【ミリマス】恋知れ北沢チョコ渡せ (140)
葉っぱも落ち切った街路樹に雪が足跡を残している。
風に触られ、冷たくなっていた公園のベンチに腰を下ろし、私はその時を待っている。
お昼前。街で一番人通りが少なくなる頃合い。
閑散とした園内の、入り口にある車止めを乗り越えてあの人は姿を現した。
普段通りの気取らない格好で、でも、少しだけ緊張してる……かな?
それが私の気持ちと一緒だなんて、些細な共通点が妙に嬉しくって。
良かった。
私はホッとすると立ち上がって胸を撫で下ろした。
彼との距離が狭まって行く。
一歩、二歩。公園の中央。
向かい合ってお互いに見つめ合う瞳と瞳。
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「待った?」
「いいえ、今来た所です」
答えると、彼の指が私の鼻先に添えられた。
ほんの一瞬、微熱同士が通じ合って。
「でも、ほら、赤くなってる」
「それは……」
寒い中待ってたからじゃなくて。
言葉と裏腹。
誤魔化しの効かない天然のメイキャップに"ごめんね"なんて言わないで欲しい。
……言い当てられた私は慌て顔だ。
だけど、そんなカッコのつかない一面だって、
彼に見られるならむしろご褒美みたく思えちゃうから……恋って、とても不思議。
私は鞄から包みを取り出した。
きっと覚悟はしてきていたハズの、彼だって表情を引き締めた。
ビロードを思わせる深い赤に、差し色の入ったリボンで飾り付けられたソレは。
「……あの、これを」
私の抱えた正直な気持ちを、届けたくて、形に込めた。
"バレンタインは素直になる為の素敵な魔法。"
……受け取って、貰えるのかな?
ドキドキ、ドキドキ……。心臓が大きく脈を打って。
まるで一時停止のスイッチを押されたような時間。
遠慮がちに突き出した両腕が固まっている。
そうして、包みを握る指の感覚が信用できなくなった頃に、スッと、両手が軽くなった。
その瞬間に私の気持ちは私を離れ。
今は、ほら、照れ隠しの笑顔の隣に並んでる――言わなくっちゃ、あの台詞を。
「好きです。ハッピーバレンタイン」
ざあっと風が髪をさらう。
私も飛び切りの笑顔を披露して見せた。
===
でも結局の所、バレンタインなんて単なるお祭り騒ぎなんだ。
「俺の顔に、何かついてるかな?」
そうやって会話が始まった。
一月十八日だった。
私にとっては特別な日でも、誰かにとってはただの一日。
その時間、道路には沢山の車が走っていて、いわゆる帰宅ラッシュだった。
先に進めば進むほど渋滞模様を作る道は、なんだか人生に似てるような。
飽きずに繰り返される日常。積み重ねられていく平凡。
ただ、カレンダーの中には飛び石みたいな"今日"があって。
それは時々特別なイベント事を兼ねる。
太陽はとっくに沈み切って、等間隔で並ぶ街灯とカーライトが混ざり合っては離れていく。
無機質な、闇を裂く無邪気さのじゃれ合い。
テンポが一定のダンスみたいで見ようによってはとても綺麗。
夜は始まったばっかりだった。
蠢く光の列の中に、ありふれた水色の大衆車が一台。
そのカーオーディオから流れているのは、往年のアイドルソングメドレー。
それを、助手席で聴いていた。
北沢志保。中学生で十四歳になったばかり。
緩くウェーブの癖がついている、背中まで伸ばした髪は重い栗色。
スタイルについては公式プロフィールを参照のこと。
ネットに繋いで私の名前を検索欄に入力すれば、知りたい情報はすぐにも入手できるハズだ。
他にも一緒に出て来る写真とかで分かる――例えば顔立ち。は、そこそこ整ってる方だと思う。
ただ目つきが良いとは言われないな。自分でもそうは思わないし。
一応「美人だ」とか「綺麗だ」なんて評価を場合によっては受け取るけれど、
きっと「生意気」や「冷血」に「愛想って言葉とは生まれた時に生き別れてそう」って噂されてる方が多いと思う。
……でも、まあ、言わせてもらえば全ては余計なお世話というやつで。
見てくれだけで計れるほど、私はそんなに単純じゃない。
ただ、運転席に座ってる人――
プロデューサーさんにしてみれば、そんな悪口も結構な誉め言葉だそうで。
「つまり志保は、クールビューティなんだ!」
なんて思わず歯が浮くようなフォロー、私だったら絶対に言えない。
……一応、話の流れ上、彼のことも紹介しておくことにする。
じゃないと私が自分のことしか説明しない、本当に冷たい人間みたいだから。
それで、早速だけど私たち二人は親子じゃない。
恋人なんか以ての外。じゃあ年の離れた兄と妹?
――確かにこうして並んでいるのを見れば、
それが一番近い線だけれど、残念ながらどれもハズレ。
……ヒントは私からの呼び掛け方にある。
って言っても、彼の本当の名前が『プロデューサー』だ!
なんて、意地悪クイズみたいなことはしない。
勿論、外国人だってことも無いし、学名がそうだって話でもないし。
私と同じれっきとした日本人で、きちんと戸籍と名前を持っている。
何なら苗字が同じというだけで、年の離れた従妹から
「運命の人なの!」と熱烈視されているのは仲間内で知られてる公然の秘密。
とにかく、彼は何かをプロデュースする人だからプロデューサーさんと呼ばれていた。
具体的にはそれがアイドルで、アイドルとはつまり私のことで、
要するに私たち二人はおんなじ職場で仕事をする頼り頼られのパートナー。
……出会ってからは半年ほどの付き合いになる。
彼の年齢を確認したことはないけれど、噂じゃ二十三歳らしい。
小学校が一緒だったって人から聞いた話だから、まず間違いない情報だろう。
身長は平均より高め。痩せ型で、所々にいつ見ても寝癖と間違えそうになる癖っ気を持った地味な髪形。
縁の太い眼鏡を掛けていて、時と場合を限定すれば、まあ、それなりに見れる顔をしてるんじゃないだろうか?
――ここだけの話、過去には薄口醤油みたいな人って言われたこともあるんだとか。
例えはどうかと思うけれど、パッと見て特徴のない顔をしてるから言い得て妙……なのかな?
髭でも生やせば変わるのかも。
一張羅みたいにスーツを着て、いかにも若手の営業マン。
パッと見はどこにでもいそうなお兄さんだ。
そうして四人乗りの車内に二人。私の視線が気になったんだろう。
「俺の顔に、何かついてるかな?」
そうやって会話が始まった。
私は運転の邪魔をしないように、なるべくトーンは抑え気味で簡潔に用件だけを伝えた。
「プロデューサーさん。あの、今日は本当にありがとうございました」
我ながら破格のかしこまりだ。
「それから、顔には何もついてないです」
「なんだ、てっきり俺は落書きとか――」
「大丈夫です。いつも通りに呑気そうで」
「呑気」
と、聞き返す声の調子が既にのんびりしてる。
「あ、気分を悪くさせたなら謝ります。……その、ごめんなさい」
私は自分の持てる力で極めていい子を演出すると、口早にこの会話を締めた。
必要以上の長話につき合わせない。極力彼を煩わせない。
それは常日頃から私が心掛けているアイドルとしての心遣いだ。
だけどプロデューサーさんは「あはは」と楽し気に目を細めて、
それからまっすぐ前を向いたまま、ちょっとイタズラっぽい口調でこう続けた。
「別に謝らなくったっていいさ。お礼だってそんな他人行儀な……。
大体、志保のことなら日頃から可愛がってるワケで、そんな俺に遠慮はいらないって言うか――」
「……私を可愛がる、ですか?」
でも待って。突然何を言い出すんだ、この人。
二人っきりの車の中で、急に可愛いだとか何とかって……。
私がそんな風に訴えるような目線をやると、彼は「しまった」とでも言いたげに表情を変えて。
「言い方が少しマズかったかな? プロデュースだよ、プロデュースのこと」
「なら、最初からそうやって言ってください」
「あっははは、ごめんごめん。でも気に掛けてるのはホントなんだぞ。
――まあクールが売りの志保にとって、今回の催しがお気に召さなかったって話だったら」
一旦言葉を区切ってから、プロデューサーさんがニヤリと笑う。
「今度はこっちから謝らないと。……すまない、そんなつもりはなかったんだけどね」
でもそれは、この場合においては明らかな挑発行為だった。
謝罪風に投げかけられた煽り言葉に反応する程私は子供じゃないけれど、
ただここでやり返さないことによって不本意な不戦勝を相手に与えるのが癪だと考えたのも事実。
だから少しの沈黙を挟んでから。
「……そうですね。誕生会をやるって話は事前に聞いてましたけど、
予想以上に大袈裟だったパーティの規模で呆気に取られる大醜態。
おまけにクラッカーや紙吹雪で全身くまなくデコられるし、
一人じゃ持ち帰れない量のプレゼントをどっさりたっぷり渡されるし。
出し物だって歌あり踊りありマジックあり。
御馳走やお菓子の大盤振る舞いじゃ飽き足らずに、うどんやピザが空を飛んで、
最後は主役を置いてけぼりにして飲めや騒げやの大宴会」
「楽しい誕生会じゃないか」
「お陰様で。お礼の言葉が素っ気なくなっちゃう位には十分楽しみました」
と、思い切り捲し立ててみたけど、
これじゃあ予定してた悪態がお礼になって十まで膨れ上がっただけだ。
案の定プロデューサーさんが「たはは」と笑う。
全然反省してない顔で、安い挑発に乗った成果としては明らかに見合ってない報酬だった。
……うん、ハッキリ面白くない。
だから私は、さも手の平の上で踊って見せてあげましたよ?――そんな態度で露骨に不満ぶると。
「だけど私って、プロデューサーさんからは、そういうキャラで見られていたんですね」
「キャラって言うのは、クールを売りにしてるっていう?」
「おまけに年下だし、生意気だし」
「扱い辛い気難し屋」
「……聞いてて性悪だって思いませんか? こんなのがバレたらファンが減っちゃう」
「あはは、自分のことなのによく言うよなぁ」
プロデューサーさんがケラケラと笑う。
私はつい、そう言うアナタは笑い過ぎですと口を挟みたくなったけれど。
「でも勝気な性格は本当だろ? それが急に、しおらしくお礼なんて言い出した日には」
「プロデュース計画と違いました?……お礼とか、礼儀にはいつも気をつけているんですけど」
「だからこそギャップがズルいと来た。それで落としたファンも多いじゃないか」
まさに俺たち二人の作戦勝ちだ、なんて彼が続けたものだから。
「……プロデューサーさんもそのうちの一人ですか」
って、少しは気にするという話だ。
「愚問だね。僕ぁ出会ったときから君のファンさ」
「それ劇場の誰にでも言ってますよね?」
下手くそなウィンクを前にして前言撤回。
助手席からむすっと横目で眺めるのは、笑いを堪える彼の横顔。
――まあ、そんな反応も私の予想通りなんですけど?
