S字カーブの続く険しい山道を超えると、突然開けた駐車場が見えてくる。そこにたどり着くまでの酷い道とは対照的に、その駐車場は綺麗に整備されていた。駐車場の奥には、竹林が生い茂っており、まるでモーゼが通ったかのように竹林の一部が割れ小径を作っている。小径を進むと、誰もがその存在を感じられずにはいられない独特なとんこつ臭が漂ってきた。さあ、ここまで来ればもうゴールは目の前だ。
「ラーメン 雷来軒」
知る人ぞ知る、とんこつラーメンの名店である。
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時刻は午前9時。とてもラーメンを食べるような時間ではないが、店内には既にラーメンの臭いが充満している。寸胴鍋はコポコポと煮えたぎり、白い湯気をもうもうとあげている。高く伸びた孟宗竹に日の光が遮られているせいで、店内はどこか薄暗い。僅かな間接照明に照らされるのは、黒檀の調度品。とてもラーメン屋の店内とは思えない程の優雅な空間の一角、白い霞にまみれたカウンター席で、店主が一杯のラーメンを前に手をあわせていた。
店主の前に置かれたるは、雷来軒唯一のメニュー「こってりラーメン」。スープは、一見するとチャーシューと同化してしまいそうなほど濃ゆい赤銅色で、その濃厚さを体現するかのようにトロミを帯びている。含まれる油分は如何ほどの物かとても想像が及ばない。麺は中太のちぢれ麺で、その濃厚なスープとよく絡み、店主の「スープを味わえ」という強い意志が伺える。付け合わせは、メンマに白髪ねぎ、チャーシュー、そして燻製たまご。オーソドックスな組み合わせではあるが、いずれも店主がこのラーメンの為に作った自身の品である。
再度、申し上げるならば時刻は午前9時。朝食にしては実に重たい一品であろう。
「いただきます」
店主は、天を仰ぎ呟く。その様は、まるで神に祈る信仰者のようだ。否、現実に店主は神に祈っていた。その胸に抱く神は、「ラーメン神」。(八百万もいるのだから、そのような神が一柱がいてもおかしくなかろう)「今日も最高のラーメンが出来ていますように」と、心の底から神に祈るのだ。
「ごちそうさまでした」
店主の表情は安どに満ちていた。どうやら、ラーメン神は今日も彼に微笑みかけたようだ。誤解のないように言っておくが、雷来軒のラーメンの味は神頼みというわけではない。一見すると、油マシマシのパンチが強いだけのラーメンに見えるが、其の実、油の中で溺れた強烈な旨味は厳選に厳選を重ねられた材料によって重層的に、かつ緻密に積み上げられたもので、ほんの少しの狂いも許されない完璧なバランスによって成り立つものなのである。その繊細な味を保つプレッシャー故に、店主は神に祈らざるを得ないのだ。
朝9時の一杯のラーメン。もし味に支障あれば、その日は店を開けない。これは、店主が自身に課した絶対のルールであった。
ちなみに、そんなラーメン屋だからこそカウンターには高菜も、ニンニク醤油も、コショウすら置かれていない。店主の作るラーメンこそが唯一絶対のもので、客にそのバランスを崩すことは一切許されていないのだ。
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とある日のこと。その日の店主は、いつにもまして上機嫌であった。なぜなら、つい昨晩、雷来軒の「こってりラーメン」は大幅なアップデートを果たしたからだ。旨味は増し、より複雑に絡み合った食材はそれぞれの宿した味を十二分に発揮している。完成したばかりのスープは、どこか神々しくすら思えるほどだ。
だが、どんなに浮足立った一日であろうと店主がルーティーンを怠ることはない。今日も店主は、完成したレシピをもとに朝九時の一杯目のラーメン作りにとりかかっていた。ご機嫌な鼻歌と共にスープを煮立たせる。さあ、時間を無駄にしてはいられない同時進行でトッピングの準備だ。ネギの土を落とし薄く細く切っていく。トントントンと包丁の音が店内に心地よく響く。その音はまるで、拍子木を打ち鳴らしたもののようであった。しかし、拍子木だけではちと寂しい。店主が、「これに鼓でも合わさったら更に良いのだが」なんてしょうもないことを考えていると、ふと一人の常連客のことが脳裏をよぎるのであった。
