【バンドリ】花園たえ「冬が来る前に」 (21)


※地の文の話です

 少し百合してます

 別段R18要素もない話です


 晩秋の太陽は足が速い。

 放課後の花咲川女子学園の教室で、茜差す窓から部活に精を出す運動部の生徒たちを眺めながら、山吹沙綾はもう冬が近いんだと他人事のようにぼんやりと考えていた。その彼女の隣の席で、花園たえが真面目な顔でエプロンに刺繍を施している。

「…………」

 その横顔に目を移した沙綾は、おたえは本当に好きなことになると一生懸命だな、なんて思う。

 たえが腕によりをかけているエプロンは、家庭科の実習で作っているものだ。簡単な裁縫でエプロンを作るだけならすぐ終わるのだが、彼女はそれを良しとしなかった。

 今回はエプロンにどうしてもウサギの刺繍を入れたいと言って、妥協は一切許さないという姿勢で実習に臨んでいた。

 そして授業時間のほとんどを「エプロンのどこに刺繍を入れるか、そしてどんなウサギの刺繍を入れるか、あ、でもウサギのワッペンを買ってきてそれを付けるのもありかもしれない。ちょっと調べてみよう」なんて考えることに費やした彼女は、結果として期限内に課題作を提出することが出来なかった。

(そういえば出会ったばっかりの時もそうだったなぁ)

 あの時は香澄と一緒にギターを入れられる大きなナップサックを作ろうとしていたな、と懐かしい記憶を掘り起こす。

 たえはその課題を終わらせるために居残りでエプロンを仕上げていて、特に予定の入っていなかった沙綾はその手伝いとして彼女とともに教室に残っているのだった。


「……よし、出来た」

 まぁ、手伝いって言ってもほとんど何もしてないけど……と沙綾が胸中で呟いたところで、たえは顔を上げて一つ頷く。

「完成した?」

「うん。見て、目の色が違うオッちゃんのエプロンだよ」

 そう言って、自慢気に出来たばかりの刺繍を沙綾に見せる。淡いクリーム色をしたエプロンのど真ん中に、デフォルメされた大きなウサギの顔があった。確かに両目の色に違う刺繍糸を使ってオッドアイが表現されている。

「へー、可愛く出来たね」

「沙綾が手伝ってくれたおかげだね。ありがとう、沙綾」

「いやいや、私はほとんど何もしてないって」

 ニコリと笑ってお礼を言うたえに、沙綾は微苦笑を返した。

「そんなことないよ」

「……そうかなぁ?」

 沙綾はこの居残りのことを回想する。

 まずホームルームが終わってからおたえに少し手伝ってほしいって言われたこと。

 それで、特に予定もないしいいよ、と頷いてから私がやったことといえば……どの色の刺繍糸を使うか悩むおたえに「沙綾の好きな色は?」と聞かれて、それに答えたこと。あとはほとんどぼんやりおたえを見つめていただけのような気がする。

 ……うん、改めて考えてみると本当に全然何もやってない。


「隣にいてくれるだけで集中できるから。ほら、一人ぼっちで黙々とやってるとちょっと寂しいし、ウサギって寂しがり屋な子もいるし」

「あー……」

 それなら隣にいるだけで手伝ったことになるのかな……でも、だとしたら手伝うのは私じゃなくても良かったような気がしないでもない。いや、友達に頼られて嫌な気は全然しないけど。

 そんなことを脳裏に巡らせていると、たえは席から立ち上がって意気揚々と胸を張る。

「それじゃあちょっとこれ、提出してくるね。お礼したいから待っててくれる、沙綾?」

「別にお礼なんていいってば」

「うーんと、じゃあ一緒に帰りたいから」

「ん、了解」

「ありがと。じゃ、ちょっと行ってくるね」

「はいはい。廊下は走っちゃダメだよ」

「うん」

 沙綾の声にたえは頷くと、軽い足取りでパタパタと駆けていった。……走っちゃダメって言ったんだけどなぁ。


(まぁいっか)

 現在時刻は午後五時前。太陽もかなり西に傾き、中庭の木々が背の高い影を作っていた。

 こんな時間に廊下で誰かにぶつかることもなければ、厳しい風紀委員や先生に見つかって注意されることもないだろう。

 沙綾はそう思って、一つ伸びをする。背中からパキパキと骨の鳴る音がした。

「うわ、なんかすごい音したなぁ」

 大きく息を吐き出してから思う。

 最近はやまぶきベーカリーもバンドもあまり忙しくなく、余裕のある日々が続いていた。

 だけどこういう暇な時になると、どうにも忙しかったころから溜まっていた疲れというものが実感できるようになってしまう。なんだか少しだけ背中が張ったような、肩が重いような感じが……。