なんて、声にも出せない言い訳を、今更になって並べ立ててる自分の迂闊さが嫌になるな。
だって、こんな私にだって……彼に好印象を与えておきたい気持ちが無いとは言い切れないのだから。
でもそれは年頃の少女にありがちな盲目的な恋の病、情熱的に愛し愛され! なんて、うすら寒い浮かれた気分とは別の話。
結論、私には居場所が必要だった。
まだ芸能界に入って日の浅い私が「頼れる」と言い切れる人は少ない。
アイドルって過酷な人気商売。
例え自分の為に開かれた誕生会で"おめでとう"を受け取っていたとしても、
舞台の上に立った時に、同じ事務所に所属する人間が敵にも味方にもなる関係。
私が足を踏み入れた場所はそんな厳しい競争がある世界。
だから、どんな状況でも私の隣で待ってくれてる人が。
ピンチのど真ん中に居ても、最後まで味方であってくれる人が必要だった。
それが信頼や絆なんて大層な物じゃなくても別にいい。
ビジネスだけの関係でも、私の努力一つで幾らでも引き延ばせるのなら。
――なんてことを考えていると車が交差点に差し掛かった。
タイミングとしてはカンペキだろう。
急にブレーキなんか踏まれたせいで、少しだけ前につんのめってしまった私は。
「みゃっ!?」
シートベルトで胸が圧迫され、思わず変な声を漏らしてしまう。
……ハッキリ言って最悪過ぎる。
こんな間抜けで恥ずかしい醜態を、まさかプロデューサーさんの隣で晒してしまうなんて。
そう思って横目でサッと確認すると、プロデューサーさんはサイドミラーを覗くフリ。
……ホント、こういう失敗はからかってこないのだから気が利くと言うべきか何なのか。
膝上に乗せていたハンドバッグの位置を元に戻し、私は何事も無かったように前を向いた。
信号の赤が夜に映えて、無数のヘッドライトが歩行者たちを照らし出している。
皆どこか、目的地を目指す顔をしていた。お店か、駅か、仕事場か。
……でもどういう道を辿ったところで、最後に辿り着く場所は、結局。
「でも実際、迷惑かけちゃったか?」
「何のことです?」
「本当のとこ、今日のパーティでさ」
ラジオの歌手がごはんができたよと歌っていた。
明るいのにちょっとしんみりしちゃう……なんて印象を頭の端で聞き流して、私は少し、考え込むふりで返事を伸ばす。
「いえ、さっきも言った通りパーティは楽しくて、嬉しかった……ハズです。
ケーキも美味しかったですし、お祝いも沢山してもらえて」
そう、誕生会は楽しかった。それは否定する必要も無い事実。
「ただ、ああいうのは初めてだったから」
「それは、お誕生日会が?」
「……家族以外の人と過ごすのがです」
だけどこれじゃあ、気持ちに正直になり過ぎたかもしれない。
信号はまだ変わる気配を見せなかった。
でも、そのまま黙り込むのも嫌で、私は取り合えずの言葉で会話を繋ぐ。
「プロデューサーさんは、どうなんです?」
「ん?」
「プロデューサーさんは、お誕生会とか……。その、子供の頃に」
すると彼は、両手をハンドルに置いたままで「うーん」と小さく考えると。
「経験が無いとは言わないけど、うちは結構変わってるぞ。
……親父がいつも留守がちでさ。誕生日に、こう、ほぼ木! って感じの銛を貰ったことは?」
言って、プロデューサーさんが銛を構えるジェスチャーを取った。
思わず両手が真似をする。いや、真似しようとしたのを押さえ込んで。
――というか、今、銛って言った? あの漁師さんとかが持ってそうな、先端に針か何かが付いている。
あの、魚を突いて捕まえる時の。……そんな物を貰う子供時代?
「な、無いですけど」
普通は自転車とかじゃないの?
「変わったプレゼント……ですね」
応えると、プロデューサーさんは「けど、嬉しかったんだよ」と優しく微笑んだ。
「八歳の時に親父がくれて九歳までお気に入りだった。
俺の通ってた小学校の近所にお化け沼って沼があってさ。
で、当時の小学生の間じゃ、そこには巨大なヌシが棲んでるって噂もあった」
「じゃあ、プロデューサーさんはその銛を持って」
「ああ、夏休みに友達を引き連れて。自転車で長い坂登って、へとへとになってそこについた。
……なのに最初の一投でヘマしちゃって、俺の手から離れた銛は沼底に取られてそのままポキンッ!」
「折れたんですか!?」
それは悲しい。
「今でも忘れられない想い出だよ。すぐに拾おうと身を乗り出したんだけど、藻だらけの水面は濁っててね。
底は深いし怖い噂もあるし、どうしても腕をツッコむ勇気が出せなかった」
静かに、プロデューサーさんが目を細める。
視線の先、横断歩道の向こう側で、子供の時の記憶を思い返してみたりしてるんだろうか?
私には窺い知れなかったけど、そのことが何だか少しだけ、悔しいって気分にさせてくれる。
……どうしてかはよく、分からないけれど。
モヤモヤするままに目を逸らせば、信号がチカチカ点滅を始め、
渡り遅れていた歩行者が慌てて駆け抜けて行くのが目に入った。
「いつもは楽しみだった親父の帰りが憂鬱だったのを覚えてるよ」
ププッとクラクションが鳴らされた。
信号は青。
喋り終えたプロデューサーさんがアクセルを踏むと車は軽快に走り出した。
でも、車内の空気は少し重い。原因は間違いなく私にもあって。
話の流れがアレだったから。考えれば、胸が締め付けられるみたいにドキドキする……。
緊張かな?――嘘、本当は少し不安がってる。
思わず膝上のバッグに手を伸ばした。
取り付けてあるキーホルダーのチェーンを指先でそっと絡め取って、
心を落ち着けたかったから、その先についてる黒猫のぬいぐるみの毛並みを無言で撫でる。
……毛並みはふわふわ、優しい。
ただそれでも、ほんの数分前の無遠慮がこの雰囲気を作ったって理解してるせいで、
今の空気を怖いと感じてる自分は消せないでいた。
こんな些細なやり取りがきっかけになって、もしもプロデューサーさんに嫌われたり、怒らせたりなんてことになれば……。
運転席から逸らした視線、喧騒が窓を横切る光の筋に変わってく。
それを気まずい思いで見つめながら。
「お父さんは銛を壊したこと……許して、くれたんですか?」
吐き出す言葉が、掠れる。
その質問をどういう気持ちで口にしたか、許されたいのは私だったのかも。
胸騒ぎはずっと続いたまま、目線を伏せて、彼の返事を待つ時間はとても長く感じた。
「うん、ちゃんと許してくれた」
なのに、返って来た返事は驚くほどに能天気で。
「正直に全部話したからね。笑って許してくれた後に、
親父のアドバイスで残った柄が虫取り網に変身して、こっちは三年間持った。中学校に上がるまでだ」
顔を上げると、プロデューサーさんは変わらず笑顔。
あまつさえ、良い想い出エピソードの一つも披露することが出来た――そんな自慢気すら覗かせて。
……だから、かな。自分でも、顔つきが柔らかくなっていくのが分かる。
「その網は、どうやって壊しちゃったんです?」
「壊れたんじゃない、卒業したんだ。中学に上がってすぐだったかな? アイドルブームが始まって――」
私が訊いて、彼が答える。
なんてことのないやり取りだけど、こんな時じゃないと教えてもらえない想い出話を聞きながら車は目的地へ向かう。
そうして、そんな時間が心地よく感じられたから……。
今は少し、ほんの少し、到着が遅れてくれることを願う気持ちだった。
===
目の前に見慣れたマンションが見えてくると、
私は小さな欠伸を噛み殺して、そろそろかとシートの上で身じろぎした。
どうも半分眠っちゃってたみたい。
それもこれも適度な体の疲労感と、居心地の良い振動を生み出すこの車と、
適度な眠気を誘発する暖房の設定が快適過ぎることが悪い。
人間は体が温まると眠たくなってく生き物だ。
そういう風に作られてるといつだかに聞いた覚えがあったことを思い出す。
「もうすぐだよ」
まだウトウトしてる頭でプロデューサーさんの言葉を受け取る。
車が駐車場に着くと、私はお礼を言って外へ降りた。
小さな頃から変わらない、立ち並ぶマンションを見上げて「ただいま」と胸の内で呟く。
ブーツがアスファルトを鳴らし、無遠慮な夜風が通り過ぎて、
ざわざわざわ、と景観用の木々が揺らぐ。
ふぅっと吐いた息が白い。
遠くで犬が高く吠えた。
私は乱れた髪を直しながらトランクを開ける。
「一人で持つには多くないか?」
いつの間にかプロデューサーさんも傍へ来ていた。
彼はコートの襟を閉じながら笑う。擦り合わせる手の平がちょっと寒そう。
「こんな時だって頼ってくれよ。その為のプロデューサーなんだぞ」
「それじゃあ大きいのをお願いします」
頼めば、プロデューサーさんはすぐにも荷物が入った袋を受け取った。
私も残りの細々とした物を――どれも今日の誕生会で貰ったプレゼントだ――手に取って、
エントランスに向かって歩き出す。カツコツカツ、重なる足音。二人の歩幅も横並びだ。
「そう言えばさ」
建物に入ってすぐ辺りで、プロデューサーさんが思い出したように口を開いた。
「志保の弟……陸君は最近も元気にしてるのかい?」
「ええ、はい。してますけど」
「折角だ、顔ぐらい見てから帰ろうかな」
「止めておいた方が良いと思いますよ」
即答。面識の少ない弟のことを気にしてくれたのは意外だけど、
私は肩をすくめてエレベーターの呼び出しボタンを押す。
それから理由を訊きたげなプロデューサーさんに振り返って。
「あの子最近、プロデューサーさんのことを悪の手先だって疑ってるみたいなんです」
「悪の手先」
「今撮ってるデストルドーみたいな……。悪の組織って言うんですか」
「そこで、俺が働いてるかもしれないって?」
「ここの所、レコーディングだなんだって予定が立て込んだじゃないですか。
仕事が急に忙しくなって、その分、家にいる時間が短くなりましたから。……プロデューサーさんに送って貰ったって話をすると」
「あー……大好きなお姉ちゃんを取らないでってコトか」
私の説明で納得してくれたのか、プロデューサーさんが悪いことしたね、と小さく項垂れた。
「陸君ぐらいの年にはそういうの、身近な悪の組織とかと関連づけるもんな」
俺にも苦い経験があるよ、とプロデューサーさんが肩をすくめる。
「はい。多分、そんな所です」
「スケジュールも詰め過ぎちゃってたし」
「私自身はそんなこと無いって思いますけど。弟は、まだ小さいですから」
「だけどさ、北沢家にとっちゃ由々しき問題だよ。
……悪いんだけど志保伝手でさ、埋め合わせは必ずするって言っておいてくれる?」
そう言って、プロデューサーさんがポリポリと後ろ頭を掻く。
……そんなに重たく受け取られるとこっちとしても困るのだけど。まあ、いいか。
「はい。伝えておきます」
その時、階数表示が『1』になって、トースターみたいな音を鳴らしてエレベーターの扉が開いた。
中には時々見かけたことがある若い女性が一人で乗っていた。
不躾な私の評価だけど、お洒落がバッチリ決まっている。……これからデートに行くのかも。
「こんばんは」
そんなことに気を取られていると、プロデューサーさんが一番最初に声を掛けた。
恐らく初対面の相手に、ううん、初対面の相手だからこそか。
瞬時に見せた余所行きの対応、流石の営業スマイルだ。
……咄嗟のスイッチの切り変え方、私も見習わなくちゃいけないな。
それで、私も続けて挨拶すると、女の人は一瞬驚いた表情になったけれど。
「こ、こんばんは」
相手も挨拶と軽い会釈。
廊下の脇にサッと退いて、道を譲ったプロデューサーさんに従ってみてようやく気付く。
あ、これ単純にカッコつけたいやつだ。
まるで映画のハンサムがするみたいに、女性を見送る彼の顔つきで……。
なんでだろ、こういうのは不思議と分かるのにな。
「……優しさのバーゲンセール」
「何だいそれ」
プロデューサーさんにはポーカーフェイスの練習が必要だな、なんて。
女の人が行ってしまうと、私は怪訝そうな彼と一緒にエレベーターへと乗り込んだ。
扉が閉まり、ぶぅんと重力に引かれる感じ。おへそが少し落ち着かない。
目的階に到着するまでの時間を使って提げてる荷物を持ち直した。
「じゃあ、帰ってもご機嫌斜めかもしれないな」
「えっ?」
あんまり急に言われたので、それってつまり私がですか? と思わず訊き返すところだった。
まるで今だって機嫌が悪いみたいな言い方に、お互いの視線と視線が交差する。
するとどうだ。プロデューサーさんは簡単な推理を披露するみたいに。
「誕生会、早めに切り上げたけど良い子ならもう寝てる時間だろう?
だったら大好きなお姉ちゃんと顔を会わせるのは明日になるじゃないか。……まあ、起きて待ってるなら話は別だ」
言われてから「確かに」と頷いた。
さっきも話に出て来ていた、私の弟である北沢陸は保育園生。
品行方正、成績優秀、出された給食も残さず食べる。
とってもとってもいい子なので、この時間ならきっとお布団の中ですやすやだろう。
何時もみたいに寝かしつけてあげられないのは仕方がないけれど、良い夢を見てくれているといいな。
……でも歯磨きはちゃんとしたんだろうか?