その常連客は、店主が密かに『大タヌキ』と呼ぶ大食漢のことであった。いくら常連と言えども、所詮はラーメン屋の店主と客の関係だ。客の素性なんぞ、店主の知るところでない。しかし、よく来る客の顔は覚えてしまうし、そうすると区別するために仮の名が必要となってくる。店主は目ぼしい常連客全てにあだ名をつけていた。『大タヌキ』に始まり、店に入ってくると必ずハローと声をかけてくる『ハロー爺さん』、常にアロハシャツに迷彩柄のハーフパンツを履いている『アロハ迷彩』、その手足の細さから『ナナフシ』なんて名付けた男もいる。もちろん、人前で声に出して呼んだりはしない。あくまで店主の中でのみ使われるものだ。
大タヌキは、雷来軒の常連中の常連、その来店する頻度と言ったら店主についで多いほどの猛者である。あだ名の由来からもわかるように、かなりの巨漢でそのプヨプヨとしたお腹を手のひらで打てば、それこそ鼓顔負けで「ポンッ」と良い音が鳴るであろう。大タヌキのタヌキっぷりは、それだけにとどまらない。日にコンガリとやけた肌はタヌキの毛色によく似たものであるし、落ちくぼんだ目に影ができているその愛らしい様はまさにタヌキそのものだ。
大タヌキは、店に来ると必ず「こってりラーメン」を大盛りで頼んだ。通常のどんぶりの倍はある大盛りの、そのカロリー量は厚生労働省が提唱する成人男性の一日の摂取カロリーをゆうに超す。そのうえ、大タヌキは替え玉までも頼むのだから驚きだ。かつてタヌキと称された徳川家康は、タイの天婦羅にあたって死んだとされるが、きっとこの大タヌキもラーメンにあたって死んでしまうのではないかと店主が気に病むほどの大食らいであった。
そんな大タヌキが、もう三月も姿を見せていない。
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店主は、あまりのことに握った包丁を落としそうになった。あの大タヌキが、雷来軒に三月も来ていないなんて。いや、そうではない。そんなことは問題の一部に過ぎない。それ以上に、店の最常連である大タヌキの不在に今まで気づきもしなかった自分自身にこそ店主は驚愕したのだ。
店主はヨロヨロの力ない足取りで、カウンター席に辿り着くと、どうにか腰を下ろした。大タヌキの身を案じるほどに不安に苛まわれ全身から力が抜けてしまっていた。しかし何故だ。何故、俺は大タヌキの不在に気づかなかったのだ。自問自答を繰り返す中で、店主は必死に記憶を遡ろうと試みる。しかし、大タヌキを最後に見た日のことを思い出そうとするも、どうにも記憶に霞がかっておりうまくいかない。
思い返せば、ここ三月の間、店主はラーメンのことしか考えていなかった。日中の営業を終えると、寝る間も惜しんで厨房に詰め、敢えて完璧なバランスを生んでいたレシピを崩し、更なる高みを目指してラーメンに打ち込んだ。そしてその甲斐あって、今日という一日を迎えることができた。
まさに、ラーメンに命を懸けたと言って過言ではない月日であった。そう。店主はラーメンに打ち込むばかり、大タヌキの不在に気を留めることすらできなかったのだ。そこまで、思い至ったところで、店主の記憶の霞に一筋の光明が差した。光は、急速に霞全体へと広がっていき記憶の全てを鮮明としていく。
そうして店主は全て明らかとなった記憶から、一つの結論を導き出した。大タヌキが最後に姿を見せた正にあの日、彼はラーメン熱に取り憑かれるに至ったのだ。そして、それらは全て雷来軒常連四天王の一人である『あの男』の仕業に違いないと。
「全て『ナナフシ』のせいだ」
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店主の記憶は今や、全て明らかとなった。
あの日も、大タヌキは店に来るなり「こってりラーメン」大盛りを声高らかに注文した。その提供は実に迅速だ。あっという間にできあがったラーメンが、大タヌキの前へと店主自身の手によって運ばれてくる。店主からしてみれば、大タヌキが店に入ってくるなり通常の二倍の麺をゆで始め、注文が入るころには麺のあがりを待ち構えているのだから当然といえば当然の早さであろう。あとは、大タヌキの食の進みに従って、注文されるであろう替え玉の投入時期を見極めるばかりなのである。「ナナフシ」が来店したのは、そんなタイミングであった。
