったのではないか、と思っているのだろう。
(でも……そういうわけじゃなさそうなんだよね)
自分が書いたメッセージの隣。そこには何かを書こうとしたのか、ペンを机に押し当てたような跡が見受けられた。だから繋がり自体はまだあるんだと沙綾は思っていた。
ではどうして未だに返信が来ないのか、と聞かれれば、それはきっと沙綾自身の問題のせいだ。
「何か悩んでるんだと思うんだ」
この前の日曜日、いつものようにアリサの蔵に集まったみんなに、沙綾はそう言った。
「どうして分かるのよ?」
「ちょっと前の私がそうだったから」
怪訝そうなアリサに、苦笑いを浮かべながら返事をしたことを脳裏に呼び起こす。
「沙綾ちゃん、何に悩んでるのかな……」
「ごめん、それはちょっと……分からないんだ」
目を伏せて、心の底から心配そうな小さい声で呟いたカスミに、申し訳ない気持ちで言葉を返したことも思い出す。
入れ替わったもうひとりの自分が何を悩んでいるのか。メッセージが途絶えてから考えていたけど、まだ分からない。
はぁ、と沙綾は小さく息を吐き出して、窓の外へ視線を移す。夜空は重たい鉛のような雲で覆われていた。
(私がこっちの沙綾だったら……どうだろうなぁ)
そうしていると教師が教室に入ってきて、授業が始まる。現代文の教科書をパラパラとめくって指定されたページを開き、沙綾自身が書いたメッセージの上に置いた。
それから教師の声は聞き流しつつ、沙綾はぼんやりと思索に耽る。
もしもの話、私がこちらの世界の沙綾だったら。前にも考えたことだ。
私と同じで、こっちの沙綾は昔にポピパと別のバンドを組んでいた。けれど、トラブルが重なって、それも解散した。そして自分よりも家族を、実家の仕事のことを優先するようになった。そうしているうちにカスミちゃんたちと出会い、詳しい経緯は知らないけれど、またバンドをするようになった。
私ならどうだろう。香澄たちと出会って、ポピパに入ったばかりの私なら。
暗い校舎。ひとりの教室。他界した母。
明るい校舎。にぎやかな教室。いつも優しく笑っている母。
一度倒れたことがある、お店をひとりで切り盛りする父。まだ幼稚園に通う幼い弟たち。
いつもしっかりしていて、家族をまとめてくれる父。幼いながら、お店の手伝いをしてくれる弟と妹。
改めて考えてみると、やっぱり境遇の重たさが段違いだ。私がこっちの沙綾の境遇だったら……
「……戻りたくなくなる、かもね」
呟いた言葉に込められた感情は、同情とか憐憫とかと呼ばれるもの。沙綾自身が元々いた世界だから、という贔屓目はあるかもしれないけれど、こちらかあちらかを選べ、なんて言われたら、沙綾はきっとあちらを選ぶだろう。
もしも私が同じ立場になってそう思ったら、眩しさと温かさ、それと大きな罪悪感に板挟みになってしまうだろう。多分だけど、入れ替わった沙綾も、程度の大小はあれどそう思ってしまって苦しんでいるんだ。
これはまったくの憶測でしかないけれど、私も彼女も山吹沙綾だ。だから、きっと同じなんだ。
メッセージが途絶えたのもそのせい。寒暖差の激しい感情に板挟みにされて、身動きが出来なくなって、どうしたらいいのか分からなくなったんだ。そして、「もしも入れ替わったら」なんていうおかしな現実から目を逸らした。
そうすれば気持ちは少しだけ楽になる。……だけど、時間が過ぎるほど、影は知らない間に大きくなっていて、また彼女の心を襲うだろう。
もしかしたら見当違いの失礼なことを考えているのかもしれない。けど、私ならそうなるから、きっとあちらの沙綾も同じようなことを考えるはずだ。
私に何か出来ることはないだろうか。何かしてあげられることはないだろうか。どうしたら、どうすれば……。
先ほどとは違うことに頭を悩ませる沙綾の耳を、現代文の教師の声がすり抜けていく。
銀河鉄道が走る夜。ジョバンニとカムパネルラ。蠍の火の話。
声から逃れるように窓の外へ視線を移す。夜空には変わらず暗雲が垂れ込めていて、北極星を見つけることは出来なかった。
6
沙綾の頭の中は、日を追うごとにどろどろとした重たいものに侵食されていた。
メッセージのやり取りをしなくなった。それは一時的に、身体の内側で中途半端に混ざったマーブル模様の感情を意識から外してくれた。
けれど、その行動は、ついぞカスミたちに沙綾のことを隠し通したということに他ならなかった。
私は今、自分のことを気にかけてくれる人たちを騙している。そして、入れ替わってしまって、それでも私として頑張ってくれているもうひとりの山吹沙綾のことを裏切り、果てには大切な親友さえも謀っているんだ。
その事実が影になり、日に日に確かな輪郭を持って、沙綾の胸の中にふんぞり返る。
お前は今、自分を心配してくれている人たちを騙しているんだ。自分として頑張ってくれている赤の他人を裏切り、苦労を押し付けているんだ。
大切で特別な友達だと思っている人物にすら自分の本心を告げられず、戻る手立てを考えようともしていないんだ。
淀んだ黒い影が内から心を殴りつける。耳を塞いだって、目を閉じたって逃げられない。その声は、その影は、何をしていたって消えることはなかった。
明るい校舎。賑やかな教室。それと正反対な心が余計に浮き彫りにされる。
学校では顔をしかめて俯くことが多くなった沙綾。そんな彼女の姿を見て、Poppin'Partyのみんなはいつも心配する声をかけた。
「大丈夫、サーヤ?」
「サアヤちゃん、なんだか辛そうだよ……? もし具合が悪いなら保健室に行く?」
「……サアヤ、暗い顔してる。お肉食べる? 美味しいものを食べればきっと元気が出るよ」
「あー……なんだ、ほら。何か心配なことがあるならいつだって言ってくれていいんだからな?」
混じりっ気のない善意だった。入れ替わっただとかなんとかだとか、そういうことを抜きにした気遣いの言葉だった。
だからこそ、それらが沙綾の心に深く突き刺さる。自身の中の影が嘲笑を浮かべ、より増長した姿になる。
沙綾はどうしたらいいのか分からなかった。心を苛む優しさに、どう反応すればいいのかが分からなかった。
やがて彼女はそれらにさえ耳を塞ぐようになった。
「大丈夫だよ。平気だよ」と呪文のように繰り返し、「家の手伝いがあるからさ、ごめんね」と足早に家路を辿る。
ただ逃げているだけだということは沙綾にも分かっていた。だけど、そうする以外にどうしたらいいのか、彼女は答えを持ち合わせていなかった。
「サーヤ……」
その背中を、カスミはいつも歯痒い思いで見送っていた。どうしたら沙綾は元気を出してくれるのか……考えても分からないから、とにかくたくさん声をかけようと思っていたけど、そうする度に彼女は無理な笑顔を浮かべる。
自分がよく知る沙綾のように「私にも考えさせて!」と怒れば何か変わるだろうか。でも、さーやはさーやで、サーヤはサーヤだから……どうしたらいいんだろう。
日の暮れた教室で、沙綾が出て行った扉から、彼女の机に目を移す。こういう時はいつも沙綾がアドバイスをくれたりしたけど、今は頼ることが出来ない。
どうすればいいのかな、さーや。
そう思いながら、カスミは沙綾の机に歩み寄っていった。
やまぶきベーカリーの仕事は、パンを陳列して、レジに立ってお客さんの相手をして……と、ヤマブキパンでのものと変わりなかった。むしろ、パンはほとんど父親が焼くし、小さな弟と妹も手伝ってくれるから、あちらにいた時よりもやることは少ない。
ただ、沙綾にとって問題があるのは常連客の相手だった。
商店街のおじさんやおばさんたちは、みんな沙綾に親し気に声をかけていく。「今日も綺麗だねぇ」なんてからかわれたり、「いつも頑張ってるねぇ」なんていう労いの言葉になら笑いながら応対できるけど、「バンドは順調かい?」だとか「香澄ちゃんたちは元気かい?」なんて聞かれてしまうと、どうにもぎこちない対応になってしまう。
「沙綾~、なんだか元気なさげだねぇ?」
今日も今日とて、常連らしいお客さんに話しかけられる。のんびりと間延びした口調が特徴的な、沙綾と同い年くらいのマイペースそうな可愛い女の子だった。
「あー、うん……ちょっと調子が悪くて」
なんて答えたものか、と少しだけ考えてから、半分本当のことを返す。
「無理しちゃダメだよ~。あたしみたいに授業中も眠るくらいじゃないとー」
「……そう、だね」
おふざけ半分の言葉。それにもなんて返せばいいか分からなかったから、中途半端な相づちを返してしまう。
「…………」そんな沙綾の顔をマジマジ見つめてから、「今日のおすすめはなにかなぁ」と女の子は何でもないように言う。
「今日はブラックバ――」
それに少し助かったな、という気持ちで、口から出かかったのはヤマブキパン特有の名称。父が作り、名付けたブラックバード・メロンパン。優しい旋律に酵母が震える、とかなんとか。
「ぶらっくば?」
「う、ううん、なんでもないよ。えぇと、メロンパンだね」
「そっかぁ。じゃあメロンパン買ってこ~」
女の子は踊るようなふわりふわりとした足取りでメロンパンへ向かい、手にしたトレーにひょいと乗せる。それから店内をぐるっと時計回りに一周して、思い思いに他のパンもトレーへ乗せて沙綾の立つレジに戻ってきた。
「おねがいしま~す」
「はい、承ります」
畏まった言葉を聞いて、少女は少しだけ首を傾げた。だけどすぐにポケットからお財布を取り出し、そして沙綾が合計の価格を言うより早く、お会計ぴったりの小銭をキャッシュトレイに入れた。
「えぇと、丁度で」この子は相当の常連さんなんだな、と思いながら、沙綾はパンを袋詰めして彼女に手渡した。
「ん、どもども。それじゃあ沙綾、お大事に~」
「あ、うん……ありがと」
「んー。そんじゃね~」
間延びした声を残して、少女はやまぶきベーカリーを出て行く。その背中を見送って、沙綾は小さくため息をこぼした。また気を遣われたんだな、と思うと、名も知らない少女に申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
……あの子が本当に心配している山吹沙綾は私じゃない。ごめんなさい。余計な心配をさせてごめんなさい。
それと一緒に、自身の内からふつふつと後ろ暗い感情が沸き起こるも自覚した。
ここで働いている間なら、入れ替わったこととか、心配してくれるみんなのこととか、そういうことを頭の隅に放って置けたのに。身体を動かしているだけで、何も考えずにいられたのに。なのに、また私は心配されて、こうも打ちのめされる。自分の影が大きくなって、どんどんその暗闇に飲み込まれていく。ああ、なんて嫌な人間なんだろう、私は。
頭の中にどうしようもなく重たいものが渦巻く。それが大きな声で喚き散らして暴れまわるから、頭痛と眩暈がしてきた。胸の中にはどろりとした、嫌な熱を持つ塊が引っ付いて離れない。身体中が熱いのに、寒気がしてやけに喉が渇く。
耐え切れなくなったから、目頭に右手を当てて、レジカウンターに左手をついてうなだれた。
耳鳴りがする。頭の中をガンガンと叩かれる。胸の内を焼き尽くすような熱が這いまわる。
「おねえちゃんっ!?」
少し舌ったらずな声が聞こえて、沙綾は顔だけをそちらに動かす。明滅を繰り返す視界には、驚いたような顔をして、それから慌てて駆け寄ってくる女の子の顔。
「だ、大丈夫!?」
「だい……じょう、ぶ」
紗南ちゃん、だっけな……と他人事のように曖昧な思考を浮かべながら、うわ言のように返事をする。それを聞いて、紗南はくしゃりと泣きそうな顔になった。
「お、おかあさーんっ!」
バタバタバタ……慌ただしい足音が遠ざかっていく。それが目の奥に響いて、沙綾は瞳を閉じた。
気が付くと、沙綾は自室のベッドで横になっていた。薄ぼんやりとした視界に茜色の陽光が見えて、それから傍らに視界を移すと、ベッドサイドに椅子を持ってきて、そこに腰かける母親がいた。
「38.5℃だって。完全に風邪引いてるわね」
目が合うと、優しい笑みが綻ぶ。沙綾はそれに何も言えなかった。
「まったく……普段は私の心配ばっかりするのに、自分が倒れてたら説得力がなくなるわよ」
「…………」
まだまだ思考は散らばったままで、自分がどうしてベッドに横になっているのか、母が柔らかい言葉をかけてくれるのか、理解が出来なかった……けど。
「沙綾、大丈夫?」
「……うん」
ただ、その声が心に優しく響いてきて、沙綾は素直に頷いた。
「そう、よかった。もう、倒れるまで黙ってるなんて……誰に似たのかしらね」
「……たぶん、おかあさん」
「あら、そうかしら?」
とぼけたような返事をして、それからくすくすと笑う。それがただ心地いい。
「お店の方は大丈夫だからね。お父さんがいるし、純と紗南も手伝ってるから」
「…………」
その言葉にまた申し訳なさとか後ろめたさとかが生まれて、そういうものが心の水面に波紋を広げる。
「沙綾が気に病むことじゃないのよ」
だけど、穏やかな声がそれをすぐに鎮めた。
「最近、ちょっとはわがままを言ってくれるようになったけど……やっぱり無理をしちゃうのね」
「…………」
「沙綾はまだ子供なんだから、もっと素直になっていいのに」
「…………」
「いつもありがとね」
「……ううん」
緩く首を振る。その拍子に頭の内側がズキズキと痛んで、ようやく一番最初に言われた言葉の内容を理解した。
そうだ。頭が痛くて、身体が熱くて、どうしようもなく気分が悪くて……どうやら私は熱を出して倒れたみたいだ。朦朧とした意識の中、お母さんに肩を貸してもらって、フラフラとこの部屋まで歩いたような記憶があった。
「明日はお休みね。学校には私から連絡しておくから」
「うん……」
「ゆっくり休みなさい。早く治さないと、香澄ちゃんたちが心配するわよ」
「…………」それにはなんて返そうか迷ってから、「うん」ともう一度小さく頷く。
「食欲はある?」
「……少し」
「そう、よかった。それじゃあお母さん、お粥作ってくるわね。ちゃんと大人しく寝てるのよ。飲み物は枕元にあるから、喉が渇いたら飲みなさい」
そう言って立ち上がる。それに何かを言わなきゃいけない気がして、沙綾は口を開きいて、「あ……」と乾いた喉から少し掠れた声を発する。
「うん? どうしたの?」
優しい目が沙綾を見つめる。それに胸が詰まって、色々な言葉がぐるぐると胸中で巡り巡る。
「……ごめん」
だけど口から出たのは、そんな謝罪だけだった。
「いいのよ、気にしないで」
「……でも、ごめん」
「もう、心配性っていうかなんていうか……本当に誰に似たのかしらね」
少し呆れたような笑みを浮かべてから、くるりと背を向ける。そして遠ざかる母親の姿。
熱に浮かされた頭では地に足のついた思考が出来ないから、自分が今何を考えて、何を思っているのかがきちんと把握できない。だけど、どうしてもこれだけは言わなくちゃいけない気がしたから、もう一度だけ沙綾は「ごめんなさい」と小さく呟いた。
◆
その文字だけは見間違えるはずがなかった。
始業前の定時制の教室。西の彼方に沈みゆく太陽の濃い色をした光が弱く射し込む教室の机の上。自分が書いたメッセージの左隣に並ぶ、ぴょんと跳ねるような文字。
――さーや? これ書いてるのって……さーや、だよね……?