お母さんはりっくんにベタ甘だから、もしかすると仕上げ磨きがおろそかになってるかもしれない。
明日の朝一番目の予定に弟の歯磨きを追加して、私はプロデューサーさんと向き直った。
「去年までなら毎年誕生日は家に居て、三人でケーキを食べてたんです。なのに今日は、お母さんが強引に」
「ははっ、劇場に送り出してくれるよう頼んでおいたからね」
「ちょっと不気味なくらいでした。……たまには母親らしいことしたかったみたい」
だけどそんなことは普段からしてくれている――
続きを言い出す前にエレベーターがぐぃんと止まり、私たちはマンションの廊下へ追い立てられた。
冷たい風が頬を撫でる。
目の前には蛍光灯が寂しく照らす、見通しが良過ぎる一本道。
家の玄関までもう目と鼻の先だ。
……なのに、さっきのプロデューサーさんとの会話によって、
唐突に気づかされてしまった私は中々歩き出せなかった。
だって留守番をしていた家族のことを考えると、どうしてかとても切なくなって、とにかく謝りたくなって。
私一人がこんなにも楽しんで帰る事実、それが何だか凄く居心地が悪い。
まるで一人だけお祭りに出掛けた帰りみたいに。
楽しい事に目を奪われてお土産なんかも忘れてしまい、でも買って帰る時間も無いみたいな。
それなのに、私の顔からは笑みが消えない。
抑えよう、落ち着こうとすればするほど内側から溢れて来るみたいで。
「……こんなに浮かれて帰っちゃダメですよね」
深呼吸と一緒に無理やり口から吐き出した言葉。
プロデューサーさんが即答した。
「だけど、楽しかったんだろう?」
「それは……」
私は返事に困ってしまう。そう、誕生会は楽しかったのだ。
だからこんなにも罪悪感に埋もれている……。
短い沈黙。
観念するように肩を落とすと、プロデューサーさんは少し迷った感じで喋り出した。
「志保、お節介かもしれないけど、親ってのは子供が喜ぶ姿を見るのが嬉しいんだ」
「それは、その、それぐらいなら……。私だって知ってるつもりですけど」
でもそれが何だって言うんですか!? なんて、食って掛かれるならどれ程気持ちが楽なんだろう?
今の私、プロデューサーさんを見上げてきっと酷い顔をしているんだろうな。
例えば、足の不自由な人が杖を失くして、手すりを探してるみたいな顔を。
……この瞬間の無言の訴えは、私が伸ばした不安の手だ。
だけど、そんな私にプロデューサーさんが言ってくれた。
「なら堂々と笑顔で帰ればいい。ほら、俺がするみたいに」
続けて安心させるみたくニカッと笑う。
わざとらしさが一杯で、傍から見ればバカみたい。
でも、その行動を理解できないワケじゃない。
時にはこんなおどけっぷりが私みたいな子にはきっと必要で。
「そうだよそれ、その調子で。――子供は笑顔が一番だぜ!」
嘘ばっかり。アナタみたいに上手に笑えてないのは知ってる。
でも、こうしていれば理屈っぽい頑なさも、いつかは。
「……大丈夫。もう行けます」
「よーし! なら、早く帰ろう」
肩を並べて廊下を歩き始める。
玄関扉に着くまでの間、私は何とも言えない気分だった。
居心地の良い気持ちの他に、名前を付けることの出来ない不思議な……感傷?
何故だかどこか懐かしくて、けど、知らない初めての新鮮な気持ち。
妙にこそばゆく感じる思い。……悪くないな、そんな感想を抱く。
私は扉の前に立つと、この落ち着かなさを抑えるように振り返った。
そうして、唇に乗せようとしたのは。
「プロデューサーさん」
お茶でも飲んで行きませんか? ……自然な表情、自然な声音。
出来るだけ違和感の無い誘い方を心掛けたつもりだった。
なのに、タイミングが最悪。
私が言葉を発するより先にプロデューサーさんのポケットから聞こえた電子音は、
間違いない、彼が誰かに呼び出された証拠だった。
私の提案を「悪いね」と遮り、ポケットからスマホを取り出す。
着信画面の表示を見た彼の顔が一瞬しかめられた。
「もしもし、俺だけど何があった?」
だけど、訊き返すプロデューサーさんの態度はだいぶ緩い。
そんな彼の姿を見て距離感。
私を含めたアイドル達と話してる時には出てこない、遠慮ない気軽さを感じ取ると……。
抱えてる荷物が重たくなって、ズシリと、腕に気怠い圧力。
支える指先が、冷たい。
「泊まる? 泊まるっていったい何処に?――おい百合子。まさかまた寮まで来てるんじゃないだろうな!?」
そうして疑惑が確信に変わった瞬間、
もう、自分でもどうしようもなく、私の笑顔は張り付いたものに変わっていた。
――頭で理解してるのに。胸が、締め付けられるように辛い。
この気持ちは、まるでお気に入りの玩具を取り上げられた子供みたいに。
「ダメだダメだ、ちゃんと自分の家に帰らないと俺が叔父さんに叱られるよ!
当然、そうなった時は一緒にだぜ?
……あー、でも、俺が送る。ああ、本棚の本は読んでて良いから。
一人で帰らすにはもう遅いし――優しい? バカ! お前ってやつはまた都合の良い勘違いをして!」
電話越し、話をする彼の姿に名残惜しさ。
胸の前で思わず拳を握りしめて、
強くなっていく気持ちにワガママという名前が付いていることは分かっていた。
……もうすぐ自分の持ち時間が終わって、彼は皆のプロデューサーに戻る。
目を逸らし切れない無力感を覚え、充実した夢の世界から急に現実に引き戻された気分だったし、
バカな話だと理解しながらも、つい、考えてしまうのだ。
もしも自分が、ここで駄々をこねられる子供だったなら、って。
「プロデューサーさん」
でも実際には、邪魔にならない小声で呼び掛けるだけにとどまった。
彼に迷惑を言って困らせること、それだけは何より避けたくって。
プロデューサーさんと目と目が合うと、私は礼儀正しく頭を下げて、それから。
「今日はありがとうございました。引き留めちゃってすみません。……早く、百合子さんの所に」
「悪いね、どうにも最後がバタついちゃって」
「平気です。急なスケジュールの変更には慣れてますから」
「本当にすまないと思うよ」
プロデューサーさんがわたわたと持っていた荷物を差し出してくる。
私はそれを落とさないよう注意して受け取って。
「あ、あの!」
声を出した。呼び掛けられたプロデューサーさんが顔をあげる。
そしてその瞬間僅かに、でも、確かに指先同士が触れ合って――私はびっくりしてしまったのだ。
予想もしてなかったハプニングに、準備していた言葉が呑みこまれてしまう。
「あっ……また、劇場で」
「ああ――志保もお休み!」
やり取りは単純で、拙く、おまけにとても短すぎる。
プロデューサーさんの背中が離れていくと、直後に悔しいと思った。
まだ足りない。感謝を伝えたい気持ちが、時間も、言葉も。
今日という一日を長引かせたい。彼が呼び出すエレベーターの扉が開かなければ。
いいや、そうでなくても少しばかり、到着するのが遅れるなら!
――ボタンが押されて僅か数秒。開いたばかりの扉に彼が消える。
フロアに音が鳴り響いて、それっきり。夢は完全に覚めてしまった。
プロデューサーさんがそうしたみたいに、私だって、私にだって、帰らなくちゃいけない場所がある。
「……お休みなさい。プロデューサーさん」
諦めたように伸ばした指先が、スイッチに触れて、固い感触。
もう届ける手段も無い台詞は、鳴らしたチャイムにかき消された。
==2
シャワーを止める。髪をまとめる。それから湯船に足を入れる。
お気に入りのジャスミンの香り、入浴剤はささくれた心を受け止めてくれる。
しっかり肩まで入り込むと、私はようやく一息つけた気がした。
ふぅ、と吐き出した吐息が浴室の暖気と混ざり合ってとける。
タイルの床を水が這って、排水溝に流れ込む様を何とはなしに眺めていた。
それで今日という一日を振り返って、点数を、つけるとしたら。
「はぁ……浮かれ過ぎだ」
もう、プロデューサーさんと別れてから一時間近くは経っていた。
あれから普通に家に帰り、自分を待っていた母親と二言三言会話をしてそのまま浴室に直行した。
廊下で少し、夜風に当たっていたせいもあって、冷え切っていた体を温めたかった理由もあるし、
何となく、浮ついた気分のままリビングに入るのが気まずいという思いもあった。
……それもこれも、全てはプロデューサーさんのせい。
「お茶でもどうですか、なんて」
我ながら、よくも思い切ったなって自嘲する。
そもそも一般的な話、車で送って貰ったお礼にと、
あの場面でそういう心遣いをするのは常識的な流れだった。
きっと世の中にある無数の教本にだって正しいって大文字で書いてるハズ。
だけど途中で呼び出しが無かったとして、
プロデューサーさんに断られるだろうという予想が無かったとは言えない。
だって私たち二人の関係は、仲のいい友達とは違う、単なるアイドルとプロデューサーなんだから……
なんて、言い訳めいた理屈を一つ。
お湯を揺らし、浴槽にもたれ、ボーっと目を閉じて脱力、脱力。
「そもそも私とプロデューサーさんは、少なくとも私はあの人のこと――」
自然に口走って、溜め息。私は無理くりに思考を紡ぐのを止めた。
これ以上深入りすると引き返せない。警鐘にも似た予感がお喋りな唇を閉じさせた。
やっぱり今日は浮かれている。
二人はアイドルとプロデューサー。
仕事をする上でのパートナー。
それ以上の結び付きは必要無い……ハズだもの。
「……頼りにしちゃって、いいんですよね?」
眉根を寄せてそっと呟く。
それからキュッと目をつむって、ジャスミンの香りに身を任せて十までゆっくり数えだした。
それは小さな頃に教わった、気分の切り替え方だった。
入浴を終えてリビングに顔を出す。
部屋の中には親しみやすいデザインのテレビ台と、中央にリモコン類が置かれた小さなテーブル。
それから背の低い衣装ダンスの横に、壁を向く形で使い込まれた机がもう一つ。
傍にはハンガーラックもある。
ハウスカタログに載せても良い位の、実に一般的なお家の内装。
私はそれらに順に視線をやって、最後に隣室から出て来たばかりのお母さんと目を合わせた。
……これは完ぺきな余談だけど、弟は完全に母親似だ。優しい目元とか特にそっくり。
「髪、ちゃんと乾かすのよ」
「うん。ドライヤー持ってきてる」
壁際の机の前に座って、プラグとコンセントを繋ぐ。
お母さんは中央のテーブル。
つけっぱなしだったテレビのチャンネルがニュースに合わせられる。
……ドライヤーは手早く済ませなくちゃ。
「そう言えば、アイドルって散髪できるのかしら。ずっと長いままってのも手間じゃない?」
なのに、娘の気配り親知らず。
「別に相談すれば平気だと思うけど。……りっくんは? 眠ったまま?」
「ぐっすり寝てる。なぁに? 無理やりにでも起こしておいた方が良かった?」
「違うけど、ちょっと気になったから。――帰って来るの待ってたでしょ?」
振り返ると、お母さんは「そうねぇ」と首を傾げながら。
「プレゼントを絶対渡すんだって。後五分でも早く帰ってれば、可愛い弟にお休みだって言えたのに」
「そっか。悪いことしちゃった」
それが本当に五分以内で間に合ったかどうかはともかくとして、
教えてもらった私は隣室で眠るりっくんに心の中で「ごめんね」を言った。
暫くの間、部屋の中の音は髪を乾かす作業音と天気予報だけになった。
「あら、明日は冷え込むんだって。……陸もあったかくさせないといけないわね」
お母さんの何気ない一言でプロデューサーさんのことが浮かぶ。
駐車場で荷物を持とうかと訊いてきた、着古したコートの襟を正す姿。
