唯「四月は君の華」 (92)

0. プロローグ

モノトーンだった日々に、渇いた日常に水滴が垂らされた。

水滴は光を選り分け、7色の虹を作る。

水滴は私の心を濡らし、潤してゆく。


これはあなたの水滴の物語。


これは私たちが願い探し求め、辿り着いた最後の世界の物語。

SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1521546929

けいおんクロスss『白金の空』第二部です。
第二部は四月は君の嘘とのクロスオーバーです。

第一部はこちらです
唯「奇跡も、魔法も、あるんだよ」 - SSまとめ速報
(https://ex14.vip2ch.com/i/read/news4ssnip/1521297992/)

前編中編後編を三日かけて投稿します
よろしくお願いします

【中学時代】


1.

今日、私はあなたを見つけた。


春。桜舞い散る4月。

校舎裏。放課後。

あなたはそこにいた。

音楽プレイヤーから発せられる、色鮮やかなピアノの音色。
そして、窓から顔を出す、寂しげな表情をした少女。

あなたに引き付けられたかのように、私は気付けば外からあなたを見つめていた。

今、私はあなたを見つけた。

2.

「なんで……泣いてるんですか?」

私は2階の少女に、心持ち背伸びをするように話しかけた。

少女は私に気付くと思い出したように涙を拭うと、照れ笑いして、

「あなたもね」

気付けば、私の目は涙でいっぱいになっていた。

3.

「何をやってたんですか?」

私は少女が階段から降りてくるのを待って、そう切り出した。私たちは帰るために生徒玄関へ向かう。

「別に、何もしてないよ。いつもああやって、音楽室にこもってるの」

私より一つ上の、つまり2年生の証である赤色のうち履き。私より古くなった学生鞄。

周りの子たちとは、どうしても相容れない特別さがあった。

「平沢、唯さん」

少女はちょっと驚いたように私を見る。どこか無気力に、でも確かに私を見てくれた。

「なんで私の名前、知ってるの?」

知っている。何年前だったかな。多分5年くらい前から。

でも私は何も知らない。この少女がこの学校の生徒だったことも、少女の涙の理由も。

「私、ギタリストなんです」

私は少女に振り返る。

平沢唯は天才ピアニスト。
ピアノ業界を揺るがせた『2代目』。

「ずっと前から好きでした」

少女はころっとした目で私を見る。

これは春の物語。
私の春は、はじまり始める。

「……あなたのピアノが」

5年振りに、私は笑った。

4.

「平沢先輩、アイス食べて行きませんか?」

平沢先輩はぎこちなく私の隣を歩いていて、私の言葉を聞いて不思議そうにする。

「アイスって……あのアイス?」

「他にどんなアイスがあるんですか? ……ほら、あそこにありますよ」

アイスは嫌いだったかな、なんて私の心配は杞憂だった。平沢先輩はアイスクリーム屋の目の前に着くと、口を開けて涎を垂らした。

5.

「アイスがそんなに珍しいですか?」

二段アイスにがっつく平沢先輩を横目に、私はちまちまと山を崩していった。

「え、うんん、アイスはいつも食べてるよ」

ぎこちない笑顔。どこかすごくよそよそしい。

「友達と来るのが……初めてだったから……」

平沢先輩は言い終わってから、あっと口を押さえて、

「ご、ごめん! 勝手に友達だなんて言って。馴れ馴れしかったよね」

「え、いえ。そんなことないですよ! 私は平沢先輩と友達になれたらすごい嬉しいです!」

恥ずかしいことを言った。そうでもしないと、先輩がなんだかもっと離れて行ってしまうと思ったから。

「ほんとに?」

先輩の不安そうな目。私はそんな目を見て、冗談交じりに自信満々に言った。

「もちろん。私は嘘をついたことがありませんから」

「そっか……」

つっこんではくれなかった。私には残念ながら、先輩がどんな顔をしているのかが見えなかった。

子供のころ、今より小さなころ。私はこの人に憧れた。憧れて、あの演奏に心を奪われた。その人が隣にいる。ちょっと贅沢で、とても幸せだった。

「唯で、いいから」

「はい?」

先輩は顔を真っ赤にして、下を向く。

「私の呼び名。唯でいいよ」

「唯、先輩……」

春の風だった。私の心を吹き抜ける。

「じゃあ私のことも、名前で呼んでください」

先輩と目が合う。ああそうか、と私は照れ笑う。

「私は一年の、中野梓です」

精一杯の春盛り。

私はあなた、唯先輩を見つけた。

6.唯side 同日夜

「どうしたの? お姉ちゃん」

「ん、なにが?」

私は憂の作った特大ハンバーグを頬張る。

「何かいいことでもあったの? お姉ちゃんすっごく楽しそう」

憂は自分のご飯にも手をつけずに、楽しそうに私に問いかける。

「えっとね、今日……」

私は、笑みが零れ落ちてしまっていた。

「今日、友達ができたんだよ……」

それから寝るまでずっと、たくさんの希望とちょっとの不安で私の心はどきどきしていた。

7.梓side 次の日 昼休み

私はお弁当を持って二階の廊下を歩く。入学したばかりの中学校は、とても広く感じた。

「失礼しまーす……」

音楽室の中には唯先輩が一人でいた。ピアノの前に座っている。
唯先輩は私に気づくと、大きく手を振る。

「梓ちゃん、いらっしゃい!」

唯先輩は昨日より自然な笑顔で、私を迎えてくれた。

8.

他愛もない話。どこにでもある日常。
そんな当たり前を、私たちは人の目を逃れて楽しんでいた。

「梓ちゃん、それ……」

唯先輩は私のギターを指差す。

「ああ、これは私のギターです。ムスタングっていうんですよ」

「そういえば、梓ちゃんはギタリストだって言ってたよね」

私はケースから取り出し、ムスタングを抱えてみた。唯先輩はかっこいいだとか何とか、とても女子らしい発言をしていた。

「弾いてみて……くれないかな?」

「いいですよ」

私は最近練習している曲のワンフレーズを弾いてみる。もちろん自信のある部分だ。

音が楽譜を正確に掴む。一直線のライン。だけど音は、響かない。



唯先輩はもう気づいただろう。私の音には、感情がない。

9.

「正直な話、上手く弾けてるとは、自分では思ってます。でもよく言われるんです。お前の演奏はつまらないって」

ドの音にはドの音、レの音にはレの音。じゃあ私の感情には、何の音を出せばいいのだろう。

「だから……」

だからこそ。

私は唯先輩の目を見て言った。

「5年前、私はあなたのピアノを聞いた時、それからずっとあなたの音が忘れられないんです」

昨日聞こえてきた音楽プレイヤーの音。

それは私の知っている、5年前の音だった。

あなたは、唯先輩は……

「もうピアノ、弾かないんですか……?」

悲しげなリズムに合わせて、春の風が窓を揺らした。

10.

「ピアノは弾かないよ」

唯先輩はピアノの前に座り、鍵盤を撫でた。謝るように、私に背を向けるように。

「もう弾けないんだ……」

「弾けない……?」

唯先輩はどこか恥ずかしむように、困ったように笑った。

「私ね、演奏すると発作が起こるんだ」

私には、唯先輩が何を言っているのかが分からなかった。

11.夕方

「梓ー! お風呂入っちゃいなさいよー!」

「……もうちょっとで行くー」

私はソファの上で、ギターを持ちながらぼーっとしていた。お母さんが夕ご飯を作る後ろ姿を眺め、何となく話しかけた。

「ねえお母さん、平沢唯って覚えてる?」

「ん?」

お母さんは一度手を止めて、また動き出した。

「もちろん覚えてるよ。ピアノの子でしょ? それがどうかしたの?」

「あのね、その人……唯先輩が、うちの中学にいたの」

お母さんは後ろを向きながらも、私にはとても驚いているように見えた。

「仲良くなったの?」

「え、うん。ダメだった?」

「ダメなわけないでしょ、よかったじゃん。梓、昔その子の演奏聞いてから、あなたすごく変わったのよ」

やっぱりそう見えたのかな。それまでギターを教えてくれたお父さんやお母さんが教えてくれなかったことを、一度の演奏で叩き込まれたのだ。

「『自由の女神』だとか『原曲ブレイカー』だとか『進化した二代目』だとか変な名前をいっぱい持ってる子だったね。実際演奏はすごかったよ」

全国ピアノコンクールで最年少優勝、海外のテレビ番組に出演してから一時期海外オファーが殺到した、何て話は有名で。でも私はそんな話には興味はない。

「お母さんは、何で唯先輩がピアノ辞めちゃったか、知ってる……?」

お母さんは言い辛そうに、あくまで噂なんだけどねと前置きをする。

「学校でひどいいじめを受けて、脳に障害ができたんだって」

唯先輩の寂しそうな笑顔が、私を初めて見たときの怯えたような表情が、自然と思い出されていた。

12.past 憂side

お姉ちゃんがピアノを初めて弾いたのは、4歳の誕生日。お母さんがおもちゃ屋さんで買ってきた、小さなキーボードだった。

お姉ちゃんはそれからキーボードにのめり込んで、ピアノ教室に通うようになるほどにまで熱中していた。

才能の開花は、突然だった。

私とお姉ちゃんが見に行った、とある音楽系の中学校の学園祭ステージ。変な着ぐるみが踊ったり跳ねたり、とても面白かったけどつまらなかったステージ。
ある時、その場の雰囲気が変わった。

金髪の女の人と、メガネをかけた青い服を着た男の人。

2人の演奏は、お姉ちゃんの人生を変えた。


「その演奏……どうしたの唯ちゃん?!」

「おにいちゃんとおねえちゃんのまねだよ!」

お姉ちゃんは5歳にして地域の中学生以下の部で入賞、8歳で全国ピアノコンクールに出場し、最年少優勝を果たした。

13.梓side 3日後 昼休み

「あの、平沢憂さん、だよね」

私は決心して話しかける。同じクラスにいた平沢という苗字。調べてみると、唯先輩の妹だということがわかった。

「うんそうだよ、中野梓ちゃんだっけ?」

すごい、何で覚えてるんだろう。
そんなことはよくて。

「うん、あのね、ちょっとお話し、いいかな……?」

不思議そうな顔をする平沢さん。

「お姉さんの……平沢唯さんのことなんだけど……」

そう言うと、すぐに付いてきた。

14.