「いやいや……私はまだそんな歳じゃないって」

 沙綾は自分の思考に自分でツッコミを入れる。それが一人の教室に思ったよりも大きく響いてちょっとだけ寂しくなった。

「…………」

 その気持ちを誤魔化そうと、なんとはなしに教室を見回して、ポッピンパーティーのメンバーの席に順々に視線を送る。

(席替えして、香澄が窓際の一番前で、その三つ後ろが私。私の隣がおたえで、そこから右斜め前に桂馬飛びした位置にりみりんで……)

 それらの席を見ていると、休み時間は隣のクラスの有咲も含めて並んだ沙綾とたえの席にみんなが集まってくる賑やかな映像が頭によぎる。そのせいで誤魔化すはずだった寂しさがより掻き立てられた気がした。


「ただいまっ、沙綾っ」

「わっ」

 おたえ、早く戻ってこないかぁ……なんてちょうど思い始めたところで、出て行った時よりも軽やかで速い足取りのたえが教室に入ってきた。

「ず、ずいぶんと早いお戻りで……」

「うん、待たせるの悪いし、沙綾も一人だと寂しいかなって」

「そ、そう。気を遣ってくれてありがとね」

「ううん。……あっ」

 と、たえは何かに気付いたように口を開け、それからすぐにシュンと俯いてしまった。

「どうかしたの?」

「うん……ごめん、沙綾……」

「え、何が?」

 そんなに深刻に謝られるようなことをされただろうか。むしろ寂しいって思った瞬間に来てくれてちょっと嬉しかったけど……と沙綾が考えているうちに、たえは口を開く。

「走るなって言われてたのに……廊下、走っちゃった……」

「……ぷっ、あは、あはは!」

 そして吐き出された言葉はあまりにも子供じみたもので、沙綾は思わず吹き出してしまった。

「え、どうしてそんなに笑ってるの?」

「ううん、なんでもないよ。やっぱりおたえはおたえだなーって思って」

「うーん?」

 言葉の意味を掴みかねて、たえは首を傾げる。長くて綺麗な黒髪がフワリとそれに追随した。その様子になんとなく沙綾は「犬っぽいなぁ」なんてことを思う。


「気にしない気にしない。もう用事は終わったんだよね。それじゃあ帰ろっか」

「あ、ちょっと待って」

 そう言って立ち上がろうとした沙綾をたえは手で制す。どうかしたの、と目で尋ねると、たえは自分の机の横に掛けたバッグを漁り、小さなチューブを取り出した。そして席に腰を下ろして「ん」と沙綾に手を差し出す。

「え?」

「これ、ハンドクリーム。塗ってあげる」

「……ええ?」

 たえの行動に合点がいかなかった沙綾だが、続けられた言葉を聞いてさらに困惑してしまった。

「えーっと……どうして?」

「お礼だよ。課題を手伝ってくれたお礼」

「なんでそれでハンドクリーム……」

「このクリームの匂い、好きなんだ」

「……あー、つまりいい匂いだから、私にもつけてみて欲しいって感じかな?」

 相変わらず何段階か会話のステップを飛び越えてくるたえの言葉。大体何が言いたいかが分かるようになってきてるからもうおたえとも結構長い付き合いなんだよなぁ、なんて沙綾は思いつつ、言葉を返す。

「うん、そんな感じ……だと思う」

「どうして自分のことなのに自信なさげなの……」

「まぁまぁ。ほら、沙綾。手、貸して」


「…………」

 いい匂いだから試してみてほしい、ということならクリームだけ借りて自分で塗ればいい話だし、そもそも子供じゃないんだから、同性とはいえ他人に塗ってもらうものでもないような気がしないでもない。

「……沙綾、ハンドクリーム嫌い……?」

「……ううん、嫌いじゃないよ。それじゃあせっかくだし、お願いしようかな?」

 そうは思うものの、日頃から世話焼きな性格を自覚している沙綾からすれば、友達以上だと胸を張って宣言できる親友の困ったような顔を見てしまうと、よほど突拍子のないお願いでもなければ断ることなんて出来っこないのだった。