あれは正直、ちょっと寒そうだったな、なんて。
「うん、分かった」
返事をして、渇き残しが無いかを確かめてドライヤーを止めた。
私が隣に座り直すと、お母さんはやっと本題に入れるといった感じでこちらに向き直った。
そうして何を言われるんだろう? と私が開きかけた口を遮るように。
「ところで今日の誕生会なんだけど」
「あ、うん」
「楽しかった? ……聞くまでもないか」
お母さんが一人で勝手に納得する。
その視線が照れ臭くなってる私から外れ、壁際に置かれた紙袋へと移る。
……改めて見ると凄い量だ。
確かにこれだけの数があれば、娘がどんな誕生会を開いて貰ったかなんて一目瞭然。
寂しいパーティだったなんて捻くれたコメントとは無縁だ。
「志保」
不意に、お母さんの手がそっと私の掌に重ねられた。
そうして、限りなく優しく。
「良かったね」
……その言葉の、笑顔の、一体何が"良かったね"なのか、
お母さんが言いたいことの意味は理解してあげられるつもり。
帰りの車でプロデューサーさんにも言ったけれど、私がこれまで済ませた十三回の誕生日は、
家族に祝われることはあっても、友人と呼ばれる存在と一緒に過ごすことは無かったからだ。
……もしあっても、それは遠い記憶。
輪郭すらハッキリしない、まだ私が、本当に小さかった頃の。
だけどそれが、アイドルになって変わり始めた。
自分の誕生日を誰かに教えるとか、ましてやプロフィールとして世間に公開するなんてことも、
想像もつかなかった変化。でも何より大きな変化と言えば――。
お母さんの視線に熱がこもる。……本当に、心の底から喜んでるみたい。
「お母さんね、志保がアイドルになりたいって言い出した時には驚いたけれど、
最近のあなたを見ていたらそう悪いものじゃないって思えてくるの」
言われて私も思い出す。
初めてオーディションを受けたいって相談をした時には、結構心配させちゃった。
学生である間にアイドルデビューするってことは、大人から見ればまだまだ子供な私みたいな女の子を、
変則的とはいえ社会に差し出すことなんだ。
それで不安にならない親はいない。
少しばかり違うけど、りっくんが子役を目指すことになれば……私だって心配になる。
それが月謝を払って通わせる、塾や教室みたいな守られたコミュニティでもないなら猶更だ。
競争社会は常に挑戦。出鼻を挫かれて諦めるより、
曲がりなりにも道が開けて、その半ばで行き倒れる方が残される傷も深くて酷い。
……だからなんだ。
「志保が頑張る姿を見て、お母さん勇気を貰ってる」なんて、真っ直ぐ見つめて言われたら。
「最初は不安もあったけれど、お仕事の内容については
あなたのプロデューサーさんが逐一報告してくれるし……改めて言うのも変だけれど、765プロって良い所ね」
思わず頬が熱くなった。嬉しさと気恥ずかしさが混ざり合った気持ち。
自分の活動を認められることは、良い点を取ったテストを褒められるより何倍も強く心に響く。
「お母さん、あのね、聞いて欲しいの」
だから私は、居ても立っても居られなくなって。
「私、これからもアイドル頑張るから」
時間にしたらほんの僅か。
でも、親子のやり取りとしては十分過ぎる程に濃密な。
そうして僅かな沈黙の後。
「ところで志保」
なんて、お母さんが神妙な面持ちで話題を変えようとしたから、
私も何を言われても良いように小さく身構えて言葉を待った。
すると――。
「百瀬莉緒さんのサイン貰ってこれない? 私、あの人のファンなのよ~!」
「お母さんっ!」
思わず声を大きくして、こんなくだらないことで笑えるのが嬉しくって。
こうして私の誕生日は、幸せを感じながら緩やかに幕を閉じた。
全体的に点をつければ……花丸だったんじゃないかな、きっと。
===
翌日。
母に頼まれたんです、というシンプルな私の説明を聞いて。
「それで莉緒さんのサイン貰ったんだ」
と、目の前の人物――百合子さんは疑うことなく頷いた。
……多分これが怪しいダイエット食品の勧誘でも、彼女ならまず頷いてから判断し始めそう。
人としての根が良いんだろうな。
それで、ここは私たちが所属する芸能事務所
『765プロダクション』が新設したアイドルとファンの為の舞台、765プロダクションライブ劇場。
その楽屋控え室として使われている部屋の中で、
私は彼女と長テーブルを挟み向かい合う形で座っていた。
百合子さん、と言えば例のプロデューサーさんの従妹でもある。
十五歳の、私より一学年上のお姉さんで、七尾百合子がフルネーム。
人生という意味でも、学園生活においても先輩の立場にいる人間。
とはいえ、同じオーディションを受けて同時期にプロダクションに入ったからか、
パワーバランスを含めた上下関係が徹底されているとは言い難いかも。
それで次に、容姿の面から掘り下げれば、まるでステゴサウルスの背ビレみたいだね、
と揶揄される愛らしい片側編み込みと、黙っていれば小綺麗を地で行く快闊な容姿。
今じゃ到底信じられないけど、本人が「人見知りなんだよ」とあちこちで公言する通り、
初対面の人物が相手だと彼女は物凄く大人しい。
だけど本当は、無数の読書を介して供給される物語への飽くなき探求心、
それを依り代とした類まれなる妄想力でアイドルに挑んでいる、苛烈で鮮烈、熾烈な人だ。
要するに無類の本好きで、でも文学少女を名乗るには、
アクティブさが悪目立ちを過ぎる情熱の人。
……こんなものかな? 簡単な百合子さんの紹介はおしまい。
ちなみに、お母さんがファンだと言った百瀬莉緒さんもプロダクション所属の同期アイドル。
こっちはプロデューサーさんと同い年の、文字通り大人のお姉さん――なんだけど部屋にはいなかった。
彼女は現在、他のメンバーと一緒に合同レッスンを別室で受けている。
ところでだ――私には一つ疑問が残る。
それは目の前に座る百合子さんが、どうしてこの楽屋で私とエンカウントしたか。
というのも鞄をここに置いて、莉緒さんを探しに出掛けた時には人影一つ無かったから。
これはちゃんと確認したから確かなことだ。
おまけに劇場には幾つか楽屋があるけれど、この部屋は中でもアイドル人気が最低で、
大人数を一か所に集める理由でもない限りは近寄り難いような大部屋だった。
広すぎて椅子やテーブル以外置かれていない、
そんな面白味の欠片も無い部屋にどうして皆が寄って来よう?
……まあ、だからこそ私は、プライベートな用事を邪魔されないようにこの部屋に荷物を置いたワケだけど。
なのに、七尾百合子は出現した。
一応(?)神出鬼没の話をすれば、
765プロには彼女以上に突然の登場をこなす人材が多く揃っている。
(でもその説明を今はしない。
だって宮尾美也さんの神隠し事件なんかは半日あっても語り切れない!)
それでも現実は奇怪で不可解だった。
室内には簡易な暖房器具はおろか、百合子さんを呼び寄せる本棚ラックも置いてないのに……。
「っていうか百合子さんオフですよね? なんで劇場に来てるんですか」
「あっははは……。確かに志保の言う通りだけど、相談事があったってことで」
私の質問をわざとらしい反応で笑い飛ばして、彼女が顔の前でぺちっと両手を合わせる。
お願いごとの定番ポーズ。
普段着より少しは余所行きを意識した格好で、顔には明らかな作り笑い。
何処からどう見ても怪しいし、厄介事の匂いがプンプンする。
……でも悲しいかな、私は彼女より年下だった。
それにこうして頭を下げる相手を、無下に叩き出すほど冷たい人間でも居ないつもり。
だから私は「仮にもアイドルなんだから、もっと上手に笑えないんですか?」と言いたい気持ちを我慢して。
「相談事って何なんです?」
サインを入れた鞄を閉めながら訊き返した。
「私、自慢じゃないですけど、そういうのに答えるの苦手な人種なので」
「まぁたまた~。おんなじ日本人同士じゃない!」
「……恋愛相談はごめんですよ」
直後、百合子さんは「うぇっ!?」と素っ頓狂な声を上げた。
その、私のことを見つめる視線。
心を読まれたのかと疑ってかかるような眼に思わず額に手を当てる。
……どうしてこういうカマは当たるんだろう?
重たい溜息をついた後で、私は彼女に言い聞かせるようにしてこう続けた。
「プロデューサーさんのことですよね?」
「プロデューサーさんのことなんだよ!」
これだ。私の表情に増々苦味が加えられる。
俗説、アイドルは恋愛禁止なんて文句は古事記にも書かれているらしいけれど、
誰かを想う気持ちを自分の意志で止められるなら、
人類はとっくの昔に永劫の世界平和を実現させて宇宙に進出してるハズだ。
けど現実はそう上手くいかない。
どれだけ私が不思議がっても、人が誰かを好きになる現象は超自然的に発生するし、
なんなら空気より身近な話題。
765プロという女子校で唯一の若い男性教師、
それが我らのプロデューサーさんだ……なんて説明が一番しっくりくるのかな?
勿論、所属するアイドルの全員が全員という話じゃないけれど……。
かかれば広がる厄介なはしか。
間違いなく、百合子さんは恋の桜前線、その一番先頭を走っている。
「ほら、私、こう見えても、プロデューサーさんとは親戚でしょ?
だから事務所の他の人達より距離感が近いのはわかってたつもりだけど、
それはそれ、私もアイドルになれたんだし、
日頃からプライベートを持ち込んじゃダメだなってなるべく気を付けてたつもりなの!
なのに最近お兄ちゃ――あー……プロデューサーさんに
『百合子。公私混同って言葉の意味、わかるか?』って呆れたように言われちゃって!!」
と、ここまでを一気に捲し立てて、百合子さんは息継ぎの為に鼻を膨らませた。
まるで無限弾倉の機関銃だ。ぷしゅーっと噴き出る湯気が見える気分。
銃身が焼き付いても喋り続ける彼女の癖には慣れてるけど、それでも口を挟む時の気持ちはこわごわ。
「つまりまた人目もはばからずイチャついて、琴葉さん辺りに注意されたんですね」
「いやいやいや、そこは誤解しちゃダメ!
場合によっては地の雨が降るし、神様に誓ってそんなことは――うん、あのね?
確かに私はプロデューサーさんに特別な気持ちを抱いてる。
かもしれないし、そうとも言い切れないっていうか。
実際特別な人だとは思ってるけど、私たち別に恋人じゃないし、歳の差あるし、
法が許しててもいとこ同士の恋愛はちょっと風当たりが……
第一私が普段から持ってるのは、あくまで昔から知ってるお兄さんに向けてのひょんな時に出ちゃうスキンシップ?
親愛の情! 決して恋愛由来じゃなくてっ!!」
「はぁ……」
「だから、えーっと、結局相談したかったのは――」
「相談したかったのは、何です?」
百合子さんの間接が焼き付かないよう油を差すと、恥ずかしい所を見せてしまったと思ったのか、
彼女はいまだ興奮冷めやらぬといった自身を落ち着けるように息を吸って。
「バッ、バレンタインに何あげようっ!?」
その勢いに圧倒され、思わず瞼を閉じてしまう。
すると物音一つもしなくなって。ああ、訪れたこの静寂が怖い。
……恐る恐ると目を開けると、そこには同じように目をつむったままの百合子さんがいた。
耳まで顔を真っ赤にして、両手を顔の下近くで握りしめて……怯えて震えるリスみたいだ。
もしも私がランチタイムでお弁当を広げた猟師だったら、
向けてた猟銃を下ろした後でハートフルな交流が始まってたかもしれない。
でも結局、猟師でも何でもない私が返せた返答は。
「それこそチョコレートで良いんじゃないんですか?