ナナフシは、大タヌキとは対照的に線の細い男であった。細く鋭い目に、シャープな印象の角ばった眼鏡をかけている。普通の感性であるならば、タヌキの対象で彼に「キツネ」の愛称をつけたであろう。しかし、ナナフシは「キツネ」と称するにはあまりに細すぎる。まるで道端に落ちている小枝のように、細く弱弱しい、かつ長く伸びた手足から想起されるのは必然的に昆虫の「ナナフシ」なのである。しかしながら、彼の食欲はその愛称とは打って変わって太く逞しいものだった。
と言っても、大タヌキのように大量のラーメンに立ち向かうわけでは無い。彼が食べきるのは常に、通常の「こってりラーメン」一杯に過ぎない。だが、その一杯にかける静かながら熱い思いは常人のそれを遥かに超えている。大タヌキの食べっぷりを敵の大群の中を単身突き進む武将に例えるならば、ナナフシのそれは静止した世界の中から、一瞬で決着がつく剣豪同士の一騎打ちと言えよう。ナナフシの食事はあまりにも静かでかつ早い為、いつも店主が気づかぬうちに食べ終わってしまっているのだ。いつの日か店主は、ナナフシがラーメンの湯気で眼鏡を曇らしながらラーメンを啜っている姿を見てやろうと密かに隙を伺ってみたことがあった。しかしホンの一瞬、寸胴鍋に気を取られた僅かな時間の内に彼は既に「ごちそうさま」の合掌へと移行していたほどだ。
思い返せば、あの日は、そんな二人が店内に居合わせる初めての日であった。二人とも雷来軒の常連であるものの、来る時間帯が僅かにズレていることもあって、これまで二人が顔を合わすことがなかったのだ。それが何の因果か、今日は普段よりも少し早い時間にナナフシがやってきた。
店主は、大タヌキを一瞥する。どうやら、食べ終わるにはまだ時間がかかりそうだ。店主の意識は、自然とナナフシへと移っていく。ナナフシは、店主へと軽い会釈を送って店内を見回した。手頃の席を物色しているのであろう。「さて、どこに座るのかな」と店主がその様子を伺っていると、ナナフシは突然ギョッと身体をひくつかせ、目をまん丸と開き呆けてしまった。その見開かれた眼には大タヌキの巨大な背中が映っていた。まあしかし、これは無理のないことだろう。見慣れてしまった店主ならともかく、初めて見るものにとっては大タヌキの体はあまりにも大きすぎた。
「お好きな席にどうぞ」
いつまでも動き出す様子のないナナフシに、店主は促す。するとナナフシは、ハッと我に返りそそくさと大タヌキの隣の席に腰を下ろした。他にも空いている席があるだろうに、と店主が訝しんでいると
ナナフシの目玉がチラリチラリと巨大などんぶりに向かう大タヌキへと向いているのが見て取れる。どうやら、ナナフシは大タヌキの様子が気になって仕方がないらしい。それは、ナナフシの目の前にラーメンが提供されてからも止むことはなかった。ナナフシは、何かブツブツと言葉にならない声を口から漏らし、その手に握られた箸はドンブリにたどり着くことなく宙を泳ぐばかりだ。大タヌキもさすがに、不気味な隣席の様子に気づいたようで、どうにもラーメンに集中できなくなってしまっていた。
「ごちそうさまでした」
大タヌキの声に、店主は思わず「えっ!?」と驚きの声をあげてしまった。大タヌキの食の進み具合を見定め、注文こそ受けていない者の既に替え玉をゆで始めてしまっていたからだ。それを察してか、大タヌキも申し訳なさそうな表情でカウンターに金を置き、そそくさと店を出て行ってしまった。あの大タヌキが、替え玉を頼みもしないなんてことは、いまだかつてなかった。いやしかし、ナナフシの異様な挙動がなければこんなことはなかったであろう。店主は、茹で上がった替え玉をしばし恨めしく見つめ、その責任を問うかのように視線をナナフシへと移した。
しかし、そこにナナフシの姿はなく、カウンターに置かれた代金と、全く手を付けられていないラーメンが寂しく湯気をあげているばかりであった。
店主は、膝から崩れ落ちた。経緯はともかく、二人の常連が、一人は替え玉を頼まず、もう一人はラーメンに手を付けさえしなかったという事実が、店主へと重くのしかかったのだ。なにが完璧なバランスだ。なにが知る人ぞ知る名店だ。店主は、更なり進歩を追い求めなかった自分自身を呪った。だが、店主が再び立ち上がるまでにそれほどの時間はかからなかった。店主のラーメンへの熱い情熱が、再びハートを燃え上がらせたのだ。