「ありがとう、沙綾。二つの意味で」

 そしてそんな沙綾の言葉を聞いて、パッと笑顔になるたえ。

 それを見て、『うん、やっぱり断らなくてよかった』と沙綾は思う。

 山吹沙綾にとって、ポッピンパーティーの親友の中でも戸山香澄と並んで手のかかる妹みたいな位置づけにいるのが花園たえだ。そしてそんな手のかかる妹ほどどうにも世話を焼きたくなる厄介な性分を彼女は持っていた。


「二つの意味って?」

「課題を手伝ってくれたことと、あとお礼を受け取ってくれたお礼」

「そっか。どういたしまして」

「うんっ。それじゃあ、ちょっと手、借りるね」

「はーい、お願いします」

 言いつつ、沙綾は右手をたえに差し出す。たえはとても大事なものを扱うようにそっとその手の下に自分の左手を添えて、右手に持ったチューブからクリームを掌へ押し出す。ライムの匂いに微かな甘い花の香りを混ぜた芳香がフワリと鼻腔をくすぐった。

「あ、いい匂い。結構好きかも」

「ほんと? よかった。私も好きなんだ、この香り」

 たえは嬉しそうに目尻を下げて言葉を続ける。

「それじゃあ、塗ってくね」

「うん」

「まずは掌に、っと」

 たえの右手が沙綾の右手を優しく撫でる。そのこそばゆい感覚に思わず沙綾は笑ってしまった。

「なんかくすぐったいなぁ」

「我慢だよ、沙綾」

「はーい」

 まるで子供を諭すお姉さんのように優しい響きの声。それに少しふざけた調子の返事をする。

 それから口をつぐんで、ただ熱心に動くたえの右手を沙綾は眺める。

(……おたえの手って、本当に綺麗だな)

 そしてふとそんなこと思う。


 ギターの練習をしている時も、フレットの上を縦横無尽に動く左手や、アルペジオをつま弾く右手の動きに見惚れそうになることがあった。その綺麗な手が丁寧に、まるで高価な陶磁器を扱うように、自分の手をサラリサラリと撫でまわす。

 たえ自身はあまり気を配っていないのかもしれないが、きっと女の子の二人に一人くらいが羨むであろう綺麗な長い髪。それに負けず劣らずキメが細かい絹のような肌。女性の中では長く、スラリとした指。

 それが自分の掌を撫でまわし、時には指同士を絡め、あるいは指の一本一本を舐るように、余すことなく這いまわる。

「…………」

 ひんやりとした、たえの掌。その冷たさと、自身に触れる柔らかい感触がどんどん鮮明になっているのはどうしてだろうか。沙綾は分かりきったことから目を逸らすように考えるけれど、段々と顔まで熱を持ち始めてきていることもきちんと自覚してしまっていた。

 サラリ、サラリ、サラリ。フワリ、フワリ。


「はい、右手はおしまい。次は左手だね」

「あっ、う、うん……」

 まるでたえの匂いが移るように、あなたは私の所有物なんだとマーキングをされているような錯覚さえ覚え始めたところで、そんな言葉が鼓膜を震わせる。熱に浮かされたようなぼんやりとした頭で、沙綾は言葉を返した。

「……? 沙綾、顔が赤くない?」

「えっ!? え、そ、そうかな……」

「うん、そうだと思う。大丈夫? 熱とかない?」

「いや、うん、平気……」

 たぶん、とは口の中だけで呟く。

 同性の親友にハンドクリームを塗ってもらっている。それだけのことに何だかやましいことを考えていた自分が恥ずかしかった、けど。

「そっか。それじゃあ左手も、ちょっと借りるね」

「……うん」

『もう感謝の気持ちは十分受け取ったからいいよ、こっちは自分で塗るからさ』
『そこまでしてもらうのは悪いよ。クリームだけちょっともらっていい?』

 ……そんな遠慮の言葉が脳裏にチラついて、それを吐き出すべきだと沙綾の中の冷静な部分は考える。しかし口から出たのは、どこか熱を持ってしまった、普段の自分とはかけ離れた自分が出す素直な肯定の響きの声だった。