……他には気の利いた恋愛ソングだとか。まあこれは、最近仕事でやったからですけど」
赤点よりは少し上の、当たり障りのない回答。
そもそもバレンタインと言われたって、私にしてみればチョコレートがスーパーを潤す季節イベントに過ぎないし、
後は他人の恋路を焚きつけての便乗商法が伸びる時期、かな。
……それ以上の意味合いは生憎持ち合わせてないし。
「……志保ってほんっとーにクールだよねぇ」
言って、小リスの構えを解いた百合子さんはやれやれと嘆息した。
ご丁寧にも両手をちょんと上げて、首まで横に振っている。
私は会話術の一つとして、身振り手振りを交えた
大袈裟な話し方が相手の注意を引くのに有効だ、なんて俗説を思い出した。
……後はそう、反射的に手を出さなかった自分を褒めて欲しい。
「確かに志保の言った通り、バレンタインにチョコレートってのは定番中の定番だけど、
そもそも二月十四日に贈られるチョコレートにどんな意味が込められてるか……。
同年代の女の子として知らないなんて言わせないよ!?」
百合子さんは「この人にドラマの仕事は向いてないな」とか、
目の前の相手に思わせていることも知らずに得意満面で喋り続けた。
まあ、これだって慣れているからいいのだけど。
私も一々口に出すのも面倒くさいといったオーラを纏ってそれに応える。
「好きって言葉の代わりですね」
「そぉなの! だから困ってるの~~!!」
「別に渡して良いんじゃないですか? さっきの話みたいに百合子さんを叱るぐらい、
あの人、そういうことにはうるさいんだし。……本気にしないと思いますよ」
だけど迂闊。私がしまったと思うよりも早く「ちょっと待って」と彼女の片手が持ち上がる。
……この人、こう言う時ばっかり素早く動くから侮れない。
そんなことを私が苦々し気に思ってると、会話を止めた百合子さんは疑いの眼差しをこっちに向けて。
「……あの、ね。怒らないから正直に話してほしいんだけど……志保ってプロデューサーさんと仲良いよね?」
訊かれて、少しドキッとする。
怒らないから、なんて前置きをして本当に怒らない人間を私は知らなかったし、
そうでなくてもプロデューサーさんと私の関係は……。
そりゃあ、仕事をする上でのコミュニケーション、人間関係は良好だろう。
顔をつき合わせれば常にケンカ、みたいに年中いがみ合ってるつもりも無かったから。
ただ、それが二人を外から見てる人に――例えば今の百合子さんとか――お互いを好き合ってる仲の良さ、
みたく誤解して受け取られてしまうと言うのなら、それは随分安直に出された結論ってやつだ。
だから一概にはどうとも言えない。
だから、この質問に答えるすべを私は持たない。
それからようやく私も気づく。百合子さんは"コレ"を確認する為に私のことを待ってたんだ。
……二人とも黙ってしまったまま、何とも言えない時間が過ぎた。
気まずい沈黙はジクジクと胸の内を傷つけ、心情をこの場から逃げ出したい程強く怖気させる。
「志保」
名前を呼ばれて肩が跳ねる。
私は押し黙ったままで、百合子さんの顔も見れなかったけど。
「じゃないとそんな分かった風な――表立ってベタベタはしてないけど、暗黙の信頼で結ばれてるって言うか」
それが、引き金になったみたいに。
「……考え過ぎですよ。私は誰にだってこんなもんです」
「それじゃあなんで『あの人』とか言って!
プロデューサーさんもプロデューサーさんで、志保といるときは私といる時より優しさ三割増し増しだし!」
「わっ、私は別に――別にプロデューサーさんを好きだとか、
そういう気持ちは持ってません。ただ、仕事の時に他に頼れる人もいないから……!」
身を乗り出す勢いの百合子さんをどうにかいなし、私は「とんでもない!」と首を振った。
……でもなんでだろう?
正直な気持ちを喋ってるハズなのに、どこか白々しいと感じてしまう自分が居るのが分かる。
まるで脚本通りの受け応え。百点満点を貰える回答。
それでも勘違いされちゃたまらないから、私は冷静に反論したし、
彼女に向けてる表情だって、綻びを一切含まない、真顔も真顔、超真顔だ。
……すると私の真剣さが伝わったのか、百合子さんは「ぐぬぬ」とご丁寧に口に出して。
「一応言わせてもらうけど、私も頼って良いんだからね?」
「……覚えておきます」
「後、さっき志保の気持ちは……アイドルの神様に誓って?」
「神に誓って、絶対です。……プロデューサーさんとはビジネスライクな関係で、それ以外の関心は一切持ってませんよ」
昨日お風呂で確認した通り、今度は本心からだった。
それぞれが神に誓い合うと、私たちを神聖で厳かな空気が包み込んだ。
まるで沈黙を強制されているような、呼吸まで押し殺さなくては失礼なような。
実際息を殺していた。感情をリセットされるように。
頭の中にイメージが浮かぶ。
夜が明けて、小さな窓の、レースのカーテンを陽光がひらひらひらめかせるような、
澄み切った清々しさに眩暈を覚える頃になって――。
「それでね」
静寂を打ち破ったのは百合子さんだった。
「ぷぁっ」
思わず息を吸って吐いた。
でも、百合子さんはそんなこと気にも留めてない感じで、
再び喋り出した時にはもう、私が良く知る何時もの彼女。
「チョコレートは、分かるんだよ。
私だって他の候補にネクタイとか、香水とか、高級腕時計の詰め合わせとか――」
「高級腕時計の詰め合わせ?」
「想いがあれば何だって良いの!
……けどそういう物品と比べたら、チョコレートの方がよっぽど純粋な気持ちって言うか」
刹那、私の脳裏で義理チョコという文字がネオンサインみたいに輝き出した。
わざわざ説明するまでも無いけれど、義理チョコは義理で渡されるチョコのことで、
愛情よりも日頃の付き合い、交友の一環として贈られる物だと一般的には定義される。
勿論、私や百合子さんを含めた同年代女子の中でもそうだ。
……というか、こんな高枝切りばさみ位便利な代物があるのをどうして思い出せなかったのか。
この時の私は正直に言って、この上なく素晴らしい回答を見つけ出したとやにわにほくそ笑んでいたハズだ。
「百合子さん、世の中には義理チョコもあります。これなら誤解を生む心配もありませんよ」
「とんでもない! 志保は義理チョコを渡せって言うの!?」
しかし悲しいかな、革新的な案というのはしばしば世間の同意を得られない。
高枝切りばさみを買った後で、家に庭木が無いことを思い出すぐらいには悲しい。
ついでに義理チョコのネオンが消えてしまう。
暗闇の中、代わりになる物を手探りで探してみても手に入るのはネクタイや手帳に革財布、
それから高級腕時計の詰め合わせ。……ダメだ、結局堂々巡り。
「本命はダメ、義理チョコも嫌。じゃあやっぱりそれ以外を渡すしかないですよ」
「でもでもでも~、皆はチョコを渡すんだもんっ!!」
「百合子さんは一体どうしたいんですか!?」
アレはダメだコレは嫌だなんて、駄々をこねる百合子さんに思わず声を荒げてしまう。
……って言うか呆れたいんですけど。
完全にお手上げ状態だった。
でも、だからってそんな叱られた子が見せるようなションボリ顔にならないで欲しい。
「――すみません。落ち着いてもう少し考えます」
とは言ったものの、正直に白状すれば、毎年家族に渡す分以外には
友チョコだって未経験の、私みたいなバレンタインビギナーに彼女の相談は高度過ぎる。
そんな恨み節を口には出さずに一つ二つ。
私がどうしたものか黙っていると、百合子さんは百合子さんでブツブツ何か呟いていて。
「私だって、決定版三島由紀夫全集で喜んでもらえるならそうするけど」
一年に一冊、全部揃えるのに四十二年……なんて。
気付けば彼女の体から、何かどよどよとしたモノが溢れ出してるような気が……。
「……あー、確認しますけど百合子さんは、本命のチョコを渡しても本命だと思われたくはないんですよね?」
私の言葉が光明となったのか、途端に百合子さんは顔をあげた。
「そうなんだ」
乾いた返事。それから照れ隠しと嘲笑と困惑がない交ぜになった複雑な顔で溜息をつくと。
「本当、無茶苦茶言ってるよね。自分でもそれは分かってるの」
「でも、どうしてそんなに怖がるんです? たかがチョコレートの一つじゃないですか」
「そのたかが一つで一喜一憂するのがバレンタインって催しだよ」
百合子さんの言葉にはしたたかな冷静さがあった。
とてもさっきまで百面相をやってたとは思えない程聡明な感じ。
奇妙だけど、たったそれだけでも彼女は年上なのだな、と力強く納得させられる。
それが拝聴の姿勢を作ったのか、百合子さんは目を伏せてとつとつと語りだした。
「私ね、プロデューサーさんのことは子供の時から知ってるから、
多分、あの人の存在を、自然に受け入れてたんだと思うんだよね。
家も近くて遊びにもよく行ってたし、何時でも近くに居てくれるのが当たり前って言うか」
「それが好きって気持ちになったんですか?」
「そうだけど、そうじゃないの。それって親戚相手に抱くような、
受け入れられるのが当然って言う、家族みたいな『好き』なんだよ。
でも、バレンタインにチョコレートを贈るって、少なからず好意を明確に示すワケで。
……去年までなら平気だったの。
私にとってプロデューサーさんは、私を甘やかしてくれる、親戚の優しいお兄さんだったから」
しかしそれも、二人がアイドルとプロデューサーの関係になってから変わってしまったと百合子さんは言う。
「私ね、初めてだったんだ。"プロデューサー"をするあの人を見たの。
それまで親戚としての姿しか知らなかった私に、真剣な時、怒ってる時、
悩んでる顔も情けないトコも、隠せないぐらい近くに来れて、初めて見れた顔があった。
……目をつむったら今でも思い出せる。初めてのステージが成功して、私がお客さんから拍手を貰ってる時に――」
「――舞台袖から見てくれてた笑顔」
つい、口を挟んでしまった。……それが私も知ってる顔だったから。
アイドルデビューをして初めてのステージ。
あの人はきっと、事務所のアイドル皆を同じ笑顔で迎え入れているんだろう。
でも、そんな私に百合子さんは優しい表情を崩さないまま。
「……そうだね。きっと志保も知ってる。
俺がプロデュースしてるアイドルなんだぞ! って、皆に自慢するみたいに。
……それで、その時に気づいちゃった。
結局私って女の子は、好きな人の全部を知ってるつもりになってただけなの。
あの人にはまだ私の知らない面があって、それを知ったら、もっともっと知りたくなっちゃって」
「恋に落ちた?……物語みたいに」
「……今はまだ、独りよがりなんだけどね。
――だけど私が頑張ったらプロデューサーさんも笑ってくれる。
その笑顔の作り方を知っちゃったら、もっと頑張れる自分がいる。
勿論、アイドルをする動機としては不純だって分かってるつもりだけど、私を応援してくれるファンの人達に
頑張ってる姿を見せたいのと、プロデューサーさんに褒めてもらいたい気持ちはどっちも選べないくらいに大切で」
そこまで喋って一息つくと、彼女は真っ直ぐに私を見つめて問いかけた。
「志保は、こんなこと言う私をワガママだと思う?」
「それをワガママかどうかって、私は――」
決められない、だって百合子さんの気持ちなんだから――そう返そうとしたはずだった。
なのに、私の開きかけた口がピタリと止まる。
喉まで出掛かってた次の言葉が「そうじゃないでしょ」って嫌がっている。怖がっていた。
百合子さんの話を聞いたせいで、形のないモヤモヤとした何かがお腹の奥で渦巻いてる感覚。
「――でもそういうの、自分の気持ちに素直になった方が良いと思います。
……伝えられる相手がいるうちに、残しておくのも大切だって思うから」
唇を閉じてまた開いた。
まるでからくり仕掛けで動くように。
冷や汗が流れそうな寒気を気取られないよう口角を上げた。
すると百合子さんが不安げに眉を寄せて、それからせがむようにして。
「じゃあ、志保は」
「渡しましょう、チョコレートを」
「だっ、だけど……!」
「不安になるのは分かります。でも、それが自分にとって大切なら」
「それでもし二人のバランスが変わっちゃって、本当に恋の芽生えが起きちゃったら!」
「願ったり叶ったりじゃないですか! ……まあ、事務所的にはちょっとまずいですけど」
「……それに、上手くいかなかった時は――」
百合子さんがキュッと肩を縮める。
その頬は赤く、瞳は恋しく。
「……もう、今みたいな二人の関係。仲の良いいとこ同士には……絶対戻れなくなっちゃうよ」
眦に涙が浮かんでいた。
恋する彼女は綺麗だった。
「だとしてもです」
私には、それが羨ましい。
「後悔したくないんだったら」
自分にも涙を浮かべる程、想える誰かが出来るのかな?