それはいつも色んな歌詞を書いてくれて、そして、ひとりで抱え込んでいた昔の私を引っ張ってくれた、香澄の文字だ。
およそひと月振りに見る親友からのメッセージは、沙綾の胸を詰まらせるのに十分すぎる力を持っていた。にわかに視界が滲みそうになって、沙綾は一度キュッと目を強く閉じてから開く。そしてその文字に目を通す。
――やっぱり有咲の言う通りになってたんだ! 大丈夫? 元気にしてる? 怪我とかしてない? こっちは大丈夫だよ、みんないつも通りで……ううん、いつも通りじゃ、ないんだった。
教師が教室に入ってくる。もどかしい気持ちを抑えながら、号令に従って立ち上がり、頭を下げる。それからスクワットの回数を競っているみたいに慌ただしい動きで椅子に座って、続きを読んでいく。
――あのね、今、さーやが……さーやじゃない方のさーやがね、すごく落ち込んでて……いつも俯いてて、すごく難しい顔してて、「大丈夫?」って聞いても、辛そうな顔で「大丈夫」って言ってて……全然大丈夫じゃないのに、何も話してくれないの。
でも、私も、有咲も、りみりんも、おたえも、どうしたらいいのか分からなくて……さーやみたいに接すればいいのかなって思うけど、でもさーやはさーやで、さーやはさーやじゃないから、それも違うって思って……放っておけないけど、どうすれば元気になってくれるか分からなくって……
ごめんね。さーやも大変なのに、余計心配させるようなこと書いちゃった。
さーやは無事……だよね? 色々やってるって書いてあるし、元気だよね? もしそれどころじゃなかったら本当にごめん。
どうしたらいいのかな。何をしたらさーやは元気になるのかな。さーやが大変な時に聞くのは間違ってるって思うけど、どうしたらいいと思う……?
メッセージを最後まで読み終わって、沙綾は小さく息を吐き出した。そして胸中にふたつの思いが浮かぶ。
ああ、やっぱりもうひとりの私は悩んでいたんだ。その悩みも、きっと私が思った通りのものなんだろう……というのがひとつ。
やっぱり香澄は優しいな。私のことも、もうひとりの私のことも気にしてくれてる……というのがもうひとつ。
それから香澄のメッセージをじっと見つめて、沙綾は思案に耽る。
香澄の口振り(というより、筆振り?)からして、どうにももうひとりの私はメッセージのことをみんなに伝えていなかったようだ。それはどうしてなのか、と考えれば、その答えはこの前だしたものとぴったり重なる。明暗と寒暖の板挟みになってしまって、ポピパのみんなにメッセージのやり取りを伝えることすら出来なくなったんだろう。
やっぱり同じなんだ、と沙綾は小さく呟く。
入れ替わってしまった沙綾も、自分と同じ山吹沙綾。何でもかんでもひとりで抱える癖があって、自分の素直な気持ちを出せなくって、身動きが出来なくなってしまう面倒な性格をしているんだ。
だとするなら……
(きっと、元気が出るきっかけも、勇気を出すきっかけも、私と同じなんだ)
その結論に至った沙綾は、なおも考える。自分ならどうだろうか。もしもこちらの世界の沙綾から、あちらの世界の沙綾になってしまったら……何を気にして、どうしてもらえば嬉しくて、どうやったら勇気を出せるのか。
「…………」
大切な家族やかけがえのない友達の顔が脳裏をめぐる。けれど、その中でも特に強い光を放つ人たちがいた。それは香澄であり、たえであり、りみであり、有咲であった。
……そうだ。私の世界は、ポピパのみんなを中心にして回っている。もちろんチスパのみんなも大切な友達だし、モカや巴みたいな商店街の幼馴染たちも大切な存在だ。だけど、ポピパのみんなはその中でも特別だ。
それならきっと、沙綾も同じ。大切な家族や友達の中でも、カスミちゃんたちが特別な存在であるはずだ。だから、香澄の声は届かなくても、カスミちゃんの声ならきっと届く。
そして、私たちの中心には常に歌があった。バンドを通じて、音楽を通して、より深く分かりあって、たまにケンカもして、笑い合った。
「よし」
沙綾は強く頷いて、ペンを手に取る。
やるべきことは決まった。あとは……カスミちゃんたち次第だ。
そう思って、香澄への返事を書き始めた。
休み時間が待ち遠しいのは久しぶりのことだった。
抑揚の小さい数学教師の声をかき消すようなチャイムの音が聞こえて、授業を終わらせる号令を終えると、スマートフォンを持って沙綾は廊下に飛び出す。
夜の帳が降りて、薄暗い蛍光灯の明かりに照らされる廊下は寒々としている。等間隔の明かりが点々と続く廊下の先には果てがないように思えて、ひとりぼっちな自分が浮き彫りにされているような気がした。途方のない寂しさを感じてしまう。
だからこそ、沙綾は沙綾を放っておけない。
「……手が空いてればいいんだけど」
電話帳からカスミの名前を呼び出してタップする。耳にスマートフォンを押し当てると、無機質な呼び出し音が響く。
沙綾のスマートフォンを使って、こちらのPoppin'Partyに自分から連絡をするのは、アリサに電話をして以来だった。出てくれるかな、と少し不安になりながら、応答を待つ。
『も、もしもしっ』
呼び出し音が三つ鳴り終わったところで、少し慌てたような声が聞こえた。それに少しほっとしながら口を開く。
「ごめんね、忙しかった?」
『う、ううん、平気だよ。今、有咲ちゃんの蔵にみんなといて、ちょっとお話してたから……』
電話越しのくぐもったカスミの声。その後ろから、何やらリミとアリサがいつもの言い合いをしているような騒がしい声が微かに聞こえる。言葉を断片的に拾うと、『獅子メタル殿とシュシュ殿はパンがある。しかしベンケー殿には何もない』とか『あんたの餌付けなんかしないわよ!』とか、それからタエの控えめな『あ、自分、きゅうり持ってきましょうか?』だとか。
「賑やかだね」
『うん。さっきまでは真面目な話、してたんだけど……』
「そっか」
きっともうひとりの私のことだな、と思いながら、沙綾は扉の窓から教室を覗き込み、壁にかけられた時計を窺う。休み時間はあと五分ほどだった。みんなの賑やかな声をもう少し聞いていたい衝動に駆られるけれど、そんな暇はなさそうだ。
「あのね、単刀直入に話すけどさ」
『うん』
「香澄……カスミちゃんのことじゃなくて、私の世界の方の香澄から、メッセージが届いてたんだ」
『え、本当っ?』
「うん。香澄の字は見間違えるわけないから、絶対本物」
『そ、それで……どんなことが?』
カスミの声に、沙綾は親友から届けられたメッセージをかいつまんで話す。サアヤがひとりで悩んでしまっていること、それをどうにかしたいと思っているけどどうにも出来ないこと、その悩みの内容が私には分かるということ。
『そっか……沙綾ちゃん……』
沙綾の話を聞き終えて、カスミは消え入りそうな呟きをポツリと落とす。きっと電話越しの顔には憂愁の影が差していることだろう。
『わたしたちに出来ることって、何かないかな』
それから今度は強く芯の通った声がして、沙綾は温かい気持ちになる。ああ、やっぱり香澄はどこでも香澄だ。
「あるよ。カスミちゃんに……ポピパのみんなにしか出来ないこと」
その気持ちのまま、静かな声を返す。電話の向こうでカスミは固唾を飲んでいるような雰囲気が伝わってきた。だから、沙綾は続けて言葉をかける。
「歌を……もう一度、歌を贈ってあげてほしいんだ。カスミちゃんたちのまっすぐな気持ちを、歌詞にして、言葉にして贈ってほしい」
かたく閉ざされた最後のとびらを解き放つもの。それは音楽という魔法の鍵だ。
例え時空を超えた世界に迷い込んだって、離れ離れになったって、それだけで大きな勇気を貰えるし、元気になれる。
『歌を……』
「私もね、香澄にそうやって勇気を貰ったんだ。だからもうひとりの私だって、カスミちゃんからの言葉で、音楽で、何でも出来るってくらいの元気を貰えるはずなんだ」
『そっか……そっか!』
曇天から射し込む一条の光を見つけたように、カスミの声が弾む。
『分かった! わたし、頑張る! 沙綾ちゃんに元気を届けられるように!』
「うん」
その元気いっぱいな声を聞いて、沙綾も少し元気を分けてもらえたような気がした。
それからニ、三言、他愛のない言葉を交わし合ってから、沙綾は通話を切る。ふっと息を吐き出して、廊下の窓から夜空を見上げる。
黒い空にはまだまだ雲の影が多いけれど、その隙間からは半分の月が顔を覗かせていた。
7
サアヤにひとまずの問題解決の糸口を貰った香澄は、ずっと沙綾のための歌の歌詞を考え続けていた。
どうすれば沙綾ちゃんにわたしたちの気持ちが伝わるのかな。どうすれば元気を出してもらえるのかな。
有咲の蔵でみんなと話しながら考え続け、家に帰ってからも自分のベッドの上で夜中までうんうん考え続け、寝不足な目をこすりながら都営荒川線の路面電車に揺られつつもずっと考え続け、Poppin'Partyのみんなと一緒に通学路を歩みながらも唸り声をあげて考え続けていたけど、なかなかその答えにはたどり着けそうにない。
「うぅ~ん……」
「……転ぶわよ、かすみん」
俯きがちで、眉間に深刻な皺が刻み込まれた香澄を見兼ねて、とうとう有咲が声をかける。あまりにも深く考え込んでいたからみんななんとなく触れていなかったけど、このままだと何もないところでつまづくんじゃないかと心配で気が気じゃなかった。
「え?」
「いや、『え?』じゃなくて、そのまま歩いてると転ぶわよ」
「あ、う、うん……ごめんね?」
「かすみんセンパイ、昨日からずっと考えてるんすか、新曲のこと?」
「うん……でも、どんなことを書けばいいのか思い浮かばなくて」
ため息と肩を落とす。サアヤちゃんにせっかくアドバイスを貰ったのに、早く沙綾ちゃんを助けてあげたいのに……という気持ちだけが空回っている。
「師匠は考え過ぎなんだ。うちのようにしていれば、ビビっと、そのうち空から降りてくる」
「あんたが受信してるのは変な電波だけでしょ。かすみんにそんな電波はいらないわ。ボケナスはりみだけで十分よ」
「失敬な、うちはボケナスではない。……あっ!」
「なによ? 何かいいアイデアでも――」
「ナスの天ぷらが食べたくなった!」
「――浮かんだわけないわよね。はぁ……」
ムッとして、それから口を開けてナスの天ぷらに想いを馳せるりみ。それを見て大仰なため息を吐き出す有咲。
「あの、かすみんセンパイ。自分が言うのもなんですけど、あんまり悩みこまないでくださいっす」
「うん……ありがとう、たえちゃん」
そんな漫才を横目に、たえは香澄を気遣いながら、学校を目指して歩いていく。
りみとたえが今生の別れの寸劇をして、有咲がもはや無反応でそれをスルーして、それを傍目に相変わらずうんうん唸りながら自分の席へ腰かけた朝のひと時。
ホームルームで気の抜けた先生の挨拶を聞いて、一時間目の英語の授業を受けたひと時。
次の体育の時間で、バドミントンのラケットを手にぶら下げたまま、りみからのサーブをおでこで受け止めたひと時。
その全部のひと時で、香澄は沙綾に届けるべき言葉を考え続けていた。
だけどそうしていると、悩みすぎちゃダメだ、でも考えなきゃ何も浮かばないし、けど考えすぎると悩んじゃうし……なんていう風に、だんだんと思考が本筋から離れていってしまう。
本当にどうしたらいいんだろ……と、三時間目の授業も上の空でいたら、現国の先生に注意された。「もう恋のスタンプカードは終わったぞ」と言われ、教室中から笑いが起きる。頬がかぁっと熱くなった。
――サイテーで、サイテーで、サイテーすぎる! と、いつかに浮かんだ思考が頭にもたげて、でも今は机の上には何も書かれていなくて、香澄は深いため息を吐き出した。
「何よ、恋のスタンプカードって?」
三時間目が終わると、隣の席の有咲が香澄の傍らに立って、相変わらずか細く揺れる声をかける。返事に困って、曖昧な照れ笑いを浮かべた。
「それはだな、ベンケー殿」その有咲の背後からにゅっとりみが顔を出す。「春の頃、師匠が一ヵ月も先の授業内容をヨチしていたことがあったのだ。ケハイのカンゼンなシャダンといいミライヨチといい、やはり師匠はすごいと改めて思ったぞ」
「あー……なんとなく分かった」
「ベンケー殿はヒキコモリであったが故に、四月の師匠をてんで知らないんだな。ひとりでピコピコをやってる間にあった、師匠の目覚ましい活躍を……」
「ピコピコってあんた、お母さんか」
いつものように始まった漫才。香澄がそれに頓珍漢なツッコミを入れて有咲がため息を吐き出して……なんていうのがいつもの流れだけれど、今日の香澄はそれどころじゃなかった。有咲とりみから視線を外し、机の上を眺めながら、ずっと歌詞を考え続けていた。
分かった! わたし、頑張る! 沙綾ちゃんに元気を届けられるように! ……なんて昨日サアヤに威勢よく言ったけれど、どうすればいいのかという答えはまだまだ出そうにない。声にならない唸り声ならここ半年分は口から出て行ったけど。
「……かすみん」
「…………」
「かすみん」
「…………」
「……かすみんっ」
「は、はい!?」
と、そんな悩める香澄の耳元で、有咲は声を張り上げる。それは学校の外で話す時の声よりちょっと小さいものだったけれど、クラベン系女子の有咲にとってはお腹の底から吐き出した大声だった。
「え、えっと、どうしたの、有咲ちゃん?」
「どうしたの、はこっちのセリフ……ああいや、いいや。りみ、ちょっとおたえ連れてきて」
「ギョイ」
有咲に言われ、風のようにシュタタタと駆けだして教室を出て行くりみ。それを見送ってから、
「えい」
と、有咲は気合の一声とともに、香澄の眉間に人指し指を突き立てた。思った以上に柔らかい感触がした。香澄は香澄でびっくりして「わきゃっ」とちょっと変な声を上げてしまった。
「あ、有咲ちゃん……?」
当惑した香澄に、指は眉間につけたまま、有咲は言う。
「眉間に皺、寄りすぎよ。なにひとりで悩んでるのよ」
それは相変わらずの小さな声だったけれど、それでもいつもよりもずっとしっかり芯の通った声だったから、賑やかな教室の喧騒に溶けず、まっすぐに香澄の耳に届く。
「昨日からずっと考えてんのは、沙綾のことでしょ?」
「……うん。サアヤちゃんにアドバイスもらって、それで、沙綾ちゃんを元気づけなきゃって思ってて、でも何も思い浮かばなくて……」
「で、ひとりでずっと考えてたって? かすみん、あんたバカなの?」
「ばっ……!?」
バカなの? というセリフが耳に刺さり、反発しようと思ったけどすぐにやめた。そうだよ、こんなに悩んでるのに何も思いつかないなんて、わたしはただのお馬鹿さん……ドアホウのアホウドリ……。
「やっぱりボケナスよ。今のかすみんも、違う世界に行った沙綾も」
しゅんと落ち込んだ香澄に、内容とは裏腹な柔らかい声を出して、有咲は指を眉間から離す。それから香澄に顔を寄せて、大きな瞳をしっかり覗き込んで、言葉を続ける。
「ひとりで悩んでたら、沙綾と一緒よ」
「…………」
「そんな沙綾を元気づけるためなのに、あんたがひとりで抱え込んで落ち込んでたら変でしょ?」
「……うん」
有咲の言うことはごもっともだった。香澄はさらに肩を落としてしまう。
「あーもう、違うから。責めてるわけじゃないからね?」有咲は香澄の肩にそっと手を置く。「あたしが言いたいのは……その、違う世界に行っちゃった沙綾と状況が違うでしょ?」
「状況……?」
ピンと来ていない顔が間近にあった。だから有咲はわざとらしく大仰なため息を吐き出す。
「……今のかすみんにはあたしたちがいるでしょ」
「…………」
顔を赤くして、ちょっと……いや正直かなり照れくさいと思いながら、有咲は言葉を紡ぐ。香澄は目をぱちくりとさせた。そうしているうちに、余所の教室に入ることを未だにちょっと渋るたえの背を押して、りみがふたりの元へ戻ってくる。