「私とお姉ちゃんはね、もともと小中高一貫の、有名な音楽大学の附属校に通ってたの。私もお姉ちゃんもピアノをやってたから。でも小学校を卒業するとき、お姉ちゃんのいじめが原因で転校することにしたんだ。私も一年遅れて、小学校卒業からお姉ちゃんが通ってるこの中学校に進学したの」

よく考えればあり得る話だ。その学校の中でも、唯先輩は飛び抜けていただろう。周囲からは疎まれるかは分からないが、少なくとも浮いていく。唯先輩は子どもっぽいから尚更、同級生は劣等感を感じたのだろう。

「お姉ちゃんはそれから、やっぱり人付き合いが苦手になっちゃって、この学校に入っても友達ができなかったみたい」

唯先輩は今もずっと音楽室にいる。私は唯先輩が他の人と喋っているのを、少ない時間だがまだ見たことがない。

ある日。小学校の卒業間近の最後の校内発表会の日、事件は起こったそうだ。

成績上位者だけが演奏をするその発表会で、唯先輩は初めての『発作』を体験した。

「現場は、私も見てたの。お姉ちゃんが演奏を始めた時、ステージのそこらじゅうで爆竹が破裂して、大パニックになった」

唯先輩はその場で気絶した。

それからピアノを弾くときには必ず、唯先輩は『発作』を起こす。ピアノ業界から姿を消したのは、その頃だったそうだ。

15.

「お姉ちゃんは、とっても寂しい思いをしてると思うの。私はお姉ちゃんのことを1番近くで見てきたから、苦しんでる姿も1番見てきた。でもね、」

今までごちゃまぜな感情で強く拳を握っていた平沢さんが、優しく私の手を握った。

「最近、お姉ちゃんが楽しそうなの。それでね、話を聞いたらお友達が出来たって自慢してきたんだよ? お友達って梓ちゃんのことだよね」

自分でも顔が赤くなってるのが分かる。なんだか私も唯先輩と同じような気分でいた。なにせ私にも、友達はいないから。

「お姉ちゃんのこと、よろしくね。私のことも、憂って呼んでくれていいよ?」

「う、い?」

「えへへ、そうそうそんな感じで!」

憂は楽しそうに私を見ていた。私も憂につられて笑ってしまう。

唯先輩のおかげで、私にも1人友達ができたのだった。

16.

ーー私、唯先輩に、もう一度ピアノを弾いて欲しいんだ。

唯先輩もきっと、それを望んでいる。唯先輩はずっと音楽室に、ピアノのそばにいたのだ。

弾いて欲しい。いや、私の中では多分違う。

聞かせて欲しいんだ。あの音を。レコーダーでではなく、私のために弾いて欲しい。

私は音楽室のドアを開ける。

「あ、梓ちゃん!」

ピアノの前に座る唯先輩は、とても小さくて危なっかしいように見えた。

私は無言で、唯先輩の前まで歩く。唯先輩は不思議そうに、ちょっと怯えたようにしていた。

「唯先輩」

これは、愛の告白だ。

私はあなたの音に、恋をした。

「私と一緒に、コンクールに出てくれませんか」

桜舞い散る校庭、音楽室の窓際にも桜が舞い降りていた。

しばらくの空白。緊張の間隔。

唯先輩は口を開けて固まっていた。突然でびっくりしてるよね。


唯先輩はしばらくただ私の目を見つめ、一度だけ小さく頷いた。

17.憂side 放課後

校舎の中に自動販売機はなかったから、私は校舎のすぐそばのコンビニに寄ってから音楽室に向かった。手に持つのはお姉ちゃんが大好きないちご牛乳と、コーヒー牛乳。梓ちゃん、気に入ってくれるかな。

音楽室の窓からこっそりと中を覗く。2人は私が図書館でもらってきたコンクールの資料を床に座って眺めていた。

「お姉ちゃん、頑張ろうって思えたんだ……」

2人はずいぶん仲が良さそうにしていて、特に最近はお姉ちゃんは心を開いたようで、とてもつい数日前に出会ったばかりだとは思えなかった。

しばらくすると、お姉ちゃんは梓ちゃんを押し倒した。梓ちゃんは驚いて抵抗するけど、お姉ちゃんのなすがままになっている。

梓ちゃんは言っていた。お姉ちゃんは知り合ったばかりの時はものすごくヨソヨソしかったけど、最近は隠していた本性らしきものを出し始めていると。

いたずらしちゃおう、私はドアを開けた。

「おじゃましまーす……あ、邪魔しちゃったかな?」

梓ちゃんは顔を真っ赤にする。

「ち、違うの! 唯先輩がいきなり、コンクールの時の髪型研究しようとか言い出して!!」

「いいじゃないかいいじゃないか~。梓ちゃん、きっとツインテール似合うよ~」

「恥ずかしいからいいですっ」

「一回だけ! 一回だけでいいから!」

お姉ちゃんは強引に髪を結び始めた。

「お姉ちゃん、乱暴にしちゃダメだよ? 梓ちゃんも、一回くらいいいじゃん♪」

梓ちゃんは諦めたようだ。恨めしそうに私を見る。

「ここ、差し入れ置いとくね」

「あ、ありがとう。憂」

「できたよ、梓ちゃん!」

じゃじゃーんとでも言うように、梓ちゃんを私に向かせた。ツインテール梓ちゃんは恥ずかしそうにしている。

「梓ちゃんかわいい! 似合ってるよ!」

「でも目立っちゃうよ」

「梓ちゃん、コンクールは目立ってナンボなんだよ!!」

「普段の梓ちゃんも、日本人形みたいでかわいいんだけどね」

「なにそれ嫌味ですか……?」

えへへ、と梓ちゃんに笑いかけた。

「じゃあ私行くね。差し入れ持ってきただけだから」

「憂」

私はお姉ちゃんの方に振り返る。

「私、もう一度頑張ってみるよ」

お姉ちゃんの笑顔は、いじめが起こる前、5年前の笑顔だった。

18.唯side 練習中

ーー近寄んないでくれないかな、バカが移るから。

ーー天才はいいよね~私たちのこと見下してるんでしょ。

罵詈雑言。支離滅裂な言葉が私の頭の中をかき回す。

ーーまた男フッたの? 何人目よ。

ーー話しかけないで!

私は1人だ。孤独。孤独。孤独。孤独……



「唯先輩!!!」



あったかい感触。梓ちゃんが、倒れそうになった私を支えてくれたみたいだった。

『発作』は起こった。

心臓が激しく鼓動する。汗がふきだす。意識が飛びそうになる。身体が震える。息が荒い。苦しい。

私は梓ちゃんにしがみついた。梓ちゃんは私を強く抱き締めてくれた。でも、

あ、ダメだ……

私は意識を失った。

19.梓side

唯先輩を日当たりのいい窓際に寝かせて、私の上着をかけた。タオルで汗を拭いてあげる。

唯先輩は、演奏を始めて30秒ほど、何事もなく演奏をしていた。それから突然、意識が演奏から離れ出し、遂には手が止まり、意識も失ってしまった。

無理、させちゃうんだろうな……

私は、迷わずにはいられなかった。唯先輩の苦しそうな顔。私はそんなの、見たくなかった。

私は春の運動部の威勢のいい声を聞きながら、ずっと唯先輩の手を握っていた。

20.次の日 昼休み

「市内の演奏会?」

私と唯先輩は、憂が持ってきた資料を覗き込んだ。

「うん。毎年この時期にやってるんだって。市外からも何人か来るみたいで、ちょっと大きいみたいだよ。隣のおばあちゃんが実行委員もやってるみたいで、市内の候補者リストに推薦で入れてくれるって言ってたよ」

日時は2週間後。初めての舞台としては、心もとない準備期間だ。

「それまでに演奏を完成させて、お姉ちゃんの発作の対策をするのが必要だね」

「ありがとう憂。何から何まで」

「いいよ、気にしないで? 私も楽しみなんだ」

憂は本当に楽しそうだった。唯先輩のことが大好きなんだろうな。

「私はやりたい」

「ゆ、唯先輩……」

「私、変わりたいよ。逃げてばっかりの自分なんて、もう嫌なんだ」

唯先輩は立ち上がった。私に手を伸ばす。

「梓ちゃん、練習しよ!」

呆気にとられる私と憂。
私は強く、唯先輩の手を掴んだ。

21.

作戦はこうだ。

唯先輩の発作は必ず起こり、発作まではだいたい演奏開始から20秒以上の猶予があることが分かっている。
唯先輩はそれまでの間演奏を続け、発作がくる直前に唯先輩は演奏を中止、そして私のギターのソロパートに入る。

そのような要領で、唯先輩は発作が収まると演奏を再開、そして空白を繰り返し、私はメインのパートをずっと演奏する。演奏が進むにつれて空白の時間が長くなっていくので、不自然のないように繋げなくてはならない。

こんなことができたのは、唯先輩のアレンジがあってこそだ。唯先輩は「原曲ブレイカー」のあだ名の通り、そして「自由の女神」のあだ名に恥じない自由な演奏をしてみせた。

毎回変わる演奏。同じ演奏は2度とできなかった。

そして当日。

22.憂side 当日

「純ちゃん、こっちこっち~!」

「あ、憂~。早いね」

純ちゃんは入り口でウロウロしてから、私のところまでやってきた。

「久しぶりだね、元気にしてた?」

純ちゃんとは古い付き合いで、幼稚園のころからだった。私が音大の附属小に通うことにしたのでそれから会わなくなったが、先日スーパーで再会し意気投合、メアドまで交換してこの演奏会にも招待したのだった。