「ふんふんふふーん♪」

 たえは先ほどと何も変わらず、鼻歌を歌いながら、沙綾の左手にクリームを乗せる。その匂いに、重ねられた手の感触に、沙綾の肩がぴくんと揺れる。

「……沙綾の手、いいなぁ」

「え……?」

 そして右手にされたように、酷く脆い陶磁器を扱うように、愛らしいペットを愛でるように、たえの手が沙綾の左手を舐る。その動きに合わせてたえは言葉を投げてくる。

「とっても柔らかくて、あったかくて……なんだか優しい気持ちになれる」

「そ、そう、かなぁ? おたえの方がよっぽど綺麗だし柔らかいと思うけど……」

「そんなことないよ。なんだろう、こうやって触ってると、すごく胸がポカポカするっていうか、満たされるっていうか……」

 言葉を吐き出しながらも、たえは手を止めない。その愛撫に気が気じゃない沙綾は、息も絶え絶えに言葉を返す。

「あー、でも私、家事とかお店の手伝い、とか、やるからさ……冬が近くなってくると……手が結構、荒れちゃうんだよね……」

「なんと。それはいけない」

 と、そこで、今までずっと沙綾の手を見つめていたたえが顔を上げた。

 思ったより近くなった顔に少しドキリとしつつ、「え?」と小さく返すと、ヤル気に満ちた瞳が沙綾を射抜く。


「沙綾の綺麗な手を守るっていう使命……しっかりやり遂げなくちゃ」

「え、いや、そんな大層なものじゃ――」

「遠慮しないで。冬が来る前に、沙綾の手は私が守るよ」

 言いかけた言葉を遮って、たえはふんすと鼻息荒くそう宣言する。その言葉に、嫌な――冷静じゃない部分からすると甘美な――予感がした。

「もっと丁寧に、もっとしっかりと、もっといっぱい塗らなくっちゃ。えいっ」

「っ……!?」

 今まで沙綾の手を支えているだけだったたえの左手。それが気合の言葉とともに、右手と一緒に攻勢に転じた。

 左手で手の甲を撫でられ、右手は指と指の間を丁寧に丁寧に這いまわる。

 手全体を包み込むたえの感触に沙綾は奥歯を噛みしめた。そうでもしないと変な声が出てしまいそうだった。

(これはおたえがクリームを塗ってくれてるだけ……それ以上でもそれ以下でもない、純然たる厚意からの行動……)

 そして心の中で念仏のように再三その文言を繰り返す。

 そう、これはいたって普通の、いわゆる友達同士のじゃれあい。おたえに悪気も何もないし、私もヘンなことなんて考えていないし、きっとおたえの親切心のおかげで今年の冬は手が荒れないはずだ。だからこれは普通のこと、普通のこと……。

 もはやたえの両手になぶられているような気分でしかなかったけれど、それでもその念仏のおかげでどうにか沙綾は平静を保てていた。


「よし、これで終わり」

 そして何重にも重ねてクリームを塗ってくれていたたえの手が止まり、そんな言葉が吐き出される。やっと終わってくれた行為にホッと息を吐きかけ、

「じゃあ次はマッサージだね」

「ちょ、そこまでは――んっ……!」

 続けられた言葉と先ほどよりも強い刺激に、とうとう口からオカシナ声が漏れてしまうのだった。

「どうかした?」

「っ、っ……な、なんでも。ちょっとびっくりした、だけ……」

「そっか」

 沙綾の様子に首を傾げたたえだが、その返事を聞いて、再び手を動かす。『優しく撫でる』とは違う、『やや強く摩る』という動きだ。それは先ほどの弱々しく、どこか焦らすような感覚とは大きく違っていた。

 強めに押し付けられたたえのスラリとした指が自分の肌に絡まるような感覚。きめ細かい絹の感触がより強い刺激となって、手を襲う。

 掌はまだいい。問題は手の甲だ。

 さっき自覚したけれど、どうにも自分は手の甲が弱いみたいだ。あまり人と触れる場所ではないけど、触れようと思えばすぐに触れられる場所。そこがやたらと敏感になってしまっているのが痛いほど分かる。

 だからこそ、自分の弱い場所を行ったり来たりと擦っていくたえの左手が恨めしく、そしてそれと裏腹にもっと強く刺激してほしいというような欲求を覚えてしまう。


「マッサージはね、まず最初に摩ってあげて、患部をあっためてあげるといいんだって」

「そ、それ、どこ情報……?」

「お母さんが読んでたハンドマッサージの本」

「そ、そっか……」

 そんな沙綾の気持ちを露知らず、たえはなんでもないような会話を振ってくる。沙綾としては出来るだけ口をつぐんでいたかったけれど、言葉を返さないと不審に思われてしまうから、口を開かない訳にはいかない。