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記憶を取り戻した店主は、ひどく戸惑っていた。ラーメンを残されただけで、自身がこれほどまでに正気を失ってしまうとは思いもしなかったのだ。店主は、人知れず自らの未成熟さを恥じ、落ち着いて思考をまわしはじめる。冷静に考えれば、あの日のラーメンに何ら非はなく、全てがナナフシに起因していることは明らかだ。ナナフシと大タヌキの間に、何が起こったのかはわからない。店主が知るのは、あくまで店内での出来事のみなのだ。ならば、どうするか。答えは一つしかあるまい。あの日以降も、この店に通い続けているナナフシに問いただせばよいのだ。
突然、店のガラス戸が強く叩かれた。店主は、慌てて壁に掛けられた時計に目をやる。時刻は、朝九時をわずかに過ぎたばかり。営業開始には、程遠い時刻だ。扉の向こうには、妙な青い色をした服を着た人の影が見える。店内側にしまってある暖簾のせいで、その表情は伺えない。人影は、「開けてくれ」と荒い声をあげながら扉を叩き続けている。かすれてくぐもってはいるが、明らかに男の声だった。店主は、用心に越したことはないと麺棒を片手に扉へと近づき暖簾の隙間から外を覗いた。
そこには、息を切らした背の高い男が一人。青く生地の薄い一枚布の妙な服だ。店主は、それが医療ドラマなどでよく見る手術衣であることに気づいた。短い袖に、短い裾。そこから伸びた細長い手足は常連のナナフシを思い起こされるが、対照的にポッコリと突き出た腹が別人であることを物語っている。しかしまあ、何というアンバランスな体形だろうか。仮に店主が名付けるとしたら、まんまるとした体に刺されているかのような手足、「リンゴ飴」であろう。しかし、りんご飴と呼ぶには肌は酷く黒ずんでいて如何にもまずそうだ。目の周りに至っては、その黒さはまるで墨を塗っているかのようであった。
店主は、謎の来訪者の顔を見て驚いた。
「大タヌキじゃないか!」
頬の肉が削げ落ち、肌の黒さがまし、異様な体形と人相に変わってこそいるが、目の前に立っている男は正に来々軒の大常連「大タヌキ」に間違いなかった。明らかに壮健とは言い難いその立ち姿に、店主の不安が一層に増す。しかし、こんな不健康そうな男を、いくら開店時間まで時間があるからと言って店先に立たせておくわけにもいかない。店主が、扉の鍵を開け大タヌキを店へと招き入れると、大タヌキは汗だらけの顔で精いっぱいの笑顔を店主へと向けてみせた。
「大将。こってりラーメン大盛りで」
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大タヌキの手術衣はところどころ生地が裂けており、更には靴すら履いておらず、土にまみれた素足には赤黒いものすら見て取れた。顔面一杯の汗も、健康的にかかれたものではあるまい。俗にいう冷や汗というやつだ。「雷来軒」は、その発する強いとんこつ臭が故に山奥に構えられた店だ。大タヌキの様子を見るに、とても車でやってきたとは思えない。
「大将、聞こえなかったのか?」
「いや、すまない。注文は聞こえていたさ。しかし、お客さん。その恰好は一体……?」
目の前の状況に、店主は半ば混乱していた。あんな格好で山を登ってきたのか。いったいどこから。いや、どうして。いやいやいや、そんなことより財布は持っているのか。通常では考えられない状況に、疑問が疑問を呼び思考が定まらない。
「大将! 俺はアンタのラーメンを食うために命を懸けて、ここまで来たんだ!」
大タヌキの「命がけ」という言葉に、店主はハッとする。この店において常に命を懸けていたのは、他ならぬ店主に違いない。それが、一常連客に過ぎない大タヌキから口から「命がけ」なんて飛び出るとは思いもしなかったのだ。思考は定まらないが、厨房には店主のルーティーン「朝九時の一杯目のラーメン」の材料が控えている。材料はあるのだ、そして店主は注文を受けた。加えて言えば、今日のラーメンはこれまでの「こってりラーメン」とは、文字通り一味違う。進化した「こってりラーメン」を自分以外の誰にかに早く食べさせてみたいという欲も相まって、店主の体は厨房へと流されていった。