「もちろんだよ。本当は純ちゃんと同じ中学に行きたかったんだけどね」

「いいよそこまでしなくて。そういえばさ、憂はピアノ弾かないの?」

「私は弾かないよ」

「なんで?」

私はお姉ちゃんの『二番煎じ』で『劣化版』だから。

なんて純ちゃんには言えなくて。私は適当にごまかした。

「私飲み物買ってくるね、ついでにお姉ちゃんの様子見てくるよ」

「うん、いってらっしゃーい」

純ちゃんは深入りせずに、手をヒラヒラとさせて私を見送った。

23.梓side 控え室

梓「ゆ、唯先輩、どうしたんですか?」

唯先輩は私の影に隠れるように座り込んだ。私はどうすればいいのか分からずじっとしていた。

しばらくして、

「あれ、平沢さん?」

高そうな服を着た女の子が歩み寄ってきた。私の後ろで座っている唯先輩を覗き込む。

「やっぱり平沢さんじゃん。なんでこんなところに……まさかこれに出るの? あはは、ウケる」

梓「なんですかあなた。馬鹿にしに来たんですか?」

「馬鹿にだなんてそんな。私はただ、親が主催のこの辺鄙な演奏会に連れてこられただけよ。まさか超大物の演奏が聴けるなんてね。元、だけど」

梓「嫌味言いに来たんなら黙って親のところに戻ってください。邪魔ですから」

「は? なによあんた」

その人が私に向けてきた手は、私が仰け反る前にはたき落された。

憂「梓ちゃん、こんな人の相手しちゃだめだよ」

「ちっ、平沢憂か」

その人はすぐに翻すと、

「頑張ってね~中野さんも」

なんだ、私の名前も知ってたんじゃん。

梓「大丈夫ですか? 唯先輩」

唯先輩は困ったように笑うと、大丈夫だよ、と私たちに背を向けた。

24.唯side

「唯先輩、準備いいですか」

私は深呼吸する。

本番の匂い、本番の空気だ。

「いいよ、梓ちゃん」

旅に出よう、私たちは冒険者。夢も目標もモヤモヤだけど、私たちは前に進む。

ーー続きまして、エントリーナンバー14番、平沢唯さんと中野梓さんです。

パラパラとした拍手。

私たちは、ステージへ向けて歩き出した。

25.梓side

礼をして準備を終える。私は心地よい緊張感に包まれていた。

唯先輩を振り返る。

「唯、先輩……?」

唯先輩はイスの前で立ち尽くしている。視線の先には、例の女性が。

ダメだ、そう思った。

「唯先輩」

私は少し強めに言う。

「私を見てください」

「梓、ちゃん……」

唯先輩はなんとか焦点を私に合わせると、噛みしめるようにイスに座り準備を終える。


いくよ、唯先輩。


……クライスラー『愛の喜び』

26.憂side 演奏中

梓ちゃんの正確なギターが、お姉ちゃんのピアノが、高め合うように繋がっていた。

観客を圧倒するテクニック。

小さな演奏会では、彼女たちに敵う演奏家はいないだろう。それくらい、2人は抜きん出ていた。

「すごいなあの2人」

「ギターの子の単調さはともかく、安定感は上等だが、それをカバーするピアノの子が上手くメインのギターを引き立ててる」

「あのピアノの子、平沢唯じゃない? ピアノやめたんじゃなかったの?」

そんな会話が近くから聞こえてくる。


でも。

演奏が終わり、拍手の波に飲まれる2人を見ていても、どこか私は喜びきることが出来なかった。

27.梓side

唯「憂~~!」

唯先輩は憂に抱きつく。憂は唯先輩の頭を撫でながら、私に優しい笑顔を向けた。

憂「お疲れ様! カッコよかったよ」

梓「ありがとう。まあでも……」

憂も気づいてるよね、私たちはまだまだ発展途上だって。
でもそれでいい。私たちはまだ、旅の途中だ。

憂「どうしたの?」

梓「えへへ、いやなんでもないよ」

憂「変な梓ちゃん~」

そういえば、と私はカバンを開けた。

梓「あのさ、景品の温泉旅行なんだけど、憂も来てくれるよね」

最優秀賞だった。評価なんてどうでもいいけどね。

憂「え、いいの? やったー! ありがとう!」

梓「私も憂と遊びたいからね、あと誰誘おうか?」

この旅行は6人用で、友達がいない私や唯先輩からしたら多すぎる人数だ。

「はいはーい! 私も行きたい!」

今まで憂の後ろに隠れていた女の子が食い気味で近づいてきた。

憂「紹介するね。お友達の純ちゃんだよ」

純「中野梓さんだよね、よろしく。演奏すごかったね~。私は梓って呼ぶから、純って呼んでくれていいよ」

梓「あ、よろしくね!」

私は握手し、無理にでも明るく見せた。これからは初対面の人にいい印象を与えられる人になりたい。
唯先輩もちょっともじもじしながらその子と握手する。

憂「じゃあ後2人? 誰かいるかなぁ……」

憂は考え込み、しばらくすると思いついたように携帯電話を取り出した。

憂「あのもしもし、平沢憂です。まだこの辺りにいますか? はい、正面入り口です。待ってます」

梓「誰にかけたの?」

憂「えへへ、来てからのお楽しみ」

数分後、私たちの前に現れた男性を見て、私は驚かざるを得なかった。

「ちょっとーまた女の子じゃん。社会人にもなって遊びすぎじゃない?」

「おい椿、変なこと言うなよ」

憂は笑って会釈する。

椿と呼ばれた女性に軽く頭を殴られたその人は、『初代』天才ピアニスト、有馬公生さんだった。



to be continued……

以上、前編です
中編は二、三日後予定です

ここまでけいおんとのクロスである必要なし

てか、けいおんのキャラは好きでもカードキャプターさくらで確立された「登場人物達が他人の悪意に影響される事も、事故や災害・病気等で死ぬ事も無い世界観」が嫌いなんじゃないの?

投稿遅れました
それでは中編です

第二部 中編

28.梓side 数日後(ゴールデンウィーク)

唯「広いよー純ちゃん!」

純「ですねー唯先輩!」

純と唯先輩は積み上げてある布団にダイブする。唯先輩は純をくすぐって騒いでいた。

梓「ちょっと小学生ですか! うるさくしたら隣に迷惑ですよ」

唯「梓ちゃん起こしてぇー」

唯先輩の真似をして手を伸ばしてくる純を無視して、片手で唯先輩の手を掴んだ。

唯「そりゃっ!」

梓「なっ……」

私は唯先輩に思いっきり引っ張られ、驚いて耐えようとするも純に反対の手を掴まれて、遂には私も布団に突っ込む。

唯純「ほーらこちょこちょ」

梓「ちょ、唯先輩、純、やめ……やめてやめてっ」

私は隣の部屋の憂たちが来るまでいじられ続けた。

29.憂side ほぼ同時刻

椿「おお~いい景色! 公生見てみ!」

有馬さんは窓際にいる椿さんの隣まで歩いて行くと、

公生「へえ、すごいね。山の中って感じだ」

椿「なにそれ、当たり前じゃん」

椿さんはチョコレート菓子を取り出すと、

椿「憂ちゃん、一個あげるよ」

憂「あ、ありがとうございます! 私これいつも食べてます」

椿「憂ちゃんは分かってるね、公生とは大違い」

公生「別に僕だって嫌いだとは言ってないじゃん」

椿「好きと嫌いじゃないには大きな差があるんだよ~だ」

私はくすくす笑った。

憂「お二人とも仲いいんですね。付き合ってるんですか?」

思った通り、椿さんは顔を真っ赤にする。

公生「そうだよ。でも別に気を使わなくてもいいからね」

椿「そんなことより! 早くお風呂入りたい!」

公生「はいはい、じゃあ準備して隣の部屋に声かけに行きなよ。椿、もう25歳なんだから落ち着いてね。僕は男1人だし時間ずらして行くよ」

あっと椿さんは思い出したように、

椿「憂ちゃん、安心して? 君は私が責任を持って公生から守るから!」

公生「人を変な風に言うな。まあ確かに一緒な部屋で寝るわけにはいかないし、僕は一階で漫画でも読んで徹夜するよ」

憂「あ、それなんですけど、純ちゃんがゲーム持ってきたみたいなので、有馬さんも誘ってやろうって言ってましたよ。徹夜のつもりらしいです」

公生「それはありがたいや。まあほどほどにしとかないといけないけどね」

私が椿さんに連れられてお姉ちゃんたちの部屋に向かったところ、汗だくになって息を切らした梓ちゃんと、したり顔のお姉ちゃんと純ちゃんを見つけたのだった。

30.梓side

唯「梓ちゃん、お背中洗って差し上げましょうか~?」

背後から変な唯先輩の声ーー否、唯先輩の変な声が聞こえてきた。

梓「結構です。自分でできます」

唯「あれ、怒ってらっしゃる……?」

私は頭を洗いながら唯先輩を横目で見ると、唯先輩の変顔が覗き、思わず吹き出してしまった。

梓「……別に怒ってないですよ。いつもこんな感じです。そういえば、ずいぶん純と仲良くなったんですね」

あ、と唯先輩はまたからかうような声になって、

唯「もしかして妬いてらっしゃる?」

梓「なっ……!」

唯「うそうそ! 冗談だよっ」

純「昔から嫉妬深いですからね、梓は愛が重いですよ、唯先輩」

梓「昔からって、知り合ったの1週間前でしょ」

いつのまにか隣にいた純は、髪をほどいていて別人だ。

憂を探すと、露天風呂の方で椿さんと楽しそうにお喋りしていた。憂は聞き上手だから、椿さんは楽しそうに身振り手振りで話しているのが見える。

梓「憂ってほんとしっかりしてますよね。憂なら椿さんや有馬さんと上手くやれますね」

部屋割りはくじで決まった。有馬さんは一応椿さんと同じ部屋になることにしていたので、実質その2人となる人を決めるためのものだ。もし私が選ばれていたら、結構気まずい部屋になってしまったかもしれない。

唯「えへへ、自慢の妹だよ~」

梓「妹って言うより、憂の方が姉に向いてると思いますけど」

唯「梓ちゃんしどい……」

梓「思ったことを言ったまでです」

純「まあ私は唯先輩の方が姉に向いてると思うけどね~」

唯「おっ流石純ちゃん。分かってる~」

純は適当に言っているわけではないみたいで、単純に興味が湧いた。

梓「純、なんで?」

純は眉をひそめ、手でなにか伝えようとしながら、

純「何ていうか……バランスが取れてるんだよ。憂に妹は合ってる。唯先輩も唯先輩で、姉に合ってる。上手いこと姉妹になったなって感じ」

梓「なにそれ」

純「あんたもだよ、梓」

私が首を傾げていると、純は見透かしたように笑った。

純「あんたこそだよ。よく唯先輩の後輩になったよね。あんたこそ、後輩に合ってるよ」

私は純に理由を聞かなかった。
それは何となく、どことなく、私にも納得できたからだ。

31.梓side

椿「はい私富豪ー!」

椿さんは最後のカードをやまに叩きつけると、ガッツポーズをして純とハイタッチした。

純「椿さんやりますね~」

椿「いえいえ、純ちゃんほどでは~」

さっきから2人が上位独占だ。そして唯先輩と、憂が(いつも)すぐ後に上がり、おきまりの展開。貧民と大貧民を分ける、私と有馬さんの一騎打ちだ。

椿「おお公生いいカード残してるじゃん」

公生「ば、ばか椿! 言うなって!」

純「おお~? 梓の方は大したことないですな~」

純は悪い顔でそう言った。私の手札には、使いどころを失って残ったジョーカーがいる。

椿「おっ公生が勝負にでた!」

私は勝てると踏んでジョーカーを出すが、見事返り討ちに遭って大貧民の座を射止めてしまったのだった。

32.