 喉元までさきほどみたいな変な言葉が出かかるのを生唾と一緒にどうにか飲み下して、一心不乱に一生懸命なたえのマッサージを耐える。

 スリスリスリ。スッ、スッ、スッ。

「っ……」

 完全なる善意からの行動だというのは疑いようもなくて、気を遣ってくれていることが嬉しいのは嬉しい。

 だけど緩急をつけて、優しく小刻みな動きで擦りつけてきたかと思えば、次には大きな動きでやや荒っぽく刺激を送ってくるたえの手になんとももどかしい思いを抱かずにはいられない。

(どうせなら……ひと思いに一気に強くしてくれれば……)

 と、そんなことをうっかり思い、たえの両手が自分の手を激しく責め立てることを想像してしまって、沙綾はかぁっと顔が熱くなる。

 ……もしもそんなことになったら。

 やめて、と言ってもきっとたえは聞き届けないだろう。沙綾がどういう風に感じ何を思っているかを知らず、無邪気な笑顔を浮かべて、ただただ敏感な場所をもみくちゃにする。気の向くままに弄られ、擦られ、なぶられる。

 友人相手、ましてや同性相手にそんな切なさを掻き立てられるような刺激を与えられるというある種の背徳感を想像する。羞恥心と一緒に得も言われぬ気持ちが煽られ、背筋が少し震えた。


「沙綾、気持ちいい?」

 やや妖しい色をしたおかしな想像の世界から、たえの問いかけで沙綾の意識は教室に帰ってくる。

 手を擦りながら上目遣いに見つめてくるたえ。少し首を傾げ、その拍子に彼女の横顔を覆う垂れた黒髪が微かに揺れた。それにさえ妙な艶めかしさを感じてしまった。

「っ、う、うん、まぁ……」

「よかった。もっと気持ちよくなれるように頑張るね?」

「…………」

 まずい、と思って奥歯を先ほどよりも強く噛みしめる。

 100%純粋無垢な厚意。健気な気遣い。本当に嬉しそうに顔を綻ばせるいじらしい仕草。

 そのどれもが沙綾の中の何かおかしな感情をチクチクと刺してきて、気を張っていないと変な声が……この雰囲気に流された、艶っぽい声と言葉を吐き出してしまいそうだった。

「んしょ、んしょ……」

 たえは小さく声を出しながら、沙綾に手を擦りつける。時おりチラリと様子をうかがう上目遣いと視線が絡み合う。その度に心の奥底に上手く表現できない感情が生まれて、胸が締め付けられる思いだった。

 このままじゃマズイ、見えなければ少しはマシになるかも……なんて思って、沙綾はたえから顔を背けてキュッと目を瞑る。

「……ぅっ」

 しかしそれは逆効果だった。


 見えない分、たえの手の柔らかくてひんやりとした感覚がより鮮明に感じられてしまう。一生懸命に沙綾を慰撫する彼女の息遣いが聞こえてきてしまう。そして何より、手をマッサージされているという現実が見えなくなったから、脳がおかしな空想を暗い視界の中へ広げてしまう。

 歳の近い妹みたいな友達以上の親友。スラリとしたスレンダーで、口を開かなければアイドルや芸能人顔負けの綺麗な女の子。

 そんな子に、ただ純然たる好意と厚意から、「いっぱい気持ちよくなってね?」と奉仕を受ける。

 こちらはその快楽を享受している側なのに、どうしてかその子の方がとても嬉しそうで、自分がぴくんと反応するたびに、上目遣いでその所作がどういった感情からやってきたものなのかを分析している。

 そしてそれが「気持ちよくなってくれている」、「心地よさそうだ」、「ここを強くされるのが好きなんだ」……と分かれば、やっぱり嬉しそうに笑って、「もっともっとあなたの為に頑張るね」なんて健気に囁く。

 本から受け売りの知識でたどたどしかった手つき。それにも段々慣れが出てきて、むしろ自分の反応を――ぴくんと肩が揺れ、口から熱を帯びた吐息が漏れ、どこか切なさに似た感情から眉根を寄せてしまう表情なんかを楽しむように、どんどん行為がエスカレートしていく。

 頭はそれを拒まなくては、と考えるけど、心はそれを受け入れてしまいたいと願ってしまう。夕暮れの教室で、艶やかに揺れる黒髪とフワリと翻るスカートにいつしか常識と非常識とが逆転していて、他の親友たちの席に見つめられているなか、ただ官能的な快楽に耽って背徳の情に傾倒していく。

 鼻腔をくすぐるライムの中に隠した仄甘い花の香。ああそうだ、確かこの香りはホワイトリリーのものだ。

 今さらそんなことをぼんやりと思い浮かべた頭はとっくに心の熱にとかされているし、身体の奥底までもがそれに犯されているから、開け放たれた悦楽の園へ自ら進んで足を踏み入れてしまうんだ。