「前はほら、ひとりで考えなさいって言ったけど……今回は違うでしょ? もうかすみんはしっかりと歌に向き合ってるし……ひとりじゃない。沙綾だってそう。あたしと、りみと、おたえがいるんだから」
「有咲ちゃん……」
「そう、師匠はひとりではない。もちろん美味しいパンをくれる獅子メタル殿も」
「え、あの、え……? 急に連れてこられて、なんの話っすか……?」
「みんな……」
教室の自分の机の周りには、Poppin'Partyのみんながいた。
半年前の自分の周りはどうだったろう、と考えてみればそれは考えるまでもないことで、その時の香澄はひとりぼっちだった。友達と呼べるのは、名前も顔も知らない、机上の文通相手だけだった。だけど――
「そんなお通夜みたいな顔してたら、曲なんて浮かんでこないわよ」と、有咲。
「実はな、師匠がひとりきりで作曲して、印税を独り占めしようとしているのだ」と、りみ。
「あの、自分にも何か出来ることがあると思うので……」と、りみはスルーして、話を察したたえ。
「うん……うん!」
――だけど、今の自分の周りにはみんながいる。大切な友達がいる。それだけで、何か眼前の暗闇が晴れたような気がした。香澄は力強く頷いて見せる。
それから改めて考える。一番に頭に浮かんだのは、前に有咲に突き放されて沙綾の部屋で歌詞を考えた時のこと。
あの時は自分のはじまりの歌だった。じゃあ今度の歌は、どんな歌なんだろうか。
夢を打ち抜いたことが全てのはじまり。ホシノコドウがわたしのスタートの歌。文化祭で五人で演奏したのが、走り始めたばかりのわたしたちの決意の歌。それじゃあ今度の歌は……きっと、わたしたちのこれまでと、これからの歌。
そう思うと、香澄の胸の内側から沸々と言葉が湧いてくる。
これまでのこと。わたしのこと。みんなと出会ったこと。
これからのこと。沙綾ちゃんに……ううん、沙綾ちゃんだけじゃなくて、みんなに伝えたいこと。
胸の内から思い出を取り出して、頭の中から出てきた言葉にくっつける。淀みなく、あるべき場所へとあるべきものが戻るみたいに、パズルのピースがはまっていく感覚。
沙綾の部屋に押しかけて、散々泣き喚いた時の感覚に近いものだ。それを思い出すと恥ずかしくて顔が赤くなる。でも沙綾ちゃんの膝、柔らくて気持ちよかったし、トントントンって背中を叩かれたのは心地よかったな……。それから色んなことをお話して……。
『人はそんなに変われないと思うの』……と、自分の話を聞いてくれた後に沙綾が継いだ言葉が頭に浮かぶ。
『なにかを乗り越えたと思っても、実際、乗り越えたのだとしても、またつまづくことはある。うまくいったり、いかなかったり……。つらいことも起こるし、思いがけないことも起こる……。人生は魔法じゃないから』
その時の香澄は、引き込まれるように沙綾を見つめていた。
『だから何度でも、歌うんじゃないかな』……そうだ、沙綾ちゃんが静かな声でそう言ってた。『大切なものとは何度だって出会える』し、『何度だって思い出して、何度だって乗り越えればいい』んだ。
一度でダメならもう一回、ニ回でダメなら十回、十回でダメなら百回、百回でダメなら千回。
そうやって、何度でも何度でも、涙を落としても、つまずいてうずくまっても、また前を向いて走り出せばいい。何度でも歌うべき歌を歌えばいい。泣き虫のわたしは、そう教えてもらったんだ。かけがえのない友達に。
もしかしたら、この気持ちを言葉に――歌にしても、わたしの独り善がりなのかもしれない。でも、それでいいのかもしれないとも思う。
わたしのはじまりの歌に、沙綾ちゃんも涙を流してくれたんだから。みんなが感動してくれたんだから。
「……みんな、ありがとう」
自分を取り囲む大切な友達を順々に見やって、香澄はお礼を言う。眉間の皺はとっくになくなって、瞳には先ほどまでにない光が宿っていた。
「みんなのおかげで……書けると思う。ありがとう、有咲ちゃん、りみりん、たえちゃん」
「それでいいのよ、かすみん」
まっすぐにお礼を言われて、有咲は少し照れくさそうに、
「うむ。報酬(ギャラ)は指定の口座に振り込んでくれ、師匠」
りみはドヤ顔を浮かべながら、
「え、まだ自分、何もしてないっすよ?」
たえは不思議そうな顔をして、香澄に言葉を返す。
(沙綾ちゃんならどんな顔をするかな……)
今はここにいない、特別な友達のことを考える。するとすぐに、優しい笑顔をして『頑張ってね、香澄ちゃん!』と背中を押してくれる姿が浮かんだ。
書きたいこと、伝えたいこと。それが決まると、香澄はどんどん歌詞を編んでいく。
その内容は、沙綾がサアヤと入れ替わる前日、有咲の蔵で他愛のない“たられば”の話をした時にちょこっと歌った歌と通じるものがあった。だから、もともと大まかに出来ていたメロディーや歌詞に、今の気持ちを詰め込んでいった。
あの時は「あふれる意思と勇気の歌! 始まりの歌! 青春の歌でもあって、わたしもこうなりたかったって歌!」とみんなに豪語した記憶がある。それと大きく変わりはない。
ただ一言付け加えるなら、これは泣き虫の歌。泣き虫なわたしのテーマ。
授業中も、お昼休みも、放課後も、有咲の蔵でも、自分の部屋でも……香澄はペンを手に、真っ白なルーズリーフの上に詩を編み出していく。
「……出来た……!」
そして、自分の部屋の壁掛け時計が夜の0時を指すころ。真っ白だった紙上には、香澄のこれまでと、香澄たちのこれからを指し示す言葉が躍っていた。
その上にコードをつけて、仮組のメロディーに言葉を乗せる。淀みなく、詩が旋律を伴って、頭の中を流れていった。
……うん。この歌を沙綾ちゃんに、みんなに届けたい。
香澄は強くそう想って、今すぐみんなにこの歌を伝えようかと思ったけれど、時間も時間だったからベッドに潜り込んだ。
・ ・ ・
『曲が出来たんだ! これを沙綾ちゃんに届けようって思う!』……そんなメッセージをカスミから貰った沙綾は、いつもよりも早く学校に向かった。
校庭や中庭にはいつもよりも生徒が多く見受けられた。だけど、斜陽の教室に足を踏み入れると、そこには誰の影もない。少し寂しい気持ちになりながら、沙綾は自分の席へ足を向ける。
「これが……」
そしてチラリと見やった机のまんなかには、カスミたちの文字で、長い長い詞が書き込まれていた。それを読み込まないように、沙綾は用意しておいた大きめのハンカチを机に広げる。
これはカスミちゃんたちが私じゃない沙綾に宛てた、大切なもの。きっと私が見ていいものじゃない。清らかな願いが込められたこの歌は、彼女たちの間だけで共有されるべきだ。
沙綾はハンカチの上に、一時間目の科目の教科書を広げる。そして今日は一日中、そうやって授業をこなしていった。
◆
時計の針はいつもよりも三十分早い時間を指していて、花咲川女子学園の最寄り駅にも人が少なかった。見慣れた街並みもどこかシンとしている。
香澄はその中を歩いて、やまぶきベーカリーを目指していた。
歩きながら、頭の中には昨日のメッセージのやり取りが浮かぶ。
『さーや、風邪はもう大丈夫? もし明日は来れるなら、一緒に学校行かない??』
放課後に送ったメッセージ。なかなか既読がつかなくて、まだ調子が悪くて眠ってるのかな、と思いながら返事を待っていた。
『うん、大丈夫。明日は行けるから、いいよ』
そしてそんな返信がやってきたのは、夕ご飯を食べ終わってお風呂から上がった時だった。
淡々としたメッセージではあったけれど、それでも自分のお願いを聞き入れてくれたことにホッと胸を撫でおろし、メッセージを返す。
『ありがと! それじゃ、明日の七時半くらいにさーやを迎えに行くね!』
それには『了解』という意思を示す猫のスタンプが返ってきて、やっぱりどこか淡白なやり取りだと香澄は思っていた。
このやり取りの中で、サアヤは何を思って何を感じているんだろう……そう考え出すと、香澄の胸は少しだけチクリと痛んで重たくなる。
さーやも、サーヤも……いっつも自分ひとりで色んなことを抱え込む。みんなに心配かけないようにって、自分だけでなんとかしようとする。無理にでも笑おうとする。私が知ってるさーやは最近そういうことが少なくなったけど、いま私たちの傍にいるサーヤは昔のさーやそのものだ。
そういえば、文化祭の時は本気でさーやに怒っちゃったな。今ではもう懐かしいことを思い出して、香澄は少しだけ照れくさい気持ちになる。
流石に今回はそんなことをするつもりはない。喧嘩するのなんて嫌だし、すれ違って寂しくって悲しくって涙を流すことなんて、出来れば二度としたくない。そんなことをする必要だって、きっとないはずだ。
香澄の胸中には妙な確信があった。それは直感とか、そういう風に呼ばれる類のものだ。
何の確証も根拠もないし、ただの自分の勘でしかない。だけど、それでも……。
――心配してくれてありがとう、香澄。大丈夫だよ、きっとなんとかなる。こっちの香澄ちゃんたちもね、ずっと沙綾のことを……もうひとりの私のことを心配してるんだ。
私が香澄たちに元気を貰ったみたいに、もうひとりの私が元気になれることを香澄ちゃんたちに伝えるよ。だから、きっと大丈夫。絶対になんとかなる。
昨日の朝一番に、沙綾の机の上を確認して、書かれていたメッセージ。香澄はその大親友からのメッセージを、なんの疑いもなく信じている。そして、動物的な勘というか、第六感というか……そういうものが、確かな予感を感じ取っている。
それは、今日、サアヤと共に教室に行けば、きっと何かがいい方向に変わっていってくれるような気がする……そんな予感。沙綾がアクションを起こして、それをもうひとりの香澄が受け取って、何かを届けてくれるんじゃないかっていう、確信めいた予感だ。
だから香澄はサアヤを誘って、いつもよりも早い時間に学校へ行こうと思ったのだった。
昨日のこと、ふたりの沙綾と連絡を取り合ったことを頭に思い浮かべていると、商店街についた。
晩秋早朝の商店街はどこか寒々としていたけれど、香澄は強い足取りでやまぶきベーカリーを目指す。
そうして歩を進めていると、すぐに目的地へたどり着いて、軒先に見慣れた姿を見つけた。その姿に駆け寄る。
「おはよっ、サーヤ!」
まだ眠りについてるような商店街を呼び覚ますように、元気にサアヤへ声をかけた。
「ああ、うん……おはよ」
サアヤは香澄の方を見やって、暗いトーンで挨拶を返す。そしてぎこちなく笑った。
それからふたりは肩を並べて学校を目指す。
道すがら、サアヤはずっと俯ぎがちで言葉も少なかった。香澄が何かを話しかければそれに言葉を返すけど、自分から何かを話そうということはなかった。
その姿にやっぱり香澄の胸はチクチクと刺される。元気になってほしい、笑ってほしいと願うけれど、似ているようでまったく違う世界に迷い込んでしまった人の気持ちは分かりそうもないから、どうしたらいいのかが分からない。
(でも、きっとさーやが何かしてくれたはずだから……)
今も大変だろう親友に頼ってしまったことが少しだけ申し訳ない。だけど、友達とはそういうものだという認識が香澄にはあった。
変な遠慮はしないで、辛いこと、苦しいことがあるなら何でも打ち明けられる関係。うれしいこと、楽しいことがあれば気兼ねなく一緒に笑い合える関係が友達。
それはサアヤも一緒だ。
さーやとサーヤは別人だけど、すぐに元の世界へ帰って行くのかもしれないけど、それでも私はサーヤのことをもっと知りたいし、もっと仲良くなりたい。どんなことでも相談してほしいし、私じゃ力になれないかもだけど、でも一緒に考えさせてほしい。
そんなことを考えながら、香澄はサアヤと共に学校を目指した。
・ ・ ・
カスミと一緒に学校へ行く、というのは簡単なように思えるけど、沙綾にとっては心に大きな重しがのしかかる出来事だった。
色んなことが折り重なって体調を崩した一昨日からずっと心配するメッセージを送ってくれたことは嬉しいし、昨日も昨日でそっけない返信をした私のことを気にしてくれることもありがたいとは思っている。
けど、そんな温かなカスミがいるからこそ、沙綾は自分自身の嫌な部分をまざまざと眼前に突き付けられている気分だった。
肩を並べて歩く通学路で、カスミは色々なことを沙綾に話しかけた。
学校の授業の話。
商店街の美味しいご飯の話。
昨日見たテレビの話。
カスミの妹の話。
そのどれもが他愛のない話題で、きっと気を遣ってくれてるんだろうことが沙綾には痛いほど――文字通り、聞いてるだけで申し訳なさが募って胸が痛くなるほど――伝わってきた。
一日休んで体調は回復したけれど、心は一向に晴れた気がしない。
一昨日、部屋を出て行く母親の背中に向けた「ごめんなさい」が何に対してなのか、未だに分からない。
知らず知らずのうちに俯く顔。こんなに自分を心配してくれている素敵な女の子に、「おはよう」さえ上手く言えない。なんて嫌な人間だろうか、私は。
気が付くと学校に着いていた。どうしようもない自己嫌悪を抱えながら歩く通学路はいつもよりも長かったような気がしたけど、時計を見るとかえっていつもよりも短い時間で着いたようだ。反応が薄くともめげずに色んな話題を持ちかけてくるカスミと共に、沙綾は自分の教室を目指す。
相変わらず朝の光は眩しい。そのせいで、廊下の隅っこにわだかまる影が余計に鼻につく。
気にしないように努めているうちに教室にたどり着いて、沙綾は自分の机を目指して、足を動かす。
今日も一日が始まる。そう思うと気分と身体が重たくなる。それらを引きずるようにして、自分の席を目指し、憂鬱な顔で椅子へ座った。
それから机の上にため息と視線を落として、気付く。机のまんなかに、とても長いメッセージが書かれていた。
――沙綾ちゃんへ。
まず一番に目に付いたのは、香澄の文字。改まった書き出しに、不甲斐ない自分を責めるようなことが書いてあるんじゃないだろうか、と不安になりながら、目を通していく。
――沙綾ちゃんは今、どうしていますか。元気にしてくれていたら嬉しいけど、もしかしたら元気じゃないかもって、沙綾ちゃんとは違う沙綾ちゃんに聞いて、何か出来ることがないかなって……それで、みんなにアドバイスを貰って、歌を作ったんだ。
覚えてるかな? 沙綾ちゃんたちが入れ替わっちゃう前の日に、みんなでたらればの話なんてしたよね。その時に言ってた歌、なんだけど……ちょっとだけテーマが変わったんだ。
これをね、今度のライブでやりたいって思ってる。みんなはいいよって言ってくれたから、あとは沙綾ちゃん次第なんだけど……音は届けられないけど、それでもわたしの気持ちが届けばいいなって思うんだ。
タイトルはまだ決まってないけど、これは泣き虫なわたしのこれまでと、これからの歌です。どうか、目を通して……一緒に演奏したいって思ってくれたら嬉しいな。
猫が尻尾を丸めたような可愛らしい文字。そのあとに、いつかに自分の部屋で見たような詩が編みこまれていた。
【泣き虫のテーマ(仮)】
素顔の自分 見せないようにしてた
制服の袖キュッと 握って笑った
「おはよ」って今日も上手く言えるのかな?
深呼吸…! 玄関のドアを開いて いつもの通学路へと
ねぇ… そんな日のよく晴れた風の下で聴こえたんだ
Listen to song
自分が無くしてしまったナニカの欠片の歌が
Listen to song
戻らないと決めた時計の針が溶けてゆく
「仲間だね」と手を取る人がいる
ダメだよまだ泣いちゃ…! 始まってない
やっぱ誤魔化せないよこの想い
1000回潤んだ空だってさ
でも…それでも昇る 朝日の向こう側に
大好きを叫びたいよ…!
