ステージの袖へと下がり、安堵の息を漏らす。
そのときになって初めて、自分が拳を握りしめていたことに気が付いた。
ほんの一歩分ほどの違いしかありはしないのに、歓声と退場を促すアナウンスが、遠く聞こえた。
駆け寄ってきたスタッフの人からお水とタオル、それから「暗くなってますので足元お気をつけてください」と言葉をもらった。
私が「ありがとうございます」と返すと、そのスタッフさんはくつくつという忍ぶように笑う。
もしや、と思い、深くかぶられた『STAFF』と書かれた帽子を引っ手繰る。
「びっくりした?」
そこには、したやったり、とでも言いたげな表情でにやついているプロデューサーがいた。
○
「もう。何してるの、ほんとに」
私をアンコールへと送り出した少し前まではスーツ姿だったはずなのに。
スタッフさんのポロシャツやらキャップやらはどこから調達したのか、など問い詰めたい気もしたが、プロデューサーの顔を見て、ステージから下がった時とは別種の安堵の気持ちを抱いたことも事実だった。
「お疲れ様。最高のステージだったよ。掛け値なしに」
「うん」
自分でもそう思う程に良いステージにできた自負はあったけれど、やはり自分ではない誰か――それもアイドルとしての私を一番長い間、傍で見ていてくれていた相手――にそう言ってもらえるのは、純粋に嬉しい。
そして、喜びのあまり素っ気のない返事になってしまったことに気がついて「ありがと」と短く言葉を足した。
「さて。汗、冷えるよ。楽屋戻って着替えておいで」
「うん。プロデューサーは?」
「いろいろ根回し。……行くでしょ? 打ち上げ」
「…………行く」
もうわかりきっているかのような口ぶりのプロデューサーに対して、思うところがないでもないけれど、まぁ事実だし、いいか。
なんて、脳内で言い訳をしながら、暗い通路を早足で抜けた。
○
楽屋には既に衣装さんとメイクさんが控えていて、私が到着するなり綺麗に揃った「お疲れ様でした」をくれる。
「ありがとうございます」と返して、まずメイクを落としてもらうことにした。
アイドルとなって、メイクさんが付くようになってから知ったことだが、ステージ用のお化粧は、普段のそれと大きく異なる。
当然と言えば当然だけど、ステージ用のお化粧はステージの上で映えるように計算されているからだ。
強いスポットライトを受けることを前提にいろいろな工夫が凝らされていて、初めの頃は驚いたものだった。
そのステージ用のお化粧をさっぱり落としてもらって、メイクさんに我儘を言う。
「薄く、普段の感じで、またお化粧してもらってもいいですか」
すると、メイクさんはにっこり笑って「光栄です」と言ってくれたのだった。
○
メイクさんにしてもらったお化粧は、やっぱり自分でするよりも出来栄えが違くて、毎度のことながら感心してしまう。
戯れに「ちょっと教えてください」と言ったところ、メイクさんはおどけて「教えちゃったら渋谷さん自分でメイクできるようになっちゃうじゃないですかー」と笑う。
「?」
「渋谷さんが自分でメイクできちゃったら、もう私たちいらなくなっちゃいますから」
「あっ、そういう……。でも、その、やっぱり一朝一夕には追いつけないと思いますし、ちょっとくらい……ダメ、かな」
「渋谷さんはずるいです。こんな頼まれ方して断れるメイクさんがいたらソイツはきっと人の心がないと思う!」
メイクさんは叫んで、後ろでやり取りを見ていた衣装さんに「ねぇ?」と振る。
衣装さんも衣装さんで「あはは。そうですねぇ。間違いないです」といった調子なのだから困ってしまう。
二対一では分が悪い。
衣装から私服に着替え終わるまで、ずっとたじたじだった。
○
やがて全ての帰り支度が終わり、私はプロデューサーからの連絡を待つのみとなる。
その間の手持無沙汰な時間は、衣装さんとメイクさんの二人が埋めてくれた。
今日の感想と称して、始終褒めちぎられるのは少し気恥ずかしかったが悪い気はしなかった。
私が褒め殺しに遭っているさなか、ノックの音が三度楽屋へと飛び込んできた。
「はーい」と声を投げると、聞き慣れた声で「入っても大丈夫?」と返ってくる。
それを聞いて衣装さんたちは「あら、お迎えですね」と席を立った。