公生「重くない? 大丈夫?」

梓「はい、大丈夫です」

缶ジュースを3個、袋に入れて廊下を歩いていた。罰ゲームの買い出しの帰り道だ。

そう言う有馬さんは缶ジュース3個に加え、両手で抱えるくらいのスナック菓子を持っている。

公生「中野さん」

梓「はい?」

公生「僕って怖いかな……?」

え、と私は有馬さんを見ると、彼は困ったように笑っていた。

梓「そんなことないです! ……私が初対面の人と話すのが苦手なだけです」

特に男性とは。

公生「そっか。僕も中学生の時、結構内気で友達あんまりいなかったから、気持ちは分かるや」

有馬さんは優しそうに笑った。

公生「……僕はね、ある日台風みたいな人に出会ったんだ。その人はバイオリニストでね、僕はその人をきっかけにしてピアノをまた弾き始めたんだ。僕の苦手を克服させてくれて、新しい道を切り開いてくれた」

その人は多分、女の人だ。有馬さんの目は、カラフルに物を見ていた。

公生「君……中野さんにとってのその人は、唯ちゃんなんだと思う。同時に唯ちゃんにとってのその人は、間違いなく君だ。そういう人を見つけられた僕も君も唯ちゃんも、どうしたって幸せ者だよ」

有馬さんは、今まで出会った大人の誰よりも柔らかく笑っていた。

33.

唯「あーずさちゃんっ♪」

梓「ひぃっ」

頬に冷たい感触。唯先輩はオレンジジュースを私に差し出した。

梓「私、さっき飲みすぎて喉乾いてないですよ」

私がそれを受け取ると、唯先輩は私の横に腰掛けた。部屋には私たち2人。他の4人は隣の部屋でゲームをしてる。私は1人で抜け出して空を眺めていた。考え事をしたい気分だったのだ。

唯「楽しいね」

唯先輩は終始笑っていた。純とともに私をいじめるときも、何もない今でも。

梓「はい、すっごく楽しいです」

梓(唯)「「唯先輩(梓ちゃん)のおかげですね(だね)」」

私たちは目が合い、おかしくてまた笑った。

梓「……月が」

私は目の前にあるような満月を眺め、

梓「月がきれいですね……」

唯先輩も空を見上げる。

唯「そうだね……とっても、とっても」

夜空の星はやっぱりきれいで、月もやっぱりきれいだった。

あなたと見た空も、いつも通りにやっぱりきれいだった。

唯「いつもひとりぼっちにはあきあきしたな……」

梓「……誰の言葉ですか?」

唯「チャーリー・ブラウン」

唯先輩は上を見つめ、遠くを見ていた。放っておいたら何処かに行ってしまうような、そんな気がした。

梓「唯先輩、もう一回温泉行きませんか? 私さっきの卓球で汗だくになっちゃって」

唯先輩はすっと立ち上がった。いつものヘアピンを付けてないからかな、少し大人っぽく見えた。

唯「いいよ、行こっ?」

唯先輩は座っている私に手を伸ばす。

私がその手を掴むと、唯先輩は私をそっと優しく引っ張ってくれた。


34.憂side 深夜2時頃

すっかり眠り込んでしまった椿さんと純ちゃん。なんとなく私は1人でゲームの続きをしていた。

唯「ただいま~って起きてるの憂だけ?」

お姉ちゃんと梓ちゃんが帰ってきた。私はしーっと口に人さし指を当てると、隣の部屋に移動した。

梓「純、徹夜するって言ってたのに」

憂「まあまあ、はしゃいで疲れちゃったんだよ。そうだ、有馬さんどこにいるか知らない?」

唯「一階で漫画読んでる。どうせ椿さんはすぐ寝ちゃうだろうから邪魔しちゃ悪い、って言ってたよ。的中だね」

梓「温泉あがってから今まで有馬さんと3人でカラオケ行ってたんだけど、有馬さんって歌も上手なんだね。びっくりした」

唯「梓ちゃんの歌声は、ちょっと独特でしたわね」

梓「う、うるさいです……」

唯「えへへ、冗談だよ~」

私がくすくすと笑っていると、梓ちゃんはちょっと拗ねちゃったみたいだった。気にしてるのかな。

お姉ちゃんは大きな欠伸をした。

憂「もう寝ちゃおっか。有馬さんにはメールしとくね」

梓「あ、私が直接伝えに行くよ。まだ眠たくないし」

私は梓ちゃんの目を見た。何かあるんだな、そう思い、

憂「分かった。お願いね」

梓「うん、先に寝てていいよ」

唯「う~い♪ いっしょに寝よ?」

すでに目が半開きのお姉ちゃんに連れられ布団に入った。
温泉のシャンプーを使ったんだね、お姉ちゃんからいつもと違う匂いがした。

35.公生side

女の子だらけで温泉に行くなんてと最初は抵抗が大きかったけど、僕はすっかり女の子に慣れてしまっているようだった。大した不便もなく、それどころか楽しく過ごせていた。

『有馬先生、聞いてますー?』

「聞いてるよ、それで武士がどうしたって?」

凪ちゃんのすっかり酔っ払った声が聞こえてくる。僕は彼女の話に適当に相槌をうち、本を読んでいた。
久しぶりに読みたくなった「いちご同盟」。僕はあの子を思い出す。

『私とコンサート出ろ出ろってうるさくって。それで……』

僕の前に影が見えた。

「中野さん……?」

緊張した面持ち。僕は電話を切って、彼女に笑いかける。

「……有馬さん、お話を聞かせてもらえませんか?」

中野さんはさっきよりも自然な笑みで、

「唯先輩の、過去の話を」

そう僕の目をまっすぐ見つめていた。

36.梓side

有馬さんが初めて唯先輩と会ったのは、今から8年ほど前。有馬さんがレッスンをつけていた相沢凪さんと連弾をした学園祭の日。

「あの時はびっくりしたよ。5歳の女の子が泣いてピアノ教えてって頼んできたんだから」

それから唯先輩は有馬さんを「有馬先生」と呼び、よくピアノの練習を見てもらったそうだ。たまたま有馬さんが進んだ高校が唯先輩の家の近くにあり、唯先輩はよく有馬さんの家に押しかけていた。

「唯ちゃんは本当に感性豊かな子でね、僕が教えてもらうことも多かったよ。僕はピアノの基礎の技術を教えてあげて、できるだけ唯ちゃんがその感性を表現できるようにしてあげたんだ」

有馬さんは少し申し訳なさそうに、

「でも、あの子が学校でいじめられるようになってから、僕のところにあんまり来なくなって、ピアノもあまり練習しなくなったみたいなんだ。ピアノの音も、感情が抜け落ちて技術が残ったせいで、以前の僕みたいに単調になっていった」

『ヒューマンメトロノーム』

それが以前の有馬さんのあだ名だった。唯先輩もあの事件が起きた演奏会の時には、それに近い演奏をしていたそうだ。

「久しぶりに唯ちゃんがピアノを弾くって聞いて、僕もあの子の発作のことは知ってたから、同じような障害を持ってる身としても心配だったよ。実際見ててハラハラした。でもね、」

有馬さんは偽りなく嬉しそうに笑った。

「あの演奏会は、希望の光に満ちていた。唯ちゃんが楽しそうに笑っていた過去の演奏に繋がるものを、僕は見れた」

唯ちゃんの視線の先にはね、と有馬さんは言って少しの間、持っている本に目を落とした。有馬さんは本の表紙を撫で、

「君がいたんだ。紛れもなく、ど真ん中に、君がいたんだ」

「私、は……」

唯先輩の月になりたかった。いつも夜空で見下ろす、唯先輩が寂しくなった時に見上げればいつもどこかにいる、唯先輩の一つだけの光になりたかった。

「唯先輩の特別に、なれるでしょうか」

「もちろん」

有馬さんは優しく笑って、

「星は、君の頭上に輝くよ」

有馬さんは大人の大きなきれいな手で、私の頭をなでてくれた。

38.数ヶ月後 夏休み初日

唯「夏だねー梓ちゃん」

梓「夏ですねー唯先輩」

自堕落な生活にだんだん身体が慣れてきたようで、私は唯先輩の家まで来て扇風機の前で寝転んでいた。

純「夏はいいですね~何と言ってもアイスがウマイっ」

唯「アイス?! どこ? 純ちゃん!」

憂「お姉ちゃん、みんなの分あるから……」

唯先輩はキッチンから戻ってきた純のアイスに飛びかかった。驚くべき瞬発力だ。

憂「はい、梓ちゃんも」

ありがとう、そう受け取ったアイスはキンキンに冷えていて、涼しい室内で夏を感じた。

憂「そういえば、そろそろ文化祭の準備しなくていいの?」

梓「文化祭?」

憂「一昨日先生に聞いてきたんだけどね、午前の合唱コンクールの後、午後に文化部の発表の時間があるんだよ。希望すれば参加させてもらえるって」

梓「そうなんだ……文化祭っていつだっけ」

憂「確か、夏休みが終わって2週間後くらいだったと思うよ。まだ1ヶ月と半分あるね」

唯「そんなにあるんだったらまだ大丈夫だね~」

梓「いやそんなわけにいきませんよ。しっかりしないと」

純「まあ梓はもっとしっかりした姿勢で言おうか。お腹出して寝っ転がってたら風邪ひくよ」

梓「う……」

私は身体を起こした。ギターを抱き寄せて私は唯先輩に向かう。

梓「唯先輩、明日からは練習しますよ。音楽室の使用許可は取ってるんですよね?」

唯「まあ、うん。吹奏楽部は第一音楽室使うって先生が言ってたし大丈夫だよ」

どうでもいいけど、私たちがいつも通っているのは新設された第二音楽室だ。元々は合唱部が使うための部室的部屋だったらしいが、いろいろ先生が気を遣って唯先輩に部屋を貸しているということだった。