雲の日でも太陽が好きだった
どんなに陰ってても 温もりは優しく
晴れた日には 進む道を照らすよ
私も… そうなりたかったんだと知ったの
ホントの 強さを知りたい
ねぇ… 踏み出せないこんな私でも夢見ていいのかな?
Yes, it's“BanG Dream!”
勇気すら握ることもまだ出来ない私でも…?
Yes, it's“BanG Dream!”
そしたらね「それが君らしさであるんだよ」と
「たりないトコは半分こだね」と
ズルイよそんなのは 我慢してたのに
夢は夢じゃないと歌う旅
青春を全部捧げていい
さあ… そしたら昇る 一直線の光だ
みんな色の光だ!
やっぱ誤魔化せないよこの想い
1000回潤んだ空だってさ
でも… それでも昇る 朝日の向こう側に
夢は夢じゃないと歌う旅
青春を全部捧げていい
さあ… そしたら昇る 一直線の光だ
みんな色の奇跡だ!
香澄ちゃんの字があった。有咲ちゃんの字があった。りみちゃんの字があった。たえちゃんの字があった。きっと顔を寄せ合って、フレーズごとに分担してみんなで書いたんだろう。そのシーンがありありと目に浮かぶ。
『これが沙綾ちゃんへの歌!』って、香澄ちゃんがみんなに詩を見せる。
『泣き虫のテーマ(仮)って……もう少しなんかこう、あるでしょ?』って、有咲ちゃんがちょっと呆れたような顔をする。
『ベンケー殿がそれを言うのか。しかし、実に師匠らしい曲だ。うちは気に入った』って、りみちゃんがしたり顔で頷く。
『自分もいいと思います! 感動して泣いちゃいそうっす!』って、たえちゃんが感極まった顔をする。
『えへへ……みんなのおかげだよ!』
『うむ、苦しゅうない。まったく、師匠がこんなにいい歌を書いたというのにベンケー殿ときたら……』
『なによっ、別に悪いとは言ってないからね』
『あ、かすみんセンパイ。自分、ここのコード進行はこういう感じがいいっす』
『うん、分かった。ちょっと変えてみるね』
『……これもイントロはキーボードからね。というか最初はほぼキーボード主体だし、そうしたら……』
『ベンケー殿は素直じゃないな』
『うっさい。……って、曲作りに関しては後よ、後』
『あ、そうだね。それじゃあ……みんなで書こう!』
『自分、【Yes, it's“BanG Dream!”】のとこは譲れないっす』
『そこはあたしが書こうと思ってたんだけど』
『うちはオオトリを頂こう。シンガリは任せろー』
『あんたに任せたら即潰走するわよ』
『け、喧嘩しないで……』
わいわい、思い思いに喋って、ここは誰が書くとかなんとか話して、歌詞を書き込んでいく。そして……
『さぁ、沙綾ちゃんの番!』
『最後は沙綾に任せるわ』
『例え獅子メタル殿が倒れても、うちがポピパを守る!』
『沙綾センパイ、頑張って下さい!』
香澄ちゃんが笑顔でペンを差し出してくる。有咲ちゃんが笑顔を隠すようにそっぽを向きながら言う。りみちゃんがなんだかトンチンカンなことを宣言する。たえちゃんが真剣に応援してくれる。
その姿が鮮明に浮かんで、そしてすぐに滲んでぼやける。沙綾は自分が泣いていることをそこで自覚した。
目元を拭うけど、自分が情けなくって涙が止まらない。
私はずっとずっと逃げ続けていた。この世界からも、もしも入れ替わったらなんていう非常識な現実からも目を背けていた。夢を見ているみたいに、都合のいい部分だけをかすめ取ろうとしていた。
心に引っかかる得体のしれないもの。出所不明の寂しさとか、奇妙な安心とか、母親の背中に投げた「ごめんなさい」とか。
それは全部、私自身の弱さだ。……私は、もうひとりの私の綺麗な陽だまりを奪おうとしていたんだ。
元の世界へ戻ることを考えて寂しいと思ってしまったのは、もう思い出の中にしかいない母親と離れたくないから。
戻る手立てが見つからなくて安心してしまったのは、まだこっちの世界で明るい場所にいられると思ったから。
そう思ってしまったことも、この陽だまりを手放したくないと思ったことも、本当は全部分かっていた。だけど、そんなサイテーなことを考えた自分と向き合えなかった。目を逸らして、見えない振りをして、誤魔化していた。
でも、どうしていたって、この陽だまりは私のものじゃない。もうひとりの……ずっと私として頑張ってくれている、立派な方の山吹沙綾のものなんだ。
私の世界は、こんなサイテーな私を見捨てないでずっと手を差し伸べてくれている香澄ちゃんたちや、妙に張り切って私を気遣うお父さんや、何を差し置いてでも守ろうと思える可愛い三つ子の弟たちが……大好きな人たちがいる世界だ。大好きな優しいお母さんとの思い出がある世界なんだ。
どれだけ目を逸らしたって、見えない振りをしたって、それだけは絶対に誤魔化せない。
沙綾は嗚咽を噛み殺して、滲む視界に歌の続きを映す。そこには香澄からのメッセージが一言あった。
――沙綾ちゃんが元気になってくれますように。
それが胸の奥深くまで沁み入る。ああ、と沙綾は震える声を吐き出した。
香澄ちゃんはとっても優しい女の子だ。こうやって私のことをずっと気にかけてくれている。
だけど、彼女は私を待たない。歌うべき歌がそこにあるなら、例えひとりっきりになったって歌う。そういう女の子だ。そして歌が終われば、また全力で仲間のことを想ってくれる。だからこそ、私は七夕の日に夢を撃ち抜かれたんだ。
まだ記憶に新しい文化祭のことが頭によぎる。体育館のステージで、みんなで微睡んでいた時のこと。ひとつだけ、心に決めたこと。
“指をつなぎ始まったすべてを、私はもう二度と離さない。離したくない!”
そうだ。そうだった。そう決めたのに、ああもう、本当に私はサイテーだ。そんなことも忘れて、香澄ちゃんたちに心配かけて、カスミちゃんたちにも迷惑をかけて……。
だけど、今ここでそのことを思い出せた。大切なことに気付けた。自分自身の弱さに向き合う勇気をもらえた。それならまだ遅くはないのかもしれない。まだ、ステージの幕は上がっていないかもしれない。
私はみんなに全力で謝って、感謝して、このおかしな現実に向き合わないと、駄目だ。
「サーヤ」
柔らかな声で呼びかけられた。机から視線を外して顔を上げると、優しい笑顔を浮かべたカスミがハンカチを差し出してくれていた。その表情が沙綾の中で香澄と重なって、さらに顔がくしゃりとする。
「ごめん……ごめんね、カスミちゃん」
ハンカチを受け取って、目元に押し当てながら、沙綾は震えた声を吐き出す。
ごめんなさい。あなたたちの大切な山吹沙綾を奪おうとして、陽だまりを奪おうとして、本当にごめんなさい。
「サーヤが何に謝ってるのか、分かんないよ。謝られるようなことされてないもん」
「うん……っ、ごめんね」
言葉に詰まる。この優しさを裏切り続けていたことが申し訳なくて、でも、今でも変わらずに接してくれていることが嬉しい。
「ありがとう……かすみちゃん」
「うんっ」
明るい声でカスミは頷く。その声は沙綾を柔らかく包み込んでくれる温かさに満ちていた。
8
今まで本当にごめんね。私、サイテーだ。あなたの居場所を奪おうとしてた。
――ううん、気にしないで。こっちにいるとさ、あなたがすごく大変な環境にいるんだって痛いほどよく分かるから。
それでもごめん。ごめんなさい。
それで……本当に身勝手なことなのは分かってるんだけど、私はやっぱりそっちの山吹沙綾でいたい、んだ。じゃないと、今度こそ香澄ちゃんたちに置いてかれちゃう。
――うん、私も同じ気持ち。こっちのみんなもとっても可愛くていい子たちだけどさ、やっぱり私のポピパはそっちのポピパだし、それ以外にも大切な人がたくさんいるから。
ごめんね。本当にゴメン。許さないでもいいから、何か償えることがあれば何でも言ってほしい。
――あー、いいっていいって。責めてる風に聞こえちゃったね。こっちこそゴメン。
けど、どうやったら戻れるかなぁ。何か手がかりっていうかアイデアっていうか……そういうの、ある?
うん……ありがと。
正直に言うとない……ね。そういえば、入れ替わった前日って何してた? 私は有咲ちゃんの蔵で練習して、それからポピパのみんなと遊んでたけど。
――私は……そうだね。私たちも同じ。有咲の蔵で練習して、そのあと話をしてた。みんなで今度、星でも見に行きたいねって。
星。そっか、星か。それがいいのかもしれない。
ねえ、そうしたらさ……一緒の時間に、みんなで星を見てみない? 私たちは星に導かれて出会ったから、根拠なんてこれっぽっちもないけど、そうすれば何か変わる気がするんだ。
――そうだね。やれることはなんでもやってみよう。私たちも星に導かれたのが始まりだから、きっと無駄なことじゃないよ。
ありがと!
それじゃあ……十一月十三日の夜、学校の屋上で、ポピパのみんなと星を見れない? こっちはこっちの香澄ちゃんに言ったら、「任せて! こころんにお願いしてくる!」で一発オーケーだったから、都合は多分合わせられるよ。
――みんなに聞いてみたら、その日でオッケーだったよ。
屋上だよね。定時制の同好会ってことで申請も通ったから、大丈夫。
分かった! ありがとね、沙綾ちゃん。
それじゃあ、また明日。
――ううん、こちらこそ。また明日ね、沙綾。
……なんかおかしいね。自分の名前呼び合うのって。
9
晩秋の夜空は空気が澄み、晴れ渡っていた。
花咲川女子学園の屋上に昇ったPoppin'Partyの五人は、揃って空を見上げる。十一月半ばの空気は少し冷え込んでいて、多少の厚着をしてきたけど、それでもやっぱり肌寒い。「寒いねー」なんて言いながら肩を寄せ合う。その輪の中に沙綾も入って、星を見つめていた。
香澄からの歌で、誤魔化せない自分の気持ちと向き合ってから一週間が経っていた。歌を届けられてから今日までのことを、瞳を閉じて脳裏に呼び起こす。
「みんな……今まで本当にごめんなさい」
という風に、カスミを始め、Poppin'Partyのみんなに謝ったこと。
「それから、ずっと気にかけてくれてて、本当にありがとう」
続けて、改めてお礼を言ったこと。
そんな沙綾を見て、カスミたちは笑った。「元気になってくれてよかった」と言って、今までと何にも変わらずに接してくれた。
みんなが温かくてまた自分のことが情けなくなったけど、今はもうその暗い気持ちを引きずることはしない。泣き虫で抱え込む自分だけど、香澄がくれた歌のように、何度でも前を見るようにすると心に決めていた。
それから、もうひとりの自分とのやり取りで、星を見ようと約束したこと。カスミはその話を聞くと「うん、分かった!」とあっさりと頷いてくれて、みんなの時間がある日を決めて、天文部に所属する友達に話をつけて学校から許可を貰ってきてくれた。
そして今夜、きっと違う世界の同じ時間に、自分のよく知るポピパのみんなともうひとりの私が、同じ夜空を見上げている。そう思うと、沙綾はふたつのバンドのみんなでこの場所にいるような錯覚をおぼえる。
『ねぇ、沙綾ちゃん!』
ふと、声をかけられた。閉じていた瞼を開く。すると、目の前には香澄がいた。
『すごく綺麗な星空だね!』
ランダムスターを装備してる時みたいな、元気でまっすぐな笑顔がぱっと弾ける。沙綾も笑って頷く。
まるで夢の中にいるみたいだった。
『あの時を思い出すな……。トクン、トクンって鼓動が聞こえて、きっとそれが星のコドウで……トゥインクル♪ トゥインクル♪ ひーかーるー♪』歌いながら夜空を見上げ、両手を広げた香澄ちゃんがくるくると回る。
『ちょっと高い場所に来るだけで、けっこう綺麗に見えるのね……』いつもはそんな香澄ちゃんをたしなめる有咲ちゃんも、今日は少しうっとりとして夜空を見上げている。
『みんな、元気にやっとるかなぁ……たまには帰省せな……』りみちゃんも大人しくて、星に向けて小さく呟く。きっと遠く離れた故郷に想いを馳せているんだろう。
『星空の下でアコギ! 一回やってみたかった!』アコースティックギターを背負ってきてたたえちゃんは、逆にいつもよりもちょっとテンションが高めだ。ポロンポロンとアルペジオをつま弾いて、段々気分が乗ってストロークを激しくしていっている。
「うん、本当に綺麗……」
その輪の中に、沙綾もいる。常識で考えれば繋がってるハズなんてないのに、でも確かにみんなと繋がっていて、傍で一緒に星を見上げている。
それは花咲川高校の沙綾も同じだった。
目の前にいるのは、やっぱり自分の知るPoppin'Partyよりもいくらか破天荒な四人。だけど目を瞑れば、瞼の裏には自分のよく知る大切なみんながいる。
『すっごく綺麗! キラキラドキドキするね!』うきゃー! って歓声をあげてはしゃぎまわる香澄。
『お前、一応時間も遅いんだからあんまでかい声出すなって……まったく』有咲がそれをいつもより柔らかい声でたしなめる。
『綺麗……なんだかいいメロディが浮かびそう……』りみりんは胸の前で両手を合わせて、ほうっと息を吐き出す。
『月にはうさぎがいるんだ。ここからなら見えるかな? おーい』おたえはそんなことを言ってる。真面目な表情を見るに、多分本気の発言だ。
その様子を見つめながら、沙綾は定時制の現代文の授業を思い出した。
銀河鉄道の夜。ジョバンニとカムパネルラ。本当の幸いについて。
あの話の中では、幸せとは「迷いない自己犠牲の心」とされていた。それはきっと他者貢献の奉仕の心だろう。それともうひとりの自分のことが被る。
私も私で、何かと人を優先させるきらいがある……とは自覚している。もうひとりの沙綾も一緒だろうということも分かる。
だけど、私たちの抱えるそれはそんなに崇高なものじゃない。ただ、友達とか家族とか、大切な人が喜んでくれるなら嬉しい。笑ってくれるなら嬉しいというだけのものだ。
そこだけを聞けば自己犠牲の心に沿っているかもしれない。でも、根本が違う。
私は、きっと私が笑いたくてみんなに優しくしてるだけだ。突き詰めてしまえば全部自分のためなんだ。
そう思うとなんだか自分のことが情けなくなるけど、でも、きっとそれでいいんだと沙綾は思う。
もしも自分がアンタレスの話のように、あるいはよだかの星のように、自己犠牲の末に輝く星になるとしたら……絶対、また香澄に怒られる。今度はみんなにも本気で怒られるかもしれない。
だからそれでいいんだろう。私も、もうひとりの私も。
みんなが楽しそうにしていて、その輪の中に、私も笑顔でいられる。
きっと、それでいいんだろう。
声をかけられて、ハッとする。
目の前には親友たちによく似たとても優しい友達がいて、沙綾のことを心配そうに覗き込んでいた。
「ううん、なんでもないよ」
沙綾は首を振ってから、みんなの顔をまじまじ見つめる。改めて向かい合うとやっぱり似てるところがあるな、と思い、それから「ありがとう」と口からこぼした。
「どういたしまして!」
元気な声が返ってきて、沙綾は笑う。みんなも笑う。その様子を見てつくづく実感するのは、自分はもらってばかりだということ。
この世界に迷い込んでしまってからは、徹頭徹尾、ポピパのみんなに心配されてばかりだ。……いや、ポピパだけじゃない。もうひとりの私にとって大切な人全員が、自分のことを想ってくれている。
嬉しいけど、やっぱりちょっと自分が情けなくって、少し申し訳なくなる。
こんなにも温かくて優しいみんなのために、何か出来ることはないだろうか。何か少しでもお返しが出来ないだろうか。そう考えてみれば、答えは簡単に出てきた。
それは、みんなにとっての山吹沙綾をこの世界に返すこと。
なんだかおかしな響きだな、と思って、沙綾はちょっとだけ笑う。それから夜空に目を移すと、一筋の流星が光を放った。
「この時期だと、しし座流星群の一部なのかな」
流星を目で追いながら、沙綾は言う。
「みんなで願いごとしよ!」