すたすたと入口まで歩いて行き、ドアを開ける。
先ほどとは打って変わってしっかりスーツを着込んだプロデューサーがいた。
衣装さんたちもさっきまでの朗らかな調子とは違って、業務モードがオンになっているのがなんだかおかしい。
そして、二人は私のプロデューサーと二言三言話して「お疲れ様でした。本日はありがとうございました」と帰ってしまった。
○
「改めて、お疲れ。かっこよかった」
「うん。ありがと」
「……お化粧、直したんだ」
「そりゃ、まぁ……うん」
「嬉しいなー!」
「そういうのいいから」
「手厳しい」
「それで? もう出て大丈夫なの? 挨拶とかは?」
「俺の方からもうしてあるよ。凛からもしたいってことであれば、連れてくけど」
「連れてってもらってもいい、かな」
「ん。荷物は? そんだけ?」
「うん」
「了解。挨拶して出ようか」
○
プロデューサーのあとを、てくてくついて行き、スタッフの人たちが撤収作業をしているステージの上に出る。
先程までアリーナを埋め尽くしていたパイプ椅子や柵が、人数に物を言わせてすごい速度で片付けられていく様は圧巻だ。
その撤収作業を監督しているらしい、今回の運営の人で一番偉いらしい人をプロデューサーは呼び止める。
すると、その人は小走りで駆け寄ってきてくれる。
「本来であれば私からご挨拶に伺うべきなのに、わざわざご足労いただいちゃって……」などと、腰の低い人だった。
「いえ、その。今日はありがとうございました。皆さんの努力のおかげで、何不自由なく歌うことができました」
本心でそう思ったので、そのままを伝える。
「そんな、そんな。また渋谷さんのステージのお仕事をさせていただけたら嬉しいです」
ぺこり、と頭を下げられ、釣られて私も頭を下げる。
会話に詰まったところで、プロデューサーが「では、いつまでもお邪魔しても申し訳ないので、私共はこの辺りで失礼させていただきますね」と助け船を出してくれた。
○
関係者用の通用口から会場を出ると、外はもうすっかり真っ暗で、しんとした夜の冷たさが身に染みた。
駐車場までの道すがら、見かけた椛の木は綺麗に真っ赤に色付いていて、思わず私は、ほうっと息を吐く。
そして、そのときになって初めて、自身の吐く息が白いことに気が付いた。
ああ、道理で。
寒いはずだ。
などと、当然のようなことに得心する私だった。
○
プロデューサーの車へと乗り込んで、後部座席に荷物を置く。
「やっぱ夜は冷えるな」
「ね。もう冬なんだな、って思った」
「そうだなぁ。で、何か食べたいものとかある?」
「んー。でも、ライブ終わりのこの時間だとご飯屋さん探すの大変だよね」
「まぁ、居酒屋かファミレスくらいしか開いてないだろうなぁ」
「ファミレスでいいんじゃないかな。別に私はどこでもいいし」
「そうだな。お酒頼まないのに居酒屋もアレだし」
「うん」
私がシートベルトをしたのを見計らって、プロデューサーが「じゃあ行くかー」とアクセルを踏んだ。
走り出す車と、ゆっくりと、しかし確実に遠ざかるライブ会場。
さっきまでの光景はもう過去なのだ、ということを実感させられる。
今日ために、昨日まで全力全霊で取り組んできたけれど、また別の未来のために積み上げる日々が始まるのだ。
いつも思うことだけれど、なんだかマラソンみたいだ。
なんて、ちょっとだけセンチメンタルな気持ちになっていたところ、プロデューサーが私を呼ぶ。
「そういえば、俺も明日オフにしてあるんだけど」
「あれ、プロデューサーもなんだ」
「うん」
なんとなく、プロデューサーが言い出したいことに察しがついた。
だから私はプロデューサーがそれを言うより先に、口を開く。
「一緒に観光してから帰ろっか」
「……そう言おうと思ってたとこ」
「そうなんだ。気が合うね」
一秒に満たない短い瞬間、目が合う。
どちらが先であったか、二人だけの車内は、くすくすという笑いで満ちた。
これからも、私はいろんな会場で歌うのだろう。
けど、たぶん。
その後に訪れる、こういう時間だけは変わらなさそうだ。
なんて。
おわり
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