「……沙綾?」

「ひゃっ!?」

 と、思考があらぬ方向へ逸れに逸れたところで、たえの不思議そうな声が聞こえた。沙綾は色々な感情が込められた素っ頓狂な悲鳴を上げて目を開く。

「大丈夫? なんだかキュッて目を瞑ってたけど」

「う、ううん! ぜ、全然、別に、なんともないよっ!?」

 言いつつ、脳裏に浮かべていた百合色の夕景を慌ててかき消す。そして変な妄想をしていたことが途端に恥ずかしくなって、身体中が変に熱くなってしまう。

「でも顔が赤いような……本当に熱とかない?」

「だ、大丈夫! ほら、顔が赤いのはあれだよ、夕焼け空がね、こんなに赤いからさ……?」

「あ、そっか。でも一応」

「……え」

 手を握っていたたえの掌がスッと伸びてくる。あまりに自然な動きだったから、避けることも身構えることも出来なかった。ぴとっ、と沙綾のおでこに柔らかくてひんやりとした感覚がくっつく。

「うーん、ちょっと熱があるような気がするけど」

「え、ちょ、あ、あの……」

 おたえが私のおでこに手を当てて熱を計っている。

 それを理解した沙綾は、より強くなったたえの掌から香るハンドクリームの匂いと、ぐっと近くなった彼女の端正な顔立ちにどんどん心拍数が上がっていく。


「あれ、なんだかさらに熱くなってるような……」

「い、いやっ、大丈夫だからっ!」

 いつもであれば何でもない友達同士のやり取りで済ませられるけれど、生憎現在の沙綾の思考回路はショート寸前で、ボリューム調整の出来ない壊れたアンプが常時最大音量でハウリングし続けているような状態だった。

 そんな状態で「あの綺麗な手が自分のおでこに当てられているだなんて」と思うといつ熱暴走を起こしてもおかしくはないし、その暴走による被害者はたえ自身になることはまず間違いがなくて、『でもおたえのことだから「沙綾なら……いいよ?」くらい言いそうだなぁ』なんて考えてしまう程度に沙綾の頭の中では致命的なエラーが発生していた。

「本当に大丈夫?」

「大丈夫! 全然大丈夫! おたえのおかげでびっくりするくらい元気だから!」

 確かに元気なことには間違いがないけれど、それはあってはいけない元気だと思いつつ、沙綾は椅子を蹴り飛ばす勢いで立ち上がる。

「ほ、ほら、もう遅いしそろそろ帰ろっか!」

「え、でもまだマッサージの途中だよ」

「…………」

 きょとんと首を傾げるたえ。それを見下ろす沙綾。


 正直なことを言ってしまえば後ろ髪引かれる思いは多々ある。またおたえの手に気持ちよくしてもらえる、と考えると心の奥底から生じるあのおかしな熱が全身を襲うし、冷静になろうとしている思考をチリチリと焦がす。

「そっ、それは、」

「うん」

 色々な意味でイケないことであるし、そういうのはもっと大人になってから……いや、そもそも同性の親友相手にそんなことを考えている時点で世間一般では限りなくアウトに近いアウトというかフェンス直撃のダブルプレーでゲームセットだという心境が吹きっさらしの浜辺で強い海陸風に煽られているんだけど、とりあえず。

「……また今度、してもらってもいい……?」

「いいよ。いつでも言ってね。沙綾も沙綾の手も大好きだから」

「……うん」

 ニコリと夕焼けに照らされるたえの笑顔。

 その「大好き」に関して問い質したいことが今日から山ほど生まれてしまった訳だけれど、でもこのこそばゆい感情というものは決して悪いものじゃなくて、また手と手が触れ合えるならそれでいいや……なんて考えてしまって。

「くんくん……」

「ど、どうしたの、自分の手と私の手を嗅ぎ比べて……」

「えへへ、沙綾とお揃いの匂いだ」

「……そっ、そう、だね」

 そしてたえの何でもない笑顔にさえドキドキして、自分の顔が今はきっとかなり赤いだろうことも実感しつつ、『ああ、きっと世の中で言われる問題の先延ばしってこういうことを言うんだろうな』と沙綾は思うのだった。


おわり


イチャイチャのベクトルを間違えた気がしたのでこちらに立てました。色々とすいませんでした。

HTML化依頼出してきます。

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