カスミがキラキラと瞳を輝かせて、みんなも頷く。そして目を閉じて、夜空に願いをかける。沙綾も同じように願う。
どうかこの優しいみんなのもとに……この世界の沙綾を戻してあげられますように。
願いなんていう、曖昧模糊で、形のない朧げなもの。だけどどうだろうか。それは確かな形を持って、沙綾の中に生まれたような感覚をおぼえる。
そしてただ漠然とだけど、この世界のみんなとともに過ごす時間はこれが最後なのかもしれないな、と思った。
「どうかしたの?」
夜空に願いを捧げ終わってから、カスミにそう尋ねられた。一抹の寂しさを感じて、もしかしたら沈んだ顔をしていたのかもしれない。
そんな沙綾のことをいつも心配してくれていた、くりくりとした瞳。
「ううん。ただ……みんなに感謝を伝えなくちゃって思って」
その瞳にそう返して、改めて、沙綾はみんなに向かって「ありがとう」と言った。
屋上で星空を眺め終わり、沙綾は家路を歩く。商店街にさしかかる前に、みんなとは手を振り、改めて「じゃあね」と伝えた。今はひとりの道だ。
きょろきょろと街並みを眺め、時おり上空の星たちを見つめ、夜の道を歩いて商店街に入る。もうすっかり歩き慣れた家までの順路に、少しだけノスタルジックな気持ちになった。
ヤマブキパンにたどり着くと、裏口から家の中へ入り、鍵を閉める。三つ子の弟たちはもう眠っているし、厨房の方から明かりが漏れてきているから、父も家の中にいるだろう。
「おう、沙綾。おかえり」
厨房に足を踏み入れると、パンの生地をこねていた父が顔を上げて、沙綾に明るい声をかける。
「うん、ただいま」
沙綾は応えてから、傍らに置かれたスピーカーに目を向けた。
そこから流れていたのは“走り始めたばかりのキミに”。いつかにもうひとりの沙綾から聞いたけれど、ヤマブキパンではパンに音楽を聞かせて作るのが流儀というか、正しい作り方だという。
「父さん、そろそろ休んだ方がいいんじゃない?」
流れてくるギターサウンドに耳を傾けながら言う。
「いやな、本当に最近は絶好調なんだ。それにほら、お前が作詞作曲だろ、これ?」
そう返事をしながら、プレイヤーを指さした。沙綾はそれになんて応えればいいか分からなかったけど、多分こっちの世界だとそうなのだろうと思い、曖昧に頷く。
「だろ? だから、ほら、アレだ」それを照れからの行動と受け取ったのか、父も少し照れくさそうに言葉を続ける。「俺ひとりでやってるんじゃない。親子の共同作業だ。走り始めたばかりのチョコクロワッサンだ」
「なにそれ」
バンドリカレーパンとか、メタリカあんぱんとか、レッドホットドッグ(チリペッパー味)とか、それなら語呂も響きも良かった。だけど、流石に今にも動き出しそうなその命名は明らかにおかしい。そう思って沙綾は笑ってしまう。
「そんなことより、沙綾。お前はもっと夜遊びとかしてきていいんだぞ」
「父親のセリフとは思えないよ、それ」
「あー、まぁ、朝帰りとかは流石に俺も怒るぞ。けどほら、お前だって花の高校生なんだから……」
「はいはい、分かってるって」
父にそう言われたのはこれで何度目だろうか。こちらの世界に来てから大体ひと月半だけど、その間にもう数えきれないくらい、そんな風なことを言われた。
詳しくは知らないけれど、どうにもこちらの沙綾はよほどワガママを言わない性格をしているらしい。この短期間で耳にタコが出来るくらい聞いているのだから、きっと相当だ。
もっと素直に、やりたいことはやりたいって言えばいいのに。まったく、誰に似たんだろうか……なんてことを考えながら、沙綾は言葉を紡ぐ。
「……ちゃんと伝えるよ」
「ん? なんだって?」
「なんでも。あんまり無理しちゃダメだよ?」
「おう、ありがとな」
ニカッと父は笑顔を浮かべる。その顔に、沙綾は少しだけ迷ってから「こちらこそ」と小さく返した。それから、その言葉に突っ込まれる前に踵を返す。
「おやすみ、父さん」
「ああ、おやすみ」
肩越しに言葉を投げる。父はひらひらと手を振って応えてくれる。沙綾も軽く手を振って、厨房を後にした。
二階に上がって、寝る支度を整える。それから三階まで階段を上って、自分の部屋に向かう前に、三つ子の弟たちの部屋の扉をそっと開く。
陸海空の三人はぐっすり眠っていた。ただ、三つ並んだ敷布団の上に掛布団がない。三人が三人とも、それぞれの寝相の悪さを発揮して、掛布団を蹴っ飛ばしていた。
「もう……風邪ひくよ」
沙綾は慈愛のこもった笑顔を浮かべながら、足音を立てないように部屋に入る。それからそれぞれの身体の上に、蹴っ飛ばされて散り散りになっていた布団をかける。
幼い弟たちは微かに身じろぎをしたけれど、起きる気配がまったくなかった。安らかな寝顔だ。きっといい夢を見ているんだろう。
でも、出来れば朝はもう少ししゃんと目覚めて欲しかったなぁ。朝にこの子たちを起こす時が一番大変だったかもしれない。
「本当に手のかかる……可愛い弟たちだよ」
沙綾は三人の頭を順番に撫でる。そして、音を立てないようにそっと立ち上がって、自分の部屋に向かった。
妙に確かな輪郭を持った感覚。その気持ちの赴くままに、沙綾はみんなに別れを告げた。やけに改まった態度で「じゃあね」なんて言ったせいか、そこでもまたカスミが心配そうな顔をしていたのがやけに心に残った。
秋の夜空の下、瞬く星を見上げながら、いつの間にか見慣れていた街をひとり歩く。
気が付けば入れ替わってから一ヵ月と半分くらい。その半分以上は俯いて過ごしていたな、と沙綾は思う。
けれど今は移り変わる季節の風を感じられるし、星空だって見上げて歩くことが出来る。それもこっちの世界のみんなと、自分の世界のみんなのおかげだ。
Poppin'Partyの友達、優しくて温かな家族、名前も知らないけれど、学校ややまぶきベーカリーで沙綾を心配してくれた人たち……そのみんなのおかげだ。
ふと、夜空で星が大きく瞬いたような気がした。流れ星かな、とひとりごちって、ライオン丸くんのことを思い出した。
――おうおう、オレさまを忘れるとは結構な扱いじゃないか。
その星にそんなことを言われた気がした。
――何かあればすぐオレさまの頭を叩くしよー。なんだ? 有咲の蔵で練習できるようになったらオレさまはもう用済みってか?
続けてそんな悪態をつかれた気がした。頭へごちん、とスティックを一閃したことをまだ根に持っているのかもしれない。だから夜空の星に向かって「ごめんね?」と小さく謝った。
――しょうがないから今回は許してやろう。
「ありがと。まだまだライオン丸くんには活躍してもらうからさ」
満更でもないように言われて、沙綾も言葉を夜空に返す。そこで、端から見たら今の自分はけっこうヤバいやつだな、と思った。
そんな家路をたどり、沙綾はやまぶきベーカリーに帰り着く。お店の明かりはとっくに消えていた。裏の勝手口に回り込むと、そちらの窓からは明かりが漏れている。
勝手口のドアを静かに開いて、沙綾は家に入る。
「あら、おかえりなさい」
すると、入ってすぐの台所で食器を洗っていた母が、沙綾に振り向いた。
「……うん。ただいま」
それに少しだけ言葉を詰まらせながら応える。
「寒かったでしょ? 何か温かいものでも飲む?」
「ううん、平気だよ。それより、お母さん……」
「私も平気。そんなに心配しないの」
娘の顔を見ただけで何を言いたのか察したのだろう。先回りしてそう言われて、沙綾は「うん……」とだけ頷いた。それからダイニングテーブルの椅子に腰かけて、再び洗い物を始めた母の背中を眺める。
胸中には、星空を眺めていた時よりもずっと確かな予感がある。根拠も何もないけど、明確な形と色を持った予感。それが正しいのであれば、沙綾は母に言わなければいけないことが山ほどあると思っていた。
みんなと別れて、ライオン丸くんと言葉を交わした(気がした)帰り道。その道すがら、頭の隅ではずっとそのことを考えていた。だけど、いざこうして母の姿を目前にすると、何にも言葉が出てこない。
言わなければいけないことは、感謝とか、謝罪とか……別れの言葉とか、だ。
それらがぐるぐる頭をめぐる。胸の中に降り積もる。だけど、一向に口からは出て行こうとしない。どうしたものか、と思っているうちに、洗い物を終えた母が、タオルで手を拭きながら声をかけてきた。
「体調はもう大丈夫?」
「あ、う……うん、平気」
「そう、ならよかった。でもあんまり無理しちゃダメよ? 最近は冷え込むようになってきたし」
「……うん」
『お母さんが言うの、それ? お母さんこそ、もう二度と入院しないでいいように大事にしてよね』
そんな軽口を返そうとしたけど、口から出てきたのは小さな相づちだけ。ふぅ、と息を吐き出して、沙綾はテーブルに視線を落とした。
「どうかしたの?」
椅子を引く音が聞こえて、右隣に視線を移せば、少し心配そうな顔で自分を覗き込む母の顔が映る。沙綾は胸が詰まって、余計に声が出せなくなってしまった。
(……でも)
言葉と感情がうねり、胸中で大渋滞を起こす。でも、それでも言わなくちゃ。唐突だし、わけ分からなくて不振に思われるかもだけど、これだけは言わなくちゃ。
すー、はー……と少し大きく呼吸をして、そして、
「ありがとう」
と、沙綾は小さく、呟くように声にした。
「どうしたの、急に?」
「……ううん、言ってみたかった……だけ」
「そう? けど、お礼なら私が沙綾に言う方だと思うわよ?」
「そんなことないよ」
「そうかしら」
「うん」
頷いて、再びテーブルに視線を移す。それから思う。お礼を言うべきなのは、間違いなく私の方だ。そして、お礼を言われるべきなのは、私じゃない方の山吹沙綾だ。
「それじゃあ、沙綾に見返りを貰ってもいいかしら?」
「え?」
そんな言葉をかけられて、沙綾はもう一度母へ視線をめぐらせる。そこには少し悪戯な笑みが浮かんでいた。
「沙綾が私に感謝してるって言うなら、もっとわがままを言いなさい」
「……わがまま?」
「そう。最近はちょっとマシになったけど、それでも全然足りてないのよ。だからどんどんわがままを言って。ほら、今もなにかない?」
「…………」
そう言われても、と沙綾は口ごもる。
正直なことを言ってしまえば、して欲しいことはたくさんある。二年前に母が他界してから、その温もりにもう一度触れられたなら……と考えたことは、数えきれない。
だけど、やっぱりこの温もりは私のものじゃない。私じゃない方の沙綾のものだ。それを一度でも奪おうと思ってしまった私に、わがままを言う権利なんてない。
「もう、またそうやって遠慮して……本当に誰に似たのかしらね……」
そう言って、呆れたような、でも優しさに満ち溢れた笑顔が浮かぶ。それを見てしまうと、がんじがらめになっていた心がほぐされてしまう。沙綾も少しだけ素直になってしまう。
「……絶対にお母さんだってば」
「案外自分のことって見えないものねぇ」
「うん……そう思う」
それから、少し大きく息を吸う。そして、胸中でもうひとりの自分に対して「少しの間だけゴメンね」と謝って、沙綾は声を出す。
「ねぇ、お母さん」
「なぁに?」
「……頭、撫でてくれない……?」
「それくらい、いつだってするわよ」
その言葉のあとに、母の温かな手が沙綾の頭にそっと乗る。それから、ゆっくり、ゆったりとその手が髪を撫でた。
沙綾は目を瞑って、ただされるがままになる。脳裏には、もうとっくのとうにセピア色になってしまった、遠い思い出が蘇る。
本当に些細なことだけど、おままごとみたいなことだったけど、初めてお店の手伝いをした時のこと。今よりもちょっと綺麗なヤマブキパンで、今よりもヘンテコな名前のパンが少ない売り場に、焼き上がったばかりのパンを陳列したこと。あの時も優しい声と笑顔があって、そして温かくて大きな手が私の髪を撫でてくれた。
最後にこうしてもらったのっていつだったっけな。お母さんが入院する前かな。ああ、きっとそうだ。中学生にもなって、こんな風に頭を撫でてもらうだなんてことはないだろう。だからかな。気が付いたらお母さんの手がこんなに小さく感じられて、でも、やっぱり温かくて、すごく心地よくて……懐かしくて泣いちゃいそうだ。
だけど沙綾は絶対に泣くまいと決めていた。泣き虫な自分だけど、最後くらいは笑っていようと……そう、別れなんて二回目のことなんだから、余裕綽々で笑っていようと心に決めていた。
目頭が熱くて、目の端から頬に何かが伝った気がするけど、それはきっと気のせいだ。目にゴミでも入ったに違いない。
胸が震えて、喉も震えているけど、それは、アレだ。きっとまだ風邪が尾を引いているんだ。そうに違いない。
そうしてどれくらい経っただろうか。しばらくずっとこうしていたような気もするし、あっさりと過ぎ去ったようにも思える、曖昧な長さの時間。
けれど、確かな温もりをもらえた時間。もう二度と触れられないと思っていた優しさに触れられた時間。
これ以上を望むのは、きっと罰当たりだ。
「……ありがとう、お母さん」
だから沙綾は、一度だけ鼻をすすってから口を開く。そして、震えないように、途切れないように、詰まらないように……しっかりとお腹に力を入れて、優しい母の姿に最後の言葉を紡いだ。
10
気が付くと彼女は電車の長椅子に座っていた。
ガタンゴトンと、車両がレールのつなぎ目を超える音。それ以外に音はしない。窓の外からは眩いばかりの白い光が射しこんできていた。そのせいで外の風景は見えない。
視線を左右に巡らせる。車内には彼女の他に人の姿がない。
ガタンゴトン。
幾度目かのその音を耳にしながら、彼女は考える。はて、どうして私は電車に乗っているんだろうか。
学校へ行くため? いや、学校へは電車は使わない。
じゃあどこかへ出かけるため? いや、そんな用事があっただろうか。
そもそも、自分はいつ、どうやってこの電車に乗ったのか。それをまるで覚えていない。
人のいない車両。まるでこの車内だけで世界が切り取られてしまったかのような空間。
ふと、彼女は自分の対面の長椅子に人影が現れたことに気付く。
そして、これが夢であって、夢じゃないことにも気が付いた。
その対面にいるのは――きっと自分だ。
窓からの眩い光が弱くなっていって、逆光の影が薄くなる。お互いの姿が見えるようになると、思った通り、そこには見慣れているけどちょっとだけ懐かしく感じる沙綾自身の顔があった。
「初めまして……じゃないか」
しばらく無言で見つめ合ってから、どちらかともなく声を出す。その声はがらんとした車内に侘しく反響した。
どこへ向かっているとも知れない電車の中で、お互いの姿と向き合うふたりの沙綾。そうだ、入れ替わった時と同じだ。あの時もこうして、私たちは向き合って座っていたんだ。
あの時はお互いに自分の姿を確認した瞬間、意識が黒く塗りつぶされていった。けれど今回は違う。まるで鏡を見つめているみたいに、自分の姿がはっきりと見える。
「……ごめんなさい」
ガタンゴトン。何度目かのその音が過ぎると、沙綾は――サアヤは口を開いた。
彼女の胸の中には、まだもうひとりの自分に対しての負い目があった。
机の上のメッセージでは謝ったけど、もしももうひとりの自分と顔を合わせられる時間があるのなら、どうしても言葉にして謝りたい。そう思い続けていたから、少し顔を伏せて言葉を続ける。
「私……サイテーなこと考えてた。こっちの世界がすごく温かくて、まるで陽だまりみたいで……そこを自分のものにしようって考えてた」
ひとつ分の陽だまりには、ひとりしか入れないのに。自嘲の響きがこだまする。
「……ううん」
それを聞いて、沙綾も――さあやも、緩く首を振ってから口を開いた。
「気にしないで。気持ちは分かるもん。あなたがこれまで、どんなに大変な環境で過ごしてきたのかも身に沁みるほど分かってるから」