「百合子さんは――誰かにお兄さんを取られたくないんですね」
顔をあげると、百合子さんの口元は笑っていた。
寂しさが形になったように。
その、しっかりと、注意しなくては分からない程に微かな変化は。
「……だから、ずっと子供扱いされるのかな?」
すぐには言葉が出なかった。
躊躇う理由に心当たりはあって、さっきからずっと、何かとてつもない、
自分にとっても彼女にとっても大きな決断をしようとしていることが確かだったからだ。
……私はその意味を呑みこんで、噛み砕いて、
この恋路の先行きを占うなんて、とても恐ろしいことに感じていた。
それでも百合子さんが勇気を出して、荒れ狂う海原に自分の船を出すのなら。
「本人には――案外、その気が無いのかも。
気付いてないし、知らないから、百合子さんみたいな人がいるかもって考えることすらできないんですよ」
言ってしまった。――もう、後には戻れない。
でも後悔より安堵が強い。
深い深いため息と一緒に言い放った。
百合子さんが鼻をすすった音がやけに響いた。
私が顔をしかめながら視線を上げると、そこにはぐしゃぐしゃになった彼女がいた。
「し、しぃ~ほぉ~っ! 私、まだ、アイドルだって続けたいよぉぉ~~~!!」
「わ、分かった! 分かりましたから顔を拭いてください!」
急いでポケットティッシュを取り出して、彼女の右手に握らせる。
そうして、私は鼻をかむ百合子さんを眺めながら考えていた。
恋心を持て余すと誰でもこんな風に……激情的になるんだろうか? なれるんだろうか? なんて、
びゅうびゅうと吹いてる隙間風が、開いても無い帆にチクチク当たるのを感じながら――。
===3
迷子の飼い猫を探しに来たら、知らない野良猫も一緒だった。
……百合子さんの相談がひと段落したころに扉を開けてやって来た
プロデューサーさんを言い表すならそんな感じ。
それもようやく探し当てた大部屋に二人、
一方は険しい顔をして、もう一方はさめざめと涙を流しているなんて。
「や、やっぱり志保が泣かせたのか?」
「違います! これには色々ワケがあって――」
第一声が随分失礼だと思う。後、やっぱりって何だ!
……私が即座に否定すると、彼の登場に気づいた百合子さんが真っ赤になって立ち上がった。
その顔が悲しみより驚きだったから、
プロデューサーさんもイジメの現場を目撃したワケじゃないって安心したみたい。
「でも、ちょっとはヒヤリとしたぞ。第一、志保を探してたら百合子まで一緒にいるなんて」
「ほ、本当! 凄い偶然ですよね!」
百合子さんの鼻息が三割増した。
「まさかこれも、二人を運命の導きが結びつけて――」
「違うね」
即答。
「皆の予定を事前に確認すれば、この後の志保の衣装合わせに
俺が付き添うことぐらいは簡単に予想できる。
そうすれば運命の演出だって思いのまま……実に初歩的な推理だよ百合子君?」
「うっ、鋭い……!」
呆気なく言い負かされて消沈する百合子さんとは対照的に、
私は忘れかけていた謎を、彼女がどうやって自分を待ち伏せしていたのかという不思議が解明されてちょっとスッキリ。
プロデューサーさんが百合子さんを見る。
「それより今日はオフじゃなかったっけ?」
「あ、実は朋花さんとこの後に予定があって。レッスンももうすぐ終わりますよね?」
その返事にプロデューサーさんが腕を組む。
「朋花ぁ? 確かに莉緒と一緒だったな」
私は傍に来た彼を見上げ、それから百合子さんへと視線を移してこそっと尋ねた。
「百合子さん。朋花さんとも会う予定だったなら、どうして私にあの話を?」
すると百合子さんはきまずそうに。
「う、ん……。志保の方が拗れないと思ったから」
「拗れないって何の話だ?」
「そっ、それは乙女の秘密です!」
口を挟まれ、声を荒げた彼女に「女の子ってのは便利だなぁ」と頭を掻く。
プロデューサーさんは苦笑いだ。
「とにかく、休みだからって皆にちょっかい掛け過ぎるんじゃないぞ」
「うぅ、分かってます! ……もう、信用ないなぁ」
百合子さんが恥ずかしそうに首を振った。
「バカ、付き合いが長いから言うんだよ。――それじゃあ志保、衣装合わせに行こう」
「はい、分かりました」
促されて、私は椅子から立ち上がった。
そうして部屋を出る直前に、プロデューサーさんはまだ何か言いたげな百合子さんの方へと振り返って。
「後、その新しい服は似合ってるぞ」
何でもないことみたいに付け足して、やっぱり一言多い人だ。
退室間際にかけられた魔法。
その瞬間、満面の笑みに変わった百合子さんを、私は見逃すことが出来なかった。
===
だから私は、つい、意地悪をしたくなったんだろう。
「プロデューサーさんって女たらしなんですか?」
質問された途端にむせ込んだ。まるで演劇みたいに出来過ぎの反応。
プロデューサーさんは取り繕うみたいに口元を拭い。
「――何だって?」
「女の子を喜ばせるのが趣味なのかなって」
訊き返されても平然と。
衣装合わせの為のドレスアップルームで二人きり、アイドル達の衣装管理を一手に引き受ける
事務員の青羽美咲さんが荷物を取りに退室してからすぐだったのは、言い出すタイミングをずっと計っていたからだ。
「思ったんです。さっきは百合子さんの服を褒めて、次に衣装を着た私を褒めて」
試着室を出てすぐに置かれた姿見には、今度の公演の為に用意されたドレスを着た私が映っている。
サイズはとてもピッタリだし、上品なレースの手袋も、頭に乗せた髪飾りも、
アイドルとしての自分を申し分なく引き立てている……と、プロデューサーさんに褒められたばかりだった。
「似合ってるって言っただけじゃないか」
プロデューサーさんが反論する。
心外だな、というニュアンスは顔色だけに収まらない。
「レディみたい、を忘れてます」
「そりゃあ、ドレスを着てたからな」
「ドレスを着てればレディですか?」
言って、くるりと振り返った。
スカートの裾がひらりと揺れる。肩を少しだけ傾け口角を上げる。
ついでに澄ました微笑みもつければ、たちまち見逃せないシャッターチャンスの完成だ。
以前の自分とは縁遠い、可愛らしいを引き出すための媚びを売る動作、あざとい仕草も今なら武器として振舞える。
どれもアイドルの仕事をするうえで、プロデューサーさんと相談して組み立てた動きだった。
……だから、それを見せつける気分はまるで授業参観。
なのにプロデューサーさんは、手近な机にお尻を預けて微笑みを浮かべて見ているだけ。
それが、私が弟の発表会を見ている時ぐらいに穏やかな表情だったから。
「少なくとも、今は立派なレディに見える。大人っぽいと思ったんだ」
言葉が一々引っかかる。
「じゃあいつもの私は子供っぽい?」
「志保、そんな屁理屈こねたりしなくたって――」
プロデューサーさんが顔をしかめて、聞き分けの無い子供に言い聞かせるように。
「俺は"君が"綺麗だって言ったつもりさ。
青羽さんの作った衣装も素敵だけど、それを着た志保はとっても魅力的だ」
「それは例えば、パーティでダンスに誘うぐらいに?」
「パーティ? ……ああ、簡単なステップも踏めないけど」
それでも良ければ、と答えたプロデューサーさんへ私は承諾するように微笑みかけた。
「でも、気付きませんでした。プロデューサーさんって、意外に未成年でも行けちゃう人なんですね」
「未成ね――まっ、待て待て待て!? 志保、そいつは悪質な誘導だぞ!」
全く君には参ったな、とでも言いたげにプロデューサーさんが低く唸る。
その顔は全然参ってなかったけど、一矢は報いた気分だった。
こういうからかいを私がしても、大丈夫だって思わせてくれるプロデューサーさんの人柄は助かる。
……年齢差なんかも気にせずに、遠慮が要らない関係って、きっと、こんな感じなんだろう。
「すみません、調子に乗り過ぎました。……ただ、そういうことでも言ってないと」
「言ってないと?」
「落ち着きを無くしてしまいそうで。折角大人っぽいって褒めてもらったのに、
はしゃいだ姿を見せて幻滅させちゃ台無しじゃないですか」
ペコリという音がしそうな程、悪びれも無く礼儀正しく頭を下げた。
そうすると思っていた通り、プロデューサーさんは仕方ないなって風に肩をすくめてくれる。
これが百合子さんの言う優しさだってことだったら、私もだいぶ甘えてるな。
「……プロデューサーさん」
「ん?」
「次の撮影も頑張りますね」
「ああ……頑張れ! 応援してるからな」
見えるように小さくガッツポーズ。
そこに、美咲さんが戻って来た。
手には追加の衣装用小物――ポーズを解いたプロデューサーさんが腕時計を見て。
「それじゃあ、後は青羽さんに任せますね。そろそろ局の仕事が終わる頃です」
「はーい。運転、お気をつけて」
他のアイドルの送迎の為にこの場を後にしようとする。
昨日の夜と同じように、私の持ち時間が終わる。
でも、私は美咲さんに少し待って欲しいと手振りで示し。
「プロデューサーさん」
呼び止め、自分の鞄から取り出したのは使い捨てのカイロ。
不意を突かれたようなプロデューサーさんにまだ未開封のソレを手渡して、私は念を押すようにこう続けた。
「これ、良かったら使ってください。風邪を引かれても困りますから」
「わざわざ用意してきたのか?」
「まさか。弟の為に準備した分が余ってただけです」
それから、大人用のマスクも取り出しカイロと一緒に押し付ける。
「ありがとう、志保は気が利くな」
「別に、勘違いしないでください。
……プロデューサーさんが風邪を引いたら、一番最初に移されるのが私だからです」
「そ、そういう時は素直に休むさ。有休だって消化しなきゃ」
「……どうだか。それより遅れるとマズいんじゃないですか?」
「あはは、実はそうなんだよ。 ――のんびりしちゃあいられないな!」
おどけて、慌てるふりをするお調子者さん。
その背中が、スッと離れていく……だけど!
「行ってらっしゃい、プロデューサーさん」
えっと、それから……。
「よ、よそ見運転なんてしないでください!」
――僅かに声が上擦ったけれど、今度はちゃんと伝えられた。
片手で応えたプロデューサーさんがそのまま部屋を退室する。
そんな彼を最後まで見送って、私はホッと息を吐いて……
こんなの、普段の自分らしくは無かったかもしれない。
でも、それでも、どうせ後悔するのが決まってるなら、言ってしまった方が気も楽だから。
「……後で私も懺悔しなきゃ」
ぽそり、呟きは口の中で。
まだ高鳴り続ける胸の内には、ライブ終わりに感じる物にも似た満足感が詰まっていた。
===
衣装合わせを無事に済ませて、劇場で残っていた予定を終わらせた私はいつものように帰路に着いた。
その途中で保育園に立ち寄って、りっくんをお迎えするのも忘れない。
住宅街に敷かれた道路。手と手を繋いだ影が伸びる。
行き交う景色の一部になって、夕餉の予感の風の匂い。
遠くで笑い声が聞こえ、電柱を音もなく超えて鳥が渡る。
歩調を合わせて、夕暮れに染まるアスファルトを姉弟仲良く並んで歩く。
その間、私たちの話題はりっくんの保育園生活のこと。
劇場内だけの話じゃない。駆け足で活気づくバレンタインの気配は、
小学生に上がる前の彼らにも容赦はないみたいで。
「チョコがほしくないってどういうこと?」
私は小さな弟を見下ろして、聞かされた話に少しだけ複雑な気持ちになった。
何を隠そうりっくんには、仲の良い女の子のお友達が二人いる。
今だって彼女たちからチョコを貰うって話をしてて、
それ自体は問題じゃないのだけど、こういう季節の行事ごとに板挟みになる心労と言えば。
「だってかほちゃんもしーかちゃんもあまくするって」
「けど、りっくんはチョコ大好きじゃない」
「う、ん」
りっくんが空いてる方の手で困ったように自分の服の裾をつまむ。
かわいい。
それから私のことを見上げて、珍しい、難しい顔をする。
……なんだろ? "今日は一緒にお風呂に入る"の顔?