唯「そうだ梓ちゃん、合宿しようよ!」

梓「合宿……2人でですか?」

流石に2人で合宿は寂しい気がする。

唯「あーそうだね~、憂と純ちゃんも来る?」

憂「え、いいの? お邪魔にならないかな」

唯「大丈夫だよ~そっちの方が楽しいし!」

梓「遊びに行くんじゃないんですが」

唯「いいじゃんケチぃ~それとも梓ちゃん、どうしても私と2人っきりにーー」

梓「う、憂! どこに行こうか!」

憂「え、うーん、学校じゃだめかな?」

純「学校はいろいろめんどくさいと思うよ? それにこれ、部活動じゃないし」

そういえばそうだった。

唯「じゃあ、海とか!」

梓「遊ぶ気満々じゃないですか」

唯「じゃあ山?」

梓「うーーーん……」

私はみんなで訪れる海や山を想像した。やっぱりみんな、唯先輩も練習せずに遊んでる。とても青春っぽくて楽しそうだった。

梓「じゃあ海で」

私は思わずそう口にしていた。

39.4日後

唯「うーみだーーー!!」

純「ひゃっほーい!!」

ざばーんと波立つ海に進入して水をかけあう2人を遠くの貸し出しの別荘から眺め、私はため息をついた。

梓「やっぱり練習しなさそうです」

公生「ま、まあ息抜きも大事なんじゃないかな」

先生として呼ばれた有馬さんはアロハシャツみたいな柄の服を着て、暑そうにうちわを扇いでいた。

梓「息抜いてばっかりなんですよねぇ」

公生「あはは……あの子は昔からそうだったよ……」

梓「でしょうねー」

公生「君は行かないの?」

梓「私は……」

行きたい。でも練習したいと言っていた手前、遊びにくいというプライドみたいなものがある。
唯先輩も憂も純も、椿さんも楽しそうに遊んでいる。

公生「行ってきてあげなよ。唯ちゃんたちも待ってると思う。僕はここで本でも読んでるから」

梓「……分かりました」

気づけば夕方になっていて、みんなで遊んでいるうちに、私は真っ黒にやけていた。

40.同日夜

梓「行きますよ、唯先輩」

唯「やーだぁ、もうちょっとだけー」

有馬さん以外の5人でトランプをしていたが、さすがに練習しないとまずいと思い立った次第である。

憂「お姉ちゃん、梓ちゃんを困らせたらだめだよ」

唯「ちえー、分かったよー」

唯先輩は渋々立ち上がる。私は唯先輩を引っ張って、防音室に向かった。

41.唯side

梓「ピアノの音……?」

梓ちゃんは防音室の小窓から中を覗く。私には見なくても分かる。有馬先生のピアノだ。

梓「あっ、唯先輩」

私は梓ちゃんの制止を無視してドアを開けた。有馬先生は気づかないように弾き続けている。


響き渡るカラフルな音色。

透き通ったうすい青。
少し濁った暗い赤。

音が透き通り絡まり合って、共鳴し合い強め合う。
愛を込めた、思い出の中の音色。

……ショパン バラード1番 ト短調

有馬先生が中学三年生の東日本コンクールの時に弾いた、別れの曲だった。

42.梓side

心が揺れる。ピアノの音色が身体中に響き渡るようだった。

楽しげな幸せそうな、しかし確かに大人しく柔らかく、そして何より悲しかった。

言葉が出ない。初めての体験だった。考えることができなかった。
次元が違い、覚悟が違った。ピアノの音は聞こえなくなり、感情の音が圧倒的に頭に広がる。

『生まれ変わった天才』
『千色パレット』

そのあだ名通り、有馬さんの音色は様々な色に彩られ、そして感情が、どんなものかも分からない感情が湧き上がって押し寄せて来るのだった。

43.

演奏が終わった。私は、それに唯先輩も一歩もその場から動けなかった。
しばらくすると、上を見上げていた有馬さんが私たちに気づく。

公生「……あれ、ははは。2人とも、いつからそこに?」

あ、えと……

公生「……ごめん、ちょっと待ってて」

有馬さんは泣いていた。私たちに背を向け、必死にそれを隠していた。

公生「あはは……恥ずかしいね。大の大人が、情けないね」

そんなこと。

梓「そんなことないです」

私は麻痺した脳を叩き起こし、突き出すように言った。

梓「とても……なんていうか……その」

私が口ごもっていると、有馬さんはいつもみたいに笑った。

公生「唯ちゃん、大丈夫かい?」

唯先輩はただただ有馬さんを見つめていた。やがて私に寄りかかり、膝からかくっとおれて座り込んでしまう。

唯先輩の目からは、大量の涙が流れ落ちる。それでも唯先輩は一点を見つめ、有馬さんを捉えていた。

唯「わ……たし……」

有馬さんが歩み寄る。かがんで唯先輩に目線を合わせる。
唯先輩はしゃっくりをする。一言一言、繋ぎ合わせるようにして、唯先輩は、

唯「やっぱり私は、絶対私は有馬先生みたいになりたい」

そう言ってしばらく唯先輩は、呆然として圧倒的な感情に触れながら、ただただひたすら有馬さんを見つめていた。

44.憂side 同時刻

憂「最近有馬さんの調子はどうなんですか?」

私は淹れたお茶をみんなに配りながら、椿さんに尋ねた。

椿「絶好調だよ。CM契約の話も出てきたし、先週だってバラエティ番組に出てた。映像見る?」

憂「あ、見たいです!」

椿さんはノートパソコンを取り出し、大量の動画ファイルの中から一つ選び出し再生した。

有馬さんは音楽に関するバラエティにゲスト出演していた。有馬さんの隣に座っているきれいな金髪の女性は、有馬さんの元生徒でありライバルの1人である相沢凪さんだ。

憂「お姉ちゃんはこの2人の演奏を聞いてから、すっごい楽しそうにピアノを弾くようになったの」

叩き込まれた基礎。五線譜の常識。

感情の介入より先に正確な音の入力を優先されていたそれまでとは、お姉ちゃんの中の価値観は変わっていった。

しばらくのトークの後、有馬さんと凪さんの連弾が続いた。パソコンの音質が悪く、凄さが伝わってきにくかったけれど、会場の雰囲気からも凄い演奏だったというのがわかる。

純「椿さん、こんなにたくさん動画撮ってるんですね」

椿「まあね、私はこういう感じの仕事してるから、仕事の延長って感じかな。有り体に言えば趣味!」

有馬さんのことが大好きなんだろうな、と私は微笑ましく思った。

椿「昔の映像もあるよ。例えば……」

椿さんはよくタイトルを見ずに再生ボタンを押した。

椿「あっ……」

そこには藤和音楽コンクールの文字が見える。舞台袖から有馬さんと、凪さんとは違う、バイオリンを持った金髪の少女が現れた。
2人とも中学生くらいの年齢に見える。

憂「これは……?」

椿さんは少し気まずそうに、

椿「バイオリンのコンクールだよ。これは、公生が3年ぶりにピアノを弾いたコンクールでもあるんだ」

椿さんは懐かしむような目で、画面を撫でていた。

椿「この子は、宮園かをり。この子が、唯ちゃんみたいに障害を持って、梓ちゃんみたいに単調な演奏をしていた昔の公生を変えたんだ。公生の初恋の人だよ」

演奏は私から見てもめちゃくちゃ。演奏中断までしてしまっている。
しかし二人は弾き直し、有馬さんは生まれ変わる。競い合うような音が、いつしか観客を魅了していた。

椿「何ヶ月か前の唯ちゃんと梓ちゃんの演奏聞いてたらね、このコンクールを思い出したんだ。公生も多分同じで、だからあの2人をよく気にかけてるんだと思う。亡くなったかをちゃんを、思い出させられるんだと思う」

私は有馬さんの目を思い出していた。有馬さんは優しいような、どこか懐かしむような目をしていたのだった。

45.梓side

ーー私は最初から最後まで、梓ちゃんと弾き続けたい。

唯先輩は私の制止なんて聞きもせず、ピアノを弾き始めた。
やはり数十秒後には発作が起きて、唯先輩は気を失った。

公生「君たちはまだ、1人で演奏している」

有馬さんは続ける。

公生「唯ちゃんの発作の原因は多分、孤独感からきてるんだ。誰もいない、ステージには自分1人だってね。だから君が、唯ちゃんと演奏してあげるんだ」

確かに弾き終えることに精一杯になって、お互いのことを意識できていなかったかもしれない。

梓「でも、どうすれば……」

公生「それは自分たちで考えることだよ。考えるって言っても変かな。自然にできるようになっていくべきだと思うよ」

有馬さんは寝ている唯先輩に自分の上着をかけると、

公生「僕が教えてあげられるのは技術面だけだ。でも君たちは技術面に関しては、全国的に見てもかなり高いレベルにいる。だから、文化祭でどんな演奏をするかは、君たち自身にかかってるよ」

私は頷いた。でも有馬さんは気づいていたのかな。

唯先輩は有馬さんが無意識の内に、感性豊かな演奏を教えてもらっていた。あの有馬さんの演奏は、人の価値観を変えるほどのものがあるのだと思う。

では私はどうだろう。

一直線の演奏。面白くない音色。

公生「君の単調さは……」

有馬さんは笑って、

公生「意識しなくていいよ。特に問題はないから」

私はかなり、不安になった。

46.

公生「ここのミュートをもっと意識して。全体的にビブラートの練習をした方がいいよ」

有馬さんの指摘は正確かつ明確で、私の演奏を荒削りしていった。1時間する頃には、私の演奏は最初のものよりもかなり変わっていた。

梓「ありがとうございます。有馬さんってギターにも詳しいんですね」

有馬さんは照れ笑いすると、

公生「音楽の専門学校に行ってたからね、ピアノだけじゃなくいろんなのを勉強したよ。ハーモニカとかも。でも君の吸収が早かったから助かったよ」

梓「そんなことありませんって」

その時、ドアが開かれた。

純「失礼しまーす。バーベキューの準備できたので、そろそろ来てくださいって憂が呼んでます」

梓「あ、うん。ありがとう、今行く」

公生「中野さん、先に行ってていいよ。僕は唯ちゃんを起こしてから行くから」

私は分かりましたと言って、純の後についていった。

47.唯side 同時刻

灰色の空の下、私は1人だった。

唯「梓ちゃん……?」

誰もいない。
ここは厚い雲にどこよりも近い、深い海の底。太陽の光なんて絶対に届かない、一人きりの場所。

唯「梓……ちゃん….…」

誰もいない。
私は友達の温もりを知った。だからこそ苦しい。

私は孤独だ。孤独はとても苦しかった。

48.唯side

公生「唯ちゃん、起きて」

夢から覚めると、私の肩を揺らす有馬先生が目の前にいた。いつもみたいに優しく笑っている。

公生「バーベキュー始めるみたいだよ。中野さんは先に行ってる」

唯「有馬……先生……」

有馬先生はタオルを差し出す。

公生「ほらこれで汗拭いて? 夜は寒いから風邪ひくよ」

唯「うん、ありがとうございます」

私が身体を拭き始めると、有馬先生は私に背を向けた。

公生「僕は1人じゃないよ」

唯「…………?」

公生「僕には椿がいる。それに渡もよくコンクール見に来てくれるし、井川さんや武士ともよく飲みに行ったりする。凪ちゃんもね」

あの人も。有馬先生の思い出になったあの人も、有馬先生と一緒にいるのだろう。

公生「唯ちゃんはどうだい?」

私はどうか。私は梓ちゃんに出会ってから、

唯「私も1人じゃないよ」

そっか、そう言って有馬先生は笑った。

公生「じゃあ唯ちゃんも大丈夫だね」

目の前の壁にたじろいで、以前の私なら越えようとさえしなかったそれに苦しんでいた。
有馬先生も同じだった。有馬先生もちょうど私と同じくらいの時期に、壁にぶちあたっていた。