彼女の口からは自然と優しい声が出る。
開口一番に謝られるだろうな、とはさあやも確信を抱いていた。一時は罪の意識に身体を擦り潰されそうなほど追い込まれていただろうことも、自分のことのように理解できていた。
「うん……ごめんね。ありがとう」
「どういたしまして」
サアヤが伏せていた顔を上げる。さあやがそれを見つめ返す。それきり、またふたりの間には沈黙がやってきた。
無言の車内に、レールの継ぎ目を超える音。しばらくすると、それに紛れてバラバラという音が聞こえてきた。
ふたりがお互いの背後の白い光が射しこむ車窓に目をやると、そこには雨粒が当たって弾けていた。相変わらず外の様子は真っ白でうかがえないけれど、あまり天気が良くないようだ。
「雨って嫌いだな」
沈黙を破って、サアヤが小さく呟く。
「そうなの?」
さあやが首を傾げる。
他愛のない言葉。それを、お互いがお互いに、自分の姿に向かって投げる。まるで鏡と喋っているような気分だったけど、そこにいるのは自分であって自分ではない存在だ。
「外に出るのも大変だし、気分が落ち込むから……あんまり好きじゃないんだ」
「ああ、確かに」
「あとさ……電車もあんまり好きじゃないんだよね。いや、電車っていうか、駅なんだけど」
「……どうして?」
「…………」
さあやが遠慮がちに尋ねてきて、サアヤは少しだけ迷ったような表情になってから、自嘲するような声色で自分自身の姿に向けて呟く。
「みんなに……迷惑かけたからさ」
「そっか……」
みんなに迷惑をかけた。そのみんなとは、Poppin'Partyの前のバンドのみんなのことだろう、とさあやは思った。
自分よりもずっと重たい境遇で、自分よりもずっと大切なステージに出られなかった時のこと。その心中を推し量ると、さあやの心にも影が差す。表情が曇る。
「ごめんね。暗い話、しちゃった」
そんな自分の顔を見て、サアヤは苦笑を浮かべた。七夕の日に香澄ちゃんに夢を撃ち抜かれて、もうとっくに整理出来ていたと思っていたけど……私はまだあの日のことを引きずっているんだろう。
「……あなたって、本当にすごいと思う」
さあやがぽつりと声に出す。
「え……何が?」
きょとんと首を傾げた、自分の顔。それに向けて、さあやも言葉を投げる。
「入れ替わってさ、カスミちゃんたちに話を聞いて……それで、こっちの世界の山吹沙綾として過ごしててさ、ずっと思ってたんだ。あなたが過ごしてる環境って、すっごく大変じゃん。私も結構大変な方なのかなー、なんて思ったりしたこともあったけど……あなたに比べたら全然だったよ」
緩く首を振って、さあやも苦笑いを浮かべた。
「そんなこと、ないよ」
「あると思うよ、私は」
「…………」
他ならぬ自分の顔に断言されて、サアヤはなんて返せばいいのか分からなくなってしまう。それに向けて、さあやは続ける。
「……正直に言うとね、私、こっちの世界の沙綾で居続けろって言われたら……きっとダメになってたと思うんだ。学校にだってポピパのみんなと一緒にいれないし、母さんもいないし、まだまだ手のかかる弟がいて……父さんだって、あんな張り切り方してたらさ、いつかまた倒れちゃいそうだし……」
入れ替わったばかりの時のことを思い出す。アリサに導かれた蔵で、自分の世界とは違う友達を見て、サアヤの部屋でスマートフォンのToDoリストを眺めていた時のことだ。
あの時に感じた途方もない気持ち。それでも頑張らなくちゃと張った虚勢。それをしっかりと保っていられたのは、きっとカスミたちと香澄のおかげだった。
もし、まだカスミちゃんたちと出会っていない状況のサアヤと入れ替わっていたら……。有り得ないたらればだけど、そうなっていたら、きっととっくのとうに私は潰れていただろうな、とさあやは思う。
「不安で不安で、きっと……耐えられなかった。私って、案外打たれ弱いんだなって思った」
「そっか……」
それを聞いて、サアヤは一度だけ俯いた。それから、再びさあやの顔をまっすぐに見据えて、言葉を返す。
「……やっぱりあなたってさ、とっても優しいね」
「そんなこと……」
「あるよ。絶対にある」
サアヤは強く頷いて見せる。自分の姿でそんなことをされてしまうと、さあやもさあやで返す言葉が見つからなくなってしまった。その姿に向けて、サアヤは言葉を続ける。
「今までよりも大変な環境に投げ出されたって、あなたは泣き言のひとつも言わなかったでしょ? 私なんて、ずっと、ずっと……逃げ続けてたのに。弱い自分と向き合うことが出来なかったのに」
胸中に浮かぶのは、自分の弱い部分を見つめられず、ただ目を逸らし続けていた日々のこと。自分を気遣ってくれる人たちを、優しさと温もりを与えてくれる人たちを見ないようにして、逃げていただけの日々のこと。
あの時だって、もうひとりの私は大変な状況にいたんだ。それなのに、自分のことよりも私のことを心配し続けてくれていた。元の世界へ帰る手立てを探し続けてくれていた。
きっと、香澄に歌を送るように言ってくれたのももうひとりの自分だ。その行動がなければ、今でも私は暗澹たる気持ちを抱えて、逃げ続けていただろう。
「あなたは、自分が思ってるよりもずっと強いよ」
「……そうかな。私なんかよりも、あなたの方がずっと強いと思うけど」
「そんなことないよ」
「ううん、きっとそんなことある」
「…………」
「…………」
「……ふふ」
「……はは」
そんなことを言い合い、見つめ合ってるうちに、ふたりは同時に吹き出した。
目の前に写る姿は紛れもなく自分自身の姿。その顔に向かって、あなたの方が強いだなんだと言い合うのは自画自賛としか表現できない。それがなんだがおかしかった。
「無い物ねだりの尽きないタワゴト……なんだろうな、きっと」
サアヤはどこか懐かしむような口調で声を出す。
「タワゴト?」
さあやは首を傾げる。
「ほら、入れ替わっちゃう前の日に有咲ちゃんの蔵で遊んでたって言った……じゃなくて、書いたでしょ?」
「うん。確か……『もしも生まれ変わったら』みたいなことを話してたんだっけ」
「そうそう。その時にさ、普段の大人しい香澄ちゃんとギターを持ってキラキラしてる香澄ちゃん、どっちがいいかって有咲ちゃんが考えてて……それにりみちゃんがしたり顔で言ってたんだ」
瞳を閉じて、その日のことを思い出す。ふざけてじゃれあって、今度ライブやろうとか新曲はこんな風にしようなんて話をした日。“指をつなぎ始まったすべてを、私はもう二度と離さない。離したくない!”……そう思える、私にとってとても大切な、なんでもない日常。
もしもそこにもうひとりの自分のような温かい陽だまりがあれば、どんなに幸せなことだったろうか。どれほど温かい気持ちになれただろうか。
朝起きて台所に行けば優しいお母さんがいて、お父さんは今日も厨房で元気にパン生地をこねている。朝ご飯の支度はお母さんに任せて、私はぐっすりと眠ってる陸海空を起こしに行くんだ。
それから制服に着替えて、温かい朝食を食べて、お父さんとお母さんに「行ってきます」って言って、弟たちと一緒に家を出る。朝の商店街は眩しくて、夕方とは違った活気があって、その中を歩いて弟たちを幼稚園へ送り届けてから学校を目指す。
その途中に香澄ちゃんと有咲ちゃん、それにりみちゃんとたえちゃんとも一緒になって、五人でなんでもない話をしながら歩いていって……ああ、とっても素敵な日常だ。
でも、それはやっぱりたらればの話だ。
瞼を開く。目の前にはいつもと変わらない、自分の姿があった。それを見つめながら言葉を続ける。
「あなたのことが羨ましい。私もさ……みんなみたいに、明るい教室で授業を受けたい。もしも全日制なら……香澄ちゃんたちと一緒のクラスがいいな。それでお昼になったら、たえちゃんと合流して、学校の屋上でご飯を食べるんだ」
さあやは口を開かず、それにただ耳を傾けていた。
「クラベン系女子の有咲ちゃんだって見たいし、炊飯器を抱えて炊き立てご飯を売るりみちゃんも見てみたい。毎朝の恒例になってるたえちゃんとの別れの寸劇はお昼休みもやるのかな。……どうなんだろうなー」
少しだけ遠い目をして、手の届かない日常に想いを馳せるサアヤ。無い物ねだりのタワゴトは、一度口にすると本当に尽きそうもない。だから彼女は首を振って、頭に思い浮かべた世界を意識の隅に追いやる。
「あー、私って結構わがままだったんだな」
それからちょっとだけ諦観を込めた、呆れたような口ぶりで呟きを落とす。優しくてしっかりしてるとか、親切ないい子だとか……商店街の人たちなんかにはよくそう言われる。だけど本当は、きっとみんなが思う以上に自分はわがままだ。
「……いいんじゃないかな」
と、そこでさあやが口を開いた。
「え?」
「いいと思う。全然悪いことじゃないんだよ、きっとそれって」
キョトンとした自分の顔。それに向かって、まるで自分に言い聞かせてるみたいだな、と思いながら彼女は続ける。
「父さんが――あなたの父さんが言ってたよ。昨日、星を見に行ったじゃん? それで帰りが結構遅くなったのにさ、『お前はもっと夜遊びとかしてきてもいいんだぞ』って。おかしいよね。普通、父親って娘が夜に出歩くと怒るのに……何回も何回も、『お前はもっと自由に遊んできていいんだ。花の高校生なんだから』って言って……ちょっとおかしな感じだけど、すごく心配されたんだ」
入れ替わってからのことを思い出す。このひと月半と少しの間で、どれだけ似たような言葉をかけられただろうか。その回数を数えようとすれば、両手両足の指を使っても足りない。
「だから、あなたはもっと……自分に素直でわがままでいいんだよ。きっとその方がみんなも安心するし、嬉しいと思うんだ。わがままを言うことは、悪いことだけじゃないよ」
「…………」
「って、私がこんなこと言ったら『さーやもだよ!』なんて香澄に言われそうだけどね」
苦笑いを浮かべたさあやの頭に、ちょっとだけ怒ったような顔をする香澄の姿が浮かぶ。
「……うん、あのカスミちゃんなら絶対言うと思う」
短い期間の付き合いだったサアヤも、その姿が容易に想像できた。それから、在りし日の母にとてもよく似た、もうひとりの自分の母親に言われた言葉を思い出して、口を開く。
「それなら、あなたももっと素直になるべきだよ」
「そうかな? 私、最近はかなり素直になったと思うよ?」
「ううん、全然。だって、言ってたよ? その……お母さんが」
私も『あなたの』と付けるべきだろうか。少しだけ迷ったけど、さあやが伝えてくれた父の言葉に従うことにした。気を悪くしちゃうかな、とちょっとだけ不安になったけど、さあやはサアヤの言葉を聞いて、なんでもないように首を傾げていた。
「母さんが?」
「……うん。『最近はちょっとマシになったけど、それでも全然足りてないのよ』って。『だからもっとわがままを言いなさい』って」
「そうなんだ……。案外、自分のことって見えないものなんだねぇ……」
「でも、今はよく見えるよ」
「確かに」
お互いの姿を、鏡を見るように見つめ合う。そうすると自分のことがよく見える。
わがままを言わずに自分の気持ちを押し殺した時。その時の顔はどこか寂しげというかなんというか、もしも自分の大切な人たちがそんな顔をしていたら、絶対に放っておかないだろう表情だ。
そっか、私はいつもこういう顔をしてるんだ……。
「お父さんが私の前で妙に張り切る理由が少しだけ分かったよ」
「私も、母さんがもっとわがままを言ってって言う理由がちょっと分かった」
「……お互い、なんだか面倒な性格してるね」
「ね。誰に似たんだろ……」
「……それは間違いなく、お母さんだよ」
「やっぱりそう思う?」
「うん」
「だよね。本当に、いっつも自分のことは差し置いててさ」
「身体だって……そんなに強くないのにね。そのくせ、何でもかんでも自分でやろうとしてさ」
「こっちが心配すれば『大丈夫だから』なんて言って笑って……気付いたら辛そうな顔してる時とかあるし」
「ね。無理でしょ。心配するに決まってるじゃん。ていうか、心配くらいさせてよ」
「本当だよね」
なんて、そんな風に言葉を交わすほど、ふたりの沙綾はなんだかおかしな気持ちになる。
他でもない自分自身の姿から放たれた言葉が自分自身の胸に刺さるということもあるけど、よくよく考えてみれば、それらの言葉は自分たちの身近な人が口を酸っぱくして放つものとほとんど同じだ。
「……私たちに対しても、そう思ってるんだろうね」
「だね……『もっとわがままを言って』とか、『“お前”を大切にしろ』とか……」
「あー、なんだろうな、本当……」
「……恵まれてるよね、私たち」
「うん……」
こんなにも自分を気遣い、優しくしてくれる人たちが身近にいる。それだけで幸せなことだし、これ以上を望むのはやっぱりわがまま過ぎるとふたりはちょっと思ってしまう。だけど、そう思うことを、きっと自分たちの大切な人たちは望んでいないということも……今こうして、少しだけ理解できたような気がしていた。
「私たち、もう少し素直にならないといけないね」
「ね。難しいけど……でも、そうしなくっちゃね」
互いに頷いて、笑い合う。気が付けば窓を叩いていた雨は止んでいた。電車はまだ静かに走り続けている。
サアヤは思い立ったように、長椅子から腰を上げた。それからさあやに一歩、二歩と近付く。そしてなんとはなしに前へ右手を伸ばしてみると、ちょうどふたりの中間くらいに、透明の壁があった。
その見えない壁に掌をつける。少しだけ弾力のある、なんだか温かみのある感触がした。
さあやも同じように立ち上がって、車内の中央に歩み寄る。そして、左手を伸ばして、透明の壁越しにサアヤの右手に手を重ねた。
「……本当に似てるね、私たちって」
「そりゃそうだよ。だって、同じ山吹沙綾だもん」
間近に自分の姿があって、自分の声がする。確かに他のポピパのみんなよりも、私たちはずっと似通ってるな、と思う。
「でも、やっぱりこっちの世界の沙綾はあなただよ」サアヤは囁くように言葉にする。「どんなに温かくて明るい陽だまりだって、これは私のためのものじゃない」
「そうかもしれないけど、でもさ」さあやも同じようにささめく。「偽物じゃないよ。出会った人たちも、もらった優しさも、それが私たちにとって大事なことも……全部、本当だよ。本物だよ」
「うん……みんな、とっても優しくて、温かくて……素敵な人たちばっかりだった」
「そんなみんなに心配されて、こんなに強く想われてるあなたが……ちょっと羨ましかったな、なんて……これも無い物ねだりの尽きないタワゴトかな」
「私もあなたが羨ましいから、多分そうだと思うよ」
「そっか。一緒、だね」
「うん……一緒」
瞳を閉じる。このおかしな、ジョーシキじゃありえない日々を脳裏に呼び起こす。
暗い校舎、さびしい教室。
明るい校舎、にぎやかな教室。
こう比較すれば、一方が損ばかりをしているようにも見えてしまう。だけど、と沙綾は思う。
明るい場所じゃ星は見えない。暗い夜空だからこそ、星はより強い輝きを放つことが出来る。その星の瞬きに導かれて、私たちは大切で特別な人たちと巡り合うことが出来た。
だから、暗い場所にいたってきっと悪いことばかりじゃない。明るい場所にいたってきっと良いことばかりじゃない。どこにだって雨は降るし、光は射す。
その雨がいつまで降り続くかとか、終わりがどこにあるかだとか、光がいつやってくるのかとか、そんなことは分からない。でも、この手を引いてくれる大切な人がいれば、私たちは止まらない音楽(キズナ)を奏で続けるだろう。走り続けるだろう。
いつか全てが上手くいくなら、涙は通り過ぎる駅だ。そして……涙の雨が上がれば、そこには虹の橋がかかるんだ。
瞳を開く。眼前には、少しだけ見慣れた山吹沙綾がいた。