「でも、あまいとまたむしばになるし」
違った。りっくんから出た虫歯ってワードは、去年のバレンタインが由来。
沢山お菓子を貰ったのと、初めての虫歯がたまたま重なって大変だったのを覚えてるんだ。
「スキなら、あまくするんだって」
それで、彼の語るところは。
「だからすっごくあまいチョコは、すっごくスキ、になるんだよ」
なるほど。好意の分だけチョコが甘いと、それだけ虫歯になるかもしれないって怖いんだ。
……ふふっ、年相応の可愛い悩み。
この話をプロデューサーさんが聞いてたら「モテるなぁりっくん」なんて茶々を入れたかも。
「それでも、要らないって言わなかったんだよね?」
「うん」
「二人とも大事なお友達だもんね」
訊き返すとこくんと頷いた。
「ぼくがそんなこといったらないちゃうから」
「ふふっ――優しいね、りっくん」
「……バレンタインなくならないかなぁ」
だからってその解決法にはお姉ちゃん感心できないし、叶えてあげることも難しそう。
苦笑して、夕焼け空に顔を上げる。
歩きながら考えを巡らすのは、今こうやって話してる間にも、
誰かの笑顔の為に頑張ってる人たちがいるということ。
それは単純にただの仕事だったり、贈り物の内容で頭を悩ませることだったり。
「だけどバレンタインが無くなったら、色んな人が困ると思うな」
「こまる?」
「誕生日とかとおんなじなの。ケーキ屋さんみたいに、特別な日がなくなっちゃうと、お客さんがいなくなっちゃうから。
……そうやってお店が閉まっちゃうと、りっくんだってお菓子、食べられなくなっちゃうかも」
なんて冗談めかして言ってみる。
小さい子向けにはこの位の説明が分かり易いだろうと思ったけど、
言い終わった途端に「たいへんだ!」みたいな顔にさせちゃった。
……でも、バレンタインが無くなって困るのは本当。
次の仕事もソレ絡みだし、当日行う公演の為に練習だって重ねてる。
そうでなくても! 普通の人達にとっては勇気を出すための大事な口実だ。
受け取る側も、渡す側も。
きっと、みんな臆病だから。
「おねえちゃんもバレンタインがないとこまる? ……チョコレート、つくるんだよね」
何となく呟いた一言が、もしかしたら未曽有の混乱を招くかもしれない。
本気でそう思ってるような、遠慮がちに、こわごわなりっくんが私を見つめる真っ直ぐな瞳。
だから、嘘偽りなく答えてあげたかった。
「うん、作るよ」
何より私の大切な人に。
「でも飛びきり苦いのも作ろうかな?」
私の大切な人達の為に。
「にっ、にがいの?」
「大丈夫。りっくんにはちゃんと甘いのだから。
お姉ちゃんの大好きが詰まったとっておきに甘いのを上げる」
答えるとりっくんはパッと笑顔に戻って、ハッとしたように両手で頬っぺたを押さえつけた。
===4
「志保ちゃんと一緒にチョコ作り~♪ 出来上がりがとっても楽しみ~♪」
「可奈」
「それに~、ここは志保ちゃんのお家で~♪」
「可奈」
「遊びに来れたのも嬉しいかな~♪ かなかな~♪」
「可ぁ奈!」
途端、ビタッと作業の手が止まった。
調子よく歌ってた彼女が人懐っこい犬みたいな顔を向ける。
「……志保ちゃんそんな怒っちゃいや~♪」
「別に、怒ってるワケじゃないから。
……そっちのチョコも良い感じになったかどうかを確認したかっただけ」
私は表情を緩めると(最も、最初から怖い顔をしてたつもりもないけど)開いていたレシピ本と作業の進捗を見比べた。
チョコづくりについてりっくんと話してから数日。
スーパーのお菓子売り場が平積みの業務用板チョコで続々と占拠されていく。
そんな光景が日常の一コマになった頃に、
私がチョコを作るという情報をどこからか嗅ぎつけて現れたのが矢吹可奈だった。
「はれっ? 材料は一緒に買いに行って――」
「可奈!」
「はいっ!」
「――もうちょっとだけかき混ぜた方がよさそう。その後で冷蔵庫に入れるからね」
「わっかりました~! ぜ~んぶ可奈に~、おっまかせ~♪」
それで、えぇっと、何だったっけ?
……ああ、作業を再開した可奈のことも説明しておかないと。
って言っても、彼女は私と同い年の、要は百合子さんと同じアイドル仲間で、
事務所に所属した時から何かと一緒になることが多い相手。
例えるなら新しいクラスになって最初の日、隣の席にいた子みたいな。
外ハネしてるショートカットが似合う明るい見た目に明るい性格。
良い意味でも悪い意味でも裏表のない可奈は、変に気兼ねする必要が無い分付き合ってて楽だと言えた。
後はそう、何かにつけて自作の歌を歌いたがる癖と、
遠慮無い距離感の近さがたまに鬱陶しくなる時もあるけれど。
……それは人付き合いの苦手な私の短所とでお互い様だ。
だからバレンタインに用意するチョコづくりも、自然と一緒にやろうって話になった。
というか一方的に決められてしまって、今日のお菓子作り教室開催に至る。
適温になったチョコを型に入れて、冷蔵庫に閉まって後片付け。
一緒にお手伝いをしてくれてたりっくんはようやく見れるテレビに夢中。
画面の中ではケレンにマントを翻し、百合子さんが怪人相手に戦っていた。
「ねえ志保ちゃん」
そんな時に、洗った調理器具を拭きながら可奈が話し始めたのだった。
「なんでハートのチョコ作らなかったの?」
「え?」
「だってバレンタインのチョコレートなのに、志保ちゃん一つも作らなかったよね」
「別にハートにしなくちゃいけないって、決まってないでしょ」
私はボウルを渡しながら言った。
可奈が受け取り、布巾で底を擦りながら。
「でもプロデューサーさんにも渡すのに」
「は?」
「あげないの? チョコ。バレンタインだよ?」
見つめ返す彼女が視線を逸らすことはなく。
純粋な疑問をぶつけられて、私は思わず口ごもった。
どうして可奈は、私がプロデューサーさんにチョコを渡すって決めつけてるんだろう?
そういう話は作業中、一切出なかったハズなのに。
今日だって友チョコを作るって体で。
……なんて考えてる間もジャージャーと水道が音を立てる。
私としたことが酷い失態。無駄遣いは家計の常に大敵。
水を止めて、濡れた手を拭いて、咳払いで不機嫌を演出すると。
「そりゃ、勿論、渡すけど」
「でしょ?」
「って言うか、逆に聞きたいんだけど」
強引に主導権を奪って今度はこっちが尋ねる番。
「可奈こそなんでハートにしたの?」
それも自分の掌サイズのハートばかり、五つも六つもこしらえて。
全部を渡すってワケじゃないだろうけれど……。
「……好きなの? プロデューサーさんのこと」
「うん」
なのに、彼女の返事は浮雲みたいに軽くって。予想外だ。
少し意地悪く聞いてみたつもりだったのに、まるで好きな食べ物を聞かれた時みたいの「うん」に、
口はぽかん、二の句も告げられなくなる私。
間抜けみたいに次の言葉を待っていると、ボウルを拭き終わった可奈が、
空っぽになった手を自信たっぷりに握りしめて言った。
「えへ♪ だってプロデューサーさんは、私のヒーローなんだもん!」
キラキラしながら宣言する。
アイドルにしても歌にしても、好きなことにはいつでも全力で、
前向きな姿勢が彼女の真骨頂だってことは痛い程知ってたつもりなのに。
「私、まだまだ歌はへたっぴだし、お仕事だって結果を残せる方が少ないけど、
どんな失敗をした時でも、プロデューサーさんが笑って励ましてくれるから」
すぐに立ち直れるんだ、と告白する可奈の横顔には、嫌になる程見覚えがあった。
彼女の顔は私の顔で、言葉は私の言葉だった。
反省会を開いてくれる、居残りレッスンに付き合ってくれる。
些細な上達を褒めてくれて、失敗は一緒に悔しがってくれて、歩幅を合わせて二人三脚。
他にも細かい所まで、可奈が楽し気に連ねるプロデューサーさんへの印象は、そっくりそのまま私の心証。
「それにやっぱり、初めての舞台が終わった時に見た――」
「……笑顔」
「ふえっ?」
「教え子を自慢するみたいな、それか子供が喜んでるみたいな……。あの人のしまらない笑顔のことなんでしょ?」
言いながら、何処かで繰り返した話だなと思った。
それからちょっと、私たちって似た者同士でチョロ過ぎるんじゃないかなって。
「うん、そうだよ」
力強い笑顔と共に、可奈がもう一度頷いた。
「その時になって初めて私、歌を、届けられたと思ったんだ。
後はこの人と一緒にアイドルすれば、何にも怖いコトは無いぞって。
……だから、私はそういう気持ち、感謝の想いは素直に伝えたいの」
「……別にダメなんて言わないわよ」
応える私もやれやれと、自然に首を縦に振っていた。
それから冷蔵庫の扉を開けて、何するんだろう? と不思議がる可奈に振り返ると。
「可奈、ハートの型ってまだ余ってたっけ?」
「あ、うん。余ってるよ」
「じゃあ、小さいので良いから貸して。……一つぐらい、物の試しに用意するから」
途端に可奈の目が丸くなって、それから急に……何でそんな恥ずかしそうな顔になるの?
「ねえ志保ちゃん、一つだけいーい?」
「なに?」
「そのハートチョコ、私の分も……あればとっても嬉しいかな~……どうかな?」
チラリ、上目遣いをして、えへへとだらしなく可奈が笑う。
それで、もしかするとこういう仕草も、あの人仕込みなのかもしれないな……なんて考えちゃって思わず溜め息。
「良いけど、私の作るチョコは苦いわよ」
言われて可奈が「えぇ!?」と漏らす。
その反応に笑いを堪えながら、結局私は、特別な友人の分も含めてハート型を要求したのだった。
===
それからは本当にあっという間で、私は滞りなく問題の日を迎えた。
危なげなく作り上げたチョコは自信作で、
可奈やりっくんにも味見してもらったそれは、自分で言うのも何だけど十分悪くない出来上がりだ。
家を出る直前、丁寧にラッピングしたチョコは鞄の中。
チャックを閉める時に黒猫さんと目が合った。
キーホルダーで繋がって、何処へでも一緒に出掛けてくれる猫さんは、今日も私に勇気をくれる。
――大丈夫だよ、安心して。
そんな風に返してくれてる気分がした。
……絵本に出て来る主人公を導くみたく、何時でも頼りになる猫さんをコートのポケットに忍ばせて。
「行ってきます!」
力強く玄関の扉を開ける。
視線を上げてみれば、青空。
今ならどんな願い事でも、雲の上の神様にきちんと届きそう。
この前みたいにドキドキしたり、プレッシャーに負けて急にお腹が痛くなったり、
ガスの元栓や戸締りを気にして後ろを振り返ることもせずに。
それでもどこか浮つくのは、きっと、挑戦しようとしているから。
……案外と、私はこの高揚感が嫌いじゃないのかもしれない。
ひゅうっと風は冷たいけれど、かえって気持ちが引き締められていい。
粛々と歩き出す私の心は不思議と軽かった。
出陣だ――百合子さん風に言えば――決戦の場に臨むぞという気持ち。
本番開始はいよいよだった。
耳の奥、どこか深い場所で開演のベルが静かに鳴った。
==
ふと見ると、葉っぱも落ち切った街路樹に雪が足跡を残していた。
冷え切ったベンチにお尻を置いて、私はその時を待っている。
時刻はお昼近くだった。
この時間、公園から人が居なくなるのは事前のリサーチで知っていて、
だから私は、彼との待ち合わせ場所にここを選んだんだ。
膝上の鞄にそっと手を。
「まだかな」とか、呟いてみる。
暖かい服装をして来たつもりなのに、一時間も前から待っていれば、そんなの全く意味も無くて。
そわそわ。遠くに立ってる時計の針に、何度目かの目配せをした。
そろそろかな? もうすぐかな?