私の先生に、10年ほど私より先に生まれた私の先輩に、私は8年前から憧れていたのだった。

49.梓side

椿「公生と唯ちゃんって、いつ見ても親子みたいだよね」

私に遅れてやってきた2人を迎えると、有馬さんが調理を始めた。

純「顔は似てませんけど、雰囲気は似てますよね」

梓「似てるかなぁ」

確かに似ているかもしれない。はっちゃける前の、またふざけてない時の唯先輩。2人の柔らかい笑顔は、どことなく似ていた。

公生「まあ8年前……唯ちゃんが5歳の時から知り合いだからね。僕に影響を受けちゃったんじゃないかな」

椿「公生に似てるって……」

公生「おい椿」

爆笑する椿さんに有馬さんは焦げたピーマンを投げつけた。椿さんは軽々と避ける。

公生「ほら唯ちゃん、みんなに分けてあげて」

有馬さんは焼けた肉を唯先輩の持つ皿にどんどん乗せていく。その姿はまさに父親と娘だった。

唯「はい、梓ちゃん。たくさんお食べ~」

梓「あ、ありがとうございます」

椿「公生がお父さんなら、お母さんは凪なのかな」

公生「かもしれないね」

その時、有馬さんの携帯電話がなった。

公生「もしもし? ああ凪ちゃん、もうその辺? じゃあ椿を向かわせるから、ちょっと待ってて」

梓「……どなたですか?」

公生「あ、君は知らないんだっけ。僕のライバルだよ。今日はあと何人か強者が来るから覚悟しといてね」

数分後、椿さんは3人の大人を連れて戻ってきた。

凪「有馬先生ーー!!」

金髪の女性がぶんぶんと手を振る。

絵見「久しぶり、有馬」

武士「おい公生! 女子中学生ばっかじゃねーか! お前何かしてねーだろうな」

凪「有馬先生が変なことするわけないでしょ?! まったくお兄ちゃんは……」

3人とも、テレビで見たことがあるプロのピアニストだった。

公生「ごめんね、中野さん。ギタリストも呼べればよかったんだけど……」

梓「あ、いえ……」

そこから二日間は、練習漬けの時間だった。2人の生徒に4人の先生だなんてとても贅沢で、自分の技術の未熟さにただただ気づかされるばかりだった。

ーーそして月日は流れ、文化祭へ向けてのタイムリミットは目前に迫る。

50.唯side 文化祭前日 夜

「少し話さない?」

澄み渡った夜空。少し肌寒い風。
そろそろ夏が終わる。

『今から、ですか?』

電話越しで聞こえる声。君の声が聞きたくて、私は君を困らせる。

『いいですよ』

私は寒くて震える身体を抑え、君のもとへ向かった。

51.

「こんばんは」

梓ちゃんはいつもより固い笑顔で私に手を振った。

「うん、来てくれてありがと」

「いえいえ。それより唯先輩、そんな格好じゃ風邪ひきますよ」

梓ちゃんは自分の上着を脱ごうとするけれど、私はそれを止めた。それじゃあ梓ちゃんが風邪をひいちゃう。

「じゃあどこかお店に入りましょうか。まだ9時半ですので、空いてるところ探しましょう」

私は梓ちゃんに手を引かれて歩き出した。

やっぱり君も不安なんだね。あったかい格好をしている君も、身体は震えていた。

「唯先輩だけじゃ、ないです。私も不安です。かけてきたものが、時間が、今までとは段違いですから」

ただの公立中学校の文化祭。去年の文化祭なんて、何があったかさえ覚えてない程度のイベント。

君がいる。去年との違いはこれくらい。

1人じゃない。去年との違いは、これだけだ。

「唯先輩、このレストランとかどう……ですか」

私は梓ちゃんを抱きしめた。私の震えは、彼女のそれとシンクロする。

「私を見つけてくれて、ありがとう」

君と出会った春。
君が私を見つけた4月。


私たちの‘華’は、今咲き誇る。

52.唯side 文化祭当日

ーープログラム14番、2年3組平沢唯さんと1年3組中野梓さんによる演奏です。

静寂。ステージで照らされるピアノ。

私は前を向いて歩き出した。
礼をしてイスに座る。


……またこの感覚。


ここは海の底。厚い雲にどこよりも近い深海。
何も聞こえない。梓ちゃんがギターを構える音も、観客からの拍手も。


ーーあの子がいるじゃん!


女性の声。誰だろう。椿さんかな。いや、多分違う。


ーー唯ちゃん、前を向いて。


有馬先生だ。私を変えてくれた、今も客席で見守ってくれているやさしいお父さん。

私が顔を上げると、梓ちゃんと目が合った。


ーー行きますよ、唯先輩。


私たちは迷いなく、始まり始めた。

53.公生side

しなやかに、落ち着いた音が始まる。唯ちゃんの優しいピアノが会場の波を整えていった。会場は彼女たちの色に、染まり始める。

ここは静かだ。
心の中に音だけが響く、彼女たちの世界。身体中がのめり込まれる。

練習より強く、練習よりしなやかに奏でられ、五線譜は2人の意のままに弄ばれた。

ありえない正確性と、圧倒的な表現力。
原曲にないアレンジと、美しすぎる澄み切った音色。

会場はいつの間にか2人のものになっていた。

「なんだこれは……もはや中学生のレベルじゃないぞ……」

隣に座るプロを唸らせる楽器の声。僕はただ彼女たちを見つめる。


……もうすぐ、発作が来る。


「……ん? ピアノが……」

空白を作らないピアノ。その圧倒的な感情の中に、苦しみが混じる。

(唯ちゃん……!)

54.唯side

集中する。すればするほど、深く沈んで光が薄くなる。
身体が重たく、息が苦しくなる。


私は、1人になる。


孤独は苦しい。
孤独は嫌い。

君のせい。全部君のせい。
友達の温もりも楽しさも心強さも、私は全部知らなかった。
知らなくて、だから不幸じゃなかった。

全部君のせい。

全部君の、君のおかげ。


………………っ!


私は突然浮き上がり、温もりに包まれた。

ーー唯先輩は、1人じゃない!

ギターの音がすぐ近くに聞こえる。
この温もりは、梓ちゃんだ。

梓ちゃんは、私と背中合わせに、寄りかかるように背中で触れて私の意識を掴んだ。


次第に視界が、カラフルになる。

私は、私たちは1人じゃない。

55.公生side

「立て直した……?!」

唯ちゃんは笑っていた。僕には遠くて顔は見えないけど、唯ちゃんの音は笑っていた。

君は1人じゃない。そう、僕みたいに君も相棒に頼ればいい。

唯ちゃんの喜びは会場を更に包み込む。僕たちの思考は、彼女たちに蹂躙される。
二本の矢は、輝き合い結び合う。


そしてその相棒も、徐々に演奏が変わりだす。

56.梓side

そう、唯先輩は1人じゃない。

私は、唯先輩の特別になる。私が唯先輩の月になる。

私はとにかく、よく分からない感情に襲われていた。これは唯先輩のものだろう、温もりが、感情が、私の心に溢れかえった。

自然に笑みがこぼれる。唯先輩みたいな演奏を、私もしてみたいと心から感じた。

行こう、唯先輩。

私たちは、変わり続ける。

57.公生side

「短調だったギターが……」

正確かつ厳格。
そんなメトロノームが踊り始める。

唯ちゃんに共鳴するように、唯ちゃんが1人でなくなって、彼女も1人でなくなった。

もともと人は生まれた時から、人は1人ではいられないんだ。

音は競い合うように、支え合うように響き合い、青い海のように広く、青い空のように澄み渡っていった。

会場は言葉を失い、思考を忘れ、呆然と立ち尽くす。

ーー唯先輩の特別に、なれるでしょうか。

唯ちゃんは彼女にしか見せない笑顔を持っていた。この笑顔を、僕は8年間見たことがなかった。


どんな一音でも逃さず、どんな瞬間にも彼女たちの想いが詰まっていた。



最後の一音を奏で終わった後、そこには静寂が残った。

何もない、ゆえに何もかも詰まっているそんな静寂を打ち破ったのは、僕がかつて聞いたことのないくらい大きな、拍手と歓声だった。




to be continued……

以上、中編です
後編は明日の昼に投稿予定です
よろしくお願いします

まもなく後編の投稿開始します

第二部 後編

58.梓side

鳴り止まない拍手。なんと言っているのか分からない物凄い量の歓声。
私と唯先輩は、圧倒されて並んで立ち尽くしていた。

「れ、礼……しましょうか?」

「うん……そだね」

ロボットみたいにお辞儀をすると、また拍手が大きくなった。
唯先輩は息を切らし、客席の方を眺めていた。

「私たち……すごかったよね」

なんですかそれ、私は思わず吹き出すと、唯先輩に向かった。

「ほら、有馬さん見てますよ」

「え、どこどこ?」

私が指差すと、唯先輩は大きく手を振る。有馬さんは驚いているようだった。

2人ぼっちのステージで、私たちはとてつもない達成感に襲われていた。

こうして文化祭は幕を閉じたのだった。

59.梓side 閉幕後(数十分後)

私たちの演奏の後、少しのプログラムを挟んで閉会式だった。閉会式が終わり唯先輩と舞台裏でくつろいでいたところ、喉が渇いたということで外に出てきた次第である。

公生「唯ちゃん、中野さん!」

私たちが振り返ると、ホールの中から流れ出る人の中で有馬さんや椿さん、相座兄妹や絵見さんが迎えてくれる。
私は椿さんに抱きつかれ揉みくちゃにされ、唯先輩は絵見さんに頭を撫でてもらっていた。