店主の脳内は、疑念に溢れ相変わらずの混乱状態だ。だが、厨房に入ると体に染みついた動作が自然と繰り出される。スープはいい具合に煮詰まってきている。白髪ねぎを細く刻み、瓶からメンマを取り出す。チャーシューは、薄すぎず熱すぎず。スープの熱で、中まで十分温まるぐらいがベストだ。そして、昨晩の内に燻しておいたゆで卵。こいつがあるのと無いのじゃ、段違い。さあ、机に並びますは来々軒が最高の一杯「こってりラーメン」だ。
「へい、お待ち」
大タヌキは目の前に置かれたどんぶりを前に、感極まっている。震える手を何とか抑え、割りばしへと手を伸ばす。静まり返った店内に、割りばしの割れる音が響いた。
「いただきま―――」
「だめだ! それを食べては死ぬぞ!」
店内に、店主でも大タヌキでもない、三人目の声があがった。まだ開店前だというのに、なんと慌ただしい一日であろうか。本日、二人目の来訪者。大タヌキと同じ青色の服をまとったナナフシであった。
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ナナフシの着た服は、色は同じであるものの大タヌキのそれに比べて生地が丈夫でかつ上下に分かれたものであった。そして、手にはめられたゴム手袋。顔を覆うマスクにゴーグル、頭にのった同色の帽子が示す答えは、大タヌキとの関係性だ。ナナフシは、医者であったのだ。ならば大タヌキは。当然、患者であろう。
「先生。堪忍してくれ!」
「そんなものを食べてごらんなさい。折角下がった血圧が、また上がりますよ。そうしたら、次に手術ができるのがいつになるかわかったもんじゃありません!」
声を荒げる二人を前に、店主は、ようやく状況を飲み込みつつあった。察するに、何らかの手術を前にして逃げ出した大タヌキを医者であるナナフシが追ってきたのであろう。
三か月前のあの日、ナナフシはここ「雷来軒」で如何にも不健康そうな大男を見つけた。そのあまりの巨体、土色の肌、そして巨大なラーメンを貪る大タヌキを、ナナフシは医者として見過ごしておくことができなかったのだ。大好物の「こってりラーメン」を前にして、意を決し先に店を出た大タヌキを追った。そして、ナナフシは自らの素性を大タヌキへと明かし、自らが勤める病院で検査を受けることを薦めた。
検査の結果は、当然のごとく芳しいものではなかった。むしろ、最悪といっていい状況であった。ありとあらゆる成人病を身に宿した男を前に、ナナフシはラーメンか健康かを迫った。まさにデッドオアアライブ。大タヌキも、如何にラーメンが好きとはいえ自らの命と天秤にかけられれば他に選択の余地などない。ナナフシに言われるがまま、すぐさま入院することとなり様々な医療的処置を受けることとなった。大タヌキも、しばらくの間は大人しく体を労わった。
しかし、それが3か月目にもなると我慢も限界だ。やせ細った身体が、あの油に満ちて香ばしい匂いを立ち上らせるラーメンに焦がれだしたのだ。あとは御覧の様である。病院を抜け出した大タヌキの素足は、来々軒を具えるこの山へと向いたというわけだ。
「でもよう先生ぇ。手術が終わったって、すぐにラーメンが食えるようになるわけじゃあ無いんだろう? 俺はもう我慢ならねえ!」
「あっさり出汁のラーメンを病院食で出すよう指示を出しますから。それなら、手術後一週間も経てば食べられるようになりますから!」
「ここのラーメンじゃなきゃ駄目なんだよう!」
大タヌキの丸い目が、不気味に光った。もはや問答は無用と言わんばかりにラーメンへと向き直り、大きく息を吸い込む。
「俺はこの命にかけても、このラーメンを食う!」
「そんなことはさせない! こっちこそ人の命を救うのに命をかけてるんだ! 貴方に食べさせるぐらいなら私が全部食べてやる!」
箸を振り上げた大タヌキに、ナナフシが組み付く。いくらやせ細ったといっても、大タヌキとナナフシでは決着は明らかだ。だが、ナナフシはその細い身体のどこに宿したものか、あらんかぎりの力で大タヌキの食事を阻止している。争う二人を前に、店主の思考はゆっくりと回り始めていた。