ゆっくりと園内を見回して、最後はやっぱり入り口に――。
「あっ」
その時、車止めを乗り越えて現れたあの人の姿を捉えて、目を開く、立ち上がろうとする。
近づいて来る待ち人は普段通りの気取らない感じだけど、でも、歩き方が少し緊張してる……かな?
それが私の気持ちと一緒だなんて、些細な共通点が妙に嬉しくって。
――良かった。
ホッとした私は立ち上がって胸を撫で下ろした。
それから一歩、二歩。彼との距離が詰まって行って、公園の中央、噴水をバックに向かい合うお互いの瞳と瞳。
「待った?」
「ううん、今来たトコです」
嬉しさを押し堪えるように、私は上目遣いをする。
スッと伸びて来た指先が、そんな私の鼻の先に触れる。
「でも、ほら、赤くなってる」
「それは……」
寒い中、待たされたもの。……ギュっと強張っていた肩の力を抜いて思う。
態度と裏腹。こだわってつけた天然のメイキャップの出来栄えを気にしつつも、
彼に問われて慌てる表情、口ごもる反応もそつなくこなし……それでも恋って、やっぱり不思議。
もう後には引けなくなってるのに、未だによく、分からなくて。
何故だか素直になれないって、まるで何時もの私みたいだなって片隅で考えたりしてる。
だけど手順通り、私は鞄から包みを取り出した。
もう一度、目線を上げて、対面する彼がドキリと固まる。
そうして勿体ぶって差し出された、ビロードを思わせる深い赤に、差し色の入ったリボンで飾り付けられたソレは。
「……あの、これを」
恋する女の子が抱えた正直な気持ちを、届けたくて、形に込めた。
"バレンタインは素直になる為の素敵な魔法。"
……受け取って、貰えるのかな?
ドキドキ、ドキドキ……。心臓よ大きく脈を打って。
まるで一時停止のスイッチを押されたように。
遠慮がちに突き出した両腕を固め、一秒、二秒……包みを握る指の感覚が信用できなくなった頃に、スッと、両手が軽くなった。
その瞬間に私の気持ちは私を離れ。
今は、ほら、照れ隠しの笑顔の隣に並んでる――言わなくっちゃ、あの台詞を。
「好きです。ハッピーバレンタイン」
ざあっと風が髪をさらう。
相手の奥に光るレンズ。
その隣で、心配そうに、事の成り行きを見守ってる彼にも分かるように。
『大丈夫です。安心してください』
そんな口に出せない気持ちも全力で込めて、私は飛び切りの笑顔を披露して見せた。
次の瞬間、現場に響く「カット!」の合図。――"彼女"の告白は大成功だ。
寒い中頑張った甲斐のある、自分の実力も十分に出せたシーン。
だから火照った体を冷ましていく、風の心地よさは達成感と清々しさの表れ。
……なんだけれど、まだ一つの懸念が残ってると言うなら。
「いやあ~、それにしても本気でドキッとさせられたよ」
声を掛けられて意識をそちらに向ける。
さっきまで相対していた相手、小道具の包みを受け取った共演していた男性が
――私が演じる女子生徒の、憧れの先輩って役の人だ――残念そうに溜息をついた。
「これが単なる撮影じゃなくて、本当に志保ちゃんの本命ならね」
言って、くいっと肩をすくめて見せる。
その動作が様になってたから、ああ、やっぱりこの人は俳優だなって。
男は狼なのよなんて、水色の車中で聴いたフレーズが頭に踊る。
だから「義理にもならないチョコでごめんなさい」とか、
当たり障りの無い会話を交わした後で、私は彼との話をこうやって締めた。
「でも、アイドルは恋愛禁止ですから」
===
それで、ここからが大事な話。
結局の所、バレンタインなんて単なるお祭り騒ぎだって、そういう風に思ってた。
……思い込もうとしていた私が居た。
誰が誰のことを好きになるとか、告白しようとかどうしようとか。
女の子ってそういうので騒ぐのが大好きだし、スーパーはチョコを売りたくって、
喧騒は留まるところを知らず、神聖さは失われて行って、結局はお祭り騒ぎに鳴り果てる。
それを、冷めた視線で見ていたんだ。関わりが少ないから特に。
「プロデューサーさん、お仕事、まだ終わらないのかな」
――なのに今、私は今、撮影終わりの駐車場の、
いつもの水色の車の前で、どうしようもない程に戸惑っている。
……どうして、こんなに緊張するんだろう。
やりたいことは分かっていた。
たった今撮影でこなしたみたく、準備して持って来ていたチョコを、
ただ日頃のお礼で渡せばいいの……それだけ、なのに。
打ち合わせから戻って来る彼を待ってる間、私の中をぐるぐるって、
今日までのアレコレが反芻される。
百合子さんのこと、可奈との話、お母さんやりっくんと喋ったことも、
劇場で、いつもみたいに、プロデューサーさんと過ごした日々のことも。
「……不思議」
独り言が冬の風に溶けた。
少しずつ日暮れが近付いて来る。
どんよりと、雪の降り出しそうな空が、見上げても神様の居場所は見当もつかない。
「志保」
名前を呼ばれて振り返った。
公園の入り口。駐車場との間の車止めを越えてプロデューサーさんが近付いて来る。
片手を上げて、ひらひら振って、何時もみたいに優しい笑顔――じゃ、ない。
「中で待っててくれて良かったのに」
困った奴だって言うみたいに、プロデューサーさんが私を見下ろす。
その声は、調子は、普段通りなのに。
表情が少しも合って無くて、私は返事も忘れてただ頷く。
「そうじゃなくても、今日は演出の都合で外に立ちっ放しだったじゃないか。
――風邪でも引いたらどうするんだって、俺、やっぱり我慢できなくてさ」
言って、彼は助手席の扉を開けた。
「あの」
私もやっと口を開けた。
「打ち合わせってそれだったんですか? ……次の仕事の話し合いとかじゃなくて」
「いや、確かにそれもしたけど」
プロデューサーさんの顔が緩む。
「一番は志保への対応についてだよ。後はそう……分かってても鼻を触るとかの、アドリブだって止してくれって」
「別にそれは……気にしませんでしたけど」
「いーや、こういうのはちゃんと釘を刺しておかなくっちゃ! ……俺だって言いたかないけどな、志保」
それでまた、似合わない険しさになったかと思えば。
「不意を突かれてキスとかされて、アドリブでしたじゃ困るだろう?」
「はあ」
こんな話をされるなんて全く予想もしてなかった私は、
思わず気の抜けたような声を出してしまった。……それからすぐに可笑しくなる。
ああそうか、私はきっと、この人のこういう所を信頼して。
「でも、プロデューサーさん」
「ん?」
「それが仕事だって言うなら私は受けます。
アイドルになるって決めた時から、そういう覚悟もある程度してますから」
言って、私が意地悪に首を傾げた途端、
プロデューサーさんは何だか凄く焦ったような、見ていて笑っちゃいそうな顔になって。
「……まさか、まさかとは思うけれど、志保は今日の共演相手みたいなのが好みなのか?」
「それって――つまり軽薄そうな人をですか?」
「そうじゃなくてもイケメンとか、俳優とか――」
だから無理、我慢なんて出来ない。
私はとうとう堪え切れなくなって、ふふっと小さく笑みをこぼした。
「まさか、笑わせないでください」」
「でも、今日の撮影だって演技にしちゃさあ」
「それはプロデューサーさんのアドバイスが良かったんじゃないですか?
気持ちを形にしてもらえるだけで嬉しいって、結構役作りの参考になりましたよ」
そうして私は準備してたチョコを――シックな柄の包装紙でくまなく包み込んでいた――プロデューサーさんの前に差し出して。
「それから安心してください。私はまだ誰かを好きになったりとか、恋をしたりもしていないので」
グイっと相手に押し付けるように。
「あの、ハッピーバレンタイン」
リボンの代わりに感謝の言葉。
プロデューサーさんの手にチョコレートが渡る。
すると彼は、一瞬ひどく驚いた後で。
「……今日はまだ、十三日だ」
「当日は荷物になりそうだと思ったんです。
……きっと、私以外にもプロデューサーさんにチョコを渡したい人が沢山いるから」
ポリポリと後ろ頭を掻いた。
それはプロデューサーさんが決まりの悪い時に出しちゃう癖だ。
でもそういう風にしてる時は、問題を真面目に受け取ってくれてることの証拠だから。
「それと私、最近思い出したことがあるんですよ」
「思い出したこと?」
「はい」
頷き、私は微笑み返す。
「自分の気持ちに素直になるって……案外悪くありませんね」
だから今の私は清々しい気分。
しがらみとか、モラルだとか、そういうのは後から考えたって良い。
大切なのは笑顔の気持ちを隠さないこと――。
「これからも、北沢志保のプロデュースをよろしくお願いします」
言って、丁寧に頭を下げる。
世間が騒いでる恋だとか、愛だなんて、私にはまだ決められないけど……
少なくともプロデューサーさんに特別な気持ちを抱いてるのならば、
きっとそれは親愛の情で、大切な人を想う気持ち。
かけがえのない繋がりを慈しむ為の心構えだ。
「……こちらこそ、よろしく頼むよ!」
笑顔を取り戻したプロデューサーさんが助手席に座るよう促したので、私は素直に従った。
それから彼も車に乗り込み、ぶるるッとエンジンが動き始める。
「――あっ、ちなみにの話ですけど」
「なんだい?」
シートベルトを取り付けながら、私は言い忘れていたことがあったとプロデューサーさんへと視線を投げた。
……それと、わざわざ話を聞くためにこっちを向いてくれるのは嬉しい。
「さっき渡したチョコ、大人の人は甘いのが苦手かもしれないってビターテイストで作ってみたんです」
「ビター」
「でも、キスの演技も要求できないプロデューサーさんには……ちょっと渋すぎる出来になってるかも」
するとミラーの位置を確認していたプロデューサーさんは「たはは」と笑って。
「……うーん、捻くれてるなぁ」
「それも、自分に正直なだけです」
「俺も、ミラーの位置の話だ」
直後に、してやったりって憎らしい顔。……ああ、全く私の迂闊さと来たら。
「そうですか。じゃあ、忘れてください」
恥ずかしさを誤魔化すように、私は呆れましたって態度を溜め息で表現してから前を向いた。
「だけどチョコレートにしろプロデュースにしろ――」
言いながらプロデューサーさんが片手でハンドルを握る。
車が動き始める寸前、彼は止まっていたカーオーディオを操作しながら続けた。
「苦味があるぐらいで丁度いいさ」
何より甘さが引き立つからね、なんてキザな台詞も一緒。
でも同意の「そうですか」は唇に乗せない。
車内に音楽が流れ始めて、車はゆっくり動き出した。
いつかのように、私を待ってる場所へ向けて。
私は今一度シートに深く座り直すと、何時もしているみたいに聞こえてくる歌に耳を傾けた。
それは何度か聞いていて知ってる一曲……そのタイトルは確か、何て言ったか。
「…………」
ポツリ、呟きが歌で消える。
私は窓の景色を眺めながら考える。
――もう、自分の都合だけを押し通すような「好きです」なんてまさか言えない。
それを自覚した今年のバレンタインだった。
だって自分一人だけの彼じゃないのだから。
自分一人だけの私でもないのだから。
そんな私の自覚した恋心は、本当に私好みの形をしてる……実にわがままで偏屈な片思いだから。
===
エンドBGM 松田聖子/わがままな片思い
https://www.youtube.com/watch?v=ongJEV3YMeg
以上おしまい。
限定バレンタイン沢志保の可愛さにSSを書こうと思って早や三月。
書きたいシーンは詰めこんだので個人的には満足です。
では、最後までお読みいただきありがとうございました。
【ミリマス】我が恋の運命に応えてあなたっ♪のPかな?
乙です
北沢志保(14) Vi/Fa
http://i.imgur.com/9rUjMge.png
http://i.imgur.com/b9hqpu8.png
>>58
七尾百合子(15)Vi/Pr
http://i.imgur.com/oNaYKxk.jpg
http://i.imgur.com/cOBTJeA.jpg
>>109
矢吹可奈(14)Vo/Pr
http://i.imgur.com/x1Dioqg.png
http://i.imgur.com/sasbC3I.png
長いからちびちび読むわ
乙
このSSまとめへのコメント
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