公生「だから言ったんだよ」

有馬さんはいつもみたいに笑って、

公生「君の短調さは問題ないって。星は君の頭上に輝くって」

私は有馬さんと握手した。有馬さんへの感謝の気持ちで胸が張り裂けそうだった。


「あの……平沢さん!!」


振り返ると、唯先輩と同じ色のネクタイをした、つまり2年生の女の子が10人くらい唯先輩に詰め寄っていた。

唯「は……はい……?」

「あのね、えっとね……」

先頭にいる人は興奮冷め止まない様子で、身振り手振りで必死に何かを伝えようとする。

「私、感動した! ごめん、なんて言っていいのかわかんないけど、すっごい感動した!!」

「あたしも! すっごいすごかった!」

唯先輩はあっという間にその子たちに囲まれてしまった。最初はただ驚いて怯えていた唯先輩も、次第に控え目に笑えていた。

「平沢さん」

「はい……?」

「私平沢さんのことよく知らなかったけどでも! だから、知りたいの」

先頭の人は、思いっきり頭を下げて、手を差し出した。

「私と、友達になってください!」

それがなんだかプロポーズしているみたいで、私は思わず笑ってしまった。
唯先輩はしばらく固まっていたが、

「わ、私と……? ほんとに……?」

唯先輩の目から、大粒の涙がポロポロ流れ落ちた。なんで泣くの、そう女の子たちは笑い、唯先輩もつられて笑った。

こうして唯先輩に、ちなみにこの後私にも沢山の友達ができたのだった。

60.唯side 2週間後

「ほら唯ー! 早くしないと授業遅れるよー!」

「あっ、待ってー!」

私は教科書を探すのを諦めて、筆箱を掴んで教室を出た。仲良し3人組は私のことをちゃんと教室の前で待ってくれていて、どうしようもなく嬉しい気分になる。

「ほら行くよ?」

「うんっ」

ふと、遠くに梓ちゃんが見えた。むこうも気付いたようで、お互いに手を振り合う。

「あ、梓ちゃん?」

「うん、そうだよ」

「梓ちゃんかわいいよね~」

なんてとても友達らしい会話をしながら、移動先の教室に向かったのだった。

61.梓side 同時刻

「お姉ちゃんがいたの?」

「うん……」

唯先輩はすぐに見えなくなってしまう。最近はいつもこうだ。

「お姉ちゃん、友達が増えて大変そうだけど楽しそうだよ。梓ちゃんもだよね?」

「まあ、ね」

トイレから教室に戻るだけの帰り道。私はいつも通り、唯先輩を探していたのだった。

教室に戻ると、数人の女子が近寄ってくる。

「ねえ梓! 帰りにパフェ食べてこうよ~! 憂も来るよね?」

私は憂と顔を見合わせた。少し考えた末に、私は首を縦に振った。

62.放課後

パフェを食べに行った帰り道。私はまだ完全には馴染めていないけど、冗談を言えるくらいにはなっていた。

その時、私の携帯電話が鳴る。
通話相手は、唯先輩。

「もしもし、唯先輩ですか?」

『うん、そだよ。梓ちゃん今どこにいるの?』

「どこって、帰り道です。あっ……! すみません、今日行くって言ってたのに……!」

忘れていた。最近音楽室に行かないこともあったから、約束をすることにしたのだ。

『あはは、いいんだよ~。梓ちゃんに何かあったのかなって心配しちゃったよ』

「ごめんなさい……」

私は友達に聞こえないように隠れた。

「まだ音楽室にいるんですか?」

『……うん。そだよ』

「じゃあ今からそっちに行きます。待っててください」

『え、いいよ別に! 梓ちゃん、みんなと一緒なんでしょ?』

「そうですけど……」

『じゃあ付き合ってあげて? 私ももう帰るから』

「そう、ですか」

電話は強引に切られた。私は罪悪感でいっぱいになる。


その夜、唯先輩の行方不明の知らせが飛んできたのだった。

63.夜

どこに行ってしまったのか。よく行く河原や公園、商店街にはいなかった。憂と私は一旦別れ、私は深く考え込む。

もしかしたら一人でいたところを、男の人に無理やり連れていかれたのかもしれない。その場合早く警察に連絡しなければいけないのではないか。

ふらふらして危なっかしい人だから、携帯電話の充電が切れていて友達の家に遊びに行っている可能性もある。
いやないか。今はもう9時だ。とっくに帰ってくるだろう。つまり唯先輩は、自由に身動きが取れず携帯電話も触れない状況にあるか、意図的に携帯電話を無視しているかの二択だ。

夜の寒さも相まって、鳥肌がたった。

学校に到着し音楽室の鍵をあけて中に入るが、中には誰もいなかった。鍵が開けっ放しになっていたと警備の人からの証言があったので、怪しいと思って深夜の学校に突入してきたのだ。

と、携帯電話が鳴る。

「あれ、私のじゃない……」

ピアノの下で何か光った。あれは唯先輩の携帯電話だ。

開いてみると、数十件のメールや電話が来ていた。ほとんどが親や憂で、私のメールも届いていた。

「どこにいるの……あれ?」

ピアノの上にかける布が下に落ちていて、妙に膨らんでいた。布をとってみると、

「ひいっ」

思わず悲鳴をあげた。そこには唯先輩が倒れていたのだった。

64.

親には唯先輩本人から連絡させて、幸い警察には連絡していなかったようで大事にはならなかった。今はその学校からの帰り道だ。

「言い訳を聞きます」

「えーと……眠くなっちゃってぇ~」

唯先輩はうとうと音楽室で居眠りしていたら、寝過ごしてしまったとのことだった。

「子どもですか」

「子どもだもん!」

まあ確かに。唯先輩は子どもだろう。
唯先輩は私の隣で柔らかく笑っていた。

「何が可笑しいんですか?」

唯先輩はぽかーんと私を見て、

「久しぶりだなぁって思って」

「…………?」

「最近、他の人と一緒にいることが多くて、梓ちゃんと遊べてないなぁって思ってたんだよ。だから嬉しいんだ~」

「……子どもですか」

その時、唯先輩の携帯電話が鳴った。

「有馬先生だ」

有馬さんにはさすがに連絡は行ってないと思うけど。唯先輩は電話をとった。

「有馬先生、久しぶりです。うん、明日ですか? 大丈夫だよ。梓ちゃんも? りょーかいです」

唯先輩は電話を切ると、

「有馬先生が、私と梓ちゃんに用があるから明日の昼に駅前のレストランで会おうって。大丈夫だよね?」

「予定はないですけど、定期テスト前ですよ?」

「大丈夫だよ、私はいつも勉強してないから」

全然大丈夫じゃないですね。明日、土曜はその用事にプラスして2人で試験勉強をしよう。日曜日も費やせば大丈夫だろう。

その前に、

「唯先輩は、敬語の勉強をしたほうがいいと思います」

私は前から思っていたことを、やっと言えたのだった。

65.次の日

私たちは指定されたレストランで、先に着いて試験勉強をしていた。唯先輩の勉強嫌いは心配するほどではなく、単に興味がないからやっていないだけのように見えた。多分唯先輩は、はまり込めばすごいところまで行ってしまうのだろう。

「唯先輩、数学強いですよね。理科も。意外なんですけど理系科目好きなんですか?」

唯先輩は首を傾げながら、

「うーん、社会とかよりは好きだよ。勉強したいとは思わないけどね!」

「ですよね~」

私の方は試験範囲の勉強は終わっていたので、だらだらと社会の用語を眺めていた。ひどくつまらない。唯先輩の言う通り、理系科目の方が楽しいかもしれない。

「あ、有馬さん」

と、あと1人。中年くらいの男性が、有馬さんと並んで歩き、談笑している。有馬さんは私たちに気づくと手を振って会釈し、私たちの席までやってきた。

「勉強中だったかな?」

「はい、もうすぐ定期テストがあるんです」

「あはは、大変な時期に呼んじゃったね」

私たちがノートを片付けていると、

「こちら、高柳さん。武士の先生だった人だよ。今はコンクールの審査員をしてるんだ」

「初めまして、高柳です。早速本題に入らせてもらうけど……」

高柳さんは私たちに便箋を差し出した。

「君たちを、全国バンドコンクールに招待したいと思ってるんだ」

66.

全国バンドコンクールーー今年が開催3年目の、新設にして大規模な、広範囲の楽器を対象にする高校生以下のコンクール。
このコンクールは一般応募はなく、全て審査員の推薦によって出場できる、ハイレベルなコンクールだ。高柳さんはここらの地域の責任者だそうだ。

「文化祭の君たちの演奏を聞いたよ。有馬君がどうしてもって言うからついて行ったんだけど、正解だったね。あの演奏は素晴らしかった」

新設されるコンクールということで、いくつか変わった特徴があるようだ。
例えば、人数は最大10人まで自由であるということ。楽器はなんでもよく、極端だけどカスタネットでも参加できるということ。
最大の特徴は、審査で最重要視されるのが「魅力」であるということ。

「正確性が重要視されるコンクールは山ほどある。これは言わば音楽に何かを求める若い世代に向けたコンクールというわけだ。大量の……百人の審査員の好みで勝敗が決まる、昔の有馬君みたいなやつが勝てないコンクールさ」

有馬さんは不満そうに高柳さんを見た。
高柳さんは楽しそうにしている。

「君たちの魅力を、全国に見せつけてみないか?」

私は高柳さんの勢いに気圧され、唯先輩の方を見た。目が合う。
私たちの魅力を全国に。高柳さんが、そして有馬さんが示している道には、きっと私の知らない世界が広がっていた。その世界で私は、私たちは息をすることに魅了されたのだ。

唯先輩は、笑顔で頷いた。

「ぜひ出たいです。よろしくお願いします」

こうして私たちの、新たな旅が始まるのだった。


67.定期テスト最終日 放課後

「テスト終わったーーっ!!」

唯先輩がドアを勢いよく開けて音楽室に入ってきた。私は唯先輩よりも試験科目が少ないので早く終わっていたのだ。

「お疲れ様です。どうですか? 出来は」

「ばっちり! 普通に普通だよ!」

唯先輩は妙にハイテンションになってカバンを投げて、ピアノの椅子に座る私の隣りに座った。

「ピアノ弾いてたの?」

「まあ、はい。たまには触ってみたくって……」

唯先輩は閃いたように、

「じゃあ私もギター触ってみていい?」

「いいですけど……」

私はギターを持ってきて、唯先輩に渡した。唯先輩は慣れない手つきで構えると、適当に弾き始める。

「どうですか? 唯先輩」

唯先輩はしばらく黙り、私はただ見守っていた。頼りない影にちょっと大仰なギター。伝説の勇者の子供が剣を握るようなおかしさと、それを調和して絵にしてしまうような不思議さが、そこにあった。

「……いいね、ギター! 楽しそう」

「ピアノも楽しいですよね」

しばらく私たちは無言で唯先輩はギターを、私はピアノを適当に鳴らし、ゆったりとした時間が流れていった。
唯先輩はずっと笑っていた。

「テスト期間が終わったらさ、梓ちゃんとまたこうやってだらだらできるね」

テスト期間中、どの部活も部活動停止期間になり、前みたいにパフェ食べに行こうなんてお誘いが出てくる。今はもうみんな部活に行って、私たちは2人きりで取り残される。

「練習もしなきゃだめです」

「分かってるよぉ~」

そうだと唯先輩はまた思いついたように

「隣町においしいお菓子屋さんがあるって聞いたんだけど、行ってみようよ!」

「……今日ですか?」

「もちろん! まだ2時だし!」

そうか、定期テストで早く終わったのかと私は割と満更ではなく、

「じゃああと1時間練習してから行きましょうか」

「りょーかいっす!」

バンドコンクールまで1ヶ月。
私たちはまた2人で走り出した。

68.3時間後

「ここだよ!」

唯先輩は自信満々に案内する割に遠回りして迷いながら、やっと到着した。

「誰に教えてもらったんですか?」

「有馬先生だよっ」

扉を開けると、いらっしゃいと女性に迎えられる。温かい雰囲気の店内だった。
私たちがしばらく歩き回っていると、奥から声が聞こえてきた。

「あ、君たちは!」

シェフの格好をしたおじさんが飛んできた。唯先輩は笑顔で挨拶する。

「やあ、文化祭、見に行ったよ」

「ありがとうございます。あの時は挨拶できなくてごめんなさい」

「いいんだよ。君たちはあの後も大変だったろう?」

唯先輩は振り返ると、

「梓ちゃん、紹介するね。この人はこのお店の店長さん。それで、」

少しだけ控えめに、

「宮園かをりさんの、お父さんだよ」

69.