「……初めまして、かな」
「うん……そうだね」
いつの間にか窓から射す白い光はなくなっていた。お互いの背中の窓には、自分にとって大切で、だけどもうひとりの自分にとってはもっともっと大切な、それぞれの花咲川の街並みが流れている。
「やっと出会えた……けど」
「もうお別れ、だね」
透明な壁越しに、さあやとサアヤは手を合わせ続けている。本当の意味でもうひとつの世界の自分と出会えたけど、もうすぐにこの夢は覚めるだろう予感がしていた。それがちょっとだけ寂しいけど、でも、それでいいんだと思う。
だって――
「ねえ、見て」
「……綺麗だね」
さあやが電車の進行方向へ視線を動かす。それにならって、サアヤも顔を巡らせて、小さくこぼした。
――電車の進行方向。ずっと続く線路の先には、大きな二重の虹がかかっているんだから。
エピローグ:さあや
スマートフォンの目覚ましの音がした。
ジリジリジリジリ! なんて、いい加減もう起きなさいと枕元でけたたましく叫び声を上げて、意識を夢の世界から無理矢理引っ張ってこようとしている。
「うぅ……ん……」
沙綾は目を瞑ったまま枕元の音の発生源に手を伸ばす。すぐに指先にスマートフォンの感触を見つけて、手探りでサイドボタンを探し当てて押し込んだ。
それからまだ眠っていたい欲望にどうにか抗いながら、薄く目を開ける。
「……あれ」
そしてすぐに頭が覚醒した。身体を起こして、部屋の中をキョロキョロと見回す。
枕元には時計が三つ……ない。壁にはロックバンドのポスターが……ない。部屋の隅にアコースティックギターも……ない。見慣れているけれど、何だか懐かしく見える自分の部屋だ。
ということは……。
「戻った……んだ」
ぽそりと呟く。それすらも他人事に聞こえるくらい、あまりにもあっさりと沙綾は元の世界に帰って来ていた。
もしかしてずっと夢を見ていたんじゃないか、なんて不安になったから、沙綾はスマートフォンのディスプレイを覗き込む。そこに表示された日付は十一月十四日の水曜日。
入れ替わった自覚があったのが九月の終わりだし、星を見ようと約束したのは十一月十三日だった。
「……夢じゃない、ね」
そう呟くと、今日までのことが一気に確かな輪郭を持つ。ジョーシキでは考えられないおかしな現実も、同じような世界で過ごしていたポピパのみんなも、入れ替わってしまったもうひとりの自分と話したことも、全部本物だ。
沙綾はひとつ息を吐いた。日付に続けて目に入れたデジタル時計は朝の六時ちょっと過ぎを指している。この時間からなら、学校へ行く準備も、ひと月半振りに顔を合わせる家族やら友達やらと顔を合わせる準備も余裕を持って出来る。
(……気を遣ってくれたんだろうな)
沙綾が予感を抱いていたように、もうひとりの沙綾も同じものを感じ取っていたのだろう。きっと昨日の夜が最後になるから、色々と整理する時間を作れるように、いつもよりもずっと早い時間に目覚ましが鳴ったんだ。
「ありがと……沙綾」
もうひとりの自分に小さくお礼を言ってから、沙綾はベッドを降り立った。
久しぶりに袖を通したワンピースの制服には懐かしさと新鮮さが同居していて不思議な感じがした。髪の毛も懐かしさを感じるシュシュでポニーテールにくくって、沙綾は台所まで足を向けた。
「…………」
そして、そこで朝ご飯の支度をする母の後ろ姿を見つけ、沙綾は固まってしまう。
もうひとりの山吹沙綾として過ごしたひと月半。そのことを考えると、こうして母親が普通に朝ご飯を作ってくれているということがとても貴重に見えるというか、何物にも代えられない大切なことに思える。はてさて、なんて声をかけたものか……。
「あら……おはよう、沙綾」
そんなことを考えていると、こちらの方へ振り返った母から何でもない挨拶を投げられた。
「あ、うん。……おはよ、母さん」
沙綾は少しだけたどたどしく、いつもの挨拶を返す。
「……ふふ」
それを聞いて、どうしてかおかしそうな顔をして笑われた。沙綾は首を傾げながら尋ねる。
「どうしたの?」
「呼び方がまた戻ったなって思って」
「え?」
「ここ最近はずっと『お母さん』って呼んでくれたじゃない? まだ沙綾が小さかったころを思い出して、ちょっと懐かしかったし……なんだか嬉しかったから」
「あー……」
言われて、昨日の夢を思い出す。そういえば、もうひとりの私は両親のことをお父さん、お母さんって呼んでたな……。
「……そっちの呼び方の方がいい?」
「どっちでも。沙綾の好きな方でいいわよ」
「ん、分かったよ、母さん。……あ」
と、そこで突拍子のないことを思い立って、口から漏れた呟き。
「どうかしたの?」
それを耳ざとく拾った母から尋ねられて、沙綾は「あー」とか「うー」とか少し唸ってしまう。今ふと思ってしまったことを口にするべきか、否か。
「……えっと、大したことじゃないんだけどさ……」散々迷ってから、沙綾は口を開く。「なんだか今日の晩ご飯、ペペロンチーノが食べたいなぁって思って」
「ふふ、分かったわ」
「ん、ありがと」
胸中には、夢の中でお互いに抱いた『もっと素直になるべきだ』という思いがあった。だからこそ素直にお願いを口にした……のはいいけど、なんだかすごく照れくさい。
「純と紗南、起こしてくるね」
だから沙綾は取り繕うように言葉を続けて、愛しい弟と妹を起こしに行くのだった。
この奇妙な感覚はなんて言葉にすればいいんだろうな。そんな思いを抱えながら、沙綾は久方ぶりの見慣れた通学路を歩いていた。
目に付く街並みは生まれてからずっと一緒に過ごしてきたもの。それに比べれば、この街を離れたひと月半なんていう期間はとても短いものだ。だけど目に映る全部が懐かしくて、秋と冬の境目の肌寒い風が心地よくて、世界が愛しくて優しくて、泣いちゃいそうなほど眩しい。
どこかへ長期間の旅行へ行って、しばらく故郷から離れたらこんな気持ちになるのだろうか。それとも、将来この街を離れて生きることになれば、たまの帰省でこんな気持ちになるんだろうか。
どちらにせよ、花咲川の街から離れるような未来予想図を抱えたことは今まで一度もなかったから、沙綾にとってこの郷愁的な感傷がものすごく新鮮に感じられた。
そんな通学路を歩いていると、やがて花咲川に沿った道へ出る。春は川沿いに桜の花が咲き、舞い落ちる道だ。
「あ、サアヤちゃん」
今は遠い春の景色を脳裏に思い描きながら歩いていると、後ろから声をかけられた。足を止めて振り返ると、そこにはりみの姿があった。
「おはよう」
「……うん。おはよう、りみりん」
いつもの控えめな笑顔で挨拶をされて、沙綾はまたちょっと照れくさい気持ちになった。少しだけ間を置いて、りみへ挨拶を返す。
あ、そういえばりみりんって口にしたの、すごい久しぶりな気がするな……なんて思っていると、目の前のりみが少し呆けたような顔をしていた。
「どうしたの?」
「え、あの……サアヤちゃん……? じゃなくて……沙綾、ちゃん?」
「えっと……私も、もうひとりの私も……沙綾だよ」
我ながらおかしな言葉選びだったな、とぼんやり思う。
「…………」
「その、なんていうか……久しぶりだね、りみりん」
「……ぐすっ」
やっぱり変な返しだったかなぁ、と続けて考えていたら、どうしてかりみが泣きそうな顔になったから、沙綾は焦ってしまう。
「ちょ、ど、どうしたの、りみりん?」
「あ、ご、ごめんね……。香澄ちゃんからは無事だって聞いてたけど、でもやっぱりずっと心配で……沙綾ちゃんが無事で、安心しちゃって……」
「そっか……心配してくれてありがとう、りみりん」
「うん……」
自分の無事をずっと祈ってくれていたこと、そして無事に戻れたと知って涙を流してくれること。それに心がほわっと温まる。下手すると沙綾も泣いてしまいそうな気がしたから、気丈に笑って見せる。それを見て、りみも目の端に涙をためたまま笑った。
「一緒に学校、行こっか」
「うんっ」
そうして、沙綾とりみは肩を並べて、花咲川女子学園を目指した。
入れ替わっている間にもずっと学校には行っていた。だというのに、沙綾は夏休み明けのような気持ちで教室の敷居をまたいで、自分の席に座っていた。
窓からの陽射しが明るい、空席がある方が珍しい教室。その中に自分もいることがまだ夢を見ているみたいで、全然実感が湧かない。
朝のHR前の慌ただしい時間も過ぎて、今は一時間目の授業が始まるところ。ぼんやりと時計を眺めながら、沙綾は脳裏の朝のひと時を思い起こす。
まず、りみと共に学校に向かう途中、有咲ともばったり出会ったこと。
「沙綾……? 本当に沙綾なんだな?」
「うん。なんていうか、ごめんね? お騒がせしました」
「いや、そりゃ、お前のせいじゃねーんだから……んな謝んなよ……」
と言いながら、有咲はそっぽを向いた。その耳がちょっと赤くなってて、声も途切れ途切れで震えていたし、やっぱり有咲も有咲で私のことを心配していてくれてたんだ。
「そうだよ、沙綾ちゃん」
りみも有咲の言葉に頷いて、こちらはパッと笑顔を浮かべていた。
そのふたりの様子を見て、沙綾はやっぱりとても嬉しくなった。
「ん……ありがとね。有咲、りみりん」
それから三人並んで、花咲川女子学園の教室まで向かったこと。別のクラスの有咲が別れ際にやたら名残惜しそうにしていて、それにもお礼を言ったこと。そして自分の教室に入って、席に座ってりみと話しているうちに、香澄とたえが一緒に登校してきたこと。
「おはよ、サーヤ!」
「おはよー。やっぱり月にはうさぎがいるよね」
と、かたや元気一杯に、かたや昨日星を見ていた時の話の続きと言わんばかりに挨拶を投げられて、沙綾はまた懐かしい気持ちになった。
「おはよう。香澄、おたえ」
そう沙綾が返すと、ふたりは少しきょとんとして、
「あ、サアヤじゃなくて……沙綾? おかえりなさい」
なんてたえが何でもないように言って、
「さーやぁぁ――っ!!」
と香澄が飛びついてきて、それを笑いながら受け止めたこと。
周りのクラスメイトたちは、いつも以上にテンションの高いPoppin'Partyに首を傾げていた。
けれど、そんな視線も沙綾たちはまったく気にしなかった。
「おかえり!! 無事でよかった、よかったよぉ――!!」
「大丈夫? 風邪とかひいてない?」
「うん、大丈夫。……ありがとね、香澄、おたえ」
そんな言葉を交わし合ってから、香澄が隣のクラスの有咲まで引っ張ってきて、みんなできゃいきゃいはしゃいだこと。始業のチャイムが鳴って、「続きはお昼休みに!」なんて言ってそれぞれがそれぞれの席に戻ったこと。
どれも、世界からすればなんてことない日常の一幕。だけど、私にとってそれは何よりも大切で特別な光景だ。以前よりもずっと強く、そう思える。
もうひとりの自分と入れ替わったことはもちろん大変だったし、挫けそうになったこともあった。
だけどそれらが、この手の中に偶然の振りして居座る宝物の大切さを改めて教えてくれた。気付かせてくれた。
それに……私の特別で大切な親友たちによく似た、優しくて素敵な友達が五人も増えたんだ。この入れ替わりも、過ぎてみれば私にとって大切な思い出のひとつだ。
もしかしたら――いや、もしかしなくても、もうカスミちゃんたちには会うことが出来ないのだろう。だけど、そうだとしても……彼女たちにもらった優しさや勇気は、紛れもなく本物だ。偽物じゃない荷物だ。
そう思ったところで、教室の扉が開いて、一時間目の数学の教師が入ってきた。教壇に立つその姿に向かって、日直の号令が響く。そして今日も花咲川女子学園の一日が始まった。
数学教師の声を聞きながら、沙綾は『今日は随分と抑揚のある声で喋るな』と思って、それがなんだかおかしくって少し笑った。
指定された教科書のページを開いて、次いでノートを開く。
ぱらぱらとページをめくってみると、九月の終わりから、授業内容は随分と進んでいるようだった。
(これは遅れた分を取り返すのが大変だなぁ……。有咲とりみりんに今度教えてもらおう)
その勉強会には香澄とおたえも一緒に参加してもらおうかな。そう考えていると、ノートのあるページに折りたたまれた紙が挟まっていた。不思議に思って、それを手にして開いてみる。
その紙面には、可愛さの中に芯の強さを感じる文字があった。
『――もうひとりの私へ。
あなたがこの手紙を読んでいるということは、私はもうこの世界にいないのでしょう……なーんて、一回書いてみたかったんだよね。
きっともう二度と、こうやってメッセージのやり取りが出来ないって思ったから……最後に、あなたに伝えたいことをここに書いておくね。
まずはじめに、私はあなたに謝らないといけない。
ごめんね。本当にごめん。温かくて眩しい世界の山吹沙綾のことが、羨ましくて羨ましくて仕方なかった。だから、あなたの世界を……陽だまりを奪おうとしてしまった。もう何度も謝ったけど、何回謝ったって足りないくらいだから……本当にごめんなさい。
それとね、あなたのことを心配してくれた人がたくさんいたんだ。
ポピパのみんなは事情も分かってるし名前も知ってるけど、他のクラスの女の子とかやまぶきベーカリーに来てくれた女の子とか……。でも、ちょっとその子たちの名前までは分からなくて……ごめんね。特に、おでこを出した髪型にしてる子とか、すごくマイペースそうな子とか、そういう女の子にすごく心配された。心当たりがあるなら、その子たちとお話してくれると嬉しいな。
あとね、お母さんが言ってたよ。「沙綾はもっとわがままを言うべきだ」って。
その、そう言われた時の沙綾は私だったから……ちょっと甘えちゃった。頭撫でて、なんて言って。もしそのことをお母さんにからかわれたら……諦めて受け入れてね?
それから、学校の勉強に関しては私なりに頑張ってまとめたんだけどさ……やっぱり定時と授業の進み方が全然違うんだ。だから、きちんとまとまりきってないと思う。それもごめんね?
なんだか私、謝ってばっかりだね。
伝えたいことがたくさんあって、だけどこの夜を超えたらきっともう二度とメッセージのやり取りが出来なくなっちゃう予感がしたから、とにかく思うことを書いてるんだけど……なかなか上手な言葉が見つからないや。
……こんなことを書いちゃうとさ、もしかしたらあなたは気を悪くしちゃうかもしれない。でも、正直な気持ちを書かせてください。
私、あなたと入れ替わることが出来て……大変は大変だったけど、嬉しかった。
もう二度と会えないはずだったお母さんに会えて、ちょっとの間だけでも、本当は私のものじゃないんだけど、お母さんの温もりに触れられた。
そして、私にとって特別に大切な親友たちから……歌を、また送ってもらえた。
それがすごく嬉しかった。
最後の最後まで自分勝手なことばっか言ってるね、私……。はぁ、やっぱりサイテーだ。私もあなたみたいに強くて優しい女の子になりたいよ……。
なんて、これもただの愚痴だよね。泣き言なんて言わないで、私ももっともっと頑張れるように頑張るよ。……なんか変な日本語になっちゃったや。
沙綾ちゃん。ひと月半くらいの短い間だったけど……ありがとう。
あなたが元の世界に戻るために色々してくれたおかげで、私もちゃんと自分と向き合えて、大切なことを思い出せた。きっと、入れ替わったのがあなたじゃなかったら……私は不貞腐れたままダメになってたと思う。
まだまだ伝えたいこととか、聞いてみたいことがたくさんあるけど……言葉が出てこないし、全部書いてたら、きっと夜が明けちゃう。
だから、お礼を言わせてください。本当にありがとう。あなたのおかげで、きっと私はまた私としていられるんだ。
これで本当に最後の最後。
迷惑をかけてごめんなさい。そして、手を差し伸べ続けてくれて、ありがとう。
どうか、香澄ちゃんたちといつまでも仲良く、元気に過ごしてね!