大タヌキは言う「命をかけてラーメンを食う」と。対してナナフシは「命をかけて救う」と宣う。二人の人間が、それぞれの心情を前に命をかけてみせた。店主は、どちらに味方するでもなく二人の争いをただ見守ることしかできていなかった。二人のあまりの気迫に、自らがどこか場違いな人間であるかのように感じてしまっていたのだ。いや、大タヌキの目の前に置かれたラーメンは、それこそ店主がこの三か月の間、命を削って作り上げた新作なのである。ならば、この二人の物語に割って入る権利が俺にもあるはずだ。店主は、そう思いなおしこそすれ動けずにいた。
せっかく作ったラーメンだ。誰かに食べてもらわなければ報われない。だが、もし大タヌキがこのラーメンを食べ、もろもろの結果死に至るとしたらどうだろうか。店主は、自らの命をかけてラーメンを作れこそすれ、誰かを殺す覚悟迄は持ち合わせてはいなかった。店主は、あまりの情けなさに泣きそうになっていた。ここは、店主の城「来々軒」であるというのに己だけが蚊帳の外にあるようで寂しくなったのだ。
「ここは、俺の店なのに。俺がルールなのに」
そう、この店は「雷来軒」。提供するのは、自慢の「こってりラーメン」のみ。完璧なバランスで生み出されたラーメンには、店主以外の如何なるものも手を加えてはならない。だから机には、辛子高菜もニンニク醤油もコショウすら置かれていない。
朝九時の一杯目のラーメンの出来次第では、店の扉は開かれない。
店主のハートがふと燃え上がった。
「何人たりとも俺の店で好き勝手にされてたまるか。何が『命をかけてラーメンを食う』だ。俺の作った味には、如何なる者も手を加えちゃいけねえんだ。客の命なんてもん絶対にかけさせねえ。かけていいのは俺の命だけだ。それに、何が『私が代わりに食べてやる』だ。こいつは、朝九時一杯目のラーメンなんだ。食していいのは俺だけだ!」
店主は、二人の間に無理やり割って入る。二人ともすごい力ではあるが、朝早くから徒歩で山を登ってきた身である。とても店主の腕力には適わず、ドンブリを奪われてしまった。店主は、恐ろしい勢いで麺をすすり、スープを飲み、燻製の玉子をかじった。みるみる失われていくドンブリの中身に、大タヌキがすすり泣き、ナナフシがあんぐりと口をあけてその様子を眺めている。
店主は、ずずずっと最後の一滴までスープを飲み干し空のドンブリをドンっと机に置いた。
「今日のラーメンはいまいちだ。帰ってくんな、今日はもう店じまいだ」
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とある昼下がり、店に暖簾は掲げられていない。カウンターには、三人の男。店主に、ナナフシ。そして、いまや大タヌキの名を返上した『細タヌキ』だ。
「どうだい。来々軒新作の『あっさりラーメン』は」
ナナフシが、店長を讃え感嘆の声を漏らす。
「いや、さすがです店主。『こってりラーメン』とベクトルが違うこそすれ、その絶妙な味のバランス感覚は十二分に発揮されている」
対して、細タヌキはどこか不満げだ。
「あーあー大将よお。すっかり丸くなっちまって。いや確かにうめえよ。全盛期の俺なら替え玉5玉はいけただろうよ。だけど、俺は『こってりラーメン』のほうが食いてえんだ。あのパンチ力のある味に恋い焦がれてるんだ」
「パンチ力ねえ……」
「だめですよ、もう少しの辛抱なんですから我慢してください。それに、店長は病み上がりの貴方に負担をかけないためにわざわざこの新作を作ってくれたんですよ。感謝こそすれ、文句を垂れるとは何様ですか」
ナナフシに諭され、細タヌキは拗ねた子供のようにそっぽを向く。
「でも、ありがとうよ大将」
照れくさそうに感謝の意を告げる細タヌキを前に、店主がニヤリと口角をあげ厨房の奥へと引っ込んだ。しばらくして、戻ってきた店主の手には透明な小瓶が握られていた。カウンターにコトリと置かれた小瓶の中には、灰色の粉末がいっぱいに詰まっている。細タヌキとナナフシが、驚いて顔を見合わせた。
「おい大将……こいつはコショウじゃねえか」
「どういうつもりですか。客には何もかけさせないのが雷来軒のルールでは?」
「まあ、命をかけられるよりはマシってもんさ」
卍卍卍卍卍卍卍卍
おわり
卍卍卍卍卍卍卍卍
読みやすいし面白かった、乙
良いねぇ!!
腹が減ったぜ……
やるじゃん
美味そう
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