「おいしいぃ~~!」

山のように積まれたお菓子を前に私は少したじろぐ。

「梓ちゃんも食べてみなよ~」

「い、いただきます」

適度に甘いサクサクなそれに、私の顔は自然に緩んだ。

「お代は有馬先生にツケておいてください!」

可哀想に、有馬さん。

「了解したよ。有馬君も君たちに奢れて光栄だろうね」

おじさんはさらにいくつかのお菓子を持ってきて、山の中に加えた。
それにしても唯先輩はすっごいおいしそうにものを食べる。作った側も、こんな笑顔をされると嬉しくなるだろう。

「君が来るのは久しぶりだね。覚えているかい? 確か8年くらい前だったかな」

唯先輩は首を傾げている。

「君が初めてコンクールに出た帰り道だよ。有馬くんと君の両親と妹さんの5人で来たんだ。君はあの頃から変わっていないね」

「えへへ、それほどでも~」

「褒められてないですって」

私は窓際に飾ってある写真に気づいた。おじさんは私が凝視しているのを見て、それを取ってきてくれた。

「これが昔の、中学生時代の有馬君だよ。彼も今とあんまり変わらないがね」

有馬さんと肩を組む茶髪の男性、椿さん、そして金髪の女性の4人がピースをしながら写っていた。

「この人が……宮園かをりさんですね」

眩しいくらいに明るく笑う彼女を、おじさんはそっと撫でた。

「そうだ。かをりは有馬くんと話すようになってから変わったよ。今は、こうしてこの店を見守ってくれているんだ。私たちがあの子を絶対に忘れないように、ここを訪れた人たちがあの子を忘れないようにしているかもしれない」

「覚えてます」

唯先輩はカヌレを眺め、言った。

「有馬先生は、ずっと覚えてる。私が有馬先生に出会ってから8年間ずっと、有馬先生の心の中にあの人がいるのを側で見てきました。有馬先生の演奏をカラフルにしてるのは、心の中で大事にしている思い出だと思います」

あの演奏。
合宿の時に聞いた、あの演奏。

有馬さんの音には、想いがこもっていた。感謝と憧れ、そして昔の恋心。色褪せない思い出が、彼の音にはこもっていた。

自分の音に想いをこめる天才ピアニスト。それはとっても素敵で、ロマンチックだった。

70.帰り道

「有馬先生は宮園さんが好きだったんですよね」

私は前を歩く唯先輩に語りかける。唯先輩は私の方も見ずに、

「そうだね」

「それって……本当に……」

「有馬先生は強いから」

唯先輩は振り返り、よそよそしく笑った。

「有馬先生はね、いつも誰かのためにピアノを弾くんだ。お母さんのため、椿さんのため、凪ちゃんのため、ライバルのため、もちろん宮園さんのためにも」

「私は……!」

私は唯先輩の袖を掴む。

「怖く、なりました。私は弱っちいから。なぜかふと唯先輩がいなくなってしまうような気がして、怖くなりました。私、唯先輩がいなくなったら……」

いなくなったら。

いなくなったらどうなるのだろう。

いなくなったら、演奏家の私は死ぬかもしれない。メトロノームに戻るのかもしれない。

あなたといると、私は強くなれた。
あなたといないと、私は弱くなる。

私は唯先輩といたかった。それだけの些細な、とても贅沢な願い。そんな願いが叶い続ける日々が、どうしようもなく愛おしかった。
私は唯先輩の手を握った。

「梓ちゃんがいなくなったら、私はピアノをやめるよ」

あなたは、私だけが知っている表情をしていた。

71.3週間後 放課後

流れるように月日が経ち、もう肌寒い冬を感じ始める10月中旬。カレンダーのばつ印はコンクールへの猶予を少しずつ削っていく。

コンクールを5日後に控えた今日、私は1人で夕日に向かいながら歩く。
少し遠くに、3週間前に唯先輩と来たお菓子屋さんが見えた。私は気まぐれに立ち寄り、カヌレを買ってまた道を行く。

今日は母方のおばあちゃんの命日。手に花を持ち、墓地の敷地に入った。

「有馬さん……?」

有馬さんは微笑みながら、1人で墓石を眺めていた。宮園さんだな、私はなんとなく感じた。

「あ、中野さん」

私は小さくお辞儀する。

「今日は1人かい?」

「はい。おばあちゃんの命日なので……」

「そっか」

少し気まずい空気になる。有馬さんはそれを断ち切るように立ち上がった。

「それじゃあ僕は、これで……」

「待ってください!」

私はびくっとした有馬さんに、

「お願いします。少し、話を聞いてもらえませんか……?」

丁度いい機会。迷う心、逃げたい気持ち。しかし私は決心して、有馬さんに頭を下げた。

72.

ここ最近の迷い。私は私がよく分からなくなって、なんとなく唯先輩に変な調子で接してしまっていた。心の中に溜まるしこりに、私は気づいて見過ごすことができないのであった。

とても気持ち悪い悩み。友達には絶対にできない、とても悲しい悩み。

「私…………」

川のせせらぎ。カラスの鳴く声。

夕方の光に包まれて、私の姿は赤く染まった。

「唯先輩のことが、好き……なんでしょうか……」

73.

有馬さんは少し目を見開いて、しかし大した動揺も見せずにいた。

「私は恋をしたことがないので、よくわからないんです。私は唯先輩のことを……独り占めしたいって考えてます。……ごめんなさい気持ち悪いですよね」

「そんなことないよ。僕だって1人のことばっかり考えて独り占めしたいと思うことあるよ」

「だってそれは……!」

男女の恋だから。

でも有馬さんは、報われない恋だった。

「僕が恋を語るなんて変だけど、恋なんてのは一つだけではないと思うんだ。いろんな恋がある。ただいろんなそれに、人が勝手に恋って名前を付けて一つにしちゃったんだよ」

私は唯先輩とずっと一緒にいたい。
私を見て欲しい。
私に、私だけのあなたでいて欲しい。

「君の気持ちに名前をつけるな。君の想いは言葉で表現するには、言葉は無能すぎるんだ。それが恋かどうかなんて関係ない。そのわからない気持ちを伝えたいと思った時に、伝わるかどうかが問題なんだ」

私たちは特別で、私たちは唯一だった。
私は唯先輩に気持ちを伝える。
気持ち悪いこの気持ちを、あなたに知って欲しい。

「しっぽがなくて嬉しいときどうやって表現できるっていうんだい?」

「……誰の言葉ですか?」

「スヌーピー」

有馬さんは私の方を見た。

「君の『しっぽ』は、手の中にある。精一杯頑張っておいで」

「……伝わるでしょうか」

有馬さんは可笑しそうに笑って、

「伝わるよ。だって……」

有馬さんは何かを隠すように考えた後、

「君たちは、似ているから」

私たちは、表現者。

告白をしよう。
私たちの音楽は、言葉を超える。

74.コンクール当日

「有馬先生はいつも誰かのために演奏してる」

唯先輩はステージを見つめ、

「私も、誰かのために弾いてみるよ」

唯先輩は私に向いて、いつもみたいにえへへと笑った。私もつられて笑ってしまう。

ステージが明るくなる。私たちの演奏が始まる。

行こう、唯先輩。

私たちはステージへ歩き出した。

75.唯梓side

緊張の静寂。楽器のほのかな匂い。

1人では静かなだけの静寂も、君が、あなたがいれば寂しくなかった。

私は君の、あなたのために弾こう。


……ドビュッシー ベルガマスク組曲

『月の光』

76.公生side

ーー有馬先生、相談したいことがあるんですけど、いいかな?

君たちは似ている。同じ悩みを同じ時期に持つなんて、やはり君たちは似ている。

唯ちゃんのピアノは温かい音を奏で、文化祭の演奏の時とは全く違う姿をしていた。

美しい。

単純に、そう思った。

77.唯side

身体が軽い。思い通りに動く。指が勝手についてきて、好きなように鍵盤を触ってくれる。

なんでだろう、すごく楽しい。心地いい。

君に届くかな。響くかな、君の心に。


ーー届け、届け、届けっ!


原曲の枠を超えて、五線譜を壊して君を迎えに行こう。
私は優しく力強く、カラフルな鍵盤を弄んだ。

78.公生side

唯ちゃんの音はギターを優しく包み込み、中野さんの音は踊り続ける。

ここは、2人だけの世界。
観客はそんな世界に圧倒されていた。

ギターはピアノのリードに寄り添い、時には追い越しピアノの返事を仰ぐ。

これは、『恋』物語。

溢れ出る想いに驚き困惑し、迷う2人の若者の物語。

自分の気持ちに気づいて、相手に伝えるだけの当たり前の物語。


彼女たちは、当たり前で最高の表現家だった。

79.梓side

もうすぐ終わる演奏がとても名残惜しくて、私は唯先輩に語りかける。

届きましたか、私の想い。
届きましたよ、あなたの想い。

私はやっと分かったんだ。
私の唯先輩への想いは、他の人のそれとは違う。男女間での想いとは違う。

辞書にもない、そんな言葉。

私は唯先輩とキスしたいなんて全然思わないもん。だから特別な、私たちだけの言葉で表現する。

この演奏を聞いている人はどう思うかな。気持ち悪いと思うのかな。それでもまあ、仕方ないよね。

演奏は終わる。

最後の一音が作るしばらくの余韻。

伝わったよね、唯先輩。
私はあえて、最後に言葉で伝えよう。


「好きです。唯先輩」


唯先輩は私にしか見せない笑顔で、しっかりと頷いた。

以上、後編です。
少し後に80,エピローグを更新し、第二部完結となります。

第一部第三部がメインストーリー、第二部第四部はサイドストーリーとなっています。
メインストーリー完結の第三部のタイトルは

唯「運命石のノスタルジア」

で、Steins;Gateとのクロスオーバーです。
よろしくお願いします。

80.エピローグ 唯side 1ヶ月後

今日は梓ちゃんの誕生日。誕生日プレゼントに、と私は憂に手伝ってもらってケーキを作っている。

梓ちゃんはリビングでテレビを見ている。完成まで見せないで、出来に驚かせようという算段だ。

「かんせーい!」

私は憂とハイタッチする。早く梓ちゃんに見せたくて、私はリビングに走った。

「梓ちゃん! ケーキできた、よ……」

バライティ番組の笑い声が、空振りして部屋に響いていた。何か胸騒ぎがする。
私はどこかでそんな気がしていた。
……こんな日が来ることを。

この感情をなんと呼んだかな。

「梓、ちゃん……?」

これは多分、喪失感だ。



そこに梓ちゃんはいなかった。






第二部 ~4月は君の嘘編~ 完結

第三部~Steins ;Gate編~へ続く

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