……親愛なる、私の大切な友達へ』
手紙を読み終わって、沙綾は小さく息を吐き出した。それから思うのは、ああ、やっぱり私たちは似た者同士だったな、ということ。やることなすことがこうも被るなんて……と思うとちょっとおかしくて、少しだけ笑った。
右の方から視線を感じて、そちらへ目を移す。すると、二つ隣の席のたえが、沙綾を見て不思議そうに首を傾げていた。
その姿に向けて『なんでもないよ』という意思を込めて小さく手を振る。たえはますます首を傾げる角度を深めてから、ブンブンブン、と小さくも勢いよく手を振り返してきた。
ああ、これ絶対伝わってないやつだな……なんて思いながら、沙綾はもう一度小さく微笑む。
それから、いつもよりも強く懐かしさを感じる、窓の外の風景を眺める。
晩秋と初冬の狭間の青空は、天高く晴れ渡っていた。
もうすぐ十一月も終わって、今年もすぐに終わるだろう。そして年が明けて、冬が過ぎれば桜の季節で、私たちももう二年生だ。
その先には何が待ち受けているんだろうか。
きっと笑い合っているだろうけど、もしかしたらいつかみたいにポピパのみんながすれ違ったり、今回みたいにとても現実とは思えないことが起こるかもしれない。
……でも、きっと何があっても大丈夫だ。
瞳を閉じれば、もうひとりの私と言葉を交わし合った、あの夢の風景がすぐに浮かぶ。
どんなに雨が強くたって、どんなに風が強くたって、いつか空は晴れ渡る。
そして、終わらない音楽(キズナ)を奏で続ける限り、私たちの行く先には大きな虹がかかってるんだから。
エピローグ:サアヤ
『――もうひとりの私へ。
あなたがこれを読んでいるということは、もう私はこの世界にいないのでしょう……なんて。ちょっとこれ、一回書いてみたかったんだよね。
えっとね、なんだか予感がするっていうか……もう今日が終わればあなたとメッセージを交わすことも出来なくなるような気がしてさ。だから、最後に手紙を残そうと思うんだ。
まず最初に……きっとあなたは、私に開口一番で謝ると思う。メッセージのことを香澄に打ち明けられなかったこととか、そういうことを。
気にするなって言われても難しいかもだけど、でもさ、そんなの気にしないで。私もやっぱりあなたと同じ山吹沙綾だからさ、気持ちは本当に、痛いほど分かるよ。
またメッセージのやり取りが出来るようになったし、一緒に星空を見上げてさ、『あ、きっと元に戻れるな』っていう予感を感じられたんだから。
それにね、あなたの父さんが何度も言ってたことがあるんだ。曰く、『お前は花の高校生なんだから、もっと自由に遊んで来い』だって。この短い期間でもう耳にタコが出来るくらい聞いたよ。きっと、それだけあなたは自分のことを後回しにして、他のことを優先させてたんだと思う。
だからさ、謝ることなんてないよ。あなたと私は同じ山吹沙綾なんだから、遠慮も気遣いもいらないよ。結果オーライっていうのかな。まぁほら、終わりよければ全てよしってことでさ、そのことはもうおしまいにしよ。
あとね、学校の授業内容の進み具合に関しては、一応私なりにまとめておいたよ。分かりづらかったらごめんね。
それから弟くんたちなんだけど、来週からお遊戯会の練習が始まるんだって。だからいつもよりも早めに起きて幼稚園に行きたいって言ってたよ。……まぁ、キチンと起きるかどうかは分かんないけど。正直な話、あの子たちを朝起こすのが一番大変だった気がするよ。
なんだろうな。あなたに伝えたいこと、伝えなきゃいけないことがいっぱいあると思って書き始めたけど、こうしてるとなかなか言葉が見つからない。
きっと顔を合わせて話すことがあれば、言いたいことも言わなくちゃいけないことも次から次に浮かんでくるんだろうな。
けど、これだけは言わなくちゃって思う。
ひと月半くらいの短い間だったけど、ありがとう。
こう言っちゃうと気を悪くするかもだけど、あなたとして過ごしたおかげで、私は私の中にある『当たり前』の大切さを改めて実感できたような気がするし、私よりも頑張ってるもうひとりの私がいるって思うと、私も負けないように頑張らなくちゃって気合が入るんだ。
それに……大切な親友たちにちょっとだけ似てる、優しくて可愛くて、素敵な友達が五人も出来た。
だから、ありがとう。あなたのおかげで、私は大切なものが増えて、それを大事にしていこうって強く思えるんだ。
言葉が見つからないって思ってたけど、書いてみるとどんどん長くなるものなんだね。この調子でずっと書いてたら、完徹しちゃいそうな勢いだよ。
いつまでもペンを握ってるわけにはいかないし、これで本当に最後。
無理はしないでね。あなたはひとりじゃないんだから。いつだってポピパのみんなが心配してくれるし、元気を分けてくれる。だから、もっと素直にあの子たちに甘えちゃってもいいんだよ。
もしもみんなとケンカしたら、私たちの方のポピパのみんなのことを思い出して。香澄ちゃんも香澄も、有咲ちゃんも有咲も……りみちゃんとりみりん、たえちゃんとおたえはちょっと似てない部分があるけど、とにかく、みんなとっても優しくて素敵な女の子だからさ。きっと勇気をもらえるよ。
ケンカなんてしないに越したことはないけど、それでもぶつかり合うことで分かり合えたことって私たちにもあったからさ。経験者のアドバイスとして、そういう時は素直でいるのが一番だよ。
あー……最後って書いたのにまた長々と……。なんでこう、終わらせようとすると伝えたい気持ちばっかり出てくるんだろうね。
とにかく、とにかくね?
沙綾。あなたはひとりじゃないよ。どんなに今がつらくたって、何もうまくいかなくたって、積み重ねたものを忘れないで。あなたの周りには大切な人たちがいつもいてくれるんだから。
どうか、みんなといつまでも仲良く、元気でね。
……親愛なる私の大切な友達へ』
今でもたまに、沙綾はその手紙を読み返すことがある。
季節は冬。十二月の半ば過ぎ。もう今年も終わろうかという、寒い時期だった。
本当に非現実的な、フツーに考えたら有り得ない空想みたいなひと月半の日々。けれど、確かに入れ替わって、大切なことにもう一度気付けて、大事なものが増えた日々。
その日々を思い出すと、いつも沙綾は胸の内が温かくなる。
お互い本当に似た者同士で、似たようなことを似たようなやり方でそれぞれに残していった。
だけど、と沙綾は思う。
確かに私と沙綾ちゃんは同じ山吹沙綾で、似ているところが多くある。けど、あちらの沙綾ちゃんの方が、どことなくお母さんっぽい。それはあの夢の中で話したこともそうだし、手紙に残してあった言葉からもうかがえる。
だからかは分からないけれど、不意に寂しくなった時なんかに沙綾からの手紙を読むと、いつも気持ちがホッとして落ち着く。
友達相手に母性を感じるって……と、自分の行動に若干の違和感というか、変な気持ちを覚える沙綾だけど、りみやたえが自分の作ったパンを無心に頬張る可愛い姿を見ると、『まぁそれはそれでいいのかな』とも思ってしまう。
「沙綾ちゃん? どうかしたの?」
と、声をかけられて、沙綾は今まで頭の中に思い浮かべていたことを意識の隅に追いやった。
「ううん。なんでもないよ、香澄ちゃん」
そしてニコリと笑顔を浮かべて返事をする。それから周りを見渡せば、Poppin'Partyのみんなの顔が見える。
いま彼女たちがいるのは、都内のあるライブハウス。“ガールズバンドの聖地”と謳われる場所の、舞台袖だ。そこで輪になって向かい合っているところだった。ちらりとステージへ目をやると、自分たちの前の出番のバンドが最後の曲を演奏している。
「まったく、本番前に呆けないでよね」
沙綾に向けて、有咲が震えたか細い声で言う。
「そういうベンケー殿もおかしいぞ。ウチベン系女子になってるがな」
りみは関西弁と標準語が入り混じった変な声を出す。
「……やばいっす、初ライブハウスで緊張マックスっす……」
たえはぶるぶると震えていて、隣に立つ沙綾とりみの肩に時おり身体がぶつかる。
「もう、みんな! そんな緊張しないで!」
そんなみんなの顔を見て、香澄が輝かんばかりの弾ける笑顔で声を出す。楽屋入りからずっとランダムスターを装備していたからだろうか、それとも彼女の持つ天性のカリスマなんだろうか、今日はいつも以上にテンションが高い。
それに引っ張られるように、沙綾も声を出す。
「だね。待ちに待ったライブだもん、楽しまなくちゃ!」
「その通り! みんなで、キラキラして、ドキドキしてる夢を撃ち抜こうよ!」
香澄の弾んだ声が同調して、沙綾も笑顔になる。有咲も、りみも、たえも……まだちょっとぎこちないけど、ニコリと笑った。
「初めてのライブハウスがなんだー! ここからわたしたちの伝説が幕を上げる!!」
「……かすみん、流石にテンション上がりすぎ」
「でも……かすみんセンパイ見てたら、なんだか元気出てきたっす」
「うむ。流石師匠、イクサにおける士気の重要さを心得ている」
「ふふ……」
続けられた元気いっぱいの言葉に、どんどんみんなの緊張がほぐれていく。ああ、やっぱり香澄ちゃんはすごいな、と沙綾はしみじみ思う。
始まりは、ホシノコドウに導かれたこと。ひとりの少女が、時を超えて“夢”を撃ち抜いたこと。いつしか彼女の周りには、同じように夢を撃ち抜かれた仲間が集い、そして無敵で最強の音楽(キズナ)を奏でるようになった。
例え道に迷っても、袋小路の突き当りにぶつかっても、彼女はキラキラと輝いて、進むべき道を示してくれる。離れた世界にだって、ジョーシキじゃ考えられない現実にだって、彼女は光を届けてくれる。
「あ! 前のバンド、終わったみたいだよ!」
香澄の明るい声が響く。それに釣られてステージへ目をやれば、観客席に頭を下げてから舞台袖に向かってくる四人組のガールズバンドの姿が見えた。
「お疲れ様! イェーイ!」
「イェーイ! 君たちも頑張ってね!」
そのボーカルの人と、笑顔でハイタッチする香澄。それから手を振りあって、彼女たちは楽屋の方へと引き上げていった。
「最近のかすみんって、ライブ前になるとさらに別人になるわよね」
「え、なにが?」
「無自覚っすか……すごいっす、かすみんセンパイ」
「……ふふ、カスミちゃんっぽい」
「獅子メタル殿? なにか言ったか?」
「ううん、なんでもないよ」
自分からハイタッチをしにいく香澄の姿が、自分が一時期お世話になった世界の香澄と重なる。やっぱり似た者同士なんだな、と思うと、沙綾はちょっとおかしくって笑ってしまう。
「沙綾センパイも余裕そうっす……」
「これが場数の違いなのかしらね」
「なんの、うちだって全然、こんなの緊張のうちには入らへんし。はー、なんだかお腹減ったわー、朝ご飯白米しか食べてないから辛いわー」
「なにアピールよそれ」
きゃいきゃいと、段々といつものような言葉を交わすようになる三人。どうやらいい具合にテンションが上がってきているようだった。
「さぁ、みんな! かけ声やろ!」
そんな中、香澄が声を上げて、スッと輪の中央に手を差し出した。
「そうね。気合入れていきましょう!」
その手の上に、有咲が手を重ねる。
「うむ。ポピパの土台はうちがまかなう!」
続けてりみが手を差し出す。
「はいっす! 気合入れていきます!」
その上にたえが手を乗せる。
「うん。頑張ろうね、みんな!」
最後に、重ねられた四つの手の上に、沙綾の手が乗った。
「よーし、いくよー!」
――ポピパ! ピポパ! ポピパパ! ピポパー!
香澄の声に合わせ、みんなが大きな声を出す。そして最後に天を指さす。緊張はまだまだあるけれど、気合もやる気も十分だ。
真紅の星を携えた香澄を先頭に、彼女たちは歩を進める。有咲、りみ、たえと続き、沙綾は一番最後にステージへ上がった。
真っ白なステージライト。それが眩しくて、熱い。ああ、ライブだ。ライブハウスでライブをやるんだ。
そう思うと、さっきまでよりもずっと大きな気合が身体中に漲っていく。
それぞれが所定の位置について、アンプと楽器を繋ぎ、調整する。
それが終わると、五人は目を合わせ、「うん!」と頷き合った。
「みなさーん! 初めましてー!」
元気な香澄の声がマイクを通してステージに響く。ハウリングを起こしそうなくらいに大きな声だ。それに釣られて、観客席からも歓声が上がる。
「わたしたち、」
『Poppin'Partyですっ!』
一呼吸おいて、五人の声が揃う。打ち合わせは特にしていなかったけど、こういう風に紹介やりたいね! なんて話はしたことがあって、それをみんなが覚えていたようだった。
うきゃー! と香澄が嬉しそうに笑う。有咲も少し紅潮した顔で微笑む。りみはステージライトに眩しそうに目を細めていて、たえはいつもよりもずっと凛々しい顔をしていた。
沙綾は、そんなみんなを一番後ろから見守っている。顔は見えないけど、でも、みんな絶対そういう顔をしているだろうな、という確信を持っていた。
「それじゃあ早速なんですが、曲に行きたいと思います!」
溌溂とした声を響かせ続ける香澄。それに呼応するように歓声が上がる。
「この歌は、このライブの為に……ううん、友達のために、みんなのために作った歌です!」
その言葉を聞いて、沙綾はちょっとだけ泣きそうになったけど、でも涙はこらえる。この眩いステージに涙なんて絶対に似合わないから、最後の最後まで笑って演奏していようと強く思った。
「聞いてください! わたしたちのこれまでと、これからの歌!」
香澄が強く言い切る。有咲が、りみが、たえが、沙綾が強く頷く。
教室の机の上に書いたメッセージ。時空を超えて、大切な友達から大切な友達へ届けられた歌。泣き虫のテーマ(仮)、改め――
「1000回潤んだ空!」
――その声を合図に、一呼吸おいて、有咲のキーボードが静かな音を奏でる。その旋律に、香澄の歌声が乗る。みんなのコーラスが合わさる。サビに入ればりみの重低音が、たえのギターサウンドが入ってきて、最後に沙綾のドラムが重なる。
香澄たちのこれまでと、これからの歌。
夢を撃ち抜き、撃ち抜かれた少女たちの歌。
静かなバラードからロックサウンドに繋がり、やがて歌は収束していく。
けれど、終わらない。無敵で最強の音楽(キズナ)は、これまでも、これからも、いつまでも奏で続けられる。
香澄と沙綾の机。彼女たちの音楽(キズナ)の始まりがあった場所。そこには香澄の文字で、有咲の文字で、りみの文字で、たえの文字で……この歌が刻まれている。
その最後の最後には、香澄が指した“みんな色の奇跡”に違わず、可愛さの中に芯の強さを感じる文字で新しいキズナが書き足されていた。
放課後から 私たちの時間
リボンを緩めたら ミュージックのスタート…♪
参考にしました
宮沢賢治 『銀河鉄道の夜』
https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/456_15050.html
BUMP OF CHICKEN
アルバム『orbital period』から『arrows』
amazarashi 『スターライト』
https://youtu.be/dQ5Vs4dHmWw
もしも生まれ変わったらの話
戸山香澄「たられば」
【バンドリ安価】戸山香澄「たられば」 - SSまとめ速報
(http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1534273301/) の>> 145から
最後まで読んでいただきありがとうございました。
HTML化依頼出してきます。
「たられば」の人か、良いSSだった。
機会があればまた書いてほしい。
おつ!
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